黒鋼のお決まりのスタイルと言えば黒いジャージ姿だったが、ファイがスーツ姿を披露したのは、初日の一度きりであった。
基本的にタートルネックのセーターに、嫌味なくらい長い足を引き立たせるような細身のパンツというスタイルは、彼を随分と若く見せる。
隣でぼんやりと煙草を燻らせるファイは、せいぜい二十歳かそこらの学生にしか見えなかった。元々年齢を感じさせない容姿ではあるが、基本的に顔立ちが幼いのかもしれない。
白衣を纏っていなければ、おそらく教職員には到底見えないだろう。けれどそんな風に感じられるのは、校内においてこの屋上という場所でだけだった。
ここを出てしまえば途端に、彼は相応の雰囲気を纏う。出来すぎなくらい完璧な仮面で、全てを包み隠してしまう。
「ねぇ」
後方に少しずれた位置に並んでいた黒鋼に背を向け、フェンス越しに校庭を眺めていたファイが唐突に振り返る。悪戯を仕掛けようとしているような、人の悪い笑みだった。
彼が背を預けると、錆びたフェンスはギリリと不快な音を立てた。
「オレのこと、そんなに気になる?」
そうだ、この言葉遣いだ。
普段とはガラリと違う態度とこの砕けた物言いが、彼を幼くさせている。
黒鋼はどうでもいいことのように小さく口端を歪めた。
「ある意味、見てて飽きねぇのかもな」
「へぇー? どんな風に?」
フィルターぎりぎりまで燃えた煙草を地面に落とし、それを靴の裏でおざなりに潰すと、ファイは両手を白衣のポケットに突っ込んだ。
彼は背が高いが、黒鋼はそれよりもさらに高い。自然、下から覗き込まれるようになる。
初めて会った日は、このブルーの瞳に薄気味悪ささえ感じたものだ。
たった数ヶ月ほど前のことなのに、なんだか酷く遠い日の出来事のように感じた。
「てめぇほど完璧な猫っかぶりは、見たことがねぇからな」
「ふん」
鼻で笑ったファイだったが、その表情はまんざらでもないようだった。
「それ、オレにとっては最高の褒め言葉だよ」
黒鋼の指に挟まれた煙草も、ぎりぎりまで燃えていた。同じ様に地面に放ると、足裏で火を揉み消す。
こんな風に屋上で『秘密』を共有してからというもの、黒鋼は今のファイの姿が決して嫌いではなかった。あの嘘臭い仮面を貼り付けている彼といるよりは、よほど呼吸がしやすいからだ。
けれど背後にぴったりと張り付く得体の知れなさは変わらなかった
互いにある程度打ち解けていると見せかけて、決して深部まで踏み込ませない。どうでもいい会話を時折交わしながら、ただ腹を探り合っているに過ぎなかった。
こうして手を伸ばせば触れることの出来る位置にいてさえ、結局のところ距離が縮まることはない。
なのに、不思議だ。
「君さー、最初に会った時から、オレのこと嫌いでしょ?」
黒鋼は彼の熱を知っている。
この細いばかりの身体の感触を。
「オレもだよ」
泣き顔を。
「オレにしてみれば、君の方がよっぽど面白いよ」
決して自ら望んだことではないけれど。
「だから寝てみたんだ」
それは、事実だった。
***
黒鋼がファイと屋上で顔を合わせるようになり、そして今の関係へと落ち着くに至った全ての発端は、三ヶ月ほど前に遡る。
それは春が訪れるにはまだ早い、雪のチラつく週末の夜だった。
高校から数キロ圏内にある居酒屋は、何かとこういったイベント事がある度に利用される、教師達の行き着けの店だった。
黒鋼が単体で訪れることは滅多にないのだが、何でもここは予め予約を入れておかねば席の確保が難しいほど繁盛しており、確かに見渡せば全席にみっちりとサラリーマンやOLと思しき客で溢れている。
教師一同は店の奥に一つだけの、広めの座敷にその日の席を予約していた。
大テーブルが二つ並べられたその奥まった座敷で、今宵は新たな養護教諭を歓迎するための宴が盛大に行われている。
「ほら、もう酌はいいから君が飲みたまえ!」
頭のハゲ散らかった中年の教頭が、先陣を切って今夜の主役に酒を勧める。
「ボク、お酒弱いんです」
困ったように眉尻を下げて微笑むファイは、中年男に肩を抱かれながら緩く首を振った。
それでも上司や周りに強く勧められて、チマチマと口をつけている。白い頬がほんのりと赤く染まっている彼を見て、女性教諭たちが普段の倍以上にまでテンションが上がっているのが分かった。
黒鋼は輪の中には混ざらず、少し引いた隅の方で一人黙々と飲んでいた。
若い男を取り囲んでわいわいとはしゃぐ一団を見て、黒鋼はふと幼い頃に招待された友人の誕生会を思い出していた。
ファイの目の前にあるのが酒やつまみではなく、オレンジジュースに大きなバースデーケーキであれば完璧だ。
そんな考えのアホらしさに溜息が零れる。
酒は好きだが、騒がしいのは勘弁だ。黒鋼が無口でとっつき難いのは周知のことであるため、連中はこちらをまるで気にしない。
それでもファイだけは酷く気を使っているようで、時折戸惑ったようにこちらを覗きこんでいた。その視線に、あえて気がつかないふりをする。
初めて会話をしたあの日から、黒鋼は彼との接触を極力避けている。自分でもはっきりと自覚しているわけではないのだが、本能的な部分がファイとの関わりを拒んでいた。
それでも校内で見かければ目で追ってしまう。甘ったるい表情を見ると胸がムカムカとする。気を抜けば自分まで絆されそうで。騙されてやるものかという妙な意地も働いていた。
出会ったばかりで、しかもまともに会話をしたのは一度きり。彼という人間のことなど何一つ知りもしないくせに、黒鋼の中でファイ・フローライトはまるで詐欺師と成り果てていた。
一体どこから、この歪んだ感情は生まれてくるのだろう。
そんなことに延々と思考を巡らせながら飲む酒は不味かった。杯ばかりを重ねて、全く違った意味で胃の辺りがジリジリと焼け焦げるばかりだった。
彼のあの穏やかな笑顔に拒絶の色を感じているのは自分だけ。
なぜこうも意識する必要があるのだろう。
これでは、まるで。
「飲みすぎると、すぐに寝ちゃうんです」
角砂糖を噛み砕いた時のような感覚。甘いものは嫌いだ。この声も。
「本当に弱くて……」
頭がクラクラする。どんなに強い酒を飲み続けたとしても、こんな状態に陥ったことはない。
まるでドロドロとしたものに足元を取られ、身動きが取れずに足掻いているかのようだった。目の前が暗く点滅している。意識が遠のく。ファイの声がした。
「先生? 黒鋼先生?」
(よりにもよって、その声で俺を呼ぶなよ)
「あらいやだ! 黒鋼先生ってザルなのよぉ!?」
(うるせぇな。てめぇじゃねぇんだよ。俺が聞きてぇのは……)
「ボクが先生を送って行きます。方向は一緒ですから」
(そうだ、てめぇだ。てめぇの声だよ)
そこで、黒鋼の記憶はぷっつりと途切れた。
*
「君みたいな人は初めてだよ」
雪は、いつ止んだのだろうか。カーテンの隙間から覗く三日月に、まだらな雲がかかっていることに黒鋼は気がついた。
降り注ぐ月明かりに薄ぼんやりと浮き上がっている男の声や表情は、妖しくも艶やかに濡れた光を放っている。
何か声を出そうとして口を開いたところで、覆いかぶさる唇によって塞がれてしまう。
酷く喉が渇いている中に滑り込んできた彼の舌は氷のように冷たくて、黒鋼は浮ついて朦朧とする意識でそれを貪った。雛が必死に親鳥に餌を乞う様に、それは似ていた。
どれだけ絡めても吸い上げてもそれは冷たいままで、なのにこの焼け付くような喉を癒すことはなかった。
両腕で抱き込もうとすれば、それはすぐに離れる。
男は笑った。頼りないばかりのささやかな光の中、赤い舌でぬるりとその唇を濡らしているのが分かった。
訳も分からないまま、けれど焦れた黒鋼は掠れた声で、ただ「みず」とだけ声を絞り出すのが精一杯だった。
「あげないよ」
ああ、そうか。
「オレを満足させてくれるまでは、ね?」
それがお前の……。
***
はっとして勢いよく飛び起きた瞬間、まず感じたのは激しい頭痛だった。
強く鷲掴みにされた頭を、思い切り壁にでも打ち付けられているような、嫌な感覚。
飛び込んできた白い光が、目蓋を通りこして眼球を刺激する。ズキズキという不快な痛みから、黒鋼は片手で額を押さえると低く唸った。
「~~~ッ」
もしやこれが二日酔いというものなのか。この歳まで生きてきて、これが初めての体験だった。
凝り固まったかのように重い目蓋をどうにか押し開いて、すぐ脇の窓を見やる。安いにしては日中通して日当たりのいいこの部屋で、遮光カーテンは必須アイテムだ。
その隙間から、容赦なく陽が射している。だが、今が朝なのか昼なのかまでは判別できない。
ベッドの枕元に横倒しになっているデジタルの目覚まし時計をむんずと掴んで、今がちょうど正午過ぎだということをどうにか確認した。
まだカーテンを開ける気にはなれず、荒波のように押し寄せる痛みと倦怠感を払拭するべく、首を勢いよく振った。
やや時間を置いてようやく痛みが緩く静まりかけてきたところで、次は全く違う場所に全く違う痛みが走った。
チリリとした、引き攣れるような痛み。
「なんだよ……」
その場所は左の肩口。
噛み付かれたようなその傷は、血が滲んでこびり付いていた。
「ッ」
一気に、昨夜の出来事が断片的に脳内に再生される。
歓迎会の居酒屋。
子供時代の誕生会。
ファイ。
あの場の居心地の悪さに、無意識に自棄になってグラスを重ねた記憶がある。
けれど、そこから先はブツリと途切れていた。
あれからどうした?
どうやってこの自宅に戻ったのか。
この噛み痕は。
その後のことは。
『オレを満足させてくれるまでは、ね』
月明かりの部屋。
喉の渇き。
声。
赤い唇と、濡れた舌。
『これは夢だよ。君にとっては悪夢だろうけどね』
――おまえは、誰だ……?
「おい……マジかよ」
黒鋼は乱れきったシーツの上に胡坐をかいている己の姿を見やる。
一糸纏わぬ、生まれたままの姿。
噛み痕が傷む。
物凄い勢いで脳内が昨夜の出来事を思い出そうとフル稼動している。
心臓が全身を震わせるほど大きく高鳴っていた。
ファイの声と、冷たい舌と。
薄く笑った赤い口元。
糸が切れたように、ただ茫然と、黒鋼は。
「抱いたのか……俺は、アレを……」
***
休日の時間を、黒鋼はただひたすら悶々と過ごしていた。
食事をする気にもなれず、酒のつまみにと買い置きしてあった乾き物の類いを窓から放って、例の野良猫を眺めて過ごしていた。
居酒屋で酔い潰れたのは間違いないが、その後のことをあの養護教諭本人に確かめるべきなのかどうか、酷く迷っている。
あの男は、『これは夢だ』と言っていた。
だが確かめるも何も、身体は感触を覚えているのだ。断片的にではあるものの、組み敷いた彼の身体の薄っぺらさや、その熱を。
そして何よりも、夢であって欲しいと、夢に違いないと思おうとしても、それを肩に残る傷が許してはくれない。ただの悪夢であったなら、どんなによかったろう。
なんとも気持ちの悪い思いを抱えたまま、容赦なく月曜はやって来た。
教師たちが口々に「黒鋼先生が酔い潰れるなんて珍しいですね」などと言っては、からかいの言葉を投げかけてくるのを適当に交わして、そしてその様子からどうやら酔い潰れた自分と、「帰る方向が同じだから」とタクシーに共に乗り込んだのがファイであることが知れた。
あの男は黒鋼のアパートがどこにあるかまでは知らないはずだが、高校の位置から近いこともあり、誰かしらが場所を教えたのだろう。まるで覚えていないが、自分もおぼつかないなりに適当な受け答えくらいはしたのかもしれない。
だがそれが事実であったとしても、そう簡単に飲み込むことは不可能だった。誰でもいい。全てを否定できる材料を提供してくれる相手が必要だった。
かといって、まさか誰か自分の肩に噛み付いた人間はいるか、などと聞けるはずもない。
ならやはり、一人しかいないではないか。
「黒鋼先生」
胸の中に曇天を抱えたまま、体育館での授業を終えて職員室へと向かう黒鋼の背に、今一番聞きたくない声が無情にもかかった。
談笑しながら行き交う生徒達の騒がしさに乗じて、気づかないふりをしてしまいたかった。だがそうもいかない。渋々と足を止めて振り向けば、そこには白衣の男が微笑んでいる。
「週末はありがとうございました」
「あぁ……」
それは歓迎会のことなのか、それとも。
「酷く酔っていらしたので心配だったんですけど……もう大丈夫ですか?」
そう言って心配そうに黒鋼の顔を覗き込むものだから、無意識に腰が引けた。
「いや、悪かった。迷惑かけたみてぇだな」
当然確信には触れずに平静を装い、当たり障りない謝罪をする。ファイはとんでもない、と言うように首を左右に振った。
「黒鋼先生はすぐに眠ってしまわれましたから、ボクは何もしてないですよ」
本当にただ送り届けただけ。白々しい嘘をつくなと胸倉を掴んでしまえれば、いっそすっきりするのだろうか。
だが、この男は肝心なことは何も言わない。黒鋼の中の防衛本能が、このまま何もなかったことにしてしまえと、そう告げている。
「酔うなんて初めて見たと、皆さんおっしゃってましたよ。きっとお疲れだったんですね」
ファイは申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「いや……」
息が詰まって、早くこの場を去りたくて仕方がない。この男のいない場所なら、どこでもよかった。
「よければまた、ゆっくり飲みましょうね。今度は、二人だけで」
その誘いにギクリとする。相変わらず綺麗に微笑むファイの言葉が、酷く意味深なものに聞こえる。だいたい、酒に弱いと言っていたのはどの口だ。そんな人間が、他人をこうして誘うものだろうか。
そのとき、次の授業の始まりを知らせるチャイムが鳴った。辺りを行き交っていた生徒たちが、一瞬にして姿を消す。
二人だけが取り残された廊下は、酷く寒々として静まり返っていた。
答えるタイミングを逃す形となってしまった黒鋼に、ファイは表情を変えた。それを見た瞬間、心臓がドキリと高鳴った。
陽だまりのような笑顔は、一転して冴え渡る冬の月を思わせるような、冷たい微笑へ。
それはとてもではないが、女子生徒が呼んでいるような『王子様』の甘い微笑みとは、遠くかけ離れたものに見えた。
ちぐはぐだったロジックが、ピタリとはまる。
ああ、これがこの男だ。
『彼』とはあの週末の夜、月明かりの部屋で確かに会っている。
この腕で、確かに『抱いた』のだから。
「君の瞳、赤くてとても綺麗だね」
肩口に残る傷が、甘く疼く。言葉を紡ぐその薄い唇から、目が離せない。
「肩の傷が痛むときは、保健室まで来てくださいね」
←戻る ・ 次へ→
基本的にタートルネックのセーターに、嫌味なくらい長い足を引き立たせるような細身のパンツというスタイルは、彼を随分と若く見せる。
隣でぼんやりと煙草を燻らせるファイは、せいぜい二十歳かそこらの学生にしか見えなかった。元々年齢を感じさせない容姿ではあるが、基本的に顔立ちが幼いのかもしれない。
白衣を纏っていなければ、おそらく教職員には到底見えないだろう。けれどそんな風に感じられるのは、校内においてこの屋上という場所でだけだった。
ここを出てしまえば途端に、彼は相応の雰囲気を纏う。出来すぎなくらい完璧な仮面で、全てを包み隠してしまう。
「ねぇ」
後方に少しずれた位置に並んでいた黒鋼に背を向け、フェンス越しに校庭を眺めていたファイが唐突に振り返る。悪戯を仕掛けようとしているような、人の悪い笑みだった。
彼が背を預けると、錆びたフェンスはギリリと不快な音を立てた。
「オレのこと、そんなに気になる?」
そうだ、この言葉遣いだ。
普段とはガラリと違う態度とこの砕けた物言いが、彼を幼くさせている。
黒鋼はどうでもいいことのように小さく口端を歪めた。
「ある意味、見てて飽きねぇのかもな」
「へぇー? どんな風に?」
フィルターぎりぎりまで燃えた煙草を地面に落とし、それを靴の裏でおざなりに潰すと、ファイは両手を白衣のポケットに突っ込んだ。
彼は背が高いが、黒鋼はそれよりもさらに高い。自然、下から覗き込まれるようになる。
初めて会った日は、このブルーの瞳に薄気味悪ささえ感じたものだ。
たった数ヶ月ほど前のことなのに、なんだか酷く遠い日の出来事のように感じた。
「てめぇほど完璧な猫っかぶりは、見たことがねぇからな」
「ふん」
鼻で笑ったファイだったが、その表情はまんざらでもないようだった。
「それ、オレにとっては最高の褒め言葉だよ」
黒鋼の指に挟まれた煙草も、ぎりぎりまで燃えていた。同じ様に地面に放ると、足裏で火を揉み消す。
こんな風に屋上で『秘密』を共有してからというもの、黒鋼は今のファイの姿が決して嫌いではなかった。あの嘘臭い仮面を貼り付けている彼といるよりは、よほど呼吸がしやすいからだ。
けれど背後にぴったりと張り付く得体の知れなさは変わらなかった
互いにある程度打ち解けていると見せかけて、決して深部まで踏み込ませない。どうでもいい会話を時折交わしながら、ただ腹を探り合っているに過ぎなかった。
こうして手を伸ばせば触れることの出来る位置にいてさえ、結局のところ距離が縮まることはない。
なのに、不思議だ。
「君さー、最初に会った時から、オレのこと嫌いでしょ?」
黒鋼は彼の熱を知っている。
この細いばかりの身体の感触を。
「オレもだよ」
泣き顔を。
「オレにしてみれば、君の方がよっぽど面白いよ」
決して自ら望んだことではないけれど。
「だから寝てみたんだ」
それは、事実だった。
***
黒鋼がファイと屋上で顔を合わせるようになり、そして今の関係へと落ち着くに至った全ての発端は、三ヶ月ほど前に遡る。
それは春が訪れるにはまだ早い、雪のチラつく週末の夜だった。
高校から数キロ圏内にある居酒屋は、何かとこういったイベント事がある度に利用される、教師達の行き着けの店だった。
黒鋼が単体で訪れることは滅多にないのだが、何でもここは予め予約を入れておかねば席の確保が難しいほど繁盛しており、確かに見渡せば全席にみっちりとサラリーマンやOLと思しき客で溢れている。
教師一同は店の奥に一つだけの、広めの座敷にその日の席を予約していた。
大テーブルが二つ並べられたその奥まった座敷で、今宵は新たな養護教諭を歓迎するための宴が盛大に行われている。
「ほら、もう酌はいいから君が飲みたまえ!」
頭のハゲ散らかった中年の教頭が、先陣を切って今夜の主役に酒を勧める。
「ボク、お酒弱いんです」
困ったように眉尻を下げて微笑むファイは、中年男に肩を抱かれながら緩く首を振った。
それでも上司や周りに強く勧められて、チマチマと口をつけている。白い頬がほんのりと赤く染まっている彼を見て、女性教諭たちが普段の倍以上にまでテンションが上がっているのが分かった。
黒鋼は輪の中には混ざらず、少し引いた隅の方で一人黙々と飲んでいた。
若い男を取り囲んでわいわいとはしゃぐ一団を見て、黒鋼はふと幼い頃に招待された友人の誕生会を思い出していた。
ファイの目の前にあるのが酒やつまみではなく、オレンジジュースに大きなバースデーケーキであれば完璧だ。
そんな考えのアホらしさに溜息が零れる。
酒は好きだが、騒がしいのは勘弁だ。黒鋼が無口でとっつき難いのは周知のことであるため、連中はこちらをまるで気にしない。
それでもファイだけは酷く気を使っているようで、時折戸惑ったようにこちらを覗きこんでいた。その視線に、あえて気がつかないふりをする。
初めて会話をしたあの日から、黒鋼は彼との接触を極力避けている。自分でもはっきりと自覚しているわけではないのだが、本能的な部分がファイとの関わりを拒んでいた。
それでも校内で見かければ目で追ってしまう。甘ったるい表情を見ると胸がムカムカとする。気を抜けば自分まで絆されそうで。騙されてやるものかという妙な意地も働いていた。
出会ったばかりで、しかもまともに会話をしたのは一度きり。彼という人間のことなど何一つ知りもしないくせに、黒鋼の中でファイ・フローライトはまるで詐欺師と成り果てていた。
一体どこから、この歪んだ感情は生まれてくるのだろう。
そんなことに延々と思考を巡らせながら飲む酒は不味かった。杯ばかりを重ねて、全く違った意味で胃の辺りがジリジリと焼け焦げるばかりだった。
彼のあの穏やかな笑顔に拒絶の色を感じているのは自分だけ。
なぜこうも意識する必要があるのだろう。
これでは、まるで。
「飲みすぎると、すぐに寝ちゃうんです」
角砂糖を噛み砕いた時のような感覚。甘いものは嫌いだ。この声も。
「本当に弱くて……」
頭がクラクラする。どんなに強い酒を飲み続けたとしても、こんな状態に陥ったことはない。
まるでドロドロとしたものに足元を取られ、身動きが取れずに足掻いているかのようだった。目の前が暗く点滅している。意識が遠のく。ファイの声がした。
「先生? 黒鋼先生?」
(よりにもよって、その声で俺を呼ぶなよ)
「あらいやだ! 黒鋼先生ってザルなのよぉ!?」
(うるせぇな。てめぇじゃねぇんだよ。俺が聞きてぇのは……)
「ボクが先生を送って行きます。方向は一緒ですから」
(そうだ、てめぇだ。てめぇの声だよ)
そこで、黒鋼の記憶はぷっつりと途切れた。
*
「君みたいな人は初めてだよ」
雪は、いつ止んだのだろうか。カーテンの隙間から覗く三日月に、まだらな雲がかかっていることに黒鋼は気がついた。
降り注ぐ月明かりに薄ぼんやりと浮き上がっている男の声や表情は、妖しくも艶やかに濡れた光を放っている。
何か声を出そうとして口を開いたところで、覆いかぶさる唇によって塞がれてしまう。
酷く喉が渇いている中に滑り込んできた彼の舌は氷のように冷たくて、黒鋼は浮ついて朦朧とする意識でそれを貪った。雛が必死に親鳥に餌を乞う様に、それは似ていた。
どれだけ絡めても吸い上げてもそれは冷たいままで、なのにこの焼け付くような喉を癒すことはなかった。
両腕で抱き込もうとすれば、それはすぐに離れる。
男は笑った。頼りないばかりのささやかな光の中、赤い舌でぬるりとその唇を濡らしているのが分かった。
訳も分からないまま、けれど焦れた黒鋼は掠れた声で、ただ「みず」とだけ声を絞り出すのが精一杯だった。
「あげないよ」
ああ、そうか。
「オレを満足させてくれるまでは、ね?」
それがお前の……。
***
はっとして勢いよく飛び起きた瞬間、まず感じたのは激しい頭痛だった。
強く鷲掴みにされた頭を、思い切り壁にでも打ち付けられているような、嫌な感覚。
飛び込んできた白い光が、目蓋を通りこして眼球を刺激する。ズキズキという不快な痛みから、黒鋼は片手で額を押さえると低く唸った。
「~~~ッ」
もしやこれが二日酔いというものなのか。この歳まで生きてきて、これが初めての体験だった。
凝り固まったかのように重い目蓋をどうにか押し開いて、すぐ脇の窓を見やる。安いにしては日中通して日当たりのいいこの部屋で、遮光カーテンは必須アイテムだ。
その隙間から、容赦なく陽が射している。だが、今が朝なのか昼なのかまでは判別できない。
ベッドの枕元に横倒しになっているデジタルの目覚まし時計をむんずと掴んで、今がちょうど正午過ぎだということをどうにか確認した。
まだカーテンを開ける気にはなれず、荒波のように押し寄せる痛みと倦怠感を払拭するべく、首を勢いよく振った。
やや時間を置いてようやく痛みが緩く静まりかけてきたところで、次は全く違う場所に全く違う痛みが走った。
チリリとした、引き攣れるような痛み。
「なんだよ……」
その場所は左の肩口。
噛み付かれたようなその傷は、血が滲んでこびり付いていた。
「ッ」
一気に、昨夜の出来事が断片的に脳内に再生される。
歓迎会の居酒屋。
子供時代の誕生会。
ファイ。
あの場の居心地の悪さに、無意識に自棄になってグラスを重ねた記憶がある。
けれど、そこから先はブツリと途切れていた。
あれからどうした?
どうやってこの自宅に戻ったのか。
この噛み痕は。
その後のことは。
『オレを満足させてくれるまでは、ね』
月明かりの部屋。
喉の渇き。
声。
赤い唇と、濡れた舌。
『これは夢だよ。君にとっては悪夢だろうけどね』
――おまえは、誰だ……?
「おい……マジかよ」
黒鋼は乱れきったシーツの上に胡坐をかいている己の姿を見やる。
一糸纏わぬ、生まれたままの姿。
噛み痕が傷む。
物凄い勢いで脳内が昨夜の出来事を思い出そうとフル稼動している。
心臓が全身を震わせるほど大きく高鳴っていた。
ファイの声と、冷たい舌と。
薄く笑った赤い口元。
糸が切れたように、ただ茫然と、黒鋼は。
「抱いたのか……俺は、アレを……」
***
休日の時間を、黒鋼はただひたすら悶々と過ごしていた。
食事をする気にもなれず、酒のつまみにと買い置きしてあった乾き物の類いを窓から放って、例の野良猫を眺めて過ごしていた。
居酒屋で酔い潰れたのは間違いないが、その後のことをあの養護教諭本人に確かめるべきなのかどうか、酷く迷っている。
あの男は、『これは夢だ』と言っていた。
だが確かめるも何も、身体は感触を覚えているのだ。断片的にではあるものの、組み敷いた彼の身体の薄っぺらさや、その熱を。
そして何よりも、夢であって欲しいと、夢に違いないと思おうとしても、それを肩に残る傷が許してはくれない。ただの悪夢であったなら、どんなによかったろう。
なんとも気持ちの悪い思いを抱えたまま、容赦なく月曜はやって来た。
教師たちが口々に「黒鋼先生が酔い潰れるなんて珍しいですね」などと言っては、からかいの言葉を投げかけてくるのを適当に交わして、そしてその様子からどうやら酔い潰れた自分と、「帰る方向が同じだから」とタクシーに共に乗り込んだのがファイであることが知れた。
あの男は黒鋼のアパートがどこにあるかまでは知らないはずだが、高校の位置から近いこともあり、誰かしらが場所を教えたのだろう。まるで覚えていないが、自分もおぼつかないなりに適当な受け答えくらいはしたのかもしれない。
だがそれが事実であったとしても、そう簡単に飲み込むことは不可能だった。誰でもいい。全てを否定できる材料を提供してくれる相手が必要だった。
かといって、まさか誰か自分の肩に噛み付いた人間はいるか、などと聞けるはずもない。
ならやはり、一人しかいないではないか。
「黒鋼先生」
胸の中に曇天を抱えたまま、体育館での授業を終えて職員室へと向かう黒鋼の背に、今一番聞きたくない声が無情にもかかった。
談笑しながら行き交う生徒達の騒がしさに乗じて、気づかないふりをしてしまいたかった。だがそうもいかない。渋々と足を止めて振り向けば、そこには白衣の男が微笑んでいる。
「週末はありがとうございました」
「あぁ……」
それは歓迎会のことなのか、それとも。
「酷く酔っていらしたので心配だったんですけど……もう大丈夫ですか?」
そう言って心配そうに黒鋼の顔を覗き込むものだから、無意識に腰が引けた。
「いや、悪かった。迷惑かけたみてぇだな」
当然確信には触れずに平静を装い、当たり障りない謝罪をする。ファイはとんでもない、と言うように首を左右に振った。
「黒鋼先生はすぐに眠ってしまわれましたから、ボクは何もしてないですよ」
本当にただ送り届けただけ。白々しい嘘をつくなと胸倉を掴んでしまえれば、いっそすっきりするのだろうか。
だが、この男は肝心なことは何も言わない。黒鋼の中の防衛本能が、このまま何もなかったことにしてしまえと、そう告げている。
「酔うなんて初めて見たと、皆さんおっしゃってましたよ。きっとお疲れだったんですね」
ファイは申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「いや……」
息が詰まって、早くこの場を去りたくて仕方がない。この男のいない場所なら、どこでもよかった。
「よければまた、ゆっくり飲みましょうね。今度は、二人だけで」
その誘いにギクリとする。相変わらず綺麗に微笑むファイの言葉が、酷く意味深なものに聞こえる。だいたい、酒に弱いと言っていたのはどの口だ。そんな人間が、他人をこうして誘うものだろうか。
そのとき、次の授業の始まりを知らせるチャイムが鳴った。辺りを行き交っていた生徒たちが、一瞬にして姿を消す。
二人だけが取り残された廊下は、酷く寒々として静まり返っていた。
答えるタイミングを逃す形となってしまった黒鋼に、ファイは表情を変えた。それを見た瞬間、心臓がドキリと高鳴った。
陽だまりのような笑顔は、一転して冴え渡る冬の月を思わせるような、冷たい微笑へ。
それはとてもではないが、女子生徒が呼んでいるような『王子様』の甘い微笑みとは、遠くかけ離れたものに見えた。
ちぐはぐだったロジックが、ピタリとはまる。
ああ、これがこの男だ。
『彼』とはあの週末の夜、月明かりの部屋で確かに会っている。
この腕で、確かに『抱いた』のだから。
「君の瞳、赤くてとても綺麗だね」
肩口に残る傷が、甘く疼く。言葉を紡ぐその薄い唇から、目が離せない。
「肩の傷が痛むときは、保健室まで来てくださいね」
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「君は聞いたね。オレが誰なのかって」
金色の髪と、純白の白衣の裾が、風に吹かれて舞い踊る。
今にも澄んだ青空の中に融けてしまいそうな気がして、黒鋼は引き寄せられるようにして手を伸ばした。
けれど錆付いたフェンスは、彼に触れることさえも許してはくれない。
「オレもずっと考えていた…」
雨上がりのコンクリートの臭い。空を写す水溜り。
足元に転がる幾つかの煙草の吸殻は、虫の死骸にも似ていて。
「あの石は、もうない。それでもオレがオレでいられたら……言うよ。本当の気持ち」
だからお願い。
彼はそう言って笑った。
「答え合わせがしたいんだ」
ギターの弦を爪先で弾くような振動に似た、空気の震え。
『彼』は、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「見てて」
両手を広げ、穏やかに微笑みながら。
ファイは、飛んだ。
***
そろそろ昼休みも終わろうかという、午後の職員室。
授業中の居眠りや悪ふざけをたっぷりと搾られている生徒や、単に遊びに来ている生徒、次の授業の準備に勤しむ教師もいれば、雑談に興じる教師達もいる。
形ばかりの自分のデスクに向かい、若い女性教諭が気を利かせて淹れてくれた茶をまったりと啜っていた黒鋼は、出入り口付近に白衣がちらつくのを視界に留めると、密かに顔を顰めた。
この高校にまともに白衣を着ている教師はいない。体育教師である黒鋼にとっては、そんなものはますます縁がない。となれば、あんなものを纏っている人間は一人しかいなかった。
淡い金色の髪が、ふわりふわりと揺れている。ほっそりとした身体の線はスラリと伸びていて、今は白衣に隠されたそれがどれほど頼りないシルエットであるかを、黒鋼は知っていた。
彼は女子生徒に囲まれて談笑しているようだった。頬を赤らめた少女達が、彼が何かを言うたび、そしてやんわりと微笑む度に色めきだってはしゃぐのが分かった。
(相変わらず胡散臭ぇ野郎だ)
黒鋼は、神経の糸をジリジリと炙られるかのような苛立ちを持て余した。あの白衣の男が微笑むのを見ていると、大体いつもこうだった。
「相変わらずモテモテねぇ。ファイ先生は」
「あっという間に大人気ですものね~」
熟年の女性教諭と、黒鋼に茶を淹れてくれた若い女性教諭の会話がすぐ側で聞こえる。
「あの甘いマスクですもん。私の学生時代には絶対いませんでしたよ」
「確かに男前ねぇ。モデルさんや芸能人でもやってる方が、お似合いなんじゃないかしら」
「あ、それ言えてますね~!」
嫌でも耳に入ってくる彼女たちの会話にも、十分にミーハー色が入り混じっている気がする。あの男を囲んで頬を赤らめている少女達と、なんら変わりないように思えた。
熟年教師の方は、生徒達に限らず若い教師達にさえ恐れられる厳格な女性だが、心なしか声が艶っぽく上ずって聞こえるのは気のせいだと思いたい。
けれど先輩後輩の枠を超えて、ベテランと新人は共通の話題によって打ち解けているようだった。
「知ってます? ファイ先生って女子生徒たちの間で王子様って呼ばれてるんですって」
それは、「くだらねぇな」と内心で吐き捨てて席を立とうとした黒鋼に、最後のトドメとばかりに届いた言葉だった。
「いやぁね」なんて言いながら、なぜか我がことのようにまんざらでもない女性教諭たちの笑い声に背を向ける。
見れば、白衣の男はもういない。
ますます馬鹿馬鹿しくて、黒鋼は悟られぬ程度に鼻で笑った。
王子様とはとことん笑わせてくれる。あの完璧すぎるほどの笑顔や、洗練された上品な身のこなし、決して崩れることのない丁寧な言葉遣い。
女性に限らず、この学校で彼を悪く言うものはいないし、同様に悪い印象を抱いているものも一人もいない。
――ねぇ先生。
ただ一人、黒鋼を除いては。
――遊ぼうよ。
なぜなら、黒鋼は知っているからだった。
――ゲームだとでも思えばいいんじゃない?
彼のもう一つの顔とも呼べる一面を。
*
冬休み明け、始業式の朝だった。
新学期初日だというのに外は雨で、黒鋼の機嫌はハッキリ言って最悪だった。
見上げれば鉛色のどんよりとした雲。世界が凍りつくほどの冷え込みの中、なぜ空から落ちてくるのが雪ではないのだろう。
雨の音が落ち着くという人間もいる。だが黒鋼にはそんな奴の気が知れない。
こんな日は、ただ思い出したくないことばかりを思い出させるだけだった。容赦なく叩きつけるくせに、雨は何一つ洗い流してなどくれない。その冷たさが、軽薄さが、不愉快で忌々しかった。
風に軌道を乱されて、時折横殴りになるそれが傘を差していても上着の肩を濡らす。職場である高校と黒鋼の住いはそう遠くはなのだから、いっそ一気に走り抜けてしまおうかと思った、そのときだった。
「ミャー」
電柱の影から、見覚えのある野良猫が顔を出した。ふと足を止める。
「ミャーン」
甘えた声を出すその黒猫は目付きが悪く、金色の瞳をしている。アパートの二階から顔を出すと稀に姿を現す、ちょっとした顔馴染みだった。
「悪いな。今は持ち合わせがねぇんだよ」
今はまさに出勤途中であり、今から冷蔵庫の残りものを漁りに戻るわけにはいかない。
実際のところ、猫は特に好きというわけではない。だが雨に濡れたその姿を見て、黒鋼は少しだけ表情を和らげた。
動物には癒しの効果があるというが、どうやら自分にも効果があるらしい。
「ニャーゴ」
普段なら何にもありつけないと知ればそっけなく背を向けてしまう黒猫が、珍しく足元に擦り寄ってきた。この猫との付き合いはそれなりに長いが、接触は初めてのことだった。
珍しいこともあるものだと、思わず屈んで手を伸ばした。
だが、それが不味かった。
***
「お怪我でもされましたか?」
左手の甲にど派手な引っ掻き傷を三本作ってしまった黒鋼は、流石に放っておくのは不味いかと、無人の保健室に立ち寄った。
野良はどんな病気を持っているか分からない、というのは建前で、こんなあからさまな傷を生徒に見られれば、ヤツらは喜び勇んで弄り倒してくるに違いない。
そこで明りも灯さずに適当に棚を漁っていた黒鋼に声をかけたのは、見たことのない若いスーツの男性だった。
振り向いた黒鋼に、扉の脇のスイッチを押して明りをつけた男がやんわりと微笑んだ。
この場にあまりに不釣合いな空気を纏うその男に、黒鋼は僅かに面食らう。
一瞬、ここはどこのホストクラブかと本気で思った。(行ったことなどないが)
明りがついたことでクリアになった視界に嫌でも目立つ金髪は、どうやら地毛らしい。彼の淡く青い瞳がそれを強く主張していた。
「ああ、ちょっとな」
微妙な間が空いたのを誤魔化すようにして、短く答える。軽く左手を持ち上げて見せると、男は穏やかな笑みをさっと曇らせ足早に近づいてきた。
僅かに身を引く黒鋼の手首に、白く細い指が絡みつく。冷たい手だった。
「これは酷いですね……。どうぞ、そちらへ」
「悪い」
すぐ側にあった簡易のベッドへ適当に腰を下ろすと、スーツの男は薬品棚から透明なケースの救急箱を手にして戻ってきた。
その動作を、まるで羽根のように軽い身のこなしの男だと感じながら眺める。彼はまるで重力を感じさせない。
腰掛ける黒鋼の正面に片膝をつき、改めて左手に両手が添えられる。やはり、氷のように冷たい手だった。それに対して、どうにも不可思議な違和感を覚えて仕方が無い。
男が傍らに置いた箱の中から消毒液とピンセット、そして綿球を取り出す。
「ちょっと染みますよ」
突き刺すような刺激臭と、吹きかけられた冷たい液に僅かな痛みを覚え、不覚にも顔を顰めた黒鋼に、彼は顔を上げてふわりと笑った。
「大丈夫」
そう年齢に開きはないであろう同性に、まるで幼い子供を相手にするかのような物言いをされて、黒鋼はむず痒さに思わず眉間の皺を深くした。
そして今更のように、彼が酷く整った顔立ちをしていることに気がついてドキリとする。
再び処置に集中する男から一瞬は目を逸らし、そしてすぐに見下ろす。
金色の髪はサラサラと艶があり、その前髪の隙間から覗く長い睫毛もまた、同じ色をしてクルリとカールしていた。
雪のように白い肌、華奢な身体に長い手足。それを包み隠すスーツは、彼が纏うとなぜかやはり夜の気配を感じさせて、ここが学校の保健室だということを忘れてしまいそうになる。
綺麗な男だ。
男を相手に用いる表現ではないのかもしれないが、素直にそう思った。
そして同時に、どこか懐かしさも感じる。厳密に言えば懐かしさというよりも、妙な既視感と言った方が正しいかもしれない。
だが黒鋼の記憶の中に、こんな浮世離れした人間は一人もいない。
どうにも据わりの悪い、奇妙な感覚を覚える。それを掻き消すように咄嗟に当たり障りない話題を振っていた。無口な黒鋼にしては、極めて珍しいことだった。
「あんた、もしかして新しい先生か」
「ああ、すみません。ご挨拶がまだでしたよね」
大きなサイズの絆創膏をペタリと張り終わった直後の彼は、顔を上げると申し訳無さそうに苦笑した。
「ファイです。ファイ・フローライト。今日からここに常駐させていただくことになった保健医です」
相変わらず片膝をついたままのファイに見上げられて、やはり落ち着かない気持ちになる。
新しく養護教諭が来ることはあらかじめ知っていた。だが黒鋼はそれが男性であることは、まるで予想していなかった。
それまでの保健室の主はといえば、緩やかな長い黒髪と柔らかな笑顔が美しい、主に男子生徒から絶大な人気を誇る女性教諭だったのだ。
そんな彼女は、この度出産と育児とを兼ねた一年間の休暇を取っている。初めての出産だから不安なことばかりなんですよと、最後に会った時に彼女はそれでも幸せそうに笑っていた。
目の前の金髪の男は、その間の繋ぎとしてここへ来たのだろう。
比較的最近では男性もこの職に就くことが増えたと知識として知っていたものの、実際にお目にかかるのは初めてだった。
「珍しいな。俺は」
「黒鋼先生、ですよね?」
片眉をひょいと上げた黒鋼に、新しい養護教諭は白くしなやかな指先を口元にやってクスクスと笑った。どこかドラマ染みた動作だと、漠然と感じた。
「黒いジャージの目つきの悪い先生のお話は、前もって聞いていたものですから」
一体どいつが吹き込んだのやら、目付きの悪さは生まれ付きであるから仕方がないとして、それでもどこか癪に障る。
舌打ちをすると、彼は申し訳なさそうに、けれどやはり笑っていた。
「ごめんなさい。でも、ボクはそう聞いただけですから」
「気にしちゃいねぇよ」
「猫ちゃん、お好きなんですか?」
思わずギクリとする。普段そっけない猫が擦り寄ってきたことに気を良くした結果がこれとは、口が裂けても言えない。
「別に。そんなんじゃねぇよ」
「お大事になさってくださいね」
内心バツの悪さを感じている黒鋼に、ファイは小さく首を傾げるようにして綺麗に微笑んでいた。
その笑顔にすら、得体の知れない違和感を覚えてしまったのはなぜだろうか。
青い瞳に全てが見透かされているようで、面白くなかった。
一見して感じのいい好青年には見えたが、どうも居心地の悪さを感じた。
端的に言えば、この男とはおそらく馬が合わないだろうと思ったのだ。それはあくまでも漠然としたものではあったけれど。
彼からは、人間臭さを感じない。容姿も振る舞いもその言葉一つ一つさえも、全てが作り物の人形染みた印象だった。
ごく自然な動作、表情の動き。全てがあらかじめ緻密に書き込まれた台本でも存在するかのように。
にこやかで優しく、温和なファイが生徒達から慕われるようになるのに時間はかからなかった。
彼の完璧さは常に恐ろしいまでの安定性を誇り、神聖視さえされるほどに。
だが黒鋼はあの出会い以来、彼を極端に避けた。
見るたびに落ち着かず、苛々とした気にさせられる。心を乱されるような感覚さえ覚えた。なぜそんな風に思うのかは分からない。
優れた容姿に完璧に貼り付けられた微笑。愛され親しまれるためだけに存在しているような彼の存在に。酷く、ぶ厚い『壁』を感じたような気がした。
ファイ・フローライトという男に感じた違和感の正体は、まさにそれだった。
だから絶対に、深く関わり合うことはないだろうと。
そう思っていたのに。
***
登り慣れた階段をゆったりと上がる。
校舎四階北側の階段。立ち入り禁止の屋上へと続くそこを利用する人間はいない。いつからか鍵の壊れた扉の先は、黒鋼だけのお気に入りの場所だった。
けれど今では、違う。
「またサボり? 悪い先生だねぇ」
晴天の空の下。
錆びたフェンスに背を預け、腕を組みながら煙草の煙を燻らせる男。金色の髪と白衣が、五月の新緑の香りを乗せた風に靡く。
黒鋼はチッと舌打ちをすると自らも箱を取り出し、中身を一本咥えて火をつけた。
それは先刻、校舎裏で隠れるようにして吸っていた男子生徒から、ライターごと取り上げたものだった。次はない、と告げたときの生徒は、真っ青な顔をして全身を震わせていた。
黒鋼はメンソールを好まない。そもそも煙草というもの自体、日頃滅多なことでは嗜まない。
吸い込んだ途端、鼻へと抜けてゆくヒヤリとした嫌な感覚に大きく溜息がてら煙を吐き出す。
「てめぇに言われちゃ俺も仕舞いだ」
「それもそっか」
ファイ・フローライトは瞳を細め、不敵に口元を歪めて見せた。
←戻る ・ 次へ→
金色の髪と、純白の白衣の裾が、風に吹かれて舞い踊る。
今にも澄んだ青空の中に融けてしまいそうな気がして、黒鋼は引き寄せられるようにして手を伸ばした。
けれど錆付いたフェンスは、彼に触れることさえも許してはくれない。
「オレもずっと考えていた…」
雨上がりのコンクリートの臭い。空を写す水溜り。
足元に転がる幾つかの煙草の吸殻は、虫の死骸にも似ていて。
「あの石は、もうない。それでもオレがオレでいられたら……言うよ。本当の気持ち」
だからお願い。
彼はそう言って笑った。
「答え合わせがしたいんだ」
ギターの弦を爪先で弾くような振動に似た、空気の震え。
『彼』は、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「見てて」
両手を広げ、穏やかに微笑みながら。
ファイは、飛んだ。
***
そろそろ昼休みも終わろうかという、午後の職員室。
授業中の居眠りや悪ふざけをたっぷりと搾られている生徒や、単に遊びに来ている生徒、次の授業の準備に勤しむ教師もいれば、雑談に興じる教師達もいる。
形ばかりの自分のデスクに向かい、若い女性教諭が気を利かせて淹れてくれた茶をまったりと啜っていた黒鋼は、出入り口付近に白衣がちらつくのを視界に留めると、密かに顔を顰めた。
この高校にまともに白衣を着ている教師はいない。体育教師である黒鋼にとっては、そんなものはますます縁がない。となれば、あんなものを纏っている人間は一人しかいなかった。
淡い金色の髪が、ふわりふわりと揺れている。ほっそりとした身体の線はスラリと伸びていて、今は白衣に隠されたそれがどれほど頼りないシルエットであるかを、黒鋼は知っていた。
彼は女子生徒に囲まれて談笑しているようだった。頬を赤らめた少女達が、彼が何かを言うたび、そしてやんわりと微笑む度に色めきだってはしゃぐのが分かった。
(相変わらず胡散臭ぇ野郎だ)
黒鋼は、神経の糸をジリジリと炙られるかのような苛立ちを持て余した。あの白衣の男が微笑むのを見ていると、大体いつもこうだった。
「相変わらずモテモテねぇ。ファイ先生は」
「あっという間に大人気ですものね~」
熟年の女性教諭と、黒鋼に茶を淹れてくれた若い女性教諭の会話がすぐ側で聞こえる。
「あの甘いマスクですもん。私の学生時代には絶対いませんでしたよ」
「確かに男前ねぇ。モデルさんや芸能人でもやってる方が、お似合いなんじゃないかしら」
「あ、それ言えてますね~!」
嫌でも耳に入ってくる彼女たちの会話にも、十分にミーハー色が入り混じっている気がする。あの男を囲んで頬を赤らめている少女達と、なんら変わりないように思えた。
熟年教師の方は、生徒達に限らず若い教師達にさえ恐れられる厳格な女性だが、心なしか声が艶っぽく上ずって聞こえるのは気のせいだと思いたい。
けれど先輩後輩の枠を超えて、ベテランと新人は共通の話題によって打ち解けているようだった。
「知ってます? ファイ先生って女子生徒たちの間で王子様って呼ばれてるんですって」
それは、「くだらねぇな」と内心で吐き捨てて席を立とうとした黒鋼に、最後のトドメとばかりに届いた言葉だった。
「いやぁね」なんて言いながら、なぜか我がことのようにまんざらでもない女性教諭たちの笑い声に背を向ける。
見れば、白衣の男はもういない。
ますます馬鹿馬鹿しくて、黒鋼は悟られぬ程度に鼻で笑った。
王子様とはとことん笑わせてくれる。あの完璧すぎるほどの笑顔や、洗練された上品な身のこなし、決して崩れることのない丁寧な言葉遣い。
女性に限らず、この学校で彼を悪く言うものはいないし、同様に悪い印象を抱いているものも一人もいない。
――ねぇ先生。
ただ一人、黒鋼を除いては。
――遊ぼうよ。
なぜなら、黒鋼は知っているからだった。
――ゲームだとでも思えばいいんじゃない?
彼のもう一つの顔とも呼べる一面を。
*
冬休み明け、始業式の朝だった。
新学期初日だというのに外は雨で、黒鋼の機嫌はハッキリ言って最悪だった。
見上げれば鉛色のどんよりとした雲。世界が凍りつくほどの冷え込みの中、なぜ空から落ちてくるのが雪ではないのだろう。
雨の音が落ち着くという人間もいる。だが黒鋼にはそんな奴の気が知れない。
こんな日は、ただ思い出したくないことばかりを思い出させるだけだった。容赦なく叩きつけるくせに、雨は何一つ洗い流してなどくれない。その冷たさが、軽薄さが、不愉快で忌々しかった。
風に軌道を乱されて、時折横殴りになるそれが傘を差していても上着の肩を濡らす。職場である高校と黒鋼の住いはそう遠くはなのだから、いっそ一気に走り抜けてしまおうかと思った、そのときだった。
「ミャー」
電柱の影から、見覚えのある野良猫が顔を出した。ふと足を止める。
「ミャーン」
甘えた声を出すその黒猫は目付きが悪く、金色の瞳をしている。アパートの二階から顔を出すと稀に姿を現す、ちょっとした顔馴染みだった。
「悪いな。今は持ち合わせがねぇんだよ」
今はまさに出勤途中であり、今から冷蔵庫の残りものを漁りに戻るわけにはいかない。
実際のところ、猫は特に好きというわけではない。だが雨に濡れたその姿を見て、黒鋼は少しだけ表情を和らげた。
動物には癒しの効果があるというが、どうやら自分にも効果があるらしい。
「ニャーゴ」
普段なら何にもありつけないと知ればそっけなく背を向けてしまう黒猫が、珍しく足元に擦り寄ってきた。この猫との付き合いはそれなりに長いが、接触は初めてのことだった。
珍しいこともあるものだと、思わず屈んで手を伸ばした。
だが、それが不味かった。
***
「お怪我でもされましたか?」
左手の甲にど派手な引っ掻き傷を三本作ってしまった黒鋼は、流石に放っておくのは不味いかと、無人の保健室に立ち寄った。
野良はどんな病気を持っているか分からない、というのは建前で、こんなあからさまな傷を生徒に見られれば、ヤツらは喜び勇んで弄り倒してくるに違いない。
そこで明りも灯さずに適当に棚を漁っていた黒鋼に声をかけたのは、見たことのない若いスーツの男性だった。
振り向いた黒鋼に、扉の脇のスイッチを押して明りをつけた男がやんわりと微笑んだ。
この場にあまりに不釣合いな空気を纏うその男に、黒鋼は僅かに面食らう。
一瞬、ここはどこのホストクラブかと本気で思った。(行ったことなどないが)
明りがついたことでクリアになった視界に嫌でも目立つ金髪は、どうやら地毛らしい。彼の淡く青い瞳がそれを強く主張していた。
「ああ、ちょっとな」
微妙な間が空いたのを誤魔化すようにして、短く答える。軽く左手を持ち上げて見せると、男は穏やかな笑みをさっと曇らせ足早に近づいてきた。
僅かに身を引く黒鋼の手首に、白く細い指が絡みつく。冷たい手だった。
「これは酷いですね……。どうぞ、そちらへ」
「悪い」
すぐ側にあった簡易のベッドへ適当に腰を下ろすと、スーツの男は薬品棚から透明なケースの救急箱を手にして戻ってきた。
その動作を、まるで羽根のように軽い身のこなしの男だと感じながら眺める。彼はまるで重力を感じさせない。
腰掛ける黒鋼の正面に片膝をつき、改めて左手に両手が添えられる。やはり、氷のように冷たい手だった。それに対して、どうにも不可思議な違和感を覚えて仕方が無い。
男が傍らに置いた箱の中から消毒液とピンセット、そして綿球を取り出す。
「ちょっと染みますよ」
突き刺すような刺激臭と、吹きかけられた冷たい液に僅かな痛みを覚え、不覚にも顔を顰めた黒鋼に、彼は顔を上げてふわりと笑った。
「大丈夫」
そう年齢に開きはないであろう同性に、まるで幼い子供を相手にするかのような物言いをされて、黒鋼はむず痒さに思わず眉間の皺を深くした。
そして今更のように、彼が酷く整った顔立ちをしていることに気がついてドキリとする。
再び処置に集中する男から一瞬は目を逸らし、そしてすぐに見下ろす。
金色の髪はサラサラと艶があり、その前髪の隙間から覗く長い睫毛もまた、同じ色をしてクルリとカールしていた。
雪のように白い肌、華奢な身体に長い手足。それを包み隠すスーツは、彼が纏うとなぜかやはり夜の気配を感じさせて、ここが学校の保健室だということを忘れてしまいそうになる。
綺麗な男だ。
男を相手に用いる表現ではないのかもしれないが、素直にそう思った。
そして同時に、どこか懐かしさも感じる。厳密に言えば懐かしさというよりも、妙な既視感と言った方が正しいかもしれない。
だが黒鋼の記憶の中に、こんな浮世離れした人間は一人もいない。
どうにも据わりの悪い、奇妙な感覚を覚える。それを掻き消すように咄嗟に当たり障りない話題を振っていた。無口な黒鋼にしては、極めて珍しいことだった。
「あんた、もしかして新しい先生か」
「ああ、すみません。ご挨拶がまだでしたよね」
大きなサイズの絆創膏をペタリと張り終わった直後の彼は、顔を上げると申し訳無さそうに苦笑した。
「ファイです。ファイ・フローライト。今日からここに常駐させていただくことになった保健医です」
相変わらず片膝をついたままのファイに見上げられて、やはり落ち着かない気持ちになる。
新しく養護教諭が来ることはあらかじめ知っていた。だが黒鋼はそれが男性であることは、まるで予想していなかった。
それまでの保健室の主はといえば、緩やかな長い黒髪と柔らかな笑顔が美しい、主に男子生徒から絶大な人気を誇る女性教諭だったのだ。
そんな彼女は、この度出産と育児とを兼ねた一年間の休暇を取っている。初めての出産だから不安なことばかりなんですよと、最後に会った時に彼女はそれでも幸せそうに笑っていた。
目の前の金髪の男は、その間の繋ぎとしてここへ来たのだろう。
比較的最近では男性もこの職に就くことが増えたと知識として知っていたものの、実際にお目にかかるのは初めてだった。
「珍しいな。俺は」
「黒鋼先生、ですよね?」
片眉をひょいと上げた黒鋼に、新しい養護教諭は白くしなやかな指先を口元にやってクスクスと笑った。どこかドラマ染みた動作だと、漠然と感じた。
「黒いジャージの目つきの悪い先生のお話は、前もって聞いていたものですから」
一体どいつが吹き込んだのやら、目付きの悪さは生まれ付きであるから仕方がないとして、それでもどこか癪に障る。
舌打ちをすると、彼は申し訳なさそうに、けれどやはり笑っていた。
「ごめんなさい。でも、ボクはそう聞いただけですから」
「気にしちゃいねぇよ」
「猫ちゃん、お好きなんですか?」
思わずギクリとする。普段そっけない猫が擦り寄ってきたことに気を良くした結果がこれとは、口が裂けても言えない。
「別に。そんなんじゃねぇよ」
「お大事になさってくださいね」
内心バツの悪さを感じている黒鋼に、ファイは小さく首を傾げるようにして綺麗に微笑んでいた。
その笑顔にすら、得体の知れない違和感を覚えてしまったのはなぜだろうか。
青い瞳に全てが見透かされているようで、面白くなかった。
一見して感じのいい好青年には見えたが、どうも居心地の悪さを感じた。
端的に言えば、この男とはおそらく馬が合わないだろうと思ったのだ。それはあくまでも漠然としたものではあったけれど。
彼からは、人間臭さを感じない。容姿も振る舞いもその言葉一つ一つさえも、全てが作り物の人形染みた印象だった。
ごく自然な動作、表情の動き。全てがあらかじめ緻密に書き込まれた台本でも存在するかのように。
にこやかで優しく、温和なファイが生徒達から慕われるようになるのに時間はかからなかった。
彼の完璧さは常に恐ろしいまでの安定性を誇り、神聖視さえされるほどに。
だが黒鋼はあの出会い以来、彼を極端に避けた。
見るたびに落ち着かず、苛々とした気にさせられる。心を乱されるような感覚さえ覚えた。なぜそんな風に思うのかは分からない。
優れた容姿に完璧に貼り付けられた微笑。愛され親しまれるためだけに存在しているような彼の存在に。酷く、ぶ厚い『壁』を感じたような気がした。
ファイ・フローライトという男に感じた違和感の正体は、まさにそれだった。
だから絶対に、深く関わり合うことはないだろうと。
そう思っていたのに。
***
登り慣れた階段をゆったりと上がる。
校舎四階北側の階段。立ち入り禁止の屋上へと続くそこを利用する人間はいない。いつからか鍵の壊れた扉の先は、黒鋼だけのお気に入りの場所だった。
けれど今では、違う。
「またサボり? 悪い先生だねぇ」
晴天の空の下。
錆びたフェンスに背を預け、腕を組みながら煙草の煙を燻らせる男。金色の髪と白衣が、五月の新緑の香りを乗せた風に靡く。
黒鋼はチッと舌打ちをすると自らも箱を取り出し、中身を一本咥えて火をつけた。
それは先刻、校舎裏で隠れるようにして吸っていた男子生徒から、ライターごと取り上げたものだった。次はない、と告げたときの生徒は、真っ青な顔をして全身を震わせていた。
黒鋼はメンソールを好まない。そもそも煙草というもの自体、日頃滅多なことでは嗜まない。
吸い込んだ途端、鼻へと抜けてゆくヒヤリとした嫌な感覚に大きく溜息がてら煙を吐き出す。
「てめぇに言われちゃ俺も仕舞いだ」
「それもそっか」
ファイ・フローライトは瞳を細め、不敵に口元を歪めて見せた。
←戻る ・ 次へ→
※承太郎視点
「花京院くん、凄い顔色よ!」
女の大きな声がして、承太郎の意識は一気に浮上した。
(なんだ、うるせえな)
保健室に人の気配がないのをいいことに、勝手に入り込んで気持ちよく寝ていたというのに。
いつの間にかここの主が戻り、しかも客まで来たとみえる。
承太郎はベッドに寝そべったまま声のする方へ目を向けた。
しっかりと四方をカーテンで囲まれているようでいて、僅かに隙間が空いている。そこからちょうど、赤い髪をした男子生徒の背中が見えた。
「すみません、少し休ませてもらえますか。昼休みの間だけでいいので」
「もちろんよ。その前に、熱を測りましょう」
「いえ、いいです。いつものことですし、少し横になれば……」
「だぁめ! ほら見なさい! 熱っぽい!」
「うわちょっと、先生……ッ」
承太郎の方からは男子生徒の背中以外、二人の様子はほとんど見えない。
だが察するに、女医の手が彼の額に触れたらしい。その白いワイシャツに包まれた背中が僅かに後方に傾き、肩をびくつかせるのが見えた。
(ふん。なるほどな)
その様子を見て、承太郎は微かに笑う。
男子生徒の顔までは分からないものの、その耳が赤く染まっているのがしっかりと見えた。大人しそうな印象を受ける彼の動きと一緒に、赤いピアスが揺れているのを少し意外に感じる。
まるでさくらんぼのような形のそれがキラキラと光り輝くのがやけに眩しくて、承太郎は猫のように目を細めた。もしかして、女物だろうか。
それにしても、なんとも甘酸っぱい光景である。
承太郎は微かに鼻を鳴らすと、もう一眠りするかと目を閉じた。
今が昼休みということは、迂闊に廊下に出れば煩い女共と遭遇する可能性があるということだ。
出ていくなら、授業が始まるギリギリの頃合いがいいだろう。
しばらくすると、室内が静寂で満たされた。
ポケットから時計を取り出し、時刻を確認すると、ちょうど午後の授業が始まる5分ほど前だった。
承太郎はのっしりと起き上がり、欠伸を噛み殺すと立ち上がる。午後くらいは真面目に授業に出るかとカーテンを開ければ、そこに女医の姿はなかった。
代わりに、隣のベッドに人が横たわっているのが、風に揺らめくカーテンの隙間から窺い知れた。耳を澄ませば、微かな寝息が聞こえてくる。
承太郎にとってそれはほんの些細な、気紛れだった。
一歩一歩、隣のベッドへ近づくと、ひらひらとはためくカーテンをそっと開ける。
女物のピアスを恥ずかしげもなくぶら下げる男のツラがどんなものかを、なんとなく見てやろうと思ったからだ。
そしてその寝顔を見た瞬間、息をのむ。
「ッ……!」
時間が止まったような気がした。
胸を掴まれるという感覚は、こういうことを言うのかもしれない。
幼さの残る寝顔は無防備そのもので、時おり微かに長い睫毛がぴくりと動く。うっすらと開かれた少し大きめの唇は、自宅の庭に毎年咲く桜の花弁と同じく、薄紅色をしていた。決して女顔というわけではないのに、両耳の赤いピアスが不思議とよく似合っている。そのどこか危ういバランスに、胸の奥がちりちりと疼くのを感じた。
規則正しく胸を上下させる寝姿に釘づけになりながら、承太郎は漠然と思う。
(こいつだ)
と。
そこに理屈は存在しなかった。
ただどうしてか確信めいたいものがあった。
多分、この無防備な寝顔をさらす少年は、一生涯この自分の傍にいるだろうと。
決して目には見えないはずの糸が、そこに見えた気がして。
恋と呼ぶには漠然としていて、なのに最初から少しばかり重たい感情だった。だけどなぜかしっくりと胸に溶け込む。
こいつは、おれのものだと。
承太郎は足音を立てぬよう、静かにベッドサイドへと歩みを進めた。両手はポケットに突っこんだまま身を屈め、薄く開く唇にそっと口付ける。柔らかな感触は、仄かに熱をはらんでいた。
「てめーはおれがもらったぜ。花京院」
女医は、確かそう呼んでいた。
おそらく苗字だろうが、花のように色づく唇をもつ彼に、よく似合っている。
承太郎は歯止めがきかなくなる前にと、姿勢を正してベッドから離れた。眠る花京院を閉じ込めるようにカーテンをしっかりと引き、保健室を出て行こうとする。
だが、そこに主が戻って来た。
「あら寝ぼすけさん、やっとお目覚め?」
女医だ。
当たり前といえばそうだろうが、彼女は承太郎が勝手にベッドを使って寝ていたことに気がついていたようだ。
うふふと楽しそうに笑う表情は確かに大人の女のそれで、男子生徒の一人や二人、ふらりと恋に落ちてもおかしくはない。それが花京院でさえなければ、いっさい気にも留めないのだが。
(この女、邪魔だな)
そう感じた瞬間には、承太郎は彼女に向かってうっすらと笑いかけていた。
女医の白衣に包まれた華奢な肩が、微かに揺れた。白い頬に一瞬にして紅色がのぼるのを確かめてから、承太郎は女医に向かって足を進める。
先刻までの笑顔はどこへやら、女医は惚けたように唇をぽかりと開けて、承太郎の表情に見入っている。
ああ、なんて簡単なことだろう。少し微笑みかけて見せるだけで、女はただの雌になる。
「どうも身体が火照って仕方ねえ」
腕を伸ばして、その肩を抱いた。顎に指先を添えて上向かせると、熱に浮かされたように潤む瞳を覗き込む。
「熱、はかってみちゃくれねえか。なぁ、先生?」
*
「ッ……!」
食いちぎられそうなほど強い締め付けから自身を引き抜いて、承太郎は短く息を詰める。
背後から貫かれていた花京院は、糸が切れたようにくったりと横倒しになった。
我ながら性急すぎたかと、そのまま動かなくなった身体を見て思う。けれど、後悔はなかった。
挿れただけで酷く泣きじゃくる花京院は、まさしく哀れとしか言いようがなかった。だが、彼を犯したことにこの上ない安堵と幸福感を覚えたことも事実で、自身の快楽を満たすことなど二の次に思えた。
ただ受け入れさせたまま前を扱いてやると、花京院は甘ったるい声をあげて達した。びくびくとのたうつ身体を腕の中に閉じ込める感覚は、承太郎にえもいわれぬ喜びを与えてくれた。
多分、身体の相性は悪くない。男を抱いたのは初めてだが、真面目そうな顔をして、花京院の身体は酷く快感に従順であることもわかった。
「堪らねえな」
挿入しただけで終わった自身は、いまだ激しく脈打ったままだ。
花京院の声やその反応を思い返すだけで、再び突き入れて今度は思うが儘に貪り尽したいという欲が生まれる。
承太郎は、花京院が放った白濁を勃起したままの自身に塗りたくる。そしてそれを、横倒しになってぴったりと閉じられている太腿にぬるりと差し込んだ。
汗ばむ内腿にはほどよく筋肉がついている。女のように包み込むような柔らかみはないが、傷一つない花京院の白い肉を犯しているのだと思うと、血管が破裂しそうなほどの興奮と快感が競り上がる。
承太郎が腰を打ち付けると、力なくベッドに伏せる花京院の身体もかくんかくんと上下に揺れ動いた。勿論、ピアスも踊る。
「ッ、かきょう、いん……ッ」
名前を呼ぶと、花京院の肩がぴくりと跳ねた。
そのまま幾度か内腿の隙間に擦りつけてから、達する瞬間に引き抜く。勢いよく噴き出す白濁で花京院の尻を汚し、さらに先端を擦りつけると大きく息を吐き出した。
その後、手早く花京院の身体を清めて、衣服やベッドの乱れをある程度整えてやった。花京院は死んだように深く眠り込んでいたが、赤く染まったままの頬や目元が愛しくて、汗を含んだ赤い髪を優しく撫でる。
指先から伝わる熱が甘ったるくて仕方がなかった。これが恋ってやつなのか、なんて、柄じゃないようなことを思うと少し照れ臭かったが、なかなか悪くない。
「明日も来いよ。とりあえず、ここで昼寝でもして待ってるぜ」
そう言うと、花京院がうっすらと目を開けた。
まだ半分以上は夢の中にいるようで、焦点の合わないとろんとした瞳を見て承太郎は微かに笑った。
「またな、花京院」
前髪を手の平でそっと押し上げながら、その額にキスをした。花京院は長い睫毛を震わせながら再び目を閉じ、小さく頷く。
色づく唇がうっすらと笑みの形を浮かべているのを見つめながら、承太郎は明日からの学校生活に胸を膨らませる。それからふと、自分の指先に視線を落とす。
(爪、切るか)
花京院の二の腕を傷つけた指先には、僅かに血がこびりついていた。階段で今にも崩れ落ちそうになっていた花京院を見つけたのは偶然だったが、咄嗟のこととはいえ力加減を誤ったことを後悔する。
そういえば抱き上げた花京院の身体は見た目に反していやに軽く、それなりに出来上がっているようでいて、実は未熟であることが即座に分かった。とりわけ、腰の細さには驚かされた。
承太郎は腕を組み、真剣な面持ちで深く頷く。
「飯だな、飯」
明日からは二人分の弁当を母に頼もう。毎日せっせと美味い飯を食わせてやったら、この花京院はどうなっていくだろう。あどけなさの残る頬が丸みを帯びてこようものなら、さぞかし可愛いに違いない。今でも申し分ないくらい、可愛いが。
こうして花京院のことばかり考えているだけでこんなにも胸が踊るというのに、これから毎日彼を側に置く生活はどれほど幸せなものになるのだろうか。
承太郎は身を屈め、花京院のひと房だけ長い前髪を掬い上げるとキスをする。
「愛してるぜ、花京院」
深く深く眠り込む花京院に承太郎の気持ちが伝わるのは、まだ当分、先のことになるのだけれど。
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「花京院くん、凄い顔色よ!」
女の大きな声がして、承太郎の意識は一気に浮上した。
(なんだ、うるせえな)
保健室に人の気配がないのをいいことに、勝手に入り込んで気持ちよく寝ていたというのに。
いつの間にかここの主が戻り、しかも客まで来たとみえる。
承太郎はベッドに寝そべったまま声のする方へ目を向けた。
しっかりと四方をカーテンで囲まれているようでいて、僅かに隙間が空いている。そこからちょうど、赤い髪をした男子生徒の背中が見えた。
「すみません、少し休ませてもらえますか。昼休みの間だけでいいので」
「もちろんよ。その前に、熱を測りましょう」
「いえ、いいです。いつものことですし、少し横になれば……」
「だぁめ! ほら見なさい! 熱っぽい!」
「うわちょっと、先生……ッ」
承太郎の方からは男子生徒の背中以外、二人の様子はほとんど見えない。
だが察するに、女医の手が彼の額に触れたらしい。その白いワイシャツに包まれた背中が僅かに後方に傾き、肩をびくつかせるのが見えた。
(ふん。なるほどな)
その様子を見て、承太郎は微かに笑う。
男子生徒の顔までは分からないものの、その耳が赤く染まっているのがしっかりと見えた。大人しそうな印象を受ける彼の動きと一緒に、赤いピアスが揺れているのを少し意外に感じる。
まるでさくらんぼのような形のそれがキラキラと光り輝くのがやけに眩しくて、承太郎は猫のように目を細めた。もしかして、女物だろうか。
それにしても、なんとも甘酸っぱい光景である。
承太郎は微かに鼻を鳴らすと、もう一眠りするかと目を閉じた。
今が昼休みということは、迂闊に廊下に出れば煩い女共と遭遇する可能性があるということだ。
出ていくなら、授業が始まるギリギリの頃合いがいいだろう。
しばらくすると、室内が静寂で満たされた。
ポケットから時計を取り出し、時刻を確認すると、ちょうど午後の授業が始まる5分ほど前だった。
承太郎はのっしりと起き上がり、欠伸を噛み殺すと立ち上がる。午後くらいは真面目に授業に出るかとカーテンを開ければ、そこに女医の姿はなかった。
代わりに、隣のベッドに人が横たわっているのが、風に揺らめくカーテンの隙間から窺い知れた。耳を澄ませば、微かな寝息が聞こえてくる。
承太郎にとってそれはほんの些細な、気紛れだった。
一歩一歩、隣のベッドへ近づくと、ひらひらとはためくカーテンをそっと開ける。
女物のピアスを恥ずかしげもなくぶら下げる男のツラがどんなものかを、なんとなく見てやろうと思ったからだ。
そしてその寝顔を見た瞬間、息をのむ。
「ッ……!」
時間が止まったような気がした。
胸を掴まれるという感覚は、こういうことを言うのかもしれない。
幼さの残る寝顔は無防備そのもので、時おり微かに長い睫毛がぴくりと動く。うっすらと開かれた少し大きめの唇は、自宅の庭に毎年咲く桜の花弁と同じく、薄紅色をしていた。決して女顔というわけではないのに、両耳の赤いピアスが不思議とよく似合っている。そのどこか危ういバランスに、胸の奥がちりちりと疼くのを感じた。
規則正しく胸を上下させる寝姿に釘づけになりながら、承太郎は漠然と思う。
(こいつだ)
と。
そこに理屈は存在しなかった。
ただどうしてか確信めいたいものがあった。
多分、この無防備な寝顔をさらす少年は、一生涯この自分の傍にいるだろうと。
決して目には見えないはずの糸が、そこに見えた気がして。
恋と呼ぶには漠然としていて、なのに最初から少しばかり重たい感情だった。だけどなぜかしっくりと胸に溶け込む。
こいつは、おれのものだと。
承太郎は足音を立てぬよう、静かにベッドサイドへと歩みを進めた。両手はポケットに突っこんだまま身を屈め、薄く開く唇にそっと口付ける。柔らかな感触は、仄かに熱をはらんでいた。
「てめーはおれがもらったぜ。花京院」
女医は、確かそう呼んでいた。
おそらく苗字だろうが、花のように色づく唇をもつ彼に、よく似合っている。
承太郎は歯止めがきかなくなる前にと、姿勢を正してベッドから離れた。眠る花京院を閉じ込めるようにカーテンをしっかりと引き、保健室を出て行こうとする。
だが、そこに主が戻って来た。
「あら寝ぼすけさん、やっとお目覚め?」
女医だ。
当たり前といえばそうだろうが、彼女は承太郎が勝手にベッドを使って寝ていたことに気がついていたようだ。
うふふと楽しそうに笑う表情は確かに大人の女のそれで、男子生徒の一人や二人、ふらりと恋に落ちてもおかしくはない。それが花京院でさえなければ、いっさい気にも留めないのだが。
(この女、邪魔だな)
そう感じた瞬間には、承太郎は彼女に向かってうっすらと笑いかけていた。
女医の白衣に包まれた華奢な肩が、微かに揺れた。白い頬に一瞬にして紅色がのぼるのを確かめてから、承太郎は女医に向かって足を進める。
先刻までの笑顔はどこへやら、女医は惚けたように唇をぽかりと開けて、承太郎の表情に見入っている。
ああ、なんて簡単なことだろう。少し微笑みかけて見せるだけで、女はただの雌になる。
「どうも身体が火照って仕方ねえ」
腕を伸ばして、その肩を抱いた。顎に指先を添えて上向かせると、熱に浮かされたように潤む瞳を覗き込む。
「熱、はかってみちゃくれねえか。なぁ、先生?」
*
「ッ……!」
食いちぎられそうなほど強い締め付けから自身を引き抜いて、承太郎は短く息を詰める。
背後から貫かれていた花京院は、糸が切れたようにくったりと横倒しになった。
我ながら性急すぎたかと、そのまま動かなくなった身体を見て思う。けれど、後悔はなかった。
挿れただけで酷く泣きじゃくる花京院は、まさしく哀れとしか言いようがなかった。だが、彼を犯したことにこの上ない安堵と幸福感を覚えたことも事実で、自身の快楽を満たすことなど二の次に思えた。
ただ受け入れさせたまま前を扱いてやると、花京院は甘ったるい声をあげて達した。びくびくとのたうつ身体を腕の中に閉じ込める感覚は、承太郎にえもいわれぬ喜びを与えてくれた。
多分、身体の相性は悪くない。男を抱いたのは初めてだが、真面目そうな顔をして、花京院の身体は酷く快感に従順であることもわかった。
「堪らねえな」
挿入しただけで終わった自身は、いまだ激しく脈打ったままだ。
花京院の声やその反応を思い返すだけで、再び突き入れて今度は思うが儘に貪り尽したいという欲が生まれる。
承太郎は、花京院が放った白濁を勃起したままの自身に塗りたくる。そしてそれを、横倒しになってぴったりと閉じられている太腿にぬるりと差し込んだ。
汗ばむ内腿にはほどよく筋肉がついている。女のように包み込むような柔らかみはないが、傷一つない花京院の白い肉を犯しているのだと思うと、血管が破裂しそうなほどの興奮と快感が競り上がる。
承太郎が腰を打ち付けると、力なくベッドに伏せる花京院の身体もかくんかくんと上下に揺れ動いた。勿論、ピアスも踊る。
「ッ、かきょう、いん……ッ」
名前を呼ぶと、花京院の肩がぴくりと跳ねた。
そのまま幾度か内腿の隙間に擦りつけてから、達する瞬間に引き抜く。勢いよく噴き出す白濁で花京院の尻を汚し、さらに先端を擦りつけると大きく息を吐き出した。
その後、手早く花京院の身体を清めて、衣服やベッドの乱れをある程度整えてやった。花京院は死んだように深く眠り込んでいたが、赤く染まったままの頬や目元が愛しくて、汗を含んだ赤い髪を優しく撫でる。
指先から伝わる熱が甘ったるくて仕方がなかった。これが恋ってやつなのか、なんて、柄じゃないようなことを思うと少し照れ臭かったが、なかなか悪くない。
「明日も来いよ。とりあえず、ここで昼寝でもして待ってるぜ」
そう言うと、花京院がうっすらと目を開けた。
まだ半分以上は夢の中にいるようで、焦点の合わないとろんとした瞳を見て承太郎は微かに笑った。
「またな、花京院」
前髪を手の平でそっと押し上げながら、その額にキスをした。花京院は長い睫毛を震わせながら再び目を閉じ、小さく頷く。
色づく唇がうっすらと笑みの形を浮かべているのを見つめながら、承太郎は明日からの学校生活に胸を膨らませる。それからふと、自分の指先に視線を落とす。
(爪、切るか)
花京院の二の腕を傷つけた指先には、僅かに血がこびりついていた。階段で今にも崩れ落ちそうになっていた花京院を見つけたのは偶然だったが、咄嗟のこととはいえ力加減を誤ったことを後悔する。
そういえば抱き上げた花京院の身体は見た目に反していやに軽く、それなりに出来上がっているようでいて、実は未熟であることが即座に分かった。とりわけ、腰の細さには驚かされた。
承太郎は腕を組み、真剣な面持ちで深く頷く。
「飯だな、飯」
明日からは二人分の弁当を母に頼もう。毎日せっせと美味い飯を食わせてやったら、この花京院はどうなっていくだろう。あどけなさの残る頬が丸みを帯びてこようものなら、さぞかし可愛いに違いない。今でも申し分ないくらい、可愛いが。
こうして花京院のことばかり考えているだけでこんなにも胸が踊るというのに、これから毎日彼を側に置く生活はどれほど幸せなものになるのだろうか。
承太郎は身を屈め、花京院のひと房だけ長い前髪を掬い上げるとキスをする。
「愛してるぜ、花京院」
深く深く眠り込む花京院に承太郎の気持ちが伝わるのは、まだ当分、先のことになるのだけれど。
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そのあとの承太郎の甲斐甲斐しい世話の焼きようと言ったらなかった。
花京院が意識をすっ飛ばしている間に濡れタオルで手早く身体を清め、しっかりと衣服やシーツを整え、その間にふっと目を覚ました花京院が声を発そうとして噎せれば、口移しで水まで飲ませてくれる始末だった。
花京院が意識を失っていたのはものの十数分の間だったが、気づけば何事もなかったかのように、ただベッドの縁に腰かける承太郎の胸にもたれかかっているという有様である。
「あの、承太郎」
「ん」
「そろそろ離してくれると……ありがたいのだが……」
承太郎は腕の中にいる花京院の頭部に顔を埋めて、一息ついている。まるでぬいぐるみか抱き枕にでもなったような気分だ。
いや、むしろこちらが大きなクマのぬいぐるみに抱き付かれている、と表現した方がしっくりくるだろうか。
とはいえ、ここはまだ学校の保健室だ。誰が来たっておかしくないような場所で、よくもまぁあれほど激しく抱き合ったものだと思うと、今更のように血の気が引くのを感じてしまう。
しかも、一体いまは何時だろうか。
気がつけば夕焼け色に包まれていた空間には、いくらか闇が混じり始めている。校庭から聞こえていた生徒たちの声は消え、夜の匂いを纏う風がカーテンを揺らしていた。
「じょ、承太郎ってば」
身じろぐ花京院を、承太郎はさらに強く抱きしめて「もう少し」と呟いた。
「やっと誤解も解けててめーと結ばれたんだ。もう少し浸らせろ」
「……言っておくが、誤解は完全に解けちゃあいないぞ」
この際あの女医を誘惑した理由については、複雑ではあるが信じよう。彼女に最後まで手を出していないという点も含めて。
だけどあのキスシーンに関しては、完全に納得したわけじゃない。別れの延長とかなんとか言っていた気がするが、最後にキスをしてさようなら、なんてファンタジーやメルヘンじゃあるまいし。
「なんだ、怒ってんのか」
「怒ってる、というか……見たくなかったな、と思って」
俯く花京院に、承太郎は珍しく気まずげな溜息を漏らした。
「てめーが納得しようがしまいが、おれは真実しか言えねえ」
「……うん」
「あんときゃあの女医に呼ばれて、妊娠やら結婚の話を聞いた。いわゆる別れ話ってやつだ。おれも女医が結婚してるなんざ知らなかったからな。ちょっぴり驚かされたぜ」
ファンタジーやメルヘンのような世界が、実際そこにはあったらしい。
承太郎に別れを切り出した女医は、最後に一度だけキスがしたいと涙ながらに縋ったという。それで全て忘れるからと。
その話を聞いて、花京院はただ複雑な心境を持て余すばかりだった。
彼女は承太郎に惑わされただけだ。彼の心が全く別のところにあるとも知らず、その気にさせられていたにすぎなかった。
だからこそ別れ話、というワードがあまりにも滑稽で、最後のキスに断腸の思いを込めた彼女を哀れに思う。
同時に、自分に嫌悪感が沸いた。
(承太郎よりもよほど、ぼくの方がずっと性格が悪い)
一度は憧れを抱いた女性を憐れみながら、花京院は安堵と喜びを同時に覚えていた。むしろ全ての女性に対しての優越感、かもしれない。
信じられないような話だけれど、あの空条承太郎がこうして腕に抱いているのが、他の誰でもないこの自分なのだということに。
花京院は承太郎の喉元に額を擦りよせ、自嘲的な笑みを浮かべる。すると承太郎の手が花京院の顎にかかり、そっと上向かされると同時に唇が重なった。
優しく幾度も繰り返されるキスはまるで許しを請うようで、何もかもどうでもよくなってしまうから、ずるいと思う。
思わずムッとした表情を浮かべる花京院を見て、承太郎は少し不貞腐れたように「なんだよ」と言った。
それが無性に可愛く見えてしまって、末期だなぁと自分に呆れる。
「そうやって、最初からちゃんと言ってくれたらよかったんだ」
気恥ずかしさから、つい口調が刺々しくなるのを止められない。
「大体な、君は言葉が足りないんだ。そのせいで、ぼくは君が男も女も関係なくたらしこむ、とんだ遊び人だと思い込んでいたよ」
「おれはシンプルに態度で示してたつもりだぜ」
「その遠回しに察しろオーラ出すのやめてくれるか」
「……遊びで野郎のケツなんざ掘れるかよ」
「そ、そういう言い方するなッ、いたた……」
大声を出しかけたせいで、腰に響いた。実のところ、さきほどからずっと腰が抜けたような違和感があって、あらぬ場所には鈍痛を覚えている。咄嗟に腰を押さえると、承太郎はいつもの「やれやれ」という口癖を放ちながら、花京院の耳たぶに口付けた。
「最初に目についたのはこの赤い髪と……ピアスだ」
「ピアス?」
「妙にキラキラして見えてよ。ようわからんが、ありゃ一目惚れってやつかもな」
言葉が足りないという文句を聞き入れたのか、小さな子供に寝物語でも聞かせるみたいに、承太郎は静かに語る。
「おまえを初めて見たのはまさにこの場所だぜ。てめーは気づいちゃいなかったろうがな」
その日は偶然ここを昼寝の場所に選んだ。ただそれだけだったのだと、承太郎は言った。花京院は保健室の常連だったから、それがいつのことだったのかは、ハッキリとは分からないけれど。
「一目見た瞬間、こいつだと直感した。見えない糸があるんだとしたら、おれとてめーは繋がってるってな。それこそ男も女も関係ねえ。そのときから、ずっとてめーだけを愛してる」
花京院は唇を噛み締めるばかりで、何一つ言葉を発することができなかった。
一目惚れとか、見えない糸とか。そんなことを恥ずかしげもなく言ってのけるものだから、こちらの方が恥ずかしくて仕方がなくなってしまう。
「これで足りたかよ。言葉」
「…………」
花京院はどうしたらいいのか分からなくて泳がせた目を、自分の肩を抱く承太郎の指先でふと止めた。相変わらず短く爪が切り揃えられているそこは、深く切りすぎて赤くなっている部分もある。
だから少し、泣きたくなった。
承太郎は優しかった。最初からずっと。
強引に奪いながらも、いつも花京院の身体を労わってくれていた。毎日のように巨大な弁当箱を引っさげて来たり、時間の許す限り今みたいに花京院をただ抱きしめていた。倒れればお姫様抱っこで保健室に運んだりもして。
(鈍いなぁ、ぼくは)
不器用なのか器用なのか。
承太郎はやっぱり分からないやつだ。だけど怖いくらい愛情深い男だということが今の花京院には分かるから、つい気が抜けたように溜息が漏れる。
「とりあえず、君が趣味の悪い男だってことは、よくわかったよ」
「言うじゃあねえか」
つい可愛げのないことを言ってしまったが、承太郎は楽しそうに肩を震わせて笑った。その振動が腕の中にいる花京院にも伝わって、それが少しくすぐったい。
彼の言う通り、こちらまでもう少し浸っていたいような気分になったが、どこまでいってもここは保健室である。
「承太郎、もうそろそろ帰ろう」
「待て花京院。おれにもひとつ聞かせろ」
「な、なに?」
「あの弁当はてめーの手作りか?」
「へ……?」
弁当、というのはもしや、花京院が承太郎に投げつけた、あの弁当のことか。
そういえばあれはどうしたのだろうかと思ってはいたが、わざわざ聞くのも間抜けな気がしてあえて話題に出さなかったのだが。
「いや、あれはその、作ったというか、なんというか……あれ、どうしたんだ?」
おずおずと上目使いで見上げると、承太郎はケロリとした表情で「食った」と言う。
「え!? 食べたのか!?」
「勿体ねーだろ。腐ってるわけでもあるまいし」
「だ、だって……中身ぐちゃぐちゃで酷い有様だったんじゃ……?」
「食っちまえば一緒だ。花京院、食い物は粗末にしちゃあいけねえぜ」
「そんなことは分かってる」
で、果たしてどうだったのだろうか。決して見栄えのよくない卵焼きの味は。それとも、中身が荒れすぎて味どころではなかっただろうか。
「で? どうなんだ? てめーが作ったのか?」
「しつこいな……それってそんなに重要なことか?」
「細かいことが気になると、夜も眠れねえタチなんでな」
「……卵焼きだけだよ」
なんだかバツが悪い。目を逸らしながら吐き捨てると、承太郎は満足げにニヤリと笑って「やっぱりな」と言う。
「どうりでやたらと甘かったわけだ」
甘いのは君の方だよと、憎まれ口を叩くみたいに言うつもりだった言葉は、承太郎の唇に吐息ごと、奪われてしまった。
*
「典明さん、今日はどうしたの? 長袖にはまだ早いのではないかしら」
朝、長袖の学生服をきっちりと着込んで台所に立つ息子を見て、母が目を丸くした。ボウルに落とした卵を溶いていた花京院は、そのもっともなツッコミにぎくりと肩を強張らせる。
「い、いやあの……今朝は少し、冷えるなあと。あはは」
「そうかしら?」
「そうですよ。夏風邪は性質が悪いですから」
「それもそうね。ああ、いけないわ。そんなに乱暴に溶かないで。もっと軽くでいいんですよ」
「あっ、あ、すみません!」
動揺が手先に現れてしまったらしい。平常心平常心と心の中で繰り返し、ふっと息を吐き出した。
花京院だって、真夏にこんな暑苦しい制服なんか着たくない。が、首筋まできっちり覆い隠さなければ、保健室での情事の痕が見えてしまう。花京院の肌の至るところには、承太郎の歯型や鬱血の痕が残っていた。
(どうしてくれるんだ承太郎……しばらく半袖シャツだけで歩けないじゃあないか……!)
心の中で、晴れて恋人同士になった男に文句を垂れる。とにかく今は、うまく誤魔化せたことだけが救いに思えた。
あまり時間もないことだし、今日は失敗せずに一発で玉子焼きを焼き上げたい。
味付けは、少し甘めで。色合いも大事にしたいから、醤油は薄口のもの。匙加減にはイマイチ自信がないが、まぁ、不味くはないだろう。
熱したフライパンを真剣な表情で睨み付け、油をひこうとする花京院を見て、隣で母が小さく笑う気配がした。
「なに? 母さん」
「いいえ。典明さん、男の子なのにそのピアスが本当によく似合っていると思って」
母はどこか眩しいものでも見るように、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスに目を細めた。
「あなたがお腹にいたころ、先生には女の子だって言われていたの」
「ぼくが?」
「ええ。だからお父さんと一緒に、女の子の名前まで考えていたのよ」
「生まれてみたら、男だったんですね」
もちろん嬉しかったわよと、そう言って笑う母は息子の目から見てもいまだ若々しく、可憐な少女のようにも見える。花京院のこの赤い髪は母親譲りのものだった。
「だからそのピアスは、あなたが女の子だったら渡すつもりでいたものなの」
「そうだったんですか」
「ええ。だけど男の子だったでしょう? それならあなたがお嫁さんをもらって、子供が生まれたとき、孫が女の子だったらプレゼントしようって」
その言葉に、花京院はふと手を止めて、思わず母の顔を見た。
「女の子が生まれるか分からないのに?」
「いいのよ。こうして楽しみにしていられることが嬉しいんだもの。だけどよかった。あなたは私にそっくりだから、本当によく似合っていますよ」
母が昔からこのピアスを大切にしていたことは知っている。けれどそんな風に考えていたことは、知らなかった。
(ずっと諦められているのだと思っていたから)
入退院を繰り返していた幼い頃、夜になると必ず身を寄せ合って泣いていた両親を思い出す。
それを見る度に、自分は存在しているだけで彼らを悲しませているのではないかと、胸を痛めていた。だけど、そうじゃなかった。
父も母も、ただ息子の未来だけを願い、恐れていただけだ。息子は今や母の背を超え、父と並ぶほど大きくなった。こうして花京院が生きる『今』を、あの頃の彼らはただ夢見ていただけだった。
違うのは、あの頃は失うことを恐れて泣きながら見ていた夢を、今はこうして笑顔で見ているということだろうか。
(ごめんなさい)
花京院は母からそっと目を逸らし、心の中で謝罪する。
きっと自分は、この先の未来に父と母が膨らませる夢を叶えてはやれない。花京院が愛したのは可愛い孫を産める女性ではなく、男性だからだ。
それでも不思議と後悔はなかった。承太郎を好きになったことを、決して悔やまない自信がある。なんの根拠もないけれど、多分、死ぬまで。
「ピアス」
「なぁに? 典明さん」
「ぼくが貰えてよかった。一生大事にするよ、母さん」
キラキラ光る、チェリーのような赤いピアス。
目に見えない糸のような繋がりを、見えないままに最愛と巡り合えない人間が、この世界にどれほどいるだろう。
これがあったから、承太郎が自分を見つけてくれたような、そんな気さえして。
はにかんだ笑顔を浮かべる息子を見て、母も微笑んだ。そして。
「典明さん」
「はい」
「フライパン、黒こげですね?」
「へ……? え? あッ! あぁ~ッ!?」
花京院は卵焼きが失敗する以前に、フライパンをひとつ、ダメにした。
*
(大失敗だ……)
学校へと向かう道中、花京院はがっくりと肩を落として溜息を漏らした。
幸い、フライパンは卵焼き専用のものだったため、通常の丸いフライパンを使用してなんとか作り上げることには成功した。
が、あまり見栄えはよろしくない。味に自信がないぶん、せめて見た目だけでも完璧を目指したというのに、とんだ失態である。
(承太郎なら食えりゃあなんでもいい、とか言いそうだけど)
それにしても。
花京院は丸くなっていた姿勢を正しながら、視線だけ辺りを見回す。
同じく学校へ行く生徒たちが多く見られる中で、どうも何かが突き刺さるのを感じてしまう。それは数多の視線だった。
中にはクラスメイトの顔もちらほら見える。男子は怖々といった様子で、女子は頬を染めるものや、ともすれば敵意ともとれるような鋭いものを向けてくる者もいた。
(なんだろう……厚着して歩いてるから、やっぱりおかしいのかな。今日も暑いし……)
とてつもない居心地の悪さを感じて、おのずと歩調が速くなる。朝から太陽が燦々と輝く空の下、長袖詰襟はやっぱり暑い。
かと言って脱ぎ捨てるわけにもいかないのだから、どうしようもなかった。
そんな中、前方に人だかりを発見してついドキリとした。
「あぁん! 今日も素敵……やっぱりJOJOは最高だわ!」
「ねぇJOJO~! 今日のお昼はわたしと一緒に食べましょ?」
「抜け駆けする気!? JOJO、こんな女よりわたしの方がいいわよね?」
(やれやれ、今日もモテモテだな、承太郎)
セーラー服を着た女子生徒たちをまとわりつかせ、ヌシヌシと歩く広い背中を見て、花京院は口元に手をやると小さく笑った。
学生鞄の他に、ちゃっかりあの巨大な弁当箱も持っているのを見て、なんだか嬉しくなる。
(一緒に登校とか……憧れなくもないけど、目立つのは嫌だしな)
本当は、堂々と隣を歩きたいような気持ちもあるけれど。
どうせ昼休みは二人きりだ。今日からまた一緒に昼食をとる約束をしているのだから、今くらいは彼女たちに譲ろう。
そう思った矢先、キャーキャーと騒ぎ続ける女子たちに、ついに承太郎の堪忍袋の緒が切れた。
「やかましいッ! 朝っぱらからうっとおしいぞッ!!」
そのよく響く怒声に、辺りは一瞬静まり返る。が、すぐにまた黄色い歓声があがりはじめ、なんの効果もないことが知れた。モテすぎるというのも大変だ。
承太郎は忌々しげに舌打ちをすると、ぴたりと足を止めて振り向いた。そして
「花京院!」
と、こちらを見て名前を呼んだ。
「え!?」
突然のことにギョッとする花京院に向かって、彼は軽く顎をしゃくって見せた。来い、という合図だ。
承太郎を取り囲んでいた女子たちがこちらを凝視する中、花京院はぶんぶんと首を左右に振る。が、承太郎の射抜くような視線は有無を言わさぬ力があって、花京院は肩を竦めながら背中を丸め、おずおずと承太郎に近づいた。
(うわぁ……凄い睨まれてないか……?)
花京院が近づくと、女子たちがさぁっと波がひくように退いた。その視線がいたたまれなくて、花京院は恨めしそうに承太郎を上目使いで睨み付ける。
「コソコソするんじゃねーよ。さっさと来い」
「コソコソなんてしてないですよ。人聞きが悪いな」
なんて言いながら、話す声は内緒話をするようなひっそりとしたものになってしまう。歩き出すと女子たちが一定の距離を保ちながらぞろぞろとついてきて、これは一体なんの行列だろうかと首を傾げたくなった。
しかも周りからの視線は相変わらずつきまとっていた。この暑い中、暑苦しい格好をした二人が並んで歩いていれば仕方がないのか。片方はあの空条承太郎でもある。
(あぁ……居心地が悪い……)
やっぱり承太郎の隣を堂々と歩くには、自分はまだ精神的に弱すぎる。もし自分が女性であったなら、誇らしげに腕でも組んで見せつけてやることが……いや、無理だ。どっちにしろ、この得体のしれない視線に耐えるだけのメンタルは持ち合わせていない。
「顔色が悪い。夕べはちゃんと休んだのか?」
承太郎がちらりと横目で視線を送って来る。怒っているようにも見える表情だが、おそらく昨日の今日で花京院の体調を気遣ってくれているのだろう。昨日だってわざわざ自宅まで送り届けてくれたし、無理をさせたと謝罪までされてしまった。
その気遣いが嬉しい反面、なるべく思い出さないようにしていた保健室での情事が脳裏に鮮明に蘇って、今更のように熱があがった。
「だ、大丈夫。今日は凄く、調子がいいよ」
「あんまりそうは見えねえが。なんなら保健室に連れてってやろうか?」
「それは遠慮しておく」
保健室になんか行ったら、ますます思い出してしまう。それに、承太郎の連れて行く、は絶対に普通じゃない。
「こんな往来でお姫様抱っこなんか、冗談じゃないよ。二度あったことが三度もあってたまるか」
「…………」
「な、なんだよ」
黙って見下ろしてくる承太郎は、何か言いたげな様子だ。この男は意外と繊細だったりもするから、今の言い方は少しキツすぎたのだろうか。
だが、そんな花京院の不安は杞憂に終わった。
「三度目なら、とっくにあったぜ」
「……は?」
どういうことかと首を傾げる花京院に、承太郎は「覚えてねえか」と低く呟いた。
「なんの話だ?」
「昨日、おまえを保健室まで運んだのはおれだからな」
「はい?」
「廊下で引きずられてるてめーを見つけたから、おれが身柄を引き受けた」
「な……」
なんだと……?
「ぼ、ぼくを運んでくれたのは、保健委員じゃない、のか……?」
「途中まではな」
そこでようやく花京院は、こんなにも自分に集まる視線の理由に気がついた。
「ねぇ、あの花京院くんってJOJOのなんなの?」
「さぁ? だけどなんだかとても親密らしいわよ」
「昨日、隣のクラスの子がJOJOが花京院くんをお姫様抱っこしてるの見たって」
「そのあとずっと保健室から出てこなかったって本当?」
「な、なにそれどういうこと!? もしかして二人って……」
こそこそと話しているつもりらしいが、ばっちり聞こえる。
花京院はさぁっと血の気が引くのを感じると共に眩暈がして、咄嗟に額を手の平で押さえた。
なんということだ。恐れていたことが起こってしまった。
絶対に見られたくないと思っていた場面をクラスメイトに見られて、しかもあらぬ噂がほぼ学校中に広まっているなんて。
いや、実際はあらぬ噂ではなく、真実なのだが……。
「なんてことを……なんてことをしてくれたんだ君はッ」
「おい花京院、そこは承太郎さん親切にどうもありがとう、と言うところだぜ」
「言うかッ!!」
「てめーは一体なにが不満なんだ」
分かっていない。この男は何も分かっていない。
これから一体どんな顔を引っさげて学校生活を送ればいいのだろうか。今にも逃げ出して、家に引きこもってゲーム三昧の生活でも送ってやろうか。
「とにかく、頼むからもうお姫様抱っこはやめてくれ……ぼくにだって男性としてのプライドくらいある……」
「しょうがねえな。次からは俵担ぎにしとくか」
「普通に肩貸してくれるだけでいいよッ!!」
ついに怒鳴ってしまった花京院を見て、承太郎は帽子の鍔を指先で摘まみ、僅かに引き下げると「やぁれやれだぜ」と呆れたように言った。
「ピーチクパーチク、腹空かした小鳥の雛みてーだな」
「そのいちいち小さいものに例えるのも、やめてくれないか……」
涙目で睨み付けると、承太郎は楽しそうにニヤリと笑う。悪そうな顔をしているくせに、いちいち格好いいからいっそ腹が立つ。こんなときでさえ胸を高鳴らせている自分に。
「可愛くて可愛くて、仕方がねえってことだぜ」
やっぱり君の表現は遠回しで、分かりにくいじゃあないか。
そう思ったけれど、言われて満更でもない自分が恥ずかしくて、花京院は大き目の唇をきゅっと引き結んだ。
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花京院が意識をすっ飛ばしている間に濡れタオルで手早く身体を清め、しっかりと衣服やシーツを整え、その間にふっと目を覚ました花京院が声を発そうとして噎せれば、口移しで水まで飲ませてくれる始末だった。
花京院が意識を失っていたのはものの十数分の間だったが、気づけば何事もなかったかのように、ただベッドの縁に腰かける承太郎の胸にもたれかかっているという有様である。
「あの、承太郎」
「ん」
「そろそろ離してくれると……ありがたいのだが……」
承太郎は腕の中にいる花京院の頭部に顔を埋めて、一息ついている。まるでぬいぐるみか抱き枕にでもなったような気分だ。
いや、むしろこちらが大きなクマのぬいぐるみに抱き付かれている、と表現した方がしっくりくるだろうか。
とはいえ、ここはまだ学校の保健室だ。誰が来たっておかしくないような場所で、よくもまぁあれほど激しく抱き合ったものだと思うと、今更のように血の気が引くのを感じてしまう。
しかも、一体いまは何時だろうか。
気がつけば夕焼け色に包まれていた空間には、いくらか闇が混じり始めている。校庭から聞こえていた生徒たちの声は消え、夜の匂いを纏う風がカーテンを揺らしていた。
「じょ、承太郎ってば」
身じろぐ花京院を、承太郎はさらに強く抱きしめて「もう少し」と呟いた。
「やっと誤解も解けててめーと結ばれたんだ。もう少し浸らせろ」
「……言っておくが、誤解は完全に解けちゃあいないぞ」
この際あの女医を誘惑した理由については、複雑ではあるが信じよう。彼女に最後まで手を出していないという点も含めて。
だけどあのキスシーンに関しては、完全に納得したわけじゃない。別れの延長とかなんとか言っていた気がするが、最後にキスをしてさようなら、なんてファンタジーやメルヘンじゃあるまいし。
「なんだ、怒ってんのか」
「怒ってる、というか……見たくなかったな、と思って」
俯く花京院に、承太郎は珍しく気まずげな溜息を漏らした。
「てめーが納得しようがしまいが、おれは真実しか言えねえ」
「……うん」
「あんときゃあの女医に呼ばれて、妊娠やら結婚の話を聞いた。いわゆる別れ話ってやつだ。おれも女医が結婚してるなんざ知らなかったからな。ちょっぴり驚かされたぜ」
ファンタジーやメルヘンのような世界が、実際そこにはあったらしい。
承太郎に別れを切り出した女医は、最後に一度だけキスがしたいと涙ながらに縋ったという。それで全て忘れるからと。
その話を聞いて、花京院はただ複雑な心境を持て余すばかりだった。
彼女は承太郎に惑わされただけだ。彼の心が全く別のところにあるとも知らず、その気にさせられていたにすぎなかった。
だからこそ別れ話、というワードがあまりにも滑稽で、最後のキスに断腸の思いを込めた彼女を哀れに思う。
同時に、自分に嫌悪感が沸いた。
(承太郎よりもよほど、ぼくの方がずっと性格が悪い)
一度は憧れを抱いた女性を憐れみながら、花京院は安堵と喜びを同時に覚えていた。むしろ全ての女性に対しての優越感、かもしれない。
信じられないような話だけれど、あの空条承太郎がこうして腕に抱いているのが、他の誰でもないこの自分なのだということに。
花京院は承太郎の喉元に額を擦りよせ、自嘲的な笑みを浮かべる。すると承太郎の手が花京院の顎にかかり、そっと上向かされると同時に唇が重なった。
優しく幾度も繰り返されるキスはまるで許しを請うようで、何もかもどうでもよくなってしまうから、ずるいと思う。
思わずムッとした表情を浮かべる花京院を見て、承太郎は少し不貞腐れたように「なんだよ」と言った。
それが無性に可愛く見えてしまって、末期だなぁと自分に呆れる。
「そうやって、最初からちゃんと言ってくれたらよかったんだ」
気恥ずかしさから、つい口調が刺々しくなるのを止められない。
「大体な、君は言葉が足りないんだ。そのせいで、ぼくは君が男も女も関係なくたらしこむ、とんだ遊び人だと思い込んでいたよ」
「おれはシンプルに態度で示してたつもりだぜ」
「その遠回しに察しろオーラ出すのやめてくれるか」
「……遊びで野郎のケツなんざ掘れるかよ」
「そ、そういう言い方するなッ、いたた……」
大声を出しかけたせいで、腰に響いた。実のところ、さきほどからずっと腰が抜けたような違和感があって、あらぬ場所には鈍痛を覚えている。咄嗟に腰を押さえると、承太郎はいつもの「やれやれ」という口癖を放ちながら、花京院の耳たぶに口付けた。
「最初に目についたのはこの赤い髪と……ピアスだ」
「ピアス?」
「妙にキラキラして見えてよ。ようわからんが、ありゃ一目惚れってやつかもな」
言葉が足りないという文句を聞き入れたのか、小さな子供に寝物語でも聞かせるみたいに、承太郎は静かに語る。
「おまえを初めて見たのはまさにこの場所だぜ。てめーは気づいちゃいなかったろうがな」
その日は偶然ここを昼寝の場所に選んだ。ただそれだけだったのだと、承太郎は言った。花京院は保健室の常連だったから、それがいつのことだったのかは、ハッキリとは分からないけれど。
「一目見た瞬間、こいつだと直感した。見えない糸があるんだとしたら、おれとてめーは繋がってるってな。それこそ男も女も関係ねえ。そのときから、ずっとてめーだけを愛してる」
花京院は唇を噛み締めるばかりで、何一つ言葉を発することができなかった。
一目惚れとか、見えない糸とか。そんなことを恥ずかしげもなく言ってのけるものだから、こちらの方が恥ずかしくて仕方がなくなってしまう。
「これで足りたかよ。言葉」
「…………」
花京院はどうしたらいいのか分からなくて泳がせた目を、自分の肩を抱く承太郎の指先でふと止めた。相変わらず短く爪が切り揃えられているそこは、深く切りすぎて赤くなっている部分もある。
だから少し、泣きたくなった。
承太郎は優しかった。最初からずっと。
強引に奪いながらも、いつも花京院の身体を労わってくれていた。毎日のように巨大な弁当箱を引っさげて来たり、時間の許す限り今みたいに花京院をただ抱きしめていた。倒れればお姫様抱っこで保健室に運んだりもして。
(鈍いなぁ、ぼくは)
不器用なのか器用なのか。
承太郎はやっぱり分からないやつだ。だけど怖いくらい愛情深い男だということが今の花京院には分かるから、つい気が抜けたように溜息が漏れる。
「とりあえず、君が趣味の悪い男だってことは、よくわかったよ」
「言うじゃあねえか」
つい可愛げのないことを言ってしまったが、承太郎は楽しそうに肩を震わせて笑った。その振動が腕の中にいる花京院にも伝わって、それが少しくすぐったい。
彼の言う通り、こちらまでもう少し浸っていたいような気分になったが、どこまでいってもここは保健室である。
「承太郎、もうそろそろ帰ろう」
「待て花京院。おれにもひとつ聞かせろ」
「な、なに?」
「あの弁当はてめーの手作りか?」
「へ……?」
弁当、というのはもしや、花京院が承太郎に投げつけた、あの弁当のことか。
そういえばあれはどうしたのだろうかと思ってはいたが、わざわざ聞くのも間抜けな気がしてあえて話題に出さなかったのだが。
「いや、あれはその、作ったというか、なんというか……あれ、どうしたんだ?」
おずおずと上目使いで見上げると、承太郎はケロリとした表情で「食った」と言う。
「え!? 食べたのか!?」
「勿体ねーだろ。腐ってるわけでもあるまいし」
「だ、だって……中身ぐちゃぐちゃで酷い有様だったんじゃ……?」
「食っちまえば一緒だ。花京院、食い物は粗末にしちゃあいけねえぜ」
「そんなことは分かってる」
で、果たしてどうだったのだろうか。決して見栄えのよくない卵焼きの味は。それとも、中身が荒れすぎて味どころではなかっただろうか。
「で? どうなんだ? てめーが作ったのか?」
「しつこいな……それってそんなに重要なことか?」
「細かいことが気になると、夜も眠れねえタチなんでな」
「……卵焼きだけだよ」
なんだかバツが悪い。目を逸らしながら吐き捨てると、承太郎は満足げにニヤリと笑って「やっぱりな」と言う。
「どうりでやたらと甘かったわけだ」
甘いのは君の方だよと、憎まれ口を叩くみたいに言うつもりだった言葉は、承太郎の唇に吐息ごと、奪われてしまった。
*
「典明さん、今日はどうしたの? 長袖にはまだ早いのではないかしら」
朝、長袖の学生服をきっちりと着込んで台所に立つ息子を見て、母が目を丸くした。ボウルに落とした卵を溶いていた花京院は、そのもっともなツッコミにぎくりと肩を強張らせる。
「い、いやあの……今朝は少し、冷えるなあと。あはは」
「そうかしら?」
「そうですよ。夏風邪は性質が悪いですから」
「それもそうね。ああ、いけないわ。そんなに乱暴に溶かないで。もっと軽くでいいんですよ」
「あっ、あ、すみません!」
動揺が手先に現れてしまったらしい。平常心平常心と心の中で繰り返し、ふっと息を吐き出した。
花京院だって、真夏にこんな暑苦しい制服なんか着たくない。が、首筋まできっちり覆い隠さなければ、保健室での情事の痕が見えてしまう。花京院の肌の至るところには、承太郎の歯型や鬱血の痕が残っていた。
(どうしてくれるんだ承太郎……しばらく半袖シャツだけで歩けないじゃあないか……!)
心の中で、晴れて恋人同士になった男に文句を垂れる。とにかく今は、うまく誤魔化せたことだけが救いに思えた。
あまり時間もないことだし、今日は失敗せずに一発で玉子焼きを焼き上げたい。
味付けは、少し甘めで。色合いも大事にしたいから、醤油は薄口のもの。匙加減にはイマイチ自信がないが、まぁ、不味くはないだろう。
熱したフライパンを真剣な表情で睨み付け、油をひこうとする花京院を見て、隣で母が小さく笑う気配がした。
「なに? 母さん」
「いいえ。典明さん、男の子なのにそのピアスが本当によく似合っていると思って」
母はどこか眩しいものでも見るように、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスに目を細めた。
「あなたがお腹にいたころ、先生には女の子だって言われていたの」
「ぼくが?」
「ええ。だからお父さんと一緒に、女の子の名前まで考えていたのよ」
「生まれてみたら、男だったんですね」
もちろん嬉しかったわよと、そう言って笑う母は息子の目から見てもいまだ若々しく、可憐な少女のようにも見える。花京院のこの赤い髪は母親譲りのものだった。
「だからそのピアスは、あなたが女の子だったら渡すつもりでいたものなの」
「そうだったんですか」
「ええ。だけど男の子だったでしょう? それならあなたがお嫁さんをもらって、子供が生まれたとき、孫が女の子だったらプレゼントしようって」
その言葉に、花京院はふと手を止めて、思わず母の顔を見た。
「女の子が生まれるか分からないのに?」
「いいのよ。こうして楽しみにしていられることが嬉しいんだもの。だけどよかった。あなたは私にそっくりだから、本当によく似合っていますよ」
母が昔からこのピアスを大切にしていたことは知っている。けれどそんな風に考えていたことは、知らなかった。
(ずっと諦められているのだと思っていたから)
入退院を繰り返していた幼い頃、夜になると必ず身を寄せ合って泣いていた両親を思い出す。
それを見る度に、自分は存在しているだけで彼らを悲しませているのではないかと、胸を痛めていた。だけど、そうじゃなかった。
父も母も、ただ息子の未来だけを願い、恐れていただけだ。息子は今や母の背を超え、父と並ぶほど大きくなった。こうして花京院が生きる『今』を、あの頃の彼らはただ夢見ていただけだった。
違うのは、あの頃は失うことを恐れて泣きながら見ていた夢を、今はこうして笑顔で見ているということだろうか。
(ごめんなさい)
花京院は母からそっと目を逸らし、心の中で謝罪する。
きっと自分は、この先の未来に父と母が膨らませる夢を叶えてはやれない。花京院が愛したのは可愛い孫を産める女性ではなく、男性だからだ。
それでも不思議と後悔はなかった。承太郎を好きになったことを、決して悔やまない自信がある。なんの根拠もないけれど、多分、死ぬまで。
「ピアス」
「なぁに? 典明さん」
「ぼくが貰えてよかった。一生大事にするよ、母さん」
キラキラ光る、チェリーのような赤いピアス。
目に見えない糸のような繋がりを、見えないままに最愛と巡り合えない人間が、この世界にどれほどいるだろう。
これがあったから、承太郎が自分を見つけてくれたような、そんな気さえして。
はにかんだ笑顔を浮かべる息子を見て、母も微笑んだ。そして。
「典明さん」
「はい」
「フライパン、黒こげですね?」
「へ……? え? あッ! あぁ~ッ!?」
花京院は卵焼きが失敗する以前に、フライパンをひとつ、ダメにした。
*
(大失敗だ……)
学校へと向かう道中、花京院はがっくりと肩を落として溜息を漏らした。
幸い、フライパンは卵焼き専用のものだったため、通常の丸いフライパンを使用してなんとか作り上げることには成功した。
が、あまり見栄えはよろしくない。味に自信がないぶん、せめて見た目だけでも完璧を目指したというのに、とんだ失態である。
(承太郎なら食えりゃあなんでもいい、とか言いそうだけど)
それにしても。
花京院は丸くなっていた姿勢を正しながら、視線だけ辺りを見回す。
同じく学校へ行く生徒たちが多く見られる中で、どうも何かが突き刺さるのを感じてしまう。それは数多の視線だった。
中にはクラスメイトの顔もちらほら見える。男子は怖々といった様子で、女子は頬を染めるものや、ともすれば敵意ともとれるような鋭いものを向けてくる者もいた。
(なんだろう……厚着して歩いてるから、やっぱりおかしいのかな。今日も暑いし……)
とてつもない居心地の悪さを感じて、おのずと歩調が速くなる。朝から太陽が燦々と輝く空の下、長袖詰襟はやっぱり暑い。
かと言って脱ぎ捨てるわけにもいかないのだから、どうしようもなかった。
そんな中、前方に人だかりを発見してついドキリとした。
「あぁん! 今日も素敵……やっぱりJOJOは最高だわ!」
「ねぇJOJO~! 今日のお昼はわたしと一緒に食べましょ?」
「抜け駆けする気!? JOJO、こんな女よりわたしの方がいいわよね?」
(やれやれ、今日もモテモテだな、承太郎)
セーラー服を着た女子生徒たちをまとわりつかせ、ヌシヌシと歩く広い背中を見て、花京院は口元に手をやると小さく笑った。
学生鞄の他に、ちゃっかりあの巨大な弁当箱も持っているのを見て、なんだか嬉しくなる。
(一緒に登校とか……憧れなくもないけど、目立つのは嫌だしな)
本当は、堂々と隣を歩きたいような気持ちもあるけれど。
どうせ昼休みは二人きりだ。今日からまた一緒に昼食をとる約束をしているのだから、今くらいは彼女たちに譲ろう。
そう思った矢先、キャーキャーと騒ぎ続ける女子たちに、ついに承太郎の堪忍袋の緒が切れた。
「やかましいッ! 朝っぱらからうっとおしいぞッ!!」
そのよく響く怒声に、辺りは一瞬静まり返る。が、すぐにまた黄色い歓声があがりはじめ、なんの効果もないことが知れた。モテすぎるというのも大変だ。
承太郎は忌々しげに舌打ちをすると、ぴたりと足を止めて振り向いた。そして
「花京院!」
と、こちらを見て名前を呼んだ。
「え!?」
突然のことにギョッとする花京院に向かって、彼は軽く顎をしゃくって見せた。来い、という合図だ。
承太郎を取り囲んでいた女子たちがこちらを凝視する中、花京院はぶんぶんと首を左右に振る。が、承太郎の射抜くような視線は有無を言わさぬ力があって、花京院は肩を竦めながら背中を丸め、おずおずと承太郎に近づいた。
(うわぁ……凄い睨まれてないか……?)
花京院が近づくと、女子たちがさぁっと波がひくように退いた。その視線がいたたまれなくて、花京院は恨めしそうに承太郎を上目使いで睨み付ける。
「コソコソするんじゃねーよ。さっさと来い」
「コソコソなんてしてないですよ。人聞きが悪いな」
なんて言いながら、話す声は内緒話をするようなひっそりとしたものになってしまう。歩き出すと女子たちが一定の距離を保ちながらぞろぞろとついてきて、これは一体なんの行列だろうかと首を傾げたくなった。
しかも周りからの視線は相変わらずつきまとっていた。この暑い中、暑苦しい格好をした二人が並んで歩いていれば仕方がないのか。片方はあの空条承太郎でもある。
(あぁ……居心地が悪い……)
やっぱり承太郎の隣を堂々と歩くには、自分はまだ精神的に弱すぎる。もし自分が女性であったなら、誇らしげに腕でも組んで見せつけてやることが……いや、無理だ。どっちにしろ、この得体のしれない視線に耐えるだけのメンタルは持ち合わせていない。
「顔色が悪い。夕べはちゃんと休んだのか?」
承太郎がちらりと横目で視線を送って来る。怒っているようにも見える表情だが、おそらく昨日の今日で花京院の体調を気遣ってくれているのだろう。昨日だってわざわざ自宅まで送り届けてくれたし、無理をさせたと謝罪までされてしまった。
その気遣いが嬉しい反面、なるべく思い出さないようにしていた保健室での情事が脳裏に鮮明に蘇って、今更のように熱があがった。
「だ、大丈夫。今日は凄く、調子がいいよ」
「あんまりそうは見えねえが。なんなら保健室に連れてってやろうか?」
「それは遠慮しておく」
保健室になんか行ったら、ますます思い出してしまう。それに、承太郎の連れて行く、は絶対に普通じゃない。
「こんな往来でお姫様抱っこなんか、冗談じゃないよ。二度あったことが三度もあってたまるか」
「…………」
「な、なんだよ」
黙って見下ろしてくる承太郎は、何か言いたげな様子だ。この男は意外と繊細だったりもするから、今の言い方は少しキツすぎたのだろうか。
だが、そんな花京院の不安は杞憂に終わった。
「三度目なら、とっくにあったぜ」
「……は?」
どういうことかと首を傾げる花京院に、承太郎は「覚えてねえか」と低く呟いた。
「なんの話だ?」
「昨日、おまえを保健室まで運んだのはおれだからな」
「はい?」
「廊下で引きずられてるてめーを見つけたから、おれが身柄を引き受けた」
「な……」
なんだと……?
「ぼ、ぼくを運んでくれたのは、保健委員じゃない、のか……?」
「途中まではな」
そこでようやく花京院は、こんなにも自分に集まる視線の理由に気がついた。
「ねぇ、あの花京院くんってJOJOのなんなの?」
「さぁ? だけどなんだかとても親密らしいわよ」
「昨日、隣のクラスの子がJOJOが花京院くんをお姫様抱っこしてるの見たって」
「そのあとずっと保健室から出てこなかったって本当?」
「な、なにそれどういうこと!? もしかして二人って……」
こそこそと話しているつもりらしいが、ばっちり聞こえる。
花京院はさぁっと血の気が引くのを感じると共に眩暈がして、咄嗟に額を手の平で押さえた。
なんということだ。恐れていたことが起こってしまった。
絶対に見られたくないと思っていた場面をクラスメイトに見られて、しかもあらぬ噂がほぼ学校中に広まっているなんて。
いや、実際はあらぬ噂ではなく、真実なのだが……。
「なんてことを……なんてことをしてくれたんだ君はッ」
「おい花京院、そこは承太郎さん親切にどうもありがとう、と言うところだぜ」
「言うかッ!!」
「てめーは一体なにが不満なんだ」
分かっていない。この男は何も分かっていない。
これから一体どんな顔を引っさげて学校生活を送ればいいのだろうか。今にも逃げ出して、家に引きこもってゲーム三昧の生活でも送ってやろうか。
「とにかく、頼むからもうお姫様抱っこはやめてくれ……ぼくにだって男性としてのプライドくらいある……」
「しょうがねえな。次からは俵担ぎにしとくか」
「普通に肩貸してくれるだけでいいよッ!!」
ついに怒鳴ってしまった花京院を見て、承太郎は帽子の鍔を指先で摘まみ、僅かに引き下げると「やぁれやれだぜ」と呆れたように言った。
「ピーチクパーチク、腹空かした小鳥の雛みてーだな」
「そのいちいち小さいものに例えるのも、やめてくれないか……」
涙目で睨み付けると、承太郎は楽しそうにニヤリと笑う。悪そうな顔をしているくせに、いちいち格好いいからいっそ腹が立つ。こんなときでさえ胸を高鳴らせている自分に。
「可愛くて可愛くて、仕方がねえってことだぜ」
やっぱり君の表現は遠回しで、分かりにくいじゃあないか。
そう思ったけれど、言われて満更でもない自分が恥ずかしくて、花京院は大き目の唇をきゅっと引き結んだ。
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それから。
花京院が屋上へ行くことはなくなった。
もちろん、承太郎が迎えに来るということもない。
一日中女子たちの悲鳴を聞かない日もあるところを見ると、そもそも学校へ来ないことも多いのかもしれない。彼は、やっぱり不良だ。
(ぼくにはもう、関係ないけど)
いまいち身が入らない授業に、それでも耳だけは傾けながら、花京院は虚ろな視線を窓の外に向ける。
凪いだ日々には影絵のように色がなかった。ただ蒸し暑いばかりで、ゆらゆらと揺らめきながら過ぎていく。
立ち込める陽炎が遠くの景色から輪郭を奪う。逸らすように強く目を閉じると、鈍い痛みが眉間を襲った。指先で摘まむようにして押さえ、幾度か頭を振る。
(流石に、ダルい)
ここのところ毎日ろくに眠れた試しがない。食欲も減退して、体重は落ちるばかりだった。
それでもどうにかなっている。もしかしたらこの身体は、自分が思っているよりもずっと踏ん張りがきくのかもしれない。
あれから花京院が保健室へ行くことは決してなかった。くだらない意地かもしれないが、だけどそのちっぽけなプライドが、今は唯一花京院の心を守ってくれる。
それでも募るのは自己嫌悪ばかりだった。
いつまでもウジウジと、傷ついたままでいる自分が惨めで仕方がない。あんな男を好きになってしまった自分が。忘れられない自分が。
失恋、と名付けてしまうことすら、腹立たしいくらいに。
「ねぇ、聞いた?」
それは、花京院がそっと震える息を吐き出したのと同時だった。
教師が黒板にチョークを走らせる音に混ざって、どこからか女子たちの内緒話が聞こえてくる。木々が風にささめくような微かな音だが、花京院の耳はなんとはなしにその声を拾っていた。
「保健室の先生、妊娠したって」
(え……?)
「嘘、ほんと?」
「本当。ちゃんと聞いたもん。だからもうすぐ学校も辞めるんだって」
「へぇ、いいなぁ~。先生美人だし、赤ちゃん可愛いだろうなぁ」
「じゃあデキ婚? 相手どんな人なんだろうね~?」
(妊娠……妊娠って、まさかそんな……)
「そこッ! 授業中の私語は慎むようにッ!」
内緒話に気づいた教師が、険しい表情で彼女らを叱りつける。会話がぷつりと途切れて、教室に静寂が満ちた。
「……ッ」
花京院は震える指で口許を押さえた。心臓のあたりが、冷水を流し込まれたみたいに冷えていく。
(嘘だろ承太郎)
信じられない。
けれど女医の腹に宿った赤ん坊の父親は、承太郎以外に考えられなかった。
再び打ちのめされた胸に、すとんと何かがハマる。
(承太郎、君は嘘つきだけど、あのときくれた言葉だけは、本当だったんだな)
彼は言っていた。
真っ直ぐに目を合わせながら、『てめーだけだ』と。それは花京院が期待したような意味ではなかったけれど、遊び相手が他にいない、という意味でなら、それは真実だったということだ。
そしてそんな承太郎が真に愛していたのは、あの女医の方だった。
承太郎にとって、自分はただのオモチャにすぎなかったのだ。恋愛にもセックスにも奥手な人形を手のひらで転がして遊ぶのは、さぞかしいい暇潰しになったことだろう。
そんな相手と知っていて好きになってしまった自分が、一番の愚か者だ。
(わかってるさ)
花京院は口許を覆う手の平の下で、震える唇を噛み締めた。引き裂かれるような胸の痛みはなかなか過ぎ去ってはくれない。それどころかズクズクという攻撃的な音を立てる心音に、どんどん精神を追い詰められていくような気がした。
蒸し暑い教室の中で、やけに身体が冷えている。額に汗が滲んだ。
(堪えろ、堪えろ……平気だ。ぼくは平気だ)
椅子に座っていてさえ世界が大きく回ったような気がして、同時に酷く頭が痛んだ。視界が白と黒に明滅する。
(あ、不味い……)
ほとんど飲まず食わずでぼんやりと過ごしてきたツケが、最後のとどめを食らったことで、ついに回ってきたのだろうか。
「おい、花京院」
教師が訝しげに名前を呼ぶ声が聞こえる。
花京院はどうにかこうにか顔を上げると、首を左右に振った。
クラスメイトたちの視線が集まる。ひどく不快だ。今は誰の目にも触れたくない。構わないでほしいのに。
「おまえ顔が真っ青だぞ。おい誰か、保健室に連れてってやれ!」
「ッ!」
ぼくは平気ですと、そう言葉にするつもりがただの小さな呻きにしかならなかった。
ああ、やっぱりこの身体は無理がきかないのか。だけどもうあそこにはなにがなんでも行きたくない。
けれどそんな花京院の意地も事情も誰一人知る者はなく、ほとんど引きずられるようにして、保健室へ連れて行かれることになってしまった。
*
ああ、まただ。
瞼を開けたその先には、保健室の天井があった。白いはずのそれが、今は仄かに夕焼け色に染まっていた。
やっぱり自分はこの場所と切っても切り離せない関係にあるらしい。
ぼんやりと瞬きを繰り返し、うまく回らない頭で視線だけ巡らせる。すると、こちらを真っ直ぐに見つめている、エメラルドの瞳と目が合った。
承太郎はベッドの脇に置かれたパイプ椅子に腰かけている。他に、人の気配はない。
なぜ彼がここにいるのだろう。保健委員二人がかりで教室から引きずり出されたあたりから、記憶がほんとんどない。
「花京院」
もう二度と側で聞くことはないと思っていた低音が、花京院を呼ぶ。どこか気遣わし気な色を含んだそれに、ついどきりとした。
花京院は狼狽えつつも承太郎から目を逸らし、平静を装いながら重たい半身を起こす。支えようと伸びて来た腕を、やんわりと振り払うと首を左右に振った。
「触らないでくれ」
男らしい黒い眉が、ぴくりと動いた。それ以外で承太郎の表情に動きはなく、相変わらず何を考えているのか分からない男に対して、花京院は戸惑いと苛立ちを膨らませる。
けれど下手に感情を表に出すのはプライドが許さなかった。だから極めて冷静に、心の中を悟られぬよう平坦な声を意識する。
「なぜ君がここにいるのかは聞かないが……ぼくはもう君とは関わりたくないんだ。出来ることなら、顔も見たくないと思っている」
ここでこうしていると、嫌でも色々なことを思い出してしまう。
今となっては、承太郎と過ごした全ての時間が忌むべき記憶でしかない。
だけど同じくらい、まだどこかに残像のようにこびりつく未練の存在に、花京院は気がついていた。だからこの気持ちが揺らいでしまう前に、目の前から消えてほしい。早く忘れてしまいたい。
決して手に入らないものに手を伸ばすことほど、滑稽で不毛なことはないのだから。
「先生、子供ができたんだってな」
頑なに目を合わさぬよう、俯きながら言った。
「らしいな」
「なんだよ。まるで他人事みたいな反応だな。それってあんまりじゃあないか?」
力なく笑って、花京院は目を閉じた。
この男が一体なんのつもりでここにいるのかなんて、この際どうでもいい。ただ、もう絶対に無様な自分には戻りたくないから、だから花京院は顔を上げると、承太郎に向かって微笑んだ。
「おめでとう」
さよならの代わりに祝福の言葉を送った。
承太郎は切れ長の瞳をすうっと細め、ひとつ溜息を漏らすと「なるほどな」と呟いた。
「花京院。おれが今から言うことを、よく聞いておけよ」
「聞きたくない」
「おれはてめーに」
「承太郎、頼むからこれ以上は」
「やかましいッ! いいから聞けッ!!」
承太郎の顔に、明らかに怒りの色が見える。
こんな風に声を荒げられたのは初めてで、花京院は肩を震わせながら目を見開いた。色を失った頬に、大きな手が触れる。無意識に身を引こうとするのを許さず、緩く垂れ下がる前髪ごとくしゃりと掴まれた。
「じょう」
「おれはてめーに惚れてる」
「…………は?」
何を言われたのか、咄嗟に理解できなかった。
ついに耳までイカれてしまったのだろうか。
彼は今、なんと言った?
「言ったはずだ。てめーだけだと。おれはな花京院。おまえに心底、惚れている」
「ッ……!!」
一瞬で、頭が沸騰したように血がのぼる。
それは花京院の中で膨らみ切った感情が爆ぜた証だった。握りしめた拳を、思い切り承太郎の顔に向かって振り上げた。
けれどそれは承太郎の学帽の鍔を僅かに掠めただけで、いともたやすく手首を掴まれてしまう。床に落ちた帽子がぱさりと乾いた音を立てた。
「離せッ! この最低野郎!! これ以上ぼくを侮辱するなッ!!」
「はっ、てめーは頭が悪いのか? 今のはどう足掻いても愛の告白というやつだぜ」
「よくそんな非常識なことが言えたな! ふざけるのもいい加減にしろッ!!」
この期に及んで、まだ性質の悪い嘘をつくのか。
愛した女がいるというのに、これ以上なにを望むというのだろう。
こいつは自分だけでなく、あの女医の心まで踏みにじるつもりなのか。命を軽んじるような真似が、平気でできる男だったということだ。
「ぼくは君が、大っ嫌いだッ!!」
自分の中に、これほど激しい感情が眠っているとは思わなかった。花京院は過熱する怒りを抑えることなく、承太郎に掴みかかろうとした。
けれど承太郎は口許に余裕の笑みさえ浮かべて、花京院の両腕を掴み上げると片手で一纏めにする。さらに空いたもう片方の手によって、強引に顎を掴まれた。
どうやっても力で敵うはずがなかった。それがよりいっそう花京院の中の憤りとプライドを刺激する。
血走った目で睨み付けると、彼は呆れたように「やれやれだ」と吐き捨てた。
「出産直後のメス猫みてえだな。毛ェ逆立ててよ」
「せめて、オス猫と言え……ッ!!」
「オスはガキ産まねーだろ」
「ぼくだって産まないッ!!」
「あの女医は既婚者だぜ」
「まだ言う、か……ッ?」
……え?
それまでの勢いはどこへやら、花京院は動きを止め、口をぽかんと開けた。
承太郎は実に楽しげに鼻を鳴らし、何一つ飲み込めないでいる花京院の身をあっさり解放する。
「腹ん中のガキは旦那との間にデキたものだ。夫婦円満、ってのはいいもんだよなあ?」
「既婚者、って……い、いや、待て。ぼくの記憶が確かなら、先生は指輪なんかしていなかったぞ」
花京院はあの女医に憧れていた。恋と呼べるかどうかすら分からないような淡い感情だったけれど、ここへ足を運ぶ度にその姿を目に焼き付けていた。
だからわかる。彼女は結婚指輪などしていなかったはずだ。
「四六時中つけてるとは限らねーぜ。仕事中なんか特によ。信じられねーってんなら、本人にでも直接確かめな」
「……ちょ、ちょっと待ってくれ。少し、整理させてくれないか」
承太郎は好きにしろと言わんばかりにパイプ椅子に踏ん反り返り、緩慢とした動作で長い両手足を組んで見せた。
花京院は人差し指を米神に押し付けると、幾つも芽を出す混乱の種を処理するために、思考を巡らせる。
あの女医は既婚者だった。
そして、腹の中に宿る命はその旦那との間にできた子供だという。
なら、彼女と承太郎の関係は? 淫らな真昼の情交は? キスは?
「ふ、不倫……していたのか……? 君たちは……」
「そういうことになるか」
「夫婦円満なのに?」
「さあな。実際のところはおれにもようわからん」
「そ、そんな……ますます理解不能だ……」
花京院の常識から、あまりにも大きく逸脱している。
子作りに励むほど円満な夫婦生活を送っておいて、なぜわざわざ男子生徒と不倫などする必要がある?
そしてふと思い出す。相手はただの高校生じゃないということを。
女だけでなく、男さえ惑わすこの空条承太郎が相手ならば。
理性など、あってないようなものだ。この雄の魅力に落ちてしまった自分だからこそ、よくわかる。
「君が、誘惑したんだろう?」
「……かもな」
「ッ!」
肉厚な唇が、三日月のように歪む。なにもかもが思い通りになったといわんばかりの、勝者の笑みだ。
この男にはそれが、嫌味なくらいよく似合う。
「どちらにしろ女医とは終わった。妊娠が分かった時点でな。てめーが見ちまったキスシーンはその延長みてーなもんだ。忘れろ」
「わ、忘れろって……そんな曖昧な説明で納得できるか! 今日までぼくがどんな気持ちでいたかッ!」
「ほーう? どんな気持ちでいたんだ?」
「うぐ!?」
承太郎は実に意地の悪そうな笑みを浮かべて、こちらを見ている。
羞恥に赤面するのを嫌でも感じながら、花京院は喉を詰まらせた。
言えるわけがないし、言いたくない。
はっきりと恋を自覚した自分が、嫉妬に駆られて無意味な不摂生を働き、その結果が保健室のベッドの上だなんて。
情けなさや悔しさがない交ぜになって、鼻先がツンと痛みだす。少しでも気を緩めれば女々しく泣きだしてしまいそうで、花京院は咳払いをすると横目で承太郎を睨み付けた。
「ぼくは、君という男が信じられない。どうせ嘘をついているんだろう? それに、本当に旦那との子供かどうかは、生まれてみなくちゃ分からないんだぞ」
「嘘とは? おれはてめーに嘘をついた覚えはねーぜ。それにな。おれの子供であるはずがねーんだよ」
一体なにを根拠に。
口に出さずとも、花京院の顔に浮かぶ疑念の色を見て、承太郎はふっと息を漏らす。
「そもそも、ガキができるようなことはしてねえからだ。そうなる前にてめーを落とす気でいたからな。花京院、てめーをだ」
「な、な、なにを、言って……」
「おまえ、あの女医に惚れていたろ」
「ッ……!?」
だから、なんだというのか。
それとこれとは、一体なんの繋がりがあるというのだろう。
しかも、なぜ承太郎が自分の秘めたる想いに気がついていたのだろうか。誰にも言った覚えはないし、そうと分かるような態度を取っていたつもりもないのに。
背中にひやりとした冷たい汗が伝う。美しく澄んだエメラルドが、今はどこか仄暗くも見えて。
承太郎は青くなる花京院を見て、狡猾な笑みを浮かべた。
「邪魔だったんだよ。だからてめーの中から追い出した。それだけだぜ」
「邪魔……って……」
あのちっぽけで淡い、薄ぼんやりとした恋心を踏み潰す、それだけのために。
女医を誘惑し、ただ浅ましく求めるだけの雌にまで、落としたというのか。下手をすれば、彼女の家庭を壊していたかもしれないのに。
そしてもし全てがこの男の思惑通りなのだとしたら、花京院は確かにあの女医に幻滅した。少し大袈裟かもしれないが、花京院にとって彼女は清らかで美しい、白衣をまとった女神のような存在だったからだ。
今でもまだ忘れられない。抱いて抱いてと何度も繰り返し、欲に溺れる彼女の声を。
――欲しくて欲しくて、堪らねえ。
承太郎の、声を。
(あれは最初から、ぼくに、向けられていた……?)
そんなことが、果たしてありえるだろうか?
「嘘だそんなの。信じられるわけがない」
花京院は力なく首を左右に振った。
「君が望めば、あの女医のように誰だって心だろうが身体だろうが明け渡してしまうだろう。そんな君が、どうしてそんな回りくどい真似までして、ぼくを……」
自分を無価値な人間だとは思わない。
けれど目の前にいるのはあの空条承太郎だ。誰もが羨み、誰もが焦がれる。神に選ばれたような、美しい獣のような男だ。
そんな人間に唯一として選ばれる気持ちはどんなものだろうかと、酔いしれたことも確かにあった。だけど。
「理解、できない……」
「嘘だね」
伸びて来た承太郎の腕に項を掴まれ、強引に目線を合わされた。
「ッ!」
「耳まで真っ赤にして、惚けた顔しやがって。てめーのここにはちゃんと答えが書いてあるぜ」
「ち、違う……そんな顔、誰が……」
「嬉しくて嬉しくて、仕方がねえってよ」
わかる。承太郎の目に写る自分こそが、真実の姿なのだと。
それでも信じるのが怖い。この男に選ばれたという確信が、どうしても持てない。
だけど心が震えている。同じことを繰り返そうとしている。彼の言葉が、真実だったらいいのにと。
真っ直ぐに見つめてくる承太郎の瞳はどこまでも情熱的だった。
今この瞬間、彼の目が映し出しているのは。
「好きだ花京院。てめーが欲しくて堪らねえ」
「じょう、たろう……ッ」
どうしようもなく込み上げる喜びに、感情が解けていく。自分ではどうにもできずに絡まるばかりの、固結びされた心の糸が。承太郎が触れるだけで、こうも、簡単に。
承太郎は指先で花京院の唇をなぞった。それは顎を伝い、喉へと降りる。ごくりと上下する喉仏を撫でて、シャツから覗く鎖骨の窪みへとたどり着く。
身体が熱くて堪らなかった。内側でぐつぐつと、音を立てて煮えたぎっている。
花京院はこの熱を知っている。
「落ちてこい、花京院。今度こそ全部、おれのものにしてやる」
これは、期待だ。
*
身体中の全神経が、一ミリのブレもなく承太郎を意識する。
大きく逞しい腕の中に閉じ込められながら、花京院は戸惑うことすら許されない圧迫感を覚えていた。
ただあるがまま、感じていればそれでいいのだと。
「ぅ、ん……ッ、や、ぁ……!」
肌蹴た前に承太郎が顔を埋め、首筋の薄い肉を幾度も吸い上げる。武骨な指先は胸筋の上で小さく主張する粒を、これでもかというほどこねくりまわしていた。
遠くから部活動に励む生徒たちの掛け声が聞こえる。誰が来るとも知れない保健室で、抗えないことを理由に嬲られる感覚は花京院の中に不思議な興奮を呼び起こす。
「だ、め……じょ、たろ……ッ、こんな……っ!」
「知ってるぜ花京院。てめーの身体は駄目と思うほど感じちまう」
「イッ、ひ……ッ!?」
容赦なく、小さな粒に歯を立てられた。鋭い痛みが駆け抜けて、そこからじわじわと痺れが追いかけてくる。
大きく跳ねようとする腰の動きさえ、承太郎の重みが圧し掛かった状態ではままならない。どこにも感覚を逃がすことができず、花京院の中で蓄積されるばかりだった。
「い、たッ、いた、ぃ、アッ、噛んじゃ、ぁ、や」
嫌だ嫌だと繰り返しても、承太郎はそこに何度も歯を立てた。もう片方は指先で摘ままれて、こりこりと押しつぶしながら引っ張られる。
気が遠くなるほどの快感に、花京院は両手で頭を掻きむしるようにして身悶えた。
どれほどの時間そうされていたか知れない。ただ承太郎の唇と指先が離れてからも、二つの胸の尖りはびりびりと痺れて、真っ赤に色づいていた。
承太郎は花京院の首筋や、鎖骨や、あらゆる場所に痕を残していく。歯型が残るほど牙を立てたかと思えば、鈍い水音を響かせながら強く吸い付いた。痛いのか気持ちいいのかも分からなくなってから、ようやく優しく舌を這わせる。その強弱の差について行くことができない。
承太郎の愛撫は、初めてここで抱かれたときとも、屋上で嬲られたときとも、どこか違っていた。
乱暴で、荒々しくて、自分本位で、まるで容赦がない。支配されているのだということを知らしめるような、そんな抱き方だと思った。
いつしか花京院は、小刻みに震えながら涙を流すしか、できなくなっていた。
「じょぉ、たろ……も、許し、て」
「ダメだね」
「ついて、いけなッ、あ……ッ!」
承太郎の手が花京院の前を寛げる。下着ごと剥ぎ取られ、下半身は白い靴下だけという屈辱的な姿にされてしまった。
完全に起ち上がった性器が、先端から白い粒を浮き上がらせている。
「嫌々言っといてこのザマだぜ。オラ、自分でよく見てみな」
「ちが、ぅ……違う、違う……見る、な!」
咄嗟に振り上げようとした片足を軽々と担がれて、腰がシーツから僅かに浮き上がる。
普段は晒されることのない白い内腿にまで、承太郎はきつく歯を立てた。
声にならない悲鳴を上げながら、花京院は両手で顔を覆った。淫らに跳ねる腰の動きに合わせて、先走りをまき散らす性器が揺れる。
承太郎の唇が、徐々にそこへ向かって移動していく。その光景を指の隙間から覗き見る花京院に向けて、彼は瞳を細めて笑って見せた。
「あ、あッ、ぁ……じょ、たろ、き、汚い……そんな、ヒッ、ぃ……ッ」
じりじりと這い上がって来た唇が、ぷるぷると震える柔らかな袋を舐め上げる。軽く音を立てて吸われると、一緒に脳ミソまで溶け出してしまいそうだった。
血管がほんのりと浮き上がるほど膨れ上がった性器は、花京院が刻む鼓動と同じリズムで脈打ちながらしなっていた。承太郎は根本からそれに舌を這わせ、やがてすっぽりと口の中に収めてしまう。
「ッ――!!」
生まれて初めて受けた口淫は、まだ性的な行為に対して未熟な花京院には、刺激が強すぎた。承太郎の肩に引っ掛けるようにして担がれている片足の先が、攣りそうなほどピンと伸びる。シーツを引き千切る勢いで掴み上げながら、たったそれだけで、花京院は精を弾けさせた。
「ッ、ぁ――、ッ、ぃ……ッ!!」
反り返っていた背中をシーツに打ち付ける。一瞬で達してしまった衝撃に、花京院は瞬きもできないまま、はかはかと胸を上下させ、放心する。視界のところどころで星が瞬いていた。
ショック状態で真っ白になる花京院を現実に引き戻したのは、承太郎が銜え込んだままの性器を吸い上げながら扱きだした瞬間だった。
「ヒ、ッ! や、やめ……ッ!」
達したばかりの身体はあまりにも敏感で、全身の神経が剥き出しといってもいい状態だった。下半身の痙攣が止まらないまま受ける刺激は、いっそ拷問に等しい。
承太郎は口の中で受け止めた花京院の白濁と、自身の唾液とで実に滑らかに水音を響かせながら頭を上下させている。漏れだすどろどろとした液体が袋を伝い、奥まった場所へと流れ込んでいくのがわかった。
「イッ、嫌だ、嫌……ッ! 離し、じょうたろ、そこ、イッた、ばっか、でッ、やだ、いやだぁ……ッ!!」
両手で硬い黒髪を掻きまわしても、承太郎は口淫をやめない。
上目使いで鼻からふっと笑みを漏らし、乱れ狂う花京院の反応を楽しんでいるようだった。
熱い口内で、花京院の性器はそう時間を要さず再び勃起する。先走りも混ざり、耳を塞ぎたくなるような下品な水音が大きくなった。
過ぎた快楽は暴力と変わらない。いつしか花京院の濡れた瞳は濁り、閉じることを忘れた唇からは唾液と、意味をなさない喘ぎばかりが零れだすようになる。
(もう、わからない……滅茶苦茶だ……)
承太郎の指先が、花京院の尻の肉を割って濡れた窄まりをつつく。
精液と唾液でしとどに濡れたその穴は、いともたやすく太い指を受け入れた。
「あっ、や……ッ、入って、き、た……っ」
前の刺激が強すぎるせいか、最初のときほど痛みは感じない。
ぬるぬると入り込む節くれだった指が内壁を擦る動きが、あのなんともいえない鳥肌のたつような感覚を生み出す。
あっという間に指が二本に増やされた頃、あと少しで再び達するというタイミングで、承太郎が銜え込んでいた性器から口を離す。濡れそぼる唇をぺろりと舐め上げて、中を解す動きはそのままに身を乗り出してくる。
「おまえのナカ、すげえな。ビクビクしてよ」
「んぅ、ぁ……ッ、はぁ、あ……じょ、たろ、じょう、たろぉ……ッ!」
ギリギリまで高ぶらされたまま放置される性器と、中を探られるもどかしさに、気が触れてしまいそうだった。
たかだか一度受け入れただけのそこが酷く疼いて、抱かれることに慣れた娼婦のように、穴をひくつかせているのが分かる。
(どうしてだ……あれから一度もしてないのに、どうして、こんなに……)
欲しくて欲しくて、堪らないのだろう。
初めて受け入れたときは、指が入り込むだけで凄まじい苦痛を伴った。承太郎のモノともなれば尚更のこと、憐れまれるほどの激痛に泣きじゃくったというのに。
あのときと今とでは、何が違うというのだろう。
「ところでよ、花京院」
二本の指をバラバラと動かしながら、承太郎は花京院の耳元に唇を寄せる。
「誰が嫌いだって?」
そして問いかけて来た。
「なっ、ん……? ひ、ぁうッ」
「覚えてねーのか?」
「なに、を、アッ、あ、ダメ、指、へん、に、なる……ッ」
「てめーが言ったんだぜ。大っ嫌いだ、ってよ」
熱と快楽に浮かされた思考で、花京院の意識が承太郎の言葉を辿る。そしてはたと気がついた。
言った。確かに言った。つい先刻の口論の途中。
『ぼくは君が、大っ嫌いだッ!!』
花京院は承太郎に向かって、高ぶった感情をぶつけた。
「そ、れは……君が……」
「おれがなんだって?」
「ぅあッ……!?」
ほんの僅かに気がそれた隙をついて、いよいよ指が三本に増やされた。流石の圧迫感に喉を反らせば、浮き上がった喉仏に歯をたてられる。
「んんぅ、ッ、ヒ、ぁッ……!」
「もういっぺん言ってみな。あれと同じことをよ」
意外と、根に持つタイプか。
霞む視界を抉じ開けて、承太郎の顔を見上げる。その表情を見て、花京院は息をのんだ。
てっきり、またあの意地の悪い笑みを浮かべていると思っていたのに。
承太郎の瞳はどこか切なげに揺れていた。
きゅっと引き結ばれた唇が、迷子の子犬のように、悲しげで。
「……!」
夢でも、見ているのだろうか。
自分が知っている承太郎は、絶対にこんな弱り切ったような顔など見せない。
誰がそうさせているのだろう。彼に、こんな顔を。
(ぼく、なのか)
ただ勢いのまま吐き出してしまった言葉だった。
それだけじゃない。ここで女医と承太郎の口付けを見てしまったあの日も、花京院は彼に嫉妬や憎しみという感情をぶつけて遠ざけた。
この男も、傷ついていたのだろうか。
承太郎の精神は、その鋼のような肉体と同様に、なにがあっても決して傷つかないものとばかり、思っていたけれど。
おかしな話だが、花京院はこのとき初めて承太郎のことを自分と同じ、人間なのだと思えた。悲しみもすれば傷つきもする。誰かを深く、思うことだってできる。そう感じた途端に。
(これ、なんて言うんだろう)
胸いっぱいに、火が灯ったような気がした。
それは身を焦がすような激しい炎ではないけれど、温かくて、泣きそうなほど切なくて、締め付けらているみたいに苦しいのに、こがした砂糖のように甘かった。
(愛しい)
その瞬間、身体の奥で疼きが増した。
きゅん、という音がしっくりくるほど悩ましく、承太郎の指を締め付ける。
「花京院……」
ああ、やっとわかった。
どうしてこんなに欲しいのか。最初と何が違うのか。
(ぼくはもう知っているからだ。あの頃の、無知な花京院典明ではないからだ)
ただ訳も分からず奪われるだけの自分じゃない。
感情が伴っているからだ。承太郎と、思いが重なっているからだ。
「好きだよ、承太郎」
花京院は小さく震える両手で承太郎の頬を包み込む。
「好きなんだ。ぼくは君に……恋に、落ちたよ」
だからね。
「ぼくを、君の一番に選んでくれるかい? ぼくだけだって、言ってくれる?」
「ッ……!」
承太郎の顔が一瞬だけ、くしゃりと歪んだ。一気に指が引き抜かれ、ぞくりと這い上がる感覚に戦慄く花京院へ、ガキ大将のように強気な笑みを浮かべて見せる。
「とっくに選んでんだよ。おれには、てめーだけだ」
通じ合った想いを込めて交わす口付けは、信じられないくらい、温かかった。
*
承太郎は長ランを脱ぎ捨て、中に着ていたシャツさえもむしり取るようにして取り払うと、床に放った。
その仕草の男臭さに胸を高鳴らせ、花京院は蕩けきった表情で覆いかぶさって来る大きな身体を受け止める。
前を寛げた承太郎が、熱くそそり起つ剛直をヒクつく穴に宛がった。
互いが同時に喉を鳴らす。心臓が飛び出してきそうなほど暴れる感覚が少し怖くて、花京院は承太郎の首に両腕を回して強くしがみついた。
「花京院」
「うん」
好きだ、と。
承太郎は何度も吐息と一緒に吐き出しながら、ゆっくりと腰を進めてくる。
痛いも苦しいも、愛しさの前には媚薬にしかならなかった。この人しかいないと決めた相手と繋がることが、こんなにも幸福なことだなんて、知らなかった。
「は、ぁ! じょ、た、ろ……ッ、承太郎、承太郎……承太郎……ッ!!」
それしか知らないみたいに、花京院は承太郎の名を呼ぶ。
汗の粒が頬に落ちて、見上げた先には歯を食いしばる承太郎の顔がある。
初めてのときも、彼はこんな風に苦しげに表情を歪めていたのかもしれない。あのときは後ろからだったから、見えなかったけれど。
完全に繋がり切ってしまうと、それだけで二人は息も絶え絶えになっていた。
腹の中にみっちりと、承太郎の肉が詰まっている。きっともう隙間なんかない。何一つ入り込む余地などないほど、花京院の中は承太郎で満たされていた。
「平気か」
掠れた声が色香を放つ。鼓膜まで蕩けそうな甘美さに、花京院はどこか夢見心地の状態でこくんと頷いた。
「平気……動いて、承太郎。今度は、ちゃんと応えるから」
「……あんまり煽ってくれるなよ」
ふっと笑った承太郎が、改めて花京院の身体を抱え込む。両足を承太郎の腰に絡めると、抱き寄せた頬に頬ずりをした。それが合図とばかりに、ゆらゆらと幾度か腰が揺らめいた。
「あッ、あぁ……ッ、ん、じょ、たろ、承太郎……んっ、は……」
「花京院……ッ、花京院」
痛いほどの快感が痺れとなって脳髄にまで響き渡る。ひっきりなしに軋むベッドの音が加速するほど、その腰使いに花京院の理性はぐずぐずに蕩けていった。
承太郎の荒々しい呼吸が愛しい。中で脈打つ屹立が、彼が確かに快感を得ていることを身体の内側から伝えてくれる。
自分ばかりが嬲られているのではない。花京院の内壁もまた、承太郎を締め付けては翻弄している。それが堪らなく、心地いい。
熱い欲に飲み込まれて、吐息ごと、二人一緒に溶けていく。限界がもうすぐそこだった。
「じょう、たろ……ッ、も、ぼく……!」
「まだだぜ。花京院」
「え、ぅあッ!?」
二の腕を掴まれ、腰を抱えられたと思った瞬間、花京院の視界が大きく揺らいだ。
胡坐をかく承太郎の上に向かい合って繋がる形になると、腹の奥の、もっと深い場所にずん、という衝撃が走った。
「ヒッ、ぎ……ッ!!」
見開いた瞳から、涙が溢れる。
もうこれ以上はないという場所まで、貫かれていたのだとばかり思っていた。けれどそれは、甘かった。
「ぁ、あ……? ァ……う、そ、ッ、ぁ……ぼく、の、お腹、が……っ」
突き破られたのではないかと、思った。
花京院はわなわなと震えながら、指先を下腹部へと滑らせる。承太郎の形に僅かに膨らむ下腹が、ずくずくと熱せられて痙攣していた。
「これで、全部だぜ」
見上げてくるエメラルドが、快楽に溺れきって潤んでいる。そのうっとりとした表情が、涙に滲んでぼやけていった。
これで本当に、全てが承太郎のものになった。花京院もまた、彼の全てを、手に入れた。
「嬉しいよ……とても……」
うまく笑えたかは、わからなかった。ただその太い首にしがみついて、花京院はひくひくと泣いた。承太郎がゆっくりと、下から突き上げてくる。内臓ごと押し上げられるような感覚に咽びながらも、その動きに合わせて一緒に腰を揺らす。
「ひっ、ぁあッ、い、アッ、ぁ、あ……ッ!!」
腹の奥を突かれる度に、声が抑えきれない。そうやって喘いでいなければ溺れ死んでしまいそうで、女のように啼いている自分の声にすら、止め処なく気分が高揚していくのを感じた。
そのとき、承太郎の屹立が花京院の中の一点を引っ掻いた。
「ひンッ、ぁッ、ぁ……? まっ、て、アッ、あぁ……――ッ」
「ここ、か」
承太郎の口元の笑みが濃くなった。喉と背を反らしながら、花京院はバチバチと散る火花にただ混乱する。
承太郎が、心得たとばかりにそこばかり狙って揺さぶってくる。快感にすら、まだ先があったのか。こんなことを続けられてしまったら、本当に死んでしまう。
二人の腹の中心でしなる肉棒から、信じられない量の先走りが零れていた。赤く腫れあがったようになっているそこが、早く解放されたくて大粒の涙をまき散らしているようだった。
「も、ッ、こわ、れるっ、じょ、たろ……ッ!!」
「ッ、いいぜ……好きなだけ、イカれちまいな。花京院」
承太郎が花京院の胸に唇を寄せる。散々嬲られて赤く腫れた粒に思い切り吸い付かれた瞬間、花京院は声もなく達した。同時に、最も深い場所に熱いものが叩きつけられたのを感じる。
貪り尽された腹の中に受け止めきれないほどの精を注がれて、花京院は背中からシーツに崩れ落ちながら、微かに笑った。
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花京院が屋上へ行くことはなくなった。
もちろん、承太郎が迎えに来るということもない。
一日中女子たちの悲鳴を聞かない日もあるところを見ると、そもそも学校へ来ないことも多いのかもしれない。彼は、やっぱり不良だ。
(ぼくにはもう、関係ないけど)
いまいち身が入らない授業に、それでも耳だけは傾けながら、花京院は虚ろな視線を窓の外に向ける。
凪いだ日々には影絵のように色がなかった。ただ蒸し暑いばかりで、ゆらゆらと揺らめきながら過ぎていく。
立ち込める陽炎が遠くの景色から輪郭を奪う。逸らすように強く目を閉じると、鈍い痛みが眉間を襲った。指先で摘まむようにして押さえ、幾度か頭を振る。
(流石に、ダルい)
ここのところ毎日ろくに眠れた試しがない。食欲も減退して、体重は落ちるばかりだった。
それでもどうにかなっている。もしかしたらこの身体は、自分が思っているよりもずっと踏ん張りがきくのかもしれない。
あれから花京院が保健室へ行くことは決してなかった。くだらない意地かもしれないが、だけどそのちっぽけなプライドが、今は唯一花京院の心を守ってくれる。
それでも募るのは自己嫌悪ばかりだった。
いつまでもウジウジと、傷ついたままでいる自分が惨めで仕方がない。あんな男を好きになってしまった自分が。忘れられない自分が。
失恋、と名付けてしまうことすら、腹立たしいくらいに。
「ねぇ、聞いた?」
それは、花京院がそっと震える息を吐き出したのと同時だった。
教師が黒板にチョークを走らせる音に混ざって、どこからか女子たちの内緒話が聞こえてくる。木々が風にささめくような微かな音だが、花京院の耳はなんとはなしにその声を拾っていた。
「保健室の先生、妊娠したって」
(え……?)
「嘘、ほんと?」
「本当。ちゃんと聞いたもん。だからもうすぐ学校も辞めるんだって」
「へぇ、いいなぁ~。先生美人だし、赤ちゃん可愛いだろうなぁ」
「じゃあデキ婚? 相手どんな人なんだろうね~?」
(妊娠……妊娠って、まさかそんな……)
「そこッ! 授業中の私語は慎むようにッ!」
内緒話に気づいた教師が、険しい表情で彼女らを叱りつける。会話がぷつりと途切れて、教室に静寂が満ちた。
「……ッ」
花京院は震える指で口許を押さえた。心臓のあたりが、冷水を流し込まれたみたいに冷えていく。
(嘘だろ承太郎)
信じられない。
けれど女医の腹に宿った赤ん坊の父親は、承太郎以外に考えられなかった。
再び打ちのめされた胸に、すとんと何かがハマる。
(承太郎、君は嘘つきだけど、あのときくれた言葉だけは、本当だったんだな)
彼は言っていた。
真っ直ぐに目を合わせながら、『てめーだけだ』と。それは花京院が期待したような意味ではなかったけれど、遊び相手が他にいない、という意味でなら、それは真実だったということだ。
そしてそんな承太郎が真に愛していたのは、あの女医の方だった。
承太郎にとって、自分はただのオモチャにすぎなかったのだ。恋愛にもセックスにも奥手な人形を手のひらで転がして遊ぶのは、さぞかしいい暇潰しになったことだろう。
そんな相手と知っていて好きになってしまった自分が、一番の愚か者だ。
(わかってるさ)
花京院は口許を覆う手の平の下で、震える唇を噛み締めた。引き裂かれるような胸の痛みはなかなか過ぎ去ってはくれない。それどころかズクズクという攻撃的な音を立てる心音に、どんどん精神を追い詰められていくような気がした。
蒸し暑い教室の中で、やけに身体が冷えている。額に汗が滲んだ。
(堪えろ、堪えろ……平気だ。ぼくは平気だ)
椅子に座っていてさえ世界が大きく回ったような気がして、同時に酷く頭が痛んだ。視界が白と黒に明滅する。
(あ、不味い……)
ほとんど飲まず食わずでぼんやりと過ごしてきたツケが、最後のとどめを食らったことで、ついに回ってきたのだろうか。
「おい、花京院」
教師が訝しげに名前を呼ぶ声が聞こえる。
花京院はどうにかこうにか顔を上げると、首を左右に振った。
クラスメイトたちの視線が集まる。ひどく不快だ。今は誰の目にも触れたくない。構わないでほしいのに。
「おまえ顔が真っ青だぞ。おい誰か、保健室に連れてってやれ!」
「ッ!」
ぼくは平気ですと、そう言葉にするつもりがただの小さな呻きにしかならなかった。
ああ、やっぱりこの身体は無理がきかないのか。だけどもうあそこにはなにがなんでも行きたくない。
けれどそんな花京院の意地も事情も誰一人知る者はなく、ほとんど引きずられるようにして、保健室へ連れて行かれることになってしまった。
*
ああ、まただ。
瞼を開けたその先には、保健室の天井があった。白いはずのそれが、今は仄かに夕焼け色に染まっていた。
やっぱり自分はこの場所と切っても切り離せない関係にあるらしい。
ぼんやりと瞬きを繰り返し、うまく回らない頭で視線だけ巡らせる。すると、こちらを真っ直ぐに見つめている、エメラルドの瞳と目が合った。
承太郎はベッドの脇に置かれたパイプ椅子に腰かけている。他に、人の気配はない。
なぜ彼がここにいるのだろう。保健委員二人がかりで教室から引きずり出されたあたりから、記憶がほんとんどない。
「花京院」
もう二度と側で聞くことはないと思っていた低音が、花京院を呼ぶ。どこか気遣わし気な色を含んだそれに、ついどきりとした。
花京院は狼狽えつつも承太郎から目を逸らし、平静を装いながら重たい半身を起こす。支えようと伸びて来た腕を、やんわりと振り払うと首を左右に振った。
「触らないでくれ」
男らしい黒い眉が、ぴくりと動いた。それ以外で承太郎の表情に動きはなく、相変わらず何を考えているのか分からない男に対して、花京院は戸惑いと苛立ちを膨らませる。
けれど下手に感情を表に出すのはプライドが許さなかった。だから極めて冷静に、心の中を悟られぬよう平坦な声を意識する。
「なぜ君がここにいるのかは聞かないが……ぼくはもう君とは関わりたくないんだ。出来ることなら、顔も見たくないと思っている」
ここでこうしていると、嫌でも色々なことを思い出してしまう。
今となっては、承太郎と過ごした全ての時間が忌むべき記憶でしかない。
だけど同じくらい、まだどこかに残像のようにこびりつく未練の存在に、花京院は気がついていた。だからこの気持ちが揺らいでしまう前に、目の前から消えてほしい。早く忘れてしまいたい。
決して手に入らないものに手を伸ばすことほど、滑稽で不毛なことはないのだから。
「先生、子供ができたんだってな」
頑なに目を合わさぬよう、俯きながら言った。
「らしいな」
「なんだよ。まるで他人事みたいな反応だな。それってあんまりじゃあないか?」
力なく笑って、花京院は目を閉じた。
この男が一体なんのつもりでここにいるのかなんて、この際どうでもいい。ただ、もう絶対に無様な自分には戻りたくないから、だから花京院は顔を上げると、承太郎に向かって微笑んだ。
「おめでとう」
さよならの代わりに祝福の言葉を送った。
承太郎は切れ長の瞳をすうっと細め、ひとつ溜息を漏らすと「なるほどな」と呟いた。
「花京院。おれが今から言うことを、よく聞いておけよ」
「聞きたくない」
「おれはてめーに」
「承太郎、頼むからこれ以上は」
「やかましいッ! いいから聞けッ!!」
承太郎の顔に、明らかに怒りの色が見える。
こんな風に声を荒げられたのは初めてで、花京院は肩を震わせながら目を見開いた。色を失った頬に、大きな手が触れる。無意識に身を引こうとするのを許さず、緩く垂れ下がる前髪ごとくしゃりと掴まれた。
「じょう」
「おれはてめーに惚れてる」
「…………は?」
何を言われたのか、咄嗟に理解できなかった。
ついに耳までイカれてしまったのだろうか。
彼は今、なんと言った?
「言ったはずだ。てめーだけだと。おれはな花京院。おまえに心底、惚れている」
「ッ……!!」
一瞬で、頭が沸騰したように血がのぼる。
それは花京院の中で膨らみ切った感情が爆ぜた証だった。握りしめた拳を、思い切り承太郎の顔に向かって振り上げた。
けれどそれは承太郎の学帽の鍔を僅かに掠めただけで、いともたやすく手首を掴まれてしまう。床に落ちた帽子がぱさりと乾いた音を立てた。
「離せッ! この最低野郎!! これ以上ぼくを侮辱するなッ!!」
「はっ、てめーは頭が悪いのか? 今のはどう足掻いても愛の告白というやつだぜ」
「よくそんな非常識なことが言えたな! ふざけるのもいい加減にしろッ!!」
この期に及んで、まだ性質の悪い嘘をつくのか。
愛した女がいるというのに、これ以上なにを望むというのだろう。
こいつは自分だけでなく、あの女医の心まで踏みにじるつもりなのか。命を軽んじるような真似が、平気でできる男だったということだ。
「ぼくは君が、大っ嫌いだッ!!」
自分の中に、これほど激しい感情が眠っているとは思わなかった。花京院は過熱する怒りを抑えることなく、承太郎に掴みかかろうとした。
けれど承太郎は口許に余裕の笑みさえ浮かべて、花京院の両腕を掴み上げると片手で一纏めにする。さらに空いたもう片方の手によって、強引に顎を掴まれた。
どうやっても力で敵うはずがなかった。それがよりいっそう花京院の中の憤りとプライドを刺激する。
血走った目で睨み付けると、彼は呆れたように「やれやれだ」と吐き捨てた。
「出産直後のメス猫みてえだな。毛ェ逆立ててよ」
「せめて、オス猫と言え……ッ!!」
「オスはガキ産まねーだろ」
「ぼくだって産まないッ!!」
「あの女医は既婚者だぜ」
「まだ言う、か……ッ?」
……え?
それまでの勢いはどこへやら、花京院は動きを止め、口をぽかんと開けた。
承太郎は実に楽しげに鼻を鳴らし、何一つ飲み込めないでいる花京院の身をあっさり解放する。
「腹ん中のガキは旦那との間にデキたものだ。夫婦円満、ってのはいいもんだよなあ?」
「既婚者、って……い、いや、待て。ぼくの記憶が確かなら、先生は指輪なんかしていなかったぞ」
花京院はあの女医に憧れていた。恋と呼べるかどうかすら分からないような淡い感情だったけれど、ここへ足を運ぶ度にその姿を目に焼き付けていた。
だからわかる。彼女は結婚指輪などしていなかったはずだ。
「四六時中つけてるとは限らねーぜ。仕事中なんか特によ。信じられねーってんなら、本人にでも直接確かめな」
「……ちょ、ちょっと待ってくれ。少し、整理させてくれないか」
承太郎は好きにしろと言わんばかりにパイプ椅子に踏ん反り返り、緩慢とした動作で長い両手足を組んで見せた。
花京院は人差し指を米神に押し付けると、幾つも芽を出す混乱の種を処理するために、思考を巡らせる。
あの女医は既婚者だった。
そして、腹の中に宿る命はその旦那との間にできた子供だという。
なら、彼女と承太郎の関係は? 淫らな真昼の情交は? キスは?
「ふ、不倫……していたのか……? 君たちは……」
「そういうことになるか」
「夫婦円満なのに?」
「さあな。実際のところはおれにもようわからん」
「そ、そんな……ますます理解不能だ……」
花京院の常識から、あまりにも大きく逸脱している。
子作りに励むほど円満な夫婦生活を送っておいて、なぜわざわざ男子生徒と不倫などする必要がある?
そしてふと思い出す。相手はただの高校生じゃないということを。
女だけでなく、男さえ惑わすこの空条承太郎が相手ならば。
理性など、あってないようなものだ。この雄の魅力に落ちてしまった自分だからこそ、よくわかる。
「君が、誘惑したんだろう?」
「……かもな」
「ッ!」
肉厚な唇が、三日月のように歪む。なにもかもが思い通りになったといわんばかりの、勝者の笑みだ。
この男にはそれが、嫌味なくらいよく似合う。
「どちらにしろ女医とは終わった。妊娠が分かった時点でな。てめーが見ちまったキスシーンはその延長みてーなもんだ。忘れろ」
「わ、忘れろって……そんな曖昧な説明で納得できるか! 今日までぼくがどんな気持ちでいたかッ!」
「ほーう? どんな気持ちでいたんだ?」
「うぐ!?」
承太郎は実に意地の悪そうな笑みを浮かべて、こちらを見ている。
羞恥に赤面するのを嫌でも感じながら、花京院は喉を詰まらせた。
言えるわけがないし、言いたくない。
はっきりと恋を自覚した自分が、嫉妬に駆られて無意味な不摂生を働き、その結果が保健室のベッドの上だなんて。
情けなさや悔しさがない交ぜになって、鼻先がツンと痛みだす。少しでも気を緩めれば女々しく泣きだしてしまいそうで、花京院は咳払いをすると横目で承太郎を睨み付けた。
「ぼくは、君という男が信じられない。どうせ嘘をついているんだろう? それに、本当に旦那との子供かどうかは、生まれてみなくちゃ分からないんだぞ」
「嘘とは? おれはてめーに嘘をついた覚えはねーぜ。それにな。おれの子供であるはずがねーんだよ」
一体なにを根拠に。
口に出さずとも、花京院の顔に浮かぶ疑念の色を見て、承太郎はふっと息を漏らす。
「そもそも、ガキができるようなことはしてねえからだ。そうなる前にてめーを落とす気でいたからな。花京院、てめーをだ」
「な、な、なにを、言って……」
「おまえ、あの女医に惚れていたろ」
「ッ……!?」
だから、なんだというのか。
それとこれとは、一体なんの繋がりがあるというのだろう。
しかも、なぜ承太郎が自分の秘めたる想いに気がついていたのだろうか。誰にも言った覚えはないし、そうと分かるような態度を取っていたつもりもないのに。
背中にひやりとした冷たい汗が伝う。美しく澄んだエメラルドが、今はどこか仄暗くも見えて。
承太郎は青くなる花京院を見て、狡猾な笑みを浮かべた。
「邪魔だったんだよ。だからてめーの中から追い出した。それだけだぜ」
「邪魔……って……」
あのちっぽけで淡い、薄ぼんやりとした恋心を踏み潰す、それだけのために。
女医を誘惑し、ただ浅ましく求めるだけの雌にまで、落としたというのか。下手をすれば、彼女の家庭を壊していたかもしれないのに。
そしてもし全てがこの男の思惑通りなのだとしたら、花京院は確かにあの女医に幻滅した。少し大袈裟かもしれないが、花京院にとって彼女は清らかで美しい、白衣をまとった女神のような存在だったからだ。
今でもまだ忘れられない。抱いて抱いてと何度も繰り返し、欲に溺れる彼女の声を。
――欲しくて欲しくて、堪らねえ。
承太郎の、声を。
(あれは最初から、ぼくに、向けられていた……?)
そんなことが、果たしてありえるだろうか?
「嘘だそんなの。信じられるわけがない」
花京院は力なく首を左右に振った。
「君が望めば、あの女医のように誰だって心だろうが身体だろうが明け渡してしまうだろう。そんな君が、どうしてそんな回りくどい真似までして、ぼくを……」
自分を無価値な人間だとは思わない。
けれど目の前にいるのはあの空条承太郎だ。誰もが羨み、誰もが焦がれる。神に選ばれたような、美しい獣のような男だ。
そんな人間に唯一として選ばれる気持ちはどんなものだろうかと、酔いしれたことも確かにあった。だけど。
「理解、できない……」
「嘘だね」
伸びて来た承太郎の腕に項を掴まれ、強引に目線を合わされた。
「ッ!」
「耳まで真っ赤にして、惚けた顔しやがって。てめーのここにはちゃんと答えが書いてあるぜ」
「ち、違う……そんな顔、誰が……」
「嬉しくて嬉しくて、仕方がねえってよ」
わかる。承太郎の目に写る自分こそが、真実の姿なのだと。
それでも信じるのが怖い。この男に選ばれたという確信が、どうしても持てない。
だけど心が震えている。同じことを繰り返そうとしている。彼の言葉が、真実だったらいいのにと。
真っ直ぐに見つめてくる承太郎の瞳はどこまでも情熱的だった。
今この瞬間、彼の目が映し出しているのは。
「好きだ花京院。てめーが欲しくて堪らねえ」
「じょう、たろう……ッ」
どうしようもなく込み上げる喜びに、感情が解けていく。自分ではどうにもできずに絡まるばかりの、固結びされた心の糸が。承太郎が触れるだけで、こうも、簡単に。
承太郎は指先で花京院の唇をなぞった。それは顎を伝い、喉へと降りる。ごくりと上下する喉仏を撫でて、シャツから覗く鎖骨の窪みへとたどり着く。
身体が熱くて堪らなかった。内側でぐつぐつと、音を立てて煮えたぎっている。
花京院はこの熱を知っている。
「落ちてこい、花京院。今度こそ全部、おれのものにしてやる」
これは、期待だ。
*
身体中の全神経が、一ミリのブレもなく承太郎を意識する。
大きく逞しい腕の中に閉じ込められながら、花京院は戸惑うことすら許されない圧迫感を覚えていた。
ただあるがまま、感じていればそれでいいのだと。
「ぅ、ん……ッ、や、ぁ……!」
肌蹴た前に承太郎が顔を埋め、首筋の薄い肉を幾度も吸い上げる。武骨な指先は胸筋の上で小さく主張する粒を、これでもかというほどこねくりまわしていた。
遠くから部活動に励む生徒たちの掛け声が聞こえる。誰が来るとも知れない保健室で、抗えないことを理由に嬲られる感覚は花京院の中に不思議な興奮を呼び起こす。
「だ、め……じょ、たろ……ッ、こんな……っ!」
「知ってるぜ花京院。てめーの身体は駄目と思うほど感じちまう」
「イッ、ひ……ッ!?」
容赦なく、小さな粒に歯を立てられた。鋭い痛みが駆け抜けて、そこからじわじわと痺れが追いかけてくる。
大きく跳ねようとする腰の動きさえ、承太郎の重みが圧し掛かった状態ではままならない。どこにも感覚を逃がすことができず、花京院の中で蓄積されるばかりだった。
「い、たッ、いた、ぃ、アッ、噛んじゃ、ぁ、や」
嫌だ嫌だと繰り返しても、承太郎はそこに何度も歯を立てた。もう片方は指先で摘ままれて、こりこりと押しつぶしながら引っ張られる。
気が遠くなるほどの快感に、花京院は両手で頭を掻きむしるようにして身悶えた。
どれほどの時間そうされていたか知れない。ただ承太郎の唇と指先が離れてからも、二つの胸の尖りはびりびりと痺れて、真っ赤に色づいていた。
承太郎は花京院の首筋や、鎖骨や、あらゆる場所に痕を残していく。歯型が残るほど牙を立てたかと思えば、鈍い水音を響かせながら強く吸い付いた。痛いのか気持ちいいのかも分からなくなってから、ようやく優しく舌を這わせる。その強弱の差について行くことができない。
承太郎の愛撫は、初めてここで抱かれたときとも、屋上で嬲られたときとも、どこか違っていた。
乱暴で、荒々しくて、自分本位で、まるで容赦がない。支配されているのだということを知らしめるような、そんな抱き方だと思った。
いつしか花京院は、小刻みに震えながら涙を流すしか、できなくなっていた。
「じょぉ、たろ……も、許し、て」
「ダメだね」
「ついて、いけなッ、あ……ッ!」
承太郎の手が花京院の前を寛げる。下着ごと剥ぎ取られ、下半身は白い靴下だけという屈辱的な姿にされてしまった。
完全に起ち上がった性器が、先端から白い粒を浮き上がらせている。
「嫌々言っといてこのザマだぜ。オラ、自分でよく見てみな」
「ちが、ぅ……違う、違う……見る、な!」
咄嗟に振り上げようとした片足を軽々と担がれて、腰がシーツから僅かに浮き上がる。
普段は晒されることのない白い内腿にまで、承太郎はきつく歯を立てた。
声にならない悲鳴を上げながら、花京院は両手で顔を覆った。淫らに跳ねる腰の動きに合わせて、先走りをまき散らす性器が揺れる。
承太郎の唇が、徐々にそこへ向かって移動していく。その光景を指の隙間から覗き見る花京院に向けて、彼は瞳を細めて笑って見せた。
「あ、あッ、ぁ……じょ、たろ、き、汚い……そんな、ヒッ、ぃ……ッ」
じりじりと這い上がって来た唇が、ぷるぷると震える柔らかな袋を舐め上げる。軽く音を立てて吸われると、一緒に脳ミソまで溶け出してしまいそうだった。
血管がほんのりと浮き上がるほど膨れ上がった性器は、花京院が刻む鼓動と同じリズムで脈打ちながらしなっていた。承太郎は根本からそれに舌を這わせ、やがてすっぽりと口の中に収めてしまう。
「ッ――!!」
生まれて初めて受けた口淫は、まだ性的な行為に対して未熟な花京院には、刺激が強すぎた。承太郎の肩に引っ掛けるようにして担がれている片足の先が、攣りそうなほどピンと伸びる。シーツを引き千切る勢いで掴み上げながら、たったそれだけで、花京院は精を弾けさせた。
「ッ、ぁ――、ッ、ぃ……ッ!!」
反り返っていた背中をシーツに打ち付ける。一瞬で達してしまった衝撃に、花京院は瞬きもできないまま、はかはかと胸を上下させ、放心する。視界のところどころで星が瞬いていた。
ショック状態で真っ白になる花京院を現実に引き戻したのは、承太郎が銜え込んだままの性器を吸い上げながら扱きだした瞬間だった。
「ヒ、ッ! や、やめ……ッ!」
達したばかりの身体はあまりにも敏感で、全身の神経が剥き出しといってもいい状態だった。下半身の痙攣が止まらないまま受ける刺激は、いっそ拷問に等しい。
承太郎は口の中で受け止めた花京院の白濁と、自身の唾液とで実に滑らかに水音を響かせながら頭を上下させている。漏れだすどろどろとした液体が袋を伝い、奥まった場所へと流れ込んでいくのがわかった。
「イッ、嫌だ、嫌……ッ! 離し、じょうたろ、そこ、イッた、ばっか、でッ、やだ、いやだぁ……ッ!!」
両手で硬い黒髪を掻きまわしても、承太郎は口淫をやめない。
上目使いで鼻からふっと笑みを漏らし、乱れ狂う花京院の反応を楽しんでいるようだった。
熱い口内で、花京院の性器はそう時間を要さず再び勃起する。先走りも混ざり、耳を塞ぎたくなるような下品な水音が大きくなった。
過ぎた快楽は暴力と変わらない。いつしか花京院の濡れた瞳は濁り、閉じることを忘れた唇からは唾液と、意味をなさない喘ぎばかりが零れだすようになる。
(もう、わからない……滅茶苦茶だ……)
承太郎の指先が、花京院の尻の肉を割って濡れた窄まりをつつく。
精液と唾液でしとどに濡れたその穴は、いともたやすく太い指を受け入れた。
「あっ、や……ッ、入って、き、た……っ」
前の刺激が強すぎるせいか、最初のときほど痛みは感じない。
ぬるぬると入り込む節くれだった指が内壁を擦る動きが、あのなんともいえない鳥肌のたつような感覚を生み出す。
あっという間に指が二本に増やされた頃、あと少しで再び達するというタイミングで、承太郎が銜え込んでいた性器から口を離す。濡れそぼる唇をぺろりと舐め上げて、中を解す動きはそのままに身を乗り出してくる。
「おまえのナカ、すげえな。ビクビクしてよ」
「んぅ、ぁ……ッ、はぁ、あ……じょ、たろ、じょう、たろぉ……ッ!」
ギリギリまで高ぶらされたまま放置される性器と、中を探られるもどかしさに、気が触れてしまいそうだった。
たかだか一度受け入れただけのそこが酷く疼いて、抱かれることに慣れた娼婦のように、穴をひくつかせているのが分かる。
(どうしてだ……あれから一度もしてないのに、どうして、こんなに……)
欲しくて欲しくて、堪らないのだろう。
初めて受け入れたときは、指が入り込むだけで凄まじい苦痛を伴った。承太郎のモノともなれば尚更のこと、憐れまれるほどの激痛に泣きじゃくったというのに。
あのときと今とでは、何が違うというのだろう。
「ところでよ、花京院」
二本の指をバラバラと動かしながら、承太郎は花京院の耳元に唇を寄せる。
「誰が嫌いだって?」
そして問いかけて来た。
「なっ、ん……? ひ、ぁうッ」
「覚えてねーのか?」
「なに、を、アッ、あ、ダメ、指、へん、に、なる……ッ」
「てめーが言ったんだぜ。大っ嫌いだ、ってよ」
熱と快楽に浮かされた思考で、花京院の意識が承太郎の言葉を辿る。そしてはたと気がついた。
言った。確かに言った。つい先刻の口論の途中。
『ぼくは君が、大っ嫌いだッ!!』
花京院は承太郎に向かって、高ぶった感情をぶつけた。
「そ、れは……君が……」
「おれがなんだって?」
「ぅあッ……!?」
ほんの僅かに気がそれた隙をついて、いよいよ指が三本に増やされた。流石の圧迫感に喉を反らせば、浮き上がった喉仏に歯をたてられる。
「んんぅ、ッ、ヒ、ぁッ……!」
「もういっぺん言ってみな。あれと同じことをよ」
意外と、根に持つタイプか。
霞む視界を抉じ開けて、承太郎の顔を見上げる。その表情を見て、花京院は息をのんだ。
てっきり、またあの意地の悪い笑みを浮かべていると思っていたのに。
承太郎の瞳はどこか切なげに揺れていた。
きゅっと引き結ばれた唇が、迷子の子犬のように、悲しげで。
「……!」
夢でも、見ているのだろうか。
自分が知っている承太郎は、絶対にこんな弱り切ったような顔など見せない。
誰がそうさせているのだろう。彼に、こんな顔を。
(ぼく、なのか)
ただ勢いのまま吐き出してしまった言葉だった。
それだけじゃない。ここで女医と承太郎の口付けを見てしまったあの日も、花京院は彼に嫉妬や憎しみという感情をぶつけて遠ざけた。
この男も、傷ついていたのだろうか。
承太郎の精神は、その鋼のような肉体と同様に、なにがあっても決して傷つかないものとばかり、思っていたけれど。
おかしな話だが、花京院はこのとき初めて承太郎のことを自分と同じ、人間なのだと思えた。悲しみもすれば傷つきもする。誰かを深く、思うことだってできる。そう感じた途端に。
(これ、なんて言うんだろう)
胸いっぱいに、火が灯ったような気がした。
それは身を焦がすような激しい炎ではないけれど、温かくて、泣きそうなほど切なくて、締め付けらているみたいに苦しいのに、こがした砂糖のように甘かった。
(愛しい)
その瞬間、身体の奥で疼きが増した。
きゅん、という音がしっくりくるほど悩ましく、承太郎の指を締め付ける。
「花京院……」
ああ、やっとわかった。
どうしてこんなに欲しいのか。最初と何が違うのか。
(ぼくはもう知っているからだ。あの頃の、無知な花京院典明ではないからだ)
ただ訳も分からず奪われるだけの自分じゃない。
感情が伴っているからだ。承太郎と、思いが重なっているからだ。
「好きだよ、承太郎」
花京院は小さく震える両手で承太郎の頬を包み込む。
「好きなんだ。ぼくは君に……恋に、落ちたよ」
だからね。
「ぼくを、君の一番に選んでくれるかい? ぼくだけだって、言ってくれる?」
「ッ……!」
承太郎の顔が一瞬だけ、くしゃりと歪んだ。一気に指が引き抜かれ、ぞくりと這い上がる感覚に戦慄く花京院へ、ガキ大将のように強気な笑みを浮かべて見せる。
「とっくに選んでんだよ。おれには、てめーだけだ」
通じ合った想いを込めて交わす口付けは、信じられないくらい、温かかった。
*
承太郎は長ランを脱ぎ捨て、中に着ていたシャツさえもむしり取るようにして取り払うと、床に放った。
その仕草の男臭さに胸を高鳴らせ、花京院は蕩けきった表情で覆いかぶさって来る大きな身体を受け止める。
前を寛げた承太郎が、熱くそそり起つ剛直をヒクつく穴に宛がった。
互いが同時に喉を鳴らす。心臓が飛び出してきそうなほど暴れる感覚が少し怖くて、花京院は承太郎の首に両腕を回して強くしがみついた。
「花京院」
「うん」
好きだ、と。
承太郎は何度も吐息と一緒に吐き出しながら、ゆっくりと腰を進めてくる。
痛いも苦しいも、愛しさの前には媚薬にしかならなかった。この人しかいないと決めた相手と繋がることが、こんなにも幸福なことだなんて、知らなかった。
「は、ぁ! じょ、た、ろ……ッ、承太郎、承太郎……承太郎……ッ!!」
それしか知らないみたいに、花京院は承太郎の名を呼ぶ。
汗の粒が頬に落ちて、見上げた先には歯を食いしばる承太郎の顔がある。
初めてのときも、彼はこんな風に苦しげに表情を歪めていたのかもしれない。あのときは後ろからだったから、見えなかったけれど。
完全に繋がり切ってしまうと、それだけで二人は息も絶え絶えになっていた。
腹の中にみっちりと、承太郎の肉が詰まっている。きっともう隙間なんかない。何一つ入り込む余地などないほど、花京院の中は承太郎で満たされていた。
「平気か」
掠れた声が色香を放つ。鼓膜まで蕩けそうな甘美さに、花京院はどこか夢見心地の状態でこくんと頷いた。
「平気……動いて、承太郎。今度は、ちゃんと応えるから」
「……あんまり煽ってくれるなよ」
ふっと笑った承太郎が、改めて花京院の身体を抱え込む。両足を承太郎の腰に絡めると、抱き寄せた頬に頬ずりをした。それが合図とばかりに、ゆらゆらと幾度か腰が揺らめいた。
「あッ、あぁ……ッ、ん、じょ、たろ、承太郎……んっ、は……」
「花京院……ッ、花京院」
痛いほどの快感が痺れとなって脳髄にまで響き渡る。ひっきりなしに軋むベッドの音が加速するほど、その腰使いに花京院の理性はぐずぐずに蕩けていった。
承太郎の荒々しい呼吸が愛しい。中で脈打つ屹立が、彼が確かに快感を得ていることを身体の内側から伝えてくれる。
自分ばかりが嬲られているのではない。花京院の内壁もまた、承太郎を締め付けては翻弄している。それが堪らなく、心地いい。
熱い欲に飲み込まれて、吐息ごと、二人一緒に溶けていく。限界がもうすぐそこだった。
「じょう、たろ……ッ、も、ぼく……!」
「まだだぜ。花京院」
「え、ぅあッ!?」
二の腕を掴まれ、腰を抱えられたと思った瞬間、花京院の視界が大きく揺らいだ。
胡坐をかく承太郎の上に向かい合って繋がる形になると、腹の奥の、もっと深い場所にずん、という衝撃が走った。
「ヒッ、ぎ……ッ!!」
見開いた瞳から、涙が溢れる。
もうこれ以上はないという場所まで、貫かれていたのだとばかり思っていた。けれどそれは、甘かった。
「ぁ、あ……? ァ……う、そ、ッ、ぁ……ぼく、の、お腹、が……っ」
突き破られたのではないかと、思った。
花京院はわなわなと震えながら、指先を下腹部へと滑らせる。承太郎の形に僅かに膨らむ下腹が、ずくずくと熱せられて痙攣していた。
「これで、全部だぜ」
見上げてくるエメラルドが、快楽に溺れきって潤んでいる。そのうっとりとした表情が、涙に滲んでぼやけていった。
これで本当に、全てが承太郎のものになった。花京院もまた、彼の全てを、手に入れた。
「嬉しいよ……とても……」
うまく笑えたかは、わからなかった。ただその太い首にしがみついて、花京院はひくひくと泣いた。承太郎がゆっくりと、下から突き上げてくる。内臓ごと押し上げられるような感覚に咽びながらも、その動きに合わせて一緒に腰を揺らす。
「ひっ、ぁあッ、い、アッ、ぁ、あ……ッ!!」
腹の奥を突かれる度に、声が抑えきれない。そうやって喘いでいなければ溺れ死んでしまいそうで、女のように啼いている自分の声にすら、止め処なく気分が高揚していくのを感じた。
そのとき、承太郎の屹立が花京院の中の一点を引っ掻いた。
「ひンッ、ぁッ、ぁ……? まっ、て、アッ、あぁ……――ッ」
「ここ、か」
承太郎の口元の笑みが濃くなった。喉と背を反らしながら、花京院はバチバチと散る火花にただ混乱する。
承太郎が、心得たとばかりにそこばかり狙って揺さぶってくる。快感にすら、まだ先があったのか。こんなことを続けられてしまったら、本当に死んでしまう。
二人の腹の中心でしなる肉棒から、信じられない量の先走りが零れていた。赤く腫れあがったようになっているそこが、早く解放されたくて大粒の涙をまき散らしているようだった。
「も、ッ、こわ、れるっ、じょ、たろ……ッ!!」
「ッ、いいぜ……好きなだけ、イカれちまいな。花京院」
承太郎が花京院の胸に唇を寄せる。散々嬲られて赤く腫れた粒に思い切り吸い付かれた瞬間、花京院は声もなく達した。同時に、最も深い場所に熱いものが叩きつけられたのを感じる。
貪り尽された腹の中に受け止めきれないほどの精を注がれて、花京院は背中からシーツに崩れ落ちながら、微かに笑った。
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昼休みに入ってすぐ、教室に大勢の女子たちの悲鳴がこだました。
「ギャアアアアッ!! JOJOよ! JOJOがいるわ!!」
「どうしてJOJOが二年生の教室に!?」
「わたしを誘いに来たのね!? そうでしょJOJO!!」
「なに言ってんのよ!? わたしよ!!」
「はぁ!? ペチャパイどころか陥没してる分際でバカじゃないの!?」
「なんですってこの顔面ブスゴリラ!!」
女子たちは激しい口論をはじめる者、ひたすら絶叫する者、密やかに失神する者と、多様な反応を見せていた。その騒ぎを聞きつけた隣のクラスの女子まで廊下に生垣を作り出し、大変な騒ぎと化している。
そんな中、男子たちはただただ青い顔で目を泳がせるばかりだった。
花京院は……石のように硬くなりながら視線を明後日の方向へ向ける。
なぜ彼がここに。わざわざ二階の教室までやって来るのか。
完全に嫌な予感しかしない。
(来るなよ……絶対に来るなよ……フリじゃあないぞこれはッ!!)
頼むからこちらを見てくれるなと、花京院は心の中で十字を切った。
が、教室の戸口に背を預け、承太郎は騒ぐ女子たちには目もくれずに花京院の名を呼ぶ。それはもう、容赦なく。
「花京院」
そして、手に持った大きな風呂敷包みをひょいと掲げると、顎をしゃくって見せる。
来い、と。案の定、そういうことらしい。
(うわあああああ!!)
その瞬間、教室や廊下中の視線が、花京院へと一斉に注がれた。
*
「こ、困りますよ! ああいうのは!!」
人だかりをどうにか脱して辿り着いた屋上で、花京院は自分よりも背の高い男に向かって声を張り上げた。
当の本人はどこ吹く風で、昨日と同じ日影へヌシヌシと向かう。
「聞いてるのか!? 大変な騒ぎになってしまったじゃあないかッ!!」
「保健室にいねえおまえが悪い」
「はぁ!? どういう言いがかりだいそれはッ!?」
承太郎は壁を背にどっかりと胡坐をかくと、肩を怒らせる花京院を見上げ、ニヤリと笑う。
「子犬みてえなヤローだな。キャンキャン吠えてよ」
「~~ッ、せめて成犬と言えッ!!」
晴れ渡る空に、花京院の悲鳴じみた怒声が太鼓のようによく響いた。
*
それからというもの、花京院は毎日のように承太郎と昼食を共にするようになった。
晴れの日は屋上の日影で、雨の日はひと気のない場所で。
使われていない部室があるとか、旧校舎裏の用務員室は鍵が壊れているとか、承太郎はこの学校内において一人きりになれる時や場所を、幾つも知っているようだった。
そのうちの何か所かは、教師が見て見ぬふりをしているだけかもしれないが。
(人気者は辛いよ、と言ったところかな)
承太郎が学校に来ていると、一日に何度も女子たちの悲鳴を聞くことになる。登校から下校に至るまで、彼には気が休まる時間というものがないらしい。
それはそれで、少し気の毒なようにも感じられる。
(誰かを連れ込んで好き勝手するため、とかだったら、話は別だけど)
そう考えると、胃の辺りがムカムカしてくるのはなぜだろう。
毎日のように豪華な重箱弁当をご馳走になっているせいで、少し胃がもたれているのだろうか。
流石にこんな豪勢なものを毎日いただくのは気が引けると、花京院がどんなに遠慮しても、承太郎は「気にするな」と一言で片づけてしまう。
ちなみに教室にわざわざ迎えに来るという行為は、初日だけでどうにか阻止することに成功した。今は屋上手前の踊り場で待ち合わせをしている。
あのあと花京院は女子たちに詰め寄られ、最後には男子たちに憐れまれた。ヤキを入れられたことになっているらしい。
とにかく、あの日からもうかれこれ十日以上は経過しているだろうか。
そして今。
花京院は体育館倉庫にいる。
今日は朝から雨が降っていた。屋上へ出ることを諦め、連れて来られたのは体育館倉庫だった。鍵はかかっていたが、承太郎は「コツがあるんだぜ」なんて言って、鉄の扉を思い切り蹴り上げた。すると、たったそれだけで面白いほど簡単に鍵が開いてしまったのだ。果たしてどのあたりにコツがあったのか、花京院にはさっぱり分からなかったが。
倉庫は微かに肌寒く、独特の匂いは多少気になるが、座布団代わりにマットレスを使用できるのは悪くない。
花京院は隣で食後の一服にふける承太郎をチラリと見やった。
厚みのある唇から吐き出される紫煙が、ほのかにカビ臭い空間に溶けていく。遠くから雨音がする以外、二人きりの空間に音はなかった。
(少し、慣れたかな)
こんな風に、承太郎と過ごすことに。
まだ少し怖いような気もするし、何を考えているのかも謎だ。
どうして承太郎が自分を側に置きたがるのか、何より自分自身がそれに甘んじているのか、まだ分からないことだらけだが。
「熱烈だな」
「……へ?」
承太郎は咥えていた煙草を指先で摘まみ、飲みかけの水が入ったペットボトルに放り込むと、ぐいと花京院の肩を抱いて引き寄せた。
「ッ!」
一気に縮まった距離に、胸が高鳴る。
「あんまり見るんじゃねえよ。照れちまうだろ」
「え、あ……そう、だったかな、っていうか、君も照れたりするんだね」
「おれだって人間なんだぜ」
「そうか、ごめん」
そんなに、熱心に見つめていたのだろうか。
恥ずかしさも相まって、花京院の頬に一気に熱が集まった。密着する身体が熱い。心臓がうるさく騒いで、目が泳ぐ。
一緒にいることに多少は慣れたつもりでも、この感覚だけはどうも慣れない。
そんな惑うばかりの花京院の頬に、大きな手が添えられる。そのまま、承太郎はぴんと伸ばした人差し指で、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスを軽くつついた。
「ずっと言おうと思っていたんだがよ。なかなか似合ってるぜ。これ」
「……そ、それはどうも、ありがとう」
「自分で買ったのか」
「母のお古ですよ。くれたんです。ぼくの好物がチェリーだから」
ピアスを家族以外の他人に褒められたのは、初めてだ。なんだか照れ臭くて、むず痒いような気分になる。
だからだろうか。つい、誤魔化すみたいに余計なことが口をついて出る。
「このピアスはぼくなりの……生きている証のようなもの、かもしれません」
「生きている証?」
こくりと頷いて、花京院は微かに笑う。
「子供の頃は今よりもずっと身体が弱くて、ほとんど学校にも行けなかったんです。両親はそんなぼくを心配して、大人になるまで生きられないのではないかと……いつも泣いていました。ぼくは、それがとても悔しくて」
嘆く両親の姿を見て、幼心に胸にぽっかりと大きな穴が開いたのを覚えている。
自分という存在は、そんなにも儚いものなのかと。
耳たぶに針を通したのは、ちょっとした反抗心からだったのだと思う。過剰なまでの心配は、時として束縛にしかならない。
だが意外なことに、両親はこれと言って息子の突飛な行動を咎めることはしなかった。
厳格な人たちでもあったから、もっと口煩く注意を受けるかとばかり思っていたのだが、むしろ母は若い頃にしていたこのピアスをくれた。
生まれて初めて自分の生を肯定されたような気がして、あのときは本当に嬉しかった。
「なんでもいいから形として残したかったんですよ。ぼくはちゃんと生きてここにいるし、これから先もずっと生きていくんだぞ、ってね」
そこまで話して、ハッとする。
「あ、すみません……つまらない話をベラベラと」
途端に居心地が悪いような気分になって、身を捩る。けれど承太郎はそれを許さず、よりいっそう強く花京院の体を引き寄せた。
熱を帯びる頬に、承太郎の唇が押し付けられる。
「じょ、じょうたろ」
「構わねえ。もっと聞かせな。てめーの話を」
魅惑の低音が胸に染み込む。一瞬で項の毛が粟立つのを、咳払いで押しやると花京院は顔を背けた。
「ぼ、ぼくの話は、これで終わりです」
友達とも呼べないような相手に、自分語りをしてしまったことが恥ずかしい。今まで誰にも話したことがなかっただけに、尚更のこと。
花京院はさっさと話題を切り上げてしまうと、承太郎を横目で睨んだ。
「そ、それより、君の方はどうなんだ」
「おれがなんだって?」
「だから、その……」
花京院の脳裏には、あの保健室の女医の姿が浮かんでいた。
昼休みはこうして一緒に過ごしているけれど、それ以外の時間この男が真面目に授業に出ているとは限らないのだ。
「……あの女医とは、付き合っていないと言っていたけど……最近は、どうなんだ?」
承太郎は。
屋上で花京院が目を回して以来、キス以上のことをして来なくなった。
今だってただ抱きしめて、花京院の前髪の癖毛を指先で弄んでいるだけだ。
この男は悪いヤツだとは思うが、根は優しいのだということは知っている。
女医の話では倒れた花京院をわざわざ保健室へ運び、心配そうにしていたというのだから。しかも二度も。
例のお姫様抱っことやらを女医以外に見られていなかったのは、不幸中の幸いだろうか。
だから今も、花京院の身を案じて手を出して来ないのだと思う。
だけど。
(それならどうして、ぼくはここにいるんだろう?)
承太郎が本来持っている優しさに触れて、ついおかしな勘違いをしそうになったが、彼が求めているのはあくまでも性の捌け口ではないのか?
あれほど有無を言わさず奪っておいて、こんな触れ合いだけを繰り返すことに、何の楽しみを見出しているというのだろう。
もっと深く、好きにしようと思えばいくらでも、承太郎にはそれが可能なはずだ。
現にここにはマットだってあるし、人の気配だってまるで感じられない。行為に及ぶには、もってこいの場所ではないのか。
だけどそれをしない、ということは、他で発散しているのかもしれないと思った。
もしそうなのだとしたら。
(なんか、やだな……)
「そんなにあの女医が気になるか?」
いつにも増して低い声で言った承太郎の瞳に、一瞬どこか剣呑な色が浮かんだような気がした。花京院は慌てて首を振る。
「ち、違う。別に気になってるとか、そういうんじゃあ、なくてだな……」
そういえば自分は、あの女医に恋をしていたのだった。今の今まですっかり忘れていた。
今の花京院は承太郎と女医が、未だに関係を持っているのかどうか、そればかりが気になってしょうがない。自分でも、なぜこんなにと思うほど。
これではまるで、嫉妬でもしているみたいではないか。
(そ、そんなまさか。いや、だが承太郎にはそう思われたかもしれない)
承太郎は帽子の鍔を引き下げて表情を隠した。やれやれ、という口癖に胸がズキリと痛む。ああ、きっと面倒だと思われたに違いない。鬱陶しいヤツだと。
後腐れなく遊ぶための相手に、まるで嫉妬しているみたいな質問をされれば、誰だってそう感じて当たり前、なのだと思う。
「すまない……さっきのは、忘れてくれ」
「てめーだけだ」
「そうだよな、君がどうしようとぼくには関係……ぅん?」
「おれにはてめーだけだぜ。花京院」
ぽかん、と。
大きめの口を丸く開いたまま、瞬きすら忘れる。
承太郎の言葉を、幾度か頭の中で反芻した。
それはつまり、どういう意味だろう。遊び相手は今は花京院以外にいない、ということか。それとも、もっと特別な意味が含まれていたりするのだろうか。
真っ直ぐに見つめてくる承太郎の瞳はどこまでも澄んでいて、薄暗い体育館の中にあっても輝きは決して失われない。その宝石のような緑に、今は花京院だけが、映されている。
「ぁ、あの……それは、つまり、ど、どういう……」
瞬きもできないまま、花京院はしどろもどろに問いかける。承太郎はそんな花京院の様子を見て、堪え切れなくなったように小さく噴き出した。
そのままくつくつと肩を揺らしながら笑う様は、どこか悪戯に成功した悪ガキのようでもあり、なにやらえらく嬉しそうに見えた。
しばらくはそれを茫然と見つめながら、花京院は徐々に頭に血が上って行くのを感じる。
「か、からかってるならよしてくれッ! 悪趣味な男だなッ!!」
拳を握り、振り上げるみたいにして声を張り上げると、承太郎はさらに楽しそうに身を震わせて笑う。
「子猿みてえだな。顔中まっかっかでよ。ケツも赤くなってんのか?」
「ばっ、バカにしてるのか君はッ!? しかもこないだから子犬とか子猿とか!!」
「褒めてんだろーが」
「どこがだッ!!」
やっぱりこの男は自分を弄んでいるんだ。
花京院の経験値の低さを知っていて、こうして思わせぶりなことを言ったり、からかって遊んでいる。
本当に酷い男。人を笑い者にするなんて、絶対に許せない。
だけど。
――てめーだけだぜ。花京院。
(なにを期待しているんだろう)
嘘か本当かも分からないような言葉を、それでも嬉しいと感じてしまった。
例え一瞬でも、あの美しいエメラルドに自分一人を映してほしい、なんて。
(ぼくは、いよいよ本当に頭がおかしくなってしまったんだろうか)
少しずつ、少しずつ。
欲張りになってきている心を抑えきれなくなっているような気がして、花京院は楽しげに肩を揺らす承太郎から、慌てて目を逸らした。
*
それからさらに数日が経過した。
「あれ、今日はぼくが一番か」
昼休み、花京院はいつものように階段の踊り場へ向かった。だが、そこにいつもは先に待っているはずの承太郎の姿がない。
珍しいこともあるものだと、花京院は屋上へ続く扉に背を預けて一息ついた。
その手には、白いハンカチに包まれた弁当箱がある。
(弁当を持参するのは、久しぶりだ)
中身は玉子焼きやウィンナーといった、いたって普通の弁当だ。
承太郎がいつも持ってくる重箱の中身に比べれば、お粗末なものでしかない。
だが、花京院にとっては少しばかり、特別なものだった。
今朝はいつもより早く目が覚めた。
キッチンに顔を出すと母が朝食の支度をしていて、今日の昼はどうするのかと聞かれた。最近はずっと承太郎にご馳走になっていたから、母にはパンで済ませると言って誤魔化していた。
だから今日もそう言うつもりだった。けれど花京院はふと思い立ち、弁当を持参することを決めた。
(玉子焼きっていうのは、簡単そうで実は凄く難しいんだな……)
専用のフライパンを使ったとしても、慣れない手つきで焼き上げるのは至難の業だった。実際、一度は失敗してしまった。母の指導の下、二度目でなんとかそこそこの見た目に焼き上がったが、果たして承太郎の口に合うだろうか。
そう、今日の弁当には生まれて初めて花京院が作った、玉子焼きが入っている。
我ながら、恥ずかしいことをしてしまったと、そう思う。
母も一体どうしたのかと目を丸くしていたし、花京院自身も驚いている。
(別に、特別な意味なんかないぞ。ただいつもご馳走になってばかりだから、少しは何か返したいと思っただけであって)
心の中で言い訳をすると、なぜかますます恥ずかしくなった。
誰の目があるわけでもないのに、花京院は照れ隠しに赤くなった頬を指先で掻いた。そのままふと気になって、ひと房だけ垂れる前髪の先をちょんちょんと引っ張る。なんとなく気に入らなかったので、ポケットから櫛を取り出すとさらに乱れを整えた。
「ふぅ……こんなもんかな……」
満足げに呟きながら櫛を仕舞ったところで、我に返る。
(お、乙女かッ!!!)
昔ながらのコントのように、タライが降って来たような衝撃を受ける。
自分は一体なにをしているのだろう。わざわざ弁当をこさえて、髪型まで気にしながら、そわそわと一人、承太郎を待っている。
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。しかもこれでは、まるで承太郎の彼女ヅラではないか。
(あ、でも、ぼくは男なわけだから、彼氏ヅラ……に、なるのか……?)
いやいやいやいや。そういう問題じゃあない。
そもそも自分と承太郎は恋人同士でもなんでもないのだから。
いくらあれ以来キス以上のことをしていないからって、承太郎にとって花京院はただの遊び相手に過ぎないはず。
それは十分に理解しているのだが。
(浮かれてる、よな……完全に)
てめーだけだと言った、その言葉を忘れられないでいる。
もしあの言葉に特別な意味が込められていたとして。遊び相手としてじゃなく、空条承太郎という男に選ばれた、たった一人の存在になれたとしたら。
どうするだろう。どう思うのだろうか。
承太郎から与えられるものは、怖かったり痛かったり苦しかったり、戸惑うようなものばかりだ。だけど嫌じゃない。キスしかしてこない相手に対して、もどかしいとすら感じ始めている。
だけど同じくらい、大切にされているような気もして、くすぐったい。
今だって、早く来ないかと待ちわびて、落ち着かない自分がいる。
承太郎は、この弁当をちゃんと食べてくれるだろうか。どんな反応をするだろう。
彼の母親は料理が上手だし、きっと舌も肥えているに違いない。だけど少しでも喜んでくれたら、最高に嬉しい。そう思う。
「それにしても遅いな」
自分の気持ちに蓋をするように、花京院はあえて独り言を漏らす。
耳をすませてみても、誰かが階段をのぼってくる音すら聞こえなかった。
何かあったのだろうか。彼は超がつくほどの不良だし、何か悪さをして教師にでも呼び出されているのか。とはいえそんな勇気がある教師がいるとは思えないが。
今朝も元気に女子たちが騒ぐ声が聞こえていたから、学校には来ているはずだ。途中でフケて帰ってしまったという可能性なら、考えられるが。
「…………」
ふと、嫌な予感がした。
脳裏に浮かんだのはやはりあの女医の顔で、花京院は途端に不安に駆られる自分に気が付いた。
(行ってみる、か……?)
少し、様子を見るだけ。
そう考えたときには、花京院の足は階段を下りはじめていた。
やめておけと、心の奥底でもう一人の自分が制止する声を聞きながら。
*
行って、何もなければそれでいい。
何かあったとしても、多分、それでいいのだと思う。
承太郎はあんなことを言ったが、彼の遊び相手が自分や女医だけとも限らない。
もしどこか知らない場所で他の人間に手を出していたとしても、花京院には承太郎を咎める権利もなければ、その理由もないのだ。
頭の中ではちゃんと理解しているつもりだった。だけど心臓が内側から太鼓のように胸を叩く。今にも突き破って来そうで、息が苦しい。
何度も足を止めかけながら、花京院は保健室がある一階へ辿り着いた。そのまま真っ直ぐ、廊下を突っ切って行く。
本当は信じたいのではなく。
花京院はこのときすでに、どこかで承太郎を信じていたのだと思う。
恋愛と性欲は別と、そう切り離して考えている酷い男。
そうと知っていても、二人きりでいる時間の承太郎は優しくて、ほんの少しの意地悪でさえも、花京院の胸を甘い棘で締め付けた。まるで自分が特別な存在になったみたいな、そんな気にさせられるから。
もしかしたら彼は本当に、そのエメラルドに自分だけを映してくれているのではないかと。
そんな風に勘違いしてしまったとして、誰が花京院を責められるだろう。
だって相手は学校中の女が手を伸ばしても届かない、あの空条承太郎なのだから。
いっそ浮かれるなと言う方が、どうかしているのではないか。
だから花京院は思い知ることになる。
そんな男が、たかが一度抱いただけの、ましてや同性を相手に。
特別な感情を抱くはずが、ないということを。
辿り着いた保健室のドア。
一瞬の迷いを振り払うようにして開けた引き戸の先で、花京院は見てしまう。
寄り添ってキスをする、承太郎と女医の姿を。
「じょう、たろう……?」
時間が、止まったような気がした。
その光景はあまりにも鮮烈で、だけど遠くて、目の前で起こっている出来事に理解が追い付かない。
「か、花京院くん……!?」
扉の前に立ち尽くす花京院を見て、青褪めた女医が慌てて承太郎から距離を取る。
花京院は真っ白になる頭で、空気が痛いほど張り詰めているのを感じていた。
(キスを、していた)
承太郎と、女医。
二人は身を寄せ合い、深く唇を重ねていた。
あまりにも絵になる光景は、画面越しにチープな恋愛ドラマでも見ていたようで。
面倒なところを見られたからか、それともお楽しみを邪魔されたからか。承太郎が微かに舌打ちをする。
それにハッとして、花京院は背後に数歩、よろめいた。
「花京院くん、こ、これはね、あの……違うのよ」
女医が目を泳がせながら、何か言い募ろうとしている。
だけど今の花京院には、それがまるで不愉快な雑音にしか聞こえなくなっていた。
どこか険しい承太郎の視線だけが、胸に突き刺さる。
心臓に直にナイフを当てられたかのように、ひやりとした感覚が広がっていく。指先にまで達する冷たさが、花京院から呼吸を奪った。
「ッ……!」
何も言えずにただぺこりと頭を下げて、花京院は踵を返すと走り出す。
「待て花京院ッ!!」
承太郎の声に鬼気迫ったものを感じたが、花京院はこの場から逃げ出すこと以外、何も考えられなかった。
*
どうしようもなく、打ちのめされていた。
呼吸を止めたまま、全力で走る。いま足を止めたら、そのまま地面に崩れ落ちてしまいそうだったから。息をすれば、叫び出してしまいそうで。
廊下を突っ切り、何の考えもなしに校舎から飛び出した。
立ち込める夏の熱気に、蝉時雨がこだまする。どこへ行けばいいのかも分からず、花京院はただ走った。
途中で何人かの生徒にぶつかって睨まれたような気もするけれど、構ってなどいられなかった。
『てめーだけだぜ。花京院』
承太郎の声が、頭にこびりついて離れない。
からかわれているだけだということくらい、ちゃんと分かっていたはずなのに。自分はただの遊び相手の一人にすぎないのだと。なのに、どうして。
(どうして、ぼくはこんなにも傷ついているんだ)
勘違いをして、浮かれていた自分が恥ずかしい。このまま氷のように融けて消えてしまえたら、どんなに楽だろう。
(分かっていた。分かっていたんだ)
それなのに。
(ぼくは)
本当は最初から。
保健室で、あの脳髄を蕩かすような声を聞いたときから。
この心は囚われていた。落ちていた。奪われていた。心ごと、なにもかも。
けれど末路も知っていた。こんなふうに傷つくことを、花京院は確かに知っていたはずだった。
だからこの想いの形に、名前をつけるなんて愚かな真似はしたくなかった。
恋だなんて。
そんな感情、知りたくなかった。
認めたくなかった。こんな、最悪の形で。
(好きだったんだ……だから何もかも許してしまった……求めてすらいた……)
いつの間にか、承太郎と過ごす時間が何よりも大切なものになっていた。
大きな手が伸びてきて、抱き寄せられる瞬間はいつだって心が震えた。
キスだけでは物足りなくなるほどに、欲張りになって。
ああ、なんて惨めなんだろう。
噛み締めた唇が痛い。酸素を求める肺が、心臓が、悲鳴を上げていた。そのとき。
「花京院ッ!!」
「ッ!?」
強く二の腕を掴まれて、花京院は息をのみながら足を止める。
勢いよく態勢を崩しかけた身体を引き寄せられて、体当たりするみたいに厚い胸板に手をついていた。
あまりにも夢中で走っていたからか、彼が追いかけて来ていたことに、気が付かなかった。
「てめー、激しい運動はできねーんじゃなかったのか。またぶっ倒れでもしたらどうする」
「じょう、ッ、たろ」
校舎と隣接する旧校舎。その裏側にある、今は誰も使用していない用務員室。朽ちたコンクリートは僅かに黄ばみ、幾つものヒビが走っている。
いつの間にかこんな場所まで来ていたのかと、花京院はただ茫然としながら、肩で息をした。ようやく取り込んだ酸素に、肺がひゅうひゅうと乾いた音を立てる。
激しく咳き込みそうになるのを堪えながら、喉の奥から声を絞り出した。
「なんの、用だい」
「盛大に勘違いをしているぜ。てめーはよ」
「勘違い……?」
そうだ。自分は勘違いをしていた。
今だって、承太郎が頬に汗の筋を張り付かせながら息を乱し、こうして追いかけて来たことを、純粋に喜ぶ自分がいる。二の腕を掴む手は力強く、だけどこんなときでさえ、短く切りそろえられた爪は花京院の皮膚を傷つけない。
だから許せなかった。恥ずかしくて、消えてしまいたいと思う。
「離してくれ」
「誤解だ花京院」
「ふざけるなッ!」
あの光景の何を見て、誤解だなどと言えるのか。
花京院は掴まれていた腕を勢いよく振りほどく。数歩後退して、承太郎から距離を取った。
「人を弄ぶのも、大概にしろよ承太郎」
「言ったはずだぜ。てめーだけだと」
「ッ……!」
頭に血がのぼって、目の前が赤く点滅した。
どうにかしてこの男を傷つけてやりたいと。凶暴な熱が花京院の内側で膨らんでいく。だけどどうすることもできなくて、ずっと掴んだままだった弁当箱を、思い切り投げつけた。きっと中身は滅茶苦茶だ。
母に教えを乞い、初めて作った玉子焼き。それさえも、滑稽で。
「ッ、花京院?」
バスケットボールを掴むより容易く、承太郎はそれを手の平であっさりと受け止める。悔しくて、視界がぼやけるのを感じた。
「もう二度と、ぼくに近寄らないでくれ」
「おい、話を」
「黙れッ! もう沢山だ……君にとっては遊びでも、ぼくは……ぼくにはッ」
その先は続かなかった。
言ってどうなるものでもなかったし、恥の上塗りになるだけだ。つけこまれて、さらにいいようにオモチャにされるだけかもしれない。
これ以上傷つくのは嫌だ。無様な自分を曝したくない。忘れたい。
憮然とした表情で口を噤む承太郎に、花京院は背を向けた。そのまま歩き出しても、背後から追って来る様子はない。
(もう、ぐちゃぐちゃだ)
こんな気持ちに、気づきたくなどなかった。泣きたくなんかないのに。
いつの間にか蝉時雨が止んでいた。俄雨が降るよりも先に花京院の頬を濡らしたのは、悔しさから溢れだした大粒の涙だった。
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「ギャアアアアッ!! JOJOよ! JOJOがいるわ!!」
「どうしてJOJOが二年生の教室に!?」
「わたしを誘いに来たのね!? そうでしょJOJO!!」
「なに言ってんのよ!? わたしよ!!」
「はぁ!? ペチャパイどころか陥没してる分際でバカじゃないの!?」
「なんですってこの顔面ブスゴリラ!!」
女子たちは激しい口論をはじめる者、ひたすら絶叫する者、密やかに失神する者と、多様な反応を見せていた。その騒ぎを聞きつけた隣のクラスの女子まで廊下に生垣を作り出し、大変な騒ぎと化している。
そんな中、男子たちはただただ青い顔で目を泳がせるばかりだった。
花京院は……石のように硬くなりながら視線を明後日の方向へ向ける。
なぜ彼がここに。わざわざ二階の教室までやって来るのか。
完全に嫌な予感しかしない。
(来るなよ……絶対に来るなよ……フリじゃあないぞこれはッ!!)
頼むからこちらを見てくれるなと、花京院は心の中で十字を切った。
が、教室の戸口に背を預け、承太郎は騒ぐ女子たちには目もくれずに花京院の名を呼ぶ。それはもう、容赦なく。
「花京院」
そして、手に持った大きな風呂敷包みをひょいと掲げると、顎をしゃくって見せる。
来い、と。案の定、そういうことらしい。
(うわあああああ!!)
その瞬間、教室や廊下中の視線が、花京院へと一斉に注がれた。
*
「こ、困りますよ! ああいうのは!!」
人だかりをどうにか脱して辿り着いた屋上で、花京院は自分よりも背の高い男に向かって声を張り上げた。
当の本人はどこ吹く風で、昨日と同じ日影へヌシヌシと向かう。
「聞いてるのか!? 大変な騒ぎになってしまったじゃあないかッ!!」
「保健室にいねえおまえが悪い」
「はぁ!? どういう言いがかりだいそれはッ!?」
承太郎は壁を背にどっかりと胡坐をかくと、肩を怒らせる花京院を見上げ、ニヤリと笑う。
「子犬みてえなヤローだな。キャンキャン吠えてよ」
「~~ッ、せめて成犬と言えッ!!」
晴れ渡る空に、花京院の悲鳴じみた怒声が太鼓のようによく響いた。
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それからというもの、花京院は毎日のように承太郎と昼食を共にするようになった。
晴れの日は屋上の日影で、雨の日はひと気のない場所で。
使われていない部室があるとか、旧校舎裏の用務員室は鍵が壊れているとか、承太郎はこの学校内において一人きりになれる時や場所を、幾つも知っているようだった。
そのうちの何か所かは、教師が見て見ぬふりをしているだけかもしれないが。
(人気者は辛いよ、と言ったところかな)
承太郎が学校に来ていると、一日に何度も女子たちの悲鳴を聞くことになる。登校から下校に至るまで、彼には気が休まる時間というものがないらしい。
それはそれで、少し気の毒なようにも感じられる。
(誰かを連れ込んで好き勝手するため、とかだったら、話は別だけど)
そう考えると、胃の辺りがムカムカしてくるのはなぜだろう。
毎日のように豪華な重箱弁当をご馳走になっているせいで、少し胃がもたれているのだろうか。
流石にこんな豪勢なものを毎日いただくのは気が引けると、花京院がどんなに遠慮しても、承太郎は「気にするな」と一言で片づけてしまう。
ちなみに教室にわざわざ迎えに来るという行為は、初日だけでどうにか阻止することに成功した。今は屋上手前の踊り場で待ち合わせをしている。
あのあと花京院は女子たちに詰め寄られ、最後には男子たちに憐れまれた。ヤキを入れられたことになっているらしい。
とにかく、あの日からもうかれこれ十日以上は経過しているだろうか。
そして今。
花京院は体育館倉庫にいる。
今日は朝から雨が降っていた。屋上へ出ることを諦め、連れて来られたのは体育館倉庫だった。鍵はかかっていたが、承太郎は「コツがあるんだぜ」なんて言って、鉄の扉を思い切り蹴り上げた。すると、たったそれだけで面白いほど簡単に鍵が開いてしまったのだ。果たしてどのあたりにコツがあったのか、花京院にはさっぱり分からなかったが。
倉庫は微かに肌寒く、独特の匂いは多少気になるが、座布団代わりにマットレスを使用できるのは悪くない。
花京院は隣で食後の一服にふける承太郎をチラリと見やった。
厚みのある唇から吐き出される紫煙が、ほのかにカビ臭い空間に溶けていく。遠くから雨音がする以外、二人きりの空間に音はなかった。
(少し、慣れたかな)
こんな風に、承太郎と過ごすことに。
まだ少し怖いような気もするし、何を考えているのかも謎だ。
どうして承太郎が自分を側に置きたがるのか、何より自分自身がそれに甘んじているのか、まだ分からないことだらけだが。
「熱烈だな」
「……へ?」
承太郎は咥えていた煙草を指先で摘まみ、飲みかけの水が入ったペットボトルに放り込むと、ぐいと花京院の肩を抱いて引き寄せた。
「ッ!」
一気に縮まった距離に、胸が高鳴る。
「あんまり見るんじゃねえよ。照れちまうだろ」
「え、あ……そう、だったかな、っていうか、君も照れたりするんだね」
「おれだって人間なんだぜ」
「そうか、ごめん」
そんなに、熱心に見つめていたのだろうか。
恥ずかしさも相まって、花京院の頬に一気に熱が集まった。密着する身体が熱い。心臓がうるさく騒いで、目が泳ぐ。
一緒にいることに多少は慣れたつもりでも、この感覚だけはどうも慣れない。
そんな惑うばかりの花京院の頬に、大きな手が添えられる。そのまま、承太郎はぴんと伸ばした人差し指で、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスを軽くつついた。
「ずっと言おうと思っていたんだがよ。なかなか似合ってるぜ。これ」
「……そ、それはどうも、ありがとう」
「自分で買ったのか」
「母のお古ですよ。くれたんです。ぼくの好物がチェリーだから」
ピアスを家族以外の他人に褒められたのは、初めてだ。なんだか照れ臭くて、むず痒いような気分になる。
だからだろうか。つい、誤魔化すみたいに余計なことが口をついて出る。
「このピアスはぼくなりの……生きている証のようなもの、かもしれません」
「生きている証?」
こくりと頷いて、花京院は微かに笑う。
「子供の頃は今よりもずっと身体が弱くて、ほとんど学校にも行けなかったんです。両親はそんなぼくを心配して、大人になるまで生きられないのではないかと……いつも泣いていました。ぼくは、それがとても悔しくて」
嘆く両親の姿を見て、幼心に胸にぽっかりと大きな穴が開いたのを覚えている。
自分という存在は、そんなにも儚いものなのかと。
耳たぶに針を通したのは、ちょっとした反抗心からだったのだと思う。過剰なまでの心配は、時として束縛にしかならない。
だが意外なことに、両親はこれと言って息子の突飛な行動を咎めることはしなかった。
厳格な人たちでもあったから、もっと口煩く注意を受けるかとばかり思っていたのだが、むしろ母は若い頃にしていたこのピアスをくれた。
生まれて初めて自分の生を肯定されたような気がして、あのときは本当に嬉しかった。
「なんでもいいから形として残したかったんですよ。ぼくはちゃんと生きてここにいるし、これから先もずっと生きていくんだぞ、ってね」
そこまで話して、ハッとする。
「あ、すみません……つまらない話をベラベラと」
途端に居心地が悪いような気分になって、身を捩る。けれど承太郎はそれを許さず、よりいっそう強く花京院の体を引き寄せた。
熱を帯びる頬に、承太郎の唇が押し付けられる。
「じょ、じょうたろ」
「構わねえ。もっと聞かせな。てめーの話を」
魅惑の低音が胸に染み込む。一瞬で項の毛が粟立つのを、咳払いで押しやると花京院は顔を背けた。
「ぼ、ぼくの話は、これで終わりです」
友達とも呼べないような相手に、自分語りをしてしまったことが恥ずかしい。今まで誰にも話したことがなかっただけに、尚更のこと。
花京院はさっさと話題を切り上げてしまうと、承太郎を横目で睨んだ。
「そ、それより、君の方はどうなんだ」
「おれがなんだって?」
「だから、その……」
花京院の脳裏には、あの保健室の女医の姿が浮かんでいた。
昼休みはこうして一緒に過ごしているけれど、それ以外の時間この男が真面目に授業に出ているとは限らないのだ。
「……あの女医とは、付き合っていないと言っていたけど……最近は、どうなんだ?」
承太郎は。
屋上で花京院が目を回して以来、キス以上のことをして来なくなった。
今だってただ抱きしめて、花京院の前髪の癖毛を指先で弄んでいるだけだ。
この男は悪いヤツだとは思うが、根は優しいのだということは知っている。
女医の話では倒れた花京院をわざわざ保健室へ運び、心配そうにしていたというのだから。しかも二度も。
例のお姫様抱っことやらを女医以外に見られていなかったのは、不幸中の幸いだろうか。
だから今も、花京院の身を案じて手を出して来ないのだと思う。
だけど。
(それならどうして、ぼくはここにいるんだろう?)
承太郎が本来持っている優しさに触れて、ついおかしな勘違いをしそうになったが、彼が求めているのはあくまでも性の捌け口ではないのか?
あれほど有無を言わさず奪っておいて、こんな触れ合いだけを繰り返すことに、何の楽しみを見出しているというのだろう。
もっと深く、好きにしようと思えばいくらでも、承太郎にはそれが可能なはずだ。
現にここにはマットだってあるし、人の気配だってまるで感じられない。行為に及ぶには、もってこいの場所ではないのか。
だけどそれをしない、ということは、他で発散しているのかもしれないと思った。
もしそうなのだとしたら。
(なんか、やだな……)
「そんなにあの女医が気になるか?」
いつにも増して低い声で言った承太郎の瞳に、一瞬どこか剣呑な色が浮かんだような気がした。花京院は慌てて首を振る。
「ち、違う。別に気になってるとか、そういうんじゃあ、なくてだな……」
そういえば自分は、あの女医に恋をしていたのだった。今の今まですっかり忘れていた。
今の花京院は承太郎と女医が、未だに関係を持っているのかどうか、そればかりが気になってしょうがない。自分でも、なぜこんなにと思うほど。
これではまるで、嫉妬でもしているみたいではないか。
(そ、そんなまさか。いや、だが承太郎にはそう思われたかもしれない)
承太郎は帽子の鍔を引き下げて表情を隠した。やれやれ、という口癖に胸がズキリと痛む。ああ、きっと面倒だと思われたに違いない。鬱陶しいヤツだと。
後腐れなく遊ぶための相手に、まるで嫉妬しているみたいな質問をされれば、誰だってそう感じて当たり前、なのだと思う。
「すまない……さっきのは、忘れてくれ」
「てめーだけだ」
「そうだよな、君がどうしようとぼくには関係……ぅん?」
「おれにはてめーだけだぜ。花京院」
ぽかん、と。
大きめの口を丸く開いたまま、瞬きすら忘れる。
承太郎の言葉を、幾度か頭の中で反芻した。
それはつまり、どういう意味だろう。遊び相手は今は花京院以外にいない、ということか。それとも、もっと特別な意味が含まれていたりするのだろうか。
真っ直ぐに見つめてくる承太郎の瞳はどこまでも澄んでいて、薄暗い体育館の中にあっても輝きは決して失われない。その宝石のような緑に、今は花京院だけが、映されている。
「ぁ、あの……それは、つまり、ど、どういう……」
瞬きもできないまま、花京院はしどろもどろに問いかける。承太郎はそんな花京院の様子を見て、堪え切れなくなったように小さく噴き出した。
そのままくつくつと肩を揺らしながら笑う様は、どこか悪戯に成功した悪ガキのようでもあり、なにやらえらく嬉しそうに見えた。
しばらくはそれを茫然と見つめながら、花京院は徐々に頭に血が上って行くのを感じる。
「か、からかってるならよしてくれッ! 悪趣味な男だなッ!!」
拳を握り、振り上げるみたいにして声を張り上げると、承太郎はさらに楽しそうに身を震わせて笑う。
「子猿みてえだな。顔中まっかっかでよ。ケツも赤くなってんのか?」
「ばっ、バカにしてるのか君はッ!? しかもこないだから子犬とか子猿とか!!」
「褒めてんだろーが」
「どこがだッ!!」
やっぱりこの男は自分を弄んでいるんだ。
花京院の経験値の低さを知っていて、こうして思わせぶりなことを言ったり、からかって遊んでいる。
本当に酷い男。人を笑い者にするなんて、絶対に許せない。
だけど。
――てめーだけだぜ。花京院。
(なにを期待しているんだろう)
嘘か本当かも分からないような言葉を、それでも嬉しいと感じてしまった。
例え一瞬でも、あの美しいエメラルドに自分一人を映してほしい、なんて。
(ぼくは、いよいよ本当に頭がおかしくなってしまったんだろうか)
少しずつ、少しずつ。
欲張りになってきている心を抑えきれなくなっているような気がして、花京院は楽しげに肩を揺らす承太郎から、慌てて目を逸らした。
*
それからさらに数日が経過した。
「あれ、今日はぼくが一番か」
昼休み、花京院はいつものように階段の踊り場へ向かった。だが、そこにいつもは先に待っているはずの承太郎の姿がない。
珍しいこともあるものだと、花京院は屋上へ続く扉に背を預けて一息ついた。
その手には、白いハンカチに包まれた弁当箱がある。
(弁当を持参するのは、久しぶりだ)
中身は玉子焼きやウィンナーといった、いたって普通の弁当だ。
承太郎がいつも持ってくる重箱の中身に比べれば、お粗末なものでしかない。
だが、花京院にとっては少しばかり、特別なものだった。
今朝はいつもより早く目が覚めた。
キッチンに顔を出すと母が朝食の支度をしていて、今日の昼はどうするのかと聞かれた。最近はずっと承太郎にご馳走になっていたから、母にはパンで済ませると言って誤魔化していた。
だから今日もそう言うつもりだった。けれど花京院はふと思い立ち、弁当を持参することを決めた。
(玉子焼きっていうのは、簡単そうで実は凄く難しいんだな……)
専用のフライパンを使ったとしても、慣れない手つきで焼き上げるのは至難の業だった。実際、一度は失敗してしまった。母の指導の下、二度目でなんとかそこそこの見た目に焼き上がったが、果たして承太郎の口に合うだろうか。
そう、今日の弁当には生まれて初めて花京院が作った、玉子焼きが入っている。
我ながら、恥ずかしいことをしてしまったと、そう思う。
母も一体どうしたのかと目を丸くしていたし、花京院自身も驚いている。
(別に、特別な意味なんかないぞ。ただいつもご馳走になってばかりだから、少しは何か返したいと思っただけであって)
心の中で言い訳をすると、なぜかますます恥ずかしくなった。
誰の目があるわけでもないのに、花京院は照れ隠しに赤くなった頬を指先で掻いた。そのままふと気になって、ひと房だけ垂れる前髪の先をちょんちょんと引っ張る。なんとなく気に入らなかったので、ポケットから櫛を取り出すとさらに乱れを整えた。
「ふぅ……こんなもんかな……」
満足げに呟きながら櫛を仕舞ったところで、我に返る。
(お、乙女かッ!!!)
昔ながらのコントのように、タライが降って来たような衝撃を受ける。
自分は一体なにをしているのだろう。わざわざ弁当をこさえて、髪型まで気にしながら、そわそわと一人、承太郎を待っている。
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。しかもこれでは、まるで承太郎の彼女ヅラではないか。
(あ、でも、ぼくは男なわけだから、彼氏ヅラ……に、なるのか……?)
いやいやいやいや。そういう問題じゃあない。
そもそも自分と承太郎は恋人同士でもなんでもないのだから。
いくらあれ以来キス以上のことをしていないからって、承太郎にとって花京院はただの遊び相手に過ぎないはず。
それは十分に理解しているのだが。
(浮かれてる、よな……完全に)
てめーだけだと言った、その言葉を忘れられないでいる。
もしあの言葉に特別な意味が込められていたとして。遊び相手としてじゃなく、空条承太郎という男に選ばれた、たった一人の存在になれたとしたら。
どうするだろう。どう思うのだろうか。
承太郎から与えられるものは、怖かったり痛かったり苦しかったり、戸惑うようなものばかりだ。だけど嫌じゃない。キスしかしてこない相手に対して、もどかしいとすら感じ始めている。
だけど同じくらい、大切にされているような気もして、くすぐったい。
今だって、早く来ないかと待ちわびて、落ち着かない自分がいる。
承太郎は、この弁当をちゃんと食べてくれるだろうか。どんな反応をするだろう。
彼の母親は料理が上手だし、きっと舌も肥えているに違いない。だけど少しでも喜んでくれたら、最高に嬉しい。そう思う。
「それにしても遅いな」
自分の気持ちに蓋をするように、花京院はあえて独り言を漏らす。
耳をすませてみても、誰かが階段をのぼってくる音すら聞こえなかった。
何かあったのだろうか。彼は超がつくほどの不良だし、何か悪さをして教師にでも呼び出されているのか。とはいえそんな勇気がある教師がいるとは思えないが。
今朝も元気に女子たちが騒ぐ声が聞こえていたから、学校には来ているはずだ。途中でフケて帰ってしまったという可能性なら、考えられるが。
「…………」
ふと、嫌な予感がした。
脳裏に浮かんだのはやはりあの女医の顔で、花京院は途端に不安に駆られる自分に気が付いた。
(行ってみる、か……?)
少し、様子を見るだけ。
そう考えたときには、花京院の足は階段を下りはじめていた。
やめておけと、心の奥底でもう一人の自分が制止する声を聞きながら。
*
行って、何もなければそれでいい。
何かあったとしても、多分、それでいいのだと思う。
承太郎はあんなことを言ったが、彼の遊び相手が自分や女医だけとも限らない。
もしどこか知らない場所で他の人間に手を出していたとしても、花京院には承太郎を咎める権利もなければ、その理由もないのだ。
頭の中ではちゃんと理解しているつもりだった。だけど心臓が内側から太鼓のように胸を叩く。今にも突き破って来そうで、息が苦しい。
何度も足を止めかけながら、花京院は保健室がある一階へ辿り着いた。そのまま真っ直ぐ、廊下を突っ切って行く。
本当は信じたいのではなく。
花京院はこのときすでに、どこかで承太郎を信じていたのだと思う。
恋愛と性欲は別と、そう切り離して考えている酷い男。
そうと知っていても、二人きりでいる時間の承太郎は優しくて、ほんの少しの意地悪でさえも、花京院の胸を甘い棘で締め付けた。まるで自分が特別な存在になったみたいな、そんな気にさせられるから。
もしかしたら彼は本当に、そのエメラルドに自分だけを映してくれているのではないかと。
そんな風に勘違いしてしまったとして、誰が花京院を責められるだろう。
だって相手は学校中の女が手を伸ばしても届かない、あの空条承太郎なのだから。
いっそ浮かれるなと言う方が、どうかしているのではないか。
だから花京院は思い知ることになる。
そんな男が、たかが一度抱いただけの、ましてや同性を相手に。
特別な感情を抱くはずが、ないということを。
辿り着いた保健室のドア。
一瞬の迷いを振り払うようにして開けた引き戸の先で、花京院は見てしまう。
寄り添ってキスをする、承太郎と女医の姿を。
「じょう、たろう……?」
時間が、止まったような気がした。
その光景はあまりにも鮮烈で、だけど遠くて、目の前で起こっている出来事に理解が追い付かない。
「か、花京院くん……!?」
扉の前に立ち尽くす花京院を見て、青褪めた女医が慌てて承太郎から距離を取る。
花京院は真っ白になる頭で、空気が痛いほど張り詰めているのを感じていた。
(キスを、していた)
承太郎と、女医。
二人は身を寄せ合い、深く唇を重ねていた。
あまりにも絵になる光景は、画面越しにチープな恋愛ドラマでも見ていたようで。
面倒なところを見られたからか、それともお楽しみを邪魔されたからか。承太郎が微かに舌打ちをする。
それにハッとして、花京院は背後に数歩、よろめいた。
「花京院くん、こ、これはね、あの……違うのよ」
女医が目を泳がせながら、何か言い募ろうとしている。
だけど今の花京院には、それがまるで不愉快な雑音にしか聞こえなくなっていた。
どこか険しい承太郎の視線だけが、胸に突き刺さる。
心臓に直にナイフを当てられたかのように、ひやりとした感覚が広がっていく。指先にまで達する冷たさが、花京院から呼吸を奪った。
「ッ……!」
何も言えずにただぺこりと頭を下げて、花京院は踵を返すと走り出す。
「待て花京院ッ!!」
承太郎の声に鬼気迫ったものを感じたが、花京院はこの場から逃げ出すこと以外、何も考えられなかった。
*
どうしようもなく、打ちのめされていた。
呼吸を止めたまま、全力で走る。いま足を止めたら、そのまま地面に崩れ落ちてしまいそうだったから。息をすれば、叫び出してしまいそうで。
廊下を突っ切り、何の考えもなしに校舎から飛び出した。
立ち込める夏の熱気に、蝉時雨がこだまする。どこへ行けばいいのかも分からず、花京院はただ走った。
途中で何人かの生徒にぶつかって睨まれたような気もするけれど、構ってなどいられなかった。
『てめーだけだぜ。花京院』
承太郎の声が、頭にこびりついて離れない。
からかわれているだけだということくらい、ちゃんと分かっていたはずなのに。自分はただの遊び相手の一人にすぎないのだと。なのに、どうして。
(どうして、ぼくはこんなにも傷ついているんだ)
勘違いをして、浮かれていた自分が恥ずかしい。このまま氷のように融けて消えてしまえたら、どんなに楽だろう。
(分かっていた。分かっていたんだ)
それなのに。
(ぼくは)
本当は最初から。
保健室で、あの脳髄を蕩かすような声を聞いたときから。
この心は囚われていた。落ちていた。奪われていた。心ごと、なにもかも。
けれど末路も知っていた。こんなふうに傷つくことを、花京院は確かに知っていたはずだった。
だからこの想いの形に、名前をつけるなんて愚かな真似はしたくなかった。
恋だなんて。
そんな感情、知りたくなかった。
認めたくなかった。こんな、最悪の形で。
(好きだったんだ……だから何もかも許してしまった……求めてすらいた……)
いつの間にか、承太郎と過ごす時間が何よりも大切なものになっていた。
大きな手が伸びてきて、抱き寄せられる瞬間はいつだって心が震えた。
キスだけでは物足りなくなるほどに、欲張りになって。
ああ、なんて惨めなんだろう。
噛み締めた唇が痛い。酸素を求める肺が、心臓が、悲鳴を上げていた。そのとき。
「花京院ッ!!」
「ッ!?」
強く二の腕を掴まれて、花京院は息をのみながら足を止める。
勢いよく態勢を崩しかけた身体を引き寄せられて、体当たりするみたいに厚い胸板に手をついていた。
あまりにも夢中で走っていたからか、彼が追いかけて来ていたことに、気が付かなかった。
「てめー、激しい運動はできねーんじゃなかったのか。またぶっ倒れでもしたらどうする」
「じょう、ッ、たろ」
校舎と隣接する旧校舎。その裏側にある、今は誰も使用していない用務員室。朽ちたコンクリートは僅かに黄ばみ、幾つものヒビが走っている。
いつの間にかこんな場所まで来ていたのかと、花京院はただ茫然としながら、肩で息をした。ようやく取り込んだ酸素に、肺がひゅうひゅうと乾いた音を立てる。
激しく咳き込みそうになるのを堪えながら、喉の奥から声を絞り出した。
「なんの、用だい」
「盛大に勘違いをしているぜ。てめーはよ」
「勘違い……?」
そうだ。自分は勘違いをしていた。
今だって、承太郎が頬に汗の筋を張り付かせながら息を乱し、こうして追いかけて来たことを、純粋に喜ぶ自分がいる。二の腕を掴む手は力強く、だけどこんなときでさえ、短く切りそろえられた爪は花京院の皮膚を傷つけない。
だから許せなかった。恥ずかしくて、消えてしまいたいと思う。
「離してくれ」
「誤解だ花京院」
「ふざけるなッ!」
あの光景の何を見て、誤解だなどと言えるのか。
花京院は掴まれていた腕を勢いよく振りほどく。数歩後退して、承太郎から距離を取った。
「人を弄ぶのも、大概にしろよ承太郎」
「言ったはずだぜ。てめーだけだと」
「ッ……!」
頭に血がのぼって、目の前が赤く点滅した。
どうにかしてこの男を傷つけてやりたいと。凶暴な熱が花京院の内側で膨らんでいく。だけどどうすることもできなくて、ずっと掴んだままだった弁当箱を、思い切り投げつけた。きっと中身は滅茶苦茶だ。
母に教えを乞い、初めて作った玉子焼き。それさえも、滑稽で。
「ッ、花京院?」
バスケットボールを掴むより容易く、承太郎はそれを手の平であっさりと受け止める。悔しくて、視界がぼやけるのを感じた。
「もう二度と、ぼくに近寄らないでくれ」
「おい、話を」
「黙れッ! もう沢山だ……君にとっては遊びでも、ぼくは……ぼくにはッ」
その先は続かなかった。
言ってどうなるものでもなかったし、恥の上塗りになるだけだ。つけこまれて、さらにいいようにオモチャにされるだけかもしれない。
これ以上傷つくのは嫌だ。無様な自分を曝したくない。忘れたい。
憮然とした表情で口を噤む承太郎に、花京院は背を向けた。そのまま歩き出しても、背後から追って来る様子はない。
(もう、ぐちゃぐちゃだ)
こんな気持ちに、気づきたくなどなかった。泣きたくなんかないのに。
いつの間にか蝉時雨が止んでいた。俄雨が降るよりも先に花京院の頬を濡らしたのは、悔しさから溢れだした大粒の涙だった。
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横転した車。空に向かって虚しく回り続けていたタイヤが軋むような音を立て、やがて停止する。
割れたガラスの破片が、不規則に点滅するライトに光り輝いていた。
歪で大きさの違う石が幾つも転がる中、投げ出されている腕は肘から上がない。腕だけが、ただ置き去りにされたオモチャのように転がっている。
それは左腕だった。薬指にはめられた指輪が、ガラスの破片が光るのと同じように、キラキラと輝いているのが見えた。
そこからどす黒い血が、細かな砂利の合間を縫って蛇のように波打っている。それは横転した車の下からも、どろどろと止め処なく流れ出していた。
黒鋼の腕の中にある血塗れの身体は、手足が有り得ない方向へと折れ曲がっていた。その泥に汚れた左手にも、同じように指輪がはめられている。
必死でそれを掻き抱きながら、ゆっくりと、けれど確実に熱が失われてゆくのをただ震えながら感じていた。
血は赤く、温かなものだとばかり思っていた。そして、雨は全てを洗い流してくれるものだと。
その何もかもが間違っていたなんて、知りたくなかった。
幼い黒鋼の声にならない無様な悲鳴は、無慈悲な曇天を切り裂くことさえ、当たり前のように出来はしなかった。
***
「ッ……!」
悪夢からの目覚めは、やはり最悪だった。
夜の闇の中、激しい雨音によって誘発されたそれに、黒鋼は汗だくになった身を起こす。
心臓の音が身体の中で小刻みに、けれど大音響で刻まれている。酷く喉が渇いているけれど、まるで手足に重石でも括りつけられているかのような感覚に、これ以上動く気になれない。
胸の辺りを押さえながら、再び身体を横たえる。耳障りな雨音に、過敏になっている神経がジリジリと焼き切れてしまいそうだった。
これでも、幼い頃よりはずっとましになった。
精神的にも未熟だった頃は、悪夢を見るたびに呼吸さえままならない状態に陥ることが当たり前だった。
それでも、終わりはいつ訪れるのだろうか。成長と共に発作的なものは治まりつつあったとしても、悪夢だけは消えてくれない。過去が消えないことと同様に。
あの日、あの事故のとき。一緒に逝くことが出来ていたら、今頃はずっと楽だったのだろうか。
雨は嫌いだ。
普段なら考えもしないような最悪な思考が、脳裏にこびり付いて離れなくなるから。
目を閉じた黒鋼に、再び眠りは訪れなかった。
***
春休みを間近に控えたある日のこと。
梅雨でもないのに、ここ数日はずっと雨が降っていた。黒鋼にとっては気分の晴れない状態が続いている。
そんな中、昼休み前の体育の授業中に怪我人が出た。
黒鋼は授業を終えたその足で、保健室へと向かった生徒の元へ赴いた。
あの週末の出来事以来、流石にあの養護教諭と二人きりで飲みに行くというイベントは起こっていない。こういった業務上の関わり以外で彼と顔を合わせることも、当然避けていた。
肩の傷はほとんど完治していたが、奴はとことん性格の悪い男だと思う。
引き戸を開けると、そこには怪我をした生徒である小狼とその双子の兄小龍、クラスメイトの女子であるさくら、そして勿論、養護教諭がいた。
「あ、黒鋼先生」
双子の兄を除いた三人が同時に声を上げた。
黒鋼はそれに「おう」と短く答えると、皮製の長椅子に腰掛ける小狼の側へと歩み寄った。
「どうなんだ」
「擦りむいた肘は掠り傷ですよ。右足はちょっと腫れが酷いですけど……軽い捻挫です」
小狼の足元に膝をついて、その裸足の足首に包帯を巻きながら、ファイが答えた。
体操着姿のさくらが、小狼の側に寄り添うように腰掛けながらほっと息をついた。怪我をした当人よりもずっと青い顔をしていたようだが、安心して気が抜けたのか、少し涙ぐみながらも弱々しく笑顔を見せた。
ジャージ姿の兄の方は、ファイの隣に佇んだまま腕組みをしている。こちらは表情が読み取れない。
「はい、終わり。一週間くらい安静にしていれば大丈夫だよ」
「ありがとうございます……」
黒鋼は俯いて表情を曇らせている小狼が気になった。この生徒は兄の方よりおっとりしているが、極端に思いつめる性質もあるようだった。
案の定、彼はゆるゆると顔を上げると、深く思いつめた表情で黒鋼を見た。
「黒鋼先生……おれ……」
「落ち込むくらいならとっとと治せ。なっちまったもんはしょうがねぇだろ」
「でも……」
「小狼君……?」
再び俯いた小狼に、さくらが不安そうな表情でその肩に触れた。
今回の事故は、確かに彼にしては珍しいことだった。授業中のバスケの試合で、小狼はどこかムキになって走り回り、結果相手チームの生徒と派手に衝突して引っくり返ったのだ。
幸い相手の生徒には掠り傷一つなかったが、怪我をしたことにより部活動にまで支障を来たすことを、彼なりに酷く後悔しているのだろう。
小狼は、黒鋼が顧問を務める剣道部に所属するエースだった。
黒鋼はさらに彼へと歩み寄ると、少し乱暴にその頭をグシャグシャと撫でた。
申し訳なさそうな表情で顔を上げた小狼に、ひょいと片眉を上げて見せた。すると、それをただ黙って眺めていた小龍が落ち着いた口調で言った。
「普段からやっているスポーツじゃないんだ。張り合っても仕方がないだろう?」
「……うん……ごめん」
ああなるほど。黒鋼は合点がついた。
兄の方はバスケ部に所属しており、本日の授業では小狼の相手チームにいた。
黒鋼は一人っ子だから分からないが、兄弟がいて、しかもそれが双子であれば、勝負事に関してムキになってしまうこともあるのかもしれない。
おっとりしているように見えるが、竹刀を持った瞬間の彼は顔つきが精悍なものに変わる。小狼がその内面に負けん気の強さを備えていることを、黒鋼もよく知っていた。
「とにかくだ。部活も体育もしばらく見学だ。それでいいだろう?」
チラリと視線を落とせば、見上げてきたファイがニコリと笑った。
「でも、春休みに入ったらすぐ練習試合が……!」
僅かに身を乗り出して言い募ろうとする小狼だったが、その瞬間ファイが包帯の巻かれた足首にそっと触れた。
「あのね、小狼君」
「ファイ先生……?」
「無理をして辛い思いをするのは君だけじゃないんだ。その姿を見て悲しむ人が側にいることを、忘れてはいけないよ」
「ぁ……」
小狼は小さな声をあげて、腕組みをして目を閉じている兄を見た。それから、傍らに寄り添うさくらを見やる。
「小狼君……」
さくらは目元を赤くして、瞳に涙を浮かべていた。それを見て、小狼がぐっと息を詰める。
彼にとっておそらく彼女の存在は特別なものなのだろう。
けれど黒鋼は、優しく微笑むファイの横顔が気にかかって仕方がなかった。
生徒を見守る慈愛に満ちたその瞳の柔らかさに、不覚にも黒鋼まで心が和らぐのを感じてしまう。
窓の外は相変わらず雨が降っていて、黒鋼の胸はどんよりと重たいままだったはずなのに。
そして何より、ずっと表裏のある胡散臭い男だと感じていた彼が放った言葉に、嘘偽りがあるとは思えなかった。ますます、彼という存在が不明瞭になっていく。
黒鋼が知っているだけでもこの男には二つの顔がある。他にもあるのだろうか。一体どれを信じればいいのだろう。
小狼は再びファイに向き合うと、項垂れて「ごめんなさい」と言った。ファイはこくりと頷いた。
「おれは悲しんだりはしないけどな」
「?」
冷ややかな小龍の声がして、一同が彼を見やる。小龍は厳しい表情で拳を握るとガッツポーズをするようにそれを掲げた。それから、不敵な笑みを浮かべる。
「悲しむより、お仕置きだ」
「に、兄さん……」
困り顔の小狼を見て、ファイとさくらが声を揃えて笑っていた。
その後、次の授業へと向かった3人を見送ったファイは「双子なのに、中身はぜんぜん違うんですねぇ」と感心したように言った。
***
雨が止んだのは、その翌日のことだった。
晴れ渡った空を間近で見たかった黒鋼は、授業のない空いた時間を見計らって、北校舎の屋上へと向かった。
そこへと続く扉は基本的に立ち入り禁止であるが、以前偶然に鍵が壊れていることに気がついて以来、ごく稀にではあるが密かに利用していた。
重々しいそれをゆっくりと開けると、陽の光が一気に飛び込んでくる。手を翳して一瞬それを遮った。
やがて徐々に慣れてきた瞳を見開けば、青い空と、そして軽快にはためく白衣の背中が見えた。
どうして彼がここに。だが黒鋼はさほど驚きはしなかった。
得体の知れない男。だから、神出鬼没だったとしてもおかしくはない。
彼は、背後でガチャリと扉が閉まる音が聞こえたのか、ゆっくりと金髪を揺らしながら振り向いた。
「奇遇ですね」
顔を顰めている黒鋼の姿を見とめると、彼は天使のような微笑を浮かべた。
「ここは立ち入り禁止だ。なんでいやがる」
「黒鋼先生だって」
「うるせぇ。見回りだ」
「青空が見たかったんです」
適当な嘘をついた黒鋼を気にする素振りもなく、ファイは青空を見上げた。
「雨上がりの空って、どうしてこんなに綺麗なんでしょうね?」
風に乗って、金髪が美しく揺らめく。その横顔は、保健室で黒鋼を癒したあの穏やかなものと同じだった。
「見てるとなんだか……」
けれど、その表情は彼が再び黒鋼を見る頃には一変していた。
あの笑顔だ。月明かりの部屋と、そして人気の失せた廊下で見せた、あの。
「吐き気がしてこない?」
「……てめぇは一体誰なんだ?」
ついに、黒鋼は問うた。
春の香りを乗せた風が、今は冬のそれよりもずっと冷たく頬を撫でる。
「ボクはボクですよ?」
「だったらあの夜のことを説明しやがれ」
きつく睨みつければ、ファイはすかさずわざとらしいほど爽やかな笑みを見せた。一見すればそれは、普段見せるものと変わりなく思える。けれど纏うオーラが異なることを、黒鋼は知っている。
「これは夢だと、あの晩てめぇは言ったな」
「さぁ?」
「ならなんであんな傷なんか残しやがった? あれがてめぇの本性か?」
夢だと言いながら、確かな痕跡を残したファイ。傷が癒えたあとも、ふとした瞬間ズキリと痛む。まるで消えることのない刻印を刻まれたかのように。
「……だって君は、最初から見抜いてたんでしょう?」
笑みの形を作る瞳が、酷く冷たい。まるで蔑まれているようだと感じた。
けれどそれはすぐに、どこかうっとりとしたように潤む。
「君みたいな人は初めてだ」
その台詞は、あの夜にも一度聞いたような気がする。嫌でも思い出す、あの赤い舌と唇。
「オレはね、オレに関わる全ての人に、幸せになって欲しいだけなんだよ」
この瞬間から、黒鋼とファイの秘密の関係が幕を開けたのだった。
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