「ユゥイ!!」
扉を開けると、ファイは屋上の縁にいた。新校舎にはフェンスがあるが、ここには遮るものは何もない。
「どうしたー! がんばれー!」
「今日はずいぶんノロマだなー!」
ファイをユゥイと信じきっている友人達が、ガヤガヤと大騒ぎをしている。
ユゥイは蛍石を握ったまま走った。
天使が羽根を広げるようにして、ファイは両手を広げて狭い縁をおぼつかない足取りで歩いていた。
いつもの遊び。とても危険な遊び。端から端まで一番早く行けたものが、その日は一日王様だった。
ユゥイはいつもこの石に守られていたから、この遊びをするときはいつも王様になれた。ファイは泣きそうな顔で見守って、やがて王様になったユゥイに安堵の笑みを見せてくれていた。
けれど今、ファイは。
「やめて!! もう止めて!! こっちに戻ってよ!!」
声の限り叫んだ。
そして、そこから先はまるでスローモーションのようだった。
ユゥイが走る。みんなが笑う。
ファイの身体が、大きく揺らぐ。
校舎の縁から、ふわりと小さな足が浮き立った。その瞬間、ユゥイはファイと目が合った。
青空の中に溶けるように。
ファイは、笑った。
*
ファイの死体は、頭部が潰れたトマトのようになっていた。
頭から真っ逆さまに落ちたのだ。花壇を囲むレンガに強打して、即死だった。
誰も、それがファイであることに気がつかなかった。
友達も先生も父も母も、皆がユゥイが死んだと言って泣いていた。
それからユゥイは、本当に『ファイ』になった。
ユゥイは死んだ。死んでしまった。だから残されたのはファイでなければならない。
そうすれば、いつまでもファイは生きている。
この石があれば、ファイは死なない。
ずっと。
*
緩やかな波に抱かれているようだった。
目を開ければ、灰蒼い闇の中、あの日のままの小さなファイがぽっかりと浮いている。羽根などないはずなのに、何もない空間に彼は浮いているのだ。
それを見て、ユゥイは笑った。
「待っててくれたの?」
幼いファイは静かに微笑むと首を振った。
『ユゥイを待っている人は、ここにはいないよ』
「どうして?」
『ほら、向こう』
小さな手が指差す方には、光が溢れていた。太陽のような、強い光だった。
けれどユゥイは子供のように嫌々と首を振った。
「オレ、石を失くしちゃったんだ。だから、オレはあそこへは戻れないんだよ」
『戻れるよ。だって、ユゥイはちゃんと持ってる。失くしてなんかいないよ。ずっと側にあったんだ』
「……?」
『あの男の子が待ってる。ユゥイを待ってるよ』
「ファイ……? 何を言っているの?」
小さな両手が、今はもうすっかり大人になったユゥイの頬を包み込む。
『もういいの。本当はね、あれはただの石ころなんだよ』
「ファイ……?」
『それでも一生懸命お願いしたの。ユゥイを守ってくださいって』
「ファイ……」
『ユゥイだけを、守ってくださいって』
「ねぇ、ファイってば……」
『だってユゥイは、ボクが止めても絶対に聞かないんだもの。いっつも危ないことして遊んで、叱られてばかりいるんだもの』
「ふぁ、ぃ……ッ」
『だからね、ボクが持ってても、あれはただの石ころだったんだ』
「……ッ」
『ボクはあのとき、君になれないことをやっと理解できたんだよ』
だから悲しくて、なぜか少し、笑えたんだ。
『ユゥイ。君は君でいて。たった一人の君でいて』
君を守ってくれるあの石を持っていて。
そうしたら、ボクはずっと側にいられる。
君と、そしてあの優しい男の子を、守ってあげるよ。
――ずっと。
ぼんやりと目を開けると、白い天井が見えた。
「ゆめ……?」
酷く喉が渇いている。構わず声を絞りだせば、それは酷く掠れた音をしていた。
鼻につく薬品の香りに、ファイは漠然とここが病室であることを知った。
そして自分はベッドに横たわっている。生きている。
長い夢を見ていた。幼い頃の夢。ファイの夢。まだ身体がふわふわして、感覚が戻ってこなかった。
それでも、ファイは右の手の平に温もりを感じて僅かに首を動かした。
白い包帯の巻かれた腕を持ち上げて、手の中のものを見る。
「……どうして?」
それは、失くしたはずの、三日月の形をした石だった。熱い涙が溢れて、視界が滲む。
『ユゥイはちゃんと持ってる。失くしてなんかいないよ。ずっと側にあったんだ』
――見てユゥイ。蛍石だよ。
――蛍石? 違うよファイ。蛍石はこんなんじゃないよ。オレ、図鑑で見たもの。フローライトっていうんだよ。オレたちの名前と一緒だね。ほら、これはお月様の石だよ。三日月の形してるでしょ?
――違うもん。だって、蛍がいっぱい光ってるとこで見つけたんだもん。赤いおめめの男の子がね、そう言ってこれをくれたんだ。
――誰? オレ会ってないよ。
――だってユゥイはメダカを探すのに一生懸命だったもん。
――ふぅん。変なのー。
――はい、あげる。
――え?
――これ、ユゥイにあげる。お守りにして、ずっと持っててね。
――でも……ファイがもらったんでしょ?
――いいの。きっとユゥイを守ってくれるよ。だから、あげる。
「やっぱり……守ってくれたの……?」
石を握り締めた手で、そのまま口元を押さえた。嗚咽が漏れる。
死ねなかった。『ファイ』が願いを込めてくれた石が、『ユゥイ』を殺さなかった。
これは幼い日、まだ彼が生きていた頃にくれた石だった。
夏休みに参加した子供会のキャンプで、ファイは誰かからこれを貰ったのだと言って、ユゥイにくれた。
夜には蛍の飛び交う、美しい川原だった。
今にして思えば、ファイにとってはあれが最後の夏だった。きっとまた、今度は家族で来ようねと約束したのに。
「君がこれを……持っててくれたんだね」
ファイは嗚咽が治まると、上手く笑えない口元でそれでも不器用な笑みを浮かべながら言った。
傍らの椅子には黒鋼が座っている。痛みや怒りを堪えるような表情で、ファイを見つめている。
本当は、きっと今にも殴りつけたくて仕方がないはずだ。そうされても仕方のない身勝手なことを、自分はしてしまったのだから。
だが彼はそれをしない。赤い目をした、男の人。
偶然だろうか。きっとそうだ。彼であるはずがない。けれど、黒鋼は押し殺した声で言った。
「夏休みに、家族でキャンプに行った。ガキの頃だ」
「……ッ」
「おまえにそれを見せられたとき、懐かしいと感じた。あんときゃ思い出せなかったが……」
「くろ……」
「あれは……あの川原で会ったのは……おまえか?」
再び涙が込み上げた。嗚咽を堪えて、ファイは緩く首を振る。
こんなことが本当にあるのだろうか。あのとき『ファイ』は、彼に会ったのだ。
そして『ファイ』として生きる自分は、それを知らずに黒鋼と出会った。出会って、恋をした。
けれどこの気持ちは『ファイ』のものではない。
これまでは『ファイ』であり続けることばかりを考えて優先させてきた。例えそれで自分が傷ついたとしても。『ファイ』が穢れるとしても。
それなのにファイは、『ユゥイ』として彼を愛してしまった。
そのことに気がついたとき、本当に恐ろしかった。ずっと守ってきたものから逃げ出してしまいそうで。
だが同様に、黒鋼を思う気持ちからも逃げたくなかった。
だからこそ、己が何者であるかを知りたかった。
彼を愛することで『ファイ』になれなかった、ただの嘘つきな自分を試したかった。
石がなくとも生きていられたら。許されるような気がした。
だけど今の『ユゥイ』は知っている。石なんか関係ない。自分は、許されなければならないような罪など、犯していない。
あのとき『ファイ』がこれを持っていたとしても、彼は死んだだろう。
だってこの石は、『ファイ』が『ユゥイ』だけを守ってくれるようにと、願いを込めた石だから。
「ユゥイ」
「?」
ファイは涙に濡れた頬で笑った。
「オレの名前。本当の、名前だよ」
「そうか……そうだったんだな……」
黒鋼は、ようやく少しだけ笑った。赤い瞳が、僅かに潤んでいる。
「あのね。聞いてほしいことが、いっぱいあるんだ」
「ああ」
「オレの大切な人のこと。もう一人のオレのこと。ファイのことを……」
そして、君への気持ちを。
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扉を開けると、ファイは屋上の縁にいた。新校舎にはフェンスがあるが、ここには遮るものは何もない。
「どうしたー! がんばれー!」
「今日はずいぶんノロマだなー!」
ファイをユゥイと信じきっている友人達が、ガヤガヤと大騒ぎをしている。
ユゥイは蛍石を握ったまま走った。
天使が羽根を広げるようにして、ファイは両手を広げて狭い縁をおぼつかない足取りで歩いていた。
いつもの遊び。とても危険な遊び。端から端まで一番早く行けたものが、その日は一日王様だった。
ユゥイはいつもこの石に守られていたから、この遊びをするときはいつも王様になれた。ファイは泣きそうな顔で見守って、やがて王様になったユゥイに安堵の笑みを見せてくれていた。
けれど今、ファイは。
「やめて!! もう止めて!! こっちに戻ってよ!!」
声の限り叫んだ。
そして、そこから先はまるでスローモーションのようだった。
ユゥイが走る。みんなが笑う。
ファイの身体が、大きく揺らぐ。
校舎の縁から、ふわりと小さな足が浮き立った。その瞬間、ユゥイはファイと目が合った。
青空の中に溶けるように。
ファイは、笑った。
*
ファイの死体は、頭部が潰れたトマトのようになっていた。
頭から真っ逆さまに落ちたのだ。花壇を囲むレンガに強打して、即死だった。
誰も、それがファイであることに気がつかなかった。
友達も先生も父も母も、皆がユゥイが死んだと言って泣いていた。
それからユゥイは、本当に『ファイ』になった。
ユゥイは死んだ。死んでしまった。だから残されたのはファイでなければならない。
そうすれば、いつまでもファイは生きている。
この石があれば、ファイは死なない。
ずっと。
*
緩やかな波に抱かれているようだった。
目を開ければ、灰蒼い闇の中、あの日のままの小さなファイがぽっかりと浮いている。羽根などないはずなのに、何もない空間に彼は浮いているのだ。
それを見て、ユゥイは笑った。
「待っててくれたの?」
幼いファイは静かに微笑むと首を振った。
『ユゥイを待っている人は、ここにはいないよ』
「どうして?」
『ほら、向こう』
小さな手が指差す方には、光が溢れていた。太陽のような、強い光だった。
けれどユゥイは子供のように嫌々と首を振った。
「オレ、石を失くしちゃったんだ。だから、オレはあそこへは戻れないんだよ」
『戻れるよ。だって、ユゥイはちゃんと持ってる。失くしてなんかいないよ。ずっと側にあったんだ』
「……?」
『あの男の子が待ってる。ユゥイを待ってるよ』
「ファイ……? 何を言っているの?」
小さな両手が、今はもうすっかり大人になったユゥイの頬を包み込む。
『もういいの。本当はね、あれはただの石ころなんだよ』
「ファイ……?」
『それでも一生懸命お願いしたの。ユゥイを守ってくださいって』
「ファイ……」
『ユゥイだけを、守ってくださいって』
「ねぇ、ファイってば……」
『だってユゥイは、ボクが止めても絶対に聞かないんだもの。いっつも危ないことして遊んで、叱られてばかりいるんだもの』
「ふぁ、ぃ……ッ」
『だからね、ボクが持ってても、あれはただの石ころだったんだ』
「……ッ」
『ボクはあのとき、君になれないことをやっと理解できたんだよ』
だから悲しくて、なぜか少し、笑えたんだ。
『ユゥイ。君は君でいて。たった一人の君でいて』
君を守ってくれるあの石を持っていて。
そうしたら、ボクはずっと側にいられる。
君と、そしてあの優しい男の子を、守ってあげるよ。
――ずっと。
ぼんやりと目を開けると、白い天井が見えた。
「ゆめ……?」
酷く喉が渇いている。構わず声を絞りだせば、それは酷く掠れた音をしていた。
鼻につく薬品の香りに、ファイは漠然とここが病室であることを知った。
そして自分はベッドに横たわっている。生きている。
長い夢を見ていた。幼い頃の夢。ファイの夢。まだ身体がふわふわして、感覚が戻ってこなかった。
それでも、ファイは右の手の平に温もりを感じて僅かに首を動かした。
白い包帯の巻かれた腕を持ち上げて、手の中のものを見る。
「……どうして?」
それは、失くしたはずの、三日月の形をした石だった。熱い涙が溢れて、視界が滲む。
『ユゥイはちゃんと持ってる。失くしてなんかいないよ。ずっと側にあったんだ』
――見てユゥイ。蛍石だよ。
――蛍石? 違うよファイ。蛍石はこんなんじゃないよ。オレ、図鑑で見たもの。フローライトっていうんだよ。オレたちの名前と一緒だね。ほら、これはお月様の石だよ。三日月の形してるでしょ?
――違うもん。だって、蛍がいっぱい光ってるとこで見つけたんだもん。赤いおめめの男の子がね、そう言ってこれをくれたんだ。
――誰? オレ会ってないよ。
――だってユゥイはメダカを探すのに一生懸命だったもん。
――ふぅん。変なのー。
――はい、あげる。
――え?
――これ、ユゥイにあげる。お守りにして、ずっと持っててね。
――でも……ファイがもらったんでしょ?
――いいの。きっとユゥイを守ってくれるよ。だから、あげる。
「やっぱり……守ってくれたの……?」
石を握り締めた手で、そのまま口元を押さえた。嗚咽が漏れる。
死ねなかった。『ファイ』が願いを込めてくれた石が、『ユゥイ』を殺さなかった。
これは幼い日、まだ彼が生きていた頃にくれた石だった。
夏休みに参加した子供会のキャンプで、ファイは誰かからこれを貰ったのだと言って、ユゥイにくれた。
夜には蛍の飛び交う、美しい川原だった。
今にして思えば、ファイにとってはあれが最後の夏だった。きっとまた、今度は家族で来ようねと約束したのに。
「君がこれを……持っててくれたんだね」
ファイは嗚咽が治まると、上手く笑えない口元でそれでも不器用な笑みを浮かべながら言った。
傍らの椅子には黒鋼が座っている。痛みや怒りを堪えるような表情で、ファイを見つめている。
本当は、きっと今にも殴りつけたくて仕方がないはずだ。そうされても仕方のない身勝手なことを、自分はしてしまったのだから。
だが彼はそれをしない。赤い目をした、男の人。
偶然だろうか。きっとそうだ。彼であるはずがない。けれど、黒鋼は押し殺した声で言った。
「夏休みに、家族でキャンプに行った。ガキの頃だ」
「……ッ」
「おまえにそれを見せられたとき、懐かしいと感じた。あんときゃ思い出せなかったが……」
「くろ……」
「あれは……あの川原で会ったのは……おまえか?」
再び涙が込み上げた。嗚咽を堪えて、ファイは緩く首を振る。
こんなことが本当にあるのだろうか。あのとき『ファイ』は、彼に会ったのだ。
そして『ファイ』として生きる自分は、それを知らずに黒鋼と出会った。出会って、恋をした。
けれどこの気持ちは『ファイ』のものではない。
これまでは『ファイ』であり続けることばかりを考えて優先させてきた。例えそれで自分が傷ついたとしても。『ファイ』が穢れるとしても。
それなのにファイは、『ユゥイ』として彼を愛してしまった。
そのことに気がついたとき、本当に恐ろしかった。ずっと守ってきたものから逃げ出してしまいそうで。
だが同様に、黒鋼を思う気持ちからも逃げたくなかった。
だからこそ、己が何者であるかを知りたかった。
彼を愛することで『ファイ』になれなかった、ただの嘘つきな自分を試したかった。
石がなくとも生きていられたら。許されるような気がした。
だけど今の『ユゥイ』は知っている。石なんか関係ない。自分は、許されなければならないような罪など、犯していない。
あのとき『ファイ』がこれを持っていたとしても、彼は死んだだろう。
だってこの石は、『ファイ』が『ユゥイ』だけを守ってくれるようにと、願いを込めた石だから。
「ユゥイ」
「?」
ファイは涙に濡れた頬で笑った。
「オレの名前。本当の、名前だよ」
「そうか……そうだったんだな……」
黒鋼は、ようやく少しだけ笑った。赤い瞳が、僅かに潤んでいる。
「あのね。聞いてほしいことが、いっぱいあるんだ」
「ああ」
「オレの大切な人のこと。もう一人のオレのこと。ファイのことを……」
そして、君への気持ちを。
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大騒ぎになりはしたが黒鋼と共に軽症で戻ってきたファイも、週末をはさんだ翌週には涼しい顔で、たまに足をひょこひょこと引きずっている程度だった。
登山の夜以来、ファイからの個人的な連絡も接触もなく、これまで通りの日々が過ぎていた。
それから十日ほどが経過したある日。
虫の知らせとは、よく言ったものだ。
三時間目の授業が終わり、次の授業へと向かう生徒達とまばらに擦れ違いながら、黒鋼はふと保健室の前で足を止めた。
閉じられた扉の擦りガラスの向こうが薄暗い。
だがそれ自体はなんら気にすることではないはずだった。所要で部屋を開けることだってあるだろうし、普段であれば気にも留めない、些細なこと。
けれど、そのときの黒鋼には、何かが引っかかった。
思わず手を伸ばして、保健室の扉を開ける。中は案の定もぬけの殻で、空気がいやに冷えている。
理由など分からない。胸騒ぎとでもいえばいいのか。
いるはずの場所にいない養護教諭。主のいない、暗くひんやりとした室内。
彼は、いつからいないのか。なぜかそのとき、あの夜の山の中で力なく笑っていたファイの表情がぽっかりと頭に浮かんだ。
弾かれたように、保健室を後にした。道すがら職員室も覗いて、中にファイがいないことを確認する。
いつしか、黒鋼の胸は常時よりも早いスピードで鼓動を刻んでいた。
そして足取りは自然と北校舎への渡り廊下へ向かっていた。
どうしてか、彼の居場所はそこしかないような気がしていた。
***
ここ数日は、また雨が降っていた。
雨の夜はファイのことを想った。すると、不思議と穏やかな気持ちになって、悪夢は訪れなかった。そして眠ることが出来た。
彼は、いるのだろうか。今ではもうすっかり足を運ぶことがなくなった、あの場所に。
黒鋼は逸る気持ちを表情には出さないまま、久しく訪れていなかった屋上のドアを開けた。
微かに雨上がりの香りを乗せた風が、頬を鋭く撫でた。空は高く、そして青く澄んでいる。
黒鋼は案の定、目当ての人物がそこにいるのを見ると、眉間に皺を寄せて足を踏み出した。
「なにしてる」
押し殺した声をかけると、白衣の裾と金髪を風に靡かせたファイが振り向いた。
錆びたフェンスの向こう、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いてから、苦笑した。
「やっぱり凄いね、君。どうしてわかったの?」
「なにしてるって聞いてんだ」
険しい表情で見据えても、フェンスの向こう側にいるファイの笑顔は崩れなかった。
最悪な予感がして、黒鋼は左右を見回した。そしてやや離れた位置に、フェンスの綻びを見つけた。
それは小さな穴だったが、ファイほど身体が細ければ潜り抜けることが可能だろう。そして黒鋼の予感が当たっているとすれば、自らもそれをこじ開けてでも、向こう側に行く必要がある。
「待ってよ」
舌打ちと共にそこに走りだそうとした黒鋼を、ファイが止めた。それから、ひょいと軽い身のこなしで建物の縁に飛び乗った。
「おいてめぇ!! なにする気だ!? ふざけたことしてんじゃねぇぞ!!」
腹の底が一瞬でヒヤリとして、黒鋼は乱暴にフェンスに手をかけて怒鳴った。
けれどそんなものはお構いなしに、ファイは両手を広げるとその狭い縁部分を大道芸人が綱渡りをするかのように歩きだした。
「おい聞いてんのか!?」
「聞いてるよ? っと」
「ッ!?」
まだ完治していない足首が痛んだのか、ファイは一瞬グラリと体勢を崩す。息を呑んだ黒鋼は、一気に血の気が全身から引いてゆくのを感じた。
「危なかったー」
「くだらねぇことしてんなよ……早く戻れ……ッ」
「やぁだ」
相変わらず縁に佇んだまま、ファイは黒鋼の方に身体を向けると両手を後にやってニコリと微笑んだ。
「オレさ、考えたんだ。ちゃんと」
「……だからなんだってんだ」
ファイが言っていることと、この状況のどこに関係があるのか、黒鋼には理解できなかった。
今にもいっそこの高いフェンスを登ってでも連れ戻したい気持ちを、抑えた口調に閉じ込める。下手に動けば、彼は何をしでかすか分からない。だが、このままただ指を咥えて見ていたとしても、結果は同じような気もしていた。
「ごめんね。馬鹿なことしてるよね。分かってるんだ。でもね、オレはずっとこうして生きてきたから、どんなに一生懸命考えたって、今更どうしようもなかった」
彼はどうするつもりなのか。嫌な予感が一向に絶えない。冗談じゃない。
「あのね、こんな風にしか、オレには答えが出せないみたい。でも、もう逃げたくない。だって君は、オレに気づいてくれた。君みたいな人は、初めてだった」
握り締めたフェンスが、ギシリと軋んだ音を立てる。心臓の音が脳内にまで響いていた。混乱をギリギリまで押し込めて、黒鋼は一つ息を呑むと声を絞り出した。
「そうだ。俺にはなんでかてめぇが猫かぶってんのが分かっちまった。だがそれだけだ。今だって、てめぇがしようとしてることのこれっぽっちも分からねぇ」
「あはは……そうだよね。ごめんね」
ファイは力なく首を振った。そして、ちらりと横目に背後を見下ろした。
「おい……ッ」
「こんなに高かったかな。子供の頃は、ぜんぜん平気だったのに」
彼は再び真っ直ぐに黒鋼と向き合うと、酷く穏やかに笑った。
「君は聞いたね。オレが誰なのかって」
金色の髪と、純白の白衣の裾が、風に吹かれて舞い踊る。
それは今にも澄んだ青空の中に融けてしまいそうな気がして、黒鋼は痛みを堪えるような表情で手を伸ばそうとした。
けれど錆付いたフェンスは、彼に触れることさえも許してはくれない。
「オレもずっと考えていた……」
黒鋼は激しく首を左右に振った。こんなにも細く紡がれた無機質な糸が、黒鋼からファイを引き離している。
「もういい。言ったはずだ。てめぇはてめぇだろ……」
「駄目なんだ。それじゃあ、あの子がオレの中からいなくなってしまう」
「あの子……?」
「あの石は、もうない。それでも『オレ』が『オレ』でいられたら……言うよ。本当の気持ち」
「おい待てッ! てめぇ何を!?」
「だからお願い。答え合わせがしたいんだ」
両手を羽のように広げて、ファイは空を仰いだ。目を閉じて、それから独り言のように呟く。
「ごめんねファイ……。オレ、上手くやれなかった……。でも、今ならわかるよ。どうして君が、あのとき……」
誰に向かっての言葉なのだろう。今目の前で馬鹿なことをしようとしている男は、一体誰なのだろう。
黒鋼はただ漠然と感じていた。『ファイ』という人間は、もしかしたら本当はどこにもいなかったのかもしれない、と。
煙のように、幻のように、そして悪夢のように。
消えてしまうことこそが、本来あるべき姿なのだとしたら。
もう二度と。
もう二度と……?
「見てて」
悲しそうな瞳をした白衣の天使が、空に羽ばたいた。
***
――ねぇファイ。どうして君は、あのとき笑ったの?
ファイは物心ついた頃からあまり身体が丈夫ではなく、気の弱いおとなしい性格の子供だった。
対照的にやんちゃで勝気で活発だったのが双子の弟であるユゥイで、よく悪戯をしては叱られることが多かったのも、ユゥイの方だった。
幼い双子はいつも一緒だった。小学校ではクラスは分かれていたが、休み時間や登下校、クラブ活動など片時も側を離れたことはなかった。
けれど友達と活発に遊びまわるのはユゥイで、ファイはいつもそれを離れた位置から眺めていることがほとんどだった。
彼は身体が丈夫ではなかったので、少し激しい運動をするだけで夜中に熱を出すこともあった。
それでも、どんなときでもファイはいつもニコニコと、柔らかく微笑んでいた。
その笑顔はユゥイだけでなく、見るもの全てを幸せにするような、太陽にも似た暖かく眩しいものだった。
「ねぇ、大きくなったら何になるか、ファイはもう決めた?」
寝るときも同じ部屋だった双子は、二つ並んでいるベッドのどちらか片方に、いつも二人で寄り添っていた。
闇の中でユゥイが語りかけると、隣で猫のように丸まっていたファイがモゾリと動く。
「作文のこと?」
「うん、それ」
明日の授業では、将来の夢について書くことになっている。先生が、よく考えてくるようにと帰りの会で言っていた。
「うーん。ボクは、学校の先生になりたい」
「えー。オレだったら大きくなってからも学校なんか行きたくないなぁ」
そう言うと、ファイは少し迷ってしまったようだった。
「じゃあ……じゃあ、動物病院の先生になるよ」
「ファイは先生って呼ばれたいんだ?」
「そういうんじゃないけど……。ねぇユゥイは? ボクばっかりズルイ」
「オレはー……」
ユゥイは天井を見上げた。暗闇の中でもある程度は目が慣れてしまっているため、吊るされている飛行機の模型がぽっかり浮いているのが見えた。
ついこの間までは飛行機のパイロットになりたかったような気がするけれど、今はどうでもいいような気がしている。その前は警察官になりたかったし、その前は電車の車掌になりたかった。
なりたいものが多すぎて、考えれば考えるほど迷ってしまう。
「毎日飽きないくらい、スリル満点な仕事がしたいなぁ……。ほら、山とか海とか冒険したり」
「そんなお仕事ってあるの?」
「ない、のかなぁ……?」
「それに危ないよ。大きな蛇とか……岩が転がってくるかもよ?」
「そんなの平気だよ。やっつけちゃうから。それにオレ足速いし」
大丈夫かなぁ、と心配しているファイに、ユゥイはガバッと起き上がると「そうだ!」と言った。
「こないだテレビでさ、蛇とかカエルを焼いて食べてる人がいたんだ」
「え~、気持ち悪いよ……」
ファイも渋々起き上がる。ユゥイはぴょんと飛び跳ねるようにしてファイと向かい合った。
「だからさ、オレ料理の勉強するよ! そんでやっつけた蛇を、レストランのご飯みたいにちょちょいって料理しちゃうんだ!」
「でも……蛇だよ……?」
「平気平気! オムライスとかに入れちゃえばわかんないよ! ファイにも作ってあげるから!」
「じゃあ、コックさんになるってこと?」
「そう! 世界中を冒険してまわるコックさん!」
ユゥイはその名案に満足しながら笑った。
*
きっかけは朝に弱かったユゥイが、間違えてファイの名前の書かれた名札をつけてしまったことだった。
「ユゥイ、それボクの」
「ん~? あ~? ホントだぁ~」
すぐに取り外そうとして、けれどユゥイはパッと眠気を吹き飛ばした。にんまりとして、ファイが持っている自分の名札を取り上げると彼の胸につけた。
「なにしてるの?」
「いいからいいから」
「ちょっとユゥイ……まさか……」
「そ。今日はオレがファイ。ファイがユゥイ」
そう言うと、ファイは困ったように眉間に皺を寄せる。
「ダメだよそんなの。ぜったいバレちゃうってば」
「合唱の練習でアルトとソプラノ入れ代わったときはバレなかったよ?」
「だってあれは歌ってただけだもん」
「いいからいいからー! ほら、ファイはこっちのランドセルー」
ユゥイは大ハシャギで少し潰れ気味のランドセルをファイに背負わせた。逆にユゥイが、まるで新品のように綺麗なランドセルを背負う。
「ね? 部屋を出たらスタートだから。ちゃんと元気いっぱいで行ってきますって言うんだよ」
「もう……仕方ないなぁ……」
ファイは最後まで嫌そうにしていたが、結局は流されてしまった。
ユゥイは何か忘れているような気がしたが、母でさえも気がつかなかったことに気をよくして、家の門を出た頃には入れ代わりゲームのことで頭がいっぱいになった。
いつもとは違う教室の、違う席に座って授業を受けるのはスリルがあった。
担任の先生ももちろん気づくことはなく、ファイの名前を呼ばれたユゥイは控えめな声のトーンで返事をした。
ファイがどんな風に振舞うかは熟知していたので、例え当てられた問題に答えられなくても、どうとでも誤魔化せる。
作文も、昨夜ファイが言っていた動物病院の先生と、学校の先生のことをどちらも書いた。
(ファイも、うまくやってるかなぁ?)
休み時間が待ち遠しくて、ユゥイは頬がにんまりするのを堪えるのに必死だった。
けれど、あんなに待ち遠しかった休み時間の途中、ユゥイは辺りにバレないよう密かに唇を尖らせることになった。
友達と追いかけっこをして廊下ではしゃぐのも、校庭でキャッチボールをするのも、今日の自分はそれが出来ない。
ファイに成りすましているユゥイは、ただそれを笑いながら見ているだけだった。
廊下の壁によりかかって、走り回っている友達とファイを眺めた。ファイは最初は嫌がっていたのが嘘のように、ユゥイになりきって走り回っている。
(ちぇー、ファイってば。本当はあんなに走れるじゃん)
頬を赤く上気させたファイは、キャアキャアと高い声を上げて笑っていた。走り回るよりは本を読んでいる方が好きな普段の彼とは、まるで別人だ。
(当たり前かー。別人なんだもん。今のオレたち……)
小さく溜息をつきながら、それでも楽しそうに動き回るファイを見るのは嬉しかった。
自分も一緒になって大声を出して走りたい。廊下を走るなと先生に怒られて、悲鳴を上げながら逃げたりしたい。
そして思う。
(ファイは、オレを見ていつもこんな風に思っていたのかな)
ファイは身体が弱いから、もしかしたらはしゃぎすぎて今日の夜には熱を出すかもしれない。それでも、死ぬほどのことではないのだから、今だけはいいかと思った。
給食が終わると、皆で旧校舎の屋上へ行こうという話になった。
そこは普段は立ち入り禁止だったが、実はずっと前から裏口の鍵が壊れている。旧校舎は新校舎の真裏にあり、上手い具合に屋上に人がいても校庭からは見えない。悪ガキたちの格好の遊び場だった。
ユゥイは、友人達に先に行っててと言った。そしてファイを連れてトイレに入ると、人気がないのを確認した。
「ユゥイ、どうかした?」
「今から屋上だって」
「うん。早く行こうよ」
「この遊び、もうやめよ?」
そう言うと、ファイが顔を曇らせる。
「どうして? ボク……あ、オレ、ちゃんと上手くやれてるでしょ?」
「でも、屋上に行くと危ないことして遊ぶでしょ……? ファイには無理だよ」
「そんなことない!!」
「!」
それは、ユゥイが初めて聞くファイの感情的な声だった。頬を赤くして、眉間にぎゅっと皺を寄せながら眉を吊り上げている。
そんな顔を見たのも初めてで、思わずビクリと肩を震わせた。怯えるユゥイの反応を見て、ファイがはっとする。そして、少し泣きそうな顔をした。
「ぁ……ごめん。ごめんねユゥイ……」
「うん……オレ、じゃなくて、ボクもごめん……」
微妙な空気が流れたところで、他の学年の生徒が数名トイレに入ってきた。ユゥイはファイに手を引かれてその場を出る。
騒がしい廊下を並んで手を繋いで歩きながら、ファイが小声で言った。
「作文、ユゥイが言ってたとおりのこと、書いたよ」
「オ……、ボクも、書いた。動物の先生と、ガッコの先生、どっちも書いたよ」
「ありがと」
「うん」
上靴のままで体育館へと続く校庭脇の渡り廊下から外へ出た。
皆はもう、とっくに旧校舎に行っているだろう。
屋上へ行くと、決まってやる危険な遊びがある。このまま名札を代えずに行けば、きっとファイにも出番が回って来てしまう。
「ファイ……あの」
「ユゥイ」
今は週に数回のクラブ活動でしか使われていない旧校舎にたどり着き、裏口から中に入ると、ユゥイの声を遮ってファイが言った。
「今日だけ、お願い。あのね、ボク……本当はずっとユゥイみたいになりたかったの」
「でも……」
「お願い」
ユゥイは迷った。けれど、ファイが今にも泣きそうな顔で強く手を握ってくるので、思わず口を噤んだ。
「ありがとう!」
すると、ファイは嬉しそうに笑って走り出した。そのとき、握っていた手が外された。
「あ、待ってよファ……ユゥイ!」
「オレ、先に行ってるから!」
そう言って、ユゥイになりきったファイは階段を上って行ってしまった。
慌てて追いかけようとして、そこでユゥイはずっと忘れていたことを思い出した。
(そうだ! 蛍石を渡さなきゃ……!)
それは御守りの石だった。どんなにヤンチャな遊びをしても、この石があったからユゥイは今まで一度も大きな怪我をしないで済んだ。
今は自分が『ファイ』だから、これを持っていなければならないのは『ユゥイ』なのだ。
「ユゥイ! 待って!!」
――待って。待ってよユゥイ。ボクを置いて、行かないで。
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登山の夜以来、ファイからの個人的な連絡も接触もなく、これまで通りの日々が過ぎていた。
それから十日ほどが経過したある日。
虫の知らせとは、よく言ったものだ。
三時間目の授業が終わり、次の授業へと向かう生徒達とまばらに擦れ違いながら、黒鋼はふと保健室の前で足を止めた。
閉じられた扉の擦りガラスの向こうが薄暗い。
だがそれ自体はなんら気にすることではないはずだった。所要で部屋を開けることだってあるだろうし、普段であれば気にも留めない、些細なこと。
けれど、そのときの黒鋼には、何かが引っかかった。
思わず手を伸ばして、保健室の扉を開ける。中は案の定もぬけの殻で、空気がいやに冷えている。
理由など分からない。胸騒ぎとでもいえばいいのか。
いるはずの場所にいない養護教諭。主のいない、暗くひんやりとした室内。
彼は、いつからいないのか。なぜかそのとき、あの夜の山の中で力なく笑っていたファイの表情がぽっかりと頭に浮かんだ。
弾かれたように、保健室を後にした。道すがら職員室も覗いて、中にファイがいないことを確認する。
いつしか、黒鋼の胸は常時よりも早いスピードで鼓動を刻んでいた。
そして足取りは自然と北校舎への渡り廊下へ向かっていた。
どうしてか、彼の居場所はそこしかないような気がしていた。
***
ここ数日は、また雨が降っていた。
雨の夜はファイのことを想った。すると、不思議と穏やかな気持ちになって、悪夢は訪れなかった。そして眠ることが出来た。
彼は、いるのだろうか。今ではもうすっかり足を運ぶことがなくなった、あの場所に。
黒鋼は逸る気持ちを表情には出さないまま、久しく訪れていなかった屋上のドアを開けた。
微かに雨上がりの香りを乗せた風が、頬を鋭く撫でた。空は高く、そして青く澄んでいる。
黒鋼は案の定、目当ての人物がそこにいるのを見ると、眉間に皺を寄せて足を踏み出した。
「なにしてる」
押し殺した声をかけると、白衣の裾と金髪を風に靡かせたファイが振り向いた。
錆びたフェンスの向こう、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いてから、苦笑した。
「やっぱり凄いね、君。どうしてわかったの?」
「なにしてるって聞いてんだ」
険しい表情で見据えても、フェンスの向こう側にいるファイの笑顔は崩れなかった。
最悪な予感がして、黒鋼は左右を見回した。そしてやや離れた位置に、フェンスの綻びを見つけた。
それは小さな穴だったが、ファイほど身体が細ければ潜り抜けることが可能だろう。そして黒鋼の予感が当たっているとすれば、自らもそれをこじ開けてでも、向こう側に行く必要がある。
「待ってよ」
舌打ちと共にそこに走りだそうとした黒鋼を、ファイが止めた。それから、ひょいと軽い身のこなしで建物の縁に飛び乗った。
「おいてめぇ!! なにする気だ!? ふざけたことしてんじゃねぇぞ!!」
腹の底が一瞬でヒヤリとして、黒鋼は乱暴にフェンスに手をかけて怒鳴った。
けれどそんなものはお構いなしに、ファイは両手を広げるとその狭い縁部分を大道芸人が綱渡りをするかのように歩きだした。
「おい聞いてんのか!?」
「聞いてるよ? っと」
「ッ!?」
まだ完治していない足首が痛んだのか、ファイは一瞬グラリと体勢を崩す。息を呑んだ黒鋼は、一気に血の気が全身から引いてゆくのを感じた。
「危なかったー」
「くだらねぇことしてんなよ……早く戻れ……ッ」
「やぁだ」
相変わらず縁に佇んだまま、ファイは黒鋼の方に身体を向けると両手を後にやってニコリと微笑んだ。
「オレさ、考えたんだ。ちゃんと」
「……だからなんだってんだ」
ファイが言っていることと、この状況のどこに関係があるのか、黒鋼には理解できなかった。
今にもいっそこの高いフェンスを登ってでも連れ戻したい気持ちを、抑えた口調に閉じ込める。下手に動けば、彼は何をしでかすか分からない。だが、このままただ指を咥えて見ていたとしても、結果は同じような気もしていた。
「ごめんね。馬鹿なことしてるよね。分かってるんだ。でもね、オレはずっとこうして生きてきたから、どんなに一生懸命考えたって、今更どうしようもなかった」
彼はどうするつもりなのか。嫌な予感が一向に絶えない。冗談じゃない。
「あのね、こんな風にしか、オレには答えが出せないみたい。でも、もう逃げたくない。だって君は、オレに気づいてくれた。君みたいな人は、初めてだった」
握り締めたフェンスが、ギシリと軋んだ音を立てる。心臓の音が脳内にまで響いていた。混乱をギリギリまで押し込めて、黒鋼は一つ息を呑むと声を絞り出した。
「そうだ。俺にはなんでかてめぇが猫かぶってんのが分かっちまった。だがそれだけだ。今だって、てめぇがしようとしてることのこれっぽっちも分からねぇ」
「あはは……そうだよね。ごめんね」
ファイは力なく首を振った。そして、ちらりと横目に背後を見下ろした。
「おい……ッ」
「こんなに高かったかな。子供の頃は、ぜんぜん平気だったのに」
彼は再び真っ直ぐに黒鋼と向き合うと、酷く穏やかに笑った。
「君は聞いたね。オレが誰なのかって」
金色の髪と、純白の白衣の裾が、風に吹かれて舞い踊る。
それは今にも澄んだ青空の中に融けてしまいそうな気がして、黒鋼は痛みを堪えるような表情で手を伸ばそうとした。
けれど錆付いたフェンスは、彼に触れることさえも許してはくれない。
「オレもずっと考えていた……」
黒鋼は激しく首を左右に振った。こんなにも細く紡がれた無機質な糸が、黒鋼からファイを引き離している。
「もういい。言ったはずだ。てめぇはてめぇだろ……」
「駄目なんだ。それじゃあ、あの子がオレの中からいなくなってしまう」
「あの子……?」
「あの石は、もうない。それでも『オレ』が『オレ』でいられたら……言うよ。本当の気持ち」
「おい待てッ! てめぇ何を!?」
「だからお願い。答え合わせがしたいんだ」
両手を羽のように広げて、ファイは空を仰いだ。目を閉じて、それから独り言のように呟く。
「ごめんねファイ……。オレ、上手くやれなかった……。でも、今ならわかるよ。どうして君が、あのとき……」
誰に向かっての言葉なのだろう。今目の前で馬鹿なことをしようとしている男は、一体誰なのだろう。
黒鋼はただ漠然と感じていた。『ファイ』という人間は、もしかしたら本当はどこにもいなかったのかもしれない、と。
煙のように、幻のように、そして悪夢のように。
消えてしまうことこそが、本来あるべき姿なのだとしたら。
もう二度と。
もう二度と……?
「見てて」
悲しそうな瞳をした白衣の天使が、空に羽ばたいた。
***
――ねぇファイ。どうして君は、あのとき笑ったの?
ファイは物心ついた頃からあまり身体が丈夫ではなく、気の弱いおとなしい性格の子供だった。
対照的にやんちゃで勝気で活発だったのが双子の弟であるユゥイで、よく悪戯をしては叱られることが多かったのも、ユゥイの方だった。
幼い双子はいつも一緒だった。小学校ではクラスは分かれていたが、休み時間や登下校、クラブ活動など片時も側を離れたことはなかった。
けれど友達と活発に遊びまわるのはユゥイで、ファイはいつもそれを離れた位置から眺めていることがほとんどだった。
彼は身体が丈夫ではなかったので、少し激しい運動をするだけで夜中に熱を出すこともあった。
それでも、どんなときでもファイはいつもニコニコと、柔らかく微笑んでいた。
その笑顔はユゥイだけでなく、見るもの全てを幸せにするような、太陽にも似た暖かく眩しいものだった。
「ねぇ、大きくなったら何になるか、ファイはもう決めた?」
寝るときも同じ部屋だった双子は、二つ並んでいるベッドのどちらか片方に、いつも二人で寄り添っていた。
闇の中でユゥイが語りかけると、隣で猫のように丸まっていたファイがモゾリと動く。
「作文のこと?」
「うん、それ」
明日の授業では、将来の夢について書くことになっている。先生が、よく考えてくるようにと帰りの会で言っていた。
「うーん。ボクは、学校の先生になりたい」
「えー。オレだったら大きくなってからも学校なんか行きたくないなぁ」
そう言うと、ファイは少し迷ってしまったようだった。
「じゃあ……じゃあ、動物病院の先生になるよ」
「ファイは先生って呼ばれたいんだ?」
「そういうんじゃないけど……。ねぇユゥイは? ボクばっかりズルイ」
「オレはー……」
ユゥイは天井を見上げた。暗闇の中でもある程度は目が慣れてしまっているため、吊るされている飛行機の模型がぽっかり浮いているのが見えた。
ついこの間までは飛行機のパイロットになりたかったような気がするけれど、今はどうでもいいような気がしている。その前は警察官になりたかったし、その前は電車の車掌になりたかった。
なりたいものが多すぎて、考えれば考えるほど迷ってしまう。
「毎日飽きないくらい、スリル満点な仕事がしたいなぁ……。ほら、山とか海とか冒険したり」
「そんなお仕事ってあるの?」
「ない、のかなぁ……?」
「それに危ないよ。大きな蛇とか……岩が転がってくるかもよ?」
「そんなの平気だよ。やっつけちゃうから。それにオレ足速いし」
大丈夫かなぁ、と心配しているファイに、ユゥイはガバッと起き上がると「そうだ!」と言った。
「こないだテレビでさ、蛇とかカエルを焼いて食べてる人がいたんだ」
「え~、気持ち悪いよ……」
ファイも渋々起き上がる。ユゥイはぴょんと飛び跳ねるようにしてファイと向かい合った。
「だからさ、オレ料理の勉強するよ! そんでやっつけた蛇を、レストランのご飯みたいにちょちょいって料理しちゃうんだ!」
「でも……蛇だよ……?」
「平気平気! オムライスとかに入れちゃえばわかんないよ! ファイにも作ってあげるから!」
「じゃあ、コックさんになるってこと?」
「そう! 世界中を冒険してまわるコックさん!」
ユゥイはその名案に満足しながら笑った。
*
きっかけは朝に弱かったユゥイが、間違えてファイの名前の書かれた名札をつけてしまったことだった。
「ユゥイ、それボクの」
「ん~? あ~? ホントだぁ~」
すぐに取り外そうとして、けれどユゥイはパッと眠気を吹き飛ばした。にんまりとして、ファイが持っている自分の名札を取り上げると彼の胸につけた。
「なにしてるの?」
「いいからいいから」
「ちょっとユゥイ……まさか……」
「そ。今日はオレがファイ。ファイがユゥイ」
そう言うと、ファイは困ったように眉間に皺を寄せる。
「ダメだよそんなの。ぜったいバレちゃうってば」
「合唱の練習でアルトとソプラノ入れ代わったときはバレなかったよ?」
「だってあれは歌ってただけだもん」
「いいからいいからー! ほら、ファイはこっちのランドセルー」
ユゥイは大ハシャギで少し潰れ気味のランドセルをファイに背負わせた。逆にユゥイが、まるで新品のように綺麗なランドセルを背負う。
「ね? 部屋を出たらスタートだから。ちゃんと元気いっぱいで行ってきますって言うんだよ」
「もう……仕方ないなぁ……」
ファイは最後まで嫌そうにしていたが、結局は流されてしまった。
ユゥイは何か忘れているような気がしたが、母でさえも気がつかなかったことに気をよくして、家の門を出た頃には入れ代わりゲームのことで頭がいっぱいになった。
いつもとは違う教室の、違う席に座って授業を受けるのはスリルがあった。
担任の先生ももちろん気づくことはなく、ファイの名前を呼ばれたユゥイは控えめな声のトーンで返事をした。
ファイがどんな風に振舞うかは熟知していたので、例え当てられた問題に答えられなくても、どうとでも誤魔化せる。
作文も、昨夜ファイが言っていた動物病院の先生と、学校の先生のことをどちらも書いた。
(ファイも、うまくやってるかなぁ?)
休み時間が待ち遠しくて、ユゥイは頬がにんまりするのを堪えるのに必死だった。
けれど、あんなに待ち遠しかった休み時間の途中、ユゥイは辺りにバレないよう密かに唇を尖らせることになった。
友達と追いかけっこをして廊下ではしゃぐのも、校庭でキャッチボールをするのも、今日の自分はそれが出来ない。
ファイに成りすましているユゥイは、ただそれを笑いながら見ているだけだった。
廊下の壁によりかかって、走り回っている友達とファイを眺めた。ファイは最初は嫌がっていたのが嘘のように、ユゥイになりきって走り回っている。
(ちぇー、ファイってば。本当はあんなに走れるじゃん)
頬を赤く上気させたファイは、キャアキャアと高い声を上げて笑っていた。走り回るよりは本を読んでいる方が好きな普段の彼とは、まるで別人だ。
(当たり前かー。別人なんだもん。今のオレたち……)
小さく溜息をつきながら、それでも楽しそうに動き回るファイを見るのは嬉しかった。
自分も一緒になって大声を出して走りたい。廊下を走るなと先生に怒られて、悲鳴を上げながら逃げたりしたい。
そして思う。
(ファイは、オレを見ていつもこんな風に思っていたのかな)
ファイは身体が弱いから、もしかしたらはしゃぎすぎて今日の夜には熱を出すかもしれない。それでも、死ぬほどのことではないのだから、今だけはいいかと思った。
給食が終わると、皆で旧校舎の屋上へ行こうという話になった。
そこは普段は立ち入り禁止だったが、実はずっと前から裏口の鍵が壊れている。旧校舎は新校舎の真裏にあり、上手い具合に屋上に人がいても校庭からは見えない。悪ガキたちの格好の遊び場だった。
ユゥイは、友人達に先に行っててと言った。そしてファイを連れてトイレに入ると、人気がないのを確認した。
「ユゥイ、どうかした?」
「今から屋上だって」
「うん。早く行こうよ」
「この遊び、もうやめよ?」
そう言うと、ファイが顔を曇らせる。
「どうして? ボク……あ、オレ、ちゃんと上手くやれてるでしょ?」
「でも、屋上に行くと危ないことして遊ぶでしょ……? ファイには無理だよ」
「そんなことない!!」
「!」
それは、ユゥイが初めて聞くファイの感情的な声だった。頬を赤くして、眉間にぎゅっと皺を寄せながら眉を吊り上げている。
そんな顔を見たのも初めてで、思わずビクリと肩を震わせた。怯えるユゥイの反応を見て、ファイがはっとする。そして、少し泣きそうな顔をした。
「ぁ……ごめん。ごめんねユゥイ……」
「うん……オレ、じゃなくて、ボクもごめん……」
微妙な空気が流れたところで、他の学年の生徒が数名トイレに入ってきた。ユゥイはファイに手を引かれてその場を出る。
騒がしい廊下を並んで手を繋いで歩きながら、ファイが小声で言った。
「作文、ユゥイが言ってたとおりのこと、書いたよ」
「オ……、ボクも、書いた。動物の先生と、ガッコの先生、どっちも書いたよ」
「ありがと」
「うん」
上靴のままで体育館へと続く校庭脇の渡り廊下から外へ出た。
皆はもう、とっくに旧校舎に行っているだろう。
屋上へ行くと、決まってやる危険な遊びがある。このまま名札を代えずに行けば、きっとファイにも出番が回って来てしまう。
「ファイ……あの」
「ユゥイ」
今は週に数回のクラブ活動でしか使われていない旧校舎にたどり着き、裏口から中に入ると、ユゥイの声を遮ってファイが言った。
「今日だけ、お願い。あのね、ボク……本当はずっとユゥイみたいになりたかったの」
「でも……」
「お願い」
ユゥイは迷った。けれど、ファイが今にも泣きそうな顔で強く手を握ってくるので、思わず口を噤んだ。
「ありがとう!」
すると、ファイは嬉しそうに笑って走り出した。そのとき、握っていた手が外された。
「あ、待ってよファ……ユゥイ!」
「オレ、先に行ってるから!」
そう言って、ユゥイになりきったファイは階段を上って行ってしまった。
慌てて追いかけようとして、そこでユゥイはずっと忘れていたことを思い出した。
(そうだ! 蛍石を渡さなきゃ……!)
それは御守りの石だった。どんなにヤンチャな遊びをしても、この石があったからユゥイは今まで一度も大きな怪我をしないで済んだ。
今は自分が『ファイ』だから、これを持っていなければならないのは『ユゥイ』なのだ。
「ユゥイ! 待って!!」
――待って。待ってよユゥイ。ボクを置いて、行かないで。
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10月上旬、黒鋼は高校の年間行事である秋山登山に、生徒達の引率として同行していた。
遠足気分で最初は元気を持て余していた生徒達だったが、開始からものの数十分でウンザリと表情を曇らせるものも少なくなかった。
早朝に出発し、清々しい秋晴れの空の下で見事に色づいた紅葉を眺めながら山頂で昼食を摂り、何事もなければ陽が沈む前には余裕で下山できるはずだった。
実際、黒鋼がすっかりダレきった生徒達に喝を入れつつ下山できたのは、予定の時刻よりも幾分か早かった。
宿泊施設の駐車場広場で、早くに下山した生徒達がぐったりとコンクリートの上に寝そべったり、座りこんでいる。
「ったく、どいつもこいつもだらしねぇな……」
腕を組んでそれを険しい表情で見つめていた黒鋼は、小声でボソリと呟いた。
「先生がタフすぎるんじゃないですか?」
すると、すぐ側で小龍がさらりと返す。足を伸ばして座りこんでいるわりには表情は涼しげだ。単にこの状況に飽きてしまったのだろう。
「うるせぇぞ。しゃんとしろ、しゃんと」
不機嫌に返しつつ、腕時計を見た。
この後、点呼を取ってから休憩を挟み、施設で食事を取るプランになっている。この調子で足並みが揃わなければ、時間が押すことになるかもしれない。
まばらに下山してくる者たちに少々苛立ちながらも、黒鋼は空を見上げて眉間の皺を深くした。
晴天だったはずの空模様が、少しばかり怪しくなっていた。
不穏な色合いの雲が、オレンジ色の夕陽を遮っていく。黒鋼は一つ舌を打つと、辺りの面々に施設へ先に入るように指示を出した。
ほとんどの生徒は戻っているようだが、まだ姿を見せない者がいる。
ファイだ。彼もまた引率者の一人だった。
(あのへなちょこに登山はちっときつかったかもな)
そうはいっても、彼は視界に入るたび涼しげな顔で女子生徒等と談笑しながら楽しんでいたようだが。
そんな様子を見ると相変わらずいい気はしなかったが、あの夏の出来事からすれば黒鋼はだいぶ立ち直ることが出来ていた。
何しろクヨクヨしたからといってどうなる問題でもないということに、案外早く気がついたからだった。
以来、出来る限りあの男のことは考えないようにしている。仕事の都合で顔を合わせるのは仕方ないにしろ、未練がましく思い続けるのもはっきり言って馬鹿馬鹿しい。
「あの、黒鋼先生……!」
そのとき、下山してきた最後の一団の中から、ピンク色のレインウェアを着込んだサクラが小走りに駆けて来た。不安そうな表情の彼女の隣には、小狼が付き添っている。両者共、顔色に疲れが滲みきっていた。
「遅いぞ二人とも」
だるそうに立ち上がった小龍に、小狼が「ごめん」と言った。
「どうした」
「ファイ先生、遅れて下りてくると思うんですけど……心配で……」
「あ? あいつ、へばって動けなくなったか?」
登山コースの入り口に目を向ける。だが、もはや誰も降りて来る様子がない。
表情を険しくする黒鋼に、サクラが「どうしよう……」と呟く。
「おい、あいつがどうした」
「さくらが御守りを落としてしまったんです。おれが取りに行こうと思ったんですけど、ファイ先生が先に行けって……」
「ごめんなさい……わたし、いいって言ったんですけど……」
俯くサクラの肩を、小狼が抱いた。
「……わかった」
黒鋼は短く返事をした。彼らからのそれ以上の説明は不要だった。
*
ひとまず詳しい事情と、万が一陽が沈んでも戻らなかった場合のことを他の教師に伝えるよう、三人に頼むと黒鋼は再び山を登った。
焦らずとも、どうせ何でもないことのようにケロリとした顔で帰ってくるだろうとは思った。けれど、怪しげな雲行きが黒鋼をどうしようもなく駆り立てていた。
何もなければそれに越したことはない。だが、それでも、もし何かあったとしたら。
それを思うと焦りばかりが先行して、いてもたってもいられなかった。
迫り来る曇天の下、鬱蒼と茂る木々が容赦なく視界を狭めようとしている。
登山コースとしてある程度は整備されている道でも、デコボコとした感触に足元を取られそうになる。
手にしている小型の懐中電灯も、役に立っているのかいないのか微妙なところだ。
「あの馬鹿」
もう何に対しての苛立ちなのか分からなくなりながら、黒鋼は走った。嫌な気配がする。それは黒鋼が最も嫌う、雨の香りと共に鼻先と脳裏を掠めた。
ポツリと音を立てて、何かが黒のダウンジャケットに弾かれた。それを皮切りに、冷たいそれがまばらに降り注ぐ。
ついに、降りだした。
雨は大嫌いだ。思い出したくないことを思い出してしまうから。知りたくもない現実を知らされてしまうから。
大切な人を、奪うから。
そう、あの日も、こんな風に唐突に天候が崩れた。
夏休み、親子でキャンプを楽しんだ帰り道。
激しく左右に動くワイパー。その忙しない音。それでも叩きつける豪雨に視界が開けることはなく、車体やガラスを叩く攻撃的な雨音に、幼い黒鋼は後部座席で震えていた。
――どうした黒鋼。怖いのか?
父が前方を注意深く見ながら陽気に言った。
――ふふ、大丈夫よ。山を下りれば、少しはおさまるわ。
助手席の母が、優しく笑っていた。
――ねぇあなた。そうでしょう? ちゃんと前を見てね。スピードは出さないで。ほら、その先のカーブは少しきついわ。
――黒鋼の心配性はおまえ譲りだな。俺はいつだって安全運転さ。おまえ達を乗せているときは特にそうだ。そうだろう黒鋼。おまえだって知ってるだろう? ぶつけられることはあっても、ぶつけたことなんか一度もないんだ。
一度も。
一瞬の光と、耳をつんざく激しいブレーキ音。短い母の悲鳴。衝撃。
対向車線からやって来た大型のトラックは、急なカーブを曲がりきれずに激しく車と接触した。
そこから、一体何がどうなったのか、黒鋼は思い出せない。
気がつけば砂利の上にいた。車が横転していた。膝小僧とこめかみから血が流れて、酷く痛んでいた。
そして片腕だけになってしまった父。ゴム人形のようになってしまった母。つい今しがたまで笑っていた人たち。大切な人たち。
来年の夏休みには、きっとまたキャンプをしに来ようと約束をした。来年はもっと大きな魚を釣ろう。来年こそカブトムシを見つけよう。
そんな幸せな約束と共に、彼らを永遠に失ったのだということ以外、何も。
黒鋼は足を止める。息を荒げながら、足元に打ち捨てられたかのように置き去りにされている、サックを呆然と見つめる。
これはファイが背負っていたものだ。けれど、肝心の持ち主がどれほど辺りを見回しても姿が見えない。
「おい!! どこにいる!? いるなら声を出せ!!」
雨が木々を叩く音がする。耳を澄ましても、それ以外の音は聞こえない。
下がる一方の気温以外にも、黒鋼は全身が手足の先から冷え切っていくのを感じた。
喉が渇いて、ごくりと喉を鳴らした。
そこで、黒鋼は視界の隅に背の低い木々が一部分だけなぎ倒されているのを捉えた。
はっとして駆け寄りライトで照らせば、その先に急な傾斜が続いているのが確認できた。さらに目を凝らすと、同じようになぎ倒された細い木々がぐねぐねと下方へ向かって伸びていることが分かる。
「落ちたのか……!?」
それは明らかだった。おそらくこの下にファイがいる。生きているのか、死んでいるのかは分からないけれど。
ほぼ陽は落ちている。一度引き返すか、あるいはこのまま待っていれば助けがやって来るとは思った。
だが、そんな悠長な真似が出来るほど、黒鋼は冷静ではいられなかった。
***
雨でぬかるみはじめた傾斜は滑りやすく、気を抜けばあっという間に転がり落ちてしまいそうだった。
右手にライトのストラップをかけてしっかりと持ち、慎重に姿勢を低くし、足元に注意しながら枝や草の根を掴んでゆっくりと下りてゆく。
時折ズルリと先の方へ延ばしている片足が滑り、ヒヤリとしながらも下降していけば、足先が宙を切る感覚を覚えて黒鋼はその場で止まる。
ライトを強く掴みなおし、そっと覗きこむようにして前方を照らせば、そこは地面がぷっつりと途切れていた。
その先は小高い崖になっていた。だが比較的近い位置に開けた枯れ草だらけの地面が見える。
高さはせいぜい2メートル弱といったところか。この分ならなんとかなる。
黒鋼は、体勢を整えるとそこから一気に滑り落ちるようにして、そして着地した。
枯葉がクッションとなり、思った以上に衝撃は軽い。息をつき、たった今下りてきた崖と傾斜をライトで照らし、改めて眺める。傾斜そのものはゆるやかだが、上から一気に転がり落ちたとなると果たして無事かどうか。
「おい!! いるか!?」
辺りを忙しなくライトで照らし、声を張り上げる。
もはや完全に闇に閉ざされた空間に、雨音とその声がこだました。
「いるなら返事をしろ!!」
「……たん?」
「!?」
「くろがねせんせぇ?」
「どこだ!? 無事なんだな!?」
「……こっち。こっちにいます」
小さいが、それは確かにファイの声だった。
こっち、という声を頼りに崖沿いを足早に進めば、雨を含んだ枯葉の絨毯が湿った音を立てる。
やがて前方に、ゆらゆらと揺れる白いものがぼんやりと見えた。改めてそれをライトで照らす。
「こっちです」
随分と薄汚れていたが、揺れているそれは黒鋼を手招く白いフリースの腕だった。
「黒鋼先生」
大股で枯葉を踏みながら辿りつくと、そこには両足を投げ出したファイが崖の僅かに抉れて出来上がった空洞の中に座りこんでいた。
彼は黒鋼の姿を見ると、泥で汚れた頬でふんわりと微笑んだ。
「来てくれたんですね」
「てめぇ……」
焦りや不安が安堵に変わると、残されたのは激しい怒りだった。けれど実際、無事だった彼とこうして対面しても何も言葉が浮かばない。
見つけ出したら思い切り怒鳴りつけて、一発ぶん殴ってやろうと考えていたはずなのに。
けれど感情の度合いが大きすぎると、それが怒りであろうが悲しみであろうが、すんなりと外には出てこないものだ。
ただ拳を震わせて鬼の形相を浮かべる黒鋼に、ファイは目を丸くした。やがて黒鋼が座りこむ彼に向かって屈みこみ、膝をつくと殴られるとでも思ったのか、目をきゅっと瞑った。
「ばかやろうが……ッ」
だが、黒鋼は彼を殴らなかった。低く唸るような声でささやかになじっただけで、あとは冷え切った身体を思い切り抱きしめた。
幾重か着込んでいるはずのその身体は、それでも腕の中にすっぽりと納まり、その呼吸が耳元を掠めると、黒鋼は震える息を吐き出した。
「ばかやろう……」
激しい怒りも、抱きしめる腕に力を込めれば込めるほど、込み上げる安堵によって覆われてしまった。
彼は生きていた。無事だった。奪われずに済んだ。失わずに、済んだ。
「黒たん……?」
ファイは懐かしい呼び方で黒鋼を呼ぶと、おずおずと背中に腕を回し、「ごめんね」と言った。
*
狭い空洞の中に二人で身体を押し込めるようにして寄り添って、寒さと雨をしのぐ。
小さな崖と傾斜さえ上ってしまえば登山コースに出られるはずだが、この天候と心許ないライトの明りだけではあまりにも危険すぎる。
なにより、ファイは片足を動かすことが出来ないのだ。
誤って足を踏み外した彼はそのまま転がり、案の定あの崖から派手に落ちた。高さこそ差ほどではないにしろ、彼は着地に失敗して左足を酷く捻ってしまった。
「サクラちゃんの御守りが、あの傾斜に引っかかってるのを見つけたんだ。危ないなぁとは思ったけど、身体が勝手に動いちゃったんだよね」
「てめぇみてぇな奴にもまだ良心が残ってたんだな」
「相変わらず酷い言い草だなぁ」
ファイが身体を揺らして笑うと、黒鋼にもその振動が伝わった。
脇に置いてあるライトの仄かな明りが、ファイの吐き出す息の白さを知らせている。
黒鋼は、こうして再び彼と『会話』している自分が不思議でならなかった。
もう決してファイとこうして話すことも、よそ行きじゃない笑顔を見ることも無いと思っていたから。
「なんか久しぶりだね。こういうの」
それはファイも同じだったのか、一通り笑ったあとにほんの少しだけ困ったような顔を見せた。
「ちゃんと拾えたのか。その、御守りってやつは」
「あ、うん。ほら」
フリースの懐を探ってファイが取り出したそれは、小さな赤い御守りだった。健康祈願と金色の刺繍が施されたそれを、手の平に乗せて見せてくれる。
「サクラちゃんはいいって言ったんだけどね。これは初詣に小狼君と買いにいったお揃いの御守りだったんだって。小狼君は青で、小龍君が緑色なんだよ」
手の平にちょこんと乗った御守りを、ファイがそっと握った。それから、少しだけ表情を曇らせる。
「どうした」
「……うぅん。いいんだ」
話したがらない様子のファイだったが、黒鋼が無言で見つめ続けると「あはは」と苦笑した。
「オレの御守りがね、逆になくなっちゃったんだよ」
「あの石か」
「うん。落ちたときに、どこかにいっちゃったみたい」
ファイはさくらの御守りを再び懐に仕舞う。
黒鋼は、あの夏の夜に彼が見せてくれた月の形の石を思い浮かべた。どこか感情を揺さぶられるような、懐かしさを纏った石だった。
それを、大切な人からもらったものだとファイは言っていた。これがあれば、自分は死なないのだとも。
「だったら、あの石がてめぇを守ったんだな」
「え……?」
目を丸く見開いたファイと、間近に視線を合わせる。
「身代わりになったんだろ。あれがなけりゃ、今頃は怪我だけじゃすまなかったかもしれねぇな」
「……そっか」
茫然と呟いたファイは、俯いてそっと静かに瞳を閉じた。それから、緩く顔を上げると悲しげに微笑んだ。
「きっとそうだね……」
「そんなに」
「ん?」
「……いや。よほど大事なもんなんだなと思っただけだ」
「そりゃあそうだよ。だって、大切な人がくれたんだもの」
でも、とファイは続ける。
「その人は、もうこの世にはいないんだけどね」
「……」
「すっきりした?」
「あ?」
悪戯ッ子のように下から覗き込んでくるファイに、むっと顔を顰める。けれど悪態をつく気にはなれなかった。
死んだと聞かされて、スッキリするもなにもない。この男への気持ちはとっくに封印していたはずだった。
けれど、黒鋼は気がつけばファイの汚れた頬に、同じく泥に汚れた指先を伸ばしていた。思っていたよりもずっと、それは温かな感触で黒鋼の手によく馴染む。
なぜだとか、どうしてだとかいう疑問や、それに対する理屈めいたものが酷く遠い場所にある。
もう二度と触れられないと思っていたその肌と、透き通るようなブルーに吸い込まれそうだった。
ファイがそっと目蓋を伏せて、待ちわびるような睫毛の震えを見た瞬間には、黒鋼は彼に口付けていた。
「ん……」
軽く触れるだけに留まらず、気がつけば久しく忘れかけていたその温かな唇を深く味わっていた。ファイの指先が黒鋼のジャケットの袖に触れて、指先できゅっと掴む。
押せば応えるその柔らかな舌に眩暈がした。これ以上はマズイと己を奮い立たせて唇を離せば、頬をほのかに赤らめるファイの、蕩けたような瞳とかち合った。
「……ゲームは終わったんじゃねぇのか」
今更のように照れ臭さや後悔のようなものが押し寄せて、ぶっきらぼうに言った黒鋼に、ファイは困ったように小さく笑う。彼はあきらかに戸惑いを見せている。
黒鋼の袖を掴む指先も、いまだそのままだった。
そして彼は可愛らしく小首を傾げて見せた。
「情熱的な黒様先生を見てたら、リセットしてまた最初から……っていうのも、悪くないかなー、なんて」
「そういうのを、絆されたって言うんだぜ」
「え……?」
「言っておくがな、俺はごっこ遊びなんざ初めっから承諾した覚えはねぇよ」
「……」
ファイの表情から笑みが消えた。ただ茫然と瞬きを繰り返している。
当たり前だ。何が悲しくてたかがゲームで男なんて抱けるものか。認めたくないという思いが先行しすぎて、あくまで建前として利用していただけだった。
自分だって彼のことは言えない。十分、ずるい真似をしていたのだと思う。
一度は諦めた感情だったし、本気になれば馬鹿を見る相手だということは、よく理解しているつもりだった。
まるで安っぽいドラマのようだと自分でも呆れてしまう。
けれど永遠に失ってしまったかもしれないと感じたとき、叫び出したいほどの絶望と共にこの男を愛しているという感情が止め処なく溢れ出した。
「てめぇが誰で、どれが本当かなんてもうどうでもいい。どんな馬鹿やってたって構わねぇから、俺の目の届くとこにいろ。もう、あんな思いはたくさんだ」
「黒様……?」
もう失くすのはたくさんだった。ならばこの手で捕まえているしかない。
「リセットできんだろ? だったらしちまえ。てめぇがゲームだってんなら、俺がそのうち本気にさせてやる」
表だろうが裏だろうが、この男が胡散臭いのに代わりはない。それでも惹かれてしまったのだから、開き直る以外に仕方が無い。
どうせこんなどうしようもない男は、この先だってまともな恋愛などできっこないのだ。だったら、存分に時間はある。
少し楽観的すぎるような気もしたが、本心を押し殺すことにほとほと疲れを感じていた。
「てめぇの中にわけわかんねぇのが何人いたって、結局てめぇはてめぇだろ」
目を見開いて言葉を失っていたファイだが、やがて泣き出しそうな情けない笑顔を浮かべた。
「馬鹿だなぁ」
「なんとでも言いやがれ」
「馬鹿だよ。君も、オレも……」
ファイは黒鋼の袖に添えたままだった己の指先に視線を落とした。そして言った。
「リセットは、しない……」
「……」
「でも、ちゃんと考える……。考えて、決める。だってきっと、次はゲームじゃ済まされないから」
雨音と微かな光の中で、二人は小さく微笑み合った。
空が白み始める頃には雨も上がり、ようやく捜索隊がやって来た。
黒鋼の肩に頭を預けてすっかり眠り込んでいたファイを揺り起こして、その後二人は無事に下山した。
そして運命の日がやって来る。
←戻る ・ 次へ→
遠足気分で最初は元気を持て余していた生徒達だったが、開始からものの数十分でウンザリと表情を曇らせるものも少なくなかった。
早朝に出発し、清々しい秋晴れの空の下で見事に色づいた紅葉を眺めながら山頂で昼食を摂り、何事もなければ陽が沈む前には余裕で下山できるはずだった。
実際、黒鋼がすっかりダレきった生徒達に喝を入れつつ下山できたのは、予定の時刻よりも幾分か早かった。
宿泊施設の駐車場広場で、早くに下山した生徒達がぐったりとコンクリートの上に寝そべったり、座りこんでいる。
「ったく、どいつもこいつもだらしねぇな……」
腕を組んでそれを険しい表情で見つめていた黒鋼は、小声でボソリと呟いた。
「先生がタフすぎるんじゃないですか?」
すると、すぐ側で小龍がさらりと返す。足を伸ばして座りこんでいるわりには表情は涼しげだ。単にこの状況に飽きてしまったのだろう。
「うるせぇぞ。しゃんとしろ、しゃんと」
不機嫌に返しつつ、腕時計を見た。
この後、点呼を取ってから休憩を挟み、施設で食事を取るプランになっている。この調子で足並みが揃わなければ、時間が押すことになるかもしれない。
まばらに下山してくる者たちに少々苛立ちながらも、黒鋼は空を見上げて眉間の皺を深くした。
晴天だったはずの空模様が、少しばかり怪しくなっていた。
不穏な色合いの雲が、オレンジ色の夕陽を遮っていく。黒鋼は一つ舌を打つと、辺りの面々に施設へ先に入るように指示を出した。
ほとんどの生徒は戻っているようだが、まだ姿を見せない者がいる。
ファイだ。彼もまた引率者の一人だった。
(あのへなちょこに登山はちっときつかったかもな)
そうはいっても、彼は視界に入るたび涼しげな顔で女子生徒等と談笑しながら楽しんでいたようだが。
そんな様子を見ると相変わらずいい気はしなかったが、あの夏の出来事からすれば黒鋼はだいぶ立ち直ることが出来ていた。
何しろクヨクヨしたからといってどうなる問題でもないということに、案外早く気がついたからだった。
以来、出来る限りあの男のことは考えないようにしている。仕事の都合で顔を合わせるのは仕方ないにしろ、未練がましく思い続けるのもはっきり言って馬鹿馬鹿しい。
「あの、黒鋼先生……!」
そのとき、下山してきた最後の一団の中から、ピンク色のレインウェアを着込んだサクラが小走りに駆けて来た。不安そうな表情の彼女の隣には、小狼が付き添っている。両者共、顔色に疲れが滲みきっていた。
「遅いぞ二人とも」
だるそうに立ち上がった小龍に、小狼が「ごめん」と言った。
「どうした」
「ファイ先生、遅れて下りてくると思うんですけど……心配で……」
「あ? あいつ、へばって動けなくなったか?」
登山コースの入り口に目を向ける。だが、もはや誰も降りて来る様子がない。
表情を険しくする黒鋼に、サクラが「どうしよう……」と呟く。
「おい、あいつがどうした」
「さくらが御守りを落としてしまったんです。おれが取りに行こうと思ったんですけど、ファイ先生が先に行けって……」
「ごめんなさい……わたし、いいって言ったんですけど……」
俯くサクラの肩を、小狼が抱いた。
「……わかった」
黒鋼は短く返事をした。彼らからのそれ以上の説明は不要だった。
*
ひとまず詳しい事情と、万が一陽が沈んでも戻らなかった場合のことを他の教師に伝えるよう、三人に頼むと黒鋼は再び山を登った。
焦らずとも、どうせ何でもないことのようにケロリとした顔で帰ってくるだろうとは思った。けれど、怪しげな雲行きが黒鋼をどうしようもなく駆り立てていた。
何もなければそれに越したことはない。だが、それでも、もし何かあったとしたら。
それを思うと焦りばかりが先行して、いてもたってもいられなかった。
迫り来る曇天の下、鬱蒼と茂る木々が容赦なく視界を狭めようとしている。
登山コースとしてある程度は整備されている道でも、デコボコとした感触に足元を取られそうになる。
手にしている小型の懐中電灯も、役に立っているのかいないのか微妙なところだ。
「あの馬鹿」
もう何に対しての苛立ちなのか分からなくなりながら、黒鋼は走った。嫌な気配がする。それは黒鋼が最も嫌う、雨の香りと共に鼻先と脳裏を掠めた。
ポツリと音を立てて、何かが黒のダウンジャケットに弾かれた。それを皮切りに、冷たいそれがまばらに降り注ぐ。
ついに、降りだした。
雨は大嫌いだ。思い出したくないことを思い出してしまうから。知りたくもない現実を知らされてしまうから。
大切な人を、奪うから。
そう、あの日も、こんな風に唐突に天候が崩れた。
夏休み、親子でキャンプを楽しんだ帰り道。
激しく左右に動くワイパー。その忙しない音。それでも叩きつける豪雨に視界が開けることはなく、車体やガラスを叩く攻撃的な雨音に、幼い黒鋼は後部座席で震えていた。
――どうした黒鋼。怖いのか?
父が前方を注意深く見ながら陽気に言った。
――ふふ、大丈夫よ。山を下りれば、少しはおさまるわ。
助手席の母が、優しく笑っていた。
――ねぇあなた。そうでしょう? ちゃんと前を見てね。スピードは出さないで。ほら、その先のカーブは少しきついわ。
――黒鋼の心配性はおまえ譲りだな。俺はいつだって安全運転さ。おまえ達を乗せているときは特にそうだ。そうだろう黒鋼。おまえだって知ってるだろう? ぶつけられることはあっても、ぶつけたことなんか一度もないんだ。
一度も。
一瞬の光と、耳をつんざく激しいブレーキ音。短い母の悲鳴。衝撃。
対向車線からやって来た大型のトラックは、急なカーブを曲がりきれずに激しく車と接触した。
そこから、一体何がどうなったのか、黒鋼は思い出せない。
気がつけば砂利の上にいた。車が横転していた。膝小僧とこめかみから血が流れて、酷く痛んでいた。
そして片腕だけになってしまった父。ゴム人形のようになってしまった母。つい今しがたまで笑っていた人たち。大切な人たち。
来年の夏休みには、きっとまたキャンプをしに来ようと約束をした。来年はもっと大きな魚を釣ろう。来年こそカブトムシを見つけよう。
そんな幸せな約束と共に、彼らを永遠に失ったのだということ以外、何も。
黒鋼は足を止める。息を荒げながら、足元に打ち捨てられたかのように置き去りにされている、サックを呆然と見つめる。
これはファイが背負っていたものだ。けれど、肝心の持ち主がどれほど辺りを見回しても姿が見えない。
「おい!! どこにいる!? いるなら声を出せ!!」
雨が木々を叩く音がする。耳を澄ましても、それ以外の音は聞こえない。
下がる一方の気温以外にも、黒鋼は全身が手足の先から冷え切っていくのを感じた。
喉が渇いて、ごくりと喉を鳴らした。
そこで、黒鋼は視界の隅に背の低い木々が一部分だけなぎ倒されているのを捉えた。
はっとして駆け寄りライトで照らせば、その先に急な傾斜が続いているのが確認できた。さらに目を凝らすと、同じようになぎ倒された細い木々がぐねぐねと下方へ向かって伸びていることが分かる。
「落ちたのか……!?」
それは明らかだった。おそらくこの下にファイがいる。生きているのか、死んでいるのかは分からないけれど。
ほぼ陽は落ちている。一度引き返すか、あるいはこのまま待っていれば助けがやって来るとは思った。
だが、そんな悠長な真似が出来るほど、黒鋼は冷静ではいられなかった。
***
雨でぬかるみはじめた傾斜は滑りやすく、気を抜けばあっという間に転がり落ちてしまいそうだった。
右手にライトのストラップをかけてしっかりと持ち、慎重に姿勢を低くし、足元に注意しながら枝や草の根を掴んでゆっくりと下りてゆく。
時折ズルリと先の方へ延ばしている片足が滑り、ヒヤリとしながらも下降していけば、足先が宙を切る感覚を覚えて黒鋼はその場で止まる。
ライトを強く掴みなおし、そっと覗きこむようにして前方を照らせば、そこは地面がぷっつりと途切れていた。
その先は小高い崖になっていた。だが比較的近い位置に開けた枯れ草だらけの地面が見える。
高さはせいぜい2メートル弱といったところか。この分ならなんとかなる。
黒鋼は、体勢を整えるとそこから一気に滑り落ちるようにして、そして着地した。
枯葉がクッションとなり、思った以上に衝撃は軽い。息をつき、たった今下りてきた崖と傾斜をライトで照らし、改めて眺める。傾斜そのものはゆるやかだが、上から一気に転がり落ちたとなると果たして無事かどうか。
「おい!! いるか!?」
辺りを忙しなくライトで照らし、声を張り上げる。
もはや完全に闇に閉ざされた空間に、雨音とその声がこだました。
「いるなら返事をしろ!!」
「……たん?」
「!?」
「くろがねせんせぇ?」
「どこだ!? 無事なんだな!?」
「……こっち。こっちにいます」
小さいが、それは確かにファイの声だった。
こっち、という声を頼りに崖沿いを足早に進めば、雨を含んだ枯葉の絨毯が湿った音を立てる。
やがて前方に、ゆらゆらと揺れる白いものがぼんやりと見えた。改めてそれをライトで照らす。
「こっちです」
随分と薄汚れていたが、揺れているそれは黒鋼を手招く白いフリースの腕だった。
「黒鋼先生」
大股で枯葉を踏みながら辿りつくと、そこには両足を投げ出したファイが崖の僅かに抉れて出来上がった空洞の中に座りこんでいた。
彼は黒鋼の姿を見ると、泥で汚れた頬でふんわりと微笑んだ。
「来てくれたんですね」
「てめぇ……」
焦りや不安が安堵に変わると、残されたのは激しい怒りだった。けれど実際、無事だった彼とこうして対面しても何も言葉が浮かばない。
見つけ出したら思い切り怒鳴りつけて、一発ぶん殴ってやろうと考えていたはずなのに。
けれど感情の度合いが大きすぎると、それが怒りであろうが悲しみであろうが、すんなりと外には出てこないものだ。
ただ拳を震わせて鬼の形相を浮かべる黒鋼に、ファイは目を丸くした。やがて黒鋼が座りこむ彼に向かって屈みこみ、膝をつくと殴られるとでも思ったのか、目をきゅっと瞑った。
「ばかやろうが……ッ」
だが、黒鋼は彼を殴らなかった。低く唸るような声でささやかになじっただけで、あとは冷え切った身体を思い切り抱きしめた。
幾重か着込んでいるはずのその身体は、それでも腕の中にすっぽりと納まり、その呼吸が耳元を掠めると、黒鋼は震える息を吐き出した。
「ばかやろう……」
激しい怒りも、抱きしめる腕に力を込めれば込めるほど、込み上げる安堵によって覆われてしまった。
彼は生きていた。無事だった。奪われずに済んだ。失わずに、済んだ。
「黒たん……?」
ファイは懐かしい呼び方で黒鋼を呼ぶと、おずおずと背中に腕を回し、「ごめんね」と言った。
*
狭い空洞の中に二人で身体を押し込めるようにして寄り添って、寒さと雨をしのぐ。
小さな崖と傾斜さえ上ってしまえば登山コースに出られるはずだが、この天候と心許ないライトの明りだけではあまりにも危険すぎる。
なにより、ファイは片足を動かすことが出来ないのだ。
誤って足を踏み外した彼はそのまま転がり、案の定あの崖から派手に落ちた。高さこそ差ほどではないにしろ、彼は着地に失敗して左足を酷く捻ってしまった。
「サクラちゃんの御守りが、あの傾斜に引っかかってるのを見つけたんだ。危ないなぁとは思ったけど、身体が勝手に動いちゃったんだよね」
「てめぇみてぇな奴にもまだ良心が残ってたんだな」
「相変わらず酷い言い草だなぁ」
ファイが身体を揺らして笑うと、黒鋼にもその振動が伝わった。
脇に置いてあるライトの仄かな明りが、ファイの吐き出す息の白さを知らせている。
黒鋼は、こうして再び彼と『会話』している自分が不思議でならなかった。
もう決してファイとこうして話すことも、よそ行きじゃない笑顔を見ることも無いと思っていたから。
「なんか久しぶりだね。こういうの」
それはファイも同じだったのか、一通り笑ったあとにほんの少しだけ困ったような顔を見せた。
「ちゃんと拾えたのか。その、御守りってやつは」
「あ、うん。ほら」
フリースの懐を探ってファイが取り出したそれは、小さな赤い御守りだった。健康祈願と金色の刺繍が施されたそれを、手の平に乗せて見せてくれる。
「サクラちゃんはいいって言ったんだけどね。これは初詣に小狼君と買いにいったお揃いの御守りだったんだって。小狼君は青で、小龍君が緑色なんだよ」
手の平にちょこんと乗った御守りを、ファイがそっと握った。それから、少しだけ表情を曇らせる。
「どうした」
「……うぅん。いいんだ」
話したがらない様子のファイだったが、黒鋼が無言で見つめ続けると「あはは」と苦笑した。
「オレの御守りがね、逆になくなっちゃったんだよ」
「あの石か」
「うん。落ちたときに、どこかにいっちゃったみたい」
ファイはさくらの御守りを再び懐に仕舞う。
黒鋼は、あの夏の夜に彼が見せてくれた月の形の石を思い浮かべた。どこか感情を揺さぶられるような、懐かしさを纏った石だった。
それを、大切な人からもらったものだとファイは言っていた。これがあれば、自分は死なないのだとも。
「だったら、あの石がてめぇを守ったんだな」
「え……?」
目を丸く見開いたファイと、間近に視線を合わせる。
「身代わりになったんだろ。あれがなけりゃ、今頃は怪我だけじゃすまなかったかもしれねぇな」
「……そっか」
茫然と呟いたファイは、俯いてそっと静かに瞳を閉じた。それから、緩く顔を上げると悲しげに微笑んだ。
「きっとそうだね……」
「そんなに」
「ん?」
「……いや。よほど大事なもんなんだなと思っただけだ」
「そりゃあそうだよ。だって、大切な人がくれたんだもの」
でも、とファイは続ける。
「その人は、もうこの世にはいないんだけどね」
「……」
「すっきりした?」
「あ?」
悪戯ッ子のように下から覗き込んでくるファイに、むっと顔を顰める。けれど悪態をつく気にはなれなかった。
死んだと聞かされて、スッキリするもなにもない。この男への気持ちはとっくに封印していたはずだった。
けれど、黒鋼は気がつけばファイの汚れた頬に、同じく泥に汚れた指先を伸ばしていた。思っていたよりもずっと、それは温かな感触で黒鋼の手によく馴染む。
なぜだとか、どうしてだとかいう疑問や、それに対する理屈めいたものが酷く遠い場所にある。
もう二度と触れられないと思っていたその肌と、透き通るようなブルーに吸い込まれそうだった。
ファイがそっと目蓋を伏せて、待ちわびるような睫毛の震えを見た瞬間には、黒鋼は彼に口付けていた。
「ん……」
軽く触れるだけに留まらず、気がつけば久しく忘れかけていたその温かな唇を深く味わっていた。ファイの指先が黒鋼のジャケットの袖に触れて、指先できゅっと掴む。
押せば応えるその柔らかな舌に眩暈がした。これ以上はマズイと己を奮い立たせて唇を離せば、頬をほのかに赤らめるファイの、蕩けたような瞳とかち合った。
「……ゲームは終わったんじゃねぇのか」
今更のように照れ臭さや後悔のようなものが押し寄せて、ぶっきらぼうに言った黒鋼に、ファイは困ったように小さく笑う。彼はあきらかに戸惑いを見せている。
黒鋼の袖を掴む指先も、いまだそのままだった。
そして彼は可愛らしく小首を傾げて見せた。
「情熱的な黒様先生を見てたら、リセットしてまた最初から……っていうのも、悪くないかなー、なんて」
「そういうのを、絆されたって言うんだぜ」
「え……?」
「言っておくがな、俺はごっこ遊びなんざ初めっから承諾した覚えはねぇよ」
「……」
ファイの表情から笑みが消えた。ただ茫然と瞬きを繰り返している。
当たり前だ。何が悲しくてたかがゲームで男なんて抱けるものか。認めたくないという思いが先行しすぎて、あくまで建前として利用していただけだった。
自分だって彼のことは言えない。十分、ずるい真似をしていたのだと思う。
一度は諦めた感情だったし、本気になれば馬鹿を見る相手だということは、よく理解しているつもりだった。
まるで安っぽいドラマのようだと自分でも呆れてしまう。
けれど永遠に失ってしまったかもしれないと感じたとき、叫び出したいほどの絶望と共にこの男を愛しているという感情が止め処なく溢れ出した。
「てめぇが誰で、どれが本当かなんてもうどうでもいい。どんな馬鹿やってたって構わねぇから、俺の目の届くとこにいろ。もう、あんな思いはたくさんだ」
「黒様……?」
もう失くすのはたくさんだった。ならばこの手で捕まえているしかない。
「リセットできんだろ? だったらしちまえ。てめぇがゲームだってんなら、俺がそのうち本気にさせてやる」
表だろうが裏だろうが、この男が胡散臭いのに代わりはない。それでも惹かれてしまったのだから、開き直る以外に仕方が無い。
どうせこんなどうしようもない男は、この先だってまともな恋愛などできっこないのだ。だったら、存分に時間はある。
少し楽観的すぎるような気もしたが、本心を押し殺すことにほとほと疲れを感じていた。
「てめぇの中にわけわかんねぇのが何人いたって、結局てめぇはてめぇだろ」
目を見開いて言葉を失っていたファイだが、やがて泣き出しそうな情けない笑顔を浮かべた。
「馬鹿だなぁ」
「なんとでも言いやがれ」
「馬鹿だよ。君も、オレも……」
ファイは黒鋼の袖に添えたままだった己の指先に視線を落とした。そして言った。
「リセットは、しない……」
「……」
「でも、ちゃんと考える……。考えて、決める。だってきっと、次はゲームじゃ済まされないから」
雨音と微かな光の中で、二人は小さく微笑み合った。
空が白み始める頃には雨も上がり、ようやく捜索隊がやって来た。
黒鋼の肩に頭を預けてすっかり眠り込んでいたファイを揺り起こして、その後二人は無事に下山した。
そして運命の日がやって来る。
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奇妙なゲームが始まった。
その口火は偽者のピストルによって切って落とされたのだ。
だが、だからといって自分がそれにまんまと興じることはなかった。
黒鋼はもとより、例えばその手の台詞を実際の恋人相手にだって、滅多なことで口にしたことがない。
それでも、ある程度の明確な理由付けにはなったかもしれない。
恋人でもなければ友達というわけでもない、ただの教師仲間である彼と続けていた不毛な関係に、名前をつけることがようやく出来た。
そう、これは『ゲーム』であり、そして、ただの『遊び』だ。
「大好きだよ黒様。誰よりも君を愛してる」
それなのに、だ。
蕩けそうに瞳を潤ませて、頬を染めながら熱っぽく囁くファイに口付けを乞われると、その明確な理由が一瞬、揺らぐ。
これは本当に演技なのか? これほどまでに熱烈に、実際は好きでもない相手に愛を囁くなんて真似が、本当に出来るものなのか?
ただの遊びに、不覚にも心臓を高鳴らせている自分は一体なんなのだろう?
黒鋼はこの男ほど器用には出来ていないのだ。むしろ不器用な性質である。
ファイがほんの少しだけ背伸びをして唇を突き出してくるのを、黒鋼は首に絡み付いていた腕ごと払いのけた。
「てめぇ、ここがどこだか分かってんのか」
「学校の屋上だねぇ」
「場所を考えろ、場所を!」
「つまんないなぁ。学校だろうがどこだろうが、隠れてするなら別にいいじゃない」
「よかねぇよ!!」
「今時このくらい小学生でもやってるのに」
怒りで頭に血が上っているのか、それとも先刻のファイの熱烈な告白に勘違いをしそうになってるのか、とにもかくにも顔が赤くなってはいないかと黒鋼は慌てて彼に背を向けた。
「そんなことより」
「んー?」
腕を組んだ黒鋼は、首だけを僅かにファイの方へ向けながらジロリと睨みつける。
「てめぇの夢は料理人になることじゃなかったのかよ」
「へ? なんのこと?」
きょとんとして小首を傾げるファイに、黒鋼は先ほど耳にした会話の内容を思い出していた。
*
「先生って、子供の頃から保健の先生になるのが夢だったんですか~?」
それは見慣れた光景だった。
職員室の出入り口付近で、ファイが女子生徒数名に捕まっているのに気がついた。
だが会話の内容まで耳に入ってきたのは、全くの偶然だった。
「そうだね。学校の先生にはなりたかったよ。でも、保健室の先生になるのが夢ではなかった、かな?」
そう言って柔らかに微笑むファイに、女子生徒達は頬をぽっと赤らめて見惚れた。
内心ツバを吐きたい衝動に駆られた黒鋼だったが、それよりもファイの答えの方が引っかかった。
確か肉じゃがを作った夜に、あの男は料理人だか冒険家だかになりたかったと言っていたのではなかったか。無人島が云々という、くだらない理由付きで語っていたはずだった。
「じゃあ、どうして今は保健の先生なんですか?」
「うん。実はボク、動物のお医者さんにもなりたかったんだ。でも、それには動物を解剖しなくちゃいけないって分かって、諦めちゃったんだよ」
「あ、それで間を縫ったカンジですかぁ?」
「そう。そんなカンジ、だよ」
その微笑みは、まさに『王子様』と呼ばれるにふさわしいものだった。
*
「思い出したら胸焼けしてきやがったぜ」
「あ、もしかしてさっきの女の子たちとの話、聞こえてたー?」
「そうだ。それ。どこまで白々しいんだてめぇは。無人島に行くのが夢だったんじゃねぇのか」
呆れた顔をしてファイと向かい合った。
けれど、彼は目をパチクリとさせながら小首を傾げている。
「オレ、そんなこと言ったっけかなぁ? そもそも無人島になんて行ってどうするの? 危ないじゃん」
「あぁ? てめぇホラ吹きなだけでなく鳥頭だったのかよ」
「うわ、そんな言い方ってある? はい傷ついたー。オレのハート傷ついたー」
「付き合いきれねぇな」
つん、とそっぽを向いて唇を尖らせるファイに、黒鋼は背を向けるとそのまま屋上を後にした。
***
本屋に足を運ぶなど、学生時代以来のことだった。
アパート及び高校からほど近い大型書店に、黒鋼は仕事帰りに立ち寄っていた。
店内では見知った顔の生徒と擦れ違うこともあり、本屋と黒鋼という図が彼らにとってもよほど珍しいのか、目を丸くしながらペコリと頭を下げられた。
おかげであまりいい心地がしない。あまり長居をしたいとも思えなくなった。
店員が、柄の悪い大男に怯えた表情を見せながら脇を通り抜けてゆく。
「くそ、なんだって俺が……」
文句を垂れてみたものの、これは他の誰に頼まれたわけでもなく、自らの意思でここに足を運んだのだが。
黒鋼はともかく目当てのものを探すべく、所狭しと並ぶ本棚を見渡した。ジャンルに目星をつけて、そのゾーンへと足を向ける。
そして、幾つもある似たようなタイトルの中から、中身も確認せずに数冊を取ると、とっととレジを済ませて本屋を後にした。
エアコンのよく効いた店内から出ると、夏の外気が陽が沈んでもなおじっとりと肌を撫でる。
かなりの厚さになっている紙袋の中身が、やたらと重いものに感じた。
ただでさえ大きな歩幅で全速力で歩けば、自宅アパートに到着するのはあっという間だった。
途中で馴染みの黒猫と遭遇したが、チラリと目を合わせるだけで構ってやるのは後回しにした。
***
「さっぱりだな」
纏わり付くような風が不快で、扇風機を止めながら黒鋼は手にしていた本を畳に放り投げた。
久しぶりに本など真剣に眺めたものだから、なんだか頭がぼんやりしている。
黒鋼は投げ出されているそれらを横目で睨む。
専門的な用語が並べば、それだけで解説でもない限り完全に理解することは不可能だ。こんなことなら、いっそ貯金でも崩してパソコンの一つでも購入しておくべきだったか。
かといって携帯を使ってでも調べる気にはなれなかった。なにしろ、黒鋼の手は身体と同様に平均よりも大きい。チマチマとした画面を見ながらチマチマとボタンを押すなど、ハッキリ言って面倒だ。メールを打つのでさえ実際のところ億劫で仕方がない。
ウンザリして、もはや本を手に取る気力もない。
中身はもちろん、価格さえ確認しないままにレジへ向かったせいで、給料日前の安月給にはそれなりに痛い出費となった。なおのこと腹立たしくて、黒鋼は立ち上がると台所へ向かい、冷蔵庫からビールの缶を取り出した。
その場で開けて、自棄になって半分ほどを一気に飲み干す。少し、立ちくらみがした。
黒鋼が購入した数冊の書籍は、どれも解離性同一性障害に関するものだった。
我ながら本当に愚かなことをしていると思う。ファイの多面性を、多重人格なのではないかと疑った結果が、この体たらくだった。
黒鋼は自分の腰の高さまでしかない冷蔵庫に体重をかけた。手の中にある缶の中身が、耳を澄ませばしゅわしゅわと音を立てているのが聞こえる。
「なにやってんだ一体……」
単に幾重にも裏表がある、ペテン師のような男だということは分かっていたはずだった。
だが、昼間の屋上で将来の夢についての食い違いを話している折、あの男は本当に忘れてしまっているようにも思えた。あるいはまるで知らないか、そのいずれかに。
まさにそれと同じ日から、くだらないゲームが始まったというのに。
少なくとも彼は黒鋼の前では猫をかぶらない。嘘をついたり、とぼけたりする必要はないはずだった。
だが、彼が演技派であることは重々承知しているはずだった。それなのに、気がつけばファイのことを気にかけている。もし万が一、あの豹変が本人にもどうにもならないところで起こっているのだとしたら。
「……だから何だってんだ」
そんな己の思考に咄嗟に冷めた突っ込みを入れた。
だからといって、自分に何が出来るというのか。何も出来やしないのではないか。
「つーか、何かしてやるつもりだったのかよ俺は……」
再び零れた突っ込みに、黒鋼は片手で額を覆い隠すと溜息を洩らした。
冗談じゃない。あの男はただ遊んでいるだけだ。他人を欺き、理想の自分像を演じているだけ。理由なんか知らない。知りたくもない。
そして自分は、そんなふざけた男に弄ばれているだけのはずだ。飽きるまでの間、彼が勝手に始めたゲームに付き合ってやっているだけのはず。
『大好きだよ。誰よりも君を愛してる…』
だが、あの泣き出しそうに潤んだ瞳から、嘘を見破ることは難しかった。だからこそ、腹立たしかった。
もしあれが彼の本心であったなら、自分は同じように返してやることが出来たのだろうか。あの薄っぺらい身体を抱きしめて、彼の望むままに口付けを与えながら……。
「……おい、嘘だろ?」
自分の立っている場所だけが、ぐにゃりと歪んだような錯覚を覚える。
こんな気持ちに、気づきたくなどなかった。
***
夏休みに差し掛かるころになっても、二人の関係は続いていた。
だがそれは黒鋼が了承したわけではなく、相手が勝手に始めてしまったことだ。それは同様に、黒鋼が勝手に幕を下ろすことも可能ということだった。
もう付き合いきれないと言い切ってしまえば、ファイはあっさり引くだろう。彼が自分に対して執着がないことくらい知っている。
それでも黒鋼は、激しい葛藤や苛立ちを抱きながらもまだ幕を引くことが出来ないでいた。
彼が「好き」だとか、「愛してる」だとかいう言葉を軽はずみに囁く度に、吐き気がするほど最悪な気持ちになった。幾度殴り倒してやろうかと本気で思ったか知れない。
ゲームというものは、本来であれば楽しむためのものではなかったか。
最初からこの『ゲーム』を心から楽しんでいたわけではないが、その言葉の根本を考えると頭が痛くなる。
ファイの軽々しい告白は、そんな彼への気持ちに気づかされてしまった黒鋼にとって鋭利な刃物でしかない。
それでもまだ終わらせる気にならない。だが、手に入れる気にもならない。
人の感情が理屈の上でだけ成り立っているわけではない、ということは知っている。
それでもファイの何が自分をここまで惹きつけるというのか、黒鋼は常に己の中の矛盾と、慣れない格闘を続けているのだった。
***
「ねぇ見て」
それはいつものように抱き合ったあとのことだった。
黒鋼の腕枕にご満悦だったファイが、上機嫌で見せてくれたのは三日月のような形をした小さな石だった。
「なんだこれ」
ちょうど胸の上にコロリと置かれたそれを、黒鋼は手に取って翳した。
「御守りなんだよ。蛍石」
「ああ? こいつはただの石ころだろ」
昔、学生時代に博物館で実物を見たことがある。ガラスケースの中のそれは、透明なものや薄く黄色味がかったものなど様々なものがあったが、これはどう見てもその辺りの川べりにでも転がっている、ただの石ころにしか見えない。
幼い頃は、よくこういった少し変わった形の石を集めて遊んでいたものだ。時にはそれを川の水面に投げて、跳ねる回数を友人と競ったこともある。
これが蛍石かどうかは別として、どこか懐かしさを感じる石であることに違いはなかった。
けれどファイはゆるく首を振って笑っていた。
「でも、そうなんだよ。蛍が見れる川原で拾ったんだ。だから蛍石」
「そういう屁理屈か」
ファイの白い指が、黒鋼の手から石を奪った。そして、懐かしそうな表情でそれを眺める。
「昔ね、オレの大切な人がくれたんだ。これがあれば、オレは死なない」
透き通る青い瞳が、間接照明の淡い光を吸い込んで潤んでいる。その微笑みは驚くほど穏やかで優しく、普段見せるそれよりもずっと自然な印象を受けた。
こんな顔も出来るのか。そしてこんな顔をさせる存在を、彼は『大切な人』と呼んだ。
もやもやとしたものが煙のように胸中に立ち込めるのに、黒鋼は気づかないふりをする。
「ねぇ、気になる?」
「あ?」
「大切な人。気になる?」
内心むっとして、けれど何も言わない黒鋼にファイはぷっくりと唇を尖らせた。
「もー。恋人ごっこなんだから、嘘でもヤキモチ焼いてよー」
ジロリと睨みつけると、ファイはその石を鉛筆を持つように持ち替えて、こともあろうかそれで黒鋼の乳首をクリクリと弄った。
「こらてめぇ! 御守りだってんなら粗末にするんじゃねぇ!」
慌てて腕で払いのけると、ファイがはしゃいだ声で笑った。けれど、その弾みで手の中から石を転げ落ちた。
「あっ!」
「言わんこっちゃねぇ……」
カツン、と小気味よい音を立てて、月の形をした蛍石がベッドの下に落ちた。
「黒たん先生が意地悪だから、御守り落ちちゃったよー」
「俺のせいかよ」
子供みたいに唇を尖らせたファイが、黒鋼を跨ぐようにしてベッドから降りた。
さきほどからさんざん見ていたはずの裸体が、共有していたタオルケットからスルリと抜け出し、上を通り過ぎる様から黒鋼は思わず目を逸らす。
畳にぺったりと腰を下ろしたファイが、そのままさらに屈んでベッドの下に手を伸ばした。
「あったあった。……ん?」
「なんだよ」
ゴソゴソと音がして、黒鋼は身を起こした。ファイは、ベッドの下から取り出したそれをしげしげと眺めていた。
それは以前、黒鋼が本屋で購入した難解な書籍達だった。
しまった、と思ったがもう遅い。
「黒たん先生って、こういうの興味あったの?」
ファイは黒鋼を見上げるとコトリと小首を傾げた。不思議そうに瞬きを繰り返す様子に顔を顰める。
「ねぇよ。いいから仕舞っとけ」
吐き捨てるように言っても、ファイはやっぱり不思議そうな顔をしたまま、やがて合点がついたかのように「あ」と言った。
思わずギクリとする。
「もしかして、オレが原因……とか?」
「ッ!」
そのとき、なぜ息を呑んでしまったのだろう。思いあがるなと言って一蹴すれば、それで済んだはずだった。
妙な間が空いて、逆に気まずくなってしまった。
だが、その微妙な空気をファイの笑う声が払拭した。
「あはははは! 嘘でしょー? やだなぁ黒たん、オレ別にそんなんじゃないよ?」
「うるせぇな……もういいだろ……」
「こんな難しそうな本を読み漁っちゃうくらい、オレに夢中なんだねー?」
実に楽しそうにニヤニヤとしながら言うファイが、今この状況であっても『ゲーム』に興じているに過ぎないことを知っている。
けれど、それでも言い当てられたことに黒鋼は絶句した。
そうだ。自分はこの男に想いを寄せ、不覚にも夢中になりかけている。こんな高いばかりで得るもののなかった本を持て余すほどに。
黒鋼がいつまで経っても否定してこないことに、ファイは驚いて目を丸くした。
「えっと、黒たん?」
「……」
「え? あれ?」
今の自分は、きっとこっそり隠していた赤点の答案が見つかってしまったときのような、そんなバツの悪い表情をしている。
いっそ開き直るしかないような状況と全く同じ感覚で、黒鋼は自分でも信じがたい感情を肯定した。
「……悪いか」
「これ、ごっこ遊びだよ? もしかして、本気になっちゃった?」
首を傾げながら身を乗り出すファイに、黒鋼は何も言えなかった。自分の愚かさくらい、誰に言われるまでもなくよく分かっていた。
今更になってうまいこと立ち回ることの出来なかった不甲斐なさに、悔しさが込み上げる。
ファイはそれを察したのか、思い切り全身を震わせながら大笑いした。涙さえ浮かべて腹を抱えている。
いい加減イライラが限界に達した黒鋼が口を開こうとしたとき、ファイは目尻に溜まった涙を指先で拭いながら「あーあ! 楽しかったのに」と言った。
「ゲーム、これで終わっちゃったね」
***
それから、ファイが黒鋼の部屋に訪れることはなくなった。
メールを寄越すことも、屋上で出くわすことも、狐や狸にでも化かされていたのかと思うほど、全てが跡形もなく消え去った。
何もかもが振り出しに戻ったのだ。ファイはあの黒鋼が苦手とする表向きの姿を完璧に演じ、決してそれ以外の顔を見せることはなかった。
否定しつつも夢中になっていた自分と、本気でゲーム感覚だったファイとの温度差。分かっていたはずなのに、自身でも驚くほどダメージを受けていた。
胸に、ぽっかりと穴が空いたようだった。
←戻る ・ 次へ→
その口火は偽者のピストルによって切って落とされたのだ。
だが、だからといって自分がそれにまんまと興じることはなかった。
黒鋼はもとより、例えばその手の台詞を実際の恋人相手にだって、滅多なことで口にしたことがない。
それでも、ある程度の明確な理由付けにはなったかもしれない。
恋人でもなければ友達というわけでもない、ただの教師仲間である彼と続けていた不毛な関係に、名前をつけることがようやく出来た。
そう、これは『ゲーム』であり、そして、ただの『遊び』だ。
「大好きだよ黒様。誰よりも君を愛してる」
それなのに、だ。
蕩けそうに瞳を潤ませて、頬を染めながら熱っぽく囁くファイに口付けを乞われると、その明確な理由が一瞬、揺らぐ。
これは本当に演技なのか? これほどまでに熱烈に、実際は好きでもない相手に愛を囁くなんて真似が、本当に出来るものなのか?
ただの遊びに、不覚にも心臓を高鳴らせている自分は一体なんなのだろう?
黒鋼はこの男ほど器用には出来ていないのだ。むしろ不器用な性質である。
ファイがほんの少しだけ背伸びをして唇を突き出してくるのを、黒鋼は首に絡み付いていた腕ごと払いのけた。
「てめぇ、ここがどこだか分かってんのか」
「学校の屋上だねぇ」
「場所を考えろ、場所を!」
「つまんないなぁ。学校だろうがどこだろうが、隠れてするなら別にいいじゃない」
「よかねぇよ!!」
「今時このくらい小学生でもやってるのに」
怒りで頭に血が上っているのか、それとも先刻のファイの熱烈な告白に勘違いをしそうになってるのか、とにもかくにも顔が赤くなってはいないかと黒鋼は慌てて彼に背を向けた。
「そんなことより」
「んー?」
腕を組んだ黒鋼は、首だけを僅かにファイの方へ向けながらジロリと睨みつける。
「てめぇの夢は料理人になることじゃなかったのかよ」
「へ? なんのこと?」
きょとんとして小首を傾げるファイに、黒鋼は先ほど耳にした会話の内容を思い出していた。
*
「先生って、子供の頃から保健の先生になるのが夢だったんですか~?」
それは見慣れた光景だった。
職員室の出入り口付近で、ファイが女子生徒数名に捕まっているのに気がついた。
だが会話の内容まで耳に入ってきたのは、全くの偶然だった。
「そうだね。学校の先生にはなりたかったよ。でも、保健室の先生になるのが夢ではなかった、かな?」
そう言って柔らかに微笑むファイに、女子生徒達は頬をぽっと赤らめて見惚れた。
内心ツバを吐きたい衝動に駆られた黒鋼だったが、それよりもファイの答えの方が引っかかった。
確か肉じゃがを作った夜に、あの男は料理人だか冒険家だかになりたかったと言っていたのではなかったか。無人島が云々という、くだらない理由付きで語っていたはずだった。
「じゃあ、どうして今は保健の先生なんですか?」
「うん。実はボク、動物のお医者さんにもなりたかったんだ。でも、それには動物を解剖しなくちゃいけないって分かって、諦めちゃったんだよ」
「あ、それで間を縫ったカンジですかぁ?」
「そう。そんなカンジ、だよ」
その微笑みは、まさに『王子様』と呼ばれるにふさわしいものだった。
*
「思い出したら胸焼けしてきやがったぜ」
「あ、もしかしてさっきの女の子たちとの話、聞こえてたー?」
「そうだ。それ。どこまで白々しいんだてめぇは。無人島に行くのが夢だったんじゃねぇのか」
呆れた顔をしてファイと向かい合った。
けれど、彼は目をパチクリとさせながら小首を傾げている。
「オレ、そんなこと言ったっけかなぁ? そもそも無人島になんて行ってどうするの? 危ないじゃん」
「あぁ? てめぇホラ吹きなだけでなく鳥頭だったのかよ」
「うわ、そんな言い方ってある? はい傷ついたー。オレのハート傷ついたー」
「付き合いきれねぇな」
つん、とそっぽを向いて唇を尖らせるファイに、黒鋼は背を向けるとそのまま屋上を後にした。
***
本屋に足を運ぶなど、学生時代以来のことだった。
アパート及び高校からほど近い大型書店に、黒鋼は仕事帰りに立ち寄っていた。
店内では見知った顔の生徒と擦れ違うこともあり、本屋と黒鋼という図が彼らにとってもよほど珍しいのか、目を丸くしながらペコリと頭を下げられた。
おかげであまりいい心地がしない。あまり長居をしたいとも思えなくなった。
店員が、柄の悪い大男に怯えた表情を見せながら脇を通り抜けてゆく。
「くそ、なんだって俺が……」
文句を垂れてみたものの、これは他の誰に頼まれたわけでもなく、自らの意思でここに足を運んだのだが。
黒鋼はともかく目当てのものを探すべく、所狭しと並ぶ本棚を見渡した。ジャンルに目星をつけて、そのゾーンへと足を向ける。
そして、幾つもある似たようなタイトルの中から、中身も確認せずに数冊を取ると、とっととレジを済ませて本屋を後にした。
エアコンのよく効いた店内から出ると、夏の外気が陽が沈んでもなおじっとりと肌を撫でる。
かなりの厚さになっている紙袋の中身が、やたらと重いものに感じた。
ただでさえ大きな歩幅で全速力で歩けば、自宅アパートに到着するのはあっという間だった。
途中で馴染みの黒猫と遭遇したが、チラリと目を合わせるだけで構ってやるのは後回しにした。
***
「さっぱりだな」
纏わり付くような風が不快で、扇風機を止めながら黒鋼は手にしていた本を畳に放り投げた。
久しぶりに本など真剣に眺めたものだから、なんだか頭がぼんやりしている。
黒鋼は投げ出されているそれらを横目で睨む。
専門的な用語が並べば、それだけで解説でもない限り完全に理解することは不可能だ。こんなことなら、いっそ貯金でも崩してパソコンの一つでも購入しておくべきだったか。
かといって携帯を使ってでも調べる気にはなれなかった。なにしろ、黒鋼の手は身体と同様に平均よりも大きい。チマチマとした画面を見ながらチマチマとボタンを押すなど、ハッキリ言って面倒だ。メールを打つのでさえ実際のところ億劫で仕方がない。
ウンザリして、もはや本を手に取る気力もない。
中身はもちろん、価格さえ確認しないままにレジへ向かったせいで、給料日前の安月給にはそれなりに痛い出費となった。なおのこと腹立たしくて、黒鋼は立ち上がると台所へ向かい、冷蔵庫からビールの缶を取り出した。
その場で開けて、自棄になって半分ほどを一気に飲み干す。少し、立ちくらみがした。
黒鋼が購入した数冊の書籍は、どれも解離性同一性障害に関するものだった。
我ながら本当に愚かなことをしていると思う。ファイの多面性を、多重人格なのではないかと疑った結果が、この体たらくだった。
黒鋼は自分の腰の高さまでしかない冷蔵庫に体重をかけた。手の中にある缶の中身が、耳を澄ませばしゅわしゅわと音を立てているのが聞こえる。
「なにやってんだ一体……」
単に幾重にも裏表がある、ペテン師のような男だということは分かっていたはずだった。
だが、昼間の屋上で将来の夢についての食い違いを話している折、あの男は本当に忘れてしまっているようにも思えた。あるいはまるで知らないか、そのいずれかに。
まさにそれと同じ日から、くだらないゲームが始まったというのに。
少なくとも彼は黒鋼の前では猫をかぶらない。嘘をついたり、とぼけたりする必要はないはずだった。
だが、彼が演技派であることは重々承知しているはずだった。それなのに、気がつけばファイのことを気にかけている。もし万が一、あの豹変が本人にもどうにもならないところで起こっているのだとしたら。
「……だから何だってんだ」
そんな己の思考に咄嗟に冷めた突っ込みを入れた。
だからといって、自分に何が出来るというのか。何も出来やしないのではないか。
「つーか、何かしてやるつもりだったのかよ俺は……」
再び零れた突っ込みに、黒鋼は片手で額を覆い隠すと溜息を洩らした。
冗談じゃない。あの男はただ遊んでいるだけだ。他人を欺き、理想の自分像を演じているだけ。理由なんか知らない。知りたくもない。
そして自分は、そんなふざけた男に弄ばれているだけのはずだ。飽きるまでの間、彼が勝手に始めたゲームに付き合ってやっているだけのはず。
『大好きだよ。誰よりも君を愛してる…』
だが、あの泣き出しそうに潤んだ瞳から、嘘を見破ることは難しかった。だからこそ、腹立たしかった。
もしあれが彼の本心であったなら、自分は同じように返してやることが出来たのだろうか。あの薄っぺらい身体を抱きしめて、彼の望むままに口付けを与えながら……。
「……おい、嘘だろ?」
自分の立っている場所だけが、ぐにゃりと歪んだような錯覚を覚える。
こんな気持ちに、気づきたくなどなかった。
***
夏休みに差し掛かるころになっても、二人の関係は続いていた。
だがそれは黒鋼が了承したわけではなく、相手が勝手に始めてしまったことだ。それは同様に、黒鋼が勝手に幕を下ろすことも可能ということだった。
もう付き合いきれないと言い切ってしまえば、ファイはあっさり引くだろう。彼が自分に対して執着がないことくらい知っている。
それでも黒鋼は、激しい葛藤や苛立ちを抱きながらもまだ幕を引くことが出来ないでいた。
彼が「好き」だとか、「愛してる」だとかいう言葉を軽はずみに囁く度に、吐き気がするほど最悪な気持ちになった。幾度殴り倒してやろうかと本気で思ったか知れない。
ゲームというものは、本来であれば楽しむためのものではなかったか。
最初からこの『ゲーム』を心から楽しんでいたわけではないが、その言葉の根本を考えると頭が痛くなる。
ファイの軽々しい告白は、そんな彼への気持ちに気づかされてしまった黒鋼にとって鋭利な刃物でしかない。
それでもまだ終わらせる気にならない。だが、手に入れる気にもならない。
人の感情が理屈の上でだけ成り立っているわけではない、ということは知っている。
それでもファイの何が自分をここまで惹きつけるというのか、黒鋼は常に己の中の矛盾と、慣れない格闘を続けているのだった。
***
「ねぇ見て」
それはいつものように抱き合ったあとのことだった。
黒鋼の腕枕にご満悦だったファイが、上機嫌で見せてくれたのは三日月のような形をした小さな石だった。
「なんだこれ」
ちょうど胸の上にコロリと置かれたそれを、黒鋼は手に取って翳した。
「御守りなんだよ。蛍石」
「ああ? こいつはただの石ころだろ」
昔、学生時代に博物館で実物を見たことがある。ガラスケースの中のそれは、透明なものや薄く黄色味がかったものなど様々なものがあったが、これはどう見てもその辺りの川べりにでも転がっている、ただの石ころにしか見えない。
幼い頃は、よくこういった少し変わった形の石を集めて遊んでいたものだ。時にはそれを川の水面に投げて、跳ねる回数を友人と競ったこともある。
これが蛍石かどうかは別として、どこか懐かしさを感じる石であることに違いはなかった。
けれどファイはゆるく首を振って笑っていた。
「でも、そうなんだよ。蛍が見れる川原で拾ったんだ。だから蛍石」
「そういう屁理屈か」
ファイの白い指が、黒鋼の手から石を奪った。そして、懐かしそうな表情でそれを眺める。
「昔ね、オレの大切な人がくれたんだ。これがあれば、オレは死なない」
透き通る青い瞳が、間接照明の淡い光を吸い込んで潤んでいる。その微笑みは驚くほど穏やかで優しく、普段見せるそれよりもずっと自然な印象を受けた。
こんな顔も出来るのか。そしてこんな顔をさせる存在を、彼は『大切な人』と呼んだ。
もやもやとしたものが煙のように胸中に立ち込めるのに、黒鋼は気づかないふりをする。
「ねぇ、気になる?」
「あ?」
「大切な人。気になる?」
内心むっとして、けれど何も言わない黒鋼にファイはぷっくりと唇を尖らせた。
「もー。恋人ごっこなんだから、嘘でもヤキモチ焼いてよー」
ジロリと睨みつけると、ファイはその石を鉛筆を持つように持ち替えて、こともあろうかそれで黒鋼の乳首をクリクリと弄った。
「こらてめぇ! 御守りだってんなら粗末にするんじゃねぇ!」
慌てて腕で払いのけると、ファイがはしゃいだ声で笑った。けれど、その弾みで手の中から石を転げ落ちた。
「あっ!」
「言わんこっちゃねぇ……」
カツン、と小気味よい音を立てて、月の形をした蛍石がベッドの下に落ちた。
「黒たん先生が意地悪だから、御守り落ちちゃったよー」
「俺のせいかよ」
子供みたいに唇を尖らせたファイが、黒鋼を跨ぐようにしてベッドから降りた。
さきほどからさんざん見ていたはずの裸体が、共有していたタオルケットからスルリと抜け出し、上を通り過ぎる様から黒鋼は思わず目を逸らす。
畳にぺったりと腰を下ろしたファイが、そのままさらに屈んでベッドの下に手を伸ばした。
「あったあった。……ん?」
「なんだよ」
ゴソゴソと音がして、黒鋼は身を起こした。ファイは、ベッドの下から取り出したそれをしげしげと眺めていた。
それは以前、黒鋼が本屋で購入した難解な書籍達だった。
しまった、と思ったがもう遅い。
「黒たん先生って、こういうの興味あったの?」
ファイは黒鋼を見上げるとコトリと小首を傾げた。不思議そうに瞬きを繰り返す様子に顔を顰める。
「ねぇよ。いいから仕舞っとけ」
吐き捨てるように言っても、ファイはやっぱり不思議そうな顔をしたまま、やがて合点がついたかのように「あ」と言った。
思わずギクリとする。
「もしかして、オレが原因……とか?」
「ッ!」
そのとき、なぜ息を呑んでしまったのだろう。思いあがるなと言って一蹴すれば、それで済んだはずだった。
妙な間が空いて、逆に気まずくなってしまった。
だが、その微妙な空気をファイの笑う声が払拭した。
「あはははは! 嘘でしょー? やだなぁ黒たん、オレ別にそんなんじゃないよ?」
「うるせぇな……もういいだろ……」
「こんな難しそうな本を読み漁っちゃうくらい、オレに夢中なんだねー?」
実に楽しそうにニヤニヤとしながら言うファイが、今この状況であっても『ゲーム』に興じているに過ぎないことを知っている。
けれど、それでも言い当てられたことに黒鋼は絶句した。
そうだ。自分はこの男に想いを寄せ、不覚にも夢中になりかけている。こんな高いばかりで得るもののなかった本を持て余すほどに。
黒鋼がいつまで経っても否定してこないことに、ファイは驚いて目を丸くした。
「えっと、黒たん?」
「……」
「え? あれ?」
今の自分は、きっとこっそり隠していた赤点の答案が見つかってしまったときのような、そんなバツの悪い表情をしている。
いっそ開き直るしかないような状況と全く同じ感覚で、黒鋼は自分でも信じがたい感情を肯定した。
「……悪いか」
「これ、ごっこ遊びだよ? もしかして、本気になっちゃった?」
首を傾げながら身を乗り出すファイに、黒鋼は何も言えなかった。自分の愚かさくらい、誰に言われるまでもなくよく分かっていた。
今更になってうまいこと立ち回ることの出来なかった不甲斐なさに、悔しさが込み上げる。
ファイはそれを察したのか、思い切り全身を震わせながら大笑いした。涙さえ浮かべて腹を抱えている。
いい加減イライラが限界に達した黒鋼が口を開こうとしたとき、ファイは目尻に溜まった涙を指先で拭いながら「あーあ! 楽しかったのに」と言った。
「ゲーム、これで終わっちゃったね」
***
それから、ファイが黒鋼の部屋に訪れることはなくなった。
メールを寄越すことも、屋上で出くわすことも、狐や狸にでも化かされていたのかと思うほど、全てが跡形もなく消え去った。
何もかもが振り出しに戻ったのだ。ファイはあの黒鋼が苦手とする表向きの姿を完璧に演じ、決してそれ以外の顔を見せることはなかった。
否定しつつも夢中になっていた自分と、本気でゲーム感覚だったファイとの温度差。分かっていたはずなのに、自身でも驚くほどダメージを受けていた。
胸に、ぽっかりと穴が空いたようだった。
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梅雨が明け、季節が夏へと移り変わろうとする頃には、黒鋼はファイにすっかり懐かれてしまっていた。
学校での余所余所しさや屋上でのサボりは相変わらずだが、彼は今や週末に余裕があるときには黒鋼の家に酒を持ってきたり、料理を作りにやってくるようになった。
ファイは普段の謙虚で遠慮がちな態度が嘘のようにズケズケと黒鋼の生活空間の中に入り込み、あっさりその風景に溶け込んだ。
黒鋼にしてみれば最初こそ面食らったものの、彼が持って来る酒は高価なものばかりだったし、プロ並の料理の腕を見せられては文句の一つも言う気が失せた。
出会った当時は、例え仕事上の関係だったとしても片時も顔を合わせていたくなかったのが、まるで嘘のようだ。
餌付けをされてしまったのだろうかと、ふと情けなくなることもある。
ファイがよく顔を出すようになった当初、酒についても聞いてみた。弱いどころかとんだ酒豪じゃねぇかと。
ファイは笑いながら、「お酒が入ると癖が悪くなるんだよ」と言った。
その癖の悪さを身体で覚えこまされた経験のある黒鋼は、やっぱり何も言うことが出来なかった。
***
狭い畳のワンルームには、ほのかに甘い醤油の香りが満ちていた。
扇風機が首を振る度に、それがふわりふわりと増してゆくような気がする。
窓際のベッドに胡坐をかいてビールの缶をあおり、味噌汁の出汁をとるのに使ったスカスカの煮干を野良猫に放ってやりながら、黒鋼は台所に立つ痩せた背中をぼんやりと眺めた。
いつ見ても妙な感じだ。
最初にここへ酒を持ってやって来たファイは、ほとんど空っぽの冷蔵庫を見て不満そうに唇を尖らせた。
以来、週末に訪れる日は必ず黒鋼の携帯にメールを寄越すようになった。『何が食べたい?』というハートマークつきのメッセージを学校内で見てしまうと、思わず咳き込んでしまう。
そして本日のメニューは肉じゃがだった。基本的にはどんなジャンルでも選り好みせずに腹に収める黒鋼だったが、やはり和食は大好物だ。
ファイは洋食を得意としているようだったが、それでも一つ返事で了承した。
無意識に、犬のようにスンと鼻を鳴らす。ベッドから離れると飲みかけの缶をテーブルに置いて、台所へ向かうとファイの隣に並んだ。
「もうちょっとで出来るよー」
ファイは味噌汁の味を見ながら黒鋼の方へは目を向けずに言った。コンロの火を止めてから、年代モノの炊飯器のランプを確認する。
「ご飯ももうちょっと蒸らせばオッケー」
そしてじっくりと煮込まれた肉じゃがの鍋を開けた。これまでの非ではないくらい、胃袋を刺激するいい香りが一気に広がった。
「うまいもんだな」
それを皿に盛り付け始めたファイに、黒鋼は腕を組んで思わず呟いた。
「味は保障できないけどねー。和食はあんまり作らないからなぁ」
「別に問題ねぇだろ」
黒鋼は彼の料理の腕前に全幅の信頼を寄せている。これまでも、何をリクエストしても外したことがなかったからだ。
ファイはそれまでずっと手元から離さなかった視線を黒鋼に向ける。そして、目をぱちくりとさせた。
「なんだよ」
「いやぁ、黒たん先生に信頼されてるんだなぁって思うと嬉しくて」
黒鋼は咄嗟に咳払いをした。深く眉間に皺を寄せると、ファイはへにゃりと笑った。最近、彼はこういう笑い方もする。子供っぽくて、綿菓子のような笑顔だった。
黒鋼は、今のファイを比較的気に入っている。なんとなく、自然に呼吸が出来るような気がしていた。それこそ、昔から知っている仲のような、そんな居心地の良さだった。
もしかすれば、本当はずっと昔に会っているのではないか。そんな馬鹿みたいなことを本気で考えたりもする。
けれどそれを本人には決して言わない。思わず頬が熱くなりかけて、黒鋼は慌てて「うるせぇ!」と怒鳴った。
「しかもその呼び方は止めろって言ってんだろうが!」
「はいはい、零しちゃうから静かにしてねー。あ、お味噌汁よそってくれるー?」
ファイはニコニコしながら再び視線を手元に戻した。歌うような喋り方である。
黒鋼は舌打ちをしつつ、あらかじめ用意されていた二つの椀に湯気の立つ味噌汁をよそう。背の高い男が二人も並ぶと、狭い台所はさらに余裕がなくなってしまう。
肉じゃがを盛り付けるファイと、味噌汁をよそう黒鋼の肘が時折ぶつかる。
一体なんだろうかこの感じは。どうしてこんなに和やかに、この男と過ごしているのだろう。
妙な照れ臭さが引き続き黒鋼の動作を乱暴にして、椀の縁を汚す。
「あーもうー! ちゃんと綺麗によそってよー」
「だからうるせぇんだよてめぇは。オカンか」
「こんな目付きが悪くて、デカくて乱暴な子供のお母さんにはなりたくないなぁ。あ、それにオレの職業はオカンじゃなくて、保健室の先生だよ」
「知ってんだよそんなこたぁ」
それからもグダグダと言い合いつつ、テーブルに全ての料理を並べて二人揃って食べ始めた。
「てめぇは養護教諭より料理人の方が向いてんじゃねぇのか」
美味い、と言う代わりに嫌味のつもりの台詞を吐くと、ファイはジャガイモを飲み込んでから「そうなんだよ」と言う。
「オレ、子供の頃はコックさんになりたかったんだ」
「なればよかったじゃねぇか」
「それもそうだよねぇ。あ、どうしてコックさんになりたかったかというとねー、無人島に行ったときに便利かと思ったんだよ」
「ああ?」
「オレね、冒険家にもなりたかったの。ほら、料理の知識や腕があったらさ、無人島でも色んな食材を見つけて、プロ並の調理が出来るかなぁって」
「……阿呆か」
「アホだよねー」
朗らかに、ファイが笑った。
***
食欲も満たされて、酒も入ればほとんどの場合することは一つだった。
黒鋼は自分の性癖についてを深く考えたことがない。至ってノーマルであることが当たり前すぎたからだった。
ゆえにあの歓迎会の夜、初めて男を相手にセックスをしたことになる。
不快感はなかった。もっとも、あの行為の最中は考える余裕もなければ、快感以外のものを抱くヒマもなかったのだが。
意図せず飛び越えたハードルは、信じられないことにその後も彼とセックスをすることに対しての抵抗を黒鋼から拭い去っていた。
「く、ぁ……!」
小さく堪えた声が、黒鋼の耳朶を刺激している。
ここが壁の薄い安アパートであることを熟知している彼は、どれほど乱れようともそれを噛み締め、堪えてしまう。
胡坐をかく黒鋼に、向かい合う形で細い身体が必死にしがみついてくる。その腰を強く抱いて小刻みに揺らすと、ファイは自らも腰を揺らしながら幾度か首を振った。
彼をこうして抱くようになってから、黒鋼はあることを知った。
「ッ……!」
肩に焼けるような痛みを感じる。ファイは、声を我慢する代わりにそこに歯を立てるということ。
幾度も同じ場所に噛み痕をつけられて、やがて血が滲んでくる頃には桜色の唇が紅を引いたかのようにうっすらと染まる。
あの夜、黒鋼はこれを見たのだと思う。
「ひ、ん……ッ、ぁ、くぅ、ん……!」
甘く掠れた吐息だけで、ファイは「くろがね」と呼んだ。思わず腰から下が砕けそうになって、悔しさに舌打ちをする。
ビクリと身体を震わせ、喘ぎまじりにファイが笑った。
「んんっ……! ぁ、ふふ、おっきくしないでよ……」
「知るか」
「我慢、するの……ッ、大変、なんだよ……?」
「だったら好きなだけ噛んでりゃいいだろ」
痛みさえ快感に変わるということも、黒鋼は初めて知った。
そして同時に、こうして抱き合ったあと彼の温もりを感じながら眠る夜は、例えどんなに激しい雨が降っていたとしても、夢も見ずに眠れることを、知った。
***
穏やかで紳士的な普段の様子から一変して、無邪気な子供のように振舞うかと思えば、引く手数多の悪女のような顔も見せる男。そのどれもが偽物に見えるし、真実にも思える。
そんな彼との濃密な時間で、知ることもあれば疑問もまた同時に膨らんでいた。
「慣れてんだな」
これまでも幾度も思った。その度に聞く機会を逃していた。
当たり前のように男を受け入れる男。けれど時折二人でテレビを眺めていれば、彼は好みの女優を指差して「こーゆうお嫁さんが欲しいなぁ」と目尻を下げることもあった。
要するに、どちらもイケるということは分かる。
だが今やそのどちらも知ってしまった黒鋼は、この男以外の男を抱けるかと問われれば、おそらく答えはノーだった。
「んー?」
狭いベッドの上で黒鋼の横でうつ伏せになっていたファイが、肘をついてこちらを見ると小首を傾げる。
「男の人とするってことー?」
「それ以外になにがあんだよ」
ぶっきらぼうな口調は、自然とどこか不貞腐れたような色を帯びてしまった。
「別にオレ、男が好きなわけじゃないよ?」
ファイが変に勘ぐってからかってこないことに密かに安堵しつつ、黒鋼は眉を寄せる。
「好きでもねぇのにセックスはするのか」
「そうだねぇ……。相手にもよるけど」
なら自分は合格だったということか。良いことなのか悪いことなのか、判断は難しい。
「まぁ切欠は強姦だったんだけどね」
「あ?」
まるで何でもないことのようにサラリと物騒なことを言ってのけたファイは、そのときのことを思い出しているのか、薄ぼんやりとした天井を見上げている。
けれどその表情には悲壮感が一切ない。ふとした瞬間、思い出に浸るかのような何気なさだった。
「高校生のときにね。放課後、担任の先生がいきなり襲ってきて」
「……やられちまったってか」
「うん、そう」
ケロリと頷くファイに、黒鋼は驚きも哀れみも通り越してただ、呆れた。
「抵抗できなかったのかてめぇは……」
「うーん。最初はビックリしてちょっとだけしたけど。でもすぐに止めた」
「どういうことだ」
「ほんとは殴るなり蹴っ飛ばすなりしたかったんだけどねぇ。それやっちゃうとさー、せっかく儚げで気の弱そうな優等生を演じてたのが台無しじゃない? それに、オレその先生のこと別に嫌いじゃなかったし」
呆れも限界まで来ると少々腹が立ってくる。そこまでしなければならない理由が、一体どこにあるというのか。
「猫っかぶりがそんなに大事か」
へにゃりと、ファイが笑った。
「大事だよ。その方がみんな幸せでしょ?」
「大馬鹿野郎」
彼が拘る意味が分からない。分かりたくもない。身体は繋がることが出来ても、この男とは住んでいる世界に大きな隔たりがあるように感じた。
それでも、黒鋼はどうしても気にかかって仕方がないことがあった。答えが得られるかどうかは別としても。
「なんで俺にはいいんだよ」
今の振る舞いが素であるかどうかは分からない。ただ少なくとも猫はかぶっていない。それだけは確かだ。
「だって君には初めて会ったときから通用してなかったじゃない。一回もバレたことなかったのになぁ。ねぇなんで?」
「知るか」
馬鹿馬鹿しくなって、黒鋼はファイに背を向けた。今夜はまだ一度しかしていないが、興が殺がれた。
けれどファイは黒鋼の肩に圧し掛かるようにして顔を覗きこんできた。
「俺ぁもう寝るぞ」
「ねぇねぇ、怒った? ヤキモチとかさー」
ムッとする。決して認めたくはないが、怒ってはいる。これがまともな人間が相手だったなら、もっと自分を大切にしろとか、有体な言葉くらいはかけたかもしれない。
だが焼きもちというのはいただけない。なぜ自分が強姦教師を(結果的には和姦のようなものだとしても)相手にそんなものを焼かねばならないのか。
面白くない。全くもって面白くない。話の内容以前に、とにかくひたすら面白くなかった。この妙な腹立たしさが自分でも理解できない。
「妬くか。阿呆が」
「ふふ、いいね。こういうのって」
ふざけるなと、黒鋼は思った。
今のファイとの居心地は、決して悪いものではない。だが下手に探ろうとすればするほど、もやもやとしたものや苛々が押し寄せてくる。
彼が飽きるまで、くだらない遊びに付き合ってやっているだけだと割り切れれば、それでいいのだろうか。
「ねぇ先生。遊ぼうよ」
「……うるせぇな」
クスクスと軽やかに笑う声が、皮膚をくすぐる。
一度は冷めかけたものに、危うく火が灯りそうになって黒鋼は乱暴な溜息を零した。
「何がしてぇんだ」
そんなものは一つしかないだろう。けれどあえて問うと、ファイは意外なことを口にした。
「ごっこ遊び。オレと黒たん先生が、恋人って設定」
何を言い出すのだろうか。呆れた黒鋼が首だけをファイに向けると、あの悪女のような性質の悪い笑顔がそこにはあった。
「ゲームだとでも思えばいいんじゃない? どっちかが浮気したり、どっちかが本気になっちゃったら、負け」
人さし指をピストルに見立てたファイが、自らのこめかみをそれで撃ち抜く動作をして見せた。
←戻る ・ 次へ→
学校での余所余所しさや屋上でのサボりは相変わらずだが、彼は今や週末に余裕があるときには黒鋼の家に酒を持ってきたり、料理を作りにやってくるようになった。
ファイは普段の謙虚で遠慮がちな態度が嘘のようにズケズケと黒鋼の生活空間の中に入り込み、あっさりその風景に溶け込んだ。
黒鋼にしてみれば最初こそ面食らったものの、彼が持って来る酒は高価なものばかりだったし、プロ並の料理の腕を見せられては文句の一つも言う気が失せた。
出会った当時は、例え仕事上の関係だったとしても片時も顔を合わせていたくなかったのが、まるで嘘のようだ。
餌付けをされてしまったのだろうかと、ふと情けなくなることもある。
ファイがよく顔を出すようになった当初、酒についても聞いてみた。弱いどころかとんだ酒豪じゃねぇかと。
ファイは笑いながら、「お酒が入ると癖が悪くなるんだよ」と言った。
その癖の悪さを身体で覚えこまされた経験のある黒鋼は、やっぱり何も言うことが出来なかった。
***
狭い畳のワンルームには、ほのかに甘い醤油の香りが満ちていた。
扇風機が首を振る度に、それがふわりふわりと増してゆくような気がする。
窓際のベッドに胡坐をかいてビールの缶をあおり、味噌汁の出汁をとるのに使ったスカスカの煮干を野良猫に放ってやりながら、黒鋼は台所に立つ痩せた背中をぼんやりと眺めた。
いつ見ても妙な感じだ。
最初にここへ酒を持ってやって来たファイは、ほとんど空っぽの冷蔵庫を見て不満そうに唇を尖らせた。
以来、週末に訪れる日は必ず黒鋼の携帯にメールを寄越すようになった。『何が食べたい?』というハートマークつきのメッセージを学校内で見てしまうと、思わず咳き込んでしまう。
そして本日のメニューは肉じゃがだった。基本的にはどんなジャンルでも選り好みせずに腹に収める黒鋼だったが、やはり和食は大好物だ。
ファイは洋食を得意としているようだったが、それでも一つ返事で了承した。
無意識に、犬のようにスンと鼻を鳴らす。ベッドから離れると飲みかけの缶をテーブルに置いて、台所へ向かうとファイの隣に並んだ。
「もうちょっとで出来るよー」
ファイは味噌汁の味を見ながら黒鋼の方へは目を向けずに言った。コンロの火を止めてから、年代モノの炊飯器のランプを確認する。
「ご飯ももうちょっと蒸らせばオッケー」
そしてじっくりと煮込まれた肉じゃがの鍋を開けた。これまでの非ではないくらい、胃袋を刺激するいい香りが一気に広がった。
「うまいもんだな」
それを皿に盛り付け始めたファイに、黒鋼は腕を組んで思わず呟いた。
「味は保障できないけどねー。和食はあんまり作らないからなぁ」
「別に問題ねぇだろ」
黒鋼は彼の料理の腕前に全幅の信頼を寄せている。これまでも、何をリクエストしても外したことがなかったからだ。
ファイはそれまでずっと手元から離さなかった視線を黒鋼に向ける。そして、目をぱちくりとさせた。
「なんだよ」
「いやぁ、黒たん先生に信頼されてるんだなぁって思うと嬉しくて」
黒鋼は咄嗟に咳払いをした。深く眉間に皺を寄せると、ファイはへにゃりと笑った。最近、彼はこういう笑い方もする。子供っぽくて、綿菓子のような笑顔だった。
黒鋼は、今のファイを比較的気に入っている。なんとなく、自然に呼吸が出来るような気がしていた。それこそ、昔から知っている仲のような、そんな居心地の良さだった。
もしかすれば、本当はずっと昔に会っているのではないか。そんな馬鹿みたいなことを本気で考えたりもする。
けれどそれを本人には決して言わない。思わず頬が熱くなりかけて、黒鋼は慌てて「うるせぇ!」と怒鳴った。
「しかもその呼び方は止めろって言ってんだろうが!」
「はいはい、零しちゃうから静かにしてねー。あ、お味噌汁よそってくれるー?」
ファイはニコニコしながら再び視線を手元に戻した。歌うような喋り方である。
黒鋼は舌打ちをしつつ、あらかじめ用意されていた二つの椀に湯気の立つ味噌汁をよそう。背の高い男が二人も並ぶと、狭い台所はさらに余裕がなくなってしまう。
肉じゃがを盛り付けるファイと、味噌汁をよそう黒鋼の肘が時折ぶつかる。
一体なんだろうかこの感じは。どうしてこんなに和やかに、この男と過ごしているのだろう。
妙な照れ臭さが引き続き黒鋼の動作を乱暴にして、椀の縁を汚す。
「あーもうー! ちゃんと綺麗によそってよー」
「だからうるせぇんだよてめぇは。オカンか」
「こんな目付きが悪くて、デカくて乱暴な子供のお母さんにはなりたくないなぁ。あ、それにオレの職業はオカンじゃなくて、保健室の先生だよ」
「知ってんだよそんなこたぁ」
それからもグダグダと言い合いつつ、テーブルに全ての料理を並べて二人揃って食べ始めた。
「てめぇは養護教諭より料理人の方が向いてんじゃねぇのか」
美味い、と言う代わりに嫌味のつもりの台詞を吐くと、ファイはジャガイモを飲み込んでから「そうなんだよ」と言う。
「オレ、子供の頃はコックさんになりたかったんだ」
「なればよかったじゃねぇか」
「それもそうだよねぇ。あ、どうしてコックさんになりたかったかというとねー、無人島に行ったときに便利かと思ったんだよ」
「ああ?」
「オレね、冒険家にもなりたかったの。ほら、料理の知識や腕があったらさ、無人島でも色んな食材を見つけて、プロ並の調理が出来るかなぁって」
「……阿呆か」
「アホだよねー」
朗らかに、ファイが笑った。
***
食欲も満たされて、酒も入ればほとんどの場合することは一つだった。
黒鋼は自分の性癖についてを深く考えたことがない。至ってノーマルであることが当たり前すぎたからだった。
ゆえにあの歓迎会の夜、初めて男を相手にセックスをしたことになる。
不快感はなかった。もっとも、あの行為の最中は考える余裕もなければ、快感以外のものを抱くヒマもなかったのだが。
意図せず飛び越えたハードルは、信じられないことにその後も彼とセックスをすることに対しての抵抗を黒鋼から拭い去っていた。
「く、ぁ……!」
小さく堪えた声が、黒鋼の耳朶を刺激している。
ここが壁の薄い安アパートであることを熟知している彼は、どれほど乱れようともそれを噛み締め、堪えてしまう。
胡坐をかく黒鋼に、向かい合う形で細い身体が必死にしがみついてくる。その腰を強く抱いて小刻みに揺らすと、ファイは自らも腰を揺らしながら幾度か首を振った。
彼をこうして抱くようになってから、黒鋼はあることを知った。
「ッ……!」
肩に焼けるような痛みを感じる。ファイは、声を我慢する代わりにそこに歯を立てるということ。
幾度も同じ場所に噛み痕をつけられて、やがて血が滲んでくる頃には桜色の唇が紅を引いたかのようにうっすらと染まる。
あの夜、黒鋼はこれを見たのだと思う。
「ひ、ん……ッ、ぁ、くぅ、ん……!」
甘く掠れた吐息だけで、ファイは「くろがね」と呼んだ。思わず腰から下が砕けそうになって、悔しさに舌打ちをする。
ビクリと身体を震わせ、喘ぎまじりにファイが笑った。
「んんっ……! ぁ、ふふ、おっきくしないでよ……」
「知るか」
「我慢、するの……ッ、大変、なんだよ……?」
「だったら好きなだけ噛んでりゃいいだろ」
痛みさえ快感に変わるということも、黒鋼は初めて知った。
そして同時に、こうして抱き合ったあと彼の温もりを感じながら眠る夜は、例えどんなに激しい雨が降っていたとしても、夢も見ずに眠れることを、知った。
***
穏やかで紳士的な普段の様子から一変して、無邪気な子供のように振舞うかと思えば、引く手数多の悪女のような顔も見せる男。そのどれもが偽物に見えるし、真実にも思える。
そんな彼との濃密な時間で、知ることもあれば疑問もまた同時に膨らんでいた。
「慣れてんだな」
これまでも幾度も思った。その度に聞く機会を逃していた。
当たり前のように男を受け入れる男。けれど時折二人でテレビを眺めていれば、彼は好みの女優を指差して「こーゆうお嫁さんが欲しいなぁ」と目尻を下げることもあった。
要するに、どちらもイケるということは分かる。
だが今やそのどちらも知ってしまった黒鋼は、この男以外の男を抱けるかと問われれば、おそらく答えはノーだった。
「んー?」
狭いベッドの上で黒鋼の横でうつ伏せになっていたファイが、肘をついてこちらを見ると小首を傾げる。
「男の人とするってことー?」
「それ以外になにがあんだよ」
ぶっきらぼうな口調は、自然とどこか不貞腐れたような色を帯びてしまった。
「別にオレ、男が好きなわけじゃないよ?」
ファイが変に勘ぐってからかってこないことに密かに安堵しつつ、黒鋼は眉を寄せる。
「好きでもねぇのにセックスはするのか」
「そうだねぇ……。相手にもよるけど」
なら自分は合格だったということか。良いことなのか悪いことなのか、判断は難しい。
「まぁ切欠は強姦だったんだけどね」
「あ?」
まるで何でもないことのようにサラリと物騒なことを言ってのけたファイは、そのときのことを思い出しているのか、薄ぼんやりとした天井を見上げている。
けれどその表情には悲壮感が一切ない。ふとした瞬間、思い出に浸るかのような何気なさだった。
「高校生のときにね。放課後、担任の先生がいきなり襲ってきて」
「……やられちまったってか」
「うん、そう」
ケロリと頷くファイに、黒鋼は驚きも哀れみも通り越してただ、呆れた。
「抵抗できなかったのかてめぇは……」
「うーん。最初はビックリしてちょっとだけしたけど。でもすぐに止めた」
「どういうことだ」
「ほんとは殴るなり蹴っ飛ばすなりしたかったんだけどねぇ。それやっちゃうとさー、せっかく儚げで気の弱そうな優等生を演じてたのが台無しじゃない? それに、オレその先生のこと別に嫌いじゃなかったし」
呆れも限界まで来ると少々腹が立ってくる。そこまでしなければならない理由が、一体どこにあるというのか。
「猫っかぶりがそんなに大事か」
へにゃりと、ファイが笑った。
「大事だよ。その方がみんな幸せでしょ?」
「大馬鹿野郎」
彼が拘る意味が分からない。分かりたくもない。身体は繋がることが出来ても、この男とは住んでいる世界に大きな隔たりがあるように感じた。
それでも、黒鋼はどうしても気にかかって仕方がないことがあった。答えが得られるかどうかは別としても。
「なんで俺にはいいんだよ」
今の振る舞いが素であるかどうかは分からない。ただ少なくとも猫はかぶっていない。それだけは確かだ。
「だって君には初めて会ったときから通用してなかったじゃない。一回もバレたことなかったのになぁ。ねぇなんで?」
「知るか」
馬鹿馬鹿しくなって、黒鋼はファイに背を向けた。今夜はまだ一度しかしていないが、興が殺がれた。
けれどファイは黒鋼の肩に圧し掛かるようにして顔を覗きこんできた。
「俺ぁもう寝るぞ」
「ねぇねぇ、怒った? ヤキモチとかさー」
ムッとする。決して認めたくはないが、怒ってはいる。これがまともな人間が相手だったなら、もっと自分を大切にしろとか、有体な言葉くらいはかけたかもしれない。
だが焼きもちというのはいただけない。なぜ自分が強姦教師を(結果的には和姦のようなものだとしても)相手にそんなものを焼かねばならないのか。
面白くない。全くもって面白くない。話の内容以前に、とにかくひたすら面白くなかった。この妙な腹立たしさが自分でも理解できない。
「妬くか。阿呆が」
「ふふ、いいね。こういうのって」
ふざけるなと、黒鋼は思った。
今のファイとの居心地は、決して悪いものではない。だが下手に探ろうとすればするほど、もやもやとしたものや苛々が押し寄せてくる。
彼が飽きるまで、くだらない遊びに付き合ってやっているだけだと割り切れれば、それでいいのだろうか。
「ねぇ先生。遊ぼうよ」
「……うるせぇな」
クスクスと軽やかに笑う声が、皮膚をくすぐる。
一度は冷めかけたものに、危うく火が灯りそうになって黒鋼は乱暴な溜息を零した。
「何がしてぇんだ」
そんなものは一つしかないだろう。けれどあえて問うと、ファイは意外なことを口にした。
「ごっこ遊び。オレと黒たん先生が、恋人って設定」
何を言い出すのだろうか。呆れた黒鋼が首だけをファイに向けると、あの悪女のような性質の悪い笑顔がそこにはあった。
「ゲームだとでも思えばいいんじゃない? どっちかが浮気したり、どっちかが本気になっちゃったら、負け」
人さし指をピストルに見立てたファイが、自らのこめかみをそれで撃ち抜く動作をして見せた。
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叩きつける横殴りの雨が、幼い肌に突き刺さるようにして降り注ぐ。
横転した車。空に向かって虚しく回り続けていたタイヤが軋むような音を立て、やがて停止する。
割れたガラスの破片が、不規則に点滅するライトに光り輝いていた。
歪で大きさの違う石が幾つも転がる中、投げ出されている腕は肘から上がない。腕だけが、ただ置き去りにされたオモチャのように転がっている。
それは左腕だった。薬指にはめられた指輪が、ガラスの破片が光るのと同じように、キラキラと輝いているのが見えた。
そこからどす黒い血が、細かな砂利の合間を縫って蛇のように波打っている。それは横転した車の下からも、どろどろと止め処なく流れ出していた。
黒鋼の腕の中にある血塗れの身体は、手足が有り得ない方向へと折れ曲がっていた。その泥に汚れた左手にも、同じように指輪がはめられている。
必死でそれを掻き抱きながら、ゆっくりと、けれど確実に熱が失われてゆくのをただ震えながら感じていた。
血は赤く、温かなものだとばかり思っていた。そして、雨は全てを洗い流してくれるものだと。
その何もかもが間違っていたなんて、知りたくなかった。
幼い黒鋼の声にならない無様な悲鳴は、無慈悲な曇天を切り裂くことさえ、当たり前のように出来はしなかった。
***
「ッ……!」
悪夢からの目覚めは、やはり最悪だった。
夜の闇の中、激しい雨音によって誘発されたそれに、黒鋼は汗だくになった身を起こす。
心臓の音が身体の中で小刻みに、けれど大音響で刻まれている。酷く喉が渇いているけれど、まるで手足に重石でも括りつけられているかのような感覚に、これ以上動く気になれない。
胸の辺りを押さえながら、再び身体を横たえる。耳障りな雨音に、過敏になっている神経がジリジリと焼き切れてしまいそうだった。
これでも、幼い頃よりはずっとましになった。
精神的にも未熟だった頃は、悪夢を見るたびに呼吸さえままならない状態に陥ることが当たり前だった。
それでも、終わりはいつ訪れるのだろうか。成長と共に発作的なものは治まりつつあったとしても、悪夢だけは消えてくれない。過去が消えないことと同様に。
あの日、あの事故のとき。一緒に逝くことが出来ていたら、今頃はずっと楽だったのだろうか。
雨は嫌いだ。
普段なら考えもしないような最悪な思考が、脳裏にこびり付いて離れなくなるから。
目を閉じた黒鋼に、再び眠りは訪れなかった。
***
春休みを間近に控えたある日のこと。
梅雨でもないのに、ここ数日はずっと雨が降っていた。黒鋼にとっては気分の晴れない状態が続いている。
そんな中、昼休み前の体育の授業中に怪我人が出た。
黒鋼は授業を終えたその足で、保健室へと向かった生徒の元へ赴いた。
あの週末の出来事以来、流石にあの養護教諭と二人きりで飲みに行くというイベントは起こっていない。こういった業務上の関わり以外で彼と顔を合わせることも、当然避けていた。
肩の傷はほとんど完治していたが、奴はとことん性格の悪い男だと思う。
引き戸を開けると、そこには怪我をした生徒である小狼とその双子の兄小龍、クラスメイトの女子であるさくら、そして勿論、養護教諭がいた。
「あ、黒鋼先生」
双子の兄を除いた三人が同時に声を上げた。
黒鋼はそれに「おう」と短く答えると、皮製の長椅子に腰掛ける小狼の側へと歩み寄った。
「どうなんだ」
「擦りむいた肘は掠り傷ですよ。右足はちょっと腫れが酷いですけど……軽い捻挫です」
小狼の足元に膝をついて、その裸足の足首に包帯を巻きながら、ファイが答えた。
体操着姿のさくらが、小狼の側に寄り添うように腰掛けながらほっと息をついた。怪我をした当人よりもずっと青い顔をしていたようだが、安心して気が抜けたのか、少し涙ぐみながらも弱々しく笑顔を見せた。
ジャージ姿の兄の方は、ファイの隣に佇んだまま腕組みをしている。こちらは表情が読み取れない。
「はい、終わり。一週間くらい安静にしていれば大丈夫だよ」
「ありがとうございます……」
黒鋼は俯いて表情を曇らせている小狼が気になった。この生徒は兄の方よりおっとりしているが、極端に思いつめる性質もあるようだった。
案の定、彼はゆるゆると顔を上げると、深く思いつめた表情で黒鋼を見た。
「黒鋼先生……おれ……」
「落ち込むくらいならとっとと治せ。なっちまったもんはしょうがねぇだろ」
「でも……」
「小狼君……?」
再び俯いた小狼に、さくらが不安そうな表情でその肩に触れた。
今回の事故は、確かに彼にしては珍しいことだった。授業中のバスケの試合で、小狼はどこかムキになって走り回り、結果相手チームの生徒と派手に衝突して引っくり返ったのだ。
幸い相手の生徒には掠り傷一つなかったが、怪我をしたことにより部活動にまで支障を来たすことを、彼なりに酷く後悔しているのだろう。
小狼は、黒鋼が顧問を務める剣道部に所属するエースだった。
黒鋼はさらに彼へと歩み寄ると、少し乱暴にその頭をグシャグシャと撫でた。
申し訳なさそうな表情で顔を上げた小狼に、ひょいと片眉を上げて見せた。すると、それをただ黙って眺めていた小龍が落ち着いた口調で言った。
「普段からやっているスポーツじゃないんだ。張り合っても仕方がないだろう?」
「……うん……ごめん」
ああなるほど。黒鋼は合点がついた。
兄の方はバスケ部に所属しており、本日の授業では小狼の相手チームにいた。
黒鋼は一人っ子だから分からないが、兄弟がいて、しかもそれが双子であれば、勝負事に関してムキになってしまうこともあるのかもしれない。
おっとりしているように見えるが、竹刀を持った瞬間の彼は顔つきが精悍なものに変わる。小狼がその内面に負けん気の強さを備えていることを、黒鋼もよく知っていた。
「とにかくだ。部活も体育もしばらく見学だ。それでいいだろう?」
チラリと視線を落とせば、見上げてきたファイがニコリと笑った。
「でも、春休みに入ったらすぐ練習試合が……!」
僅かに身を乗り出して言い募ろうとする小狼だったが、その瞬間ファイが包帯の巻かれた足首にそっと触れた。
「あのね、小狼君」
「ファイ先生……?」
「無理をして辛い思いをするのは君だけじゃないんだ。その姿を見て悲しむ人が側にいることを、忘れてはいけないよ」
「ぁ……」
小狼は小さな声をあげて、腕組みをして目を閉じている兄を見た。それから、傍らに寄り添うさくらを見やる。
「小狼君……」
さくらは目元を赤くして、瞳に涙を浮かべていた。それを見て、小狼がぐっと息を詰める。
彼にとっておそらく彼女の存在は特別なものなのだろう。
けれど黒鋼は、優しく微笑むファイの横顔が気にかかって仕方がなかった。
生徒を見守る慈愛に満ちたその瞳の柔らかさに、不覚にも黒鋼まで心が和らぐのを感じてしまう。
窓の外は相変わらず雨が降っていて、黒鋼の胸はどんよりと重たいままだったはずなのに。
そして何より、ずっと表裏のある胡散臭い男だと感じていた彼が放った言葉に、嘘偽りがあるとは思えなかった。ますます、彼という存在が不明瞭になっていく。
黒鋼が知っているだけでもこの男には二つの顔がある。他にもあるのだろうか。一体どれを信じればいいのだろう。
小狼は再びファイに向き合うと、項垂れて「ごめんなさい」と言った。ファイはこくりと頷いた。
「おれは悲しんだりはしないけどな」
「?」
冷ややかな小龍の声がして、一同が彼を見やる。小龍は厳しい表情で拳を握るとガッツポーズをするようにそれを掲げた。それから、不敵な笑みを浮かべる。
「悲しむより、お仕置きだ」
「に、兄さん……」
困り顔の小狼を見て、ファイとさくらが声を揃えて笑っていた。
その後、次の授業へと向かった3人を見送ったファイは「双子なのに、中身はぜんぜん違うんですねぇ」と感心したように言った。
***
雨が止んだのは、その翌日のことだった。
晴れ渡った空を間近で見たかった黒鋼は、授業のない空いた時間を見計らって、北校舎の屋上へと向かった。
そこへと続く扉は基本的に立ち入り禁止であるが、以前偶然に鍵が壊れていることに気がついて以来、ごく稀にではあるが密かに利用していた。
重々しいそれをゆっくりと開けると、陽の光が一気に飛び込んでくる。手を翳して一瞬それを遮った。
やがて徐々に慣れてきた瞳を見開けば、青い空と、そして軽快にはためく白衣の背中が見えた。
どうして彼がここに。だが黒鋼はさほど驚きはしなかった。
得体の知れない男。だから、神出鬼没だったとしてもおかしくはない。
彼は、背後でガチャリと扉が閉まる音が聞こえたのか、ゆっくりと金髪を揺らしながら振り向いた。
「奇遇ですね」
顔を顰めている黒鋼の姿を見とめると、彼は天使のような微笑を浮かべた。
「ここは立ち入り禁止だ。なんでいやがる」
「黒鋼先生だって」
「うるせぇ。見回りだ」
「青空が見たかったんです」
適当な嘘をついた黒鋼を気にする素振りもなく、ファイは青空を見上げた。
「雨上がりの空って、どうしてこんなに綺麗なんでしょうね?」
風に乗って、金髪が美しく揺らめく。その横顔は、保健室で黒鋼を癒したあの穏やかなものと同じだった。
「見てるとなんだか……」
けれど、その表情は彼が再び黒鋼を見る頃には一変していた。
あの笑顔だ。月明かりの部屋と、そして人気の失せた廊下で見せた、あの。
「吐き気がしてこない?」
「……てめぇは一体誰なんだ?」
ついに、黒鋼は問うた。
春の香りを乗せた風が、今は冬のそれよりもずっと冷たく頬を撫でる。
「ボクはボクですよ?」
「だったらあの夜のことを説明しやがれ」
きつく睨みつければ、ファイはすかさずわざとらしいほど爽やかな笑みを見せた。一見すればそれは、普段見せるものと変わりなく思える。けれど纏うオーラが異なることを、黒鋼は知っている。
「これは夢だと、あの晩てめぇは言ったな」
「さぁ?」
「ならなんであんな傷なんか残しやがった? あれがてめぇの本性か?」
夢だと言いながら、確かな痕跡を残したファイ。傷が癒えたあとも、ふとした瞬間ズキリと痛む。まるで消えることのない刻印を刻まれたかのように。
「……だって君は、最初から見抜いてたんでしょう?」
笑みの形を作る瞳が、酷く冷たい。まるで蔑まれているようだと感じた。
けれどそれはすぐに、どこかうっとりとしたように潤む。
「君みたいな人は初めてだ」
その台詞は、あの夜にも一度聞いたような気がする。嫌でも思い出す、あの赤い舌と唇。
「オレはね、オレに関わる全ての人に、幸せになって欲しいだけなんだよ」
この瞬間から、黒鋼とファイの秘密の関係が幕を開けたのだった。
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横転した車。空に向かって虚しく回り続けていたタイヤが軋むような音を立て、やがて停止する。
割れたガラスの破片が、不規則に点滅するライトに光り輝いていた。
歪で大きさの違う石が幾つも転がる中、投げ出されている腕は肘から上がない。腕だけが、ただ置き去りにされたオモチャのように転がっている。
それは左腕だった。薬指にはめられた指輪が、ガラスの破片が光るのと同じように、キラキラと輝いているのが見えた。
そこからどす黒い血が、細かな砂利の合間を縫って蛇のように波打っている。それは横転した車の下からも、どろどろと止め処なく流れ出していた。
黒鋼の腕の中にある血塗れの身体は、手足が有り得ない方向へと折れ曲がっていた。その泥に汚れた左手にも、同じように指輪がはめられている。
必死でそれを掻き抱きながら、ゆっくりと、けれど確実に熱が失われてゆくのをただ震えながら感じていた。
血は赤く、温かなものだとばかり思っていた。そして、雨は全てを洗い流してくれるものだと。
その何もかもが間違っていたなんて、知りたくなかった。
幼い黒鋼の声にならない無様な悲鳴は、無慈悲な曇天を切り裂くことさえ、当たり前のように出来はしなかった。
***
「ッ……!」
悪夢からの目覚めは、やはり最悪だった。
夜の闇の中、激しい雨音によって誘発されたそれに、黒鋼は汗だくになった身を起こす。
心臓の音が身体の中で小刻みに、けれど大音響で刻まれている。酷く喉が渇いているけれど、まるで手足に重石でも括りつけられているかのような感覚に、これ以上動く気になれない。
胸の辺りを押さえながら、再び身体を横たえる。耳障りな雨音に、過敏になっている神経がジリジリと焼き切れてしまいそうだった。
これでも、幼い頃よりはずっとましになった。
精神的にも未熟だった頃は、悪夢を見るたびに呼吸さえままならない状態に陥ることが当たり前だった。
それでも、終わりはいつ訪れるのだろうか。成長と共に発作的なものは治まりつつあったとしても、悪夢だけは消えてくれない。過去が消えないことと同様に。
あの日、あの事故のとき。一緒に逝くことが出来ていたら、今頃はずっと楽だったのだろうか。
雨は嫌いだ。
普段なら考えもしないような最悪な思考が、脳裏にこびり付いて離れなくなるから。
目を閉じた黒鋼に、再び眠りは訪れなかった。
***
春休みを間近に控えたある日のこと。
梅雨でもないのに、ここ数日はずっと雨が降っていた。黒鋼にとっては気分の晴れない状態が続いている。
そんな中、昼休み前の体育の授業中に怪我人が出た。
黒鋼は授業を終えたその足で、保健室へと向かった生徒の元へ赴いた。
あの週末の出来事以来、流石にあの養護教諭と二人きりで飲みに行くというイベントは起こっていない。こういった業務上の関わり以外で彼と顔を合わせることも、当然避けていた。
肩の傷はほとんど完治していたが、奴はとことん性格の悪い男だと思う。
引き戸を開けると、そこには怪我をした生徒である小狼とその双子の兄小龍、クラスメイトの女子であるさくら、そして勿論、養護教諭がいた。
「あ、黒鋼先生」
双子の兄を除いた三人が同時に声を上げた。
黒鋼はそれに「おう」と短く答えると、皮製の長椅子に腰掛ける小狼の側へと歩み寄った。
「どうなんだ」
「擦りむいた肘は掠り傷ですよ。右足はちょっと腫れが酷いですけど……軽い捻挫です」
小狼の足元に膝をついて、その裸足の足首に包帯を巻きながら、ファイが答えた。
体操着姿のさくらが、小狼の側に寄り添うように腰掛けながらほっと息をついた。怪我をした当人よりもずっと青い顔をしていたようだが、安心して気が抜けたのか、少し涙ぐみながらも弱々しく笑顔を見せた。
ジャージ姿の兄の方は、ファイの隣に佇んだまま腕組みをしている。こちらは表情が読み取れない。
「はい、終わり。一週間くらい安静にしていれば大丈夫だよ」
「ありがとうございます……」
黒鋼は俯いて表情を曇らせている小狼が気になった。この生徒は兄の方よりおっとりしているが、極端に思いつめる性質もあるようだった。
案の定、彼はゆるゆると顔を上げると、深く思いつめた表情で黒鋼を見た。
「黒鋼先生……おれ……」
「落ち込むくらいならとっとと治せ。なっちまったもんはしょうがねぇだろ」
「でも……」
「小狼君……?」
再び俯いた小狼に、さくらが不安そうな表情でその肩に触れた。
今回の事故は、確かに彼にしては珍しいことだった。授業中のバスケの試合で、小狼はどこかムキになって走り回り、結果相手チームの生徒と派手に衝突して引っくり返ったのだ。
幸い相手の生徒には掠り傷一つなかったが、怪我をしたことにより部活動にまで支障を来たすことを、彼なりに酷く後悔しているのだろう。
小狼は、黒鋼が顧問を務める剣道部に所属するエースだった。
黒鋼はさらに彼へと歩み寄ると、少し乱暴にその頭をグシャグシャと撫でた。
申し訳なさそうな表情で顔を上げた小狼に、ひょいと片眉を上げて見せた。すると、それをただ黙って眺めていた小龍が落ち着いた口調で言った。
「普段からやっているスポーツじゃないんだ。張り合っても仕方がないだろう?」
「……うん……ごめん」
ああなるほど。黒鋼は合点がついた。
兄の方はバスケ部に所属しており、本日の授業では小狼の相手チームにいた。
黒鋼は一人っ子だから分からないが、兄弟がいて、しかもそれが双子であれば、勝負事に関してムキになってしまうこともあるのかもしれない。
おっとりしているように見えるが、竹刀を持った瞬間の彼は顔つきが精悍なものに変わる。小狼がその内面に負けん気の強さを備えていることを、黒鋼もよく知っていた。
「とにかくだ。部活も体育もしばらく見学だ。それでいいだろう?」
チラリと視線を落とせば、見上げてきたファイがニコリと笑った。
「でも、春休みに入ったらすぐ練習試合が……!」
僅かに身を乗り出して言い募ろうとする小狼だったが、その瞬間ファイが包帯の巻かれた足首にそっと触れた。
「あのね、小狼君」
「ファイ先生……?」
「無理をして辛い思いをするのは君だけじゃないんだ。その姿を見て悲しむ人が側にいることを、忘れてはいけないよ」
「ぁ……」
小狼は小さな声をあげて、腕組みをして目を閉じている兄を見た。それから、傍らに寄り添うさくらを見やる。
「小狼君……」
さくらは目元を赤くして、瞳に涙を浮かべていた。それを見て、小狼がぐっと息を詰める。
彼にとっておそらく彼女の存在は特別なものなのだろう。
けれど黒鋼は、優しく微笑むファイの横顔が気にかかって仕方がなかった。
生徒を見守る慈愛に満ちたその瞳の柔らかさに、不覚にも黒鋼まで心が和らぐのを感じてしまう。
窓の外は相変わらず雨が降っていて、黒鋼の胸はどんよりと重たいままだったはずなのに。
そして何より、ずっと表裏のある胡散臭い男だと感じていた彼が放った言葉に、嘘偽りがあるとは思えなかった。ますます、彼という存在が不明瞭になっていく。
黒鋼が知っているだけでもこの男には二つの顔がある。他にもあるのだろうか。一体どれを信じればいいのだろう。
小狼は再びファイに向き合うと、項垂れて「ごめんなさい」と言った。ファイはこくりと頷いた。
「おれは悲しんだりはしないけどな」
「?」
冷ややかな小龍の声がして、一同が彼を見やる。小龍は厳しい表情で拳を握るとガッツポーズをするようにそれを掲げた。それから、不敵な笑みを浮かべる。
「悲しむより、お仕置きだ」
「に、兄さん……」
困り顔の小狼を見て、ファイとさくらが声を揃えて笑っていた。
その後、次の授業へと向かった3人を見送ったファイは「双子なのに、中身はぜんぜん違うんですねぇ」と感心したように言った。
***
雨が止んだのは、その翌日のことだった。
晴れ渡った空を間近で見たかった黒鋼は、授業のない空いた時間を見計らって、北校舎の屋上へと向かった。
そこへと続く扉は基本的に立ち入り禁止であるが、以前偶然に鍵が壊れていることに気がついて以来、ごく稀にではあるが密かに利用していた。
重々しいそれをゆっくりと開けると、陽の光が一気に飛び込んでくる。手を翳して一瞬それを遮った。
やがて徐々に慣れてきた瞳を見開けば、青い空と、そして軽快にはためく白衣の背中が見えた。
どうして彼がここに。だが黒鋼はさほど驚きはしなかった。
得体の知れない男。だから、神出鬼没だったとしてもおかしくはない。
彼は、背後でガチャリと扉が閉まる音が聞こえたのか、ゆっくりと金髪を揺らしながら振り向いた。
「奇遇ですね」
顔を顰めている黒鋼の姿を見とめると、彼は天使のような微笑を浮かべた。
「ここは立ち入り禁止だ。なんでいやがる」
「黒鋼先生だって」
「うるせぇ。見回りだ」
「青空が見たかったんです」
適当な嘘をついた黒鋼を気にする素振りもなく、ファイは青空を見上げた。
「雨上がりの空って、どうしてこんなに綺麗なんでしょうね?」
風に乗って、金髪が美しく揺らめく。その横顔は、保健室で黒鋼を癒したあの穏やかなものと同じだった。
「見てるとなんだか……」
けれど、その表情は彼が再び黒鋼を見る頃には一変していた。
あの笑顔だ。月明かりの部屋と、そして人気の失せた廊下で見せた、あの。
「吐き気がしてこない?」
「……てめぇは一体誰なんだ?」
ついに、黒鋼は問うた。
春の香りを乗せた風が、今は冬のそれよりもずっと冷たく頬を撫でる。
「ボクはボクですよ?」
「だったらあの夜のことを説明しやがれ」
きつく睨みつければ、ファイはすかさずわざとらしいほど爽やかな笑みを見せた。一見すればそれは、普段見せるものと変わりなく思える。けれど纏うオーラが異なることを、黒鋼は知っている。
「これは夢だと、あの晩てめぇは言ったな」
「さぁ?」
「ならなんであんな傷なんか残しやがった? あれがてめぇの本性か?」
夢だと言いながら、確かな痕跡を残したファイ。傷が癒えたあとも、ふとした瞬間ズキリと痛む。まるで消えることのない刻印を刻まれたかのように。
「……だって君は、最初から見抜いてたんでしょう?」
笑みの形を作る瞳が、酷く冷たい。まるで蔑まれているようだと感じた。
けれどそれはすぐに、どこかうっとりとしたように潤む。
「君みたいな人は初めてだ」
その台詞は、あの夜にも一度聞いたような気がする。嫌でも思い出す、あの赤い舌と唇。
「オレはね、オレに関わる全ての人に、幸せになって欲しいだけなんだよ」
この瞬間から、黒鋼とファイの秘密の関係が幕を開けたのだった。
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一人きりでポツンと川原の岩に座りこんでいた子供に、黒鋼は拾った石を差し出した。
金色の髪をしたその子供は、大きな青い瞳で黒鋼を見上げると、パチパチと睫毛を躍らせる。
「どうしてくれるの?」
「いいからやる。変な形だろ」
「わ、本当だー」
白くて小さな手の平に乗せてやると、彼は嬉しそうにそれを空に翳した。
「お月さまみたいだねー」
「名前だってあるんだぜ」
「名前? 石に名前があるの?」
首を傾げるその子供に、黒鋼はえへんと胸を張った。
「俺がつけた。蛍の石だ」
「ほたるいし?」
「おまえもあっちでキャンプ張ってたんだろ? 黄緑色でピカピカ光るやつ、見なかったか?」
「あ!」
途端に瞳を輝かせたその子供に、黒鋼は大きく頷いた。
本当は水面に投げたらよく飛ぶだろうと思って拾った石だった。けれど、一人ポツンといる彼を見て、どうしても話しかけてみたくなったのだ。
「黒鋼ー! 車に荷物を積むから手伝ってー!」
そのとき、遠くで母の声がした。父は張っていたテントを解体していたから、それが終わったのだろう。
「じゃ、俺行くから」
「あ、待って」
「?」
「ありがとう」
黒鋼がやった石を両手でしっかりと包み込んで、彼は笑った。なんだか照れ臭くなってしまって、黒鋼はただ小さく頷くだけだった。
「また会おうね。ボク、来年の夏休みもユゥイと来るって約束してるの」
「だったら会えるさ。俺も来年また来るって、父さんと約束した」
「じゃあ、またね」
「またな」
キラキラと輝く川のせせらぎの中で、黒鋼は名も知らぬ子供と手を振り合った。
青空の下で白い歯を見せながら幼く笑う彼を、そのときの黒鋼はいつまでも忘れないでいようと思った。
また会うために。
けれどその子供とは二度と会うことはなかった。
黒鋼が父とした約束も、果たされることがなかったのだ。
*
どうして忘れていたのだろう。
黒鋼がそれを思い出したのは、あの雨の降る山で夜を明かした朝のことだった。
深く眠り込んでいるファイを起こさないようにそっと空洞から抜け出して、黒鋼は明るくなってきた空の下、ライトを片手に駄目もとで辺りを散策してみた。
見つかるはずはないだろうと思っていた。枯葉や小枝ばかりの地面をそれでも探して、やがて黒鋼が着地を果たした地点に辿りついたとき、見つけた。
よく見れば黒鋼が残した痕以外にも、地面が酷く抉れた場所がある。
おそらく、ファイはここに落下したのだろう。そしてその抉れた地点の近辺に、石があった。
それを拾い上げた瞬間、ふと思い出した。
輝く水面。晴天の空と小さな手の平。透き通る青と淡い金色。無邪気な笑顔。また会おうねと、交わした約束。
黒鋼の記憶に誤りがなければ、あれは確かにファイだった。
自分が今まで忘れていたように、あの男もまた忘れているのだろうか。
だがこの石は、『大切な人』がくれたものだとファイは言った。そしてその人物が、もうこの世にいないということも。
単にあのときの子供がファイとよく似ていただけかもしれない。
だがそう片付けてしまうには、『蛍石』という今にして思えばこじつけとしか思えない石の名前が、見事に引っかかる。
そしてそのときの黒鋼には、やはりまだファイが仮面を被り続ける理由も、そして最初に彼に対して感じていた違和感の正体も、何もかもが分からないことだらけだった。
*
「まさかあんときのガキが言ってたユゥイってのが、てめぇのことだったとはな」
黒鋼は病室の一角で不器用にリンゴを剥きながら、しみじみと呟いた。
歪なリンゴを片っ端から口に放り込んでいたファイが、「あー?」と間抜けな返事をする。
「ファイ、ってのが言ったんだよ。てめぇの名前を」
「……そっかぁ。でもオレだってビックリしたよ。この石が、もとを正せば君がくれたものだったなんてさー」
「分からねぇもんだな」
二人は揃ってベッドの脇に設置してある、引き出しの上の蛍石を見た。
本当に、世の中は分からないものだ。
黒鋼が石を渡した子供が本当のファイで、今目の前にいるのはその双子の弟だという。
兄は弟へ、黒鋼から受け取った石に願いを託して渡していた。そしてそんなことも知らずに、自分達は出会ってしまったのだ。
初めから黒鋼がファイに対して違和感を抱いたのは、おそらくそのせいだった。
彼らは双子というくらいだから瓜二つだ。けれど、纏う空気が異なっていたのだと思う。
それでも、あの石を渡した子供がもうこの世にいないということに、黒鋼は少なからずショックを受けていた。
本当に、世の中というものは分からない。
「ねぇ、黒たん」
「あん?」
再びおぼつかない手つきでリンゴを剥き始めた黒鋼に、ファイがポツリと声をかけた。
「この石。きっとファイが死ぬまでは本当にただの石ころだったんだろうね」
「?」
「うーんと……上手く言えないんだけど。ファイが、魂だけになってこの石に宿ってたのかなって。だから山で動けなくなっても君が来てくれたし……その、飛び降りてもオレ……掠り傷だったし……?」
飛び降りに関してのことを言う際、ファイは言いにくそうに語尾を弱めた。
あのときのことを思い出して、黒鋼の額に血管がぷっくりと浮かぶ。
そう、ファイは掠り傷一つで済んだのだ。何のクッション代わりも存在しない平地に落ちたというのに、それはまさに奇跡だった。
脳震盪を起こし、そして運悪く右手だけを強く捻って僅かに腫れたが、医師や現場を検証した警官も首を傾げていた。
「てめぇ退院したら覚えてろよ……? ここは病院だからな。今は勘弁してやってんだ」
「うぅ、怖いよぉ……オレ、いっそ死んだ方がマシってくらい酷い目に遭うんだきっと」
「嘘泣きすんじゃねぇ! あれから俺が言い訳すんのにどんだけ苦労したと……!」
「く、黒たん先生! お静かにーっ」
わたわたとして黒鋼を鎮めようとするファイにハッとして見ると、同室の入院患者が目をパチクリさせながらこちらを見ている。黒鋼がゴホンと咳払いすると、全員が目を逸らした。
「とにかくだ。生きた心地がしなかったんだ。俺ぁ許す気はねぇからな」
あのあとは本当に大変だった。落下の原因は、屋上への鍵が開いていたことや、フェンスが壊れていたのをたまたま発見し、確認していた際にファイが体勢を崩した……などと適当なことを言って誤魔化した。
ファイには紛い物にせよ人望があったので、逆に側にいた黒鋼がなぜ注意していてやらなかったのかと、主に女性教諭に思い切り責められた。突き落としたのではないかと疑われなかっただけ、マシだったかもしれない。
現在、ファイは念のために一週間ほどの検査入院をしている。
「ごめんなさい……」
しょんぼりと俯くファイに、ナイフに刺さったままのリンゴを差し出す。白い指先が、それでもリンゴを取って口に運ぶ。ショリショリと、控えめな音を立てて租借している様を見て、当分はこれで存分にイビってやろうと思った。
そんな黒鋼の思惑を知りもせず、全てを飲み込んだファイがぼんやりとした顔で視線を向けてくる。
「なんだ? もうねぇぞ」
「うん。もうリンゴはいいや」
「だったらなんだ」
「うん……あのね……」
煮え切らない態度のファイに、黒鋼は首を傾げた。まだ何か言い足りないことでもあるのだろうか。
彼のこれまでのことやそのきっかけについては、あらかた聞いたと思っていたが。
「なんだよ。言ってみろ」
「うん……あのさ、まだ会ったばっかりの頃にね、屋上でオレが言ったこと、覚えてるかなぁ?」
「あ?」
「その……オレ、君のこと嫌いって言った……」
「そんなこともあったかもな」
あの頃、黒鋼とファイは互いを相手に言葉遊びをしていたに過ぎない。まさか二人の出会いの裏側にこんな秘密が隠されていたことも、彼を好きになってしまうことも、何より彼があんな突飛な行動を起こすなんてことも、予想もしていなかった頃だった。
思えばまだ一年も経っていないのに、随分と昔のことのように思える。
「あれね、嘘だから……。多分、あのときにはもう……好き、だったと思うよ……?」
言うだけ言うと、ファイは黒鋼が反応する前に耳まで赤くして俯いた。思わず拍子抜けする。
「おまえ……案外純情で真面目だったんだな……」
思った通りのことを口にしたら、ファイは赤い顔のままムッとした顔を見せた。
***
季節がいつの間にか移ろいを見せるように、その頃になると学校内での養護教諭への評価も、知らぬ間に変わっていた。
「ファイ先生って雰囲気がガラリと変わりましたよねー」
「そうねぇ。一皮剥けたというか……明るくなったわねぇ」
女性教諭たちの井戸端トークならぬ職員室トークにもすっかり慣れた。だが以前は耳に入るだけでイライラしていたのが嘘のように、黒鋼自身も少し興味が湧いてさりげなく耳を傾ける。
「紳士な振る舞いも素敵でしたけど、今はどちらかというとアイドルって雰囲気ですよね」
「やっぱり学校の先生より、芸能人にでもなった方が似合ってるんじゃないかしら」
「ようやくこの学校に馴染んだって証拠じゃないですかぁ?」
「あらあら、随分と時間がかかったものだわねぇ」
「繊細なんですよぉきっと」
黒鋼は内心やれやれと言った感じで席を立った。空になった湯飲み茶碗を給湯室に下げて適当に洗う。
ファイがどう変わっても、どうやら女性達の中で彼は王子様のままらしい。あの容姿であるからそれは仕方がないのかもしれないが。
黒鋼は洗った湯飲み茶碗を籠の中に伏せると、ふと腕時計を見やった。まだ少し余裕があることを確認する。
「ツラでも拝みに行くとするか」
校内では極力顔を合わせたがらなかった頃から、自分も随分と変わったものだ。
*
「先生ありがとうございました! 僕、頑張ります!!」
保健室の扉を開けた瞬間、男子生徒の一人がペコリと勢いよく頭を下げる光景に遭遇した。
そのまま部屋を出ようと振り返った生徒が黒鋼に気づき、またペコリと頭を下げる。そして小走りに出て行った。
「はーい。頑張ってねー」
デスクチェアに腰掛けたファイが、ひらひらと手を振って笑っている。
「なんだありゃあ」
「黒たん先生だー。どうかしたの? また猫に引っかかれた?」
「うるせぇよ。用がなきゃ来ちゃ悪いか」
むっとしたついでに開き直った黒鋼に、ファイがちょっと頬を赤らめて口をもごもごとさせた。それを無視して皮製の長椅子にどっかりと腕組みをして腰を下ろす。
「なんだ、今の奴は」
「あ、うん。まぁ詳細は秘密だけどね、恋のお悩みって感じ?」
ファイは少しだけ頬を染めたまま、嬉しそうにふにゃりと笑った。逆にむっつり顔の黒鋼は、僅かに片眉を上げる。
「それであの清々しい顔か」
「なんか最近、男の子たちがよく話しかけてくれるようになったんだよねー。オレもようやく馴染めたって感じかなー」
それは微妙に違うだろう、と黒鋼は思った。
自虐の極みではあったが、確かにファイは一皮剥けた。と、いうより本来の自分を取り戻し、分厚い仮面を取り払ったことにより、同時にファイの猫かぶりも終わりを告げた。
それによって単に気安く絡みやすくなったのだと思う。今のファイはのんびりとしていて、気取らないオーラが全開だ。
「可愛いよねー。進路のことをぼやきに来る子もいるけどね、やっぱりみんな恋愛に興味があるみたい。青春って感じだよねー」
女生徒に圧倒的な人気を誇るのは今も同じだが、ファイは悩める男子連中にとっていいアドバイザーだと認識されたらしい。彼の実際の恋愛遍歴は知らないし、知ろうとも思わないが、身近な友人よりも相手が経験豊富な同性の大人で、しかも気楽な相手と分かれば相談もしやすいのだろう。
「でもねー、やっぱ高校生くらいになると相談内容も結構際どいものが……って? 黒たん? 黒様? おーい先生ー」
「……あ? なんだって?」
「ちょっとー。なにぼんやりしてるの?」
小首を傾げたファイに、黒鋼は内心慌てて「なんでもねぇよ」と言った。
彼が本当の意味で万人に受け入れられることを喜ばしいと思う反面、なにやらそれもそれで面白くない……なんて口が裂けても言えない複雑な黒鋼だった。
***
週末には、また以前のように二人で過ごすことが多くなっていた。
黒鋼がファイの暮らすマンションに出向くことも増えたし、夕飯の食材を一緒にスーパーへ買出しにも行くようになった。
そしてさらにファイに言わせると、「前より黒たん先生が手伝ってくれるから楽チンだなぁ」らしい。
確かに以前までの疑惑と駆け引きだけが絡み合った関係性に比べると、信じられない進歩だった。
まさか自分に同性の恋人が出来るとは夢にも思わなかった黒鋼だが、今の生活は心地がよく、ぶっちゃけてしまえば幸せだった。
ただ一つ、不満とまではいかないが何より大きく変わった点に首を捻る以外には。
食後にまったりしたあと適当にシャワーを浴びて、軽くビールを引っ掛けながら二人でテレビを眺めているとき。
アルコールがほどよく入れば、やはり側にある温もりに手を伸ばしたくて仕方がなくなる。動物的な本能かもなと、黒鋼はぼんやりと思った。
そしてその本能に逆らうことなく、横で料理番組を熱心に見つめているファイの頬に手を伸ばした。
「わっ!」
すると、ファイはよほど驚いたのか跳ね上がる勢いで肩を揺らし、大きく見開いた瞳で黒鋼を見た。
「なんだよ」
「なんだよ、はこっちの台詞だよー……。ビックリしたぁ」
「あ?」
悪そうに眉間の皺を深くして、黒鋼はそのままファイの肩を抱いて引き寄せた。
だが、以前ならふんわりと微笑んですんなり身を預けていたはずのファイが、僅かに抵抗を示した。黒鋼の胸に両手をついて、緩く押してくる。
「く、黒たん」
「なんだよ。具合でも悪ぃのか」
「ち、違うよー!」
ファイの頬はこちらが目を見張るほど赤くなっていて、それを間近に眺めた。すると、思いっきり目を逸らされる。きゅっと下唇を噛む様を見て、そこに触れたくて仕方がなくなる。
最近、こんなときのファイには余裕がない。何かに怯えているようにも、焦っているようにも見える。
無理強いは趣味ではないので強引に事を成そうという気はないが、言ってしまえば彼と身体を合わせたのは夏の別れのとき以来、めっきりなかった。
気持ちは完全に通じ合っている恋人同士なのだから、抱き合いたいと思うのは自然なことだと思う。猿のようにがっつく年齢ではないにしろ、その自然に沸き起こる衝動を貫きたいという気持ちは、黒鋼にだってある。
「嫌か?」
「ちが、い、イヤじゃ、ない、よ」
「ぎこちねぇぞてめぇ」
「ぎこちなくなんて、ないよ……?」
「だったら」
黒鋼はにやりと人の悪い笑みを浮かべて、ファイの細い顎を掴んで上向かせる。
ビクリと肩を震わせて一瞬の隙を見せた唇に、音を立てて口付けた。
「ふむっ……!?」
だが、決して深くは口付けず、ただ触れるだけにとどめてまた笑ってやった。
「こんぐれぇはいいだろ」
意地悪く笑う黒鋼を、しばし瞬きを繰り返すだけで見つめていたファイは、再び赤くなって俯くとぎゅっと目を閉じた。
「ば、ばかぁ……」
精一杯搾り出された声を「ふん」と馬鹿にしたように笑う黒鋼は、本当はなんとなく分かっていた。
最初こそ首を捻ったものだが、幾度かこういった状態が続くたびに「もしや」と思った。
ファイは、いや、『ユゥイ』はまともに恋愛をしたことがないのだ。
『ファイ』としては経験があっても、本当の意味でのそれはおそらく、ない。
生徒を相手にどんなアドバイスをしたとしても、それはファイが自分を偽り生きてきたなかで養った、一つのシナリオでしかないのだと思う。
役者がそれを失えば、そこにいるのはただの一人の人間にしかすぎない。
けれどそれは、まるで悪女のように黒鋼を翻弄し、なんの躊躇いもなく愛を囁きながら足を開いていた頃より、ずっと可愛げがあるような気がした。
例えあのときのファイがある程度『素』であったとしても、あくまで彼の中では『ゲーム』感覚だったのだから、演じる必要がないぶんどう曝け出せばいいのか、戸惑っているのかもしれない。
焦る必要はないのだから、ファイはファイのペースで自分の中で折り合いをつけて行けばいい。それは別に、身体の関係に限らず。
それに、ただ同じ寝床に入って眠るだけ、というのは決して悪いものではない。
基本的には体温の低いファイは、眠りにつくことで穏やかに熱を上げてゆく。それを腕の中に納めながら感じるひとときを、黒鋼は密かに気に入っているのだった。
「今夜はもう寝るぞ」
赤くなったまま口をもごもごとさせていたファイは、それでもどこか嬉しそうに「うん!」と元気に返事をした。
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