2025年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
今年の冬は比較的温かで、雪も少ない。
人里離れた山奥に暮らす人間にとって、それはありがたくもあり、けれどちょっとした難点もあった。
「ぷぁー! もう駄目! 汗かいた!」
車内の暖房が利いてきた頃、ニットの帽子を外し、鼻の辺りまですっぽりと包んでいたマフラーも一緒に外すと、ファイの頬はすっかり真っ赤になっていた。
「タコだな、タコ」
助手席を横目で見て、運転に集中しながらもニヤリを笑った黒鋼に、ファイは手袋も外した両手を軽く上げて降参のポーズを取った。
「二人とも心配性だよねー。どうせ車でしか移動しないのにさー」
出がけにファイをフル装備させたのは他でもない、小狼とサクラだった。コートの中も幾重にも着せられて、現在ファイは一回り以上膨らんでいる。
山暮らしがそうさせるのか、あるいは庭師である黒鋼にくっついていることが多いせいか、小狼などは特に天候や気温にうるさい。
今日は確かに空が鉛色で肌寒いものの、雪が降りだすのは深夜だと、車内に流れるラジオが告げる。
「ここんとこ小狼君怖いからなー」
「自業自得だろ。おっかねぇ顔してガキ騙すから、そういうことになる」
「まだ言うかー。だよねー、まだ言うよねー」
ついつい目が泳いでしまう。あれからまださほど時間は経っていないのだ。
あの後、森を抜けて屋敷に戻ったときは酷い有様だった。
泣きじゃくるサクラを宥めるのにも苦労したが、怒鳴られるよりもただ静かに沸々と怒りを表現される方が、ずっと怖いものだ。
あのときの小狼を思いだすと、未だに背筋が凍りつく。
「それだけ心配させたってこった。とことん反省しろ」
「他人事みたいに言うとこがさー、ムカっとくるんだよねー」
ジロリと睨んでも、ひたすら前へ注意を向ける黒鋼はどこ吹く風と言った様子で、その機嫌のよさが伝わって来るようだ。
元々表情にバリエーションの少ないこの男は、あまり感情を悟らせないけれど、今はその理由を知っているファイはふっと力が抜けたように笑った。
「でもよかったねー。お母さん調子よさそうで」
「そうだな」
「お父さん、ちょっと老けた?」
「そりゃあおまえ、何年経ってると思ってんだ」
「あはは」
今日は二人揃って、黒鋼の母の入院する病院へと見舞いに行った。今はその帰りだ。
以前は彼が外出する度に不機嫌になっていたものだが、今ではこうして共に出かける機会が増えていた。
どこにでもくっついて行けるのはいいものだなぁと、ファイはしみじみ思う。
運転する黒鋼の横顔はなかなか男前に磨きがかかって見えるし、何よりファイは籠の鳥ではないのだから。
幸せだけれど。
それを噛みしめる度に、ファイは心の中でこっそりと、それがしたくても出来なかった弟に謝罪する。
彼ならきっと「別にいいのに」なんて言いながら、苦笑するのだと思う。
ファイはユゥイの手紙を読んだ。あの夜の、翌日のこと。
恐る恐る開いたその便せんには、ユゥイの優しさと、願いがしたためられていた。
そしてそれは、いつか罰を受ける覚悟で黒鋼と生きる道を選んだファイにとっての、救いになった。
つけこんでいるとか、都合のいい解釈をしたいだけだとか、そんなことばかりを考えてしまっては埒が明かない。けれど、救われた。それは確かだった。
ユゥイにその意思を確かめる術はない。ただ変わらないことは、彼が今も黒鋼を愛しているということ。
同じくらい、ファイを思ってくれているということ。
ならばファイも、黒鋼も、変わらず彼を愛し続ける。想い続ける。そうして二人で生きて行くのだ。
そうやって現実を動かしていかなければ、進めないから。
「そういやおまえ、これからどうすんだ」
「うん?」
「大学辞めちまったんだろ? なんかしてぇこととかないのかよ」
「あ、それねー」
老夫婦が屋敷を去ったあと、ファイは通っていた大学を退学していた。元々なんの目的もなく、ただなんとなく進学したということもある。
いつまで生きられるか分からないユゥイの傍に、ずっと寄り添う覚悟での決断だった。
「まぁねー、ぶっちゃけちゃうとお金には困ってないしー、このままのーんびり何にもしないで暮らしていくのも悪くないんだけどー」
「……誰もが羨む高水準ニートだな」
「人の話は最後まで聞いてよねー」
思い切り頬を膨らませたファイだったが、当然ただの引きこもり暮らしを続けるつもりはなかった。
「あの屋敷さ、ただっ広くて、なんだかスペース勿体なくない?」
「まぁ、そうだが」
「だからオレ決めましたー!」
信号が赤に変わったこともあり、車を停止させた黒鋼が顔をこちらに向けた。この信号が最後。あとはただ屋敷へと続く、長い林道に入るだけだ。
「あそこをレストランにしちゃいまーす!」
「ああ?」
「いいと思わないー? ゴミゴミしてない大自然の中にある、静かな隠れ家みたいなレストラン。元々お料理とか興味あったしー、今から色んなこと勉強しても、遅くないでしょー?」
「……その前に食糧庫のお祓いが先じゃねぇのか」
いるんだろ、あそこ……という黒鋼の言葉に、ファイは両耳を塞いでそっぽを向いた。
「何も聞こえない何も聞こえない……」
信号が青に変わる。再び動き出した車が、その先の林道へと向かい走る。
前を真っすぐに見つめながら、黒鋼は「まぁ、いいんじゃねぇか」と言った。
「なんでも好きにやってみりゃいいさ」
「やっぱり他人事みたいに言うー」
「うるせぇないちいち。どっちみち傍にいるんだからいいだろうが」
「まぁ、そうだけどさ」
つんとした振りをして顔を背けるのは、茹であがったタコみたいになっている頬を隠したいからだった。
何気ない言葉の端々に、甘ったるい気持ちにさせられるのが少し悔しい。
景色は何もない、ただ両脇に杉の木と、枯れた草だけが並ぶものへと変わった。
この長い長い道を、幼い庭師は自転車で通い詰めた。それはずっと遠い、昔のこと。
目にしたわけでもないのに、なぜかその姿がぽっかりと脳裏に浮かんで、懐かしささえ感じる。
「変わっていこうね、いろんなこと。オレと黒たんと、小狼君とサクラちゃんで」
こんな風に変わらない道がずっと続いていく中で、ファイはそのとき初めて、心から変化を求めたような気がした。
――こわくないよ。知ってるでしょ?
(うん。怖くない。本当は、何も怖いことなんてないんだよね)
死は誰の上にも平等で、いつかはファイも黒鋼も死んでしまう。
生きるほどに時は流れて、この身体は老いと共に、過ぎた日の記憶や悲しみさえも薄れさせていくのかもしれない。
今もファイの中は、大切な半分が欠けているけれど。
(歩いて行くよ。だから待ってて)
「また、会えるよね」
春になったら、庭に咲いた白と黄色の薔薇の花を持って、黒鋼とあの丘へ行こう。二人でたんぽぽの綿毛を飛ばそう。たった一人旅立った彼を、今度は黒鋼と一緒に。そうしたら、彼の願いは叶うだろうか。
助手席にゆったりと背を預けて、ファイは目を閉じた。
黒鋼が、そっと流しっぱなしになっていたラジオを切る。
一台の乗用車が、長く続く坂の林道をゆっくりと走り、やがて見えなくなった。
『どうして今、こうして筆を取ろうと思ったのか、
ボクにもよくわからないんだ。
死はいつもボクの隣にあったのに。
どうしてなんだろう。
たぶん、今がとても幸せだから。
今日、君に薔薇の花を貰ったんだ。
黄色くて、大きな薔薇の花。
ファイにとてもよく似ているから、
ボクは黄色の花が大好きなんだよ。
初めてたんぽぽの綿毛を飛ばした日のことを覚えてる?
あの日、君は泣きそうな顔をしていたね。
悲しませたくないのに、それでもボクは今でも願ってる。
ボクは、たんぽぽになりたい。
君の傍で、咲いていたいよ。
ときどき綿毛になって、ずっと遠くへ行くかもしれない。
でも、巡り巡ってまた君の庭へ還ってくる。
君はまた綿毛をどこかへ飛ばすかもしれない。
そのとき隣に、ファイがいればいいと思う。
一緒に、あの日ボクとしてくれたみたいに、君がファイと、
またボクをどこか遠くへ。
ボクはたくさんの世界を見て、たくさんの人に触れて、
時には踏まれたりしながら、それでもまた戻って来るから。
ほんの少しの間だけの、お別れだよ。
夢を見てるって、君は笑うかな?』
終わり
←戻る ・ Wavebox👏
人里離れた山奥に暮らす人間にとって、それはありがたくもあり、けれどちょっとした難点もあった。
「ぷぁー! もう駄目! 汗かいた!」
車内の暖房が利いてきた頃、ニットの帽子を外し、鼻の辺りまですっぽりと包んでいたマフラーも一緒に外すと、ファイの頬はすっかり真っ赤になっていた。
「タコだな、タコ」
助手席を横目で見て、運転に集中しながらもニヤリを笑った黒鋼に、ファイは手袋も外した両手を軽く上げて降参のポーズを取った。
「二人とも心配性だよねー。どうせ車でしか移動しないのにさー」
出がけにファイをフル装備させたのは他でもない、小狼とサクラだった。コートの中も幾重にも着せられて、現在ファイは一回り以上膨らんでいる。
山暮らしがそうさせるのか、あるいは庭師である黒鋼にくっついていることが多いせいか、小狼などは特に天候や気温にうるさい。
今日は確かに空が鉛色で肌寒いものの、雪が降りだすのは深夜だと、車内に流れるラジオが告げる。
「ここんとこ小狼君怖いからなー」
「自業自得だろ。おっかねぇ顔してガキ騙すから、そういうことになる」
「まだ言うかー。だよねー、まだ言うよねー」
ついつい目が泳いでしまう。あれからまださほど時間は経っていないのだ。
あの後、森を抜けて屋敷に戻ったときは酷い有様だった。
泣きじゃくるサクラを宥めるのにも苦労したが、怒鳴られるよりもただ静かに沸々と怒りを表現される方が、ずっと怖いものだ。
あのときの小狼を思いだすと、未だに背筋が凍りつく。
「それだけ心配させたってこった。とことん反省しろ」
「他人事みたいに言うとこがさー、ムカっとくるんだよねー」
ジロリと睨んでも、ひたすら前へ注意を向ける黒鋼はどこ吹く風と言った様子で、その機嫌のよさが伝わって来るようだ。
元々表情にバリエーションの少ないこの男は、あまり感情を悟らせないけれど、今はその理由を知っているファイはふっと力が抜けたように笑った。
「でもよかったねー。お母さん調子よさそうで」
「そうだな」
「お父さん、ちょっと老けた?」
「そりゃあおまえ、何年経ってると思ってんだ」
「あはは」
今日は二人揃って、黒鋼の母の入院する病院へと見舞いに行った。今はその帰りだ。
以前は彼が外出する度に不機嫌になっていたものだが、今ではこうして共に出かける機会が増えていた。
どこにでもくっついて行けるのはいいものだなぁと、ファイはしみじみ思う。
運転する黒鋼の横顔はなかなか男前に磨きがかかって見えるし、何よりファイは籠の鳥ではないのだから。
幸せだけれど。
それを噛みしめる度に、ファイは心の中でこっそりと、それがしたくても出来なかった弟に謝罪する。
彼ならきっと「別にいいのに」なんて言いながら、苦笑するのだと思う。
ファイはユゥイの手紙を読んだ。あの夜の、翌日のこと。
恐る恐る開いたその便せんには、ユゥイの優しさと、願いがしたためられていた。
そしてそれは、いつか罰を受ける覚悟で黒鋼と生きる道を選んだファイにとっての、救いになった。
つけこんでいるとか、都合のいい解釈をしたいだけだとか、そんなことばかりを考えてしまっては埒が明かない。けれど、救われた。それは確かだった。
ユゥイにその意思を確かめる術はない。ただ変わらないことは、彼が今も黒鋼を愛しているということ。
同じくらい、ファイを思ってくれているということ。
ならばファイも、黒鋼も、変わらず彼を愛し続ける。想い続ける。そうして二人で生きて行くのだ。
そうやって現実を動かしていかなければ、進めないから。
「そういやおまえ、これからどうすんだ」
「うん?」
「大学辞めちまったんだろ? なんかしてぇこととかないのかよ」
「あ、それねー」
老夫婦が屋敷を去ったあと、ファイは通っていた大学を退学していた。元々なんの目的もなく、ただなんとなく進学したということもある。
いつまで生きられるか分からないユゥイの傍に、ずっと寄り添う覚悟での決断だった。
「まぁねー、ぶっちゃけちゃうとお金には困ってないしー、このままのーんびり何にもしないで暮らしていくのも悪くないんだけどー」
「……誰もが羨む高水準ニートだな」
「人の話は最後まで聞いてよねー」
思い切り頬を膨らませたファイだったが、当然ただの引きこもり暮らしを続けるつもりはなかった。
「あの屋敷さ、ただっ広くて、なんだかスペース勿体なくない?」
「まぁ、そうだが」
「だからオレ決めましたー!」
信号が赤に変わったこともあり、車を停止させた黒鋼が顔をこちらに向けた。この信号が最後。あとはただ屋敷へと続く、長い林道に入るだけだ。
「あそこをレストランにしちゃいまーす!」
「ああ?」
「いいと思わないー? ゴミゴミしてない大自然の中にある、静かな隠れ家みたいなレストラン。元々お料理とか興味あったしー、今から色んなこと勉強しても、遅くないでしょー?」
「……その前に食糧庫のお祓いが先じゃねぇのか」
いるんだろ、あそこ……という黒鋼の言葉に、ファイは両耳を塞いでそっぽを向いた。
「何も聞こえない何も聞こえない……」
信号が青に変わる。再び動き出した車が、その先の林道へと向かい走る。
前を真っすぐに見つめながら、黒鋼は「まぁ、いいんじゃねぇか」と言った。
「なんでも好きにやってみりゃいいさ」
「やっぱり他人事みたいに言うー」
「うるせぇないちいち。どっちみち傍にいるんだからいいだろうが」
「まぁ、そうだけどさ」
つんとした振りをして顔を背けるのは、茹であがったタコみたいになっている頬を隠したいからだった。
何気ない言葉の端々に、甘ったるい気持ちにさせられるのが少し悔しい。
景色は何もない、ただ両脇に杉の木と、枯れた草だけが並ぶものへと変わった。
この長い長い道を、幼い庭師は自転車で通い詰めた。それはずっと遠い、昔のこと。
目にしたわけでもないのに、なぜかその姿がぽっかりと脳裏に浮かんで、懐かしささえ感じる。
「変わっていこうね、いろんなこと。オレと黒たんと、小狼君とサクラちゃんで」
こんな風に変わらない道がずっと続いていく中で、ファイはそのとき初めて、心から変化を求めたような気がした。
――こわくないよ。知ってるでしょ?
(うん。怖くない。本当は、何も怖いことなんてないんだよね)
死は誰の上にも平等で、いつかはファイも黒鋼も死んでしまう。
生きるほどに時は流れて、この身体は老いと共に、過ぎた日の記憶や悲しみさえも薄れさせていくのかもしれない。
今もファイの中は、大切な半分が欠けているけれど。
(歩いて行くよ。だから待ってて)
「また、会えるよね」
春になったら、庭に咲いた白と黄色の薔薇の花を持って、黒鋼とあの丘へ行こう。二人でたんぽぽの綿毛を飛ばそう。たった一人旅立った彼を、今度は黒鋼と一緒に。そうしたら、彼の願いは叶うだろうか。
助手席にゆったりと背を預けて、ファイは目を閉じた。
黒鋼が、そっと流しっぱなしになっていたラジオを切る。
一台の乗用車が、長く続く坂の林道をゆっくりと走り、やがて見えなくなった。
『どうして今、こうして筆を取ろうと思ったのか、
ボクにもよくわからないんだ。
死はいつもボクの隣にあったのに。
どうしてなんだろう。
たぶん、今がとても幸せだから。
今日、君に薔薇の花を貰ったんだ。
黄色くて、大きな薔薇の花。
ファイにとてもよく似ているから、
ボクは黄色の花が大好きなんだよ。
初めてたんぽぽの綿毛を飛ばした日のことを覚えてる?
あの日、君は泣きそうな顔をしていたね。
悲しませたくないのに、それでもボクは今でも願ってる。
ボクは、たんぽぽになりたい。
君の傍で、咲いていたいよ。
ときどき綿毛になって、ずっと遠くへ行くかもしれない。
でも、巡り巡ってまた君の庭へ還ってくる。
君はまた綿毛をどこかへ飛ばすかもしれない。
そのとき隣に、ファイがいればいいと思う。
一緒に、あの日ボクとしてくれたみたいに、君がファイと、
またボクをどこか遠くへ。
ボクはたくさんの世界を見て、たくさんの人に触れて、
時には踏まれたりしながら、それでもまた戻って来るから。
ほんの少しの間だけの、お別れだよ。
夢を見てるって、君は笑うかな?』
終わり
←戻る ・ Wavebox👏
鏡の中の自分。子供の頃の、おかしな遊び。
そんな風に記憶が歪曲したのは、それほどまでに黒鋼を離したくなかったから、なのかもしれない。
欲張りだった。我儘だった。狡かった。
だからもう、充分だった。
***
裸足で窓から飛び出して、禁じられた森に足を踏み入れたファイの手には、折りたたまれたナイフと、枯れた薔薇が握られていた。
屋敷の脇の小屋に置いてある、園芸道具の中の一つ。使い込まれた、けれどよく手入れされたそれを、手に馴染ませるようにきつく握りしめて、ファイは枝や小石、枯葉が足裏を傷つけるのも構わず、ただ真っすぐに伸びた山道を歩き続けた。
涼やかな秋の虫の声が、ファイが小枝を踏みしめる度にプツリと止む。
日が暮れたばかりの蒼い道。闇より淡い、けれど限りなく闇に近い、夜の森。
密集する木々が途切れて視界が開けば、やがて丸い月がぽっかりと姿を現した。
僅かに弾む息で、ファイは目を見開く。
赤黒い彼岸の花が咲き乱れるその丘に、ユゥイが眠っていた。
洋型の墓石に絡まる蔓が、時の流れを物語っているようで。
「ごめん……寂しい思い、させたね」
ユゥイの名が刻まれた墓石に近づくと、ファイは膝をついた。
そこには両親の名も刻まれているけれど、彼らの亡骸はここにはいない。
もう一人の自分の名前を、指先でそっとなぞった。いつか自分の名も、ここに刻まれる日が必ず来るのだと。そう思うほどに、ファイは指先に想いを込めた。
空っぽだった心が埋まるような気がした。黒鋼に縋りつくことでしか埋められなかったそれは、ユゥイの喪失がもたらした穴だった。
「全部、思い出したから……」
取り戻した。同じ日、同じ場所で産まれて、そしてずっと一緒に生きて来た、半身の記憶を。
ファイは墓前に枯れた薔薇を供えた。白か黄色かもわからなくなってしまったその薔薇は、黒鋼がくれたもの。
そして全ての禁を破った自分が、もはや手放さなければならないものの象徴のように思えた。
「返すよ」
だからと言って許されるとは思えなかった。
ただ楽になりたいだけだと分かってはいても、これはファイなりのケジメのようなものだったから。
「短い間だったけどね。記憶がなかったときのオレも、多分、本当のオレだったんだと思う」
指先でナイフを起こす。月光を弾いて、刃が光り輝いた。
「もしユゥイがいなかったら……そう考えたことがあったんだ……」
左手を後ろへやると、緩く縛った長い髪の束を掴んだ。右手で掴んだナイフも後方へとやり、縛った根元に押し当てる。
「でもね、今のオレも、本当のオレなんだ」
そう、決して後悔はしてない。
黒鋼を愛していた。
例え彼が自分を通してユゥイの影を追いかけていたのだとしても、今もこれからも、彼への想いを否定するつもりはなかった。
ぐっと右手に力を込める。そっと静かに目を閉じて、そして断ち切るように強く引いた。
ザクリという音と共に、嘘のように頭が軽くなる。
「だからオレ、ユゥイになんてなれっこないよ」
ふわりと、短くなった髪が項をくすぐる。
風になびいて、切り落とされた長い金色が、風に乗ってサラサラとどこへともなく消えていく。
金糸の群れが、月光を弾いて煌めいていた。
「これでお終い」
全ての髪を流し終えると、ファイは振り向き、そして笑った。
「全部終わり。そうだよね?」
そこには僅かに息を乱した黒鋼が佇んでいた。
眉間の皺を深くして、物言いたげな彼に、ファイは言った。
「初めてだね。君がここへ来るのは」
そう言うと、黒鋼は一つ大きな息を吐き出して目を閉じた。
「……そうだな」
それもそのはずだった。もし彼がここへ頻繁に訪れているようなら、きっと今頃ここはもっと整備されているし、美しい花も絶やさず供えられているはずだから。
それは彼が本当の意味でユゥイの死と向き合い、受け入れることが出来なかったからなのではないか。そのくせこの男は、先に毀れてしまったファイの心を、ずっと背負い込んできた。
抱えて、守って、与えてくれた。
「ありがとう」
壊れることは簡単で、そしてとても楽な逃げ道だったから。
一度ヒビの入った心は、ゆっくりと足元からファイを飲みこんでいった。それは酷く柔らかな、漆黒の沼だった。そこに身を委ねるのはとても心地がよくて、本当はあのまま沈んでいきたかった。ユゥイの元へ、逝きたかった。
けれどそれを許さなかったのは黒鋼だった。
「君はオレの願いを叶えてくれた。だからオレは、ここにいられる」
一本の薔薇の花。欲しくて欲しくて堪らなかったくせに、手にすることが出来なかった薔薇。黄色ではない、白い薔薇。
それを差し出されたあの瞬間、ファイは知らぬ間に満たされたのだ。あとはゆっくりと、夢から覚めるだけだった。
自らの深い悲しみを抑え込み、何もかもを抱え込んでくれていた男の表情は険しく、そして切ない。
もういいと、ファイは思った。
「いっぱい我儘言ったね。でも、もう甘えるのは終わり。ちゃんと一人で歩かなくちゃ」
彼は記憶を失くしたままでいる限りは、傍にいてくれると言った。
いつしか抱え込んだ痛みや苦しみが、ファイだけを見て、そして愛を注ぐための『理由』にすり替わってしまったのは、どうしようもないことなのだ。
そうやって互いに依存し合わなければ生きられなかった自分たちは、きっととてもよく似ているのだと思う。
「ごめんね、黒たん」
きつく抱き合いながら、水の底で足掻き続ける蜜月は終わりを告げる。
互いに手を離さなければならないときが来た。
「おまえが一人で歩く道に……俺の居場所はないのか?」
「君が一緒にいきたかった相手は、オレじゃないでしょ? オレは、ユゥイにはなれないもん」
髪も切っちゃったしねと、ファイはおどけた。
「それにね、オレはユゥイより幸せだったんだよ。ユゥイがしたくても出来なかったこと、いっぱいしてもらったもの」
だから、もう夢は終わり。
「これ、返すよ」
言葉を失う黒鋼に歩み寄り、ナイフを折りたたむと差し出した。
これを返せば、これを彼が受け取れば、それで終わりだ。
「ユゥイとは、ちゃんとお別れできなかったでしょ? でも、オレたちは生きてるから。ちゃんと笑って、お別れしよう?」
どこからともなく吹く風に、切り落とし、短くなってしまったファイの髪が揺れた。
月の光に包まれた丘で、咲き乱れる彼岸の花は、まるで押し寄せる赤い波のようだった。
黒鋼は閉じていた瞼をそっと開いた。そこにもまた、鮮やかな紅がある。
この燃えるような瞳が好きだった。最初はただ話がしたかった。一言、初対面の非礼を詫びたかった。
それがいつの間にか、手を繋いで歩きたいと願うようになっていた。
ユゥイのものだと思えば思うほど欲しくて、欲しくて、憎くて。
気がつけば、恋をしていた。
ナイフを差し出しながら静かに待つファイに、黒鋼もまた一歩、歩み寄った。大きな手が伸ばされる。ファイは目を閉じた。
けれど彼は、差し出されたナイフを取らなかった。
彼が取ったのは、ファイの細い手首だった。
ナイフが落ちる。赤い波の中で。そよぐ風の中で。月の下で。
いけないと、そう思った瞬間には、ファイは力強い腕に抱かれていた。
何が起こったのだろう。まだ蜜のように甘い夢は続いている。
あとはナイフと一緒に、彼への想いを返すだけだったはずなのに。
「くろ……」
「俺なしじゃ生きられねぇって言ったのは……てめぇだろ……」
違うと、ファイは首を振った。
生きられないのではない。生きなければならないことに、ようやく気づいたのだ。
「駄目だよ」
だからこそ黒鋼が守ってくれて、息を吹き返したこの心を保っていたかった。強くなりたかった。
「対価はもう、無効なんだから……」
欲しがれば際限がなくなる。もう十分に満たされたはずなのに。
身体を離そうと胸に手をついて押し返そうにも、そうすればするほど黒鋼の腕は力を増した。
手を伸ばすだけだったファイは、こんな強さは知らない。戸惑うだけだった。
ユゥイが眠る墓の前で、記憶を取り戻してまで彼の背を抱き返すことは出来ない。幼い頃からずっと堪えて来たのは、誰よりもユゥイを傷つけたくなかったからなのに。
けれどいつだって、感情はファイを置き去りにするから。
だから涙だって、勝手に零れる。
黒鋼の肩を濡らして、みっともないと思うほどに、止まらなくなる。
「オレは、ユゥイの代わりになんてなれないんだよ」
「そんなのは知ってる」
「じゃあどうして……?」
「代わりにできたら、いっそもっと楽だったんだろうな」
濡れた頬に熱い指が触れて、涙を掬う。
「面影を探したことはあった。けど、結局重ならねぇ」
同じ姿形をした双子。纏う雰囲気が違えど、同じ人間に惹かれた、同じ魂の持主だ。
それでもユゥイを選んだのは黒鋼のはずだった。
「怖かった。おまえといると、俺の中でどんどんあいつの影が消えて行くような気がした。対価なんて言い方をしたのは……俺が臆病だったからだ」
少しだけ身体を離して、黒鋼はファイと目を合わせた。そして続ける。
「おまえを、あいつの代わりにしたくなかった」
「……!」
ファイの目に、今の黒鋼の姿はまるで懺悔する罪人のように映った。
彼の迷いと葛藤が、肌を通して伝わる。二人とも、ほんの微かに震えていることも。
「出口はないのかもしれねぇ。俺とおまえがこうしてる限り、ずっと苦しいままかもしれねぇ。それでも…… 」
紅く揺れる瞳に囚われる。呼吸さえも忘れて目を見開くファイに、黒鋼は告げた。
「てめぇを離す気になれねぇんだ」
瞬きも忘れて、ファイは彼の告白を幾度も頭の中で反芻する。
代わりにされていたのだと、そう思っていた。
それでも幸せだった日々の記憶さえあれば、この先も生きていけると信じて、断ち切ろうとした想いだった。
黒鋼の背を抱けない代わりに、ファイは咄嗟にその頬を両手で包みこんだ。そうしなければ、彼が泣いてしまうのではないかと思ったから。
彼がまるで、小さな子供のように見えてしまったから。
黒鋼の告白。一度は手放すことを覚悟したはずの心が、大きくざわめく。
ずっと諦めていた。
ユゥイを悲しませたくなくて、そして今は、奪いたくなくて。
「オレは……」
取り残された二人は、亡き者への愛と罪悪感に縛られている。
共にある限りその影に惑い、怯えることになるかもしれない。許されないかもしれない。最初から、許されているのかもしれない。知る術のない、茨の道だ。
彼の言うように、きっと出口は見つからない。あるいは死ぬまで。
(ねぇユゥイ。オレたちは同じだから。君は、知っていたんだよね。オレの気持ちを)
「オレは、ずっと君が欲しかったよ……今も、何ひとつ変わらない……」
欲しがるばかりだった。縋りつくものがなければ生きられなかった。けれど、罪の意識に耐えるだけの強さを持つことは出来なかった。
今、この瞬間までは。
「愛してるんだ。子供の頃からずっと……ずっとだよ……」
(だからユゥイ)
もし許されるなら。この想いを貫くことこそが、強さだというのなら。
(この人を、オレにちょうだい)
彼の背に腕を回すことは、二度とないと思っていた。
けれど今、ファイは黒鋼の背を掻き抱いていた。そして強く、抱かれている。
「……ごめんなさい」
確かな温もりに包まれながら、ともすれば秋風に掻き消されそうな声で亡き弟への謝罪を口にするファイに、黒鋼は首を振った。
「これはもう償いじゃない。わかってるのは、俺がこうしているのは、俺の意思だってことだけだ」
だからと、黒鋼は続けた。
「今さら一人でなんて、生きられるか……」
例えユゥイが許しても、後をついてくる罪の意識が、きっと二人を許さない。
けれど、それでもいいとファイは思った。この温もりを手放す以上に怖いことなんて、この世のどこにもありはしないだろうと。
「キスして、黒様」
吐息だけで、そう言った。
目を閉じれば、すぐに唇に熱いものが重なる。
ユゥイの眠る墓前で、二人はそうして長い間ずっと抱き合った。
取り残され、置き去りにされた迷子の二人は、だから知らない。
――いつか三人で、森に遊びに行けたらいいのにな
強い月の光を浴びて、墓前に供えてある色褪せた薔薇が、一瞬だけ純白の輝きを取り戻していたことを。
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そんな風に記憶が歪曲したのは、それほどまでに黒鋼を離したくなかったから、なのかもしれない。
欲張りだった。我儘だった。狡かった。
だからもう、充分だった。
***
裸足で窓から飛び出して、禁じられた森に足を踏み入れたファイの手には、折りたたまれたナイフと、枯れた薔薇が握られていた。
屋敷の脇の小屋に置いてある、園芸道具の中の一つ。使い込まれた、けれどよく手入れされたそれを、手に馴染ませるようにきつく握りしめて、ファイは枝や小石、枯葉が足裏を傷つけるのも構わず、ただ真っすぐに伸びた山道を歩き続けた。
涼やかな秋の虫の声が、ファイが小枝を踏みしめる度にプツリと止む。
日が暮れたばかりの蒼い道。闇より淡い、けれど限りなく闇に近い、夜の森。
密集する木々が途切れて視界が開けば、やがて丸い月がぽっかりと姿を現した。
僅かに弾む息で、ファイは目を見開く。
赤黒い彼岸の花が咲き乱れるその丘に、ユゥイが眠っていた。
洋型の墓石に絡まる蔓が、時の流れを物語っているようで。
「ごめん……寂しい思い、させたね」
ユゥイの名が刻まれた墓石に近づくと、ファイは膝をついた。
そこには両親の名も刻まれているけれど、彼らの亡骸はここにはいない。
もう一人の自分の名前を、指先でそっとなぞった。いつか自分の名も、ここに刻まれる日が必ず来るのだと。そう思うほどに、ファイは指先に想いを込めた。
空っぽだった心が埋まるような気がした。黒鋼に縋りつくことでしか埋められなかったそれは、ユゥイの喪失がもたらした穴だった。
「全部、思い出したから……」
取り戻した。同じ日、同じ場所で産まれて、そしてずっと一緒に生きて来た、半身の記憶を。
ファイは墓前に枯れた薔薇を供えた。白か黄色かもわからなくなってしまったその薔薇は、黒鋼がくれたもの。
そして全ての禁を破った自分が、もはや手放さなければならないものの象徴のように思えた。
「返すよ」
だからと言って許されるとは思えなかった。
ただ楽になりたいだけだと分かってはいても、これはファイなりのケジメのようなものだったから。
「短い間だったけどね。記憶がなかったときのオレも、多分、本当のオレだったんだと思う」
指先でナイフを起こす。月光を弾いて、刃が光り輝いた。
「もしユゥイがいなかったら……そう考えたことがあったんだ……」
左手を後ろへやると、緩く縛った長い髪の束を掴んだ。右手で掴んだナイフも後方へとやり、縛った根元に押し当てる。
「でもね、今のオレも、本当のオレなんだ」
そう、決して後悔はしてない。
黒鋼を愛していた。
例え彼が自分を通してユゥイの影を追いかけていたのだとしても、今もこれからも、彼への想いを否定するつもりはなかった。
ぐっと右手に力を込める。そっと静かに目を閉じて、そして断ち切るように強く引いた。
ザクリという音と共に、嘘のように頭が軽くなる。
「だからオレ、ユゥイになんてなれっこないよ」
ふわりと、短くなった髪が項をくすぐる。
風になびいて、切り落とされた長い金色が、風に乗ってサラサラとどこへともなく消えていく。
金糸の群れが、月光を弾いて煌めいていた。
「これでお終い」
全ての髪を流し終えると、ファイは振り向き、そして笑った。
「全部終わり。そうだよね?」
そこには僅かに息を乱した黒鋼が佇んでいた。
眉間の皺を深くして、物言いたげな彼に、ファイは言った。
「初めてだね。君がここへ来るのは」
そう言うと、黒鋼は一つ大きな息を吐き出して目を閉じた。
「……そうだな」
それもそのはずだった。もし彼がここへ頻繁に訪れているようなら、きっと今頃ここはもっと整備されているし、美しい花も絶やさず供えられているはずだから。
それは彼が本当の意味でユゥイの死と向き合い、受け入れることが出来なかったからなのではないか。そのくせこの男は、先に毀れてしまったファイの心を、ずっと背負い込んできた。
抱えて、守って、与えてくれた。
「ありがとう」
壊れることは簡単で、そしてとても楽な逃げ道だったから。
一度ヒビの入った心は、ゆっくりと足元からファイを飲みこんでいった。それは酷く柔らかな、漆黒の沼だった。そこに身を委ねるのはとても心地がよくて、本当はあのまま沈んでいきたかった。ユゥイの元へ、逝きたかった。
けれどそれを許さなかったのは黒鋼だった。
「君はオレの願いを叶えてくれた。だからオレは、ここにいられる」
一本の薔薇の花。欲しくて欲しくて堪らなかったくせに、手にすることが出来なかった薔薇。黄色ではない、白い薔薇。
それを差し出されたあの瞬間、ファイは知らぬ間に満たされたのだ。あとはゆっくりと、夢から覚めるだけだった。
自らの深い悲しみを抑え込み、何もかもを抱え込んでくれていた男の表情は険しく、そして切ない。
もういいと、ファイは思った。
「いっぱい我儘言ったね。でも、もう甘えるのは終わり。ちゃんと一人で歩かなくちゃ」
彼は記憶を失くしたままでいる限りは、傍にいてくれると言った。
いつしか抱え込んだ痛みや苦しみが、ファイだけを見て、そして愛を注ぐための『理由』にすり替わってしまったのは、どうしようもないことなのだ。
そうやって互いに依存し合わなければ生きられなかった自分たちは、きっととてもよく似ているのだと思う。
「ごめんね、黒たん」
きつく抱き合いながら、水の底で足掻き続ける蜜月は終わりを告げる。
互いに手を離さなければならないときが来た。
「おまえが一人で歩く道に……俺の居場所はないのか?」
「君が一緒にいきたかった相手は、オレじゃないでしょ? オレは、ユゥイにはなれないもん」
髪も切っちゃったしねと、ファイはおどけた。
「それにね、オレはユゥイより幸せだったんだよ。ユゥイがしたくても出来なかったこと、いっぱいしてもらったもの」
だから、もう夢は終わり。
「これ、返すよ」
言葉を失う黒鋼に歩み寄り、ナイフを折りたたむと差し出した。
これを返せば、これを彼が受け取れば、それで終わりだ。
「ユゥイとは、ちゃんとお別れできなかったでしょ? でも、オレたちは生きてるから。ちゃんと笑って、お別れしよう?」
どこからともなく吹く風に、切り落とし、短くなってしまったファイの髪が揺れた。
月の光に包まれた丘で、咲き乱れる彼岸の花は、まるで押し寄せる赤い波のようだった。
黒鋼は閉じていた瞼をそっと開いた。そこにもまた、鮮やかな紅がある。
この燃えるような瞳が好きだった。最初はただ話がしたかった。一言、初対面の非礼を詫びたかった。
それがいつの間にか、手を繋いで歩きたいと願うようになっていた。
ユゥイのものだと思えば思うほど欲しくて、欲しくて、憎くて。
気がつけば、恋をしていた。
ナイフを差し出しながら静かに待つファイに、黒鋼もまた一歩、歩み寄った。大きな手が伸ばされる。ファイは目を閉じた。
けれど彼は、差し出されたナイフを取らなかった。
彼が取ったのは、ファイの細い手首だった。
ナイフが落ちる。赤い波の中で。そよぐ風の中で。月の下で。
いけないと、そう思った瞬間には、ファイは力強い腕に抱かれていた。
何が起こったのだろう。まだ蜜のように甘い夢は続いている。
あとはナイフと一緒に、彼への想いを返すだけだったはずなのに。
「くろ……」
「俺なしじゃ生きられねぇって言ったのは……てめぇだろ……」
違うと、ファイは首を振った。
生きられないのではない。生きなければならないことに、ようやく気づいたのだ。
「駄目だよ」
だからこそ黒鋼が守ってくれて、息を吹き返したこの心を保っていたかった。強くなりたかった。
「対価はもう、無効なんだから……」
欲しがれば際限がなくなる。もう十分に満たされたはずなのに。
身体を離そうと胸に手をついて押し返そうにも、そうすればするほど黒鋼の腕は力を増した。
手を伸ばすだけだったファイは、こんな強さは知らない。戸惑うだけだった。
ユゥイが眠る墓の前で、記憶を取り戻してまで彼の背を抱き返すことは出来ない。幼い頃からずっと堪えて来たのは、誰よりもユゥイを傷つけたくなかったからなのに。
けれどいつだって、感情はファイを置き去りにするから。
だから涙だって、勝手に零れる。
黒鋼の肩を濡らして、みっともないと思うほどに、止まらなくなる。
「オレは、ユゥイの代わりになんてなれないんだよ」
「そんなのは知ってる」
「じゃあどうして……?」
「代わりにできたら、いっそもっと楽だったんだろうな」
濡れた頬に熱い指が触れて、涙を掬う。
「面影を探したことはあった。けど、結局重ならねぇ」
同じ姿形をした双子。纏う雰囲気が違えど、同じ人間に惹かれた、同じ魂の持主だ。
それでもユゥイを選んだのは黒鋼のはずだった。
「怖かった。おまえといると、俺の中でどんどんあいつの影が消えて行くような気がした。対価なんて言い方をしたのは……俺が臆病だったからだ」
少しだけ身体を離して、黒鋼はファイと目を合わせた。そして続ける。
「おまえを、あいつの代わりにしたくなかった」
「……!」
ファイの目に、今の黒鋼の姿はまるで懺悔する罪人のように映った。
彼の迷いと葛藤が、肌を通して伝わる。二人とも、ほんの微かに震えていることも。
「出口はないのかもしれねぇ。俺とおまえがこうしてる限り、ずっと苦しいままかもしれねぇ。それでも…… 」
紅く揺れる瞳に囚われる。呼吸さえも忘れて目を見開くファイに、黒鋼は告げた。
「てめぇを離す気になれねぇんだ」
瞬きも忘れて、ファイは彼の告白を幾度も頭の中で反芻する。
代わりにされていたのだと、そう思っていた。
それでも幸せだった日々の記憶さえあれば、この先も生きていけると信じて、断ち切ろうとした想いだった。
黒鋼の背を抱けない代わりに、ファイは咄嗟にその頬を両手で包みこんだ。そうしなければ、彼が泣いてしまうのではないかと思ったから。
彼がまるで、小さな子供のように見えてしまったから。
黒鋼の告白。一度は手放すことを覚悟したはずの心が、大きくざわめく。
ずっと諦めていた。
ユゥイを悲しませたくなくて、そして今は、奪いたくなくて。
「オレは……」
取り残された二人は、亡き者への愛と罪悪感に縛られている。
共にある限りその影に惑い、怯えることになるかもしれない。許されないかもしれない。最初から、許されているのかもしれない。知る術のない、茨の道だ。
彼の言うように、きっと出口は見つからない。あるいは死ぬまで。
(ねぇユゥイ。オレたちは同じだから。君は、知っていたんだよね。オレの気持ちを)
「オレは、ずっと君が欲しかったよ……今も、何ひとつ変わらない……」
欲しがるばかりだった。縋りつくものがなければ生きられなかった。けれど、罪の意識に耐えるだけの強さを持つことは出来なかった。
今、この瞬間までは。
「愛してるんだ。子供の頃からずっと……ずっとだよ……」
(だからユゥイ)
もし許されるなら。この想いを貫くことこそが、強さだというのなら。
(この人を、オレにちょうだい)
彼の背に腕を回すことは、二度とないと思っていた。
けれど今、ファイは黒鋼の背を掻き抱いていた。そして強く、抱かれている。
「……ごめんなさい」
確かな温もりに包まれながら、ともすれば秋風に掻き消されそうな声で亡き弟への謝罪を口にするファイに、黒鋼は首を振った。
「これはもう償いじゃない。わかってるのは、俺がこうしているのは、俺の意思だってことだけだ」
だからと、黒鋼は続けた。
「今さら一人でなんて、生きられるか……」
例えユゥイが許しても、後をついてくる罪の意識が、きっと二人を許さない。
けれど、それでもいいとファイは思った。この温もりを手放す以上に怖いことなんて、この世のどこにもありはしないだろうと。
「キスして、黒様」
吐息だけで、そう言った。
目を閉じれば、すぐに唇に熱いものが重なる。
ユゥイの眠る墓前で、二人はそうして長い間ずっと抱き合った。
取り残され、置き去りにされた迷子の二人は、だから知らない。
――いつか三人で、森に遊びに行けたらいいのにな
強い月の光を浴びて、墓前に供えてある色褪せた薔薇が、一瞬だけ純白の輝きを取り戻していたことを。
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「たまにはあの人に連れて来てもらえばいいのに」
ユゥイを乗せた車椅子を引いたファイがそう言うと、ユゥイは少しだけ困ったように笑った。
「あの人だなんて。ちゃんと名前で呼んであげてよ」
「ユゥイだって呼ばないじゃない。いっつも『彼』としか」
「そうだけど」
ユゥイは少し言いにくそうに頬を指先で掻いた。
「呼ぶタイミング、逃しちゃったんだよ。お互い。そしたら、そのまま」
「なぁにそれ。変なのー」
ファイは笑った。
晴れた空と、自然と心が浮き立つような春の香り。張石の通路を縁取る立派な花壇には、様々な色の薔薇が花開いたばかりだった。
今は黒鋼が、この庭の全てをほぼ一人で管理している。
時々、体調がいいときにはこうして、ユゥイと一緒に散歩をするのだ。
温かな日差しはどこまでも優しくて、この時期でなければユゥイはまともに外に出ることが出来ない。
けれど彼は、あれほど親しい黒鋼とは外へ出ようとしなかった。おそらく黒鋼も、ユゥイは一歩も外へ出られないものと思い込んでいるのではないか。
もどかしい二人だなぁと、ファイは思った。
普段は互いに、あまり黒鋼のことは話題に出さない。ファイは考えないようにしていたし、ユゥイは諦めているようだから、あえて彼の話はしなくなっていた。
けれどもし自分がユゥイの立場だったらと、お節介のようなものがひょっこりと顔を出してしまう。
「そんなのさ、気にしないでぱぱっと呼んじゃえばいいんだよー」
「簡単に言うなぁ……ファイは」
「簡単だよ。黒たーんとか、黒ぽーんとか、可愛く呼んであげれば、あの人も大喜び、かも?」
ぷっ、とユゥイが噴き出してしまう。服の上からでもわかるほど骨が目立つ細い肩をしきりに震わせて、ユゥイはくすくすと笑った。
「だったらファイが呼んであげてよ。そしたらボクも呼ぶから」
「もー。親しい間柄じゃなきゃ許されないことってあるでしょー?」
何やらツボにハマってしまったらしい彼は、それからしばらくの間ずっと笑っていた。
逆に困ってしまったファイは、ふと咲き乱れる薔薇の群れの上を飛び回る二匹の蝶を見つけて「ほらほら」と指さした。
「黄色のちょちょと白のちょうちょ! 仲良しだねー」
ひらひらと舞い踊る二匹の蝶は、じゃれ合うようにくるくると飛び回っていた。
「ほんとだ、可愛いね」
「オレとユゥイみたいだねー」
「うん。そうだね」
ファイは立ち止まり、少しの間二人でそれを眺めていた。
蝶は仲良く互いを追い回すみたいにして、遥か遠くの空へと消えた。
「ほんとはね」
二匹が消えた空を見上げながら、ユゥイが呟いた。
「何かが変わることが、怖いんだ」
「……?」
「それがどんなに些細なことでも……出会ったあの日のままでいたい……」
変わらずに。
ずっと一緒に生きて来たつもりだったのに。
ユゥイのあんな切ない横顔を、ファイはそのとき初めて見たような気がした。
***
長い夢を見ていたのか、それともただ過去に思いを馳せていたのか。
床にぺったりと座り込み、ユゥイのベッドに突っ伏して夢と現を行き来していたファイには、分からなかった。
切なくて悲しくて、そして優しい夢だった。
ユゥイが死んだ春。春薔薇が咲いたばかりの頃。
あのときは、それから間もないうちにもう二度と会えなくなるんて、想像もしなかった。
「……違う……そうじゃない……」
伏せていた顔を上げて、ファイは緩く指を振る。
「ずっと分かっていたんだ……いつか君が、オレより先に逝くことを」
ベッドの背もたれへ目を向ける。長い髪をやんわりと縛り、青白く痩せた肌をしたユゥイが、本を片手に笑っている姿が目に浮かぶ。彼はいつもここにいたのに。
―――何かが変わることが、怖いんだ
そうだ。ファイも怖かった。
穏やかに、平坦に、毎日同じような食事をして、ほとんど家からも出ず、時々散歩をしたり、本を読んだり、話をしたり。
そこにはユゥイがいれば十分で、ユゥイに恋する庭師の青年がいれば、それでよかった。
何かが劇的に変化すること。それらを三人は恐れていた。『特別』と言える何かが、いつか『思い出』になることを、恐れていた。
なんの意味もないことを皆が知っていた。人はいつか必ず死ぬ。ユゥイにとって、残されていた時間が普通の人間より短かったことは、誰も口に出さずとも。
一分でも一秒でも。どうかこのまま変わらずに。ずっとずっと、今が続きますようにと。
けれどきっと、ユゥイにとって黒鋼との時間は、一秒一秒が『特別』だったはずだ。
自分自身がいつか『思い出』になることを、誰よりも理解していたはずの彼は、きっといつも孤独だった。ファイがいても、黒鋼がいても、愛すれば愛するほど。
ファイも、黒鋼も、多分そんなユゥイの孤独を知っていた。知っていて、目を逸らしていたのだと思う。ずっと、やがて訪れる現実から逃げ続けていた。
今までだってそうだ。変わることが怖くて、黒鋼と小狼とサクラと、四人での暮らしを必死で守ろうとしていた。そうすればいつまでも、黒鋼は自分のものだった。
「思いだしたくなかったよ……オレは、ずるいから」
ユゥイを失ってなお、彼への感情を殺すことが出来なかった。
そしてあのとき、逃げ場を求めていたのはきっと黒鋼も同じだったのだ。
ファイは重たい身体に力を入れて立ちあがった。床に落ちて、ぐったりとしている薔薇の花を拾う。
窓の外を見ると、陽が傾きはじめていた。ここを訪れたのは夜明け前だったはずなのに、驚くほど長い間、ここで幻を見ていたらしい。
そのとき、ガンガンと部屋のドアを叩く音がした。
「ファイさん、ここにいるんですよね? 開けてください! ファイさん!」
「ファイさんお願い……どうか顔を見せてください……」
小狼とサクラの声がする。夢と現を彷徨うファイは気づいていなかったが、彼らはこうして幾度となくこの部屋のドアを叩いていたのかもしれない。
「ごめんね小狼君、サクラちゃん」
ファイは扉を見つめていた視線を、今度は大きな姿見へ移した。
「会いに行くよ、ユゥイ。ずっと忘れちゃってて、ごめん」
ひとつに纏めた長い金髪。青白く痩せた肌。
――ユゥイ。
「そっか」
秋晴れの庭で、四人でテーブルを囲みながら交わした、何気ない会話。バカみたいにむきになっていた自分と、ぽろりと零れ落ちた黒鋼の本音。
「だから、お気に入りだったんだね」
最初から、彼はファイのものなんかじゃなかった。
「……ナイフがいるね。とびきり、切れ味がいいもの」
力が抜けたような、頼りない笑みを浮かべると、鏡の中の自分はいよいよユゥイと重なった。
***
ゆっくりと眠りから目覚め、瞼を開けたとき、車内のガラス窓から見える世界は橙色に包まれていた。
「マジかよ……」
知らぬ間に、随分と長く眠ってしまっていたようだった。
座席の背もたれに沈み込んでいた身体を離すと、黒鋼は盛大に溜息をつきながら頭を掻き毟った。
キーを回し、エンジンをかけながら、まだ少しぼんやりする頭を幾度か振る。ひとつ大きく息をつき、自分自身に苛立ちながらも、車を走らせた。
考えるのはたった今まで、まるで過去を旅するかのように見ていた夢のことだった。
双子とそれぞれ初めて出会った日から、ユゥイを失い、そしてファイを眠りにつかせた、あの日のことまで。
思えばユゥイの夢を見るのは、彼が他界してから初めてのことだった。
黒鋼は小さく舌打ちをする。
おそらく、ファイは過去を取り戻している。
いつ、何がキッカケで思い出したのかなんて。
心当たりがありすぎて、苦々しい表情で吐き出す息は僅かに震えていた。
今にして思えば、どうして何の迷いも警戒もなく、彼に薔薇を渡してしまったのだろう。それまでの黒鋼ならば、決して考えられないミスだった。
あのときの黒鋼の中には、ただ単純な思いだけがあったように思う。
『オレは黄色より、白の方が好きかなー』
ファイがそう言っていたことを、思い出したから。
本当に無意識のうちに、白い薔薇の花を摘み取っていた。
「……欲張りすぎたのかもしれねぇな……俺は」
ふと零れた呟きに、少しだけ口元を笑みの形に歪めた。
黒鋼には分かっていた。ファイに記憶が無い状態が、いつまでも続くわけがなかったことくらい。
あの屋敷は彼が幼い頃から長く暮らしてきた場所だった。黒鋼が何をどう隠そうが、あの空間の至るところに、彼の記憶を呼び覚ます断片は転がっていたに違いない。
本当なら、眠る彼を連れて屋敷を出るべきだったのだということも、分かっていた。それでも離れられなかったのは、一人孤独に逝かせてしまったユゥイを、置き去りにしていくような気がしたからだった。
髪が伸びて、それを一つに纏めるファイの姿は、双子がゆえに嫌でもユゥイと重なることがあった。
ふとした瞬間、まるであの悪夢のような春の出来事が、全て夢だったのかと錯覚しそうになるほどに。
長い間、昏々と眠り続けていたファイの姿は、あの日、病院の霊安室で冷たくなっていたユゥイを思いださせた。
けれど彼が目覚めたあの瞬間から、不思議なことにユゥイの影は消えてしまった。
ふとした瞬間、重なるのは容姿だけ。その表情の動きも、言葉も、何もかもが、彼が全く違う人間であるということを証明しているようだった。
いっそもっと単純に、二人を重ねることが出来たなら、きっともっと楽だった。
姿形だけでなく、ファイの幼い仕草や、その内面さえも気づかないふりをして、重ね合わせることが出来たなら。
もしそれが出来ていたら、きっと先日の昼間の庭で、黒鋼はファイに黄色の薔薇を渡していただろう。
あのとき、黒鋼が迷いなく摘み取ったのは白い薔薇。
それはいつしか、本心からファイの願いを叶えたいと、そう思うようになっていたからなのかもしれない。
白が好きだと言った彼のことだけで、あの瞬間、黒鋼の頭の中はいっぱいになっていた。
笑ってくれるだろうと、喜ぶだろうと、そんなことばかりを考えていたのだ。それは誰の意思でもない。黒鋼の『意思』だった。
ファイに乞われれば、平然と愛を囁いた。身体を繋げた。一切の迷いや戸惑いがなかったわけではない。それでも彼の欲しいものを与え、満たしてやることを、自分に出来る唯一の償いだと信じていた。
少なくとも、たった今までは。そのはずなのに。
「まだ欲張ろうってのか?」
どれほど恋しくても、もうユゥイはいない。今でも彼を愛している。
それでもあの日、ファイを眠りにつかせたあの日。あのときから黒鋼を生かしているのは、ファイという大きな光だった。
黒鋼の中で確かに根付き始めているファイへの想いが、偽りや錯覚であると、そして四人で暮らした穏やかで温かな暮らしが仮初のものだと、そう片付けてしまいたくない自分がいる。
しかしそれはただ、ユゥイが遺した『最後の願い』を利用して、そしてファイの想いさえ利用して、ただ自らの孤独や悲しみを忘れたいだけなのではないか。
ファイへの気持ちを自覚すればするほど、そんな深みにはまる。
この迷路に、出口はあるのか。
***
黒鋼が屋敷に戻ったのは、夕日があと僅かで完全に没するかという頃だった。
いくら日が短くなったとはいえ、随分長いこと眠りこけていたことに、庭の通路を歩く黒鋼の歩調は自然と苛立ったものになっていた。
「黒鋼さんッ!」
けれど、突然開かれたドアから飛び出して来たサクラに縋りつかれて、彼女が泣いていることに気付くと、黒鋼は最初こそ目を丸くしたものの、何が起こっているのか、それだけでだいたい理解できた。
サクラから目線を先にやると、立ち尽くして今にも泣きだしそうにも、悔しそうにも見える顔をした少年と目が合った。
「黒鋼さん……」
「いい。なんとなくわかってる。おら、泣くな」
小狼に向けて少しだけ笑って見せてから、サクラの両肩に手をやって、そっと引き離した。
見上げてくる少女は泣きはらした瞳にさらに涙を浮かべて、ひとつ鼻をすする。
「でも、ファイさんがずっとあの部屋に……もしかしたら、私のせいかもしれない……私、ファイさんに、あの部屋の鍵のこと……」
小狼に鍵を託していたことを、サクラが知っていたことは迂闊だったが、幾つもの綻びが重なったのは、なるべくしてなることだったのだと思う。
彼女も、小狼も、何一つ悪くはない。
近づいてきた小狼が、背後から黒鋼に代わってサクラの肩を抱いた。
「記憶が戻ったんだな。あいつは」
そう言うと、小狼を力なく首を横に振った。
「わかりません……ゆうべは冷静になれなくて……今思えば……」
「はめられたか?」
「ッ……」
きゅっと眉間に皺を寄せたまま唇を噛みしめる小狼の髪を、ぐしゃぐしゃと撫でる。彼は痛々しい表情で、それでも不思議そうに黒鋼を見上げた。
「どうして笑ってるんです……?」
「そう見えるか?」
「……はい」
笑っているかもしれない。少なくとも、口元は。
「エゴに付き合わせて悪かったな。おまえたちは何も気にするな」
「でも……ッ」
「やつはあの部屋か?」
言い募ろうとする小狼を遮る。すると、彼は「それが……」と酷く言いにくそうに俯いた。
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ユゥイを乗せた車椅子を引いたファイがそう言うと、ユゥイは少しだけ困ったように笑った。
「あの人だなんて。ちゃんと名前で呼んであげてよ」
「ユゥイだって呼ばないじゃない。いっつも『彼』としか」
「そうだけど」
ユゥイは少し言いにくそうに頬を指先で掻いた。
「呼ぶタイミング、逃しちゃったんだよ。お互い。そしたら、そのまま」
「なぁにそれ。変なのー」
ファイは笑った。
晴れた空と、自然と心が浮き立つような春の香り。張石の通路を縁取る立派な花壇には、様々な色の薔薇が花開いたばかりだった。
今は黒鋼が、この庭の全てをほぼ一人で管理している。
時々、体調がいいときにはこうして、ユゥイと一緒に散歩をするのだ。
温かな日差しはどこまでも優しくて、この時期でなければユゥイはまともに外に出ることが出来ない。
けれど彼は、あれほど親しい黒鋼とは外へ出ようとしなかった。おそらく黒鋼も、ユゥイは一歩も外へ出られないものと思い込んでいるのではないか。
もどかしい二人だなぁと、ファイは思った。
普段は互いに、あまり黒鋼のことは話題に出さない。ファイは考えないようにしていたし、ユゥイは諦めているようだから、あえて彼の話はしなくなっていた。
けれどもし自分がユゥイの立場だったらと、お節介のようなものがひょっこりと顔を出してしまう。
「そんなのさ、気にしないでぱぱっと呼んじゃえばいいんだよー」
「簡単に言うなぁ……ファイは」
「簡単だよ。黒たーんとか、黒ぽーんとか、可愛く呼んであげれば、あの人も大喜び、かも?」
ぷっ、とユゥイが噴き出してしまう。服の上からでもわかるほど骨が目立つ細い肩をしきりに震わせて、ユゥイはくすくすと笑った。
「だったらファイが呼んであげてよ。そしたらボクも呼ぶから」
「もー。親しい間柄じゃなきゃ許されないことってあるでしょー?」
何やらツボにハマってしまったらしい彼は、それからしばらくの間ずっと笑っていた。
逆に困ってしまったファイは、ふと咲き乱れる薔薇の群れの上を飛び回る二匹の蝶を見つけて「ほらほら」と指さした。
「黄色のちょちょと白のちょうちょ! 仲良しだねー」
ひらひらと舞い踊る二匹の蝶は、じゃれ合うようにくるくると飛び回っていた。
「ほんとだ、可愛いね」
「オレとユゥイみたいだねー」
「うん。そうだね」
ファイは立ち止まり、少しの間二人でそれを眺めていた。
蝶は仲良く互いを追い回すみたいにして、遥か遠くの空へと消えた。
「ほんとはね」
二匹が消えた空を見上げながら、ユゥイが呟いた。
「何かが変わることが、怖いんだ」
「……?」
「それがどんなに些細なことでも……出会ったあの日のままでいたい……」
変わらずに。
ずっと一緒に生きて来たつもりだったのに。
ユゥイのあんな切ない横顔を、ファイはそのとき初めて見たような気がした。
***
長い夢を見ていたのか、それともただ過去に思いを馳せていたのか。
床にぺったりと座り込み、ユゥイのベッドに突っ伏して夢と現を行き来していたファイには、分からなかった。
切なくて悲しくて、そして優しい夢だった。
ユゥイが死んだ春。春薔薇が咲いたばかりの頃。
あのときは、それから間もないうちにもう二度と会えなくなるんて、想像もしなかった。
「……違う……そうじゃない……」
伏せていた顔を上げて、ファイは緩く指を振る。
「ずっと分かっていたんだ……いつか君が、オレより先に逝くことを」
ベッドの背もたれへ目を向ける。長い髪をやんわりと縛り、青白く痩せた肌をしたユゥイが、本を片手に笑っている姿が目に浮かぶ。彼はいつもここにいたのに。
―――何かが変わることが、怖いんだ
そうだ。ファイも怖かった。
穏やかに、平坦に、毎日同じような食事をして、ほとんど家からも出ず、時々散歩をしたり、本を読んだり、話をしたり。
そこにはユゥイがいれば十分で、ユゥイに恋する庭師の青年がいれば、それでよかった。
何かが劇的に変化すること。それらを三人は恐れていた。『特別』と言える何かが、いつか『思い出』になることを、恐れていた。
なんの意味もないことを皆が知っていた。人はいつか必ず死ぬ。ユゥイにとって、残されていた時間が普通の人間より短かったことは、誰も口に出さずとも。
一分でも一秒でも。どうかこのまま変わらずに。ずっとずっと、今が続きますようにと。
けれどきっと、ユゥイにとって黒鋼との時間は、一秒一秒が『特別』だったはずだ。
自分自身がいつか『思い出』になることを、誰よりも理解していたはずの彼は、きっといつも孤独だった。ファイがいても、黒鋼がいても、愛すれば愛するほど。
ファイも、黒鋼も、多分そんなユゥイの孤独を知っていた。知っていて、目を逸らしていたのだと思う。ずっと、やがて訪れる現実から逃げ続けていた。
今までだってそうだ。変わることが怖くて、黒鋼と小狼とサクラと、四人での暮らしを必死で守ろうとしていた。そうすればいつまでも、黒鋼は自分のものだった。
「思いだしたくなかったよ……オレは、ずるいから」
ユゥイを失ってなお、彼への感情を殺すことが出来なかった。
そしてあのとき、逃げ場を求めていたのはきっと黒鋼も同じだったのだ。
ファイは重たい身体に力を入れて立ちあがった。床に落ちて、ぐったりとしている薔薇の花を拾う。
窓の外を見ると、陽が傾きはじめていた。ここを訪れたのは夜明け前だったはずなのに、驚くほど長い間、ここで幻を見ていたらしい。
そのとき、ガンガンと部屋のドアを叩く音がした。
「ファイさん、ここにいるんですよね? 開けてください! ファイさん!」
「ファイさんお願い……どうか顔を見せてください……」
小狼とサクラの声がする。夢と現を彷徨うファイは気づいていなかったが、彼らはこうして幾度となくこの部屋のドアを叩いていたのかもしれない。
「ごめんね小狼君、サクラちゃん」
ファイは扉を見つめていた視線を、今度は大きな姿見へ移した。
「会いに行くよ、ユゥイ。ずっと忘れちゃってて、ごめん」
ひとつに纏めた長い金髪。青白く痩せた肌。
――ユゥイ。
「そっか」
秋晴れの庭で、四人でテーブルを囲みながら交わした、何気ない会話。バカみたいにむきになっていた自分と、ぽろりと零れ落ちた黒鋼の本音。
「だから、お気に入りだったんだね」
最初から、彼はファイのものなんかじゃなかった。
「……ナイフがいるね。とびきり、切れ味がいいもの」
力が抜けたような、頼りない笑みを浮かべると、鏡の中の自分はいよいよユゥイと重なった。
***
ゆっくりと眠りから目覚め、瞼を開けたとき、車内のガラス窓から見える世界は橙色に包まれていた。
「マジかよ……」
知らぬ間に、随分と長く眠ってしまっていたようだった。
座席の背もたれに沈み込んでいた身体を離すと、黒鋼は盛大に溜息をつきながら頭を掻き毟った。
キーを回し、エンジンをかけながら、まだ少しぼんやりする頭を幾度か振る。ひとつ大きく息をつき、自分自身に苛立ちながらも、車を走らせた。
考えるのはたった今まで、まるで過去を旅するかのように見ていた夢のことだった。
双子とそれぞれ初めて出会った日から、ユゥイを失い、そしてファイを眠りにつかせた、あの日のことまで。
思えばユゥイの夢を見るのは、彼が他界してから初めてのことだった。
黒鋼は小さく舌打ちをする。
おそらく、ファイは過去を取り戻している。
いつ、何がキッカケで思い出したのかなんて。
心当たりがありすぎて、苦々しい表情で吐き出す息は僅かに震えていた。
今にして思えば、どうして何の迷いも警戒もなく、彼に薔薇を渡してしまったのだろう。それまでの黒鋼ならば、決して考えられないミスだった。
あのときの黒鋼の中には、ただ単純な思いだけがあったように思う。
『オレは黄色より、白の方が好きかなー』
ファイがそう言っていたことを、思い出したから。
本当に無意識のうちに、白い薔薇の花を摘み取っていた。
「……欲張りすぎたのかもしれねぇな……俺は」
ふと零れた呟きに、少しだけ口元を笑みの形に歪めた。
黒鋼には分かっていた。ファイに記憶が無い状態が、いつまでも続くわけがなかったことくらい。
あの屋敷は彼が幼い頃から長く暮らしてきた場所だった。黒鋼が何をどう隠そうが、あの空間の至るところに、彼の記憶を呼び覚ます断片は転がっていたに違いない。
本当なら、眠る彼を連れて屋敷を出るべきだったのだということも、分かっていた。それでも離れられなかったのは、一人孤独に逝かせてしまったユゥイを、置き去りにしていくような気がしたからだった。
髪が伸びて、それを一つに纏めるファイの姿は、双子がゆえに嫌でもユゥイと重なることがあった。
ふとした瞬間、まるであの悪夢のような春の出来事が、全て夢だったのかと錯覚しそうになるほどに。
長い間、昏々と眠り続けていたファイの姿は、あの日、病院の霊安室で冷たくなっていたユゥイを思いださせた。
けれど彼が目覚めたあの瞬間から、不思議なことにユゥイの影は消えてしまった。
ふとした瞬間、重なるのは容姿だけ。その表情の動きも、言葉も、何もかもが、彼が全く違う人間であるということを証明しているようだった。
いっそもっと単純に、二人を重ねることが出来たなら、きっともっと楽だった。
姿形だけでなく、ファイの幼い仕草や、その内面さえも気づかないふりをして、重ね合わせることが出来たなら。
もしそれが出来ていたら、きっと先日の昼間の庭で、黒鋼はファイに黄色の薔薇を渡していただろう。
あのとき、黒鋼が迷いなく摘み取ったのは白い薔薇。
それはいつしか、本心からファイの願いを叶えたいと、そう思うようになっていたからなのかもしれない。
白が好きだと言った彼のことだけで、あの瞬間、黒鋼の頭の中はいっぱいになっていた。
笑ってくれるだろうと、喜ぶだろうと、そんなことばかりを考えていたのだ。それは誰の意思でもない。黒鋼の『意思』だった。
ファイに乞われれば、平然と愛を囁いた。身体を繋げた。一切の迷いや戸惑いがなかったわけではない。それでも彼の欲しいものを与え、満たしてやることを、自分に出来る唯一の償いだと信じていた。
少なくとも、たった今までは。そのはずなのに。
「まだ欲張ろうってのか?」
どれほど恋しくても、もうユゥイはいない。今でも彼を愛している。
それでもあの日、ファイを眠りにつかせたあの日。あのときから黒鋼を生かしているのは、ファイという大きな光だった。
黒鋼の中で確かに根付き始めているファイへの想いが、偽りや錯覚であると、そして四人で暮らした穏やかで温かな暮らしが仮初のものだと、そう片付けてしまいたくない自分がいる。
しかしそれはただ、ユゥイが遺した『最後の願い』を利用して、そしてファイの想いさえ利用して、ただ自らの孤独や悲しみを忘れたいだけなのではないか。
ファイへの気持ちを自覚すればするほど、そんな深みにはまる。
この迷路に、出口はあるのか。
***
黒鋼が屋敷に戻ったのは、夕日があと僅かで完全に没するかという頃だった。
いくら日が短くなったとはいえ、随分長いこと眠りこけていたことに、庭の通路を歩く黒鋼の歩調は自然と苛立ったものになっていた。
「黒鋼さんッ!」
けれど、突然開かれたドアから飛び出して来たサクラに縋りつかれて、彼女が泣いていることに気付くと、黒鋼は最初こそ目を丸くしたものの、何が起こっているのか、それだけでだいたい理解できた。
サクラから目線を先にやると、立ち尽くして今にも泣きだしそうにも、悔しそうにも見える顔をした少年と目が合った。
「黒鋼さん……」
「いい。なんとなくわかってる。おら、泣くな」
小狼に向けて少しだけ笑って見せてから、サクラの両肩に手をやって、そっと引き離した。
見上げてくる少女は泣きはらした瞳にさらに涙を浮かべて、ひとつ鼻をすする。
「でも、ファイさんがずっとあの部屋に……もしかしたら、私のせいかもしれない……私、ファイさんに、あの部屋の鍵のこと……」
小狼に鍵を託していたことを、サクラが知っていたことは迂闊だったが、幾つもの綻びが重なったのは、なるべくしてなることだったのだと思う。
彼女も、小狼も、何一つ悪くはない。
近づいてきた小狼が、背後から黒鋼に代わってサクラの肩を抱いた。
「記憶が戻ったんだな。あいつは」
そう言うと、小狼を力なく首を横に振った。
「わかりません……ゆうべは冷静になれなくて……今思えば……」
「はめられたか?」
「ッ……」
きゅっと眉間に皺を寄せたまま唇を噛みしめる小狼の髪を、ぐしゃぐしゃと撫でる。彼は痛々しい表情で、それでも不思議そうに黒鋼を見上げた。
「どうして笑ってるんです……?」
「そう見えるか?」
「……はい」
笑っているかもしれない。少なくとも、口元は。
「エゴに付き合わせて悪かったな。おまえたちは何も気にするな」
「でも……ッ」
「やつはあの部屋か?」
言い募ろうとする小狼を遮る。すると、彼は「それが……」と酷く言いにくそうに俯いた。
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――ボクはここだよ。ここにいるよ。
綿毛のたんぽぽの花言葉を知ったのは、黒鋼が初めてユゥイの部屋に足を踏み入れたときのことだった。
そして黒鋼は後悔する。
知らなければよかった。知らないままでいれば、泣けないままでいられたかもしれない。
花言葉の書かれた分厚い本。開かれたページにぽたりぽたりと、雫が落ちる。
『別離』
それが、ユゥイが口に出すことを拒んだ、ただ一つの答えだった。
***
連絡を受けて病院へ駆けつけたとき、そこにいたのは薄暗い廊下、病室脇の壁に背を預けて、呆然と立ち尽くすファイだった。
あれほど大きな屋敷に住んでいながら、こうして駆けつけるのはたった一人の家族と、他人である黒鋼だけ。
彼らの両親は二人の息子を、ましてや片方は病に伏しているというのに国内にすらいないことを知っている。
いや、もう世界中どこを探しても、彼らはいない。
十数年前に旅先の事故で死亡しているのだ。遺体さえも帰国を果たしてはいなかった。どこでどう死んだのかまでは知らないが、見つからないのかもしれない。
「あいつは……!?」
ファイの姿を見つけるなり、黒鋼は彼の両肩を掴んで揺さぶった。
揺さぶられたことでようやくこちらの存在に気付いたらしい彼は、小さく唇を開いた。そして虚ろな瞳のまま、ゆらゆらと首を振る。
一瞬、頭が真っ白になるのを感じた。それから、次に沸き起こった感情は、激しい怒りだった。
「どうしてだ!!」
細い身体をガクガクと揺さぶった。ファイはされるがまま、何も言わない。
「何か言え!! 何がどうして……っ、何が……っ」
何が起こった?
ついほんの数日前ではなかったか。
いつもの場所で、彼に黄色の春薔薇を渡した。
たんぽぽの花ことばを聞いて、秋薔薇を渡す約束をした。
そして一瞬だけ、唇を触れ合わせた。
温かな唇だった。彼は、確かに生きていた。
生きていたのに――。
ほんの短い間だけ、どこからともなく沸き起こった怒りは、すぐに泡のように消え去った。
いや、そうではない。何もかもがない交ぜになって、もはやこれが感情と呼べるものなのかも、分からなくなっただけだった。
夢を見ているのだと思った。ぐにゃりと足元が歪んで、立っていることが出来なくなった黒鋼は、ファイに縋るようにして膝から崩れ落ちた。
「ごめんなさい」
抑揚のない声で、たった一言ファイが呟いた言葉も、そのときの黒鋼には届かなかった。
***
それから何日が経過したのか、ふとカレンダーを眺めても、実感が湧かなかった。
眠っていたのか、起きていたのか。
自宅には一度戻ったような気がするが、そのまま留まっていたのか、外へ飛び出したのかさえ、黒鋼の中では全てが曖昧なままだった。
ファイはどうしたのだろう。彼はどんな顔をしていた? 泣いていただろうか? 何も分からない。空っぽだった。
ただはっきりしているのは、眠るような表情で抜け殻になったユゥイの身体が、今はもう、真っ白の灰になっているだろうということ。
けれど頭で考えることに、気持ちが追いつかなかった。
気がつけば黒鋼は屋敷の前にいた。
よくこんな心理状態で車なんて運転できたものだと思いはしたが、ただユゥイに会いたいという思いだけが、黒鋼を生かしていた。
***
持ち主を失った部屋は、ただ寂れたように色を失っていた。
花言葉が連なる分厚い本を手に、長いこと涙に身を震わせていた黒鋼は、ふと窓から吹き込んできた風に頬を撫でられ、顔をあげた。
そこで黒鋼は初めて、部屋の中から自分が長い間手入れをし続けていた庭を眺めた。
嘘みたいに晴れた空。日差しが強すぎて、たった今涙を零したばかりの瞳に、それは酷い痛みばかりをもたらした。まるで棘が深く皮膚を抉るように。
窓枠によって切り取られた外の世界は、あまりにも小さなものだった。
こんなに狭い世界が、ユゥイの全てだったのだ。
そしてこの窓から、幼い彼は広い世界を夢見てあの日、細い両腕を精一杯伸ばして笑っていた。
自分は、それをただ『外』から眺めるだけだった。彼が求めてやまなかった場所から、ただ見ているだけ。
何一つ願いなど叶えられない。叶える力もない。
交わしたたった一つの約束も、今では酷く遠い場所にある。
どんなに手を伸ばしても届かない。掴めないと分かっていて、それでも手を伸ばした彼は、どれほどの強さをあの小さな身体の中に宿していたのだろうか。
本当はずっと目を背け続けていた。
彼が死に近い場所にいることを知りながら、出会って今までが大丈夫だったのだからと、それだけのことで未来を疑いもしなかった自分は、唐突な彼の死を受け入れられずに、見動きさえもままならないというのに。
痛みに耐えきれず、黒鋼は開いたままだった分厚い本を閉じた。
そのとき、はらりと一枚の紙切れが滑るように床に落ちた。
しおりだろうかと手を伸ばした黒鋼は、それが『手紙』であることに気がついた。
誰が書いたものか、考えずともたった一人しか思い浮かばない。
二つに折りたたまれた、味気ない白の便せん。
黒鋼は少し迷ったのち、ゆっくりと、それを開いて見た。
そこにはユゥイの想いが、強さが、そして弱さが書き綴られていた。
彼は強かった。強いから弱かった。最初から、生きることを諦めていた。
だからこそ、笑いながら語った夢の話。幼く、遠い日の記憶。そして希望。
手紙を胸に抱きしめて、必死で込み上げる嗚咽を堪える。声を出して泣くのは嫌だった。そして泣くのは、これが最後だと決める。
今は叶えたい願いがある。彼の残した遺言。
託された最後の願いは、手の届く場所にあるはずだった。
*
淡い恋は淡いまま。
たった一度の口づけを最後に、終わってしまった。
黒鋼はユゥイを抱かなかった。
あの日、薔薇を渡したあのとき、たった一度くちづけただけで、はっきりと気持ちを告白したこともない。
触れるのが、本当は怖かったのかもしれない。
何かが大きく変わることが怖かった。
平穏であること、平坦であること。変わらない関係が揺るぎさえしなければ、そこにずっとユゥイがいる。
あの月の光のような柔らかい微笑みで、ずっと。そんな気がしていた。
心臓を患っている彼を、目に見えて痩せ細った身体を抱きしめるのが怖くて、ガラス細工のような時間が何よりも大切で、腫れ物を扱うようにしか触れられなかった。ただそっと抱きしめることさえ。
それでも、もしユゥイが望んだなら。
彼から一言でも「欲しい」という言葉を聞いていたなら。
自分は彼を、抱いたのだろうか。
***
屋敷には今日、初めて足を踏み入れた。
玄関ホールに設置されている古時計だけが、一秒ごとに音を立てているだけで、薄暗い空間は真冬のように冷え切っていた。
黒鋼はファイの部屋がどこにあるのかを知らなかった。
けれど最愛のものを失った痛みだけは同じだった。だからといって、自分に何が出来るかは分からない。
それでもただ、傍にいようと思った。
一つ一つ、幾つもある部屋のドアを開けて行った。廊下を奥へ進む度に、ホールの古時計が時を刻む音が遠ざかる。
やがてとある部屋の前で、黒鋼はふと足を止めた。
ほぼ無音の世界に、くぐもった細い声が微かに聞こえたような気した。
ファイの声であることは分かった。泣いているのだろうかと。
けれど耳を澄ませば、それは嗚咽でも、すすり泣く声でもないことが分かる。
『 』
ファイが何かを呟いている。だがよくは聞こえなかった。
扉の向こうには、彼一人だけではないのだろうか。
黒鋼は、多少迷いはしたものの、扉を叩いてみることにした。
「おい、俺だ」
『 』
「おい」
妙な胸騒ぎがした。
少し大きな声を出しながら、黒鋼はついにドアノブに手をかけ、扉を開けた。
そしてカーテンの閉め切られた薄暗い部屋の中に、壁を向いてへたり込むファイの姿を見つけた。
「……ゥイ……さい……ね……」
彼以外には誰もいない。けれどファイは扉が開いたことにも気がつかないのか、壁に向かって両手を伸ばして、ぶつぶつと何かを呟いている。
黒鋼は眉間の皺を深くしながら、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。
「何、してんだ」
「……ねがい……いで……かな……」
「おい」
すぐ側で足を止めて、ようやく黒鋼は気がついた。彼は壁に向かっていたのではなかった。
そこには大きな姿見が設置されていたのだ。
黒鋼は背筋に何か薄ら寒いものがゾクリと駆け抜けたのを感じて、息を飲む。
「ごめんね……ごめんなさい……ユゥイ……ごめんなさい……」
鏡に爪を立て、猫のようにカリカリと引っかきながら。
「お願いだから……ひとりにしないで……オレを置いてかないで……」
彼は、鏡に映る自分に向かって、必死で許しを求めていた。壊れたオモチャのように何度も、何度も、繰り返し。
薄闇の中でもわかる。彼の瞳は酷く虚ろで、そこにはもう鏡の中の『自分』しか映されていない。
「ッ、やめろ!!」
血の気が引くような思いだった。衝動的に声を荒げて、ファイの側に膝をつくと、痩せこけた手首を掴んだ。
そこでようやく、彼はピクリと肩を揺らした。ゆっくりと顔がこちらに向けられて、幾度かぼんやりと瞬きを繰り返す。
黒鋼には、かけてやれる言葉がなかった。
最後にまともにファイの顔を見たのは、ユゥイに薔薇を渡したあの日だった。そのとき初めてちゃんとした会話が成立した。
そして次に会ったのは、ユゥイが他界した日。あのときのことは、あまり覚えていない。
ただ分かることは、ファイがたった数日で、驚くほどやつれてしまったということだった。
髪が長く、大人びて見えた弟に比べると、彼は幼い頃のままだった。細身であることに代わりはないが、健康的にふっくらとした頬をしていた。
黒鋼の記憶の中にあるユゥイの姿より、今の彼はずっと病的なものに見える。だから、重ならない。
ファイは虚ろな瞳のままで小首を傾げた。口元が、嬉しそうに綻ぶ。
「やっと来た……遅いよ……」
「……悪い」
「君が来ないから、さっきからずっとユゥイがご機嫌ななめだよ」
「…………」
「大丈夫。君の大切な人は、ほら、ここにいるよ」
そう言うと、彼は掴まれていない方の手で鏡を指さした。よく見れば、その手には幾枚かの花弁を失い、色あせて枯れてしまった薔薇の花が一本、握られていた。
あの日、黒鋼がユゥイに贈った薔薇の花。
「ほらユゥイ。彼が来たよ? これでもう全部、元通りだよね……?」
やるせなさ。いたたまれなさ。
黒鋼は目を閉じて、叫び出したい感情をぐっと堪えた。
「……よせ」
「ユゥイ、ねぇ、ユゥイ。ここだよ。ここにいるよ」
―――ボクはここだよ。ここにいるよ。
「もうやめろ!!」
「ッ……!」
ファイの肩が大きく跳ねる。黒鋼を見て、小刻みに震えだす。けれど震えていたのは、黒鋼も同じだった。
「あいつはもういない」
乱暴に彼の両肩を掴み、こちらを向かせる。
ふるふると、彼は首を振った。酷く怯えた表情で、唇を震わせていた。
「嘘だよ……ここにいるじゃない……ちゃんといるじゃない……ね? ユゥイ、なにか言って。オレとお話して。どうして答えてくれないの?」
弱々しく身を捩り、再び鏡と向き合おうとするのを、黒鋼は許さなかった。
「死んだんだ……もう、どこにもいない……おまえが一番、分かってることだろ」
真夜中に突然の発作を起こしたユゥイは、朝、ファイがいつものように部屋を訪れたときには、すでに息を引き取っていた。一人孤独に、逝かせてしまった。
ファイは焦点の定まらない瞳をゆらゆらと彷徨わせた。そして、徐々に呼吸を荒げていく。
瞬きを忘れた彼は、目を合わせようと根気よく見つめ続ける黒鋼をその目に捉えると、蚊の鳴くような声で言った。
「オレの、せいだよ……」
虚ろだったファイの瞳から、糸がプツリと切れてしまったように、涙が零れる。
「オレが、殺したんだ……オレのせいだ……オレが、オレが……」
ごめんなさいと、ファイは幾度も言った。子供のように大粒の涙で頬を濡らす彼に、黒鋼は強く首を左右に振った。
「違う。そうじゃねぇ。おまえは何も……」
「ユゥイなんか、いなくなればいいって……思ったから……」
「……!」
「ユゥイがいなければ……君は、オレのものになるって……思ってた……」
黒鋼は目を見開いた。
「だからユゥイ……いなくなっちゃった……」
黒鋼は力なく、彼の両肩を掴んでいた手を床に落とした。頭の中で整理しきれないことが多すぎる。
子供の頃は、どちらかと言えばむしろ嫌われているものとばかり思っていた。
それはきっと、仲のいい双子の間に自分が異物として割り込んだからだと、ユゥイへの独占欲なのだろうと、そうも思っていた。けれど違った。
彼の想いの矛先は、この自分だったというのか。
「君もオレを置いていくの?」
何も答えられないでいる黒鋼に、喪失の悲しみと罪悪感に毀れてしまった彼の心は、逃げ道を探している。
「生きていけない」
ファイの手が伸びてくる。けれどあと少しというところで黒鋼に触れることを躊躇い、宙を彷徨う。
薔薇の花は、冷たい床の上に落ちてしまった。
「君まで失ったら、生きていけないよ……」
愛する者と同じ姿で、声で、別たれた魂で。
彼は黒鋼を縛る。
「愛してるんだ……ずっと、ずっと……子供の頃から……」
そのときの黒鋼に、他にどんな選択肢が残されていたのだろうか。
選び取る以外に、手を、掴んでやること以外に。
黒鋼は、ファイの手を取った。
「ッ……!」
求めたのはファイなのに、彼は信じられないとでも言うように目を大きく見開いた。そしてまた涙を零す。
滲むように、虚ろだった彼の瞳が正気を取り戻していく。
「冷たかった……」
ぽつりと呟かれた声を皮切りに、泣き濡れた表情がくしゃりと歪む。そして幼子のようにしゃくり上げ始めた。
「ッ、ユゥイ、眠ってる、みたいだった……オレ、起きて、って……ユゥイ、起きてって……何度も、何度も、呼んだんだ……」
もう泣かないと、そう決めたはずなのに。
息を飲み、唇を噛みしめ、黒鋼は冷える指先と比例して、加熱してゆく胸の激痛を堪えた。
「ユゥイの身体、冷たかった……」
止めどなく流れる涙が、彼の膝に添えられている黒鋼の手の甲を濡らす。
「冷たかったんだ……」
痩せた手首。へし折ってしまうかもしれないと思いながらも、掴む手の力を緩めることが出来ない。
そのまま長い間、ひたすら泣き続けるファイを見守った。
叫びだしたかった。大きな声を上げて、受け入れがたい現実を否定したかった。黒鋼もまた、荒れ狂う感情を押しこめるのに必死だった。
どうして後悔することしか出来ないのだろう。もっと早くから、ファイの傍にいてやればよかった。どうして、たった一人で逃げ出してしまったのだろう。
ユゥイの名を呼びながら、動かなくなった身体を必死で揺らすファイの姿が目に浮かぶ。熱を、鼓動を確かめるように触れる、指先の震えが。
実際に見たわけでもないのに、そんな光景がありありと脳内に再生された。
「もう、眠りたい……」
やがて嗚咽がおさまった頃、吐き出された言葉と一緒に、ファイはガクリと項垂れた。
「消えて、いなくなりたい」
ここにいるのはユゥイではない。
だからこそ、 この狂おしいまでの切なさに名前をつけることは躊躇われた。
重ならない双子。似てるのに、似ていない彼ら。同じ魂。けれど違う人間。
閉じ込められていた小鳥は、ユゥイだけではなかった。
片方は自由を求めて空に手を伸ばした。あの日、優しい春風に乗って消えていった綿毛のように、彼は旅立ってしまった。
そして遺された番(つがい)の小鳥は今、生きる希望も気力も、何もかもを失っていた。
その孤独が、彼を殺してしまうくらいなら。
もしそれを繋ぎとめる力が、この腕に宿っているのだとしたら。
それを出来るのが、自分だけなのだとしたら。
「眠れよ……だから、消えるなんて許さねぇ」
黒鋼は手を伸ばした。ファイの二つの瞳にかぶせ、視界を奪う。長い睫毛と涙の感触。薄い瞼が震えているのを、手のひらに感じた。
「傍にいてやる。だから眠っちまえ。ずっと、見ててやるから」
ファイが倒れ込んだのか、それとも自分が引き寄せたのか。
ユゥイすら抱くことのなかったこの腕が、今はファイを抱きしめていた。
温かい。生きている。彼は、生きている。
「眠って、忘れて、起きたらあとは、ずっと笑ってろ。辛いも苦しいも、全部こっちに寄こせ。てめぇが笑ってられるなら、代わりに……俺でよけりゃあ、くれてやる。
ファイは少しだけ笑ったようだった。
「うれしい」
彼が笑ったことで、黒鋼の心はほんの少しだけ救われたような気がした。
おそらくユゥイが死んでからずっと眠っていなかったのであろうファイは、ゆっくりと身体から力を抜いていく。
「そうなったら、いいのにね……」
彼は最後に呟くと、やがて眠りに落ちた。
「なるさ。俺が全部、叶えてやる」
ユゥイの願いは何一つ叶えてやれなかった。
けれど全部預かって抱え込む代わりに、ファイの欲しいものならば、与えてやれる。
これはユゥイの望む形ではないかもしれない。愚かなことかもしれない。
けれど、例えそうだとしても、 ファイの心が本当に壊れて、消えてしまわないように。
「ここにいる。俺は、ここにいるぞ」
黒鋼は深い眠りの底へと旅立ったファイの身体を、強く強く、抱きしめた。
←戻る ・ 次へ→
綿毛のたんぽぽの花言葉を知ったのは、黒鋼が初めてユゥイの部屋に足を踏み入れたときのことだった。
そして黒鋼は後悔する。
知らなければよかった。知らないままでいれば、泣けないままでいられたかもしれない。
花言葉の書かれた分厚い本。開かれたページにぽたりぽたりと、雫が落ちる。
『別離』
それが、ユゥイが口に出すことを拒んだ、ただ一つの答えだった。
***
連絡を受けて病院へ駆けつけたとき、そこにいたのは薄暗い廊下、病室脇の壁に背を預けて、呆然と立ち尽くすファイだった。
あれほど大きな屋敷に住んでいながら、こうして駆けつけるのはたった一人の家族と、他人である黒鋼だけ。
彼らの両親は二人の息子を、ましてや片方は病に伏しているというのに国内にすらいないことを知っている。
いや、もう世界中どこを探しても、彼らはいない。
十数年前に旅先の事故で死亡しているのだ。遺体さえも帰国を果たしてはいなかった。どこでどう死んだのかまでは知らないが、見つからないのかもしれない。
「あいつは……!?」
ファイの姿を見つけるなり、黒鋼は彼の両肩を掴んで揺さぶった。
揺さぶられたことでようやくこちらの存在に気付いたらしい彼は、小さく唇を開いた。そして虚ろな瞳のまま、ゆらゆらと首を振る。
一瞬、頭が真っ白になるのを感じた。それから、次に沸き起こった感情は、激しい怒りだった。
「どうしてだ!!」
細い身体をガクガクと揺さぶった。ファイはされるがまま、何も言わない。
「何か言え!! 何がどうして……っ、何が……っ」
何が起こった?
ついほんの数日前ではなかったか。
いつもの場所で、彼に黄色の春薔薇を渡した。
たんぽぽの花ことばを聞いて、秋薔薇を渡す約束をした。
そして一瞬だけ、唇を触れ合わせた。
温かな唇だった。彼は、確かに生きていた。
生きていたのに――。
ほんの短い間だけ、どこからともなく沸き起こった怒りは、すぐに泡のように消え去った。
いや、そうではない。何もかもがない交ぜになって、もはやこれが感情と呼べるものなのかも、分からなくなっただけだった。
夢を見ているのだと思った。ぐにゃりと足元が歪んで、立っていることが出来なくなった黒鋼は、ファイに縋るようにして膝から崩れ落ちた。
「ごめんなさい」
抑揚のない声で、たった一言ファイが呟いた言葉も、そのときの黒鋼には届かなかった。
***
それから何日が経過したのか、ふとカレンダーを眺めても、実感が湧かなかった。
眠っていたのか、起きていたのか。
自宅には一度戻ったような気がするが、そのまま留まっていたのか、外へ飛び出したのかさえ、黒鋼の中では全てが曖昧なままだった。
ファイはどうしたのだろう。彼はどんな顔をしていた? 泣いていただろうか? 何も分からない。空っぽだった。
ただはっきりしているのは、眠るような表情で抜け殻になったユゥイの身体が、今はもう、真っ白の灰になっているだろうということ。
けれど頭で考えることに、気持ちが追いつかなかった。
気がつけば黒鋼は屋敷の前にいた。
よくこんな心理状態で車なんて運転できたものだと思いはしたが、ただユゥイに会いたいという思いだけが、黒鋼を生かしていた。
***
持ち主を失った部屋は、ただ寂れたように色を失っていた。
花言葉が連なる分厚い本を手に、長いこと涙に身を震わせていた黒鋼は、ふと窓から吹き込んできた風に頬を撫でられ、顔をあげた。
そこで黒鋼は初めて、部屋の中から自分が長い間手入れをし続けていた庭を眺めた。
嘘みたいに晴れた空。日差しが強すぎて、たった今涙を零したばかりの瞳に、それは酷い痛みばかりをもたらした。まるで棘が深く皮膚を抉るように。
窓枠によって切り取られた外の世界は、あまりにも小さなものだった。
こんなに狭い世界が、ユゥイの全てだったのだ。
そしてこの窓から、幼い彼は広い世界を夢見てあの日、細い両腕を精一杯伸ばして笑っていた。
自分は、それをただ『外』から眺めるだけだった。彼が求めてやまなかった場所から、ただ見ているだけ。
何一つ願いなど叶えられない。叶える力もない。
交わしたたった一つの約束も、今では酷く遠い場所にある。
どんなに手を伸ばしても届かない。掴めないと分かっていて、それでも手を伸ばした彼は、どれほどの強さをあの小さな身体の中に宿していたのだろうか。
本当はずっと目を背け続けていた。
彼が死に近い場所にいることを知りながら、出会って今までが大丈夫だったのだからと、それだけのことで未来を疑いもしなかった自分は、唐突な彼の死を受け入れられずに、見動きさえもままならないというのに。
痛みに耐えきれず、黒鋼は開いたままだった分厚い本を閉じた。
そのとき、はらりと一枚の紙切れが滑るように床に落ちた。
しおりだろうかと手を伸ばした黒鋼は、それが『手紙』であることに気がついた。
誰が書いたものか、考えずともたった一人しか思い浮かばない。
二つに折りたたまれた、味気ない白の便せん。
黒鋼は少し迷ったのち、ゆっくりと、それを開いて見た。
そこにはユゥイの想いが、強さが、そして弱さが書き綴られていた。
彼は強かった。強いから弱かった。最初から、生きることを諦めていた。
だからこそ、笑いながら語った夢の話。幼く、遠い日の記憶。そして希望。
手紙を胸に抱きしめて、必死で込み上げる嗚咽を堪える。声を出して泣くのは嫌だった。そして泣くのは、これが最後だと決める。
今は叶えたい願いがある。彼の残した遺言。
託された最後の願いは、手の届く場所にあるはずだった。
*
淡い恋は淡いまま。
たった一度の口づけを最後に、終わってしまった。
黒鋼はユゥイを抱かなかった。
あの日、薔薇を渡したあのとき、たった一度くちづけただけで、はっきりと気持ちを告白したこともない。
触れるのが、本当は怖かったのかもしれない。
何かが大きく変わることが怖かった。
平穏であること、平坦であること。変わらない関係が揺るぎさえしなければ、そこにずっとユゥイがいる。
あの月の光のような柔らかい微笑みで、ずっと。そんな気がしていた。
心臓を患っている彼を、目に見えて痩せ細った身体を抱きしめるのが怖くて、ガラス細工のような時間が何よりも大切で、腫れ物を扱うようにしか触れられなかった。ただそっと抱きしめることさえ。
それでも、もしユゥイが望んだなら。
彼から一言でも「欲しい」という言葉を聞いていたなら。
自分は彼を、抱いたのだろうか。
***
屋敷には今日、初めて足を踏み入れた。
玄関ホールに設置されている古時計だけが、一秒ごとに音を立てているだけで、薄暗い空間は真冬のように冷え切っていた。
黒鋼はファイの部屋がどこにあるのかを知らなかった。
けれど最愛のものを失った痛みだけは同じだった。だからといって、自分に何が出来るかは分からない。
それでもただ、傍にいようと思った。
一つ一つ、幾つもある部屋のドアを開けて行った。廊下を奥へ進む度に、ホールの古時計が時を刻む音が遠ざかる。
やがてとある部屋の前で、黒鋼はふと足を止めた。
ほぼ無音の世界に、くぐもった細い声が微かに聞こえたような気した。
ファイの声であることは分かった。泣いているのだろうかと。
けれど耳を澄ませば、それは嗚咽でも、すすり泣く声でもないことが分かる。
『 』
ファイが何かを呟いている。だがよくは聞こえなかった。
扉の向こうには、彼一人だけではないのだろうか。
黒鋼は、多少迷いはしたものの、扉を叩いてみることにした。
「おい、俺だ」
『 』
「おい」
妙な胸騒ぎがした。
少し大きな声を出しながら、黒鋼はついにドアノブに手をかけ、扉を開けた。
そしてカーテンの閉め切られた薄暗い部屋の中に、壁を向いてへたり込むファイの姿を見つけた。
「……ゥイ……さい……ね……」
彼以外には誰もいない。けれどファイは扉が開いたことにも気がつかないのか、壁に向かって両手を伸ばして、ぶつぶつと何かを呟いている。
黒鋼は眉間の皺を深くしながら、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。
「何、してんだ」
「……ねがい……いで……かな……」
「おい」
すぐ側で足を止めて、ようやく黒鋼は気がついた。彼は壁に向かっていたのではなかった。
そこには大きな姿見が設置されていたのだ。
黒鋼は背筋に何か薄ら寒いものがゾクリと駆け抜けたのを感じて、息を飲む。
「ごめんね……ごめんなさい……ユゥイ……ごめんなさい……」
鏡に爪を立て、猫のようにカリカリと引っかきながら。
「お願いだから……ひとりにしないで……オレを置いてかないで……」
彼は、鏡に映る自分に向かって、必死で許しを求めていた。壊れたオモチャのように何度も、何度も、繰り返し。
薄闇の中でもわかる。彼の瞳は酷く虚ろで、そこにはもう鏡の中の『自分』しか映されていない。
「ッ、やめろ!!」
血の気が引くような思いだった。衝動的に声を荒げて、ファイの側に膝をつくと、痩せこけた手首を掴んだ。
そこでようやく、彼はピクリと肩を揺らした。ゆっくりと顔がこちらに向けられて、幾度かぼんやりと瞬きを繰り返す。
黒鋼には、かけてやれる言葉がなかった。
最後にまともにファイの顔を見たのは、ユゥイに薔薇を渡したあの日だった。そのとき初めてちゃんとした会話が成立した。
そして次に会ったのは、ユゥイが他界した日。あのときのことは、あまり覚えていない。
ただ分かることは、ファイがたった数日で、驚くほどやつれてしまったということだった。
髪が長く、大人びて見えた弟に比べると、彼は幼い頃のままだった。細身であることに代わりはないが、健康的にふっくらとした頬をしていた。
黒鋼の記憶の中にあるユゥイの姿より、今の彼はずっと病的なものに見える。だから、重ならない。
ファイは虚ろな瞳のままで小首を傾げた。口元が、嬉しそうに綻ぶ。
「やっと来た……遅いよ……」
「……悪い」
「君が来ないから、さっきからずっとユゥイがご機嫌ななめだよ」
「…………」
「大丈夫。君の大切な人は、ほら、ここにいるよ」
そう言うと、彼は掴まれていない方の手で鏡を指さした。よく見れば、その手には幾枚かの花弁を失い、色あせて枯れてしまった薔薇の花が一本、握られていた。
あの日、黒鋼がユゥイに贈った薔薇の花。
「ほらユゥイ。彼が来たよ? これでもう全部、元通りだよね……?」
やるせなさ。いたたまれなさ。
黒鋼は目を閉じて、叫び出したい感情をぐっと堪えた。
「……よせ」
「ユゥイ、ねぇ、ユゥイ。ここだよ。ここにいるよ」
―――ボクはここだよ。ここにいるよ。
「もうやめろ!!」
「ッ……!」
ファイの肩が大きく跳ねる。黒鋼を見て、小刻みに震えだす。けれど震えていたのは、黒鋼も同じだった。
「あいつはもういない」
乱暴に彼の両肩を掴み、こちらを向かせる。
ふるふると、彼は首を振った。酷く怯えた表情で、唇を震わせていた。
「嘘だよ……ここにいるじゃない……ちゃんといるじゃない……ね? ユゥイ、なにか言って。オレとお話して。どうして答えてくれないの?」
弱々しく身を捩り、再び鏡と向き合おうとするのを、黒鋼は許さなかった。
「死んだんだ……もう、どこにもいない……おまえが一番、分かってることだろ」
真夜中に突然の発作を起こしたユゥイは、朝、ファイがいつものように部屋を訪れたときには、すでに息を引き取っていた。一人孤独に、逝かせてしまった。
ファイは焦点の定まらない瞳をゆらゆらと彷徨わせた。そして、徐々に呼吸を荒げていく。
瞬きを忘れた彼は、目を合わせようと根気よく見つめ続ける黒鋼をその目に捉えると、蚊の鳴くような声で言った。
「オレの、せいだよ……」
虚ろだったファイの瞳から、糸がプツリと切れてしまったように、涙が零れる。
「オレが、殺したんだ……オレのせいだ……オレが、オレが……」
ごめんなさいと、ファイは幾度も言った。子供のように大粒の涙で頬を濡らす彼に、黒鋼は強く首を左右に振った。
「違う。そうじゃねぇ。おまえは何も……」
「ユゥイなんか、いなくなればいいって……思ったから……」
「……!」
「ユゥイがいなければ……君は、オレのものになるって……思ってた……」
黒鋼は目を見開いた。
「だからユゥイ……いなくなっちゃった……」
黒鋼は力なく、彼の両肩を掴んでいた手を床に落とした。頭の中で整理しきれないことが多すぎる。
子供の頃は、どちらかと言えばむしろ嫌われているものとばかり思っていた。
それはきっと、仲のいい双子の間に自分が異物として割り込んだからだと、ユゥイへの独占欲なのだろうと、そうも思っていた。けれど違った。
彼の想いの矛先は、この自分だったというのか。
「君もオレを置いていくの?」
何も答えられないでいる黒鋼に、喪失の悲しみと罪悪感に毀れてしまった彼の心は、逃げ道を探している。
「生きていけない」
ファイの手が伸びてくる。けれどあと少しというところで黒鋼に触れることを躊躇い、宙を彷徨う。
薔薇の花は、冷たい床の上に落ちてしまった。
「君まで失ったら、生きていけないよ……」
愛する者と同じ姿で、声で、別たれた魂で。
彼は黒鋼を縛る。
「愛してるんだ……ずっと、ずっと……子供の頃から……」
そのときの黒鋼に、他にどんな選択肢が残されていたのだろうか。
選び取る以外に、手を、掴んでやること以外に。
黒鋼は、ファイの手を取った。
「ッ……!」
求めたのはファイなのに、彼は信じられないとでも言うように目を大きく見開いた。そしてまた涙を零す。
滲むように、虚ろだった彼の瞳が正気を取り戻していく。
「冷たかった……」
ぽつりと呟かれた声を皮切りに、泣き濡れた表情がくしゃりと歪む。そして幼子のようにしゃくり上げ始めた。
「ッ、ユゥイ、眠ってる、みたいだった……オレ、起きて、って……ユゥイ、起きてって……何度も、何度も、呼んだんだ……」
もう泣かないと、そう決めたはずなのに。
息を飲み、唇を噛みしめ、黒鋼は冷える指先と比例して、加熱してゆく胸の激痛を堪えた。
「ユゥイの身体、冷たかった……」
止めどなく流れる涙が、彼の膝に添えられている黒鋼の手の甲を濡らす。
「冷たかったんだ……」
痩せた手首。へし折ってしまうかもしれないと思いながらも、掴む手の力を緩めることが出来ない。
そのまま長い間、ひたすら泣き続けるファイを見守った。
叫びだしたかった。大きな声を上げて、受け入れがたい現実を否定したかった。黒鋼もまた、荒れ狂う感情を押しこめるのに必死だった。
どうして後悔することしか出来ないのだろう。もっと早くから、ファイの傍にいてやればよかった。どうして、たった一人で逃げ出してしまったのだろう。
ユゥイの名を呼びながら、動かなくなった身体を必死で揺らすファイの姿が目に浮かぶ。熱を、鼓動を確かめるように触れる、指先の震えが。
実際に見たわけでもないのに、そんな光景がありありと脳内に再生された。
「もう、眠りたい……」
やがて嗚咽がおさまった頃、吐き出された言葉と一緒に、ファイはガクリと項垂れた。
「消えて、いなくなりたい」
ここにいるのはユゥイではない。
だからこそ、 この狂おしいまでの切なさに名前をつけることは躊躇われた。
重ならない双子。似てるのに、似ていない彼ら。同じ魂。けれど違う人間。
閉じ込められていた小鳥は、ユゥイだけではなかった。
片方は自由を求めて空に手を伸ばした。あの日、優しい春風に乗って消えていった綿毛のように、彼は旅立ってしまった。
そして遺された番(つがい)の小鳥は今、生きる希望も気力も、何もかもを失っていた。
その孤独が、彼を殺してしまうくらいなら。
もしそれを繋ぎとめる力が、この腕に宿っているのだとしたら。
それを出来るのが、自分だけなのだとしたら。
「眠れよ……だから、消えるなんて許さねぇ」
黒鋼は手を伸ばした。ファイの二つの瞳にかぶせ、視界を奪う。長い睫毛と涙の感触。薄い瞼が震えているのを、手のひらに感じた。
「傍にいてやる。だから眠っちまえ。ずっと、見ててやるから」
ファイが倒れ込んだのか、それとも自分が引き寄せたのか。
ユゥイすら抱くことのなかったこの腕が、今はファイを抱きしめていた。
温かい。生きている。彼は、生きている。
「眠って、忘れて、起きたらあとは、ずっと笑ってろ。辛いも苦しいも、全部こっちに寄こせ。てめぇが笑ってられるなら、代わりに……俺でよけりゃあ、くれてやる。
ファイは少しだけ笑ったようだった。
「うれしい」
彼が笑ったことで、黒鋼の心はほんの少しだけ救われたような気がした。
おそらくユゥイが死んでからずっと眠っていなかったのであろうファイは、ゆっくりと身体から力を抜いていく。
「そうなったら、いいのにね……」
彼は最後に呟くと、やがて眠りに落ちた。
「なるさ。俺が全部、叶えてやる」
ユゥイの願いは何一つ叶えてやれなかった。
けれど全部預かって抱え込む代わりに、ファイの欲しいものならば、与えてやれる。
これはユゥイの望む形ではないかもしれない。愚かなことかもしれない。
けれど、例えそうだとしても、 ファイの心が本当に壊れて、消えてしまわないように。
「ここにいる。俺は、ここにいるぞ」
黒鋼は深い眠りの底へと旅立ったファイの身体を、強く強く、抱きしめた。
←戻る ・ 次へ→
秋の庭でトンボを介して、ほんの少し会話をしたまま、ファイと黒鋼の関係も何の変化もなく、ただ悪戯に月日だけが流れていた。
多分あの日、黒鋼は精一杯の努力をしたのだと思う。ユゥイがそれを望んでいるから。黒鋼なりに、ファイと打ち解けようとしてくれたのだ。
彼がどれほどユゥイを大切にしているかを、ファイは知っていた。本当はいつもこっそり隠れて、黒鋼を見ていたから。
一人でいるときも、誰か他の人と(主に瓜二つの父親とだ)いても、彼は常に眉間に皺を寄せて、むっつりとしていた。
そんな彼が、あの庭でユゥイと対話しているときは、信じられないくらい優しい顔をする。
見ているとなぜか胸がもやもやとしてきて、イライラしたり、何かに思い切り当たりたくなってしまう。
けれど、どこに気持ちをぶつけたらいいのか分からないファイは、たまに運悪く黒鋼と遭遇すると、自分でも驚くほど嫌な子になってしまうのだ。
どうしてあの日、初めて会った日に、あんな態度を取ってしまったんだろう。どうしていつだって顔を合わせる機会はあるのに、謝ることができないのだろう。
一言「ごめんなさい」と謝ればいいだけの話だ。
ちょっとだけ怖くて、会ったことのない子とお話できるかが不安で、逃げ出してしまっただけ。
だからごめんなさい。だからオレのこと嫌いにならないで。仲間に入れて。
素直に思いを口にすれば、きっと許してくれることは分かっているのに。
ユゥイは彼を優しい子だと言う。ファイだって知っていた。彼の指はとても優しい。花に触れるときも、トンボを引きつけるときも、ファイはずっと見ていたから。
彼はいつもユゥイと、どんな話をしているのだろう。楽しそうに笑うユゥイは頬をほんのりと染めている。自分には、あんな蕩けそうな表情なんか見せないくせに。
幼いファイは、もう分からなくなっていた。
ユゥイを取られてしまうのが悔しいのか、ユゥイとだけ楽しそうにしている黒鋼が許せないのか、どちらを独り占めしたいのか。
わからない。わからないから、ファイは黒鋼にまともに顔向けできない。
そしてわからないままでいることが、多分きっとユゥイの幸せを守ることだと、本当は気が付いていた。
ほんの少しだけ痛みに耐えるだけで、ユゥイを悩ませることはあっても、泣かせることはない。
少し前まで、ユゥイはファイの学校での生活や様子をよく聞きたがった。
学校で楽しかったこと、友達とした会話、好きな教科のことや、嫌いな先生のこと。
それらを話せばユゥイは喜ぶ。自分のことのように笑ったり、怒ったり、喜んだりしてくれる。
それでも一人になったときに、彼の中にどうにもならない『本当の気持ち』が顔を出して、泣いて、そして泣いてしまった自分を後悔して、また泣く。
ユゥイはもう一人のファイだから。だからファイにはわかってしまう。
彼は黒鋼とファイが仲良くなることを、心から望んでいた。けれど、きっとそれとはまったく逆の思いもまた、彼の中にはある。
複雑すぎて、ファイにも、ユゥイにも、どうすることも出来ない。
ファイでは駄目なのだ。彼に『外』の世界を触れさせるのは『ファイ』であり『ユゥイ』でもある、自分では。
同じ魂を半分にわけた双子なのに。一方は与えられすぎて、一方は望むことしかできない。後ろめたさが、ファイにはあったから。
だから『黒鋼』という存在は、双子にとっての救いだった。
だから自分は『黒鋼』を求めてはいけない。
それなのに。
そう思えば思うほどに惹かれた。
ファイはユゥイだった。同じものに手を伸ばしたくなるのは仕方がない。
あの手に触れたら、どんな心地だろう。
手を繋いで、広い庭を、何かお喋りをしながら歩いたら、どんな世界が広がるだろう。
いつしかそんなことを考えるようになっていた。
もしユゥイがいなければ。
毎日のように黒鋼が会いに来てくれるのは、自分の方だったのかもしれないなんて。
そうしたら、きっともっと素直に「ごめんなさい」を言えたかもしれない。
一緒に手を繋いで歩けたかもしれない。たまには庭を飛び出して、どこか遠くへ遊びにも行けたかもしれない。裏の森を二人で探検できたかもしれない。
そんなことを考えると、ファイは自分自身を消してしまいたくなる。
ユゥイは大切な家族。もう一人の自分。彼の喜びや幸せは、自分にとっての幸福でなければならないのに。
だからファイはそんなとき、黒鋼と共に笑うユゥイの、活き活きとした姿を思い浮かべる。
ちょっとだけ苦しい気持ちになるけれど、ユゥイが唯一手にした大切な時間を奪いたくない。そう自分に言い聞かせる。
ずっとずっと、ユゥイに笑っていてほしいから。
***
上手くやれていたのに。
月日は幾度も同じ季節を繰り返しながら過ぎて行った。
ファイが少年から青年へと成長を遂げ、数年前、ユゥイと同時に成人を迎えて間もなく、ずっと身の回りのことを世話してくれていた、住み込みの老夫婦は屋敷を出て行った。
ファイにとっては知らない場所で、知らない間に死んでしまった両親よりも、彼らの方がずっと家族に近い存在だった。だからいよいよ身体が動かなくなってきた夫婦の面倒を、出来ることなら最後まで見たかった。
けれど「そんなわけにはいきません」と言って笑っていた彼らは今、自分たちの家族のもとで、余生をのんびりと過ごしていることだろう。
そしてその頃には、ファイはもう黒鋼をこっそりと盗み見るのをやめていた。
気をつけていれば顔を合わせることもないし、向こうもファイには用がないはずだ。
ユゥイもすっかり諦めたようで、二人でいても黒鋼の話題は滅多に出なくなっていた。
彼の父親は、最近では以前ほどここへは来ない。ただ、母親が入院したのだという話だけは、ユゥイからサラリと聞いている。
そんなある日のことだった。
ファイはしくじってしまった。
「おう。ずいぶん久しぶりだな」
「っ、……う、うん」
天気のいい日だったから、春の陽気の中を散歩がてら、適当に花でも摘んでユゥイの部屋に飾ろうかなんて思ったのが間違いだった。
玄関を出てすぐのところに黒鋼がいた。扉が開いた音を聞いて、それまで花壇の側で膝をついていた黒鋼が、立ちあがって振りかえったのだ。
けれどそれ以上に驚いたのは、彼があまりにも自然にこちらに声をかけてきたことだった。
ずっとあからさまに避け続けていたことは、気づかれているはずなのに。
「元気だったかよ」
「……えっと。うん、まぁ」
「はっきりしねぇな」
苦笑した黒鋼は、ファイに背を向けると再び花壇で咲く色とりどりの薔薇の群れに目をやった。
そのとき、ああそうかと、ファイは気がついた。
彼も、大人になったのだ。
髪が伸びて、縦に伸びたぶん、また一段と痩せてしまったユゥイと同じように。
なんだか自分だけが子供の頃のまま、取り残されているような気がした。
妙なプライドが刺激されたような苛立ちを覚えて、ファイはキッとその大きな背中に睨みを利かせる。
そして、よそ行きの笑顔を取り繕うと、その隣に何気なく並んで見た。
あの頃も大きかったけれど、黒鋼は驚くほど背が伸びて、大きな男になっていた。日に焼けた肌も、少年らしさがすっかり抜けたごつごつとした指も、低い声も。
その変化にドキリとしてしまう自分に歯止めをかけるため、明るいトーンで声をかけた。
「ひょっとしてユゥイに?」
からかいながら笑みを浮かべて見せても、彼は特に気にした風もなく「まぁな」と答えた。
やっぱりそうなんだ、と思うと妙に胸がざわつく。
「黄色の薔薇だ。綺麗だねー」
庭には多くの薔薇がそれぞれ色をつけている。その中から黄色のそれを手にしている彼は、大きな見た目にそぐわない、細やかな作業に集中しているようだった。ナイフを使って、器用に棘を落としている。
たいしたものだと感心しながら、しばらくその作業を見つめていたファイだったが、ひとしきり棘の処理を終えた黒鋼が顔をこちらに向けたので、少し驚いた。
「欲しいか?」
「えっ?」
「双子ってのは、好みとかだいたい一緒なんじゃねぇのか? 黄色でいいか?」
「えっ、えっと、オレは……」
違うのか? と黒鋼が目で訴えてくる。
これはいけない。そう思った。
欲しいと言えば、彼はユゥイにだけでなく、この自分にも与えてくれるのか。
そう思うと心が浮き立つのを感じてしまう。
欲しい。とてつもなく欲しい。それは別に薔薇の花が好きだからとか、黄色が好きだからとか、そんな理由ではなくて。
彼にとっては何気ない問いかけ。成り行き。それでも今、この男が僅かにでも意識を、そして視線を向けているのは自分。
ユゥイの存在がなければ。
ファイはきっと、素直に大きく頷けた。
けれどユゥイの存在があったからこそ、彼がユゥイに薔薇を贈ろうとしたからこそ、たまたま出くわしたこのおまけのような幸福な瞬間を、体感できた。
(ああ、そうか)
ユゥイが存在しなければ。
(オレ、この人が欲しい)
ユゥイがいなければ。
(もうずっとずっと前から、オレはユゥイを裏切っていたんだ)
黒鋼が最初に薔薇を贈ろうと思った相手は、自分だった……?
(バカみたい)
この男に興味を、そして好意を抱いていたことだけは確かだった。
けれど、こんな風に想いの形を自覚するなんて。
恋、だったなんて。
「……オレは、いいよ」
それが欲しいと、そう言えたなら、たった今彼の手の中にある薔薇を、もらえるかもしれない。けれど、それは彼がユゥイを思いながら棘を落とした薔薇だった。
空しさだけが、心にぽっかりと穴を開けていた。
惨めな自分。あさましい自分。最低な自分。大人になんてなれない。でも、ならなければいけない。
「それ、棘落とすのめんどくさそう。オレ、待ってらんないもん」
「別にそうでもねぇよ。せっかちな野郎だな」
黒鋼は呆れたように、ほんの少しだけ笑った。ファイも笑った。
「それに双子だからって、なんでも一緒じゃないよ。オレは黄色より、白の方が好きかなー」
「そうか。悪かったな」
別にいいよと言いながら、ファイは黒鋼の背中をバシンと叩いた。
「いてぇなオイ」
「照れないでちゃんと渡しなよー? がんばって」
「……おう」
心なしか、黒鋼の頬が赤い気がした。物凄く似合わない。
すでに照れているらしい彼に、作り笑いしかできなかったファイは、心から微笑んだ。
「オレは若い二人を応援するからさー」
そうおどけて言ったファイに、黒鋼は嫌そうな顔をしながら「年寄りか、おまえは」と言った。
***
どちらを独り占めしたいかなんて、混乱する方がどうかしていたのだ。
ユゥイはファイだ。元々一つだったのだから、お互いが唯一無二であることは絶対だった。
表と裏のように、双子は背中と背中をぴったりと合わせながら生きていた。だからこそ、手を伸ばす方向は交わらない。交わってはいけない。同じものを求めては、いけないのだ。
おどけて言った言葉は本心だった。安いドラマみたいで笑えるけれど、ユゥイがいつまでも笑っていられるように。
そして、黄色よりも白が好きと言った言葉も本当。
ユゥイにとてもよく似ているから、ファイは白い花が大好きだった。
「ちゃんと渡せたのかなぁ……」
開き直りにも似た気持ちで、ファイはちょっとした悪戯心も同居した気持ちで裏庭へと消えた黒鋼の背を、少し時間を置いてから追いかけてみた。
黒鋼がどんな顔をして薔薇を渡すのか、ユゥイがどんな顔をするのか。見てやろうと思ったのだ。
もしいつまで経っても渡せないようなら、助けてやってもいい。あの二人に入って行くのは、これまでは相当な勇気が必要だと思っていたけれど、案外普通に黒鋼と会話が出来た今、もうわだかまりがないことをユゥイに知ってもらうのは、いいことのようにも思えたから。
少しくらいならと、ファイは思ったのだ。
だから後悔した。
変な気を起こすのではなかった。
黒鋼は、ファイが心配せずとも実に自然に薔薇の花を渡した。
穏やかな横顔で、優しい目をして。花を愛でるかのように、彼の表情にはユゥイへの思いが溢れていた。
助け舟など必要なかったのだ。薔薇などいっそ霞んで見えてしまうくらい、ユゥイは蕩けそうな、鮮やかな笑みを浮かべていた。
たんぽぽの綿毛が飛び交う、ふたりだけの小さな箱庭で。
彼らがそっとささやかな口づけを交わした瞬間、ファイはその場を静かに去った。
傷つくことさえお門違いだと、自分に言い聞かせながら。
そしてそれからほんの数日後の出来事だった。
ほんの一瞬でも思い浮かべてしまった愚かな考えが、実際のことになってしまうのは。
ファイがどんなに呼びかけても、身体を揺さぶっても、朝日の中で目を閉じるユゥイが、再び瞼を開けることは決してなかった。
←戻る ・ 次へ→
多分あの日、黒鋼は精一杯の努力をしたのだと思う。ユゥイがそれを望んでいるから。黒鋼なりに、ファイと打ち解けようとしてくれたのだ。
彼がどれほどユゥイを大切にしているかを、ファイは知っていた。本当はいつもこっそり隠れて、黒鋼を見ていたから。
一人でいるときも、誰か他の人と(主に瓜二つの父親とだ)いても、彼は常に眉間に皺を寄せて、むっつりとしていた。
そんな彼が、あの庭でユゥイと対話しているときは、信じられないくらい優しい顔をする。
見ているとなぜか胸がもやもやとしてきて、イライラしたり、何かに思い切り当たりたくなってしまう。
けれど、どこに気持ちをぶつけたらいいのか分からないファイは、たまに運悪く黒鋼と遭遇すると、自分でも驚くほど嫌な子になってしまうのだ。
どうしてあの日、初めて会った日に、あんな態度を取ってしまったんだろう。どうしていつだって顔を合わせる機会はあるのに、謝ることができないのだろう。
一言「ごめんなさい」と謝ればいいだけの話だ。
ちょっとだけ怖くて、会ったことのない子とお話できるかが不安で、逃げ出してしまっただけ。
だからごめんなさい。だからオレのこと嫌いにならないで。仲間に入れて。
素直に思いを口にすれば、きっと許してくれることは分かっているのに。
ユゥイは彼を優しい子だと言う。ファイだって知っていた。彼の指はとても優しい。花に触れるときも、トンボを引きつけるときも、ファイはずっと見ていたから。
彼はいつもユゥイと、どんな話をしているのだろう。楽しそうに笑うユゥイは頬をほんのりと染めている。自分には、あんな蕩けそうな表情なんか見せないくせに。
幼いファイは、もう分からなくなっていた。
ユゥイを取られてしまうのが悔しいのか、ユゥイとだけ楽しそうにしている黒鋼が許せないのか、どちらを独り占めしたいのか。
わからない。わからないから、ファイは黒鋼にまともに顔向けできない。
そしてわからないままでいることが、多分きっとユゥイの幸せを守ることだと、本当は気が付いていた。
ほんの少しだけ痛みに耐えるだけで、ユゥイを悩ませることはあっても、泣かせることはない。
少し前まで、ユゥイはファイの学校での生活や様子をよく聞きたがった。
学校で楽しかったこと、友達とした会話、好きな教科のことや、嫌いな先生のこと。
それらを話せばユゥイは喜ぶ。自分のことのように笑ったり、怒ったり、喜んだりしてくれる。
それでも一人になったときに、彼の中にどうにもならない『本当の気持ち』が顔を出して、泣いて、そして泣いてしまった自分を後悔して、また泣く。
ユゥイはもう一人のファイだから。だからファイにはわかってしまう。
彼は黒鋼とファイが仲良くなることを、心から望んでいた。けれど、きっとそれとはまったく逆の思いもまた、彼の中にはある。
複雑すぎて、ファイにも、ユゥイにも、どうすることも出来ない。
ファイでは駄目なのだ。彼に『外』の世界を触れさせるのは『ファイ』であり『ユゥイ』でもある、自分では。
同じ魂を半分にわけた双子なのに。一方は与えられすぎて、一方は望むことしかできない。後ろめたさが、ファイにはあったから。
だから『黒鋼』という存在は、双子にとっての救いだった。
だから自分は『黒鋼』を求めてはいけない。
それなのに。
そう思えば思うほどに惹かれた。
ファイはユゥイだった。同じものに手を伸ばしたくなるのは仕方がない。
あの手に触れたら、どんな心地だろう。
手を繋いで、広い庭を、何かお喋りをしながら歩いたら、どんな世界が広がるだろう。
いつしかそんなことを考えるようになっていた。
もしユゥイがいなければ。
毎日のように黒鋼が会いに来てくれるのは、自分の方だったのかもしれないなんて。
そうしたら、きっともっと素直に「ごめんなさい」を言えたかもしれない。
一緒に手を繋いで歩けたかもしれない。たまには庭を飛び出して、どこか遠くへ遊びにも行けたかもしれない。裏の森を二人で探検できたかもしれない。
そんなことを考えると、ファイは自分自身を消してしまいたくなる。
ユゥイは大切な家族。もう一人の自分。彼の喜びや幸せは、自分にとっての幸福でなければならないのに。
だからファイはそんなとき、黒鋼と共に笑うユゥイの、活き活きとした姿を思い浮かべる。
ちょっとだけ苦しい気持ちになるけれど、ユゥイが唯一手にした大切な時間を奪いたくない。そう自分に言い聞かせる。
ずっとずっと、ユゥイに笑っていてほしいから。
***
上手くやれていたのに。
月日は幾度も同じ季節を繰り返しながら過ぎて行った。
ファイが少年から青年へと成長を遂げ、数年前、ユゥイと同時に成人を迎えて間もなく、ずっと身の回りのことを世話してくれていた、住み込みの老夫婦は屋敷を出て行った。
ファイにとっては知らない場所で、知らない間に死んでしまった両親よりも、彼らの方がずっと家族に近い存在だった。だからいよいよ身体が動かなくなってきた夫婦の面倒を、出来ることなら最後まで見たかった。
けれど「そんなわけにはいきません」と言って笑っていた彼らは今、自分たちの家族のもとで、余生をのんびりと過ごしていることだろう。
そしてその頃には、ファイはもう黒鋼をこっそりと盗み見るのをやめていた。
気をつけていれば顔を合わせることもないし、向こうもファイには用がないはずだ。
ユゥイもすっかり諦めたようで、二人でいても黒鋼の話題は滅多に出なくなっていた。
彼の父親は、最近では以前ほどここへは来ない。ただ、母親が入院したのだという話だけは、ユゥイからサラリと聞いている。
そんなある日のことだった。
ファイはしくじってしまった。
「おう。ずいぶん久しぶりだな」
「っ、……う、うん」
天気のいい日だったから、春の陽気の中を散歩がてら、適当に花でも摘んでユゥイの部屋に飾ろうかなんて思ったのが間違いだった。
玄関を出てすぐのところに黒鋼がいた。扉が開いた音を聞いて、それまで花壇の側で膝をついていた黒鋼が、立ちあがって振りかえったのだ。
けれどそれ以上に驚いたのは、彼があまりにも自然にこちらに声をかけてきたことだった。
ずっとあからさまに避け続けていたことは、気づかれているはずなのに。
「元気だったかよ」
「……えっと。うん、まぁ」
「はっきりしねぇな」
苦笑した黒鋼は、ファイに背を向けると再び花壇で咲く色とりどりの薔薇の群れに目をやった。
そのとき、ああそうかと、ファイは気がついた。
彼も、大人になったのだ。
髪が伸びて、縦に伸びたぶん、また一段と痩せてしまったユゥイと同じように。
なんだか自分だけが子供の頃のまま、取り残されているような気がした。
妙なプライドが刺激されたような苛立ちを覚えて、ファイはキッとその大きな背中に睨みを利かせる。
そして、よそ行きの笑顔を取り繕うと、その隣に何気なく並んで見た。
あの頃も大きかったけれど、黒鋼は驚くほど背が伸びて、大きな男になっていた。日に焼けた肌も、少年らしさがすっかり抜けたごつごつとした指も、低い声も。
その変化にドキリとしてしまう自分に歯止めをかけるため、明るいトーンで声をかけた。
「ひょっとしてユゥイに?」
からかいながら笑みを浮かべて見せても、彼は特に気にした風もなく「まぁな」と答えた。
やっぱりそうなんだ、と思うと妙に胸がざわつく。
「黄色の薔薇だ。綺麗だねー」
庭には多くの薔薇がそれぞれ色をつけている。その中から黄色のそれを手にしている彼は、大きな見た目にそぐわない、細やかな作業に集中しているようだった。ナイフを使って、器用に棘を落としている。
たいしたものだと感心しながら、しばらくその作業を見つめていたファイだったが、ひとしきり棘の処理を終えた黒鋼が顔をこちらに向けたので、少し驚いた。
「欲しいか?」
「えっ?」
「双子ってのは、好みとかだいたい一緒なんじゃねぇのか? 黄色でいいか?」
「えっ、えっと、オレは……」
違うのか? と黒鋼が目で訴えてくる。
これはいけない。そう思った。
欲しいと言えば、彼はユゥイにだけでなく、この自分にも与えてくれるのか。
そう思うと心が浮き立つのを感じてしまう。
欲しい。とてつもなく欲しい。それは別に薔薇の花が好きだからとか、黄色が好きだからとか、そんな理由ではなくて。
彼にとっては何気ない問いかけ。成り行き。それでも今、この男が僅かにでも意識を、そして視線を向けているのは自分。
ユゥイの存在がなければ。
ファイはきっと、素直に大きく頷けた。
けれどユゥイの存在があったからこそ、彼がユゥイに薔薇を贈ろうとしたからこそ、たまたま出くわしたこのおまけのような幸福な瞬間を、体感できた。
(ああ、そうか)
ユゥイが存在しなければ。
(オレ、この人が欲しい)
ユゥイがいなければ。
(もうずっとずっと前から、オレはユゥイを裏切っていたんだ)
黒鋼が最初に薔薇を贈ろうと思った相手は、自分だった……?
(バカみたい)
この男に興味を、そして好意を抱いていたことだけは確かだった。
けれど、こんな風に想いの形を自覚するなんて。
恋、だったなんて。
「……オレは、いいよ」
それが欲しいと、そう言えたなら、たった今彼の手の中にある薔薇を、もらえるかもしれない。けれど、それは彼がユゥイを思いながら棘を落とした薔薇だった。
空しさだけが、心にぽっかりと穴を開けていた。
惨めな自分。あさましい自分。最低な自分。大人になんてなれない。でも、ならなければいけない。
「それ、棘落とすのめんどくさそう。オレ、待ってらんないもん」
「別にそうでもねぇよ。せっかちな野郎だな」
黒鋼は呆れたように、ほんの少しだけ笑った。ファイも笑った。
「それに双子だからって、なんでも一緒じゃないよ。オレは黄色より、白の方が好きかなー」
「そうか。悪かったな」
別にいいよと言いながら、ファイは黒鋼の背中をバシンと叩いた。
「いてぇなオイ」
「照れないでちゃんと渡しなよー? がんばって」
「……おう」
心なしか、黒鋼の頬が赤い気がした。物凄く似合わない。
すでに照れているらしい彼に、作り笑いしかできなかったファイは、心から微笑んだ。
「オレは若い二人を応援するからさー」
そうおどけて言ったファイに、黒鋼は嫌そうな顔をしながら「年寄りか、おまえは」と言った。
***
どちらを独り占めしたいかなんて、混乱する方がどうかしていたのだ。
ユゥイはファイだ。元々一つだったのだから、お互いが唯一無二であることは絶対だった。
表と裏のように、双子は背中と背中をぴったりと合わせながら生きていた。だからこそ、手を伸ばす方向は交わらない。交わってはいけない。同じものを求めては、いけないのだ。
おどけて言った言葉は本心だった。安いドラマみたいで笑えるけれど、ユゥイがいつまでも笑っていられるように。
そして、黄色よりも白が好きと言った言葉も本当。
ユゥイにとてもよく似ているから、ファイは白い花が大好きだった。
「ちゃんと渡せたのかなぁ……」
開き直りにも似た気持ちで、ファイはちょっとした悪戯心も同居した気持ちで裏庭へと消えた黒鋼の背を、少し時間を置いてから追いかけてみた。
黒鋼がどんな顔をして薔薇を渡すのか、ユゥイがどんな顔をするのか。見てやろうと思ったのだ。
もしいつまで経っても渡せないようなら、助けてやってもいい。あの二人に入って行くのは、これまでは相当な勇気が必要だと思っていたけれど、案外普通に黒鋼と会話が出来た今、もうわだかまりがないことをユゥイに知ってもらうのは、いいことのようにも思えたから。
少しくらいならと、ファイは思ったのだ。
だから後悔した。
変な気を起こすのではなかった。
黒鋼は、ファイが心配せずとも実に自然に薔薇の花を渡した。
穏やかな横顔で、優しい目をして。花を愛でるかのように、彼の表情にはユゥイへの思いが溢れていた。
助け舟など必要なかったのだ。薔薇などいっそ霞んで見えてしまうくらい、ユゥイは蕩けそうな、鮮やかな笑みを浮かべていた。
たんぽぽの綿毛が飛び交う、ふたりだけの小さな箱庭で。
彼らがそっとささやかな口づけを交わした瞬間、ファイはその場を静かに去った。
傷つくことさえお門違いだと、自分に言い聞かせながら。
そしてそれからほんの数日後の出来事だった。
ほんの一瞬でも思い浮かべてしまった愚かな考えが、実際のことになってしまうのは。
ファイがどんなに呼びかけても、身体を揺さぶっても、朝日の中で目を閉じるユゥイが、再び瞼を開けることは決してなかった。
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「オレ、オレね、今日、あの子とお話した……!」
ファイはいつも、夕食前にはユゥイの部屋で宿題をする。
その日は部屋に入って来たかと思うと勉強道具を床に投げ出し、すぐにベッドに乗り上げて鼻息を荒くしている。
「ほんと?」
広げていた本をぱたりと閉じて、ユゥイが目を見開くとファイは大きな声で「うん!」と返事をした。
「こうやってね、あの子が人差し指を立てたら、真っ赤なトンボが止まったの! 魔法みたいだった……」
小さな人差し指をつんと立てて、ファイは顔を赤くしていた。ファイの興奮が手に取るように伝わるユゥイは、そのときの二人のやり取りを想像して、胸をワクワクと躍らせる。
ふたりはどんな話をしたのだろう。ちゃんと仲良くなれたのだろうか。そのあと、トンボはどうなったのだろう。
「でもね、オレが捕まえようとしたら、あの子が逃がしちゃったんだ……」
しゅんとするファイの頭を撫でながら、ユゥイは笑った。
「言ったでしょ? 優しい子だよって」
「でも……でも、捕まえたかったんだもん……」
俯くファイの様子を見て、きっと上手くはいかなかったのだろうなと、ユゥイは思った。きっと黒鋼は、自分がああいう話をしたから、頑張ってくれたのだろうけど。
かと言ってファイと同調してしょんぼりもしていられない。だから殊更優しく頭を撫でた。これではどちらが兄かわからない。
「捕まえたら、あっという間に死んじゃうよ?」
「死なないもん! オレが、ちゃんと大事に育てるもん……」
うぅん、と言ってユゥイは首を左右に振った。
「せっかく羽があるんだもの。閉じ込めちゃったらだめ。ファイの傍では生きられないの」
「っ、そんなの……」
「ほら、泣かないの」
顔を上げたファイの瞳には、涙がいっぱいに溜まっていた。ユゥイはその目元にキスをする。
彼が、トンボが逃げてしまったことを悔やんで泣いているのではないことくらい、知っている。
入退院を繰り返す間、ファイはこの屋敷で一人きりだった。
優しい老夫婦が住み込みで屋敷を管理してくれているけれど、両親は海外を飛び回る生活の中、数年前に飛行機事故で死んでいた。
墜落地点は海の真上だったと聞いている。遺体は上がっていない。
形ばかりの墓標が、この屋敷の裏に茂る森の奥に佇んでいるだけだった。
おかしな話かもしれないが、ユゥイは両親の顔をあまり覚えていない。きっとそれはファイも同じだ。
ユゥイはこの幼さで、漠然と悟っていた。
自分はおそらくこの部屋から生涯出られない。行ける場所は病院の、ベッドや手術台の上が関の山。
あとどれくらいかは分からないけれど、自分には、ファイや黒鋼ほどの時間は残されていないように思う。
口には出さないけれど、ファイもそれを無意識に悟り、そしてユゥイ以上に恐れていた。だから彼はこうして身を震わせるのだ。
閉じ込められるのは自分一人で十分だった。この背中に羽根がないことを、誰よりも知っていたのはユゥイだったから。
飛ぶ力があるのなら、例えその生涯が短くとも。それを手折る資格は誰にもないから。
ファイの手がどんなに優しくても、どんなに愛しても、一緒には生きられない。
「ね、ファイ。今度は三人でお話しよう? トンボを側で見せてくれたんでしょ? お礼は言ったの?」
ふわふわと金の髪を揺らして、ファイは首を振った。その瞳から雫が零れることはなかった。ユゥイはほっと安心して、もう一度キスをした。
「じゃあ言わなくちゃ。本当は仲良くなりたいんだよね?」
「……オレは、いい」
「どうして?」
「だって……なにお話したらいいか……わかんないもん……」
「そんなの」
ユゥイは笑う。
「その時にならなきゃわかんないよ。チャンスはいっぱいあるんだもの。きっといくらでもお話できるよ?」
黒鋼だってそうだ。きっとファイと打ち解けたいと思っているに違いない。
赤子がむずがるように小さく「うぅん」と唸ったファイが可愛くて、これではやっぱりどちらが先に生まれてきたのか、さっぱり分からなかった。
これ以上追いつめても仕方がないと割り切ったユゥイは、しょうがないなと内心呟くと、ファイの肩をぽんと叩いた。
「宿題やっちゃお? ボクも一緒にやったげる」
そう言うと、気を取り直したファイは照れ臭そうにはにかみながら「うん」と返事をした。
*
いつか本当に、黒鋼とファイと自分とで、楽しくお喋りが出来たらと、ユゥイは思う。
懐っこいようでいて実は人見知りをしてしまうファイと、本当は優しいくせにぶっきらぼうな物言いしか出来ない黒鋼は、見ているこちらが笑ってしまうくらい不器用で、実はとてもよく似ていた。
二人が早く仲良くなれたらいいのに。心から思っている。
けれど時々、不安にもなった。
もしファイと黒鋼が仲良しになったら。
もう、ここに黒鋼は来なくなるかもしれない。
こんな小さな庭ではなく、表の大きな庭で、お喋りよりも駆けまわって遊ぶ方が楽しいかもしれない。
仲良くなってほしい。でも、仲良くなってほしくない。
ユゥイの小さな胸の中には、そんな二つの相反する思いがあった。
自分には駆けまわるだけの体力はない。長い時間、外の風に当たっていることも出来ない。
したくても出来ないことがたくさんある。それらは全て、ファイが持っていた。
なら自分には、何が与えられたのだろう。何を持っているのだろう。何を得ることができるのだろう。
黒鋼と出会うまでは、こんなこと考えもしなかった。
初めての友達。ファイから顔が怖いなんて話を聞いていたから、最初はどんな子なのかと思っていたけれど。
一生懸命に花の手入れをする姿を見て、ユゥイには彼の優しさが一目でわかった。
話しかける勇気がなくて、ただ見ているだけの自分を、彼は最初ファイと間違えて腹を立てていたようだが、話をするうちにすぐに仲良くなれた。大好きになった。
だから黒鋼がファイをよく思っていないことは悲しかった。
ファイはユゥイだから。多分きっと、元々はたった一つの魂だった。別たれてしまったのは、神様の悪戯なのだと。
だから黒鋼には、ユゥイ自身でもあるファイを好きになってほしいのに。それが怖い。
もしファイがいなければ。
自由に外を駆けまわり、色々な場所へ行ったり、学校へ行ったり。それを出来たのは、自分の方だったのかもしれないなんて。
そんなことを一人、知らず知らずのうちに考えてしまう夜。
ユゥイは自分が嫌で仕方がなくなる。許せなくなる。時に涙さえ零しながら。
窓から覗く月はどこまでも遠くて、どんなに手を伸ばしても、届かないことを知っているのに。
ファイは大切な家族。もう一人の自分。彼の喜びや幸せは、自分にとっての幸福でなければならない。
だからそんなときはただ、決して触れることの出来ない月を見上げながら、明日のことを思った。
大丈夫。明日も生きられる。明日も、きっと黒鋼が来てくれる。
ずっとずっと、一緒にいたい。
***
「白くなっちゃったね」
春。
裏庭の雑草を丁寧に毟っていた黒鋼に、ユゥイが言った。
「これか?」
黒鋼は毟ったばかりの白い綿毛のたんぽぽを、ユゥイの側まで近付けて見せる。彼は「うん」と頷いた。
「黄色いのが好きなんだ」
「これもこれで面白いぜ。ほら、吹いてみろ」
「いいの?」
なぜか、ユゥイは瞳をキラキラと輝かせた。外で遊んだことのない彼は、たんぽぽの綿毛を飛ばすなんて当たり前の遊びすら、したことがないのだ。
「いくよ?」
ふっ、と薄紅の唇が綿毛に息を送った。けれど勢いが足りなくて、ほんの数本がゆらりと舞うだけだった。
「下手くそ。おら、一緒にいくぞ」
黒鋼は彼に並ぶように身体を寄せた。中にいるユゥイと、外にいる黒鋼の肩がそのとき初めて触れあった。互いに少し赤くなった頬を寄せあって、合図を送る。
そして二人、同時に息を吹きかけた。
「うわぁ……!」
ふわり、ふわりと。真っ白の綿毛が四散して、空に舞った。
緩やかで優しい春の風が、その一本一本をどこか遠くへと運んでいく。
黒鋼は大きな瞳に綿毛を映すユゥイの横顔を見た。全ての綿毛が見えなくなるまで、それを目で追うユゥイを、ずっと。
「ボクが飛ばしたんだ」
「そうだな。おまえが飛ばして、どっか遠くで花が咲くんだろうな」
黒鋼の方を向いたユゥイとの、顔の距離が近い。赤い頬。ドキドキして、すぐに顔を背けそうになったけれど、黒鋼はそうしなかった。
キラキラと光り輝く瞳が今は自分だけを写しているのが、特別なことに感じられた。宝石のようだと思った。
「どこで咲くんだろう。ずっとずっと遠く?」
「たぶん、ずっとずっと遠く」
「ずっとずっと遠くで咲いたら、そこからまた戻って来るかな?」
「どうだろうな」
始まりと終わりを繰り返しながら咲く花。ユゥイが運んだ綿毛がどこかでまた咲いて、どこかで誰かが、風が、綿毛を吹いて。
巡り巡って、またいつか出会えるのかもしれない。
ユゥイはまるで夢見る少女のように、また空を見上げた。それから、何か名案を思い付いたように「そうだ」と言った。
「ボクは、たんぽぽになりたい」
再び、元気よく黒鋼の方を向いたユゥイの笑顔は、希望に満ち溢れていた。
「綿毛になって、いろんな場所に飛んで行きたい」
そしてまた空を仰ぐ横顔が、ふと大人びて見えたのは気のせいだろうか。
胸がチクリと痛んでいた。この感情が切なさだということに、まだ幼い黒鋼は気付かない。
彼はか細い両腕を空へ向かって伸ばした。青空を掴むように、もみじのような小さな手のひらを懸命に開いた。
「ボクはここだよ」
風が吹いた。優しい風が。それが、黒鋼をどうしようもなく不安にさせた。
「ここにいるよ」
咄嗟に腕を伸ばして、ユゥイの手首を掴んだ。そうしなければ、本当に綿毛のように飛ばされて、いなくなってしまうような気がしたから。
この腕を、繋ぎとめておかなければいけない。
何かに背を追われるような焦りを覚えた黒鋼には、けれどその『何か』の正体はまだ見えない。
ユゥイは、ただ穏やかに笑っていた。
***
月日はさらさらと砂のように流れていった。
子供と呼べる年齢をとうに過ぎても、黒鋼とユゥイの部屋の中と外での交流は続いていた。
「旅立ちの季節なんだね」
窓辺に頬杖をついて、背中に届くほど長く伸びた金色の髪を春風に揺らしながら笑うユゥイの腕には、今も赤黒い鬱血の痕がある。彼はまた、少し痩せた。
「これか」
黒鋼は毟らずに残しておいたものを摘み取った。真っ白の綿毛になっているたんぽぽの茎を、指先でくるくると回す。
それを渡すと、彼は嬉しそうにニコニコとしながらそっと吹いた。子供の頃は下手くそで、一人で全てを飛ばすことが出来なかったけれど、ユゥイが送った風に乗って、幾つもの綿毛が旅立った。
「黄色いたんぽぽと綿毛のたんぽぽ、別々の花言葉があるの、知ってる?」
「好きだな、おまえそういうの」
「たくさん本を読んでいるもの」
「知らねぇな」
「ふぅん。知らないんだ」
にんまりとした笑顔から彼の機嫌のよさは伝わってくるものの、なんだかバカにされているような気もして、黒鋼は少しむっとする。
「悪かったな。花言葉までは興味なくてよ」
「いいよ別に。君がそこまで詳しかったら、ちょっと気持ち悪いしね」
「おまえなぁ……」
話を振っておいてこれである。呆れて腹を立てる気にもなれない黒鋼は、ただ苦笑した。
「で? なんだよ、花言葉」
実際のところ本当に興味がないものの、それでも律儀に付き合ってやるつもりで問いかけた。
するとユゥイは、なぜか少しだけ照れ臭そうに頬を染めた。
「どうしようかな?」
「なんだよ。教えてくれねぇのか」
そんな表情をされては、違った意味で気になってしまうではないか。
長く伸びた髪をひとつに纏めている彼は背も伸びて、声も大人の男のものになっていたけれど、妙にもったいぶってよそ見をしたりする姿に、どこか幼いままの面影を垣間見た気がした。
黒鋼は「しょうがねぇな」と言いながら、実はずっとユゥイに見えないように隠し持っていたものを、彼の前に差し出した。
「え?」
「これやるから教えろよ」
「わ……!」
それはちょうど見頃を迎えている、薔薇の花だった。
春のそれは大ぶりで、黄色い花が好きだと言っていた彼のために、黄色を選んだ。棘もちゃんと落としてある。
両手でそれを受け取った彼は目を輝かせた。
「これ、ボクに?」
「まぁな」
渡した途端に照れ臭くなってしまった黒鋼は、ぶっきらぼうに言うとそっぽを向いた。
けれど薔薇の花に鼻を寄せて吸い込んだりしている横顔は、ちゃっかり盗み見る。
「その、なんだ。そこそこ見栄え良く咲いたからな」
「記念?」
「それだ、記念」
「ありがとう」
男が男に薔薇の花なんぞを渡すのもどうかとは思うが、それを喜ぶというのも、果たして如何なものか。もしかしなくても、自分は今とんでもなく恥ずかしい真似をしたのかもしれない。
「嬉しい……本当にありがとう」
可憐、なんて言葉も、男性を表現する言葉ではないと思う。けれどどんなに大人びても、黒鋼の中で彼はいつまでも部屋の中から出られない、小さな小鳥のような存在だったから。
頬を染めながら嬉しそうに笑うユゥイを見て、彼が喜ぶなら多少気恥しくとも、不自然でも、何も気にする必要はないと感じられた。
純粋に喜ぶ顔が見たい。それだけだから。
「じゃあ、お礼に教えてあげるね」
「おう」
実はちょっと忘れていた。そういえば花言葉を教えてもらう代わりの捧げものだったのだ。そんなものがなくとも渡す機会をジリジリと窺っていたのは、黒鋼だけの秘密だった。
「黄色いたんぽぽの花言葉はね、いつも君がボクにくれているもの、だよ」
「なんかやったか? 俺」
「今もくれたよ」
「薔薇?」
ふふ、とユゥイは笑って頷いた。そしてたった今受け取った薔薇の花に頬を寄せ、少しだけ小首を傾げながら正解を口にした。
「真心の愛」
咄嗟に何と返せばいいか分からなくなった黒鋼は、ぐっと喉を詰まらせる。
照れ臭いね、なんて言いながら無邪気に笑う彼が、どうしてずっと頬を染めていたのかがようやく分かって、黒鋼も思わず赤面した。
「こっ恥ずかしいこと言ってんじゃねぇぞ」
「顔、真っ赤だよ?」
「うるせぇな。てめぇこそ」
さらに身を乗り出して、壁に背を預ける黒鋼の顔を覗きこもうとするユゥイの髪が、さらりと流れる。
ゆらゆらと艶やかな馬の尻尾のように垂れ下がるそれを綺麗だと思ったときには、黒鋼はそっぽを向くのも忘れてその髪に手を伸ばしていた。
緩くそれを引いて、自分もまた自然と身を寄せる。
唇同士が触れたのは、一瞬のことだった。
「ふふ」
「笑うな」
「うん。ごめん」
「で?」
余韻なんて、たまったもんじゃない。これ以上みっともなく顔を赤らめる様なんぞ見せられるかと、黒鋼は何事もなかったように話題をすり替える。
「綿毛の花言葉は?」
ユゥイの淡いブルーの瞳が優しく、そして切なげに細められたのを、黒鋼は見逃さない。
けれどすぐにおどけたように笑った彼は、再び勿体ぶった様子を見せた。
「教えてあげない」
「なんだよ。またなにかと交換か?」
「またなにかくれるの?」
「そうだな……」
黒鋼が花言葉に興味がないのは本当のことだった。だから、今すぐにどうしても聞きたいわけではなかった。ただ、いつも通りの言葉遊びをしているだけ。
「じゃあ、秋の薔薇が咲いたら、またやる」
「本当?」
「その代わり、ちょっと小ぶりだぞ」
文句言うなよ、と言うと、彼は大きく頷いた。そして、立てた小指を黒鋼に差し出した。
「約束だよ」
「ああ」
大きな手で小指を立てて、黒鋼は小さく笑うとそれに応えてやった。
初めて交わした口づけの余韻など、最初からそこにはなかったのかもしれない。
黒鋼は思った。
なぜなら二人の恋は、もうとっくの昔に始まって、いつの間にか大きく花を咲かせていたのだから。
そう。あとは、散るだけ。
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ファイはいつも、夕食前にはユゥイの部屋で宿題をする。
その日は部屋に入って来たかと思うと勉強道具を床に投げ出し、すぐにベッドに乗り上げて鼻息を荒くしている。
「ほんと?」
広げていた本をぱたりと閉じて、ユゥイが目を見開くとファイは大きな声で「うん!」と返事をした。
「こうやってね、あの子が人差し指を立てたら、真っ赤なトンボが止まったの! 魔法みたいだった……」
小さな人差し指をつんと立てて、ファイは顔を赤くしていた。ファイの興奮が手に取るように伝わるユゥイは、そのときの二人のやり取りを想像して、胸をワクワクと躍らせる。
ふたりはどんな話をしたのだろう。ちゃんと仲良くなれたのだろうか。そのあと、トンボはどうなったのだろう。
「でもね、オレが捕まえようとしたら、あの子が逃がしちゃったんだ……」
しゅんとするファイの頭を撫でながら、ユゥイは笑った。
「言ったでしょ? 優しい子だよって」
「でも……でも、捕まえたかったんだもん……」
俯くファイの様子を見て、きっと上手くはいかなかったのだろうなと、ユゥイは思った。きっと黒鋼は、自分がああいう話をしたから、頑張ってくれたのだろうけど。
かと言ってファイと同調してしょんぼりもしていられない。だから殊更優しく頭を撫でた。これではどちらが兄かわからない。
「捕まえたら、あっという間に死んじゃうよ?」
「死なないもん! オレが、ちゃんと大事に育てるもん……」
うぅん、と言ってユゥイは首を左右に振った。
「せっかく羽があるんだもの。閉じ込めちゃったらだめ。ファイの傍では生きられないの」
「っ、そんなの……」
「ほら、泣かないの」
顔を上げたファイの瞳には、涙がいっぱいに溜まっていた。ユゥイはその目元にキスをする。
彼が、トンボが逃げてしまったことを悔やんで泣いているのではないことくらい、知っている。
入退院を繰り返す間、ファイはこの屋敷で一人きりだった。
優しい老夫婦が住み込みで屋敷を管理してくれているけれど、両親は海外を飛び回る生活の中、数年前に飛行機事故で死んでいた。
墜落地点は海の真上だったと聞いている。遺体は上がっていない。
形ばかりの墓標が、この屋敷の裏に茂る森の奥に佇んでいるだけだった。
おかしな話かもしれないが、ユゥイは両親の顔をあまり覚えていない。きっとそれはファイも同じだ。
ユゥイはこの幼さで、漠然と悟っていた。
自分はおそらくこの部屋から生涯出られない。行ける場所は病院の、ベッドや手術台の上が関の山。
あとどれくらいかは分からないけれど、自分には、ファイや黒鋼ほどの時間は残されていないように思う。
口には出さないけれど、ファイもそれを無意識に悟り、そしてユゥイ以上に恐れていた。だから彼はこうして身を震わせるのだ。
閉じ込められるのは自分一人で十分だった。この背中に羽根がないことを、誰よりも知っていたのはユゥイだったから。
飛ぶ力があるのなら、例えその生涯が短くとも。それを手折る資格は誰にもないから。
ファイの手がどんなに優しくても、どんなに愛しても、一緒には生きられない。
「ね、ファイ。今度は三人でお話しよう? トンボを側で見せてくれたんでしょ? お礼は言ったの?」
ふわふわと金の髪を揺らして、ファイは首を振った。その瞳から雫が零れることはなかった。ユゥイはほっと安心して、もう一度キスをした。
「じゃあ言わなくちゃ。本当は仲良くなりたいんだよね?」
「……オレは、いい」
「どうして?」
「だって……なにお話したらいいか……わかんないもん……」
「そんなの」
ユゥイは笑う。
「その時にならなきゃわかんないよ。チャンスはいっぱいあるんだもの。きっといくらでもお話できるよ?」
黒鋼だってそうだ。きっとファイと打ち解けたいと思っているに違いない。
赤子がむずがるように小さく「うぅん」と唸ったファイが可愛くて、これではやっぱりどちらが先に生まれてきたのか、さっぱり分からなかった。
これ以上追いつめても仕方がないと割り切ったユゥイは、しょうがないなと内心呟くと、ファイの肩をぽんと叩いた。
「宿題やっちゃお? ボクも一緒にやったげる」
そう言うと、気を取り直したファイは照れ臭そうにはにかみながら「うん」と返事をした。
*
いつか本当に、黒鋼とファイと自分とで、楽しくお喋りが出来たらと、ユゥイは思う。
懐っこいようでいて実は人見知りをしてしまうファイと、本当は優しいくせにぶっきらぼうな物言いしか出来ない黒鋼は、見ているこちらが笑ってしまうくらい不器用で、実はとてもよく似ていた。
二人が早く仲良くなれたらいいのに。心から思っている。
けれど時々、不安にもなった。
もしファイと黒鋼が仲良しになったら。
もう、ここに黒鋼は来なくなるかもしれない。
こんな小さな庭ではなく、表の大きな庭で、お喋りよりも駆けまわって遊ぶ方が楽しいかもしれない。
仲良くなってほしい。でも、仲良くなってほしくない。
ユゥイの小さな胸の中には、そんな二つの相反する思いがあった。
自分には駆けまわるだけの体力はない。長い時間、外の風に当たっていることも出来ない。
したくても出来ないことがたくさんある。それらは全て、ファイが持っていた。
なら自分には、何が与えられたのだろう。何を持っているのだろう。何を得ることができるのだろう。
黒鋼と出会うまでは、こんなこと考えもしなかった。
初めての友達。ファイから顔が怖いなんて話を聞いていたから、最初はどんな子なのかと思っていたけれど。
一生懸命に花の手入れをする姿を見て、ユゥイには彼の優しさが一目でわかった。
話しかける勇気がなくて、ただ見ているだけの自分を、彼は最初ファイと間違えて腹を立てていたようだが、話をするうちにすぐに仲良くなれた。大好きになった。
だから黒鋼がファイをよく思っていないことは悲しかった。
ファイはユゥイだから。多分きっと、元々はたった一つの魂だった。別たれてしまったのは、神様の悪戯なのだと。
だから黒鋼には、ユゥイ自身でもあるファイを好きになってほしいのに。それが怖い。
もしファイがいなければ。
自由に外を駆けまわり、色々な場所へ行ったり、学校へ行ったり。それを出来たのは、自分の方だったのかもしれないなんて。
そんなことを一人、知らず知らずのうちに考えてしまう夜。
ユゥイは自分が嫌で仕方がなくなる。許せなくなる。時に涙さえ零しながら。
窓から覗く月はどこまでも遠くて、どんなに手を伸ばしても、届かないことを知っているのに。
ファイは大切な家族。もう一人の自分。彼の喜びや幸せは、自分にとっての幸福でなければならない。
だからそんなときはただ、決して触れることの出来ない月を見上げながら、明日のことを思った。
大丈夫。明日も生きられる。明日も、きっと黒鋼が来てくれる。
ずっとずっと、一緒にいたい。
***
「白くなっちゃったね」
春。
裏庭の雑草を丁寧に毟っていた黒鋼に、ユゥイが言った。
「これか?」
黒鋼は毟ったばかりの白い綿毛のたんぽぽを、ユゥイの側まで近付けて見せる。彼は「うん」と頷いた。
「黄色いのが好きなんだ」
「これもこれで面白いぜ。ほら、吹いてみろ」
「いいの?」
なぜか、ユゥイは瞳をキラキラと輝かせた。外で遊んだことのない彼は、たんぽぽの綿毛を飛ばすなんて当たり前の遊びすら、したことがないのだ。
「いくよ?」
ふっ、と薄紅の唇が綿毛に息を送った。けれど勢いが足りなくて、ほんの数本がゆらりと舞うだけだった。
「下手くそ。おら、一緒にいくぞ」
黒鋼は彼に並ぶように身体を寄せた。中にいるユゥイと、外にいる黒鋼の肩がそのとき初めて触れあった。互いに少し赤くなった頬を寄せあって、合図を送る。
そして二人、同時に息を吹きかけた。
「うわぁ……!」
ふわり、ふわりと。真っ白の綿毛が四散して、空に舞った。
緩やかで優しい春の風が、その一本一本をどこか遠くへと運んでいく。
黒鋼は大きな瞳に綿毛を映すユゥイの横顔を見た。全ての綿毛が見えなくなるまで、それを目で追うユゥイを、ずっと。
「ボクが飛ばしたんだ」
「そうだな。おまえが飛ばして、どっか遠くで花が咲くんだろうな」
黒鋼の方を向いたユゥイとの、顔の距離が近い。赤い頬。ドキドキして、すぐに顔を背けそうになったけれど、黒鋼はそうしなかった。
キラキラと光り輝く瞳が今は自分だけを写しているのが、特別なことに感じられた。宝石のようだと思った。
「どこで咲くんだろう。ずっとずっと遠く?」
「たぶん、ずっとずっと遠く」
「ずっとずっと遠くで咲いたら、そこからまた戻って来るかな?」
「どうだろうな」
始まりと終わりを繰り返しながら咲く花。ユゥイが運んだ綿毛がどこかでまた咲いて、どこかで誰かが、風が、綿毛を吹いて。
巡り巡って、またいつか出会えるのかもしれない。
ユゥイはまるで夢見る少女のように、また空を見上げた。それから、何か名案を思い付いたように「そうだ」と言った。
「ボクは、たんぽぽになりたい」
再び、元気よく黒鋼の方を向いたユゥイの笑顔は、希望に満ち溢れていた。
「綿毛になって、いろんな場所に飛んで行きたい」
そしてまた空を仰ぐ横顔が、ふと大人びて見えたのは気のせいだろうか。
胸がチクリと痛んでいた。この感情が切なさだということに、まだ幼い黒鋼は気付かない。
彼はか細い両腕を空へ向かって伸ばした。青空を掴むように、もみじのような小さな手のひらを懸命に開いた。
「ボクはここだよ」
風が吹いた。優しい風が。それが、黒鋼をどうしようもなく不安にさせた。
「ここにいるよ」
咄嗟に腕を伸ばして、ユゥイの手首を掴んだ。そうしなければ、本当に綿毛のように飛ばされて、いなくなってしまうような気がしたから。
この腕を、繋ぎとめておかなければいけない。
何かに背を追われるような焦りを覚えた黒鋼には、けれどその『何か』の正体はまだ見えない。
ユゥイは、ただ穏やかに笑っていた。
***
月日はさらさらと砂のように流れていった。
子供と呼べる年齢をとうに過ぎても、黒鋼とユゥイの部屋の中と外での交流は続いていた。
「旅立ちの季節なんだね」
窓辺に頬杖をついて、背中に届くほど長く伸びた金色の髪を春風に揺らしながら笑うユゥイの腕には、今も赤黒い鬱血の痕がある。彼はまた、少し痩せた。
「これか」
黒鋼は毟らずに残しておいたものを摘み取った。真っ白の綿毛になっているたんぽぽの茎を、指先でくるくると回す。
それを渡すと、彼は嬉しそうにニコニコとしながらそっと吹いた。子供の頃は下手くそで、一人で全てを飛ばすことが出来なかったけれど、ユゥイが送った風に乗って、幾つもの綿毛が旅立った。
「黄色いたんぽぽと綿毛のたんぽぽ、別々の花言葉があるの、知ってる?」
「好きだな、おまえそういうの」
「たくさん本を読んでいるもの」
「知らねぇな」
「ふぅん。知らないんだ」
にんまりとした笑顔から彼の機嫌のよさは伝わってくるものの、なんだかバカにされているような気もして、黒鋼は少しむっとする。
「悪かったな。花言葉までは興味なくてよ」
「いいよ別に。君がそこまで詳しかったら、ちょっと気持ち悪いしね」
「おまえなぁ……」
話を振っておいてこれである。呆れて腹を立てる気にもなれない黒鋼は、ただ苦笑した。
「で? なんだよ、花言葉」
実際のところ本当に興味がないものの、それでも律儀に付き合ってやるつもりで問いかけた。
するとユゥイは、なぜか少しだけ照れ臭そうに頬を染めた。
「どうしようかな?」
「なんだよ。教えてくれねぇのか」
そんな表情をされては、違った意味で気になってしまうではないか。
長く伸びた髪をひとつに纏めている彼は背も伸びて、声も大人の男のものになっていたけれど、妙にもったいぶってよそ見をしたりする姿に、どこか幼いままの面影を垣間見た気がした。
黒鋼は「しょうがねぇな」と言いながら、実はずっとユゥイに見えないように隠し持っていたものを、彼の前に差し出した。
「え?」
「これやるから教えろよ」
「わ……!」
それはちょうど見頃を迎えている、薔薇の花だった。
春のそれは大ぶりで、黄色い花が好きだと言っていた彼のために、黄色を選んだ。棘もちゃんと落としてある。
両手でそれを受け取った彼は目を輝かせた。
「これ、ボクに?」
「まぁな」
渡した途端に照れ臭くなってしまった黒鋼は、ぶっきらぼうに言うとそっぽを向いた。
けれど薔薇の花に鼻を寄せて吸い込んだりしている横顔は、ちゃっかり盗み見る。
「その、なんだ。そこそこ見栄え良く咲いたからな」
「記念?」
「それだ、記念」
「ありがとう」
男が男に薔薇の花なんぞを渡すのもどうかとは思うが、それを喜ぶというのも、果たして如何なものか。もしかしなくても、自分は今とんでもなく恥ずかしい真似をしたのかもしれない。
「嬉しい……本当にありがとう」
可憐、なんて言葉も、男性を表現する言葉ではないと思う。けれどどんなに大人びても、黒鋼の中で彼はいつまでも部屋の中から出られない、小さな小鳥のような存在だったから。
頬を染めながら嬉しそうに笑うユゥイを見て、彼が喜ぶなら多少気恥しくとも、不自然でも、何も気にする必要はないと感じられた。
純粋に喜ぶ顔が見たい。それだけだから。
「じゃあ、お礼に教えてあげるね」
「おう」
実はちょっと忘れていた。そういえば花言葉を教えてもらう代わりの捧げものだったのだ。そんなものがなくとも渡す機会をジリジリと窺っていたのは、黒鋼だけの秘密だった。
「黄色いたんぽぽの花言葉はね、いつも君がボクにくれているもの、だよ」
「なんかやったか? 俺」
「今もくれたよ」
「薔薇?」
ふふ、とユゥイは笑って頷いた。そしてたった今受け取った薔薇の花に頬を寄せ、少しだけ小首を傾げながら正解を口にした。
「真心の愛」
咄嗟に何と返せばいいか分からなくなった黒鋼は、ぐっと喉を詰まらせる。
照れ臭いね、なんて言いながら無邪気に笑う彼が、どうしてずっと頬を染めていたのかがようやく分かって、黒鋼も思わず赤面した。
「こっ恥ずかしいこと言ってんじゃねぇぞ」
「顔、真っ赤だよ?」
「うるせぇな。てめぇこそ」
さらに身を乗り出して、壁に背を預ける黒鋼の顔を覗きこもうとするユゥイの髪が、さらりと流れる。
ゆらゆらと艶やかな馬の尻尾のように垂れ下がるそれを綺麗だと思ったときには、黒鋼はそっぽを向くのも忘れてその髪に手を伸ばしていた。
緩くそれを引いて、自分もまた自然と身を寄せる。
唇同士が触れたのは、一瞬のことだった。
「ふふ」
「笑うな」
「うん。ごめん」
「で?」
余韻なんて、たまったもんじゃない。これ以上みっともなく顔を赤らめる様なんぞ見せられるかと、黒鋼は何事もなかったように話題をすり替える。
「綿毛の花言葉は?」
ユゥイの淡いブルーの瞳が優しく、そして切なげに細められたのを、黒鋼は見逃さない。
けれどすぐにおどけたように笑った彼は、再び勿体ぶった様子を見せた。
「教えてあげない」
「なんだよ。またなにかと交換か?」
「またなにかくれるの?」
「そうだな……」
黒鋼が花言葉に興味がないのは本当のことだった。だから、今すぐにどうしても聞きたいわけではなかった。ただ、いつも通りの言葉遊びをしているだけ。
「じゃあ、秋の薔薇が咲いたら、またやる」
「本当?」
「その代わり、ちょっと小ぶりだぞ」
文句言うなよ、と言うと、彼は大きく頷いた。そして、立てた小指を黒鋼に差し出した。
「約束だよ」
「ああ」
大きな手で小指を立てて、黒鋼は小さく笑うとそれに応えてやった。
初めて交わした口づけの余韻など、最初からそこにはなかったのかもしれない。
黒鋼は思った。
なぜなら二人の恋は、もうとっくの昔に始まって、いつの間にか大きく花を咲かせていたのだから。
そう。あとは、散るだけ。
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母の容体が落ち着いたのは、黒鋼が屋敷を出た翌日の、明け方近くだった。
昨夜の段階である程度の覚悟をしていた黒鋼は、ひとまずホッと胸を撫で下ろした。
母は数年前に体調を崩し入院して以来、ずっと病院での生活を余儀なくされている。
元々身体が丈夫な方ではなかった彼女は今、体内を蝕む病と戦い続けていた。
本来なら片時も離れずに傍にいるべきなのは分かっている。けれど黒鋼はそれをしない。かけがえのない母を置き去りにして、なんて親不孝な息子だろう。
今では全てを父に任せきりにし、理解を得ているのをいいことに、ほとんど屋敷にこもりきりの生活をはじめて、一年以上が過ぎようとしていた。
県境の林道。鬱蒼と茂る杉の木に沿うような道路を車で走らせながら、黒鋼は自嘲気味に口元を歪めた。
林道を囲む杉の木が、その隙間から朝日を降らせる。目の奥が刺すように痛んで、黒鋼は速度を落とすと車を路肩に寄せて停車した。
大きく息を吐き出しながら目を閉じる。指先でこめかみを押さえても、痛みはどんどん増していくばかりだった。
思い返せばファイが部屋から出てこなくなってから今日で三日目の朝を迎えたことになる。ずっと眠れないまま、昨夜にかけてさらに徹夜の状態だ。
流石にこのまま車を走らせるのは危険だった。
本当なら今すぐにでもこの長い林道を抜けて、屋敷へ戻りたかったのだが。
どこにも行かないで……
オレを置いて、行かないでよ……
別れ際に、彼が部屋から飛び出したのはもちろん知っていた。
それでも振り向かなかったのは、少しでも『今』を引きのばしたかったからだろうか。
おそらく、全て壊れるだろう。
あのときすぐに振り返って彼を強く抱きしめてやれば、何事もなかったかのように元の生活に戻れたかもしれない。
半年前、目を覚ましたファイは全ての記憶を失っていた。
現実では生きられなくなってしまった彼がそれを望み、眠りの中へ逃がしてやったのは黒鋼だった。
自分に出来ることならば、何を差し置いてでもファイの望みだけは叶えてやりたかったから。
それが、本当に守りたかった存在に何もしてやれなかったことへの、免罪符でしかなかったとしても。
けれど黒鋼は思う。
『君もオレを置いていくの?』
あのとき。
『生きていけない』
他にどんな道が残されていたのか。
『君まで失ったら、生きていけない』
愛する者と同じ姿で、声で――魂で。
『愛してるんだ……ずっと、ずっと……子供の頃から……』
―――もう、眠りたい。
何が間違いで、何が正しいことだったのだろう。
ただわかっていることは、自分が弱かったということだった。
ファイの中で生じた歪みに引きずられて、それを逃げ道にしてしまった。
欲しいものを与えてやりたかった。それが黒鋼自身だというのなら、ずっと傍にいて全てを捧げるつもりだった。
けれど心まで与えてやるには、どうしても『理由』が必要だった。縋りつく何かが必要だった。
ファイと黒鋼は同じだった。同じ『光』を愛していた。そう思っていた。
だから気がつかなかった。いつしか、ファイはそれとは異なった光を求めていた。それを知ったときには、黒鋼の愛した光は泡のように闇へと飲みこまれていた。
片手で両目を覆う。
朝の光は、今の自分には残酷すぎた。痛みしか与えてくれない。
これだからいけない。『外』には現実の時間が流れている。優しくて、悲しい思い出ばかりを蘇らせる。
―――ボクはここだよ。
早く。早く帰らなければ。
―――ここにいるよ。
この林道を抜けて、ファイと子供たちが待つあの屋敷へ。
―――君の傍で、咲いていたいよ。
帰らなければ。
―――夢を見てるって、君は笑うかな?
だがそこで黒鋼の意識はぷっつりと途切れてしまった。
*
「イヤ」
高い声が黒鋼を拒絶した。
年老いた白ヒゲの執事の背後にすっぽりと身体を隠して、金髪に青い目をした子供は、ただちょこんと顔を半分だけ覗かせるだけだった。
その表情にはあからさまな警戒心と恐怖心が浮かんで見える。
「ファイ様、いけませんよ。ほら、ご挨拶をして」
「イヤったらイヤ!」
泣きそうな顔をして黒鋼を睨むと、彼は屋敷の扉の向こうへ駆けて行ってしまった。
「…………」
握手のために差し出した手を宙に浮かせたまま、黒鋼少年はただ呆然と立ち尽くすだけだった。
***
それは庭師である父が定期的に通うお屋敷に、初めて一緒について行ったときのこと。黒鋼はまだ小学生だった。
物心ついた頃から父の後を追いかけて、実家の造園業の手伝いをしていた。
普段は母について植木の販売を手伝っていたが、その日は違った。たまたま、屋敷には自分と同じ年頃の子供がいると聞き、興味をひかれたのだ。
一緒に行きたいとせがむと、父はあっさり了承してくれた。
車で一時間以上もかけてはるばるやって来た先は、本当に人が住んでいるのかと思うほど辺鄙な場所で、テレビや漫画でしか見たことがないような立派な建物が見えたときには、一気に緊張したものだ。
けれどワクワクとした気持ちも同じくらい大きかった。
それなのに結局、初日は最悪なまま終わった。
屋敷の中を探検したくて父にせがんだが許してもらえず、仲良くなるつもりでいた相手には、思いっきりふられた。
自分がどうも父譲りで目つきが鋭いことは知っていたし、同年代の子供に比べると体格に恵まれていることもあり、主に女子に怖がられるのは慣れっこだった。
けれど屋敷にいるのは女ではなく男だと聞いていたのだ。歳は黒鋼よりも少し上だというから、きっと上手くいくような気がしていた。
黒鋼は一人っ子だったから、兄や弟に憧れがあった。
我が家は代々専属の庭師としてこの屋敷に雇われているらしいし、いずれは父に代わって稼業を継ぐつもりでいたから、きっと長い付き合いになる。だから仲良くなれたらきっと楽しいだろうと、実は物凄く期待していたのに。
蓋を開けてみれば、現実はそう上手い具合には運ばないらしい。
年上だと聞いていた相手は小さくて痩せっぽちで、まるで女みたいにへなちょこな奴だった。
がっかりしたし、ショックだった。しかもあれほど派手に嫌われては、正直な話、もう屋敷へは行きたくないと思った。
だがその後、黒鋼は学校がない限り父によって毎回屋敷へと連れ出されることになってしまった。
***
屋敷に通うようになって半年ほどが経過した頃、幼い頃からの経験も手伝って、黒鋼は屋敷の裏にある小さな庭の手入れを任されることになった。
四季咲きの薔薇の花壇によって、箱庭のように切り取られたその場所には、小さな池や欅、金木犀に紫陽花なども植えられている。
表の庭に比べると比較的一般家庭を思わせるような、こじんまりとした場所に思えた。
小さな裏庭の向こう側は、深い森になっていた。庭は好きなように手入れしてもいいが、勝手に森に入り込むのは当然、禁止されていた。
これだけ大きな森だ。きっと街の中では見られないような珍しい虫や動物がいるのではないかと興味をそそられたが、遊びに来ているわけではないことは、幼いながらに理解できていた。
初夏の木漏れ日の中、裏庭の花壇の薔薇にたっぷりと水をやりながら、先刻からずっとこちらを窺うようなチラチラとした視線に、黒鋼は気がついていた。
誰かはわかっている。さきほどもこの屋敷にやって来たとき、表の庭で顔を合わせた相手だ。
その相手は黒鋼と鉢合わせすると目に見えてギクリと身を強張らせて、ぷいっとそっぽを向くと怒ったように屋敷へ引っ込んで行ってしまった。
初めの頃にも思ったが、奴は挨拶さえまともに交わすつもりがないらしい。父が笑いかければ、恥ずかしそうにはにかみながらペコリと頭を下げるくせに、黒鋼とはまともに目すら合わせない。
いくら第一印象が最悪だったにしろ、そこまで意固地になられると、黒鋼だって面白くなかった。
黒鋼はじょうろを芝生の地面に置くと、ちょうどこの小さな庭に面した部屋の窓を見やる。すると金色の頭がガラスの向こうでビクリと揺れて、ひょいっと壁に隠れてしまった。
思わず小さく舌打ちをした。ずっとこの調子だ。
例えこじんまりとした庭といえど、これは黒鋼にとっては初めて与えられた大きな仕事だった。
この屋敷に足を運ぶのに、ようやく楽しみを見つけたと張り切っていたのに。
黒鋼は一向に顔を出そうとしない窓の向こうの相手に、イライラを募らせた。もう我慢できない。一言くらい何か言ってやっても、罰は当たらない気がした。
ずかずかと大股で窓へ近づく。そして、ゴツゴツと乱暴にガラス窓をノックした。何の反応もない。けれど、すぐ向こう側にいることは知っていたから、さらに窓を叩く。
それから僅かな間のあと、おずおずと彼は顔を覗かせた。少し顔色が悪いようで、まだ昼間なのにすでに白い寝巻を着こんでいる。
そうか、ここはこいつの部屋か。黒鋼は思う。
ぐっと睨みをきかせると、ファイは大きな瞳でぱちぱちと瞬きをしながら、窓の鍵を開けた。鍵が開いたと同時に窓を開けたのは黒鋼だった。
「おいてめぇ! 言いたいことがあんなら、はっきり言いやがれ!」
言ってやった。胸がすっとした。
けれど、言いたいことを言ってしまうと、一時的な感情に身を任せてしまったことを少し後悔しはじめた。
相手は自分を恐れ、嫌っている。泣きだすかもしれない。子供ながらに、もし大事になれば父の仕事に差し支えるのでは、という不安も込み上げた。
不味い、と眉間の皺を深くしながら自分より高い位置にある顔を窺う。
ぽかんと口を開けて瞬きを繰り返しているファイは、けれど泣きだす気配はなかった。そしてこう言った。
「言っても、いいの?」
「……あ?」
「言いたいこと、言っていいの?」
少女のような仕草で小首を傾げるファイを見て、黒鋼は戸惑った。彼がこうして口を利いてくれるとは、夢にも思わなかったからだ。
初夏の日差しの中から見ると室内は真っ暗で、彼の顔も青白く見える。
そのせいなのだろうか。先刻、庭で顔を突き合わせたときとは、だいぶ印象も違って見えた。
「……お、おう」
黒鋼は頷くしかなかった。
彼は許しを得た途端、ほんのりと頬を赤らめて笑った。
「っ……!」
不覚にも、そのほんわかとした微笑みに胸の辺りがざわついた。
ファイは少し躊躇いがちに、半袖の寝巻の腕を黒鋼に差し出してくる。その腕に赤黒い鬱血の痕があることに気がついて、黒鋼は眉を寄せた。
まじまじと向き合ったことがないから確証はないが、こんなに痛々しい腕をしていただろうか。
ついそちらに気を取られていた黒鋼は、彼がなぜ手を差し出してきたのか、その意図を汲み取るのに少し時間がかかってしまった。
「おともだち」
「?」
「ボクと、おともだちになろう?」
「……は?」
思わず間抜けな声を上げてしまった。彼の期待に満ちた表情と、白い手のひらを交互に見つめた。
それから、ムッとして口をへの字に曲げた。
「なんのつもりだよ?」
「?」
「おまえ、俺とはあいさつもしたくねぇんだろ?」
初めて会ったあの日、黒鋼が差し出した手を拒んだのは他の誰でもない、目の前の彼自身ではなかったか。
以来、散々な態度を取られてきた黒鋼は、これを新手の嫌がらせの類なのではと疑った。
けれどファイはきょとんとして、それから小さな手を口元できゅっと握ると、くすくすと笑った。
「何がおかしいんだよ?」
「だって、おかしいんだもん」
「やっぱりバカにしんのか……」
「ボク、ユゥイ」
「?」
彼は可憐な花のようににっこりと笑って、もう一度言った。
「ユゥイ。ボクは、ファイじゃないの」
*
夏休みの間、黒鋼はほとんど毎日のように屋敷に通った。
父が来ないときも、車で一時間以上もかかる道のりを自転車で往復する小さな庭師を、両親は仕事熱心だとよく褒めた。
当の本人にとっては庭の手入れはほとんど『ついで』だったのだが、褒められて悪い気はしなかったので、遊びに行くとは一言も言わなかった。
ファイに双子の弟がいるなんてことは初耳だった。
いつ行っても寝巻を着て、小枝のように細い両腕を鬱血させたユゥイは、夏休みなど関係なく学校へは通っていなかった。
先天的な心疾患を患い、手術と入退院を繰り返してきたという彼は、ほとんど部屋から出られない生活を送っているらしかった。
だから哀れに感じた、というわけではない。確かに可哀そうだとは思ったが、黒鋼がせっせと屋敷に通う理由はそんな彼を元気づけようとか、慰めてやろうなんて思いからではなかった。
「明日も会える?」
そう言われると、なぜか首を横には振れなかったのだ。
出会ったその日から、話すことは黒鋼にとって何気ないことばかり。
ユゥイが外の世界をほとんど知らないことは、すぐにわかった。
「どこから来たの? どんなおうち?」
「学校にはどんなお友達がいるの? お勉強は好き?」
「お花のお手入れ楽しい? 大変? どのお花が一番好き?」
会えば質問攻めだった。
積極的に話す方ではない黒鋼にとっては、話題を振ってくれることはありがたいが、聞かれても面白いことなど答えられない。気の利いたジョークが言えるわけでもないし、そもそも人を楽しませようなんて特別な意識をして人づきあいをしたこともなかった。
けれどユゥイはどんなにぶっきらぼうで短い答えでも、次から次へと興味を示した。小さくてよく笑う彼のことを、黒鋼はいつしか弟が出来たかのように感じていた。
日によっては体調の優れないことの方が多かった彼も、心なしか日に日に顔色をよくしていった。もしかしたら自分がそうさせているのかもしれないと思うと、ちょっとした優越感に浸ることもできた。
けれど何より、いつもふわふわと笑っているユゥイといると、胸の辺りがホカホカとしてきて、最初は戸惑うばかりだった何気ない会話が、夏休みが終わる頃には毎日の楽しみになっていた。
相変わらずこちらとは目も合わせようとしない兄の方とは、いまだにまともに挨拶さえ交わせないままだというのに。
ユゥイとの仲を深めれば深めるほど、同じ姿形をしているファイに嫌われていることを思い知らされるのは、少し複雑だった。
はじめの頃、黒鋼はそんな思いを苛立ちとして、ユゥイにぶつけたことがある。
「双子のくせに、あっちの方はちっとも可愛くねぇ」
窓のすぐ脇の壁に背中を預け、腕組みをした黒鋼がそっぽを向きながら言うと、窓辺に置いた椅子に腰かけてぴょこんと顔だけを出すユゥイが笑った。
「笑いごとじゃねぇぞ」
じろりと横目で睨む。するとユゥイは、今度は少し困ったような顔をした。
「ファイのこと嫌い?」
「……そういうんじゃねぇけど」
「ほんと?」
「……うん、まぁ」
そもそも先にいい顔をしなかったのは向こうなのだ。
黒鋼だって嫌われるよりは好かれた方がいいし、嫌いになるよりは、好きになった方がきっと楽しいだろうと思っている。
けれどどうも日に日に嫌われていく気がしてならない。
こちらが何か決定的に悪さを働いてしまったのだとすれば、謝ることができる。それをキッカケにして、交流を持つことだって可能かもしれない。
だが一方的に嫌われているのでは、取りつく島もないではないか。
「ファイはいい子なんだよ。本当は君と、仲良くしたいって思ってる」
「うそつけ」
「ほんとだよ。初めてあったときに上手にごあいさつできなかったから、だからはずかしがってるだけ」
黒鋼は思わず呆れた顔をした。恥ずかしがってるだけ、だなんて、そんな可愛らしいものではないような気がする。
「じゃあなんでいっつもぶすっとしてんだよ。おまえといるときもあんなか?」
時々、不運にも顔を合わせてしまうときがある。
毎日ここへ通うことはできないが、夏休みの間なんて悲惨なものだった。黒鋼を見つけると、途端にムッとした顔をして、どこかへ消えてしまうのだ。
「うぅん。そんなことないよ。ファイは自分に怒ってるだけ。ね、だから仲良くしてあげて」
「仲良くったってよ……」
「いつか三人で、森に遊びに行けたらいいのにな」
「……森、か」
「あのね、あの森の奥には、大きな丘があるんだよ。そこから見上げる月が、とってもキレイなんだって」
サッシに両肘をついて頬杖をつき、小さな庭の奥に広がる森を見つめながら笑うユゥイを見て、黒鋼はそれ以上なにも言えなかった。
黒鋼だって、そうなったらいいと思う。一人より二人、二人より三人。ユゥイの言うように、三人で笑いあえたらどんなにいいだろう。一緒にあの森を探検できたら、きっと楽しいに違いない。
ユゥイは月の光のように柔らかく笑う。ファイは、どんな顔で笑うのだろう。
*
そんな話をしたからだろうか。
黒鋼に、満を持してちょっとしたチャンスが到来した。
季節は秋に差し掛かり、空が少し高くなったある日のこと。
学校が午前中に終わったその日も、黒鋼は自転車に乗って屋敷へと訪れた。
今日は父が先に来ているはずだから、帰りは荷台に自転車を乗せてもらえば、楽に帰れる。
そんなことを考えながら庭のアーチをくぐったとき、噴水の側の花壇にしゃがみ込んで、熱心に何かを見ているファイの姿を見つけた。
(なにしてんだ、あいつ)
そろそろ開花の兆しを見せる秋薔薇の蕾の先に、彼はそっと指先を伸ばしていた。黒鋼が近づいているというのに全く気付く様子もなく、それに夢中になっている。
よし、と内心で気合を入れて、不自然にならない程度に声をかけてみることにした。
「おい。おまえももう学校終わったのか?」
「うひゃあ!? あっ、あー!」
彼はおかしな悲鳴を上げながら飛び上がるくらい驚いて立ち上がると、空に向かって手を伸ばした。すぅ、と、トンボが空に消えてしまった。
「トンボ捕まえる気だったのか」
呆れたような顔をして言うと、ファイがキッとこちらを睨みつけたあと、背を向けようとした。
「ちょっと待て」
ギクリ。変な体勢で硬直したファイに、黒鋼は「見てろよ」と言って、人差し指を立てた。
花壇の辺りを飛び回るトンボのうち、真っ赤なそれがゆらゆらと近付いてくる。
それに釣られるように黒鋼の指先に夢中になりはじめたファイに、そっと口元を緩めると、やがてトンボが立てた指先に止まった。
「あっ、とまった……」
「ほら」
トンボを驚かさないように、静かに近づいて来たファイの目線にそれを近づけて見せてやる。青い瞳が濡れたように輝いて、少し頬が上気していた。
「あ、赤いトンボ……こんなに近くで、初めて見た……」
感激したように、ファイは自然と笑顔を浮かべた。
それを見て、笑えばやっぱり可愛いじゃないかと黒鋼は思った。そして、同じ双子が見せる笑顔でも、ユゥイとは少し違う。
彼が見せるそれは向日葵が咲くような、太陽のような華やかさのある笑顔だった。黒鋼の胸に、温かいものがじんわりと広がっていく。
ファイは赤いトンボにそっと手を伸ばそうとした。が、黒鋼はそれを高く掲げて、手のひらをぱっと開くと逃がしてやった。
「あっ……!」
「捕まえるのは駄目だ」
ファイがむっとした顔を見せ、唇を尖らせる。
「なんで?」
「可哀そうだろ。今しか生きられねぇんだから」
「……!」
途端に、ファイは青褪めて言葉を失った。そして彼は傷ついたような、泣きそうな顔をする。
間違ったことは言っていないはずだが、あの太陽のような笑顔が消えてしまったことに、黒鋼の胸は酷く胸が締めつけられた。
「お、おい」
かける言葉は見つからなかったが、思わず伸ばしかけた手を許さないとでも言わんばかりに、ファイはこちらに背を向けると走り去ってしまった。
「逃げられた……」
溜息を吐きながら頭をガリガリと掻いた。
トンボくらいなら簡単に捕まえられるのに、あの小さな生き物が相手だと、どうしても上手くいかないようだった。
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昨夜の段階である程度の覚悟をしていた黒鋼は、ひとまずホッと胸を撫で下ろした。
母は数年前に体調を崩し入院して以来、ずっと病院での生活を余儀なくされている。
元々身体が丈夫な方ではなかった彼女は今、体内を蝕む病と戦い続けていた。
本来なら片時も離れずに傍にいるべきなのは分かっている。けれど黒鋼はそれをしない。かけがえのない母を置き去りにして、なんて親不孝な息子だろう。
今では全てを父に任せきりにし、理解を得ているのをいいことに、ほとんど屋敷にこもりきりの生活をはじめて、一年以上が過ぎようとしていた。
県境の林道。鬱蒼と茂る杉の木に沿うような道路を車で走らせながら、黒鋼は自嘲気味に口元を歪めた。
林道を囲む杉の木が、その隙間から朝日を降らせる。目の奥が刺すように痛んで、黒鋼は速度を落とすと車を路肩に寄せて停車した。
大きく息を吐き出しながら目を閉じる。指先でこめかみを押さえても、痛みはどんどん増していくばかりだった。
思い返せばファイが部屋から出てこなくなってから今日で三日目の朝を迎えたことになる。ずっと眠れないまま、昨夜にかけてさらに徹夜の状態だ。
流石にこのまま車を走らせるのは危険だった。
本当なら今すぐにでもこの長い林道を抜けて、屋敷へ戻りたかったのだが。
どこにも行かないで……
オレを置いて、行かないでよ……
別れ際に、彼が部屋から飛び出したのはもちろん知っていた。
それでも振り向かなかったのは、少しでも『今』を引きのばしたかったからだろうか。
おそらく、全て壊れるだろう。
あのときすぐに振り返って彼を強く抱きしめてやれば、何事もなかったかのように元の生活に戻れたかもしれない。
半年前、目を覚ましたファイは全ての記憶を失っていた。
現実では生きられなくなってしまった彼がそれを望み、眠りの中へ逃がしてやったのは黒鋼だった。
自分に出来ることならば、何を差し置いてでもファイの望みだけは叶えてやりたかったから。
それが、本当に守りたかった存在に何もしてやれなかったことへの、免罪符でしかなかったとしても。
けれど黒鋼は思う。
『君もオレを置いていくの?』
あのとき。
『生きていけない』
他にどんな道が残されていたのか。
『君まで失ったら、生きていけない』
愛する者と同じ姿で、声で――魂で。
『愛してるんだ……ずっと、ずっと……子供の頃から……』
―――もう、眠りたい。
何が間違いで、何が正しいことだったのだろう。
ただわかっていることは、自分が弱かったということだった。
ファイの中で生じた歪みに引きずられて、それを逃げ道にしてしまった。
欲しいものを与えてやりたかった。それが黒鋼自身だというのなら、ずっと傍にいて全てを捧げるつもりだった。
けれど心まで与えてやるには、どうしても『理由』が必要だった。縋りつく何かが必要だった。
ファイと黒鋼は同じだった。同じ『光』を愛していた。そう思っていた。
だから気がつかなかった。いつしか、ファイはそれとは異なった光を求めていた。それを知ったときには、黒鋼の愛した光は泡のように闇へと飲みこまれていた。
片手で両目を覆う。
朝の光は、今の自分には残酷すぎた。痛みしか与えてくれない。
これだからいけない。『外』には現実の時間が流れている。優しくて、悲しい思い出ばかりを蘇らせる。
―――ボクはここだよ。
早く。早く帰らなければ。
―――ここにいるよ。
この林道を抜けて、ファイと子供たちが待つあの屋敷へ。
―――君の傍で、咲いていたいよ。
帰らなければ。
―――夢を見てるって、君は笑うかな?
だがそこで黒鋼の意識はぷっつりと途切れてしまった。
*
「イヤ」
高い声が黒鋼を拒絶した。
年老いた白ヒゲの執事の背後にすっぽりと身体を隠して、金髪に青い目をした子供は、ただちょこんと顔を半分だけ覗かせるだけだった。
その表情にはあからさまな警戒心と恐怖心が浮かんで見える。
「ファイ様、いけませんよ。ほら、ご挨拶をして」
「イヤったらイヤ!」
泣きそうな顔をして黒鋼を睨むと、彼は屋敷の扉の向こうへ駆けて行ってしまった。
「…………」
握手のために差し出した手を宙に浮かせたまま、黒鋼少年はただ呆然と立ち尽くすだけだった。
***
それは庭師である父が定期的に通うお屋敷に、初めて一緒について行ったときのこと。黒鋼はまだ小学生だった。
物心ついた頃から父の後を追いかけて、実家の造園業の手伝いをしていた。
普段は母について植木の販売を手伝っていたが、その日は違った。たまたま、屋敷には自分と同じ年頃の子供がいると聞き、興味をひかれたのだ。
一緒に行きたいとせがむと、父はあっさり了承してくれた。
車で一時間以上もかけてはるばるやって来た先は、本当に人が住んでいるのかと思うほど辺鄙な場所で、テレビや漫画でしか見たことがないような立派な建物が見えたときには、一気に緊張したものだ。
けれどワクワクとした気持ちも同じくらい大きかった。
それなのに結局、初日は最悪なまま終わった。
屋敷の中を探検したくて父にせがんだが許してもらえず、仲良くなるつもりでいた相手には、思いっきりふられた。
自分がどうも父譲りで目つきが鋭いことは知っていたし、同年代の子供に比べると体格に恵まれていることもあり、主に女子に怖がられるのは慣れっこだった。
けれど屋敷にいるのは女ではなく男だと聞いていたのだ。歳は黒鋼よりも少し上だというから、きっと上手くいくような気がしていた。
黒鋼は一人っ子だったから、兄や弟に憧れがあった。
我が家は代々専属の庭師としてこの屋敷に雇われているらしいし、いずれは父に代わって稼業を継ぐつもりでいたから、きっと長い付き合いになる。だから仲良くなれたらきっと楽しいだろうと、実は物凄く期待していたのに。
蓋を開けてみれば、現実はそう上手い具合には運ばないらしい。
年上だと聞いていた相手は小さくて痩せっぽちで、まるで女みたいにへなちょこな奴だった。
がっかりしたし、ショックだった。しかもあれほど派手に嫌われては、正直な話、もう屋敷へは行きたくないと思った。
だがその後、黒鋼は学校がない限り父によって毎回屋敷へと連れ出されることになってしまった。
***
屋敷に通うようになって半年ほどが経過した頃、幼い頃からの経験も手伝って、黒鋼は屋敷の裏にある小さな庭の手入れを任されることになった。
四季咲きの薔薇の花壇によって、箱庭のように切り取られたその場所には、小さな池や欅、金木犀に紫陽花なども植えられている。
表の庭に比べると比較的一般家庭を思わせるような、こじんまりとした場所に思えた。
小さな裏庭の向こう側は、深い森になっていた。庭は好きなように手入れしてもいいが、勝手に森に入り込むのは当然、禁止されていた。
これだけ大きな森だ。きっと街の中では見られないような珍しい虫や動物がいるのではないかと興味をそそられたが、遊びに来ているわけではないことは、幼いながらに理解できていた。
初夏の木漏れ日の中、裏庭の花壇の薔薇にたっぷりと水をやりながら、先刻からずっとこちらを窺うようなチラチラとした視線に、黒鋼は気がついていた。
誰かはわかっている。さきほどもこの屋敷にやって来たとき、表の庭で顔を合わせた相手だ。
その相手は黒鋼と鉢合わせすると目に見えてギクリと身を強張らせて、ぷいっとそっぽを向くと怒ったように屋敷へ引っ込んで行ってしまった。
初めの頃にも思ったが、奴は挨拶さえまともに交わすつもりがないらしい。父が笑いかければ、恥ずかしそうにはにかみながらペコリと頭を下げるくせに、黒鋼とはまともに目すら合わせない。
いくら第一印象が最悪だったにしろ、そこまで意固地になられると、黒鋼だって面白くなかった。
黒鋼はじょうろを芝生の地面に置くと、ちょうどこの小さな庭に面した部屋の窓を見やる。すると金色の頭がガラスの向こうでビクリと揺れて、ひょいっと壁に隠れてしまった。
思わず小さく舌打ちをした。ずっとこの調子だ。
例えこじんまりとした庭といえど、これは黒鋼にとっては初めて与えられた大きな仕事だった。
この屋敷に足を運ぶのに、ようやく楽しみを見つけたと張り切っていたのに。
黒鋼は一向に顔を出そうとしない窓の向こうの相手に、イライラを募らせた。もう我慢できない。一言くらい何か言ってやっても、罰は当たらない気がした。
ずかずかと大股で窓へ近づく。そして、ゴツゴツと乱暴にガラス窓をノックした。何の反応もない。けれど、すぐ向こう側にいることは知っていたから、さらに窓を叩く。
それから僅かな間のあと、おずおずと彼は顔を覗かせた。少し顔色が悪いようで、まだ昼間なのにすでに白い寝巻を着こんでいる。
そうか、ここはこいつの部屋か。黒鋼は思う。
ぐっと睨みをきかせると、ファイは大きな瞳でぱちぱちと瞬きをしながら、窓の鍵を開けた。鍵が開いたと同時に窓を開けたのは黒鋼だった。
「おいてめぇ! 言いたいことがあんなら、はっきり言いやがれ!」
言ってやった。胸がすっとした。
けれど、言いたいことを言ってしまうと、一時的な感情に身を任せてしまったことを少し後悔しはじめた。
相手は自分を恐れ、嫌っている。泣きだすかもしれない。子供ながらに、もし大事になれば父の仕事に差し支えるのでは、という不安も込み上げた。
不味い、と眉間の皺を深くしながら自分より高い位置にある顔を窺う。
ぽかんと口を開けて瞬きを繰り返しているファイは、けれど泣きだす気配はなかった。そしてこう言った。
「言っても、いいの?」
「……あ?」
「言いたいこと、言っていいの?」
少女のような仕草で小首を傾げるファイを見て、黒鋼は戸惑った。彼がこうして口を利いてくれるとは、夢にも思わなかったからだ。
初夏の日差しの中から見ると室内は真っ暗で、彼の顔も青白く見える。
そのせいなのだろうか。先刻、庭で顔を突き合わせたときとは、だいぶ印象も違って見えた。
「……お、おう」
黒鋼は頷くしかなかった。
彼は許しを得た途端、ほんのりと頬を赤らめて笑った。
「っ……!」
不覚にも、そのほんわかとした微笑みに胸の辺りがざわついた。
ファイは少し躊躇いがちに、半袖の寝巻の腕を黒鋼に差し出してくる。その腕に赤黒い鬱血の痕があることに気がついて、黒鋼は眉を寄せた。
まじまじと向き合ったことがないから確証はないが、こんなに痛々しい腕をしていただろうか。
ついそちらに気を取られていた黒鋼は、彼がなぜ手を差し出してきたのか、その意図を汲み取るのに少し時間がかかってしまった。
「おともだち」
「?」
「ボクと、おともだちになろう?」
「……は?」
思わず間抜けな声を上げてしまった。彼の期待に満ちた表情と、白い手のひらを交互に見つめた。
それから、ムッとして口をへの字に曲げた。
「なんのつもりだよ?」
「?」
「おまえ、俺とはあいさつもしたくねぇんだろ?」
初めて会ったあの日、黒鋼が差し出した手を拒んだのは他の誰でもない、目の前の彼自身ではなかったか。
以来、散々な態度を取られてきた黒鋼は、これを新手の嫌がらせの類なのではと疑った。
けれどファイはきょとんとして、それから小さな手を口元できゅっと握ると、くすくすと笑った。
「何がおかしいんだよ?」
「だって、おかしいんだもん」
「やっぱりバカにしんのか……」
「ボク、ユゥイ」
「?」
彼は可憐な花のようににっこりと笑って、もう一度言った。
「ユゥイ。ボクは、ファイじゃないの」
*
夏休みの間、黒鋼はほとんど毎日のように屋敷に通った。
父が来ないときも、車で一時間以上もかかる道のりを自転車で往復する小さな庭師を、両親は仕事熱心だとよく褒めた。
当の本人にとっては庭の手入れはほとんど『ついで』だったのだが、褒められて悪い気はしなかったので、遊びに行くとは一言も言わなかった。
ファイに双子の弟がいるなんてことは初耳だった。
いつ行っても寝巻を着て、小枝のように細い両腕を鬱血させたユゥイは、夏休みなど関係なく学校へは通っていなかった。
先天的な心疾患を患い、手術と入退院を繰り返してきたという彼は、ほとんど部屋から出られない生活を送っているらしかった。
だから哀れに感じた、というわけではない。確かに可哀そうだとは思ったが、黒鋼がせっせと屋敷に通う理由はそんな彼を元気づけようとか、慰めてやろうなんて思いからではなかった。
「明日も会える?」
そう言われると、なぜか首を横には振れなかったのだ。
出会ったその日から、話すことは黒鋼にとって何気ないことばかり。
ユゥイが外の世界をほとんど知らないことは、すぐにわかった。
「どこから来たの? どんなおうち?」
「学校にはどんなお友達がいるの? お勉強は好き?」
「お花のお手入れ楽しい? 大変? どのお花が一番好き?」
会えば質問攻めだった。
積極的に話す方ではない黒鋼にとっては、話題を振ってくれることはありがたいが、聞かれても面白いことなど答えられない。気の利いたジョークが言えるわけでもないし、そもそも人を楽しませようなんて特別な意識をして人づきあいをしたこともなかった。
けれどユゥイはどんなにぶっきらぼうで短い答えでも、次から次へと興味を示した。小さくてよく笑う彼のことを、黒鋼はいつしか弟が出来たかのように感じていた。
日によっては体調の優れないことの方が多かった彼も、心なしか日に日に顔色をよくしていった。もしかしたら自分がそうさせているのかもしれないと思うと、ちょっとした優越感に浸ることもできた。
けれど何より、いつもふわふわと笑っているユゥイといると、胸の辺りがホカホカとしてきて、最初は戸惑うばかりだった何気ない会話が、夏休みが終わる頃には毎日の楽しみになっていた。
相変わらずこちらとは目も合わせようとしない兄の方とは、いまだにまともに挨拶さえ交わせないままだというのに。
ユゥイとの仲を深めれば深めるほど、同じ姿形をしているファイに嫌われていることを思い知らされるのは、少し複雑だった。
はじめの頃、黒鋼はそんな思いを苛立ちとして、ユゥイにぶつけたことがある。
「双子のくせに、あっちの方はちっとも可愛くねぇ」
窓のすぐ脇の壁に背中を預け、腕組みをした黒鋼がそっぽを向きながら言うと、窓辺に置いた椅子に腰かけてぴょこんと顔だけを出すユゥイが笑った。
「笑いごとじゃねぇぞ」
じろりと横目で睨む。するとユゥイは、今度は少し困ったような顔をした。
「ファイのこと嫌い?」
「……そういうんじゃねぇけど」
「ほんと?」
「……うん、まぁ」
そもそも先にいい顔をしなかったのは向こうなのだ。
黒鋼だって嫌われるよりは好かれた方がいいし、嫌いになるよりは、好きになった方がきっと楽しいだろうと思っている。
けれどどうも日に日に嫌われていく気がしてならない。
こちらが何か決定的に悪さを働いてしまったのだとすれば、謝ることができる。それをキッカケにして、交流を持つことだって可能かもしれない。
だが一方的に嫌われているのでは、取りつく島もないではないか。
「ファイはいい子なんだよ。本当は君と、仲良くしたいって思ってる」
「うそつけ」
「ほんとだよ。初めてあったときに上手にごあいさつできなかったから、だからはずかしがってるだけ」
黒鋼は思わず呆れた顔をした。恥ずかしがってるだけ、だなんて、そんな可愛らしいものではないような気がする。
「じゃあなんでいっつもぶすっとしてんだよ。おまえといるときもあんなか?」
時々、不運にも顔を合わせてしまうときがある。
毎日ここへ通うことはできないが、夏休みの間なんて悲惨なものだった。黒鋼を見つけると、途端にムッとした顔をして、どこかへ消えてしまうのだ。
「うぅん。そんなことないよ。ファイは自分に怒ってるだけ。ね、だから仲良くしてあげて」
「仲良くったってよ……」
「いつか三人で、森に遊びに行けたらいいのにな」
「……森、か」
「あのね、あの森の奥には、大きな丘があるんだよ。そこから見上げる月が、とってもキレイなんだって」
サッシに両肘をついて頬杖をつき、小さな庭の奥に広がる森を見つめながら笑うユゥイを見て、黒鋼はそれ以上なにも言えなかった。
黒鋼だって、そうなったらいいと思う。一人より二人、二人より三人。ユゥイの言うように、三人で笑いあえたらどんなにいいだろう。一緒にあの森を探検できたら、きっと楽しいに違いない。
ユゥイは月の光のように柔らかく笑う。ファイは、どんな顔で笑うのだろう。
*
そんな話をしたからだろうか。
黒鋼に、満を持してちょっとしたチャンスが到来した。
季節は秋に差し掛かり、空が少し高くなったある日のこと。
学校が午前中に終わったその日も、黒鋼は自転車に乗って屋敷へと訪れた。
今日は父が先に来ているはずだから、帰りは荷台に自転車を乗せてもらえば、楽に帰れる。
そんなことを考えながら庭のアーチをくぐったとき、噴水の側の花壇にしゃがみ込んで、熱心に何かを見ているファイの姿を見つけた。
(なにしてんだ、あいつ)
そろそろ開花の兆しを見せる秋薔薇の蕾の先に、彼はそっと指先を伸ばしていた。黒鋼が近づいているというのに全く気付く様子もなく、それに夢中になっている。
よし、と内心で気合を入れて、不自然にならない程度に声をかけてみることにした。
「おい。おまえももう学校終わったのか?」
「うひゃあ!? あっ、あー!」
彼はおかしな悲鳴を上げながら飛び上がるくらい驚いて立ち上がると、空に向かって手を伸ばした。すぅ、と、トンボが空に消えてしまった。
「トンボ捕まえる気だったのか」
呆れたような顔をして言うと、ファイがキッとこちらを睨みつけたあと、背を向けようとした。
「ちょっと待て」
ギクリ。変な体勢で硬直したファイに、黒鋼は「見てろよ」と言って、人差し指を立てた。
花壇の辺りを飛び回るトンボのうち、真っ赤なそれがゆらゆらと近付いてくる。
それに釣られるように黒鋼の指先に夢中になりはじめたファイに、そっと口元を緩めると、やがてトンボが立てた指先に止まった。
「あっ、とまった……」
「ほら」
トンボを驚かさないように、静かに近づいて来たファイの目線にそれを近づけて見せてやる。青い瞳が濡れたように輝いて、少し頬が上気していた。
「あ、赤いトンボ……こんなに近くで、初めて見た……」
感激したように、ファイは自然と笑顔を浮かべた。
それを見て、笑えばやっぱり可愛いじゃないかと黒鋼は思った。そして、同じ双子が見せる笑顔でも、ユゥイとは少し違う。
彼が見せるそれは向日葵が咲くような、太陽のような華やかさのある笑顔だった。黒鋼の胸に、温かいものがじんわりと広がっていく。
ファイは赤いトンボにそっと手を伸ばそうとした。が、黒鋼はそれを高く掲げて、手のひらをぱっと開くと逃がしてやった。
「あっ……!」
「捕まえるのは駄目だ」
ファイがむっとした顔を見せ、唇を尖らせる。
「なんで?」
「可哀そうだろ。今しか生きられねぇんだから」
「……!」
途端に、ファイは青褪めて言葉を失った。そして彼は傷ついたような、泣きそうな顔をする。
間違ったことは言っていないはずだが、あの太陽のような笑顔が消えてしまったことに、黒鋼の胸は酷く胸が締めつけられた。
「お、おい」
かける言葉は見つからなかったが、思わず伸ばしかけた手を許さないとでも言わんばかりに、ファイはこちらに背を向けると走り去ってしまった。
「逃げられた……」
溜息を吐きながら頭をガリガリと掻いた。
トンボくらいなら簡単に捕まえられるのに、あの小さな生き物が相手だと、どうしても上手くいかないようだった。
←戻る ・ 次へ→
結局、ファイが部屋から出てくることはなかった。
小狼やさくらが何度ドアをノックしても、声をかけても、何の返答も得られなかった。
夕食は部屋の前に置いたが、さきほど再び様子を見に行った際、やはり手つかずで残されていた。
自室へ戻って一息ついた小狼が時計を見ると、午前0時に差し掛かるかという頃だった。
さくらはもう眠っただろうか。元気をなくしている様子の彼女をどうにか慰めたつもりだが、気休めにしかならないことは知っていた。
もう休んでいるならそれでいい。けれどもし寝つけずにいるのなら、彼女が眠るまで傍にいてやりたい。
流石に少し迷ったが、小狼はすぐ隣の部屋へ様子を見に行こうと、自室のドアに手をかけた。
そのときだった。
コンコン
少し控えめなノック音がした。
「さくらか?」
咄嗟に表情を和らげた。やはり寝付けなかったのだろうと。久しぶりに、子供の頃みたいに一緒に寝るのもいいかもしれない。もちろん、小狼はソファを使うつもりだけれど。
「小狼君……起きてる?」
けれどドアの向こうにいるのは、さくらではなかった。
「ファイさん……?」
咄嗟にドアを開けると、少しやつれた様子のファイがぼんやりと立ち尽くしていた。
「ごねん、寝るところだったかな?」
「いいえ……そんなことより良かった……出て来てくれて……」
ずっと部屋に閉じこもったままだったファイが、わざわざ二階の小狼の部屋までやって来たのだ。
心底ほっとした小狼は彼を部屋の中へ入れると、その背をそっと押してソファへ腰かけるように促した。
だが彼は首を左右に振るだけだった。
「?」
彼がこの部屋を訪ねるのは初めてのことだった。
小狼は少しばかり緊張しながらも、ファイがこうして顔を見せてくれたのが嬉しかった。
けれど彼は俯いたまま、何も言わない。どこか具合が悪いのかと、小狼がその表情を覗きこむと、そこにはどこか虚ろな瞳があった。
「……ファイさん?」
「いきなりごめんね、小狼君」
「いえ……」
彼は、そんな覇気のない瞳をしながらも静かに微笑んだ。なぜか、背筋にゾクリとしたものが駆け抜ける。
こんな笑い方をする人ではなかったはずだ。ずっと食事をしていないし、やつれて見えるのも、元気がないのも仕方がない。
だが、何か違うような、そんな気がする。
嫌だなと、小狼は思う。なにかとてつもなく、嫌な感じだ。
「オレね、大事なものを取りにきたんだよ」
「……大事なもの……ですか……?」
おそらくこの嫌な予感は的中している。
彼は虚ろに微笑み続け、少し青褪めて見える唇がゆっくりと動いた。
「鍵」
「……!」
白いシャツに覆われた細い腕が、ゆらりと伸びてくる。差し出された手。線の細い、長い指先が、小狼に向かって。
「ちょうだい」
咄嗟に数歩、後退する。ファイは動かない。瞬きもせず薄く笑う彼に、小狼は首を左右に振った。
「知りません。鍵なんて……」
「嘘」
「……例え持っていたとしても、あなたには渡せない」
ことりと、ファイは首を傾げた。大きな目が、子供のように見開かれている。何か不思議なものを見るような瞳。
なぜ彼が、自分が黒鋼から鍵を預かっていることを知っているのか。黒鋼から聞いた? いや、それは絶対にない。ならば……。
(さくらだ……)
「ねぇどうして? 黒たんに言われてるから?」
迂闊だった。
彼女は見ていたのだ。そしてそれが、何らかの形でファイの耳に入った。
「ちょうだいよ。だってそれ……オレの部屋の鍵だよ?」
「!?」
小狼ははっとして目を見開いた。
咄嗟に耳を疑う。彼は今、なんと言った?
「その鍵、オレの部屋の鍵なんだけど」
「ファイさん……? まさか、記憶を……?」
「うん」
本当なら喜ばしいことだ。それなのに、小狼は自分の足元が音を立てて崩れていくような気がしてならなかった。
どうしてかは、分からない。ただ、黒鋼はファイの記憶が戻ることを望んでいなかった。それだけは、知っていたから。
「思い出した。全部」
だからそれが、酷く残酷な宣告のように思えてならなかったのだ。
小狼は差し出されたままのファイの白い手を凝視した。彼の様子が明らかに違うのは、記憶を取り戻したからなのか。
そして彼がこの屋敷の主であること。それこそが小狼が唯一知らされている、些細な真実。
けれど小狼は複雑な胸中を押し込めて、彼を強い眼差しで真っすぐに見つめた。
「それでも、やっぱり渡せません。約束なんです」
「……約束だって? 彼と? 君が?」
ファイは声を上げて笑った。再び、今度は全身にゾクリとしたものが駆け抜ける。
「……そうです」
「何か勘違いしてないかな?」
「…………」
ファイは腕を組むと、皮肉げに口元を歪める。
「あれはただの庭師だ。そんな権限はないよ。そして君にもね」
「っ……」
「君はオレと距離を取っていたね。こんな風に二人きりで話をするのは、これが初めてかな?」
「それは……」
笑っていたはずの目元が、鋭く細められる。
優しくて、羽根のように柔らかで、そして幼い人だと思っていた。
それが今、真夏の陽炎のように揺らめき、霞んでいく。
「さぁ、鍵を渡すんだ。それが嫌なら、今すぐここを出て行きなさい」
それはこの屋敷の主としての命令だった。小狼は唇を噛み、きつく目を閉じる。
こうなってしまっては、彼の言うように自分には何の権限もない。当然、黒鋼にもだ。
彼が本当にここを出ていけと言っているのなら、仕方がない。逆らうことは出来ない。だが、鍵を持ったまま行くことは許されないのだ。
そのまま、無言の重圧に敗北する形で、小狼は彼に背を向けると調度品の数々の中からひとつ、鍵つきのオルゴールを取り出した。
それは偶然見つけたものだ。金の装飾が施された、黒いオルゴール。その鍵を、小狼は肌身離さず持っていた。
ポケットから小さなオモチャのようなそれを取り出して、鍵を開ける。繊細なオルゴールの音色が、室内に空しく響いた。指を忍ばせて、目的のものを取り出すと蓋を閉めた。ぷっつりと、音が途切れる。
そして彼に向き合うと、再び差し出された手に一瞬だけ戸惑いを見せたあと、鍵を乗せる。鈍く光る、金色の鍵を。
鍵は細い指によってぎゅっと握られた。小狼の手から、完全に離れた。
「ありがとう」
微笑むファイは、けれど目だけは笑っていない。虚ろなままだった。
どうにもならない現実に、小狼はきつく拳を握った。
「お願いですファイさん……ひとつだけ、約束してほしいんです」
「なに?」
「どうか、その鍵を使うのは、黒鋼さんが戻って来てからにしてください……」
せめて、黒鋼の知らぬ場所で、本当に全てが変わってしまうことだけは、避けたかった。
今の小狼のように、納得せざるをえないことは承知している。それでも。
「おれは……あの人に傷ついてほしくないんです」
ファイの記憶が戻ったことで、黒鋼と彼の関係性がどう変わるのか、小狼は知らない。
けれど、きっとこの嫌な予感は的中する。確証のない確信がそこにはあった。
「本当に優しいね、君は」
するりと、ファイの手が小狼の頬に触れた。そのまま上向かされる。
そこにあったのはただ虚ろな瞳ではなかった。ともすれば小狼のよく知る、透き通る宝石のような淡いブルーは、これまで通りのファイと錯覚しそうなほど優しく、そして切ないものだった。
「ファイさ」
「オレもだよ」
夢でも見ていたように、そっけなく手が遠のく。冷たい空気だけが、小狼の頬に残った。
「オレも、そう思ってる」
猫のようにすっと目を細めた彼は、そう言い残し部屋を出て行った。
*
こんなにうまくいくとは思わなかった。
自室に戻ると、背中の方で扉が閉まると同時に、ファイは床に崩れ落ちた。
身体が震えて力が入らない。鍵を握り締めた手を口元にぐっと押し当てる。そうでもしていなければ、心臓が口から飛び出してきそうなくらい暴れて仕方がなかった。
「ご、めん……ごめん、ね……」
震えと鼓動で、声が途切れる。
全て嘘だった。
ファイは小狼を相手に、つまらないはったりをかましたにすぎない。
賭けだった。けれど、不思議と迷いはなかったのだ。自分が、この屋敷の主だということに。
小狼は知っていたようだが、きっとあれ以上のことは何も知らされていないのだろう。ただ純粋に黒鋼を信じ、案じることができる少年を、羨ましいと思った。
「あはは……は、は……」
本当は、何も思い出してなどいない。
「君は一人で抱え込みすぎたんだよ……黒たん……」
黒鋼は、戻ったら全て聞くと言った。察しのいい彼は、ファイに起こった変化に、とうに気付いている。取り繕うにはもう遅すぎた。
どうせ失うことが分かっているなら、どこまで足掻けるか試してやろう。
全てを壊して、そしてファイは過去を手に入れるつもりだった。それから、もう一度手に入れる。力づくでも、縛りつけてでも、黒鋼をどこにも逃がさない。
「そうだ……あれはオレのものだ……オレだけのものだ……」
どこまでが正気で、どこまでが狂気か、この部屋で目を覚ましたときから、境目などただ曖昧なものでしかなかった。
最初から壊れていた。気がつかないふりをしていただけ。彼も、自分も。
ファイはゆらりと立ち上がる。足音も立てずに窓辺のテーブルに近づけば、暗闇の中に枯れかけの乾いた花がぽつんと置かれている。
そっと手に取り、口づけた。
そう、過去も現在も未来でさえも。
あの男から薔薇の花を受け取るのは、この自分でなければ。
***
明け方近くまで息を殺した。黒鋼は戻らない。
ファイは最初から、小狼の願いを聞き入れるつもりはなかった。
それでも今まで見動きせずにいたのは、ほんの僅かに残っていた情けだろうか。あの心優しい少年が眠れない夜を過ごしていることくらい、知っている。
それでもファイは行かなくてはならないのだ。
傷つけたくないという思いに嘘はないけれど、そうしなければ得られないものがあるのなら、何を犠牲にしてでも構わないとさえ、今なら思える。
静かに、音を立てないように。扉を開け、死んでしまった薔薇を片手に、裸足で廊下をゆっくりと歩いた。
大きな古時計が金色の振り子を揺らしながら音を立てる。玄関ホールの大理石は冷たく、歩く度にひたひたと音がした。
ああ、こんな風に、ここをこうして裸足で歩いてみたかった。多分きっと、子供の頃から。ファイは小さく、無邪気に微笑んだ。
反対側の廊下。ガラスケースの中の人形たちがこちらを見ている。あれほど恐ろしかった感情が、今は静寂の中にあった。
扉を開ければ、そこにいるかもしれない魔物に頭から食われるのだろうか。望むところだと、ファイは迷いなく廊下を渡り、曲がり角を曲がった。
まだ闇が濃い廊下の先に、金縁の扉が浮き上がって見える。
辿りついたその前で、ファイは鍵を取り出した。穴に差し込んで、回す。
カチリ
音がした。
役目を果たしたそれを適当にポケットの中に捻じ込んで、ファイはドアノブに手をやると、殊更ゆっくり扉を開けた。
窓からは、有明の月から降り注ぐ淡い光が射しこんでいた。
降り注ぐ薄い金色に彩られる闇の部屋。天蓋付きのベッド。ソファ。テーブルに、椅子。古びた暖炉。装飾の施されたそれらは、うっすらとほこりを被っている以外に、今現在ファイが暮らす部屋とほとんど変わらなかった。
冷えた空気が一層増した。一歩一歩中へと押しいれば、背後で勝手に扉が閉まる。
視線を落とす。そこには、乱雑に置かれた子供のオモチャが散乱していた。
積み木やタンバリン、ブリキの兵隊とお姫様。オルゴールと思しき、白い箱。そして画用紙とクレヨン。
画用紙には何かが描かれていた。子供の落書き。けれどよくは見えない。
足元に転がるそれらをぼんやりと見つめるばかりだったファイは、ふと気配を感じてそちらに目を向けた。
手にしていた薔薇の花が、乾いた音を立てて床に落ちる。
そこには、もう一人のファイがいた。
「ここにいたの?」
懐かしい。ファイは駆け寄り、再会の喜びに手を伸ばした。
もう一人の自分を写し出す鏡。それは大きな姿見だった。
寄り添って手のひらと頬を押し付けた。冷たい感触。そこに人の温もりは存在しない。
「ずっと探してたんだ。会いたかった……君とお話できなくて、とても寂しかった……」
けれど鏡は何も答えなかった。不安に駆られ、顔を上げる。
どうして何も言ってくれないのだろう。目の前の自分は、こんなにも泣きそうな顔をしているのに。
「ねぇ、何か答えて……昔みたいに、オレに優しくしてよ……」
沈黙だけが支配する部屋。ファイは嫌々と首を振りながら後ずさる。
「やっと会えたのに……嫌だよ……一人は嫌だ……ここにいるのに……」
『置いてかないで』
カサリという音がした。クレヨンで落書きされた画用紙が踵に当たって、ファイはハッと息を飲む。
足元に目をやり、そして手を伸ばすと画用紙を拾った。子供の落書き。窓の方を向き、月の光の下でそれを確かめる。
心臓が一度、大きく高鳴った。
真っ白な光が頭の中に蘇る。一瞬の、けれど鮮やかな記憶。
オルゴールが鳴る。白い箱。この部屋の扉に似た、金色の装飾が施されたオルゴール。おそらく小狼が鍵を隠していた、あの黒いオルゴールと対になっているのであろうそれ。
窓から差し込むのは太陽の日差し。眩い光に満ちた部屋。
「オレ、あの子きらい」
幼いファイはぺったりと絨毯に腹ばいになって、画用紙に絵を描いている。
『どうして?』
ベッドから声がした。ファイは落書きから目を離さない。
「だって、なんかこわいもん」
『こわくないよ。知ってるでしょ? やさしい子だよ』
そんなことは知っていた。
あの子は優しい子。ただちょっと顔が怖かったから、上手に挨拶できなかっただけ。
思い出すと恥ずかしくて、初めて会った日をやり直したくて、悔しくて、悲しくなる。
悪いのは自分だってことを知っているから。
だから、ぶぅっと唇を尖らせた。
「きらいなものはきらいなの」
『はなしあいて、ほしくないの?』
ファイと同じ声が、優しく問いかけてくる。
友達は欲しい。でも、話相手なんて別にいらない。
だってもうここにいるから。自分と同じ形をした彼は、退屈なときや嫌なことがあったとき、いつでも話を聞いてくれた。語りかけてくれた。
もう一人の自分。誰よりもわかってくれる。傍にいてくれる。
大切な存在。もう一人の自分。
「そんなのいらない。だってもういるもん。ここに」
完成した落書きから、ファイはにっこりと笑って顔を上げた。
もう一人の自分は昼間でも寝巻を着て、ベッドの中から出てこられない。
いつも腕に点滴の針を刺しているから、両腕が赤黒くて可哀そうだった。
「そうでしょ? ユゥイ」
眩い光の世界が、元の薄闇の部屋へと形を戻す。
ファイの手から、画用紙が落ちた。
ベッドはもぬけの殻で、ただ綺麗にシーツが整えられている。
窓からは淡い光。どこか物憂げな、暁の月。そして闇。いつしかオルゴールの音は止んでいた。
涙が溢れて止まらない。それは頬を伝い、雫は床に落ちた画用紙を濡らした。
そこには拙い絵で、天使のような二人の子供が描かれていた。
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小狼やさくらが何度ドアをノックしても、声をかけても、何の返答も得られなかった。
夕食は部屋の前に置いたが、さきほど再び様子を見に行った際、やはり手つかずで残されていた。
自室へ戻って一息ついた小狼が時計を見ると、午前0時に差し掛かるかという頃だった。
さくらはもう眠っただろうか。元気をなくしている様子の彼女をどうにか慰めたつもりだが、気休めにしかならないことは知っていた。
もう休んでいるならそれでいい。けれどもし寝つけずにいるのなら、彼女が眠るまで傍にいてやりたい。
流石に少し迷ったが、小狼はすぐ隣の部屋へ様子を見に行こうと、自室のドアに手をかけた。
そのときだった。
コンコン
少し控えめなノック音がした。
「さくらか?」
咄嗟に表情を和らげた。やはり寝付けなかったのだろうと。久しぶりに、子供の頃みたいに一緒に寝るのもいいかもしれない。もちろん、小狼はソファを使うつもりだけれど。
「小狼君……起きてる?」
けれどドアの向こうにいるのは、さくらではなかった。
「ファイさん……?」
咄嗟にドアを開けると、少しやつれた様子のファイがぼんやりと立ち尽くしていた。
「ごねん、寝るところだったかな?」
「いいえ……そんなことより良かった……出て来てくれて……」
ずっと部屋に閉じこもったままだったファイが、わざわざ二階の小狼の部屋までやって来たのだ。
心底ほっとした小狼は彼を部屋の中へ入れると、その背をそっと押してソファへ腰かけるように促した。
だが彼は首を左右に振るだけだった。
「?」
彼がこの部屋を訪ねるのは初めてのことだった。
小狼は少しばかり緊張しながらも、ファイがこうして顔を見せてくれたのが嬉しかった。
けれど彼は俯いたまま、何も言わない。どこか具合が悪いのかと、小狼がその表情を覗きこむと、そこにはどこか虚ろな瞳があった。
「……ファイさん?」
「いきなりごめんね、小狼君」
「いえ……」
彼は、そんな覇気のない瞳をしながらも静かに微笑んだ。なぜか、背筋にゾクリとしたものが駆け抜ける。
こんな笑い方をする人ではなかったはずだ。ずっと食事をしていないし、やつれて見えるのも、元気がないのも仕方がない。
だが、何か違うような、そんな気がする。
嫌だなと、小狼は思う。なにかとてつもなく、嫌な感じだ。
「オレね、大事なものを取りにきたんだよ」
「……大事なもの……ですか……?」
おそらくこの嫌な予感は的中している。
彼は虚ろに微笑み続け、少し青褪めて見える唇がゆっくりと動いた。
「鍵」
「……!」
白いシャツに覆われた細い腕が、ゆらりと伸びてくる。差し出された手。線の細い、長い指先が、小狼に向かって。
「ちょうだい」
咄嗟に数歩、後退する。ファイは動かない。瞬きもせず薄く笑う彼に、小狼は首を左右に振った。
「知りません。鍵なんて……」
「嘘」
「……例え持っていたとしても、あなたには渡せない」
ことりと、ファイは首を傾げた。大きな目が、子供のように見開かれている。何か不思議なものを見るような瞳。
なぜ彼が、自分が黒鋼から鍵を預かっていることを知っているのか。黒鋼から聞いた? いや、それは絶対にない。ならば……。
(さくらだ……)
「ねぇどうして? 黒たんに言われてるから?」
迂闊だった。
彼女は見ていたのだ。そしてそれが、何らかの形でファイの耳に入った。
「ちょうだいよ。だってそれ……オレの部屋の鍵だよ?」
「!?」
小狼ははっとして目を見開いた。
咄嗟に耳を疑う。彼は今、なんと言った?
「その鍵、オレの部屋の鍵なんだけど」
「ファイさん……? まさか、記憶を……?」
「うん」
本当なら喜ばしいことだ。それなのに、小狼は自分の足元が音を立てて崩れていくような気がしてならなかった。
どうしてかは、分からない。ただ、黒鋼はファイの記憶が戻ることを望んでいなかった。それだけは、知っていたから。
「思い出した。全部」
だからそれが、酷く残酷な宣告のように思えてならなかったのだ。
小狼は差し出されたままのファイの白い手を凝視した。彼の様子が明らかに違うのは、記憶を取り戻したからなのか。
そして彼がこの屋敷の主であること。それこそが小狼が唯一知らされている、些細な真実。
けれど小狼は複雑な胸中を押し込めて、彼を強い眼差しで真っすぐに見つめた。
「それでも、やっぱり渡せません。約束なんです」
「……約束だって? 彼と? 君が?」
ファイは声を上げて笑った。再び、今度は全身にゾクリとしたものが駆け抜ける。
「……そうです」
「何か勘違いしてないかな?」
「…………」
ファイは腕を組むと、皮肉げに口元を歪める。
「あれはただの庭師だ。そんな権限はないよ。そして君にもね」
「っ……」
「君はオレと距離を取っていたね。こんな風に二人きりで話をするのは、これが初めてかな?」
「それは……」
笑っていたはずの目元が、鋭く細められる。
優しくて、羽根のように柔らかで、そして幼い人だと思っていた。
それが今、真夏の陽炎のように揺らめき、霞んでいく。
「さぁ、鍵を渡すんだ。それが嫌なら、今すぐここを出て行きなさい」
それはこの屋敷の主としての命令だった。小狼は唇を噛み、きつく目を閉じる。
こうなってしまっては、彼の言うように自分には何の権限もない。当然、黒鋼にもだ。
彼が本当にここを出ていけと言っているのなら、仕方がない。逆らうことは出来ない。だが、鍵を持ったまま行くことは許されないのだ。
そのまま、無言の重圧に敗北する形で、小狼は彼に背を向けると調度品の数々の中からひとつ、鍵つきのオルゴールを取り出した。
それは偶然見つけたものだ。金の装飾が施された、黒いオルゴール。その鍵を、小狼は肌身離さず持っていた。
ポケットから小さなオモチャのようなそれを取り出して、鍵を開ける。繊細なオルゴールの音色が、室内に空しく響いた。指を忍ばせて、目的のものを取り出すと蓋を閉めた。ぷっつりと、音が途切れる。
そして彼に向き合うと、再び差し出された手に一瞬だけ戸惑いを見せたあと、鍵を乗せる。鈍く光る、金色の鍵を。
鍵は細い指によってぎゅっと握られた。小狼の手から、完全に離れた。
「ありがとう」
微笑むファイは、けれど目だけは笑っていない。虚ろなままだった。
どうにもならない現実に、小狼はきつく拳を握った。
「お願いですファイさん……ひとつだけ、約束してほしいんです」
「なに?」
「どうか、その鍵を使うのは、黒鋼さんが戻って来てからにしてください……」
せめて、黒鋼の知らぬ場所で、本当に全てが変わってしまうことだけは、避けたかった。
今の小狼のように、納得せざるをえないことは承知している。それでも。
「おれは……あの人に傷ついてほしくないんです」
ファイの記憶が戻ったことで、黒鋼と彼の関係性がどう変わるのか、小狼は知らない。
けれど、きっとこの嫌な予感は的中する。確証のない確信がそこにはあった。
「本当に優しいね、君は」
するりと、ファイの手が小狼の頬に触れた。そのまま上向かされる。
そこにあったのはただ虚ろな瞳ではなかった。ともすれば小狼のよく知る、透き通る宝石のような淡いブルーは、これまで通りのファイと錯覚しそうなほど優しく、そして切ないものだった。
「ファイさ」
「オレもだよ」
夢でも見ていたように、そっけなく手が遠のく。冷たい空気だけが、小狼の頬に残った。
「オレも、そう思ってる」
猫のようにすっと目を細めた彼は、そう言い残し部屋を出て行った。
*
こんなにうまくいくとは思わなかった。
自室に戻ると、背中の方で扉が閉まると同時に、ファイは床に崩れ落ちた。
身体が震えて力が入らない。鍵を握り締めた手を口元にぐっと押し当てる。そうでもしていなければ、心臓が口から飛び出してきそうなくらい暴れて仕方がなかった。
「ご、めん……ごめん、ね……」
震えと鼓動で、声が途切れる。
全て嘘だった。
ファイは小狼を相手に、つまらないはったりをかましたにすぎない。
賭けだった。けれど、不思議と迷いはなかったのだ。自分が、この屋敷の主だということに。
小狼は知っていたようだが、きっとあれ以上のことは何も知らされていないのだろう。ただ純粋に黒鋼を信じ、案じることができる少年を、羨ましいと思った。
「あはは……は、は……」
本当は、何も思い出してなどいない。
「君は一人で抱え込みすぎたんだよ……黒たん……」
黒鋼は、戻ったら全て聞くと言った。察しのいい彼は、ファイに起こった変化に、とうに気付いている。取り繕うにはもう遅すぎた。
どうせ失うことが分かっているなら、どこまで足掻けるか試してやろう。
全てを壊して、そしてファイは過去を手に入れるつもりだった。それから、もう一度手に入れる。力づくでも、縛りつけてでも、黒鋼をどこにも逃がさない。
「そうだ……あれはオレのものだ……オレだけのものだ……」
どこまでが正気で、どこまでが狂気か、この部屋で目を覚ましたときから、境目などただ曖昧なものでしかなかった。
最初から壊れていた。気がつかないふりをしていただけ。彼も、自分も。
ファイはゆらりと立ち上がる。足音も立てずに窓辺のテーブルに近づけば、暗闇の中に枯れかけの乾いた花がぽつんと置かれている。
そっと手に取り、口づけた。
そう、過去も現在も未来でさえも。
あの男から薔薇の花を受け取るのは、この自分でなければ。
***
明け方近くまで息を殺した。黒鋼は戻らない。
ファイは最初から、小狼の願いを聞き入れるつもりはなかった。
それでも今まで見動きせずにいたのは、ほんの僅かに残っていた情けだろうか。あの心優しい少年が眠れない夜を過ごしていることくらい、知っている。
それでもファイは行かなくてはならないのだ。
傷つけたくないという思いに嘘はないけれど、そうしなければ得られないものがあるのなら、何を犠牲にしてでも構わないとさえ、今なら思える。
静かに、音を立てないように。扉を開け、死んでしまった薔薇を片手に、裸足で廊下をゆっくりと歩いた。
大きな古時計が金色の振り子を揺らしながら音を立てる。玄関ホールの大理石は冷たく、歩く度にひたひたと音がした。
ああ、こんな風に、ここをこうして裸足で歩いてみたかった。多分きっと、子供の頃から。ファイは小さく、無邪気に微笑んだ。
反対側の廊下。ガラスケースの中の人形たちがこちらを見ている。あれほど恐ろしかった感情が、今は静寂の中にあった。
扉を開ければ、そこにいるかもしれない魔物に頭から食われるのだろうか。望むところだと、ファイは迷いなく廊下を渡り、曲がり角を曲がった。
まだ闇が濃い廊下の先に、金縁の扉が浮き上がって見える。
辿りついたその前で、ファイは鍵を取り出した。穴に差し込んで、回す。
カチリ
音がした。
役目を果たしたそれを適当にポケットの中に捻じ込んで、ファイはドアノブに手をやると、殊更ゆっくり扉を開けた。
窓からは、有明の月から降り注ぐ淡い光が射しこんでいた。
降り注ぐ薄い金色に彩られる闇の部屋。天蓋付きのベッド。ソファ。テーブルに、椅子。古びた暖炉。装飾の施されたそれらは、うっすらとほこりを被っている以外に、今現在ファイが暮らす部屋とほとんど変わらなかった。
冷えた空気が一層増した。一歩一歩中へと押しいれば、背後で勝手に扉が閉まる。
視線を落とす。そこには、乱雑に置かれた子供のオモチャが散乱していた。
積み木やタンバリン、ブリキの兵隊とお姫様。オルゴールと思しき、白い箱。そして画用紙とクレヨン。
画用紙には何かが描かれていた。子供の落書き。けれどよくは見えない。
足元に転がるそれらをぼんやりと見つめるばかりだったファイは、ふと気配を感じてそちらに目を向けた。
手にしていた薔薇の花が、乾いた音を立てて床に落ちる。
そこには、もう一人のファイがいた。
「ここにいたの?」
懐かしい。ファイは駆け寄り、再会の喜びに手を伸ばした。
もう一人の自分を写し出す鏡。それは大きな姿見だった。
寄り添って手のひらと頬を押し付けた。冷たい感触。そこに人の温もりは存在しない。
「ずっと探してたんだ。会いたかった……君とお話できなくて、とても寂しかった……」
けれど鏡は何も答えなかった。不安に駆られ、顔を上げる。
どうして何も言ってくれないのだろう。目の前の自分は、こんなにも泣きそうな顔をしているのに。
「ねぇ、何か答えて……昔みたいに、オレに優しくしてよ……」
沈黙だけが支配する部屋。ファイは嫌々と首を振りながら後ずさる。
「やっと会えたのに……嫌だよ……一人は嫌だ……ここにいるのに……」
『置いてかないで』
カサリという音がした。クレヨンで落書きされた画用紙が踵に当たって、ファイはハッと息を飲む。
足元に目をやり、そして手を伸ばすと画用紙を拾った。子供の落書き。窓の方を向き、月の光の下でそれを確かめる。
心臓が一度、大きく高鳴った。
真っ白な光が頭の中に蘇る。一瞬の、けれど鮮やかな記憶。
オルゴールが鳴る。白い箱。この部屋の扉に似た、金色の装飾が施されたオルゴール。おそらく小狼が鍵を隠していた、あの黒いオルゴールと対になっているのであろうそれ。
窓から差し込むのは太陽の日差し。眩い光に満ちた部屋。
「オレ、あの子きらい」
幼いファイはぺったりと絨毯に腹ばいになって、画用紙に絵を描いている。
『どうして?』
ベッドから声がした。ファイは落書きから目を離さない。
「だって、なんかこわいもん」
『こわくないよ。知ってるでしょ? やさしい子だよ』
そんなことは知っていた。
あの子は優しい子。ただちょっと顔が怖かったから、上手に挨拶できなかっただけ。
思い出すと恥ずかしくて、初めて会った日をやり直したくて、悔しくて、悲しくなる。
悪いのは自分だってことを知っているから。
だから、ぶぅっと唇を尖らせた。
「きらいなものはきらいなの」
『はなしあいて、ほしくないの?』
ファイと同じ声が、優しく問いかけてくる。
友達は欲しい。でも、話相手なんて別にいらない。
だってもうここにいるから。自分と同じ形をした彼は、退屈なときや嫌なことがあったとき、いつでも話を聞いてくれた。語りかけてくれた。
もう一人の自分。誰よりもわかってくれる。傍にいてくれる。
大切な存在。もう一人の自分。
「そんなのいらない。だってもういるもん。ここに」
完成した落書きから、ファイはにっこりと笑って顔を上げた。
もう一人の自分は昼間でも寝巻を着て、ベッドの中から出てこられない。
いつも腕に点滴の針を刺しているから、両腕が赤黒くて可哀そうだった。
「そうでしょ? ユゥイ」
眩い光の世界が、元の薄闇の部屋へと形を戻す。
ファイの手から、画用紙が落ちた。
ベッドはもぬけの殻で、ただ綺麗にシーツが整えられている。
窓からは淡い光。どこか物憂げな、暁の月。そして闇。いつしかオルゴールの音は止んでいた。
涙が溢れて止まらない。それは頬を伝い、雫は床に落ちた画用紙を濡らした。
そこには拙い絵で、天使のような二人の子供が描かれていた。
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擦れ合う舌と舌が鈍い水音を立てる度に、皮膚の内側をチクチクとした小さな電流が駆け抜けるようだった。
ベッドシーツを爪先で引っ掻きながら、狛枝は無意識に身を捩る。組み敷いてくる日向の身体は熱く、そして存外、逞しい。
「は、ぅ……んぅ……ッ」
角度を変えながら執拗に唇を貪られる合間に、甘ったるい呻きが零れるのを抑えきれない。飲み込めないまま溜まるばかりの二人分の唾液が、口の端を伝った。
重い瞼を薄らとこじ開けた視界は、ぼんやりと滲んでいた。日向の睫毛が微かに震えているが見えて、締め付けられるように胸が疼いた。
真っ昼間のコテージは窓から差し込む陽光に明るく照らされ、ゆったりとした時の流れが風に乗ってカーテンを揺らしている。
こんな時間に何をしてるんだろうと思うほど、背徳的な逸楽に沈まんとする感情を制御できない。
遠慮がちに肩に這わせるだけだった両手を、思い切って日向の首に回してみる。振り払われたらどうしよう、という不安を笑い飛ばすようにして、与えられる口付けが深くなった。
呼吸はますます苦しくなったけれど、拒まれないその事実だけが狛枝の胸にじんわりと沁み込むような歓喜をもたらした。
(このまま、死んじゃうかも……)
あるいは、それでもいいのかもしれない、なんて。
遠のいていく意識に身を委ねる狛枝の頬を、温かな指がスルリと撫でた。糸を引きながら離れた唇の名残惜しさに、掠れた熱い吐息が零れる。
「寝るなよ、お前」
見上げれば、少し不貞腐れたような日向の顔があった。ハッとして、すぐに首を左右に振った。
「ね、寝ないよ。ただちょっとふわふわしちゃっただけで」
「ふぅん。ならいいけど。退屈じゃないなら」
「退屈なんてとんでもない……!」
そんなものを感じる余裕が、一体どこにあったというのか。
むしろそれはこちらの台詞でもある。真っ昼間であろうがなんであろうが、日向が求めてくれるならこんなに嬉しいことはないというのに。
本当は、いつも誘ってくれる日向を自分から誘ってみるつもりでここに来た。すでに誰かと出かけているかもしれなかったし、自分なんかが声をかけるなんておこがましいことだと思いつつ、勇気を振り絞ったのだ。
そんな狛枝を、日向は笑顔で迎えてくれた。今ちょうど誘いに行こうとしていたところなんだ、という言葉のオマケ付きで。
夢でも見ているんじゃないかと思うほど嬉しくて、全身の穴という穴から色んな液体が噴出しそうだった。
グルグルと目を回す狛枝は、落ち着けよと宥められつつ今日の行先について相談をした。が、気づいたらなんとなくいい雰囲気になっていて、先に手を伸ばしてきたのは日向の方だった。
「ボクは、日向クンと一緒にいられるだけで……その……」
こんな風に押し倒される形で密着していると、何をどう言っていいのか分からなくなる。日向の顔が驚くほど近くにあって、今の今までキスをしていたというのに、恥ずかしくて見ていられなくなってしまう。
つい視線を背けてしまった狛枝の前髪が、日向の手によって掻き上げられる。普段は隠れている額に口付けられて、ビクンと肩が跳ねてしまった。
「わ、ぁ……!」
「そういう反応されるとさ……なんていうか、こう」
我慢できなくなるんだよな、という、まだ十分に少年らしさの残る声が耳元に押し付けられた。それだけで身体が火を噴きそうなほど熱くなる。
何か言わなくてはいけないような気がして、けれど何も返すべき言葉が見つからない。あったとしても、耳たぶに吸い付く湿った感触にあられもない悲鳴しか上げられない狛枝に、まともな言葉を紡ぐだけの余裕などなかった。
「ひゃ……ッ、ぁ、んッ!」
ちゅう、という音が鼓膜を震わせる。悪戯な舌が耳穴に押し入り、ぬめぬめと蠢いた。咄嗟に肩を竦め、厚い胸板を押し返そうとしても全く力が出ない。
日向は狛枝の弱々しい抵抗など全く意に介さず、執拗に耳朶に舌を這わせながらシャツの裾から手を差し込んできた。
下から上へと脇腹を撫でる手が、シャツを押し上げながらやがて胸へと這わされる。陽の光の下に二つの乳首が晒されて、狛枝は羞恥に身を染め上げることしかできなかった。
別に、見られたからといってどうということはない。でも、例えば海水浴をするとか、プールで遊ぶとか、これはそういう意味で人目に触れるのとは訳が違う。この先なにをするのか分かっているからこその、どうしようもない羞恥心だった。
「あっ、ぅ……!」
日向の指が、まだ柔らかいままの胸の一点に触れる。緩く乳輪をなぞられ、親指と人差し指で扱くようにクリクリと刺激されると、痛いようなむず痒いような不思議な感覚が腰のあたりから這い上がって来た。
狛枝が嫌々と首を振ると、耳から離れた日向の唇がもう片方の乳首に落とされる。最初は軽く吸い付き、それから緩く舌で転がされて。両方を万遍なく刺激されているうちに、胸の二点はぷっくりと腫れあがり、赤い果実のように色づいていく。
脳みそがどろどろに蕩けてしまいそうだと思った。
日向に触れられているというだけも、どうにかなってしまいそうなのに。
「ひな、た、ク……っ、も、そこ……ッ」
嫌だ、なんてハッキリと口にするのは、あまりにもおこがましいことだ。こんなゴミ虫のような自分が、そんな生意気なことは絶対に言えない。本当に嫌なわけでは決してないし、本音ではもっとして欲しいとも思っている。でも、このままでは本当に気が狂ってしまいそうな気もして、もう何がなんだか分からない。
ただ確かなのは、こんな風に感じ入っているのは自分だけ、ということ。
(ボクも……ボクも何かしなきゃ……このままじゃ日向クンが退屈しちゃう)
狛枝に緩く肩を押された日向がようやく顔を上げる。なぜか少し不満そうな目をしていて、やっぱり飽きかけていたんだと察する。
「なんだよ」
「ぁ、日向クン……ごめん。ボクなんかが、一人で気持ちよくなって……」
狛枝は震える指先で日向のワイシャツのネクタイに手をかけた。必死で解こうとするが、うまく力が入らない。余計に絡まるばかりのそれを見て、日向がひとつ溜息を零した。
「ご、ごめ」
「あのさ、お前って男のくせに、男のことなんにも分かってないんだよな」
「え、ぇ……?」
「お前だけじゃないよ。俺だって気持ちいいぞ」
目を丸くするばかりの狛枝に、頬を染めた日向がぶっきらぼうに言う。
「俺は俺がしたいことをさせてもらってるだけだし。それにさ、その……あぁ、くそ!」
日向は苛立ったように声を荒げると、上体を起こして狛枝を跨ぐように膝立ちになった。
自らネクタイを外し、ボタンが弾け飛ぶんじゃないかと心配になるくらい強引な手つきでシャツを脱ぐと、まとめてベッドの下に放り投げる。健康的に焼けた肌と、バランスよく引き伸ばされた筋肉が薄らと隆起する様が、昼間の明るさの中で眩しいくらいだった。
一連の動作と、幼い顔つきの割に逞しい身体をした日向に目を奪われていた狛枝は、射るような双眸に見下ろされて身を強張らせる。
「俺は狛枝が素直に感じてくれてるのが嬉しいんだ。声とか……可愛いし」
最後の一言は、あまりにもボソリと呟かれたせいでハッキリとは聞き取れなかった。
でも、少なくとも日向は退屈なんかしていなかった。それが分かっただけでも嬉しくて、涙が出そうだった。
シャイな日向は赤くなった顔を隠すようにして、再び覆いかぶさって来た。
すぐにまた何かしらされるのかと緊張に気を張り詰めていた狛枝だったが、ぎゅうと強く抱きしめられるだけで日向が動き出す様子はなかった。
心臓が口から飛び出しそうなくらいバクバクと音を立てていた。こうして肌を重ねるのは初めてのことではないのに、いつだって目が回りそうなくらい緊張してしまう。今日なんか特に、お互いの顔がよく見える分、普段の比ではなかった。だけど、それと重なるように同じくらい大きな心音を肌に感じた。
(日向クンも……凄くドキドキしてる……)
先刻、日向に言われた言葉を思い出す。
男のくせに、男の気持ちが分かっていないと。なら、今なにをどう言えば日向は喜んでくれるだろう。いつもの調子で自虐的なことを言えば、きっと怒らせてしまうに違いない。
狛枝は知らず知らずのうちにシーツを握りしめていた両手を、そっと日向の背に回した。ほんのりと汗ばむ素肌は手の平に吸い付くようで、多分きっと、今なら何を言っても拒まれないような、そんな勇気を与えてくれる気がした。
「日向、クン」
カラカラに乾いた喉で、か細く名前を呼んでみる。ん、と吐息混じりに返事を寄越す日向の耳元に、さっき彼がそうしたように唇を押し付けた。
「あのね、ボクのこと……滅茶苦茶に、してくれる……?」
日向の身体が一気に強張るのを感じた。
果たしてこの台詞で合っていただろうか。またお前は分かってない、なんて言われてしまうんだろうか。
不安に押し潰されそうになっている狛枝の耳元で、日向が大きく喉を鳴らす音が聞こえた。
それからの日向は、なんというか、それはもう激しかった。
噛んだり舐めたり、吸ったり擦ったり。身体中どこもかしこもいいようにされて、もはや今がまだ日中だとか、誰が通りかかるか分からないとか、そんなことを気にする余裕もなくただ身悶えて喘ぐしかできなかった。
胸の上までたくし上げられたシャツ以外、他は全て丸裸に剥かれても、恥ずかしがる暇すら与えてもらえないまま、心も身体もドロドロに溶かされてしまった。
「も、ッ、だ、め! ひにゃ、た、ク……ッ」
うつ伏せでシーツに縋りつき、膝を立てて尻だけを高く突き出す狛枝が、日向の節くれだった指を三本も飲み込むようになった頃。
もう舌さえも回らなくなった情けない声に、日向が小さく吹き出すのが分かった。
「なんだよ、ひにゃたクンって」
「あ、ぁ、あ……ッ、んっ、んうぅ……!」
三本の指が器用に中を広げながら引き抜かれ、背筋を駆け抜ける快感に腰が跳ねる。開きっぱなしの口端からは次から次へとだらしなく唾液が零れ落ち、馬鹿になってしまった涙腺からは生理的な涙が後を絶たない。
腹につくほど形を変えた性器も、先端から止めどなく先走りの蜜を振りまいていた。
狛枝はシーツを掻き毟るように乱しながら、無理に首を捻って背後の日向に顔を向ける。
「も、ぉ、ダメ、だよ……ッ、入れ、て! ひにゃた、クンの……ッ!」
これ以上続けられたら、本当にどうにかなってしまう。その前に、日向のものが欲しかった。じゃなきゃ、本当に一人で楽しむだけ楽しんで終わってしまいそうな気がする。日向にもよくなって欲しい。こんなちっぽけな身体でも、許されるなら。
狛枝の反応を見て、日向も先刻からずっと息を荒げていた。きっと彼もそうしたいと思ってくれているに違いない。狛枝は両腕を後方に伸ばし、薄い尻の肉にそれぞれ手を這わせると、これ以上ないくらい割開いて幾度も腰を捩った。醜い姿だと理解はしていても、自分の痴態を止める術がない。
「おねが、い……! ね、ボクの、ここ、使って……!」
「ッ……!」
「緩くて、あんまり、よくないかもしれないけど……いっぱい使って、好きにして、いいから……ッ」
「……あのなぁ!」
声を荒げた日向に強引に身体を引っくり返される。あまりに唐突で、舌を噛みそうになりながらぎゅっと目を閉じた。
また間違ったことを言ってしまったのかと、恐る恐る瞼を開けて見上げれば、案の定少し怒ったような顔をした日向と至近距離で目が合った。
「ぁ、あ……ごめ、ボク……」
「使えとか緩いとか、そういう言い方するなよな!」
「だ、だって、ボクなんか……」
「それ以上言ったら本気で怒るぞ!」
「お、怒らないで……嫌いに……」
「なるわけないだろ! バカ!」
やっぱり怒らせてしまったのだと、狛枝はせめてこれ以上日向の気を損ねまいと震える唇を噛み締めた。
日向は険しい表情のまま狛枝の両足を割り開くと、焦ったような手つきで自らの前を寛げる。すっかり見慣れた柄の下着をほんの僅かに下げただけで、反り返った性器が勢いよく飛び出してきた。
明るい光の下で見るそれは、思っていたよりも大きくて逞しかった。思わず瞬きも忘れて息を飲む狛枝に見せつけるように、日向はそれを右手に持って幾度か扱く。
こんな立派なブツが、つい最近まで未使用のまま眠らされていたなんて。
「お前のことが好きだから、こんな風になるんだからな」
「ッ……!」
脈打つ屹立が、散々指を咥えこんで慣らされた尻穴にぐっと押し付けられる。貫かれる衝撃を知っている身体が、無意識に強張った。
握りしめた両手を胸の上で震わせる狛枝の顔をチラリと見て、日向はゆっくりとその先端を潜り込ませてくる。
「ッ、ぅ……んぐ、ぅ……!」
狛枝は唇を噛み締めたまま、その衝撃に耐えた。
どれほど慣らされたとはいえ、そこは本来なら受け入れるための場所ではない。かろうじて痛みはないが、圧迫感に息が詰まる。
日向の手が小刻みに震える狛枝の両膝をそれぞれ掴んだ。彼はこちらの表情や反応を注意深く窺いながら腰を進め、時折「大丈夫か?」と吐息混じりに確認してくる。
狛枝は握ったままの拳を口元に押し当て、何度も首を縦に振った。構わず一気に貫いてくれても構わないのに、額に大粒の汗を滲ませ、堪えるように奥歯を噛み締めながらも労わろうとする日向の気遣いに心が震える。
普段は夜のコテージで、灯りもつけずに交わることが多いから。こんな風に苦しそうな顔をしているなんて、知らなかった。
「ッ、お、まえ……そんな、締めるなって……っ」
「ひな、ッ、ぁ、ごめ……ッ」
胸の疼きがそのまま身体の奥の強張りに繋がってしまった。無意識に力んでしまったせいか、締め付けの鋭さに日向が喉を唸らせる。
このままではきっと苦しいだけだ。肉棒はようやく半分ほどが収まった程度で、日向は一度動きを止めると大きく息ついて呼吸を整えはじめる。
こんなに身も心も蕩けきっているのに、どうしてこの身体は日向の形に馴染んでくれないのだろう。やっぱり自分は何をやってもダメな人間だ。ちょっと優しくされたぐらいで愛されているような気になって、結局は大好きな人の性欲すらまともに満たせない。
(日向クン……ごめん……ごめんね……。ボクなんかじゃキミを気持ちよくさせてあげられない……身体まで出来損ないだなんて、本当にボクはどこまでも絶望的で、ダニにも劣るゴミクズ人間だよ……)
「それは、違うぞ」
「え……?」
自分を責めるばかりの狛枝の心を読んだかのように、日向が否定の言葉を口にした。
そのまま両腕を取られ、首に回すように導かれる。されるがまま素直に抱き付くと、日向は満足そうに微笑んで狛枝の涙や汗に濡れた頬に小さな口付けを落としてきた。そして。
「凪斗」
「ッ……!?」
耳元で、名前を呼ばれた。狛枝ではなく、凪斗、と。
それは魔法のように狛枝の心を甘く蕩かした。身体から一気に力が抜けて、何も考えられなくなってしまう。日向の首にしがみついていなければ、このままふわふわとどこか遠くへ飛んで行ってしまいそうだった。
酩酊状態。まさに、そんな感じ。ずるい。こんなの、反則だ。
好機とばかりに日向の腕が狛枝の腰を抱く。ぐ、ぐ、と身体の奥深くまで熱の塊が押し入って来る感覚に、狛枝は甲高い子犬のような悲鳴を上げる。
「ひぁ、アッ、ああぁ――……ッ!!」
「う、ぁ……!」
日向の甘い呻きが心地いい。身体の隅々まで、余すところなく満たされたような気がした。ギリギリまで伸ばされた襞の感覚に、奥まった場所が痛いほど痺れていた。
自分でも触れたことのないような場所で、日向自身が脈打っている。二人の身体に挟まれるようにして天を仰ぐ狛枝自身も、断続的にビクビクと小さく跳ねていた。
日向は狛枝をきつく抱いて、ゆっくりと小刻みに腰を動かし始めた。その度に狛枝の身体がカクンカクンと上下に揺れる。
「あ、あッ……ひぅ、アっ……ん、ぅ!」
内臓を直接押し上げられているような圧迫感と、内壁を強く擦られる快感とで、溺れたみたいに息が苦しい。
徐々に早まる動きの激しさにベッドが軋む音を聞きながら、あまりにも刺激的すぎる律動に嫌々と首を振る。日向の唇が薄い首筋の皮膚を痛いほど吸い上げ、狛枝はその太く硬い髪に指を通してぐしゃぐしゃと乱しながらこれ以上ないくらい身悶えた。
突き上げられる度に頭の奥が痺れて堪らない。
「ひな、ぁッ、た、ク……ッ、んぅ、ぁ、きも、ち、ぃ……ッ」
「俺も……ッ、俺も、凄くいい……狛枝……!」
「ね、ぇ! 好きッ、て……ッ、ん、言って、い、ぃ?」
「ッ、こ、の……バカ……ッ」
身体中を真っ赤に染め上げた日向の、いちいち聞くなよ、という声を聞いた途端に、狛枝は壊れたオモチャのように「好き」という言葉を繰り返した。
好き、好き、大好き。もっと、もっと。そう言って日向と同じタイミングで腰を跳ねるように動かした。日向の呼吸がどんどん荒くなる。はち切れそうなほど膨らんだ狛枝自身も、律動に合わせて揺れながら涎を垂らし、ぬるぬると脇腹を滑り落ちていく。
「もっ、ア、やぁ、あ……! イッ、く! いく、ボク、もぉ……!!」
「狛枝、一緒に……ッ」
目の前で幾つもの白い火花が飛び散るのが見えた気がした。
ビン、と爪先を張り、声にならない悲鳴を上げて狛枝が先に射精した。ひ、ひ、と脆弱な呼吸を繰り返しながら激しく身を震わせる狛枝の中から、日向の性器が一気に引き抜かれる。
「ぅ、ッ、ぁ……!」
低い呻きと共に、日向が吐き出した白濁が狛枝の腹に飛び散った。二人分の精液が溶けるように混ざり合う。
断続的な痙攣を繰り返したまま、絶頂の余韻から抜け出せない狛枝は倒れ込んできた日向の頬に自分の頬を擦りつける。途切れそうな意識で無防備に甘える狛枝の耳に、日向の「好きだぞ」という声が柔らかく沁みこんだ。
窓から差し込む光は昼間のものから夕焼け色に変わっていた。
あのあとも散々戯れて、何度か繋がって、今は二人並んでベッドにダラダラと寝そべっている。シャワーを浴びたい欲求はあるものの、下半身の感覚がすっかり麻痺して動くのがひたすら億劫だった。この調子では、夕食をとりに行けるかどうかも微妙なところだ。
「生きてるか?」
日向が軽く半身を起し、気遣わしげに顔を覗き込んでくる。狛枝はまだどこかぼんやりとした頭で、微かに笑うと頷いた。
「なんとか大丈夫、かな?」
「……悪かったよ」
「?」
狛枝が小首を傾げると、日向は照れ臭そうに頬を指先で幾度か引っ掻いた。
「いや……結局どこにも行けなかったしさ。先に手を出したのも俺だし」
それは違うよと、狛枝は心の中でポツリと吐き出す。
拒まなかったのは自分だし、結局のところ日向と一緒にいられるなら、どこだって構わないのだから。ただ。
「なんかボクたち、凄く爛れた大人になってしまったような気がするね」
何気なく放った言葉に、日向が軽く吹き出した。
「ッ、た、爛れたって、お前な……」
「だってお昼だよ? みんなが健全に外で過ごしてるのに、ボク達ときたら」
「わ、分かった。分かったよ。だから俺が悪かったって言ってるだろ」
「謝っちゃやだよ。ボクは凄く嬉しかったんだから」
普段は見れないものが、色々と見れたのだから。
日向がどんな顔をして、反応をして、労わってくれていたかを存分に知ることができた。
顔を赤くした日向は、口の中でごにょごにょと何かを言いかけて、やがて諦めたようにシーツに深く沈みこんだ。
ぴったりと身を寄せ合って、そのまま何気ない沈黙が流れる。心地よい静けさの中、狛枝はどんどん瞼が重くなっていくのを感じた。
「あのさ」
気づけば日向の指先が狛枝の髪を緩く弄んでいる。なんだかくすぐったくて、小さく肩を竦めた。
「明日は、走るか。砂浜で」
それはちょっと嫌かな、なんて思ったけれど、それで日向が今日の帳尻を合わせたいなら文句を言うつもりはなかった。
いつもなら、やんわりと断っているところだけど。
「あは、いいね。それ、凄く健全だよ」
何より、明日も一緒に過ごせることを彼が約束してくれたことが、とても嬉しい。
「誘いに行くからな。待ってろよ」
「ん、待ってる」
蕩けるような安堵感に身を任せて、狛枝は微笑みながらまどろみに落ちていった。
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