あなたにならば、この皮膚を食いちぎられても構わなかったのです。
私はあなたの血となり肉となり、あなた自身に溶け込みたかった。
例えば私に美しく青々とした鱗があったとしても。
無防備にぶら下げられたご馳走に食いつくだけの、愚かさと傲慢さがあったとしても。
私の願いは、それでも叶わなかったのでしょうか。
*
グリーンアベンチュリンという宝石には、優しさ、素直さ、心の安定といった意味があるという。
宝石や花などにそれぞれ意味があるなんてこと自体、どこか不思議で理解しがたいなどと思っていた黒鋼にしてみれば、その意味について自慢気に語るファイもまた不思議なものに感じられた。
「よく知ってるな」
素直にそう言うと、ファイは「えへへー」と嬉しそうにはにかんで頬を染めた。
「キレイな名前だなって思って調べたんだー。ね? だからこれ見て!」
ファイが黒鋼の目の前に突き出してきたのは旅行雑誌だった。
そこに写っている小奇麗な概観のホテルの名が、『グリーンアベンチュリンホテル』だったのだ。
「湖のほとりにあるなんて凄い素敵だよねー? しかもさ、ここってホテルとは別にコテージもあるんだよー! オレ、一発で気に入っちゃったー!」
ひょいと片方の眉を動かした黒鋼に、ファイがべったりと縋りついてくる。
「ねーねー、どっか旅行に行きたいってずっと言ってたでしょー? ここにしよーよー」
どこか必死に強請る彼は、まるでスーパーやデパートなどで駄々をこねる幼子のようだった。
黒鋼はわざと味気ない返事を返す。
「いいんじゃねぇか?」
案の定その返し方が気に入らなかったらしいファイは、ぶうっと唇を膨らませた。
「もー! ちゃんとお話してよー! なんでそんな投げやりなわけー?」
「んなこたねぇよ」
ファイが行きたいと言うのならば、それに異存はなかった。
決して素直に口や態度に出すことは出来なくとも、黒鋼は彼が可愛くて仕方がなかったのだから。
*
翌日は透き通るような青の広がる晴天だった。
暖かく降り注ぐ太陽の光が、5月の新緑を燦々と照らしている。
木々の隙間から降り注ぐその光を浴びて、黒鋼は澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。
前の晩は大事を取って早めに眠りについたのが良かったのか、貧血で倒れたなど嘘のように調子がいい。
黒鋼とファイは朝食後、少しのんびり寛いでから、連れ立ってホテル周辺をブラリと散策することにした。
大型連休が終わった直後だからか、擦れ違う人間もなくむしろ閑散としているようにも感じられたが、むしろこちらの方が気楽に観光できて都合がいい。
ぽつぽつと何気ない会話を交わしながら、ゆったりとホテルの広大な敷地内を散歩していると、やがて純白の壁と色鮮やかなステンドグラスに彩られたチャペルに行き着いた。
緑の木々に囲まれるようにして佇むその美しい外観に、女心など知りもしない黒鋼でも、ここに憧れる女性は多くいるのではないかと思った。
『いいなー! オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
ファイのはしゃぐ声が聞こえて、黒鋼は思わず苦笑した。
「馬鹿。結婚式なんか出来るわけねぇだろ」
「え?」
ごく自然に返したはずのその言葉は、一歩後を歩いていたファイの驚いた声に掻き消される。
思わずはっとして振り返り、目を見開いた。
「今なにか言った?」
彼は不思議そうに目を瞬かせながら黒鋼を見つめている。
確かに聞こえたと思ったファイの浮かれた声が、空耳だったとでも言うのだろうか。
「やだな。黒様ったら独り言?」
ふふ、と笑い出すファイに、返す言葉がない。ただ不思議な感覚に囚われていた。
この場所で2人の結婚式を挙げられればいいのにと目を輝かせるファイに、そんなこと出来るわけないと返せば、ここで彼は思い切り不満そうに頬を膨らませて抗議してくるはずだった。
『酷いよ黒わんこー! ちょっと言ってみただけなのにーっ』
不満の声や、薄い唇を尖らせる様までもが鮮明に思い浮かべることが出来る。
しかしそこでまた違和感とぶつかる。
『それ』は、一体『いつ』のことだったろうかと。
黒鋼は純白のチャペルを呆然とした面持ちで眺めた。
なぜかは分からないけれど、初めて来たと思っていたこの場所に、懐かしさを覚えはじめていた。
「それにしてもキレイな教会だね。女の子は憧れるだろうな」
チャペルのステンドグラスを眺めるファイがしみじみと呟いて、黒鋼はそのあまりにも奇妙な即視感を振り払った。
ここへ来るのは真実初めてのことである。ファイが旅行雑誌を見てこの場所を指定しなければ、きっと生涯来る機会も、ましてや知る機会にすら恵まれなかったかもしれない場所だ。
チャペルを見上げる穏やかな横顔を眺めて、黒鋼は自然と口元を綻ばせた。
「好きか?」
見上げてくるファイが「うん」と頷いてニコリと笑った。
黒鋼は再び視線を戻し、青く澄んだ空にくっきりと浮かび上がる十字架を眺めた。鈍色をした鳩が数羽、視界を長閑に横切ってゆく。澄んだ青空へ目を細め、黒鋼は懐かしさにふと思う。
『オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
あのとき、なぜ否定したのだろう。
今になって後悔するくらいなら、話を合わせてやるくらいすればよかった。
それでもきっと、ファイはまた『気持ちがこもってない』などと言って唇を尖らせたのだろうか。
「……っ」
そこでまた我に返った。
たった今、この記憶は押しやったばかりのはずなのに。
この曖昧なくせにはっきりと鮮やかに脳裏を過ぎる『記憶』とは、一体なんなのだろう。
ありもしない出来事に、なぜ『後悔』などする必要があるのか。
自分自身が酷く不気味なものに感じられて、思わずファイの手を握ると、純白のチャペルに背を向け足早に歩き出す。
唐突に手を引かれたファイはよろめきながら小さな悲鳴を上げた。
「ど、どうしたの?」
「なんでもねぇ」
「でも」
「どこへ行きたい?」
「え?」
「てめぇの行きてぇところに行く」
ここから離れられれば、どこでもいい気がしていた。
*
だが、その後どこへ行こうとも、奇妙な懐かしさは拭えなかった。
美しい景色を眺めながら歩いても、小洒落た喫茶店で軽食を取っても、都会ではお目にかかれない珍しい野鳥を見ても、黒鋼の自身に対する薄気味悪さは一向に消え去らない。
どこへ行こうとも、何を見ようとも、大喜びではしゃぐファイとそれを窘める自分のビジョンが付き纏う。
まるで白昼夢でも見ているかのような感覚。
懐かしさが後を絶たない。
ふとした瞬間、記憶の穴に深く入り込みすぎて戻れなくなりそうだった。
そんなときは、ファイがそっと寄り添い黒鋼に声をかけた。
彼はただずっと静かに微笑むばかりだった。
しかし黒鋼はふと気づく。
そのファイの笑顔や振る舞いにこそ、最大の違和感を覚えていることに。
*
夕方になると、少し風が強くなってきた。
茜色の空の下、ブラブラとコテージへの道を帰りながら、黒鋼は数歩先を歩くファイの背中を眺めた。
付き纏う不可思議な感覚と共に、黒鋼の胸にはなぜかぽっかりと穴が開いている。
それは、喪失感にも似た寂しさだった。
「おい」
「なぁに?」
おもむろに声をかければ、ファイが立ち止まって振り向いた。
その表情は夕陽を背にしているせいでよくは見えない。
けれど、きっと笑っているのだと思う。
なぜか酷く胸が苦しい。
「…………」
なにひとつ言葉など出てはこなかった。
ただひたすら、光を背にして翳りを纏う、ファイのシルエットを見つめた。
その金色の闇はゆっくりと黒鋼に近づき、やがて隣に並ぶ。
見上げてくる彼は思ったとおりの笑みを浮かべていた。
冷えた手が黒鋼の手に触れて、きゅっと緩く握られる。
「こう?」
小さく小首を傾げられても、やはり何も言えない。
そのまま手を引かれるようにして曲がりくねった道を歩いた。
湖の方向から流れてくる風は僅かに冷たい。ファイの手も冷たいままだ。
こんなにも体温の低い男だったろうか。黒鋼の記憶の中のファイは、いつだって幼い子供のような、高めの熱を持て余していたはずだった。
そっと手を繋ぐというよりは、勢いよく腕に飛びついてきた。黒鋼が人目を気にして難色を示すのにもお構いなしに、全身で甘えてきては笑ったり、怒ったり、すぐに泣いたり。いつだってその剥き出しの感情をぶつけてきた。
黒鋼の役目は、それを全て受け止めてやりながらも、咎めることのはずだった。
少しは落ち着け、ガキみてぇなことは言うな、はしゃぐんじゃねぇ。
そうやって窘めることが。
けれど、今ここにいるファイはまるで別人のようだ。
「ここでのおまえは、ずいぶんと大人しいんだな」
ようやく搾り出した声は、なぜか酷く擦れていた。
冷えた水があれば、この乾ききった喉を潤すことが出来るのに。
思えば、今日は肝心の湖へは行かなかった。
なぜか、行く気になれなかった。
風が止む。
ファイは空に向かって小さく声を上げて笑った。
その横顔は見慣れたもののはずなのに。
「それは君が望んだことだよ」
黒鋼は夕陽の橙に向かって瞳を眇める。
遥か遠くに夕陽を弾いてキラキラと光る湖を視界に捉えると、やはりあの嫌な頭痛が押し寄せた。
←戻る ・ 次へ→
私はあなたの血となり肉となり、あなた自身に溶け込みたかった。
例えば私に美しく青々とした鱗があったとしても。
無防備にぶら下げられたご馳走に食いつくだけの、愚かさと傲慢さがあったとしても。
私の願いは、それでも叶わなかったのでしょうか。
*
グリーンアベンチュリンという宝石には、優しさ、素直さ、心の安定といった意味があるという。
宝石や花などにそれぞれ意味があるなんてこと自体、どこか不思議で理解しがたいなどと思っていた黒鋼にしてみれば、その意味について自慢気に語るファイもまた不思議なものに感じられた。
「よく知ってるな」
素直にそう言うと、ファイは「えへへー」と嬉しそうにはにかんで頬を染めた。
「キレイな名前だなって思って調べたんだー。ね? だからこれ見て!」
ファイが黒鋼の目の前に突き出してきたのは旅行雑誌だった。
そこに写っている小奇麗な概観のホテルの名が、『グリーンアベンチュリンホテル』だったのだ。
「湖のほとりにあるなんて凄い素敵だよねー? しかもさ、ここってホテルとは別にコテージもあるんだよー! オレ、一発で気に入っちゃったー!」
ひょいと片方の眉を動かした黒鋼に、ファイがべったりと縋りついてくる。
「ねーねー、どっか旅行に行きたいってずっと言ってたでしょー? ここにしよーよー」
どこか必死に強請る彼は、まるでスーパーやデパートなどで駄々をこねる幼子のようだった。
黒鋼はわざと味気ない返事を返す。
「いいんじゃねぇか?」
案の定その返し方が気に入らなかったらしいファイは、ぶうっと唇を膨らませた。
「もー! ちゃんとお話してよー! なんでそんな投げやりなわけー?」
「んなこたねぇよ」
ファイが行きたいと言うのならば、それに異存はなかった。
決して素直に口や態度に出すことは出来なくとも、黒鋼は彼が可愛くて仕方がなかったのだから。
*
翌日は透き通るような青の広がる晴天だった。
暖かく降り注ぐ太陽の光が、5月の新緑を燦々と照らしている。
木々の隙間から降り注ぐその光を浴びて、黒鋼は澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。
前の晩は大事を取って早めに眠りについたのが良かったのか、貧血で倒れたなど嘘のように調子がいい。
黒鋼とファイは朝食後、少しのんびり寛いでから、連れ立ってホテル周辺をブラリと散策することにした。
大型連休が終わった直後だからか、擦れ違う人間もなくむしろ閑散としているようにも感じられたが、むしろこちらの方が気楽に観光できて都合がいい。
ぽつぽつと何気ない会話を交わしながら、ゆったりとホテルの広大な敷地内を散歩していると、やがて純白の壁と色鮮やかなステンドグラスに彩られたチャペルに行き着いた。
緑の木々に囲まれるようにして佇むその美しい外観に、女心など知りもしない黒鋼でも、ここに憧れる女性は多くいるのではないかと思った。
『いいなー! オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
ファイのはしゃぐ声が聞こえて、黒鋼は思わず苦笑した。
「馬鹿。結婚式なんか出来るわけねぇだろ」
「え?」
ごく自然に返したはずのその言葉は、一歩後を歩いていたファイの驚いた声に掻き消される。
思わずはっとして振り返り、目を見開いた。
「今なにか言った?」
彼は不思議そうに目を瞬かせながら黒鋼を見つめている。
確かに聞こえたと思ったファイの浮かれた声が、空耳だったとでも言うのだろうか。
「やだな。黒様ったら独り言?」
ふふ、と笑い出すファイに、返す言葉がない。ただ不思議な感覚に囚われていた。
この場所で2人の結婚式を挙げられればいいのにと目を輝かせるファイに、そんなこと出来るわけないと返せば、ここで彼は思い切り不満そうに頬を膨らませて抗議してくるはずだった。
『酷いよ黒わんこー! ちょっと言ってみただけなのにーっ』
不満の声や、薄い唇を尖らせる様までもが鮮明に思い浮かべることが出来る。
しかしそこでまた違和感とぶつかる。
『それ』は、一体『いつ』のことだったろうかと。
黒鋼は純白のチャペルを呆然とした面持ちで眺めた。
なぜかは分からないけれど、初めて来たと思っていたこの場所に、懐かしさを覚えはじめていた。
「それにしてもキレイな教会だね。女の子は憧れるだろうな」
チャペルのステンドグラスを眺めるファイがしみじみと呟いて、黒鋼はそのあまりにも奇妙な即視感を振り払った。
ここへ来るのは真実初めてのことである。ファイが旅行雑誌を見てこの場所を指定しなければ、きっと生涯来る機会も、ましてや知る機会にすら恵まれなかったかもしれない場所だ。
チャペルを見上げる穏やかな横顔を眺めて、黒鋼は自然と口元を綻ばせた。
「好きか?」
見上げてくるファイが「うん」と頷いてニコリと笑った。
黒鋼は再び視線を戻し、青く澄んだ空にくっきりと浮かび上がる十字架を眺めた。鈍色をした鳩が数羽、視界を長閑に横切ってゆく。澄んだ青空へ目を細め、黒鋼は懐かしさにふと思う。
『オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
あのとき、なぜ否定したのだろう。
今になって後悔するくらいなら、話を合わせてやるくらいすればよかった。
それでもきっと、ファイはまた『気持ちがこもってない』などと言って唇を尖らせたのだろうか。
「……っ」
そこでまた我に返った。
たった今、この記憶は押しやったばかりのはずなのに。
この曖昧なくせにはっきりと鮮やかに脳裏を過ぎる『記憶』とは、一体なんなのだろう。
ありもしない出来事に、なぜ『後悔』などする必要があるのか。
自分自身が酷く不気味なものに感じられて、思わずファイの手を握ると、純白のチャペルに背を向け足早に歩き出す。
唐突に手を引かれたファイはよろめきながら小さな悲鳴を上げた。
「ど、どうしたの?」
「なんでもねぇ」
「でも」
「どこへ行きたい?」
「え?」
「てめぇの行きてぇところに行く」
ここから離れられれば、どこでもいい気がしていた。
*
だが、その後どこへ行こうとも、奇妙な懐かしさは拭えなかった。
美しい景色を眺めながら歩いても、小洒落た喫茶店で軽食を取っても、都会ではお目にかかれない珍しい野鳥を見ても、黒鋼の自身に対する薄気味悪さは一向に消え去らない。
どこへ行こうとも、何を見ようとも、大喜びではしゃぐファイとそれを窘める自分のビジョンが付き纏う。
まるで白昼夢でも見ているかのような感覚。
懐かしさが後を絶たない。
ふとした瞬間、記憶の穴に深く入り込みすぎて戻れなくなりそうだった。
そんなときは、ファイがそっと寄り添い黒鋼に声をかけた。
彼はただずっと静かに微笑むばかりだった。
しかし黒鋼はふと気づく。
そのファイの笑顔や振る舞いにこそ、最大の違和感を覚えていることに。
*
夕方になると、少し風が強くなってきた。
茜色の空の下、ブラブラとコテージへの道を帰りながら、黒鋼は数歩先を歩くファイの背中を眺めた。
付き纏う不可思議な感覚と共に、黒鋼の胸にはなぜかぽっかりと穴が開いている。
それは、喪失感にも似た寂しさだった。
「おい」
「なぁに?」
おもむろに声をかければ、ファイが立ち止まって振り向いた。
その表情は夕陽を背にしているせいでよくは見えない。
けれど、きっと笑っているのだと思う。
なぜか酷く胸が苦しい。
「…………」
なにひとつ言葉など出てはこなかった。
ただひたすら、光を背にして翳りを纏う、ファイのシルエットを見つめた。
その金色の闇はゆっくりと黒鋼に近づき、やがて隣に並ぶ。
見上げてくる彼は思ったとおりの笑みを浮かべていた。
冷えた手が黒鋼の手に触れて、きゅっと緩く握られる。
「こう?」
小さく小首を傾げられても、やはり何も言えない。
そのまま手を引かれるようにして曲がりくねった道を歩いた。
湖の方向から流れてくる風は僅かに冷たい。ファイの手も冷たいままだ。
こんなにも体温の低い男だったろうか。黒鋼の記憶の中のファイは、いつだって幼い子供のような、高めの熱を持て余していたはずだった。
そっと手を繋ぐというよりは、勢いよく腕に飛びついてきた。黒鋼が人目を気にして難色を示すのにもお構いなしに、全身で甘えてきては笑ったり、怒ったり、すぐに泣いたり。いつだってその剥き出しの感情をぶつけてきた。
黒鋼の役目は、それを全て受け止めてやりながらも、咎めることのはずだった。
少しは落ち着け、ガキみてぇなことは言うな、はしゃぐんじゃねぇ。
そうやって窘めることが。
けれど、今ここにいるファイはまるで別人のようだ。
「ここでのおまえは、ずいぶんと大人しいんだな」
ようやく搾り出した声は、なぜか酷く擦れていた。
冷えた水があれば、この乾ききった喉を潤すことが出来るのに。
思えば、今日は肝心の湖へは行かなかった。
なぜか、行く気になれなかった。
風が止む。
ファイは空に向かって小さく声を上げて笑った。
その横顔は見慣れたもののはずなのに。
「それは君が望んだことだよ」
黒鋼は夕陽の橙に向かって瞳を眇める。
遥か遠くに夕陽を弾いてキラキラと光る湖を視界に捉えると、やはりあの嫌な頭痛が押し寄せた。
←戻る ・ 次へ→
暗く深い水の底。
私はあなたを待っています。
どうか恐れないで。
私はもう、あなたの知る私ではないかもしれないけれど。
私はもう、その形を留めてはいないかもしれないけれど。
どうか許してください。
それでも私は、あなたを待っているのです。
それでも私は、あなたを愛しているのです。
この声が決して届かないことを、私は知っているのです。
*
まるでずっと呼吸を遮られていたかのような苦しみから解放されたとき、黒鋼は意識を浮上させた。
強くシーツを握り締め、荒々しい呼吸を繰り返しながら視線だけで辺りを見回す。
見慣れない室内は、どこか懐かしささえ感じられる暖色の光に包まれていた。
ここはどこだろうか。
一体どれだけのあいだ眠っていたのだろう。
そもそも、いつ眠ったのかさえ思い出せない。
ゆっくりと瞬きを繰り返しながら天井を見つめ、鉛のように重苦しい思考を巡らせるも、答えは出なかった。
「起きた?」
そのとき、声と共に汗ばむ額に触れたのは氷のように冷たい指先だった。
ヒクリと頬の肉を引き攣らせながら見やれば、そこには心配そうに顔を覗き込んでくるファイの表情がある。
「俺は……」
眠っていたのか、と問いかけようとして、けれど喉が渇いて張り付いているせいで先を続けることが出来ない。
ファイは安堵したような表情で目を細め、優しく微笑む。
「ビックリしちゃった。いきなり真っ青になって倒れちゃうんだもの」
「倒れた……?」
黒鋼は額を押さえて眉間に皺を寄せた。
そして暫し考え込んだあと、ようやく今ここにこうして至る経緯を思い出す。
ここは緑の山々と梟夜湖(きょうやこ)の美しい景色の中に佇むホテルのコテージだ。
ずっと以前から2人で来ようと計画を練っていて、この度それがようやく叶った。
そして長いあいだ運転してきた車から降り、緑と湖という絶景の景色を眺めた途端に、眩暈を覚えた。それきり、記憶がない。
ファイはタオルで黒鋼の頬や額を拭いながら、申し訳無さそうに眉を寄せる。
「ごめんね。途中でオレも運転かわればよかったのに……黒様、疲れて貧血起こしちゃったんだよ」
「……いや」
そこまでヤワなつもりはなかった黒鋼の方が、むしろ情けなさと申し訳なさを感じている。
大きく息を吐き出しながら身を起こそうとすれば、ファイがすかさずそれを補助した。
外は少しばかり風が強いようで、揺れる木々が窓ガラスをコンコンと叩く。
ふとそちらへ目をやると、そこには闇が広がっていた。
きっと明るいうちであれば、ここから美しい湖を眺めることが出来ただろう。
だがそこで残念さを感じる間もなく、キリリと頭に痛みを感じた。
「っ……」
「黒たん?」
ぐっと頭を抑えて息を呑んだ黒鋼にファイが寄り添い、顔を覗き込まれる。
「まだ具合悪い?」
「……夢を」
「夢?」
一瞬、深い闇が脳裏を掠める。
それは目覚めるまでに見ていた夢の光景だったようだが、深く思い出そうとすればするほど、痛みが増すようだった。
耳の奥でゴボゴボという不思議な音が、ノイズ交じりに聞こえた気がした。
「ねぇ、お医者さん呼んでもらう?」
「いい……」
さすがにこれ以上心配させるのは忍びない。
痛みを振り払うように軽く首を振ると、ゆっくりとそれは治まっていった。
ふっと安堵の息を零し、ファイを見やると大丈夫だという意味で頷いた。
「悪かったな」
「え?」
ファイは一瞬きょとんと目を丸くした。
「……退屈させた」
陽がすっかり落ちているのを見ると、随分と長い時間が経過しているらしい。
いつだって賑やかで騒がしいファイは、静かに待つということが出来ない、困った男なのだ。
黒鋼が構ってやらなければすぐに臍を曲げるし、まるで動くものに忙しなくジャレつく仔猫のようだ。
ああそうか、と短く答えてファイは楽しそうに笑った。
「平気だったよ。ほら、ずっと本を読んでたんだ」
「本?」
傍らにもう一つ設置してあるベッドの上、そこには随分と分厚い黒いカバーの書物が投げ出されていた。
「聖書だよ。引き出しに入ってたから」
「聖書……?」
「そうだね、退屈だったかって聞かれたら、それは本の内容の方だったかもしれないな」
おどけて笑うファイだったが、黒鋼は僅かに首を傾げる。
意外だった。それしかなかったとはいえ、ファイが自らこんなものに手を出すなんて。
黒鋼が知る限り、彼が普段読むものといえば雑誌や、くだらない漫画本くらいなものだった。
「さて、大丈夫そうならシャワーでも浴びておいで。凄い汗だよ」
「ああ……」
「そしたら、何か軽くご飯でも運んできてもらおうね。何も食べてなくて、お腹空いたでしょ?」
「そうだな」
実際はほとんど空腹は感じていない。けれどこれ以上余計な心配をさせるのを避けるために頷いた。ファイの笑顔に、黒鋼は僅かに感じた違和感を遠くへ押しやる。
それにどこか妙だと言えば、タフさが自慢だったはずの自分の不調の方だ。
今日は出だしから随分と時間を無駄にしてしまったが、旅は二泊三日。残りの時間を有意義に過ごすことの方が、今は何よりも重大だった。
←戻る ・ 次へ→
私はあなたを待っています。
どうか恐れないで。
私はもう、あなたの知る私ではないかもしれないけれど。
私はもう、その形を留めてはいないかもしれないけれど。
どうか許してください。
それでも私は、あなたを待っているのです。
それでも私は、あなたを愛しているのです。
この声が決して届かないことを、私は知っているのです。
*
まるでずっと呼吸を遮られていたかのような苦しみから解放されたとき、黒鋼は意識を浮上させた。
強くシーツを握り締め、荒々しい呼吸を繰り返しながら視線だけで辺りを見回す。
見慣れない室内は、どこか懐かしささえ感じられる暖色の光に包まれていた。
ここはどこだろうか。
一体どれだけのあいだ眠っていたのだろう。
そもそも、いつ眠ったのかさえ思い出せない。
ゆっくりと瞬きを繰り返しながら天井を見つめ、鉛のように重苦しい思考を巡らせるも、答えは出なかった。
「起きた?」
そのとき、声と共に汗ばむ額に触れたのは氷のように冷たい指先だった。
ヒクリと頬の肉を引き攣らせながら見やれば、そこには心配そうに顔を覗き込んでくるファイの表情がある。
「俺は……」
眠っていたのか、と問いかけようとして、けれど喉が渇いて張り付いているせいで先を続けることが出来ない。
ファイは安堵したような表情で目を細め、優しく微笑む。
「ビックリしちゃった。いきなり真っ青になって倒れちゃうんだもの」
「倒れた……?」
黒鋼は額を押さえて眉間に皺を寄せた。
そして暫し考え込んだあと、ようやく今ここにこうして至る経緯を思い出す。
ここは緑の山々と梟夜湖(きょうやこ)の美しい景色の中に佇むホテルのコテージだ。
ずっと以前から2人で来ようと計画を練っていて、この度それがようやく叶った。
そして長いあいだ運転してきた車から降り、緑と湖という絶景の景色を眺めた途端に、眩暈を覚えた。それきり、記憶がない。
ファイはタオルで黒鋼の頬や額を拭いながら、申し訳無さそうに眉を寄せる。
「ごめんね。途中でオレも運転かわればよかったのに……黒様、疲れて貧血起こしちゃったんだよ」
「……いや」
そこまでヤワなつもりはなかった黒鋼の方が、むしろ情けなさと申し訳なさを感じている。
大きく息を吐き出しながら身を起こそうとすれば、ファイがすかさずそれを補助した。
外は少しばかり風が強いようで、揺れる木々が窓ガラスをコンコンと叩く。
ふとそちらへ目をやると、そこには闇が広がっていた。
きっと明るいうちであれば、ここから美しい湖を眺めることが出来ただろう。
だがそこで残念さを感じる間もなく、キリリと頭に痛みを感じた。
「っ……」
「黒たん?」
ぐっと頭を抑えて息を呑んだ黒鋼にファイが寄り添い、顔を覗き込まれる。
「まだ具合悪い?」
「……夢を」
「夢?」
一瞬、深い闇が脳裏を掠める。
それは目覚めるまでに見ていた夢の光景だったようだが、深く思い出そうとすればするほど、痛みが増すようだった。
耳の奥でゴボゴボという不思議な音が、ノイズ交じりに聞こえた気がした。
「ねぇ、お医者さん呼んでもらう?」
「いい……」
さすがにこれ以上心配させるのは忍びない。
痛みを振り払うように軽く首を振ると、ゆっくりとそれは治まっていった。
ふっと安堵の息を零し、ファイを見やると大丈夫だという意味で頷いた。
「悪かったな」
「え?」
ファイは一瞬きょとんと目を丸くした。
「……退屈させた」
陽がすっかり落ちているのを見ると、随分と長い時間が経過しているらしい。
いつだって賑やかで騒がしいファイは、静かに待つということが出来ない、困った男なのだ。
黒鋼が構ってやらなければすぐに臍を曲げるし、まるで動くものに忙しなくジャレつく仔猫のようだ。
ああそうか、と短く答えてファイは楽しそうに笑った。
「平気だったよ。ほら、ずっと本を読んでたんだ」
「本?」
傍らにもう一つ設置してあるベッドの上、そこには随分と分厚い黒いカバーの書物が投げ出されていた。
「聖書だよ。引き出しに入ってたから」
「聖書……?」
「そうだね、退屈だったかって聞かれたら、それは本の内容の方だったかもしれないな」
おどけて笑うファイだったが、黒鋼は僅かに首を傾げる。
意外だった。それしかなかったとはいえ、ファイが自らこんなものに手を出すなんて。
黒鋼が知る限り、彼が普段読むものといえば雑誌や、くだらない漫画本くらいなものだった。
「さて、大丈夫そうならシャワーでも浴びておいで。凄い汗だよ」
「ああ……」
「そしたら、何か軽くご飯でも運んできてもらおうね。何も食べてなくて、お腹空いたでしょ?」
「そうだな」
実際はほとんど空腹は感じていない。けれどこれ以上余計な心配をさせるのを避けるために頷いた。ファイの笑顔に、黒鋼は僅かに感じた違和感を遠くへ押しやる。
それにどこか妙だと言えば、タフさが自慢だったはずの自分の不調の方だ。
今日は出だしから随分と時間を無駄にしてしまったが、旅は二泊三日。残りの時間を有意義に過ごすことの方が、今は何よりも重大だった。
←戻る ・ 次へ→
番外編 『寒椿』
※龍ユゥイ
「今日は、小狼君とサクラちゃんは一緒じゃないのかな?」
さっきまでいた二人組みがいなくなってから、他の何組かの客もいなくなった。
会計を済ませた店員が、カウンター越しに空のカップをぼんやりと見つめていた小龍に声をかける。
ふと顔を上げて、穏やかに微笑んでいるその人を見た。
この人の名前はユゥイ。それは知ってる。
そしてさっきまでいた小うるさい人はファイという名前。
一緒にいたのは、黒たん、とその人に呼ばれていた。
小龍は無表情を崩さないままに、ユゥイに小さく頷いて見せた。
「小狼とさくらがいい感じになってたから。おれがいたら邪魔だし」
そう言うと、ユゥイは小さな声を上げて笑った。
むっと睨みつけると、すかさず「ごめんね」と言われる。
「だって、小龍君が凄く大人に見えちゃったから」
だからってどうして笑われるのだろう。
なんだか馬鹿にされている気がして面白くなかった。
「おれはもともと大人だ」
「うん。そうだね」
「でも、さっきの人は子供っぽかった」
ユゥイは、先刻よりも声を上げて笑った。
この人はいつも笑っているけれど、こんな風に声を上げて笑うところはあまり見ないから珍しい。
「ファイだね。うん、いっつもああなんだ。可愛いでしょ?」
小龍は思わず顔を顰める。可愛いっていうのはさくらのような可愛い女の子や、小狼のように小さな男の子に対して言うものだ。
あのファイという人はとても子供っぽかったけれど、一応は大人の姿をしていたはずだった。
「似てないな。あなたとあの人」
「そう? よく言われるけどね」
「うん」
小龍は、どちらかといえば静かなユゥイの方がいいと思った。
どうしてそう思ったのかは分からない。ただなんとなく、黒たんと呼ばれていたあの大きくて黒い男の人が気の毒に思えた。
一緒にいたら、とても疲れてしまいそうだ。
それでもあの黒い人も、ユゥイと同じようにファイを可愛いと思っていたりするのだろうか。
小龍にはどうでもいいことだったけれど、少し気になる。
「帰る」
チラリと時計を見てから、小龍は椅子から降りた。
その拍子にポケットに入れていた椿の枝がポトリと落ちる。このまま置いていきたかったけれどここはお店の中だから、帰り道で適当に捨てようと思った。
仕方なく拾い上げると、ユゥイが小首を傾げて覗き込んできた。
「綺麗だね。どうしたの?」
「折った」
団地の公園の脇に咲いていた花だった。
さくらに似合うかもしれないと思って、クリスマスプレゼントに渡そうと考えていた。
けれど小龍はさくらと同じくらい小狼も可愛かったから、だから渡せなかった。
ユゥイが何か言いたげな雰囲気を醸し出していたけれど、すぐに背を向けて足早に店を出る。
待って、という声が聞こえた気がしたけれど、なんとなく無視した。
***
店を出るともうだいぶ暗くなっていた。
寒さもぐんと増していて、小龍は肩をぎゅっと寄せて俯きながら団地のある方向へ歩き出す。
あまり遅くなると小狼や家の人間を心配させる。けれど、小龍はただひたすら小狼とさくらはどうなっただろうと、そればかり考えた。
二人ともまだ子供で鈍い性格だから、見ているといつも焦れったくて仕方がない。
今日はせっかくのイヴだし、クリスマスは恋人達のためのイベントだと、前にテレビか何かで聞いたことがある。
だから気を利かせてやったのだ。
別に寂しいなんて思わない。これっぽっちも、絶対にそんなこと。
そしてふと、さっきの二人はどうなんだろうと思った。
黒たんは少し怖い顔をした人ではあったけど、ファイと接するときは少しだけ柔らかい空気を発していた気がする。
多分、黒たんにとってファイは特別な人なのだと思う。そして、ファイにとっても。
別に偏見はないからどうでもいい。けれど小龍が気になったのはユゥイの方だった。
ユゥイにも好きな人がいるのだろうか。
ファイと黒たんが仲良くしているのを見て、寂しいとは感じないのだろうか。
「待って、小龍君」
そのとき、背後の方でよく知る声がした。さっきまで一緒にいた人だ。
今まさにその人のことを考えていたせいで、小龍は思わずドキリとして肩を跳ねさせた。
驚いてしまったことを悟られぬように無表情を装って振り向くと、ユゥイが真っ白の息を吐き出しながら追いついた。
「足速いね、君」
小首を傾げて笑うユゥイは、店から慌てて飛び出してきたのか、いつもの制服姿に上から何も羽織っていなかった。
思わず、むっと眉間に皺を寄せる。
「寒くないの?」
「寒いよ? もうすぐ雪が降るね」
にっこりと笑ったユゥイは、はい、と小さく握った拳を差し出した。
「なに?」
「おつりだよ。お客さん」
「そんなことのために?」
手を出すと、ほんの数十円が手の平に落ちてきた。
別にこれっぽっち、わざわざ追いかけてきてまで寄越すことないのに。
そう思いはしたが、受け取ってしまったものは仕方がない。
椿の刺さったポケットに適当に捻じ込むと、ユゥイがしゃがんで目線を合わせてきた。
「それ、誰かにプレゼントするのかな?」
「そのつもりだったけど……」
これはもう必要のないものだ。道すがら捨てるつもりなのだから、ゴミと言ってもいい。
そうとは知らず、ユゥイはなぜか少し困ったような顔をした。
「あのね、椿はあまり縁起のいい花じゃないんだって。迷信だけどね」
「どうして?」
「花がね、首を切ったみたいに落ちるからって、言われてるらしいよ。可哀想にね」
こんなに綺麗な花なのにさ。
そう言って、ユゥイは萎れた椿に目を細めた。
小龍はポケットから細い枝を取り出して、それをじっと見つめる。
迷信。けれど、日本人がそういったものを鵜呑みに出来ない性質だということを知っていた。
さくらは知らないだろうけど、やっぱり渡さなくてよかったと思う。
「はい、どうぞ」
そんな小龍の目の前に、小さな柊の葉が差し出された。
「可愛いでしょ? お店にあったから、引っこ抜いて来ちゃったんだ」
「これ……」
緑色の葉と、可憐な赤い実。この時期にぴったりの植物だった。
「造花なんだけどね。だからほら、柔らかくてチクチクしないよ」
ユゥイの白い指先が、柊の尖った葉を幾度か撫でる。
小龍は、なぜ彼がこんなものを寄越すのか意味が分からず、ただそれを眺めていた。
「髪に飾ってあげたらきっと可愛いから。サクラちゃん」
「!」
「あれ? 違うの?」
首を傾げるユゥイに、小龍はなぜか焦ったような気持ちになって頬を赤らめた。見透かされたことも、なんとなく悔しいような気もする。
「ち、違う。別にそんなんじゃ」
「そうなんだ」
目の前の人は、特に疑うでもなくただ微笑んだ。
夜の光を弾く金色の綺麗な髪が、冷たい風に乗って揺れていた。
「でも、これボクからのプレゼント。もしいらなかったら、誰か大切な人にあげるといいよ」
小龍はなんとなく咄嗟に手袋を片方外すと、作り物の柊を受け取った。無機質なはずのそれが、なぜかとても温かいような感覚を指先にもたらした。
どうしてか、胸の辺りがくすぐったい。
何かお返しがしたいけれど、小龍はこの不吉な謂れの花しか持ち合わせていない。
戸惑っていると、ユゥイの指先がそっと伸びてきて、椿の枝をさらってゆく。
驚いて顔をあげた小龍に、やっぱり彼は優しげに微笑んでいた。
「代わりに、この花はボクが貰ってもいいかな?」
「……でも」
迷信なんて信じちゃいない。でも、一度知ってしまったらそれを彼にくれてやることには戸惑いがあった。しかも、一度はゴミだと認識までした代物だ。
もし彼に何か不幸なことがあったら。そう思うと柄にもなく少し、怖い。
「平気だよ」
けれどユゥイは、そんな小龍などお見通しとでも言うかのように、一つコクリと頷いた。
「大丈夫。だってボクは魔法が使えるから」
「……魔法?」
「そう。だから魔除けの呪文も知ってるよ」
変なの。小龍はそう思った。
魔法だなんて、御伽噺や漫画の世界でもあるまいし、大人のくせに何を馬鹿なことを言っているんだろう。
けれどその反面、彼なら出来るのかもしれないと、なぜか思った。
どこか不思議な雰囲気のある人だから、不思議な力だってあってもおかしくはないかもしれない。
だから小龍は素直に頷いた。
「わかった。じゃあ、あげる」
「ありがとう」
そのときふわりと、柊を持つ小龍の手に冷たいものが落ちて融けた。
空を見上げれば、いくつもの淡い雪が地上へ向かって降り注いでいる。
「雪だ……」
「初雪だね」
彼の予言は当たった。
雪の中、嬉しそうな笑顔はまるで花が咲いたかのように綺麗に見えて。
どういうわけか、胸がドキドキして止まらなくなった。
綺麗とか可愛いとか、そんなのは大人の男の人に対して思うことではないから。
だから小龍はそう感じてしまった自分の気持ちに、気づかないふりをした。
***
家に帰る頃には、雪の粒が驚くほど大きくなっていた。
きっと朝には積もっているだろうなと、少しだけワクワクしながら窓の外に向けていた視線を、小龍は手の中の柊の葉に移した。
あの人は、あの椿の花をどうしたのだろうか。
魔除けの呪文は効いたのだろうか。
明日、また店に行ってみようと思った。
もし魔法が不発に終わっていたら、一応は一言くらい謝った方がいいだろう。
そして、もし彼に不幸があったならこの柊を返そう。
髪に飾ってやったら、大人でもちょっとは『可愛い』が似合うかもしれない。
柊には魔除けの効果があると、帰ってきてすぐに図鑑を調べたら書いてあった。
これは造花だから、決して枯れることはないのだ。
――誰か大切な人にあげるといいよ。
だからきっと、いつまでも彼を守ってくれるだろう。
End
←戻る ・ Wavebox👏
※龍ユゥイ
「今日は、小狼君とサクラちゃんは一緒じゃないのかな?」
さっきまでいた二人組みがいなくなってから、他の何組かの客もいなくなった。
会計を済ませた店員が、カウンター越しに空のカップをぼんやりと見つめていた小龍に声をかける。
ふと顔を上げて、穏やかに微笑んでいるその人を見た。
この人の名前はユゥイ。それは知ってる。
そしてさっきまでいた小うるさい人はファイという名前。
一緒にいたのは、黒たん、とその人に呼ばれていた。
小龍は無表情を崩さないままに、ユゥイに小さく頷いて見せた。
「小狼とさくらがいい感じになってたから。おれがいたら邪魔だし」
そう言うと、ユゥイは小さな声を上げて笑った。
むっと睨みつけると、すかさず「ごめんね」と言われる。
「だって、小龍君が凄く大人に見えちゃったから」
だからってどうして笑われるのだろう。
なんだか馬鹿にされている気がして面白くなかった。
「おれはもともと大人だ」
「うん。そうだね」
「でも、さっきの人は子供っぽかった」
ユゥイは、先刻よりも声を上げて笑った。
この人はいつも笑っているけれど、こんな風に声を上げて笑うところはあまり見ないから珍しい。
「ファイだね。うん、いっつもああなんだ。可愛いでしょ?」
小龍は思わず顔を顰める。可愛いっていうのはさくらのような可愛い女の子や、小狼のように小さな男の子に対して言うものだ。
あのファイという人はとても子供っぽかったけれど、一応は大人の姿をしていたはずだった。
「似てないな。あなたとあの人」
「そう? よく言われるけどね」
「うん」
小龍は、どちらかといえば静かなユゥイの方がいいと思った。
どうしてそう思ったのかは分からない。ただなんとなく、黒たんと呼ばれていたあの大きくて黒い男の人が気の毒に思えた。
一緒にいたら、とても疲れてしまいそうだ。
それでもあの黒い人も、ユゥイと同じようにファイを可愛いと思っていたりするのだろうか。
小龍にはどうでもいいことだったけれど、少し気になる。
「帰る」
チラリと時計を見てから、小龍は椅子から降りた。
その拍子にポケットに入れていた椿の枝がポトリと落ちる。このまま置いていきたかったけれどここはお店の中だから、帰り道で適当に捨てようと思った。
仕方なく拾い上げると、ユゥイが小首を傾げて覗き込んできた。
「綺麗だね。どうしたの?」
「折った」
団地の公園の脇に咲いていた花だった。
さくらに似合うかもしれないと思って、クリスマスプレゼントに渡そうと考えていた。
けれど小龍はさくらと同じくらい小狼も可愛かったから、だから渡せなかった。
ユゥイが何か言いたげな雰囲気を醸し出していたけれど、すぐに背を向けて足早に店を出る。
待って、という声が聞こえた気がしたけれど、なんとなく無視した。
***
店を出るともうだいぶ暗くなっていた。
寒さもぐんと増していて、小龍は肩をぎゅっと寄せて俯きながら団地のある方向へ歩き出す。
あまり遅くなると小狼や家の人間を心配させる。けれど、小龍はただひたすら小狼とさくらはどうなっただろうと、そればかり考えた。
二人ともまだ子供で鈍い性格だから、見ているといつも焦れったくて仕方がない。
今日はせっかくのイヴだし、クリスマスは恋人達のためのイベントだと、前にテレビか何かで聞いたことがある。
だから気を利かせてやったのだ。
別に寂しいなんて思わない。これっぽっちも、絶対にそんなこと。
そしてふと、さっきの二人はどうなんだろうと思った。
黒たんは少し怖い顔をした人ではあったけど、ファイと接するときは少しだけ柔らかい空気を発していた気がする。
多分、黒たんにとってファイは特別な人なのだと思う。そして、ファイにとっても。
別に偏見はないからどうでもいい。けれど小龍が気になったのはユゥイの方だった。
ユゥイにも好きな人がいるのだろうか。
ファイと黒たんが仲良くしているのを見て、寂しいとは感じないのだろうか。
「待って、小龍君」
そのとき、背後の方でよく知る声がした。さっきまで一緒にいた人だ。
今まさにその人のことを考えていたせいで、小龍は思わずドキリとして肩を跳ねさせた。
驚いてしまったことを悟られぬように無表情を装って振り向くと、ユゥイが真っ白の息を吐き出しながら追いついた。
「足速いね、君」
小首を傾げて笑うユゥイは、店から慌てて飛び出してきたのか、いつもの制服姿に上から何も羽織っていなかった。
思わず、むっと眉間に皺を寄せる。
「寒くないの?」
「寒いよ? もうすぐ雪が降るね」
にっこりと笑ったユゥイは、はい、と小さく握った拳を差し出した。
「なに?」
「おつりだよ。お客さん」
「そんなことのために?」
手を出すと、ほんの数十円が手の平に落ちてきた。
別にこれっぽっち、わざわざ追いかけてきてまで寄越すことないのに。
そう思いはしたが、受け取ってしまったものは仕方がない。
椿の刺さったポケットに適当に捻じ込むと、ユゥイがしゃがんで目線を合わせてきた。
「それ、誰かにプレゼントするのかな?」
「そのつもりだったけど……」
これはもう必要のないものだ。道すがら捨てるつもりなのだから、ゴミと言ってもいい。
そうとは知らず、ユゥイはなぜか少し困ったような顔をした。
「あのね、椿はあまり縁起のいい花じゃないんだって。迷信だけどね」
「どうして?」
「花がね、首を切ったみたいに落ちるからって、言われてるらしいよ。可哀想にね」
こんなに綺麗な花なのにさ。
そう言って、ユゥイは萎れた椿に目を細めた。
小龍はポケットから細い枝を取り出して、それをじっと見つめる。
迷信。けれど、日本人がそういったものを鵜呑みに出来ない性質だということを知っていた。
さくらは知らないだろうけど、やっぱり渡さなくてよかったと思う。
「はい、どうぞ」
そんな小龍の目の前に、小さな柊の葉が差し出された。
「可愛いでしょ? お店にあったから、引っこ抜いて来ちゃったんだ」
「これ……」
緑色の葉と、可憐な赤い実。この時期にぴったりの植物だった。
「造花なんだけどね。だからほら、柔らかくてチクチクしないよ」
ユゥイの白い指先が、柊の尖った葉を幾度か撫でる。
小龍は、なぜ彼がこんなものを寄越すのか意味が分からず、ただそれを眺めていた。
「髪に飾ってあげたらきっと可愛いから。サクラちゃん」
「!」
「あれ? 違うの?」
首を傾げるユゥイに、小龍はなぜか焦ったような気持ちになって頬を赤らめた。見透かされたことも、なんとなく悔しいような気もする。
「ち、違う。別にそんなんじゃ」
「そうなんだ」
目の前の人は、特に疑うでもなくただ微笑んだ。
夜の光を弾く金色の綺麗な髪が、冷たい風に乗って揺れていた。
「でも、これボクからのプレゼント。もしいらなかったら、誰か大切な人にあげるといいよ」
小龍はなんとなく咄嗟に手袋を片方外すと、作り物の柊を受け取った。無機質なはずのそれが、なぜかとても温かいような感覚を指先にもたらした。
どうしてか、胸の辺りがくすぐったい。
何かお返しがしたいけれど、小龍はこの不吉な謂れの花しか持ち合わせていない。
戸惑っていると、ユゥイの指先がそっと伸びてきて、椿の枝をさらってゆく。
驚いて顔をあげた小龍に、やっぱり彼は優しげに微笑んでいた。
「代わりに、この花はボクが貰ってもいいかな?」
「……でも」
迷信なんて信じちゃいない。でも、一度知ってしまったらそれを彼にくれてやることには戸惑いがあった。しかも、一度はゴミだと認識までした代物だ。
もし彼に何か不幸なことがあったら。そう思うと柄にもなく少し、怖い。
「平気だよ」
けれどユゥイは、そんな小龍などお見通しとでも言うかのように、一つコクリと頷いた。
「大丈夫。だってボクは魔法が使えるから」
「……魔法?」
「そう。だから魔除けの呪文も知ってるよ」
変なの。小龍はそう思った。
魔法だなんて、御伽噺や漫画の世界でもあるまいし、大人のくせに何を馬鹿なことを言っているんだろう。
けれどその反面、彼なら出来るのかもしれないと、なぜか思った。
どこか不思議な雰囲気のある人だから、不思議な力だってあってもおかしくはないかもしれない。
だから小龍は素直に頷いた。
「わかった。じゃあ、あげる」
「ありがとう」
そのときふわりと、柊を持つ小龍の手に冷たいものが落ちて融けた。
空を見上げれば、いくつもの淡い雪が地上へ向かって降り注いでいる。
「雪だ……」
「初雪だね」
彼の予言は当たった。
雪の中、嬉しそうな笑顔はまるで花が咲いたかのように綺麗に見えて。
どういうわけか、胸がドキドキして止まらなくなった。
綺麗とか可愛いとか、そんなのは大人の男の人に対して思うことではないから。
だから小龍はそう感じてしまった自分の気持ちに、気づかないふりをした。
***
家に帰る頃には、雪の粒が驚くほど大きくなっていた。
きっと朝には積もっているだろうなと、少しだけワクワクしながら窓の外に向けていた視線を、小龍は手の中の柊の葉に移した。
あの人は、あの椿の花をどうしたのだろうか。
魔除けの呪文は効いたのだろうか。
明日、また店に行ってみようと思った。
もし魔法が不発に終わっていたら、一応は一言くらい謝った方がいいだろう。
そして、もし彼に不幸があったならこの柊を返そう。
髪に飾ってやったら、大人でもちょっとは『可愛い』が似合うかもしれない。
柊には魔除けの効果があると、帰ってきてすぐに図鑑を調べたら書いてあった。
これは造花だから、決して枯れることはないのだ。
――誰か大切な人にあげるといいよ。
だからきっと、いつまでも彼を守ってくれるだろう。
End
←戻る ・ Wavebox👏
最終話 『初雪』
店を出ると陽は沈み、遠くに見えるイルミネーションが輝きを増していた。
この辺りは駅近辺に比べれば、幾分か人通りも落ち着きを見せている。
刺すような冷たい風が頬にチクチクと触れる中、ファイと黒鋼は葉の落ちきった並木道を、のんびりと歩いていた。
裸ん坊の細い枝には、青い電球がぽつぽつと巻きつけられている。煌々とした華やかさとは程遠いが、しっとりとした落ち付きが美しいイルミネーションだった。
***
ファイは、なんとなく口を噤んだまま黒鋼から数歩遅れて歩いていた。
あのあと小龍という愛想のない子供と幾度かコミュニケーションを試みようとしては失敗し、どこか楽しげな黒鋼に唇を尖らせたりしながらも店を出た。
以来、二人の間に会話はない。
ファイの気持ちを沈ませているのは、決してあの生意気な少年のせいではなかった。
気になって仕方がないのは黒鋼がユゥイをどう思ったのかであり、気にすればするほど、これまでの自分の子供っぽい振る舞いや言動が恥ずかしくなってしまった。
(やっぱり連れて来なければよかった……)
お喋りで騒がしい自分と、物腰柔らかで落ち着きのあるユゥイ。
考えるまでもなく、黒鋼と相性がよさそうなのはユゥイの方だ。実際、初めて会ったとは思えないくらい、二人は互いの空気によく溶け込んでいた。
「はしゃぎ過ぎて疲れたか?」
何も言わないファイがさすがに気になったのか、黒鋼は足を止めると振り向いた。
ドキリとして、同じく立ち止まる。
「う、うぅん。ぜんぜん平気」
ほの青いイルミネーションの中で、彼が小さく笑った気がした。ファイは咄嗟に俯く。
その大人びた笑顔を見ると、いつもドキドキして、泣きたいような気持ちになるから。
また自分でも訳が分からなくなってメソメソと泣き出してしまえば、彼を困らせるだけだ。
あんなことはもう二度と繰り返したくない。
その時ふと、以前初めて黒鋼の父と対面した日のことを思い出した。
あの時はなんだか嬉しくなってしまって、根掘り葉掘り彼を質問攻めにして怒らせてしまったのだった。
黒鋼は、ユゥイと会ってどう感じたのだろう。
あの日の自分と同じように、何かと比べては違いを探したりしただろうか。
「あのさ、黒たん」
「ん」
枯葉を踏みしめる音がして、黒鋼がすぐ側まで近づいてくるのが分かる。俯くファイからは、彼の靴の先だけがぼんやりと見えた。
「ユゥイのこと、どう思った?」
「……どうってのは?」
「だから……会ってみて、どうだったかなーって……優しいし、大人だし、落ち着いてて……オレと、ぜんぜん違ったでしょ?」
黒鋼は何も言わない。
自分は彼になんと言ってもらえれば満足なのだろう。
彼が好むのが自分のような騒々しいタイプでないことくらい、想像に容易いはずなのに。
「黒たんはさ、どっちの方が……いいのかなって」
迷ったあげく口にして、一気に後悔する。
なんて子供じみた情けない質問だろうかと。また呆れられる材料を自ら増やすような真似をして、何の意味があるというのか。
それに、どうせ結果は今までと同じだ。
特に黒鋼にはこれまで散々迷惑をかけて、情けないところばかり見られているのだし。
それでも聞かずにはいられなかったのは、ほんの僅かではあるが負けたくないという思いと期待が、胸の奥にあるからだろうか。
まるでユゥイに対して、嫉妬でもしているみたいに。
(嫉妬……?)
その言葉が、やけにすんなりと胸に馴染んだ。
すると次の瞬間、今度は面白いほど簡単に、心の奥を覆い隠していた厚いベールが剥がれ落ちたような気がした。
遮るものがなくなったことで姿を現したのは、見えそうで見えなかった想いの『形』だった。
(そうだ……これは嫉妬だ……)
ああ、どうして。
どうして気がつかなかったのだろう。
(オレ、この子が好きなんだ……)
まるで丸裸にされたような気持ちになって、身体が一気に熱くなるのを感じる。
本当はこんなにも簡単なことだった。
笑顔を見るとドキドキするのも、キスをされても嫌じゃなかったのも、もう一度、唇に触れてみたいと思ってしまったのも。
いつからなんて分からない。出会った瞬間からかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いつの間にかこうなっていて、そしてたった今、自分の気持ちに気がついた。
途端にどうすればいいのか分からなくて、ファイは顔を上げると無理矢理笑った。
「なんちゃって! 変なこと聞いてごめんねー。帰ろっか!」
こんなものは、絶対に間違っている。
黒鋼は男だし、教え子だし、恋愛の対象からは本来除外されるべき存在だ。
もしこの気持ちを知られでもしたら、今の関係自体をぶち壊してしまうに違いない。
電車の中でのあの最悪な出来事さえも、もう否定できなくなってしまう気がした。
最早一刻も早くその場から逃げ出すことしか考えられず、ファイは黒鋼の横を通り過ぎようとした。けれど、その腕を掴まれてビクリと肩が跳ねた。
見上げると、思った以上に彼の顔が近くにあって息を呑む。
眉間の皺が深くなっていて、それはきっと怒っているからだと思った。
「似てねぇだろ。おまえらは」
「……うん。そうなんだよね」
そんなことはファイが一番よく知っていて、対照的であるからこそ自分の欠点が浮き彫りになることにも、気がついてしまった。
独りよがり。そんなことも、分かってる。
「ごめん……もう聞かないよ。聞かないから……」
このままでは泣いてしまうから。
離して、という言葉を、ファイは最後まで言うことが出来なかった。
「おまえの弟のこと、悪く言うつもりはねぇが」
「……?」
「ありゃとんだ居心地の悪さだな」
顔を上げると、黒鋼が困ったような顔をしている。
ファイはこの顔がとても好きだったけれど、思えばこんな顔ばかりさせているような気がしてならない。
黒鋼は、ぶっきらぼうに続けた。
「てめぇとおんなじ顔してまともに名前なんざ呼ばれたら、息が詰まって仕方がねぇ」
「え、っと……」
ファイは目をぱちくりとさせた。黒鋼の顔から目が離せない。
「ついでに騒がしくねぇてめぇも違和感が半端ねぇな」
「!」
「俺には、うるせぇくらいのおまえで丁度いい」
「ッ……!」
もしかしたら自分は、都合のいい夢でも見ているのではなかろうか。
たった今聞いたはずの言葉を幾度も脳内で反芻して、それでもまだ信じられない。
でも確かに聞いた。彼は言った。お喋りだって、うるさくたって構わないと。
そう、言ってくれた。
頭の中で鐘が鳴る。
それは教会で鳴り響くような、祝福の鐘の音だった。
同時に、まるでタイミングを見計らったかのように頬に冷たいものが触れた。
二人揃って見上げると、大粒の雪が空から幾つも舞い降りてくる。
「雪……?」
「初雪だな」
まるで安いドラマのようだ。
けれど今この瞬間、ファイは自分が物語の主人公になれたような気がしていた。
(ねぇ神様。あなたはいつだって、とても意地悪だけど)
今は、今だけは、そんな神様に愛されているような気がする。
気のせいかもしれないけれど、気のせいだって構わないと思った。
多分、本当に欲しいものは、自分の手でしか掴み取れないものだから。
「あのね、黒たん」
暫しの間、揃って空を見上げていた黒鋼を、ファイは真っ直ぐに見上げた。
「前にケンカしたときのこと、覚えてる?」
初めて黒鋼の父と会った時のこと。
ファイが初めて人を殴って、黒鋼が初めてメールをくれた。
そして初めて、触れ合った。
「覚えてる」
「あのとき……オレがお父さんのことばかり聞きたがったとき……君はどうしてあんなに怒ったんだろう? どんなことを思ったのかな? もしかしたら……」
今の自分と、あのときの彼が同じ気持ちだったらいい。
本当はちっとも似ていないからこそ、絶対に負けたくないという思い。
自分だけを、見ていて欲しいという思い。
この小指にもし、赤い糸が括りつけられているのなら。
それを手繰り寄せた先に、どうか。
「今のオレと、同じ気持ちだったのかな?」
黒鋼が小さく笑う。吐き出す息がほんのりと白い。ドキドキして仕方がなかった。
「オレ……オレね、ユゥイと君を会わせなければよかったって思った。黒たんを取られちゃうって、思ったの」
掴まれたままだった腕が、強く引かれた。
そしてそのまま、次の瞬間にはファイは黒鋼の腕の中に納まっていた。小さく息を呑みながらも、同じだけの強さで負けじと広い背中に腕を回して抱きしめた。
耳元に熱い息がかかる。
「はっきり言ってみろよ。そうすりゃ俺も、答えてやる」
「黒たん……」
抱き合ったまま見つめ合うと、互いの鼻先が僅かに触れ合った。
胸が苦しくて、熱くて、身体が震えて仕方がない。
白い吐息に乗せて、囁くように『好き』と紡げば、赤い瞳が愛しげに細められた。
「同じだ。馬鹿」
歓喜に滲んだ涙の粒が零れ落ちる寸前、二つのシルエットは完全に重なり合い、一つになった。
それはクリスマスイヴのこと。
今度こそ、この小指に結ばれた糸は切らせない。
触れたくて仕方がなかった唇を受け止めながら、ファイは神様に宣戦布告した。
End
←戻る ・ 番外編へ→
店を出ると陽は沈み、遠くに見えるイルミネーションが輝きを増していた。
この辺りは駅近辺に比べれば、幾分か人通りも落ち着きを見せている。
刺すような冷たい風が頬にチクチクと触れる中、ファイと黒鋼は葉の落ちきった並木道を、のんびりと歩いていた。
裸ん坊の細い枝には、青い電球がぽつぽつと巻きつけられている。煌々とした華やかさとは程遠いが、しっとりとした落ち付きが美しいイルミネーションだった。
***
ファイは、なんとなく口を噤んだまま黒鋼から数歩遅れて歩いていた。
あのあと小龍という愛想のない子供と幾度かコミュニケーションを試みようとしては失敗し、どこか楽しげな黒鋼に唇を尖らせたりしながらも店を出た。
以来、二人の間に会話はない。
ファイの気持ちを沈ませているのは、決してあの生意気な少年のせいではなかった。
気になって仕方がないのは黒鋼がユゥイをどう思ったのかであり、気にすればするほど、これまでの自分の子供っぽい振る舞いや言動が恥ずかしくなってしまった。
(やっぱり連れて来なければよかった……)
お喋りで騒がしい自分と、物腰柔らかで落ち着きのあるユゥイ。
考えるまでもなく、黒鋼と相性がよさそうなのはユゥイの方だ。実際、初めて会ったとは思えないくらい、二人は互いの空気によく溶け込んでいた。
「はしゃぎ過ぎて疲れたか?」
何も言わないファイがさすがに気になったのか、黒鋼は足を止めると振り向いた。
ドキリとして、同じく立ち止まる。
「う、うぅん。ぜんぜん平気」
ほの青いイルミネーションの中で、彼が小さく笑った気がした。ファイは咄嗟に俯く。
その大人びた笑顔を見ると、いつもドキドキして、泣きたいような気持ちになるから。
また自分でも訳が分からなくなってメソメソと泣き出してしまえば、彼を困らせるだけだ。
あんなことはもう二度と繰り返したくない。
その時ふと、以前初めて黒鋼の父と対面した日のことを思い出した。
あの時はなんだか嬉しくなってしまって、根掘り葉掘り彼を質問攻めにして怒らせてしまったのだった。
黒鋼は、ユゥイと会ってどう感じたのだろう。
あの日の自分と同じように、何かと比べては違いを探したりしただろうか。
「あのさ、黒たん」
「ん」
枯葉を踏みしめる音がして、黒鋼がすぐ側まで近づいてくるのが分かる。俯くファイからは、彼の靴の先だけがぼんやりと見えた。
「ユゥイのこと、どう思った?」
「……どうってのは?」
「だから……会ってみて、どうだったかなーって……優しいし、大人だし、落ち着いてて……オレと、ぜんぜん違ったでしょ?」
黒鋼は何も言わない。
自分は彼になんと言ってもらえれば満足なのだろう。
彼が好むのが自分のような騒々しいタイプでないことくらい、想像に容易いはずなのに。
「黒たんはさ、どっちの方が……いいのかなって」
迷ったあげく口にして、一気に後悔する。
なんて子供じみた情けない質問だろうかと。また呆れられる材料を自ら増やすような真似をして、何の意味があるというのか。
それに、どうせ結果は今までと同じだ。
特に黒鋼にはこれまで散々迷惑をかけて、情けないところばかり見られているのだし。
それでも聞かずにはいられなかったのは、ほんの僅かではあるが負けたくないという思いと期待が、胸の奥にあるからだろうか。
まるでユゥイに対して、嫉妬でもしているみたいに。
(嫉妬……?)
その言葉が、やけにすんなりと胸に馴染んだ。
すると次の瞬間、今度は面白いほど簡単に、心の奥を覆い隠していた厚いベールが剥がれ落ちたような気がした。
遮るものがなくなったことで姿を現したのは、見えそうで見えなかった想いの『形』だった。
(そうだ……これは嫉妬だ……)
ああ、どうして。
どうして気がつかなかったのだろう。
(オレ、この子が好きなんだ……)
まるで丸裸にされたような気持ちになって、身体が一気に熱くなるのを感じる。
本当はこんなにも簡単なことだった。
笑顔を見るとドキドキするのも、キスをされても嫌じゃなかったのも、もう一度、唇に触れてみたいと思ってしまったのも。
いつからなんて分からない。出会った瞬間からかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いつの間にかこうなっていて、そしてたった今、自分の気持ちに気がついた。
途端にどうすればいいのか分からなくて、ファイは顔を上げると無理矢理笑った。
「なんちゃって! 変なこと聞いてごめんねー。帰ろっか!」
こんなものは、絶対に間違っている。
黒鋼は男だし、教え子だし、恋愛の対象からは本来除外されるべき存在だ。
もしこの気持ちを知られでもしたら、今の関係自体をぶち壊してしまうに違いない。
電車の中でのあの最悪な出来事さえも、もう否定できなくなってしまう気がした。
最早一刻も早くその場から逃げ出すことしか考えられず、ファイは黒鋼の横を通り過ぎようとした。けれど、その腕を掴まれてビクリと肩が跳ねた。
見上げると、思った以上に彼の顔が近くにあって息を呑む。
眉間の皺が深くなっていて、それはきっと怒っているからだと思った。
「似てねぇだろ。おまえらは」
「……うん。そうなんだよね」
そんなことはファイが一番よく知っていて、対照的であるからこそ自分の欠点が浮き彫りになることにも、気がついてしまった。
独りよがり。そんなことも、分かってる。
「ごめん……もう聞かないよ。聞かないから……」
このままでは泣いてしまうから。
離して、という言葉を、ファイは最後まで言うことが出来なかった。
「おまえの弟のこと、悪く言うつもりはねぇが」
「……?」
「ありゃとんだ居心地の悪さだな」
顔を上げると、黒鋼が困ったような顔をしている。
ファイはこの顔がとても好きだったけれど、思えばこんな顔ばかりさせているような気がしてならない。
黒鋼は、ぶっきらぼうに続けた。
「てめぇとおんなじ顔してまともに名前なんざ呼ばれたら、息が詰まって仕方がねぇ」
「え、っと……」
ファイは目をぱちくりとさせた。黒鋼の顔から目が離せない。
「ついでに騒がしくねぇてめぇも違和感が半端ねぇな」
「!」
「俺には、うるせぇくらいのおまえで丁度いい」
「ッ……!」
もしかしたら自分は、都合のいい夢でも見ているのではなかろうか。
たった今聞いたはずの言葉を幾度も脳内で反芻して、それでもまだ信じられない。
でも確かに聞いた。彼は言った。お喋りだって、うるさくたって構わないと。
そう、言ってくれた。
頭の中で鐘が鳴る。
それは教会で鳴り響くような、祝福の鐘の音だった。
同時に、まるでタイミングを見計らったかのように頬に冷たいものが触れた。
二人揃って見上げると、大粒の雪が空から幾つも舞い降りてくる。
「雪……?」
「初雪だな」
まるで安いドラマのようだ。
けれど今この瞬間、ファイは自分が物語の主人公になれたような気がしていた。
(ねぇ神様。あなたはいつだって、とても意地悪だけど)
今は、今だけは、そんな神様に愛されているような気がする。
気のせいかもしれないけれど、気のせいだって構わないと思った。
多分、本当に欲しいものは、自分の手でしか掴み取れないものだから。
「あのね、黒たん」
暫しの間、揃って空を見上げていた黒鋼を、ファイは真っ直ぐに見上げた。
「前にケンカしたときのこと、覚えてる?」
初めて黒鋼の父と会った時のこと。
ファイが初めて人を殴って、黒鋼が初めてメールをくれた。
そして初めて、触れ合った。
「覚えてる」
「あのとき……オレがお父さんのことばかり聞きたがったとき……君はどうしてあんなに怒ったんだろう? どんなことを思ったのかな? もしかしたら……」
今の自分と、あのときの彼が同じ気持ちだったらいい。
本当はちっとも似ていないからこそ、絶対に負けたくないという思い。
自分だけを、見ていて欲しいという思い。
この小指にもし、赤い糸が括りつけられているのなら。
それを手繰り寄せた先に、どうか。
「今のオレと、同じ気持ちだったのかな?」
黒鋼が小さく笑う。吐き出す息がほんのりと白い。ドキドキして仕方がなかった。
「オレ……オレね、ユゥイと君を会わせなければよかったって思った。黒たんを取られちゃうって、思ったの」
掴まれたままだった腕が、強く引かれた。
そしてそのまま、次の瞬間にはファイは黒鋼の腕の中に納まっていた。小さく息を呑みながらも、同じだけの強さで負けじと広い背中に腕を回して抱きしめた。
耳元に熱い息がかかる。
「はっきり言ってみろよ。そうすりゃ俺も、答えてやる」
「黒たん……」
抱き合ったまま見つめ合うと、互いの鼻先が僅かに触れ合った。
胸が苦しくて、熱くて、身体が震えて仕方がない。
白い吐息に乗せて、囁くように『好き』と紡げば、赤い瞳が愛しげに細められた。
「同じだ。馬鹿」
歓喜に滲んだ涙の粒が零れ落ちる寸前、二つのシルエットは完全に重なり合い、一つになった。
それはクリスマスイヴのこと。
今度こそ、この小指に結ばれた糸は切らせない。
触れたくて仕方がなかった唇を受け止めながら、ファイは神様に宣戦布告した。
End
←戻る ・ 番外編へ→
第十二話 『双子』
12月24日、クリスマスイヴ。
空はあいにくの曇り空で、皮膚がひりつくほどの寒さであるにも関わらず、家族連れや若いカップルがひしめく駅前の街並みは、光り輝くイルミネーションやサンタの格好をしたケーキ屋の店員などで、華やかなムードに満ち溢れていた。
そんな中。
「なんか……オレたち浮きまくりだねー」
駅地下街を抜けて地上に出たところで、ファイはポツリと呟いた。
「見てよ……あっちもこっちもカップルだらけだよ……」
「仕方ねぇだろ。時期が時期だからな」
「今年のクリスマスも……オレって色気がないなぁ……」
溜息まじりにぼやいたファイを、黒鋼は「悪かったな」と横目でジロリと睨み付けてくる。
そのままプイとそっぽを向いてしまったその横顔に、ファイは小さく小首を傾げると、すぐにニッコリ微笑んだ。
「でも、黒たんと一緒ならいっかー。クリスマスに家に一人で篭ってるよりずっといいもんねー」
確か去年のクリスマスといえば、前日に付き合っていた彼女のド派手な浮気が発覚し、不幸のどん底で自室に篭っていたのだった。友人に誘いを受けたりもしたが、誰とも顔を合わせる気になれなかったのを覚えている。
真夜中に泣きながら、ユゥイが作ったホールケーキを自棄食いしたものだ。
「そうかよ」
そっけなく返してきた黒鋼に、ファイは元気いっぱいに「うん」と頷いた。
二人が揃ってこの賑やかな街中にいるのには、理由があった。
家庭教師とその教え子として、本屋に新たな問題集と参考書を選びにやって来たのだ。
黒鋼と外へ出かけるのはこれが初めてのことだったので、クリスマスということも相まって昨夜はソワソワして眠れなかった。
「突っ立てないで、とっとと行くぞ」
そう言うと、黒鋼はファイを見向きもしないまま、先に歩き出してしまう。
慌てて小走りで追いついて、すぐに並んだ。ようやくチラリとだが向けられた視線に、すかさずにんまりと微笑んで見せれば、彼は眉間の皺を深くして視線を正面に戻し、ひとつ咳をした。
以降は会話もないまま、どことなく二人の間に流れる空気がぎこちない。
それが居心地悪いとか、苦痛に感じられるとか、そういうわけでは決してないけれど。
不自然に出来あがってしまった沈黙をどうしたらいいか分からないまま、こっそり隣を盗み見た。
長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳と、高く通った鼻梁が際立つ横顔に、なぜかどうしようもなく頬が熱くなるのを感じる。
黒のロングコートに赤いマフラーもとてもよく似合っていて、普段は制服か黒のジャージ姿しか見たことがないだけに、そのちょっとした服装の変化にさえ胸が高鳴る。
けれどすぐにハッとして、誤魔化すように慌てて俯いた。
これではまるでデート気分ではないか。
そもそも付き合っているわけでもなければ、本来の目的を思えば遊びに来ているわけでもないのだし。
それでも意識してしまうのは、やはりあの夜の出来事が深く関係しているせいだった。
引き寄せられた身体と、距離を縮める瞳の紅に、ファイはあのとき無意識に瞼を伏せていた。
まるでそうなることが最初から決まっていたみたいに、ごく自然に。
目尻に落ちてきた熱い唇の感触を思い返すと、恥ずかしくて堪らない気持ちになる。
(あれから特に何もないけど……たまにこんな風になる……)
ふとした瞬間、今のようにどこかぎくしゃくしたような、おかしな空気が流れるようになってしまった。
黒鋼も顔には出さないが、先刻のようにいつにも増してそっけなくなるときは、ぎこちなさを感じているときなのだ。
彼はもともと愛想はよくないしお喋りでもないけれど、なんとなく、それだけは分かるようになった気がする。
(これから、どうなっていくのかな……)
少しだけ、行き先に不安を覚えた。
彼とどうなっていきたいのかなんて、そんな明確なビジョンなどないくせに。
ファイは再び黒鋼の横顔をチラリと見やった。
冬の寒空の下で、引き結ばれた唇がほんの少しだけ荒れている。
そこに触れたいと思うのは、なぜだろう。
***
「いらっしゃい」
カラリと音を立てながら扉を開けると、カウンター越しに迎えてくれたのはギャルソン姿のユゥイだった。
「来たよーユゥイー!」
「どうぞ座って」
どこかレトロな雰囲気を醸し出すムーディな店内には、挽きたてのコーヒーの芳ばしい香りが満ちている。
夕方のこの時間帯は客足も緩やかで、何組かのカップルがいるだけだった。
ファイは入り口に佇んだままユゥイを見つめている黒鋼のコートの袖を引くと、カウンター席まで引っ張った。
「ふふふー。凄いそっくりでしょ? オレの弟のユゥイだよー」
上着を脱いで脇に避けつつファイは一番端に、そしてすぐ隣に黒鋼が腰掛けた。
「いつも兄がお世話になってます。どうぞゆっくりしてってね」
黒鋼は軽く頭を下げただけだった。金髪碧眼の双子なんてそうそう見れるものじゃないだろうし、もっとリアクションがあるかと思ったが、彼はいたって普通だ。
「無愛想でしょー? でも別に怒ってるわけじゃないから安心してねー」
ちょっとからかってやりたいような悪戯心がムクムクと湧き上がって、悪戯っ子のような笑顔で言うと、黒鋼は心底嫌そうな顔をした。
「うるせぇな」
「いいじゃんホントのことなんだからー。あ、ユゥイー、オレは紅茶でいいよ」
「はいはい。えっと、そっちは」
「緑茶だよねー」
黒鋼の好きなものは承知していたので、彼が答える前に注文をしてしまうと、案の定ちょっとムっとしたような顔をされたが、ファイはなんとなく気分がよかった。
そんな二人の様子をよそ行きの笑顔で見守っていたユゥイは、「少々お待ちください」と言って仕事に取り掛かった。
***
温かな飲み物で冷えた身体を癒しながら、話題はもっぱら黒鋼のことだった。
ユゥイにはいつもその日あったことを色々と喋ってはいたけれど、やはり本人がいるといないのとではファイ的に盛り上がりが違う。
「ね? ほらね? ぜんぜん喋ってくれないでしょー? いっつもオレが一人で喋ってばっかりんなんだよー」
「だから、うるせぇってんだよ」
「でも優しくていい子なんだよー。ユゥイも知ってるよね」
「いつも噂はファイから聞いてるからね」
ユゥイは皿やカップを拭く手を止めることなくやんわりと微笑んでいた。
相変わらず面と向かって褒められるのが嫌いな黒鋼は、思い切り悪そうな顔をして舌打ちをすると、そっぽを向いてしまう。
「あんまり苛めると可哀想だよ」
「ちぇー。だって黒りんってばリアクション薄いんだもーん」
その後、ふと沈黙が流れた。
黒鋼が無口なのはいつものことだが、そういえばユゥイも決してお喋りな方ではないのだった。
買い物を済ませた後、少し時間に余裕があるから喫茶店に寄ろうと誘ったのはファイだった。
そこがユゥイのいる店だということは伏せて。
なんとなく入ったはずの店にファイと瓜二つの人間がいたら、彼は一体どんな反応をするのかとワクワクしていたのに。
黒鋼はほとんど顔色を変えることなく、それがちょっと不満だった。
それどころか、彼らはさほど互いに興味を示す様子がなかった。
ユゥイは相変わらずニコニコしながら手を止めないし、黒鋼は静かに茶を啜るだけで何も言わない。
あくまでもごく普通を装いながら、双方が見えない壁を作り上げ、最低限の干渉を避けているような印象を受ける。
会話が途切れた途端に訪れた沈黙が、どこか重たいように感じているのは、自分だけだろうか。
(もしかして、連れて来たの失敗だったかなぁ)
思えばこの店に、ファイが男性連れで足を運んだのは初めてのことだ。
いつもは付き合っている彼女を弟に紹介するために来ることが多く、そしてどの相手も必ず双子である自分たちを見てはしゃいだ声を上げていた。
(あれ……そういえば……)
ふと、思う。
彼女が出来たからと言って、必ずしもこの店に連れて来ていたわけではない。
ただ、ユゥイに紹介した相手とは、通常よりも破局スピードが早かったような気がする。
会わせた後は決まって『弟くんの方が落ち着いてるよね』とか、『中身はちっとも似てないのね』なんて呆れたように言われたりもして。
(同じ顔でも中身がオレとユゥイだったら……オレだってユゥイの方がいいって思うだろうな……)
ユゥイといると落ち着くのは確かだし、どれほど甘えても許されるような安心感がある。
爽やかで、いつも余裕があって、立ち振る舞いも紳士的で。
双子だからこそ、それとはまったくタイプの違う自分の幼さが際立って見えるのは、仕方がないのかもしれない。
ようするに、比べるのにもってこいの対象にわざわざ自ら引き会わせていた、ということになる。
「黒鋼くん、お母さんがよくお友達とここへいらっしゃるんだよ。知ってたかな?」
ファイが久しぶりに気持ちが沈むのを感じていると、ふとユゥイが口を開いた。
すると黒鋼は口をつけていた湯飲み茶碗から顔を上げて、小さく頷いた。
「ああ、聞いてる。この近くにはよく来てるらしいからな」
(あ、なーんだ……じゃあ最初っから知ってたのかぁ……)
よくよく思えば今のバイトを紹介してくれたのはユゥイなのだから、黒鋼の耳に入っているのは当然だ。ファイは密かに唇を尖らせる。
「習い事をしてるんでしょう? お料理と……お花だったかな?」
「ああ、そうだ」
「いつも着物が素敵だね。来るたびに違うものを着てるから、会うのが楽しみなんだ」
「あれは着物しか持ってねぇだけだ」
ユゥイが小さく笑うと、黒鋼も口元だけでふっと笑った。そしてまた沈黙が訪れる。
ファイは、ごく自然に交わされた二人の会話に入るに入れず、ただ口をポカンと開けていた。
なんといえばいいのか、彼らは波長がよく合っているとでも表現すればいいのだろうか。
物静かなユゥイと口数の少ない黒鋼。沈黙が重たいと感じていたのはファイだけで、彼らはあまりにも自然体だった。
(もしかして、オレだけ浮いてる?)
事情があったとはいえ、自分が黒鋼と打ち解け、笑った顔を拝むのにどれだけ苦労したことか。
それをユゥイが相手だとこうも一瞬で……。
サーっと、血の気が引くのを感じる。
これはいけない。帰ろう。今すぐ帰ろう。
もう遅いかもしれないが、黒鋼にまで自分とユゥイを比べて愛想を尽かされたら、生きていける自信がない。
一刻も早くここから退散しようと、ファイが慌てて残りの冷めた紅茶を飲み干していると。
カラン、という音がした。
カップに口をつけたまま咄嗟に振り返れば、そこには10歳前後の一人の少年が、深緑のジャケットを着てポツリと立ち尽くしていた。
「あ、いらっしゃい」
ユゥイが顔を上げて声をかけると、少年は小さくこくんと頷いた。鷲色の癖毛をところどころツンツンと跳ねさせて、小さな足取りで黒鋼とファイがいるカウンターに近寄ってくる。
そして茶色の手袋をした手に握り締めていた小銭を、チャリンと音をさせながら置いた。
「いつもの」
少年らしい高い声が、それでもぶっきらぼうに紡がれた。
「はいはい。いつものね」
ユゥイがその場を離れると、少年は黒鋼越しにじっとファイの顔を見つめてきた。
太めの眉に、意思の強そうな鋭い目付きをしている。あまり子供らしくないなぁと思った。
そしてそのままじっと見つめてくる少年に、なんだろう、と疑問に感じていたファイだったが、すぐに思い当たってふにゃりと笑った。
「双子なんだよー、オレたち。びっくりしたでしょ?」
けれど少年は、ファイの言葉にすぐに興味さなげにそっぽを向いた。
「別に」
「え、あ、そう……」
(うわ、可愛くないなぁ)
ちょっとカチンと来たファイに、傍らの黒鋼が意地悪そうにニヤリと笑った。
「振られたな」
「う、うるさいなー」
「ふふ、その子にも双子の弟さんがいるんだよ」
すぐ近くで一連のやり取りを聞いていたユゥイが、湯気のたったカップを持って戻ってきた。
よじ登るようにしてカウンターの椅子に座った少年の前に、そっと差し出す。
中身はブラックコーヒーだ。ますます生意気だと思った。
「なるほどな」
ファイの代わりに頷いたのは黒鋼で、茶を飲み干した彼はユゥイに向かって「ご馳走さん」と言った。
それから、ふと一つの空席を挟んで腰掛けている少年の、ジャケットのポケットに目を留める。
「椿か」
ファイもなんとなく覗き込む。一つだけ赤い花を咲かせた椿の枝が、ポケットに挿されていた。
少年は無言で、コーヒーにおもむろに砂糖とミルクを大量に入れ出した。
中身が完全に白くなると、彼はそこでようやくカップに口をつけた。
「小龍君だよ。ウチの常連さんで、この近くの団地に住んでる子」
嬉しそうに笑うユゥイが教えてくれた。
無口で無礼で無愛想な子供。
真っ白のコーヒーをちまちまと飲んでいる小さなお客さんを見て、ファイはなんとなく憎めないなと思った。
少々カチンとは来たが、もしかしたら黒鋼も幼い頃はこんな風に可愛げのない子供だったのかもしれない。今でも十分、生意気だけれど。
そう思うと、少しだけ愛着が湧いたのだった。
←戻る ・ 次へ→
12月24日、クリスマスイヴ。
空はあいにくの曇り空で、皮膚がひりつくほどの寒さであるにも関わらず、家族連れや若いカップルがひしめく駅前の街並みは、光り輝くイルミネーションやサンタの格好をしたケーキ屋の店員などで、華やかなムードに満ち溢れていた。
そんな中。
「なんか……オレたち浮きまくりだねー」
駅地下街を抜けて地上に出たところで、ファイはポツリと呟いた。
「見てよ……あっちもこっちもカップルだらけだよ……」
「仕方ねぇだろ。時期が時期だからな」
「今年のクリスマスも……オレって色気がないなぁ……」
溜息まじりにぼやいたファイを、黒鋼は「悪かったな」と横目でジロリと睨み付けてくる。
そのままプイとそっぽを向いてしまったその横顔に、ファイは小さく小首を傾げると、すぐにニッコリ微笑んだ。
「でも、黒たんと一緒ならいっかー。クリスマスに家に一人で篭ってるよりずっといいもんねー」
確か去年のクリスマスといえば、前日に付き合っていた彼女のド派手な浮気が発覚し、不幸のどん底で自室に篭っていたのだった。友人に誘いを受けたりもしたが、誰とも顔を合わせる気になれなかったのを覚えている。
真夜中に泣きながら、ユゥイが作ったホールケーキを自棄食いしたものだ。
「そうかよ」
そっけなく返してきた黒鋼に、ファイは元気いっぱいに「うん」と頷いた。
二人が揃ってこの賑やかな街中にいるのには、理由があった。
家庭教師とその教え子として、本屋に新たな問題集と参考書を選びにやって来たのだ。
黒鋼と外へ出かけるのはこれが初めてのことだったので、クリスマスということも相まって昨夜はソワソワして眠れなかった。
「突っ立てないで、とっとと行くぞ」
そう言うと、黒鋼はファイを見向きもしないまま、先に歩き出してしまう。
慌てて小走りで追いついて、すぐに並んだ。ようやくチラリとだが向けられた視線に、すかさずにんまりと微笑んで見せれば、彼は眉間の皺を深くして視線を正面に戻し、ひとつ咳をした。
以降は会話もないまま、どことなく二人の間に流れる空気がぎこちない。
それが居心地悪いとか、苦痛に感じられるとか、そういうわけでは決してないけれど。
不自然に出来あがってしまった沈黙をどうしたらいいか分からないまま、こっそり隣を盗み見た。
長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳と、高く通った鼻梁が際立つ横顔に、なぜかどうしようもなく頬が熱くなるのを感じる。
黒のロングコートに赤いマフラーもとてもよく似合っていて、普段は制服か黒のジャージ姿しか見たことがないだけに、そのちょっとした服装の変化にさえ胸が高鳴る。
けれどすぐにハッとして、誤魔化すように慌てて俯いた。
これではまるでデート気分ではないか。
そもそも付き合っているわけでもなければ、本来の目的を思えば遊びに来ているわけでもないのだし。
それでも意識してしまうのは、やはりあの夜の出来事が深く関係しているせいだった。
引き寄せられた身体と、距離を縮める瞳の紅に、ファイはあのとき無意識に瞼を伏せていた。
まるでそうなることが最初から決まっていたみたいに、ごく自然に。
目尻に落ちてきた熱い唇の感触を思い返すと、恥ずかしくて堪らない気持ちになる。
(あれから特に何もないけど……たまにこんな風になる……)
ふとした瞬間、今のようにどこかぎくしゃくしたような、おかしな空気が流れるようになってしまった。
黒鋼も顔には出さないが、先刻のようにいつにも増してそっけなくなるときは、ぎこちなさを感じているときなのだ。
彼はもともと愛想はよくないしお喋りでもないけれど、なんとなく、それだけは分かるようになった気がする。
(これから、どうなっていくのかな……)
少しだけ、行き先に不安を覚えた。
彼とどうなっていきたいのかなんて、そんな明確なビジョンなどないくせに。
ファイは再び黒鋼の横顔をチラリと見やった。
冬の寒空の下で、引き結ばれた唇がほんの少しだけ荒れている。
そこに触れたいと思うのは、なぜだろう。
***
「いらっしゃい」
カラリと音を立てながら扉を開けると、カウンター越しに迎えてくれたのはギャルソン姿のユゥイだった。
「来たよーユゥイー!」
「どうぞ座って」
どこかレトロな雰囲気を醸し出すムーディな店内には、挽きたてのコーヒーの芳ばしい香りが満ちている。
夕方のこの時間帯は客足も緩やかで、何組かのカップルがいるだけだった。
ファイは入り口に佇んだままユゥイを見つめている黒鋼のコートの袖を引くと、カウンター席まで引っ張った。
「ふふふー。凄いそっくりでしょ? オレの弟のユゥイだよー」
上着を脱いで脇に避けつつファイは一番端に、そしてすぐ隣に黒鋼が腰掛けた。
「いつも兄がお世話になってます。どうぞゆっくりしてってね」
黒鋼は軽く頭を下げただけだった。金髪碧眼の双子なんてそうそう見れるものじゃないだろうし、もっとリアクションがあるかと思ったが、彼はいたって普通だ。
「無愛想でしょー? でも別に怒ってるわけじゃないから安心してねー」
ちょっとからかってやりたいような悪戯心がムクムクと湧き上がって、悪戯っ子のような笑顔で言うと、黒鋼は心底嫌そうな顔をした。
「うるせぇな」
「いいじゃんホントのことなんだからー。あ、ユゥイー、オレは紅茶でいいよ」
「はいはい。えっと、そっちは」
「緑茶だよねー」
黒鋼の好きなものは承知していたので、彼が答える前に注文をしてしまうと、案の定ちょっとムっとしたような顔をされたが、ファイはなんとなく気分がよかった。
そんな二人の様子をよそ行きの笑顔で見守っていたユゥイは、「少々お待ちください」と言って仕事に取り掛かった。
***
温かな飲み物で冷えた身体を癒しながら、話題はもっぱら黒鋼のことだった。
ユゥイにはいつもその日あったことを色々と喋ってはいたけれど、やはり本人がいるといないのとではファイ的に盛り上がりが違う。
「ね? ほらね? ぜんぜん喋ってくれないでしょー? いっつもオレが一人で喋ってばっかりんなんだよー」
「だから、うるせぇってんだよ」
「でも優しくていい子なんだよー。ユゥイも知ってるよね」
「いつも噂はファイから聞いてるからね」
ユゥイは皿やカップを拭く手を止めることなくやんわりと微笑んでいた。
相変わらず面と向かって褒められるのが嫌いな黒鋼は、思い切り悪そうな顔をして舌打ちをすると、そっぽを向いてしまう。
「あんまり苛めると可哀想だよ」
「ちぇー。だって黒りんってばリアクション薄いんだもーん」
その後、ふと沈黙が流れた。
黒鋼が無口なのはいつものことだが、そういえばユゥイも決してお喋りな方ではないのだった。
買い物を済ませた後、少し時間に余裕があるから喫茶店に寄ろうと誘ったのはファイだった。
そこがユゥイのいる店だということは伏せて。
なんとなく入ったはずの店にファイと瓜二つの人間がいたら、彼は一体どんな反応をするのかとワクワクしていたのに。
黒鋼はほとんど顔色を変えることなく、それがちょっと不満だった。
それどころか、彼らはさほど互いに興味を示す様子がなかった。
ユゥイは相変わらずニコニコしながら手を止めないし、黒鋼は静かに茶を啜るだけで何も言わない。
あくまでもごく普通を装いながら、双方が見えない壁を作り上げ、最低限の干渉を避けているような印象を受ける。
会話が途切れた途端に訪れた沈黙が、どこか重たいように感じているのは、自分だけだろうか。
(もしかして、連れて来たの失敗だったかなぁ)
思えばこの店に、ファイが男性連れで足を運んだのは初めてのことだ。
いつもは付き合っている彼女を弟に紹介するために来ることが多く、そしてどの相手も必ず双子である自分たちを見てはしゃいだ声を上げていた。
(あれ……そういえば……)
ふと、思う。
彼女が出来たからと言って、必ずしもこの店に連れて来ていたわけではない。
ただ、ユゥイに紹介した相手とは、通常よりも破局スピードが早かったような気がする。
会わせた後は決まって『弟くんの方が落ち着いてるよね』とか、『中身はちっとも似てないのね』なんて呆れたように言われたりもして。
(同じ顔でも中身がオレとユゥイだったら……オレだってユゥイの方がいいって思うだろうな……)
ユゥイといると落ち着くのは確かだし、どれほど甘えても許されるような安心感がある。
爽やかで、いつも余裕があって、立ち振る舞いも紳士的で。
双子だからこそ、それとはまったくタイプの違う自分の幼さが際立って見えるのは、仕方がないのかもしれない。
ようするに、比べるのにもってこいの対象にわざわざ自ら引き会わせていた、ということになる。
「黒鋼くん、お母さんがよくお友達とここへいらっしゃるんだよ。知ってたかな?」
ファイが久しぶりに気持ちが沈むのを感じていると、ふとユゥイが口を開いた。
すると黒鋼は口をつけていた湯飲み茶碗から顔を上げて、小さく頷いた。
「ああ、聞いてる。この近くにはよく来てるらしいからな」
(あ、なーんだ……じゃあ最初っから知ってたのかぁ……)
よくよく思えば今のバイトを紹介してくれたのはユゥイなのだから、黒鋼の耳に入っているのは当然だ。ファイは密かに唇を尖らせる。
「習い事をしてるんでしょう? お料理と……お花だったかな?」
「ああ、そうだ」
「いつも着物が素敵だね。来るたびに違うものを着てるから、会うのが楽しみなんだ」
「あれは着物しか持ってねぇだけだ」
ユゥイが小さく笑うと、黒鋼も口元だけでふっと笑った。そしてまた沈黙が訪れる。
ファイは、ごく自然に交わされた二人の会話に入るに入れず、ただ口をポカンと開けていた。
なんといえばいいのか、彼らは波長がよく合っているとでも表現すればいいのだろうか。
物静かなユゥイと口数の少ない黒鋼。沈黙が重たいと感じていたのはファイだけで、彼らはあまりにも自然体だった。
(もしかして、オレだけ浮いてる?)
事情があったとはいえ、自分が黒鋼と打ち解け、笑った顔を拝むのにどれだけ苦労したことか。
それをユゥイが相手だとこうも一瞬で……。
サーっと、血の気が引くのを感じる。
これはいけない。帰ろう。今すぐ帰ろう。
もう遅いかもしれないが、黒鋼にまで自分とユゥイを比べて愛想を尽かされたら、生きていける自信がない。
一刻も早くここから退散しようと、ファイが慌てて残りの冷めた紅茶を飲み干していると。
カラン、という音がした。
カップに口をつけたまま咄嗟に振り返れば、そこには10歳前後の一人の少年が、深緑のジャケットを着てポツリと立ち尽くしていた。
「あ、いらっしゃい」
ユゥイが顔を上げて声をかけると、少年は小さくこくんと頷いた。鷲色の癖毛をところどころツンツンと跳ねさせて、小さな足取りで黒鋼とファイがいるカウンターに近寄ってくる。
そして茶色の手袋をした手に握り締めていた小銭を、チャリンと音をさせながら置いた。
「いつもの」
少年らしい高い声が、それでもぶっきらぼうに紡がれた。
「はいはい。いつものね」
ユゥイがその場を離れると、少年は黒鋼越しにじっとファイの顔を見つめてきた。
太めの眉に、意思の強そうな鋭い目付きをしている。あまり子供らしくないなぁと思った。
そしてそのままじっと見つめてくる少年に、なんだろう、と疑問に感じていたファイだったが、すぐに思い当たってふにゃりと笑った。
「双子なんだよー、オレたち。びっくりしたでしょ?」
けれど少年は、ファイの言葉にすぐに興味さなげにそっぽを向いた。
「別に」
「え、あ、そう……」
(うわ、可愛くないなぁ)
ちょっとカチンと来たファイに、傍らの黒鋼が意地悪そうにニヤリと笑った。
「振られたな」
「う、うるさいなー」
「ふふ、その子にも双子の弟さんがいるんだよ」
すぐ近くで一連のやり取りを聞いていたユゥイが、湯気のたったカップを持って戻ってきた。
よじ登るようにしてカウンターの椅子に座った少年の前に、そっと差し出す。
中身はブラックコーヒーだ。ますます生意気だと思った。
「なるほどな」
ファイの代わりに頷いたのは黒鋼で、茶を飲み干した彼はユゥイに向かって「ご馳走さん」と言った。
それから、ふと一つの空席を挟んで腰掛けている少年の、ジャケットのポケットに目を留める。
「椿か」
ファイもなんとなく覗き込む。一つだけ赤い花を咲かせた椿の枝が、ポケットに挿されていた。
少年は無言で、コーヒーにおもむろに砂糖とミルクを大量に入れ出した。
中身が完全に白くなると、彼はそこでようやくカップに口をつけた。
「小龍君だよ。ウチの常連さんで、この近くの団地に住んでる子」
嬉しそうに笑うユゥイが教えてくれた。
無口で無礼で無愛想な子供。
真っ白のコーヒーをちまちまと飲んでいる小さなお客さんを見て、ファイはなんとなく憎めないなと思った。
少々カチンとは来たが、もしかしたら黒鋼も幼い頃はこんな風に可愛げのない子供だったのかもしれない。今でも十分、生意気だけれど。
そう思うと、少しだけ愛着が湧いたのだった。
←戻る ・ 次へ→
第十一話『捕物』
「ああ、そのことか……」
黒鋼は、ずずいと身を乗り出してくるファイに僅かに身を引くと、そっけない返事をした。
「お袋か?」
「そうだよ! お母さんから聞かなかったら、オレずっと知らないままだったじゃんか!」
彼は外見だけならしなやかな猫を彷彿とさせるが、こうしてキャンキャン騒ぐのを見ると、まるで子犬のようだと思う。犬は好きだ。もちろん、猫も。
年上(には見えないが)の男を捕まえてそんな表現はどうかと思うが、その仕草や言動の無邪気さに、どうしても保護欲をそそられて仕方がない。
淡い金色の髪が、肩を怒らせる彼に合わせてふわふわと跳ねたり波打ったりする。
一度だけ触れたことがあるが、なかなか上質な手触りだった。
「別にわざわざ言うほどのもんでも」
「あるよ!!」
一体何がそこまで不満なのか、戸惑う黒鋼にファイは頬を染めたまま、目元にじんわりと涙を浮かべた。
「お、おい馬鹿……泣くなよ……?」
この男に泣かれるとどうも弱い。
出会った最初の頃、癇癪めいたものを起こしたファイに思い切り泣かれたときも、どうすればいいのか実はかなり焦ったものだ。
しかしファイは黒鋼の制止も聞かずに宝石のように美しい瞳から涙を零した。
ああクソ、と内心で舌打ちをして、思わずボリボリと頭を掻く。
彼は一度ぎゅうと両目を閉じたかと思うと、跳ねるようにして黒鋼の胸に飛びついてきた。
「黒たん!!」
「どわっ!?」
あまりの勢いに引っくり返りそうになって、なんとか腕をついて堪える。
この細腕のどこにそんな力があるのかと思うほどの強い力で、胴をぎゅうぎゅうと締め付けられた。
「お、おい……なんなんだよてめぇは……!」
「だって……なんか感動しちゃって……まるでドラマみたいな展開だったんだもん……!」
黒鋼にしみれば、ファイとは出会いからして現実味が薄かったように思える。
彼そのものにしたってそうだ。男のくせにすぐ泣くし、時々何を言っているのか意味不明なときがあるし、お喋りで鬱陶しいくせになぜか一緒にいると胸の中がふわふわとしてくるし……。
この男といると、こちらまで感情の振り幅が大きくなってゆく気がした。
目を離せばすぐ迷子になって、どこかで一人泣いていそうで、放っておけない。
少なくとも、彼は今まで自分の周りには決していないタイプの人間だった。
だから扱いに困る。泣かれると、どうしたらいいか分からなくなる。
かといって無邪気な笑顔を見ていると、落ち着かない気持ちにもなる。
(どうかしてんのは俺の方かもな)
細い身体がぴったりと胸にしがみついてくるのを、黒鋼は抱き返すべきかどうか激しく迷っていた。子供のように体温が高くて、砂糖のような甘い香りがする。
甘いものは食べるのも嗅ぐのも苦手だが、なぜか今は不快ではなかった。
ファイの背中のすぐ側で両手を宙に浮かせたまま、指先をにぎにぎとさせる。
一体どうすりゃいいんだと困り果てていると、ファイがおもむろに顔を上げた。
間近で見下ろす濡れた瞳や赤い頬を見て、胸に妙なざわめきが起こった。
「黒たん、オレのために危ないことしてくれたの……?」
やけに頬が熱く感じた。黒鋼は慌てて否定する。
「馬鹿か! 偶然だ、偶然」
それは本当のことで、帰宅時の込み合った車内にて、たまたま見覚えのある顔と遭遇したからだった。
あのときは一瞬ではあったが、チラリと見ただけの顔を黒鋼はよく覚えていた。
男は懲りずにまた悪さを働いていた。被害者が男性であることに気がついて、呆れと同時に憤りを覚えた。
当然、被害者が女性であっても決して許せる行いではないが、どうしても思い出されるのはファイのことだった。
身動きが取れない状態で俯いている被害者男性と、あの時のファイが重なって見えた。
その瞬間、一気に頭に血が上った黒鋼は、電車の扉が開いたと同時に痴漢の手首を掴むと、思い切り投げ飛ばしていた。
被害に遭っていた男性はまだ少年で、ファイよりも幾分か身体の小さな他校の生徒だった。
ファイのときは、咄嗟に彼自身の心境も考慮して派手な立ち振る舞いは控えたのだが、騒ぎになってしまったせいであの少年は逆に赤っ恥をかいたかもしれない。
当の黒鋼自身は、面倒にならないうちに慌ててその場を去ったのだが、結局はこの目立つ風貌が仇となり、目撃者の証言から学校共々特定されてしまった。
新聞でも小さく取り上げられたが、高校生だという情報以外は公表されなかった。
にも関わらず、なぜか近所中に噂は広まっている。おそらく犯人は母だろう……。
要するに、である。
思い切り否定はしたものの、結局はファイが引き金になったことは事実だった。
黒鋼はどこか諦めにも似た心境で、天井を見ながら溜息を零した。そしてすぐに泣き濡れたファイの顔を見下ろす。
「別にたいしたことしたわけじゃねぇんだ。おまえの時は、足踏んづけてやるくらいしか出来なかったからな」
だいたい黒鋼にしたって、あのような輩は存在しているだけも気分が悪い。
相手が身動き取れない弱みに付け込んで好き勝手に自分の性癖を満たすなど、被害者の性別を問わず同じ人間として不愉快極まりない。
「だから、とりあえずはもう安心だろ。あんな変態野郎、そうはいるもんじゃねぇだろうからな」
ファイの頬にかかる金糸に指先で触れた。やはり、この手触りが好きだと思った。
黒鋼の手がくすぐったいのか、ファイは潤んだ瞳でふんわりと微笑んだ。
なんだか、胸の奥がきゅっと疼くのを感じる。
「うん……。ありがとう黒たん。お礼、言わせてね」
「おう……」
小さく笑うと、ファイの頬がさらに染まった。そのまま、まるでうっとりとしたように見上げてくる青い瞳があまりにも澄んだ色をしていて、思わずその身体を引き寄せていた。
吸い込まれる、と思った瞬間には、その濡れた目元に唇を落としていた。
ファイもそっと目を閉じた。長い睫毛が唇に触れて、少しくすぐったい。
そしてゆっくりと唇を離し、暫しぼんやりと見つめ合った。
口の中に、僅かに涙の塩辛さを感じながら。
二人は、どのくらいそうしていたのだろうか。
どちらかともなくハッとして、同時に耳まで真っ赤にしながら慌てて離れた。
「ご、ごめん!」
「悪い……」
先刻ほぼ同時に謝罪の言葉を述べ合ったときと同様に、二つの声が重なった。
なんともいえない微妙な空気の中で、黒鋼は俯いて両手で赤い頬を隠しているファイから目を逸らした。
一体なにが起こったのか。なにをしたのか。
まともに思考が働かない。けれど、まるで後悔していない自分が存在することには気が付いている。
それが何よりの問題点である気がした。
唇にはまだファイの柔らかな睫毛の感触が残っていて、この舌は涙の味を忘れられないでいる。
自分は一体どうなってしまったのだろう。この空気をどうすればいいのだろう。
黒鋼が冷静さを取り戻そうと思考を回転させることに必死になっていると、ファイが勢いよく顔を上げた。
「べ、勉強!!」
「!」
「勉強しなきゃね! ほらほら、時計見て! もうこんな時間だよー!」
白い指先が柱にかかっている時計を指差した。黒鋼も同調するように、大きく頷いた。
「そうだな。わかった」
「い、いやー、時間食っちゃったねー。ええっとこないだはどこまでやったっけかなー」
慌ててカバンを漁ってノートや筆入れなどを取り出すファイの傍らで、黒鋼も散らばっていた問題集や参考書を黙々と広げた。
そして、いつも以上に大きなリアクションで忙しないファイを視界の横に納めながら、黒鋼は思った。
何かおかしいと感じつつも、決して嫌というわけではない。
けれどすんなり受け入れてしまうには、性別の壁や培ってきたモラルがそれを良しとしない。
それなのに、黒鋼はどこかで諦めと、そして予感めいたものを感じていた。
おそらく自分はこの男と、恋をするのだろうと。
あるいは、もう。
←戻る ・ 次へ→
「ああ、そのことか……」
黒鋼は、ずずいと身を乗り出してくるファイに僅かに身を引くと、そっけない返事をした。
「お袋か?」
「そうだよ! お母さんから聞かなかったら、オレずっと知らないままだったじゃんか!」
彼は外見だけならしなやかな猫を彷彿とさせるが、こうしてキャンキャン騒ぐのを見ると、まるで子犬のようだと思う。犬は好きだ。もちろん、猫も。
年上(には見えないが)の男を捕まえてそんな表現はどうかと思うが、その仕草や言動の無邪気さに、どうしても保護欲をそそられて仕方がない。
淡い金色の髪が、肩を怒らせる彼に合わせてふわふわと跳ねたり波打ったりする。
一度だけ触れたことがあるが、なかなか上質な手触りだった。
「別にわざわざ言うほどのもんでも」
「あるよ!!」
一体何がそこまで不満なのか、戸惑う黒鋼にファイは頬を染めたまま、目元にじんわりと涙を浮かべた。
「お、おい馬鹿……泣くなよ……?」
この男に泣かれるとどうも弱い。
出会った最初の頃、癇癪めいたものを起こしたファイに思い切り泣かれたときも、どうすればいいのか実はかなり焦ったものだ。
しかしファイは黒鋼の制止も聞かずに宝石のように美しい瞳から涙を零した。
ああクソ、と内心で舌打ちをして、思わずボリボリと頭を掻く。
彼は一度ぎゅうと両目を閉じたかと思うと、跳ねるようにして黒鋼の胸に飛びついてきた。
「黒たん!!」
「どわっ!?」
あまりの勢いに引っくり返りそうになって、なんとか腕をついて堪える。
この細腕のどこにそんな力があるのかと思うほどの強い力で、胴をぎゅうぎゅうと締め付けられた。
「お、おい……なんなんだよてめぇは……!」
「だって……なんか感動しちゃって……まるでドラマみたいな展開だったんだもん……!」
黒鋼にしみれば、ファイとは出会いからして現実味が薄かったように思える。
彼そのものにしたってそうだ。男のくせにすぐ泣くし、時々何を言っているのか意味不明なときがあるし、お喋りで鬱陶しいくせになぜか一緒にいると胸の中がふわふわとしてくるし……。
この男といると、こちらまで感情の振り幅が大きくなってゆく気がした。
目を離せばすぐ迷子になって、どこかで一人泣いていそうで、放っておけない。
少なくとも、彼は今まで自分の周りには決していないタイプの人間だった。
だから扱いに困る。泣かれると、どうしたらいいか分からなくなる。
かといって無邪気な笑顔を見ていると、落ち着かない気持ちにもなる。
(どうかしてんのは俺の方かもな)
細い身体がぴったりと胸にしがみついてくるのを、黒鋼は抱き返すべきかどうか激しく迷っていた。子供のように体温が高くて、砂糖のような甘い香りがする。
甘いものは食べるのも嗅ぐのも苦手だが、なぜか今は不快ではなかった。
ファイの背中のすぐ側で両手を宙に浮かせたまま、指先をにぎにぎとさせる。
一体どうすりゃいいんだと困り果てていると、ファイがおもむろに顔を上げた。
間近で見下ろす濡れた瞳や赤い頬を見て、胸に妙なざわめきが起こった。
「黒たん、オレのために危ないことしてくれたの……?」
やけに頬が熱く感じた。黒鋼は慌てて否定する。
「馬鹿か! 偶然だ、偶然」
それは本当のことで、帰宅時の込み合った車内にて、たまたま見覚えのある顔と遭遇したからだった。
あのときは一瞬ではあったが、チラリと見ただけの顔を黒鋼はよく覚えていた。
男は懲りずにまた悪さを働いていた。被害者が男性であることに気がついて、呆れと同時に憤りを覚えた。
当然、被害者が女性であっても決して許せる行いではないが、どうしても思い出されるのはファイのことだった。
身動きが取れない状態で俯いている被害者男性と、あの時のファイが重なって見えた。
その瞬間、一気に頭に血が上った黒鋼は、電車の扉が開いたと同時に痴漢の手首を掴むと、思い切り投げ飛ばしていた。
被害に遭っていた男性はまだ少年で、ファイよりも幾分か身体の小さな他校の生徒だった。
ファイのときは、咄嗟に彼自身の心境も考慮して派手な立ち振る舞いは控えたのだが、騒ぎになってしまったせいであの少年は逆に赤っ恥をかいたかもしれない。
当の黒鋼自身は、面倒にならないうちに慌ててその場を去ったのだが、結局はこの目立つ風貌が仇となり、目撃者の証言から学校共々特定されてしまった。
新聞でも小さく取り上げられたが、高校生だという情報以外は公表されなかった。
にも関わらず、なぜか近所中に噂は広まっている。おそらく犯人は母だろう……。
要するに、である。
思い切り否定はしたものの、結局はファイが引き金になったことは事実だった。
黒鋼はどこか諦めにも似た心境で、天井を見ながら溜息を零した。そしてすぐに泣き濡れたファイの顔を見下ろす。
「別にたいしたことしたわけじゃねぇんだ。おまえの時は、足踏んづけてやるくらいしか出来なかったからな」
だいたい黒鋼にしたって、あのような輩は存在しているだけも気分が悪い。
相手が身動き取れない弱みに付け込んで好き勝手に自分の性癖を満たすなど、被害者の性別を問わず同じ人間として不愉快極まりない。
「だから、とりあえずはもう安心だろ。あんな変態野郎、そうはいるもんじゃねぇだろうからな」
ファイの頬にかかる金糸に指先で触れた。やはり、この手触りが好きだと思った。
黒鋼の手がくすぐったいのか、ファイは潤んだ瞳でふんわりと微笑んだ。
なんだか、胸の奥がきゅっと疼くのを感じる。
「うん……。ありがとう黒たん。お礼、言わせてね」
「おう……」
小さく笑うと、ファイの頬がさらに染まった。そのまま、まるでうっとりとしたように見上げてくる青い瞳があまりにも澄んだ色をしていて、思わずその身体を引き寄せていた。
吸い込まれる、と思った瞬間には、その濡れた目元に唇を落としていた。
ファイもそっと目を閉じた。長い睫毛が唇に触れて、少しくすぐったい。
そしてゆっくりと唇を離し、暫しぼんやりと見つめ合った。
口の中に、僅かに涙の塩辛さを感じながら。
二人は、どのくらいそうしていたのだろうか。
どちらかともなくハッとして、同時に耳まで真っ赤にしながら慌てて離れた。
「ご、ごめん!」
「悪い……」
先刻ほぼ同時に謝罪の言葉を述べ合ったときと同様に、二つの声が重なった。
なんともいえない微妙な空気の中で、黒鋼は俯いて両手で赤い頬を隠しているファイから目を逸らした。
一体なにが起こったのか。なにをしたのか。
まともに思考が働かない。けれど、まるで後悔していない自分が存在することには気が付いている。
それが何よりの問題点である気がした。
唇にはまだファイの柔らかな睫毛の感触が残っていて、この舌は涙の味を忘れられないでいる。
自分は一体どうなってしまったのだろう。この空気をどうすればいいのだろう。
黒鋼が冷静さを取り戻そうと思考を回転させることに必死になっていると、ファイが勢いよく顔を上げた。
「べ、勉強!!」
「!」
「勉強しなきゃね! ほらほら、時計見て! もうこんな時間だよー!」
白い指先が柱にかかっている時計を指差した。黒鋼も同調するように、大きく頷いた。
「そうだな。わかった」
「い、いやー、時間食っちゃったねー。ええっとこないだはどこまでやったっけかなー」
慌ててカバンを漁ってノートや筆入れなどを取り出すファイの傍らで、黒鋼も散らばっていた問題集や参考書を黙々と広げた。
そして、いつも以上に大きなリアクションで忙しないファイを視界の横に納めながら、黒鋼は思った。
何かおかしいと感じつつも、決して嫌というわけではない。
けれどすんなり受け入れてしまうには、性別の壁や培ってきたモラルがそれを良しとしない。
それなのに、黒鋼はどこかで諦めと、そして予感めいたものを感じていた。
おそらく自分はこの男と、恋をするのだろうと。
あるいは、もう。
←戻る ・ 次へ→
あなたという光を知らないままでいられたら。
私は真の願いなど知りもせず、世界はあなたを失わずにすんだのでしょうか。
あのとき、私の心は毀れてしまった。
闇に蝕まれ、その形を醜く歪められてゆくあなたの姿の、なんと美しいことでしょう。
私はあなたの肉ごと、この牙で噛み締めるのです。
幸福というものが、これほどまでに甘美でおぞましいものだということを。
*
蝋燭の火が揺らぐ中で、人形のように冷たいと思っていたファイの身体は少しずつその熱を高めていた。
彼が快楽に啼き、咽ぶ度に黒鋼の心は少しずつその穴を塞いでゆく。
不安が、苛立ちが、畏れが、ファイが反応を示し黒鋼を求める度に薄れてゆくような気がした。
白い歯が肩に食いつき、もたらされる痛みと快感が全身を駆け抜ければ、『今』この瞬間こそが真実なのだと、自分自身に言い聞かせることができる。
大丈夫。何も案ずることはない。
ファイはこの腕の中に確かにいて、呼吸をし、熱を上げ、黒鋼の名を呼んでいる。
その総てが愛しくて、欲しくて堪らない。
「愛してる」
聞こえるか聞こえないかの低い呟きを落とせば、ファイは閉じていた瞼を開けた。
白い手がゆっくりと伸びてきて、黒鋼の両頬を包み込む。
儚げな笑みが今にも泣きだしそうに見えて、なぜそんな風に笑うのかと思うほどに、胸が締め付けられる。
よく知っているはずのファイの香りを、なぜか酷く懐かしく感じて、黒鋼は一筋の涙を零した。
*
「ねぇ、梟夜湖の伝承って知ってる?」
幾度か情を交わした後、黒鋼の腕に抱かれたファイは天井を見つめながらそんなことを言い出した。
同じようにぼんやりと天井を眺めていた黒鋼は、ファイの方に顔を向けると僅かに眉を動かす。
「知らねぇな」
宝石の示す言葉に飽き足らず、そんなものまで調べていたのか。
興味の惹かれたものにばかりやたら熱心になる彼の性質を、呆れつつも微笑ましく感じる。
「あのね」
ファイは情交の余韻から抜け出せないままのうっとりとした様子で、その伝承とやらを語りはじめた。
水の中に住んでいた一匹の白蛇が、一人の男に恋をした。
男は釣りが大好きで、ほぼ毎日のように湖にやってきては魚を釣っていた。
そして最後には自分一人が食べきれるだけの魚を籠に入れ、多く獲った分は逃がしてやるのだ。
蛇はその様を見ながら、いつも思っていた。
この身が魚の姿をしていたなら、もっと男の近くに行けるのにと。
例え食われたとしても、愛する者の身体の一部になれるなら、それでも構わなかった。
あるとき、蛇は男への強い恋心から人間の女へと姿を変える。
けれど四肢のある身体は蛇であったときとは勝手が違い、女はまともに身動きすることも出来ずにただ蹲るばかりだった。
そこへ男がやってきて、女の美しさに惹かれ村へと連れ帰れった。
2人は互いに愛し合い、それからおよそ1年の月日が経った。
女は男の子供を身籠ることになる。
だが、女の身体には妊娠と共に変化が現れはじめた。
皮膚の一部にはてらてらと光る白い鱗が現れ始め、慎ましやかな食事だけでは満足できなくなった。
女は男が魚を釣りに行っている間、または夜中に眠っている間に、ネズミや産まれたばかりの仔猫などを捕まえては食べるようになった。
それから十月十日の月日が流れ、女は元気な女子を出産した。
しかし、徐々に人から蛇へと戻りつつあった女は、男に正体が知れることを恐れ、ある日産まれたばかりの赤子だけを残して湖へと姿を消した。
男は女を昼夜問わず探したが、結局二度と見つけることは出来なかった。
それから十数年。
赤子は姿を消してしまった女と瓜二つの美しい娘に成長した。
男は女と出会った場所を我が子に見せてやりたいという思いから、娘を連れて湖のほとりへと足を運んだ。
変わらず水の中で男を想い続けていた蛇は、美しい娘と男の仲睦まじい姿に嫉妬した。
その身を男の足へと絡ませて、男の身体を湖の底へ引きずりこんでしまった。
男がそこから戻ることはなく、娘は生涯幸せに暮らした。
ファイの話を聞き終えたとき、黒鋼は眉間に皺を寄せて僅かに唸った。
その蛇は、男の傍らにいた娘が自分が産んだ我が子だということには気がつかなかったのだろうか。人であった頃の自分と、瓜二つの娘のことに。
「関係なかったんじゃないかな……」
黒鋼が疑問を口に出す前に、まるで最初から知っていたかのようにファイがぼんやりと呟いた。
「自分と同じ姿をしているならば、尚更どうして私じゃないのって……思ったのかもしれない」
「……」
「それにね」
ファイは黒鋼の腕の中から起き上がると、ベッドの背凭れに寄りかかる。
「もしかしたら、最初から蛇は本心ではずっとそうしたかったんじゃないかな。その男の人を、ずっと待っていたのかもしれない」
「殺すことになってもか」
蝋燭の炎が一瞬、揺らいだ。まるで黒鋼の胸の内を写すかのように。
黒鋼の方に顔を向けたファイは、ただ微笑むばかりだった。
瞬きの度に頬に落とされる睫毛の影が、まるで蝶の羽ばたきのようにひらひらと踊って見えた。
やがてゆっくりと白い指先が伸びてきて、額にかかる黒髪を撫でる。冷たくて、黒鋼は微かに身を強張らせた。
この笑顔を、見慣れたものだとばかり思っていたけれど、それは違うのかもしれない。
同じだけれど、同じではないような気がする。
笑っているのに、笑っていない。屈託なく無邪気に笑うファイは、どこへ消えてしまったのだろう。埋まったとばかり思い込んでいた心の隙間が、不安が、息を吹き返す。
この目に映る全てのものが作り物のように感じられた。
「このお話はハッピーエンドだよ。残された娘だって、ちゃんと幸せに暮らしてる」
果たしてそうなのだろうか。
現に男は死んでいる。
この話の中で一番不気味なのは、人に化け、最後には嫉妬に駆られて男を引きずり込んだ蛇ではない。
娘の方だ。
まるで彼女が幸せに暮らすことが出来たのは、目の前で父を亡くしたからこそだとでも言っているかのようで。
嫌な後味が付き纏い、それはいつしか黒鋼自身が抱いている漠然とした不安や恐れと重なった。
「ねぇ黒たん、明日、湖に行ってみようか?」
黒鋼は思わずギクリとして、その瞬間、あのひび割れるような頭痛が再び襲いくる。
「っ……!!」
「黒たん?」
身体を丸めるようにして両手で頭を押さえる。
ズキリ、ズキリ、ズキリ。
一定の間隔で襲いくる痛みと一緒に、脳内に切り取られたような場面が幾度も浮かんでは消える。
それは、水の中で溺れる自らのビジョンだ。
水泡が天へと昇り、光に向かって伸ばされる手。堕ちてゆく感覚。
耳の中で、ゴボリゴボリというノイズの混じった重苦しい音がしている。ああ、これは水の音なのか。
冷たい両腕に抱き寄せられて、黒鋼は白い胸に頬を寄せた。優しく慈しむような手が幾度も頭を撫でる。
直に聞く心音が水音と重なり、やがて意識が波のようにさらわれてゆく。
「大丈夫」
ファイの声が遠い。
温かな水に包まれてゆくような感覚。
どこか懐かしい感覚。
「連れて行ってあげるから」
目蓋が落ちれば広がる闇。
どこまでも続く穏やかな闇。
「ずっと待ってるから」
意識が、途切れた。
←戻る ・ 次へ→