早く来てね。
先に行って、待ってるから。
例えばこれは、まだこの世界に産声を上げる前の記憶と重なるのかもしれない。 母の腹の中にいた頃、温かな羊水の中で安らかに眠っていた頃の。
この闇はどこまでも深く穏やかで、優しかった。
許されるのならばこのまま、永遠に堕ちて行きたいとさえ思うほど。
『ねぇ』
懐かしい声がして、黒鋼は闇の中で目を開ける。
光はない。美しい闇の中。
『君はオレのためなら、死んでくれる?』
ああ、懐かしい。
これは遠い日の、何気ない会話の記憶の切れ端だ。
そのときの自分は、素直に頷いてはやれなかったけれど。
今ここで、黒鋼は迷いもしなければ、つまらない意地も張る気はない。
だから頷いた。
「もちろんだ」
水音がした。
闇がゆっくりと移り変わる。
光が近づく。夢から覚める。
『あの場所で、待ってる』
*
目覚めると、頬が濡れていることに気がついた。
乾きかけているそれを手の甲で拭うと、身を起こす。
木の温もりで満たされた室内はどんよりと暗い光が満ちている。
窓の外を見ると、遠くの景色が白い靄に包まれていた。
「霧か…」
何気なく呟いてから再び室内を見渡した。
ファイの姿がない。
人の気配がないところを見ると、どうやらコテージのどこにもいないらしい。
あまりにも静かすぎる空間に、漠然とした不安が過ぎる。
黒鋼は飛び起きると、慌てて衣服を身につけた。
『あの場所で、待ってる』
夢から覚める直前に聞いた声を思い出す。
あれは、本当に夢だったのだろうか。
時間の感覚も、記憶も、全てが曖昧に感じられた。
*
コテージを飛び出して、向かう場所はひとつしかありえない。
彼が、きっと待っているに違いないと思った。
霧に包まれた木々の中をひた走った。
前方が不確かで、地面が僅かにぬかるんでいるせいで足を取られそうになる。
それでも黒鋼は何かに導かれるようにして、ただひたすら駆け抜けた。
早く早くと、ファイが呼んでいる声が聞こえるような気がした。
ほどなくして、湖には簡単に辿りつくことができた。
そのほとりを、目当ての人物を探して足早に進めば、濃密な靄の中に彼はいた。
けれど一人ではない。
ファイの側には一人の女と、それに身を隠すようにして白い花束を抱えた幼い子供がいた。
声をかけようとして、だがそれは女の号泣によって掻き消される。
思わず足を止めたが、ファイだけは黒鋼の存在に気がついたようだった。
こちらに向けられるその微笑に、背筋が凍るような感覚を覚えたのはなぜか。
息を呑み、黒鋼はそれ以上足を進めることが出来ずに立ち止まった。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……ゆるしてください……どうか……どうか…」
全身を黒いワンピースで包み込んでいる女は、まだ随分と若く見えた。
だが酷くやつれているせいで、はっきりとした年齢を推測することができない。
彼女は跪き、幾度もの謝罪と許しを請いながらファイに縋りついている。
ファイは黒鋼から視線を外すと女を見下ろし、その頼りない肩に両手を添えて、数回、首を振った。
「どうか顔を上げてください。もう済んでしまったことです」
「ごめんなさい……ッ、ごめんなさい……ッ」
黒鋼の目には、彼女はどこか正気を失っているように映った。
酷く気が動転して、髪でも振り乱したのだろうか。
本来は美しく纏められていたのであろう黒髪が解れ、髪留めが中途半端にぶら下がっている。
「ママ……」
なおもファイに縋りつく彼女を、すぐ背後に寄り添っていた少年が呼んだ。
ママ、と呼ばれた女は一瞬はっとして幼い息子を振り向くと、両腕を伸ばしてその身体を抱きしめた。
その拍子に、少年の腕の中の花束から白い花びらがヒラリと落ちる。
百合の花だった。
少年は母に抱かれたままきつくファイを見据え、ファイは微笑みながら彼の視線を受け止めている。
そして口を開いたのは少年だった。
「ママ、このひとは、ちがうよ」
母親が顔を上げた。
少年の顔を見て、それからファイを見上げた。
ファイはにっこりと笑うと、言った。
「そうだよ。ボクは違う」
*
親子が去った後の湖のほとりには、白い百合の花束が置き去りにされていた。
黒鋼は暫しの間、声もなくその花束を見下ろしていたが、やがて顔を上げるとファイの方に視線をやった。
「おまえは誰だ」
黒鋼の中に在り続けた歪な世界が、その姿を現そうとしている。
今の自分に分かっているのはただ、目の前の男が得体の知れない存在であるということだけ。
けれどそれは、あのコテージで目を覚ました最初の夜から、すでに漠然と付き纏っていたものだ。
ファイと寸分違わぬ姿をした男は、霧に包まれて先の見えない湖を静かに見つめていた
冷たくじっとりと濡れたような風が吹き、纏わりついていた靄が流れてゆく。
深い、宝石のような緑の水面が徐々に見通せるようになった。
「君が呼んだんだよ。ボクを見て、ファイって」
彼は、吹く風に靡く金色の髪を鬱陶しそうに白い手で押さえると、黒鋼と向き合う。
「あの日、君がね」
「っ……!?」
その瞬間。
黒鋼の脳内に、一気にある光景がフラッシュバックした。
小雨の降りしきる墓地。
黒いスーツ。
赤い傘。
百合の花。
それを両手いっぱいに抱えたファイ。
けれど墓石に刻まれた名前は。
黒鋼は額を押さえたまま数歩後ろによろける。
足元がぐんにゃりと歪んで、全身からあらゆる感覚が消えうせ、麻痺してゆくかのようだった。
自分がしっかり両足をついて立てているのかさえ曖昧だった。
世界が回る。
「ばか、な……っ」
頭の中でしきりに「嘘だ」と繰り返す自分の声がした。
墓石に真新しく刻まれた名前。
ファイの名前。
こんなものは全てが夢だ。
幻を見ているに違いない。
早く覚めなければならない。
そうすればいつも通りのファイに会うことが出来る。
この場所に来ることを心待ちにしているファイに。
「こいつは……ただの夢だ……ありえねぇだろこんなこと……っ!」
冷たい汗が背中を伝う。
目の前の男を睨みつければ、彼は哀れむような表情で黒鋼を見守っていた。
男は悲しそうに瞼を伏せた。
「そうだね」
そしてゆっくりと目が開かれる。
その瞳の青さえも、宝石のような輝きさえも、ファイと何もかもが同じだった。
「君は夢を見ていたよ。ずっと壊れたままだったから」
だからこれは夢ではない。
紛れもない現実。
残酷すぎるその宣告を聞いた瞬間、本当に足元から崩れ落ちた。
脳内を侵食する激痛に、黒鋼は膝をついて蹲った。
「でも、もう目を覚まさなきゃいけない」
「――ッ!!」
声にならない悲鳴を上げて、なす術もなくのたうつ。
目の前が赤く染まっている。
何かがじわじわと迫り来るのを感じていた。
それが何かは、まだ見えない。
「ボクはファイじゃいけど、ファイと同じだから。だから、わかる」
「ぐっ…うぅ…っ、ぅ…っ!!」
水音が聞こえる。
「君を呼んでる」
一際大きな痛みが、嫌な音を立てて黒鋼の中で弾けた。
男は無表情で黒鋼を見下ろすと、言った。
「だからここで、死んで」
黒鋼は、全てを思い出した。
←戻る ・ 次へ→
先に行って、待ってるから。
例えばこれは、まだこの世界に産声を上げる前の記憶と重なるのかもしれない。 母の腹の中にいた頃、温かな羊水の中で安らかに眠っていた頃の。
この闇はどこまでも深く穏やかで、優しかった。
許されるのならばこのまま、永遠に堕ちて行きたいとさえ思うほど。
『ねぇ』
懐かしい声がして、黒鋼は闇の中で目を開ける。
光はない。美しい闇の中。
『君はオレのためなら、死んでくれる?』
ああ、懐かしい。
これは遠い日の、何気ない会話の記憶の切れ端だ。
そのときの自分は、素直に頷いてはやれなかったけれど。
今ここで、黒鋼は迷いもしなければ、つまらない意地も張る気はない。
だから頷いた。
「もちろんだ」
水音がした。
闇がゆっくりと移り変わる。
光が近づく。夢から覚める。
『あの場所で、待ってる』
*
目覚めると、頬が濡れていることに気がついた。
乾きかけているそれを手の甲で拭うと、身を起こす。
木の温もりで満たされた室内はどんよりと暗い光が満ちている。
窓の外を見ると、遠くの景色が白い靄に包まれていた。
「霧か…」
何気なく呟いてから再び室内を見渡した。
ファイの姿がない。
人の気配がないところを見ると、どうやらコテージのどこにもいないらしい。
あまりにも静かすぎる空間に、漠然とした不安が過ぎる。
黒鋼は飛び起きると、慌てて衣服を身につけた。
『あの場所で、待ってる』
夢から覚める直前に聞いた声を思い出す。
あれは、本当に夢だったのだろうか。
時間の感覚も、記憶も、全てが曖昧に感じられた。
*
コテージを飛び出して、向かう場所はひとつしかありえない。
彼が、きっと待っているに違いないと思った。
霧に包まれた木々の中をひた走った。
前方が不確かで、地面が僅かにぬかるんでいるせいで足を取られそうになる。
それでも黒鋼は何かに導かれるようにして、ただひたすら駆け抜けた。
早く早くと、ファイが呼んでいる声が聞こえるような気がした。
ほどなくして、湖には簡単に辿りつくことができた。
そのほとりを、目当ての人物を探して足早に進めば、濃密な靄の中に彼はいた。
けれど一人ではない。
ファイの側には一人の女と、それに身を隠すようにして白い花束を抱えた幼い子供がいた。
声をかけようとして、だがそれは女の号泣によって掻き消される。
思わず足を止めたが、ファイだけは黒鋼の存在に気がついたようだった。
こちらに向けられるその微笑に、背筋が凍るような感覚を覚えたのはなぜか。
息を呑み、黒鋼はそれ以上足を進めることが出来ずに立ち止まった。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……ゆるしてください……どうか……どうか…」
全身を黒いワンピースで包み込んでいる女は、まだ随分と若く見えた。
だが酷くやつれているせいで、はっきりとした年齢を推測することができない。
彼女は跪き、幾度もの謝罪と許しを請いながらファイに縋りついている。
ファイは黒鋼から視線を外すと女を見下ろし、その頼りない肩に両手を添えて、数回、首を振った。
「どうか顔を上げてください。もう済んでしまったことです」
「ごめんなさい……ッ、ごめんなさい……ッ」
黒鋼の目には、彼女はどこか正気を失っているように映った。
酷く気が動転して、髪でも振り乱したのだろうか。
本来は美しく纏められていたのであろう黒髪が解れ、髪留めが中途半端にぶら下がっている。
「ママ……」
なおもファイに縋りつく彼女を、すぐ背後に寄り添っていた少年が呼んだ。
ママ、と呼ばれた女は一瞬はっとして幼い息子を振り向くと、両腕を伸ばしてその身体を抱きしめた。
その拍子に、少年の腕の中の花束から白い花びらがヒラリと落ちる。
百合の花だった。
少年は母に抱かれたままきつくファイを見据え、ファイは微笑みながら彼の視線を受け止めている。
そして口を開いたのは少年だった。
「ママ、このひとは、ちがうよ」
母親が顔を上げた。
少年の顔を見て、それからファイを見上げた。
ファイはにっこりと笑うと、言った。
「そうだよ。ボクは違う」
*
親子が去った後の湖のほとりには、白い百合の花束が置き去りにされていた。
黒鋼は暫しの間、声もなくその花束を見下ろしていたが、やがて顔を上げるとファイの方に視線をやった。
「おまえは誰だ」
黒鋼の中に在り続けた歪な世界が、その姿を現そうとしている。
今の自分に分かっているのはただ、目の前の男が得体の知れない存在であるということだけ。
けれどそれは、あのコテージで目を覚ました最初の夜から、すでに漠然と付き纏っていたものだ。
ファイと寸分違わぬ姿をした男は、霧に包まれて先の見えない湖を静かに見つめていた
冷たくじっとりと濡れたような風が吹き、纏わりついていた靄が流れてゆく。
深い、宝石のような緑の水面が徐々に見通せるようになった。
「君が呼んだんだよ。ボクを見て、ファイって」
彼は、吹く風に靡く金色の髪を鬱陶しそうに白い手で押さえると、黒鋼と向き合う。
「あの日、君がね」
「っ……!?」
その瞬間。
黒鋼の脳内に、一気にある光景がフラッシュバックした。
小雨の降りしきる墓地。
黒いスーツ。
赤い傘。
百合の花。
それを両手いっぱいに抱えたファイ。
けれど墓石に刻まれた名前は。
黒鋼は額を押さえたまま数歩後ろによろける。
足元がぐんにゃりと歪んで、全身からあらゆる感覚が消えうせ、麻痺してゆくかのようだった。
自分がしっかり両足をついて立てているのかさえ曖昧だった。
世界が回る。
「ばか、な……っ」
頭の中でしきりに「嘘だ」と繰り返す自分の声がした。
墓石に真新しく刻まれた名前。
ファイの名前。
こんなものは全てが夢だ。
幻を見ているに違いない。
早く覚めなければならない。
そうすればいつも通りのファイに会うことが出来る。
この場所に来ることを心待ちにしているファイに。
「こいつは……ただの夢だ……ありえねぇだろこんなこと……っ!」
冷たい汗が背中を伝う。
目の前の男を睨みつければ、彼は哀れむような表情で黒鋼を見守っていた。
男は悲しそうに瞼を伏せた。
「そうだね」
そしてゆっくりと目が開かれる。
その瞳の青さえも、宝石のような輝きさえも、ファイと何もかもが同じだった。
「君は夢を見ていたよ。ずっと壊れたままだったから」
だからこれは夢ではない。
紛れもない現実。
残酷すぎるその宣告を聞いた瞬間、本当に足元から崩れ落ちた。
脳内を侵食する激痛に、黒鋼は膝をついて蹲った。
「でも、もう目を覚まさなきゃいけない」
「――ッ!!」
声にならない悲鳴を上げて、なす術もなくのたうつ。
目の前が赤く染まっている。
何かがじわじわと迫り来るのを感じていた。
それが何かは、まだ見えない。
「ボクはファイじゃいけど、ファイと同じだから。だから、わかる」
「ぐっ…うぅ…っ、ぅ…っ!!」
水音が聞こえる。
「君を呼んでる」
一際大きな痛みが、嫌な音を立てて黒鋼の中で弾けた。
男は無表情で黒鋼を見下ろすと、言った。
「だからここで、死んで」
黒鋼は、全てを思い出した。
←戻る ・ 次へ→
私は私を壊すことばかりを考えていたように思います。
あなたという光を知らないままでいられたら。
私は真の願いなど知りもせず、世界はあなたを失わずにすんだのでしょうか。
あのとき、私の心は毀れてしまった。
闇に蝕まれ、その形を醜く歪められてゆくあなたの姿の、なんと美しいことでしょう。
私はあなたの肉ごと、この牙で噛み締めるのです。
幸福というものが、これほどまでに甘美でおぞましいものだということを。
*
蝋燭の火が揺らぐ中で、人形のように冷たいと思っていたファイの身体は少しずつその熱を高めていた。
彼が快楽に啼き、咽ぶ度に黒鋼の心は少しずつその穴を塞いでゆく。
不安が、苛立ちが、畏れが、ファイが反応を示し黒鋼を求める度に薄れてゆくような気がした。
白い歯が肩に食いつき、もたらされる痛みと快感が全身を駆け抜ければ、『今』この瞬間こそが真実なのだと、自分自身に言い聞かせることができる。
大丈夫。何も案ずることはない。
ファイはこの腕の中に確かにいて、呼吸をし、熱を上げ、黒鋼の名を呼んでいる。
その総てが愛しくて、欲しくて堪らない。
「愛してる」
聞こえるか聞こえないかの低い呟きを落とせば、ファイは閉じていた瞼を開けた。
白い手がゆっくりと伸びてきて、黒鋼の両頬を包み込む。
儚げな笑みが今にも泣きだしそうに見えて、なぜそんな風に笑うのかと思うほどに、胸が締め付けられる。
よく知っているはずのファイの香りを、なぜか酷く懐かしく感じて、黒鋼は一筋の涙を零した。
*
「ねぇ、梟夜湖の伝承って知ってる?」
幾度か情を交わした後、黒鋼の腕に抱かれたファイは天井を見つめながらそんなことを言い出した。
同じようにぼんやりと天井を眺めていた黒鋼は、ファイの方に顔を向けると僅かに眉を動かす。
「知らねぇな」
宝石の示す言葉に飽き足らず、そんなものまで調べていたのか。
興味の惹かれたものにばかりやたら熱心になる彼の性質を、呆れつつも微笑ましく感じる。
「あのね」
ファイは情交の余韻から抜け出せないままのうっとりとした様子で、その伝承とやらを語りはじめた。
水の中に住んでいた一匹の白蛇が、一人の男に恋をした。
男は釣りが大好きで、ほぼ毎日のように湖にやってきては魚を釣っていた。
そして最後には自分一人が食べきれるだけの魚を籠に入れ、多く獲った分は逃がしてやるのだ。
蛇はその様を見ながら、いつも思っていた。
この身が魚の姿をしていたなら、もっと男の近くに行けるのにと。
例え食われたとしても、愛する者の身体の一部になれるなら、それでも構わなかった。
あるとき、蛇は男への強い恋心から人間の女へと姿を変える。
けれど四肢のある身体は蛇であったときとは勝手が違い、女はまともに身動きすることも出来ずにただ蹲るばかりだった。
そこへ男がやってきて、女の美しさに惹かれ村へと連れ帰れった。
2人は互いに愛し合い、それからおよそ1年の月日が経った。
女は男の子供を身籠ることになる。
だが、女の身体には妊娠と共に変化が現れはじめた。
皮膚の一部にはてらてらと光る白い鱗が現れ始め、慎ましやかな食事だけでは満足できなくなった。
女は男が魚を釣りに行っている間、または夜中に眠っている間に、ネズミや産まれたばかりの仔猫などを捕まえては食べるようになった。
それから十月十日の月日が流れ、女は元気な女子を出産した。
しかし、徐々に人から蛇へと戻りつつあった女は、男に正体が知れることを恐れ、ある日産まれたばかりの赤子だけを残して湖へと姿を消した。
男は女を昼夜問わず探したが、結局二度と見つけることは出来なかった。
それから十数年。
赤子は姿を消してしまった女と瓜二つの美しい娘に成長した。
男は女と出会った場所を我が子に見せてやりたいという思いから、娘を連れて湖のほとりへと足を運んだ。
変わらず水の中で男を想い続けていた蛇は、美しい娘と男の仲睦まじい姿に嫉妬した。
その身を男の足へと絡ませて、男の身体を湖の底へ引きずりこんでしまった。
男がそこから戻ることはなく、娘は生涯幸せに暮らした。
ファイの話を聞き終えたとき、黒鋼は眉間に皺を寄せて僅かに唸った。
その蛇は、男の傍らにいた娘が自分が産んだ我が子だということには気がつかなかったのだろうか。人であった頃の自分と、瓜二つの娘のことに。
「関係なかったんじゃないかな……」
黒鋼が疑問を口に出す前に、まるで最初から知っていたかのようにファイがぼんやりと呟いた。
「自分と同じ姿をしているならば、尚更どうして私じゃないのって……思ったのかもしれない」
「……」
「それにね」
ファイは黒鋼の腕の中から起き上がると、ベッドの背凭れに寄りかかる。
「もしかしたら、最初から蛇は本心ではずっとそうしたかったんじゃないかな。その男の人を、ずっと待っていたのかもしれない」
「殺すことになってもか」
蝋燭の炎が一瞬、揺らいだ。まるで黒鋼の胸の内を写すかのように。
黒鋼の方に顔を向けたファイは、ただ微笑むばかりだった。
瞬きの度に頬に落とされる睫毛の影が、まるで蝶の羽ばたきのようにひらひらと踊って見えた。
やがてゆっくりと白い指先が伸びてきて、額にかかる黒髪を撫でる。冷たくて、黒鋼は微かに身を強張らせた。
この笑顔を、見慣れたものだとばかり思っていたけれど、それは違うのかもしれない。
同じだけれど、同じではないような気がする。
笑っているのに、笑っていない。屈託なく無邪気に笑うファイは、どこへ消えてしまったのだろう。埋まったとばかり思い込んでいた心の隙間が、不安が、息を吹き返す。
この目に映る全てのものが作り物のように感じられた。
「このお話はハッピーエンドだよ。残された娘だって、ちゃんと幸せに暮らしてる」
果たしてそうなのだろうか。
現に男は死んでいる。
この話の中で一番不気味なのは、人に化け、最後には嫉妬に駆られて男を引きずり込んだ蛇ではない。
娘の方だ。
まるで彼女が幸せに暮らすことが出来たのは、目の前で父を亡くしたからこそだとでも言っているかのようで。
嫌な後味が付き纏い、それはいつしか黒鋼自身が抱いている漠然とした不安や恐れと重なった。
「ねぇ黒たん、明日、湖に行ってみようか?」
黒鋼は思わずギクリとして、その瞬間、あのひび割れるような頭痛が再び襲いくる。
「っ……!!」
「黒たん?」
身体を丸めるようにして両手で頭を押さえる。
ズキリ、ズキリ、ズキリ。
一定の間隔で襲いくる痛みと一緒に、脳内に切り取られたような場面が幾度も浮かんでは消える。
それは、水の中で溺れる自らのビジョンだ。
水泡が天へと昇り、光に向かって伸ばされる手。堕ちてゆく感覚。
耳の中で、ゴボリゴボリというノイズの混じった重苦しい音がしている。ああ、これは水の音なのか。
冷たい両腕に抱き寄せられて、黒鋼は白い胸に頬を寄せた。優しく慈しむような手が幾度も頭を撫でる。
直に聞く心音が水音と重なり、やがて意識が波のようにさらわれてゆく。
「大丈夫」
ファイの声が遠い。
温かな水に包まれてゆくような感覚。
どこか懐かしい感覚。
「連れて行ってあげるから」
目蓋が落ちれば広がる闇。
どこまでも続く穏やかな闇。
「ずっと待ってるから」
意識が、途切れた。
←戻る ・ 次へ→
あなたという光を知らないままでいられたら。
私は真の願いなど知りもせず、世界はあなたを失わずにすんだのでしょうか。
あのとき、私の心は毀れてしまった。
闇に蝕まれ、その形を醜く歪められてゆくあなたの姿の、なんと美しいことでしょう。
私はあなたの肉ごと、この牙で噛み締めるのです。
幸福というものが、これほどまでに甘美でおぞましいものだということを。
*
蝋燭の火が揺らぐ中で、人形のように冷たいと思っていたファイの身体は少しずつその熱を高めていた。
彼が快楽に啼き、咽ぶ度に黒鋼の心は少しずつその穴を塞いでゆく。
不安が、苛立ちが、畏れが、ファイが反応を示し黒鋼を求める度に薄れてゆくような気がした。
白い歯が肩に食いつき、もたらされる痛みと快感が全身を駆け抜ければ、『今』この瞬間こそが真実なのだと、自分自身に言い聞かせることができる。
大丈夫。何も案ずることはない。
ファイはこの腕の中に確かにいて、呼吸をし、熱を上げ、黒鋼の名を呼んでいる。
その総てが愛しくて、欲しくて堪らない。
「愛してる」
聞こえるか聞こえないかの低い呟きを落とせば、ファイは閉じていた瞼を開けた。
白い手がゆっくりと伸びてきて、黒鋼の両頬を包み込む。
儚げな笑みが今にも泣きだしそうに見えて、なぜそんな風に笑うのかと思うほどに、胸が締め付けられる。
よく知っているはずのファイの香りを、なぜか酷く懐かしく感じて、黒鋼は一筋の涙を零した。
*
「ねぇ、梟夜湖の伝承って知ってる?」
幾度か情を交わした後、黒鋼の腕に抱かれたファイは天井を見つめながらそんなことを言い出した。
同じようにぼんやりと天井を眺めていた黒鋼は、ファイの方に顔を向けると僅かに眉を動かす。
「知らねぇな」
宝石の示す言葉に飽き足らず、そんなものまで調べていたのか。
興味の惹かれたものにばかりやたら熱心になる彼の性質を、呆れつつも微笑ましく感じる。
「あのね」
ファイは情交の余韻から抜け出せないままのうっとりとした様子で、その伝承とやらを語りはじめた。
水の中に住んでいた一匹の白蛇が、一人の男に恋をした。
男は釣りが大好きで、ほぼ毎日のように湖にやってきては魚を釣っていた。
そして最後には自分一人が食べきれるだけの魚を籠に入れ、多く獲った分は逃がしてやるのだ。
蛇はその様を見ながら、いつも思っていた。
この身が魚の姿をしていたなら、もっと男の近くに行けるのにと。
例え食われたとしても、愛する者の身体の一部になれるなら、それでも構わなかった。
あるとき、蛇は男への強い恋心から人間の女へと姿を変える。
けれど四肢のある身体は蛇であったときとは勝手が違い、女はまともに身動きすることも出来ずにただ蹲るばかりだった。
そこへ男がやってきて、女の美しさに惹かれ村へと連れ帰れった。
2人は互いに愛し合い、それからおよそ1年の月日が経った。
女は男の子供を身籠ることになる。
だが、女の身体には妊娠と共に変化が現れはじめた。
皮膚の一部にはてらてらと光る白い鱗が現れ始め、慎ましやかな食事だけでは満足できなくなった。
女は男が魚を釣りに行っている間、または夜中に眠っている間に、ネズミや産まれたばかりの仔猫などを捕まえては食べるようになった。
それから十月十日の月日が流れ、女は元気な女子を出産した。
しかし、徐々に人から蛇へと戻りつつあった女は、男に正体が知れることを恐れ、ある日産まれたばかりの赤子だけを残して湖へと姿を消した。
男は女を昼夜問わず探したが、結局二度と見つけることは出来なかった。
それから十数年。
赤子は姿を消してしまった女と瓜二つの美しい娘に成長した。
男は女と出会った場所を我が子に見せてやりたいという思いから、娘を連れて湖のほとりへと足を運んだ。
変わらず水の中で男を想い続けていた蛇は、美しい娘と男の仲睦まじい姿に嫉妬した。
その身を男の足へと絡ませて、男の身体を湖の底へ引きずりこんでしまった。
男がそこから戻ることはなく、娘は生涯幸せに暮らした。
ファイの話を聞き終えたとき、黒鋼は眉間に皺を寄せて僅かに唸った。
その蛇は、男の傍らにいた娘が自分が産んだ我が子だということには気がつかなかったのだろうか。人であった頃の自分と、瓜二つの娘のことに。
「関係なかったんじゃないかな……」
黒鋼が疑問を口に出す前に、まるで最初から知っていたかのようにファイがぼんやりと呟いた。
「自分と同じ姿をしているならば、尚更どうして私じゃないのって……思ったのかもしれない」
「……」
「それにね」
ファイは黒鋼の腕の中から起き上がると、ベッドの背凭れに寄りかかる。
「もしかしたら、最初から蛇は本心ではずっとそうしたかったんじゃないかな。その男の人を、ずっと待っていたのかもしれない」
「殺すことになってもか」
蝋燭の炎が一瞬、揺らいだ。まるで黒鋼の胸の内を写すかのように。
黒鋼の方に顔を向けたファイは、ただ微笑むばかりだった。
瞬きの度に頬に落とされる睫毛の影が、まるで蝶の羽ばたきのようにひらひらと踊って見えた。
やがてゆっくりと白い指先が伸びてきて、額にかかる黒髪を撫でる。冷たくて、黒鋼は微かに身を強張らせた。
この笑顔を、見慣れたものだとばかり思っていたけれど、それは違うのかもしれない。
同じだけれど、同じではないような気がする。
笑っているのに、笑っていない。屈託なく無邪気に笑うファイは、どこへ消えてしまったのだろう。埋まったとばかり思い込んでいた心の隙間が、不安が、息を吹き返す。
この目に映る全てのものが作り物のように感じられた。
「このお話はハッピーエンドだよ。残された娘だって、ちゃんと幸せに暮らしてる」
果たしてそうなのだろうか。
現に男は死んでいる。
この話の中で一番不気味なのは、人に化け、最後には嫉妬に駆られて男を引きずり込んだ蛇ではない。
娘の方だ。
まるで彼女が幸せに暮らすことが出来たのは、目の前で父を亡くしたからこそだとでも言っているかのようで。
嫌な後味が付き纏い、それはいつしか黒鋼自身が抱いている漠然とした不安や恐れと重なった。
「ねぇ黒たん、明日、湖に行ってみようか?」
黒鋼は思わずギクリとして、その瞬間、あのひび割れるような頭痛が再び襲いくる。
「っ……!!」
「黒たん?」
身体を丸めるようにして両手で頭を押さえる。
ズキリ、ズキリ、ズキリ。
一定の間隔で襲いくる痛みと一緒に、脳内に切り取られたような場面が幾度も浮かんでは消える。
それは、水の中で溺れる自らのビジョンだ。
水泡が天へと昇り、光に向かって伸ばされる手。堕ちてゆく感覚。
耳の中で、ゴボリゴボリというノイズの混じった重苦しい音がしている。ああ、これは水の音なのか。
冷たい両腕に抱き寄せられて、黒鋼は白い胸に頬を寄せた。優しく慈しむような手が幾度も頭を撫でる。
直に聞く心音が水音と重なり、やがて意識が波のようにさらわれてゆく。
「大丈夫」
ファイの声が遠い。
温かな水に包まれてゆくような感覚。
どこか懐かしい感覚。
「連れて行ってあげるから」
目蓋が落ちれば広がる闇。
どこまでも続く穏やかな闇。
「ずっと待ってるから」
意識が、途切れた。
←戻る ・ 次へ→
あなたにならば、この皮膚を食いちぎられても構わなかったのです。
私はあなたの血となり肉となり、あなた自身に溶け込みたかった。
例えば私に美しく青々とした鱗があったとしても。
無防備にぶら下げられたご馳走に食いつくだけの、愚かさと傲慢さがあったとしても。
私の願いは、それでも叶わなかったのでしょうか。
*
グリーンアベンチュリンという宝石には、優しさ、素直さ、心の安定といった意味があるという。
宝石や花などにそれぞれ意味があるなんてこと自体、どこか不思議で理解しがたいなどと思っていた黒鋼にしてみれば、その意味について自慢気に語るファイもまた不思議なものに感じられた。
「よく知ってるな」
素直にそう言うと、ファイは「えへへー」と嬉しそうにはにかんで頬を染めた。
「キレイな名前だなって思って調べたんだー。ね? だからこれ見て!」
ファイが黒鋼の目の前に突き出してきたのは旅行雑誌だった。
そこに写っている小奇麗な概観のホテルの名が、『グリーンアベンチュリンホテル』だったのだ。
「湖のほとりにあるなんて凄い素敵だよねー? しかもさ、ここってホテルとは別にコテージもあるんだよー! オレ、一発で気に入っちゃったー!」
ひょいと片方の眉を動かした黒鋼に、ファイがべったりと縋りついてくる。
「ねーねー、どっか旅行に行きたいってずっと言ってたでしょー? ここにしよーよー」
どこか必死に強請る彼は、まるでスーパーやデパートなどで駄々をこねる幼子のようだった。
黒鋼はわざと味気ない返事を返す。
「いいんじゃねぇか?」
案の定その返し方が気に入らなかったらしいファイは、ぶうっと唇を膨らませた。
「もー! ちゃんとお話してよー! なんでそんな投げやりなわけー?」
「んなこたねぇよ」
ファイが行きたいと言うのならば、それに異存はなかった。
決して素直に口や態度に出すことは出来なくとも、黒鋼は彼が可愛くて仕方がなかったのだから。
*
翌日は透き通るような青の広がる晴天だった。
暖かく降り注ぐ太陽の光が、5月の新緑を燦々と照らしている。
木々の隙間から降り注ぐその光を浴びて、黒鋼は澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。
前の晩は大事を取って早めに眠りについたのが良かったのか、貧血で倒れたなど嘘のように調子がいい。
黒鋼とファイは朝食後、少しのんびり寛いでから、連れ立ってホテル周辺をブラリと散策することにした。
大型連休が終わった直後だからか、擦れ違う人間もなくむしろ閑散としているようにも感じられたが、むしろこちらの方が気楽に観光できて都合がいい。
ぽつぽつと何気ない会話を交わしながら、ゆったりとホテルの広大な敷地内を散歩していると、やがて純白の壁と色鮮やかなステンドグラスに彩られたチャペルに行き着いた。
緑の木々に囲まれるようにして佇むその美しい外観に、女心など知りもしない黒鋼でも、ここに憧れる女性は多くいるのではないかと思った。
『いいなー! オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
ファイのはしゃぐ声が聞こえて、黒鋼は思わず苦笑した。
「馬鹿。結婚式なんか出来るわけねぇだろ」
「え?」
ごく自然に返したはずのその言葉は、一歩後を歩いていたファイの驚いた声に掻き消される。
思わずはっとして振り返り、目を見開いた。
「今なにか言った?」
彼は不思議そうに目を瞬かせながら黒鋼を見つめている。
確かに聞こえたと思ったファイの浮かれた声が、空耳だったとでも言うのだろうか。
「やだな。黒様ったら独り言?」
ふふ、と笑い出すファイに、返す言葉がない。ただ不思議な感覚に囚われていた。
この場所で2人の結婚式を挙げられればいいのにと目を輝かせるファイに、そんなこと出来るわけないと返せば、ここで彼は思い切り不満そうに頬を膨らませて抗議してくるはずだった。
『酷いよ黒わんこー! ちょっと言ってみただけなのにーっ』
不満の声や、薄い唇を尖らせる様までもが鮮明に思い浮かべることが出来る。
しかしそこでまた違和感とぶつかる。
『それ』は、一体『いつ』のことだったろうかと。
黒鋼は純白のチャペルを呆然とした面持ちで眺めた。
なぜかは分からないけれど、初めて来たと思っていたこの場所に、懐かしさを覚えはじめていた。
「それにしてもキレイな教会だね。女の子は憧れるだろうな」
チャペルのステンドグラスを眺めるファイがしみじみと呟いて、黒鋼はそのあまりにも奇妙な即視感を振り払った。
ここへ来るのは真実初めてのことである。ファイが旅行雑誌を見てこの場所を指定しなければ、きっと生涯来る機会も、ましてや知る機会にすら恵まれなかったかもしれない場所だ。
チャペルを見上げる穏やかな横顔を眺めて、黒鋼は自然と口元を綻ばせた。
「好きか?」
見上げてくるファイが「うん」と頷いてニコリと笑った。
黒鋼は再び視線を戻し、青く澄んだ空にくっきりと浮かび上がる十字架を眺めた。鈍色をした鳩が数羽、視界を長閑に横切ってゆく。澄んだ青空へ目を細め、黒鋼は懐かしさにふと思う。
『オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
あのとき、なぜ否定したのだろう。
今になって後悔するくらいなら、話を合わせてやるくらいすればよかった。
それでもきっと、ファイはまた『気持ちがこもってない』などと言って唇を尖らせたのだろうか。
「……っ」
そこでまた我に返った。
たった今、この記憶は押しやったばかりのはずなのに。
この曖昧なくせにはっきりと鮮やかに脳裏を過ぎる『記憶』とは、一体なんなのだろう。
ありもしない出来事に、なぜ『後悔』などする必要があるのか。
自分自身が酷く不気味なものに感じられて、思わずファイの手を握ると、純白のチャペルに背を向け足早に歩き出す。
唐突に手を引かれたファイはよろめきながら小さな悲鳴を上げた。
「ど、どうしたの?」
「なんでもねぇ」
「でも」
「どこへ行きたい?」
「え?」
「てめぇの行きてぇところに行く」
ここから離れられれば、どこでもいい気がしていた。
*
だが、その後どこへ行こうとも、奇妙な懐かしさは拭えなかった。
美しい景色を眺めながら歩いても、小洒落た喫茶店で軽食を取っても、都会ではお目にかかれない珍しい野鳥を見ても、黒鋼の自身に対する薄気味悪さは一向に消え去らない。
どこへ行こうとも、何を見ようとも、大喜びではしゃぐファイとそれを窘める自分のビジョンが付き纏う。
まるで白昼夢でも見ているかのような感覚。
懐かしさが後を絶たない。
ふとした瞬間、記憶の穴に深く入り込みすぎて戻れなくなりそうだった。
そんなときは、ファイがそっと寄り添い黒鋼に声をかけた。
彼はただずっと静かに微笑むばかりだった。
しかし黒鋼はふと気づく。
そのファイの笑顔や振る舞いにこそ、最大の違和感を覚えていることに。
*
夕方になると、少し風が強くなってきた。
茜色の空の下、ブラブラとコテージへの道を帰りながら、黒鋼は数歩先を歩くファイの背中を眺めた。
付き纏う不可思議な感覚と共に、黒鋼の胸にはなぜかぽっかりと穴が開いている。
それは、喪失感にも似た寂しさだった。
「おい」
「なぁに?」
おもむろに声をかければ、ファイが立ち止まって振り向いた。
その表情は夕陽を背にしているせいでよくは見えない。
けれど、きっと笑っているのだと思う。
なぜか酷く胸が苦しい。
「…………」
なにひとつ言葉など出てはこなかった。
ただひたすら、光を背にして翳りを纏う、ファイのシルエットを見つめた。
その金色の闇はゆっくりと黒鋼に近づき、やがて隣に並ぶ。
見上げてくる彼は思ったとおりの笑みを浮かべていた。
冷えた手が黒鋼の手に触れて、きゅっと緩く握られる。
「こう?」
小さく小首を傾げられても、やはり何も言えない。
そのまま手を引かれるようにして曲がりくねった道を歩いた。
湖の方向から流れてくる風は僅かに冷たい。ファイの手も冷たいままだ。
こんなにも体温の低い男だったろうか。黒鋼の記憶の中のファイは、いつだって幼い子供のような、高めの熱を持て余していたはずだった。
そっと手を繋ぐというよりは、勢いよく腕に飛びついてきた。黒鋼が人目を気にして難色を示すのにもお構いなしに、全身で甘えてきては笑ったり、怒ったり、すぐに泣いたり。いつだってその剥き出しの感情をぶつけてきた。
黒鋼の役目は、それを全て受け止めてやりながらも、咎めることのはずだった。
少しは落ち着け、ガキみてぇなことは言うな、はしゃぐんじゃねぇ。
そうやって窘めることが。
けれど、今ここにいるファイはまるで別人のようだ。
「ここでのおまえは、ずいぶんと大人しいんだな」
ようやく搾り出した声は、なぜか酷く擦れていた。
冷えた水があれば、この乾ききった喉を潤すことが出来るのに。
思えば、今日は肝心の湖へは行かなかった。
なぜか、行く気になれなかった。
風が止む。
ファイは空に向かって小さく声を上げて笑った。
その横顔は見慣れたもののはずなのに。
「それは君が望んだことだよ」
黒鋼は夕陽の橙に向かって瞳を眇める。
遥か遠くに夕陽を弾いてキラキラと光る湖を視界に捉えると、やはりあの嫌な頭痛が押し寄せた。
←戻る ・ 次へ→
私はあなたの血となり肉となり、あなた自身に溶け込みたかった。
例えば私に美しく青々とした鱗があったとしても。
無防備にぶら下げられたご馳走に食いつくだけの、愚かさと傲慢さがあったとしても。
私の願いは、それでも叶わなかったのでしょうか。
*
グリーンアベンチュリンという宝石には、優しさ、素直さ、心の安定といった意味があるという。
宝石や花などにそれぞれ意味があるなんてこと自体、どこか不思議で理解しがたいなどと思っていた黒鋼にしてみれば、その意味について自慢気に語るファイもまた不思議なものに感じられた。
「よく知ってるな」
素直にそう言うと、ファイは「えへへー」と嬉しそうにはにかんで頬を染めた。
「キレイな名前だなって思って調べたんだー。ね? だからこれ見て!」
ファイが黒鋼の目の前に突き出してきたのは旅行雑誌だった。
そこに写っている小奇麗な概観のホテルの名が、『グリーンアベンチュリンホテル』だったのだ。
「湖のほとりにあるなんて凄い素敵だよねー? しかもさ、ここってホテルとは別にコテージもあるんだよー! オレ、一発で気に入っちゃったー!」
ひょいと片方の眉を動かした黒鋼に、ファイがべったりと縋りついてくる。
「ねーねー、どっか旅行に行きたいってずっと言ってたでしょー? ここにしよーよー」
どこか必死に強請る彼は、まるでスーパーやデパートなどで駄々をこねる幼子のようだった。
黒鋼はわざと味気ない返事を返す。
「いいんじゃねぇか?」
案の定その返し方が気に入らなかったらしいファイは、ぶうっと唇を膨らませた。
「もー! ちゃんとお話してよー! なんでそんな投げやりなわけー?」
「んなこたねぇよ」
ファイが行きたいと言うのならば、それに異存はなかった。
決して素直に口や態度に出すことは出来なくとも、黒鋼は彼が可愛くて仕方がなかったのだから。
*
翌日は透き通るような青の広がる晴天だった。
暖かく降り注ぐ太陽の光が、5月の新緑を燦々と照らしている。
木々の隙間から降り注ぐその光を浴びて、黒鋼は澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。
前の晩は大事を取って早めに眠りについたのが良かったのか、貧血で倒れたなど嘘のように調子がいい。
黒鋼とファイは朝食後、少しのんびり寛いでから、連れ立ってホテル周辺をブラリと散策することにした。
大型連休が終わった直後だからか、擦れ違う人間もなくむしろ閑散としているようにも感じられたが、むしろこちらの方が気楽に観光できて都合がいい。
ぽつぽつと何気ない会話を交わしながら、ゆったりとホテルの広大な敷地内を散歩していると、やがて純白の壁と色鮮やかなステンドグラスに彩られたチャペルに行き着いた。
緑の木々に囲まれるようにして佇むその美しい外観に、女心など知りもしない黒鋼でも、ここに憧れる女性は多くいるのではないかと思った。
『いいなー! オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
ファイのはしゃぐ声が聞こえて、黒鋼は思わず苦笑した。
「馬鹿。結婚式なんか出来るわけねぇだろ」
「え?」
ごく自然に返したはずのその言葉は、一歩後を歩いていたファイの驚いた声に掻き消される。
思わずはっとして振り返り、目を見開いた。
「今なにか言った?」
彼は不思議そうに目を瞬かせながら黒鋼を見つめている。
確かに聞こえたと思ったファイの浮かれた声が、空耳だったとでも言うのだろうか。
「やだな。黒様ったら独り言?」
ふふ、と笑い出すファイに、返す言葉がない。ただ不思議な感覚に囚われていた。
この場所で2人の結婚式を挙げられればいいのにと目を輝かせるファイに、そんなこと出来るわけないと返せば、ここで彼は思い切り不満そうに頬を膨らませて抗議してくるはずだった。
『酷いよ黒わんこー! ちょっと言ってみただけなのにーっ』
不満の声や、薄い唇を尖らせる様までもが鮮明に思い浮かべることが出来る。
しかしそこでまた違和感とぶつかる。
『それ』は、一体『いつ』のことだったろうかと。
黒鋼は純白のチャペルを呆然とした面持ちで眺めた。
なぜかは分からないけれど、初めて来たと思っていたこの場所に、懐かしさを覚えはじめていた。
「それにしてもキレイな教会だね。女の子は憧れるだろうな」
チャペルのステンドグラスを眺めるファイがしみじみと呟いて、黒鋼はそのあまりにも奇妙な即視感を振り払った。
ここへ来るのは真実初めてのことである。ファイが旅行雑誌を見てこの場所を指定しなければ、きっと生涯来る機会も、ましてや知る機会にすら恵まれなかったかもしれない場所だ。
チャペルを見上げる穏やかな横顔を眺めて、黒鋼は自然と口元を綻ばせた。
「好きか?」
見上げてくるファイが「うん」と頷いてニコリと笑った。
黒鋼は再び視線を戻し、青く澄んだ空にくっきりと浮かび上がる十字架を眺めた。鈍色をした鳩が数羽、視界を長閑に横切ってゆく。澄んだ青空へ目を細め、黒鋼は懐かしさにふと思う。
『オレもこんなとこで黒様と結婚式したーい!』
あのとき、なぜ否定したのだろう。
今になって後悔するくらいなら、話を合わせてやるくらいすればよかった。
それでもきっと、ファイはまた『気持ちがこもってない』などと言って唇を尖らせたのだろうか。
「……っ」
そこでまた我に返った。
たった今、この記憶は押しやったばかりのはずなのに。
この曖昧なくせにはっきりと鮮やかに脳裏を過ぎる『記憶』とは、一体なんなのだろう。
ありもしない出来事に、なぜ『後悔』などする必要があるのか。
自分自身が酷く不気味なものに感じられて、思わずファイの手を握ると、純白のチャペルに背を向け足早に歩き出す。
唐突に手を引かれたファイはよろめきながら小さな悲鳴を上げた。
「ど、どうしたの?」
「なんでもねぇ」
「でも」
「どこへ行きたい?」
「え?」
「てめぇの行きてぇところに行く」
ここから離れられれば、どこでもいい気がしていた。
*
だが、その後どこへ行こうとも、奇妙な懐かしさは拭えなかった。
美しい景色を眺めながら歩いても、小洒落た喫茶店で軽食を取っても、都会ではお目にかかれない珍しい野鳥を見ても、黒鋼の自身に対する薄気味悪さは一向に消え去らない。
どこへ行こうとも、何を見ようとも、大喜びではしゃぐファイとそれを窘める自分のビジョンが付き纏う。
まるで白昼夢でも見ているかのような感覚。
懐かしさが後を絶たない。
ふとした瞬間、記憶の穴に深く入り込みすぎて戻れなくなりそうだった。
そんなときは、ファイがそっと寄り添い黒鋼に声をかけた。
彼はただずっと静かに微笑むばかりだった。
しかし黒鋼はふと気づく。
そのファイの笑顔や振る舞いにこそ、最大の違和感を覚えていることに。
*
夕方になると、少し風が強くなってきた。
茜色の空の下、ブラブラとコテージへの道を帰りながら、黒鋼は数歩先を歩くファイの背中を眺めた。
付き纏う不可思議な感覚と共に、黒鋼の胸にはなぜかぽっかりと穴が開いている。
それは、喪失感にも似た寂しさだった。
「おい」
「なぁに?」
おもむろに声をかければ、ファイが立ち止まって振り向いた。
その表情は夕陽を背にしているせいでよくは見えない。
けれど、きっと笑っているのだと思う。
なぜか酷く胸が苦しい。
「…………」
なにひとつ言葉など出てはこなかった。
ただひたすら、光を背にして翳りを纏う、ファイのシルエットを見つめた。
その金色の闇はゆっくりと黒鋼に近づき、やがて隣に並ぶ。
見上げてくる彼は思ったとおりの笑みを浮かべていた。
冷えた手が黒鋼の手に触れて、きゅっと緩く握られる。
「こう?」
小さく小首を傾げられても、やはり何も言えない。
そのまま手を引かれるようにして曲がりくねった道を歩いた。
湖の方向から流れてくる風は僅かに冷たい。ファイの手も冷たいままだ。
こんなにも体温の低い男だったろうか。黒鋼の記憶の中のファイは、いつだって幼い子供のような、高めの熱を持て余していたはずだった。
そっと手を繋ぐというよりは、勢いよく腕に飛びついてきた。黒鋼が人目を気にして難色を示すのにもお構いなしに、全身で甘えてきては笑ったり、怒ったり、すぐに泣いたり。いつだってその剥き出しの感情をぶつけてきた。
黒鋼の役目は、それを全て受け止めてやりながらも、咎めることのはずだった。
少しは落ち着け、ガキみてぇなことは言うな、はしゃぐんじゃねぇ。
そうやって窘めることが。
けれど、今ここにいるファイはまるで別人のようだ。
「ここでのおまえは、ずいぶんと大人しいんだな」
ようやく搾り出した声は、なぜか酷く擦れていた。
冷えた水があれば、この乾ききった喉を潤すことが出来るのに。
思えば、今日は肝心の湖へは行かなかった。
なぜか、行く気になれなかった。
風が止む。
ファイは空に向かって小さく声を上げて笑った。
その横顔は見慣れたもののはずなのに。
「それは君が望んだことだよ」
黒鋼は夕陽の橙に向かって瞳を眇める。
遥か遠くに夕陽を弾いてキラキラと光る湖を視界に捉えると、やはりあの嫌な頭痛が押し寄せた。
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暗く深い水の底。
私はあなたを待っています。
どうか恐れないで。
私はもう、あなたの知る私ではないかもしれないけれど。
私はもう、その形を留めてはいないかもしれないけれど。
どうか許してください。
それでも私は、あなたを待っているのです。
それでも私は、あなたを愛しているのです。
この声が決して届かないことを、私は知っているのです。
*
まるでずっと呼吸を遮られていたかのような苦しみから解放されたとき、黒鋼は意識を浮上させた。
強くシーツを握り締め、荒々しい呼吸を繰り返しながら視線だけで辺りを見回す。
見慣れない室内は、どこか懐かしささえ感じられる暖色の光に包まれていた。
ここはどこだろうか。
一体どれだけのあいだ眠っていたのだろう。
そもそも、いつ眠ったのかさえ思い出せない。
ゆっくりと瞬きを繰り返しながら天井を見つめ、鉛のように重苦しい思考を巡らせるも、答えは出なかった。
「起きた?」
そのとき、声と共に汗ばむ額に触れたのは氷のように冷たい指先だった。
ヒクリと頬の肉を引き攣らせながら見やれば、そこには心配そうに顔を覗き込んでくるファイの表情がある。
「俺は……」
眠っていたのか、と問いかけようとして、けれど喉が渇いて張り付いているせいで先を続けることが出来ない。
ファイは安堵したような表情で目を細め、優しく微笑む。
「ビックリしちゃった。いきなり真っ青になって倒れちゃうんだもの」
「倒れた……?」
黒鋼は額を押さえて眉間に皺を寄せた。
そして暫し考え込んだあと、ようやく今ここにこうして至る経緯を思い出す。
ここは緑の山々と梟夜湖(きょうやこ)の美しい景色の中に佇むホテルのコテージだ。
ずっと以前から2人で来ようと計画を練っていて、この度それがようやく叶った。
そして長いあいだ運転してきた車から降り、緑と湖という絶景の景色を眺めた途端に、眩暈を覚えた。それきり、記憶がない。
ファイはタオルで黒鋼の頬や額を拭いながら、申し訳無さそうに眉を寄せる。
「ごめんね。途中でオレも運転かわればよかったのに……黒様、疲れて貧血起こしちゃったんだよ」
「……いや」
そこまでヤワなつもりはなかった黒鋼の方が、むしろ情けなさと申し訳なさを感じている。
大きく息を吐き出しながら身を起こそうとすれば、ファイがすかさずそれを補助した。
外は少しばかり風が強いようで、揺れる木々が窓ガラスをコンコンと叩く。
ふとそちらへ目をやると、そこには闇が広がっていた。
きっと明るいうちであれば、ここから美しい湖を眺めることが出来ただろう。
だがそこで残念さを感じる間もなく、キリリと頭に痛みを感じた。
「っ……」
「黒たん?」
ぐっと頭を抑えて息を呑んだ黒鋼にファイが寄り添い、顔を覗き込まれる。
「まだ具合悪い?」
「……夢を」
「夢?」
一瞬、深い闇が脳裏を掠める。
それは目覚めるまでに見ていた夢の光景だったようだが、深く思い出そうとすればするほど、痛みが増すようだった。
耳の奥でゴボゴボという不思議な音が、ノイズ交じりに聞こえた気がした。
「ねぇ、お医者さん呼んでもらう?」
「いい……」
さすがにこれ以上心配させるのは忍びない。
痛みを振り払うように軽く首を振ると、ゆっくりとそれは治まっていった。
ふっと安堵の息を零し、ファイを見やると大丈夫だという意味で頷いた。
「悪かったな」
「え?」
ファイは一瞬きょとんと目を丸くした。
「……退屈させた」
陽がすっかり落ちているのを見ると、随分と長い時間が経過しているらしい。
いつだって賑やかで騒がしいファイは、静かに待つということが出来ない、困った男なのだ。
黒鋼が構ってやらなければすぐに臍を曲げるし、まるで動くものに忙しなくジャレつく仔猫のようだ。
ああそうか、と短く答えてファイは楽しそうに笑った。
「平気だったよ。ほら、ずっと本を読んでたんだ」
「本?」
傍らにもう一つ設置してあるベッドの上、そこには随分と分厚い黒いカバーの書物が投げ出されていた。
「聖書だよ。引き出しに入ってたから」
「聖書……?」
「そうだね、退屈だったかって聞かれたら、それは本の内容の方だったかもしれないな」
おどけて笑うファイだったが、黒鋼は僅かに首を傾げる。
意外だった。それしかなかったとはいえ、ファイが自らこんなものに手を出すなんて。
黒鋼が知る限り、彼が普段読むものといえば雑誌や、くだらない漫画本くらいなものだった。
「さて、大丈夫そうならシャワーでも浴びておいで。凄い汗だよ」
「ああ……」
「そしたら、何か軽くご飯でも運んできてもらおうね。何も食べてなくて、お腹空いたでしょ?」
「そうだな」
実際はほとんど空腹は感じていない。けれどこれ以上余計な心配をさせるのを避けるために頷いた。ファイの笑顔に、黒鋼は僅かに感じた違和感を遠くへ押しやる。
それにどこか妙だと言えば、タフさが自慢だったはずの自分の不調の方だ。
今日は出だしから随分と時間を無駄にしてしまったが、旅は二泊三日。残りの時間を有意義に過ごすことの方が、今は何よりも重大だった。
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私はあなたを待っています。
どうか恐れないで。
私はもう、あなたの知る私ではないかもしれないけれど。
私はもう、その形を留めてはいないかもしれないけれど。
どうか許してください。
それでも私は、あなたを待っているのです。
それでも私は、あなたを愛しているのです。
この声が決して届かないことを、私は知っているのです。
*
まるでずっと呼吸を遮られていたかのような苦しみから解放されたとき、黒鋼は意識を浮上させた。
強くシーツを握り締め、荒々しい呼吸を繰り返しながら視線だけで辺りを見回す。
見慣れない室内は、どこか懐かしささえ感じられる暖色の光に包まれていた。
ここはどこだろうか。
一体どれだけのあいだ眠っていたのだろう。
そもそも、いつ眠ったのかさえ思い出せない。
ゆっくりと瞬きを繰り返しながら天井を見つめ、鉛のように重苦しい思考を巡らせるも、答えは出なかった。
「起きた?」
そのとき、声と共に汗ばむ額に触れたのは氷のように冷たい指先だった。
ヒクリと頬の肉を引き攣らせながら見やれば、そこには心配そうに顔を覗き込んでくるファイの表情がある。
「俺は……」
眠っていたのか、と問いかけようとして、けれど喉が渇いて張り付いているせいで先を続けることが出来ない。
ファイは安堵したような表情で目を細め、優しく微笑む。
「ビックリしちゃった。いきなり真っ青になって倒れちゃうんだもの」
「倒れた……?」
黒鋼は額を押さえて眉間に皺を寄せた。
そして暫し考え込んだあと、ようやく今ここにこうして至る経緯を思い出す。
ここは緑の山々と梟夜湖(きょうやこ)の美しい景色の中に佇むホテルのコテージだ。
ずっと以前から2人で来ようと計画を練っていて、この度それがようやく叶った。
そして長いあいだ運転してきた車から降り、緑と湖という絶景の景色を眺めた途端に、眩暈を覚えた。それきり、記憶がない。
ファイはタオルで黒鋼の頬や額を拭いながら、申し訳無さそうに眉を寄せる。
「ごめんね。途中でオレも運転かわればよかったのに……黒様、疲れて貧血起こしちゃったんだよ」
「……いや」
そこまでヤワなつもりはなかった黒鋼の方が、むしろ情けなさと申し訳なさを感じている。
大きく息を吐き出しながら身を起こそうとすれば、ファイがすかさずそれを補助した。
外は少しばかり風が強いようで、揺れる木々が窓ガラスをコンコンと叩く。
ふとそちらへ目をやると、そこには闇が広がっていた。
きっと明るいうちであれば、ここから美しい湖を眺めることが出来ただろう。
だがそこで残念さを感じる間もなく、キリリと頭に痛みを感じた。
「っ……」
「黒たん?」
ぐっと頭を抑えて息を呑んだ黒鋼にファイが寄り添い、顔を覗き込まれる。
「まだ具合悪い?」
「……夢を」
「夢?」
一瞬、深い闇が脳裏を掠める。
それは目覚めるまでに見ていた夢の光景だったようだが、深く思い出そうとすればするほど、痛みが増すようだった。
耳の奥でゴボゴボという不思議な音が、ノイズ交じりに聞こえた気がした。
「ねぇ、お医者さん呼んでもらう?」
「いい……」
さすがにこれ以上心配させるのは忍びない。
痛みを振り払うように軽く首を振ると、ゆっくりとそれは治まっていった。
ふっと安堵の息を零し、ファイを見やると大丈夫だという意味で頷いた。
「悪かったな」
「え?」
ファイは一瞬きょとんと目を丸くした。
「……退屈させた」
陽がすっかり落ちているのを見ると、随分と長い時間が経過しているらしい。
いつだって賑やかで騒がしいファイは、静かに待つということが出来ない、困った男なのだ。
黒鋼が構ってやらなければすぐに臍を曲げるし、まるで動くものに忙しなくジャレつく仔猫のようだ。
ああそうか、と短く答えてファイは楽しそうに笑った。
「平気だったよ。ほら、ずっと本を読んでたんだ」
「本?」
傍らにもう一つ設置してあるベッドの上、そこには随分と分厚い黒いカバーの書物が投げ出されていた。
「聖書だよ。引き出しに入ってたから」
「聖書……?」
「そうだね、退屈だったかって聞かれたら、それは本の内容の方だったかもしれないな」
おどけて笑うファイだったが、黒鋼は僅かに首を傾げる。
意外だった。それしかなかったとはいえ、ファイが自らこんなものに手を出すなんて。
黒鋼が知る限り、彼が普段読むものといえば雑誌や、くだらない漫画本くらいなものだった。
「さて、大丈夫そうならシャワーでも浴びておいで。凄い汗だよ」
「ああ……」
「そしたら、何か軽くご飯でも運んできてもらおうね。何も食べてなくて、お腹空いたでしょ?」
「そうだな」
実際はほとんど空腹は感じていない。けれどこれ以上余計な心配をさせるのを避けるために頷いた。ファイの笑顔に、黒鋼は僅かに感じた違和感を遠くへ押しやる。
それにどこか妙だと言えば、タフさが自慢だったはずの自分の不調の方だ。
今日は出だしから随分と時間を無駄にしてしまったが、旅は二泊三日。残りの時間を有意義に過ごすことの方が、今は何よりも重大だった。
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番外編 『寒椿』
※龍ユゥイ
「今日は、小狼君とサクラちゃんは一緒じゃないのかな?」
さっきまでいた二人組みがいなくなってから、他の何組かの客もいなくなった。
会計を済ませた店員が、カウンター越しに空のカップをぼんやりと見つめていた小龍に声をかける。
ふと顔を上げて、穏やかに微笑んでいるその人を見た。
この人の名前はユゥイ。それは知ってる。
そしてさっきまでいた小うるさい人はファイという名前。
一緒にいたのは、黒たん、とその人に呼ばれていた。
小龍は無表情を崩さないままに、ユゥイに小さく頷いて見せた。
「小狼とさくらがいい感じになってたから。おれがいたら邪魔だし」
そう言うと、ユゥイは小さな声を上げて笑った。
むっと睨みつけると、すかさず「ごめんね」と言われる。
「だって、小龍君が凄く大人に見えちゃったから」
だからってどうして笑われるのだろう。
なんだか馬鹿にされている気がして面白くなかった。
「おれはもともと大人だ」
「うん。そうだね」
「でも、さっきの人は子供っぽかった」
ユゥイは、先刻よりも声を上げて笑った。
この人はいつも笑っているけれど、こんな風に声を上げて笑うところはあまり見ないから珍しい。
「ファイだね。うん、いっつもああなんだ。可愛いでしょ?」
小龍は思わず顔を顰める。可愛いっていうのはさくらのような可愛い女の子や、小狼のように小さな男の子に対して言うものだ。
あのファイという人はとても子供っぽかったけれど、一応は大人の姿をしていたはずだった。
「似てないな。あなたとあの人」
「そう? よく言われるけどね」
「うん」
小龍は、どちらかといえば静かなユゥイの方がいいと思った。
どうしてそう思ったのかは分からない。ただなんとなく、黒たんと呼ばれていたあの大きくて黒い男の人が気の毒に思えた。
一緒にいたら、とても疲れてしまいそうだ。
それでもあの黒い人も、ユゥイと同じようにファイを可愛いと思っていたりするのだろうか。
小龍にはどうでもいいことだったけれど、少し気になる。
「帰る」
チラリと時計を見てから、小龍は椅子から降りた。
その拍子にポケットに入れていた椿の枝がポトリと落ちる。このまま置いていきたかったけれどここはお店の中だから、帰り道で適当に捨てようと思った。
仕方なく拾い上げると、ユゥイが小首を傾げて覗き込んできた。
「綺麗だね。どうしたの?」
「折った」
団地の公園の脇に咲いていた花だった。
さくらに似合うかもしれないと思って、クリスマスプレゼントに渡そうと考えていた。
けれど小龍はさくらと同じくらい小狼も可愛かったから、だから渡せなかった。
ユゥイが何か言いたげな雰囲気を醸し出していたけれど、すぐに背を向けて足早に店を出る。
待って、という声が聞こえた気がしたけれど、なんとなく無視した。
***
店を出るともうだいぶ暗くなっていた。
寒さもぐんと増していて、小龍は肩をぎゅっと寄せて俯きながら団地のある方向へ歩き出す。
あまり遅くなると小狼や家の人間を心配させる。けれど、小龍はただひたすら小狼とさくらはどうなっただろうと、そればかり考えた。
二人ともまだ子供で鈍い性格だから、見ているといつも焦れったくて仕方がない。
今日はせっかくのイヴだし、クリスマスは恋人達のためのイベントだと、前にテレビか何かで聞いたことがある。
だから気を利かせてやったのだ。
別に寂しいなんて思わない。これっぽっちも、絶対にそんなこと。
そしてふと、さっきの二人はどうなんだろうと思った。
黒たんは少し怖い顔をした人ではあったけど、ファイと接するときは少しだけ柔らかい空気を発していた気がする。
多分、黒たんにとってファイは特別な人なのだと思う。そして、ファイにとっても。
別に偏見はないからどうでもいい。けれど小龍が気になったのはユゥイの方だった。
ユゥイにも好きな人がいるのだろうか。
ファイと黒たんが仲良くしているのを見て、寂しいとは感じないのだろうか。
「待って、小龍君」
そのとき、背後の方でよく知る声がした。さっきまで一緒にいた人だ。
今まさにその人のことを考えていたせいで、小龍は思わずドキリとして肩を跳ねさせた。
驚いてしまったことを悟られぬように無表情を装って振り向くと、ユゥイが真っ白の息を吐き出しながら追いついた。
「足速いね、君」
小首を傾げて笑うユゥイは、店から慌てて飛び出してきたのか、いつもの制服姿に上から何も羽織っていなかった。
思わず、むっと眉間に皺を寄せる。
「寒くないの?」
「寒いよ? もうすぐ雪が降るね」
にっこりと笑ったユゥイは、はい、と小さく握った拳を差し出した。
「なに?」
「おつりだよ。お客さん」
「そんなことのために?」
手を出すと、ほんの数十円が手の平に落ちてきた。
別にこれっぽっち、わざわざ追いかけてきてまで寄越すことないのに。
そう思いはしたが、受け取ってしまったものは仕方がない。
椿の刺さったポケットに適当に捻じ込むと、ユゥイがしゃがんで目線を合わせてきた。
「それ、誰かにプレゼントするのかな?」
「そのつもりだったけど……」
これはもう必要のないものだ。道すがら捨てるつもりなのだから、ゴミと言ってもいい。
そうとは知らず、ユゥイはなぜか少し困ったような顔をした。
「あのね、椿はあまり縁起のいい花じゃないんだって。迷信だけどね」
「どうして?」
「花がね、首を切ったみたいに落ちるからって、言われてるらしいよ。可哀想にね」
こんなに綺麗な花なのにさ。
そう言って、ユゥイは萎れた椿に目を細めた。
小龍はポケットから細い枝を取り出して、それをじっと見つめる。
迷信。けれど、日本人がそういったものを鵜呑みに出来ない性質だということを知っていた。
さくらは知らないだろうけど、やっぱり渡さなくてよかったと思う。
「はい、どうぞ」
そんな小龍の目の前に、小さな柊の葉が差し出された。
「可愛いでしょ? お店にあったから、引っこ抜いて来ちゃったんだ」
「これ……」
緑色の葉と、可憐な赤い実。この時期にぴったりの植物だった。
「造花なんだけどね。だからほら、柔らかくてチクチクしないよ」
ユゥイの白い指先が、柊の尖った葉を幾度か撫でる。
小龍は、なぜ彼がこんなものを寄越すのか意味が分からず、ただそれを眺めていた。
「髪に飾ってあげたらきっと可愛いから。サクラちゃん」
「!」
「あれ? 違うの?」
首を傾げるユゥイに、小龍はなぜか焦ったような気持ちになって頬を赤らめた。見透かされたことも、なんとなく悔しいような気もする。
「ち、違う。別にそんなんじゃ」
「そうなんだ」
目の前の人は、特に疑うでもなくただ微笑んだ。
夜の光を弾く金色の綺麗な髪が、冷たい風に乗って揺れていた。
「でも、これボクからのプレゼント。もしいらなかったら、誰か大切な人にあげるといいよ」
小龍はなんとなく咄嗟に手袋を片方外すと、作り物の柊を受け取った。無機質なはずのそれが、なぜかとても温かいような感覚を指先にもたらした。
どうしてか、胸の辺りがくすぐったい。
何かお返しがしたいけれど、小龍はこの不吉な謂れの花しか持ち合わせていない。
戸惑っていると、ユゥイの指先がそっと伸びてきて、椿の枝をさらってゆく。
驚いて顔をあげた小龍に、やっぱり彼は優しげに微笑んでいた。
「代わりに、この花はボクが貰ってもいいかな?」
「……でも」
迷信なんて信じちゃいない。でも、一度知ってしまったらそれを彼にくれてやることには戸惑いがあった。しかも、一度はゴミだと認識までした代物だ。
もし彼に何か不幸なことがあったら。そう思うと柄にもなく少し、怖い。
「平気だよ」
けれどユゥイは、そんな小龍などお見通しとでも言うかのように、一つコクリと頷いた。
「大丈夫。だってボクは魔法が使えるから」
「……魔法?」
「そう。だから魔除けの呪文も知ってるよ」
変なの。小龍はそう思った。
魔法だなんて、御伽噺や漫画の世界でもあるまいし、大人のくせに何を馬鹿なことを言っているんだろう。
けれどその反面、彼なら出来るのかもしれないと、なぜか思った。
どこか不思議な雰囲気のある人だから、不思議な力だってあってもおかしくはないかもしれない。
だから小龍は素直に頷いた。
「わかった。じゃあ、あげる」
「ありがとう」
そのときふわりと、柊を持つ小龍の手に冷たいものが落ちて融けた。
空を見上げれば、いくつもの淡い雪が地上へ向かって降り注いでいる。
「雪だ……」
「初雪だね」
彼の予言は当たった。
雪の中、嬉しそうな笑顔はまるで花が咲いたかのように綺麗に見えて。
どういうわけか、胸がドキドキして止まらなくなった。
綺麗とか可愛いとか、そんなのは大人の男の人に対して思うことではないから。
だから小龍はそう感じてしまった自分の気持ちに、気づかないふりをした。
***
家に帰る頃には、雪の粒が驚くほど大きくなっていた。
きっと朝には積もっているだろうなと、少しだけワクワクしながら窓の外に向けていた視線を、小龍は手の中の柊の葉に移した。
あの人は、あの椿の花をどうしたのだろうか。
魔除けの呪文は効いたのだろうか。
明日、また店に行ってみようと思った。
もし魔法が不発に終わっていたら、一応は一言くらい謝った方がいいだろう。
そして、もし彼に不幸があったならこの柊を返そう。
髪に飾ってやったら、大人でもちょっとは『可愛い』が似合うかもしれない。
柊には魔除けの効果があると、帰ってきてすぐに図鑑を調べたら書いてあった。
これは造花だから、決して枯れることはないのだ。
――誰か大切な人にあげるといいよ。
だからきっと、いつまでも彼を守ってくれるだろう。
End
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※龍ユゥイ
「今日は、小狼君とサクラちゃんは一緒じゃないのかな?」
さっきまでいた二人組みがいなくなってから、他の何組かの客もいなくなった。
会計を済ませた店員が、カウンター越しに空のカップをぼんやりと見つめていた小龍に声をかける。
ふと顔を上げて、穏やかに微笑んでいるその人を見た。
この人の名前はユゥイ。それは知ってる。
そしてさっきまでいた小うるさい人はファイという名前。
一緒にいたのは、黒たん、とその人に呼ばれていた。
小龍は無表情を崩さないままに、ユゥイに小さく頷いて見せた。
「小狼とさくらがいい感じになってたから。おれがいたら邪魔だし」
そう言うと、ユゥイは小さな声を上げて笑った。
むっと睨みつけると、すかさず「ごめんね」と言われる。
「だって、小龍君が凄く大人に見えちゃったから」
だからってどうして笑われるのだろう。
なんだか馬鹿にされている気がして面白くなかった。
「おれはもともと大人だ」
「うん。そうだね」
「でも、さっきの人は子供っぽかった」
ユゥイは、先刻よりも声を上げて笑った。
この人はいつも笑っているけれど、こんな風に声を上げて笑うところはあまり見ないから珍しい。
「ファイだね。うん、いっつもああなんだ。可愛いでしょ?」
小龍は思わず顔を顰める。可愛いっていうのはさくらのような可愛い女の子や、小狼のように小さな男の子に対して言うものだ。
あのファイという人はとても子供っぽかったけれど、一応は大人の姿をしていたはずだった。
「似てないな。あなたとあの人」
「そう? よく言われるけどね」
「うん」
小龍は、どちらかといえば静かなユゥイの方がいいと思った。
どうしてそう思ったのかは分からない。ただなんとなく、黒たんと呼ばれていたあの大きくて黒い男の人が気の毒に思えた。
一緒にいたら、とても疲れてしまいそうだ。
それでもあの黒い人も、ユゥイと同じようにファイを可愛いと思っていたりするのだろうか。
小龍にはどうでもいいことだったけれど、少し気になる。
「帰る」
チラリと時計を見てから、小龍は椅子から降りた。
その拍子にポケットに入れていた椿の枝がポトリと落ちる。このまま置いていきたかったけれどここはお店の中だから、帰り道で適当に捨てようと思った。
仕方なく拾い上げると、ユゥイが小首を傾げて覗き込んできた。
「綺麗だね。どうしたの?」
「折った」
団地の公園の脇に咲いていた花だった。
さくらに似合うかもしれないと思って、クリスマスプレゼントに渡そうと考えていた。
けれど小龍はさくらと同じくらい小狼も可愛かったから、だから渡せなかった。
ユゥイが何か言いたげな雰囲気を醸し出していたけれど、すぐに背を向けて足早に店を出る。
待って、という声が聞こえた気がしたけれど、なんとなく無視した。
***
店を出るともうだいぶ暗くなっていた。
寒さもぐんと増していて、小龍は肩をぎゅっと寄せて俯きながら団地のある方向へ歩き出す。
あまり遅くなると小狼や家の人間を心配させる。けれど、小龍はただひたすら小狼とさくらはどうなっただろうと、そればかり考えた。
二人ともまだ子供で鈍い性格だから、見ているといつも焦れったくて仕方がない。
今日はせっかくのイヴだし、クリスマスは恋人達のためのイベントだと、前にテレビか何かで聞いたことがある。
だから気を利かせてやったのだ。
別に寂しいなんて思わない。これっぽっちも、絶対にそんなこと。
そしてふと、さっきの二人はどうなんだろうと思った。
黒たんは少し怖い顔をした人ではあったけど、ファイと接するときは少しだけ柔らかい空気を発していた気がする。
多分、黒たんにとってファイは特別な人なのだと思う。そして、ファイにとっても。
別に偏見はないからどうでもいい。けれど小龍が気になったのはユゥイの方だった。
ユゥイにも好きな人がいるのだろうか。
ファイと黒たんが仲良くしているのを見て、寂しいとは感じないのだろうか。
「待って、小龍君」
そのとき、背後の方でよく知る声がした。さっきまで一緒にいた人だ。
今まさにその人のことを考えていたせいで、小龍は思わずドキリとして肩を跳ねさせた。
驚いてしまったことを悟られぬように無表情を装って振り向くと、ユゥイが真っ白の息を吐き出しながら追いついた。
「足速いね、君」
小首を傾げて笑うユゥイは、店から慌てて飛び出してきたのか、いつもの制服姿に上から何も羽織っていなかった。
思わず、むっと眉間に皺を寄せる。
「寒くないの?」
「寒いよ? もうすぐ雪が降るね」
にっこりと笑ったユゥイは、はい、と小さく握った拳を差し出した。
「なに?」
「おつりだよ。お客さん」
「そんなことのために?」
手を出すと、ほんの数十円が手の平に落ちてきた。
別にこれっぽっち、わざわざ追いかけてきてまで寄越すことないのに。
そう思いはしたが、受け取ってしまったものは仕方がない。
椿の刺さったポケットに適当に捻じ込むと、ユゥイがしゃがんで目線を合わせてきた。
「それ、誰かにプレゼントするのかな?」
「そのつもりだったけど……」
これはもう必要のないものだ。道すがら捨てるつもりなのだから、ゴミと言ってもいい。
そうとは知らず、ユゥイはなぜか少し困ったような顔をした。
「あのね、椿はあまり縁起のいい花じゃないんだって。迷信だけどね」
「どうして?」
「花がね、首を切ったみたいに落ちるからって、言われてるらしいよ。可哀想にね」
こんなに綺麗な花なのにさ。
そう言って、ユゥイは萎れた椿に目を細めた。
小龍はポケットから細い枝を取り出して、それをじっと見つめる。
迷信。けれど、日本人がそういったものを鵜呑みに出来ない性質だということを知っていた。
さくらは知らないだろうけど、やっぱり渡さなくてよかったと思う。
「はい、どうぞ」
そんな小龍の目の前に、小さな柊の葉が差し出された。
「可愛いでしょ? お店にあったから、引っこ抜いて来ちゃったんだ」
「これ……」
緑色の葉と、可憐な赤い実。この時期にぴったりの植物だった。
「造花なんだけどね。だからほら、柔らかくてチクチクしないよ」
ユゥイの白い指先が、柊の尖った葉を幾度か撫でる。
小龍は、なぜ彼がこんなものを寄越すのか意味が分からず、ただそれを眺めていた。
「髪に飾ってあげたらきっと可愛いから。サクラちゃん」
「!」
「あれ? 違うの?」
首を傾げるユゥイに、小龍はなぜか焦ったような気持ちになって頬を赤らめた。見透かされたことも、なんとなく悔しいような気もする。
「ち、違う。別にそんなんじゃ」
「そうなんだ」
目の前の人は、特に疑うでもなくただ微笑んだ。
夜の光を弾く金色の綺麗な髪が、冷たい風に乗って揺れていた。
「でも、これボクからのプレゼント。もしいらなかったら、誰か大切な人にあげるといいよ」
小龍はなんとなく咄嗟に手袋を片方外すと、作り物の柊を受け取った。無機質なはずのそれが、なぜかとても温かいような感覚を指先にもたらした。
どうしてか、胸の辺りがくすぐったい。
何かお返しがしたいけれど、小龍はこの不吉な謂れの花しか持ち合わせていない。
戸惑っていると、ユゥイの指先がそっと伸びてきて、椿の枝をさらってゆく。
驚いて顔をあげた小龍に、やっぱり彼は優しげに微笑んでいた。
「代わりに、この花はボクが貰ってもいいかな?」
「……でも」
迷信なんて信じちゃいない。でも、一度知ってしまったらそれを彼にくれてやることには戸惑いがあった。しかも、一度はゴミだと認識までした代物だ。
もし彼に何か不幸なことがあったら。そう思うと柄にもなく少し、怖い。
「平気だよ」
けれどユゥイは、そんな小龍などお見通しとでも言うかのように、一つコクリと頷いた。
「大丈夫。だってボクは魔法が使えるから」
「……魔法?」
「そう。だから魔除けの呪文も知ってるよ」
変なの。小龍はそう思った。
魔法だなんて、御伽噺や漫画の世界でもあるまいし、大人のくせに何を馬鹿なことを言っているんだろう。
けれどその反面、彼なら出来るのかもしれないと、なぜか思った。
どこか不思議な雰囲気のある人だから、不思議な力だってあってもおかしくはないかもしれない。
だから小龍は素直に頷いた。
「わかった。じゃあ、あげる」
「ありがとう」
そのときふわりと、柊を持つ小龍の手に冷たいものが落ちて融けた。
空を見上げれば、いくつもの淡い雪が地上へ向かって降り注いでいる。
「雪だ……」
「初雪だね」
彼の予言は当たった。
雪の中、嬉しそうな笑顔はまるで花が咲いたかのように綺麗に見えて。
どういうわけか、胸がドキドキして止まらなくなった。
綺麗とか可愛いとか、そんなのは大人の男の人に対して思うことではないから。
だから小龍はそう感じてしまった自分の気持ちに、気づかないふりをした。
***
家に帰る頃には、雪の粒が驚くほど大きくなっていた。
きっと朝には積もっているだろうなと、少しだけワクワクしながら窓の外に向けていた視線を、小龍は手の中の柊の葉に移した。
あの人は、あの椿の花をどうしたのだろうか。
魔除けの呪文は効いたのだろうか。
明日、また店に行ってみようと思った。
もし魔法が不発に終わっていたら、一応は一言くらい謝った方がいいだろう。
そして、もし彼に不幸があったならこの柊を返そう。
髪に飾ってやったら、大人でもちょっとは『可愛い』が似合うかもしれない。
柊には魔除けの効果があると、帰ってきてすぐに図鑑を調べたら書いてあった。
これは造花だから、決して枯れることはないのだ。
――誰か大切な人にあげるといいよ。
だからきっと、いつまでも彼を守ってくれるだろう。
End
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最終話 『初雪』
店を出ると陽は沈み、遠くに見えるイルミネーションが輝きを増していた。
この辺りは駅近辺に比べれば、幾分か人通りも落ち着きを見せている。
刺すような冷たい風が頬にチクチクと触れる中、ファイと黒鋼は葉の落ちきった並木道を、のんびりと歩いていた。
裸ん坊の細い枝には、青い電球がぽつぽつと巻きつけられている。煌々とした華やかさとは程遠いが、しっとりとした落ち付きが美しいイルミネーションだった。
***
ファイは、なんとなく口を噤んだまま黒鋼から数歩遅れて歩いていた。
あのあと小龍という愛想のない子供と幾度かコミュニケーションを試みようとしては失敗し、どこか楽しげな黒鋼に唇を尖らせたりしながらも店を出た。
以来、二人の間に会話はない。
ファイの気持ちを沈ませているのは、決してあの生意気な少年のせいではなかった。
気になって仕方がないのは黒鋼がユゥイをどう思ったのかであり、気にすればするほど、これまでの自分の子供っぽい振る舞いや言動が恥ずかしくなってしまった。
(やっぱり連れて来なければよかった……)
お喋りで騒がしい自分と、物腰柔らかで落ち着きのあるユゥイ。
考えるまでもなく、黒鋼と相性がよさそうなのはユゥイの方だ。実際、初めて会ったとは思えないくらい、二人は互いの空気によく溶け込んでいた。
「はしゃぎ過ぎて疲れたか?」
何も言わないファイがさすがに気になったのか、黒鋼は足を止めると振り向いた。
ドキリとして、同じく立ち止まる。
「う、うぅん。ぜんぜん平気」
ほの青いイルミネーションの中で、彼が小さく笑った気がした。ファイは咄嗟に俯く。
その大人びた笑顔を見ると、いつもドキドキして、泣きたいような気持ちになるから。
また自分でも訳が分からなくなってメソメソと泣き出してしまえば、彼を困らせるだけだ。
あんなことはもう二度と繰り返したくない。
その時ふと、以前初めて黒鋼の父と対面した日のことを思い出した。
あの時はなんだか嬉しくなってしまって、根掘り葉掘り彼を質問攻めにして怒らせてしまったのだった。
黒鋼は、ユゥイと会ってどう感じたのだろう。
あの日の自分と同じように、何かと比べては違いを探したりしただろうか。
「あのさ、黒たん」
「ん」
枯葉を踏みしめる音がして、黒鋼がすぐ側まで近づいてくるのが分かる。俯くファイからは、彼の靴の先だけがぼんやりと見えた。
「ユゥイのこと、どう思った?」
「……どうってのは?」
「だから……会ってみて、どうだったかなーって……優しいし、大人だし、落ち着いてて……オレと、ぜんぜん違ったでしょ?」
黒鋼は何も言わない。
自分は彼になんと言ってもらえれば満足なのだろう。
彼が好むのが自分のような騒々しいタイプでないことくらい、想像に容易いはずなのに。
「黒たんはさ、どっちの方が……いいのかなって」
迷ったあげく口にして、一気に後悔する。
なんて子供じみた情けない質問だろうかと。また呆れられる材料を自ら増やすような真似をして、何の意味があるというのか。
それに、どうせ結果は今までと同じだ。
特に黒鋼にはこれまで散々迷惑をかけて、情けないところばかり見られているのだし。
それでも聞かずにはいられなかったのは、ほんの僅かではあるが負けたくないという思いと期待が、胸の奥にあるからだろうか。
まるでユゥイに対して、嫉妬でもしているみたいに。
(嫉妬……?)
その言葉が、やけにすんなりと胸に馴染んだ。
すると次の瞬間、今度は面白いほど簡単に、心の奥を覆い隠していた厚いベールが剥がれ落ちたような気がした。
遮るものがなくなったことで姿を現したのは、見えそうで見えなかった想いの『形』だった。
(そうだ……これは嫉妬だ……)
ああ、どうして。
どうして気がつかなかったのだろう。
(オレ、この子が好きなんだ……)
まるで丸裸にされたような気持ちになって、身体が一気に熱くなるのを感じる。
本当はこんなにも簡単なことだった。
笑顔を見るとドキドキするのも、キスをされても嫌じゃなかったのも、もう一度、唇に触れてみたいと思ってしまったのも。
いつからなんて分からない。出会った瞬間からかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いつの間にかこうなっていて、そしてたった今、自分の気持ちに気がついた。
途端にどうすればいいのか分からなくて、ファイは顔を上げると無理矢理笑った。
「なんちゃって! 変なこと聞いてごめんねー。帰ろっか!」
こんなものは、絶対に間違っている。
黒鋼は男だし、教え子だし、恋愛の対象からは本来除外されるべき存在だ。
もしこの気持ちを知られでもしたら、今の関係自体をぶち壊してしまうに違いない。
電車の中でのあの最悪な出来事さえも、もう否定できなくなってしまう気がした。
最早一刻も早くその場から逃げ出すことしか考えられず、ファイは黒鋼の横を通り過ぎようとした。けれど、その腕を掴まれてビクリと肩が跳ねた。
見上げると、思った以上に彼の顔が近くにあって息を呑む。
眉間の皺が深くなっていて、それはきっと怒っているからだと思った。
「似てねぇだろ。おまえらは」
「……うん。そうなんだよね」
そんなことはファイが一番よく知っていて、対照的であるからこそ自分の欠点が浮き彫りになることにも、気がついてしまった。
独りよがり。そんなことも、分かってる。
「ごめん……もう聞かないよ。聞かないから……」
このままでは泣いてしまうから。
離して、という言葉を、ファイは最後まで言うことが出来なかった。
「おまえの弟のこと、悪く言うつもりはねぇが」
「……?」
「ありゃとんだ居心地の悪さだな」
顔を上げると、黒鋼が困ったような顔をしている。
ファイはこの顔がとても好きだったけれど、思えばこんな顔ばかりさせているような気がしてならない。
黒鋼は、ぶっきらぼうに続けた。
「てめぇとおんなじ顔してまともに名前なんざ呼ばれたら、息が詰まって仕方がねぇ」
「え、っと……」
ファイは目をぱちくりとさせた。黒鋼の顔から目が離せない。
「ついでに騒がしくねぇてめぇも違和感が半端ねぇな」
「!」
「俺には、うるせぇくらいのおまえで丁度いい」
「ッ……!」
もしかしたら自分は、都合のいい夢でも見ているのではなかろうか。
たった今聞いたはずの言葉を幾度も脳内で反芻して、それでもまだ信じられない。
でも確かに聞いた。彼は言った。お喋りだって、うるさくたって構わないと。
そう、言ってくれた。
頭の中で鐘が鳴る。
それは教会で鳴り響くような、祝福の鐘の音だった。
同時に、まるでタイミングを見計らったかのように頬に冷たいものが触れた。
二人揃って見上げると、大粒の雪が空から幾つも舞い降りてくる。
「雪……?」
「初雪だな」
まるで安いドラマのようだ。
けれど今この瞬間、ファイは自分が物語の主人公になれたような気がしていた。
(ねぇ神様。あなたはいつだって、とても意地悪だけど)
今は、今だけは、そんな神様に愛されているような気がする。
気のせいかもしれないけれど、気のせいだって構わないと思った。
多分、本当に欲しいものは、自分の手でしか掴み取れないものだから。
「あのね、黒たん」
暫しの間、揃って空を見上げていた黒鋼を、ファイは真っ直ぐに見上げた。
「前にケンカしたときのこと、覚えてる?」
初めて黒鋼の父と会った時のこと。
ファイが初めて人を殴って、黒鋼が初めてメールをくれた。
そして初めて、触れ合った。
「覚えてる」
「あのとき……オレがお父さんのことばかり聞きたがったとき……君はどうしてあんなに怒ったんだろう? どんなことを思ったのかな? もしかしたら……」
今の自分と、あのときの彼が同じ気持ちだったらいい。
本当はちっとも似ていないからこそ、絶対に負けたくないという思い。
自分だけを、見ていて欲しいという思い。
この小指にもし、赤い糸が括りつけられているのなら。
それを手繰り寄せた先に、どうか。
「今のオレと、同じ気持ちだったのかな?」
黒鋼が小さく笑う。吐き出す息がほんのりと白い。ドキドキして仕方がなかった。
「オレ……オレね、ユゥイと君を会わせなければよかったって思った。黒たんを取られちゃうって、思ったの」
掴まれたままだった腕が、強く引かれた。
そしてそのまま、次の瞬間にはファイは黒鋼の腕の中に納まっていた。小さく息を呑みながらも、同じだけの強さで負けじと広い背中に腕を回して抱きしめた。
耳元に熱い息がかかる。
「はっきり言ってみろよ。そうすりゃ俺も、答えてやる」
「黒たん……」
抱き合ったまま見つめ合うと、互いの鼻先が僅かに触れ合った。
胸が苦しくて、熱くて、身体が震えて仕方がない。
白い吐息に乗せて、囁くように『好き』と紡げば、赤い瞳が愛しげに細められた。
「同じだ。馬鹿」
歓喜に滲んだ涙の粒が零れ落ちる寸前、二つのシルエットは完全に重なり合い、一つになった。
それはクリスマスイヴのこと。
今度こそ、この小指に結ばれた糸は切らせない。
触れたくて仕方がなかった唇を受け止めながら、ファイは神様に宣戦布告した。
End
←戻る ・ 番外編へ→
店を出ると陽は沈み、遠くに見えるイルミネーションが輝きを増していた。
この辺りは駅近辺に比べれば、幾分か人通りも落ち着きを見せている。
刺すような冷たい風が頬にチクチクと触れる中、ファイと黒鋼は葉の落ちきった並木道を、のんびりと歩いていた。
裸ん坊の細い枝には、青い電球がぽつぽつと巻きつけられている。煌々とした華やかさとは程遠いが、しっとりとした落ち付きが美しいイルミネーションだった。
***
ファイは、なんとなく口を噤んだまま黒鋼から数歩遅れて歩いていた。
あのあと小龍という愛想のない子供と幾度かコミュニケーションを試みようとしては失敗し、どこか楽しげな黒鋼に唇を尖らせたりしながらも店を出た。
以来、二人の間に会話はない。
ファイの気持ちを沈ませているのは、決してあの生意気な少年のせいではなかった。
気になって仕方がないのは黒鋼がユゥイをどう思ったのかであり、気にすればするほど、これまでの自分の子供っぽい振る舞いや言動が恥ずかしくなってしまった。
(やっぱり連れて来なければよかった……)
お喋りで騒がしい自分と、物腰柔らかで落ち着きのあるユゥイ。
考えるまでもなく、黒鋼と相性がよさそうなのはユゥイの方だ。実際、初めて会ったとは思えないくらい、二人は互いの空気によく溶け込んでいた。
「はしゃぎ過ぎて疲れたか?」
何も言わないファイがさすがに気になったのか、黒鋼は足を止めると振り向いた。
ドキリとして、同じく立ち止まる。
「う、うぅん。ぜんぜん平気」
ほの青いイルミネーションの中で、彼が小さく笑った気がした。ファイは咄嗟に俯く。
その大人びた笑顔を見ると、いつもドキドキして、泣きたいような気持ちになるから。
また自分でも訳が分からなくなってメソメソと泣き出してしまえば、彼を困らせるだけだ。
あんなことはもう二度と繰り返したくない。
その時ふと、以前初めて黒鋼の父と対面した日のことを思い出した。
あの時はなんだか嬉しくなってしまって、根掘り葉掘り彼を質問攻めにして怒らせてしまったのだった。
黒鋼は、ユゥイと会ってどう感じたのだろう。
あの日の自分と同じように、何かと比べては違いを探したりしただろうか。
「あのさ、黒たん」
「ん」
枯葉を踏みしめる音がして、黒鋼がすぐ側まで近づいてくるのが分かる。俯くファイからは、彼の靴の先だけがぼんやりと見えた。
「ユゥイのこと、どう思った?」
「……どうってのは?」
「だから……会ってみて、どうだったかなーって……優しいし、大人だし、落ち着いてて……オレと、ぜんぜん違ったでしょ?」
黒鋼は何も言わない。
自分は彼になんと言ってもらえれば満足なのだろう。
彼が好むのが自分のような騒々しいタイプでないことくらい、想像に容易いはずなのに。
「黒たんはさ、どっちの方が……いいのかなって」
迷ったあげく口にして、一気に後悔する。
なんて子供じみた情けない質問だろうかと。また呆れられる材料を自ら増やすような真似をして、何の意味があるというのか。
それに、どうせ結果は今までと同じだ。
特に黒鋼にはこれまで散々迷惑をかけて、情けないところばかり見られているのだし。
それでも聞かずにはいられなかったのは、ほんの僅かではあるが負けたくないという思いと期待が、胸の奥にあるからだろうか。
まるでユゥイに対して、嫉妬でもしているみたいに。
(嫉妬……?)
その言葉が、やけにすんなりと胸に馴染んだ。
すると次の瞬間、今度は面白いほど簡単に、心の奥を覆い隠していた厚いベールが剥がれ落ちたような気がした。
遮るものがなくなったことで姿を現したのは、見えそうで見えなかった想いの『形』だった。
(そうだ……これは嫉妬だ……)
ああ、どうして。
どうして気がつかなかったのだろう。
(オレ、この子が好きなんだ……)
まるで丸裸にされたような気持ちになって、身体が一気に熱くなるのを感じる。
本当はこんなにも簡単なことだった。
笑顔を見るとドキドキするのも、キスをされても嫌じゃなかったのも、もう一度、唇に触れてみたいと思ってしまったのも。
いつからなんて分からない。出会った瞬間からかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いつの間にかこうなっていて、そしてたった今、自分の気持ちに気がついた。
途端にどうすればいいのか分からなくて、ファイは顔を上げると無理矢理笑った。
「なんちゃって! 変なこと聞いてごめんねー。帰ろっか!」
こんなものは、絶対に間違っている。
黒鋼は男だし、教え子だし、恋愛の対象からは本来除外されるべき存在だ。
もしこの気持ちを知られでもしたら、今の関係自体をぶち壊してしまうに違いない。
電車の中でのあの最悪な出来事さえも、もう否定できなくなってしまう気がした。
最早一刻も早くその場から逃げ出すことしか考えられず、ファイは黒鋼の横を通り過ぎようとした。けれど、その腕を掴まれてビクリと肩が跳ねた。
見上げると、思った以上に彼の顔が近くにあって息を呑む。
眉間の皺が深くなっていて、それはきっと怒っているからだと思った。
「似てねぇだろ。おまえらは」
「……うん。そうなんだよね」
そんなことはファイが一番よく知っていて、対照的であるからこそ自分の欠点が浮き彫りになることにも、気がついてしまった。
独りよがり。そんなことも、分かってる。
「ごめん……もう聞かないよ。聞かないから……」
このままでは泣いてしまうから。
離して、という言葉を、ファイは最後まで言うことが出来なかった。
「おまえの弟のこと、悪く言うつもりはねぇが」
「……?」
「ありゃとんだ居心地の悪さだな」
顔を上げると、黒鋼が困ったような顔をしている。
ファイはこの顔がとても好きだったけれど、思えばこんな顔ばかりさせているような気がしてならない。
黒鋼は、ぶっきらぼうに続けた。
「てめぇとおんなじ顔してまともに名前なんざ呼ばれたら、息が詰まって仕方がねぇ」
「え、っと……」
ファイは目をぱちくりとさせた。黒鋼の顔から目が離せない。
「ついでに騒がしくねぇてめぇも違和感が半端ねぇな」
「!」
「俺には、うるせぇくらいのおまえで丁度いい」
「ッ……!」
もしかしたら自分は、都合のいい夢でも見ているのではなかろうか。
たった今聞いたはずの言葉を幾度も脳内で反芻して、それでもまだ信じられない。
でも確かに聞いた。彼は言った。お喋りだって、うるさくたって構わないと。
そう、言ってくれた。
頭の中で鐘が鳴る。
それは教会で鳴り響くような、祝福の鐘の音だった。
同時に、まるでタイミングを見計らったかのように頬に冷たいものが触れた。
二人揃って見上げると、大粒の雪が空から幾つも舞い降りてくる。
「雪……?」
「初雪だな」
まるで安いドラマのようだ。
けれど今この瞬間、ファイは自分が物語の主人公になれたような気がしていた。
(ねぇ神様。あなたはいつだって、とても意地悪だけど)
今は、今だけは、そんな神様に愛されているような気がする。
気のせいかもしれないけれど、気のせいだって構わないと思った。
多分、本当に欲しいものは、自分の手でしか掴み取れないものだから。
「あのね、黒たん」
暫しの間、揃って空を見上げていた黒鋼を、ファイは真っ直ぐに見上げた。
「前にケンカしたときのこと、覚えてる?」
初めて黒鋼の父と会った時のこと。
ファイが初めて人を殴って、黒鋼が初めてメールをくれた。
そして初めて、触れ合った。
「覚えてる」
「あのとき……オレがお父さんのことばかり聞きたがったとき……君はどうしてあんなに怒ったんだろう? どんなことを思ったのかな? もしかしたら……」
今の自分と、あのときの彼が同じ気持ちだったらいい。
本当はちっとも似ていないからこそ、絶対に負けたくないという思い。
自分だけを、見ていて欲しいという思い。
この小指にもし、赤い糸が括りつけられているのなら。
それを手繰り寄せた先に、どうか。
「今のオレと、同じ気持ちだったのかな?」
黒鋼が小さく笑う。吐き出す息がほんのりと白い。ドキドキして仕方がなかった。
「オレ……オレね、ユゥイと君を会わせなければよかったって思った。黒たんを取られちゃうって、思ったの」
掴まれたままだった腕が、強く引かれた。
そしてそのまま、次の瞬間にはファイは黒鋼の腕の中に納まっていた。小さく息を呑みながらも、同じだけの強さで負けじと広い背中に腕を回して抱きしめた。
耳元に熱い息がかかる。
「はっきり言ってみろよ。そうすりゃ俺も、答えてやる」
「黒たん……」
抱き合ったまま見つめ合うと、互いの鼻先が僅かに触れ合った。
胸が苦しくて、熱くて、身体が震えて仕方がない。
白い吐息に乗せて、囁くように『好き』と紡げば、赤い瞳が愛しげに細められた。
「同じだ。馬鹿」
歓喜に滲んだ涙の粒が零れ落ちる寸前、二つのシルエットは完全に重なり合い、一つになった。
それはクリスマスイヴのこと。
今度こそ、この小指に結ばれた糸は切らせない。
触れたくて仕方がなかった唇を受け止めながら、ファイは神様に宣戦布告した。
End
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「うーわー!! すっごいきれー!」
茜色の空の下、湖の深いグリーンの水面は夕日を反射してキラキラと光り輝いていた。
到着した途端、弾かれたように車から飛び出したファイは、おおはしゃぎで両手を広げて歓声を上げている。
自分の荷物とファイの荷物をまとめて肩に担ぎ、車から降りた黒鋼はその子供のように大騒ぎしている背中に溜息を零した。
「おら、てめぇ自分の荷物くらい持ってから降りろ」
「黒たん黒たん! ほら見てよ! 雑誌で見るよりすっごいキレイだよー!」
満面の笑みを浮かべてはしゃぐファイが、体当たりで黒鋼の腕にしがみついて遠くの湖を指差した。
その方向と黒鋼の顔とを、幾度も交互に見ているファイの金色の髪もまた、持ち主同様忙しなくふわふわと踊っている。
夕陽を反射して透き通る青い瞳が輝きを増していて、黒鋼は柄にもなく見惚れてしまいそうになった。
「わかったからひっつくんじゃねぇ」
「あ! 見て見て! 教会もあるよ! 十字架が見えるーっ」
照れ隠しにファイの額に手の平を当てて引き剥がそうとするも、彼はお構いなしに指差した手をブンブンと振った。
仕方なくその方向へ目をやると、そこにはまさに絶景と呼ぶにふさわしい光景が広がっている。
高台にある大型駐車場からは、湖を囲む豊かな木々と、その中に溶け込むようにして佇むホテルやコテージの屋根が一望できた。
ファイが言うように、教会のシンボルである十字架も見える。
「見事だな」
「ねぇねぇねぇ! 湖に行こうよー! オレ泳ぎたーい!」
「ばかやろう。まずはチェックインが先だ。しかもあそこは遊泳禁止って書いてあったろ」
「えー? そうだっけー?」
「しかもかなづちのくせによ」
「もう! 黒りんの意地悪ー!」
唇を尖らせるファイに呆れて、コツンと額を小突くと、当の本人からは「ぁう」というおかしな悲鳴が上がる。
そのまま彼を引き摺るかのようにホテルへの道を歩きはじめると、今度は「あ」という声が上がった。
「荷物、オレも持つー」
「あ? 別にいい」
「なんでー? だって自分のくらい持てって」
「うるせぇな。めんどくせぇからいいんだよ」
照れ臭さにそっぽを向いた黒鋼に、ファイはにんまりと微笑んで「ありがとう」と言った。
*
翌日もファイの騒がしさは相変わらずだった。
あれだけ湖に行くと喚いていたくせに、いざ外へ出てみるとその行き先はコロコロと変わる。
焼き立てベーグルが有名な喫茶店があるだとか、ここでしか見れない珍しい野鳥がいるだとか、あらかじめ雑誌やインターネットなどで仕入れたらしい情報を元に、黒鋼の手を強引に引いて歩き回った。
途中、美しく白いチャペルを2人で眺めていたときは、思わず機嫌を損ねるような態度を取ってしまった。
だがどんなことがあっても、次の瞬間ファイの顔には笑顔が戻っていた。
ときには他の観光客までも巻き込んだりしながら、彼はどこまでも伸びやかに、存分に旅を満喫しているようだった。
大自然の中では時間がゆっくりと流れるだなんて、そんなものは全くの嘘だと黒鋼は思った。
何もかもが激流のような速さで、いっそ息をつく間もないほど忙しなかった。
ちょっとくらいまったり満喫させろ、という不満も、ファイの幸せそうな笑顔の前では、まるでどうでもいいことのように思えた。
「次、湖に行かないとー!」
黒鋼の腕をぐいぐいと引っ張るファイは、一日中動き回ったくせに元気が有り余っている様子だった。
黒鋼はこの日だけで一体幾つになるか分からない溜息を零す。
「あとは明日にしとけ。もう陽が暮れるだろ」
「えー…でもさ、夕陽の下の湖キレイだよ? 黒様も見たいでしょ? ね?」
「こっからでもよく見えるぜ」
「もう!」
ぶぅ、と膨れるファイの頬。
黒鋼は腕時計で時間を確かめる。
そしてちょっと意地悪そうに口元だけで笑った。
「それにおまえ、今夜は豪華バイキングがあるんだとか言ってなかったか?」
「!」
「時間、これ以上遅れたらいい席取れねぇかもな。確か食いもんから一番近い席、取るんじゃなかったのか?」
「嘘!? もうそんな時間!?」
ファイの両手が強引に黒鋼の腕を取り、時計を覗き込んで時間を確かめると真っ青になる。
「なんでもっと早く言ってくれないのー!? バカ! 黒様のバカ!」
毛を逆立てた猫のように、金色の髪を震わせてファイはホテルへ向かって走り出す。
実際にはまだ夕食時には時間に余裕はあるのだが、ファイはせっかちなのだ。
黒鋼はその背中を見ながら、珍しく声を上げて笑った。
*
「もー! 黒様ってばいつまで食べてるのー? 早く行こうよー」
翌朝、コテージのテラスで朝食を摂っていた2人だったが、先に食べ終わったファイがじれったそうに黒鋼を急かしはじめた。
黒鋼は小煩いファイに向かって、あからさまに嫌そうな顔をする。
「飯くらいゆっくり食わせろ。だいたいてめぇ、よく噛んで食ったか?」
いつもはてんで朝に弱く、朝食だって倍の時間をかけてしか食べられないくせに。
今日は朝から湖へ行くのだとはりきっていた彼は、物凄い速さで食事を済ませてしまった。
「ちゃんと噛んだよー。ねぇ、早く早くー」
「だからゆっくりさせろって……。もっと落ち着けっていつも言ってるだろうが」
「ぶー」
本当にまるで子供だ。
いい歳をした大人の男とは到底思えない。
「今のうちに言っておくがな、てめぇははしゃぎすぎて、いつか絶対ろくでもねぇことになるぜ」
「もー、黒様ってばユゥイと同じようなこと言うー」
唇を尖らせるファイ。
ユゥイというのは、そんな彼の双子の弟だ。
黒鋼はまだ一度も会ったことはないのだが、ファイの口振りからするとどうやら兄とは正反対のようだ。
「てめぇと同じ顔して、ずいぶんとまともそうじゃねぇか」
「そうそうー、ユゥイは凄い大人でねー、オレの方がお兄さんなのにオレより何でも出来るしー、料理も上手いしー」
「中身入れ替えてもらってこい」
「ちょっとー!? それどーゆうことー!?」
それまでは双子の弟自慢をニコニコ顔でしていたファイだったが、黒鋼がからかうと思い切り眉を吊り上げた。
ダンッと両手をテーブルについて立ち上がる。
「もういいよ! ノロマな黒ワンコなんか待っててあげないんだからー!」
ぷりぷりと怒りながら、ファイはテーブルを横切り室内へ消えてしまった。
が、すぐにテラス脇の玄関が派手な音と共に開き、そこから飛び出して行く。
「転ぶんじゃねぇぞ」
「転ばないもん!」
そのまま駆け出すかと思いきや、ファイは一度振り向いた。
派手に啖呵を切った後だったからか、少しだけ照れ臭そうに頬を染めていた。
「黒たん?」
「ん」
「……早く来てね? オレ、先に行って待ってるから」
「ああ、わかってる」
「えへへ」
小さく微笑んで頷いてやると、ファイは嬉しそうにニッコリ笑って行ってしまった。
その背が小さくなり、やがて朝の光の中へ消えるまで、黒鋼はそれをいつまでも見守った。
それが最期になるなんて、知りもしないで。
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