2025年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
うつつのこと
気がつかなかった。
恋なんて、ずっと遠い場所にある感情だと思っていたのに。
*
好きですと、年下の少女が言った。
同じ校舎の中にいれば、顔くらい合わせたことがあるのだろうが、普段関わることのない人間の顔と名前までは、いちいち把握していない。ずっと見ていました、などと言われても、ピンとは来なかった。
少女は一人ではなかった。おそらくクラスメイトであろう、もう一人の少女に付き添われて、黒鋼の前に進み出た。
好きだ、と告白しているにも関わらず、彼女は真っ赤になって俯いたまま、一度も真っ直ぐこちらを見ようとはしなかった。
どう言おうがしこりは残る。黒鋼はただ「悪い」とだけ短く答えた。少女はみるみる泣き出して、付き添いのクラスメイトに肩を抱かれた。
「他に好きな子がいるんですか?」
付き添いの少女がきつく睨みつけるような眼差しで言った。なぜそんなことを聞きたがるのか、理解できない。それは黒鋼の問題であり、例えその想いが何処の誰に向けられていようが、これは黒鋼だけの感情だった。
何も答えずにいると「すいませんでした」と泣きながら少女が謝罪した。黒鋼は他に言いようがなく、唇は自然と再び「悪い」という言葉を放っていた。
頭の中に、なぜあの金色が浮かび上がったのか、黒鋼にとってはそちらの方がよほど問題だった。
*
ここのところ眠れない日々が続いていたせいで、黒鋼は少しぼんやりすることが多くなっていた。そんな中、すぐ前の座席にいるクラスメイトの男子がいきなり振り向いたかと思うと、目の前に何かを放り出した。
「これ回ってきたんだけど」
お前に貸すよ、と言ってクラスメイトの男子がそっと手渡してきたものは、いわゆるエロ本というものだった。不覚にも、黒鋼はそれに瞬時に対応することが出来なかった。表紙を見てしまってからハッとして、思わずそっぽを向く。
「案外こーゆうのなら好きかなと思ってさー」
「……興味ねぇ」
「これもダメかよー」
真面目だよなぁ、と呆れた物言いをしつつ、友人はそれでも熱心にページを捲って眺めている。他の男子生徒も集まってきて、バリケードが出来上がった。
歓声が上がる中、黒鋼は不快感と苛立ちから思わず席を立つ。彼らはそれにも気づかず雑誌に夢中になっていた。
これまでも同じことはあった。最初は少々際どいグラビア雑誌から始まり、やがてはそういった行為を目的とした内容に変わっていった。今日のはまた随分とえげつない内容のものだったようで、一瞬目に入った表紙では、縛り付けられた女性の裸体があった。
もやもやとした、嫌な感覚が泥のように胸を浸食してゆく。
黒鋼だって健全な男子だ。中学生だというと大概のものは驚くほど、体格にも恵まれた。全く興味がないかと言われれば嘘になる。
だからこそ、黒鋼は苦悩していた。
*
ぬめぬめと纏わりつくような嫌な汗をかいて、黒鋼は闇の中のそりと起き上がった。
動悸が乱れている。身体に張り付いたシャツを脱ぐと適当に放って、汗ばむ額に手を当てた。
「またかよ……」
空気が重く全身に圧し掛かる。まともに呼吸することさえも許されていない気がして、とにかくただひたすら風に当たりたかった。
手を伸ばしてすぐ側のカーテンごと窓を開ける。外はまだ暗く、遠くの空にぽっかりと月が浮かんでいた。風はなかった。けれど澄んだ空気がゆるゆると入り込むと、ようやく大きく息をつくことが出来た。
酷く疲れている。だがそれは全力で身体を動かしたときのような爽快なものではなく、不快としか言いようのないものだった。
自分が酷く穢れた存在に思える。夜ごと苛む悪夢に苦悩し続ける日々が、黒鋼をどこまでも追い込んでいく。くしゃりと、汗を含んだ黒髪を両手で乱した。苛立って仕方がなかった。
たった今見た夢の中の光景が、どうしても頭から離れてくれない。
暗い暗い夢の中。何処の誰とも知れない女の身体が、あの日見た女に変わり、最後には形を変えてファイになる。夢の中にいてさえ彼は細くしなやかで、青い瞳はどこまでも透き通るような美しさだった。
気がつけば抱き寄せていて、黒鋼はその瞬間、なぜか満たされていた。ずっと抱えていた願望がようやく叶ったかのような、そんな気さえした。
けれどやはり目覚めは最悪で、いつだって罪悪感に吐き気が伴う。しかもこの夢は日を追うごとにエスカレートして、今ではファイと男女が営むような行為に没頭するまでに進展していた。
具体的な部分は曖昧で、ハッキリとは覚えていない。覚えているのは、ただ己の欲望を打ち付けて、それを満たすために我を失っているということだけだ。
今夜の夢は、いつにも増して酷かった。雑誌の中で縛り上げられ顔を歪めていた、名も知らぬ女優。それと同じように、縛られていたのはファイだった。
ファイは「やめて」と言った。「痛い」とも言った。けれど黒鋼は、その身体を容赦なく抱いた。いつもは声さえも上げないファイが、酷く泣いていた。彼が泣けば泣くほど黒鋼は夢中になって、その細い身体を揺さぶった。
「う……っ」
ぐっと腹の底から込み上げてきたものを堪えた。重苦しい空気に押し潰されそうで、黒鋼は上掛けを跳ね除けるとベッドから立ち上がる。
身体の中心がべとついている感触が、何より不愉快だった。汚い。なんて汚い人間なのだろう。自責の念に囚われながら、ふらつく足で浴室に向かった。
熱い湯に身体を打たれながら、黒鋼はぼんやりと排水溝を眺めていた。
思い出されるのは凌辱されて泣き喚くファイのこと。どうしてあのような夢を見てしまうのか。なぜ夢の中の自分は、彼を抱くのだろう。なぜ、女ではなく、彼じゃなければ満たされないのだろうか。
なぜ、なぜ、なぜ。
夢の中で、黒鋼は歓喜に震えて興奮していた。相手が女性だからではなく、ファイだから。そして思う。これが、これこそが己の欲求なのだろうかと。
ふと、親友に付き添われて告白にやって来た後輩を思い出す。実はあれが初めてではなかった。これまでにも幾度か異性から想いを打ち明けられた経験はあって、けれど黒鋼は頑なに拒み続けてきた。そんなとき、いつも胸に過ぎるのはファイの笑顔や、その温もりばかりで。
「……ちくしょう」
冷たい壁に両手をつく。額を強く打ち付けると、ガンと鈍い音がして、それから遅れてようやく痛みが広がった。
そうだ、そうなんだ。
誰にも興味が持てなかったのではない。最初から黒鋼の中には一人しかいなかったのではないか。あの柔らかな笑顔に、綿菓子のような淡い金色に、美しい青に。
幼い頃から、ずっと恋焦がれていたのではないか。
だから守りたかった。だから笑っていてほしかった。連れ出したかった。
「俺は……」
いつか、ああやって傷つけてしまうのだろうか。あれが真の願いなのだろうか。だとしたら、これは何があっても封じなければならない、許されない想いだ。
例えあの手を離してでも、絶対に。
←戻る ・ 次へ→
気がつかなかった。
恋なんて、ずっと遠い場所にある感情だと思っていたのに。
*
好きですと、年下の少女が言った。
同じ校舎の中にいれば、顔くらい合わせたことがあるのだろうが、普段関わることのない人間の顔と名前までは、いちいち把握していない。ずっと見ていました、などと言われても、ピンとは来なかった。
少女は一人ではなかった。おそらくクラスメイトであろう、もう一人の少女に付き添われて、黒鋼の前に進み出た。
好きだ、と告白しているにも関わらず、彼女は真っ赤になって俯いたまま、一度も真っ直ぐこちらを見ようとはしなかった。
どう言おうがしこりは残る。黒鋼はただ「悪い」とだけ短く答えた。少女はみるみる泣き出して、付き添いのクラスメイトに肩を抱かれた。
「他に好きな子がいるんですか?」
付き添いの少女がきつく睨みつけるような眼差しで言った。なぜそんなことを聞きたがるのか、理解できない。それは黒鋼の問題であり、例えその想いが何処の誰に向けられていようが、これは黒鋼だけの感情だった。
何も答えずにいると「すいませんでした」と泣きながら少女が謝罪した。黒鋼は他に言いようがなく、唇は自然と再び「悪い」という言葉を放っていた。
頭の中に、なぜあの金色が浮かび上がったのか、黒鋼にとってはそちらの方がよほど問題だった。
*
ここのところ眠れない日々が続いていたせいで、黒鋼は少しぼんやりすることが多くなっていた。そんな中、すぐ前の座席にいるクラスメイトの男子がいきなり振り向いたかと思うと、目の前に何かを放り出した。
「これ回ってきたんだけど」
お前に貸すよ、と言ってクラスメイトの男子がそっと手渡してきたものは、いわゆるエロ本というものだった。不覚にも、黒鋼はそれに瞬時に対応することが出来なかった。表紙を見てしまってからハッとして、思わずそっぽを向く。
「案外こーゆうのなら好きかなと思ってさー」
「……興味ねぇ」
「これもダメかよー」
真面目だよなぁ、と呆れた物言いをしつつ、友人はそれでも熱心にページを捲って眺めている。他の男子生徒も集まってきて、バリケードが出来上がった。
歓声が上がる中、黒鋼は不快感と苛立ちから思わず席を立つ。彼らはそれにも気づかず雑誌に夢中になっていた。
これまでも同じことはあった。最初は少々際どいグラビア雑誌から始まり、やがてはそういった行為を目的とした内容に変わっていった。今日のはまた随分とえげつない内容のものだったようで、一瞬目に入った表紙では、縛り付けられた女性の裸体があった。
もやもやとした、嫌な感覚が泥のように胸を浸食してゆく。
黒鋼だって健全な男子だ。中学生だというと大概のものは驚くほど、体格にも恵まれた。全く興味がないかと言われれば嘘になる。
だからこそ、黒鋼は苦悩していた。
*
ぬめぬめと纏わりつくような嫌な汗をかいて、黒鋼は闇の中のそりと起き上がった。
動悸が乱れている。身体に張り付いたシャツを脱ぐと適当に放って、汗ばむ額に手を当てた。
「またかよ……」
空気が重く全身に圧し掛かる。まともに呼吸することさえも許されていない気がして、とにかくただひたすら風に当たりたかった。
手を伸ばしてすぐ側のカーテンごと窓を開ける。外はまだ暗く、遠くの空にぽっかりと月が浮かんでいた。風はなかった。けれど澄んだ空気がゆるゆると入り込むと、ようやく大きく息をつくことが出来た。
酷く疲れている。だがそれは全力で身体を動かしたときのような爽快なものではなく、不快としか言いようのないものだった。
自分が酷く穢れた存在に思える。夜ごと苛む悪夢に苦悩し続ける日々が、黒鋼をどこまでも追い込んでいく。くしゃりと、汗を含んだ黒髪を両手で乱した。苛立って仕方がなかった。
たった今見た夢の中の光景が、どうしても頭から離れてくれない。
暗い暗い夢の中。何処の誰とも知れない女の身体が、あの日見た女に変わり、最後には形を変えてファイになる。夢の中にいてさえ彼は細くしなやかで、青い瞳はどこまでも透き通るような美しさだった。
気がつけば抱き寄せていて、黒鋼はその瞬間、なぜか満たされていた。ずっと抱えていた願望がようやく叶ったかのような、そんな気さえした。
けれどやはり目覚めは最悪で、いつだって罪悪感に吐き気が伴う。しかもこの夢は日を追うごとにエスカレートして、今ではファイと男女が営むような行為に没頭するまでに進展していた。
具体的な部分は曖昧で、ハッキリとは覚えていない。覚えているのは、ただ己の欲望を打ち付けて、それを満たすために我を失っているということだけだ。
今夜の夢は、いつにも増して酷かった。雑誌の中で縛り上げられ顔を歪めていた、名も知らぬ女優。それと同じように、縛られていたのはファイだった。
ファイは「やめて」と言った。「痛い」とも言った。けれど黒鋼は、その身体を容赦なく抱いた。いつもは声さえも上げないファイが、酷く泣いていた。彼が泣けば泣くほど黒鋼は夢中になって、その細い身体を揺さぶった。
「う……っ」
ぐっと腹の底から込み上げてきたものを堪えた。重苦しい空気に押し潰されそうで、黒鋼は上掛けを跳ね除けるとベッドから立ち上がる。
身体の中心がべとついている感触が、何より不愉快だった。汚い。なんて汚い人間なのだろう。自責の念に囚われながら、ふらつく足で浴室に向かった。
熱い湯に身体を打たれながら、黒鋼はぼんやりと排水溝を眺めていた。
思い出されるのは凌辱されて泣き喚くファイのこと。どうしてあのような夢を見てしまうのか。なぜ夢の中の自分は、彼を抱くのだろう。なぜ、女ではなく、彼じゃなければ満たされないのだろうか。
なぜ、なぜ、なぜ。
夢の中で、黒鋼は歓喜に震えて興奮していた。相手が女性だからではなく、ファイだから。そして思う。これが、これこそが己の欲求なのだろうかと。
ふと、親友に付き添われて告白にやって来た後輩を思い出す。実はあれが初めてではなかった。これまでにも幾度か異性から想いを打ち明けられた経験はあって、けれど黒鋼は頑なに拒み続けてきた。そんなとき、いつも胸に過ぎるのはファイの笑顔や、その温もりばかりで。
「……ちくしょう」
冷たい壁に両手をつく。額を強く打ち付けると、ガンと鈍い音がして、それから遅れてようやく痛みが広がった。
そうだ、そうなんだ。
誰にも興味が持てなかったのではない。最初から黒鋼の中には一人しかいなかったのではないか。あの柔らかな笑顔に、綿菓子のような淡い金色に、美しい青に。
幼い頃から、ずっと恋焦がれていたのではないか。
だから守りたかった。だから笑っていてほしかった。連れ出したかった。
「俺は……」
いつか、ああやって傷つけてしまうのだろうか。あれが真の願いなのだろうか。だとしたら、これは何があっても封じなければならない、許されない想いだ。
例えあの手を離してでも、絶対に。
←戻る ・ 次へ→
侵す異物
「にゃんこ、元気にしてるかなー?」
秘密基地への道中、繋いだ手をブラブラと揺らしながら、ファイが声を弾ませた。
彼が躓いて転ばないように注意を払いつつ、黒鋼は「さぁな」と、のんびりとした口調で答える。
「俺たちに見えてねぇだけで、あの辺ウロチョロして遊んでんじゃねぇか?」
「そっかー。オレお化け見えたらよかったのになー」
晴れた空を見上げながら、ファイはその薄桃色の唇を尖らせた。冗談で言ったつもりなのに、彼は黒鋼の言うことを面白いほど素直に真に受けてしまう。そもそもすでに死んでいる存在に対して「元気かな」なんて気にかけるのも可笑しな話ではあるのだが。
「早く行こー! にゃんこ一人ぼっちで遊ぶの飽きちゃってるかも!」
「馬鹿、慌てると転ぶぞ」
「黒たんとおてて繋いでるから大丈夫だもーん!」
嬉しそうににっこり笑って、ファイが歩調を早める。黒鋼は苦笑しながらその歩幅に合わせて先を急いだ。
*
春休みに入ってすぐ、黒鋼とファイは久しぶりに子猫の墓に手を合わせるために、秘密基地へ行くことになった。
以前に比べてなかなか頻繁に行くことが出来なくなってしまったあの場所は、冬の間ともなればなおのこと、足を運ぶのが難しくなってしまう。この休みが終われば二人は受験生という肩書を背負うことになるし、訪れる機会は今よりもぐっと減ってしまうかもしれない。
そうなってしまう前に、一度ちゃんと時間を取って子猫に会いに行こうという話になった。ポツポツと桜が開花するくらいには暖かくなってきたし、弁当を持ち寄ってピクニック気分で二人は裏山に入った。
「シートも持ってきたし、お墓の隣に敷いてご飯食べようねー!」
「それはいいけどよ、おまえの鞄……膨らみすぎじゃねぇか?」
ファイが肩からかけているショルダーバッグは、その形状が変わるほど膨らみ切っていた。準備して来たものは大差ないはずなのに、黒鋼が下げているスポーツバッグには十分に余裕がある。
「だってー、しばらく来れないから、にゃんこのご飯とかおやつもいっぱい持ってきたしー、あとねー、黒たんの分のお弁当もいーっぱい作ってきたのー」
「は? 俺は俺でちゃんと持って来てんぞ」
黒鋼が驚いた顔をすると、ファイは「いいのー」と言ってへにゃっと笑う。
「黒たんの分も作りたかったんだー。オレの卵焼きは甘くて、黒たんのはお醤油味だよー」
彼に料理ができるとは驚きだった。だがよく考えてもみればファイは年老いた祖母と二人暮らしだし、将来は菓子職人になりたいと言っているくらいだから、料理なんて普段からこなしていて当たり前かもしれない。何から何まで母親に任せ切っている自分が、少し恥ずかしくなってしまう。
しかも自分の分だけでなく、味まで変えて二人分作ってきてくれるとは。ファイの手料理、という響きに心の奥がなにやら疼きだす。
そんな黒鋼も、自分の小遣いの中からいつもは絶対に買わないようなチョコやクッキーといった甘い菓子類を買って、鞄に詰めて来ているのだが。もちろん、全てファイにくれてやるためだった。
「黒たん黒たん、鳥居が見えてきたよー! 急ご急ごー!」
「分かったから走るなって」
かろうじて人が通れる程度の山道は、小枝や硬い葉っぱが張り出している。地面だってオウトツが激しいし、ファイが転ぶ前に自分が転んでなんかいられない。ファイはそんなことお構いなしでぐいぐいと繋いだ手を引っ張ってくる。この感覚は、生きて元気だった頃の鋼丸との散歩を思い起こさせて、黒鋼はやっぱり苦笑するしかなかった。
そうこうしているうちに、黒鋼とファイは大きな石の鳥居に到着した。
けれど、すぐに二人揃ってハッと息をのみ、咄嗟にその太い柱の陰に身を隠す。改めてそっと顔を半分だけ覗かせて見れば、そこには『侵入者』の姿があった。
「く、黒たん……」
「しっ! 黙ってろ……ちょっと下がるぞ」
「う、うん……」
戸惑った表情を浮かべるファイの手を引いたまま、二人は登って来た山の斜面を這うようにして数歩後戻りする。ちょうど侵入者の様子が窺えるくらいに顔を出し、息を殺した。
彼らは、神木の側に二人いた。
髪を茶色に脱色した、今風の若い男女。よく観察すると大学生くらいの印象を受ける。あまり見かけない顔だが、観光客というわけでもなさそうだ。それは二人の会話から窺い知れた。
「久しぶりに帰って来たけどさー、マジでくっそ田舎すぎー」
「だなぁ。ここも結局、なーんもないしな」
だぼついたパーカーにジーンズ姿の男が、ポケットに手を入れたまま神木に蹴りを入れる。その瞬間ファイが声を出しかけるのを、肩を抱き寄せ口元に手を押し当ててどうにか封じた。
「キャハハハ! ちょっとー! 虫とか落っこちてきたらどうすんのよー!」
白いフリルシャツにデニムのミニスカートを履いた女が、痛んだ長い髪を揺らしながら下品な笑い声を上げる。
「おれらのガキの頃はさー、ここは絶対に入っちゃ駄目ですーって言われて、ちょっと怖かったじゃん? 親とかもバケモンがいるから入るなとか脅かしてきて」
「あー、アタシもよく言われてたー。バケモンとかまぢウケる」
「なー? 入ってみたらなーんもねーじゃんここ。バカでかい木しかねぇーの!」
どうやら彼らはこの町の出身らしい。おそらく進学か就職に伴って町を出て、里帰りでもしているのだろう。二人も自分たちと同じようにここへの立ち入りを固く禁じられて育ったようだが、当時は踏み込む勇気がなかったということか。
身動きが取れない状態で気配を殺し続ける黒鋼とファイに気付かないまま、男女は神木の周りをウロウロしながらくだらない昔話を続けている。
最後に来たときに墓に供えた花はすっかり干からびて、彼らが知らず蹴散らしていた。腕の中で、ファイの身体がビクリと跳ねる。
「お墓……踏んでる……」
傷ついた表情で、彼は片方だけの青い瞳に涙を浮かべた。それを見て、黒鋼の中に沸々と怒りの感情が湧き上がってきた。
今まではとにかく早くどこかへ消えてくれという思いしかなかったけれど、ファイの泣きそうな顔を見てようやく、自分たちにとっての聖域を穢されているのだという実感が芽生えた。
罰が下るような真似は、黒鋼だった散々してきた。でも、彼らの行いは決して許せるものではない。
それでも黒鋼はまだ冷静だった。今にも飛びかかって殴りつけてやりたい感情は渦巻いているが、ここで大きな騒ぎを起こすのは避けたほうがいい。下手に恨みを買えば自分たちがここに出入りしていることを公にされる可能性がある。
それは、禁じられた場所へ踏み込んでいたことを咎められるのが怖いからではない。ただ守りたいと思ったからだった。ファイと育んだ大切な思い出の場所を。
そしてこれからも、ここで二人だけの時間を過ごしたいから。
黒鋼は必死で思考を巡らせた。自分たちで手出しができないとなると、大人の力を借りる必要がある。例えば今すぐに山を下りて、たまたま裏山に見知らぬ男女が入っていくのを見た、と適当に誰かを捕まえて報告すれば。
そうすればきっと、余所者が山を荒らしに入った(実際はこの町の出身らしいが)と大騒ぎになるに違いない。その意識は黒鋼にとって忌むべきものではあるが、今は逆手に取る以外に方法がなかった。
黒鋼はファイから身体を離し、細い手首を掴んだ。いったん下りるぞ、と耳打ちしたが、彼は男女がいる方を呆然とした様子で見つめたまま、ピクリとも動かなかった。
「おい、どうした」
何かがおかしい。黒鋼も、咄嗟に視線を彼らに戻す。そして目を見開いて唖然とした。
神木に背中を預けた女に、男が覆いかぶさってキスをしている。それはただ触れ合うだけのものではなく、舌と舌を絡め合う深いものだった。
「ぁ、ん……やだぁ……こんな汚いとこでするのぉ……?」
虫に刺されたらどうすんのよ、と掠れた声で言う女に、男がいやらしく笑みを浮かべる。
「いいじゃん。思い出作りっつーの?」
「もう……バカなんだからぁ……」
あん、と女が切なげに表情を歪めて甘い声を漏らす。男の手が服の上から女の乳房を掴み上げて揉みしだき、首筋に舌を這わせるのを黒鋼とファイはただ凍り付いたまま見つめていた。
身体が動かなかった。さっきまでは確かに回っていたはずの思考が停止している。
女は男の首に両腕を回し、男は女のシャツをたくし上げた。白い肌と女物の下着が、ざわめく木々の隙間から零れる日差しの下で露わになる。交わりが深まるほどに、女の口からは甘えたような上擦った声があがって。
耳を塞ぎたいのに、目を逸らしたいのに、瞬きすら出来なかった。何を見ているんだろう。彼らは何をしているんだろう。分かっている。
あれは、セックスだ。
男と女がするものだ。知識としては知っている。でも、現実を受け入れることができない。ただ心臓が痛いほど高鳴っていた。女の肌から、声から、意識を逸らすことができなかった。身体が熱い。吐き気がするほど嫌な気分なのに。どうして。
男が女の太腿に手を這わせた。ミニスカートをたくし上げようとしたところで、黒鋼はようやく我に返った。そうだ。ここにいるのは自分だけではないのだった。ファイに、こんなものを見せ続けるわけには。
その時だった。
「もう帰って!!」
まだ幾らか少女めいた甲高さを残す声が、痛々しく辺りに木霊した。
同時に、ファイが足元にあった小石を掴んで、神木に身を預ける男女に投げつける。それはどこからともなく聞こえてきた声に、身体をビクつかせた男の背中にヒットして「いてぇッ!!」という悲鳴が大きく響いた。黒鋼は咄嗟に細い身体を抱えて側の深い茂みの中に飛び込んだ。
その瞬間、まるでファイの悲痛な叫びに応じたかのように神木の枝がざわめき、辺りに強い風を起こす。ざわざわという激しい木々の音が、黒鋼とファイが茂みに飛び込む音と溶け合って、上手く位置を誤魔化すことができた。
それは、なにか見えない力が働いたとしか思えない、不思議な現象だった。
「だ、誰だ!? なんだよ今の!?」
「ねぇ、やっぱここヤバイんじゃない!?」
青褪めた表情で適当に乱れた衣服を戻し、女がパニックを起こしたように叫ぶ。忙しなく辺りを見回す男はすっかりへっぴり腰になっていて、その表情も無様に血の気が引いていた。
黒鋼は小動物のように震え続けるファイを強く抱きしめたまま、茂みの中に身を潜めて彼らの動向を見守った。
やがて二人はしきりに「ヤバイ、ヤバイ」と連呼しながら、鳥居をくぐって山を下りて行った。
*
本当なら今頃――。
子猫の墓に手を合わせ、持ってきた弁当をたらふく食って、楽しい時間を過ごしているはずだったのに。
黒鋼は踏み荒らされた墓の前で泣くファイの背中を、唇を噛み締めながら見つめていた。声も上げず、堪えるように身を震わせる姿が、子猫を喪ったあの雨の日のことを思い出させる。あのときもここで、彼はこうやって静かに泣いていた。
笑いたくない時に笑って、声を上げて泣きたいのを押し殺して。どうしてファイはこんな風に我慢ばかりするのだろう。その強さが黒鋼の目には儚く映る。だから胸が掻き毟られるように痛んで仕方ない。
「なぁ」
何か声をかけてやらなくては。そう思って切り出してはみたけれど、言葉にならなかった。これでは本当に、あの雨の日と同じだ。あれから何年も経っているはずで、自分はもう中学生で、少しくらいは成長しているはずなのに。情けなさに唇を噛み締めた。
あの侵入者たちへの怒りもまだおさまってはいない。衝撃的な光景が頭から離れず、こんな時だというのに、思い出すとまたあの不可解な熱が身体の奥から這い出してきそうだった。
「くそ……」
小さく吐きだして、黒鋼は頭をガリガリと掻き毟ると地面にどっかりと腰を下ろした。あぐらをかいて、神木に背を預ける。苛立ちに震える息を吐き出すと、手の甲でごしごしと右目を拭いたファイが振り向いた。赤く充血した目が黒鋼を見て、それからすぐに隣にちょこんと腰を下ろす。
「落ち着いたか?」
「……ん」
「悪かった」
項垂れながら謝罪すると、片目を僅かに見開いたファイが黒鋼を見た。
「どうして謝るの?」
「……いや……俺がもっと早く、おまえを引っ張って山を下りてりゃ……あんな……」
あんないかがわしい光景まで、見せられることにはならなかった。
生まれて初めて直に見た男女の情交は、未遂に終わったもののショックが大きかった。黒鋼でさえ戸惑っているのだから、ファイにはもっと衝撃が強かったのではないか。
黒鋼は、顔を俯けて抱え込んだ両膝に視線を落とすファイを横目で見やる。彼はあの光景をどう捉えたのか、そればかりが気になった。ファイは同年代の者たちと比べると、まだどこか乳臭いというか、このくらいの年齢なら普通に理解しているようなことでも、分かっていないのではないか、なんて。
馬鹿にしていると思われても仕方のない考えだけれど、黒鋼はそうであってほしいと願っている自分がいることに気がついた。
「……なぁ」
「ん」
「その……さっきのことだけどよ……」
そこまで切り出しておいて、黒鋼は口を噤んだ。あの光景を見てどうだった、なんて。どんな顔をして聞けばいいのだろう。あまりにも野暮で滑稽な問いかけだということに気がついて、自分に呆れた。
この話はするべきじゃない。自分がこうして塞ぎこんでいたら、いつまで経っても忘れることなんかできないし、一刻も早く空気を変えてファイを元気づけなくては。
「時間食っちまったな。早いとこ飯でも」
一方的に話を終わらせようとした黒鋼だったが、か細い声で「黒たん」と呼ばれて、その先を続けることができなかった。
「どうした?」
「オレこそごめんね」
「……なんだよ。おまえは何も悪くねぇだろ」
「だって……じっとしてなきゃいけなかったのに、オレ、絶対にしちゃいけないことしちゃった……あの男の人、怪我しちゃってたらどうしよう……」
だけどね、と言うファイの声は可哀想なほど掠れていた。
「なんか……なんかね、やだったの……ぐちゃぐちゃになりそうで、怖かった……」
「……うん」
「神様に怒られても、罰があたっても、ここはオレたちだけの秘密基地だもん」
抱え込んだ膝に顔を埋めて、ファイは肩を震わせた。それを見ていると、一緒に泣いてしまいたい気持ちになる。
ここはファイが見つけた場所。
大きくなったらここに住むんだと、今はもう入れなくなってしまった神木の空洞の中で、幼い彼は無邪気に笑っていた。ずっと変わらずに、何もかもがそのままの形でそこにあり続けるのだと信じて。
神木の入り口が、成長した二人を拒んだように。
いつかここは自分たちだけの場所ではなくなるのかもしれない。失くしてしまうのかもしれない。男と女の形をした二つの異物が、こんなにも簡単に彼を傷つけたみたいに。
黒鋼は泣き続けるファイに手を伸ばした。丸くなっている背に触れると、しゃくり上げる振動が直に伝わる。気の利いたジョークの一つでも言えれば、ファイはすぐにでも笑ってくれるかもしれない。けれど、黒鋼にはそんな真似は出来そうもない。
ならせめて抱きしめたかった。優しくしてやりたかった。そっと抱きしめて、いつもみたいに柔らかな金髪を思いっきり撫でて。それから。
それから――?
黒鋼は、何かとてつもなく嫌なものが胸の奥から込み上げてきそうになるのを感じて、思わず手を引っ込めた。掻き消そうとしていた、あの男女の絡み合う光景が脳裏に甦る。唾液を滴らせながら交わる唇の赤が鮮明で、その嫌悪感に吐き気が込み上げた。
何を戸惑う必要があるのだろう。彼を抱きしめることに、触れることに。
自分たちはあの二人とは違うし、ファイは大切な幼馴染であり親友だ。今までもそうだったように、きっとこれからもずっと。
なのにどうしてか、今ファイに触れてしまったら、あの連中と同じになってしまうような気がした。それがどうしてなのか考えるより先に、ふと胸に何かが引っかかっていることに気付く。
そう、ファイは友達。黒鋼にとって大切な親友。それが、大きなしこりのように喉の奥に痞えていた。異物のように。
黒鋼はファイから目を逸らし、奥歯を噛みしめた。頭が混乱している。心の中が、直に手で掻き回されているみたいにぐちゃぐちゃだった。
考えるな。
今は何も。きっと考えてもすぐに出る答えでもない。おかしなものを見てしまったから、まだ気持ちの整理がついていないだけだ。全部全部、あの連中のせいだ。
だから、忘れよう。
黒鋼は勢いよく息を吐き出すと、手の平で自分の膝を思い切り叩いた。パン、という音は思いのほか大きく辺りに響き渡り、驚いたファイが顔を上げる。その濡れた瞳を真っ直ぐに見返すと、黒鋼は笑った。
「飯食うぞ」
「黒たん……?」
「いつまでも湿気たツラしてんじゃねぇ。腹減ったからたまご焼き食わせろ」
そうだ。最初から何もなかったように。無理やりにでも美味いものを食って腹を満たせば、きっと余計な考えも不安も、どこかに消え失せる。
黒鋼は地面に放られていたファイの鞄と、自分の鞄を一緒に掴んで引き寄せた。用意していたレジャーシートは意味がなくなってしまったが、次々と中身を取り出して食事の準備を整える。ファイが持ってきた大きな重箱の包みを解きながら、黒鋼はファイに、そして自分に対して戒めるように言った。
「ここはずっと俺たちの秘密基地だし、俺たちはこれからもずっと友達だろ? それだけ変わらなかったら……いいじゃねぇか」
ただ黙って黒鋼の手元を見ていたファイを真っ直ぐに見た。彼は片方だけの目でパチパチと瞬きを繰り返して、それからすぐにふにゃりといつもの笑顔を見せると、うん、と言って頷いた。
「黒たんはこれからもずっと、オレの一番、大事な人だよ」
溶けかけの砂糖菓子のような笑顔に鋭く胸が痛むことに、黒鋼は気づかないふりをした。
←戻る ・ 次へ→
「にゃんこ、元気にしてるかなー?」
秘密基地への道中、繋いだ手をブラブラと揺らしながら、ファイが声を弾ませた。
彼が躓いて転ばないように注意を払いつつ、黒鋼は「さぁな」と、のんびりとした口調で答える。
「俺たちに見えてねぇだけで、あの辺ウロチョロして遊んでんじゃねぇか?」
「そっかー。オレお化け見えたらよかったのになー」
晴れた空を見上げながら、ファイはその薄桃色の唇を尖らせた。冗談で言ったつもりなのに、彼は黒鋼の言うことを面白いほど素直に真に受けてしまう。そもそもすでに死んでいる存在に対して「元気かな」なんて気にかけるのも可笑しな話ではあるのだが。
「早く行こー! にゃんこ一人ぼっちで遊ぶの飽きちゃってるかも!」
「馬鹿、慌てると転ぶぞ」
「黒たんとおてて繋いでるから大丈夫だもーん!」
嬉しそうににっこり笑って、ファイが歩調を早める。黒鋼は苦笑しながらその歩幅に合わせて先を急いだ。
*
春休みに入ってすぐ、黒鋼とファイは久しぶりに子猫の墓に手を合わせるために、秘密基地へ行くことになった。
以前に比べてなかなか頻繁に行くことが出来なくなってしまったあの場所は、冬の間ともなればなおのこと、足を運ぶのが難しくなってしまう。この休みが終われば二人は受験生という肩書を背負うことになるし、訪れる機会は今よりもぐっと減ってしまうかもしれない。
そうなってしまう前に、一度ちゃんと時間を取って子猫に会いに行こうという話になった。ポツポツと桜が開花するくらいには暖かくなってきたし、弁当を持ち寄ってピクニック気分で二人は裏山に入った。
「シートも持ってきたし、お墓の隣に敷いてご飯食べようねー!」
「それはいいけどよ、おまえの鞄……膨らみすぎじゃねぇか?」
ファイが肩からかけているショルダーバッグは、その形状が変わるほど膨らみ切っていた。準備して来たものは大差ないはずなのに、黒鋼が下げているスポーツバッグには十分に余裕がある。
「だってー、しばらく来れないから、にゃんこのご飯とかおやつもいっぱい持ってきたしー、あとねー、黒たんの分のお弁当もいーっぱい作ってきたのー」
「は? 俺は俺でちゃんと持って来てんぞ」
黒鋼が驚いた顔をすると、ファイは「いいのー」と言ってへにゃっと笑う。
「黒たんの分も作りたかったんだー。オレの卵焼きは甘くて、黒たんのはお醤油味だよー」
彼に料理ができるとは驚きだった。だがよく考えてもみればファイは年老いた祖母と二人暮らしだし、将来は菓子職人になりたいと言っているくらいだから、料理なんて普段からこなしていて当たり前かもしれない。何から何まで母親に任せ切っている自分が、少し恥ずかしくなってしまう。
しかも自分の分だけでなく、味まで変えて二人分作ってきてくれるとは。ファイの手料理、という響きに心の奥がなにやら疼きだす。
そんな黒鋼も、自分の小遣いの中からいつもは絶対に買わないようなチョコやクッキーといった甘い菓子類を買って、鞄に詰めて来ているのだが。もちろん、全てファイにくれてやるためだった。
「黒たん黒たん、鳥居が見えてきたよー! 急ご急ごー!」
「分かったから走るなって」
かろうじて人が通れる程度の山道は、小枝や硬い葉っぱが張り出している。地面だってオウトツが激しいし、ファイが転ぶ前に自分が転んでなんかいられない。ファイはそんなことお構いなしでぐいぐいと繋いだ手を引っ張ってくる。この感覚は、生きて元気だった頃の鋼丸との散歩を思い起こさせて、黒鋼はやっぱり苦笑するしかなかった。
そうこうしているうちに、黒鋼とファイは大きな石の鳥居に到着した。
けれど、すぐに二人揃ってハッと息をのみ、咄嗟にその太い柱の陰に身を隠す。改めてそっと顔を半分だけ覗かせて見れば、そこには『侵入者』の姿があった。
「く、黒たん……」
「しっ! 黙ってろ……ちょっと下がるぞ」
「う、うん……」
戸惑った表情を浮かべるファイの手を引いたまま、二人は登って来た山の斜面を這うようにして数歩後戻りする。ちょうど侵入者の様子が窺えるくらいに顔を出し、息を殺した。
彼らは、神木の側に二人いた。
髪を茶色に脱色した、今風の若い男女。よく観察すると大学生くらいの印象を受ける。あまり見かけない顔だが、観光客というわけでもなさそうだ。それは二人の会話から窺い知れた。
「久しぶりに帰って来たけどさー、マジでくっそ田舎すぎー」
「だなぁ。ここも結局、なーんもないしな」
だぼついたパーカーにジーンズ姿の男が、ポケットに手を入れたまま神木に蹴りを入れる。その瞬間ファイが声を出しかけるのを、肩を抱き寄せ口元に手を押し当ててどうにか封じた。
「キャハハハ! ちょっとー! 虫とか落っこちてきたらどうすんのよー!」
白いフリルシャツにデニムのミニスカートを履いた女が、痛んだ長い髪を揺らしながら下品な笑い声を上げる。
「おれらのガキの頃はさー、ここは絶対に入っちゃ駄目ですーって言われて、ちょっと怖かったじゃん? 親とかもバケモンがいるから入るなとか脅かしてきて」
「あー、アタシもよく言われてたー。バケモンとかまぢウケる」
「なー? 入ってみたらなーんもねーじゃんここ。バカでかい木しかねぇーの!」
どうやら彼らはこの町の出身らしい。おそらく進学か就職に伴って町を出て、里帰りでもしているのだろう。二人も自分たちと同じようにここへの立ち入りを固く禁じられて育ったようだが、当時は踏み込む勇気がなかったということか。
身動きが取れない状態で気配を殺し続ける黒鋼とファイに気付かないまま、男女は神木の周りをウロウロしながらくだらない昔話を続けている。
最後に来たときに墓に供えた花はすっかり干からびて、彼らが知らず蹴散らしていた。腕の中で、ファイの身体がビクリと跳ねる。
「お墓……踏んでる……」
傷ついた表情で、彼は片方だけの青い瞳に涙を浮かべた。それを見て、黒鋼の中に沸々と怒りの感情が湧き上がってきた。
今まではとにかく早くどこかへ消えてくれという思いしかなかったけれど、ファイの泣きそうな顔を見てようやく、自分たちにとっての聖域を穢されているのだという実感が芽生えた。
罰が下るような真似は、黒鋼だった散々してきた。でも、彼らの行いは決して許せるものではない。
それでも黒鋼はまだ冷静だった。今にも飛びかかって殴りつけてやりたい感情は渦巻いているが、ここで大きな騒ぎを起こすのは避けたほうがいい。下手に恨みを買えば自分たちがここに出入りしていることを公にされる可能性がある。
それは、禁じられた場所へ踏み込んでいたことを咎められるのが怖いからではない。ただ守りたいと思ったからだった。ファイと育んだ大切な思い出の場所を。
そしてこれからも、ここで二人だけの時間を過ごしたいから。
黒鋼は必死で思考を巡らせた。自分たちで手出しができないとなると、大人の力を借りる必要がある。例えば今すぐに山を下りて、たまたま裏山に見知らぬ男女が入っていくのを見た、と適当に誰かを捕まえて報告すれば。
そうすればきっと、余所者が山を荒らしに入った(実際はこの町の出身らしいが)と大騒ぎになるに違いない。その意識は黒鋼にとって忌むべきものではあるが、今は逆手に取る以外に方法がなかった。
黒鋼はファイから身体を離し、細い手首を掴んだ。いったん下りるぞ、と耳打ちしたが、彼は男女がいる方を呆然とした様子で見つめたまま、ピクリとも動かなかった。
「おい、どうした」
何かがおかしい。黒鋼も、咄嗟に視線を彼らに戻す。そして目を見開いて唖然とした。
神木に背中を預けた女に、男が覆いかぶさってキスをしている。それはただ触れ合うだけのものではなく、舌と舌を絡め合う深いものだった。
「ぁ、ん……やだぁ……こんな汚いとこでするのぉ……?」
虫に刺されたらどうすんのよ、と掠れた声で言う女に、男がいやらしく笑みを浮かべる。
「いいじゃん。思い出作りっつーの?」
「もう……バカなんだからぁ……」
あん、と女が切なげに表情を歪めて甘い声を漏らす。男の手が服の上から女の乳房を掴み上げて揉みしだき、首筋に舌を這わせるのを黒鋼とファイはただ凍り付いたまま見つめていた。
身体が動かなかった。さっきまでは確かに回っていたはずの思考が停止している。
女は男の首に両腕を回し、男は女のシャツをたくし上げた。白い肌と女物の下着が、ざわめく木々の隙間から零れる日差しの下で露わになる。交わりが深まるほどに、女の口からは甘えたような上擦った声があがって。
耳を塞ぎたいのに、目を逸らしたいのに、瞬きすら出来なかった。何を見ているんだろう。彼らは何をしているんだろう。分かっている。
あれは、セックスだ。
男と女がするものだ。知識としては知っている。でも、現実を受け入れることができない。ただ心臓が痛いほど高鳴っていた。女の肌から、声から、意識を逸らすことができなかった。身体が熱い。吐き気がするほど嫌な気分なのに。どうして。
男が女の太腿に手を這わせた。ミニスカートをたくし上げようとしたところで、黒鋼はようやく我に返った。そうだ。ここにいるのは自分だけではないのだった。ファイに、こんなものを見せ続けるわけには。
その時だった。
「もう帰って!!」
まだ幾らか少女めいた甲高さを残す声が、痛々しく辺りに木霊した。
同時に、ファイが足元にあった小石を掴んで、神木に身を預ける男女に投げつける。それはどこからともなく聞こえてきた声に、身体をビクつかせた男の背中にヒットして「いてぇッ!!」という悲鳴が大きく響いた。黒鋼は咄嗟に細い身体を抱えて側の深い茂みの中に飛び込んだ。
その瞬間、まるでファイの悲痛な叫びに応じたかのように神木の枝がざわめき、辺りに強い風を起こす。ざわざわという激しい木々の音が、黒鋼とファイが茂みに飛び込む音と溶け合って、上手く位置を誤魔化すことができた。
それは、なにか見えない力が働いたとしか思えない、不思議な現象だった。
「だ、誰だ!? なんだよ今の!?」
「ねぇ、やっぱここヤバイんじゃない!?」
青褪めた表情で適当に乱れた衣服を戻し、女がパニックを起こしたように叫ぶ。忙しなく辺りを見回す男はすっかりへっぴり腰になっていて、その表情も無様に血の気が引いていた。
黒鋼は小動物のように震え続けるファイを強く抱きしめたまま、茂みの中に身を潜めて彼らの動向を見守った。
やがて二人はしきりに「ヤバイ、ヤバイ」と連呼しながら、鳥居をくぐって山を下りて行った。
*
本当なら今頃――。
子猫の墓に手を合わせ、持ってきた弁当をたらふく食って、楽しい時間を過ごしているはずだったのに。
黒鋼は踏み荒らされた墓の前で泣くファイの背中を、唇を噛み締めながら見つめていた。声も上げず、堪えるように身を震わせる姿が、子猫を喪ったあの雨の日のことを思い出させる。あのときもここで、彼はこうやって静かに泣いていた。
笑いたくない時に笑って、声を上げて泣きたいのを押し殺して。どうしてファイはこんな風に我慢ばかりするのだろう。その強さが黒鋼の目には儚く映る。だから胸が掻き毟られるように痛んで仕方ない。
「なぁ」
何か声をかけてやらなくては。そう思って切り出してはみたけれど、言葉にならなかった。これでは本当に、あの雨の日と同じだ。あれから何年も経っているはずで、自分はもう中学生で、少しくらいは成長しているはずなのに。情けなさに唇を噛み締めた。
あの侵入者たちへの怒りもまだおさまってはいない。衝撃的な光景が頭から離れず、こんな時だというのに、思い出すとまたあの不可解な熱が身体の奥から這い出してきそうだった。
「くそ……」
小さく吐きだして、黒鋼は頭をガリガリと掻き毟ると地面にどっかりと腰を下ろした。あぐらをかいて、神木に背を預ける。苛立ちに震える息を吐き出すと、手の甲でごしごしと右目を拭いたファイが振り向いた。赤く充血した目が黒鋼を見て、それからすぐに隣にちょこんと腰を下ろす。
「落ち着いたか?」
「……ん」
「悪かった」
項垂れながら謝罪すると、片目を僅かに見開いたファイが黒鋼を見た。
「どうして謝るの?」
「……いや……俺がもっと早く、おまえを引っ張って山を下りてりゃ……あんな……」
あんないかがわしい光景まで、見せられることにはならなかった。
生まれて初めて直に見た男女の情交は、未遂に終わったもののショックが大きかった。黒鋼でさえ戸惑っているのだから、ファイにはもっと衝撃が強かったのではないか。
黒鋼は、顔を俯けて抱え込んだ両膝に視線を落とすファイを横目で見やる。彼はあの光景をどう捉えたのか、そればかりが気になった。ファイは同年代の者たちと比べると、まだどこか乳臭いというか、このくらいの年齢なら普通に理解しているようなことでも、分かっていないのではないか、なんて。
馬鹿にしていると思われても仕方のない考えだけれど、黒鋼はそうであってほしいと願っている自分がいることに気がついた。
「……なぁ」
「ん」
「その……さっきのことだけどよ……」
そこまで切り出しておいて、黒鋼は口を噤んだ。あの光景を見てどうだった、なんて。どんな顔をして聞けばいいのだろう。あまりにも野暮で滑稽な問いかけだということに気がついて、自分に呆れた。
この話はするべきじゃない。自分がこうして塞ぎこんでいたら、いつまで経っても忘れることなんかできないし、一刻も早く空気を変えてファイを元気づけなくては。
「時間食っちまったな。早いとこ飯でも」
一方的に話を終わらせようとした黒鋼だったが、か細い声で「黒たん」と呼ばれて、その先を続けることができなかった。
「どうした?」
「オレこそごめんね」
「……なんだよ。おまえは何も悪くねぇだろ」
「だって……じっとしてなきゃいけなかったのに、オレ、絶対にしちゃいけないことしちゃった……あの男の人、怪我しちゃってたらどうしよう……」
だけどね、と言うファイの声は可哀想なほど掠れていた。
「なんか……なんかね、やだったの……ぐちゃぐちゃになりそうで、怖かった……」
「……うん」
「神様に怒られても、罰があたっても、ここはオレたちだけの秘密基地だもん」
抱え込んだ膝に顔を埋めて、ファイは肩を震わせた。それを見ていると、一緒に泣いてしまいたい気持ちになる。
ここはファイが見つけた場所。
大きくなったらここに住むんだと、今はもう入れなくなってしまった神木の空洞の中で、幼い彼は無邪気に笑っていた。ずっと変わらずに、何もかもがそのままの形でそこにあり続けるのだと信じて。
神木の入り口が、成長した二人を拒んだように。
いつかここは自分たちだけの場所ではなくなるのかもしれない。失くしてしまうのかもしれない。男と女の形をした二つの異物が、こんなにも簡単に彼を傷つけたみたいに。
黒鋼は泣き続けるファイに手を伸ばした。丸くなっている背に触れると、しゃくり上げる振動が直に伝わる。気の利いたジョークの一つでも言えれば、ファイはすぐにでも笑ってくれるかもしれない。けれど、黒鋼にはそんな真似は出来そうもない。
ならせめて抱きしめたかった。優しくしてやりたかった。そっと抱きしめて、いつもみたいに柔らかな金髪を思いっきり撫でて。それから。
それから――?
黒鋼は、何かとてつもなく嫌なものが胸の奥から込み上げてきそうになるのを感じて、思わず手を引っ込めた。掻き消そうとしていた、あの男女の絡み合う光景が脳裏に甦る。唾液を滴らせながら交わる唇の赤が鮮明で、その嫌悪感に吐き気が込み上げた。
何を戸惑う必要があるのだろう。彼を抱きしめることに、触れることに。
自分たちはあの二人とは違うし、ファイは大切な幼馴染であり親友だ。今までもそうだったように、きっとこれからもずっと。
なのにどうしてか、今ファイに触れてしまったら、あの連中と同じになってしまうような気がした。それがどうしてなのか考えるより先に、ふと胸に何かが引っかかっていることに気付く。
そう、ファイは友達。黒鋼にとって大切な親友。それが、大きなしこりのように喉の奥に痞えていた。異物のように。
黒鋼はファイから目を逸らし、奥歯を噛みしめた。頭が混乱している。心の中が、直に手で掻き回されているみたいにぐちゃぐちゃだった。
考えるな。
今は何も。きっと考えてもすぐに出る答えでもない。おかしなものを見てしまったから、まだ気持ちの整理がついていないだけだ。全部全部、あの連中のせいだ。
だから、忘れよう。
黒鋼は勢いよく息を吐き出すと、手の平で自分の膝を思い切り叩いた。パン、という音は思いのほか大きく辺りに響き渡り、驚いたファイが顔を上げる。その濡れた瞳を真っ直ぐに見返すと、黒鋼は笑った。
「飯食うぞ」
「黒たん……?」
「いつまでも湿気たツラしてんじゃねぇ。腹減ったからたまご焼き食わせろ」
そうだ。最初から何もなかったように。無理やりにでも美味いものを食って腹を満たせば、きっと余計な考えも不安も、どこかに消え失せる。
黒鋼は地面に放られていたファイの鞄と、自分の鞄を一緒に掴んで引き寄せた。用意していたレジャーシートは意味がなくなってしまったが、次々と中身を取り出して食事の準備を整える。ファイが持ってきた大きな重箱の包みを解きながら、黒鋼はファイに、そして自分に対して戒めるように言った。
「ここはずっと俺たちの秘密基地だし、俺たちはこれからもずっと友達だろ? それだけ変わらなかったら……いいじゃねぇか」
ただ黙って黒鋼の手元を見ていたファイを真っ直ぐに見た。彼は片方だけの目でパチパチと瞬きを繰り返して、それからすぐにふにゃりといつもの笑顔を見せると、うん、と言って頷いた。
「黒たんはこれからもずっと、オレの一番、大事な人だよ」
溶けかけの砂糖菓子のような笑顔に鋭く胸が痛むことに、黒鋼は気づかないふりをした。
←戻る ・ 次へ→
やきもち
『俺たち……別れないか……』
『どうして……? 太郎さん……どうしてなの?』
『もう君とは終わりにしたいんだ……すまない花子……』
『いやっ……嫌よ! あの女ね!? あの女がアナタをたぶらかしたのね……!?』
『さようなら……』
『待って……! させないわ……そんなことさせない……』
『花子……? 花子!? ちょ、おま、やめろ! そのチェーンソーを仕舞うんだ!!』
『アナタは私のものよ……誰かに取られるくらいなら……!!』
『はなこ~~~~~っ!!』
ギュィィィィンッ! グシャァ……!
「うひゃぁ~~っ!!」
ファイは悲鳴を上げつつ、両手で顔を隠した。
テレビ画面からは、今も絶えず『ズシャァァァ!』とか、『ゴリゴリッ』というグロテスクな音が聞こえている。ぎゅう、と目を閉じたまま、手探りでテレビを主電源ごとバチョンと切った。
「はー、こわかったー……」
今はただ黒いだけで、何も映さない画面にホッと胸を撫で下ろす。ただなんとなく眺めていた深夜ドラマだったが、まさかこんな惨劇が繰り広げられる内容だったとは……。
「女の人ってこわいな~」
ファイは茶の間の掘り炬燵の中で足をブラブラさせつつ、食べかけのミカンを口に放り込んだ。剥いてから微妙に時間が経過していたせいで、皮がカピカピになっている。すっかり冷め切ったお茶でそれを飲み干しつつ、柱にかかった古時計を見上げると、もう随分と遅い時間だった。
自分が寝坊すれば、毎朝迎えに来てくれる黒鋼まで遅刻させてしまう。ファイは慌てて炬燵から抜け出し、湯飲みを台所に片付けると歯を磨いて自室に引っ込んだ。
*
季節は冬を迎えていた。
赤や黄色に色づいていた木々の葉が散ってしまうと、冬の訪れはあっという間で、なんだか小さな頃よりも季節が過ぎるのを早く感じるようになったような気がする。
その日の朝は、いつの間にか降っていたらしい雪が辺り一面に積もり、真っ白になっていたことで思い切りテンションが上がった。深夜に惨劇ドラマを見ていたときから、今夜はいつもより冷えるな、とは思ってたけれど、まさか一夜にして世界が様変わりしているとは。
けれどテンションが上がったのも束の間、登下校は散々なものだった。
なぜなら雪や雨が降った日は、自転車での通学が出来ないからだ。ファイは乗り物に少々弱い。特に、バスのあの独特の臭いや揺れは苦手だった。
朝っぱらからバス酔いでフラフラになって、その日は一日中気分が優れなかった。黒鋼がずっと心配して寄り添っていてくれたけど、帰りもこんな調子かと思うと、申し訳なさ以上に憂鬱な気持ちが勝る。
そんな中、ファイはあるちょっとした光景を見たことにより、さらに気落ちしていた。
「おい、一人で勝手に行くなって」
背後から黒鋼の少し苛立ったような声がかかった。けれどファイは何も答えずにズンズン先を行く。一日中降っていた雪はもうすっかり止んだが、その分さらに積もった。一歩一歩が酷く重く感じるのは、膝丈まで積もった雪に足を取られるせいだった。
バスから降りた頃には、やっぱり胸が重苦しくて頭が痛かった。吐き気さえして、バス停から自宅までの道のりが、やけに遠い。
「転んでも知らねぇぞ」
どこか投げやりにも聞こえた黒鋼の声に、ファイはむっとして振り向いた。腕を組んだ状態で、三、四メートルほど離れた場所に黒鋼は立ち尽くしていた。
黒いコートに赤いマフラーをした彼の足元を見ると、確かにファイの膝下はすっかり雪に埋まっているはずなのに、黒鋼の場合せいぜい脛の中腹辺りまでしか埋まっていない。それがまたやけに腹立たしかった。
「大丈夫だもん。黒たん先に行けばいいじゃん!」
「なぁ……おまえさっきから何そんな不貞腐れてんだよ」
「腐ってないもん。新鮮だもん」
「そっちの腐ってるじゃねぇって」
黒鋼がその眉間の皺を深めると、ただ怒っているようにしか見えない。けれど、ファイには彼が怒っているのかそうでないのかの見分けが、ちゃんとつく。彼は今、とても困っているのだ。
ファイは再び黒鋼に背を向けると、足を前へ進めた。数秒置いて、背後でも雪を踏みしめる音が聞こえる。
「何かやっちまったなら言え。じゃなきゃわかんねぇだろ」
「……別に」
そうじゃない、と言いたくて口篭った。ファイにだって、自分がどうしてこんな風に怒っているのか、面白くないのかが分かっていないのだ。だから、言いようがない。
ただ、さっきから頭の中をチラチラと過ぎる光景があった。あれを見たときから、この嫌な感じがおさまらない。
それは放課後、部活が終わったあとのことだった。
いつものように先に終わったファイは、体育館まで黒鋼を迎えに行った。
剣道部の部員数はあまり多くはない。ほとんどがバスケ部だとかサッカー部だとか、野球部に部員が集中しているからだった。
そんな中で、広い体育館の一角で竹刀を振るう黒鋼は誰よりも大きくて、目立つ存在だ。彼に憧れて、これでも多少は部員が増えたのだという。
ファイが『その光景』を見たのは初めてで、たまたまのことだった。
時間も忘れて素振りの稽古をしていた黒鋼に、ファイが声をかけようとしたそのときだった。一人の女子が、黒鋼に歩み寄った。背の低い彼女が黒鋼を見上げ、白いタオルを差し出しながら何事か話しかける。黒鋼はそれを自然な動作で受け取ると、汗ばんだ肌を拭った。
その黒鋼の汗が染みたタオルを、彼女がまた自然な動作で受け取った。微かに口元だけを綻ばせ、黒鋼が「悪いな」と言うのが唇の動きでわかった。
チクリと胸が痛んだ気がして、心の中がざわざわとした胸騒ぎに支配された。なぜかは、分からないけれど。受け取ったタオルを胸にぎゅっと抱いている女子が、とても幸せそうに見えて。
壁に寄りかかって俯いていたファイに、黒鋼が声をかけてくれたけれど、なぜかその顔を見た瞬間から、胸がムカムカして仕方がないのだ。
面白くなかった。自分の中のそんな感情に、明確な理由や意味づけが出来ないことが、ますますファイを苛立たせている。これと似たようなことは、以前にもあった。同じ美術部の先輩が、黒鋼を好きだと言ったときだ。
あのときはとても驚いた。テレビで見るような恋人だとか、好きな人がどうのこうのといった話は、自分達にとって全く別の世界のような気がしていたから。
ファイは優しくて綺麗な先輩がとても好きだったから、彼女が黒鋼を好きになってくれたことが嬉しかった。けれど、もし二人がそういう関係になったら、今までみたいに一緒にはいられなくなるのかと思うと、寂しかった。
だから先輩にはとても申し訳なかったけど、黒鋼にそういう気持ちがないと知ったとき、なぜかほっとした。そんな自分を凄く嫌な人間だと思いはしたけれど。
だが今回は、あれと似ているようで違うような気もした。だってあのときは、こんな風に嫌な気持ちにはならなかったから。
顔くらいは見たことがあったかもしれないが、自分の知らない相手に向かって黒鋼があんな風に笑うのが、なんとなく。
そんなことを考えながら歩いていたら、次の瞬間ファイは雪に足を取られて、思い切り体勢を崩した。
「だから言わんこっちゃねぇ」
降り積もった雪がクッションになってくれることを、黒鋼は知っていたのだろう。慌てるでもなくファイの傍らへ寄り添い、腕を掴んできた。ぺしゃんと座り込んでしまったファイは、引き上げようとするその腕を振り払った。
「おい」
流石にむっとしたのか、黒鋼が低い声をさらに低くする。大人の男の人の声だなぁと、なんとなく思った。
ファイは俯いたまま唇を尖らせた。我侭はいけないことだと知っているのに、こんな風に思うのはいけないことだと思うのに。ふと、深夜に見たあの男女のドラマを思い出した。女の人は、本当に恐いなと思ったけれど、あの気持ちが今の自分には分かるような気がした。
「あの女の子が、黒たんをたぶらかしたの?」
「は?」
「そうなのー……?」
見上げると、腰を屈めている黒鋼の口が「は」という形に開かれていた。彼は幾度か忙しなく瞬きをして、それからしゃがみ込んだ。
「久しぶりにてめぇの言ってることがわかんねぇぞ」
手袋をしていない黒鋼の指先が、少し赤くなっていた。その指先が、ファイの頬についた雪を優しく払う。冷たい手だった。
あの女子が転んでも、こんな風にするのだろうか。黒鋼は優しいから、きっとそうするんだろう。胸がチクチクと痛んで、少し泣きたくなってくる。
そういえばあのドラマの中で、花子という女の人はなんて言ってたかなと、ファイは思い出そうとした。確か彼女は……。
「そんなことさせない……」
「あ?」
そうだ、こんなようなことを言って、それから……。
「えい!」
「わぶっ!!」
ファイはチェーンソーの代わりに、思い切り掴んだ雪を黒鋼の顔にぶつけた。サラサラとしたそれは、ファイの小さな手からほとんどが零れ落ちてしまったけれど、それでも黒鋼の顔面めがけて煙のようにふりかかった。
咄嗟のことに驚いた黒鋼が、ペタンと尻餅をついた。顔中に白い雪をくっつけて、目をパチクリさせている。意外に長い睫毛に粉雪が付着して、キラキラと輝いていた。思わず、ぷっと噴出して笑ってしまう。
「あはははは! 黒たんの顔まっしろー!」
「……てめぇ」
拳を握って奮わせる黒鋼に、なぜだか可笑しくて笑いが止まらなかった。膝立ちでにじにじと側に寄って、今度は自分が彼の顔を綺麗にしてやる番だった。ファイは手袋をしていたから、指先が赤くなっているかどうかは分からない。その手で、ぱっぱっと払ってやった。
「だってー、オレ持ってないもん。チェーンソーなんて。触ったこともないよー」
「だから、なんなんだよさっきから……」
「あ! あなたは私のものよって言うの忘れた!」
「はぁ?」
「黒たんはオレのー……」
オレのー、オレのー、というのを何度か繰り返す。その先が言えない。黒鋼はこんな風にいつも一緒にいてくれるけど、だからってファイだけのものではない。浮上したと思った気持ちが、また少し下降した。
「オレ……オレのことよく分かんないやー……」
しょぼんとして俯いたファイに、黒鋼は溜息を零した。それから、ゴソゴソと自分の赤いマフラーを外すとファイの首にかけた。
「?」
「俺にもわかんねぇよ。おまえは昔っから妙なことばっか言いやがるからな」
「わわ、黒たんなにしてんの」
黒鋼はファイの首にかけたそのマフラーを、今度はグルグルと巻き始めた。ファイはファイで白いマフラーをすでにしていたから、おかげで鼻まですっぽり包まれてしまう。
「むぐー」
「鼻真っ赤にしてんな。見てるだけで寒ぃんだよ」
「黒たんは……」
「俺は平気だ」
マフラーからは黒鋼の匂いがして、ファイはなぜか顔が熱くなった。マフラーで包まれているからじゃなく、頬が熱い。思い切り走り出したいような気がしたけれど、こんな足場じゃそれは叶わない。
「おら、立て。いい加減帰るぞ」
「う、うん」
頷くと、腕を掴まれた。今度は振り払わない。先に立ち上がった黒鋼に引っ張られて、ファイもようやく地に足をつけた。ただ少し勢いがつきすぎて、黒鋼の胸に体当たりしてしまった。彼は両腕でしっかりと受け止めて、それからファイの頭をグリグリと撫でた。なんだかのぼせてしまいそうだった。身体中どこもかしこも熱くて、胸が苦しい。
そのまま、二人は手を繋いで並んで歩き出した。黒鋼の手を温めたくて、いつもよりぎゅうぎゅうと強く握った。
いつの間にか、あのムカムカとした気持ちは消えていた。結局、ファイは黒鋼を独り占めしたくて仕方がなかったのだ。けれど、なぜそう思うのかが、どうしても分からなかった。
「黒ぽん……」
「なんだよ」
「手、これからもずっと繋いでていい?」
ファイは、こうやってただ繋いでくれるのを待つだけじゃなく、自分もこの手を離さなければいいのだと思った。そうしたら、この手は他に誰とも繋げない。
いつかは繋いでいないほうの手を誰かが取るかもしれないけれど、そのときがきたら、もう我侭を言うのは止めようと思った。でも、きっとまだずっと先のことだから。
黒鋼はすぐには返事をせず、なぜか口をゴニョゴニョとさせていた。頬が赤かった。それから、「約束したろ、馬鹿」と言った。
←戻る ・ 次へ→
『俺たち……別れないか……』
『どうして……? 太郎さん……どうしてなの?』
『もう君とは終わりにしたいんだ……すまない花子……』
『いやっ……嫌よ! あの女ね!? あの女がアナタをたぶらかしたのね……!?』
『さようなら……』
『待って……! させないわ……そんなことさせない……』
『花子……? 花子!? ちょ、おま、やめろ! そのチェーンソーを仕舞うんだ!!』
『アナタは私のものよ……誰かに取られるくらいなら……!!』
『はなこ~~~~~っ!!』
ギュィィィィンッ! グシャァ……!
「うひゃぁ~~っ!!」
ファイは悲鳴を上げつつ、両手で顔を隠した。
テレビ画面からは、今も絶えず『ズシャァァァ!』とか、『ゴリゴリッ』というグロテスクな音が聞こえている。ぎゅう、と目を閉じたまま、手探りでテレビを主電源ごとバチョンと切った。
「はー、こわかったー……」
今はただ黒いだけで、何も映さない画面にホッと胸を撫で下ろす。ただなんとなく眺めていた深夜ドラマだったが、まさかこんな惨劇が繰り広げられる内容だったとは……。
「女の人ってこわいな~」
ファイは茶の間の掘り炬燵の中で足をブラブラさせつつ、食べかけのミカンを口に放り込んだ。剥いてから微妙に時間が経過していたせいで、皮がカピカピになっている。すっかり冷め切ったお茶でそれを飲み干しつつ、柱にかかった古時計を見上げると、もう随分と遅い時間だった。
自分が寝坊すれば、毎朝迎えに来てくれる黒鋼まで遅刻させてしまう。ファイは慌てて炬燵から抜け出し、湯飲みを台所に片付けると歯を磨いて自室に引っ込んだ。
*
季節は冬を迎えていた。
赤や黄色に色づいていた木々の葉が散ってしまうと、冬の訪れはあっという間で、なんだか小さな頃よりも季節が過ぎるのを早く感じるようになったような気がする。
その日の朝は、いつの間にか降っていたらしい雪が辺り一面に積もり、真っ白になっていたことで思い切りテンションが上がった。深夜に惨劇ドラマを見ていたときから、今夜はいつもより冷えるな、とは思ってたけれど、まさか一夜にして世界が様変わりしているとは。
けれどテンションが上がったのも束の間、登下校は散々なものだった。
なぜなら雪や雨が降った日は、自転車での通学が出来ないからだ。ファイは乗り物に少々弱い。特に、バスのあの独特の臭いや揺れは苦手だった。
朝っぱらからバス酔いでフラフラになって、その日は一日中気分が優れなかった。黒鋼がずっと心配して寄り添っていてくれたけど、帰りもこんな調子かと思うと、申し訳なさ以上に憂鬱な気持ちが勝る。
そんな中、ファイはあるちょっとした光景を見たことにより、さらに気落ちしていた。
「おい、一人で勝手に行くなって」
背後から黒鋼の少し苛立ったような声がかかった。けれどファイは何も答えずにズンズン先を行く。一日中降っていた雪はもうすっかり止んだが、その分さらに積もった。一歩一歩が酷く重く感じるのは、膝丈まで積もった雪に足を取られるせいだった。
バスから降りた頃には、やっぱり胸が重苦しくて頭が痛かった。吐き気さえして、バス停から自宅までの道のりが、やけに遠い。
「転んでも知らねぇぞ」
どこか投げやりにも聞こえた黒鋼の声に、ファイはむっとして振り向いた。腕を組んだ状態で、三、四メートルほど離れた場所に黒鋼は立ち尽くしていた。
黒いコートに赤いマフラーをした彼の足元を見ると、確かにファイの膝下はすっかり雪に埋まっているはずなのに、黒鋼の場合せいぜい脛の中腹辺りまでしか埋まっていない。それがまたやけに腹立たしかった。
「大丈夫だもん。黒たん先に行けばいいじゃん!」
「なぁ……おまえさっきから何そんな不貞腐れてんだよ」
「腐ってないもん。新鮮だもん」
「そっちの腐ってるじゃねぇって」
黒鋼がその眉間の皺を深めると、ただ怒っているようにしか見えない。けれど、ファイには彼が怒っているのかそうでないのかの見分けが、ちゃんとつく。彼は今、とても困っているのだ。
ファイは再び黒鋼に背を向けると、足を前へ進めた。数秒置いて、背後でも雪を踏みしめる音が聞こえる。
「何かやっちまったなら言え。じゃなきゃわかんねぇだろ」
「……別に」
そうじゃない、と言いたくて口篭った。ファイにだって、自分がどうしてこんな風に怒っているのか、面白くないのかが分かっていないのだ。だから、言いようがない。
ただ、さっきから頭の中をチラチラと過ぎる光景があった。あれを見たときから、この嫌な感じがおさまらない。
それは放課後、部活が終わったあとのことだった。
いつものように先に終わったファイは、体育館まで黒鋼を迎えに行った。
剣道部の部員数はあまり多くはない。ほとんどがバスケ部だとかサッカー部だとか、野球部に部員が集中しているからだった。
そんな中で、広い体育館の一角で竹刀を振るう黒鋼は誰よりも大きくて、目立つ存在だ。彼に憧れて、これでも多少は部員が増えたのだという。
ファイが『その光景』を見たのは初めてで、たまたまのことだった。
時間も忘れて素振りの稽古をしていた黒鋼に、ファイが声をかけようとしたそのときだった。一人の女子が、黒鋼に歩み寄った。背の低い彼女が黒鋼を見上げ、白いタオルを差し出しながら何事か話しかける。黒鋼はそれを自然な動作で受け取ると、汗ばんだ肌を拭った。
その黒鋼の汗が染みたタオルを、彼女がまた自然な動作で受け取った。微かに口元だけを綻ばせ、黒鋼が「悪いな」と言うのが唇の動きでわかった。
チクリと胸が痛んだ気がして、心の中がざわざわとした胸騒ぎに支配された。なぜかは、分からないけれど。受け取ったタオルを胸にぎゅっと抱いている女子が、とても幸せそうに見えて。
壁に寄りかかって俯いていたファイに、黒鋼が声をかけてくれたけれど、なぜかその顔を見た瞬間から、胸がムカムカして仕方がないのだ。
面白くなかった。自分の中のそんな感情に、明確な理由や意味づけが出来ないことが、ますますファイを苛立たせている。これと似たようなことは、以前にもあった。同じ美術部の先輩が、黒鋼を好きだと言ったときだ。
あのときはとても驚いた。テレビで見るような恋人だとか、好きな人がどうのこうのといった話は、自分達にとって全く別の世界のような気がしていたから。
ファイは優しくて綺麗な先輩がとても好きだったから、彼女が黒鋼を好きになってくれたことが嬉しかった。けれど、もし二人がそういう関係になったら、今までみたいに一緒にはいられなくなるのかと思うと、寂しかった。
だから先輩にはとても申し訳なかったけど、黒鋼にそういう気持ちがないと知ったとき、なぜかほっとした。そんな自分を凄く嫌な人間だと思いはしたけれど。
だが今回は、あれと似ているようで違うような気もした。だってあのときは、こんな風に嫌な気持ちにはならなかったから。
顔くらいは見たことがあったかもしれないが、自分の知らない相手に向かって黒鋼があんな風に笑うのが、なんとなく。
そんなことを考えながら歩いていたら、次の瞬間ファイは雪に足を取られて、思い切り体勢を崩した。
「だから言わんこっちゃねぇ」
降り積もった雪がクッションになってくれることを、黒鋼は知っていたのだろう。慌てるでもなくファイの傍らへ寄り添い、腕を掴んできた。ぺしゃんと座り込んでしまったファイは、引き上げようとするその腕を振り払った。
「おい」
流石にむっとしたのか、黒鋼が低い声をさらに低くする。大人の男の人の声だなぁと、なんとなく思った。
ファイは俯いたまま唇を尖らせた。我侭はいけないことだと知っているのに、こんな風に思うのはいけないことだと思うのに。ふと、深夜に見たあの男女のドラマを思い出した。女の人は、本当に恐いなと思ったけれど、あの気持ちが今の自分には分かるような気がした。
「あの女の子が、黒たんをたぶらかしたの?」
「は?」
「そうなのー……?」
見上げると、腰を屈めている黒鋼の口が「は」という形に開かれていた。彼は幾度か忙しなく瞬きをして、それからしゃがみ込んだ。
「久しぶりにてめぇの言ってることがわかんねぇぞ」
手袋をしていない黒鋼の指先が、少し赤くなっていた。その指先が、ファイの頬についた雪を優しく払う。冷たい手だった。
あの女子が転んでも、こんな風にするのだろうか。黒鋼は優しいから、きっとそうするんだろう。胸がチクチクと痛んで、少し泣きたくなってくる。
そういえばあのドラマの中で、花子という女の人はなんて言ってたかなと、ファイは思い出そうとした。確か彼女は……。
「そんなことさせない……」
「あ?」
そうだ、こんなようなことを言って、それから……。
「えい!」
「わぶっ!!」
ファイはチェーンソーの代わりに、思い切り掴んだ雪を黒鋼の顔にぶつけた。サラサラとしたそれは、ファイの小さな手からほとんどが零れ落ちてしまったけれど、それでも黒鋼の顔面めがけて煙のようにふりかかった。
咄嗟のことに驚いた黒鋼が、ペタンと尻餅をついた。顔中に白い雪をくっつけて、目をパチクリさせている。意外に長い睫毛に粉雪が付着して、キラキラと輝いていた。思わず、ぷっと噴出して笑ってしまう。
「あはははは! 黒たんの顔まっしろー!」
「……てめぇ」
拳を握って奮わせる黒鋼に、なぜだか可笑しくて笑いが止まらなかった。膝立ちでにじにじと側に寄って、今度は自分が彼の顔を綺麗にしてやる番だった。ファイは手袋をしていたから、指先が赤くなっているかどうかは分からない。その手で、ぱっぱっと払ってやった。
「だってー、オレ持ってないもん。チェーンソーなんて。触ったこともないよー」
「だから、なんなんだよさっきから……」
「あ! あなたは私のものよって言うの忘れた!」
「はぁ?」
「黒たんはオレのー……」
オレのー、オレのー、というのを何度か繰り返す。その先が言えない。黒鋼はこんな風にいつも一緒にいてくれるけど、だからってファイだけのものではない。浮上したと思った気持ちが、また少し下降した。
「オレ……オレのことよく分かんないやー……」
しょぼんとして俯いたファイに、黒鋼は溜息を零した。それから、ゴソゴソと自分の赤いマフラーを外すとファイの首にかけた。
「?」
「俺にもわかんねぇよ。おまえは昔っから妙なことばっか言いやがるからな」
「わわ、黒たんなにしてんの」
黒鋼はファイの首にかけたそのマフラーを、今度はグルグルと巻き始めた。ファイはファイで白いマフラーをすでにしていたから、おかげで鼻まですっぽり包まれてしまう。
「むぐー」
「鼻真っ赤にしてんな。見てるだけで寒ぃんだよ」
「黒たんは……」
「俺は平気だ」
マフラーからは黒鋼の匂いがして、ファイはなぜか顔が熱くなった。マフラーで包まれているからじゃなく、頬が熱い。思い切り走り出したいような気がしたけれど、こんな足場じゃそれは叶わない。
「おら、立て。いい加減帰るぞ」
「う、うん」
頷くと、腕を掴まれた。今度は振り払わない。先に立ち上がった黒鋼に引っ張られて、ファイもようやく地に足をつけた。ただ少し勢いがつきすぎて、黒鋼の胸に体当たりしてしまった。彼は両腕でしっかりと受け止めて、それからファイの頭をグリグリと撫でた。なんだかのぼせてしまいそうだった。身体中どこもかしこも熱くて、胸が苦しい。
そのまま、二人は手を繋いで並んで歩き出した。黒鋼の手を温めたくて、いつもよりぎゅうぎゅうと強く握った。
いつの間にか、あのムカムカとした気持ちは消えていた。結局、ファイは黒鋼を独り占めしたくて仕方がなかったのだ。けれど、なぜそう思うのかが、どうしても分からなかった。
「黒ぽん……」
「なんだよ」
「手、これからもずっと繋いでていい?」
ファイは、こうやってただ繋いでくれるのを待つだけじゃなく、自分もこの手を離さなければいいのだと思った。そうしたら、この手は他に誰とも繋げない。
いつかは繋いでいないほうの手を誰かが取るかもしれないけれど、そのときがきたら、もう我侭を言うのは止めようと思った。でも、きっとまだずっと先のことだから。
黒鋼はすぐには返事をせず、なぜか口をゴニョゴニョとさせていた。頬が赤かった。それから、「約束したろ、馬鹿」と言った。
←戻る ・ 次へ→
神罰の木
鋼丸が死んだのは、黒鋼が小六の夏だった。
あの日は朝から妙に気温が低く、いつもならまだ夜も明けないうちから鳴いているはずの虫の声も、一切しなかったのを覚えている。
「はがねまるが、うごきません」
五つになった知世が呟いた幼い声は、今でも鮮明に耳に残っている。
実感は、あまりなかった。生まれたときからいたはずの家族を喪ったというのに、悲しみは水のようにすんなりとは、胸に染み渡らなかった。
庭に鋼丸を眠らせてやるための穴を掘ったのは父だった。小さな子猫の身体を納めるよりも、鋼丸のための穴は大きくなければならなかった。
泣いている知世の声を背中に、黒鋼は家を飛び出した。無性にファイに会いたかった。夏休み中、家が経営する民宿の手伝いもあったけれど、合間を見て二人はほとんど毎日のように顔を合わせていた。
いつものように上手くファイを連れ出して、その手を引いて秘密基地へ行った。けれどそのときには、もう黒鋼の成長した身体は神木の穴を通り抜けることが出来なくなっていたから、大きな木の根元に座り込んだ。
何も言わず、両足を投げ出してぼんやりとしていた黒鋼に、ファイは幾度も顔を覗き込んできては不安そうにしていた。
どうしたの? どこか痛いの? お腹いたい?
問いかけられても、黒鋼はただ首を振った。いつものようにファイのふんわりとした笑顔を見たら、なんとなく気持ちが晴れるような気がしていたのに。
黒鋼は泣くこともできなければ、いつも通り彼に接することさえも出来なかった。
神木の隣には子猫のお墓。
あの悲しい雨の日のことを思うと、ファイには何も言えないと思っていた。死を恐れる彼は、誰よりも優しい心を持っていたから。泣かせてしまうことは、分かっていた。
それなのに。
小さくて柔らかな手がそっと黒鋼の手にかかって、悲しそうに揺れる瞳に見つめられると、面白いほど簡単に心は折れた。
「死んだんだ。犬が」
押し殺した声で、小さく呟いた。耳を澄ませていなければ聞こえないくらいの、微かな声で。それでもファイの耳にはちゃんと届いていた。
あの日、泣けないままでいた黒鋼の代わりに、ひとつしかない大きな瞳で、ファイは泣いた。
――だから今日も泣いているのだろうと、そう思っていた。
晴れ渡った夏の青空が、この日この場所にあまりにも不釣合いに感じられて、黒鋼は開け放たれた障子の向こうの空へ向けて目を眇めた。鼻腔を刺激する白檀の強い香り。低く単調な読経。うだる暑さ。それら全てに意識を奪われそうになる。
せめて気を逸らそうとこうして外へ目を向けても、遠くの景色がゆらゆらと揺れて見えるせいで、やはり意識はぼんやりとしたまま、気だけが滅入っていた。
幼い頃からの躾もあり、正座は苦ではないけれど、永遠のようにも感じられる時間は身体全体に圧し掛かるようで、早く足を伸ばしたいという欲求が募る。隣で喪服に身を包み、神妙な面持ちでいる母に悟られぬよう、黒鋼は小さく溜息を零した。
広い座敷ではまさに葬儀が行われている最中で、出席している人間はごく僅かだった。どれも近所の見知った顔だが、黒鋼が知る限り、本来こういった場所に集まる人数にしては、あまりにも少ない。田舎の農村では、葬式ともなると近所中から人が集まり、遺族も他人もなく皆が手を貸し葬儀を行うものだ。
黒鋼の母も例外ではなく、多いときではひと月の間に二件三件と続くこともある。
不思議なもので、どこかの家で不幸があると、その後まるで後を追うようにして、近辺でポツリポツリと不幸が重なることがあるのだ。
だからこの悲報が舞い込んだときにも、黒鋼は「またか」と、そう他人事のように思っただけだった。けれど母から聞かされた内容は、黒鋼にとって決して他人事ではなかった。
黒鋼は真っ直ぐ前へ視線を送る。モノクロの写真に写る男は、自分が知るよりも幾分か若く、そして表情も鬼のように歪んではいない。黒鋼の胸中には複雑な思いが渦巻いていた。
長い間、ファイを目の仇として苦しめ続けてきた存在が、死んだ。
人の死を手放しで喜ぶことは決してできないはずなのに、黒鋼は長きに渡る胸の痞えが取れたような気さえした。そうかと言ってこの町が、未だにファイを拒み続けていることに変わりは無い。だけど、ひとまず家の中での脅威は去ったはずだ。
そんなふうに安堵している自分には、多少なりとも嫌悪感がある。
黒鋼は小さく縮こまって肩を震わせている、ファイの祖母である人の背中を眺めた。時おり震える姿は哀れで、罪悪感がどうしようもなく膨らんだ。あんな男でも、彼女にとっては唯一の夫であり、長い時を共に過ごした、愛すべき家族なのだから。
それからすぐに、隣にある金色の髪を見た。今はその背中しか見ることはできないが、葬儀が始まる直前に見たファイは、泣いてはいなかった。ただ蒼白な顔を無表情に強張らせ、やや下向き加減に視線を伏せているだけだった。
まるで何の感情も持たない、人形のような顔。それを見て、黒鋼は衝撃を受けた。不幸があったのだから、いつも通り笑顔でいるはずがないことは分かっていたのに。
黒鋼はファイの泣き顔しか想像していなかったのだ。ずっと自分を忌み嫌い、傷つけてきた存在だったとしても、優しいファイは酷く悲しんでいるのだろうと。
けれどあの無表情からは、一切の感情も読み取れなかった。
母に無理矢理くっついて来て、早い時間からこの場所にいたけれど、広い屋敷内でファイを見つけることは出来なかった。どこかで泣いているなら、慰めてやるのは自分の務めだと思っていたから。
それなのに今、ファイの背は驚くほどピシャリと伸びて、真っ直ぐ前を向いている。黒鋼はこうして改めて遠目から見て、初めてファイが傍らの祖母よりも一回りほど身体が大きくなっていることに、気がついた。
いつの間に、これほど大きくなっていたのだろう? あの小さくて細いだけだったはずの子供は、どこへ行ってしまったのだろうか。
*
葬儀が終わってから、黒鋼はすぐにファイを掴まえようとした。けれどまるで煙にでも巻かれたように、彼の姿は一瞬で消えてしまったようだった。来たときと同じく、広い屋敷の中を探し回った。庭に出て、隣接する元は茶屋として客を持て成していたという、小さな建物の中も覗き込んだけれど、見つけられない。
フラフラと辺りを見回していると、遠くから母の呼ぶ声がした。
「何をしているの? てっきりすぐに追いかけたものとばかり思っていたのに」
「母さん、あいつを見たのか?」
喪服に身を包み、長い黒髪をすっかり綺麗に纏めている母はコクリと頷いた。
「お式が終わってすぐに、玄関を飛び出して行ったの、見てなかったの?」
そうか。いくら敷地内を探しても見つからないわけだ。実はあれでいて、ファイは黒鋼に引けを取らぬほど足が速かったりする。
「母さんそろそろお暇するけど、帰りは気をつけてね」
心配そうな母の声に返事をする余裕もなく、黒鋼は炎天下の中を弾かれたように砂を蹴って走り出した。
*
ファイの行く場所など、ひとつしかない。昔は毎日のように通い詰めていた、あの場所だ。黒鋼は暑さをもろともしない勢いで、懐かしい道を全力で駆け抜けた。
小学校の裏手に張り巡らされたロープを飛び越え、張り出した枝が制服のシャツやズボンを叩くのも意に介さず、オウトツの激しい道をひた走る。やがて相変わらず古臭さだけが目立つ石の鳥居をくぐれば、巨大な神木はあの頃のままの姿でそこにあった。
最後にここを訪れたのは、ファイと共に子猫の墓に花を手向けたときだった。
今では休日も部活動で時間を取られるせいで、ここを頻繁に訪れることはない。それでもまだ一月ほどしか経過していないはずなのに、なぜだかそれが遠い昔のことのように思えるのが不思議だった。
黒鋼は古びた柵を飛び越え、神木に体当たりするようにしてようやく足を止めることが出来た。今さら思い出したかのように汗が噴出して、心臓が異常な速度で飛び跳ねる。それでも黒鋼は声を張り上げた。
「おい! いるんだろ!」
なぜこんなにも焦っているのか、まるで自分を避けるようにして姿を消したファイに、苛々が募る。
「返事しろ!!」
中で、ビクリと身体を震わせ、息をのむ気配が伝わった。やっぱりいた。確信してはいたものの、ようやく間近で気配を感じ取ることが出来た安堵から、黒鋼は整わぬ息で思わずその場にしゃがみ込む。
「おまえ……まだ入れるんだな、そこ」
なんだ、やっぱりチビのまんまじゃねぇか。そう思うと、不思議と苛立ちが晴れていった。
「ばあさん心配させんな。帰るぞ」
「いや」
「あ?」
神木の内部から、くぐもった拒絶を表す声が聞こえた。
「オレのことはほっといて。黒たんは帰って」
「なに言ってやがる……てめぇ置いて帰れるわけねぇだろ」
「いいから帰って!!」
ずっと煩いくらいに泣き喚いていた虫達の声が消えた。
ファイが声を荒げたから、というよりも。
その荒げられた声が不自然に擦れて引っくり返っていたことに、黒鋼は目を見開いた。まだ十分に高さを残す声の中に、それは大きな違和感となって耳の奥にこびりつく。
黒鋼の足元には、干乾びたセミの抜け殻が落ちていた。窮屈な幼い殻を脱ぎ捨てて、短い夏を生き抜くために、大人になった彼らが羽ばたいていった証が。
黒鋼はまるで足掻くように、必死であの幼い声を思い出そうとした。けれど、分からなくなってしまった。あの小さな子供は、確かにこの大きな殻の中にいるのに。
近くにいすぎて、それが当たり前すぎて、何も見えていなかったなんて。
黒鋼は一度大きく息を吸い込み、平静を装うと、再び静かに語りかけた。
「今日のおまえは……まぁ、当たり前っちゃあ当たり前なんだろうが、様子が変だ。俺にも言えねぇのか」
中で蠢く気配と、迷うような気配が同時に窺える。黒鋼はしゃがんでいた態勢から立ち上がると、神木に身体を寄せてただひたすら神経を研ぎ澄ました。
「顔、見せてくれ。頼むから」
そう、それだけでいい。付き纏う不安も、恐れさえも、それだけで。ああ自分はなんと弱い人間なのだろう。日常が僅かに綻んだだけで。
見えていなかっただけに過ぎない変化に気づかされたことが、その見慣れたはずの姿が見えないことが。どうして、こんなにも。
「頼むから」
神木の中の気配が大きく揺らいだ気がしたけれど、ファイは姿を現さなかった。代わりに、淡々とした感情のない声だけが小さく空気を震わせた。
「オレ、最低なんだ」
「……どうして」
「おじいちゃんは、オレのお父さんは鬼だって言ってた……。でも、オレは気づいてないだけだったんだ……」
黒鋼は決して聞き逃してなるものかと、よりいっそう巨大な神木に身を寄せた。自分自身に言い聞かせているかのような声が、再び暑さの中で悲鳴を上げ出した夏の虫たちによって、掻き消えてしまいそうで。
「おじいちゃんは、オレのことを言ってたんだよ。だって、オレは鬼の子なんだもの。だから悲しくないんだ。おじいちゃんが死んだのに、おばあちゃんが泣いているのに。ちっとも悲しくない。ようやくわかったんだ……こんなだからオレは、みんなに嫌われてるんだよ。黒たんも、きっと嫌いになるよ。もう、オレの手なんか握ってくれないよ……」
黒鋼は目を見開いた。ファイはちゃんと知っていた。いつだってヘラヘラと無邪気に笑いながらも、自分の存在が疎まれ、弾かれていることに、ちゃんと傷ついていた。
黒鋼はファイのことを、ずっと『足りない子』なのだと思っていたけれど、本当はそうじゃなかった。後悔に似た感情は、すぐに怒りにすり替えられた。強く拳を握り締める。
「おまえ、それ本気で言ってんのか」
「…………」
沈黙は肯定だった。黒鋼は一つ、神木目がけて拳を突きたてる。
なんという罰当たりな行為だろう。けれど、こんなもんじゃ終わらない。
「ずっと出てこないつもりなんだな?」
「……そうだよ。だって誰も入ってこれないもの。黒たんだって、もう……」
「わかった」
そこにいろ、とだけ言い残して、黒鋼は再び元来た道を全速力で駆け出した。縺れそうになる足を勢いだけで奮い立たせて、やがて人気のない懐かしい小学校に辿り着く。
黒鋼の記憶が確かならば、校庭の脇の体育用具入れの鍵は、新しいものに代えられていない限り、壊れているはずだった。
そして中には――。
「あった……!」
土や埃や、白い粉に塗れている大きな鉄のスコップ。それを肩に担いで、またしても走り出す。身体は汗だくで、休むことなく走り続けた身体は水分と休息を求めて悲鳴を上げていた。それでも構うものかと、歯を食いしばる。
鳥居をくぐり、柵を越えると神木の小さな切込みに鉄の先端を思い切り打ちつけた。
「なに……?」
ガツンガツンと激しく打ち付け、木屑を散らしながら切り込みを削り出した黒鋼に、ファイが悲鳴を上げる。
「なにしてるの!?」
「うるせぇ!! 一人になんかなれねぇってこと、思い知らせてやるから待ってろ!!」
「やめて!! 黒たんダメだよ!!」
それでも、待っているような気がした。全てを拒むようなことを口にしながら、ファイは引き摺り上げてくれる強さを待っている。そう信じて、黒鋼はさらに激しくスコップを突き立てた。せめてこの身を潜り込ませるだけの穴さえ広がればいい。
滴る汗を拭うこともせず、腕の筋肉が悲鳴を上げるのも構わず必死で叩きつけ、やがて分厚い木の壁が鈍く軋んだ音を立てながら剥がれ落ちた。
黒鋼はスコップを投げ出すと、その僅かに広がった穴に向かって思い切り頭から突っ込んだ。両手を、肩を、全身を捻るように前へ前へと進ませる。デコボコとした硬い穴は、無理に押し入ろうとする侵入者を拒み、頬や剥き出しの腕に擦り傷をお見舞いしてくれた。
ファイは地に両手と両膝をつき、大きな瞳を見開いていた。よく見れば、そんな彼の白い頬や腕にだって擦り傷がくっきりと刻まれている。この入り口は、最早ファイをも拒んだ証だった。
黒鋼は強引な進入が成功したと同時に腕を伸ばした。傷ついた白い腕を掴んで思い切り引き寄せると、その身体は驚くほど簡単に胸の中に倒れこむようにして納まった。
細い肩を、小さな頭を、ぎゅうぎゅうと強く抱きしめると「ばかやろう」と言った。ファイは暫しの間、ただ呆然としていたが、やがて大きく身体を震わせ、しゃくり上げながら黒鋼の胸に縋りついて泣いた。
「バカなのっ、黒たん、だよぉ……! 神様の木なのに……っ、ゼッタイ、絶対、罰が当たるんだから……!」
「はっ……知るかよそんなもん。当たるんだったらとっくの昔に当たってら」
こんな場所で遊んでいた時点で、とっくに。
それでも罰が当たるというのなら、喜んでこの身に受けてやろう。腕や足の一本や二本、もがれたとしても構わない。この細いばかりの身体を抱きしめるだけの腕が一本でもあれば、それでよかった。
「おまえの親父やお袋の話を、俺は知らねぇ。でもこれだけは言える。おまえは、人間だ」
葬式に集まったごく小数の人々。その中に、ファイの両親と思しき人間は見当たらなかった。鬼の姿をした生き物など、一人も。そしてもし本当にファイが鬼なのだとすれば、それは黒鋼も同じことだった。一人の人間が死んでしまったというのに、安堵すら覚えたのは紛れもない真実なのだから。けれど黒鋼は、自分を鬼だなんて思いはしない。
そんなものはいない。いたとしても、死んでしまった。
だから。
「一人で行くなよ。逃げ出してぇなら、俺がおまえを連れてってやるから」
この世界はきっと狂っている。祖父の死をもってしか、ファイは救われなかった。だがそれすらも、彼を傷つけ苦しめた。泣けないことを罪と受け止め、もう充分に血を流したはずの胸を痛めていた。
優しくて、可哀想なファイ。だから守りたい。もう泣かなくていいように。傷つかなくていいように。
「約束する。俺は、おまえの手を絶対に離さねぇ」
はっとして顔を上げたファイを見下ろす。驚くほど間近で見る青い瞳は、まるで夢を見ているみたいな美しさだった。次から次へと零れ落ちる透明な涙さえ、宝石のようで。
いつの間にか夕陽がたちこめ、オレンジ色の光の柱がふたりを静かに包み込んでいた。どんなに帰りが遅れようが、心配してくれる人はいても、殴りつける者はもういないから。
ファイの涙が乾いて、またいつものようにふにゃりと微笑むまで、黒鋼が抱きしめる腕を解くことはなかった。
それは十四歳の夏のこと。
幼い日の、幼い約束。
その儚さなど、知りもしないで。
←戻る ・ 次へ→
鋼丸が死んだのは、黒鋼が小六の夏だった。
あの日は朝から妙に気温が低く、いつもならまだ夜も明けないうちから鳴いているはずの虫の声も、一切しなかったのを覚えている。
「はがねまるが、うごきません」
五つになった知世が呟いた幼い声は、今でも鮮明に耳に残っている。
実感は、あまりなかった。生まれたときからいたはずの家族を喪ったというのに、悲しみは水のようにすんなりとは、胸に染み渡らなかった。
庭に鋼丸を眠らせてやるための穴を掘ったのは父だった。小さな子猫の身体を納めるよりも、鋼丸のための穴は大きくなければならなかった。
泣いている知世の声を背中に、黒鋼は家を飛び出した。無性にファイに会いたかった。夏休み中、家が経営する民宿の手伝いもあったけれど、合間を見て二人はほとんど毎日のように顔を合わせていた。
いつものように上手くファイを連れ出して、その手を引いて秘密基地へ行った。けれどそのときには、もう黒鋼の成長した身体は神木の穴を通り抜けることが出来なくなっていたから、大きな木の根元に座り込んだ。
何も言わず、両足を投げ出してぼんやりとしていた黒鋼に、ファイは幾度も顔を覗き込んできては不安そうにしていた。
どうしたの? どこか痛いの? お腹いたい?
問いかけられても、黒鋼はただ首を振った。いつものようにファイのふんわりとした笑顔を見たら、なんとなく気持ちが晴れるような気がしていたのに。
黒鋼は泣くこともできなければ、いつも通り彼に接することさえも出来なかった。
神木の隣には子猫のお墓。
あの悲しい雨の日のことを思うと、ファイには何も言えないと思っていた。死を恐れる彼は、誰よりも優しい心を持っていたから。泣かせてしまうことは、分かっていた。
それなのに。
小さくて柔らかな手がそっと黒鋼の手にかかって、悲しそうに揺れる瞳に見つめられると、面白いほど簡単に心は折れた。
「死んだんだ。犬が」
押し殺した声で、小さく呟いた。耳を澄ませていなければ聞こえないくらいの、微かな声で。それでもファイの耳にはちゃんと届いていた。
あの日、泣けないままでいた黒鋼の代わりに、ひとつしかない大きな瞳で、ファイは泣いた。
――だから今日も泣いているのだろうと、そう思っていた。
晴れ渡った夏の青空が、この日この場所にあまりにも不釣合いに感じられて、黒鋼は開け放たれた障子の向こうの空へ向けて目を眇めた。鼻腔を刺激する白檀の強い香り。低く単調な読経。うだる暑さ。それら全てに意識を奪われそうになる。
せめて気を逸らそうとこうして外へ目を向けても、遠くの景色がゆらゆらと揺れて見えるせいで、やはり意識はぼんやりとしたまま、気だけが滅入っていた。
幼い頃からの躾もあり、正座は苦ではないけれど、永遠のようにも感じられる時間は身体全体に圧し掛かるようで、早く足を伸ばしたいという欲求が募る。隣で喪服に身を包み、神妙な面持ちでいる母に悟られぬよう、黒鋼は小さく溜息を零した。
広い座敷ではまさに葬儀が行われている最中で、出席している人間はごく僅かだった。どれも近所の見知った顔だが、黒鋼が知る限り、本来こういった場所に集まる人数にしては、あまりにも少ない。田舎の農村では、葬式ともなると近所中から人が集まり、遺族も他人もなく皆が手を貸し葬儀を行うものだ。
黒鋼の母も例外ではなく、多いときではひと月の間に二件三件と続くこともある。
不思議なもので、どこかの家で不幸があると、その後まるで後を追うようにして、近辺でポツリポツリと不幸が重なることがあるのだ。
だからこの悲報が舞い込んだときにも、黒鋼は「またか」と、そう他人事のように思っただけだった。けれど母から聞かされた内容は、黒鋼にとって決して他人事ではなかった。
黒鋼は真っ直ぐ前へ視線を送る。モノクロの写真に写る男は、自分が知るよりも幾分か若く、そして表情も鬼のように歪んではいない。黒鋼の胸中には複雑な思いが渦巻いていた。
長い間、ファイを目の仇として苦しめ続けてきた存在が、死んだ。
人の死を手放しで喜ぶことは決してできないはずなのに、黒鋼は長きに渡る胸の痞えが取れたような気さえした。そうかと言ってこの町が、未だにファイを拒み続けていることに変わりは無い。だけど、ひとまず家の中での脅威は去ったはずだ。
そんなふうに安堵している自分には、多少なりとも嫌悪感がある。
黒鋼は小さく縮こまって肩を震わせている、ファイの祖母である人の背中を眺めた。時おり震える姿は哀れで、罪悪感がどうしようもなく膨らんだ。あんな男でも、彼女にとっては唯一の夫であり、長い時を共に過ごした、愛すべき家族なのだから。
それからすぐに、隣にある金色の髪を見た。今はその背中しか見ることはできないが、葬儀が始まる直前に見たファイは、泣いてはいなかった。ただ蒼白な顔を無表情に強張らせ、やや下向き加減に視線を伏せているだけだった。
まるで何の感情も持たない、人形のような顔。それを見て、黒鋼は衝撃を受けた。不幸があったのだから、いつも通り笑顔でいるはずがないことは分かっていたのに。
黒鋼はファイの泣き顔しか想像していなかったのだ。ずっと自分を忌み嫌い、傷つけてきた存在だったとしても、優しいファイは酷く悲しんでいるのだろうと。
けれどあの無表情からは、一切の感情も読み取れなかった。
母に無理矢理くっついて来て、早い時間からこの場所にいたけれど、広い屋敷内でファイを見つけることは出来なかった。どこかで泣いているなら、慰めてやるのは自分の務めだと思っていたから。
それなのに今、ファイの背は驚くほどピシャリと伸びて、真っ直ぐ前を向いている。黒鋼はこうして改めて遠目から見て、初めてファイが傍らの祖母よりも一回りほど身体が大きくなっていることに、気がついた。
いつの間に、これほど大きくなっていたのだろう? あの小さくて細いだけだったはずの子供は、どこへ行ってしまったのだろうか。
*
葬儀が終わってから、黒鋼はすぐにファイを掴まえようとした。けれどまるで煙にでも巻かれたように、彼の姿は一瞬で消えてしまったようだった。来たときと同じく、広い屋敷の中を探し回った。庭に出て、隣接する元は茶屋として客を持て成していたという、小さな建物の中も覗き込んだけれど、見つけられない。
フラフラと辺りを見回していると、遠くから母の呼ぶ声がした。
「何をしているの? てっきりすぐに追いかけたものとばかり思っていたのに」
「母さん、あいつを見たのか?」
喪服に身を包み、長い黒髪をすっかり綺麗に纏めている母はコクリと頷いた。
「お式が終わってすぐに、玄関を飛び出して行ったの、見てなかったの?」
そうか。いくら敷地内を探しても見つからないわけだ。実はあれでいて、ファイは黒鋼に引けを取らぬほど足が速かったりする。
「母さんそろそろお暇するけど、帰りは気をつけてね」
心配そうな母の声に返事をする余裕もなく、黒鋼は炎天下の中を弾かれたように砂を蹴って走り出した。
*
ファイの行く場所など、ひとつしかない。昔は毎日のように通い詰めていた、あの場所だ。黒鋼は暑さをもろともしない勢いで、懐かしい道を全力で駆け抜けた。
小学校の裏手に張り巡らされたロープを飛び越え、張り出した枝が制服のシャツやズボンを叩くのも意に介さず、オウトツの激しい道をひた走る。やがて相変わらず古臭さだけが目立つ石の鳥居をくぐれば、巨大な神木はあの頃のままの姿でそこにあった。
最後にここを訪れたのは、ファイと共に子猫の墓に花を手向けたときだった。
今では休日も部活動で時間を取られるせいで、ここを頻繁に訪れることはない。それでもまだ一月ほどしか経過していないはずなのに、なぜだかそれが遠い昔のことのように思えるのが不思議だった。
黒鋼は古びた柵を飛び越え、神木に体当たりするようにしてようやく足を止めることが出来た。今さら思い出したかのように汗が噴出して、心臓が異常な速度で飛び跳ねる。それでも黒鋼は声を張り上げた。
「おい! いるんだろ!」
なぜこんなにも焦っているのか、まるで自分を避けるようにして姿を消したファイに、苛々が募る。
「返事しろ!!」
中で、ビクリと身体を震わせ、息をのむ気配が伝わった。やっぱりいた。確信してはいたものの、ようやく間近で気配を感じ取ることが出来た安堵から、黒鋼は整わぬ息で思わずその場にしゃがみ込む。
「おまえ……まだ入れるんだな、そこ」
なんだ、やっぱりチビのまんまじゃねぇか。そう思うと、不思議と苛立ちが晴れていった。
「ばあさん心配させんな。帰るぞ」
「いや」
「あ?」
神木の内部から、くぐもった拒絶を表す声が聞こえた。
「オレのことはほっといて。黒たんは帰って」
「なに言ってやがる……てめぇ置いて帰れるわけねぇだろ」
「いいから帰って!!」
ずっと煩いくらいに泣き喚いていた虫達の声が消えた。
ファイが声を荒げたから、というよりも。
その荒げられた声が不自然に擦れて引っくり返っていたことに、黒鋼は目を見開いた。まだ十分に高さを残す声の中に、それは大きな違和感となって耳の奥にこびりつく。
黒鋼の足元には、干乾びたセミの抜け殻が落ちていた。窮屈な幼い殻を脱ぎ捨てて、短い夏を生き抜くために、大人になった彼らが羽ばたいていった証が。
黒鋼はまるで足掻くように、必死であの幼い声を思い出そうとした。けれど、分からなくなってしまった。あの小さな子供は、確かにこの大きな殻の中にいるのに。
近くにいすぎて、それが当たり前すぎて、何も見えていなかったなんて。
黒鋼は一度大きく息を吸い込み、平静を装うと、再び静かに語りかけた。
「今日のおまえは……まぁ、当たり前っちゃあ当たり前なんだろうが、様子が変だ。俺にも言えねぇのか」
中で蠢く気配と、迷うような気配が同時に窺える。黒鋼はしゃがんでいた態勢から立ち上がると、神木に身体を寄せてただひたすら神経を研ぎ澄ました。
「顔、見せてくれ。頼むから」
そう、それだけでいい。付き纏う不安も、恐れさえも、それだけで。ああ自分はなんと弱い人間なのだろう。日常が僅かに綻んだだけで。
見えていなかっただけに過ぎない変化に気づかされたことが、その見慣れたはずの姿が見えないことが。どうして、こんなにも。
「頼むから」
神木の中の気配が大きく揺らいだ気がしたけれど、ファイは姿を現さなかった。代わりに、淡々とした感情のない声だけが小さく空気を震わせた。
「オレ、最低なんだ」
「……どうして」
「おじいちゃんは、オレのお父さんは鬼だって言ってた……。でも、オレは気づいてないだけだったんだ……」
黒鋼は決して聞き逃してなるものかと、よりいっそう巨大な神木に身を寄せた。自分自身に言い聞かせているかのような声が、再び暑さの中で悲鳴を上げ出した夏の虫たちによって、掻き消えてしまいそうで。
「おじいちゃんは、オレのことを言ってたんだよ。だって、オレは鬼の子なんだもの。だから悲しくないんだ。おじいちゃんが死んだのに、おばあちゃんが泣いているのに。ちっとも悲しくない。ようやくわかったんだ……こんなだからオレは、みんなに嫌われてるんだよ。黒たんも、きっと嫌いになるよ。もう、オレの手なんか握ってくれないよ……」
黒鋼は目を見開いた。ファイはちゃんと知っていた。いつだってヘラヘラと無邪気に笑いながらも、自分の存在が疎まれ、弾かれていることに、ちゃんと傷ついていた。
黒鋼はファイのことを、ずっと『足りない子』なのだと思っていたけれど、本当はそうじゃなかった。後悔に似た感情は、すぐに怒りにすり替えられた。強く拳を握り締める。
「おまえ、それ本気で言ってんのか」
「…………」
沈黙は肯定だった。黒鋼は一つ、神木目がけて拳を突きたてる。
なんという罰当たりな行為だろう。けれど、こんなもんじゃ終わらない。
「ずっと出てこないつもりなんだな?」
「……そうだよ。だって誰も入ってこれないもの。黒たんだって、もう……」
「わかった」
そこにいろ、とだけ言い残して、黒鋼は再び元来た道を全速力で駆け出した。縺れそうになる足を勢いだけで奮い立たせて、やがて人気のない懐かしい小学校に辿り着く。
黒鋼の記憶が確かならば、校庭の脇の体育用具入れの鍵は、新しいものに代えられていない限り、壊れているはずだった。
そして中には――。
「あった……!」
土や埃や、白い粉に塗れている大きな鉄のスコップ。それを肩に担いで、またしても走り出す。身体は汗だくで、休むことなく走り続けた身体は水分と休息を求めて悲鳴を上げていた。それでも構うものかと、歯を食いしばる。
鳥居をくぐり、柵を越えると神木の小さな切込みに鉄の先端を思い切り打ちつけた。
「なに……?」
ガツンガツンと激しく打ち付け、木屑を散らしながら切り込みを削り出した黒鋼に、ファイが悲鳴を上げる。
「なにしてるの!?」
「うるせぇ!! 一人になんかなれねぇってこと、思い知らせてやるから待ってろ!!」
「やめて!! 黒たんダメだよ!!」
それでも、待っているような気がした。全てを拒むようなことを口にしながら、ファイは引き摺り上げてくれる強さを待っている。そう信じて、黒鋼はさらに激しくスコップを突き立てた。せめてこの身を潜り込ませるだけの穴さえ広がればいい。
滴る汗を拭うこともせず、腕の筋肉が悲鳴を上げるのも構わず必死で叩きつけ、やがて分厚い木の壁が鈍く軋んだ音を立てながら剥がれ落ちた。
黒鋼はスコップを投げ出すと、その僅かに広がった穴に向かって思い切り頭から突っ込んだ。両手を、肩を、全身を捻るように前へ前へと進ませる。デコボコとした硬い穴は、無理に押し入ろうとする侵入者を拒み、頬や剥き出しの腕に擦り傷をお見舞いしてくれた。
ファイは地に両手と両膝をつき、大きな瞳を見開いていた。よく見れば、そんな彼の白い頬や腕にだって擦り傷がくっきりと刻まれている。この入り口は、最早ファイをも拒んだ証だった。
黒鋼は強引な進入が成功したと同時に腕を伸ばした。傷ついた白い腕を掴んで思い切り引き寄せると、その身体は驚くほど簡単に胸の中に倒れこむようにして納まった。
細い肩を、小さな頭を、ぎゅうぎゅうと強く抱きしめると「ばかやろう」と言った。ファイは暫しの間、ただ呆然としていたが、やがて大きく身体を震わせ、しゃくり上げながら黒鋼の胸に縋りついて泣いた。
「バカなのっ、黒たん、だよぉ……! 神様の木なのに……っ、ゼッタイ、絶対、罰が当たるんだから……!」
「はっ……知るかよそんなもん。当たるんだったらとっくの昔に当たってら」
こんな場所で遊んでいた時点で、とっくに。
それでも罰が当たるというのなら、喜んでこの身に受けてやろう。腕や足の一本や二本、もがれたとしても構わない。この細いばかりの身体を抱きしめるだけの腕が一本でもあれば、それでよかった。
「おまえの親父やお袋の話を、俺は知らねぇ。でもこれだけは言える。おまえは、人間だ」
葬式に集まったごく小数の人々。その中に、ファイの両親と思しき人間は見当たらなかった。鬼の姿をした生き物など、一人も。そしてもし本当にファイが鬼なのだとすれば、それは黒鋼も同じことだった。一人の人間が死んでしまったというのに、安堵すら覚えたのは紛れもない真実なのだから。けれど黒鋼は、自分を鬼だなんて思いはしない。
そんなものはいない。いたとしても、死んでしまった。
だから。
「一人で行くなよ。逃げ出してぇなら、俺がおまえを連れてってやるから」
この世界はきっと狂っている。祖父の死をもってしか、ファイは救われなかった。だがそれすらも、彼を傷つけ苦しめた。泣けないことを罪と受け止め、もう充分に血を流したはずの胸を痛めていた。
優しくて、可哀想なファイ。だから守りたい。もう泣かなくていいように。傷つかなくていいように。
「約束する。俺は、おまえの手を絶対に離さねぇ」
はっとして顔を上げたファイを見下ろす。驚くほど間近で見る青い瞳は、まるで夢を見ているみたいな美しさだった。次から次へと零れ落ちる透明な涙さえ、宝石のようで。
いつの間にか夕陽がたちこめ、オレンジ色の光の柱がふたりを静かに包み込んでいた。どんなに帰りが遅れようが、心配してくれる人はいても、殴りつける者はもういないから。
ファイの涙が乾いて、またいつものようにふにゃりと微笑むまで、黒鋼が抱きしめる腕を解くことはなかった。
それは十四歳の夏のこと。
幼い日の、幼い約束。
その儚さなど、知りもしないで。
←戻る ・ 次へ→
ぼくたちおとこのこ
新しい生活にも、もうすっかり馴染んだ頃だった。
初めて顔を合わせるクラスメイトが多かった中、黒鋼とファイはクラスが分かれたものの、互いに上手くやっていた。
この辺りの地域からいっせいに子供達が集まっているおかげで、ここはファイに対して何の偏見も持たない人間の数の方が、圧倒的に勝っていた。ファイが新生活に苦労せず馴染み、他人ともそれなりに打ち解けている姿に、黒鋼はまるで我が子を見守るかのような安堵を覚えたものだった。
*
「なぁなぁ、二年のあの凄い可愛い先輩、噂聞いたか?」
それは休み時間のちょっとしたひとコマだった。
席の近いものたちが、頼みもしないのに黒鋼を中心に囲むようにして集まり、グダグダと何事か話始める。小学生の頃もそうだったが、身体が大きく目立つ黒鋼の側には、なぜか自然とクラスメイトが集まってくる。
「あ、聞いた聞いた」
「なんか凄いよなー、な? 知ってるだろ? アレってマジなの?」
次の授業のための教材を机から取り出しつつ、特に会話に参加していなかった黒鋼に、一人の男子生徒が問いかけてくる。意味がわからず、思わず顔を顰めた。
「あ?」
「聞いてないし。つーか顔恐いって」
「うるせぇよ」
目つきが悪いのは生まれつきである。今更文句を言われてもどうしようもない。言うなら言うで、瓜二つの父に言って欲しいと思う。
「姫だよ姫。お姫様さー」
「姫だぁ? 知らねぇよそんなもん」
そう言うと、会話に参加していた男子達数人が「え!?」と驚愕の声を上げた。
黒鋼は眉間に深く皺を刻むと「なんだ?」と眼だけで問いかける。彼らがこれほど騒ぎ立てるほどに、その『お姫様』とやらは有名なのか。黒鋼は噂話の類には、どうも惹かれない性質だった。
それでは肝心な話が進まないと、一人の男子がご丁寧に説明してくれた。
姫、というのは通称であるらしい。
なんでも一つ上の先輩の女子がとんでもない美少女だとかで、全校生徒や教師達にまでそう呼ばれているのだと、男子生徒はなぜか己がことのように誇らしげに語った。
聞いた瞬間、あまりのどうでもよさに辟易とした。だがそんな黒鋼の耳に、次の瞬間予想もしなかった内容が飛び込んでくる。
「一組のさ、ほら、大道寺に懐いてる金髪で小さいの」
「?」
その話題の延長で、まさかファイの名前が出るとは欠片も思っていなかった黒鋼は、内心激しく躊躇した。
「……あいつがなんだよ?」
「なんだよ聞いてないの?」
「だからなんだってんだ」
僅かに苛立ちはじめた黒鋼に、皆が「顔こえー」とからかいを含む声を上げたが、すぐに話題は本題へと乗り上げてゆく。
「お姫様がさ、あのちっこいのと付き合ってるって噂、ホントかどうかお前なら知ってると思ってたのに」
「はぁ?」
そんなことは知らない。それ以前に、あまりに突然のことに黒鋼はまだ話の内容を飲み込めないでいた。
ファイとは登下校も一緒なら、休み時間だってしょっちゅう顔を合わせているが、そんな素振りもなければ、当然話題にも上らない。黒鋼はだんだん本格的に腹が立ってきて、「くだらねぇ」と吐き捨てた。
「そんなもん、ただの噂だろ」
「なーんだー」
やっぱガセか、と皆がどこか安堵したような表情で口々に呟くと、チャイムと共に噂話は終わりを告げた。
全くもって気分が悪い。授業が始まってもその苛立ちは治まらず、なかなか身が入らない。何が付き合っている、だ。ファイはまだ子供だ。同学年の黒鋼が言うのもおかしな話だが、ファイといると嫌でもそう感じてしまう。
だいたいそのような根も葉もない噂は、一体どこから立ち上ったものなのか。その出所は、それからすぐに知れることとなる。
*
黒鋼は剣道部、ファイは美術部に所属している。
放課後それぞれの活動が終われば、あとは連れ立って下校するだけだ。いつもは早めに終わったファイが体育館にひょっこりと顔を出すのに、その日は違った。
「長引いてんのか?」
体育館から校舎までの短い渡り廊下を、ヒヨコ色の頭を探しながら歩く。部活が長引いているなら、たまには自分が迎えに行ってやろうと、美術室のある一階校舎の奥を目指した。
窓の外からは夕陽が射し込んで、辺りを燃えるような橙色に染めていた。
ふと、人気のないはずの廊下で足を止める。前方に、目当ての金色を見つけたからだが、黒鋼はすぐに声をかけることができなかった。
なぜなら、そこにいたのはファイだけではなかったからだ。
「?」
セーラー服を着た、背の高い女子。黒鋼はその顔に覚えがなかった。長く艶やかな黒髪が腰の辺りまで伸びていて、凛とした横顔は少々気が強そうな印象を受けるが、ファイに優しく語り掛けているようだった。
放課後の人気のない廊下で親しげに話し込んでいる二人は、ファイが学ランさえ着ていなければ、下手をすれば少女同士の語らいにも見える。
もしかして、と黒鋼は思う。あれが噂の『姫』とやらではないか。なぜか心臓がドキリと飛び跳ねた。
夕陽に照らされて向き合う彼らの姿は、大袈裟な言い方をすれば、この世のものではないような気さえした。
凛とした美しい少女と、天使のように無垢な瞳をしたファイ。
長い黒髪が橙色を弾くように艶めき、淡い金色はその光を強く吸い込んで輝きを増していた。胸が刻む忙しない鼓動の意味が、黒鋼には分からなかった。この神がかった光景に対して? それとも、まさかあの噂は本当のことだったのかもしれないという、言いようの無い不安や苛立ちのせいか?
二人は向かい合って何か話し込んでいるようだが、内容はさっぱり聞き取れない。
姫の語り掛けに、にこやかだったファイの横顔が僅かに曇って俯いた。答えに窮しているよう様子のファイの肩に、姫がそっと手を置いた。
「ッ!」
見てはいけないものを見ている気がして、咄嗟にすぐ側の開け放たれている教室のドアに飛び込んだ。バクバクと飛び出しそうな勢いで心臓が跳ねている。額に冷たい汗が浮き上がった。
あれはなんだ?
この足元から崩れ落ちそうな感覚は?
ファイは子供だと思っていた。自分よりもずっと幼くて、無邪気な存在なのだと。男とか女とか、そんな話はまだ黒鋼も含めて早いはずだ。そんな風に当たり前のように思い込んでいた、こちらの方が子供だったのだろうか?
同時に黒鋼は、これまでファイを『男』として認識していなかったのだということに気がついた。もちろん『女』でもない。ファイは『ファイ』であり、他の何物でもないと。
それは絵本や漫画の中の登場人物へ対する認識とも、少し似ていたのかもしれない。同じ人間として見ていたかさえ危ぶまれる。例えば、そう、子猫だとかウサギだとか、そんな小さくて守ってやりたくなるような生き物。
そういうふうに考えていた自分をはっきりと自覚して、沈み込んでゆく感情に情けなさを感じた。
「黒たん? なにしてんのー?」
「っ!?」
そのとき、いきなり掛かった声に黒鋼はいよいよ本当に心臓が口から飛び出すかと思った。
見ればファイが廊下から教室へひょっこりと顔を出し、小さく首を傾げていた。大きな目は無邪気そのもので、黒鋼は真っ直ぐに目を合わせることが出来ず、そっぽを向いた。
「なんでもねぇよ」
「そお? ね、帰ろうよー。部活はもう終わったんだよねー?」
「お、おう……」
ファイに腕を引かれて廊下を出る。下駄箱に差し掛かったところで、またギクリとした。
「あ、先輩さよーならー!」
ぶんぶんと手を振るファイの視線の先には、先ほどの少女が丁度靴を履き終えたところだった。
ファイに手を振り返した姫は、黒鋼にも微笑んで小さく会釈した。その頬が僅かに赤い気がするのは夕陽のせいだと、自分に言い聞かせた。
*
行きとは違って、帰りはひたすら上り坂が続く。完全に日が沈む前に辿りつきたいのに、杉の木ばかりが目立つ景色はなかなか変わらなかった。
いつもはファイを乗せていても颯爽と行くはずのペダルが、今日はやけに重い。キシキシという音が、やけに不快なものに感じた。
先刻見てしまった出来事について、問い質すなんて野暮な真似は到底出来ない。そもそも見てしまったという事実に対する、奇妙な罪悪感も強かった。
「ねー、黒たん」
ずっと重苦しい沈黙を破れないままでいた黒鋼に、平素より僅かに沈んだファイが言葉を発した。なぜか予感めいたものがして、身体を強張らせる。
「……なんだ」
「あのね……オレ……」
「ま、待て」
「へ?」
黒鋼はひとつ大きく喉を鳴らした。これまでの自分は本当に愚かだった。ファイを小動物のように見るあまり、対等に扱ってすらいなかったのかもしれない。これでは彼を阻害する連中と同じではないか。
けれど黒鋼も男だ。己の非を潔く認めると同時に、たとえどんなにショックを受けようが、ファイの告白にエールを送ろう。
「おまえは……一人前の男だ……」
「え? うん、オレ男だよー」
「なら迷うんじゃねぇ……こういうとき、男ならシャキっとしろ」
「あ、うん。そうだよね……シャキッ」
「口で言うな、口で」
黒鋼の腹に回っている腕の力が強くなって、ファイが背中に強く頬を押し付けてくるのが分かった。胸が締め付けられたように苦しくなる。
「どうしてオレ、迷っちゃったのかな……なんかね、すごく変な感じなんだー……」
「……そうか」
「あのね、黒たんはさっきの先輩、好きー?」
「なんで俺に聞くんだ」
「答えて。あのね、好きっていうのはドラマとかで、よく男の人と女の人がちゅうするみたいな、そーゆう好きだからね」
そんなことは言われずとも承知している。だが、ファイは何を思ってそのような質問をぶつけてくるのだろうか。
勿論、姫に対して黒鋼にそういった特別な感情は皆無である。なにせその渾名も存在も、今日初めて知ったのだから。
「……好きって言ったら困るの、おまえじゃねぇのか」
「え……?」
背中からファイの頬が離れる。彼は暫しの間、言葉を失ってしまったようだった。
「おい」
「そう、なのかな……だから迷ってたのかなぁ?」
でもどうしてだろう、とファイは呆然としたように言った。それを聞きたいのはむしろ黒鋼の方なのだが、よくよく考えてみればこのような経験はファイにとっても初めてのことなのだから、戸惑うことは多々あるのかもしれない。
また、もしかすればファイの口ぶりや、廊下で見たあの戸惑ったような横顔から察するに、完全に付き合っているというわけではなく、あちらの方から告白を受けている段階なのだろうか、とも思った。
「俺は知らねぇよ……おまえがちゃんと答え出すのが筋ってもんだろ」
幾分か気遣うような、優しいトーンで言った。まだ混乱はしているし、なぜかやたらと胸の辺りも痛むけれど、ファイも彼女のことを憎からず思っているのだとしたら、しっかり祝福して応援してやろうと心に決める。
が、その矢先――。
「オレが考えたってわかんないよー。だってこれは先輩と黒りんの問題じゃないー?」
「…………あ?」
「あの先輩ね、美術部で一緒なんだー。すごく優しくしてくれて、よく一緒におしゃべりもするのね」
「……はぁ」
「でねー、さっき部活が終わってから、いつもみたいにおしゃべりしてたの」
「はぁ」
「そしたらね、先輩、黒るんのこと好きなんだって。ちゅうするみたいな好きですかーって聞いたらね、うんって言ったのー」
「は……?」
「オレ、いっつも黒ぷーと一緒だからね、聞いてってお願いされたの。好きな人はいますかーって」
「はあ!?」
咄嗟にブレーキをかけた。ファイが驚いて身をよろめかせ、黒鋼にぎゅうとしがみついた。
「ひゃー! 危ないよ黒わんこー!」
「お、おまえ……なんだよそりゃ……」
予想外だ。この期に及んで、まさか自分という存在が中心に引きずり出されるなんて、想像もしなかった。
「なんで俺なんだよ?」
これまでの迷いは、葛藤は、一体なんだったのか。黒鋼は黒鋼で、決死の思いでファイを応援するつもりでいたというのに。
「ねー? いる? 好きな子いるのー? 先輩のこと好きー?」
「いるわけねぇだろ!!」
大きな声が曲がりくねった山道に響き渡った。カアカアと、カラスが鳴きながら飛び去っていく。
目を見開いたファイと、くわっと鬼の形相で振り向いている黒鋼との間に、沈黙が流れる。が、すぐにファイのあっけらかんとした声がそれを破った。
「なーんだー! そっかー!」
えらく喜びだしたファイに、訳も分からず力が抜けた。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
休み時間にくだらない噂話に花を咲かせていたクラスメイト達ならば、きっと喜び勇むようなことなのかもしれない。なのに黒鋼には、欠片も興味が抱けなかった。
嬉しいどころか、なんてはた迷惑な話だろうかと、腹が立って仕方がない。姫には勿論、申し訳ない話だが……。
「んっとにくだらねぇよ! おまえもあいつらも! ばかばかしい!」
黒鋼は力が抜け切っていたのも嘘のように、思い切りペダルを踏み込んだ。再びファイが妙な悲鳴を上げる。不思議と足取りが軽い。気持ちも一緒に嘘のように軽くなって、それが妙に気恥ずかしかった。
「なんか安心しちゃったー、オレ」
ひたすら前を向いてペダルをこぎ続ける黒鋼の肩に、ファイが顎を乗せた。
「だってさー、黒りんと先輩がお付き合いとかしたら、もう一緒に帰ったり、遊んだりできないかと思ったー」
「んなこたねぇよ」
「ホントー?」
「俺が嘘ついたことあっか」
ファイは「んー」と小さく唸ってから、すぐに元気よく「ないよねー」と言った。耳元にかかる息がくすぐったくて、黒鋼は少しだけ笑う。
先のことはまだ分からないけれど。
例え大人になって、それぞれに大切な人が出来たとしても、黒鋼はファイと共にあるような気がした。いつかファイが黒鋼ではない誰かの手を取り、守られるのではなくて、守る側に回るのだとしても、それでも。
胸がチクリと痛んで、けれど気づかないふりをしているのは、自分がやっぱりまだ子供だから、なのだろうか。
でも、まぁいい。たくさんのことで頭の中がグルグルになったが、無事に今日も一日が終わった。
ファイが浮かれた調子であの鼻歌を口ずさむのを聞きながら、黒鋼は力いっぱい自転車のペダルをこいで家路を急ぐ。やけに気分がいい。すっかり覚えてしまったフレーズを、今日ばかりは黒鋼も一緒になって口ずさんだ。
←戻る ・ 次へ→
新しい生活にも、もうすっかり馴染んだ頃だった。
初めて顔を合わせるクラスメイトが多かった中、黒鋼とファイはクラスが分かれたものの、互いに上手くやっていた。
この辺りの地域からいっせいに子供達が集まっているおかげで、ここはファイに対して何の偏見も持たない人間の数の方が、圧倒的に勝っていた。ファイが新生活に苦労せず馴染み、他人ともそれなりに打ち解けている姿に、黒鋼はまるで我が子を見守るかのような安堵を覚えたものだった。
*
「なぁなぁ、二年のあの凄い可愛い先輩、噂聞いたか?」
それは休み時間のちょっとしたひとコマだった。
席の近いものたちが、頼みもしないのに黒鋼を中心に囲むようにして集まり、グダグダと何事か話始める。小学生の頃もそうだったが、身体が大きく目立つ黒鋼の側には、なぜか自然とクラスメイトが集まってくる。
「あ、聞いた聞いた」
「なんか凄いよなー、な? 知ってるだろ? アレってマジなの?」
次の授業のための教材を机から取り出しつつ、特に会話に参加していなかった黒鋼に、一人の男子生徒が問いかけてくる。意味がわからず、思わず顔を顰めた。
「あ?」
「聞いてないし。つーか顔恐いって」
「うるせぇよ」
目つきが悪いのは生まれつきである。今更文句を言われてもどうしようもない。言うなら言うで、瓜二つの父に言って欲しいと思う。
「姫だよ姫。お姫様さー」
「姫だぁ? 知らねぇよそんなもん」
そう言うと、会話に参加していた男子達数人が「え!?」と驚愕の声を上げた。
黒鋼は眉間に深く皺を刻むと「なんだ?」と眼だけで問いかける。彼らがこれほど騒ぎ立てるほどに、その『お姫様』とやらは有名なのか。黒鋼は噂話の類には、どうも惹かれない性質だった。
それでは肝心な話が進まないと、一人の男子がご丁寧に説明してくれた。
姫、というのは通称であるらしい。
なんでも一つ上の先輩の女子がとんでもない美少女だとかで、全校生徒や教師達にまでそう呼ばれているのだと、男子生徒はなぜか己がことのように誇らしげに語った。
聞いた瞬間、あまりのどうでもよさに辟易とした。だがそんな黒鋼の耳に、次の瞬間予想もしなかった内容が飛び込んでくる。
「一組のさ、ほら、大道寺に懐いてる金髪で小さいの」
「?」
その話題の延長で、まさかファイの名前が出るとは欠片も思っていなかった黒鋼は、内心激しく躊躇した。
「……あいつがなんだよ?」
「なんだよ聞いてないの?」
「だからなんだってんだ」
僅かに苛立ちはじめた黒鋼に、皆が「顔こえー」とからかいを含む声を上げたが、すぐに話題は本題へと乗り上げてゆく。
「お姫様がさ、あのちっこいのと付き合ってるって噂、ホントかどうかお前なら知ってると思ってたのに」
「はぁ?」
そんなことは知らない。それ以前に、あまりに突然のことに黒鋼はまだ話の内容を飲み込めないでいた。
ファイとは登下校も一緒なら、休み時間だってしょっちゅう顔を合わせているが、そんな素振りもなければ、当然話題にも上らない。黒鋼はだんだん本格的に腹が立ってきて、「くだらねぇ」と吐き捨てた。
「そんなもん、ただの噂だろ」
「なーんだー」
やっぱガセか、と皆がどこか安堵したような表情で口々に呟くと、チャイムと共に噂話は終わりを告げた。
全くもって気分が悪い。授業が始まってもその苛立ちは治まらず、なかなか身が入らない。何が付き合っている、だ。ファイはまだ子供だ。同学年の黒鋼が言うのもおかしな話だが、ファイといると嫌でもそう感じてしまう。
だいたいそのような根も葉もない噂は、一体どこから立ち上ったものなのか。その出所は、それからすぐに知れることとなる。
*
黒鋼は剣道部、ファイは美術部に所属している。
放課後それぞれの活動が終われば、あとは連れ立って下校するだけだ。いつもは早めに終わったファイが体育館にひょっこりと顔を出すのに、その日は違った。
「長引いてんのか?」
体育館から校舎までの短い渡り廊下を、ヒヨコ色の頭を探しながら歩く。部活が長引いているなら、たまには自分が迎えに行ってやろうと、美術室のある一階校舎の奥を目指した。
窓の外からは夕陽が射し込んで、辺りを燃えるような橙色に染めていた。
ふと、人気のないはずの廊下で足を止める。前方に、目当ての金色を見つけたからだが、黒鋼はすぐに声をかけることができなかった。
なぜなら、そこにいたのはファイだけではなかったからだ。
「?」
セーラー服を着た、背の高い女子。黒鋼はその顔に覚えがなかった。長く艶やかな黒髪が腰の辺りまで伸びていて、凛とした横顔は少々気が強そうな印象を受けるが、ファイに優しく語り掛けているようだった。
放課後の人気のない廊下で親しげに話し込んでいる二人は、ファイが学ランさえ着ていなければ、下手をすれば少女同士の語らいにも見える。
もしかして、と黒鋼は思う。あれが噂の『姫』とやらではないか。なぜか心臓がドキリと飛び跳ねた。
夕陽に照らされて向き合う彼らの姿は、大袈裟な言い方をすれば、この世のものではないような気さえした。
凛とした美しい少女と、天使のように無垢な瞳をしたファイ。
長い黒髪が橙色を弾くように艶めき、淡い金色はその光を強く吸い込んで輝きを増していた。胸が刻む忙しない鼓動の意味が、黒鋼には分からなかった。この神がかった光景に対して? それとも、まさかあの噂は本当のことだったのかもしれないという、言いようの無い不安や苛立ちのせいか?
二人は向かい合って何か話し込んでいるようだが、内容はさっぱり聞き取れない。
姫の語り掛けに、にこやかだったファイの横顔が僅かに曇って俯いた。答えに窮しているよう様子のファイの肩に、姫がそっと手を置いた。
「ッ!」
見てはいけないものを見ている気がして、咄嗟にすぐ側の開け放たれている教室のドアに飛び込んだ。バクバクと飛び出しそうな勢いで心臓が跳ねている。額に冷たい汗が浮き上がった。
あれはなんだ?
この足元から崩れ落ちそうな感覚は?
ファイは子供だと思っていた。自分よりもずっと幼くて、無邪気な存在なのだと。男とか女とか、そんな話はまだ黒鋼も含めて早いはずだ。そんな風に当たり前のように思い込んでいた、こちらの方が子供だったのだろうか?
同時に黒鋼は、これまでファイを『男』として認識していなかったのだということに気がついた。もちろん『女』でもない。ファイは『ファイ』であり、他の何物でもないと。
それは絵本や漫画の中の登場人物へ対する認識とも、少し似ていたのかもしれない。同じ人間として見ていたかさえ危ぶまれる。例えば、そう、子猫だとかウサギだとか、そんな小さくて守ってやりたくなるような生き物。
そういうふうに考えていた自分をはっきりと自覚して、沈み込んでゆく感情に情けなさを感じた。
「黒たん? なにしてんのー?」
「っ!?」
そのとき、いきなり掛かった声に黒鋼はいよいよ本当に心臓が口から飛び出すかと思った。
見ればファイが廊下から教室へひょっこりと顔を出し、小さく首を傾げていた。大きな目は無邪気そのもので、黒鋼は真っ直ぐに目を合わせることが出来ず、そっぽを向いた。
「なんでもねぇよ」
「そお? ね、帰ろうよー。部活はもう終わったんだよねー?」
「お、おう……」
ファイに腕を引かれて廊下を出る。下駄箱に差し掛かったところで、またギクリとした。
「あ、先輩さよーならー!」
ぶんぶんと手を振るファイの視線の先には、先ほどの少女が丁度靴を履き終えたところだった。
ファイに手を振り返した姫は、黒鋼にも微笑んで小さく会釈した。その頬が僅かに赤い気がするのは夕陽のせいだと、自分に言い聞かせた。
*
行きとは違って、帰りはひたすら上り坂が続く。完全に日が沈む前に辿りつきたいのに、杉の木ばかりが目立つ景色はなかなか変わらなかった。
いつもはファイを乗せていても颯爽と行くはずのペダルが、今日はやけに重い。キシキシという音が、やけに不快なものに感じた。
先刻見てしまった出来事について、問い質すなんて野暮な真似は到底出来ない。そもそも見てしまったという事実に対する、奇妙な罪悪感も強かった。
「ねー、黒たん」
ずっと重苦しい沈黙を破れないままでいた黒鋼に、平素より僅かに沈んだファイが言葉を発した。なぜか予感めいたものがして、身体を強張らせる。
「……なんだ」
「あのね……オレ……」
「ま、待て」
「へ?」
黒鋼はひとつ大きく喉を鳴らした。これまでの自分は本当に愚かだった。ファイを小動物のように見るあまり、対等に扱ってすらいなかったのかもしれない。これでは彼を阻害する連中と同じではないか。
けれど黒鋼も男だ。己の非を潔く認めると同時に、たとえどんなにショックを受けようが、ファイの告白にエールを送ろう。
「おまえは……一人前の男だ……」
「え? うん、オレ男だよー」
「なら迷うんじゃねぇ……こういうとき、男ならシャキっとしろ」
「あ、うん。そうだよね……シャキッ」
「口で言うな、口で」
黒鋼の腹に回っている腕の力が強くなって、ファイが背中に強く頬を押し付けてくるのが分かった。胸が締め付けられたように苦しくなる。
「どうしてオレ、迷っちゃったのかな……なんかね、すごく変な感じなんだー……」
「……そうか」
「あのね、黒たんはさっきの先輩、好きー?」
「なんで俺に聞くんだ」
「答えて。あのね、好きっていうのはドラマとかで、よく男の人と女の人がちゅうするみたいな、そーゆう好きだからね」
そんなことは言われずとも承知している。だが、ファイは何を思ってそのような質問をぶつけてくるのだろうか。
勿論、姫に対して黒鋼にそういった特別な感情は皆無である。なにせその渾名も存在も、今日初めて知ったのだから。
「……好きって言ったら困るの、おまえじゃねぇのか」
「え……?」
背中からファイの頬が離れる。彼は暫しの間、言葉を失ってしまったようだった。
「おい」
「そう、なのかな……だから迷ってたのかなぁ?」
でもどうしてだろう、とファイは呆然としたように言った。それを聞きたいのはむしろ黒鋼の方なのだが、よくよく考えてみればこのような経験はファイにとっても初めてのことなのだから、戸惑うことは多々あるのかもしれない。
また、もしかすればファイの口ぶりや、廊下で見たあの戸惑ったような横顔から察するに、完全に付き合っているというわけではなく、あちらの方から告白を受けている段階なのだろうか、とも思った。
「俺は知らねぇよ……おまえがちゃんと答え出すのが筋ってもんだろ」
幾分か気遣うような、優しいトーンで言った。まだ混乱はしているし、なぜかやたらと胸の辺りも痛むけれど、ファイも彼女のことを憎からず思っているのだとしたら、しっかり祝福して応援してやろうと心に決める。
が、その矢先――。
「オレが考えたってわかんないよー。だってこれは先輩と黒りんの問題じゃないー?」
「…………あ?」
「あの先輩ね、美術部で一緒なんだー。すごく優しくしてくれて、よく一緒におしゃべりもするのね」
「……はぁ」
「でねー、さっき部活が終わってから、いつもみたいにおしゃべりしてたの」
「はぁ」
「そしたらね、先輩、黒るんのこと好きなんだって。ちゅうするみたいな好きですかーって聞いたらね、うんって言ったのー」
「は……?」
「オレ、いっつも黒ぷーと一緒だからね、聞いてってお願いされたの。好きな人はいますかーって」
「はあ!?」
咄嗟にブレーキをかけた。ファイが驚いて身をよろめかせ、黒鋼にぎゅうとしがみついた。
「ひゃー! 危ないよ黒わんこー!」
「お、おまえ……なんだよそりゃ……」
予想外だ。この期に及んで、まさか自分という存在が中心に引きずり出されるなんて、想像もしなかった。
「なんで俺なんだよ?」
これまでの迷いは、葛藤は、一体なんだったのか。黒鋼は黒鋼で、決死の思いでファイを応援するつもりでいたというのに。
「ねー? いる? 好きな子いるのー? 先輩のこと好きー?」
「いるわけねぇだろ!!」
大きな声が曲がりくねった山道に響き渡った。カアカアと、カラスが鳴きながら飛び去っていく。
目を見開いたファイと、くわっと鬼の形相で振り向いている黒鋼との間に、沈黙が流れる。が、すぐにファイのあっけらかんとした声がそれを破った。
「なーんだー! そっかー!」
えらく喜びだしたファイに、訳も分からず力が抜けた。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
休み時間にくだらない噂話に花を咲かせていたクラスメイト達ならば、きっと喜び勇むようなことなのかもしれない。なのに黒鋼には、欠片も興味が抱けなかった。
嬉しいどころか、なんてはた迷惑な話だろうかと、腹が立って仕方がない。姫には勿論、申し訳ない話だが……。
「んっとにくだらねぇよ! おまえもあいつらも! ばかばかしい!」
黒鋼は力が抜け切っていたのも嘘のように、思い切りペダルを踏み込んだ。再びファイが妙な悲鳴を上げる。不思議と足取りが軽い。気持ちも一緒に嘘のように軽くなって、それが妙に気恥ずかしかった。
「なんか安心しちゃったー、オレ」
ひたすら前を向いてペダルをこぎ続ける黒鋼の肩に、ファイが顎を乗せた。
「だってさー、黒りんと先輩がお付き合いとかしたら、もう一緒に帰ったり、遊んだりできないかと思ったー」
「んなこたねぇよ」
「ホントー?」
「俺が嘘ついたことあっか」
ファイは「んー」と小さく唸ってから、すぐに元気よく「ないよねー」と言った。耳元にかかる息がくすぐったくて、黒鋼は少しだけ笑う。
先のことはまだ分からないけれど。
例え大人になって、それぞれに大切な人が出来たとしても、黒鋼はファイと共にあるような気がした。いつかファイが黒鋼ではない誰かの手を取り、守られるのではなくて、守る側に回るのだとしても、それでも。
胸がチクリと痛んで、けれど気づかないふりをしているのは、自分がやっぱりまだ子供だから、なのだろうか。
でも、まぁいい。たくさんのことで頭の中がグルグルになったが、無事に今日も一日が終わった。
ファイが浮かれた調子であの鼻歌を口ずさむのを聞きながら、黒鋼は力いっぱい自転車のペダルをこいで家路を急ぐ。やけに気分がいい。すっかり覚えてしまったフレーズを、今日ばかりは黒鋼も一緒になって口ずさんだ。
←戻る ・ 次へ→
春を乗せてゆく
毎年、春が来る度に黒鋼はファイと出会ったあの日のことを思い出す。
世界が色を変えたあの日。夕暮れに染まる校庭と、光り輝く金色の髪に舞い落ちた桜の花弁。無邪気な笑顔と宝石のように美しい瞳。それは今でも色褪せることがない。
きっとこれからも、ずっと。
*
年代物のママチャリは、ペダルを漕ぐ度に微かにキシキシと音を立てていた。これは長いこと物置に片付けられていたもので、前籠は変形して歪んでいるし、水色の塗装は所々が剥がれて錆びている。
お父さんに新しいのを頼んでみたら? と、古びた自転車を引っ張り出してきた黒鋼に向かって母は言ったが、まだ動くからしまってあったものをわざわざゴミにしてしまうのは、自転車に悪い気がして断った。
新しいものでなくとも、ファイを後ろに乗せて走ることさえできれば、それで十分だと思ったからだ。
この春、黒鋼が入学する中学へは、山を下りて温泉街の方まで行かなければならなかった。
バスは朝と夕方にほんの数本だけ出ていたが、黒鋼はあの独特な香りがあまり好きではない。それに昔は友人達と連れ立って、よく自転車で温泉街にしかないコンビニなんかに遊びに行ったりもしていたから、山を下りると言ってもさほど距離があるようには感じられないのだった。
もっとも、当時黒鋼が乗り回していた自転車は一人用のマウンテンバイクで、子供用だったため、今はもう使えない。そこでこのママチャリの出番というわけである。
言ってしまえば徒歩でも差し障りはなかったが、身体の大きさを見れば分かるようにタフな黒鋼に比べて、どうも成長が遅れているらしいファイには、長距離を徒歩で通うのには無理がある。
過保護すぎだろ、などと自分に呆れながら自転車をこいでいると、ファイの住む団子屋敷まではあっという間だった。
甲高い音を立てながらブレーキをかけて停車すると、左目を白い眼帯で隠したファイが、ちょこちょこと歩いて坂道を下りて来ている最中だった。あの事件以来、彼は傷が残っているらしいその場所が人目に触れるのを嫌がっているようだった。
黒鋼の姿を見たファイは、大きな片方だけの眼をさらに大きく丸く見開いた。
「黒たん? あれー?」
「なんだよ」
「どうしたのー? お父さんとお母さんはー? その自転車どうしたのー? あ、黒たん制服似合ってるー! カッコいいよー!」
自転車を指差し、黒の学ランに身を包む黒鋼と交互に見やりながら、ファイは小走りに駆け寄ってくると、一気にまくしたてた。その落ち着きのない様子に思わず苦笑する。
「まとめて喋るなって……。親は先に行った。俺はおまえを迎えに来たんだろ。おまえんとこ、誰も来れないって言ってたじゃねぇか」
今日は中学校の入学式である。
だがファイの家は祖父の方はともかく、足腰の弱いあのばあさんは来られないという話を、事前に聞いていた。
片目の視力を失ったことで視界が狭くなってしまったファイは、ただでさえそそっかしいのに磨きがかかったような気がする。黒鋼が見ていてやらなければ、中学のある山の下までいちど転倒したが最後、そのままコロコロと転がってしまうのではないかなんて、ちょっと本気で心配だった。
だから両親とは別に、ファイを迎えにやって来たのだ。
父はそれなら車で迎えに行って、一緒に行けばいいだろうと言ってくれた。けれど、黒鋼はファイを両親に会わせることに抵抗を覚えていた。なんとなく照れ臭かったのだ。妹の面倒だってまともに見ない自分の、ファイを気遣う姿なんて、到底見せられたものではないと思った。
父も母も、きっとここぞとばかりにからかってくるに違いない……。
「びっくりしたー! ありがとう黒ぽん、オレうれしいー!」
ファイの嬉しそうな笑顔を見ると、やっぱり来てよかったと心底思った。丸一日かけて汚れを落としたり、錆びたチェーンに油をさしたり、手間暇かけた甲斐があるというものだ。過保護な上に、なんとも単純な自分の思考が情けないような気もしつつ、気分がよかった。
それにしても。
黒鋼は真新しい学ランに身を包むファイを見て、ついつい意地悪そうな笑みを作ってしまう。自転車に跨ったまま腕を組み、彼の頭の天辺から足の先までをじっくり観察した。
「おまえ、それぜんぜんサイズ合ってねぇな」
彼が着込んでいる制服は酷く袖が余っていて、内部では薄い身体が泳いでいるのが分かる。黒鋼の制服も勿論大きめに作られてはいるが、ファイの方が小柄なぶん、より目立つ。背も低く華奢なファイが、より一層小さく見えてしまってなんだか可笑しかった。
「あー、黒わんこがイジワル言ったー!」
ここ数年でさらに背が伸びた黒鋼に向かって、ファイは指をさしながら唇を尖らせた。
「仕方ねぇだろ、チビなんだから。あと俺は犬じゃねぇ」
「チビじゃないよー! ちゃんと伸びてるんだからーっ」
「そうは見えねぇけどなぁ」
黒鋼はファイの頭に手を置くと、綿菓子のような髪をグシャグシャに乱してやった。思いっきり馬鹿にされていることに「もうっ」という不満の声が洩れる。
「あのねー、おばあちゃんが、オレはこれからすっごく背が伸びるから、だから制服は大きく作らないとダメって言ったのー!」
そしたら黒たんより大きくなるかもよ、とファイは胸を張った。それだけは絶対にないだろうと思いつつ、黒鋼は緩く頬を撫ぜる風に顔を上げた。
すると、坂道の上の方に見送りに来ていたファイの大好きなおばあちゃんが、ニコニコ笑って手を振っている。唇が「ありがとう」という形に動いたけれど、その声は小さくて耳にまでは届かなかった。ファイがぶんぶんと大きく手を振った。
「おら、そろそろ行くから乗れ」
「う、うん!」
よろけそうになりながら後に跨ったファイが、黒鋼の背にぴったりとくっつく。
「掴まってろよ」
「はぁい!」
未だ少女のように甲高い声が威勢よく返事をして、細い腕が黒鋼の腹にぎゅうと回される。子供らしい高めの体温をぴったりと背中に感じると、少しだけ鼓動が早まった。黒鋼はそれをあまり深く考えないうちに「よし」と短く声を上げてペダルを踏み出す。
一瞬だけグラリとよろめいたが、そのまま勢いに乗って走りだす。すぐ背後で「ひゃぁ」という小さな悲鳴が聞こえた。
風を斬るようにして前へ前へ、春とはいえ冷たいそれが、スピードを上げていく二人分の身体を鋭く撫でた。
「お尻がイターイ!」
「わがまま言うんじゃねぇ。男なら我慢だ」
「うぅぅ……!」
ファイが腕に力を入れて、さらにぎゅうぎゅうと身体を密着させてくる。身体に受ける風は微かに冷たいけれど、背中に感じる体温は熱いくらいで心地よかった。その呼吸までもが直に肌に伝わって、胸がしきりに高鳴るのを感じる。
でもきっと、これは特別な意味があるわけではないのだ。
これからは、こうして二人で風を感じながら学校へ通うのだということ、新しい日々が始まったのだということ。これはそんなものへの期待がそうさせるのだと、心臓が弾むようなリズムを刻むたび、黒鋼はまるで言い訳のように心の中で呟いた。
風が運んでくる季節の香りや、陽の光を受ける草花、どこまでも広がる青々とした田んぼが色鮮やかに過ぎてゆく。見慣れた光景がやけに特別に思えて、黒鋼は弾む気持ちそのままにスピードを上げた。
←戻る ・ 次へ→
毎年、春が来る度に黒鋼はファイと出会ったあの日のことを思い出す。
世界が色を変えたあの日。夕暮れに染まる校庭と、光り輝く金色の髪に舞い落ちた桜の花弁。無邪気な笑顔と宝石のように美しい瞳。それは今でも色褪せることがない。
きっとこれからも、ずっと。
*
年代物のママチャリは、ペダルを漕ぐ度に微かにキシキシと音を立てていた。これは長いこと物置に片付けられていたもので、前籠は変形して歪んでいるし、水色の塗装は所々が剥がれて錆びている。
お父さんに新しいのを頼んでみたら? と、古びた自転車を引っ張り出してきた黒鋼に向かって母は言ったが、まだ動くからしまってあったものをわざわざゴミにしてしまうのは、自転車に悪い気がして断った。
新しいものでなくとも、ファイを後ろに乗せて走ることさえできれば、それで十分だと思ったからだ。
この春、黒鋼が入学する中学へは、山を下りて温泉街の方まで行かなければならなかった。
バスは朝と夕方にほんの数本だけ出ていたが、黒鋼はあの独特な香りがあまり好きではない。それに昔は友人達と連れ立って、よく自転車で温泉街にしかないコンビニなんかに遊びに行ったりもしていたから、山を下りると言ってもさほど距離があるようには感じられないのだった。
もっとも、当時黒鋼が乗り回していた自転車は一人用のマウンテンバイクで、子供用だったため、今はもう使えない。そこでこのママチャリの出番というわけである。
言ってしまえば徒歩でも差し障りはなかったが、身体の大きさを見れば分かるようにタフな黒鋼に比べて、どうも成長が遅れているらしいファイには、長距離を徒歩で通うのには無理がある。
過保護すぎだろ、などと自分に呆れながら自転車をこいでいると、ファイの住む団子屋敷まではあっという間だった。
甲高い音を立てながらブレーキをかけて停車すると、左目を白い眼帯で隠したファイが、ちょこちょこと歩いて坂道を下りて来ている最中だった。あの事件以来、彼は傷が残っているらしいその場所が人目に触れるのを嫌がっているようだった。
黒鋼の姿を見たファイは、大きな片方だけの眼をさらに大きく丸く見開いた。
「黒たん? あれー?」
「なんだよ」
「どうしたのー? お父さんとお母さんはー? その自転車どうしたのー? あ、黒たん制服似合ってるー! カッコいいよー!」
自転車を指差し、黒の学ランに身を包む黒鋼と交互に見やりながら、ファイは小走りに駆け寄ってくると、一気にまくしたてた。その落ち着きのない様子に思わず苦笑する。
「まとめて喋るなって……。親は先に行った。俺はおまえを迎えに来たんだろ。おまえんとこ、誰も来れないって言ってたじゃねぇか」
今日は中学校の入学式である。
だがファイの家は祖父の方はともかく、足腰の弱いあのばあさんは来られないという話を、事前に聞いていた。
片目の視力を失ったことで視界が狭くなってしまったファイは、ただでさえそそっかしいのに磨きがかかったような気がする。黒鋼が見ていてやらなければ、中学のある山の下までいちど転倒したが最後、そのままコロコロと転がってしまうのではないかなんて、ちょっと本気で心配だった。
だから両親とは別に、ファイを迎えにやって来たのだ。
父はそれなら車で迎えに行って、一緒に行けばいいだろうと言ってくれた。けれど、黒鋼はファイを両親に会わせることに抵抗を覚えていた。なんとなく照れ臭かったのだ。妹の面倒だってまともに見ない自分の、ファイを気遣う姿なんて、到底見せられたものではないと思った。
父も母も、きっとここぞとばかりにからかってくるに違いない……。
「びっくりしたー! ありがとう黒ぽん、オレうれしいー!」
ファイの嬉しそうな笑顔を見ると、やっぱり来てよかったと心底思った。丸一日かけて汚れを落としたり、錆びたチェーンに油をさしたり、手間暇かけた甲斐があるというものだ。過保護な上に、なんとも単純な自分の思考が情けないような気もしつつ、気分がよかった。
それにしても。
黒鋼は真新しい学ランに身を包むファイを見て、ついつい意地悪そうな笑みを作ってしまう。自転車に跨ったまま腕を組み、彼の頭の天辺から足の先までをじっくり観察した。
「おまえ、それぜんぜんサイズ合ってねぇな」
彼が着込んでいる制服は酷く袖が余っていて、内部では薄い身体が泳いでいるのが分かる。黒鋼の制服も勿論大きめに作られてはいるが、ファイの方が小柄なぶん、より目立つ。背も低く華奢なファイが、より一層小さく見えてしまってなんだか可笑しかった。
「あー、黒わんこがイジワル言ったー!」
ここ数年でさらに背が伸びた黒鋼に向かって、ファイは指をさしながら唇を尖らせた。
「仕方ねぇだろ、チビなんだから。あと俺は犬じゃねぇ」
「チビじゃないよー! ちゃんと伸びてるんだからーっ」
「そうは見えねぇけどなぁ」
黒鋼はファイの頭に手を置くと、綿菓子のような髪をグシャグシャに乱してやった。思いっきり馬鹿にされていることに「もうっ」という不満の声が洩れる。
「あのねー、おばあちゃんが、オレはこれからすっごく背が伸びるから、だから制服は大きく作らないとダメって言ったのー!」
そしたら黒たんより大きくなるかもよ、とファイは胸を張った。それだけは絶対にないだろうと思いつつ、黒鋼は緩く頬を撫ぜる風に顔を上げた。
すると、坂道の上の方に見送りに来ていたファイの大好きなおばあちゃんが、ニコニコ笑って手を振っている。唇が「ありがとう」という形に動いたけれど、その声は小さくて耳にまでは届かなかった。ファイがぶんぶんと大きく手を振った。
「おら、そろそろ行くから乗れ」
「う、うん!」
よろけそうになりながら後に跨ったファイが、黒鋼の背にぴったりとくっつく。
「掴まってろよ」
「はぁい!」
未だ少女のように甲高い声が威勢よく返事をして、細い腕が黒鋼の腹にぎゅうと回される。子供らしい高めの体温をぴったりと背中に感じると、少しだけ鼓動が早まった。黒鋼はそれをあまり深く考えないうちに「よし」と短く声を上げてペダルを踏み出す。
一瞬だけグラリとよろめいたが、そのまま勢いに乗って走りだす。すぐ背後で「ひゃぁ」という小さな悲鳴が聞こえた。
風を斬るようにして前へ前へ、春とはいえ冷たいそれが、スピードを上げていく二人分の身体を鋭く撫でた。
「お尻がイターイ!」
「わがまま言うんじゃねぇ。男なら我慢だ」
「うぅぅ……!」
ファイが腕に力を入れて、さらにぎゅうぎゅうと身体を密着させてくる。身体に受ける風は微かに冷たいけれど、背中に感じる体温は熱いくらいで心地よかった。その呼吸までもが直に肌に伝わって、胸がしきりに高鳴るのを感じる。
でもきっと、これは特別な意味があるわけではないのだ。
これからは、こうして二人で風を感じながら学校へ通うのだということ、新しい日々が始まったのだということ。これはそんなものへの期待がそうさせるのだと、心臓が弾むようなリズムを刻むたび、黒鋼はまるで言い訳のように心の中で呟いた。
風が運んでくる季節の香りや、陽の光を受ける草花、どこまでも広がる青々とした田んぼが色鮮やかに過ぎてゆく。見慣れた光景がやけに特別に思えて、黒鋼は弾む気持ちそのままにスピードを上げた。
←戻る ・ 次へ→
本格的に倉庫サイトとこちらの本館サイトを合併しました。
倉庫サイトで公開していた過去ジャンル作品は少しずつこちらに移行していきます。
ぜんぶ合わせるとどえらい数なので時間かかりますが、歴史の積み重ねを感じられて懐かしい気持ちと、よく書いたな~って気持ちとでしみじみしてしまいます。
あまりにも昔の作品なのでいっそぜんぶ修正したい気持ちもあるんですが、それやろうと思ったら精神と時の部屋が必要になってしまうので、あえて当時のままにしておきます…。あ、でも黒ファイで書いていた幼馴染パラレルは微妙にタイトル変えました。パラレルっていま言わないですよね。令和ナイズというやつです(?)
倉庫サイトで公開していた過去ジャンル作品は少しずつこちらに移行していきます。
ぜんぶ合わせるとどえらい数なので時間かかりますが、歴史の積み重ねを感じられて懐かしい気持ちと、よく書いたな~って気持ちとでしみじみしてしまいます。
あまりにも昔の作品なのでいっそぜんぶ修正したい気持ちもあるんですが、それやろうと思ったら精神と時の部屋が必要になってしまうので、あえて当時のままにしておきます…。あ、でも黒ファイで書いていた幼馴染パラレルは微妙にタイトル変えました。パラレルっていま言わないですよね。令和ナイズというやつです(?)
すべてを思いだしたとき、ぼくはただ呆然としていた。
瞬きも忘れて、震える両手で頭に触れる。そこにはふさふさの毛で覆われた、大きな耳の感触があった。
キャスケットはいつの間にか消えていた。ずっとかぶっていたはずなのに。そこにはなにもない。黒い猫の耳が生えているだけ。だってこの森に来た最初の日、あのキャスケットは風で飛ばされてしまったから。
「ぼくは……」
操が失くしたんじゃない。あれはぼくが失くしたんだ。たったひとつのキャスケット。操の形見だったのに。探しても探しても、見つからなかった。
「ぼくが、生き返らせたかったのは……」
操だ。ぼくの大好きなお母さん。たった一人の、お母さん。
操を失ってから、ぼくはずっと泣いていた。彼が最後に望んだ通り、その亡骸を家の裏に埋めてからも、ずっと。
何日も泣いて暮らして、やがて疲れ果てたとき、ふと鏡を見るとそこには操が映っていた。操の名前をもらったぼく。鏡に映る操の姿。いつしかぼくは、「操は生きている」と、自分に暗示をかけて痛みを紛らわすようになっていった。
町の人達のまじないは、操がいなくなってすぐに効果がなくなった。
キャスケットで耳を隠しながら生きるぼくのことを、みんなが当たり前のように『操』と呼んで接してくれた。なんだ、やっぱり操は生きてるんじゃないか。ぼくはいっそう強く、そう思い込むようになっていった。
だけどだんだん、ぼくには分からなくなっていった。操の名前で呼ばれるたびに、ぼくと操の境界が曖昧になっていく。そのうち記憶まで、操のものとごちゃ混ぜになってしまった。
ぼくと操は双子の兄弟。生まれたときからずっと一緒。羽佐間容子を母と慕って、愛されながら生きてきた。それがぼく。それがぼくたち、来主操。
いつからか、ぼくには鏡なんかなくても操の存在が見えるようになっていった。
そんなある日、町の人達が噂しているのをたまたま聞いた。遠い町のハズレの森に、死者を蘇らせる研究をしている魔法使いがいる、っていう話を。
ぼくらは大切な『お母さん』を亡くしてしまったばかりだった。操はいつも泣いていて、ぼくはその泣き顔を見ているのがつらかった。だったら、お母さんを取り戻せばいい。噂の魔法使いを探せば、その願いが叶うかもしれない。
だからぼくは──ぼくらは、旅立つ決心をした。
操と一緒に長い長い旅に出て、そうしてたどり着いたのがこの場所だった。博士と出会って、操と三人で暮らしていたはずの、この家に。
だけどここには、最初からぼくと博士しかいなかった。そのことに気がついてしまった。今この瞬間が、ぼくが見ていた夢と幻の終着点になった。
「ぼくは、クロノス」
雨の路地裏で、寂しくて泣いていた黒猫。操に拾われ、たくさんたくさん愛されて、ヒトの真似事をしながら生きていた。それがぼくの正体だ。
「博士は、最初から知ってたんだね。ぼくのこと」
いまいち焦点が合わない瞳をさまよわせる。博士は深く息をついた。
「厄介なのが来たと思ったよ。人に化ける使い魔はいるけど、それにしてはあまりにも中途半端だったしね」
そりゃあそうだと、ぼくは思った。だってぼくは使い魔じゃない。ただの猫なんだから。博士からしたら、突然やってきた人間モドキが訳の分からないことをまくし立てていたのだから、勝手に思考を覗くしか手はなかったんだろう。
あのとき博士は、ごちゃ混ぜになったぼくと操の記憶を読んだ。この人はとても頭がいいから、幾つかの断片に触れるだけで十分だったんだ。だからすべてを知っていた。ぼくが壊れていたことも。
「知ってたのに、どうして黙ってたの? オレンジジュースだって、操のために買ってくれたんだと思ってた」
博士は、ぼくの奇妙な振る舞いを見てどう感じていたんだろう。誰もいない場所に向かって話しかけたり、笑ったりなんかしちゃってさ。
「君の安寧がそこにあるなら、壊す理由が俺にはなかった。最初はすぐに諦めて、出ていくだろうと思っていたしね。オレンジジュースは、君が欲しがったから買った。それだけだ」
「ぼくが……?」
ああ、そっか。そうだった。あのときぼくは言ったんだ。コーヒーを飲んで苦い顔をしていた操を笑いながら、
──操はコーヒーが苦手みたい。見てよこの顔! ねぇ博士、ジュースはないの? オレンジジュースがいいな! 操もそれなら飲めるでしょ?
って、そう言ったんだ。
あのとき博士は、ただ黙ってぼくを見守っていた。誰もいない空間に笑いかけるぼくのことを、否定も肯定もしないまま。
「そっか……そうだったんだ……」
ぼくは笑っていた。笑いながら、涙が溢れだすのを止められなかった。バカみたいだ。ずっと一人だったのに。操はもうどこにもいないのに。それを受け入れられなくて、自分で自分に、呪いみたいな暗示をかけて。
博士は泣いているぼくを見て、痛いのを我慢してるみたいな顔をした。そしてぼくのことを引き寄せて、強く抱きしめると「ごめん」と言った。
「暗示を解いたのは、俺のエゴだよ。俺もいい加減、夢から醒めなくちゃいけない。だから本当の君と、ちゃんと向き合って話がしたいと思った」
「夢から、さめる……?」
「腹を括るってことだよ」
そう言って、博士はひとつ大きな息をはきだした。そして、言った。
「俺は、君の願いを叶えてやれない」
それはぼくが何度も博士に投げかけていた問いへの答えだった。死者を蘇らせる奇跡の魔法。そんなものは、決して完成しないってこと。不可能だってこと。
博士の口からはっきりと告げられても、ぼくはちっとも驚かなかった。どこかでは分かっていたんだと思う。博士に肯定してほしくて泣いていたあの夜のぼくは、操の幻と一緒に消えていた。
「もうずいぶん前から、分かっていたことなんだ」
あるいは最初から──博士はそう付け加えると吐く息を震わせた。もうとっくの昔から、博士はちゃんと気づいてたんだ。なのに研究を続けてた。森の奥でずっと孤独に、町の人たちに笑われながら。
「分かってたのに、どうして研究を続けていたの?」
「……願いを捨てられなかったから」
博士は少しだけ身体を離すと、ぼくの瞳を覗き込む。
「翔子を、過去にしたくなかった」
──翔子。
ぼくは写真立てで笑っていた女の子のことを思いだした。羽佐間容子の大切な一人娘。操にとっては、会ったことのないお姉ちゃんのような存在。
博士が蘇らせたかったのは彼女だったのだと知って、ぼくは驚いた。
「翔子とは幼馴染だった。ずっと好きだった。だから取り戻したくて、必ず完成させるつもりで研究していた。だけど、どうしたって不可能だってことはすぐに分かったよ。どれほど足掻こうとも、同じ命は二度と生み出せない」
ぼくの肩をすっぽりと包み込む博士の手に、ぐっと力が込められていた。博士は淡々と言うけれど、そこから痛いほど伝わってくる。悔しさだとか、虚しさだとか、恋しさだとか。
たくさんの痛みがぼくのなかに流れ込み、やがて受け止めきれないものが次から次へと溢れてく。
一緒だ。ぼくと一緒。諦めたくなかった。もういちど会いたかった。大切なひとの笑顔が見たかった。ただそれだけだったんだ。
「博士……博士ぇ……うわあぁぁ……っ」
ぼくは博士に縋りつき、子供みたいに大声で泣きじゃくった。
操は二度と戻ってこない。羽佐間容子も、翔子も。ショコラだってそうだ。それでもぼくは操が笑顔で逝ったことを、どうしても受け入れたくなかった。
だから目を背けた。ぼくも博士も。捨てきれない願いに足掻くことが、生きる理由になっていた。
だけどぼくはここに来て、今の暮らしに満足しはじめていた。朝は一緒にコーヒーを飲んで、博士のためにご飯を作って、掃除をして、お使いをして、夜はふたりで月を見上げて、ささやかなキスをして。
そんな毎日の繰り返しを幸せだと感じるたびに、ぼくが見ていた幻の操は苦しそうな顔をした。あれはぼくの、もう一つの心の形だったんだ。幸福だと思うほど、ぼくはぼくが許せなかった。操を過去にしようとしている、自分のことが許せなかった。
──ずっと空で見てるから……幸せになって、操。
操は最期に言ったのに。ぼくに幸せになれって。そう願ってくれていたのに。
だからぼくも博士と同じだ。いい加減、腹を括らなきゃいけない。
操を失くしたまま、翔子を失くしたまま、それでもぼくらは生きなきゃならない。共に歩いていきたいと、そう思える存在に出会えたから。
ぼくの中で、それは新しい『希望』になった。
博士は泣いてばかりいるぼくを、いつまでも抱きしめてくれた。だけどだんだん泣き疲れて、しゃくりが小さくなってくると、ぼくの頬に触れて上向かせた。
「魔法は完成しない。だけど君にかかった魔法は、いつか解くことができるかもしれない。時間はかかると思うけど」
博士の言葉に、ぼくはゆっくりと首を横に振った。
「この魔法は、操がくれた宝物なんだ。だからこのまま生きてくよ。それに、猫の姿じゃ博士のお世話ができないもん」
たくさん泣いてしまったことが気恥ずかしくて、照れ笑いを浮かべながら言ったぼくに、博士も笑うと「そっか」と言った。
操に拾われた黒猫の姿も、クロノスという名前も、大切なぼくだけの宝物であることに変わりはない。この未完の魔法が、いつまで続くかも分からないけど。
それまでは、まるで双子みたいに操そっくりのぼくでいたい。そう思ったから。
*
「わぁ……きれいな空……!」
宝石のようにキラキラとした日差しに、どこまでも広がる深い青。散りばめられた雲の波間を、小鳥たちが泳いでる。気持ちよさそうだなと思いながら、ぼくはそっと瞳をすがめた。
思わず立ち止まって見とれていたけど、ぐぅっとお腹が鳴って気がついた。太陽は真上にある。つまり昼食の時間だ。最近、木の実を使ってジャムを作れるようになったから、焼いたパンに塗って食べよう。
ぼくはウキウキしながら帰りを急いだ。オバケ森のずっと奥。古びた家の煙突からは、今日もモクモクと煙が上がってる。
「甲洋、ただいまー! ねぇ見て! おっきなヘビを捕まえたよ!」
帰宅したぼくは、肩に担いでいた大袋を床に置いた。中には巨大な蛇が入ってる。もちろん今夜のご飯だ。これを料理して、残りは干し肉にするつもり。
騒がしく帰宅したぼくを、奥の研究部屋から姿を現した甲洋が「おかえり」と言って出迎えてくれた。だけどその顔は明らかに曇ってる。
「あのさ来主、肉が食べたいなら溝口さんに頼むから……鶏とか豚とか、無難なやつをさ……だからわざわざ捕まえてこなくても……」
「なんで? 自分の獲物は自分で狩らなきゃ、ありがたみがないでしょ?」
「そういうとこ猫なんだよな、お前って……」
「君だって虫とかトカゲとか入れてお薬作るじゃん」
「俺が飲んだり塗ったりするわけじゃないし」
「そういうのを屁理屈って言うんだよ!」
甲洋がおっきな溜息をついた。いつもこういう反応をするくせに、料理したものは必ず残さず食べてくれる。だから嬉しくてついがんばっちゃうんだ。
一人の頃はまともに食べてなかったみたいだけど、ぼくがいるからにはそうはさせない。愛情いっぱいの手料理を食べて、いつも元気でいてもらわなきゃ。
「もしぼくに子供がいたら、こんな気分なのかな?」
「なにか言った?」
横目で睨まれて、ぼくは笑って誤魔化した。
「それより、ちゃんとキノコや葉っぱも採ってきたよ! これで足りる?」
ヘビが入った袋の他に、ぼくはもうひとつ手に持っていたバスケットをテーブルの上に置くと蓋を開けた。甲洋が覗き込んできて、「十分だ」と言いながらぼくの頭を黒い耳ごとくしゃっと撫でる。それが嬉しくて、ダボダボのオーバーオールの中で太ももに巻きつけているしっぽが跳ねた。
「ありがとう、来主」
「うん! これでお仕事と研究、がんばってね!」
甲洋は相変わらず熱心に研究を続けてる。例の疫病を封じるための、特効薬の研究だ。かなり前から並行して続けていたらしいけど、今はそれ一本になっていた。
甲洋なら、いつか必ず完成させるって信じてる。だからぼくはそれまでずっと、それからもずっと、甲洋の弟子見習いでいるつもり。いつまで見習いなのかは知らないけど、まぁいっか。
「ああ、そうだ」
バスケットを持ってまた奥の部屋に引っ込もうとしていた甲洋が、思いだしたようにクルリと振り向いて、ぼくのそばまでやってきた。黒いローブの中をごそごそとまさぐって、取り出したものをぼくの頭にポンとかぶせる。
「え? 博士、これって……!」
それは風に飛ばされて失くしたはずの、操の形見のキャスケットだった。どんなに探しても見つからなかったのに。それがどうして?
両手を頭にやってキャスケットに触れながら、目をまんまるにするぼくを見て甲洋が微笑む。
「ついさっきね。見つけたよ」
「ど、どこで!?」
「ショコラのお墓で」
甲洋がいつもいる奥の部屋の窓からは、ショコラのお墓がよく見える。ぼくがお使いと狩りに出かけているあいだ、ふと窓の外に目をやった甲洋は、そこにキャスケットがあるのを見つけた。細い丸太を組んで作った十字架の頭に、それは引っかかっていた。
ぼくはキャスケットを外すと、まじまじと見下ろした。もう諦めるしかないって思っていたから、嬉しすぎて涙がにじむ。胸が熱くて、ジンジンしていた。
「ショコラが見つけてくれたのかな?」
森のなかで迷子になっていた操のキャスケット。ショコラが探して、風に乗せて届けてくれたのかもしれない。そうだったらいいなって、ぼくは思った。
「きっとね」
博士はそう言って、ぼくの頬に触れると身を屈めた。ぼくは軽く背伸びをしながら目を閉じる。そっと優しく、唇同士が触れ合った。もっとしていたいのに、キスは一瞬で終わってしまう。次にするのはまた今夜、大きな月を見上げるベンチで。
待ち遠しくて、熱っぽい息がほぅっと漏れる。甲洋の頬もうっすら赤い。照れくさそうに目を逸らす仕草に、ぼくはちょっぴり笑ってしまう。幸せだなって、心からそう思った。
──あのね、操。
恥ずかしいから、本当は秘密にしておきたいけど。
君はきっと、空からずっと見ていたよね。ぼくが初めて恋をしたこと。
今なら信じられる気がするよ。そこに君がいることを。だからもう、空を見ても悲しくないんだ。
君はお母さんに会えたかな。翔子もショコラも、きっとそこにいるんだね。
だからさよなら、お母さん。
さよなら、ぼくらの愛しい人たち。大好きな人たち。
いつかきっと、また会う日まで。
これからもそこで見ていてほしい。ぼくと、ぼくの大切な人のこと。
ぼくらはゆっくり、歩いていくから。
胸いっぱいに好きが溢れて、ぼくは操のキャスケットを優しく胸に抱き寄せた。
博士とクロノス / 了
←戻る ・ Wavebox👏→
瞬きも忘れて、震える両手で頭に触れる。そこにはふさふさの毛で覆われた、大きな耳の感触があった。
キャスケットはいつの間にか消えていた。ずっとかぶっていたはずなのに。そこにはなにもない。黒い猫の耳が生えているだけ。だってこの森に来た最初の日、あのキャスケットは風で飛ばされてしまったから。
「ぼくは……」
操が失くしたんじゃない。あれはぼくが失くしたんだ。たったひとつのキャスケット。操の形見だったのに。探しても探しても、見つからなかった。
「ぼくが、生き返らせたかったのは……」
操だ。ぼくの大好きなお母さん。たった一人の、お母さん。
操を失ってから、ぼくはずっと泣いていた。彼が最後に望んだ通り、その亡骸を家の裏に埋めてからも、ずっと。
何日も泣いて暮らして、やがて疲れ果てたとき、ふと鏡を見るとそこには操が映っていた。操の名前をもらったぼく。鏡に映る操の姿。いつしかぼくは、「操は生きている」と、自分に暗示をかけて痛みを紛らわすようになっていった。
町の人達のまじないは、操がいなくなってすぐに効果がなくなった。
キャスケットで耳を隠しながら生きるぼくのことを、みんなが当たり前のように『操』と呼んで接してくれた。なんだ、やっぱり操は生きてるんじゃないか。ぼくはいっそう強く、そう思い込むようになっていった。
だけどだんだん、ぼくには分からなくなっていった。操の名前で呼ばれるたびに、ぼくと操の境界が曖昧になっていく。そのうち記憶まで、操のものとごちゃ混ぜになってしまった。
ぼくと操は双子の兄弟。生まれたときからずっと一緒。羽佐間容子を母と慕って、愛されながら生きてきた。それがぼく。それがぼくたち、来主操。
いつからか、ぼくには鏡なんかなくても操の存在が見えるようになっていった。
そんなある日、町の人達が噂しているのをたまたま聞いた。遠い町のハズレの森に、死者を蘇らせる研究をしている魔法使いがいる、っていう話を。
ぼくらは大切な『お母さん』を亡くしてしまったばかりだった。操はいつも泣いていて、ぼくはその泣き顔を見ているのがつらかった。だったら、お母さんを取り戻せばいい。噂の魔法使いを探せば、その願いが叶うかもしれない。
だからぼくは──ぼくらは、旅立つ決心をした。
操と一緒に長い長い旅に出て、そうしてたどり着いたのがこの場所だった。博士と出会って、操と三人で暮らしていたはずの、この家に。
だけどここには、最初からぼくと博士しかいなかった。そのことに気がついてしまった。今この瞬間が、ぼくが見ていた夢と幻の終着点になった。
「ぼくは、クロノス」
雨の路地裏で、寂しくて泣いていた黒猫。操に拾われ、たくさんたくさん愛されて、ヒトの真似事をしながら生きていた。それがぼくの正体だ。
「博士は、最初から知ってたんだね。ぼくのこと」
いまいち焦点が合わない瞳をさまよわせる。博士は深く息をついた。
「厄介なのが来たと思ったよ。人に化ける使い魔はいるけど、それにしてはあまりにも中途半端だったしね」
そりゃあそうだと、ぼくは思った。だってぼくは使い魔じゃない。ただの猫なんだから。博士からしたら、突然やってきた人間モドキが訳の分からないことをまくし立てていたのだから、勝手に思考を覗くしか手はなかったんだろう。
あのとき博士は、ごちゃ混ぜになったぼくと操の記憶を読んだ。この人はとても頭がいいから、幾つかの断片に触れるだけで十分だったんだ。だからすべてを知っていた。ぼくが壊れていたことも。
「知ってたのに、どうして黙ってたの? オレンジジュースだって、操のために買ってくれたんだと思ってた」
博士は、ぼくの奇妙な振る舞いを見てどう感じていたんだろう。誰もいない場所に向かって話しかけたり、笑ったりなんかしちゃってさ。
「君の安寧がそこにあるなら、壊す理由が俺にはなかった。最初はすぐに諦めて、出ていくだろうと思っていたしね。オレンジジュースは、君が欲しがったから買った。それだけだ」
「ぼくが……?」
ああ、そっか。そうだった。あのときぼくは言ったんだ。コーヒーを飲んで苦い顔をしていた操を笑いながら、
──操はコーヒーが苦手みたい。見てよこの顔! ねぇ博士、ジュースはないの? オレンジジュースがいいな! 操もそれなら飲めるでしょ?
って、そう言ったんだ。
あのとき博士は、ただ黙ってぼくを見守っていた。誰もいない空間に笑いかけるぼくのことを、否定も肯定もしないまま。
「そっか……そうだったんだ……」
ぼくは笑っていた。笑いながら、涙が溢れだすのを止められなかった。バカみたいだ。ずっと一人だったのに。操はもうどこにもいないのに。それを受け入れられなくて、自分で自分に、呪いみたいな暗示をかけて。
博士は泣いているぼくを見て、痛いのを我慢してるみたいな顔をした。そしてぼくのことを引き寄せて、強く抱きしめると「ごめん」と言った。
「暗示を解いたのは、俺のエゴだよ。俺もいい加減、夢から醒めなくちゃいけない。だから本当の君と、ちゃんと向き合って話がしたいと思った」
「夢から、さめる……?」
「腹を括るってことだよ」
そう言って、博士はひとつ大きな息をはきだした。そして、言った。
「俺は、君の願いを叶えてやれない」
それはぼくが何度も博士に投げかけていた問いへの答えだった。死者を蘇らせる奇跡の魔法。そんなものは、決して完成しないってこと。不可能だってこと。
博士の口からはっきりと告げられても、ぼくはちっとも驚かなかった。どこかでは分かっていたんだと思う。博士に肯定してほしくて泣いていたあの夜のぼくは、操の幻と一緒に消えていた。
「もうずいぶん前から、分かっていたことなんだ」
あるいは最初から──博士はそう付け加えると吐く息を震わせた。もうとっくの昔から、博士はちゃんと気づいてたんだ。なのに研究を続けてた。森の奥でずっと孤独に、町の人たちに笑われながら。
「分かってたのに、どうして研究を続けていたの?」
「……願いを捨てられなかったから」
博士は少しだけ身体を離すと、ぼくの瞳を覗き込む。
「翔子を、過去にしたくなかった」
──翔子。
ぼくは写真立てで笑っていた女の子のことを思いだした。羽佐間容子の大切な一人娘。操にとっては、会ったことのないお姉ちゃんのような存在。
博士が蘇らせたかったのは彼女だったのだと知って、ぼくは驚いた。
「翔子とは幼馴染だった。ずっと好きだった。だから取り戻したくて、必ず完成させるつもりで研究していた。だけど、どうしたって不可能だってことはすぐに分かったよ。どれほど足掻こうとも、同じ命は二度と生み出せない」
ぼくの肩をすっぽりと包み込む博士の手に、ぐっと力が込められていた。博士は淡々と言うけれど、そこから痛いほど伝わってくる。悔しさだとか、虚しさだとか、恋しさだとか。
たくさんの痛みがぼくのなかに流れ込み、やがて受け止めきれないものが次から次へと溢れてく。
一緒だ。ぼくと一緒。諦めたくなかった。もういちど会いたかった。大切なひとの笑顔が見たかった。ただそれだけだったんだ。
「博士……博士ぇ……うわあぁぁ……っ」
ぼくは博士に縋りつき、子供みたいに大声で泣きじゃくった。
操は二度と戻ってこない。羽佐間容子も、翔子も。ショコラだってそうだ。それでもぼくは操が笑顔で逝ったことを、どうしても受け入れたくなかった。
だから目を背けた。ぼくも博士も。捨てきれない願いに足掻くことが、生きる理由になっていた。
だけどぼくはここに来て、今の暮らしに満足しはじめていた。朝は一緒にコーヒーを飲んで、博士のためにご飯を作って、掃除をして、お使いをして、夜はふたりで月を見上げて、ささやかなキスをして。
そんな毎日の繰り返しを幸せだと感じるたびに、ぼくが見ていた幻の操は苦しそうな顔をした。あれはぼくの、もう一つの心の形だったんだ。幸福だと思うほど、ぼくはぼくが許せなかった。操を過去にしようとしている、自分のことが許せなかった。
──ずっと空で見てるから……幸せになって、操。
操は最期に言ったのに。ぼくに幸せになれって。そう願ってくれていたのに。
だからぼくも博士と同じだ。いい加減、腹を括らなきゃいけない。
操を失くしたまま、翔子を失くしたまま、それでもぼくらは生きなきゃならない。共に歩いていきたいと、そう思える存在に出会えたから。
ぼくの中で、それは新しい『希望』になった。
博士は泣いてばかりいるぼくを、いつまでも抱きしめてくれた。だけどだんだん泣き疲れて、しゃくりが小さくなってくると、ぼくの頬に触れて上向かせた。
「魔法は完成しない。だけど君にかかった魔法は、いつか解くことができるかもしれない。時間はかかると思うけど」
博士の言葉に、ぼくはゆっくりと首を横に振った。
「この魔法は、操がくれた宝物なんだ。だからこのまま生きてくよ。それに、猫の姿じゃ博士のお世話ができないもん」
たくさん泣いてしまったことが気恥ずかしくて、照れ笑いを浮かべながら言ったぼくに、博士も笑うと「そっか」と言った。
操に拾われた黒猫の姿も、クロノスという名前も、大切なぼくだけの宝物であることに変わりはない。この未完の魔法が、いつまで続くかも分からないけど。
それまでは、まるで双子みたいに操そっくりのぼくでいたい。そう思ったから。
*
「わぁ……きれいな空……!」
宝石のようにキラキラとした日差しに、どこまでも広がる深い青。散りばめられた雲の波間を、小鳥たちが泳いでる。気持ちよさそうだなと思いながら、ぼくはそっと瞳をすがめた。
思わず立ち止まって見とれていたけど、ぐぅっとお腹が鳴って気がついた。太陽は真上にある。つまり昼食の時間だ。最近、木の実を使ってジャムを作れるようになったから、焼いたパンに塗って食べよう。
ぼくはウキウキしながら帰りを急いだ。オバケ森のずっと奥。古びた家の煙突からは、今日もモクモクと煙が上がってる。
「甲洋、ただいまー! ねぇ見て! おっきなヘビを捕まえたよ!」
帰宅したぼくは、肩に担いでいた大袋を床に置いた。中には巨大な蛇が入ってる。もちろん今夜のご飯だ。これを料理して、残りは干し肉にするつもり。
騒がしく帰宅したぼくを、奥の研究部屋から姿を現した甲洋が「おかえり」と言って出迎えてくれた。だけどその顔は明らかに曇ってる。
「あのさ来主、肉が食べたいなら溝口さんに頼むから……鶏とか豚とか、無難なやつをさ……だからわざわざ捕まえてこなくても……」
「なんで? 自分の獲物は自分で狩らなきゃ、ありがたみがないでしょ?」
「そういうとこ猫なんだよな、お前って……」
「君だって虫とかトカゲとか入れてお薬作るじゃん」
「俺が飲んだり塗ったりするわけじゃないし」
「そういうのを屁理屈って言うんだよ!」
甲洋がおっきな溜息をついた。いつもこういう反応をするくせに、料理したものは必ず残さず食べてくれる。だから嬉しくてついがんばっちゃうんだ。
一人の頃はまともに食べてなかったみたいだけど、ぼくがいるからにはそうはさせない。愛情いっぱいの手料理を食べて、いつも元気でいてもらわなきゃ。
「もしぼくに子供がいたら、こんな気分なのかな?」
「なにか言った?」
横目で睨まれて、ぼくは笑って誤魔化した。
「それより、ちゃんとキノコや葉っぱも採ってきたよ! これで足りる?」
ヘビが入った袋の他に、ぼくはもうひとつ手に持っていたバスケットをテーブルの上に置くと蓋を開けた。甲洋が覗き込んできて、「十分だ」と言いながらぼくの頭を黒い耳ごとくしゃっと撫でる。それが嬉しくて、ダボダボのオーバーオールの中で太ももに巻きつけているしっぽが跳ねた。
「ありがとう、来主」
「うん! これでお仕事と研究、がんばってね!」
甲洋は相変わらず熱心に研究を続けてる。例の疫病を封じるための、特効薬の研究だ。かなり前から並行して続けていたらしいけど、今はそれ一本になっていた。
甲洋なら、いつか必ず完成させるって信じてる。だからぼくはそれまでずっと、それからもずっと、甲洋の弟子見習いでいるつもり。いつまで見習いなのかは知らないけど、まぁいっか。
「ああ、そうだ」
バスケットを持ってまた奥の部屋に引っ込もうとしていた甲洋が、思いだしたようにクルリと振り向いて、ぼくのそばまでやってきた。黒いローブの中をごそごそとまさぐって、取り出したものをぼくの頭にポンとかぶせる。
「え? 博士、これって……!」
それは風に飛ばされて失くしたはずの、操の形見のキャスケットだった。どんなに探しても見つからなかったのに。それがどうして?
両手を頭にやってキャスケットに触れながら、目をまんまるにするぼくを見て甲洋が微笑む。
「ついさっきね。見つけたよ」
「ど、どこで!?」
「ショコラのお墓で」
甲洋がいつもいる奥の部屋の窓からは、ショコラのお墓がよく見える。ぼくがお使いと狩りに出かけているあいだ、ふと窓の外に目をやった甲洋は、そこにキャスケットがあるのを見つけた。細い丸太を組んで作った十字架の頭に、それは引っかかっていた。
ぼくはキャスケットを外すと、まじまじと見下ろした。もう諦めるしかないって思っていたから、嬉しすぎて涙がにじむ。胸が熱くて、ジンジンしていた。
「ショコラが見つけてくれたのかな?」
森のなかで迷子になっていた操のキャスケット。ショコラが探して、風に乗せて届けてくれたのかもしれない。そうだったらいいなって、ぼくは思った。
「きっとね」
博士はそう言って、ぼくの頬に触れると身を屈めた。ぼくは軽く背伸びをしながら目を閉じる。そっと優しく、唇同士が触れ合った。もっとしていたいのに、キスは一瞬で終わってしまう。次にするのはまた今夜、大きな月を見上げるベンチで。
待ち遠しくて、熱っぽい息がほぅっと漏れる。甲洋の頬もうっすら赤い。照れくさそうに目を逸らす仕草に、ぼくはちょっぴり笑ってしまう。幸せだなって、心からそう思った。
──あのね、操。
恥ずかしいから、本当は秘密にしておきたいけど。
君はきっと、空からずっと見ていたよね。ぼくが初めて恋をしたこと。
今なら信じられる気がするよ。そこに君がいることを。だからもう、空を見ても悲しくないんだ。
君はお母さんに会えたかな。翔子もショコラも、きっとそこにいるんだね。
だからさよなら、お母さん。
さよなら、ぼくらの愛しい人たち。大好きな人たち。
いつかきっと、また会う日まで。
これからもそこで見ていてほしい。ぼくと、ぼくの大切な人のこと。
ぼくらはゆっくり、歩いていくから。
胸いっぱいに好きが溢れて、ぼくは操のキャスケットを優しく胸に抱き寄せた。
博士とクロノス / 了
←戻る ・ Wavebox👏→
ここに来てそろそろ二ヶ月。ぼくらのお手伝い生活も、だいぶ板についてきた。
家事も手際よくこなせるようになってきたし、料理の腕だって上達してきたと思う。少なくともスープの味付けを失敗したり、パンを焦がすことはなくなった。
それでもぼくらはまだ、正式に弟子としては認められていない。本当に、ただの住み込みのお手伝いさんって感じだ。
だけどもしちゃんと弟子になれたとしても、今とやることは変わらないような気がしてる。だってぼくは魔法のことよく知らないし、あまり興味もなかったし、魔術書に書かれている文字なんか、ミミズが踊ってるようにしか見えないもん。
でも、今のままでもそれなりに役には立ててると思う。ほこりっぽかった家の中はいつもピカピカに掃除してるし、研究や薬を作るための材料集めだって、ぼくらの仕事だ。博士はそのぶん、研究に没頭できるんだから。
最近はちょっとだけ──本当にちょっとだけなんだけど、ここでの暮らしもいいなって思うようになったんだ。
操がいて、博士がいて、ぼくがいる。お母さんと暮らしていた頃も幸せだったし、お母さんにまた会いたいって気持ちは変わらないけど、今は今で、けっこう楽しい。それに──。
ぼくと博士は、あれからときどき内緒のキスをするようになっていた。場所は決まってあの玄関脇のベンチで、時間は深夜。別に約束してるわけじゃない。ぼくはあの夜からこっそり屋根裏部屋を抜け出して、ベンチに座って夜空を眺めるのが習慣になっていた。
するとショコラのお墓参りを終えた博士がやってきて、ぼくの隣に座るんだ。そこでぼくと博士は、ぽつりぽつりと言葉を交わす。明日のご飯は何にしようとか、森で見つけた不思議な虫や植物のこととか。
何気ないことばかりだけど、博士と話せる時間が嬉しくて、ぼくはいつの間にか博士にぴったりくっついている。なんでかな。二人きりでいると、どうしてか博士に甘えたいような気分になってしまう。
変だなって自分でも思うけど、博士は黙ってぼくの好きにさせてくれる。そうするといつの間にか会話が途切れて、ぼくらはどこかぼうっとしながら見つめ合う。
博士がぼくの頬に触れて、そっと顔を近づけてくると、ぼくは自然と目を閉じる。唇が重なり合うと、頭の中が痺れたみたいになって気持ちよかった。
そのたびにぼくは、ずっと博士とこうしていたいって、そんなふうに思うようになっていた。
*
「操、ここはもういいから、次は裏庭に行こうよ」
その日、ぼくらは朝から家の前で草むしりをしていた。
むしった草を一ヶ所にまとめ終えて振り返ると、操はしゃがみこんだまま手を止めて、ぼーっとしながら地面を見つめている。
「ねぇ操ってば。聞いてる?」
「……あ、ごめん。なにか言った?」
「操……」
ぼくはふっと息をつきながら操のそばまで行くと、かぶっていたキャスケットを脱いでその頭にかぶせようとした。だけど、操はそれを手で遮って首を横に振る。
「操?」
「いい。それは操のものだから」
「ぼくだけのじゃないよ。これは二人の」
「いいんだ。おれにはもう必要ない」
「なんで? なんでそんなこと言うの……?」
ぼくは操に拒まれたことにショックを受けていた。今までこんなことはなかったし、操の様子はいつもと明らかに違ってる。だけど本当は分かってた。操の不安な気持ちが、少しずつ苛立ちに変わってきてるってこと。
博士の研究は相変わらずだ。いつも失敗ばかりしている。そのたんびに、操の表情が曇る回数も増えていた。ぼくもその気持ちはわかってるつもりだけど。
「だったらもういいよ。操なんかもう知らないから!」
ぼくは操から顔を背けて、キャスケットをかぶり直した。操はなにも言おうとしない。ケンカをするのは初めてのことじゃないけど、こういうときはいつも操の方からすぐに謝ってくる。だけど今日はそれがなかった。
イライラとした気持ちより、悲しいって気持ちのほうが大きくなってくる。こんなんじゃダメだ。今日はぼくから謝ろう。無言でいることに耐えられなくなってきて、ぼくは口を開きかけた。
だけどそのとき──。
ドンッ!!
森中に響き渡るほど大きな音がして、驚いた鳥たちが一斉にそこらじゅうの木から羽ばたいた。
「今のなに!?」
「家からしたよ! 博士の部屋だ!」
「でも、いつもより大きくなかった!?」
「行ってみよう!」
今はケンカなんかしてる場合じゃない。ぼくは操の手を掴んで駆けだした。家のドアを開けると、中から焦げ臭い煙が一気に噴きだしてくる。
むせている操の手を強く引いて、ぼくは博士の部屋まで一気に走った。
「博士! 大丈夫!?」
飛び込んできたのは、いつもは紫の煙を上げている壺の中から、モクモクと赤黒い煙が湧きだしている光景だった。大量の本やレポート用紙が床に散乱して、魔術道具も幾つか粉々になって散らばっている。
博士は尻もちをついた状態で、煙をあげる壺を疲れた様子で見つめていた。
「は、博士……?」
恐る恐る、ぼくらは部屋に踏み入った。頬に煤をつけた博士はゆっくりとぼくらに視線を向け、それから大きく溜息をつく。
「問題ない。悪いけど、換気するのを手伝ってくれる?」
「わかった! 操、行こう! 家中の窓を開けなくちゃ!」
ぼくはまた操の手を引こうとしたけど、操はびくとも動かない。ただ悲しそうに壺を見て、それからガクンと項垂れてしまった。
「また、失敗……」
「操……?」
「やっぱりなにも生まれない。どんなにがんばったって、お母さんを取り戻すことなんかできっこないんだ」
「ッ!」
「ごめんね操……おれはもう、ここにはいられない」
操はぼくの手を振り払い、部屋を飛びだして行ってしまう。
「操っ!!」
追いかけなくちゃ。頭ではそう思うけど、どうしてかぼくはその場から動くことができなかった。ショックだった。ぼくは博士を信じたかったし、だから今日までがんばってきたつもりだった。それは操も同じなんだと思っていたけど。
やっぱりって、操は言った。やっぱりなにも生まれないって。操は、いつからかとっくに諦めていた。お母さんのことも、博士のことも。
ぼくはそれが悲しくて、どうしたらいいか分からなくて、迷子みたいに途方に暮れた。
博士はなにも言おうとしない。あぐらをかいて、頬についた煤を手の甲で拭っている。ぼくは博士のそばに駆け寄ると、膝をついてその肩を揺さぶった。
「ねぇ、大丈夫だよね? いつかきっと上手くいくんだよね?」
「……」
「どうしてなにも言ってくれないの!? 博士にだっているんでしょ? 大事な人、取り戻したいんでしょ? だからがんばってるんでしょ!?」
ぼくは博士まで弱気になっているんだと思った。だから必死で励まそうとした。
「元気だしてよ! きっと大丈夫だよ! 博士がそんなんじゃ」
「──君は、」
「っ?」
ずっと壺を見つめていた博士が、少し険しい目をしてぼくを見ると
「君が生き返らせたいのは、誰なんだ?」
と、そう言った。
「……誰、って」
ぼくは問われたことの意味が理解できなかった。どうして今更そんなことを聞くんだろう。博士には、初めて会った日にちゃんと伝えているはずだ。
「博士、忘れちゃったの? 最初にちゃんと言ったじゃないか。お母さんを生き返らせたいって……」
「俺は聞いてない。君はあのとき、なにも言わずにただうつむいていただけだ」
「な、なに言ってるの? だって、ちゃんと言ったよ。あのとき、操が──」
──お母さんを……お母さんを生き返らせたい! おれたちの大事なお母さんを!
「クロノス」
「ッ……?」
辺りを覆っていた煙が、少しずつ晴れてきた。博士はぼくの目をまっすぐ見つめて、こう言った。
「俺の目の前には、最初から君ひとりしかいなかった」
*
雨が降っていた。ぼくはどこかの町の路地裏で、ボロボロの木箱に入れられて、ひとりぼっちで泣いていた。
いつからここにいるんだろう。気づいたときにはここにいた。寒くて、お腹がペコペコで、寂しくて。誰でもいいから助けてほしくて、必死で声を上げていた。
「捨て猫?」
そのときだった。雨を遮るようにして、黒い影がぼくを覆った。
ベージュのキャスケットをかぶって、空色のチェックシャツにオーバーオールを着た男の子が、箱の中にいるぼくを丸い目で見下ろしていた。
「わぁ、ちっちゃい。黒猫だね。目が金色だ」
男の子は白い手でぼくを抱き上げた。ぼくは怖くてたまらず、黒い毛を逆立てながら、シャ、シャ、と男の子を威嚇した。
「怖がらないで。ひとりぼっちなんだね。おれも同じ。お母さん、病気で死んじゃったから」
男の子の瞳が一瞬曇った。だけどぼくの頭をそっと撫でて、それからかぶっていたキャスケットを脱ぐと、その中にぼくを入れて抱きしめながらニコリと笑った。
「帰ろう、一緒に」
それがぼくと操の出会いだった。
*
操はぼくに自分の話をたくさんして聞かせてくれた。
ぼくと同じで赤ちゃんの頃に捨てられて、貧しい孤児院で暮らしていたこと。同じくらいの子供たちと一緒に、狭い部屋で身を寄せ合っていたこと。6歳のころに、魔力を暴走させてしまったこと。
操には普通では考えられないほど大きな魔力が秘められていて、ある日そうと知らずに暴走させてしまった。
友達におねしょをしたことをからかわれて、悔しくて泣いてしまった──たったそれだけのはずだったのに。
気づいたときには部屋が滅茶苦茶になっていて、窓ガラスが粉々に砕け散っていた。机も椅子もボロボロで、壁にはヒビまで入って、そばにいた友達の中には、怪我をして泣いている子までいた。
『この子は危険だ。ここに置いておくことはできない』
孤児院の大人たちはそう言って、オバケでも見るような目で操を見た。そして森の外れまで連れて行き、そのまま置き去りにしてしまった。
誰もいない森の中で、操はお腹を空かせながら何日も泣いていた。夜は獣の声に怯えながら、たまたま見つけた穴蔵の中に身体を押し込めて眠った。
やがて寒さと空腹で動けなくなった。ここで死ぬんだ。そう思っていたら、容子に出会った。
羽佐間容子という女の人は、町外れの小さな家で修理屋を営んでいた。森の中で必要な材料を探しているときに、たまたま倒れている操を見つけた。
家に連れ帰り、食事と洋服を与えてくれた。どこにも行く場所がない操に、「私も一人ぼっちなのよ」と笑って、ここにいてもいいと言ってくれた。
その日から、容子は操のお母さんになった。
学校へも通わせてもらって、そこで魔法の勉強をして、ちゃんと魔力をコントロールすることができるようになった。
でも、どんなに上手に魔法が使えるようになっても、おねしょの癖だけはなおらなかった。12歳までその癖は抜けなかったけど、容子はいつも笑いながらシーツを洗って干してくれた。
容子は操のことを、本当の子供みたいに愛してくれた。操も、容子のことが大好きだった。本当のお母さんだと思っていた。
家には黒髪の女の子の写真が飾られていた。翔子っていう名前の女の子。だけどあまり身体が丈夫じゃなくて、操が来る少し前に、疫病で死んじゃったんだって。
容子は寂しそうに写真を見つめながら、よく翔子の話を聞かせてくれた。操と同じで血の繋がりはなかったけれど、本当の娘みたいだったって。
そんなある日のこと──容子が、翔子と同じ病気にかかってしまった。
操は14歳になっていた。何度もお医者さんに見てもらったし、操も必死で病気を治すための魔法を試した。だけど、ぜんぜんダメだった。
容子はひどい熱と咳が止まらず、最後には血まで吐くようになった。
そして、死んでしまった。
操は何日も泣いて、町の人達が上げてくれたお葬式が終わっても、ずっと一人で泣いていた。大好きなお母さんにもう会えない。またひとりぼっちになってしまった。いっそのこと、自分も消えてしまいたいと思った。
だけどそんなある日、家の近くの路地裏でぼくを見つけた。まるで自分を見ているようで、操はぼくを放っておくことができなかった。
クロノス。
それは操がつけてくれた名前だった。
そのときから、操はぼくの『お母さん』になったんだ。
*
操はぼくにとても優しくしてくれた。美味しいご飯をたくさん食べさせてくれたし、夜はおでこやほっぺたに何度もキスをして、抱きしめて眠ってくれた。
最初は怖かったけど、ぼくはすぐに操のことが大好きになった。
ぼくは自分の本当のお母さんのことを覚えていない。だけど操にぎゅってされると、なんとなくお母さんのことを思いだせるような気がして、いつも操の胸をモニモニと揉んで、服がビシャビシャになるくらいチュウチュウ吸って、そうするととても安心することができた。
それからしばらく経った、ある日のこと。
操はぼくをヒトの姿に変える魔法をかけた。どこへ行くにもついて行こうとするぼくを見かねて、そのほうが安心だからって。人通りが多い町中や、森の中を歩くにも、子猫の姿だと危険が多い。
「勝手なことしてごめんね」
操はそう言って謝ったけど、ぼくは嬉しかった。だって、これからは家の外でもずっと操のそばにいられる。同じ言葉を使って話すことができる。
それに、ぼくの姿は操と瓜二つだったんだ。猫の耳としっぽは残っていたけど、ぼくは大好きな操と同じ顔をしていることが、とても嬉しかった。
操とお揃いのオーバーオールはサイズが少し大きくて、しっぽを隠すのに不便はなかった。耳は操がくれたキャスケットをかぶれば大丈夫。
町の人達は操が二人になったことに驚いたけど、双子の弟だって言ったら、みんなあっさり信じてしまった。たぶん、操が魔法で記憶におまじないをかけたんだ。
ヒトの姿になってから、ぼくはなんでも操の真似をするようになった。
操のお母さんがしていた仕事を引き継いで、二人で少しずつ色んなものを修理できるようにもなっていった。ご飯もお風呂も寝るときも、ぼくらはどんなときでもいつも一緒。そんな日が、これからずっとずっと続いていくんだと思ってた。
操が、翔子や容子と同じ病で倒れるまでは。
*
操は日に日に弱っていった。ひどい熱にうなされて、朝から晩まで咳が止まらなかった。そのうち、血まで吐くようになってしまった。
ぼくはどうしたらいいか分からなかった。このままじゃ操がいなくなってしまう。もう一緒にはいられなくなる。大好きな操が。ぼくのお母さんが。
だけどぼくにはなにもできなかった。ただベッドに縋りついて泣くことしか。
操はずっとぼくの手を握っていた。咳が出て、口からたくさん血を吐いて、こんなに苦しそうなのに。ぼくに優しく笑いかけていた。
「クロノス」
最期のとき。操はベッドに横たわり、ぼくの名前を呼んだ。それから、「ごめんね」と言った。
「君にかけたその魔法は、おれにも解けないんだ。ちょっとやそっとじゃ戻らないように、途中の式をね、めちゃくちゃに組んでしまったから」
ぼくが耳としっぽだけ中途半端に猫のままだったのは、正しい形で魔法をかけなかったから。操はぼくと本当の双子の兄弟になるつもりだったんだ。同じ言葉で話して、同じものを共有できる、人の形をした家族に。
だから絶対に解けないように、あえて未完の魔法をかけた。
「わがままで、ごめん」
ぼくは操の手を両手で強く握りながら、何度も首を左右に振った。
「そんなこと言わないで。ぼくは嬉しい。操とお揃いなのが、本当に嬉しいんだ」
「ありがとう、クロノス」
「操……お願いだから、ぼくをひとりにしないで。ずっとずっと一緒にいてよ」
さっきまでひどく血を吐いていたから、操の唇は真っ赤になっている。その唇が、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ずっと一緒だよ。おれは、クロノスとずっと、一緒。だからね、おれの名前を、君にあげたい」
「え……?」
「おれの呼吸が止まったら、おれを、家の裏に埋めて。誰にも、見られないように」
「操、そんな……なんで……!?」
操が町の人たちにかけたまじないは、操の存在が消えたらすぐに解ける簡単なものだ。操がぼくと入れ替わっていたとしても、誰も疑問に思わないだろう。だから自分の身体を隠して、ぼくに本当の『来主操』になってほしいと、操は言った。ぼくがこの町で、いつまでも安心して暮らせるように。
「やだ、やだよ! 名前なんかいらない! だって、君がつけてくれたんだよ! クロノスって! だから、ぼくは操にはなれないよ……ッ!」
操がまたひとつ咳をした。一緒に血が出て、シーツを汚す。ぼくは真っ青になって、ただ小刻みに震えることしかできなかった。
苦しそうにカサついた息を漏らして、操が笑った。
「もらってよ。おれの名前を、君の居場所にしてほしい」
「やだ! やだやだ! 操がいないなら、どこにいたって同じだもん!」
ぼくは声を出して、赤ちゃんみたいにわんわん泣いた。何度もしゃくりをあげて、そのたびに息ができなくて、肺のあたりが痛くなってくる。それでも泣いた。
神様、どうか操を奪わないで。操を連れて行かないで。ぼくをぼくにしてくれた、大切な『お母さん』を。
「クロノス」
すっかり弱った指先で、操は力を振り絞ってぼくの手を握り返した。ぼくがハッと息を呑んで泣き止むのと同時に、操はゆっくりと、大きく息を吸い込んだ。そして、初めて出会ったときのように、まるでぼくを安心させるみたいに、優しく目を細めた。
「ずっと空で見てるから……幸せになって、操」
それが操から──お母さんからもらった、最後の言葉だった。
←戻る ・ 次へ→
家事も手際よくこなせるようになってきたし、料理の腕だって上達してきたと思う。少なくともスープの味付けを失敗したり、パンを焦がすことはなくなった。
それでもぼくらはまだ、正式に弟子としては認められていない。本当に、ただの住み込みのお手伝いさんって感じだ。
だけどもしちゃんと弟子になれたとしても、今とやることは変わらないような気がしてる。だってぼくは魔法のことよく知らないし、あまり興味もなかったし、魔術書に書かれている文字なんか、ミミズが踊ってるようにしか見えないもん。
でも、今のままでもそれなりに役には立ててると思う。ほこりっぽかった家の中はいつもピカピカに掃除してるし、研究や薬を作るための材料集めだって、ぼくらの仕事だ。博士はそのぶん、研究に没頭できるんだから。
最近はちょっとだけ──本当にちょっとだけなんだけど、ここでの暮らしもいいなって思うようになったんだ。
操がいて、博士がいて、ぼくがいる。お母さんと暮らしていた頃も幸せだったし、お母さんにまた会いたいって気持ちは変わらないけど、今は今で、けっこう楽しい。それに──。
ぼくと博士は、あれからときどき内緒のキスをするようになっていた。場所は決まってあの玄関脇のベンチで、時間は深夜。別に約束してるわけじゃない。ぼくはあの夜からこっそり屋根裏部屋を抜け出して、ベンチに座って夜空を眺めるのが習慣になっていた。
するとショコラのお墓参りを終えた博士がやってきて、ぼくの隣に座るんだ。そこでぼくと博士は、ぽつりぽつりと言葉を交わす。明日のご飯は何にしようとか、森で見つけた不思議な虫や植物のこととか。
何気ないことばかりだけど、博士と話せる時間が嬉しくて、ぼくはいつの間にか博士にぴったりくっついている。なんでかな。二人きりでいると、どうしてか博士に甘えたいような気分になってしまう。
変だなって自分でも思うけど、博士は黙ってぼくの好きにさせてくれる。そうするといつの間にか会話が途切れて、ぼくらはどこかぼうっとしながら見つめ合う。
博士がぼくの頬に触れて、そっと顔を近づけてくると、ぼくは自然と目を閉じる。唇が重なり合うと、頭の中が痺れたみたいになって気持ちよかった。
そのたびにぼくは、ずっと博士とこうしていたいって、そんなふうに思うようになっていた。
*
「操、ここはもういいから、次は裏庭に行こうよ」
その日、ぼくらは朝から家の前で草むしりをしていた。
むしった草を一ヶ所にまとめ終えて振り返ると、操はしゃがみこんだまま手を止めて、ぼーっとしながら地面を見つめている。
「ねぇ操ってば。聞いてる?」
「……あ、ごめん。なにか言った?」
「操……」
ぼくはふっと息をつきながら操のそばまで行くと、かぶっていたキャスケットを脱いでその頭にかぶせようとした。だけど、操はそれを手で遮って首を横に振る。
「操?」
「いい。それは操のものだから」
「ぼくだけのじゃないよ。これは二人の」
「いいんだ。おれにはもう必要ない」
「なんで? なんでそんなこと言うの……?」
ぼくは操に拒まれたことにショックを受けていた。今までこんなことはなかったし、操の様子はいつもと明らかに違ってる。だけど本当は分かってた。操の不安な気持ちが、少しずつ苛立ちに変わってきてるってこと。
博士の研究は相変わらずだ。いつも失敗ばかりしている。そのたんびに、操の表情が曇る回数も増えていた。ぼくもその気持ちはわかってるつもりだけど。
「だったらもういいよ。操なんかもう知らないから!」
ぼくは操から顔を背けて、キャスケットをかぶり直した。操はなにも言おうとしない。ケンカをするのは初めてのことじゃないけど、こういうときはいつも操の方からすぐに謝ってくる。だけど今日はそれがなかった。
イライラとした気持ちより、悲しいって気持ちのほうが大きくなってくる。こんなんじゃダメだ。今日はぼくから謝ろう。無言でいることに耐えられなくなってきて、ぼくは口を開きかけた。
だけどそのとき──。
ドンッ!!
森中に響き渡るほど大きな音がして、驚いた鳥たちが一斉にそこらじゅうの木から羽ばたいた。
「今のなに!?」
「家からしたよ! 博士の部屋だ!」
「でも、いつもより大きくなかった!?」
「行ってみよう!」
今はケンカなんかしてる場合じゃない。ぼくは操の手を掴んで駆けだした。家のドアを開けると、中から焦げ臭い煙が一気に噴きだしてくる。
むせている操の手を強く引いて、ぼくは博士の部屋まで一気に走った。
「博士! 大丈夫!?」
飛び込んできたのは、いつもは紫の煙を上げている壺の中から、モクモクと赤黒い煙が湧きだしている光景だった。大量の本やレポート用紙が床に散乱して、魔術道具も幾つか粉々になって散らばっている。
博士は尻もちをついた状態で、煙をあげる壺を疲れた様子で見つめていた。
「は、博士……?」
恐る恐る、ぼくらは部屋に踏み入った。頬に煤をつけた博士はゆっくりとぼくらに視線を向け、それから大きく溜息をつく。
「問題ない。悪いけど、換気するのを手伝ってくれる?」
「わかった! 操、行こう! 家中の窓を開けなくちゃ!」
ぼくはまた操の手を引こうとしたけど、操はびくとも動かない。ただ悲しそうに壺を見て、それからガクンと項垂れてしまった。
「また、失敗……」
「操……?」
「やっぱりなにも生まれない。どんなにがんばったって、お母さんを取り戻すことなんかできっこないんだ」
「ッ!」
「ごめんね操……おれはもう、ここにはいられない」
操はぼくの手を振り払い、部屋を飛びだして行ってしまう。
「操っ!!」
追いかけなくちゃ。頭ではそう思うけど、どうしてかぼくはその場から動くことができなかった。ショックだった。ぼくは博士を信じたかったし、だから今日までがんばってきたつもりだった。それは操も同じなんだと思っていたけど。
やっぱりって、操は言った。やっぱりなにも生まれないって。操は、いつからかとっくに諦めていた。お母さんのことも、博士のことも。
ぼくはそれが悲しくて、どうしたらいいか分からなくて、迷子みたいに途方に暮れた。
博士はなにも言おうとしない。あぐらをかいて、頬についた煤を手の甲で拭っている。ぼくは博士のそばに駆け寄ると、膝をついてその肩を揺さぶった。
「ねぇ、大丈夫だよね? いつかきっと上手くいくんだよね?」
「……」
「どうしてなにも言ってくれないの!? 博士にだっているんでしょ? 大事な人、取り戻したいんでしょ? だからがんばってるんでしょ!?」
ぼくは博士まで弱気になっているんだと思った。だから必死で励まそうとした。
「元気だしてよ! きっと大丈夫だよ! 博士がそんなんじゃ」
「──君は、」
「っ?」
ずっと壺を見つめていた博士が、少し険しい目をしてぼくを見ると
「君が生き返らせたいのは、誰なんだ?」
と、そう言った。
「……誰、って」
ぼくは問われたことの意味が理解できなかった。どうして今更そんなことを聞くんだろう。博士には、初めて会った日にちゃんと伝えているはずだ。
「博士、忘れちゃったの? 最初にちゃんと言ったじゃないか。お母さんを生き返らせたいって……」
「俺は聞いてない。君はあのとき、なにも言わずにただうつむいていただけだ」
「な、なに言ってるの? だって、ちゃんと言ったよ。あのとき、操が──」
──お母さんを……お母さんを生き返らせたい! おれたちの大事なお母さんを!
「クロノス」
「ッ……?」
辺りを覆っていた煙が、少しずつ晴れてきた。博士はぼくの目をまっすぐ見つめて、こう言った。
「俺の目の前には、最初から君ひとりしかいなかった」
*
雨が降っていた。ぼくはどこかの町の路地裏で、ボロボロの木箱に入れられて、ひとりぼっちで泣いていた。
いつからここにいるんだろう。気づいたときにはここにいた。寒くて、お腹がペコペコで、寂しくて。誰でもいいから助けてほしくて、必死で声を上げていた。
「捨て猫?」
そのときだった。雨を遮るようにして、黒い影がぼくを覆った。
ベージュのキャスケットをかぶって、空色のチェックシャツにオーバーオールを着た男の子が、箱の中にいるぼくを丸い目で見下ろしていた。
「わぁ、ちっちゃい。黒猫だね。目が金色だ」
男の子は白い手でぼくを抱き上げた。ぼくは怖くてたまらず、黒い毛を逆立てながら、シャ、シャ、と男の子を威嚇した。
「怖がらないで。ひとりぼっちなんだね。おれも同じ。お母さん、病気で死んじゃったから」
男の子の瞳が一瞬曇った。だけどぼくの頭をそっと撫でて、それからかぶっていたキャスケットを脱ぐと、その中にぼくを入れて抱きしめながらニコリと笑った。
「帰ろう、一緒に」
それがぼくと操の出会いだった。
*
操はぼくに自分の話をたくさんして聞かせてくれた。
ぼくと同じで赤ちゃんの頃に捨てられて、貧しい孤児院で暮らしていたこと。同じくらいの子供たちと一緒に、狭い部屋で身を寄せ合っていたこと。6歳のころに、魔力を暴走させてしまったこと。
操には普通では考えられないほど大きな魔力が秘められていて、ある日そうと知らずに暴走させてしまった。
友達におねしょをしたことをからかわれて、悔しくて泣いてしまった──たったそれだけのはずだったのに。
気づいたときには部屋が滅茶苦茶になっていて、窓ガラスが粉々に砕け散っていた。机も椅子もボロボロで、壁にはヒビまで入って、そばにいた友達の中には、怪我をして泣いている子までいた。
『この子は危険だ。ここに置いておくことはできない』
孤児院の大人たちはそう言って、オバケでも見るような目で操を見た。そして森の外れまで連れて行き、そのまま置き去りにしてしまった。
誰もいない森の中で、操はお腹を空かせながら何日も泣いていた。夜は獣の声に怯えながら、たまたま見つけた穴蔵の中に身体を押し込めて眠った。
やがて寒さと空腹で動けなくなった。ここで死ぬんだ。そう思っていたら、容子に出会った。
羽佐間容子という女の人は、町外れの小さな家で修理屋を営んでいた。森の中で必要な材料を探しているときに、たまたま倒れている操を見つけた。
家に連れ帰り、食事と洋服を与えてくれた。どこにも行く場所がない操に、「私も一人ぼっちなのよ」と笑って、ここにいてもいいと言ってくれた。
その日から、容子は操のお母さんになった。
学校へも通わせてもらって、そこで魔法の勉強をして、ちゃんと魔力をコントロールすることができるようになった。
でも、どんなに上手に魔法が使えるようになっても、おねしょの癖だけはなおらなかった。12歳までその癖は抜けなかったけど、容子はいつも笑いながらシーツを洗って干してくれた。
容子は操のことを、本当の子供みたいに愛してくれた。操も、容子のことが大好きだった。本当のお母さんだと思っていた。
家には黒髪の女の子の写真が飾られていた。翔子っていう名前の女の子。だけどあまり身体が丈夫じゃなくて、操が来る少し前に、疫病で死んじゃったんだって。
容子は寂しそうに写真を見つめながら、よく翔子の話を聞かせてくれた。操と同じで血の繋がりはなかったけれど、本当の娘みたいだったって。
そんなある日のこと──容子が、翔子と同じ病気にかかってしまった。
操は14歳になっていた。何度もお医者さんに見てもらったし、操も必死で病気を治すための魔法を試した。だけど、ぜんぜんダメだった。
容子はひどい熱と咳が止まらず、最後には血まで吐くようになった。
そして、死んでしまった。
操は何日も泣いて、町の人達が上げてくれたお葬式が終わっても、ずっと一人で泣いていた。大好きなお母さんにもう会えない。またひとりぼっちになってしまった。いっそのこと、自分も消えてしまいたいと思った。
だけどそんなある日、家の近くの路地裏でぼくを見つけた。まるで自分を見ているようで、操はぼくを放っておくことができなかった。
クロノス。
それは操がつけてくれた名前だった。
そのときから、操はぼくの『お母さん』になったんだ。
*
操はぼくにとても優しくしてくれた。美味しいご飯をたくさん食べさせてくれたし、夜はおでこやほっぺたに何度もキスをして、抱きしめて眠ってくれた。
最初は怖かったけど、ぼくはすぐに操のことが大好きになった。
ぼくは自分の本当のお母さんのことを覚えていない。だけど操にぎゅってされると、なんとなくお母さんのことを思いだせるような気がして、いつも操の胸をモニモニと揉んで、服がビシャビシャになるくらいチュウチュウ吸って、そうするととても安心することができた。
それからしばらく経った、ある日のこと。
操はぼくをヒトの姿に変える魔法をかけた。どこへ行くにもついて行こうとするぼくを見かねて、そのほうが安心だからって。人通りが多い町中や、森の中を歩くにも、子猫の姿だと危険が多い。
「勝手なことしてごめんね」
操はそう言って謝ったけど、ぼくは嬉しかった。だって、これからは家の外でもずっと操のそばにいられる。同じ言葉を使って話すことができる。
それに、ぼくの姿は操と瓜二つだったんだ。猫の耳としっぽは残っていたけど、ぼくは大好きな操と同じ顔をしていることが、とても嬉しかった。
操とお揃いのオーバーオールはサイズが少し大きくて、しっぽを隠すのに不便はなかった。耳は操がくれたキャスケットをかぶれば大丈夫。
町の人達は操が二人になったことに驚いたけど、双子の弟だって言ったら、みんなあっさり信じてしまった。たぶん、操が魔法で記憶におまじないをかけたんだ。
ヒトの姿になってから、ぼくはなんでも操の真似をするようになった。
操のお母さんがしていた仕事を引き継いで、二人で少しずつ色んなものを修理できるようにもなっていった。ご飯もお風呂も寝るときも、ぼくらはどんなときでもいつも一緒。そんな日が、これからずっとずっと続いていくんだと思ってた。
操が、翔子や容子と同じ病で倒れるまでは。
*
操は日に日に弱っていった。ひどい熱にうなされて、朝から晩まで咳が止まらなかった。そのうち、血まで吐くようになってしまった。
ぼくはどうしたらいいか分からなかった。このままじゃ操がいなくなってしまう。もう一緒にはいられなくなる。大好きな操が。ぼくのお母さんが。
だけどぼくにはなにもできなかった。ただベッドに縋りついて泣くことしか。
操はずっとぼくの手を握っていた。咳が出て、口からたくさん血を吐いて、こんなに苦しそうなのに。ぼくに優しく笑いかけていた。
「クロノス」
最期のとき。操はベッドに横たわり、ぼくの名前を呼んだ。それから、「ごめんね」と言った。
「君にかけたその魔法は、おれにも解けないんだ。ちょっとやそっとじゃ戻らないように、途中の式をね、めちゃくちゃに組んでしまったから」
ぼくが耳としっぽだけ中途半端に猫のままだったのは、正しい形で魔法をかけなかったから。操はぼくと本当の双子の兄弟になるつもりだったんだ。同じ言葉で話して、同じものを共有できる、人の形をした家族に。
だから絶対に解けないように、あえて未完の魔法をかけた。
「わがままで、ごめん」
ぼくは操の手を両手で強く握りながら、何度も首を左右に振った。
「そんなこと言わないで。ぼくは嬉しい。操とお揃いなのが、本当に嬉しいんだ」
「ありがとう、クロノス」
「操……お願いだから、ぼくをひとりにしないで。ずっとずっと一緒にいてよ」
さっきまでひどく血を吐いていたから、操の唇は真っ赤になっている。その唇が、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ずっと一緒だよ。おれは、クロノスとずっと、一緒。だからね、おれの名前を、君にあげたい」
「え……?」
「おれの呼吸が止まったら、おれを、家の裏に埋めて。誰にも、見られないように」
「操、そんな……なんで……!?」
操が町の人たちにかけたまじないは、操の存在が消えたらすぐに解ける簡単なものだ。操がぼくと入れ替わっていたとしても、誰も疑問に思わないだろう。だから自分の身体を隠して、ぼくに本当の『来主操』になってほしいと、操は言った。ぼくがこの町で、いつまでも安心して暮らせるように。
「やだ、やだよ! 名前なんかいらない! だって、君がつけてくれたんだよ! クロノスって! だから、ぼくは操にはなれないよ……ッ!」
操がまたひとつ咳をした。一緒に血が出て、シーツを汚す。ぼくは真っ青になって、ただ小刻みに震えることしかできなかった。
苦しそうにカサついた息を漏らして、操が笑った。
「もらってよ。おれの名前を、君の居場所にしてほしい」
「やだ! やだやだ! 操がいないなら、どこにいたって同じだもん!」
ぼくは声を出して、赤ちゃんみたいにわんわん泣いた。何度もしゃくりをあげて、そのたびに息ができなくて、肺のあたりが痛くなってくる。それでも泣いた。
神様、どうか操を奪わないで。操を連れて行かないで。ぼくをぼくにしてくれた、大切な『お母さん』を。
「クロノス」
すっかり弱った指先で、操は力を振り絞ってぼくの手を握り返した。ぼくがハッと息を呑んで泣き止むのと同時に、操はゆっくりと、大きく息を吸い込んだ。そして、初めて出会ったときのように、まるでぼくを安心させるみたいに、優しく目を細めた。
「ずっと空で見てるから……幸せになって、操」
それが操から──お母さんからもらった、最後の言葉だった。
←戻る ・ 次へ→
「あーん、また落ちちゃったよー」
ポトリと、ファイが持つ線香花火の先端から赤い玉が落ちた。もうこれで何度目か分からない。
「下手くそだな、おまえ」
「なんか手が震えちゃうんだよねー……」
そう言って、ファイはしょんぼりしつつ、足元のバケツに残された部分だけを放った。
黒鋼はまだ残っている線香花火の一本を摘み取ると、台紙の上の燃えかけの蝋燭にそれを近づけた。すぐに先端に火花が散り、赤い玉が出来る。落とさないように、慎重に。
ファイがゴクリと息を呑んだ。やがて、小さな糸のような火花がパチパチと弾け出した。
「わ、キレイ!」
「簡単だ、こんなもん」
「キレイで可愛いねぇ……」
ファイがうっとりと呟いた。けれど、それは一瞬で終わり、役目を終え、小さく萎んだ玉が静かに消えた。
「ずっと見てたいのにー。なんかしんみりしちゃう……」
もっとやってとせがまれて、残りの数本を一本一本片付けてゆく。ファイは花火が散っては目を輝かせ、終わってしまえばしょんぼりして唇を尖らせる。彼の表情はめまぐるしく変化した。
「これが最後だな」
カエルの大合唱が響き渡る公園の一角。小さな花火大会も、これでラストだ。派手に散るものは最初に全て片付けてしまったから、あとはファイの言うようにしんみりする以外なかった。
最後の一本に火をつけると、ファイが息を呑む。けれど。
「あ」
赤い玉が、最後の最後で不発のまま地に落ちてしまった。
「やっちまった」
「もー、黒たんの下手くそー」
「てめぇが言うか……?」
不満を口にするファイの額を指先で小突いた。不機嫌になったかと思ったが、ファイは笑った。
「楽しかったー。またやろうねー」
「そうだな」
黒鋼は、足元で揺らめいていた蝋燭を吹き消そうとした。だが、それをファイが「もうちょっと」と言って制した。どうせ放っておけば、あと数分もしない間に燃え尽きてしまうだろう。それでもファイはしゃがみ込んだまま、それをうっとりと見つめていた。
「火ってキレイ」
「そうか?」
「うん、花火もキレイだけど、ただの火もキレイだよ。ちゃんと気をつけてないと危ないけど……火がなかったら、花火だって出来ないでしょー?」
「まぁ、そうだな」
黒鋼は、自分の目線よりも少し下にあるファイの横顔を眺めた。肌も髪も目も、仄かなオレンジ色に揺らめいていた。
ファイは火を美しいと言うけれど、彼にはなんとなく似合わない。そんな気がした。
「黒たんの目も、真っ赤でキレイなんだよ。ウサギさんみたいで可愛いね」
「ああ?」
蝋燭の火から目線を黒鋼に向けて、ファイはへにゃりと笑う。思わず視線を逸らした。こうやって真っ直ぐに顔を合わせられなくなってから、どれだけ時間が経つだろう。綺麗も可愛いも、自分には似合わない。むしろファイの澄んだ空のような瞳の方こそ、よっぽど美しいと思う。柔らかくて可愛い笑顔も、ずっとずっと変わらない。
思えば子供の頃から、ファイはよく黒鋼をキレイだとかキラキラしているだとか、そんな恥ずかしいことばかりを口にしていた気がする。
「俺はキレイでもなんでもねぇよ」
むしろ穢らわしいとさえ、思う。こうして変わらない風を装いながら、黒鋼はファイの傍にいることに苦痛を覚えていた。彼を傷つける夢は、今も頻繁に黒鋼から眠りを奪い続けている。同時に、気持ちを自覚してしまってからというもの、ファイへの思いは日増しに膨らんでいくようだった。
友達としてでなく、恋愛の対象として。欲望の対象として。
そんなことを考えているのだと知ったら、彼はどんな顔をするのだろうか。気持ちが悪いと言って嫌悪するだろうか。恐ろしいと怯えて、逃げ出すだろうか。
拳を握って、今にも消えそうな炎を見た。これが燃え尽きたとき、この思いも消えてしまえばいいのに。そうすればまた元に戻れる。夢だって消えてなくなる。これまで通り、変わらずにいられる。
「ねぇ、黒たん」
「……なんだ?」
「楽しかった?」
横顔に視線を感じていた。それでも、やはり蝋燭から目を離すことが出来ない。ファイの声は、微かに沈んでいた。
「花火、ホントに楽しかった?」
「……ああ」
「本当に?」
もう一度、「ああ」と答えた。花火をしようと、そう持ちかけてきたのはファイだった。今年の夏祭りは、忙しいからという理由で打ち上げ花火を見に連れて行かなかったから。
きっとファイは、一人きりで家の窓から打ち上げられる花々を眺めていたのだろう。
「よかったー。オレ、わがまま言っちゃったから……迷惑だったかと思っちゃったよー」
「そんなこと……」
ない、と言おうとして、火が消えた。終わっちゃったね、とファイが寂しげに呟く。けれど、やはり黒鋼の中の歪な感情が消え去ることはなかった。
台紙を拾ってバケツに放ると持ち上げ、先に立ち上がったのはファイだった。黒鋼は、ただなんとなくそのまましゃがみ込んで、側を流れる小さな小川を見つめていた。カエルの声と水の音。そこに満ちる二人の沈黙が、蒸し暑さに反してどこか寒々しい。
「遠いね……」
ファイがポツリと口にした。やはり、黒鋼はファイを見ることができない。
「なんかね、なんか……すごく、遠いんだー……」
「なにが」
「……わかんない。なんて言ったらいいか、わからないの。でも……」
遠いね、とファイは再び言った。黒鋼には、彼の伝えたい言葉の意味が本当はちゃんと分かっている。寂しいと、彼はそう言いたいのだ。
夏休みなどの長期の休暇に入れば、毎度のように家の手伝いがある。それでも時間をやりくりして、黒鋼はファイに会いに行っていた。けれど、今年の夏はそれをしていない。もちろん家のこともあるし、受験勉強だってある。それでもきっと以前の黒鋼なら、隙あらばファイとの時間を作っていただろう。それが今では時間があっても無くても、彼に会いには行かない。行けない。一緒にいても、目さえ合わせない。
ファイは勘がいいから、理由までは分からずとも黒鋼の中に何がしかの変化が起こったことに、気がついているのだろう。距離を置かれていることに。だが今の黒鋼には、彼を気遣うだけの余裕がない。
傍にいると狂いそうになる。あれは夢なのだと、ここは現実なのだと、そう言い聞かせても結局は、どこであろうが自分は自分。いつこの気持ちに抑えがきかなくなって、境界が分からなくなるかと思うと、恐い。
今だって。
「帰ろっかー。黒たん、お手伝いで疲れてるんだよねー」
気を取り直すかのように、ファイの手が元気よく差し出された。このままこの手を取って、彼を送り届けてしまえばそれで解放される。黒鋼は、手を伸ばしてそれに触れた。
ファイが真っ直ぐに見上げてくる。その瞬間、薄ぼんやりとした外灯の下、避け続けていた青い瞳と目が合ってしまった。
「っ……」
息を呑んだときには、もう視線を外すことが出来なかった。ファイは笑っていなかった。ただ、寂しそうだった。透き通っているはずの瞳が、薄暗い中で濁って見える。夢の中と、同じだと思った。
止せ、と思うより先に、黒鋼の手はファイの頬に触れていた。咄嗟のことに驚いて跳ね上がった細い肩。ゾクリとする。音を立てて、喉を鳴らした。
「ど、どうしたのー? オレの顔、なんかついてたかな?」
上ずったファイの声が、少しだけ震えていた。全身の血が沸き立つ。このまま強く抱いて、奪って、自分のものにしてしまおうか。
出来る。今なら、それが出来る。
触れていた方の手を離すと、もう片方の肩に触れ、強く掴んだ。一つしかない瞳が、大きく見開かれる。黒鋼は、頬に這わせていた手をゆっくりと動かした。親指が白い眼帯に触れる。そしてそのまま強く引き寄せようとした。でも。
「やだ……っ!!」
強い力で突き飛ばされた。ファイの手からバケツが落ちて、大きな音を立てながら地に落ちる。水が零れ、花火の残骸が地面に散らばった。黒鋼の身体は大きく傾いだが、倒れ込むまではいかず、よろめきながら数歩だけ後退した。
その瞬間、ハッとして我に返った。自分が何をしようとしていたのか、咄嗟に思い出せない。
ファイを見ると、彼は一歩一歩、黒鋼から距離を取っていた。左手が、眼帯を押さえ込んでいる。震えている。怯えている。自分がしでかしたことの重大さに、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。
「ぁ……オレ……違うの……ごめん……」
ファイはその声までも震わせて、大きな瞳に涙が滲ませていた。ゆらゆらと、今にも零れ落ちてしまいそうだった。思わず手を伸ばしかけて、けれどファイがビクリと肩を震わせるのを見て、動けなくなる。
傷つけてしまった。怯えさせてしまった。いつだって優しくしてやりたかったのに。守ってやりたかったのに。大切なものを、この手で壊してしまった。自分を、抑えることができなかった……。
「ごめんなさい……黒たん、違うの……」
何ひとつ声を発することが出来なかった。また夢を見ているのだろうか。夢だったら、どんなにいいだろうか。
ファイはそれからも「違う」だとか「ごめん」という言葉を、どこか虚ろな調子で口にしていた。けれど、耐え切れなくなったのか、背を向けて走り出してしまった。
黒鋼は、その背中を追いかけることが出来なかった。
←戻る ・ 次へ→