2025年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
※承太郎視点
「花京院くん、凄い顔色よ!」
女の大きな声がして、承太郎の意識は一気に浮上した。
(なんだ、うるせえな)
保健室に人の気配がないのをいいことに、勝手に入り込んで気持ちよく寝ていたというのに。
いつの間にかここの主が戻り、しかも客まで来たとみえる。
承太郎はベッドに寝そべったまま声のする方へ目を向けた。
しっかりと四方をカーテンで囲まれているようでいて、僅かに隙間が空いている。そこからちょうど、赤い髪をした男子生徒の背中が見えた。
「すみません、少し休ませてもらえますか。昼休みの間だけでいいので」
「もちろんよ。その前に、熱を測りましょう」
「いえ、いいです。いつものことですし、少し横になれば……」
「だぁめ! ほら見なさい! 熱っぽい!」
「うわちょっと、先生……ッ」
承太郎の方からは男子生徒の背中以外、二人の様子はほとんど見えない。
だが察するに、女医の手が彼の額に触れたらしい。その白いワイシャツに包まれた背中が僅かに後方に傾き、肩をびくつかせるのが見えた。
(ふん。なるほどな)
その様子を見て、承太郎は微かに笑う。
男子生徒の顔までは分からないものの、その耳が赤く染まっているのがしっかりと見えた。大人しそうな印象を受ける彼の動きと一緒に、赤いピアスが揺れているのを少し意外に感じる。
まるでさくらんぼのような形のそれがキラキラと光り輝くのがやけに眩しくて、承太郎は猫のように目を細めた。もしかして、女物だろうか。
それにしても、なんとも甘酸っぱい光景である。
承太郎は微かに鼻を鳴らすと、もう一眠りするかと目を閉じた。
今が昼休みということは、迂闊に廊下に出れば煩い女共と遭遇する可能性があるということだ。
出ていくなら、授業が始まるギリギリの頃合いがいいだろう。
しばらくすると、室内が静寂で満たされた。
ポケットから時計を取り出し、時刻を確認すると、ちょうど午後の授業が始まる5分ほど前だった。
承太郎はのっしりと起き上がり、欠伸を噛み殺すと立ち上がる。午後くらいは真面目に授業に出るかとカーテンを開ければ、そこに女医の姿はなかった。
代わりに、隣のベッドに人が横たわっているのが、風に揺らめくカーテンの隙間から窺い知れた。耳を澄ませば、微かな寝息が聞こえてくる。
承太郎にとってそれはほんの些細な、気紛れだった。
一歩一歩、隣のベッドへ近づくと、ひらひらとはためくカーテンをそっと開ける。
女物のピアスを恥ずかしげもなくぶら下げる男のツラがどんなものかを、なんとなく見てやろうと思ったからだ。
そしてその寝顔を見た瞬間、息をのむ。
「ッ……!」
時間が止まったような気がした。
胸を掴まれるという感覚は、こういうことを言うのかもしれない。
幼さの残る寝顔は無防備そのもので、時おり微かに長い睫毛がぴくりと動く。うっすらと開かれた少し大きめの唇は、自宅の庭に毎年咲く桜の花弁と同じく、薄紅色をしていた。決して女顔というわけではないのに、両耳の赤いピアスが不思議とよく似合っている。そのどこか危ういバランスに、胸の奥がちりちりと疼くのを感じた。
規則正しく胸を上下させる寝姿に釘づけになりながら、承太郎は漠然と思う。
(こいつだ)
と。
そこに理屈は存在しなかった。
ただどうしてか確信めいたいものがあった。
多分、この無防備な寝顔をさらす少年は、一生涯この自分の傍にいるだろうと。
決して目には見えないはずの糸が、そこに見えた気がして。
恋と呼ぶには漠然としていて、なのに最初から少しばかり重たい感情だった。だけどなぜかしっくりと胸に溶け込む。
こいつは、おれのものだと。
承太郎は足音を立てぬよう、静かにベッドサイドへと歩みを進めた。両手はポケットに突っこんだまま身を屈め、薄く開く唇にそっと口付ける。柔らかな感触は、仄かに熱をはらんでいた。
「てめーはおれがもらったぜ。花京院」
女医は、確かそう呼んでいた。
おそらく苗字だろうが、花のように色づく唇をもつ彼に、よく似合っている。
承太郎は歯止めがきかなくなる前にと、姿勢を正してベッドから離れた。眠る花京院を閉じ込めるようにカーテンをしっかりと引き、保健室を出て行こうとする。
だが、そこに主が戻って来た。
「あら寝ぼすけさん、やっとお目覚め?」
女医だ。
当たり前といえばそうだろうが、彼女は承太郎が勝手にベッドを使って寝ていたことに気がついていたようだ。
うふふと楽しそうに笑う表情は確かに大人の女のそれで、男子生徒の一人や二人、ふらりと恋に落ちてもおかしくはない。それが花京院でさえなければ、いっさい気にも留めないのだが。
(この女、邪魔だな)
そう感じた瞬間には、承太郎は彼女に向かってうっすらと笑いかけていた。
女医の白衣に包まれた華奢な肩が、微かに揺れた。白い頬に一瞬にして紅色がのぼるのを確かめてから、承太郎は女医に向かって足を進める。
先刻までの笑顔はどこへやら、女医は惚けたように唇をぽかりと開けて、承太郎の表情に見入っている。
ああ、なんて簡単なことだろう。少し微笑みかけて見せるだけで、女はただの雌になる。
「どうも身体が火照って仕方ねえ」
腕を伸ばして、その肩を抱いた。顎に指先を添えて上向かせると、熱に浮かされたように潤む瞳を覗き込む。
「熱、はかってみちゃくれねえか。なぁ、先生?」
*
「ッ……!」
食いちぎられそうなほど強い締め付けから自身を引き抜いて、承太郎は短く息を詰める。
背後から貫かれていた花京院は、糸が切れたようにくったりと横倒しになった。
我ながら性急すぎたかと、そのまま動かなくなった身体を見て思う。けれど、後悔はなかった。
挿れただけで酷く泣きじゃくる花京院は、まさしく哀れとしか言いようがなかった。だが、彼を犯したことにこの上ない安堵と幸福感を覚えたことも事実で、自身の快楽を満たすことなど二の次に思えた。
ただ受け入れさせたまま前を扱いてやると、花京院は甘ったるい声をあげて達した。びくびくとのたうつ身体を腕の中に閉じ込める感覚は、承太郎にえもいわれぬ喜びを与えてくれた。
多分、身体の相性は悪くない。男を抱いたのは初めてだが、真面目そうな顔をして、花京院の身体は酷く快感に従順であることもわかった。
「堪らねえな」
挿入しただけで終わった自身は、いまだ激しく脈打ったままだ。
花京院の声やその反応を思い返すだけで、再び突き入れて今度は思うが儘に貪り尽したいという欲が生まれる。
承太郎は、花京院が放った白濁を勃起したままの自身に塗りたくる。そしてそれを、横倒しになってぴったりと閉じられている太腿にぬるりと差し込んだ。
汗ばむ内腿にはほどよく筋肉がついている。女のように包み込むような柔らかみはないが、傷一つない花京院の白い肉を犯しているのだと思うと、血管が破裂しそうなほどの興奮と快感が競り上がる。
承太郎が腰を打ち付けると、力なくベッドに伏せる花京院の身体もかくんかくんと上下に揺れ動いた。勿論、ピアスも踊る。
「ッ、かきょう、いん……ッ」
名前を呼ぶと、花京院の肩がぴくりと跳ねた。
そのまま幾度か内腿の隙間に擦りつけてから、達する瞬間に引き抜く。勢いよく噴き出す白濁で花京院の尻を汚し、さらに先端を擦りつけると大きく息を吐き出した。
その後、手早く花京院の身体を清めて、衣服やベッドの乱れをある程度整えてやった。花京院は死んだように深く眠り込んでいたが、赤く染まったままの頬や目元が愛しくて、汗を含んだ赤い髪を優しく撫でる。
指先から伝わる熱が甘ったるくて仕方がなかった。これが恋ってやつなのか、なんて、柄じゃないようなことを思うと少し照れ臭かったが、なかなか悪くない。
「明日も来いよ。とりあえず、ここで昼寝でもして待ってるぜ」
そう言うと、花京院がうっすらと目を開けた。
まだ半分以上は夢の中にいるようで、焦点の合わないとろんとした瞳を見て承太郎は微かに笑った。
「またな、花京院」
前髪を手の平でそっと押し上げながら、その額にキスをした。花京院は長い睫毛を震わせながら再び目を閉じ、小さく頷く。
色づく唇がうっすらと笑みの形を浮かべているのを見つめながら、承太郎は明日からの学校生活に胸を膨らませる。それからふと、自分の指先に視線を落とす。
(爪、切るか)
花京院の二の腕を傷つけた指先には、僅かに血がこびりついていた。階段で今にも崩れ落ちそうになっていた花京院を見つけたのは偶然だったが、咄嗟のこととはいえ力加減を誤ったことを後悔する。
そういえば抱き上げた花京院の身体は見た目に反していやに軽く、それなりに出来上がっているようでいて、実は未熟であることが即座に分かった。とりわけ、腰の細さには驚かされた。
承太郎は腕を組み、真剣な面持ちで深く頷く。
「飯だな、飯」
明日からは二人分の弁当を母に頼もう。毎日せっせと美味い飯を食わせてやったら、この花京院はどうなっていくだろう。あどけなさの残る頬が丸みを帯びてこようものなら、さぞかし可愛いに違いない。今でも申し分ないくらい、可愛いが。
こうして花京院のことばかり考えているだけでこんなにも胸が踊るというのに、これから毎日彼を側に置く生活はどれほど幸せなものになるのだろうか。
承太郎は身を屈め、花京院のひと房だけ長い前髪を掬い上げるとキスをする。
「愛してるぜ、花京院」
深く深く眠り込む花京院に承太郎の気持ちが伝わるのは、まだ当分、先のことになるのだけれど。
←戻る ・ Wavebox👏
「花京院くん、凄い顔色よ!」
女の大きな声がして、承太郎の意識は一気に浮上した。
(なんだ、うるせえな)
保健室に人の気配がないのをいいことに、勝手に入り込んで気持ちよく寝ていたというのに。
いつの間にかここの主が戻り、しかも客まで来たとみえる。
承太郎はベッドに寝そべったまま声のする方へ目を向けた。
しっかりと四方をカーテンで囲まれているようでいて、僅かに隙間が空いている。そこからちょうど、赤い髪をした男子生徒の背中が見えた。
「すみません、少し休ませてもらえますか。昼休みの間だけでいいので」
「もちろんよ。その前に、熱を測りましょう」
「いえ、いいです。いつものことですし、少し横になれば……」
「だぁめ! ほら見なさい! 熱っぽい!」
「うわちょっと、先生……ッ」
承太郎の方からは男子生徒の背中以外、二人の様子はほとんど見えない。
だが察するに、女医の手が彼の額に触れたらしい。その白いワイシャツに包まれた背中が僅かに後方に傾き、肩をびくつかせるのが見えた。
(ふん。なるほどな)
その様子を見て、承太郎は微かに笑う。
男子生徒の顔までは分からないものの、その耳が赤く染まっているのがしっかりと見えた。大人しそうな印象を受ける彼の動きと一緒に、赤いピアスが揺れているのを少し意外に感じる。
まるでさくらんぼのような形のそれがキラキラと光り輝くのがやけに眩しくて、承太郎は猫のように目を細めた。もしかして、女物だろうか。
それにしても、なんとも甘酸っぱい光景である。
承太郎は微かに鼻を鳴らすと、もう一眠りするかと目を閉じた。
今が昼休みということは、迂闊に廊下に出れば煩い女共と遭遇する可能性があるということだ。
出ていくなら、授業が始まるギリギリの頃合いがいいだろう。
しばらくすると、室内が静寂で満たされた。
ポケットから時計を取り出し、時刻を確認すると、ちょうど午後の授業が始まる5分ほど前だった。
承太郎はのっしりと起き上がり、欠伸を噛み殺すと立ち上がる。午後くらいは真面目に授業に出るかとカーテンを開ければ、そこに女医の姿はなかった。
代わりに、隣のベッドに人が横たわっているのが、風に揺らめくカーテンの隙間から窺い知れた。耳を澄ませば、微かな寝息が聞こえてくる。
承太郎にとってそれはほんの些細な、気紛れだった。
一歩一歩、隣のベッドへ近づくと、ひらひらとはためくカーテンをそっと開ける。
女物のピアスを恥ずかしげもなくぶら下げる男のツラがどんなものかを、なんとなく見てやろうと思ったからだ。
そしてその寝顔を見た瞬間、息をのむ。
「ッ……!」
時間が止まったような気がした。
胸を掴まれるという感覚は、こういうことを言うのかもしれない。
幼さの残る寝顔は無防備そのもので、時おり微かに長い睫毛がぴくりと動く。うっすらと開かれた少し大きめの唇は、自宅の庭に毎年咲く桜の花弁と同じく、薄紅色をしていた。決して女顔というわけではないのに、両耳の赤いピアスが不思議とよく似合っている。そのどこか危ういバランスに、胸の奥がちりちりと疼くのを感じた。
規則正しく胸を上下させる寝姿に釘づけになりながら、承太郎は漠然と思う。
(こいつだ)
と。
そこに理屈は存在しなかった。
ただどうしてか確信めいたいものがあった。
多分、この無防備な寝顔をさらす少年は、一生涯この自分の傍にいるだろうと。
決して目には見えないはずの糸が、そこに見えた気がして。
恋と呼ぶには漠然としていて、なのに最初から少しばかり重たい感情だった。だけどなぜかしっくりと胸に溶け込む。
こいつは、おれのものだと。
承太郎は足音を立てぬよう、静かにベッドサイドへと歩みを進めた。両手はポケットに突っこんだまま身を屈め、薄く開く唇にそっと口付ける。柔らかな感触は、仄かに熱をはらんでいた。
「てめーはおれがもらったぜ。花京院」
女医は、確かそう呼んでいた。
おそらく苗字だろうが、花のように色づく唇をもつ彼に、よく似合っている。
承太郎は歯止めがきかなくなる前にと、姿勢を正してベッドから離れた。眠る花京院を閉じ込めるようにカーテンをしっかりと引き、保健室を出て行こうとする。
だが、そこに主が戻って来た。
「あら寝ぼすけさん、やっとお目覚め?」
女医だ。
当たり前といえばそうだろうが、彼女は承太郎が勝手にベッドを使って寝ていたことに気がついていたようだ。
うふふと楽しそうに笑う表情は確かに大人の女のそれで、男子生徒の一人や二人、ふらりと恋に落ちてもおかしくはない。それが花京院でさえなければ、いっさい気にも留めないのだが。
(この女、邪魔だな)
そう感じた瞬間には、承太郎は彼女に向かってうっすらと笑いかけていた。
女医の白衣に包まれた華奢な肩が、微かに揺れた。白い頬に一瞬にして紅色がのぼるのを確かめてから、承太郎は女医に向かって足を進める。
先刻までの笑顔はどこへやら、女医は惚けたように唇をぽかりと開けて、承太郎の表情に見入っている。
ああ、なんて簡単なことだろう。少し微笑みかけて見せるだけで、女はただの雌になる。
「どうも身体が火照って仕方ねえ」
腕を伸ばして、その肩を抱いた。顎に指先を添えて上向かせると、熱に浮かされたように潤む瞳を覗き込む。
「熱、はかってみちゃくれねえか。なぁ、先生?」
*
「ッ……!」
食いちぎられそうなほど強い締め付けから自身を引き抜いて、承太郎は短く息を詰める。
背後から貫かれていた花京院は、糸が切れたようにくったりと横倒しになった。
我ながら性急すぎたかと、そのまま動かなくなった身体を見て思う。けれど、後悔はなかった。
挿れただけで酷く泣きじゃくる花京院は、まさしく哀れとしか言いようがなかった。だが、彼を犯したことにこの上ない安堵と幸福感を覚えたことも事実で、自身の快楽を満たすことなど二の次に思えた。
ただ受け入れさせたまま前を扱いてやると、花京院は甘ったるい声をあげて達した。びくびくとのたうつ身体を腕の中に閉じ込める感覚は、承太郎にえもいわれぬ喜びを与えてくれた。
多分、身体の相性は悪くない。男を抱いたのは初めてだが、真面目そうな顔をして、花京院の身体は酷く快感に従順であることもわかった。
「堪らねえな」
挿入しただけで終わった自身は、いまだ激しく脈打ったままだ。
花京院の声やその反応を思い返すだけで、再び突き入れて今度は思うが儘に貪り尽したいという欲が生まれる。
承太郎は、花京院が放った白濁を勃起したままの自身に塗りたくる。そしてそれを、横倒しになってぴったりと閉じられている太腿にぬるりと差し込んだ。
汗ばむ内腿にはほどよく筋肉がついている。女のように包み込むような柔らかみはないが、傷一つない花京院の白い肉を犯しているのだと思うと、血管が破裂しそうなほどの興奮と快感が競り上がる。
承太郎が腰を打ち付けると、力なくベッドに伏せる花京院の身体もかくんかくんと上下に揺れ動いた。勿論、ピアスも踊る。
「ッ、かきょう、いん……ッ」
名前を呼ぶと、花京院の肩がぴくりと跳ねた。
そのまま幾度か内腿の隙間に擦りつけてから、達する瞬間に引き抜く。勢いよく噴き出す白濁で花京院の尻を汚し、さらに先端を擦りつけると大きく息を吐き出した。
その後、手早く花京院の身体を清めて、衣服やベッドの乱れをある程度整えてやった。花京院は死んだように深く眠り込んでいたが、赤く染まったままの頬や目元が愛しくて、汗を含んだ赤い髪を優しく撫でる。
指先から伝わる熱が甘ったるくて仕方がなかった。これが恋ってやつなのか、なんて、柄じゃないようなことを思うと少し照れ臭かったが、なかなか悪くない。
「明日も来いよ。とりあえず、ここで昼寝でもして待ってるぜ」
そう言うと、花京院がうっすらと目を開けた。
まだ半分以上は夢の中にいるようで、焦点の合わないとろんとした瞳を見て承太郎は微かに笑った。
「またな、花京院」
前髪を手の平でそっと押し上げながら、その額にキスをした。花京院は長い睫毛を震わせながら再び目を閉じ、小さく頷く。
色づく唇がうっすらと笑みの形を浮かべているのを見つめながら、承太郎は明日からの学校生活に胸を膨らませる。それからふと、自分の指先に視線を落とす。
(爪、切るか)
花京院の二の腕を傷つけた指先には、僅かに血がこびりついていた。階段で今にも崩れ落ちそうになっていた花京院を見つけたのは偶然だったが、咄嗟のこととはいえ力加減を誤ったことを後悔する。
そういえば抱き上げた花京院の身体は見た目に反していやに軽く、それなりに出来上がっているようでいて、実は未熟であることが即座に分かった。とりわけ、腰の細さには驚かされた。
承太郎は腕を組み、真剣な面持ちで深く頷く。
「飯だな、飯」
明日からは二人分の弁当を母に頼もう。毎日せっせと美味い飯を食わせてやったら、この花京院はどうなっていくだろう。あどけなさの残る頬が丸みを帯びてこようものなら、さぞかし可愛いに違いない。今でも申し分ないくらい、可愛いが。
こうして花京院のことばかり考えているだけでこんなにも胸が踊るというのに、これから毎日彼を側に置く生活はどれほど幸せなものになるのだろうか。
承太郎は身を屈め、花京院のひと房だけ長い前髪を掬い上げるとキスをする。
「愛してるぜ、花京院」
深く深く眠り込む花京院に承太郎の気持ちが伝わるのは、まだ当分、先のことになるのだけれど。
←戻る ・ Wavebox👏
そのあとの承太郎の甲斐甲斐しい世話の焼きようと言ったらなかった。
花京院が意識をすっ飛ばしている間に濡れタオルで手早く身体を清め、しっかりと衣服やシーツを整え、その間にふっと目を覚ました花京院が声を発そうとして噎せれば、口移しで水まで飲ませてくれる始末だった。
花京院が意識を失っていたのはものの十数分の間だったが、気づけば何事もなかったかのように、ただベッドの縁に腰かける承太郎の胸にもたれかかっているという有様である。
「あの、承太郎」
「ん」
「そろそろ離してくれると……ありがたいのだが……」
承太郎は腕の中にいる花京院の頭部に顔を埋めて、一息ついている。まるでぬいぐるみか抱き枕にでもなったような気分だ。
いや、むしろこちらが大きなクマのぬいぐるみに抱き付かれている、と表現した方がしっくりくるだろうか。
とはいえ、ここはまだ学校の保健室だ。誰が来たっておかしくないような場所で、よくもまぁあれほど激しく抱き合ったものだと思うと、今更のように血の気が引くのを感じてしまう。
しかも、一体いまは何時だろうか。
気がつけば夕焼け色に包まれていた空間には、いくらか闇が混じり始めている。校庭から聞こえていた生徒たちの声は消え、夜の匂いを纏う風がカーテンを揺らしていた。
「じょ、承太郎ってば」
身じろぐ花京院を、承太郎はさらに強く抱きしめて「もう少し」と呟いた。
「やっと誤解も解けててめーと結ばれたんだ。もう少し浸らせろ」
「……言っておくが、誤解は完全に解けちゃあいないぞ」
この際あの女医を誘惑した理由については、複雑ではあるが信じよう。彼女に最後まで手を出していないという点も含めて。
だけどあのキスシーンに関しては、完全に納得したわけじゃない。別れの延長とかなんとか言っていた気がするが、最後にキスをしてさようなら、なんてファンタジーやメルヘンじゃあるまいし。
「なんだ、怒ってんのか」
「怒ってる、というか……見たくなかったな、と思って」
俯く花京院に、承太郎は珍しく気まずげな溜息を漏らした。
「てめーが納得しようがしまいが、おれは真実しか言えねえ」
「……うん」
「あんときゃあの女医に呼ばれて、妊娠やら結婚の話を聞いた。いわゆる別れ話ってやつだ。おれも女医が結婚してるなんざ知らなかったからな。ちょっぴり驚かされたぜ」
ファンタジーやメルヘンのような世界が、実際そこにはあったらしい。
承太郎に別れを切り出した女医は、最後に一度だけキスがしたいと涙ながらに縋ったという。それで全て忘れるからと。
その話を聞いて、花京院はただ複雑な心境を持て余すばかりだった。
彼女は承太郎に惑わされただけだ。彼の心が全く別のところにあるとも知らず、その気にさせられていたにすぎなかった。
だからこそ別れ話、というワードがあまりにも滑稽で、最後のキスに断腸の思いを込めた彼女を哀れに思う。
同時に、自分に嫌悪感が沸いた。
(承太郎よりもよほど、ぼくの方がずっと性格が悪い)
一度は憧れを抱いた女性を憐れみながら、花京院は安堵と喜びを同時に覚えていた。むしろ全ての女性に対しての優越感、かもしれない。
信じられないような話だけれど、あの空条承太郎がこうして腕に抱いているのが、他の誰でもないこの自分なのだということに。
花京院は承太郎の喉元に額を擦りよせ、自嘲的な笑みを浮かべる。すると承太郎の手が花京院の顎にかかり、そっと上向かされると同時に唇が重なった。
優しく幾度も繰り返されるキスはまるで許しを請うようで、何もかもどうでもよくなってしまうから、ずるいと思う。
思わずムッとした表情を浮かべる花京院を見て、承太郎は少し不貞腐れたように「なんだよ」と言った。
それが無性に可愛く見えてしまって、末期だなぁと自分に呆れる。
「そうやって、最初からちゃんと言ってくれたらよかったんだ」
気恥ずかしさから、つい口調が刺々しくなるのを止められない。
「大体な、君は言葉が足りないんだ。そのせいで、ぼくは君が男も女も関係なくたらしこむ、とんだ遊び人だと思い込んでいたよ」
「おれはシンプルに態度で示してたつもりだぜ」
「その遠回しに察しろオーラ出すのやめてくれるか」
「……遊びで野郎のケツなんざ掘れるかよ」
「そ、そういう言い方するなッ、いたた……」
大声を出しかけたせいで、腰に響いた。実のところ、さきほどからずっと腰が抜けたような違和感があって、あらぬ場所には鈍痛を覚えている。咄嗟に腰を押さえると、承太郎はいつもの「やれやれ」という口癖を放ちながら、花京院の耳たぶに口付けた。
「最初に目についたのはこの赤い髪と……ピアスだ」
「ピアス?」
「妙にキラキラして見えてよ。ようわからんが、ありゃ一目惚れってやつかもな」
言葉が足りないという文句を聞き入れたのか、小さな子供に寝物語でも聞かせるみたいに、承太郎は静かに語る。
「おまえを初めて見たのはまさにこの場所だぜ。てめーは気づいちゃいなかったろうがな」
その日は偶然ここを昼寝の場所に選んだ。ただそれだけだったのだと、承太郎は言った。花京院は保健室の常連だったから、それがいつのことだったのかは、ハッキリとは分からないけれど。
「一目見た瞬間、こいつだと直感した。見えない糸があるんだとしたら、おれとてめーは繋がってるってな。それこそ男も女も関係ねえ。そのときから、ずっとてめーだけを愛してる」
花京院は唇を噛み締めるばかりで、何一つ言葉を発することができなかった。
一目惚れとか、見えない糸とか。そんなことを恥ずかしげもなく言ってのけるものだから、こちらの方が恥ずかしくて仕方がなくなってしまう。
「これで足りたかよ。言葉」
「…………」
花京院はどうしたらいいのか分からなくて泳がせた目を、自分の肩を抱く承太郎の指先でふと止めた。相変わらず短く爪が切り揃えられているそこは、深く切りすぎて赤くなっている部分もある。
だから少し、泣きたくなった。
承太郎は優しかった。最初からずっと。
強引に奪いながらも、いつも花京院の身体を労わってくれていた。毎日のように巨大な弁当箱を引っさげて来たり、時間の許す限り今みたいに花京院をただ抱きしめていた。倒れればお姫様抱っこで保健室に運んだりもして。
(鈍いなぁ、ぼくは)
不器用なのか器用なのか。
承太郎はやっぱり分からないやつだ。だけど怖いくらい愛情深い男だということが今の花京院には分かるから、つい気が抜けたように溜息が漏れる。
「とりあえず、君が趣味の悪い男だってことは、よくわかったよ」
「言うじゃあねえか」
つい可愛げのないことを言ってしまったが、承太郎は楽しそうに肩を震わせて笑った。その振動が腕の中にいる花京院にも伝わって、それが少しくすぐったい。
彼の言う通り、こちらまでもう少し浸っていたいような気分になったが、どこまでいってもここは保健室である。
「承太郎、もうそろそろ帰ろう」
「待て花京院。おれにもひとつ聞かせろ」
「な、なに?」
「あの弁当はてめーの手作りか?」
「へ……?」
弁当、というのはもしや、花京院が承太郎に投げつけた、あの弁当のことか。
そういえばあれはどうしたのだろうかと思ってはいたが、わざわざ聞くのも間抜けな気がしてあえて話題に出さなかったのだが。
「いや、あれはその、作ったというか、なんというか……あれ、どうしたんだ?」
おずおずと上目使いで見上げると、承太郎はケロリとした表情で「食った」と言う。
「え!? 食べたのか!?」
「勿体ねーだろ。腐ってるわけでもあるまいし」
「だ、だって……中身ぐちゃぐちゃで酷い有様だったんじゃ……?」
「食っちまえば一緒だ。花京院、食い物は粗末にしちゃあいけねえぜ」
「そんなことは分かってる」
で、果たしてどうだったのだろうか。決して見栄えのよくない卵焼きの味は。それとも、中身が荒れすぎて味どころではなかっただろうか。
「で? どうなんだ? てめーが作ったのか?」
「しつこいな……それってそんなに重要なことか?」
「細かいことが気になると、夜も眠れねえタチなんでな」
「……卵焼きだけだよ」
なんだかバツが悪い。目を逸らしながら吐き捨てると、承太郎は満足げにニヤリと笑って「やっぱりな」と言う。
「どうりでやたらと甘かったわけだ」
甘いのは君の方だよと、憎まれ口を叩くみたいに言うつもりだった言葉は、承太郎の唇に吐息ごと、奪われてしまった。
*
「典明さん、今日はどうしたの? 長袖にはまだ早いのではないかしら」
朝、長袖の学生服をきっちりと着込んで台所に立つ息子を見て、母が目を丸くした。ボウルに落とした卵を溶いていた花京院は、そのもっともなツッコミにぎくりと肩を強張らせる。
「い、いやあの……今朝は少し、冷えるなあと。あはは」
「そうかしら?」
「そうですよ。夏風邪は性質が悪いですから」
「それもそうね。ああ、いけないわ。そんなに乱暴に溶かないで。もっと軽くでいいんですよ」
「あっ、あ、すみません!」
動揺が手先に現れてしまったらしい。平常心平常心と心の中で繰り返し、ふっと息を吐き出した。
花京院だって、真夏にこんな暑苦しい制服なんか着たくない。が、首筋まできっちり覆い隠さなければ、保健室での情事の痕が見えてしまう。花京院の肌の至るところには、承太郎の歯型や鬱血の痕が残っていた。
(どうしてくれるんだ承太郎……しばらく半袖シャツだけで歩けないじゃあないか……!)
心の中で、晴れて恋人同士になった男に文句を垂れる。とにかく今は、うまく誤魔化せたことだけが救いに思えた。
あまり時間もないことだし、今日は失敗せずに一発で玉子焼きを焼き上げたい。
味付けは、少し甘めで。色合いも大事にしたいから、醤油は薄口のもの。匙加減にはイマイチ自信がないが、まぁ、不味くはないだろう。
熱したフライパンを真剣な表情で睨み付け、油をひこうとする花京院を見て、隣で母が小さく笑う気配がした。
「なに? 母さん」
「いいえ。典明さん、男の子なのにそのピアスが本当によく似合っていると思って」
母はどこか眩しいものでも見るように、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスに目を細めた。
「あなたがお腹にいたころ、先生には女の子だって言われていたの」
「ぼくが?」
「ええ。だからお父さんと一緒に、女の子の名前まで考えていたのよ」
「生まれてみたら、男だったんですね」
もちろん嬉しかったわよと、そう言って笑う母は息子の目から見てもいまだ若々しく、可憐な少女のようにも見える。花京院のこの赤い髪は母親譲りのものだった。
「だからそのピアスは、あなたが女の子だったら渡すつもりでいたものなの」
「そうだったんですか」
「ええ。だけど男の子だったでしょう? それならあなたがお嫁さんをもらって、子供が生まれたとき、孫が女の子だったらプレゼントしようって」
その言葉に、花京院はふと手を止めて、思わず母の顔を見た。
「女の子が生まれるか分からないのに?」
「いいのよ。こうして楽しみにしていられることが嬉しいんだもの。だけどよかった。あなたは私にそっくりだから、本当によく似合っていますよ」
母が昔からこのピアスを大切にしていたことは知っている。けれどそんな風に考えていたことは、知らなかった。
(ずっと諦められているのだと思っていたから)
入退院を繰り返していた幼い頃、夜になると必ず身を寄せ合って泣いていた両親を思い出す。
それを見る度に、自分は存在しているだけで彼らを悲しませているのではないかと、胸を痛めていた。だけど、そうじゃなかった。
父も母も、ただ息子の未来だけを願い、恐れていただけだ。息子は今や母の背を超え、父と並ぶほど大きくなった。こうして花京院が生きる『今』を、あの頃の彼らはただ夢見ていただけだった。
違うのは、あの頃は失うことを恐れて泣きながら見ていた夢を、今はこうして笑顔で見ているということだろうか。
(ごめんなさい)
花京院は母からそっと目を逸らし、心の中で謝罪する。
きっと自分は、この先の未来に父と母が膨らませる夢を叶えてはやれない。花京院が愛したのは可愛い孫を産める女性ではなく、男性だからだ。
それでも不思議と後悔はなかった。承太郎を好きになったことを、決して悔やまない自信がある。なんの根拠もないけれど、多分、死ぬまで。
「ピアス」
「なぁに? 典明さん」
「ぼくが貰えてよかった。一生大事にするよ、母さん」
キラキラ光る、チェリーのような赤いピアス。
目に見えない糸のような繋がりを、見えないままに最愛と巡り合えない人間が、この世界にどれほどいるだろう。
これがあったから、承太郎が自分を見つけてくれたような、そんな気さえして。
はにかんだ笑顔を浮かべる息子を見て、母も微笑んだ。そして。
「典明さん」
「はい」
「フライパン、黒こげですね?」
「へ……? え? あッ! あぁ~ッ!?」
花京院は卵焼きが失敗する以前に、フライパンをひとつ、ダメにした。
*
(大失敗だ……)
学校へと向かう道中、花京院はがっくりと肩を落として溜息を漏らした。
幸い、フライパンは卵焼き専用のものだったため、通常の丸いフライパンを使用してなんとか作り上げることには成功した。
が、あまり見栄えはよろしくない。味に自信がないぶん、せめて見た目だけでも完璧を目指したというのに、とんだ失態である。
(承太郎なら食えりゃあなんでもいい、とか言いそうだけど)
それにしても。
花京院は丸くなっていた姿勢を正しながら、視線だけ辺りを見回す。
同じく学校へ行く生徒たちが多く見られる中で、どうも何かが突き刺さるのを感じてしまう。それは数多の視線だった。
中にはクラスメイトの顔もちらほら見える。男子は怖々といった様子で、女子は頬を染めるものや、ともすれば敵意ともとれるような鋭いものを向けてくる者もいた。
(なんだろう……厚着して歩いてるから、やっぱりおかしいのかな。今日も暑いし……)
とてつもない居心地の悪さを感じて、おのずと歩調が速くなる。朝から太陽が燦々と輝く空の下、長袖詰襟はやっぱり暑い。
かと言って脱ぎ捨てるわけにもいかないのだから、どうしようもなかった。
そんな中、前方に人だかりを発見してついドキリとした。
「あぁん! 今日も素敵……やっぱりJOJOは最高だわ!」
「ねぇJOJO~! 今日のお昼はわたしと一緒に食べましょ?」
「抜け駆けする気!? JOJO、こんな女よりわたしの方がいいわよね?」
(やれやれ、今日もモテモテだな、承太郎)
セーラー服を着た女子生徒たちをまとわりつかせ、ヌシヌシと歩く広い背中を見て、花京院は口元に手をやると小さく笑った。
学生鞄の他に、ちゃっかりあの巨大な弁当箱も持っているのを見て、なんだか嬉しくなる。
(一緒に登校とか……憧れなくもないけど、目立つのは嫌だしな)
本当は、堂々と隣を歩きたいような気持ちもあるけれど。
どうせ昼休みは二人きりだ。今日からまた一緒に昼食をとる約束をしているのだから、今くらいは彼女たちに譲ろう。
そう思った矢先、キャーキャーと騒ぎ続ける女子たちに、ついに承太郎の堪忍袋の緒が切れた。
「やかましいッ! 朝っぱらからうっとおしいぞッ!!」
そのよく響く怒声に、辺りは一瞬静まり返る。が、すぐにまた黄色い歓声があがりはじめ、なんの効果もないことが知れた。モテすぎるというのも大変だ。
承太郎は忌々しげに舌打ちをすると、ぴたりと足を止めて振り向いた。そして
「花京院!」
と、こちらを見て名前を呼んだ。
「え!?」
突然のことにギョッとする花京院に向かって、彼は軽く顎をしゃくって見せた。来い、という合図だ。
承太郎を取り囲んでいた女子たちがこちらを凝視する中、花京院はぶんぶんと首を左右に振る。が、承太郎の射抜くような視線は有無を言わさぬ力があって、花京院は肩を竦めながら背中を丸め、おずおずと承太郎に近づいた。
(うわぁ……凄い睨まれてないか……?)
花京院が近づくと、女子たちがさぁっと波がひくように退いた。その視線がいたたまれなくて、花京院は恨めしそうに承太郎を上目使いで睨み付ける。
「コソコソするんじゃねーよ。さっさと来い」
「コソコソなんてしてないですよ。人聞きが悪いな」
なんて言いながら、話す声は内緒話をするようなひっそりとしたものになってしまう。歩き出すと女子たちが一定の距離を保ちながらぞろぞろとついてきて、これは一体なんの行列だろうかと首を傾げたくなった。
しかも周りからの視線は相変わらずつきまとっていた。この暑い中、暑苦しい格好をした二人が並んで歩いていれば仕方がないのか。片方はあの空条承太郎でもある。
(あぁ……居心地が悪い……)
やっぱり承太郎の隣を堂々と歩くには、自分はまだ精神的に弱すぎる。もし自分が女性であったなら、誇らしげに腕でも組んで見せつけてやることが……いや、無理だ。どっちにしろ、この得体のしれない視線に耐えるだけのメンタルは持ち合わせていない。
「顔色が悪い。夕べはちゃんと休んだのか?」
承太郎がちらりと横目で視線を送って来る。怒っているようにも見える表情だが、おそらく昨日の今日で花京院の体調を気遣ってくれているのだろう。昨日だってわざわざ自宅まで送り届けてくれたし、無理をさせたと謝罪までされてしまった。
その気遣いが嬉しい反面、なるべく思い出さないようにしていた保健室での情事が脳裏に鮮明に蘇って、今更のように熱があがった。
「だ、大丈夫。今日は凄く、調子がいいよ」
「あんまりそうは見えねえが。なんなら保健室に連れてってやろうか?」
「それは遠慮しておく」
保健室になんか行ったら、ますます思い出してしまう。それに、承太郎の連れて行く、は絶対に普通じゃない。
「こんな往来でお姫様抱っこなんか、冗談じゃないよ。二度あったことが三度もあってたまるか」
「…………」
「な、なんだよ」
黙って見下ろしてくる承太郎は、何か言いたげな様子だ。この男は意外と繊細だったりもするから、今の言い方は少しキツすぎたのだろうか。
だが、そんな花京院の不安は杞憂に終わった。
「三度目なら、とっくにあったぜ」
「……は?」
どういうことかと首を傾げる花京院に、承太郎は「覚えてねえか」と低く呟いた。
「なんの話だ?」
「昨日、おまえを保健室まで運んだのはおれだからな」
「はい?」
「廊下で引きずられてるてめーを見つけたから、おれが身柄を引き受けた」
「な……」
なんだと……?
「ぼ、ぼくを運んでくれたのは、保健委員じゃない、のか……?」
「途中まではな」
そこでようやく花京院は、こんなにも自分に集まる視線の理由に気がついた。
「ねぇ、あの花京院くんってJOJOのなんなの?」
「さぁ? だけどなんだかとても親密らしいわよ」
「昨日、隣のクラスの子がJOJOが花京院くんをお姫様抱っこしてるの見たって」
「そのあとずっと保健室から出てこなかったって本当?」
「な、なにそれどういうこと!? もしかして二人って……」
こそこそと話しているつもりらしいが、ばっちり聞こえる。
花京院はさぁっと血の気が引くのを感じると共に眩暈がして、咄嗟に額を手の平で押さえた。
なんということだ。恐れていたことが起こってしまった。
絶対に見られたくないと思っていた場面をクラスメイトに見られて、しかもあらぬ噂がほぼ学校中に広まっているなんて。
いや、実際はあらぬ噂ではなく、真実なのだが……。
「なんてことを……なんてことをしてくれたんだ君はッ」
「おい花京院、そこは承太郎さん親切にどうもありがとう、と言うところだぜ」
「言うかッ!!」
「てめーは一体なにが不満なんだ」
分かっていない。この男は何も分かっていない。
これから一体どんな顔を引っさげて学校生活を送ればいいのだろうか。今にも逃げ出して、家に引きこもってゲーム三昧の生活でも送ってやろうか。
「とにかく、頼むからもうお姫様抱っこはやめてくれ……ぼくにだって男性としてのプライドくらいある……」
「しょうがねえな。次からは俵担ぎにしとくか」
「普通に肩貸してくれるだけでいいよッ!!」
ついに怒鳴ってしまった花京院を見て、承太郎は帽子の鍔を指先で摘まみ、僅かに引き下げると「やぁれやれだぜ」と呆れたように言った。
「ピーチクパーチク、腹空かした小鳥の雛みてーだな」
「そのいちいち小さいものに例えるのも、やめてくれないか……」
涙目で睨み付けると、承太郎は楽しそうにニヤリと笑う。悪そうな顔をしているくせに、いちいち格好いいからいっそ腹が立つ。こんなときでさえ胸を高鳴らせている自分に。
「可愛くて可愛くて、仕方がねえってことだぜ」
やっぱり君の表現は遠回しで、分かりにくいじゃあないか。
そう思ったけれど、言われて満更でもない自分が恥ずかしくて、花京院は大き目の唇をきゅっと引き結んだ。
←戻る ・ 次へ→
花京院が意識をすっ飛ばしている間に濡れタオルで手早く身体を清め、しっかりと衣服やシーツを整え、その間にふっと目を覚ました花京院が声を発そうとして噎せれば、口移しで水まで飲ませてくれる始末だった。
花京院が意識を失っていたのはものの十数分の間だったが、気づけば何事もなかったかのように、ただベッドの縁に腰かける承太郎の胸にもたれかかっているという有様である。
「あの、承太郎」
「ん」
「そろそろ離してくれると……ありがたいのだが……」
承太郎は腕の中にいる花京院の頭部に顔を埋めて、一息ついている。まるでぬいぐるみか抱き枕にでもなったような気分だ。
いや、むしろこちらが大きなクマのぬいぐるみに抱き付かれている、と表現した方がしっくりくるだろうか。
とはいえ、ここはまだ学校の保健室だ。誰が来たっておかしくないような場所で、よくもまぁあれほど激しく抱き合ったものだと思うと、今更のように血の気が引くのを感じてしまう。
しかも、一体いまは何時だろうか。
気がつけば夕焼け色に包まれていた空間には、いくらか闇が混じり始めている。校庭から聞こえていた生徒たちの声は消え、夜の匂いを纏う風がカーテンを揺らしていた。
「じょ、承太郎ってば」
身じろぐ花京院を、承太郎はさらに強く抱きしめて「もう少し」と呟いた。
「やっと誤解も解けててめーと結ばれたんだ。もう少し浸らせろ」
「……言っておくが、誤解は完全に解けちゃあいないぞ」
この際あの女医を誘惑した理由については、複雑ではあるが信じよう。彼女に最後まで手を出していないという点も含めて。
だけどあのキスシーンに関しては、完全に納得したわけじゃない。別れの延長とかなんとか言っていた気がするが、最後にキスをしてさようなら、なんてファンタジーやメルヘンじゃあるまいし。
「なんだ、怒ってんのか」
「怒ってる、というか……見たくなかったな、と思って」
俯く花京院に、承太郎は珍しく気まずげな溜息を漏らした。
「てめーが納得しようがしまいが、おれは真実しか言えねえ」
「……うん」
「あんときゃあの女医に呼ばれて、妊娠やら結婚の話を聞いた。いわゆる別れ話ってやつだ。おれも女医が結婚してるなんざ知らなかったからな。ちょっぴり驚かされたぜ」
ファンタジーやメルヘンのような世界が、実際そこにはあったらしい。
承太郎に別れを切り出した女医は、最後に一度だけキスがしたいと涙ながらに縋ったという。それで全て忘れるからと。
その話を聞いて、花京院はただ複雑な心境を持て余すばかりだった。
彼女は承太郎に惑わされただけだ。彼の心が全く別のところにあるとも知らず、その気にさせられていたにすぎなかった。
だからこそ別れ話、というワードがあまりにも滑稽で、最後のキスに断腸の思いを込めた彼女を哀れに思う。
同時に、自分に嫌悪感が沸いた。
(承太郎よりもよほど、ぼくの方がずっと性格が悪い)
一度は憧れを抱いた女性を憐れみながら、花京院は安堵と喜びを同時に覚えていた。むしろ全ての女性に対しての優越感、かもしれない。
信じられないような話だけれど、あの空条承太郎がこうして腕に抱いているのが、他の誰でもないこの自分なのだということに。
花京院は承太郎の喉元に額を擦りよせ、自嘲的な笑みを浮かべる。すると承太郎の手が花京院の顎にかかり、そっと上向かされると同時に唇が重なった。
優しく幾度も繰り返されるキスはまるで許しを請うようで、何もかもどうでもよくなってしまうから、ずるいと思う。
思わずムッとした表情を浮かべる花京院を見て、承太郎は少し不貞腐れたように「なんだよ」と言った。
それが無性に可愛く見えてしまって、末期だなぁと自分に呆れる。
「そうやって、最初からちゃんと言ってくれたらよかったんだ」
気恥ずかしさから、つい口調が刺々しくなるのを止められない。
「大体な、君は言葉が足りないんだ。そのせいで、ぼくは君が男も女も関係なくたらしこむ、とんだ遊び人だと思い込んでいたよ」
「おれはシンプルに態度で示してたつもりだぜ」
「その遠回しに察しろオーラ出すのやめてくれるか」
「……遊びで野郎のケツなんざ掘れるかよ」
「そ、そういう言い方するなッ、いたた……」
大声を出しかけたせいで、腰に響いた。実のところ、さきほどからずっと腰が抜けたような違和感があって、あらぬ場所には鈍痛を覚えている。咄嗟に腰を押さえると、承太郎はいつもの「やれやれ」という口癖を放ちながら、花京院の耳たぶに口付けた。
「最初に目についたのはこの赤い髪と……ピアスだ」
「ピアス?」
「妙にキラキラして見えてよ。ようわからんが、ありゃ一目惚れってやつかもな」
言葉が足りないという文句を聞き入れたのか、小さな子供に寝物語でも聞かせるみたいに、承太郎は静かに語る。
「おまえを初めて見たのはまさにこの場所だぜ。てめーは気づいちゃいなかったろうがな」
その日は偶然ここを昼寝の場所に選んだ。ただそれだけだったのだと、承太郎は言った。花京院は保健室の常連だったから、それがいつのことだったのかは、ハッキリとは分からないけれど。
「一目見た瞬間、こいつだと直感した。見えない糸があるんだとしたら、おれとてめーは繋がってるってな。それこそ男も女も関係ねえ。そのときから、ずっとてめーだけを愛してる」
花京院は唇を噛み締めるばかりで、何一つ言葉を発することができなかった。
一目惚れとか、見えない糸とか。そんなことを恥ずかしげもなく言ってのけるものだから、こちらの方が恥ずかしくて仕方がなくなってしまう。
「これで足りたかよ。言葉」
「…………」
花京院はどうしたらいいのか分からなくて泳がせた目を、自分の肩を抱く承太郎の指先でふと止めた。相変わらず短く爪が切り揃えられているそこは、深く切りすぎて赤くなっている部分もある。
だから少し、泣きたくなった。
承太郎は優しかった。最初からずっと。
強引に奪いながらも、いつも花京院の身体を労わってくれていた。毎日のように巨大な弁当箱を引っさげて来たり、時間の許す限り今みたいに花京院をただ抱きしめていた。倒れればお姫様抱っこで保健室に運んだりもして。
(鈍いなぁ、ぼくは)
不器用なのか器用なのか。
承太郎はやっぱり分からないやつだ。だけど怖いくらい愛情深い男だということが今の花京院には分かるから、つい気が抜けたように溜息が漏れる。
「とりあえず、君が趣味の悪い男だってことは、よくわかったよ」
「言うじゃあねえか」
つい可愛げのないことを言ってしまったが、承太郎は楽しそうに肩を震わせて笑った。その振動が腕の中にいる花京院にも伝わって、それが少しくすぐったい。
彼の言う通り、こちらまでもう少し浸っていたいような気分になったが、どこまでいってもここは保健室である。
「承太郎、もうそろそろ帰ろう」
「待て花京院。おれにもひとつ聞かせろ」
「な、なに?」
「あの弁当はてめーの手作りか?」
「へ……?」
弁当、というのはもしや、花京院が承太郎に投げつけた、あの弁当のことか。
そういえばあれはどうしたのだろうかと思ってはいたが、わざわざ聞くのも間抜けな気がしてあえて話題に出さなかったのだが。
「いや、あれはその、作ったというか、なんというか……あれ、どうしたんだ?」
おずおずと上目使いで見上げると、承太郎はケロリとした表情で「食った」と言う。
「え!? 食べたのか!?」
「勿体ねーだろ。腐ってるわけでもあるまいし」
「だ、だって……中身ぐちゃぐちゃで酷い有様だったんじゃ……?」
「食っちまえば一緒だ。花京院、食い物は粗末にしちゃあいけねえぜ」
「そんなことは分かってる」
で、果たしてどうだったのだろうか。決して見栄えのよくない卵焼きの味は。それとも、中身が荒れすぎて味どころではなかっただろうか。
「で? どうなんだ? てめーが作ったのか?」
「しつこいな……それってそんなに重要なことか?」
「細かいことが気になると、夜も眠れねえタチなんでな」
「……卵焼きだけだよ」
なんだかバツが悪い。目を逸らしながら吐き捨てると、承太郎は満足げにニヤリと笑って「やっぱりな」と言う。
「どうりでやたらと甘かったわけだ」
甘いのは君の方だよと、憎まれ口を叩くみたいに言うつもりだった言葉は、承太郎の唇に吐息ごと、奪われてしまった。
*
「典明さん、今日はどうしたの? 長袖にはまだ早いのではないかしら」
朝、長袖の学生服をきっちりと着込んで台所に立つ息子を見て、母が目を丸くした。ボウルに落とした卵を溶いていた花京院は、そのもっともなツッコミにぎくりと肩を強張らせる。
「い、いやあの……今朝は少し、冷えるなあと。あはは」
「そうかしら?」
「そうですよ。夏風邪は性質が悪いですから」
「それもそうね。ああ、いけないわ。そんなに乱暴に溶かないで。もっと軽くでいいんですよ」
「あっ、あ、すみません!」
動揺が手先に現れてしまったらしい。平常心平常心と心の中で繰り返し、ふっと息を吐き出した。
花京院だって、真夏にこんな暑苦しい制服なんか着たくない。が、首筋まできっちり覆い隠さなければ、保健室での情事の痕が見えてしまう。花京院の肌の至るところには、承太郎の歯型や鬱血の痕が残っていた。
(どうしてくれるんだ承太郎……しばらく半袖シャツだけで歩けないじゃあないか……!)
心の中で、晴れて恋人同士になった男に文句を垂れる。とにかく今は、うまく誤魔化せたことだけが救いに思えた。
あまり時間もないことだし、今日は失敗せずに一発で玉子焼きを焼き上げたい。
味付けは、少し甘めで。色合いも大事にしたいから、醤油は薄口のもの。匙加減にはイマイチ自信がないが、まぁ、不味くはないだろう。
熱したフライパンを真剣な表情で睨み付け、油をひこうとする花京院を見て、隣で母が小さく笑う気配がした。
「なに? 母さん」
「いいえ。典明さん、男の子なのにそのピアスが本当によく似合っていると思って」
母はどこか眩しいものでも見るように、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスに目を細めた。
「あなたがお腹にいたころ、先生には女の子だって言われていたの」
「ぼくが?」
「ええ。だからお父さんと一緒に、女の子の名前まで考えていたのよ」
「生まれてみたら、男だったんですね」
もちろん嬉しかったわよと、そう言って笑う母は息子の目から見てもいまだ若々しく、可憐な少女のようにも見える。花京院のこの赤い髪は母親譲りのものだった。
「だからそのピアスは、あなたが女の子だったら渡すつもりでいたものなの」
「そうだったんですか」
「ええ。だけど男の子だったでしょう? それならあなたがお嫁さんをもらって、子供が生まれたとき、孫が女の子だったらプレゼントしようって」
その言葉に、花京院はふと手を止めて、思わず母の顔を見た。
「女の子が生まれるか分からないのに?」
「いいのよ。こうして楽しみにしていられることが嬉しいんだもの。だけどよかった。あなたは私にそっくりだから、本当によく似合っていますよ」
母が昔からこのピアスを大切にしていたことは知っている。けれどそんな風に考えていたことは、知らなかった。
(ずっと諦められているのだと思っていたから)
入退院を繰り返していた幼い頃、夜になると必ず身を寄せ合って泣いていた両親を思い出す。
それを見る度に、自分は存在しているだけで彼らを悲しませているのではないかと、胸を痛めていた。だけど、そうじゃなかった。
父も母も、ただ息子の未来だけを願い、恐れていただけだ。息子は今や母の背を超え、父と並ぶほど大きくなった。こうして花京院が生きる『今』を、あの頃の彼らはただ夢見ていただけだった。
違うのは、あの頃は失うことを恐れて泣きながら見ていた夢を、今はこうして笑顔で見ているということだろうか。
(ごめんなさい)
花京院は母からそっと目を逸らし、心の中で謝罪する。
きっと自分は、この先の未来に父と母が膨らませる夢を叶えてはやれない。花京院が愛したのは可愛い孫を産める女性ではなく、男性だからだ。
それでも不思議と後悔はなかった。承太郎を好きになったことを、決して悔やまない自信がある。なんの根拠もないけれど、多分、死ぬまで。
「ピアス」
「なぁに? 典明さん」
「ぼくが貰えてよかった。一生大事にするよ、母さん」
キラキラ光る、チェリーのような赤いピアス。
目に見えない糸のような繋がりを、見えないままに最愛と巡り合えない人間が、この世界にどれほどいるだろう。
これがあったから、承太郎が自分を見つけてくれたような、そんな気さえして。
はにかんだ笑顔を浮かべる息子を見て、母も微笑んだ。そして。
「典明さん」
「はい」
「フライパン、黒こげですね?」
「へ……? え? あッ! あぁ~ッ!?」
花京院は卵焼きが失敗する以前に、フライパンをひとつ、ダメにした。
*
(大失敗だ……)
学校へと向かう道中、花京院はがっくりと肩を落として溜息を漏らした。
幸い、フライパンは卵焼き専用のものだったため、通常の丸いフライパンを使用してなんとか作り上げることには成功した。
が、あまり見栄えはよろしくない。味に自信がないぶん、せめて見た目だけでも完璧を目指したというのに、とんだ失態である。
(承太郎なら食えりゃあなんでもいい、とか言いそうだけど)
それにしても。
花京院は丸くなっていた姿勢を正しながら、視線だけ辺りを見回す。
同じく学校へ行く生徒たちが多く見られる中で、どうも何かが突き刺さるのを感じてしまう。それは数多の視線だった。
中にはクラスメイトの顔もちらほら見える。男子は怖々といった様子で、女子は頬を染めるものや、ともすれば敵意ともとれるような鋭いものを向けてくる者もいた。
(なんだろう……厚着して歩いてるから、やっぱりおかしいのかな。今日も暑いし……)
とてつもない居心地の悪さを感じて、おのずと歩調が速くなる。朝から太陽が燦々と輝く空の下、長袖詰襟はやっぱり暑い。
かと言って脱ぎ捨てるわけにもいかないのだから、どうしようもなかった。
そんな中、前方に人だかりを発見してついドキリとした。
「あぁん! 今日も素敵……やっぱりJOJOは最高だわ!」
「ねぇJOJO~! 今日のお昼はわたしと一緒に食べましょ?」
「抜け駆けする気!? JOJO、こんな女よりわたしの方がいいわよね?」
(やれやれ、今日もモテモテだな、承太郎)
セーラー服を着た女子生徒たちをまとわりつかせ、ヌシヌシと歩く広い背中を見て、花京院は口元に手をやると小さく笑った。
学生鞄の他に、ちゃっかりあの巨大な弁当箱も持っているのを見て、なんだか嬉しくなる。
(一緒に登校とか……憧れなくもないけど、目立つのは嫌だしな)
本当は、堂々と隣を歩きたいような気持ちもあるけれど。
どうせ昼休みは二人きりだ。今日からまた一緒に昼食をとる約束をしているのだから、今くらいは彼女たちに譲ろう。
そう思った矢先、キャーキャーと騒ぎ続ける女子たちに、ついに承太郎の堪忍袋の緒が切れた。
「やかましいッ! 朝っぱらからうっとおしいぞッ!!」
そのよく響く怒声に、辺りは一瞬静まり返る。が、すぐにまた黄色い歓声があがりはじめ、なんの効果もないことが知れた。モテすぎるというのも大変だ。
承太郎は忌々しげに舌打ちをすると、ぴたりと足を止めて振り向いた。そして
「花京院!」
と、こちらを見て名前を呼んだ。
「え!?」
突然のことにギョッとする花京院に向かって、彼は軽く顎をしゃくって見せた。来い、という合図だ。
承太郎を取り囲んでいた女子たちがこちらを凝視する中、花京院はぶんぶんと首を左右に振る。が、承太郎の射抜くような視線は有無を言わさぬ力があって、花京院は肩を竦めながら背中を丸め、おずおずと承太郎に近づいた。
(うわぁ……凄い睨まれてないか……?)
花京院が近づくと、女子たちがさぁっと波がひくように退いた。その視線がいたたまれなくて、花京院は恨めしそうに承太郎を上目使いで睨み付ける。
「コソコソするんじゃねーよ。さっさと来い」
「コソコソなんてしてないですよ。人聞きが悪いな」
なんて言いながら、話す声は内緒話をするようなひっそりとしたものになってしまう。歩き出すと女子たちが一定の距離を保ちながらぞろぞろとついてきて、これは一体なんの行列だろうかと首を傾げたくなった。
しかも周りからの視線は相変わらずつきまとっていた。この暑い中、暑苦しい格好をした二人が並んで歩いていれば仕方がないのか。片方はあの空条承太郎でもある。
(あぁ……居心地が悪い……)
やっぱり承太郎の隣を堂々と歩くには、自分はまだ精神的に弱すぎる。もし自分が女性であったなら、誇らしげに腕でも組んで見せつけてやることが……いや、無理だ。どっちにしろ、この得体のしれない視線に耐えるだけのメンタルは持ち合わせていない。
「顔色が悪い。夕べはちゃんと休んだのか?」
承太郎がちらりと横目で視線を送って来る。怒っているようにも見える表情だが、おそらく昨日の今日で花京院の体調を気遣ってくれているのだろう。昨日だってわざわざ自宅まで送り届けてくれたし、無理をさせたと謝罪までされてしまった。
その気遣いが嬉しい反面、なるべく思い出さないようにしていた保健室での情事が脳裏に鮮明に蘇って、今更のように熱があがった。
「だ、大丈夫。今日は凄く、調子がいいよ」
「あんまりそうは見えねえが。なんなら保健室に連れてってやろうか?」
「それは遠慮しておく」
保健室になんか行ったら、ますます思い出してしまう。それに、承太郎の連れて行く、は絶対に普通じゃない。
「こんな往来でお姫様抱っこなんか、冗談じゃないよ。二度あったことが三度もあってたまるか」
「…………」
「な、なんだよ」
黙って見下ろしてくる承太郎は、何か言いたげな様子だ。この男は意外と繊細だったりもするから、今の言い方は少しキツすぎたのだろうか。
だが、そんな花京院の不安は杞憂に終わった。
「三度目なら、とっくにあったぜ」
「……は?」
どういうことかと首を傾げる花京院に、承太郎は「覚えてねえか」と低く呟いた。
「なんの話だ?」
「昨日、おまえを保健室まで運んだのはおれだからな」
「はい?」
「廊下で引きずられてるてめーを見つけたから、おれが身柄を引き受けた」
「な……」
なんだと……?
「ぼ、ぼくを運んでくれたのは、保健委員じゃない、のか……?」
「途中まではな」
そこでようやく花京院は、こんなにも自分に集まる視線の理由に気がついた。
「ねぇ、あの花京院くんってJOJOのなんなの?」
「さぁ? だけどなんだかとても親密らしいわよ」
「昨日、隣のクラスの子がJOJOが花京院くんをお姫様抱っこしてるの見たって」
「そのあとずっと保健室から出てこなかったって本当?」
「な、なにそれどういうこと!? もしかして二人って……」
こそこそと話しているつもりらしいが、ばっちり聞こえる。
花京院はさぁっと血の気が引くのを感じると共に眩暈がして、咄嗟に額を手の平で押さえた。
なんということだ。恐れていたことが起こってしまった。
絶対に見られたくないと思っていた場面をクラスメイトに見られて、しかもあらぬ噂がほぼ学校中に広まっているなんて。
いや、実際はあらぬ噂ではなく、真実なのだが……。
「なんてことを……なんてことをしてくれたんだ君はッ」
「おい花京院、そこは承太郎さん親切にどうもありがとう、と言うところだぜ」
「言うかッ!!」
「てめーは一体なにが不満なんだ」
分かっていない。この男は何も分かっていない。
これから一体どんな顔を引っさげて学校生活を送ればいいのだろうか。今にも逃げ出して、家に引きこもってゲーム三昧の生活でも送ってやろうか。
「とにかく、頼むからもうお姫様抱っこはやめてくれ……ぼくにだって男性としてのプライドくらいある……」
「しょうがねえな。次からは俵担ぎにしとくか」
「普通に肩貸してくれるだけでいいよッ!!」
ついに怒鳴ってしまった花京院を見て、承太郎は帽子の鍔を指先で摘まみ、僅かに引き下げると「やぁれやれだぜ」と呆れたように言った。
「ピーチクパーチク、腹空かした小鳥の雛みてーだな」
「そのいちいち小さいものに例えるのも、やめてくれないか……」
涙目で睨み付けると、承太郎は楽しそうにニヤリと笑う。悪そうな顔をしているくせに、いちいち格好いいからいっそ腹が立つ。こんなときでさえ胸を高鳴らせている自分に。
「可愛くて可愛くて、仕方がねえってことだぜ」
やっぱり君の表現は遠回しで、分かりにくいじゃあないか。
そう思ったけれど、言われて満更でもない自分が恥ずかしくて、花京院は大き目の唇をきゅっと引き結んだ。
←戻る ・ 次へ→
それから。
花京院が屋上へ行くことはなくなった。
もちろん、承太郎が迎えに来るということもない。
一日中女子たちの悲鳴を聞かない日もあるところを見ると、そもそも学校へ来ないことも多いのかもしれない。彼は、やっぱり不良だ。
(ぼくにはもう、関係ないけど)
いまいち身が入らない授業に、それでも耳だけは傾けながら、花京院は虚ろな視線を窓の外に向ける。
凪いだ日々には影絵のように色がなかった。ただ蒸し暑いばかりで、ゆらゆらと揺らめきながら過ぎていく。
立ち込める陽炎が遠くの景色から輪郭を奪う。逸らすように強く目を閉じると、鈍い痛みが眉間を襲った。指先で摘まむようにして押さえ、幾度か頭を振る。
(流石に、ダルい)
ここのところ毎日ろくに眠れた試しがない。食欲も減退して、体重は落ちるばかりだった。
それでもどうにかなっている。もしかしたらこの身体は、自分が思っているよりもずっと踏ん張りがきくのかもしれない。
あれから花京院が保健室へ行くことは決してなかった。くだらない意地かもしれないが、だけどそのちっぽけなプライドが、今は唯一花京院の心を守ってくれる。
それでも募るのは自己嫌悪ばかりだった。
いつまでもウジウジと、傷ついたままでいる自分が惨めで仕方がない。あんな男を好きになってしまった自分が。忘れられない自分が。
失恋、と名付けてしまうことすら、腹立たしいくらいに。
「ねぇ、聞いた?」
それは、花京院がそっと震える息を吐き出したのと同時だった。
教師が黒板にチョークを走らせる音に混ざって、どこからか女子たちの内緒話が聞こえてくる。木々が風にささめくような微かな音だが、花京院の耳はなんとはなしにその声を拾っていた。
「保健室の先生、妊娠したって」
(え……?)
「嘘、ほんと?」
「本当。ちゃんと聞いたもん。だからもうすぐ学校も辞めるんだって」
「へぇ、いいなぁ~。先生美人だし、赤ちゃん可愛いだろうなぁ」
「じゃあデキ婚? 相手どんな人なんだろうね~?」
(妊娠……妊娠って、まさかそんな……)
「そこッ! 授業中の私語は慎むようにッ!」
内緒話に気づいた教師が、険しい表情で彼女らを叱りつける。会話がぷつりと途切れて、教室に静寂が満ちた。
「……ッ」
花京院は震える指で口許を押さえた。心臓のあたりが、冷水を流し込まれたみたいに冷えていく。
(嘘だろ承太郎)
信じられない。
けれど女医の腹に宿った赤ん坊の父親は、承太郎以外に考えられなかった。
再び打ちのめされた胸に、すとんと何かがハマる。
(承太郎、君は嘘つきだけど、あのときくれた言葉だけは、本当だったんだな)
彼は言っていた。
真っ直ぐに目を合わせながら、『てめーだけだ』と。それは花京院が期待したような意味ではなかったけれど、遊び相手が他にいない、という意味でなら、それは真実だったということだ。
そしてそんな承太郎が真に愛していたのは、あの女医の方だった。
承太郎にとって、自分はただのオモチャにすぎなかったのだ。恋愛にもセックスにも奥手な人形を手のひらで転がして遊ぶのは、さぞかしいい暇潰しになったことだろう。
そんな相手と知っていて好きになってしまった自分が、一番の愚か者だ。
(わかってるさ)
花京院は口許を覆う手の平の下で、震える唇を噛み締めた。引き裂かれるような胸の痛みはなかなか過ぎ去ってはくれない。それどころかズクズクという攻撃的な音を立てる心音に、どんどん精神を追い詰められていくような気がした。
蒸し暑い教室の中で、やけに身体が冷えている。額に汗が滲んだ。
(堪えろ、堪えろ……平気だ。ぼくは平気だ)
椅子に座っていてさえ世界が大きく回ったような気がして、同時に酷く頭が痛んだ。視界が白と黒に明滅する。
(あ、不味い……)
ほとんど飲まず食わずでぼんやりと過ごしてきたツケが、最後のとどめを食らったことで、ついに回ってきたのだろうか。
「おい、花京院」
教師が訝しげに名前を呼ぶ声が聞こえる。
花京院はどうにかこうにか顔を上げると、首を左右に振った。
クラスメイトたちの視線が集まる。ひどく不快だ。今は誰の目にも触れたくない。構わないでほしいのに。
「おまえ顔が真っ青だぞ。おい誰か、保健室に連れてってやれ!」
「ッ!」
ぼくは平気ですと、そう言葉にするつもりがただの小さな呻きにしかならなかった。
ああ、やっぱりこの身体は無理がきかないのか。だけどもうあそこにはなにがなんでも行きたくない。
けれどそんな花京院の意地も事情も誰一人知る者はなく、ほとんど引きずられるようにして、保健室へ連れて行かれることになってしまった。
*
ああ、まただ。
瞼を開けたその先には、保健室の天井があった。白いはずのそれが、今は仄かに夕焼け色に染まっていた。
やっぱり自分はこの場所と切っても切り離せない関係にあるらしい。
ぼんやりと瞬きを繰り返し、うまく回らない頭で視線だけ巡らせる。すると、こちらを真っ直ぐに見つめている、エメラルドの瞳と目が合った。
承太郎はベッドの脇に置かれたパイプ椅子に腰かけている。他に、人の気配はない。
なぜ彼がここにいるのだろう。保健委員二人がかりで教室から引きずり出されたあたりから、記憶がほんとんどない。
「花京院」
もう二度と側で聞くことはないと思っていた低音が、花京院を呼ぶ。どこか気遣わし気な色を含んだそれに、ついどきりとした。
花京院は狼狽えつつも承太郎から目を逸らし、平静を装いながら重たい半身を起こす。支えようと伸びて来た腕を、やんわりと振り払うと首を左右に振った。
「触らないでくれ」
男らしい黒い眉が、ぴくりと動いた。それ以外で承太郎の表情に動きはなく、相変わらず何を考えているのか分からない男に対して、花京院は戸惑いと苛立ちを膨らませる。
けれど下手に感情を表に出すのはプライドが許さなかった。だから極めて冷静に、心の中を悟られぬよう平坦な声を意識する。
「なぜ君がここにいるのかは聞かないが……ぼくはもう君とは関わりたくないんだ。出来ることなら、顔も見たくないと思っている」
ここでこうしていると、嫌でも色々なことを思い出してしまう。
今となっては、承太郎と過ごした全ての時間が忌むべき記憶でしかない。
だけど同じくらい、まだどこかに残像のようにこびりつく未練の存在に、花京院は気がついていた。だからこの気持ちが揺らいでしまう前に、目の前から消えてほしい。早く忘れてしまいたい。
決して手に入らないものに手を伸ばすことほど、滑稽で不毛なことはないのだから。
「先生、子供ができたんだってな」
頑なに目を合わさぬよう、俯きながら言った。
「らしいな」
「なんだよ。まるで他人事みたいな反応だな。それってあんまりじゃあないか?」
力なく笑って、花京院は目を閉じた。
この男が一体なんのつもりでここにいるのかなんて、この際どうでもいい。ただ、もう絶対に無様な自分には戻りたくないから、だから花京院は顔を上げると、承太郎に向かって微笑んだ。
「おめでとう」
さよならの代わりに祝福の言葉を送った。
承太郎は切れ長の瞳をすうっと細め、ひとつ溜息を漏らすと「なるほどな」と呟いた。
「花京院。おれが今から言うことを、よく聞いておけよ」
「聞きたくない」
「おれはてめーに」
「承太郎、頼むからこれ以上は」
「やかましいッ! いいから聞けッ!!」
承太郎の顔に、明らかに怒りの色が見える。
こんな風に声を荒げられたのは初めてで、花京院は肩を震わせながら目を見開いた。色を失った頬に、大きな手が触れる。無意識に身を引こうとするのを許さず、緩く垂れ下がる前髪ごとくしゃりと掴まれた。
「じょう」
「おれはてめーに惚れてる」
「…………は?」
何を言われたのか、咄嗟に理解できなかった。
ついに耳までイカれてしまったのだろうか。
彼は今、なんと言った?
「言ったはずだ。てめーだけだと。おれはな花京院。おまえに心底、惚れている」
「ッ……!!」
一瞬で、頭が沸騰したように血がのぼる。
それは花京院の中で膨らみ切った感情が爆ぜた証だった。握りしめた拳を、思い切り承太郎の顔に向かって振り上げた。
けれどそれは承太郎の学帽の鍔を僅かに掠めただけで、いともたやすく手首を掴まれてしまう。床に落ちた帽子がぱさりと乾いた音を立てた。
「離せッ! この最低野郎!! これ以上ぼくを侮辱するなッ!!」
「はっ、てめーは頭が悪いのか? 今のはどう足掻いても愛の告白というやつだぜ」
「よくそんな非常識なことが言えたな! ふざけるのもいい加減にしろッ!!」
この期に及んで、まだ性質の悪い嘘をつくのか。
愛した女がいるというのに、これ以上なにを望むというのだろう。
こいつは自分だけでなく、あの女医の心まで踏みにじるつもりなのか。命を軽んじるような真似が、平気でできる男だったということだ。
「ぼくは君が、大っ嫌いだッ!!」
自分の中に、これほど激しい感情が眠っているとは思わなかった。花京院は過熱する怒りを抑えることなく、承太郎に掴みかかろうとした。
けれど承太郎は口許に余裕の笑みさえ浮かべて、花京院の両腕を掴み上げると片手で一纏めにする。さらに空いたもう片方の手によって、強引に顎を掴まれた。
どうやっても力で敵うはずがなかった。それがよりいっそう花京院の中の憤りとプライドを刺激する。
血走った目で睨み付けると、彼は呆れたように「やれやれだ」と吐き捨てた。
「出産直後のメス猫みてえだな。毛ェ逆立ててよ」
「せめて、オス猫と言え……ッ!!」
「オスはガキ産まねーだろ」
「ぼくだって産まないッ!!」
「あの女医は既婚者だぜ」
「まだ言う、か……ッ?」
……え?
それまでの勢いはどこへやら、花京院は動きを止め、口をぽかんと開けた。
承太郎は実に楽しげに鼻を鳴らし、何一つ飲み込めないでいる花京院の身をあっさり解放する。
「腹ん中のガキは旦那との間にデキたものだ。夫婦円満、ってのはいいもんだよなあ?」
「既婚者、って……い、いや、待て。ぼくの記憶が確かなら、先生は指輪なんかしていなかったぞ」
花京院はあの女医に憧れていた。恋と呼べるかどうかすら分からないような淡い感情だったけれど、ここへ足を運ぶ度にその姿を目に焼き付けていた。
だからわかる。彼女は結婚指輪などしていなかったはずだ。
「四六時中つけてるとは限らねーぜ。仕事中なんか特によ。信じられねーってんなら、本人にでも直接確かめな」
「……ちょ、ちょっと待ってくれ。少し、整理させてくれないか」
承太郎は好きにしろと言わんばかりにパイプ椅子に踏ん反り返り、緩慢とした動作で長い両手足を組んで見せた。
花京院は人差し指を米神に押し付けると、幾つも芽を出す混乱の種を処理するために、思考を巡らせる。
あの女医は既婚者だった。
そして、腹の中に宿る命はその旦那との間にできた子供だという。
なら、彼女と承太郎の関係は? 淫らな真昼の情交は? キスは?
「ふ、不倫……していたのか……? 君たちは……」
「そういうことになるか」
「夫婦円満なのに?」
「さあな。実際のところはおれにもようわからん」
「そ、そんな……ますます理解不能だ……」
花京院の常識から、あまりにも大きく逸脱している。
子作りに励むほど円満な夫婦生活を送っておいて、なぜわざわざ男子生徒と不倫などする必要がある?
そしてふと思い出す。相手はただの高校生じゃないということを。
女だけでなく、男さえ惑わすこの空条承太郎が相手ならば。
理性など、あってないようなものだ。この雄の魅力に落ちてしまった自分だからこそ、よくわかる。
「君が、誘惑したんだろう?」
「……かもな」
「ッ!」
肉厚な唇が、三日月のように歪む。なにもかもが思い通りになったといわんばかりの、勝者の笑みだ。
この男にはそれが、嫌味なくらいよく似合う。
「どちらにしろ女医とは終わった。妊娠が分かった時点でな。てめーが見ちまったキスシーンはその延長みてーなもんだ。忘れろ」
「わ、忘れろって……そんな曖昧な説明で納得できるか! 今日までぼくがどんな気持ちでいたかッ!」
「ほーう? どんな気持ちでいたんだ?」
「うぐ!?」
承太郎は実に意地の悪そうな笑みを浮かべて、こちらを見ている。
羞恥に赤面するのを嫌でも感じながら、花京院は喉を詰まらせた。
言えるわけがないし、言いたくない。
はっきりと恋を自覚した自分が、嫉妬に駆られて無意味な不摂生を働き、その結果が保健室のベッドの上だなんて。
情けなさや悔しさがない交ぜになって、鼻先がツンと痛みだす。少しでも気を緩めれば女々しく泣きだしてしまいそうで、花京院は咳払いをすると横目で承太郎を睨み付けた。
「ぼくは、君という男が信じられない。どうせ嘘をついているんだろう? それに、本当に旦那との子供かどうかは、生まれてみなくちゃ分からないんだぞ」
「嘘とは? おれはてめーに嘘をついた覚えはねーぜ。それにな。おれの子供であるはずがねーんだよ」
一体なにを根拠に。
口に出さずとも、花京院の顔に浮かぶ疑念の色を見て、承太郎はふっと息を漏らす。
「そもそも、ガキができるようなことはしてねえからだ。そうなる前にてめーを落とす気でいたからな。花京院、てめーをだ」
「な、な、なにを、言って……」
「おまえ、あの女医に惚れていたろ」
「ッ……!?」
だから、なんだというのか。
それとこれとは、一体なんの繋がりがあるというのだろう。
しかも、なぜ承太郎が自分の秘めたる想いに気がついていたのだろうか。誰にも言った覚えはないし、そうと分かるような態度を取っていたつもりもないのに。
背中にひやりとした冷たい汗が伝う。美しく澄んだエメラルドが、今はどこか仄暗くも見えて。
承太郎は青くなる花京院を見て、狡猾な笑みを浮かべた。
「邪魔だったんだよ。だからてめーの中から追い出した。それだけだぜ」
「邪魔……って……」
あのちっぽけで淡い、薄ぼんやりとした恋心を踏み潰す、それだけのために。
女医を誘惑し、ただ浅ましく求めるだけの雌にまで、落としたというのか。下手をすれば、彼女の家庭を壊していたかもしれないのに。
そしてもし全てがこの男の思惑通りなのだとしたら、花京院は確かにあの女医に幻滅した。少し大袈裟かもしれないが、花京院にとって彼女は清らかで美しい、白衣をまとった女神のような存在だったからだ。
今でもまだ忘れられない。抱いて抱いてと何度も繰り返し、欲に溺れる彼女の声を。
――欲しくて欲しくて、堪らねえ。
承太郎の、声を。
(あれは最初から、ぼくに、向けられていた……?)
そんなことが、果たしてありえるだろうか?
「嘘だそんなの。信じられるわけがない」
花京院は力なく首を左右に振った。
「君が望めば、あの女医のように誰だって心だろうが身体だろうが明け渡してしまうだろう。そんな君が、どうしてそんな回りくどい真似までして、ぼくを……」
自分を無価値な人間だとは思わない。
けれど目の前にいるのはあの空条承太郎だ。誰もが羨み、誰もが焦がれる。神に選ばれたような、美しい獣のような男だ。
そんな人間に唯一として選ばれる気持ちはどんなものだろうかと、酔いしれたことも確かにあった。だけど。
「理解、できない……」
「嘘だね」
伸びて来た承太郎の腕に項を掴まれ、強引に目線を合わされた。
「ッ!」
「耳まで真っ赤にして、惚けた顔しやがって。てめーのここにはちゃんと答えが書いてあるぜ」
「ち、違う……そんな顔、誰が……」
「嬉しくて嬉しくて、仕方がねえってよ」
わかる。承太郎の目に写る自分こそが、真実の姿なのだと。
それでも信じるのが怖い。この男に選ばれたという確信が、どうしても持てない。
だけど心が震えている。同じことを繰り返そうとしている。彼の言葉が、真実だったらいいのにと。
真っ直ぐに見つめてくる承太郎の瞳はどこまでも情熱的だった。
今この瞬間、彼の目が映し出しているのは。
「好きだ花京院。てめーが欲しくて堪らねえ」
「じょう、たろう……ッ」
どうしようもなく込み上げる喜びに、感情が解けていく。自分ではどうにもできずに絡まるばかりの、固結びされた心の糸が。承太郎が触れるだけで、こうも、簡単に。
承太郎は指先で花京院の唇をなぞった。それは顎を伝い、喉へと降りる。ごくりと上下する喉仏を撫でて、シャツから覗く鎖骨の窪みへとたどり着く。
身体が熱くて堪らなかった。内側でぐつぐつと、音を立てて煮えたぎっている。
花京院はこの熱を知っている。
「落ちてこい、花京院。今度こそ全部、おれのものにしてやる」
これは、期待だ。
*
身体中の全神経が、一ミリのブレもなく承太郎を意識する。
大きく逞しい腕の中に閉じ込められながら、花京院は戸惑うことすら許されない圧迫感を覚えていた。
ただあるがまま、感じていればそれでいいのだと。
「ぅ、ん……ッ、や、ぁ……!」
肌蹴た前に承太郎が顔を埋め、首筋の薄い肉を幾度も吸い上げる。武骨な指先は胸筋の上で小さく主張する粒を、これでもかというほどこねくりまわしていた。
遠くから部活動に励む生徒たちの掛け声が聞こえる。誰が来るとも知れない保健室で、抗えないことを理由に嬲られる感覚は花京院の中に不思議な興奮を呼び起こす。
「だ、め……じょ、たろ……ッ、こんな……っ!」
「知ってるぜ花京院。てめーの身体は駄目と思うほど感じちまう」
「イッ、ひ……ッ!?」
容赦なく、小さな粒に歯を立てられた。鋭い痛みが駆け抜けて、そこからじわじわと痺れが追いかけてくる。
大きく跳ねようとする腰の動きさえ、承太郎の重みが圧し掛かった状態ではままならない。どこにも感覚を逃がすことができず、花京院の中で蓄積されるばかりだった。
「い、たッ、いた、ぃ、アッ、噛んじゃ、ぁ、や」
嫌だ嫌だと繰り返しても、承太郎はそこに何度も歯を立てた。もう片方は指先で摘ままれて、こりこりと押しつぶしながら引っ張られる。
気が遠くなるほどの快感に、花京院は両手で頭を掻きむしるようにして身悶えた。
どれほどの時間そうされていたか知れない。ただ承太郎の唇と指先が離れてからも、二つの胸の尖りはびりびりと痺れて、真っ赤に色づいていた。
承太郎は花京院の首筋や、鎖骨や、あらゆる場所に痕を残していく。歯型が残るほど牙を立てたかと思えば、鈍い水音を響かせながら強く吸い付いた。痛いのか気持ちいいのかも分からなくなってから、ようやく優しく舌を這わせる。その強弱の差について行くことができない。
承太郎の愛撫は、初めてここで抱かれたときとも、屋上で嬲られたときとも、どこか違っていた。
乱暴で、荒々しくて、自分本位で、まるで容赦がない。支配されているのだということを知らしめるような、そんな抱き方だと思った。
いつしか花京院は、小刻みに震えながら涙を流すしか、できなくなっていた。
「じょぉ、たろ……も、許し、て」
「ダメだね」
「ついて、いけなッ、あ……ッ!」
承太郎の手が花京院の前を寛げる。下着ごと剥ぎ取られ、下半身は白い靴下だけという屈辱的な姿にされてしまった。
完全に起ち上がった性器が、先端から白い粒を浮き上がらせている。
「嫌々言っといてこのザマだぜ。オラ、自分でよく見てみな」
「ちが、ぅ……違う、違う……見る、な!」
咄嗟に振り上げようとした片足を軽々と担がれて、腰がシーツから僅かに浮き上がる。
普段は晒されることのない白い内腿にまで、承太郎はきつく歯を立てた。
声にならない悲鳴を上げながら、花京院は両手で顔を覆った。淫らに跳ねる腰の動きに合わせて、先走りをまき散らす性器が揺れる。
承太郎の唇が、徐々にそこへ向かって移動していく。その光景を指の隙間から覗き見る花京院に向けて、彼は瞳を細めて笑って見せた。
「あ、あッ、ぁ……じょ、たろ、き、汚い……そんな、ヒッ、ぃ……ッ」
じりじりと這い上がって来た唇が、ぷるぷると震える柔らかな袋を舐め上げる。軽く音を立てて吸われると、一緒に脳ミソまで溶け出してしまいそうだった。
血管がほんのりと浮き上がるほど膨れ上がった性器は、花京院が刻む鼓動と同じリズムで脈打ちながらしなっていた。承太郎は根本からそれに舌を這わせ、やがてすっぽりと口の中に収めてしまう。
「ッ――!!」
生まれて初めて受けた口淫は、まだ性的な行為に対して未熟な花京院には、刺激が強すぎた。承太郎の肩に引っ掛けるようにして担がれている片足の先が、攣りそうなほどピンと伸びる。シーツを引き千切る勢いで掴み上げながら、たったそれだけで、花京院は精を弾けさせた。
「ッ、ぁ――、ッ、ぃ……ッ!!」
反り返っていた背中をシーツに打ち付ける。一瞬で達してしまった衝撃に、花京院は瞬きもできないまま、はかはかと胸を上下させ、放心する。視界のところどころで星が瞬いていた。
ショック状態で真っ白になる花京院を現実に引き戻したのは、承太郎が銜え込んだままの性器を吸い上げながら扱きだした瞬間だった。
「ヒ、ッ! や、やめ……ッ!」
達したばかりの身体はあまりにも敏感で、全身の神経が剥き出しといってもいい状態だった。下半身の痙攣が止まらないまま受ける刺激は、いっそ拷問に等しい。
承太郎は口の中で受け止めた花京院の白濁と、自身の唾液とで実に滑らかに水音を響かせながら頭を上下させている。漏れだすどろどろとした液体が袋を伝い、奥まった場所へと流れ込んでいくのがわかった。
「イッ、嫌だ、嫌……ッ! 離し、じょうたろ、そこ、イッた、ばっか、でッ、やだ、いやだぁ……ッ!!」
両手で硬い黒髪を掻きまわしても、承太郎は口淫をやめない。
上目使いで鼻からふっと笑みを漏らし、乱れ狂う花京院の反応を楽しんでいるようだった。
熱い口内で、花京院の性器はそう時間を要さず再び勃起する。先走りも混ざり、耳を塞ぎたくなるような下品な水音が大きくなった。
過ぎた快楽は暴力と変わらない。いつしか花京院の濡れた瞳は濁り、閉じることを忘れた唇からは唾液と、意味をなさない喘ぎばかりが零れだすようになる。
(もう、わからない……滅茶苦茶だ……)
承太郎の指先が、花京院の尻の肉を割って濡れた窄まりをつつく。
精液と唾液でしとどに濡れたその穴は、いともたやすく太い指を受け入れた。
「あっ、や……ッ、入って、き、た……っ」
前の刺激が強すぎるせいか、最初のときほど痛みは感じない。
ぬるぬると入り込む節くれだった指が内壁を擦る動きが、あのなんともいえない鳥肌のたつような感覚を生み出す。
あっという間に指が二本に増やされた頃、あと少しで再び達するというタイミングで、承太郎が銜え込んでいた性器から口を離す。濡れそぼる唇をぺろりと舐め上げて、中を解す動きはそのままに身を乗り出してくる。
「おまえのナカ、すげえな。ビクビクしてよ」
「んぅ、ぁ……ッ、はぁ、あ……じょ、たろ、じょう、たろぉ……ッ!」
ギリギリまで高ぶらされたまま放置される性器と、中を探られるもどかしさに、気が触れてしまいそうだった。
たかだか一度受け入れただけのそこが酷く疼いて、抱かれることに慣れた娼婦のように、穴をひくつかせているのが分かる。
(どうしてだ……あれから一度もしてないのに、どうして、こんなに……)
欲しくて欲しくて、堪らないのだろう。
初めて受け入れたときは、指が入り込むだけで凄まじい苦痛を伴った。承太郎のモノともなれば尚更のこと、憐れまれるほどの激痛に泣きじゃくったというのに。
あのときと今とでは、何が違うというのだろう。
「ところでよ、花京院」
二本の指をバラバラと動かしながら、承太郎は花京院の耳元に唇を寄せる。
「誰が嫌いだって?」
そして問いかけて来た。
「なっ、ん……? ひ、ぁうッ」
「覚えてねーのか?」
「なに、を、アッ、あ、ダメ、指、へん、に、なる……ッ」
「てめーが言ったんだぜ。大っ嫌いだ、ってよ」
熱と快楽に浮かされた思考で、花京院の意識が承太郎の言葉を辿る。そしてはたと気がついた。
言った。確かに言った。つい先刻の口論の途中。
『ぼくは君が、大っ嫌いだッ!!』
花京院は承太郎に向かって、高ぶった感情をぶつけた。
「そ、れは……君が……」
「おれがなんだって?」
「ぅあッ……!?」
ほんの僅かに気がそれた隙をついて、いよいよ指が三本に増やされた。流石の圧迫感に喉を反らせば、浮き上がった喉仏に歯をたてられる。
「んんぅ、ッ、ヒ、ぁッ……!」
「もういっぺん言ってみな。あれと同じことをよ」
意外と、根に持つタイプか。
霞む視界を抉じ開けて、承太郎の顔を見上げる。その表情を見て、花京院は息をのんだ。
てっきり、またあの意地の悪い笑みを浮かべていると思っていたのに。
承太郎の瞳はどこか切なげに揺れていた。
きゅっと引き結ばれた唇が、迷子の子犬のように、悲しげで。
「……!」
夢でも、見ているのだろうか。
自分が知っている承太郎は、絶対にこんな弱り切ったような顔など見せない。
誰がそうさせているのだろう。彼に、こんな顔を。
(ぼく、なのか)
ただ勢いのまま吐き出してしまった言葉だった。
それだけじゃない。ここで女医と承太郎の口付けを見てしまったあの日も、花京院は彼に嫉妬や憎しみという感情をぶつけて遠ざけた。
この男も、傷ついていたのだろうか。
承太郎の精神は、その鋼のような肉体と同様に、なにがあっても決して傷つかないものとばかり、思っていたけれど。
おかしな話だが、花京院はこのとき初めて承太郎のことを自分と同じ、人間なのだと思えた。悲しみもすれば傷つきもする。誰かを深く、思うことだってできる。そう感じた途端に。
(これ、なんて言うんだろう)
胸いっぱいに、火が灯ったような気がした。
それは身を焦がすような激しい炎ではないけれど、温かくて、泣きそうなほど切なくて、締め付けらているみたいに苦しいのに、こがした砂糖のように甘かった。
(愛しい)
その瞬間、身体の奥で疼きが増した。
きゅん、という音がしっくりくるほど悩ましく、承太郎の指を締め付ける。
「花京院……」
ああ、やっとわかった。
どうしてこんなに欲しいのか。最初と何が違うのか。
(ぼくはもう知っているからだ。あの頃の、無知な花京院典明ではないからだ)
ただ訳も分からず奪われるだけの自分じゃない。
感情が伴っているからだ。承太郎と、思いが重なっているからだ。
「好きだよ、承太郎」
花京院は小さく震える両手で承太郎の頬を包み込む。
「好きなんだ。ぼくは君に……恋に、落ちたよ」
だからね。
「ぼくを、君の一番に選んでくれるかい? ぼくだけだって、言ってくれる?」
「ッ……!」
承太郎の顔が一瞬だけ、くしゃりと歪んだ。一気に指が引き抜かれ、ぞくりと這い上がる感覚に戦慄く花京院へ、ガキ大将のように強気な笑みを浮かべて見せる。
「とっくに選んでんだよ。おれには、てめーだけだ」
通じ合った想いを込めて交わす口付けは、信じられないくらい、温かかった。
*
承太郎は長ランを脱ぎ捨て、中に着ていたシャツさえもむしり取るようにして取り払うと、床に放った。
その仕草の男臭さに胸を高鳴らせ、花京院は蕩けきった表情で覆いかぶさって来る大きな身体を受け止める。
前を寛げた承太郎が、熱くそそり起つ剛直をヒクつく穴に宛がった。
互いが同時に喉を鳴らす。心臓が飛び出してきそうなほど暴れる感覚が少し怖くて、花京院は承太郎の首に両腕を回して強くしがみついた。
「花京院」
「うん」
好きだ、と。
承太郎は何度も吐息と一緒に吐き出しながら、ゆっくりと腰を進めてくる。
痛いも苦しいも、愛しさの前には媚薬にしかならなかった。この人しかいないと決めた相手と繋がることが、こんなにも幸福なことだなんて、知らなかった。
「は、ぁ! じょ、た、ろ……ッ、承太郎、承太郎……承太郎……ッ!!」
それしか知らないみたいに、花京院は承太郎の名を呼ぶ。
汗の粒が頬に落ちて、見上げた先には歯を食いしばる承太郎の顔がある。
初めてのときも、彼はこんな風に苦しげに表情を歪めていたのかもしれない。あのときは後ろからだったから、見えなかったけれど。
完全に繋がり切ってしまうと、それだけで二人は息も絶え絶えになっていた。
腹の中にみっちりと、承太郎の肉が詰まっている。きっともう隙間なんかない。何一つ入り込む余地などないほど、花京院の中は承太郎で満たされていた。
「平気か」
掠れた声が色香を放つ。鼓膜まで蕩けそうな甘美さに、花京院はどこか夢見心地の状態でこくんと頷いた。
「平気……動いて、承太郎。今度は、ちゃんと応えるから」
「……あんまり煽ってくれるなよ」
ふっと笑った承太郎が、改めて花京院の身体を抱え込む。両足を承太郎の腰に絡めると、抱き寄せた頬に頬ずりをした。それが合図とばかりに、ゆらゆらと幾度か腰が揺らめいた。
「あッ、あぁ……ッ、ん、じょ、たろ、承太郎……んっ、は……」
「花京院……ッ、花京院」
痛いほどの快感が痺れとなって脳髄にまで響き渡る。ひっきりなしに軋むベッドの音が加速するほど、その腰使いに花京院の理性はぐずぐずに蕩けていった。
承太郎の荒々しい呼吸が愛しい。中で脈打つ屹立が、彼が確かに快感を得ていることを身体の内側から伝えてくれる。
自分ばかりが嬲られているのではない。花京院の内壁もまた、承太郎を締め付けては翻弄している。それが堪らなく、心地いい。
熱い欲に飲み込まれて、吐息ごと、二人一緒に溶けていく。限界がもうすぐそこだった。
「じょう、たろ……ッ、も、ぼく……!」
「まだだぜ。花京院」
「え、ぅあッ!?」
二の腕を掴まれ、腰を抱えられたと思った瞬間、花京院の視界が大きく揺らいだ。
胡坐をかく承太郎の上に向かい合って繋がる形になると、腹の奥の、もっと深い場所にずん、という衝撃が走った。
「ヒッ、ぎ……ッ!!」
見開いた瞳から、涙が溢れる。
もうこれ以上はないという場所まで、貫かれていたのだとばかり思っていた。けれどそれは、甘かった。
「ぁ、あ……? ァ……う、そ、ッ、ぁ……ぼく、の、お腹、が……っ」
突き破られたのではないかと、思った。
花京院はわなわなと震えながら、指先を下腹部へと滑らせる。承太郎の形に僅かに膨らむ下腹が、ずくずくと熱せられて痙攣していた。
「これで、全部だぜ」
見上げてくるエメラルドが、快楽に溺れきって潤んでいる。そのうっとりとした表情が、涙に滲んでぼやけていった。
これで本当に、全てが承太郎のものになった。花京院もまた、彼の全てを、手に入れた。
「嬉しいよ……とても……」
うまく笑えたかは、わからなかった。ただその太い首にしがみついて、花京院はひくひくと泣いた。承太郎がゆっくりと、下から突き上げてくる。内臓ごと押し上げられるような感覚に咽びながらも、その動きに合わせて一緒に腰を揺らす。
「ひっ、ぁあッ、い、アッ、ぁ、あ……ッ!!」
腹の奥を突かれる度に、声が抑えきれない。そうやって喘いでいなければ溺れ死んでしまいそうで、女のように啼いている自分の声にすら、止め処なく気分が高揚していくのを感じた。
そのとき、承太郎の屹立が花京院の中の一点を引っ掻いた。
「ひンッ、ぁッ、ぁ……? まっ、て、アッ、あぁ……――ッ」
「ここ、か」
承太郎の口元の笑みが濃くなった。喉と背を反らしながら、花京院はバチバチと散る火花にただ混乱する。
承太郎が、心得たとばかりにそこばかり狙って揺さぶってくる。快感にすら、まだ先があったのか。こんなことを続けられてしまったら、本当に死んでしまう。
二人の腹の中心でしなる肉棒から、信じられない量の先走りが零れていた。赤く腫れあがったようになっているそこが、早く解放されたくて大粒の涙をまき散らしているようだった。
「も、ッ、こわ、れるっ、じょ、たろ……ッ!!」
「ッ、いいぜ……好きなだけ、イカれちまいな。花京院」
承太郎が花京院の胸に唇を寄せる。散々嬲られて赤く腫れた粒に思い切り吸い付かれた瞬間、花京院は声もなく達した。同時に、最も深い場所に熱いものが叩きつけられたのを感じる。
貪り尽された腹の中に受け止めきれないほどの精を注がれて、花京院は背中からシーツに崩れ落ちながら、微かに笑った。
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花京院が屋上へ行くことはなくなった。
もちろん、承太郎が迎えに来るということもない。
一日中女子たちの悲鳴を聞かない日もあるところを見ると、そもそも学校へ来ないことも多いのかもしれない。彼は、やっぱり不良だ。
(ぼくにはもう、関係ないけど)
いまいち身が入らない授業に、それでも耳だけは傾けながら、花京院は虚ろな視線を窓の外に向ける。
凪いだ日々には影絵のように色がなかった。ただ蒸し暑いばかりで、ゆらゆらと揺らめきながら過ぎていく。
立ち込める陽炎が遠くの景色から輪郭を奪う。逸らすように強く目を閉じると、鈍い痛みが眉間を襲った。指先で摘まむようにして押さえ、幾度か頭を振る。
(流石に、ダルい)
ここのところ毎日ろくに眠れた試しがない。食欲も減退して、体重は落ちるばかりだった。
それでもどうにかなっている。もしかしたらこの身体は、自分が思っているよりもずっと踏ん張りがきくのかもしれない。
あれから花京院が保健室へ行くことは決してなかった。くだらない意地かもしれないが、だけどそのちっぽけなプライドが、今は唯一花京院の心を守ってくれる。
それでも募るのは自己嫌悪ばかりだった。
いつまでもウジウジと、傷ついたままでいる自分が惨めで仕方がない。あんな男を好きになってしまった自分が。忘れられない自分が。
失恋、と名付けてしまうことすら、腹立たしいくらいに。
「ねぇ、聞いた?」
それは、花京院がそっと震える息を吐き出したのと同時だった。
教師が黒板にチョークを走らせる音に混ざって、どこからか女子たちの内緒話が聞こえてくる。木々が風にささめくような微かな音だが、花京院の耳はなんとはなしにその声を拾っていた。
「保健室の先生、妊娠したって」
(え……?)
「嘘、ほんと?」
「本当。ちゃんと聞いたもん。だからもうすぐ学校も辞めるんだって」
「へぇ、いいなぁ~。先生美人だし、赤ちゃん可愛いだろうなぁ」
「じゃあデキ婚? 相手どんな人なんだろうね~?」
(妊娠……妊娠って、まさかそんな……)
「そこッ! 授業中の私語は慎むようにッ!」
内緒話に気づいた教師が、険しい表情で彼女らを叱りつける。会話がぷつりと途切れて、教室に静寂が満ちた。
「……ッ」
花京院は震える指で口許を押さえた。心臓のあたりが、冷水を流し込まれたみたいに冷えていく。
(嘘だろ承太郎)
信じられない。
けれど女医の腹に宿った赤ん坊の父親は、承太郎以外に考えられなかった。
再び打ちのめされた胸に、すとんと何かがハマる。
(承太郎、君は嘘つきだけど、あのときくれた言葉だけは、本当だったんだな)
彼は言っていた。
真っ直ぐに目を合わせながら、『てめーだけだ』と。それは花京院が期待したような意味ではなかったけれど、遊び相手が他にいない、という意味でなら、それは真実だったということだ。
そしてそんな承太郎が真に愛していたのは、あの女医の方だった。
承太郎にとって、自分はただのオモチャにすぎなかったのだ。恋愛にもセックスにも奥手な人形を手のひらで転がして遊ぶのは、さぞかしいい暇潰しになったことだろう。
そんな相手と知っていて好きになってしまった自分が、一番の愚か者だ。
(わかってるさ)
花京院は口許を覆う手の平の下で、震える唇を噛み締めた。引き裂かれるような胸の痛みはなかなか過ぎ去ってはくれない。それどころかズクズクという攻撃的な音を立てる心音に、どんどん精神を追い詰められていくような気がした。
蒸し暑い教室の中で、やけに身体が冷えている。額に汗が滲んだ。
(堪えろ、堪えろ……平気だ。ぼくは平気だ)
椅子に座っていてさえ世界が大きく回ったような気がして、同時に酷く頭が痛んだ。視界が白と黒に明滅する。
(あ、不味い……)
ほとんど飲まず食わずでぼんやりと過ごしてきたツケが、最後のとどめを食らったことで、ついに回ってきたのだろうか。
「おい、花京院」
教師が訝しげに名前を呼ぶ声が聞こえる。
花京院はどうにかこうにか顔を上げると、首を左右に振った。
クラスメイトたちの視線が集まる。ひどく不快だ。今は誰の目にも触れたくない。構わないでほしいのに。
「おまえ顔が真っ青だぞ。おい誰か、保健室に連れてってやれ!」
「ッ!」
ぼくは平気ですと、そう言葉にするつもりがただの小さな呻きにしかならなかった。
ああ、やっぱりこの身体は無理がきかないのか。だけどもうあそこにはなにがなんでも行きたくない。
けれどそんな花京院の意地も事情も誰一人知る者はなく、ほとんど引きずられるようにして、保健室へ連れて行かれることになってしまった。
*
ああ、まただ。
瞼を開けたその先には、保健室の天井があった。白いはずのそれが、今は仄かに夕焼け色に染まっていた。
やっぱり自分はこの場所と切っても切り離せない関係にあるらしい。
ぼんやりと瞬きを繰り返し、うまく回らない頭で視線だけ巡らせる。すると、こちらを真っ直ぐに見つめている、エメラルドの瞳と目が合った。
承太郎はベッドの脇に置かれたパイプ椅子に腰かけている。他に、人の気配はない。
なぜ彼がここにいるのだろう。保健委員二人がかりで教室から引きずり出されたあたりから、記憶がほんとんどない。
「花京院」
もう二度と側で聞くことはないと思っていた低音が、花京院を呼ぶ。どこか気遣わし気な色を含んだそれに、ついどきりとした。
花京院は狼狽えつつも承太郎から目を逸らし、平静を装いながら重たい半身を起こす。支えようと伸びて来た腕を、やんわりと振り払うと首を左右に振った。
「触らないでくれ」
男らしい黒い眉が、ぴくりと動いた。それ以外で承太郎の表情に動きはなく、相変わらず何を考えているのか分からない男に対して、花京院は戸惑いと苛立ちを膨らませる。
けれど下手に感情を表に出すのはプライドが許さなかった。だから極めて冷静に、心の中を悟られぬよう平坦な声を意識する。
「なぜ君がここにいるのかは聞かないが……ぼくはもう君とは関わりたくないんだ。出来ることなら、顔も見たくないと思っている」
ここでこうしていると、嫌でも色々なことを思い出してしまう。
今となっては、承太郎と過ごした全ての時間が忌むべき記憶でしかない。
だけど同じくらい、まだどこかに残像のようにこびりつく未練の存在に、花京院は気がついていた。だからこの気持ちが揺らいでしまう前に、目の前から消えてほしい。早く忘れてしまいたい。
決して手に入らないものに手を伸ばすことほど、滑稽で不毛なことはないのだから。
「先生、子供ができたんだってな」
頑なに目を合わさぬよう、俯きながら言った。
「らしいな」
「なんだよ。まるで他人事みたいな反応だな。それってあんまりじゃあないか?」
力なく笑って、花京院は目を閉じた。
この男が一体なんのつもりでここにいるのかなんて、この際どうでもいい。ただ、もう絶対に無様な自分には戻りたくないから、だから花京院は顔を上げると、承太郎に向かって微笑んだ。
「おめでとう」
さよならの代わりに祝福の言葉を送った。
承太郎は切れ長の瞳をすうっと細め、ひとつ溜息を漏らすと「なるほどな」と呟いた。
「花京院。おれが今から言うことを、よく聞いておけよ」
「聞きたくない」
「おれはてめーに」
「承太郎、頼むからこれ以上は」
「やかましいッ! いいから聞けッ!!」
承太郎の顔に、明らかに怒りの色が見える。
こんな風に声を荒げられたのは初めてで、花京院は肩を震わせながら目を見開いた。色を失った頬に、大きな手が触れる。無意識に身を引こうとするのを許さず、緩く垂れ下がる前髪ごとくしゃりと掴まれた。
「じょう」
「おれはてめーに惚れてる」
「…………は?」
何を言われたのか、咄嗟に理解できなかった。
ついに耳までイカれてしまったのだろうか。
彼は今、なんと言った?
「言ったはずだ。てめーだけだと。おれはな花京院。おまえに心底、惚れている」
「ッ……!!」
一瞬で、頭が沸騰したように血がのぼる。
それは花京院の中で膨らみ切った感情が爆ぜた証だった。握りしめた拳を、思い切り承太郎の顔に向かって振り上げた。
けれどそれは承太郎の学帽の鍔を僅かに掠めただけで、いともたやすく手首を掴まれてしまう。床に落ちた帽子がぱさりと乾いた音を立てた。
「離せッ! この最低野郎!! これ以上ぼくを侮辱するなッ!!」
「はっ、てめーは頭が悪いのか? 今のはどう足掻いても愛の告白というやつだぜ」
「よくそんな非常識なことが言えたな! ふざけるのもいい加減にしろッ!!」
この期に及んで、まだ性質の悪い嘘をつくのか。
愛した女がいるというのに、これ以上なにを望むというのだろう。
こいつは自分だけでなく、あの女医の心まで踏みにじるつもりなのか。命を軽んじるような真似が、平気でできる男だったということだ。
「ぼくは君が、大っ嫌いだッ!!」
自分の中に、これほど激しい感情が眠っているとは思わなかった。花京院は過熱する怒りを抑えることなく、承太郎に掴みかかろうとした。
けれど承太郎は口許に余裕の笑みさえ浮かべて、花京院の両腕を掴み上げると片手で一纏めにする。さらに空いたもう片方の手によって、強引に顎を掴まれた。
どうやっても力で敵うはずがなかった。それがよりいっそう花京院の中の憤りとプライドを刺激する。
血走った目で睨み付けると、彼は呆れたように「やれやれだ」と吐き捨てた。
「出産直後のメス猫みてえだな。毛ェ逆立ててよ」
「せめて、オス猫と言え……ッ!!」
「オスはガキ産まねーだろ」
「ぼくだって産まないッ!!」
「あの女医は既婚者だぜ」
「まだ言う、か……ッ?」
……え?
それまでの勢いはどこへやら、花京院は動きを止め、口をぽかんと開けた。
承太郎は実に楽しげに鼻を鳴らし、何一つ飲み込めないでいる花京院の身をあっさり解放する。
「腹ん中のガキは旦那との間にデキたものだ。夫婦円満、ってのはいいもんだよなあ?」
「既婚者、って……い、いや、待て。ぼくの記憶が確かなら、先生は指輪なんかしていなかったぞ」
花京院はあの女医に憧れていた。恋と呼べるかどうかすら分からないような淡い感情だったけれど、ここへ足を運ぶ度にその姿を目に焼き付けていた。
だからわかる。彼女は結婚指輪などしていなかったはずだ。
「四六時中つけてるとは限らねーぜ。仕事中なんか特によ。信じられねーってんなら、本人にでも直接確かめな」
「……ちょ、ちょっと待ってくれ。少し、整理させてくれないか」
承太郎は好きにしろと言わんばかりにパイプ椅子に踏ん反り返り、緩慢とした動作で長い両手足を組んで見せた。
花京院は人差し指を米神に押し付けると、幾つも芽を出す混乱の種を処理するために、思考を巡らせる。
あの女医は既婚者だった。
そして、腹の中に宿る命はその旦那との間にできた子供だという。
なら、彼女と承太郎の関係は? 淫らな真昼の情交は? キスは?
「ふ、不倫……していたのか……? 君たちは……」
「そういうことになるか」
「夫婦円満なのに?」
「さあな。実際のところはおれにもようわからん」
「そ、そんな……ますます理解不能だ……」
花京院の常識から、あまりにも大きく逸脱している。
子作りに励むほど円満な夫婦生活を送っておいて、なぜわざわざ男子生徒と不倫などする必要がある?
そしてふと思い出す。相手はただの高校生じゃないということを。
女だけでなく、男さえ惑わすこの空条承太郎が相手ならば。
理性など、あってないようなものだ。この雄の魅力に落ちてしまった自分だからこそ、よくわかる。
「君が、誘惑したんだろう?」
「……かもな」
「ッ!」
肉厚な唇が、三日月のように歪む。なにもかもが思い通りになったといわんばかりの、勝者の笑みだ。
この男にはそれが、嫌味なくらいよく似合う。
「どちらにしろ女医とは終わった。妊娠が分かった時点でな。てめーが見ちまったキスシーンはその延長みてーなもんだ。忘れろ」
「わ、忘れろって……そんな曖昧な説明で納得できるか! 今日までぼくがどんな気持ちでいたかッ!」
「ほーう? どんな気持ちでいたんだ?」
「うぐ!?」
承太郎は実に意地の悪そうな笑みを浮かべて、こちらを見ている。
羞恥に赤面するのを嫌でも感じながら、花京院は喉を詰まらせた。
言えるわけがないし、言いたくない。
はっきりと恋を自覚した自分が、嫉妬に駆られて無意味な不摂生を働き、その結果が保健室のベッドの上だなんて。
情けなさや悔しさがない交ぜになって、鼻先がツンと痛みだす。少しでも気を緩めれば女々しく泣きだしてしまいそうで、花京院は咳払いをすると横目で承太郎を睨み付けた。
「ぼくは、君という男が信じられない。どうせ嘘をついているんだろう? それに、本当に旦那との子供かどうかは、生まれてみなくちゃ分からないんだぞ」
「嘘とは? おれはてめーに嘘をついた覚えはねーぜ。それにな。おれの子供であるはずがねーんだよ」
一体なにを根拠に。
口に出さずとも、花京院の顔に浮かぶ疑念の色を見て、承太郎はふっと息を漏らす。
「そもそも、ガキができるようなことはしてねえからだ。そうなる前にてめーを落とす気でいたからな。花京院、てめーをだ」
「な、な、なにを、言って……」
「おまえ、あの女医に惚れていたろ」
「ッ……!?」
だから、なんだというのか。
それとこれとは、一体なんの繋がりがあるというのだろう。
しかも、なぜ承太郎が自分の秘めたる想いに気がついていたのだろうか。誰にも言った覚えはないし、そうと分かるような態度を取っていたつもりもないのに。
背中にひやりとした冷たい汗が伝う。美しく澄んだエメラルドが、今はどこか仄暗くも見えて。
承太郎は青くなる花京院を見て、狡猾な笑みを浮かべた。
「邪魔だったんだよ。だからてめーの中から追い出した。それだけだぜ」
「邪魔……って……」
あのちっぽけで淡い、薄ぼんやりとした恋心を踏み潰す、それだけのために。
女医を誘惑し、ただ浅ましく求めるだけの雌にまで、落としたというのか。下手をすれば、彼女の家庭を壊していたかもしれないのに。
そしてもし全てがこの男の思惑通りなのだとしたら、花京院は確かにあの女医に幻滅した。少し大袈裟かもしれないが、花京院にとって彼女は清らかで美しい、白衣をまとった女神のような存在だったからだ。
今でもまだ忘れられない。抱いて抱いてと何度も繰り返し、欲に溺れる彼女の声を。
――欲しくて欲しくて、堪らねえ。
承太郎の、声を。
(あれは最初から、ぼくに、向けられていた……?)
そんなことが、果たしてありえるだろうか?
「嘘だそんなの。信じられるわけがない」
花京院は力なく首を左右に振った。
「君が望めば、あの女医のように誰だって心だろうが身体だろうが明け渡してしまうだろう。そんな君が、どうしてそんな回りくどい真似までして、ぼくを……」
自分を無価値な人間だとは思わない。
けれど目の前にいるのはあの空条承太郎だ。誰もが羨み、誰もが焦がれる。神に選ばれたような、美しい獣のような男だ。
そんな人間に唯一として選ばれる気持ちはどんなものだろうかと、酔いしれたことも確かにあった。だけど。
「理解、できない……」
「嘘だね」
伸びて来た承太郎の腕に項を掴まれ、強引に目線を合わされた。
「ッ!」
「耳まで真っ赤にして、惚けた顔しやがって。てめーのここにはちゃんと答えが書いてあるぜ」
「ち、違う……そんな顔、誰が……」
「嬉しくて嬉しくて、仕方がねえってよ」
わかる。承太郎の目に写る自分こそが、真実の姿なのだと。
それでも信じるのが怖い。この男に選ばれたという確信が、どうしても持てない。
だけど心が震えている。同じことを繰り返そうとしている。彼の言葉が、真実だったらいいのにと。
真っ直ぐに見つめてくる承太郎の瞳はどこまでも情熱的だった。
今この瞬間、彼の目が映し出しているのは。
「好きだ花京院。てめーが欲しくて堪らねえ」
「じょう、たろう……ッ」
どうしようもなく込み上げる喜びに、感情が解けていく。自分ではどうにもできずに絡まるばかりの、固結びされた心の糸が。承太郎が触れるだけで、こうも、簡単に。
承太郎は指先で花京院の唇をなぞった。それは顎を伝い、喉へと降りる。ごくりと上下する喉仏を撫でて、シャツから覗く鎖骨の窪みへとたどり着く。
身体が熱くて堪らなかった。内側でぐつぐつと、音を立てて煮えたぎっている。
花京院はこの熱を知っている。
「落ちてこい、花京院。今度こそ全部、おれのものにしてやる」
これは、期待だ。
*
身体中の全神経が、一ミリのブレもなく承太郎を意識する。
大きく逞しい腕の中に閉じ込められながら、花京院は戸惑うことすら許されない圧迫感を覚えていた。
ただあるがまま、感じていればそれでいいのだと。
「ぅ、ん……ッ、や、ぁ……!」
肌蹴た前に承太郎が顔を埋め、首筋の薄い肉を幾度も吸い上げる。武骨な指先は胸筋の上で小さく主張する粒を、これでもかというほどこねくりまわしていた。
遠くから部活動に励む生徒たちの掛け声が聞こえる。誰が来るとも知れない保健室で、抗えないことを理由に嬲られる感覚は花京院の中に不思議な興奮を呼び起こす。
「だ、め……じょ、たろ……ッ、こんな……っ!」
「知ってるぜ花京院。てめーの身体は駄目と思うほど感じちまう」
「イッ、ひ……ッ!?」
容赦なく、小さな粒に歯を立てられた。鋭い痛みが駆け抜けて、そこからじわじわと痺れが追いかけてくる。
大きく跳ねようとする腰の動きさえ、承太郎の重みが圧し掛かった状態ではままならない。どこにも感覚を逃がすことができず、花京院の中で蓄積されるばかりだった。
「い、たッ、いた、ぃ、アッ、噛んじゃ、ぁ、や」
嫌だ嫌だと繰り返しても、承太郎はそこに何度も歯を立てた。もう片方は指先で摘ままれて、こりこりと押しつぶしながら引っ張られる。
気が遠くなるほどの快感に、花京院は両手で頭を掻きむしるようにして身悶えた。
どれほどの時間そうされていたか知れない。ただ承太郎の唇と指先が離れてからも、二つの胸の尖りはびりびりと痺れて、真っ赤に色づいていた。
承太郎は花京院の首筋や、鎖骨や、あらゆる場所に痕を残していく。歯型が残るほど牙を立てたかと思えば、鈍い水音を響かせながら強く吸い付いた。痛いのか気持ちいいのかも分からなくなってから、ようやく優しく舌を這わせる。その強弱の差について行くことができない。
承太郎の愛撫は、初めてここで抱かれたときとも、屋上で嬲られたときとも、どこか違っていた。
乱暴で、荒々しくて、自分本位で、まるで容赦がない。支配されているのだということを知らしめるような、そんな抱き方だと思った。
いつしか花京院は、小刻みに震えながら涙を流すしか、できなくなっていた。
「じょぉ、たろ……も、許し、て」
「ダメだね」
「ついて、いけなッ、あ……ッ!」
承太郎の手が花京院の前を寛げる。下着ごと剥ぎ取られ、下半身は白い靴下だけという屈辱的な姿にされてしまった。
完全に起ち上がった性器が、先端から白い粒を浮き上がらせている。
「嫌々言っといてこのザマだぜ。オラ、自分でよく見てみな」
「ちが、ぅ……違う、違う……見る、な!」
咄嗟に振り上げようとした片足を軽々と担がれて、腰がシーツから僅かに浮き上がる。
普段は晒されることのない白い内腿にまで、承太郎はきつく歯を立てた。
声にならない悲鳴を上げながら、花京院は両手で顔を覆った。淫らに跳ねる腰の動きに合わせて、先走りをまき散らす性器が揺れる。
承太郎の唇が、徐々にそこへ向かって移動していく。その光景を指の隙間から覗き見る花京院に向けて、彼は瞳を細めて笑って見せた。
「あ、あッ、ぁ……じょ、たろ、き、汚い……そんな、ヒッ、ぃ……ッ」
じりじりと這い上がって来た唇が、ぷるぷると震える柔らかな袋を舐め上げる。軽く音を立てて吸われると、一緒に脳ミソまで溶け出してしまいそうだった。
血管がほんのりと浮き上がるほど膨れ上がった性器は、花京院が刻む鼓動と同じリズムで脈打ちながらしなっていた。承太郎は根本からそれに舌を這わせ、やがてすっぽりと口の中に収めてしまう。
「ッ――!!」
生まれて初めて受けた口淫は、まだ性的な行為に対して未熟な花京院には、刺激が強すぎた。承太郎の肩に引っ掛けるようにして担がれている片足の先が、攣りそうなほどピンと伸びる。シーツを引き千切る勢いで掴み上げながら、たったそれだけで、花京院は精を弾けさせた。
「ッ、ぁ――、ッ、ぃ……ッ!!」
反り返っていた背中をシーツに打ち付ける。一瞬で達してしまった衝撃に、花京院は瞬きもできないまま、はかはかと胸を上下させ、放心する。視界のところどころで星が瞬いていた。
ショック状態で真っ白になる花京院を現実に引き戻したのは、承太郎が銜え込んだままの性器を吸い上げながら扱きだした瞬間だった。
「ヒ、ッ! や、やめ……ッ!」
達したばかりの身体はあまりにも敏感で、全身の神経が剥き出しといってもいい状態だった。下半身の痙攣が止まらないまま受ける刺激は、いっそ拷問に等しい。
承太郎は口の中で受け止めた花京院の白濁と、自身の唾液とで実に滑らかに水音を響かせながら頭を上下させている。漏れだすどろどろとした液体が袋を伝い、奥まった場所へと流れ込んでいくのがわかった。
「イッ、嫌だ、嫌……ッ! 離し、じょうたろ、そこ、イッた、ばっか、でッ、やだ、いやだぁ……ッ!!」
両手で硬い黒髪を掻きまわしても、承太郎は口淫をやめない。
上目使いで鼻からふっと笑みを漏らし、乱れ狂う花京院の反応を楽しんでいるようだった。
熱い口内で、花京院の性器はそう時間を要さず再び勃起する。先走りも混ざり、耳を塞ぎたくなるような下品な水音が大きくなった。
過ぎた快楽は暴力と変わらない。いつしか花京院の濡れた瞳は濁り、閉じることを忘れた唇からは唾液と、意味をなさない喘ぎばかりが零れだすようになる。
(もう、わからない……滅茶苦茶だ……)
承太郎の指先が、花京院の尻の肉を割って濡れた窄まりをつつく。
精液と唾液でしとどに濡れたその穴は、いともたやすく太い指を受け入れた。
「あっ、や……ッ、入って、き、た……っ」
前の刺激が強すぎるせいか、最初のときほど痛みは感じない。
ぬるぬると入り込む節くれだった指が内壁を擦る動きが、あのなんともいえない鳥肌のたつような感覚を生み出す。
あっという間に指が二本に増やされた頃、あと少しで再び達するというタイミングで、承太郎が銜え込んでいた性器から口を離す。濡れそぼる唇をぺろりと舐め上げて、中を解す動きはそのままに身を乗り出してくる。
「おまえのナカ、すげえな。ビクビクしてよ」
「んぅ、ぁ……ッ、はぁ、あ……じょ、たろ、じょう、たろぉ……ッ!」
ギリギリまで高ぶらされたまま放置される性器と、中を探られるもどかしさに、気が触れてしまいそうだった。
たかだか一度受け入れただけのそこが酷く疼いて、抱かれることに慣れた娼婦のように、穴をひくつかせているのが分かる。
(どうしてだ……あれから一度もしてないのに、どうして、こんなに……)
欲しくて欲しくて、堪らないのだろう。
初めて受け入れたときは、指が入り込むだけで凄まじい苦痛を伴った。承太郎のモノともなれば尚更のこと、憐れまれるほどの激痛に泣きじゃくったというのに。
あのときと今とでは、何が違うというのだろう。
「ところでよ、花京院」
二本の指をバラバラと動かしながら、承太郎は花京院の耳元に唇を寄せる。
「誰が嫌いだって?」
そして問いかけて来た。
「なっ、ん……? ひ、ぁうッ」
「覚えてねーのか?」
「なに、を、アッ、あ、ダメ、指、へん、に、なる……ッ」
「てめーが言ったんだぜ。大っ嫌いだ、ってよ」
熱と快楽に浮かされた思考で、花京院の意識が承太郎の言葉を辿る。そしてはたと気がついた。
言った。確かに言った。つい先刻の口論の途中。
『ぼくは君が、大っ嫌いだッ!!』
花京院は承太郎に向かって、高ぶった感情をぶつけた。
「そ、れは……君が……」
「おれがなんだって?」
「ぅあッ……!?」
ほんの僅かに気がそれた隙をついて、いよいよ指が三本に増やされた。流石の圧迫感に喉を反らせば、浮き上がった喉仏に歯をたてられる。
「んんぅ、ッ、ヒ、ぁッ……!」
「もういっぺん言ってみな。あれと同じことをよ」
意外と、根に持つタイプか。
霞む視界を抉じ開けて、承太郎の顔を見上げる。その表情を見て、花京院は息をのんだ。
てっきり、またあの意地の悪い笑みを浮かべていると思っていたのに。
承太郎の瞳はどこか切なげに揺れていた。
きゅっと引き結ばれた唇が、迷子の子犬のように、悲しげで。
「……!」
夢でも、見ているのだろうか。
自分が知っている承太郎は、絶対にこんな弱り切ったような顔など見せない。
誰がそうさせているのだろう。彼に、こんな顔を。
(ぼく、なのか)
ただ勢いのまま吐き出してしまった言葉だった。
それだけじゃない。ここで女医と承太郎の口付けを見てしまったあの日も、花京院は彼に嫉妬や憎しみという感情をぶつけて遠ざけた。
この男も、傷ついていたのだろうか。
承太郎の精神は、その鋼のような肉体と同様に、なにがあっても決して傷つかないものとばかり、思っていたけれど。
おかしな話だが、花京院はこのとき初めて承太郎のことを自分と同じ、人間なのだと思えた。悲しみもすれば傷つきもする。誰かを深く、思うことだってできる。そう感じた途端に。
(これ、なんて言うんだろう)
胸いっぱいに、火が灯ったような気がした。
それは身を焦がすような激しい炎ではないけれど、温かくて、泣きそうなほど切なくて、締め付けらているみたいに苦しいのに、こがした砂糖のように甘かった。
(愛しい)
その瞬間、身体の奥で疼きが増した。
きゅん、という音がしっくりくるほど悩ましく、承太郎の指を締め付ける。
「花京院……」
ああ、やっとわかった。
どうしてこんなに欲しいのか。最初と何が違うのか。
(ぼくはもう知っているからだ。あの頃の、無知な花京院典明ではないからだ)
ただ訳も分からず奪われるだけの自分じゃない。
感情が伴っているからだ。承太郎と、思いが重なっているからだ。
「好きだよ、承太郎」
花京院は小さく震える両手で承太郎の頬を包み込む。
「好きなんだ。ぼくは君に……恋に、落ちたよ」
だからね。
「ぼくを、君の一番に選んでくれるかい? ぼくだけだって、言ってくれる?」
「ッ……!」
承太郎の顔が一瞬だけ、くしゃりと歪んだ。一気に指が引き抜かれ、ぞくりと這い上がる感覚に戦慄く花京院へ、ガキ大将のように強気な笑みを浮かべて見せる。
「とっくに選んでんだよ。おれには、てめーだけだ」
通じ合った想いを込めて交わす口付けは、信じられないくらい、温かかった。
*
承太郎は長ランを脱ぎ捨て、中に着ていたシャツさえもむしり取るようにして取り払うと、床に放った。
その仕草の男臭さに胸を高鳴らせ、花京院は蕩けきった表情で覆いかぶさって来る大きな身体を受け止める。
前を寛げた承太郎が、熱くそそり起つ剛直をヒクつく穴に宛がった。
互いが同時に喉を鳴らす。心臓が飛び出してきそうなほど暴れる感覚が少し怖くて、花京院は承太郎の首に両腕を回して強くしがみついた。
「花京院」
「うん」
好きだ、と。
承太郎は何度も吐息と一緒に吐き出しながら、ゆっくりと腰を進めてくる。
痛いも苦しいも、愛しさの前には媚薬にしかならなかった。この人しかいないと決めた相手と繋がることが、こんなにも幸福なことだなんて、知らなかった。
「は、ぁ! じょ、た、ろ……ッ、承太郎、承太郎……承太郎……ッ!!」
それしか知らないみたいに、花京院は承太郎の名を呼ぶ。
汗の粒が頬に落ちて、見上げた先には歯を食いしばる承太郎の顔がある。
初めてのときも、彼はこんな風に苦しげに表情を歪めていたのかもしれない。あのときは後ろからだったから、見えなかったけれど。
完全に繋がり切ってしまうと、それだけで二人は息も絶え絶えになっていた。
腹の中にみっちりと、承太郎の肉が詰まっている。きっともう隙間なんかない。何一つ入り込む余地などないほど、花京院の中は承太郎で満たされていた。
「平気か」
掠れた声が色香を放つ。鼓膜まで蕩けそうな甘美さに、花京院はどこか夢見心地の状態でこくんと頷いた。
「平気……動いて、承太郎。今度は、ちゃんと応えるから」
「……あんまり煽ってくれるなよ」
ふっと笑った承太郎が、改めて花京院の身体を抱え込む。両足を承太郎の腰に絡めると、抱き寄せた頬に頬ずりをした。それが合図とばかりに、ゆらゆらと幾度か腰が揺らめいた。
「あッ、あぁ……ッ、ん、じょ、たろ、承太郎……んっ、は……」
「花京院……ッ、花京院」
痛いほどの快感が痺れとなって脳髄にまで響き渡る。ひっきりなしに軋むベッドの音が加速するほど、その腰使いに花京院の理性はぐずぐずに蕩けていった。
承太郎の荒々しい呼吸が愛しい。中で脈打つ屹立が、彼が確かに快感を得ていることを身体の内側から伝えてくれる。
自分ばかりが嬲られているのではない。花京院の内壁もまた、承太郎を締め付けては翻弄している。それが堪らなく、心地いい。
熱い欲に飲み込まれて、吐息ごと、二人一緒に溶けていく。限界がもうすぐそこだった。
「じょう、たろ……ッ、も、ぼく……!」
「まだだぜ。花京院」
「え、ぅあッ!?」
二の腕を掴まれ、腰を抱えられたと思った瞬間、花京院の視界が大きく揺らいだ。
胡坐をかく承太郎の上に向かい合って繋がる形になると、腹の奥の、もっと深い場所にずん、という衝撃が走った。
「ヒッ、ぎ……ッ!!」
見開いた瞳から、涙が溢れる。
もうこれ以上はないという場所まで、貫かれていたのだとばかり思っていた。けれどそれは、甘かった。
「ぁ、あ……? ァ……う、そ、ッ、ぁ……ぼく、の、お腹、が……っ」
突き破られたのではないかと、思った。
花京院はわなわなと震えながら、指先を下腹部へと滑らせる。承太郎の形に僅かに膨らむ下腹が、ずくずくと熱せられて痙攣していた。
「これで、全部だぜ」
見上げてくるエメラルドが、快楽に溺れきって潤んでいる。そのうっとりとした表情が、涙に滲んでぼやけていった。
これで本当に、全てが承太郎のものになった。花京院もまた、彼の全てを、手に入れた。
「嬉しいよ……とても……」
うまく笑えたかは、わからなかった。ただその太い首にしがみついて、花京院はひくひくと泣いた。承太郎がゆっくりと、下から突き上げてくる。内臓ごと押し上げられるような感覚に咽びながらも、その動きに合わせて一緒に腰を揺らす。
「ひっ、ぁあッ、い、アッ、ぁ、あ……ッ!!」
腹の奥を突かれる度に、声が抑えきれない。そうやって喘いでいなければ溺れ死んでしまいそうで、女のように啼いている自分の声にすら、止め処なく気分が高揚していくのを感じた。
そのとき、承太郎の屹立が花京院の中の一点を引っ掻いた。
「ひンッ、ぁッ、ぁ……? まっ、て、アッ、あぁ……――ッ」
「ここ、か」
承太郎の口元の笑みが濃くなった。喉と背を反らしながら、花京院はバチバチと散る火花にただ混乱する。
承太郎が、心得たとばかりにそこばかり狙って揺さぶってくる。快感にすら、まだ先があったのか。こんなことを続けられてしまったら、本当に死んでしまう。
二人の腹の中心でしなる肉棒から、信じられない量の先走りが零れていた。赤く腫れあがったようになっているそこが、早く解放されたくて大粒の涙をまき散らしているようだった。
「も、ッ、こわ、れるっ、じょ、たろ……ッ!!」
「ッ、いいぜ……好きなだけ、イカれちまいな。花京院」
承太郎が花京院の胸に唇を寄せる。散々嬲られて赤く腫れた粒に思い切り吸い付かれた瞬間、花京院は声もなく達した。同時に、最も深い場所に熱いものが叩きつけられたのを感じる。
貪り尽された腹の中に受け止めきれないほどの精を注がれて、花京院は背中からシーツに崩れ落ちながら、微かに笑った。
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昼休みに入ってすぐ、教室に大勢の女子たちの悲鳴がこだました。
「ギャアアアアッ!! JOJOよ! JOJOがいるわ!!」
「どうしてJOJOが二年生の教室に!?」
「わたしを誘いに来たのね!? そうでしょJOJO!!」
「なに言ってんのよ!? わたしよ!!」
「はぁ!? ペチャパイどころか陥没してる分際でバカじゃないの!?」
「なんですってこの顔面ブスゴリラ!!」
女子たちは激しい口論をはじめる者、ひたすら絶叫する者、密やかに失神する者と、多様な反応を見せていた。その騒ぎを聞きつけた隣のクラスの女子まで廊下に生垣を作り出し、大変な騒ぎと化している。
そんな中、男子たちはただただ青い顔で目を泳がせるばかりだった。
花京院は……石のように硬くなりながら視線を明後日の方向へ向ける。
なぜ彼がここに。わざわざ二階の教室までやって来るのか。
完全に嫌な予感しかしない。
(来るなよ……絶対に来るなよ……フリじゃあないぞこれはッ!!)
頼むからこちらを見てくれるなと、花京院は心の中で十字を切った。
が、教室の戸口に背を預け、承太郎は騒ぐ女子たちには目もくれずに花京院の名を呼ぶ。それはもう、容赦なく。
「花京院」
そして、手に持った大きな風呂敷包みをひょいと掲げると、顎をしゃくって見せる。
来い、と。案の定、そういうことらしい。
(うわあああああ!!)
その瞬間、教室や廊下中の視線が、花京院へと一斉に注がれた。
*
「こ、困りますよ! ああいうのは!!」
人だかりをどうにか脱して辿り着いた屋上で、花京院は自分よりも背の高い男に向かって声を張り上げた。
当の本人はどこ吹く風で、昨日と同じ日影へヌシヌシと向かう。
「聞いてるのか!? 大変な騒ぎになってしまったじゃあないかッ!!」
「保健室にいねえおまえが悪い」
「はぁ!? どういう言いがかりだいそれはッ!?」
承太郎は壁を背にどっかりと胡坐をかくと、肩を怒らせる花京院を見上げ、ニヤリと笑う。
「子犬みてえなヤローだな。キャンキャン吠えてよ」
「~~ッ、せめて成犬と言えッ!!」
晴れ渡る空に、花京院の悲鳴じみた怒声が太鼓のようによく響いた。
*
それからというもの、花京院は毎日のように承太郎と昼食を共にするようになった。
晴れの日は屋上の日影で、雨の日はひと気のない場所で。
使われていない部室があるとか、旧校舎裏の用務員室は鍵が壊れているとか、承太郎はこの学校内において一人きりになれる時や場所を、幾つも知っているようだった。
そのうちの何か所かは、教師が見て見ぬふりをしているだけかもしれないが。
(人気者は辛いよ、と言ったところかな)
承太郎が学校に来ていると、一日に何度も女子たちの悲鳴を聞くことになる。登校から下校に至るまで、彼には気が休まる時間というものがないらしい。
それはそれで、少し気の毒なようにも感じられる。
(誰かを連れ込んで好き勝手するため、とかだったら、話は別だけど)
そう考えると、胃の辺りがムカムカしてくるのはなぜだろう。
毎日のように豪華な重箱弁当をご馳走になっているせいで、少し胃がもたれているのだろうか。
流石にこんな豪勢なものを毎日いただくのは気が引けると、花京院がどんなに遠慮しても、承太郎は「気にするな」と一言で片づけてしまう。
ちなみに教室にわざわざ迎えに来るという行為は、初日だけでどうにか阻止することに成功した。今は屋上手前の踊り場で待ち合わせをしている。
あのあと花京院は女子たちに詰め寄られ、最後には男子たちに憐れまれた。ヤキを入れられたことになっているらしい。
とにかく、あの日からもうかれこれ十日以上は経過しているだろうか。
そして今。
花京院は体育館倉庫にいる。
今日は朝から雨が降っていた。屋上へ出ることを諦め、連れて来られたのは体育館倉庫だった。鍵はかかっていたが、承太郎は「コツがあるんだぜ」なんて言って、鉄の扉を思い切り蹴り上げた。すると、たったそれだけで面白いほど簡単に鍵が開いてしまったのだ。果たしてどのあたりにコツがあったのか、花京院にはさっぱり分からなかったが。
倉庫は微かに肌寒く、独特の匂いは多少気になるが、座布団代わりにマットレスを使用できるのは悪くない。
花京院は隣で食後の一服にふける承太郎をチラリと見やった。
厚みのある唇から吐き出される紫煙が、ほのかにカビ臭い空間に溶けていく。遠くから雨音がする以外、二人きりの空間に音はなかった。
(少し、慣れたかな)
こんな風に、承太郎と過ごすことに。
まだ少し怖いような気もするし、何を考えているのかも謎だ。
どうして承太郎が自分を側に置きたがるのか、何より自分自身がそれに甘んじているのか、まだ分からないことだらけだが。
「熱烈だな」
「……へ?」
承太郎は咥えていた煙草を指先で摘まみ、飲みかけの水が入ったペットボトルに放り込むと、ぐいと花京院の肩を抱いて引き寄せた。
「ッ!」
一気に縮まった距離に、胸が高鳴る。
「あんまり見るんじゃねえよ。照れちまうだろ」
「え、あ……そう、だったかな、っていうか、君も照れたりするんだね」
「おれだって人間なんだぜ」
「そうか、ごめん」
そんなに、熱心に見つめていたのだろうか。
恥ずかしさも相まって、花京院の頬に一気に熱が集まった。密着する身体が熱い。心臓がうるさく騒いで、目が泳ぐ。
一緒にいることに多少は慣れたつもりでも、この感覚だけはどうも慣れない。
そんな惑うばかりの花京院の頬に、大きな手が添えられる。そのまま、承太郎はぴんと伸ばした人差し指で、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスを軽くつついた。
「ずっと言おうと思っていたんだがよ。なかなか似合ってるぜ。これ」
「……そ、それはどうも、ありがとう」
「自分で買ったのか」
「母のお古ですよ。くれたんです。ぼくの好物がチェリーだから」
ピアスを家族以外の他人に褒められたのは、初めてだ。なんだか照れ臭くて、むず痒いような気分になる。
だからだろうか。つい、誤魔化すみたいに余計なことが口をついて出る。
「このピアスはぼくなりの……生きている証のようなもの、かもしれません」
「生きている証?」
こくりと頷いて、花京院は微かに笑う。
「子供の頃は今よりもずっと身体が弱くて、ほとんど学校にも行けなかったんです。両親はそんなぼくを心配して、大人になるまで生きられないのではないかと……いつも泣いていました。ぼくは、それがとても悔しくて」
嘆く両親の姿を見て、幼心に胸にぽっかりと大きな穴が開いたのを覚えている。
自分という存在は、そんなにも儚いものなのかと。
耳たぶに針を通したのは、ちょっとした反抗心からだったのだと思う。過剰なまでの心配は、時として束縛にしかならない。
だが意外なことに、両親はこれと言って息子の突飛な行動を咎めることはしなかった。
厳格な人たちでもあったから、もっと口煩く注意を受けるかとばかり思っていたのだが、むしろ母は若い頃にしていたこのピアスをくれた。
生まれて初めて自分の生を肯定されたような気がして、あのときは本当に嬉しかった。
「なんでもいいから形として残したかったんですよ。ぼくはちゃんと生きてここにいるし、これから先もずっと生きていくんだぞ、ってね」
そこまで話して、ハッとする。
「あ、すみません……つまらない話をベラベラと」
途端に居心地が悪いような気分になって、身を捩る。けれど承太郎はそれを許さず、よりいっそう強く花京院の体を引き寄せた。
熱を帯びる頬に、承太郎の唇が押し付けられる。
「じょ、じょうたろ」
「構わねえ。もっと聞かせな。てめーの話を」
魅惑の低音が胸に染み込む。一瞬で項の毛が粟立つのを、咳払いで押しやると花京院は顔を背けた。
「ぼ、ぼくの話は、これで終わりです」
友達とも呼べないような相手に、自分語りをしてしまったことが恥ずかしい。今まで誰にも話したことがなかっただけに、尚更のこと。
花京院はさっさと話題を切り上げてしまうと、承太郎を横目で睨んだ。
「そ、それより、君の方はどうなんだ」
「おれがなんだって?」
「だから、その……」
花京院の脳裏には、あの保健室の女医の姿が浮かんでいた。
昼休みはこうして一緒に過ごしているけれど、それ以外の時間この男が真面目に授業に出ているとは限らないのだ。
「……あの女医とは、付き合っていないと言っていたけど……最近は、どうなんだ?」
承太郎は。
屋上で花京院が目を回して以来、キス以上のことをして来なくなった。
今だってただ抱きしめて、花京院の前髪の癖毛を指先で弄んでいるだけだ。
この男は悪いヤツだとは思うが、根は優しいのだということは知っている。
女医の話では倒れた花京院をわざわざ保健室へ運び、心配そうにしていたというのだから。しかも二度も。
例のお姫様抱っことやらを女医以外に見られていなかったのは、不幸中の幸いだろうか。
だから今も、花京院の身を案じて手を出して来ないのだと思う。
だけど。
(それならどうして、ぼくはここにいるんだろう?)
承太郎が本来持っている優しさに触れて、ついおかしな勘違いをしそうになったが、彼が求めているのはあくまでも性の捌け口ではないのか?
あれほど有無を言わさず奪っておいて、こんな触れ合いだけを繰り返すことに、何の楽しみを見出しているというのだろう。
もっと深く、好きにしようと思えばいくらでも、承太郎にはそれが可能なはずだ。
現にここにはマットだってあるし、人の気配だってまるで感じられない。行為に及ぶには、もってこいの場所ではないのか。
だけどそれをしない、ということは、他で発散しているのかもしれないと思った。
もしそうなのだとしたら。
(なんか、やだな……)
「そんなにあの女医が気になるか?」
いつにも増して低い声で言った承太郎の瞳に、一瞬どこか剣呑な色が浮かんだような気がした。花京院は慌てて首を振る。
「ち、違う。別に気になってるとか、そういうんじゃあ、なくてだな……」
そういえば自分は、あの女医に恋をしていたのだった。今の今まですっかり忘れていた。
今の花京院は承太郎と女医が、未だに関係を持っているのかどうか、そればかりが気になってしょうがない。自分でも、なぜこんなにと思うほど。
これではまるで、嫉妬でもしているみたいではないか。
(そ、そんなまさか。いや、だが承太郎にはそう思われたかもしれない)
承太郎は帽子の鍔を引き下げて表情を隠した。やれやれ、という口癖に胸がズキリと痛む。ああ、きっと面倒だと思われたに違いない。鬱陶しいヤツだと。
後腐れなく遊ぶための相手に、まるで嫉妬しているみたいな質問をされれば、誰だってそう感じて当たり前、なのだと思う。
「すまない……さっきのは、忘れてくれ」
「てめーだけだ」
「そうだよな、君がどうしようとぼくには関係……ぅん?」
「おれにはてめーだけだぜ。花京院」
ぽかん、と。
大きめの口を丸く開いたまま、瞬きすら忘れる。
承太郎の言葉を、幾度か頭の中で反芻した。
それはつまり、どういう意味だろう。遊び相手は今は花京院以外にいない、ということか。それとも、もっと特別な意味が含まれていたりするのだろうか。
真っ直ぐに見つめてくる承太郎の瞳はどこまでも澄んでいて、薄暗い体育館の中にあっても輝きは決して失われない。その宝石のような緑に、今は花京院だけが、映されている。
「ぁ、あの……それは、つまり、ど、どういう……」
瞬きもできないまま、花京院はしどろもどろに問いかける。承太郎はそんな花京院の様子を見て、堪え切れなくなったように小さく噴き出した。
そのままくつくつと肩を揺らしながら笑う様は、どこか悪戯に成功した悪ガキのようでもあり、なにやらえらく嬉しそうに見えた。
しばらくはそれを茫然と見つめながら、花京院は徐々に頭に血が上って行くのを感じる。
「か、からかってるならよしてくれッ! 悪趣味な男だなッ!!」
拳を握り、振り上げるみたいにして声を張り上げると、承太郎はさらに楽しそうに身を震わせて笑う。
「子猿みてえだな。顔中まっかっかでよ。ケツも赤くなってんのか?」
「ばっ、バカにしてるのか君はッ!? しかもこないだから子犬とか子猿とか!!」
「褒めてんだろーが」
「どこがだッ!!」
やっぱりこの男は自分を弄んでいるんだ。
花京院の経験値の低さを知っていて、こうして思わせぶりなことを言ったり、からかって遊んでいる。
本当に酷い男。人を笑い者にするなんて、絶対に許せない。
だけど。
――てめーだけだぜ。花京院。
(なにを期待しているんだろう)
嘘か本当かも分からないような言葉を、それでも嬉しいと感じてしまった。
例え一瞬でも、あの美しいエメラルドに自分一人を映してほしい、なんて。
(ぼくは、いよいよ本当に頭がおかしくなってしまったんだろうか)
少しずつ、少しずつ。
欲張りになってきている心を抑えきれなくなっているような気がして、花京院は楽しげに肩を揺らす承太郎から、慌てて目を逸らした。
*
それからさらに数日が経過した。
「あれ、今日はぼくが一番か」
昼休み、花京院はいつものように階段の踊り場へ向かった。だが、そこにいつもは先に待っているはずの承太郎の姿がない。
珍しいこともあるものだと、花京院は屋上へ続く扉に背を預けて一息ついた。
その手には、白いハンカチに包まれた弁当箱がある。
(弁当を持参するのは、久しぶりだ)
中身は玉子焼きやウィンナーといった、いたって普通の弁当だ。
承太郎がいつも持ってくる重箱の中身に比べれば、お粗末なものでしかない。
だが、花京院にとっては少しばかり、特別なものだった。
今朝はいつもより早く目が覚めた。
キッチンに顔を出すと母が朝食の支度をしていて、今日の昼はどうするのかと聞かれた。最近はずっと承太郎にご馳走になっていたから、母にはパンで済ませると言って誤魔化していた。
だから今日もそう言うつもりだった。けれど花京院はふと思い立ち、弁当を持参することを決めた。
(玉子焼きっていうのは、簡単そうで実は凄く難しいんだな……)
専用のフライパンを使ったとしても、慣れない手つきで焼き上げるのは至難の業だった。実際、一度は失敗してしまった。母の指導の下、二度目でなんとかそこそこの見た目に焼き上がったが、果たして承太郎の口に合うだろうか。
そう、今日の弁当には生まれて初めて花京院が作った、玉子焼きが入っている。
我ながら、恥ずかしいことをしてしまったと、そう思う。
母も一体どうしたのかと目を丸くしていたし、花京院自身も驚いている。
(別に、特別な意味なんかないぞ。ただいつもご馳走になってばかりだから、少しは何か返したいと思っただけであって)
心の中で言い訳をすると、なぜかますます恥ずかしくなった。
誰の目があるわけでもないのに、花京院は照れ隠しに赤くなった頬を指先で掻いた。そのままふと気になって、ひと房だけ垂れる前髪の先をちょんちょんと引っ張る。なんとなく気に入らなかったので、ポケットから櫛を取り出すとさらに乱れを整えた。
「ふぅ……こんなもんかな……」
満足げに呟きながら櫛を仕舞ったところで、我に返る。
(お、乙女かッ!!!)
昔ながらのコントのように、タライが降って来たような衝撃を受ける。
自分は一体なにをしているのだろう。わざわざ弁当をこさえて、髪型まで気にしながら、そわそわと一人、承太郎を待っている。
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。しかもこれでは、まるで承太郎の彼女ヅラではないか。
(あ、でも、ぼくは男なわけだから、彼氏ヅラ……に、なるのか……?)
いやいやいやいや。そういう問題じゃあない。
そもそも自分と承太郎は恋人同士でもなんでもないのだから。
いくらあれ以来キス以上のことをしていないからって、承太郎にとって花京院はただの遊び相手に過ぎないはず。
それは十分に理解しているのだが。
(浮かれてる、よな……完全に)
てめーだけだと言った、その言葉を忘れられないでいる。
もしあの言葉に特別な意味が込められていたとして。遊び相手としてじゃなく、空条承太郎という男に選ばれた、たった一人の存在になれたとしたら。
どうするだろう。どう思うのだろうか。
承太郎から与えられるものは、怖かったり痛かったり苦しかったり、戸惑うようなものばかりだ。だけど嫌じゃない。キスしかしてこない相手に対して、もどかしいとすら感じ始めている。
だけど同じくらい、大切にされているような気もして、くすぐったい。
今だって、早く来ないかと待ちわびて、落ち着かない自分がいる。
承太郎は、この弁当をちゃんと食べてくれるだろうか。どんな反応をするだろう。
彼の母親は料理が上手だし、きっと舌も肥えているに違いない。だけど少しでも喜んでくれたら、最高に嬉しい。そう思う。
「それにしても遅いな」
自分の気持ちに蓋をするように、花京院はあえて独り言を漏らす。
耳をすませてみても、誰かが階段をのぼってくる音すら聞こえなかった。
何かあったのだろうか。彼は超がつくほどの不良だし、何か悪さをして教師にでも呼び出されているのか。とはいえそんな勇気がある教師がいるとは思えないが。
今朝も元気に女子たちが騒ぐ声が聞こえていたから、学校には来ているはずだ。途中でフケて帰ってしまったという可能性なら、考えられるが。
「…………」
ふと、嫌な予感がした。
脳裏に浮かんだのはやはりあの女医の顔で、花京院は途端に不安に駆られる自分に気が付いた。
(行ってみる、か……?)
少し、様子を見るだけ。
そう考えたときには、花京院の足は階段を下りはじめていた。
やめておけと、心の奥底でもう一人の自分が制止する声を聞きながら。
*
行って、何もなければそれでいい。
何かあったとしても、多分、それでいいのだと思う。
承太郎はあんなことを言ったが、彼の遊び相手が自分や女医だけとも限らない。
もしどこか知らない場所で他の人間に手を出していたとしても、花京院には承太郎を咎める権利もなければ、その理由もないのだ。
頭の中ではちゃんと理解しているつもりだった。だけど心臓が内側から太鼓のように胸を叩く。今にも突き破って来そうで、息が苦しい。
何度も足を止めかけながら、花京院は保健室がある一階へ辿り着いた。そのまま真っ直ぐ、廊下を突っ切って行く。
本当は信じたいのではなく。
花京院はこのときすでに、どこかで承太郎を信じていたのだと思う。
恋愛と性欲は別と、そう切り離して考えている酷い男。
そうと知っていても、二人きりでいる時間の承太郎は優しくて、ほんの少しの意地悪でさえも、花京院の胸を甘い棘で締め付けた。まるで自分が特別な存在になったみたいな、そんな気にさせられるから。
もしかしたら彼は本当に、そのエメラルドに自分だけを映してくれているのではないかと。
そんな風に勘違いしてしまったとして、誰が花京院を責められるだろう。
だって相手は学校中の女が手を伸ばしても届かない、あの空条承太郎なのだから。
いっそ浮かれるなと言う方が、どうかしているのではないか。
だから花京院は思い知ることになる。
そんな男が、たかが一度抱いただけの、ましてや同性を相手に。
特別な感情を抱くはずが、ないということを。
辿り着いた保健室のドア。
一瞬の迷いを振り払うようにして開けた引き戸の先で、花京院は見てしまう。
寄り添ってキスをする、承太郎と女医の姿を。
「じょう、たろう……?」
時間が、止まったような気がした。
その光景はあまりにも鮮烈で、だけど遠くて、目の前で起こっている出来事に理解が追い付かない。
「か、花京院くん……!?」
扉の前に立ち尽くす花京院を見て、青褪めた女医が慌てて承太郎から距離を取る。
花京院は真っ白になる頭で、空気が痛いほど張り詰めているのを感じていた。
(キスを、していた)
承太郎と、女医。
二人は身を寄せ合い、深く唇を重ねていた。
あまりにも絵になる光景は、画面越しにチープな恋愛ドラマでも見ていたようで。
面倒なところを見られたからか、それともお楽しみを邪魔されたからか。承太郎が微かに舌打ちをする。
それにハッとして、花京院は背後に数歩、よろめいた。
「花京院くん、こ、これはね、あの……違うのよ」
女医が目を泳がせながら、何か言い募ろうとしている。
だけど今の花京院には、それがまるで不愉快な雑音にしか聞こえなくなっていた。
どこか険しい承太郎の視線だけが、胸に突き刺さる。
心臓に直にナイフを当てられたかのように、ひやりとした感覚が広がっていく。指先にまで達する冷たさが、花京院から呼吸を奪った。
「ッ……!」
何も言えずにただぺこりと頭を下げて、花京院は踵を返すと走り出す。
「待て花京院ッ!!」
承太郎の声に鬼気迫ったものを感じたが、花京院はこの場から逃げ出すこと以外、何も考えられなかった。
*
どうしようもなく、打ちのめされていた。
呼吸を止めたまま、全力で走る。いま足を止めたら、そのまま地面に崩れ落ちてしまいそうだったから。息をすれば、叫び出してしまいそうで。
廊下を突っ切り、何の考えもなしに校舎から飛び出した。
立ち込める夏の熱気に、蝉時雨がこだまする。どこへ行けばいいのかも分からず、花京院はただ走った。
途中で何人かの生徒にぶつかって睨まれたような気もするけれど、構ってなどいられなかった。
『てめーだけだぜ。花京院』
承太郎の声が、頭にこびりついて離れない。
からかわれているだけだということくらい、ちゃんと分かっていたはずなのに。自分はただの遊び相手の一人にすぎないのだと。なのに、どうして。
(どうして、ぼくはこんなにも傷ついているんだ)
勘違いをして、浮かれていた自分が恥ずかしい。このまま氷のように融けて消えてしまえたら、どんなに楽だろう。
(分かっていた。分かっていたんだ)
それなのに。
(ぼくは)
本当は最初から。
保健室で、あの脳髄を蕩かすような声を聞いたときから。
この心は囚われていた。落ちていた。奪われていた。心ごと、なにもかも。
けれど末路も知っていた。こんなふうに傷つくことを、花京院は確かに知っていたはずだった。
だからこの想いの形に、名前をつけるなんて愚かな真似はしたくなかった。
恋だなんて。
そんな感情、知りたくなかった。
認めたくなかった。こんな、最悪の形で。
(好きだったんだ……だから何もかも許してしまった……求めてすらいた……)
いつの間にか、承太郎と過ごす時間が何よりも大切なものになっていた。
大きな手が伸びてきて、抱き寄せられる瞬間はいつだって心が震えた。
キスだけでは物足りなくなるほどに、欲張りになって。
ああ、なんて惨めなんだろう。
噛み締めた唇が痛い。酸素を求める肺が、心臓が、悲鳴を上げていた。そのとき。
「花京院ッ!!」
「ッ!?」
強く二の腕を掴まれて、花京院は息をのみながら足を止める。
勢いよく態勢を崩しかけた身体を引き寄せられて、体当たりするみたいに厚い胸板に手をついていた。
あまりにも夢中で走っていたからか、彼が追いかけて来ていたことに、気が付かなかった。
「てめー、激しい運動はできねーんじゃなかったのか。またぶっ倒れでもしたらどうする」
「じょう、ッ、たろ」
校舎と隣接する旧校舎。その裏側にある、今は誰も使用していない用務員室。朽ちたコンクリートは僅かに黄ばみ、幾つものヒビが走っている。
いつの間にかこんな場所まで来ていたのかと、花京院はただ茫然としながら、肩で息をした。ようやく取り込んだ酸素に、肺がひゅうひゅうと乾いた音を立てる。
激しく咳き込みそうになるのを堪えながら、喉の奥から声を絞り出した。
「なんの、用だい」
「盛大に勘違いをしているぜ。てめーはよ」
「勘違い……?」
そうだ。自分は勘違いをしていた。
今だって、承太郎が頬に汗の筋を張り付かせながら息を乱し、こうして追いかけて来たことを、純粋に喜ぶ自分がいる。二の腕を掴む手は力強く、だけどこんなときでさえ、短く切りそろえられた爪は花京院の皮膚を傷つけない。
だから許せなかった。恥ずかしくて、消えてしまいたいと思う。
「離してくれ」
「誤解だ花京院」
「ふざけるなッ!」
あの光景の何を見て、誤解だなどと言えるのか。
花京院は掴まれていた腕を勢いよく振りほどく。数歩後退して、承太郎から距離を取った。
「人を弄ぶのも、大概にしろよ承太郎」
「言ったはずだぜ。てめーだけだと」
「ッ……!」
頭に血がのぼって、目の前が赤く点滅した。
どうにかしてこの男を傷つけてやりたいと。凶暴な熱が花京院の内側で膨らんでいく。だけどどうすることもできなくて、ずっと掴んだままだった弁当箱を、思い切り投げつけた。きっと中身は滅茶苦茶だ。
母に教えを乞い、初めて作った玉子焼き。それさえも、滑稽で。
「ッ、花京院?」
バスケットボールを掴むより容易く、承太郎はそれを手の平であっさりと受け止める。悔しくて、視界がぼやけるのを感じた。
「もう二度と、ぼくに近寄らないでくれ」
「おい、話を」
「黙れッ! もう沢山だ……君にとっては遊びでも、ぼくは……ぼくにはッ」
その先は続かなかった。
言ってどうなるものでもなかったし、恥の上塗りになるだけだ。つけこまれて、さらにいいようにオモチャにされるだけかもしれない。
これ以上傷つくのは嫌だ。無様な自分を曝したくない。忘れたい。
憮然とした表情で口を噤む承太郎に、花京院は背を向けた。そのまま歩き出しても、背後から追って来る様子はない。
(もう、ぐちゃぐちゃだ)
こんな気持ちに、気づきたくなどなかった。泣きたくなんかないのに。
いつの間にか蝉時雨が止んでいた。俄雨が降るよりも先に花京院の頬を濡らしたのは、悔しさから溢れだした大粒の涙だった。
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「ギャアアアアッ!! JOJOよ! JOJOがいるわ!!」
「どうしてJOJOが二年生の教室に!?」
「わたしを誘いに来たのね!? そうでしょJOJO!!」
「なに言ってんのよ!? わたしよ!!」
「はぁ!? ペチャパイどころか陥没してる分際でバカじゃないの!?」
「なんですってこの顔面ブスゴリラ!!」
女子たちは激しい口論をはじめる者、ひたすら絶叫する者、密やかに失神する者と、多様な反応を見せていた。その騒ぎを聞きつけた隣のクラスの女子まで廊下に生垣を作り出し、大変な騒ぎと化している。
そんな中、男子たちはただただ青い顔で目を泳がせるばかりだった。
花京院は……石のように硬くなりながら視線を明後日の方向へ向ける。
なぜ彼がここに。わざわざ二階の教室までやって来るのか。
完全に嫌な予感しかしない。
(来るなよ……絶対に来るなよ……フリじゃあないぞこれはッ!!)
頼むからこちらを見てくれるなと、花京院は心の中で十字を切った。
が、教室の戸口に背を預け、承太郎は騒ぐ女子たちには目もくれずに花京院の名を呼ぶ。それはもう、容赦なく。
「花京院」
そして、手に持った大きな風呂敷包みをひょいと掲げると、顎をしゃくって見せる。
来い、と。案の定、そういうことらしい。
(うわあああああ!!)
その瞬間、教室や廊下中の視線が、花京院へと一斉に注がれた。
*
「こ、困りますよ! ああいうのは!!」
人だかりをどうにか脱して辿り着いた屋上で、花京院は自分よりも背の高い男に向かって声を張り上げた。
当の本人はどこ吹く風で、昨日と同じ日影へヌシヌシと向かう。
「聞いてるのか!? 大変な騒ぎになってしまったじゃあないかッ!!」
「保健室にいねえおまえが悪い」
「はぁ!? どういう言いがかりだいそれはッ!?」
承太郎は壁を背にどっかりと胡坐をかくと、肩を怒らせる花京院を見上げ、ニヤリと笑う。
「子犬みてえなヤローだな。キャンキャン吠えてよ」
「~~ッ、せめて成犬と言えッ!!」
晴れ渡る空に、花京院の悲鳴じみた怒声が太鼓のようによく響いた。
*
それからというもの、花京院は毎日のように承太郎と昼食を共にするようになった。
晴れの日は屋上の日影で、雨の日はひと気のない場所で。
使われていない部室があるとか、旧校舎裏の用務員室は鍵が壊れているとか、承太郎はこの学校内において一人きりになれる時や場所を、幾つも知っているようだった。
そのうちの何か所かは、教師が見て見ぬふりをしているだけかもしれないが。
(人気者は辛いよ、と言ったところかな)
承太郎が学校に来ていると、一日に何度も女子たちの悲鳴を聞くことになる。登校から下校に至るまで、彼には気が休まる時間というものがないらしい。
それはそれで、少し気の毒なようにも感じられる。
(誰かを連れ込んで好き勝手するため、とかだったら、話は別だけど)
そう考えると、胃の辺りがムカムカしてくるのはなぜだろう。
毎日のように豪華な重箱弁当をご馳走になっているせいで、少し胃がもたれているのだろうか。
流石にこんな豪勢なものを毎日いただくのは気が引けると、花京院がどんなに遠慮しても、承太郎は「気にするな」と一言で片づけてしまう。
ちなみに教室にわざわざ迎えに来るという行為は、初日だけでどうにか阻止することに成功した。今は屋上手前の踊り場で待ち合わせをしている。
あのあと花京院は女子たちに詰め寄られ、最後には男子たちに憐れまれた。ヤキを入れられたことになっているらしい。
とにかく、あの日からもうかれこれ十日以上は経過しているだろうか。
そして今。
花京院は体育館倉庫にいる。
今日は朝から雨が降っていた。屋上へ出ることを諦め、連れて来られたのは体育館倉庫だった。鍵はかかっていたが、承太郎は「コツがあるんだぜ」なんて言って、鉄の扉を思い切り蹴り上げた。すると、たったそれだけで面白いほど簡単に鍵が開いてしまったのだ。果たしてどのあたりにコツがあったのか、花京院にはさっぱり分からなかったが。
倉庫は微かに肌寒く、独特の匂いは多少気になるが、座布団代わりにマットレスを使用できるのは悪くない。
花京院は隣で食後の一服にふける承太郎をチラリと見やった。
厚みのある唇から吐き出される紫煙が、ほのかにカビ臭い空間に溶けていく。遠くから雨音がする以外、二人きりの空間に音はなかった。
(少し、慣れたかな)
こんな風に、承太郎と過ごすことに。
まだ少し怖いような気もするし、何を考えているのかも謎だ。
どうして承太郎が自分を側に置きたがるのか、何より自分自身がそれに甘んじているのか、まだ分からないことだらけだが。
「熱烈だな」
「……へ?」
承太郎は咥えていた煙草を指先で摘まみ、飲みかけの水が入ったペットボトルに放り込むと、ぐいと花京院の肩を抱いて引き寄せた。
「ッ!」
一気に縮まった距離に、胸が高鳴る。
「あんまり見るんじゃねえよ。照れちまうだろ」
「え、あ……そう、だったかな、っていうか、君も照れたりするんだね」
「おれだって人間なんだぜ」
「そうか、ごめん」
そんなに、熱心に見つめていたのだろうか。
恥ずかしさも相まって、花京院の頬に一気に熱が集まった。密着する身体が熱い。心臓がうるさく騒いで、目が泳ぐ。
一緒にいることに多少は慣れたつもりでも、この感覚だけはどうも慣れない。
そんな惑うばかりの花京院の頬に、大きな手が添えられる。そのまま、承太郎はぴんと伸ばした人差し指で、花京院の耳たぶからぶら下がる赤いピアスを軽くつついた。
「ずっと言おうと思っていたんだがよ。なかなか似合ってるぜ。これ」
「……そ、それはどうも、ありがとう」
「自分で買ったのか」
「母のお古ですよ。くれたんです。ぼくの好物がチェリーだから」
ピアスを家族以外の他人に褒められたのは、初めてだ。なんだか照れ臭くて、むず痒いような気分になる。
だからだろうか。つい、誤魔化すみたいに余計なことが口をついて出る。
「このピアスはぼくなりの……生きている証のようなもの、かもしれません」
「生きている証?」
こくりと頷いて、花京院は微かに笑う。
「子供の頃は今よりもずっと身体が弱くて、ほとんど学校にも行けなかったんです。両親はそんなぼくを心配して、大人になるまで生きられないのではないかと……いつも泣いていました。ぼくは、それがとても悔しくて」
嘆く両親の姿を見て、幼心に胸にぽっかりと大きな穴が開いたのを覚えている。
自分という存在は、そんなにも儚いものなのかと。
耳たぶに針を通したのは、ちょっとした反抗心からだったのだと思う。過剰なまでの心配は、時として束縛にしかならない。
だが意外なことに、両親はこれと言って息子の突飛な行動を咎めることはしなかった。
厳格な人たちでもあったから、もっと口煩く注意を受けるかとばかり思っていたのだが、むしろ母は若い頃にしていたこのピアスをくれた。
生まれて初めて自分の生を肯定されたような気がして、あのときは本当に嬉しかった。
「なんでもいいから形として残したかったんですよ。ぼくはちゃんと生きてここにいるし、これから先もずっと生きていくんだぞ、ってね」
そこまで話して、ハッとする。
「あ、すみません……つまらない話をベラベラと」
途端に居心地が悪いような気分になって、身を捩る。けれど承太郎はそれを許さず、よりいっそう強く花京院の体を引き寄せた。
熱を帯びる頬に、承太郎の唇が押し付けられる。
「じょ、じょうたろ」
「構わねえ。もっと聞かせな。てめーの話を」
魅惑の低音が胸に染み込む。一瞬で項の毛が粟立つのを、咳払いで押しやると花京院は顔を背けた。
「ぼ、ぼくの話は、これで終わりです」
友達とも呼べないような相手に、自分語りをしてしまったことが恥ずかしい。今まで誰にも話したことがなかっただけに、尚更のこと。
花京院はさっさと話題を切り上げてしまうと、承太郎を横目で睨んだ。
「そ、それより、君の方はどうなんだ」
「おれがなんだって?」
「だから、その……」
花京院の脳裏には、あの保健室の女医の姿が浮かんでいた。
昼休みはこうして一緒に過ごしているけれど、それ以外の時間この男が真面目に授業に出ているとは限らないのだ。
「……あの女医とは、付き合っていないと言っていたけど……最近は、どうなんだ?」
承太郎は。
屋上で花京院が目を回して以来、キス以上のことをして来なくなった。
今だってただ抱きしめて、花京院の前髪の癖毛を指先で弄んでいるだけだ。
この男は悪いヤツだとは思うが、根は優しいのだということは知っている。
女医の話では倒れた花京院をわざわざ保健室へ運び、心配そうにしていたというのだから。しかも二度も。
例のお姫様抱っことやらを女医以外に見られていなかったのは、不幸中の幸いだろうか。
だから今も、花京院の身を案じて手を出して来ないのだと思う。
だけど。
(それならどうして、ぼくはここにいるんだろう?)
承太郎が本来持っている優しさに触れて、ついおかしな勘違いをしそうになったが、彼が求めているのはあくまでも性の捌け口ではないのか?
あれほど有無を言わさず奪っておいて、こんな触れ合いだけを繰り返すことに、何の楽しみを見出しているというのだろう。
もっと深く、好きにしようと思えばいくらでも、承太郎にはそれが可能なはずだ。
現にここにはマットだってあるし、人の気配だってまるで感じられない。行為に及ぶには、もってこいの場所ではないのか。
だけどそれをしない、ということは、他で発散しているのかもしれないと思った。
もしそうなのだとしたら。
(なんか、やだな……)
「そんなにあの女医が気になるか?」
いつにも増して低い声で言った承太郎の瞳に、一瞬どこか剣呑な色が浮かんだような気がした。花京院は慌てて首を振る。
「ち、違う。別に気になってるとか、そういうんじゃあ、なくてだな……」
そういえば自分は、あの女医に恋をしていたのだった。今の今まですっかり忘れていた。
今の花京院は承太郎と女医が、未だに関係を持っているのかどうか、そればかりが気になってしょうがない。自分でも、なぜこんなにと思うほど。
これではまるで、嫉妬でもしているみたいではないか。
(そ、そんなまさか。いや、だが承太郎にはそう思われたかもしれない)
承太郎は帽子の鍔を引き下げて表情を隠した。やれやれ、という口癖に胸がズキリと痛む。ああ、きっと面倒だと思われたに違いない。鬱陶しいヤツだと。
後腐れなく遊ぶための相手に、まるで嫉妬しているみたいな質問をされれば、誰だってそう感じて当たり前、なのだと思う。
「すまない……さっきのは、忘れてくれ」
「てめーだけだ」
「そうだよな、君がどうしようとぼくには関係……ぅん?」
「おれにはてめーだけだぜ。花京院」
ぽかん、と。
大きめの口を丸く開いたまま、瞬きすら忘れる。
承太郎の言葉を、幾度か頭の中で反芻した。
それはつまり、どういう意味だろう。遊び相手は今は花京院以外にいない、ということか。それとも、もっと特別な意味が含まれていたりするのだろうか。
真っ直ぐに見つめてくる承太郎の瞳はどこまでも澄んでいて、薄暗い体育館の中にあっても輝きは決して失われない。その宝石のような緑に、今は花京院だけが、映されている。
「ぁ、あの……それは、つまり、ど、どういう……」
瞬きもできないまま、花京院はしどろもどろに問いかける。承太郎はそんな花京院の様子を見て、堪え切れなくなったように小さく噴き出した。
そのままくつくつと肩を揺らしながら笑う様は、どこか悪戯に成功した悪ガキのようでもあり、なにやらえらく嬉しそうに見えた。
しばらくはそれを茫然と見つめながら、花京院は徐々に頭に血が上って行くのを感じる。
「か、からかってるならよしてくれッ! 悪趣味な男だなッ!!」
拳を握り、振り上げるみたいにして声を張り上げると、承太郎はさらに楽しそうに身を震わせて笑う。
「子猿みてえだな。顔中まっかっかでよ。ケツも赤くなってんのか?」
「ばっ、バカにしてるのか君はッ!? しかもこないだから子犬とか子猿とか!!」
「褒めてんだろーが」
「どこがだッ!!」
やっぱりこの男は自分を弄んでいるんだ。
花京院の経験値の低さを知っていて、こうして思わせぶりなことを言ったり、からかって遊んでいる。
本当に酷い男。人を笑い者にするなんて、絶対に許せない。
だけど。
――てめーだけだぜ。花京院。
(なにを期待しているんだろう)
嘘か本当かも分からないような言葉を、それでも嬉しいと感じてしまった。
例え一瞬でも、あの美しいエメラルドに自分一人を映してほしい、なんて。
(ぼくは、いよいよ本当に頭がおかしくなってしまったんだろうか)
少しずつ、少しずつ。
欲張りになってきている心を抑えきれなくなっているような気がして、花京院は楽しげに肩を揺らす承太郎から、慌てて目を逸らした。
*
それからさらに数日が経過した。
「あれ、今日はぼくが一番か」
昼休み、花京院はいつものように階段の踊り場へ向かった。だが、そこにいつもは先に待っているはずの承太郎の姿がない。
珍しいこともあるものだと、花京院は屋上へ続く扉に背を預けて一息ついた。
その手には、白いハンカチに包まれた弁当箱がある。
(弁当を持参するのは、久しぶりだ)
中身は玉子焼きやウィンナーといった、いたって普通の弁当だ。
承太郎がいつも持ってくる重箱の中身に比べれば、お粗末なものでしかない。
だが、花京院にとっては少しばかり、特別なものだった。
今朝はいつもより早く目が覚めた。
キッチンに顔を出すと母が朝食の支度をしていて、今日の昼はどうするのかと聞かれた。最近はずっと承太郎にご馳走になっていたから、母にはパンで済ませると言って誤魔化していた。
だから今日もそう言うつもりだった。けれど花京院はふと思い立ち、弁当を持参することを決めた。
(玉子焼きっていうのは、簡単そうで実は凄く難しいんだな……)
専用のフライパンを使ったとしても、慣れない手つきで焼き上げるのは至難の業だった。実際、一度は失敗してしまった。母の指導の下、二度目でなんとかそこそこの見た目に焼き上がったが、果たして承太郎の口に合うだろうか。
そう、今日の弁当には生まれて初めて花京院が作った、玉子焼きが入っている。
我ながら、恥ずかしいことをしてしまったと、そう思う。
母も一体どうしたのかと目を丸くしていたし、花京院自身も驚いている。
(別に、特別な意味なんかないぞ。ただいつもご馳走になってばかりだから、少しは何か返したいと思っただけであって)
心の中で言い訳をすると、なぜかますます恥ずかしくなった。
誰の目があるわけでもないのに、花京院は照れ隠しに赤くなった頬を指先で掻いた。そのままふと気になって、ひと房だけ垂れる前髪の先をちょんちょんと引っ張る。なんとなく気に入らなかったので、ポケットから櫛を取り出すとさらに乱れを整えた。
「ふぅ……こんなもんかな……」
満足げに呟きながら櫛を仕舞ったところで、我に返る。
(お、乙女かッ!!!)
昔ながらのコントのように、タライが降って来たような衝撃を受ける。
自分は一体なにをしているのだろう。わざわざ弁当をこさえて、髪型まで気にしながら、そわそわと一人、承太郎を待っている。
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。しかもこれでは、まるで承太郎の彼女ヅラではないか。
(あ、でも、ぼくは男なわけだから、彼氏ヅラ……に、なるのか……?)
いやいやいやいや。そういう問題じゃあない。
そもそも自分と承太郎は恋人同士でもなんでもないのだから。
いくらあれ以来キス以上のことをしていないからって、承太郎にとって花京院はただの遊び相手に過ぎないはず。
それは十分に理解しているのだが。
(浮かれてる、よな……完全に)
てめーだけだと言った、その言葉を忘れられないでいる。
もしあの言葉に特別な意味が込められていたとして。遊び相手としてじゃなく、空条承太郎という男に選ばれた、たった一人の存在になれたとしたら。
どうするだろう。どう思うのだろうか。
承太郎から与えられるものは、怖かったり痛かったり苦しかったり、戸惑うようなものばかりだ。だけど嫌じゃない。キスしかしてこない相手に対して、もどかしいとすら感じ始めている。
だけど同じくらい、大切にされているような気もして、くすぐったい。
今だって、早く来ないかと待ちわびて、落ち着かない自分がいる。
承太郎は、この弁当をちゃんと食べてくれるだろうか。どんな反応をするだろう。
彼の母親は料理が上手だし、きっと舌も肥えているに違いない。だけど少しでも喜んでくれたら、最高に嬉しい。そう思う。
「それにしても遅いな」
自分の気持ちに蓋をするように、花京院はあえて独り言を漏らす。
耳をすませてみても、誰かが階段をのぼってくる音すら聞こえなかった。
何かあったのだろうか。彼は超がつくほどの不良だし、何か悪さをして教師にでも呼び出されているのか。とはいえそんな勇気がある教師がいるとは思えないが。
今朝も元気に女子たちが騒ぐ声が聞こえていたから、学校には来ているはずだ。途中でフケて帰ってしまったという可能性なら、考えられるが。
「…………」
ふと、嫌な予感がした。
脳裏に浮かんだのはやはりあの女医の顔で、花京院は途端に不安に駆られる自分に気が付いた。
(行ってみる、か……?)
少し、様子を見るだけ。
そう考えたときには、花京院の足は階段を下りはじめていた。
やめておけと、心の奥底でもう一人の自分が制止する声を聞きながら。
*
行って、何もなければそれでいい。
何かあったとしても、多分、それでいいのだと思う。
承太郎はあんなことを言ったが、彼の遊び相手が自分や女医だけとも限らない。
もしどこか知らない場所で他の人間に手を出していたとしても、花京院には承太郎を咎める権利もなければ、その理由もないのだ。
頭の中ではちゃんと理解しているつもりだった。だけど心臓が内側から太鼓のように胸を叩く。今にも突き破って来そうで、息が苦しい。
何度も足を止めかけながら、花京院は保健室がある一階へ辿り着いた。そのまま真っ直ぐ、廊下を突っ切って行く。
本当は信じたいのではなく。
花京院はこのときすでに、どこかで承太郎を信じていたのだと思う。
恋愛と性欲は別と、そう切り離して考えている酷い男。
そうと知っていても、二人きりでいる時間の承太郎は優しくて、ほんの少しの意地悪でさえも、花京院の胸を甘い棘で締め付けた。まるで自分が特別な存在になったみたいな、そんな気にさせられるから。
もしかしたら彼は本当に、そのエメラルドに自分だけを映してくれているのではないかと。
そんな風に勘違いしてしまったとして、誰が花京院を責められるだろう。
だって相手は学校中の女が手を伸ばしても届かない、あの空条承太郎なのだから。
いっそ浮かれるなと言う方が、どうかしているのではないか。
だから花京院は思い知ることになる。
そんな男が、たかが一度抱いただけの、ましてや同性を相手に。
特別な感情を抱くはずが、ないということを。
辿り着いた保健室のドア。
一瞬の迷いを振り払うようにして開けた引き戸の先で、花京院は見てしまう。
寄り添ってキスをする、承太郎と女医の姿を。
「じょう、たろう……?」
時間が、止まったような気がした。
その光景はあまりにも鮮烈で、だけど遠くて、目の前で起こっている出来事に理解が追い付かない。
「か、花京院くん……!?」
扉の前に立ち尽くす花京院を見て、青褪めた女医が慌てて承太郎から距離を取る。
花京院は真っ白になる頭で、空気が痛いほど張り詰めているのを感じていた。
(キスを、していた)
承太郎と、女医。
二人は身を寄せ合い、深く唇を重ねていた。
あまりにも絵になる光景は、画面越しにチープな恋愛ドラマでも見ていたようで。
面倒なところを見られたからか、それともお楽しみを邪魔されたからか。承太郎が微かに舌打ちをする。
それにハッとして、花京院は背後に数歩、よろめいた。
「花京院くん、こ、これはね、あの……違うのよ」
女医が目を泳がせながら、何か言い募ろうとしている。
だけど今の花京院には、それがまるで不愉快な雑音にしか聞こえなくなっていた。
どこか険しい承太郎の視線だけが、胸に突き刺さる。
心臓に直にナイフを当てられたかのように、ひやりとした感覚が広がっていく。指先にまで達する冷たさが、花京院から呼吸を奪った。
「ッ……!」
何も言えずにただぺこりと頭を下げて、花京院は踵を返すと走り出す。
「待て花京院ッ!!」
承太郎の声に鬼気迫ったものを感じたが、花京院はこの場から逃げ出すこと以外、何も考えられなかった。
*
どうしようもなく、打ちのめされていた。
呼吸を止めたまま、全力で走る。いま足を止めたら、そのまま地面に崩れ落ちてしまいそうだったから。息をすれば、叫び出してしまいそうで。
廊下を突っ切り、何の考えもなしに校舎から飛び出した。
立ち込める夏の熱気に、蝉時雨がこだまする。どこへ行けばいいのかも分からず、花京院はただ走った。
途中で何人かの生徒にぶつかって睨まれたような気もするけれど、構ってなどいられなかった。
『てめーだけだぜ。花京院』
承太郎の声が、頭にこびりついて離れない。
からかわれているだけだということくらい、ちゃんと分かっていたはずなのに。自分はただの遊び相手の一人にすぎないのだと。なのに、どうして。
(どうして、ぼくはこんなにも傷ついているんだ)
勘違いをして、浮かれていた自分が恥ずかしい。このまま氷のように融けて消えてしまえたら、どんなに楽だろう。
(分かっていた。分かっていたんだ)
それなのに。
(ぼくは)
本当は最初から。
保健室で、あの脳髄を蕩かすような声を聞いたときから。
この心は囚われていた。落ちていた。奪われていた。心ごと、なにもかも。
けれど末路も知っていた。こんなふうに傷つくことを、花京院は確かに知っていたはずだった。
だからこの想いの形に、名前をつけるなんて愚かな真似はしたくなかった。
恋だなんて。
そんな感情、知りたくなかった。
認めたくなかった。こんな、最悪の形で。
(好きだったんだ……だから何もかも許してしまった……求めてすらいた……)
いつの間にか、承太郎と過ごす時間が何よりも大切なものになっていた。
大きな手が伸びてきて、抱き寄せられる瞬間はいつだって心が震えた。
キスだけでは物足りなくなるほどに、欲張りになって。
ああ、なんて惨めなんだろう。
噛み締めた唇が痛い。酸素を求める肺が、心臓が、悲鳴を上げていた。そのとき。
「花京院ッ!!」
「ッ!?」
強く二の腕を掴まれて、花京院は息をのみながら足を止める。
勢いよく態勢を崩しかけた身体を引き寄せられて、体当たりするみたいに厚い胸板に手をついていた。
あまりにも夢中で走っていたからか、彼が追いかけて来ていたことに、気が付かなかった。
「てめー、激しい運動はできねーんじゃなかったのか。またぶっ倒れでもしたらどうする」
「じょう、ッ、たろ」
校舎と隣接する旧校舎。その裏側にある、今は誰も使用していない用務員室。朽ちたコンクリートは僅かに黄ばみ、幾つものヒビが走っている。
いつの間にかこんな場所まで来ていたのかと、花京院はただ茫然としながら、肩で息をした。ようやく取り込んだ酸素に、肺がひゅうひゅうと乾いた音を立てる。
激しく咳き込みそうになるのを堪えながら、喉の奥から声を絞り出した。
「なんの、用だい」
「盛大に勘違いをしているぜ。てめーはよ」
「勘違い……?」
そうだ。自分は勘違いをしていた。
今だって、承太郎が頬に汗の筋を張り付かせながら息を乱し、こうして追いかけて来たことを、純粋に喜ぶ自分がいる。二の腕を掴む手は力強く、だけどこんなときでさえ、短く切りそろえられた爪は花京院の皮膚を傷つけない。
だから許せなかった。恥ずかしくて、消えてしまいたいと思う。
「離してくれ」
「誤解だ花京院」
「ふざけるなッ!」
あの光景の何を見て、誤解だなどと言えるのか。
花京院は掴まれていた腕を勢いよく振りほどく。数歩後退して、承太郎から距離を取った。
「人を弄ぶのも、大概にしろよ承太郎」
「言ったはずだぜ。てめーだけだと」
「ッ……!」
頭に血がのぼって、目の前が赤く点滅した。
どうにかしてこの男を傷つけてやりたいと。凶暴な熱が花京院の内側で膨らんでいく。だけどどうすることもできなくて、ずっと掴んだままだった弁当箱を、思い切り投げつけた。きっと中身は滅茶苦茶だ。
母に教えを乞い、初めて作った玉子焼き。それさえも、滑稽で。
「ッ、花京院?」
バスケットボールを掴むより容易く、承太郎はそれを手の平であっさりと受け止める。悔しくて、視界がぼやけるのを感じた。
「もう二度と、ぼくに近寄らないでくれ」
「おい、話を」
「黙れッ! もう沢山だ……君にとっては遊びでも、ぼくは……ぼくにはッ」
その先は続かなかった。
言ってどうなるものでもなかったし、恥の上塗りになるだけだ。つけこまれて、さらにいいようにオモチャにされるだけかもしれない。
これ以上傷つくのは嫌だ。無様な自分を曝したくない。忘れたい。
憮然とした表情で口を噤む承太郎に、花京院は背を向けた。そのまま歩き出しても、背後から追って来る様子はない。
(もう、ぐちゃぐちゃだ)
こんな気持ちに、気づきたくなどなかった。泣きたくなんかないのに。
いつの間にか蝉時雨が止んでいた。俄雨が降るよりも先に花京院の頬を濡らしたのは、悔しさから溢れだした大粒の涙だった。
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(屋上って……どういう意味だ?)
とりあえず熱を測るだけ測って保健室を出た花京院は、言われた通り屋上へ向かうべく階段を上っていた。
(確か屋上は鍵がかかっていて、立ち入り禁止のはずだが)
それに、もう昼休みはほとんど残されていなかった。
承太郎は来れそうなら来いと言ったのであって、別に強制されているわけではない、はず。だから素直に従う義理はないなのだが。
自分の中に拒むという選択肢が見当たらないのが不思議でならなかった。
花京院は階段を上り切った先にある、鉄製のドアノブに手をかけた。戸惑いがちに捻ってみると、あっさり扉は開かれる。
「鍵が壊れているのか?」
何にしろ、承太郎はこの先にいる。知らず、胸が躍るように弾んだ。
扉を開けた先は真っ青な空が広がっていた。強い日差しの中、温い風が吹き抜けている。
朽ちたコンクリートが広がるただっぴろい空間で、高いフェンスに背を預けた黒い長ラン姿が煙草を燻らせる姿が見えた。
「来たか、花京院」
承太郎は片手を上げ、吸いかけの煙草を地面に落とすと、革靴の先でそれをもみ消した。ポケットに両手を突っ込んで、ヌシヌシとこちらに歩いてくる。この熱い中、長ランを翻す様は少しばかり暑苦しい。けれど、彼は汗ひとつかかずに涼しげだ。
扉を背に所在無げに佇む花京院の側まで来ると、彼は僅かに顎をしゃくって見せる。
「そっちに移動しな。日陰になってる」
そう言って、先に壁伝いに角へ消えてしまう背中を追いかける。
確かに、そこは建物がちょうど影になっており、吹く風もひんやりとしていて心地よかった。
「あ、あの、空条先輩」
「承太郎」
「え?」
「承太郎だ」
「……承太郎、先輩」
「…………」
「……承太郎」
「座んな」
承太郎は機嫌よさげに肉厚な唇を笑みの形に歪め、先にどっかりと地面に腰を下ろした。
激しく戸惑いながらも、花京院は胡坐をかく承太郎から人一人分程度のスペースを開けて、ちょこんと体育座りする。
こんなところに呼び出して、彼は一体どうするつもりなのだろう。まさか外でさっきの続きをする……なんてことはないだろうなと、身を固くする花京院の目の前に、どん、と紫色の風呂敷に包まれた、大きな箱が置かれた。
「?」
承太郎がその包みを解くと、中から現れたのは黒地に金色の桜模様が描かれた、それはそれは立派な重箱だった。
ぱちぱちと目をしばたたかせる花京院の前で、承太郎がせっせと中身を広げる。
三段もの重箱には巻き寿司や稲荷寿司をはじめ、卵焼きに唐揚げ、ハンバーグに昆布巻きや海老のうま煮などなど、豪華な料理がびっしりと詰められていた。
「こ、これは一体……」
「食え」
ちゃっかり紙の取り皿と割り箸も用意していたらしい承太郎が、それらをずずいと差し出してくる。咄嗟に受け取ってしまったが、花京院は呆気にとられたまま反応ができないでいた。
目の前に広げられる豪華飯に見入っていると、怪訝そうな顔に覗き込まれる。
「不満か? 味は保障するぜ」
「ふ、不満もなにも! これは、あの、どういう?」
「飯だろ。昼飯。食ってねーだろ?」
「食べてません、けど」
「なら遠慮なく食いな」
(えええ!?)
訳が分からず驚愕する花京院を尻目に、承太郎は取り皿に適当に自分の分を盛り付けて豪快に食べ始めた。
食え、と言われても、なぜ自分がこんな豪華すぎる弁当にありつけてしまうのか、全くもって状況が分からない。
そうこうしているうちに、昼休みの終わりを告げるチャイムが響き渡り、花京院はよりいっそう慌てふためくことになる。
「あっ、授業が! 昼休みがッ!」
「モタモタしてっからだろーが。まぁ気にすんな」
「気にしますよ!!」
(ぼくは不良じゃないんだぞ!!)
だけど、目の前の弁当は実に美味そうだ。
風に乗って鼻を掠める唐揚げの匂いなんて、いかにも香ばしくて食べる前から美味だと分かる。
途端に、派手に腹の虫が鳴った。
「うっ……!」
思わず顔を赤らめ、両手で腹を押さえた。承太郎が稲荷寿司を頬張りながら、ふんと鼻で笑う。それがまた恥ずかしくて、少し泣きたい気持ちになってくる。
が、すぐにどうでもいいような気もしてきた。
自分が授業に出られないのはしょっちゅうだ。どうせまた保健室かと、そう思われているに違いない。
食えと言うのだから、食ってやろうじゃないか。遠慮なく。
「食べます。食べますよ。いただきます」
両手を合わせ、ぺこりと頭を下げる。承太郎は小さく笑っただけだった。
一通り皿に盛って、まずは卵焼きから口に放り込んだ。程よい甘さと、出汁の利いた優しい味が、ふわりと口の中に広がる。
「んん、これは美味しい!」
素直に感想を述べると、承太郎は満足そうに口の端を歪める。
花京院は次から次へと料理を頬張っては「美味しい」と言って存分に食べた。
承太郎はそれを見て「喉に詰まるぞ」なんて言いながら、取り出したペットボトルの水を差し出してくる。まるで甲斐甲斐しく世話を焼かれているようで、どうにも尻の座りが悪い。が、何を食べても美味しいので、とりあえず気にするのは後に回した。
凄い量だと思っていたが、流石にそこは男子高校生の胃袋といったところか。二人で食べるとあっという間だった。
重箱が空になってようやく、花京院は皿と箸を置いて大きく息をついた。
「はぁ、美味しかった。ご馳走様でした」
「お粗末さん」
「こんなに一度に食べたのは初めてですよ。料理上手なお母さんですね」
「まぁな。うっとおしいアマだが……飯だけは美味い」
そんな物言いをするくせに、重箱を丁寧に風呂敷に包み直す承太郎の横顔は穏やかなものだった。無表情でも怒っているような顔に見え、口端を持ち上げれば不良というより殺し屋といった方が似合いそうな彼でも、こんな顔をするのか。
なんとも意外な素顔を見せられたような気がして驚いた。
(いい母親なんだろうな、きっと)
元通り綺麗に包まれて脇に置かれた重箱を見て、花京院はふと浮かんだ疑問を口にした。
「いつもこんなに大きな弁当を一人で?」
承太郎はとにかく身体がデカい。身長もおそらく2メートル近くはあるだろうし、身体つきもアスリート並か、それ以上だ。常人の倍以上は食べてもおかしくはないと思うが、作る方は毎日苦労するだろう。
「そんなわけあるか。流石に一人で全部食うのはキツかったぜ」
「ですよね。いくらなんでも……うん?」
(キツかった?)
「昨日も一昨日も、てめーが学校に来ねえとは思わなかったからな」
「……はへ?」
つい、おかしな声が出てしまった。何を言っているんだ、この不良は?
「熱は……本当にもういいのか」
「は、え? あ、ええ、身体はもうすっかり……さっきも微熱でしたし」
「……あんときのアレが原因だな。悪かった」
「ええ!?」
(あ、謝られた……!?)
もう、なにがなんだか。
確かに花京院は高熱を出して倒れた。それは目の前の、この空条承太郎によって無理に身体を暴かれた結果だ。
それに対してどういうわけか、花京院は一切の怒りを感じていない。だからこれといって謝罪も求めていなかったし、得られるとも思っていなかった。
しかもそれだけじゃない。この男は、一体なんのつもりか知らないが、花京院とこうして昼食をとるために、あの翌日からずっとこんな仰々しい重箱弁当を持参していたというのだ。
「き、君って男は……一体なにを考えているんだ……?」
やっぱり、この男は不可解だ。
これではまるで、承太郎と付き合っているのはあの女医ではなく、こちらの方ではないか。
(それはない……ない、よな……?)
頭上に幾つものはてなマークを浮かべて首を傾げる花京院に、承太郎はこれといって何も答える様子はなかった。
無表情から読み取れる情報もなく、疑問は膨らむばかりだ。
そんな花京院に、承太郎が腕を伸ばしてくる。半袖のシャツから伸びる二の腕を掴まれ、驚きに肩をびくつかせはしたが、ふと違和感を覚えた。
けれどその正体を探ろうとする前に、強く引き寄せられる。
「わ、あ!」
承太郎の手が両脇に差し込まれ、まるで子供を抱き上げるようにその膝に乗せられてしまう。跨ぐような形で向かい合ったせいで、見上げるばかりのエメラルドが、自分の目線より少し下にあった。
これでもそれなりに身長はある方だし、見た目だけなら決して貧弱ではないつもりだ。だから、そこそこ重い、と思う。
なのにこうも軽々と扱われてしまうのは、あまりにも情けないし恥ずかしい。
相手が規格外の大きさだということを差し引いても、花京院にだって男としてのプライドくらいある。
だが、何より恥ずかしいのは。
「ちょ、っと! き、君、なにをして……ッ」
思い切り腰を抱きしめながら、胸元に承太郎が顔を埋めている。その弾みで学帽が地面に転がり落ちるのもお構いなしだった。
少し躊躇したものの、花京院はその硬い黒髪に両手を這わせて、引き剥がそうとした。だがそんな抵抗も虚しく、承太郎は大きく息を吸い込んだ。
「ひ、ゃ!」
薄いシャツ越しに伝わるその感覚がこそばゆくて、思わず妙な声が出た。咄嗟に唇を引き結び、手の甲を押し当てる。胸元から顔を上げた承太郎は、顔を赤らめる花京院を見上げるとふっと笑った。
心臓が大きく跳ねる。承太郎からは煙草と、ほんの微かに汗の香りがした。その匂いが花京院の内側をくすぐる。甘いようでいてどこか切ない感覚に、眩暈と同時にまた熱が上がるのを感じた。
「ッ……」
何か言おうとして、下から唇をすくわれる。重なったそれは決して深くはならない。小鳥が啄むように、幾度も繰り返される口付けは、ただくすぐったいばかりだった。
ちゅ、ちゅ、という水音が響く度、花京院の身体もひくひくと小さく跳ねた。
引き剥がそうとしていたはずの両手は、もはや承太郎の肩に縋りつくだけになってしまった。
承太郎の指先がワイシャツの前に触れた。片腕は花京院の腰を抱いたまま、片手で器用にボタンを外され、隠されていた素肌が夏の風に晒される。
「まっ、て! ここ、外……!」
ようやくまともに抗議の声を上げながら、胸に這わされた手の平を見下ろし、花京院ははたと気がついた。
(爪、だ)
ついさっき覚えた違和感を思い出す。
あの日、保健室で同じように強く腕を掴まれたとき。あのときは、二の腕に食い込んだ爪が痛かった。だけど今日はそれがない。先刻、保健室では気が付かなかったけれど。
承太郎の爪が、短く深く、切りそろえられている。
(そんな、まさか……な)
流石にそれは思い上りというものだ。
とにかく今は、今だけは流されるわけにはいかない。保健室という、誰が来るかも分からない場所でもそうだが、ここは室内ではなく外なのだ。
花京院の中の常識がそれを許さない。今更のような気もするが、夏の青空の下で事に及ぶなんて、そんな真似はしたくない。
「ま、待ってくれ。さっき君は、あの無体について謝罪してくれたのではなかったかい?」
「ああ、したぜ」
「舌の根も乾かないうちから同じことを繰り返すというのは、どうだろうか。しかも、こんな場所で」
花京院の胸元に這わせていた承太郎の手が止まる。
ほんの少しだけそれを残念に感じている自分に気づかないふりをしながら、花京院は先を続ける。
「情けない話だが、ぼくはあまり身体が丈夫な方ではない。子供の頃に比べれば、これでも随分マシにはなったんだけどね。それでもダメなんだ。激しい運動をしたり、その……メンタル面で大きな負荷がかかると……ああ、本当に自分でも情けないよ。すぐに潰れてしまうし、踏ん張りがきかなくなるんだ」
言っているうちに、心が沈む。
花京院は一度、きゅっと下唇を噛み締めると、すぐに気を取り直したように承太郎の顔を見降ろした。
「それに、君はあの女医と……その、付き合っているんだろう? 特定の相手がいるのに、こういう遊びは」
「付き合ってねえ」
「よくないと……うん?」
「付き合ってねーし、付き合うつもりもねーな」
「……は?」
それはつまり。
やっぱり、そういうことか。
少し呆れた気分になった。やはりこの男は、恋愛と性欲を切り離して考えている。遊びと本気は、承太郎の中では全くの別物なのだ。
あれだけ熱烈に求めておいて、気持ちが伴っていないなんて。このことをあの女医が知れば、どうなってしまうのだろう。承太郎にその気がなくても、彼女はおそらく本気に違いない。恋愛沙汰と縁のない花京院にだって、そのくらいはなんとなく分かる。
だとしたら、この男は本当に酷いヤツだ。
同じように自分も遊ばれているにすぎないのだと。そう思うと途端に胸がムカムカしてきた。強引に奪われてさえ、腹など立たなかったというのに。
「離してくれ。ぼくはもう教室に戻、ちょ、おい! 触るな!」
そっぽを向いて立ち上がろうとした花京院を許さないとばかりに、承太郎の手が再び動き出した。脇腹を撫でられ、またおかしな声が上がりそうになるのを、歯を食いしばって耐える。
「最後まではしねえ」
「はぁ!?」
「無理はさせねえと言っている。だから触らせろ」
「言っている意味が分からない! それに、ぼくはそういう意味で言ったんじゃあないぞッ!」
「足りねえんだよ」
承太郎の唇が、胸の中心に押し付けられた。軽く音を立てて吸われて、迂闊にも肩が跳ねる。そこから、あの纏わりつくような痺れと熱が広がっていく。
「てめーが、足りねえ」
汗ばむ素肌に舌を這わせながら、承太郎が上目使いで花京院を見上げる。その重低音に、腰から下が蕩けそうだった。
ああまた、流されてしまう。この声に、瞳に。まるで本当に求められているみたいな気にさせられる。求めているような気に、させられる。
実際、湧き上がったはずの怒りが一気に鎮火していた。全く別の熱にすり替えられて、身体が疼きだす。
「花京院」
「ッ、ぅ、あ……っ」
その声で、名前を呼ばれると。
なにもかも許してしまいたくなる何かを、この男は持っている。
「だ、ダメ……そこは、そんな、ッ、ぼくは、女の子じゃ、ない」
承太郎の唇が、胸の飾りに吸い付いた。その感覚に鳥肌がたつ。知識に乏しく、経験のない花京院にだって、そこが男性にとって性感帯じゃないことくらい分かる。
それがどういわけか、指と、唇と、舌と歯でもって刺激されると徐々に硬くしこりはじめ、気の遠くなるような痺れが沸き上がった。
「やっ、ぁ! なん、でっ、なんで……!」
こんなに気持ちがいいんだろう。
身も世もなく喘ぐ声が、青空の下に響き渡る。恥ずかしくて悔しくて、だけどどうしようもなく感じてしまう。
(どうなってしまったんだよ! ぼくの身体は!!)
結局花京院は、休み時間を知らせるチャイムが鳴るまでの間ずっと、承太郎の愛撫によってその身を翻弄されることになってしまった。
*
承太郎は本当に最後まではしなかった。
花京院はただ彼の膝の上で悶えていただけだ。
何度もキスをされ、胸の粒が赤くなるまで嬲られて、最後には勃起した互いの性器を擦りあわせた。
改めて見る承太郎のブツは、やはり目を見張るほど大きかった。こんなものが一度でも自分の中に入り込んだのかと思うと、そんな馬鹿なといっそ笑いたくなった。
放ったものは承太郎が手の平で器用に受け止めていたが、漏れた分で下着とワイシャツの裾はしっかり汚れた。
前回は挿入しただけで終わった承太郎が、快感に眉根を寄せて荒々しい息を吐き出している様を見て、花京院は胸がいっぱいに満たされるのを感じた。
その感情は安堵にも似ていたような気がするし、別の何かだったような気もする。
とにかく花京院はその時点でくたくたになっていて、承太郎に支えられていたにも関わらず、ぐるぐると目が回るのを感じていた。
案の定、意識はそこで途切れている。
(そしてまたこのパターンか……)
花京院が目を覚ましたのは保健室のベッドの上だった。
一体何度同じことを繰り返すのかと呆れたが、以前と違うのは女医の艶めかしい声が聞こえないということだ。
ほっと安堵の息を漏らしながら、身を起こす。幾度か頭を振って、額に手を当てる。多分、熱はない。むしろどこかスッキリしているような気さえする。
それもそうだ。花京院はこの短時間に食欲、性欲、睡眠と、人間の三大欲求を全て満たしたことになるのだから。
(性欲、に関しては……流されただけのように思うが)
どうやら湯あたりを起こしたような状態になって、気を失ってしまったようだ。
そういえば承太郎はどうしたのだろう。自分はここにどうやって訪れたのだろうか。
それにしても。
「……下着、ちょっと気持ち悪いな」
ベッドの縁に腰かけながら、もぞりと尻を動かす。派手に汚れたというわけではないが、なんとなくまだ濡れた感触が残っているような気がしてしまう。
すると、芋づる式に承太郎の手の熱さまで思い出してしまった。低い呻きや額に滲む汗。大きな手で花京院と己のブツを一掴みにして、巧みに扱き上げていた。
「ッ……!」
花京院は無意識に喉を鳴らす。腰の辺りにおかしな熱が集まって来るのを感じて、慌てて両手で頬を叩くと深呼吸をした。
そのとき、勢いよくカーテンが開かれて、笑顔の女医が姿を現す。
「あら、花京院くん! 目が覚めた?」
「うわあああッ!?」
ベッドからぴょんと跳ねる勢いで驚いた花京院に、女医は目を丸くして驚いていた。
なんとなくシーツを手繰り寄せて腹に巻きつけるようにして抱え込むと、花京院はしおしおと俯いて「すみません」と謝罪する。
目を合わせられないのは、後ろめたさがあるせいだ。少しばかり身体の中心に異変が起こりかけていたこともそうだが、あれほど激しく承太郎を求めていた彼女もまた、自分と同じように遊ばれているだけだということを知ってしまったから。
「驚かせちゃって悪かったわね。それより気分はどう?」
「あ、はい……平気です」
「少し赤いけど、顔色は悪くないわね。はい、念のためもう一度これで熱を測って」
女医に差し出された体温計を受け取って、シャツの胸元から差し入れると脇に挟んだ。一瞬、承太郎が胸元に吸い付いていたのを思い出してヒヤリとしかけたが、幸い痕は残っていなかった。あれでいてかなり気を使ってくれていたのかもしれない。そんな気遣いが出来るようには、とても見えないのに。
(本当に、よくわからない男だ……)
他校の生徒やチンピラとケンカをして、相手を再起不能にしたとか、気に入らない教師にヤキを入れて退職に追い込んだとか。
承太郎にまつわる噂は、絵に描いたような不良のお手本ばかりだ。
極力関わりを避けたいと思うのが普通だろうし、実際ほとんどの生徒や教師が彼を避けている。積極的に近づいて行くのは、せいぜい取り巻きの女子くらいなものか。
承太郎のイメージは優しさや、労わりといったものからは遠い場所にある。さらに付け加えるなら、奴は女癖も男癖も悪いときたものだ。
だからこそ、そのギャップのようなものが花京院を戸惑わせ、その輪郭を掴み所なくさせている。
「それにしても、授業をサボって屋上にいるなんて。担任の先生には黙っといたげるけど、あなたらしくないわね、花京院くん」
「え!?」
「JOJOの影響? 仲良くするのは悪いとは言わないけれど、熱中症寸前になるまで付き合うことなんかないのよ」
「熱中症……」
まぁ、似たようなものか。
承太郎の熱にあてられて、目を回したようなものなのだから。
それにしても、と、女医は白い手を唇に添えてクスクスと笑った。
「これで二回目ね」
「二回目?」
「JOJOが大切そうに、あなたをお姫様抱っこして連れて来たのは」
「おひ、め……!?」
お姫様抱っことは、あのお姫様抱っこのことか。女子なら一度は憧れるという、あの……?
しかも二回目、というのはどういうことだろうか。
「一度目はほら、あなたが熱を出して休む前の日よ。階段の踊り場で倒れたでしょ?」
「……あ」
花京院は目を見開き、思わず左の二の腕に手を添えた。
そうだ。あの日、ここで目を覚ました花京院の二の腕には、覚えのない傷がついていた。色々なことがありすぎて忘れていたが、階段の途中で眩暈を起こしたとき、誰かに強く腕を引かれたような記憶が、僅かだが残っている。
(あの爪痕は……彼のものだったのか……)
「危なかったのよ。JOJOがいなかったら、階段から転がり落ちて大怪我をしていたかもしれないんだから」
「……承太郎が、ぼくを」
助けてくれたのか。
少しずつ、胸の鼓動が早まって行くのを感じる。締め付けらているようで、息が苦しい。頬がどんどん熱くなる。
同時に思い出されるのは、深く爪の切られた彼の指先だ。
(違う。そんな馬鹿な。偶然だ。なにもかも、偶然に違いない)
だってそれでは、まるで。
「JOJOなら珍しく授業に出ているわ。随分と心配していたみたいよ。彼、あんな切羽詰まったような顔もするのねぇ」
まるで、本当に大切にされているみたいだ。
電子音がして取り出した体温計は、花京院の身体に熱があることを、数字として示していた。
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とりあえず熱を測るだけ測って保健室を出た花京院は、言われた通り屋上へ向かうべく階段を上っていた。
(確か屋上は鍵がかかっていて、立ち入り禁止のはずだが)
それに、もう昼休みはほとんど残されていなかった。
承太郎は来れそうなら来いと言ったのであって、別に強制されているわけではない、はず。だから素直に従う義理はないなのだが。
自分の中に拒むという選択肢が見当たらないのが不思議でならなかった。
花京院は階段を上り切った先にある、鉄製のドアノブに手をかけた。戸惑いがちに捻ってみると、あっさり扉は開かれる。
「鍵が壊れているのか?」
何にしろ、承太郎はこの先にいる。知らず、胸が躍るように弾んだ。
扉を開けた先は真っ青な空が広がっていた。強い日差しの中、温い風が吹き抜けている。
朽ちたコンクリートが広がるただっぴろい空間で、高いフェンスに背を預けた黒い長ラン姿が煙草を燻らせる姿が見えた。
「来たか、花京院」
承太郎は片手を上げ、吸いかけの煙草を地面に落とすと、革靴の先でそれをもみ消した。ポケットに両手を突っ込んで、ヌシヌシとこちらに歩いてくる。この熱い中、長ランを翻す様は少しばかり暑苦しい。けれど、彼は汗ひとつかかずに涼しげだ。
扉を背に所在無げに佇む花京院の側まで来ると、彼は僅かに顎をしゃくって見せる。
「そっちに移動しな。日陰になってる」
そう言って、先に壁伝いに角へ消えてしまう背中を追いかける。
確かに、そこは建物がちょうど影になっており、吹く風もひんやりとしていて心地よかった。
「あ、あの、空条先輩」
「承太郎」
「え?」
「承太郎だ」
「……承太郎、先輩」
「…………」
「……承太郎」
「座んな」
承太郎は機嫌よさげに肉厚な唇を笑みの形に歪め、先にどっかりと地面に腰を下ろした。
激しく戸惑いながらも、花京院は胡坐をかく承太郎から人一人分程度のスペースを開けて、ちょこんと体育座りする。
こんなところに呼び出して、彼は一体どうするつもりなのだろう。まさか外でさっきの続きをする……なんてことはないだろうなと、身を固くする花京院の目の前に、どん、と紫色の風呂敷に包まれた、大きな箱が置かれた。
「?」
承太郎がその包みを解くと、中から現れたのは黒地に金色の桜模様が描かれた、それはそれは立派な重箱だった。
ぱちぱちと目をしばたたかせる花京院の前で、承太郎がせっせと中身を広げる。
三段もの重箱には巻き寿司や稲荷寿司をはじめ、卵焼きに唐揚げ、ハンバーグに昆布巻きや海老のうま煮などなど、豪華な料理がびっしりと詰められていた。
「こ、これは一体……」
「食え」
ちゃっかり紙の取り皿と割り箸も用意していたらしい承太郎が、それらをずずいと差し出してくる。咄嗟に受け取ってしまったが、花京院は呆気にとられたまま反応ができないでいた。
目の前に広げられる豪華飯に見入っていると、怪訝そうな顔に覗き込まれる。
「不満か? 味は保障するぜ」
「ふ、不満もなにも! これは、あの、どういう?」
「飯だろ。昼飯。食ってねーだろ?」
「食べてません、けど」
「なら遠慮なく食いな」
(えええ!?)
訳が分からず驚愕する花京院を尻目に、承太郎は取り皿に適当に自分の分を盛り付けて豪快に食べ始めた。
食え、と言われても、なぜ自分がこんな豪華すぎる弁当にありつけてしまうのか、全くもって状況が分からない。
そうこうしているうちに、昼休みの終わりを告げるチャイムが響き渡り、花京院はよりいっそう慌てふためくことになる。
「あっ、授業が! 昼休みがッ!」
「モタモタしてっからだろーが。まぁ気にすんな」
「気にしますよ!!」
(ぼくは不良じゃないんだぞ!!)
だけど、目の前の弁当は実に美味そうだ。
風に乗って鼻を掠める唐揚げの匂いなんて、いかにも香ばしくて食べる前から美味だと分かる。
途端に、派手に腹の虫が鳴った。
「うっ……!」
思わず顔を赤らめ、両手で腹を押さえた。承太郎が稲荷寿司を頬張りながら、ふんと鼻で笑う。それがまた恥ずかしくて、少し泣きたい気持ちになってくる。
が、すぐにどうでもいいような気もしてきた。
自分が授業に出られないのはしょっちゅうだ。どうせまた保健室かと、そう思われているに違いない。
食えと言うのだから、食ってやろうじゃないか。遠慮なく。
「食べます。食べますよ。いただきます」
両手を合わせ、ぺこりと頭を下げる。承太郎は小さく笑っただけだった。
一通り皿に盛って、まずは卵焼きから口に放り込んだ。程よい甘さと、出汁の利いた優しい味が、ふわりと口の中に広がる。
「んん、これは美味しい!」
素直に感想を述べると、承太郎は満足そうに口の端を歪める。
花京院は次から次へと料理を頬張っては「美味しい」と言って存分に食べた。
承太郎はそれを見て「喉に詰まるぞ」なんて言いながら、取り出したペットボトルの水を差し出してくる。まるで甲斐甲斐しく世話を焼かれているようで、どうにも尻の座りが悪い。が、何を食べても美味しいので、とりあえず気にするのは後に回した。
凄い量だと思っていたが、流石にそこは男子高校生の胃袋といったところか。二人で食べるとあっという間だった。
重箱が空になってようやく、花京院は皿と箸を置いて大きく息をついた。
「はぁ、美味しかった。ご馳走様でした」
「お粗末さん」
「こんなに一度に食べたのは初めてですよ。料理上手なお母さんですね」
「まぁな。うっとおしいアマだが……飯だけは美味い」
そんな物言いをするくせに、重箱を丁寧に風呂敷に包み直す承太郎の横顔は穏やかなものだった。無表情でも怒っているような顔に見え、口端を持ち上げれば不良というより殺し屋といった方が似合いそうな彼でも、こんな顔をするのか。
なんとも意外な素顔を見せられたような気がして驚いた。
(いい母親なんだろうな、きっと)
元通り綺麗に包まれて脇に置かれた重箱を見て、花京院はふと浮かんだ疑問を口にした。
「いつもこんなに大きな弁当を一人で?」
承太郎はとにかく身体がデカい。身長もおそらく2メートル近くはあるだろうし、身体つきもアスリート並か、それ以上だ。常人の倍以上は食べてもおかしくはないと思うが、作る方は毎日苦労するだろう。
「そんなわけあるか。流石に一人で全部食うのはキツかったぜ」
「ですよね。いくらなんでも……うん?」
(キツかった?)
「昨日も一昨日も、てめーが学校に来ねえとは思わなかったからな」
「……はへ?」
つい、おかしな声が出てしまった。何を言っているんだ、この不良は?
「熱は……本当にもういいのか」
「は、え? あ、ええ、身体はもうすっかり……さっきも微熱でしたし」
「……あんときのアレが原因だな。悪かった」
「ええ!?」
(あ、謝られた……!?)
もう、なにがなんだか。
確かに花京院は高熱を出して倒れた。それは目の前の、この空条承太郎によって無理に身体を暴かれた結果だ。
それに対してどういうわけか、花京院は一切の怒りを感じていない。だからこれといって謝罪も求めていなかったし、得られるとも思っていなかった。
しかもそれだけじゃない。この男は、一体なんのつもりか知らないが、花京院とこうして昼食をとるために、あの翌日からずっとこんな仰々しい重箱弁当を持参していたというのだ。
「き、君って男は……一体なにを考えているんだ……?」
やっぱり、この男は不可解だ。
これではまるで、承太郎と付き合っているのはあの女医ではなく、こちらの方ではないか。
(それはない……ない、よな……?)
頭上に幾つものはてなマークを浮かべて首を傾げる花京院に、承太郎はこれといって何も答える様子はなかった。
無表情から読み取れる情報もなく、疑問は膨らむばかりだ。
そんな花京院に、承太郎が腕を伸ばしてくる。半袖のシャツから伸びる二の腕を掴まれ、驚きに肩をびくつかせはしたが、ふと違和感を覚えた。
けれどその正体を探ろうとする前に、強く引き寄せられる。
「わ、あ!」
承太郎の手が両脇に差し込まれ、まるで子供を抱き上げるようにその膝に乗せられてしまう。跨ぐような形で向かい合ったせいで、見上げるばかりのエメラルドが、自分の目線より少し下にあった。
これでもそれなりに身長はある方だし、見た目だけなら決して貧弱ではないつもりだ。だから、そこそこ重い、と思う。
なのにこうも軽々と扱われてしまうのは、あまりにも情けないし恥ずかしい。
相手が規格外の大きさだということを差し引いても、花京院にだって男としてのプライドくらいある。
だが、何より恥ずかしいのは。
「ちょ、っと! き、君、なにをして……ッ」
思い切り腰を抱きしめながら、胸元に承太郎が顔を埋めている。その弾みで学帽が地面に転がり落ちるのもお構いなしだった。
少し躊躇したものの、花京院はその硬い黒髪に両手を這わせて、引き剥がそうとした。だがそんな抵抗も虚しく、承太郎は大きく息を吸い込んだ。
「ひ、ゃ!」
薄いシャツ越しに伝わるその感覚がこそばゆくて、思わず妙な声が出た。咄嗟に唇を引き結び、手の甲を押し当てる。胸元から顔を上げた承太郎は、顔を赤らめる花京院を見上げるとふっと笑った。
心臓が大きく跳ねる。承太郎からは煙草と、ほんの微かに汗の香りがした。その匂いが花京院の内側をくすぐる。甘いようでいてどこか切ない感覚に、眩暈と同時にまた熱が上がるのを感じた。
「ッ……」
何か言おうとして、下から唇をすくわれる。重なったそれは決して深くはならない。小鳥が啄むように、幾度も繰り返される口付けは、ただくすぐったいばかりだった。
ちゅ、ちゅ、という水音が響く度、花京院の身体もひくひくと小さく跳ねた。
引き剥がそうとしていたはずの両手は、もはや承太郎の肩に縋りつくだけになってしまった。
承太郎の指先がワイシャツの前に触れた。片腕は花京院の腰を抱いたまま、片手で器用にボタンを外され、隠されていた素肌が夏の風に晒される。
「まっ、て! ここ、外……!」
ようやくまともに抗議の声を上げながら、胸に這わされた手の平を見下ろし、花京院ははたと気がついた。
(爪、だ)
ついさっき覚えた違和感を思い出す。
あの日、保健室で同じように強く腕を掴まれたとき。あのときは、二の腕に食い込んだ爪が痛かった。だけど今日はそれがない。先刻、保健室では気が付かなかったけれど。
承太郎の爪が、短く深く、切りそろえられている。
(そんな、まさか……な)
流石にそれは思い上りというものだ。
とにかく今は、今だけは流されるわけにはいかない。保健室という、誰が来るかも分からない場所でもそうだが、ここは室内ではなく外なのだ。
花京院の中の常識がそれを許さない。今更のような気もするが、夏の青空の下で事に及ぶなんて、そんな真似はしたくない。
「ま、待ってくれ。さっき君は、あの無体について謝罪してくれたのではなかったかい?」
「ああ、したぜ」
「舌の根も乾かないうちから同じことを繰り返すというのは、どうだろうか。しかも、こんな場所で」
花京院の胸元に這わせていた承太郎の手が止まる。
ほんの少しだけそれを残念に感じている自分に気づかないふりをしながら、花京院は先を続ける。
「情けない話だが、ぼくはあまり身体が丈夫な方ではない。子供の頃に比べれば、これでも随分マシにはなったんだけどね。それでもダメなんだ。激しい運動をしたり、その……メンタル面で大きな負荷がかかると……ああ、本当に自分でも情けないよ。すぐに潰れてしまうし、踏ん張りがきかなくなるんだ」
言っているうちに、心が沈む。
花京院は一度、きゅっと下唇を噛み締めると、すぐに気を取り直したように承太郎の顔を見降ろした。
「それに、君はあの女医と……その、付き合っているんだろう? 特定の相手がいるのに、こういう遊びは」
「付き合ってねえ」
「よくないと……うん?」
「付き合ってねーし、付き合うつもりもねーな」
「……は?」
それはつまり。
やっぱり、そういうことか。
少し呆れた気分になった。やはりこの男は、恋愛と性欲を切り離して考えている。遊びと本気は、承太郎の中では全くの別物なのだ。
あれだけ熱烈に求めておいて、気持ちが伴っていないなんて。このことをあの女医が知れば、どうなってしまうのだろう。承太郎にその気がなくても、彼女はおそらく本気に違いない。恋愛沙汰と縁のない花京院にだって、そのくらいはなんとなく分かる。
だとしたら、この男は本当に酷いヤツだ。
同じように自分も遊ばれているにすぎないのだと。そう思うと途端に胸がムカムカしてきた。強引に奪われてさえ、腹など立たなかったというのに。
「離してくれ。ぼくはもう教室に戻、ちょ、おい! 触るな!」
そっぽを向いて立ち上がろうとした花京院を許さないとばかりに、承太郎の手が再び動き出した。脇腹を撫でられ、またおかしな声が上がりそうになるのを、歯を食いしばって耐える。
「最後まではしねえ」
「はぁ!?」
「無理はさせねえと言っている。だから触らせろ」
「言っている意味が分からない! それに、ぼくはそういう意味で言ったんじゃあないぞッ!」
「足りねえんだよ」
承太郎の唇が、胸の中心に押し付けられた。軽く音を立てて吸われて、迂闊にも肩が跳ねる。そこから、あの纏わりつくような痺れと熱が広がっていく。
「てめーが、足りねえ」
汗ばむ素肌に舌を這わせながら、承太郎が上目使いで花京院を見上げる。その重低音に、腰から下が蕩けそうだった。
ああまた、流されてしまう。この声に、瞳に。まるで本当に求められているみたいな気にさせられる。求めているような気に、させられる。
実際、湧き上がったはずの怒りが一気に鎮火していた。全く別の熱にすり替えられて、身体が疼きだす。
「花京院」
「ッ、ぅ、あ……っ」
その声で、名前を呼ばれると。
なにもかも許してしまいたくなる何かを、この男は持っている。
「だ、ダメ……そこは、そんな、ッ、ぼくは、女の子じゃ、ない」
承太郎の唇が、胸の飾りに吸い付いた。その感覚に鳥肌がたつ。知識に乏しく、経験のない花京院にだって、そこが男性にとって性感帯じゃないことくらい分かる。
それがどういわけか、指と、唇と、舌と歯でもって刺激されると徐々に硬くしこりはじめ、気の遠くなるような痺れが沸き上がった。
「やっ、ぁ! なん、でっ、なんで……!」
こんなに気持ちがいいんだろう。
身も世もなく喘ぐ声が、青空の下に響き渡る。恥ずかしくて悔しくて、だけどどうしようもなく感じてしまう。
(どうなってしまったんだよ! ぼくの身体は!!)
結局花京院は、休み時間を知らせるチャイムが鳴るまでの間ずっと、承太郎の愛撫によってその身を翻弄されることになってしまった。
*
承太郎は本当に最後まではしなかった。
花京院はただ彼の膝の上で悶えていただけだ。
何度もキスをされ、胸の粒が赤くなるまで嬲られて、最後には勃起した互いの性器を擦りあわせた。
改めて見る承太郎のブツは、やはり目を見張るほど大きかった。こんなものが一度でも自分の中に入り込んだのかと思うと、そんな馬鹿なといっそ笑いたくなった。
放ったものは承太郎が手の平で器用に受け止めていたが、漏れた分で下着とワイシャツの裾はしっかり汚れた。
前回は挿入しただけで終わった承太郎が、快感に眉根を寄せて荒々しい息を吐き出している様を見て、花京院は胸がいっぱいに満たされるのを感じた。
その感情は安堵にも似ていたような気がするし、別の何かだったような気もする。
とにかく花京院はその時点でくたくたになっていて、承太郎に支えられていたにも関わらず、ぐるぐると目が回るのを感じていた。
案の定、意識はそこで途切れている。
(そしてまたこのパターンか……)
花京院が目を覚ましたのは保健室のベッドの上だった。
一体何度同じことを繰り返すのかと呆れたが、以前と違うのは女医の艶めかしい声が聞こえないということだ。
ほっと安堵の息を漏らしながら、身を起こす。幾度か頭を振って、額に手を当てる。多分、熱はない。むしろどこかスッキリしているような気さえする。
それもそうだ。花京院はこの短時間に食欲、性欲、睡眠と、人間の三大欲求を全て満たしたことになるのだから。
(性欲、に関しては……流されただけのように思うが)
どうやら湯あたりを起こしたような状態になって、気を失ってしまったようだ。
そういえば承太郎はどうしたのだろう。自分はここにどうやって訪れたのだろうか。
それにしても。
「……下着、ちょっと気持ち悪いな」
ベッドの縁に腰かけながら、もぞりと尻を動かす。派手に汚れたというわけではないが、なんとなくまだ濡れた感触が残っているような気がしてしまう。
すると、芋づる式に承太郎の手の熱さまで思い出してしまった。低い呻きや額に滲む汗。大きな手で花京院と己のブツを一掴みにして、巧みに扱き上げていた。
「ッ……!」
花京院は無意識に喉を鳴らす。腰の辺りにおかしな熱が集まって来るのを感じて、慌てて両手で頬を叩くと深呼吸をした。
そのとき、勢いよくカーテンが開かれて、笑顔の女医が姿を現す。
「あら、花京院くん! 目が覚めた?」
「うわあああッ!?」
ベッドからぴょんと跳ねる勢いで驚いた花京院に、女医は目を丸くして驚いていた。
なんとなくシーツを手繰り寄せて腹に巻きつけるようにして抱え込むと、花京院はしおしおと俯いて「すみません」と謝罪する。
目を合わせられないのは、後ろめたさがあるせいだ。少しばかり身体の中心に異変が起こりかけていたこともそうだが、あれほど激しく承太郎を求めていた彼女もまた、自分と同じように遊ばれているだけだということを知ってしまったから。
「驚かせちゃって悪かったわね。それより気分はどう?」
「あ、はい……平気です」
「少し赤いけど、顔色は悪くないわね。はい、念のためもう一度これで熱を測って」
女医に差し出された体温計を受け取って、シャツの胸元から差し入れると脇に挟んだ。一瞬、承太郎が胸元に吸い付いていたのを思い出してヒヤリとしかけたが、幸い痕は残っていなかった。あれでいてかなり気を使ってくれていたのかもしれない。そんな気遣いが出来るようには、とても見えないのに。
(本当に、よくわからない男だ……)
他校の生徒やチンピラとケンカをして、相手を再起不能にしたとか、気に入らない教師にヤキを入れて退職に追い込んだとか。
承太郎にまつわる噂は、絵に描いたような不良のお手本ばかりだ。
極力関わりを避けたいと思うのが普通だろうし、実際ほとんどの生徒や教師が彼を避けている。積極的に近づいて行くのは、せいぜい取り巻きの女子くらいなものか。
承太郎のイメージは優しさや、労わりといったものからは遠い場所にある。さらに付け加えるなら、奴は女癖も男癖も悪いときたものだ。
だからこそ、そのギャップのようなものが花京院を戸惑わせ、その輪郭を掴み所なくさせている。
「それにしても、授業をサボって屋上にいるなんて。担任の先生には黙っといたげるけど、あなたらしくないわね、花京院くん」
「え!?」
「JOJOの影響? 仲良くするのは悪いとは言わないけれど、熱中症寸前になるまで付き合うことなんかないのよ」
「熱中症……」
まぁ、似たようなものか。
承太郎の熱にあてられて、目を回したようなものなのだから。
それにしても、と、女医は白い手を唇に添えてクスクスと笑った。
「これで二回目ね」
「二回目?」
「JOJOが大切そうに、あなたをお姫様抱っこして連れて来たのは」
「おひ、め……!?」
お姫様抱っことは、あのお姫様抱っこのことか。女子なら一度は憧れるという、あの……?
しかも二回目、というのはどういうことだろうか。
「一度目はほら、あなたが熱を出して休む前の日よ。階段の踊り場で倒れたでしょ?」
「……あ」
花京院は目を見開き、思わず左の二の腕に手を添えた。
そうだ。あの日、ここで目を覚ました花京院の二の腕には、覚えのない傷がついていた。色々なことがありすぎて忘れていたが、階段の途中で眩暈を起こしたとき、誰かに強く腕を引かれたような記憶が、僅かだが残っている。
(あの爪痕は……彼のものだったのか……)
「危なかったのよ。JOJOがいなかったら、階段から転がり落ちて大怪我をしていたかもしれないんだから」
「……承太郎が、ぼくを」
助けてくれたのか。
少しずつ、胸の鼓動が早まって行くのを感じる。締め付けらているようで、息が苦しい。頬がどんどん熱くなる。
同時に思い出されるのは、深く爪の切られた彼の指先だ。
(違う。そんな馬鹿な。偶然だ。なにもかも、偶然に違いない)
だってそれでは、まるで。
「JOJOなら珍しく授業に出ているわ。随分と心配していたみたいよ。彼、あんな切羽詰まったような顔もするのねぇ」
まるで、本当に大切にされているみたいだ。
電子音がして取り出した体温計は、花京院の身体に熱があることを、数字として示していた。
←戻る ・ 次へ→
――またな、花京院。
額に柔らかく、温かなものが触れた。
その心地よさに安らぎを覚えて、花京院は目を閉じたまま微かに笑うと、こくんと頷いた。
ような、気がする。
(どこまでが夢で、どこまでが 現実なんだ……?)
誰もいない保健室で、あの空条承太郎に抱かれた。
それは確実だ。
あの凄まじい痛みは忘れようがないし、今もなお考えられないような場所に微かな違和感が残っている。
デリケートな場所だけに、傷ついていなかったのは奇跡だ。承太郎が念入りに解した成果、だったのかもしれないが。
あのあと、花京院はどうやって自宅に帰ったか覚えていない。
気がついたら自宅の玄関先に膝をついていて、次に目覚めたときにはしっかりとパジャマを着た状態で自室のベッドにいた
聞けば二日間も熱を出して寝込んでいたらしい。声をかければ返事をしたというから、その場での意識はあったのだと思う。
ただ、落ち着いて思いだそうとすると記憶が曖昧というだけで。
二日もの間、何も考えなくて済んだのはよかったのかもしれない。
身体を回復させることだけに専念できたからだ。
むしろこうして動けるようになってからの方が、しょっちゅう頭を抱える羽目になっている。
今だって二日ぶりの授業だというのに、内容がまるで頭に入って来ない。
教師がなにやら淡々と説明している声が聞こえるが、右から左へ筒抜けの状態だった。
いっそ、全てが夢ならば。
恋が儚く散ったことも、学校一の不良に女にするように犯されたことも、最後には、感じ入ってしまったことも。
全てがなかったことになるのに。
だけどそんな都合のいい展開があるはずもなく、忘れようとすればするほど思い出してしまうのだ。
しかも、今ならば多少は冷静に。
あのときはそれどころじゃなかったが、承太郎は無理やり事に及んだようでいて、行為そのものは決して、自分本位なだけではなかった。
確かに有無を言わさぬ凄みはあったし、受け入れた瞬間はその激痛に悶絶した。だが彼は最終的に自分の快楽よりも、花京院を感じさせることを優先した。
挿れるだけ挿れて、ただ締め付けられるだけで終わるなんて、よほどの精神力でなければ到底耐えられるものではないのではないか。残念ながら経験がないので、あくまでも想像の域を出ないが。
(だから分からないんだ。怒ればいいのか、嘆けばいいのか……)
承太郎の行いは理不尽で、横暴で、あまりにも強引だった……はず。
それなのに全く怒りが沸いてこない。嘆くとすれば、挿れるより先に挿れられてしまった点に関してだろうか。そこはあまり深く考えたくないので、あえて思考を麻痺させておくことにした。
(何より問題なのは、結果的にぼく自身が感じてしまったことだ。あれでは、最終的に和姦のようなものじゃあないか!)
まだ女性と付き合った経験がないわけだし、このさい自分にホモの可能性があるかもしれない、ということには触れないでおく。だってありえない。
現に自分はあの女医に淡い恋心を抱いていたわけだし、初恋の相手は幼稚園の先生だった。もちろん、それも女性である。
(そ、そうさ。あれは事故だ。済んでしまったことなんだ。あれこれ考えたって無駄なんだ)
とにかく忘れよう。自分はただ最初に決めた通り、二度と保健室の世話にならないように注意していけばいいだけだ。
向こうにその気でもない限り、登下校中にエンカウントするということもないだろう。学校でも基本的に彼は常に女体という分厚い壁に囲まれている。こちらを構う余裕などないはずだ。
(やめやめ! それより勉強だ! ガクセーの本分は勉強!)
無理にでも考え方を前向きに設定すると、多少は気が紛れた。
答えが出ないものを、いつまでも考えていたって時間の無駄だ。もっと優先すべきことが他にある。
まずは、二日分のブランクを取り戻さなくては。
花京院は身を乗り出し、ひたすら授業に専念することにした。
*
昼食は適当にパンでも買って済ませようと思っていた。
家事に抜かりのない母も、二日間付きっきりで息子の看病をしたせいで、顔には出さないが疲れ切っているようだった。
まさか男に掘られたのが心身ともにショックで、肉体が悲鳴を上げてしまいました、なんて言えるわけもなく、ただただ申し訳なさが募るばかりだ。
そんなことを考えながら、一階へと足を運ぶ。
奥まった場所に位置する購買部には遠目からもすでに生徒たちが群がっていて、急がなければ争奪戦に乗り遅れてしまいそうだった。
だが、どういうわけか花京院はそのまま前へ進むことなく、足を止めていた。
購買へと走って行く生徒たちが、すぐ脇を通り過ぎていく。
花京院が足を止めたのは、もう二度と来ないと決めた、あの保健室の前だった。
(……いるんだろうか)
花京院が頭に思い浮かべたのは、憧れていた女医の姿ではなかった。
どうしてか、あの不遜な男の顔が脳裏に浮かぶ。南国の海のように、キラキラと光るエメラルドを。
(ば、馬鹿か、ぼくは)
頬に熱が集まるのを振り払うように、花京院は前髪のひと房を揺らしながら首を振った。
もし仮に奴がいたからって、なんだというのか。どんな顔をして、何を話すつもりなのだろう。
それにもしかしたら、今ごろはまたあの女医とよろしくやっているかもしれない。
思えば花京院は保健室の常連だったが、あんなことになるまでは一度も承太郎と遭遇したことがなかった。
これまではたまたまタイミングが重ならなかっただけかもしれない。
『またな、花京院』
朦朧とした意識の中で聞いた声。
その言い回しは『次』があることをハッキリと示している。
けれどそれは、一体どういう意味での『次』なのだろう。
彼はあの女医と付き合っているのではないのか。それとも、恋愛と身体だけの関係は別と、割り切っているのだろうか。
そういった奔放な思考は、花京院には理解しかねる。好きになったら、そのたった一人だけを愛するべきだ。
それに、わざわざ花京院が相手をするまでもなく、承太郎と寝てみたい人間なんて腐るほどいるはず。
あれだけの美貌とフェロモンを垂れ流す男なのだから、基本的に相手に困ることはないだろう。女にしろ、男にしろ。
「……はぁ」
結局、無駄なことばかり考えている。承太郎のことばかり。これは、爪痕だ。
花京院は扉に近づき、引き戸に手をかける。
何より分からないのは自分自身のことだった。二度と近寄らないと誓った場所に、今度は自らの意志で訪れようとしている。
「…………」
引き戸を開けた先は無人だった。
女医の姿もなければ、承太郎がいる様子もない。
事務用の平机とデスクチェア、薬品や書類の類が詰まった棚に革製の長椅子と、あとはベッドが二つ並んでいるだけ。ベッドのひとつにはカーテンが引かれていて中は見えないが、真昼の陽光に包まれた室内に人の気配は感じられなかった。誰かしら寝ていれば、ベッド下に靴がなければおかしい。それが見えないということは、やはりここには誰もいないということだ。
花京院は、知らず強張っていた肩から力を抜いた。
吐き出した溜息には安堵と落胆、その両方が含まれている。
「つくづくなにを考えているんだ。ぼくってやつは……」
女医と承太郎。どちらがいたって気まずいだけだし、ましてや二人揃っていようものなら、どうするつもりだったのか。
花京院は中に一歩踏み込むと後ろ手に引き戸を閉め、何の気なしにベッドへ足を向けた。ちょうどカーテンの引かれているベッドがあの日の現場である。
(やっぱり、全て夢だったのかな)
こうしてひと気のない、静かな空間に身を置いてみると、あの日のことが別世界の出来事のように遠く感じる。
それはあながち間違ってはいないかもしれない。そもそもあの空条承太郎と自分は、住んでいる世界からして違うのだろうから。
(戻ろう)
今ならまだ購買に何かしら残っているかもしれない。どんなに思い悩んでいたって腹は減る。
花京院はカーテンに向かって伸ばしかけた手を引っ込めようとした。が、隙間から突如として伸びてきた『手』に、手首を掴まれる。
「!?」
そのまま悲鳴すら上げる間も与えられず、一気に中に引きずり込まれた。
「なっ……!?」
「よう、来たか」
何もかもが一瞬だった。
頭上から声がして、大きく目を見開けば、そこにはあの不敵な笑みを浮かべた空条承太郎の顔がある。
花京院は彼の逞しい胸板に身体をぴったりと寄せ、太い両腕に抱き込まれていた。
無防備だったところを驚かされて、背筋に鳥肌が立つのを感じる。
「な、ど、どうして? なんで、ここに」
てっきり誰もいないものとばかり思い込んでいたのだが。
まさか承太郎が潜んでいるとは、夢にも思わなかった。しかも、なぜこんな風に抱きしめられているのだろう。
しどろもどろに問いかけた花京院に、承太郎が「昼寝」と短く答える。
「靴を、履いたまま?」
「悪いか」
「……悪いです。それに、保健室は昼寝をする場所じゃありません」
「てめーだっていつも寝てんだろーが」
「ぼ、ぼくは、違う。靴だってちゃんと脱ぐ」
「ふぅん?」
承太郎は楽しそうに鼻を鳴らすと、花京院の顎に指先を添えた。
顔を上向かされて、至近距離で見つめられると一気に顔が熱くなる。何度見ても、彼の瞳は美しく魅力的だ。
心臓が苦しい。弾むように鼓動を奏でる。早くこの場を去らなければと思うのに、花京院は己の瞳がどんどん潤んでいくのを止められないでいた。
こうして抱きしめられ、見つめられると、囚われたように身動きができなくなってしまう。見えない糸に、雁字搦めにされているみたいに。
承太郎の顔が、どんどん距離を詰めてくる。キスをされるのだと、どこか遠くでぼんやり思った。
(あ)
ダメだ。抗わなくては。だけど。
「ん、ぅ」
花京院は承太郎の唇が降って来るのを、まるで待ちわびていたかのように睫毛を伏せた。あの日と同じく、肉厚なそれは高い熱を持っていた。
花京院の唇は二度目にして何の抵抗もなく、さも当然のように承太郎の分厚い舌を受け入れた。なぞるように歯列をくすぐられ、口蓋を舐められると、またあの甘い痺れが這い上がってくるようだった。
承太郎が舌先で花京院の舌の裏側をつつく。そのまま誘うように根本から先までをゆるゆると刺激されて、花京院は承太郎の口腔に舌を差しだした。承太郎が、ふっと鼻息だけで笑う。彼の意に沿った行動であったことが知れて、胸にじわりと滲んだのは喜びだった。
承太郎の舌は、やっぱり煙草の味がした。苦いだけのはずのそれが、まるで好物のチェリーのように甘く感じるのはなぜだろう。舌先で転がす癖は、いつも両親に咎められてしまう。けれど彼はゆるゆると波打つ花京院の舌の動きが気に入ったらしい。絡めとられ、音を立てて吸われると堪らず肩が跳ね、甘い吐息が鼻から抜けた。
角度を変えながら、承太郎との口付けは深まるばかりだった。逞しい肩に縋りついていても、身体からどんどん力が抜けて立っていられなくなる。承太郎に腰を抱かれていなければ、今ごろ床に崩れ落ちていただろう。
「ふ……ッ、ん、ぁ……」
名残惜しそうに唇が離れたと同時に、花京院は承太郎にくったりともたれかかった。彼はそれを受け止め、花京院の肩を抱くと、もう片方の腕を今にも崩れそうになっていた膝裏に差し込み、いとも簡単に抱きかかえてベッドに沈める。
重なるようにして圧し掛かられると、いっそ不安になるほどベッドが軋んだ音を立てた。
「覚えがいいな、てめーは」
承太郎は嬉しそうに笑い、悩ましげに皺を刻む花京院の眉間にキスを落とした。
「なに、が?」
ぼんやりと霞がかる思考で、小首を傾げた。赤い頬をゆるりと撫でながら、承太郎はまた小さく笑う。
「頭ん中はまだガキのまんまか?」
「……違う。ぼくは子供じゃない」
「だったら分かるだろうよ」
このあと、どうなるか。
武骨な見た目に反し、繊細な動きで承太郎の指先が花京院の首筋をなぞる。半袖のワイシャツから覗く喉元はあまりにも無防備で、薄らと汗ばむ素肌に火が灯った。息をのめば、恥ずかしいくらいごくりと大きな音が鳴る。
ああ、またあのときのように。幼子のようにしゃくり上げるほど恥ずかしくて、痛くて、どうしようもなかったはずなのに。
(どうして、受け入れてしまうんだろう)
花京院の震える指先が承太郎の背に伸ばされる。あと少しで広い背中にそれが這わされるというところで。
邪魔が入った。
「!」
ガラリと音を立てて、引き戸が開かれた。
「あら、もしかして誰かいた?」
明るい女医の声に、花京院は一気に青褪めるのを感じ、全身を硬直させた。
承太郎が腹立たしげに舌を打ち、密着していた身体が離れる。それにならって、花京院も慌てて身を起こした。
一拍遅れてカーテンが開かれ、白衣に身を包む女医が顔を覗かせた。
「花京院くん、に、JOJO? どうしたの? なんだかベッドが小さく見えるわよ」
「あ、あの」
「あなたたち、揃ってすっかりここの常連ね」
並んでベッドの縁に腰かける二人の生徒を見て、女医は楽しそうに「オホホ」と笑った。
けれどすぐに彼女は顔色を変えると、花京院の側まで近づいて額に手を這わせてきた。
「わ、あの、先生」
「花京院くんったら顔が真っ赤じゃないの! まだ熱も下がっていないようだし……ダメでしょ、無理して学校に来ては」
「熱?」
女医の言葉にピクリと眉を動かしたのは承太郎だった。
「そうよ。彼、昨日まで熱を出して、学校を休んでいたの」
承太郎が険しい視線を向けてくる。それがなんだかいたたまれなくて、花京院は咄嗟に目を逸らした。
「とにかく熱を測りましょう。ちょっと待ってて」
「平気です! もう身体の具合はすっかりよくなったので」
「ダ、メ、よ」
そう言って、女医は棚の方へと向かって行く。
相変わらずすぐ隣からの視線が痛くて、花京院はおずおずと目線を上げると肩を竦めた。
「だ、大丈夫。熱は、もう下がったんだ。熱は」
まるで言い訳をしているみたいな気分だった。
だけど本当に、すっかり熱は下がって体調もいい、と思う。だからこの熱は、そういう意味での熱ではなくて。
言いよどむ花京院に、承太郎は帽子の鍔を摘まんで僅かに引き下げ、独り言のように「やれやれ」と言った。そして、耳元に唇を寄せてくると「屋上」と呟く。
「え?」
「来れそうだったら来い。先に行ってる」
「あ、え、ちょっと」
承太郎はベッドから立ち上がると、ポケットに両手を突っ込んで保健室を出て行こうとする。
「あらJOJO、もう行くの?」
「ああ」
「そう……じゃあ、またね」
体温計を持って戻って来た女医が、承太郎の背を見送りながら少し寂しそうに笑う。その表情がなんとなく見ていられなくて、花京院はちくりと痛んだ胸を手の平でそっと押さえた。
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額に柔らかく、温かなものが触れた。
その心地よさに安らぎを覚えて、花京院は目を閉じたまま微かに笑うと、こくんと頷いた。
ような、気がする。
(どこまでが夢で、どこまでが 現実なんだ……?)
誰もいない保健室で、あの空条承太郎に抱かれた。
それは確実だ。
あの凄まじい痛みは忘れようがないし、今もなお考えられないような場所に微かな違和感が残っている。
デリケートな場所だけに、傷ついていなかったのは奇跡だ。承太郎が念入りに解した成果、だったのかもしれないが。
あのあと、花京院はどうやって自宅に帰ったか覚えていない。
気がついたら自宅の玄関先に膝をついていて、次に目覚めたときにはしっかりとパジャマを着た状態で自室のベッドにいた
聞けば二日間も熱を出して寝込んでいたらしい。声をかければ返事をしたというから、その場での意識はあったのだと思う。
ただ、落ち着いて思いだそうとすると記憶が曖昧というだけで。
二日もの間、何も考えなくて済んだのはよかったのかもしれない。
身体を回復させることだけに専念できたからだ。
むしろこうして動けるようになってからの方が、しょっちゅう頭を抱える羽目になっている。
今だって二日ぶりの授業だというのに、内容がまるで頭に入って来ない。
教師がなにやら淡々と説明している声が聞こえるが、右から左へ筒抜けの状態だった。
いっそ、全てが夢ならば。
恋が儚く散ったことも、学校一の不良に女にするように犯されたことも、最後には、感じ入ってしまったことも。
全てがなかったことになるのに。
だけどそんな都合のいい展開があるはずもなく、忘れようとすればするほど思い出してしまうのだ。
しかも、今ならば多少は冷静に。
あのときはそれどころじゃなかったが、承太郎は無理やり事に及んだようでいて、行為そのものは決して、自分本位なだけではなかった。
確かに有無を言わさぬ凄みはあったし、受け入れた瞬間はその激痛に悶絶した。だが彼は最終的に自分の快楽よりも、花京院を感じさせることを優先した。
挿れるだけ挿れて、ただ締め付けられるだけで終わるなんて、よほどの精神力でなければ到底耐えられるものではないのではないか。残念ながら経験がないので、あくまでも想像の域を出ないが。
(だから分からないんだ。怒ればいいのか、嘆けばいいのか……)
承太郎の行いは理不尽で、横暴で、あまりにも強引だった……はず。
それなのに全く怒りが沸いてこない。嘆くとすれば、挿れるより先に挿れられてしまった点に関してだろうか。そこはあまり深く考えたくないので、あえて思考を麻痺させておくことにした。
(何より問題なのは、結果的にぼく自身が感じてしまったことだ。あれでは、最終的に和姦のようなものじゃあないか!)
まだ女性と付き合った経験がないわけだし、このさい自分にホモの可能性があるかもしれない、ということには触れないでおく。だってありえない。
現に自分はあの女医に淡い恋心を抱いていたわけだし、初恋の相手は幼稚園の先生だった。もちろん、それも女性である。
(そ、そうさ。あれは事故だ。済んでしまったことなんだ。あれこれ考えたって無駄なんだ)
とにかく忘れよう。自分はただ最初に決めた通り、二度と保健室の世話にならないように注意していけばいいだけだ。
向こうにその気でもない限り、登下校中にエンカウントするということもないだろう。学校でも基本的に彼は常に女体という分厚い壁に囲まれている。こちらを構う余裕などないはずだ。
(やめやめ! それより勉強だ! ガクセーの本分は勉強!)
無理にでも考え方を前向きに設定すると、多少は気が紛れた。
答えが出ないものを、いつまでも考えていたって時間の無駄だ。もっと優先すべきことが他にある。
まずは、二日分のブランクを取り戻さなくては。
花京院は身を乗り出し、ひたすら授業に専念することにした。
*
昼食は適当にパンでも買って済ませようと思っていた。
家事に抜かりのない母も、二日間付きっきりで息子の看病をしたせいで、顔には出さないが疲れ切っているようだった。
まさか男に掘られたのが心身ともにショックで、肉体が悲鳴を上げてしまいました、なんて言えるわけもなく、ただただ申し訳なさが募るばかりだ。
そんなことを考えながら、一階へと足を運ぶ。
奥まった場所に位置する購買部には遠目からもすでに生徒たちが群がっていて、急がなければ争奪戦に乗り遅れてしまいそうだった。
だが、どういうわけか花京院はそのまま前へ進むことなく、足を止めていた。
購買へと走って行く生徒たちが、すぐ脇を通り過ぎていく。
花京院が足を止めたのは、もう二度と来ないと決めた、あの保健室の前だった。
(……いるんだろうか)
花京院が頭に思い浮かべたのは、憧れていた女医の姿ではなかった。
どうしてか、あの不遜な男の顔が脳裏に浮かぶ。南国の海のように、キラキラと光るエメラルドを。
(ば、馬鹿か、ぼくは)
頬に熱が集まるのを振り払うように、花京院は前髪のひと房を揺らしながら首を振った。
もし仮に奴がいたからって、なんだというのか。どんな顔をして、何を話すつもりなのだろう。
それにもしかしたら、今ごろはまたあの女医とよろしくやっているかもしれない。
思えば花京院は保健室の常連だったが、あんなことになるまでは一度も承太郎と遭遇したことがなかった。
これまではたまたまタイミングが重ならなかっただけかもしれない。
『またな、花京院』
朦朧とした意識の中で聞いた声。
その言い回しは『次』があることをハッキリと示している。
けれどそれは、一体どういう意味での『次』なのだろう。
彼はあの女医と付き合っているのではないのか。それとも、恋愛と身体だけの関係は別と、割り切っているのだろうか。
そういった奔放な思考は、花京院には理解しかねる。好きになったら、そのたった一人だけを愛するべきだ。
それに、わざわざ花京院が相手をするまでもなく、承太郎と寝てみたい人間なんて腐るほどいるはず。
あれだけの美貌とフェロモンを垂れ流す男なのだから、基本的に相手に困ることはないだろう。女にしろ、男にしろ。
「……はぁ」
結局、無駄なことばかり考えている。承太郎のことばかり。これは、爪痕だ。
花京院は扉に近づき、引き戸に手をかける。
何より分からないのは自分自身のことだった。二度と近寄らないと誓った場所に、今度は自らの意志で訪れようとしている。
「…………」
引き戸を開けた先は無人だった。
女医の姿もなければ、承太郎がいる様子もない。
事務用の平机とデスクチェア、薬品や書類の類が詰まった棚に革製の長椅子と、あとはベッドが二つ並んでいるだけ。ベッドのひとつにはカーテンが引かれていて中は見えないが、真昼の陽光に包まれた室内に人の気配は感じられなかった。誰かしら寝ていれば、ベッド下に靴がなければおかしい。それが見えないということは、やはりここには誰もいないということだ。
花京院は、知らず強張っていた肩から力を抜いた。
吐き出した溜息には安堵と落胆、その両方が含まれている。
「つくづくなにを考えているんだ。ぼくってやつは……」
女医と承太郎。どちらがいたって気まずいだけだし、ましてや二人揃っていようものなら、どうするつもりだったのか。
花京院は中に一歩踏み込むと後ろ手に引き戸を閉め、何の気なしにベッドへ足を向けた。ちょうどカーテンの引かれているベッドがあの日の現場である。
(やっぱり、全て夢だったのかな)
こうしてひと気のない、静かな空間に身を置いてみると、あの日のことが別世界の出来事のように遠く感じる。
それはあながち間違ってはいないかもしれない。そもそもあの空条承太郎と自分は、住んでいる世界からして違うのだろうから。
(戻ろう)
今ならまだ購買に何かしら残っているかもしれない。どんなに思い悩んでいたって腹は減る。
花京院はカーテンに向かって伸ばしかけた手を引っ込めようとした。が、隙間から突如として伸びてきた『手』に、手首を掴まれる。
「!?」
そのまま悲鳴すら上げる間も与えられず、一気に中に引きずり込まれた。
「なっ……!?」
「よう、来たか」
何もかもが一瞬だった。
頭上から声がして、大きく目を見開けば、そこにはあの不敵な笑みを浮かべた空条承太郎の顔がある。
花京院は彼の逞しい胸板に身体をぴったりと寄せ、太い両腕に抱き込まれていた。
無防備だったところを驚かされて、背筋に鳥肌が立つのを感じる。
「な、ど、どうして? なんで、ここに」
てっきり誰もいないものとばかり思い込んでいたのだが。
まさか承太郎が潜んでいるとは、夢にも思わなかった。しかも、なぜこんな風に抱きしめられているのだろう。
しどろもどろに問いかけた花京院に、承太郎が「昼寝」と短く答える。
「靴を、履いたまま?」
「悪いか」
「……悪いです。それに、保健室は昼寝をする場所じゃありません」
「てめーだっていつも寝てんだろーが」
「ぼ、ぼくは、違う。靴だってちゃんと脱ぐ」
「ふぅん?」
承太郎は楽しそうに鼻を鳴らすと、花京院の顎に指先を添えた。
顔を上向かされて、至近距離で見つめられると一気に顔が熱くなる。何度見ても、彼の瞳は美しく魅力的だ。
心臓が苦しい。弾むように鼓動を奏でる。早くこの場を去らなければと思うのに、花京院は己の瞳がどんどん潤んでいくのを止められないでいた。
こうして抱きしめられ、見つめられると、囚われたように身動きができなくなってしまう。見えない糸に、雁字搦めにされているみたいに。
承太郎の顔が、どんどん距離を詰めてくる。キスをされるのだと、どこか遠くでぼんやり思った。
(あ)
ダメだ。抗わなくては。だけど。
「ん、ぅ」
花京院は承太郎の唇が降って来るのを、まるで待ちわびていたかのように睫毛を伏せた。あの日と同じく、肉厚なそれは高い熱を持っていた。
花京院の唇は二度目にして何の抵抗もなく、さも当然のように承太郎の分厚い舌を受け入れた。なぞるように歯列をくすぐられ、口蓋を舐められると、またあの甘い痺れが這い上がってくるようだった。
承太郎が舌先で花京院の舌の裏側をつつく。そのまま誘うように根本から先までをゆるゆると刺激されて、花京院は承太郎の口腔に舌を差しだした。承太郎が、ふっと鼻息だけで笑う。彼の意に沿った行動であったことが知れて、胸にじわりと滲んだのは喜びだった。
承太郎の舌は、やっぱり煙草の味がした。苦いだけのはずのそれが、まるで好物のチェリーのように甘く感じるのはなぜだろう。舌先で転がす癖は、いつも両親に咎められてしまう。けれど彼はゆるゆると波打つ花京院の舌の動きが気に入ったらしい。絡めとられ、音を立てて吸われると堪らず肩が跳ね、甘い吐息が鼻から抜けた。
角度を変えながら、承太郎との口付けは深まるばかりだった。逞しい肩に縋りついていても、身体からどんどん力が抜けて立っていられなくなる。承太郎に腰を抱かれていなければ、今ごろ床に崩れ落ちていただろう。
「ふ……ッ、ん、ぁ……」
名残惜しそうに唇が離れたと同時に、花京院は承太郎にくったりともたれかかった。彼はそれを受け止め、花京院の肩を抱くと、もう片方の腕を今にも崩れそうになっていた膝裏に差し込み、いとも簡単に抱きかかえてベッドに沈める。
重なるようにして圧し掛かられると、いっそ不安になるほどベッドが軋んだ音を立てた。
「覚えがいいな、てめーは」
承太郎は嬉しそうに笑い、悩ましげに皺を刻む花京院の眉間にキスを落とした。
「なに、が?」
ぼんやりと霞がかる思考で、小首を傾げた。赤い頬をゆるりと撫でながら、承太郎はまた小さく笑う。
「頭ん中はまだガキのまんまか?」
「……違う。ぼくは子供じゃない」
「だったら分かるだろうよ」
このあと、どうなるか。
武骨な見た目に反し、繊細な動きで承太郎の指先が花京院の首筋をなぞる。半袖のワイシャツから覗く喉元はあまりにも無防備で、薄らと汗ばむ素肌に火が灯った。息をのめば、恥ずかしいくらいごくりと大きな音が鳴る。
ああ、またあのときのように。幼子のようにしゃくり上げるほど恥ずかしくて、痛くて、どうしようもなかったはずなのに。
(どうして、受け入れてしまうんだろう)
花京院の震える指先が承太郎の背に伸ばされる。あと少しで広い背中にそれが這わされるというところで。
邪魔が入った。
「!」
ガラリと音を立てて、引き戸が開かれた。
「あら、もしかして誰かいた?」
明るい女医の声に、花京院は一気に青褪めるのを感じ、全身を硬直させた。
承太郎が腹立たしげに舌を打ち、密着していた身体が離れる。それにならって、花京院も慌てて身を起こした。
一拍遅れてカーテンが開かれ、白衣に身を包む女医が顔を覗かせた。
「花京院くん、に、JOJO? どうしたの? なんだかベッドが小さく見えるわよ」
「あ、あの」
「あなたたち、揃ってすっかりここの常連ね」
並んでベッドの縁に腰かける二人の生徒を見て、女医は楽しそうに「オホホ」と笑った。
けれどすぐに彼女は顔色を変えると、花京院の側まで近づいて額に手を這わせてきた。
「わ、あの、先生」
「花京院くんったら顔が真っ赤じゃないの! まだ熱も下がっていないようだし……ダメでしょ、無理して学校に来ては」
「熱?」
女医の言葉にピクリと眉を動かしたのは承太郎だった。
「そうよ。彼、昨日まで熱を出して、学校を休んでいたの」
承太郎が険しい視線を向けてくる。それがなんだかいたたまれなくて、花京院は咄嗟に目を逸らした。
「とにかく熱を測りましょう。ちょっと待ってて」
「平気です! もう身体の具合はすっかりよくなったので」
「ダ、メ、よ」
そう言って、女医は棚の方へと向かって行く。
相変わらずすぐ隣からの視線が痛くて、花京院はおずおずと目線を上げると肩を竦めた。
「だ、大丈夫。熱は、もう下がったんだ。熱は」
まるで言い訳をしているみたいな気分だった。
だけど本当に、すっかり熱は下がって体調もいい、と思う。だからこの熱は、そういう意味での熱ではなくて。
言いよどむ花京院に、承太郎は帽子の鍔を摘まんで僅かに引き下げ、独り言のように「やれやれ」と言った。そして、耳元に唇を寄せてくると「屋上」と呟く。
「え?」
「来れそうだったら来い。先に行ってる」
「あ、え、ちょっと」
承太郎はベッドから立ち上がると、ポケットに両手を突っ込んで保健室を出て行こうとする。
「あらJOJO、もう行くの?」
「ああ」
「そう……じゃあ、またね」
体温計を持って戻って来た女医が、承太郎の背を見送りながら少し寂しそうに笑う。その表情がなんとなく見ていられなくて、花京院はちくりと痛んだ胸を手の平でそっと押さえた。
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何が起こっているのだろう。
花京院の思考はぴたりと停止したまま、動かない。
絶世の美男子がぐっと顔を近づけて来て、気が付いたら唇を塞がれていた。
見た目通り肉厚な感触が、酷く、熱い。
「~~~ッ!?」
そこで、花京院の思考はようやく動き出した。
これはキスだ。接吻だ。未だかつて、誰ともしたことがない、初めての。
「んぅッ、ちょ、っと、まっ……!」
頭の中が酷く混乱していた。
とにかく我武者羅に身を捩り、顔を背けようとする。だがその前に巨大な手が花京院の二の腕を掴み上げ、引き寄せる。その力強さに爪が食い込み、痛みが走った。
「痛ッ……!」
思わず上げた悲鳴に、相手が一瞬だけ動きを止めた。けれど、すぐに逞しい腕の中に閉じ込められてしまう。
食らいついてくる唇にべろりと下唇を舐められて、目の前が真っ赤に染まった。
承太郎の手が、花京院の伸びた襟足を押さえ込む。必死で厚い胸板を押し返そうとしても、相手はぴくりとも動かなかった。
そうしている間に、柔らかく濡れた感触が口腔に滑り込んでくる。唇だけでなく、彼は舌も大きくて分厚かった。それがぐるりと繊細な粘膜を舐め上げ、硬くなって縮こまる花京院の舌を掬い上げるようにして捕える。
瞬間、背筋に痺れが駆け抜けた。
ぞくぞくと鋭く這い上がるそれに、花京院は大きく肩を震わせる。
息つく間も与えられず貪られていると、思考にどんどん雲がかかった。舌が擦れ合う度に苦味が広がる。多分、煙草の味。
くたくたになるほど身体から力が抜け、気が付けば引き剥がそうとしていたはずの胸板にもたれかかっていた。訳も分からず、涙が滲む。
項を押さえ込んでいた手がするりと前へ移動して、花京院の頬に這わされた。そのまま、ひと房だけ垂れ下がる赤色の髪に長い指が通される。それだけで、心が引きずられそうになった。
(熱い……溶ける……溶けて、しまう……)
内側からどろりと蕩けてしまいそうだ。
もはやどちらのものともつかぬ唾液が、口の端から零れ落ちる。
頭の芯から爪先まで、酷く痺れていた。それがまた信じられないくらい甘くて、初めての感覚に花京院はひとつ、幼子が泣くようにしゃくりを上げた。
「は、ぁ……」
銀色の糸を引いて離れていく唇を、無意識に目で追いかけた。唾液に濡れたそこを、赤い舌でペロリと舐めとる様に心臓がどくんと高鳴る。
こんなのはおかしい。間違っている。今すぐここから逃げ出さなくては。
そう思うのに、身体はちっともいうことを聞かない。くったりとベッドに沈んだ身体に、承太郎の大きな身体が覆い被さる。
「んんッ!」
食われる、と思った瞬間、承太郎の熱い舌が花京院の首筋に這わされた。
皮膚が粟立つのを感じながら、逞しい肩に爪を立てて制服に皺を作った。嫌々と首を振っても、承太郎は動きを止めない。
知らぬ間にワイシャツの前がすっかり肌蹴て、陽に焼けていない白い胸が露わにされていた。節くれだった男らしい手の平が、汗ばむ肌の上に這わされる。
「ヒッ、ぁ! なん、で、こんな……ぼくは、ちがう……盗み聞き、なんて……ッ」
好きで、していたんじゃない。
あんたたちが勝手に始めたことじゃあないか。
それが中断されたからって、その矛先がどうしてこちらに向くことになるのだろう。
だいたい、男同士でこんなこと……。
「関係ねーよ」
花京院の疑問を、承太郎はたった一言で一蹴した。
ますます意味が分からなくなって、花京院は弱々しいながらも抵抗を再開する。
だが、自分よりも一回り以上は大きく鍛え上げられた肉体に、到底敵うはずがない。
悔しくて、また涙が滲む。唇を噛み締めて屈辱に耐える花京院に追い打ちをかけたのは、馬鹿にしたような承太郎の言葉だった。
「てめー、初めてか?」
「ッ……!」
それは、男同士ですることが、という意味じゃないことくらい、すぐに分かった。
この男は花京院にセックスの経験自体がないことを、わざわざ言葉にして確かめたのだ。カッと朱色に染まる頬を、べろりと舐められて顔を背ける。
「だ、から、なんだ……そんなの、関係ないだろ!」
「いいや、あるね」
「は? あ、ちょっとッ、どこを触って……ッ!?」
「おやおや、こっちは随分と素直じゃねーか」
承太郎の手が、おもむろに花京院の股間を鷲掴んだ。そこは信じられないことに形を変えて、窮屈そうに張り詰めている。
ぐりぐりと揉み込むように触れられると、花京院の身体がバネのように大きく跳ねた。
「や、やめッ、触るな!」
慌てて伸ばした両手を、鬱陶しいといわんばかりに一纏めにされ、頭上に縫い付けるようにして押さえ込まれる。立てた両膝をバタつかせ、閉じようともがいても、承太郎の身体が邪魔をして、なにひとつ思う通りにはいかなかった。
キスも初めてだが、当然そこも他人に触れられたことのない場所だ。激しい羞恥と絶望がない交ぜになって、ついに目尻に留まっていた涙が頬を滑り落ちた。
承太郎は布越しに花京院の勃起した性器を擦る。乱暴なようでいて、それはどこかあやすような動きでもあった。
嫌だ、と思うのに、心が抗うほど身体は真逆の感覚だけを拾い上げようとする。
いつしか布越しの刺激を、もどかしいとすら感じ始めていた。
「腰が揺れているぜ」
「う、そ……ッ、ぁ、や、めて、くださ……」
「いいから素直に感じとけ」
承太郎の手が器用にベルトを外し、ファスナーを下ろして中身を取り出す頃には、花京院はただ小動物のように震えながら、か細く喘ぐことしかできなくなっていた。
先走りの滲む肉棒を、直にぬるぬると扱かれる。痛みにも似た疼きが、ねっとりと腰を食んでは花京院の心と身体を苛んだ。
明るい室内で性器を剥き出しにされていることへの羞恥すら、濡れた快楽に飲み込まれていく。両手の拘束を解かれても、花京院はただシーツを掻き毟るだけだった。
「あっ、ゃッ、嫌だ……離し、て……ッ!」
(ダメだ! もう、出る……!)
承太郎が親指の腹で性器の窪みを擦り上げた。瞬間、花京院は目を見開き、シーツから背が浮き上がるほど反り返ると、絶頂を迎える。
「――ッ……!!」
頭の中が白く染まった。
承太郎の手のなかに白濁を散らしながら、花京院は全身を強張らせ、戦慄く唇をぱくぱくと動かした。ぐったりとシーツに沈みこんでからも、絶頂の余韻が身体中の神経を悪戯に刺激して、ひく、ひく、と痙攣を繰り返す。
己の忙しない呼吸を咎めるように、薄い唇を噛み締めた。
(嘘だ……こんなこと、絶対に、あっちゃならないことだ)
男に無理やり身体を弄ばれ、無様に達してしまうなんて。
これはきっと夢に違いない。だとしたらなんて酷い悪夢だろう。早く目を覚まさなければ。
そう念じながら、きつく目を閉じる。けれど覚醒の瞬間が訪れることはなかった。
身を乗り出した承太郎の唇が、耳元に押し付けられる。
「花京院」
「ッ!」
情欲に掠れたバリトンが、耳朶を食む。
ぐっと喉を詰まらせながら目を見開けば、鼻先が触れ合うほどの距離で欲望に濡れたエメラルドが揺れていた。
なんて美しい、宝石のような瞳だろうか。今にも吸い込まれてしまいそうな気がして、花京院はほぼ無意識にほうっと熱い息を漏らしていた。
花京院がのぼせたように意識を霞ませる中、承太郎はもはや次へ行動を移していた。果物の皮を剥くみたいに、下着ごと深緑のスラックスを足首あたりまで下げられてしまう。
「!?」
これ以上どんな辱しめが待ち受けているというのか。咄嗟に逃げ出そうとして浮かせた腰を逆に抱き込まれた瞬間、思い切り身体をひっくり返された。あまりにも唐突で、危うく舌を噛みそうになる。
「な、に!? なんで、こんな格好……!?」
(う、嘘だろ? まさか、本当にするつもりか!?)
理解と感情の足並みが揃わない。
この男がなにをしようとしているのか、即座に察するだけの頭はあっても、受け入れる真似などできようはずがなかった。
尻だけを突き出すような態勢に加え、腰は承太郎の太い腕によってがっしりと掴まれている。間髪入れずに尻の割れ目をまさぐられ、血の気が引いた。
指先が濡れているのは、先ほど花京院が吐き出した精液だろうか。
「い、嫌だッ、やめ……!」
「暴れると傷がつく。痛いのが好きってんなら、別に構わねえが」
この男は、本気だ。
本気でこの身体を犯す気でいる。
花京院は歯の根をカチカチと鳴らしながら青褪めた。
承太郎の湿った指先が、奥まった場所に触れた。襞を抉じ開けるように先端が潜り込んだ瞬間、あまりのショックに身体が強張る。
「ヒッ、ぁ、痛、い……ッ!」
異物感と共に、引き攣れるような痛みが走った。
太い指が、身体の中へじわじわと入り込んでくる。関節ごとに引っかかる、太い節の感触があまりにも生々しい。侵食される恐怖に声が震えて、花京院は指先が白くなるほどシーツを握りしめた。
承太郎はひたすら出しては入れるというシンプルな動きを繰り返していた。潤いが不足すると、指先を唾液で濡らしているようだった。
「やめ、て、やだ、痛い……痛い、から……ッ」
息苦しさや苦痛はさることながら、何より花京院を困惑させたのは、根気よく繰り返されるうち、痛むばかりだったそこに別の何かが混じり始めたことだ。節くれだった長い指がゆっくりと引き抜かれる瞬間、ぞぞぞと背筋に震えが走る。
指が二本に増やされる頃には、鼻から甘ったるい息が漏れていた。
「う、く……ッ、は、はぁ、ぁ」
(なんだこれ、なんか……熱くて、じんじん、してきた)
花京院の意志とは裏腹に、身体は苦痛を逃がすために順応の道を選んでいた。都合のいい感覚だけをしきりに拾っては、花京院の思考を掻き乱す。
震える内腿の中心で、一度達したはずの自身がゆるゆると力を取り戻しつつあった。
嘘だ嘘だと心の中で繰り返しながら、花京院は涙に濡れる頬をシーツに擦りつける。
ふと、中から圧迫感が消えたと同時に気配が遠のいた。息も絶え絶えに首だけを動かして視線を彷徨わせると、何かを手にして戻って来る承太郎の姿が見えた。
彼はすぐにまた花京院の薄い尻の肉を掴んで押し広げると、中心に何かを塗りたくった。
「つめたッ、ァ、なに……!?」
保健室にあるようなアイテムだから、何かしら傷にでも塗り込むような軟膏だろうか。承太郎はそれで潤い不足を補うつもりらしかった。
その試みは見事に成功したようで、先刻よりもずっと滑らかに二本の指が中に潜り込んできた。そのぶん、あの怖気立つような感覚も増してしまう。
さらには軟膏の助けを借りて、指が3本に増やされる。これは流石に、きつい。
「うあ、ぁ! やだ、それ、苦し……ッ!」
花京院がどんなに必死に訴えても、承太郎は慎重に穴を解す作業に没頭している。内壁をぐるりと擦り上げ、捻りをきかせながら引き抜かれると、腰が感電したように小刻みに震えた。
この身体は一体どうなっているのだろうか。嫌だと思うし、痛いとも感じているはずなのに、どこか甘やかな痺れが花京院の芯を灼いていた。
これが快楽なのだとしたら、やっぱり受け入れられそうもない。頭がおかしくなってしまう。心と身体がバラバラで、もう何も分からない。
シーツにしがみついてしゃくりを上げながら、とにかく早く終われとそればかり願っていた。
だけど、実際はまだ始まってすらいなかった。
「ヒッ、ぁ!」
3本の指が、ずるりと引き抜かれる。
身を震わせる花京院の背後で、微かな金属音がした。ファスナーを下ろす音がいやに大きく空気を震わせ、花京院はおそるおそる背後へ視線を巡らせる。
「ッ!?」
膝立ちになった承太郎が、寛げた前から己のイチモツを取り出して、幾度か扱き上げる様を視界に捉えた。
それは自分のものとも、子供の頃に風呂場で見た父親のものともまるで違っていた。
バケモノだ。ぐんと天を仰ぐ性器は、剛直と呼ぶに相応しい逞しさで、血管を浮き上がらせて脈打っていた。
あんなとんでもないブツを入れられたら、どうなるかなんて目に見えている。殺される。確実に。
花京院は力の入らない手を伸ばし、ベッドの背もたれを掴んだ。そのまま上へと逃れようとする腰を両手で掴まれて、容赦なく引き戻される。
「い、嫌だ、無理だ! そんなの、入るわけがない!!」
「やってみなくちゃ分からねえ」
「分かる! 試すまでもない!」
舌打ちと共に、うるせぇな、という唸るような声が聞こえたけれど、構ってなんていられない。無我夢中でシーツを掻き毟り、身を捩ろうとする花京院の身体に、背後から伸びてきた両腕が絡みついた。
背中をすっぽりと覆うように体重をかけられたかと思うと、耳の裏側にちゅうと音を立てて吸い付かれる。
「やだ、ぁ!」
「花京院」
承太郎の声があまりにも切羽詰まっていて、思わず息を呑んだ。
そのまま耳たぶに吸い付かれ、何度も何度も舌を這わされる。全身の毛穴が開くような感覚に、ふぬけたように力が抜けた。
尻の谷間に熱く脈打つものが擦りつけられる。承太郎はあの女医を狂わせた甘い声で、再び「花京院」と名前を呼んだ。
「てめーが欲しい。おれのもんになれ」
「ッ!」
その声はダイレクトに花京院の腰に直撃した。
今はただカーテン越しに聞いているだけじゃない。あの声が今、自分に向けられている。
(どうして、ぼくなんだ……)
答えは実に単純で、たまたまそこにいたからだ。
承太郎は一度は女医に向けていたはずの情欲を持て余していた。
ただそれだけの理由が、無関係のはずの花京院をここまで追い込み、そして壊そうとしている。
理不尽だ。こんな状態じゃなければ、いっそ死ぬ覚悟で殴りかかるくらいはしていたかもしれない。ふざけるな。人を女の代わりにするんじゃあないと、正当な怒りをぶつけることができていたはずだ。
だけどそれが出来ないのはなぜだ。
力や体格差で敵わないから?
教師ですら恐れて関わりを避けるほどの不良だから?
もっともらしい理由を連ねてみても、何かがしっくりこなかった。これだと思って選んだピースが、どこにもはまらない。
花京院は考える。実際は酷く混乱したままで、まともに思考が巡らないことは承知の上で。
(ぼくは)
例えこの場限りだとしても。
あの美しい女医を虜にし、数多の女たちを狂わせる極上の雄がたったいま求めているのが、このちっぽけな身体であるということを。
(よろこんでいる……?)
信じられない。この空条承太郎という男は、女だけでなく、男をも一瞬で雌に変えてしまうというのか。
「ッ、ぃ、ぎ……ッ!」
バカみたいに熱い塊が、散々ぱら掻き回された穴を抉った。
身体を二つに引き裂かれるような痛みという表現が、決して大袈裟なものではないくらい、味わったことのない凄まじい激痛を覚える。
「ひっ、ぐ、ッ……あ、ああぁ……!!」
やがて最も太い部分が抉じ開けるようにして侵入を果たした。
ある程度慣らされ、潤わされているとしても、その質量は尋常ではない。
見開いたまま瞬きを忘れた瞳から涙を溢れさせる花京院を、承太郎の腕が強く抱き締める。
「い、ッ……た、ぃ……ヒッ、あぁ、ッ、あ、ぐ……!」
「花京院……力を、ッ、抜け」
「そ、な、できな……あっ、だ、れか、ひ、イッ……たすけ……ッ」
手を伸ばし、必死で何かに縋ろうともがいた。だが、それはただ虚しくシーツや枕をかきむしるに終わる。
その態度が気に入らなかったのか、耳元で舌打ちが聞こえた。
そして次の瞬間、花京院は目の前で赤い花火が散るような光景を見た。
「――ッ……!!」
ずん、という鈍い音が、身体の一番深い場所から響き渡った気がした。下から内臓を押し上げられたみたいに、呼吸が止まる。
一気に全てを打ち込まれたのだと、どこか遠くに僅かに残る理性が告げていた。
さらなる痛みを感じる間もなく、花京院の身体は本当に、承太郎の『雌』にされてしまったのだ。
(嘘だ、嘘、嘘……あんなものが、ぼくの、ナカに……!)
全て、収まりきってしまうなんて。
あまりにもショックが強すぎた。心も身体も許容量をとっくに超えていた花京院は、どうしたらいいか分からず小さな子供のようにしくしくと泣いた。遅れてやってきた炙られるような痛みに、身体の震えが止まらない。
「も、ぉ……ゆる、して……」
「…………」
その様は憐れみを買うには十分すぎたのか、それ以上承太郎が動き出す気配はなかった。代わりに、すっかり萎えきって垂れ下がるばかりの性器に触れられる。
「やだ、ぁ! そこは……ッ」
きゅっと握り込まれ、扱かれる。
ようやく痛みを逃がす場所と理由を見つけたとばかりに、花京院の性器は一瞬で硬く張り詰めた。蜜のように滴る先走りに助けられ、水音を響かせながら追い上げられる。
「は、はぁッ、ぁ、や、んぅ……ッ」
甘ったれたように上ずる声が抑えられない。こんなものが自分の口から飛び出すことが信じられなかった。
嫌々と髪を乱しながら首を振る花京院の頬に、熱い唇が押し付けられる。どこか慰めるような優しさを感じて、焼き切れる寸前だった心が締め付けられるのを感じた。
ここしか、拠り所がないような気さえして。ぴったりと重なる背中に、彼の熱と鼓動が伝わる。
打ち込まれた肉棒が身体の中でびくびくと脈打っていた。花京院が快楽に咽ぶ度、それはより大きく膨らんでいくような気がした。
けれど承太郎が腰を突き動かすことはなかった。ただ中でじっとしているだけだ。
滅茶苦茶に揺さぶられ、壊されてしまうのだとばかり思っていたのに。彼はそれをしなかった。
熱い。腹の中が、承太郎の鼓動が。ただ収まっているだけの楔が、切ない。
「イクか……?」
考える余裕すらないままに吐息だけで問われて、何度も首を縦に振る。
「んッ、ぁ、イ……く! いく、イッ、ぁ、もう!」
「いいぜ。このまま出しな」
中の肉棒をこれ以上ないほどに締め付けながら、花京院は甘ったるい声で鳴き、達した。
意識がぼんやりと遠のくのを感じる中で、承太郎が酷く辛そうに呻く声を、聞いたような気がした。
←戻る ・ 次へ→
花京院の思考はぴたりと停止したまま、動かない。
絶世の美男子がぐっと顔を近づけて来て、気が付いたら唇を塞がれていた。
見た目通り肉厚な感触が、酷く、熱い。
「~~~ッ!?」
そこで、花京院の思考はようやく動き出した。
これはキスだ。接吻だ。未だかつて、誰ともしたことがない、初めての。
「んぅッ、ちょ、っと、まっ……!」
頭の中が酷く混乱していた。
とにかく我武者羅に身を捩り、顔を背けようとする。だがその前に巨大な手が花京院の二の腕を掴み上げ、引き寄せる。その力強さに爪が食い込み、痛みが走った。
「痛ッ……!」
思わず上げた悲鳴に、相手が一瞬だけ動きを止めた。けれど、すぐに逞しい腕の中に閉じ込められてしまう。
食らいついてくる唇にべろりと下唇を舐められて、目の前が真っ赤に染まった。
承太郎の手が、花京院の伸びた襟足を押さえ込む。必死で厚い胸板を押し返そうとしても、相手はぴくりとも動かなかった。
そうしている間に、柔らかく濡れた感触が口腔に滑り込んでくる。唇だけでなく、彼は舌も大きくて分厚かった。それがぐるりと繊細な粘膜を舐め上げ、硬くなって縮こまる花京院の舌を掬い上げるようにして捕える。
瞬間、背筋に痺れが駆け抜けた。
ぞくぞくと鋭く這い上がるそれに、花京院は大きく肩を震わせる。
息つく間も与えられず貪られていると、思考にどんどん雲がかかった。舌が擦れ合う度に苦味が広がる。多分、煙草の味。
くたくたになるほど身体から力が抜け、気が付けば引き剥がそうとしていたはずの胸板にもたれかかっていた。訳も分からず、涙が滲む。
項を押さえ込んでいた手がするりと前へ移動して、花京院の頬に這わされた。そのまま、ひと房だけ垂れ下がる赤色の髪に長い指が通される。それだけで、心が引きずられそうになった。
(熱い……溶ける……溶けて、しまう……)
内側からどろりと蕩けてしまいそうだ。
もはやどちらのものともつかぬ唾液が、口の端から零れ落ちる。
頭の芯から爪先まで、酷く痺れていた。それがまた信じられないくらい甘くて、初めての感覚に花京院はひとつ、幼子が泣くようにしゃくりを上げた。
「は、ぁ……」
銀色の糸を引いて離れていく唇を、無意識に目で追いかけた。唾液に濡れたそこを、赤い舌でペロリと舐めとる様に心臓がどくんと高鳴る。
こんなのはおかしい。間違っている。今すぐここから逃げ出さなくては。
そう思うのに、身体はちっともいうことを聞かない。くったりとベッドに沈んだ身体に、承太郎の大きな身体が覆い被さる。
「んんッ!」
食われる、と思った瞬間、承太郎の熱い舌が花京院の首筋に這わされた。
皮膚が粟立つのを感じながら、逞しい肩に爪を立てて制服に皺を作った。嫌々と首を振っても、承太郎は動きを止めない。
知らぬ間にワイシャツの前がすっかり肌蹴て、陽に焼けていない白い胸が露わにされていた。節くれだった男らしい手の平が、汗ばむ肌の上に這わされる。
「ヒッ、ぁ! なん、で、こんな……ぼくは、ちがう……盗み聞き、なんて……ッ」
好きで、していたんじゃない。
あんたたちが勝手に始めたことじゃあないか。
それが中断されたからって、その矛先がどうしてこちらに向くことになるのだろう。
だいたい、男同士でこんなこと……。
「関係ねーよ」
花京院の疑問を、承太郎はたった一言で一蹴した。
ますます意味が分からなくなって、花京院は弱々しいながらも抵抗を再開する。
だが、自分よりも一回り以上は大きく鍛え上げられた肉体に、到底敵うはずがない。
悔しくて、また涙が滲む。唇を噛み締めて屈辱に耐える花京院に追い打ちをかけたのは、馬鹿にしたような承太郎の言葉だった。
「てめー、初めてか?」
「ッ……!」
それは、男同士ですることが、という意味じゃないことくらい、すぐに分かった。
この男は花京院にセックスの経験自体がないことを、わざわざ言葉にして確かめたのだ。カッと朱色に染まる頬を、べろりと舐められて顔を背ける。
「だ、から、なんだ……そんなの、関係ないだろ!」
「いいや、あるね」
「は? あ、ちょっとッ、どこを触って……ッ!?」
「おやおや、こっちは随分と素直じゃねーか」
承太郎の手が、おもむろに花京院の股間を鷲掴んだ。そこは信じられないことに形を変えて、窮屈そうに張り詰めている。
ぐりぐりと揉み込むように触れられると、花京院の身体がバネのように大きく跳ねた。
「や、やめッ、触るな!」
慌てて伸ばした両手を、鬱陶しいといわんばかりに一纏めにされ、頭上に縫い付けるようにして押さえ込まれる。立てた両膝をバタつかせ、閉じようともがいても、承太郎の身体が邪魔をして、なにひとつ思う通りにはいかなかった。
キスも初めてだが、当然そこも他人に触れられたことのない場所だ。激しい羞恥と絶望がない交ぜになって、ついに目尻に留まっていた涙が頬を滑り落ちた。
承太郎は布越しに花京院の勃起した性器を擦る。乱暴なようでいて、それはどこかあやすような動きでもあった。
嫌だ、と思うのに、心が抗うほど身体は真逆の感覚だけを拾い上げようとする。
いつしか布越しの刺激を、もどかしいとすら感じ始めていた。
「腰が揺れているぜ」
「う、そ……ッ、ぁ、や、めて、くださ……」
「いいから素直に感じとけ」
承太郎の手が器用にベルトを外し、ファスナーを下ろして中身を取り出す頃には、花京院はただ小動物のように震えながら、か細く喘ぐことしかできなくなっていた。
先走りの滲む肉棒を、直にぬるぬると扱かれる。痛みにも似た疼きが、ねっとりと腰を食んでは花京院の心と身体を苛んだ。
明るい室内で性器を剥き出しにされていることへの羞恥すら、濡れた快楽に飲み込まれていく。両手の拘束を解かれても、花京院はただシーツを掻き毟るだけだった。
「あっ、ゃッ、嫌だ……離し、て……ッ!」
(ダメだ! もう、出る……!)
承太郎が親指の腹で性器の窪みを擦り上げた。瞬間、花京院は目を見開き、シーツから背が浮き上がるほど反り返ると、絶頂を迎える。
「――ッ……!!」
頭の中が白く染まった。
承太郎の手のなかに白濁を散らしながら、花京院は全身を強張らせ、戦慄く唇をぱくぱくと動かした。ぐったりとシーツに沈みこんでからも、絶頂の余韻が身体中の神経を悪戯に刺激して、ひく、ひく、と痙攣を繰り返す。
己の忙しない呼吸を咎めるように、薄い唇を噛み締めた。
(嘘だ……こんなこと、絶対に、あっちゃならないことだ)
男に無理やり身体を弄ばれ、無様に達してしまうなんて。
これはきっと夢に違いない。だとしたらなんて酷い悪夢だろう。早く目を覚まさなければ。
そう念じながら、きつく目を閉じる。けれど覚醒の瞬間が訪れることはなかった。
身を乗り出した承太郎の唇が、耳元に押し付けられる。
「花京院」
「ッ!」
情欲に掠れたバリトンが、耳朶を食む。
ぐっと喉を詰まらせながら目を見開けば、鼻先が触れ合うほどの距離で欲望に濡れたエメラルドが揺れていた。
なんて美しい、宝石のような瞳だろうか。今にも吸い込まれてしまいそうな気がして、花京院はほぼ無意識にほうっと熱い息を漏らしていた。
花京院がのぼせたように意識を霞ませる中、承太郎はもはや次へ行動を移していた。果物の皮を剥くみたいに、下着ごと深緑のスラックスを足首あたりまで下げられてしまう。
「!?」
これ以上どんな辱しめが待ち受けているというのか。咄嗟に逃げ出そうとして浮かせた腰を逆に抱き込まれた瞬間、思い切り身体をひっくり返された。あまりにも唐突で、危うく舌を噛みそうになる。
「な、に!? なんで、こんな格好……!?」
(う、嘘だろ? まさか、本当にするつもりか!?)
理解と感情の足並みが揃わない。
この男がなにをしようとしているのか、即座に察するだけの頭はあっても、受け入れる真似などできようはずがなかった。
尻だけを突き出すような態勢に加え、腰は承太郎の太い腕によってがっしりと掴まれている。間髪入れずに尻の割れ目をまさぐられ、血の気が引いた。
指先が濡れているのは、先ほど花京院が吐き出した精液だろうか。
「い、嫌だッ、やめ……!」
「暴れると傷がつく。痛いのが好きってんなら、別に構わねえが」
この男は、本気だ。
本気でこの身体を犯す気でいる。
花京院は歯の根をカチカチと鳴らしながら青褪めた。
承太郎の湿った指先が、奥まった場所に触れた。襞を抉じ開けるように先端が潜り込んだ瞬間、あまりのショックに身体が強張る。
「ヒッ、ぁ、痛、い……ッ!」
異物感と共に、引き攣れるような痛みが走った。
太い指が、身体の中へじわじわと入り込んでくる。関節ごとに引っかかる、太い節の感触があまりにも生々しい。侵食される恐怖に声が震えて、花京院は指先が白くなるほどシーツを握りしめた。
承太郎はひたすら出しては入れるというシンプルな動きを繰り返していた。潤いが不足すると、指先を唾液で濡らしているようだった。
「やめ、て、やだ、痛い……痛い、から……ッ」
息苦しさや苦痛はさることながら、何より花京院を困惑させたのは、根気よく繰り返されるうち、痛むばかりだったそこに別の何かが混じり始めたことだ。節くれだった長い指がゆっくりと引き抜かれる瞬間、ぞぞぞと背筋に震えが走る。
指が二本に増やされる頃には、鼻から甘ったるい息が漏れていた。
「う、く……ッ、は、はぁ、ぁ」
(なんだこれ、なんか……熱くて、じんじん、してきた)
花京院の意志とは裏腹に、身体は苦痛を逃がすために順応の道を選んでいた。都合のいい感覚だけをしきりに拾っては、花京院の思考を掻き乱す。
震える内腿の中心で、一度達したはずの自身がゆるゆると力を取り戻しつつあった。
嘘だ嘘だと心の中で繰り返しながら、花京院は涙に濡れる頬をシーツに擦りつける。
ふと、中から圧迫感が消えたと同時に気配が遠のいた。息も絶え絶えに首だけを動かして視線を彷徨わせると、何かを手にして戻って来る承太郎の姿が見えた。
彼はすぐにまた花京院の薄い尻の肉を掴んで押し広げると、中心に何かを塗りたくった。
「つめたッ、ァ、なに……!?」
保健室にあるようなアイテムだから、何かしら傷にでも塗り込むような軟膏だろうか。承太郎はそれで潤い不足を補うつもりらしかった。
その試みは見事に成功したようで、先刻よりもずっと滑らかに二本の指が中に潜り込んできた。そのぶん、あの怖気立つような感覚も増してしまう。
さらには軟膏の助けを借りて、指が3本に増やされる。これは流石に、きつい。
「うあ、ぁ! やだ、それ、苦し……ッ!」
花京院がどんなに必死に訴えても、承太郎は慎重に穴を解す作業に没頭している。内壁をぐるりと擦り上げ、捻りをきかせながら引き抜かれると、腰が感電したように小刻みに震えた。
この身体は一体どうなっているのだろうか。嫌だと思うし、痛いとも感じているはずなのに、どこか甘やかな痺れが花京院の芯を灼いていた。
これが快楽なのだとしたら、やっぱり受け入れられそうもない。頭がおかしくなってしまう。心と身体がバラバラで、もう何も分からない。
シーツにしがみついてしゃくりを上げながら、とにかく早く終われとそればかり願っていた。
だけど、実際はまだ始まってすらいなかった。
「ヒッ、ぁ!」
3本の指が、ずるりと引き抜かれる。
身を震わせる花京院の背後で、微かな金属音がした。ファスナーを下ろす音がいやに大きく空気を震わせ、花京院はおそるおそる背後へ視線を巡らせる。
「ッ!?」
膝立ちになった承太郎が、寛げた前から己のイチモツを取り出して、幾度か扱き上げる様を視界に捉えた。
それは自分のものとも、子供の頃に風呂場で見た父親のものともまるで違っていた。
バケモノだ。ぐんと天を仰ぐ性器は、剛直と呼ぶに相応しい逞しさで、血管を浮き上がらせて脈打っていた。
あんなとんでもないブツを入れられたら、どうなるかなんて目に見えている。殺される。確実に。
花京院は力の入らない手を伸ばし、ベッドの背もたれを掴んだ。そのまま上へと逃れようとする腰を両手で掴まれて、容赦なく引き戻される。
「い、嫌だ、無理だ! そんなの、入るわけがない!!」
「やってみなくちゃ分からねえ」
「分かる! 試すまでもない!」
舌打ちと共に、うるせぇな、という唸るような声が聞こえたけれど、構ってなんていられない。無我夢中でシーツを掻き毟り、身を捩ろうとする花京院の身体に、背後から伸びてきた両腕が絡みついた。
背中をすっぽりと覆うように体重をかけられたかと思うと、耳の裏側にちゅうと音を立てて吸い付かれる。
「やだ、ぁ!」
「花京院」
承太郎の声があまりにも切羽詰まっていて、思わず息を呑んだ。
そのまま耳たぶに吸い付かれ、何度も何度も舌を這わされる。全身の毛穴が開くような感覚に、ふぬけたように力が抜けた。
尻の谷間に熱く脈打つものが擦りつけられる。承太郎はあの女医を狂わせた甘い声で、再び「花京院」と名前を呼んだ。
「てめーが欲しい。おれのもんになれ」
「ッ!」
その声はダイレクトに花京院の腰に直撃した。
今はただカーテン越しに聞いているだけじゃない。あの声が今、自分に向けられている。
(どうして、ぼくなんだ……)
答えは実に単純で、たまたまそこにいたからだ。
承太郎は一度は女医に向けていたはずの情欲を持て余していた。
ただそれだけの理由が、無関係のはずの花京院をここまで追い込み、そして壊そうとしている。
理不尽だ。こんな状態じゃなければ、いっそ死ぬ覚悟で殴りかかるくらいはしていたかもしれない。ふざけるな。人を女の代わりにするんじゃあないと、正当な怒りをぶつけることができていたはずだ。
だけどそれが出来ないのはなぜだ。
力や体格差で敵わないから?
教師ですら恐れて関わりを避けるほどの不良だから?
もっともらしい理由を連ねてみても、何かがしっくりこなかった。これだと思って選んだピースが、どこにもはまらない。
花京院は考える。実際は酷く混乱したままで、まともに思考が巡らないことは承知の上で。
(ぼくは)
例えこの場限りだとしても。
あの美しい女医を虜にし、数多の女たちを狂わせる極上の雄がたったいま求めているのが、このちっぽけな身体であるということを。
(よろこんでいる……?)
信じられない。この空条承太郎という男は、女だけでなく、男をも一瞬で雌に変えてしまうというのか。
「ッ、ぃ、ぎ……ッ!」
バカみたいに熱い塊が、散々ぱら掻き回された穴を抉った。
身体を二つに引き裂かれるような痛みという表現が、決して大袈裟なものではないくらい、味わったことのない凄まじい激痛を覚える。
「ひっ、ぐ、ッ……あ、ああぁ……!!」
やがて最も太い部分が抉じ開けるようにして侵入を果たした。
ある程度慣らされ、潤わされているとしても、その質量は尋常ではない。
見開いたまま瞬きを忘れた瞳から涙を溢れさせる花京院を、承太郎の腕が強く抱き締める。
「い、ッ……た、ぃ……ヒッ、あぁ、ッ、あ、ぐ……!」
「花京院……力を、ッ、抜け」
「そ、な、できな……あっ、だ、れか、ひ、イッ……たすけ……ッ」
手を伸ばし、必死で何かに縋ろうともがいた。だが、それはただ虚しくシーツや枕をかきむしるに終わる。
その態度が気に入らなかったのか、耳元で舌打ちが聞こえた。
そして次の瞬間、花京院は目の前で赤い花火が散るような光景を見た。
「――ッ……!!」
ずん、という鈍い音が、身体の一番深い場所から響き渡った気がした。下から内臓を押し上げられたみたいに、呼吸が止まる。
一気に全てを打ち込まれたのだと、どこか遠くに僅かに残る理性が告げていた。
さらなる痛みを感じる間もなく、花京院の身体は本当に、承太郎の『雌』にされてしまったのだ。
(嘘だ、嘘、嘘……あんなものが、ぼくの、ナカに……!)
全て、収まりきってしまうなんて。
あまりにもショックが強すぎた。心も身体も許容量をとっくに超えていた花京院は、どうしたらいいか分からず小さな子供のようにしくしくと泣いた。遅れてやってきた炙られるような痛みに、身体の震えが止まらない。
「も、ぉ……ゆる、して……」
「…………」
その様は憐れみを買うには十分すぎたのか、それ以上承太郎が動き出す気配はなかった。代わりに、すっかり萎えきって垂れ下がるばかりの性器に触れられる。
「やだ、ぁ! そこは……ッ」
きゅっと握り込まれ、扱かれる。
ようやく痛みを逃がす場所と理由を見つけたとばかりに、花京院の性器は一瞬で硬く張り詰めた。蜜のように滴る先走りに助けられ、水音を響かせながら追い上げられる。
「は、はぁッ、ぁ、や、んぅ……ッ」
甘ったれたように上ずる声が抑えられない。こんなものが自分の口から飛び出すことが信じられなかった。
嫌々と髪を乱しながら首を振る花京院の頬に、熱い唇が押し付けられる。どこか慰めるような優しさを感じて、焼き切れる寸前だった心が締め付けられるのを感じた。
ここしか、拠り所がないような気さえして。ぴったりと重なる背中に、彼の熱と鼓動が伝わる。
打ち込まれた肉棒が身体の中でびくびくと脈打っていた。花京院が快楽に咽ぶ度、それはより大きく膨らんでいくような気がした。
けれど承太郎が腰を突き動かすことはなかった。ただ中でじっとしているだけだ。
滅茶苦茶に揺さぶられ、壊されてしまうのだとばかり思っていたのに。彼はそれをしなかった。
熱い。腹の中が、承太郎の鼓動が。ただ収まっているだけの楔が、切ない。
「イクか……?」
考える余裕すらないままに吐息だけで問われて、何度も首を縦に振る。
「んッ、ぁ、イ……く! いく、イッ、ぁ、もう!」
「いいぜ。このまま出しな」
中の肉棒をこれ以上ないほどに締め付けながら、花京院は甘ったるい声で鳴き、達した。
意識がぼんやりと遠のくのを感じる中で、承太郎が酷く辛そうに呻く声を、聞いたような気がした。
←戻る ・ 次へ→
どうしてこんなことになっているんだろう?
花京院典明はベッドに身を横たえたまま天井を見つめ、青褪めながらぷるぷると震えていた。
夏服の白いワイシャツの胸元を両手でぎゅうと握りしめ、痛いほど高鳴る鼓動を抑えようとする。嫌な汗が額に滲み、唇は異様なまでに乾いていた。心臓が、今にも口から飛び出しそうだ。
なぜ、どうして。ただちょっと体調が優れず、昼休みと同時に保健室に駆け込んだだけなのに。午後の授業が始まるまでと、ほんの少し意識を手放していた間に、世界は一変していた。ありえない方向に。
「ぁ、ん……ふふ、ダメよ、これ以上は」
カーテンの向こうからひっきりなしに聞こえる声は、花京院のよく知るものだった。けれど、知らない声でもある。
だって自分が知る『彼女』は、決してこんな艶かしい声をあげたりなんかしない。
だからありえない。絶対に、こんなこと。
「はぁ、ん……ん、ぁ」
花京院だって、もう子供じゃない。
四方を薄い布で遮られたすぐ向こう側で、何が起こっているのかくらい察しがつく。
マッサージをしているだけです、なんて古典的なオチが待ち構えているとも思えない。ただ肩や腰を揉んでいるだけで、こんなねっとりとした水音が聞こえるはずがないのだから。
鼻から抜けるような甘い吐息と、布ずれの音がいやにリアルで、耳を塞ぎたいのに身動きが取れない。
(う、嘘だろ先生……ぼくがここにいること、まさか忘れてしまったわけじゃあないだろうな!?)
それ以前に、非常識だ。
ここは学校で、保健室で、薄いカーテンを隔てたベッドには身体を休める生徒がいる。
窓から差し込む強い日差しが天井を純白に染め、花京院を包み込むシーツには、一ミリの穢れもない。
この場所はあまりにも健全で、彼らの行為は、あまりにも不健全だ。
「ぁんッ、もう……JOJOったら、イケナイ子」
凛とした佇まいの、朗らかで優しい女医が漏らす声は『女』のものだった。
彼女が呼んだ名に花京院は喉を静かに慣らす。
(JOJO……?)
その名前には、聞き覚えがある。正確には渾名だ。
空条承太郎。
花京院の一つ上の先輩で、この高校きっての不良とうたわれる、超がつくほどの有名人だ。花京院も幾度かその姿を見かけたことがある。
神出鬼没な彼は、見れば必ずと言っていいほど女子生徒を周りに纏わりつかせていた。
もちろん関わりを持ったことなど、ただの一度もない。彼は日本人離れした体格と美貌の持ち主でもあったから、遠目からでもすぐ認識できるというだけで。
その空条承太郎とこの保健室の主である女医が『そういった関係』であることなど、今の今まで知りもしなかった。
「もう……ダメって言ってるでしょ? 花京院君が起きてしまうわ……」
あ、一応ぼくの存在は気に留めてくれてるんですね……と安堵しかけたが、状況は何一つ変わらない。
女医のたしなめる声にようやく反応を示した男が、聞こえるか聞こえないかの低い声で「知るかよ」と言った。
耳元に囁きでもしたのだろうか。女医の弾む吐息が大きく室内に響き渡る。声だけで女性をこんなにも淫らに陥落させてしまうのか。確かに、男の自分が聞いても魅力的、だとは思う。
花京院からは、カーテンの向こうで彼らがどんな痴態を晒しているのかを、窺い知ることはできない。だから、嫌でも耳に入ってくる音や声だけで察するしかなかった。
だが、それもそろそろ限界だ。これ以上は耳に入れたくない。
現実味のない、だけど妙にリアルな湿った空気は、花京院の日常とは大きく離れていて、うまく処理することができそうもなかった。
早くここから逃げ出したくて仕方がない。自分は今ここにいるべきではない。花京院は震える唇をきつく噛みしめ、見開いたままだった瞳をぎゅっと瞑った。この手のことにまだ免疫のない花京院の中に、恐怖にも似た感情が押し寄せる。
(先生、頼む……もうやめてくれ!)
ずきずきと、胸が痛む。体勢を変え、身体を丸めて両手で耳を塞ぎたいのに、そうすることで彼らに自分が目を覚ましていることを知られるかもしれないと思うと、どうしてか怖かった。
すると次の瞬間、空条承太郎がハッキリとした口調で「やれやれ」と言った。
「しょうがねえ。続きはまた今度、期待してるぜ先生」
意外にも行為を中断したのは彼の方だった。女医が息をのむ音が聞こえたが、彼女は慌てた様子で咳払いをすると「オホホホ」という笑い声をあげた。
「そ、そうね、続きはまた、今度にしましょ!」
心なしか、彼女の方が残念そうだと、花京院は安堵の息を漏らしながらどこか遠くにその声を聞いていた。
*
失恋した、ということになるのだろうか。
ひぐらしの儚げな声と、熟れた果実を絞ったような夕陽を背に、花京院は重たい足取りを引きずりながら帰路についていた。
保健室での出来事があまりにも衝撃的で、午後は授業どころではなかった。
誰に話しかけられても上の空で、意識がコーヒーカップにでも乗っているみたいにぐるぐると回っていた。
放課後までどうにか乗り切れたのは、いっそ奇跡といっていい。
あのあと顔を合わせた女医は、赤い頬で目を泳がせていた。花京院がたったいま起きたばかりです、という態度で目を擦って見せると、ホッとしたように微笑した。なんだか、いたたまれなかった。
よほど顔色が悪かったのか、もう少し休んで行きなさいという女医の言葉に、花京院は首を左右に振った。
空条承太郎は、そのときすでに保健室を後にしていた。
(空条、先輩……か)
花京院は彼を遠くから眺めたことしかないが、直視できないほどの美形で女性にもてるということだけは、知っている。
クラスの女子も大半が彼のファンであり、どこかで女同士がヒステリックに争う声が聞こえようものなら「またJOJOか」と教師が頭を抱える光景など、日常茶飯事だった。
そんなバケモノ級の超絶イケメンに、自分が敵うはずもない。
(別に競うつもりもないけど。ぼくはただ、見てるだけで十分だったし)
花京院は、あの女医に淡い恋心を抱いていた。
今でこそこうして毎日学校に通えてはいるが、子供の頃は身体も小さく、病弱で、頻繁に入退院を繰り返していた。そう長くは生きられないんじゃないかと、真夜中に両親がさめざめと泣いている姿を、何度も目にしたことがある。
その度に、絶対に生きてやると胸に誓った。中学に上がると身長もぐんぐん伸びたし、激しい運動はできないながらも地道に鍛えた。
高校2年生の今、見た目だけなら決して貧相ではないと思うし、体調を崩して病院送りになることもなくなった。
だが、それでもままならないときがある。油断して少し激しく身体を動かすだけで熱を出すこともあるし、今日のように、なんの前触れもなく眩暈や吐き気を起こすこともあった。
ここのところずっと暑い日が続いていたせいか、食欲が落ちていたことも原因かもしれない。
そんな花京院は、否が応でも保健室の常連にならざるをえなかった。
あの女医は、今年の春に新しく赴任してきた養護教諭だ。
清潔感のある艶やかな黒髪を短くまとめた、明るくてよく笑う大人の女性。優しく朗らかな人柄に、花京院は憧れを抱いた。
それまでは保健室へ行くたびに自分の不甲斐なさを嘆いていたが、彼女がいると思うと少しだけ、心が軽くなって浮足立った。
だけどこの想いを打ち明けるつもりはなかった。相手にされないであろうことは分かっていたし、勇気もなかったから。
ただ時々その笑顔を見て、声が聞けたら十分に幸せだったのだ。
けれど。
あの女医は、空条承太郎の『オンナ』だった。
場所もわきまえず行為に及ぶくらいだから、お互いによほどの熱の入れように違いない。
確かに、同年代の制服に身を包んだ女子よりも、大人の魅力溢れる女性の方が、あの規格外な色男にはお似合いだろう。
「ッ!」
花京院は足を止め、すぐ側の電柱に手をついた。
足元がぐにゃりと歪んだような気がして、微かに膝が震える。浅く呼吸を繰り返しながら、眩暈が収まるまで目を閉じて堪えた。
(気持ち悪い)
胸のあたりに、むかむかとした嫌なものが込み上げる。
そのくせ大きな穴が開いたみたいな空虚さも味わっていた。前触れもなく純粋な憧れを覆されて、残ったのは幻滅という仄暗い感情だけだった。
わかっている。自分が勝手に幻想を抱いていただけ。
(もう絶対、保健室の世話にはならないぞ……)
あんな痴態を演じられて、この先まともに女医と顔を突き合わせられる自信がない。これまで以上に体調管理に気を配り、保健室の常連を卒業しなければ。
花京院は少し大きめの唇をぐっと引き結び、一度だけ、鼻をすんと鳴らすと茜色の空を仰いだ。
*
夏の風がカーテンを揺らしていた。
思いのほか深い眠りの底をたゆたう意識が、ゆっくりと滲むように浮上する。
(ああ、眠っていたのか、ぼくは)
嗅ぎ慣れた消毒液の香りを緩く吸い込み、ベッドに身体を預けたまま視線だけを巡らせる。見慣れた景色だ。昨日もこうして保健室で目を覚ました。
まだどこか頭がぼんやりとしている。どうやってここまで来たのだったかと、考えを巡らせる花京院は。
「――ッ!?」
息をのみながら、勢いよく身体を起こした。
途端に米神が痛んで、背中を丸めると両手で頭部を抑える。
一気に全身に血液が巡り出して、痛いくらいの動悸に冷や汗が滲んだ。
(ど、どうして……昨日の今日で、なぜぼくは保健室にいる!?)
今が何時なのかすら、把握できない。
それだけ深く眠りに落ちていたということか。
思いだせ、思いだせ、と念じるようにして、自分の行動を振り返る。
(そ、そうだ……確か、今朝はすこぶる調子が悪くて……)
昨日、まさにこの場所で起こった出来事が尾を引いて、昨夜は一睡もできなかった。ずっとあのことが頭の中にこびりついて、胸がもやもやとしていた。
多分、自分が思っていた以上にショックを受けていたのだと思う。
失恋したということだけじゃなく、生まれて初めて、ごく身近で男女の性に触れてしまったことに対して。
花京院には、猥談に興じるほど打ち解けた友人というものがいない。
興味はあるつもりだが、人並みかといわれると、よくわからなかった。どちらかといえば奥手な方なのだと思う。
息子の顔色の悪さを案じた母に学校を休むことを提案されたが、こんなことで心を弱らせる自分が情けなくて、無理に登校した。
(授業は、覚えてる。3時間目までは、確かに)
4時間目は教室を移動しなければいけなかった。
教材を持って、一階へ降りる途中の階段の踊り場で。
(記憶が、途切れている)
ぐらりと身体が傾いで、視界が暗転したような気がする。
花京院は無意識に左の二の腕に手を這わせた。途端に微かな痛みが走る。ぐっと持ち上げて見れば、小さな爪痕のようなものが残っていた。
誰かに、強く掴まれたような。
「ダメよJOJO、今日も花京院君が休んでるの、知ってるでしょ?」
「~~~ッ!?」
女医の声と共に、花京院の思考は停止した。
ビクンと肩を震わせて、思わず叫びそうになった口元を両手で押さえる。
(ま、まさか! 今日もいるのか!!)
なんということだ。
これが嫌で二度と保健室に来ないと決めたのに、その翌日にはこの有様だ。
変な意地を張って学校になんか来るんじゃなかった。とてつもない後悔の念が、鉛のように全身を覆う。
「ああ、知ってるぜ。なぁに、ぐっすりおねんねだ。気づきゃしねーよ」
(気づいてるよ! バカ! 毎日飽きもせず保健室で盛るな!!)
「もう……本当に悪い子ね。少しは我慢を覚えなくてはいけないわ」
(とか言っておいて全く嫌そうじゃないですね先生! 起きてます! 花京院典明は起きてます!)
昨日と同様、カーテン越しに息をひそめる花京院は、赤くなったり青くなったりと一人十面相を繰り広げていた。
そうこうしているうちに、またあのねっとりとした水音が室内に響き渡る。
これはマズイ。昨日は未遂に終わったが、今日もそうなるとは限らない。そっと床を這いつくばって逃げだそうかと思うものの、どう考えたって物音ひとつ立てずに抜け出すなんて無理すぎる。
あああああ、と心の中で叫びながら、立てた両膝に顔を埋めた花京院のことなど知りもせず、布ずれと忙しない吐息が室内を満たしはじめた。
「我慢なんかできねーのさ。あんたの言う通り、おれは悪い子だからな」
「ん、はぁ……JO、JO……ッ」
「頭の天辺から、爪の先まで」
どうしてか、花京院までその言葉の先を待ちながら、ごくりと喉を鳴らしていた。
たっぷりと間をあけたあと、彼は言った。
低く、とびきり熱く、甘く、吐息混じりに。
「欲しくて欲しくて、堪らねえ」
「ッ……!!」
息をのんだのは。
おそらく女医と花京院、同時だった。
力んでいた肩から力が抜ける。ただ茫然と、波を描きながら垂れ下がるクリーム色のカーテンを見つめた。
(あんな、声で、言われたら)
落ちないはずがない。
身体の奥が熱かった。知らず知らずのうちに、花京院は渇いた下唇を噛み締め、口内で舌を這わせていた。
直に食らった女医は堪ったもんじゃないだろう。彼女は喉の奥から絞り出すような悲鳴をあげて、人が変わったように「抱いて、抱いて」と繰り返しはじめた。
それはこの女医が、女から雌へと引きずり落とされた瞬間だった。
けれどそのとき。
ピンポンパンポーン、という気の抜けるような音が響き渡った。
そして次の瞬間、男性教諭の声が女医の名を呼ぶ。
女医がハッとして顔を上げるのが、見ていなくてもなんとなく伝わった。
「ご、ごめんなさいJOJO……午後から会議があったの……私ったら、つい忘れていたわ」
「……ああ、構わねーよ」
「本当に、ごめんなさいね」
後ろ髪を引かれた様子で、女医がヒールを鳴らしながら保健室を後にする。
花京院は不可解な熱を持て余しながら、ただその音を遠くに聞いていた。
飢えた獣のような欲望を隠しもしない、あの低い声が頭から離れない。心臓を直に掴まれてしまったような感覚。今なら少しだけ、承太郎に熱を上げる女子たちの気持ちが分かるような、そんな気さえする。
声だけでこんな気持ちにさせられるのだから、あの遠目から見ても完成されすぎた美貌に見つめられでもしたら、一体どうなってしまうのだろう。
(……なんて、考えるだけ無駄か。第一ぼくは男だし、直接関わりを持つことだって、このさき絶対にないだろうし)
熱を逃がすように深く息を吐き出した。どうも身体を動かす気になれない。いっそこのまま、もう少しだけ眠ってしまおう。
再び身を横たえようとした花京院だが、おもむろに開かれたカーテンの音によって、それは遮られた。
「ッ!?」
肩を大きくびくつかせ、目を見開く。
どうして彼が、まだここにいるのだろう?
てっきりあの女医が出て行ったのと同時に、ここを立ち去ったものとばかり思っていた。
彼は両手をポケットに突っ込み、夏だというのに鎖のついた長ランを身に着けていた。威風堂々とした佇まいと、息を呑むほどの美貌が、花京院を見下ろしている。
「盗み聞きとは、いい趣味してるじゃあねーか」
威圧感に満ちた低音が、花京院の皮膚に突き刺さる。
四肢が冷え、身体が痺れたように動かない。瞬きすらできなかった。
ただ、唇だけが、無様に戦慄いた。
「ご覧の有様だ。このままじゃあ、納まりがつかねえ」
「ッ、は……ぇ……?」
「食わせろよ、花京院」
なにを、と。
問いかけようとして、声が出なかった。
ヌシヌシと、ベッドの縁まで足を運んだ大男が、膝を乗り上げる様をただ茫然と見つめる。ギギギという音を立てながら、ベッドが軋んだ。
彼は目深にかぶっていた学帽の鍔を摘み上げ、悠然たる動作でそれを脱ぎ捨てた。普段は見えない形のいい額へ、ほつれた黒髪が揺らめくようにかかっている。
たったそれだけの動作だ。花京院はあの、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を再び味わう。そこにあるのは壮絶な雄の色香だった。
ゆるりと伸ばされた大きな手が、花京院の顎に添えられる。
「頭の天辺から、爪の先まで、な」
肉食獣を思わせる肉厚な唇に舌を這わせながら、空条承太郎はエメラルドの瞳を細め、不敵に笑った。
←戻る ・ 次へ→
花京院典明はベッドに身を横たえたまま天井を見つめ、青褪めながらぷるぷると震えていた。
夏服の白いワイシャツの胸元を両手でぎゅうと握りしめ、痛いほど高鳴る鼓動を抑えようとする。嫌な汗が額に滲み、唇は異様なまでに乾いていた。心臓が、今にも口から飛び出しそうだ。
なぜ、どうして。ただちょっと体調が優れず、昼休みと同時に保健室に駆け込んだだけなのに。午後の授業が始まるまでと、ほんの少し意識を手放していた間に、世界は一変していた。ありえない方向に。
「ぁ、ん……ふふ、ダメよ、これ以上は」
カーテンの向こうからひっきりなしに聞こえる声は、花京院のよく知るものだった。けれど、知らない声でもある。
だって自分が知る『彼女』は、決してこんな艶かしい声をあげたりなんかしない。
だからありえない。絶対に、こんなこと。
「はぁ、ん……ん、ぁ」
花京院だって、もう子供じゃない。
四方を薄い布で遮られたすぐ向こう側で、何が起こっているのかくらい察しがつく。
マッサージをしているだけです、なんて古典的なオチが待ち構えているとも思えない。ただ肩や腰を揉んでいるだけで、こんなねっとりとした水音が聞こえるはずがないのだから。
鼻から抜けるような甘い吐息と、布ずれの音がいやにリアルで、耳を塞ぎたいのに身動きが取れない。
(う、嘘だろ先生……ぼくがここにいること、まさか忘れてしまったわけじゃあないだろうな!?)
それ以前に、非常識だ。
ここは学校で、保健室で、薄いカーテンを隔てたベッドには身体を休める生徒がいる。
窓から差し込む強い日差しが天井を純白に染め、花京院を包み込むシーツには、一ミリの穢れもない。
この場所はあまりにも健全で、彼らの行為は、あまりにも不健全だ。
「ぁんッ、もう……JOJOったら、イケナイ子」
凛とした佇まいの、朗らかで優しい女医が漏らす声は『女』のものだった。
彼女が呼んだ名に花京院は喉を静かに慣らす。
(JOJO……?)
その名前には、聞き覚えがある。正確には渾名だ。
空条承太郎。
花京院の一つ上の先輩で、この高校きっての不良とうたわれる、超がつくほどの有名人だ。花京院も幾度かその姿を見かけたことがある。
神出鬼没な彼は、見れば必ずと言っていいほど女子生徒を周りに纏わりつかせていた。
もちろん関わりを持ったことなど、ただの一度もない。彼は日本人離れした体格と美貌の持ち主でもあったから、遠目からでもすぐ認識できるというだけで。
その空条承太郎とこの保健室の主である女医が『そういった関係』であることなど、今の今まで知りもしなかった。
「もう……ダメって言ってるでしょ? 花京院君が起きてしまうわ……」
あ、一応ぼくの存在は気に留めてくれてるんですね……と安堵しかけたが、状況は何一つ変わらない。
女医のたしなめる声にようやく反応を示した男が、聞こえるか聞こえないかの低い声で「知るかよ」と言った。
耳元に囁きでもしたのだろうか。女医の弾む吐息が大きく室内に響き渡る。声だけで女性をこんなにも淫らに陥落させてしまうのか。確かに、男の自分が聞いても魅力的、だとは思う。
花京院からは、カーテンの向こうで彼らがどんな痴態を晒しているのかを、窺い知ることはできない。だから、嫌でも耳に入ってくる音や声だけで察するしかなかった。
だが、それもそろそろ限界だ。これ以上は耳に入れたくない。
現実味のない、だけど妙にリアルな湿った空気は、花京院の日常とは大きく離れていて、うまく処理することができそうもなかった。
早くここから逃げ出したくて仕方がない。自分は今ここにいるべきではない。花京院は震える唇をきつく噛みしめ、見開いたままだった瞳をぎゅっと瞑った。この手のことにまだ免疫のない花京院の中に、恐怖にも似た感情が押し寄せる。
(先生、頼む……もうやめてくれ!)
ずきずきと、胸が痛む。体勢を変え、身体を丸めて両手で耳を塞ぎたいのに、そうすることで彼らに自分が目を覚ましていることを知られるかもしれないと思うと、どうしてか怖かった。
すると次の瞬間、空条承太郎がハッキリとした口調で「やれやれ」と言った。
「しょうがねえ。続きはまた今度、期待してるぜ先生」
意外にも行為を中断したのは彼の方だった。女医が息をのむ音が聞こえたが、彼女は慌てた様子で咳払いをすると「オホホホ」という笑い声をあげた。
「そ、そうね、続きはまた、今度にしましょ!」
心なしか、彼女の方が残念そうだと、花京院は安堵の息を漏らしながらどこか遠くにその声を聞いていた。
*
失恋した、ということになるのだろうか。
ひぐらしの儚げな声と、熟れた果実を絞ったような夕陽を背に、花京院は重たい足取りを引きずりながら帰路についていた。
保健室での出来事があまりにも衝撃的で、午後は授業どころではなかった。
誰に話しかけられても上の空で、意識がコーヒーカップにでも乗っているみたいにぐるぐると回っていた。
放課後までどうにか乗り切れたのは、いっそ奇跡といっていい。
あのあと顔を合わせた女医は、赤い頬で目を泳がせていた。花京院がたったいま起きたばかりです、という態度で目を擦って見せると、ホッとしたように微笑した。なんだか、いたたまれなかった。
よほど顔色が悪かったのか、もう少し休んで行きなさいという女医の言葉に、花京院は首を左右に振った。
空条承太郎は、そのときすでに保健室を後にしていた。
(空条、先輩……か)
花京院は彼を遠くから眺めたことしかないが、直視できないほどの美形で女性にもてるということだけは、知っている。
クラスの女子も大半が彼のファンであり、どこかで女同士がヒステリックに争う声が聞こえようものなら「またJOJOか」と教師が頭を抱える光景など、日常茶飯事だった。
そんなバケモノ級の超絶イケメンに、自分が敵うはずもない。
(別に競うつもりもないけど。ぼくはただ、見てるだけで十分だったし)
花京院は、あの女医に淡い恋心を抱いていた。
今でこそこうして毎日学校に通えてはいるが、子供の頃は身体も小さく、病弱で、頻繁に入退院を繰り返していた。そう長くは生きられないんじゃないかと、真夜中に両親がさめざめと泣いている姿を、何度も目にしたことがある。
その度に、絶対に生きてやると胸に誓った。中学に上がると身長もぐんぐん伸びたし、激しい運動はできないながらも地道に鍛えた。
高校2年生の今、見た目だけなら決して貧相ではないと思うし、体調を崩して病院送りになることもなくなった。
だが、それでもままならないときがある。油断して少し激しく身体を動かすだけで熱を出すこともあるし、今日のように、なんの前触れもなく眩暈や吐き気を起こすこともあった。
ここのところずっと暑い日が続いていたせいか、食欲が落ちていたことも原因かもしれない。
そんな花京院は、否が応でも保健室の常連にならざるをえなかった。
あの女医は、今年の春に新しく赴任してきた養護教諭だ。
清潔感のある艶やかな黒髪を短くまとめた、明るくてよく笑う大人の女性。優しく朗らかな人柄に、花京院は憧れを抱いた。
それまでは保健室へ行くたびに自分の不甲斐なさを嘆いていたが、彼女がいると思うと少しだけ、心が軽くなって浮足立った。
だけどこの想いを打ち明けるつもりはなかった。相手にされないであろうことは分かっていたし、勇気もなかったから。
ただ時々その笑顔を見て、声が聞けたら十分に幸せだったのだ。
けれど。
あの女医は、空条承太郎の『オンナ』だった。
場所もわきまえず行為に及ぶくらいだから、お互いによほどの熱の入れように違いない。
確かに、同年代の制服に身を包んだ女子よりも、大人の魅力溢れる女性の方が、あの規格外な色男にはお似合いだろう。
「ッ!」
花京院は足を止め、すぐ側の電柱に手をついた。
足元がぐにゃりと歪んだような気がして、微かに膝が震える。浅く呼吸を繰り返しながら、眩暈が収まるまで目を閉じて堪えた。
(気持ち悪い)
胸のあたりに、むかむかとした嫌なものが込み上げる。
そのくせ大きな穴が開いたみたいな空虚さも味わっていた。前触れもなく純粋な憧れを覆されて、残ったのは幻滅という仄暗い感情だけだった。
わかっている。自分が勝手に幻想を抱いていただけ。
(もう絶対、保健室の世話にはならないぞ……)
あんな痴態を演じられて、この先まともに女医と顔を突き合わせられる自信がない。これまで以上に体調管理に気を配り、保健室の常連を卒業しなければ。
花京院は少し大きめの唇をぐっと引き結び、一度だけ、鼻をすんと鳴らすと茜色の空を仰いだ。
*
夏の風がカーテンを揺らしていた。
思いのほか深い眠りの底をたゆたう意識が、ゆっくりと滲むように浮上する。
(ああ、眠っていたのか、ぼくは)
嗅ぎ慣れた消毒液の香りを緩く吸い込み、ベッドに身体を預けたまま視線だけを巡らせる。見慣れた景色だ。昨日もこうして保健室で目を覚ました。
まだどこか頭がぼんやりとしている。どうやってここまで来たのだったかと、考えを巡らせる花京院は。
「――ッ!?」
息をのみながら、勢いよく身体を起こした。
途端に米神が痛んで、背中を丸めると両手で頭部を抑える。
一気に全身に血液が巡り出して、痛いくらいの動悸に冷や汗が滲んだ。
(ど、どうして……昨日の今日で、なぜぼくは保健室にいる!?)
今が何時なのかすら、把握できない。
それだけ深く眠りに落ちていたということか。
思いだせ、思いだせ、と念じるようにして、自分の行動を振り返る。
(そ、そうだ……確か、今朝はすこぶる調子が悪くて……)
昨日、まさにこの場所で起こった出来事が尾を引いて、昨夜は一睡もできなかった。ずっとあのことが頭の中にこびりついて、胸がもやもやとしていた。
多分、自分が思っていた以上にショックを受けていたのだと思う。
失恋したということだけじゃなく、生まれて初めて、ごく身近で男女の性に触れてしまったことに対して。
花京院には、猥談に興じるほど打ち解けた友人というものがいない。
興味はあるつもりだが、人並みかといわれると、よくわからなかった。どちらかといえば奥手な方なのだと思う。
息子の顔色の悪さを案じた母に学校を休むことを提案されたが、こんなことで心を弱らせる自分が情けなくて、無理に登校した。
(授業は、覚えてる。3時間目までは、確かに)
4時間目は教室を移動しなければいけなかった。
教材を持って、一階へ降りる途中の階段の踊り場で。
(記憶が、途切れている)
ぐらりと身体が傾いで、視界が暗転したような気がする。
花京院は無意識に左の二の腕に手を這わせた。途端に微かな痛みが走る。ぐっと持ち上げて見れば、小さな爪痕のようなものが残っていた。
誰かに、強く掴まれたような。
「ダメよJOJO、今日も花京院君が休んでるの、知ってるでしょ?」
「~~~ッ!?」
女医の声と共に、花京院の思考は停止した。
ビクンと肩を震わせて、思わず叫びそうになった口元を両手で押さえる。
(ま、まさか! 今日もいるのか!!)
なんということだ。
これが嫌で二度と保健室に来ないと決めたのに、その翌日にはこの有様だ。
変な意地を張って学校になんか来るんじゃなかった。とてつもない後悔の念が、鉛のように全身を覆う。
「ああ、知ってるぜ。なぁに、ぐっすりおねんねだ。気づきゃしねーよ」
(気づいてるよ! バカ! 毎日飽きもせず保健室で盛るな!!)
「もう……本当に悪い子ね。少しは我慢を覚えなくてはいけないわ」
(とか言っておいて全く嫌そうじゃないですね先生! 起きてます! 花京院典明は起きてます!)
昨日と同様、カーテン越しに息をひそめる花京院は、赤くなったり青くなったりと一人十面相を繰り広げていた。
そうこうしているうちに、またあのねっとりとした水音が室内に響き渡る。
これはマズイ。昨日は未遂に終わったが、今日もそうなるとは限らない。そっと床を這いつくばって逃げだそうかと思うものの、どう考えたって物音ひとつ立てずに抜け出すなんて無理すぎる。
あああああ、と心の中で叫びながら、立てた両膝に顔を埋めた花京院のことなど知りもせず、布ずれと忙しない吐息が室内を満たしはじめた。
「我慢なんかできねーのさ。あんたの言う通り、おれは悪い子だからな」
「ん、はぁ……JO、JO……ッ」
「頭の天辺から、爪の先まで」
どうしてか、花京院までその言葉の先を待ちながら、ごくりと喉を鳴らしていた。
たっぷりと間をあけたあと、彼は言った。
低く、とびきり熱く、甘く、吐息混じりに。
「欲しくて欲しくて、堪らねえ」
「ッ……!!」
息をのんだのは。
おそらく女医と花京院、同時だった。
力んでいた肩から力が抜ける。ただ茫然と、波を描きながら垂れ下がるクリーム色のカーテンを見つめた。
(あんな、声で、言われたら)
落ちないはずがない。
身体の奥が熱かった。知らず知らずのうちに、花京院は渇いた下唇を噛み締め、口内で舌を這わせていた。
直に食らった女医は堪ったもんじゃないだろう。彼女は喉の奥から絞り出すような悲鳴をあげて、人が変わったように「抱いて、抱いて」と繰り返しはじめた。
それはこの女医が、女から雌へと引きずり落とされた瞬間だった。
けれどそのとき。
ピンポンパンポーン、という気の抜けるような音が響き渡った。
そして次の瞬間、男性教諭の声が女医の名を呼ぶ。
女医がハッとして顔を上げるのが、見ていなくてもなんとなく伝わった。
「ご、ごめんなさいJOJO……午後から会議があったの……私ったら、つい忘れていたわ」
「……ああ、構わねーよ」
「本当に、ごめんなさいね」
後ろ髪を引かれた様子で、女医がヒールを鳴らしながら保健室を後にする。
花京院は不可解な熱を持て余しながら、ただその音を遠くに聞いていた。
飢えた獣のような欲望を隠しもしない、あの低い声が頭から離れない。心臓を直に掴まれてしまったような感覚。今なら少しだけ、承太郎に熱を上げる女子たちの気持ちが分かるような、そんな気さえする。
声だけでこんな気持ちにさせられるのだから、あの遠目から見ても完成されすぎた美貌に見つめられでもしたら、一体どうなってしまうのだろう。
(……なんて、考えるだけ無駄か。第一ぼくは男だし、直接関わりを持つことだって、このさき絶対にないだろうし)
熱を逃がすように深く息を吐き出した。どうも身体を動かす気になれない。いっそこのまま、もう少しだけ眠ってしまおう。
再び身を横たえようとした花京院だが、おもむろに開かれたカーテンの音によって、それは遮られた。
「ッ!?」
肩を大きくびくつかせ、目を見開く。
どうして彼が、まだここにいるのだろう?
てっきりあの女医が出て行ったのと同時に、ここを立ち去ったものとばかり思っていた。
彼は両手をポケットに突っ込み、夏だというのに鎖のついた長ランを身に着けていた。威風堂々とした佇まいと、息を呑むほどの美貌が、花京院を見下ろしている。
「盗み聞きとは、いい趣味してるじゃあねーか」
威圧感に満ちた低音が、花京院の皮膚に突き刺さる。
四肢が冷え、身体が痺れたように動かない。瞬きすらできなかった。
ただ、唇だけが、無様に戦慄いた。
「ご覧の有様だ。このままじゃあ、納まりがつかねえ」
「ッ、は……ぇ……?」
「食わせろよ、花京院」
なにを、と。
問いかけようとして、声が出なかった。
ヌシヌシと、ベッドの縁まで足を運んだ大男が、膝を乗り上げる様をただ茫然と見つめる。ギギギという音を立てながら、ベッドが軋んだ。
彼は目深にかぶっていた学帽の鍔を摘み上げ、悠然たる動作でそれを脱ぎ捨てた。普段は見えない形のいい額へ、ほつれた黒髪が揺らめくようにかかっている。
たったそれだけの動作だ。花京院はあの、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を再び味わう。そこにあるのは壮絶な雄の色香だった。
ゆるりと伸ばされた大きな手が、花京院の顎に添えられる。
「頭の天辺から、爪の先まで、な」
肉食獣を思わせる肉厚な唇に舌を這わせながら、空条承太郎はエメラルドの瞳を細め、不敵に笑った。
←戻る ・ 次へ→
それがいつから始まったのかは、ほとんど覚えていない。
" キッカケ " がなんだったのかも。
ただ最初のうちは身体の色々な場所を触られるだけ、だったような気がする。
輪郭をなぞるように頬に触れ、首を通り、肩へと滑る大きな手。トイレや風呂場でしか触らないような場所を、何度も何度も撫でられて、どうしたらいいか分からなかった。
幼心に、これはとても悪いことだということは、なんとなく気づいていた。母が助けに来てくれたらと願いながら、絶対に知られてはいけないことだということにも、気がついていた。
その不安を読んだかのように、義父は甘い言葉と優しい抱擁で花京院の心を支配していった。
大丈夫。
明日には全部忘れている。
明日には全部、なかったことになっている。
だから、
アイシテル、アイシテル、アイシテル。
その呪文は熟れた蜜のように花京院を誘い、蝋燭の光と甘い香りに包まれた部屋の中でだけは、義父に依存することを許された。
触れるだけだった行為はだんだんとエスカレートしていき、身体の隅々まで明け渡すことで、懸命に愛を乞う人形であり続けた。
だけど終わりは唐突だったように思う。
花京院が中学生になって、急激に背が伸び声が低くなっていく頃、義父はパタリと迎えに来なくなった。
だからといって、どうということはなかった。花京院はあの部屋にいる間の記憶だけ、心のずっと奥深くに閉じ込めていたし、今回のようなキッカケでもない限り、永遠に思い出すことはなかったかもしれない。
今も、深く細部まで思いだそうとすると頭が霧がかったようになる。本当のところ、あまり実感もないような気がした。
だけど、まだ何か、とても肝心なことを忘れているような――。
「よほど思いだしたくないことが、まだあるってことなのでしょうか……?」
夜が更けてからも続いた行為のあと、朝方近くまで二人で眠って、目が覚めても花京院は承太郎の腕の中にいた。
掠れた喉で、ぽつりぽつりと記憶の断片を吐き出す声を、承太郎は静かに頷くでもなく聞いている。ただ、長い指が時おりそっと前髪を梳く感触が、大きな安心感を与えてくれていた。
向かい合うように身を寄せて、承太郎の腕を枕に髪を撫でられていると、なんだかだんだん眠たくなってくる。ふと、あのホットミルクにはお酒が入っていたのかなと、承太郎の部屋に入った夜のことを思いだした。だとしたらアルコールの力を借りずに、こんなにも安堵できる場所を得たのだという喜びが、霧雨のような優しさで胸をうつ。
今にも瞼が落ちそうになっていた花京院の耳に、承太郎が長く息を吐き出す音が届いた。
「その様子だと、夜も眠れねえほど気になってるってわけでも、なさそうだな」
「もうほとんど朝ですけどね。どうやらそのようです」
「ならいいんじゃねえのか」
それにしても、と、承太郎の手がひと房だけ長い花京院の前髪を緩く引いた。
「なかなか複雑だぜ」
「複雑、ですか」
「惚れた相手が、おれの腕の中で別の男の話をしやがる」
「な、そういう意味では……承太郎さん」
思わず身を起こそうとした花京院だったが、承太郎に強く抱き込まれてそれは叶わなかった。ちょうど承太郎の首のラインに額を押し付けるような形で、「わかってる」と呟く喉仏の動きにドキリとさせられるから、何も言えなくなる。
複雑。確かにそうだ。承太郎の言う通り、花京院が受けていたのは明らかに性的な虐待でしかないのだ。
あんなにも心を掻き乱されていたというのに、今はこうして淡々と受け止めている自分が不思議だった。
「忘れといた方がいいってことも、あるんだろうぜ」
「……ですね」
「あと、承太郎さんじゃなくて承太郎」
「それは……追々でいいですか?」
「さっきは呼んだぜ。何度もよ」
「あ、あれは、その、勢い、です」
思いだすと脳ミソが沸騰しそうになる。
いくら何も考えられないほど乱れていたとはいえ、自分よりも年上の相手を思い切り呼び捨てしながら、激しく喘いでしまった。
今のような素の状態では、到底できそうもない。けれど承太郎はすっかり味をしめたようだった。
「昨日の撮影んときも、なかなかよかった」
「昨日のはそういう台本だったから……あれ?」
そこまで言って、ふと。
「じょ、承太郎さん、今日の撮影ってどうなるんですか!?」
確か今日は朝早くから監督のコテージに集合、だったはず。
それが今や、すっかり外が白み始めている。今日の内容はベッドの上で恋人同士が濃厚に絡み合う、というものだ。予期せぬ急展開のおかげで、本当に恋人同士になってしまったばかりか、カメラのない場所で台本に描かれていた以上の絡みを済ませてしまった。
「ど、どうしよう……ぼく、今日は腰が立ちそうにないのですが……」
「……やれやれだな」
腕の中で途端にオロオロしはじめた花京院に、承太郎が溜息を漏らす。どうしてこの人は、こんなに呑気していられるのだろう。
「真面目すぎか、てめーは」
「だ、だって」
「撮影は中止だ」
「中止? 監督の指示ですか?」
「おれが決めた」
「えっ」
「スタッフも一人、確実に使いものにならねえしな」
首筋から額を離して顔を上げた花京院の前髪が、今度は少し乱暴に掴まれる。物凄く至近距離で、承太郎が眉間に皺を寄せて、噛みつきそうなほど怖い顔をしていた。
「おれがこれ以上、てめーがビデオに出るのを許すとでも思ってんのか? あ? こら」
「こ、怖いですよ、承太郎さん……」
そういえばこの人、むかし不良だったんだっけ……と、いつかの朝に聞いた話を思いだす。いっそ青筋すら立てそうな勢いに、ほとんど無意識にぶるぶると首を振った。前髪を掴んでいた手が後頭部に移動して、再び額を首筋に押し付けられる。
承太郎はどこか忌々しげに息を吐き、「もっと早くこうしてりゃあよかったぜ」と吐き捨てた。
「ぼくも、そう思います」
直に触れる承太郎の体温と、汗の香りを感じながら、花京院はふと苦笑する。
あの頃は、どうしようもなかった。少しでも勇気をだして気持ちを打ち明けていたら、もっと早くこの結末を迎えることができただろうに。
全ては今だからこそ、思えることでしかないのだけれど。
花京院は承太郎に愛されて、生まれて初めて心の底から満たされることを知った。こんなに幸せでいいのだろうかと、別の意味で、なんだか怖くなってくる。
呆れてしまうくらい安っぽいドラマのようだなぁと、花京院は小さく肩を竦めて微かに笑う。
現実は、チープでいかがわしいアダルトビデオの台本よりもずっと単純で、だからこそままならなくて、複雑だと。
そんなことを考えていると、いちどはどこかへ消え去った眠気が蘇ってくる。朝が近いことは知っているけれど、このままもう少しだけ眠ってしまいたい。
承太郎の腕の中は温もりに満ちていて、心の隅々まで丸裸にされているような気分だった。あるがままの姿で、楽に呼吸ができるような気がした。
「典明」
心地いいバリトンが、今にも溶けて沈みそうな意識に沁み込む。大きな手は優しく髪を梳き、愛してると一言、囁かれた。
花京院はふと、閉じていた瞼を半分だけ抉じ開ける。夢か現か、遥か昔に聞いた義父の声が、遠くに聞こえた気がした。
――おまえは本当に悪い子だ。
(……おとうさん?)
――私がどんなに苦悩したか、おまえにわかるかい?
(……あ)
――いつも物欲しそうにして、目が合えば悪魔のように微笑んで。
(思いだした……)
――こうなることが、おまえには分かっていたんだろう?
" キッカケ " は。
――だからこうなったのは、典明、おまえのせいだよ。
ああ、そうか。そうだった。
――おまえが私を、狂わせたんだ。
(……確かにこれは、忘れておいた方がよさそうだ)
薄く笑みを浮かべ、愛する承太郎の熱と匂いを思い切り吸い込みながら、あざといまでの心地のいい睡魔に、そっと身を委ねた。
『 大丈夫。
明日には全部忘れている。
明日には全部、なかったことになっている。
だから私は、悪くない―― 』
*
あれから。
花京院がビデオに出演することはなくなった。それは承太郎も同じで、結果的にふたりが出演した作品は、あのラブホテルでの撮影が最後になった。
だが、実質ネットで販売されたのは花京院のデビュー作、一本のみだ。それも今では配信が停止されている。
その他の作品にいたっては日の目を見ることなく、配信直前でお蔵入りになった。おそらく承太郎が、なんらかの手を回したに違いない。
しかも、だ。花京院は自分が出演した作品を、実際に見たことがなかったため分からなかったが、あのデビュー作では顔に薄いモザイク処理が施されていたらしい。あくまでも他人の空似で押し通せるかどうか、ギリギリのラインという程度のものだが。
承太郎といえば、彼は元々顔だけは隠すということを条件に、これまでずっとビデオに出演していたという。
これだけの美丈夫が、あんなビデオに平然と出続けることができたのはそういうことだったのかと、妙に納得がいった。彼なら、その身体だけでも十分な価値があったのだろうと。
そして今。
花京院は住んでいた安アパートを引き払い、承太郎のマンションに暮らしている。
「朝ですよ! 起きて、承太郎!」
寝室の遮光カーテンを勢いよく開くと、ベッドの上でシーツに包まれた巨大イモムシがもぞりと動く。
花京院はベッドに近づくと、そのイモムシの殻を少し強引に引き剥がした。
窓から射す光の眩しさに、シーツから顔を出した承太郎は目を閉じたまま、眉間にぐっと皺を刻む。下着姿というあられもない寝姿はかなり刺激的ではあるのだが、よこしまな心の目を閉ざしてその身体を揺り動かす。
「……眠い」
「駄目です。早く起きて支度しないと遅刻しますよ。せっかく作ったお味噌汁も冷める一方です」
「あと5分」
「承太郎ってば!」
承太郎は花京院が剥いだシーツに手を伸ばし、再びそれに包まろうとする。そうはさせるかと慌てて制止しようとした腕を掴まれ、そのまま引きずり込まれてしまった。
「うわッ!? ちょ、っと!」
大きな身体に抱き込まれて、身動きできなくなった身体がシーツに覆い隠された。結局、二人揃ってイモムシの完成だ。ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら手足をバタつかせていると、耳元で低い声が「5分」と言う。
朝っぱらから体力を消耗するのも馬鹿らしい気がしてきて、花京院は小さく溜息を漏らした。
「……本当にあと5分だけですよ」
目を閉じたまま嬉しそうに笑う承太郎の顔は、普段のあの研ぎ澄まされたような美貌とはガラリと印象が変わって、まるで無邪気な子供のようだ。
一緒に暮らし始めて半年ほどが過ぎようとしているが、何もかも完成された大人の男というイメージが、ほとんど崩壊しつつある。
承太郎は、一言でいえばとても我儘だ。花京院がアパートを出たのだって半ば強制的にといった具合だったし、日常の些細なことにいたるまで、こんな風に力技で勝ちを奪われてしまう。
しかも、毎朝のように『承太郎』と呼び捨てしてやらなければ、絶対に起きないときたものだ。本人もそう望んでいるわけだし、遠慮する意味がないような気がして、すっかり慣れた。
だけど、そんなところも含めて日に日に承太郎への愛しさは深まるばかりだった。初恋、というのが本当なら、恋人として彼のこんな姿を見るのは、自分が初めてなのかもしれないと思うと、いまだに少し信じられない。
「そろそろ起きません? もう5分たったんじゃあないかな」
「あと1分30秒」
「……ぜったい適当なこと言ってるでしょ」
これ以上続けていたら、いよいよこちらまで動きたくなくなってしまいそうだ。承太郎の高い体温に包まれていると、つい気が抜けてそのまま寝入ってしまいそうになる。
彼を遅刻させるわけにはいかないし、自分だってこれから仕事があるのだ。
「さ、いい加減起きますよ」
腕の中とシーツから抜け出して半身を起こす花京院に続いて、承太郎も大きな欠伸をしながら身を起こした。彼はいちど強く両目を閉じてから、ようやくぱっちりと開いたエメラルドの瞳で、じっと花京院を見つめてくる。
その何かを訴えるような視線の意図にも、ここのところようやく慣れた。
花京院は少しだけ頬を染めながらふっと笑って、手を伸ばすと承太郎の肩に触れる。ちゅ、という何度聞いても照れ臭い音をたてながら、肉感的な唇に小さくおはようのキスをした。
まるでよくできましたと言わんばかりに、満足げに笑う承太郎の手が、くしゃりと花京院の赤い髪を乱す。いつかの夜よりもずっと、慣れた手つきで。
「上出来だ」
積み重ねては変化する日々の中、こんな風に褒められると浮足立つ胸のトキメキだけは、今も変わらないまま。
←戻る ・ Wavebox👏
" キッカケ " がなんだったのかも。
ただ最初のうちは身体の色々な場所を触られるだけ、だったような気がする。
輪郭をなぞるように頬に触れ、首を通り、肩へと滑る大きな手。トイレや風呂場でしか触らないような場所を、何度も何度も撫でられて、どうしたらいいか分からなかった。
幼心に、これはとても悪いことだということは、なんとなく気づいていた。母が助けに来てくれたらと願いながら、絶対に知られてはいけないことだということにも、気がついていた。
その不安を読んだかのように、義父は甘い言葉と優しい抱擁で花京院の心を支配していった。
大丈夫。
明日には全部忘れている。
明日には全部、なかったことになっている。
だから、
アイシテル、アイシテル、アイシテル。
その呪文は熟れた蜜のように花京院を誘い、蝋燭の光と甘い香りに包まれた部屋の中でだけは、義父に依存することを許された。
触れるだけだった行為はだんだんとエスカレートしていき、身体の隅々まで明け渡すことで、懸命に愛を乞う人形であり続けた。
だけど終わりは唐突だったように思う。
花京院が中学生になって、急激に背が伸び声が低くなっていく頃、義父はパタリと迎えに来なくなった。
だからといって、どうということはなかった。花京院はあの部屋にいる間の記憶だけ、心のずっと奥深くに閉じ込めていたし、今回のようなキッカケでもない限り、永遠に思い出すことはなかったかもしれない。
今も、深く細部まで思いだそうとすると頭が霧がかったようになる。本当のところ、あまり実感もないような気がした。
だけど、まだ何か、とても肝心なことを忘れているような――。
「よほど思いだしたくないことが、まだあるってことなのでしょうか……?」
夜が更けてからも続いた行為のあと、朝方近くまで二人で眠って、目が覚めても花京院は承太郎の腕の中にいた。
掠れた喉で、ぽつりぽつりと記憶の断片を吐き出す声を、承太郎は静かに頷くでもなく聞いている。ただ、長い指が時おりそっと前髪を梳く感触が、大きな安心感を与えてくれていた。
向かい合うように身を寄せて、承太郎の腕を枕に髪を撫でられていると、なんだかだんだん眠たくなってくる。ふと、あのホットミルクにはお酒が入っていたのかなと、承太郎の部屋に入った夜のことを思いだした。だとしたらアルコールの力を借りずに、こんなにも安堵できる場所を得たのだという喜びが、霧雨のような優しさで胸をうつ。
今にも瞼が落ちそうになっていた花京院の耳に、承太郎が長く息を吐き出す音が届いた。
「その様子だと、夜も眠れねえほど気になってるってわけでも、なさそうだな」
「もうほとんど朝ですけどね。どうやらそのようです」
「ならいいんじゃねえのか」
それにしても、と、承太郎の手がひと房だけ長い花京院の前髪を緩く引いた。
「なかなか複雑だぜ」
「複雑、ですか」
「惚れた相手が、おれの腕の中で別の男の話をしやがる」
「な、そういう意味では……承太郎さん」
思わず身を起こそうとした花京院だったが、承太郎に強く抱き込まれてそれは叶わなかった。ちょうど承太郎の首のラインに額を押し付けるような形で、「わかってる」と呟く喉仏の動きにドキリとさせられるから、何も言えなくなる。
複雑。確かにそうだ。承太郎の言う通り、花京院が受けていたのは明らかに性的な虐待でしかないのだ。
あんなにも心を掻き乱されていたというのに、今はこうして淡々と受け止めている自分が不思議だった。
「忘れといた方がいいってことも、あるんだろうぜ」
「……ですね」
「あと、承太郎さんじゃなくて承太郎」
「それは……追々でいいですか?」
「さっきは呼んだぜ。何度もよ」
「あ、あれは、その、勢い、です」
思いだすと脳ミソが沸騰しそうになる。
いくら何も考えられないほど乱れていたとはいえ、自分よりも年上の相手を思い切り呼び捨てしながら、激しく喘いでしまった。
今のような素の状態では、到底できそうもない。けれど承太郎はすっかり味をしめたようだった。
「昨日の撮影んときも、なかなかよかった」
「昨日のはそういう台本だったから……あれ?」
そこまで言って、ふと。
「じょ、承太郎さん、今日の撮影ってどうなるんですか!?」
確か今日は朝早くから監督のコテージに集合、だったはず。
それが今や、すっかり外が白み始めている。今日の内容はベッドの上で恋人同士が濃厚に絡み合う、というものだ。予期せぬ急展開のおかげで、本当に恋人同士になってしまったばかりか、カメラのない場所で台本に描かれていた以上の絡みを済ませてしまった。
「ど、どうしよう……ぼく、今日は腰が立ちそうにないのですが……」
「……やれやれだな」
腕の中で途端にオロオロしはじめた花京院に、承太郎が溜息を漏らす。どうしてこの人は、こんなに呑気していられるのだろう。
「真面目すぎか、てめーは」
「だ、だって」
「撮影は中止だ」
「中止? 監督の指示ですか?」
「おれが決めた」
「えっ」
「スタッフも一人、確実に使いものにならねえしな」
首筋から額を離して顔を上げた花京院の前髪が、今度は少し乱暴に掴まれる。物凄く至近距離で、承太郎が眉間に皺を寄せて、噛みつきそうなほど怖い顔をしていた。
「おれがこれ以上、てめーがビデオに出るのを許すとでも思ってんのか? あ? こら」
「こ、怖いですよ、承太郎さん……」
そういえばこの人、むかし不良だったんだっけ……と、いつかの朝に聞いた話を思いだす。いっそ青筋すら立てそうな勢いに、ほとんど無意識にぶるぶると首を振った。前髪を掴んでいた手が後頭部に移動して、再び額を首筋に押し付けられる。
承太郎はどこか忌々しげに息を吐き、「もっと早くこうしてりゃあよかったぜ」と吐き捨てた。
「ぼくも、そう思います」
直に触れる承太郎の体温と、汗の香りを感じながら、花京院はふと苦笑する。
あの頃は、どうしようもなかった。少しでも勇気をだして気持ちを打ち明けていたら、もっと早くこの結末を迎えることができただろうに。
全ては今だからこそ、思えることでしかないのだけれど。
花京院は承太郎に愛されて、生まれて初めて心の底から満たされることを知った。こんなに幸せでいいのだろうかと、別の意味で、なんだか怖くなってくる。
呆れてしまうくらい安っぽいドラマのようだなぁと、花京院は小さく肩を竦めて微かに笑う。
現実は、チープでいかがわしいアダルトビデオの台本よりもずっと単純で、だからこそままならなくて、複雑だと。
そんなことを考えていると、いちどはどこかへ消え去った眠気が蘇ってくる。朝が近いことは知っているけれど、このままもう少しだけ眠ってしまいたい。
承太郎の腕の中は温もりに満ちていて、心の隅々まで丸裸にされているような気分だった。あるがままの姿で、楽に呼吸ができるような気がした。
「典明」
心地いいバリトンが、今にも溶けて沈みそうな意識に沁み込む。大きな手は優しく髪を梳き、愛してると一言、囁かれた。
花京院はふと、閉じていた瞼を半分だけ抉じ開ける。夢か現か、遥か昔に聞いた義父の声が、遠くに聞こえた気がした。
――おまえは本当に悪い子だ。
(……おとうさん?)
――私がどんなに苦悩したか、おまえにわかるかい?
(……あ)
――いつも物欲しそうにして、目が合えば悪魔のように微笑んで。
(思いだした……)
――こうなることが、おまえには分かっていたんだろう?
" キッカケ " は。
――だからこうなったのは、典明、おまえのせいだよ。
ああ、そうか。そうだった。
――おまえが私を、狂わせたんだ。
(……確かにこれは、忘れておいた方がよさそうだ)
薄く笑みを浮かべ、愛する承太郎の熱と匂いを思い切り吸い込みながら、あざといまでの心地のいい睡魔に、そっと身を委ねた。
『 大丈夫。
明日には全部忘れている。
明日には全部、なかったことになっている。
だから私は、悪くない―― 』
*
あれから。
花京院がビデオに出演することはなくなった。それは承太郎も同じで、結果的にふたりが出演した作品は、あのラブホテルでの撮影が最後になった。
だが、実質ネットで販売されたのは花京院のデビュー作、一本のみだ。それも今では配信が停止されている。
その他の作品にいたっては日の目を見ることなく、配信直前でお蔵入りになった。おそらく承太郎が、なんらかの手を回したに違いない。
しかも、だ。花京院は自分が出演した作品を、実際に見たことがなかったため分からなかったが、あのデビュー作では顔に薄いモザイク処理が施されていたらしい。あくまでも他人の空似で押し通せるかどうか、ギリギリのラインという程度のものだが。
承太郎といえば、彼は元々顔だけは隠すということを条件に、これまでずっとビデオに出演していたという。
これだけの美丈夫が、あんなビデオに平然と出続けることができたのはそういうことだったのかと、妙に納得がいった。彼なら、その身体だけでも十分な価値があったのだろうと。
そして今。
花京院は住んでいた安アパートを引き払い、承太郎のマンションに暮らしている。
「朝ですよ! 起きて、承太郎!」
寝室の遮光カーテンを勢いよく開くと、ベッドの上でシーツに包まれた巨大イモムシがもぞりと動く。
花京院はベッドに近づくと、そのイモムシの殻を少し強引に引き剥がした。
窓から射す光の眩しさに、シーツから顔を出した承太郎は目を閉じたまま、眉間にぐっと皺を刻む。下着姿というあられもない寝姿はかなり刺激的ではあるのだが、よこしまな心の目を閉ざしてその身体を揺り動かす。
「……眠い」
「駄目です。早く起きて支度しないと遅刻しますよ。せっかく作ったお味噌汁も冷める一方です」
「あと5分」
「承太郎ってば!」
承太郎は花京院が剥いだシーツに手を伸ばし、再びそれに包まろうとする。そうはさせるかと慌てて制止しようとした腕を掴まれ、そのまま引きずり込まれてしまった。
「うわッ!? ちょ、っと!」
大きな身体に抱き込まれて、身動きできなくなった身体がシーツに覆い隠された。結局、二人揃ってイモムシの完成だ。ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら手足をバタつかせていると、耳元で低い声が「5分」と言う。
朝っぱらから体力を消耗するのも馬鹿らしい気がしてきて、花京院は小さく溜息を漏らした。
「……本当にあと5分だけですよ」
目を閉じたまま嬉しそうに笑う承太郎の顔は、普段のあの研ぎ澄まされたような美貌とはガラリと印象が変わって、まるで無邪気な子供のようだ。
一緒に暮らし始めて半年ほどが過ぎようとしているが、何もかも完成された大人の男というイメージが、ほとんど崩壊しつつある。
承太郎は、一言でいえばとても我儘だ。花京院がアパートを出たのだって半ば強制的にといった具合だったし、日常の些細なことにいたるまで、こんな風に力技で勝ちを奪われてしまう。
しかも、毎朝のように『承太郎』と呼び捨てしてやらなければ、絶対に起きないときたものだ。本人もそう望んでいるわけだし、遠慮する意味がないような気がして、すっかり慣れた。
だけど、そんなところも含めて日に日に承太郎への愛しさは深まるばかりだった。初恋、というのが本当なら、恋人として彼のこんな姿を見るのは、自分が初めてなのかもしれないと思うと、いまだに少し信じられない。
「そろそろ起きません? もう5分たったんじゃあないかな」
「あと1分30秒」
「……ぜったい適当なこと言ってるでしょ」
これ以上続けていたら、いよいよこちらまで動きたくなくなってしまいそうだ。承太郎の高い体温に包まれていると、つい気が抜けてそのまま寝入ってしまいそうになる。
彼を遅刻させるわけにはいかないし、自分だってこれから仕事があるのだ。
「さ、いい加減起きますよ」
腕の中とシーツから抜け出して半身を起こす花京院に続いて、承太郎も大きな欠伸をしながら身を起こした。彼はいちど強く両目を閉じてから、ようやくぱっちりと開いたエメラルドの瞳で、じっと花京院を見つめてくる。
その何かを訴えるような視線の意図にも、ここのところようやく慣れた。
花京院は少しだけ頬を染めながらふっと笑って、手を伸ばすと承太郎の肩に触れる。ちゅ、という何度聞いても照れ臭い音をたてながら、肉感的な唇に小さくおはようのキスをした。
まるでよくできましたと言わんばかりに、満足げに笑う承太郎の手が、くしゃりと花京院の赤い髪を乱す。いつかの夜よりもずっと、慣れた手つきで。
「上出来だ」
積み重ねては変化する日々の中、こんな風に褒められると浮足立つ胸のトキメキだけは、今も変わらないまま。
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金色の髪と、純白の白衣の裾が、風に吹かれて舞い踊る。
今にも澄んだ青空の中に融けてしまいそうな気がして、黒鋼は引き寄せられるようにして手を伸ばした。
けれど錆付いたフェンスは、彼に触れることさえも許してはくれない。
「オレもずっと考えていた…」
雨上がりのコンクリートの臭い。空を写す水溜り。
足元に転がる幾つかの煙草の吸殻は、虫の死骸にも似ていて。
「あの石は、もうない。それでもオレがオレでいられたら……言うよ。本当の気持ち」
だからお願い。
彼はそう言って笑った。
「答え合わせがしたいんだ」
ギターの弦を爪先で弾くような振動に似た、空気の震え。
『彼』は、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「見てて」
両手を広げ、穏やかに微笑みながら。
ファイは、飛んだ。
***
そろそろ昼休みも終わろうかという、午後の職員室。
授業中の居眠りや悪ふざけをたっぷりと搾られている生徒や、単に遊びに来ている生徒、次の授業の準備に勤しむ教師もいれば、雑談に興じる教師達もいる。
形ばかりの自分のデスクに向かい、若い女性教諭が気を利かせて淹れてくれた茶をまったりと啜っていた黒鋼は、出入り口付近に白衣がちらつくのを視界に留めると、密かに顔を顰めた。
この高校にまともに白衣を着ている教師はいない。体育教師である黒鋼にとっては、そんなものはますます縁がない。となれば、あんなものを纏っている人間は一人しかいなかった。
淡い金色の髪が、ふわりふわりと揺れている。ほっそりとした身体の線はスラリと伸びていて、今は白衣に隠されたそれがどれほど頼りないシルエットであるかを、黒鋼は知っていた。
彼は女子生徒に囲まれて談笑しているようだった。頬を赤らめた少女達が、彼が何かを言うたび、そしてやんわりと微笑む度に色めきだってはしゃぐのが分かった。
(相変わらず胡散臭ぇ野郎だ)
黒鋼は、神経の糸をジリジリと炙られるかのような苛立ちを持て余した。あの白衣の男が微笑むのを見ていると、大体いつもこうだった。
「相変わらずモテモテねぇ。ファイ先生は」
「あっという間に大人気ですものね~」
熟年の女性教諭と、黒鋼に茶を淹れてくれた若い女性教諭の会話がすぐ側で聞こえる。
「あの甘いマスクですもん。私の学生時代には絶対いませんでしたよ」
「確かに男前ねぇ。モデルさんや芸能人でもやってる方が、お似合いなんじゃないかしら」
「あ、それ言えてますね~!」
嫌でも耳に入ってくる彼女たちの会話にも、十分にミーハー色が入り混じっている気がする。あの男を囲んで頬を赤らめている少女達と、なんら変わりないように思えた。
熟年教師の方は、生徒達に限らず若い教師達にさえ恐れられる厳格な女性だが、心なしか声が艶っぽく上ずって聞こえるのは気のせいだと思いたい。
けれど先輩後輩の枠を超えて、ベテランと新人は共通の話題によって打ち解けているようだった。
「知ってます? ファイ先生って女子生徒たちの間で王子様って呼ばれてるんですって」
それは、「くだらねぇな」と内心で吐き捨てて席を立とうとした黒鋼に、最後のトドメとばかりに届いた言葉だった。
「いやぁね」なんて言いながら、なぜか我がことのようにまんざらでもない女性教諭たちの笑い声に背を向ける。
見れば、白衣の男はもういない。
ますます馬鹿馬鹿しくて、黒鋼は悟られぬ程度に鼻で笑った。
王子様とはとことん笑わせてくれる。あの完璧すぎるほどの笑顔や、洗練された上品な身のこなし、決して崩れることのない丁寧な言葉遣い。
女性に限らず、この学校で彼を悪く言うものはいないし、同様に悪い印象を抱いているものも一人もいない。
――ねぇ先生。
ただ一人、黒鋼を除いては。
――遊ぼうよ。
なぜなら、黒鋼は知っているからだった。
――ゲームだとでも思えばいいんじゃない?
彼のもう一つの顔とも呼べる一面を。
*
冬休み明け、始業式の朝だった。
新学期初日だというのに外は雨で、黒鋼の機嫌はハッキリ言って最悪だった。
見上げれば鉛色のどんよりとした雲。世界が凍りつくほどの冷え込みの中、なぜ空から落ちてくるのが雪ではないのだろう。
雨の音が落ち着くという人間もいる。だが黒鋼にはそんな奴の気が知れない。
こんな日は、ただ思い出したくないことばかりを思い出させるだけだった。容赦なく叩きつけるくせに、雨は何一つ洗い流してなどくれない。その冷たさが、軽薄さが、不愉快で忌々しかった。
風に軌道を乱されて、時折横殴りになるそれが傘を差していても上着の肩を濡らす。職場である高校と黒鋼の住いはそう遠くはなのだから、いっそ一気に走り抜けてしまおうかと思った、そのときだった。
「ミャー」
電柱の影から、見覚えのある野良猫が顔を出した。ふと足を止める。
「ミャーン」
甘えた声を出すその黒猫は目付きが悪く、金色の瞳をしている。アパートの二階から顔を出すと稀に姿を現す、ちょっとした顔馴染みだった。
「悪いな。今は持ち合わせがねぇんだよ」
今はまさに出勤途中であり、今から冷蔵庫の残りものを漁りに戻るわけにはいかない。
実際のところ、猫は特に好きというわけではない。だが雨に濡れたその姿を見て、黒鋼は少しだけ表情を和らげた。
動物には癒しの効果があるというが、どうやら自分にも効果があるらしい。
「ニャーゴ」
普段なら何にもありつけないと知ればそっけなく背を向けてしまう黒猫が、珍しく足元に擦り寄ってきた。この猫との付き合いはそれなりに長いが、接触は初めてのことだった。
珍しいこともあるものだと、思わず屈んで手を伸ばした。
だが、それが不味かった。
***
「お怪我でもされましたか?」
左手の甲にど派手な引っ掻き傷を三本作ってしまった黒鋼は、流石に放っておくのは不味いかと、無人の保健室に立ち寄った。
野良はどんな病気を持っているか分からない、というのは建前で、こんなあからさまな傷を生徒に見られれば、ヤツらは喜び勇んで弄り倒してくるに違いない。
そこで明りも灯さずに適当に棚を漁っていた黒鋼に声をかけたのは、見たことのない若いスーツの男性だった。
振り向いた黒鋼に、扉の脇のスイッチを押して明りをつけた男がやんわりと微笑んだ。
この場にあまりに不釣合いな空気を纏うその男に、黒鋼は僅かに面食らう。
一瞬、ここはどこのホストクラブかと本気で思った。(行ったことなどないが)
明りがついたことでクリアになった視界に嫌でも目立つ金髪は、どうやら地毛らしい。彼の淡く青い瞳がそれを強く主張していた。
「ああ、ちょっとな」
微妙な間が空いたのを誤魔化すようにして、短く答える。軽く左手を持ち上げて見せると、男は穏やかな笑みをさっと曇らせ足早に近づいてきた。
僅かに身を引く黒鋼の手首に、白く細い指が絡みつく。冷たい手だった。
「これは酷いですね……。どうぞ、そちらへ」
「悪い」
すぐ側にあった簡易のベッドへ適当に腰を下ろすと、スーツの男は薬品棚から透明なケースの救急箱を手にして戻ってきた。
その動作を、まるで羽根のように軽い身のこなしの男だと感じながら眺める。彼はまるで重力を感じさせない。
腰掛ける黒鋼の正面に片膝をつき、改めて左手に両手が添えられる。やはり、氷のように冷たい手だった。それに対して、どうにも不可思議な違和感を覚えて仕方が無い。
男が傍らに置いた箱の中から消毒液とピンセット、そして綿球を取り出す。
「ちょっと染みますよ」
突き刺すような刺激臭と、吹きかけられた冷たい液に僅かな痛みを覚え、不覚にも顔を顰めた黒鋼に、彼は顔を上げてふわりと笑った。
「大丈夫」
そう年齢に開きはないであろう同性に、まるで幼い子供を相手にするかのような物言いをされて、黒鋼はむず痒さに思わず眉間の皺を深くした。
そして今更のように、彼が酷く整った顔立ちをしていることに気がついてドキリとする。
再び処置に集中する男から一瞬は目を逸らし、そしてすぐに見下ろす。
金色の髪はサラサラと艶があり、その前髪の隙間から覗く長い睫毛もまた、同じ色をしてクルリとカールしていた。
雪のように白い肌、華奢な身体に長い手足。それを包み隠すスーツは、彼が纏うとなぜかやはり夜の気配を感じさせて、ここが学校の保健室だということを忘れてしまいそうになる。
綺麗な男だ。
男を相手に用いる表現ではないのかもしれないが、素直にそう思った。
そして同時に、どこか懐かしさも感じる。厳密に言えば懐かしさというよりも、妙な既視感と言った方が正しいかもしれない。
だが黒鋼の記憶の中に、こんな浮世離れした人間は一人もいない。
どうにも据わりの悪い、奇妙な感覚を覚える。それを掻き消すように咄嗟に当たり障りない話題を振っていた。無口な黒鋼にしては、極めて珍しいことだった。
「あんた、もしかして新しい先生か」
「ああ、すみません。ご挨拶がまだでしたよね」
大きなサイズの絆創膏をペタリと張り終わった直後の彼は、顔を上げると申し訳無さそうに苦笑した。
「ファイです。ファイ・フローライト。今日からここに常駐させていただくことになった保健医です」
相変わらず片膝をついたままのファイに見上げられて、やはり落ち着かない気持ちになる。
新しく養護教諭が来ることはあらかじめ知っていた。だが黒鋼はそれが男性であることは、まるで予想していなかった。
それまでの保健室の主はといえば、緩やかな長い黒髪と柔らかな笑顔が美しい、主に男子生徒から絶大な人気を誇る女性教諭だったのだ。
そんな彼女は、この度出産と育児とを兼ねた一年間の休暇を取っている。初めての出産だから不安なことばかりなんですよと、最後に会った時に彼女はそれでも幸せそうに笑っていた。
目の前の金髪の男は、その間の繋ぎとしてここへ来たのだろう。
比較的最近では男性もこの職に就くことが増えたと知識として知っていたものの、実際にお目にかかるのは初めてだった。
「珍しいな。俺は」
「黒鋼先生、ですよね?」
片眉をひょいと上げた黒鋼に、新しい養護教諭は白くしなやかな指先を口元にやってクスクスと笑った。どこかドラマ染みた動作だと、漠然と感じた。
「黒いジャージの目つきの悪い先生のお話は、前もって聞いていたものですから」
一体どいつが吹き込んだのやら、目付きの悪さは生まれ付きであるから仕方がないとして、それでもどこか癪に障る。
舌打ちをすると、彼は申し訳なさそうに、けれどやはり笑っていた。
「ごめんなさい。でも、ボクはそう聞いただけですから」
「気にしちゃいねぇよ」
「猫ちゃん、お好きなんですか?」
思わずギクリとする。普段そっけない猫が擦り寄ってきたことに気を良くした結果がこれとは、口が裂けても言えない。
「別に。そんなんじゃねぇよ」
「お大事になさってくださいね」
内心バツの悪さを感じている黒鋼に、ファイは小さく首を傾げるようにして綺麗に微笑んでいた。
その笑顔にすら、得体の知れない違和感を覚えてしまったのはなぜだろうか。
青い瞳に全てが見透かされているようで、面白くなかった。
一見して感じのいい好青年には見えたが、どうも居心地の悪さを感じた。
端的に言えば、この男とはおそらく馬が合わないだろうと思ったのだ。それはあくまでも漠然としたものではあったけれど。
彼からは、人間臭さを感じない。容姿も振る舞いもその言葉一つ一つさえも、全てが作り物の人形染みた印象だった。
ごく自然な動作、表情の動き。全てがあらかじめ緻密に書き込まれた台本でも存在するかのように。
にこやかで優しく、温和なファイが生徒達から慕われるようになるのに時間はかからなかった。
彼の完璧さは常に恐ろしいまでの安定性を誇り、神聖視さえされるほどに。
だが黒鋼はあの出会い以来、彼を極端に避けた。
見るたびに落ち着かず、苛々とした気にさせられる。心を乱されるような感覚さえ覚えた。なぜそんな風に思うのかは分からない。
優れた容姿に完璧に貼り付けられた微笑。愛され親しまれるためだけに存在しているような彼の存在に。酷く、ぶ厚い『壁』を感じたような気がした。
ファイ・フローライトという男に感じた違和感の正体は、まさにそれだった。
だから絶対に、深く関わり合うことはないだろうと。
そう思っていたのに。
***
登り慣れた階段をゆったりと上がる。
校舎四階北側の階段。立ち入り禁止の屋上へと続くそこを利用する人間はいない。いつからか鍵の壊れた扉の先は、黒鋼だけのお気に入りの場所だった。
けれど今では、違う。
「またサボり? 悪い先生だねぇ」
晴天の空の下。
錆びたフェンスに背を預け、腕を組みながら煙草の煙を燻らせる男。金色の髪と白衣が、五月の新緑の香りを乗せた風に靡く。
黒鋼はチッと舌打ちをすると自らも箱を取り出し、中身を一本咥えて火をつけた。
それは先刻、校舎裏で隠れるようにして吸っていた男子生徒から、ライターごと取り上げたものだった。次はない、と告げたときの生徒は、真っ青な顔をして全身を震わせていた。
黒鋼はメンソールを好まない。そもそも煙草というもの自体、日頃滅多なことでは嗜まない。
吸い込んだ途端、鼻へと抜けてゆくヒヤリとした嫌な感覚に大きく溜息がてら煙を吐き出す。
「てめぇに言われちゃ俺も仕舞いだ」
「それもそっか」
ファイ・フローライトは瞳を細め、不敵に口元を歪めて見せた。
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