確かめたいことがあった。
生活が苦しくてビデオに出たのかと聞いたとき、何も答えようとしない花京院の反応を、承太郎は肯定として受け止めた。
彼にはいざというとき頼れる家族もいないようだし、恵まれた家庭環境に身を置いていたとも思えない口振りだった。
あのとき、承太郎は花京院のためならば、いくらでも助けになろうと決めた。
同情からではない。単純に彼がこれ以上、他の男に抱かれるのが嫌だったからだ。もう二度とビデオに出ずに済むのならと。
連絡先を渡したのもそのためで、何かあれば必ず頼って来るだろうと思い込んでいたし、むしろそのときが待ち遠しかった。
だけどそれをせず、花京院は一度ならず二度も現場に姿を現した。
金のためでもなく、男が欲しいわけでもないのだとしたら、彼が求めるものはなんなのだろう。それは自分では与えることができないものなのか。
求められることには慣れている。だけど自ら手を伸ばそうとしたことがない承太郎は、今もなお彼にどう触れたらいいのか、分からないままだった。
だから話をしようと思った。彼に直接、聞いてみようと。
一人では埒が明かないことを、うじうじと悩み続けているのは性に合わない。
けれど訪ねていったコテージに、花京院の姿はなかった。
漠然と、胸騒ぎがした。
すぐにでも彼を見つけ出さなくてはいけない気がして、その場を離れた。承太郎はまず監督とカメラマンの元へ向かおうとしたが、そこでふと足を止めた。
花京院のコテージのすぐ隣。一回り大きな作りになっている建物から、大勢の騒ぐ声がしたのだ。
スタッフ全員がここを利用しているから、それ自体はなんらおかしくはなかった。だが、夜の闇と静けさに響くその声は、いやに承太郎の鼻につく。
妙な胸騒ぎが、嫌な予感に変わる。承太郎は扉に近づき、ノブに手をかけた。
そして。
「何をしている?」
扉を開けた瞬間、目に飛び込んできた光景は、異様なものだった。
暗い室内でつけっぱなしにされたテレビ画面には、何か映像が映し出されている。そこから漏れる音声は明らかに性交中と思われるもので、承太郎はそれを当たり前のように男女のものだと思った。
側では数人の男たちがベッドに群がっていた。彼らは突然の乱入者にハッとして顔を上げ、承太郎の存在に気がつくと顔を強張らせた。
「く、空条さん? どうかしたんですか?」
遮るように飛び出してきたのは、狐のように細く吊り上がった目をした、青いキャップをかぶった男だった。
彼は猫背で首の後ろを掻きながら、引き攣った笑みを浮かべている。
「何をしているのかと聞いている」
問いかけながらも、承太郎はテレビ画面に視線を張り付けたままだった。
古いビデオ。時々ノイズを走らせ、映像が乱れる。絡み合う二つの身体がくっきりと浮かび上がる瞬間、ぐっと目を凝らしてみた。
顔のハッキリしない男が、小さな白い身体に覆いかぶさって腰を振っていた。揺さぶられているのは……女性ではない。子供だ。
赤い、ひと房だけ長い前髪には見覚えがあった。
花京院によく似た少年。あるいは、本人か。
「いや、その……ちょっと遊んでただけですよ。あー、そうだ、なんなら一緒に」
「どけ」
「ちょ、ちょっと!?」
大きな歩幅で前へと進み出て、片手で男を退けるとベッドに近づいた。群がっていた男たちは怯えた表情で、蜘蛛の子を散らすようにさぁっと身を引く。
ベッドの上には、力なく四肢を投げ出す花京院の姿があった。その瞳は虚ろで、どこを見ているのか、焦点が定まっていない状態だ。
彼は一糸纏わぬ姿をしていた。引き千切られたような衣服が、ベッドの下に散らばっている。
うっすらと開かれていた唇が、微かに動いた。
じょうたろうさん、と。
頭の中で、ドクン、という音がして。
耳鳴りがするのと同時に、目の前が赤く染まった。
「やだなぁ。どうしたんですか、おっかない顔しちゃって。減るもんじゃなし、商品の味見するくらい別にいいでしょ?」
キャップの男が、再び割り込むように間に入る。承太郎はその胸倉を掴み、ほぼ無意識にその顔面に拳を叩きこんでいた。一瞬の出来事だった。
「ッ!!」
悲鳴を上げる間もなく、男が吹っ飛んだ。その身体は不快な映像を垂れ流す画面にぶつかり、台の上からテレビが派手に落下する。映像が途切れ、砂嵐に切り替わった。同時に側に置かれていたビデオデッキも停止して、ガチャ、という機械音と共に、黒いテープが中から飛び出す。
ベッド付近に身を寄せ合っていた男たちが一気に青褪め、上擦った悲鳴をあげる。承太郎は血走った目で瞬きもせず、ボロ雑巾のように伸びて床に倒れる男へ近づき、尚も胸倉を掴んで引きずり上げると、拳を振り上げた。
「や、やべぇ! 誰か止めろ!!」
「空条さんッ!! あんたがこれ以上殴ったら、そいつ死んじまいますって!!」
男たちが一斉に承太郎を取り押さえようと、手をかけてきた。
承太郎はそれを歯牙にもかけず、口元に薄っすらと笑みを浮かべる。
「死ぬ? 結構なことじゃあねーか」
憎悪や殺意というものを、生まれて初めて感じていた。
「てめーらはおれを怒らせた」
このとき承太郎は、本当に相手が死んでしまっても構わないと思っていた。
どんな経緯でこういう状況が作り出されたのかなんて、今はどうでもいい。
どす黒い塊のような感情が砕けて、飛び散って、やがてその狂暴な闇は承太郎自身を飲み込んでいく。
ああ、やっぱりあのとき、歯を立てておくべきだったのだと。
月明かりに照らされた寝室で、眠っている花京院の首筋に散らされた幾つもの痕。あれを見たとき、承太郎は彼の全てを奪いたいと思った。
こんなふうに誰かの手に落ちるくらいなら、もっと早く、考えるよりも、戸惑うよりも先に、例えどんなに不器用であったとしても、手を伸ばしておくべきだった。
なぜなら、花京院に触れていいのはこの自分だけだからだ。
確信と、傲慢さと、子供じみてすらいる独占欲だけが、承太郎を突き動かす。絶対に、誰にも渡さないと。
衝動の赴くままに、ダラダラと鼻血を零して意識を失う男の顔に、今度こそ拳を突き入れようとした。
そのとき。
「なんか凄い音がしたけど、一体どうしたのー!?」
能天気な声が、室内に割って入った。
全員が息をのみ、そして凍り付いた空気が一気に解れる。
「か、監督うぅ……ッ!!」
承太郎に張り付いていた男たちが、一斉にベソをかきながら、扉から姿を現した監督に駆け寄り縋りついた。
「死ぬかと思ったです俺ぇ~~~ッ」
「あの人を止めてください監督ぅ~~ッ」
「え? え? なにこれモテ期? 承太郎、一体なにが……え、そいつ死んでる!?」
「……死んじゃあいねえ。これから殺す。そこにいる連中も全員だ」
「そりゃあ穏やかじゃないねぇ~~~ッ!!」
こんなときですらどこか呑気している監督の声と同時に、室内に灯りが灯された。のっそりと遅れて入って来たのは金髪のカメラマンで、彼は承太郎と、そしてベッドでぐったりしている裸の花京院を見て、
「とりあえず、殺人は未然に防げましたかね」
と、どこか他人事のように呟いた。
*
花京院は意識が混濁した様子で、とても話ができる状態ではなかった。
これ以上、彼をあの場に置いておきたくなかった承太郎は、その身体をシーツで包んで担ぎ上げると、一度自分のコテージに戻った。
そしてぴくりとも動かない花京院をベッドに横たえ「寝ていろ」とだけ声をかけ、すぐにスタッフ用のコテージにとんぼ返りした。
そこでは意識を取り戻した男を交え、事の経緯を全て吐かせた。
承太郎がコテージへ戻ると、シーツを身体に巻きつけたままの花京院が、ベッドの端に腰かけていた。
「花京院」
名前を呼ぶと、その肩が小さく揺れる。
ゆっくりと側へ近づいても、彼は俯いたまま顔を上げようとはしなかった。
承太郎はそんな花京院を正面に見下ろし、ふわりとカーブを描く前髪に手を伸ばした。
「どうして助けたんですか?」
あと少しというところで宙に浮いたままの手を止め、ゆっくりとおろす。
その抑揚のない声が、彼の心の乾きを表しているのが伝わってくるようだった。
「ぼくは自分の意志で、ああいう行為に及んでいたのかもしれないのに」
「合意の上だったと?」
「……かもしれませんよ」
どこか自嘲的に言う彼は、音もなく腐っていく果実のようだった。荒んだ空気を隠そうともしない姿を見据え、承太郎はやれやれだ、と心の中で呟いて溜息を漏らす。
事の成り行きは、あの男から聞いている。だから花京院が匂わすような事実が存在しないことは、よく分かっていた。
「悪いが、あの野郎から大体の話は聞いてる」
「……ビデオも」
「チラッとな」
花京院は力なくふっと息を吐き出し、「そうですか」と言って笑った。諦め悟った人間特有の、干乾びた笑い方だった。
ログ調の温かみのある室内とは対照的に、落とされた沈黙がやけに寒々しい。
やがてその静寂を破ったのは、ぽつりと吐き出された花京院の声だった。
「寂しかったんですよね」
ぼうっと煙るように曇った瞳で、花京院は夢を見ているみたいにゆっくりと瞬きをしている。彼の意識は、まだあのテレビ画面の微かな光だけが点滅する、暗い部屋の中にあるのかもしれない。
だとしたらすぐにでも連れ戻したいという気持ちに、承太郎はあえて蓋をする。今はただ黙って、彼の声に耳を傾けたいと思った。
「母とは、最後まで良好な親子関係を築けませんでした。彼女が相手の男性に捨てられてしまったのは、ぼくがお腹にできてしまったせいだから」
抑揚のない声だった。
自分の内側を切り開いて、ひとつひとつ中の重石を放り捨てるように、彼は虚ろな瞳で言葉を漏らす。
「だから母はぼくを憎んでいた。いつも口癖みたいに言うんです。産みたくなかった、産まなければよかった、って。その度にぼくはいつも」
花京院は両手で自分の胸元を強く握りしめる。
「どうしたらいいか、分からなかった」
承太郎は、初めて花京院と出会った日のことを思い出していた。
彼の瞳は全て諦めたような色をしていた。だけどとても悲しそうだった。褒めて、という拙い訴えは、寂しいと言って泣いているようだった。
あのときの承太郎には、なぜかそれが分かってしまった。
「あのビデオを見せられるまで、ぼく自身忘れていたんです。でも思い出した。ぼくは寂しさを埋めてくれる人なら、誰でもよかったんだって」
「……あれは、ただの虐待だぜ」
顔を顰めながら言った承太郎に、彼はやんわりと曖昧に微笑んだ。
「だけどあの人は、何度も愛してると言ってくれた。可愛いって、いい子だって。ぼくはそれが、とても嬉しかった」
言うだけ言うと、花京院はふっと息を吐きながら「あはは」と乾いた笑い声をあげた。
「なんか痛いですね、ぼく。急に身の上話なんかしてしまって……恥ずかしいな」
取り繕ったような笑顔に、冷淡な空気が僅かに緩んだ。だが部屋の中は未だに寒々しいままだ。
彼はシーツを身体に巻きつけたまま、のろのろと立ち上がる。
「部屋に戻ります」
「待ちな」
「服、は……置いてきてしまったのかな。あれ、明日も着なくちゃいけなかったのに……困りましたね」
制止する承太郎の声をさらりと流し、花京院はぶつぶつと言いながらシーツを引きずって、逃げるように横を通り過ぎようとした。承太郎はその腕を掴んで強引に引き寄せる。
「わっ……!」
「待てと言ってる」
花京院は痛々しく眉間に皺を刻んで承太郎を見上げた。けれどすぐにぐっと目を閉じて俯いてしまう。
「どうかこれ以上、ぼくに構わないで」
辛い、と、彼は悲しげに掠れた声で漏らした。
「承太郎さんに優しくされるのは……耐えられない」
「……なぜだ」
「言ったでしょう? ぼくは優しくしてくれる相手なら誰だっていい。誰にでも縋ってしまう。だから、嫌だ」
承太郎はその言葉を聞いて、静かに溜息を漏らす。
あんな目に遭った直後だ。心を閉ざそうとする気持ちは、分からないでもない。
承太郎は事のあらましをあの男から聞いた。鼻から大量の血を流し、前歯が数本折れた状態で悶え苦しむ男は、承太郎が冷たく睨みをきかせるだけで、怯えながらペラペラと知っていることを全て吐いた。
その内容は、何もかもが胸糞悪いものでしかなかった。
花京院が深く傷つき、そしていまだに混乱しているのは分かる。
だから彼は、きっと気づいていない。
「言ってることが、矛盾しているぜ」
「……むじゅん?」
呆然と呟きながら、花京院はゆるりと顔を上げた。承太郎は片方の眉を少しだけ動かして、それを返事の代わりにする。
花京院は困惑に曇った表情で、震える息を吐き出した。
「何が、言いたいんですか」
「誰でもいいと言いながら、てめーはおれだけを拒絶する。おれにだけは優しくされたくないと言う」
「ッ……」
途端、息を飲んだ彼はひどく怯えた表情で弱々しく首を振り、「知らない」と吐き捨てると顔を背けてしまう。
「してない。矛盾なんか……」
「いいや、してるね。誰だって構わねえなら、おれに縋ったっていいはずだ。違うか?」
言葉を失くしている青白い頬に触れる。冷えた肌だった。
これを温めてやるには、どうすればいいだろう。そう考えたとき、承太郎の中にはたったひとつしか、答えがなかった。
「てめーを他の誰にも渡したくねえ」
「ッ、?」
「さっきも、おれはマジで人を殺すところだったぜ」
「じょ、承太郎さん」
「なぁ花京院。おれはこいつを、恋ってやつじゃあねえかと思っている。だとしたら、初恋だ」
顔をあげた花京院の目が丸く見開かれる。信じられないものでも見るように瞬きを繰り返す表情が、酷く幼いものに見えた。
今更のように、そういえばこいつはまだ二十歳にも満たないガキだったのだと思いだす。ともすれば、内面はもっと、幼い。
彼を初めて見たとき、承太郎はまるで迷子の子供のようだと思った。理不尽な母親の言葉に縛られたまま立ち止まる姿は、帰り道も分からず泣いている子供と同じだ。
承太郎はその孤独ごと、花京院を愛おしいと感じている自分に気づく。
彼の頬はみるみるうちに赤く染まっていった。掌に感じていた肌の冷たさが、急激に熱を高めていく。
「てめーはどう思う? おれの予想で合ってると思うか?」
狡い問いかけ、かもしれない。
だけど自分たちはどこか似ているような気がしていた。
愛し方がわからない不器用な子供と、愛を知らない、迷子の子供。
花京院は酷く混乱した様子で、小さく首を左右に振る。
「言っている意味が、わかりません……だ、だってぼくは、承太郎さんに嫌われてしまったはずで、恋、なんて、そんな」
「嫌う? おれにはそんな覚えはないが」
「だ、って、だって、意味が、ぼくには、そんな価値……」
なおも驚き、信じられない様子の花京院は、今にも目を回して倒れそうなほど混乱している。やれやれだ、と呟いて、承太郎はぐっと眉間に皺を寄せると至近距離でその瞳を直視した。
「自分に価値がねえと思っているなら、それはとんだお門違いというやつだぜ」
もし本当に花京院典明という人間に価値がないのなら、承太郎の中にあるこの感情も、無価値ということになってしまう。そんなのは、冗談じゃない。
「なぜなら、おれが選んだからだ。この空条承太郎がたったひとり選んだのが、花京院、てめーだからだ」
花京院の強張っていた肩から、ゆっくりと力が抜けていくのが分かる。
どこか放心した様子でその身体が傾くのを、胸に受け止めた。
空の水槽が新鮮な水で満たされたように、心の隙間が埋まるのを感じた。
ひとつ、弱々しくしゃくりあげた花京院の頬に触れ、顔を上向かせる。彼は引き結んだ唇を震わせて、目尻に溜まる涙を零すまいと堪えていた。
「だからおまえも、おれにしときな」
「ッ」
くしゃりと、花京院が顔の中心に皺を寄せた拍子に涙が零れる。
それを親指の腹を滑らせるようにして、そっと拭った。
「嘘だ、そんなの……」
堰を切ったように涙腺を崩壊させる花京院を、強く抱きしめる。花京院の身体は、まるであつらえたように承太郎の腕によく馴染んだ。この存在を知らないまま、今までよく生きてこられたものだと、これまでの人生を不可解にすら思えてしまう。
「ぼくは、都合のいい夢を見ているに決まってる」
「ここには都合のいい現実しかないぜ。さっさと受け入れな」
そう言いながら承太郎はふっと笑って、火が付いたように熱い唇にキスをする。
「言ったはずだぜ。おまえが欲しい、ってな」
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生活が苦しくてビデオに出たのかと聞いたとき、何も答えようとしない花京院の反応を、承太郎は肯定として受け止めた。
彼にはいざというとき頼れる家族もいないようだし、恵まれた家庭環境に身を置いていたとも思えない口振りだった。
あのとき、承太郎は花京院のためならば、いくらでも助けになろうと決めた。
同情からではない。単純に彼がこれ以上、他の男に抱かれるのが嫌だったからだ。もう二度とビデオに出ずに済むのならと。
連絡先を渡したのもそのためで、何かあれば必ず頼って来るだろうと思い込んでいたし、むしろそのときが待ち遠しかった。
だけどそれをせず、花京院は一度ならず二度も現場に姿を現した。
金のためでもなく、男が欲しいわけでもないのだとしたら、彼が求めるものはなんなのだろう。それは自分では与えることができないものなのか。
求められることには慣れている。だけど自ら手を伸ばそうとしたことがない承太郎は、今もなお彼にどう触れたらいいのか、分からないままだった。
だから話をしようと思った。彼に直接、聞いてみようと。
一人では埒が明かないことを、うじうじと悩み続けているのは性に合わない。
けれど訪ねていったコテージに、花京院の姿はなかった。
漠然と、胸騒ぎがした。
すぐにでも彼を見つけ出さなくてはいけない気がして、その場を離れた。承太郎はまず監督とカメラマンの元へ向かおうとしたが、そこでふと足を止めた。
花京院のコテージのすぐ隣。一回り大きな作りになっている建物から、大勢の騒ぐ声がしたのだ。
スタッフ全員がここを利用しているから、それ自体はなんらおかしくはなかった。だが、夜の闇と静けさに響くその声は、いやに承太郎の鼻につく。
妙な胸騒ぎが、嫌な予感に変わる。承太郎は扉に近づき、ノブに手をかけた。
そして。
「何をしている?」
扉を開けた瞬間、目に飛び込んできた光景は、異様なものだった。
暗い室内でつけっぱなしにされたテレビ画面には、何か映像が映し出されている。そこから漏れる音声は明らかに性交中と思われるもので、承太郎はそれを当たり前のように男女のものだと思った。
側では数人の男たちがベッドに群がっていた。彼らは突然の乱入者にハッとして顔を上げ、承太郎の存在に気がつくと顔を強張らせた。
「く、空条さん? どうかしたんですか?」
遮るように飛び出してきたのは、狐のように細く吊り上がった目をした、青いキャップをかぶった男だった。
彼は猫背で首の後ろを掻きながら、引き攣った笑みを浮かべている。
「何をしているのかと聞いている」
問いかけながらも、承太郎はテレビ画面に視線を張り付けたままだった。
古いビデオ。時々ノイズを走らせ、映像が乱れる。絡み合う二つの身体がくっきりと浮かび上がる瞬間、ぐっと目を凝らしてみた。
顔のハッキリしない男が、小さな白い身体に覆いかぶさって腰を振っていた。揺さぶられているのは……女性ではない。子供だ。
赤い、ひと房だけ長い前髪には見覚えがあった。
花京院によく似た少年。あるいは、本人か。
「いや、その……ちょっと遊んでただけですよ。あー、そうだ、なんなら一緒に」
「どけ」
「ちょ、ちょっと!?」
大きな歩幅で前へと進み出て、片手で男を退けるとベッドに近づいた。群がっていた男たちは怯えた表情で、蜘蛛の子を散らすようにさぁっと身を引く。
ベッドの上には、力なく四肢を投げ出す花京院の姿があった。その瞳は虚ろで、どこを見ているのか、焦点が定まっていない状態だ。
彼は一糸纏わぬ姿をしていた。引き千切られたような衣服が、ベッドの下に散らばっている。
うっすらと開かれていた唇が、微かに動いた。
じょうたろうさん、と。
頭の中で、ドクン、という音がして。
耳鳴りがするのと同時に、目の前が赤く染まった。
「やだなぁ。どうしたんですか、おっかない顔しちゃって。減るもんじゃなし、商品の味見するくらい別にいいでしょ?」
キャップの男が、再び割り込むように間に入る。承太郎はその胸倉を掴み、ほぼ無意識にその顔面に拳を叩きこんでいた。一瞬の出来事だった。
「ッ!!」
悲鳴を上げる間もなく、男が吹っ飛んだ。その身体は不快な映像を垂れ流す画面にぶつかり、台の上からテレビが派手に落下する。映像が途切れ、砂嵐に切り替わった。同時に側に置かれていたビデオデッキも停止して、ガチャ、という機械音と共に、黒いテープが中から飛び出す。
ベッド付近に身を寄せ合っていた男たちが一気に青褪め、上擦った悲鳴をあげる。承太郎は血走った目で瞬きもせず、ボロ雑巾のように伸びて床に倒れる男へ近づき、尚も胸倉を掴んで引きずり上げると、拳を振り上げた。
「や、やべぇ! 誰か止めろ!!」
「空条さんッ!! あんたがこれ以上殴ったら、そいつ死んじまいますって!!」
男たちが一斉に承太郎を取り押さえようと、手をかけてきた。
承太郎はそれを歯牙にもかけず、口元に薄っすらと笑みを浮かべる。
「死ぬ? 結構なことじゃあねーか」
憎悪や殺意というものを、生まれて初めて感じていた。
「てめーらはおれを怒らせた」
このとき承太郎は、本当に相手が死んでしまっても構わないと思っていた。
どんな経緯でこういう状況が作り出されたのかなんて、今はどうでもいい。
どす黒い塊のような感情が砕けて、飛び散って、やがてその狂暴な闇は承太郎自身を飲み込んでいく。
ああ、やっぱりあのとき、歯を立てておくべきだったのだと。
月明かりに照らされた寝室で、眠っている花京院の首筋に散らされた幾つもの痕。あれを見たとき、承太郎は彼の全てを奪いたいと思った。
こんなふうに誰かの手に落ちるくらいなら、もっと早く、考えるよりも、戸惑うよりも先に、例えどんなに不器用であったとしても、手を伸ばしておくべきだった。
なぜなら、花京院に触れていいのはこの自分だけだからだ。
確信と、傲慢さと、子供じみてすらいる独占欲だけが、承太郎を突き動かす。絶対に、誰にも渡さないと。
衝動の赴くままに、ダラダラと鼻血を零して意識を失う男の顔に、今度こそ拳を突き入れようとした。
そのとき。
「なんか凄い音がしたけど、一体どうしたのー!?」
能天気な声が、室内に割って入った。
全員が息をのみ、そして凍り付いた空気が一気に解れる。
「か、監督うぅ……ッ!!」
承太郎に張り付いていた男たちが、一斉にベソをかきながら、扉から姿を現した監督に駆け寄り縋りついた。
「死ぬかと思ったです俺ぇ~~~ッ」
「あの人を止めてください監督ぅ~~ッ」
「え? え? なにこれモテ期? 承太郎、一体なにが……え、そいつ死んでる!?」
「……死んじゃあいねえ。これから殺す。そこにいる連中も全員だ」
「そりゃあ穏やかじゃないねぇ~~~ッ!!」
こんなときですらどこか呑気している監督の声と同時に、室内に灯りが灯された。のっそりと遅れて入って来たのは金髪のカメラマンで、彼は承太郎と、そしてベッドでぐったりしている裸の花京院を見て、
「とりあえず、殺人は未然に防げましたかね」
と、どこか他人事のように呟いた。
*
花京院は意識が混濁した様子で、とても話ができる状態ではなかった。
これ以上、彼をあの場に置いておきたくなかった承太郎は、その身体をシーツで包んで担ぎ上げると、一度自分のコテージに戻った。
そしてぴくりとも動かない花京院をベッドに横たえ「寝ていろ」とだけ声をかけ、すぐにスタッフ用のコテージにとんぼ返りした。
そこでは意識を取り戻した男を交え、事の経緯を全て吐かせた。
承太郎がコテージへ戻ると、シーツを身体に巻きつけたままの花京院が、ベッドの端に腰かけていた。
「花京院」
名前を呼ぶと、その肩が小さく揺れる。
ゆっくりと側へ近づいても、彼は俯いたまま顔を上げようとはしなかった。
承太郎はそんな花京院を正面に見下ろし、ふわりとカーブを描く前髪に手を伸ばした。
「どうして助けたんですか?」
あと少しというところで宙に浮いたままの手を止め、ゆっくりとおろす。
その抑揚のない声が、彼の心の乾きを表しているのが伝わってくるようだった。
「ぼくは自分の意志で、ああいう行為に及んでいたのかもしれないのに」
「合意の上だったと?」
「……かもしれませんよ」
どこか自嘲的に言う彼は、音もなく腐っていく果実のようだった。荒んだ空気を隠そうともしない姿を見据え、承太郎はやれやれだ、と心の中で呟いて溜息を漏らす。
事の成り行きは、あの男から聞いている。だから花京院が匂わすような事実が存在しないことは、よく分かっていた。
「悪いが、あの野郎から大体の話は聞いてる」
「……ビデオも」
「チラッとな」
花京院は力なくふっと息を吐き出し、「そうですか」と言って笑った。諦め悟った人間特有の、干乾びた笑い方だった。
ログ調の温かみのある室内とは対照的に、落とされた沈黙がやけに寒々しい。
やがてその静寂を破ったのは、ぽつりと吐き出された花京院の声だった。
「寂しかったんですよね」
ぼうっと煙るように曇った瞳で、花京院は夢を見ているみたいにゆっくりと瞬きをしている。彼の意識は、まだあのテレビ画面の微かな光だけが点滅する、暗い部屋の中にあるのかもしれない。
だとしたらすぐにでも連れ戻したいという気持ちに、承太郎はあえて蓋をする。今はただ黙って、彼の声に耳を傾けたいと思った。
「母とは、最後まで良好な親子関係を築けませんでした。彼女が相手の男性に捨てられてしまったのは、ぼくがお腹にできてしまったせいだから」
抑揚のない声だった。
自分の内側を切り開いて、ひとつひとつ中の重石を放り捨てるように、彼は虚ろな瞳で言葉を漏らす。
「だから母はぼくを憎んでいた。いつも口癖みたいに言うんです。産みたくなかった、産まなければよかった、って。その度にぼくはいつも」
花京院は両手で自分の胸元を強く握りしめる。
「どうしたらいいか、分からなかった」
承太郎は、初めて花京院と出会った日のことを思い出していた。
彼の瞳は全て諦めたような色をしていた。だけどとても悲しそうだった。褒めて、という拙い訴えは、寂しいと言って泣いているようだった。
あのときの承太郎には、なぜかそれが分かってしまった。
「あのビデオを見せられるまで、ぼく自身忘れていたんです。でも思い出した。ぼくは寂しさを埋めてくれる人なら、誰でもよかったんだって」
「……あれは、ただの虐待だぜ」
顔を顰めながら言った承太郎に、彼はやんわりと曖昧に微笑んだ。
「だけどあの人は、何度も愛してると言ってくれた。可愛いって、いい子だって。ぼくはそれが、とても嬉しかった」
言うだけ言うと、花京院はふっと息を吐きながら「あはは」と乾いた笑い声をあげた。
「なんか痛いですね、ぼく。急に身の上話なんかしてしまって……恥ずかしいな」
取り繕ったような笑顔に、冷淡な空気が僅かに緩んだ。だが部屋の中は未だに寒々しいままだ。
彼はシーツを身体に巻きつけたまま、のろのろと立ち上がる。
「部屋に戻ります」
「待ちな」
「服、は……置いてきてしまったのかな。あれ、明日も着なくちゃいけなかったのに……困りましたね」
制止する承太郎の声をさらりと流し、花京院はぶつぶつと言いながらシーツを引きずって、逃げるように横を通り過ぎようとした。承太郎はその腕を掴んで強引に引き寄せる。
「わっ……!」
「待てと言ってる」
花京院は痛々しく眉間に皺を刻んで承太郎を見上げた。けれどすぐにぐっと目を閉じて俯いてしまう。
「どうかこれ以上、ぼくに構わないで」
辛い、と、彼は悲しげに掠れた声で漏らした。
「承太郎さんに優しくされるのは……耐えられない」
「……なぜだ」
「言ったでしょう? ぼくは優しくしてくれる相手なら誰だっていい。誰にでも縋ってしまう。だから、嫌だ」
承太郎はその言葉を聞いて、静かに溜息を漏らす。
あんな目に遭った直後だ。心を閉ざそうとする気持ちは、分からないでもない。
承太郎は事のあらましをあの男から聞いた。鼻から大量の血を流し、前歯が数本折れた状態で悶え苦しむ男は、承太郎が冷たく睨みをきかせるだけで、怯えながらペラペラと知っていることを全て吐いた。
その内容は、何もかもが胸糞悪いものでしかなかった。
花京院が深く傷つき、そしていまだに混乱しているのは分かる。
だから彼は、きっと気づいていない。
「言ってることが、矛盾しているぜ」
「……むじゅん?」
呆然と呟きながら、花京院はゆるりと顔を上げた。承太郎は片方の眉を少しだけ動かして、それを返事の代わりにする。
花京院は困惑に曇った表情で、震える息を吐き出した。
「何が、言いたいんですか」
「誰でもいいと言いながら、てめーはおれだけを拒絶する。おれにだけは優しくされたくないと言う」
「ッ……」
途端、息を飲んだ彼はひどく怯えた表情で弱々しく首を振り、「知らない」と吐き捨てると顔を背けてしまう。
「してない。矛盾なんか……」
「いいや、してるね。誰だって構わねえなら、おれに縋ったっていいはずだ。違うか?」
言葉を失くしている青白い頬に触れる。冷えた肌だった。
これを温めてやるには、どうすればいいだろう。そう考えたとき、承太郎の中にはたったひとつしか、答えがなかった。
「てめーを他の誰にも渡したくねえ」
「ッ、?」
「さっきも、おれはマジで人を殺すところだったぜ」
「じょ、承太郎さん」
「なぁ花京院。おれはこいつを、恋ってやつじゃあねえかと思っている。だとしたら、初恋だ」
顔をあげた花京院の目が丸く見開かれる。信じられないものでも見るように瞬きを繰り返す表情が、酷く幼いものに見えた。
今更のように、そういえばこいつはまだ二十歳にも満たないガキだったのだと思いだす。ともすれば、内面はもっと、幼い。
彼を初めて見たとき、承太郎はまるで迷子の子供のようだと思った。理不尽な母親の言葉に縛られたまま立ち止まる姿は、帰り道も分からず泣いている子供と同じだ。
承太郎はその孤独ごと、花京院を愛おしいと感じている自分に気づく。
彼の頬はみるみるうちに赤く染まっていった。掌に感じていた肌の冷たさが、急激に熱を高めていく。
「てめーはどう思う? おれの予想で合ってると思うか?」
狡い問いかけ、かもしれない。
だけど自分たちはどこか似ているような気がしていた。
愛し方がわからない不器用な子供と、愛を知らない、迷子の子供。
花京院は酷く混乱した様子で、小さく首を左右に振る。
「言っている意味が、わかりません……だ、だってぼくは、承太郎さんに嫌われてしまったはずで、恋、なんて、そんな」
「嫌う? おれにはそんな覚えはないが」
「だ、って、だって、意味が、ぼくには、そんな価値……」
なおも驚き、信じられない様子の花京院は、今にも目を回して倒れそうなほど混乱している。やれやれだ、と呟いて、承太郎はぐっと眉間に皺を寄せると至近距離でその瞳を直視した。
「自分に価値がねえと思っているなら、それはとんだお門違いというやつだぜ」
もし本当に花京院典明という人間に価値がないのなら、承太郎の中にあるこの感情も、無価値ということになってしまう。そんなのは、冗談じゃない。
「なぜなら、おれが選んだからだ。この空条承太郎がたったひとり選んだのが、花京院、てめーだからだ」
花京院の強張っていた肩から、ゆっくりと力が抜けていくのが分かる。
どこか放心した様子でその身体が傾くのを、胸に受け止めた。
空の水槽が新鮮な水で満たされたように、心の隙間が埋まるのを感じた。
ひとつ、弱々しくしゃくりあげた花京院の頬に触れ、顔を上向かせる。彼は引き結んだ唇を震わせて、目尻に溜まる涙を零すまいと堪えていた。
「だからおまえも、おれにしときな」
「ッ」
くしゃりと、花京院が顔の中心に皺を寄せた拍子に涙が零れる。
それを親指の腹を滑らせるようにして、そっと拭った。
「嘘だ、そんなの……」
堰を切ったように涙腺を崩壊させる花京院を、強く抱きしめる。花京院の身体は、まるであつらえたように承太郎の腕によく馴染んだ。この存在を知らないまま、今までよく生きてこられたものだと、これまでの人生を不可解にすら思えてしまう。
「ぼくは、都合のいい夢を見ているに決まってる」
「ここには都合のいい現実しかないぜ。さっさと受け入れな」
そう言いながら承太郎はふっと笑って、火が付いたように熱い唇にキスをする。
「言ったはずだぜ。おまえが欲しい、ってな」
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ブルーとエメラルドグリーンのコントラスト。
鉛雲の空の下、美しく揺れる湖水面が視界いっぱいに広がっている。
(運がないな、ぼくは)
桟橋の手摺に手をかけて、花京院は物憂げな表情で溜息を漏らす。
微かに雨の匂いを乗せた風は冷たい。白いシャツの上から羽織っている、ゆったりとした深緑のカーディガンは薄手で、小さく竦めた肩を震わせた。
日曜日。
この日、朝から監督とスタッフ、共演者らと集った花京院は、緑の山々に囲まれた静かなリゾート地を訪れていた。
海と見紛うほどの大湖と、その周縁には牧場やアミューズメント施設はもちろん、ホテルをはじめキャンプ場やコテージなどの宿泊施設も点在している。
今回の撮影は、この地で二日がかりで行われることになっていた。
台本も前に比べると幾らかマシな作りになっていて、ここでも花京院は台詞を頭に叩き込むことに夢中になった。女性向けを意識した作品だと監督が言っていた言葉が、内容を見てなんとなく理解できた。
そして、撮影はもうすでに始まっていた。
桟橋に佇む花京院へ向かって、静かな足音が近づいてくる。
次第に大きくなっていくその音に一度そっと目を閉じながら、花京院は竦めていた肩から力を抜いた。
「風邪ひくぜ」
すぐ隣で立ち止まった気配が、低く気遣わし気な声を漏らす。花京院は声のした方へ身体を向けると、ぎこちなく微笑んだ。
そのまま湖に背を向け、手摺に背中を預けると向かい側に陣取るカメラマンや監督、ガンマイクを持つスタッフらの姿が視界に入り込む。ここからそれなりに長い会話シーンをワンカットで撮るため、可能な限り失敗は避けたい。
「大丈夫だよ。ありがとう」
台詞の第一声で喉が詰まらなくてよかった。
湖のエメラルドに背を向けてもなお、自分を見下ろす同色の瞳は美しく、そして深く沈んでいるように見える。
「承太郎」
震えそうになる声で名前を呼んだ。
彼はそれに反応したように微かに目を細め、花京院と同じように桟橋の手摺に背を預ける。
そう。運の悪いことに、今度の相手も承太郎だった。
薄手のシャツに黒皮のジャケットを羽織った彼は、いつもより幾分か解れて額にかかっていた前髪を、さりげなく掻き上げている。その横顔から目を逸らし、花京院はふっと息を吐いて笑った。
「君とこんな風に過ごすのも、これが最後なんだな」
「…………」
「……いいのか? ご両親には、何も言わずに来てしまったんだろう?」
「いい。構わねえよ」
そうか、と小さく零しながら、花京院は頭の中であらすじをなぞる。
登場人物である承太郎と花京院は大学生で、恋人同士という設定だ。
だがふとしたことがキッカケで互いの両親に関係がバレてしまい、花京院は強制的に海外留学をさせられることになってしまった。
承太郎は将来、父親の大会社を継ぐ立場にある。そのため花京院は、いずれ別れなくてはいけない日が来ることを、こうなる以前から覚悟はしていた。
せめて最後に忘れられない思い出を作ろうと、二人はこうして一泊二日の小旅行へ行くことになるのだが。
「典明」
下の名を呼ばれ、思わず心臓がドクンと跳ねる。
承太郎は肩を震わせる花京院へ身体を向けると、まっすぐに目を合わせて来た。自然と、花京院も手摺から背を離して彼と視線を絡ませる。
「行くな」
「なにを突然」
「アメリカだかどこだか知らねえが……おれはおまえを諦めきれねえ」
演技と知りつつ、熱のこもった瞳を見ていることができない。小さく顔を背けた花京院は、唇を噛み締めながら幾度か首を振った。
「ダメだ。ちゃんと二人で話し合ったじゃあないか。これが、お互いのためだって」
「おれは納得しちゃあいねーぜ。今日だっておれは、二度と家に帰らねえつもりでここに来ている」
「な……!」
驚きに目を見開く花京院の両肩を掴み、承太郎はなおも言う。
「おまえも、そのつもりで来たんじゃねえのか」
「ぼくは、そんなつもりは……」
(安っぽいシナリオに変わりはないな)
戸惑った表情で俯きながら、心の中で呆れてしまう。
『承太郎』と『典明』は、もうどうしようもないほど深く愛し合っている。どちらかが欠ける未来などありえないことを、彼らは痛いほど知っているのだ。互いを求め合う気持ちを、抑えることなどできない。
「ぼくは君に、幸せになってほしい。だから」
「だったらおれと来い。どこにも行くな」
「承太郎……ッ」
引き寄せられる寸前で、その胸に両手をついて突っぱねた。
「ぼくでは駄目なんだ! ぼくと一緒にいれば、いつか必ず君を不幸にしてしまう。だって君は、卒業したら父親の会社を継がなくちゃあならないんだろう? いずれは跡継ぎだって……」
「それがなんだ? おれの人生だ。おれが決める」
「どうしてそんなことが言えるんだ……君は将来を約束されているんだぞ……?」
花京院にとって、この茶番は苦痛でしかない。
けれど背けていた顔をあげ、『承太郎』と視線を交わらせる『典明』の目には涙が浮かぶ。馬鹿げていると思うのに、『承太郎』の真っ直ぐな思いは花京院の胸を打つ。役に入り込んでいく心を、止められなかった。
「愛しているからだ」
『承太郎』の言葉に、息を飲む。
「ッ……!」
「出会ったときから、ずっと」
(……ぼくだって)
「ぼくだって……君が好きだ……」
(この人が好きなのに)
「君と、ずっと一緒にいたい……ッ!!」
『承太郎』の腕が今度こそ『典明』を強く抱きしめた。温かくて大きな胸板に身を寄せながら、その広い背に両腕を回す。
ふわりと鼻先をくすぐる承太郎の匂いに、風が運んでくる優しい草木の香りが混ざりあう。
長い両腕と、広い肩幅と、厚い胸板と。決して小さくはない自分が、こうしてすっぽりと包み込まれてしまう。ずっとこうしていられたら、どんなに幸せだろうか。これが演技ではなく、真実であったなら。
現実はなにもかもが逆だった。花京院はこの『典明』のように、真っ直ぐに気持ちを伝えることはできないし、承太郎に愛される自分の姿など、想像もできない。
だからもうこれ以上、彼の傍にいるのも、想い続けているのも辛かった。
(今度こそ、最後にするんだ)
この撮影が終わったら、何もかも忘れなくては。
『承太郎』の唇を『典明』として受け止めながら、花京院は今にも逃げ出したい衝動をぐっと押し殺し、ただ静かに睫毛を震わせた。
*
撮影は日が暮れる頃にようやく終わった。
あのあと場所を変えて、ごく普通の恋人同士のように観光スポットを巡るシーンが幾つか撮られた。途中で雨に降られて中断する場面もあったが、初日の撮影は全て無事に終えることができた。
「疲れたな」
全員で食事を終えた後、自分用に宛がわれた小さなコテージに戻ると、すぐにベッドにぐったりと身を預けた。三角屋根の木目調の天井をぼんやりと見つめて、大きく息をつく。
撮影の本番はこれからだ。今日はストーリーパートだったが、明日はいよいよ濡れ場が控えている。何もかもを捨てて駆け落ちをすることを決めた二人が、濃密に愛し合うシーンを撮らなくてはいけない。
こうしている間にも、花京院の気持ちは滅入るばかりだった。
今回の相手も承太郎だと知らされたときは、正直すぐにでも逃げ出したいと思った。承太郎にはきっと、忠告も聞かずまたのこのこと金のためにやってきた、馬鹿なガキだと思われているに違いない。
証拠に、彼は撮影以外で一度も花京院と目を合わせようとしなかったし、一言も口をきかなかった。
だけどもう、そんなことを気にしても詮無い話だ。明日で全てが終わる。最後に彼に抱かれて、あとは何もかも忘れてしまうと決めたのだから。
これ以上はなにも考えたくなくて、花京院は静かに目を閉じる。まだシャワーも着替えも済んでいないが、このままじわりと込み上げる睡魔に縋ろうとした。
だがそのとき、コテージの扉がノックされる音がして目を開ける。
(なんだ……面倒臭いな……)
できれば眠ってしまいたかったのだが。
それでも無視することはできず、のろのろと起き上がると扉へ向かう。ドアノブを回し、僅かに開けるとそこから顔を覗かせたのは。
「ああ、ごめん。寝てた?」
「……いえ」
あの青いキャップをかぶった、キツネ目のスタッフだった。
彼は肩を竦めてヘラリと笑った。なんとなく、その笑い方を不快に感じる。
「何か?」
「うん、明日のことでちょっとね。変更があったから、寝る前に打ち合わせするって、監督が」
「そうですか……わかりました」
「隣のコテージ。もうみんな集まってるから、すぐ来てくれよ」
正直なところ億劫でしかなかったが、頷くより他になかった。
先に行っているからと、キャップの男は去って行った。
撮影のことで話し合いがあるのなら、承太郎も必ず来るだろう。
彼と同じ空間に身を置くことは、今の花京院には苦痛でしかなかった。できることなら今日はもう、休んでしまいたかったのだが。
「しょうがない、か」
花京院は腹を括ると乱れていた髪を軽く整え、コテージを出た。
*
外はもうすっかり陽が沈み、暗く静まり返っていた。
花京院は指示通り、すぐ隣のコテージへ向かうと正面に見据え、ふと足を止める。
目の前の建物は、花京院のコテージよりも一回り大きい作りになっていた。
この辺り一帯には同じく似たような作りの建物が、幾つか点在している。
花京院と承太郎はそれぞれ一つずつ宛がわれたが、監督とカメラマンは二人で一つを、そしてその他のスタッフたちは全員、この大きなコテージを利用することになっていた。
(少し妙だな)
ふと違和感を覚えた。
目の前に佇むコテージには大勢が集まっているはずなのだが、それにしてはしんと静まり返っている。
窓へ目を向けても灯りはなく、無人と言われても納得がいくほど人の気配が感じられない。
何かの間違いだろうかと思いかけたが、あのキャップのスタッフは確かに隣のコテージと言った。花京院のコテージはちょうど敷地の外れにあるため、隣といえばここしかないのだが。
なんとなく、胸騒ぎがした。漠然とではあるけれど、ここに近づいてはいけないような。
とはいえここで引き返すわけにはいかない。一瞬、監督とカメラマンが利用しているコテージへ行ってみようかとも思ったが、まずはスタッフの指示に従うことにした。
コンコン、と。
木製のドアを軽くノックしてみる。
反応がなければやはり監督の元へ行こうと考えていたが、すぐに
『どうぞ』
という、くぐもった男の声がした。
やはり間違っていなかったのだと、花京院はドアノブに手をかけて扉を開ける。
すると、中はやはり暗く静まり返っていた。
「……?」
確かに声もしたし、ここで間違いないはず。
けれど中に踏み込んでみても暗いばかりで、誰もいない。そのとき、背後でバタンと扉が閉まった。
「ッ!」
花京院がその音に肩を跳ねさせるのと、バチ、という何かスイッチが入るような音が聞こえたのは、同時だった。
室内が薄ぼんやりと照らされ、花京院の視線はおのずと光の出所へ向けられる。
そこには、古びたブラウン管テレビがあった。
テレビには何か映像が映し出されていて、花京院は引き寄せられるようにテレビへ向かって足を進める。
徐々に距離が狭まると、画面に映し出されている光景が幾らか鮮明になった。
真っ暗な空間に、ぼんやりと蝋燭が揺れている映像だ。
『典明』
心臓が、大きく跳ねる。
テレビから聞こえた声は男のもので、それがはっきりと花京院の名を呼んだ。
(これは、なんだ? ぼくはいったい、何を見せられている?)
何が起こっているのか、理解できなかった。だけど身体の奥深くで、これ以上は見るなともう一人の自分が叫んでいる。
見てはいけない。今すぐここから逃げろ。でなければきっと、なにか恐ろしいことが起こるぞと。
だけど視線は映し出される映像に釘づけで、金縛りにあったように身体が動かなかった。
『おまえは本当にいい子だね』
声と共に一瞬、画面が滲んだ。それからすぐに映し出されたのは。
「ッ!?」
裸でベッドに横たわる、幼い子どもの姿だった。
蝋燭の頼りない光だけに加えて、画質は相当古いのか、ガサガサと時折ノイズが走る。だけど幼い身体はいやに白く、そして痛々しく花京院の目に映った。
小さな火が揺れる度に、幼子の赤い髪が燃えるように浮かび上がる。
(これは……ぼく、か……?)
『どこもかしこも、とても綺麗だ。こんなに可愛い子供は見たことがない』
画面に映り込んでいるのは、幼子だけではなかった。
大人の男と分かる手がその白い胸に這わされる。その感触と声に反応して、幼い花京院はふっと微笑んだ。
そしてその唇が
『おとうさん』
と、男を呼んだ。
「おとう、さん……?」
瞬きすらできず、食い入るように見つめる先で、幼子が小枝のような両手を伸ばす。父と呼ばれた男は大きな身体で幼子に圧し掛かり、まるで恋人にするみたいに小さな唇に舌を這わせた。
幼子は懸命に男の首に両手を巻き付かせ、嫌に生々しい水音を響かせながら、応えようとしていた。
やがて男はベッドの縁に腰かけると、固定されたカメラに見せつけるようにして、露出した下半身を曝す。
『さぁ、上手にできるかな? いつも通りにできるかい?』
問いかけに、幼い花京院は身を起こしながら濁った瞳で頷いた。
その手を男の勃起した性器に伸ばし、小さな手でゆるゆると扱きはじめる。そして、身体を倒すとその先端に躊躇なく口づけた。
口の中に納まりきらない性器に、キャンディーを舐めしゃぶるように舌を這わせる子供の頭を、大きな手がしきりに撫でる。
そうされる度に、花京院は嬉しそうに笑った。
(これ、は……なに……?)
『そう、いい子だ』
(あれは、あの人は)
義理の、父親だ。
「どうして……?」
母と結婚したはずの男。その息子共々、花京院とは深く関わりを持とうとしなかったはずの、他人も同然の家族。
それがどうして幼い自分と、あのような行為を……?
『愛してるよ典明』
びくん、と。
画面の中の小さな肩が跳ねる。同時にそれを見つめる花京院の肩も震えた。
――愛してる。
それは、あの子供にとって大好きなチェリーよりも甘い、魔法の呪文だった。
(そうだ、ぼくは)
『ぼくもすき』
(ずっとこの人に)
『おとうさんが、すき』
(抱かれていた)
花京院の中で、何かが音を立てて崩れ去った。
それはずっと記憶を閉じ込めていた分厚い檻が、崩壊する音だった。
(いつも、甘い香りがしていたんだ)
いちど解き放たれた記憶の断片が、とてつもない速さで元の形を構築していく。
時々、夜中になると義父が部屋まで迎えに来た。手を引かれて連れて行かれるのは彼の部屋で、そこはいつも花のような、砂糖菓子のような不思議な香りがしていた。
その匂いを嗅ぐと心も身体もふわふわとしてきて、何も分からなくなって。自分が自分では、なくなってしまう。
『大丈夫。明日には、なにもかも忘れているよ』
義父はいつも言っていた。明日には全て忘れているからと。だから大丈夫だと。
きっとこれはとても悪いことだと、心のどこかでは知っていた。だけど彼の大丈夫だという言葉を繰り返し聞いていると、暗示をかけられたように安心した。
「あれ、やっぱり君だよね?」
そのとき、全く別の男の声がした。
未だに動けないできる花京院の背後から、ゆるりと二本の腕が伸びてくる。抱き込まれてもなお、過去へ気をとられたままの花京院は画面に釘づけで、何も反応ができなかった。
「絶対にどこかで見たと思ってたんだ。髪型も変わってるし」
花京院を呼びに来た、あの青いキャップの男だ。彼は花京院の耳に、ふっと息を吹きかけた。
「どうして俺がこんなビデオを持ってるか、知りたいか?」
「ッ……な……?」
「兄貴だよ。あんたの義理の兄貴。昔ちょっと付き合いあってさ」
花京院の義理の兄。それは今、画面の向こう側で幼い子供を蹂躙する男の、実の息子だ。
「この親父、とんだ変態だな。わざわざ息子とのセックスをカメラに収めたりして。あんたの兄貴はそれをこっそり持ち出して、ダビングしたのをダチの間で回してたんだよ」
中学の頃の話だけど、と言いながら、男はヘラリと笑った。
テレビ画面からは甲高い声が漏れ聞こえ、そのおぞましい行為を垂れ流している。獣のように腰を振る義父の下で、幼い子供が薄く微笑みながら、揺さぶられていた。
足元から這い上がる寒気と同時に、腹の奥から何かが競り上がって来る。
思わず両手で口元を押さえ、花京院は身を震わせた。
「悪い子だよなぁ、花京院くん。あれ、義理でも一応は父親だろ?」
「ち、が……」
「お母さんに隠れて、いっつもあんなエッチなことしてたんだ?」
「知らない……ぼくは、知らない……ッ」
知らなかったのだ。
あの頃の花京院には、性行為という概念すらなかった。
ただ、義父に連れられて部屋に入ると甘い匂いがした。そして気がつくと自室のベッドに戻されていて、その間の記憶は何一つ残ってはいなかった。
「あんなに嬉しそうに股開いといて、よく言うよな」
男の言葉に、息をのむ。
何もかもお見通しとばかりに、彼はなおも続けた。
「好きとか愛してるって言ってくれる相手なら、誰でもいいんだろ?」
「違う、ぼくは、そんな人間じゃ」
「責めてるわけじゃないのさ。だって君、お母さんからネグレクトされてたんだろ? 可哀想に。さぞ寂しかったろうね」
「……それも」
「そう、兄貴から聞いて知ってるよ」
「だからなんだ。こんなものを見せて、ぼくを脅しているつもりか?」
偶然の巡りあわせに、内心動揺は隠せない。だが、仮にこの男が映像を公にすると言ったところで、痛くも痒くもないのだ。
花京院はすでに数本のビデオに出演している。それらはすでに出回っているし、今さら失うものなど何もない。
だから、本当は分かっている。この男は、ただこうして花京院に精神的な揺さぶりをかけて、反応を楽しんでいるだけなのだと。
噛みつくような目で睨む花京院を、男は馬鹿にしたように鼻で笑い飛ばした。
「別に~? ただちょっと君と遊びたいだけだよ」
それを合図に、ギシギシと床板を踏みしめる音が幾つも聞こえた。
辺りを見ると、薄ぼんやりとした空間に5,6人の男たちがニヤニヤと笑みを浮かべているのが見える。今の今まで、息を殺して潜んでいたのか。彼らは全員、撮影に参加していたスタッフたちだった。
「俺たちみんな、花京院くんのこと大好きでさ」
「な……!?」
「だからいいだろ?」
逃げなくてはと。
思い立つにはあまりにも遅すぎた。幾本もの腕が一斉に伸びてきて、花京院を取り押さえると引きずるようにすぐ側のベッドへ投げ込まれる。
「ぅぐ……ッ!」
「やっとかよ。ずいぶん待ったぜ」
「さっさと服脱がしちまえって! こいつガキのくせにほんっとイイ身体してるんだよなぁ」
「いッ、やだ……いやだ、やめろ……ッ!!」
まるで揉みくちゃにするみたいに、洋服が引き剥がされていく。露わになる肌に汗ばんだ手が幾つも這わされ、花京院は激しく身を捩って抵抗を繰り返した。
頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいか分からない。ただ、このまま好きにされるのだけは我慢ならなかった。逃げ場のない状況で、それでも闇雲に四肢をバタつかせる。
すると誰かが苛立ったように舌打ちをして、「うるせぇな」と吐き捨てた。
「どうせ明日にはデカいちんぽブチ込まれるんだからよ」
「そうそう、その前にオレらの粗チンでたっぷり慣らしといてあげるからねー」
「ガキの頃から使い込んでんだから、とっくにケツの穴なんかゆるゆるだろ?」
「典明く~ん、嘘ついちゃ駄目だよ~。初めてとか言って、最初の撮影の時とっくに経験済みだったんじゃ~ん」
次々と浴びせられる汚い言葉、にたにたと笑う顔。
それらが一瞬にして突き刺さり、凍てついた心が粉々に砕かれるのを感じた。
初めてだと思っていた。誰かに抱かれたのも、恋をしたのも。
だけど違っていた。この身体はとっくに男を知っていて、女性に興味を持てなかったのも、そういう身体にされていたから、だったのだろうか。
両耳を内側から塞がれたような圧迫感を覚える。そのまま尾をひくような耳鳴りがしだして、頭の中で、承太郎の声がした。
――可愛いな、君は。
初めて会った日。
承太郎にそう言われると、心も身体もふわふわと舞い上がるような気がした。
彼は花京院を優しく抱いた。綺麗だと、具合がいいと、いい子だと言って、褒めてくれた。だけど。
――それとも、ただ男が欲しかっただけか?
(……あぁ、そうか)
優しい言葉をかけられれば、相手なんかどうでもよかったのかもしれない。
それを恋だなどと勘違いしてしまっただけ、だったのかもしれない。
承太郎だから特別なのだと、承太郎だから好きになったのだと。
でも、本当は。
(誰でも、よかったんだ……)
幼い頃から愛されたくて仕方がなかった。誰かに優しくしてほしくて、堪らなかった。ずっとずっと、寂しかった。
心の内側が、真っ黒に塗りつぶされていくのを感じた。その闇が濃くなるほどに瞳は虚ろに濁り、全身から力が抜けていく。
「お、急におとなしくなった」
「いい子だね~典明く~ん。優しくしてあげるからね~」
「いいからとっととブチ込んじまおうぜ」
人形のように力を失くした花京院の両足を、誰かが大きく割り開いた。
それをぼんやりと他人事のように見つめる視界の端に、あの蝋燭の頼りない光を映し出すテレビ画面がちらりと掠める。
その微かな暖色は、初めて承太郎の家を訪れた夜を思い出させた。
(承太郎さん……)
なぜ怒りを感じていたのか、自分にもよくわからないと言って、不器用に触れてきた人。あの手の温もりを思い出すだけで、今もこんなに胸が苦しいのに。
(もう、いいや)
身体の奥まった場所に、誰かの勃起した性器が押し付けられる。
そのとき。
木製の扉が微かに軋んだ音を立てながら、開く音がした。
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鉛雲の空の下、美しく揺れる湖水面が視界いっぱいに広がっている。
(運がないな、ぼくは)
桟橋の手摺に手をかけて、花京院は物憂げな表情で溜息を漏らす。
微かに雨の匂いを乗せた風は冷たい。白いシャツの上から羽織っている、ゆったりとした深緑のカーディガンは薄手で、小さく竦めた肩を震わせた。
日曜日。
この日、朝から監督とスタッフ、共演者らと集った花京院は、緑の山々に囲まれた静かなリゾート地を訪れていた。
海と見紛うほどの大湖と、その周縁には牧場やアミューズメント施設はもちろん、ホテルをはじめキャンプ場やコテージなどの宿泊施設も点在している。
今回の撮影は、この地で二日がかりで行われることになっていた。
台本も前に比べると幾らかマシな作りになっていて、ここでも花京院は台詞を頭に叩き込むことに夢中になった。女性向けを意識した作品だと監督が言っていた言葉が、内容を見てなんとなく理解できた。
そして、撮影はもうすでに始まっていた。
桟橋に佇む花京院へ向かって、静かな足音が近づいてくる。
次第に大きくなっていくその音に一度そっと目を閉じながら、花京院は竦めていた肩から力を抜いた。
「風邪ひくぜ」
すぐ隣で立ち止まった気配が、低く気遣わし気な声を漏らす。花京院は声のした方へ身体を向けると、ぎこちなく微笑んだ。
そのまま湖に背を向け、手摺に背中を預けると向かい側に陣取るカメラマンや監督、ガンマイクを持つスタッフらの姿が視界に入り込む。ここからそれなりに長い会話シーンをワンカットで撮るため、可能な限り失敗は避けたい。
「大丈夫だよ。ありがとう」
台詞の第一声で喉が詰まらなくてよかった。
湖のエメラルドに背を向けてもなお、自分を見下ろす同色の瞳は美しく、そして深く沈んでいるように見える。
「承太郎」
震えそうになる声で名前を呼んだ。
彼はそれに反応したように微かに目を細め、花京院と同じように桟橋の手摺に背を預ける。
そう。運の悪いことに、今度の相手も承太郎だった。
薄手のシャツに黒皮のジャケットを羽織った彼は、いつもより幾分か解れて額にかかっていた前髪を、さりげなく掻き上げている。その横顔から目を逸らし、花京院はふっと息を吐いて笑った。
「君とこんな風に過ごすのも、これが最後なんだな」
「…………」
「……いいのか? ご両親には、何も言わずに来てしまったんだろう?」
「いい。構わねえよ」
そうか、と小さく零しながら、花京院は頭の中であらすじをなぞる。
登場人物である承太郎と花京院は大学生で、恋人同士という設定だ。
だがふとしたことがキッカケで互いの両親に関係がバレてしまい、花京院は強制的に海外留学をさせられることになってしまった。
承太郎は将来、父親の大会社を継ぐ立場にある。そのため花京院は、いずれ別れなくてはいけない日が来ることを、こうなる以前から覚悟はしていた。
せめて最後に忘れられない思い出を作ろうと、二人はこうして一泊二日の小旅行へ行くことになるのだが。
「典明」
下の名を呼ばれ、思わず心臓がドクンと跳ねる。
承太郎は肩を震わせる花京院へ身体を向けると、まっすぐに目を合わせて来た。自然と、花京院も手摺から背を離して彼と視線を絡ませる。
「行くな」
「なにを突然」
「アメリカだかどこだか知らねえが……おれはおまえを諦めきれねえ」
演技と知りつつ、熱のこもった瞳を見ていることができない。小さく顔を背けた花京院は、唇を噛み締めながら幾度か首を振った。
「ダメだ。ちゃんと二人で話し合ったじゃあないか。これが、お互いのためだって」
「おれは納得しちゃあいねーぜ。今日だっておれは、二度と家に帰らねえつもりでここに来ている」
「な……!」
驚きに目を見開く花京院の両肩を掴み、承太郎はなおも言う。
「おまえも、そのつもりで来たんじゃねえのか」
「ぼくは、そんなつもりは……」
(安っぽいシナリオに変わりはないな)
戸惑った表情で俯きながら、心の中で呆れてしまう。
『承太郎』と『典明』は、もうどうしようもないほど深く愛し合っている。どちらかが欠ける未来などありえないことを、彼らは痛いほど知っているのだ。互いを求め合う気持ちを、抑えることなどできない。
「ぼくは君に、幸せになってほしい。だから」
「だったらおれと来い。どこにも行くな」
「承太郎……ッ」
引き寄せられる寸前で、その胸に両手をついて突っぱねた。
「ぼくでは駄目なんだ! ぼくと一緒にいれば、いつか必ず君を不幸にしてしまう。だって君は、卒業したら父親の会社を継がなくちゃあならないんだろう? いずれは跡継ぎだって……」
「それがなんだ? おれの人生だ。おれが決める」
「どうしてそんなことが言えるんだ……君は将来を約束されているんだぞ……?」
花京院にとって、この茶番は苦痛でしかない。
けれど背けていた顔をあげ、『承太郎』と視線を交わらせる『典明』の目には涙が浮かぶ。馬鹿げていると思うのに、『承太郎』の真っ直ぐな思いは花京院の胸を打つ。役に入り込んでいく心を、止められなかった。
「愛しているからだ」
『承太郎』の言葉に、息を飲む。
「ッ……!」
「出会ったときから、ずっと」
(……ぼくだって)
「ぼくだって……君が好きだ……」
(この人が好きなのに)
「君と、ずっと一緒にいたい……ッ!!」
『承太郎』の腕が今度こそ『典明』を強く抱きしめた。温かくて大きな胸板に身を寄せながら、その広い背に両腕を回す。
ふわりと鼻先をくすぐる承太郎の匂いに、風が運んでくる優しい草木の香りが混ざりあう。
長い両腕と、広い肩幅と、厚い胸板と。決して小さくはない自分が、こうしてすっぽりと包み込まれてしまう。ずっとこうしていられたら、どんなに幸せだろうか。これが演技ではなく、真実であったなら。
現実はなにもかもが逆だった。花京院はこの『典明』のように、真っ直ぐに気持ちを伝えることはできないし、承太郎に愛される自分の姿など、想像もできない。
だからもうこれ以上、彼の傍にいるのも、想い続けているのも辛かった。
(今度こそ、最後にするんだ)
この撮影が終わったら、何もかも忘れなくては。
『承太郎』の唇を『典明』として受け止めながら、花京院は今にも逃げ出したい衝動をぐっと押し殺し、ただ静かに睫毛を震わせた。
*
撮影は日が暮れる頃にようやく終わった。
あのあと場所を変えて、ごく普通の恋人同士のように観光スポットを巡るシーンが幾つか撮られた。途中で雨に降られて中断する場面もあったが、初日の撮影は全て無事に終えることができた。
「疲れたな」
全員で食事を終えた後、自分用に宛がわれた小さなコテージに戻ると、すぐにベッドにぐったりと身を預けた。三角屋根の木目調の天井をぼんやりと見つめて、大きく息をつく。
撮影の本番はこれからだ。今日はストーリーパートだったが、明日はいよいよ濡れ場が控えている。何もかもを捨てて駆け落ちをすることを決めた二人が、濃密に愛し合うシーンを撮らなくてはいけない。
こうしている間にも、花京院の気持ちは滅入るばかりだった。
今回の相手も承太郎だと知らされたときは、正直すぐにでも逃げ出したいと思った。承太郎にはきっと、忠告も聞かずまたのこのこと金のためにやってきた、馬鹿なガキだと思われているに違いない。
証拠に、彼は撮影以外で一度も花京院と目を合わせようとしなかったし、一言も口をきかなかった。
だけどもう、そんなことを気にしても詮無い話だ。明日で全てが終わる。最後に彼に抱かれて、あとは何もかも忘れてしまうと決めたのだから。
これ以上はなにも考えたくなくて、花京院は静かに目を閉じる。まだシャワーも着替えも済んでいないが、このままじわりと込み上げる睡魔に縋ろうとした。
だがそのとき、コテージの扉がノックされる音がして目を開ける。
(なんだ……面倒臭いな……)
できれば眠ってしまいたかったのだが。
それでも無視することはできず、のろのろと起き上がると扉へ向かう。ドアノブを回し、僅かに開けるとそこから顔を覗かせたのは。
「ああ、ごめん。寝てた?」
「……いえ」
あの青いキャップをかぶった、キツネ目のスタッフだった。
彼は肩を竦めてヘラリと笑った。なんとなく、その笑い方を不快に感じる。
「何か?」
「うん、明日のことでちょっとね。変更があったから、寝る前に打ち合わせするって、監督が」
「そうですか……わかりました」
「隣のコテージ。もうみんな集まってるから、すぐ来てくれよ」
正直なところ億劫でしかなかったが、頷くより他になかった。
先に行っているからと、キャップの男は去って行った。
撮影のことで話し合いがあるのなら、承太郎も必ず来るだろう。
彼と同じ空間に身を置くことは、今の花京院には苦痛でしかなかった。できることなら今日はもう、休んでしまいたかったのだが。
「しょうがない、か」
花京院は腹を括ると乱れていた髪を軽く整え、コテージを出た。
*
外はもうすっかり陽が沈み、暗く静まり返っていた。
花京院は指示通り、すぐ隣のコテージへ向かうと正面に見据え、ふと足を止める。
目の前の建物は、花京院のコテージよりも一回り大きい作りになっていた。
この辺り一帯には同じく似たような作りの建物が、幾つか点在している。
花京院と承太郎はそれぞれ一つずつ宛がわれたが、監督とカメラマンは二人で一つを、そしてその他のスタッフたちは全員、この大きなコテージを利用することになっていた。
(少し妙だな)
ふと違和感を覚えた。
目の前に佇むコテージには大勢が集まっているはずなのだが、それにしてはしんと静まり返っている。
窓へ目を向けても灯りはなく、無人と言われても納得がいくほど人の気配が感じられない。
何かの間違いだろうかと思いかけたが、あのキャップのスタッフは確かに隣のコテージと言った。花京院のコテージはちょうど敷地の外れにあるため、隣といえばここしかないのだが。
なんとなく、胸騒ぎがした。漠然とではあるけれど、ここに近づいてはいけないような。
とはいえここで引き返すわけにはいかない。一瞬、監督とカメラマンが利用しているコテージへ行ってみようかとも思ったが、まずはスタッフの指示に従うことにした。
コンコン、と。
木製のドアを軽くノックしてみる。
反応がなければやはり監督の元へ行こうと考えていたが、すぐに
『どうぞ』
という、くぐもった男の声がした。
やはり間違っていなかったのだと、花京院はドアノブに手をかけて扉を開ける。
すると、中はやはり暗く静まり返っていた。
「……?」
確かに声もしたし、ここで間違いないはず。
けれど中に踏み込んでみても暗いばかりで、誰もいない。そのとき、背後でバタンと扉が閉まった。
「ッ!」
花京院がその音に肩を跳ねさせるのと、バチ、という何かスイッチが入るような音が聞こえたのは、同時だった。
室内が薄ぼんやりと照らされ、花京院の視線はおのずと光の出所へ向けられる。
そこには、古びたブラウン管テレビがあった。
テレビには何か映像が映し出されていて、花京院は引き寄せられるようにテレビへ向かって足を進める。
徐々に距離が狭まると、画面に映し出されている光景が幾らか鮮明になった。
真っ暗な空間に、ぼんやりと蝋燭が揺れている映像だ。
『典明』
心臓が、大きく跳ねる。
テレビから聞こえた声は男のもので、それがはっきりと花京院の名を呼んだ。
(これは、なんだ? ぼくはいったい、何を見せられている?)
何が起こっているのか、理解できなかった。だけど身体の奥深くで、これ以上は見るなともう一人の自分が叫んでいる。
見てはいけない。今すぐここから逃げろ。でなければきっと、なにか恐ろしいことが起こるぞと。
だけど視線は映し出される映像に釘づけで、金縛りにあったように身体が動かなかった。
『おまえは本当にいい子だね』
声と共に一瞬、画面が滲んだ。それからすぐに映し出されたのは。
「ッ!?」
裸でベッドに横たわる、幼い子どもの姿だった。
蝋燭の頼りない光だけに加えて、画質は相当古いのか、ガサガサと時折ノイズが走る。だけど幼い身体はいやに白く、そして痛々しく花京院の目に映った。
小さな火が揺れる度に、幼子の赤い髪が燃えるように浮かび上がる。
(これは……ぼく、か……?)
『どこもかしこも、とても綺麗だ。こんなに可愛い子供は見たことがない』
画面に映り込んでいるのは、幼子だけではなかった。
大人の男と分かる手がその白い胸に這わされる。その感触と声に反応して、幼い花京院はふっと微笑んだ。
そしてその唇が
『おとうさん』
と、男を呼んだ。
「おとう、さん……?」
瞬きすらできず、食い入るように見つめる先で、幼子が小枝のような両手を伸ばす。父と呼ばれた男は大きな身体で幼子に圧し掛かり、まるで恋人にするみたいに小さな唇に舌を這わせた。
幼子は懸命に男の首に両手を巻き付かせ、嫌に生々しい水音を響かせながら、応えようとしていた。
やがて男はベッドの縁に腰かけると、固定されたカメラに見せつけるようにして、露出した下半身を曝す。
『さぁ、上手にできるかな? いつも通りにできるかい?』
問いかけに、幼い花京院は身を起こしながら濁った瞳で頷いた。
その手を男の勃起した性器に伸ばし、小さな手でゆるゆると扱きはじめる。そして、身体を倒すとその先端に躊躇なく口づけた。
口の中に納まりきらない性器に、キャンディーを舐めしゃぶるように舌を這わせる子供の頭を、大きな手がしきりに撫でる。
そうされる度に、花京院は嬉しそうに笑った。
(これ、は……なに……?)
『そう、いい子だ』
(あれは、あの人は)
義理の、父親だ。
「どうして……?」
母と結婚したはずの男。その息子共々、花京院とは深く関わりを持とうとしなかったはずの、他人も同然の家族。
それがどうして幼い自分と、あのような行為を……?
『愛してるよ典明』
びくん、と。
画面の中の小さな肩が跳ねる。同時にそれを見つめる花京院の肩も震えた。
――愛してる。
それは、あの子供にとって大好きなチェリーよりも甘い、魔法の呪文だった。
(そうだ、ぼくは)
『ぼくもすき』
(ずっとこの人に)
『おとうさんが、すき』
(抱かれていた)
花京院の中で、何かが音を立てて崩れ去った。
それはずっと記憶を閉じ込めていた分厚い檻が、崩壊する音だった。
(いつも、甘い香りがしていたんだ)
いちど解き放たれた記憶の断片が、とてつもない速さで元の形を構築していく。
時々、夜中になると義父が部屋まで迎えに来た。手を引かれて連れて行かれるのは彼の部屋で、そこはいつも花のような、砂糖菓子のような不思議な香りがしていた。
その匂いを嗅ぐと心も身体もふわふわとしてきて、何も分からなくなって。自分が自分では、なくなってしまう。
『大丈夫。明日には、なにもかも忘れているよ』
義父はいつも言っていた。明日には全て忘れているからと。だから大丈夫だと。
きっとこれはとても悪いことだと、心のどこかでは知っていた。だけど彼の大丈夫だという言葉を繰り返し聞いていると、暗示をかけられたように安心した。
「あれ、やっぱり君だよね?」
そのとき、全く別の男の声がした。
未だに動けないできる花京院の背後から、ゆるりと二本の腕が伸びてくる。抱き込まれてもなお、過去へ気をとられたままの花京院は画面に釘づけで、何も反応ができなかった。
「絶対にどこかで見たと思ってたんだ。髪型も変わってるし」
花京院を呼びに来た、あの青いキャップの男だ。彼は花京院の耳に、ふっと息を吹きかけた。
「どうして俺がこんなビデオを持ってるか、知りたいか?」
「ッ……な……?」
「兄貴だよ。あんたの義理の兄貴。昔ちょっと付き合いあってさ」
花京院の義理の兄。それは今、画面の向こう側で幼い子供を蹂躙する男の、実の息子だ。
「この親父、とんだ変態だな。わざわざ息子とのセックスをカメラに収めたりして。あんたの兄貴はそれをこっそり持ち出して、ダビングしたのをダチの間で回してたんだよ」
中学の頃の話だけど、と言いながら、男はヘラリと笑った。
テレビ画面からは甲高い声が漏れ聞こえ、そのおぞましい行為を垂れ流している。獣のように腰を振る義父の下で、幼い子供が薄く微笑みながら、揺さぶられていた。
足元から這い上がる寒気と同時に、腹の奥から何かが競り上がって来る。
思わず両手で口元を押さえ、花京院は身を震わせた。
「悪い子だよなぁ、花京院くん。あれ、義理でも一応は父親だろ?」
「ち、が……」
「お母さんに隠れて、いっつもあんなエッチなことしてたんだ?」
「知らない……ぼくは、知らない……ッ」
知らなかったのだ。
あの頃の花京院には、性行為という概念すらなかった。
ただ、義父に連れられて部屋に入ると甘い匂いがした。そして気がつくと自室のベッドに戻されていて、その間の記憶は何一つ残ってはいなかった。
「あんなに嬉しそうに股開いといて、よく言うよな」
男の言葉に、息をのむ。
何もかもお見通しとばかりに、彼はなおも続けた。
「好きとか愛してるって言ってくれる相手なら、誰でもいいんだろ?」
「違う、ぼくは、そんな人間じゃ」
「責めてるわけじゃないのさ。だって君、お母さんからネグレクトされてたんだろ? 可哀想に。さぞ寂しかったろうね」
「……それも」
「そう、兄貴から聞いて知ってるよ」
「だからなんだ。こんなものを見せて、ぼくを脅しているつもりか?」
偶然の巡りあわせに、内心動揺は隠せない。だが、仮にこの男が映像を公にすると言ったところで、痛くも痒くもないのだ。
花京院はすでに数本のビデオに出演している。それらはすでに出回っているし、今さら失うものなど何もない。
だから、本当は分かっている。この男は、ただこうして花京院に精神的な揺さぶりをかけて、反応を楽しんでいるだけなのだと。
噛みつくような目で睨む花京院を、男は馬鹿にしたように鼻で笑い飛ばした。
「別に~? ただちょっと君と遊びたいだけだよ」
それを合図に、ギシギシと床板を踏みしめる音が幾つも聞こえた。
辺りを見ると、薄ぼんやりとした空間に5,6人の男たちがニヤニヤと笑みを浮かべているのが見える。今の今まで、息を殺して潜んでいたのか。彼らは全員、撮影に参加していたスタッフたちだった。
「俺たちみんな、花京院くんのこと大好きでさ」
「な……!?」
「だからいいだろ?」
逃げなくてはと。
思い立つにはあまりにも遅すぎた。幾本もの腕が一斉に伸びてきて、花京院を取り押さえると引きずるようにすぐ側のベッドへ投げ込まれる。
「ぅぐ……ッ!」
「やっとかよ。ずいぶん待ったぜ」
「さっさと服脱がしちまえって! こいつガキのくせにほんっとイイ身体してるんだよなぁ」
「いッ、やだ……いやだ、やめろ……ッ!!」
まるで揉みくちゃにするみたいに、洋服が引き剥がされていく。露わになる肌に汗ばんだ手が幾つも這わされ、花京院は激しく身を捩って抵抗を繰り返した。
頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいか分からない。ただ、このまま好きにされるのだけは我慢ならなかった。逃げ場のない状況で、それでも闇雲に四肢をバタつかせる。
すると誰かが苛立ったように舌打ちをして、「うるせぇな」と吐き捨てた。
「どうせ明日にはデカいちんぽブチ込まれるんだからよ」
「そうそう、その前にオレらの粗チンでたっぷり慣らしといてあげるからねー」
「ガキの頃から使い込んでんだから、とっくにケツの穴なんかゆるゆるだろ?」
「典明く~ん、嘘ついちゃ駄目だよ~。初めてとか言って、最初の撮影の時とっくに経験済みだったんじゃ~ん」
次々と浴びせられる汚い言葉、にたにたと笑う顔。
それらが一瞬にして突き刺さり、凍てついた心が粉々に砕かれるのを感じた。
初めてだと思っていた。誰かに抱かれたのも、恋をしたのも。
だけど違っていた。この身体はとっくに男を知っていて、女性に興味を持てなかったのも、そういう身体にされていたから、だったのだろうか。
両耳を内側から塞がれたような圧迫感を覚える。そのまま尾をひくような耳鳴りがしだして、頭の中で、承太郎の声がした。
――可愛いな、君は。
初めて会った日。
承太郎にそう言われると、心も身体もふわふわと舞い上がるような気がした。
彼は花京院を優しく抱いた。綺麗だと、具合がいいと、いい子だと言って、褒めてくれた。だけど。
――それとも、ただ男が欲しかっただけか?
(……あぁ、そうか)
優しい言葉をかけられれば、相手なんかどうでもよかったのかもしれない。
それを恋だなどと勘違いしてしまっただけ、だったのかもしれない。
承太郎だから特別なのだと、承太郎だから好きになったのだと。
でも、本当は。
(誰でも、よかったんだ……)
幼い頃から愛されたくて仕方がなかった。誰かに優しくしてほしくて、堪らなかった。ずっとずっと、寂しかった。
心の内側が、真っ黒に塗りつぶされていくのを感じた。その闇が濃くなるほどに瞳は虚ろに濁り、全身から力が抜けていく。
「お、急におとなしくなった」
「いい子だね~典明く~ん。優しくしてあげるからね~」
「いいからとっととブチ込んじまおうぜ」
人形のように力を失くした花京院の両足を、誰かが大きく割り開いた。
それをぼんやりと他人事のように見つめる視界の端に、あの蝋燭の頼りない光を映し出すテレビ画面がちらりと掠める。
その微かな暖色は、初めて承太郎の家を訪れた夜を思い出させた。
(承太郎さん……)
なぜ怒りを感じていたのか、自分にもよくわからないと言って、不器用に触れてきた人。あの手の温もりを思い出すだけで、今もこんなに胸が苦しいのに。
(もう、いいや)
身体の奥まった場所に、誰かの勃起した性器が押し付けられる。
そのとき。
木製の扉が微かに軋んだ音を立てながら、開く音がした。
←戻る ・ 次へ→
手を引かれて、静かな暗い廊下を歩いていた。
『どこに行くの?』
ぼくの手を握って離さないその人は、問いかけに『いつもの部屋だよ』と、答えた。
そんなことを言われても、ぼくにはなんのことかよくわからない。
ぼくはその人に手を引かれながら、少しだけ怖くなって後ろを振り向く。お母さん、と呼ぼうとして、開きかけた唇を噛み締めた。
そんなことをしたって、意味がないから。
お母さんはぼくを見ない。お母さんはぼくの声を聞かない。
お母さんにとって、ぼくは幽霊と同じだ。ぼくは、どこにもいない。
誰も助けてくれないなら、自分でなんとかするしかなかった。
『ぼく、そっちへは行きたくない』
首を振りながら言った。だけど男の人は何も言ってくれなかった。
『行きたくないよ』
どうしてか、この人と一緒に行ってはいけないような気がした。夜も遅いし、子供は早く寝なくちゃいけない。
でも、その人はぼくの手を離してくれなかった。
扉がどんどん近づいてくる。逃げ出したいのに、ぼくの身体はただ引きずられていくばかりだった。
『いやだよ、いやだ……』
行きたくない。あの部屋には入りたくない。
だって、あそこへ行ってしまったら。
甘い匂いがして。
ぼくは、ぼくのことがわからなくなってしまう。
*
「ッ……!」
ふと、目を覚ます。
見慣れた天井に幾度か瞬きをして、怠い身を起こしながら大きく息をついた。
部屋の中は薄暗い。喉が張り付いたように乾いていたけれど、水を取りに立ち上がるのも億劫だった。
「またか」
最近、嫌な夢を見る。
だけどこうして目を覚ましても、それがどんな夢だったかはどうしても思い出せない。ただとても悪い夢だったということだけを、漠然と覚えているだけだ。
きっと気が滅入っているせいだという自覚はあった。こういう精神状態が、見たくもない悪夢を見せているに違いないのだと。
分かっていても、上手く切り替えができない。
『金がいるなら、なぜ最初におれを頼らなかった?』
あれからずっと、押し殺したような声が頭の中で螺旋を描き続けていた。
(……誤解、されたままなんだよな)
金や男欲しさに、もう出ないと言ったはずの現場に足を運んだのだと。承太郎には、そう思われたままだ。
それでもわざわざ連絡をとって、誤解を解こうとは思わなかった。本当の気持ちを伝える勇気のない自分に、言えることなど何もない。
花京院は両手を投げ出すようにして、再び布団に身を沈めた。目覚めたときよりも幾分か明るくなった室内に、朝の訪れを知る。
もう一度寝なおすには中途半端な気がして、だけど起き上がる気にもなれず、身体を横向きにすると胎児のように背中を丸めた。
それからふと、思い出す。
『おまえが欲しい。
いいか、おれだけだ。おれだけのものに』
意識を失う寸前に聞いた、台本にはなかったはずの台詞。
あれは自分の中にある浅ましい願望が見せた、都合のいい夢だったのだろうか。
だとしたら本当に救いようがない。承太郎の気持ちが、自分の感情と同じ形をしているわけがないことくらい、最初から知っていたはずなのに。
*
ラブホでの撮影から、そろそろ一ヶ月ほどが経とうとしていた。
花京院はただ義務的に動くロボットのように仕事をして、何もない日はぼんやりとゲームをしたり、本を読んだりしながら静かな生活を送っていた。
それらに気を取られているふりをしていると、少しずつ承太郎のことを考える隙間が、埋まっていくような気がする。このまま本当に忘れていけたなら、それに越したことはなかった。
監督から電話がかかってきたのは、そんなある日の夜だった。
勤め先から帰路につく花京院の、普段は滅多に鳴らない携帯が鳴った。
アパートへ続く道の途中、誰かも確認せず着信に応じたことを後悔する。受話口から聞こえてきた能天気な声に、花京院は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら足を止めた。
『あ、花京院くん? 久しぶり~』
はぁどうも、という冴えない花京院の返答に、半ば食い気味で彼は要件を口にする。
『次の撮影日が決まったよ。来週の日曜日なんだけど、イケる?』
「はい?」
『今回はがっつり女性を意識した作品を作ろうってことになってさ、ほら、BLってやつ。ボーイズラブ。ファンタジーやメルヘンの世界』
「ちょ、ちょっと待ってください。藪から棒に……ぼくはまだ出るなんて一言も」
『はあ? なに言ってんの花京院くん』
寝ぼけてるの? と呆れ気味に言ったあと、監督は『ちゃんと約束したでしょ』と続けた。
「約束? なんの話です?」
『こないだの打ち上げのときさ。え、ホントに覚えてない系?』
「……覚えてません」
記憶のどこを探っても、そんな覚えはなかった。けれどあのラブホでの撮影のあと、打ち上げに参加させられた記憶は確かにあった。
花京院が初めて出演したあの作品が配信元で大好評だと、上機嫌の監督に背中を何度も叩かれた、ような気もする。
だけどあのときの花京院は承太郎の言葉に打ちのめされて、ほとんど抜け殻のようになっていた。まともに会話ができる状態ではなかったのだ。
『まぁ~、お酒もちょこっと飲ませちゃったしね。だいぶ疲れてたみたいだし、覚えてなくても仕方ないかな』
「……すみません」
『うん、いいよ。こっちは約束さえ守ってくれれば』
「あの、契約破棄は可能でしょうか? ぼくはもう、こういうバイトはしないって決めたので」
おずおずと口にすると、監督はあっさり『できるよ』と言った。
「よかった……じゃあ」
『百万円、すぐに払える?』
「……はい?」
『違約金だよ。当たり前でしょ。もう撮影場所も押さえちゃってるし、スタッフの手配も済んでるんだ。いつものメンバーだけどね』
「な、そんな大金、すぐになんて……!」
これまでのギャラは、初回分を除き全て手をつけずに口座に入れてある。
けれど当然、そこまでの金額なんてすぐに用意できるわけがない。
『ちゃんと耳を揃えて払えるなら、破棄できるよ。どうする?』
答えに窮した花京院は、咄嗟になにも言うことができなかった。
*
監督の指示通り、撮影は次の日曜日に決まった。
結局、今の花京院にそんな大金が払えるはずもなく、今度こそ最後にすることだけを条件に、出演することになってしまった。
電話を終え、ふらふらと自宅アパートに帰宅して、床に力なく座り込んでからふと、気がついた。
思い返せば、監督は『約束』と言ったのであって、『契約』とは言わなかった。自分はただ、あの打ち上げの席で口約束をさせられたにすぎなかったのではないか、と。
もしそうだとしたら、まんまとはめられてしまったのかもしれない。百万円なんて、子供が冗談で言うような金額を疑いもせず信じてしまうとは、我ながら情けない話だ。
とはいえ今さら折り返して契約書の有無を問うのは面倒だった。もとは全て自分が蒔いた種のようなものだったし、脳が考えることを拒絶している。
もうどうとでもなってしまえという、投げやりな気分だった。
次の撮影で絡む相手が、承太郎ではない他の誰かであることだけを、願いながら。
←戻る ・ 次へ→
『どこに行くの?』
ぼくの手を握って離さないその人は、問いかけに『いつもの部屋だよ』と、答えた。
そんなことを言われても、ぼくにはなんのことかよくわからない。
ぼくはその人に手を引かれながら、少しだけ怖くなって後ろを振り向く。お母さん、と呼ぼうとして、開きかけた唇を噛み締めた。
そんなことをしたって、意味がないから。
お母さんはぼくを見ない。お母さんはぼくの声を聞かない。
お母さんにとって、ぼくは幽霊と同じだ。ぼくは、どこにもいない。
誰も助けてくれないなら、自分でなんとかするしかなかった。
『ぼく、そっちへは行きたくない』
首を振りながら言った。だけど男の人は何も言ってくれなかった。
『行きたくないよ』
どうしてか、この人と一緒に行ってはいけないような気がした。夜も遅いし、子供は早く寝なくちゃいけない。
でも、その人はぼくの手を離してくれなかった。
扉がどんどん近づいてくる。逃げ出したいのに、ぼくの身体はただ引きずられていくばかりだった。
『いやだよ、いやだ……』
行きたくない。あの部屋には入りたくない。
だって、あそこへ行ってしまったら。
甘い匂いがして。
ぼくは、ぼくのことがわからなくなってしまう。
*
「ッ……!」
ふと、目を覚ます。
見慣れた天井に幾度か瞬きをして、怠い身を起こしながら大きく息をついた。
部屋の中は薄暗い。喉が張り付いたように乾いていたけれど、水を取りに立ち上がるのも億劫だった。
「またか」
最近、嫌な夢を見る。
だけどこうして目を覚ましても、それがどんな夢だったかはどうしても思い出せない。ただとても悪い夢だったということだけを、漠然と覚えているだけだ。
きっと気が滅入っているせいだという自覚はあった。こういう精神状態が、見たくもない悪夢を見せているに違いないのだと。
分かっていても、上手く切り替えができない。
『金がいるなら、なぜ最初におれを頼らなかった?』
あれからずっと、押し殺したような声が頭の中で螺旋を描き続けていた。
(……誤解、されたままなんだよな)
金や男欲しさに、もう出ないと言ったはずの現場に足を運んだのだと。承太郎には、そう思われたままだ。
それでもわざわざ連絡をとって、誤解を解こうとは思わなかった。本当の気持ちを伝える勇気のない自分に、言えることなど何もない。
花京院は両手を投げ出すようにして、再び布団に身を沈めた。目覚めたときよりも幾分か明るくなった室内に、朝の訪れを知る。
もう一度寝なおすには中途半端な気がして、だけど起き上がる気にもなれず、身体を横向きにすると胎児のように背中を丸めた。
それからふと、思い出す。
『おまえが欲しい。
いいか、おれだけだ。おれだけのものに』
意識を失う寸前に聞いた、台本にはなかったはずの台詞。
あれは自分の中にある浅ましい願望が見せた、都合のいい夢だったのだろうか。
だとしたら本当に救いようがない。承太郎の気持ちが、自分の感情と同じ形をしているわけがないことくらい、最初から知っていたはずなのに。
*
ラブホでの撮影から、そろそろ一ヶ月ほどが経とうとしていた。
花京院はただ義務的に動くロボットのように仕事をして、何もない日はぼんやりとゲームをしたり、本を読んだりしながら静かな生活を送っていた。
それらに気を取られているふりをしていると、少しずつ承太郎のことを考える隙間が、埋まっていくような気がする。このまま本当に忘れていけたなら、それに越したことはなかった。
監督から電話がかかってきたのは、そんなある日の夜だった。
勤め先から帰路につく花京院の、普段は滅多に鳴らない携帯が鳴った。
アパートへ続く道の途中、誰かも確認せず着信に応じたことを後悔する。受話口から聞こえてきた能天気な声に、花京院は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら足を止めた。
『あ、花京院くん? 久しぶり~』
はぁどうも、という冴えない花京院の返答に、半ば食い気味で彼は要件を口にする。
『次の撮影日が決まったよ。来週の日曜日なんだけど、イケる?』
「はい?」
『今回はがっつり女性を意識した作品を作ろうってことになってさ、ほら、BLってやつ。ボーイズラブ。ファンタジーやメルヘンの世界』
「ちょ、ちょっと待ってください。藪から棒に……ぼくはまだ出るなんて一言も」
『はあ? なに言ってんの花京院くん』
寝ぼけてるの? と呆れ気味に言ったあと、監督は『ちゃんと約束したでしょ』と続けた。
「約束? なんの話です?」
『こないだの打ち上げのときさ。え、ホントに覚えてない系?』
「……覚えてません」
記憶のどこを探っても、そんな覚えはなかった。けれどあのラブホでの撮影のあと、打ち上げに参加させられた記憶は確かにあった。
花京院が初めて出演したあの作品が配信元で大好評だと、上機嫌の監督に背中を何度も叩かれた、ような気もする。
だけどあのときの花京院は承太郎の言葉に打ちのめされて、ほとんど抜け殻のようになっていた。まともに会話ができる状態ではなかったのだ。
『まぁ~、お酒もちょこっと飲ませちゃったしね。だいぶ疲れてたみたいだし、覚えてなくても仕方ないかな』
「……すみません」
『うん、いいよ。こっちは約束さえ守ってくれれば』
「あの、契約破棄は可能でしょうか? ぼくはもう、こういうバイトはしないって決めたので」
おずおずと口にすると、監督はあっさり『できるよ』と言った。
「よかった……じゃあ」
『百万円、すぐに払える?』
「……はい?」
『違約金だよ。当たり前でしょ。もう撮影場所も押さえちゃってるし、スタッフの手配も済んでるんだ。いつものメンバーだけどね』
「な、そんな大金、すぐになんて……!」
これまでのギャラは、初回分を除き全て手をつけずに口座に入れてある。
けれど当然、そこまでの金額なんてすぐに用意できるわけがない。
『ちゃんと耳を揃えて払えるなら、破棄できるよ。どうする?』
答えに窮した花京院は、咄嗟になにも言うことができなかった。
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監督の指示通り、撮影は次の日曜日に決まった。
結局、今の花京院にそんな大金が払えるはずもなく、今度こそ最後にすることだけを条件に、出演することになってしまった。
電話を終え、ふらふらと自宅アパートに帰宅して、床に力なく座り込んでからふと、気がついた。
思い返せば、監督は『約束』と言ったのであって、『契約』とは言わなかった。自分はただ、あの打ち上げの席で口約束をさせられたにすぎなかったのではないか、と。
もしそうだとしたら、まんまとはめられてしまったのかもしれない。百万円なんて、子供が冗談で言うような金額を疑いもせず信じてしまうとは、我ながら情けない話だ。
とはいえ今さら折り返して契約書の有無を問うのは面倒だった。もとは全て自分が蒔いた種のようなものだったし、脳が考えることを拒絶している。
もうどうとでもなってしまえという、投げやりな気分だった。
次の撮影で絡む相手が、承太郎ではない他の誰かであることだけを、願いながら。
←戻る ・ 次へ→
自分が恋をする日が来るなんて、夢にも思わなかった。
どんなときも、ふと手を止めて考えるのは承太郎のことだった。
今なにをしてるんだろうとか、今日はなにを食べたんだろうとか、なんでもないようなことに想像を巡らせては、胸をときめかせる。
その時間は花京院にとって幸せなものだった。
部屋に泊めてもらったあの翌朝、別れ際に承太郎は連絡先を教えてくれた。
いつでも連絡しろと言われて、夢でも見ているような気持ちになった。
だけど花京院にはその気がなかった。例え何があろうとも、連絡を入れるつもりはない。
なぜなら、花京院には二度と承太郎に会うつもりがないからだ。
だって関われば、いつか絶対に嫌われてしまう。
そう考えてしまうのは、自分が歪んでいる証拠だということは知っている。
だけどどうしても、人と関わることへ対しての否定的な感情が拭えない。
母は死んでしまったが、幼い頃の記憶は今も花京院の意識を縛りつけていた。
だから承太郎への気持ちは、そっと胸にしまっておくことにした。こうしてただ想い続けているだけで、十分だと思えたからだ。
それでもふとした瞬間、考えてしまうことがある。
こうして花京院が承太郎を想う間にも、彼は別の誰かと『仕事』をしているのかもしれないと。あの優しくて力強い腕に、抱かれている人間がいるのかもしれない、と。
そんなことを思うと、胸がもやもやとした黒い霧で覆われていくのを感じてしまう。どうしようもないことだと、頭では分かっているのだが。
そうして諦めと慕情を募らせる毎日を過ごしていたある日、花京院の携帯に一本の電話が入った。
*
よく脂の乗った太い指が、布越しに花京院の身体をまさぐっている。
「っ、ぅ……ぐ……」
両手でねっとりと脇腹や胸に触れられる感覚に、込み上げる吐き気を堪えた。
緑色をした、裾の長い学ランに身を包んだ花京院は、アルファベットのⅩを模した真っ赤な十字架に両手足を拘束されている。
逃れようと身を捩っても、四肢に固定された皮のベルトによってそれは叶わない。
「はぁ……制服の上からでもよく分かる、いい身体だね典明くん、おじさんがいっぱい可愛がってあげるからねぇ」
肥えた身体にベージュのくたびれたスーツを着た中年の男が、薄い唇から忙しない息を吐く。その不快感に、せいぜい顔を背けることでしか目に見える抵抗ができなかった。
ずんぐりとした手が股間に触れ、やわやわと揉まれて鳥肌がたつ。
「やめッ、触るな……!」
「そんな言い方していいのかな? お金が欲しくてホイホイついて来たのは君だろう?」
「ぅ、く……ッ!!」
股間を揉む手はそのままに、男のもう片方の手が花京院の顎を掴む。少しばかり身長が足りない男は背伸びをすると、顔を背けようとする花京院の頬にねっとりと舌を這わせた。
ぬるりとした生温い感触に、いよいよ胃の中のものをぶちまけそうになる。
すぐにでもこの拘束を引き千切って、ここから逃げ出したい。こんな男にこれ以上触られるなんて、冗談じゃないと思った。
生理的な嫌悪感が、二度目の撮影で何人もの男達に入れ代わり立ち代わり犯された記憶を手繰り寄せる。あの今にも消えてなくなりたいような絶望感が押し寄せてきて、花京院は手のひらに爪が食い込むほど強く両手を握り締めた。
だけど、これは花京院が自らの意志で決めたことだ。逃げ出すわけにはいかない。これはその代償だ。
数日前、普段はうんともすんとも言わない携帯に、着信があった。
応じると、電話の向こうから聞こえて来たのは、あの監督の声だった。
次の作品にどうしても出てほしいと言われ、もちろん一度は断った。
二度とあんな目に遭うのはごめんだったし、承太郎にもはっきりと『向いていない』と言われてしまったのだから。
けれどそんな花京院に、監督は相手の男優が誰であるかを告げて来た。
承太郎だった。
一瞬で心が揺らいだ。
それを見計らったかのように、まるで畳み掛けるようにして監督は残念そうに言ったのだ。
無理なら仕方ない。他の子を立てるよ、と。
その瞬間、花京院はほぼ衝動的に了承の旨を伝えていた。
もう会うことも、会うつもりもないと決めていたはずなのに。
だけどどうしても嫌だと感じた。承太郎が他の誰かを抱く光景を想像するだけで、心に真っ黒な雲が立ち込めて、頭がどうにかなりそうだった。
醜い嫉妬。分かっている。それでも、歯止めがきかなかった。
そして、今に至る。
「いやいや言ってるけどほら、典明くんのおちんちん、どんどん反応してるよ。こういうの、本当は好きなんだろ?」
男の声にきつく目と口を閉ざし、心の中で唾を吐く。
彼は台本上での台詞を言っているにすぎず、花京院の性器は当然なんの反応も示してはいなかった。
設定上、自分はこの男と援助交際をするためにラブホテルにやって来た、ということになっている。だがそのホテルが、普通のものではなかった。
黒光りする床に、洞窟風のでこぼことした壁で囲まれた広々とした空間には、花京院が拘束されている十字架の他に、分娩台のような形をした椅子や三角木馬などが置かれていて、それらが煌々とライトアップされている。
巨大な鉄格子の向こうにはダブルベッドが設置され、オープントイレまであって、まるで刑務所のようだった。
ここは『SMホテル』と呼ばれる、ラブホテルの一つである。
ラブホというものがどんな場所かは知っているつもりだったが、こういった趣味の世界に特化したホテルまであるというのは、知らなかった。
こんなことでもない限り、花京院には一生縁がない空間だ。
照明に照らされながらいいように身体中をまさぐられる姿を、幾つもの他人の視線と無機質なカメラが、息を殺して見守っている。
「さて、典明くんの可愛いおちんちん、見せてもらおうかな」
制服の上から存分に花京院の身体を堪能した男は、だらしなくニヤついた顔をしたまま膝をついた。長ランには触れず、ウエストに両手を這わせるとベルトを解いていく。かちゃかちゃという金属音に怖気がたち、花京院は幾度も「やめろ」と唸るような声をあげながら腰を捩った。
わかっている。この男の言うようにはならない。これは現実に起こっている出来事ではなく、ちゃんとした台本の上に成り立っている。
だからこの後の展開は、しっかりと頭に叩き込まれていた。だけど、どうしようもなく嫌だと感じる。
誰にも触れてほしくない。触れてほしいのは一人だけだ。あの人だけ。彼にならなにをされたっていい。何を捧げても構わないと。
こんな見知らぬ男によって、無様に身体を暴かれる前に。
(早く……早く来てくれ、承太郎さん……!)
「ここか! 花京院ッ!!」
その瞬間、勢いよく扉が開かれ、黒いスーツ姿に銀縁の眼鏡をかけた承太郎が、鬼の形相で現れた。
(承太郎さん……!!)
「ッ、先生……ッ!!」
「な、なんだ君は!? 先生って……どういうことだ!?」
弾かれたように立ち上がり、前に出て来た男に向かって、一瞬で距離を詰めた承太郎が拳を振り下ろす。男は「ヒエェ」と情けない悲鳴をあげ、面白いほど簡単に床に転がった。もちろん本当に殴ったわけではないはずだが、承太郎の演技があまりにも迫力あるものだったので、思わずヒヤリとしてしまった。
床に伏す男を茫然と眺める花京院に、承太郎が駆け寄って来て手足の拘束を解いてくれた。彼は花京院のクラスの担任という設定だ。
「大丈夫か、花京院!」
こうなると分かっていたはずなのに、花京院は心からの安堵に拘束が外れた途端、承太郎の首に両腕を回して抱き付いた。受け止めてくれる力強い腕の感触と温もりに、声をあげて泣いてしまいたくなる。
「先生……先生……ッ」
「もう大丈夫だ。安心しろ、花京院」
大きな手が花京院の髪を撫で、強く抱きしめてくれる。逞しい両腕と厚い胸板に包まれながら、花京院は心の中で幾度も「好きです」とその想いを告げた。
どうしてもあなたに、こうしてまた抱かれたかったのだと。
*
「ッ……!」
玩具の手錠に両手を拘束され、鉄格子の向こう側でダブルベッドに突き飛ばされるところから、メインイベントが始まる。
不自由な両手でどうにか体重を支え、半身を起こした花京院は、ベッド脇に佇む承太郎を恐る恐る見上げた。
「せん、せい……?」
承太郎はスーツのジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを緩めながら口元を不敵に歪めると、指先で眼鏡のずれを直して見せる。その仕草が妙に色っぽく目に映り、思わずうっとりとした息を漏らしてしまった。
「お仕置きの時間だ、花京院。あのままわたしが来なかったらどうなっていたのか……きっちり叩き込んであげよう」
「や、やめてください先生……もうしません……しませんから……」
「……黙れ」
「ッ!」
吐き捨てられた重低音と共に、承太郎の顔から笑みが消えた。これは演技であるはずなのに、花京院の背筋に冷たい汗が伝う。
承太郎から発される痛いほどヒリついたオーラが、室内の空気をピンと張りつめさせた。ここにいる全員がそれを感じているのか、誰もが顔を見合わせながら息を詰める。
けれど花京院の目には、もう他人の反応もカメラのレンズも映ってはいなかった。
(承太郎さん……もしかして本当に、怒っている……?)
思えば今日は顔を合わせたときから様子がおかしかった。
打ち合わせのときも目を合わせてくれなかったし、まるで花京院の存在など見えていないかのように、まともに挨拶すら交わしてくれなかった。
他人がいる場で、たかが一度だけ共演した相手と親しげに接することに抵抗があるのかもしれないと、あまり深くは考えないようにしていた。何より、花京院自身がそれどころではなかったという方が正しい。気持ちを自覚してから初めて身体を繋げるという事実に、初回よりも遥かに緊張が勝っていたからだ。まともに承太郎の顔すら見られず、ずっと台本を覚え込むことに専念していた。
だけどこうして明らかに怒りを露わにした冷たい視線に射抜かれて、花京院は初めて自分の愚かさに気づかされた。
承太郎は、もうやめろと言ったのだ。向いていないと。
優しい彼は、ボロボロになった花京院を見て胸を痛めてくれた。放っておいてくれればいいのに、わざわざ家に招き入れてまで。
(ぼくは……この人の優しさを踏みにじってしまったんじゃあないか……?)
氷水に浸したように、指先から身体が冷えていくのを感じる。
嫉妬という衝動が花京院から冷静な判断を奪っていたが、ここにきて後悔しても、もう遅い。
(嫌われた……嫌われてしまった……)
あれほど恐れていたことを、自らの手でこうして引き寄せてしまった。
承太郎が膝をついて乗り上げると、大きなベッドが微かに軋んだ。花京院は捕食される寸前の小動物のように身を震わせ、弱々しくシーツを掻き乱しながら距離を取ろうとする。けれど長い腕がそれを許さず、手錠ごと両手を一掴みにされて、ベッドに縫い付けられた。
至近距離に、冷たいエメラルドが揺れている。ぐっと、喉が詰まった。
あ、という小さな声が、肉厚な唇によって封じられてしまう。潜り込んできた舌は一瞬だけひやりとした感覚をもたらしたあと、すぐに信じられないほどの熱で花京院の口腔を蹂躙する。無意識に背けようとする顔を許さず、頬骨を痛いほど掴まれながら舌を絡めとられた。
「は、ぅ、んんッ……!」
鈍い水音を響かせながら痛いほど吸い上げられる舌に、ぞわりと肌が粟立つ。長い口付けは、未だ行為に慣れない花京院を戸惑わせた。呼吸のタイミングが分からないまま、飲み込めない唾液だけが口の端から溢れだす。
初めてのとき、承太郎のキスは蕩けそうなほど優しかった。だけど今は、違う。言葉ではなく、こうして態度で責められているようにしか、感じられない。
承太郎は花京院の口腔を貪りながら、制服の合わせ目に両手を這わせる。それぞれ両指を引っ掻けると、中のシャツごと一気に引き裂かれた。
弾け飛んだボタンが、無機質な床に音を立てながら散らばる。
「ッ――!?」
酸欠に朧がかっていた思考が、一気に覚醒した。同時に離れた唇が、今度は喉元に歯を立てる。
「ヒッ、ぁ、じょ、せんせ、痛い……ッ!!」
ビクン、と大きく身をしならせる花京院の背が、シーツから僅かに浮いた瞬間を見逃さず、承太郎が片腕を差し込んで腰を抱く。引き寄せられることで固定され、そのまま白い肌に歯型や痣を散らされた。
不快感はない。ただ怖かった。絶望感に打ちひしがれながらも、承太郎を求めてやまない、浅ましい自分の身体が。
散々吸い付かれ、舌で転がされた乳首に緩く歯を立てられただけで、達してしまいそうなほど強い快感の波が押し寄せる。女のように甲高い声を発した花京院に顔を上げると、承太郎は冷ややかに吐き捨てた。
「淫乱だな」
忌々しげに放たれた言葉が、どんな行為よりもずっと深く花京院の胸を抉る。
「誰でもいいのか、君は」
違う、と否定したくても、それは許されていなかった。
好きに喘いでもいいとは言われているが、シナリオを破綻させるような台詞は用意されていない。花京院は、ただ唇を噛み締めることしかできなかった。
承太郎は目を細め、鼻で笑うと半分ほど外れかかっていたベルトを抜き取り、下着ごと制服のズボンを剥ぎ取った。例え花京院がどんなに否定の言葉を口にしたとしても、承太郎によって火をつけられた身体は熱を持ち、性器は言い訳のしようがないほど反応を示している。
こんな状態で何を言ったところで、説得力などあるはずがない。じわりと視界が涙で滲んだ。
承太郎は晒された性器には触れず、花京院の二の腕を掴むと強引に身を起こさせ、四つん這いの姿勢を取らせる。大人しく従いながら、発情した猫のように尻を高く突きだして小刻みに震え、指先でシーツを握りしめた。
ローションで濡れた親指がぶつりと音を立てて挿し込まれた瞬間、大きく跳ねる尻たぶの片方に手の平が打ち付けられる。
「あッ、や……ッ!」
太い親指で入口をじくじくと解されながら、小気味よい音を奏でて幾度か尻をぶたれた。じんとした痛みが皮膚へと熱い余韻を残し、冷めやらぬうちにまた打たれる。その度に身体がビクンと跳ねあがるのを抑えられない。
「ヒッ!? ぃ、やだ、アッ、うぁッ!」
「嫌? 気持ちよさそうに腰を振っているようにしか見えないが。これじゃあ罰にならないな」
実際、花京院の性器は腹につくほど反り返っていた。
先走りすら零し、はしたなく震えている。白い肌に手の平の痕が残るほどぶたれたというのに、身体はどうしようもないところまで高められていた。
承太郎が何を思っているのか。それを考えるのが嫌で、思い知らされるのが嫌で、快楽に逃げようとしているのだろうか。失意に飲まれる心を守る唯一の手段が、もうそれしか残されていないのは確かだった。
尻の肉を掴みながらぐるりと中を擦り上げていた親指が、一気に引き抜かれる。ほっと湿った息を漏らしたのも束の間、今度はつるりとした感触がひくつく襞に押し付けられた。
「な、に……?」
思わず首を捻って背後を振り返るけれど、それが容赦なくずるんと内部に潜り込んでくる感触に背筋が大きく震えた。
声にならない悲鳴を漏らしながら、花京院は振り向くことを諦め、下から身体の中心を恐る恐る覗き込む。両足の間から、ピンク色をした細いコードが伸びているのを視界に捉え、目を見開いた。
「なに、これ……なにを」
痛みはないが、小さな異物感にさらなる不安が煽られる。
「どうせ初めてではないんだろう? こんな趣味の悪い部屋に、男としけこむような淫売だからな」
「や、だ……ちが……」
弱々しく首を振る花京院に、承太郎は冷たく鼻を鳴らした。そして、コードの先端にあるリモコンを指先で操作する。
その瞬間、どこか安っぽいモーター音が腹の奥から響き渡った。
「ッ……――!?」
身体の中で、異物が小刻みに振動しはじめる。初めて味わう感覚に腰を捩りながら、花京院は拘束された両手で必死にシーツを掻き乱した。
「や、やだ、ッ、これ……気持ち悪い……っ!!」
モーター音が奥底からじんじんと響き、身体の芯が言葉にできない熱をもちはじめる。快感とも不快感ともつかない妙な感覚に、ただ不安と恐怖ばかりが増していく。
もぞもぞと尻を振る姿がどれほど滑稽であったとしても、構っている余裕すら奪われている。
「とって、くださッ、ぁう、ん、嫌です……これ、変だ……!」
「なかなかよさそうに見えるが。じゃあ、これならどうかな?」
「ッ!?」
承太郎の指が異物をすっぽりと銜え込んでいる穴に入り込んできた。振動する異物を引っ掻くような動きで器用に探り当て、ある一点にぐっと押し付ける。その瞬間、目の前に火花が散った。
「ィ、ッ――!?」
どっちつかずだった刺激が、前立腺への直接的な刺激へと変わる。けれど花京院の脳はそれを快楽として処理することさえままならない。まだ男を知って間もない身体に、この刺激はあまりにも強すぎた。
じわじわと導かれるはずの過程をすっ飛ばし、一瞬で襲い来る射精感に全身が総毛立つ。まだ一度も触れられていないはずの性器から、凄まじい勢いで精液が噴き出した。
「――……ッ!!」
口は大きく開いているのに、声は出なかった。
ただ腰だけは異様に跳ね上がり、尾を引く絶頂に全身が激しく痙攣する。
「凄いな。後ろだけでイッたのか」
どこか嘲笑うように言いながら承太郎の指が引き抜かれると、ローターが前立腺から離れた。だが達したばかりで剥き出しの神経は、内部の闇雲な振動さえも快感として花京院の身を苛む。
「うぁ、ンッ、ぁ、や……も、やだ、ぁ……」
焦点の合わない、濁った瞳をあてどなく彷徨わせながら、花京院はぐったりとシーツの波間に身を沈める。頭の中が白く染まり、何が起こっているのかが分からなかった。断続的な痙攣がとまらない。
承太郎はそんな反応など意に介さず、花京院の腕を掴むとベッドから引きずり落とした。自分は縁に腰かけ、前を寛げて中から勃起した性器を取り出す。
目の前に突きつけられた太く逞しい男根に、意識を手繰り寄せた花京院は息をのんだ。
「どうすればいいか分かるだろう?」
冷酷な瞳に見下ろされ、花京院はすでに汗や涙で濡れた顔をくしゃりと歪める。
カメラを構えた男がぐっと近づいて来て、これが撮影であることをようやく思い出した。全て彼に命じられるまま、人形のように従わなければ終われないのだ。
花京院に拒否権はない。同時に、拒む意志すらなかった。目の前にあるのは好きで好きで堪らない男の性器だ。花京院の承太郎に対する想いは何一つ変わらない。
だからこそ悲しくて、身を裂かれるような痛みを感じているのに、欲しいと思う。
「ん、ぅ……」
他の男とは違う、承太郎の雄の香りが花の蜜のように花京院を誘う。そそりたつ性器の先端に濡れた音を立てながら口付けると、大きな手がひと房長い前髪を撫で付けるようにくしゃりと乱した。
その感触は、承太郎の部屋で過ごしたあの夜の記憶を彷彿とさせた。不器用な優しさと温もりが、無機質なカメラのレンズに納まるこの空間では、ただ冷たく義務的なものに感じられる。心臓がギリギリと締め付けられた。
花京院はその痛みから目を逸らすように、曲線を描きながら反り返る性器に舌を這わせる。今はなにも考えたくない。
前回の撮影で、強引に捩じ込まれたことはあっても、どう愛撫すればいいのかはわからなかった。だが花京院は懸命に太い男根を下から上へと舐めあげて、時おり逃げる性器に頬や鼻先を打たれながらも夢中で追いかけた。
大きく口を開き、先端を咥え込むと承太郎の匂いがいっぱいに広がる。堪らない気持ちになって、夢中でしゃぶった。
花京院を蹂躙した男たちは、この口をまるで女の性器のように扱った。喉の奥まで犯し、舌で擦りながら口をすぼめて吸い上げろと、卑下た笑い声と共に強要してきた。
思い出しながら、濡れた瞳で不安げに承太郎を見上げる。承太郎は眉間に深く皺を刻んでいたが、薄く開かれた唇から吐き出される息はどこか熱っぽい。
(感じてくれてるんだ……よかった……)
きっと技術もへったくれもない。だけど口の中の性器は硬く張り詰め、先走りと自らの唾液とで溢れかえっていた。
顎を伝う液体がだらだらと床にシミを作り、淫らな水音を響かせる。
そうしている間にも、花京院の中に埋め込まれた異物は振動を続けていた。指で押さえられていた時に比べれば、もたらされるものは微々たるものになっている。だからこそもどかしく、無意識に腰が揺れた。
「美味そうにしゃぶるな。これがそんなに好きか?」
「んぅ、ん、ぅ」
「出すぞ。全部飲め」
こくん、と頷こうとした弾みで性器が口から外れそうになる。ハッとするより先に前髪を掴む手によって強く引き寄せられ、そのまま幾度か喉の奥に先端を叩きつけられた。
「ぉあ゛、が、ッ、あ゛ぁ」
気道を塞がれる感覚に、肩が強ばる。だけど舌を必死で擦り付け、涙を流しなら目を閉じた。やがてさらに奥へとぐっと押し込まれたと思った瞬間、最奥で一気に熱い迸りが弾ける。
「お゛、ぁ゛ッ――!!」
どくどくと、胃の中に直接注がれるような苦しさに目を見開く。眼球がまるでひっくり返ったかのように、視界が上向きになるのを感じた。目眩がして、景色が黒く点滅しながら染まっていく。
「ッ……」
花京院の喉奥に全てを注ぎ込んだ承太郎が、そこでようやく掴んだ前髪を引き剥がした。一気に空気を吸い込んだ弾みで、どろりとした精液が気管に入り込む。激しく咳き込みながら背中を丸めた花京院は、流し込まれたものを全て逆流させ、床に吐き出してしまった。
「うッ、ぇ、げほっ、げほッ、ふ、は、ッ!」
「出来の悪い生徒だな。わたしは飲めと言ったはずだが」
「ッ、ご、め……なさ……ッ、ごめ」
「もういい。おいで」
手錠ごと一纏めにして手首を掴まれ、引き上げられる。ベッドに片膝を乗り上げたところでさらに強く引かれ、シーツに背中を打ち付けた。
その衝撃にぐっと喉を詰まらせた花京院の両足が、大きく割られる。張り詰めて蜜を零す性器と、奥まった場所からコードを伸ばす滑稽な姿を見下ろされると、顔から火を噴きそうなほどの羞恥が、今更のように押し寄せた。
「やっ……」
拘束された両腕で顔を隠そうとする花京院にニヤリと笑って、承太郎は中から伸びるコードに触れるとリモコンを手繰り寄せる。ロータリー式のスイッチをスライドさせると、中の振動が一気に強まった。
「いッ!? ぅあ、ああぁッ!」
比較的微弱であったはずの振動が、さっきよりもずっと重々しい音を響かせながら腹の中で暴れ出す。内腿を震わせ、腰をよじる度にふと前立腺を掠めるものの、決して位置は定まらない。
「やだっ、アッ、ああぁ、あっ、とっ、て! これ、嫌だ、とってぇっ!」
「尻の穴がヒクヒクいってるな。放っておけば、またイクんじゃあないのか?」
「いや、だ! 嫌です! アッ、ぅあ、こんな、の、やだぁ……!!」
身を捩るほどに、それは一瞬だけいい場所を掠める。いつしか逃れようとしているのか、そこへ導こうとしているのか、自分でも分からなくなってきた。
身体は貪欲に快楽を貪ろうとしている。けれど花京院の心はまだそこに完全に追いつくことができないでいた。ただ、こんなものでまた一人果ててしまうのだけは、嫌だ。
辿り着く場所が同じなら、承太郎が欲しい。
「おねが、ぃ……せん、せぇの、欲し……先生ので、イキたい……!」
ひくひくとしゃくり上げながらの懇願に、承太郎は口元に浮かべた笑みを色濃いものにした。ふんと鼻で笑いながら、眼鏡を外すとシーツの上に放り投げる。度の入っていない薄いガラス越しに見るよりも、その瞳は鈍く深く、獰猛な光を宿していた。
「しょうがないメスガキだな。いいだろう。欲しいならくれてやる」
達して間もないはずの承太郎の性器は、すでにぐんと張り詰めて脈を浮き立たせている。片手は花京院の膝裏を押し上げつつ、どこからか取り出したコンドームを口元に運び、歯を立てて封を切ると中身を取り出し、器用に自身へと被せてしまう。
薄い膜のようなそれに隔てられることに、ほのかな落胆を覚えながら、喉を鳴らす花京院の両足が痛いほど割り開かされた。
承太郎は自身に手を添え、コードが伸びたままの濡れた蕾に先端をあてがう。
「ちょっ、と、待っ!? なか、取ってから……!」
「お気に入りだろ? そのまま咥えておけばいい」
「やッ、う、あぁ、あ――ッ!!」
容赦なく、承太郎の剛直が濡れた後孔を抉じ開けた。中はローションにまみれたローターで柔らかく解されていたが、狭い肉壁を奥へ奥へと押し進んでくる灼熱の凶器に、凄まじい衝撃と圧迫感が襲い来る。
花京院は悲鳴ともすすり泣きともつかない声で叫び、拘束された両手を宙に彷徨わせ身を捩った。承太郎の腕が両膝の裏をそれぞれ引っ掛けるようにしながら、そんな花京院の身体を深く折り曲げていく。腿が腹につくほど折られたところで、ズン、と承太郎が一気に体重をかけてきた。
「ひぐッ、ぁ……――ッ!!」
見開いた瞳から溢れた涙が、頬を滑り落ちる。心臓まで貫かれたのではないかと錯覚するほどの衝撃に、息ができない。
(なん、で……こんな、どうして……?)
火花が散るように点滅する視界で、花京院はかたかたと身を震わせながら緩く首を振る。
てっきり挿入前にローターは引き抜かれるものとばかり思っていた。それなのに、承太郎の屹立によってギリギリまで押し広げられている肉壺で、異物はなおも重く振動を続けている。
けれどストップはかからない。誰もが熱っぽく息を殺して見守っているだけだ。ショックと絶望に引き攣る花京院の表情を、ズームしたカメラが冷やかに映し出す。
(息ができない……苦しい、痛い……焼ける……!)
承太郎になら、どんな仕打ちを受けても構わないと思っていた。それは今も変わらない。だけど多分、どこかでは初めて出会ったあの日のように、優しく抱いてほしいという淡い期待も捨てきれないでいた。
そんなはずはないのに。花京院は承太郎を裏切ったのだから。ちっぽけな理由で、あの穏やかな朝の食卓で彼が見せた笑顔と優しさを、踏みにじった。
(嫌われたんだ……だから承太郎さんは怒ってる。演技だけど、演技じゃない。ぼくは、嫌われてしまった)
だからきっと、これは本当の意味での罰なのだと。
「ぅ……ッ、く」
タガが外れたように、ぼろぼろと涙を零す。すると、震える花京院の耳元に、承太郎が唇を寄せた。
――花京院。
吐息だけで、名前を呼ばれる。
ハッとして目を見開く花京院に、承太郎は『息を吐け』と言った。それは花京院だけがかろうじて聞きとれる程度の、ささやかな声だった。
そう言われて初めて、自分が息を吸い込むばかりだったことに気がつく。
声に従い、懸命に震える息を吐き出した。膨らみ切っていた肺から酸素を逃がしたことで、少しずつではあるが呼吸が楽になる。
石のように強張っていた肩から僅かに力を抜き、すん、とぐずるように鼻を鳴らした花京院に、承太郎は『いい子だ』と言った。
「ッ……!」
その瞬間。
承太郎の唇は何事もなかったかのように耳元から離れ、抽挿が開始された。最奥に達していた屹立が一気に引き抜かれたかと思うと、ずんと強く打ち込まれる。激しく振動を続けるローターが、その度に感じる場所を抉るように掠めた。
「あああぁぁッ!」
雷に打たれるような感覚が、花京院の内側で荒れ狂う。承太郎が腰を打ち付けてくる度に、肌と肌がぶつかる激しい音がして、舌を噛みそうになるくらい乱暴に揺さぶられる。
痛みも苦しみも、火傷しそうなほどの熱も、すべてが行き過ぎた快楽へと繋がっていく。頭が、どうにかなりそうだった。
それでも承太郎がくれた一言が、花京院の心と身体を溶かし切っている。
(褒めて、くれた……いい子だって、言ってくれた……!)
承太郎は知っているのだ。花京院を一瞬でどろどろに蕩かしてしまう魔法を。
あのまま酷く揺さぶって、痛めつけるのは簡単だったはずなのに。
溺れるような快感に、思考が白く染まる。承太郎の言葉だけを拠り所にして、感情を爆発させた。
「ひッ、あ、ぁ、すき、好きです、大好き……ッ!」
大丈夫。台本からは逸れていない。花京院が演じる高校生は、担任教師に密かに想いを寄せているという設定だった。同じだ。この台詞は、花京院自身の心からの声でもある。
「好き? こんな風に男に足を開いて掘られるのが、そんなに好きか?」
「ちが、ぅ、そうじゃ、なくて……ッ!」
(承太郎さんのことが)
「先生が、好き……ッ、ぁ、ずっと! こう、されたかっ、た!」
(初めて会ったときから、あなたのことが)
作り物でご都合的な、安っぽいシナリオを借りて。
何度も好きだと繰り返し告げた。
身体の中で、承太郎の熱がさらに膨らんだような気がした。このまま時が止まればいい。だけど花京院の身体は、もう限界をとうに超えている。
承太郎の両腕が膝裏から離れ、花京院の身体を強く抱き込んだ。拘束されて、輪のようになっている両腕を太い首に回せば、互いの鼓動が伝わるほどに身体が密着した。
「わたしも、好きだ」
ああ、本当にどこまでも安っぽいドラマだ。それでも嬉しいと感じた。気持ちのこもらない台詞でも、一時の幸福感が虚しさを覆い隠してしまう。
そして太い楔と小さな異物に内壁を痛いほど擦られながら、絶頂へと導かれた。
「あ、あ、あぁぁッ……あ、ひぁッ……――っ!!」
痛々しいほどの自身の悲鳴を遠くに聞きながら、意識が遠のいていく。
承太郎も腰を震わせ、その低い呻きに鼓膜が揺れた。
台本は、これで終わりのはずだ。けれど、花京院の耳は熱を帯びる承太郎の声を拾い上げる。
「おまえが欲しい」
(あ、れ……?)
「いいか、おれだけだ。おれだけのものに」
(そこまでの台詞なんて、あったかな)
ぷつりと、そこで思考が途切れた。
*
「やっぱりそうだよなぁ……うん、間違いない」
ゆっくりと、滲むように浮上する意識に身を委ねる中、男の声が聞こえた。
僅かに眉を顰め、重たい瞼を抉じ開ける。
「あ、起きた?」
真っ先に目に飛び込んできたのは、狐のように細い目をした男の顔だ。見覚えがある気がして、誰だったろうかと鈍い思考で記憶を探る。
(ああそうだ、この人は確か)
青いキャップを後ろ向きにかぶった彼は、初めての撮影の日に妙な質問をしてきた男だったと思いだす。
たった今、目覚める間際に聞いた声も、おそらくこの男のものだ。
花京院が身を起こそうとするのを補助するために伸びて来た腕を、片手でやんわりと制して緩く首を振る。
目覚めたのはあの鉄格子の中のベッドだが、手首から手錠は消えて、身体の中からも異物が消えていた。
室内では数人のスタッフによって撤収作業が行われていて、監督とカメラマンの姿は見えなかった。
だが、そんなことはどうでもいい。花京院の瞳は承太郎の姿だけを探して彷徨う。けれどあの大柄な身体はどこにも見当たらない。
咄嗟に顔を上げて、ベッドサイドに佇む男を見上げた。
「承太郎さんは……?」
「空条さん? ああ、ついさっきシャワー浴びて帰って行ったよ」
「帰った……あの、ついさっきって、どのくらい前ですか!?」
「ほんの何分か前だけど」
きょとんとする男を尻目に、花京院は弾かれたようにベッドから抜け出した。じんと痺れるような鈍痛を身体の奥に感じて態勢を崩しかけながらも、床に投げ出されたままだった制服のズボンを取ると身に着け、革靴を履く。
「ちょ、おい君、どこに」
「すみません! すぐに戻りますから!」
自分の服に着替える時間すら勿体ない。花京院は引き裂かれたシャツと長ランの前を掴んで肌を隠し、部屋から飛び出した。
*
重たい身体に鞭を打つようにして、ホテルを飛び出すと白い光に目が眩んだ。
時間の感覚をすっかり失っていたが、今はまだ夕方より少し前の時間帯である。
どこか埃っぽさを漂わせるホテル街には、こんな時間でも若いカップルの姿がちらほらと行き交っていた。
衣装とはいえ、学生服でふらふらと歩くのはかなり目立ちそうだ。しかも合わせ目はこの有り様である。
それでも飛び出してきてしまったものは仕方ない。今はただ承太郎に会わなくてはという気持ちばかりが先立っていた。
会って、ちゃんと謝らなくては。それでどうなるとも思えないが、このままではどうしても気が済まなかった。
見回せば、似たようなこじんまりとしたホテルと看板が連なる他に、寂れた定食屋や百円パーキングが視界に飛び込んでくる。
細い道の先、定食屋の角に消えていこうとする黒いコートの背中を見つけて、
「承太郎さんッ!!」
咄嗟に声を張り上げると、走り出していた。
長身の肩が微かに揺れ、ふと足を止めるのが分かる。腰の怠さや、鈍い痛みに足を縺れさせながらも走り寄る花京院を振り返り、承太郎は少しだけ目を見開いたが、すぐに怪訝そうな顔を見せた。
「待って、承太郎さんッ」
「花京院、てめーその格好で追いかけてきたのか」
「だ、だって……承太郎さんが帰ってしまったと聞いて……」
承太郎の目の前で足を止めた花京院は、両手で前をしっかりと押さえながら息を整える。いざこうして向き合うと、足元から這い上がって来る居たたまれなさに、心臓をぐっと突き上げられるような息苦しさを感じた。
それでも承太郎は花京院にとって、生まれて初めて恋をした人だった。優しくしてくれた人だった。だからその気持ちを裏切ってしまった自分が情けなくて、恥ずかしくて、許せない。
「承太郎さん……ぼく」
「なぜ連絡しなかった?」
「え?」
「金がいるなら、なぜ最初におれを頼らなかった?」
出し抜けに放たれた言葉に、首を傾げる。
「……承太郎さん?」
眉間に深く皺を刻んだ承太郎の、瞳が細められた。
冷やかなエメラルドの奥深くに仄暗い炎を見たような気がして、ひやりとした感覚に息を詰まらせる花京院に、承太郎はさらに言う。
「それとも、ただ男が欲しかっただけか?」
何を言われているのか、咄嗟に飲み込むことができなかった。
承太郎を茫然と見つめ、少しずつその言葉を飲み込んでいく。理解が追い付いた途端、思わず頭に血がのぼるのを感じた。
「ち、違います! そんな理由で来たわけでは……!」
「だったらなんでてめーはここにいる?」
「そ、それは……」
切羽詰まった表情で狼狽するばかりの花京院を、承太郎は探るような鋭い視線で見つめる。とてもではないが、目を合わせられない。
金や男が欲しくて、こんな場所までのこのこやってきたわけではなかった。だけど、承太郎にはそう思われている。欲深い、卑しい人間なのだと。
無意識に、前を握りしめる両手が震えた。軋むほどに強く奥歯を噛み締める。耐えがたい屈辱だった。
「ぼくはただ、あなたに」
会いたかったのだと。あなたが他の誰かを抱くのが、どうしても嫌だったのだと。飛び出しかけた言葉を飲み込んだ。
言えるわけがない。こんなときにまで、臆病な自分が顔をだす。本当の気持ちを告げて、それを否定されてしまったら、きっと生きていけない。母がそうだったように、承太郎にまで、拒絶されてしまったら。
承太郎は俯いて唇を噛み締めるだけの花京院を、ただじっと真っ直ぐに見つめていた。その視線から逃れるために、目を閉じると顔を背ける。
微かな舌打ちが聞こえて、つい肩がビクリと跳ねてしまった。
「次は必ず連絡しろ。いいな」
吐き捨てるような言葉の後で、遠ざかる足音が聞こえる。
一人残された花京院は呆然としたまま、その場からしばらく動くことができなかった。
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どんなときも、ふと手を止めて考えるのは承太郎のことだった。
今なにをしてるんだろうとか、今日はなにを食べたんだろうとか、なんでもないようなことに想像を巡らせては、胸をときめかせる。
その時間は花京院にとって幸せなものだった。
部屋に泊めてもらったあの翌朝、別れ際に承太郎は連絡先を教えてくれた。
いつでも連絡しろと言われて、夢でも見ているような気持ちになった。
だけど花京院にはその気がなかった。例え何があろうとも、連絡を入れるつもりはない。
なぜなら、花京院には二度と承太郎に会うつもりがないからだ。
だって関われば、いつか絶対に嫌われてしまう。
そう考えてしまうのは、自分が歪んでいる証拠だということは知っている。
だけどどうしても、人と関わることへ対しての否定的な感情が拭えない。
母は死んでしまったが、幼い頃の記憶は今も花京院の意識を縛りつけていた。
だから承太郎への気持ちは、そっと胸にしまっておくことにした。こうしてただ想い続けているだけで、十分だと思えたからだ。
それでもふとした瞬間、考えてしまうことがある。
こうして花京院が承太郎を想う間にも、彼は別の誰かと『仕事』をしているのかもしれないと。あの優しくて力強い腕に、抱かれている人間がいるのかもしれない、と。
そんなことを思うと、胸がもやもやとした黒い霧で覆われていくのを感じてしまう。どうしようもないことだと、頭では分かっているのだが。
そうして諦めと慕情を募らせる毎日を過ごしていたある日、花京院の携帯に一本の電話が入った。
*
よく脂の乗った太い指が、布越しに花京院の身体をまさぐっている。
「っ、ぅ……ぐ……」
両手でねっとりと脇腹や胸に触れられる感覚に、込み上げる吐き気を堪えた。
緑色をした、裾の長い学ランに身を包んだ花京院は、アルファベットのⅩを模した真っ赤な十字架に両手足を拘束されている。
逃れようと身を捩っても、四肢に固定された皮のベルトによってそれは叶わない。
「はぁ……制服の上からでもよく分かる、いい身体だね典明くん、おじさんがいっぱい可愛がってあげるからねぇ」
肥えた身体にベージュのくたびれたスーツを着た中年の男が、薄い唇から忙しない息を吐く。その不快感に、せいぜい顔を背けることでしか目に見える抵抗ができなかった。
ずんぐりとした手が股間に触れ、やわやわと揉まれて鳥肌がたつ。
「やめッ、触るな……!」
「そんな言い方していいのかな? お金が欲しくてホイホイついて来たのは君だろう?」
「ぅ、く……ッ!!」
股間を揉む手はそのままに、男のもう片方の手が花京院の顎を掴む。少しばかり身長が足りない男は背伸びをすると、顔を背けようとする花京院の頬にねっとりと舌を這わせた。
ぬるりとした生温い感触に、いよいよ胃の中のものをぶちまけそうになる。
すぐにでもこの拘束を引き千切って、ここから逃げ出したい。こんな男にこれ以上触られるなんて、冗談じゃないと思った。
生理的な嫌悪感が、二度目の撮影で何人もの男達に入れ代わり立ち代わり犯された記憶を手繰り寄せる。あの今にも消えてなくなりたいような絶望感が押し寄せてきて、花京院は手のひらに爪が食い込むほど強く両手を握り締めた。
だけど、これは花京院が自らの意志で決めたことだ。逃げ出すわけにはいかない。これはその代償だ。
数日前、普段はうんともすんとも言わない携帯に、着信があった。
応じると、電話の向こうから聞こえて来たのは、あの監督の声だった。
次の作品にどうしても出てほしいと言われ、もちろん一度は断った。
二度とあんな目に遭うのはごめんだったし、承太郎にもはっきりと『向いていない』と言われてしまったのだから。
けれどそんな花京院に、監督は相手の男優が誰であるかを告げて来た。
承太郎だった。
一瞬で心が揺らいだ。
それを見計らったかのように、まるで畳み掛けるようにして監督は残念そうに言ったのだ。
無理なら仕方ない。他の子を立てるよ、と。
その瞬間、花京院はほぼ衝動的に了承の旨を伝えていた。
もう会うことも、会うつもりもないと決めていたはずなのに。
だけどどうしても嫌だと感じた。承太郎が他の誰かを抱く光景を想像するだけで、心に真っ黒な雲が立ち込めて、頭がどうにかなりそうだった。
醜い嫉妬。分かっている。それでも、歯止めがきかなかった。
そして、今に至る。
「いやいや言ってるけどほら、典明くんのおちんちん、どんどん反応してるよ。こういうの、本当は好きなんだろ?」
男の声にきつく目と口を閉ざし、心の中で唾を吐く。
彼は台本上での台詞を言っているにすぎず、花京院の性器は当然なんの反応も示してはいなかった。
設定上、自分はこの男と援助交際をするためにラブホテルにやって来た、ということになっている。だがそのホテルが、普通のものではなかった。
黒光りする床に、洞窟風のでこぼことした壁で囲まれた広々とした空間には、花京院が拘束されている十字架の他に、分娩台のような形をした椅子や三角木馬などが置かれていて、それらが煌々とライトアップされている。
巨大な鉄格子の向こうにはダブルベッドが設置され、オープントイレまであって、まるで刑務所のようだった。
ここは『SMホテル』と呼ばれる、ラブホテルの一つである。
ラブホというものがどんな場所かは知っているつもりだったが、こういった趣味の世界に特化したホテルまであるというのは、知らなかった。
こんなことでもない限り、花京院には一生縁がない空間だ。
照明に照らされながらいいように身体中をまさぐられる姿を、幾つもの他人の視線と無機質なカメラが、息を殺して見守っている。
「さて、典明くんの可愛いおちんちん、見せてもらおうかな」
制服の上から存分に花京院の身体を堪能した男は、だらしなくニヤついた顔をしたまま膝をついた。長ランには触れず、ウエストに両手を這わせるとベルトを解いていく。かちゃかちゃという金属音に怖気がたち、花京院は幾度も「やめろ」と唸るような声をあげながら腰を捩った。
わかっている。この男の言うようにはならない。これは現実に起こっている出来事ではなく、ちゃんとした台本の上に成り立っている。
だからこの後の展開は、しっかりと頭に叩き込まれていた。だけど、どうしようもなく嫌だと感じる。
誰にも触れてほしくない。触れてほしいのは一人だけだ。あの人だけ。彼にならなにをされたっていい。何を捧げても構わないと。
こんな見知らぬ男によって、無様に身体を暴かれる前に。
(早く……早く来てくれ、承太郎さん……!)
「ここか! 花京院ッ!!」
その瞬間、勢いよく扉が開かれ、黒いスーツ姿に銀縁の眼鏡をかけた承太郎が、鬼の形相で現れた。
(承太郎さん……!!)
「ッ、先生……ッ!!」
「な、なんだ君は!? 先生って……どういうことだ!?」
弾かれたように立ち上がり、前に出て来た男に向かって、一瞬で距離を詰めた承太郎が拳を振り下ろす。男は「ヒエェ」と情けない悲鳴をあげ、面白いほど簡単に床に転がった。もちろん本当に殴ったわけではないはずだが、承太郎の演技があまりにも迫力あるものだったので、思わずヒヤリとしてしまった。
床に伏す男を茫然と眺める花京院に、承太郎が駆け寄って来て手足の拘束を解いてくれた。彼は花京院のクラスの担任という設定だ。
「大丈夫か、花京院!」
こうなると分かっていたはずなのに、花京院は心からの安堵に拘束が外れた途端、承太郎の首に両腕を回して抱き付いた。受け止めてくれる力強い腕の感触と温もりに、声をあげて泣いてしまいたくなる。
「先生……先生……ッ」
「もう大丈夫だ。安心しろ、花京院」
大きな手が花京院の髪を撫で、強く抱きしめてくれる。逞しい両腕と厚い胸板に包まれながら、花京院は心の中で幾度も「好きです」とその想いを告げた。
どうしてもあなたに、こうしてまた抱かれたかったのだと。
*
「ッ……!」
玩具の手錠に両手を拘束され、鉄格子の向こう側でダブルベッドに突き飛ばされるところから、メインイベントが始まる。
不自由な両手でどうにか体重を支え、半身を起こした花京院は、ベッド脇に佇む承太郎を恐る恐る見上げた。
「せん、せい……?」
承太郎はスーツのジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを緩めながら口元を不敵に歪めると、指先で眼鏡のずれを直して見せる。その仕草が妙に色っぽく目に映り、思わずうっとりとした息を漏らしてしまった。
「お仕置きの時間だ、花京院。あのままわたしが来なかったらどうなっていたのか……きっちり叩き込んであげよう」
「や、やめてください先生……もうしません……しませんから……」
「……黙れ」
「ッ!」
吐き捨てられた重低音と共に、承太郎の顔から笑みが消えた。これは演技であるはずなのに、花京院の背筋に冷たい汗が伝う。
承太郎から発される痛いほどヒリついたオーラが、室内の空気をピンと張りつめさせた。ここにいる全員がそれを感じているのか、誰もが顔を見合わせながら息を詰める。
けれど花京院の目には、もう他人の反応もカメラのレンズも映ってはいなかった。
(承太郎さん……もしかして本当に、怒っている……?)
思えば今日は顔を合わせたときから様子がおかしかった。
打ち合わせのときも目を合わせてくれなかったし、まるで花京院の存在など見えていないかのように、まともに挨拶すら交わしてくれなかった。
他人がいる場で、たかが一度だけ共演した相手と親しげに接することに抵抗があるのかもしれないと、あまり深くは考えないようにしていた。何より、花京院自身がそれどころではなかったという方が正しい。気持ちを自覚してから初めて身体を繋げるという事実に、初回よりも遥かに緊張が勝っていたからだ。まともに承太郎の顔すら見られず、ずっと台本を覚え込むことに専念していた。
だけどこうして明らかに怒りを露わにした冷たい視線に射抜かれて、花京院は初めて自分の愚かさに気づかされた。
承太郎は、もうやめろと言ったのだ。向いていないと。
優しい彼は、ボロボロになった花京院を見て胸を痛めてくれた。放っておいてくれればいいのに、わざわざ家に招き入れてまで。
(ぼくは……この人の優しさを踏みにじってしまったんじゃあないか……?)
氷水に浸したように、指先から身体が冷えていくのを感じる。
嫉妬という衝動が花京院から冷静な判断を奪っていたが、ここにきて後悔しても、もう遅い。
(嫌われた……嫌われてしまった……)
あれほど恐れていたことを、自らの手でこうして引き寄せてしまった。
承太郎が膝をついて乗り上げると、大きなベッドが微かに軋んだ。花京院は捕食される寸前の小動物のように身を震わせ、弱々しくシーツを掻き乱しながら距離を取ろうとする。けれど長い腕がそれを許さず、手錠ごと両手を一掴みにされて、ベッドに縫い付けられた。
至近距離に、冷たいエメラルドが揺れている。ぐっと、喉が詰まった。
あ、という小さな声が、肉厚な唇によって封じられてしまう。潜り込んできた舌は一瞬だけひやりとした感覚をもたらしたあと、すぐに信じられないほどの熱で花京院の口腔を蹂躙する。無意識に背けようとする顔を許さず、頬骨を痛いほど掴まれながら舌を絡めとられた。
「は、ぅ、んんッ……!」
鈍い水音を響かせながら痛いほど吸い上げられる舌に、ぞわりと肌が粟立つ。長い口付けは、未だ行為に慣れない花京院を戸惑わせた。呼吸のタイミングが分からないまま、飲み込めない唾液だけが口の端から溢れだす。
初めてのとき、承太郎のキスは蕩けそうなほど優しかった。だけど今は、違う。言葉ではなく、こうして態度で責められているようにしか、感じられない。
承太郎は花京院の口腔を貪りながら、制服の合わせ目に両手を這わせる。それぞれ両指を引っ掻けると、中のシャツごと一気に引き裂かれた。
弾け飛んだボタンが、無機質な床に音を立てながら散らばる。
「ッ――!?」
酸欠に朧がかっていた思考が、一気に覚醒した。同時に離れた唇が、今度は喉元に歯を立てる。
「ヒッ、ぁ、じょ、せんせ、痛い……ッ!!」
ビクン、と大きく身をしならせる花京院の背が、シーツから僅かに浮いた瞬間を見逃さず、承太郎が片腕を差し込んで腰を抱く。引き寄せられることで固定され、そのまま白い肌に歯型や痣を散らされた。
不快感はない。ただ怖かった。絶望感に打ちひしがれながらも、承太郎を求めてやまない、浅ましい自分の身体が。
散々吸い付かれ、舌で転がされた乳首に緩く歯を立てられただけで、達してしまいそうなほど強い快感の波が押し寄せる。女のように甲高い声を発した花京院に顔を上げると、承太郎は冷ややかに吐き捨てた。
「淫乱だな」
忌々しげに放たれた言葉が、どんな行為よりもずっと深く花京院の胸を抉る。
「誰でもいいのか、君は」
違う、と否定したくても、それは許されていなかった。
好きに喘いでもいいとは言われているが、シナリオを破綻させるような台詞は用意されていない。花京院は、ただ唇を噛み締めることしかできなかった。
承太郎は目を細め、鼻で笑うと半分ほど外れかかっていたベルトを抜き取り、下着ごと制服のズボンを剥ぎ取った。例え花京院がどんなに否定の言葉を口にしたとしても、承太郎によって火をつけられた身体は熱を持ち、性器は言い訳のしようがないほど反応を示している。
こんな状態で何を言ったところで、説得力などあるはずがない。じわりと視界が涙で滲んだ。
承太郎は晒された性器には触れず、花京院の二の腕を掴むと強引に身を起こさせ、四つん這いの姿勢を取らせる。大人しく従いながら、発情した猫のように尻を高く突きだして小刻みに震え、指先でシーツを握りしめた。
ローションで濡れた親指がぶつりと音を立てて挿し込まれた瞬間、大きく跳ねる尻たぶの片方に手の平が打ち付けられる。
「あッ、や……ッ!」
太い親指で入口をじくじくと解されながら、小気味よい音を奏でて幾度か尻をぶたれた。じんとした痛みが皮膚へと熱い余韻を残し、冷めやらぬうちにまた打たれる。その度に身体がビクンと跳ねあがるのを抑えられない。
「ヒッ!? ぃ、やだ、アッ、うぁッ!」
「嫌? 気持ちよさそうに腰を振っているようにしか見えないが。これじゃあ罰にならないな」
実際、花京院の性器は腹につくほど反り返っていた。
先走りすら零し、はしたなく震えている。白い肌に手の平の痕が残るほどぶたれたというのに、身体はどうしようもないところまで高められていた。
承太郎が何を思っているのか。それを考えるのが嫌で、思い知らされるのが嫌で、快楽に逃げようとしているのだろうか。失意に飲まれる心を守る唯一の手段が、もうそれしか残されていないのは確かだった。
尻の肉を掴みながらぐるりと中を擦り上げていた親指が、一気に引き抜かれる。ほっと湿った息を漏らしたのも束の間、今度はつるりとした感触がひくつく襞に押し付けられた。
「な、に……?」
思わず首を捻って背後を振り返るけれど、それが容赦なくずるんと内部に潜り込んでくる感触に背筋が大きく震えた。
声にならない悲鳴を漏らしながら、花京院は振り向くことを諦め、下から身体の中心を恐る恐る覗き込む。両足の間から、ピンク色をした細いコードが伸びているのを視界に捉え、目を見開いた。
「なに、これ……なにを」
痛みはないが、小さな異物感にさらなる不安が煽られる。
「どうせ初めてではないんだろう? こんな趣味の悪い部屋に、男としけこむような淫売だからな」
「や、だ……ちが……」
弱々しく首を振る花京院に、承太郎は冷たく鼻を鳴らした。そして、コードの先端にあるリモコンを指先で操作する。
その瞬間、どこか安っぽいモーター音が腹の奥から響き渡った。
「ッ……――!?」
身体の中で、異物が小刻みに振動しはじめる。初めて味わう感覚に腰を捩りながら、花京院は拘束された両手で必死にシーツを掻き乱した。
「や、やだ、ッ、これ……気持ち悪い……っ!!」
モーター音が奥底からじんじんと響き、身体の芯が言葉にできない熱をもちはじめる。快感とも不快感ともつかない妙な感覚に、ただ不安と恐怖ばかりが増していく。
もぞもぞと尻を振る姿がどれほど滑稽であったとしても、構っている余裕すら奪われている。
「とって、くださッ、ぁう、ん、嫌です……これ、変だ……!」
「なかなかよさそうに見えるが。じゃあ、これならどうかな?」
「ッ!?」
承太郎の指が異物をすっぽりと銜え込んでいる穴に入り込んできた。振動する異物を引っ掻くような動きで器用に探り当て、ある一点にぐっと押し付ける。その瞬間、目の前に火花が散った。
「ィ、ッ――!?」
どっちつかずだった刺激が、前立腺への直接的な刺激へと変わる。けれど花京院の脳はそれを快楽として処理することさえままならない。まだ男を知って間もない身体に、この刺激はあまりにも強すぎた。
じわじわと導かれるはずの過程をすっ飛ばし、一瞬で襲い来る射精感に全身が総毛立つ。まだ一度も触れられていないはずの性器から、凄まじい勢いで精液が噴き出した。
「――……ッ!!」
口は大きく開いているのに、声は出なかった。
ただ腰だけは異様に跳ね上がり、尾を引く絶頂に全身が激しく痙攣する。
「凄いな。後ろだけでイッたのか」
どこか嘲笑うように言いながら承太郎の指が引き抜かれると、ローターが前立腺から離れた。だが達したばかりで剥き出しの神経は、内部の闇雲な振動さえも快感として花京院の身を苛む。
「うぁ、ンッ、ぁ、や……も、やだ、ぁ……」
焦点の合わない、濁った瞳をあてどなく彷徨わせながら、花京院はぐったりとシーツの波間に身を沈める。頭の中が白く染まり、何が起こっているのかが分からなかった。断続的な痙攣がとまらない。
承太郎はそんな反応など意に介さず、花京院の腕を掴むとベッドから引きずり落とした。自分は縁に腰かけ、前を寛げて中から勃起した性器を取り出す。
目の前に突きつけられた太く逞しい男根に、意識を手繰り寄せた花京院は息をのんだ。
「どうすればいいか分かるだろう?」
冷酷な瞳に見下ろされ、花京院はすでに汗や涙で濡れた顔をくしゃりと歪める。
カメラを構えた男がぐっと近づいて来て、これが撮影であることをようやく思い出した。全て彼に命じられるまま、人形のように従わなければ終われないのだ。
花京院に拒否権はない。同時に、拒む意志すらなかった。目の前にあるのは好きで好きで堪らない男の性器だ。花京院の承太郎に対する想いは何一つ変わらない。
だからこそ悲しくて、身を裂かれるような痛みを感じているのに、欲しいと思う。
「ん、ぅ……」
他の男とは違う、承太郎の雄の香りが花の蜜のように花京院を誘う。そそりたつ性器の先端に濡れた音を立てながら口付けると、大きな手がひと房長い前髪を撫で付けるようにくしゃりと乱した。
その感触は、承太郎の部屋で過ごしたあの夜の記憶を彷彿とさせた。不器用な優しさと温もりが、無機質なカメラのレンズに納まるこの空間では、ただ冷たく義務的なものに感じられる。心臓がギリギリと締め付けられた。
花京院はその痛みから目を逸らすように、曲線を描きながら反り返る性器に舌を這わせる。今はなにも考えたくない。
前回の撮影で、強引に捩じ込まれたことはあっても、どう愛撫すればいいのかはわからなかった。だが花京院は懸命に太い男根を下から上へと舐めあげて、時おり逃げる性器に頬や鼻先を打たれながらも夢中で追いかけた。
大きく口を開き、先端を咥え込むと承太郎の匂いがいっぱいに広がる。堪らない気持ちになって、夢中でしゃぶった。
花京院を蹂躙した男たちは、この口をまるで女の性器のように扱った。喉の奥まで犯し、舌で擦りながら口をすぼめて吸い上げろと、卑下た笑い声と共に強要してきた。
思い出しながら、濡れた瞳で不安げに承太郎を見上げる。承太郎は眉間に深く皺を刻んでいたが、薄く開かれた唇から吐き出される息はどこか熱っぽい。
(感じてくれてるんだ……よかった……)
きっと技術もへったくれもない。だけど口の中の性器は硬く張り詰め、先走りと自らの唾液とで溢れかえっていた。
顎を伝う液体がだらだらと床にシミを作り、淫らな水音を響かせる。
そうしている間にも、花京院の中に埋め込まれた異物は振動を続けていた。指で押さえられていた時に比べれば、もたらされるものは微々たるものになっている。だからこそもどかしく、無意識に腰が揺れた。
「美味そうにしゃぶるな。これがそんなに好きか?」
「んぅ、ん、ぅ」
「出すぞ。全部飲め」
こくん、と頷こうとした弾みで性器が口から外れそうになる。ハッとするより先に前髪を掴む手によって強く引き寄せられ、そのまま幾度か喉の奥に先端を叩きつけられた。
「ぉあ゛、が、ッ、あ゛ぁ」
気道を塞がれる感覚に、肩が強ばる。だけど舌を必死で擦り付け、涙を流しなら目を閉じた。やがてさらに奥へとぐっと押し込まれたと思った瞬間、最奥で一気に熱い迸りが弾ける。
「お゛、ぁ゛ッ――!!」
どくどくと、胃の中に直接注がれるような苦しさに目を見開く。眼球がまるでひっくり返ったかのように、視界が上向きになるのを感じた。目眩がして、景色が黒く点滅しながら染まっていく。
「ッ……」
花京院の喉奥に全てを注ぎ込んだ承太郎が、そこでようやく掴んだ前髪を引き剥がした。一気に空気を吸い込んだ弾みで、どろりとした精液が気管に入り込む。激しく咳き込みながら背中を丸めた花京院は、流し込まれたものを全て逆流させ、床に吐き出してしまった。
「うッ、ぇ、げほっ、げほッ、ふ、は、ッ!」
「出来の悪い生徒だな。わたしは飲めと言ったはずだが」
「ッ、ご、め……なさ……ッ、ごめ」
「もういい。おいで」
手錠ごと一纏めにして手首を掴まれ、引き上げられる。ベッドに片膝を乗り上げたところでさらに強く引かれ、シーツに背中を打ち付けた。
その衝撃にぐっと喉を詰まらせた花京院の両足が、大きく割られる。張り詰めて蜜を零す性器と、奥まった場所からコードを伸ばす滑稽な姿を見下ろされると、顔から火を噴きそうなほどの羞恥が、今更のように押し寄せた。
「やっ……」
拘束された両腕で顔を隠そうとする花京院にニヤリと笑って、承太郎は中から伸びるコードに触れるとリモコンを手繰り寄せる。ロータリー式のスイッチをスライドさせると、中の振動が一気に強まった。
「いッ!? ぅあ、ああぁッ!」
比較的微弱であったはずの振動が、さっきよりもずっと重々しい音を響かせながら腹の中で暴れ出す。内腿を震わせ、腰をよじる度にふと前立腺を掠めるものの、決して位置は定まらない。
「やだっ、アッ、ああぁ、あっ、とっ、て! これ、嫌だ、とってぇっ!」
「尻の穴がヒクヒクいってるな。放っておけば、またイクんじゃあないのか?」
「いや、だ! 嫌です! アッ、ぅあ、こんな、の、やだぁ……!!」
身を捩るほどに、それは一瞬だけいい場所を掠める。いつしか逃れようとしているのか、そこへ導こうとしているのか、自分でも分からなくなってきた。
身体は貪欲に快楽を貪ろうとしている。けれど花京院の心はまだそこに完全に追いつくことができないでいた。ただ、こんなものでまた一人果ててしまうのだけは、嫌だ。
辿り着く場所が同じなら、承太郎が欲しい。
「おねが、ぃ……せん、せぇの、欲し……先生ので、イキたい……!」
ひくひくとしゃくり上げながらの懇願に、承太郎は口元に浮かべた笑みを色濃いものにした。ふんと鼻で笑いながら、眼鏡を外すとシーツの上に放り投げる。度の入っていない薄いガラス越しに見るよりも、その瞳は鈍く深く、獰猛な光を宿していた。
「しょうがないメスガキだな。いいだろう。欲しいならくれてやる」
達して間もないはずの承太郎の性器は、すでにぐんと張り詰めて脈を浮き立たせている。片手は花京院の膝裏を押し上げつつ、どこからか取り出したコンドームを口元に運び、歯を立てて封を切ると中身を取り出し、器用に自身へと被せてしまう。
薄い膜のようなそれに隔てられることに、ほのかな落胆を覚えながら、喉を鳴らす花京院の両足が痛いほど割り開かされた。
承太郎は自身に手を添え、コードが伸びたままの濡れた蕾に先端をあてがう。
「ちょっ、と、待っ!? なか、取ってから……!」
「お気に入りだろ? そのまま咥えておけばいい」
「やッ、う、あぁ、あ――ッ!!」
容赦なく、承太郎の剛直が濡れた後孔を抉じ開けた。中はローションにまみれたローターで柔らかく解されていたが、狭い肉壁を奥へ奥へと押し進んでくる灼熱の凶器に、凄まじい衝撃と圧迫感が襲い来る。
花京院は悲鳴ともすすり泣きともつかない声で叫び、拘束された両手を宙に彷徨わせ身を捩った。承太郎の腕が両膝の裏をそれぞれ引っ掛けるようにしながら、そんな花京院の身体を深く折り曲げていく。腿が腹につくほど折られたところで、ズン、と承太郎が一気に体重をかけてきた。
「ひぐッ、ぁ……――ッ!!」
見開いた瞳から溢れた涙が、頬を滑り落ちる。心臓まで貫かれたのではないかと錯覚するほどの衝撃に、息ができない。
(なん、で……こんな、どうして……?)
火花が散るように点滅する視界で、花京院はかたかたと身を震わせながら緩く首を振る。
てっきり挿入前にローターは引き抜かれるものとばかり思っていた。それなのに、承太郎の屹立によってギリギリまで押し広げられている肉壺で、異物はなおも重く振動を続けている。
けれどストップはかからない。誰もが熱っぽく息を殺して見守っているだけだ。ショックと絶望に引き攣る花京院の表情を、ズームしたカメラが冷やかに映し出す。
(息ができない……苦しい、痛い……焼ける……!)
承太郎になら、どんな仕打ちを受けても構わないと思っていた。それは今も変わらない。だけど多分、どこかでは初めて出会ったあの日のように、優しく抱いてほしいという淡い期待も捨てきれないでいた。
そんなはずはないのに。花京院は承太郎を裏切ったのだから。ちっぽけな理由で、あの穏やかな朝の食卓で彼が見せた笑顔と優しさを、踏みにじった。
(嫌われたんだ……だから承太郎さんは怒ってる。演技だけど、演技じゃない。ぼくは、嫌われてしまった)
だからきっと、これは本当の意味での罰なのだと。
「ぅ……ッ、く」
タガが外れたように、ぼろぼろと涙を零す。すると、震える花京院の耳元に、承太郎が唇を寄せた。
――花京院。
吐息だけで、名前を呼ばれる。
ハッとして目を見開く花京院に、承太郎は『息を吐け』と言った。それは花京院だけがかろうじて聞きとれる程度の、ささやかな声だった。
そう言われて初めて、自分が息を吸い込むばかりだったことに気がつく。
声に従い、懸命に震える息を吐き出した。膨らみ切っていた肺から酸素を逃がしたことで、少しずつではあるが呼吸が楽になる。
石のように強張っていた肩から僅かに力を抜き、すん、とぐずるように鼻を鳴らした花京院に、承太郎は『いい子だ』と言った。
「ッ……!」
その瞬間。
承太郎の唇は何事もなかったかのように耳元から離れ、抽挿が開始された。最奥に達していた屹立が一気に引き抜かれたかと思うと、ずんと強く打ち込まれる。激しく振動を続けるローターが、その度に感じる場所を抉るように掠めた。
「あああぁぁッ!」
雷に打たれるような感覚が、花京院の内側で荒れ狂う。承太郎が腰を打ち付けてくる度に、肌と肌がぶつかる激しい音がして、舌を噛みそうになるくらい乱暴に揺さぶられる。
痛みも苦しみも、火傷しそうなほどの熱も、すべてが行き過ぎた快楽へと繋がっていく。頭が、どうにかなりそうだった。
それでも承太郎がくれた一言が、花京院の心と身体を溶かし切っている。
(褒めて、くれた……いい子だって、言ってくれた……!)
承太郎は知っているのだ。花京院を一瞬でどろどろに蕩かしてしまう魔法を。
あのまま酷く揺さぶって、痛めつけるのは簡単だったはずなのに。
溺れるような快感に、思考が白く染まる。承太郎の言葉だけを拠り所にして、感情を爆発させた。
「ひッ、あ、ぁ、すき、好きです、大好き……ッ!」
大丈夫。台本からは逸れていない。花京院が演じる高校生は、担任教師に密かに想いを寄せているという設定だった。同じだ。この台詞は、花京院自身の心からの声でもある。
「好き? こんな風に男に足を開いて掘られるのが、そんなに好きか?」
「ちが、ぅ、そうじゃ、なくて……ッ!」
(承太郎さんのことが)
「先生が、好き……ッ、ぁ、ずっと! こう、されたかっ、た!」
(初めて会ったときから、あなたのことが)
作り物でご都合的な、安っぽいシナリオを借りて。
何度も好きだと繰り返し告げた。
身体の中で、承太郎の熱がさらに膨らんだような気がした。このまま時が止まればいい。だけど花京院の身体は、もう限界をとうに超えている。
承太郎の両腕が膝裏から離れ、花京院の身体を強く抱き込んだ。拘束されて、輪のようになっている両腕を太い首に回せば、互いの鼓動が伝わるほどに身体が密着した。
「わたしも、好きだ」
ああ、本当にどこまでも安っぽいドラマだ。それでも嬉しいと感じた。気持ちのこもらない台詞でも、一時の幸福感が虚しさを覆い隠してしまう。
そして太い楔と小さな異物に内壁を痛いほど擦られながら、絶頂へと導かれた。
「あ、あ、あぁぁッ……あ、ひぁッ……――っ!!」
痛々しいほどの自身の悲鳴を遠くに聞きながら、意識が遠のいていく。
承太郎も腰を震わせ、その低い呻きに鼓膜が揺れた。
台本は、これで終わりのはずだ。けれど、花京院の耳は熱を帯びる承太郎の声を拾い上げる。
「おまえが欲しい」
(あ、れ……?)
「いいか、おれだけだ。おれだけのものに」
(そこまでの台詞なんて、あったかな)
ぷつりと、そこで思考が途切れた。
*
「やっぱりそうだよなぁ……うん、間違いない」
ゆっくりと、滲むように浮上する意識に身を委ねる中、男の声が聞こえた。
僅かに眉を顰め、重たい瞼を抉じ開ける。
「あ、起きた?」
真っ先に目に飛び込んできたのは、狐のように細い目をした男の顔だ。見覚えがある気がして、誰だったろうかと鈍い思考で記憶を探る。
(ああそうだ、この人は確か)
青いキャップを後ろ向きにかぶった彼は、初めての撮影の日に妙な質問をしてきた男だったと思いだす。
たった今、目覚める間際に聞いた声も、おそらくこの男のものだ。
花京院が身を起こそうとするのを補助するために伸びて来た腕を、片手でやんわりと制して緩く首を振る。
目覚めたのはあの鉄格子の中のベッドだが、手首から手錠は消えて、身体の中からも異物が消えていた。
室内では数人のスタッフによって撤収作業が行われていて、監督とカメラマンの姿は見えなかった。
だが、そんなことはどうでもいい。花京院の瞳は承太郎の姿だけを探して彷徨う。けれどあの大柄な身体はどこにも見当たらない。
咄嗟に顔を上げて、ベッドサイドに佇む男を見上げた。
「承太郎さんは……?」
「空条さん? ああ、ついさっきシャワー浴びて帰って行ったよ」
「帰った……あの、ついさっきって、どのくらい前ですか!?」
「ほんの何分か前だけど」
きょとんとする男を尻目に、花京院は弾かれたようにベッドから抜け出した。じんと痺れるような鈍痛を身体の奥に感じて態勢を崩しかけながらも、床に投げ出されたままだった制服のズボンを取ると身に着け、革靴を履く。
「ちょ、おい君、どこに」
「すみません! すぐに戻りますから!」
自分の服に着替える時間すら勿体ない。花京院は引き裂かれたシャツと長ランの前を掴んで肌を隠し、部屋から飛び出した。
*
重たい身体に鞭を打つようにして、ホテルを飛び出すと白い光に目が眩んだ。
時間の感覚をすっかり失っていたが、今はまだ夕方より少し前の時間帯である。
どこか埃っぽさを漂わせるホテル街には、こんな時間でも若いカップルの姿がちらほらと行き交っていた。
衣装とはいえ、学生服でふらふらと歩くのはかなり目立ちそうだ。しかも合わせ目はこの有り様である。
それでも飛び出してきてしまったものは仕方ない。今はただ承太郎に会わなくてはという気持ちばかりが先立っていた。
会って、ちゃんと謝らなくては。それでどうなるとも思えないが、このままではどうしても気が済まなかった。
見回せば、似たようなこじんまりとしたホテルと看板が連なる他に、寂れた定食屋や百円パーキングが視界に飛び込んでくる。
細い道の先、定食屋の角に消えていこうとする黒いコートの背中を見つけて、
「承太郎さんッ!!」
咄嗟に声を張り上げると、走り出していた。
長身の肩が微かに揺れ、ふと足を止めるのが分かる。腰の怠さや、鈍い痛みに足を縺れさせながらも走り寄る花京院を振り返り、承太郎は少しだけ目を見開いたが、すぐに怪訝そうな顔を見せた。
「待って、承太郎さんッ」
「花京院、てめーその格好で追いかけてきたのか」
「だ、だって……承太郎さんが帰ってしまったと聞いて……」
承太郎の目の前で足を止めた花京院は、両手で前をしっかりと押さえながら息を整える。いざこうして向き合うと、足元から這い上がって来る居たたまれなさに、心臓をぐっと突き上げられるような息苦しさを感じた。
それでも承太郎は花京院にとって、生まれて初めて恋をした人だった。優しくしてくれた人だった。だからその気持ちを裏切ってしまった自分が情けなくて、恥ずかしくて、許せない。
「承太郎さん……ぼく」
「なぜ連絡しなかった?」
「え?」
「金がいるなら、なぜ最初におれを頼らなかった?」
出し抜けに放たれた言葉に、首を傾げる。
「……承太郎さん?」
眉間に深く皺を刻んだ承太郎の、瞳が細められた。
冷やかなエメラルドの奥深くに仄暗い炎を見たような気がして、ひやりとした感覚に息を詰まらせる花京院に、承太郎はさらに言う。
「それとも、ただ男が欲しかっただけか?」
何を言われているのか、咄嗟に飲み込むことができなかった。
承太郎を茫然と見つめ、少しずつその言葉を飲み込んでいく。理解が追い付いた途端、思わず頭に血がのぼるのを感じた。
「ち、違います! そんな理由で来たわけでは……!」
「だったらなんでてめーはここにいる?」
「そ、それは……」
切羽詰まった表情で狼狽するばかりの花京院を、承太郎は探るような鋭い視線で見つめる。とてもではないが、目を合わせられない。
金や男が欲しくて、こんな場所までのこのこやってきたわけではなかった。だけど、承太郎にはそう思われている。欲深い、卑しい人間なのだと。
無意識に、前を握りしめる両手が震えた。軋むほどに強く奥歯を噛み締める。耐えがたい屈辱だった。
「ぼくはただ、あなたに」
会いたかったのだと。あなたが他の誰かを抱くのが、どうしても嫌だったのだと。飛び出しかけた言葉を飲み込んだ。
言えるわけがない。こんなときにまで、臆病な自分が顔をだす。本当の気持ちを告げて、それを否定されてしまったら、きっと生きていけない。母がそうだったように、承太郎にまで、拒絶されてしまったら。
承太郎は俯いて唇を噛み締めるだけの花京院を、ただじっと真っ直ぐに見つめていた。その視線から逃れるために、目を閉じると顔を背ける。
微かな舌打ちが聞こえて、つい肩がビクリと跳ねてしまった。
「次は必ず連絡しろ。いいな」
吐き捨てるような言葉の後で、遠ざかる足音が聞こえる。
一人残された花京院は呆然としたまま、その場からしばらく動くことができなかった。
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連れて来られたのは駅から程近い、高層マンションの一室だった。
明らかにセレブ感溢れるそこには、ガラス張りで夜景の見えるリビングと連なる寝室、カウンターによって仕切られたダイニングキッチンがあり、広い浴室までビューバスという有様だった。
とてもではないが、ごく普通の学生が暮らしているとは思えない。こんな場所を根城にしている人間が、なぜあのようなビデオに出演しているのかと、首を傾げざるをえなかった。
あれから、重たい身体を引きずられるようにしてここに連れて来られた花京院は、上着を剥ぎ取られて脱衣所に閉じ込められた。
シャワーを浴びろとだけ告げて遠ざかる承太郎の気配に唖然としながら、立ち尽くしているわけにもいかず従った。熱い湯を浴びて、身体はどうにか清潔さと熱を取り戻したものの、心臓は凍えたままだった。
風呂から上がるとすぐ、タオルと着替えが用意されていることに気づいた。自分が脱ぎ捨てたはずの衣服はなく、すぐ側で洗濯機が回っていた。
ますます不安と戸惑いを募らせながら、承太郎のものと思しき薄手のシャツとゆったりとしたズボンを穿く。シャツは袖が余り、身体が泳いでいるような状態だったが、ズボンはウエストが紐になっていたため、どうにかずり下がらずに済んでいる。が、裾は折らなければ引きずってしまうほど余っていた。
頭からタオルをかぶり、なんとなく足音を忍ばせながら廊下に出て、キッチンに恐る恐る顔を出す。するとカップに何やら白い液体を注ぎながら、承太郎が視線だけ寄越した。
彼はコートと帽子を脱いだだけの格好で、花京院に向かって「来い」と軽く顎をしゃくって見せる。
身が竦むような思いがしたが、俯きながらおずおずと近づいた。
「早かったな」
「はい……あの、すみません。着替えまで」
「気にすんな」
承太郎はカップを持つ手はそのままに、タオルをかぶっている花京院の頭に空いている方の手を伸ばす。思わず身を固くする花京院だったが、そのままぐしゃぐしゃと撫でられ、一体どういうことかと混乱した。
「あ、あの、承太郎さん?」
「しっかり乾かせ。ドライヤーがあっただろ」
「そんな、勝手にお借りするなんて」
「ガキが遠慮なんかするもんじゃあねーぜ」
少しだけムッとしたけれど、かといって何か言い返せるわけでもなく、ぐっと唇を引き結ぶだけにとどめる。
承太郎はそんな花京院にほんのりと苦笑しながら、温かなカップを差し出して来た。
咄嗟に両手で包み込むようにして持つと、その熱に指先がじんと痺れる。ゆらゆらと立ち上る湯気からは、甘い蜂蜜のような香りがした。中身はホットミルクだ。
「来い」
少し強引に肩を抱かれながら、間接照明だけが灯されたリビングにある、二人掛けの大きなソファに並んで座った。
飲めと言われて、戸惑いながらおずおずとカップに口をつける。おそらく甘いのだろうとは思うのだが、味わうだけの余裕はなかった。ただ少し、頭がくらくらするような気がした。
承太郎はふぅふぅと冷ましながらホットミルクを口に含む花京院を、しばらくただ静かに見守っていた。広いリビングに、沈黙だけが根を下ろす。
承太郎からは、先刻のようなヒリついたオーラは消えていた。その分なおのこと何を思っているのかが分からず、ホットミルクに集中するふりをしながらその表情を窺えないでいる。
やがて沈黙を破るように、承太郎が息を漏らした。
「だいぶ顔色が戻ってきたか」
緩く顎を掴まれたかと思うと、そのまま承太郎の方へ顔を上向かされる。近い距離で長い睫毛に縁どられた瞳と目が合って、花京院はただ息を飲むばかりだった。
暖色の光を反射する翡翠は、夕陽に照らされた海のように静かに凪いでいる。吸い込まれそうで、少し怖い。
「今夜はこのまま泊まってけ。寝室のベッドを使いな」
「そ、そんな」
咄嗟に首を左右に振ると、顎に添えられていた指先が離れる。
「遠慮すんなって言ったはずだぜ。着て帰る服もねーだろ」
「あ」
浴室から出てすぐに、洗濯機が回っていたことを思い出す。しゅんと項垂れた花京院の頭が、再びタオルごと掻き乱された。
さっきは混乱するばかりだったが、改めてされると心臓が跳ねるのと一緒に頬が熱くなる。
「じょ、承太郎さん」
「雫が垂れてる。待ってろ、今ドライヤーを」
「い、いいです!」
立ち上がりかけた承太郎の服の袖を、咄嗟に伸ばした片手で掴んで引き止めた。その拍子に頭からタオルが外れ、首にかかる。
僅かに腰を浮かせていた承太郎が、片眉を小さく顰めただけでソファに腰を落ち着けたのを確認してから手を離し、膝の上のカップへ戻す。
遠慮している、というのも勿論あるけれど、今は彼の意図が知りたいと思った。ここはあの撮影現場ではなく、あくまでも承太郎のプライベートな空間である。
ここで彼が花京院を相手によくしてやる義理はなく、なんのメリットもないはずだ。なのに。
「どうしてですか」
どこか不思議そうに、承太郎が瞬きを繰り返す。暖かな照明の中、長い睫毛が彼の頬に踊るような影を落としていた。
「承太郎さんが、こんな風によくしてくれる意味がわかりません。ここは撮影現場ではないのに……それに」
「……それに?」
「さっき、凄く怒ってた」
「…………」
項垂れて、両手で抱え込むようにして持っているカップの中身に視線を落とした。すでに温くなっているミルクは、まだ半分ほど残っている。
「ぼく、承太郎さんに嫌われてしまいましたよね」
何を言っているんだろう、と。
心の中で、もう一人の自分が呆れかえっている。分かり切っていたことを確かめることに、意味などないはずなのに。
承太郎は確かに優しく抱いてくれたが、あれは男優としての演技にすぎない。あの場にいたのが花京院じゃなくても、きっと彼は同じように振舞っただろう。
(バカみたいだ)
「すみません、忘れてください。今日はちょっと……おかしいんです。ぼく」
顔を上げて、どうにか笑顔を浮かべることに成功した。
承太郎は静かに鼻から息を漏らして、花京院を見つめると瞳を細める。
「最初に会ったときからおかしかったぜ。てめーはよ」
「……あはは、そうですよね」
「おれもな」
「……え?」
ふと顔を上げた花京院の頬を、長く武骨な指先がそっと掠める。その一瞬の触れ方がとても不器用に感じられて、花京院は遠ざかる指先を茫然としながら視線で追った。
「どうも調子が狂うぜ」
なにが、と問いかけようとして、承太郎の溜息に遮られた。彼の表情は不機嫌そうなのに、なぜか、戸惑いのようなものが感じられる。
初めて見る遊具を前に、遊び方が分からず困惑する子供のようにも見えて、花京院はその表情を不思議な面持ちで見つめた。
「嫌ってる相手をわざわざ家に連れ込むほど、おれは酔狂な人間じゃあねーよ」
「!」
承太郎は花京院が投じた子供じみた問いに、明確な答えを寄越した。
その噛んで言い含めるような言葉が、諦めに沈み込んでいた心の表面に触れ、滲むように溶けていく。
それから、承太郎はひとり考えるように無言になり、視線だけ下向けた。花京院はその長い睫毛が瞬きの度に震える様を、ただ惚けたように見つめる。やがて、肉感的な唇が薄く開かれた。
「怒ってるとか、怒ってねえとかって話な」
「……はい」
「おれにもようわからん」
「……?」
それはなんとも曖昧な答えだった。だけどどうしてか、さっきまでの胸が凍えるような感覚が薄らいでいくのを感じる。
承太郎が覗かせたのは、彼の本質の片鱗なのではないか。不器用だけど、とても優しい。多分、この瞬間まで花京院は承太郎を舞台役者か、テレビ俳優のような存在として偶像化していたのだと思う。厚い壁に隔たれた、遠い存在。けれど言葉を選びきれずに、自分の感情を曖昧に濁す様に感じられたのは、確かな人間味だった。
すると、不思議と心が温かくなっていくような気がして、花京院を抱いたあの腕の優しさに、偽りはなかったのかもしれないと、そう思えてくる。
「冷め切っちまう前にぜんぶ飲め」
言われて、かろうじて温もりを保つカップの中身を一気に飲み干す。今度はちゃんと、味が感じられた。ミルクそのものの優しい甘さと、ほのかな蜂蜜の風味。その中になにか不思議なものも混じっているように感じられて、また少し頭がくらくらした。身体から力が抜け、内側に沁み込むような熱に安堵の息が漏れる。
承太郎は花京院の手から空になったカップを取り上げると、すぐ側のローテーブルに静かに置いた。その光景を、どこかふわふわとした気持ちで見つめながら、身体が自然と傾いていく。
いけない、とどこか遠くで思ったときには、花京院は承太郎の肩に頭を預ける形でもたれかかっていた。
「このまま寝ちまえ」
低く呟きながら、大きな手に肩を抱かれる。ぼんやりと霧がかったような思考に浮かされながら、花京院は赤子がむずがるように首を横に振っていた。
「もう、少し」
「花京院」
「もう少しだけ……承太郎さん……」
瞼は重く、意識は半分以上沈みかかっていた。
それでもしがみついていたい。このぬくもりを手放したくない。あれほど不安だったのが嘘のように、心地がよかった。
「話が、したかったんです。承太郎さんに、ずっと、会いたかった」
自分がなにを言っているのかも、よくわからなかった。ただ、耳元で承太郎が喉を鳴らすような音を、聞いたような気がする。
「初めてだったんだ……優しく、してもらうの。こんな気持ちに、なるのも……」
ああ、もうダメだ。落ちる。
だけどどうしても知ってほしい。こんな風に包み込まれていてさえ、心の中にある根深い孤独の傷口を。ずっと忘れたふりをして抱え込んでいた、痛みと不安を。寂しさを。
「承太郎さん……ぼくのこと、嫌いにならない、で」
耐えがたい眠気に意識をさらわれる間際。
濡れた髪に触れる指先の優しさと拙さに、少しだけ、泣きたくなった。
*
花京院のことは、物怖じしない大人びた青年だと聞いていた。
そこそこタッパもあって、ノンケであるにも関わらずゲイ向けのアダルトビデオだと知っても、顔色ひとつ変えずに淡々としていたと。
それでも相手は初めてのビデオ出演で、性交渉の経験もない初心者だから、怖がらせないようにと念を押された。同じく初心者の男優が、承太郎のガタイのよさと威圧感に圧倒されて、一目で逃げ出してしまったのはまだ記憶に新しい。その場をぶち壊してしまうことは本意ではないし、どんな相手にしろすることは一つだ。だから自分を偽り、演じることに抵抗はなかった。
しかし蓋を開けて見れば、物怖じしない大人びた青年など、どこにもいなかった。
花京院典明という青年は、承太郎が抱いていた生意気で厚顔なイメージとは大きく異なっていた。
どこか憮然とした面持ちで唇を引き結んではいたが、承太郎を見つめるアメジストの瞳は諦観と憂心に心許なく揺れていた。
承太郎には彼が迷子の子供のように見えた。帰り道も行き先も分からず、ただ立ち尽くすだけの幼子に。それがなぜかは分からない。ただ、優しくしてやらなくてはという奇妙な保護欲が生まれたのを覚えている。
承太郎はそんな自身の感情に、内心ひどく戸惑っていた。
ずっと誰にも関心を抱けないまま生きてきた。
心を動かされるものといえば海に暮らす生物くらいなもので、物言わぬ彼らとの触れ合いだけが心安らぐものであり、同時に興味を掻き立てられる対象だった。
承太郎にとって他人という存在は、みな同じ顔をした生き物にすぎなかった。誰かを特別に思ったこともなければ、心惹かれたこともない。
それなのに。
「花京院」
無防備に預けられた体温と、規則正しい寝息に耳を傾けながら、確かめるようにその名を呼んだ。
少量のブランデーを混ぜたホットミルクが、花京院を深く眠りの世界へと引きずり込んでいる。
ほんのりと濡れたひと房だけ長い前髪に指先を絡め、承太郎は静かに息をついた。
髪に触れていた指を赤い頬へと走らせ、するりと撫でれば、高い体温が指先へと伝わった。じんと痺れるような熱に、こそばゆさを感じて瞳を細める。胸の内側を羽根でくすぐられているような、それでいて心の襞に小さな棘が刺さるような、不思議な感覚だ。
こんな気持ちは、初めてだった。
彼のなにがそう感じさせるのか、承太郎には分からない。
自分に向けられる数多の好意は、この生まれついての容姿と裕福な家柄へ対するものでしかなかった。金と、身体と、時には愛さえも。承太郎は多くのものを乞われて生きてきた。自ら他人に何かを求めたことは、一度もない。
そんな承太郎に花京院が求めたのは、拍子抜けするほど簡単で、ちっぽけなものだった。
褒めて、と。
彼は言った。
承太郎にはそれが、「寂しい」と言っているように聞こえた。
触れるほど蕩けていく素直な身体は、必死で承太郎に応えようとしていた。懸命にしがみついてくる姿に締め付けられた胸の痛みを、なんと呼べばいいのだろう。
ただ、求められることに慣れきっていた自分が、生まれて初めて与えることに悦びを感じた。それだけは、確かだった。
「花京院」
承太郎は、再びその名を呼んだ。
「何が怖い? おまえは、何をそんなに恐れている?」
深く眠りこんでいる花京院に、その問いは届かない。
だけど彼は意識を手放す間際、確かに言ったのだ。嫌わないで、と。
死んでしまいそうなほどか細い声だった。何をそんなに怯えているのだろう。承太郎には花京院を嫌う理由がない。むしろ好ましく感じているのだと思う。
上下する肩と、無防備に伏せられた睫毛の長さと、体温と。その何もかもが。
「可愛いな」
感じるままにそう呟いていた自分に、少し驚く。
偽りの自分を演じながら、彼が欲しがるままに与えた言葉の全ては紛れもなく本心だった。けれど正直、カメラの回っていない空間で彼にどう触れればいいのか、よくわからない。
自分は、こんなにも不器用な人間だったのか。
承太郎は睫毛を伏せ、ゆっくりと息を漏らすと花京院の肩を抱きなおした。もう片方の腕は両膝の裏に差し込み、抱え上げると同時に立ち上がる。
そのまま隣の寝室へと向うと、室内は月明かりにぼんやりと青く染まっていた。
キングサイズのベッドに花京院の身体をそっと沈ませ、シーツを引き上げようとした。けれど承太郎はふと動きを止める。
どこか幼い寝顔を浮かべる彼の首筋が、ささやかな月光に照らされて、青白く浮き上がっていた。そこに幾つもの鬱血の痕を見つけて、無意識に奥歯を噛み締める。
胸に、焼けるような何かが込み上げた。
さっきと同じだ。駅で力なくベンチに腰かけていた花京院は、初めて会ったあの日よりもずっと頼りなく、そして弱りきっていた。
彼が何をしてきたのか、聞かずともわかった。会話もそこそこに立ち去ろうとした花京院に、今と同じ感覚を味わった。気づいたら乱暴に手を引いていて、剥ぎ取った上着の内ポケットには、膨らんだ茶封筒が入っていた。
よく見れば、ずり上がった袖から伸びた両腕にも、掴み上げられたような痕がうっすらと残っている。ちりちりとした嫌な感覚が、凄まじい速さで増していく。
「一体どんな抱かれ方をしてきた? 花京院」
眠っている花京院は答えない。ただ、細く長い息を鼻から吐き出した。
気づけば、承太郎は彼の首筋に顔を埋めていた。薄い皮膚の下で、その鼓動を唇に感じながら、きつく吸い上げる。
「ん、ぅ」
見じろぐ花京院が、小さく呻く。ここに歯を立て、血と肉を断てば、簡単に命を奪うことができる。上書きするように自らを刻み付けながら、承太郎は胸が躍るような感覚を味わった。
けれどそれからすぐに、背筋を這う冷たい汗に顔を上げた。
承太郎から顔を背けるようにして首筋を曝す花京院は、少しだけ苦しげに眉を寄せていた。それでも目覚める気配がないことに安堵する。
大きく吐き出した息は震えていた。ベッドの縁に腰かけて、たったいま自分を絡めとった思考の罪深さに戦慄する。
「なんなんだ、これは」
額に手を当て、ちらりと背後に視線を走らせた。
掻き乱される感情を持て余し、承太郎の戸惑いはただ悪戯に膨らんでいく。
「花京院」
なぞるように名を呼べば、そこからじわりと、胸に狂おしい疼きが走った。
*
(いい匂い……)
うつ伏せの姿勢でふかふかの枕に顔の側面を埋めながら、すんと鼻を鳴らした。
食欲をそそる匂いに胃袋が刺激され、同時に思考も一緒に巡り出す。
これはこんがりと焼いたベーコンの香り、だろうか。くぅ、と腹の虫が鳴いた。
そういえば最後に食事をしたのはいつだったろう。昨日の朝、出かける間際に軽く菓子パンを齧っただけ、だったかもしれない。
もぞもぞとダンゴムシのようにシーツの山を作りながら身を起こし、ぼんやりと幾度か瞬きをする。首筋にチリ、とひりついたような感覚を覚え、無意識に手を這わせながら辺りを見回した。
見慣れない部屋の、見慣れない大きなベッド。
確か昨日は承太郎と話をしながら、そのままソファで眠ってしまった、はず。残り半分のミルクを飲みほしたあたりから、どうも記憶が曖昧だった。何かおかしなことを口走ってしまったような気がするのに、何も思い出せない。
自らの足でベッドに移動した記憶もなく、となると運んでくれたのは承太郎ということになる。大変な面倒をかけてしまったことに肝が冷え、いてもたってもいられず、花京院はベッドから抜け出した。隣の部屋へ駆け込むと、黒い薄手のセーターに白いパンツ姿の承太郎が、キッチンで朝食の準備をしている。
「承太郎さん……!」
「おう、起きたか。おはよう」
「お、おはようございます。すみません、ぼく昨日」
「まぁ座れ。パンで構わねえか?」
「え、ええ」
「悪い。その前に冷蔵庫からバターとジャムを出してくれ」
「ああ、はい」
すっかり承太郎のペースで、花京院は言われた通りのものを冷蔵庫から取り出すと、おとなしくテーブルについた。そこには少し焦げたベーコンと目玉焼き、トマトの乗った野菜サラダが二人分、用意されている。
「あ、朝ご飯……」
「ちょっぴり焦げたがな」
「いいえ、とても美味しそうです」
「そう言われると作り甲斐があるってもんだぜ」
承太郎はふっとささやかな笑みを浮かべ、こんがりと狐色に焼き上がったトーストを二枚、皿に乗せて花京院の目の前に追加した。
「残さず食いな」
「い、いいんですか……泊めてもらった上に、こんな……」
そんなことを言いつつ、花京院は目の前の食事に目を輝かせる。
こんな絵に描いたような朝食は、母が死んで以来初めてのことだ。それだって再婚した後にようやくといった具合だったし、実際のところ花京院がありつけたのは残り物ばかりだった。
そんな花京院にとって、これは堪らない光景である。
「ガキは遠慮すんなって言っただろ。とっとと食うぜ」
二人分のコーンスープを手にようやく席についた承太郎と向き合い、花京院は両手を合わせると神妙に「いただきます」と挨拶をした。
*
久しぶりに食べた温かみのある食事は、最高に美味しかった。
食器を一つ残らず空にしたとき、すでに食べ終えていた承太郎はコーヒーを飲みながら満足そうにふっと息を漏らした。
「ご馳走様でした。美味しかったです」
「そりゃよかった」
テーブル脇に置かれていた新聞を片手に、コーヒーに口をつける承太郎を見つめて、花京院はふわりと頬に集まる熱を持て余した。
昨夜、駅から手を引かれて連れ出されたときはどうしようかと思ったが、承太郎と過ごす穏やかな朝の空気に、胸が温かな安堵で満たされる。
こんな時間がいつまでも続けばいいのにと、欲張りなことを考えそうになる自分に戸惑った。
「おれの顔になにかついてるか?」
「ふぇッ!?」
無遠慮に見つめたまま頬を染めていた花京院は、前触れもなくかけられた言葉と向けられるエメラルドの視線に、妙な悲鳴をあげてしまった。
椅子から飛び跳ねそうな勢いで肩をビクつかせ、慌てて視線を下向ける。途端に胸の鼓動が加速して、少しだけ息が苦しくなった。
「すみません。誰かと一緒にこうして食事をするのって、こんなに楽しくて温かな気持ちになるんだなって。ちょっと浸ってしまいました」
「……おまえ、家族は?」
「いないんです。血の繋がらない父と兄ならいますが……他人です。母は二年前に、病気で」
「そうか……」
「あっ、ごめんなさい。湿っぽい話をしてしまいましたね」
「いや、いい」
承太郎は新聞を畳んでテーブル脇に戻し、両肘をついて両手の指を組むとそこに顎を添えた。
「なら一人暮らしか」
「はい」
「生活が苦しくてビデオに出た、ってところか?」
「それは……」
微妙なところだった。
確かに貯金はほぼ尽きた状態だったし、これから夏に向けて冷蔵庫は必需品だった。それでも一応仕事はあって、一人で細々と食っていく分には困っていない。
ビデオ出演に至った経緯はあくまで成り行きで、深く考えた結果ではなかった。
ただ、それを正直に話すのは躊躇われた。何も考えていない、頭の空っぽな人間だと思われるのは嫌だったのだ。格好をつけても仕方がないとは思うが、昨日の撮影でほとほと後悔していた花京院は、もしそれで承太郎に軽蔑されるようなことになれば、いよいよ立ち直れないだろうと思ってしまった。
ちっぽけでどうしようもない。ガキと言われてしまっても、これでは仕方がないと思う。
何も言わずに視線を俯ける花京院をどう捉えたかは分からないが、承太郎がひとつ深い息を漏らした。
「聞くまでもないとは思うが」
「はい」
「懲りたんじゃねえか? 昨日で」
「…………」
承太郎には昨日、どんな撮影が行われたのかは言っていない。それでもあの様を見ればろくな結果にならなかったであろうことは、察しがついているようだった。
花京院はただ力なく、こくりと頷く。
最初の撮影が上手くいったのは、相手が承太郎だったからだ。他の男に触れられるのはただおぞましいばかりで、思い出すだけで背筋が凍るような思いがした。
「てめーは」
組んでいた指先をテーブルに置き、腕を伸ばすようにして承太郎が深く椅子に背中を預ける。花京院はおずおずと視線をあげ、ふっくらと厚みのある唇の動きを見守った。
「向いてねーと思うぜ。この仕事」
「……そう、ですよね」
「もうやめときな」
頼まれても二度と出ないつもりだった。元々契約は2本だったし、昨日の有様を見れば、向こうもきっと二度と連絡は寄越さないだろう。
監督はリアリティのある作品が録れたと言って、花京院をべた褒めしてはいたけれど。
「そうします。承太郎さんの言う通りだと思うし」
その言葉に、承太郎は頷きながらふっと笑った。どこか満足そうにも見える表情を見つめながら、花京院はこの流れで気になっていたことを聞いてみることにした。
「承太郎さんは……どうしてああいった仕事を?」
失礼だったろうかとすぐに不安が押し寄せたが、承太郎は気にした様子もなく「あの監督」と低く呟き、腕を組む。
「監督さん?」
「高校から付き合いのある先輩だ。ヤツもおれも、当時はそこそこヤンチャしてた」
「やんちゃ? もしかして承太郎さん、不良だったんですか?」
「かもな。やらかす度に、なにかと世話になった。あれもゲイだからな。今にして思えば下心もあったんだろうが」
「そうだったんですか」
ビデオ出演を熱心に頼み込む監督の姿が、容易に想像できる。承太郎にとってはちょっとした恩返しのような感覚、ということだろうか。
話を聞いて、彼が義理堅い性格をしているのはよく分かった。だが同時に、新たな疑問も沸いてくる。
「承太郎さんも、ゲイなんですか?」
それは素朴な疑問だった。
いくら世話になった人間の頼みとはいえ、易々と同性を相手にセックスなどできるものだろうか。ましてやこれほどの美男子が、女性に不自由しているとも思えない。
承太郎は視線だけ僅かに伏せ、小さく唸ってから「ようわからん」と言った。
「わからない?」
小首を傾げる花京院に、彼はもう一度ふむ、と微かに唸る。
「男とか女とかって問題は、よくわからん。やることやっちまえば一緒としか思えねえし、言っちゃあなんだが興味がねえ」
「興味がない? それは性別にはこだわらない、ということですか?」
「……てめーはどうなんだ?」
「ぼ、ぼくは」
はぐらかされてしまったような気がするが、質問の矛先が自分に向いたことで、花京院は視線を泳がせながら考えた。
花京院にとって女性という生き物から連想されるのは母の姿で、無意識に避けていたということは考えられる。かといって同性に心惹かれた経験があるかといえば。
ふと、彷徨わせていた視線を承太郎に向ける。彼は冷めたコーヒーカップに口をつけながら、長い睫毛を伏せていた。
(例え同じ仕事でも、相手が女性であったなら……ぼくはどうしていただろう?)
想像するだけで吐き気がした。
おそらくどれほどの大金をチラつかされても、全力で拒否していたのではないか。
けれどゲイ向けのアダルトビデオだと告げられたとき、なぜか一切の嫌悪感が湧かなかった。むしろ初めての相手が承太郎でよかったとさえ思ったのだ。
その肉体美に魅せられ、興奮したのも確かで、あの逞しい腕にずっと抱かれていたいとすら思った。
(仮に、だ。ぼくにゲイの素質があるって可能性は、ないだろうか?)
そう考えたとき。
「ッ……!」
何かが、胸の中でかちりとはまった。
あの日からずっと承太郎のことばかり考えていたのも、会いたくて仕方がなかったのも、胸がドキドキと高鳴ってしまうのも。
(そ、そんな……まさかこれって……)
一度はまったピースは、寸分のブレもなく胸に収まっている。けれど確かなのは、同じ男でも承太郎以外は考えられないということだ。
それは、つまり。
(ぼくは彼に……恋をしている……?)
「花京院?」
「ッ、へ!?」
「おいてめー、さてはまだ調子が戻ってねえな?」
眉間に皺を刻んだ承太郎が、長い腕を伸ばしてくる。ふと、サウナで焼石に水をかけて、蒸気を発生させる光景が頭に浮かんだ。今の花京院は、まさにそんな状態だった。
慌てて椅子から立ち上がることで距離をとり、両手と一緒に首を振る。茹蛸のように顔中が赤く染まっているのが、鏡を見なくても分かってしまう。
「だ、大丈夫です!」
(なんて……なんてタイミングで……!!)
自覚してしまったのだろう。
本人を目の前に初めての恋に気づかされるなんて、取り繕う間もないではないか。
とにかく、今は気持ちを落ち着かせることが先決だ。膨らみ切った戸惑いを、ぐっと喉を鳴らすことで押しとどめ、どうにか笑みを浮かべて見せた。突き破ってきそうなほど高鳴る胸の鼓動を、手の平を押しつけることでどうにか宥める。
承太郎は不思議そうに首を傾げていたが、「ならいいが」と言って自らも椅子から立ち上がると、空になった食器を重ねはじめた。
「あっ、ぼくも」
手伝います、と、手を出しかけて。承太郎が、少し困ったようにふっと笑った。
「いいから座ってな。顔が真っ赤だぜ」
「で、ですが……」
「もう少し休んでけ。おれはこのあと家を空けるが……好きにしてて構わない」
「な、そんなわけにはいきませんよ。ぼくは大丈夫ですから」
言ってから、少し惜しいことをしたかと思った。
承太郎はまだここにいてもいいと言った。好きにしていろと。それはつまり、彼の帰りを待っていても構わないという意味だ。
だけど、家主がいない部屋で好きにしていろと言われても、どうすればいいか分からない。それにこれ以上、どんな顔をしていればいいのかも分からなかった。
本当はまだ一緒にいたい。だけど胸が苦しくて、逃げ出したいとも思う。
(これが恋なら……なんて苦しい感情だろう)
承太郎は「そうか」と言って、再び手を動かしはじめた。節くれだった大きな手の動きにすら心が甘く締め付けられるような気がして、そっと息を吐き出しながら目を逸らす。
(だけど、好きだ)
その気持ちが、とても尊いものに思えた。
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明らかにセレブ感溢れるそこには、ガラス張りで夜景の見えるリビングと連なる寝室、カウンターによって仕切られたダイニングキッチンがあり、広い浴室までビューバスという有様だった。
とてもではないが、ごく普通の学生が暮らしているとは思えない。こんな場所を根城にしている人間が、なぜあのようなビデオに出演しているのかと、首を傾げざるをえなかった。
あれから、重たい身体を引きずられるようにしてここに連れて来られた花京院は、上着を剥ぎ取られて脱衣所に閉じ込められた。
シャワーを浴びろとだけ告げて遠ざかる承太郎の気配に唖然としながら、立ち尽くしているわけにもいかず従った。熱い湯を浴びて、身体はどうにか清潔さと熱を取り戻したものの、心臓は凍えたままだった。
風呂から上がるとすぐ、タオルと着替えが用意されていることに気づいた。自分が脱ぎ捨てたはずの衣服はなく、すぐ側で洗濯機が回っていた。
ますます不安と戸惑いを募らせながら、承太郎のものと思しき薄手のシャツとゆったりとしたズボンを穿く。シャツは袖が余り、身体が泳いでいるような状態だったが、ズボンはウエストが紐になっていたため、どうにかずり下がらずに済んでいる。が、裾は折らなければ引きずってしまうほど余っていた。
頭からタオルをかぶり、なんとなく足音を忍ばせながら廊下に出て、キッチンに恐る恐る顔を出す。するとカップに何やら白い液体を注ぎながら、承太郎が視線だけ寄越した。
彼はコートと帽子を脱いだだけの格好で、花京院に向かって「来い」と軽く顎をしゃくって見せる。
身が竦むような思いがしたが、俯きながらおずおずと近づいた。
「早かったな」
「はい……あの、すみません。着替えまで」
「気にすんな」
承太郎はカップを持つ手はそのままに、タオルをかぶっている花京院の頭に空いている方の手を伸ばす。思わず身を固くする花京院だったが、そのままぐしゃぐしゃと撫でられ、一体どういうことかと混乱した。
「あ、あの、承太郎さん?」
「しっかり乾かせ。ドライヤーがあっただろ」
「そんな、勝手にお借りするなんて」
「ガキが遠慮なんかするもんじゃあねーぜ」
少しだけムッとしたけれど、かといって何か言い返せるわけでもなく、ぐっと唇を引き結ぶだけにとどめる。
承太郎はそんな花京院にほんのりと苦笑しながら、温かなカップを差し出して来た。
咄嗟に両手で包み込むようにして持つと、その熱に指先がじんと痺れる。ゆらゆらと立ち上る湯気からは、甘い蜂蜜のような香りがした。中身はホットミルクだ。
「来い」
少し強引に肩を抱かれながら、間接照明だけが灯されたリビングにある、二人掛けの大きなソファに並んで座った。
飲めと言われて、戸惑いながらおずおずとカップに口をつける。おそらく甘いのだろうとは思うのだが、味わうだけの余裕はなかった。ただ少し、頭がくらくらするような気がした。
承太郎はふぅふぅと冷ましながらホットミルクを口に含む花京院を、しばらくただ静かに見守っていた。広いリビングに、沈黙だけが根を下ろす。
承太郎からは、先刻のようなヒリついたオーラは消えていた。その分なおのこと何を思っているのかが分からず、ホットミルクに集中するふりをしながらその表情を窺えないでいる。
やがて沈黙を破るように、承太郎が息を漏らした。
「だいぶ顔色が戻ってきたか」
緩く顎を掴まれたかと思うと、そのまま承太郎の方へ顔を上向かされる。近い距離で長い睫毛に縁どられた瞳と目が合って、花京院はただ息を飲むばかりだった。
暖色の光を反射する翡翠は、夕陽に照らされた海のように静かに凪いでいる。吸い込まれそうで、少し怖い。
「今夜はこのまま泊まってけ。寝室のベッドを使いな」
「そ、そんな」
咄嗟に首を左右に振ると、顎に添えられていた指先が離れる。
「遠慮すんなって言ったはずだぜ。着て帰る服もねーだろ」
「あ」
浴室から出てすぐに、洗濯機が回っていたことを思い出す。しゅんと項垂れた花京院の頭が、再びタオルごと掻き乱された。
さっきは混乱するばかりだったが、改めてされると心臓が跳ねるのと一緒に頬が熱くなる。
「じょ、承太郎さん」
「雫が垂れてる。待ってろ、今ドライヤーを」
「い、いいです!」
立ち上がりかけた承太郎の服の袖を、咄嗟に伸ばした片手で掴んで引き止めた。その拍子に頭からタオルが外れ、首にかかる。
僅かに腰を浮かせていた承太郎が、片眉を小さく顰めただけでソファに腰を落ち着けたのを確認してから手を離し、膝の上のカップへ戻す。
遠慮している、というのも勿論あるけれど、今は彼の意図が知りたいと思った。ここはあの撮影現場ではなく、あくまでも承太郎のプライベートな空間である。
ここで彼が花京院を相手によくしてやる義理はなく、なんのメリットもないはずだ。なのに。
「どうしてですか」
どこか不思議そうに、承太郎が瞬きを繰り返す。暖かな照明の中、長い睫毛が彼の頬に踊るような影を落としていた。
「承太郎さんが、こんな風によくしてくれる意味がわかりません。ここは撮影現場ではないのに……それに」
「……それに?」
「さっき、凄く怒ってた」
「…………」
項垂れて、両手で抱え込むようにして持っているカップの中身に視線を落とした。すでに温くなっているミルクは、まだ半分ほど残っている。
「ぼく、承太郎さんに嫌われてしまいましたよね」
何を言っているんだろう、と。
心の中で、もう一人の自分が呆れかえっている。分かり切っていたことを確かめることに、意味などないはずなのに。
承太郎は確かに優しく抱いてくれたが、あれは男優としての演技にすぎない。あの場にいたのが花京院じゃなくても、きっと彼は同じように振舞っただろう。
(バカみたいだ)
「すみません、忘れてください。今日はちょっと……おかしいんです。ぼく」
顔を上げて、どうにか笑顔を浮かべることに成功した。
承太郎は静かに鼻から息を漏らして、花京院を見つめると瞳を細める。
「最初に会ったときからおかしかったぜ。てめーはよ」
「……あはは、そうですよね」
「おれもな」
「……え?」
ふと顔を上げた花京院の頬を、長く武骨な指先がそっと掠める。その一瞬の触れ方がとても不器用に感じられて、花京院は遠ざかる指先を茫然としながら視線で追った。
「どうも調子が狂うぜ」
なにが、と問いかけようとして、承太郎の溜息に遮られた。彼の表情は不機嫌そうなのに、なぜか、戸惑いのようなものが感じられる。
初めて見る遊具を前に、遊び方が分からず困惑する子供のようにも見えて、花京院はその表情を不思議な面持ちで見つめた。
「嫌ってる相手をわざわざ家に連れ込むほど、おれは酔狂な人間じゃあねーよ」
「!」
承太郎は花京院が投じた子供じみた問いに、明確な答えを寄越した。
その噛んで言い含めるような言葉が、諦めに沈み込んでいた心の表面に触れ、滲むように溶けていく。
それから、承太郎はひとり考えるように無言になり、視線だけ下向けた。花京院はその長い睫毛が瞬きの度に震える様を、ただ惚けたように見つめる。やがて、肉感的な唇が薄く開かれた。
「怒ってるとか、怒ってねえとかって話な」
「……はい」
「おれにもようわからん」
「……?」
それはなんとも曖昧な答えだった。だけどどうしてか、さっきまでの胸が凍えるような感覚が薄らいでいくのを感じる。
承太郎が覗かせたのは、彼の本質の片鱗なのではないか。不器用だけど、とても優しい。多分、この瞬間まで花京院は承太郎を舞台役者か、テレビ俳優のような存在として偶像化していたのだと思う。厚い壁に隔たれた、遠い存在。けれど言葉を選びきれずに、自分の感情を曖昧に濁す様に感じられたのは、確かな人間味だった。
すると、不思議と心が温かくなっていくような気がして、花京院を抱いたあの腕の優しさに、偽りはなかったのかもしれないと、そう思えてくる。
「冷め切っちまう前にぜんぶ飲め」
言われて、かろうじて温もりを保つカップの中身を一気に飲み干す。今度はちゃんと、味が感じられた。ミルクそのものの優しい甘さと、ほのかな蜂蜜の風味。その中になにか不思議なものも混じっているように感じられて、また少し頭がくらくらした。身体から力が抜け、内側に沁み込むような熱に安堵の息が漏れる。
承太郎は花京院の手から空になったカップを取り上げると、すぐ側のローテーブルに静かに置いた。その光景を、どこかふわふわとした気持ちで見つめながら、身体が自然と傾いていく。
いけない、とどこか遠くで思ったときには、花京院は承太郎の肩に頭を預ける形でもたれかかっていた。
「このまま寝ちまえ」
低く呟きながら、大きな手に肩を抱かれる。ぼんやりと霧がかったような思考に浮かされながら、花京院は赤子がむずがるように首を横に振っていた。
「もう、少し」
「花京院」
「もう少しだけ……承太郎さん……」
瞼は重く、意識は半分以上沈みかかっていた。
それでもしがみついていたい。このぬくもりを手放したくない。あれほど不安だったのが嘘のように、心地がよかった。
「話が、したかったんです。承太郎さんに、ずっと、会いたかった」
自分がなにを言っているのかも、よくわからなかった。ただ、耳元で承太郎が喉を鳴らすような音を、聞いたような気がする。
「初めてだったんだ……優しく、してもらうの。こんな気持ちに、なるのも……」
ああ、もうダメだ。落ちる。
だけどどうしても知ってほしい。こんな風に包み込まれていてさえ、心の中にある根深い孤独の傷口を。ずっと忘れたふりをして抱え込んでいた、痛みと不安を。寂しさを。
「承太郎さん……ぼくのこと、嫌いにならない、で」
耐えがたい眠気に意識をさらわれる間際。
濡れた髪に触れる指先の優しさと拙さに、少しだけ、泣きたくなった。
*
花京院のことは、物怖じしない大人びた青年だと聞いていた。
そこそこタッパもあって、ノンケであるにも関わらずゲイ向けのアダルトビデオだと知っても、顔色ひとつ変えずに淡々としていたと。
それでも相手は初めてのビデオ出演で、性交渉の経験もない初心者だから、怖がらせないようにと念を押された。同じく初心者の男優が、承太郎のガタイのよさと威圧感に圧倒されて、一目で逃げ出してしまったのはまだ記憶に新しい。その場をぶち壊してしまうことは本意ではないし、どんな相手にしろすることは一つだ。だから自分を偽り、演じることに抵抗はなかった。
しかし蓋を開けて見れば、物怖じしない大人びた青年など、どこにもいなかった。
花京院典明という青年は、承太郎が抱いていた生意気で厚顔なイメージとは大きく異なっていた。
どこか憮然とした面持ちで唇を引き結んではいたが、承太郎を見つめるアメジストの瞳は諦観と憂心に心許なく揺れていた。
承太郎には彼が迷子の子供のように見えた。帰り道も行き先も分からず、ただ立ち尽くすだけの幼子に。それがなぜかは分からない。ただ、優しくしてやらなくてはという奇妙な保護欲が生まれたのを覚えている。
承太郎はそんな自身の感情に、内心ひどく戸惑っていた。
ずっと誰にも関心を抱けないまま生きてきた。
心を動かされるものといえば海に暮らす生物くらいなもので、物言わぬ彼らとの触れ合いだけが心安らぐものであり、同時に興味を掻き立てられる対象だった。
承太郎にとって他人という存在は、みな同じ顔をした生き物にすぎなかった。誰かを特別に思ったこともなければ、心惹かれたこともない。
それなのに。
「花京院」
無防備に預けられた体温と、規則正しい寝息に耳を傾けながら、確かめるようにその名を呼んだ。
少量のブランデーを混ぜたホットミルクが、花京院を深く眠りの世界へと引きずり込んでいる。
ほんのりと濡れたひと房だけ長い前髪に指先を絡め、承太郎は静かに息をついた。
髪に触れていた指を赤い頬へと走らせ、するりと撫でれば、高い体温が指先へと伝わった。じんと痺れるような熱に、こそばゆさを感じて瞳を細める。胸の内側を羽根でくすぐられているような、それでいて心の襞に小さな棘が刺さるような、不思議な感覚だ。
こんな気持ちは、初めてだった。
彼のなにがそう感じさせるのか、承太郎には分からない。
自分に向けられる数多の好意は、この生まれついての容姿と裕福な家柄へ対するものでしかなかった。金と、身体と、時には愛さえも。承太郎は多くのものを乞われて生きてきた。自ら他人に何かを求めたことは、一度もない。
そんな承太郎に花京院が求めたのは、拍子抜けするほど簡単で、ちっぽけなものだった。
褒めて、と。
彼は言った。
承太郎にはそれが、「寂しい」と言っているように聞こえた。
触れるほど蕩けていく素直な身体は、必死で承太郎に応えようとしていた。懸命にしがみついてくる姿に締め付けられた胸の痛みを、なんと呼べばいいのだろう。
ただ、求められることに慣れきっていた自分が、生まれて初めて与えることに悦びを感じた。それだけは、確かだった。
「花京院」
承太郎は、再びその名を呼んだ。
「何が怖い? おまえは、何をそんなに恐れている?」
深く眠りこんでいる花京院に、その問いは届かない。
だけど彼は意識を手放す間際、確かに言ったのだ。嫌わないで、と。
死んでしまいそうなほどか細い声だった。何をそんなに怯えているのだろう。承太郎には花京院を嫌う理由がない。むしろ好ましく感じているのだと思う。
上下する肩と、無防備に伏せられた睫毛の長さと、体温と。その何もかもが。
「可愛いな」
感じるままにそう呟いていた自分に、少し驚く。
偽りの自分を演じながら、彼が欲しがるままに与えた言葉の全ては紛れもなく本心だった。けれど正直、カメラの回っていない空間で彼にどう触れればいいのか、よくわからない。
自分は、こんなにも不器用な人間だったのか。
承太郎は睫毛を伏せ、ゆっくりと息を漏らすと花京院の肩を抱きなおした。もう片方の腕は両膝の裏に差し込み、抱え上げると同時に立ち上がる。
そのまま隣の寝室へと向うと、室内は月明かりにぼんやりと青く染まっていた。
キングサイズのベッドに花京院の身体をそっと沈ませ、シーツを引き上げようとした。けれど承太郎はふと動きを止める。
どこか幼い寝顔を浮かべる彼の首筋が、ささやかな月光に照らされて、青白く浮き上がっていた。そこに幾つもの鬱血の痕を見つけて、無意識に奥歯を噛み締める。
胸に、焼けるような何かが込み上げた。
さっきと同じだ。駅で力なくベンチに腰かけていた花京院は、初めて会ったあの日よりもずっと頼りなく、そして弱りきっていた。
彼が何をしてきたのか、聞かずともわかった。会話もそこそこに立ち去ろうとした花京院に、今と同じ感覚を味わった。気づいたら乱暴に手を引いていて、剥ぎ取った上着の内ポケットには、膨らんだ茶封筒が入っていた。
よく見れば、ずり上がった袖から伸びた両腕にも、掴み上げられたような痕がうっすらと残っている。ちりちりとした嫌な感覚が、凄まじい速さで増していく。
「一体どんな抱かれ方をしてきた? 花京院」
眠っている花京院は答えない。ただ、細く長い息を鼻から吐き出した。
気づけば、承太郎は彼の首筋に顔を埋めていた。薄い皮膚の下で、その鼓動を唇に感じながら、きつく吸い上げる。
「ん、ぅ」
見じろぐ花京院が、小さく呻く。ここに歯を立て、血と肉を断てば、簡単に命を奪うことができる。上書きするように自らを刻み付けながら、承太郎は胸が躍るような感覚を味わった。
けれどそれからすぐに、背筋を這う冷たい汗に顔を上げた。
承太郎から顔を背けるようにして首筋を曝す花京院は、少しだけ苦しげに眉を寄せていた。それでも目覚める気配がないことに安堵する。
大きく吐き出した息は震えていた。ベッドの縁に腰かけて、たったいま自分を絡めとった思考の罪深さに戦慄する。
「なんなんだ、これは」
額に手を当て、ちらりと背後に視線を走らせた。
掻き乱される感情を持て余し、承太郎の戸惑いはただ悪戯に膨らんでいく。
「花京院」
なぞるように名を呼べば、そこからじわりと、胸に狂おしい疼きが走った。
*
(いい匂い……)
うつ伏せの姿勢でふかふかの枕に顔の側面を埋めながら、すんと鼻を鳴らした。
食欲をそそる匂いに胃袋が刺激され、同時に思考も一緒に巡り出す。
これはこんがりと焼いたベーコンの香り、だろうか。くぅ、と腹の虫が鳴いた。
そういえば最後に食事をしたのはいつだったろう。昨日の朝、出かける間際に軽く菓子パンを齧っただけ、だったかもしれない。
もぞもぞとダンゴムシのようにシーツの山を作りながら身を起こし、ぼんやりと幾度か瞬きをする。首筋にチリ、とひりついたような感覚を覚え、無意識に手を這わせながら辺りを見回した。
見慣れない部屋の、見慣れない大きなベッド。
確か昨日は承太郎と話をしながら、そのままソファで眠ってしまった、はず。残り半分のミルクを飲みほしたあたりから、どうも記憶が曖昧だった。何かおかしなことを口走ってしまったような気がするのに、何も思い出せない。
自らの足でベッドに移動した記憶もなく、となると運んでくれたのは承太郎ということになる。大変な面倒をかけてしまったことに肝が冷え、いてもたってもいられず、花京院はベッドから抜け出した。隣の部屋へ駆け込むと、黒い薄手のセーターに白いパンツ姿の承太郎が、キッチンで朝食の準備をしている。
「承太郎さん……!」
「おう、起きたか。おはよう」
「お、おはようございます。すみません、ぼく昨日」
「まぁ座れ。パンで構わねえか?」
「え、ええ」
「悪い。その前に冷蔵庫からバターとジャムを出してくれ」
「ああ、はい」
すっかり承太郎のペースで、花京院は言われた通りのものを冷蔵庫から取り出すと、おとなしくテーブルについた。そこには少し焦げたベーコンと目玉焼き、トマトの乗った野菜サラダが二人分、用意されている。
「あ、朝ご飯……」
「ちょっぴり焦げたがな」
「いいえ、とても美味しそうです」
「そう言われると作り甲斐があるってもんだぜ」
承太郎はふっとささやかな笑みを浮かべ、こんがりと狐色に焼き上がったトーストを二枚、皿に乗せて花京院の目の前に追加した。
「残さず食いな」
「い、いいんですか……泊めてもらった上に、こんな……」
そんなことを言いつつ、花京院は目の前の食事に目を輝かせる。
こんな絵に描いたような朝食は、母が死んで以来初めてのことだ。それだって再婚した後にようやくといった具合だったし、実際のところ花京院がありつけたのは残り物ばかりだった。
そんな花京院にとって、これは堪らない光景である。
「ガキは遠慮すんなって言っただろ。とっとと食うぜ」
二人分のコーンスープを手にようやく席についた承太郎と向き合い、花京院は両手を合わせると神妙に「いただきます」と挨拶をした。
*
久しぶりに食べた温かみのある食事は、最高に美味しかった。
食器を一つ残らず空にしたとき、すでに食べ終えていた承太郎はコーヒーを飲みながら満足そうにふっと息を漏らした。
「ご馳走様でした。美味しかったです」
「そりゃよかった」
テーブル脇に置かれていた新聞を片手に、コーヒーに口をつける承太郎を見つめて、花京院はふわりと頬に集まる熱を持て余した。
昨夜、駅から手を引かれて連れ出されたときはどうしようかと思ったが、承太郎と過ごす穏やかな朝の空気に、胸が温かな安堵で満たされる。
こんな時間がいつまでも続けばいいのにと、欲張りなことを考えそうになる自分に戸惑った。
「おれの顔になにかついてるか?」
「ふぇッ!?」
無遠慮に見つめたまま頬を染めていた花京院は、前触れもなくかけられた言葉と向けられるエメラルドの視線に、妙な悲鳴をあげてしまった。
椅子から飛び跳ねそうな勢いで肩をビクつかせ、慌てて視線を下向ける。途端に胸の鼓動が加速して、少しだけ息が苦しくなった。
「すみません。誰かと一緒にこうして食事をするのって、こんなに楽しくて温かな気持ちになるんだなって。ちょっと浸ってしまいました」
「……おまえ、家族は?」
「いないんです。血の繋がらない父と兄ならいますが……他人です。母は二年前に、病気で」
「そうか……」
「あっ、ごめんなさい。湿っぽい話をしてしまいましたね」
「いや、いい」
承太郎は新聞を畳んでテーブル脇に戻し、両肘をついて両手の指を組むとそこに顎を添えた。
「なら一人暮らしか」
「はい」
「生活が苦しくてビデオに出た、ってところか?」
「それは……」
微妙なところだった。
確かに貯金はほぼ尽きた状態だったし、これから夏に向けて冷蔵庫は必需品だった。それでも一応仕事はあって、一人で細々と食っていく分には困っていない。
ビデオ出演に至った経緯はあくまで成り行きで、深く考えた結果ではなかった。
ただ、それを正直に話すのは躊躇われた。何も考えていない、頭の空っぽな人間だと思われるのは嫌だったのだ。格好をつけても仕方がないとは思うが、昨日の撮影でほとほと後悔していた花京院は、もしそれで承太郎に軽蔑されるようなことになれば、いよいよ立ち直れないだろうと思ってしまった。
ちっぽけでどうしようもない。ガキと言われてしまっても、これでは仕方がないと思う。
何も言わずに視線を俯ける花京院をどう捉えたかは分からないが、承太郎がひとつ深い息を漏らした。
「聞くまでもないとは思うが」
「はい」
「懲りたんじゃねえか? 昨日で」
「…………」
承太郎には昨日、どんな撮影が行われたのかは言っていない。それでもあの様を見ればろくな結果にならなかったであろうことは、察しがついているようだった。
花京院はただ力なく、こくりと頷く。
最初の撮影が上手くいったのは、相手が承太郎だったからだ。他の男に触れられるのはただおぞましいばかりで、思い出すだけで背筋が凍るような思いがした。
「てめーは」
組んでいた指先をテーブルに置き、腕を伸ばすようにして承太郎が深く椅子に背中を預ける。花京院はおずおずと視線をあげ、ふっくらと厚みのある唇の動きを見守った。
「向いてねーと思うぜ。この仕事」
「……そう、ですよね」
「もうやめときな」
頼まれても二度と出ないつもりだった。元々契約は2本だったし、昨日の有様を見れば、向こうもきっと二度と連絡は寄越さないだろう。
監督はリアリティのある作品が録れたと言って、花京院をべた褒めしてはいたけれど。
「そうします。承太郎さんの言う通りだと思うし」
その言葉に、承太郎は頷きながらふっと笑った。どこか満足そうにも見える表情を見つめながら、花京院はこの流れで気になっていたことを聞いてみることにした。
「承太郎さんは……どうしてああいった仕事を?」
失礼だったろうかとすぐに不安が押し寄せたが、承太郎は気にした様子もなく「あの監督」と低く呟き、腕を組む。
「監督さん?」
「高校から付き合いのある先輩だ。ヤツもおれも、当時はそこそこヤンチャしてた」
「やんちゃ? もしかして承太郎さん、不良だったんですか?」
「かもな。やらかす度に、なにかと世話になった。あれもゲイだからな。今にして思えば下心もあったんだろうが」
「そうだったんですか」
ビデオ出演を熱心に頼み込む監督の姿が、容易に想像できる。承太郎にとってはちょっとした恩返しのような感覚、ということだろうか。
話を聞いて、彼が義理堅い性格をしているのはよく分かった。だが同時に、新たな疑問も沸いてくる。
「承太郎さんも、ゲイなんですか?」
それは素朴な疑問だった。
いくら世話になった人間の頼みとはいえ、易々と同性を相手にセックスなどできるものだろうか。ましてやこれほどの美男子が、女性に不自由しているとも思えない。
承太郎は視線だけ僅かに伏せ、小さく唸ってから「ようわからん」と言った。
「わからない?」
小首を傾げる花京院に、彼はもう一度ふむ、と微かに唸る。
「男とか女とかって問題は、よくわからん。やることやっちまえば一緒としか思えねえし、言っちゃあなんだが興味がねえ」
「興味がない? それは性別にはこだわらない、ということですか?」
「……てめーはどうなんだ?」
「ぼ、ぼくは」
はぐらかされてしまったような気がするが、質問の矛先が自分に向いたことで、花京院は視線を泳がせながら考えた。
花京院にとって女性という生き物から連想されるのは母の姿で、無意識に避けていたということは考えられる。かといって同性に心惹かれた経験があるかといえば。
ふと、彷徨わせていた視線を承太郎に向ける。彼は冷めたコーヒーカップに口をつけながら、長い睫毛を伏せていた。
(例え同じ仕事でも、相手が女性であったなら……ぼくはどうしていただろう?)
想像するだけで吐き気がした。
おそらくどれほどの大金をチラつかされても、全力で拒否していたのではないか。
けれどゲイ向けのアダルトビデオだと告げられたとき、なぜか一切の嫌悪感が湧かなかった。むしろ初めての相手が承太郎でよかったとさえ思ったのだ。
その肉体美に魅せられ、興奮したのも確かで、あの逞しい腕にずっと抱かれていたいとすら思った。
(仮に、だ。ぼくにゲイの素質があるって可能性は、ないだろうか?)
そう考えたとき。
「ッ……!」
何かが、胸の中でかちりとはまった。
あの日からずっと承太郎のことばかり考えていたのも、会いたくて仕方がなかったのも、胸がドキドキと高鳴ってしまうのも。
(そ、そんな……まさかこれって……)
一度はまったピースは、寸分のブレもなく胸に収まっている。けれど確かなのは、同じ男でも承太郎以外は考えられないということだ。
それは、つまり。
(ぼくは彼に……恋をしている……?)
「花京院?」
「ッ、へ!?」
「おいてめー、さてはまだ調子が戻ってねえな?」
眉間に皺を刻んだ承太郎が、長い腕を伸ばしてくる。ふと、サウナで焼石に水をかけて、蒸気を発生させる光景が頭に浮かんだ。今の花京院は、まさにそんな状態だった。
慌てて椅子から立ち上がることで距離をとり、両手と一緒に首を振る。茹蛸のように顔中が赤く染まっているのが、鏡を見なくても分かってしまう。
「だ、大丈夫です!」
(なんて……なんてタイミングで……!!)
自覚してしまったのだろう。
本人を目の前に初めての恋に気づかされるなんて、取り繕う間もないではないか。
とにかく、今は気持ちを落ち着かせることが先決だ。膨らみ切った戸惑いを、ぐっと喉を鳴らすことで押しとどめ、どうにか笑みを浮かべて見せた。突き破ってきそうなほど高鳴る胸の鼓動を、手の平を押しつけることでどうにか宥める。
承太郎は不思議そうに首を傾げていたが、「ならいいが」と言って自らも椅子から立ち上がると、空になった食器を重ねはじめた。
「あっ、ぼくも」
手伝います、と、手を出しかけて。承太郎が、少し困ったようにふっと笑った。
「いいから座ってな。顔が真っ赤だぜ」
「で、ですが……」
「もう少し休んでけ。おれはこのあと家を空けるが……好きにしてて構わない」
「な、そんなわけにはいきませんよ。ぼくは大丈夫ですから」
言ってから、少し惜しいことをしたかと思った。
承太郎はまだここにいてもいいと言った。好きにしていろと。それはつまり、彼の帰りを待っていても構わないという意味だ。
だけど、家主がいない部屋で好きにしていろと言われても、どうすればいいか分からない。それにこれ以上、どんな顔をしていればいいのかも分からなかった。
本当はまだ一緒にいたい。だけど胸が苦しくて、逃げ出したいとも思う。
(これが恋なら……なんて苦しい感情だろう)
承太郎は「そうか」と言って、再び手を動かしはじめた。節くれだった大きな手の動きにすら心が甘く締め付けられるような気がして、そっと息を吐き出しながら目を逸らす。
(だけど、好きだ)
その気持ちが、とても尊いものに思えた。
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少しひねた言い方をすれば、よくある話、なのかもしれない。
花京院の父にあたる男性は、母が妊娠したと知るや否や彼女を捨てた。
母はいずれ結婚するものと信じて交際していたが、相手の男にはその気がなかったのである。
深く絶望した母に、自分を捨てた男の子供を産む意志はなかった。
だが結果的に、彼女は出産することになってしまう。遅かったのだ。病院に駆け込んだときには、中絶手術が可能な時期をほんの僅かに過ぎていた。
生まれて来た子供は足枷でしかなかった。当然、愛情を注ぐこともできない。
やがて彼女は、我が子に逃げ出した男の影を重ねて憎むことでしか、自分を保つことができなくなっていった。
そんな母親のもと、花京院は圧倒的な愛情不足で育つことになる。
事あるごとに「産むのではなかった」「産みたくなかった」と存在を否定され、時にはなんの理由もなく折檻を受けることもあった。
花京院は母が笑った顔を見たことがなかった。
なぜなら彼女は、いつだって『不幸』という沼の底にいたからだ。
全ては自分が生まれてきたから。生きているだけで母を苦しめる、なんの価値もない不用品なのだと、花京院の心は孤独と自己否定の闇に囚われていった。
それでもどうにかこうにか生きていられたのは、最低限の食事は与えられていたからだ。母一人子一人の貧しい生活が透けて見えていたのか、近所の住民が時おり子供服のお古をくれることもあった。
そんな二人きりの暮らしは、母が一人の男性と知り合い、結婚したことで終わりを告げる。
花京院が小学校に上がる、少し前のことだった。
男には14歳になる男児の連れ子がいた。血の繋がらない父と兄。彼らはまだ幼い花京院に嫌な顔こそしなかったが、最低限の関わりしか持とうとはしなかった。
新しい環境や、形ばかりの家族に戸惑う息子を他所に、母は毎日幸せそうだった。
笑顔で家事をこなし、家族と接する。けれどその笑みが花京院に向けられることは、ついぞなかった。
その頃から、母の花京院に対する暴力はぱたりとなくなり、それらは無視や放置という形に変わった。
無償の愛というものを得られず育ってきた花京院は、対人関係においても否定的だった。血の繋がった唯一の母親からも疎まれる自分が、他人から快く思われるはずがない。そう思い込み、学校でも自ら心を閉ざして孤独に身を置いた。
やがて月日が巡り、花京院が高校一年生の年の冬。
母は死んだ。
風邪で寝込んだ数日後、真夜中に意識障害を起こして救急車で運ばれ、そのまま帰らぬ人となった。肺炎で、あっけない最期だった。
ベッドに横たわる母の亡骸を見ても、どうしてかまるで悲しみが湧いてこなかった。
花京院は初めて彼女の手をそっと握った。小さな手だった。これがまだ温かいうちに、こうして触れることができたらよかったのにと、一瞬だけ思いかけてやめた。
そんな花京院はこの春高校を卒業し、学業の傍ら必死でバイトをして溜めた金で安い部屋を借りると、家を出た。
今はネットカフェに勤めて、一人細々と暮らしている。
*
「とんだ贅沢をしてしまった……」
六畳一間の畳の部屋に、真新しいテレビとゲーム機が置かれている。
花京院はその正面に正座をして、ピンと姿勢を伸ばしながら購入した品々を見つめた。ゲーム機の隣には新作のゲームソフトも数本あって、花京院は頬を染めながら肩を震わせる。
「ぼくはこんなにも欲深い人間だったのか」
なんだかとても悪いことをしてしまったような気もしつつ、にやけそうになる頬がひくひくと痙攣する。
誰が見ているわけでもないのに、花京院は口元を片手で覆ってひとつ咳払いをした。
身一つで家を飛び出し、このボロアパートに越してきて一ヶ月。初期費用をはじめ、最低限の生活用品を買い揃えた結果、貯金は底をついていた。
そんな中に降って湧いた例の仕事で得たギャラで、花京院は唯一買えずにいた冷蔵庫を購入するため、電気用品店に足を運んだ。それ以上の買い物をするつもりはなかったはずが、なぜか今この有様である。
「いけないな。今後はしっかり節制していかなくては」
正座を崩して胡坐をかき、腕を組むと少しばかり反省する。後悔はしていないのだが、欲求を満たすためだけにこれほど高い買い物をするのは初めてのことで、なんだかまだ胸がドキドキしていた。
花京院はふと、すぐ横に投げ出されていた携帯電話に目をやった。床にぽつんと置いてあるそれに手を伸ばし、カレンダーが待ち受けになっている画面を見つめる。
(あれからもう二週間、か)
見知らぬ男に声をかけられ、ゲイ向けのアダルトビデオというものに出演した。
これだけ高い買い物をしても釣りがくるくらいには稼がせてもらったのだから、やはり受けてよかったと思う。
なんとなく罪悪感に駆られることもあるにはあるが、まだこれからもう一本、出演しなくてはならない契約だ。多少の不安はあるものの、どちらかといえば期待の方が大きい。
なぜなら、またあの空条承太郎という男に会えるかもしれないから。
あれ以来、気がつくと彼のことばかり考えている。
こうして部屋にいてもつい思い出してしまって、花京院は幾度か自慰にふけった。
あれほど性に疎く、関心がなかった自分が嘘のようだ。今も彼にかけてもらった言葉の数々を思い出すだけで、胸の辺りが締め付けられるように疼いて、顔が熱くなる。
(会えるといいな。あの人に)
もし会えたなら、今度はもう少しまともに話せるだろうか。承太郎のことを考えるだけで、こんなにもドキドキと心臓が高鳴る理由が、分かるだろうか。
孤独と寄り添いながら生きてきた花京院は、生まれて初めて抱く感覚に戸惑うばかりだ。
ただもう一度会いたい。話がしてみたい。それからどうしたいかなんて、そんな先のことは見えないけれど。
花京院は喉を鳴らすと、次の撮影日に思いを馳せた。
*
結果的に、目論見は大きく外れた。
あれから三日後。撮影現場を訪れた花京院は、後悔のどん底へ突き落されることになる。
「台詞は頭に入った? そんなに多くはないし、楽勝だよね?」
相変わらずぬいぐるみのような体系をした監督が、台本を片手に腕を組んでうんうんと頷いている。
前回と同じ赤いネクタイが、五月の爽やかな風に乗ってゆらゆらと揺れていた。
晴天に恵まれた今日、花京院がいるのは高速に乗って数時間で到着した、人気のない山の中だった。ここが今日の撮影現場になるらしい。
現在、花京院を失望させているのは、何も朝っぱらから長時間の移動を強いられたせいでもなければ、マイクロバスの中でブレザーの学生服に着替えさせられたことでも、なんでもない。
(承太郎さん、いないのか)
そう、今日の面子の中に承太郎の姿がない、というのが最大の原因だった。
てっきりまた彼に会えるとばかり思ってそわそわしながら過ごしていた自分は、一体なんだったのか。
しかも今日の撮影内容も、花京院の失望感に拍車をかけていた。
花京院の隣には、同じく制服を着た若い男が2人いた。自分を含めたコスプレ3人組は、今日この場所で『レイプ』の被害者にならなければならない。
さらに監督を囲んで、いかにも柄の悪そうな私服の男たちが5人。彼らが強姦魔の役を務める。
大まかなストーリーは、仲のいい男子高校生3人が、学校帰りに不良グループに絡まれて、白昼堂々野外レイプされる……というものだった。
(ありえないだろそんな設定……まったくもって理解できない)
共演者たちはもちろん、今日初めて会った者ばかりだ。最初に軽く紹介はされた気がするが、覚える気がさらさらないため、もはや顔と名前が一致しない。ただ確かなのは、花京院以外の全員がどこか場馴れした雰囲気を醸し出していることだろうか。
帰りたい、と心からそう思った。純粋に金のためと割り切っているであろう彼らの中にあって、動機からして不純な自分という存在は、異質で場違いに思える。
だが、引き返すにはあまりにも遠くまで来すぎてしまった。しっかり着こんでしまった制服は、ワイシャツのサイズが微妙に合っていないせいでぴたりと肌に張り付くようで、少し苦しい。
げんなりと溜息を漏らす花京院を他所に、今日も大張り切りの監督指揮の元、撮影は容赦なくスタートするのだった。
*
地獄絵図だと、花京院は思った。
目の前で二人の青年が制服を乱され、男たちに組み敷かれている。
太陽が燦々と降り注ぐ大自然の下、その光景はあまりにも現実離れしていた。
「やめてください! お願いです!」
「うるせぇ! すぐに俺ら専用の肉便器にしてやる!」
「や、やめろよ! なんなんだあんた達!?」
「そんなこと言って、本当は期待してんだろ?」
(まずいな……このテンションは、ちょっとついて行けないぞ……?)
路上を歩いていた自分たち被害者組は、擦れ違いざまに加害者組に難癖をつけられて、そのまま藪の中に引きずり込まれた。
抵抗も虚しく、次々と好き者たちの手に落ちていく花京院以外の若者二人は、嫌がりつつも甘い吐息を漏らして、されるがままに嬲られている。
設定にも現実味がないが、目の前の光景も信じがたいものだった。なんというか、基本的に喘ぎ以外は棒読みというのが物悲しくすらある。
しばらくはただ地面に座り込んで茫然としていた花京院だったが、背後からその手は忍び寄って来た。
「おう、お兄ちゃんも見てねぇで、俺らと楽しいことしようや」
「ッ……!?」
思い切り抱きすくめられて、花京院は声にならない悲鳴を上げた。そうだった。自分もこの非現実という舞台の登場人物なのだった。
いやに黒々としたガタイのいい男が、少し窮屈そうに制服を押し上げる胸を揉みしだこうとして、蠢いている。
ゾッとして、無意識に繰り出そうとした肘鉄を強い力によって制されてしまう。二の腕を捻るように掴まれ、肩の関節が嫌な音を立てた。
「やめ、ろ……ッ」
耳元に感じる息遣いがあまりにも気色悪くて、喉が引き攣る。
言うべき台詞があった気がするし、最初は大きく抵抗するように指導を受けたような気もする。だが、強い力によって制服の前を引き裂かれ、シャツのボタンが弾けとんだ瞬間、全て消え失せてしまった。
男は剥き出しになった白い胸をまさぐりながら耳たぶに舌を這わせる。
「ヒッ……!」
全身にミミズが這うような寒気と不快感を覚える。台本云々ではなく、本能的に逃げなければという意志が動き出した。
「ッ、……はな、せッ、やめろ!!」
だが、どんなに身を捩っても花京院より一回りガタイのいい身体に羽交い絞めにされ、動きを封じられてしまう。そうしているうちに前方からもう一人、男がやって来た。バタつかせていた足をねじ伏せられ、ベルトを外されると一気に下着ごと下ろされる。
「ッ!?」
「お、綺麗な色してんじゃん。よし、しゃぶってやるよ」
嫌だ、と叫ぼうとした口を、後方の男に塞がれた。顎を掴まれ、無理に捩じられた首の関節が軋む。
唇を奪われ、即座に潜り込んできた舌が口腔を暴れまわる感覚に、サァッと全身から血の気を引いている間にも、性器が生温かいもので包まれた。
「んんぅ! んっ、ぅん――ッ!!」
(嫌だ……気持ちが悪い……!!)
キスも、身体に触れられるのも。何もかもがおぞましい。
素質なんかどこにもないじゃあないかと、心の中で監督に悪態をついた。
あのときは、やっぱり承太郎だから気持ちがよかったんだと、こんな状況になって思い知る。
承太郎の手は優しかった。彼のキスは、こんな風にただ奪うだけのものではなかった。花京院の欲する言葉をくれながら、そっと包み込むように撫でながら、内側から溶かしてくれた。
たったいま口の中を暴れまわる舌はただぬるついていて、どこか生臭かった。口淫を受ける性器も不快感が込み上げるばかりで、ちっともよくならない。こんなことなら、承太郎のことを思い出しながら自分で慰める方が、ずっと気持ちがいいと思えた。
早く終わってくれとただ願うばかりの花京院の耳に、他二人の被害者たちの甘い嬌声が届く。うっすらと目を開けて見れば、彼らは思い思いの姿で暴漢の性器を口に含み、後孔を嬲られている。
吐き気がするのを、ぐっと堪えた。
「てめぇばっか楽しんでないで、俺のもしゃぶれや!」
唇を解放した男は、花京院のひと房だけ長い前髪を掴むと立ち上がった。そして、寛げたジーンズから黒光りした性器を取り出し、口元に押し付けてくる。嫌な臭いがむっと立ち込め、花京院はきつく目を閉じると顔を背けた。
冗談じゃない。こんなもの、絶対に口に含んでたまるか。だが相手は容赦しなかった。唇を噛み締める花京院の鼻を思い切り摘まみ、息ができなくなる瞬間を狙って強引に捻じ込んでくる。
「んぐぅ……ッ!?」
醜悪な肉の塊が口の中いっぱいを満たす。男は両手で花京院の頭を掴み、呻き声を上げながら腰を振る。先端が喉の奥にがつがつと当たり、えづきそうになる度に唾液が口の端から飛び散った。
(臭い……汚い……気持ち悪い……)
もういっそ、死んだ方がましだ。
花京院は、ただ承太郎に会いたかっただけだ。あの優しい人に、もう一度触れてほしくて。だけど彼は、ここにはいなかった。
(ぼくは一体、なにを浮かれていたんだろう)
柄にもなく他人に興味を抱いて、関わろうなんて考えるから、罰が当たったのだろうか。
そのおこがましさに笑えてくる。もし自由に声が出せたなら、今ごろ腹を抱えて笑い転げていたかもしれない。
(呆れるよ、心底な)
苦痛でしかない行為の中、どこか遠くで達観しはじめる自分が生まれる。
諦めの境地に至った花京院は、ふっと身体の力を抜いた。無駄に抵抗なんかせず、大人しくしてさえいれば、きっとすぐに終わるはずだ。性的な意味合いに形を変えただけで、暴力には、慣れている。
性器をしゃぶっていた男が、後孔に触れる。いつのまにか体勢を変えられ、口の中を犯されながら尻を突き出していた。
おそらくローションで濡れているであろう指が、強引に捻じ込まれる。そこに労わりの欠片もなく、ただ激痛が走るばかりだった。
口の中を強引に出入りする性器が、舌の上で大きく脈打っている。呼吸の隙さえ与えられず、徐々に意識が遠のくのを感じた。
(あのときは、ずっと抱かれていたいって思ったのにな)
上手くやり過ごす方法を模索して、やがて花京院は答えにいきついた。
(……承太郎さん)
思い出すのは、やっぱり彼のことだった。
あの大きな手の感触を思い出すだけで、不思議と心が温かく満たされる。
きっとどんなに酷いことも、彼だったら受け入れられるような気さえした。
だからこの口の中を穿つ性器も、中を乱暴に探る指も、全て承太郎のものだったらいいのにと。
分かっている。何の意味もないことを。
だけど初めてだったから。あんな風に優しく触れられることも、言葉をかけられることも、全てが生まれて初めての経験だった。
花京院はこの似ても似つかない男たちに、必死で承太郎を重ねようとした。彼がかけてくれた言葉を、身体の内側から甘く蕩けるような感覚を。
『典明。お前は本当にいい子だね』
思い出そうとして……。
『どこもかしこも、とても綺麗だ。こんなに可愛い子供は見たことがない』
(……あれ?)
『そう、いい子だ。愛してるよ典明』
(これは)
この声は、誰の声?
*
真夜中の駅のホームは、終電を待つ人がちらほらと見えるだけだった。
花京院はぐったりと項垂れて、ベンチに腰かけていた。
身体が酷く重たい。できればすぐにでも身を横たえて、眠ってしまいたかった。胃の辺りがムカムカとして、吐き気がする。
今日は人生で最悪の日だったかもしれない。
思い出すだけで、耐えがたい屈辱に身体が震える。
あのあと、花京院は数人の男たちによって犯された。誰のものを咥えこんだのか、誰とキスをしたのか、受け入れたのか、なにも思い出せないくらい滅茶苦茶にされた。直接出されてしまった精液は、軽く清めただけでまだ中に残っているような気がする。
途中、堪え切れずに何度も吐いた。その度に撮影を中断させることになって、結局また、あの怪しげなサプリの世話にもなった。
花京院は、必死で承太郎を思いだそうとした。でも、できなかった。どうしてか、知らない男の声が何度も脳裏に浮かんだ。
『そう、いい子だ。愛してるよ典明』
(あれは、誰の声だったんだろう……?)
しきりに花京院を褒め、愛してると囁く男の声。
誰のものかはさっぱり分からなかったが、どこか懐かしくもある。ふと、もしかしたら義父の声かもしれないと思った。けれどおかしい。一緒に暮らしている間は金銭的に世話にはなっていたが、母と同様、義父もまた花京院に対して無関心を貫いていた。だから、絶対にありえない。
ましてや愛を囁くなんて。
(もういいや。どうでもいい)
なんにしろ今日のことは、悪い夢として処理する以外にないのだ。
必死で承太郎を思い出そうとしていたが、それも無駄でしかない。どうせ彼とはもう二度と会えないだろうし、むしろその方がいいのだと思う。
そのとき、ごう、という音がして、温い風が吹き抜けた。
アナウンスと同時に電車が滑り込んでくるのを見て、立ち上がろうとする。だが、身体がふらついて結局ベンチから離れられない。散々乱暴にされたせいで腰が重く、受け入れた場所もじりじりと痛んでいた。
(乗らなければ……これ、終電だ……)
気持ちだけは焦っていた。早く帰って、シャワーを浴びたい。上着の裏ポケットに入っている封筒はずっしりと重たかったが、ちっとも嬉しくなかった。
そうこうしているうちに、花京院は結局電車を逃した。
もうタクシーでも拾って帰るしかないかと、再びがっくりと項垂れた。そのときだった。
「おまえ、花京院か?」
頭上で声がした。
それは今日ずっと思い出したくて、思い出せなかった声だった。
目を見開いて顔を上げると、そこには黒い帽子をかぶり、コートを着た大柄な男の姿がある。
花京院は咄嗟に何も反応ができずに、ただ口をぽかんと開けた。
「やっぱりか。その変わった前髪、ひょっとしたらと思ったぜ」
男は軽く口端を持ち上げるようにして笑うと、隣にどっかりと腰かける。そして、明らかに顔色の悪い花京院を見て眉間に皺を刻んだ。
大きな手が額に触れた瞬間、花京院は肩を大きく跳ねさせた。彼は気にせず手の平で熱を測ると「少し熱い」と険しい表情を見せる。
「おいおまえ、家はどこだ? この辺りか?」
「……承太郎、さん?」
どうして彼が、ここにいるのだろう。
一度見れば決して忘れることのできない翡翠の瞳は、あの日と変わらず美しい。整いすぎた彫りの深い顔立ちも、肉厚な唇も、服の上からでも分かる鍛え上げられた大きくて逞しい肉体も。けれどまるで別人のような印象を受けるのは、
「てめー、忘れるにはちと早すぎるんじゃあねーのか?」
この、言葉使いのせいだ。
承太郎は呆れたように片眉をひょいと持ち上げ「やれやれだぜ」と言った。
(う、嘘だろ? だって全然、あの時と違うじゃないか)
初めて会ったあの日、彼は口調も振る舞いも穏やかで紳士的だった。だが今の承太郎は野性味溢れる印象で、口調も粗暴なら、表情はどこか不機嫌そうにも見える。紳士というよりは、いっそどこぞの組の若頭とでも言われたほうが、よほどしっくり来るだろうか。
「おい花京院」
低い声で名前を呼ばれて、思わず大きく肩を揺らした。
あの日と重なるようでいて重ならない承太郎の姿に、反応が疎かになっていたことに気づいて、慌てて姿勢を正した。
「はっ、あ、すみません、前に会った時と、印象が違っていたものですから」
「ああ、そういやそうか」
承太郎は納得したように言うと、黒い帽子の鐔を指先で摘まみ、ゆったりとした動作で頭から外す。その光景に目を見張る花京院に向かって、エメラルドの瞳を優しく細め、笑って見せた。
「!」
「半月と少しぶりだな、花京院くん。元気にしていたか?」
穏やかに微笑み、花京院をくん付けで呼ぶ男は、確かにあの日の承太郎の印象とピッタリ重なる。
一瞬で顔に血液が集まるのを感じた。信じられないようなことだがあの日、花京院はこの目の前にいる美しい男に、抱かれたのだ。
あのときのことを思い出すだけで思考が熱に浮かされ、つい呆けたような表情になってしまう。
「君はこちらの方がお好みということかな?」
承太郎は赤く染まる花京院の頬を、指先の背でするりと撫でた。熱したフライパンにでも触れてしまったかのように過剰に肩を跳ねさせる花京院に、少し困ったような笑みを浮かべる。
心臓が口から飛び出しそうな息苦しさを覚えながら、花京院は慌てて首を振った。
「い、いえ! 少し驚いてしまっただけで……どちらも、素敵、です」
実際、そう思う。
口調ひとつで印象はガラリと変わるが、彼のいっそ鬼のような美貌が損なわれるわけではない。むしろあの荒っぽい言葉使いの方が素なのかもしれないと思うと、それが何か特別なことのように思えて感動すら覚える。
承太郎は花京院の言葉を聞いて、ふっと小さな息を漏らしながら口端を持ち上げた。のけぞるようにベンチの背もたれに両肘を乗せ、嫌味なほど長い足をゆったりと組む。
「そいつは助かるぜ。慣れねえ口調は肩が凝って仕方ねえ」
「やっぱりこっちが素なんですね。あのときは、どうして?」
承太郎は指先で摘まんだままだった帽子をかぶりなおす。
「あんときゃあーゆうキャラでって頼まれてただけだ。てめーみてえな初心者ノンケが、おれを見て逃げ出したって前例があるからな。雰囲気と人当りだけでもせめてってやつだぜ」
「そう、だったのですか」
確かに、今の承太郎からは大柄な肉食獣のような印象を受ける。身体の大きさもあるだろうが、もし最初からこの威圧的な態度で来られていたら、花京院だってどうだったか分からない。逃げ出しはしないにしろ、反発心は抱いていたかもしれない。
だから理解はできる、のだが。
(なら全て演技だった、ってことなのか)
あの優しさも労わりも、かけてくれた言葉も、全部。
嘘、ということだろうか。もしそうなのだとしたら。
(恥ずかしいな……)
偽りの態度と言葉に踊らされて、ずっと舞い上がっていたのかと思うと、胸の辺りが重く沈んでいくのを感じてしまう。あの耐えがたい屈辱の中、必死で彼を思い出そうとしていた自身にさらなる嫌悪感が募った。
込み上げる羞恥に耐えかねて、花京院はふらつく身体に鞭を打つようにして立ち上がる。
「それじゃあ、ぼくはこれで」
どうにか表情に笑顔を張り付け、軽く会釈をして一歩踏み出そうとした。けれどその手首を掴まれ、引き寄せられてのけぞってしまう。
「うわッ!」
「おいおまえ」
承太郎も立ち上がっていた。こうして並び立つと、本当に大きな男だ。
相手の意図がわからずただ目を見開く花京院を、彼は怒っているようにも見える険しい表情で見下ろす。
「仕事、してきたのか」
ドキリと、心臓が音を立てて軋んだ。
咄嗟に息をのんで目を泳がせれば、承太郎は盛大に舌打ちをして手首を掴む手に力を込める。
「じょ、承太郎さん、痛いですよ」
「うるせえ」
「ちょっと! 承太郎さん、どこへ!?」
花京院の手を引き、歩き出してしまった承太郎は「おれんちだ」と短く行先を告げる。
「な、どうして!?」
問うても、彼は何も言わなかった。承太郎はあきらかに苛立ちを覗かせている。どこかピリピリとしたオーラが、これ以上答えるつもりはないとハッキリ告げているようだった。
焦りと不安と、戸惑いと混乱。ただ分かるのは、自分が彼を不快にさせているということだ。四肢が冷え、加速する心音に身体が震える。
嫌われてしまった。ただ、そう感じる。
一体なにをしてしまったのだろうかと考えかけて、すぐにやめた。花京院にとって、相手に嫌悪されることにこれといった理由など必要ないからだ。それらは自分が生まれてきてしまったことに、全てが起因する。そう教えられて、育ってきた。
なるべくしてなったのだと思うしかない。そうやってずっと諦めて生きてきた。
けれどなぜだろう。この人にだけは、嫌われたくなかった。そんな風に思ってしまうのは。
「承太郎、さん……離して……」
蚊の鳴くような声は震えるばかりで、ほとんど音にならなかった。
承太郎の歩幅は、ただでさえ身長差のある花京院には辛すぎる。身体に受けたダメージも大きくて、本当は立っているだけでもやっとなのだ。
苦しげに息を弾ませ、足を縺れさせる花京院の震えに気がついたのか、改札間際で承太郎の歩調が僅かに緩んだ。
「別に取って食いやしねえ。安心しな」
それでも承太郎の手から解放されることはなく、花京院の中から絶望感が消えることもなかった。
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花京院の父にあたる男性は、母が妊娠したと知るや否や彼女を捨てた。
母はいずれ結婚するものと信じて交際していたが、相手の男にはその気がなかったのである。
深く絶望した母に、自分を捨てた男の子供を産む意志はなかった。
だが結果的に、彼女は出産することになってしまう。遅かったのだ。病院に駆け込んだときには、中絶手術が可能な時期をほんの僅かに過ぎていた。
生まれて来た子供は足枷でしかなかった。当然、愛情を注ぐこともできない。
やがて彼女は、我が子に逃げ出した男の影を重ねて憎むことでしか、自分を保つことができなくなっていった。
そんな母親のもと、花京院は圧倒的な愛情不足で育つことになる。
事あるごとに「産むのではなかった」「産みたくなかった」と存在を否定され、時にはなんの理由もなく折檻を受けることもあった。
花京院は母が笑った顔を見たことがなかった。
なぜなら彼女は、いつだって『不幸』という沼の底にいたからだ。
全ては自分が生まれてきたから。生きているだけで母を苦しめる、なんの価値もない不用品なのだと、花京院の心は孤独と自己否定の闇に囚われていった。
それでもどうにかこうにか生きていられたのは、最低限の食事は与えられていたからだ。母一人子一人の貧しい生活が透けて見えていたのか、近所の住民が時おり子供服のお古をくれることもあった。
そんな二人きりの暮らしは、母が一人の男性と知り合い、結婚したことで終わりを告げる。
花京院が小学校に上がる、少し前のことだった。
男には14歳になる男児の連れ子がいた。血の繋がらない父と兄。彼らはまだ幼い花京院に嫌な顔こそしなかったが、最低限の関わりしか持とうとはしなかった。
新しい環境や、形ばかりの家族に戸惑う息子を他所に、母は毎日幸せそうだった。
笑顔で家事をこなし、家族と接する。けれどその笑みが花京院に向けられることは、ついぞなかった。
その頃から、母の花京院に対する暴力はぱたりとなくなり、それらは無視や放置という形に変わった。
無償の愛というものを得られず育ってきた花京院は、対人関係においても否定的だった。血の繋がった唯一の母親からも疎まれる自分が、他人から快く思われるはずがない。そう思い込み、学校でも自ら心を閉ざして孤独に身を置いた。
やがて月日が巡り、花京院が高校一年生の年の冬。
母は死んだ。
風邪で寝込んだ数日後、真夜中に意識障害を起こして救急車で運ばれ、そのまま帰らぬ人となった。肺炎で、あっけない最期だった。
ベッドに横たわる母の亡骸を見ても、どうしてかまるで悲しみが湧いてこなかった。
花京院は初めて彼女の手をそっと握った。小さな手だった。これがまだ温かいうちに、こうして触れることができたらよかったのにと、一瞬だけ思いかけてやめた。
そんな花京院はこの春高校を卒業し、学業の傍ら必死でバイトをして溜めた金で安い部屋を借りると、家を出た。
今はネットカフェに勤めて、一人細々と暮らしている。
*
「とんだ贅沢をしてしまった……」
六畳一間の畳の部屋に、真新しいテレビとゲーム機が置かれている。
花京院はその正面に正座をして、ピンと姿勢を伸ばしながら購入した品々を見つめた。ゲーム機の隣には新作のゲームソフトも数本あって、花京院は頬を染めながら肩を震わせる。
「ぼくはこんなにも欲深い人間だったのか」
なんだかとても悪いことをしてしまったような気もしつつ、にやけそうになる頬がひくひくと痙攣する。
誰が見ているわけでもないのに、花京院は口元を片手で覆ってひとつ咳払いをした。
身一つで家を飛び出し、このボロアパートに越してきて一ヶ月。初期費用をはじめ、最低限の生活用品を買い揃えた結果、貯金は底をついていた。
そんな中に降って湧いた例の仕事で得たギャラで、花京院は唯一買えずにいた冷蔵庫を購入するため、電気用品店に足を運んだ。それ以上の買い物をするつもりはなかったはずが、なぜか今この有様である。
「いけないな。今後はしっかり節制していかなくては」
正座を崩して胡坐をかき、腕を組むと少しばかり反省する。後悔はしていないのだが、欲求を満たすためだけにこれほど高い買い物をするのは初めてのことで、なんだかまだ胸がドキドキしていた。
花京院はふと、すぐ横に投げ出されていた携帯電話に目をやった。床にぽつんと置いてあるそれに手を伸ばし、カレンダーが待ち受けになっている画面を見つめる。
(あれからもう二週間、か)
見知らぬ男に声をかけられ、ゲイ向けのアダルトビデオというものに出演した。
これだけ高い買い物をしても釣りがくるくらいには稼がせてもらったのだから、やはり受けてよかったと思う。
なんとなく罪悪感に駆られることもあるにはあるが、まだこれからもう一本、出演しなくてはならない契約だ。多少の不安はあるものの、どちらかといえば期待の方が大きい。
なぜなら、またあの空条承太郎という男に会えるかもしれないから。
あれ以来、気がつくと彼のことばかり考えている。
こうして部屋にいてもつい思い出してしまって、花京院は幾度か自慰にふけった。
あれほど性に疎く、関心がなかった自分が嘘のようだ。今も彼にかけてもらった言葉の数々を思い出すだけで、胸の辺りが締め付けられるように疼いて、顔が熱くなる。
(会えるといいな。あの人に)
もし会えたなら、今度はもう少しまともに話せるだろうか。承太郎のことを考えるだけで、こんなにもドキドキと心臓が高鳴る理由が、分かるだろうか。
孤独と寄り添いながら生きてきた花京院は、生まれて初めて抱く感覚に戸惑うばかりだ。
ただもう一度会いたい。話がしてみたい。それからどうしたいかなんて、そんな先のことは見えないけれど。
花京院は喉を鳴らすと、次の撮影日に思いを馳せた。
*
結果的に、目論見は大きく外れた。
あれから三日後。撮影現場を訪れた花京院は、後悔のどん底へ突き落されることになる。
「台詞は頭に入った? そんなに多くはないし、楽勝だよね?」
相変わらずぬいぐるみのような体系をした監督が、台本を片手に腕を組んでうんうんと頷いている。
前回と同じ赤いネクタイが、五月の爽やかな風に乗ってゆらゆらと揺れていた。
晴天に恵まれた今日、花京院がいるのは高速に乗って数時間で到着した、人気のない山の中だった。ここが今日の撮影現場になるらしい。
現在、花京院を失望させているのは、何も朝っぱらから長時間の移動を強いられたせいでもなければ、マイクロバスの中でブレザーの学生服に着替えさせられたことでも、なんでもない。
(承太郎さん、いないのか)
そう、今日の面子の中に承太郎の姿がない、というのが最大の原因だった。
てっきりまた彼に会えるとばかり思ってそわそわしながら過ごしていた自分は、一体なんだったのか。
しかも今日の撮影内容も、花京院の失望感に拍車をかけていた。
花京院の隣には、同じく制服を着た若い男が2人いた。自分を含めたコスプレ3人組は、今日この場所で『レイプ』の被害者にならなければならない。
さらに監督を囲んで、いかにも柄の悪そうな私服の男たちが5人。彼らが強姦魔の役を務める。
大まかなストーリーは、仲のいい男子高校生3人が、学校帰りに不良グループに絡まれて、白昼堂々野外レイプされる……というものだった。
(ありえないだろそんな設定……まったくもって理解できない)
共演者たちはもちろん、今日初めて会った者ばかりだ。最初に軽く紹介はされた気がするが、覚える気がさらさらないため、もはや顔と名前が一致しない。ただ確かなのは、花京院以外の全員がどこか場馴れした雰囲気を醸し出していることだろうか。
帰りたい、と心からそう思った。純粋に金のためと割り切っているであろう彼らの中にあって、動機からして不純な自分という存在は、異質で場違いに思える。
だが、引き返すにはあまりにも遠くまで来すぎてしまった。しっかり着こんでしまった制服は、ワイシャツのサイズが微妙に合っていないせいでぴたりと肌に張り付くようで、少し苦しい。
げんなりと溜息を漏らす花京院を他所に、今日も大張り切りの監督指揮の元、撮影は容赦なくスタートするのだった。
*
地獄絵図だと、花京院は思った。
目の前で二人の青年が制服を乱され、男たちに組み敷かれている。
太陽が燦々と降り注ぐ大自然の下、その光景はあまりにも現実離れしていた。
「やめてください! お願いです!」
「うるせぇ! すぐに俺ら専用の肉便器にしてやる!」
「や、やめろよ! なんなんだあんた達!?」
「そんなこと言って、本当は期待してんだろ?」
(まずいな……このテンションは、ちょっとついて行けないぞ……?)
路上を歩いていた自分たち被害者組は、擦れ違いざまに加害者組に難癖をつけられて、そのまま藪の中に引きずり込まれた。
抵抗も虚しく、次々と好き者たちの手に落ちていく花京院以外の若者二人は、嫌がりつつも甘い吐息を漏らして、されるがままに嬲られている。
設定にも現実味がないが、目の前の光景も信じがたいものだった。なんというか、基本的に喘ぎ以外は棒読みというのが物悲しくすらある。
しばらくはただ地面に座り込んで茫然としていた花京院だったが、背後からその手は忍び寄って来た。
「おう、お兄ちゃんも見てねぇで、俺らと楽しいことしようや」
「ッ……!?」
思い切り抱きすくめられて、花京院は声にならない悲鳴を上げた。そうだった。自分もこの非現実という舞台の登場人物なのだった。
いやに黒々としたガタイのいい男が、少し窮屈そうに制服を押し上げる胸を揉みしだこうとして、蠢いている。
ゾッとして、無意識に繰り出そうとした肘鉄を強い力によって制されてしまう。二の腕を捻るように掴まれ、肩の関節が嫌な音を立てた。
「やめ、ろ……ッ」
耳元に感じる息遣いがあまりにも気色悪くて、喉が引き攣る。
言うべき台詞があった気がするし、最初は大きく抵抗するように指導を受けたような気もする。だが、強い力によって制服の前を引き裂かれ、シャツのボタンが弾けとんだ瞬間、全て消え失せてしまった。
男は剥き出しになった白い胸をまさぐりながら耳たぶに舌を這わせる。
「ヒッ……!」
全身にミミズが這うような寒気と不快感を覚える。台本云々ではなく、本能的に逃げなければという意志が動き出した。
「ッ、……はな、せッ、やめろ!!」
だが、どんなに身を捩っても花京院より一回りガタイのいい身体に羽交い絞めにされ、動きを封じられてしまう。そうしているうちに前方からもう一人、男がやって来た。バタつかせていた足をねじ伏せられ、ベルトを外されると一気に下着ごと下ろされる。
「ッ!?」
「お、綺麗な色してんじゃん。よし、しゃぶってやるよ」
嫌だ、と叫ぼうとした口を、後方の男に塞がれた。顎を掴まれ、無理に捩じられた首の関節が軋む。
唇を奪われ、即座に潜り込んできた舌が口腔を暴れまわる感覚に、サァッと全身から血の気を引いている間にも、性器が生温かいもので包まれた。
「んんぅ! んっ、ぅん――ッ!!」
(嫌だ……気持ちが悪い……!!)
キスも、身体に触れられるのも。何もかもがおぞましい。
素質なんかどこにもないじゃあないかと、心の中で監督に悪態をついた。
あのときは、やっぱり承太郎だから気持ちがよかったんだと、こんな状況になって思い知る。
承太郎の手は優しかった。彼のキスは、こんな風にただ奪うだけのものではなかった。花京院の欲する言葉をくれながら、そっと包み込むように撫でながら、内側から溶かしてくれた。
たったいま口の中を暴れまわる舌はただぬるついていて、どこか生臭かった。口淫を受ける性器も不快感が込み上げるばかりで、ちっともよくならない。こんなことなら、承太郎のことを思い出しながら自分で慰める方が、ずっと気持ちがいいと思えた。
早く終わってくれとただ願うばかりの花京院の耳に、他二人の被害者たちの甘い嬌声が届く。うっすらと目を開けて見れば、彼らは思い思いの姿で暴漢の性器を口に含み、後孔を嬲られている。
吐き気がするのを、ぐっと堪えた。
「てめぇばっか楽しんでないで、俺のもしゃぶれや!」
唇を解放した男は、花京院のひと房だけ長い前髪を掴むと立ち上がった。そして、寛げたジーンズから黒光りした性器を取り出し、口元に押し付けてくる。嫌な臭いがむっと立ち込め、花京院はきつく目を閉じると顔を背けた。
冗談じゃない。こんなもの、絶対に口に含んでたまるか。だが相手は容赦しなかった。唇を噛み締める花京院の鼻を思い切り摘まみ、息ができなくなる瞬間を狙って強引に捻じ込んでくる。
「んぐぅ……ッ!?」
醜悪な肉の塊が口の中いっぱいを満たす。男は両手で花京院の頭を掴み、呻き声を上げながら腰を振る。先端が喉の奥にがつがつと当たり、えづきそうになる度に唾液が口の端から飛び散った。
(臭い……汚い……気持ち悪い……)
もういっそ、死んだ方がましだ。
花京院は、ただ承太郎に会いたかっただけだ。あの優しい人に、もう一度触れてほしくて。だけど彼は、ここにはいなかった。
(ぼくは一体、なにを浮かれていたんだろう)
柄にもなく他人に興味を抱いて、関わろうなんて考えるから、罰が当たったのだろうか。
そのおこがましさに笑えてくる。もし自由に声が出せたなら、今ごろ腹を抱えて笑い転げていたかもしれない。
(呆れるよ、心底な)
苦痛でしかない行為の中、どこか遠くで達観しはじめる自分が生まれる。
諦めの境地に至った花京院は、ふっと身体の力を抜いた。無駄に抵抗なんかせず、大人しくしてさえいれば、きっとすぐに終わるはずだ。性的な意味合いに形を変えただけで、暴力には、慣れている。
性器をしゃぶっていた男が、後孔に触れる。いつのまにか体勢を変えられ、口の中を犯されながら尻を突き出していた。
おそらくローションで濡れているであろう指が、強引に捻じ込まれる。そこに労わりの欠片もなく、ただ激痛が走るばかりだった。
口の中を強引に出入りする性器が、舌の上で大きく脈打っている。呼吸の隙さえ与えられず、徐々に意識が遠のくのを感じた。
(あのときは、ずっと抱かれていたいって思ったのにな)
上手くやり過ごす方法を模索して、やがて花京院は答えにいきついた。
(……承太郎さん)
思い出すのは、やっぱり彼のことだった。
あの大きな手の感触を思い出すだけで、不思議と心が温かく満たされる。
きっとどんなに酷いことも、彼だったら受け入れられるような気さえした。
だからこの口の中を穿つ性器も、中を乱暴に探る指も、全て承太郎のものだったらいいのにと。
分かっている。何の意味もないことを。
だけど初めてだったから。あんな風に優しく触れられることも、言葉をかけられることも、全てが生まれて初めての経験だった。
花京院はこの似ても似つかない男たちに、必死で承太郎を重ねようとした。彼がかけてくれた言葉を、身体の内側から甘く蕩けるような感覚を。
『典明。お前は本当にいい子だね』
思い出そうとして……。
『どこもかしこも、とても綺麗だ。こんなに可愛い子供は見たことがない』
(……あれ?)
『そう、いい子だ。愛してるよ典明』
(これは)
この声は、誰の声?
*
真夜中の駅のホームは、終電を待つ人がちらほらと見えるだけだった。
花京院はぐったりと項垂れて、ベンチに腰かけていた。
身体が酷く重たい。できればすぐにでも身を横たえて、眠ってしまいたかった。胃の辺りがムカムカとして、吐き気がする。
今日は人生で最悪の日だったかもしれない。
思い出すだけで、耐えがたい屈辱に身体が震える。
あのあと、花京院は数人の男たちによって犯された。誰のものを咥えこんだのか、誰とキスをしたのか、受け入れたのか、なにも思い出せないくらい滅茶苦茶にされた。直接出されてしまった精液は、軽く清めただけでまだ中に残っているような気がする。
途中、堪え切れずに何度も吐いた。その度に撮影を中断させることになって、結局また、あの怪しげなサプリの世話にもなった。
花京院は、必死で承太郎を思いだそうとした。でも、できなかった。どうしてか、知らない男の声が何度も脳裏に浮かんだ。
『そう、いい子だ。愛してるよ典明』
(あれは、誰の声だったんだろう……?)
しきりに花京院を褒め、愛してると囁く男の声。
誰のものかはさっぱり分からなかったが、どこか懐かしくもある。ふと、もしかしたら義父の声かもしれないと思った。けれどおかしい。一緒に暮らしている間は金銭的に世話にはなっていたが、母と同様、義父もまた花京院に対して無関心を貫いていた。だから、絶対にありえない。
ましてや愛を囁くなんて。
(もういいや。どうでもいい)
なんにしろ今日のことは、悪い夢として処理する以外にないのだ。
必死で承太郎を思い出そうとしていたが、それも無駄でしかない。どうせ彼とはもう二度と会えないだろうし、むしろその方がいいのだと思う。
そのとき、ごう、という音がして、温い風が吹き抜けた。
アナウンスと同時に電車が滑り込んでくるのを見て、立ち上がろうとする。だが、身体がふらついて結局ベンチから離れられない。散々乱暴にされたせいで腰が重く、受け入れた場所もじりじりと痛んでいた。
(乗らなければ……これ、終電だ……)
気持ちだけは焦っていた。早く帰って、シャワーを浴びたい。上着の裏ポケットに入っている封筒はずっしりと重たかったが、ちっとも嬉しくなかった。
そうこうしているうちに、花京院は結局電車を逃した。
もうタクシーでも拾って帰るしかないかと、再びがっくりと項垂れた。そのときだった。
「おまえ、花京院か?」
頭上で声がした。
それは今日ずっと思い出したくて、思い出せなかった声だった。
目を見開いて顔を上げると、そこには黒い帽子をかぶり、コートを着た大柄な男の姿がある。
花京院は咄嗟に何も反応ができずに、ただ口をぽかんと開けた。
「やっぱりか。その変わった前髪、ひょっとしたらと思ったぜ」
男は軽く口端を持ち上げるようにして笑うと、隣にどっかりと腰かける。そして、明らかに顔色の悪い花京院を見て眉間に皺を刻んだ。
大きな手が額に触れた瞬間、花京院は肩を大きく跳ねさせた。彼は気にせず手の平で熱を測ると「少し熱い」と険しい表情を見せる。
「おいおまえ、家はどこだ? この辺りか?」
「……承太郎、さん?」
どうして彼が、ここにいるのだろう。
一度見れば決して忘れることのできない翡翠の瞳は、あの日と変わらず美しい。整いすぎた彫りの深い顔立ちも、肉厚な唇も、服の上からでも分かる鍛え上げられた大きくて逞しい肉体も。けれどまるで別人のような印象を受けるのは、
「てめー、忘れるにはちと早すぎるんじゃあねーのか?」
この、言葉使いのせいだ。
承太郎は呆れたように片眉をひょいと持ち上げ「やれやれだぜ」と言った。
(う、嘘だろ? だって全然、あの時と違うじゃないか)
初めて会ったあの日、彼は口調も振る舞いも穏やかで紳士的だった。だが今の承太郎は野性味溢れる印象で、口調も粗暴なら、表情はどこか不機嫌そうにも見える。紳士というよりは、いっそどこぞの組の若頭とでも言われたほうが、よほどしっくり来るだろうか。
「おい花京院」
低い声で名前を呼ばれて、思わず大きく肩を揺らした。
あの日と重なるようでいて重ならない承太郎の姿に、反応が疎かになっていたことに気づいて、慌てて姿勢を正した。
「はっ、あ、すみません、前に会った時と、印象が違っていたものですから」
「ああ、そういやそうか」
承太郎は納得したように言うと、黒い帽子の鐔を指先で摘まみ、ゆったりとした動作で頭から外す。その光景に目を見張る花京院に向かって、エメラルドの瞳を優しく細め、笑って見せた。
「!」
「半月と少しぶりだな、花京院くん。元気にしていたか?」
穏やかに微笑み、花京院をくん付けで呼ぶ男は、確かにあの日の承太郎の印象とピッタリ重なる。
一瞬で顔に血液が集まるのを感じた。信じられないようなことだがあの日、花京院はこの目の前にいる美しい男に、抱かれたのだ。
あのときのことを思い出すだけで思考が熱に浮かされ、つい呆けたような表情になってしまう。
「君はこちらの方がお好みということかな?」
承太郎は赤く染まる花京院の頬を、指先の背でするりと撫でた。熱したフライパンにでも触れてしまったかのように過剰に肩を跳ねさせる花京院に、少し困ったような笑みを浮かべる。
心臓が口から飛び出しそうな息苦しさを覚えながら、花京院は慌てて首を振った。
「い、いえ! 少し驚いてしまっただけで……どちらも、素敵、です」
実際、そう思う。
口調ひとつで印象はガラリと変わるが、彼のいっそ鬼のような美貌が損なわれるわけではない。むしろあの荒っぽい言葉使いの方が素なのかもしれないと思うと、それが何か特別なことのように思えて感動すら覚える。
承太郎は花京院の言葉を聞いて、ふっと小さな息を漏らしながら口端を持ち上げた。のけぞるようにベンチの背もたれに両肘を乗せ、嫌味なほど長い足をゆったりと組む。
「そいつは助かるぜ。慣れねえ口調は肩が凝って仕方ねえ」
「やっぱりこっちが素なんですね。あのときは、どうして?」
承太郎は指先で摘まんだままだった帽子をかぶりなおす。
「あんときゃあーゆうキャラでって頼まれてただけだ。てめーみてえな初心者ノンケが、おれを見て逃げ出したって前例があるからな。雰囲気と人当りだけでもせめてってやつだぜ」
「そう、だったのですか」
確かに、今の承太郎からは大柄な肉食獣のような印象を受ける。身体の大きさもあるだろうが、もし最初からこの威圧的な態度で来られていたら、花京院だってどうだったか分からない。逃げ出しはしないにしろ、反発心は抱いていたかもしれない。
だから理解はできる、のだが。
(なら全て演技だった、ってことなのか)
あの優しさも労わりも、かけてくれた言葉も、全部。
嘘、ということだろうか。もしそうなのだとしたら。
(恥ずかしいな……)
偽りの態度と言葉に踊らされて、ずっと舞い上がっていたのかと思うと、胸の辺りが重く沈んでいくのを感じてしまう。あの耐えがたい屈辱の中、必死で彼を思い出そうとしていた自身にさらなる嫌悪感が募った。
込み上げる羞恥に耐えかねて、花京院はふらつく身体に鞭を打つようにして立ち上がる。
「それじゃあ、ぼくはこれで」
どうにか表情に笑顔を張り付け、軽く会釈をして一歩踏み出そうとした。けれどその手首を掴まれ、引き寄せられてのけぞってしまう。
「うわッ!」
「おいおまえ」
承太郎も立ち上がっていた。こうして並び立つと、本当に大きな男だ。
相手の意図がわからずただ目を見開く花京院を、彼は怒っているようにも見える険しい表情で見下ろす。
「仕事、してきたのか」
ドキリと、心臓が音を立てて軋んだ。
咄嗟に息をのんで目を泳がせれば、承太郎は盛大に舌打ちをして手首を掴む手に力を込める。
「じょ、承太郎さん、痛いですよ」
「うるせえ」
「ちょっと! 承太郎さん、どこへ!?」
花京院の手を引き、歩き出してしまった承太郎は「おれんちだ」と短く行先を告げる。
「な、どうして!?」
問うても、彼は何も言わなかった。承太郎はあきらかに苛立ちを覗かせている。どこかピリピリとしたオーラが、これ以上答えるつもりはないとハッキリ告げているようだった。
焦りと不安と、戸惑いと混乱。ただ分かるのは、自分が彼を不快にさせているということだ。四肢が冷え、加速する心音に身体が震える。
嫌われてしまった。ただ、そう感じる。
一体なにをしてしまったのだろうかと考えかけて、すぐにやめた。花京院にとって、相手に嫌悪されることにこれといった理由など必要ないからだ。それらは自分が生まれてきてしまったことに、全てが起因する。そう教えられて、育ってきた。
なるべくしてなったのだと思うしかない。そうやってずっと諦めて生きてきた。
けれどなぜだろう。この人にだけは、嫌われたくなかった。そんな風に思ってしまうのは。
「承太郎、さん……離して……」
蚊の鳴くような声は震えるばかりで、ほとんど音にならなかった。
承太郎の歩幅は、ただでさえ身長差のある花京院には辛すぎる。身体に受けたダメージも大きくて、本当は立っているだけでもやっとなのだ。
苦しげに息を弾ませ、足を縺れさせる花京院の震えに気がついたのか、改札間際で承太郎の歩調が僅かに緩んだ。
「別に取って食いやしねえ。安心しな」
それでも承太郎の手から解放されることはなく、花京院の中から絶望感が消えることもなかった。
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早く受け入れてしまえ、と。
『おまえが欲しい。
いいか、おれだけだ。おれだけのものに』
あの言葉さえも。
ベッドの上、彼の指先が皮膚の表面を辿る光景を、花京院は信じられない気持ちでただ息を殺し、見つめている。
夢だと思った方がずっと、花京院にとっては現実味を帯びた光景だ。
(承太郎さんが、ぼくを、選んだ……?)
自分という存在は、きっとそこにいるだけで人を不快にするのだと思っていた。母の意志や言葉だけが、幼い頃から花京院の世界を縛りつける鎖、そのものだったからだ。
だけど承太郎は花京院を否定しなかった。
幼い頃に義父と関係を結び、そして何もかもがどうでもよくなって、男たちに身を預けようとした姿を見ても、彼は今こうして自分に触れている。
その指先はくすぐったいほどに優しくて、繊細だった。宝石でも扱うように大切に、慈しむように。そこから承太郎の気持ちが、温もりが、痛いほど伝わってくる。
初めて触れた母の手は、人形のように冷たかった。だけどこの手は、温かい。
「花京院」
低くて甘いバリトンは、震える吐息に乗って仄かに掠れていた。
美しい翡翠が熱っぽく揺らいでいるのが分かる。その瞳には、花京院だけが、映されていた。
(ああ)
そうか。そうなんだ。
否定していたのも、拒絶していたのも、自分だった。
誰かに愛される自信がなかった。人と関わって傷つくのが怖かった。本当は欲しくて仕方がないくせに、壁を作って自ら遠ざけていた。
今もまだ怖い。だけど信じてみたい。受け入れてみたい。
この都合のいい、夢のような現実を。
(ぼくは、この人が好きだ。好きでいて、いいんだ)
体重を預けてくる承太郎の肩に、両手で縋りついて指先を震わせた。
肉厚な唇が、花京院の白い首筋に音を立てて吸いつく。するりと脇腹を撫でられて、ゾクゾクとした感覚が背筋を走り抜けた。
耳元に寄せられた唇が、吐息だけで「花京院」と囁く。心臓を直に掴まれたような気がして、ひゅうと喉が鳴った。
皮膚を辿る承太郎の手が、花京院の身体の中心に伸ばされた。僅かに起ち上がる性器に触れられると、なぜか粗相をしてしまったような、居たたまれない気持ちにさせられて、咄嗟に両膝を立てて身を捩った。
「だ、ダメ、さわっちゃ……ッ」
緩く扱かれるだけで、そこは一気に膨らんで完全に勃起した。こんなにも簡単に、承太郎の手の中で育ちきってしまう自身を、はしたないと思う。
けれど密着する承太郎の股間も、同じように硬く張り詰めていた。彼はまだ上を脱いだだけで下は身に着けたままだが、それでも十分に感触が伝わる。
同じくらい求められているのだと、そう思うだけで心が震えた。
膨らむ熱に疼きが増して、先端から蜜が滲みでる。腰から下がどろどろに蕩けてしまいそうで、優しく触れる手の感触をもどかしいとすら感じた。
「んッ……あ、じょ、たろ、さ……そこ」
「もっとか?」
「ん、ぅん、……あ、ぁ」
赤みを増していく性器が、先走りの力を借りて承太郎の掌さえも濡らしていく。鈍い水音を立てながら、長い指に握り込まれたそれを扱かれると、無意識に腰が揺らめいた。
承太郎は性器を扱く手はそのままに、いちど花京院の唇にキスをして、そのまま皮膚を辿り、音をたてながら痕を残していく。
ちゅ、ちゅ、という音が響く度に、花京院の身体は敏感に跳ね上がる。そんな自分の反応がやけに恥ずかしいものに思えて、甲高く鳴いてしまいそうな唇を必死で噛み締めた。
だけどまるでそれを咎めるように、承太郎の舌が片方の乳首を舐め上げ、吸い付きながら緩く歯を立てる。同時に性器の先端を親指の腹できつく擦られた。
「ひっ、ん、アッ、あぁッ……!」
堪らず悲鳴をあげながら喉を反らし、両手でシーツを掻き毟る。立てた両膝がガクガクと踊って、内腿の痙攣が止まらない。
全てを曝け出せと言われているようで、その支配に歓喜する自分を自覚した。きっと酷い顔をしていると思うのに、羞恥が膨らむほど身体は熱を上げる。
聞くに堪えない水音を響かせながら、承太郎は先端を集中的に扱く速度を速めた。飛び散る粒が下腹に降り注ぎ、シーツにすらシミを作る。容赦ない追い上げに、花京院は嫌々と首を振りながら身をしならせ、快感の涙で頬を濡らした。
「花京院」
承太郎の唇が、再び吐息だけで花京院の名を紡いだ。
なんて甘い声だろうか。大きく身体を跳ねさせながら、もうダメだと感じたときには、その手の中で白濁を散らしていた。
「イッ、ぅ、――ッ!!」
ぐん、とシーツから腰を浮かせ、張り詰めた身体から徐々に力が抜けていく。どろりと溶けた思考と余韻に震えながら、花京院は忙しなく胸を上下させて、はかはかと浅い呼吸を繰り返す。
承太郎が、ふっと満足げな息を漏らして身を乗り出し、濡れた目元に小さなキスを落とした。それから幾度も花京院の前髪を優しく掻き乱し、赤い顔にキスの雨を降らせる。
その行為はとても緩慢で、幼い子供をあやすような余裕さえ感じさせるのに、けれど次の瞬間には白濁に濡れた指先が、身体の奥まった場所に潜り込んできた。
「アッ、まっ……!」
咄嗟に身を起こそうとして、太い指が強引に捻じ込まれる痛みに全身が強張った。優しく触れていたはずの腕は花京院の両足を大きく割り開き、何かを確かめるような動きで硬い窄まりを探りはじめる。
「ぃ、痛い……ッ、承太郎さん……!」
「……たか?」
「な、に……?」
承太郎はひどく険しい顔をして、射抜くような視線を向けてきた。少し前の花京院なら、この鋭い視線にただ怯えるばかりだったに違いない。
だけど今は、不思議と恐怖心が湧いてこなかった。なぜか承太郎の表情が、宝物に傷をつけられた子供のように見えてしまったからだ。
「誰か、挿れたか? ここに」
言葉よりも先に、首を左右に振った。承太郎はそれでもしばらく唇を引き結んで眉間に皺を寄せていたが、すぐに息を吐いて「そうか」と言った。
承太郎の表情の険しさが解れていく様子を見ながら、指がゆっくりと引き抜かれていく。ほうっと細長く震えた息を漏らしながら、花京院は自然と笑顔を浮かべた。
「誰も挿れてません。だって、そのまえに、あなたが」
助けに来てくれたから。今にも貫かれそうにはなっていたけれど、花京院は心を閉ざして、身を投げ出そうとしてはいたけれど、承太郎が、来てくれた。
あのときの花京院は、感じることや考えることを全て放棄していて、ほとんど夢を見ているような状態ではあったけれど、ちゃんと覚えている。
多分あれがビデオのシナリオならば、とてもありがちで、安っぽい展開だと鼻で笑っていたと思う。現に今までがそうだった。
だけど今は違う。承太郎の言った通りだと思った。ここにある現実はとても都合がよくて、決して花京院を拒まないし、傷つけない。
薄っぺらい台本すら存在しない世界では、台詞だって用意されていなかった。
だから今、花京院は、花京院自身の言葉で。
(やっと)
承太郎に。
「ぼくは、承太郎さんがいい。他の人では、駄目なんです」
本当は言いたくて堪らなかった、閉じ込めておくつもりだった気持ちを。
「ずっと、初めて会ったときから、あなたのことが」
大丈夫。もう怖くない。
「……大好きです」
(言えた)
自分でも、上手く笑えているのかどうか分からなかった。ただ、涙が止まらなかった。
承太郎は僅かに見開いた瞳を、すっと細めて微笑んだ。この笑顔を、花京院はずっと前から知っている。彼の部屋で食事を共にした朝、あのときも承太郎は安堵したように、こうして優しい笑顔を見せていた。
(あのときからずっと、この人はぼくを大切に思ってくれていたんだ。ぼくは知っていたはずなのに。この人が、優しいくせにとても不器用な人だってこと)
どちらから腕を伸ばしたのか、あるいは同時だったのか、身を起こした花京院は承太郎の腕に強く抱きしめられていた。
この大きな人の前では、自分の身体はひどくちっぽけで、小さなものになってしまうけれど、精いっぱいその背に腕を回して、抱きしめた。
*
それから承太郎は衣服を全て脱ぎ捨てた。
花京院は胡坐をかく彼を跨ぎ、僅かに見下ろす姿勢になりながら、何度も口付けを交わす。まだ不器用な舌使いで、肉厚な舌の動きを追いかける。
それだけで砕けそうになる腰は、承太郎が片腕でしっかりと抱いていた。そして、もう片方の手は花京院の尻の谷間をじくじくと解している。
「ふ、ぅ、んん……っ」
二本にまで増やされている指だが、決して奥深くまでは届かない。承太郎はいちど強引に捻じ込んだことを謝罪するかのように、嫌というほど慎重に時間をかけて溶かすつもりでいるようだった。
いちど達しただけの性器は膨れ上がり、今や腹につくほど反り返っている。幾度か自分の手を伸ばしかけて、その度に「まだだ」と囁かれながら中のいい場所を引っ掻かれた。
花京院はすっかり赤くなった目で大粒の涙を零し、鼻をすすりながら幾度もしゃくりあげる。身体が熱くて、痛いくらい甘く痺れて、どうにかなりそうだった。
承太郎のものだって、痛々しいほどに張り詰めて脈打っているというのに。いっそこのまま、彼の手を遠ざけて腰を落としてしまいたかった。
「も、やだ、ぁ……ッ、たり、ないっ」
糸を引きながら離れた唇から、情けなく掠れた懇願の声を漏らす。承太郎の首にしがみついて、無意識に腰を揺らしながら首を振った。
「だめ、です……っ、そこ、もう、いいです、から……!」
「まだ二本だ。もう少し我慢しな」
「だって、だって、アッ! やだ、あ……ッ!」
承太郎の長い指が肉の壁をぐるりと撫でる。それから緩く折り曲げ、卑猥な音をたてながら抜き差しされた。彼はほんの数回の行為で、花京院の弱い場所を全て知り尽くしている。だけどそれだけではない。承太郎に触れられると、本当に何もかもがどうでもいいと思えるほど、感じてしまう。
「あぁ、んッ、や、ぁ、ほしい……じょうたろさん、ほしい、お願い、いれて、くださ、い……ッ!」
焼き切れそうだと、そう思ったときには頭の中でなにかがプツンと音を立てていた。
優しくされたい。愛されたい。だけど、それ以上に今は早く承太郎を感じたい。我儘だろうかと、まだほんの少しだけ抜けきらない臆病な自分が顔を覗かせる。
「ね、ダメ、ですか? じょうたろさん、んっ、ぁ、ぼく、わがまま、ですか? 嫌いに、なりますか?」
「ッ!」
手を伸ばし、天を仰ぐ承太郎の屹立に指先で触れた。大きくて、太くて、熱い。掌をかぶせるような動きで縦に緩く扱くと、その塊は激しく脈打った。
「承太郎さん、承太郎、さん……ッ、ねぇ……?」
承太郎が忌々しげに大きな溜息を漏らし、乱暴な舌打ちをした。ビクンと身を震わせ、目尻に涙を溜める花京院の中から指を引き抜くと、性器に触れていた手首を掴む。
「じょっ、わ、ぅッ!?」
次の瞬間さらに強く腰を抱かれて、見下ろしていたはずの承太郎に見下ろされていた。彼は心底苛立ったように「くそ」と吐き捨て、花京院の両足を割り開く。
「花京院、てめー……」
「承太郎、さん?」
「おれはもう、知らんぞ……」
「ぇ、あ……ッ」
燃えるように熱い塊の切っ先が、物欲しげにヒクつく花京院の穴に触れる。ぐっと圧を加えられるだけで、脳ミソごと蕩けそうな期待に身体が打ち震える。
「嫌いになんかなりようがねえし、我儘は……もっと言え」
「ヒッ、ぅ、ん……ッ!」
狭い場所が、無理やり抉じ開けられる感覚は確かに痛いし、苦しい。
だけどそれ以上に嬉しくて、身体はどうしようもなく悦んでいた。表情を歪め、額に汗を滲ませる承太郎からは、余裕の欠片も見られない。
初めて好きになった人が、こうして自分を求めてくれている。それでも彼は一気に貫こうとはしないのだ。もう知らん、なんて言ったくせに、じわじわと懸命にブレーキをかけて、傷つけないようにと歯を食いしばっている。
その優しさが、追い詰められたような顔が切ない。だけど、堪らなく愛おしかった。
「はぁ、あッ、じょ、たろ、さ……、も、っと、奥……ッ」
自分からも強く承太郎を引き寄せて、より奥深くへと誘うように両足をその腰に絡めた。承太郎の形がわかる。熱い肉が脈打っている。ゴムをつけずに彼を受け入れるのは初めてだと、それに気づいてより一層、悦びが増した。
全てを収めきってしまうと、承太郎は唇を花京院の耳に押し付けて、吐息だけで「痛いか」と問うてきた。花京院は彼の首に強くしがみつき、思い切り首を振る。
「うれ、しい……嬉しい、です……ッ、ん、ぁ」
「ッ、おい……あんまり煽るようなことを、言うんじゃあねえ」
すぐにイッちまう、なんて、なんだか少し情けないことを言いながら、腰を揺り動かす承太郎に合わせて、花京院も腰を揺らした。
もうこれ以上は広がりようがないほど狭い場所が、ごりごりと擦り上げられる。その熱量に息も絶え絶えになりながら、花京院は咽び泣いた。
徐々に動きが遠慮のないものになっていくと、摩擦に蕩けきった粘膜がいやらしい音を大きく響かせる。凄い、と思う。重なる呼吸も、隙間なく埋め込まれる感覚も、全てが彼のもので、この自分のもの、だなんて。
「イッ、きもち、い、アッ、ああぁ! じょ、たろ、さッ、じょう、たろ!」
承太郎は花京院をきつく抱きしめ、荒く湿った呼吸の合間に「いいぜ」と漏らした。
そのまま名前を呼べ、と。
わけもわからず、花京院は彼の望む通り泣き濡れた声で、承太郎の名を呼んだ。
「好き、じょうたろ、承太郎……ッ!」
「は、ッ……花京院……っ」
「ッ、ヒ、ぁッ――!!」
もう駄目だった。承太郎の背中に爪を立て、ぐんと身体を強張らせて、達してしまう。
身体の奥が弾けて、甘く鋭く溢れていく感覚は、いつも感じるよりずっと長く尾を引いた。声もなく目を見開いて絶頂の最中にいる花京院の中を、激しく突き上げていた承太郎も、やがて奥で弾けた。腹の底に叩きつけられたそれはじわりと広がり、その熱さにひっ、ひっ、と引き攣った息が漏れる。
承太郎のものは花京院の中で、未だに硬く張り詰めたままだった。きっと、このまま続けたら死んでしまう。だけどもういっそ、それでいいような気もして、気がたった獣のように荒々しく呼吸する承太郎の頭を、ぎゅうと抱きしめた。
「大好きです、承太郎」
だからもっと、ぼくを愛して。
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