黒鋼、言い訳のしようがないの巻
白猫との暮らしは思いのほか心地がよかったが、いつまでもこのままというわけにもいかず、黒鋼は友人知人に手当たり次第当たってみた。
すると一人、高校時代の後輩が引っ掛かった。
とりあえず実際に見てみたいという要望を受けて、自宅に招いたのをすっかり忘れていた。
玄関に行き、扉を開けるとそこには長い黒髪の少女と、淡い栗色の髪をした少女が二人、揃ってにっこりと微笑んでいた。
知世とサクラ。二人は高校時代の後輩で、今回猫が欲しいと申し出たのは知世の方だった。
「おう、わざわざ悪かったな……」
「こんにちは。なんだか話声が聞こえましたけど……もしかしてお邪魔でしたか?」
「いや……」
ギクリとして、一瞬後ろを振り返る。
あの馬鹿はちゃんと元に戻っているだろうな……と不安になったが、どうやらあの変身は長時間もたないらしい。
だがそれ以前に、あれがただの白猫ではなくとんだ化け猫だと分かってしまった今、無闇に他人に預けることはできなくなってしまった。
けれど彼にはどうやらちゃんと帰る家があるらしい。飼い主もいるらしい。黒鋼がわざわざ心配してやる必要はないのだ。
とはいえ、せっかく来てくれた後輩たちを、ただ門前払いするのも悪い。
まずは見せるだけ見せて、元の飼い主が見つかったとでも言って頭を下げよう。
「まぁ、入れ」
「お邪魔しますわ」
「お邪魔します」
ひとまず二人を部屋に通すことにして、何も持て成さないのもどうかと思い、玄関と隣接している台所で茶の準備をする。
湯を沸かしながら、黒鋼は口から深い溜息が洩れる。
本当になんなのだ、あの生き物は。猫が人間に変身するなんて、アニメや漫画でもあるまいし。こんなことが現実に起こっていいわけがない。
だが残念なことに紛れもない事実であることは、自分自身が目の当たりにしてしまった。
少し濃い目の緑茶を二つの湯飲みに注ぐと、それを両手に部屋へと戻った。
するとそこには、信じられない光景が広がっていた。
「!?」
真っ青になって汗をかいているファイ(人間)が、壁に身を寄せるようにぺったりとくっついている。
それを立ち尽くしたまま無言で見つめている、二人の少女の後ろ姿。
ゾッ……という感覚が背筋を駆け抜けて、次の瞬間、黒鋼は茶の注がれた湯飲みを二つとも床に落としていた。
床に熱々の茶がぶちまけられ、湯飲みが転がるのも構わず、光の速さでファイがいる壁際に駆け寄った。
「て、てめぇー!? なにやってる!?」
「も、戻れないの! どう頑張ってもなんでか戻れないのー!!」
「知るかこのアホが!! 根性でどうにかしろ!!」
「無理だよぉーっ」
ボロボロと涙を流すファイのパーカー部分に手を伸ばし、ガッとかぶせる。今更かとは思うが……。
そしてアホ猫を背中に庇うようにして振り返った。
見れば知世が、どこか死んだような目で生温かい微笑みを浮かべている。サクラは、目を点にして固まっていた。
「こ、これは……その、つまりだな……」
「……黒鋼先輩ったら」
知世が、口に手を当てて「ほほほ」と笑った。
「変わった猫ちゃんを飼われていらっしゃいますのね」
「ちが……、こ、こいつは……」
「わー! この耳本物みたいだよ知世ちゃん! あったかい……」
「あふっ……くすぐったぁい~」
「!?」
アホ猫を振り返ると、いつの間に回り込んだのかサクラがファイのパーカーを外し、耳をこしょこしょしている。
ファイはファイでブルッと身体を震わせながら悦に浸った表情をしていた。
「このアホが!!」
「ぎゃん!!」
尖った耳と耳の中央に思い切りゲンコツをした。
「やめてください黒鋼さん! 猫ちゃん可哀そうです!」
サクラが慌ててファイを抱き寄せる。
頭の天辺に大きなコブをつくったファイは、泣きながら少女にすり寄った。
「うっ、うっ……どこの誰か知らないけど黒たんより優しいー……あと柔らかくていい匂いがするー」
「うふふ、くすぐったい」
サクラの頬に鼻先を擦りつけるファイ。
肩をすくめて笑うサクラは、まるでファイを本当の猫とでも思っている(本当に猫なのだが)かのように愛でていた。
「お、おまえ! 離れろこのバカ! って知世! てめぇ何カメラ構えてやがる!?」
「美少女と猫耳美青年……このマニアックさが絵になりますわ~……」
そこはかとなく鼻息を荒くしながら、ピッとデジカメのシャッターを押している知世。
黒鋼はゾッとして、ファイのパーカー部分を掴むと力いっぱいサクラから引き離した。
「こいつを写すんじゃねぇ! そのカメラ寄こせ! 消す!」
手を伸ばして引っ掴もうとするのを華麗に避けた知世は、にっこり笑ってカメラを懐に仕舞った。
「心配せずとも、バラまいたりなんてしませんわ。個人的な趣味ですから」
「猫ちゃん、お菓子食べる? クッキーなんだけど」
「食べる! クッキー大好きー!」
「餌づけされんな!!」
「サクラちゃんそのままこっち見て笑って! 猫さんも!」
「もう帰れおまえら!!!」
そのやりとりは、黒鋼の怒鳴り声に近所から苦情が来るまで続いた。
+++
去り際、知世は満面の笑顔で
「大丈夫。先輩にこういう趣味があるってことは、内緒にしときますから」
と言った。
当然といえば当然だが、彼女らはファイが本物の猫だということには気がつかなかったようだ。(サクラは微妙なラインだったが)
結果的に白猫に関しては触れられることはなく、ただ黒鋼が人には言えない趣味を持った人間であるというレッテルだけを貼られて終わった。
「……やるせねぇ」
全身に影を纏い、意気消沈している黒鋼の横で、はしゃぎすぎて疲れたらしいファイが欠伸をしている。
「黒たんのお友達、可愛くて楽しい子たちだったねー」
「……………………」
「クッキー美味しかったし」
「……………………」
「?」
胡坐をかき、煤けた背中で俯いている黒鋼に、ファイが四つん這いになって近づいてくる。
すんすんと匂いを嗅ぎながら、無理やり足の間に入って来た。
「……こら、よせ」
「なんでー?」
首に両手を回してぎゅっとしてくるファイを押しのけようとするが、彼は楽しそうに頬ずりをしてくる。
なぜかムッとした。
「よせってんだよ」
「撫でてくれないの?」
「おまえいま人間だろ」
「人間だと可愛がってもらえないの?」
「……柔らかくもなけりゃいい匂いもしねぇだろ。俺は」
「?」
言ってからしまったと思った。
これではまるで嫉妬でもしているみたいではないか。
部屋の中にはまだ甘い菓子の香りが残っていて、それだけで胸やけがしてくる。
幸い、ファイは特に何も気にした様子もなく、ただ小首を傾げただけだった。
顰めっ面で睨むと、いきなり鼻先にキスをされる。
「なっ、こら!」
「オレ、黒たんの匂いが一番好きー!」
そしてまたぎゅっと首にしがみついてくるファイに、黒鋼は毒気を抜かれたような気持ちになった。
そうかよ……と小さく吐きだしながら、しょうがなくその背中を抱いてやった。
←戻る ・ 次へ→
白猫との暮らしは思いのほか心地がよかったが、いつまでもこのままというわけにもいかず、黒鋼は友人知人に手当たり次第当たってみた。
すると一人、高校時代の後輩が引っ掛かった。
とりあえず実際に見てみたいという要望を受けて、自宅に招いたのをすっかり忘れていた。
玄関に行き、扉を開けるとそこには長い黒髪の少女と、淡い栗色の髪をした少女が二人、揃ってにっこりと微笑んでいた。
知世とサクラ。二人は高校時代の後輩で、今回猫が欲しいと申し出たのは知世の方だった。
「おう、わざわざ悪かったな……」
「こんにちは。なんだか話声が聞こえましたけど……もしかしてお邪魔でしたか?」
「いや……」
ギクリとして、一瞬後ろを振り返る。
あの馬鹿はちゃんと元に戻っているだろうな……と不安になったが、どうやらあの変身は長時間もたないらしい。
だがそれ以前に、あれがただの白猫ではなくとんだ化け猫だと分かってしまった今、無闇に他人に預けることはできなくなってしまった。
けれど彼にはどうやらちゃんと帰る家があるらしい。飼い主もいるらしい。黒鋼がわざわざ心配してやる必要はないのだ。
とはいえ、せっかく来てくれた後輩たちを、ただ門前払いするのも悪い。
まずは見せるだけ見せて、元の飼い主が見つかったとでも言って頭を下げよう。
「まぁ、入れ」
「お邪魔しますわ」
「お邪魔します」
ひとまず二人を部屋に通すことにして、何も持て成さないのもどうかと思い、玄関と隣接している台所で茶の準備をする。
湯を沸かしながら、黒鋼は口から深い溜息が洩れる。
本当になんなのだ、あの生き物は。猫が人間に変身するなんて、アニメや漫画でもあるまいし。こんなことが現実に起こっていいわけがない。
だが残念なことに紛れもない事実であることは、自分自身が目の当たりにしてしまった。
少し濃い目の緑茶を二つの湯飲みに注ぐと、それを両手に部屋へと戻った。
するとそこには、信じられない光景が広がっていた。
「!?」
真っ青になって汗をかいているファイ(人間)が、壁に身を寄せるようにぺったりとくっついている。
それを立ち尽くしたまま無言で見つめている、二人の少女の後ろ姿。
ゾッ……という感覚が背筋を駆け抜けて、次の瞬間、黒鋼は茶の注がれた湯飲みを二つとも床に落としていた。
床に熱々の茶がぶちまけられ、湯飲みが転がるのも構わず、光の速さでファイがいる壁際に駆け寄った。
「て、てめぇー!? なにやってる!?」
「も、戻れないの! どう頑張ってもなんでか戻れないのー!!」
「知るかこのアホが!! 根性でどうにかしろ!!」
「無理だよぉーっ」
ボロボロと涙を流すファイのパーカー部分に手を伸ばし、ガッとかぶせる。今更かとは思うが……。
そしてアホ猫を背中に庇うようにして振り返った。
見れば知世が、どこか死んだような目で生温かい微笑みを浮かべている。サクラは、目を点にして固まっていた。
「こ、これは……その、つまりだな……」
「……黒鋼先輩ったら」
知世が、口に手を当てて「ほほほ」と笑った。
「変わった猫ちゃんを飼われていらっしゃいますのね」
「ちが……、こ、こいつは……」
「わー! この耳本物みたいだよ知世ちゃん! あったかい……」
「あふっ……くすぐったぁい~」
「!?」
アホ猫を振り返ると、いつの間に回り込んだのかサクラがファイのパーカーを外し、耳をこしょこしょしている。
ファイはファイでブルッと身体を震わせながら悦に浸った表情をしていた。
「このアホが!!」
「ぎゃん!!」
尖った耳と耳の中央に思い切りゲンコツをした。
「やめてください黒鋼さん! 猫ちゃん可哀そうです!」
サクラが慌ててファイを抱き寄せる。
頭の天辺に大きなコブをつくったファイは、泣きながら少女にすり寄った。
「うっ、うっ……どこの誰か知らないけど黒たんより優しいー……あと柔らかくていい匂いがするー」
「うふふ、くすぐったい」
サクラの頬に鼻先を擦りつけるファイ。
肩をすくめて笑うサクラは、まるでファイを本当の猫とでも思っている(本当に猫なのだが)かのように愛でていた。
「お、おまえ! 離れろこのバカ! って知世! てめぇ何カメラ構えてやがる!?」
「美少女と猫耳美青年……このマニアックさが絵になりますわ~……」
そこはかとなく鼻息を荒くしながら、ピッとデジカメのシャッターを押している知世。
黒鋼はゾッとして、ファイのパーカー部分を掴むと力いっぱいサクラから引き離した。
「こいつを写すんじゃねぇ! そのカメラ寄こせ! 消す!」
手を伸ばして引っ掴もうとするのを華麗に避けた知世は、にっこり笑ってカメラを懐に仕舞った。
「心配せずとも、バラまいたりなんてしませんわ。個人的な趣味ですから」
「猫ちゃん、お菓子食べる? クッキーなんだけど」
「食べる! クッキー大好きー!」
「餌づけされんな!!」
「サクラちゃんそのままこっち見て笑って! 猫さんも!」
「もう帰れおまえら!!!」
そのやりとりは、黒鋼の怒鳴り声に近所から苦情が来るまで続いた。
+++
去り際、知世は満面の笑顔で
「大丈夫。先輩にこういう趣味があるってことは、内緒にしときますから」
と言った。
当然といえば当然だが、彼女らはファイが本物の猫だということには気がつかなかったようだ。(サクラは微妙なラインだったが)
結果的に白猫に関しては触れられることはなく、ただ黒鋼が人には言えない趣味を持った人間であるというレッテルだけを貼られて終わった。
「……やるせねぇ」
全身に影を纏い、意気消沈している黒鋼の横で、はしゃぎすぎて疲れたらしいファイが欠伸をしている。
「黒たんのお友達、可愛くて楽しい子たちだったねー」
「……………………」
「クッキー美味しかったし」
「……………………」
「?」
胡坐をかき、煤けた背中で俯いている黒鋼に、ファイが四つん這いになって近づいてくる。
すんすんと匂いを嗅ぎながら、無理やり足の間に入って来た。
「……こら、よせ」
「なんでー?」
首に両手を回してぎゅっとしてくるファイを押しのけようとするが、彼は楽しそうに頬ずりをしてくる。
なぜかムッとした。
「よせってんだよ」
「撫でてくれないの?」
「おまえいま人間だろ」
「人間だと可愛がってもらえないの?」
「……柔らかくもなけりゃいい匂いもしねぇだろ。俺は」
「?」
言ってからしまったと思った。
これではまるで嫉妬でもしているみたいではないか。
部屋の中にはまだ甘い菓子の香りが残っていて、それだけで胸やけがしてくる。
幸い、ファイは特に何も気にした様子もなく、ただ小首を傾げただけだった。
顰めっ面で睨むと、いきなり鼻先にキスをされる。
「なっ、こら!」
「オレ、黒たんの匂いが一番好きー!」
そしてまたぎゅっと首にしがみついてくるファイに、黒鋼は毒気を抜かれたような気持ちになった。
そうかよ……と小さく吐きだしながら、しょうがなくその背中を抱いてやった。
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変態、誤解が解けるの巻
はっきり言って浮かれていた。
いきなり人間の姿で出迎えて驚かせようなんて、それがまず失敗だったのだ。
よくよく冷静になって考えてみれば、いきなり知らない人間が家の中にいたら、ファイだって怖い。黒鋼が怒るのも当然だと思う。
表に放り出されると毛のない身体では寒くて寒くて仕方がなかったし、あっという間に疲労がピークに達して、元の姿に戻ってしまった。
するとようやく黒鋼が中に入れてくれたので、どうにか助かった。
「ぷしゅん!」
クシャミをすると、すぐに黒鋼に首根っこを掴まれて足の間に入れられた。
「こんな遅くまでほっつき歩いてる馬鹿がいるか」
身体に両手を添えられると、ファイの身体は完全に包み込まれる。
温かくて、ファイは目をとろんとさせながら喉を鳴らした。
「ちょっとおうちに帰ってたのー。ユゥイのお説教が長くって……」
「妙な変態野郎は侵入して来やがるし……妙な日だな、今日は」
「すみません、それオレにゃんだけど……」
変態とは酷い言いようだと思ったが、言われても仕方がないのかもしれない。
黒鋼はぶつくさと文句を言いつつ明かりを消すと、ファイを抱いたまま布団の中に身を横たえた。
ちょうど黒鋼に腕枕されるような態勢で、ファイはふぅと息をついた。やっぱりこの腕の中は安心する。
黒鋼の胸の辺りに両手をついてぐぐっと背伸びをして、喉を鳴らしながらもみもみした。
どうやら慣れないファイにとって、変身は相当の体力を消耗するようだ。早く帰らなければいけないとわかってはいても、もう限界だった。
とりあえず今夜は寝よう。寝て起きてから、改めて今度は黒鋼の目の前で変身しよう。そうすれば、きっと分かってもらえるはずだ。
そんなことを考えながら、ファイは黒鋼の匂いを思いっきり吸いこんで眠りに落ちた。
+++
念じて念じて念じて。
集中力を高めてイメージを膨らませて、すると白い煙と共にファイは人間の姿に変身を遂げた。
黒鋼が驚きの表情でこちらを見つめるので、ファイはにっこりと笑って見せる。
「黒たん! オレだよ! これでわかってくれたよね?」
「おまえ、人間になれるのか……!」
こちらに手を伸ばそうとする黒鋼に、ファイは思いっきり抱きついた。
「そう、オレ人間に変身できるの! 黒たんとお話してみたくて、ユゥイに教わったんだー!」
優しく抱き返されるのが嬉しくて、その胸に頬ずりをした。
「ねぇ、どうかな……? オレ、ちゃんと人間に見えるでしょ?」
「ああ。猫の姿もよかったが……今の姿もなかなかのもんだ」
「ほんと? 可愛い?」
「ああ」
「うわぁい嬉しいー!」
ぎゅっと首に両手を回して、ファイは黒鋼の鼻を舐めようとした。
だがそのとき、耳をつんざくような大きくて恐ろしい声がした。
「こんの変態野郎ーーー!!!!!」
その瞬間、身体が畳みの床にどんっと落ちた。
「ッ―――!?」
全身を打ち付けるような衝撃を食らって、ファイは一瞬なにが起こったのか分からず、目を白黒させる。
「な、な、なに!? なにが起こったのー!?」
「なにが起こったはこっちの台詞だ!! てめぇ一体どこから侵入してきやがった!? しかもなに人の腕ん中で気持ちよさそうによだれ垂らして寝てやがる!?」
「え!?」
見れば敷布団を両手に持った黒鋼が、鬼の形相で怒鳴り散らしている。どうやら布団をひっくり返されたようだ。
ファイは未だに混乱する頭でむくっと起き上がると、身体に感じる違和感に気付いた。
「あ……あれ……?」
見れば裸の人間の姿。それが今のファイの姿。
「夢だったの……?」
夢の中で変身してしまったのか。
黒鋼は肩で息をしている。今にも殴りかかって来そうな剣幕に、ファイは慌てて両手をぶんぶんと振った。
「だ、だからー! オレだってば! 白猫! チビ助!」
「ふざっけんな!!」
怒鳴った黒鋼は、だがすぐにハッとして辺りを見回す。
「そういやあいつまたどこ行った!? おいチビ! チビ助!!」
「ここ! ここだってばー!」
ギンッと睨まれる。その恐ろしい表情にファイはぶるっと震えた。
なんということだ。まさか寝ぼけて変身してしまうとは。
ファイは脳内をフル回転させた。このままではまた放り出される。昨夜のループになってしまう。
「く、黒たん!」
「ああ!?」
「黒たんが初めてオレにくれたご飯はカニカマ!」
「!?」
「お給料日の前なのに、オレのこと病院に連れてってくれたんだよね!? あと、オレが人間だったらきっとお喋り野郎だーとか言ってた! そんでもって最近はおーやさんがヤバイ!」
「……」
「昼間はガッコウ、夜はバイトっていうお仕事してて……でねでね、知ってた? 黒たんの背中にはほくろが二つあってー、今はいてるパンツは灰色! 寝るときはいっつも今みたいな黒ジャージ!」
ファイはとりあえず自分が持っている彼の情報を、手当たり次第に口にしてみた。
これでどうだと言わんばかりに鼻息を荒くすると、彼はわなわなと拳を震わせた。そして俊敏な動きで辺りを見回す。
「カメラ……カメラだな!? てめぇいつから仕掛けていやがった!!」
「きゃめら?」
「盗撮や盗聴まで趣味とはな……流石は変態ストーカーだ……」
「とーさつ? すとっきんぐ?」
ポキパキ……。と小気味よい音をさせながら黒鋼が指の関節を鳴らし、目の前までやってくる。
(この感じ……どっかで覚えがあるような……?)
初日にボス猫にボコられたことを思い出す。
人間になってまでとっちめられるなんてまっぴらごめんで、ファイは慌てて四つん這いで逃げ出そうとした。
が、また髪を鷲掴みにされる。
「いやーー!! 暴力反対! 助けてーっ」
「うるせぇゴルァ! 観念しやが……ッ!?」
目を吊り上げる黒鋼がきつく握った拳を振り上げようとした、その瞬間。
ボムッと白煙が上がった。
「なんだ!?」
「ふにゃぁ……」
「!?」
ファイは猫の姿に戻った。
首根っこを掴まれた状態で、力なく鳴き声をあげる。
「チビ、お、おまえ……」
「ねぇ……これで信じてもらえた……?」
ほんの数分なのにどっと疲れて、ついさっき起きたばかりなのに意識が沈みそうになる。
この姿だと言葉は途端に通じなくなるけれど、下手に通じる言葉を並び立てるよりも、ずっと説得力があったらしい。
黒鋼は随分と長い間、石のように動かないまま目を見開いていた。ついでに口も開きっぱなしだった。
「嘘だろ……?」
嘘じゃない、と言いたかったけれど、ファイは重たい瞼を開じたまま気を失ってしまった。
+++
と、いうわけで。
たっぷり眠って起きたファイは再び人間の姿に変身した。
今は胡坐をかいて腕組みをしている黒鋼と向き合って、ぺたんと座っている。
ちなみに変身後すぐにパーカーとジーンズというものを着せられた。どちらもこの身体には少し大きかったが、毛のない身体にはありがたかった。
尻尾は腹にくるんと巻き付けて、窮屈だったが服の中に隠した。
「やっと信じてくれたねー」
「……………………」
「オレ、つい昨日まで自分が変身できるなんて知らなかったんだー。だからまだ下手くそで、耳と尻尾だけは上手くいかないみたい」
「……………………」
「でもこれでようやくお話できるようにー……って……黒たん? 聞いてる?」
黒鋼は目を閉じて、まるで瞑想に耽っているかのようだった。
だがすぐに目を開くと、苦々しい顔をする。
「……夢、じゃねぇんだよな?」
「夢じゃないよ? つねってあげよっか?」
「本当にあのチビ助、なんだな?」
ファイはこくりと頷いた。
「でもちゃんと名前あるよ。ファイだよ」
「……化け猫かてめぇは」
そう言われて、ファイはパッと顔を輝かせると手のひらに握った拳をポンと打ち付けた。
「それ! そういえばオレね、化け猫探しもしたくて来たんだったよー!」
「はぁ?」
ファイはまた変身が解けてしまわぬうちにと、時折思いっきり舌を噛みながらも、これまでの経緯を説明した。
黒鋼は終始怪訝そうな顔をしていたが、それでも最後まで聞いてくれた。
ちゃんと話が通じているんだと、そう思うと涙が出そうになるくらい嬉しかった。
「……よくわからねぇが……わかった……」
「それってつまりどっち?」
「世の中にゃ俺の理解の範疇を超えることってのがある……ってことがわかった」
ようするに容量オーバーというやつを起こし、いっそどうでもいいということらしい。
それでもちゃんと言葉が通じているのだから、まぁいいかとファイは特に気にしないことにする。嬉しさの方が勝っていたからだ。
「でね、オレどうしても君とお話がしてみたくて」
そのときだった。
ピンポーン……。
玄関のチャイムが鳴った。
その来客を知らせるサインに、黒鋼はより一層、苦々しい表情になった。
「忘れてた……」
「なに? お客さん?」
「おいおまえ、戻れるか? 猫に」
立ちあがった黒鋼に指を指されて、ファイはきょとんとした。が、すぐに頷く。
「うん。そろそろ時間切れだと思うし……」
残念だが仕方がない。もっともっとたくさん話したいことや聞きたいことがあるけれど、お客さんが帰るまでまた少し休んで、それからまた変身しよう。
「よし。じゃあすぐ戻っとけ」
「わかったよー」
ファイが右手を上げて返事をするのを確認すると、黒鋼は玄関へ向かった。
言われた通り元の姿に戻るべく目を閉じた。
――が。
「あり?」
もう一度、元々の姿をイメージして念じる。
だが、いつまで経っても白煙は上がらなかった。
「……なんで?」
ファイは人間の姿のまま、なぜか元に戻ることが出来なくなってしまった……。
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はっきり言って浮かれていた。
いきなり人間の姿で出迎えて驚かせようなんて、それがまず失敗だったのだ。
よくよく冷静になって考えてみれば、いきなり知らない人間が家の中にいたら、ファイだって怖い。黒鋼が怒るのも当然だと思う。
表に放り出されると毛のない身体では寒くて寒くて仕方がなかったし、あっという間に疲労がピークに達して、元の姿に戻ってしまった。
するとようやく黒鋼が中に入れてくれたので、どうにか助かった。
「ぷしゅん!」
クシャミをすると、すぐに黒鋼に首根っこを掴まれて足の間に入れられた。
「こんな遅くまでほっつき歩いてる馬鹿がいるか」
身体に両手を添えられると、ファイの身体は完全に包み込まれる。
温かくて、ファイは目をとろんとさせながら喉を鳴らした。
「ちょっとおうちに帰ってたのー。ユゥイのお説教が長くって……」
「妙な変態野郎は侵入して来やがるし……妙な日だな、今日は」
「すみません、それオレにゃんだけど……」
変態とは酷い言いようだと思ったが、言われても仕方がないのかもしれない。
黒鋼はぶつくさと文句を言いつつ明かりを消すと、ファイを抱いたまま布団の中に身を横たえた。
ちょうど黒鋼に腕枕されるような態勢で、ファイはふぅと息をついた。やっぱりこの腕の中は安心する。
黒鋼の胸の辺りに両手をついてぐぐっと背伸びをして、喉を鳴らしながらもみもみした。
どうやら慣れないファイにとって、変身は相当の体力を消耗するようだ。早く帰らなければいけないとわかってはいても、もう限界だった。
とりあえず今夜は寝よう。寝て起きてから、改めて今度は黒鋼の目の前で変身しよう。そうすれば、きっと分かってもらえるはずだ。
そんなことを考えながら、ファイは黒鋼の匂いを思いっきり吸いこんで眠りに落ちた。
+++
念じて念じて念じて。
集中力を高めてイメージを膨らませて、すると白い煙と共にファイは人間の姿に変身を遂げた。
黒鋼が驚きの表情でこちらを見つめるので、ファイはにっこりと笑って見せる。
「黒たん! オレだよ! これでわかってくれたよね?」
「おまえ、人間になれるのか……!」
こちらに手を伸ばそうとする黒鋼に、ファイは思いっきり抱きついた。
「そう、オレ人間に変身できるの! 黒たんとお話してみたくて、ユゥイに教わったんだー!」
優しく抱き返されるのが嬉しくて、その胸に頬ずりをした。
「ねぇ、どうかな……? オレ、ちゃんと人間に見えるでしょ?」
「ああ。猫の姿もよかったが……今の姿もなかなかのもんだ」
「ほんと? 可愛い?」
「ああ」
「うわぁい嬉しいー!」
ぎゅっと首に両手を回して、ファイは黒鋼の鼻を舐めようとした。
だがそのとき、耳をつんざくような大きくて恐ろしい声がした。
「こんの変態野郎ーーー!!!!!」
その瞬間、身体が畳みの床にどんっと落ちた。
「ッ―――!?」
全身を打ち付けるような衝撃を食らって、ファイは一瞬なにが起こったのか分からず、目を白黒させる。
「な、な、なに!? なにが起こったのー!?」
「なにが起こったはこっちの台詞だ!! てめぇ一体どこから侵入してきやがった!? しかもなに人の腕ん中で気持ちよさそうによだれ垂らして寝てやがる!?」
「え!?」
見れば敷布団を両手に持った黒鋼が、鬼の形相で怒鳴り散らしている。どうやら布団をひっくり返されたようだ。
ファイは未だに混乱する頭でむくっと起き上がると、身体に感じる違和感に気付いた。
「あ……あれ……?」
見れば裸の人間の姿。それが今のファイの姿。
「夢だったの……?」
夢の中で変身してしまったのか。
黒鋼は肩で息をしている。今にも殴りかかって来そうな剣幕に、ファイは慌てて両手をぶんぶんと振った。
「だ、だからー! オレだってば! 白猫! チビ助!」
「ふざっけんな!!」
怒鳴った黒鋼は、だがすぐにハッとして辺りを見回す。
「そういやあいつまたどこ行った!? おいチビ! チビ助!!」
「ここ! ここだってばー!」
ギンッと睨まれる。その恐ろしい表情にファイはぶるっと震えた。
なんということだ。まさか寝ぼけて変身してしまうとは。
ファイは脳内をフル回転させた。このままではまた放り出される。昨夜のループになってしまう。
「く、黒たん!」
「ああ!?」
「黒たんが初めてオレにくれたご飯はカニカマ!」
「!?」
「お給料日の前なのに、オレのこと病院に連れてってくれたんだよね!? あと、オレが人間だったらきっとお喋り野郎だーとか言ってた! そんでもって最近はおーやさんがヤバイ!」
「……」
「昼間はガッコウ、夜はバイトっていうお仕事してて……でねでね、知ってた? 黒たんの背中にはほくろが二つあってー、今はいてるパンツは灰色! 寝るときはいっつも今みたいな黒ジャージ!」
ファイはとりあえず自分が持っている彼の情報を、手当たり次第に口にしてみた。
これでどうだと言わんばかりに鼻息を荒くすると、彼はわなわなと拳を震わせた。そして俊敏な動きで辺りを見回す。
「カメラ……カメラだな!? てめぇいつから仕掛けていやがった!!」
「きゃめら?」
「盗撮や盗聴まで趣味とはな……流石は変態ストーカーだ……」
「とーさつ? すとっきんぐ?」
ポキパキ……。と小気味よい音をさせながら黒鋼が指の関節を鳴らし、目の前までやってくる。
(この感じ……どっかで覚えがあるような……?)
初日にボス猫にボコられたことを思い出す。
人間になってまでとっちめられるなんてまっぴらごめんで、ファイは慌てて四つん這いで逃げ出そうとした。
が、また髪を鷲掴みにされる。
「いやーー!! 暴力反対! 助けてーっ」
「うるせぇゴルァ! 観念しやが……ッ!?」
目を吊り上げる黒鋼がきつく握った拳を振り上げようとした、その瞬間。
ボムッと白煙が上がった。
「なんだ!?」
「ふにゃぁ……」
「!?」
ファイは猫の姿に戻った。
首根っこを掴まれた状態で、力なく鳴き声をあげる。
「チビ、お、おまえ……」
「ねぇ……これで信じてもらえた……?」
ほんの数分なのにどっと疲れて、ついさっき起きたばかりなのに意識が沈みそうになる。
この姿だと言葉は途端に通じなくなるけれど、下手に通じる言葉を並び立てるよりも、ずっと説得力があったらしい。
黒鋼は随分と長い間、石のように動かないまま目を見開いていた。ついでに口も開きっぱなしだった。
「嘘だろ……?」
嘘じゃない、と言いたかったけれど、ファイは重たい瞼を開じたまま気を失ってしまった。
+++
と、いうわけで。
たっぷり眠って起きたファイは再び人間の姿に変身した。
今は胡坐をかいて腕組みをしている黒鋼と向き合って、ぺたんと座っている。
ちなみに変身後すぐにパーカーとジーンズというものを着せられた。どちらもこの身体には少し大きかったが、毛のない身体にはありがたかった。
尻尾は腹にくるんと巻き付けて、窮屈だったが服の中に隠した。
「やっと信じてくれたねー」
「……………………」
「オレ、つい昨日まで自分が変身できるなんて知らなかったんだー。だからまだ下手くそで、耳と尻尾だけは上手くいかないみたい」
「……………………」
「でもこれでようやくお話できるようにー……って……黒たん? 聞いてる?」
黒鋼は目を閉じて、まるで瞑想に耽っているかのようだった。
だがすぐに目を開くと、苦々しい顔をする。
「……夢、じゃねぇんだよな?」
「夢じゃないよ? つねってあげよっか?」
「本当にあのチビ助、なんだな?」
ファイはこくりと頷いた。
「でもちゃんと名前あるよ。ファイだよ」
「……化け猫かてめぇは」
そう言われて、ファイはパッと顔を輝かせると手のひらに握った拳をポンと打ち付けた。
「それ! そういえばオレね、化け猫探しもしたくて来たんだったよー!」
「はぁ?」
ファイはまた変身が解けてしまわぬうちにと、時折思いっきり舌を噛みながらも、これまでの経緯を説明した。
黒鋼は終始怪訝そうな顔をしていたが、それでも最後まで聞いてくれた。
ちゃんと話が通じているんだと、そう思うと涙が出そうになるくらい嬉しかった。
「……よくわからねぇが……わかった……」
「それってつまりどっち?」
「世の中にゃ俺の理解の範疇を超えることってのがある……ってことがわかった」
ようするに容量オーバーというやつを起こし、いっそどうでもいいということらしい。
それでもちゃんと言葉が通じているのだから、まぁいいかとファイは特に気にしないことにする。嬉しさの方が勝っていたからだ。
「でね、オレどうしても君とお話がしてみたくて」
そのときだった。
ピンポーン……。
玄関のチャイムが鳴った。
その来客を知らせるサインに、黒鋼はより一層、苦々しい表情になった。
「忘れてた……」
「なに? お客さん?」
「おいおまえ、戻れるか? 猫に」
立ちあがった黒鋼に指を指されて、ファイはきょとんとした。が、すぐに頷く。
「うん。そろそろ時間切れだと思うし……」
残念だが仕方がない。もっともっとたくさん話したいことや聞きたいことがあるけれど、お客さんが帰るまでまた少し休んで、それからまた変身しよう。
「よし。じゃあすぐ戻っとけ」
「わかったよー」
ファイが右手を上げて返事をするのを確認すると、黒鋼は玄関へ向かった。
言われた通り元の姿に戻るべく目を閉じた。
――が。
「あり?」
もう一度、元々の姿をイメージして念じる。
だが、いつまで経っても白煙は上がらなかった。
「……なんで?」
ファイは人間の姿のまま、なぜか元に戻ることが出来なくなってしまった……。
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黒鋼、自宅に変態現るの巻
動物は飼ったことがない。
だがどちらかと聞かれれば犬派、なような気がしている。
犬の方が賢くて忠実というイメージがあるし、テレビの動物番組やなんかで語られる逸話も、圧倒的に犬のものが多い。
だから漠然と、いつか機会があって飼うとすれば犬だろう、なんて思ったり思わなかったりだった。
+++
学生という身分の傍ら、夜は居酒屋でバイトをしていた。
ただ黒鋼は身体も大きく厳つい見た目と、その無愛想さから接客業向きではなく、もっぱら裏方担当だった。
よく面接が通ったなと友人知人に驚かれるが、気弱そうな店長に言わせると、何かあったとき、裏に強そうなのを一人置いておくのにうってつけだと思ったそうだ。
なんつー理由だと、受けておいて少し呆れたが、今の世の中たかがバイトといえ、職種をより好みしていられる場合ではない。
表通りから十字路を曲がると幾つかの飲み屋が軒を連ねていて、その日、黒鋼がいる店は雨の夜にも関わらず、比較的客入りが多かった。
裏路地の突き当たりは袋小路。いつものようにゴミ出しに裏口を開けたとき、たまたま見つけたのが『彼』だった。
薄汚れていて、最初はそれが白だとは分からなかった。
雨と泥にまみれた猫はポリバケツの横に横たわっていて、死んでいるのかと思ったが、生きていた。
流石に放っておくのも気が引けて、最終的に保護する形になった。
朝一で動物病院へ行って医者に見せると、傷はどれもそう大きなものではなかった。
子猫ではなかったし、野良猫だろうと思った。動けるようになれば、すぐに出て行くだろうと。
けれどその猫は最初こそ怯えていたようだが、人といること自体に拒絶反応は見せなかった。
動けるようになるとすぐに外へ出たがったが、なぜか自分が帰宅するのに合わせて、一緒に戻って来るようになってしまった。
ひょっとしたら懐かれたのだろうか。動物など飼ったことがなかったし、ましてや猫の生態についてなど、興味すら抱いたことがない。
ただその白猫は、随分とお喋りな猫だった。
いつもニャーニャーと何か喋っている。声はそれほど騒々しいものではなかった。
だからいつの間にか、ペット禁止のアパートにも関わらず、ズルズルと同居を続けてしまった。
まぁ、端的に言えば可愛かったのだ。
白くてふわふわの毛に、それが眠っている隙を狙ってこっそり触れるのが、楽しみの一つになってしまった。
少しずつではあるが、距離が縮まっていくのも悪い心地はしなくて、昨夜初めてすぐ傍まで寄って来たときは、眠いながらも嬉しかった。
通常だったら最後まで面倒を見きれるかもわからないのに、下手に情を抱くような真似はしない。
無責任という言葉は嫌いだ。そうあることも。
それでも迂闊に手を伸ばしてしまったのは、潤いのない独り暮らしに少し飽いていたから、だろうか。
+++
そろそろ潮時だとは思っていたけれど。
別れは突然やって来た。
初めて一緒の布団で抱え込むようにして眠った昨夜。
それでぐっとこれまで以上に距離が縮まり、やたら甘える動作を見せてきた、まさに今日この日。
夕暮れ間近に帰宅しても、白猫はどこにもいなかった。いつもならどこからともなくやって来て、一緒に扉をくぐるのに。
少し遠くへ遊びに行っているのかと、部屋に戻ってなんとなく落ち着かない気持ちを持て余しながら待ってみた。
だが戻って来る様子はなくて、もしかしたら、猫という生き物はとてつもなく利口なのかもしれない、なんて思ったりもした。
最近、大家とバッタリ顔を合わせた際、なんとなく探りを入れられたのだ。だから今朝、言葉など通じないだろうと知りつつ、白猫を相手に零したのだった。
猫は死ぬ間際を決して人に見せることなく、孤独に生涯を閉じる、という話を聞いたことがある。おそらく若い猫であったろうから、死期を悟ってのことではないだろうが、あれは空気が読める猫だったのかもしれない。
間抜けな声で鳴くくせに、にゃごにゃごとアホのようによく喋る猫だったくせに。
出かける際にやたらとついて来たがったのも、別れを惜しんでのことだったのだろうか……。
そんなことを考えると、なぜか胸に風穴が開いたような、切ない気持ちになった。そして、やっぱり落ちつかなかった。
だから黒鋼は、不用心だとは思ったが猫一匹が通れるくらい窓を開け、近所のコンビニへ酒でも買いに行くかと理由をつけて、家を出た。
そして結局、ただ手ぶらで帰宅することになった。見かけたのはあの白猫ではなく、ふてぶてしく毛並みの荒い、大きな灰色の猫だけだった。
たかが猫一匹。
どこかでまた誰かにでも拾われて、懐いてしまったのかもしれない。
人に慣れている様子から、元は飼い猫だったのかもしれないし、飼い主の元へ帰ったのか。そうであれば一番いいのだが。
いずれにしろ執着したって仕方がない。
これ以上の縁がなかったのだろうと諦めて、黒鋼は自宅ドアを開けた。
するとその瞬間、気の抜けるような男の声がした。
「あー! おかえりー黒たーん!」
!?
黒鋼は我が目を疑った。
見たことのない金髪の男が、全裸で床にペタンと座っている。ふざけたことに、頭には猫のような白い耳。ゆらゆらと長い尻尾まで躍らせている。
ああ、やはり戸締りはきっちりとするべきだった。
取られて困るような大層なものはないと軽く考えていたが、まさかこんなどえらい変態が侵入して来るなんて。
世の中って怖い。日本はどうなってしまうのか。夜明けは果てしなく遠すぎる。
「電気はついてるのに、黒たんいないっぽくてオレ焦っちゃったー! でも窓が開いてたから助かったよー。もしかしてオレのために開けててくれた?」
随分とお喋りな野郎だと思った。
あまりのことに内心相当うろたえていたが、黒鋼はつとめて冷静を装った。
そしてペラペラと喋りまくっている変態猫耳野郎に無言で歩み寄ると、金の髪をむんずと掴んだ。
「いたー! イタタタ! なに!? なにするの!?」
「出てけ」
「ちょっと待ってよ! オレだよオレ! ファイだよー!」
「そんな奴は知らん。今なら見逃してやる。すぐ出てけ」
そのままズルズルと玄関先まで引きずって、ゴミを放るように外へ出そうとした。
「ちょ、ホントに待って! オレの話聞いてよー! オレはファイ……あ、そっか……」
変態男がぎゅっと黒鋼の腕を両手で掴んだ。そして言った。
「オレ、チビ助! そう呼んでくれたよね!?」
「!?」
思わず目を見開いた。
確かに黒鋼はあの白猫のことをそう呼んだ。
成猫ではあったが、黒鋼にしてみれば小さな生き物でしかなくて、適当にそう呼んだのだが。
「なんでてめぇが知ってる?」
「だってオレだもん」
「ふざけんな」
「く、黒たぁん……」
じんわりと涙ぐむ男の淡いブルーの瞳に、一瞬だけ白猫の面影を垣間見る。だが容赦なく外へ放り投げた。
こちらの名前まで知ってるとなると、こいつはおそらくストーカーだ。紛うことなきホモストーカーだ。しかもコスプレ好きの。
あたかも親しげに『黒たん』などとふざけた呼び方しやがって……と、黒鋼の苛立ちメーターはほぼ振り切れた状態だった。
まぁコスプレにしてはまるで直に生えているかのような完成度だとは思ったが、この際そんなことはどうでもいい。
黒鋼はすぅ、と思い切り息を吸い込んだ。そして怒鳴る。
「警察呼ばれたくなけりゃあ、とっとと失せろ!!」
そう吐き捨てると、思いっきり扉を閉めた。そして鍵をかける。大股で部屋の中へ入ると、窓の鍵もかけた。
「うわぁん待ってよ聞いてよ開けてよー!!」
しばらくの間ドンドンと扉を叩く音がしていたが、いよいよ110番するべく携帯を取り出したところで、静かになった。
「……行ったか」
どうせ黒鋼が通報せずとも、すぐにお縄になるだろう。公衆猥褻罪で。
ざまあ見やがれとせいせいしたところで、畳みの上にどっかりと腰を下ろした。
はぁ、と溜息を零し、気分転換にテレビのリモコンへ手を伸ばしたところで、声がした。
「……?」
それは男の声ではない。
「にゃぁ~……」
なんとも間抜けな、猫の声。
黒鋼はハッとして勢いよく立ちあがると、玄関へ向かう。
あの野郎がまだいるかもしれないが、その場合は容赦なくぶん殴ることにして、鍵を外すと扉を開けた。
「チビ……!」
そこには、ぐったりと疲れ切った様子の白猫がうずくまっていた。
すぐに手を伸ばし抱き上げると、あの猫耳男がいないことを確かめる。そして扉を再び閉める前に、ふと思う。
腕の中でぐったりしている猫の、白い耳や尻尾を見て……。
「……まさかな」
そんな非現実的なことあるわけがないと、一瞬でも浮かんだ思考に自分自身で呆れかえった。
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動物は飼ったことがない。
だがどちらかと聞かれれば犬派、なような気がしている。
犬の方が賢くて忠実というイメージがあるし、テレビの動物番組やなんかで語られる逸話も、圧倒的に犬のものが多い。
だから漠然と、いつか機会があって飼うとすれば犬だろう、なんて思ったり思わなかったりだった。
+++
学生という身分の傍ら、夜は居酒屋でバイトをしていた。
ただ黒鋼は身体も大きく厳つい見た目と、その無愛想さから接客業向きではなく、もっぱら裏方担当だった。
よく面接が通ったなと友人知人に驚かれるが、気弱そうな店長に言わせると、何かあったとき、裏に強そうなのを一人置いておくのにうってつけだと思ったそうだ。
なんつー理由だと、受けておいて少し呆れたが、今の世の中たかがバイトといえ、職種をより好みしていられる場合ではない。
表通りから十字路を曲がると幾つかの飲み屋が軒を連ねていて、その日、黒鋼がいる店は雨の夜にも関わらず、比較的客入りが多かった。
裏路地の突き当たりは袋小路。いつものようにゴミ出しに裏口を開けたとき、たまたま見つけたのが『彼』だった。
薄汚れていて、最初はそれが白だとは分からなかった。
雨と泥にまみれた猫はポリバケツの横に横たわっていて、死んでいるのかと思ったが、生きていた。
流石に放っておくのも気が引けて、最終的に保護する形になった。
朝一で動物病院へ行って医者に見せると、傷はどれもそう大きなものではなかった。
子猫ではなかったし、野良猫だろうと思った。動けるようになれば、すぐに出て行くだろうと。
けれどその猫は最初こそ怯えていたようだが、人といること自体に拒絶反応は見せなかった。
動けるようになるとすぐに外へ出たがったが、なぜか自分が帰宅するのに合わせて、一緒に戻って来るようになってしまった。
ひょっとしたら懐かれたのだろうか。動物など飼ったことがなかったし、ましてや猫の生態についてなど、興味すら抱いたことがない。
ただその白猫は、随分とお喋りな猫だった。
いつもニャーニャーと何か喋っている。声はそれほど騒々しいものではなかった。
だからいつの間にか、ペット禁止のアパートにも関わらず、ズルズルと同居を続けてしまった。
まぁ、端的に言えば可愛かったのだ。
白くてふわふわの毛に、それが眠っている隙を狙ってこっそり触れるのが、楽しみの一つになってしまった。
少しずつではあるが、距離が縮まっていくのも悪い心地はしなくて、昨夜初めてすぐ傍まで寄って来たときは、眠いながらも嬉しかった。
通常だったら最後まで面倒を見きれるかもわからないのに、下手に情を抱くような真似はしない。
無責任という言葉は嫌いだ。そうあることも。
それでも迂闊に手を伸ばしてしまったのは、潤いのない独り暮らしに少し飽いていたから、だろうか。
+++
そろそろ潮時だとは思っていたけれど。
別れは突然やって来た。
初めて一緒の布団で抱え込むようにして眠った昨夜。
それでぐっとこれまで以上に距離が縮まり、やたら甘える動作を見せてきた、まさに今日この日。
夕暮れ間近に帰宅しても、白猫はどこにもいなかった。いつもならどこからともなくやって来て、一緒に扉をくぐるのに。
少し遠くへ遊びに行っているのかと、部屋に戻ってなんとなく落ち着かない気持ちを持て余しながら待ってみた。
だが戻って来る様子はなくて、もしかしたら、猫という生き物はとてつもなく利口なのかもしれない、なんて思ったりもした。
最近、大家とバッタリ顔を合わせた際、なんとなく探りを入れられたのだ。だから今朝、言葉など通じないだろうと知りつつ、白猫を相手に零したのだった。
猫は死ぬ間際を決して人に見せることなく、孤独に生涯を閉じる、という話を聞いたことがある。おそらく若い猫であったろうから、死期を悟ってのことではないだろうが、あれは空気が読める猫だったのかもしれない。
間抜けな声で鳴くくせに、にゃごにゃごとアホのようによく喋る猫だったくせに。
出かける際にやたらとついて来たがったのも、別れを惜しんでのことだったのだろうか……。
そんなことを考えると、なぜか胸に風穴が開いたような、切ない気持ちになった。そして、やっぱり落ちつかなかった。
だから黒鋼は、不用心だとは思ったが猫一匹が通れるくらい窓を開け、近所のコンビニへ酒でも買いに行くかと理由をつけて、家を出た。
そして結局、ただ手ぶらで帰宅することになった。見かけたのはあの白猫ではなく、ふてぶてしく毛並みの荒い、大きな灰色の猫だけだった。
たかが猫一匹。
どこかでまた誰かにでも拾われて、懐いてしまったのかもしれない。
人に慣れている様子から、元は飼い猫だったのかもしれないし、飼い主の元へ帰ったのか。そうであれば一番いいのだが。
いずれにしろ執着したって仕方がない。
これ以上の縁がなかったのだろうと諦めて、黒鋼は自宅ドアを開けた。
するとその瞬間、気の抜けるような男の声がした。
「あー! おかえりー黒たーん!」
!?
黒鋼は我が目を疑った。
見たことのない金髪の男が、全裸で床にペタンと座っている。ふざけたことに、頭には猫のような白い耳。ゆらゆらと長い尻尾まで躍らせている。
ああ、やはり戸締りはきっちりとするべきだった。
取られて困るような大層なものはないと軽く考えていたが、まさかこんなどえらい変態が侵入して来るなんて。
世の中って怖い。日本はどうなってしまうのか。夜明けは果てしなく遠すぎる。
「電気はついてるのに、黒たんいないっぽくてオレ焦っちゃったー! でも窓が開いてたから助かったよー。もしかしてオレのために開けててくれた?」
随分とお喋りな野郎だと思った。
あまりのことに内心相当うろたえていたが、黒鋼はつとめて冷静を装った。
そしてペラペラと喋りまくっている変態猫耳野郎に無言で歩み寄ると、金の髪をむんずと掴んだ。
「いたー! イタタタ! なに!? なにするの!?」
「出てけ」
「ちょっと待ってよ! オレだよオレ! ファイだよー!」
「そんな奴は知らん。今なら見逃してやる。すぐ出てけ」
そのままズルズルと玄関先まで引きずって、ゴミを放るように外へ出そうとした。
「ちょ、ホントに待って! オレの話聞いてよー! オレはファイ……あ、そっか……」
変態男がぎゅっと黒鋼の腕を両手で掴んだ。そして言った。
「オレ、チビ助! そう呼んでくれたよね!?」
「!?」
思わず目を見開いた。
確かに黒鋼はあの白猫のことをそう呼んだ。
成猫ではあったが、黒鋼にしてみれば小さな生き物でしかなくて、適当にそう呼んだのだが。
「なんでてめぇが知ってる?」
「だってオレだもん」
「ふざけんな」
「く、黒たぁん……」
じんわりと涙ぐむ男の淡いブルーの瞳に、一瞬だけ白猫の面影を垣間見る。だが容赦なく外へ放り投げた。
こちらの名前まで知ってるとなると、こいつはおそらくストーカーだ。紛うことなきホモストーカーだ。しかもコスプレ好きの。
あたかも親しげに『黒たん』などとふざけた呼び方しやがって……と、黒鋼の苛立ちメーターはほぼ振り切れた状態だった。
まぁコスプレにしてはまるで直に生えているかのような完成度だとは思ったが、この際そんなことはどうでもいい。
黒鋼はすぅ、と思い切り息を吸い込んだ。そして怒鳴る。
「警察呼ばれたくなけりゃあ、とっとと失せろ!!」
そう吐き捨てると、思いっきり扉を閉めた。そして鍵をかける。大股で部屋の中へ入ると、窓の鍵もかけた。
「うわぁん待ってよ聞いてよ開けてよー!!」
しばらくの間ドンドンと扉を叩く音がしていたが、いよいよ110番するべく携帯を取り出したところで、静かになった。
「……行ったか」
どうせ黒鋼が通報せずとも、すぐにお縄になるだろう。公衆猥褻罪で。
ざまあ見やがれとせいせいしたところで、畳みの上にどっかりと腰を下ろした。
はぁ、と溜息を零し、気分転換にテレビのリモコンへ手を伸ばしたところで、声がした。
「……?」
それは男の声ではない。
「にゃぁ~……」
なんとも間抜けな、猫の声。
黒鋼はハッとして勢いよく立ちあがると、玄関へ向かう。
あの野郎がまだいるかもしれないが、その場合は容赦なくぶん殴ることにして、鍵を外すと扉を開けた。
「チビ……!」
そこには、ぐったりと疲れ切った様子の白猫がうずくまっていた。
すぐに手を伸ばし抱き上げると、あの猫耳男がいないことを確かめる。そして扉を再び閉める前に、ふと思う。
腕の中でぐったりしている猫の、白い耳や尻尾を見て……。
「……まさかな」
そんな非現実的なことあるわけがないと、一瞬でも浮かんだ思考に自分自身で呆れかえった。
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ユゥイ、複雑な親心の巻
厳密に言えば、ファイの変身はほぼ失敗だった。
完全に変身しようと思えば、まず猫の耳や尻尾は必要ない。いくら魔力が高いとはいっても、生まれてから数百年の時を、ずっと猫として生きてきたのだから、最初から上手くいかないのは当然と言えば当然だ。
それでもあそこまで見事にコピーできたのだから、見上げたものだと思った。
少しだけご飯を食べて「ちょっとしたら起こして」と力なく言ったファイは今、ロッキングチェアのクッションの上で眠っている。
その呑気な寝顔に、先刻から溜息が絶えない。
全く、面倒なことになったものだ。まさかファイが言いつけを破って、人間の世界に行ってしまうなんて。
無理やり連れ戻せないこともなかったが、ユゥイも心配する傍ら、少し腹立たしかったのだ。
どうせすぐに泣きながら帰って来るだろうと思っていた。けれど待てど暮らせど、戻って来ない。
どんなに離れていても、ユゥイはファイの存在を感じることが出来たから、彼が無事でいることは分かっていた。
だからファイが自らの意思で帰って来るのを、ジリジリとしながら待っていたのだ。
「なのに……」
帰って来たと思ったらこれだ。
どうせ怖い目にあって、ボロ雑巾のようになって戻って来て、もう二度と人間の世界になど行きたがらないだろうと思っていた。
それがその逆。
しかも人間になりたいなんて妙なおまけ付き。
言い出したら聞かないということが今回の件でハッキリしたことだし、きっとダメだと言っても無駄だろうと。
「どうせ上手くいかないよ……」
この世界の常識は、全てにおいて人間の世界での非常識だ。猫が人間に変身するなんて、現実にはまずありえない。
どんなに綺麗な理由を並べたとしても、相手の人間からしてみれば、ファイなどただのコスプレ好きの変態にしか映らないに違いなかった。
それでも行かせることを許可したのだから、自分も大概意地が悪い。
「ファイなんか、ちょっとは懲りて帰ってくればいいんだよ」
可愛い子には旅をさせろ……ともいうし、お灸をすえる意味でも好きにさせよう。
とりあえず面倒なことは早く終わった方がいい。
気持ちよく寝ているところ申し訳ない気もしたが、ユゥイはファイを起こすことにした。
+++
「いいねファイ、リミットは人間の世界で24時間だよ。明日の今頃までに戻って来なかったら、完全に扉閉じちゃうからね」
まさかこんな場所に『穴』が開いていたとは。ユゥイも迂闊だった。
例の歪があるタワーと大木の前で、少し元気がないファイにきつく言い聞かせる。
「わかったよぅ……挨拶したらちゃんと戻るー」
内側がピンク色の耳をぺたんと下げて、ファイはこちらに背中を向けるとのろのろと隙間に向かった。
今はユゥイの意思で扉を開いている。
「じゃあねー、ユゥイー」
隙間に入り込む瞬間、ファイは振り向いて肉球のついた手を振った。しょうがないのでそれに返してやる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「はぁい……」
覇気のない返事をしながら、白猫は隙間に飲み込まれていった。
それをいつまでも見送りながら、ユゥイはまた何度目かの溜息を零す。
あれだけ言えば、ちゃんと戻って来るだろう。多分。
諦めて家に戻ろうとして、ハッとした。
「しまった……」
服を持たせるのを……忘れた……。
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厳密に言えば、ファイの変身はほぼ失敗だった。
完全に変身しようと思えば、まず猫の耳や尻尾は必要ない。いくら魔力が高いとはいっても、生まれてから数百年の時を、ずっと猫として生きてきたのだから、最初から上手くいかないのは当然と言えば当然だ。
それでもあそこまで見事にコピーできたのだから、見上げたものだと思った。
少しだけご飯を食べて「ちょっとしたら起こして」と力なく言ったファイは今、ロッキングチェアのクッションの上で眠っている。
その呑気な寝顔に、先刻から溜息が絶えない。
全く、面倒なことになったものだ。まさかファイが言いつけを破って、人間の世界に行ってしまうなんて。
無理やり連れ戻せないこともなかったが、ユゥイも心配する傍ら、少し腹立たしかったのだ。
どうせすぐに泣きながら帰って来るだろうと思っていた。けれど待てど暮らせど、戻って来ない。
どんなに離れていても、ユゥイはファイの存在を感じることが出来たから、彼が無事でいることは分かっていた。
だからファイが自らの意思で帰って来るのを、ジリジリとしながら待っていたのだ。
「なのに……」
帰って来たと思ったらこれだ。
どうせ怖い目にあって、ボロ雑巾のようになって戻って来て、もう二度と人間の世界になど行きたがらないだろうと思っていた。
それがその逆。
しかも人間になりたいなんて妙なおまけ付き。
言い出したら聞かないということが今回の件でハッキリしたことだし、きっとダメだと言っても無駄だろうと。
「どうせ上手くいかないよ……」
この世界の常識は、全てにおいて人間の世界での非常識だ。猫が人間に変身するなんて、現実にはまずありえない。
どんなに綺麗な理由を並べたとしても、相手の人間からしてみれば、ファイなどただのコスプレ好きの変態にしか映らないに違いなかった。
それでも行かせることを許可したのだから、自分も大概意地が悪い。
「ファイなんか、ちょっとは懲りて帰ってくればいいんだよ」
可愛い子には旅をさせろ……ともいうし、お灸をすえる意味でも好きにさせよう。
とりあえず面倒なことは早く終わった方がいい。
気持ちよく寝ているところ申し訳ない気もしたが、ユゥイはファイを起こすことにした。
+++
「いいねファイ、リミットは人間の世界で24時間だよ。明日の今頃までに戻って来なかったら、完全に扉閉じちゃうからね」
まさかこんな場所に『穴』が開いていたとは。ユゥイも迂闊だった。
例の歪があるタワーと大木の前で、少し元気がないファイにきつく言い聞かせる。
「わかったよぅ……挨拶したらちゃんと戻るー」
内側がピンク色の耳をぺたんと下げて、ファイはこちらに背中を向けるとのろのろと隙間に向かった。
今はユゥイの意思で扉を開いている。
「じゃあねー、ユゥイー」
隙間に入り込む瞬間、ファイは振り向いて肉球のついた手を振った。しょうがないのでそれに返してやる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「はぁい……」
覇気のない返事をしながら、白猫は隙間に飲み込まれていった。
それをいつまでも見送りながら、ユゥイはまた何度目かの溜息を零す。
あれだけ言えば、ちゃんと戻って来るだろう。多分。
諦めて家に戻ろうとして、ハッとした。
「しまった……」
服を持たせるのを……忘れた……。
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白猫、嘘みたいなホントの変身の巻
たっぷりと絞られた。それはもう、数時間にわたって。
あまりにも説教が長すぎて、半分くらいは魂が口から飛び出していた。
「ユゥイ……本当にごめん……だから、そろそろちょっと……」
お腹が空いた……。
弱々しく零すと、ユゥイはひとまず口を噤んだ。
立ちっぱなしで説教をし続けていた彼にも、少し疲労の色が伺える。木の椅子を引き寄せるとドッカリ腰かけて、ふぅ、と溜息を吐きだしている。
ここでは時間というものに縛られることはないから、一体どれくらい経過しているのか、はっきりとは把握できないが、人間の世界ならもう日が暮れる頃なのではないか……と、ファイは少し不安になった。
黒鋼が心配しているかもしれない。
「あ、あのねユゥイ……実は相談があって」
「また出て行きたいっていう相談以外なら聞いてあげるけど?」
チラリ、と横目で睨まれてファイは喉を詰まらせた。
まさにその通りで、しかも相談はそれだけではない。
「で? 一体なんの相談かな?」
「うー……えっとね……」
ファイは刺々しい視線から目を逸らしつつ、思い切って本題を切り出してみた。
「オレ、人間になりたいんだけど……」
するとユゥイはポカッと口を開けた。
「は……?」
そして呆れた顔をした。
「なんだって? ちょっと聞こえなかった」
「聞こえてたよね? ちゃんと聞いてたよね?」
「耳遠くなったかな……」
「ユゥイってば!」
小指で耳の穴を穿りだすユゥイに業を煮やし、ファイは彼の膝の上に飛び乗った。
「オレ真剣なの! 人間の世界は、最初は怖いものばっかだったけど、優しい人もちゃんといるんだよ!」
「……そりゃあ、色々な人がいるだろうね」
「すっごくお世話になったのに、ありがとうもさよならも言えないなんて、オレやだよー! それに……」
「それに?」
ファイは少しもじもじした。
なぜか直接言葉にするのが恥ずかしかった。
「それに、なに?」
「その、せっかく仲良くなれたし……その、もっとね、知りたいっていうか」
「んん?」
なんとも微妙な顔をされた。
いたたまれない気持ちになって、ファイは誤魔化すように目を泳がせる。
そんなファイをしばらく見つめて、ユゥイはまた溜息をついた。
「そんなに懐いちゃったの? ファイ、まさかとは思うけど、その人って女の人?」
「違うよ? でっかい男の人。あと黒い」
「……ああ、そう」
ユゥイは少し迷ったように頭上を見上げた。うーんと一つ唸って、諦めたような顔をした。
「ないこともないけど……っていうか、簡単だよ。ファイなら」
「え?」
「人間になりたいんでしょ?」
「うん!」
「ただし……」
きゅっと眉間に皺を寄せたユゥイが、人差し指をファイの鼻先にくっつけた。
「お礼とお別れを言ったら、すぐに戻ってくること。約束守れる?」
「ユゥイ……!」
キラキラと目を輝かせたファイは、伸びあがってユゥイの顔を思いっきり舐めた。
「いた、いたたっ、顔はよしてっていつも言ってるでしょ!」
「それでそれで? ちゃんと守るから教えてー!」
「……念じればいいんだよ」
「ねじる?」
「そうじゃなくて」
ぺちっと額を叩かれた。
「前も言ったよね? ファイは凄い魔力を持ってるって。だから、とりあえずなりたい姿をイメージして、強く念じればいいよ。ほら、簡単」
ね? と言って笑うユゥイに、流石のファイもちょっと不信感を募らせる。
「……初耳にゃんだけど」
「言ったことないからね」
「あのさ……オレ的にはユゥイが派手に魔法かけてくれるとか、魔法の薬を渡してくれるとか、何か禍々しい呪文を教えてくれるとか、そーゆうの想像してたんだけど……」
「世の中そんなにベタじゃないよファイ。自分を信じて、やってごらん?」
「なんか物凄く胡散臭い気がするにゃあ……」
半信半疑。そんなアホな。
冗談を言ってからかっているとしか思えなかったが、しょうがないのでファイは素直に目を閉じた。
なりたいのは人間。大人の男の人がいい。
一瞬だけ黒鋼の姿がよぎったが、別に黒鋼になりたいわけじゃない。そもそも黒鋼と話がしたいのに、自分が同じ姿になるというのは、おかしな話だ。
次に、あの初めて遭遇した人間である中年のオッサンが頭に浮かんだが……論外である。
なら、一番イメージしやすい人間といえば……?
要領なんてまるきり解らなかったが、とりあえず想像して、集中してみて。
すると、ポンッという悲しいほど安っぽい音がして、白い煙が上がった。
ぎゅっと閉じていた目を見開く。ゆっくりと煙が晴れていって、それまでとは全く違う位置にユゥイの驚いた顔があった。
見下ろされるのではなく、見下ろしている。
幾度か瞬きをした。そして自分の身体を見下ろしてみる。
白いことに変わりはないが、毛の生えていない肌。ちょっとなよなよしているけれど、長い手足もはっきりと確認できる。
「わ、わぁ~……」
ファイは感動の声をあげた。
右手をにぎにぎして、肉球がないことや爪が短くて平べったいことも確認した。両手で頬に触れても、あの長いヒゲがしっかり消えている。
「まさかの大成功~……」
「……あのさ」
「ユゥイ、オレ人間になったぁ~!」
「それはいいんだけどね……どうしてボクは、猫耳と尻尾をくっつけた全裸の自分を膝に乗せてるんだろう?」
「えー?」
ファイはユゥイの膝の上で変身してしまったため、現在向き合うように馬乗りになっている状態だった。
「だってー、イメージしやすかったんだもんー」
「だからって……」
重いからどけて、と言うユゥイに従い、恐る恐る片足を地面につけた。
初めての二足歩行。少しよろけたが、二本の足でしっかり立つことが出来た。
ユゥイは改めて自分の身体を見下ろして感極まっているファイを尻目に、椅子から立ち上がると部屋の隅の引き出しの中から手鏡を取り出した。
「ほら」
「わ、わ、わ!」
ユゥイが鏡をこちらへ向けたので、ファイは目を輝かせながらそれを覗きこむ。
そこには少し頬を上気させて、感動に目を潤ませた『ユゥイ』の顔があった。
金色の髪はゴムで縛るくらいには長いユゥイと違って、毛先が少し肩にくっつく程度の短さで、頭には白い耳がふたつ、ぴょこんと生えている。
どうやら尻尾もあるようで、首だけ後ろを振り向くと、丸い尻のすぐ上に白いふさふさが生えていた。
「凄い……本当に簡単に変身できちゃったよー!」
「とりあえず服着ようかファイ……なんか、見てられない……」
そう、ファイはまるっとユゥイをイメージして、変身に見事成功したのである。
だが、魔法はすぐに解けてしまった。
ユゥイが服を取り出すまでもなく、ファイは次の瞬間、また猫の姿に戻ってしまったのだ。
「あ、あれ~?」
白い煙の中、ファイは全身から力が抜けるのを感じて、ぺちゃんと尻餅をついた。
「な、なんで~?」
少し頭がクラクラする。
すぐにユゥイが抱き上げて、ロッキングチェアのクッションの上に乗せてくれた。
「戻っちゃったよユゥイ~」
「いきなり慣れないことしたから、疲れちゃったんだね」
「そんなぁー……」
「でも、挨拶するくらいの時間は変身できたでしょ? 十分じゃない?」
「……そうだけど」
「何か問題あるのかな?」
ニコリと笑ったユゥイが、ずいっと屈んで顔を近づけてきた。
その威圧感に、ファイは渋々「ありません」と答えた。
←戻る ・ 次へ→
たっぷりと絞られた。それはもう、数時間にわたって。
あまりにも説教が長すぎて、半分くらいは魂が口から飛び出していた。
「ユゥイ……本当にごめん……だから、そろそろちょっと……」
お腹が空いた……。
弱々しく零すと、ユゥイはひとまず口を噤んだ。
立ちっぱなしで説教をし続けていた彼にも、少し疲労の色が伺える。木の椅子を引き寄せるとドッカリ腰かけて、ふぅ、と溜息を吐きだしている。
ここでは時間というものに縛られることはないから、一体どれくらい経過しているのか、はっきりとは把握できないが、人間の世界ならもう日が暮れる頃なのではないか……と、ファイは少し不安になった。
黒鋼が心配しているかもしれない。
「あ、あのねユゥイ……実は相談があって」
「また出て行きたいっていう相談以外なら聞いてあげるけど?」
チラリ、と横目で睨まれてファイは喉を詰まらせた。
まさにその通りで、しかも相談はそれだけではない。
「で? 一体なんの相談かな?」
「うー……えっとね……」
ファイは刺々しい視線から目を逸らしつつ、思い切って本題を切り出してみた。
「オレ、人間になりたいんだけど……」
するとユゥイはポカッと口を開けた。
「は……?」
そして呆れた顔をした。
「なんだって? ちょっと聞こえなかった」
「聞こえてたよね? ちゃんと聞いてたよね?」
「耳遠くなったかな……」
「ユゥイってば!」
小指で耳の穴を穿りだすユゥイに業を煮やし、ファイは彼の膝の上に飛び乗った。
「オレ真剣なの! 人間の世界は、最初は怖いものばっかだったけど、優しい人もちゃんといるんだよ!」
「……そりゃあ、色々な人がいるだろうね」
「すっごくお世話になったのに、ありがとうもさよならも言えないなんて、オレやだよー! それに……」
「それに?」
ファイは少しもじもじした。
なぜか直接言葉にするのが恥ずかしかった。
「それに、なに?」
「その、せっかく仲良くなれたし……その、もっとね、知りたいっていうか」
「んん?」
なんとも微妙な顔をされた。
いたたまれない気持ちになって、ファイは誤魔化すように目を泳がせる。
そんなファイをしばらく見つめて、ユゥイはまた溜息をついた。
「そんなに懐いちゃったの? ファイ、まさかとは思うけど、その人って女の人?」
「違うよ? でっかい男の人。あと黒い」
「……ああ、そう」
ユゥイは少し迷ったように頭上を見上げた。うーんと一つ唸って、諦めたような顔をした。
「ないこともないけど……っていうか、簡単だよ。ファイなら」
「え?」
「人間になりたいんでしょ?」
「うん!」
「ただし……」
きゅっと眉間に皺を寄せたユゥイが、人差し指をファイの鼻先にくっつけた。
「お礼とお別れを言ったら、すぐに戻ってくること。約束守れる?」
「ユゥイ……!」
キラキラと目を輝かせたファイは、伸びあがってユゥイの顔を思いっきり舐めた。
「いた、いたたっ、顔はよしてっていつも言ってるでしょ!」
「それでそれで? ちゃんと守るから教えてー!」
「……念じればいいんだよ」
「ねじる?」
「そうじゃなくて」
ぺちっと額を叩かれた。
「前も言ったよね? ファイは凄い魔力を持ってるって。だから、とりあえずなりたい姿をイメージして、強く念じればいいよ。ほら、簡単」
ね? と言って笑うユゥイに、流石のファイもちょっと不信感を募らせる。
「……初耳にゃんだけど」
「言ったことないからね」
「あのさ……オレ的にはユゥイが派手に魔法かけてくれるとか、魔法の薬を渡してくれるとか、何か禍々しい呪文を教えてくれるとか、そーゆうの想像してたんだけど……」
「世の中そんなにベタじゃないよファイ。自分を信じて、やってごらん?」
「なんか物凄く胡散臭い気がするにゃあ……」
半信半疑。そんなアホな。
冗談を言ってからかっているとしか思えなかったが、しょうがないのでファイは素直に目を閉じた。
なりたいのは人間。大人の男の人がいい。
一瞬だけ黒鋼の姿がよぎったが、別に黒鋼になりたいわけじゃない。そもそも黒鋼と話がしたいのに、自分が同じ姿になるというのは、おかしな話だ。
次に、あの初めて遭遇した人間である中年のオッサンが頭に浮かんだが……論外である。
なら、一番イメージしやすい人間といえば……?
要領なんてまるきり解らなかったが、とりあえず想像して、集中してみて。
すると、ポンッという悲しいほど安っぽい音がして、白い煙が上がった。
ぎゅっと閉じていた目を見開く。ゆっくりと煙が晴れていって、それまでとは全く違う位置にユゥイの驚いた顔があった。
見下ろされるのではなく、見下ろしている。
幾度か瞬きをした。そして自分の身体を見下ろしてみる。
白いことに変わりはないが、毛の生えていない肌。ちょっとなよなよしているけれど、長い手足もはっきりと確認できる。
「わ、わぁ~……」
ファイは感動の声をあげた。
右手をにぎにぎして、肉球がないことや爪が短くて平べったいことも確認した。両手で頬に触れても、あの長いヒゲがしっかり消えている。
「まさかの大成功~……」
「……あのさ」
「ユゥイ、オレ人間になったぁ~!」
「それはいいんだけどね……どうしてボクは、猫耳と尻尾をくっつけた全裸の自分を膝に乗せてるんだろう?」
「えー?」
ファイはユゥイの膝の上で変身してしまったため、現在向き合うように馬乗りになっている状態だった。
「だってー、イメージしやすかったんだもんー」
「だからって……」
重いからどけて、と言うユゥイに従い、恐る恐る片足を地面につけた。
初めての二足歩行。少しよろけたが、二本の足でしっかり立つことが出来た。
ユゥイは改めて自分の身体を見下ろして感極まっているファイを尻目に、椅子から立ち上がると部屋の隅の引き出しの中から手鏡を取り出した。
「ほら」
「わ、わ、わ!」
ユゥイが鏡をこちらへ向けたので、ファイは目を輝かせながらそれを覗きこむ。
そこには少し頬を上気させて、感動に目を潤ませた『ユゥイ』の顔があった。
金色の髪はゴムで縛るくらいには長いユゥイと違って、毛先が少し肩にくっつく程度の短さで、頭には白い耳がふたつ、ぴょこんと生えている。
どうやら尻尾もあるようで、首だけ後ろを振り向くと、丸い尻のすぐ上に白いふさふさが生えていた。
「凄い……本当に簡単に変身できちゃったよー!」
「とりあえず服着ようかファイ……なんか、見てられない……」
そう、ファイはまるっとユゥイをイメージして、変身に見事成功したのである。
だが、魔法はすぐに解けてしまった。
ユゥイが服を取り出すまでもなく、ファイは次の瞬間、また猫の姿に戻ってしまったのだ。
「あ、あれ~?」
白い煙の中、ファイは全身から力が抜けるのを感じて、ぺちゃんと尻餅をついた。
「な、なんで~?」
少し頭がクラクラする。
すぐにユゥイが抱き上げて、ロッキングチェアのクッションの上に乗せてくれた。
「戻っちゃったよユゥイ~」
「いきなり慣れないことしたから、疲れちゃったんだね」
「そんなぁー……」
「でも、挨拶するくらいの時間は変身できたでしょ? 十分じゃない?」
「……そうだけど」
「何か問題あるのかな?」
ニコリと笑ったユゥイが、ずいっと屈んで顔を近づけてきた。
その威圧感に、ファイは渋々「ありません」と答えた。
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白猫、故郷へ戻るの巻
朝の身支度を整えている黒鋼の横で、お腹が膨れたファイは満足げに毛繕いをしていた。
当然、今朝も一緒に家を出るもつりだ。
この辺りにもだいぶ慣れて来たし、今日は少し行動範囲を広げてみようかと考えている。
と、いうのも、黒鋼が普段どこへ行って、何をしているのかを見学したいと思ったからだった。
せっかく人間の世界に来たのに、今の自分はただの飼い猫も同然の暮らしをしている。
酷い目にはあったが、冒険らしいことは何もしていない気がした。
「あのねー、猫って縄張りがあるんだよー。だからオレ、こないだおっかないボス猫にボッコボコにされちゃったのー」
黒鋼の方を見上げて言うけれど、彼にはファイの言葉は通じない。
だが特に気にするでもなく続けた。
「でも黒たんが一緒にいたら平気だよねー。今日はどこまででもくっついて行きたいキブンー」
ご機嫌でそう言うと、黒鋼の足元へ擦り寄って尻尾をぴったりとくっつけた。そしてそれを微かに震わせて自分の匂いをつける。
「これでよーし!」
これで正真正銘、彼は自分のものになった。
知らないうちに所有権を握られてしまったことも知らず、黒鋼は苦笑するとひょいっとファイを抱き上げた。
「うにゃうにゃとうるせぇやつだな。なに喋ってんだかちっともわかんねぇぞ」
「しょうがにゃいよー。オレの言葉はおんなじ猫と、ユゥイにしか通じにゃいもーん」
「あんまり鳴くな。隣にバレる」
「にゃう?」
「おまえが人間だったら、とんだお喋り野郎なんだろうな」
「人間……かぁ~……」
とん、と床に下ろされて、ファイは小首を傾げた。
考えたこともなかった。もし自分が人間だったら、なんて。
今までは話の通じる仲間達やユゥイと一緒にいたから、何も不便を感じることはなかったのだ。
けれどもし、黒鋼と話ができたら。
ちゃんとお礼だって言えるし、分からないことはなんでも聞ける。ガッコウという場所はどんなところで、バイトというのはどんな仕事なのか。
そんなことを考えているうちに、黒鋼が玄関へ向かったので、慌ててついて行った。
いつも以上に注意深く人気がないかを確かめて、黒鋼が「行け」と言うのを合図に外に出る。
階段は使わずにすぐ真下の塀にひょいと下りて、地面に着地した。
カンカンと音を立てて階段を下りてきた黒鋼の足元に駆け寄ると、並んで歩きだす。
黒鋼は歩幅が大きいから、小さなファイはついていくのが大変だった。
「いいお天気だねー。こんな日はお昼寝が気持ちいいんだにゃー」
黒鋼は特に答えない。
「でもお昼寝ばっかしてると、ユゥイが怒るんだー」
しばらく歩きながらお喋りをしていると、ふと黒鋼がこちらに視線を寄こした。
「おい、チビ助」
「ちびすけ?」
「この辺で遊んでろよ」
「遊ばにゃいよー。今日は黒たんについてくの。てゆーか、チビ助ってオレのこと?」
「おら、ついてくんな」
足で行き先を制されて、ファイは尻餅をついた。
「にゃんでダメ? ついてっちゃダメ?」
「じゃあな」
「あっ」
座り込んだファイを残して、どんどん先に行く黒鋼を追いかけようとした。が、だるまさんが転んだのように振り返った黒鋼に、ファイはピタリと止まる。
そのまま少しの間睨めっこをした。
「……ダメ?」
なぜかこれだけは通じたようで、黒鋼は眉間の皺を濃くするとコクッと頷いた。
再び背を向けた黒鋼の後ろ姿が、どんどん小さくなっていく。
一人で知らない場所へ行くのは怖いけど、黒鋼にくっついていれば平気だと思っていた。もしものときのために、せっかく匂いだってつけたのに。
これでは普段の日常となんら変わりない。ファイはしょんぼりと項垂れた。
「つまんにゃい」
やっぱり猫だから、なのか。
自分はただのほほんと飼い猫をやるためにここに来たのではなくて、冒険の旅をしに来たはずだった。
退屈を吹き飛ばすような刺激が欲しくて。だが実際は怖い思いをしてボロボロになっただけのような気がする。
唯一仲良くなれた人間は、ユゥイのように話が通じるわけでも、一日中一緒にいられるわけでもなく、どこで何をしているのかさえ分からない。
ふと、昨晩の黒鋼の温もりを思い出した。
ユゥイより硬いし、男臭いし、触れかたも下手くそだけど。でも安心した。この世界で迷子になっても、帰る場所はこの人の傍だと思えた。
もしかしたらユゥイ以外で、初めて人間を好きだと思えた瞬間だったかもしれない。
なのに、そんな大切な人のことを、よく知らない。
例えば猫の国に帰る日が来たとき、さよならさえ伝えられないのだと、ファイは気付いてしまった。
そんなのは嫌だ。寂しい。
「オレ、人間だったらよかった……」
立ち尽くして地面を見つめたまま、ポツリと呟いた。
そして、ピン、と思いつく。
「ユゥイなら、なんとかしてくれるかも……!」
彼はいつも魔法の実験をしている。本人も自称魔法使いらしいが、使ったところは見たことがなかった。
それでもきっと何か方法はあるに違いない。そんな気がする。
漠然とそう考えたファイは、意を決してあのスタート地点を探すことにした。
+++
「あった……!」
目の前の電柱と塀の間。そこだけ違和感のある場所を見つける。
一度アパートに戻り、見知った地点から落ちついて景色を脳内に焼きつけながらここまで来たら、案外あっさり見つけることができてしまった。
初めて来たときはパニックを起こしてばかりだったが、あのときよりもずっと冷静なファイは、元々備わっている鋭い勘を頼りに、難なくこの場所に行きついた。
懸念していたボス猫とのエンカウントもなく、今日はかなりついている。
この隙間に飛び込めば、もといた世界に帰れるだろう。妙な自信があるのも、ユゥイの言う魔力とやらの賜物だろうか。
「んじゃ、行きまーす!」
ファイは元気よく声を上げると、勢いよく電柱と塀の隙間をくぐった。
グルグル~……
来たときのように、ゆるやかな渦に飲み込まれるような感覚に目が回る。
スポンッと抜けるように隙間から飛び出すと、迎えてくれたのは懐かしい芝生の地面だった。
お腹から着地したファイは、そのままの体勢で幾度か瞬きをする。目の前を「ぴよぴよ」と小さなひよこが横切って行った。
「大成功……?」
起き上って辺りを見回した。
懐かしい木の家と煙突の煙、それを囲むように建っている猫型ドーム。相変わらずのほほんとしている仲間の猫達の姿。
見上げれば大木と、古ぼけたキャットタワー。そして青い空とポカポカ陽気。あの日と変わらない退屈な光景。けれど込み上げる懐かしさ。
ここは故郷、猫の国。
「やったー!! うまくいったーーー!!!」
あまりの嬉しさにちょっと涙ぐみながら万歳をした。ぐるんとひっくり返って、身体をゴロンゴロンとさせる。
柔らかい芝生の感触。草や花や土の匂い。故郷っていいなぁ……そんなことを思いながら転がっていた、そのとき。
「よく帰ってきたね……ファイ……」
「!」
でん、と何かにぶつかって、転がっていた身体が止まった。
懐かしい声。けれど……低い。
「……ゆ、ユゥイ……?」
そこには腰に両手を添えたユゥイが、怖い顔をしてファイを見下ろしていた。
そういえば彼の言いつけをやぶってこの国を飛び出したのだということを、ここにきて思い出した。
やっば……。
咄嗟に逃げだそうとしたファイの首根っこが掴まれる。
「ぎゃー! ごめんなさいごめんなさいユゥイーっ」
「ははは。ごめんで済むと思ってるんだねファイは。そういう馬鹿なとこが本当に可愛いなぁ」
怖い顔をしていたユゥイがにっこりと笑った。これは本気で怒っているとき。
ファイは全身が凍りつくのを感じた……。
←戻る ・ 次へ→
朝の身支度を整えている黒鋼の横で、お腹が膨れたファイは満足げに毛繕いをしていた。
当然、今朝も一緒に家を出るもつりだ。
この辺りにもだいぶ慣れて来たし、今日は少し行動範囲を広げてみようかと考えている。
と、いうのも、黒鋼が普段どこへ行って、何をしているのかを見学したいと思ったからだった。
せっかく人間の世界に来たのに、今の自分はただの飼い猫も同然の暮らしをしている。
酷い目にはあったが、冒険らしいことは何もしていない気がした。
「あのねー、猫って縄張りがあるんだよー。だからオレ、こないだおっかないボス猫にボッコボコにされちゃったのー」
黒鋼の方を見上げて言うけれど、彼にはファイの言葉は通じない。
だが特に気にするでもなく続けた。
「でも黒たんが一緒にいたら平気だよねー。今日はどこまででもくっついて行きたいキブンー」
ご機嫌でそう言うと、黒鋼の足元へ擦り寄って尻尾をぴったりとくっつけた。そしてそれを微かに震わせて自分の匂いをつける。
「これでよーし!」
これで正真正銘、彼は自分のものになった。
知らないうちに所有権を握られてしまったことも知らず、黒鋼は苦笑するとひょいっとファイを抱き上げた。
「うにゃうにゃとうるせぇやつだな。なに喋ってんだかちっともわかんねぇぞ」
「しょうがにゃいよー。オレの言葉はおんなじ猫と、ユゥイにしか通じにゃいもーん」
「あんまり鳴くな。隣にバレる」
「にゃう?」
「おまえが人間だったら、とんだお喋り野郎なんだろうな」
「人間……かぁ~……」
とん、と床に下ろされて、ファイは小首を傾げた。
考えたこともなかった。もし自分が人間だったら、なんて。
今までは話の通じる仲間達やユゥイと一緒にいたから、何も不便を感じることはなかったのだ。
けれどもし、黒鋼と話ができたら。
ちゃんとお礼だって言えるし、分からないことはなんでも聞ける。ガッコウという場所はどんなところで、バイトというのはどんな仕事なのか。
そんなことを考えているうちに、黒鋼が玄関へ向かったので、慌ててついて行った。
いつも以上に注意深く人気がないかを確かめて、黒鋼が「行け」と言うのを合図に外に出る。
階段は使わずにすぐ真下の塀にひょいと下りて、地面に着地した。
カンカンと音を立てて階段を下りてきた黒鋼の足元に駆け寄ると、並んで歩きだす。
黒鋼は歩幅が大きいから、小さなファイはついていくのが大変だった。
「いいお天気だねー。こんな日はお昼寝が気持ちいいんだにゃー」
黒鋼は特に答えない。
「でもお昼寝ばっかしてると、ユゥイが怒るんだー」
しばらく歩きながらお喋りをしていると、ふと黒鋼がこちらに視線を寄こした。
「おい、チビ助」
「ちびすけ?」
「この辺で遊んでろよ」
「遊ばにゃいよー。今日は黒たんについてくの。てゆーか、チビ助ってオレのこと?」
「おら、ついてくんな」
足で行き先を制されて、ファイは尻餅をついた。
「にゃんでダメ? ついてっちゃダメ?」
「じゃあな」
「あっ」
座り込んだファイを残して、どんどん先に行く黒鋼を追いかけようとした。が、だるまさんが転んだのように振り返った黒鋼に、ファイはピタリと止まる。
そのまま少しの間睨めっこをした。
「……ダメ?」
なぜかこれだけは通じたようで、黒鋼は眉間の皺を濃くするとコクッと頷いた。
再び背を向けた黒鋼の後ろ姿が、どんどん小さくなっていく。
一人で知らない場所へ行くのは怖いけど、黒鋼にくっついていれば平気だと思っていた。もしものときのために、せっかく匂いだってつけたのに。
これでは普段の日常となんら変わりない。ファイはしょんぼりと項垂れた。
「つまんにゃい」
やっぱり猫だから、なのか。
自分はただのほほんと飼い猫をやるためにここに来たのではなくて、冒険の旅をしに来たはずだった。
退屈を吹き飛ばすような刺激が欲しくて。だが実際は怖い思いをしてボロボロになっただけのような気がする。
唯一仲良くなれた人間は、ユゥイのように話が通じるわけでも、一日中一緒にいられるわけでもなく、どこで何をしているのかさえ分からない。
ふと、昨晩の黒鋼の温もりを思い出した。
ユゥイより硬いし、男臭いし、触れかたも下手くそだけど。でも安心した。この世界で迷子になっても、帰る場所はこの人の傍だと思えた。
もしかしたらユゥイ以外で、初めて人間を好きだと思えた瞬間だったかもしれない。
なのに、そんな大切な人のことを、よく知らない。
例えば猫の国に帰る日が来たとき、さよならさえ伝えられないのだと、ファイは気付いてしまった。
そんなのは嫌だ。寂しい。
「オレ、人間だったらよかった……」
立ち尽くして地面を見つめたまま、ポツリと呟いた。
そして、ピン、と思いつく。
「ユゥイなら、なんとかしてくれるかも……!」
彼はいつも魔法の実験をしている。本人も自称魔法使いらしいが、使ったところは見たことがなかった。
それでもきっと何か方法はあるに違いない。そんな気がする。
漠然とそう考えたファイは、意を決してあのスタート地点を探すことにした。
+++
「あった……!」
目の前の電柱と塀の間。そこだけ違和感のある場所を見つける。
一度アパートに戻り、見知った地点から落ちついて景色を脳内に焼きつけながらここまで来たら、案外あっさり見つけることができてしまった。
初めて来たときはパニックを起こしてばかりだったが、あのときよりもずっと冷静なファイは、元々備わっている鋭い勘を頼りに、難なくこの場所に行きついた。
懸念していたボス猫とのエンカウントもなく、今日はかなりついている。
この隙間に飛び込めば、もといた世界に帰れるだろう。妙な自信があるのも、ユゥイの言う魔力とやらの賜物だろうか。
「んじゃ、行きまーす!」
ファイは元気よく声を上げると、勢いよく電柱と塀の隙間をくぐった。
グルグル~……
来たときのように、ゆるやかな渦に飲み込まれるような感覚に目が回る。
スポンッと抜けるように隙間から飛び出すと、迎えてくれたのは懐かしい芝生の地面だった。
お腹から着地したファイは、そのままの体勢で幾度か瞬きをする。目の前を「ぴよぴよ」と小さなひよこが横切って行った。
「大成功……?」
起き上って辺りを見回した。
懐かしい木の家と煙突の煙、それを囲むように建っている猫型ドーム。相変わらずのほほんとしている仲間の猫達の姿。
見上げれば大木と、古ぼけたキャットタワー。そして青い空とポカポカ陽気。あの日と変わらない退屈な光景。けれど込み上げる懐かしさ。
ここは故郷、猫の国。
「やったー!! うまくいったーーー!!!」
あまりの嬉しさにちょっと涙ぐみながら万歳をした。ぐるんとひっくり返って、身体をゴロンゴロンとさせる。
柔らかい芝生の感触。草や花や土の匂い。故郷っていいなぁ……そんなことを思いながら転がっていた、そのとき。
「よく帰ってきたね……ファイ……」
「!」
でん、と何かにぶつかって、転がっていた身体が止まった。
懐かしい声。けれど……低い。
「……ゆ、ユゥイ……?」
そこには腰に両手を添えたユゥイが、怖い顔をしてファイを見下ろしていた。
そういえば彼の言いつけをやぶってこの国を飛び出したのだということを、ここにきて思い出した。
やっば……。
咄嗟に逃げだそうとしたファイの首根っこが掴まれる。
「ぎゃー! ごめんなさいごめんなさいユゥイーっ」
「ははは。ごめんで済むと思ってるんだねファイは。そういう馬鹿なとこが本当に可愛いなぁ」
怖い顔をしていたユゥイがにっこりと笑った。これは本気で怒っているとき。
ファイは全身が凍りつくのを感じた……。
←戻る ・ 次へ→
それから数日が過ぎた。
ファイは幾度試しても猫に戻れないままだった。
「なんでかなぁ……?」
畳みの上に胡坐をかいて腕を組み、うーんと首を傾げていると、黒鋼が朝の身支度を終えた。
「もう行くぞ」
「あっ! オレもオレもー!」
慌てて立ちあがって、一緒に玄関先へ行くと、黒鋼が鍵を手渡してくる。
「何度も言うが。てめぇは今は猫じゃねぇんだからな」
「うん」
「勝手に余所んちの庭に入ったり、知らねぇ奴にホイホイついて行くなよ」
「わーかってるよー。もう何度も聞いたよ」
「行っていいのはせいぜい公園までだ。あと戸締りは徹底しろ」
「はーい」
ファイは素直に返事をすると、ブカブカの靴を履く。黒鋼のお古だ。ブカブカでかなり歩きにくいが、外は裸足で歩けない。
服も大きいので、ジーンズを引きずらないように裾をまくっている。ウエストもだぼついていたが、ベルトという細長い皮でぎゅっと絞られた。尻尾を中に隠すことも忘れない。セーターの袖は指先まですっぽり隠れるので温かかった。
「おら、これ忘れんな」
黒鋼がニットの帽子をファイの頭にずっぽりとかぶせた。
そうそう、これで耳を隠さなければいけないのだった。
「ありがとー」
玄関から外へ出ると、ファイは黒鋼が見守る中で鍵を穴に差し込んでしっかりと回した。カチリと音がするのを聞いてから、ポケットの中に仕舞う。
そして黒鋼を見ると、彼は「よし」と言った。
一緒に階段を下りると、ファイはそのまま黒鋼について行く。朝の見送りをするためだった。
並んで歩くと、やっぱりまだ黒鋼の方が歩幅は大きかったけれど、猫の姿で歩くよりずっとゆったりついて行くことができた。
「ねぇねぇ、今日は帰るの遅いの?」
「そうでもねぇよ」
「今夜はバイトお休みだよねー」
「まぁな」
なんでもない会話をしながら歩く。前はファイが一方的に喋って、それが黒鋼に通じることはなかったけれど、今は違う。
それが嬉しくて、ついつい元の姿に戻れないことがどうでもよくなってしまうのだった。
黒鋼は元々お喋りではないし、猫でも人間でも、結局ファイばかりが喋っている。でもそれでよかった。通じない鳴き声より、通じる確かな言葉が黒鋼に届いていて、相槌をもらえることが何より幸せだと感じられるから。
「この辺にしとけ」
ある程度進むと、黒鋼が言った。ファイは素直に立ち止まりながらも唇を尖らせる。
「ちぇー。せっかく人間になったのに、やっぱりここまでなんだ」
「当たり前だ。外に出んの許してやってんだから、文句言うな」
「わかってるもん」
「じゃあな。ちゃんと昼飯食えよ」
「はいはい、いってらっしゃーい」
ぶぅ、と唇を尖らせながら、行ってしまう黒鋼の背を見送る。
けれどすぐに、まぁいっか、とファイは日課の散歩に出かけることにした。
+++
ファイは様々なことを黒鋼に教わった。
ご飯は箸を使わなければいけないし、これが上手く出来なくて、いつもフォークやスプーンを使っている。
顔を洗ったり歯を磨いたり、飲む以外で水と触れあわねばならない機会も、たくさんあった。
人間は本当に面倒くさい生き物だ。やることがいっぱいある。
だがその分、散歩をするには快適だった。
あのボス猫と遭遇しても、人間には猫のルールなど通じない。これまでは見かけると逃げたり隠れたりするのはこちらだったが、今は逆だ。
道で子供とすれ違ってもちょっかいをかけられないし、通りすがりに「こんにちは」などと挨拶をしてくる人間もいて、同じように返すのが楽しい。
もし誰かに話しかけられたりしたときは「ニホンゴ、ワカリマセン」と言え、と黒鋼に教えられた。
行動範囲はこれといって広がったわけではない。むしろ今まで通れた狭い場所などへは行けなくなったし、高いところにジャンプもできなくなった。
だからなんとなく近所をぶらりと散歩して、すぐに家に戻る。
むしろ猫だった頃よりも外にいる時間は減ったかもしれないが、いつも黒鋼が冷蔵庫に昼飯を用意してくれているので、テレビを見ながら食べるのがお気に入りだった。
見よう見真似で食べたあとの食器を洗って片したら、驚いた黒鋼に褒められた。とんでもなく嬉しかった。うっかり手を滑らせて皿を割りそうになったことは、もちろんファイだけの秘密にしておいた。
結局、学校という場所には行けないし、夜も留守番だけれど、どんな場所で何をしているのかを聞けば、黒鋼はなんでも話して聞かせてくれた。
全部は理解できなかったけれど、それで十分だ。今の生活は、なんだかんだで気に入っている。
何かとてつもなく大切なことを忘れているような気が、しないでもなかったが。
+++
「でも、どうしても不満はあるんだよ」
夜。
布団に横たわりながらファイは呟いた。
「あ? なんだよ」
「不満だよ! 不満!」
がばっと起き上って、隣の布団を睨みつける。
人間は夜目がきかない。だからただの真っ黒な物体が、ぼんやりと見えるだけだった。
「なんでお布団別々なのー!?」
「当たり前だろ」
「当たり前じゃないよー!」
ファイは大声でそう言うと、布団から抜け出して隣へ移動した。
「バカ、来んな」
「やだー! 前みたいにくっついて寝るのー!」
「狭いっつってんだろ!」
「くっついてれば平気だって!」
「そういう問題じゃねぇんだよ!」
じゃあどういう問題なのか、ファイには分からない。
ここ最近はいつもこうだ。
掛け布団をめくって中に強引に身体を潜り込ませようとするファイを、黒鋼は手や足を使って押し出そうとする。
先日は思い切り顔面を蹴られるという事故が発生した。だが懲りない。
「ね、ね、黒たん……オレ寂しいの。黒たんに抱っこしてもらいたいの」
「悪いが流石にそこまでは妥協できねぇ」
「そんなに嫌? こないだまでは一緒に寝てくれたのに!」
「猫だったからな」
「どうして人間だとダメなの? 毛がないから? ふかふかじゃないから? 猫じゃないオレ嫌?」
しょんぼりして俯くと、黒鋼の溜息が聞こえた。
「あのな、人間は基本的に男同士で同じ床にはつかねぇもんなんだ」
「……じゃあオレがメスだったらいいってこと?」
「……そういう問題でもねぇんだが」
ほんの暫しの間。
「…………ねぇこともねぇかもな」
「!」
ならば話は簡単だと思った。人間のメスに変身すればいいだけの話だ。
それだけのことであのポカポカのムキムキを揉み揉みして眠れるなら、お安い御用だった。
ファイはじっと目を閉じて念じてみる。
人間の女の子、人間の女の子。
先日会ったサクラや知世を思い描く。
だが、何も変わらなかった。
「ダメだぁー……」
がっくりと項垂れたファイに、鬱陶しげに頭を掻きながら起き上る黒鋼。
「何がだよ」
「オレ、元に戻れないどころか、何にも変身できない……」
「おまえ、まさかとは思うが……」
「サクラちゃんか知世ちゃんになろうとした」
「もっと駄目に決まってんだろ!!」
黒鋼は思いっきり布団を引き上げると、再び横たわりすっかり背を向けてしまった。
「なんでぇ……?」
元には戻れないし、女の子にもなれない。なったとしても、サクラや知世ではダメだと黒鋼は言う。
人間の生活には慣れてきたが、黒鋼自身の考えていることは、どうしても理解できなかった。
猫の頃に比べると、黒鋼と会話は通じるが、あまり触れてはもらえなくなった。
以前はふとした瞬間には撫でたり抱いてくれたりしたものだが、やはりふわふわの毛がないと、そんな気が起きないのか。それとも、抱っこをするにはこの身体が大きすぎるのか。
(ユゥイだったら、どうすればいいかわかるかなぁ……)
ふと考える。
そして、はたと思いだす。
「ユゥイ……?」
ユゥイといえば、猫の国のエライ人。ファイの本当の飼い主。
確か人間の世界でのリミットは24時間で、帰って来ないと扉を閉めると言っていた……。
(今日で何日経ったっけ……?)
ファイは背中に怖気が走るのを感じて絶叫した。
「アーーーーッ!!!」
「んだよ!? うるっせぇな!!」
起き上る黒鋼に縋りつく。
「どどど、どうしよう!? 忘れてた!! オレ、ユゥイとの約束忘れてたー!!」
「思い出してくれたみたいで嬉しいよ……ファイ」
その瞬間、聞き覚えのある声がして、カチッという音と共に部屋に電気が灯された。
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