黒鋼、自宅に変態現るの巻
動物は飼ったことがない。
だがどちらかと聞かれれば犬派、なような気がしている。
犬の方が賢くて忠実というイメージがあるし、テレビの動物番組やなんかで語られる逸話も、圧倒的に犬のものが多い。
だから漠然と、いつか機会があって飼うとすれば犬だろう、なんて思ったり思わなかったりだった。
+++
学生という身分の傍ら、夜は居酒屋でバイトをしていた。
ただ黒鋼は身体も大きく厳つい見た目と、その無愛想さから接客業向きではなく、もっぱら裏方担当だった。
よく面接が通ったなと友人知人に驚かれるが、気弱そうな店長に言わせると、何かあったとき、裏に強そうなのを一人置いておくのにうってつけだと思ったそうだ。
なんつー理由だと、受けておいて少し呆れたが、今の世の中たかがバイトといえ、職種をより好みしていられる場合ではない。
表通りから十字路を曲がると幾つかの飲み屋が軒を連ねていて、その日、黒鋼がいる店は雨の夜にも関わらず、比較的客入りが多かった。
裏路地の突き当たりは袋小路。いつものようにゴミ出しに裏口を開けたとき、たまたま見つけたのが『彼』だった。
薄汚れていて、最初はそれが白だとは分からなかった。
雨と泥にまみれた猫はポリバケツの横に横たわっていて、死んでいるのかと思ったが、生きていた。
流石に放っておくのも気が引けて、最終的に保護する形になった。
朝一で動物病院へ行って医者に見せると、傷はどれもそう大きなものではなかった。
子猫ではなかったし、野良猫だろうと思った。動けるようになれば、すぐに出て行くだろうと。
けれどその猫は最初こそ怯えていたようだが、人といること自体に拒絶反応は見せなかった。
動けるようになるとすぐに外へ出たがったが、なぜか自分が帰宅するのに合わせて、一緒に戻って来るようになってしまった。
ひょっとしたら懐かれたのだろうか。動物など飼ったことがなかったし、ましてや猫の生態についてなど、興味すら抱いたことがない。
ただその白猫は、随分とお喋りな猫だった。
いつもニャーニャーと何か喋っている。声はそれほど騒々しいものではなかった。
だからいつの間にか、ペット禁止のアパートにも関わらず、ズルズルと同居を続けてしまった。
まぁ、端的に言えば可愛かったのだ。
白くてふわふわの毛に、それが眠っている隙を狙ってこっそり触れるのが、楽しみの一つになってしまった。
少しずつではあるが、距離が縮まっていくのも悪い心地はしなくて、昨夜初めてすぐ傍まで寄って来たときは、眠いながらも嬉しかった。
通常だったら最後まで面倒を見きれるかもわからないのに、下手に情を抱くような真似はしない。
無責任という言葉は嫌いだ。そうあることも。
それでも迂闊に手を伸ばしてしまったのは、潤いのない独り暮らしに少し飽いていたから、だろうか。
+++
そろそろ潮時だとは思っていたけれど。
別れは突然やって来た。
初めて一緒の布団で抱え込むようにして眠った昨夜。
それでぐっとこれまで以上に距離が縮まり、やたら甘える動作を見せてきた、まさに今日この日。
夕暮れ間近に帰宅しても、白猫はどこにもいなかった。いつもならどこからともなくやって来て、一緒に扉をくぐるのに。
少し遠くへ遊びに行っているのかと、部屋に戻ってなんとなく落ち着かない気持ちを持て余しながら待ってみた。
だが戻って来る様子はなくて、もしかしたら、猫という生き物はとてつもなく利口なのかもしれない、なんて思ったりもした。
最近、大家とバッタリ顔を合わせた際、なんとなく探りを入れられたのだ。だから今朝、言葉など通じないだろうと知りつつ、白猫を相手に零したのだった。
猫は死ぬ間際を決して人に見せることなく、孤独に生涯を閉じる、という話を聞いたことがある。おそらく若い猫であったろうから、死期を悟ってのことではないだろうが、あれは空気が読める猫だったのかもしれない。
間抜けな声で鳴くくせに、にゃごにゃごとアホのようによく喋る猫だったくせに。
出かける際にやたらとついて来たがったのも、別れを惜しんでのことだったのだろうか……。
そんなことを考えると、なぜか胸に風穴が開いたような、切ない気持ちになった。そして、やっぱり落ちつかなかった。
だから黒鋼は、不用心だとは思ったが猫一匹が通れるくらい窓を開け、近所のコンビニへ酒でも買いに行くかと理由をつけて、家を出た。
そして結局、ただ手ぶらで帰宅することになった。見かけたのはあの白猫ではなく、ふてぶてしく毛並みの荒い、大きな灰色の猫だけだった。
たかが猫一匹。
どこかでまた誰かにでも拾われて、懐いてしまったのかもしれない。
人に慣れている様子から、元は飼い猫だったのかもしれないし、飼い主の元へ帰ったのか。そうであれば一番いいのだが。
いずれにしろ執着したって仕方がない。
これ以上の縁がなかったのだろうと諦めて、黒鋼は自宅ドアを開けた。
するとその瞬間、気の抜けるような男の声がした。
「あー! おかえりー黒たーん!」
!?
黒鋼は我が目を疑った。
見たことのない金髪の男が、全裸で床にペタンと座っている。ふざけたことに、頭には猫のような白い耳。ゆらゆらと長い尻尾まで躍らせている。
ああ、やはり戸締りはきっちりとするべきだった。
取られて困るような大層なものはないと軽く考えていたが、まさかこんなどえらい変態が侵入して来るなんて。
世の中って怖い。日本はどうなってしまうのか。夜明けは果てしなく遠すぎる。
「電気はついてるのに、黒たんいないっぽくてオレ焦っちゃったー! でも窓が開いてたから助かったよー。もしかしてオレのために開けててくれた?」
随分とお喋りな野郎だと思った。
あまりのことに内心相当うろたえていたが、黒鋼はつとめて冷静を装った。
そしてペラペラと喋りまくっている変態猫耳野郎に無言で歩み寄ると、金の髪をむんずと掴んだ。
「いたー! イタタタ! なに!? なにするの!?」
「出てけ」
「ちょっと待ってよ! オレだよオレ! ファイだよー!」
「そんな奴は知らん。今なら見逃してやる。すぐ出てけ」
そのままズルズルと玄関先まで引きずって、ゴミを放るように外へ出そうとした。
「ちょ、ホントに待って! オレの話聞いてよー! オレはファイ……あ、そっか……」
変態男がぎゅっと黒鋼の腕を両手で掴んだ。そして言った。
「オレ、チビ助! そう呼んでくれたよね!?」
「!?」
思わず目を見開いた。
確かに黒鋼はあの白猫のことをそう呼んだ。
成猫ではあったが、黒鋼にしてみれば小さな生き物でしかなくて、適当にそう呼んだのだが。
「なんでてめぇが知ってる?」
「だってオレだもん」
「ふざけんな」
「く、黒たぁん……」
じんわりと涙ぐむ男の淡いブルーの瞳に、一瞬だけ白猫の面影を垣間見る。だが容赦なく外へ放り投げた。
こちらの名前まで知ってるとなると、こいつはおそらくストーカーだ。紛うことなきホモストーカーだ。しかもコスプレ好きの。
あたかも親しげに『黒たん』などとふざけた呼び方しやがって……と、黒鋼の苛立ちメーターはほぼ振り切れた状態だった。
まぁコスプレにしてはまるで直に生えているかのような完成度だとは思ったが、この際そんなことはどうでもいい。
黒鋼はすぅ、と思い切り息を吸い込んだ。そして怒鳴る。
「警察呼ばれたくなけりゃあ、とっとと失せろ!!」
そう吐き捨てると、思いっきり扉を閉めた。そして鍵をかける。大股で部屋の中へ入ると、窓の鍵もかけた。
「うわぁん待ってよ聞いてよ開けてよー!!」
しばらくの間ドンドンと扉を叩く音がしていたが、いよいよ110番するべく携帯を取り出したところで、静かになった。
「……行ったか」
どうせ黒鋼が通報せずとも、すぐにお縄になるだろう。公衆猥褻罪で。
ざまあ見やがれとせいせいしたところで、畳みの上にどっかりと腰を下ろした。
はぁ、と溜息を零し、気分転換にテレビのリモコンへ手を伸ばしたところで、声がした。
「……?」
それは男の声ではない。
「にゃぁ~……」
なんとも間抜けな、猫の声。
黒鋼はハッとして勢いよく立ちあがると、玄関へ向かう。
あの野郎がまだいるかもしれないが、その場合は容赦なくぶん殴ることにして、鍵を外すと扉を開けた。
「チビ……!」
そこには、ぐったりと疲れ切った様子の白猫がうずくまっていた。
すぐに手を伸ばし抱き上げると、あの猫耳男がいないことを確かめる。そして扉を再び閉める前に、ふと思う。
腕の中でぐったりしている猫の、白い耳や尻尾を見て……。
「……まさかな」
そんな非現実的なことあるわけがないと、一瞬でも浮かんだ思考に自分自身で呆れかえった。
←戻る ・ 次へ→
動物は飼ったことがない。
だがどちらかと聞かれれば犬派、なような気がしている。
犬の方が賢くて忠実というイメージがあるし、テレビの動物番組やなんかで語られる逸話も、圧倒的に犬のものが多い。
だから漠然と、いつか機会があって飼うとすれば犬だろう、なんて思ったり思わなかったりだった。
+++
学生という身分の傍ら、夜は居酒屋でバイトをしていた。
ただ黒鋼は身体も大きく厳つい見た目と、その無愛想さから接客業向きではなく、もっぱら裏方担当だった。
よく面接が通ったなと友人知人に驚かれるが、気弱そうな店長に言わせると、何かあったとき、裏に強そうなのを一人置いておくのにうってつけだと思ったそうだ。
なんつー理由だと、受けておいて少し呆れたが、今の世の中たかがバイトといえ、職種をより好みしていられる場合ではない。
表通りから十字路を曲がると幾つかの飲み屋が軒を連ねていて、その日、黒鋼がいる店は雨の夜にも関わらず、比較的客入りが多かった。
裏路地の突き当たりは袋小路。いつものようにゴミ出しに裏口を開けたとき、たまたま見つけたのが『彼』だった。
薄汚れていて、最初はそれが白だとは分からなかった。
雨と泥にまみれた猫はポリバケツの横に横たわっていて、死んでいるのかと思ったが、生きていた。
流石に放っておくのも気が引けて、最終的に保護する形になった。
朝一で動物病院へ行って医者に見せると、傷はどれもそう大きなものではなかった。
子猫ではなかったし、野良猫だろうと思った。動けるようになれば、すぐに出て行くだろうと。
けれどその猫は最初こそ怯えていたようだが、人といること自体に拒絶反応は見せなかった。
動けるようになるとすぐに外へ出たがったが、なぜか自分が帰宅するのに合わせて、一緒に戻って来るようになってしまった。
ひょっとしたら懐かれたのだろうか。動物など飼ったことがなかったし、ましてや猫の生態についてなど、興味すら抱いたことがない。
ただその白猫は、随分とお喋りな猫だった。
いつもニャーニャーと何か喋っている。声はそれほど騒々しいものではなかった。
だからいつの間にか、ペット禁止のアパートにも関わらず、ズルズルと同居を続けてしまった。
まぁ、端的に言えば可愛かったのだ。
白くてふわふわの毛に、それが眠っている隙を狙ってこっそり触れるのが、楽しみの一つになってしまった。
少しずつではあるが、距離が縮まっていくのも悪い心地はしなくて、昨夜初めてすぐ傍まで寄って来たときは、眠いながらも嬉しかった。
通常だったら最後まで面倒を見きれるかもわからないのに、下手に情を抱くような真似はしない。
無責任という言葉は嫌いだ。そうあることも。
それでも迂闊に手を伸ばしてしまったのは、潤いのない独り暮らしに少し飽いていたから、だろうか。
+++
そろそろ潮時だとは思っていたけれど。
別れは突然やって来た。
初めて一緒の布団で抱え込むようにして眠った昨夜。
それでぐっとこれまで以上に距離が縮まり、やたら甘える動作を見せてきた、まさに今日この日。
夕暮れ間近に帰宅しても、白猫はどこにもいなかった。いつもならどこからともなくやって来て、一緒に扉をくぐるのに。
少し遠くへ遊びに行っているのかと、部屋に戻ってなんとなく落ち着かない気持ちを持て余しながら待ってみた。
だが戻って来る様子はなくて、もしかしたら、猫という生き物はとてつもなく利口なのかもしれない、なんて思ったりもした。
最近、大家とバッタリ顔を合わせた際、なんとなく探りを入れられたのだ。だから今朝、言葉など通じないだろうと知りつつ、白猫を相手に零したのだった。
猫は死ぬ間際を決して人に見せることなく、孤独に生涯を閉じる、という話を聞いたことがある。おそらく若い猫であったろうから、死期を悟ってのことではないだろうが、あれは空気が読める猫だったのかもしれない。
間抜けな声で鳴くくせに、にゃごにゃごとアホのようによく喋る猫だったくせに。
出かける際にやたらとついて来たがったのも、別れを惜しんでのことだったのだろうか……。
そんなことを考えると、なぜか胸に風穴が開いたような、切ない気持ちになった。そして、やっぱり落ちつかなかった。
だから黒鋼は、不用心だとは思ったが猫一匹が通れるくらい窓を開け、近所のコンビニへ酒でも買いに行くかと理由をつけて、家を出た。
そして結局、ただ手ぶらで帰宅することになった。見かけたのはあの白猫ではなく、ふてぶてしく毛並みの荒い、大きな灰色の猫だけだった。
たかが猫一匹。
どこかでまた誰かにでも拾われて、懐いてしまったのかもしれない。
人に慣れている様子から、元は飼い猫だったのかもしれないし、飼い主の元へ帰ったのか。そうであれば一番いいのだが。
いずれにしろ執着したって仕方がない。
これ以上の縁がなかったのだろうと諦めて、黒鋼は自宅ドアを開けた。
するとその瞬間、気の抜けるような男の声がした。
「あー! おかえりー黒たーん!」
!?
黒鋼は我が目を疑った。
見たことのない金髪の男が、全裸で床にペタンと座っている。ふざけたことに、頭には猫のような白い耳。ゆらゆらと長い尻尾まで躍らせている。
ああ、やはり戸締りはきっちりとするべきだった。
取られて困るような大層なものはないと軽く考えていたが、まさかこんなどえらい変態が侵入して来るなんて。
世の中って怖い。日本はどうなってしまうのか。夜明けは果てしなく遠すぎる。
「電気はついてるのに、黒たんいないっぽくてオレ焦っちゃったー! でも窓が開いてたから助かったよー。もしかしてオレのために開けててくれた?」
随分とお喋りな野郎だと思った。
あまりのことに内心相当うろたえていたが、黒鋼はつとめて冷静を装った。
そしてペラペラと喋りまくっている変態猫耳野郎に無言で歩み寄ると、金の髪をむんずと掴んだ。
「いたー! イタタタ! なに!? なにするの!?」
「出てけ」
「ちょっと待ってよ! オレだよオレ! ファイだよー!」
「そんな奴は知らん。今なら見逃してやる。すぐ出てけ」
そのままズルズルと玄関先まで引きずって、ゴミを放るように外へ出そうとした。
「ちょ、ホントに待って! オレの話聞いてよー! オレはファイ……あ、そっか……」
変態男がぎゅっと黒鋼の腕を両手で掴んだ。そして言った。
「オレ、チビ助! そう呼んでくれたよね!?」
「!?」
思わず目を見開いた。
確かに黒鋼はあの白猫のことをそう呼んだ。
成猫ではあったが、黒鋼にしてみれば小さな生き物でしかなくて、適当にそう呼んだのだが。
「なんでてめぇが知ってる?」
「だってオレだもん」
「ふざけんな」
「く、黒たぁん……」
じんわりと涙ぐむ男の淡いブルーの瞳に、一瞬だけ白猫の面影を垣間見る。だが容赦なく外へ放り投げた。
こちらの名前まで知ってるとなると、こいつはおそらくストーカーだ。紛うことなきホモストーカーだ。しかもコスプレ好きの。
あたかも親しげに『黒たん』などとふざけた呼び方しやがって……と、黒鋼の苛立ちメーターはほぼ振り切れた状態だった。
まぁコスプレにしてはまるで直に生えているかのような完成度だとは思ったが、この際そんなことはどうでもいい。
黒鋼はすぅ、と思い切り息を吸い込んだ。そして怒鳴る。
「警察呼ばれたくなけりゃあ、とっとと失せろ!!」
そう吐き捨てると、思いっきり扉を閉めた。そして鍵をかける。大股で部屋の中へ入ると、窓の鍵もかけた。
「うわぁん待ってよ聞いてよ開けてよー!!」
しばらくの間ドンドンと扉を叩く音がしていたが、いよいよ110番するべく携帯を取り出したところで、静かになった。
「……行ったか」
どうせ黒鋼が通報せずとも、すぐにお縄になるだろう。公衆猥褻罪で。
ざまあ見やがれとせいせいしたところで、畳みの上にどっかりと腰を下ろした。
はぁ、と溜息を零し、気分転換にテレビのリモコンへ手を伸ばしたところで、声がした。
「……?」
それは男の声ではない。
「にゃぁ~……」
なんとも間抜けな、猫の声。
黒鋼はハッとして勢いよく立ちあがると、玄関へ向かう。
あの野郎がまだいるかもしれないが、その場合は容赦なくぶん殴ることにして、鍵を外すと扉を開けた。
「チビ……!」
そこには、ぐったりと疲れ切った様子の白猫がうずくまっていた。
すぐに手を伸ばし抱き上げると、あの猫耳男がいないことを確かめる。そして扉を再び閉める前に、ふと思う。
腕の中でぐったりしている猫の、白い耳や尻尾を見て……。
「……まさかな」
そんな非現実的なことあるわけがないと、一瞬でも浮かんだ思考に自分自身で呆れかえった。
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ユゥイ、複雑な親心の巻
厳密に言えば、ファイの変身はほぼ失敗だった。
完全に変身しようと思えば、まず猫の耳や尻尾は必要ない。いくら魔力が高いとはいっても、生まれてから数百年の時を、ずっと猫として生きてきたのだから、最初から上手くいかないのは当然と言えば当然だ。
それでもあそこまで見事にコピーできたのだから、見上げたものだと思った。
少しだけご飯を食べて「ちょっとしたら起こして」と力なく言ったファイは今、ロッキングチェアのクッションの上で眠っている。
その呑気な寝顔に、先刻から溜息が絶えない。
全く、面倒なことになったものだ。まさかファイが言いつけを破って、人間の世界に行ってしまうなんて。
無理やり連れ戻せないこともなかったが、ユゥイも心配する傍ら、少し腹立たしかったのだ。
どうせすぐに泣きながら帰って来るだろうと思っていた。けれど待てど暮らせど、戻って来ない。
どんなに離れていても、ユゥイはファイの存在を感じることが出来たから、彼が無事でいることは分かっていた。
だからファイが自らの意思で帰って来るのを、ジリジリとしながら待っていたのだ。
「なのに……」
帰って来たと思ったらこれだ。
どうせ怖い目にあって、ボロ雑巾のようになって戻って来て、もう二度と人間の世界になど行きたがらないだろうと思っていた。
それがその逆。
しかも人間になりたいなんて妙なおまけ付き。
言い出したら聞かないということが今回の件でハッキリしたことだし、きっとダメだと言っても無駄だろうと。
「どうせ上手くいかないよ……」
この世界の常識は、全てにおいて人間の世界での非常識だ。猫が人間に変身するなんて、現実にはまずありえない。
どんなに綺麗な理由を並べたとしても、相手の人間からしてみれば、ファイなどただのコスプレ好きの変態にしか映らないに違いなかった。
それでも行かせることを許可したのだから、自分も大概意地が悪い。
「ファイなんか、ちょっとは懲りて帰ってくればいいんだよ」
可愛い子には旅をさせろ……ともいうし、お灸をすえる意味でも好きにさせよう。
とりあえず面倒なことは早く終わった方がいい。
気持ちよく寝ているところ申し訳ない気もしたが、ユゥイはファイを起こすことにした。
+++
「いいねファイ、リミットは人間の世界で24時間だよ。明日の今頃までに戻って来なかったら、完全に扉閉じちゃうからね」
まさかこんな場所に『穴』が開いていたとは。ユゥイも迂闊だった。
例の歪があるタワーと大木の前で、少し元気がないファイにきつく言い聞かせる。
「わかったよぅ……挨拶したらちゃんと戻るー」
内側がピンク色の耳をぺたんと下げて、ファイはこちらに背中を向けるとのろのろと隙間に向かった。
今はユゥイの意思で扉を開いている。
「じゃあねー、ユゥイー」
隙間に入り込む瞬間、ファイは振り向いて肉球のついた手を振った。しょうがないのでそれに返してやる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「はぁい……」
覇気のない返事をしながら、白猫は隙間に飲み込まれていった。
それをいつまでも見送りながら、ユゥイはまた何度目かの溜息を零す。
あれだけ言えば、ちゃんと戻って来るだろう。多分。
諦めて家に戻ろうとして、ハッとした。
「しまった……」
服を持たせるのを……忘れた……。
←戻る ・ 次へ→
厳密に言えば、ファイの変身はほぼ失敗だった。
完全に変身しようと思えば、まず猫の耳や尻尾は必要ない。いくら魔力が高いとはいっても、生まれてから数百年の時を、ずっと猫として生きてきたのだから、最初から上手くいかないのは当然と言えば当然だ。
それでもあそこまで見事にコピーできたのだから、見上げたものだと思った。
少しだけご飯を食べて「ちょっとしたら起こして」と力なく言ったファイは今、ロッキングチェアのクッションの上で眠っている。
その呑気な寝顔に、先刻から溜息が絶えない。
全く、面倒なことになったものだ。まさかファイが言いつけを破って、人間の世界に行ってしまうなんて。
無理やり連れ戻せないこともなかったが、ユゥイも心配する傍ら、少し腹立たしかったのだ。
どうせすぐに泣きながら帰って来るだろうと思っていた。けれど待てど暮らせど、戻って来ない。
どんなに離れていても、ユゥイはファイの存在を感じることが出来たから、彼が無事でいることは分かっていた。
だからファイが自らの意思で帰って来るのを、ジリジリとしながら待っていたのだ。
「なのに……」
帰って来たと思ったらこれだ。
どうせ怖い目にあって、ボロ雑巾のようになって戻って来て、もう二度と人間の世界になど行きたがらないだろうと思っていた。
それがその逆。
しかも人間になりたいなんて妙なおまけ付き。
言い出したら聞かないということが今回の件でハッキリしたことだし、きっとダメだと言っても無駄だろうと。
「どうせ上手くいかないよ……」
この世界の常識は、全てにおいて人間の世界での非常識だ。猫が人間に変身するなんて、現実にはまずありえない。
どんなに綺麗な理由を並べたとしても、相手の人間からしてみれば、ファイなどただのコスプレ好きの変態にしか映らないに違いなかった。
それでも行かせることを許可したのだから、自分も大概意地が悪い。
「ファイなんか、ちょっとは懲りて帰ってくればいいんだよ」
可愛い子には旅をさせろ……ともいうし、お灸をすえる意味でも好きにさせよう。
とりあえず面倒なことは早く終わった方がいい。
気持ちよく寝ているところ申し訳ない気もしたが、ユゥイはファイを起こすことにした。
+++
「いいねファイ、リミットは人間の世界で24時間だよ。明日の今頃までに戻って来なかったら、完全に扉閉じちゃうからね」
まさかこんな場所に『穴』が開いていたとは。ユゥイも迂闊だった。
例の歪があるタワーと大木の前で、少し元気がないファイにきつく言い聞かせる。
「わかったよぅ……挨拶したらちゃんと戻るー」
内側がピンク色の耳をぺたんと下げて、ファイはこちらに背中を向けるとのろのろと隙間に向かった。
今はユゥイの意思で扉を開いている。
「じゃあねー、ユゥイー」
隙間に入り込む瞬間、ファイは振り向いて肉球のついた手を振った。しょうがないのでそれに返してやる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「はぁい……」
覇気のない返事をしながら、白猫は隙間に飲み込まれていった。
それをいつまでも見送りながら、ユゥイはまた何度目かの溜息を零す。
あれだけ言えば、ちゃんと戻って来るだろう。多分。
諦めて家に戻ろうとして、ハッとした。
「しまった……」
服を持たせるのを……忘れた……。
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白猫、嘘みたいなホントの変身の巻
たっぷりと絞られた。それはもう、数時間にわたって。
あまりにも説教が長すぎて、半分くらいは魂が口から飛び出していた。
「ユゥイ……本当にごめん……だから、そろそろちょっと……」
お腹が空いた……。
弱々しく零すと、ユゥイはひとまず口を噤んだ。
立ちっぱなしで説教をし続けていた彼にも、少し疲労の色が伺える。木の椅子を引き寄せるとドッカリ腰かけて、ふぅ、と溜息を吐きだしている。
ここでは時間というものに縛られることはないから、一体どれくらい経過しているのか、はっきりとは把握できないが、人間の世界ならもう日が暮れる頃なのではないか……と、ファイは少し不安になった。
黒鋼が心配しているかもしれない。
「あ、あのねユゥイ……実は相談があって」
「また出て行きたいっていう相談以外なら聞いてあげるけど?」
チラリ、と横目で睨まれてファイは喉を詰まらせた。
まさにその通りで、しかも相談はそれだけではない。
「で? 一体なんの相談かな?」
「うー……えっとね……」
ファイは刺々しい視線から目を逸らしつつ、思い切って本題を切り出してみた。
「オレ、人間になりたいんだけど……」
するとユゥイはポカッと口を開けた。
「は……?」
そして呆れた顔をした。
「なんだって? ちょっと聞こえなかった」
「聞こえてたよね? ちゃんと聞いてたよね?」
「耳遠くなったかな……」
「ユゥイってば!」
小指で耳の穴を穿りだすユゥイに業を煮やし、ファイは彼の膝の上に飛び乗った。
「オレ真剣なの! 人間の世界は、最初は怖いものばっかだったけど、優しい人もちゃんといるんだよ!」
「……そりゃあ、色々な人がいるだろうね」
「すっごくお世話になったのに、ありがとうもさよならも言えないなんて、オレやだよー! それに……」
「それに?」
ファイは少しもじもじした。
なぜか直接言葉にするのが恥ずかしかった。
「それに、なに?」
「その、せっかく仲良くなれたし……その、もっとね、知りたいっていうか」
「んん?」
なんとも微妙な顔をされた。
いたたまれない気持ちになって、ファイは誤魔化すように目を泳がせる。
そんなファイをしばらく見つめて、ユゥイはまた溜息をついた。
「そんなに懐いちゃったの? ファイ、まさかとは思うけど、その人って女の人?」
「違うよ? でっかい男の人。あと黒い」
「……ああ、そう」
ユゥイは少し迷ったように頭上を見上げた。うーんと一つ唸って、諦めたような顔をした。
「ないこともないけど……っていうか、簡単だよ。ファイなら」
「え?」
「人間になりたいんでしょ?」
「うん!」
「ただし……」
きゅっと眉間に皺を寄せたユゥイが、人差し指をファイの鼻先にくっつけた。
「お礼とお別れを言ったら、すぐに戻ってくること。約束守れる?」
「ユゥイ……!」
キラキラと目を輝かせたファイは、伸びあがってユゥイの顔を思いっきり舐めた。
「いた、いたたっ、顔はよしてっていつも言ってるでしょ!」
「それでそれで? ちゃんと守るから教えてー!」
「……念じればいいんだよ」
「ねじる?」
「そうじゃなくて」
ぺちっと額を叩かれた。
「前も言ったよね? ファイは凄い魔力を持ってるって。だから、とりあえずなりたい姿をイメージして、強く念じればいいよ。ほら、簡単」
ね? と言って笑うユゥイに、流石のファイもちょっと不信感を募らせる。
「……初耳にゃんだけど」
「言ったことないからね」
「あのさ……オレ的にはユゥイが派手に魔法かけてくれるとか、魔法の薬を渡してくれるとか、何か禍々しい呪文を教えてくれるとか、そーゆうの想像してたんだけど……」
「世の中そんなにベタじゃないよファイ。自分を信じて、やってごらん?」
「なんか物凄く胡散臭い気がするにゃあ……」
半信半疑。そんなアホな。
冗談を言ってからかっているとしか思えなかったが、しょうがないのでファイは素直に目を閉じた。
なりたいのは人間。大人の男の人がいい。
一瞬だけ黒鋼の姿がよぎったが、別に黒鋼になりたいわけじゃない。そもそも黒鋼と話がしたいのに、自分が同じ姿になるというのは、おかしな話だ。
次に、あの初めて遭遇した人間である中年のオッサンが頭に浮かんだが……論外である。
なら、一番イメージしやすい人間といえば……?
要領なんてまるきり解らなかったが、とりあえず想像して、集中してみて。
すると、ポンッという悲しいほど安っぽい音がして、白い煙が上がった。
ぎゅっと閉じていた目を見開く。ゆっくりと煙が晴れていって、それまでとは全く違う位置にユゥイの驚いた顔があった。
見下ろされるのではなく、見下ろしている。
幾度か瞬きをした。そして自分の身体を見下ろしてみる。
白いことに変わりはないが、毛の生えていない肌。ちょっとなよなよしているけれど、長い手足もはっきりと確認できる。
「わ、わぁ~……」
ファイは感動の声をあげた。
右手をにぎにぎして、肉球がないことや爪が短くて平べったいことも確認した。両手で頬に触れても、あの長いヒゲがしっかり消えている。
「まさかの大成功~……」
「……あのさ」
「ユゥイ、オレ人間になったぁ~!」
「それはいいんだけどね……どうしてボクは、猫耳と尻尾をくっつけた全裸の自分を膝に乗せてるんだろう?」
「えー?」
ファイはユゥイの膝の上で変身してしまったため、現在向き合うように馬乗りになっている状態だった。
「だってー、イメージしやすかったんだもんー」
「だからって……」
重いからどけて、と言うユゥイに従い、恐る恐る片足を地面につけた。
初めての二足歩行。少しよろけたが、二本の足でしっかり立つことが出来た。
ユゥイは改めて自分の身体を見下ろして感極まっているファイを尻目に、椅子から立ち上がると部屋の隅の引き出しの中から手鏡を取り出した。
「ほら」
「わ、わ、わ!」
ユゥイが鏡をこちらへ向けたので、ファイは目を輝かせながらそれを覗きこむ。
そこには少し頬を上気させて、感動に目を潤ませた『ユゥイ』の顔があった。
金色の髪はゴムで縛るくらいには長いユゥイと違って、毛先が少し肩にくっつく程度の短さで、頭には白い耳がふたつ、ぴょこんと生えている。
どうやら尻尾もあるようで、首だけ後ろを振り向くと、丸い尻のすぐ上に白いふさふさが生えていた。
「凄い……本当に簡単に変身できちゃったよー!」
「とりあえず服着ようかファイ……なんか、見てられない……」
そう、ファイはまるっとユゥイをイメージして、変身に見事成功したのである。
だが、魔法はすぐに解けてしまった。
ユゥイが服を取り出すまでもなく、ファイは次の瞬間、また猫の姿に戻ってしまったのだ。
「あ、あれ~?」
白い煙の中、ファイは全身から力が抜けるのを感じて、ぺちゃんと尻餅をついた。
「な、なんで~?」
少し頭がクラクラする。
すぐにユゥイが抱き上げて、ロッキングチェアのクッションの上に乗せてくれた。
「戻っちゃったよユゥイ~」
「いきなり慣れないことしたから、疲れちゃったんだね」
「そんなぁー……」
「でも、挨拶するくらいの時間は変身できたでしょ? 十分じゃない?」
「……そうだけど」
「何か問題あるのかな?」
ニコリと笑ったユゥイが、ずいっと屈んで顔を近づけてきた。
その威圧感に、ファイは渋々「ありません」と答えた。
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たっぷりと絞られた。それはもう、数時間にわたって。
あまりにも説教が長すぎて、半分くらいは魂が口から飛び出していた。
「ユゥイ……本当にごめん……だから、そろそろちょっと……」
お腹が空いた……。
弱々しく零すと、ユゥイはひとまず口を噤んだ。
立ちっぱなしで説教をし続けていた彼にも、少し疲労の色が伺える。木の椅子を引き寄せるとドッカリ腰かけて、ふぅ、と溜息を吐きだしている。
ここでは時間というものに縛られることはないから、一体どれくらい経過しているのか、はっきりとは把握できないが、人間の世界ならもう日が暮れる頃なのではないか……と、ファイは少し不安になった。
黒鋼が心配しているかもしれない。
「あ、あのねユゥイ……実は相談があって」
「また出て行きたいっていう相談以外なら聞いてあげるけど?」
チラリ、と横目で睨まれてファイは喉を詰まらせた。
まさにその通りで、しかも相談はそれだけではない。
「で? 一体なんの相談かな?」
「うー……えっとね……」
ファイは刺々しい視線から目を逸らしつつ、思い切って本題を切り出してみた。
「オレ、人間になりたいんだけど……」
するとユゥイはポカッと口を開けた。
「は……?」
そして呆れた顔をした。
「なんだって? ちょっと聞こえなかった」
「聞こえてたよね? ちゃんと聞いてたよね?」
「耳遠くなったかな……」
「ユゥイってば!」
小指で耳の穴を穿りだすユゥイに業を煮やし、ファイは彼の膝の上に飛び乗った。
「オレ真剣なの! 人間の世界は、最初は怖いものばっかだったけど、優しい人もちゃんといるんだよ!」
「……そりゃあ、色々な人がいるだろうね」
「すっごくお世話になったのに、ありがとうもさよならも言えないなんて、オレやだよー! それに……」
「それに?」
ファイは少しもじもじした。
なぜか直接言葉にするのが恥ずかしかった。
「それに、なに?」
「その、せっかく仲良くなれたし……その、もっとね、知りたいっていうか」
「んん?」
なんとも微妙な顔をされた。
いたたまれない気持ちになって、ファイは誤魔化すように目を泳がせる。
そんなファイをしばらく見つめて、ユゥイはまた溜息をついた。
「そんなに懐いちゃったの? ファイ、まさかとは思うけど、その人って女の人?」
「違うよ? でっかい男の人。あと黒い」
「……ああ、そう」
ユゥイは少し迷ったように頭上を見上げた。うーんと一つ唸って、諦めたような顔をした。
「ないこともないけど……っていうか、簡単だよ。ファイなら」
「え?」
「人間になりたいんでしょ?」
「うん!」
「ただし……」
きゅっと眉間に皺を寄せたユゥイが、人差し指をファイの鼻先にくっつけた。
「お礼とお別れを言ったら、すぐに戻ってくること。約束守れる?」
「ユゥイ……!」
キラキラと目を輝かせたファイは、伸びあがってユゥイの顔を思いっきり舐めた。
「いた、いたたっ、顔はよしてっていつも言ってるでしょ!」
「それでそれで? ちゃんと守るから教えてー!」
「……念じればいいんだよ」
「ねじる?」
「そうじゃなくて」
ぺちっと額を叩かれた。
「前も言ったよね? ファイは凄い魔力を持ってるって。だから、とりあえずなりたい姿をイメージして、強く念じればいいよ。ほら、簡単」
ね? と言って笑うユゥイに、流石のファイもちょっと不信感を募らせる。
「……初耳にゃんだけど」
「言ったことないからね」
「あのさ……オレ的にはユゥイが派手に魔法かけてくれるとか、魔法の薬を渡してくれるとか、何か禍々しい呪文を教えてくれるとか、そーゆうの想像してたんだけど……」
「世の中そんなにベタじゃないよファイ。自分を信じて、やってごらん?」
「なんか物凄く胡散臭い気がするにゃあ……」
半信半疑。そんなアホな。
冗談を言ってからかっているとしか思えなかったが、しょうがないのでファイは素直に目を閉じた。
なりたいのは人間。大人の男の人がいい。
一瞬だけ黒鋼の姿がよぎったが、別に黒鋼になりたいわけじゃない。そもそも黒鋼と話がしたいのに、自分が同じ姿になるというのは、おかしな話だ。
次に、あの初めて遭遇した人間である中年のオッサンが頭に浮かんだが……論外である。
なら、一番イメージしやすい人間といえば……?
要領なんてまるきり解らなかったが、とりあえず想像して、集中してみて。
すると、ポンッという悲しいほど安っぽい音がして、白い煙が上がった。
ぎゅっと閉じていた目を見開く。ゆっくりと煙が晴れていって、それまでとは全く違う位置にユゥイの驚いた顔があった。
見下ろされるのではなく、見下ろしている。
幾度か瞬きをした。そして自分の身体を見下ろしてみる。
白いことに変わりはないが、毛の生えていない肌。ちょっとなよなよしているけれど、長い手足もはっきりと確認できる。
「わ、わぁ~……」
ファイは感動の声をあげた。
右手をにぎにぎして、肉球がないことや爪が短くて平べったいことも確認した。両手で頬に触れても、あの長いヒゲがしっかり消えている。
「まさかの大成功~……」
「……あのさ」
「ユゥイ、オレ人間になったぁ~!」
「それはいいんだけどね……どうしてボクは、猫耳と尻尾をくっつけた全裸の自分を膝に乗せてるんだろう?」
「えー?」
ファイはユゥイの膝の上で変身してしまったため、現在向き合うように馬乗りになっている状態だった。
「だってー、イメージしやすかったんだもんー」
「だからって……」
重いからどけて、と言うユゥイに従い、恐る恐る片足を地面につけた。
初めての二足歩行。少しよろけたが、二本の足でしっかり立つことが出来た。
ユゥイは改めて自分の身体を見下ろして感極まっているファイを尻目に、椅子から立ち上がると部屋の隅の引き出しの中から手鏡を取り出した。
「ほら」
「わ、わ、わ!」
ユゥイが鏡をこちらへ向けたので、ファイは目を輝かせながらそれを覗きこむ。
そこには少し頬を上気させて、感動に目を潤ませた『ユゥイ』の顔があった。
金色の髪はゴムで縛るくらいには長いユゥイと違って、毛先が少し肩にくっつく程度の短さで、頭には白い耳がふたつ、ぴょこんと生えている。
どうやら尻尾もあるようで、首だけ後ろを振り向くと、丸い尻のすぐ上に白いふさふさが生えていた。
「凄い……本当に簡単に変身できちゃったよー!」
「とりあえず服着ようかファイ……なんか、見てられない……」
そう、ファイはまるっとユゥイをイメージして、変身に見事成功したのである。
だが、魔法はすぐに解けてしまった。
ユゥイが服を取り出すまでもなく、ファイは次の瞬間、また猫の姿に戻ってしまったのだ。
「あ、あれ~?」
白い煙の中、ファイは全身から力が抜けるのを感じて、ぺちゃんと尻餅をついた。
「な、なんで~?」
少し頭がクラクラする。
すぐにユゥイが抱き上げて、ロッキングチェアのクッションの上に乗せてくれた。
「戻っちゃったよユゥイ~」
「いきなり慣れないことしたから、疲れちゃったんだね」
「そんなぁー……」
「でも、挨拶するくらいの時間は変身できたでしょ? 十分じゃない?」
「……そうだけど」
「何か問題あるのかな?」
ニコリと笑ったユゥイが、ずいっと屈んで顔を近づけてきた。
その威圧感に、ファイは渋々「ありません」と答えた。
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白猫、故郷へ戻るの巻
朝の身支度を整えている黒鋼の横で、お腹が膨れたファイは満足げに毛繕いをしていた。
当然、今朝も一緒に家を出るもつりだ。
この辺りにもだいぶ慣れて来たし、今日は少し行動範囲を広げてみようかと考えている。
と、いうのも、黒鋼が普段どこへ行って、何をしているのかを見学したいと思ったからだった。
せっかく人間の世界に来たのに、今の自分はただの飼い猫も同然の暮らしをしている。
酷い目にはあったが、冒険らしいことは何もしていない気がした。
「あのねー、猫って縄張りがあるんだよー。だからオレ、こないだおっかないボス猫にボッコボコにされちゃったのー」
黒鋼の方を見上げて言うけれど、彼にはファイの言葉は通じない。
だが特に気にするでもなく続けた。
「でも黒たんが一緒にいたら平気だよねー。今日はどこまででもくっついて行きたいキブンー」
ご機嫌でそう言うと、黒鋼の足元へ擦り寄って尻尾をぴったりとくっつけた。そしてそれを微かに震わせて自分の匂いをつける。
「これでよーし!」
これで正真正銘、彼は自分のものになった。
知らないうちに所有権を握られてしまったことも知らず、黒鋼は苦笑するとひょいっとファイを抱き上げた。
「うにゃうにゃとうるせぇやつだな。なに喋ってんだかちっともわかんねぇぞ」
「しょうがにゃいよー。オレの言葉はおんなじ猫と、ユゥイにしか通じにゃいもーん」
「あんまり鳴くな。隣にバレる」
「にゃう?」
「おまえが人間だったら、とんだお喋り野郎なんだろうな」
「人間……かぁ~……」
とん、と床に下ろされて、ファイは小首を傾げた。
考えたこともなかった。もし自分が人間だったら、なんて。
今までは話の通じる仲間達やユゥイと一緒にいたから、何も不便を感じることはなかったのだ。
けれどもし、黒鋼と話ができたら。
ちゃんとお礼だって言えるし、分からないことはなんでも聞ける。ガッコウという場所はどんなところで、バイトというのはどんな仕事なのか。
そんなことを考えているうちに、黒鋼が玄関へ向かったので、慌ててついて行った。
いつも以上に注意深く人気がないかを確かめて、黒鋼が「行け」と言うのを合図に外に出る。
階段は使わずにすぐ真下の塀にひょいと下りて、地面に着地した。
カンカンと音を立てて階段を下りてきた黒鋼の足元に駆け寄ると、並んで歩きだす。
黒鋼は歩幅が大きいから、小さなファイはついていくのが大変だった。
「いいお天気だねー。こんな日はお昼寝が気持ちいいんだにゃー」
黒鋼は特に答えない。
「でもお昼寝ばっかしてると、ユゥイが怒るんだー」
しばらく歩きながらお喋りをしていると、ふと黒鋼がこちらに視線を寄こした。
「おい、チビ助」
「ちびすけ?」
「この辺で遊んでろよ」
「遊ばにゃいよー。今日は黒たんについてくの。てゆーか、チビ助ってオレのこと?」
「おら、ついてくんな」
足で行き先を制されて、ファイは尻餅をついた。
「にゃんでダメ? ついてっちゃダメ?」
「じゃあな」
「あっ」
座り込んだファイを残して、どんどん先に行く黒鋼を追いかけようとした。が、だるまさんが転んだのように振り返った黒鋼に、ファイはピタリと止まる。
そのまま少しの間睨めっこをした。
「……ダメ?」
なぜかこれだけは通じたようで、黒鋼は眉間の皺を濃くするとコクッと頷いた。
再び背を向けた黒鋼の後ろ姿が、どんどん小さくなっていく。
一人で知らない場所へ行くのは怖いけど、黒鋼にくっついていれば平気だと思っていた。もしものときのために、せっかく匂いだってつけたのに。
これでは普段の日常となんら変わりない。ファイはしょんぼりと項垂れた。
「つまんにゃい」
やっぱり猫だから、なのか。
自分はただのほほんと飼い猫をやるためにここに来たのではなくて、冒険の旅をしに来たはずだった。
退屈を吹き飛ばすような刺激が欲しくて。だが実際は怖い思いをしてボロボロになっただけのような気がする。
唯一仲良くなれた人間は、ユゥイのように話が通じるわけでも、一日中一緒にいられるわけでもなく、どこで何をしているのかさえ分からない。
ふと、昨晩の黒鋼の温もりを思い出した。
ユゥイより硬いし、男臭いし、触れかたも下手くそだけど。でも安心した。この世界で迷子になっても、帰る場所はこの人の傍だと思えた。
もしかしたらユゥイ以外で、初めて人間を好きだと思えた瞬間だったかもしれない。
なのに、そんな大切な人のことを、よく知らない。
例えば猫の国に帰る日が来たとき、さよならさえ伝えられないのだと、ファイは気付いてしまった。
そんなのは嫌だ。寂しい。
「オレ、人間だったらよかった……」
立ち尽くして地面を見つめたまま、ポツリと呟いた。
そして、ピン、と思いつく。
「ユゥイなら、なんとかしてくれるかも……!」
彼はいつも魔法の実験をしている。本人も自称魔法使いらしいが、使ったところは見たことがなかった。
それでもきっと何か方法はあるに違いない。そんな気がする。
漠然とそう考えたファイは、意を決してあのスタート地点を探すことにした。
+++
「あった……!」
目の前の電柱と塀の間。そこだけ違和感のある場所を見つける。
一度アパートに戻り、見知った地点から落ちついて景色を脳内に焼きつけながらここまで来たら、案外あっさり見つけることができてしまった。
初めて来たときはパニックを起こしてばかりだったが、あのときよりもずっと冷静なファイは、元々備わっている鋭い勘を頼りに、難なくこの場所に行きついた。
懸念していたボス猫とのエンカウントもなく、今日はかなりついている。
この隙間に飛び込めば、もといた世界に帰れるだろう。妙な自信があるのも、ユゥイの言う魔力とやらの賜物だろうか。
「んじゃ、行きまーす!」
ファイは元気よく声を上げると、勢いよく電柱と塀の隙間をくぐった。
グルグル~……
来たときのように、ゆるやかな渦に飲み込まれるような感覚に目が回る。
スポンッと抜けるように隙間から飛び出すと、迎えてくれたのは懐かしい芝生の地面だった。
お腹から着地したファイは、そのままの体勢で幾度か瞬きをする。目の前を「ぴよぴよ」と小さなひよこが横切って行った。
「大成功……?」
起き上って辺りを見回した。
懐かしい木の家と煙突の煙、それを囲むように建っている猫型ドーム。相変わらずのほほんとしている仲間の猫達の姿。
見上げれば大木と、古ぼけたキャットタワー。そして青い空とポカポカ陽気。あの日と変わらない退屈な光景。けれど込み上げる懐かしさ。
ここは故郷、猫の国。
「やったー!! うまくいったーーー!!!」
あまりの嬉しさにちょっと涙ぐみながら万歳をした。ぐるんとひっくり返って、身体をゴロンゴロンとさせる。
柔らかい芝生の感触。草や花や土の匂い。故郷っていいなぁ……そんなことを思いながら転がっていた、そのとき。
「よく帰ってきたね……ファイ……」
「!」
でん、と何かにぶつかって、転がっていた身体が止まった。
懐かしい声。けれど……低い。
「……ゆ、ユゥイ……?」
そこには腰に両手を添えたユゥイが、怖い顔をしてファイを見下ろしていた。
そういえば彼の言いつけをやぶってこの国を飛び出したのだということを、ここにきて思い出した。
やっば……。
咄嗟に逃げだそうとしたファイの首根っこが掴まれる。
「ぎゃー! ごめんなさいごめんなさいユゥイーっ」
「ははは。ごめんで済むと思ってるんだねファイは。そういう馬鹿なとこが本当に可愛いなぁ」
怖い顔をしていたユゥイがにっこりと笑った。これは本気で怒っているとき。
ファイは全身が凍りつくのを感じた……。
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朝の身支度を整えている黒鋼の横で、お腹が膨れたファイは満足げに毛繕いをしていた。
当然、今朝も一緒に家を出るもつりだ。
この辺りにもだいぶ慣れて来たし、今日は少し行動範囲を広げてみようかと考えている。
と、いうのも、黒鋼が普段どこへ行って、何をしているのかを見学したいと思ったからだった。
せっかく人間の世界に来たのに、今の自分はただの飼い猫も同然の暮らしをしている。
酷い目にはあったが、冒険らしいことは何もしていない気がした。
「あのねー、猫って縄張りがあるんだよー。だからオレ、こないだおっかないボス猫にボッコボコにされちゃったのー」
黒鋼の方を見上げて言うけれど、彼にはファイの言葉は通じない。
だが特に気にするでもなく続けた。
「でも黒たんが一緒にいたら平気だよねー。今日はどこまででもくっついて行きたいキブンー」
ご機嫌でそう言うと、黒鋼の足元へ擦り寄って尻尾をぴったりとくっつけた。そしてそれを微かに震わせて自分の匂いをつける。
「これでよーし!」
これで正真正銘、彼は自分のものになった。
知らないうちに所有権を握られてしまったことも知らず、黒鋼は苦笑するとひょいっとファイを抱き上げた。
「うにゃうにゃとうるせぇやつだな。なに喋ってんだかちっともわかんねぇぞ」
「しょうがにゃいよー。オレの言葉はおんなじ猫と、ユゥイにしか通じにゃいもーん」
「あんまり鳴くな。隣にバレる」
「にゃう?」
「おまえが人間だったら、とんだお喋り野郎なんだろうな」
「人間……かぁ~……」
とん、と床に下ろされて、ファイは小首を傾げた。
考えたこともなかった。もし自分が人間だったら、なんて。
今までは話の通じる仲間達やユゥイと一緒にいたから、何も不便を感じることはなかったのだ。
けれどもし、黒鋼と話ができたら。
ちゃんとお礼だって言えるし、分からないことはなんでも聞ける。ガッコウという場所はどんなところで、バイトというのはどんな仕事なのか。
そんなことを考えているうちに、黒鋼が玄関へ向かったので、慌ててついて行った。
いつも以上に注意深く人気がないかを確かめて、黒鋼が「行け」と言うのを合図に外に出る。
階段は使わずにすぐ真下の塀にひょいと下りて、地面に着地した。
カンカンと音を立てて階段を下りてきた黒鋼の足元に駆け寄ると、並んで歩きだす。
黒鋼は歩幅が大きいから、小さなファイはついていくのが大変だった。
「いいお天気だねー。こんな日はお昼寝が気持ちいいんだにゃー」
黒鋼は特に答えない。
「でもお昼寝ばっかしてると、ユゥイが怒るんだー」
しばらく歩きながらお喋りをしていると、ふと黒鋼がこちらに視線を寄こした。
「おい、チビ助」
「ちびすけ?」
「この辺で遊んでろよ」
「遊ばにゃいよー。今日は黒たんについてくの。てゆーか、チビ助ってオレのこと?」
「おら、ついてくんな」
足で行き先を制されて、ファイは尻餅をついた。
「にゃんでダメ? ついてっちゃダメ?」
「じゃあな」
「あっ」
座り込んだファイを残して、どんどん先に行く黒鋼を追いかけようとした。が、だるまさんが転んだのように振り返った黒鋼に、ファイはピタリと止まる。
そのまま少しの間睨めっこをした。
「……ダメ?」
なぜかこれだけは通じたようで、黒鋼は眉間の皺を濃くするとコクッと頷いた。
再び背を向けた黒鋼の後ろ姿が、どんどん小さくなっていく。
一人で知らない場所へ行くのは怖いけど、黒鋼にくっついていれば平気だと思っていた。もしものときのために、せっかく匂いだってつけたのに。
これでは普段の日常となんら変わりない。ファイはしょんぼりと項垂れた。
「つまんにゃい」
やっぱり猫だから、なのか。
自分はただのほほんと飼い猫をやるためにここに来たのではなくて、冒険の旅をしに来たはずだった。
退屈を吹き飛ばすような刺激が欲しくて。だが実際は怖い思いをしてボロボロになっただけのような気がする。
唯一仲良くなれた人間は、ユゥイのように話が通じるわけでも、一日中一緒にいられるわけでもなく、どこで何をしているのかさえ分からない。
ふと、昨晩の黒鋼の温もりを思い出した。
ユゥイより硬いし、男臭いし、触れかたも下手くそだけど。でも安心した。この世界で迷子になっても、帰る場所はこの人の傍だと思えた。
もしかしたらユゥイ以外で、初めて人間を好きだと思えた瞬間だったかもしれない。
なのに、そんな大切な人のことを、よく知らない。
例えば猫の国に帰る日が来たとき、さよならさえ伝えられないのだと、ファイは気付いてしまった。
そんなのは嫌だ。寂しい。
「オレ、人間だったらよかった……」
立ち尽くして地面を見つめたまま、ポツリと呟いた。
そして、ピン、と思いつく。
「ユゥイなら、なんとかしてくれるかも……!」
彼はいつも魔法の実験をしている。本人も自称魔法使いらしいが、使ったところは見たことがなかった。
それでもきっと何か方法はあるに違いない。そんな気がする。
漠然とそう考えたファイは、意を決してあのスタート地点を探すことにした。
+++
「あった……!」
目の前の電柱と塀の間。そこだけ違和感のある場所を見つける。
一度アパートに戻り、見知った地点から落ちついて景色を脳内に焼きつけながらここまで来たら、案外あっさり見つけることができてしまった。
初めて来たときはパニックを起こしてばかりだったが、あのときよりもずっと冷静なファイは、元々備わっている鋭い勘を頼りに、難なくこの場所に行きついた。
懸念していたボス猫とのエンカウントもなく、今日はかなりついている。
この隙間に飛び込めば、もといた世界に帰れるだろう。妙な自信があるのも、ユゥイの言う魔力とやらの賜物だろうか。
「んじゃ、行きまーす!」
ファイは元気よく声を上げると、勢いよく電柱と塀の隙間をくぐった。
グルグル~……
来たときのように、ゆるやかな渦に飲み込まれるような感覚に目が回る。
スポンッと抜けるように隙間から飛び出すと、迎えてくれたのは懐かしい芝生の地面だった。
お腹から着地したファイは、そのままの体勢で幾度か瞬きをする。目の前を「ぴよぴよ」と小さなひよこが横切って行った。
「大成功……?」
起き上って辺りを見回した。
懐かしい木の家と煙突の煙、それを囲むように建っている猫型ドーム。相変わらずのほほんとしている仲間の猫達の姿。
見上げれば大木と、古ぼけたキャットタワー。そして青い空とポカポカ陽気。あの日と変わらない退屈な光景。けれど込み上げる懐かしさ。
ここは故郷、猫の国。
「やったー!! うまくいったーーー!!!」
あまりの嬉しさにちょっと涙ぐみながら万歳をした。ぐるんとひっくり返って、身体をゴロンゴロンとさせる。
柔らかい芝生の感触。草や花や土の匂い。故郷っていいなぁ……そんなことを思いながら転がっていた、そのとき。
「よく帰ってきたね……ファイ……」
「!」
でん、と何かにぶつかって、転がっていた身体が止まった。
懐かしい声。けれど……低い。
「……ゆ、ユゥイ……?」
そこには腰に両手を添えたユゥイが、怖い顔をしてファイを見下ろしていた。
そういえば彼の言いつけをやぶってこの国を飛び出したのだということを、ここにきて思い出した。
やっば……。
咄嗟に逃げだそうとしたファイの首根っこが掴まれる。
「ぎゃー! ごめんなさいごめんなさいユゥイーっ」
「ははは。ごめんで済むと思ってるんだねファイは。そういう馬鹿なとこが本当に可愛いなぁ」
怖い顔をしていたユゥイがにっこりと笑った。これは本気で怒っているとき。
ファイは全身が凍りつくのを感じた……。
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白猫、懐いてみるの巻
それから半月ほどがあっという間に経過していた。
ファイは相変わらず大男の部屋に世話になっている。
今ではもう包帯も取れて、外にも出られるようになった。
日中、男が出かけるときに一緒に外へ出て、古ぼけたその建物(アパートというらしい)が見える範囲で散歩が出来るくらいには、この世界にも慣れて来た。
男と暮らし、少しだけ行動を共にしたりするうちに、なんとなく色々と分かって来たことがある。
まず男の名前は黒鋼。
見た目だけでなく名前まで黒っぽくて硬そうだったので、ファイは彼のことを心の中で黒たんと、せめて可愛く呼ぶことにした。
黒鋼は日中、ガッコウという場所に行ったり、行かなかったりする。半日程度で戻ることもあれば、日が暮れる頃に戻ることもあった。
ガッコウへ行かない日の昼間はどこかへフラリと出かけたり、難しそうな本を読んでいたり、パソコンというものに向かって何かしていたりする。寝る前には筋トレもする。
そして週のうちの半分以上は夜に仕事をしに行く。バイトというものらしい。その間、ファイはポツンと留守番だった。
もしかしたら、そのバイト先とやらでファイを拾ってくれたのかもしれない。
彼の暮らすオンボロの建物には他にも幾つか部屋があって、そこにはそれぞれ赤の他人が住んでいる。
天気のいい日は黒鋼と共に家を出て、そして帰って来るとき一緒に部屋に入るファイだったが、出入りをする瞬間、彼は辺りを注意深く見渡してからファイを外へ出す。
そういえば初めて会ったときに「ここは動物禁止」と彼が言っていたので、きっと見つかると不味いのだろう。
外を散歩していると、高確率で他の人間に遭遇する。
最初こそ恐ろしかったものの、ほとんどの場合は素通りするか、ちょっと目を向けて「猫ちゃーん」と声をかけられる程度だった。
車や小さな子供と出会うと、サッとアパートの敷地内に逃げ込めば難を逃れることが可能で、ファイのことを野良だと思っている住人が、たまに食べ物をくれたりもした。
そういったことに気をつけていれば、人間の世界はスリルがあって、優しい人もいて、それなりに温かい場所もあって暮らしやすい。
割と今の生活が気に入ってしまったファイは、また迷子になってはいけないからと理由をつけて、スタート地点探しを先延ばしにしているのだった。
+++
猫は基本的に夜行性らしい。
だがファイのいた猫の国はいつでも昼間のような明るさだったし、朝や夜といった区切りはなかった。好きなときに寝て、好きなときに遊んだりしていたから、あまりよく分からない。
だが最近は、24時間という区切りの中で生きている人間と共に暮らすようになったせいか、自分の活動時間を把握するようになった。
と、いうより、共に生活している人間の時間に合わせるようになったという方が正しい。
だから夜は寝る。
黒鋼がバイトへ行くと暇だし、寂しいので寝るしかすることがない。
逆に彼がいる夜も、ある程度の時間になると寝てしまうため、ファイも寝る。
今夜はバイトが休みらしい黒鋼は、食事をしたり筋トレをしたりお風呂に入ったり、テレビを眺めたりしているうちに眠ってしまった。
ちなみにこのテレビというものも、最初はかなり驚いた。テレビの裏に回って、人がいないか確かめたりもしたものだ。
「黒たん、寝たのー?」
テーブル脇に敷かれた布団の中で、静かに眠っている黒鋼に小さく声をかけてみた。
基本的にファイは来たときからずっと、部屋の隅の毛布で眠っていた。
そして普段、必要以上に黒鋼が構ってくることがないこともあって、あまり近くに寄ったことがない。まだほんの少しだけ怖い顔に慣れないことと、遠慮のようなものがあった。
だがその日はなんとなく、傍で顔を見てみようと思った。ここでの暮らしに慣れてくるほどに、ひとり寝が寂しくなってきたのかもしれない。
猫の国ではいつもユゥイのベッドに入り込んでいたから、少し人恋しい。
なにより、週の半分以上は夜も不在の黒鋼がいることが嬉しかったのだ。
「黒たーん」
横向きで眠っている黒鋼は、少し眉を動かしただけで目を覚ますことはなかった。
近づいて、すんすんと匂いを嗅ぐ。知らない匂いは、この短い期間でよく知る匂いに変わった。
ユゥイのものとは違う、なんというか、男くさいとでもいうのか。ファイはこの匂いが嫌いではない。
黒鋼の鼻先に濡れた鼻を押し付けてみると、むっと眉間の皺が濃くなった。ちょっとビックリしたけれど、ファイは逃げ出すことなく、さらに鼻先をつんつんと押し付けた。
黒鋼が起きないのをいいことに、今度はゾリっと舐めてみる。
せっかく気持ちよく眠っているのだし、このまま毛繕いをしてあげよう。(毛は生えていないが)
いつもご飯をくれてありがとう、助けてくれてありがとう、という気持ちを込めて、ファイは喉を鳴らしながら黒鋼の鼻をざらざらの舌でたくさん舐めてあげた。
だが、ファイにとっては感謝のつもりでも、どうやら黒鋼にとっては迷惑この上なかったようだ。
「あー、なんだおまえ……」
ぎゅっと顔の中心に皺を寄せて、唸るように声を発した黒鋼に驚く間もなく、大きな手に身体をすくわれた。
「にゃ!」
そのまま一気に布団の中に引きずり込まれた。
黒鋼の折り曲げた身体の、ちょうど腹の部分にすっぽりハマるようにして収まる。
彼の匂いがより強く感じられて、何よりその温かさに目がとろんとしてきてしまう。
香りも感触も全く違うけれど、ファイはユゥイを思い出して、子猫のように両手をにぎにぎとさせた。一度は止まった喉も、再び無意識に鳴っていた。
身体に添えられている黒鋼の手を舐めて、ぐりぐりと頭を押し付けると何度か撫でられた。毛布なんかよりずっと温かくて気持ちよくて、ファイはそのまま眠りについた。
やっぱりまだもう少しくらいは、このままここで暮らそうかな、なんて思いながら。
+++
朝、黒鋼が起きるとファイも目を覚ました。
「おはよー」
背伸びをしながら声をかけると、布団の上に胡坐をかいた黒鋼に頭を撫でられた。喉を鳴らすと片手ですくい上げられて、足の間に抱きこまれる。
彼もようやく少しは猫の扱いに慣れてきたのだろうか。
けれどやっぱり顔は無表情で、少し怖い。だがそれも気にならなくなってきた自分に気がついた。
(見慣れてくればまぁまぁ男前だよにゃー。ユゥイには負けるけど!)
どこぞの世界のイケメンと比較されているとも知らず、黒鋼は顔を顰めて溜息をついた。
「実はな……そろそろ大家が気づきはじめてんだよ……」
「にゃ?」
「ここはペット禁止だからな……」
「にゃん? おーやってなぁに?」
黒鋼は無邪気に見上げるファイをじっと見つめて、何か考え込んでいるようだった。
『おーや』とは一体なんなのか。人の名前なのだろうか。ファイは小さく首を傾げた。
「なにか悩んでるのー?」
「……色々あたってみるか」
「にゃー?」
ファイは黒鋼の胸に両手をついて伸びあがった。何か悩んでいるらしいので、慰めるつもりで顎の辺りを舐めてみる。
難しい顔をしていた黒鋼が、少しだけ笑ったのが嬉しかった。
「にゃー!」
「心配すんな。その辺に投げ出すなんてことはしねぇ」
「?」
「腹減ったか?」
「にゃん!」
黒鋼はファイを足の間からどかすと「待ってろ」と言って立ち上った。
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それから半月ほどがあっという間に経過していた。
ファイは相変わらず大男の部屋に世話になっている。
今ではもう包帯も取れて、外にも出られるようになった。
日中、男が出かけるときに一緒に外へ出て、古ぼけたその建物(アパートというらしい)が見える範囲で散歩が出来るくらいには、この世界にも慣れて来た。
男と暮らし、少しだけ行動を共にしたりするうちに、なんとなく色々と分かって来たことがある。
まず男の名前は黒鋼。
見た目だけでなく名前まで黒っぽくて硬そうだったので、ファイは彼のことを心の中で黒たんと、せめて可愛く呼ぶことにした。
黒鋼は日中、ガッコウという場所に行ったり、行かなかったりする。半日程度で戻ることもあれば、日が暮れる頃に戻ることもあった。
ガッコウへ行かない日の昼間はどこかへフラリと出かけたり、難しそうな本を読んでいたり、パソコンというものに向かって何かしていたりする。寝る前には筋トレもする。
そして週のうちの半分以上は夜に仕事をしに行く。バイトというものらしい。その間、ファイはポツンと留守番だった。
もしかしたら、そのバイト先とやらでファイを拾ってくれたのかもしれない。
彼の暮らすオンボロの建物には他にも幾つか部屋があって、そこにはそれぞれ赤の他人が住んでいる。
天気のいい日は黒鋼と共に家を出て、そして帰って来るとき一緒に部屋に入るファイだったが、出入りをする瞬間、彼は辺りを注意深く見渡してからファイを外へ出す。
そういえば初めて会ったときに「ここは動物禁止」と彼が言っていたので、きっと見つかると不味いのだろう。
外を散歩していると、高確率で他の人間に遭遇する。
最初こそ恐ろしかったものの、ほとんどの場合は素通りするか、ちょっと目を向けて「猫ちゃーん」と声をかけられる程度だった。
車や小さな子供と出会うと、サッとアパートの敷地内に逃げ込めば難を逃れることが可能で、ファイのことを野良だと思っている住人が、たまに食べ物をくれたりもした。
そういったことに気をつけていれば、人間の世界はスリルがあって、優しい人もいて、それなりに温かい場所もあって暮らしやすい。
割と今の生活が気に入ってしまったファイは、また迷子になってはいけないからと理由をつけて、スタート地点探しを先延ばしにしているのだった。
+++
猫は基本的に夜行性らしい。
だがファイのいた猫の国はいつでも昼間のような明るさだったし、朝や夜といった区切りはなかった。好きなときに寝て、好きなときに遊んだりしていたから、あまりよく分からない。
だが最近は、24時間という区切りの中で生きている人間と共に暮らすようになったせいか、自分の活動時間を把握するようになった。
と、いうより、共に生活している人間の時間に合わせるようになったという方が正しい。
だから夜は寝る。
黒鋼がバイトへ行くと暇だし、寂しいので寝るしかすることがない。
逆に彼がいる夜も、ある程度の時間になると寝てしまうため、ファイも寝る。
今夜はバイトが休みらしい黒鋼は、食事をしたり筋トレをしたりお風呂に入ったり、テレビを眺めたりしているうちに眠ってしまった。
ちなみにこのテレビというものも、最初はかなり驚いた。テレビの裏に回って、人がいないか確かめたりもしたものだ。
「黒たん、寝たのー?」
テーブル脇に敷かれた布団の中で、静かに眠っている黒鋼に小さく声をかけてみた。
基本的にファイは来たときからずっと、部屋の隅の毛布で眠っていた。
そして普段、必要以上に黒鋼が構ってくることがないこともあって、あまり近くに寄ったことがない。まだほんの少しだけ怖い顔に慣れないことと、遠慮のようなものがあった。
だがその日はなんとなく、傍で顔を見てみようと思った。ここでの暮らしに慣れてくるほどに、ひとり寝が寂しくなってきたのかもしれない。
猫の国ではいつもユゥイのベッドに入り込んでいたから、少し人恋しい。
なにより、週の半分以上は夜も不在の黒鋼がいることが嬉しかったのだ。
「黒たーん」
横向きで眠っている黒鋼は、少し眉を動かしただけで目を覚ますことはなかった。
近づいて、すんすんと匂いを嗅ぐ。知らない匂いは、この短い期間でよく知る匂いに変わった。
ユゥイのものとは違う、なんというか、男くさいとでもいうのか。ファイはこの匂いが嫌いではない。
黒鋼の鼻先に濡れた鼻を押し付けてみると、むっと眉間の皺が濃くなった。ちょっとビックリしたけれど、ファイは逃げ出すことなく、さらに鼻先をつんつんと押し付けた。
黒鋼が起きないのをいいことに、今度はゾリっと舐めてみる。
せっかく気持ちよく眠っているのだし、このまま毛繕いをしてあげよう。(毛は生えていないが)
いつもご飯をくれてありがとう、助けてくれてありがとう、という気持ちを込めて、ファイは喉を鳴らしながら黒鋼の鼻をざらざらの舌でたくさん舐めてあげた。
だが、ファイにとっては感謝のつもりでも、どうやら黒鋼にとっては迷惑この上なかったようだ。
「あー、なんだおまえ……」
ぎゅっと顔の中心に皺を寄せて、唸るように声を発した黒鋼に驚く間もなく、大きな手に身体をすくわれた。
「にゃ!」
そのまま一気に布団の中に引きずり込まれた。
黒鋼の折り曲げた身体の、ちょうど腹の部分にすっぽりハマるようにして収まる。
彼の匂いがより強く感じられて、何よりその温かさに目がとろんとしてきてしまう。
香りも感触も全く違うけれど、ファイはユゥイを思い出して、子猫のように両手をにぎにぎとさせた。一度は止まった喉も、再び無意識に鳴っていた。
身体に添えられている黒鋼の手を舐めて、ぐりぐりと頭を押し付けると何度か撫でられた。毛布なんかよりずっと温かくて気持ちよくて、ファイはそのまま眠りについた。
やっぱりまだもう少しくらいは、このままここで暮らそうかな、なんて思いながら。
+++
朝、黒鋼が起きるとファイも目を覚ました。
「おはよー」
背伸びをしながら声をかけると、布団の上に胡坐をかいた黒鋼に頭を撫でられた。喉を鳴らすと片手ですくい上げられて、足の間に抱きこまれる。
彼もようやく少しは猫の扱いに慣れてきたのだろうか。
けれどやっぱり顔は無表情で、少し怖い。だがそれも気にならなくなってきた自分に気がついた。
(見慣れてくればまぁまぁ男前だよにゃー。ユゥイには負けるけど!)
どこぞの世界のイケメンと比較されているとも知らず、黒鋼は顔を顰めて溜息をついた。
「実はな……そろそろ大家が気づきはじめてんだよ……」
「にゃ?」
「ここはペット禁止だからな……」
「にゃん? おーやってなぁに?」
黒鋼は無邪気に見上げるファイをじっと見つめて、何か考え込んでいるようだった。
『おーや』とは一体なんなのか。人の名前なのだろうか。ファイは小さく首を傾げた。
「なにか悩んでるのー?」
「……色々あたってみるか」
「にゃー?」
ファイは黒鋼の胸に両手をついて伸びあがった。何か悩んでいるらしいので、慰めるつもりで顎の辺りを舐めてみる。
難しい顔をしていた黒鋼が、少しだけ笑ったのが嬉しかった。
「にゃー!」
「心配すんな。その辺に投げ出すなんてことはしねぇ」
「?」
「腹減ったか?」
「にゃん!」
黒鋼はファイを足の間からどかすと「待ってろ」と言って立ち上った。
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白猫、やくざのような人に拾われるの巻
知らない匂いがして、ファイはぽっかりと目を開けた。
「……?」
目の前には薄茶色の毛布がある。
どうやら自分はそれに包まれて眠っていたらしかった。
知らない匂いはこの場所全体に充満していて、ファイは寝転がったまま顔だけを上げて辺りを見回してみた。
見たことのない部屋。狭くて、そして誰もいない。
窓には青い布がかかっていた。その隙間から白い光が漏れていて、夜が終わったことを知った。
「ここ、天国?」
毛布の中から抜け出すようにして身体を起こし、ちょこんと座った。
家具の少ない部屋は殺風景で、天国にしては地味な場所だと思う。しかも、毛布から出ると肌寒い。
けれど自分の身体に巻かれている包帯を見て、全体的に身体が楽になっていることに気付くと、やっぱりここは天国かもしれないと思った。
お腹は空いているけれど、あの鉛のような疲れは消えている。足取りも軽くて、ファイは誰もいないのをいいことに、部屋の中をぐるりと一周した。
窓辺にジャンプして乗り上がると、外の景色を見てみる。
そして、目を丸くした。
「にゃにこれ……!」
一瞬、雲の上にいるのかと思った。
窓の外は綿飴がかぶさったかのような、一面真っ白の世界になっていた。
(これ、雪だ! 本で読んだことある!)
思わず閉め切られている窓にぺたりと肉球をくっつける。ヒヤリとしたが、そんなものを気にする余裕もなく、ファイはただその光景に見とれた。
それから思い出したように空を見ると、太陽が真上にある。雨は雪へと変わったあとに、上がったらしい。
「ここ、どこにゃんだろう……」
綿飴に見とれて暫し忘れていたが、自分がまだ人間の世界にいるということがわかったファイは、再び不安に襲われた。
そのとき、背後で扉が開く音がした。
「ギャ!?」
驚いたファイは飛び上がって、そして床に落ちた。
「なんだ。元気じゃねぇか」
初めて聞く声。
落ちたことで傷に響いたファイは、涙ぐみながら声の方を見上げた。
そして知った。
ここは天国ではない。地獄だと……。
「ッ!?」
そこにはとんでもない大男がいた。
全体的に黒いその人は、あの怒鳴り声を上げていたオッサンよりも、ずっと怖い顔だった。逆立てた毛で身体を膨らませながら、石のように固まったファイを、ぎろりと見下ろしてくる。
あの子供達なんて、見た目が可愛いぶんずっとマシだと思った。
喰われる。確実に。
「まだじっとしてろよ。たく、動物病院なんぞ初めて行ったぞ俺は」
給料日前だってのに……と、男は愚痴りながら手に持っていた白い袋をテーブルの上に置くと、中を漁り始めた。
ファイは彼がそれに気を取られている間にと、どこか身を隠す場所を探すことにする。
どこでもいいから、身体を押し込められる場所が欲しかった。
「うろちょろすんじゃねぇぞ」
ビクッ……と身体を震わせながらも、壁沿いを挙動不審なまま歩く。
けれどこの部屋は家具が少ないし、テーブルの下などいいかもしれなかったが、男が側にいる。四面楚歌だった。
そのとき、ユゥイの言葉を思い出した。
ファイなんか小さくて可愛いから、
すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。
ファイなんか小さくて可愛いから、
すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。
ファイなんか小さくて可愛いから、
すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。
※エコー
「小さくて可愛いオレ、捕まったーーーー!!!」
「うるせぇ! ここ動物禁止だぞ!!」
「こわーぁいぃうわあぁぁぁ……!!」
※ファイの言葉は相手に通じてません。
「あー、ったく……おら、これでも食ってろ!」
半狂乱状態だったファイの側に、ポンと何かが放られた。
咄嗟に見ると、それは……カニカマだった。
「!?」
カニカマはファイの大好物だ。
よくユゥイがおやつの時間にくれていたので、カニカマは異世界共通なのかと驚いた。
男はテーブルの側にどっかりとあぐらをかき、腕を組んでこちらを観察している。その居心地の悪さと恐ろしさに戸惑ったが、腹の虫が騒いでいた。
「…………ぺろっ」
ついにファイは欲望に負けた。
カニカマをひと舐めすると、そこには幸せの味が……。
「ウミャーッウミャーッ」
いっそ泣けてくるほど美味しくて、ファイは夢中で食べた。夢中になりすぎてちょっとむせた。
「ゆっくり食え。おら」
食べ終える頃、もう一本のカニカマが投げられた。目を輝かせてそれをハグハグした。
それからもう何本か寄こされたものを食べて、ファイの腹はようやく満ちた。
「美味しかったー!」
「満足したか?」
「したー! ありがとうー!」
なんだ、この人は顔が怖いだけでいい人じゃないか……とファイは思った。
ユゥイなんかあんな優しい顔をして口を開けば小言ばかりだし、実験に夢中で遊んでくれないし……と、あれだけ恋しかったのが嘘のように不満が復活する。
ひとまず、人は見かけによらないということを学んだような気がした。
そしてようやくまともな人間に出会えたことも嬉しかった。(顔は怖いけど)
それでもまだ完全に警戒心は解けていない。ファイは常に相手に注意を払いながらも、部屋の中を再び散策しはじめる。
所々、興味深げに匂いを嗅いだりしてウロウロした。
大男は特に気にした風もなく、自分も袋から取り出した弁当を食べ始めた。
狭い部屋だけど、やたら広いよりずっと落ち着く。一通り匂いを確かめると、ファイは部屋の片隅の毛布に戻った。
腹が膨れて、適度に歩きまわったら少し眠くなってきた。
もぞもぞと薄茶色の毛布の中に潜り込むと、丸くなってふぅと息をついた。
これからどうなるか分からないし、ここにいつまでいることになるかも分からないけれど、ひとまずは最悪の事態から抜け出すことが出来た気がする。
もう少し休ませてもらったら改めてスタート地点を探すことにして、今は眠ろう。
目を閉じると、ものの数秒も経たないでファイは眠りに落ちた。
+++
何か大きなものに、身体を撫でられる感覚があった。
まどろみの中、その触れかたの不器用さに、ファイはこれがユゥイではないことを知る。
下手くそな撫で方。ぜんぜん気持ちよくなんてない。
少し遠慮がちで、怖々としているようにも感じられた。
それでも温かくて、ファイは無意識に喉を鳴らした。
+++
忙しないほどではないけれど、ゴソゴソと動く気配がして、ファイは目を覚ました。
毛布から顔だけちょこんと出して見れば、天井に明かりが灯っている。寝ている間に、また夜になっていたらしい。
大きな男の人は着替えをして、出かける準備をしているようだった。あらかた終えると、彼はこちらを見た。
「留守番できるな? おとなしくしてろよ」
まだぼんやりしているファイを見て、怖い顔で少しだけ笑うと彼は出て行ってしまった。
ぽつんと残されてから、ファイは毛布から抜けだした。
ひとつ欠伸をして、それからふと食べ物と水が器に用意されているのを見る。ありがたかったけれど、一抹の寂しさを拭えなかった。
「ミャー……」
狭い狭いと思っていた部屋だが、見慣れてしまうとなんだか広く感じられて、ファイは寂しく鳴き声を上げた。
←戻る ・ 次へ→
知らない匂いがして、ファイはぽっかりと目を開けた。
「……?」
目の前には薄茶色の毛布がある。
どうやら自分はそれに包まれて眠っていたらしかった。
知らない匂いはこの場所全体に充満していて、ファイは寝転がったまま顔だけを上げて辺りを見回してみた。
見たことのない部屋。狭くて、そして誰もいない。
窓には青い布がかかっていた。その隙間から白い光が漏れていて、夜が終わったことを知った。
「ここ、天国?」
毛布の中から抜け出すようにして身体を起こし、ちょこんと座った。
家具の少ない部屋は殺風景で、天国にしては地味な場所だと思う。しかも、毛布から出ると肌寒い。
けれど自分の身体に巻かれている包帯を見て、全体的に身体が楽になっていることに気付くと、やっぱりここは天国かもしれないと思った。
お腹は空いているけれど、あの鉛のような疲れは消えている。足取りも軽くて、ファイは誰もいないのをいいことに、部屋の中をぐるりと一周した。
窓辺にジャンプして乗り上がると、外の景色を見てみる。
そして、目を丸くした。
「にゃにこれ……!」
一瞬、雲の上にいるのかと思った。
窓の外は綿飴がかぶさったかのような、一面真っ白の世界になっていた。
(これ、雪だ! 本で読んだことある!)
思わず閉め切られている窓にぺたりと肉球をくっつける。ヒヤリとしたが、そんなものを気にする余裕もなく、ファイはただその光景に見とれた。
それから思い出したように空を見ると、太陽が真上にある。雨は雪へと変わったあとに、上がったらしい。
「ここ、どこにゃんだろう……」
綿飴に見とれて暫し忘れていたが、自分がまだ人間の世界にいるということがわかったファイは、再び不安に襲われた。
そのとき、背後で扉が開く音がした。
「ギャ!?」
驚いたファイは飛び上がって、そして床に落ちた。
「なんだ。元気じゃねぇか」
初めて聞く声。
落ちたことで傷に響いたファイは、涙ぐみながら声の方を見上げた。
そして知った。
ここは天国ではない。地獄だと……。
「ッ!?」
そこにはとんでもない大男がいた。
全体的に黒いその人は、あの怒鳴り声を上げていたオッサンよりも、ずっと怖い顔だった。逆立てた毛で身体を膨らませながら、石のように固まったファイを、ぎろりと見下ろしてくる。
あの子供達なんて、見た目が可愛いぶんずっとマシだと思った。
喰われる。確実に。
「まだじっとしてろよ。たく、動物病院なんぞ初めて行ったぞ俺は」
給料日前だってのに……と、男は愚痴りながら手に持っていた白い袋をテーブルの上に置くと、中を漁り始めた。
ファイは彼がそれに気を取られている間にと、どこか身を隠す場所を探すことにする。
どこでもいいから、身体を押し込められる場所が欲しかった。
「うろちょろすんじゃねぇぞ」
ビクッ……と身体を震わせながらも、壁沿いを挙動不審なまま歩く。
けれどこの部屋は家具が少ないし、テーブルの下などいいかもしれなかったが、男が側にいる。四面楚歌だった。
そのとき、ユゥイの言葉を思い出した。
ファイなんか小さくて可愛いから、
すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。
ファイなんか小さくて可愛いから、
すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。
ファイなんか小さくて可愛いから、
すぐに捕まって閉じ込められちゃうよ。
※エコー
「小さくて可愛いオレ、捕まったーーーー!!!」
「うるせぇ! ここ動物禁止だぞ!!」
「こわーぁいぃうわあぁぁぁ……!!」
※ファイの言葉は相手に通じてません。
「あー、ったく……おら、これでも食ってろ!」
半狂乱状態だったファイの側に、ポンと何かが放られた。
咄嗟に見ると、それは……カニカマだった。
「!?」
カニカマはファイの大好物だ。
よくユゥイがおやつの時間にくれていたので、カニカマは異世界共通なのかと驚いた。
男はテーブルの側にどっかりとあぐらをかき、腕を組んでこちらを観察している。その居心地の悪さと恐ろしさに戸惑ったが、腹の虫が騒いでいた。
「…………ぺろっ」
ついにファイは欲望に負けた。
カニカマをひと舐めすると、そこには幸せの味が……。
「ウミャーッウミャーッ」
いっそ泣けてくるほど美味しくて、ファイは夢中で食べた。夢中になりすぎてちょっとむせた。
「ゆっくり食え。おら」
食べ終える頃、もう一本のカニカマが投げられた。目を輝かせてそれをハグハグした。
それからもう何本か寄こされたものを食べて、ファイの腹はようやく満ちた。
「美味しかったー!」
「満足したか?」
「したー! ありがとうー!」
なんだ、この人は顔が怖いだけでいい人じゃないか……とファイは思った。
ユゥイなんかあんな優しい顔をして口を開けば小言ばかりだし、実験に夢中で遊んでくれないし……と、あれだけ恋しかったのが嘘のように不満が復活する。
ひとまず、人は見かけによらないということを学んだような気がした。
そしてようやくまともな人間に出会えたことも嬉しかった。(顔は怖いけど)
それでもまだ完全に警戒心は解けていない。ファイは常に相手に注意を払いながらも、部屋の中を再び散策しはじめる。
所々、興味深げに匂いを嗅いだりしてウロウロした。
大男は特に気にした風もなく、自分も袋から取り出した弁当を食べ始めた。
狭い部屋だけど、やたら広いよりずっと落ち着く。一通り匂いを確かめると、ファイは部屋の片隅の毛布に戻った。
腹が膨れて、適度に歩きまわったら少し眠くなってきた。
もぞもぞと薄茶色の毛布の中に潜り込むと、丸くなってふぅと息をついた。
これからどうなるか分からないし、ここにいつまでいることになるかも分からないけれど、ひとまずは最悪の事態から抜け出すことが出来た気がする。
もう少し休ませてもらったら改めてスタート地点を探すことにして、今は眠ろう。
目を閉じると、ものの数秒も経たないでファイは眠りに落ちた。
+++
何か大きなものに、身体を撫でられる感覚があった。
まどろみの中、その触れかたの不器用さに、ファイはこれがユゥイではないことを知る。
下手くそな撫で方。ぜんぜん気持ちよくなんてない。
少し遠慮がちで、怖々としているようにも感じられた。
それでも温かくて、ファイは無意識に喉を鳴らした。
+++
忙しないほどではないけれど、ゴソゴソと動く気配がして、ファイは目を覚ました。
毛布から顔だけちょこんと出して見れば、天井に明かりが灯っている。寝ている間に、また夜になっていたらしい。
大きな男の人は着替えをして、出かける準備をしているようだった。あらかた終えると、彼はこちらを見た。
「留守番できるな? おとなしくしてろよ」
まだぼんやりしているファイを見て、怖い顔で少しだけ笑うと彼は出て行ってしまった。
ぽつんと残されてから、ファイは毛布から抜けだした。
ひとつ欠伸をして、それからふと食べ物と水が器に用意されているのを見る。ありがたかったけれど、一抹の寂しさを拭えなかった。
「ミャー……」
狭い狭いと思っていた部屋だが、見慣れてしまうとなんだか広く感じられて、ファイは寂しく鳴き声を上げた。
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はっきり言って浮かれていた。
いきなり人間の姿で出迎えて驚かせようなんて、それがまず失敗だったのだ。
よくよく冷静になって考えてみれば、いきなり知らない人間が家の中にいたら、ファイだって怖い。黒鋼が怒るのも当然だと思う。
表に放り出されると毛のない身体では寒くて寒くて仕方がなかったし、あっという間に疲労がピークに達して、元の姿に戻ってしまった。
するとようやく黒鋼が中に入れてくれたので、どうにか助かった。
「ぷしゅん!」
クシャミをすると、すぐに黒鋼に首根っこを掴まれて足の間に入れられた。
「こんな遅くまでほっつき歩いてる馬鹿がいるか」
身体に両手を添えられると、ファイの身体は完全に包み込まれる。
温かくて、ファイは目をとろんとさせながら喉を鳴らした。
「ちょっとおうちに帰ってたのー。ユゥイのお説教が長くって……」
「妙な変態野郎は侵入して来やがるし……妙な日だな、今日は」
「すみません、それオレにゃんだけど……」
変態とは酷い言いようだと思ったが、言われても仕方がないのかもしれない。
黒鋼はぶつくさと文句を言いつつ明かりを消すと、ファイを抱いたまま布団の中に身を横たえた。
ちょうど黒鋼に腕枕されるような態勢で、ファイはふぅと息をついた。やっぱりこの腕の中は安心する。
黒鋼の胸の辺りに両手をついてぐぐっと背伸びをして、喉を鳴らしながらもみもみした。
どうやら慣れないファイにとって、変身は相当の体力を消耗するようだ。早く帰らなければいけないとわかってはいても、もう限界だった。
とりあえず今夜は寝よう。寝て起きてから、改めて今度は黒鋼の目の前で変身しよう。そうすれば、きっと分かってもらえるはずだ。
そんなことを考えながら、ファイは黒鋼の匂いを思いっきり吸いこんで眠りに落ちた。
+++
念じて念じて念じて。
集中力を高めてイメージを膨らませて、すると白い煙と共にファイは人間の姿に変身を遂げた。
黒鋼が驚きの表情でこちらを見つめるので、ファイはにっこりと笑って見せる。
「黒たん! オレだよ! これでわかってくれたよね?」
「おまえ、人間になれるのか……!」
こちらに手を伸ばそうとする黒鋼に、ファイは思いっきり抱きついた。
「そう、オレ人間に変身できるの! 黒たんとお話してみたくて、ユゥイに教わったんだー!」
優しく抱き返されるのが嬉しくて、その胸に頬ずりをした。
「ねぇ、どうかな……? オレ、ちゃんと人間に見えるでしょ?」
「ああ。猫の姿もよかったが……今の姿もなかなかのもんだ」
「ほんと? 可愛い?」
「ああ」
「うわぁい嬉しいー!」
ぎゅっと首に両手を回して、ファイは黒鋼の鼻を舐めようとした。
だがそのとき、耳をつんざくような大きくて恐ろしい声がした。
「こんの変態野郎ーーー!!!!!」
その瞬間、身体が畳みの床にどんっと落ちた。
「ッ―――!?」
全身を打ち付けるような衝撃を食らって、ファイは一瞬なにが起こったのか分からず、目を白黒させる。
「な、な、なに!? なにが起こったのー!?」
「なにが起こったはこっちの台詞だ!! てめぇ一体どこから侵入してきやがった!? しかもなに人の腕ん中で気持ちよさそうによだれ垂らして寝てやがる!?」
「え!?」
見れば敷布団を両手に持った黒鋼が、鬼の形相で怒鳴り散らしている。どうやら布団をひっくり返されたようだ。
ファイは未だに混乱する頭でむくっと起き上がると、身体に感じる違和感に気付いた。
「あ……あれ……?」
見れば裸の人間の姿。それが今のファイの姿。
「夢だったの……?」
夢の中で変身してしまったのか。
黒鋼は肩で息をしている。今にも殴りかかって来そうな剣幕に、ファイは慌てて両手をぶんぶんと振った。
「だ、だからー! オレだってば! 白猫! チビ助!」
「ふざっけんな!!」
怒鳴った黒鋼は、だがすぐにハッとして辺りを見回す。
「そういやあいつまたどこ行った!? おいチビ! チビ助!!」
「ここ! ここだってばー!」
ギンッと睨まれる。その恐ろしい表情にファイはぶるっと震えた。
なんということだ。まさか寝ぼけて変身してしまうとは。
ファイは脳内をフル回転させた。このままではまた放り出される。昨夜のループになってしまう。
「く、黒たん!」
「ああ!?」
「黒たんが初めてオレにくれたご飯はカニカマ!」
「!?」
「お給料日の前なのに、オレのこと病院に連れてってくれたんだよね!? あと、オレが人間だったらきっとお喋り野郎だーとか言ってた! そんでもって最近はおーやさんがヤバイ!」
「……」
「昼間はガッコウ、夜はバイトっていうお仕事してて……でねでね、知ってた? 黒たんの背中にはほくろが二つあってー、今はいてるパンツは灰色! 寝るときはいっつも今みたいな黒ジャージ!」
ファイはとりあえず自分が持っている彼の情報を、手当たり次第に口にしてみた。
これでどうだと言わんばかりに鼻息を荒くすると、彼はわなわなと拳を震わせた。そして俊敏な動きで辺りを見回す。
「カメラ……カメラだな!? てめぇいつから仕掛けていやがった!!」
「きゃめら?」
「盗撮や盗聴まで趣味とはな……流石は変態ストーカーだ……」
「とーさつ? すとっきんぐ?」
ポキパキ……。と小気味よい音をさせながら黒鋼が指の関節を鳴らし、目の前までやってくる。
(この感じ……どっかで覚えがあるような……?)
初日にボス猫にボコられたことを思い出す。
人間になってまでとっちめられるなんてまっぴらごめんで、ファイは慌てて四つん這いで逃げ出そうとした。
が、また髪を鷲掴みにされる。
「いやーー!! 暴力反対! 助けてーっ」
「うるせぇゴルァ! 観念しやが……ッ!?」
目を吊り上げる黒鋼がきつく握った拳を振り上げようとした、その瞬間。
ボムッと白煙が上がった。
「なんだ!?」
「ふにゃぁ……」
「!?」
ファイは猫の姿に戻った。
首根っこを掴まれた状態で、力なく鳴き声をあげる。
「チビ、お、おまえ……」
「ねぇ……これで信じてもらえた……?」
ほんの数分なのにどっと疲れて、ついさっき起きたばかりなのに意識が沈みそうになる。
この姿だと言葉は途端に通じなくなるけれど、下手に通じる言葉を並び立てるよりも、ずっと説得力があったらしい。
黒鋼は随分と長い間、石のように動かないまま目を見開いていた。ついでに口も開きっぱなしだった。
「嘘だろ……?」
嘘じゃない、と言いたかったけれど、ファイは重たい瞼を開じたまま気を失ってしまった。
+++
と、いうわけで。
たっぷり眠って起きたファイは再び人間の姿に変身した。
今は胡坐をかいて腕組みをしている黒鋼と向き合って、ぺたんと座っている。
ちなみに変身後すぐにパーカーとジーンズというものを着せられた。どちらもこの身体には少し大きかったが、毛のない身体にはありがたかった。
尻尾は腹にくるんと巻き付けて、窮屈だったが服の中に隠した。
「やっと信じてくれたねー」
「……………………」
「オレ、つい昨日まで自分が変身できるなんて知らなかったんだー。だからまだ下手くそで、耳と尻尾だけは上手くいかないみたい」
「……………………」
「でもこれでようやくお話できるようにー……って……黒たん? 聞いてる?」
黒鋼は目を閉じて、まるで瞑想に耽っているかのようだった。
だがすぐに目を開くと、苦々しい顔をする。
「……夢、じゃねぇんだよな?」
「夢じゃないよ? つねってあげよっか?」
「本当にあのチビ助、なんだな?」
ファイはこくりと頷いた。
「でもちゃんと名前あるよ。ファイだよ」
「……化け猫かてめぇは」
そう言われて、ファイはパッと顔を輝かせると手のひらに握った拳をポンと打ち付けた。
「それ! そういえばオレね、化け猫探しもしたくて来たんだったよー!」
「はぁ?」
ファイはまた変身が解けてしまわぬうちにと、時折思いっきり舌を噛みながらも、これまでの経緯を説明した。
黒鋼は終始怪訝そうな顔をしていたが、それでも最後まで聞いてくれた。
ちゃんと話が通じているんだと、そう思うと涙が出そうになるくらい嬉しかった。
「……よくわからねぇが……わかった……」
「それってつまりどっち?」
「世の中にゃ俺の理解の範疇を超えることってのがある……ってことがわかった」
ようするに容量オーバーというやつを起こし、いっそどうでもいいということらしい。
それでもちゃんと言葉が通じているのだから、まぁいいかとファイは特に気にしないことにする。嬉しさの方が勝っていたからだ。
「でね、オレどうしても君とお話がしてみたくて」
そのときだった。
ピンポーン……。
玄関のチャイムが鳴った。
その来客を知らせるサインに、黒鋼はより一層、苦々しい表情になった。
「忘れてた……」
「なに? お客さん?」
「おいおまえ、戻れるか? 猫に」
立ちあがった黒鋼に指を指されて、ファイはきょとんとした。が、すぐに頷く。
「うん。そろそろ時間切れだと思うし……」
残念だが仕方がない。もっともっとたくさん話したいことや聞きたいことがあるけれど、お客さんが帰るまでまた少し休んで、それからまた変身しよう。
「よし。じゃあすぐ戻っとけ」
「わかったよー」
ファイが右手を上げて返事をするのを確認すると、黒鋼は玄関へ向かった。
言われた通り元の姿に戻るべく目を閉じた。
――が。
「あり?」
もう一度、元々の姿をイメージして念じる。
だが、いつまで経っても白煙は上がらなかった。
「……なんで?」
ファイは人間の姿のまま、なぜか元に戻ることが出来なくなってしまった……。
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