翌日の朝、時間通りに総士が迎えにやって来た。
操はアパート前の駐車場に停まっている車に、甲洋の衣類を詰めた鞄を運んでいく。トランクを開けた総士がそれを受け取り、中に積みながら「来ないのか?」と問いかけてきた。
「うん。バイトあるし」
「そうか。なら仕方がないな」
片手でトランクを閉めた総士は操と向き合い、笑みを浮かべた。
「長いあいだ世話になった。無理に押しつける形になってしまって、すまなかったな」
「気にしないで。最初は怖かったけど、楽しかったからいいんだ。それに、総士がどうして一騎だけは平気なのか、ちょっと分かった気がするし」
操が言うと、総士はなぜか驚いたように目を見開いた。
「まさか、お前たちもなのか?」
「うん?」
「だから、お前と甲洋も……そういう関係に」
総士は珍しく狼狽えた様子で、しかも微妙に頬を赤らめていた。
しかし操には彼の言っていることが理解できず、きょとんとしながら首を傾げる。
「そういう関係? どういう関係?」
「あ……いや、違うならいい。今のは忘れてくれ」
「なに? ねぇ気になるよ」
「忘れろと言っている。ほら、甲洋が来たぞ。別れの挨拶をするといい」
眼鏡のズレを直しながら、総士はそそくさと逃げるように運転席に乗り込んだ。
総士のトレンチコートをそのまま譲り受ける形になった甲洋が、両手をコートのポケットに突っ込みながら操の元へやってくる。
「どうかした?」
「んー、わかんない」
「?」
腑に落ちないという表情で唇を尖らせた操に、甲洋もまた不思議そうに首を傾げる。けれどすぐにあまり時間がないことを思いだし、操は暗くならないように笑顔を取り繕った。
「甲洋、美羽には意地悪したらダメだよ」
冗談交じりに言った操に、甲洋は小さく笑って肩をすくめる。
「来主にしかしないよ」
「えぇー? なにそれぇ?」
「さぁ? なんでだろうな」
「むぅー。君って最後までそういう意地悪言うんだ」
頬を膨らませ、眉間にぎゅうっと皺を寄せながら文句を垂れていると、運転席の窓を開けた総士から「そろそろ時間だ」と声がかかる。時間に厳しい彼は、エンジンをかけながら神経質そうに腕時計で時刻を確認していた。
「あ、うん。それじゃあ……元気でね、甲洋」
「……来主もね」
ふたりはそのまま数秒、何も言わずに見つめ合った。
別れ際になって急に実感を失う。本当にこれでお別れなのだろうか。部屋に帰れば甲洋がいる。そんな暮らしが、あまりにも当たり前になっていた。
甲洋は最後にふっと笑って「ありがとう」と言うと、助手席のドアを開けて乗り込んだ。彼の尻尾がどんなふうに動いていたかは、コートに隠れて見ることはできなかった。
*
甲洋が行ってしまうと、部屋の中にだけ真冬が戻ってきたような寒さを感じた。
決して広くはない空間が、やけにただっぴろく感じられる。
操はノロノロと居間に戻ると、クッションの上にペタリと座り込んだ。
いつも彼がいた本棚の横は、ぽっかりと穴が空いたようだった。
「……甲洋、ほんとに行っちゃったんだ」
たった一ヶ月と、ほんの数日。
始めは嫌でたまらなかった。同じ空間にいると思うだけで、一分一秒があまりにも長かった。だけど彼と打ち解けてからは、一瞬だった。
部屋の片隅には彼が使っていた毛布が綺麗に畳んで置いてある。以前テーブル代わりに使っていたアイロン台が壁に立てかけられ、軟膏のケースはテレビ横のカラーボックスに置いてあった。
甲洋は何も持たずにここへ来たはずなのに。幾つもの痕跡が、この部屋には残されている。
操はみるみるうちにぼやけていく視界を、手の甲で雑に拭った。
甲洋は操が泣くといつも困った顔をして、耳をぺたりと寝かせていた。彼が「泣かないで」と言う、少し上ずった声が好きだった。
(おれがもっとちゃんとしてたら……甲洋とずっと一緒にいられたのかなぁ……)
彼はここより大きくて、立派な家に行ったのだ。優しくて温かな家族が、きっと大切に可愛がってくれる。
いつまで経ってもイヌが怖くて、料理の腕も上達しない人間といるより、ずっと幸せに暮らせるはず。
──分かっているのに。
操は堪えきれずに、やっぱり泣きだしてしまった。
*
甲洋が日野家に行ってから十日ほどが過ぎた。
満開に花開いた桜も、もうほとんどが散って老いたように彩りを翳らせている。
操はぼんやりと時間を過ごすことが多くなった。
バイトに行く以外ではほとんど家から出ず、気がつくと窓のそばに座り込んで外を眺めている。
まるで以前の甲洋と同じだ。来るはずのない誰かを、いつまでも待ち続けているような。
──ぐぅ。
景色もへったくれもない景観を見るともなく眺め続けていると、腹の虫が鳴った。ここ数日は全く食欲がないのに、胃袋だけは律儀に空腹を訴える。
ふと壁にかかっている時計を見上げた。針はぴったり昼の12時をさしていた。
最後に食事をしたのは、確か昨日の昼だ。バイト先でまかないを食べたような気がする。けれどまるで味がしなかった。最近は、何を食べても美味しくない。
一昨日の夜は、一騎から久しぶりにカレーを食べに来ないかと誘われた。けれど操はそれを断った。最後の晩餐に選びたいとすら思っていた、あの一騎カレーをだ。自分でも、いよいよマズいような気がしている。
操は空腹を無視してダラリと横向きに寝そべった。そうすると空だけはよく見える。だけど生憎天気はどんよりとした曇り空だった。
(おれの心の中と一緒だ。そのうち泣きだしちゃうかもな)
力なく息を吐きだす。甲洋がいなくなってから、ずっとこんな調子だ。
毛布や箸、歯ブラシやコップなど、甲洋が使っていたものを見ると寂しくて堪らないのに、未だに片付けることさえできないでいる。気づくとメソメソと泣いてばかりだった。
「甲洋、どうしてるかな……」
ぽつりと零すのと、空が泣きだすのは同時だった。
ああ、また思いだしてしまう。寂しそうに海を見つめる背中だとか、触れた手の温もりや、初めて見せてくれた笑顔のことを。
彼はちゃんと食事をしているだろうか。新しい家族とはうまくやっているだろうか。たまには自分のことを思いだしたりしてくれるだろうか。募る寂しさに押し潰されそうだった。
そのとき、部屋の中に着信を知らせるコール音が鳴り響いた。
泣く寸前だった操は目尻を擦りながらのっそりと起き上がる。テーブルの上に置いてあるスマートフォンに手を伸ばし、ディスプレイを覗き込む。
そこには、思わぬ人物の名前が表示されていた。
*
雨は幸い小雨で、それ以上に強まることはなかった。
「ごめんね、急に呼び出して」
遠見真矢は駅前からほど近いファミレスで操を待っていた。
柔らかなベージュのニットに白いフレアスカート。テーブルの上には白いカップに注がれたミルクティーが置いてあって、お揃いの色だなぁと操は思った。
「うぅん。どうせヒマだったし。久しぶりだね、真矢」
操はボーダーシャツの上から着ていたデニムコートを脱ぐと、向かい側の椅子に座る。
「だね。だいたい二年ぶりくらいかな? あたしが高校卒業して以来だから」
「そっか。まだ二年なんだ」
「来主くんは来年二十歳?」
「うん」
女性の店員がオーダーを取りに来る。操はメニュー表も開かないまま、オレンジジュースを頼んだ。真矢が華奢な肩を揺らしながら笑う。
「変わらないなぁ。子供の頃から大好きだよね、オレンジジュース」
「真矢は大人の女の人って感じになったね」
「そっかな? 自分ではよく分かんないけど」
「──ねぇ、ところで今日はどうかした? もしかして、甲洋のこと?」
最初に電話をもらったときからそんな気がしていた。むしろ他に理由が思いつかない。せっかくだから会って話そうと誘われてここへ来たが、道中ずっとソワソワとして落ち着かなかった。
真矢の表情から笑顔が消え、困った様子で眉をハの字にして見せる。
「ん……ちょっとね、気になることがあって」
思いのほか早くオレンジジュースが運ばれてきたところで、会話が一度途切れる。店員が「ごゆっくりどうぞ」と言って去っていくと、真矢は日野家での甲洋の様子を話してくれた。
「お姉ちゃんや道生さんが話しかけても、ぜんぜん口を開かないんだって。あたしも何度か会ったんだけど、やっぱり同じ。まだ慣れない環境だから、しょうがないのかなって気はするんだけど」
「……うん」
「でも美羽ちゃんとは、何か話をしてるみたいなんだよね」
「みたい?」
真矢は横に置いていたバッグの中からスマートフォンを取り出した。指先で操作して、画面を操へ向けて見せる。
「これ見て。お姉ちゃんがこっそり撮って、送ってくれたの」
それは動画だった。画面の中にはよく晴れた青空と、縁側に座る甲洋の背中が写っている。
(あ、甲洋だ……)
懐かしい姿に胸が締め付けられる。操はじんわりと涙が浮かぶのをどうにか堪えた。
甲洋の隣には柔らかそうな髪を二つに結んだ小さな女の子が座っていた。彼女が美羽だ。美羽は甲洋の方を向いてペタリと座り、楽しそうに何か話をしているようだった。
『あのね、ニンジンを、トントントンって切るんだよ。おててはね、こうやって、ネコちゃんみたいに丸くするの』
甲洋が美羽の方に顔を向ける。その横顔は優しく微笑んでいた。
『それからね、タマネギを切るの。でもね、ママいっつも泣いちゃうんだよ。おめめがいたいんだって。──そうなの? うん、うん──ふぅん。それ美羽にもできる? ──え? うぅん、したことないよ。だってママがまだダメっていうんだもん。美羽はまだちっちゃいから、おてて切ったらタイヘンよって』
黒い尻尾がゆっくりと左右に揺れているだけで、甲洋は一言も発していない。まるで美羽が見えない誰かを相手に、一人ぼっちで話をしているかのような光景だった。
操はいちど真矢へと視線をあげた。彼女は心配そうに眉を寄せている。
『──平気だもん。美羽、じょうずにできるよ。そしたらね、甲洋に食べてもらうの。だって、甲洋ぜんぜん食べないんだもん。──ウソだよ。美羽ちゃんとわかるんだから。ダメでしょ、いっぱい食べなきゃ、おっきくなれないんだよ。──え、そうなの? どうして? 甲洋はママのおりょうりキライなの? ──ほんと? ──よかったぁ』
そこで動画は終わっていた。
真矢が意見を求めるような視線を向けてくる。
「……美羽は、読心能力が使えるの?」
「わかんない、けど、そうとしか思えないんだよね……」
読心能力は本来、イヌやネコが持ち合わせる特異な能力だ。普通の人間が使えるものではない。
「小さい子って感受性が強いから、今のうちだけかなって思うんだけど……お姉ちゃん心配性だから、どうしても気にしちゃうみたいで──それにね、ご飯のことも……」
「甲洋、あまり食べないんだね」
「うん……そうみたい……」
いつもほんの僅かな量しか食べないのだという。
「ねぇ、来主くんのところにいた頃もそうだった?」
操は視線を俯け、グラスの表面に伝い落ちる水滴を指先でなぞった。
「最初の頃はそうだったよ。ご飯は一口も食べないし、喋らないし、ニコリともしなかった。美羽は凄いね。おれは甲洋が笑った顔を見るだけでも、すごく時間がかかったのに」
甲洋が心の扉を固く閉ざしていたのは、操にも原因があった。イヌへの恐れと拒絶する心が彼に伝わり、不安やストレスを与える結果になっていたのだ。
だが今の家では多少なりとも食事に口をつけ、美羽には笑顔を見せている。甲洋が新しい環境に慣れて、弓子や道生に心を開くのも時間の問題のように操には思えた。
「甲洋は優しいから、みんなが心配してることはちゃんとわかってると思う。だからきっと、すぐに慣れるよ」
「だといいんだけど……美羽ちゃんがいないときは、あんまり部屋からも出たがらないみたいなんだよね。気がつくといつも窓の外を見てるっていうし」
「……窓?」
ドキリと、操の胸が跳ねる。
最初の頃はあの部屋でもそうだった。彼はいなくなった翔子を想い、ずっと恋しがっていたのだ。もうどこにもいないと知りながらも探し続け、待っていた。
(まだ、忘れられないのかな……)
「それとね、これなんだけど」
真矢は鞄の中から一枚の折りたたんだ画用紙を取りだす。テーブルに置いて開くと、そこには子供らしい拙い絵がクレヨンで描かれていた。
焦茶の髪に黒い耳と尻尾があることから、甲洋を描いたものであることが知れる。そしてその隣には──。
「ここに描いてあるの、来主くんじゃないかな?」
「おれ……?」
甲洋の隣には、淡い茶色の髪をした人間が描かれている。周りには淡桃の花が咲き、一人と一匹はにっこりと笑顔を浮かべていた。
操は甲洋と一緒に七分咲の桜を見た日のことを思いだした。満開になったらお弁当を持って来たいと言った操に、甲洋は同意した。初めて交わした約束だった。果たされることはなかったけれど。
「甲洋の中には、いつもこのお兄ちゃんがいるんだよって。美羽ちゃんが言ってた」
操は震える指で画用紙に触れた。無機質なはずなのに、温もりを感じる。冷えていた指先に血が巡り、じんわりと痺れていくような気がした。
──俺がいなくなっても、適当なものばかり食べたりしない?
(おれのことなんか気にしてる場合じゃないじゃん。美羽にまで心配かけて、なにしてるんだよ)
操の視界はみるみるうちにぼやけて、ついには画用紙が見えなくなった。驚いた真矢が目を瞬かせる。
(ねぇ甲洋。もしかして君はあのとき、本当は行きたくないって、言いたかったのかな)
ああ、そうだ。帰りたいくせに、帰れないなんて言うイヌだった。
甲洋は操の本当の気持ちに気がついていたかもしれない。だけど彼は自分に自信がないのだ。自己を否定することばかり言っていた甲洋が、自ら望みを口にできるとは思えない。
しかも操はあのとき、酷く突き放すような物言いをしてしまった。
(おれ、なんで気づかなかったんだろう)
またアイツが出るかもしれない。雷が鳴るかもしれない。あの問いかけの中に、彼の本当の気持ちが隠されていたのだとしたら。
「来主くん……大丈夫?」
ボロボロと涙を零し始める操に、真矢がハンカチを差し出そうとする。操は首を振ってそれを拒んだ。代わりに自分の手の甲で乱雑に涙を拭う。
「真矢、おれのお願い聞いてくれる?」
「なに?」
「お姉さんの家、どこにあるか教えて」
「え?」
窓の外を眺めながら、彼は誰を待っているのだろう?
操は甲洋の特別にはなれない。甲洋だって言っていた。お前は俺の帰る場所ではないと。
だけど今は、うぬぼれてもいいのだろうか。
「おれ、迎えに行く。甲洋を」
←戻る ・ 次へ→
操はアパート前の駐車場に停まっている車に、甲洋の衣類を詰めた鞄を運んでいく。トランクを開けた総士がそれを受け取り、中に積みながら「来ないのか?」と問いかけてきた。
「うん。バイトあるし」
「そうか。なら仕方がないな」
片手でトランクを閉めた総士は操と向き合い、笑みを浮かべた。
「長いあいだ世話になった。無理に押しつける形になってしまって、すまなかったな」
「気にしないで。最初は怖かったけど、楽しかったからいいんだ。それに、総士がどうして一騎だけは平気なのか、ちょっと分かった気がするし」
操が言うと、総士はなぜか驚いたように目を見開いた。
「まさか、お前たちもなのか?」
「うん?」
「だから、お前と甲洋も……そういう関係に」
総士は珍しく狼狽えた様子で、しかも微妙に頬を赤らめていた。
しかし操には彼の言っていることが理解できず、きょとんとしながら首を傾げる。
「そういう関係? どういう関係?」
「あ……いや、違うならいい。今のは忘れてくれ」
「なに? ねぇ気になるよ」
「忘れろと言っている。ほら、甲洋が来たぞ。別れの挨拶をするといい」
眼鏡のズレを直しながら、総士はそそくさと逃げるように運転席に乗り込んだ。
総士のトレンチコートをそのまま譲り受ける形になった甲洋が、両手をコートのポケットに突っ込みながら操の元へやってくる。
「どうかした?」
「んー、わかんない」
「?」
腑に落ちないという表情で唇を尖らせた操に、甲洋もまた不思議そうに首を傾げる。けれどすぐにあまり時間がないことを思いだし、操は暗くならないように笑顔を取り繕った。
「甲洋、美羽には意地悪したらダメだよ」
冗談交じりに言った操に、甲洋は小さく笑って肩をすくめる。
「来主にしかしないよ」
「えぇー? なにそれぇ?」
「さぁ? なんでだろうな」
「むぅー。君って最後までそういう意地悪言うんだ」
頬を膨らませ、眉間にぎゅうっと皺を寄せながら文句を垂れていると、運転席の窓を開けた総士から「そろそろ時間だ」と声がかかる。時間に厳しい彼は、エンジンをかけながら神経質そうに腕時計で時刻を確認していた。
「あ、うん。それじゃあ……元気でね、甲洋」
「……来主もね」
ふたりはそのまま数秒、何も言わずに見つめ合った。
別れ際になって急に実感を失う。本当にこれでお別れなのだろうか。部屋に帰れば甲洋がいる。そんな暮らしが、あまりにも当たり前になっていた。
甲洋は最後にふっと笑って「ありがとう」と言うと、助手席のドアを開けて乗り込んだ。彼の尻尾がどんなふうに動いていたかは、コートに隠れて見ることはできなかった。
*
甲洋が行ってしまうと、部屋の中にだけ真冬が戻ってきたような寒さを感じた。
決して広くはない空間が、やけにただっぴろく感じられる。
操はノロノロと居間に戻ると、クッションの上にペタリと座り込んだ。
いつも彼がいた本棚の横は、ぽっかりと穴が空いたようだった。
「……甲洋、ほんとに行っちゃったんだ」
たった一ヶ月と、ほんの数日。
始めは嫌でたまらなかった。同じ空間にいると思うだけで、一分一秒があまりにも長かった。だけど彼と打ち解けてからは、一瞬だった。
部屋の片隅には彼が使っていた毛布が綺麗に畳んで置いてある。以前テーブル代わりに使っていたアイロン台が壁に立てかけられ、軟膏のケースはテレビ横のカラーボックスに置いてあった。
甲洋は何も持たずにここへ来たはずなのに。幾つもの痕跡が、この部屋には残されている。
操はみるみるうちにぼやけていく視界を、手の甲で雑に拭った。
甲洋は操が泣くといつも困った顔をして、耳をぺたりと寝かせていた。彼が「泣かないで」と言う、少し上ずった声が好きだった。
(おれがもっとちゃんとしてたら……甲洋とずっと一緒にいられたのかなぁ……)
彼はここより大きくて、立派な家に行ったのだ。優しくて温かな家族が、きっと大切に可愛がってくれる。
いつまで経ってもイヌが怖くて、料理の腕も上達しない人間といるより、ずっと幸せに暮らせるはず。
──分かっているのに。
操は堪えきれずに、やっぱり泣きだしてしまった。
*
甲洋が日野家に行ってから十日ほどが過ぎた。
満開に花開いた桜も、もうほとんどが散って老いたように彩りを翳らせている。
操はぼんやりと時間を過ごすことが多くなった。
バイトに行く以外ではほとんど家から出ず、気がつくと窓のそばに座り込んで外を眺めている。
まるで以前の甲洋と同じだ。来るはずのない誰かを、いつまでも待ち続けているような。
──ぐぅ。
景色もへったくれもない景観を見るともなく眺め続けていると、腹の虫が鳴った。ここ数日は全く食欲がないのに、胃袋だけは律儀に空腹を訴える。
ふと壁にかかっている時計を見上げた。針はぴったり昼の12時をさしていた。
最後に食事をしたのは、確か昨日の昼だ。バイト先でまかないを食べたような気がする。けれどまるで味がしなかった。最近は、何を食べても美味しくない。
一昨日の夜は、一騎から久しぶりにカレーを食べに来ないかと誘われた。けれど操はそれを断った。最後の晩餐に選びたいとすら思っていた、あの一騎カレーをだ。自分でも、いよいよマズいような気がしている。
操は空腹を無視してダラリと横向きに寝そべった。そうすると空だけはよく見える。だけど生憎天気はどんよりとした曇り空だった。
(おれの心の中と一緒だ。そのうち泣きだしちゃうかもな)
力なく息を吐きだす。甲洋がいなくなってから、ずっとこんな調子だ。
毛布や箸、歯ブラシやコップなど、甲洋が使っていたものを見ると寂しくて堪らないのに、未だに片付けることさえできないでいる。気づくとメソメソと泣いてばかりだった。
「甲洋、どうしてるかな……」
ぽつりと零すのと、空が泣きだすのは同時だった。
ああ、また思いだしてしまう。寂しそうに海を見つめる背中だとか、触れた手の温もりや、初めて見せてくれた笑顔のことを。
彼はちゃんと食事をしているだろうか。新しい家族とはうまくやっているだろうか。たまには自分のことを思いだしたりしてくれるだろうか。募る寂しさに押し潰されそうだった。
そのとき、部屋の中に着信を知らせるコール音が鳴り響いた。
泣く寸前だった操は目尻を擦りながらのっそりと起き上がる。テーブルの上に置いてあるスマートフォンに手を伸ばし、ディスプレイを覗き込む。
そこには、思わぬ人物の名前が表示されていた。
*
雨は幸い小雨で、それ以上に強まることはなかった。
「ごめんね、急に呼び出して」
遠見真矢は駅前からほど近いファミレスで操を待っていた。
柔らかなベージュのニットに白いフレアスカート。テーブルの上には白いカップに注がれたミルクティーが置いてあって、お揃いの色だなぁと操は思った。
「うぅん。どうせヒマだったし。久しぶりだね、真矢」
操はボーダーシャツの上から着ていたデニムコートを脱ぐと、向かい側の椅子に座る。
「だね。だいたい二年ぶりくらいかな? あたしが高校卒業して以来だから」
「そっか。まだ二年なんだ」
「来主くんは来年二十歳?」
「うん」
女性の店員がオーダーを取りに来る。操はメニュー表も開かないまま、オレンジジュースを頼んだ。真矢が華奢な肩を揺らしながら笑う。
「変わらないなぁ。子供の頃から大好きだよね、オレンジジュース」
「真矢は大人の女の人って感じになったね」
「そっかな? 自分ではよく分かんないけど」
「──ねぇ、ところで今日はどうかした? もしかして、甲洋のこと?」
最初に電話をもらったときからそんな気がしていた。むしろ他に理由が思いつかない。せっかくだから会って話そうと誘われてここへ来たが、道中ずっとソワソワとして落ち着かなかった。
真矢の表情から笑顔が消え、困った様子で眉をハの字にして見せる。
「ん……ちょっとね、気になることがあって」
思いのほか早くオレンジジュースが運ばれてきたところで、会話が一度途切れる。店員が「ごゆっくりどうぞ」と言って去っていくと、真矢は日野家での甲洋の様子を話してくれた。
「お姉ちゃんや道生さんが話しかけても、ぜんぜん口を開かないんだって。あたしも何度か会ったんだけど、やっぱり同じ。まだ慣れない環境だから、しょうがないのかなって気はするんだけど」
「……うん」
「でも美羽ちゃんとは、何か話をしてるみたいなんだよね」
「みたい?」
真矢は横に置いていたバッグの中からスマートフォンを取り出した。指先で操作して、画面を操へ向けて見せる。
「これ見て。お姉ちゃんがこっそり撮って、送ってくれたの」
それは動画だった。画面の中にはよく晴れた青空と、縁側に座る甲洋の背中が写っている。
(あ、甲洋だ……)
懐かしい姿に胸が締め付けられる。操はじんわりと涙が浮かぶのをどうにか堪えた。
甲洋の隣には柔らかそうな髪を二つに結んだ小さな女の子が座っていた。彼女が美羽だ。美羽は甲洋の方を向いてペタリと座り、楽しそうに何か話をしているようだった。
『あのね、ニンジンを、トントントンって切るんだよ。おててはね、こうやって、ネコちゃんみたいに丸くするの』
甲洋が美羽の方に顔を向ける。その横顔は優しく微笑んでいた。
『それからね、タマネギを切るの。でもね、ママいっつも泣いちゃうんだよ。おめめがいたいんだって。──そうなの? うん、うん──ふぅん。それ美羽にもできる? ──え? うぅん、したことないよ。だってママがまだダメっていうんだもん。美羽はまだちっちゃいから、おてて切ったらタイヘンよって』
黒い尻尾がゆっくりと左右に揺れているだけで、甲洋は一言も発していない。まるで美羽が見えない誰かを相手に、一人ぼっちで話をしているかのような光景だった。
操はいちど真矢へと視線をあげた。彼女は心配そうに眉を寄せている。
『──平気だもん。美羽、じょうずにできるよ。そしたらね、甲洋に食べてもらうの。だって、甲洋ぜんぜん食べないんだもん。──ウソだよ。美羽ちゃんとわかるんだから。ダメでしょ、いっぱい食べなきゃ、おっきくなれないんだよ。──え、そうなの? どうして? 甲洋はママのおりょうりキライなの? ──ほんと? ──よかったぁ』
そこで動画は終わっていた。
真矢が意見を求めるような視線を向けてくる。
「……美羽は、読心能力が使えるの?」
「わかんない、けど、そうとしか思えないんだよね……」
読心能力は本来、イヌやネコが持ち合わせる特異な能力だ。普通の人間が使えるものではない。
「小さい子って感受性が強いから、今のうちだけかなって思うんだけど……お姉ちゃん心配性だから、どうしても気にしちゃうみたいで──それにね、ご飯のことも……」
「甲洋、あまり食べないんだね」
「うん……そうみたい……」
いつもほんの僅かな量しか食べないのだという。
「ねぇ、来主くんのところにいた頃もそうだった?」
操は視線を俯け、グラスの表面に伝い落ちる水滴を指先でなぞった。
「最初の頃はそうだったよ。ご飯は一口も食べないし、喋らないし、ニコリともしなかった。美羽は凄いね。おれは甲洋が笑った顔を見るだけでも、すごく時間がかかったのに」
甲洋が心の扉を固く閉ざしていたのは、操にも原因があった。イヌへの恐れと拒絶する心が彼に伝わり、不安やストレスを与える結果になっていたのだ。
だが今の家では多少なりとも食事に口をつけ、美羽には笑顔を見せている。甲洋が新しい環境に慣れて、弓子や道生に心を開くのも時間の問題のように操には思えた。
「甲洋は優しいから、みんなが心配してることはちゃんとわかってると思う。だからきっと、すぐに慣れるよ」
「だといいんだけど……美羽ちゃんがいないときは、あんまり部屋からも出たがらないみたいなんだよね。気がつくといつも窓の外を見てるっていうし」
「……窓?」
ドキリと、操の胸が跳ねる。
最初の頃はあの部屋でもそうだった。彼はいなくなった翔子を想い、ずっと恋しがっていたのだ。もうどこにもいないと知りながらも探し続け、待っていた。
(まだ、忘れられないのかな……)
「それとね、これなんだけど」
真矢は鞄の中から一枚の折りたたんだ画用紙を取りだす。テーブルに置いて開くと、そこには子供らしい拙い絵がクレヨンで描かれていた。
焦茶の髪に黒い耳と尻尾があることから、甲洋を描いたものであることが知れる。そしてその隣には──。
「ここに描いてあるの、来主くんじゃないかな?」
「おれ……?」
甲洋の隣には、淡い茶色の髪をした人間が描かれている。周りには淡桃の花が咲き、一人と一匹はにっこりと笑顔を浮かべていた。
操は甲洋と一緒に七分咲の桜を見た日のことを思いだした。満開になったらお弁当を持って来たいと言った操に、甲洋は同意した。初めて交わした約束だった。果たされることはなかったけれど。
「甲洋の中には、いつもこのお兄ちゃんがいるんだよって。美羽ちゃんが言ってた」
操は震える指で画用紙に触れた。無機質なはずなのに、温もりを感じる。冷えていた指先に血が巡り、じんわりと痺れていくような気がした。
──俺がいなくなっても、適当なものばかり食べたりしない?
(おれのことなんか気にしてる場合じゃないじゃん。美羽にまで心配かけて、なにしてるんだよ)
操の視界はみるみるうちにぼやけて、ついには画用紙が見えなくなった。驚いた真矢が目を瞬かせる。
(ねぇ甲洋。もしかして君はあのとき、本当は行きたくないって、言いたかったのかな)
ああ、そうだ。帰りたいくせに、帰れないなんて言うイヌだった。
甲洋は操の本当の気持ちに気がついていたかもしれない。だけど彼は自分に自信がないのだ。自己を否定することばかり言っていた甲洋が、自ら望みを口にできるとは思えない。
しかも操はあのとき、酷く突き放すような物言いをしてしまった。
(おれ、なんで気づかなかったんだろう)
またアイツが出るかもしれない。雷が鳴るかもしれない。あの問いかけの中に、彼の本当の気持ちが隠されていたのだとしたら。
「来主くん……大丈夫?」
ボロボロと涙を零し始める操に、真矢がハンカチを差し出そうとする。操は首を振ってそれを拒んだ。代わりに自分の手の甲で乱雑に涙を拭う。
「真矢、おれのお願い聞いてくれる?」
「なに?」
「お姉さんの家、どこにあるか教えて」
「え?」
窓の外を眺めながら、彼は誰を待っているのだろう?
操は甲洋の特別にはなれない。甲洋だって言っていた。お前は俺の帰る場所ではないと。
だけど今は、うぬぼれてもいいのだろうか。
「おれ、迎えに行く。甲洋を」
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桜がそこかしこで満開になっていた。
次の休みには、ちょうど散り際の美しい姿を見ることができるはずだと、弁当の中身をあれこれ考えながら過ごしていた日のこと。
バイト終わりのタイミングで、総士から連絡が入った。
駅前のロータリーで待っていると、時間ぴったりに紫の乗用車が滑り込んできた。
総士はこの車のことを『虚無の申し子』と呼んで大事にしている。ちょっとよく分からないセンスだ。たまに運転が荒っぽくなるところも、少し怖い。
「急にすまない」
「うぅん。ぜんぜん」
助手席に乗り込んだ操は、首を振ってふにゃりと笑った。オーバーサイズのパーカーの上から、斜めにかけていたショルダーバッグを膝に乗せると、シートベルトを締める。
「それよりどうかしたの? なにか急用?」
車が発進したのと同時に、まっすぐ前を見つめる総士の横顔に問いかけた。
「急、といえば急かもしれない。甲洋の新しい飼い主が見つかった」
「──え?」
「長らく待たせてすまなかった。苦労をかけたが、もう大丈夫だ」
総士の横顔がふっと綻ぶ。操はそれを愕然とした表情で見つめて、彼が言った言葉を脳内で反芻する。
ずっと探していた、甲洋の新しい飼い主が見つかった。それは本来とても喜ばしいことであるはずなのに、なぜか急速に心が冷えていくのを感じる。
そうだ。総士が急な連絡を寄越すとすれば、それは甲洋に関する何かであることは予想できたはずだった。なのに、全く頭が回らなかった。
操の頭は、甲洋と一緒に食べる弁当の中身でいっぱいになっていたのだ。帰ったら晩ご飯を作りながら、彼に相談しようと思っていたのに。
「来主?」
信号で一時停止したタイミングで、総士が不思議そうな目を向けてくる。
俯いて硬直していた操は慌てて顔を上げると、無理やり笑顔を作って見せた。
「な、なんでもない! そっか、見つかったんだ。よかった」
「あまり嬉しそうに見えないが。どうかしたのか?」
操は慌てて首を振る。
「なにも! ねぇ、どんな人? 優しい人ならいいんだけど……」
「それは問題ない。遠見の姉さんの家だ」
「真矢の?」
遠見真矢は総士の幼馴染で、クラスメイトでもあった人物だ。幼い頃は操もよく遊んでもらったし、小中高では一つ上の先輩でもあった。
そういえば彼女には姉がいた。何度かお菓子をもらったことがある。綺麗で明るくて、優しい人だった。
「しばらく前に結婚して、今は夫の日野道生氏の実家で暮らしている。四歳の女の子がいるんだ。その子が甲洋の写真を見て、ずいぶん気に入ったらしい」
「……そうなんだ」
車が再び発進した。操は見るともなく窓の外の景色を見やる。
「小さい子って、やっぱりわかるのかな。前に一騎も言ってたんだ。目を見れば、優しいかどうかわかるって」
(おれにはぜんぜん、わからなかった)
初めて甲洋を見たとき、まるで感情のないロボットのようで気味が悪いとすら思ってしまったのだ。
ただ怖がるばかりで、心を閉ざしていたのは操も同じだった。いや、むしろ操が作り出す壁の方が、よほど分厚かったかもしれない。そうやって彼を拒絶していた。
「……いつ?」
「あちらはいつでも受け入れる態勢が整っている。むしろ待ち遠しくて、ついさっきも催促の電話が来た。美羽が毎日イヌの絵を描いて待っているそうだ」
「美羽っていうんだ。その子」
「お前と甲洋さえよければ、今日にでもと思っているが……どうだ?」
「きょ、今日!?」
思わず声がひっくり返る。それはあまりにも急な話だ。
総士が驚いてちらりと横目で操を見る。彼にしてみれば、あれほど嫌がっていた操のこの反応は予想外だったに違いない。
「ぁ、っと……さすがに今日は急じゃない? それに、甲洋にちゃんと話をしてからじゃないと……」
「確かにそうだな。急かすようなことを言ってすまない」
「うぅん。総士は、おれのために急いでくれたんだよね。ありがとう」
美羽という少女のためでもあるのだろうが、イヌ嫌いであるはずの操に甲洋を預けたままでいることは、総士にとって大きな気がかりだったのだろう。
確かに少し前の操だったら、すぐにでも開放されたくて二つ返事で了承していたかもしれない。だけど今は素直に喜べない自分がいた。甲洋が幸せに暮らせることを、ずっと願っていたはずなのに。
(甲洋が、いなくなる)
想像しただけで、胸に空いた風穴に冷たいものが吹き抜ける。
操は総士に悟られぬよう、こっそりと震える息を吐き出した。
*
「ただいまー」
総士に送り届けてもらい、操は自宅アパートへ帰宅した。
すぐに甲洋が来て、垂れた尻尾を穏やかに左右に振りながら「おかえり」と出迎えてくれる。その柔らかな笑顔に、胸が引き絞られるような思いがした。
「どうかした?」
「え?」
「何か、嫌なことでもあった?」
しまったと思う。彼はヒトの気持ちに敏感な生き物なのだ。操は慌てて首を振ると笑顔を取り繕う。
「別になにも。お腹空いたから、すぐにご飯作るね!」
「手伝うよ」
「うん、ありがとう」
最近、甲洋は食事の支度や片付けも手伝ってくれるようになった。
彼は手先が器用で、一度も指を切ることなく包丁の扱いにもすぐ慣れた。火を使っての調理もこなすし、オーブンレンジの出番が徐々に減りつつある。このままだと自分の出番までなくなってしまうかもしれない。
だけどそんなことを考えるのも、今夜で最後になってしまった。
*
焼鮭、ピーマンとニンジンの胡麻和え、ジャガイモがたっぷり入った味噌汁など、夕飯のメニューが一通りひとつのテーブルにずらりと並んでいる。
ふたりは向かい合って手を合わせると、一緒に「いただきます」をした。
操は箸を手にとるだけで、向かいに姿勢良く座って食事をはじめる甲洋を見た。
明日の今頃には、彼はもういない。台所で並んで支度をしている間も、ふとそんなことを考えては泣いてしまいそうだった。
「来主」
「ぁ、な、なに?」
いつしか俯いていた操に、甲洋は箸と茶碗を置くと気遣わしげな視線を寄越す。
「様子がおかしい。帰ってきてからずっと」
やっぱり分かってしまうのだ。彼には不安定に揺れて、崩れそうになっている操の心が伝わっている。
本当はいつも通りに振る舞って、食事が終わってからゆっくり話をするつもりでいたのだが。
操は手にとるだけだった箸を置き、覚悟を決めたようにふっと息を吐き出した。
「今日、総士に会った」
「……うん」
「新しい飼い主になってくれる人が、見つかったって」
甲洋は何も言わなかった。けれど操の様子から、彼も薄々は気づいていたのかもしれない。特に驚いた様子もなく、ただ淡々と受け止めているように見えた。
「おれと総士の友達の、お姉さんのところ。優しくて、明るい人だよ」
なにかに急かされるように、操は努めて明るく話をする。
「あのね、四歳の女の子がいるんだ。美羽っていう子。君が来るのが待ち遠しくて、毎日君の絵を描いてるって」
操は総士から聞いた日野家の情報を、一つ一つ言葉にしながらなぞっていった。
大きな庭がある立派な家で、真矢の姉である弓子は料理がとても上手だということ。夫の道生はつい先日、甲洋のために空き部屋の大掃除をして、寝具を一式買い揃えた。
美羽は毎日のように絵を描きながら「わんわんまだ来ないの?」と言って、弓子を困らせているのだと。
日野家の人々がどれだけ甲洋を待ち望んでいるかが、よく分かる。
「それでさ、甲洋は」
──どう思う?
そう続けようとして口を噤んだ。
そんなことを聞いてどうするつもりだろう。もしかしたら、甲洋はずっとここにいたいと思ってくれているかもしれない。問えばそう答えてくれるかもしれない。そんなことを期待している自分がいた。だけどそれは操の願望でしかない。
日野家には甲洋が幸せになるための条件が揃っている。そこに暮らす人々も、環境も、全てが申し分なかった。どちらがいいかなんて、考えるまでもないはずだ。
(今さらワガママなんか、言えないよなぁ……)
彼をひと目で気に入ったという少女が、今この瞬間も甲洋を待っている。
操が嫌いなものを黙って処理してくれたように、雷の日に気が済むまで手を握らせてくれたように。冷たく荒れた海を見つめながら自らを責めていた彼が、外を歩くときはさりげなく操を歩道側に置いていたことを知っている。
そんなふうに、甲洋は幼い美羽を守っていくだろう。
「……君はさ、そこに行きなよ。ここは狭いし、それにおれ、やっぱりイヌは好きじゃない。怖いんだ」
操は甲洋の顔を見て話すことができなかった。
突き放すような、嫌な言い方をしてしまったと思う。半ば自分に言い聞かせているも同然だった。
イヌが怖いのは嘘じゃない。だけど甲洋は特別だ。最初はあんなに嫌だったのに。別れが訪れることも分かっていたのに。それが今は、こんなに辛い。
甲洋は何も言わずに操の話に耳を傾けていたが、やがてすっかり冷めてしまった食卓を見つめながら口を開いた。
「また台所にアイツが出てきても、平気?」
声は穏やかで、いつもと何も変わらない。
操は一度だけ強く下唇を噛み締めて、顔をあげると無理やり笑顔を作った。
「あれきり出てないもん。大丈夫。多分」
「俺がいなくなっても、適当なものばかり食べたりしない?」
「それはわかんないけど……でも、気をつけるよ」
「これから夏になっていくと、雷が増えるけど」
「そ、そういうこと言わないでよぉ! 平気だってば!」
ビクンと肩を震わせながら、操はむっと眉間に皺を寄せた。甲洋は思わずといった様子で笑い、優しく目を細める。
「いいよ」
彼はそう言って、再び箸を手に取った。
「お前がそう言うなら、そうする」
←戻る ・ 次へ→
次の休みには、ちょうど散り際の美しい姿を見ることができるはずだと、弁当の中身をあれこれ考えながら過ごしていた日のこと。
バイト終わりのタイミングで、総士から連絡が入った。
駅前のロータリーで待っていると、時間ぴったりに紫の乗用車が滑り込んできた。
総士はこの車のことを『虚無の申し子』と呼んで大事にしている。ちょっとよく分からないセンスだ。たまに運転が荒っぽくなるところも、少し怖い。
「急にすまない」
「うぅん。ぜんぜん」
助手席に乗り込んだ操は、首を振ってふにゃりと笑った。オーバーサイズのパーカーの上から、斜めにかけていたショルダーバッグを膝に乗せると、シートベルトを締める。
「それよりどうかしたの? なにか急用?」
車が発進したのと同時に、まっすぐ前を見つめる総士の横顔に問いかけた。
「急、といえば急かもしれない。甲洋の新しい飼い主が見つかった」
「──え?」
「長らく待たせてすまなかった。苦労をかけたが、もう大丈夫だ」
総士の横顔がふっと綻ぶ。操はそれを愕然とした表情で見つめて、彼が言った言葉を脳内で反芻する。
ずっと探していた、甲洋の新しい飼い主が見つかった。それは本来とても喜ばしいことであるはずなのに、なぜか急速に心が冷えていくのを感じる。
そうだ。総士が急な連絡を寄越すとすれば、それは甲洋に関する何かであることは予想できたはずだった。なのに、全く頭が回らなかった。
操の頭は、甲洋と一緒に食べる弁当の中身でいっぱいになっていたのだ。帰ったら晩ご飯を作りながら、彼に相談しようと思っていたのに。
「来主?」
信号で一時停止したタイミングで、総士が不思議そうな目を向けてくる。
俯いて硬直していた操は慌てて顔を上げると、無理やり笑顔を作って見せた。
「な、なんでもない! そっか、見つかったんだ。よかった」
「あまり嬉しそうに見えないが。どうかしたのか?」
操は慌てて首を振る。
「なにも! ねぇ、どんな人? 優しい人ならいいんだけど……」
「それは問題ない。遠見の姉さんの家だ」
「真矢の?」
遠見真矢は総士の幼馴染で、クラスメイトでもあった人物だ。幼い頃は操もよく遊んでもらったし、小中高では一つ上の先輩でもあった。
そういえば彼女には姉がいた。何度かお菓子をもらったことがある。綺麗で明るくて、優しい人だった。
「しばらく前に結婚して、今は夫の日野道生氏の実家で暮らしている。四歳の女の子がいるんだ。その子が甲洋の写真を見て、ずいぶん気に入ったらしい」
「……そうなんだ」
車が再び発進した。操は見るともなく窓の外の景色を見やる。
「小さい子って、やっぱりわかるのかな。前に一騎も言ってたんだ。目を見れば、優しいかどうかわかるって」
(おれにはぜんぜん、わからなかった)
初めて甲洋を見たとき、まるで感情のないロボットのようで気味が悪いとすら思ってしまったのだ。
ただ怖がるばかりで、心を閉ざしていたのは操も同じだった。いや、むしろ操が作り出す壁の方が、よほど分厚かったかもしれない。そうやって彼を拒絶していた。
「……いつ?」
「あちらはいつでも受け入れる態勢が整っている。むしろ待ち遠しくて、ついさっきも催促の電話が来た。美羽が毎日イヌの絵を描いて待っているそうだ」
「美羽っていうんだ。その子」
「お前と甲洋さえよければ、今日にでもと思っているが……どうだ?」
「きょ、今日!?」
思わず声がひっくり返る。それはあまりにも急な話だ。
総士が驚いてちらりと横目で操を見る。彼にしてみれば、あれほど嫌がっていた操のこの反応は予想外だったに違いない。
「ぁ、っと……さすがに今日は急じゃない? それに、甲洋にちゃんと話をしてからじゃないと……」
「確かにそうだな。急かすようなことを言ってすまない」
「うぅん。総士は、おれのために急いでくれたんだよね。ありがとう」
美羽という少女のためでもあるのだろうが、イヌ嫌いであるはずの操に甲洋を預けたままでいることは、総士にとって大きな気がかりだったのだろう。
確かに少し前の操だったら、すぐにでも開放されたくて二つ返事で了承していたかもしれない。だけど今は素直に喜べない自分がいた。甲洋が幸せに暮らせることを、ずっと願っていたはずなのに。
(甲洋が、いなくなる)
想像しただけで、胸に空いた風穴に冷たいものが吹き抜ける。
操は総士に悟られぬよう、こっそりと震える息を吐き出した。
*
「ただいまー」
総士に送り届けてもらい、操は自宅アパートへ帰宅した。
すぐに甲洋が来て、垂れた尻尾を穏やかに左右に振りながら「おかえり」と出迎えてくれる。その柔らかな笑顔に、胸が引き絞られるような思いがした。
「どうかした?」
「え?」
「何か、嫌なことでもあった?」
しまったと思う。彼はヒトの気持ちに敏感な生き物なのだ。操は慌てて首を振ると笑顔を取り繕う。
「別になにも。お腹空いたから、すぐにご飯作るね!」
「手伝うよ」
「うん、ありがとう」
最近、甲洋は食事の支度や片付けも手伝ってくれるようになった。
彼は手先が器用で、一度も指を切ることなく包丁の扱いにもすぐ慣れた。火を使っての調理もこなすし、オーブンレンジの出番が徐々に減りつつある。このままだと自分の出番までなくなってしまうかもしれない。
だけどそんなことを考えるのも、今夜で最後になってしまった。
*
焼鮭、ピーマンとニンジンの胡麻和え、ジャガイモがたっぷり入った味噌汁など、夕飯のメニューが一通りひとつのテーブルにずらりと並んでいる。
ふたりは向かい合って手を合わせると、一緒に「いただきます」をした。
操は箸を手にとるだけで、向かいに姿勢良く座って食事をはじめる甲洋を見た。
明日の今頃には、彼はもういない。台所で並んで支度をしている間も、ふとそんなことを考えては泣いてしまいそうだった。
「来主」
「ぁ、な、なに?」
いつしか俯いていた操に、甲洋は箸と茶碗を置くと気遣わしげな視線を寄越す。
「様子がおかしい。帰ってきてからずっと」
やっぱり分かってしまうのだ。彼には不安定に揺れて、崩れそうになっている操の心が伝わっている。
本当はいつも通りに振る舞って、食事が終わってからゆっくり話をするつもりでいたのだが。
操は手にとるだけだった箸を置き、覚悟を決めたようにふっと息を吐き出した。
「今日、総士に会った」
「……うん」
「新しい飼い主になってくれる人が、見つかったって」
甲洋は何も言わなかった。けれど操の様子から、彼も薄々は気づいていたのかもしれない。特に驚いた様子もなく、ただ淡々と受け止めているように見えた。
「おれと総士の友達の、お姉さんのところ。優しくて、明るい人だよ」
なにかに急かされるように、操は努めて明るく話をする。
「あのね、四歳の女の子がいるんだ。美羽っていう子。君が来るのが待ち遠しくて、毎日君の絵を描いてるって」
操は総士から聞いた日野家の情報を、一つ一つ言葉にしながらなぞっていった。
大きな庭がある立派な家で、真矢の姉である弓子は料理がとても上手だということ。夫の道生はつい先日、甲洋のために空き部屋の大掃除をして、寝具を一式買い揃えた。
美羽は毎日のように絵を描きながら「わんわんまだ来ないの?」と言って、弓子を困らせているのだと。
日野家の人々がどれだけ甲洋を待ち望んでいるかが、よく分かる。
「それでさ、甲洋は」
──どう思う?
そう続けようとして口を噤んだ。
そんなことを聞いてどうするつもりだろう。もしかしたら、甲洋はずっとここにいたいと思ってくれているかもしれない。問えばそう答えてくれるかもしれない。そんなことを期待している自分がいた。だけどそれは操の願望でしかない。
日野家には甲洋が幸せになるための条件が揃っている。そこに暮らす人々も、環境も、全てが申し分なかった。どちらがいいかなんて、考えるまでもないはずだ。
(今さらワガママなんか、言えないよなぁ……)
彼をひと目で気に入ったという少女が、今この瞬間も甲洋を待っている。
操が嫌いなものを黙って処理してくれたように、雷の日に気が済むまで手を握らせてくれたように。冷たく荒れた海を見つめながら自らを責めていた彼が、外を歩くときはさりげなく操を歩道側に置いていたことを知っている。
そんなふうに、甲洋は幼い美羽を守っていくだろう。
「……君はさ、そこに行きなよ。ここは狭いし、それにおれ、やっぱりイヌは好きじゃない。怖いんだ」
操は甲洋の顔を見て話すことができなかった。
突き放すような、嫌な言い方をしてしまったと思う。半ば自分に言い聞かせているも同然だった。
イヌが怖いのは嘘じゃない。だけど甲洋は特別だ。最初はあんなに嫌だったのに。別れが訪れることも分かっていたのに。それが今は、こんなに辛い。
甲洋は何も言わずに操の話に耳を傾けていたが、やがてすっかり冷めてしまった食卓を見つめながら口を開いた。
「また台所にアイツが出てきても、平気?」
声は穏やかで、いつもと何も変わらない。
操は一度だけ強く下唇を噛み締めて、顔をあげると無理やり笑顔を作った。
「あれきり出てないもん。大丈夫。多分」
「俺がいなくなっても、適当なものばかり食べたりしない?」
「それはわかんないけど……でも、気をつけるよ」
「これから夏になっていくと、雷が増えるけど」
「そ、そういうこと言わないでよぉ! 平気だってば!」
ビクンと肩を震わせながら、操はむっと眉間に皺を寄せた。甲洋は思わずといった様子で笑い、優しく目を細める。
「いいよ」
彼はそう言って、再び箸を手に取った。
「お前がそう言うなら、そうする」
←戻る ・ 次へ→
三月下旬。桜の花が咲きはじめた。
甲洋と暮らし始めてから、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。
「わぁ、ほら見て! もうこんなに咲いてるんだ!」
快晴の日、操は甲洋と近所の公園へ散歩に訪れていた。
操は敷地内を囲むように等間隔で植えられた桜の木のひとつを指差し、隣を歩く甲洋を見上げた。
七分咲の木々は、それでも十分に美しく花びらを色づかせている。温かな風に枝が揺れ、日差しを浴びて淡く光を放っているようだった。
操が指差したほうを見て、甲洋は「本当だ」と言って目を細める。
「綺麗だね。満開になったら、お弁当持ってまた来ようか?」
「うん、それいいな」
「あは、じゃあこの次はそうしよう! 楽しみだね!」
甲洋を覗き込むようにして小首を傾げながら笑った操に、彼はふわりと微笑んだ。
公園には子供が走り回れる広いスペースと砂場、ブランコや滑り台などの遊具が設置されている。優しそうな老夫婦が、小さな孫とそれぞれ手を繋いで散歩している光景が、とてものどかな昼下がりだった。
「ちょっと休んで行こうよ。あったかくて気持ちいいし、ねぇ?」
「うん」
木製のベンチは所々が繊維に添って剥がれ落ち、角が丸くなっていた。そこに並んで腰掛けると、操は手足をうーんと伸ばして深呼吸をする。
少し前までは身を切るような寒さだったのに、ここ数日は上着が必要ないくらい暖かだ。
花と草木の香りが入り混じったみずみずしい空気を感じながら、隣に腰を下ろす甲洋をちらりと見る。彼は目を閉じ、操と同じように春の風を吸い込んでいた。
その長い睫毛だとか、形のいい薄い唇だとか。春の陽気にあてられたように、操は彼の仕草や表情ひとつひとつに胸がふわりと浮き立つのを感じる。
彼はよく笑ってくれるようになった。前よりも少しだけ、口数も多くなったような気がする。窓の外を眺めて過ごすことも、今ではほとんどなくなった。
新しい飼い主はまだ見つかっていない。ならもういっそこのままでいいのかなぁなんて、そんなことを思いはじめている。
イヌはまだ怖い。道端ですれ違いそうになると道の反対側に逃げ込むし、遠くから声がしただけで身がすくむ。
だけど甲洋の隣はとても安心できた。最初の頃のぎこちなさはなんだったのだろうと思うほど、楽に呼吸ができるような気がする。もっと触れてみたいし、もっと声が聞きたい。どうしてこんなに、彼のことが気になってしまうのだろう。
「ねぇ甲洋」
「なに」
のんびりと公園を一望していた甲洋に声をかけると、淡い色合いの瞳がこちらに向けられる。
それにドキリとしながら、操は勇気を出して言ってみた。
「耳、触ってみてもいい?」
最近は手足のケアのため、毎日のように彼の手足に触れている。けれど耳や尻尾といったイヌとしての部分には、まだ触れたことがなかったのだ。
甲洋は少しだけ目を見開いた。そのままじっと操を見つめていたが、やがて「いいよ」と言って首を僅かに傾けてくる。
「や、優しく触るね」
操は緊張から身を強張らせ、無意識に震える指の先を大きな黒い耳へ伸ばした。
ゆっくりと触れる。その柔らかさに背中を押されるようにして、毛の流れに従いながらゆるゆると撫でた。
甲洋はじっとして動かない。ただ目を閉じて、操のしたいようにさせている。垂れた尻尾は、穏やかな動きで大きく左右に揺れていた。
「わぁ……ふかふかして、あったかい。結構、肉厚なんだ」
「そう?」
「うん。食べたら美味しそうだね」
「食べないでよ」
甲洋がくすぐったそうに肩を揺らして笑った。操は手を引っ込め、思わず唇を尖らせる。
「た、食べないよぅ」
「どうだろう。来主は食いしん坊だから」
きっと初めて会った日の夜のことを言っているのだ。
一騎カレーと恐怖心を天秤にかけ、最終的には食い気が勝ったあのときのことを。
「君って、やっぱりちょっと意地悪だ」
言った途端に尻尾が上向き、元気に振り出すのだから本物だ。
コロッケを作った夜、彼はやっぱり笑うのを堪えていたのだと思った。
ズルいと感じてしまうのはなぜだろう。ちっとも嫌な気がしない。甲洋が楽しそうなら、まぁいいかなんて思ってしまう。
だってどんなに意地悪でも、彼は操が泣くと困り果てた様子で耳を寝かせてしまうのだ。そんなのやっぱり、ズルいじゃないか。
「ごめんって」
頬を赤くして不貞腐れた顔をする操に、甲洋は苦笑しながら謝罪した。
「しょうがないな。甲洋は可愛いから、特別だよ」
それは心からの言葉だが、ほんの少しだけ仕返しの意味も込められていた。甲洋は褒めるといつも戸惑ったような顔をする。操の意図に気づいているから、今はただ苦笑しているけれど。
「来主」
「なぁに」
甲洋がふいに真剣な目をする。
「……俺も、触ってみていいか?」
「へ?」
今度は操が目を瞬かせる番だった。
甲洋がこんなことを言い出すのは初めてのことだ。あまりにも予想外だったものだから、ぽっかり口を開けたまま何も言えなくなる。するとその真剣な面差しに曇りがさしはじめて、それに気づいた操はハッと正気に戻った。
「い、いいよ! 触って!」
慌てて言うと、彼はホッと息を漏らしながら表情を緩めた。
操は身体を甲洋に向くように斜めに座り直すと、膝の上に両手を置く。それを合図に、ゆっくりとした動作で手が伸びてきた。
「ッ!」
操は目を咄嗟にぎゅうと瞑ると、竦めた肩を震わせる。
「……怖い?」
触れるか触れないかのところで、問いかけられる。
操は目を開き、おずおずと視線をあげて首を左右に振った。
「怖い、のとは違う。でもなんか、緊張する」
「やめておく?」
「平気。やめないでいいよ」
誰かに触れられるということを、特別意識したことはない。それが今はかつてないくらい緊張していた。やけに頬が熱くて、心臓が早鐘のように鼓動を刻む。初めての感覚だった。
(他の人にはこんな気持ちになったことない。でも甲洋は、ドキドキする。なんで?)
──考えてもよく分からない。操は再び目を閉じた。
それを合図に指先が近づいてくる気配がした。目を閉じていても、そこに仄かな迷いがあることは感じとれる。
甲洋はまずは一瞬だけ髪をつつくような触れ方をした。それから改めて前髪から頬にかかる流れに添って、ふわりと撫でる。やがて親指が目尻をなぞるのが分かった。
(甲洋の手、あったかくて、くすぐったい)
胸はまだ高鳴っていた。だけど同時に力が抜けていくような安らぎを覚えて、操はゆっくりと目を開けた。
朽葉色の淡い瞳をまっすぐ見つめる。決して珍しい色というわけではないのに、操の目には何より綺麗な宝石のように映った。なんだか夢を見ているようだ。
ふたりはそのまましばらくの間、ずっと黙って互いを見つめ続けた。
春風が割って入るように吹き抜けたのを感じて、ふと我に返る。それは甲洋も同じだったようで、お互いに息を呑みながら目を逸らしあった。
「ごめん」
「う、うぅん」
甲洋は不自然に顔を背け、操は俯くと両手で熱くなった頬を包み込む。
春を通り越して夏が来たみたいだ。内側にカッと火が灯ったようで、うっすらと汗ばむのを感じる。
ぎこちない空気が恥ずかしい。あのまま見つめ続けていたら、どうなっていたのだろう。
「なんか喉乾いた! おれ何か買ってくるね!」
この空気は耐えられない。操は無理やり笑顔を作り、元気よく跳ねるようにベンチから立ち上がる。
「何がいい? オレンジジュースでいい?」
操を見上げる甲洋は安堵したように微笑んでから視線を上向け、それからまた操を見た。
「コーヒーがいい、かな」
操はにっこり笑って敬礼すると「りょうかーい!」と言って自販機へと駆け出した。
*
風呂上がりに居間へ戻ると、操が床に寝転んで寝息を立てていた。
クッションを枕にテレビを見ながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。つけっぱなしの画面では、スポーツニュースがサッカーの試合模様をダイジェストで放送している。
甲洋は物音を立てないようにテーブルの上のリモコンをとると、スイッチを切った。
「来主」
呼びかけても返事はない。ずいぶん深く眠っているようだった。
あの雷の日から甲洋は寝る場所を操と交換し、寝室ではなく居間で眠るようになった。
ベッドを使わず床で寝ていたのは、自分にはそれで十分だったからだ。あたたかな寝床なんて分不相応だと思っていたし、部屋主を差し置いてベッドを使うなんて考えられないことだった。
けれどそれを言うと、操は目に涙を浮かべながら怒った。
彼に泣かれるとどうも弱い。大きな瞳が零れ落ちそうに揺れるのを見ると、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
だから甲洋は自分が居間で寝ることを提案した。
クッションもカーペットもふかふかだし、ちゃんと毛布に包まって眠るからと。彼は渋々ではあったが納得してくれた。
(運んだほうがいいのか……?)
抱き上げて寝室に運んでしまえば話は簡単だ。しかし途中で目を覚ますことがあれば驚かせてしまうかもしれない。
急激に距離が縮まったとはいえ、彼がまだイヌという生き物への恐怖心を拭えないでいるのは知っている。
「来主、起きて」
甲洋はその名を呼びながら、枕元に膝をついた。
彼は気持ちよさそうに唇をむにゃりと動かしただけで、すやすやと寝息を立て続けている。あまりにも子供っぽい寝顔に、思わず笑みがこぼれた。
(綺麗な目だったな)
秋のススキ野原を思わせる、優しい茅色の瞳。あんなに間近に覗きこんで、その髪や頬に触れたことが信じられない。柔らかで、滑らかで、熱い肌だった。
甲洋はほとんど無意識に、指先を操の髪へとやっていた。緩く癖のある猫毛を幾度か撫でて、それでもまだ目を覚まさないことに安堵する。
頬にかかる髪をそっと払いのけるようにしながら、手の平を這わせた。先に風呂を済ませていた彼の肌はしっとりとして、吸い付くような手触りだった。
「……ッ」
狂おしいほどの胸の疼きを感じて、甲洋は思わず引っ込めた手を胸に押し当てる。なんだろう、今の感じは。操を見ていると、時々こんなふうに苦しくなる瞬間があった。
昼間の公園でもそうだ。彼の瞳に見惚れている間、ずっと胸が忙しなく高鳴っていた。
甲洋は多分、この感覚を知っている。
けれどまるで知らないものにも感じられるのだ。
甲洋が知っているそれはあまりにも淡く、そして儚くて、決して手の届かないものだった。重ね合わせるには、この感情はあまりにも生々しい。
「来主」
吐息だけで名前を呼んだ。起こそうとしていたはずなのに、まるで矛盾するささやかな声で。
小さな唇が薄く開かれている。彼は目を覚まさない。引っ込めたはずの指先で、下唇をそっとなぞった。柔らかい。ふにふにとしていて、少しでも爪を立てれば傷をつけてしまいそうだ。
しばらくそれを繰り返したあと、頬に手を這わせる。ゆっくりと身体を倒して、顔を近づけていった。
(ダメだ)
自制する声が意識の外側から聞こえた気がした。頭の中がぼうっとしてきて、身体がいうことを聞かない。
花の蜜に吸い寄せられるミツバチのように、甲洋は薄桃色の唇に口づけを落としていた。敏感な皮膚がその熱に触れた瞬間、今更のようにこれが『劣情』であることに気づく。
「ッ……!」
呆然としながら顔をあげ、途方に暮れた表情であどけない寝顔を見下ろした。
(……いつから?)
──いつから、思い出になっていたのだろう。
ただ遠くから見つめるだけだった淡い初恋が。儚い笑顔が。
決して忘れずに生きて、そして死ぬまで抱え続けると思っていた感情が。
「──来主」
初恋の少女の名を呼ぼうとして開いたはずの唇で、甲洋は操の名を呼んでいた。
←戻る ・ 次へ→
甲洋と暮らし始めてから、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。
「わぁ、ほら見て! もうこんなに咲いてるんだ!」
快晴の日、操は甲洋と近所の公園へ散歩に訪れていた。
操は敷地内を囲むように等間隔で植えられた桜の木のひとつを指差し、隣を歩く甲洋を見上げた。
七分咲の木々は、それでも十分に美しく花びらを色づかせている。温かな風に枝が揺れ、日差しを浴びて淡く光を放っているようだった。
操が指差したほうを見て、甲洋は「本当だ」と言って目を細める。
「綺麗だね。満開になったら、お弁当持ってまた来ようか?」
「うん、それいいな」
「あは、じゃあこの次はそうしよう! 楽しみだね!」
甲洋を覗き込むようにして小首を傾げながら笑った操に、彼はふわりと微笑んだ。
公園には子供が走り回れる広いスペースと砂場、ブランコや滑り台などの遊具が設置されている。優しそうな老夫婦が、小さな孫とそれぞれ手を繋いで散歩している光景が、とてものどかな昼下がりだった。
「ちょっと休んで行こうよ。あったかくて気持ちいいし、ねぇ?」
「うん」
木製のベンチは所々が繊維に添って剥がれ落ち、角が丸くなっていた。そこに並んで腰掛けると、操は手足をうーんと伸ばして深呼吸をする。
少し前までは身を切るような寒さだったのに、ここ数日は上着が必要ないくらい暖かだ。
花と草木の香りが入り混じったみずみずしい空気を感じながら、隣に腰を下ろす甲洋をちらりと見る。彼は目を閉じ、操と同じように春の風を吸い込んでいた。
その長い睫毛だとか、形のいい薄い唇だとか。春の陽気にあてられたように、操は彼の仕草や表情ひとつひとつに胸がふわりと浮き立つのを感じる。
彼はよく笑ってくれるようになった。前よりも少しだけ、口数も多くなったような気がする。窓の外を眺めて過ごすことも、今ではほとんどなくなった。
新しい飼い主はまだ見つかっていない。ならもういっそこのままでいいのかなぁなんて、そんなことを思いはじめている。
イヌはまだ怖い。道端ですれ違いそうになると道の反対側に逃げ込むし、遠くから声がしただけで身がすくむ。
だけど甲洋の隣はとても安心できた。最初の頃のぎこちなさはなんだったのだろうと思うほど、楽に呼吸ができるような気がする。もっと触れてみたいし、もっと声が聞きたい。どうしてこんなに、彼のことが気になってしまうのだろう。
「ねぇ甲洋」
「なに」
のんびりと公園を一望していた甲洋に声をかけると、淡い色合いの瞳がこちらに向けられる。
それにドキリとしながら、操は勇気を出して言ってみた。
「耳、触ってみてもいい?」
最近は手足のケアのため、毎日のように彼の手足に触れている。けれど耳や尻尾といったイヌとしての部分には、まだ触れたことがなかったのだ。
甲洋は少しだけ目を見開いた。そのままじっと操を見つめていたが、やがて「いいよ」と言って首を僅かに傾けてくる。
「や、優しく触るね」
操は緊張から身を強張らせ、無意識に震える指の先を大きな黒い耳へ伸ばした。
ゆっくりと触れる。その柔らかさに背中を押されるようにして、毛の流れに従いながらゆるゆると撫でた。
甲洋はじっとして動かない。ただ目を閉じて、操のしたいようにさせている。垂れた尻尾は、穏やかな動きで大きく左右に揺れていた。
「わぁ……ふかふかして、あったかい。結構、肉厚なんだ」
「そう?」
「うん。食べたら美味しそうだね」
「食べないでよ」
甲洋がくすぐったそうに肩を揺らして笑った。操は手を引っ込め、思わず唇を尖らせる。
「た、食べないよぅ」
「どうだろう。来主は食いしん坊だから」
きっと初めて会った日の夜のことを言っているのだ。
一騎カレーと恐怖心を天秤にかけ、最終的には食い気が勝ったあのときのことを。
「君って、やっぱりちょっと意地悪だ」
言った途端に尻尾が上向き、元気に振り出すのだから本物だ。
コロッケを作った夜、彼はやっぱり笑うのを堪えていたのだと思った。
ズルいと感じてしまうのはなぜだろう。ちっとも嫌な気がしない。甲洋が楽しそうなら、まぁいいかなんて思ってしまう。
だってどんなに意地悪でも、彼は操が泣くと困り果てた様子で耳を寝かせてしまうのだ。そんなのやっぱり、ズルいじゃないか。
「ごめんって」
頬を赤くして不貞腐れた顔をする操に、甲洋は苦笑しながら謝罪した。
「しょうがないな。甲洋は可愛いから、特別だよ」
それは心からの言葉だが、ほんの少しだけ仕返しの意味も込められていた。甲洋は褒めるといつも戸惑ったような顔をする。操の意図に気づいているから、今はただ苦笑しているけれど。
「来主」
「なぁに」
甲洋がふいに真剣な目をする。
「……俺も、触ってみていいか?」
「へ?」
今度は操が目を瞬かせる番だった。
甲洋がこんなことを言い出すのは初めてのことだ。あまりにも予想外だったものだから、ぽっかり口を開けたまま何も言えなくなる。するとその真剣な面差しに曇りがさしはじめて、それに気づいた操はハッと正気に戻った。
「い、いいよ! 触って!」
慌てて言うと、彼はホッと息を漏らしながら表情を緩めた。
操は身体を甲洋に向くように斜めに座り直すと、膝の上に両手を置く。それを合図に、ゆっくりとした動作で手が伸びてきた。
「ッ!」
操は目を咄嗟にぎゅうと瞑ると、竦めた肩を震わせる。
「……怖い?」
触れるか触れないかのところで、問いかけられる。
操は目を開き、おずおずと視線をあげて首を左右に振った。
「怖い、のとは違う。でもなんか、緊張する」
「やめておく?」
「平気。やめないでいいよ」
誰かに触れられるということを、特別意識したことはない。それが今はかつてないくらい緊張していた。やけに頬が熱くて、心臓が早鐘のように鼓動を刻む。初めての感覚だった。
(他の人にはこんな気持ちになったことない。でも甲洋は、ドキドキする。なんで?)
──考えてもよく分からない。操は再び目を閉じた。
それを合図に指先が近づいてくる気配がした。目を閉じていても、そこに仄かな迷いがあることは感じとれる。
甲洋はまずは一瞬だけ髪をつつくような触れ方をした。それから改めて前髪から頬にかかる流れに添って、ふわりと撫でる。やがて親指が目尻をなぞるのが分かった。
(甲洋の手、あったかくて、くすぐったい)
胸はまだ高鳴っていた。だけど同時に力が抜けていくような安らぎを覚えて、操はゆっくりと目を開けた。
朽葉色の淡い瞳をまっすぐ見つめる。決して珍しい色というわけではないのに、操の目には何より綺麗な宝石のように映った。なんだか夢を見ているようだ。
ふたりはそのまましばらくの間、ずっと黙って互いを見つめ続けた。
春風が割って入るように吹き抜けたのを感じて、ふと我に返る。それは甲洋も同じだったようで、お互いに息を呑みながら目を逸らしあった。
「ごめん」
「う、うぅん」
甲洋は不自然に顔を背け、操は俯くと両手で熱くなった頬を包み込む。
春を通り越して夏が来たみたいだ。内側にカッと火が灯ったようで、うっすらと汗ばむのを感じる。
ぎこちない空気が恥ずかしい。あのまま見つめ続けていたら、どうなっていたのだろう。
「なんか喉乾いた! おれ何か買ってくるね!」
この空気は耐えられない。操は無理やり笑顔を作り、元気よく跳ねるようにベンチから立ち上がる。
「何がいい? オレンジジュースでいい?」
操を見上げる甲洋は安堵したように微笑んでから視線を上向け、それからまた操を見た。
「コーヒーがいい、かな」
操はにっこり笑って敬礼すると「りょうかーい!」と言って自販機へと駆け出した。
*
風呂上がりに居間へ戻ると、操が床に寝転んで寝息を立てていた。
クッションを枕にテレビを見ながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。つけっぱなしの画面では、スポーツニュースがサッカーの試合模様をダイジェストで放送している。
甲洋は物音を立てないようにテーブルの上のリモコンをとると、スイッチを切った。
「来主」
呼びかけても返事はない。ずいぶん深く眠っているようだった。
あの雷の日から甲洋は寝る場所を操と交換し、寝室ではなく居間で眠るようになった。
ベッドを使わず床で寝ていたのは、自分にはそれで十分だったからだ。あたたかな寝床なんて分不相応だと思っていたし、部屋主を差し置いてベッドを使うなんて考えられないことだった。
けれどそれを言うと、操は目に涙を浮かべながら怒った。
彼に泣かれるとどうも弱い。大きな瞳が零れ落ちそうに揺れるのを見ると、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
だから甲洋は自分が居間で寝ることを提案した。
クッションもカーペットもふかふかだし、ちゃんと毛布に包まって眠るからと。彼は渋々ではあったが納得してくれた。
(運んだほうがいいのか……?)
抱き上げて寝室に運んでしまえば話は簡単だ。しかし途中で目を覚ますことがあれば驚かせてしまうかもしれない。
急激に距離が縮まったとはいえ、彼がまだイヌという生き物への恐怖心を拭えないでいるのは知っている。
「来主、起きて」
甲洋はその名を呼びながら、枕元に膝をついた。
彼は気持ちよさそうに唇をむにゃりと動かしただけで、すやすやと寝息を立て続けている。あまりにも子供っぽい寝顔に、思わず笑みがこぼれた。
(綺麗な目だったな)
秋のススキ野原を思わせる、優しい茅色の瞳。あんなに間近に覗きこんで、その髪や頬に触れたことが信じられない。柔らかで、滑らかで、熱い肌だった。
甲洋はほとんど無意識に、指先を操の髪へとやっていた。緩く癖のある猫毛を幾度か撫でて、それでもまだ目を覚まさないことに安堵する。
頬にかかる髪をそっと払いのけるようにしながら、手の平を這わせた。先に風呂を済ませていた彼の肌はしっとりとして、吸い付くような手触りだった。
「……ッ」
狂おしいほどの胸の疼きを感じて、甲洋は思わず引っ込めた手を胸に押し当てる。なんだろう、今の感じは。操を見ていると、時々こんなふうに苦しくなる瞬間があった。
昼間の公園でもそうだ。彼の瞳に見惚れている間、ずっと胸が忙しなく高鳴っていた。
甲洋は多分、この感覚を知っている。
けれどまるで知らないものにも感じられるのだ。
甲洋が知っているそれはあまりにも淡く、そして儚くて、決して手の届かないものだった。重ね合わせるには、この感情はあまりにも生々しい。
「来主」
吐息だけで名前を呼んだ。起こそうとしていたはずなのに、まるで矛盾するささやかな声で。
小さな唇が薄く開かれている。彼は目を覚まさない。引っ込めたはずの指先で、下唇をそっとなぞった。柔らかい。ふにふにとしていて、少しでも爪を立てれば傷をつけてしまいそうだ。
しばらくそれを繰り返したあと、頬に手を這わせる。ゆっくりと身体を倒して、顔を近づけていった。
(ダメだ)
自制する声が意識の外側から聞こえた気がした。頭の中がぼうっとしてきて、身体がいうことを聞かない。
花の蜜に吸い寄せられるミツバチのように、甲洋は薄桃色の唇に口づけを落としていた。敏感な皮膚がその熱に触れた瞬間、今更のようにこれが『劣情』であることに気づく。
「ッ……!」
呆然としながら顔をあげ、途方に暮れた表情であどけない寝顔を見下ろした。
(……いつから?)
──いつから、思い出になっていたのだろう。
ただ遠くから見つめるだけだった淡い初恋が。儚い笑顔が。
決して忘れずに生きて、そして死ぬまで抱え続けると思っていた感情が。
「──来主」
初恋の少女の名を呼ぼうとして開いたはずの唇で、甲洋は操の名を呼んでいた。
←戻る ・ 次へ→
部屋に戻ると、待ちわびていたかのように雨が降り出した。
あと少しでも帰りが遅かったら、ふたりともずぶ濡れになっていただろう。
甲洋にはまず真っ先に風呂に入ってもらった。足の裏は幸い傷ついていなかったが、長いこと海風にさらされた身体が酷く冷え切っていたからだ。
彼が出てくるのを待ちながら、操は床に腰を落ち着けて自分の手の平をじっと見つめた。
(おれ、思いっきりイヌに触っちゃった)
今更だが、自分でも信じられない。1メートル半という距離を狭めたことすら驚きなのに、あんなふうに強引に手を引くなんて。
あのときは考える余裕がなかったからかもしれない。この機を逃せば、もう二度と彼を連れ戻すことはできないと思ったから。
ほっと息をついていると、風呂からあがった甲洋が居間に戻ってきた。紺のスウェット上下は一騎が持ってきてくれたもので、丈もぴったりだ。
しっかりドライヤーをかけるようにしつこく言ったからか、潮風でごわついていた髪と尻尾の毛も、ちゃんと乾いてふわふわになっている。
「肩まであったまった?」
「うん」
「いい子だね」
ホッとして笑う操に、甲洋は目をそらすだけで何も言わなかった。
操は立ち上がると「ちょっと待ってて」と言って寝室へ向かった。ベッド脇にあるチェストの引き出しを漁り、目当てのものを見つけだすとまた居間に戻る。
甲洋は本棚の脇にあぐらをかいて、操が戻ってくるのを待っていた。
「近くに寄るよ。ビックリしないでね」
「?」
断りを入れてから、操は緊張を和らげるためにそっと深呼吸をした。それから、甲洋の目の前までゆっくり近づくと、その場にぺたりと座り込む。膝が触れそうなほど近い距離だ。
「な、なに?」
むしろ戸惑って身を引こうとしたのは甲洋の方だ。けれど背中が壁に当って、逃げ場がない。
操は持ってきた塗り薬の丸いケースの蓋を開けながら「手を出して」と言った。甲洋が探るような目を向けてくる。
「大丈夫。ねぇ、ほら早く」
おずおずと差し出された右手を取って、操はケースから指先ですくいあげた白いクリームを丁寧に塗り込めていく。未だに痣と傷が残る指の一本一本に。
「これ、消えるまで毎日するから。気づかなくて、ごめん」
操の指先は情けないほど震えていた。改めてこんなに近くで触れるとなると、本能的に刻み込まれた恐怖に飲み込まれてしまいそうだった。
だけどそれは甲洋も同じなのかもしれない。こうしていると、触れられることに慣れていないのがよく分かる。彼は身を強張らせ、ずっと息を殺しているようだった。
右手が終わると、今度は左手だ。目で合図するだけで、甲洋は戸惑いながらもう片方を差し出してきた。
「……怖くないの?」
緊張した様子の声に問われて、操は少しだけ笑った。
「怖いよ、すごく」
「ならどうして」
「甲洋だから、だと思う」
左手にも軟膏を塗り込めながら言う。甲洋はわずかに息を呑んだだけだった。バタバタという雨音が、絶え間なく静かな空間に響き渡っている。
「だって甲洋は優しいもん」
優しすぎるから、傷つきやすい。
軽率な真似をして怯えさせてしまったのは操の方なのに、彼は自分を責めるのだ。もう傍にはいられないと言って、ひとりぼっちで雨に濡れようとしていた。
「あの公園で君を見つけたとき、君の背中が、海に消えてしまいそうで怖かった。君が部屋を飛び出してしまったときも、どうしたらいいか分からなくて」
容子の家を出たあと、海へ向かったのはイチかバチかの賭けだった。海が好きなのかと問いかけたとき、彼はほとんど反応を示さなかったけれど、あの食い入るような眼差しは印象深いものだった。
ここから比較的近い場所で海を臨める場所といえば、あの公園しかない。広大な敷地内を駆けずり回るのは骨が折れたが、彼がそこにいてくれて本当によかった。
「おれは、甲洋がいなくなることのほうがずっと怖い。それがわかったから、いいんだ」
子供の頃の体験は、決して忘れられるものではなかった。あと少しでも飼い主が駆けつけるのが遅ければ、どうなっていたか分からない。
初めて見た総士の泣き顔。傷ついて血が溢れ出す膝小僧。それでもなお吠え立て、飛びかかってこようとした犬の声。それは幼い操が、生まれて初めて『死』を意識させられた瞬間だった。
だけど甲洋は、操が抱えるものをただ静かに受け止めてくれた。こんな狭い家の中で、その領域を侵さないように注意を払ってくれた。
彼は操を怖がらせるような真似は絶対にしなかった。イヌというだけで無条件に恐れ、厚い壁を作っていたのは操自身だったのだ。
「おれ、甲洋のこと好きだよ。だからもう一人ぼっちにならないで。君が寂しいのは、嫌なんだ」
触れている甲洋の指が震えている。それは彼の心が震えているからなのだと思った。操は人間だから、読心能力は使えない。だけどなぜか、今はそれがハッキリと伝わってきたような気がした。
「……お前が、なぜそんなことを言うのか分からない」
声さえも震わせて、甲洋は言った。操はこの声を好きだと思った。柔らかで、とても繊細で。その心に、もっと触れてみたいと思う。
「俺にはそんな価値ないよ。役立たずで、なにも持ってない。優しいんじゃなくて、臆病なだけだ」
震えている甲洋の手を、操は両手で包み込んだ。しっとりとしたそれはとても温かい。骨ばっていて、大きな手だった。この手から、どれだけの幸せが通り抜けていったのだろう。
「それが君の心の中なんだね。話してくれて嬉しい。おれには、君たちのような力はないから」
ずっと無口だった彼が、初めて吐露した心情だ。
それがどんなに自己を否定するものだったとしても、何も言ってくれないよりずっといい。
「なにも持ってなくたっていいよ。それって、これから沢山なにかを掴めるってことでしょ? それにさ、おれは君に色んなものをもらったよ」
「もらった?」
「うん。誰かに食べてもらうためにご飯を作るのって、あんなに楽しいんだ。君がいなかったら、ずっと知らないままだった。台所にあの虫が出たときも、おれ一人だったらなにもできなかったし……あ、今そのくらいのことでって思った?」
「……少し」
正直な甲洋に、操は思わずムッとして唇を尖らせた。
「だってアイツ怖いじゃん。なんで平気なの?」
「なんでって言われても……別に無害だし」
「存在が有害だよ! なんであんなに黒くてテラテラしてなきゃいけないのぉ!?」
「わ、わかった。わかったから、泣かないで」
あの黒光りするフォルムを思いだすだけで涙が滲んでしまった操に、甲洋は珍しく焦ったように言った。
「じゃあ……またアイツが出たらやっつけてくれる?」
濡れた瞳で上目遣いに見ると、甲洋はなぜか目線を逸らしながら「いいよ」と言って頷いた。
操は安堵からふにゃりとした情けない笑みを浮かべる。
「よかったぁ。甲洋はカッコイイし優しいし、頼もしいね」
「よせ、俺はそんなんじゃ」
「おれはおれが思ったことを言ってるだけ。甲洋は綺麗な顔してるし、背も高くて手も足も長いし、虫もやっつけてくれるし、おれ甲洋の悪いとこ一個も言えないよ。だって思いつかないもん」
甲洋はいよいよ耐えきれなくなったとばかりに、空いている方の手で顔を覆い隠してしまった。それでも隠れきれていない頬や目元が、真っ赤に染まっている。
「甲洋?」
「……やめて」
蚊の鳴くような声だ。あまりにも見慣れない光景に、操はぽかんと口を開けてしまった。
そして気がつく。背にしている壁に挟まれて、その動きはだいぶ妨げられてはいるが、彼の黒く立派な尻尾が左右に大きく振られていることに。
総士と一緒にいるとき、一騎もよくこんなふうに尻尾を振っているのを思いだす。
「嬉しくなるから……それ以上は、言わないで……」
「ッ!」
操は一気に肌が粟立つような感覚に襲われた。釣られてこちらまで顔が熱くなってしまう。
なんだろうこれは。反則、という二文字が頭の中にぽかりと浮かんだ。
「……甲洋って、可愛いんだ」
これ以上は本気で嫌がるかもしれないと思いながら、つい口走ってしまう。
甲洋は指の隙間から揺れる瞳で操を睨みつけて「違う」と言った。それすらもなんだか可愛い。同時に、胸がやけに騒がしく跳ね上がるのを感じた。
(な、なんだこれ……なんか、ドキドキが止まらない……?)
朝方こっそりと彼の寝顔を覗き見たときに感じたものと、少し似ている。だけど、今はそれがより鮮明に感じられるような気がした。急に丸裸にされたみたいに、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
すると、なぜか甲洋の手に触れていることが恥ずかしくなってきた。離さなくちゃと、そう思った瞬間、窓の外が白い光に包まれる。
「ぴゃッ!?」
一瞬遅れて、遠くから太鼓を乱れ撃つような音が響き渡った。
操は突然の轟音に驚き、ぴょんっと跳あがる勢いで身体を揺らす。咄嗟に甲洋の左手を胸に引き寄せ、肩を竦めると薄暗い窓の外を見た。激しさを増した雨の雫が、絶え間なくガラスに爪を立てている。
「雷だ」
「は、春って雷鳴るのぉ!?」
「春雷だよ」
天井を見上げるようにして言った甲洋の言葉にかぶさるように、再び雷鳴が轟いた。
「うわあぁッ! な、なんだよもうー!」
甲洋の手を強く抱きしめて叫ぶ操を、揺れる瞳が戸惑ったように見つめてくる。
「怖いの?」
「なんで怖くないのぉ!?」
背中を丸め、涙目で見上げた操に目を瞬かせて、甲洋が笑った。
ふ、と小さく吹きだすことから始まり、しまいには肩をくつくつと震わせはじめる。
「こ、こうよお?」
笑っている。どんなときも決して笑顔を見せなかった甲洋が。
なぜか再び尻尾を振りながら、楽しそうに、嬉しそうに。
「ごめん」
目尻を指先で拭いながら、彼はそれでもまだ笑っている。
「怖いものが沢山あるんだな、来主は」
泣けばいいのか、笑えばいいのか、操にはもう何もわからなくなってしまった。
こんなに綺麗な笑顔を初めて見た。そして、初めて名前を呼ばれた。
胸が痛い。何かに刺し貫かれたように。息ができない。
(ああ、手を──)
離さなければと思っていたのに。
三度雷鳴が轟いたのを理由に、操は温かな手を殊さら強く、両手で握りしめた。
←戻る ・ 次へ→
あと少しでも帰りが遅かったら、ふたりともずぶ濡れになっていただろう。
甲洋にはまず真っ先に風呂に入ってもらった。足の裏は幸い傷ついていなかったが、長いこと海風にさらされた身体が酷く冷え切っていたからだ。
彼が出てくるのを待ちながら、操は床に腰を落ち着けて自分の手の平をじっと見つめた。
(おれ、思いっきりイヌに触っちゃった)
今更だが、自分でも信じられない。1メートル半という距離を狭めたことすら驚きなのに、あんなふうに強引に手を引くなんて。
あのときは考える余裕がなかったからかもしれない。この機を逃せば、もう二度と彼を連れ戻すことはできないと思ったから。
ほっと息をついていると、風呂からあがった甲洋が居間に戻ってきた。紺のスウェット上下は一騎が持ってきてくれたもので、丈もぴったりだ。
しっかりドライヤーをかけるようにしつこく言ったからか、潮風でごわついていた髪と尻尾の毛も、ちゃんと乾いてふわふわになっている。
「肩まであったまった?」
「うん」
「いい子だね」
ホッとして笑う操に、甲洋は目をそらすだけで何も言わなかった。
操は立ち上がると「ちょっと待ってて」と言って寝室へ向かった。ベッド脇にあるチェストの引き出しを漁り、目当てのものを見つけだすとまた居間に戻る。
甲洋は本棚の脇にあぐらをかいて、操が戻ってくるのを待っていた。
「近くに寄るよ。ビックリしないでね」
「?」
断りを入れてから、操は緊張を和らげるためにそっと深呼吸をした。それから、甲洋の目の前までゆっくり近づくと、その場にぺたりと座り込む。膝が触れそうなほど近い距離だ。
「な、なに?」
むしろ戸惑って身を引こうとしたのは甲洋の方だ。けれど背中が壁に当って、逃げ場がない。
操は持ってきた塗り薬の丸いケースの蓋を開けながら「手を出して」と言った。甲洋が探るような目を向けてくる。
「大丈夫。ねぇ、ほら早く」
おずおずと差し出された右手を取って、操はケースから指先ですくいあげた白いクリームを丁寧に塗り込めていく。未だに痣と傷が残る指の一本一本に。
「これ、消えるまで毎日するから。気づかなくて、ごめん」
操の指先は情けないほど震えていた。改めてこんなに近くで触れるとなると、本能的に刻み込まれた恐怖に飲み込まれてしまいそうだった。
だけどそれは甲洋も同じなのかもしれない。こうしていると、触れられることに慣れていないのがよく分かる。彼は身を強張らせ、ずっと息を殺しているようだった。
右手が終わると、今度は左手だ。目で合図するだけで、甲洋は戸惑いながらもう片方を差し出してきた。
「……怖くないの?」
緊張した様子の声に問われて、操は少しだけ笑った。
「怖いよ、すごく」
「ならどうして」
「甲洋だから、だと思う」
左手にも軟膏を塗り込めながら言う。甲洋はわずかに息を呑んだだけだった。バタバタという雨音が、絶え間なく静かな空間に響き渡っている。
「だって甲洋は優しいもん」
優しすぎるから、傷つきやすい。
軽率な真似をして怯えさせてしまったのは操の方なのに、彼は自分を責めるのだ。もう傍にはいられないと言って、ひとりぼっちで雨に濡れようとしていた。
「あの公園で君を見つけたとき、君の背中が、海に消えてしまいそうで怖かった。君が部屋を飛び出してしまったときも、どうしたらいいか分からなくて」
容子の家を出たあと、海へ向かったのはイチかバチかの賭けだった。海が好きなのかと問いかけたとき、彼はほとんど反応を示さなかったけれど、あの食い入るような眼差しは印象深いものだった。
ここから比較的近い場所で海を臨める場所といえば、あの公園しかない。広大な敷地内を駆けずり回るのは骨が折れたが、彼がそこにいてくれて本当によかった。
「おれは、甲洋がいなくなることのほうがずっと怖い。それがわかったから、いいんだ」
子供の頃の体験は、決して忘れられるものではなかった。あと少しでも飼い主が駆けつけるのが遅ければ、どうなっていたか分からない。
初めて見た総士の泣き顔。傷ついて血が溢れ出す膝小僧。それでもなお吠え立て、飛びかかってこようとした犬の声。それは幼い操が、生まれて初めて『死』を意識させられた瞬間だった。
だけど甲洋は、操が抱えるものをただ静かに受け止めてくれた。こんな狭い家の中で、その領域を侵さないように注意を払ってくれた。
彼は操を怖がらせるような真似は絶対にしなかった。イヌというだけで無条件に恐れ、厚い壁を作っていたのは操自身だったのだ。
「おれ、甲洋のこと好きだよ。だからもう一人ぼっちにならないで。君が寂しいのは、嫌なんだ」
触れている甲洋の指が震えている。それは彼の心が震えているからなのだと思った。操は人間だから、読心能力は使えない。だけどなぜか、今はそれがハッキリと伝わってきたような気がした。
「……お前が、なぜそんなことを言うのか分からない」
声さえも震わせて、甲洋は言った。操はこの声を好きだと思った。柔らかで、とても繊細で。その心に、もっと触れてみたいと思う。
「俺にはそんな価値ないよ。役立たずで、なにも持ってない。優しいんじゃなくて、臆病なだけだ」
震えている甲洋の手を、操は両手で包み込んだ。しっとりとしたそれはとても温かい。骨ばっていて、大きな手だった。この手から、どれだけの幸せが通り抜けていったのだろう。
「それが君の心の中なんだね。話してくれて嬉しい。おれには、君たちのような力はないから」
ずっと無口だった彼が、初めて吐露した心情だ。
それがどんなに自己を否定するものだったとしても、何も言ってくれないよりずっといい。
「なにも持ってなくたっていいよ。それって、これから沢山なにかを掴めるってことでしょ? それにさ、おれは君に色んなものをもらったよ」
「もらった?」
「うん。誰かに食べてもらうためにご飯を作るのって、あんなに楽しいんだ。君がいなかったら、ずっと知らないままだった。台所にあの虫が出たときも、おれ一人だったらなにもできなかったし……あ、今そのくらいのことでって思った?」
「……少し」
正直な甲洋に、操は思わずムッとして唇を尖らせた。
「だってアイツ怖いじゃん。なんで平気なの?」
「なんでって言われても……別に無害だし」
「存在が有害だよ! なんであんなに黒くてテラテラしてなきゃいけないのぉ!?」
「わ、わかった。わかったから、泣かないで」
あの黒光りするフォルムを思いだすだけで涙が滲んでしまった操に、甲洋は珍しく焦ったように言った。
「じゃあ……またアイツが出たらやっつけてくれる?」
濡れた瞳で上目遣いに見ると、甲洋はなぜか目線を逸らしながら「いいよ」と言って頷いた。
操は安堵からふにゃりとした情けない笑みを浮かべる。
「よかったぁ。甲洋はカッコイイし優しいし、頼もしいね」
「よせ、俺はそんなんじゃ」
「おれはおれが思ったことを言ってるだけ。甲洋は綺麗な顔してるし、背も高くて手も足も長いし、虫もやっつけてくれるし、おれ甲洋の悪いとこ一個も言えないよ。だって思いつかないもん」
甲洋はいよいよ耐えきれなくなったとばかりに、空いている方の手で顔を覆い隠してしまった。それでも隠れきれていない頬や目元が、真っ赤に染まっている。
「甲洋?」
「……やめて」
蚊の鳴くような声だ。あまりにも見慣れない光景に、操はぽかんと口を開けてしまった。
そして気がつく。背にしている壁に挟まれて、その動きはだいぶ妨げられてはいるが、彼の黒く立派な尻尾が左右に大きく振られていることに。
総士と一緒にいるとき、一騎もよくこんなふうに尻尾を振っているのを思いだす。
「嬉しくなるから……それ以上は、言わないで……」
「ッ!」
操は一気に肌が粟立つような感覚に襲われた。釣られてこちらまで顔が熱くなってしまう。
なんだろうこれは。反則、という二文字が頭の中にぽかりと浮かんだ。
「……甲洋って、可愛いんだ」
これ以上は本気で嫌がるかもしれないと思いながら、つい口走ってしまう。
甲洋は指の隙間から揺れる瞳で操を睨みつけて「違う」と言った。それすらもなんだか可愛い。同時に、胸がやけに騒がしく跳ね上がるのを感じた。
(な、なんだこれ……なんか、ドキドキが止まらない……?)
朝方こっそりと彼の寝顔を覗き見たときに感じたものと、少し似ている。だけど、今はそれがより鮮明に感じられるような気がした。急に丸裸にされたみたいに、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
すると、なぜか甲洋の手に触れていることが恥ずかしくなってきた。離さなくちゃと、そう思った瞬間、窓の外が白い光に包まれる。
「ぴゃッ!?」
一瞬遅れて、遠くから太鼓を乱れ撃つような音が響き渡った。
操は突然の轟音に驚き、ぴょんっと跳あがる勢いで身体を揺らす。咄嗟に甲洋の左手を胸に引き寄せ、肩を竦めると薄暗い窓の外を見た。激しさを増した雨の雫が、絶え間なくガラスに爪を立てている。
「雷だ」
「は、春って雷鳴るのぉ!?」
「春雷だよ」
天井を見上げるようにして言った甲洋の言葉にかぶさるように、再び雷鳴が轟いた。
「うわあぁッ! な、なんだよもうー!」
甲洋の手を強く抱きしめて叫ぶ操を、揺れる瞳が戸惑ったように見つめてくる。
「怖いの?」
「なんで怖くないのぉ!?」
背中を丸め、涙目で見上げた操に目を瞬かせて、甲洋が笑った。
ふ、と小さく吹きだすことから始まり、しまいには肩をくつくつと震わせはじめる。
「こ、こうよお?」
笑っている。どんなときも決して笑顔を見せなかった甲洋が。
なぜか再び尻尾を振りながら、楽しそうに、嬉しそうに。
「ごめん」
目尻を指先で拭いながら、彼はそれでもまだ笑っている。
「怖いものが沢山あるんだな、来主は」
泣けばいいのか、笑えばいいのか、操にはもう何もわからなくなってしまった。
こんなに綺麗な笑顔を初めて見た。そして、初めて名前を呼ばれた。
胸が痛い。何かに刺し貫かれたように。息ができない。
(ああ、手を──)
離さなければと思っていたのに。
三度雷鳴が轟いたのを理由に、操は温かな手を殊さら強く、両手で握りしめた。
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「だから私は最初から反対だったのよ! だけど貴方がどうしてもって言うから!」
「仕方ないだろう? タダでくれるっていうんだから」
「うちには役に立たない雑種犬に食べさせるものなんかないわよ! 私は面倒なんか見ませんから!」
「残り物で構わんだろ……ほっといたって死にやしないさ」
ヒステリックに怒鳴る『母』と、うんざりしたように吐き捨てる『父』の声。それが甲洋の頭の中には一字一句余さず刻みつけられている。
苛立ちと落胆、忌々しさと疎ましさ。彼らが見せた感情、言葉、その全てを。
甲洋は父が知り合いから譲り受けた雑種の子犬だった。このところ物騒だからと、番犬として飼われることになったのだ。
しかし甲洋は番犬という使命を帯びるにはまだあまりにも幼く、そして臆病すぎた。
あるとき、それは夫婦が揃って家を開けた夜に起こった。
裏口から鍵を壊して、空き巣が侵入したのだ。甲洋はすぐに異変に気づいたが、店の片隅で怯えるだけで声ひとつあげられなかった。
店内に足を踏み入れた空き巣の男は、震える子犬を見て「いい子だな」と鼻で笑った。顔はサングラスとマスクをしていて分からなかった。男は手にナイフを持っていたし、いつも店に来る常連客たちとは、まるで異なる嫌な空気をまとっていた。
怖かった。幼い甲洋にとって、それは生まれて初めて触れた明確な人間の悪意だった。
帰宅した夫婦は店の売上金がごっそりなくなっていることに気づき、甲洋を役立たずと責め立てた。
なぜ安々と侵入を許したのか。なぜ、命と引き換えにしてでも守らなかったのかと。
その日を境に、甲洋は夫婦から見向きもされなくなった。
用がない限りは部屋から出ることも許されず、食事も思いだしたときにほんの僅かな残飯を雑に与えられるだけだった。彼らの虫の居所が悪いと、雨でも風でもお構いなしにベランダに追い出される。そのまま何日も忘れられることだってあった。
それでも甲洋が腐らずにいられたのは、隣の家に住む子猫に恋をしていたからだった。
光り輝く黒髪と、泣き出しそうに潤んだ瞳。細い肩に透けるような肌。真っ白の毛並み。初めてその姿を見たとき、あまりにも小さくて儚い姿に胸が疼いた。
ベランダからは、彼女が暮らす部屋の明かりがよく見えた。
晴れの日には窓とカーテンが開かれて、ベッドで本を読んだり日向ぼっこをする姿を見ることもできた。
彼女は飼い主の女性から『翔子』と呼ばれていた。身体が弱いらしく、あまり長く起き上がっていられない。外を駆け回って遊ぶことすらできない様子だった。
けれど彼女はいつも笑っていた。飼い主の女性に愛情を注がれ、彼女たちはまるで本当の母と娘のように幸せそうだった。
そんな翔子の笑顔を遠くからこっそりと見守ることが、甲洋にとって唯一の心の支えだった。
やがて月日が流れ、甲洋が少年から青年へと成長した頃。
ある日を境に、翔子の姿がパタリと見えなくなった。カーテンは締め切られたままで、時おり女性のすすり泣く声が聞こえるだけだった。
家全体が重く沈み、悲しい空気に覆われているような気がした。
その後も、待てど暮らせど翔子は姿を見せなかった。
けれど代わりに、見慣れない赤毛の黒猫がその家で暮らすようになった。まだほんの子猫だ。彼女は飼い主の女性から『カノン』という名を与えられた。
翔子と違い、カノンは外を自由に動き回ることができる少女だった。飼い主以外には心を許さず、人間が近くを通ると物陰に身を隠す。そんなネコだった。
翔子がいなくなってからずっと暗く沈んでいた家が、みるみるうちに明るさを取り戻していった。女性がすすり泣く声も聞こえない。
まるで彼女のことを覚えているのは、この世界で自分一人だけのような気さえした。
夫婦が店を畳んだのは、それから間もなくのことだった。
跡取りがなく、売上も落ちていくばかりで、このまま続けていても意味がないと判断してのことだった。
彼らはどこか遠くの田舎に引っ越すことになった。甲洋を平然と置き去りにして、いなくなった。
けれど甲洋はそれで構わなかった。せめてもう一度、ひと目でも翔子の顔を見るまでは、この場所を離れたくないと思っていたから。
人の目を避けて、無人になった家の裏手に身を隠しながら翔子の家を見守った。
厳しさを増す寒さの中、飲まず食わずでも苦にならなかった。ただ、会いたかった。
翔子は甲洋の存在を知らない。あの綺麗な瞳が自分を映し出すことはないし、名前を呼ぶことすらない。だけどそれでもよかった。生まれて初めて誰かを愛しいと思えた。そんな相手に出会えただけで。
どこにも居場所のない甲洋にとって、彼女がそこで生きているということだけが、この世界の全てだったから。
どのくらいそうして裏庭に潜んでいただろう。
甲洋は弱りきり、やがて動くことすらできなくなった。裏庭の片隅で、土や草の匂いを嗅ぎながら仰向けで見上げた空は、青かった。
「お前、死ぬのか」
薄れていく意識の中で、少年のようにも聞こえるぶっきらぼうな声を聞いた。目を閉じたままかすかに笑うと、声の主はどこか焦ったように息を呑む。
「ッ、ま、待っていろ。いいか、私が戻るまで、絶対に死ぬなよ。いま母さんを呼んでくる! きっと助けてくれるから!」
母さん。
(ああ、君は──)
幸せなんだな。
*
どこをどうやってここまで辿り着いたのか。
とにかくがむしゃらに走って逃げて、気がついたらここにいた。そこは海を臨める大きな公園だった。
広大な敷地内にある堤防に腰掛け、甲洋は曇天の下に広がる暗い海を見つめていた。
時おり遠くの方でさざ波のようなナブラが起こる。大きな魚に小魚たちが追い込まれているのだ。彼らが必死で足掻くのをあざ笑うように、海上を交差する海鳥たちがそのくちばしで命を摘み取る。
甲洋はいつしかその光景から目が離せなくなった。あそこに釣り糸を垂らせば、どんな魚がかかるのだろう。
『甲洋、もしかして海が好きなの?』
あのとき、甲洋はなにも答えられなかった。
多分きっと、とても興味があるのだと思う。だけど好きかどうかは分からなかった。今こうしてこの場所に来るまでは、本物の海を目にしたことがなかったから。
ただ、甲洋が暮らしていたあの家には、店内に釣り竿や魚の模型が飾られていた。自分の名前も海からとられたものだったから、惹かれるものがあったのかもしれない。
今は、どうだろう。
目の前に広がる光景はあまりにも広大だった。自分などどこにもいないような錯覚すら抱く。
全ての生命の始まりがここにあるというのなら、いつかはこの命も海に還るのだろうか。それは恐ろしくもあり、同時に産湯に浸かるような安らぎを与えてくれるような気がした。
曇りガラスのような空は、その色味を黒く濁らせるばかりだった。
身を切るような冷たい潮風に、雨を予感させる匂いが混ざる。
甲洋は操の顔を思いだしていた。
子供っぽくて、砂糖菓子のように笑っていたかと思えば、大きな瞳に涙を浮かべる。ころころと変わる表情が面白くて、ほんの少しだけ、意地悪をしたいような気持ちにさせられた。
誰かにそんな感情を抱くのは初めてのことだった。悪意だとか憎しみだとか、そういうものではない。言葉にするには輪郭が曖昧すぎる。だけどとても、くすぐったいものだ。
彼は甲洋に、ここにいてほしいと言った。甲洋がいてくれてよかったと。
そんなことを言われたのは初めてだった。取るに足らない些細なことで、子供のような拙さで、彼は甲洋の存在を肯定したのだ。
本当は怖いくせに。泣き虫なくせに。いつも一生懸命で。
だけど甲洋は、そんな彼の心を傷つけてしまった。
不意打ちだった。操があれほど近くにいるなんて。ましてや触れてこようとするなんて。
彼がなぜあんなことをしようとしたかなんて、大方の予想はついていた。床に丸くなる甲洋を見つけて、超えられないはずのラインを飛び越えたのだ。
読心能力を使わなくたって分かる。彼の思考は、いつだって幼子のように単純だ。
(また上手くやれなかった。あいつを、怖がらせた)
ベッドの上で呆然とする操は、ひどく青ざめていた。白くて小さな手を小刻みに震わせて、目にいっぱい涙を溜めていた。
これでお終いだと思った。操は、きっともう甲洋を名犬とは言ってくれないだろう。彼の思うように振る舞えなかった甲洋に、失望しただろう。今はもうどこにいるかも分からない、あの父と母のように。
(俺は誰の期待にも応えられない。なにも守れない)
大きな音を立てて、風が吹き荒れた。
共鳴するように海が波音を響かせる。ナブラは消えていた。海鳥たちは、巣へ帰っていったのだろうか。
──甲洋
どうしてか、風と波の音に紛れて操の声が聞こえた気がした。
だけどそんなはずはない。彼の声を聞くことは、きっともう二度とないだろう。そう思っていたから。
「甲洋ッ!!」
はっきりと声が聞こえて、甲洋は肩をビクリと震わせる。絶対にありえないと思いながら振り向いた。
そこには肩で息をして、額に汗を滲ませる操の姿があった。
「やっと、見つけた……ッ」
どうして。
甲洋は信じられない思いで彼を見つめる。
「君が行きそうなとこ、他に、思いつかなかった……ダメ元だったけど、よかった……っ」
どれほど全力で駆け回ったのだろう。息を荒らげる彼は少し咳き込んで、胸に手を当てると大きな深呼吸をした。どうにか息を落ち着かせると、珍しく眉を釣り上げて見せる。
「ダメだよ。寒いのにそんな格好で外なんか出ちゃ。帰るよ、甲洋」
「……なんで」
呆然とする甲洋に、操はもう一度「ほら、帰ろう」と言って手を差し出してくる。
男性にしてはほっそりとしていて、小さな手だ。指先から絆創膏は外れているが、まだ少しだけ所々に瘡蓋が残っている。それでも彼の手はとても綺麗だった。
甲洋は首を振り、再び海へと向き直った。
「帰れない」
「なんで?」
「お前を怖がらせた。もう傍にはいられない」
本当は嬉しいと感じていた。操が探しに来てくれたこと。夢を見ているのではないかと思うくらい。だけど自分の中で彼の存在が膨れあがるほどに、同じくらい怖くてたまらないのだ。
もうあんな顔はさせたくない。傷を負ってほしくない。がっかりさせたくない。自分のために頑張る必要なんか、ひとつもない。そんな価値もないのに。
「お前は、俺の帰る場所じゃないよ」
操がひゅっと息を呑む。張り裂けそうな胸の痛みを感じた。それは自分自身のものなのか、操のものなのか、甲洋には分からない。あるいはその両方だったのだろうか。
それでも甲洋はあえて彼の気持ちを踏みにじる。早く諦めてしまえばいい。雨に濡れる前に、早く。
「わかってるよ、そんなこと」
声は酷く震えていた。泣きだしそうにも、どこか悔しそうにも聞こえる。その表情を、臆病な甲洋は背を向けたまま確かめることができなかった。
「おれじゃダメなんだ。だっておれは、君の特別じゃないから」
だけど──と、操は語尾を掠れさせながらその先を続ける。
「翔子は、もうどこにもいないよ」
「ッ……!」
「やっとわかった。君が窓の外を見つめているとき、誰を想っていたのか……ずっと待ってたんだね。あの子のことを」
操は言った。眠っている甲洋が、何度も繰り返し翔子の名前を呼んでいたこと。あの家に行ったこと。そこで偶然、羽佐間容子に会ったことも。
「容子はおれの先生だった人だよ。カノンにも、会った」
甲洋は下唇をきゅっと噛み締めた。
幸せそうな黒猫の少女。あそこは翔子がいるべき場所だったはずなのに。カノンを憎んでいるわけじゃない。彼女がいたから甲洋は死なずにすんだ。けれど甲洋にはなぜ生かされたのか、その理由が分からない。
(翔子が存在している世界が、俺の生きる場所だったんだ)
本当は最初から気がついていた。彼女の姿が消えた日からずっと。
それでも探し続けていた。待っていた。会いたかった。もう一度会えたなら、今度こそ彼女と『出会う』ことができると思った。
だけど翔子はもういない。どこにもいない。この世界の、どこにも。
(だったら俺も、もうどこにもいないのと一緒じゃないか)
そのとき、右手首をなにかに強く掴まれた。甲洋は驚愕に目を見開く。
「ッ!?」
振り向けばすぐ目の前に操がいる。彼は吊り上げた眉の下で、瞳にいっぱいの涙を浮かべていた。
「なに、してるの……?」
「おれ、怒ってるから。あんまりワガママ言うと、もっと怒るから」
「もっと泣く、の、間違いじゃなく……?」
「う、うるさいなぁ! どっちだっていいよ!」
操は右手の甲で目元を擦りながら、左手で甲洋の手首を強く引っ張った。半ば強制的に堤防から降ろされると、そのままグイグイと引かれるままに歩きだす。
拒もうと思えば簡単にできるはずなのに。どうしてか、逆らえない。今の操からは、一切の恐怖心を感じなかった。彼はただひたむきに怒って、泣いて、痛みに耐えている。
他の誰でもない、甲洋のために。
「ねぇ気づいてる? 本当に帰りたくなかったら、“帰れない”なんて言い方しないんだよ」
初めて感じる操の体温。手首を強く握られる感触に、甲洋は泣きだしそうになるのをぐっと堪えた。
←戻る ・ 次へ→
「仕方ないだろう? タダでくれるっていうんだから」
「うちには役に立たない雑種犬に食べさせるものなんかないわよ! 私は面倒なんか見ませんから!」
「残り物で構わんだろ……ほっといたって死にやしないさ」
ヒステリックに怒鳴る『母』と、うんざりしたように吐き捨てる『父』の声。それが甲洋の頭の中には一字一句余さず刻みつけられている。
苛立ちと落胆、忌々しさと疎ましさ。彼らが見せた感情、言葉、その全てを。
甲洋は父が知り合いから譲り受けた雑種の子犬だった。このところ物騒だからと、番犬として飼われることになったのだ。
しかし甲洋は番犬という使命を帯びるにはまだあまりにも幼く、そして臆病すぎた。
あるとき、それは夫婦が揃って家を開けた夜に起こった。
裏口から鍵を壊して、空き巣が侵入したのだ。甲洋はすぐに異変に気づいたが、店の片隅で怯えるだけで声ひとつあげられなかった。
店内に足を踏み入れた空き巣の男は、震える子犬を見て「いい子だな」と鼻で笑った。顔はサングラスとマスクをしていて分からなかった。男は手にナイフを持っていたし、いつも店に来る常連客たちとは、まるで異なる嫌な空気をまとっていた。
怖かった。幼い甲洋にとって、それは生まれて初めて触れた明確な人間の悪意だった。
帰宅した夫婦は店の売上金がごっそりなくなっていることに気づき、甲洋を役立たずと責め立てた。
なぜ安々と侵入を許したのか。なぜ、命と引き換えにしてでも守らなかったのかと。
その日を境に、甲洋は夫婦から見向きもされなくなった。
用がない限りは部屋から出ることも許されず、食事も思いだしたときにほんの僅かな残飯を雑に与えられるだけだった。彼らの虫の居所が悪いと、雨でも風でもお構いなしにベランダに追い出される。そのまま何日も忘れられることだってあった。
それでも甲洋が腐らずにいられたのは、隣の家に住む子猫に恋をしていたからだった。
光り輝く黒髪と、泣き出しそうに潤んだ瞳。細い肩に透けるような肌。真っ白の毛並み。初めてその姿を見たとき、あまりにも小さくて儚い姿に胸が疼いた。
ベランダからは、彼女が暮らす部屋の明かりがよく見えた。
晴れの日には窓とカーテンが開かれて、ベッドで本を読んだり日向ぼっこをする姿を見ることもできた。
彼女は飼い主の女性から『翔子』と呼ばれていた。身体が弱いらしく、あまり長く起き上がっていられない。外を駆け回って遊ぶことすらできない様子だった。
けれど彼女はいつも笑っていた。飼い主の女性に愛情を注がれ、彼女たちはまるで本当の母と娘のように幸せそうだった。
そんな翔子の笑顔を遠くからこっそりと見守ることが、甲洋にとって唯一の心の支えだった。
やがて月日が流れ、甲洋が少年から青年へと成長した頃。
ある日を境に、翔子の姿がパタリと見えなくなった。カーテンは締め切られたままで、時おり女性のすすり泣く声が聞こえるだけだった。
家全体が重く沈み、悲しい空気に覆われているような気がした。
その後も、待てど暮らせど翔子は姿を見せなかった。
けれど代わりに、見慣れない赤毛の黒猫がその家で暮らすようになった。まだほんの子猫だ。彼女は飼い主の女性から『カノン』という名を与えられた。
翔子と違い、カノンは外を自由に動き回ることができる少女だった。飼い主以外には心を許さず、人間が近くを通ると物陰に身を隠す。そんなネコだった。
翔子がいなくなってからずっと暗く沈んでいた家が、みるみるうちに明るさを取り戻していった。女性がすすり泣く声も聞こえない。
まるで彼女のことを覚えているのは、この世界で自分一人だけのような気さえした。
夫婦が店を畳んだのは、それから間もなくのことだった。
跡取りがなく、売上も落ちていくばかりで、このまま続けていても意味がないと判断してのことだった。
彼らはどこか遠くの田舎に引っ越すことになった。甲洋を平然と置き去りにして、いなくなった。
けれど甲洋はそれで構わなかった。せめてもう一度、ひと目でも翔子の顔を見るまでは、この場所を離れたくないと思っていたから。
人の目を避けて、無人になった家の裏手に身を隠しながら翔子の家を見守った。
厳しさを増す寒さの中、飲まず食わずでも苦にならなかった。ただ、会いたかった。
翔子は甲洋の存在を知らない。あの綺麗な瞳が自分を映し出すことはないし、名前を呼ぶことすらない。だけどそれでもよかった。生まれて初めて誰かを愛しいと思えた。そんな相手に出会えただけで。
どこにも居場所のない甲洋にとって、彼女がそこで生きているということだけが、この世界の全てだったから。
どのくらいそうして裏庭に潜んでいただろう。
甲洋は弱りきり、やがて動くことすらできなくなった。裏庭の片隅で、土や草の匂いを嗅ぎながら仰向けで見上げた空は、青かった。
「お前、死ぬのか」
薄れていく意識の中で、少年のようにも聞こえるぶっきらぼうな声を聞いた。目を閉じたままかすかに笑うと、声の主はどこか焦ったように息を呑む。
「ッ、ま、待っていろ。いいか、私が戻るまで、絶対に死ぬなよ。いま母さんを呼んでくる! きっと助けてくれるから!」
母さん。
(ああ、君は──)
幸せなんだな。
*
どこをどうやってここまで辿り着いたのか。
とにかくがむしゃらに走って逃げて、気がついたらここにいた。そこは海を臨める大きな公園だった。
広大な敷地内にある堤防に腰掛け、甲洋は曇天の下に広がる暗い海を見つめていた。
時おり遠くの方でさざ波のようなナブラが起こる。大きな魚に小魚たちが追い込まれているのだ。彼らが必死で足掻くのをあざ笑うように、海上を交差する海鳥たちがそのくちばしで命を摘み取る。
甲洋はいつしかその光景から目が離せなくなった。あそこに釣り糸を垂らせば、どんな魚がかかるのだろう。
『甲洋、もしかして海が好きなの?』
あのとき、甲洋はなにも答えられなかった。
多分きっと、とても興味があるのだと思う。だけど好きかどうかは分からなかった。今こうしてこの場所に来るまでは、本物の海を目にしたことがなかったから。
ただ、甲洋が暮らしていたあの家には、店内に釣り竿や魚の模型が飾られていた。自分の名前も海からとられたものだったから、惹かれるものがあったのかもしれない。
今は、どうだろう。
目の前に広がる光景はあまりにも広大だった。自分などどこにもいないような錯覚すら抱く。
全ての生命の始まりがここにあるというのなら、いつかはこの命も海に還るのだろうか。それは恐ろしくもあり、同時に産湯に浸かるような安らぎを与えてくれるような気がした。
曇りガラスのような空は、その色味を黒く濁らせるばかりだった。
身を切るような冷たい潮風に、雨を予感させる匂いが混ざる。
甲洋は操の顔を思いだしていた。
子供っぽくて、砂糖菓子のように笑っていたかと思えば、大きな瞳に涙を浮かべる。ころころと変わる表情が面白くて、ほんの少しだけ、意地悪をしたいような気持ちにさせられた。
誰かにそんな感情を抱くのは初めてのことだった。悪意だとか憎しみだとか、そういうものではない。言葉にするには輪郭が曖昧すぎる。だけどとても、くすぐったいものだ。
彼は甲洋に、ここにいてほしいと言った。甲洋がいてくれてよかったと。
そんなことを言われたのは初めてだった。取るに足らない些細なことで、子供のような拙さで、彼は甲洋の存在を肯定したのだ。
本当は怖いくせに。泣き虫なくせに。いつも一生懸命で。
だけど甲洋は、そんな彼の心を傷つけてしまった。
不意打ちだった。操があれほど近くにいるなんて。ましてや触れてこようとするなんて。
彼がなぜあんなことをしようとしたかなんて、大方の予想はついていた。床に丸くなる甲洋を見つけて、超えられないはずのラインを飛び越えたのだ。
読心能力を使わなくたって分かる。彼の思考は、いつだって幼子のように単純だ。
(また上手くやれなかった。あいつを、怖がらせた)
ベッドの上で呆然とする操は、ひどく青ざめていた。白くて小さな手を小刻みに震わせて、目にいっぱい涙を溜めていた。
これでお終いだと思った。操は、きっともう甲洋を名犬とは言ってくれないだろう。彼の思うように振る舞えなかった甲洋に、失望しただろう。今はもうどこにいるかも分からない、あの父と母のように。
(俺は誰の期待にも応えられない。なにも守れない)
大きな音を立てて、風が吹き荒れた。
共鳴するように海が波音を響かせる。ナブラは消えていた。海鳥たちは、巣へ帰っていったのだろうか。
──甲洋
どうしてか、風と波の音に紛れて操の声が聞こえた気がした。
だけどそんなはずはない。彼の声を聞くことは、きっともう二度とないだろう。そう思っていたから。
「甲洋ッ!!」
はっきりと声が聞こえて、甲洋は肩をビクリと震わせる。絶対にありえないと思いながら振り向いた。
そこには肩で息をして、額に汗を滲ませる操の姿があった。
「やっと、見つけた……ッ」
どうして。
甲洋は信じられない思いで彼を見つめる。
「君が行きそうなとこ、他に、思いつかなかった……ダメ元だったけど、よかった……っ」
どれほど全力で駆け回ったのだろう。息を荒らげる彼は少し咳き込んで、胸に手を当てると大きな深呼吸をした。どうにか息を落ち着かせると、珍しく眉を釣り上げて見せる。
「ダメだよ。寒いのにそんな格好で外なんか出ちゃ。帰るよ、甲洋」
「……なんで」
呆然とする甲洋に、操はもう一度「ほら、帰ろう」と言って手を差し出してくる。
男性にしてはほっそりとしていて、小さな手だ。指先から絆創膏は外れているが、まだ少しだけ所々に瘡蓋が残っている。それでも彼の手はとても綺麗だった。
甲洋は首を振り、再び海へと向き直った。
「帰れない」
「なんで?」
「お前を怖がらせた。もう傍にはいられない」
本当は嬉しいと感じていた。操が探しに来てくれたこと。夢を見ているのではないかと思うくらい。だけど自分の中で彼の存在が膨れあがるほどに、同じくらい怖くてたまらないのだ。
もうあんな顔はさせたくない。傷を負ってほしくない。がっかりさせたくない。自分のために頑張る必要なんか、ひとつもない。そんな価値もないのに。
「お前は、俺の帰る場所じゃないよ」
操がひゅっと息を呑む。張り裂けそうな胸の痛みを感じた。それは自分自身のものなのか、操のものなのか、甲洋には分からない。あるいはその両方だったのだろうか。
それでも甲洋はあえて彼の気持ちを踏みにじる。早く諦めてしまえばいい。雨に濡れる前に、早く。
「わかってるよ、そんなこと」
声は酷く震えていた。泣きだしそうにも、どこか悔しそうにも聞こえる。その表情を、臆病な甲洋は背を向けたまま確かめることができなかった。
「おれじゃダメなんだ。だっておれは、君の特別じゃないから」
だけど──と、操は語尾を掠れさせながらその先を続ける。
「翔子は、もうどこにもいないよ」
「ッ……!」
「やっとわかった。君が窓の外を見つめているとき、誰を想っていたのか……ずっと待ってたんだね。あの子のことを」
操は言った。眠っている甲洋が、何度も繰り返し翔子の名前を呼んでいたこと。あの家に行ったこと。そこで偶然、羽佐間容子に会ったことも。
「容子はおれの先生だった人だよ。カノンにも、会った」
甲洋は下唇をきゅっと噛み締めた。
幸せそうな黒猫の少女。あそこは翔子がいるべき場所だったはずなのに。カノンを憎んでいるわけじゃない。彼女がいたから甲洋は死なずにすんだ。けれど甲洋にはなぜ生かされたのか、その理由が分からない。
(翔子が存在している世界が、俺の生きる場所だったんだ)
本当は最初から気がついていた。彼女の姿が消えた日からずっと。
それでも探し続けていた。待っていた。会いたかった。もう一度会えたなら、今度こそ彼女と『出会う』ことができると思った。
だけど翔子はもういない。どこにもいない。この世界の、どこにも。
(だったら俺も、もうどこにもいないのと一緒じゃないか)
そのとき、右手首をなにかに強く掴まれた。甲洋は驚愕に目を見開く。
「ッ!?」
振り向けばすぐ目の前に操がいる。彼は吊り上げた眉の下で、瞳にいっぱいの涙を浮かべていた。
「なに、してるの……?」
「おれ、怒ってるから。あんまりワガママ言うと、もっと怒るから」
「もっと泣く、の、間違いじゃなく……?」
「う、うるさいなぁ! どっちだっていいよ!」
操は右手の甲で目元を擦りながら、左手で甲洋の手首を強く引っ張った。半ば強制的に堤防から降ろされると、そのままグイグイと引かれるままに歩きだす。
拒もうと思えば簡単にできるはずなのに。どうしてか、逆らえない。今の操からは、一切の恐怖心を感じなかった。彼はただひたむきに怒って、泣いて、痛みに耐えている。
他の誰でもない、甲洋のために。
「ねぇ気づいてる? 本当に帰りたくなかったら、“帰れない”なんて言い方しないんだよ」
初めて感じる操の体温。手首を強く握られる感触に、甲洋は泣きだしそうになるのをぐっと堪えた。
←戻る ・ 次へ→
甲洋がいなくなった。
彼は初めて会ったときと同じ格好で、コートも靴も身につけずに飛び出してしまった。
操はサンダルを引っ掛けると部屋を飛び出し、まだほんのりと薄暗いなかで彼を探した。近所の公園や、一騎と総士が暮らすマンション近辺まで足を伸ばしたが、どこにもいない。
外がすっかり明るくなる頃になって部屋に戻ってみたが、やはり彼の姿はなかった。
どうしたらいいか分からず、操はすぐに総士の家に電話をかけた。
何度目かのコール音のあと、電話に出たのは一騎だった。
「一騎!? 総士は!?」
『来主か? おはよう。あいつならまだ寝てるよ。昨日は帰りが遅かったから……何かあったのか?』
尋ねられ、操ははたと気がついた。一騎なら、甲洋の匂いを辿って探しだすことができるかもしれない。
しかし電話越しに聞く彼の声がいつもと少し違うことにも、同時に気がつく。
「一騎、その声どうしたの……?」
彼は鼻声で『ああ』と言って小さく笑った。
『ちょっとな。風邪気味なんだ』
「風邪……」
『別にたいしたことはないんだけどな。総士のやつが病院に行けってうるさいから、このあと行ってくるよ』
「そ、っか」
『それより来主、どうかしたのか? お前の方がよっぽど元気がないぞ』
明らかに沈んだ様子の操に、一騎が改めて問いかけてくる。
しかし、とてもではないが今の状況を説明する気にはなれなかった。一騎のことだから、きっと無理をしてでも助けに来てくれることが分かるからだ。
「うぅん、なんでもない。ごめんね一騎……ゆっくり休んで」
『来主? 何かあるなら総士に』
「だいじょうぶ。なにもないよ。じゃあね!」
受話器の向こうで一騎が操の名を呼ぶが、振り切るように通話を切った。
操は居間で立ち尽くし、無意識に親指の爪を噛んだ。必死で甲洋が行きそうな場所を考えるが、まるで心当たりがない。
彼がいつも腰を下ろしている本棚の横を見た。何もない空間に、つい涙が滲んでしまう。
「おれ、甲洋を傷つけた」
怯えたような目が、歪められた表情が、こびりついて離れない。いつまでたっても笑った顔は見られないままなのに。あんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
操は甲洋の過去を全て知っているわけではない。むしろ彼に関して知らないことの方がずっと多いのだ。けれど、もう十分すぎるほど辛い思いをしてきたということだけは分かる。
そこでふと、思いついた。
(まさか……前の家に帰ったってことは、考えられない?)
きっと彼にとっていい思い出などひとつもない。しかし今は、他に心当たりがなかった。
*
総士と操が卒業した竜宮中学校。
その目と鼻の先に、今は無人となっている元喫茶【楽園】がある。
「本当に空っぽだ」
二階建てで一階が喫茶店だったはずの建物は、所有者を失くした今ただの廃墟になっている。そこに人の気配は一切なく、覗き込んだ店内も黒くモヤがかかったようにひっそりと静まり返っているだけだった。
家の横や裏手にも回ってみたりして探したが、雑草が無秩序に生い茂るだけで、甲洋の姿はどこにもない。周辺もくまなく見て回ったあと、結局は店の前に戻って途方に暮れるしかなかった。
(甲洋、どこ行っちゃったんだよ……)
空はどんよりとした曇り空が広がっている。今にも泣き出しそうな空よりも先に、操のほうが涙を堪えきれず、咄嗟に手の甲で目元を拭った。
春とは思えない冷たい風が吹き抜ける。淡桃のカーディガンは厚手のものだが、着々と体温が奪われていくのを感じた。甲洋はきっと、もっと寒い思いをしているはずだ。
「あら? あなたひょっとして……来主くん?」
そのときだった。女性の声がして、操は驚いて振り返る。
そこには品のいいワンピースに身を包み、買い物かごを腕にかけた女性の姿があった。
「やっぱり来主くんだわ。久しぶりね」
この柔らかな物腰と優しい笑顔を、操はよく知っている。彼女は中学時代の恩師、羽佐間容子だった。
懐かしそうに目を細めている容子に、操は目を丸くしながら駆け寄った。
「うわぁ羽佐間先生だ! なんで? 先生この近くに住んでたの?」
「ええそうよ。ほら、ここが私の家」
容子が指差したのは、この元喫茶店のすぐ隣にある一軒の大きな家だった。
*
物心つく頃にはすでに両親がおらず、皆城家に引き取られる形で育てられていた操のことを、容子はとても気にかけてくれた。
よく子供のようなイタズラをしては叱られていたのを、つい昨日のことのように思いだす。もし自分に『お母さん』がいるのなら、こんな人だったらいいなと憧れもしたものだ。
「ごめんなさいね、何も用意できなくて」
リビングのソファに腰を下ろした操に、容子が紅茶のカップが乗った皿をそっと差し出した。
「うぅん、ありがとう。いただきます」
白い陶器のカップには、輪切りにしたレモンが浮かんでいる。両手にそれを持つと、冷えた指先にじんわりと熱が伝わった。甘酸っぱい香りにホッとして、ほんの少しだけ気が緩む。
容子はその場で操が紅茶に息をふきかけるのを見守っていた。
「落ち着いたかしら?」
口をつけて一口飲んだ操に、彼女は小首を傾げて優しく笑った。
ほんのりと甘いレモンティーが内側から身体を温めてくれる。確かに少し、落ち着いた。
けれど操は上手く笑うことができない。今も甲洋はどこかで裸足のまま凍えている。彼に行く場所などないはずだった。
「ねぇ先生、このあたりで黒いイヌを見なかった? 背が高くて、焦茶の髪で、すごく綺麗な顔をした男の子なんだけど……」
操が縋るような目で見上げると、容子は少し驚いた様子でまた首を傾げた。そして操の隣に浅く腰掛ける。
「その子、あなたのおうちの子?」
「えっと、おれのじゃないけど、預かってる。総士から」
「皆城くん?」
「うん」
容子は指先を頬に添えると少し考える素振りを見せる。それから「もしかして」と独り言のように小さな声で言った。
「私が真壁教授にお願いした子かしら……?」
「え!? 容子知ってるの!?」
「学校を卒業しても、私はあなたの先生よ」
「あッ、ご、ごめん、羽佐間先生」
つい中学の頃の癖が出てしまった操に、容子は苦笑した。けれどすぐにその表情を曇らせる。
「春日井さんのお宅で飼われていた子よね? ほとんど姿を見かけたことはないけれど……。てっきりご夫婦と一緒に引っ越したとばかり思っていたら、そうじゃなかったのね」
容子は痛ましそうに視線を俯かせると、先を続ける。
「お隣の家の裏で弱っているところを、私が保護したの。だけどうちにはネコがいてね。ちょっと気難しい子だから……他に信頼できる人に相談して、引き取ってもらったのよ」
「真壁って、一騎が生まれた家だよね? 知り合いだったんだ」
「昔からのね。大学が同じだったの」
甲洋のことは父親から頼まれたのだと、一騎が話していたのを思いだす。
だが元は彼女が保護していたというのは初耳だ。その後、甲洋は容子の知己であった真壁史彦の家に預けられ、一騎と総士に託された。そして巡り巡って操の元に来たというわけだ。
「一騎くんは確か、チワワの男の子だったわよね。まだほんの小さな頃に、一度だけ会ったことがあるわ」
「一騎のことも知ってるんだね。今は総士と暮らしてるんだよ」
それを聞いて、容子は目を丸くした。
「ねぇ、あなた達って、昔からイヌは苦手じゃなかったかしら?」
「甲洋と一騎は平気。最初は怖かったけど……平気なんだ」
「そうなの」
「……でも、甲洋がいなくなっちゃった。おれのせい」
操はカップの中で揺れているレモンを見下ろした。
(甲洋……今どこでどうしてるんだろう……?)
元の住処にもいなかった。操には、もう他に探すあてがない。いちど帰って、改めて総士に相談してみるしかないのだろうか。
「きっと見つかるわ。私も、このあたりを探してみるから」
「うん……ありがとう」
気遣わしげに覗き込んでくる容子と目を合わせ、操は少しだけホッとして表情を緩めた。
それからふと、何かに惹かれるように部屋の中央にあるテーブルへ目を向ける。白いクロスが敷かれたその上には、季節の花と共に写真立てが飾られていた。
「娘なのよ、私の。身体が弱くてね……半年前に逝ってしまったの」
「……近くで見てもいい?」
「ええ、いいわよ」
操は容子に紅茶のカップを返すと、立ち上がってテーブルのそばに歩み寄った。
写真の中では、水色のワンピースを着て麦わら帽子を腕に抱えた黒髪の少女が笑っている。内側が桃色に染まった白い耳が、とても可愛らしいネコだった。
「白猫だったんだ。綺麗な子だね」
「翔子っていうのよ」
「え……?」
隣に並んだ容子の顔を見る。
翔子。甲洋が眠りの中で苦しそうに紡いでいた名と同じだ。
(偶然? でも……)
ここは甲洋が暮らしていた家のすぐ隣にある家だ。
操は再び写真に視線を落とす。
(甲洋はあのとき、この子の名前を呼んでいたんだ)
飼い主に捨て置かれた彼には、きっと他に行く場所などなかった。けれど何よりも、この白猫を想ってここから離れることができなかったのではないか。
きっとそれほどまでに、大切な存在だったのだと思う。今もなお忘れられないくらいに。
「あらカノン? 戻ったの?」
そのとき容子が声をあげ、操はリビングの出入り口に一匹のネコが立ち尽くしていることに気づく。桃色のセーターにオーバーオールを着た赤毛の少女は、黒い耳と尻尾を揺らして表情を強張らせていた。
「この子も、先生の娘?」
「ええ。カノンっていうの。カノン、お客様よ。ご挨拶をして」
「ッ!」
カノンと呼ばれた黒猫は、戸惑った様子で唇を噛みしめると背を向けて逃げ出してしまった。
「あ、行っちゃった」
「ごめんなさいね。元は野良だったせいか、まだ人に慣れていないのよ」
操はカノンが消えたリビングの出入り口を見つめる。黒い毛並みはどうしても甲洋を思いださせたが、カノンは彼よりもずっと艶やかな耳と尻尾をもっていた。
幸せなんだなと、そう思う。
「甲洋くんに最初に気づいたのはあの子だったのよ。倒れていたところを見つけて、私に知らせてくれたの」
「そうだったんだ……!」
カノンが見つけてくれなければ、甲洋は誰にも気づかれないままひとりぼっちで死んでいたかもしれない。彼女がいてくれたから、操は甲洋と出会うことができたのだ。
「容子、甲洋を助けてくれてありがとう。いつかあの子にも、ちゃんとお礼を言いたいな。そのときは、甲洋も一緒に会いに来ていい?」
容子は名前で呼ばれたことを咎めることなく微笑むと「そうしてあげて」と言って、優しく瞳を細めて見せた。
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彼は初めて会ったときと同じ格好で、コートも靴も身につけずに飛び出してしまった。
操はサンダルを引っ掛けると部屋を飛び出し、まだほんのりと薄暗いなかで彼を探した。近所の公園や、一騎と総士が暮らすマンション近辺まで足を伸ばしたが、どこにもいない。
外がすっかり明るくなる頃になって部屋に戻ってみたが、やはり彼の姿はなかった。
どうしたらいいか分からず、操はすぐに総士の家に電話をかけた。
何度目かのコール音のあと、電話に出たのは一騎だった。
「一騎!? 総士は!?」
『来主か? おはよう。あいつならまだ寝てるよ。昨日は帰りが遅かったから……何かあったのか?』
尋ねられ、操ははたと気がついた。一騎なら、甲洋の匂いを辿って探しだすことができるかもしれない。
しかし電話越しに聞く彼の声がいつもと少し違うことにも、同時に気がつく。
「一騎、その声どうしたの……?」
彼は鼻声で『ああ』と言って小さく笑った。
『ちょっとな。風邪気味なんだ』
「風邪……」
『別にたいしたことはないんだけどな。総士のやつが病院に行けってうるさいから、このあと行ってくるよ』
「そ、っか」
『それより来主、どうかしたのか? お前の方がよっぽど元気がないぞ』
明らかに沈んだ様子の操に、一騎が改めて問いかけてくる。
しかし、とてもではないが今の状況を説明する気にはなれなかった。一騎のことだから、きっと無理をしてでも助けに来てくれることが分かるからだ。
「うぅん、なんでもない。ごめんね一騎……ゆっくり休んで」
『来主? 何かあるなら総士に』
「だいじょうぶ。なにもないよ。じゃあね!」
受話器の向こうで一騎が操の名を呼ぶが、振り切るように通話を切った。
操は居間で立ち尽くし、無意識に親指の爪を噛んだ。必死で甲洋が行きそうな場所を考えるが、まるで心当たりがない。
彼がいつも腰を下ろしている本棚の横を見た。何もない空間に、つい涙が滲んでしまう。
「おれ、甲洋を傷つけた」
怯えたような目が、歪められた表情が、こびりついて離れない。いつまでたっても笑った顔は見られないままなのに。あんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
操は甲洋の過去を全て知っているわけではない。むしろ彼に関して知らないことの方がずっと多いのだ。けれど、もう十分すぎるほど辛い思いをしてきたということだけは分かる。
そこでふと、思いついた。
(まさか……前の家に帰ったってことは、考えられない?)
きっと彼にとっていい思い出などひとつもない。しかし今は、他に心当たりがなかった。
*
総士と操が卒業した竜宮中学校。
その目と鼻の先に、今は無人となっている元喫茶【楽園】がある。
「本当に空っぽだ」
二階建てで一階が喫茶店だったはずの建物は、所有者を失くした今ただの廃墟になっている。そこに人の気配は一切なく、覗き込んだ店内も黒くモヤがかかったようにひっそりと静まり返っているだけだった。
家の横や裏手にも回ってみたりして探したが、雑草が無秩序に生い茂るだけで、甲洋の姿はどこにもない。周辺もくまなく見て回ったあと、結局は店の前に戻って途方に暮れるしかなかった。
(甲洋、どこ行っちゃったんだよ……)
空はどんよりとした曇り空が広がっている。今にも泣き出しそうな空よりも先に、操のほうが涙を堪えきれず、咄嗟に手の甲で目元を拭った。
春とは思えない冷たい風が吹き抜ける。淡桃のカーディガンは厚手のものだが、着々と体温が奪われていくのを感じた。甲洋はきっと、もっと寒い思いをしているはずだ。
「あら? あなたひょっとして……来主くん?」
そのときだった。女性の声がして、操は驚いて振り返る。
そこには品のいいワンピースに身を包み、買い物かごを腕にかけた女性の姿があった。
「やっぱり来主くんだわ。久しぶりね」
この柔らかな物腰と優しい笑顔を、操はよく知っている。彼女は中学時代の恩師、羽佐間容子だった。
懐かしそうに目を細めている容子に、操は目を丸くしながら駆け寄った。
「うわぁ羽佐間先生だ! なんで? 先生この近くに住んでたの?」
「ええそうよ。ほら、ここが私の家」
容子が指差したのは、この元喫茶店のすぐ隣にある一軒の大きな家だった。
*
物心つく頃にはすでに両親がおらず、皆城家に引き取られる形で育てられていた操のことを、容子はとても気にかけてくれた。
よく子供のようなイタズラをしては叱られていたのを、つい昨日のことのように思いだす。もし自分に『お母さん』がいるのなら、こんな人だったらいいなと憧れもしたものだ。
「ごめんなさいね、何も用意できなくて」
リビングのソファに腰を下ろした操に、容子が紅茶のカップが乗った皿をそっと差し出した。
「うぅん、ありがとう。いただきます」
白い陶器のカップには、輪切りにしたレモンが浮かんでいる。両手にそれを持つと、冷えた指先にじんわりと熱が伝わった。甘酸っぱい香りにホッとして、ほんの少しだけ気が緩む。
容子はその場で操が紅茶に息をふきかけるのを見守っていた。
「落ち着いたかしら?」
口をつけて一口飲んだ操に、彼女は小首を傾げて優しく笑った。
ほんのりと甘いレモンティーが内側から身体を温めてくれる。確かに少し、落ち着いた。
けれど操は上手く笑うことができない。今も甲洋はどこかで裸足のまま凍えている。彼に行く場所などないはずだった。
「ねぇ先生、このあたりで黒いイヌを見なかった? 背が高くて、焦茶の髪で、すごく綺麗な顔をした男の子なんだけど……」
操が縋るような目で見上げると、容子は少し驚いた様子でまた首を傾げた。そして操の隣に浅く腰掛ける。
「その子、あなたのおうちの子?」
「えっと、おれのじゃないけど、預かってる。総士から」
「皆城くん?」
「うん」
容子は指先を頬に添えると少し考える素振りを見せる。それから「もしかして」と独り言のように小さな声で言った。
「私が真壁教授にお願いした子かしら……?」
「え!? 容子知ってるの!?」
「学校を卒業しても、私はあなたの先生よ」
「あッ、ご、ごめん、羽佐間先生」
つい中学の頃の癖が出てしまった操に、容子は苦笑した。けれどすぐにその表情を曇らせる。
「春日井さんのお宅で飼われていた子よね? ほとんど姿を見かけたことはないけれど……。てっきりご夫婦と一緒に引っ越したとばかり思っていたら、そうじゃなかったのね」
容子は痛ましそうに視線を俯かせると、先を続ける。
「お隣の家の裏で弱っているところを、私が保護したの。だけどうちにはネコがいてね。ちょっと気難しい子だから……他に信頼できる人に相談して、引き取ってもらったのよ」
「真壁って、一騎が生まれた家だよね? 知り合いだったんだ」
「昔からのね。大学が同じだったの」
甲洋のことは父親から頼まれたのだと、一騎が話していたのを思いだす。
だが元は彼女が保護していたというのは初耳だ。その後、甲洋は容子の知己であった真壁史彦の家に預けられ、一騎と総士に託された。そして巡り巡って操の元に来たというわけだ。
「一騎くんは確か、チワワの男の子だったわよね。まだほんの小さな頃に、一度だけ会ったことがあるわ」
「一騎のことも知ってるんだね。今は総士と暮らしてるんだよ」
それを聞いて、容子は目を丸くした。
「ねぇ、あなた達って、昔からイヌは苦手じゃなかったかしら?」
「甲洋と一騎は平気。最初は怖かったけど……平気なんだ」
「そうなの」
「……でも、甲洋がいなくなっちゃった。おれのせい」
操はカップの中で揺れているレモンを見下ろした。
(甲洋……今どこでどうしてるんだろう……?)
元の住処にもいなかった。操には、もう他に探すあてがない。いちど帰って、改めて総士に相談してみるしかないのだろうか。
「きっと見つかるわ。私も、このあたりを探してみるから」
「うん……ありがとう」
気遣わしげに覗き込んでくる容子と目を合わせ、操は少しだけホッとして表情を緩めた。
それからふと、何かに惹かれるように部屋の中央にあるテーブルへ目を向ける。白いクロスが敷かれたその上には、季節の花と共に写真立てが飾られていた。
「娘なのよ、私の。身体が弱くてね……半年前に逝ってしまったの」
「……近くで見てもいい?」
「ええ、いいわよ」
操は容子に紅茶のカップを返すと、立ち上がってテーブルのそばに歩み寄った。
写真の中では、水色のワンピースを着て麦わら帽子を腕に抱えた黒髪の少女が笑っている。内側が桃色に染まった白い耳が、とても可愛らしいネコだった。
「白猫だったんだ。綺麗な子だね」
「翔子っていうのよ」
「え……?」
隣に並んだ容子の顔を見る。
翔子。甲洋が眠りの中で苦しそうに紡いでいた名と同じだ。
(偶然? でも……)
ここは甲洋が暮らしていた家のすぐ隣にある家だ。
操は再び写真に視線を落とす。
(甲洋はあのとき、この子の名前を呼んでいたんだ)
飼い主に捨て置かれた彼には、きっと他に行く場所などなかった。けれど何よりも、この白猫を想ってここから離れることができなかったのではないか。
きっとそれほどまでに、大切な存在だったのだと思う。今もなお忘れられないくらいに。
「あらカノン? 戻ったの?」
そのとき容子が声をあげ、操はリビングの出入り口に一匹のネコが立ち尽くしていることに気づく。桃色のセーターにオーバーオールを着た赤毛の少女は、黒い耳と尻尾を揺らして表情を強張らせていた。
「この子も、先生の娘?」
「ええ。カノンっていうの。カノン、お客様よ。ご挨拶をして」
「ッ!」
カノンと呼ばれた黒猫は、戸惑った様子で唇を噛みしめると背を向けて逃げ出してしまった。
「あ、行っちゃった」
「ごめんなさいね。元は野良だったせいか、まだ人に慣れていないのよ」
操はカノンが消えたリビングの出入り口を見つめる。黒い毛並みはどうしても甲洋を思いださせたが、カノンは彼よりもずっと艶やかな耳と尻尾をもっていた。
幸せなんだなと、そう思う。
「甲洋くんに最初に気づいたのはあの子だったのよ。倒れていたところを見つけて、私に知らせてくれたの」
「そうだったんだ……!」
カノンが見つけてくれなければ、甲洋は誰にも気づかれないままひとりぼっちで死んでいたかもしれない。彼女がいてくれたから、操は甲洋と出会うことができたのだ。
「容子、甲洋を助けてくれてありがとう。いつかあの子にも、ちゃんとお礼を言いたいな。そのときは、甲洋も一緒に会いに来ていい?」
容子は名前で呼ばれたことを咎めることなく微笑むと「そうしてあげて」と言って、優しく瞳を細めて見せた。
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真矢に教えてもらった駅で降りると、頭の中に刻みつけた道順を頼りに住宅街を駆け抜ける。
小雨が降りしきるなか、息苦しさに肺や心臓が悲鳴をあげていた。足がもつれ、何度も転びそうになる。それでも走ることをやめられない。
甲洋が家出したときも、こんなふうに力の限り走り回っていた。あのときは彼を大切に思う気持ちの他に、総士から預かっているという責任感もあったと思う。いずれ出会うであろう新しい飼い主の元で、彼が幸せに暮らせるように。
だけど今の操は、ただ自分の望みを叶えたいがためだけに走っている。甲洋を取り戻したいという意思だけが、操を突き動かしていた。
「あった……!」
黒い瓦屋根の大きな家には『日野』という表札がかかっていた。
少し小高い位置にある家は、玄関に向って白い石段が伸びている。操はそこを一気に駆け上がった。
ガラスの引き戸を何度か叩く。女性が「はぁい」と返事をするのを聞いた途端、ガラリと音を立てて戸を開くと中に押し入った。
「どなた……あら? あなた確か……?」
フリルのついた白いブラウスに、黒いスカートを穿いた女性が目を丸くする。真矢の姉の弓子だ。
彼女は激しく息を乱す操を見て、驚いた様子で小首を傾げた。
「操くんよね? どうしたのよ、傘もささずに来たの?」
「ぁ、の……ッ、あの」
息が苦しくて、まともに言葉を発することができない。けれど息が整うのを待たず、操は大きな声で叫ぶように訴えた。
「甲洋を……甲洋を、返してください!」
「え!?」
「お願い……!」
懇願と共に深く頭を下げる。
とつぜん押しかけて、あまりにも身勝手なことを言っている自覚はあった。操は一時的に甲洋を預かっていただけで、飼い主として正式に名乗り出てくれたこの家の人たちとは違う。
今更こんなことを言える立場ではないのだ。だけど。
「おれ、甲洋がいないとダメで……何を食べても味がしないし、一人で部屋にいると寂しくて、ずっと甲洋のこと考えて泣いちゃうし……なにしてても、ぜんぜん楽しくなくて……ッ、だから、だからやっぱり、甲洋がいないと、おれ、ぜんぜんダメで……ッ」
言いながら泣いていた。最後の方はほとんど嗚咽混じりで、何を言っているか自分でも分からなくなっていた。ただただ、必死だった。
「か、返すなんて、そんなことを急に来て言われても……」
弓子の戸惑いはもっともだった。甲洋はもうこの家のイヌなのだ。なにより美羽のことを思えば、引き離すなんて真似がそう簡単にできるとは思えない。
操は下唇を噛みしめる。いよいよ土下座をしようかと思ったそのとき、弓子の背後から声がした。
「いいよ」
咄嗟に顔をあげる。廊下の中腹にある居間の出入り口から、桃花色のワンピースを着た可愛らしい少女がひょっこりと顔だけを覗かせていた。
「美羽!? いいよってあなた、そんな簡単に……!?」
「だってそのほうが、甲洋うれしいって言ってるもん」
美羽がよたよたと幼い足取りで廊下に出てくる。彼女は誰かの服の袖を掴んでいた。小さな手がそれを引っ張ると、居間から躊躇いがちに姿を現したのは甲洋だった。
「甲洋……!」
十日ぶりに見た彼は、ネイビーのシャツと白のパンツに身を包んでいた。伸びっぱなしだった髪も毛先が幾らか整えられて、小奇麗になっている。尻尾の毛はよくブラッシングされているようで、ボサボサだったのが一回り細くなって見えた。
彼は信じられないものを目の当たりにしたような、どこか呆然とした面持ちで操を見つめている。何かを言いかけて唇を震わせたが、それが音になることはなかった。
操はその姿を見て胸がいっぱいになった。目の前に甲洋がいる。それだけで、また涙が溢れた。
けれど同時に僅かな後悔が頭をもたげる。綺麗に身なりを整えられた彼は、もう『他所の子』なのだと思い知らされたような気がした。
「あ、あのね美羽。この子はお喋りができないのよ。嬉しいかどうかなんて、そんなの分からないでしょ?」
「そんなことないもん。美羽、いっぱいお話してるもん」
「美羽……」
美羽が操を見て、無邪気に指をさしてくる。
「ねぇママ、このお兄ちゃんだよ。甲洋の心のなかはね、このお兄ちゃんでいっぱいなんだよ」
「ッ!」
甲洋がビクリと肩を震わせ、困った様子で美羽を見た。操もまたドキリとして肩を跳ねさせる。
美羽は甲洋を見上げ、にっこりと花が開いたような笑顔を浮かべた。
「美羽さみしくないよ。甲洋がうれしいと、美羽もうれしいもん」
彼女は本当に読心能力が使えるのだ。オロオロとした様子の弓子は娘の特殊な能力に困惑の色を隠せないでいるが、操にはそれがとても羨ましく感じられた。
「……美羽」
美羽の名を呼び、甲洋は片膝をついて視線を低くした。弓子は初めて聞いた甲洋の声に目を丸くする。
紅葉のように小さな手が、大きく尖った耳を優しく撫でた。
「バイバイ甲洋。でもね、また会えるよ。だから美羽はへいきだよ」
「──ありがとう」
甲洋は立ち上がると、立ち尽くす操の方を振り向いた。
彼が美羽から離れると、今度は弓子が彼女に駆け寄って膝をつく。
「美羽、本当にいいの? ずっと楽しみにしてたのに……」
「うん、いいの。だって美羽には、ママとパパがいるもん。でもね、甲洋にはこのお兄ちゃんしかいないの。美羽でもママでも、ダメなんだよ」
「美羽……」
迷いのない幼い笑顔に、弓子は少しだけ困ったように微笑んだ。
上がり框の際までやって来た甲洋は、立ち尽くす操を見下ろした。目にいっぱい涙を浮かべ、口を半開きにしているのを見て、眉を下げて小さく笑う。
「来主」
「甲洋……」
離れていたのは半月にも満たない短い間だった。それでも久しぶりに見たその笑顔に、胸が締め付けられる。
「ごめん……ごめんね甲洋。おれ嘘ついた。ぜんぜん平気じゃなかった。ちっとも大丈夫じゃなかったよ。おれ……やっぱり君と一緒にいたいんだ」
彼の幸せを勝手に決めつけた。操だって甲洋のことはいえない。自分に自信がなくて、その意思を確かめもしなかった。もっと早くにこうして気持ちを伝えていたら、誰も振り回さなくて済んだのに。
だけどもし許されるなら、こんな我儘で臆病な自分でも許されるなら。ずっと傍にいてほしかった。ふたりであの部屋に帰りたかった。
「……俺も」
甲洋が静かに手を差し出した。痣も傷跡も、もうほとんどが消えている。彼は言った。
「帰りたい。来主のところに」
──帰りたい。
その言葉に、操はくしゃりと顔を歪める。甲洋の言葉に、あの日のような迷いはなかった。まっすぐな瞳で操を見据え、本当の気持ちを隠さず言葉にしてくれた。
震える下唇を噛み締め、その手をとる。強く強く握りしめ、ひとつ鼻をすすると操は笑った。
「うん。一緒に帰ろう、甲洋」
雨はいつの間にか止んでいた。
まるでふたりの心を映し出したかのように、流れる雲の波間からは澄んだ青い空が顔を覗かせていた。
*
(なんか、久しぶりに帰ってきたって感じがする)
部屋に戻り、居間に入ると不思議な懐かしさにとらわれた。
甲洋が行ってしまってからも、操は変わらずここで生活していたはずなのに。自分がどれほど心ここにあらずといった暮らしを送っていたかが、よく分かる。
「どうかした?」
居間に入った途端に立ち尽くすばかりの操の顔を、甲洋が背後から覗き込んでくる。間近にその瞳を見て、彼が帰ってきたのだという実感がじわりと湧いた。
「甲洋がいるんだって思うと、なんだかまだ信じられなくて。おれ、寂しくてずっと泣いてたから」
「ッ、そ、そう」
ふにゃりと笑った操に甲洋は言葉を詰まらせ、少しだけ頬を赤らめながら目を泳がせる。視線を逸らした先に折りたたんである毛布を見つけて、また操を見た。
「あ……えっと。甲洋が行ったときのままなんだ。箸もコップも歯ブラシも、君が使ってたもの全部」
「めんどくさかったの?」
「違うよぉ!」
久しぶりに意地悪を言われてしまったと思ったのも束の間、甲洋は不思議そうに瞬きを繰り返すばかりだった。操はなんだか恥ずかしい気持ちになって、胸の前で両手の指をモジモジといじくる。
「だって……片付けちゃったら、君がここにいたことまで消えちゃうような気がして、なんか嫌だったんだ。意味ないよね。そんなことしてたって、甲洋はもういないのに」
何も今生の別れというわけではなかった。会いに行こうと思えば、きっといつでも行けたはずだ。けれど寂しくて仕方がなかった。真矢にキッカケを貰わなければ、操は今もここでメソメソと泣いていただろう。
「俺はここにいるよ。お前が迎えに来てくれたから」
甲洋の右手が操の頬に触れ、手の平で包み込んだ。親指で目尻をそっとなぞられる。ずいぶん泣いたから、そこは赤く腫れぼったくなっていた。彼の指先は労るように、何度も何度も涙の跡が残る目尻をなぞる。
その温もりが優しくて、嬉しくてたまらない。甲洋がいる。こんなに近くに。
「うん……嬉しい」
操は目を細め、うっそりと呟いた。
いつかの公園でそうしたように、ふたりは互いの瞳を見つめ合う。時間が停まったような気がした。
甲洋の顔がどんどん近くなっていく。そうあることが当たり前のように、操もまた彼に吸い寄せられる。目を閉じると、柔らかな温もりが唇に押し付けられた。焦茶の癖毛が頬や鼻先をくすぐる。
身体をぴったりと寄せ合い、操は無意識に甲洋の肩に縋り付くように手を這わせていた。長い腕に腰を抱かれる。胸いっぱいに甘いものが広がった。熱くて、蕩けそうになる。
「ぁ……」
唇が離れると、名残惜しさに微かな声が漏れた。このままでいたいと思う心を読んだかのように、甲洋が額と額を合わせてくる。唇が、微かに痺れていた。
泣きたくなったのはなぜだろう。胸が苦しい。ずっと高鳴っている。嬉しくて、切ない。
部屋の中はあまりにも静かだった。ふと遠くから時計の秒針が動く音が聞こえる。時が止まったような錯覚が、魔法が解けるみたいに掻き消えてしまった。
「…………」
「…………」
たぶん、どうしたらいいか分からなくなってしまったのは二人同時だった。甲洋も操も頬を真っ赤にしている。引くに引けない。抱き合って、額と額をくっつけたまま。
「……キス、しちゃったね」
甲洋が「うん」と短く返事をする。
「ねぇ、これってさ、カウントされるのかな?」
「なにが」
「ん……初めてだもん。おれ、キスするの」
「……えっ」
甲洋がぎょっとして肩を震わせた。ひっついていた額が離れて、互いにバッチリと目を合わせる。彼がこんなふうに狼狽えるなんて珍しい。
「は、初めて?」
「うん。でも、イヌと人間でしょ、おれたち。よく動物を飼ってる人って、ペットにチュってするじゃん。だから今のは、それと一緒かな?」
素朴な疑問だ。同時になぜ甲洋がこうも戸惑っているのかも分からない。
「来主って、いま幾つ?」
「十九だよ」
「……最近の子は、もっと進んでるものだと思ってた」
「なんだよそれ。最近の子って、甲洋だってそんな変わんないでしょ。いま幾つ?」
「二十歳」
「一個しか違わないじゃん!」
操は甲洋の肩をパシリと叩いた。
確かに遅れているのかもしれない。学校に通っていたころ、クラスメイトの中には小学生の頃にはすでに恋人がいて、あらかた経験済みという友人もいた。
けれど操には恋というものがよく分からない。興味もなかったし、今まで誰にも友達以上の気持ちを抱いたことがなかったからだ。
「ちっちゃい頃は、よく総士のほっぺにちゅうしたけどさ」
「なんだよ、それ」
どうしてか、目の前にある甲洋の顔がムッとしかめられた。
「なんでそんな怖い顔するの?」
「……してない」
「してるじゃん。ねぇ怒ってる?」
「怒ってないって……ほっぺただけ?」
「うん。ほっぺただけ。寝る前にいつもしてたよ。おやすみって」
ふむ、と甲洋が低く声を発しながら息を吐き出した。それから、難しい顔のまま何か考え込んだかと思うと、こほんと小さな咳払いをする。
「今のは、ちゃんとキスだよ」
「そうなの?」
「来主のファーストキスは俺だし、あと、この際だから言うと二回目だから」
「二回目? なにそれ? おれ知らないよ?」
まったくもって覚えがない。心なしか、甲洋の目が据わって見える。
「お前が寝てるとき、一度したから」
「へ? 誰が?」
「俺以外にいる?」
「なんで!?」
「……したかったから」
甲洋はふいっと顔を背け、操の身体を離してしまった。そのままテレビ横のカラーボックスに近づくと、表面を指先でつつっとなぞる。付着したほこりをふっと吹き飛ばし「掃除くらいはしようよ」とため息を漏らした。その頬はまだ赤い。
操は口をぽっかりと空け、目を白黒させていた。知らなかった。彼がそんなことをしていたなんて。
(甲洋、本当はそんなにおれに甘えたかったのかぁ……)
ズレている。甲洋が聞けばそう言ってこめかみを押さえたであろう感想を、操は抱く。
(これからはいっぱい可愛がって、甘やかしてあげないと)
操は甲洋の飼い主になったのだ。彼は元々の飼い主だった夫婦から、愛情を受けることができなかった。だけど操にはそれができる。頼りないかもしれないけれど、自分にできることならなんでもしようと思った。
(おれが甲洋を幸せにするんだ)
せっかくこうして帰って来てくれたのだから。
(──あ)
そこで操はふと気がついた。とても大切なことを言い忘れていることに。
「ああほら、ここにもほこりが……汚くしてるとまた虫が来るよ」
「甲洋!」
「なに、わッ」
操はブツブツと小言を漏らしていた背中に、思い切り勢いをつけて抱きついた。
「な、なに、どうしたの」
「おかえり、甲洋」
「ッ!」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
息を呑みながら首だけで振り向いた甲洋を見上げて、操はニッコリ笑って見せた。
彼は見開いていた目を優しく細め、ゆっくりと口元を綻ばせる。腹に回っている操の腕に、両手を添えて緩く握りしめた。あたたかな手だった。
「ただいま、来主」
操の身体に当っている黒い尻尾が、パタパタと大きく揺れる動きを見せた。
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