梅雨が明け、季節が夏へと移り変わろうとする頃には、黒鋼はファイにすっかり懐かれてしまっていた。
学校での余所余所しさや屋上でのサボりは相変わらずだが、彼は今や週末に余裕があるときには黒鋼の家に酒を持ってきたり、料理を作りにやってくるようになった。
ファイは普段の謙虚で遠慮がちな態度が嘘のようにズケズケと黒鋼の生活空間の中に入り込み、あっさりその風景に溶け込んだ。
黒鋼にしてみれば最初こそ面食らったものの、彼が持って来る酒は高価なものばかりだったし、プロ並の料理の腕を見せられては文句の一つも言う気が失せた。
出会った当時は、例え仕事上の関係だったとしても片時も顔を合わせていたくなかったのが、まるで嘘のようだ。
餌付けをされてしまったのだろうかと、ふと情けなくなることもある。
ファイがよく顔を出すようになった当初、酒についても聞いてみた。弱いどころかとんだ酒豪じゃねぇかと。
ファイは笑いながら、「お酒が入ると癖が悪くなるんだよ」と言った。
その癖の悪さを身体で覚えこまされた経験のある黒鋼は、やっぱり何も言うことが出来なかった。
***
狭い畳のワンルームには、ほのかに甘い醤油の香りが満ちていた。
扇風機が首を振る度に、それがふわりふわりと増してゆくような気がする。
窓際のベッドに胡坐をかいてビールの缶をあおり、味噌汁の出汁をとるのに使ったスカスカの煮干を野良猫に放ってやりながら、黒鋼は台所に立つ痩せた背中をぼんやりと眺めた。
いつ見ても妙な感じだ。
最初にここへ酒を持ってやって来たファイは、ほとんど空っぽの冷蔵庫を見て不満そうに唇を尖らせた。
以来、週末に訪れる日は必ず黒鋼の携帯にメールを寄越すようになった。『何が食べたい?』というハートマークつきのメッセージを学校内で見てしまうと、思わず咳き込んでしまう。
そして本日のメニューは肉じゃがだった。基本的にはどんなジャンルでも選り好みせずに腹に収める黒鋼だったが、やはり和食は大好物だ。
ファイは洋食を得意としているようだったが、それでも一つ返事で了承した。
無意識に、犬のようにスンと鼻を鳴らす。ベッドから離れると飲みかけの缶をテーブルに置いて、台所へ向かうとファイの隣に並んだ。
「もうちょっとで出来るよー」
ファイは味噌汁の味を見ながら黒鋼の方へは目を向けずに言った。コンロの火を止めてから、年代モノの炊飯器のランプを確認する。
「ご飯ももうちょっと蒸らせばオッケー」
そしてじっくりと煮込まれた肉じゃがの鍋を開けた。これまでの非ではないくらい、胃袋を刺激するいい香りが一気に広がった。
「うまいもんだな」
それを皿に盛り付け始めたファイに、黒鋼は腕を組んで思わず呟いた。
「味は保障できないけどねー。和食はあんまり作らないからなぁ」
「別に問題ねぇだろ」
黒鋼は彼の料理の腕前に全幅の信頼を寄せている。これまでも、何をリクエストしても外したことがなかったからだ。
ファイはそれまでずっと手元から離さなかった視線を黒鋼に向ける。そして、目をぱちくりとさせた。
「なんだよ」
「いやぁ、黒たん先生に信頼されてるんだなぁって思うと嬉しくて」
黒鋼は咄嗟に咳払いをした。深く眉間に皺を寄せると、ファイはへにゃりと笑った。最近、彼はこういう笑い方もする。子供っぽくて、綿菓子のような笑顔だった。
黒鋼は、今のファイを比較的気に入っている。なんとなく、自然に呼吸が出来るような気がしていた。それこそ、昔から知っている仲のような、そんな居心地の良さだった。
もしかすれば、本当はずっと昔に会っているのではないか。そんな馬鹿みたいなことを本気で考えたりもする。
けれどそれを本人には決して言わない。思わず頬が熱くなりかけて、黒鋼は慌てて「うるせぇ!」と怒鳴った。
「しかもその呼び方は止めろって言ってんだろうが!」
「はいはい、零しちゃうから静かにしてねー。あ、お味噌汁よそってくれるー?」
ファイはニコニコしながら再び視線を手元に戻した。歌うような喋り方である。
黒鋼は舌打ちをしつつ、あらかじめ用意されていた二つの椀に湯気の立つ味噌汁をよそう。背の高い男が二人も並ぶと、狭い台所はさらに余裕がなくなってしまう。
肉じゃがを盛り付けるファイと、味噌汁をよそう黒鋼の肘が時折ぶつかる。
一体なんだろうかこの感じは。どうしてこんなに和やかに、この男と過ごしているのだろう。
妙な照れ臭さが引き続き黒鋼の動作を乱暴にして、椀の縁を汚す。
「あーもうー! ちゃんと綺麗によそってよー」
「だからうるせぇんだよてめぇは。オカンか」
「こんな目付きが悪くて、デカくて乱暴な子供のお母さんにはなりたくないなぁ。あ、それにオレの職業はオカンじゃなくて、保健室の先生だよ」
「知ってんだよそんなこたぁ」
それからもグダグダと言い合いつつ、テーブルに全ての料理を並べて二人揃って食べ始めた。
「てめぇは養護教諭より料理人の方が向いてんじゃねぇのか」
美味い、と言う代わりに嫌味のつもりの台詞を吐くと、ファイはジャガイモを飲み込んでから「そうなんだよ」と言う。
「オレ、子供の頃はコックさんになりたかったんだ」
「なればよかったじゃねぇか」
「それもそうだよねぇ。あ、どうしてコックさんになりたかったかというとねー、無人島に行ったときに便利かと思ったんだよ」
「ああ?」
「オレね、冒険家にもなりたかったの。ほら、料理の知識や腕があったらさ、無人島でも色んな食材を見つけて、プロ並の調理が出来るかなぁって」
「……阿呆か」
「アホだよねー」
朗らかに、ファイが笑った。
***
食欲も満たされて、酒も入ればほとんどの場合することは一つだった。
黒鋼は自分の性癖についてを深く考えたことがない。至ってノーマルであることが当たり前すぎたからだった。
ゆえにあの歓迎会の夜、初めて男を相手にセックスをしたことになる。
不快感はなかった。もっとも、あの行為の最中は考える余裕もなければ、快感以外のものを抱くヒマもなかったのだが。
意図せず飛び越えたハードルは、信じられないことにその後も彼とセックスをすることに対しての抵抗を黒鋼から拭い去っていた。
「く、ぁ……!」
小さく堪えた声が、黒鋼の耳朶を刺激している。
ここが壁の薄い安アパートであることを熟知している彼は、どれほど乱れようともそれを噛み締め、堪えてしまう。
胡坐をかく黒鋼に、向かい合う形で細い身体が必死にしがみついてくる。その腰を強く抱いて小刻みに揺らすと、ファイは自らも腰を揺らしながら幾度か首を振った。
彼をこうして抱くようになってから、黒鋼はあることを知った。
「ッ……!」
肩に焼けるような痛みを感じる。ファイは、声を我慢する代わりにそこに歯を立てるということ。
幾度も同じ場所に噛み痕をつけられて、やがて血が滲んでくる頃には桜色の唇が紅を引いたかのようにうっすらと染まる。
あの夜、黒鋼はこれを見たのだと思う。
「ひ、ん……ッ、ぁ、くぅ、ん……!」
甘く掠れた吐息だけで、ファイは「くろがね」と呼んだ。思わず腰から下が砕けそうになって、悔しさに舌打ちをする。
ビクリと身体を震わせ、喘ぎまじりにファイが笑った。
「んんっ……! ぁ、ふふ、おっきくしないでよ……」
「知るか」
「我慢、するの……ッ、大変、なんだよ……?」
「だったら好きなだけ噛んでりゃいいだろ」
痛みさえ快感に変わるということも、黒鋼は初めて知った。
そして同時に、こうして抱き合ったあと彼の温もりを感じながら眠る夜は、例えどんなに激しい雨が降っていたとしても、夢も見ずに眠れることを、知った。
***
穏やかで紳士的な普段の様子から一変して、無邪気な子供のように振舞うかと思えば、引く手数多の悪女のような顔も見せる男。そのどれもが偽物に見えるし、真実にも思える。
そんな彼との濃密な時間で、知ることもあれば疑問もまた同時に膨らんでいた。
「慣れてんだな」
これまでも幾度も思った。その度に聞く機会を逃していた。
当たり前のように男を受け入れる男。けれど時折二人でテレビを眺めていれば、彼は好みの女優を指差して「こーゆうお嫁さんが欲しいなぁ」と目尻を下げることもあった。
要するに、どちらもイケるということは分かる。
だが今やそのどちらも知ってしまった黒鋼は、この男以外の男を抱けるかと問われれば、おそらく答えはノーだった。
「んー?」
狭いベッドの上で黒鋼の横でうつ伏せになっていたファイが、肘をついてこちらを見ると小首を傾げる。
「男の人とするってことー?」
「それ以外になにがあんだよ」
ぶっきらぼうな口調は、自然とどこか不貞腐れたような色を帯びてしまった。
「別にオレ、男が好きなわけじゃないよ?」
ファイが変に勘ぐってからかってこないことに密かに安堵しつつ、黒鋼は眉を寄せる。
「好きでもねぇのにセックスはするのか」
「そうだねぇ……。相手にもよるけど」
なら自分は合格だったということか。良いことなのか悪いことなのか、判断は難しい。
「まぁ切欠は強姦だったんだけどね」
「あ?」
まるで何でもないことのようにサラリと物騒なことを言ってのけたファイは、そのときのことを思い出しているのか、薄ぼんやりとした天井を見上げている。
けれどその表情には悲壮感が一切ない。ふとした瞬間、思い出に浸るかのような何気なさだった。
「高校生のときにね。放課後、担任の先生がいきなり襲ってきて」
「……やられちまったってか」
「うん、そう」
ケロリと頷くファイに、黒鋼は驚きも哀れみも通り越してただ、呆れた。
「抵抗できなかったのかてめぇは……」
「うーん。最初はビックリしてちょっとだけしたけど。でもすぐに止めた」
「どういうことだ」
「ほんとは殴るなり蹴っ飛ばすなりしたかったんだけどねぇ。それやっちゃうとさー、せっかく儚げで気の弱そうな優等生を演じてたのが台無しじゃない? それに、オレその先生のこと別に嫌いじゃなかったし」
呆れも限界まで来ると少々腹が立ってくる。そこまでしなければならない理由が、一体どこにあるというのか。
「猫っかぶりがそんなに大事か」
へにゃりと、ファイが笑った。
「大事だよ。その方がみんな幸せでしょ?」
「大馬鹿野郎」
彼が拘る意味が分からない。分かりたくもない。身体は繋がることが出来ても、この男とは住んでいる世界に大きな隔たりがあるように感じた。
それでも、黒鋼はどうしても気にかかって仕方がないことがあった。答えが得られるかどうかは別としても。
「なんで俺にはいいんだよ」
今の振る舞いが素であるかどうかは分からない。ただ少なくとも猫はかぶっていない。それだけは確かだ。
「だって君には初めて会ったときから通用してなかったじゃない。一回もバレたことなかったのになぁ。ねぇなんで?」
「知るか」
馬鹿馬鹿しくなって、黒鋼はファイに背を向けた。今夜はまだ一度しかしていないが、興が殺がれた。
けれどファイは黒鋼の肩に圧し掛かるようにして顔を覗きこんできた。
「俺ぁもう寝るぞ」
「ねぇねぇ、怒った? ヤキモチとかさー」
ムッとする。決して認めたくはないが、怒ってはいる。これがまともな人間が相手だったなら、もっと自分を大切にしろとか、有体な言葉くらいはかけたかもしれない。
だが焼きもちというのはいただけない。なぜ自分が強姦教師を(結果的には和姦のようなものだとしても)相手にそんなものを焼かねばならないのか。
面白くない。全くもって面白くない。話の内容以前に、とにかくひたすら面白くなかった。この妙な腹立たしさが自分でも理解できない。
「妬くか。阿呆が」
「ふふ、いいね。こういうのって」
ふざけるなと、黒鋼は思った。
今のファイとの居心地は、決して悪いものではない。だが下手に探ろうとすればするほど、もやもやとしたものや苛々が押し寄せてくる。
彼が飽きるまで、くだらない遊びに付き合ってやっているだけだと割り切れれば、それでいいのだろうか。
「ねぇ先生。遊ぼうよ」
「……うるせぇな」
クスクスと軽やかに笑う声が、皮膚をくすぐる。
一度は冷めかけたものに、危うく火が灯りそうになって黒鋼は乱暴な溜息を零した。
「何がしてぇんだ」
そんなものは一つしかないだろう。けれどあえて問うと、ファイは意外なことを口にした。
「ごっこ遊び。オレと黒たん先生が、恋人って設定」
何を言い出すのだろうか。呆れた黒鋼が首だけをファイに向けると、あの悪女のような性質の悪い笑顔がそこにはあった。
「ゲームだとでも思えばいいんじゃない? どっちかが浮気したり、どっちかが本気になっちゃったら、負け」
人さし指をピストルに見立てたファイが、自らのこめかみをそれで撃ち抜く動作をして見せた。
←戻る ・ 次へ→
学校での余所余所しさや屋上でのサボりは相変わらずだが、彼は今や週末に余裕があるときには黒鋼の家に酒を持ってきたり、料理を作りにやってくるようになった。
ファイは普段の謙虚で遠慮がちな態度が嘘のようにズケズケと黒鋼の生活空間の中に入り込み、あっさりその風景に溶け込んだ。
黒鋼にしてみれば最初こそ面食らったものの、彼が持って来る酒は高価なものばかりだったし、プロ並の料理の腕を見せられては文句の一つも言う気が失せた。
出会った当時は、例え仕事上の関係だったとしても片時も顔を合わせていたくなかったのが、まるで嘘のようだ。
餌付けをされてしまったのだろうかと、ふと情けなくなることもある。
ファイがよく顔を出すようになった当初、酒についても聞いてみた。弱いどころかとんだ酒豪じゃねぇかと。
ファイは笑いながら、「お酒が入ると癖が悪くなるんだよ」と言った。
その癖の悪さを身体で覚えこまされた経験のある黒鋼は、やっぱり何も言うことが出来なかった。
***
狭い畳のワンルームには、ほのかに甘い醤油の香りが満ちていた。
扇風機が首を振る度に、それがふわりふわりと増してゆくような気がする。
窓際のベッドに胡坐をかいてビールの缶をあおり、味噌汁の出汁をとるのに使ったスカスカの煮干を野良猫に放ってやりながら、黒鋼は台所に立つ痩せた背中をぼんやりと眺めた。
いつ見ても妙な感じだ。
最初にここへ酒を持ってやって来たファイは、ほとんど空っぽの冷蔵庫を見て不満そうに唇を尖らせた。
以来、週末に訪れる日は必ず黒鋼の携帯にメールを寄越すようになった。『何が食べたい?』というハートマークつきのメッセージを学校内で見てしまうと、思わず咳き込んでしまう。
そして本日のメニューは肉じゃがだった。基本的にはどんなジャンルでも選り好みせずに腹に収める黒鋼だったが、やはり和食は大好物だ。
ファイは洋食を得意としているようだったが、それでも一つ返事で了承した。
無意識に、犬のようにスンと鼻を鳴らす。ベッドから離れると飲みかけの缶をテーブルに置いて、台所へ向かうとファイの隣に並んだ。
「もうちょっとで出来るよー」
ファイは味噌汁の味を見ながら黒鋼の方へは目を向けずに言った。コンロの火を止めてから、年代モノの炊飯器のランプを確認する。
「ご飯ももうちょっと蒸らせばオッケー」
そしてじっくりと煮込まれた肉じゃがの鍋を開けた。これまでの非ではないくらい、胃袋を刺激するいい香りが一気に広がった。
「うまいもんだな」
それを皿に盛り付け始めたファイに、黒鋼は腕を組んで思わず呟いた。
「味は保障できないけどねー。和食はあんまり作らないからなぁ」
「別に問題ねぇだろ」
黒鋼は彼の料理の腕前に全幅の信頼を寄せている。これまでも、何をリクエストしても外したことがなかったからだ。
ファイはそれまでずっと手元から離さなかった視線を黒鋼に向ける。そして、目をぱちくりとさせた。
「なんだよ」
「いやぁ、黒たん先生に信頼されてるんだなぁって思うと嬉しくて」
黒鋼は咄嗟に咳払いをした。深く眉間に皺を寄せると、ファイはへにゃりと笑った。最近、彼はこういう笑い方もする。子供っぽくて、綿菓子のような笑顔だった。
黒鋼は、今のファイを比較的気に入っている。なんとなく、自然に呼吸が出来るような気がしていた。それこそ、昔から知っている仲のような、そんな居心地の良さだった。
もしかすれば、本当はずっと昔に会っているのではないか。そんな馬鹿みたいなことを本気で考えたりもする。
けれどそれを本人には決して言わない。思わず頬が熱くなりかけて、黒鋼は慌てて「うるせぇ!」と怒鳴った。
「しかもその呼び方は止めろって言ってんだろうが!」
「はいはい、零しちゃうから静かにしてねー。あ、お味噌汁よそってくれるー?」
ファイはニコニコしながら再び視線を手元に戻した。歌うような喋り方である。
黒鋼は舌打ちをしつつ、あらかじめ用意されていた二つの椀に湯気の立つ味噌汁をよそう。背の高い男が二人も並ぶと、狭い台所はさらに余裕がなくなってしまう。
肉じゃがを盛り付けるファイと、味噌汁をよそう黒鋼の肘が時折ぶつかる。
一体なんだろうかこの感じは。どうしてこんなに和やかに、この男と過ごしているのだろう。
妙な照れ臭さが引き続き黒鋼の動作を乱暴にして、椀の縁を汚す。
「あーもうー! ちゃんと綺麗によそってよー」
「だからうるせぇんだよてめぇは。オカンか」
「こんな目付きが悪くて、デカくて乱暴な子供のお母さんにはなりたくないなぁ。あ、それにオレの職業はオカンじゃなくて、保健室の先生だよ」
「知ってんだよそんなこたぁ」
それからもグダグダと言い合いつつ、テーブルに全ての料理を並べて二人揃って食べ始めた。
「てめぇは養護教諭より料理人の方が向いてんじゃねぇのか」
美味い、と言う代わりに嫌味のつもりの台詞を吐くと、ファイはジャガイモを飲み込んでから「そうなんだよ」と言う。
「オレ、子供の頃はコックさんになりたかったんだ」
「なればよかったじゃねぇか」
「それもそうだよねぇ。あ、どうしてコックさんになりたかったかというとねー、無人島に行ったときに便利かと思ったんだよ」
「ああ?」
「オレね、冒険家にもなりたかったの。ほら、料理の知識や腕があったらさ、無人島でも色んな食材を見つけて、プロ並の調理が出来るかなぁって」
「……阿呆か」
「アホだよねー」
朗らかに、ファイが笑った。
***
食欲も満たされて、酒も入ればほとんどの場合することは一つだった。
黒鋼は自分の性癖についてを深く考えたことがない。至ってノーマルであることが当たり前すぎたからだった。
ゆえにあの歓迎会の夜、初めて男を相手にセックスをしたことになる。
不快感はなかった。もっとも、あの行為の最中は考える余裕もなければ、快感以外のものを抱くヒマもなかったのだが。
意図せず飛び越えたハードルは、信じられないことにその後も彼とセックスをすることに対しての抵抗を黒鋼から拭い去っていた。
「く、ぁ……!」
小さく堪えた声が、黒鋼の耳朶を刺激している。
ここが壁の薄い安アパートであることを熟知している彼は、どれほど乱れようともそれを噛み締め、堪えてしまう。
胡坐をかく黒鋼に、向かい合う形で細い身体が必死にしがみついてくる。その腰を強く抱いて小刻みに揺らすと、ファイは自らも腰を揺らしながら幾度か首を振った。
彼をこうして抱くようになってから、黒鋼はあることを知った。
「ッ……!」
肩に焼けるような痛みを感じる。ファイは、声を我慢する代わりにそこに歯を立てるということ。
幾度も同じ場所に噛み痕をつけられて、やがて血が滲んでくる頃には桜色の唇が紅を引いたかのようにうっすらと染まる。
あの夜、黒鋼はこれを見たのだと思う。
「ひ、ん……ッ、ぁ、くぅ、ん……!」
甘く掠れた吐息だけで、ファイは「くろがね」と呼んだ。思わず腰から下が砕けそうになって、悔しさに舌打ちをする。
ビクリと身体を震わせ、喘ぎまじりにファイが笑った。
「んんっ……! ぁ、ふふ、おっきくしないでよ……」
「知るか」
「我慢、するの……ッ、大変、なんだよ……?」
「だったら好きなだけ噛んでりゃいいだろ」
痛みさえ快感に変わるということも、黒鋼は初めて知った。
そして同時に、こうして抱き合ったあと彼の温もりを感じながら眠る夜は、例えどんなに激しい雨が降っていたとしても、夢も見ずに眠れることを、知った。
***
穏やかで紳士的な普段の様子から一変して、無邪気な子供のように振舞うかと思えば、引く手数多の悪女のような顔も見せる男。そのどれもが偽物に見えるし、真実にも思える。
そんな彼との濃密な時間で、知ることもあれば疑問もまた同時に膨らんでいた。
「慣れてんだな」
これまでも幾度も思った。その度に聞く機会を逃していた。
当たり前のように男を受け入れる男。けれど時折二人でテレビを眺めていれば、彼は好みの女優を指差して「こーゆうお嫁さんが欲しいなぁ」と目尻を下げることもあった。
要するに、どちらもイケるということは分かる。
だが今やそのどちらも知ってしまった黒鋼は、この男以外の男を抱けるかと問われれば、おそらく答えはノーだった。
「んー?」
狭いベッドの上で黒鋼の横でうつ伏せになっていたファイが、肘をついてこちらを見ると小首を傾げる。
「男の人とするってことー?」
「それ以外になにがあんだよ」
ぶっきらぼうな口調は、自然とどこか不貞腐れたような色を帯びてしまった。
「別にオレ、男が好きなわけじゃないよ?」
ファイが変に勘ぐってからかってこないことに密かに安堵しつつ、黒鋼は眉を寄せる。
「好きでもねぇのにセックスはするのか」
「そうだねぇ……。相手にもよるけど」
なら自分は合格だったということか。良いことなのか悪いことなのか、判断は難しい。
「まぁ切欠は強姦だったんだけどね」
「あ?」
まるで何でもないことのようにサラリと物騒なことを言ってのけたファイは、そのときのことを思い出しているのか、薄ぼんやりとした天井を見上げている。
けれどその表情には悲壮感が一切ない。ふとした瞬間、思い出に浸るかのような何気なさだった。
「高校生のときにね。放課後、担任の先生がいきなり襲ってきて」
「……やられちまったってか」
「うん、そう」
ケロリと頷くファイに、黒鋼は驚きも哀れみも通り越してただ、呆れた。
「抵抗できなかったのかてめぇは……」
「うーん。最初はビックリしてちょっとだけしたけど。でもすぐに止めた」
「どういうことだ」
「ほんとは殴るなり蹴っ飛ばすなりしたかったんだけどねぇ。それやっちゃうとさー、せっかく儚げで気の弱そうな優等生を演じてたのが台無しじゃない? それに、オレその先生のこと別に嫌いじゃなかったし」
呆れも限界まで来ると少々腹が立ってくる。そこまでしなければならない理由が、一体どこにあるというのか。
「猫っかぶりがそんなに大事か」
へにゃりと、ファイが笑った。
「大事だよ。その方がみんな幸せでしょ?」
「大馬鹿野郎」
彼が拘る意味が分からない。分かりたくもない。身体は繋がることが出来ても、この男とは住んでいる世界に大きな隔たりがあるように感じた。
それでも、黒鋼はどうしても気にかかって仕方がないことがあった。答えが得られるかどうかは別としても。
「なんで俺にはいいんだよ」
今の振る舞いが素であるかどうかは分からない。ただ少なくとも猫はかぶっていない。それだけは確かだ。
「だって君には初めて会ったときから通用してなかったじゃない。一回もバレたことなかったのになぁ。ねぇなんで?」
「知るか」
馬鹿馬鹿しくなって、黒鋼はファイに背を向けた。今夜はまだ一度しかしていないが、興が殺がれた。
けれどファイは黒鋼の肩に圧し掛かるようにして顔を覗きこんできた。
「俺ぁもう寝るぞ」
「ねぇねぇ、怒った? ヤキモチとかさー」
ムッとする。決して認めたくはないが、怒ってはいる。これがまともな人間が相手だったなら、もっと自分を大切にしろとか、有体な言葉くらいはかけたかもしれない。
だが焼きもちというのはいただけない。なぜ自分が強姦教師を(結果的には和姦のようなものだとしても)相手にそんなものを焼かねばならないのか。
面白くない。全くもって面白くない。話の内容以前に、とにかくひたすら面白くなかった。この妙な腹立たしさが自分でも理解できない。
「妬くか。阿呆が」
「ふふ、いいね。こういうのって」
ふざけるなと、黒鋼は思った。
今のファイとの居心地は、決して悪いものではない。だが下手に探ろうとすればするほど、もやもやとしたものや苛々が押し寄せてくる。
彼が飽きるまで、くだらない遊びに付き合ってやっているだけだと割り切れれば、それでいいのだろうか。
「ねぇ先生。遊ぼうよ」
「……うるせぇな」
クスクスと軽やかに笑う声が、皮膚をくすぐる。
一度は冷めかけたものに、危うく火が灯りそうになって黒鋼は乱暴な溜息を零した。
「何がしてぇんだ」
そんなものは一つしかないだろう。けれどあえて問うと、ファイは意外なことを口にした。
「ごっこ遊び。オレと黒たん先生が、恋人って設定」
何を言い出すのだろうか。呆れた黒鋼が首だけをファイに向けると、あの悪女のような性質の悪い笑顔がそこにはあった。
「ゲームだとでも思えばいいんじゃない? どっちかが浮気したり、どっちかが本気になっちゃったら、負け」
人さし指をピストルに見立てたファイが、自らのこめかみをそれで撃ち抜く動作をして見せた。
←戻る ・ 次へ→
叩きつける横殴りの雨が、幼い肌に突き刺さるようにして降り注ぐ。
横転した車。空に向かって虚しく回り続けていたタイヤが軋むような音を立て、やがて停止する。
割れたガラスの破片が、不規則に点滅するライトに光り輝いていた。
歪で大きさの違う石が幾つも転がる中、投げ出されている腕は肘から上がない。腕だけが、ただ置き去りにされたオモチャのように転がっている。
それは左腕だった。薬指にはめられた指輪が、ガラスの破片が光るのと同じように、キラキラと輝いているのが見えた。
そこからどす黒い血が、細かな砂利の合間を縫って蛇のように波打っている。それは横転した車の下からも、どろどろと止め処なく流れ出していた。
黒鋼の腕の中にある血塗れの身体は、手足が有り得ない方向へと折れ曲がっていた。その泥に汚れた左手にも、同じように指輪がはめられている。
必死でそれを掻き抱きながら、ゆっくりと、けれど確実に熱が失われてゆくのをただ震えながら感じていた。
血は赤く、温かなものだとばかり思っていた。そして、雨は全てを洗い流してくれるものだと。
その何もかもが間違っていたなんて、知りたくなかった。
幼い黒鋼の声にならない無様な悲鳴は、無慈悲な曇天を切り裂くことさえ、当たり前のように出来はしなかった。
***
「ッ……!」
悪夢からの目覚めは、やはり最悪だった。
夜の闇の中、激しい雨音によって誘発されたそれに、黒鋼は汗だくになった身を起こす。
心臓の音が身体の中で小刻みに、けれど大音響で刻まれている。酷く喉が渇いているけれど、まるで手足に重石でも括りつけられているかのような感覚に、これ以上動く気になれない。
胸の辺りを押さえながら、再び身体を横たえる。耳障りな雨音に、過敏になっている神経がジリジリと焼き切れてしまいそうだった。
これでも、幼い頃よりはずっとましになった。
精神的にも未熟だった頃は、悪夢を見るたびに呼吸さえままならない状態に陥ることが当たり前だった。
それでも、終わりはいつ訪れるのだろうか。成長と共に発作的なものは治まりつつあったとしても、悪夢だけは消えてくれない。過去が消えないことと同様に。
あの日、あの事故のとき。一緒に逝くことが出来ていたら、今頃はずっと楽だったのだろうか。
雨は嫌いだ。
普段なら考えもしないような最悪な思考が、脳裏にこびり付いて離れなくなるから。
目を閉じた黒鋼に、再び眠りは訪れなかった。
***
春休みを間近に控えたある日のこと。
梅雨でもないのに、ここ数日はずっと雨が降っていた。黒鋼にとっては気分の晴れない状態が続いている。
そんな中、昼休み前の体育の授業中に怪我人が出た。
黒鋼は授業を終えたその足で、保健室へと向かった生徒の元へ赴いた。
あの週末の出来事以来、流石にあの養護教諭と二人きりで飲みに行くというイベントは起こっていない。こういった業務上の関わり以外で彼と顔を合わせることも、当然避けていた。
肩の傷はほとんど完治していたが、奴はとことん性格の悪い男だと思う。
引き戸を開けると、そこには怪我をした生徒である小狼とその双子の兄小龍、クラスメイトの女子であるさくら、そして勿論、養護教諭がいた。
「あ、黒鋼先生」
双子の兄を除いた三人が同時に声を上げた。
黒鋼はそれに「おう」と短く答えると、皮製の長椅子に腰掛ける小狼の側へと歩み寄った。
「どうなんだ」
「擦りむいた肘は掠り傷ですよ。右足はちょっと腫れが酷いですけど……軽い捻挫です」
小狼の足元に膝をついて、その裸足の足首に包帯を巻きながら、ファイが答えた。
体操着姿のさくらが、小狼の側に寄り添うように腰掛けながらほっと息をついた。怪我をした当人よりもずっと青い顔をしていたようだが、安心して気が抜けたのか、少し涙ぐみながらも弱々しく笑顔を見せた。
ジャージ姿の兄の方は、ファイの隣に佇んだまま腕組みをしている。こちらは表情が読み取れない。
「はい、終わり。一週間くらい安静にしていれば大丈夫だよ」
「ありがとうございます……」
黒鋼は俯いて表情を曇らせている小狼が気になった。この生徒は兄の方よりおっとりしているが、極端に思いつめる性質もあるようだった。
案の定、彼はゆるゆると顔を上げると、深く思いつめた表情で黒鋼を見た。
「黒鋼先生……おれ……」
「落ち込むくらいならとっとと治せ。なっちまったもんはしょうがねぇだろ」
「でも……」
「小狼君……?」
再び俯いた小狼に、さくらが不安そうな表情でその肩に触れた。
今回の事故は、確かに彼にしては珍しいことだった。授業中のバスケの試合で、小狼はどこかムキになって走り回り、結果相手チームの生徒と派手に衝突して引っくり返ったのだ。
幸い相手の生徒には掠り傷一つなかったが、怪我をしたことにより部活動にまで支障を来たすことを、彼なりに酷く後悔しているのだろう。
小狼は、黒鋼が顧問を務める剣道部に所属するエースだった。
黒鋼はさらに彼へと歩み寄ると、少し乱暴にその頭をグシャグシャと撫でた。
申し訳なさそうな表情で顔を上げた小狼に、ひょいと片眉を上げて見せた。すると、それをただ黙って眺めていた小龍が落ち着いた口調で言った。
「普段からやっているスポーツじゃないんだ。張り合っても仕方がないだろう?」
「……うん……ごめん」
ああなるほど。黒鋼は合点がついた。
兄の方はバスケ部に所属しており、本日の授業では小狼の相手チームにいた。
黒鋼は一人っ子だから分からないが、兄弟がいて、しかもそれが双子であれば、勝負事に関してムキになってしまうこともあるのかもしれない。
おっとりしているように見えるが、竹刀を持った瞬間の彼は顔つきが精悍なものに変わる。小狼がその内面に負けん気の強さを備えていることを、黒鋼もよく知っていた。
「とにかくだ。部活も体育もしばらく見学だ。それでいいだろう?」
チラリと視線を落とせば、見上げてきたファイがニコリと笑った。
「でも、春休みに入ったらすぐ練習試合が……!」
僅かに身を乗り出して言い募ろうとする小狼だったが、その瞬間ファイが包帯の巻かれた足首にそっと触れた。
「あのね、小狼君」
「ファイ先生……?」
「無理をして辛い思いをするのは君だけじゃないんだ。その姿を見て悲しむ人が側にいることを、忘れてはいけないよ」
「ぁ……」
小狼は小さな声をあげて、腕組みをして目を閉じている兄を見た。それから、傍らに寄り添うさくらを見やる。
「小狼君……」
さくらは目元を赤くして、瞳に涙を浮かべていた。それを見て、小狼がぐっと息を詰める。
彼にとっておそらく彼女の存在は特別なものなのだろう。
けれど黒鋼は、優しく微笑むファイの横顔が気にかかって仕方がなかった。
生徒を見守る慈愛に満ちたその瞳の柔らかさに、不覚にも黒鋼まで心が和らぐのを感じてしまう。
窓の外は相変わらず雨が降っていて、黒鋼の胸はどんよりと重たいままだったはずなのに。
そして何より、ずっと表裏のある胡散臭い男だと感じていた彼が放った言葉に、嘘偽りがあるとは思えなかった。ますます、彼という存在が不明瞭になっていく。
黒鋼が知っているだけでもこの男には二つの顔がある。他にもあるのだろうか。一体どれを信じればいいのだろう。
小狼は再びファイに向き合うと、項垂れて「ごめんなさい」と言った。ファイはこくりと頷いた。
「おれは悲しんだりはしないけどな」
「?」
冷ややかな小龍の声がして、一同が彼を見やる。小龍は厳しい表情で拳を握るとガッツポーズをするようにそれを掲げた。それから、不敵な笑みを浮かべる。
「悲しむより、お仕置きだ」
「に、兄さん……」
困り顔の小狼を見て、ファイとさくらが声を揃えて笑っていた。
その後、次の授業へと向かった3人を見送ったファイは「双子なのに、中身はぜんぜん違うんですねぇ」と感心したように言った。
***
雨が止んだのは、その翌日のことだった。
晴れ渡った空を間近で見たかった黒鋼は、授業のない空いた時間を見計らって、北校舎の屋上へと向かった。
そこへと続く扉は基本的に立ち入り禁止であるが、以前偶然に鍵が壊れていることに気がついて以来、ごく稀にではあるが密かに利用していた。
重々しいそれをゆっくりと開けると、陽の光が一気に飛び込んでくる。手を翳して一瞬それを遮った。
やがて徐々に慣れてきた瞳を見開けば、青い空と、そして軽快にはためく白衣の背中が見えた。
どうして彼がここに。だが黒鋼はさほど驚きはしなかった。
得体の知れない男。だから、神出鬼没だったとしてもおかしくはない。
彼は、背後でガチャリと扉が閉まる音が聞こえたのか、ゆっくりと金髪を揺らしながら振り向いた。
「奇遇ですね」
顔を顰めている黒鋼の姿を見とめると、彼は天使のような微笑を浮かべた。
「ここは立ち入り禁止だ。なんでいやがる」
「黒鋼先生だって」
「うるせぇ。見回りだ」
「青空が見たかったんです」
適当な嘘をついた黒鋼を気にする素振りもなく、ファイは青空を見上げた。
「雨上がりの空って、どうしてこんなに綺麗なんでしょうね?」
風に乗って、金髪が美しく揺らめく。その横顔は、保健室で黒鋼を癒したあの穏やかなものと同じだった。
「見てるとなんだか……」
けれど、その表情は彼が再び黒鋼を見る頃には一変していた。
あの笑顔だ。月明かりの部屋と、そして人気の失せた廊下で見せた、あの。
「吐き気がしてこない?」
「……てめぇは一体誰なんだ?」
ついに、黒鋼は問うた。
春の香りを乗せた風が、今は冬のそれよりもずっと冷たく頬を撫でる。
「ボクはボクですよ?」
「だったらあの夜のことを説明しやがれ」
きつく睨みつければ、ファイはすかさずわざとらしいほど爽やかな笑みを見せた。一見すればそれは、普段見せるものと変わりなく思える。けれど纏うオーラが異なることを、黒鋼は知っている。
「これは夢だと、あの晩てめぇは言ったな」
「さぁ?」
「ならなんであんな傷なんか残しやがった? あれがてめぇの本性か?」
夢だと言いながら、確かな痕跡を残したファイ。傷が癒えたあとも、ふとした瞬間ズキリと痛む。まるで消えることのない刻印を刻まれたかのように。
「……だって君は、最初から見抜いてたんでしょう?」
笑みの形を作る瞳が、酷く冷たい。まるで蔑まれているようだと感じた。
けれどそれはすぐに、どこかうっとりとしたように潤む。
「君みたいな人は初めてだ」
その台詞は、あの夜にも一度聞いたような気がする。嫌でも思い出す、あの赤い舌と唇。
「オレはね、オレに関わる全ての人に、幸せになって欲しいだけなんだよ」
この瞬間から、黒鋼とファイの秘密の関係が幕を開けたのだった。
←戻る ・ 次へ→
横転した車。空に向かって虚しく回り続けていたタイヤが軋むような音を立て、やがて停止する。
割れたガラスの破片が、不規則に点滅するライトに光り輝いていた。
歪で大きさの違う石が幾つも転がる中、投げ出されている腕は肘から上がない。腕だけが、ただ置き去りにされたオモチャのように転がっている。
それは左腕だった。薬指にはめられた指輪が、ガラスの破片が光るのと同じように、キラキラと輝いているのが見えた。
そこからどす黒い血が、細かな砂利の合間を縫って蛇のように波打っている。それは横転した車の下からも、どろどろと止め処なく流れ出していた。
黒鋼の腕の中にある血塗れの身体は、手足が有り得ない方向へと折れ曲がっていた。その泥に汚れた左手にも、同じように指輪がはめられている。
必死でそれを掻き抱きながら、ゆっくりと、けれど確実に熱が失われてゆくのをただ震えながら感じていた。
血は赤く、温かなものだとばかり思っていた。そして、雨は全てを洗い流してくれるものだと。
その何もかもが間違っていたなんて、知りたくなかった。
幼い黒鋼の声にならない無様な悲鳴は、無慈悲な曇天を切り裂くことさえ、当たり前のように出来はしなかった。
***
「ッ……!」
悪夢からの目覚めは、やはり最悪だった。
夜の闇の中、激しい雨音によって誘発されたそれに、黒鋼は汗だくになった身を起こす。
心臓の音が身体の中で小刻みに、けれど大音響で刻まれている。酷く喉が渇いているけれど、まるで手足に重石でも括りつけられているかのような感覚に、これ以上動く気になれない。
胸の辺りを押さえながら、再び身体を横たえる。耳障りな雨音に、過敏になっている神経がジリジリと焼き切れてしまいそうだった。
これでも、幼い頃よりはずっとましになった。
精神的にも未熟だった頃は、悪夢を見るたびに呼吸さえままならない状態に陥ることが当たり前だった。
それでも、終わりはいつ訪れるのだろうか。成長と共に発作的なものは治まりつつあったとしても、悪夢だけは消えてくれない。過去が消えないことと同様に。
あの日、あの事故のとき。一緒に逝くことが出来ていたら、今頃はずっと楽だったのだろうか。
雨は嫌いだ。
普段なら考えもしないような最悪な思考が、脳裏にこびり付いて離れなくなるから。
目を閉じた黒鋼に、再び眠りは訪れなかった。
***
春休みを間近に控えたある日のこと。
梅雨でもないのに、ここ数日はずっと雨が降っていた。黒鋼にとっては気分の晴れない状態が続いている。
そんな中、昼休み前の体育の授業中に怪我人が出た。
黒鋼は授業を終えたその足で、保健室へと向かった生徒の元へ赴いた。
あの週末の出来事以来、流石にあの養護教諭と二人きりで飲みに行くというイベントは起こっていない。こういった業務上の関わり以外で彼と顔を合わせることも、当然避けていた。
肩の傷はほとんど完治していたが、奴はとことん性格の悪い男だと思う。
引き戸を開けると、そこには怪我をした生徒である小狼とその双子の兄小龍、クラスメイトの女子であるさくら、そして勿論、養護教諭がいた。
「あ、黒鋼先生」
双子の兄を除いた三人が同時に声を上げた。
黒鋼はそれに「おう」と短く答えると、皮製の長椅子に腰掛ける小狼の側へと歩み寄った。
「どうなんだ」
「擦りむいた肘は掠り傷ですよ。右足はちょっと腫れが酷いですけど……軽い捻挫です」
小狼の足元に膝をついて、その裸足の足首に包帯を巻きながら、ファイが答えた。
体操着姿のさくらが、小狼の側に寄り添うように腰掛けながらほっと息をついた。怪我をした当人よりもずっと青い顔をしていたようだが、安心して気が抜けたのか、少し涙ぐみながらも弱々しく笑顔を見せた。
ジャージ姿の兄の方は、ファイの隣に佇んだまま腕組みをしている。こちらは表情が読み取れない。
「はい、終わり。一週間くらい安静にしていれば大丈夫だよ」
「ありがとうございます……」
黒鋼は俯いて表情を曇らせている小狼が気になった。この生徒は兄の方よりおっとりしているが、極端に思いつめる性質もあるようだった。
案の定、彼はゆるゆると顔を上げると、深く思いつめた表情で黒鋼を見た。
「黒鋼先生……おれ……」
「落ち込むくらいならとっとと治せ。なっちまったもんはしょうがねぇだろ」
「でも……」
「小狼君……?」
再び俯いた小狼に、さくらが不安そうな表情でその肩に触れた。
今回の事故は、確かに彼にしては珍しいことだった。授業中のバスケの試合で、小狼はどこかムキになって走り回り、結果相手チームの生徒と派手に衝突して引っくり返ったのだ。
幸い相手の生徒には掠り傷一つなかったが、怪我をしたことにより部活動にまで支障を来たすことを、彼なりに酷く後悔しているのだろう。
小狼は、黒鋼が顧問を務める剣道部に所属するエースだった。
黒鋼はさらに彼へと歩み寄ると、少し乱暴にその頭をグシャグシャと撫でた。
申し訳なさそうな表情で顔を上げた小狼に、ひょいと片眉を上げて見せた。すると、それをただ黙って眺めていた小龍が落ち着いた口調で言った。
「普段からやっているスポーツじゃないんだ。張り合っても仕方がないだろう?」
「……うん……ごめん」
ああなるほど。黒鋼は合点がついた。
兄の方はバスケ部に所属しており、本日の授業では小狼の相手チームにいた。
黒鋼は一人っ子だから分からないが、兄弟がいて、しかもそれが双子であれば、勝負事に関してムキになってしまうこともあるのかもしれない。
おっとりしているように見えるが、竹刀を持った瞬間の彼は顔つきが精悍なものに変わる。小狼がその内面に負けん気の強さを備えていることを、黒鋼もよく知っていた。
「とにかくだ。部活も体育もしばらく見学だ。それでいいだろう?」
チラリと視線を落とせば、見上げてきたファイがニコリと笑った。
「でも、春休みに入ったらすぐ練習試合が……!」
僅かに身を乗り出して言い募ろうとする小狼だったが、その瞬間ファイが包帯の巻かれた足首にそっと触れた。
「あのね、小狼君」
「ファイ先生……?」
「無理をして辛い思いをするのは君だけじゃないんだ。その姿を見て悲しむ人が側にいることを、忘れてはいけないよ」
「ぁ……」
小狼は小さな声をあげて、腕組みをして目を閉じている兄を見た。それから、傍らに寄り添うさくらを見やる。
「小狼君……」
さくらは目元を赤くして、瞳に涙を浮かべていた。それを見て、小狼がぐっと息を詰める。
彼にとっておそらく彼女の存在は特別なものなのだろう。
けれど黒鋼は、優しく微笑むファイの横顔が気にかかって仕方がなかった。
生徒を見守る慈愛に満ちたその瞳の柔らかさに、不覚にも黒鋼まで心が和らぐのを感じてしまう。
窓の外は相変わらず雨が降っていて、黒鋼の胸はどんよりと重たいままだったはずなのに。
そして何より、ずっと表裏のある胡散臭い男だと感じていた彼が放った言葉に、嘘偽りがあるとは思えなかった。ますます、彼という存在が不明瞭になっていく。
黒鋼が知っているだけでもこの男には二つの顔がある。他にもあるのだろうか。一体どれを信じればいいのだろう。
小狼は再びファイに向き合うと、項垂れて「ごめんなさい」と言った。ファイはこくりと頷いた。
「おれは悲しんだりはしないけどな」
「?」
冷ややかな小龍の声がして、一同が彼を見やる。小龍は厳しい表情で拳を握るとガッツポーズをするようにそれを掲げた。それから、不敵な笑みを浮かべる。
「悲しむより、お仕置きだ」
「に、兄さん……」
困り顔の小狼を見て、ファイとさくらが声を揃えて笑っていた。
その後、次の授業へと向かった3人を見送ったファイは「双子なのに、中身はぜんぜん違うんですねぇ」と感心したように言った。
***
雨が止んだのは、その翌日のことだった。
晴れ渡った空を間近で見たかった黒鋼は、授業のない空いた時間を見計らって、北校舎の屋上へと向かった。
そこへと続く扉は基本的に立ち入り禁止であるが、以前偶然に鍵が壊れていることに気がついて以来、ごく稀にではあるが密かに利用していた。
重々しいそれをゆっくりと開けると、陽の光が一気に飛び込んでくる。手を翳して一瞬それを遮った。
やがて徐々に慣れてきた瞳を見開けば、青い空と、そして軽快にはためく白衣の背中が見えた。
どうして彼がここに。だが黒鋼はさほど驚きはしなかった。
得体の知れない男。だから、神出鬼没だったとしてもおかしくはない。
彼は、背後でガチャリと扉が閉まる音が聞こえたのか、ゆっくりと金髪を揺らしながら振り向いた。
「奇遇ですね」
顔を顰めている黒鋼の姿を見とめると、彼は天使のような微笑を浮かべた。
「ここは立ち入り禁止だ。なんでいやがる」
「黒鋼先生だって」
「うるせぇ。見回りだ」
「青空が見たかったんです」
適当な嘘をついた黒鋼を気にする素振りもなく、ファイは青空を見上げた。
「雨上がりの空って、どうしてこんなに綺麗なんでしょうね?」
風に乗って、金髪が美しく揺らめく。その横顔は、保健室で黒鋼を癒したあの穏やかなものと同じだった。
「見てるとなんだか……」
けれど、その表情は彼が再び黒鋼を見る頃には一変していた。
あの笑顔だ。月明かりの部屋と、そして人気の失せた廊下で見せた、あの。
「吐き気がしてこない?」
「……てめぇは一体誰なんだ?」
ついに、黒鋼は問うた。
春の香りを乗せた風が、今は冬のそれよりもずっと冷たく頬を撫でる。
「ボクはボクですよ?」
「だったらあの夜のことを説明しやがれ」
きつく睨みつければ、ファイはすかさずわざとらしいほど爽やかな笑みを見せた。一見すればそれは、普段見せるものと変わりなく思える。けれど纏うオーラが異なることを、黒鋼は知っている。
「これは夢だと、あの晩てめぇは言ったな」
「さぁ?」
「ならなんであんな傷なんか残しやがった? あれがてめぇの本性か?」
夢だと言いながら、確かな痕跡を残したファイ。傷が癒えたあとも、ふとした瞬間ズキリと痛む。まるで消えることのない刻印を刻まれたかのように。
「……だって君は、最初から見抜いてたんでしょう?」
笑みの形を作る瞳が、酷く冷たい。まるで蔑まれているようだと感じた。
けれどそれはすぐに、どこかうっとりとしたように潤む。
「君みたいな人は初めてだ」
その台詞は、あの夜にも一度聞いたような気がする。嫌でも思い出す、あの赤い舌と唇。
「オレはね、オレに関わる全ての人に、幸せになって欲しいだけなんだよ」
この瞬間から、黒鋼とファイの秘密の関係が幕を開けたのだった。
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黒鋼のお決まりのスタイルと言えば黒いジャージ姿だったが、ファイがスーツ姿を披露したのは、初日の一度きりであった。
基本的にタートルネックのセーターに、嫌味なくらい長い足を引き立たせるような細身のパンツというスタイルは、彼を随分と若く見せる。
隣でぼんやりと煙草を燻らせるファイは、せいぜい二十歳かそこらの学生にしか見えなかった。元々年齢を感じさせない容姿ではあるが、基本的に顔立ちが幼いのかもしれない。
白衣を纏っていなければ、おそらく教職員には到底見えないだろう。けれどそんな風に感じられるのは、校内においてこの屋上という場所でだけだった。
ここを出てしまえば途端に、彼は相応の雰囲気を纏う。出来すぎなくらい完璧な仮面で、全てを包み隠してしまう。
「ねぇ」
後方に少しずれた位置に並んでいた黒鋼に背を向け、フェンス越しに校庭を眺めていたファイが唐突に振り返る。悪戯を仕掛けようとしているような、人の悪い笑みだった。
彼が背を預けると、錆びたフェンスはギリリと不快な音を立てた。
「オレのこと、そんなに気になる?」
そうだ、この言葉遣いだ。
普段とはガラリと違う態度とこの砕けた物言いが、彼を幼くさせている。
黒鋼はどうでもいいことのように小さく口端を歪めた。
「ある意味、見てて飽きねぇのかもな」
「へぇー? どんな風に?」
フィルターぎりぎりまで燃えた煙草を地面に落とし、それを靴の裏でおざなりに潰すと、ファイは両手を白衣のポケットに突っ込んだ。
彼は背が高いが、黒鋼はそれよりもさらに高い。自然、下から覗き込まれるようになる。
初めて会った日は、このブルーの瞳に薄気味悪ささえ感じたものだ。
たった数ヶ月ほど前のことなのに、なんだか酷く遠い日の出来事のように感じた。
「てめぇほど完璧な猫っかぶりは、見たことがねぇからな」
「ふん」
鼻で笑ったファイだったが、その表情はまんざらでもないようだった。
「それ、オレにとっては最高の褒め言葉だよ」
黒鋼の指に挟まれた煙草も、ぎりぎりまで燃えていた。同じ様に地面に放ると、足裏で火を揉み消す。
こんな風に屋上で『秘密』を共有してからというもの、黒鋼は今のファイの姿が決して嫌いではなかった。あの嘘臭い仮面を貼り付けている彼といるよりは、よほど呼吸がしやすいからだ。
けれど背後にぴったりと張り付く得体の知れなさは変わらなかった
互いにある程度打ち解けていると見せかけて、決して深部まで踏み込ませない。どうでもいい会話を時折交わしながら、ただ腹を探り合っているに過ぎなかった。
こうして手を伸ばせば触れることの出来る位置にいてさえ、結局のところ距離が縮まることはない。
なのに、不思議だ。
「君さー、最初に会った時から、オレのこと嫌いでしょ?」
黒鋼は彼の熱を知っている。
この細いばかりの身体の感触を。
「オレもだよ」
泣き顔を。
「オレにしてみれば、君の方がよっぽど面白いよ」
決して自ら望んだことではないけれど。
「だから寝てみたんだ」
それは、事実だった。
***
黒鋼がファイと屋上で顔を合わせるようになり、そして今の関係へと落ち着くに至った全ての発端は、三ヶ月ほど前に遡る。
それは春が訪れるにはまだ早い、雪のチラつく週末の夜だった。
高校から数キロ圏内にある居酒屋は、何かとこういったイベント事がある度に利用される、教師達の行き着けの店だった。
黒鋼が単体で訪れることは滅多にないのだが、何でもここは予め予約を入れておかねば席の確保が難しいほど繁盛しており、確かに見渡せば全席にみっちりとサラリーマンやOLと思しき客で溢れている。
教師一同は店の奥に一つだけの、広めの座敷にその日の席を予約していた。
大テーブルが二つ並べられたその奥まった座敷で、今宵は新たな養護教諭を歓迎するための宴が盛大に行われている。
「ほら、もう酌はいいから君が飲みたまえ!」
頭のハゲ散らかった中年の教頭が、先陣を切って今夜の主役に酒を勧める。
「ボク、お酒弱いんです」
困ったように眉尻を下げて微笑むファイは、中年男に肩を抱かれながら緩く首を振った。
それでも上司や周りに強く勧められて、チマチマと口をつけている。白い頬がほんのりと赤く染まっている彼を見て、女性教諭たちが普段の倍以上にまでテンションが上がっているのが分かった。
黒鋼は輪の中には混ざらず、少し引いた隅の方で一人黙々と飲んでいた。
若い男を取り囲んでわいわいとはしゃぐ一団を見て、黒鋼はふと幼い頃に招待された友人の誕生会を思い出していた。
ファイの目の前にあるのが酒やつまみではなく、オレンジジュースに大きなバースデーケーキであれば完璧だ。
そんな考えのアホらしさに溜息が零れる。
酒は好きだが、騒がしいのは勘弁だ。黒鋼が無口でとっつき難いのは周知のことであるため、連中はこちらをまるで気にしない。
それでもファイだけは酷く気を使っているようで、時折戸惑ったようにこちらを覗きこんでいた。その視線に、あえて気がつかないふりをする。
初めて会話をしたあの日から、黒鋼は彼との接触を極力避けている。自分でもはっきりと自覚しているわけではないのだが、本能的な部分がファイとの関わりを拒んでいた。
それでも校内で見かければ目で追ってしまう。甘ったるい表情を見ると胸がムカムカとする。気を抜けば自分まで絆されそうで。騙されてやるものかという妙な意地も働いていた。
出会ったばかりで、しかもまともに会話をしたのは一度きり。彼という人間のことなど何一つ知りもしないくせに、黒鋼の中でファイ・フローライトはまるで詐欺師と成り果てていた。
一体どこから、この歪んだ感情は生まれてくるのだろう。
そんなことに延々と思考を巡らせながら飲む酒は不味かった。杯ばかりを重ねて、全く違った意味で胃の辺りがジリジリと焼け焦げるばかりだった。
彼のあの穏やかな笑顔に拒絶の色を感じているのは自分だけ。
なぜこうも意識する必要があるのだろう。
これでは、まるで。
「飲みすぎると、すぐに寝ちゃうんです」
角砂糖を噛み砕いた時のような感覚。甘いものは嫌いだ。この声も。
「本当に弱くて……」
頭がクラクラする。どんなに強い酒を飲み続けたとしても、こんな状態に陥ったことはない。
まるでドロドロとしたものに足元を取られ、身動きが取れずに足掻いているかのようだった。目の前が暗く点滅している。意識が遠のく。ファイの声がした。
「先生? 黒鋼先生?」
(よりにもよって、その声で俺を呼ぶなよ)
「あらいやだ! 黒鋼先生ってザルなのよぉ!?」
(うるせぇな。てめぇじゃねぇんだよ。俺が聞きてぇのは……)
「ボクが先生を送って行きます。方向は一緒ですから」
(そうだ、てめぇだ。てめぇの声だよ)
そこで、黒鋼の記憶はぷっつりと途切れた。
*
「君みたいな人は初めてだよ」
雪は、いつ止んだのだろうか。カーテンの隙間から覗く三日月に、まだらな雲がかかっていることに黒鋼は気がついた。
降り注ぐ月明かりに薄ぼんやりと浮き上がっている男の声や表情は、妖しくも艶やかに濡れた光を放っている。
何か声を出そうとして口を開いたところで、覆いかぶさる唇によって塞がれてしまう。
酷く喉が渇いている中に滑り込んできた彼の舌は氷のように冷たくて、黒鋼は浮ついて朦朧とする意識でそれを貪った。雛が必死に親鳥に餌を乞う様に、それは似ていた。
どれだけ絡めても吸い上げてもそれは冷たいままで、なのにこの焼け付くような喉を癒すことはなかった。
両腕で抱き込もうとすれば、それはすぐに離れる。
男は笑った。頼りないばかりのささやかな光の中、赤い舌でぬるりとその唇を濡らしているのが分かった。
訳も分からないまま、けれど焦れた黒鋼は掠れた声で、ただ「みず」とだけ声を絞り出すのが精一杯だった。
「あげないよ」
ああ、そうか。
「オレを満足させてくれるまでは、ね?」
それがお前の……。
***
はっとして勢いよく飛び起きた瞬間、まず感じたのは激しい頭痛だった。
強く鷲掴みにされた頭を、思い切り壁にでも打ち付けられているような、嫌な感覚。
飛び込んできた白い光が、目蓋を通りこして眼球を刺激する。ズキズキという不快な痛みから、黒鋼は片手で額を押さえると低く唸った。
「~~~ッ」
もしやこれが二日酔いというものなのか。この歳まで生きてきて、これが初めての体験だった。
凝り固まったかのように重い目蓋をどうにか押し開いて、すぐ脇の窓を見やる。安いにしては日中通して日当たりのいいこの部屋で、遮光カーテンは必須アイテムだ。
その隙間から、容赦なく陽が射している。だが、今が朝なのか昼なのかまでは判別できない。
ベッドの枕元に横倒しになっているデジタルの目覚まし時計をむんずと掴んで、今がちょうど正午過ぎだということをどうにか確認した。
まだカーテンを開ける気にはなれず、荒波のように押し寄せる痛みと倦怠感を払拭するべく、首を勢いよく振った。
やや時間を置いてようやく痛みが緩く静まりかけてきたところで、次は全く違う場所に全く違う痛みが走った。
チリリとした、引き攣れるような痛み。
「なんだよ……」
その場所は左の肩口。
噛み付かれたようなその傷は、血が滲んでこびり付いていた。
「ッ」
一気に、昨夜の出来事が断片的に脳内に再生される。
歓迎会の居酒屋。
子供時代の誕生会。
ファイ。
あの場の居心地の悪さに、無意識に自棄になってグラスを重ねた記憶がある。
けれど、そこから先はブツリと途切れていた。
あれからどうした?
どうやってこの自宅に戻ったのか。
この噛み痕は。
その後のことは。
『オレを満足させてくれるまでは、ね』
月明かりの部屋。
喉の渇き。
声。
赤い唇と、濡れた舌。
『これは夢だよ。君にとっては悪夢だろうけどね』
――おまえは、誰だ……?
「おい……マジかよ」
黒鋼は乱れきったシーツの上に胡坐をかいている己の姿を見やる。
一糸纏わぬ、生まれたままの姿。
噛み痕が傷む。
物凄い勢いで脳内が昨夜の出来事を思い出そうとフル稼動している。
心臓が全身を震わせるほど大きく高鳴っていた。
ファイの声と、冷たい舌と。
薄く笑った赤い口元。
糸が切れたように、ただ茫然と、黒鋼は。
「抱いたのか……俺は、アレを……」
***
休日の時間を、黒鋼はただひたすら悶々と過ごしていた。
食事をする気にもなれず、酒のつまみにと買い置きしてあった乾き物の類いを窓から放って、例の野良猫を眺めて過ごしていた。
居酒屋で酔い潰れたのは間違いないが、その後のことをあの養護教諭本人に確かめるべきなのかどうか、酷く迷っている。
あの男は、『これは夢だ』と言っていた。
だが確かめるも何も、身体は感触を覚えているのだ。断片的にではあるものの、組み敷いた彼の身体の薄っぺらさや、その熱を。
そして何よりも、夢であって欲しいと、夢に違いないと思おうとしても、それを肩に残る傷が許してはくれない。ただの悪夢であったなら、どんなによかったろう。
なんとも気持ちの悪い思いを抱えたまま、容赦なく月曜はやって来た。
教師たちが口々に「黒鋼先生が酔い潰れるなんて珍しいですね」などと言っては、からかいの言葉を投げかけてくるのを適当に交わして、そしてその様子からどうやら酔い潰れた自分と、「帰る方向が同じだから」とタクシーに共に乗り込んだのがファイであることが知れた。
あの男は黒鋼のアパートがどこにあるかまでは知らないはずだが、高校の位置から近いこともあり、誰かしらが場所を教えたのだろう。まるで覚えていないが、自分もおぼつかないなりに適当な受け答えくらいはしたのかもしれない。
だがそれが事実であったとしても、そう簡単に飲み込むことは不可能だった。誰でもいい。全てを否定できる材料を提供してくれる相手が必要だった。
かといって、まさか誰か自分の肩に噛み付いた人間はいるか、などと聞けるはずもない。
ならやはり、一人しかいないではないか。
「黒鋼先生」
胸の中に曇天を抱えたまま、体育館での授業を終えて職員室へと向かう黒鋼の背に、今一番聞きたくない声が無情にもかかった。
談笑しながら行き交う生徒達の騒がしさに乗じて、気づかないふりをしてしまいたかった。だがそうもいかない。渋々と足を止めて振り向けば、そこには白衣の男が微笑んでいる。
「週末はありがとうございました」
「あぁ……」
それは歓迎会のことなのか、それとも。
「酷く酔っていらしたので心配だったんですけど……もう大丈夫ですか?」
そう言って心配そうに黒鋼の顔を覗き込むものだから、無意識に腰が引けた。
「いや、悪かった。迷惑かけたみてぇだな」
当然確信には触れずに平静を装い、当たり障りない謝罪をする。ファイはとんでもない、と言うように首を左右に振った。
「黒鋼先生はすぐに眠ってしまわれましたから、ボクは何もしてないですよ」
本当にただ送り届けただけ。白々しい嘘をつくなと胸倉を掴んでしまえれば、いっそすっきりするのだろうか。
だが、この男は肝心なことは何も言わない。黒鋼の中の防衛本能が、このまま何もなかったことにしてしまえと、そう告げている。
「酔うなんて初めて見たと、皆さんおっしゃってましたよ。きっとお疲れだったんですね」
ファイは申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「いや……」
息が詰まって、早くこの場を去りたくて仕方がない。この男のいない場所なら、どこでもよかった。
「よければまた、ゆっくり飲みましょうね。今度は、二人だけで」
その誘いにギクリとする。相変わらず綺麗に微笑むファイの言葉が、酷く意味深なものに聞こえる。だいたい、酒に弱いと言っていたのはどの口だ。そんな人間が、他人をこうして誘うものだろうか。
そのとき、次の授業の始まりを知らせるチャイムが鳴った。辺りを行き交っていた生徒たちが、一瞬にして姿を消す。
二人だけが取り残された廊下は、酷く寒々として静まり返っていた。
答えるタイミングを逃す形となってしまった黒鋼に、ファイは表情を変えた。それを見た瞬間、心臓がドキリと高鳴った。
陽だまりのような笑顔は、一転して冴え渡る冬の月を思わせるような、冷たい微笑へ。
それはとてもではないが、女子生徒が呼んでいるような『王子様』の甘い微笑みとは、遠くかけ離れたものに見えた。
ちぐはぐだったロジックが、ピタリとはまる。
ああ、これがこの男だ。
『彼』とはあの週末の夜、月明かりの部屋で確かに会っている。
この腕で、確かに『抱いた』のだから。
「君の瞳、赤くてとても綺麗だね」
肩口に残る傷が、甘く疼く。言葉を紡ぐその薄い唇から、目が離せない。
「肩の傷が痛むときは、保健室まで来てくださいね」
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基本的にタートルネックのセーターに、嫌味なくらい長い足を引き立たせるような細身のパンツというスタイルは、彼を随分と若く見せる。
隣でぼんやりと煙草を燻らせるファイは、せいぜい二十歳かそこらの学生にしか見えなかった。元々年齢を感じさせない容姿ではあるが、基本的に顔立ちが幼いのかもしれない。
白衣を纏っていなければ、おそらく教職員には到底見えないだろう。けれどそんな風に感じられるのは、校内においてこの屋上という場所でだけだった。
ここを出てしまえば途端に、彼は相応の雰囲気を纏う。出来すぎなくらい完璧な仮面で、全てを包み隠してしまう。
「ねぇ」
後方に少しずれた位置に並んでいた黒鋼に背を向け、フェンス越しに校庭を眺めていたファイが唐突に振り返る。悪戯を仕掛けようとしているような、人の悪い笑みだった。
彼が背を預けると、錆びたフェンスはギリリと不快な音を立てた。
「オレのこと、そんなに気になる?」
そうだ、この言葉遣いだ。
普段とはガラリと違う態度とこの砕けた物言いが、彼を幼くさせている。
黒鋼はどうでもいいことのように小さく口端を歪めた。
「ある意味、見てて飽きねぇのかもな」
「へぇー? どんな風に?」
フィルターぎりぎりまで燃えた煙草を地面に落とし、それを靴の裏でおざなりに潰すと、ファイは両手を白衣のポケットに突っ込んだ。
彼は背が高いが、黒鋼はそれよりもさらに高い。自然、下から覗き込まれるようになる。
初めて会った日は、このブルーの瞳に薄気味悪ささえ感じたものだ。
たった数ヶ月ほど前のことなのに、なんだか酷く遠い日の出来事のように感じた。
「てめぇほど完璧な猫っかぶりは、見たことがねぇからな」
「ふん」
鼻で笑ったファイだったが、その表情はまんざらでもないようだった。
「それ、オレにとっては最高の褒め言葉だよ」
黒鋼の指に挟まれた煙草も、ぎりぎりまで燃えていた。同じ様に地面に放ると、足裏で火を揉み消す。
こんな風に屋上で『秘密』を共有してからというもの、黒鋼は今のファイの姿が決して嫌いではなかった。あの嘘臭い仮面を貼り付けている彼といるよりは、よほど呼吸がしやすいからだ。
けれど背後にぴったりと張り付く得体の知れなさは変わらなかった
互いにある程度打ち解けていると見せかけて、決して深部まで踏み込ませない。どうでもいい会話を時折交わしながら、ただ腹を探り合っているに過ぎなかった。
こうして手を伸ばせば触れることの出来る位置にいてさえ、結局のところ距離が縮まることはない。
なのに、不思議だ。
「君さー、最初に会った時から、オレのこと嫌いでしょ?」
黒鋼は彼の熱を知っている。
この細いばかりの身体の感触を。
「オレもだよ」
泣き顔を。
「オレにしてみれば、君の方がよっぽど面白いよ」
決して自ら望んだことではないけれど。
「だから寝てみたんだ」
それは、事実だった。
***
黒鋼がファイと屋上で顔を合わせるようになり、そして今の関係へと落ち着くに至った全ての発端は、三ヶ月ほど前に遡る。
それは春が訪れるにはまだ早い、雪のチラつく週末の夜だった。
高校から数キロ圏内にある居酒屋は、何かとこういったイベント事がある度に利用される、教師達の行き着けの店だった。
黒鋼が単体で訪れることは滅多にないのだが、何でもここは予め予約を入れておかねば席の確保が難しいほど繁盛しており、確かに見渡せば全席にみっちりとサラリーマンやOLと思しき客で溢れている。
教師一同は店の奥に一つだけの、広めの座敷にその日の席を予約していた。
大テーブルが二つ並べられたその奥まった座敷で、今宵は新たな養護教諭を歓迎するための宴が盛大に行われている。
「ほら、もう酌はいいから君が飲みたまえ!」
頭のハゲ散らかった中年の教頭が、先陣を切って今夜の主役に酒を勧める。
「ボク、お酒弱いんです」
困ったように眉尻を下げて微笑むファイは、中年男に肩を抱かれながら緩く首を振った。
それでも上司や周りに強く勧められて、チマチマと口をつけている。白い頬がほんのりと赤く染まっている彼を見て、女性教諭たちが普段の倍以上にまでテンションが上がっているのが分かった。
黒鋼は輪の中には混ざらず、少し引いた隅の方で一人黙々と飲んでいた。
若い男を取り囲んでわいわいとはしゃぐ一団を見て、黒鋼はふと幼い頃に招待された友人の誕生会を思い出していた。
ファイの目の前にあるのが酒やつまみではなく、オレンジジュースに大きなバースデーケーキであれば完璧だ。
そんな考えのアホらしさに溜息が零れる。
酒は好きだが、騒がしいのは勘弁だ。黒鋼が無口でとっつき難いのは周知のことであるため、連中はこちらをまるで気にしない。
それでもファイだけは酷く気を使っているようで、時折戸惑ったようにこちらを覗きこんでいた。その視線に、あえて気がつかないふりをする。
初めて会話をしたあの日から、黒鋼は彼との接触を極力避けている。自分でもはっきりと自覚しているわけではないのだが、本能的な部分がファイとの関わりを拒んでいた。
それでも校内で見かければ目で追ってしまう。甘ったるい表情を見ると胸がムカムカとする。気を抜けば自分まで絆されそうで。騙されてやるものかという妙な意地も働いていた。
出会ったばかりで、しかもまともに会話をしたのは一度きり。彼という人間のことなど何一つ知りもしないくせに、黒鋼の中でファイ・フローライトはまるで詐欺師と成り果てていた。
一体どこから、この歪んだ感情は生まれてくるのだろう。
そんなことに延々と思考を巡らせながら飲む酒は不味かった。杯ばかりを重ねて、全く違った意味で胃の辺りがジリジリと焼け焦げるばかりだった。
彼のあの穏やかな笑顔に拒絶の色を感じているのは自分だけ。
なぜこうも意識する必要があるのだろう。
これでは、まるで。
「飲みすぎると、すぐに寝ちゃうんです」
角砂糖を噛み砕いた時のような感覚。甘いものは嫌いだ。この声も。
「本当に弱くて……」
頭がクラクラする。どんなに強い酒を飲み続けたとしても、こんな状態に陥ったことはない。
まるでドロドロとしたものに足元を取られ、身動きが取れずに足掻いているかのようだった。目の前が暗く点滅している。意識が遠のく。ファイの声がした。
「先生? 黒鋼先生?」
(よりにもよって、その声で俺を呼ぶなよ)
「あらいやだ! 黒鋼先生ってザルなのよぉ!?」
(うるせぇな。てめぇじゃねぇんだよ。俺が聞きてぇのは……)
「ボクが先生を送って行きます。方向は一緒ですから」
(そうだ、てめぇだ。てめぇの声だよ)
そこで、黒鋼の記憶はぷっつりと途切れた。
*
「君みたいな人は初めてだよ」
雪は、いつ止んだのだろうか。カーテンの隙間から覗く三日月に、まだらな雲がかかっていることに黒鋼は気がついた。
降り注ぐ月明かりに薄ぼんやりと浮き上がっている男の声や表情は、妖しくも艶やかに濡れた光を放っている。
何か声を出そうとして口を開いたところで、覆いかぶさる唇によって塞がれてしまう。
酷く喉が渇いている中に滑り込んできた彼の舌は氷のように冷たくて、黒鋼は浮ついて朦朧とする意識でそれを貪った。雛が必死に親鳥に餌を乞う様に、それは似ていた。
どれだけ絡めても吸い上げてもそれは冷たいままで、なのにこの焼け付くような喉を癒すことはなかった。
両腕で抱き込もうとすれば、それはすぐに離れる。
男は笑った。頼りないばかりのささやかな光の中、赤い舌でぬるりとその唇を濡らしているのが分かった。
訳も分からないまま、けれど焦れた黒鋼は掠れた声で、ただ「みず」とだけ声を絞り出すのが精一杯だった。
「あげないよ」
ああ、そうか。
「オレを満足させてくれるまでは、ね?」
それがお前の……。
***
はっとして勢いよく飛び起きた瞬間、まず感じたのは激しい頭痛だった。
強く鷲掴みにされた頭を、思い切り壁にでも打ち付けられているような、嫌な感覚。
飛び込んできた白い光が、目蓋を通りこして眼球を刺激する。ズキズキという不快な痛みから、黒鋼は片手で額を押さえると低く唸った。
「~~~ッ」
もしやこれが二日酔いというものなのか。この歳まで生きてきて、これが初めての体験だった。
凝り固まったかのように重い目蓋をどうにか押し開いて、すぐ脇の窓を見やる。安いにしては日中通して日当たりのいいこの部屋で、遮光カーテンは必須アイテムだ。
その隙間から、容赦なく陽が射している。だが、今が朝なのか昼なのかまでは判別できない。
ベッドの枕元に横倒しになっているデジタルの目覚まし時計をむんずと掴んで、今がちょうど正午過ぎだということをどうにか確認した。
まだカーテンを開ける気にはなれず、荒波のように押し寄せる痛みと倦怠感を払拭するべく、首を勢いよく振った。
やや時間を置いてようやく痛みが緩く静まりかけてきたところで、次は全く違う場所に全く違う痛みが走った。
チリリとした、引き攣れるような痛み。
「なんだよ……」
その場所は左の肩口。
噛み付かれたようなその傷は、血が滲んでこびり付いていた。
「ッ」
一気に、昨夜の出来事が断片的に脳内に再生される。
歓迎会の居酒屋。
子供時代の誕生会。
ファイ。
あの場の居心地の悪さに、無意識に自棄になってグラスを重ねた記憶がある。
けれど、そこから先はブツリと途切れていた。
あれからどうした?
どうやってこの自宅に戻ったのか。
この噛み痕は。
その後のことは。
『オレを満足させてくれるまでは、ね』
月明かりの部屋。
喉の渇き。
声。
赤い唇と、濡れた舌。
『これは夢だよ。君にとっては悪夢だろうけどね』
――おまえは、誰だ……?
「おい……マジかよ」
黒鋼は乱れきったシーツの上に胡坐をかいている己の姿を見やる。
一糸纏わぬ、生まれたままの姿。
噛み痕が傷む。
物凄い勢いで脳内が昨夜の出来事を思い出そうとフル稼動している。
心臓が全身を震わせるほど大きく高鳴っていた。
ファイの声と、冷たい舌と。
薄く笑った赤い口元。
糸が切れたように、ただ茫然と、黒鋼は。
「抱いたのか……俺は、アレを……」
***
休日の時間を、黒鋼はただひたすら悶々と過ごしていた。
食事をする気にもなれず、酒のつまみにと買い置きしてあった乾き物の類いを窓から放って、例の野良猫を眺めて過ごしていた。
居酒屋で酔い潰れたのは間違いないが、その後のことをあの養護教諭本人に確かめるべきなのかどうか、酷く迷っている。
あの男は、『これは夢だ』と言っていた。
だが確かめるも何も、身体は感触を覚えているのだ。断片的にではあるものの、組み敷いた彼の身体の薄っぺらさや、その熱を。
そして何よりも、夢であって欲しいと、夢に違いないと思おうとしても、それを肩に残る傷が許してはくれない。ただの悪夢であったなら、どんなによかったろう。
なんとも気持ちの悪い思いを抱えたまま、容赦なく月曜はやって来た。
教師たちが口々に「黒鋼先生が酔い潰れるなんて珍しいですね」などと言っては、からかいの言葉を投げかけてくるのを適当に交わして、そしてその様子からどうやら酔い潰れた自分と、「帰る方向が同じだから」とタクシーに共に乗り込んだのがファイであることが知れた。
あの男は黒鋼のアパートがどこにあるかまでは知らないはずだが、高校の位置から近いこともあり、誰かしらが場所を教えたのだろう。まるで覚えていないが、自分もおぼつかないなりに適当な受け答えくらいはしたのかもしれない。
だがそれが事実であったとしても、そう簡単に飲み込むことは不可能だった。誰でもいい。全てを否定できる材料を提供してくれる相手が必要だった。
かといって、まさか誰か自分の肩に噛み付いた人間はいるか、などと聞けるはずもない。
ならやはり、一人しかいないではないか。
「黒鋼先生」
胸の中に曇天を抱えたまま、体育館での授業を終えて職員室へと向かう黒鋼の背に、今一番聞きたくない声が無情にもかかった。
談笑しながら行き交う生徒達の騒がしさに乗じて、気づかないふりをしてしまいたかった。だがそうもいかない。渋々と足を止めて振り向けば、そこには白衣の男が微笑んでいる。
「週末はありがとうございました」
「あぁ……」
それは歓迎会のことなのか、それとも。
「酷く酔っていらしたので心配だったんですけど……もう大丈夫ですか?」
そう言って心配そうに黒鋼の顔を覗き込むものだから、無意識に腰が引けた。
「いや、悪かった。迷惑かけたみてぇだな」
当然確信には触れずに平静を装い、当たり障りない謝罪をする。ファイはとんでもない、と言うように首を左右に振った。
「黒鋼先生はすぐに眠ってしまわれましたから、ボクは何もしてないですよ」
本当にただ送り届けただけ。白々しい嘘をつくなと胸倉を掴んでしまえれば、いっそすっきりするのだろうか。
だが、この男は肝心なことは何も言わない。黒鋼の中の防衛本能が、このまま何もなかったことにしてしまえと、そう告げている。
「酔うなんて初めて見たと、皆さんおっしゃってましたよ。きっとお疲れだったんですね」
ファイは申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「いや……」
息が詰まって、早くこの場を去りたくて仕方がない。この男のいない場所なら、どこでもよかった。
「よければまた、ゆっくり飲みましょうね。今度は、二人だけで」
その誘いにギクリとする。相変わらず綺麗に微笑むファイの言葉が、酷く意味深なものに聞こえる。だいたい、酒に弱いと言っていたのはどの口だ。そんな人間が、他人をこうして誘うものだろうか。
そのとき、次の授業の始まりを知らせるチャイムが鳴った。辺りを行き交っていた生徒たちが、一瞬にして姿を消す。
二人だけが取り残された廊下は、酷く寒々として静まり返っていた。
答えるタイミングを逃す形となってしまった黒鋼に、ファイは表情を変えた。それを見た瞬間、心臓がドキリと高鳴った。
陽だまりのような笑顔は、一転して冴え渡る冬の月を思わせるような、冷たい微笑へ。
それはとてもではないが、女子生徒が呼んでいるような『王子様』の甘い微笑みとは、遠くかけ離れたものに見えた。
ちぐはぐだったロジックが、ピタリとはまる。
ああ、これがこの男だ。
『彼』とはあの週末の夜、月明かりの部屋で確かに会っている。
この腕で、確かに『抱いた』のだから。
「君の瞳、赤くてとても綺麗だね」
肩口に残る傷が、甘く疼く。言葉を紡ぐその薄い唇から、目が離せない。
「肩の傷が痛むときは、保健室まで来てくださいね」
←戻る ・ 次へ→
「君は聞いたね。オレが誰なのかって」
金色の髪と、純白の白衣の裾が、風に吹かれて舞い踊る。
今にも澄んだ青空の中に融けてしまいそうな気がして、黒鋼は引き寄せられるようにして手を伸ばした。
けれど錆付いたフェンスは、彼に触れることさえも許してはくれない。
「オレもずっと考えていた…」
雨上がりのコンクリートの臭い。空を写す水溜り。
足元に転がる幾つかの煙草の吸殻は、虫の死骸にも似ていて。
「あの石は、もうない。それでもオレがオレでいられたら……言うよ。本当の気持ち」
だからお願い。
彼はそう言って笑った。
「答え合わせがしたいんだ」
ギターの弦を爪先で弾くような振動に似た、空気の震え。
『彼』は、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「見てて」
両手を広げ、穏やかに微笑みながら。
ファイは、飛んだ。
***
そろそろ昼休みも終わろうかという、午後の職員室。
授業中の居眠りや悪ふざけをたっぷりと搾られている生徒や、単に遊びに来ている生徒、次の授業の準備に勤しむ教師もいれば、雑談に興じる教師達もいる。
形ばかりの自分のデスクに向かい、若い女性教諭が気を利かせて淹れてくれた茶をまったりと啜っていた黒鋼は、出入り口付近に白衣がちらつくのを視界に留めると、密かに顔を顰めた。
この高校にまともに白衣を着ている教師はいない。体育教師である黒鋼にとっては、そんなものはますます縁がない。となれば、あんなものを纏っている人間は一人しかいなかった。
淡い金色の髪が、ふわりふわりと揺れている。ほっそりとした身体の線はスラリと伸びていて、今は白衣に隠されたそれがどれほど頼りないシルエットであるかを、黒鋼は知っていた。
彼は女子生徒に囲まれて談笑しているようだった。頬を赤らめた少女達が、彼が何かを言うたび、そしてやんわりと微笑む度に色めきだってはしゃぐのが分かった。
(相変わらず胡散臭ぇ野郎だ)
黒鋼は、神経の糸をジリジリと炙られるかのような苛立ちを持て余した。あの白衣の男が微笑むのを見ていると、大体いつもこうだった。
「相変わらずモテモテねぇ。ファイ先生は」
「あっという間に大人気ですものね~」
熟年の女性教諭と、黒鋼に茶を淹れてくれた若い女性教諭の会話がすぐ側で聞こえる。
「あの甘いマスクですもん。私の学生時代には絶対いませんでしたよ」
「確かに男前ねぇ。モデルさんや芸能人でもやってる方が、お似合いなんじゃないかしら」
「あ、それ言えてますね~!」
嫌でも耳に入ってくる彼女たちの会話にも、十分にミーハー色が入り混じっている気がする。あの男を囲んで頬を赤らめている少女達と、なんら変わりないように思えた。
熟年教師の方は、生徒達に限らず若い教師達にさえ恐れられる厳格な女性だが、心なしか声が艶っぽく上ずって聞こえるのは気のせいだと思いたい。
けれど先輩後輩の枠を超えて、ベテランと新人は共通の話題によって打ち解けているようだった。
「知ってます? ファイ先生って女子生徒たちの間で王子様って呼ばれてるんですって」
それは、「くだらねぇな」と内心で吐き捨てて席を立とうとした黒鋼に、最後のトドメとばかりに届いた言葉だった。
「いやぁね」なんて言いながら、なぜか我がことのようにまんざらでもない女性教諭たちの笑い声に背を向ける。
見れば、白衣の男はもういない。
ますます馬鹿馬鹿しくて、黒鋼は悟られぬ程度に鼻で笑った。
王子様とはとことん笑わせてくれる。あの完璧すぎるほどの笑顔や、洗練された上品な身のこなし、決して崩れることのない丁寧な言葉遣い。
女性に限らず、この学校で彼を悪く言うものはいないし、同様に悪い印象を抱いているものも一人もいない。
――ねぇ先生。
ただ一人、黒鋼を除いては。
――遊ぼうよ。
なぜなら、黒鋼は知っているからだった。
――ゲームだとでも思えばいいんじゃない?
彼のもう一つの顔とも呼べる一面を。
*
冬休み明け、始業式の朝だった。
新学期初日だというのに外は雨で、黒鋼の機嫌はハッキリ言って最悪だった。
見上げれば鉛色のどんよりとした雲。世界が凍りつくほどの冷え込みの中、なぜ空から落ちてくるのが雪ではないのだろう。
雨の音が落ち着くという人間もいる。だが黒鋼にはそんな奴の気が知れない。
こんな日は、ただ思い出したくないことばかりを思い出させるだけだった。容赦なく叩きつけるくせに、雨は何一つ洗い流してなどくれない。その冷たさが、軽薄さが、不愉快で忌々しかった。
風に軌道を乱されて、時折横殴りになるそれが傘を差していても上着の肩を濡らす。職場である高校と黒鋼の住いはそう遠くはなのだから、いっそ一気に走り抜けてしまおうかと思った、そのときだった。
「ミャー」
電柱の影から、見覚えのある野良猫が顔を出した。ふと足を止める。
「ミャーン」
甘えた声を出すその黒猫は目付きが悪く、金色の瞳をしている。アパートの二階から顔を出すと稀に姿を現す、ちょっとした顔馴染みだった。
「悪いな。今は持ち合わせがねぇんだよ」
今はまさに出勤途中であり、今から冷蔵庫の残りものを漁りに戻るわけにはいかない。
実際のところ、猫は特に好きというわけではない。だが雨に濡れたその姿を見て、黒鋼は少しだけ表情を和らげた。
動物には癒しの効果があるというが、どうやら自分にも効果があるらしい。
「ニャーゴ」
普段なら何にもありつけないと知ればそっけなく背を向けてしまう黒猫が、珍しく足元に擦り寄ってきた。この猫との付き合いはそれなりに長いが、接触は初めてのことだった。
珍しいこともあるものだと、思わず屈んで手を伸ばした。
だが、それが不味かった。
***
「お怪我でもされましたか?」
左手の甲にど派手な引っ掻き傷を三本作ってしまった黒鋼は、流石に放っておくのは不味いかと、無人の保健室に立ち寄った。
野良はどんな病気を持っているか分からない、というのは建前で、こんなあからさまな傷を生徒に見られれば、ヤツらは喜び勇んで弄り倒してくるに違いない。
そこで明りも灯さずに適当に棚を漁っていた黒鋼に声をかけたのは、見たことのない若いスーツの男性だった。
振り向いた黒鋼に、扉の脇のスイッチを押して明りをつけた男がやんわりと微笑んだ。
この場にあまりに不釣合いな空気を纏うその男に、黒鋼は僅かに面食らう。
一瞬、ここはどこのホストクラブかと本気で思った。(行ったことなどないが)
明りがついたことでクリアになった視界に嫌でも目立つ金髪は、どうやら地毛らしい。彼の淡く青い瞳がそれを強く主張していた。
「ああ、ちょっとな」
微妙な間が空いたのを誤魔化すようにして、短く答える。軽く左手を持ち上げて見せると、男は穏やかな笑みをさっと曇らせ足早に近づいてきた。
僅かに身を引く黒鋼の手首に、白く細い指が絡みつく。冷たい手だった。
「これは酷いですね……。どうぞ、そちらへ」
「悪い」
すぐ側にあった簡易のベッドへ適当に腰を下ろすと、スーツの男は薬品棚から透明なケースの救急箱を手にして戻ってきた。
その動作を、まるで羽根のように軽い身のこなしの男だと感じながら眺める。彼はまるで重力を感じさせない。
腰掛ける黒鋼の正面に片膝をつき、改めて左手に両手が添えられる。やはり、氷のように冷たい手だった。それに対して、どうにも不可思議な違和感を覚えて仕方が無い。
男が傍らに置いた箱の中から消毒液とピンセット、そして綿球を取り出す。
「ちょっと染みますよ」
突き刺すような刺激臭と、吹きかけられた冷たい液に僅かな痛みを覚え、不覚にも顔を顰めた黒鋼に、彼は顔を上げてふわりと笑った。
「大丈夫」
そう年齢に開きはないであろう同性に、まるで幼い子供を相手にするかのような物言いをされて、黒鋼はむず痒さに思わず眉間の皺を深くした。
そして今更のように、彼が酷く整った顔立ちをしていることに気がついてドキリとする。
再び処置に集中する男から一瞬は目を逸らし、そしてすぐに見下ろす。
金色の髪はサラサラと艶があり、その前髪の隙間から覗く長い睫毛もまた、同じ色をしてクルリとカールしていた。
雪のように白い肌、華奢な身体に長い手足。それを包み隠すスーツは、彼が纏うとなぜかやはり夜の気配を感じさせて、ここが学校の保健室だということを忘れてしまいそうになる。
綺麗な男だ。
男を相手に用いる表現ではないのかもしれないが、素直にそう思った。
そして同時に、どこか懐かしさも感じる。厳密に言えば懐かしさというよりも、妙な既視感と言った方が正しいかもしれない。
だが黒鋼の記憶の中に、こんな浮世離れした人間は一人もいない。
どうにも据わりの悪い、奇妙な感覚を覚える。それを掻き消すように咄嗟に当たり障りない話題を振っていた。無口な黒鋼にしては、極めて珍しいことだった。
「あんた、もしかして新しい先生か」
「ああ、すみません。ご挨拶がまだでしたよね」
大きなサイズの絆創膏をペタリと張り終わった直後の彼は、顔を上げると申し訳無さそうに苦笑した。
「ファイです。ファイ・フローライト。今日からここに常駐させていただくことになった保健医です」
相変わらず片膝をついたままのファイに見上げられて、やはり落ち着かない気持ちになる。
新しく養護教諭が来ることはあらかじめ知っていた。だが黒鋼はそれが男性であることは、まるで予想していなかった。
それまでの保健室の主はといえば、緩やかな長い黒髪と柔らかな笑顔が美しい、主に男子生徒から絶大な人気を誇る女性教諭だったのだ。
そんな彼女は、この度出産と育児とを兼ねた一年間の休暇を取っている。初めての出産だから不安なことばかりなんですよと、最後に会った時に彼女はそれでも幸せそうに笑っていた。
目の前の金髪の男は、その間の繋ぎとしてここへ来たのだろう。
比較的最近では男性もこの職に就くことが増えたと知識として知っていたものの、実際にお目にかかるのは初めてだった。
「珍しいな。俺は」
「黒鋼先生、ですよね?」
片眉をひょいと上げた黒鋼に、新しい養護教諭は白くしなやかな指先を口元にやってクスクスと笑った。どこかドラマ染みた動作だと、漠然と感じた。
「黒いジャージの目つきの悪い先生のお話は、前もって聞いていたものですから」
一体どいつが吹き込んだのやら、目付きの悪さは生まれ付きであるから仕方がないとして、それでもどこか癪に障る。
舌打ちをすると、彼は申し訳なさそうに、けれどやはり笑っていた。
「ごめんなさい。でも、ボクはそう聞いただけですから」
「気にしちゃいねぇよ」
「猫ちゃん、お好きなんですか?」
思わずギクリとする。普段そっけない猫が擦り寄ってきたことに気を良くした結果がこれとは、口が裂けても言えない。
「別に。そんなんじゃねぇよ」
「お大事になさってくださいね」
内心バツの悪さを感じている黒鋼に、ファイは小さく首を傾げるようにして綺麗に微笑んでいた。
その笑顔にすら、得体の知れない違和感を覚えてしまったのはなぜだろうか。
青い瞳に全てが見透かされているようで、面白くなかった。
一見して感じのいい好青年には見えたが、どうも居心地の悪さを感じた。
端的に言えば、この男とはおそらく馬が合わないだろうと思ったのだ。それはあくまでも漠然としたものではあったけれど。
彼からは、人間臭さを感じない。容姿も振る舞いもその言葉一つ一つさえも、全てが作り物の人形染みた印象だった。
ごく自然な動作、表情の動き。全てがあらかじめ緻密に書き込まれた台本でも存在するかのように。
にこやかで優しく、温和なファイが生徒達から慕われるようになるのに時間はかからなかった。
彼の完璧さは常に恐ろしいまでの安定性を誇り、神聖視さえされるほどに。
だが黒鋼はあの出会い以来、彼を極端に避けた。
見るたびに落ち着かず、苛々とした気にさせられる。心を乱されるような感覚さえ覚えた。なぜそんな風に思うのかは分からない。
優れた容姿に完璧に貼り付けられた微笑。愛され親しまれるためだけに存在しているような彼の存在に。酷く、ぶ厚い『壁』を感じたような気がした。
ファイ・フローライトという男に感じた違和感の正体は、まさにそれだった。
だから絶対に、深く関わり合うことはないだろうと。
そう思っていたのに。
***
登り慣れた階段をゆったりと上がる。
校舎四階北側の階段。立ち入り禁止の屋上へと続くそこを利用する人間はいない。いつからか鍵の壊れた扉の先は、黒鋼だけのお気に入りの場所だった。
けれど今では、違う。
「またサボり? 悪い先生だねぇ」
晴天の空の下。
錆びたフェンスに背を預け、腕を組みながら煙草の煙を燻らせる男。金色の髪と白衣が、五月の新緑の香りを乗せた風に靡く。
黒鋼はチッと舌打ちをすると自らも箱を取り出し、中身を一本咥えて火をつけた。
それは先刻、校舎裏で隠れるようにして吸っていた男子生徒から、ライターごと取り上げたものだった。次はない、と告げたときの生徒は、真っ青な顔をして全身を震わせていた。
黒鋼はメンソールを好まない。そもそも煙草というもの自体、日頃滅多なことでは嗜まない。
吸い込んだ途端、鼻へと抜けてゆくヒヤリとした嫌な感覚に大きく溜息がてら煙を吐き出す。
「てめぇに言われちゃ俺も仕舞いだ」
「それもそっか」
ファイ・フローライトは瞳を細め、不敵に口元を歪めて見せた。
←戻る ・ 次へ→
金色の髪と、純白の白衣の裾が、風に吹かれて舞い踊る。
今にも澄んだ青空の中に融けてしまいそうな気がして、黒鋼は引き寄せられるようにして手を伸ばした。
けれど錆付いたフェンスは、彼に触れることさえも許してはくれない。
「オレもずっと考えていた…」
雨上がりのコンクリートの臭い。空を写す水溜り。
足元に転がる幾つかの煙草の吸殻は、虫の死骸にも似ていて。
「あの石は、もうない。それでもオレがオレでいられたら……言うよ。本当の気持ち」
だからお願い。
彼はそう言って笑った。
「答え合わせがしたいんだ」
ギターの弦を爪先で弾くような振動に似た、空気の震え。
『彼』は、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「見てて」
両手を広げ、穏やかに微笑みながら。
ファイは、飛んだ。
***
そろそろ昼休みも終わろうかという、午後の職員室。
授業中の居眠りや悪ふざけをたっぷりと搾られている生徒や、単に遊びに来ている生徒、次の授業の準備に勤しむ教師もいれば、雑談に興じる教師達もいる。
形ばかりの自分のデスクに向かい、若い女性教諭が気を利かせて淹れてくれた茶をまったりと啜っていた黒鋼は、出入り口付近に白衣がちらつくのを視界に留めると、密かに顔を顰めた。
この高校にまともに白衣を着ている教師はいない。体育教師である黒鋼にとっては、そんなものはますます縁がない。となれば、あんなものを纏っている人間は一人しかいなかった。
淡い金色の髪が、ふわりふわりと揺れている。ほっそりとした身体の線はスラリと伸びていて、今は白衣に隠されたそれがどれほど頼りないシルエットであるかを、黒鋼は知っていた。
彼は女子生徒に囲まれて談笑しているようだった。頬を赤らめた少女達が、彼が何かを言うたび、そしてやんわりと微笑む度に色めきだってはしゃぐのが分かった。
(相変わらず胡散臭ぇ野郎だ)
黒鋼は、神経の糸をジリジリと炙られるかのような苛立ちを持て余した。あの白衣の男が微笑むのを見ていると、大体いつもこうだった。
「相変わらずモテモテねぇ。ファイ先生は」
「あっという間に大人気ですものね~」
熟年の女性教諭と、黒鋼に茶を淹れてくれた若い女性教諭の会話がすぐ側で聞こえる。
「あの甘いマスクですもん。私の学生時代には絶対いませんでしたよ」
「確かに男前ねぇ。モデルさんや芸能人でもやってる方が、お似合いなんじゃないかしら」
「あ、それ言えてますね~!」
嫌でも耳に入ってくる彼女たちの会話にも、十分にミーハー色が入り混じっている気がする。あの男を囲んで頬を赤らめている少女達と、なんら変わりないように思えた。
熟年教師の方は、生徒達に限らず若い教師達にさえ恐れられる厳格な女性だが、心なしか声が艶っぽく上ずって聞こえるのは気のせいだと思いたい。
けれど先輩後輩の枠を超えて、ベテランと新人は共通の話題によって打ち解けているようだった。
「知ってます? ファイ先生って女子生徒たちの間で王子様って呼ばれてるんですって」
それは、「くだらねぇな」と内心で吐き捨てて席を立とうとした黒鋼に、最後のトドメとばかりに届いた言葉だった。
「いやぁね」なんて言いながら、なぜか我がことのようにまんざらでもない女性教諭たちの笑い声に背を向ける。
見れば、白衣の男はもういない。
ますます馬鹿馬鹿しくて、黒鋼は悟られぬ程度に鼻で笑った。
王子様とはとことん笑わせてくれる。あの完璧すぎるほどの笑顔や、洗練された上品な身のこなし、決して崩れることのない丁寧な言葉遣い。
女性に限らず、この学校で彼を悪く言うものはいないし、同様に悪い印象を抱いているものも一人もいない。
――ねぇ先生。
ただ一人、黒鋼を除いては。
――遊ぼうよ。
なぜなら、黒鋼は知っているからだった。
――ゲームだとでも思えばいいんじゃない?
彼のもう一つの顔とも呼べる一面を。
*
冬休み明け、始業式の朝だった。
新学期初日だというのに外は雨で、黒鋼の機嫌はハッキリ言って最悪だった。
見上げれば鉛色のどんよりとした雲。世界が凍りつくほどの冷え込みの中、なぜ空から落ちてくるのが雪ではないのだろう。
雨の音が落ち着くという人間もいる。だが黒鋼にはそんな奴の気が知れない。
こんな日は、ただ思い出したくないことばかりを思い出させるだけだった。容赦なく叩きつけるくせに、雨は何一つ洗い流してなどくれない。その冷たさが、軽薄さが、不愉快で忌々しかった。
風に軌道を乱されて、時折横殴りになるそれが傘を差していても上着の肩を濡らす。職場である高校と黒鋼の住いはそう遠くはなのだから、いっそ一気に走り抜けてしまおうかと思った、そのときだった。
「ミャー」
電柱の影から、見覚えのある野良猫が顔を出した。ふと足を止める。
「ミャーン」
甘えた声を出すその黒猫は目付きが悪く、金色の瞳をしている。アパートの二階から顔を出すと稀に姿を現す、ちょっとした顔馴染みだった。
「悪いな。今は持ち合わせがねぇんだよ」
今はまさに出勤途中であり、今から冷蔵庫の残りものを漁りに戻るわけにはいかない。
実際のところ、猫は特に好きというわけではない。だが雨に濡れたその姿を見て、黒鋼は少しだけ表情を和らげた。
動物には癒しの効果があるというが、どうやら自分にも効果があるらしい。
「ニャーゴ」
普段なら何にもありつけないと知ればそっけなく背を向けてしまう黒猫が、珍しく足元に擦り寄ってきた。この猫との付き合いはそれなりに長いが、接触は初めてのことだった。
珍しいこともあるものだと、思わず屈んで手を伸ばした。
だが、それが不味かった。
***
「お怪我でもされましたか?」
左手の甲にど派手な引っ掻き傷を三本作ってしまった黒鋼は、流石に放っておくのは不味いかと、無人の保健室に立ち寄った。
野良はどんな病気を持っているか分からない、というのは建前で、こんなあからさまな傷を生徒に見られれば、ヤツらは喜び勇んで弄り倒してくるに違いない。
そこで明りも灯さずに適当に棚を漁っていた黒鋼に声をかけたのは、見たことのない若いスーツの男性だった。
振り向いた黒鋼に、扉の脇のスイッチを押して明りをつけた男がやんわりと微笑んだ。
この場にあまりに不釣合いな空気を纏うその男に、黒鋼は僅かに面食らう。
一瞬、ここはどこのホストクラブかと本気で思った。(行ったことなどないが)
明りがついたことでクリアになった視界に嫌でも目立つ金髪は、どうやら地毛らしい。彼の淡く青い瞳がそれを強く主張していた。
「ああ、ちょっとな」
微妙な間が空いたのを誤魔化すようにして、短く答える。軽く左手を持ち上げて見せると、男は穏やかな笑みをさっと曇らせ足早に近づいてきた。
僅かに身を引く黒鋼の手首に、白く細い指が絡みつく。冷たい手だった。
「これは酷いですね……。どうぞ、そちらへ」
「悪い」
すぐ側にあった簡易のベッドへ適当に腰を下ろすと、スーツの男は薬品棚から透明なケースの救急箱を手にして戻ってきた。
その動作を、まるで羽根のように軽い身のこなしの男だと感じながら眺める。彼はまるで重力を感じさせない。
腰掛ける黒鋼の正面に片膝をつき、改めて左手に両手が添えられる。やはり、氷のように冷たい手だった。それに対して、どうにも不可思議な違和感を覚えて仕方が無い。
男が傍らに置いた箱の中から消毒液とピンセット、そして綿球を取り出す。
「ちょっと染みますよ」
突き刺すような刺激臭と、吹きかけられた冷たい液に僅かな痛みを覚え、不覚にも顔を顰めた黒鋼に、彼は顔を上げてふわりと笑った。
「大丈夫」
そう年齢に開きはないであろう同性に、まるで幼い子供を相手にするかのような物言いをされて、黒鋼はむず痒さに思わず眉間の皺を深くした。
そして今更のように、彼が酷く整った顔立ちをしていることに気がついてドキリとする。
再び処置に集中する男から一瞬は目を逸らし、そしてすぐに見下ろす。
金色の髪はサラサラと艶があり、その前髪の隙間から覗く長い睫毛もまた、同じ色をしてクルリとカールしていた。
雪のように白い肌、華奢な身体に長い手足。それを包み隠すスーツは、彼が纏うとなぜかやはり夜の気配を感じさせて、ここが学校の保健室だということを忘れてしまいそうになる。
綺麗な男だ。
男を相手に用いる表現ではないのかもしれないが、素直にそう思った。
そして同時に、どこか懐かしさも感じる。厳密に言えば懐かしさというよりも、妙な既視感と言った方が正しいかもしれない。
だが黒鋼の記憶の中に、こんな浮世離れした人間は一人もいない。
どうにも据わりの悪い、奇妙な感覚を覚える。それを掻き消すように咄嗟に当たり障りない話題を振っていた。無口な黒鋼にしては、極めて珍しいことだった。
「あんた、もしかして新しい先生か」
「ああ、すみません。ご挨拶がまだでしたよね」
大きなサイズの絆創膏をペタリと張り終わった直後の彼は、顔を上げると申し訳無さそうに苦笑した。
「ファイです。ファイ・フローライト。今日からここに常駐させていただくことになった保健医です」
相変わらず片膝をついたままのファイに見上げられて、やはり落ち着かない気持ちになる。
新しく養護教諭が来ることはあらかじめ知っていた。だが黒鋼はそれが男性であることは、まるで予想していなかった。
それまでの保健室の主はといえば、緩やかな長い黒髪と柔らかな笑顔が美しい、主に男子生徒から絶大な人気を誇る女性教諭だったのだ。
そんな彼女は、この度出産と育児とを兼ねた一年間の休暇を取っている。初めての出産だから不安なことばかりなんですよと、最後に会った時に彼女はそれでも幸せそうに笑っていた。
目の前の金髪の男は、その間の繋ぎとしてここへ来たのだろう。
比較的最近では男性もこの職に就くことが増えたと知識として知っていたものの、実際にお目にかかるのは初めてだった。
「珍しいな。俺は」
「黒鋼先生、ですよね?」
片眉をひょいと上げた黒鋼に、新しい養護教諭は白くしなやかな指先を口元にやってクスクスと笑った。どこかドラマ染みた動作だと、漠然と感じた。
「黒いジャージの目つきの悪い先生のお話は、前もって聞いていたものですから」
一体どいつが吹き込んだのやら、目付きの悪さは生まれ付きであるから仕方がないとして、それでもどこか癪に障る。
舌打ちをすると、彼は申し訳なさそうに、けれどやはり笑っていた。
「ごめんなさい。でも、ボクはそう聞いただけですから」
「気にしちゃいねぇよ」
「猫ちゃん、お好きなんですか?」
思わずギクリとする。普段そっけない猫が擦り寄ってきたことに気を良くした結果がこれとは、口が裂けても言えない。
「別に。そんなんじゃねぇよ」
「お大事になさってくださいね」
内心バツの悪さを感じている黒鋼に、ファイは小さく首を傾げるようにして綺麗に微笑んでいた。
その笑顔にすら、得体の知れない違和感を覚えてしまったのはなぜだろうか。
青い瞳に全てが見透かされているようで、面白くなかった。
一見して感じのいい好青年には見えたが、どうも居心地の悪さを感じた。
端的に言えば、この男とはおそらく馬が合わないだろうと思ったのだ。それはあくまでも漠然としたものではあったけれど。
彼からは、人間臭さを感じない。容姿も振る舞いもその言葉一つ一つさえも、全てが作り物の人形染みた印象だった。
ごく自然な動作、表情の動き。全てがあらかじめ緻密に書き込まれた台本でも存在するかのように。
にこやかで優しく、温和なファイが生徒達から慕われるようになるのに時間はかからなかった。
彼の完璧さは常に恐ろしいまでの安定性を誇り、神聖視さえされるほどに。
だが黒鋼はあの出会い以来、彼を極端に避けた。
見るたびに落ち着かず、苛々とした気にさせられる。心を乱されるような感覚さえ覚えた。なぜそんな風に思うのかは分からない。
優れた容姿に完璧に貼り付けられた微笑。愛され親しまれるためだけに存在しているような彼の存在に。酷く、ぶ厚い『壁』を感じたような気がした。
ファイ・フローライトという男に感じた違和感の正体は、まさにそれだった。
だから絶対に、深く関わり合うことはないだろうと。
そう思っていたのに。
***
登り慣れた階段をゆったりと上がる。
校舎四階北側の階段。立ち入り禁止の屋上へと続くそこを利用する人間はいない。いつからか鍵の壊れた扉の先は、黒鋼だけのお気に入りの場所だった。
けれど今では、違う。
「またサボり? 悪い先生だねぇ」
晴天の空の下。
錆びたフェンスに背を預け、腕を組みながら煙草の煙を燻らせる男。金色の髪と白衣が、五月の新緑の香りを乗せた風に靡く。
黒鋼はチッと舌打ちをすると自らも箱を取り出し、中身を一本咥えて火をつけた。
それは先刻、校舎裏で隠れるようにして吸っていた男子生徒から、ライターごと取り上げたものだった。次はない、と告げたときの生徒は、真っ青な顔をして全身を震わせていた。
黒鋼はメンソールを好まない。そもそも煙草というもの自体、日頃滅多なことでは嗜まない。
吸い込んだ途端、鼻へと抜けてゆくヒヤリとした嫌な感覚に大きく溜息がてら煙を吐き出す。
「てめぇに言われちゃ俺も仕舞いだ」
「それもそっか」
ファイ・フローライトは瞳を細め、不敵に口元を歪めて見せた。
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※承太郎視点
「花京院くん、凄い顔色よ!」
女の大きな声がして、承太郎の意識は一気に浮上した。
(なんだ、うるせえな)
保健室に人の気配がないのをいいことに、勝手に入り込んで気持ちよく寝ていたというのに。
いつの間にかここの主が戻り、しかも客まで来たとみえる。
承太郎はベッドに寝そべったまま声のする方へ目を向けた。
しっかりと四方をカーテンで囲まれているようでいて、僅かに隙間が空いている。そこからちょうど、赤い髪をした男子生徒の背中が見えた。
「すみません、少し休ませてもらえますか。昼休みの間だけでいいので」
「もちろんよ。その前に、熱を測りましょう」
「いえ、いいです。いつものことですし、少し横になれば……」
「だぁめ! ほら見なさい! 熱っぽい!」
「うわちょっと、先生……ッ」
承太郎の方からは男子生徒の背中以外、二人の様子はほとんど見えない。
だが察するに、女医の手が彼の額に触れたらしい。その白いワイシャツに包まれた背中が僅かに後方に傾き、肩をびくつかせるのが見えた。
(ふん。なるほどな)
その様子を見て、承太郎は微かに笑う。
男子生徒の顔までは分からないものの、その耳が赤く染まっているのがしっかりと見えた。大人しそうな印象を受ける彼の動きと一緒に、赤いピアスが揺れているのを少し意外に感じる。
まるでさくらんぼのような形のそれがキラキラと光り輝くのがやけに眩しくて、承太郎は猫のように目を細めた。もしかして、女物だろうか。
それにしても、なんとも甘酸っぱい光景である。
承太郎は微かに鼻を鳴らすと、もう一眠りするかと目を閉じた。
今が昼休みということは、迂闊に廊下に出れば煩い女共と遭遇する可能性があるということだ。
出ていくなら、授業が始まるギリギリの頃合いがいいだろう。
しばらくすると、室内が静寂で満たされた。
ポケットから時計を取り出し、時刻を確認すると、ちょうど午後の授業が始まる5分ほど前だった。
承太郎はのっしりと起き上がり、欠伸を噛み殺すと立ち上がる。午後くらいは真面目に授業に出るかとカーテンを開ければ、そこに女医の姿はなかった。
代わりに、隣のベッドに人が横たわっているのが、風に揺らめくカーテンの隙間から窺い知れた。耳を澄ませば、微かな寝息が聞こえてくる。
承太郎にとってそれはほんの些細な、気紛れだった。
一歩一歩、隣のベッドへ近づくと、ひらひらとはためくカーテンをそっと開ける。
女物のピアスを恥ずかしげもなくぶら下げる男のツラがどんなものかを、なんとなく見てやろうと思ったからだ。
そしてその寝顔を見た瞬間、息をのむ。
「ッ……!」
時間が止まったような気がした。
胸を掴まれるという感覚は、こういうことを言うのかもしれない。
幼さの残る寝顔は無防備そのもので、時おり微かに長い睫毛がぴくりと動く。うっすらと開かれた少し大きめの唇は、自宅の庭に毎年咲く桜の花弁と同じく、薄紅色をしていた。決して女顔というわけではないのに、両耳の赤いピアスが不思議とよく似合っている。そのどこか危ういバランスに、胸の奥がちりちりと疼くのを感じた。
規則正しく胸を上下させる寝姿に釘づけになりながら、承太郎は漠然と思う。
(こいつだ)
と。
そこに理屈は存在しなかった。
ただどうしてか確信めいたいものがあった。
多分、この無防備な寝顔をさらす少年は、一生涯この自分の傍にいるだろうと。
決して目には見えないはずの糸が、そこに見えた気がして。
恋と呼ぶには漠然としていて、なのに最初から少しばかり重たい感情だった。だけどなぜかしっくりと胸に溶け込む。
こいつは、おれのものだと。
承太郎は足音を立てぬよう、静かにベッドサイドへと歩みを進めた。両手はポケットに突っこんだまま身を屈め、薄く開く唇にそっと口付ける。柔らかな感触は、仄かに熱をはらんでいた。
「てめーはおれがもらったぜ。花京院」
女医は、確かそう呼んでいた。
おそらく苗字だろうが、花のように色づく唇をもつ彼に、よく似合っている。
承太郎は歯止めがきかなくなる前にと、姿勢を正してベッドから離れた。眠る花京院を閉じ込めるようにカーテンをしっかりと引き、保健室を出て行こうとする。
だが、そこに主が戻って来た。
「あら寝ぼすけさん、やっとお目覚め?」
女医だ。
当たり前といえばそうだろうが、彼女は承太郎が勝手にベッドを使って寝ていたことに気がついていたようだ。
うふふと楽しそうに笑う表情は確かに大人の女のそれで、男子生徒の一人や二人、ふらりと恋に落ちてもおかしくはない。それが花京院でさえなければ、いっさい気にも留めないのだが。
(この女、邪魔だな)
そう感じた瞬間には、承太郎は彼女に向かってうっすらと笑いかけていた。
女医の白衣に包まれた華奢な肩が、微かに揺れた。白い頬に一瞬にして紅色がのぼるのを確かめてから、承太郎は女医に向かって足を進める。
先刻までの笑顔はどこへやら、女医は惚けたように唇をぽかりと開けて、承太郎の表情に見入っている。
ああ、なんて簡単なことだろう。少し微笑みかけて見せるだけで、女はただの雌になる。
「どうも身体が火照って仕方ねえ」
腕を伸ばして、その肩を抱いた。顎に指先を添えて上向かせると、熱に浮かされたように潤む瞳を覗き込む。
「熱、はかってみちゃくれねえか。なぁ、先生?」
*
「ッ……!」
食いちぎられそうなほど強い締め付けから自身を引き抜いて、承太郎は短く息を詰める。
背後から貫かれていた花京院は、糸が切れたようにくったりと横倒しになった。
我ながら性急すぎたかと、そのまま動かなくなった身体を見て思う。けれど、後悔はなかった。
挿れただけで酷く泣きじゃくる花京院は、まさしく哀れとしか言いようがなかった。だが、彼を犯したことにこの上ない安堵と幸福感を覚えたことも事実で、自身の快楽を満たすことなど二の次に思えた。
ただ受け入れさせたまま前を扱いてやると、花京院は甘ったるい声をあげて達した。びくびくとのたうつ身体を腕の中に閉じ込める感覚は、承太郎にえもいわれぬ喜びを与えてくれた。
多分、身体の相性は悪くない。男を抱いたのは初めてだが、真面目そうな顔をして、花京院の身体は酷く快感に従順であることもわかった。
「堪らねえな」
挿入しただけで終わった自身は、いまだ激しく脈打ったままだ。
花京院の声やその反応を思い返すだけで、再び突き入れて今度は思うが儘に貪り尽したいという欲が生まれる。
承太郎は、花京院が放った白濁を勃起したままの自身に塗りたくる。そしてそれを、横倒しになってぴったりと閉じられている太腿にぬるりと差し込んだ。
汗ばむ内腿にはほどよく筋肉がついている。女のように包み込むような柔らかみはないが、傷一つない花京院の白い肉を犯しているのだと思うと、血管が破裂しそうなほどの興奮と快感が競り上がる。
承太郎が腰を打ち付けると、力なくベッドに伏せる花京院の身体もかくんかくんと上下に揺れ動いた。勿論、ピアスも踊る。
「ッ、かきょう、いん……ッ」
名前を呼ぶと、花京院の肩がぴくりと跳ねた。
そのまま幾度か内腿の隙間に擦りつけてから、達する瞬間に引き抜く。勢いよく噴き出す白濁で花京院の尻を汚し、さらに先端を擦りつけると大きく息を吐き出した。
その後、手早く花京院の身体を清めて、衣服やベッドの乱れをある程度整えてやった。花京院は死んだように深く眠り込んでいたが、赤く染まったままの頬や目元が愛しくて、汗を含んだ赤い髪を優しく撫でる。
指先から伝わる熱が甘ったるくて仕方がなかった。これが恋ってやつなのか、なんて、柄じゃないようなことを思うと少し照れ臭かったが、なかなか悪くない。
「明日も来いよ。とりあえず、ここで昼寝でもして待ってるぜ」
そう言うと、花京院がうっすらと目を開けた。
まだ半分以上は夢の中にいるようで、焦点の合わないとろんとした瞳を見て承太郎は微かに笑った。
「またな、花京院」
前髪を手の平でそっと押し上げながら、その額にキスをした。花京院は長い睫毛を震わせながら再び目を閉じ、小さく頷く。
色づく唇がうっすらと笑みの形を浮かべているのを見つめながら、承太郎は明日からの学校生活に胸を膨らませる。それからふと、自分の指先に視線を落とす。
(爪、切るか)
花京院の二の腕を傷つけた指先には、僅かに血がこびりついていた。階段で今にも崩れ落ちそうになっていた花京院を見つけたのは偶然だったが、咄嗟のこととはいえ力加減を誤ったことを後悔する。
そういえば抱き上げた花京院の身体は見た目に反していやに軽く、それなりに出来上がっているようでいて、実は未熟であることが即座に分かった。とりわけ、腰の細さには驚かされた。
承太郎は腕を組み、真剣な面持ちで深く頷く。
「飯だな、飯」
明日からは二人分の弁当を母に頼もう。毎日せっせと美味い飯を食わせてやったら、この花京院はどうなっていくだろう。あどけなさの残る頬が丸みを帯びてこようものなら、さぞかし可愛いに違いない。今でも申し分ないくらい、可愛いが。
こうして花京院のことばかり考えているだけでこんなにも胸が踊るというのに、これから毎日彼を側に置く生活はどれほど幸せなものになるのだろうか。
承太郎は身を屈め、花京院のひと房だけ長い前髪を掬い上げるとキスをする。
「愛してるぜ、花京院」
深く深く眠り込む花京院に承太郎の気持ちが伝わるのは、まだ当分、先のことになるのだけれど。
←戻る ・ Wavebox👏
「花京院くん、凄い顔色よ!」
女の大きな声がして、承太郎の意識は一気に浮上した。
(なんだ、うるせえな)
保健室に人の気配がないのをいいことに、勝手に入り込んで気持ちよく寝ていたというのに。
いつの間にかここの主が戻り、しかも客まで来たとみえる。
承太郎はベッドに寝そべったまま声のする方へ目を向けた。
しっかりと四方をカーテンで囲まれているようでいて、僅かに隙間が空いている。そこからちょうど、赤い髪をした男子生徒の背中が見えた。
「すみません、少し休ませてもらえますか。昼休みの間だけでいいので」
「もちろんよ。その前に、熱を測りましょう」
「いえ、いいです。いつものことですし、少し横になれば……」
「だぁめ! ほら見なさい! 熱っぽい!」
「うわちょっと、先生……ッ」
承太郎の方からは男子生徒の背中以外、二人の様子はほとんど見えない。
だが察するに、女医の手が彼の額に触れたらしい。その白いワイシャツに包まれた背中が僅かに後方に傾き、肩をびくつかせるのが見えた。
(ふん。なるほどな)
その様子を見て、承太郎は微かに笑う。
男子生徒の顔までは分からないものの、その耳が赤く染まっているのがしっかりと見えた。大人しそうな印象を受ける彼の動きと一緒に、赤いピアスが揺れているのを少し意外に感じる。
まるでさくらんぼのような形のそれがキラキラと光り輝くのがやけに眩しくて、承太郎は猫のように目を細めた。もしかして、女物だろうか。
それにしても、なんとも甘酸っぱい光景である。
承太郎は微かに鼻を鳴らすと、もう一眠りするかと目を閉じた。
今が昼休みということは、迂闊に廊下に出れば煩い女共と遭遇する可能性があるということだ。
出ていくなら、授業が始まるギリギリの頃合いがいいだろう。
しばらくすると、室内が静寂で満たされた。
ポケットから時計を取り出し、時刻を確認すると、ちょうど午後の授業が始まる5分ほど前だった。
承太郎はのっしりと起き上がり、欠伸を噛み殺すと立ち上がる。午後くらいは真面目に授業に出るかとカーテンを開ければ、そこに女医の姿はなかった。
代わりに、隣のベッドに人が横たわっているのが、風に揺らめくカーテンの隙間から窺い知れた。耳を澄ませば、微かな寝息が聞こえてくる。
承太郎にとってそれはほんの些細な、気紛れだった。
一歩一歩、隣のベッドへ近づくと、ひらひらとはためくカーテンをそっと開ける。
女物のピアスを恥ずかしげもなくぶら下げる男のツラがどんなものかを、なんとなく見てやろうと思ったからだ。
そしてその寝顔を見た瞬間、息をのむ。
「ッ……!」
時間が止まったような気がした。
胸を掴まれるという感覚は、こういうことを言うのかもしれない。
幼さの残る寝顔は無防備そのもので、時おり微かに長い睫毛がぴくりと動く。うっすらと開かれた少し大きめの唇は、自宅の庭に毎年咲く桜の花弁と同じく、薄紅色をしていた。決して女顔というわけではないのに、両耳の赤いピアスが不思議とよく似合っている。そのどこか危ういバランスに、胸の奥がちりちりと疼くのを感じた。
規則正しく胸を上下させる寝姿に釘づけになりながら、承太郎は漠然と思う。
(こいつだ)
と。
そこに理屈は存在しなかった。
ただどうしてか確信めいたいものがあった。
多分、この無防備な寝顔をさらす少年は、一生涯この自分の傍にいるだろうと。
決して目には見えないはずの糸が、そこに見えた気がして。
恋と呼ぶには漠然としていて、なのに最初から少しばかり重たい感情だった。だけどなぜかしっくりと胸に溶け込む。
こいつは、おれのものだと。
承太郎は足音を立てぬよう、静かにベッドサイドへと歩みを進めた。両手はポケットに突っこんだまま身を屈め、薄く開く唇にそっと口付ける。柔らかな感触は、仄かに熱をはらんでいた。
「てめーはおれがもらったぜ。花京院」
女医は、確かそう呼んでいた。
おそらく苗字だろうが、花のように色づく唇をもつ彼に、よく似合っている。
承太郎は歯止めがきかなくなる前にと、姿勢を正してベッドから離れた。眠る花京院を閉じ込めるようにカーテンをしっかりと引き、保健室を出て行こうとする。
だが、そこに主が戻って来た。
「あら寝ぼすけさん、やっとお目覚め?」
女医だ。
当たり前といえばそうだろうが、彼女は承太郎が勝手にベッドを使って寝ていたことに気がついていたようだ。
うふふと楽しそうに笑う表情は確かに大人の女のそれで、男子生徒の一人や二人、ふらりと恋に落ちてもおかしくはない。それが花京院でさえなければ、いっさい気にも留めないのだが。
(この女、邪魔だな)
そう感じた瞬間には、承太郎は彼女に向かってうっすらと笑いかけていた。
女医の白衣に包まれた華奢な肩が、微かに揺れた。白い頬に一瞬にして紅色がのぼるのを確かめてから、承太郎は女医に向かって足を進める。
先刻までの笑顔はどこへやら、女医は惚けたように唇をぽかりと開けて、承太郎の表情に見入っている。
ああ、なんて簡単なことだろう。少し微笑みかけて見せるだけで、女はただの雌になる。
「どうも身体が火照って仕方ねえ」
腕を伸ばして、その肩を抱いた。顎に指先を添えて上向かせると、熱に浮かされたように潤む瞳を覗き込む。
「熱、はかってみちゃくれねえか。なぁ、先生?」
*
「ッ……!」
食いちぎられそうなほど強い締め付けから自身を引き抜いて、承太郎は短く息を詰める。
背後から貫かれていた花京院は、糸が切れたようにくったりと横倒しになった。
我ながら性急すぎたかと、そのまま動かなくなった身体を見て思う。けれど、後悔はなかった。
挿れただけで酷く泣きじゃくる花京院は、まさしく哀れとしか言いようがなかった。だが、彼を犯したことにこの上ない安堵と幸福感を覚えたことも事実で、自身の快楽を満たすことなど二の次に思えた。
ただ受け入れさせたまま前を扱いてやると、花京院は甘ったるい声をあげて達した。びくびくとのたうつ身体を腕の中に閉じ込める感覚は、承太郎にえもいわれぬ喜びを与えてくれた。
多分、身体の相性は悪くない。男を抱いたのは初めてだが、真面目そうな顔をして、花京院の身体は酷く快感に従順であることもわかった。
「堪らねえな」
挿入しただけで終わった自身は、いまだ激しく脈打ったままだ。
花京院の声やその反応を思い返すだけで、再び突き入れて今度は思うが儘に貪り尽したいという欲が生まれる。
承太郎は、花京院が放った白濁を勃起したままの自身に塗りたくる。そしてそれを、横倒しになってぴったりと閉じられている太腿にぬるりと差し込んだ。
汗ばむ内腿にはほどよく筋肉がついている。女のように包み込むような柔らかみはないが、傷一つない花京院の白い肉を犯しているのだと思うと、血管が破裂しそうなほどの興奮と快感が競り上がる。
承太郎が腰を打ち付けると、力なくベッドに伏せる花京院の身体もかくんかくんと上下に揺れ動いた。勿論、ピアスも踊る。
「ッ、かきょう、いん……ッ」
名前を呼ぶと、花京院の肩がぴくりと跳ねた。
そのまま幾度か内腿の隙間に擦りつけてから、達する瞬間に引き抜く。勢いよく噴き出す白濁で花京院の尻を汚し、さらに先端を擦りつけると大きく息を吐き出した。
その後、手早く花京院の身体を清めて、衣服やベッドの乱れをある程度整えてやった。花京院は死んだように深く眠り込んでいたが、赤く染まったままの頬や目元が愛しくて、汗を含んだ赤い髪を優しく撫でる。
指先から伝わる熱が甘ったるくて仕方がなかった。これが恋ってやつなのか、なんて、柄じゃないようなことを思うと少し照れ臭かったが、なかなか悪くない。
「明日も来いよ。とりあえず、ここで昼寝でもして待ってるぜ」
そう言うと、花京院がうっすらと目を開けた。
まだ半分以上は夢の中にいるようで、焦点の合わないとろんとした瞳を見て承太郎は微かに笑った。
「またな、花京院」
前髪を手の平でそっと押し上げながら、その額にキスをした。花京院は長い睫毛を震わせながら再び目を閉じ、小さく頷く。
色づく唇がうっすらと笑みの形を浮かべているのを見つめながら、承太郎は明日からの学校生活に胸を膨らませる。それからふと、自分の指先に視線を落とす。
(爪、切るか)
花京院の二の腕を傷つけた指先には、僅かに血がこびりついていた。階段で今にも崩れ落ちそうになっていた花京院を見つけたのは偶然だったが、咄嗟のこととはいえ力加減を誤ったことを後悔する。
そういえば抱き上げた花京院の身体は見た目に反していやに軽く、それなりに出来上がっているようでいて、実は未熟であることが即座に分かった。とりわけ、腰の細さには驚かされた。
承太郎は腕を組み、真剣な面持ちで深く頷く。
「飯だな、飯」
明日からは二人分の弁当を母に頼もう。毎日せっせと美味い飯を食わせてやったら、この花京院はどうなっていくだろう。あどけなさの残る頬が丸みを帯びてこようものなら、さぞかし可愛いに違いない。今でも申し分ないくらい、可愛いが。
こうして花京院のことばかり考えているだけでこんなにも胸が踊るというのに、これから毎日彼を側に置く生活はどれほど幸せなものになるのだろうか。
承太郎は身を屈め、花京院のひと房だけ長い前髪を掬い上げるとキスをする。
「愛してるぜ、花京院」
深く深く眠り込む花京院に承太郎の気持ちが伝わるのは、まだ当分、先のことになるのだけれど。
←戻る ・ Wavebox👏
そのあとの承太郎の甲斐甲斐しい世話の焼きようと言ったらなかった。
花京院が意識をすっ飛ばしている間に濡れタオルで手早く身体を清め、しっかりと衣服やシーツを整え、その間にふっと目を覚ました花京院が声を発そうとして噎せれば、口移しで水まで飲ませてくれる始末だった。
花京院が意識を失っていたのはものの十数分の間だったが、気づけば何事もなかったかのように、ただベッドの縁に腰かける承太郎の胸にもたれかかっているという有様である。
「あの、承太郎」
「ん」
「そろそろ離してくれると……ありがたいのだが……」
承太郎は腕の中にいる花京院の頭部に顔を埋めて、一息ついている。まるでぬいぐるみか抱き枕にでもなったような気分だ。
いや、むしろこちらが大きなクマのぬいぐるみに抱き付かれている、と表現した方がしっくりくるだろうか。
とはいえ、ここはまだ学校の保健室だ。誰が来たっておかしくないような場所で、よくもまぁあれほど激しく抱き合ったものだと思うと、今更のように血の気が引くのを感じてしまう。
しかも、一体いまは何時だろうか。
気がつけば夕焼け色に包まれていた空間には、いくらか闇が混じり始めている。校庭から聞こえていた生徒たちの声は消え、夜の匂いを纏う風がカーテンを揺らしていた。
「じょ、承太郎ってば」
身じろぐ花京院を、承太郎はさらに強く抱きしめて「もう少し」と呟いた。
「やっと誤解も解けててめーと結ばれたんだ。もう少し浸らせろ」
「……言っておくが、誤解は完全に解けちゃあいないぞ」
この際あの女医を誘惑した理由については、複雑ではあるが信じよう。彼女に最後まで手を出していないという点も含めて。
だけどあのキスシーンに関しては、完全に納得したわけじゃない。別れの延長とかなんとか言っていた気がするが、最後にキスをしてさようなら、なんてファンタジーやメルヘンじゃあるまいし。
「なんだ、怒ってんのか」
「怒ってる、というか……見たくなかったな、と思って」
俯く花京院に、承太郎は珍しく気まずげな溜息を漏らした。
「てめーが納得しようがしまいが、おれは真実しか言えねえ」
「……うん」
「あんときゃあの女医に呼ばれて、妊娠やら結婚の話を聞いた。いわゆる別れ話ってやつだ。おれも女医が結婚してるなんざ知らなかったからな。ちょっぴり驚かされたぜ」
ファンタジーやメルヘンのような世界が、実際そこにはあったらしい。
承太郎に別れを切り出した女医は、最後に一度だけキスがしたいと涙ながらに縋ったという。それで全て忘れるからと。
その話を聞いて、花京院はただ複雑な心境を持て余すばかりだった。
彼女は承太郎に惑わされただけだ。彼の心が全く別のところにあるとも知らず、その気にさせられていたにすぎなかった。
だからこそ別れ話、というワードがあまりにも滑稽で、最後のキスに断腸の思いを込めた彼女を哀れに思う。
同時に、自分に嫌悪感が沸いた。
(承太郎よりもよほど、ぼくの方がずっと性格が悪い)
一度は憧れを抱いた女性を憐れみながら、花京院は安堵と喜びを同時に覚えていた。むしろ全ての女性に対しての優越感、かもしれない。
信じられないような話だけれど、あの空条承太郎がこうして腕に抱いているのが、他の誰でもないこの自分なのだということに。
花京院は承太郎の喉元に額を擦りよせ、自嘲的な笑みを浮かべる。すると承太郎の手が花京院の顎にかかり、そっと上向かされると同時に唇が重なった。
優しく幾度も繰り返されるキスはまるで許しを請うようで、何もかもどうでもよくなってしまうから、ずるいと思う。
思わずムッとした表情を浮かべる花京院を見て、承太郎は少し不貞腐れたように「なんだよ」と言った。
それが無性に可愛く見えてしまって、末期だなぁと自分に呆れる。
「そうやって、最初からちゃんと言ってくれたらよかったんだ」
気恥ずかしさから、つい口調が刺々しくなるのを止められない。
「大体な、君は言葉が足りないんだ。そのせいで、ぼくは君が男も女も関係なくたらしこむ、とんだ遊び人だと思い込んでいたよ」
「おれはシンプルに態度で示してたつもりだぜ」
「その遠回しに察しろオーラ出すのやめてくれるか」
「……遊びで野郎のケツなんざ掘れるかよ」
「そ、そういう言い方するなッ、いたた……」
大声を出しかけたせいで、腰に響いた。実のところ、さきほどからずっと腰が抜けたような違和感があって、あらぬ場所には鈍痛を覚えている。咄嗟に腰を押さえると、承太郎はいつもの「やれやれ」という口癖を放ちながら、花京院の耳たぶに口付けた。
「最初に目についたのはこの赤い髪と……ピアスだ」
「ピアス?」
「妙にキラキラして見えてよ。ようわからんが、ありゃ一目惚れってやつかもな」
言葉が足りないという文句を聞き入れたのか、小さな子供に寝物語でも聞かせるみたいに、承太郎は静かに語る。
「おまえを初めて見たのはまさにこの場所だぜ。てめーは気づいちゃいなかったろうがな」
その日は偶然ここを昼寝の場所に選んだ。ただそれだけだったのだと、承太郎は言った。花京院は保健室の常連だったから、それがいつのことだったのかは、ハッキリとは分からないけれど。
「一目見た瞬間、こいつだと直感した。見えない糸があるんだとしたら、おれとてめーは繋がってるってな。それこそ男も女も関係ねえ。そのときから、ずっとてめーだけを愛してる」
花京院は唇を噛み締めるばかりで、何一つ言葉を発することができなかった。
一目惚れとか、見えない糸とか。そんなことを恥ずかしげもなく言ってのけるものだから、こちらの方が恥ずかしくて仕方がなくなってしまう。
「これで足りたかよ。言葉」
「…………」
花京院はどうしたらいいのか分からなくて泳がせた目を、自分の肩を抱く承太郎の指先でふと止めた。相変わらず短く爪が切り揃えられているそこは、深く切りすぎて赤くなっている部分もある。
だから少し、泣きたくなった。
承太郎は優しかった。最初からずっと。
強引に奪いながらも、いつも花京院の身体を労わってくれていた。毎日のように巨大な弁当箱を引っさげて来たり、時間の許す限り今みたいに花京院をただ抱きしめていた。倒れればお姫様抱っこで保健室に運んだりもして。
(鈍いなぁ、ぼくは)
不器用なのか器用なのか。
承太郎はやっぱり分からないやつだ。だけど怖いくらい愛情深い男だということが今の花京院には分かるから、つい気が抜けたように溜息が漏れる。
「とりあえず、君が趣味の悪い男だってことは、よくわかったよ」
「言うじゃあねえか」
つい可愛げのないことを言ってしまったが、承太郎は楽しそうに肩を震わせて笑った。その振動が腕の中にいる花京院にも伝わって、それが少しくすぐったい。
彼の言う通り、こちらまでもう少し浸っていたいような気分になったが、どこまでいってもここは保健室である。
「承太郎、もうそろそろ帰ろう」
「待て花京院。おれにもひとつ聞かせろ」
「な、なに?」
「あの弁当はてめーの手作りか?」
「へ……?」
弁当、というのはもしや、花京院が承太郎に投げつけた、あの弁当のことか。
そういえばあれはどうしたのだろうかと思ってはいたが、わざわざ聞くのも間抜けな気がしてあえて話題に出さなかったのだが。
「いや、あれはその、作ったというか、なんというか……あれ、どうしたんだ?」
おずおずと上目使いで見上げると、承太郎はケロリとした表情で「食った」と言う。
「え!? 食べたのか!?」
「勿体ねーだろ。腐ってるわけでもあるまいし」
「だ、だって……中身ぐちゃぐちゃで酷い有様だったんじゃ……?」
「食っちまえば一緒だ。花京院、食い物は粗末にしちゃあいけねえぜ」
「そんなことは分かってる」
で、果たしてどうだったのだろうか。決して見栄えのよくない卵焼きの味は。それとも、中身が荒れすぎて味どころではなかっただろうか。
「で? どうなんだ? てめーが作ったのか?」
「しつこいな……それってそんなに重要なことか?」
「細かいことが気になると、夜も眠れねえタチなんでな」
「……卵焼きだけだよ」
なんだかバツが悪い。目を逸らしながら吐き捨てると、承太郎は満足げにニヤリと笑って「やっぱりな」と言う。
「どうりでやたらと甘かったわけだ」
甘いのは君の方だよと、憎まれ口を叩くみたいに言うつもりだった言葉は、承太郎の唇に吐息ごと、奪われてしまった。
*
「典明さん、今日はどうしたの? 長袖にはまだ早いのではないかしら」
朝、長袖の学生服をきっちりと着込んで台所に立つ息子を見て、母が目を丸くした。ボウルに落とした卵を溶いていた花京院は、そのもっともなツッコミにぎくりと肩を強張らせる。
「い、いやあの……今朝は少し、冷えるなあと。あはは」
「そうかしら?」
「そうですよ。夏風邪は性質が悪いですから」
「それもそうね。ああ、いけないわ。そんなに乱暴に溶かないで。もっと軽くでいいんですよ」
「あっ、あ、すみません!」
動揺が手先に現れてしまったらしい。平常心平常心と心の中で繰り返し、ふっと息を吐き出した。
花京院だって、真夏にこんな暑苦しい制服なんか着たくない。が、首筋まできっちり覆い隠さなければ、保健室での情事の痕が見えてしまう。花京院の肌の至るところには、承太郎の歯型や鬱血の痕が残っていた。
(どうしてくれるんだ承太郎……しばらく半袖シャツだけで歩けないじゃあないか……!)
心の中で、晴れて恋人同士になった男に文句を垂れる。とにかく今は、うまく誤魔化せたことだけが救いに思えた。
あまり時間もないことだし、今日は失敗せずに一発で玉子焼きを焼き上げたい。
味付けは、少し甘めで。色合いも大事にしたいから、醤油は薄口のもの。匙加減にはイマイチ自信がないが、まぁ、不味くはないだろう。
熱したフライパンを真剣な表情で睨み付け、油をひこうとする花京院を見て、隣で母が小さく笑う気配がした。
「なに? 母さん」
「いいえ。典明さん、男の子なのにそのピアスが本当によく似合っていると思って」
母はどこか眩しいものでも見るように、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスに目を細めた。
「あなたがお腹にいたころ、先生には女の子だって言われていたの」
「ぼくが?」
「ええ。だからお父さんと一緒に、女の子の名前まで考えていたのよ」
「生まれてみたら、男だったんですね」
もちろん嬉しかったわよと、そう言って笑う母は息子の目から見てもいまだ若々しく、可憐な少女のようにも見える。花京院のこの赤い髪は母親譲りのものだった。
「だからそのピアスは、あなたが女の子だったら渡すつもりでいたものなの」
「そうだったんですか」
「ええ。だけど男の子だったでしょう? それならあなたがお嫁さんをもらって、子供が生まれたとき、孫が女の子だったらプレゼントしようって」
その言葉に、花京院はふと手を止めて、思わず母の顔を見た。
「女の子が生まれるか分からないのに?」
「いいのよ。こうして楽しみにしていられることが嬉しいんだもの。だけどよかった。あなたは私にそっくりだから、本当によく似合っていますよ」
母が昔からこのピアスを大切にしていたことは知っている。けれどそんな風に考えていたことは、知らなかった。
(ずっと諦められているのだと思っていたから)
入退院を繰り返していた幼い頃、夜になると必ず身を寄せ合って泣いていた両親を思い出す。
それを見る度に、自分は存在しているだけで彼らを悲しませているのではないかと、胸を痛めていた。だけど、そうじゃなかった。
父も母も、ただ息子の未来だけを願い、恐れていただけだ。息子は今や母の背を超え、父と並ぶほど大きくなった。こうして花京院が生きる『今』を、あの頃の彼らはただ夢見ていただけだった。
違うのは、あの頃は失うことを恐れて泣きながら見ていた夢を、今はこうして笑顔で見ているということだろうか。
(ごめんなさい)
花京院は母からそっと目を逸らし、心の中で謝罪する。
きっと自分は、この先の未来に父と母が膨らませる夢を叶えてはやれない。花京院が愛したのは可愛い孫を産める女性ではなく、男性だからだ。
それでも不思議と後悔はなかった。承太郎を好きになったことを、決して悔やまない自信がある。なんの根拠もないけれど、多分、死ぬまで。
「ピアス」
「なぁに? 典明さん」
「ぼくが貰えてよかった。一生大事にするよ、母さん」
キラキラ光る、チェリーのような赤いピアス。
目に見えない糸のような繋がりを、見えないままに最愛と巡り合えない人間が、この世界にどれほどいるだろう。
これがあったから、承太郎が自分を見つけてくれたような、そんな気さえして。
はにかんだ笑顔を浮かべる息子を見て、母も微笑んだ。そして。
「典明さん」
「はい」
「フライパン、黒こげですね?」
「へ……? え? あッ! あぁ~ッ!?」
花京院は卵焼きが失敗する以前に、フライパンをひとつ、ダメにした。
*
(大失敗だ……)
学校へと向かう道中、花京院はがっくりと肩を落として溜息を漏らした。
幸い、フライパンは卵焼き専用のものだったため、通常の丸いフライパンを使用してなんとか作り上げることには成功した。
が、あまり見栄えはよろしくない。味に自信がないぶん、せめて見た目だけでも完璧を目指したというのに、とんだ失態である。
(承太郎なら食えりゃあなんでもいい、とか言いそうだけど)
それにしても。
花京院は丸くなっていた姿勢を正しながら、視線だけ辺りを見回す。
同じく学校へ行く生徒たちが多く見られる中で、どうも何かが突き刺さるのを感じてしまう。それは数多の視線だった。
中にはクラスメイトの顔もちらほら見える。男子は怖々といった様子で、女子は頬を染めるものや、ともすれば敵意ともとれるような鋭いものを向けてくる者もいた。
(なんだろう……厚着して歩いてるから、やっぱりおかしいのかな。今日も暑いし……)
とてつもない居心地の悪さを感じて、おのずと歩調が速くなる。朝から太陽が燦々と輝く空の下、長袖詰襟はやっぱり暑い。
かと言って脱ぎ捨てるわけにもいかないのだから、どうしようもなかった。
そんな中、前方に人だかりを発見してついドキリとした。
「あぁん! 今日も素敵……やっぱりJOJOは最高だわ!」
「ねぇJOJO~! 今日のお昼はわたしと一緒に食べましょ?」
「抜け駆けする気!? JOJO、こんな女よりわたしの方がいいわよね?」
(やれやれ、今日もモテモテだな、承太郎)
セーラー服を着た女子生徒たちをまとわりつかせ、ヌシヌシと歩く広い背中を見て、花京院は口元に手をやると小さく笑った。
学生鞄の他に、ちゃっかりあの巨大な弁当箱も持っているのを見て、なんだか嬉しくなる。
(一緒に登校とか……憧れなくもないけど、目立つのは嫌だしな)
本当は、堂々と隣を歩きたいような気持ちもあるけれど。
どうせ昼休みは二人きりだ。今日からまた一緒に昼食をとる約束をしているのだから、今くらいは彼女たちに譲ろう。
そう思った矢先、キャーキャーと騒ぎ続ける女子たちに、ついに承太郎の堪忍袋の緒が切れた。
「やかましいッ! 朝っぱらからうっとおしいぞッ!!」
そのよく響く怒声に、辺りは一瞬静まり返る。が、すぐにまた黄色い歓声があがりはじめ、なんの効果もないことが知れた。モテすぎるというのも大変だ。
承太郎は忌々しげに舌打ちをすると、ぴたりと足を止めて振り向いた。そして
「花京院!」
と、こちらを見て名前を呼んだ。
「え!?」
突然のことにギョッとする花京院に向かって、彼は軽く顎をしゃくって見せた。来い、という合図だ。
承太郎を取り囲んでいた女子たちがこちらを凝視する中、花京院はぶんぶんと首を左右に振る。が、承太郎の射抜くような視線は有無を言わさぬ力があって、花京院は肩を竦めながら背中を丸め、おずおずと承太郎に近づいた。
(うわぁ……凄い睨まれてないか……?)
花京院が近づくと、女子たちがさぁっと波がひくように退いた。その視線がいたたまれなくて、花京院は恨めしそうに承太郎を上目使いで睨み付ける。
「コソコソするんじゃねーよ。さっさと来い」
「コソコソなんてしてないですよ。人聞きが悪いな」
なんて言いながら、話す声は内緒話をするようなひっそりとしたものになってしまう。歩き出すと女子たちが一定の距離を保ちながらぞろぞろとついてきて、これは一体なんの行列だろうかと首を傾げたくなった。
しかも周りからの視線は相変わらずつきまとっていた。この暑い中、暑苦しい格好をした二人が並んで歩いていれば仕方がないのか。片方はあの空条承太郎でもある。
(あぁ……居心地が悪い……)
やっぱり承太郎の隣を堂々と歩くには、自分はまだ精神的に弱すぎる。もし自分が女性であったなら、誇らしげに腕でも組んで見せつけてやることが……いや、無理だ。どっちにしろ、この得体のしれない視線に耐えるだけのメンタルは持ち合わせていない。
「顔色が悪い。夕べはちゃんと休んだのか?」
承太郎がちらりと横目で視線を送って来る。怒っているようにも見える表情だが、おそらく昨日の今日で花京院の体調を気遣ってくれているのだろう。昨日だってわざわざ自宅まで送り届けてくれたし、無理をさせたと謝罪までされてしまった。
その気遣いが嬉しい反面、なるべく思い出さないようにしていた保健室での情事が脳裏に鮮明に蘇って、今更のように熱があがった。
「だ、大丈夫。今日は凄く、調子がいいよ」
「あんまりそうは見えねえが。なんなら保健室に連れてってやろうか?」
「それは遠慮しておく」
保健室になんか行ったら、ますます思い出してしまう。それに、承太郎の連れて行く、は絶対に普通じゃない。
「こんな往来でお姫様抱っこなんか、冗談じゃないよ。二度あったことが三度もあってたまるか」
「…………」
「な、なんだよ」
黙って見下ろしてくる承太郎は、何か言いたげな様子だ。この男は意外と繊細だったりもするから、今の言い方は少しキツすぎたのだろうか。
だが、そんな花京院の不安は杞憂に終わった。
「三度目なら、とっくにあったぜ」
「……は?」
どういうことかと首を傾げる花京院に、承太郎は「覚えてねえか」と低く呟いた。
「なんの話だ?」
「昨日、おまえを保健室まで運んだのはおれだからな」
「はい?」
「廊下で引きずられてるてめーを見つけたから、おれが身柄を引き受けた」
「な……」
なんだと……?
「ぼ、ぼくを運んでくれたのは、保健委員じゃない、のか……?」
「途中まではな」
そこでようやく花京院は、こんなにも自分に集まる視線の理由に気がついた。
「ねぇ、あの花京院くんってJOJOのなんなの?」
「さぁ? だけどなんだかとても親密らしいわよ」
「昨日、隣のクラスの子がJOJOが花京院くんをお姫様抱っこしてるの見たって」
「そのあとずっと保健室から出てこなかったって本当?」
「な、なにそれどういうこと!? もしかして二人って……」
こそこそと話しているつもりらしいが、ばっちり聞こえる。
花京院はさぁっと血の気が引くのを感じると共に眩暈がして、咄嗟に額を手の平で押さえた。
なんということだ。恐れていたことが起こってしまった。
絶対に見られたくないと思っていた場面をクラスメイトに見られて、しかもあらぬ噂がほぼ学校中に広まっているなんて。
いや、実際はあらぬ噂ではなく、真実なのだが……。
「なんてことを……なんてことをしてくれたんだ君はッ」
「おい花京院、そこは承太郎さん親切にどうもありがとう、と言うところだぜ」
「言うかッ!!」
「てめーは一体なにが不満なんだ」
分かっていない。この男は何も分かっていない。
これから一体どんな顔を引っさげて学校生活を送ればいいのだろうか。今にも逃げ出して、家に引きこもってゲーム三昧の生活でも送ってやろうか。
「とにかく、頼むからもうお姫様抱っこはやめてくれ……ぼくにだって男性としてのプライドくらいある……」
「しょうがねえな。次からは俵担ぎにしとくか」
「普通に肩貸してくれるだけでいいよッ!!」
ついに怒鳴ってしまった花京院を見て、承太郎は帽子の鍔を指先で摘まみ、僅かに引き下げると「やぁれやれだぜ」と呆れたように言った。
「ピーチクパーチク、腹空かした小鳥の雛みてーだな」
「そのいちいち小さいものに例えるのも、やめてくれないか……」
涙目で睨み付けると、承太郎は楽しそうにニヤリと笑う。悪そうな顔をしているくせに、いちいち格好いいからいっそ腹が立つ。こんなときでさえ胸を高鳴らせている自分に。
「可愛くて可愛くて、仕方がねえってことだぜ」
やっぱり君の表現は遠回しで、分かりにくいじゃあないか。
そう思ったけれど、言われて満更でもない自分が恥ずかしくて、花京院は大き目の唇をきゅっと引き結んだ。
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花京院が意識をすっ飛ばしている間に濡れタオルで手早く身体を清め、しっかりと衣服やシーツを整え、その間にふっと目を覚ました花京院が声を発そうとして噎せれば、口移しで水まで飲ませてくれる始末だった。
花京院が意識を失っていたのはものの十数分の間だったが、気づけば何事もなかったかのように、ただベッドの縁に腰かける承太郎の胸にもたれかかっているという有様である。
「あの、承太郎」
「ん」
「そろそろ離してくれると……ありがたいのだが……」
承太郎は腕の中にいる花京院の頭部に顔を埋めて、一息ついている。まるでぬいぐるみか抱き枕にでもなったような気分だ。
いや、むしろこちらが大きなクマのぬいぐるみに抱き付かれている、と表現した方がしっくりくるだろうか。
とはいえ、ここはまだ学校の保健室だ。誰が来たっておかしくないような場所で、よくもまぁあれほど激しく抱き合ったものだと思うと、今更のように血の気が引くのを感じてしまう。
しかも、一体いまは何時だろうか。
気がつけば夕焼け色に包まれていた空間には、いくらか闇が混じり始めている。校庭から聞こえていた生徒たちの声は消え、夜の匂いを纏う風がカーテンを揺らしていた。
「じょ、承太郎ってば」
身じろぐ花京院を、承太郎はさらに強く抱きしめて「もう少し」と呟いた。
「やっと誤解も解けててめーと結ばれたんだ。もう少し浸らせろ」
「……言っておくが、誤解は完全に解けちゃあいないぞ」
この際あの女医を誘惑した理由については、複雑ではあるが信じよう。彼女に最後まで手を出していないという点も含めて。
だけどあのキスシーンに関しては、完全に納得したわけじゃない。別れの延長とかなんとか言っていた気がするが、最後にキスをしてさようなら、なんてファンタジーやメルヘンじゃあるまいし。
「なんだ、怒ってんのか」
「怒ってる、というか……見たくなかったな、と思って」
俯く花京院に、承太郎は珍しく気まずげな溜息を漏らした。
「てめーが納得しようがしまいが、おれは真実しか言えねえ」
「……うん」
「あんときゃあの女医に呼ばれて、妊娠やら結婚の話を聞いた。いわゆる別れ話ってやつだ。おれも女医が結婚してるなんざ知らなかったからな。ちょっぴり驚かされたぜ」
ファンタジーやメルヘンのような世界が、実際そこにはあったらしい。
承太郎に別れを切り出した女医は、最後に一度だけキスがしたいと涙ながらに縋ったという。それで全て忘れるからと。
その話を聞いて、花京院はただ複雑な心境を持て余すばかりだった。
彼女は承太郎に惑わされただけだ。彼の心が全く別のところにあるとも知らず、その気にさせられていたにすぎなかった。
だからこそ別れ話、というワードがあまりにも滑稽で、最後のキスに断腸の思いを込めた彼女を哀れに思う。
同時に、自分に嫌悪感が沸いた。
(承太郎よりもよほど、ぼくの方がずっと性格が悪い)
一度は憧れを抱いた女性を憐れみながら、花京院は安堵と喜びを同時に覚えていた。むしろ全ての女性に対しての優越感、かもしれない。
信じられないような話だけれど、あの空条承太郎がこうして腕に抱いているのが、他の誰でもないこの自分なのだということに。
花京院は承太郎の喉元に額を擦りよせ、自嘲的な笑みを浮かべる。すると承太郎の手が花京院の顎にかかり、そっと上向かされると同時に唇が重なった。
優しく幾度も繰り返されるキスはまるで許しを請うようで、何もかもどうでもよくなってしまうから、ずるいと思う。
思わずムッとした表情を浮かべる花京院を見て、承太郎は少し不貞腐れたように「なんだよ」と言った。
それが無性に可愛く見えてしまって、末期だなぁと自分に呆れる。
「そうやって、最初からちゃんと言ってくれたらよかったんだ」
気恥ずかしさから、つい口調が刺々しくなるのを止められない。
「大体な、君は言葉が足りないんだ。そのせいで、ぼくは君が男も女も関係なくたらしこむ、とんだ遊び人だと思い込んでいたよ」
「おれはシンプルに態度で示してたつもりだぜ」
「その遠回しに察しろオーラ出すのやめてくれるか」
「……遊びで野郎のケツなんざ掘れるかよ」
「そ、そういう言い方するなッ、いたた……」
大声を出しかけたせいで、腰に響いた。実のところ、さきほどからずっと腰が抜けたような違和感があって、あらぬ場所には鈍痛を覚えている。咄嗟に腰を押さえると、承太郎はいつもの「やれやれ」という口癖を放ちながら、花京院の耳たぶに口付けた。
「最初に目についたのはこの赤い髪と……ピアスだ」
「ピアス?」
「妙にキラキラして見えてよ。ようわからんが、ありゃ一目惚れってやつかもな」
言葉が足りないという文句を聞き入れたのか、小さな子供に寝物語でも聞かせるみたいに、承太郎は静かに語る。
「おまえを初めて見たのはまさにこの場所だぜ。てめーは気づいちゃいなかったろうがな」
その日は偶然ここを昼寝の場所に選んだ。ただそれだけだったのだと、承太郎は言った。花京院は保健室の常連だったから、それがいつのことだったのかは、ハッキリとは分からないけれど。
「一目見た瞬間、こいつだと直感した。見えない糸があるんだとしたら、おれとてめーは繋がってるってな。それこそ男も女も関係ねえ。そのときから、ずっとてめーだけを愛してる」
花京院は唇を噛み締めるばかりで、何一つ言葉を発することができなかった。
一目惚れとか、見えない糸とか。そんなことを恥ずかしげもなく言ってのけるものだから、こちらの方が恥ずかしくて仕方がなくなってしまう。
「これで足りたかよ。言葉」
「…………」
花京院はどうしたらいいのか分からなくて泳がせた目を、自分の肩を抱く承太郎の指先でふと止めた。相変わらず短く爪が切り揃えられているそこは、深く切りすぎて赤くなっている部分もある。
だから少し、泣きたくなった。
承太郎は優しかった。最初からずっと。
強引に奪いながらも、いつも花京院の身体を労わってくれていた。毎日のように巨大な弁当箱を引っさげて来たり、時間の許す限り今みたいに花京院をただ抱きしめていた。倒れればお姫様抱っこで保健室に運んだりもして。
(鈍いなぁ、ぼくは)
不器用なのか器用なのか。
承太郎はやっぱり分からないやつだ。だけど怖いくらい愛情深い男だということが今の花京院には分かるから、つい気が抜けたように溜息が漏れる。
「とりあえず、君が趣味の悪い男だってことは、よくわかったよ」
「言うじゃあねえか」
つい可愛げのないことを言ってしまったが、承太郎は楽しそうに肩を震わせて笑った。その振動が腕の中にいる花京院にも伝わって、それが少しくすぐったい。
彼の言う通り、こちらまでもう少し浸っていたいような気分になったが、どこまでいってもここは保健室である。
「承太郎、もうそろそろ帰ろう」
「待て花京院。おれにもひとつ聞かせろ」
「な、なに?」
「あの弁当はてめーの手作りか?」
「へ……?」
弁当、というのはもしや、花京院が承太郎に投げつけた、あの弁当のことか。
そういえばあれはどうしたのだろうかと思ってはいたが、わざわざ聞くのも間抜けな気がしてあえて話題に出さなかったのだが。
「いや、あれはその、作ったというか、なんというか……あれ、どうしたんだ?」
おずおずと上目使いで見上げると、承太郎はケロリとした表情で「食った」と言う。
「え!? 食べたのか!?」
「勿体ねーだろ。腐ってるわけでもあるまいし」
「だ、だって……中身ぐちゃぐちゃで酷い有様だったんじゃ……?」
「食っちまえば一緒だ。花京院、食い物は粗末にしちゃあいけねえぜ」
「そんなことは分かってる」
で、果たしてどうだったのだろうか。決して見栄えのよくない卵焼きの味は。それとも、中身が荒れすぎて味どころではなかっただろうか。
「で? どうなんだ? てめーが作ったのか?」
「しつこいな……それってそんなに重要なことか?」
「細かいことが気になると、夜も眠れねえタチなんでな」
「……卵焼きだけだよ」
なんだかバツが悪い。目を逸らしながら吐き捨てると、承太郎は満足げにニヤリと笑って「やっぱりな」と言う。
「どうりでやたらと甘かったわけだ」
甘いのは君の方だよと、憎まれ口を叩くみたいに言うつもりだった言葉は、承太郎の唇に吐息ごと、奪われてしまった。
*
「典明さん、今日はどうしたの? 長袖にはまだ早いのではないかしら」
朝、長袖の学生服をきっちりと着込んで台所に立つ息子を見て、母が目を丸くした。ボウルに落とした卵を溶いていた花京院は、そのもっともなツッコミにぎくりと肩を強張らせる。
「い、いやあの……今朝は少し、冷えるなあと。あはは」
「そうかしら?」
「そうですよ。夏風邪は性質が悪いですから」
「それもそうね。ああ、いけないわ。そんなに乱暴に溶かないで。もっと軽くでいいんですよ」
「あっ、あ、すみません!」
動揺が手先に現れてしまったらしい。平常心平常心と心の中で繰り返し、ふっと息を吐き出した。
花京院だって、真夏にこんな暑苦しい制服なんか着たくない。が、首筋まできっちり覆い隠さなければ、保健室での情事の痕が見えてしまう。花京院の肌の至るところには、承太郎の歯型や鬱血の痕が残っていた。
(どうしてくれるんだ承太郎……しばらく半袖シャツだけで歩けないじゃあないか……!)
心の中で、晴れて恋人同士になった男に文句を垂れる。とにかく今は、うまく誤魔化せたことだけが救いに思えた。
あまり時間もないことだし、今日は失敗せずに一発で玉子焼きを焼き上げたい。
味付けは、少し甘めで。色合いも大事にしたいから、醤油は薄口のもの。匙加減にはイマイチ自信がないが、まぁ、不味くはないだろう。
熱したフライパンを真剣な表情で睨み付け、油をひこうとする花京院を見て、隣で母が小さく笑う気配がした。
「なに? 母さん」
「いいえ。典明さん、男の子なのにそのピアスが本当によく似合っていると思って」
母はどこか眩しいものでも見るように、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスに目を細めた。
「あなたがお腹にいたころ、先生には女の子だって言われていたの」
「ぼくが?」
「ええ。だからお父さんと一緒に、女の子の名前まで考えていたのよ」
「生まれてみたら、男だったんですね」
もちろん嬉しかったわよと、そう言って笑う母は息子の目から見てもいまだ若々しく、可憐な少女のようにも見える。花京院のこの赤い髪は母親譲りのものだった。
「だからそのピアスは、あなたが女の子だったら渡すつもりでいたものなの」
「そうだったんですか」
「ええ。だけど男の子だったでしょう? それならあなたがお嫁さんをもらって、子供が生まれたとき、孫が女の子だったらプレゼントしようって」
その言葉に、花京院はふと手を止めて、思わず母の顔を見た。
「女の子が生まれるか分からないのに?」
「いいのよ。こうして楽しみにしていられることが嬉しいんだもの。だけどよかった。あなたは私にそっくりだから、本当によく似合っていますよ」
母が昔からこのピアスを大切にしていたことは知っている。けれどそんな風に考えていたことは、知らなかった。
(ずっと諦められているのだと思っていたから)
入退院を繰り返していた幼い頃、夜になると必ず身を寄せ合って泣いていた両親を思い出す。
それを見る度に、自分は存在しているだけで彼らを悲しませているのではないかと、胸を痛めていた。だけど、そうじゃなかった。
父も母も、ただ息子の未来だけを願い、恐れていただけだ。息子は今や母の背を超え、父と並ぶほど大きくなった。こうして花京院が生きる『今』を、あの頃の彼らはただ夢見ていただけだった。
違うのは、あの頃は失うことを恐れて泣きながら見ていた夢を、今はこうして笑顔で見ているということだろうか。
(ごめんなさい)
花京院は母からそっと目を逸らし、心の中で謝罪する。
きっと自分は、この先の未来に父と母が膨らませる夢を叶えてはやれない。花京院が愛したのは可愛い孫を産める女性ではなく、男性だからだ。
それでも不思議と後悔はなかった。承太郎を好きになったことを、決して悔やまない自信がある。なんの根拠もないけれど、多分、死ぬまで。
「ピアス」
「なぁに? 典明さん」
「ぼくが貰えてよかった。一生大事にするよ、母さん」
キラキラ光る、チェリーのような赤いピアス。
目に見えない糸のような繋がりを、見えないままに最愛と巡り合えない人間が、この世界にどれほどいるだろう。
これがあったから、承太郎が自分を見つけてくれたような、そんな気さえして。
はにかんだ笑顔を浮かべる息子を見て、母も微笑んだ。そして。
「典明さん」
「はい」
「フライパン、黒こげですね?」
「へ……? え? あッ! あぁ~ッ!?」
花京院は卵焼きが失敗する以前に、フライパンをひとつ、ダメにした。
*
(大失敗だ……)
学校へと向かう道中、花京院はがっくりと肩を落として溜息を漏らした。
幸い、フライパンは卵焼き専用のものだったため、通常の丸いフライパンを使用してなんとか作り上げることには成功した。
が、あまり見栄えはよろしくない。味に自信がないぶん、せめて見た目だけでも完璧を目指したというのに、とんだ失態である。
(承太郎なら食えりゃあなんでもいい、とか言いそうだけど)
それにしても。
花京院は丸くなっていた姿勢を正しながら、視線だけ辺りを見回す。
同じく学校へ行く生徒たちが多く見られる中で、どうも何かが突き刺さるのを感じてしまう。それは数多の視線だった。
中にはクラスメイトの顔もちらほら見える。男子は怖々といった様子で、女子は頬を染めるものや、ともすれば敵意ともとれるような鋭いものを向けてくる者もいた。
(なんだろう……厚着して歩いてるから、やっぱりおかしいのかな。今日も暑いし……)
とてつもない居心地の悪さを感じて、おのずと歩調が速くなる。朝から太陽が燦々と輝く空の下、長袖詰襟はやっぱり暑い。
かと言って脱ぎ捨てるわけにもいかないのだから、どうしようもなかった。
そんな中、前方に人だかりを発見してついドキリとした。
「あぁん! 今日も素敵……やっぱりJOJOは最高だわ!」
「ねぇJOJO~! 今日のお昼はわたしと一緒に食べましょ?」
「抜け駆けする気!? JOJO、こんな女よりわたしの方がいいわよね?」
(やれやれ、今日もモテモテだな、承太郎)
セーラー服を着た女子生徒たちをまとわりつかせ、ヌシヌシと歩く広い背中を見て、花京院は口元に手をやると小さく笑った。
学生鞄の他に、ちゃっかりあの巨大な弁当箱も持っているのを見て、なんだか嬉しくなる。
(一緒に登校とか……憧れなくもないけど、目立つのは嫌だしな)
本当は、堂々と隣を歩きたいような気持ちもあるけれど。
どうせ昼休みは二人きりだ。今日からまた一緒に昼食をとる約束をしているのだから、今くらいは彼女たちに譲ろう。
そう思った矢先、キャーキャーと騒ぎ続ける女子たちに、ついに承太郎の堪忍袋の緒が切れた。
「やかましいッ! 朝っぱらからうっとおしいぞッ!!」
そのよく響く怒声に、辺りは一瞬静まり返る。が、すぐにまた黄色い歓声があがりはじめ、なんの効果もないことが知れた。モテすぎるというのも大変だ。
承太郎は忌々しげに舌打ちをすると、ぴたりと足を止めて振り向いた。そして
「花京院!」
と、こちらを見て名前を呼んだ。
「え!?」
突然のことにギョッとする花京院に向かって、彼は軽く顎をしゃくって見せた。来い、という合図だ。
承太郎を取り囲んでいた女子たちがこちらを凝視する中、花京院はぶんぶんと首を左右に振る。が、承太郎の射抜くような視線は有無を言わさぬ力があって、花京院は肩を竦めながら背中を丸め、おずおずと承太郎に近づいた。
(うわぁ……凄い睨まれてないか……?)
花京院が近づくと、女子たちがさぁっと波がひくように退いた。その視線がいたたまれなくて、花京院は恨めしそうに承太郎を上目使いで睨み付ける。
「コソコソするんじゃねーよ。さっさと来い」
「コソコソなんてしてないですよ。人聞きが悪いな」
なんて言いながら、話す声は内緒話をするようなひっそりとしたものになってしまう。歩き出すと女子たちが一定の距離を保ちながらぞろぞろとついてきて、これは一体なんの行列だろうかと首を傾げたくなった。
しかも周りからの視線は相変わらずつきまとっていた。この暑い中、暑苦しい格好をした二人が並んで歩いていれば仕方がないのか。片方はあの空条承太郎でもある。
(あぁ……居心地が悪い……)
やっぱり承太郎の隣を堂々と歩くには、自分はまだ精神的に弱すぎる。もし自分が女性であったなら、誇らしげに腕でも組んで見せつけてやることが……いや、無理だ。どっちにしろ、この得体のしれない視線に耐えるだけのメンタルは持ち合わせていない。
「顔色が悪い。夕べはちゃんと休んだのか?」
承太郎がちらりと横目で視線を送って来る。怒っているようにも見える表情だが、おそらく昨日の今日で花京院の体調を気遣ってくれているのだろう。昨日だってわざわざ自宅まで送り届けてくれたし、無理をさせたと謝罪までされてしまった。
その気遣いが嬉しい反面、なるべく思い出さないようにしていた保健室での情事が脳裏に鮮明に蘇って、今更のように熱があがった。
「だ、大丈夫。今日は凄く、調子がいいよ」
「あんまりそうは見えねえが。なんなら保健室に連れてってやろうか?」
「それは遠慮しておく」
保健室になんか行ったら、ますます思い出してしまう。それに、承太郎の連れて行く、は絶対に普通じゃない。
「こんな往来でお姫様抱っこなんか、冗談じゃないよ。二度あったことが三度もあってたまるか」
「…………」
「な、なんだよ」
黙って見下ろしてくる承太郎は、何か言いたげな様子だ。この男は意外と繊細だったりもするから、今の言い方は少しキツすぎたのだろうか。
だが、そんな花京院の不安は杞憂に終わった。
「三度目なら、とっくにあったぜ」
「……は?」
どういうことかと首を傾げる花京院に、承太郎は「覚えてねえか」と低く呟いた。
「なんの話だ?」
「昨日、おまえを保健室まで運んだのはおれだからな」
「はい?」
「廊下で引きずられてるてめーを見つけたから、おれが身柄を引き受けた」
「な……」
なんだと……?
「ぼ、ぼくを運んでくれたのは、保健委員じゃない、のか……?」
「途中まではな」
そこでようやく花京院は、こんなにも自分に集まる視線の理由に気がついた。
「ねぇ、あの花京院くんってJOJOのなんなの?」
「さぁ? だけどなんだかとても親密らしいわよ」
「昨日、隣のクラスの子がJOJOが花京院くんをお姫様抱っこしてるの見たって」
「そのあとずっと保健室から出てこなかったって本当?」
「な、なにそれどういうこと!? もしかして二人って……」
こそこそと話しているつもりらしいが、ばっちり聞こえる。
花京院はさぁっと血の気が引くのを感じると共に眩暈がして、咄嗟に額を手の平で押さえた。
なんということだ。恐れていたことが起こってしまった。
絶対に見られたくないと思っていた場面をクラスメイトに見られて、しかもあらぬ噂がほぼ学校中に広まっているなんて。
いや、実際はあらぬ噂ではなく、真実なのだが……。
「なんてことを……なんてことをしてくれたんだ君はッ」
「おい花京院、そこは承太郎さん親切にどうもありがとう、と言うところだぜ」
「言うかッ!!」
「てめーは一体なにが不満なんだ」
分かっていない。この男は何も分かっていない。
これから一体どんな顔を引っさげて学校生活を送ればいいのだろうか。今にも逃げ出して、家に引きこもってゲーム三昧の生活でも送ってやろうか。
「とにかく、頼むからもうお姫様抱っこはやめてくれ……ぼくにだって男性としてのプライドくらいある……」
「しょうがねえな。次からは俵担ぎにしとくか」
「普通に肩貸してくれるだけでいいよッ!!」
ついに怒鳴ってしまった花京院を見て、承太郎は帽子の鍔を指先で摘まみ、僅かに引き下げると「やぁれやれだぜ」と呆れたように言った。
「ピーチクパーチク、腹空かした小鳥の雛みてーだな」
「そのいちいち小さいものに例えるのも、やめてくれないか……」
涙目で睨み付けると、承太郎は楽しそうにニヤリと笑う。悪そうな顔をしているくせに、いちいち格好いいからいっそ腹が立つ。こんなときでさえ胸を高鳴らせている自分に。
「可愛くて可愛くて、仕方がねえってことだぜ」
やっぱり君の表現は遠回しで、分かりにくいじゃあないか。
そう思ったけれど、言われて満更でもない自分が恥ずかしくて、花京院は大き目の唇をきゅっと引き結んだ。
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その口火は偽者のピストルによって切って落とされたのだ。
だが、だからといって自分がそれにまんまと興じることはなかった。
黒鋼はもとより、例えばその手の台詞を実際の恋人相手にだって、滅多なことで口にしたことがない。
それでも、ある程度の明確な理由付けにはなったかもしれない。
恋人でもなければ友達というわけでもない、ただの教師仲間である彼と続けていた不毛な関係に、名前をつけることがようやく出来た。
そう、これは『ゲーム』であり、そして、ただの『遊び』だ。
「大好きだよ黒様。誰よりも君を愛してる」
それなのに、だ。
蕩けそうに瞳を潤ませて、頬を染めながら熱っぽく囁くファイに口付けを乞われると、その明確な理由が一瞬、揺らぐ。
これは本当に演技なのか? これほどまでに熱烈に、実際は好きでもない相手に愛を囁くなんて真似が、本当に出来るものなのか?
ただの遊びに、不覚にも心臓を高鳴らせている自分は一体なんなのだろう?
黒鋼はこの男ほど器用には出来ていないのだ。むしろ不器用な性質である。
ファイがほんの少しだけ背伸びをして唇を突き出してくるのを、黒鋼は首に絡み付いていた腕ごと払いのけた。
「てめぇ、ここがどこだか分かってんのか」
「学校の屋上だねぇ」
「場所を考えろ、場所を!」
「つまんないなぁ。学校だろうがどこだろうが、隠れてするなら別にいいじゃない」
「よかねぇよ!!」
「今時このくらい小学生でもやってるのに」
怒りで頭に血が上っているのか、それとも先刻のファイの熱烈な告白に勘違いをしそうになってるのか、とにもかくにも顔が赤くなってはいないかと黒鋼は慌てて彼に背を向けた。
「そんなことより」
「んー?」
腕を組んだ黒鋼は、首だけを僅かにファイの方へ向けながらジロリと睨みつける。
「てめぇの夢は料理人になることじゃなかったのかよ」
「へ? なんのこと?」
きょとんとして小首を傾げるファイに、黒鋼は先ほど耳にした会話の内容を思い出していた。
*
「先生って、子供の頃から保健の先生になるのが夢だったんですか~?」
それは見慣れた光景だった。
職員室の出入り口付近で、ファイが女子生徒数名に捕まっているのに気がついた。
だが会話の内容まで耳に入ってきたのは、全くの偶然だった。
「そうだね。学校の先生にはなりたかったよ。でも、保健室の先生になるのが夢ではなかった、かな?」
そう言って柔らかに微笑むファイに、女子生徒達は頬をぽっと赤らめて見惚れた。
内心ツバを吐きたい衝動に駆られた黒鋼だったが、それよりもファイの答えの方が引っかかった。
確か肉じゃがを作った夜に、あの男は料理人だか冒険家だかになりたかったと言っていたのではなかったか。無人島が云々という、くだらない理由付きで語っていたはずだった。
「じゃあ、どうして今は保健の先生なんですか?」
「うん。実はボク、動物のお医者さんにもなりたかったんだ。でも、それには動物を解剖しなくちゃいけないって分かって、諦めちゃったんだよ」
「あ、それで間を縫ったカンジですかぁ?」
「そう。そんなカンジ、だよ」
その微笑みは、まさに『王子様』と呼ばれるにふさわしいものだった。
*
「思い出したら胸焼けしてきやがったぜ」
「あ、もしかしてさっきの女の子たちとの話、聞こえてたー?」
「そうだ。それ。どこまで白々しいんだてめぇは。無人島に行くのが夢だったんじゃねぇのか」
呆れた顔をしてファイと向かい合った。
けれど、彼は目をパチクリとさせながら小首を傾げている。
「オレ、そんなこと言ったっけかなぁ? そもそも無人島になんて行ってどうするの? 危ないじゃん」
「あぁ? てめぇホラ吹きなだけでなく鳥頭だったのかよ」
「うわ、そんな言い方ってある? はい傷ついたー。オレのハート傷ついたー」
「付き合いきれねぇな」
つん、とそっぽを向いて唇を尖らせるファイに、黒鋼は背を向けるとそのまま屋上を後にした。
***
本屋に足を運ぶなど、学生時代以来のことだった。
アパート及び高校からほど近い大型書店に、黒鋼は仕事帰りに立ち寄っていた。
店内では見知った顔の生徒と擦れ違うこともあり、本屋と黒鋼という図が彼らにとってもよほど珍しいのか、目を丸くしながらペコリと頭を下げられた。
おかげであまりいい心地がしない。あまり長居をしたいとも思えなくなった。
店員が、柄の悪い大男に怯えた表情を見せながら脇を通り抜けてゆく。
「くそ、なんだって俺が……」
文句を垂れてみたものの、これは他の誰に頼まれたわけでもなく、自らの意思でここに足を運んだのだが。
黒鋼はともかく目当てのものを探すべく、所狭しと並ぶ本棚を見渡した。ジャンルに目星をつけて、そのゾーンへと足を向ける。
そして、幾つもある似たようなタイトルの中から、中身も確認せずに数冊を取ると、とっととレジを済ませて本屋を後にした。
エアコンのよく効いた店内から出ると、夏の外気が陽が沈んでもなおじっとりと肌を撫でる。
かなりの厚さになっている紙袋の中身が、やたらと重いものに感じた。
ただでさえ大きな歩幅で全速力で歩けば、自宅アパートに到着するのはあっという間だった。
途中で馴染みの黒猫と遭遇したが、チラリと目を合わせるだけで構ってやるのは後回しにした。
***
「さっぱりだな」
纏わり付くような風が不快で、扇風機を止めながら黒鋼は手にしていた本を畳に放り投げた。
久しぶりに本など真剣に眺めたものだから、なんだか頭がぼんやりしている。
黒鋼は投げ出されているそれらを横目で睨む。
専門的な用語が並べば、それだけで解説でもない限り完全に理解することは不可能だ。こんなことなら、いっそ貯金でも崩してパソコンの一つでも購入しておくべきだったか。
かといって携帯を使ってでも調べる気にはなれなかった。なにしろ、黒鋼の手は身体と同様に平均よりも大きい。チマチマとした画面を見ながらチマチマとボタンを押すなど、ハッキリ言って面倒だ。メールを打つのでさえ実際のところ億劫で仕方がない。
ウンザリして、もはや本を手に取る気力もない。
中身はもちろん、価格さえ確認しないままにレジへ向かったせいで、給料日前の安月給にはそれなりに痛い出費となった。なおのこと腹立たしくて、黒鋼は立ち上がると台所へ向かい、冷蔵庫からビールの缶を取り出した。
その場で開けて、自棄になって半分ほどを一気に飲み干す。少し、立ちくらみがした。
黒鋼が購入した数冊の書籍は、どれも解離性同一性障害に関するものだった。
我ながら本当に愚かなことをしていると思う。ファイの多面性を、多重人格なのではないかと疑った結果が、この体たらくだった。
黒鋼は自分の腰の高さまでしかない冷蔵庫に体重をかけた。手の中にある缶の中身が、耳を澄ませばしゅわしゅわと音を立てているのが聞こえる。
「なにやってんだ一体……」
単に幾重にも裏表がある、ペテン師のような男だということは分かっていたはずだった。
だが、昼間の屋上で将来の夢についての食い違いを話している折、あの男は本当に忘れてしまっているようにも思えた。あるいはまるで知らないか、そのいずれかに。
まさにそれと同じ日から、くだらないゲームが始まったというのに。
少なくとも彼は黒鋼の前では猫をかぶらない。嘘をついたり、とぼけたりする必要はないはずだった。
だが、彼が演技派であることは重々承知しているはずだった。それなのに、気がつけばファイのことを気にかけている。もし万が一、あの豹変が本人にもどうにもならないところで起こっているのだとしたら。
「……だから何だってんだ」
そんな己の思考に咄嗟に冷めた突っ込みを入れた。
だからといって、自分に何が出来るというのか。何も出来やしないのではないか。
「つーか、何かしてやるつもりだったのかよ俺は……」
再び零れた突っ込みに、黒鋼は片手で額を覆い隠すと溜息を洩らした。
冗談じゃない。あの男はただ遊んでいるだけだ。他人を欺き、理想の自分像を演じているだけ。理由なんか知らない。知りたくもない。
そして自分は、そんなふざけた男に弄ばれているだけのはずだ。飽きるまでの間、彼が勝手に始めたゲームに付き合ってやっているだけのはず。
『大好きだよ。誰よりも君を愛してる…』
だが、あの泣き出しそうに潤んだ瞳から、嘘を見破ることは難しかった。だからこそ、腹立たしかった。
もしあれが彼の本心であったなら、自分は同じように返してやることが出来たのだろうか。あの薄っぺらい身体を抱きしめて、彼の望むままに口付けを与えながら……。
「……おい、嘘だろ?」
自分の立っている場所だけが、ぐにゃりと歪んだような錯覚を覚える。
こんな気持ちに、気づきたくなどなかった。
***
夏休みに差し掛かるころになっても、二人の関係は続いていた。
だがそれは黒鋼が了承したわけではなく、相手が勝手に始めてしまったことだ。それは同様に、黒鋼が勝手に幕を下ろすことも可能ということだった。
もう付き合いきれないと言い切ってしまえば、ファイはあっさり引くだろう。彼が自分に対して執着がないことくらい知っている。
それでも黒鋼は、激しい葛藤や苛立ちを抱きながらもまだ幕を引くことが出来ないでいた。
彼が「好き」だとか、「愛してる」だとかいう言葉を軽はずみに囁く度に、吐き気がするほど最悪な気持ちになった。幾度殴り倒してやろうかと本気で思ったか知れない。
ゲームというものは、本来であれば楽しむためのものではなかったか。
最初からこの『ゲーム』を心から楽しんでいたわけではないが、その言葉の根本を考えると頭が痛くなる。
ファイの軽々しい告白は、そんな彼への気持ちに気づかされてしまった黒鋼にとって鋭利な刃物でしかない。
それでもまだ終わらせる気にならない。だが、手に入れる気にもならない。
人の感情が理屈の上でだけ成り立っているわけではない、ということは知っている。
それでもファイの何が自分をここまで惹きつけるというのか、黒鋼は常に己の中の矛盾と、慣れない格闘を続けているのだった。
***
「ねぇ見て」
それはいつものように抱き合ったあとのことだった。
黒鋼の腕枕にご満悦だったファイが、上機嫌で見せてくれたのは三日月のような形をした小さな石だった。
「なんだこれ」
ちょうど胸の上にコロリと置かれたそれを、黒鋼は手に取って翳した。
「御守りなんだよ。蛍石」
「ああ? こいつはただの石ころだろ」
昔、学生時代に博物館で実物を見たことがある。ガラスケースの中のそれは、透明なものや薄く黄色味がかったものなど様々なものがあったが、これはどう見てもその辺りの川べりにでも転がっている、ただの石ころにしか見えない。
幼い頃は、よくこういった少し変わった形の石を集めて遊んでいたものだ。時にはそれを川の水面に投げて、跳ねる回数を友人と競ったこともある。
これが蛍石かどうかは別として、どこか懐かしさを感じる石であることに違いはなかった。
けれどファイはゆるく首を振って笑っていた。
「でも、そうなんだよ。蛍が見れる川原で拾ったんだ。だから蛍石」
「そういう屁理屈か」
ファイの白い指が、黒鋼の手から石を奪った。そして、懐かしそうな表情でそれを眺める。
「昔ね、オレの大切な人がくれたんだ。これがあれば、オレは死なない」
透き通る青い瞳が、間接照明の淡い光を吸い込んで潤んでいる。その微笑みは驚くほど穏やかで優しく、普段見せるそれよりもずっと自然な印象を受けた。
こんな顔も出来るのか。そしてこんな顔をさせる存在を、彼は『大切な人』と呼んだ。
もやもやとしたものが煙のように胸中に立ち込めるのに、黒鋼は気づかないふりをする。
「ねぇ、気になる?」
「あ?」
「大切な人。気になる?」
内心むっとして、けれど何も言わない黒鋼にファイはぷっくりと唇を尖らせた。
「もー。恋人ごっこなんだから、嘘でもヤキモチ焼いてよー」
ジロリと睨みつけると、ファイはその石を鉛筆を持つように持ち替えて、こともあろうかそれで黒鋼の乳首をクリクリと弄った。
「こらてめぇ! 御守りだってんなら粗末にするんじゃねぇ!」
慌てて腕で払いのけると、ファイがはしゃいだ声で笑った。けれど、その弾みで手の中から石を転げ落ちた。
「あっ!」
「言わんこっちゃねぇ……」
カツン、と小気味よい音を立てて、月の形をした蛍石がベッドの下に落ちた。
「黒たん先生が意地悪だから、御守り落ちちゃったよー」
「俺のせいかよ」
子供みたいに唇を尖らせたファイが、黒鋼を跨ぐようにしてベッドから降りた。
さきほどからさんざん見ていたはずの裸体が、共有していたタオルケットからスルリと抜け出し、上を通り過ぎる様から黒鋼は思わず目を逸らす。
畳にぺったりと腰を下ろしたファイが、そのままさらに屈んでベッドの下に手を伸ばした。
「あったあった。……ん?」
「なんだよ」
ゴソゴソと音がして、黒鋼は身を起こした。ファイは、ベッドの下から取り出したそれをしげしげと眺めていた。
それは以前、黒鋼が本屋で購入した難解な書籍達だった。
しまった、と思ったがもう遅い。
「黒たん先生って、こういうの興味あったの?」
ファイは黒鋼を見上げるとコトリと小首を傾げた。不思議そうに瞬きを繰り返す様子に顔を顰める。
「ねぇよ。いいから仕舞っとけ」
吐き捨てるように言っても、ファイはやっぱり不思議そうな顔をしたまま、やがて合点がついたかのように「あ」と言った。
思わずギクリとする。
「もしかして、オレが原因……とか?」
「ッ!」
そのとき、なぜ息を呑んでしまったのだろう。思いあがるなと言って一蹴すれば、それで済んだはずだった。
妙な間が空いて、逆に気まずくなってしまった。
だが、その微妙な空気をファイの笑う声が払拭した。
「あはははは! 嘘でしょー? やだなぁ黒たん、オレ別にそんなんじゃないよ?」
「うるせぇな……もういいだろ……」
「こんな難しそうな本を読み漁っちゃうくらい、オレに夢中なんだねー?」
実に楽しそうにニヤニヤとしながら言うファイが、今この状況であっても『ゲーム』に興じているに過ぎないことを知っている。
けれど、それでも言い当てられたことに黒鋼は絶句した。
そうだ。自分はこの男に想いを寄せ、不覚にも夢中になりかけている。こんな高いばかりで得るもののなかった本を持て余すほどに。
黒鋼がいつまで経っても否定してこないことに、ファイは驚いて目を丸くした。
「えっと、黒たん?」
「……」
「え? あれ?」
今の自分は、きっとこっそり隠していた赤点の答案が見つかってしまったときのような、そんなバツの悪い表情をしている。
いっそ開き直るしかないような状況と全く同じ感覚で、黒鋼は自分でも信じがたい感情を肯定した。
「……悪いか」
「これ、ごっこ遊びだよ? もしかして、本気になっちゃった?」
首を傾げながら身を乗り出すファイに、黒鋼は何も言えなかった。自分の愚かさくらい、誰に言われるまでもなくよく分かっていた。
今更になってうまいこと立ち回ることの出来なかった不甲斐なさに、悔しさが込み上げる。
ファイはそれを察したのか、思い切り全身を震わせながら大笑いした。涙さえ浮かべて腹を抱えている。
いい加減イライラが限界に達した黒鋼が口を開こうとしたとき、ファイは目尻に溜まった涙を指先で拭いながら「あーあ! 楽しかったのに」と言った。
「ゲーム、これで終わっちゃったね」
***
それから、ファイが黒鋼の部屋に訪れることはなくなった。
メールを寄越すことも、屋上で出くわすことも、狐や狸にでも化かされていたのかと思うほど、全てが跡形もなく消え去った。
何もかもが振り出しに戻ったのだ。ファイはあの黒鋼が苦手とする表向きの姿を完璧に演じ、決してそれ以外の顔を見せることはなかった。
否定しつつも夢中になっていた自分と、本気でゲーム感覚だったファイとの温度差。分かっていたはずなのに、自身でも驚くほどダメージを受けていた。
胸に、ぽっかりと穴が空いたようだった。
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