狭い部屋の中に、ささやかな星の光が射していた。
あれは秋の頃だったろうか。
窓から流れ込んでくる風が冷たくて、だけど満点の星空があまりにも綺麗で。
まだ幼いボクらはずっと身を寄せ合って、膝を抱えながら空を見上げていた。
この夜がいつまでも続けばいいのにと願いながら。
「ユゥイ」
兄はボクの肩を抱き寄せて、濡れた頬に指先で触れた。
秋風にカーテンが揺れる。ボクらを取り巻く世界はこんなにも冷たいのに、兄の手はとても温かかった。
いつも守ってくれた。兄だけがボクの世界だった。それでよかった。
「お別れじゃないよ。また会える。だってオレたちは家族だもの」
「……でも……さみしい……いっしょがいい……」
ボクはずっと堪えていた嗚咽をついに漏らしてしまった。
ヒィヒィと声を上げて泣きながら、兄に縋りついた。ずっと一緒だったのに。これからもずっとそうだと思っていたのに。
寂しい。寂しい。だけど兄は笑ってボクを抱きしめた。温かい。
「寂しいのは大好きだからだよ。オレだって寂しいけど、ユゥイのことが大好きだから我慢する。ユゥイも、ずっと忘れないでいて」
ボクが涙でぐしゃぐしゃになっている顔を上げると、兄は手の平でしきりにボクの頬を拭った。
泣かないでと繰り返しながら笑う彼の頬に、涙はなかった。
代わりに、大きな痣があった。頬にも、目元にも、顔だけじゃない。兄の身体中には沢山の痣や傷があって、それは全てボクを守るためのものだった。
そう、ボクのせい。
ボクはずっと兄と一緒にいたいと思っていた。
兄がいなければ何もできない。兄がいなければ不安で、怖くて、一人ではどうしたらいいか分からない。
だけどこの時、ボクは初めて兄から離れなければと強く感じた。
本当はずっと分かっていた。ボクがいるから兄は傷つく。ボクが弱いから、兄は強くならなければいけなかった。
ボクが受けなければいけない傷を、全て背負い込むために。
「だいじょうぶ。離れてても、ずっとユゥイのことを守ってあげる」
そうだ、と言って、兄はボクから離れると暗い部屋の中でもぞもぞと動いた。何かを手探りで見つけ出して、それをそっとボクに差し出す。
「これ、あげる」
それは兄がずっと大切にしていた、大きな黒い犬のぬいぐるみだった。
寝る時もいつも側に置いて、片時も離すことがなかったそのぬいぐるみは、もう随分と古くてボロボロだった。
尖っていた耳は片方がすっかりひしゃげて、目も鼻も尻尾も取れかかっている。
彼はこれを『黒わん』と呼んで可愛がっていた。
「でも……これは……」
兄の宝物だ。今まではずっと、ボクにすら触らせてくれなかった。
いいの、と兄はやんわりと笑って首を振った。
「これを持ってて、寂しいときはぎゅってして。ね」
ボクは兄からぬいぐるみを受け取ると、彼が言う通りぎゅうっと強く抱きしめた。兄の匂いがした。
ぬいぐるみに顔を埋めて、また泣き出してしまったボクを、兄が抱きしめる。
大好きだから寂しい。大好きだからお別れする。
強くならなければいけなかった兄と同じように、ボクは大人にならなければいけない。
だってボクがこんな風に弱くて泣き虫だから、兄は泣くことも、一緒に行きたいという一言すらも、言うことができなかったのだから。
***
自宅から徒歩十数分の駅から電車に乗って、揺られることおよそ30分。
職場ビルがある市街地の北側に位置する区域は、真昼間から人通りもまばらで、どこか色褪せた埃臭い街並みが広がっていた。
背の低いビル群はどれも見るからに老朽化が進み、申し訳程度にあるコンビニだけがやけに真新しい。
駅を出てすぐの広い通りは銀杏並木になっていた。黄金に色づいた葉が秋風にささめき、燦々と降り注ぐ陽の光を浴びてさらに輝いている。その光景だけが鮮やかで、あとはこれといって何もない、古臭い街という印象しか持てなかった。
黒鋼は、もう何年も着古した黒のダウンジャケットに両手を突っ込み、色鮮やかな銀杏並木へは向かわずに駅裏の商店街へと足を向けた。
古めかしい店構えの割には看板がやけに真新しい青果店、シャッターの降りた豆腐屋、香ばしい揚げ物の香りを漂わせる精肉店、薄汚れた居酒屋。
一車線程度の狭い道幅の商店街は、行き交う人の年齢層も比較的高いようだった。
腰の曲がった老夫婦が仲睦まじくシルバーカーを引いて買い物をする姿や、旦那の愚痴を肴に立ち話に夢中になる中年の奥様方が豪快な笑い声を上げている。
どこか懐かしような、昭和臭い通りを真っ直ぐ進んでいくと、ふと前方の道端に看板が立てられているのが見えた。
ダークブラウンのカフェ看板には、白いチョークで『猫の目』と書かれている。
「ここか……」
足を止めた黒鋼は、重い息を漏らした。
休みの日にわざわざこんな場所まで足を運ばなくてはならないなんて。仕事の都合とはいえ、どうにも解せない。
狭い脇道に渋々入り込んだ黒鋼は、一応はジャケットから両手を引き抜き、姿勢を正した。古臭い民家に挟まれるようにして姿を現したのは、どこかレトロな外装の喫茶店だ。格子状の白い木製ドアの前にもカフェ看板が立てられている。
黒鋼は看板脇に置かれている、小さな子供用のウッドチェアに目を向ける。そこには、黒いオオカミのような編みぐるみが、造花の花束を持って行儀よく座っていた。
***
「いらっしゃい」
内心躊躇いながら扉を開けた黒鋼を、カウンター越しに出迎えたのは黒のギャルソン服に身を包んだ、華奢な優男だった。
長い金髪を緩く一纏めにした彼は、素でいても怒っているように見られる黒鋼の面構えに一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに「ああ」と頷いて笑った。
「堀鐔の記者さん?」
「……邪魔するぞ」
「どうぞ。お好きな席へ」
黒鋼は仏頂面のまま足を踏み入れると、男の向いのカウンター席に腰かけた。
チラリと横目で見た店内には、片隅に若い女性が一人いるだけだ。緩くウェーブのかかった長い黒髪の女は、黒鋼の視線に気づくと開いていた本を閉じ、顔を上げてにっこりと笑う。まだ少女といっていいあどけなさから、黒鋼はすぐに目を逸らした。
「コーヒー? 紅茶?」
「水でいい」
「そうおっしゃらず」
「……紅茶」
正直なんでもよかったが、とりあえずメニュー表の紅茶の欄から、一番上のダージリンを指先で幾度か突くと、男はニッコリ笑って「少々お待ちください」と言った。
待っている間、落ち着かない気分で微かにジャズが流れる店内をじっくりと見回す。
清潔感溢れる白壁に、椅子やテーブル、床までもがどこか使い古されたようなアンティーク調のもので統一されている。
古い壁掛けの時計や、ドライフラワーのリース、窓辺に並ぶ小さな観葉植物など。いかにも女性受けしそうな装飾の横には、小人や動物の編みぐるみが必ずといっていいほど寄り添っていた。
店の奥にはテラスへの入り口もあり、その脇に雑貨品が並ぶスペースがある。僅かに身体を傾けて覗いただけでも、ぬいぐるみなどのインテリア雑貨は勿論、キャスケットやバッグなどのファッション小物も所狭しと並べられているのが分かる。
正直、げんなりした。
「可愛いでしょう? 全部ハンドメイドなんですよ」
金髪の青年が、黒鋼に紅茶を差し出しながら目を細めて笑った。立ち上る湯気と共に、マスカットフレーバーが鼻先を掠める。
「悪いが……プライベートじゃぜってぇ来ねぇよ」
カップに口をつけ、口の中に紅茶を含ませたあと、黒鋼は率直に述べた。何を飲んでいるのかも、いっそよく分からない。
男は肩を竦めて笑い、「でしょうね」と言った。
渋い表情のままの黒鋼は、男を見上げるとふっと息をつき、本題に入る。
「で? あんたの言う通り来てはみたが……俺はただ茶をしばきに来たのか?」
ここはいわゆる雑貨カフェというものだ。ドリンクやフード、スイーツを出す以外にも、手作りの雑貨品を売っている。
ただ一息つくだけなら、黒鋼はこんな小洒落た喫茶店など絶対に選ばない。中年の親父が道楽でやっているような、雑然とした店で充分だ。美味いカレーが一瞬で出てきさえすれば文句はない。
それがなぜわざわざこんな店に、しかも休日に足を運ぶことになったのか。
事は数日前。雑誌記者である黒鋼が初めて、目の前の店主にコンタクトを取ったことがキッカケだった。
彼は取材の了承を得るために連絡をした黒鋼にこう言った。
『まずはプライベートで、お一人でいらしてください。それから決めます』と。
黒鋼が堀鐔出版に入社してそろそろ二年。グルメ雑誌担当の部署に配属され、記者としてはまだ駆け出しといっていい。
気難しい店主はどこにでもいる。事前連絡で拒否されることは少なくないが、手始めにプライベートで来いという申し出は今回が初めての経験だった。
「驚かれました?」
男は柔和な笑みを決して崩さない。客を相手にしているのだから当たり前ともいえるが、どこか冷えた印象を受けるのは顔の造りが整いすぎているせいだ。
いかにも体育会系で厳つい黒鋼が居心地悪さを感じて仕方ないのは、この人形のような美貌を持つ男の雰囲気にも馴染めないから、かもしれない。
「まぁな。俺はそう場数を踏んでる方でもねぇしな」
「貫禄たっぷりですけどね。駆け出し記者というよりは、叩き上げ刑事って感じかな」
「褒め言葉と取っとくぜ」
「……今日お呼びしたのは」
男は、一瞬だけ笑顔の仮面を崩し、切なげな表情で店の奥の方を向いた。
つられて視線をやれば、そこはテラスだ。男が一人、背を向けてテーブルに腰かけている。陽光を浴びて、金色の髪が光を放っていた。
「双子、だったな。あれが片割れか?」
「ええ。取材をお受けするかどうかを決めるのは、ボクだけの判断ではできません」
「なるほど」
気難しいのはこの男ではなく、あのテラスにいる方の男というわけだ。
事前の下調べでこの店が双子による共同経営ということは知っていた。弟がカフェを、兄が雑貨を。おそらくカウンターにいる方が弟のユゥイだ。
兄の名は、ファイ、だったか。
「気に入られりゃいいわけだ」
「端的に言うと、そうですね」
まだ何かもの言いたげなユゥイを残し、黒鋼は椅子から立ち上がるとテラスへと足を向けた。
先客の少女がふと顔を上げたが、目もくれずに一歩一歩、入り口へ近づく。一体どんな堅物なのだろうかと想像を巡らせながら。
すると、近づくにつれて柔らかな声が聞こえることに気が付いた。
それは鼻歌だった。
どこかで聞いたことがあるようなその曲は、テラスで背を向けている男が発する声だった。勝手に抱いていた鼻持ちならない印象と、その歌声があまりにもかけ離れていて、少し戸惑う。
多少調子はずれだが、この曲は確か。
「星に願いを、か?」
金髪の男は、ファイは、黒鋼がすぐ側まで近づいていたことに全く気付いていないようだった。
彼はかぎ針を使って、黒く細い毛糸を編み込んでいた手を止め、青い目を丸くしながら顔を上げる。優しげな声でメロディを紡いでいたはずの唇も、ポカンと開かれていた。
なんて間の抜けた顔をする男だろうと思った。弟よりも幾らか髪が短いせいか、印象が幼い。長い睫毛に縁どられた碧眼は目尻が少し垂れていて、どこか小動物めいた愛嬌がある。同じ顔の作りでも、随分と違う印象を受けることに驚いた。
弟がキッチリとギャルソン服を身に着けていたのとは対照的に、彼は白い七分袖のシャツに黒のパンツ姿というラフな装いだった。
「聞いてねぇか? 俺は堀鐔出版の」
「黒わん……?」
「あ?」
黒鋼が名乗るのを遮って、彼は毛糸を絡ませたままの指先をこちらに向けた。そして、どこか茫然としたような声でもう一度「黒わん」と言った。
「黒わんじゃねぇ。俺は」
「黒わんだぁ」
何も言えなくなってしまった黒鋼に向かって、彼はふにゃりと、綿飴のような笑顔を浮かべて見せた。
***
そこは小さな箱庭のようなテラスだった。
きめ細かな芝生に覆われた空間は、秋薔薇の生垣で切り取られたようになっていて、シマトネリコの木々が青々とした実をつけている。
決して広々としているわけではないが、澄んだ秋空の下で食べるランチというのはなかなかよさそうだ。愛らしい雑貨に囲まれた店内よりは、だいぶ居心地がいいかもしれない。
そんなテラスには白いパラソルが立てられた木製テーブルと、ガーデンチェアのセットが三つ。その一席で、黒鋼はなぜか初対面であるはずの男に懐かれていた。
「黒わん黒わん、今ね、オレね、黒わん作ってたよー」
ファイはせっせと雑貨作りに精を出していたようだが、今はもう目の前の黒鋼に夢中で、手にしていた毛糸やかぎ針をはじめとする諸々のアイテムが、テーブルの上に投げ出されている。
わざわざ椅子ごと移動して、べったりとくっついてきた彼は黒鋼の腕にぎゅうぎゅうとしがみついていた。
一体これはどういう現象なのか。黒鋼はただ困惑するばかりで、何をどう切り出せばいいか分からないでいた。
「あのね、オレね、毎日いっぱい黒わん作ってるのー。黒わんのお友達もたくさんいるよー」
「…………そうか」
「でもね、帽子とか、鞄とか、髪につけるのも作るよー。可愛いお花もつけると、サクラちゃんが褒めてくれるんだー。黒わんわんもお花好きー?」
「どうだろうな……」
「オレねー、サクラちゃんと『しんゆー』なんだー。でも知世ちゃんもだいしんゆーなんだよー」
そう言って、ファイは店の中にいる黒髪の少女に手を振った。彼女は顔を上げると優しく微笑み、同じように手を振り返している。
あのずっと本を読んでいた先客の女は知世という名前なのか。黒鋼にしてみれば物凄くどうでもいい情報だが、ファイは一生懸命お喋りに夢中になっている。
黒わんの存在がよほど嬉しいのか、さっきから顔を赤くして興奮している様子だった。ぴったりと密着させている身体が、どんどん熱を持ってくるのが分かる。
これでは仕事の話どころの騒ぎではない。何が悲しくて野郎に密着されて、くだらない話を聞かされなくてはいけないのだろう。
だが、なぜか振り払う気になれない。乱暴に扱ってはいけないような気がする。それは黒鋼が記者で、相手が取材を申し込みたいカフェの人間である事実とは、まるで違った次元にあるような気がした。
姿形ばかりは立派な大人だが、彼は……。
「ファイ、お会計できる?」
黒鋼が戸惑いながらも答えを導き出したのと同じとき、ユゥイがテラスに姿を現した。
そしてファイの側でしゃがみ込み、その膝の上に手を置いた。
「こないだ教えた通りにできるかな? 知世ちゃんがお帰りだよ」
「知世ちゃんもう帰っちゃう?」
「そう。ボクはこのお兄さんとお話があるから、ファイにお願いするね」
「わかったー。オカイケーがんばるー!」
「いい子だね。ありがとう」
ファイは黒鋼から離れ、椅子から立ち上がると駆け出した。店内では伝票を持った知世がこちらに会釈している。
品のいいワンピースをまとった、見るからに育ちのよさそうな少女だと、改めて思った。
「気に入られましたね」
二人が楽しそうに会話をしながら会計スペースに向かう背中を見つめたあと、ユゥイが黒鋼の向いに腰かけた。
彼は小さく鼻から息を漏らす黒鋼の正面に、ポケットから取り出した黒いぬいぐるみをちょこんと置いた。
「これは……?」
「黒わんです。ファイが特にお気に入りで、毎日作ってるんですよ」
手の平サイズのそれは、尖った耳と大きな尻尾をしたオオカミのような犬の編みぐるみだった。
赤いマフラーをして、吊り上がった目がなんとも憎たらしい。
思わず手に取って「似てねぇだろ」と吐き捨てると、ユゥイはどこか悲しそうに苦笑する。
「あの子は……兄は、子供です」
「……みてぇだな」
「驚かれたでしょう。ごめんなさい」
「……いや」
ユゥイは黒鋼がテーブルに戻した黒わんを手に取り、指先でその頭を撫でながら一度ゆっくりと瞬きをした。
「この店のことは、ネットの口コミサイトを見て知ったとおっしゃいましたね」
「そうだ」
「凄いですね。それほど目立った内容でもなかったでしょうに」
「……まぁ、確かにな」
今はその情報の多くをインターネットを通じて仕入れることも少なくはない。
黒鋼がこの店に訪れることになったのも、ネットの口コミを元に幾つかの店がピックアップされて、編集会議にかけられたことがキッカケだった。
今回の企画内容が『隠れ家グルメ』だということもあり、数多ある情報の中でレビュー数こそ少ないものの、評価は上々な幾つかにこの店も入っていたというわけだ。
彼の言う通り、ここの情報はどちらかといえばあまり目立たず、埋もれていたといってもいい。
「お店を取り上げてもらうことは、ボク個人としては嬉しいです。だけど、それによってファイが嫌な思いをしないかばかりが気になって」
「だからまずは記者の人となりを見ようとしたわけか?」
「そうなりますね。お手を煩わせてしまってすみません」
でも、とユゥイはその表情に翳りを覗かせる。
「前にも一度あったんです。別の記者さんがいらしたことが」
「うちのか?」
「いえ……違います。男の人と女の人で、最初は普通のお客さんだとばかり思っていたんですが、どうやら違ったみたいで」
まだカフェをオープンして間もない頃だったと、ユゥイは言った。
ただの客だと思い持て成したら、実は女の方が記者で、男の方がカメラマンだったらしい。彼らはユゥイが注文された品をテーブルに運んだところで、初めて名刺と共に存在を明かした。いわゆる飛び込みというやつだ。
咄嗟のことに戸惑ったが、半ば押し切られる形で取材を了承することになったという。
二人は席を立ち、店内を物色しはじめた。そして、ファイと接触した。
「あの日も彼はここで雑貨作りをしていました」
まだ常連と呼べるような客すらついていなかった頃。ファイは急に近づいてきた二人の男女に驚き、すかさずユゥイの背後に隠れてぐずり出した。その仕草や言動を見て、彼らはすぐに気が付いた。
ファイの見た目とは異なる内面の幼さ、未熟さに。
そして面白がった。精神遅滞の若者が健気に雑貨を作る店。これは売れると言って、大きく特集しようなどと騒ぎだした。
ただのカフェや雑貨屋ならまだしも、オーナーである双子は見目も麗しく、駅裏の片隅で寄り添う姿はさぞかし読者の興味と同情を誘うだろうと。
興奮する彼らはしきりにファイに向かってシャッターを切り、矢継ぎ早にデリカシーのない質問を浴びせかけた。ユゥイはそれについて詳しく話そうとはしなかったが、大体の予想はつく。
「可哀想に……ファイは酷く泣きじゃくって……」
ユゥイはどこか諦めたような面持ちでそっと睫毛を伏せた。手の中の黒わんをぎゅっと握りしめる指先が震えている。
結局その記者たちはユゥイが強引に追い出し、取材の話はそのまま流れた。だが、その心には傷跡が残ってしまった。
「全部ボクの責任なんです……彼が小さな子供のままでいるのは、ボクの」
「……?」
「ああ、いえ……」
ユゥイは押し黙り、緩く首を左右に振ってから「なんでもありません」と言った。
「ユゥイー! オレちゃんとオカイケーできたよー!」
そこに、知世を送り出したらしいファイが、嬉しそうにテラスに戻って来た。
ユゥイはにっこり笑って立ち上がると、飛び込んできたファイを抱き留めてその頭を撫でた。
「ありがとう、助かったよ」
「お話終わった? もう黒わんと遊んでもいい?」
「いいよ」
「いいよってなんだ、いいよって……」
「わーい!」
すぐに駆け寄って来たファイが、背後から身を屈めて思い切り抱き付いてくる。
「黒わーん。おっきくてあったかいねー。何して遊ぶー?」
「あのな、俺は黒わんじゃねぇんだよ」
「黒わんが来てくれて、オレ嬉しいよー」
「……そりゃよかったな」
見た目が大人でも中身が幼い子供とあらば無下にもできず、黒鋼はただ渋い表情で溜息をつくことしかできなかった。
なぜあんな目つきの悪いぬいぐるみと一緒にされなくてはいけないのだろう。まさかとは思うが、この男の目には黒い犬の着ぐるみを着た大男でも映っているんだろうか。
すりすりと頬ずりをされていると、なんだか本当に犬にでもなってしまったような、腑抜けた気分になる。
ふんわりと立ち上る、ミルクに砂糖を溶かしたような甘い香りが、なおのこと彼を幼く印象付けていた。
顔を顰めつつも身動きが取れないでいる黒鋼に、申し訳なさそうに苦笑しながらユゥイが肩を竦める。
「少し遅いですけど、そろそろお昼にしましょうか。ついさっきヴィエノワが焼き上がったばかりなんです。ファイもそれでいい?」
「うんいいよー! あのね、エビのやつと、ハムのやつとー」
「はいはい、ちゃんと全部用意してくるよ」
そう言って中に戻って行こうとするユゥイを、黒鋼は一瞬迷ってから「おい」と呼び止めた。
彼はすぐに振り返り、小さく首を傾げて見せる。
「……ひとついいか」
「なんでしょう?」
「最初から取材の申し出を断らなかったのはなぜだ?」
それは素朴な疑問だった。
記者に対して最悪な印象しか持っていないはずの彼なら、最初の時点で素気無く断っていてもおかしくない。自身が身を置く業界をあまり悪くは言いたくないが、実際のところ彼らを傷つけた例の記者たちのような人間が少なくないことは否定できなかった。
ユゥイは腰に手を当てると、「そうですね」と少し考える素振りを見せてから、微笑んだ。
「単純に、堀鐔出版さんのグルメ情報誌が好きなんです。ここをオープンするときも色々とお店を食べて回ったんですけど、参考にさせてもらいました。だから記者さんがどんな人なのか、興味もあったというか」
「そうか」
自分が関わる雑誌を褒められるのは悪い気がしない。それだけ読者に信用と好感を抱かれているということだからだ。
西へ東へと駆けずりまわり、苦労して記事を書いている努力が報われるような気がする。
「ちょっとでも嫌な感じだったら、すぐに塩を撒いて蹴り出してやろうと思っていたんですが」
だが、どうやら決め手は違ったらしい。
「ボクも思ったんです。黒わんに似てるなーって、ね」
ユゥイはほんの少しだけ、意地の悪そうな笑顔を浮かべて見せると店の中へ戻って行った。
「……だから俺は黒わんじゃねぇって何度言えば」
「黒わん!」
「あ!?」
黒鋼に抱き付きながら退屈そうに話を聞いていたファイが、素早い動作で膝に乗って来る。横座りの形だ。上背はあるが華奢なせいか、いやに軽い。
「な、なんだてめぇいい加減に」
「お膝のってもいいー?」
「もう乗ってんじゃねぇか!」
「ひゃー! ブランコみたいー!」
「落ちるだろ暴れんな!!」
黒鋼の首に捕まって思いっきり足をブラブラとさせるファイの腰を、慌てて抱き込んでやると彼はさらにはしゃいだ声を上げて笑った。
その笑顔を見ていると、なぜかすっかり毒気を抜かれたような気にさせられて、黒鋼はただ彼の好きにさせてやることしか、できなくなってしまった。
***
「黒わんやだよ……帰っちゃ嫌……」
帰り際、ファイは黒鋼の胸に縋りついて泣いていた。
肩を震わせ、ひくひくとしゃくり上げる姿はまさに幼子そのものだ。
「ここにいて……ずっとここにいて……」
「ファイ、困らせちゃダメだよ。記者さんはちゃんとおうちがあるんだよ」
「じゃあ……じゃあ、オレも一緒に行く……」
ファイの言葉を聞いて、一瞬だけユゥイの表情が悲しげに歪んだ気がした。
それでもすぐに両肩を掴んで引き剥がそうとするが、ファイは頑として譲らない。黒鋼のダウンジャケットを強く握って、いっそう身を寄せてきた。
黒鋼は、参ったなと思った。それはユゥイも同じだったようで、目を見合わせて同時に溜息を漏らす。
その間も、ファイはずっと泣き続けていた。こんなにも泣かせてしまうくらいなら、いっそもう少しここにいてもいいかと考えるが、根本的な解決にはならない。まずはどうにかして、黒鋼が『黒わん』ではないことを理解させる必要がありそうだ。
「あのな、何度も言うが、俺はおまえの黒わんじゃ」
「黒わん……オレのこと嫌い? オレが悪い子だから、黒わん怒ってどっか行っちゃう……?」
「…………」
「すみません……」
「いいけどよ……」
とにかく困った。小さな子供の相手なんてしたことがない。だからどうやって扱えばいいのか分からなかった。
胸に縋りついたまま見上げてくる瞳があまりにも無垢で、赤くなった頬に大粒の涙が幾つも流れてゆくのを見ていると、心が痛んで仕方がない。
黒鋼はどうすればいいのか分からないながらも、彼の目元に指先で触れて、その涙を拭った。
「怒ってねぇよ」
「ほんと……? 嫌いじゃない……?」
「嫌いじゃねぇし、怒ってねぇし、おまえは何も悪いことなんかしてねぇだろ?」
「でも……黒わん帰っちゃう……」
拭っても拭っても止まらない涙に、こうなったら意地でも泣き止ませなければ帰れないという気持ちになった。
「また来る」
「……いつ? 明日?」
「明日は急だな……とにかく、時間作ってまたすぐに来る」
ぽんぽんと頭の天辺を軽く叩いてやると、ファイは真っ赤な鼻をすんと鳴らしながら渋々黒鋼から離れた。何かを堪えるように唇を噛み締めたあと、ポケットから黒わんの編みぐるみを取り出し、そっと差し出してくる。
「あげる……」
「いいのか?」
「ん……あのね、この黒わん、まだ途中なの。マフラーがないの」
「ああ、本当だな」
黒鋼はファイから黒わんを受け取ると、生意気そうなその顔をじっと眺めた。
さっきユゥイに見せられたものは、首に赤いマフラーを巻いていた。だが、これにはそれがない。
「黒わん、マフラーがないと風邪ひいちゃう。だから、オレちゃんと作るから……」
「ああ」
だから早く来いと、そういうことか。
黒鋼は思わず笑ってしまった。彼は子供なりに知恵を絞っている。早く会いに来てほしくて、ささやかな脅しをかけているのだ。
なんとも言えないいじらしさを感じて、黒鋼はもう一度ファイの頭に手を伸ばすとそっと撫でた。
「すぐに来る。こいつが風邪ひいちまわねぇようにな」
「……うん!」
ファイはまだ瞳にいっぱい涙を溜めこんではいたけれど、元気に笑って頷いた。ようやく見ることができたその笑顔に心の底から安堵する。
そしてその瞬間、黒鋼の胸に不思議な思いが浮かび上がった。
「本当にすみません。こんなに懐いてしまうなんて」
「いや、別に悪い気はしねぇよ。飯も美味かった。また邪魔するぜ」
「ええ、是非」
「それと取材の件なんだが、ひとまず保留ってことでいいか」
「え?」
驚いていたのは黒鋼も同じだった。
今の今まで、あくまで仕事に繋げるためという思いしかなかったのだから。
それがなぜか、ファイと次の『約束』を交わした瞬間、不思議とそんな気が失せてしまった。
黒鋼は視線を巡らせると店内をざっと見回した。今は客の姿が一人もないが、時間帯によっては顔なじみの常連がのんびりと過ごすであろう、憩いの空間。
テラスではファイが鼻歌を口ずさみながら雑貨を作って、『しんゆー』とやらがそんなファイの作ったものを見て笑顔になる。
想像を巡らせるだけで穏やかな気持ちになって、ここに仕事では訪れたくないという気持ちにさせられた。
「本当にいいもんってのは、誰にも教えたくねぇよな」
その記者らしからぬ言葉にユゥイは小さく吹き出し、礼を言いながら頭を下げた。
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あれは秋の頃だったろうか。
窓から流れ込んでくる風が冷たくて、だけど満点の星空があまりにも綺麗で。
まだ幼いボクらはずっと身を寄せ合って、膝を抱えながら空を見上げていた。
この夜がいつまでも続けばいいのにと願いながら。
「ユゥイ」
兄はボクの肩を抱き寄せて、濡れた頬に指先で触れた。
秋風にカーテンが揺れる。ボクらを取り巻く世界はこんなにも冷たいのに、兄の手はとても温かかった。
いつも守ってくれた。兄だけがボクの世界だった。それでよかった。
「お別れじゃないよ。また会える。だってオレたちは家族だもの」
「……でも……さみしい……いっしょがいい……」
ボクはずっと堪えていた嗚咽をついに漏らしてしまった。
ヒィヒィと声を上げて泣きながら、兄に縋りついた。ずっと一緒だったのに。これからもずっとそうだと思っていたのに。
寂しい。寂しい。だけど兄は笑ってボクを抱きしめた。温かい。
「寂しいのは大好きだからだよ。オレだって寂しいけど、ユゥイのことが大好きだから我慢する。ユゥイも、ずっと忘れないでいて」
ボクが涙でぐしゃぐしゃになっている顔を上げると、兄は手の平でしきりにボクの頬を拭った。
泣かないでと繰り返しながら笑う彼の頬に、涙はなかった。
代わりに、大きな痣があった。頬にも、目元にも、顔だけじゃない。兄の身体中には沢山の痣や傷があって、それは全てボクを守るためのものだった。
そう、ボクのせい。
ボクはずっと兄と一緒にいたいと思っていた。
兄がいなければ何もできない。兄がいなければ不安で、怖くて、一人ではどうしたらいいか分からない。
だけどこの時、ボクは初めて兄から離れなければと強く感じた。
本当はずっと分かっていた。ボクがいるから兄は傷つく。ボクが弱いから、兄は強くならなければいけなかった。
ボクが受けなければいけない傷を、全て背負い込むために。
「だいじょうぶ。離れてても、ずっとユゥイのことを守ってあげる」
そうだ、と言って、兄はボクから離れると暗い部屋の中でもぞもぞと動いた。何かを手探りで見つけ出して、それをそっとボクに差し出す。
「これ、あげる」
それは兄がずっと大切にしていた、大きな黒い犬のぬいぐるみだった。
寝る時もいつも側に置いて、片時も離すことがなかったそのぬいぐるみは、もう随分と古くてボロボロだった。
尖っていた耳は片方がすっかりひしゃげて、目も鼻も尻尾も取れかかっている。
彼はこれを『黒わん』と呼んで可愛がっていた。
「でも……これは……」
兄の宝物だ。今まではずっと、ボクにすら触らせてくれなかった。
いいの、と兄はやんわりと笑って首を振った。
「これを持ってて、寂しいときはぎゅってして。ね」
ボクは兄からぬいぐるみを受け取ると、彼が言う通りぎゅうっと強く抱きしめた。兄の匂いがした。
ぬいぐるみに顔を埋めて、また泣き出してしまったボクを、兄が抱きしめる。
大好きだから寂しい。大好きだからお別れする。
強くならなければいけなかった兄と同じように、ボクは大人にならなければいけない。
だってボクがこんな風に弱くて泣き虫だから、兄は泣くことも、一緒に行きたいという一言すらも、言うことができなかったのだから。
***
自宅から徒歩十数分の駅から電車に乗って、揺られることおよそ30分。
職場ビルがある市街地の北側に位置する区域は、真昼間から人通りもまばらで、どこか色褪せた埃臭い街並みが広がっていた。
背の低いビル群はどれも見るからに老朽化が進み、申し訳程度にあるコンビニだけがやけに真新しい。
駅を出てすぐの広い通りは銀杏並木になっていた。黄金に色づいた葉が秋風にささめき、燦々と降り注ぐ陽の光を浴びてさらに輝いている。その光景だけが鮮やかで、あとはこれといって何もない、古臭い街という印象しか持てなかった。
黒鋼は、もう何年も着古した黒のダウンジャケットに両手を突っ込み、色鮮やかな銀杏並木へは向かわずに駅裏の商店街へと足を向けた。
古めかしい店構えの割には看板がやけに真新しい青果店、シャッターの降りた豆腐屋、香ばしい揚げ物の香りを漂わせる精肉店、薄汚れた居酒屋。
一車線程度の狭い道幅の商店街は、行き交う人の年齢層も比較的高いようだった。
腰の曲がった老夫婦が仲睦まじくシルバーカーを引いて買い物をする姿や、旦那の愚痴を肴に立ち話に夢中になる中年の奥様方が豪快な笑い声を上げている。
どこか懐かしような、昭和臭い通りを真っ直ぐ進んでいくと、ふと前方の道端に看板が立てられているのが見えた。
ダークブラウンのカフェ看板には、白いチョークで『猫の目』と書かれている。
「ここか……」
足を止めた黒鋼は、重い息を漏らした。
休みの日にわざわざこんな場所まで足を運ばなくてはならないなんて。仕事の都合とはいえ、どうにも解せない。
狭い脇道に渋々入り込んだ黒鋼は、一応はジャケットから両手を引き抜き、姿勢を正した。古臭い民家に挟まれるようにして姿を現したのは、どこかレトロな外装の喫茶店だ。格子状の白い木製ドアの前にもカフェ看板が立てられている。
黒鋼は看板脇に置かれている、小さな子供用のウッドチェアに目を向ける。そこには、黒いオオカミのような編みぐるみが、造花の花束を持って行儀よく座っていた。
***
「いらっしゃい」
内心躊躇いながら扉を開けた黒鋼を、カウンター越しに出迎えたのは黒のギャルソン服に身を包んだ、華奢な優男だった。
長い金髪を緩く一纏めにした彼は、素でいても怒っているように見られる黒鋼の面構えに一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに「ああ」と頷いて笑った。
「堀鐔の記者さん?」
「……邪魔するぞ」
「どうぞ。お好きな席へ」
黒鋼は仏頂面のまま足を踏み入れると、男の向いのカウンター席に腰かけた。
チラリと横目で見た店内には、片隅に若い女性が一人いるだけだ。緩くウェーブのかかった長い黒髪の女は、黒鋼の視線に気づくと開いていた本を閉じ、顔を上げてにっこりと笑う。まだ少女といっていいあどけなさから、黒鋼はすぐに目を逸らした。
「コーヒー? 紅茶?」
「水でいい」
「そうおっしゃらず」
「……紅茶」
正直なんでもよかったが、とりあえずメニュー表の紅茶の欄から、一番上のダージリンを指先で幾度か突くと、男はニッコリ笑って「少々お待ちください」と言った。
待っている間、落ち着かない気分で微かにジャズが流れる店内をじっくりと見回す。
清潔感溢れる白壁に、椅子やテーブル、床までもがどこか使い古されたようなアンティーク調のもので統一されている。
古い壁掛けの時計や、ドライフラワーのリース、窓辺に並ぶ小さな観葉植物など。いかにも女性受けしそうな装飾の横には、小人や動物の編みぐるみが必ずといっていいほど寄り添っていた。
店の奥にはテラスへの入り口もあり、その脇に雑貨品が並ぶスペースがある。僅かに身体を傾けて覗いただけでも、ぬいぐるみなどのインテリア雑貨は勿論、キャスケットやバッグなどのファッション小物も所狭しと並べられているのが分かる。
正直、げんなりした。
「可愛いでしょう? 全部ハンドメイドなんですよ」
金髪の青年が、黒鋼に紅茶を差し出しながら目を細めて笑った。立ち上る湯気と共に、マスカットフレーバーが鼻先を掠める。
「悪いが……プライベートじゃぜってぇ来ねぇよ」
カップに口をつけ、口の中に紅茶を含ませたあと、黒鋼は率直に述べた。何を飲んでいるのかも、いっそよく分からない。
男は肩を竦めて笑い、「でしょうね」と言った。
渋い表情のままの黒鋼は、男を見上げるとふっと息をつき、本題に入る。
「で? あんたの言う通り来てはみたが……俺はただ茶をしばきに来たのか?」
ここはいわゆる雑貨カフェというものだ。ドリンクやフード、スイーツを出す以外にも、手作りの雑貨品を売っている。
ただ一息つくだけなら、黒鋼はこんな小洒落た喫茶店など絶対に選ばない。中年の親父が道楽でやっているような、雑然とした店で充分だ。美味いカレーが一瞬で出てきさえすれば文句はない。
それがなぜわざわざこんな店に、しかも休日に足を運ぶことになったのか。
事は数日前。雑誌記者である黒鋼が初めて、目の前の店主にコンタクトを取ったことがキッカケだった。
彼は取材の了承を得るために連絡をした黒鋼にこう言った。
『まずはプライベートで、お一人でいらしてください。それから決めます』と。
黒鋼が堀鐔出版に入社してそろそろ二年。グルメ雑誌担当の部署に配属され、記者としてはまだ駆け出しといっていい。
気難しい店主はどこにでもいる。事前連絡で拒否されることは少なくないが、手始めにプライベートで来いという申し出は今回が初めての経験だった。
「驚かれました?」
男は柔和な笑みを決して崩さない。客を相手にしているのだから当たり前ともいえるが、どこか冷えた印象を受けるのは顔の造りが整いすぎているせいだ。
いかにも体育会系で厳つい黒鋼が居心地悪さを感じて仕方ないのは、この人形のような美貌を持つ男の雰囲気にも馴染めないから、かもしれない。
「まぁな。俺はそう場数を踏んでる方でもねぇしな」
「貫禄たっぷりですけどね。駆け出し記者というよりは、叩き上げ刑事って感じかな」
「褒め言葉と取っとくぜ」
「……今日お呼びしたのは」
男は、一瞬だけ笑顔の仮面を崩し、切なげな表情で店の奥の方を向いた。
つられて視線をやれば、そこはテラスだ。男が一人、背を向けてテーブルに腰かけている。陽光を浴びて、金色の髪が光を放っていた。
「双子、だったな。あれが片割れか?」
「ええ。取材をお受けするかどうかを決めるのは、ボクだけの判断ではできません」
「なるほど」
気難しいのはこの男ではなく、あのテラスにいる方の男というわけだ。
事前の下調べでこの店が双子による共同経営ということは知っていた。弟がカフェを、兄が雑貨を。おそらくカウンターにいる方が弟のユゥイだ。
兄の名は、ファイ、だったか。
「気に入られりゃいいわけだ」
「端的に言うと、そうですね」
まだ何かもの言いたげなユゥイを残し、黒鋼は椅子から立ち上がるとテラスへと足を向けた。
先客の少女がふと顔を上げたが、目もくれずに一歩一歩、入り口へ近づく。一体どんな堅物なのだろうかと想像を巡らせながら。
すると、近づくにつれて柔らかな声が聞こえることに気が付いた。
それは鼻歌だった。
どこかで聞いたことがあるようなその曲は、テラスで背を向けている男が発する声だった。勝手に抱いていた鼻持ちならない印象と、その歌声があまりにもかけ離れていて、少し戸惑う。
多少調子はずれだが、この曲は確か。
「星に願いを、か?」
金髪の男は、ファイは、黒鋼がすぐ側まで近づいていたことに全く気付いていないようだった。
彼はかぎ針を使って、黒く細い毛糸を編み込んでいた手を止め、青い目を丸くしながら顔を上げる。優しげな声でメロディを紡いでいたはずの唇も、ポカンと開かれていた。
なんて間の抜けた顔をする男だろうと思った。弟よりも幾らか髪が短いせいか、印象が幼い。長い睫毛に縁どられた碧眼は目尻が少し垂れていて、どこか小動物めいた愛嬌がある。同じ顔の作りでも、随分と違う印象を受けることに驚いた。
弟がキッチリとギャルソン服を身に着けていたのとは対照的に、彼は白い七分袖のシャツに黒のパンツ姿というラフな装いだった。
「聞いてねぇか? 俺は堀鐔出版の」
「黒わん……?」
「あ?」
黒鋼が名乗るのを遮って、彼は毛糸を絡ませたままの指先をこちらに向けた。そして、どこか茫然としたような声でもう一度「黒わん」と言った。
「黒わんじゃねぇ。俺は」
「黒わんだぁ」
何も言えなくなってしまった黒鋼に向かって、彼はふにゃりと、綿飴のような笑顔を浮かべて見せた。
***
そこは小さな箱庭のようなテラスだった。
きめ細かな芝生に覆われた空間は、秋薔薇の生垣で切り取られたようになっていて、シマトネリコの木々が青々とした実をつけている。
決して広々としているわけではないが、澄んだ秋空の下で食べるランチというのはなかなかよさそうだ。愛らしい雑貨に囲まれた店内よりは、だいぶ居心地がいいかもしれない。
そんなテラスには白いパラソルが立てられた木製テーブルと、ガーデンチェアのセットが三つ。その一席で、黒鋼はなぜか初対面であるはずの男に懐かれていた。
「黒わん黒わん、今ね、オレね、黒わん作ってたよー」
ファイはせっせと雑貨作りに精を出していたようだが、今はもう目の前の黒鋼に夢中で、手にしていた毛糸やかぎ針をはじめとする諸々のアイテムが、テーブルの上に投げ出されている。
わざわざ椅子ごと移動して、べったりとくっついてきた彼は黒鋼の腕にぎゅうぎゅうとしがみついていた。
一体これはどういう現象なのか。黒鋼はただ困惑するばかりで、何をどう切り出せばいいか分からないでいた。
「あのね、オレね、毎日いっぱい黒わん作ってるのー。黒わんのお友達もたくさんいるよー」
「…………そうか」
「でもね、帽子とか、鞄とか、髪につけるのも作るよー。可愛いお花もつけると、サクラちゃんが褒めてくれるんだー。黒わんわんもお花好きー?」
「どうだろうな……」
「オレねー、サクラちゃんと『しんゆー』なんだー。でも知世ちゃんもだいしんゆーなんだよー」
そう言って、ファイは店の中にいる黒髪の少女に手を振った。彼女は顔を上げると優しく微笑み、同じように手を振り返している。
あのずっと本を読んでいた先客の女は知世という名前なのか。黒鋼にしてみれば物凄くどうでもいい情報だが、ファイは一生懸命お喋りに夢中になっている。
黒わんの存在がよほど嬉しいのか、さっきから顔を赤くして興奮している様子だった。ぴったりと密着させている身体が、どんどん熱を持ってくるのが分かる。
これでは仕事の話どころの騒ぎではない。何が悲しくて野郎に密着されて、くだらない話を聞かされなくてはいけないのだろう。
だが、なぜか振り払う気になれない。乱暴に扱ってはいけないような気がする。それは黒鋼が記者で、相手が取材を申し込みたいカフェの人間である事実とは、まるで違った次元にあるような気がした。
姿形ばかりは立派な大人だが、彼は……。
「ファイ、お会計できる?」
黒鋼が戸惑いながらも答えを導き出したのと同じとき、ユゥイがテラスに姿を現した。
そしてファイの側でしゃがみ込み、その膝の上に手を置いた。
「こないだ教えた通りにできるかな? 知世ちゃんがお帰りだよ」
「知世ちゃんもう帰っちゃう?」
「そう。ボクはこのお兄さんとお話があるから、ファイにお願いするね」
「わかったー。オカイケーがんばるー!」
「いい子だね。ありがとう」
ファイは黒鋼から離れ、椅子から立ち上がると駆け出した。店内では伝票を持った知世がこちらに会釈している。
品のいいワンピースをまとった、見るからに育ちのよさそうな少女だと、改めて思った。
「気に入られましたね」
二人が楽しそうに会話をしながら会計スペースに向かう背中を見つめたあと、ユゥイが黒鋼の向いに腰かけた。
彼は小さく鼻から息を漏らす黒鋼の正面に、ポケットから取り出した黒いぬいぐるみをちょこんと置いた。
「これは……?」
「黒わんです。ファイが特にお気に入りで、毎日作ってるんですよ」
手の平サイズのそれは、尖った耳と大きな尻尾をしたオオカミのような犬の編みぐるみだった。
赤いマフラーをして、吊り上がった目がなんとも憎たらしい。
思わず手に取って「似てねぇだろ」と吐き捨てると、ユゥイはどこか悲しそうに苦笑する。
「あの子は……兄は、子供です」
「……みてぇだな」
「驚かれたでしょう。ごめんなさい」
「……いや」
ユゥイは黒鋼がテーブルに戻した黒わんを手に取り、指先でその頭を撫でながら一度ゆっくりと瞬きをした。
「この店のことは、ネットの口コミサイトを見て知ったとおっしゃいましたね」
「そうだ」
「凄いですね。それほど目立った内容でもなかったでしょうに」
「……まぁ、確かにな」
今はその情報の多くをインターネットを通じて仕入れることも少なくはない。
黒鋼がこの店に訪れることになったのも、ネットの口コミを元に幾つかの店がピックアップされて、編集会議にかけられたことがキッカケだった。
今回の企画内容が『隠れ家グルメ』だということもあり、数多ある情報の中でレビュー数こそ少ないものの、評価は上々な幾つかにこの店も入っていたというわけだ。
彼の言う通り、ここの情報はどちらかといえばあまり目立たず、埋もれていたといってもいい。
「お店を取り上げてもらうことは、ボク個人としては嬉しいです。だけど、それによってファイが嫌な思いをしないかばかりが気になって」
「だからまずは記者の人となりを見ようとしたわけか?」
「そうなりますね。お手を煩わせてしまってすみません」
でも、とユゥイはその表情に翳りを覗かせる。
「前にも一度あったんです。別の記者さんがいらしたことが」
「うちのか?」
「いえ……違います。男の人と女の人で、最初は普通のお客さんだとばかり思っていたんですが、どうやら違ったみたいで」
まだカフェをオープンして間もない頃だったと、ユゥイは言った。
ただの客だと思い持て成したら、実は女の方が記者で、男の方がカメラマンだったらしい。彼らはユゥイが注文された品をテーブルに運んだところで、初めて名刺と共に存在を明かした。いわゆる飛び込みというやつだ。
咄嗟のことに戸惑ったが、半ば押し切られる形で取材を了承することになったという。
二人は席を立ち、店内を物色しはじめた。そして、ファイと接触した。
「あの日も彼はここで雑貨作りをしていました」
まだ常連と呼べるような客すらついていなかった頃。ファイは急に近づいてきた二人の男女に驚き、すかさずユゥイの背後に隠れてぐずり出した。その仕草や言動を見て、彼らはすぐに気が付いた。
ファイの見た目とは異なる内面の幼さ、未熟さに。
そして面白がった。精神遅滞の若者が健気に雑貨を作る店。これは売れると言って、大きく特集しようなどと騒ぎだした。
ただのカフェや雑貨屋ならまだしも、オーナーである双子は見目も麗しく、駅裏の片隅で寄り添う姿はさぞかし読者の興味と同情を誘うだろうと。
興奮する彼らはしきりにファイに向かってシャッターを切り、矢継ぎ早にデリカシーのない質問を浴びせかけた。ユゥイはそれについて詳しく話そうとはしなかったが、大体の予想はつく。
「可哀想に……ファイは酷く泣きじゃくって……」
ユゥイはどこか諦めたような面持ちでそっと睫毛を伏せた。手の中の黒わんをぎゅっと握りしめる指先が震えている。
結局その記者たちはユゥイが強引に追い出し、取材の話はそのまま流れた。だが、その心には傷跡が残ってしまった。
「全部ボクの責任なんです……彼が小さな子供のままでいるのは、ボクの」
「……?」
「ああ、いえ……」
ユゥイは押し黙り、緩く首を左右に振ってから「なんでもありません」と言った。
「ユゥイー! オレちゃんとオカイケーできたよー!」
そこに、知世を送り出したらしいファイが、嬉しそうにテラスに戻って来た。
ユゥイはにっこり笑って立ち上がると、飛び込んできたファイを抱き留めてその頭を撫でた。
「ありがとう、助かったよ」
「お話終わった? もう黒わんと遊んでもいい?」
「いいよ」
「いいよってなんだ、いいよって……」
「わーい!」
すぐに駆け寄って来たファイが、背後から身を屈めて思い切り抱き付いてくる。
「黒わーん。おっきくてあったかいねー。何して遊ぶー?」
「あのな、俺は黒わんじゃねぇんだよ」
「黒わんが来てくれて、オレ嬉しいよー」
「……そりゃよかったな」
見た目が大人でも中身が幼い子供とあらば無下にもできず、黒鋼はただ渋い表情で溜息をつくことしかできなかった。
なぜあんな目つきの悪いぬいぐるみと一緒にされなくてはいけないのだろう。まさかとは思うが、この男の目には黒い犬の着ぐるみを着た大男でも映っているんだろうか。
すりすりと頬ずりをされていると、なんだか本当に犬にでもなってしまったような、腑抜けた気分になる。
ふんわりと立ち上る、ミルクに砂糖を溶かしたような甘い香りが、なおのこと彼を幼く印象付けていた。
顔を顰めつつも身動きが取れないでいる黒鋼に、申し訳なさそうに苦笑しながらユゥイが肩を竦める。
「少し遅いですけど、そろそろお昼にしましょうか。ついさっきヴィエノワが焼き上がったばかりなんです。ファイもそれでいい?」
「うんいいよー! あのね、エビのやつと、ハムのやつとー」
「はいはい、ちゃんと全部用意してくるよ」
そう言って中に戻って行こうとするユゥイを、黒鋼は一瞬迷ってから「おい」と呼び止めた。
彼はすぐに振り返り、小さく首を傾げて見せる。
「……ひとついいか」
「なんでしょう?」
「最初から取材の申し出を断らなかったのはなぜだ?」
それは素朴な疑問だった。
記者に対して最悪な印象しか持っていないはずの彼なら、最初の時点で素気無く断っていてもおかしくない。自身が身を置く業界をあまり悪くは言いたくないが、実際のところ彼らを傷つけた例の記者たちのような人間が少なくないことは否定できなかった。
ユゥイは腰に手を当てると、「そうですね」と少し考える素振りを見せてから、微笑んだ。
「単純に、堀鐔出版さんのグルメ情報誌が好きなんです。ここをオープンするときも色々とお店を食べて回ったんですけど、参考にさせてもらいました。だから記者さんがどんな人なのか、興味もあったというか」
「そうか」
自分が関わる雑誌を褒められるのは悪い気がしない。それだけ読者に信用と好感を抱かれているということだからだ。
西へ東へと駆けずりまわり、苦労して記事を書いている努力が報われるような気がする。
「ちょっとでも嫌な感じだったら、すぐに塩を撒いて蹴り出してやろうと思っていたんですが」
だが、どうやら決め手は違ったらしい。
「ボクも思ったんです。黒わんに似てるなーって、ね」
ユゥイはほんの少しだけ、意地の悪そうな笑顔を浮かべて見せると店の中へ戻って行った。
「……だから俺は黒わんじゃねぇって何度言えば」
「黒わん!」
「あ!?」
黒鋼に抱き付きながら退屈そうに話を聞いていたファイが、素早い動作で膝に乗って来る。横座りの形だ。上背はあるが華奢なせいか、いやに軽い。
「な、なんだてめぇいい加減に」
「お膝のってもいいー?」
「もう乗ってんじゃねぇか!」
「ひゃー! ブランコみたいー!」
「落ちるだろ暴れんな!!」
黒鋼の首に捕まって思いっきり足をブラブラとさせるファイの腰を、慌てて抱き込んでやると彼はさらにはしゃいだ声を上げて笑った。
その笑顔を見ていると、なぜかすっかり毒気を抜かれたような気にさせられて、黒鋼はただ彼の好きにさせてやることしか、できなくなってしまった。
***
「黒わんやだよ……帰っちゃ嫌……」
帰り際、ファイは黒鋼の胸に縋りついて泣いていた。
肩を震わせ、ひくひくとしゃくり上げる姿はまさに幼子そのものだ。
「ここにいて……ずっとここにいて……」
「ファイ、困らせちゃダメだよ。記者さんはちゃんとおうちがあるんだよ」
「じゃあ……じゃあ、オレも一緒に行く……」
ファイの言葉を聞いて、一瞬だけユゥイの表情が悲しげに歪んだ気がした。
それでもすぐに両肩を掴んで引き剥がそうとするが、ファイは頑として譲らない。黒鋼のダウンジャケットを強く握って、いっそう身を寄せてきた。
黒鋼は、参ったなと思った。それはユゥイも同じだったようで、目を見合わせて同時に溜息を漏らす。
その間も、ファイはずっと泣き続けていた。こんなにも泣かせてしまうくらいなら、いっそもう少しここにいてもいいかと考えるが、根本的な解決にはならない。まずはどうにかして、黒鋼が『黒わん』ではないことを理解させる必要がありそうだ。
「あのな、何度も言うが、俺はおまえの黒わんじゃ」
「黒わん……オレのこと嫌い? オレが悪い子だから、黒わん怒ってどっか行っちゃう……?」
「…………」
「すみません……」
「いいけどよ……」
とにかく困った。小さな子供の相手なんてしたことがない。だからどうやって扱えばいいのか分からなかった。
胸に縋りついたまま見上げてくる瞳があまりにも無垢で、赤くなった頬に大粒の涙が幾つも流れてゆくのを見ていると、心が痛んで仕方がない。
黒鋼はどうすればいいのか分からないながらも、彼の目元に指先で触れて、その涙を拭った。
「怒ってねぇよ」
「ほんと……? 嫌いじゃない……?」
「嫌いじゃねぇし、怒ってねぇし、おまえは何も悪いことなんかしてねぇだろ?」
「でも……黒わん帰っちゃう……」
拭っても拭っても止まらない涙に、こうなったら意地でも泣き止ませなければ帰れないという気持ちになった。
「また来る」
「……いつ? 明日?」
「明日は急だな……とにかく、時間作ってまたすぐに来る」
ぽんぽんと頭の天辺を軽く叩いてやると、ファイは真っ赤な鼻をすんと鳴らしながら渋々黒鋼から離れた。何かを堪えるように唇を噛み締めたあと、ポケットから黒わんの編みぐるみを取り出し、そっと差し出してくる。
「あげる……」
「いいのか?」
「ん……あのね、この黒わん、まだ途中なの。マフラーがないの」
「ああ、本当だな」
黒鋼はファイから黒わんを受け取ると、生意気そうなその顔をじっと眺めた。
さっきユゥイに見せられたものは、首に赤いマフラーを巻いていた。だが、これにはそれがない。
「黒わん、マフラーがないと風邪ひいちゃう。だから、オレちゃんと作るから……」
「ああ」
だから早く来いと、そういうことか。
黒鋼は思わず笑ってしまった。彼は子供なりに知恵を絞っている。早く会いに来てほしくて、ささやかな脅しをかけているのだ。
なんとも言えないいじらしさを感じて、黒鋼はもう一度ファイの頭に手を伸ばすとそっと撫でた。
「すぐに来る。こいつが風邪ひいちまわねぇようにな」
「……うん!」
ファイはまだ瞳にいっぱい涙を溜めこんではいたけれど、元気に笑って頷いた。ようやく見ることができたその笑顔に心の底から安堵する。
そしてその瞬間、黒鋼の胸に不思議な思いが浮かび上がった。
「本当にすみません。こんなに懐いてしまうなんて」
「いや、別に悪い気はしねぇよ。飯も美味かった。また邪魔するぜ」
「ええ、是非」
「それと取材の件なんだが、ひとまず保留ってことでいいか」
「え?」
驚いていたのは黒鋼も同じだった。
今の今まで、あくまで仕事に繋げるためという思いしかなかったのだから。
それがなぜか、ファイと次の『約束』を交わした瞬間、不思議とそんな気が失せてしまった。
黒鋼は視線を巡らせると店内をざっと見回した。今は客の姿が一人もないが、時間帯によっては顔なじみの常連がのんびりと過ごすであろう、憩いの空間。
テラスではファイが鼻歌を口ずさみながら雑貨を作って、『しんゆー』とやらがそんなファイの作ったものを見て笑顔になる。
想像を巡らせるだけで穏やかな気持ちになって、ここに仕事では訪れたくないという気持ちにさせられた。
「本当にいいもんってのは、誰にも教えたくねぇよな」
その記者らしからぬ言葉にユゥイは小さく吹き出し、礼を言いながら頭を下げた。
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そのあとは、すっかり腰がダメになって立ち上がれないファイの代わりに、黒鋼が汚れてしまった床を綺麗にしてくれた。
ついでに机の中身や棚の整理も手伝ってもらったりして、申し訳ないなと思いつつも、その姿を見つめていたら寂しさが込み上げた。
ここでこうしていられるのは、今日が最後なんだなと。
*
ほとんど黒鋼の手を借りて準備室がピカピカになる頃には、すっかり夜になっていた。
なんとか立ち上がれるくらいには感覚を取り戻したファイは、それでもまだ足どりが覚束ないことを理由に、黒鋼とそっと手を繋いで宿舎までの道を歩いていた。
普通に行けば10分とかからないような近い距離を、のんびりと、あえて時間をかけて歩く。自然と訪れる沈黙の中に、綺麗に揃った二つの足音だけが響き渡った。
懐かしいな、と思う。
昔は嫌がる黒鋼の手を引いて、毎日こんな風に一緒に学校へ行っていた。あの頃は歩幅を合わせるのは自分の役目だったし、小さな手を一方的に強く握りしめるのもファイの方だったのに。
隣同士で暮らしていた頃のことを思い出すと、不思議な気持ちになる。
ファイはもともと、身長や足の長さに比べて歩幅が狭い。いつしかそれに合わせるのは黒鋼の方になっていて、守ってあげたいと思っていたはずの手に、今は守られている。
「不思議だねー」
繋いでいた手をぶらぶらとブランコのように揺らしながら、肩を竦めて笑ってしまった。
「あんなに小さい手だったのに、もうすっかり男の人の手だー」
黒鋼は真っ直ぐ前を向いたまま、微かに笑うだけだった。もしかしたら、彼も昔のことを思い出していたのかもしれない。
ファイがすっかり大人びた黒鋼に戸惑ったのと同じように。彼もまた、あの頃よりも小さく見えるファイに戸惑うことはあったのだろうか。
「なんか、変な感じだよね」
そう言うと、黒鋼はしみじみと「そうだな」と返して寄こした。
横顔をチラリと見やりながら、本当に今夜で最後なんだという思いが改めて押し寄せる。
別にもう会えなくなるわけじゃないし、むしろ二人はやっと足並みを揃えて歩き出したばかりなのだから、感傷に浸ることはないのだけれど。あまりにも密度の濃い三週間を過ごしたがために、明日から戻って来るであろう日常への実感がわかない。
例えば一ヶ月前の自分に、今の自分に起こった出来事や変化を予想しろと言っても、絶対に無理な話だと思う。いっそ地球が滅亡すると言われた方が、すんなり信じてしまうかもしれない。
ファイは黒鋼のことがずっと大好きだったけれど、好きの形はこの三週間で大きく変わった。
生意気で無愛想で、子犬みたいにすぐ吠える、だけど優しい男の子。懐かしい思い出の中にしかいなかったはずの少年が、青年となって姿を現した時、まさかこんなにも身を焦がすような恋に落ちることになるなんて、思ってもみなかった。
「ねぇ黒たん」
大きな手を握り返す力を強めながら、ファイはずっと不思議に思っていたことを聞いてみることにした。
「黒たんってさ、いつから……」
「ん」
「……いつからなのかなーって。オレのことさ」
いつから、黒鋼はこんな自分を好いてくれていたのだろう。
ファイは黒鋼が嫌がることを率先してやっていた自覚があるし、あの引っ越し前夜の「おまえが俺の嫁になれ」発言だって、深く考えたことはなかった。
けれど再会した黒鋼は、その宣言をさも当然のように強要してきた。
今でこそ異存はないのだが、一体どこをどうひっくり返せば『意地悪な隣のお兄さん』に恋心を抱くのか、ファイにはさっぱり分らない。
「だからね、オレはずっと黒たんに意地悪ばっかしてたし、嫌われてるって思ってたから」
「別に意地悪ってほどでもなかったけどな」
「そうかなぁ? だって黒たんが嫌がって怒ったり泣いたりするの、大好きだったよ」
素直に当時の気持ちを言えば、黒鋼は小さく噴き出した。普通こんなことを言われれば怒って当然のように思うのだが、ファイの目に彼はどことなく嬉しそうに映る。
黒鋼は横目でちらりとこちらに視線を寄こすと、口の端を持ち上げながら「簡単なことだ」と言った。
「おまえにも身に覚えがあるんじゃねぇか?」
「?」
「嫌よ嫌よもってやつ」
一瞬だけ間を置いて、ファイは赤い顔で「あー」と納得の声を上げる。
いいように押さえつけられ、身体を弄ばれることに抵抗を示しながら、いつの間にか受け入れて求めるようにまで変わってしまった自分と、あの頃の黒鋼は似たようなものということか。
だんだん癖になってきて、気付けばそれがなければ物足りなくなってしまう感じ。今のファイには、とても分かりやすい表現だった。
「俺だって自覚すんのには結構な時間がかかったが」
「……うん」
「しょうがねぇよな。ハマっちまったもんは」
「……だね」
黒鋼はなんでもないことのように言うけれど。きっとファイが思うよりずっと大きな苦悩や、葛藤があったに違いない。
ただふざけていただけの当時の自分は、身も心も未熟でいたいけな少年を、手の平で転がして弄んでいただけだ。
結果的にいい方向に転がったにしろ、その罪悪感からファイは一途に思い続けてくれていた黒鋼の気持ちを歪めて捉えてしまったし、苦しませたことに変わりはないわけで。
そう考えはじめるとなんだか申し訳なくなって、俯いてしまったファイに黒鋼は「だが」という接続詞と共に足を止めた。
必然的に一緒に立ち止まったファイは瞬きを繰り返しながらその顔を見上げる。
「多分、最初からだ」
「……最初?」
「おまえが初めて声をかけてきた、あの朝から」
緩い風が一度だけ、目を見開くファイの頬を撫でた。
切れかけていた街灯は電球が交換されていて、真っ直ぐに見下ろしてくる黒鋼の瞳の赤がよく分かる。
――ガッコ、一緒に行こう?
そう言って手を差し出した瞬間を、今でもよく覚えている。
大きな瞳も、小さな手も、高く幼い怒鳴り声も。
何もかもが可愛くて、その反応全てがファイの胸を一瞬にして掴んだ。
(ああ、そうか。あの時から、きっとオレも)
「理屈じゃねぇよ。あんときから、俺にはおまえが特別だった」
呆けたような顔をしているファイの頬に、黒鋼の指先が触れる。その熱にハッとして、思い出したように息を飲んだ。こんなにも真っ直ぐに答えをくれるなんて、思ってもみなかったから。
ファイの記憶の中の黒鋼は怒りっぽくて、すぐに瞳に涙を溜める、とても照れ屋な少年だったのに。
「なんか……恥ずかしいよ、黒たん……」
未だにギャップに戸惑いながらも、どんな顔をすればいいのか分からないくらいの羞恥に駆られて、つい可愛げのないことを口走る。
それでも黒鋼はまるで気を悪くする様子はなく、口元だけ笑いながら目を細めて見せた。その視線があまりにも愛しげで温かいものだから、ファイの中の照れ臭ささはどんどん加速した。
「も、もう! わかったよ! 教えてくれてありがと!」
一応は質問への回答に礼を言いつつ、ファイはそっぽを向きながら繋いだままだった黒鋼の手を離すと、ふらつく足で先に歩き出した。
宿舎はもう目の前で、部屋に戻ったらシャワーを浴びて、ご飯を食べて、それから。今度はゆっくり、ベッドの上でするんだろうな、と思う。
きっと今の比じゃないくらい臭いことを平然と囁かれて、同じくらい恥ずかしいことをたくさん言わされるに違いない。
想像するだけで全身から火を噴いて燃え尽きてしまいそうなのに、早く早くと気が急いて仕方ない。嫌なのに嫌じゃなくて、でもやっぱり嫌で、なのに死にそうなくらい嬉しくて、幸せで。
(ああもう! なんかグチャグチャ!)
一番恥ずかしいのは、きっと照れまくって無駄にジタバタしている、自分の方だった。
ファイの乱暴な足取りから少しテンポを外して、左腕のビーズと黒鋼の足音が重なる。そっと右手をビーズに押し当てると、強く手首を握りしめ、ぴたりと足を止めた。
同じく立ち止まった黒鋼の視線を背中に感じながら、ファイは火照った息を落ち着かせるように大きく一度、深呼吸した。
グチャグチャだけど、恥ずかしいけど。今じゃなきゃ、きっと言えない。そんな気がして。
「あのさ」
「おう」
「オレ、責任とるから」
少年だった君へ。
たくさん意地悪を言ってからかったし、怒らせたし、泣かせた。
苦しませて、悩ませて、傷つけてしまったけど。
でも、好きになってくれた君へ。
ファイは振り向くと、赤い瞳から視線を逸らすことなく言った。
「だから、オレのことお嫁さんにしてね」
一生ずっと、傍にいさせて。
黒鋼が目を見開いたのは一瞬だった。
彼はすぐにあのすっかり大人びた笑みを浮かべて、ただ両手を大きく広げて見せる。それを合図に、ファイはよれたスーツの腕の中に向かって、強く地面を蹴った。
両腕を勢いよく首に絡めて、胸と胸がぶつかり合うようにして飛び込めば、抱き合ったふたりは反動で幾度かクルクルと回ってしまった。
そのあまりにも臭い演出が可笑しくて、ファイは声を上げて笑った。街灯だけが照らす夜道で、光沢を失っていたはずの古いオモチャのビーズがキラキラと輝く。
それは嫌というほど回り道をしながら、ようやくここまでやって来たふたりの行く末に、さらなる道を示しているようだった。
End
←戻る ・ Wavebox👏
ついでに机の中身や棚の整理も手伝ってもらったりして、申し訳ないなと思いつつも、その姿を見つめていたら寂しさが込み上げた。
ここでこうしていられるのは、今日が最後なんだなと。
*
ほとんど黒鋼の手を借りて準備室がピカピカになる頃には、すっかり夜になっていた。
なんとか立ち上がれるくらいには感覚を取り戻したファイは、それでもまだ足どりが覚束ないことを理由に、黒鋼とそっと手を繋いで宿舎までの道を歩いていた。
普通に行けば10分とかからないような近い距離を、のんびりと、あえて時間をかけて歩く。自然と訪れる沈黙の中に、綺麗に揃った二つの足音だけが響き渡った。
懐かしいな、と思う。
昔は嫌がる黒鋼の手を引いて、毎日こんな風に一緒に学校へ行っていた。あの頃は歩幅を合わせるのは自分の役目だったし、小さな手を一方的に強く握りしめるのもファイの方だったのに。
隣同士で暮らしていた頃のことを思い出すと、不思議な気持ちになる。
ファイはもともと、身長や足の長さに比べて歩幅が狭い。いつしかそれに合わせるのは黒鋼の方になっていて、守ってあげたいと思っていたはずの手に、今は守られている。
「不思議だねー」
繋いでいた手をぶらぶらとブランコのように揺らしながら、肩を竦めて笑ってしまった。
「あんなに小さい手だったのに、もうすっかり男の人の手だー」
黒鋼は真っ直ぐ前を向いたまま、微かに笑うだけだった。もしかしたら、彼も昔のことを思い出していたのかもしれない。
ファイがすっかり大人びた黒鋼に戸惑ったのと同じように。彼もまた、あの頃よりも小さく見えるファイに戸惑うことはあったのだろうか。
「なんか、変な感じだよね」
そう言うと、黒鋼はしみじみと「そうだな」と返して寄こした。
横顔をチラリと見やりながら、本当に今夜で最後なんだという思いが改めて押し寄せる。
別にもう会えなくなるわけじゃないし、むしろ二人はやっと足並みを揃えて歩き出したばかりなのだから、感傷に浸ることはないのだけれど。あまりにも密度の濃い三週間を過ごしたがために、明日から戻って来るであろう日常への実感がわかない。
例えば一ヶ月前の自分に、今の自分に起こった出来事や変化を予想しろと言っても、絶対に無理な話だと思う。いっそ地球が滅亡すると言われた方が、すんなり信じてしまうかもしれない。
ファイは黒鋼のことがずっと大好きだったけれど、好きの形はこの三週間で大きく変わった。
生意気で無愛想で、子犬みたいにすぐ吠える、だけど優しい男の子。懐かしい思い出の中にしかいなかったはずの少年が、青年となって姿を現した時、まさかこんなにも身を焦がすような恋に落ちることになるなんて、思ってもみなかった。
「ねぇ黒たん」
大きな手を握り返す力を強めながら、ファイはずっと不思議に思っていたことを聞いてみることにした。
「黒たんってさ、いつから……」
「ん」
「……いつからなのかなーって。オレのことさ」
いつから、黒鋼はこんな自分を好いてくれていたのだろう。
ファイは黒鋼が嫌がることを率先してやっていた自覚があるし、あの引っ越し前夜の「おまえが俺の嫁になれ」発言だって、深く考えたことはなかった。
けれど再会した黒鋼は、その宣言をさも当然のように強要してきた。
今でこそ異存はないのだが、一体どこをどうひっくり返せば『意地悪な隣のお兄さん』に恋心を抱くのか、ファイにはさっぱり分らない。
「だからね、オレはずっと黒たんに意地悪ばっかしてたし、嫌われてるって思ってたから」
「別に意地悪ってほどでもなかったけどな」
「そうかなぁ? だって黒たんが嫌がって怒ったり泣いたりするの、大好きだったよ」
素直に当時の気持ちを言えば、黒鋼は小さく噴き出した。普通こんなことを言われれば怒って当然のように思うのだが、ファイの目に彼はどことなく嬉しそうに映る。
黒鋼は横目でちらりとこちらに視線を寄こすと、口の端を持ち上げながら「簡単なことだ」と言った。
「おまえにも身に覚えがあるんじゃねぇか?」
「?」
「嫌よ嫌よもってやつ」
一瞬だけ間を置いて、ファイは赤い顔で「あー」と納得の声を上げる。
いいように押さえつけられ、身体を弄ばれることに抵抗を示しながら、いつの間にか受け入れて求めるようにまで変わってしまった自分と、あの頃の黒鋼は似たようなものということか。
だんだん癖になってきて、気付けばそれがなければ物足りなくなってしまう感じ。今のファイには、とても分かりやすい表現だった。
「俺だって自覚すんのには結構な時間がかかったが」
「……うん」
「しょうがねぇよな。ハマっちまったもんは」
「……だね」
黒鋼はなんでもないことのように言うけれど。きっとファイが思うよりずっと大きな苦悩や、葛藤があったに違いない。
ただふざけていただけの当時の自分は、身も心も未熟でいたいけな少年を、手の平で転がして弄んでいただけだ。
結果的にいい方向に転がったにしろ、その罪悪感からファイは一途に思い続けてくれていた黒鋼の気持ちを歪めて捉えてしまったし、苦しませたことに変わりはないわけで。
そう考えはじめるとなんだか申し訳なくなって、俯いてしまったファイに黒鋼は「だが」という接続詞と共に足を止めた。
必然的に一緒に立ち止まったファイは瞬きを繰り返しながらその顔を見上げる。
「多分、最初からだ」
「……最初?」
「おまえが初めて声をかけてきた、あの朝から」
緩い風が一度だけ、目を見開くファイの頬を撫でた。
切れかけていた街灯は電球が交換されていて、真っ直ぐに見下ろしてくる黒鋼の瞳の赤がよく分かる。
――ガッコ、一緒に行こう?
そう言って手を差し出した瞬間を、今でもよく覚えている。
大きな瞳も、小さな手も、高く幼い怒鳴り声も。
何もかもが可愛くて、その反応全てがファイの胸を一瞬にして掴んだ。
(ああ、そうか。あの時から、きっとオレも)
「理屈じゃねぇよ。あんときから、俺にはおまえが特別だった」
呆けたような顔をしているファイの頬に、黒鋼の指先が触れる。その熱にハッとして、思い出したように息を飲んだ。こんなにも真っ直ぐに答えをくれるなんて、思ってもみなかったから。
ファイの記憶の中の黒鋼は怒りっぽくて、すぐに瞳に涙を溜める、とても照れ屋な少年だったのに。
「なんか……恥ずかしいよ、黒たん……」
未だにギャップに戸惑いながらも、どんな顔をすればいいのか分からないくらいの羞恥に駆られて、つい可愛げのないことを口走る。
それでも黒鋼はまるで気を悪くする様子はなく、口元だけ笑いながら目を細めて見せた。その視線があまりにも愛しげで温かいものだから、ファイの中の照れ臭ささはどんどん加速した。
「も、もう! わかったよ! 教えてくれてありがと!」
一応は質問への回答に礼を言いつつ、ファイはそっぽを向きながら繋いだままだった黒鋼の手を離すと、ふらつく足で先に歩き出した。
宿舎はもう目の前で、部屋に戻ったらシャワーを浴びて、ご飯を食べて、それから。今度はゆっくり、ベッドの上でするんだろうな、と思う。
きっと今の比じゃないくらい臭いことを平然と囁かれて、同じくらい恥ずかしいことをたくさん言わされるに違いない。
想像するだけで全身から火を噴いて燃え尽きてしまいそうなのに、早く早くと気が急いて仕方ない。嫌なのに嫌じゃなくて、でもやっぱり嫌で、なのに死にそうなくらい嬉しくて、幸せで。
(ああもう! なんかグチャグチャ!)
一番恥ずかしいのは、きっと照れまくって無駄にジタバタしている、自分の方だった。
ファイの乱暴な足取りから少しテンポを外して、左腕のビーズと黒鋼の足音が重なる。そっと右手をビーズに押し当てると、強く手首を握りしめ、ぴたりと足を止めた。
同じく立ち止まった黒鋼の視線を背中に感じながら、ファイは火照った息を落ち着かせるように大きく一度、深呼吸した。
グチャグチャだけど、恥ずかしいけど。今じゃなきゃ、きっと言えない。そんな気がして。
「あのさ」
「おう」
「オレ、責任とるから」
少年だった君へ。
たくさん意地悪を言ってからかったし、怒らせたし、泣かせた。
苦しませて、悩ませて、傷つけてしまったけど。
でも、好きになってくれた君へ。
ファイは振り向くと、赤い瞳から視線を逸らすことなく言った。
「だから、オレのことお嫁さんにしてね」
一生ずっと、傍にいさせて。
黒鋼が目を見開いたのは一瞬だった。
彼はすぐにあのすっかり大人びた笑みを浮かべて、ただ両手を大きく広げて見せる。それを合図に、ファイはよれたスーツの腕の中に向かって、強く地面を蹴った。
両腕を勢いよく首に絡めて、胸と胸がぶつかり合うようにして飛び込めば、抱き合ったふたりは反動で幾度かクルクルと回ってしまった。
そのあまりにも臭い演出が可笑しくて、ファイは声を上げて笑った。街灯だけが照らす夜道で、光沢を失っていたはずの古いオモチャのビーズがキラキラと輝く。
それは嫌というほど回り道をしながら、ようやくここまでやって来たふたりの行く末に、さらなる道を示しているようだった。
End
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鍵はかけた。
カーテンを閉め切った薄暗い室内には、それでも微かに夕日の橙が零れて二つの陰影をより際立たせる。
窓を背にして机に腰を落ち着けたファイは、今ではあまり見下ろせなくなった黒鋼の瞳を覗きこんだ。大きなビー玉のようだったそれはスッキリとした切れ長の形に整い、燃えるような赤だけが今はただ懐かしい。
昔はいつまでも変わらず幼いままでいてほしいと願っていた。小さな子供だった彼のことが可愛くて、いつかの子犬と重ねて見ていた節もある。
だから再会してすぐの時は、あまりにも記憶の中の姿とかけ離れていたものだから、認めたくなくて突っぱねてしまった。
それが今ではどうだ。成長した黒鋼はその逞しいオスの魅力で、ファイをメスのようにいとも簡単に発情させる。
下から掬われるように受ける口付けは力強いのに優しくて、奪うように激しいのに、ファイの中に溢れるほどの優しい愛を注ぐようだった。
同じだけ返せているのか自信はないけれど、必死でそれに答えながら震える指先をワイシャツのボタンとネクタイを解くために動かした。
黒鋼の大きな手もファイの白衣はそのままにインナーの裾に忍び込む。それを胸の上までたくしあげられたとき、絡めとられた舌を吸われて肩が跳ねた。
どうにか外すことに成功していたネクタイを床に落とし、ボタンを中途半端に外したところでファイは動けなくなった。その首に両腕を回してしがみつくだけで精一杯で、せめて唾液の一滴も逃してなるものかと貪ることに夢中になる。
血液がどんどん沸騰して、肌の表面を粟立たせるのを感じた。
「は、ぁ……ッ」
黒鋼の指先が皮膚をなぞり、胸の粒を掠めた。
咄嗟に喉を反らすと糸を引きながら離れる唇が名残惜しくて、頭を引き寄せるけれど、黒鋼はファイの痣の残る口端に音を立てて口付けるだけだった。
そのまま獣が傷を癒すように幾度か舌を這わされて、くすぐったさに身体が揺れる。
「ふふ、くすぐったいってば」
「……残るか?」
「ん」
「これ、残るか?」
武骨な指先が、星座をなぞるような繊細さで皮膚の上の幾つもの小さな瘡蓋をたどる。温もりに乗せられた労わりを肌で感じて、少しだけ泣きたい気持ちになった。ゆっくりと首を左右に振るファイに、黒鋼は切なげに赤い瞳を細めた。
「残らないよ」
彼の方が、ずっと傷ついているように見えるのはなぜだろう。
羽根に触れるような気持ちでそっと両頬を包み込んで、その額にこつんと自分の額を押し付けた。
「黒たんが、いっぱい愛してくれたらね」
喉を隆起させながら零された熱い吐息に、肌をくすぐられる。
再び重ねられた唇はすぐに離れたけれど、首筋や耳の裏側を這いながら水音を響かせて、ファイを甘く震えさせた。
大きな手が胸に這わされると、親指で小さく膨らんだ粒を擦り上げる。咄嗟にあがったか細い悲鳴に、黒鋼が耳元で笑った気がした。
「弱いな、ここが」
低い囁きにゾクゾクと背筋を電流が駆け抜けて、思わず首を嫌々と振る。
スーツの肩口にくっきりと皺が刻まれるほど強く爪を立て、縋りついていなければ蕩けて消えてしまいそうだった。
「違う、よ……」
「どう違う?」
「声、が」
「声?」
黒鋼の指先が硬くしこったその一点をきゅっと摘まみ、転がしてはファイが示す反応を楽しんでいる。
甘ったるいのに切なくて、むずむずするようなその刺激にじれったさを感じつつも、ファイを最も狂わすのはその低い声に他ならない。
「あっ、ん、声……黒たんの声……っ」
「そんなに好きか」
「ん、好き……おかしく、なる……」
ふっと小さく吹き出す息が耳朶をくすぐる。低いが芯のあるそれが、欲情して僅かに掠れているのが堪らなかった。
この声に命じられれば、どんな恥ずかしいことだって従ってしまうかもしれない。嫌というほど苛めてほしいし、気が狂うほど可愛がってほしい。
「ねぇ、早く……」
いてもたってもいられず急いた物言いをすれば、黒鋼は胸に這わせていた手をするりと下降させていく。
中心は張り詰めているのが傍目にも分かるほど、窮屈そうに布を押し上げていた。
手がそこにかぶさり、焦らすようにゆるゆると撫で摩る。どうしようもなく身体が震えるのを強く唇を噛みしめることで耐えながら、ファイは目尻に大粒の涙を貯め込んだ。
早く、と悲鳴を上げそうになったところで、ベルトを外される金属音にぐっと息を詰めた。
寛げられたそこから下着の中に指先が入り込み、そのままくの字に曲げて引っかけるようにして下にずらされると、張り詰めた性器が顔を覗かせた。
先端がすでに湿っているのが、微かに射しこむ光の中でもよく分かる。
「濡れてる」
「ん、ぅ……はずか、し……」
羞恥に耐えきれず零れそうになった涙を、ジャケットの肩に擦りつけて吸い込ませる。
黒鋼の手が白衣越しに背中を幾度か撫でて、同時に硬くなった性器に指が絡みついた。
「はぁッ、ん……!」
大きく腰が跳ね、机が軋む。
必死で唇を噛んで声を殺そうとしても、黒鋼の手に包み込まれたそれが擦られて水音を響かせる度に、甘ったるい痺れが頭の天辺にまで届いて押さえきれなかった。
「あっ、ま、いく……ッ、や……!」
「しんどいだろ。一回イッとけ」
「だめ、だめ、おねがい……ッ」
痙攣する内腿が限界を知らせ、ファイはこのまま飲みこまれてしまいたい欲求に突き動かされながらも、咄嗟に太い手首を掴んで遠ざけた。
高ぶったまま放りだされた性器が、先走りを零しながら切なく揺れる。
「なんだ、我慢すんな」
「違う、よ……イクの、黒たんのじゃなきゃヤダ……一緒がいいの」
今すぐこの張り詰めた欲求を解放したい気持ちはあるけれど、自分だけ先走るのはどうしても嫌だった。黒鋼にも同じように気持ち良くなってほしい。一刻も早く同じ熱を分け合いたい。
潤んだ瞳で切実に訴えて見せれば、黒鋼は眉間の皺を濃くしながら小さく息を詰めた。それから、深い溜息を零してがっくりとファイの胸に顔を埋めて来る。
何かおかしなことを言ってしまったのだろうか。緩く首を傾げながらその頭部を緩く抱きこむ。
「ど、どしたの?」
「……堪ったもんじゃねぇよ」
「黒たん、耳まで真っ赤だ……」
不思議そうに呟くと、ぶっきらぼうな声が「うるせぇ」と吐き捨てて、乱暴に手を振り払われてしまった。
*
机に上半身を預けるように伏してしまえば、背後にいる黒鋼に丁度いい高さに尻を突き出す姿勢になった。
下着ごとすっかり地に落ちたスラックスが足首に絡みつき、かろうじて袖を通しているだけの白衣は腰に引っかける形でめくり上げられている。
男らしい節くれだった指が二本、潤滑剤代わりに引っ張り出したハンドクリームの助けを借りて、ぬるぬると中で蠢いている。
羞恥心は全身の皮膚の内側で沸々と煮えたぎり、健全な学び舎で淫らな行為に耽る罪悪感が、剥がれ落ちてしまったはずの理性をうっすらと蘇らせた。ねっとりと濡れた音が、今更のようにいたたまれなさの糸を引く。
それでも黒鋼によってゆっくりと開かれていく身体の奥が、狂おしく疼いて仕方がない。出入りする指の節が肉襞に引っかかる度に腰が跳ねた。
「は、んッ、ね……も、いい……」
堪え切れず、身体を捻って背後へ視線を向けると訴えた。
ちらりとだけ目を合わせてきた黒鋼は、表情こそ平然としてはいるものの、額にうっすら汗を滲ませている。
本当は自分だって余裕がないくせに、こんなときまで時間をかけて慣らさなくてもいいのに。優しい彼は初めての時、ファイが散々泣き喚いたことを未だに気にしているに違いない。
ファイだって、あんな酷い思いは二度としたくないと思っていた。それが今はその痛みすら一刻も早く自分のものにしたくて堪らない。
「ねぇ……っ」
「うるせぇな」
さらに急かせば、咎めるように指が内側をぐるりと擦った。ひ、と声にならない悲鳴を上げたファイは、一度大きく背を反らしたあと、くったりとまた机に伏してしまう。
はくはくと浅い呼吸を繰り返しながら涙を滲ませる自分は、急所に浅く牙を突きたてられながら、焦らすように生かされる草食動物のようだ。
いっそ人思いにトドメを刺してくれた方がよほどいい。訪れる瞬間をただ待ちわびるのは、ひたすら辛いだけだった。
「泣く思いすんのはてめぇだぞ」
ファイだって、まだ気持ちの準備しか整っていないことは承知している。でもこれ以上は待てなかった。早く中をいっぱいに満たして、掻き回してほしい。
中途半端に高ぶらされたまま放りだされている性器が、ぽたぽたと先走りを零して床を汚していた。
「お願い……痛くてもいいから、もう我慢するの、嫌……」
出て行こうとする指を、無意識にきゅっと締め付けた。
黒鋼が舌を打つのが分かる。抗うように乱暴に引き抜かれ、寒気にも似た痺れにぶるりと震える。
今度は首だけ動かすと、微かな金属音と共に黒鋼が前を寛げる様子が視界の端に映った。取り出された赤黒い性器は血管がくっきりと浮き上がるほど勃起していて、あれを飲み込むのだと思うと、未だに信じられなかった。
黒鋼の大きな手が薄い尻の肉を幾度か揉みほぐし、ついに先端が押し付けられた。期待と歓喜に吐息が漏れる。
「ッ――!」
がっちりと腰を掴まれ、引き寄せられると同時に黒鋼も腰を進める。
穴が限界まで押し広げられるような引き攣った感覚と、徐々に潜り込んでくる巨大な熱の塊に、息ができない。
「ひ、ぅ……! ――ッ!!」
いっそ大きな声で叫べたら、感覚的に多少は楽だったのかもしれないが、待ちわびた瞬間でさえここがどこであるかを忘れることはできなかった。
だからこそ背徳的な快楽が、確かにあるはずの痛みを麻痺させる。
黒鋼が微かに零す苦しげな呻きが耳の裏側に押しつけられて、背中に受け止める鼓動が身体だけでなく心まで埋め尽くすようだった。
「やっぱ狭ぇな……」
「くろ、た……」
息も絶え絶えに首を捻ると同時に背後から伸びて来た手がファイの顎をさらい、噛みつくように唇が押し付けられた。
最後の一押しとばかりにズンと腰を打ちつけられ、脳天を貫くような衝撃に漏れそうになった悲鳴も全て奪われる。
酸欠に伴い頭の芯が痺れはじめ、それは身体の内側から四肢の先に至るまで急速に広がった。
中で脈打つ熱が愛しくて、支配されているという実感が止め処なく悦びを増幅させる。
「ふぅ、ん……ッ」
強く擦りつけるように舌を絡め合い、二人分の唾液がファイの口の端を伝った。
抽挿が開始されると唇はおのずと離れた。黒鋼の手も顎から離れ、ファイが崩れ落ちないようにとしっかり腰に回される。
それでも奥を突かれる度に膝が踊り、床から踵が浮き上がる。
「ひッ、ぁ、すご、ぃ、響く……っ」
脈打つ肉棒が内壁を強く擦り上げ、そこから生まれる電流が全身を稲妻のように駆け巡る。
どうにかして声を抑えようと下唇に歯を立てても、突き上げられる度にぽっかりと口が開いてしまう。
腰から下がぐずぐずに溶けてしまいそうな快感に、気が触れそうだった。
(オレ、先生なのに……)
学校という場所で、教師という立場で。
年下の男に尻を向けて腰を振り、太い楔に穿たれながら女のように啼いている。正気の沙汰とは思えない状況が、むしろ感情を高ぶらせることに拍車をかけた。
締め付けがきついのか、時折漏れ聞こえる黒鋼の低い呻きが鼓膜を揺るがす。限界がすぐ目の前に迫っていた。
「い、ぁ! イッく……!」
視界が白に染まりかけた、まさにその瞬間。
――ガタンッ
背後で扉が悲鳴を上げて、重なり合う二人は同時に息を飲むと硬直した。
『あれ、鍵かかってる。ファイ先生ー?』
その声は、聞き覚えのある女子生徒のものだった。
『おかしいなー。なんか物音が聞こえてたと思ったんだけど……』
『鍵かけて寝てるとか?』
『あはは! ファイ先生ならありえるー!』
生徒は一人ではなく、複数いるようだった。
震える両手で咄嗟に唇を覆い隠しながら、心臓がドカドカと音を立て、冷や汗が背筋を伝う。
ふ、と耳元で黒鋼が小さく笑った。
「モテる教師は辛ぇな」
「ッ、なに言って……」
小声で耳元に囁く声はどこか楽しげで、こんな状況でよくも落ち着いていられるものだと焦りが増した。
何の用があるかは知らないが、今は諦めてもらうより他にない。一刻も早く帰ってくれと願うばかりのファイだったが、次の瞬間ひゅっと息を飲んだ。
「――ッ!?」
信じられないことに、黒鋼がゆっくりと腰をグラインドさせた。
同時に背後から伸びて来た手が、口元を覆っていたファイの手にかぶさり強く押さえつける。
「ッ!? ぅ……!?」
無理に振り向こうとしても身動きができず、体重でもって机に強く押しつけられたままどうにもできない。
黒鋼はゆっくりと腰を前後に揺らし、ファイの感じる場所を目がけてわざとらしく刺激する。
(う、嘘……ほんとになに考えてるの!?)
「~~ッ!! ッ、ぅ……! ッ――!!」
凍りついたように動きを止めていた神経を、強制的に揺さぶられる。
息もできないまま煽られる性感が、窮地にあっていっそう増していくのを止められない。
『ねぇ、やっぱいま声しなかった?』
『ファイ先生ほんとにいないのー?』
ぐ、ぐ、と肉棒に穿たれる中、女子生徒達の声が酷く遠くに聞こえる。目を虚ろにさせたファイは、胸の奥底に凄まじい葛藤を抱えながら涙を流す。
もしこんな恥ずかしい姿を見られたら。声を聞かれたら。仕事上の立場以前に、人としてもう世間に顔向けできなくなってしまう。
なのに、もう。
(だめ、だめ、お願い帰って……! このままじゃオレ……!)
『ねぇー、もう明日にして帰ろうよー』
『せっかくお菓子とジュース買ってきたのにぃ』
(帰って! 帰って! もう、ダメ……!)
膝が、内腿が、小刻みに痙攣する。黒鋼の切っ先がファイの弱点を強く擦り上げた瞬間、全身が硬直して目の前が白く弾けた。
『ちぇ、慰めてあげようと思ったのにぃ』
『どうせ黒鋼先生のメアド聞き出すのが目的だったくせにー』
『ち、違うったら!』
笑い声が遠ざかり、足音も聞こえなくなると、再び室内に静寂が満ちる。
そこで黒鋼はやっと動きを止めた。
「……おまえ、まさかイったのか?」
息を詰めたままビクンビクンとのたうつファイは、彼の言う通り達していた。
「ッ、ぁ、――ッ、ひ、ぃ……っ!!」
「おい?」
どういうわけか、絶頂が尾を引いたまま一向に収まらない。
ピンと糸が張り詰めたように身体を硬直させ、苦しげに呻くファイを見て、流石の黒鋼も戸惑っているのがわかった。
「と、まん、ない……ッ、たすけ……!」
黒鋼はファイの勃起したままの性器に触れ、それから床の濡れ具合に目を走らせると感慨の息を漏らした。
「すげぇな、おまえ」
なにひとつ飲みこめないまま溺れるだけのファイは、彼が一体何に感心しているのかがまるで理解できない。
ただ、この身が何かとてつもない状態に陥っているのだけは分かる。通常の絶頂感とは、何かが明らかに違うのだ。いうなれば身体の奥が熱暴走を起こし、そこに追いうちをかけるかのように雷が降り注いだような。
確かにイッているはずなのに、高い場所に打ち上げられたまま戻ることができない。恐ろしくなって、必死で首を左右に振った。
「や、だ! こわい……ッ! 気持ちいいの、とまんない……!!」
「どんな感じだ? ドライでイクってのは」
「ど、ラ……?」
黒鋼が低く笑い、背後から獣のように耳朶を噛まれる。
ファイの痴態は黒鋼の加虐性の火に、より一層の油を注いだらしい。痙攣を繰り返す身体に容赦のない突き上げが繰り返され、舌を噛みそうになる。
放りっぱなしの性器は射精による終わりに至れないまま、赤く腫れあがって薄い蜜だけをまき散らしていた。
いまだかつて経験したことのない無慈悲ともいえる快感に、このまま殺されてしまうような気がした。
「ッ、! ひ、ぎ……ッ、ゃ、め! くろ、ま、た、イッ――!!」
「好きなだけイっちまえ」
視界が白と赤に点滅したまま、元に戻らなかった。
おそらく二度目であろう絶頂にも終わりがなくて、ひたすら上昇を続けるそれにどれほど泣いても、黒鋼はファイを解放しない。
机に縋っていてさえ立っていられず、膝から床に崩れ落ちてからも、気が狂いそうなほどに攻めは続いた。
一切の間を与えず訪れた三度目に、いよいよ神経の糸が焼き切れる寸前で、黒鋼が低く呻いた。引き抜かれた性器が放つ熱い迸りが尻や白衣を汚す。
黒鋼が絶頂の余韻に呼吸を荒げながら、ファイの勃起したままの性器に触れた。幾度か扱かれ、ファイもそこでようやく射精するに至った。
勢いよく噴き出すというよりは、どろどろと垂れ流すような長い射精だった。
*
「生きてるか?」
ペチペチと頬を緩く叩かれて、ファイはずっしりと重たい瞼をこじ開けた。
少しの間、意識を失っていたらしい。ぼんやりとしたまま視線を走らせて、自分が胡坐をかいた黒鋼の腕の中に横抱きの形で座り込んでいることに気がつく。
身なりはすっかり整えられているが、確かに着ていたはずの白衣だけが脱がされており、床にぐしゃぐしゃの状態で放られている。
咄嗟の後始末に利用されたようだ。せっかく新品だったのに……と打ちひしがれるファイを余所に、黒鋼は満足そうだった。
苛めすぎたなと、そんなことを口走りながら強く抱きしめてくる。
もう少し意識がはっきりしていたら、一発殴るくらいのことはしていたかもしれない。
「黒たんのばか! いじめっ子ー!」
拳を握る力すらなく、ファイはただ震えながら掠れた声を張り上げた。やっぱりこの男は成長過程で何かしら道を踏み外してきたに違いない。
純粋で真っ直ぐだった少年が、今やサドっ気たっぷりに成長しきっていたことに、切なさすら覚える。
「満足したならいいじゃねぇか」
「過ぎたるはなんとかかんとかだよー!」
「知らねぇなら無理して難しいこと言おうとすんな」
(もー! やっぱりおっきい黒ワンコは可愛くないー!!)
もはや口ですら勝てないような気がして、ファイは真っ赤な顔を乱暴にその胸に擦り付ける。
黒鋼は鼻で笑いながら、すっかり乱れた金の髪をくしゃくしゃとさらに乱した。
面白くないなぁなんて感じつつ、先に欲しがったのは自分だし、途中からえらいことにはなったものの、心も身体も十分すぎるくらい満たされているのは事実だった。
これだけ壮絶な体験をしてしまえば、全く別の意味でトラウマになってしまうような気がしないでもないが……。
「なぁ、機嫌直せよ」
ぷうっと頬を膨らませるファイの目尻に、小さなキスが落とされた。それだけで乙女のようにキュンとしてしまう自分が情けない。
ただのドSな俺様野郎かと思いきや、事後のケアまでしっかりこなすのだから、本当に恐ろしい男だと思った。
顔を赤らめつつ、照れ臭さと悔しさがない交ぜになっているファイの複雑さなど知りもせず、黒鋼は金色の髪を梳いては口付け、決して身を離そうとしない。
このまま放っておけばまた火がつきかねないと危機感を覚えた時、ふと窓の外がすっかり暗くなっていることに気付いてハッとする。そういえば室内に灯りが灯されていることにも、たった今気がついた。
「あー!!」
「なんだよ」
「黒様! 飲み会行かなくていいの!?」
「あ? ああ、それか」
「早く行かないとみんな待ってるよー!」
「いや、いい」
「?」
焦るファイとは対照的に、黒鋼はまるで気にしていない様子だった。
「はなから行くつもりなんざなかったからな」
「え、なんで?」
きょとんとして首を傾げると、彼はガリガリと頭を掻きながらそっぽを向いた。
「……察しろ、阿呆」
「ッ!」
もうこれ以上は無理というところまで、頬が紅潮していくのを感じる。
そうか、そういうことか。彼はちゃんと、最後の夜を一緒に過ごしてくれるつもりでいたのか。
いつだって何を差し置いてもこちらを優先してくれる黒鋼の愛情に、なんだか砂糖を吐きだしそうなくらい甘ったるい気分になる。
さっきまで一人悶々としながら不貞腐れていたことへの恥ずかしさも手伝って、眉尻を下げながらファイは「えへへ」とはにかんだ。
黒鋼も照れ臭くてしょうがないのか、ムッとした顔をしながらそんなファイの頬を軽くつついた。
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カーテンを閉め切った薄暗い室内には、それでも微かに夕日の橙が零れて二つの陰影をより際立たせる。
窓を背にして机に腰を落ち着けたファイは、今ではあまり見下ろせなくなった黒鋼の瞳を覗きこんだ。大きなビー玉のようだったそれはスッキリとした切れ長の形に整い、燃えるような赤だけが今はただ懐かしい。
昔はいつまでも変わらず幼いままでいてほしいと願っていた。小さな子供だった彼のことが可愛くて、いつかの子犬と重ねて見ていた節もある。
だから再会してすぐの時は、あまりにも記憶の中の姿とかけ離れていたものだから、認めたくなくて突っぱねてしまった。
それが今ではどうだ。成長した黒鋼はその逞しいオスの魅力で、ファイをメスのようにいとも簡単に発情させる。
下から掬われるように受ける口付けは力強いのに優しくて、奪うように激しいのに、ファイの中に溢れるほどの優しい愛を注ぐようだった。
同じだけ返せているのか自信はないけれど、必死でそれに答えながら震える指先をワイシャツのボタンとネクタイを解くために動かした。
黒鋼の大きな手もファイの白衣はそのままにインナーの裾に忍び込む。それを胸の上までたくしあげられたとき、絡めとられた舌を吸われて肩が跳ねた。
どうにか外すことに成功していたネクタイを床に落とし、ボタンを中途半端に外したところでファイは動けなくなった。その首に両腕を回してしがみつくだけで精一杯で、せめて唾液の一滴も逃してなるものかと貪ることに夢中になる。
血液がどんどん沸騰して、肌の表面を粟立たせるのを感じた。
「は、ぁ……ッ」
黒鋼の指先が皮膚をなぞり、胸の粒を掠めた。
咄嗟に喉を反らすと糸を引きながら離れる唇が名残惜しくて、頭を引き寄せるけれど、黒鋼はファイの痣の残る口端に音を立てて口付けるだけだった。
そのまま獣が傷を癒すように幾度か舌を這わされて、くすぐったさに身体が揺れる。
「ふふ、くすぐったいってば」
「……残るか?」
「ん」
「これ、残るか?」
武骨な指先が、星座をなぞるような繊細さで皮膚の上の幾つもの小さな瘡蓋をたどる。温もりに乗せられた労わりを肌で感じて、少しだけ泣きたい気持ちになった。ゆっくりと首を左右に振るファイに、黒鋼は切なげに赤い瞳を細めた。
「残らないよ」
彼の方が、ずっと傷ついているように見えるのはなぜだろう。
羽根に触れるような気持ちでそっと両頬を包み込んで、その額にこつんと自分の額を押し付けた。
「黒たんが、いっぱい愛してくれたらね」
喉を隆起させながら零された熱い吐息に、肌をくすぐられる。
再び重ねられた唇はすぐに離れたけれど、首筋や耳の裏側を這いながら水音を響かせて、ファイを甘く震えさせた。
大きな手が胸に這わされると、親指で小さく膨らんだ粒を擦り上げる。咄嗟にあがったか細い悲鳴に、黒鋼が耳元で笑った気がした。
「弱いな、ここが」
低い囁きにゾクゾクと背筋を電流が駆け抜けて、思わず首を嫌々と振る。
スーツの肩口にくっきりと皺が刻まれるほど強く爪を立て、縋りついていなければ蕩けて消えてしまいそうだった。
「違う、よ……」
「どう違う?」
「声、が」
「声?」
黒鋼の指先が硬くしこったその一点をきゅっと摘まみ、転がしてはファイが示す反応を楽しんでいる。
甘ったるいのに切なくて、むずむずするようなその刺激にじれったさを感じつつも、ファイを最も狂わすのはその低い声に他ならない。
「あっ、ん、声……黒たんの声……っ」
「そんなに好きか」
「ん、好き……おかしく、なる……」
ふっと小さく吹き出す息が耳朶をくすぐる。低いが芯のあるそれが、欲情して僅かに掠れているのが堪らなかった。
この声に命じられれば、どんな恥ずかしいことだって従ってしまうかもしれない。嫌というほど苛めてほしいし、気が狂うほど可愛がってほしい。
「ねぇ、早く……」
いてもたってもいられず急いた物言いをすれば、黒鋼は胸に這わせていた手をするりと下降させていく。
中心は張り詰めているのが傍目にも分かるほど、窮屈そうに布を押し上げていた。
手がそこにかぶさり、焦らすようにゆるゆると撫で摩る。どうしようもなく身体が震えるのを強く唇を噛みしめることで耐えながら、ファイは目尻に大粒の涙を貯め込んだ。
早く、と悲鳴を上げそうになったところで、ベルトを外される金属音にぐっと息を詰めた。
寛げられたそこから下着の中に指先が入り込み、そのままくの字に曲げて引っかけるようにして下にずらされると、張り詰めた性器が顔を覗かせた。
先端がすでに湿っているのが、微かに射しこむ光の中でもよく分かる。
「濡れてる」
「ん、ぅ……はずか、し……」
羞恥に耐えきれず零れそうになった涙を、ジャケットの肩に擦りつけて吸い込ませる。
黒鋼の手が白衣越しに背中を幾度か撫でて、同時に硬くなった性器に指が絡みついた。
「はぁッ、ん……!」
大きく腰が跳ね、机が軋む。
必死で唇を噛んで声を殺そうとしても、黒鋼の手に包み込まれたそれが擦られて水音を響かせる度に、甘ったるい痺れが頭の天辺にまで届いて押さえきれなかった。
「あっ、ま、いく……ッ、や……!」
「しんどいだろ。一回イッとけ」
「だめ、だめ、おねがい……ッ」
痙攣する内腿が限界を知らせ、ファイはこのまま飲みこまれてしまいたい欲求に突き動かされながらも、咄嗟に太い手首を掴んで遠ざけた。
高ぶったまま放りだされた性器が、先走りを零しながら切なく揺れる。
「なんだ、我慢すんな」
「違う、よ……イクの、黒たんのじゃなきゃヤダ……一緒がいいの」
今すぐこの張り詰めた欲求を解放したい気持ちはあるけれど、自分だけ先走るのはどうしても嫌だった。黒鋼にも同じように気持ち良くなってほしい。一刻も早く同じ熱を分け合いたい。
潤んだ瞳で切実に訴えて見せれば、黒鋼は眉間の皺を濃くしながら小さく息を詰めた。それから、深い溜息を零してがっくりとファイの胸に顔を埋めて来る。
何かおかしなことを言ってしまったのだろうか。緩く首を傾げながらその頭部を緩く抱きこむ。
「ど、どしたの?」
「……堪ったもんじゃねぇよ」
「黒たん、耳まで真っ赤だ……」
不思議そうに呟くと、ぶっきらぼうな声が「うるせぇ」と吐き捨てて、乱暴に手を振り払われてしまった。
*
机に上半身を預けるように伏してしまえば、背後にいる黒鋼に丁度いい高さに尻を突き出す姿勢になった。
下着ごとすっかり地に落ちたスラックスが足首に絡みつき、かろうじて袖を通しているだけの白衣は腰に引っかける形でめくり上げられている。
男らしい節くれだった指が二本、潤滑剤代わりに引っ張り出したハンドクリームの助けを借りて、ぬるぬると中で蠢いている。
羞恥心は全身の皮膚の内側で沸々と煮えたぎり、健全な学び舎で淫らな行為に耽る罪悪感が、剥がれ落ちてしまったはずの理性をうっすらと蘇らせた。ねっとりと濡れた音が、今更のようにいたたまれなさの糸を引く。
それでも黒鋼によってゆっくりと開かれていく身体の奥が、狂おしく疼いて仕方がない。出入りする指の節が肉襞に引っかかる度に腰が跳ねた。
「は、んッ、ね……も、いい……」
堪え切れず、身体を捻って背後へ視線を向けると訴えた。
ちらりとだけ目を合わせてきた黒鋼は、表情こそ平然としてはいるものの、額にうっすら汗を滲ませている。
本当は自分だって余裕がないくせに、こんなときまで時間をかけて慣らさなくてもいいのに。優しい彼は初めての時、ファイが散々泣き喚いたことを未だに気にしているに違いない。
ファイだって、あんな酷い思いは二度としたくないと思っていた。それが今はその痛みすら一刻も早く自分のものにしたくて堪らない。
「ねぇ……っ」
「うるせぇな」
さらに急かせば、咎めるように指が内側をぐるりと擦った。ひ、と声にならない悲鳴を上げたファイは、一度大きく背を反らしたあと、くったりとまた机に伏してしまう。
はくはくと浅い呼吸を繰り返しながら涙を滲ませる自分は、急所に浅く牙を突きたてられながら、焦らすように生かされる草食動物のようだ。
いっそ人思いにトドメを刺してくれた方がよほどいい。訪れる瞬間をただ待ちわびるのは、ひたすら辛いだけだった。
「泣く思いすんのはてめぇだぞ」
ファイだって、まだ気持ちの準備しか整っていないことは承知している。でもこれ以上は待てなかった。早く中をいっぱいに満たして、掻き回してほしい。
中途半端に高ぶらされたまま放りだされている性器が、ぽたぽたと先走りを零して床を汚していた。
「お願い……痛くてもいいから、もう我慢するの、嫌……」
出て行こうとする指を、無意識にきゅっと締め付けた。
黒鋼が舌を打つのが分かる。抗うように乱暴に引き抜かれ、寒気にも似た痺れにぶるりと震える。
今度は首だけ動かすと、微かな金属音と共に黒鋼が前を寛げる様子が視界の端に映った。取り出された赤黒い性器は血管がくっきりと浮き上がるほど勃起していて、あれを飲み込むのだと思うと、未だに信じられなかった。
黒鋼の大きな手が薄い尻の肉を幾度か揉みほぐし、ついに先端が押し付けられた。期待と歓喜に吐息が漏れる。
「ッ――!」
がっちりと腰を掴まれ、引き寄せられると同時に黒鋼も腰を進める。
穴が限界まで押し広げられるような引き攣った感覚と、徐々に潜り込んでくる巨大な熱の塊に、息ができない。
「ひ、ぅ……! ――ッ!!」
いっそ大きな声で叫べたら、感覚的に多少は楽だったのかもしれないが、待ちわびた瞬間でさえここがどこであるかを忘れることはできなかった。
だからこそ背徳的な快楽が、確かにあるはずの痛みを麻痺させる。
黒鋼が微かに零す苦しげな呻きが耳の裏側に押しつけられて、背中に受け止める鼓動が身体だけでなく心まで埋め尽くすようだった。
「やっぱ狭ぇな……」
「くろ、た……」
息も絶え絶えに首を捻ると同時に背後から伸びて来た手がファイの顎をさらい、噛みつくように唇が押し付けられた。
最後の一押しとばかりにズンと腰を打ちつけられ、脳天を貫くような衝撃に漏れそうになった悲鳴も全て奪われる。
酸欠に伴い頭の芯が痺れはじめ、それは身体の内側から四肢の先に至るまで急速に広がった。
中で脈打つ熱が愛しくて、支配されているという実感が止め処なく悦びを増幅させる。
「ふぅ、ん……ッ」
強く擦りつけるように舌を絡め合い、二人分の唾液がファイの口の端を伝った。
抽挿が開始されると唇はおのずと離れた。黒鋼の手も顎から離れ、ファイが崩れ落ちないようにとしっかり腰に回される。
それでも奥を突かれる度に膝が踊り、床から踵が浮き上がる。
「ひッ、ぁ、すご、ぃ、響く……っ」
脈打つ肉棒が内壁を強く擦り上げ、そこから生まれる電流が全身を稲妻のように駆け巡る。
どうにかして声を抑えようと下唇に歯を立てても、突き上げられる度にぽっかりと口が開いてしまう。
腰から下がぐずぐずに溶けてしまいそうな快感に、気が触れそうだった。
(オレ、先生なのに……)
学校という場所で、教師という立場で。
年下の男に尻を向けて腰を振り、太い楔に穿たれながら女のように啼いている。正気の沙汰とは思えない状況が、むしろ感情を高ぶらせることに拍車をかけた。
締め付けがきついのか、時折漏れ聞こえる黒鋼の低い呻きが鼓膜を揺るがす。限界がすぐ目の前に迫っていた。
「い、ぁ! イッく……!」
視界が白に染まりかけた、まさにその瞬間。
――ガタンッ
背後で扉が悲鳴を上げて、重なり合う二人は同時に息を飲むと硬直した。
『あれ、鍵かかってる。ファイ先生ー?』
その声は、聞き覚えのある女子生徒のものだった。
『おかしいなー。なんか物音が聞こえてたと思ったんだけど……』
『鍵かけて寝てるとか?』
『あはは! ファイ先生ならありえるー!』
生徒は一人ではなく、複数いるようだった。
震える両手で咄嗟に唇を覆い隠しながら、心臓がドカドカと音を立て、冷や汗が背筋を伝う。
ふ、と耳元で黒鋼が小さく笑った。
「モテる教師は辛ぇな」
「ッ、なに言って……」
小声で耳元に囁く声はどこか楽しげで、こんな状況でよくも落ち着いていられるものだと焦りが増した。
何の用があるかは知らないが、今は諦めてもらうより他にない。一刻も早く帰ってくれと願うばかりのファイだったが、次の瞬間ひゅっと息を飲んだ。
「――ッ!?」
信じられないことに、黒鋼がゆっくりと腰をグラインドさせた。
同時に背後から伸びて来た手が、口元を覆っていたファイの手にかぶさり強く押さえつける。
「ッ!? ぅ……!?」
無理に振り向こうとしても身動きができず、体重でもって机に強く押しつけられたままどうにもできない。
黒鋼はゆっくりと腰を前後に揺らし、ファイの感じる場所を目がけてわざとらしく刺激する。
(う、嘘……ほんとになに考えてるの!?)
「~~ッ!! ッ、ぅ……! ッ――!!」
凍りついたように動きを止めていた神経を、強制的に揺さぶられる。
息もできないまま煽られる性感が、窮地にあっていっそう増していくのを止められない。
『ねぇ、やっぱいま声しなかった?』
『ファイ先生ほんとにいないのー?』
ぐ、ぐ、と肉棒に穿たれる中、女子生徒達の声が酷く遠くに聞こえる。目を虚ろにさせたファイは、胸の奥底に凄まじい葛藤を抱えながら涙を流す。
もしこんな恥ずかしい姿を見られたら。声を聞かれたら。仕事上の立場以前に、人としてもう世間に顔向けできなくなってしまう。
なのに、もう。
(だめ、だめ、お願い帰って……! このままじゃオレ……!)
『ねぇー、もう明日にして帰ろうよー』
『せっかくお菓子とジュース買ってきたのにぃ』
(帰って! 帰って! もう、ダメ……!)
膝が、内腿が、小刻みに痙攣する。黒鋼の切っ先がファイの弱点を強く擦り上げた瞬間、全身が硬直して目の前が白く弾けた。
『ちぇ、慰めてあげようと思ったのにぃ』
『どうせ黒鋼先生のメアド聞き出すのが目的だったくせにー』
『ち、違うったら!』
笑い声が遠ざかり、足音も聞こえなくなると、再び室内に静寂が満ちる。
そこで黒鋼はやっと動きを止めた。
「……おまえ、まさかイったのか?」
息を詰めたままビクンビクンとのたうつファイは、彼の言う通り達していた。
「ッ、ぁ、――ッ、ひ、ぃ……っ!!」
「おい?」
どういうわけか、絶頂が尾を引いたまま一向に収まらない。
ピンと糸が張り詰めたように身体を硬直させ、苦しげに呻くファイを見て、流石の黒鋼も戸惑っているのがわかった。
「と、まん、ない……ッ、たすけ……!」
黒鋼はファイの勃起したままの性器に触れ、それから床の濡れ具合に目を走らせると感慨の息を漏らした。
「すげぇな、おまえ」
なにひとつ飲みこめないまま溺れるだけのファイは、彼が一体何に感心しているのかがまるで理解できない。
ただ、この身が何かとてつもない状態に陥っているのだけは分かる。通常の絶頂感とは、何かが明らかに違うのだ。いうなれば身体の奥が熱暴走を起こし、そこに追いうちをかけるかのように雷が降り注いだような。
確かにイッているはずなのに、高い場所に打ち上げられたまま戻ることができない。恐ろしくなって、必死で首を左右に振った。
「や、だ! こわい……ッ! 気持ちいいの、とまんない……!!」
「どんな感じだ? ドライでイクってのは」
「ど、ラ……?」
黒鋼が低く笑い、背後から獣のように耳朶を噛まれる。
ファイの痴態は黒鋼の加虐性の火に、より一層の油を注いだらしい。痙攣を繰り返す身体に容赦のない突き上げが繰り返され、舌を噛みそうになる。
放りっぱなしの性器は射精による終わりに至れないまま、赤く腫れあがって薄い蜜だけをまき散らしていた。
いまだかつて経験したことのない無慈悲ともいえる快感に、このまま殺されてしまうような気がした。
「ッ、! ひ、ぎ……ッ、ゃ、め! くろ、ま、た、イッ――!!」
「好きなだけイっちまえ」
視界が白と赤に点滅したまま、元に戻らなかった。
おそらく二度目であろう絶頂にも終わりがなくて、ひたすら上昇を続けるそれにどれほど泣いても、黒鋼はファイを解放しない。
机に縋っていてさえ立っていられず、膝から床に崩れ落ちてからも、気が狂いそうなほどに攻めは続いた。
一切の間を与えず訪れた三度目に、いよいよ神経の糸が焼き切れる寸前で、黒鋼が低く呻いた。引き抜かれた性器が放つ熱い迸りが尻や白衣を汚す。
黒鋼が絶頂の余韻に呼吸を荒げながら、ファイの勃起したままの性器に触れた。幾度か扱かれ、ファイもそこでようやく射精するに至った。
勢いよく噴き出すというよりは、どろどろと垂れ流すような長い射精だった。
*
「生きてるか?」
ペチペチと頬を緩く叩かれて、ファイはずっしりと重たい瞼をこじ開けた。
少しの間、意識を失っていたらしい。ぼんやりとしたまま視線を走らせて、自分が胡坐をかいた黒鋼の腕の中に横抱きの形で座り込んでいることに気がつく。
身なりはすっかり整えられているが、確かに着ていたはずの白衣だけが脱がされており、床にぐしゃぐしゃの状態で放られている。
咄嗟の後始末に利用されたようだ。せっかく新品だったのに……と打ちひしがれるファイを余所に、黒鋼は満足そうだった。
苛めすぎたなと、そんなことを口走りながら強く抱きしめてくる。
もう少し意識がはっきりしていたら、一発殴るくらいのことはしていたかもしれない。
「黒たんのばか! いじめっ子ー!」
拳を握る力すらなく、ファイはただ震えながら掠れた声を張り上げた。やっぱりこの男は成長過程で何かしら道を踏み外してきたに違いない。
純粋で真っ直ぐだった少年が、今やサドっ気たっぷりに成長しきっていたことに、切なさすら覚える。
「満足したならいいじゃねぇか」
「過ぎたるはなんとかかんとかだよー!」
「知らねぇなら無理して難しいこと言おうとすんな」
(もー! やっぱりおっきい黒ワンコは可愛くないー!!)
もはや口ですら勝てないような気がして、ファイは真っ赤な顔を乱暴にその胸に擦り付ける。
黒鋼は鼻で笑いながら、すっかり乱れた金の髪をくしゃくしゃとさらに乱した。
面白くないなぁなんて感じつつ、先に欲しがったのは自分だし、途中からえらいことにはなったものの、心も身体も十分すぎるくらい満たされているのは事実だった。
これだけ壮絶な体験をしてしまえば、全く別の意味でトラウマになってしまうような気がしないでもないが……。
「なぁ、機嫌直せよ」
ぷうっと頬を膨らませるファイの目尻に、小さなキスが落とされた。それだけで乙女のようにキュンとしてしまう自分が情けない。
ただのドSな俺様野郎かと思いきや、事後のケアまでしっかりこなすのだから、本当に恐ろしい男だと思った。
顔を赤らめつつ、照れ臭さと悔しさがない交ぜになっているファイの複雑さなど知りもせず、黒鋼は金色の髪を梳いては口付け、決して身を離そうとしない。
このまま放っておけばまた火がつきかねないと危機感を覚えた時、ふと窓の外がすっかり暗くなっていることに気付いてハッとする。そういえば室内に灯りが灯されていることにも、たった今気がついた。
「あー!!」
「なんだよ」
「黒様! 飲み会行かなくていいの!?」
「あ? ああ、それか」
「早く行かないとみんな待ってるよー!」
「いや、いい」
「?」
焦るファイとは対照的に、黒鋼はまるで気にしていない様子だった。
「はなから行くつもりなんざなかったからな」
「え、なんで?」
きょとんとして首を傾げると、彼はガリガリと頭を掻きながらそっぽを向いた。
「……察しろ、阿呆」
「ッ!」
もうこれ以上は無理というところまで、頬が紅潮していくのを感じる。
そうか、そういうことか。彼はちゃんと、最後の夜を一緒に過ごしてくれるつもりでいたのか。
いつだって何を差し置いてもこちらを優先してくれる黒鋼の愛情に、なんだか砂糖を吐きだしそうなくらい甘ったるい気分になる。
さっきまで一人悶々としながら不貞腐れていたことへの恥ずかしさも手伝って、眉尻を下げながらファイは「えへへ」とはにかんだ。
黒鋼も照れ臭くてしょうがないのか、ムッとした顔をしながらそんなファイの頬を軽くつついた。
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月曜の騒動を受けて学園中は一時騒然とし、新聞の片隅で小さく取り上げられたりもした。
顔の腫れは数日経ってようやくマシにはなったものの、切れた口元にはまだ痛々しい痣が残っている。身体の傷も意外にしつこく消えずにいるが、見えないぶん人目に触れることはない。ただ、ちょっと気を抜くと無意識に引っ掻いてはかさぶたを剥いでしまうこともしばしばあった。
すっかり駄目にされたというより、とてもではないが袖を通す気になれない白衣は処分し、今は新品の皺ひとつないものを身につけている。
後日に伸ばした事情聴取や病院での検査をはじめ、酷い切り方をされた髪を整えるべく、理髪店に足を運んだりとバタバタする中、生徒達はもちろん同僚の教師達、そして教頭や校長まで腫れ物を扱うように接してくるのは申し訳ない半面、少し疲れる。
なにも動けないほどの傷を負わされたわけではないのだから、周りと自分の温度差に戸惑うこともしばしばあった。
あの用務員のことは、今でも許せない。それでもほんの少しだけ、可哀想にも感じられる。他にいくらでもアプローチの仕方はあっただろうに、人との関わり方を正しく知らない彼は、この先もずっと『最愛』を得ることなく生き続けることになるのだろうか。
黒鋼とは、相変わらずただ同じベッドでひっついて眠るだけに落ち着いていた。
忙しいのは分かるのだが、一時は隙あらば触れて来た黒鋼が、あれから全く手を出して寄こさないというのは、どういう了見だろうか。
寝る時はしっかりと抱き込んで離さないくせに、キスのひとつもして来ないなんて。こちらはようやく気持ちを自覚し、いつでも準備万端な状態だというのに。
しかし彼にとっては、今が人生で最も大事な時期であるといっても過言ではないのだ。本来なら惚れた腫れたとうつつを抜かしている場合ではない。
今しばらくの辛抱だと、ファイは黒鋼に触れたい欲求をぐっと堪えているのだった。
*
金曜日、ついに黒鋼の実習が最終日を迎えた。
一階の体育館を一望できる二階の吹き抜けフロアで、ファイは手すりに両肘を預けて彼の最後の授業を見物していた。
実習生の集大成ともいえる公開授業にあたるこの枠を、他にも手の開いた教師達が幾人か訪れて微笑ましそうに眺めている。
種目はバスケットのようで、試合を前にシュートのコツなどを黒鋼自身が実践して生徒達に指導している様子が見て取れた。
(そういえば黒たんって中学でバスケ部だったっけ)
彼の母親が、こっそり「背を伸ばしたいんですって」と教えてくれたのを思い出す。
そんなのただの噂に過ぎないのになぁなんて笑っていた頃、まさか黒鋼があんなにも大きく成長するなんて、予想もしていなかった。
その成長過程を近くで見ていられなかったことを、つくづく口惜しく感じる。
「ちぇー、かっこよくなっちゃって。ずるいなー」
ちょこん、と唇を尖らせながらファイは僅かに頬を火照らせた。
確かにスーツ姿もいいが、黒鋼は何を着ていたって男前だ。いっそ真っ裸でいたってかっこいいし、実は可愛いところもある。
それは昔のように、ただ小さいから可愛い、というのとは少し違う。
男である自分に母性本能なんて呼べるものがあるのかは知らないが、多分それと似たような感覚なのかもしれない。
ふとした瞬間に見せる仕草や表情、物言いが、ファイの心を柔らかくくすぐる。
再会した頃はまるで別人のように感じられたが、今のファイは彼が昔から何ひとつ変わっていないことをよく知っている。優しくて、可愛くて、純粋でひたむきな男なのだということを。
そんなこと、密かに彼に思いを寄せる女子生徒達には、絶対に教えてやらないけれど。
(だってあれ、オレのだからね)
こんな風に年甲斐もなく十代の少女たちを相手に優越感に浸ってしまう自分は、相当情けない大人だと思った。
*
その日の放課後。
あの事件以来、必要最低限の利用だけに留めていた化学準備室に一人閉じ籠り、ファイは大きなゴミ袋を手に引っ提げていた。
少しは綺麗にしろと偉そうに誰かさんに言われたこともあり、机の中身や、ついでに棚に入っている不要な書類なども全て片付けるつもりだった。
いくら嫌な出来事があった場所といえども、この先も利用しなければならない部屋なのだし。
黒鋼は担当していたクラスでサプライズの送別会があるとかで、まだ戻っていない。それが終わったら、今夜は他の実習生とその担当教官とで飲み会があるとのことだった。
他にも都合のつく教師達も参加するらしいが、ファイはなんとなく辞退した。例の一件のほとぼりが冷めるまでは、きっとどこへ行っても周りに気を使わせることになるからだ。
それに。
正直、ちょっと不貞腐れてもいる。
実習が終わったということは、黒鋼が部屋に居続ける理由はもうない、ということだ。だから一緒に過ごせるのは今夜が最後ということになるわけで。
結局お預けになるのか、なんてがっかりしている自分は、どれだけの欲求不満を持て余しているのかと、自己嫌悪に溜息が尽きない。
そもそも、それ以前に黒鋼は今後こちらに手を出す気があるのかないのか。少し不安になったりもする。
なんだか全く余裕がない。そして面白くない。こちらばかりが心を砕いているようで。
「あー、もう! やめやめ!」
ファイは思いっきり頭を左右に振ると、もやもやとした気持ちを無理やりにでも押しやる。とにかく今は煩悩を遠ざけるため、掃除に没頭することに決めた。
床に膝をついて、カオス状態の机の中をゴソゴソと漁る。びっくりするくらい不必要なガラクタばかりで、これでは黒鋼が呆れかえるのも無理はないと思った。
いつから入っているか知れない飴玉は溶けて、チョコは真っ白に変色しているし、いらないプリント類や古い雑誌なども大量に出て来た。
「あ、これ!」
そんな中に顔を出したのは、色鮮やかなビーズで作られたオモチャのブレスレットだった。
これは昔、近所の夏祭りの帰りに黒鋼から貰ったものだ。
ファイはこれをずっとお守りのように身に着けていたが、この学園に赴任した時に口うるさい年配教師に「いい歳なのだからやめなさい」などと咎められ、仕方なくここにしまい込んだのだった。
その教師はもう定年で退職してここにはいないしと、ファイは嬉々としてそれを左の手首に通した。
「わーい! これオレの宝物ー!」
その割には、今の今まですっかり忘れていたのだが。何度か切れてしまって、その度に少しずつビーズは減ってしまったけれど、その度に直しては大事にしていたつもりだ。
これは黒鋼が、初めてファイにくれたものだから。
「なに一人ではしゃいでんだかな」
「わ!?」
声がして咄嗟に振り向けば、そこには開け放たれていたドア(修理済み)に背を預け、腕を組んだ黒鋼の姿があった。
「お、掃除か」
「ビックリしたー……驚かさないでよー」
送別会を終えたらしい彼は、ジャージから黒のスーツ姿に着替え終えている。
あまりに唐突に声をかけられたせいで少しばかり驚いてしまったが、ファイは気を取り直してふにゃりと笑った。
「今夜は飲み会だよねー? オレは留守番してるから、みんなと楽しんでおいでよー」
一応は我儘な本心を隠して、理解ある大人の態度を示してみる。
黒鋼はそんなファイの手首にはめられているビーズアクセサリーに目を止め、少し呆れた様子で傍までやって来ると、しゃがみ込んだ。
「それ、まだ持ってたのか」
「ふふふ、懐かしいでしょー?」
「馬鹿か。いい歳こいて」
「わー、どっかの誰かさんと同じこと言うんだー」
つんと唇を尖らせると、黒鋼の眉がピクリと動いた。
「どっかの誰かってのはどこのどいつだ? てめぇこら、おい」
「ちょ、怖い顔しないでよー……やきもち?」
「悪いかこの阿呆」
「ッ!」
少女漫画でもあるまいし。きゅん、なんて音がピッタリくるような胸の高鳴りを覚えながら、痣の残る頬を赤く染めた。
小さな子供なら3秒で泣きだしそうな怖い顔をしながら、黒鋼はそんなファイの顎を掴んで上向ける。
目が合うとどうしたらいいか分からなくなって、視線だけ外そうとしたところで唇を奪われた。
「!」
ビクリと肩を揺らし、目を見開いたのは一瞬で、すぐに力を抜くと目を閉じる。唇はすぐに離れたが、たったこれだけで目が潤んでしまうのが心底恥ずかしい。
ファイは顎に添えられたままの黒鋼の手首を取って、咄嗟に赤い顔を背ける。
「また誰かに、見られたら……」
「悪い」
ファイの手を擦り抜けて、黒鋼の手が離れていこうとする。それを目で追いながら、下から突き上げられるような焦燥を覚えた。
ようやく黒鋼から、こうして触れてくれたのに。
衝動的にファイは手を伸ばし、太い手首をぎゅっと握ると震えた息を吐き出した。
「……ね」
「……おう」
「でも、でもね……」
(ああもう……なにバカなこと考えて……)
そのまま石のように動かなくなってしまったファイを、黒鋼はただ黙って見守っている。
先を促されていることは承知の上で、言うべき言葉が即座に口から出てこない。本当はもっと触れてほしいし、抱きしめてほしい。以前のように強引にでも奪って暴いて、何も分からなくなるくらい追いつめてほしかった。
「……あのね」
そうだ。この場所も、いけない。
「あいつの感触、まだ残ってて」
「…………」
「ここにいると、これからもずっと思い出しちゃうのかなって……だから」
……だから?
その先を言いかけて、結局は口を噤んだ。
やっぱりいけない。こんな場所で年甲斐も見境もなく、欲しいだなんて。
ファイは情けなく眉を八の字にしながら「あはは」と笑うと、黒鋼の手首を解放した。
「やっぱりなんでもない。今のは聞かなかったことにして。ほら、飲み行くんでしょ?」
行っておいで、と続けようとして、今度は逆に手首を取られた。
大きく目を見開いたファイが視界に捉えたのは、どこか切羽詰まったように唇を引き結び、瞳を細める黒鋼の表情だった。
「く、くろ」
「出来るわけねぇだろ。しっかり聞いちまったもんはよ」
「……ごめん」
「……いいのか」
「ぇ……?」
黒鋼のもう片方の手が伸びて、ファイの未だに痛々しい痕の残る頬を包みこんだ。導かれるように見上げれば、燃えるような赤い瞳と視線がぶつかる。
その赤に、まるで囚われたように身動き一つ取れなくなった。ただ、身体が熱くなる。
「あんなことがあった後で……いいのか?」
「……?」
半ば惚けた状態でいたファイは一瞬、質問の意図が掴めず小首を傾げた。
常に不遜な態度でいた彼が、何やら珍しく躊躇っているらしいことが伝わってくる。
「怖ぇ目にあったばっかだろ。その、だからよ……」
視線だけ余所へやる黒鋼の、いつになく歯切れの悪い台詞を聞いたファイは暫しの間、口をポカンと開けたままだった。ついでにパチパチと忙しなく瞬きを繰り返す。
そしてふと、合点がいく。
なぜこの数日、彼がせいぜい抱き締めるだけで触れて来ようとしなかったのか、その理由に。
「黒たん……もしかして気を遣って……?」
「……悪ぃか」
つまり、彼は性的な暴行を受けた自分を気遣い、自らも性的に手を出すことに足踏みしていた、ということなのか。
「……ぷっ!」
「!?」
堪え切れずに吹き出してしまったファイを、人も殺せそうな鋭い目が睨みつけてくる。それさえも可笑しくて、結局声を上げて笑ってしまった。
確かに最低最悪な出来事だったし、思い出すと未だに吐き気が込み上げる。早く忘れてしまうのが一番だと理解はしていても、身体の傷を見る度にゾッとする瞬間だってある。だがそれよりもファイにとっては、あれ以来まったく黒鋼が手を出してこないことの方が大問題だった。
本当はもうちょっと怯えたり、傷ついている様を醸し出した方が可愛げがあるのだろうが、残念なことにファイはそこまでの繊細さは持ち合わせていなかった。
だから申し訳ないとは思いつつ、笑いを抑えきれない。
「ご、ごめ、あははは! もー! 黒たんはホントにいい子だなー!」
「うるせぇ! ちっと遠慮してやりゃこれか!」
「だ、だって! ぷふっ! い、いまさら……ッ」
「てめぇは昔っからこうだ」
うんざりしたように溜息を零しながらも、照れ臭そうに顔を赤らめる黒鋼は、思いっきり臍を曲げた様子で舌打ちをした。
きっと過去に散々からかわれたことを思い出しているのだろう。苦いものでも噛み潰したような表情が懐かしくて、幾つになってもやっぱり可愛いなぁ、なんて改めて実感してしまう。
ファイ自身、何がここまで可笑しいのか分からないくらい大笑いしてしまったことをほんの少しだけ反省しながらも、目尻に浮かんでいた涙を拭う。
「ごめんってばー。なんかホッとしちゃったっていうのもあって」
「ああ?」
「だって、あんなにがっついてた人が急になんにもしてこなくなるんだもん。今さら放置プレイなんて、ぜーんぜん笑えないよー」
「笑ってんじゃねぇか。思いっきり」
「そうだけどー。飽きられちゃったのかなーとか、色々考えちゃうよ」
「んなわけあるか。何年越しの成就だと思ってやがる」
「…………」
真っ直ぐに見つめられながらそんなことを言われたら、今度はこちらが照れて目を逸らす番だった。何か返したくてもごもごと口を動かそうとすれば「もう黙ってろ」という低い声と共に再び抱き締められて、身体ごと心臓が跳ねた。
こんな風にされるだけで、じわりと広がる甘ったるい感情が胸を満たして溢れそうになる。
広い腕の中にこうして収まりきってしまうと、自分という人間がどこまでもちっぽけな存在に思えた。
だから歳の差なんて遠くへ押しやって、甘えたくなる。
同じだけの強さでその背を抱き返しながら、今ならどんな恥ずかしい言葉だって平気で口に出来そうな気がした。
「黒たん、あのね」
「ん」
「オレ、黒たんじゃなきゃヤダって、あのとき気づいたんだ。だから」
だから。
「ここであったこと、忘れさせてくれないかな?」
←戻る ・ 次へ→
顔の腫れは数日経ってようやくマシにはなったものの、切れた口元にはまだ痛々しい痣が残っている。身体の傷も意外にしつこく消えずにいるが、見えないぶん人目に触れることはない。ただ、ちょっと気を抜くと無意識に引っ掻いてはかさぶたを剥いでしまうこともしばしばあった。
すっかり駄目にされたというより、とてもではないが袖を通す気になれない白衣は処分し、今は新品の皺ひとつないものを身につけている。
後日に伸ばした事情聴取や病院での検査をはじめ、酷い切り方をされた髪を整えるべく、理髪店に足を運んだりとバタバタする中、生徒達はもちろん同僚の教師達、そして教頭や校長まで腫れ物を扱うように接してくるのは申し訳ない半面、少し疲れる。
なにも動けないほどの傷を負わされたわけではないのだから、周りと自分の温度差に戸惑うこともしばしばあった。
あの用務員のことは、今でも許せない。それでもほんの少しだけ、可哀想にも感じられる。他にいくらでもアプローチの仕方はあっただろうに、人との関わり方を正しく知らない彼は、この先もずっと『最愛』を得ることなく生き続けることになるのだろうか。
黒鋼とは、相変わらずただ同じベッドでひっついて眠るだけに落ち着いていた。
忙しいのは分かるのだが、一時は隙あらば触れて来た黒鋼が、あれから全く手を出して寄こさないというのは、どういう了見だろうか。
寝る時はしっかりと抱き込んで離さないくせに、キスのひとつもして来ないなんて。こちらはようやく気持ちを自覚し、いつでも準備万端な状態だというのに。
しかし彼にとっては、今が人生で最も大事な時期であるといっても過言ではないのだ。本来なら惚れた腫れたとうつつを抜かしている場合ではない。
今しばらくの辛抱だと、ファイは黒鋼に触れたい欲求をぐっと堪えているのだった。
*
金曜日、ついに黒鋼の実習が最終日を迎えた。
一階の体育館を一望できる二階の吹き抜けフロアで、ファイは手すりに両肘を預けて彼の最後の授業を見物していた。
実習生の集大成ともいえる公開授業にあたるこの枠を、他にも手の開いた教師達が幾人か訪れて微笑ましそうに眺めている。
種目はバスケットのようで、試合を前にシュートのコツなどを黒鋼自身が実践して生徒達に指導している様子が見て取れた。
(そういえば黒たんって中学でバスケ部だったっけ)
彼の母親が、こっそり「背を伸ばしたいんですって」と教えてくれたのを思い出す。
そんなのただの噂に過ぎないのになぁなんて笑っていた頃、まさか黒鋼があんなにも大きく成長するなんて、予想もしていなかった。
その成長過程を近くで見ていられなかったことを、つくづく口惜しく感じる。
「ちぇー、かっこよくなっちゃって。ずるいなー」
ちょこん、と唇を尖らせながらファイは僅かに頬を火照らせた。
確かにスーツ姿もいいが、黒鋼は何を着ていたって男前だ。いっそ真っ裸でいたってかっこいいし、実は可愛いところもある。
それは昔のように、ただ小さいから可愛い、というのとは少し違う。
男である自分に母性本能なんて呼べるものがあるのかは知らないが、多分それと似たような感覚なのかもしれない。
ふとした瞬間に見せる仕草や表情、物言いが、ファイの心を柔らかくくすぐる。
再会した頃はまるで別人のように感じられたが、今のファイは彼が昔から何ひとつ変わっていないことをよく知っている。優しくて、可愛くて、純粋でひたむきな男なのだということを。
そんなこと、密かに彼に思いを寄せる女子生徒達には、絶対に教えてやらないけれど。
(だってあれ、オレのだからね)
こんな風に年甲斐もなく十代の少女たちを相手に優越感に浸ってしまう自分は、相当情けない大人だと思った。
*
その日の放課後。
あの事件以来、必要最低限の利用だけに留めていた化学準備室に一人閉じ籠り、ファイは大きなゴミ袋を手に引っ提げていた。
少しは綺麗にしろと偉そうに誰かさんに言われたこともあり、机の中身や、ついでに棚に入っている不要な書類なども全て片付けるつもりだった。
いくら嫌な出来事があった場所といえども、この先も利用しなければならない部屋なのだし。
黒鋼は担当していたクラスでサプライズの送別会があるとかで、まだ戻っていない。それが終わったら、今夜は他の実習生とその担当教官とで飲み会があるとのことだった。
他にも都合のつく教師達も参加するらしいが、ファイはなんとなく辞退した。例の一件のほとぼりが冷めるまでは、きっとどこへ行っても周りに気を使わせることになるからだ。
それに。
正直、ちょっと不貞腐れてもいる。
実習が終わったということは、黒鋼が部屋に居続ける理由はもうない、ということだ。だから一緒に過ごせるのは今夜が最後ということになるわけで。
結局お預けになるのか、なんてがっかりしている自分は、どれだけの欲求不満を持て余しているのかと、自己嫌悪に溜息が尽きない。
そもそも、それ以前に黒鋼は今後こちらに手を出す気があるのかないのか。少し不安になったりもする。
なんだか全く余裕がない。そして面白くない。こちらばかりが心を砕いているようで。
「あー、もう! やめやめ!」
ファイは思いっきり頭を左右に振ると、もやもやとした気持ちを無理やりにでも押しやる。とにかく今は煩悩を遠ざけるため、掃除に没頭することに決めた。
床に膝をついて、カオス状態の机の中をゴソゴソと漁る。びっくりするくらい不必要なガラクタばかりで、これでは黒鋼が呆れかえるのも無理はないと思った。
いつから入っているか知れない飴玉は溶けて、チョコは真っ白に変色しているし、いらないプリント類や古い雑誌なども大量に出て来た。
「あ、これ!」
そんな中に顔を出したのは、色鮮やかなビーズで作られたオモチャのブレスレットだった。
これは昔、近所の夏祭りの帰りに黒鋼から貰ったものだ。
ファイはこれをずっとお守りのように身に着けていたが、この学園に赴任した時に口うるさい年配教師に「いい歳なのだからやめなさい」などと咎められ、仕方なくここにしまい込んだのだった。
その教師はもう定年で退職してここにはいないしと、ファイは嬉々としてそれを左の手首に通した。
「わーい! これオレの宝物ー!」
その割には、今の今まですっかり忘れていたのだが。何度か切れてしまって、その度に少しずつビーズは減ってしまったけれど、その度に直しては大事にしていたつもりだ。
これは黒鋼が、初めてファイにくれたものだから。
「なに一人ではしゃいでんだかな」
「わ!?」
声がして咄嗟に振り向けば、そこには開け放たれていたドア(修理済み)に背を預け、腕を組んだ黒鋼の姿があった。
「お、掃除か」
「ビックリしたー……驚かさないでよー」
送別会を終えたらしい彼は、ジャージから黒のスーツ姿に着替え終えている。
あまりに唐突に声をかけられたせいで少しばかり驚いてしまったが、ファイは気を取り直してふにゃりと笑った。
「今夜は飲み会だよねー? オレは留守番してるから、みんなと楽しんでおいでよー」
一応は我儘な本心を隠して、理解ある大人の態度を示してみる。
黒鋼はそんなファイの手首にはめられているビーズアクセサリーに目を止め、少し呆れた様子で傍までやって来ると、しゃがみ込んだ。
「それ、まだ持ってたのか」
「ふふふ、懐かしいでしょー?」
「馬鹿か。いい歳こいて」
「わー、どっかの誰かさんと同じこと言うんだー」
つんと唇を尖らせると、黒鋼の眉がピクリと動いた。
「どっかの誰かってのはどこのどいつだ? てめぇこら、おい」
「ちょ、怖い顔しないでよー……やきもち?」
「悪いかこの阿呆」
「ッ!」
少女漫画でもあるまいし。きゅん、なんて音がピッタリくるような胸の高鳴りを覚えながら、痣の残る頬を赤く染めた。
小さな子供なら3秒で泣きだしそうな怖い顔をしながら、黒鋼はそんなファイの顎を掴んで上向ける。
目が合うとどうしたらいいか分からなくなって、視線だけ外そうとしたところで唇を奪われた。
「!」
ビクリと肩を揺らし、目を見開いたのは一瞬で、すぐに力を抜くと目を閉じる。唇はすぐに離れたが、たったこれだけで目が潤んでしまうのが心底恥ずかしい。
ファイは顎に添えられたままの黒鋼の手首を取って、咄嗟に赤い顔を背ける。
「また誰かに、見られたら……」
「悪い」
ファイの手を擦り抜けて、黒鋼の手が離れていこうとする。それを目で追いながら、下から突き上げられるような焦燥を覚えた。
ようやく黒鋼から、こうして触れてくれたのに。
衝動的にファイは手を伸ばし、太い手首をぎゅっと握ると震えた息を吐き出した。
「……ね」
「……おう」
「でも、でもね……」
(ああもう……なにバカなこと考えて……)
そのまま石のように動かなくなってしまったファイを、黒鋼はただ黙って見守っている。
先を促されていることは承知の上で、言うべき言葉が即座に口から出てこない。本当はもっと触れてほしいし、抱きしめてほしい。以前のように強引にでも奪って暴いて、何も分からなくなるくらい追いつめてほしかった。
「……あのね」
そうだ。この場所も、いけない。
「あいつの感触、まだ残ってて」
「…………」
「ここにいると、これからもずっと思い出しちゃうのかなって……だから」
……だから?
その先を言いかけて、結局は口を噤んだ。
やっぱりいけない。こんな場所で年甲斐も見境もなく、欲しいだなんて。
ファイは情けなく眉を八の字にしながら「あはは」と笑うと、黒鋼の手首を解放した。
「やっぱりなんでもない。今のは聞かなかったことにして。ほら、飲み行くんでしょ?」
行っておいで、と続けようとして、今度は逆に手首を取られた。
大きく目を見開いたファイが視界に捉えたのは、どこか切羽詰まったように唇を引き結び、瞳を細める黒鋼の表情だった。
「く、くろ」
「出来るわけねぇだろ。しっかり聞いちまったもんはよ」
「……ごめん」
「……いいのか」
「ぇ……?」
黒鋼のもう片方の手が伸びて、ファイの未だに痛々しい痕の残る頬を包みこんだ。導かれるように見上げれば、燃えるような赤い瞳と視線がぶつかる。
その赤に、まるで囚われたように身動き一つ取れなくなった。ただ、身体が熱くなる。
「あんなことがあった後で……いいのか?」
「……?」
半ば惚けた状態でいたファイは一瞬、質問の意図が掴めず小首を傾げた。
常に不遜な態度でいた彼が、何やら珍しく躊躇っているらしいことが伝わってくる。
「怖ぇ目にあったばっかだろ。その、だからよ……」
視線だけ余所へやる黒鋼の、いつになく歯切れの悪い台詞を聞いたファイは暫しの間、口をポカンと開けたままだった。ついでにパチパチと忙しなく瞬きを繰り返す。
そしてふと、合点がいく。
なぜこの数日、彼がせいぜい抱き締めるだけで触れて来ようとしなかったのか、その理由に。
「黒たん……もしかして気を遣って……?」
「……悪ぃか」
つまり、彼は性的な暴行を受けた自分を気遣い、自らも性的に手を出すことに足踏みしていた、ということなのか。
「……ぷっ!」
「!?」
堪え切れずに吹き出してしまったファイを、人も殺せそうな鋭い目が睨みつけてくる。それさえも可笑しくて、結局声を上げて笑ってしまった。
確かに最低最悪な出来事だったし、思い出すと未だに吐き気が込み上げる。早く忘れてしまうのが一番だと理解はしていても、身体の傷を見る度にゾッとする瞬間だってある。だがそれよりもファイにとっては、あれ以来まったく黒鋼が手を出してこないことの方が大問題だった。
本当はもうちょっと怯えたり、傷ついている様を醸し出した方が可愛げがあるのだろうが、残念なことにファイはそこまでの繊細さは持ち合わせていなかった。
だから申し訳ないとは思いつつ、笑いを抑えきれない。
「ご、ごめ、あははは! もー! 黒たんはホントにいい子だなー!」
「うるせぇ! ちっと遠慮してやりゃこれか!」
「だ、だって! ぷふっ! い、いまさら……ッ」
「てめぇは昔っからこうだ」
うんざりしたように溜息を零しながらも、照れ臭そうに顔を赤らめる黒鋼は、思いっきり臍を曲げた様子で舌打ちをした。
きっと過去に散々からかわれたことを思い出しているのだろう。苦いものでも噛み潰したような表情が懐かしくて、幾つになってもやっぱり可愛いなぁ、なんて改めて実感してしまう。
ファイ自身、何がここまで可笑しいのか分からないくらい大笑いしてしまったことをほんの少しだけ反省しながらも、目尻に浮かんでいた涙を拭う。
「ごめんってばー。なんかホッとしちゃったっていうのもあって」
「ああ?」
「だって、あんなにがっついてた人が急になんにもしてこなくなるんだもん。今さら放置プレイなんて、ぜーんぜん笑えないよー」
「笑ってんじゃねぇか。思いっきり」
「そうだけどー。飽きられちゃったのかなーとか、色々考えちゃうよ」
「んなわけあるか。何年越しの成就だと思ってやがる」
「…………」
真っ直ぐに見つめられながらそんなことを言われたら、今度はこちらが照れて目を逸らす番だった。何か返したくてもごもごと口を動かそうとすれば「もう黙ってろ」という低い声と共に再び抱き締められて、身体ごと心臓が跳ねた。
こんな風にされるだけで、じわりと広がる甘ったるい感情が胸を満たして溢れそうになる。
広い腕の中にこうして収まりきってしまうと、自分という人間がどこまでもちっぽけな存在に思えた。
だから歳の差なんて遠くへ押しやって、甘えたくなる。
同じだけの強さでその背を抱き返しながら、今ならどんな恥ずかしい言葉だって平気で口に出来そうな気がした。
「黒たん、あのね」
「ん」
「オレ、黒たんじゃなきゃヤダって、あのとき気づいたんだ。だから」
だから。
「ここであったこと、忘れさせてくれないかな?」
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その後はなんとも慌ただしく、息をつく間もなかった。
下の階から警備員が「なんか凄い音がしましたが」なんて言いながら悠長に顔を出し、場の空気に一通り凍りついてから慌てて男を取り押さえた。
すぐに110番され、警察が駆けつけるという事態に発展したものの、残っている人間が少なかったことで、ひとまずその場で大きな騒ぎにまではならなかった。
警備員が駆け付けた段階で、男は思いっきり陰部をさらした状態だったし、ファイの様子や現場の空気から明らかに性的な内容を含む暴行を受けたことは知られてしまっていた。
が、その場で簡易的に受けた警察の事情聴取では、黒鋼と警備員がファイを気遣い、上手くフォローを入れてくれたことで性的な部分はどうにか伏せられた。
表向きは女子生徒に人気のある化学教師を、容姿にコンプレックスを持つ男が一方的に妬み、ストーカー紛いの行為をしたあげく暴行を加えた、ということで落ち着いた。
そして男は袋に詰められた証拠品と共にパトカーに乗せられ、夜の街へと消えて行った。
詳しい事情聴取は後日に回し、その後ファイは夜間の救急病院へ向かった。
車は警備員が貸してくれたも。もちろん運転したのは黒鋼だ。助手席でなんとなくモジモジしながら、あんなに小さかった少年が、今やナチュラルにハンドルをさばく姿にときめきを覚えてしまったことは、秘密だ。
病院では、もっとも心配された頭部は思いのほか軽傷で、医者に見せる頃には出血も止まっていた。念のため後日大きな病院で検査することを進められたが、ひとまず薬を処方されるだけで帰宅することを許された。
その頃には、外はうっすら白みはじめていた。
*
病院へ行くまでは下手に傷に触れることもできず、顔や髪をタオルで拭くしかできなかったファイは、部屋に帰宅したと同時に風呂場に駆け込んだ。
シャワーを浴びるとあらゆる傷が痛んだが、それよりも男が触れた場所全てを、特に体液を擦りつけられた箇所をひたすら石鹸を含ませたスポンジで擦った。
(洗っても洗っても、落ちない気がする……)
こうして甘い花の香りに包まれてなお、あの生臭い嫌な臭いが鼻の奥にこびりついていた。
思っていた以上に精神的なダメージの方が大きく、ようやく安心できる場所に戻って来ても、思い出すと指先が震えた。
「おい、大丈夫か」
夢中でその作業に没頭していたファイは、曇りガラスの向こうからかけられた声に肩をビクつかせた。
返事をするのが遅れたせいで、心配した黒鋼が勢いよくドアを開ける。
「わっ!」
「おまえ、もう一時間以上も何して……」
泡まみれで硬直したファイの身体を見て、黒鋼は怪訝そうな顔をする。
そして無言でシャツとジャージのまま中に押し入って来た。
「ちょ、っと、まだ終わってな……!」
「この馬鹿が。血が滲むまで擦る奴があるか」
「え……?」
言われて初めて気がついた。
黒鋼がスポンジを取り上げ、水圧を下げたシャワーをファイに向けて噴射する。首筋や上半身の所々が、男に受けた傷にさらに血を滲ませる形で悪化していた。
「ごめん……」
何に対しての謝罪なのかもよく分からないまま、ファイはただ項垂れた。黒鋼は無言でファイの身体の泡をシャワーで流している。
服がどんどん濡れていくことにいたたまれなさを感じて「もういいから」と手を伸ばせば、縄で擦り切れた手首を掴まれ、引き寄せられた。
シャワーヘッドが音を立てて床に落ちる。
抱きしめられた途端、あの男の臭いが黒鋼の香りで上書きされるのを感じた。こうされると、やっと楽に呼吸が出来るような気さえしてホッとする。
それでも黒鋼が服を着たままだということを思い出し、今更ながらに慌てて身じろぎかけた身体を、さらに強く抱きこまれた。
「ねぇ、苦しいよ……」
「いいからもう少し、このままでいさせろ」
「…………」
またのぼせあがって、熱を出してしまいそうだと思った。多分、抱かれていなければとっくに崩れ落ちている。
心配させてしまったことがひしひしと伝わって、申し訳なさに唇を噛む。熱いくらいの温もりと、伝わる鼓動に目頭が痛んだ。
躊躇いがちに両腕を上げて、その背中に手を這わせた。広くて、大きい。昔は背負うことだって出来た身体に、今はしがみつくので精一杯だった。
「……間に合った、とは言い切れねぇよな。この有様じゃあ」
「うぅん、間に合ったよ。じゃなきゃオレ、今頃ここにいなかったと思うし」
これは警察を待つ間、警備員からこっそり聞いた話なのだが。
黒鋼はファイが準備室に逃げ込んだあの金曜の夜から、自分も学校で寝泊まりをしていたらしい。
夜の学校で警備の体験もしたいなどと無理のある理由をつけて仕事を手伝い、三階にも定期的に様子を見に足を運んでいたようだ。
ファイの身の回りに異変が起こっていることに気付いていた黒鋼が、あと少しという所で助けに来られたのは、そういう過保護なカラクリがあったからなのだ。
確かに彼は『自分が出て行く』と宣言していたが、まさかそんなことまでしていたなんて。それを聞いたファイはいっそ呆れて物も言えなかった。
実習が大詰めで、やらなければならないことが山積みだろうに。それもあえて自ら口にしない辺り、彼は彼なりにファイのつまらない意地やプライドごと守ろうと、必死になってくれていたのだと感じた。
「……黒ぽんさ」
悪いとは思うが、ファイは黒鋼の腕の中で少しだけ笑ってしまった。
「オレのこと、ちょっと好きすぎるんじゃないかな」
そう言うと、彼は面白くなさそうに「うるせぇ」と言った。
こっそり目線だけ上に向けると、耳が少し赤くなっているのが見える。
こんな大男を捕まえて可愛いなんて思ってしまった自分に、さらに可笑しくなって肩を揺らした。
「おまえ、少し黙っとけ」
「だって、ふふっ、面白い」
「俺は面白くねぇ」
「黒たん、可愛いんだもん」
「……まだ言うかそれ」
舌打ちが聞こえる。
黒鋼の手が首の後ろに伸びて、出会った頃と同じ長さになった髪を梳くように撫でた。
見上げるほどに大きくなった彼の細められた瞳に、ファイは少し照れくさくなって腫れた頬で小さくはにかんだ。
「おまえこそ、こんなにガキ臭かったか?」
「いつまでも若くて変わらないって言ってよね」
「確かに30には見えねぇな」
「だからー、まだギリギリなってないってばー」
ファイが笑うと、黒鋼も少しだけ笑った。
落ち着かないとばかり思っていたその笑い方が、今はこんなにも愛しいと感じる。
背中に回していた腕の力を強めて、ファイはその肩に顔を埋めた。
「あのね、言い忘れてたことがあったの、思い出した」
「ん」
「久しぶりだね、黒たん」
あまりにも今更すぎて、いっそバカらしいとさえ思える、それは再会の挨拶だった。
「また会えて嬉しい。それと……」
――オレも、ずっと大好きだったよ。
*
風呂上がり。
病院で出された鎮痛剤を飲んで痛みはないものの、神経が高ぶっているせいか一向に眠気は訪れなかった。
だから風呂場から出た後、黒鋼ともしそういう流れになったなら、してもいいかな、なんて思っていた。
いや、むしろきっとそうなるだろうと。
……思っていたのだが。
自分も軽く身体を流して出てきた黒鋼は、ファイをしっかり抱きこんだ状態で即座に眠ってしまった。
狭いベッドに身を寄せ合って横たわりながら、期待しまくっていた自分を思いきり恥じる。
外はもはや朝と言っていいほどに白んでいて、眠れる時間はあと僅かしかない。その上いかにタフそうに見えても、彼だって疲れきっているはずだった。本来なら自分のことで手一杯なのに、ハードな日常に自ら追い打ちをかける真似をしたのだから。
しかもよくよく考えてもみれば。
(あいつの感触を忘れさせてほしいのーなんて、そんなベタなこと、恥ずかしくて口が裂けても言えないしね……)
それにこれはこれで悪くないな、なんて。
大きな身体にすっぽり抱き締められていると、不思議と高ぶったままだった感情が静かに凪いでいくのを感じた。
思えば、こうしてただ同じベッドで一緒に眠るというのは初めてのことだった。今更のように、ちょっぴり照れ臭いような、くすぐったい気持ちになってしまう。
「腕、痺れても知らないんだから」
規則正しい寝息に耳を傾けながら、そう呟くと少し笑った。
そしてその首筋に甘えるように額を擦り付けると、ファイもいつしかどっぷりと深い眠りに落ちていった。
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下の階から警備員が「なんか凄い音がしましたが」なんて言いながら悠長に顔を出し、場の空気に一通り凍りついてから慌てて男を取り押さえた。
すぐに110番され、警察が駆けつけるという事態に発展したものの、残っている人間が少なかったことで、ひとまずその場で大きな騒ぎにまではならなかった。
警備員が駆け付けた段階で、男は思いっきり陰部をさらした状態だったし、ファイの様子や現場の空気から明らかに性的な内容を含む暴行を受けたことは知られてしまっていた。
が、その場で簡易的に受けた警察の事情聴取では、黒鋼と警備員がファイを気遣い、上手くフォローを入れてくれたことで性的な部分はどうにか伏せられた。
表向きは女子生徒に人気のある化学教師を、容姿にコンプレックスを持つ男が一方的に妬み、ストーカー紛いの行為をしたあげく暴行を加えた、ということで落ち着いた。
そして男は袋に詰められた証拠品と共にパトカーに乗せられ、夜の街へと消えて行った。
詳しい事情聴取は後日に回し、その後ファイは夜間の救急病院へ向かった。
車は警備員が貸してくれたも。もちろん運転したのは黒鋼だ。助手席でなんとなくモジモジしながら、あんなに小さかった少年が、今やナチュラルにハンドルをさばく姿にときめきを覚えてしまったことは、秘密だ。
病院では、もっとも心配された頭部は思いのほか軽傷で、医者に見せる頃には出血も止まっていた。念のため後日大きな病院で検査することを進められたが、ひとまず薬を処方されるだけで帰宅することを許された。
その頃には、外はうっすら白みはじめていた。
*
病院へ行くまでは下手に傷に触れることもできず、顔や髪をタオルで拭くしかできなかったファイは、部屋に帰宅したと同時に風呂場に駆け込んだ。
シャワーを浴びるとあらゆる傷が痛んだが、それよりも男が触れた場所全てを、特に体液を擦りつけられた箇所をひたすら石鹸を含ませたスポンジで擦った。
(洗っても洗っても、落ちない気がする……)
こうして甘い花の香りに包まれてなお、あの生臭い嫌な臭いが鼻の奥にこびりついていた。
思っていた以上に精神的なダメージの方が大きく、ようやく安心できる場所に戻って来ても、思い出すと指先が震えた。
「おい、大丈夫か」
夢中でその作業に没頭していたファイは、曇りガラスの向こうからかけられた声に肩をビクつかせた。
返事をするのが遅れたせいで、心配した黒鋼が勢いよくドアを開ける。
「わっ!」
「おまえ、もう一時間以上も何して……」
泡まみれで硬直したファイの身体を見て、黒鋼は怪訝そうな顔をする。
そして無言でシャツとジャージのまま中に押し入って来た。
「ちょ、っと、まだ終わってな……!」
「この馬鹿が。血が滲むまで擦る奴があるか」
「え……?」
言われて初めて気がついた。
黒鋼がスポンジを取り上げ、水圧を下げたシャワーをファイに向けて噴射する。首筋や上半身の所々が、男に受けた傷にさらに血を滲ませる形で悪化していた。
「ごめん……」
何に対しての謝罪なのかもよく分からないまま、ファイはただ項垂れた。黒鋼は無言でファイの身体の泡をシャワーで流している。
服がどんどん濡れていくことにいたたまれなさを感じて「もういいから」と手を伸ばせば、縄で擦り切れた手首を掴まれ、引き寄せられた。
シャワーヘッドが音を立てて床に落ちる。
抱きしめられた途端、あの男の臭いが黒鋼の香りで上書きされるのを感じた。こうされると、やっと楽に呼吸が出来るような気さえしてホッとする。
それでも黒鋼が服を着たままだということを思い出し、今更ながらに慌てて身じろぎかけた身体を、さらに強く抱きこまれた。
「ねぇ、苦しいよ……」
「いいからもう少し、このままでいさせろ」
「…………」
またのぼせあがって、熱を出してしまいそうだと思った。多分、抱かれていなければとっくに崩れ落ちている。
心配させてしまったことがひしひしと伝わって、申し訳なさに唇を噛む。熱いくらいの温もりと、伝わる鼓動に目頭が痛んだ。
躊躇いがちに両腕を上げて、その背中に手を這わせた。広くて、大きい。昔は背負うことだって出来た身体に、今はしがみつくので精一杯だった。
「……間に合った、とは言い切れねぇよな。この有様じゃあ」
「うぅん、間に合ったよ。じゃなきゃオレ、今頃ここにいなかったと思うし」
これは警察を待つ間、警備員からこっそり聞いた話なのだが。
黒鋼はファイが準備室に逃げ込んだあの金曜の夜から、自分も学校で寝泊まりをしていたらしい。
夜の学校で警備の体験もしたいなどと無理のある理由をつけて仕事を手伝い、三階にも定期的に様子を見に足を運んでいたようだ。
ファイの身の回りに異変が起こっていることに気付いていた黒鋼が、あと少しという所で助けに来られたのは、そういう過保護なカラクリがあったからなのだ。
確かに彼は『自分が出て行く』と宣言していたが、まさかそんなことまでしていたなんて。それを聞いたファイはいっそ呆れて物も言えなかった。
実習が大詰めで、やらなければならないことが山積みだろうに。それもあえて自ら口にしない辺り、彼は彼なりにファイのつまらない意地やプライドごと守ろうと、必死になってくれていたのだと感じた。
「……黒ぽんさ」
悪いとは思うが、ファイは黒鋼の腕の中で少しだけ笑ってしまった。
「オレのこと、ちょっと好きすぎるんじゃないかな」
そう言うと、彼は面白くなさそうに「うるせぇ」と言った。
こっそり目線だけ上に向けると、耳が少し赤くなっているのが見える。
こんな大男を捕まえて可愛いなんて思ってしまった自分に、さらに可笑しくなって肩を揺らした。
「おまえ、少し黙っとけ」
「だって、ふふっ、面白い」
「俺は面白くねぇ」
「黒たん、可愛いんだもん」
「……まだ言うかそれ」
舌打ちが聞こえる。
黒鋼の手が首の後ろに伸びて、出会った頃と同じ長さになった髪を梳くように撫でた。
見上げるほどに大きくなった彼の細められた瞳に、ファイは少し照れくさくなって腫れた頬で小さくはにかんだ。
「おまえこそ、こんなにガキ臭かったか?」
「いつまでも若くて変わらないって言ってよね」
「確かに30には見えねぇな」
「だからー、まだギリギリなってないってばー」
ファイが笑うと、黒鋼も少しだけ笑った。
落ち着かないとばかり思っていたその笑い方が、今はこんなにも愛しいと感じる。
背中に回していた腕の力を強めて、ファイはその肩に顔を埋めた。
「あのね、言い忘れてたことがあったの、思い出した」
「ん」
「久しぶりだね、黒たん」
あまりにも今更すぎて、いっそバカらしいとさえ思える、それは再会の挨拶だった。
「また会えて嬉しい。それと……」
――オレも、ずっと大好きだったよ。
*
風呂上がり。
病院で出された鎮痛剤を飲んで痛みはないものの、神経が高ぶっているせいか一向に眠気は訪れなかった。
だから風呂場から出た後、黒鋼ともしそういう流れになったなら、してもいいかな、なんて思っていた。
いや、むしろきっとそうなるだろうと。
……思っていたのだが。
自分も軽く身体を流して出てきた黒鋼は、ファイをしっかり抱きこんだ状態で即座に眠ってしまった。
狭いベッドに身を寄せ合って横たわりながら、期待しまくっていた自分を思いきり恥じる。
外はもはや朝と言っていいほどに白んでいて、眠れる時間はあと僅かしかない。その上いかにタフそうに見えても、彼だって疲れきっているはずだった。本来なら自分のことで手一杯なのに、ハードな日常に自ら追い打ちをかける真似をしたのだから。
しかもよくよく考えてもみれば。
(あいつの感触を忘れさせてほしいのーなんて、そんなベタなこと、恥ずかしくて口が裂けても言えないしね……)
それにこれはこれで悪くないな、なんて。
大きな身体にすっぽり抱き締められていると、不思議と高ぶったままだった感情が静かに凪いでいくのを感じた。
思えば、こうしてただ同じベッドで一緒に眠るというのは初めてのことだった。今更のように、ちょっぴり照れ臭いような、くすぐったい気持ちになってしまう。
「腕、痺れても知らないんだから」
規則正しい寝息に耳を傾けながら、そう呟くと少し笑った。
そしてその首筋に甘えるように額を擦り付けると、ファイもいつしかどっぷりと深い眠りに落ちていった。
←戻る ・ 次へ→
悪夢はまだ終わらない。むしろ、始まってすらいなかった。
男はさっきまで癇癪を起していたのが嘘のように、上機嫌で鼻歌を歌いながらファイの服に鎌の切っ先を引っ掛けては布を裂く作業に没頭していた。
なぜこんな真似をするのかと問いかけても返答は得られず、ビリ、という嫌な音が室内に響く度に、ファイは瞼をぎゅっと閉じて肩を震わせた。
「ッ……!」
皮膚すれすれのところを切っ先が掠める中、時折、本当に皮膚が傷つけられる。この男はどこまでも自分本位で、他人を思いやるという精神に欠けているらしい。
縄がグルグルと巻かれている部分のみを残して、薄手のセーターはもはやただの布と化した。
「いっぱい、傷ついちゃったね……」
「ッ、さ、触るな……!」
「ど、どう、して?」
切っ先が引っかかった場所は、ぷっくりとミミズ腫れのように赤く染まって、チリチリとした熱を放っている。
おぞましいばかりの指先が、それをまるで星座をなぞる様に胸や腹、首筋や肩を行き来する度に、競り上がる吐き気と戦うだけで精一杯だった。
(気持ち悪い……)
他人に肌を触られることが、こんなにも不快なことだなんて。
女性は勿論だが、黒鋼相手には決してこんな風には感じなかった。初めて触れられた時でさえ、気持ち悪いだなんて感情は一切湧かなかったことを思い出す。
――いい加減、気づけ。
(ああ、そっか……そうだったんだ……)
黒鋼は、ずっとこのことを言っていたのだということに気づいた。
触れられるのも、キスをするのも、女のように抱かれて辱められてさえ憎めず、そして拒めなかった。いくら相手が自分よりも大きく、腕力のある人間だったとしても、心底嫌悪していたなら、死ぬ気で抵抗することは出来たはずなのに。
彼は決してファイを縄で縛り付け、刃物や暴力で支配するような真似はしなかった。その身一つであんなにも真っ直ぐに想いをぶつけてきた。
けれどファイはそれを信じることができなかった。押さえつけられ、抗えず流されることを自分への言い訳にして、目を逸らしていた。
(特別だったんだ……オレにとっての、たった一人だったから……)
最初から『拒めなかった』のではなく『拒まなかった』のだと。
「こ、ここ、かわいい……触ってもいい……?」
荒い息使いで、男はファイの傷だらけの胸に手を這わせた。太い指先が外気と怖気に尖る乳首に触れようとする。冗談じゃない。こんな最低な相手に穢されるくらいなら、死んだ方がマシだ。ファイは懸命に身を捩る。
「触るな……絶対に嫌だ……!」
それでも男の指は容赦なくファイの乳首に触れた。人差し指と親指で、力いっぱい抓り上げる。痛みと不快感から、ファイの表情が歪む。
「痛ッ、ぁ!」
「せんせいのちくび、赤くて可愛い……ぼくのアソコ、またおっきくなっちゃった……ねぇ、な、舐めて……」
男はうわごとのように「なめてなめて」と繰り返しながら、ファイを跨ぐように立ちはだかり、勃起した状態でも粗末な性器を目の前で扱きはじめた。
おぞましさに背けた顔は肉付きのいい手に前髪をガッシリと掴まれることで引きもどされ、いよいよ性器の先端を唇に押し付けられそうになった時、ファイは自分でも信じられないような力で声を振り絞っていた。
「嫌だ!! おまえのなんか、死んでも嫌だ!!」
そうだ。絶対に嫌だ。触れられるのも、何をされるのも、たった一人しか欲しくない。
こんな状況になってようやく自分の気持ちに素直になったって、もう遅いのに。
「ど、どうして? どうしてこんなに暴れるの? せんせぇ、ぼくのこと、す、好きだよね?」
一体なにを根拠にそんなことが言えるのか。
何の接点もない、名前すら知らない相手に対して寄せる甘い感情など、ありはしない。いっそ殺したいくらいの憎悪なら、この短い時間で有り余るほど蓄積されてはいるけれど。
「これ以上オレに触れてみろ……舌を噛み切って死んでやる……!」
ファイはそのどす黒い感情のままに、赤くなった瞳でキツく男を睨みつけた。おどおどしはじめた男は「どうして」と繰り返しながら壊れたオモチャのようにカタカタと震えだす。
そして、縛り付けているはずの相手を思うように支配できないことに、再び癇癪を起し始めた。油っぽい頭をガリガリと両手で掻き毟っては、汗とも唾液ともつかない液体を振りまいた。
「うああぁああぁあぁーーー!!!」
やがて凄まじい叫び声を上げ、男は床に投げ出していた鎌を再び手に取り、切っ先をこちらに向けて大きく振り上げた。その全てがスローモーションのように、ゆっくりとファイの目に映る。
これが走馬灯というやつだろうか。
脳裏を掠めるのは幼い頃の黒鋼との思い出や、優しく触れる大きな手や、縋れば必ず抱き返してくれた逞しい腕ばかりで、それしかないのかと笑ってしまいそうなくらい、ファイの中は黒鋼でいっぱいだった。
(こんな終り方ってあんまりだよなぁ……オレも好きだよって、大きくなった黒たんも大好きだよって……ちゃんと言ってあげればよかった……)
それでも地獄に身を置き続けるよりはずっといいと、ファイは目を閉じた。
その時――。
「おい!! いるんだろ!? ここを開けろ!!」
閉じていた目を咄嗟に見開き、ガタガタと鳴っている扉に視線を走らせた。
「無事か!? どうなってる!?」
「く……くろ、た……?」
叫びたいのに喉を締め付けられているかのように、声が出せない。
どうして彼がここにいるんだろう。こんなどうしようもない自分なんかを、助けに来てくれたとでもいうのだろうか。
今一番聞きたかった声が、薄い扉の向こう側から必死で呼びかけて来る。
「蹴破るぞ!! いいな!?」
「ヒィッ……! や、やめろ! あ、開けるなぁ~~!!」
扉の向こうの気迫に押され、男は無様に鎌を取り落とすと腰を抜かし、這いずるように机の下に身を押し込んで丸くなった。
男が頭を抱えてブルブルと震え始める中、派手に扉が外れる音と共にガラスの割れる大きな音がする。扉だったものは床に叩きつけられ、破片もまた散らばった。
それをやってのけた当人は見たこともないほど血相を変えて、ガラスの破片を踏みつけながらファイの元に駆けて来た。
魂が抜けたように、全身の力が一気に抜ける。
黒鋼は、髪を切り裂かれ、顔や上半身に痣と切り傷を作っているファイの悲惨な状況を見て絶句したが、すぐに我に帰ると縄を解くため手を伸ばしてきた。
だがあまりにも硬く結ばれたそれは素手でどうにかするのは難しく、咄嗟に辺りを見回した先にあった鎌を手にすると、それを使って全ての縄を切り裂き放り投げた。
「遅くなった……すまねぇ……」
「どうして……?」
気がつけばただ呆然と、逞しい腕に抱きしめられていた。
つい力が抜けてその肩に額を押し付けそうになったが、すぐに自分が汚れていることに気がつく。慌てて感覚が戻らない両手で押し返そうとしたが、黒鋼はビクともしなかった。
身じろぐほどに抱き締める腕の力は増して、助かったのだという実感が、それによって込み上げる。
「もう大丈夫だ。心配すんな」
「黒た、ん……オレ、オレ……」
「いい。何も言うな」
ファイの未だに震えのおさまらない両手は、ずっと血液をせき止められていたことですっかり青くなっている。手首は擦り切れ、血の塊がこびりついてた。その手で、黒鋼の頬を包む。
今、どうしても伝えたいことがあるから。
「オレね、思い出したよ……」
あの夜、意識を手放す寸前に確かに聞いた黒鋼の言葉。
ここで終わるのだと覚悟を決めた時、ファイの脳裏にぽっかりと浮かび上がった。
それは泣きたくなるくらい嬉しくて、拍子抜けするくらい単純で、そして本当はずっと気付いていたはずの、大切な言葉だった。
「ちゃんと、ッ、思い出したからね」
喉を詰まらせながらも懸命に吐き出した言葉に、黒鋼は苦しげに赤い瞳を細めて見せた。そして昔のように短くなった金髪に長い指を通すと、壊れ物を扱うような優しさでそっと撫でる。
ファイは震える息を吐き出しながら、心からの安堵に濡れた瞼をそっと閉じた。
『ずっとおまえが好きだった』
*
それから黒鋼は、自分のジャージの上を脱ぐとファイの傷ついた白い肩にかけた。
ファイは痛々しく腫れた頬や、切れて血の滲む唇でほっとしたように笑うと「ありがとう」と言っておとなしくそれに腕を通す。
短くなった髪も、手首に残る赤黒い縄の痕も、傷ついた皮膚も、その全てが痛々しくて胸が掻き毟られるようだった。
ひとまわり以上サイズの大きなジャージを、袖を余らせながら着込む様を見届けると、今度は机の下に頭だけを隠して肉ダルマになって震えている男を見やる。
「あっ」
ファイが小さく声を上げるのも構わずそれを引きずり出すと、憎悪をそのまま利き足に込めて、締りのない腹を容赦なく蹴り飛ばした。
男は甲高い呻きと唾液を撒き散らして狭い床を転げ回る。怒りの炎に身を焦がしきっていた黒鋼は、さらにその胸倉を掴み、握った拳を顔面に叩きつけようとした。
だが、それを膝立ちになったファイが腰に縋りついて必死で止めた。
「止めんな」
「ダメだってば! あと少しで実習だって終わるのに……!」
いっそ殺すつもりでいた黒鋼だったが、痛々しい傷を負わされたファイの不安そうな顔を見て、冷静さをどうにか手繰り寄せた。
確かに、過ぎた制裁を加えたことによって自分の進路をぐちゃぐちゃにされたのでは、今まで努力してきたのが無駄になる。そんなことは、何よりファイが望まない。
黒鋼は掴んでいた胸倉を乱暴に離し、無様に尻餅をついた男を忌々しげに睨みつけると舌打ちをした。
ファイはホッと安堵の息を漏らし、男はだらしなく床に四肢を投げ出して放心している。
「それにしても、どうして黒たんがここに……?」
ぺたりと床に座り込んだファイが小首を傾げる。
黒鋼は「ああ」と短く返事をし、ポケットから小さな鍵を取り出した。
「なにそれ?」
「わからねぇか? おまえ、もうちっとシャキッとした方がいいぞ」
「?」
黒鋼は呆れつつ、その鍵を使ってすぐ近くにある机の、三段目の引き出しを開けた。「あ!」と声を上げて驚く彼に、中から透明なビニール袋を取り出して手渡す。
「これ……!」
中には切り刻まれて汚れた白衣と、ぐしゃぐしゃのメモ用紙が詰められている。どうしてこれを、という視線だけの問いかけに、黒鋼は答えてやることにした。
*
これを見つけたのは金曜の夜だった。
ファイがなかなか部屋に戻らず、前の晩どうも様子がおかしかったこともあり、なんとなく気になって迎えに行った。
黒鋼が覗いた時は職員室に人はおらず、他にいそうな場所といえば準備室だったため、東側の階段を使って三階へ向かった。
だが、準備室は無人だった。
ここで待つか他を当たるか考えながら中へ一歩踏み出した黒鋼は、足の裏に何かを踏みつけたような感触を覚えて、すぐに手探りで室内の明りのスイッチを入れた。
足を持ち上げて見れば、そこに小さな鍵が落ちているのを発見した。
それが机の鍵だと気づくのに時間はかからず、全く変なところでだらしのない奴だと呆れつつも、引き出しの鍵穴に差し込んでやった。
そのときに、机の下のバッグや寝袋を発見した。何を考えているんだと舌打ちをしながら部屋を飛び出そうとしたところで、今度は足の先に何かがぶつかった。
それはゴミ箱だった。
倒れたそれからはみ出すようにして顔を覗かせたのは、明らかに『異常』とわかる姿に変わり果てた白衣と、気味の悪いメモ書きだった。
それを見た黒鋼は顔を顰め、これは捨てずにおいた方がいいものと判断した。
しっかりしているようで抜けているファイは、下手をすればこれの存在を忘れているか、思い出した時にでも気まぐれに処分しかねない。
あるいは、他の『誰か』が手を下す前に、どこかにしっかり保管した方がいい。
何もないに越したことはないが、勝手に鍵付きの机を開けてそれを仕舞った。ビニール袋も、ゴミやガラクタだらけの机の中から適当に拝借した。
そして当人を探そうと明りを消し、部屋を出たところで、何かに追われるようにして駆けこんできたファイと遭遇したのだった。
*
「てめぇがしょっちゅう辺りを気にしてたのは、見てて知ってたからな。妙な虫がついてるんじゃねぇかと思ったら、案の定だったな」
「み、見てないようで……見てるんだね、黒ぽん」
「当り前だ」
「あぁ、そう」
ファイはなぜか傷がついた頬を赤らめて、もじもじと目を泳がせた。が、すぐにまた視線を寄こす。
「鍵は、ずっと黒たんが?」
「てめぇが持ってたって、どうせまた失くすと思った。とことんそそっかしくてだらしねぇからな」
「ご、ごめん……」
「いい。ちゃんと言っとかなかった俺も悪かった」
あのときは、どうやっても伝わらない気持ちに黒鋼も余裕を失くしていた。
いっそ引きずってでも自分の手でファイを部屋に連れ戻していれば、ここまでの惨事には至らなかったかもしれない。
もっと違う形で守ってやることができたかもしれないのに。
だが、悔いても仕方がない。いずれにしろこの男がファイを狙っていた以上、遅かれ早かれ手を出してきたに違いないからだ。
むしろ自分がここにいる間に片を付けられたのは、不幸中の幸いだったと言える。
黒鋼はぼんやりと天井を見つめて動かない男に視線をやった。
ズカズカと近づいて足で転がせば、男は「ヒッ」と短い悲鳴を上げてカエルのように飛び跳ね、薬品の入った大棚に背中をぴったりとくっつけてベソをかきはじめた。
「うぅ……せんせぇ、ひどいよ……ひどいよぅ……こんなやつ、せんせぇにふさわしくないよ……」
「あ? 誰がふさわしくねぇだと?」
「ひいぃ! ご、ごめんなさい! ごめんなさいぃ!!」
「ご自慢の鎌がなきゃなんも出来ねぇか? なぁ、おい?」
ジャージのズボンに両手を突っ込んで、黒鋼は両足を抱えるようにして怯える男の正面に立ちはだかった。
いっそ哀れなほど震えている彼は「せ、せんせぇ助けて! いつもみたいに助けて!」と鼻水を垂らしながら必死に叫んでいる。
「いつもみたいにって……なんのこと……?」
「せ、せんせぇ、いつもみたいに、ぼ、ぼくのこと、かばって……!」
「なに言ってんだこいつ?」
「お、おまえは黙ってろ! せんせぇは、いつも女子たちにバカにされてるぼくを、か、かばってくれるんだ!!」
「それって……」
ファイが困惑の表情を浮かべる中、男は泣きながら言った。
以前、偶然ファイが自分を馬鹿にする女子生徒達を咎める場面に居合わせ、庇う声を聞いたのだと。
子供の頃から、いつだって嘲笑の的であり続けることが当たり前だった男にとって、それはあまりにも衝撃的だった。
以来、気付けば白い白衣と金色の髪を目で追いかけるようになった。
男にとって世界の全てはファイに集約された。そして同時に、ファイもまた同じだけの思いを傾けてくれているに違いないと。病的なまでに、そう思い込んだ。
「せんせぇは、ぼくのことが、すっ、好きなんだ! 好きだから、助けてくれたんだ!!」
男が叫ぶ。黒鋼はその瞬間、頭に上った血が沸騰するのを感じて大棚を蹴りあげた。ガツンという音と共に、棚が一度ぐらりと揺れる。
ひん、という男の悲鳴にかぶさるように、ファイの「黒たんそれ薬品入ってる棚!!」と慌てる声がした。だが、怒りが限界値まで達していた黒鋼の耳には、何も届いてはいなかった。
「勝手な思い込みで、人のもんにきたねぇ唾つけてんじゃねぇぞ……?」
「ヒッ、ひいぃ……ッ」
「こいつはとっくの昔に、俺が先約済みだ」
これ以上ふざけたことを言えばどうなるか、黒鋼は口元を歪めて獰猛な笑みを浮かべて見せた。
「息してられるのをあいつに感謝しろよ」
背中に不安そうな視線を感じながら、黒鋼は身を屈めると、眼下で震えあがる男にだけ聞こえる声で「次は殺す」と呟いた。
がくん、と肩を落として、男は燃え尽きた花火のように項垂れた。
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男はさっきまで癇癪を起していたのが嘘のように、上機嫌で鼻歌を歌いながらファイの服に鎌の切っ先を引っ掛けては布を裂く作業に没頭していた。
なぜこんな真似をするのかと問いかけても返答は得られず、ビリ、という嫌な音が室内に響く度に、ファイは瞼をぎゅっと閉じて肩を震わせた。
「ッ……!」
皮膚すれすれのところを切っ先が掠める中、時折、本当に皮膚が傷つけられる。この男はどこまでも自分本位で、他人を思いやるという精神に欠けているらしい。
縄がグルグルと巻かれている部分のみを残して、薄手のセーターはもはやただの布と化した。
「いっぱい、傷ついちゃったね……」
「ッ、さ、触るな……!」
「ど、どう、して?」
切っ先が引っかかった場所は、ぷっくりとミミズ腫れのように赤く染まって、チリチリとした熱を放っている。
おぞましいばかりの指先が、それをまるで星座をなぞる様に胸や腹、首筋や肩を行き来する度に、競り上がる吐き気と戦うだけで精一杯だった。
(気持ち悪い……)
他人に肌を触られることが、こんなにも不快なことだなんて。
女性は勿論だが、黒鋼相手には決してこんな風には感じなかった。初めて触れられた時でさえ、気持ち悪いだなんて感情は一切湧かなかったことを思い出す。
――いい加減、気づけ。
(ああ、そっか……そうだったんだ……)
黒鋼は、ずっとこのことを言っていたのだということに気づいた。
触れられるのも、キスをするのも、女のように抱かれて辱められてさえ憎めず、そして拒めなかった。いくら相手が自分よりも大きく、腕力のある人間だったとしても、心底嫌悪していたなら、死ぬ気で抵抗することは出来たはずなのに。
彼は決してファイを縄で縛り付け、刃物や暴力で支配するような真似はしなかった。その身一つであんなにも真っ直ぐに想いをぶつけてきた。
けれどファイはそれを信じることができなかった。押さえつけられ、抗えず流されることを自分への言い訳にして、目を逸らしていた。
(特別だったんだ……オレにとっての、たった一人だったから……)
最初から『拒めなかった』のではなく『拒まなかった』のだと。
「こ、ここ、かわいい……触ってもいい……?」
荒い息使いで、男はファイの傷だらけの胸に手を這わせた。太い指先が外気と怖気に尖る乳首に触れようとする。冗談じゃない。こんな最低な相手に穢されるくらいなら、死んだ方がマシだ。ファイは懸命に身を捩る。
「触るな……絶対に嫌だ……!」
それでも男の指は容赦なくファイの乳首に触れた。人差し指と親指で、力いっぱい抓り上げる。痛みと不快感から、ファイの表情が歪む。
「痛ッ、ぁ!」
「せんせいのちくび、赤くて可愛い……ぼくのアソコ、またおっきくなっちゃった……ねぇ、な、舐めて……」
男はうわごとのように「なめてなめて」と繰り返しながら、ファイを跨ぐように立ちはだかり、勃起した状態でも粗末な性器を目の前で扱きはじめた。
おぞましさに背けた顔は肉付きのいい手に前髪をガッシリと掴まれることで引きもどされ、いよいよ性器の先端を唇に押し付けられそうになった時、ファイは自分でも信じられないような力で声を振り絞っていた。
「嫌だ!! おまえのなんか、死んでも嫌だ!!」
そうだ。絶対に嫌だ。触れられるのも、何をされるのも、たった一人しか欲しくない。
こんな状況になってようやく自分の気持ちに素直になったって、もう遅いのに。
「ど、どうして? どうしてこんなに暴れるの? せんせぇ、ぼくのこと、す、好きだよね?」
一体なにを根拠にそんなことが言えるのか。
何の接点もない、名前すら知らない相手に対して寄せる甘い感情など、ありはしない。いっそ殺したいくらいの憎悪なら、この短い時間で有り余るほど蓄積されてはいるけれど。
「これ以上オレに触れてみろ……舌を噛み切って死んでやる……!」
ファイはそのどす黒い感情のままに、赤くなった瞳でキツく男を睨みつけた。おどおどしはじめた男は「どうして」と繰り返しながら壊れたオモチャのようにカタカタと震えだす。
そして、縛り付けているはずの相手を思うように支配できないことに、再び癇癪を起し始めた。油っぽい頭をガリガリと両手で掻き毟っては、汗とも唾液ともつかない液体を振りまいた。
「うああぁああぁあぁーーー!!!」
やがて凄まじい叫び声を上げ、男は床に投げ出していた鎌を再び手に取り、切っ先をこちらに向けて大きく振り上げた。その全てがスローモーションのように、ゆっくりとファイの目に映る。
これが走馬灯というやつだろうか。
脳裏を掠めるのは幼い頃の黒鋼との思い出や、優しく触れる大きな手や、縋れば必ず抱き返してくれた逞しい腕ばかりで、それしかないのかと笑ってしまいそうなくらい、ファイの中は黒鋼でいっぱいだった。
(こんな終り方ってあんまりだよなぁ……オレも好きだよって、大きくなった黒たんも大好きだよって……ちゃんと言ってあげればよかった……)
それでも地獄に身を置き続けるよりはずっといいと、ファイは目を閉じた。
その時――。
「おい!! いるんだろ!? ここを開けろ!!」
閉じていた目を咄嗟に見開き、ガタガタと鳴っている扉に視線を走らせた。
「無事か!? どうなってる!?」
「く……くろ、た……?」
叫びたいのに喉を締め付けられているかのように、声が出せない。
どうして彼がここにいるんだろう。こんなどうしようもない自分なんかを、助けに来てくれたとでもいうのだろうか。
今一番聞きたかった声が、薄い扉の向こう側から必死で呼びかけて来る。
「蹴破るぞ!! いいな!?」
「ヒィッ……! や、やめろ! あ、開けるなぁ~~!!」
扉の向こうの気迫に押され、男は無様に鎌を取り落とすと腰を抜かし、這いずるように机の下に身を押し込んで丸くなった。
男が頭を抱えてブルブルと震え始める中、派手に扉が外れる音と共にガラスの割れる大きな音がする。扉だったものは床に叩きつけられ、破片もまた散らばった。
それをやってのけた当人は見たこともないほど血相を変えて、ガラスの破片を踏みつけながらファイの元に駆けて来た。
魂が抜けたように、全身の力が一気に抜ける。
黒鋼は、髪を切り裂かれ、顔や上半身に痣と切り傷を作っているファイの悲惨な状況を見て絶句したが、すぐに我に帰ると縄を解くため手を伸ばしてきた。
だがあまりにも硬く結ばれたそれは素手でどうにかするのは難しく、咄嗟に辺りを見回した先にあった鎌を手にすると、それを使って全ての縄を切り裂き放り投げた。
「遅くなった……すまねぇ……」
「どうして……?」
気がつけばただ呆然と、逞しい腕に抱きしめられていた。
つい力が抜けてその肩に額を押し付けそうになったが、すぐに自分が汚れていることに気がつく。慌てて感覚が戻らない両手で押し返そうとしたが、黒鋼はビクともしなかった。
身じろぐほどに抱き締める腕の力は増して、助かったのだという実感が、それによって込み上げる。
「もう大丈夫だ。心配すんな」
「黒た、ん……オレ、オレ……」
「いい。何も言うな」
ファイの未だに震えのおさまらない両手は、ずっと血液をせき止められていたことですっかり青くなっている。手首は擦り切れ、血の塊がこびりついてた。その手で、黒鋼の頬を包む。
今、どうしても伝えたいことがあるから。
「オレね、思い出したよ……」
あの夜、意識を手放す寸前に確かに聞いた黒鋼の言葉。
ここで終わるのだと覚悟を決めた時、ファイの脳裏にぽっかりと浮かび上がった。
それは泣きたくなるくらい嬉しくて、拍子抜けするくらい単純で、そして本当はずっと気付いていたはずの、大切な言葉だった。
「ちゃんと、ッ、思い出したからね」
喉を詰まらせながらも懸命に吐き出した言葉に、黒鋼は苦しげに赤い瞳を細めて見せた。そして昔のように短くなった金髪に長い指を通すと、壊れ物を扱うような優しさでそっと撫でる。
ファイは震える息を吐き出しながら、心からの安堵に濡れた瞼をそっと閉じた。
『ずっとおまえが好きだった』
*
それから黒鋼は、自分のジャージの上を脱ぐとファイの傷ついた白い肩にかけた。
ファイは痛々しく腫れた頬や、切れて血の滲む唇でほっとしたように笑うと「ありがとう」と言っておとなしくそれに腕を通す。
短くなった髪も、手首に残る赤黒い縄の痕も、傷ついた皮膚も、その全てが痛々しくて胸が掻き毟られるようだった。
ひとまわり以上サイズの大きなジャージを、袖を余らせながら着込む様を見届けると、今度は机の下に頭だけを隠して肉ダルマになって震えている男を見やる。
「あっ」
ファイが小さく声を上げるのも構わずそれを引きずり出すと、憎悪をそのまま利き足に込めて、締りのない腹を容赦なく蹴り飛ばした。
男は甲高い呻きと唾液を撒き散らして狭い床を転げ回る。怒りの炎に身を焦がしきっていた黒鋼は、さらにその胸倉を掴み、握った拳を顔面に叩きつけようとした。
だが、それを膝立ちになったファイが腰に縋りついて必死で止めた。
「止めんな」
「ダメだってば! あと少しで実習だって終わるのに……!」
いっそ殺すつもりでいた黒鋼だったが、痛々しい傷を負わされたファイの不安そうな顔を見て、冷静さをどうにか手繰り寄せた。
確かに、過ぎた制裁を加えたことによって自分の進路をぐちゃぐちゃにされたのでは、今まで努力してきたのが無駄になる。そんなことは、何よりファイが望まない。
黒鋼は掴んでいた胸倉を乱暴に離し、無様に尻餅をついた男を忌々しげに睨みつけると舌打ちをした。
ファイはホッと安堵の息を漏らし、男はだらしなく床に四肢を投げ出して放心している。
「それにしても、どうして黒たんがここに……?」
ぺたりと床に座り込んだファイが小首を傾げる。
黒鋼は「ああ」と短く返事をし、ポケットから小さな鍵を取り出した。
「なにそれ?」
「わからねぇか? おまえ、もうちっとシャキッとした方がいいぞ」
「?」
黒鋼は呆れつつ、その鍵を使ってすぐ近くにある机の、三段目の引き出しを開けた。「あ!」と声を上げて驚く彼に、中から透明なビニール袋を取り出して手渡す。
「これ……!」
中には切り刻まれて汚れた白衣と、ぐしゃぐしゃのメモ用紙が詰められている。どうしてこれを、という視線だけの問いかけに、黒鋼は答えてやることにした。
*
これを見つけたのは金曜の夜だった。
ファイがなかなか部屋に戻らず、前の晩どうも様子がおかしかったこともあり、なんとなく気になって迎えに行った。
黒鋼が覗いた時は職員室に人はおらず、他にいそうな場所といえば準備室だったため、東側の階段を使って三階へ向かった。
だが、準備室は無人だった。
ここで待つか他を当たるか考えながら中へ一歩踏み出した黒鋼は、足の裏に何かを踏みつけたような感触を覚えて、すぐに手探りで室内の明りのスイッチを入れた。
足を持ち上げて見れば、そこに小さな鍵が落ちているのを発見した。
それが机の鍵だと気づくのに時間はかからず、全く変なところでだらしのない奴だと呆れつつも、引き出しの鍵穴に差し込んでやった。
そのときに、机の下のバッグや寝袋を発見した。何を考えているんだと舌打ちをしながら部屋を飛び出そうとしたところで、今度は足の先に何かがぶつかった。
それはゴミ箱だった。
倒れたそれからはみ出すようにして顔を覗かせたのは、明らかに『異常』とわかる姿に変わり果てた白衣と、気味の悪いメモ書きだった。
それを見た黒鋼は顔を顰め、これは捨てずにおいた方がいいものと判断した。
しっかりしているようで抜けているファイは、下手をすればこれの存在を忘れているか、思い出した時にでも気まぐれに処分しかねない。
あるいは、他の『誰か』が手を下す前に、どこかにしっかり保管した方がいい。
何もないに越したことはないが、勝手に鍵付きの机を開けてそれを仕舞った。ビニール袋も、ゴミやガラクタだらけの机の中から適当に拝借した。
そして当人を探そうと明りを消し、部屋を出たところで、何かに追われるようにして駆けこんできたファイと遭遇したのだった。
*
「てめぇがしょっちゅう辺りを気にしてたのは、見てて知ってたからな。妙な虫がついてるんじゃねぇかと思ったら、案の定だったな」
「み、見てないようで……見てるんだね、黒ぽん」
「当り前だ」
「あぁ、そう」
ファイはなぜか傷がついた頬を赤らめて、もじもじと目を泳がせた。が、すぐにまた視線を寄こす。
「鍵は、ずっと黒たんが?」
「てめぇが持ってたって、どうせまた失くすと思った。とことんそそっかしくてだらしねぇからな」
「ご、ごめん……」
「いい。ちゃんと言っとかなかった俺も悪かった」
あのときは、どうやっても伝わらない気持ちに黒鋼も余裕を失くしていた。
いっそ引きずってでも自分の手でファイを部屋に連れ戻していれば、ここまでの惨事には至らなかったかもしれない。
もっと違う形で守ってやることができたかもしれないのに。
だが、悔いても仕方がない。いずれにしろこの男がファイを狙っていた以上、遅かれ早かれ手を出してきたに違いないからだ。
むしろ自分がここにいる間に片を付けられたのは、不幸中の幸いだったと言える。
黒鋼はぼんやりと天井を見つめて動かない男に視線をやった。
ズカズカと近づいて足で転がせば、男は「ヒッ」と短い悲鳴を上げてカエルのように飛び跳ね、薬品の入った大棚に背中をぴったりとくっつけてベソをかきはじめた。
「うぅ……せんせぇ、ひどいよ……ひどいよぅ……こんなやつ、せんせぇにふさわしくないよ……」
「あ? 誰がふさわしくねぇだと?」
「ひいぃ! ご、ごめんなさい! ごめんなさいぃ!!」
「ご自慢の鎌がなきゃなんも出来ねぇか? なぁ、おい?」
ジャージのズボンに両手を突っ込んで、黒鋼は両足を抱えるようにして怯える男の正面に立ちはだかった。
いっそ哀れなほど震えている彼は「せ、せんせぇ助けて! いつもみたいに助けて!」と鼻水を垂らしながら必死に叫んでいる。
「いつもみたいにって……なんのこと……?」
「せ、せんせぇ、いつもみたいに、ぼ、ぼくのこと、かばって……!」
「なに言ってんだこいつ?」
「お、おまえは黙ってろ! せんせぇは、いつも女子たちにバカにされてるぼくを、か、かばってくれるんだ!!」
「それって……」
ファイが困惑の表情を浮かべる中、男は泣きながら言った。
以前、偶然ファイが自分を馬鹿にする女子生徒達を咎める場面に居合わせ、庇う声を聞いたのだと。
子供の頃から、いつだって嘲笑の的であり続けることが当たり前だった男にとって、それはあまりにも衝撃的だった。
以来、気付けば白い白衣と金色の髪を目で追いかけるようになった。
男にとって世界の全てはファイに集約された。そして同時に、ファイもまた同じだけの思いを傾けてくれているに違いないと。病的なまでに、そう思い込んだ。
「せんせぇは、ぼくのことが、すっ、好きなんだ! 好きだから、助けてくれたんだ!!」
男が叫ぶ。黒鋼はその瞬間、頭に上った血が沸騰するのを感じて大棚を蹴りあげた。ガツンという音と共に、棚が一度ぐらりと揺れる。
ひん、という男の悲鳴にかぶさるように、ファイの「黒たんそれ薬品入ってる棚!!」と慌てる声がした。だが、怒りが限界値まで達していた黒鋼の耳には、何も届いてはいなかった。
「勝手な思い込みで、人のもんにきたねぇ唾つけてんじゃねぇぞ……?」
「ヒッ、ひいぃ……ッ」
「こいつはとっくの昔に、俺が先約済みだ」
これ以上ふざけたことを言えばどうなるか、黒鋼は口元を歪めて獰猛な笑みを浮かべて見せた。
「息してられるのをあいつに感謝しろよ」
背中に不安そうな視線を感じながら、黒鋼は身を屈めると、眼下で震えあがる男にだけ聞こえる声で「次は殺す」と呟いた。
がくん、と肩を落として、男は燃え尽きた花火のように項垂れた。
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流石に毎日とはいかないが、仕事の合間やたまの休みに時間を作り、最低でも週に一度は必ず顔を出すようにした。
帰り際は必ず、泣きながらマフラーのない黒わんを手渡される。風邪をひくからという文句はすっかり定番となって、これが夏だったらどんな言い訳をしていたのだろうかと、渡される度に笑ってしまう。
その日も、少し早目に仕事を上がった黒鋼はファイの待つ猫の目を訪れていた。
「はい、できたー! これでもう寒くないねー」
暗くなるとテラス席は締め切られてしまうため、黒鋼とファイは店内の窓際の席についていた。四人掛けで向かい合う形のテーブルだが、ファイはわざわざ黒鋼の隣に座って身を寄せる。がら空きの向いの二席は鞄とコートと、スーツのジャケットを置くだけのスペースになっていた。
彼は黒鋼が持ち帰ってきた黒わんに赤いマフラーを縫い付けると、満足げにニッコリと笑った。だが、それを再び黒鋼に返しては寄越さない。
「今日も完成品はもらえねぇのか?」
あえて聞くと、ファイは俯いて顔を赤らめ、もじもじと膝を擦り合わせる。
「こ、この黒わんは、もういいの。新しい黒わん作ったから、帰りにあげる」
「マフラーは?」
「う……あの、えとね、間に合わなかったの。だから今日のも裸なの」
「そうか、ならしょうがねぇな」
「うん、しょうがねぇの」
黒鋼の口調を真似てはにかむファイは、純粋に可愛いと思う。
初対面で懐かれたときは戸惑うばかりだったが、ここのところ黒鋼は無邪気でいじらしいファイの姿に癒しを見出していた。
子供にしろ何にしろ、ここまで懐かれた経験は今までなかった。どちらかと言うとこの野蛮そうな面構えのせいか、子供に好かれた記憶がない。
だからこうして真っ直ぐに好意を寄せてくるファイが、新鮮に感じられるのかもしれない。それに、懐かれればやっぱり可愛い。どんなに顔が凶悪でも、黒鋼にだって人間らしい情くらいあるのだから。
「また黒わんのお話ですか?」
そこに、カレーの乗った盆を持った一人の少年がやって来た。
鷲色の髪と瞳をした彼は、この近くの高校の制服を身につけているが、ジャケットは脱いで猫のシルエットが描かれたエプロンをしている。
「おまえは小狼の方だな」
「そうです。凄いですね、一度見ただけなのに間違わないなんて」
「兄貴の方とは目つきが違うからな」
小狼は黒鋼の前にカレー皿を置くと、少し困ったような笑みを浮かべる。この店のオーナーも双子なら、雇っているバイトも双子というのはなかなか面白い。
兄の方は小龍という名前で、どちらも意志が強そうな瞳を持っていることに変わりはないのだが、弟に比べると少し生意気そうな、食えない印象を受ける。
弟の方はどちからといえば目つきが柔らかく、少年らしい純朴さが滲み出ていた。
この双子が揃うのは週に一度だけ。黒鋼が二度目に訪れた日が偶然それに当たり、揃って紹介された。
そしてもう一人。
「さ、さくら……大丈夫か?」
「う、う、うん、だい、じょ、ぶぅ……」
カウンター裏から出てきたのは小狼と同じ高校の制服にエプロンをした少女だった。彼女はカレーの乗った盆をプルプルと震える手つきで運び、表情を硬くしながらこちらに近づいてくる。
新緑を思わせる爽やかな瞳が、盆の上のカレーにのみ真剣に注がれていた。細心の注意を払っているように見えて、足元には全く意識が向いていないのが激しく不安を煽る。
「おい小僧。おまえが一度に運んできた方が早ぇんじゃねぇのか」
「はぁ……おれもそう思うんですが……」
黒鋼が来店したときには、店内には数人の客がいた。だが閉店間近になってくると皆、会計を済ませて帰って行った。
特にやることがなくなったせいか、サクラは二人分のカレーを運ぶという、たったそれだけの作業を分担すると言ってきかなかった。
「ふぅ……! お待たせしました! カレーは無事です、どうぞ!」
サクラはファイの前にカレー皿を置いて、やり遂げたような表情で額の汗を拭った。
確かに無事といえば無事だが、皿の縁がルーで思いっきり汚れている。小狼がすかさず取り出したナプキンで縁を綺麗に拭き取った。フォローの仕方がすっかり手馴れているような気がする。
「わーいありがとー! 黒わん早く食べよー!」
万歳をしたファイが、スプーンでカレーを食べ始める。手つきがどこかぎこちないせいで、零すのではないかとハラハラしながら黒鋼もスプーンを手にした。
飯時に来ると、いつもこのシーフードカレーを頼む。そしてファイも同じものを一緒に食べるというのも、最近ではすっかりお馴染みになっていた。
じっくりと煮込まれた魚介とスパイスの香りが、空腹の胃袋を刺激する。
「黒鋼さんってカレーが大好きなんですね」
盆を胸に抱いたサクラが、美味しそうにカレーを口に運ぶファイを見てニッコリ笑いながら問いかけてきた。黒鋼は一度口に入れたものをきちんと飲み込んでから、小さく唸る。
「好きっちゃ好きだが。手っ取り早ぇからな、カレーは」
「わたし知ってます。カレーって飲み物なんですよね」
「そこまで極端な食い方はしねぇけどな……」
小狼が半分ほどに減っていたグラスに水を注ぎ足しながら、黒鋼とサクラの会話に苦笑した。
「記者の仕事って、やっぱりお忙しいんですね。お昼もカレーで済ますことが多いんですか?」
「いや、割と色々食う。仕事柄な」
「そういえばグルメ雑誌の担当をされているんですよね」
「美味しいものをお仕事で食べられるなんて……羨ましいです」
サクラがうっとりと目を閉じて呟くが、実際はそんなに甘くはない。
中には驚くほど不味い飯を出す店もあるし、最近ではデカ盛りなんて品のないブームが起こっているせいで、それなりにタフな胃袋がなければ勤まらない仕事だ。
美味いと評判の店があればどこであろうが飛んで行き、記事を書くからには実際に食わなければ話が進まない。
だからだろうか。プライベートでの食事は地味になってしまった。自宅ではカップ麺で済ませてしまうし、外で食べなければならない時はカレーか、適当に立ち食い蕎麦屋にでも入ってしまうことが多かった。
「黒わん……」
なんやかんやと三人で会話をしている最中、大人しくカレーを食べていたファイが手を止めて、じっとこちらを見上げてきた。
どうしたのかと目で問えば、彼は視線を食べかけのカレー皿に落としてから、また黒鋼を見上げた。
「黒わん、カレー大好きなんだ」
「いや、まぁ好きだが……聞いてたか? 人の話」
「黒鋼さん! ファイさんはイカが噛み切れなくて、ずっと一生懸命口をモゴモゴさせてたんです! 叱らないであげてください!」
サクラがすかさずファイの肩にしがみついて、必死に庇う。流石『しんゆー』だ。決して叱っているわけではないのだが……。
とりあえずイカが噛み切れなかったのなら仕方がない、悪いのはイカだ。(この間、小狼がファイからサクラをペリッと剥がしていた)
「黒わん、オレがカレー作ったら嬉しい?」
「おまえ料理なんかできんのか?」
「やったことないけどね、あのね、ユゥイがいっつも言ってるの。ファイはテサキがキヨーだから、何をやってもジョーズだよーって」
「ジョーズ……? 鮫? ああ、上手な」
「そう、ジョーズ」
明らかにイントネーションがおかしいが、ファイは何やら瞳の奥に炎を宿しているようだった。
作る気だろうか。だが、子供にナイフや火を使わせるわけにはいかない。いくら手先が器用でも、彼が普段扱っているのは毛糸や綿で、刃物なんてせいぜいハサミくらいのものだ。料理をするのとは全く訳が違う。
それでも彼の気持ちは充分に嬉しくて、黒鋼は小さく笑うと金色の頭を優しく撫でた。
「無理すんな」
「ムリしてないよー! オレ黒わんにカレー作る! 黒わん、今度いつ来る? 明日?」
「明日って、おまえはいつもせっかちだな」
思わず小狼の方を見ると、彼は困った顔をしながらも小さく笑った。
「ファイさん、結構頑固なのでこうなったら聞かないかもしれません」
「つってもな……」
「ユゥイさんがいれば大丈夫だとは思いますが……」
確かに、あのしっかり者の弟がいれば大丈夫だろうが、そもそも許すだろうか。
そういえば、彼は最後の客が帰るのに続いて看板を下げるために外へ出たまま、まだ戻っていなかった。話好きかつイケメン好きのおばちゃんにでも捕まっているのかもしれない。
「そうだな……次の日曜あたりにまた来るつもりではいたが」
「四日後ですね。じゃあ、ユゥイさんが戻ったらお話してみましょう」
「ねぇ、ヨッカゴって明日?」
「違ぇよ、あほ」
そわそわしながら顔を覗き込んでくるファイの頭をポンと軽く叩いて、黒鋼は苦笑した。
***
「この石なんてどうですか? 丸くて大きいです」
「ん……ダメ。それだとお父さんよりおっきい」
「じゃあ、これは?」
「それはね、お兄さん石だよ。これ、このちょっと尖がってるのがお母さん」
「むぅー……けっこう難しいです……」
「何してんだおまえら……」
黒鋼が少し呆れた表情で声をかけると、店先にしゃがみ込んでいたサクラと小狼、そしてファイが顔を上げた。
「あ……黒わん……」
すかさず立ち上がったファイが、駆け寄ってきて胸に顔を埋める。それを受け止めてやりつつ、黒鋼はペコリと頭を下げる他の二人に向かって首を傾げた。
「石拾いか?」
彼らは黒鋼が声をかけるまで、なぜかしゃがみ込んで道路脇の砂利スペースに手を伸ばしていた。
主に石を拾っては何やら吟味していたのはファイとサクラだったが、遠目からもそこはかとなく、沈んだ様子に見えたのは気のせいだろうか。
証拠に、小狼とサクラが顔を見合わせてからしょんぼりと俯き、いつもなら黒鋼と顔を合わせた途端に休みなく喋りだすファイも、力なく項垂れている。
「おい、一体どうした」
それが……と言いにくそうに小狼が切り出すと、そこでカフェの扉が鐘を鳴らしながら開かれる。
「ユゥイさんを怒らせたんですよ」
出てきたのは小狼と同じ顔をした少年だった。
だが、雰囲気はどこか大人びていて、冷えた印象を受ける。これは兄の方だ。
「怒らせた……ってのはどういう」
「カレー鍋をぶちまけたんです。あの人、大概は笑ってやり過ごすような人ですけど、キッチンを汚されるのだけは我慢ならないから。それに」
小龍は扉に背を預け、不遜な態度で腕を組むと小さく顎をしゃくった。
ふと胸にしがみついているファイの指先を見ると、血の滲んだ絆創膏が幾つも巻かれていた。しかも、彼だけじゃない。胸元で小石をもじもじといじくるサクラの手も、似たような有様だった。
「……まさかとは思うが、おまえらだけで作ろうとしたのか?」
今日は日曜日だ。
前回ここを訪れたとき、ファイはカレーを作ると言って張り切っていた。
あのあとすぐに戻って来たユゥイ(やっぱりおばちゃんの立ち話に付き合わされていた)に了承を得て、黒鋼はちょうど昼時に腹を空かせてくるようにと言い渡された。
「なんだってそんなことに……あの弟はどうした? 側にいたんじゃねぇのか?」
「いなかったんです……」
小狼が見ているこちらが可哀想になるほど肩を落として言った。
「ユゥイさん、午前中は兄と店の買い出しに出ていたんです。それがなかなか戻らなくて……」
「仕方ないだろう。青果店の熟女に捕まったんだ」
辟易とした様子で吐き捨てる小龍の様子から察するに、話好きかつイケメン好きのおばちゃんとやらの正体は青果店の女主人ということか。
店先で声を張る姿を幾度か見かけたことがあるが、肝っ玉母さん風のなかなか迫力ある熟女だった。
つまりユゥイの帰りを待ちきれずに勝手に作業を開始して、散々な結果になったというわけだ。
その結果、しばらく外で反省していろとでも言われたのだろうか。
黒鋼は項垂れるファイの手を取り、傷ついた指先を見つめて顔を顰めた。
「おまえな、危ねぇだろ……こんな怪我までしやがって、なんで待ってらんなかった?」
「だって……黒わんお腹ペコペコだと思ったんだもん……」
「だからってな……」
そんなことを言われてしまったら、黒鋼としては彼らを叱りつけることが出来なくなってしまう。
彼の優しさは嬉しいし、一生懸命さくらいは評価してやりたかった。だが、下手をすれば指先の怪我だけでは済まなかったかもしれないのだから、ユゥイの怒りは無理もない。
ここで黒鋼が無責任に甘やかすわけにはいかなかった。
「すみません……おれが側にいたのに止められなくて……」
「小狼君は悪くないよ! カレーのお鍋を引っくり返しちゃったのはわたしだし……」
「違うよー。オレの足がサクラちゃんの足に引っかかっちゃったから……」
張り切ってカレーを作りだす二人と、それをどうにか止めようとしつつ流されて、結局は一緒に作業をしだす小狼の姿が目に浮かぶ。
大方、狭いスペースで揉みくちゃになりながら体勢を崩して、カレー鍋にタックルでもかましたのだろう……。
「悪気がねぇのが一番性質が悪ぃからな……」
胸に顔を埋めてしくしくと泣きだしてしまったファイの頭を優しく撫でる黒鋼に、小龍が冷めた口調で「同感です」と呟いた。
***
悪気がないのも性質が悪いが、笑っているのに実は激怒しているというのもなかなか厄介だと、黒鋼はカウンター越しにユゥイの整った笑顔を見ながらひしひしと感じていた。
「あんまり怒るなよ。ガキがやったことだろ」
「ガキがやったから怒ってるんですよ。ガキはガキらしく外で小石と戯れていればいい。違いますか?」
「まぁ言い分はもっともだが……」
ファイは見た目だけなら成人した大人だが、その言動ばかりでなく仕草もどこかたどたどしい、小さな子供だ。
サクラはあの通りそそっかしいし、小狼は小狼で、礼儀を重んじる彼はどうしてもファイを子供と同等に扱うことに遠慮があるのかもしれない。
とはいえ、サクラの手に傷が残っては両親に申し訳がたたないし、ファイの手は商売道具でもある。それ以前に、彼のあの白くて綺麗な手に巻かれた絆創膏はあまりにも痛々しくて、やはり四日前のあのとき、もっとしっかり止めておくべきだったと反省した。
「俺も悪かった。だからそろそろ」
「黒鋼さんは悪くないでしょう。あのガキ共の浅はかさをボクが舐めきっていた、その結果なんですから」
「おまえ、せめて感情と表情くらいは一致させたらどうだ……」
笑っているのに笑っていないというのは、なんとも気味が悪い。店内にも心なしか凍えるような空気が漂っている気がした。あと、凄くカレー臭い。
浅はかなガキとキッパリ言いきられてしまった三人は、まだ外で反省している。この調子では、彼らも恐ろしくてなかなか店に戻ることはできないだろう。
とりあえずフォローするつもりで入って来たが、黒鋼にも自信がなくなってくる。どうしたものか……。
「ユゥイさん、あまり怒るとハゲますよ」
そこに、ユゥイの隣でグラスを磨いていた小龍が助け舟になっているのかいないのか、よくわからない横やりを入れた。
よしいいぞ、もういっそなんでもいいからうまくやれ小僧(兄)、と内心で応援する黒鋼。
ユゥイは小龍の「ハゲ」という単語に、にこやかな表情をピクリと動かす。
「生憎、うちの家系にハゲはいないよ」
「分かりませんよ。遥か遠い親戚が実はハゲ揃いで、それがうっかり隔世遺伝なんてこともあります」
「うっかりでハゲがうつっちゃ敵わないな。そういう冗談はよそでやってくれない?」
「おれは冗談は嫌いです」
「…………」
(もっと空気凍らせてどうするんだこの野郎……!)
お願いやめて、大人の男はみんなハゲという単語に敏感なの。ちょっとのキッカケで毛根を気にし始めるデリケートな生き物なの……と、恐れ知らずのうら若き男子高校生を黙らせたくて仕方がなくなってきた頃、小龍がさらなる爆弾を投下した。
「おれはハゲててもあなたを愛する自信はありますけどね」
「なんの話だ」
なぜかすかさず反応してしまったのは黒鋼だった。
冗談は嫌いだと言った口が、笑っていいのか悪いのかよく分からない冗談を吐いている。
「おいなんだ……まさかおまえらそういう関係か」
「違うに決まってるでしょ……」
「これからそうなる予定です」
「君、明日からうちの店来なくていいよ」
ようやくユゥイの笑顔の仮面が剥がれた。彼は見たこともないようなゲッソリとした表情でクビ宣告をしている。
小龍は何を考えているのか分からない無表情のまま、ユゥイを見上げた。
「おかしいな。おれの人生という名のシナリオにはそう書いてあるんですが」
「君の人生設計に勝手にボクとハゲを組み込まないでくれるかな……」
「メタボも気にしません。物件としては悪くないかと」
「……最悪だ」
ユゥイの心底疲れきった表情を見るに、どうやらいつもこうして口説かれているらしいことが分かった。
気の毒なような応援したいような、微妙な気分だったが、最終的には付き合ってられないという結論に至った黒鋼は席を立ち、ファイたちの様子を見に行くことにした。
***
「またやってんのか」
黒鋼が三人の様子を見に行くと、サクラとファイがまた石拾いをしていた。
絆創膏を貼ってはいるが、傷口にばい菌でも入ったらどうするのか。
ハッとして立ち上がった小狼が、黒鋼に縋るような目を向ける。
「ユゥイさん……どうでしたか?」
「どうもこうも……おい、おまえの兄貴が暴走してんぞ。とっとと助けてやれ」
「またですか……」
小狼は力なく項垂れると、凍えてるんだか熱いんだか分からない謎の空気に包まれた店内に入っていく。それを追って、サクラも一緒に扉の向こうに消えていった。
残されたファイだけが、しゃがみ込んだまま俯いている。
彼の視線の先には、大きい順から石がきっちりと並べられていた。
「おまえは石集めが趣味なのか?」
仕方なく、黒鋼もその隣にしゃがみ込む。ファイは小さく首を振って「うぅん」と唸った。そして、一番左端の大きな石をちょこんと指さす。
「これね、お父さんの石」
「お父さん?」
「ん。でね、これがお母さんの石。隣がお兄さんで、これが弟」
ああ、石を家族に見立てているのか。
そういえば黒鋼も小さな頃に、なんだかんだとこじつけて石を集めて遊んでいた記憶がある。どうしてそんな遊びをしようと思ったのか、今では全く思い出せないが、あの頃はとにかく夢中になっていた。
「でもね、お父さん石はすぐになくなるの」
「なくなる? 仕事か?」
「うぅん。しんじゃうの」
「…………」
「でね、お母さん石もなくなるの」
しんじゃうからと、ファイは言った。
「それは……」
おまえの家族の話かと、黒鋼は聞くことができなかった。
ファイは左端のお父さん石を掴むと、ポイッと放り投げた。石は狭い道の反対側に転がって、石塀にぶつかると動きを止める。
それからファイは、さらにお母さん石を掴むと今度は投げずに、少し離れた場所に転がした。残されたのは、小さな二つの兄弟石だった。
黒鋼は、そのぽつりと寂しげに取り残された二つの石を見つめた。
どちらも丸みと微かな光沢があり、色もサイズも同じだった。
まるで双子のように。
きっとこの石はファイとユゥイだ。彼がそう断言したわけではないが、間違いない。だとしたら、二人の両親は。
「……この兄弟はこの後どうなるんだ?」
寄り添うように並ぶ二つの石が、あまりにも物悲しく見えた。
今、彼らはこの駅裏の商店街の片隅で同じように身を寄せて暮らしている。ファイはいつも楽しそうだし、それを見守るユゥイの目は優しい。
だからきっと、ファイの口からは黒鋼が求める『救い』が吐き出されるはずだった。そうでなければならなかった。だけど、違った。
「一緒にはいられないの」
「…………」
「お別れしなきゃいけないの。大好きだから」
いっしょには、いけないの。
膝頭にちょこんと置かれていたファイの、傷だらけの指をした手の甲に、透明な雫が落ちた。それは次から次へと降ってきて、幾つもの筋を作って流れていく。
「ユゥイ、オレのこと、嫌いに、なったかなぁ……?」
自らに問いかけるような言葉だった。
彼は石をじっと見下ろしたまま、何度も鼻をすすって肩を震わせる。時折大きくしゃくり上げるせいで、その声は途切れ途切れになっていた。
「オレ、もう、いっしょに、いちゃダメに、なったかなぁ……?」
もう見ていられなくなって、黒鋼は堪らず彼に腕を伸ばした。頭を鷲掴んで、思いっきり引き寄せると首筋に額を押し付けさせる。
「嫌いになるわけねぇだろ」
「でも、ユゥイ……すごく、怒ってた……」
「心配させちまったんだ。勝手に危ねぇ真似したから」
「ユゥイ、遠く、行っちゃう? オレ、また……ひとりぼっち……?」
「…………」
彼らは過去に、離れ離れにならなくてはいけない事情があったのだろうか。何があったのか、黒鋼には知る由もない。
幼い子供はただ無力だ。望む望まないに関わらず周りに依存しなければ生きていけない。でも、彼らはもう大人だ。ファイの心だけはまだ遠い過去に置き去りにされているのかもしれないが、今はこうして自らの意志で穏やかな日々を過ごすことができているではないか。
まだ断片に触れた程度の自分にだって分かる。この店がその象徴だ。
黒鋼はファイが少しずつ落ち着いてきたころ、ようやく身を離した。そして立ち上がると道路を横断し、投げ捨てられた石を拾った。
「黒わん……?」
大きな石を手に戻って来た黒鋼は、またファイの隣にしゃがむと元あった位置にそれを置く。
「これはな、お父さん石じゃねぇよ」
「?」
「黒わんの石がねぇじゃねぇか。大事なんだろ?」
「あ……」
ファイは泣き濡れた赤い目元で、小さな声を上げる。潤んだ碧眼が丸く見開かれ、花びらが踊るように瞬きを繰り返した。
「で、こっちはおまえでいいだろ」
黒鋼は手を伸ばすと、ファイが転がしたお母さん石を取り、黒わんの隣に置いた。それから、足元を見回して似たような大きさの石を探り当て、さらに隣に並べる。
「これが弟だ」
「ユゥイ……?」
「そうだ。そのちっこい二つは……そうだな、あの小僧どもでいいか」
「じゃあ、じゃあ……これ」
少しだけ明るさを取り戻したファイは、すぐその辺りを探ると指先で小さな石を摘み上げ、兄弟石の隣に追加する。
「これ、サクラちゃん。女の子だから、一番ちっちゃくて可愛いの」
「揃ったな」
「うん!」
ああ、やっと笑った。
初めて出会った日、別れ際に泣いていたファイが笑顔を取り戻したときも、こんな風に安堵した。彼の笑顔には黒鋼の心を癒す力がある。柔らかくて、無邪気で、真っ直ぐで、可愛い。
どんな悲しい過去があったとしても、こうして今を笑って生きられるならそれでいいのではないか。ファイにはずっと、いつまでもこうしていて欲しいと心から思う。
「そろそろいいんじゃねぇか?」
黒鋼が背後を振り仰ぎ、声をかけると店の扉を開けてユゥイが姿を現した。
すかさず立ちあがったファイが黒鋼の腕に縋りつき、隠れるように肩に顔を埋めるけれど、その頭をポンポンと叩いて勇気づけてやると、おずおずと顔をあげる。
そしてユゥイの正面までのろのろとした足取りで向い、俯いた。
「…………」
ユゥイは何も言わない。ただ切なげに眉根を寄せて、ファイの言葉を待っている。
「……ユゥイ、ごめんなさい」
「…………」
「もうしない……しないから、だから」
「ッ」
息をのみながら両腕を伸ばしたユゥイが、ファイを力いっぱい抱きしめる。
何度も何度も頭を撫でて、彼は絞り出すような声で「なれるわけない」と言った。
「嫌いになんかなれるわけないよ。ボクはファイのことが大好きなんだ。だからずっと一緒。もうひとりぼっちになんかしないよ」
「うん……」
「約束して。これからは絶対に危ない真似はしないって。見てごらん、こんなに傷がついて」
ユゥイはファイの左手を取ると、そっと握りしめて自分の胸に押し当てる。人差し指と親指の先、さらに中指の中腹に巻かれた絆創膏はやっぱり血が滲んでいて、痛々しかった。
ユゥイが怒っているのはファイが勝手に危ない真似をして、こうして傷を作ったからだ。ファイにもやっとそれが分かったのだろうか。再び涙を浮かべて、声にならない声で「ごめんなさい」と謝罪しながら鼻をぐずらせた。
「もう泣かないで。ちゃんとごめんなさいできたね。だからこの話は終わり。ね、中に戻ってお昼ご飯にしよう?」
「ん……」
「カレーは指が治ったら、一緒に作ろ。ナイフの持ち方も、ボクがちゃんと教えてあげる」
「いいの……?」
「もちろん。黒わんも、今日はカレーはないですけど、延期でいいですか?」
「おまえまで黒わん呼びすんな……」
苦々しい表情で頭をガリガリと掻きながら立ち上がる黒鋼にユゥイが笑って、ファイもつられて笑顔を浮かべる。彼らが揃って笑うと、辺りにふわりとした甘い空気が立ち込めるような気がして力が抜けた。
二人は手を繋いで、仲良く店に戻っていく。そんな双子の背を見つめたあと、一人残された黒鋼は足元に行儀よく並んだ六つの石を見下ろした。
石遊び自体はやめさせた方がいいだろうが、これからはファイが孤独な過去ではなく、今の幸せだけを考えながら過ごせればいい。
いなくなってしまった人たちを思って石を集めては捨てるのではなく、側にいる誰かを思って、笑っていられれば。
「黒わーん、どうしたのー? 早く来てくれなきゃやだよー」
なかなか戻らない黒鋼に、ファイが少しだけ開けた扉から心配そうな顔を出す。それに手を上げて「おう」と返事をすると、彼は安心したようにふにゃっと笑ってまた消えた。
「黒わん、な」
成り行きとはいえ、これではいつになったら黒わんの役目を卒業できるのか、分かったもんじゃない。
それでもまるで嫌な気持ちがないどころか、緩んでいる口元に気が付いて、黒鋼は両手で頬を幾度か叩く。
そういえば言いつけ通り腹ぺこで来るために、今日は朝から何も口にしていないことを思い出した途端、ぐぅっと腹が鳴った。
なんだかんだで自分もファイが作ったカレーを楽しみにしていたということか。別に大好物というわけではないのだが。
誰に見られていたわけでもないのに咳払いをして、黒鋼も店に戻って行った。
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