07
「で、デート?」
甲洋の頼みに、操は目を丸くして素っ頓狂な声をあげた。
「自由でいられるのは今だけだから。最後に来主と思い出づくりがしたいんだ」
ダメかな、と耳をしょんぼりさせる姿に慌てて首を振る。
「だ、ダメじゃないよ! ダメじゃないけど……」
甲洋の頼みなら、なんでも聞いてやりたいと思う。しかしそれはそれとして、操はどうしても腑に落ちないものを感じていた。
お姫様と結婚して、新しい王様になる。字面だけなら、まるでおとぎ話のハッピーエンドだ。けれど首輪をつけられ、一週間も監視されていた上に、王になれば自由はないと言う。そこに彼の意思はあるのだろうか。
「甲洋はそれでいいの? 誰かに命令されて結婚するとか、王様になるとか……それは、本当に君が望んでることなの?」
「来主……」
やっぱりぼくのせいだと、操は下唇を噛み締めた。
甲洋が掟を破ったのは、すべて自分を助けるためだ。落ち込んでいたときは慰めてくれた。危ないところを救ってくれた。そんなことさえしなければ、彼は今までもこれからも自由でいられたはずなのに。
「……逃げよう、甲洋」
「え?」
険しい表情で甲洋を見上げ、その両肩を強く掴んだ。
「一緒に逃げるんだよ! 大丈夫、ぼくが君を守るから!」
二人一緒なら、きっとどこへだって行ける。次は自分が甲洋を助ける番だ。
すると彼は一瞬だけ泣きそうに瞳を揺らした。けれどすぐに何事もなかったかのように笑顔を見せる。
「来主はなにか勘違いしてるよ」
「勘違い……?」
「王になるということは、ケット・シーにとって最大の名誉だ。誰もがその座を狙ってる」
「……君も?」
その通りだと、彼は大きく頷いた。
「だから王の決定に異存はない。お姫様も可愛い子だしね」
甲洋はヒョイと肩をすくめると、軽くウィンクして見せた。およそ彼らしくないおどけ方には、違和感しかない。
「なんか変だよ。君っぽくない」
「浮かれてるんだよ」
操はなおも言い募ろうとして口を開きかけたが、なにも言葉が出てこなかった。
所詮、人間の自分にケット・シーの世界のことなど分からない。彼がこれほど言うのだから、きっと願ってもないことなのだろう。他人が口出しする権利はないし、邪魔する道理だってない。
むしろもっと喜ぶべきなのだと、自分を納得させるしかなかった。
「……わかった。甲洋が本当にそれでいいなら」
胸がモヤモヤと苦しくて、喉に小骨が刺さったような感覚が抜けない。だけど操はそれを押し殺し、無理やりにでも明るい笑顔を取り繕った。
「でも、デートって? なにをしたらいいんだろう?」
甲洋がどこかホッとした様子で表情を和らげる。
「来主に任せるよ。俺は人間の娯楽に疎いし、デートなんてしたことないから」
「そっか。うん、わかった。じゃあちょっと考えてみるよ!」
甲洋が自由でいられるのは、明日の深夜0時までらしい。つまりこうして一緒にいられるのは、たった一日だけということだ。
*
その夜、ベッドに入る時間になっても、甲洋は猫の姿に戻らなかった。向き合う形で横になり、操を抱き寄せて腕枕すると「本当はずっとこうしたかったんだ」と嬉しそうに笑った。
したいならすればよかったのに。どうしてしなかったのかと聞いても、彼は操の額に鼻をコツンと触れさせるだけで、なにも言おうとしなかった。そしてすぐに眠ってしまった。
(甲洋、よっぽど疲れてたんだろうな……)
ずっと監視されていて、身動きが取れなかったのだ。心を休める暇もなかったのだろう。一週間ぶりに見た彼は、こころなしかやつれて見えた。
白い首にはまる首輪は、ただ無機質で痛々しいだけだ。鎖で繋ぐための金具が、間接照明に照らされてやけに鋭い光を放っている。これが彼の自由を奪う。
操の気持ちは漠然とした不安で淀み続けていた。一度は納得したつもりだけれど、どうしても心から祝福する気が起こらない。
だけど甲洋は名誉なことだと言った。みながその座を狙っていると。そして選ばれた彼は王になり、多くの仲間に慕われながら幸福な一生を送るのだ。
(……寂しいけど、ちゃんとお祝いしなくちゃ。王様になれるなんて凄いことだもん。可愛いお姫様とも結婚して──)
ふいに胸がズキンと痛んだ。そのまま一向に治まることなく、どんどん痛みが増えていく。操はぎゅっと目を閉じて、その痛みに気づかないふりをした。
残された時間はあとわずか。暗い気持ちでいたら、せっかくの思い出づくりが台無しになる。いま大切なのは、彼とどんな時間を過ごすかを考えることだ。
(だけどデートって……ぼくだってしたことないからわかんないよ)
そもそもの話、デートというのは恋人同士でするものではないのか。自分たちはそんな関係じゃないはずだ。大切な、ただの友達。なのに、彼はどうしてわざわざデートなんて言い方をしたんだろう。特に深い意味はないのだろうか。あるいは。
(そういう意味でぼくのことが好き、とか?)
想像したら心臓がドキッと跳ねて、なぜだか頬が熱くなる。耳たぶまで赤くなるのを感じながら、操は慌ててその考えを振り払った。
そんなことあるわけないし、あっても困る。なにがどう困るのか、自分でもよく分からないけど。変に意識してしまったことが恥ずかしかった。
(なに考えてんだろ。甲洋は友達なのに、バカみたい!)
押し出すように息をつき、操は目の前にある甲洋の寝顔を改めて見つめた。そういえば、人間の姿をした彼が眠っているのを見るのは初めてだ。
物珍しさにふと片手を伸ばし、疲れが滲む頬に触れてみた。そしてなにを思ったのか、自分でもよく分からないまま、うっすらと開いている唇を親指でなぞる。
(あったかい……唇ってこんなに柔らかいんだ……)
操が知っているのは猫の唇の感触だけだ。わずか一瞬で終わるキスのあと、彼は人間に変身していた。だから操の唇は、人の姿をした甲洋の唇を知らない。
触れ合わせたらどんな心地がするのだろうかと、そう思ったときには自然と引き寄せられていた。ぼうっと意識を煙らせながら、無防備な甲洋の唇に。
触れるか触れないかの、ささやかなキスをしていた。
「……ッ!」
重なり合ったその瞬間、風船が割れたようにハッとして我に返った。とっさに引っ込めた手を強く握って、自分の胸に押しつける。
ドキン、ドキン、と高鳴る胸の鼓動が、頭の中にまで響き渡った。火をつけたみたいに身体が熱い。じんじんと痺れて熱をこもらせる唇に、操はただ茫然とするしかなかった。
ゆっくりと、少しずつ。まるで厚い雲が晴れていくように。
隠されていた心の形が姿を現す。この燃えるような胸の高ぶりを、息もつけないほどのときめきを、操は確かに知っている。
(ぼくは……)
蒼くて静かな月の夜。彼と見た、あの丘の上の景色。星空のような夜景と、宝石を散りばめたように輝く海。細められた瞳に、蕩けそうな甘い笑顔。初めてその名を呼んだときから──。
(ぼくは甲洋のことが、男の人として好きだったんだ)
だから素直に喜べなかった。祝福できなかった。お姫様に嫉妬していた。甲洋が他の誰かのものになると知って、ようやく気づいた。自分の気持ちに。
だけどあまりに遅すぎた。こんな気持ちに、今さら気づいてしまったところで。
(もうどうしようもないじゃんか……!)
優しい腕の温もりが、今はただ残酷だ。甲洋の鎖骨のあたりに目元をうずめて、操は唇を噛み締めながら涙をこらえることしかできなかった。
──それからどれくらい経っただろう。
朝方、糸が切れたように少しだけ眠った。カーテンの隙間から白い光がこぼれさす頃、頬を撫でられる感覚に目を覚ます。
「おはよう」
操を腕枕したままの甲洋が、目を細めて微笑んでいた。寝ぼけたように瞬きを繰り返す操の頬を、楽しそうに指先でくすぐっている。
朝の光景に彼がいるのは初めてで、少し呆気にとられてしまう。けれど幸せそうな笑顔を見ていたら、操も釣られて笑顔になった。
「おはよ、甲洋」
「うん」
切ない想いが胸の内からこみ上げる。喉の奥をチリチリ焦がすようなその痛みを、操は知らんぷりして遠ざけた。今日は二人で初めてのデートをするのだ。結局なにをすればいいかはまだ決まっていないが、今は目の前にある楽しいことだけを考えていたかった。
今までも、そしてこれからも。ずっと変わらず、彼と友達でいるために。
*
それから軽く朝食をとり、二人は部屋を出た。
ベージュのダッフルコートに身を包む操の横には、カーキ色のコートにグレーのマフラーをして、黒いつば広ハットをかぶった甲洋の姿がある。コートはロング丈のオーバーサイズで、身体の線と一緒にしっぽがすっぽり隠れている。
彼が身につけているものは、すべて魔法の力によるものだ。
どうにかして耳としっぽを隠そうと、クローゼットからあれこれ服を取りだす操の横で、彼はファッション雑誌をめくっていた。その中から適当に見繕ったものを、魔法で見事に再現して見せたのだ。
よく似合うよと手を叩いて喜ぶ操に、甲洋は少し照れくさそうに笑っていた。
なんにせよ、これなら外を歩いても問題ない。なんの気兼ねもなく、二人は晴れた空の下を並んで歩いた。
なんだか不思議で新鮮だ。いつもは夜にしか会えない甲洋と、こうして明るい日差しの中にいることが。
「じゃーんけーんぽん! やった! ぼくの勝ち!」
裸ん坊の銀杏並木で、じゃんけんにパーで勝った操は「パ、イ、ナ、ツ、プ、ル」と言いながら元気よく前に進んだ。
「こうやって先にゴールした方が勝ちだよ! じゃあ次、もう一回!」
じゃん、けん、ぽん。今度は甲洋がグーで勝つ。
「グーならグリコ! 3歩進んで!」
「わかった」
律儀にうなずいた甲洋が、小声で「グ、リ、コ」と言いながら大股で3歩進み、操の隣に並んでしまう。
「あっ、ズルいよ君! そんな全力で来ることないじゃん!」
「来主の歩幅が小さすぎるんじゃない?」
「言ったな!? ちょっと足が長いからって!」
リスのように頬を膨らませた操に、甲洋が肩を震わせて笑った。軽く握った右手を口元に添え、クツクツと笑い続ける姿につられ、操もつい噴きだしてしまう。
「あははっ! 楽しいね。子供のころを思いだすよ」
「来主はこうやって遊んでたんだね」
「うん、友達とね。こういう遊び、君はしたことないの?」
「しないよ。人間の子供たちがしてるのを見たことはあるけど」
「そうなんだ。よし、じゃあ続きしよ! じゃーんけーん」
まるで童心に帰ったようだ。ただの思いつきで始めたことだが、思いのほか興が乗ってしまった。長く伸びる並木道を、二人は最後まで競って進んだ。
「やったー! ぼくの勝ちだ!」
最後はじゃんけんに連続で勝利した操が先にゴールした。バンザイをして大喜びする操に、甲洋はふっと微笑み「おめでとう」と言った。
優しく目を細める笑い方に、頬がぽぅっと上気してしまう。この笑顔を平然と受け止めていた、かつての自分が信じられない。意識してしまうのをなんとか誤魔化そうとして、足元の小石をコツンと蹴った。
(これってデートしてることになるのかな? ぼくは楽しいからいいけど……)
操は甲洋の反応が気になった。デートといえば映画を見たり、雰囲気のあるレストランで食事をしたりするイメージがある。けれどいざ外に出てやっていることといえば、子供じみたじゃんけん遊びだ。結局どこへ行くかも決まっていないし、こんなことでいいのだろうか。
「ねぇ、君はどこか行きたいところとか、してみたいこととかないの? せっかくだし、普段できないこととかさ」
おずおずと上目遣いを向けた操に、甲洋はやんわりと首を振る。
「したいことなら今してる。来主がしたいことを一緒にするのが、俺のやりたいことだから」
「ほんとに? じゃあ、ちゃんと楽しいって思ってくれてる?」
「楽しいよ。すごく」
こんな簡単なことでいいのかと、つい拍子抜けしてしまう。だけどすぐに嬉しさがこみ上げて、操は顔いっぱいに屈託のない笑みを浮かべた。
「そっか! そういうことなら、今日はとことん付き合ってもらうからね!」
嬉しそうにうなずく甲洋。張り切って歩きだした操の歩調に、彼は寄り添うように合わせてくれる。歩幅の違いを見せつけられた後だけに、そのさりげなさがくすぐったい。
抑えきれないドキドキを持て余しながらも、操は甲洋と共に昼間の町を気ままに歩いた。
好きなブランドの靴や洋服を見てまわり、目についた喫茶店に片っ端から入って、スイーツを食べまくる。焼き立てのワッフルにフルーツタルト。苺のクリームソーダは色鮮やかで、豆から挽いたコーヒーは、インスタントとはやっぱり違った。
あーだこーだとよく喋る操に、甲洋はずっと楽しそうに相槌を打っていた。ときどき口の横についたクリームを拭ってもくれる。あまりにも甲斐甲斐しいものだから、わざと鼻の先にクリームをつけて見せたら、彼は珍しく声をあげて笑いながらもナプキンで拭ってくれた。
穏やかに流れるときを、二人は心から満喫した。こんな時間がずっと続けばいいのにと、そう願うほどに操の口数はどんどん増えるし、甲洋は決して笑みを絶やさなかった。
「おいしかったー! もうお腹いっぱいだよ!」
帰り道。空は徐々に雲行きが怪しくなり、夕暮れ時の町を鉛色に沈めている。
辺りはぼんやりと薄暗く、吐く息は淡くて白い。裸ん坊の銀杏並木を歩きながら言った操に、甲洋も苦笑しながら「俺も」と言った。
「今夜はもうなにも食べられそうにないや。お腹がパンクしちゃうもん」
「そうだね」
「君はどれが一番好きだった? ぼくはカヌレ! 抹茶とキャラメルのさ」
「うん、俺も好きだよ。おいしかった」
「今度ぼくも作ってみようかな? そしたら──」
甲洋に食べてほしいと、そう言いかけて結局やめた。
だってもう彼のためにお菓子作りをすることはないのだ。何を作ろうかと、ウキウキしながら考えを巡らせることも。
「来主?」
ふと足を止めてしまった操に、甲洋が気づかわしげな視線を向けてきた。
「あっ、えっと……なんでもないよ。ごめん」
「……うん」
不自然な沈黙に、ギクシャクとした空気が流れはじめる。目を伏せた甲洋に、操もまた目をそらした。
(これじゃダメだ……もうあんまり時間がないのに……!)
操は甲洋への気持ちを自覚した。だけど朝日の中でその笑顔を見た瞬間、蓋をしようと決めたのだ。今日は思いきり楽しんで、最後は笑顔で送りだそうと。きっと甲洋もそれを望んでいるはずだから。
「ねぇ」
「なに?」
「もうちょっと付き合ってもらっていい? 行ってみたいお店があるんだ」
それは取ってつけたような、ただの思いつきでしかなかった。部屋に帰ればデートが終わる。そうしたら、きっと今よりもっと別れを意識してしまいそうで。だから少しでも今を引き伸ばしたかった。
甲洋の「喫茶店?」という問いかけに、操は少し焦りながら思考を巡らせる。今日一日で、この辺りの喫茶店は行き尽くしてしまった。腹具合にも余裕がない。
「えっと、えっと……あっ、そうだ! 雑貨屋さん! 前から気になってたんだけど、なかなか行く機会がなくて……ダメ?」
甲洋がゆるゆると首を振る。
「ダメなわけない。来主が行きたい場所に、俺も行きたいよ」
「ほんと!?」
うなずいた甲洋に、操はパッと花が咲いたように表情を明るくした。
「ありがとう! じゃあ行こう!」
甲洋の手を握り、グイグイと引っ張っていま来た道を引き返す。彼は一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐに目元をやわらげた。
「甲洋、こっち! ほら早く!」
「わかったから。焦ると転ぶよ」
「手を繋いでたら平気だよ! だって君が助けてくれるもん! そうでしょ?」
操の言葉に、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。その笑顔が、月夜の丘で見たものと重なる。あの頃は、別れの日が来るなんて想像すらしていなかった。
ふいに鼻の先がツンと痛んだ。泣くもんかと前を向き、甲洋の手を強く握りしめる。だけど同じだけの強さで握り返されると、やっぱり少しだけ、涙で景色が滲んでしまった。
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「で、デート?」
甲洋の頼みに、操は目を丸くして素っ頓狂な声をあげた。
「自由でいられるのは今だけだから。最後に来主と思い出づくりがしたいんだ」
ダメかな、と耳をしょんぼりさせる姿に慌てて首を振る。
「だ、ダメじゃないよ! ダメじゃないけど……」
甲洋の頼みなら、なんでも聞いてやりたいと思う。しかしそれはそれとして、操はどうしても腑に落ちないものを感じていた。
お姫様と結婚して、新しい王様になる。字面だけなら、まるでおとぎ話のハッピーエンドだ。けれど首輪をつけられ、一週間も監視されていた上に、王になれば自由はないと言う。そこに彼の意思はあるのだろうか。
「甲洋はそれでいいの? 誰かに命令されて結婚するとか、王様になるとか……それは、本当に君が望んでることなの?」
「来主……」
やっぱりぼくのせいだと、操は下唇を噛み締めた。
甲洋が掟を破ったのは、すべて自分を助けるためだ。落ち込んでいたときは慰めてくれた。危ないところを救ってくれた。そんなことさえしなければ、彼は今までもこれからも自由でいられたはずなのに。
「……逃げよう、甲洋」
「え?」
険しい表情で甲洋を見上げ、その両肩を強く掴んだ。
「一緒に逃げるんだよ! 大丈夫、ぼくが君を守るから!」
二人一緒なら、きっとどこへだって行ける。次は自分が甲洋を助ける番だ。
すると彼は一瞬だけ泣きそうに瞳を揺らした。けれどすぐに何事もなかったかのように笑顔を見せる。
「来主はなにか勘違いしてるよ」
「勘違い……?」
「王になるということは、ケット・シーにとって最大の名誉だ。誰もがその座を狙ってる」
「……君も?」
その通りだと、彼は大きく頷いた。
「だから王の決定に異存はない。お姫様も可愛い子だしね」
甲洋はヒョイと肩をすくめると、軽くウィンクして見せた。およそ彼らしくないおどけ方には、違和感しかない。
「なんか変だよ。君っぽくない」
「浮かれてるんだよ」
操はなおも言い募ろうとして口を開きかけたが、なにも言葉が出てこなかった。
所詮、人間の自分にケット・シーの世界のことなど分からない。彼がこれほど言うのだから、きっと願ってもないことなのだろう。他人が口出しする権利はないし、邪魔する道理だってない。
むしろもっと喜ぶべきなのだと、自分を納得させるしかなかった。
「……わかった。甲洋が本当にそれでいいなら」
胸がモヤモヤと苦しくて、喉に小骨が刺さったような感覚が抜けない。だけど操はそれを押し殺し、無理やりにでも明るい笑顔を取り繕った。
「でも、デートって? なにをしたらいいんだろう?」
甲洋がどこかホッとした様子で表情を和らげる。
「来主に任せるよ。俺は人間の娯楽に疎いし、デートなんてしたことないから」
「そっか。うん、わかった。じゃあちょっと考えてみるよ!」
甲洋が自由でいられるのは、明日の深夜0時までらしい。つまりこうして一緒にいられるのは、たった一日だけということだ。
*
その夜、ベッドに入る時間になっても、甲洋は猫の姿に戻らなかった。向き合う形で横になり、操を抱き寄せて腕枕すると「本当はずっとこうしたかったんだ」と嬉しそうに笑った。
したいならすればよかったのに。どうしてしなかったのかと聞いても、彼は操の額に鼻をコツンと触れさせるだけで、なにも言おうとしなかった。そしてすぐに眠ってしまった。
(甲洋、よっぽど疲れてたんだろうな……)
ずっと監視されていて、身動きが取れなかったのだ。心を休める暇もなかったのだろう。一週間ぶりに見た彼は、こころなしかやつれて見えた。
白い首にはまる首輪は、ただ無機質で痛々しいだけだ。鎖で繋ぐための金具が、間接照明に照らされてやけに鋭い光を放っている。これが彼の自由を奪う。
操の気持ちは漠然とした不安で淀み続けていた。一度は納得したつもりだけれど、どうしても心から祝福する気が起こらない。
だけど甲洋は名誉なことだと言った。みながその座を狙っていると。そして選ばれた彼は王になり、多くの仲間に慕われながら幸福な一生を送るのだ。
(……寂しいけど、ちゃんとお祝いしなくちゃ。王様になれるなんて凄いことだもん。可愛いお姫様とも結婚して──)
ふいに胸がズキンと痛んだ。そのまま一向に治まることなく、どんどん痛みが増えていく。操はぎゅっと目を閉じて、その痛みに気づかないふりをした。
残された時間はあとわずか。暗い気持ちでいたら、せっかくの思い出づくりが台無しになる。いま大切なのは、彼とどんな時間を過ごすかを考えることだ。
(だけどデートって……ぼくだってしたことないからわかんないよ)
そもそもの話、デートというのは恋人同士でするものではないのか。自分たちはそんな関係じゃないはずだ。大切な、ただの友達。なのに、彼はどうしてわざわざデートなんて言い方をしたんだろう。特に深い意味はないのだろうか。あるいは。
(そういう意味でぼくのことが好き、とか?)
想像したら心臓がドキッと跳ねて、なぜだか頬が熱くなる。耳たぶまで赤くなるのを感じながら、操は慌ててその考えを振り払った。
そんなことあるわけないし、あっても困る。なにがどう困るのか、自分でもよく分からないけど。変に意識してしまったことが恥ずかしかった。
(なに考えてんだろ。甲洋は友達なのに、バカみたい!)
押し出すように息をつき、操は目の前にある甲洋の寝顔を改めて見つめた。そういえば、人間の姿をした彼が眠っているのを見るのは初めてだ。
物珍しさにふと片手を伸ばし、疲れが滲む頬に触れてみた。そしてなにを思ったのか、自分でもよく分からないまま、うっすらと開いている唇を親指でなぞる。
(あったかい……唇ってこんなに柔らかいんだ……)
操が知っているのは猫の唇の感触だけだ。わずか一瞬で終わるキスのあと、彼は人間に変身していた。だから操の唇は、人の姿をした甲洋の唇を知らない。
触れ合わせたらどんな心地がするのだろうかと、そう思ったときには自然と引き寄せられていた。ぼうっと意識を煙らせながら、無防備な甲洋の唇に。
触れるか触れないかの、ささやかなキスをしていた。
「……ッ!」
重なり合ったその瞬間、風船が割れたようにハッとして我に返った。とっさに引っ込めた手を強く握って、自分の胸に押しつける。
ドキン、ドキン、と高鳴る胸の鼓動が、頭の中にまで響き渡った。火をつけたみたいに身体が熱い。じんじんと痺れて熱をこもらせる唇に、操はただ茫然とするしかなかった。
ゆっくりと、少しずつ。まるで厚い雲が晴れていくように。
隠されていた心の形が姿を現す。この燃えるような胸の高ぶりを、息もつけないほどのときめきを、操は確かに知っている。
(ぼくは……)
蒼くて静かな月の夜。彼と見た、あの丘の上の景色。星空のような夜景と、宝石を散りばめたように輝く海。細められた瞳に、蕩けそうな甘い笑顔。初めてその名を呼んだときから──。
(ぼくは甲洋のことが、男の人として好きだったんだ)
だから素直に喜べなかった。祝福できなかった。お姫様に嫉妬していた。甲洋が他の誰かのものになると知って、ようやく気づいた。自分の気持ちに。
だけどあまりに遅すぎた。こんな気持ちに、今さら気づいてしまったところで。
(もうどうしようもないじゃんか……!)
優しい腕の温もりが、今はただ残酷だ。甲洋の鎖骨のあたりに目元をうずめて、操は唇を噛み締めながら涙をこらえることしかできなかった。
──それからどれくらい経っただろう。
朝方、糸が切れたように少しだけ眠った。カーテンの隙間から白い光がこぼれさす頃、頬を撫でられる感覚に目を覚ます。
「おはよう」
操を腕枕したままの甲洋が、目を細めて微笑んでいた。寝ぼけたように瞬きを繰り返す操の頬を、楽しそうに指先でくすぐっている。
朝の光景に彼がいるのは初めてで、少し呆気にとられてしまう。けれど幸せそうな笑顔を見ていたら、操も釣られて笑顔になった。
「おはよ、甲洋」
「うん」
切ない想いが胸の内からこみ上げる。喉の奥をチリチリ焦がすようなその痛みを、操は知らんぷりして遠ざけた。今日は二人で初めてのデートをするのだ。結局なにをすればいいかはまだ決まっていないが、今は目の前にある楽しいことだけを考えていたかった。
今までも、そしてこれからも。ずっと変わらず、彼と友達でいるために。
*
それから軽く朝食をとり、二人は部屋を出た。
ベージュのダッフルコートに身を包む操の横には、カーキ色のコートにグレーのマフラーをして、黒いつば広ハットをかぶった甲洋の姿がある。コートはロング丈のオーバーサイズで、身体の線と一緒にしっぽがすっぽり隠れている。
彼が身につけているものは、すべて魔法の力によるものだ。
どうにかして耳としっぽを隠そうと、クローゼットからあれこれ服を取りだす操の横で、彼はファッション雑誌をめくっていた。その中から適当に見繕ったものを、魔法で見事に再現して見せたのだ。
よく似合うよと手を叩いて喜ぶ操に、甲洋は少し照れくさそうに笑っていた。
なんにせよ、これなら外を歩いても問題ない。なんの気兼ねもなく、二人は晴れた空の下を並んで歩いた。
なんだか不思議で新鮮だ。いつもは夜にしか会えない甲洋と、こうして明るい日差しの中にいることが。
「じゃーんけーんぽん! やった! ぼくの勝ち!」
裸ん坊の銀杏並木で、じゃんけんにパーで勝った操は「パ、イ、ナ、ツ、プ、ル」と言いながら元気よく前に進んだ。
「こうやって先にゴールした方が勝ちだよ! じゃあ次、もう一回!」
じゃん、けん、ぽん。今度は甲洋がグーで勝つ。
「グーならグリコ! 3歩進んで!」
「わかった」
律儀にうなずいた甲洋が、小声で「グ、リ、コ」と言いながら大股で3歩進み、操の隣に並んでしまう。
「あっ、ズルいよ君! そんな全力で来ることないじゃん!」
「来主の歩幅が小さすぎるんじゃない?」
「言ったな!? ちょっと足が長いからって!」
リスのように頬を膨らませた操に、甲洋が肩を震わせて笑った。軽く握った右手を口元に添え、クツクツと笑い続ける姿につられ、操もつい噴きだしてしまう。
「あははっ! 楽しいね。子供のころを思いだすよ」
「来主はこうやって遊んでたんだね」
「うん、友達とね。こういう遊び、君はしたことないの?」
「しないよ。人間の子供たちがしてるのを見たことはあるけど」
「そうなんだ。よし、じゃあ続きしよ! じゃーんけーん」
まるで童心に帰ったようだ。ただの思いつきで始めたことだが、思いのほか興が乗ってしまった。長く伸びる並木道を、二人は最後まで競って進んだ。
「やったー! ぼくの勝ちだ!」
最後はじゃんけんに連続で勝利した操が先にゴールした。バンザイをして大喜びする操に、甲洋はふっと微笑み「おめでとう」と言った。
優しく目を細める笑い方に、頬がぽぅっと上気してしまう。この笑顔を平然と受け止めていた、かつての自分が信じられない。意識してしまうのをなんとか誤魔化そうとして、足元の小石をコツンと蹴った。
(これってデートしてることになるのかな? ぼくは楽しいからいいけど……)
操は甲洋の反応が気になった。デートといえば映画を見たり、雰囲気のあるレストランで食事をしたりするイメージがある。けれどいざ外に出てやっていることといえば、子供じみたじゃんけん遊びだ。結局どこへ行くかも決まっていないし、こんなことでいいのだろうか。
「ねぇ、君はどこか行きたいところとか、してみたいこととかないの? せっかくだし、普段できないこととかさ」
おずおずと上目遣いを向けた操に、甲洋はやんわりと首を振る。
「したいことなら今してる。来主がしたいことを一緒にするのが、俺のやりたいことだから」
「ほんとに? じゃあ、ちゃんと楽しいって思ってくれてる?」
「楽しいよ。すごく」
こんな簡単なことでいいのかと、つい拍子抜けしてしまう。だけどすぐに嬉しさがこみ上げて、操は顔いっぱいに屈託のない笑みを浮かべた。
「そっか! そういうことなら、今日はとことん付き合ってもらうからね!」
嬉しそうにうなずく甲洋。張り切って歩きだした操の歩調に、彼は寄り添うように合わせてくれる。歩幅の違いを見せつけられた後だけに、そのさりげなさがくすぐったい。
抑えきれないドキドキを持て余しながらも、操は甲洋と共に昼間の町を気ままに歩いた。
好きなブランドの靴や洋服を見てまわり、目についた喫茶店に片っ端から入って、スイーツを食べまくる。焼き立てのワッフルにフルーツタルト。苺のクリームソーダは色鮮やかで、豆から挽いたコーヒーは、インスタントとはやっぱり違った。
あーだこーだとよく喋る操に、甲洋はずっと楽しそうに相槌を打っていた。ときどき口の横についたクリームを拭ってもくれる。あまりにも甲斐甲斐しいものだから、わざと鼻の先にクリームをつけて見せたら、彼は珍しく声をあげて笑いながらもナプキンで拭ってくれた。
穏やかに流れるときを、二人は心から満喫した。こんな時間がずっと続けばいいのにと、そう願うほどに操の口数はどんどん増えるし、甲洋は決して笑みを絶やさなかった。
「おいしかったー! もうお腹いっぱいだよ!」
帰り道。空は徐々に雲行きが怪しくなり、夕暮れ時の町を鉛色に沈めている。
辺りはぼんやりと薄暗く、吐く息は淡くて白い。裸ん坊の銀杏並木を歩きながら言った操に、甲洋も苦笑しながら「俺も」と言った。
「今夜はもうなにも食べられそうにないや。お腹がパンクしちゃうもん」
「そうだね」
「君はどれが一番好きだった? ぼくはカヌレ! 抹茶とキャラメルのさ」
「うん、俺も好きだよ。おいしかった」
「今度ぼくも作ってみようかな? そしたら──」
甲洋に食べてほしいと、そう言いかけて結局やめた。
だってもう彼のためにお菓子作りをすることはないのだ。何を作ろうかと、ウキウキしながら考えを巡らせることも。
「来主?」
ふと足を止めてしまった操に、甲洋が気づかわしげな視線を向けてきた。
「あっ、えっと……なんでもないよ。ごめん」
「……うん」
不自然な沈黙に、ギクシャクとした空気が流れはじめる。目を伏せた甲洋に、操もまた目をそらした。
(これじゃダメだ……もうあんまり時間がないのに……!)
操は甲洋への気持ちを自覚した。だけど朝日の中でその笑顔を見た瞬間、蓋をしようと決めたのだ。今日は思いきり楽しんで、最後は笑顔で送りだそうと。きっと甲洋もそれを望んでいるはずだから。
「ねぇ」
「なに?」
「もうちょっと付き合ってもらっていい? 行ってみたいお店があるんだ」
それは取ってつけたような、ただの思いつきでしかなかった。部屋に帰ればデートが終わる。そうしたら、きっと今よりもっと別れを意識してしまいそうで。だから少しでも今を引き伸ばしたかった。
甲洋の「喫茶店?」という問いかけに、操は少し焦りながら思考を巡らせる。今日一日で、この辺りの喫茶店は行き尽くしてしまった。腹具合にも余裕がない。
「えっと、えっと……あっ、そうだ! 雑貨屋さん! 前から気になってたんだけど、なかなか行く機会がなくて……ダメ?」
甲洋がゆるゆると首を振る。
「ダメなわけない。来主が行きたい場所に、俺も行きたいよ」
「ほんと!?」
うなずいた甲洋に、操はパッと花が咲いたように表情を明るくした。
「ありがとう! じゃあ行こう!」
甲洋の手を握り、グイグイと引っ張っていま来た道を引き返す。彼は一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐに目元をやわらげた。
「甲洋、こっち! ほら早く!」
「わかったから。焦ると転ぶよ」
「手を繋いでたら平気だよ! だって君が助けてくれるもん! そうでしょ?」
操の言葉に、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。その笑顔が、月夜の丘で見たものと重なる。あの頃は、別れの日が来るなんて想像すらしていなかった。
ふいに鼻の先がツンと痛んだ。泣くもんかと前を向き、甲洋の手を強く握りしめる。だけど同じだけの強さで握り返されると、やっぱり少しだけ、涙で景色が滲んでしまった。
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06
最初はおかしな人間だとしか思わなかった。
会えば自分のことを『コーヒー』なんて呼んで、嬉しそうに声をかけてくる操のことを。
『こんにちはコーヒー、どこに行くの? 今日は天気がいいね』
『あっ、コーヒー! 昨日は風が強かったけど、大丈夫だった?』
『ほらおいで、怖くないよ……あっ、行っちゃったぁ……』
猫好きの人間はごまんといるが、彼はとりわけしつこかった。どんなに無視をしても、会えば懲りずに話しかけてくる。
けれど甲洋はずっと野良猫として生きてきた。人間と深く関わるつもりはなかったし、本能的な恐れもあった。人に捨てられ、野良になった猫たちの姿もさんざん見てきた。どうせ裏切られるなら、最初から信じないほうがいい。
この少年だって例外じゃない。いずれは飽きて見向きもしなくなるのだろうと、そう思っていた。だから衝撃を受けたのだ。野良猫のために涙を流すその姿に。
あの部屋で目を覚ましたとき、甲洋はひどく混乱して攻撃的になっていた。とつぜんヌッと顔を覗かせた人間が、いつも話しかけてくるあの少年だと気づいたときには、その白い手の甲に爪を走らせていた。
けれど彼はそんな甲洋を労った。目にいっぱいの涙を浮かべ、寄り添おうとしてくれた。その涙には、どこか不思議な魔力があったように思う。野良猫の頑なな警戒心を、いともたやすく解いてしまうほどの。
あの瞬間、甲洋は魔法にかかってしまった。きっと操だけが使える、優しくて甘い魔法に。
それ以来、自然と彼のもとに足が向くようになった。気づけば操のことばかり考えている。彼のことをもっと知りたくて、笑った顔がもっと見たくて。
少し上ずった無邪気な声や、腕いっぱいに抱きしめてくれるその体温が。甲洋にとって、かけがえのないものになっていた。
そして欲が生まれてしまった。いつしか自分のことをオスとして見て欲しいと、そう願うようになっていた。だから変身したのだ。人の姿に。
しかしどうしてもこの身に流れる猫の血が邪魔をして、耳としっぽだけは消せなかった。様々な方法を探り、何度も試してみたけれど、これが甲洋の限界だった。
こんな中途半端な姿では、いつまでたっても意識すらしてもらえない。密かに焦りを覚えていた甲洋に、あるとき彼はこう言った。
『これからもずっと一緒にいようね!』
と──。
それは甲洋に胸が膨らむような喜びをもたらした。そして同時に気がついた。
たとえ振り向いてもらえなくても、いつまでもこの笑顔を守っていられたら、好きでいられたら、こんなに幸せなことはない。
操とずっと一緒にいること。それが自分にとって、何よりの願いだということに。
*
町外れの古びた廃神社。
鈴村神社と記されたその建物は、数十年前に別所へ遷宮されて以来、朽ちた廃屋になっている。そこは現在、甲洋が属する群れの集会所になっていた。
「おお、来たか! 遅かったな甲洋。報告は俺たちでしといてやったぞ」
「やったわね! これで王は必ずあなたを指名するはずよ!」
星も月も見えない夜。
苔むした石段の中腹で、中年の猫夫婦が嬉しそうな声をあげている。
オスは白髪交じりの黒猫、正浩。三毛のメスは諒子という。二本足で言葉を喋る二匹の猫は、まぎれもなくケット・シーであり甲洋の両親でもあった。
「……やっぱり父さんと母さんだったんだね」
二匹から数段下に立ち尽くす甲洋が、複雑な面持ちで彼らを見上げる。さっきの公園で草むらにいたのは、この二匹だったのだ。
軽率だったとは思う。あの場所は群れのテリトリーで、誰に見られてもおかしくはなかった。けれどよりにもよって、この二匹に見られていたなんて。
「水臭い子ね。こんな大事なことを隠しているなんて!」
「まったくだ。てっきりハズレだとばかり思っていたら……まさか俺たちの息子が、純血に劣らない魔力の持ち主だったとはなぁ!」
上機嫌で笑う両親から目をそらし、肉球に爪が食い込むほど手を握りしめた。
ケット・シーの中には、まれに純血に匹敵する強い魔力を持って生まれるものがいる。隔世遺伝というものだ。何世代も前のケット・シーの能力を受け継いで、甲洋は生まれてきた。
けれどそのことは、ずっと隠して生きてきた。特に親しい一部の友人──白猫の一騎と茶色猫の総士だ──を除いては。
理由は単純。次の『王』に選ばれないため。
代々、王は自らが率いる群れの中から、もっとも優秀な者を選んで次の王に指名してきた。それはケット・シーにとって名誉なことだ。
しかし甲洋は地位や権力に興味がなかった。自分はそんな器じゃない。群れを率いていく責任と重圧に縛られるより、野良猫として生きるほうがずっと気楽で、性に合っていると思っていたから。
けれど今は、他にもっと大きな理由がある。
それは操の存在だ。王になれば、もう彼に会いに行くことはできなくなるだろう。しかも王の娘である姫君と結婚させられ、子供を作らなければいけなくなる。
甲洋にとって、それは考えられないことだった。ずっと一緒にいたいのも、結ばれたいと願うのも、操以外にはありえない。
「王は大層お喜びだったぞ。もう歳だからなぁ。とっとと引退したいんだろう」
「娘も年頃ですものねぇ。よかったわね甲洋、気立てのいいお姫様だもの」
「父さん母さん、俺は──」
「これで俺たちも安泰だ! 邪魔な野良猫共を追いだして、餌場を独占できるんだからな!」
彼らは甲洋の話に耳を傾けようともせず、勝手に盛り上がっている。
息子を王にすることで、裏で実権を握ろうとしているのだ。おおかた自分たちの都合がいいように、掟を捻じ曲げる気でいるのだろう。欲深い彼らは、野良猫たちの排除を目論んでいる。
ケット・シーの掟の中には、
『魔法を悪用し、猫に仇をなしてはいけない』
というものがある。
ケット・シーは猫の妖精だ。猫たちを守り、調和を重んじこそすれ、決して危害を加えてはいけない。
しかし数年前、二匹はその掟を破った。
彼らは群れで共有している餌場だけでは足りず、魔法を使ってよその野良猫たちから餌を奪っていた。力の弱いケット・シーでも、普通の猫を脅かして追い払うくらいのことはできる。そうやって文字通り、私腹を肥やしていた。
しかしあるとき、その悪事が王に知られてしまった。
二匹は罰として魔力を奪われ、永遠に魔法が使えなくなってしまった。もはや二本足で立って言葉を話せるだけの、ただの化け猫と変わらない。
ケット・シーであることに誇りを持ち、普通の猫たちを見下していた彼らにとって、それは耐え難い屈辱でしかなかっただろう。いっそう猫たちを疎ましく思うようになったのだ。
「さぁ甲洋、王様が首を長くしてお待ちよ。早く行きなさい」
「お姫様も待ってるだろうしな。本当に自慢の息子だよ、お前は」
正浩が階段を下りてきて、甲洋の背中をドンッと叩く。虚しさが込み上げた。彼らは一度だって甲洋をまともに扱ったことがない。
しかしこんな両親でも、幼い頃は慕っていたのだ。大人になってからも、その情は捨てきれなかった。
操と出会ったあの日。
甲洋は誤ってよその縄張りに足を踏み入れたわけではない。性懲りもなく野良猫の餌場で盗み食いしようとしていた二匹を、ボス猫から庇うためだった。
彼らは助けに入った息子を囮にして、自分たちだけ逃げだした。甲洋は代わりに制裁を受けたにすぎない。
その後、操に救われたおかげで一命をとりとめた甲洋を見ても、彼らは「なんだ、生きてたのか」と、のんきに嘲笑うだけだった。
息子に情があっても、この両親にそんなものはない。分かっていたはずなのに。
甲洋は二匹の顔を見ないよう、うつむきながら石段をのぼった。倒壊した鳥居の向こうには、朽ちた拝殿が鎮座している。
そこで王が待っているのだ。可愛い年頃の一人娘を、傍らに置きながら。
*
一週間後の午前0時。甲洋は操の部屋を訪れた。
カリカリと窓枠を引っ掻くと、即座に戸が開かれる。甲洋はこの瞬間がとても好きだった。いらっしゃい、と言って迎えてくれる操の笑顔が。
「甲洋……!」
彼は甲洋をひと目見た瞬間、瞳に大粒の涙を浮かべた。顔をくしゃりと歪め、床に崩れ落ちるようにぺたりと座りこみ、きつく甲洋を抱きしめる。
「よかった……もう来てくれないんじゃないかって……!」
「ごめん来主。心配かけて」
甲洋は毛むくじゃらの猫の手で、彼の脇腹をぽふぽふと軽く叩いた。
彼は笑ってくれるどころか、身を震わせて泣くばかりだった。ずっと不安だったのだろう。最後にあんな別れ方をして、一週間も姿を現さなかったのだから。
操は甲洋がここを訪れなかった理由に、うすうす気がついていたらしい。
「甲洋、王様にバレちゃったんでしょ? だからずっと来られなかったんでしょ? ぼくのせいで、……?」
そのとき、操がなにかに気がついた。
「これ、なに?」
彼は両手で甲洋の首の毛を掻き分け、そこにあるものを見て顔をしかめた。
「首輪……?」
それは黒い無機質な首輪だった。繋ぎ目が一切なく、鎖で繋ぐための銀の輪っかだけが取り付けられている。
「これ、穴もなにもない。伸びる素材でもないし、どうやってはめたの?」
「これは魔法の首輪だよ。なんでもないから、気にしないで」
「なんでもなくないじゃん! どうしてこんなのつけてるの?」
よからぬものを感じとった操が、不信そうに眉を寄せている。
「ちょっとね。だけどなにも問題ないよ。今まで通り魔法だって使えるし」
「……ぼく、これ好きじゃない。なんか嫌だ」
彼は納得がいかない様子で首輪を睨みつけている。
甲洋は少しでもいつも通りであることを主張するために、人間の姿に変身しようとした。するとキラキラとした光に操がハッとして、そくざに甲洋の唇にキスをする。驚いたが、そのまま条件反射で人間の姿へと変身した。
「……別に、キスしなくてもいいって言ったのに」
「だって、変身するときはこれしなきゃいけない決まりだし」
「だから別に決まりってわけじゃ……」
赤くなってモゴモゴしながらあぐらをかく。
種明かしはしたはずなのに。キスで変身するなんて、ロマンチストが見る恥ずかしい夢でしかない。ただ操とキスがしたかっただけという、身も蓋もない下心も確かに存在していた。
(むしろそっちの方が大きかったよな……)
つくづく愚かだ。カッコ悪いなぁなんて思いながら、操が変わらずキスをしてくれたことが嬉しくて、しっぽは上向きに伸びている。
結局いつも通りであることに安堵しているのは、自分自身でしかないのだった。
「首輪、人間になってもぴったりだ……本当に魔法の首輪なんだね……」
変身後のサイズに合わせて変化した首輪に、操は感心したような声をあげた。しかしすぐにまた表情を曇らせる。
「でも、なんで急に首輪なんて……それに……」
今までどこでどうしていたのか。聞きたいことが山ほどあるのだろう。その瞳は疑問と不安に揺れていた。
「来たくても来られなかったんだ。厳重に監視されていたから」
「監視……!?」
すっかり顔色を失くした操が、痛ましい表情でうつむいた。
「ぼくのせいだ。ぼくを助けるために変身したから、甲洋は……」
「それは違う。ぜんぶ俺が勝手にやったことだ。来主が気に病む必要はない」
「でもっ」
「俺は大丈夫だから。だけど、あまり時間がない」
「時間……?」
そう、甲洋にはあまり時間が残されていない。
今日ここを訪れたのは、彼に別れを告げるためだ。そのために王に必死で頼み込み、一日だけ時間をもらった。
リミットは明日の深夜0時まで。それを過ぎたら、もう甲洋に自由はない。
「婚約したんだ。ケット・シーの姫と」
なんでもないことのように告げた甲洋に、操が目を丸くしてポカンとする。
「この首輪はその証だよ。婚約指輪のようなものさ」
「お姫様と、婚約……? 結婚するってこと?」
甲洋がうなずく。
「王に認められたんだ。俺は他のケット・シーより強い魔力を持っている。だから次の王に相応しいってね」
一週間前の夜──。
謁見に訪れた甲洋に、王は姫と結婚して新しい王になることを命じた。そうすれば、掟を破って人間に正体を知られたことを不問にすると。
けれど甲洋は拒絶した。不問にされなくてもいい。どんな罰でも受けるつもりでいる。重大な掟破りをした自分が、王になっていいはずがないと。
しかし王はそれを許さなかった。甲洋ほどの逸材を逃すわけにはいかない。なにより姫がそれを望んでいるのだと。
王の隣で、ケット・シーの姫は恥ずかしそうに目を伏せていた。ペルシャのような長毛で、気品のある美しい猫。彼女はずっと甲洋に淡い恋心を寄せていた。
優秀なケット・シーの血を残すため、可愛い娘のため。甲洋にはなんとしても次の王になってもらうと、王は言った。そしてさらにこう続けたのだ。
正体を知ってしまった人間もまた、ただでは済まされないと──。
ゾッとした。その意味が理解できないほど愚かではない。王が言った『不問にする』という言葉には、操への処遇も含まれていたのだ。
両親は操の顔を見ている。探しだすのは簡単だろう。彼を守るために、甲洋がするべきことは一つだった。すべてを受け入れること。それだけだ。
「甲洋……?」
ずっと黙り込んでいた甲洋に、不安そうな眼差しが向けられる。
操はなにも知らなくていい。知ればもっと自分を責めるだろう。甲洋が王になることを決めたのは、他の誰でもない。自分のためだ。どんなことがあろうとも、操を守ることができるなら。
(それで充分、幸せだ)
安心させるようにふっと微笑み、彼を抱き寄せると腕の中に閉じ込めた。
まだ未完成な身体だと、甲洋は思う。猫の姿でいたときは、自分の方が抱きしめられる立場だった。だけど人間の姿に変身して、初めて操を抱きしめたとき、こんなに頼りなかったのかと胸が締めつけられた。そして今も。
(好きな子と、ただずっと一緒にいたかっただけなのに)
そう願ってしまったせいで、永遠に自由を奪われることになってしまった。あまりにも皮肉な話だが、もう決めたことだ。
「王になれば、その責任は重大だ。だからもう、こんなふうに来主に会いに来ることはできなくなる」
「ッ、そんな……!?」
操の身体がムチで打たれたようにビクンと跳ねる。なにかを言いかける唇に、甲洋はそっと指を押し当てた。
「だからその前に、一つだけ俺の頼みを聞いてほしい」
操は大きな瞳にいっぱいの涙を浮かべていた。あの日と同じように。彼は甲洋のために胸を痛めて、泣いている。この涙に、どうしようもなく惹かれてしまった。
目尻を拭ってやりながら、懐かしさに目を細める。きっとこれが最後だから。
「俺と、デートをしてほしい」
今日はずっとこの姿のままでいよう。二度とこうして会えなくなる前に。ただの普通の男として、操との思い出がほしかった。
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最初はおかしな人間だとしか思わなかった。
会えば自分のことを『コーヒー』なんて呼んで、嬉しそうに声をかけてくる操のことを。
『こんにちはコーヒー、どこに行くの? 今日は天気がいいね』
『あっ、コーヒー! 昨日は風が強かったけど、大丈夫だった?』
『ほらおいで、怖くないよ……あっ、行っちゃったぁ……』
猫好きの人間はごまんといるが、彼はとりわけしつこかった。どんなに無視をしても、会えば懲りずに話しかけてくる。
けれど甲洋はずっと野良猫として生きてきた。人間と深く関わるつもりはなかったし、本能的な恐れもあった。人に捨てられ、野良になった猫たちの姿もさんざん見てきた。どうせ裏切られるなら、最初から信じないほうがいい。
この少年だって例外じゃない。いずれは飽きて見向きもしなくなるのだろうと、そう思っていた。だから衝撃を受けたのだ。野良猫のために涙を流すその姿に。
あの部屋で目を覚ましたとき、甲洋はひどく混乱して攻撃的になっていた。とつぜんヌッと顔を覗かせた人間が、いつも話しかけてくるあの少年だと気づいたときには、その白い手の甲に爪を走らせていた。
けれど彼はそんな甲洋を労った。目にいっぱいの涙を浮かべ、寄り添おうとしてくれた。その涙には、どこか不思議な魔力があったように思う。野良猫の頑なな警戒心を、いともたやすく解いてしまうほどの。
あの瞬間、甲洋は魔法にかかってしまった。きっと操だけが使える、優しくて甘い魔法に。
それ以来、自然と彼のもとに足が向くようになった。気づけば操のことばかり考えている。彼のことをもっと知りたくて、笑った顔がもっと見たくて。
少し上ずった無邪気な声や、腕いっぱいに抱きしめてくれるその体温が。甲洋にとって、かけがえのないものになっていた。
そして欲が生まれてしまった。いつしか自分のことをオスとして見て欲しいと、そう願うようになっていた。だから変身したのだ。人の姿に。
しかしどうしてもこの身に流れる猫の血が邪魔をして、耳としっぽだけは消せなかった。様々な方法を探り、何度も試してみたけれど、これが甲洋の限界だった。
こんな中途半端な姿では、いつまでたっても意識すらしてもらえない。密かに焦りを覚えていた甲洋に、あるとき彼はこう言った。
『これからもずっと一緒にいようね!』
と──。
それは甲洋に胸が膨らむような喜びをもたらした。そして同時に気がついた。
たとえ振り向いてもらえなくても、いつまでもこの笑顔を守っていられたら、好きでいられたら、こんなに幸せなことはない。
操とずっと一緒にいること。それが自分にとって、何よりの願いだということに。
*
町外れの古びた廃神社。
鈴村神社と記されたその建物は、数十年前に別所へ遷宮されて以来、朽ちた廃屋になっている。そこは現在、甲洋が属する群れの集会所になっていた。
「おお、来たか! 遅かったな甲洋。報告は俺たちでしといてやったぞ」
「やったわね! これで王は必ずあなたを指名するはずよ!」
星も月も見えない夜。
苔むした石段の中腹で、中年の猫夫婦が嬉しそうな声をあげている。
オスは白髪交じりの黒猫、正浩。三毛のメスは諒子という。二本足で言葉を喋る二匹の猫は、まぎれもなくケット・シーであり甲洋の両親でもあった。
「……やっぱり父さんと母さんだったんだね」
二匹から数段下に立ち尽くす甲洋が、複雑な面持ちで彼らを見上げる。さっきの公園で草むらにいたのは、この二匹だったのだ。
軽率だったとは思う。あの場所は群れのテリトリーで、誰に見られてもおかしくはなかった。けれどよりにもよって、この二匹に見られていたなんて。
「水臭い子ね。こんな大事なことを隠しているなんて!」
「まったくだ。てっきりハズレだとばかり思っていたら……まさか俺たちの息子が、純血に劣らない魔力の持ち主だったとはなぁ!」
上機嫌で笑う両親から目をそらし、肉球に爪が食い込むほど手を握りしめた。
ケット・シーの中には、まれに純血に匹敵する強い魔力を持って生まれるものがいる。隔世遺伝というものだ。何世代も前のケット・シーの能力を受け継いで、甲洋は生まれてきた。
けれどそのことは、ずっと隠して生きてきた。特に親しい一部の友人──白猫の一騎と茶色猫の総士だ──を除いては。
理由は単純。次の『王』に選ばれないため。
代々、王は自らが率いる群れの中から、もっとも優秀な者を選んで次の王に指名してきた。それはケット・シーにとって名誉なことだ。
しかし甲洋は地位や権力に興味がなかった。自分はそんな器じゃない。群れを率いていく責任と重圧に縛られるより、野良猫として生きるほうがずっと気楽で、性に合っていると思っていたから。
けれど今は、他にもっと大きな理由がある。
それは操の存在だ。王になれば、もう彼に会いに行くことはできなくなるだろう。しかも王の娘である姫君と結婚させられ、子供を作らなければいけなくなる。
甲洋にとって、それは考えられないことだった。ずっと一緒にいたいのも、結ばれたいと願うのも、操以外にはありえない。
「王は大層お喜びだったぞ。もう歳だからなぁ。とっとと引退したいんだろう」
「娘も年頃ですものねぇ。よかったわね甲洋、気立てのいいお姫様だもの」
「父さん母さん、俺は──」
「これで俺たちも安泰だ! 邪魔な野良猫共を追いだして、餌場を独占できるんだからな!」
彼らは甲洋の話に耳を傾けようともせず、勝手に盛り上がっている。
息子を王にすることで、裏で実権を握ろうとしているのだ。おおかた自分たちの都合がいいように、掟を捻じ曲げる気でいるのだろう。欲深い彼らは、野良猫たちの排除を目論んでいる。
ケット・シーの掟の中には、
『魔法を悪用し、猫に仇をなしてはいけない』
というものがある。
ケット・シーは猫の妖精だ。猫たちを守り、調和を重んじこそすれ、決して危害を加えてはいけない。
しかし数年前、二匹はその掟を破った。
彼らは群れで共有している餌場だけでは足りず、魔法を使ってよその野良猫たちから餌を奪っていた。力の弱いケット・シーでも、普通の猫を脅かして追い払うくらいのことはできる。そうやって文字通り、私腹を肥やしていた。
しかしあるとき、その悪事が王に知られてしまった。
二匹は罰として魔力を奪われ、永遠に魔法が使えなくなってしまった。もはや二本足で立って言葉を話せるだけの、ただの化け猫と変わらない。
ケット・シーであることに誇りを持ち、普通の猫たちを見下していた彼らにとって、それは耐え難い屈辱でしかなかっただろう。いっそう猫たちを疎ましく思うようになったのだ。
「さぁ甲洋、王様が首を長くしてお待ちよ。早く行きなさい」
「お姫様も待ってるだろうしな。本当に自慢の息子だよ、お前は」
正浩が階段を下りてきて、甲洋の背中をドンッと叩く。虚しさが込み上げた。彼らは一度だって甲洋をまともに扱ったことがない。
しかしこんな両親でも、幼い頃は慕っていたのだ。大人になってからも、その情は捨てきれなかった。
操と出会ったあの日。
甲洋は誤ってよその縄張りに足を踏み入れたわけではない。性懲りもなく野良猫の餌場で盗み食いしようとしていた二匹を、ボス猫から庇うためだった。
彼らは助けに入った息子を囮にして、自分たちだけ逃げだした。甲洋は代わりに制裁を受けたにすぎない。
その後、操に救われたおかげで一命をとりとめた甲洋を見ても、彼らは「なんだ、生きてたのか」と、のんきに嘲笑うだけだった。
息子に情があっても、この両親にそんなものはない。分かっていたはずなのに。
甲洋は二匹の顔を見ないよう、うつむきながら石段をのぼった。倒壊した鳥居の向こうには、朽ちた拝殿が鎮座している。
そこで王が待っているのだ。可愛い年頃の一人娘を、傍らに置きながら。
*
一週間後の午前0時。甲洋は操の部屋を訪れた。
カリカリと窓枠を引っ掻くと、即座に戸が開かれる。甲洋はこの瞬間がとても好きだった。いらっしゃい、と言って迎えてくれる操の笑顔が。
「甲洋……!」
彼は甲洋をひと目見た瞬間、瞳に大粒の涙を浮かべた。顔をくしゃりと歪め、床に崩れ落ちるようにぺたりと座りこみ、きつく甲洋を抱きしめる。
「よかった……もう来てくれないんじゃないかって……!」
「ごめん来主。心配かけて」
甲洋は毛むくじゃらの猫の手で、彼の脇腹をぽふぽふと軽く叩いた。
彼は笑ってくれるどころか、身を震わせて泣くばかりだった。ずっと不安だったのだろう。最後にあんな別れ方をして、一週間も姿を現さなかったのだから。
操は甲洋がここを訪れなかった理由に、うすうす気がついていたらしい。
「甲洋、王様にバレちゃったんでしょ? だからずっと来られなかったんでしょ? ぼくのせいで、……?」
そのとき、操がなにかに気がついた。
「これ、なに?」
彼は両手で甲洋の首の毛を掻き分け、そこにあるものを見て顔をしかめた。
「首輪……?」
それは黒い無機質な首輪だった。繋ぎ目が一切なく、鎖で繋ぐための銀の輪っかだけが取り付けられている。
「これ、穴もなにもない。伸びる素材でもないし、どうやってはめたの?」
「これは魔法の首輪だよ。なんでもないから、気にしないで」
「なんでもなくないじゃん! どうしてこんなのつけてるの?」
よからぬものを感じとった操が、不信そうに眉を寄せている。
「ちょっとね。だけどなにも問題ないよ。今まで通り魔法だって使えるし」
「……ぼく、これ好きじゃない。なんか嫌だ」
彼は納得がいかない様子で首輪を睨みつけている。
甲洋は少しでもいつも通りであることを主張するために、人間の姿に変身しようとした。するとキラキラとした光に操がハッとして、そくざに甲洋の唇にキスをする。驚いたが、そのまま条件反射で人間の姿へと変身した。
「……別に、キスしなくてもいいって言ったのに」
「だって、変身するときはこれしなきゃいけない決まりだし」
「だから別に決まりってわけじゃ……」
赤くなってモゴモゴしながらあぐらをかく。
種明かしはしたはずなのに。キスで変身するなんて、ロマンチストが見る恥ずかしい夢でしかない。ただ操とキスがしたかっただけという、身も蓋もない下心も確かに存在していた。
(むしろそっちの方が大きかったよな……)
つくづく愚かだ。カッコ悪いなぁなんて思いながら、操が変わらずキスをしてくれたことが嬉しくて、しっぽは上向きに伸びている。
結局いつも通りであることに安堵しているのは、自分自身でしかないのだった。
「首輪、人間になってもぴったりだ……本当に魔法の首輪なんだね……」
変身後のサイズに合わせて変化した首輪に、操は感心したような声をあげた。しかしすぐにまた表情を曇らせる。
「でも、なんで急に首輪なんて……それに……」
今までどこでどうしていたのか。聞きたいことが山ほどあるのだろう。その瞳は疑問と不安に揺れていた。
「来たくても来られなかったんだ。厳重に監視されていたから」
「監視……!?」
すっかり顔色を失くした操が、痛ましい表情でうつむいた。
「ぼくのせいだ。ぼくを助けるために変身したから、甲洋は……」
「それは違う。ぜんぶ俺が勝手にやったことだ。来主が気に病む必要はない」
「でもっ」
「俺は大丈夫だから。だけど、あまり時間がない」
「時間……?」
そう、甲洋にはあまり時間が残されていない。
今日ここを訪れたのは、彼に別れを告げるためだ。そのために王に必死で頼み込み、一日だけ時間をもらった。
リミットは明日の深夜0時まで。それを過ぎたら、もう甲洋に自由はない。
「婚約したんだ。ケット・シーの姫と」
なんでもないことのように告げた甲洋に、操が目を丸くしてポカンとする。
「この首輪はその証だよ。婚約指輪のようなものさ」
「お姫様と、婚約……? 結婚するってこと?」
甲洋がうなずく。
「王に認められたんだ。俺は他のケット・シーより強い魔力を持っている。だから次の王に相応しいってね」
一週間前の夜──。
謁見に訪れた甲洋に、王は姫と結婚して新しい王になることを命じた。そうすれば、掟を破って人間に正体を知られたことを不問にすると。
けれど甲洋は拒絶した。不問にされなくてもいい。どんな罰でも受けるつもりでいる。重大な掟破りをした自分が、王になっていいはずがないと。
しかし王はそれを許さなかった。甲洋ほどの逸材を逃すわけにはいかない。なにより姫がそれを望んでいるのだと。
王の隣で、ケット・シーの姫は恥ずかしそうに目を伏せていた。ペルシャのような長毛で、気品のある美しい猫。彼女はずっと甲洋に淡い恋心を寄せていた。
優秀なケット・シーの血を残すため、可愛い娘のため。甲洋にはなんとしても次の王になってもらうと、王は言った。そしてさらにこう続けたのだ。
正体を知ってしまった人間もまた、ただでは済まされないと──。
ゾッとした。その意味が理解できないほど愚かではない。王が言った『不問にする』という言葉には、操への処遇も含まれていたのだ。
両親は操の顔を見ている。探しだすのは簡単だろう。彼を守るために、甲洋がするべきことは一つだった。すべてを受け入れること。それだけだ。
「甲洋……?」
ずっと黙り込んでいた甲洋に、不安そうな眼差しが向けられる。
操はなにも知らなくていい。知ればもっと自分を責めるだろう。甲洋が王になることを決めたのは、他の誰でもない。自分のためだ。どんなことがあろうとも、操を守ることができるなら。
(それで充分、幸せだ)
安心させるようにふっと微笑み、彼を抱き寄せると腕の中に閉じ込めた。
まだ未完成な身体だと、甲洋は思う。猫の姿でいたときは、自分の方が抱きしめられる立場だった。だけど人間の姿に変身して、初めて操を抱きしめたとき、こんなに頼りなかったのかと胸が締めつけられた。そして今も。
(好きな子と、ただずっと一緒にいたかっただけなのに)
そう願ってしまったせいで、永遠に自由を奪われることになってしまった。あまりにも皮肉な話だが、もう決めたことだ。
「王になれば、その責任は重大だ。だからもう、こんなふうに来主に会いに来ることはできなくなる」
「ッ、そんな……!?」
操の身体がムチで打たれたようにビクンと跳ねる。なにかを言いかける唇に、甲洋はそっと指を押し当てた。
「だからその前に、一つだけ俺の頼みを聞いてほしい」
操は大きな瞳にいっぱいの涙を浮かべていた。あの日と同じように。彼は甲洋のために胸を痛めて、泣いている。この涙に、どうしようもなく惹かれてしまった。
目尻を拭ってやりながら、懐かしさに目を細める。きっとこれが最後だから。
「俺と、デートをしてほしい」
今日はずっとこの姿のままでいよう。二度とこうして会えなくなる前に。ただの普通の男として、操との思い出がほしかった。
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05
数日後──。
その日、操は新しくファミレスでホールスタッフのアルバイトを始めていた。
慣れないなりにミスもなく初日を終えることができ、ホッと胸を撫で下ろす。今のところ変な客もいなさそうだし、これなら上手くやっていけそうだ。
(きっと甲洋のおかげだね)
ロッカールームで制服から私服に着替えた操は、ずっと首に下げていたものを服の襟から引きずり出した。
チェーンの先には、甲洋がくれたどんぐりがついている。煮沸処理して乾燥させ、ペンダントにしてお守り代わりに身に着けていたのだ。これをしていると、まるで彼が傍にいてくれるような気がして心強い。
(今日のこと、甲洋が来たら報告しなきゃ!)
甲洋は操が新しくバイトを始めたことをまだ知らない。だからきっと驚くだろうし、一緒に喜んでくれるはずだ。
今日のおやつも考えなくちゃと、ウキウキしながらコートに袖を通していると、そこに
「あ、いたいた。来主くん、ちょっといい?」
と、制服にエプロン姿の男性がやって来て、声をかけられた。
彼はこの店の店長だ。今日一日、ずっと傍で仕事を教えてくれた人だった。
「話があるから、こっち来てくれるかな」
店長は返事も待たずに、すぐそばの裏口から外に出ていってしまった。
話とは一体なんだろう。ここではできない内容なのだろうか。疑問に思いながらも、操はペンダントを服の中にしまうとリュックを背負った。
裏口から出ると、そこは古びた裏路地になっている。すっかり日が暮れて、あたりは暗くなっていた。ポツンと一本だけ立っている街灯は、ほとんど消えかけていてあまり機能していない。
「来主くん、こっちだよ」
薄暗くて細い通路は、突き当りにゴミの山ができていた。少し生臭い。そのすぐそばで、店長がヒョイと片手を上げている。
操が近づくと、彼は笑顔で「今日はお疲れ様」と言った。
「初日だったから緊張したでしょ? よくがんばってたね」
店長は笑顔で、今日の操の働きぶりを褒めちぎった。明るい笑顔だとか丁寧な接客だとか、他にもいろいろ。褒められすぎて、ちょっと怖いくらいだった。
(でも嬉しいな。また甲洋に報告することができちゃった!)
操は元気よく「ありがとうございます!」と礼を言ったが、そのときふと、違和感に気がついた。
(この人、なんでこんなに近づいてくるんだろう?)
操と店長の距離は、気づけば20センチあるかないかまで縮まっていた。確かにここは狭い路地だが、これほどまでに近づく必要はあるのだろうか。思わず後ろに一歩引こうとしたとき、店長の腕が腰に回された。
「でもねぇ、一つだけ……」
「っ、え?」
「仕事中は、あんまり色目を使ってほしくないんだよね」
意味が分からず、操は目を白黒させる。
「困るんだよ。前にいた子もさぁ、オレに気があるくせに、いざ手を出したらセクハラがどうとか騒いで辞めちゃったし」
「……?」
「君みたいに、なんにも知りませ~んって顔してる子ほどエロいんだよな。でも仕事中はそういうの隠さないと。今は二人っきりだからいいけどね」
いよいよなにを言われているのか分からない。その笑顔はさっきまでと違い、ニタニタとした嫌なものに変わっていた。
(なんなのこの人? ぜんぜん意味わかんないよ!)
本能的に身を捩って逃れようとしたが、臀部をぬるりと撫でられて「ヒッ」と悲鳴をあげてしまう。
なんだかよく分からないが、とにかく嫌だ。気持ちが悪い。不快感に心臓が冷えていくのが分かる。こんな経験は初めてだった。
「君が可愛いから雇ってやったわけ。オレが言ってること分かるよね?」
強引に引き寄せられて、耳元で囁かれた。ゾッとして吐き気がする。
きっと前に辞めていったという人も、今の自分と同じだったのだろう。意味不明な言いがかりをつけられて、こんなふうにベタベタと触られたに違いない。
「わ、わかんないよそんなこと! 近いってば! 離してよ!」
せっかく上手くやっていけそうだと思っていたのに。おかしな客の次は、おかしな店長に当たってしまった。これじゃあ甲洋にいい報告なんかできそうにない。
悔し涙を滲ませながら、なんとか振り切ろうとした。そのとき──。
「おわッ!?」
男がとつぜん悲鳴をあげたかと思うと、その身体が吹っ飛ばされた。ズボッという音がして、ゴミの山に埋もれてしまう。
「へ……?」
暗がりで起こった一瞬の出来事に、訳が分からず唖然とした。それは男も同じだったようで、彼はゴミ山で手足をバタつかせて混乱している。
そのとき、ポカンとしていた操の手首が何者かによって掴まれた。
「来主、こっち!」
「ッ……!?」
薄暗いなか、浮かび上がるシルエットに目を見張る。尖った猫耳に、オオカミのような長いしっぽ。青年の姿をした甲洋だ。
「甲洋!? なんで……!?」
「いいから!」
彼は操の手を強く引き、風のような速さで走りだす。ゴミ山でもがく男の「待て!」という声が背中にかかり、まるでドラマや映画のワンシーンのようだった。
甲洋は操が知らない抜け道を幾つも知っていて、自分の姿を見られないよう配慮しながらも、最短ルートを選んで走る。そうしてどこをどう通ってきたかも分からないうちに、気づけば見知った公園にたどり着いていた。最初に甲洋を保護した、あの公園だ。
「ここまで来れば、もう安心だ」
「はぁ、はぁ……っ、こ、甲洋、どうして君が?」
問いには答えず、彼は上下に弾む操の両肩をそっと掴んだ。
「来主、大丈夫か? なにも酷いことはされてない?」
「だ、大丈夫だよ。ちょっと変なとこ触られただけ……」
「ッ……」
遊具の側で煌々と明かりを発する街灯の下、甲洋が悔しそうに下唇を噛み締めた。そして操の身体を強く抱きすくめる。
「わっ」
「遅くなってごめん。俺がもっと早く助けていれば……」
「そ、そんなことないよ! 君が来てくれなかったら、今ごろどうなってたか分からないし……」
思いだすだけで鳥肌がたつ。操は彼を抱き返し、ホッと息を漏らした。
かなりのショックを受けたし、まだ少し混乱しているけれど、やっぱり甲洋の腕の中は安心する。さっきまでの不快感が、そっと洗い流されていくようだった。
「でも君、どうしてあんなところにいたの?」
改めて問いかけた操に、彼は「たまたまだよ」と言った。
「来主が学校帰りに、いつもと違う方向に歩いて行くのが見えたから」
群れの縄張りを巡回中だった彼は、操の行き先が気になって後ろをくっついて来ていたらしい。せっかくだし、一緒に帰ろうと思ったからだ。
そこで新しいバイト先がファミレスであることを知り、終わるまで待つつもりでその辺りをブラブラしていた。すると路地裏から操の叫ぶ声がして、揉み合う二人を見つけたのだと。
「そうだったんだ! じゃあ、君はずっと近くにいたんだね」
ぺたんと耳を寝かせて、「黙ってついて行ってごめん」と申し訳なさそうに言う甲洋に、操はクスクスと笑ってしまった。実家にいたころ、クーもよく操の後をついて来ていたことを思いだす。
猫にはそういう習性があるのだ。傍にいたいと思う相手の後を、くっついて歩く習性が。それに──。
「来主?」
「ふふっ、だってさ、ほら。これ見て」
操は甲洋の腕の中でゴソゴソと身じろいで、服の中からペンダントを引きずりだした。丸々としたどんぐりが姿を現し、甲洋が目を丸くする。
「これ、ぼくのお守りなんだ。持ってると、君が傍にいるみたいで安心するから……だけど本当に近くにいたんだって思ったら、なんかおかしくて」
肩を揺らして笑う操に、甲洋もふっと息を漏らして微笑んだ。
「ありがとう。大事に持っていてくれて」
「うん。これからも、ずっと大切にするからね」
操はチェーンの先についたどんぐりを、ぎゅっと強く握りしめた。
「守ってくれてありがとう」
さっき、甲洋はおそらく魔法を使ったのだろう。自分のピンチですら、決して使わなかったはずの魔法の力を。しかもあんなに軽々と、成人男性を吹き飛ばしてしまうなんて。
彼のことを弱そうだなんて思っていたが、それは大きな間違いだった。
「君って本当はすっごく強いんだね! カッコよかったよ!」
真っ向から褒められた彼は、しっぽをピンと上に伸ばして頬を赤らめた。恥ずかしそうに軽く目をそらし、「そんなことないよ」なんて言うくせに、どこか満更でもない様子である。
「あ、そういえば」
操にはもう一つ、気になっていることがあったのだった。
それは今の甲洋の姿だ。彼はなぜか最初から青年の姿で現れた。本当ならキスをして、操から力を分けてもらわなければ変身できないはずなのに。
「ねぇ、キスしてないのに、どうして君は人間の姿になれてるの?」
すると彼はそらしていた目を泳がせて、「うっ」と呻いた。
「甲洋?」
「そ、それは……」
なにかを言いよどむ素振りのあと、甲洋は操から離れると、「ごめん」と言って頭を下げた。
「急にどうしたの?」
「……本当は、キスなんか必要ないんだ」
それはどういうことかと、首をかしげてパチパチと瞬きをする。
甲洋はまるで観念したように、深く息を吐きだした。
「力を分けてもらうっていうのは、ただの口実。俺は自力で変身できる」
「え? そうなの?」
甲洋が渋々うなずいた。
現代にまともな魔法が使える純血のケット・シーはいない、という話は前に聞いた。強力な魔法が使えるのは、王様やごく一部の優秀なケット・シーだけだとも。
つまり彼は優秀なケット・シーだったのだ。だから怪我だって治療できるし、変身もできる。人間の男を軽く吹き飛ばすくらい、朝飯前だったのだ。
「どうして嘘なんかついてたの? それに口実って、なんの?」
「それは……その方がロマンチックだと思ったから……」
「キスで変身することが?」
「……ごめん」
例えば王子様のキスで解ける呪いだとか、目を覚ますお姫様だとか、彼が言う『ロマンチック』とは、そういうものを指しているのだろうか。
いまいちピンと来ないが、きっと甲洋はかなりのロマンチストなのだろう。赤い頬でうつむく様子の微笑ましさに、操は笑った。
「そんなに謝らなくてもいいよ。ぼくはちっとも気にしてないから」
本当はずっと隠しておくつもりでいたのだろうが、操のピンチに遭遇した彼は、とっさに変身せずにいられなかったのだ。その方が一緒に逃げるのに都合がいい。
甲洋らしいなと操は思う。感謝こそすれ、責める気なんか起こらない。
「……だって嫌だろ。キスなんて」
彼は頬だけでなく、首筋まで真っ赤にしていた。しっぽも耳も、可哀想なくらいしょんぼりとさせている。
操は「ぜんぜん」と言って、ケロリとしながら首を左右に振った。
「え?」
甲洋が目を見開いた。耳もピンと立ち、しっぽも跳ねる。だが、操が
「前にも言ったでしょ? クーともよくしてたって。だから君とするのも、ちっとも嫌じゃなかったよ!」
とにっこり笑いながら言うと、またすっかりしょげてしまった。
「……そうか」
肩を落とす甲洋の表情が、どこか切なそうに歪んで見えた。
なにか悪いことを言ってしまったのだろうか。気にする操をよそに、彼は逡巡している様子だった。その沈黙が、いやに重たい。
「……来主」
やがて甲洋はうつむけていた顔を上げ、真っ直ぐに操を見つめた。
「な、なに?」
「来主に、伝えたいことがある」
やけに真剣な眼差しに見つめられ、胸がドキリと大きく跳ねた。そのただならぬ様子に、彼がなにか重大な話をしようとしていることだけは伝わってくる。
辺りにピリピリとした緊張感が立ち込めて、操は思わず背筋を伸ばした。
「急にこんなことを言って、驚かせてしまうと思うけど」
「う、うん」
「……俺は、来主のことが──」
──ガサッ
「!?」
そのときだった。
すぐ側の草むらから物音がして、二人は同時に肩を跳ねさせた。
「な、なんだろ? 今の音……野良猫でもいるのかな?」
話はすっかり遮られてしまったが、彼の意識が草むらに移ったことで、あのヒリヒリとした緊張感からは解放されたような気がした。
どこかホッとしがなら息を漏らし、甲洋を見上げる。すると彼は見たことがないくらい険しい目をして、草むらを睨みつけていた。音の方に向かって、こげ茶が混ざった黒い耳をピンと張り詰めている。
「甲洋……?」
「ごめん、来主。今日は帰るよ」
「え!? ちょっと、甲洋……!?」
駆けだした甲洋は猫の姿に戻ると、派手な音を立てて草むらに飛び込んだ。
取り残されてしまった操は、しばし茫然としながら立ち尽くすことしかできなかった。しかし落ち着くにつれ、徐々に不安が込み上げてくる。
もしさっきの物音を立てたのが、野良猫の仕業ではなかったとしたら?
(まさか、王様にバレちゃったんじゃ……?)
もし掟破りをしていることが知られれば、彼はどうなってしまうんだろう。まるで想像がつかなくて、ただ手足が急速に冷えていくのを感じた。黒い雲が忍び寄るように、ざわざわとした胸騒ぎがする。
「甲洋……」
両手でどんぐりを握りしめ、操はどうかこの嫌な予感が外れますようにと、強く願うことしかできなかった。
←戻る ・ 次へ→
数日後──。
その日、操は新しくファミレスでホールスタッフのアルバイトを始めていた。
慣れないなりにミスもなく初日を終えることができ、ホッと胸を撫で下ろす。今のところ変な客もいなさそうだし、これなら上手くやっていけそうだ。
(きっと甲洋のおかげだね)
ロッカールームで制服から私服に着替えた操は、ずっと首に下げていたものを服の襟から引きずり出した。
チェーンの先には、甲洋がくれたどんぐりがついている。煮沸処理して乾燥させ、ペンダントにしてお守り代わりに身に着けていたのだ。これをしていると、まるで彼が傍にいてくれるような気がして心強い。
(今日のこと、甲洋が来たら報告しなきゃ!)
甲洋は操が新しくバイトを始めたことをまだ知らない。だからきっと驚くだろうし、一緒に喜んでくれるはずだ。
今日のおやつも考えなくちゃと、ウキウキしながらコートに袖を通していると、そこに
「あ、いたいた。来主くん、ちょっといい?」
と、制服にエプロン姿の男性がやって来て、声をかけられた。
彼はこの店の店長だ。今日一日、ずっと傍で仕事を教えてくれた人だった。
「話があるから、こっち来てくれるかな」
店長は返事も待たずに、すぐそばの裏口から外に出ていってしまった。
話とは一体なんだろう。ここではできない内容なのだろうか。疑問に思いながらも、操はペンダントを服の中にしまうとリュックを背負った。
裏口から出ると、そこは古びた裏路地になっている。すっかり日が暮れて、あたりは暗くなっていた。ポツンと一本だけ立っている街灯は、ほとんど消えかけていてあまり機能していない。
「来主くん、こっちだよ」
薄暗くて細い通路は、突き当りにゴミの山ができていた。少し生臭い。そのすぐそばで、店長がヒョイと片手を上げている。
操が近づくと、彼は笑顔で「今日はお疲れ様」と言った。
「初日だったから緊張したでしょ? よくがんばってたね」
店長は笑顔で、今日の操の働きぶりを褒めちぎった。明るい笑顔だとか丁寧な接客だとか、他にもいろいろ。褒められすぎて、ちょっと怖いくらいだった。
(でも嬉しいな。また甲洋に報告することができちゃった!)
操は元気よく「ありがとうございます!」と礼を言ったが、そのときふと、違和感に気がついた。
(この人、なんでこんなに近づいてくるんだろう?)
操と店長の距離は、気づけば20センチあるかないかまで縮まっていた。確かにここは狭い路地だが、これほどまでに近づく必要はあるのだろうか。思わず後ろに一歩引こうとしたとき、店長の腕が腰に回された。
「でもねぇ、一つだけ……」
「っ、え?」
「仕事中は、あんまり色目を使ってほしくないんだよね」
意味が分からず、操は目を白黒させる。
「困るんだよ。前にいた子もさぁ、オレに気があるくせに、いざ手を出したらセクハラがどうとか騒いで辞めちゃったし」
「……?」
「君みたいに、なんにも知りませ~んって顔してる子ほどエロいんだよな。でも仕事中はそういうの隠さないと。今は二人っきりだからいいけどね」
いよいよなにを言われているのか分からない。その笑顔はさっきまでと違い、ニタニタとした嫌なものに変わっていた。
(なんなのこの人? ぜんぜん意味わかんないよ!)
本能的に身を捩って逃れようとしたが、臀部をぬるりと撫でられて「ヒッ」と悲鳴をあげてしまう。
なんだかよく分からないが、とにかく嫌だ。気持ちが悪い。不快感に心臓が冷えていくのが分かる。こんな経験は初めてだった。
「君が可愛いから雇ってやったわけ。オレが言ってること分かるよね?」
強引に引き寄せられて、耳元で囁かれた。ゾッとして吐き気がする。
きっと前に辞めていったという人も、今の自分と同じだったのだろう。意味不明な言いがかりをつけられて、こんなふうにベタベタと触られたに違いない。
「わ、わかんないよそんなこと! 近いってば! 離してよ!」
せっかく上手くやっていけそうだと思っていたのに。おかしな客の次は、おかしな店長に当たってしまった。これじゃあ甲洋にいい報告なんかできそうにない。
悔し涙を滲ませながら、なんとか振り切ろうとした。そのとき──。
「おわッ!?」
男がとつぜん悲鳴をあげたかと思うと、その身体が吹っ飛ばされた。ズボッという音がして、ゴミの山に埋もれてしまう。
「へ……?」
暗がりで起こった一瞬の出来事に、訳が分からず唖然とした。それは男も同じだったようで、彼はゴミ山で手足をバタつかせて混乱している。
そのとき、ポカンとしていた操の手首が何者かによって掴まれた。
「来主、こっち!」
「ッ……!?」
薄暗いなか、浮かび上がるシルエットに目を見張る。尖った猫耳に、オオカミのような長いしっぽ。青年の姿をした甲洋だ。
「甲洋!? なんで……!?」
「いいから!」
彼は操の手を強く引き、風のような速さで走りだす。ゴミ山でもがく男の「待て!」という声が背中にかかり、まるでドラマや映画のワンシーンのようだった。
甲洋は操が知らない抜け道を幾つも知っていて、自分の姿を見られないよう配慮しながらも、最短ルートを選んで走る。そうしてどこをどう通ってきたかも分からないうちに、気づけば見知った公園にたどり着いていた。最初に甲洋を保護した、あの公園だ。
「ここまで来れば、もう安心だ」
「はぁ、はぁ……っ、こ、甲洋、どうして君が?」
問いには答えず、彼は上下に弾む操の両肩をそっと掴んだ。
「来主、大丈夫か? なにも酷いことはされてない?」
「だ、大丈夫だよ。ちょっと変なとこ触られただけ……」
「ッ……」
遊具の側で煌々と明かりを発する街灯の下、甲洋が悔しそうに下唇を噛み締めた。そして操の身体を強く抱きすくめる。
「わっ」
「遅くなってごめん。俺がもっと早く助けていれば……」
「そ、そんなことないよ! 君が来てくれなかったら、今ごろどうなってたか分からないし……」
思いだすだけで鳥肌がたつ。操は彼を抱き返し、ホッと息を漏らした。
かなりのショックを受けたし、まだ少し混乱しているけれど、やっぱり甲洋の腕の中は安心する。さっきまでの不快感が、そっと洗い流されていくようだった。
「でも君、どうしてあんなところにいたの?」
改めて問いかけた操に、彼は「たまたまだよ」と言った。
「来主が学校帰りに、いつもと違う方向に歩いて行くのが見えたから」
群れの縄張りを巡回中だった彼は、操の行き先が気になって後ろをくっついて来ていたらしい。せっかくだし、一緒に帰ろうと思ったからだ。
そこで新しいバイト先がファミレスであることを知り、終わるまで待つつもりでその辺りをブラブラしていた。すると路地裏から操の叫ぶ声がして、揉み合う二人を見つけたのだと。
「そうだったんだ! じゃあ、君はずっと近くにいたんだね」
ぺたんと耳を寝かせて、「黙ってついて行ってごめん」と申し訳なさそうに言う甲洋に、操はクスクスと笑ってしまった。実家にいたころ、クーもよく操の後をついて来ていたことを思いだす。
猫にはそういう習性があるのだ。傍にいたいと思う相手の後を、くっついて歩く習性が。それに──。
「来主?」
「ふふっ、だってさ、ほら。これ見て」
操は甲洋の腕の中でゴソゴソと身じろいで、服の中からペンダントを引きずりだした。丸々としたどんぐりが姿を現し、甲洋が目を丸くする。
「これ、ぼくのお守りなんだ。持ってると、君が傍にいるみたいで安心するから……だけど本当に近くにいたんだって思ったら、なんかおかしくて」
肩を揺らして笑う操に、甲洋もふっと息を漏らして微笑んだ。
「ありがとう。大事に持っていてくれて」
「うん。これからも、ずっと大切にするからね」
操はチェーンの先についたどんぐりを、ぎゅっと強く握りしめた。
「守ってくれてありがとう」
さっき、甲洋はおそらく魔法を使ったのだろう。自分のピンチですら、決して使わなかったはずの魔法の力を。しかもあんなに軽々と、成人男性を吹き飛ばしてしまうなんて。
彼のことを弱そうだなんて思っていたが、それは大きな間違いだった。
「君って本当はすっごく強いんだね! カッコよかったよ!」
真っ向から褒められた彼は、しっぽをピンと上に伸ばして頬を赤らめた。恥ずかしそうに軽く目をそらし、「そんなことないよ」なんて言うくせに、どこか満更でもない様子である。
「あ、そういえば」
操にはもう一つ、気になっていることがあったのだった。
それは今の甲洋の姿だ。彼はなぜか最初から青年の姿で現れた。本当ならキスをして、操から力を分けてもらわなければ変身できないはずなのに。
「ねぇ、キスしてないのに、どうして君は人間の姿になれてるの?」
すると彼はそらしていた目を泳がせて、「うっ」と呻いた。
「甲洋?」
「そ、それは……」
なにかを言いよどむ素振りのあと、甲洋は操から離れると、「ごめん」と言って頭を下げた。
「急にどうしたの?」
「……本当は、キスなんか必要ないんだ」
それはどういうことかと、首をかしげてパチパチと瞬きをする。
甲洋はまるで観念したように、深く息を吐きだした。
「力を分けてもらうっていうのは、ただの口実。俺は自力で変身できる」
「え? そうなの?」
甲洋が渋々うなずいた。
現代にまともな魔法が使える純血のケット・シーはいない、という話は前に聞いた。強力な魔法が使えるのは、王様やごく一部の優秀なケット・シーだけだとも。
つまり彼は優秀なケット・シーだったのだ。だから怪我だって治療できるし、変身もできる。人間の男を軽く吹き飛ばすくらい、朝飯前だったのだ。
「どうして嘘なんかついてたの? それに口実って、なんの?」
「それは……その方がロマンチックだと思ったから……」
「キスで変身することが?」
「……ごめん」
例えば王子様のキスで解ける呪いだとか、目を覚ますお姫様だとか、彼が言う『ロマンチック』とは、そういうものを指しているのだろうか。
いまいちピンと来ないが、きっと甲洋はかなりのロマンチストなのだろう。赤い頬でうつむく様子の微笑ましさに、操は笑った。
「そんなに謝らなくてもいいよ。ぼくはちっとも気にしてないから」
本当はずっと隠しておくつもりでいたのだろうが、操のピンチに遭遇した彼は、とっさに変身せずにいられなかったのだ。その方が一緒に逃げるのに都合がいい。
甲洋らしいなと操は思う。感謝こそすれ、責める気なんか起こらない。
「……だって嫌だろ。キスなんて」
彼は頬だけでなく、首筋まで真っ赤にしていた。しっぽも耳も、可哀想なくらいしょんぼりとさせている。
操は「ぜんぜん」と言って、ケロリとしながら首を左右に振った。
「え?」
甲洋が目を見開いた。耳もピンと立ち、しっぽも跳ねる。だが、操が
「前にも言ったでしょ? クーともよくしてたって。だから君とするのも、ちっとも嫌じゃなかったよ!」
とにっこり笑いながら言うと、またすっかりしょげてしまった。
「……そうか」
肩を落とす甲洋の表情が、どこか切なそうに歪んで見えた。
なにか悪いことを言ってしまったのだろうか。気にする操をよそに、彼は逡巡している様子だった。その沈黙が、いやに重たい。
「……来主」
やがて甲洋はうつむけていた顔を上げ、真っ直ぐに操を見つめた。
「な、なに?」
「来主に、伝えたいことがある」
やけに真剣な眼差しに見つめられ、胸がドキリと大きく跳ねた。そのただならぬ様子に、彼がなにか重大な話をしようとしていることだけは伝わってくる。
辺りにピリピリとした緊張感が立ち込めて、操は思わず背筋を伸ばした。
「急にこんなことを言って、驚かせてしまうと思うけど」
「う、うん」
「……俺は、来主のことが──」
──ガサッ
「!?」
そのときだった。
すぐ側の草むらから物音がして、二人は同時に肩を跳ねさせた。
「な、なんだろ? 今の音……野良猫でもいるのかな?」
話はすっかり遮られてしまったが、彼の意識が草むらに移ったことで、あのヒリヒリとした緊張感からは解放されたような気がした。
どこかホッとしがなら息を漏らし、甲洋を見上げる。すると彼は見たことがないくらい険しい目をして、草むらを睨みつけていた。音の方に向かって、こげ茶が混ざった黒い耳をピンと張り詰めている。
「甲洋……?」
「ごめん、来主。今日は帰るよ」
「え!? ちょっと、甲洋……!?」
駆けだした甲洋は猫の姿に戻ると、派手な音を立てて草むらに飛び込んだ。
取り残されてしまった操は、しばし茫然としながら立ち尽くすことしかできなかった。しかし落ち着くにつれ、徐々に不安が込み上げてくる。
もしさっきの物音を立てたのが、野良猫の仕業ではなかったとしたら?
(まさか、王様にバレちゃったんじゃ……?)
もし掟破りをしていることが知られれば、彼はどうなってしまうんだろう。まるで想像がつかなくて、ただ手足が急速に冷えていくのを感じた。黒い雲が忍び寄るように、ざわざわとした胸騒ぎがする。
「甲洋……」
両手でどんぐりを握りしめ、操はどうかこの嫌な予感が外れますようにと、強く願うことしかできなかった。
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04
カリカリ、カリカリ、カリカリ──。
21時を過ぎたころ、いつものように窓枠を引っ掻く音がした。
キッチンにいた操はすぐさま駆け寄り、鍵を外して窓を開ける。すると大柄なサビ猫が、冷えた夜気を引き連れて室内に入り込んできた。
「いらっしゃい、甲洋!」
彼をよいしょと抱き上げて、ふわふわの首元に顔を埋めた。夜の匂いを思いきり吸い込んだあと、ちゅっとその唇にキスをする。
その瞬間キラキラと光を放ち、サビ猫は猫耳青年へと姿を変えた。焦げ茶のくせ毛に白い頬。雪雲のように色素の薄い瞳を細め、彼は柔らかく微笑んだ。
「こんばんは、来主」
人間に変身した甲洋は操よりも一回り身体が大きくて、抱きしめていたはずが逆に抱きしめられる形になっている。そのまま猫と変わらぬ仕草で頬ずりをされると、まるでトラやライオンにでもジャレつかれているような気分になった。
触れ合う頬の冷たさに、操は思わず肩をすくめる。
「ふふっ、甲洋のほっぺた冷たいね。寒かったでしょ?」
「うん。でもここは暖かいよ。来主がいるから」
「じゃあもっとあったかくしてあげる!」
自分の体温を分け合うように、冷え切った身体をぎゅうぎゅうと抱き返す。
すると甲洋の喉から、ゴロゴロというご機嫌な音がしはじめた。耳としっぽだけじゃなく、そんなところにも猫の名残がとどまっている。
可愛いなぁと思いながら両手でわしゃわしゃと髪を乱してやると、甲洋は「やめて」と言いながらも、いっそう喉を鳴らして笑った。
「お腹すいたでしょ? そろそろ来る頃だと思って、準備してたよ」
じゃれ合うことに夢中で、つい忘れるところだった。甲洋が来たらおやつをあげる。それは操にとって大切な決まりごとであり、楽しみの一つだ。
「甘くていい香りがするね。これはなんの匂い?」
「えへへー、出来てからのお楽しみだよ!」
操が得意げに笑うのと同じタイミングで、キッチンからオーブンレンジが奏でる加熱完了のメロディが流れてきた。
*
正体を明かしてからも、彼──甲洋は変わらず夜になると部屋を訪れる。
来ると必ずキスをして青年の姿になるが、耳としっぽだけは猫のままだ。
甲洋の中に流れる猫の血が、どうしても邪魔をするらしい。彼はもっと完璧に変身できる方法を探しているらしいが、操はこのままでいいと思っている。だって可愛いから。
けれど耳としっぽを除けば、甲洋はどこからどう見ても人間だった。そんな彼に今まで通り、猫用の食べ物を出すのは気が引ける。
だから代わりに、手作りのお菓子を用意するようになった。クッキーだったり、ドーナツだったり。毎日なにを作るか考えるのも、楽しい時間の一つだった。
お菓子には必ずコーヒーも添えて出すようにしている。インスタントだが、味も香りも悪くない。甲洋も気に入ってくれたようで、砂糖は入れずに少量のミルクを入れて飲む。甘みは操が作るお菓子だけで十分だからだ。
「美味しかったよ。ごちそうさま」
今日のお菓子はバゲットを使ったパンプディングだった。向かい合っているローテーブルの上で、耐熱皿はすっかり空になっている。
あぐらをかく甲洋が、手にしていたコーヒーカップをテーブルに置く。細められた煤色の瞳に、操は肩をすくめてにっこり笑った。
「よかった。君はなんでも喜んで食べてくれるから嬉しいよ」
「こんなに美味しいお菓子が作れて、凄いね来主は」
「そんなことないよ。簡単だし、もっと上手な人はいっぱいいるもん」
照れ笑いを浮かべながら言った操に、彼はやんわり首を横に振る。
「俺は来主が作ったものがいい。甘くて優しくて、来主らしい味がする」
「えへへ、なんか恥ずかしいや。でも嬉しい。ありがとう」
顔が熱くなってふにゃんと蕩けそうになる。そしてどこか懐かしい気持ちにもさせられた。実家にいた頃も、よくこうしてお菓子作りをしていたものだ。それを美味しそうに食べてくれる母の笑顔が、操はなによりも好きだった。
甲洋といると、そのときの幸せな気持ちを思いだす。寮で一人暮らしをはじめてからは、ずいぶん久しい感覚だ。
「甲洋は凄いね。一緒にいると心がポカポカして、たくさん元気がもらえるよ」
「それは俺も同じだよ」
「ほんと? じゃあ、これからもずっと一緒にいようね!」
すると甲洋が両耳をピクンと跳ねさせ、「ずっと?」と言った。
「そう、ずっと!」
大きくうなずくと、長いしっぽが嬉しそうに上へと跳ねる。彼はほんのり頬を赤らめながら神妙に頷き、「わかった」と言った。
やけに真剣な顔をしているのが可笑しくて、つい笑ってしまう。
「あははっ、変な甲洋。可愛いね」
「……可愛いのは来主の方だよ」
「ぼくが? ふふっ、やっぱり変!」
「伝わらないかなぁ……」
大きな耳の後ろをガリガリと掻きながら、甲洋がため息をついている。よく分からないが、それすらおかしくて笑ってしまった。
楽しくてずっと話し込んでいたいところだったが、操はふと壁掛け時計に目をやった。時刻は22時をとうに過ぎている。
「あっ、いけない! 今日はまだお風呂に入ってないんだった!」
「うん、行っておいで」
「甲洋も入ろうよ。どうしていつも嫌がるの?」
正体を明かす前から、彼はなぜか操との入浴を拒絶していた。あの頃とは違い、今なら理由を聞くことができる。
すると甲洋の頬がまた赤くなった。そしてバツが悪そうに目をそらす。
「俺にもいろいろと事情があるから」
「事情? どんな? もしかしてそれもケット・シーの掟なの?」
「そういうわけでは……」
甲洋は口をモゴモゴとさせ、赤い頬を指先でカリカリと掻いた。
「俺の中での掟だよ」
「なにそれぇ?」
けっきょく理由は分からずじまいだ。
むぅっと唇を尖らせる操に、彼はただ苦笑して見せるだけだった。
*
しょうがなく一人で入浴を終えたあと、操は甲洋の背後にペタリと座って、しっぽにブラシをかけていた。
ふさふさの毛は本当に狼のようだ。優しく丁寧にブラッシングをすると、サビ柄のしっぽは少しずつ艶を帯びていく。
「ねぇ、そういえばずっと気になってたんだけど」
「なに?」
「怪我が3日で治っちゃったのも、魔法の力だったの?」
ブラシをかけられるのが気持ちいいのか、甲洋はまったりとした口調で「そうだよ」と言った。
「凄いや。そんなこともできちゃうなんて」
あの丘の木の上で、彼は自分の魔法を「些細なもの」と言っていた。けれどあれだけの怪我を短期間で治してしまうのだから、十分すぎるほど強い力を持っているように思えた。
「じゃあさ、あのときも魔法でなんとかできなかったの?」
「あのとき? ──ああ、もしかしてケンカのこと?」
「うん。そもそも、どうしてケンカなんかしてたわけ?」
ケンカというより、一方的なリンチだったような気もするが。
相手は普通の猫だったのか、それともケット・シー同士の争いだったのか、それすら操には区別がつかない。
「それは……」
思いだしてしまったのか、甲洋が渋々ながら教えてくれた。
あのときは誤って、よその縄張りに足を踏み入れてしまったらしい。ケット・シーの群れとは別の、ごく普通の野良猫たちの縄張りだ。当然ボス猫に見つかってしまい、怒りを買って攻撃された。そこへさらに他の猫たちまで加担してきて、あんなことになってしまったのだと。
「え? じゃあ普通の猫にケンカで負けたってこと!? 妖精なのに!?」
その言葉は、彼のプライドに傷をつけてしまったらしい。急にしっぽをブンブンと左右に大きく振りはじめた。耳も下向きにしょげているし、背中も猫背になっている。どうやら不貞腐れてしまったらしい。
「ご、ごめんってば。だって不思議だったんだもん。魔法を使えば、君なら怪我する前になんとかできたんじゃないかって」
広い背中をさすってあげると、どうにかしっぽの動きはおさまった。
「それは反則だ。怖がらせたり、傷つけたりしたら可哀想だろ?」
「それもケット・シーの掟なの?」
「そうだよ」
ケット・シーは魔法で猫に危害を加えてはいけないらしい。だからケンカになったら、腕力で勝負するしかないのだ。
しかしあのときの甲洋は複数の猫に追われていた。いくら身体が大きくても、とても勝ち目はなかっただろう。だけどふと、仮にあれが一対一のケンカだったとしても、同じ結果になっていたのではないかと操は思う。
大柄なサビ猫はとても強そうな見た目をしているが、人の姿をした甲洋は柔和で繊細そうな好青年だ。彼の内面が、この見た目にはよく現れている。ケンカとは無縁に見えるし、ましてや勝ちをおさめている姿は想像できない。
言ってしまえば弱そうなのだ。間違って他の野良猫の縄張りに入ってしまうところも、なんだかちょっと抜けている。
(……もう!)
胸がキュンと締めつけられるような感じがして、たまらない気持ちになった。
優しくておっちょこちょいで、ケンカが似合わない大きな猫。無性に守ってあげたくなってしまう。もしかしたら、これが母性というものなのだろうか。
操はまだ少し猫背になっている広い背中に、ぎゅっと抱きついた。
「く、来主?」
「次からは気をつけてよね。君は優しくて、ケンカ弱いんだからさ」
甲洋は大きな耳を情けなく水平に下げている。またイジケちゃったかなと思ったが、しっぽは左右に振られていない。
ふと見上げると、長い襟足から覗く後ろ首が、ほんのり赤くなっていた。
「君、もしかして照れてるの?」
「……うん」
「あははっ」
自分から抱きしめるのは平気なくせに、される側になるとこんな反応をするなんて。照れ屋で可愛い猫耳青年に、操の胸はまたキュンと疼いてしまうのだった。
*
寝る時間になると、なぜか甲洋は元の猫の姿に戻る。
操は彼を両腕に抱いて布団に入ると、もふもふの毛に顔を埋めたり、スンスンと吸い込んだりして至福のときを過ごしていた。
そんなしつこいスキンシップも、甲洋は黙って好きにさせてくれる。
「はぁ~、もふもふ最高……」
「満足した?」
「うん、大満足!」
それはよかったと言いながら、甲洋が大きな口を開けてあくびをした。立派な牙がよく見える。すると操にまであくびがうつった。
「ふぁ……今日も楽しかったね。ありがとう、コーヒー」
「こちらこそありがとう。あと、俺は甲洋だよ」
「あっ、そっか。ごめんね、つい癖で」
猫の姿の彼といると、つい以前の呼び方をしてしまう。だけど『甲洋』と『コーヒー』は、名前が少し似ている気もする。ふふっと笑ってしまった操の頬に、甲洋が鼻でキスをした。
「おやすみ、来主」
「ん。おやすみ、甲洋」
腕の中にいる甲洋の頭を優しく撫でる。彼は鼻からゆったりと息を漏らし、操の胸に顔を埋めた。やがてゴロゴロゴロ、という音が聞こえてきて、自然と彼の前脚が動きだす。もに、もに、という例の動き。甲洋はこれを無意識にやっている。
(ぼくのこと、お母さんだと思ってるのかな?)
猫はメスと比べてオスの方が甘えん坊だというけれど、野良として精神的に自立している大人の猫が、こうした仕草を見せるのは珍しい。
潜在的に隠された幼い一面が、無意識に出てきてしまうのだろうか。心のどこかでは、ずっと寂しい思いを抱えていたのかもしれない。外での暮らしは、想像以上に過酷なものでもあるだろう。誰かに甘えることなど許されない。
(そういえば……)
とろとろと眠気に引きずられながら、操はふと疑問に思った。
甲洋は、なぜわざわざ人間になりたいと思ったのだろう。話をするくらいなら、猫のままでもできるのに。
(まぁいっか)
どんな姿をしていても、こうして過ごせる時間はかけがえのないものだ。彼が人の姿にならなければ、お菓子を作って食べてもらうことだってできなかった。
しかしどんなに楽しい時を過ごしても、彼は朝にはいなくなっている。夜にしか会えないことに一抹の寂しさを感じながらも、また明日があるからと自分に言い聞かせて、眠りについた。
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カリカリ、カリカリ、カリカリ──。
21時を過ぎたころ、いつものように窓枠を引っ掻く音がした。
キッチンにいた操はすぐさま駆け寄り、鍵を外して窓を開ける。すると大柄なサビ猫が、冷えた夜気を引き連れて室内に入り込んできた。
「いらっしゃい、甲洋!」
彼をよいしょと抱き上げて、ふわふわの首元に顔を埋めた。夜の匂いを思いきり吸い込んだあと、ちゅっとその唇にキスをする。
その瞬間キラキラと光を放ち、サビ猫は猫耳青年へと姿を変えた。焦げ茶のくせ毛に白い頬。雪雲のように色素の薄い瞳を細め、彼は柔らかく微笑んだ。
「こんばんは、来主」
人間に変身した甲洋は操よりも一回り身体が大きくて、抱きしめていたはずが逆に抱きしめられる形になっている。そのまま猫と変わらぬ仕草で頬ずりをされると、まるでトラやライオンにでもジャレつかれているような気分になった。
触れ合う頬の冷たさに、操は思わず肩をすくめる。
「ふふっ、甲洋のほっぺた冷たいね。寒かったでしょ?」
「うん。でもここは暖かいよ。来主がいるから」
「じゃあもっとあったかくしてあげる!」
自分の体温を分け合うように、冷え切った身体をぎゅうぎゅうと抱き返す。
すると甲洋の喉から、ゴロゴロというご機嫌な音がしはじめた。耳としっぽだけじゃなく、そんなところにも猫の名残がとどまっている。
可愛いなぁと思いながら両手でわしゃわしゃと髪を乱してやると、甲洋は「やめて」と言いながらも、いっそう喉を鳴らして笑った。
「お腹すいたでしょ? そろそろ来る頃だと思って、準備してたよ」
じゃれ合うことに夢中で、つい忘れるところだった。甲洋が来たらおやつをあげる。それは操にとって大切な決まりごとであり、楽しみの一つだ。
「甘くていい香りがするね。これはなんの匂い?」
「えへへー、出来てからのお楽しみだよ!」
操が得意げに笑うのと同じタイミングで、キッチンからオーブンレンジが奏でる加熱完了のメロディが流れてきた。
*
正体を明かしてからも、彼──甲洋は変わらず夜になると部屋を訪れる。
来ると必ずキスをして青年の姿になるが、耳としっぽだけは猫のままだ。
甲洋の中に流れる猫の血が、どうしても邪魔をするらしい。彼はもっと完璧に変身できる方法を探しているらしいが、操はこのままでいいと思っている。だって可愛いから。
けれど耳としっぽを除けば、甲洋はどこからどう見ても人間だった。そんな彼に今まで通り、猫用の食べ物を出すのは気が引ける。
だから代わりに、手作りのお菓子を用意するようになった。クッキーだったり、ドーナツだったり。毎日なにを作るか考えるのも、楽しい時間の一つだった。
お菓子には必ずコーヒーも添えて出すようにしている。インスタントだが、味も香りも悪くない。甲洋も気に入ってくれたようで、砂糖は入れずに少量のミルクを入れて飲む。甘みは操が作るお菓子だけで十分だからだ。
「美味しかったよ。ごちそうさま」
今日のお菓子はバゲットを使ったパンプディングだった。向かい合っているローテーブルの上で、耐熱皿はすっかり空になっている。
あぐらをかく甲洋が、手にしていたコーヒーカップをテーブルに置く。細められた煤色の瞳に、操は肩をすくめてにっこり笑った。
「よかった。君はなんでも喜んで食べてくれるから嬉しいよ」
「こんなに美味しいお菓子が作れて、凄いね来主は」
「そんなことないよ。簡単だし、もっと上手な人はいっぱいいるもん」
照れ笑いを浮かべながら言った操に、彼はやんわり首を横に振る。
「俺は来主が作ったものがいい。甘くて優しくて、来主らしい味がする」
「えへへ、なんか恥ずかしいや。でも嬉しい。ありがとう」
顔が熱くなってふにゃんと蕩けそうになる。そしてどこか懐かしい気持ちにもさせられた。実家にいた頃も、よくこうしてお菓子作りをしていたものだ。それを美味しそうに食べてくれる母の笑顔が、操はなによりも好きだった。
甲洋といると、そのときの幸せな気持ちを思いだす。寮で一人暮らしをはじめてからは、ずいぶん久しい感覚だ。
「甲洋は凄いね。一緒にいると心がポカポカして、たくさん元気がもらえるよ」
「それは俺も同じだよ」
「ほんと? じゃあ、これからもずっと一緒にいようね!」
すると甲洋が両耳をピクンと跳ねさせ、「ずっと?」と言った。
「そう、ずっと!」
大きくうなずくと、長いしっぽが嬉しそうに上へと跳ねる。彼はほんのり頬を赤らめながら神妙に頷き、「わかった」と言った。
やけに真剣な顔をしているのが可笑しくて、つい笑ってしまう。
「あははっ、変な甲洋。可愛いね」
「……可愛いのは来主の方だよ」
「ぼくが? ふふっ、やっぱり変!」
「伝わらないかなぁ……」
大きな耳の後ろをガリガリと掻きながら、甲洋がため息をついている。よく分からないが、それすらおかしくて笑ってしまった。
楽しくてずっと話し込んでいたいところだったが、操はふと壁掛け時計に目をやった。時刻は22時をとうに過ぎている。
「あっ、いけない! 今日はまだお風呂に入ってないんだった!」
「うん、行っておいで」
「甲洋も入ろうよ。どうしていつも嫌がるの?」
正体を明かす前から、彼はなぜか操との入浴を拒絶していた。あの頃とは違い、今なら理由を聞くことができる。
すると甲洋の頬がまた赤くなった。そしてバツが悪そうに目をそらす。
「俺にもいろいろと事情があるから」
「事情? どんな? もしかしてそれもケット・シーの掟なの?」
「そういうわけでは……」
甲洋は口をモゴモゴとさせ、赤い頬を指先でカリカリと掻いた。
「俺の中での掟だよ」
「なにそれぇ?」
けっきょく理由は分からずじまいだ。
むぅっと唇を尖らせる操に、彼はただ苦笑して見せるだけだった。
*
しょうがなく一人で入浴を終えたあと、操は甲洋の背後にペタリと座って、しっぽにブラシをかけていた。
ふさふさの毛は本当に狼のようだ。優しく丁寧にブラッシングをすると、サビ柄のしっぽは少しずつ艶を帯びていく。
「ねぇ、そういえばずっと気になってたんだけど」
「なに?」
「怪我が3日で治っちゃったのも、魔法の力だったの?」
ブラシをかけられるのが気持ちいいのか、甲洋はまったりとした口調で「そうだよ」と言った。
「凄いや。そんなこともできちゃうなんて」
あの丘の木の上で、彼は自分の魔法を「些細なもの」と言っていた。けれどあれだけの怪我を短期間で治してしまうのだから、十分すぎるほど強い力を持っているように思えた。
「じゃあさ、あのときも魔法でなんとかできなかったの?」
「あのとき? ──ああ、もしかしてケンカのこと?」
「うん。そもそも、どうしてケンカなんかしてたわけ?」
ケンカというより、一方的なリンチだったような気もするが。
相手は普通の猫だったのか、それともケット・シー同士の争いだったのか、それすら操には区別がつかない。
「それは……」
思いだしてしまったのか、甲洋が渋々ながら教えてくれた。
あのときは誤って、よその縄張りに足を踏み入れてしまったらしい。ケット・シーの群れとは別の、ごく普通の野良猫たちの縄張りだ。当然ボス猫に見つかってしまい、怒りを買って攻撃された。そこへさらに他の猫たちまで加担してきて、あんなことになってしまったのだと。
「え? じゃあ普通の猫にケンカで負けたってこと!? 妖精なのに!?」
その言葉は、彼のプライドに傷をつけてしまったらしい。急にしっぽをブンブンと左右に大きく振りはじめた。耳も下向きにしょげているし、背中も猫背になっている。どうやら不貞腐れてしまったらしい。
「ご、ごめんってば。だって不思議だったんだもん。魔法を使えば、君なら怪我する前になんとかできたんじゃないかって」
広い背中をさすってあげると、どうにかしっぽの動きはおさまった。
「それは反則だ。怖がらせたり、傷つけたりしたら可哀想だろ?」
「それもケット・シーの掟なの?」
「そうだよ」
ケット・シーは魔法で猫に危害を加えてはいけないらしい。だからケンカになったら、腕力で勝負するしかないのだ。
しかしあのときの甲洋は複数の猫に追われていた。いくら身体が大きくても、とても勝ち目はなかっただろう。だけどふと、仮にあれが一対一のケンカだったとしても、同じ結果になっていたのではないかと操は思う。
大柄なサビ猫はとても強そうな見た目をしているが、人の姿をした甲洋は柔和で繊細そうな好青年だ。彼の内面が、この見た目にはよく現れている。ケンカとは無縁に見えるし、ましてや勝ちをおさめている姿は想像できない。
言ってしまえば弱そうなのだ。間違って他の野良猫の縄張りに入ってしまうところも、なんだかちょっと抜けている。
(……もう!)
胸がキュンと締めつけられるような感じがして、たまらない気持ちになった。
優しくておっちょこちょいで、ケンカが似合わない大きな猫。無性に守ってあげたくなってしまう。もしかしたら、これが母性というものなのだろうか。
操はまだ少し猫背になっている広い背中に、ぎゅっと抱きついた。
「く、来主?」
「次からは気をつけてよね。君は優しくて、ケンカ弱いんだからさ」
甲洋は大きな耳を情けなく水平に下げている。またイジケちゃったかなと思ったが、しっぽは左右に振られていない。
ふと見上げると、長い襟足から覗く後ろ首が、ほんのり赤くなっていた。
「君、もしかして照れてるの?」
「……うん」
「あははっ」
自分から抱きしめるのは平気なくせに、される側になるとこんな反応をするなんて。照れ屋で可愛い猫耳青年に、操の胸はまたキュンと疼いてしまうのだった。
*
寝る時間になると、なぜか甲洋は元の猫の姿に戻る。
操は彼を両腕に抱いて布団に入ると、もふもふの毛に顔を埋めたり、スンスンと吸い込んだりして至福のときを過ごしていた。
そんなしつこいスキンシップも、甲洋は黙って好きにさせてくれる。
「はぁ~、もふもふ最高……」
「満足した?」
「うん、大満足!」
それはよかったと言いながら、甲洋が大きな口を開けてあくびをした。立派な牙がよく見える。すると操にまであくびがうつった。
「ふぁ……今日も楽しかったね。ありがとう、コーヒー」
「こちらこそありがとう。あと、俺は甲洋だよ」
「あっ、そっか。ごめんね、つい癖で」
猫の姿の彼といると、つい以前の呼び方をしてしまう。だけど『甲洋』と『コーヒー』は、名前が少し似ている気もする。ふふっと笑ってしまった操の頬に、甲洋が鼻でキスをした。
「おやすみ、来主」
「ん。おやすみ、甲洋」
腕の中にいる甲洋の頭を優しく撫でる。彼は鼻からゆったりと息を漏らし、操の胸に顔を埋めた。やがてゴロゴロゴロ、という音が聞こえてきて、自然と彼の前脚が動きだす。もに、もに、という例の動き。甲洋はこれを無意識にやっている。
(ぼくのこと、お母さんだと思ってるのかな?)
猫はメスと比べてオスの方が甘えん坊だというけれど、野良として精神的に自立している大人の猫が、こうした仕草を見せるのは珍しい。
潜在的に隠された幼い一面が、無意識に出てきてしまうのだろうか。心のどこかでは、ずっと寂しい思いを抱えていたのかもしれない。外での暮らしは、想像以上に過酷なものでもあるだろう。誰かに甘えることなど許されない。
(そういえば……)
とろとろと眠気に引きずられながら、操はふと疑問に思った。
甲洋は、なぜわざわざ人間になりたいと思ったのだろう。話をするくらいなら、猫のままでもできるのに。
(まぁいっか)
どんな姿をしていても、こうして過ごせる時間はかけがえのないものだ。彼が人の姿にならなければ、お菓子を作って食べてもらうことだってできなかった。
しかしどんなに楽しい時を過ごしても、彼は朝にはいなくなっている。夜にしか会えないことに一抹の寂しさを感じながらも、また明日があるからと自分に言い聞かせて、眠りについた。
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03
操が寮の玄関から出ると、すぐそばの街灯の下でコーヒーが待っていた。
「こっちだよ、来主」
外では人目を気にしてか、彼は普通の猫さながらに四足で歩きだす。まだ夢を見ているような気分だが、ひとまずおとなしくその後を追いかけた。
「俺の正体は、ケット・シーっていう猫の妖精なんだ」
導くように一歩先を行きながら、コーヒーがおもむろに話し始める。
「妖精?」
操は子供の頃に母が読み聞かせてくれたおとぎ話に、『長靴をはいた猫』というものがあったことを思いだした。二本足で立って言葉を話す猫が、飼い主の人生を切り開いていく物語だ。もしかしたらあの猫もケット・シーだったのかなと、ふと思う。
なんにせよ、操は目の前の超自然的な存在を受け入れるより他になかった。こうして実際に目の当たりにしているのだから。
「どうしてずっと隠してたの? もっと早く言ってくれてもよかったのに」
「……本当はずっと隠しておくつもりだった。それが俺たちの掟だから」
「俺たち? 君の他にもケット・シーがいるってこと?」
「いるよ。もちろん」
人気のない夜道を歩きながら、彼はケット・シーについて教えてくれた。
ケット・シーは世界中に存在しており、各地で『王様』と呼ばれるボスを中心にして、群れを作って生活している。普通の猫のふりをしながら、決して人前で本性を現すことはないのだと。
人間が猫集会だと思っているものが、実はケット・シー集会だったりすることもあるらしい。それくらいごく自然に、彼らはこの社会に紛れ込んで暮らしているのだ。
(実はクーもケット・シーだったりして……?)
クーだけじゃない。もしかしたら今まで操が見てきた猫たちの中にも、彼のような存在が紛れていたのかもしれない。人の言葉を操り、二足歩行する妖精が。
彼らは一見ごく普通の猫にしか見えないから、仮にそうだったとしても見破るすべはないだろう。それこそ彼のように正体を明かしてくれない限り。
「ねぇ、じゃあ君は掟を破ってまで正体を教えてくれたってこと?」
「そうなるね」
「そんなことして平気なの? 王様、だっけ。叱られない?」
「それは──」
コーヒーについて歩いているうちに、気づけば住宅街を抜けていた。
極端に街灯が減っていくなか、月明かりを頼りに緩やかな坂道を登っていく。するとその先は公園のような芝生地帯が広がっていた。
さらに進むと、やがて大きな木が一本だけ生えた小高い丘が見えてくる。
「へぇ、こんなところがあったんだ! 知らなかった!」
丘を駆け上がっていくと、そこから町の夜景が一望できた。決して派手ではないが、点在する光がまるで星空のようだった。
これだけ見晴らしがいいと、昼間に来ても気持ちがよさそうだ。晴れの日にお弁当を持って来たくなるような、そんな開放感のある場所だった。
「来主、木登りはできる?」
二本足になったコーヒーが、木の幹に手をついて操を見上げる。こくんと頷くと、彼は「じゃあついて来て」と言って木を登りはじめた。
猫の姿をしているだけあって、無駄なくスルスルと華麗に登っていく。
「コーヒーずるい! 待ってよぉ!」
「こっちだよ。落ちないように気をつけて」
夜に木登りをするなんて初めてだ。月が明るくて助かった。少し怖いが、ほとんど葉が落ちた木の枝の隙間から、十分な光がさしている。
よいしょよいしょと登っていくと、太く張り出した枝のひとつにコーヒーがちょこんと座っていた。操はそこに足をかけ、隣り合って腰を下ろした。
ホッと息を漏らしたところで、ちょんちょんと肩をつつかれる。
「ほら見て、来主」
促されるまま景色を見渡し、操は一瞬で目を奪われた。
星空のように広がる夜景。この高さまで登って初めて、その向こうに海があることに気がついた。ぽっかりと浮かぶ丸い月が、キラキラと海面に反射している。
青く輝く幻想的な風景に、震えるほど胸を打たれた。
「きれい……夜空の上に宝石が散らばってるみたい……!」
「これを見せたかったんだ」
コーヒーがわざわざ掟を破ってまで正体を明かしたのは、落ち込んでいる操をここに連れてきて元気づけるためだったのだろう。
満足そうに景色を見つめる彼の瞳が、海の輝きを映して煌めいていた。なんて綺麗なんだろうと、操は思う。
「ありがとう、コーヒー。こんな素敵なところに連れてきてくれて。嫌なこと、ぜーんぶ吹き飛んじゃったよ」
さっきまで落ち込んでいたのが嘘のようだ。心がスッと晴れ渡り、感動だけで溢れかえっている。
「よかった」
ホッと安心したように息を漏らしたコーヒーは、けれどそのままうつむいて何も言わなくなってしまった。
「どうかしたの?」
なにか言いにくいことでもあるのだろうか。わずかな沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。
「……来主に、頼みたいことがあるんだ」
「頼み? いいよ! ぼくにできることなら、なんでも言ってよ!」
コーヒーがおずおずと顔をあげて操を見つめる。言うべきか言わざるべきか、その瞳は迷いに揺れているようだった。
「コーヒー?」
キョトンとする操の目の前で、彼はポンっと一輪の赤いコスモスを出現させた。
それをスッと差しだしてくるものだから、とっさに受け取って小首をかしげる。
「えっと……コーヒーって手品師かなにか?」
「種も仕掛けもないよ。これは手品じゃなくて、魔法の力」
「ま、魔法!?」
操はコスモスに顔を近づけ、その匂いを嗅いでみた。キク科の花の香りがする。
手品師が使うような造花ではなく、それはまぎれもなく本物のコスモスだった。
「君は魔法が使えるの? ケット・シーって凄いんだね!」
「まぁ、妖精だしね」
すると操の賛辞を否定するかのように、コスモスが一瞬で消えてしまった。
「あっ、消えちゃった」
「魔法といっても、この程度の些細なものなんだ。もっと大きな魔法を使うには、力が足りない……だから、来主の力を分けてほしい」
「ぼくの力?」
コーヒーは頷き、「俺は純血種ではないから」と言った。加えて、もはや現代に純血のケット・シーは存在しないのだとも。
はるか昔、先祖はあらゆる魔法を使えたそうだが、猫たちの社会に紛れ込んで暮らしていくうちに、猫とケット・シーの間で異種交配が繰り返された。その結果、長い年月をかけて徐々に魔力が薄まっていったらしい。
だから現代に生きるケット・シーたちは、ちょっとした簡単な魔法しか使えないのだ。王様と、一部の優秀なケット・シーを除いては。
「それでぼくの力が必要ってこと? でもぼく、魔力なんて持ってないよ」
「いいんだ。魔力じゃなくて、俺が欲しいのは活力のようなものだから」
「活力? そっか、つまり元気が欲しいってことだね!」
長いしっぽを嬉しそうにぴょこんと立てて、コーヒーが「うん」と頷いた。
そういうことならお安い御用だ。元気ならたった今、コーヒーにたくさん分けてもらった。彼が魔法でなにをしたいのかは知らないが、自分ができることならなんでもしたい。
「いいよ! ぼくの元気を分けてあげる! でも、どうしたらいいの?」
するとコーヒーは、まるで後ろめたいことでもあるかのように身体をモジモジと動かした。幾度か目を泳がせて、たっぷり時間を置いたあと、蚊の鳴くような声で「キス」と言った。
「きすぅ?」
「……口移しが、いちばん効率的だから」
「そうなんだ! じゃあ今すぐキスしようよ!」
「ちょ、ちょっと待って。キスだよ? 来主はそれでいいの?」
なぜか焦りだすコーヒー。操はにっこり笑うと「いいよ!」と返す。
「キスなんて簡単だよ。クーともよくしてたもん」
「クー?」
「ぼくんちの猫。今はお母さんと二人で暮らしてるよ」
「……来主にとって、俺はただの猫でしかないってことか」
「?」
なぜか残念そうな様子だが、操にはよく分からなかった。
彼はため息をこぼしたが、なんとか気を取り直したらしい。目を閉じるように言われ、おとなしく従った。
「じゃあいくよ」
「うん、いつでもいいよ」
こくん、とコーヒーが喉を鳴らす音が聞こえた。それから一瞬だけ、唇に猫のものと分かる口づけをされる。閉じた瞼の向こうに、キラキラと輝く何かが見えた。
しかし身体にこれといった変化は感じず、こんなに簡単に済んでしまっていいのだろうかと、不思議に思った。
「もういいの?」
「うん。もういいよ」
操はゆっくりと瞼を開いていった。
すると目の前に、見知らぬ『青年』の姿があった。長袖の白い簡素なシャツに、破れたジーンズをはいたその青年は、頭に尖った耳を生やしている。ふかふかのしっぽを揺らして、操に微笑みかけていた。
「──ッ、え!? ぁ、うわぁ!?」
「来主!」
まさにひっくり返るほど驚いた操は、とっさに身体のバランスを崩してしまった。落ちる、と思った瞬間、青年の長い両腕に抱き込まれる。
そしてそのまま真っ逆さまに、ふたり一緒に落下した──はずだった。
「ッ!?」
一瞬、ジェットコースターに乗ったときのような、内蔵がふわりと浮き上がる感覚を味わった。けれど思っていたほどの衝撃はない。ただで済むはずのない高さから、確実に落下したはずなのに。
(ぼく、どうなっちゃったの……?)
おそるおそる閉じていた瞼をこじ開けると、びっくりするほど近い距離に猫耳青年の顔がある。彼は地面にしっかりと足をついており、操はその腕にお姫様抱っこされていた。
彼が抱えて飛び降りてくれたおかげで、怪我ひとつなく済んだらしい。
「驚かせてごめん。大丈夫?」
コクコクと、うなずくだけで精一杯だ。思考が完全に停止している。
「よかった、来主が無事で」
ポカンとするばかりの操に、猫耳青年が微笑んだ。
信じがたい出来事に呆気にとられながら、操は震える声を絞りだす。
「コーヒー、なの……?」
尖った耳も、狼のようにフサフサとした長いしっぽも、操がよく知るサビ柄だ。
無造作に伸びたくせ毛は焦げ茶で、優しげな瞳は澄んだ灰色。それらすべてに、コーヒーの面影がある。
操の問いかけに、彼は「甲洋」と静かに言った。
「え……?」
「甲洋だよ、来主。俺の、本当の名前」
冬の始めの冷たい風が、ほんのりと潮の香りを運んでくる。頭上では裸んぼうの枝が、カサカサと乾いた音を立てていた。蒼くて静かな、月の夜。
まるでここだけ別世界にあるような、そんな錯覚に襲われる。
「甲、洋……」
大切に、なぞるようにその名前を口にした。
甲洋は瞳を細めて、蕩けるような笑みを浮かべる。
「嬉しいよ。ありがとう、来主」
ドキドキと、胸が激しく高鳴っていた。息ができなくて、少し苦しい。こんな感覚は初めてだ。身体が熱い。内側に火が灯ったみたいに。
まだどこか呆然としながらも、操はその笑顔から目を離すことができなかった。
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操が寮の玄関から出ると、すぐそばの街灯の下でコーヒーが待っていた。
「こっちだよ、来主」
外では人目を気にしてか、彼は普通の猫さながらに四足で歩きだす。まだ夢を見ているような気分だが、ひとまずおとなしくその後を追いかけた。
「俺の正体は、ケット・シーっていう猫の妖精なんだ」
導くように一歩先を行きながら、コーヒーがおもむろに話し始める。
「妖精?」
操は子供の頃に母が読み聞かせてくれたおとぎ話に、『長靴をはいた猫』というものがあったことを思いだした。二本足で立って言葉を話す猫が、飼い主の人生を切り開いていく物語だ。もしかしたらあの猫もケット・シーだったのかなと、ふと思う。
なんにせよ、操は目の前の超自然的な存在を受け入れるより他になかった。こうして実際に目の当たりにしているのだから。
「どうしてずっと隠してたの? もっと早く言ってくれてもよかったのに」
「……本当はずっと隠しておくつもりだった。それが俺たちの掟だから」
「俺たち? 君の他にもケット・シーがいるってこと?」
「いるよ。もちろん」
人気のない夜道を歩きながら、彼はケット・シーについて教えてくれた。
ケット・シーは世界中に存在しており、各地で『王様』と呼ばれるボスを中心にして、群れを作って生活している。普通の猫のふりをしながら、決して人前で本性を現すことはないのだと。
人間が猫集会だと思っているものが、実はケット・シー集会だったりすることもあるらしい。それくらいごく自然に、彼らはこの社会に紛れ込んで暮らしているのだ。
(実はクーもケット・シーだったりして……?)
クーだけじゃない。もしかしたら今まで操が見てきた猫たちの中にも、彼のような存在が紛れていたのかもしれない。人の言葉を操り、二足歩行する妖精が。
彼らは一見ごく普通の猫にしか見えないから、仮にそうだったとしても見破るすべはないだろう。それこそ彼のように正体を明かしてくれない限り。
「ねぇ、じゃあ君は掟を破ってまで正体を教えてくれたってこと?」
「そうなるね」
「そんなことして平気なの? 王様、だっけ。叱られない?」
「それは──」
コーヒーについて歩いているうちに、気づけば住宅街を抜けていた。
極端に街灯が減っていくなか、月明かりを頼りに緩やかな坂道を登っていく。するとその先は公園のような芝生地帯が広がっていた。
さらに進むと、やがて大きな木が一本だけ生えた小高い丘が見えてくる。
「へぇ、こんなところがあったんだ! 知らなかった!」
丘を駆け上がっていくと、そこから町の夜景が一望できた。決して派手ではないが、点在する光がまるで星空のようだった。
これだけ見晴らしがいいと、昼間に来ても気持ちがよさそうだ。晴れの日にお弁当を持って来たくなるような、そんな開放感のある場所だった。
「来主、木登りはできる?」
二本足になったコーヒーが、木の幹に手をついて操を見上げる。こくんと頷くと、彼は「じゃあついて来て」と言って木を登りはじめた。
猫の姿をしているだけあって、無駄なくスルスルと華麗に登っていく。
「コーヒーずるい! 待ってよぉ!」
「こっちだよ。落ちないように気をつけて」
夜に木登りをするなんて初めてだ。月が明るくて助かった。少し怖いが、ほとんど葉が落ちた木の枝の隙間から、十分な光がさしている。
よいしょよいしょと登っていくと、太く張り出した枝のひとつにコーヒーがちょこんと座っていた。操はそこに足をかけ、隣り合って腰を下ろした。
ホッと息を漏らしたところで、ちょんちょんと肩をつつかれる。
「ほら見て、来主」
促されるまま景色を見渡し、操は一瞬で目を奪われた。
星空のように広がる夜景。この高さまで登って初めて、その向こうに海があることに気がついた。ぽっかりと浮かぶ丸い月が、キラキラと海面に反射している。
青く輝く幻想的な風景に、震えるほど胸を打たれた。
「きれい……夜空の上に宝石が散らばってるみたい……!」
「これを見せたかったんだ」
コーヒーがわざわざ掟を破ってまで正体を明かしたのは、落ち込んでいる操をここに連れてきて元気づけるためだったのだろう。
満足そうに景色を見つめる彼の瞳が、海の輝きを映して煌めいていた。なんて綺麗なんだろうと、操は思う。
「ありがとう、コーヒー。こんな素敵なところに連れてきてくれて。嫌なこと、ぜーんぶ吹き飛んじゃったよ」
さっきまで落ち込んでいたのが嘘のようだ。心がスッと晴れ渡り、感動だけで溢れかえっている。
「よかった」
ホッと安心したように息を漏らしたコーヒーは、けれどそのままうつむいて何も言わなくなってしまった。
「どうかしたの?」
なにか言いにくいことでもあるのだろうか。わずかな沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。
「……来主に、頼みたいことがあるんだ」
「頼み? いいよ! ぼくにできることなら、なんでも言ってよ!」
コーヒーがおずおずと顔をあげて操を見つめる。言うべきか言わざるべきか、その瞳は迷いに揺れているようだった。
「コーヒー?」
キョトンとする操の目の前で、彼はポンっと一輪の赤いコスモスを出現させた。
それをスッと差しだしてくるものだから、とっさに受け取って小首をかしげる。
「えっと……コーヒーって手品師かなにか?」
「種も仕掛けもないよ。これは手品じゃなくて、魔法の力」
「ま、魔法!?」
操はコスモスに顔を近づけ、その匂いを嗅いでみた。キク科の花の香りがする。
手品師が使うような造花ではなく、それはまぎれもなく本物のコスモスだった。
「君は魔法が使えるの? ケット・シーって凄いんだね!」
「まぁ、妖精だしね」
すると操の賛辞を否定するかのように、コスモスが一瞬で消えてしまった。
「あっ、消えちゃった」
「魔法といっても、この程度の些細なものなんだ。もっと大きな魔法を使うには、力が足りない……だから、来主の力を分けてほしい」
「ぼくの力?」
コーヒーは頷き、「俺は純血種ではないから」と言った。加えて、もはや現代に純血のケット・シーは存在しないのだとも。
はるか昔、先祖はあらゆる魔法を使えたそうだが、猫たちの社会に紛れ込んで暮らしていくうちに、猫とケット・シーの間で異種交配が繰り返された。その結果、長い年月をかけて徐々に魔力が薄まっていったらしい。
だから現代に生きるケット・シーたちは、ちょっとした簡単な魔法しか使えないのだ。王様と、一部の優秀なケット・シーを除いては。
「それでぼくの力が必要ってこと? でもぼく、魔力なんて持ってないよ」
「いいんだ。魔力じゃなくて、俺が欲しいのは活力のようなものだから」
「活力? そっか、つまり元気が欲しいってことだね!」
長いしっぽを嬉しそうにぴょこんと立てて、コーヒーが「うん」と頷いた。
そういうことならお安い御用だ。元気ならたった今、コーヒーにたくさん分けてもらった。彼が魔法でなにをしたいのかは知らないが、自分ができることならなんでもしたい。
「いいよ! ぼくの元気を分けてあげる! でも、どうしたらいいの?」
するとコーヒーは、まるで後ろめたいことでもあるかのように身体をモジモジと動かした。幾度か目を泳がせて、たっぷり時間を置いたあと、蚊の鳴くような声で「キス」と言った。
「きすぅ?」
「……口移しが、いちばん効率的だから」
「そうなんだ! じゃあ今すぐキスしようよ!」
「ちょ、ちょっと待って。キスだよ? 来主はそれでいいの?」
なぜか焦りだすコーヒー。操はにっこり笑うと「いいよ!」と返す。
「キスなんて簡単だよ。クーともよくしてたもん」
「クー?」
「ぼくんちの猫。今はお母さんと二人で暮らしてるよ」
「……来主にとって、俺はただの猫でしかないってことか」
「?」
なぜか残念そうな様子だが、操にはよく分からなかった。
彼はため息をこぼしたが、なんとか気を取り直したらしい。目を閉じるように言われ、おとなしく従った。
「じゃあいくよ」
「うん、いつでもいいよ」
こくん、とコーヒーが喉を鳴らす音が聞こえた。それから一瞬だけ、唇に猫のものと分かる口づけをされる。閉じた瞼の向こうに、キラキラと輝く何かが見えた。
しかし身体にこれといった変化は感じず、こんなに簡単に済んでしまっていいのだろうかと、不思議に思った。
「もういいの?」
「うん。もういいよ」
操はゆっくりと瞼を開いていった。
すると目の前に、見知らぬ『青年』の姿があった。長袖の白い簡素なシャツに、破れたジーンズをはいたその青年は、頭に尖った耳を生やしている。ふかふかのしっぽを揺らして、操に微笑みかけていた。
「──ッ、え!? ぁ、うわぁ!?」
「来主!」
まさにひっくり返るほど驚いた操は、とっさに身体のバランスを崩してしまった。落ちる、と思った瞬間、青年の長い両腕に抱き込まれる。
そしてそのまま真っ逆さまに、ふたり一緒に落下した──はずだった。
「ッ!?」
一瞬、ジェットコースターに乗ったときのような、内蔵がふわりと浮き上がる感覚を味わった。けれど思っていたほどの衝撃はない。ただで済むはずのない高さから、確実に落下したはずなのに。
(ぼく、どうなっちゃったの……?)
おそるおそる閉じていた瞼をこじ開けると、びっくりするほど近い距離に猫耳青年の顔がある。彼は地面にしっかりと足をついており、操はその腕にお姫様抱っこされていた。
彼が抱えて飛び降りてくれたおかげで、怪我ひとつなく済んだらしい。
「驚かせてごめん。大丈夫?」
コクコクと、うなずくだけで精一杯だ。思考が完全に停止している。
「よかった、来主が無事で」
ポカンとするばかりの操に、猫耳青年が微笑んだ。
信じがたい出来事に呆気にとられながら、操は震える声を絞りだす。
「コーヒー、なの……?」
尖った耳も、狼のようにフサフサとした長いしっぽも、操がよく知るサビ柄だ。
無造作に伸びたくせ毛は焦げ茶で、優しげな瞳は澄んだ灰色。それらすべてに、コーヒーの面影がある。
操の問いかけに、彼は「甲洋」と静かに言った。
「え……?」
「甲洋だよ、来主。俺の、本当の名前」
冬の始めの冷たい風が、ほんのりと潮の香りを運んでくる。頭上では裸んぼうの枝が、カサカサと乾いた音を立てていた。蒼くて静かな、月の夜。
まるでここだけ別世界にあるような、そんな錯覚に襲われる。
「甲、洋……」
大切に、なぞるようにその名前を口にした。
甲洋は瞳を細めて、蕩けるような笑みを浮かべる。
「嬉しいよ。ありがとう、来主」
ドキドキと、胸が激しく高鳴っていた。息ができなくて、少し苦しい。こんな感覚は初めてだ。身体が熱い。内側に火が灯ったみたいに。
まだどこか呆然としながらも、操はその笑顔から目を離すことができなかった。
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02
それから三日が過ぎた。
コーヒーはいまだに見つからない。
暇さえあればあちこち探し、親しい友人にも情報提供を呼びかけているが、有力な情報は得られていなかった。大柄で目立つ猫だから、見かければすぐに分かるはずだが。
これだけ探してもダメなら、もう諦めるより他にないのだろうか。
そう悲観していた夜のこと──。
『カリカリ、カリカリ』
21時を過ぎたころ、どこからか音がした。力なく机に伏せていた操は、ハッとしながら顔をあげるとベランダに目を向ける。
この音には聞き覚えがあった。実家にいた頃、愛猫のクーが外から帰ってくると、よくこうして窓枠をカリカリと引っ掻いていた。開けろ、のサインだ。
もしやと思い、一も二もなく駆け寄って鍵を外すと窓を開いた。すると長毛で大柄なサビ猫が、スルリと室内に入り込んでくる。
「コーヒー!?」
目を見張る操をよそに、コーヒーはフサフサのしっぽを優雅に揺らして、平然と足元を通り過ぎていく。
あれだけ探しても見つからなかったコーヒーが、わざわざ自分から戻ってくるなんて。不思議なことに彼は包帯をしておらず、その身体には傷一つ見あたらない。
「どこに行ってたの!? 急にいなくなっちゃって、ずっと探してたんだから! それに怪我は……もう治ったの?」
身体の大半を包帯でグルグル巻にされるほどの怪我が、わずか三日で完治するなんてことがありえるのだろうか。薬も飲んでいないのに。
だけど、とにかく彼は無事だった。それが分かっただけで充分だ。深く安堵した操は、一気に力が抜けていくのを感じた。
「無事でよかったぁ……」
ヘナヘナとその場にへたり込み、尻もちをついてしまう。すると珍しく近寄ってきたコーヒーが、すぐそばでコロリとなにかを吐きだした。
「なにこれ?」
それは傷ひとつない立派などんぐりだった。丸々としたフォルムが、ニスを塗ったように光沢を帯びている。
「これ、もしかしてぼくに?」
目を丸くしながら拾い上げると、コーヒーが「にゃ~ぉ」と鳴いた。長いしっぽをピンと立て、彼はどこか得意気だった。
クーも虫や小動物を捕まえてくることがあったが、木の実を咥えて持ってくる猫なんて初めてだ。操はその可愛らしい贈り物を両手で握りしめ、思わず涙ぐんでしまった。
「嬉しい……ありがとう! 大事にするね!」
「んなぁ~お!」
応えるようにひと鳴きしたコーヒーが、丸い瞳でじっと見つめてくる。その視線は操の右手の甲に注がれていた。
「もしかして、パンチしたこと気にしてる?」
「ぅん~」
「コーヒーは優しいね。でもほら、もうぜんぜん平気。痣はとっくに消えてるよ」
怖がらせないように、そっと右手を差しだした。コーヒーはくんくんと甲の匂いをかいで、遠慮がちにペロペロと舐めはじめた。
彼がとった行動に、操は「わ」と声をあげると目を輝かせた。
「コーヒー、もうぼくのこと怖くないの?」
「にゃぅ」
「本当? じゃあ……じゃあさ、ちょっとだけ触ってもいい?」
「んん~」
操は差しだしていた右手で、おそるおそるコーヒーの頭を撫でた。
彼は怯えもせず、ただ瞳を細めている。首の下に指をすべらせ、喉を掻くようにしてやると、そこからゴロゴロという大きな音が聞こえてきた。
「あはっ、ここ気持ちいい?」
「んんぅ~」
首周りのモフモフとした毛をさらに撫でると、彼は気持ちよさそうに目を閉じた。もっとして、とでも言わんばかりに、操の手に頭を擦りつけてくる。
「コーヒーを撫でてるなんて、夢みたいだ……!」
感動で胸がいっぱいになり、頬が紅潮するのを感じた。道でちょくちょく見かけていた頃から、ずっとこんなふうに触れてみたいと思っていたのだ。
あれほど威嚇していたのが嘘のように、彼はすっかり警戒を解いている。嬉しかった。猫に触れること自体、夏に実家に帰ったときにクーと遊んで以来のことだ。
「あ、そうだ! ねぇコーヒー、お腹すいてない? なにか食べる?」
ミルクは期限切れで処分してしまったが、ご飯は棚の中にしまってある。
操の問いかけに、コーヒーが「にゃお~ん!」と景気よく返事をした。
「わかった! じゃあちょっと待ってて!」
まるで本当に言葉が通じているかのようだ。彼は行儀よくその場に座り、待ちの構えを見せている。
そんなコーヒーの頭をもうひと撫でして、操はご飯の準備に取りかかった。
*
それ以来、コーヒーは毎日のように遊びに来るようになった。
道で偶然ばったり会うと、そのまま一緒に帰ってくることもある。
寮では動物の飼育は禁止されているため、もちろん周りには内緒だ。コーヒーはそれを承知しているかのように、木を伝ってこっそりベランダから入ってくる。
操はそんな彼のために、はりきって様々な猫グッズを購入した。
おやつやご飯はもちろん、専用の器や爪とぎ、ブラシに猫じゃらしまで。そのため、棚の一角はすっかりコーヒー専用のアイテム置き場になっている。
猫じゃらしは釣り竿タイプのもので、紐の先に小さなネズミがついたものだ。
コーヒーは最初こそクールに見て見ぬ振りをしていたが、やがて我慢ができなくなったのか、夢中で遊んでくれるようになった。
ひとしきり遊んだあとは、急に我に返ったように毛繕いをしはじめる。本能に抗えなかった自分を誤魔化すような行動に、操は声をあげて笑ってしまうのだった。
そんなある日。雨降りの夜に訪れたコーヒーは、手足を泥で汚していた。
操はすぐに彼を風呂場へ連れていき、お湯で泥をふやかして綺麗にしてやった。
彼は猫にしては珍しく、身体が濡れることに抵抗を示さなかった。ドライヤーすら嫌がらない。ブラシをかけながら乾かすと、サビ柄の長毛は見違えるほどツヤツヤになった。
気をよくした操はすぐに猫シャンプーを購入し、それ以来たまにコーヒーをお風呂に入れてやるようになった。
あるとき、操は何気なく「次からぼくも一緒に入ろうかな?」と言った。するとそれまでおとなしく洗われていたコーヒーが、急にひどく暴れだした。
一緒に入るのは嫌らしい。理由は不明だが、無理強いするわけにもいかないので諦めた。ちょっと悲しかったけど。
そうやって過ごしていくうちに、互いの距離はさらに縮まった。
今では一緒にベッドで寝る仲だ。
操はコーヒーを抱いて布団に入る時間が、一番のお気に入りだった。
彼は眠りに落ちる寸前、喉を鳴らして無意識に操の胸を揉みはじめる。もに、もに、と前脚を交互に動かす仕草は、まるで子猫に返ったようでとても可愛い。
操は母猫になった気分で彼を抱きしめ、いつしか自分も眠りに落ちる。それはなによりも幸せな時間だった。
けれど決まって、朝起きるとコーヒーの姿は消えている。
操が目を覚ます前に、彼は自分の縄張りへと戻って行くのだ。開けた窓はしっかり閉じていくのだから、コーヒーはやっぱり賢い。
そして夜になると、また窓枠を引っ掻いて遊びに来る。その繰り返し。
彼が遊びに来るようになってから、気づけば一ヶ月が経っていた。
*
その夜、操は落ち込んでいて元気がなかった。
いつものようにコーヒーと過ごしていても、ふとした瞬間ため息が出てしまう。
なるべく明るく振る舞おうとするのだが、今日ばかりはどうしてもダメな理由があった。
「なぉん?」
おやつをあげて、オモチャで遊んで、入浴を終えたあと。
ベッドに腰掛けてぼぅっとする操の膝の上で、コーヒーが首をかしげた。
「ん……どしたの、コーヒー」
彼は操の胸に両手をついて伸び上がると、まるでキスをするように鼻と鼻をくっつけてきた。幾度か鼻同士をくっつけたあと、ザラついた舌でぺろんと舐められる。そのくすぐったさに、つい肩を揺らして笑ってしまった。
「あはは、もう~、なに? くすぐったいよぉ」
そんなコーヒーの背中を両手でわしゃわしゃと撫でながら、ふと思う。もしかしたら彼は、元気がない自分を心配してくれているのではないか、と。
「コーヒー、ぼくのこと慰めようとしてくれてるの?」
問いかけに、コーヒーが目を細めながら「ん」と短く鳴いた。
「やっぱり分かっちゃうのかな。ごめんね、今日は落ち込んでて……」
コーヒーが、今度は操の頬にキスをした。ペロンと控えめに舐められて、そこから彼の優しさが伝わってくる。目頭が熱くなり、じわりと涙が浮かんでしまった。
「コーヒー、ぼくね……」
「にゃおん?」
「バイト、辞めることになったんだ」
例の悪質な女性客は、相変わらず操に嫌がらせを繰返していた。
やむなく店長が出禁を言い渡すまでに発展したが、今度は店の周りをウロつくという奇行に走りだした。他の店員もすっかり怯える始末で、もうお手上げだった。
結果的に「君さえいなくなれば満足するようだから」と、これ以上は大事にしたくない店長に頭を下げられた。要するに厄介払いだ。
「しょうがないよね。他の人にも迷惑かけちゃうし、ぼくもちょっと意地になってたし。こんなことなら、もっと早くに辞めちゃえばよかっ……あ」
膝の上に座って見上げてくるコーヒーに、操は苦笑しながら肩をすくめた。
「ごめんね。こんなこと言ってもわかんないよね。だってコーヒーは猫だもん」
その頭をくしゃくしゃと撫でながら、「あーぁ」と大きく息をつく。
「コーヒーが喋れる猫だったらよかったのにな。そしたらさ、いろんな話ができるでしょ? 楽しいよ、きっと」
猫に愚痴ってしまったことが情けなくて、誤魔化すようにおどけて言った。
そんなこと、本気で思ってるわけじゃない。話ができなくたって、コーヒーは今のままで充分だ。こうして傍にいてくれるだけで。
「なんてね。変なこと言ってごめん。さ、もう寝よっか。今日も抱っこして──」
「話せるよ」
「……え?」
操はことりと首をかしげた。
気のせいだろうか。たった今、膝の上にいる猫から人の声がしたような。
けれどすぐに気のせいだと思い直した。おとぎ話でもあるまいし、そんなことは絶対にありえない。きっと空耳かなにかだったのだろう。
「あはは、やだな。疲れてるのかなぁ、ぼく」
指先で頬を掻いて笑った操の膝から、コーヒーがストンと飛び降りた。その場で幾度かくるくると回り、落ち着きがない様子を見せている。
「コーヒー?」
ふいに動きを止めたコーヒーは、まるで意を決したかのように操を見上げる。
そして突然、すっくと二本足で立ち上がった。ポカンとする操に、彼は極めて流暢な日本語で
「俺はただの猫じゃないよ、来主」
と、言った。
「……は?」
まるで人間のように堂々とした立ち姿で、猫が喋った。ありえない光景に、開いた口が塞がらない。狐にでもつままれたような気分だ。
「えっと、これって夢?」
「夢じゃないよ」
「えっ、ほ、ほんとに!? ほんとに喋って……!?」
自分の頬をつねって「痛い!」と叫ぶ操に、彼は「さぁ、行こう」と言った。
「い、行くって? どこに?」
「来主に見せたいものがあるんだ」
状況がまったく理解できない。やっぱり夢を見ているんじゃないかと混乱する操を置いて、コーヒーはスタスタと窓の方に歩いていった。
「俺は先に下で待ってるから、来主もすぐにおりて来て」
「ちょ、ちょっと待っ……!」
猫の手でカチッと器用に鍵を外し、コーヒーはカーテンの隙間をぬって窓を開くとベランダに出た。もちろん、しっかり窓を閉めて行くのも忘れない。
つい感心してしまったが、すぐにハッとする。なにがなんだか分からないが、とにかくコーヒーを追いかけなくては。
「ま、待ってよコーヒー!」
部屋着にしているパーカーの上からダウンを羽織ると、操は急いで部屋を飛びだした。
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それから三日が過ぎた。
コーヒーはいまだに見つからない。
暇さえあればあちこち探し、親しい友人にも情報提供を呼びかけているが、有力な情報は得られていなかった。大柄で目立つ猫だから、見かければすぐに分かるはずだが。
これだけ探してもダメなら、もう諦めるより他にないのだろうか。
そう悲観していた夜のこと──。
『カリカリ、カリカリ』
21時を過ぎたころ、どこからか音がした。力なく机に伏せていた操は、ハッとしながら顔をあげるとベランダに目を向ける。
この音には聞き覚えがあった。実家にいた頃、愛猫のクーが外から帰ってくると、よくこうして窓枠をカリカリと引っ掻いていた。開けろ、のサインだ。
もしやと思い、一も二もなく駆け寄って鍵を外すと窓を開いた。すると長毛で大柄なサビ猫が、スルリと室内に入り込んでくる。
「コーヒー!?」
目を見張る操をよそに、コーヒーはフサフサのしっぽを優雅に揺らして、平然と足元を通り過ぎていく。
あれだけ探しても見つからなかったコーヒーが、わざわざ自分から戻ってくるなんて。不思議なことに彼は包帯をしておらず、その身体には傷一つ見あたらない。
「どこに行ってたの!? 急にいなくなっちゃって、ずっと探してたんだから! それに怪我は……もう治ったの?」
身体の大半を包帯でグルグル巻にされるほどの怪我が、わずか三日で完治するなんてことがありえるのだろうか。薬も飲んでいないのに。
だけど、とにかく彼は無事だった。それが分かっただけで充分だ。深く安堵した操は、一気に力が抜けていくのを感じた。
「無事でよかったぁ……」
ヘナヘナとその場にへたり込み、尻もちをついてしまう。すると珍しく近寄ってきたコーヒーが、すぐそばでコロリとなにかを吐きだした。
「なにこれ?」
それは傷ひとつない立派などんぐりだった。丸々としたフォルムが、ニスを塗ったように光沢を帯びている。
「これ、もしかしてぼくに?」
目を丸くしながら拾い上げると、コーヒーが「にゃ~ぉ」と鳴いた。長いしっぽをピンと立て、彼はどこか得意気だった。
クーも虫や小動物を捕まえてくることがあったが、木の実を咥えて持ってくる猫なんて初めてだ。操はその可愛らしい贈り物を両手で握りしめ、思わず涙ぐんでしまった。
「嬉しい……ありがとう! 大事にするね!」
「んなぁ~お!」
応えるようにひと鳴きしたコーヒーが、丸い瞳でじっと見つめてくる。その視線は操の右手の甲に注がれていた。
「もしかして、パンチしたこと気にしてる?」
「ぅん~」
「コーヒーは優しいね。でもほら、もうぜんぜん平気。痣はとっくに消えてるよ」
怖がらせないように、そっと右手を差しだした。コーヒーはくんくんと甲の匂いをかいで、遠慮がちにペロペロと舐めはじめた。
彼がとった行動に、操は「わ」と声をあげると目を輝かせた。
「コーヒー、もうぼくのこと怖くないの?」
「にゃぅ」
「本当? じゃあ……じゃあさ、ちょっとだけ触ってもいい?」
「んん~」
操は差しだしていた右手で、おそるおそるコーヒーの頭を撫でた。
彼は怯えもせず、ただ瞳を細めている。首の下に指をすべらせ、喉を掻くようにしてやると、そこからゴロゴロという大きな音が聞こえてきた。
「あはっ、ここ気持ちいい?」
「んんぅ~」
首周りのモフモフとした毛をさらに撫でると、彼は気持ちよさそうに目を閉じた。もっとして、とでも言わんばかりに、操の手に頭を擦りつけてくる。
「コーヒーを撫でてるなんて、夢みたいだ……!」
感動で胸がいっぱいになり、頬が紅潮するのを感じた。道でちょくちょく見かけていた頃から、ずっとこんなふうに触れてみたいと思っていたのだ。
あれほど威嚇していたのが嘘のように、彼はすっかり警戒を解いている。嬉しかった。猫に触れること自体、夏に実家に帰ったときにクーと遊んで以来のことだ。
「あ、そうだ! ねぇコーヒー、お腹すいてない? なにか食べる?」
ミルクは期限切れで処分してしまったが、ご飯は棚の中にしまってある。
操の問いかけに、コーヒーが「にゃお~ん!」と景気よく返事をした。
「わかった! じゃあちょっと待ってて!」
まるで本当に言葉が通じているかのようだ。彼は行儀よくその場に座り、待ちの構えを見せている。
そんなコーヒーの頭をもうひと撫でして、操はご飯の準備に取りかかった。
*
それ以来、コーヒーは毎日のように遊びに来るようになった。
道で偶然ばったり会うと、そのまま一緒に帰ってくることもある。
寮では動物の飼育は禁止されているため、もちろん周りには内緒だ。コーヒーはそれを承知しているかのように、木を伝ってこっそりベランダから入ってくる。
操はそんな彼のために、はりきって様々な猫グッズを購入した。
おやつやご飯はもちろん、専用の器や爪とぎ、ブラシに猫じゃらしまで。そのため、棚の一角はすっかりコーヒー専用のアイテム置き場になっている。
猫じゃらしは釣り竿タイプのもので、紐の先に小さなネズミがついたものだ。
コーヒーは最初こそクールに見て見ぬ振りをしていたが、やがて我慢ができなくなったのか、夢中で遊んでくれるようになった。
ひとしきり遊んだあとは、急に我に返ったように毛繕いをしはじめる。本能に抗えなかった自分を誤魔化すような行動に、操は声をあげて笑ってしまうのだった。
そんなある日。雨降りの夜に訪れたコーヒーは、手足を泥で汚していた。
操はすぐに彼を風呂場へ連れていき、お湯で泥をふやかして綺麗にしてやった。
彼は猫にしては珍しく、身体が濡れることに抵抗を示さなかった。ドライヤーすら嫌がらない。ブラシをかけながら乾かすと、サビ柄の長毛は見違えるほどツヤツヤになった。
気をよくした操はすぐに猫シャンプーを購入し、それ以来たまにコーヒーをお風呂に入れてやるようになった。
あるとき、操は何気なく「次からぼくも一緒に入ろうかな?」と言った。するとそれまでおとなしく洗われていたコーヒーが、急にひどく暴れだした。
一緒に入るのは嫌らしい。理由は不明だが、無理強いするわけにもいかないので諦めた。ちょっと悲しかったけど。
そうやって過ごしていくうちに、互いの距離はさらに縮まった。
今では一緒にベッドで寝る仲だ。
操はコーヒーを抱いて布団に入る時間が、一番のお気に入りだった。
彼は眠りに落ちる寸前、喉を鳴らして無意識に操の胸を揉みはじめる。もに、もに、と前脚を交互に動かす仕草は、まるで子猫に返ったようでとても可愛い。
操は母猫になった気分で彼を抱きしめ、いつしか自分も眠りに落ちる。それはなによりも幸せな時間だった。
けれど決まって、朝起きるとコーヒーの姿は消えている。
操が目を覚ます前に、彼は自分の縄張りへと戻って行くのだ。開けた窓はしっかり閉じていくのだから、コーヒーはやっぱり賢い。
そして夜になると、また窓枠を引っ掻いて遊びに来る。その繰り返し。
彼が遊びに来るようになってから、気づけば一ヶ月が経っていた。
*
その夜、操は落ち込んでいて元気がなかった。
いつものようにコーヒーと過ごしていても、ふとした瞬間ため息が出てしまう。
なるべく明るく振る舞おうとするのだが、今日ばかりはどうしてもダメな理由があった。
「なぉん?」
おやつをあげて、オモチャで遊んで、入浴を終えたあと。
ベッドに腰掛けてぼぅっとする操の膝の上で、コーヒーが首をかしげた。
「ん……どしたの、コーヒー」
彼は操の胸に両手をついて伸び上がると、まるでキスをするように鼻と鼻をくっつけてきた。幾度か鼻同士をくっつけたあと、ザラついた舌でぺろんと舐められる。そのくすぐったさに、つい肩を揺らして笑ってしまった。
「あはは、もう~、なに? くすぐったいよぉ」
そんなコーヒーの背中を両手でわしゃわしゃと撫でながら、ふと思う。もしかしたら彼は、元気がない自分を心配してくれているのではないか、と。
「コーヒー、ぼくのこと慰めようとしてくれてるの?」
問いかけに、コーヒーが目を細めながら「ん」と短く鳴いた。
「やっぱり分かっちゃうのかな。ごめんね、今日は落ち込んでて……」
コーヒーが、今度は操の頬にキスをした。ペロンと控えめに舐められて、そこから彼の優しさが伝わってくる。目頭が熱くなり、じわりと涙が浮かんでしまった。
「コーヒー、ぼくね……」
「にゃおん?」
「バイト、辞めることになったんだ」
例の悪質な女性客は、相変わらず操に嫌がらせを繰返していた。
やむなく店長が出禁を言い渡すまでに発展したが、今度は店の周りをウロつくという奇行に走りだした。他の店員もすっかり怯える始末で、もうお手上げだった。
結果的に「君さえいなくなれば満足するようだから」と、これ以上は大事にしたくない店長に頭を下げられた。要するに厄介払いだ。
「しょうがないよね。他の人にも迷惑かけちゃうし、ぼくもちょっと意地になってたし。こんなことなら、もっと早くに辞めちゃえばよかっ……あ」
膝の上に座って見上げてくるコーヒーに、操は苦笑しながら肩をすくめた。
「ごめんね。こんなこと言ってもわかんないよね。だってコーヒーは猫だもん」
その頭をくしゃくしゃと撫でながら、「あーぁ」と大きく息をつく。
「コーヒーが喋れる猫だったらよかったのにな。そしたらさ、いろんな話ができるでしょ? 楽しいよ、きっと」
猫に愚痴ってしまったことが情けなくて、誤魔化すようにおどけて言った。
そんなこと、本気で思ってるわけじゃない。話ができなくたって、コーヒーは今のままで充分だ。こうして傍にいてくれるだけで。
「なんてね。変なこと言ってごめん。さ、もう寝よっか。今日も抱っこして──」
「話せるよ」
「……え?」
操はことりと首をかしげた。
気のせいだろうか。たった今、膝の上にいる猫から人の声がしたような。
けれどすぐに気のせいだと思い直した。おとぎ話でもあるまいし、そんなことは絶対にありえない。きっと空耳かなにかだったのだろう。
「あはは、やだな。疲れてるのかなぁ、ぼく」
指先で頬を掻いて笑った操の膝から、コーヒーがストンと飛び降りた。その場で幾度かくるくると回り、落ち着きがない様子を見せている。
「コーヒー?」
ふいに動きを止めたコーヒーは、まるで意を決したかのように操を見上げる。
そして突然、すっくと二本足で立ち上がった。ポカンとする操に、彼は極めて流暢な日本語で
「俺はただの猫じゃないよ、来主」
と、言った。
「……は?」
まるで人間のように堂々とした立ち姿で、猫が喋った。ありえない光景に、開いた口が塞がらない。狐にでもつままれたような気分だ。
「えっと、これって夢?」
「夢じゃないよ」
「えっ、ほ、ほんとに!? ほんとに喋って……!?」
自分の頬をつねって「痛い!」と叫ぶ操に、彼は「さぁ、行こう」と言った。
「い、行くって? どこに?」
「来主に見せたいものがあるんだ」
状況がまったく理解できない。やっぱり夢を見ているんじゃないかと混乱する操を置いて、コーヒーはスタスタと窓の方に歩いていった。
「俺は先に下で待ってるから、来主もすぐにおりて来て」
「ちょ、ちょっと待っ……!」
猫の手でカチッと器用に鍵を外し、コーヒーはカーテンの隙間をぬって窓を開くとベランダに出た。もちろん、しっかり窓を閉めて行くのも忘れない。
つい感心してしまったが、すぐにハッとする。なにがなんだか分からないが、とにかくコーヒーを追いかけなくては。
「ま、待ってよコーヒー!」
部屋着にしているパーカーの上からダウンを羽織ると、操は急いで部屋を飛びだした。
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二人が寮に帰宅したのは、辺りがすっかり暗くなってからだった。その頃にはいよいよ天気が崩れ、チラチラと小雪が舞いはじめていた。初雪だ。
「あー、寒かったぁ。暖房つけたから、すぐあったかくなるよ」
魔法を解いて帽子などの一式を消した甲洋が、ベッドに腰掛けてうなずいた。自由になった耳をぷるっと震わせ、しっぽをシーツの上で波打たせている。
可愛い仕草にクスッと笑って、操は脱いだコートをクローゼットにしまった。その足で机に向かうと、置いてあるカバンの中から小さな紙袋を取りだした。
「これ、さっきのお店で買っちゃった」
甲洋の隣に座り、包みを開ける。中身を取りだすと、チリンという音がした。
「可愛い鈴だね」
甲洋が操の手の平にあるものを覗き込む。それはシンプルなデザインのキーホルダーだった。キーリングにチェーンがついており、その先に肉球マークが彫られた大ぶりな金の鈴がぶら下がっている。
あのあと足を運んだ雑貨屋で、操はこっそりこのキーホルダーを購入していた。
「これ、君に」
「俺に?」
操は甲洋の首輪に手をやり、金具の部分にキーホルダーを取りつけた。
「だってこの首輪、真っ黒でぜんぜん可愛くないんだもん。でも、こうしたら少しはマシになるでしょ?」
「俺には少し可愛すぎない?」
「そんなことないよ。可愛い君にぴったりだ」
肉球マークの鈴に指先で触れながら、彼は少し恥ずかしそうに笑って「ありがとう」と言った。うん、とうなずき、操も笑う。
「ぼくこそありがとう。デートなんて初めてだったけど、すごく楽しかったよ」
「初めて?」
すると甲洋がなぜか驚いた顔をした。思いがけない様子で見てくるので、なにかおかしなことを言ってしまったのかと首をかしげる。
「来主、デートしたことないの?」
「ないよ?」
「誰とも?」
「うん。だってそういう相手いたことないもん」
操は色恋にまったく興味がないまま生きてきた。だから恋人なんていたことがないし、欲しいと思ったこともない。恋を自覚したのだって、つい昨晩のことだ。
よほど意外だったのか、甲洋はしきりにまばたきを繰り返している。
「来主は可愛いから、恋人がいたことくらいあるんだと思ってた」
「いないよぉ。まぁぼくが可愛いのは認めるけどさ!」
冗談めかしてエヘンと鼻の下をこすった操に、彼は無言でうつむいてしまった。
「甲洋? どうかしたの?」
操が表情を覗き込もうとするより先に、顔をあげた甲洋がまっすぐに見つめてくる。その瞳は真剣そのもので、どこか切羽詰まっているようにも見えた。
おのずと一週間前の夜のことが思いだされて、心臓がドキッと跳ねる。あのときの彼も、こんなふうに神妙な──あるいはひどく思いつめた顔をして、なにかを言いかけていた。
「嫌だったら、断ってくれていい。忘れてくれて構わないから」
「う、うん」
あの夜と同じ張りつめた緊張感に、操の背がピシャリと伸びる。
喉を鳴らした甲洋が、震える息を吐きだした。彼は膝に置いた拳を握ったり緩めたりしていたが、やがて後に引けないとばかりにようやく口を開いた。
「……来主を抱きたい」
低い声はぎこちなさを帯びていた。語尾は掠れ、いっそ弱々しいとすら思えるほどに。操の理解が追いつくより先に、彼はなおも言葉を重ねる。
「来主が、まだ誰のものでもないのなら。俺を、最初の男にしてほしい」
言い終えたあと、甲洋はみるみるうちに顔を紅潮させた。首の付け根まで広がる赤に、彼がどれだけの勇気を振り絞ったかが見て取れる。
操もまた、伝染したかのように真っ赤になった。頬も額も、耳も首筋も。茫然とする頭の中まで、ものすごい勢いで血液がめぐるのを感じる。
何か言わなければと思わず開きかけた口を、彼が「ごめん」と言って遮った。
「……なに言ってるんだろうな、俺」
いたたまれなくなったのか、甲洋は片手で顔を押さえてしまう。消え入りそうな声で「忘れて」と言った彼に、操はとっさに「やだ!」と叫んで首を振っていた。
「く、来主?」
「だって、嫌じゃないもん」
「!」
「……だから、いいよ」
驚いてるし、戸惑ってもいる。だけどそれ以上に喜びが勝っていた。だって操は甲洋のことが大好きだ。生まれてはじめて恋をした。心から好きだと思った相手に求められて、嬉しくないはずがない。
甲洋の熱っぽく潤んだ瞳が、言葉よりも雄弁にその気持ちを伝えてくれる。だからようやく理解した。
(そっか、だからデートって言ったんだね)
操もまた同じ想いを乗せた眼差しで、彼をまっすぐ見返した。
「その代わり、ぼくにもちょうだい。君が、誰かのものになる前に」
甲洋にはすでに決めた相手がいるし、操もそれを知っている。だからこれはとても不誠実で、彼の帰りを待つお姫様への裏切りでしかない。
けれど深夜0時には、まだ幾ばくかの猶予がある。だったら今だけは、その気持ちが誰に向けられていようとも自由なはずだ。
「ぼくの初めてを、全部あげるよ。だから君も、全部ちょうだい」
彼のすべてが、可愛いお姫様のものになってしまう前に。お互いが、誰のものでもないうちに。愛し合ったという記憶を残せるのは、今だけだから。
「来主……」
「最後の思い出を作ろうよ。ねぇ、いいでしょ?」
自分から言いだしたくせに、甲洋は少し震えていた。操の視線をまっすぐ受け止め、感極まったように大きな息を吐きだしている。
「……ありがとう」
泣きだしそうに濡れた瞳で、彼は幸せそうに微笑んだ。
*
身を寄せ合ってベッドの縁に座ったまま、唇同士を重ね合う。ちゅ、ちゅ、と何度もキスをして、その柔らかさを確かめた。
昨日、操がこっそりキスをしたことを彼は知らない。操もあのときはすぐに正気に戻ってしまったから、その感触をまともに覚えてはいなかった。ただひどく痺れていたということしか。
角度を変えながら繰り返すうちに、甲洋の片腕が操の肩に回された。膝の上では互いの指先が絡まりあう。
うっすらと目を開けると、ほとんど同じタイミングで彼も目を開けていた。あまりにも近すぎる距離でバチンと目が合い、二人揃って驚いてしまう。
「ッ、!」
お互いとっさに顔を離すと、酸素を求めてぷはっと大きく息をついた。真っ赤な顔で目をまん丸にして見つめ合うと、思わず噴きだして笑ってしまう。
「ぷふっ、あははっ! なんかカッコ悪い!」
「しょうがないよ。初めてなんだし」
「君、顔が真っ赤だ! 耳もしっぽも膨らんでるし!」
「来主だって……」
ちょっとムキになって眉根を寄せた甲洋は、耳としっぽの毛がすっかり毛羽立っていた。緊張と興奮が分かりやすく伝わってきて、操はますます笑ってしまう。
「甲洋ってば、可愛すぎ!」
操の方は、逆に緊張の糸がほどけてしまった。甲洋はケラケラと笑い続ける様を複雑そうに見ていたが、まるでバカバカしくなったとばかりに息をつき、けっきょく一緒に笑いだした。
ひとしきり笑ったあと、二人は自然と抱き合っていた。甲洋の喉から、ゴロゴロというご機嫌な音が聞こえてくる。そのままライオンがジャレついてくるみたいに押し倒されて、操は「きゃあ」とはしゃいだ声をあげた。
「甲洋、重たい! 食べられちゃいそうで怖いよ!」
「そうだよ。俺は今から来主のことを食べるんだ」
「ぼくだって! 甲洋のこと、まるごとぜんぶ食べちゃうぞ!」
いいよと言って微笑みながら、甲洋が顔中に鼻先を擦りつけて甘えてくる。操はクスクスと笑い声をあげ、その頭を抱きしめると耳や髪の毛を撫でまわした。
彼が鼻や唇を擦りつけてくるたび、チリンチリンと涼やかに鈴が鳴る。
「あはっ、ぁ、ふふっ……んっ、ぁ……ひゃ……っ」
皮膚に舌や歯を立てられて、笑い声が艶めいてくる。くすぐったいだけじゃない感覚と、甘ったるい自分の声に戸惑った。
「こ、よ……待っ、ぁ……声、変なの……でちゃう……」
「変じゃないよ。もっと聞かせて」
「だって、恥ずかしいよぅ……」
吐息で笑った甲洋に、唇を塞がれる。今度は舌が潜り込んできて、歯列や口蓋をくすぐられた。彼の舌を自分も舌で追いかけて、濡れた肉同士を擦り合わせる。甲洋が鼻からくぐもった息を漏らすと、ゾクゾクするような興奮を覚えた。
「ん、ふ……ぁ……」
混ざりあった唾液が、口の端からとろんとこぼれる。ぼぅっとした頭で視線を彷徨わせていると、「ばんざいできる?」と問いかけられた。
こくんとうなずき、両手をあげる。すると服の裾をめくられて、すっかり上を脱がされてしまった。胸元に残されたどんぐりのペンダントに、彼は愛おしそうに目を細める。
「甲洋も……」
「うん」
膝立ちになった甲洋が、シャツを乱暴に脱ぎ捨てた。服を着ていたら気づかないが、その身体は太い骨組みによって構成されていた。ほどよく乗った筋肉によって、キュッと絞られている。綺麗だなと、操は思った。それに比べて自分の身体はまだどこか未発達で、薄く柔らかな肉が乗っているだけだ。
一体どこに興奮する要素があるのか、彼は操を見下ろして熱い息を吐きだした。
「ずっと触ってみたかった。来主の身体に」
覆いかぶさり、手のひらを胸に滑らせながら、感慨深そうに甲洋が言った。ピクンと反応しながら、操はふと思ったことを口にする。
「君が寝るときいつも猫に戻ってたのは、ずっと我慢してたから?」
すると彼は照れくさそうに目元を染めてうなずいた。
「人の姿で一緒に寝たら、手を出さない自信がなかった。俺は来主が思っているよりも、ずっと理性がないケダモノだから」
「そんな言い方しないで。君はぼくと同じ、ただの男の子だよ」
息を呑んだ甲洋が、耳としっぽの毛をさざ波のようにザワザワと膨らませた。よほど胸に迫るものがあったのか、彼は少し喉を詰まらせながら「ありがとう」と声を搾りだす。
「猫の姿でぼくのおっぱい揉んでる君も、すごく可愛かったけどね」
しかしにっこり笑って言った操の言葉に、彼は言葉をなくして硬直した。
「あ、そっか。君は無意識だったんだっけ」
「そんなこと……してた……?」
「してたよ。ぼくのおっぱい、子猫みたいに」
甲洋は「あぁ」とか「うぅ」とか、よく分からない声で唸った。すっかりうなだれ、首筋や肩まで赤くしている。操はその頭をよしよしと撫でてやった。
「いいじゃん。ぼくもお母さんになったみたいで嬉しかったし」
「……今からするのは、そういうのじゃないから」
「え? あっ、ふぁ……ッ!?」
ひと睨みされたかと思ったら、次の瞬間まっ平らな胸にキスをされた。
彼は羞恥を押し隠すように黙り込み、愛撫する動きに専念しだす。薄い肉を寄せ集めて揉みしだき、もう片方にはしつこいくらい吸いついた。
操は肌を粟立たせながら身を捩った。さんざん吸ったり舐めたり、時おり歯を立てたりされているうちに、両方の乳首が赤く膨らんで勃起する。思わず顔を両手で隠し、指の隙間から甲洋を見て嫌々と首を振った。
「やっ、いゃ、アッ……! はずかし……、ぁッ、ん、ふあぁ……っ!」
じゅう、と音が鳴るほど乳首を吸われて、あられもない嬌声があがる。生まれて初めての性感は、怖いくらい鋭いくせに蕩けそうなほど甘かった。じわじわと蒸し焼きにされたみたいに、頭がぼぅっとしてなにも考えられなくなる。
甲洋は操の皮膚にうっすら痕を残しながら、片手を下肢へと伸ばしていった。器用に前を解かれて、下着ごと皮を剥ぐように脱がされてしまう。ヒクヒクと震えながら姿を現した性器は、赤く色づきながら反応していた。
「よかった……来主がちゃんと気持ちよくなってくれて」
しっぽをリズミカルに大きく左右に振りながら、甲洋が嬉しそうに息をつく。
「恥ずかしいから、あんま見ないでよぉ……」
「ごめん。だけど、すごく可愛い」
触るよという宣言のあと、甲洋の手が性器に触れた。くにくにと揉むような動きで刺激され、先端がじわりと濡れる。鈴口をせき止めるように親指の腹で擦られると、痺れるような熱が腹の底から込み上げた。
「ひゃ、ッ……! ぁっ、や、あぁ……ッ、ん……っ!」
あまりにも興味がなさすぎて、自慰すらおろそかにしてきた身体は、明確に与えられる刺激に敏感すぎた。泣きべそをかくように先走りが溢れだし、その滑りを借りながら扱かれると、身体が勝手にビクビクと激しく波打つ。
「こよ、待っ、ッ、ぃ……ッ、あっ、ぅ、あぁぁッ……~~ッ!」
目の前が一瞬、白く染まった。身体がグッと硬直し、爪先をぎゅっと丸めながら果ててしまう。息を長く吐きだしながら、徐々に身体が弛緩していく。
初めての絶頂に、頭の中がガンガンしていた。浅く呼吸を繰り返し、抜けない余韻にか細く震える。焦点が定まらない視線をさまよわせると、操は甲洋の手がひどく汚れていることに気がついた。
「っ、ぁ……、こよ、ごめ……」
手のひらに滴るほどの量に羞恥を煽られ、じわりと涙が浮かんでしまう。甲洋は身を乗りだすと、慰めるように笑って操の目尻にキスをした。
「泣かないで。来主が気持ちいいと、俺も嬉しい」
「ん……」
「来主の大事なところ、もっと触っていい?」
まだ整わない息で小さくしゃくりを上げながら、それでも操はうなずいた。恥ずかしいし、身体がうまくついて行けているのかも分からない。だけど甲洋になら何をされてもいいと思った。
イッたあとで萎れた性器のさらに奥へと、濡れた手が潜り込もうとする動きに合わせて、操は自然と立てた両足を広げていた。
「んっ……!」
固く閉ざされた器官に触れられ、思わずぎゅっと目を閉じる。窄まった場所に体液を馴染ませるようにくるくると刺激されると、強ばる身体とは裏腹に、そこだけふやかされていくようだった。
圧をかけられ、人差し指の先端が潜り込んでくると、「ひぅッ!」という引きつった声が漏れてしまった。とっさに向けられた気遣わしげな視線に、操は大丈夫という意味を込めて首を振る。
「音、聞こえる?」
ホッとした顔を見せながらも、甲洋がチクチクと音をさせて指を動かす。操が放ったものと、腸壁を守るために分泌される生理的な体液とで、そこは卑猥な水音を立てていた。
「聞こ、える……エッチな音、してる……」
「痛かったら言って。来主のここは、すごく小さいから」
「ふぁっ、ぁ……っ、やっ、指……指が……っ」
長い指は男性らしく節くれだっている。飲み込まされては引き抜かれ、それを繰り返されているうちに、異物感に別の何かが混ざりだす。とても悪いことをしている気がするのに、腰から這い上がる感覚が甘く皮膚をざわつかせる。
指を増やされると苦しかったが、時間をかけられるほどに切なくなった。
「こよ……もう、いいから……」
つい急かしてしまった操に、甲洋が喉を鳴らしてこくんとうなずく。
彼は慎重に指を引き抜くと、ジーンズの前をくつろげて張りつめた自身をとりだした。血管が浮きあがり、ピクピクと脈打っている。
初めて見る勃起した大人の性器に、操はドキドキと胸を跳ねさせた。祈るようにどんぐりを両手で握りしめ、彼が幾度か自身を扱く光景を見守る。
「おっきいね、甲洋の」
「……あまり見ないで」
ついさっき自分も経験したから分かる。「恥ずかしいよね」と言って笑った操に、ペタリと耳を寝かせた彼が苦笑した。
甲洋は操の両足を割り開き、腰がわずかに浮くほど折り曲げると、何か思い立った様子でクッションに手を伸ばした。引き寄せたそれを腰の下に差し込まれると、位置が固定されて楽になる。
操がホッと息をついていると、濡れた孔に先端があてがわれた。
「来主……」
「うん。いいよ、甲洋」
操が微笑んだのを合図に、ゆっくりと腰が進められていく。太くて硬い熱の塊に、小さな孔がこじ開けられる。めくれ上がるような痛みと圧迫感に、操は喉を反らして呻きをあげた。
「あうぅ……ッ、ぃ、あ……おっき、ぃ……っ」
「くる、す……っ」
半分ほど埋めたところで、汗だくの甲洋がいったん動きを止めた。操の身体の両脇に両手をつき、うなだれながら呼吸を荒げている。彼も痛いのかもしれない。どんぐりを握りしめていた両手を伸ばし、震えている耳をそっと撫でた。
顔をあげた甲洋は、少し泣きそうな目をしていて可愛かった。思わずふっと笑ったら、少し緊張が解けた気がした。
「ゆっくりで、いいよ……」
チリン、と鈴の音が鳴り響く。安心させるように頬を撫でると、彼はもっと泣きそうにくしゃりと顔を歪めたが、すぐに唇を引き結んで腰を進めはじめた。
「くるす……くるす……っ」
「はあっ、ぁ……ああぁ……っ、ぁ、──……っ!」
きつく目を閉じ、覆いかぶさってきた身体を受け止めた。互いに荒い呼吸を繰返し、そのまま声もなく抱きしめ合う。
隙間なく穿たれた肉棒が、ドクドクと脈打っている。嬉しかった。自分の中にある彼の性に、命を握らされたような背徳感すら覚える。やっぱり食べられるのは甲洋の方だったのだと。
「もう、動いていいよ」
呼吸が整ってきたところで、肉厚な耳にキスをしながら囁いた。甲洋は少し子供っぽく「うん」と頷き、顔をあげると操の唇に軽く口づける。
半分ほど引き抜かれ、ズンと奥まで穿たれた。ふたり同時にくぐもった声を漏らす。そのままゆっくりと抽挿が繰り返され、やがて規則的なリズムが生まれた。チリン、チリン、と鈴が鳴る。
「あっ! ふぁっ、あ、ぁッ、……っ、こ、よ……こう、よう……ッ!」
肉路と竿が馴染んで、鈍い音を立てながら互いを擦り上げている。腹の奥を突かれるたびに、痛みより熱さの方が増していく。振り落とされないように、操は両足を甲洋の腰にきつく絡めてしがみついた。
甲洋がわずかに角度を変えて突き上げたとき、切っ先がある一点に触れた。ジワリと熱湯が湧き出したような感覚に、操はひときわ大きく身を震わせる。
「やぁっ、ア……! だめ、そこっ、いや……ッ!」
「ここ?」
「ひぅ、ん……ッ! や、やっ……、あうぅ、ぁ、そこぉ……っ」
「……わかった」
心得たとばかりに、重点的にこすられた。操は髪を振り乱し、生まれて初めての強すぎる快楽に涙を流す。だけど自然と、腰は甲洋の動きに合わせて揺れていた。
萎れていた性器もすっかり力を取り戻し、白濁とした液体を滲ませている。
「くる、す……ッ、は……っ、ぅ……っ」
甲洋は獣じみた吐息を漏らし、自身も快楽を貪りながらしっぽを鞭のように波打たせていた。バチ、バチ、と荒々しくシーツを叩き、喉をゴロゴロと鳴らしている。動きに合わせて、鈴の音もまた激しくなった。
愛しさが募るほどに、最果てがすぐ目の前まで迫ってくる。
「ああぁ……ッ、アッ、だめっぇ、ヒッ、ぃ、もう、だめぇぇ……っ!」
「来主……ッ、俺も、いく……──っ」
ナカで甲洋が大きく脈打った。ほとんど同時に熱が弾けて、真っ白になる。
彼はピンと立てたしっぽを、ブルブルと激しく震わせて射精した。腹の奥へと注がれる熱に、心も身体も満たされる。
操の性器からも白濁が散り、脇腹を伝い落ちてクッションを汚した。
「来主……」
小さく呼ぶ声に、操は「うん」と鼻をすすってうなずいた。慰め合うようにきつく抱き合い、余韻に身を震わせる。
満ち足りた波が過ぎ去ってもなお、ふたりはそのまま動けなかった。離れたくない。離したくない。逆さまにした砂時計のように、切なさばかりが降り積もる。
このままでいたいと願うほど、涙が溢れて止まらなかった。
「お願い、甲洋」
行かないで──という言葉を、優しくキスで塞がれる。なにも言わないでとばかりに、その口づけは深かった。
(……ズルいよ、君は)
一緒に逃げてもくれないくせに。好きという言葉すら言わせてくれない。ただずっと傍にいたいだけなのに。たったそれだけのことが、どうして難しいんだろう。
(分かってたのに)
身体を繋げてしまったら、ますます離れがたくなることだって。ぜんぶぜんぶ、ちゃんと分かっていたはずなのに。
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