2025年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
森のヒミツ
この春、黒鋼は小学4年生になったばかりだった。
長閑で平坦で、何も無い町での暮らしは、一日があっという間に終わる。ボロボロで古臭い木造一階建ての小学校へ行って、勉強をして、友達と遊んで、悪戯をすれば叱られる。それだけの日々。
そんな黒鋼の家は、この辺りで唯一の小さな民宿を営んでいた。
諏倭荘という名の寂れた民宿は、それでもシーズンになるとそれなりに賑わっていて、黒鋼も幼いながらによく手伝わされていた。
山をずっと下りて行けばちょっとした温泉街があるけれど、そこも観光地として決して賑わっているというわけではない。昔からの由緒ある旅館やら何やらが軒を連ねているらしいが、テレビなんかで頻繁に取り上げられるほどの規模でもなかった。
こんな何もない場所のどこがいいのかと、民宿の手伝いで遊ぶ時間を削られる度に思ってしまう。山と川と、田んぼと畑。ここには特別なものなんか、何ひとつありはしない。
それが黒鋼の生まれ育った、小さな町だった。
*
ファイがやって来たのは、今から半年ほど前のことだった。
金色の髪と青い眼をしたその姿を初めて見たとき、随分と貧相なものだと感じたのを覚えている。クラスでも一番大きかった黒鋼とは反対に、ファイはクラスで一番痩せこけていて、小さな子供だった。
見慣れない容姿に聞き慣れない名前。子供達はファイに近づくこともできずに、ただ遠巻きに眺めるだけだった。声をかけられることがあればただ微笑んで、あとはずっと机に向かっている子供。今にして思えば、ファイは授業以外の時間、ずっと絵を描いていたのかもしれない。
黒鋼は、そもそもそんな転入生に対してあまり興味がなかった。一緒に遊びたいなら勝手に入ってくればいいし、一人で静かに過ごしたいなら、それでいいだろうし。
けれどあれから、黒鋼とファイはよく遊ぶようになった。
初めて声を交わしたあの放課後から、一人でぽつんといるファイのことが気になって、仕方がなくなってしまったからだ。最初は黙りこくって心を閉ざしていた彼も、絵について触れてやった途端に笑顔を浮かべた。それを見たとき、黒鋼は彼が決して好んでひとりぼっちでいるわけではないのだと、そう感じたのだ。
それを裏付けるかのように「行くぞ」と言って小さな白い手を引いてやると、最初はポカンとバカみたいに口を開けていたファイも、ふにゃりと嬉しそうに笑った。
その砂糖菓子のような笑顔を見ると、なぜか少しだけ泣きたいような気持ちになって、それから胸の辺りがぽっと温かくなるから不思議だった。
*
桜の花は、全て散ってしまった。
今は青々とした葉が枝を覆い、吹く風に靡いてざわざわと揺らいでいる。木々の隙間から注す陽の光が、目を閉じていてさえ目蓋を赤く焼いていた。
黒鋼はそんな木々の間を、自分のものより一回りも小さな手に引かれて歩いている。かろうじて道と分かる程度の、細く長い山道だった。
「なぁ、本当に大丈夫か?」
「なにがー?」
「先生にしかられるぞ?」
「そうなの?」
黒鋼の手を引いてずんずんと山の中へ分け入っていたファイが、クルリと振り向いた。すると思いっきり石とも木の根ともつかないものに躓いて前のめりになるから、強く手を引いて体勢を立て直してやる。
「わぁ」
「あぶねぇから前向いて歩けっての」
「えへへー」
手を引かれながらも、黒鋼は前を行くファイの足元に注意を払うのに精一杯だった。ファイは放って置くと何も無い平地ですらすぐに転ぶから、おちおち目が離せない。
そもそも、この場所は子供だけで無闇に入り込んでいい場所ではなかった。
小学校の裏手に位置する、小さな山の中。ここは子供が悪戯に入り込まないよう、校舎の裏にはロープだって張り巡らされているし、熊出没の看板だって立てられている。
それにも拘らず、ファイはなんの戸惑いもなくロープを潜って見せた。驚いた黒鋼はもちろん止めたが、ファイの「あのね、オレのヒミツの場所なんだー」という一言に、あっけなく撃沈した。
秘密、という響きに黒鋼の心は強く掻きたてられてしまった。しかも立ち入るのは禁じられた場所。これで胸が躍らない男は、いっそ男じゃない。
本当はずっと興味があった。大人が禁じる場所には、必ず何か凄いものがあるのではないかと、いつも考えていた。知られれば洒落で済まないくらい、こっぴどく叱られると分かっていたから、結局は足踏みしていたけれど。それは単に、強く背中を押されるような感覚が欠落していたに過ぎない。
黒鋼は誰よりも大きくて、遊びも悪戯も先頭になってやっていたけれど、こんな風に強く手を引かれるという経験はなかった。それがなんだかやけに新鮮に感じられて、浮き立つような気分を引き立てていたのかもしれない。
いざとなればこのちっこい身体を抱えて、一目散に逃げ出せばいい。足の速さだって、黒鋼はクラスで一番なのだから。
幾度も転びそうになるファイを気遣いながら、やがて二人は石造りの古びた鳥居をくぐった。こんなものがあったのかと感心していると、ファイが「うひゃぁ」と、上ずったおかしな悲鳴を上げた。黒鋼も、わ、と小さく声を上げた。
「黒たん、ね? ここだよ、ここー!」
満面の笑みを浮かべるファイは、そこにあるものを指差して、繋いでいる手をブンブンと振った。
そこには、見たこともないような、大きな大きな大木があった。太い幹には注連縄がほどこされ、その周りを苔にまみれた腐った木の柵が取り囲んでいる。
「ご神木ってやつか、これ……」
大きなその木をぽかんと間抜けた顔で見上げていた黒鋼は「変な呼び方するなよ」と、文句を垂れるのも忘れて見入ってしまう。
どこまでも広がる青々としたそれは、桜の葉だった。もっと早く来ていれば、きっととてつもない光景を拝むことが出来たに違いない。
黒鋼がそれに気を取られている間に、ファイは繋いでいた手を離して駆け出した。
「あ、おい」
「黒たん、ここ、ここ」
柵を飛び越えてしまったファイは、大木の根元にしゃがみ込むと、振り向いて黒鋼に手招きをした。そしてそのままズルズルと四つん這いになったかと思ったら、次の瞬間スッと消えてしまった。
「!?」
「黒ぽーん! ここ!」
ファイの声が、木の中からくぐもって聞こえる。慌てて同じく柵を飛び越え、ファイが消えた位置に駆け寄ると、そこからにゅっと白い手が出てきてまた手招いた。
「ここだよー」
「おまえ……こっから入ったのか……?」
よく見れば、子供がどうにか入り込めるような切込みがある。ファイはここから潜り込んで木の内部にいるのだ。
黒鋼の胸が激しく疼いた。堪らず膝をついて、小さな切込みに思いっきり頭を突っ込む。小さなファイに比べて、一回り以上大きな黒鋼の身体はスムーズには通らない。それでもどうにか押し入って、入り込むことに成功すると、そこにはぽっかりと丸い空間が広がっていた。
「すげぇ……」
見上げると闇がある。それでも所々に小さく歪な穴がある大木の空洞へは、光の柱が幾つも射し込んでいた。身体の奥底から込み上げる感動で、胸がいっぱいになった。まるで異世界だ。知らなかった。ありふれた日常から一歩足を踏み出しただけなのに、そこには新しい世界が広がっていた。
空洞の真ん中、枯葉や小さな枝の絨毯の上にぽつんと座って、ふにゃふにゃと笑っているファイの頬が、興奮しているのか少しだけ赤い。
ここはファイが見つけた、ファイだけの場所なのだ。今、この瞬間までは。
「こんな場所よく見つけたな」
ファイがこの町にやって来て、まだたったの半年だ。この領域に足を踏み込むことさえ躊躇っていた黒鋼にとって、衝撃は決して小さくない。
黒鋼は四つん這いのままファイの側へ近づいた。エヘヘと笑うファイはどこか誇らしげで、先を越されていたのがなんだか悔しい。
「オレね、いつかここを、ちゃんとしたおうちにするの」
「ああ?」
「あのねオレ、大人になったらね、ここに住むんだよー」
立ち上がったファイは、空洞の中をくるくると動き回った。
「ここにお布団しいて、テーブルはここでしょ、引き出しはここでいいかなー?」
そんなファイをしょうがないな、と苦笑しつつ眺めていた黒鋼だったが、込み上げてくるのはなんともいえない、もどかしさだった。
「ねぇ黒たん、あそびに来てくれるー?」
胡坐をかいていた黒鋼の正面までやってきて、ペタリと座り込んだファイに、ちょっとだけ困ってしまった。あと何年かすれば、この場所へ通じる穴は黒鋼だけじゃなく、ファイの身体をも拒むだろう。
今だけ。子供の自分達だけが入り込むことを許された小さな世界。考えずとも、そんなことくらいすぐに分かるはずなのに。
けれど今のファイは目の前の空間に夢中で、そこまで考えが回らない。『子供』だから、おつむが足りないから、先のことが少しも見通せない。一緒になって、無邪気にはしゃいでやれるほどの幼さを、黒鋼は持っていなかった。こんな時に、やけに冷静になってしまう自分の性格が、疎ましいとも思う。
「それまでここはオレと黒たんだけのヒミツ。ね?」
――秘密。
小さな唇から紡がれたその言葉が、沈みかけていた黒鋼の心に、まるで魔法のようにまた少しだけ、ワクワクとした気持ちを蘇らせた。
「秘密基地、だな?」
黒鋼がニヤリと悪戯っぽく笑えば、ファイは透き通るような瞳の青をキラキラと輝かせ「わぁ!」と声を上げた。
ここは二人だけの秘密の世界。今日からここは、ファイだけのものではなくて。そのことがバカみたいに嬉しい。
そうだ、大人になるのはまだずっと先なのだから。今はまだ、考えなくたっていいじゃないか。
「ヒミツキチ、かっこいいねー!」
光の柱に照らされたファイの眩しい笑顔に、黒鋼の胸はやっぱりほんの少しだけ、チクリと痛んだのだけれど。
←戻る ・ 次へ→
この春、黒鋼は小学4年生になったばかりだった。
長閑で平坦で、何も無い町での暮らしは、一日があっという間に終わる。ボロボロで古臭い木造一階建ての小学校へ行って、勉強をして、友達と遊んで、悪戯をすれば叱られる。それだけの日々。
そんな黒鋼の家は、この辺りで唯一の小さな民宿を営んでいた。
諏倭荘という名の寂れた民宿は、それでもシーズンになるとそれなりに賑わっていて、黒鋼も幼いながらによく手伝わされていた。
山をずっと下りて行けばちょっとした温泉街があるけれど、そこも観光地として決して賑わっているというわけではない。昔からの由緒ある旅館やら何やらが軒を連ねているらしいが、テレビなんかで頻繁に取り上げられるほどの規模でもなかった。
こんな何もない場所のどこがいいのかと、民宿の手伝いで遊ぶ時間を削られる度に思ってしまう。山と川と、田んぼと畑。ここには特別なものなんか、何ひとつありはしない。
それが黒鋼の生まれ育った、小さな町だった。
*
ファイがやって来たのは、今から半年ほど前のことだった。
金色の髪と青い眼をしたその姿を初めて見たとき、随分と貧相なものだと感じたのを覚えている。クラスでも一番大きかった黒鋼とは反対に、ファイはクラスで一番痩せこけていて、小さな子供だった。
見慣れない容姿に聞き慣れない名前。子供達はファイに近づくこともできずに、ただ遠巻きに眺めるだけだった。声をかけられることがあればただ微笑んで、あとはずっと机に向かっている子供。今にして思えば、ファイは授業以外の時間、ずっと絵を描いていたのかもしれない。
黒鋼は、そもそもそんな転入生に対してあまり興味がなかった。一緒に遊びたいなら勝手に入ってくればいいし、一人で静かに過ごしたいなら、それでいいだろうし。
けれどあれから、黒鋼とファイはよく遊ぶようになった。
初めて声を交わしたあの放課後から、一人でぽつんといるファイのことが気になって、仕方がなくなってしまったからだ。最初は黙りこくって心を閉ざしていた彼も、絵について触れてやった途端に笑顔を浮かべた。それを見たとき、黒鋼は彼が決して好んでひとりぼっちでいるわけではないのだと、そう感じたのだ。
それを裏付けるかのように「行くぞ」と言って小さな白い手を引いてやると、最初はポカンとバカみたいに口を開けていたファイも、ふにゃりと嬉しそうに笑った。
その砂糖菓子のような笑顔を見ると、なぜか少しだけ泣きたいような気持ちになって、それから胸の辺りがぽっと温かくなるから不思議だった。
*
桜の花は、全て散ってしまった。
今は青々とした葉が枝を覆い、吹く風に靡いてざわざわと揺らいでいる。木々の隙間から注す陽の光が、目を閉じていてさえ目蓋を赤く焼いていた。
黒鋼はそんな木々の間を、自分のものより一回りも小さな手に引かれて歩いている。かろうじて道と分かる程度の、細く長い山道だった。
「なぁ、本当に大丈夫か?」
「なにがー?」
「先生にしかられるぞ?」
「そうなの?」
黒鋼の手を引いてずんずんと山の中へ分け入っていたファイが、クルリと振り向いた。すると思いっきり石とも木の根ともつかないものに躓いて前のめりになるから、強く手を引いて体勢を立て直してやる。
「わぁ」
「あぶねぇから前向いて歩けっての」
「えへへー」
手を引かれながらも、黒鋼は前を行くファイの足元に注意を払うのに精一杯だった。ファイは放って置くと何も無い平地ですらすぐに転ぶから、おちおち目が離せない。
そもそも、この場所は子供だけで無闇に入り込んでいい場所ではなかった。
小学校の裏手に位置する、小さな山の中。ここは子供が悪戯に入り込まないよう、校舎の裏にはロープだって張り巡らされているし、熊出没の看板だって立てられている。
それにも拘らず、ファイはなんの戸惑いもなくロープを潜って見せた。驚いた黒鋼はもちろん止めたが、ファイの「あのね、オレのヒミツの場所なんだー」という一言に、あっけなく撃沈した。
秘密、という響きに黒鋼の心は強く掻きたてられてしまった。しかも立ち入るのは禁じられた場所。これで胸が躍らない男は、いっそ男じゃない。
本当はずっと興味があった。大人が禁じる場所には、必ず何か凄いものがあるのではないかと、いつも考えていた。知られれば洒落で済まないくらい、こっぴどく叱られると分かっていたから、結局は足踏みしていたけれど。それは単に、強く背中を押されるような感覚が欠落していたに過ぎない。
黒鋼は誰よりも大きくて、遊びも悪戯も先頭になってやっていたけれど、こんな風に強く手を引かれるという経験はなかった。それがなんだかやけに新鮮に感じられて、浮き立つような気分を引き立てていたのかもしれない。
いざとなればこのちっこい身体を抱えて、一目散に逃げ出せばいい。足の速さだって、黒鋼はクラスで一番なのだから。
幾度も転びそうになるファイを気遣いながら、やがて二人は石造りの古びた鳥居をくぐった。こんなものがあったのかと感心していると、ファイが「うひゃぁ」と、上ずったおかしな悲鳴を上げた。黒鋼も、わ、と小さく声を上げた。
「黒たん、ね? ここだよ、ここー!」
満面の笑みを浮かべるファイは、そこにあるものを指差して、繋いでいる手をブンブンと振った。
そこには、見たこともないような、大きな大きな大木があった。太い幹には注連縄がほどこされ、その周りを苔にまみれた腐った木の柵が取り囲んでいる。
「ご神木ってやつか、これ……」
大きなその木をぽかんと間抜けた顔で見上げていた黒鋼は「変な呼び方するなよ」と、文句を垂れるのも忘れて見入ってしまう。
どこまでも広がる青々としたそれは、桜の葉だった。もっと早く来ていれば、きっととてつもない光景を拝むことが出来たに違いない。
黒鋼がそれに気を取られている間に、ファイは繋いでいた手を離して駆け出した。
「あ、おい」
「黒たん、ここ、ここ」
柵を飛び越えてしまったファイは、大木の根元にしゃがみ込むと、振り向いて黒鋼に手招きをした。そしてそのままズルズルと四つん這いになったかと思ったら、次の瞬間スッと消えてしまった。
「!?」
「黒ぽーん! ここ!」
ファイの声が、木の中からくぐもって聞こえる。慌てて同じく柵を飛び越え、ファイが消えた位置に駆け寄ると、そこからにゅっと白い手が出てきてまた手招いた。
「ここだよー」
「おまえ……こっから入ったのか……?」
よく見れば、子供がどうにか入り込めるような切込みがある。ファイはここから潜り込んで木の内部にいるのだ。
黒鋼の胸が激しく疼いた。堪らず膝をついて、小さな切込みに思いっきり頭を突っ込む。小さなファイに比べて、一回り以上大きな黒鋼の身体はスムーズには通らない。それでもどうにか押し入って、入り込むことに成功すると、そこにはぽっかりと丸い空間が広がっていた。
「すげぇ……」
見上げると闇がある。それでも所々に小さく歪な穴がある大木の空洞へは、光の柱が幾つも射し込んでいた。身体の奥底から込み上げる感動で、胸がいっぱいになった。まるで異世界だ。知らなかった。ありふれた日常から一歩足を踏み出しただけなのに、そこには新しい世界が広がっていた。
空洞の真ん中、枯葉や小さな枝の絨毯の上にぽつんと座って、ふにゃふにゃと笑っているファイの頬が、興奮しているのか少しだけ赤い。
ここはファイが見つけた、ファイだけの場所なのだ。今、この瞬間までは。
「こんな場所よく見つけたな」
ファイがこの町にやって来て、まだたったの半年だ。この領域に足を踏み込むことさえ躊躇っていた黒鋼にとって、衝撃は決して小さくない。
黒鋼は四つん這いのままファイの側へ近づいた。エヘヘと笑うファイはどこか誇らしげで、先を越されていたのがなんだか悔しい。
「オレね、いつかここを、ちゃんとしたおうちにするの」
「ああ?」
「あのねオレ、大人になったらね、ここに住むんだよー」
立ち上がったファイは、空洞の中をくるくると動き回った。
「ここにお布団しいて、テーブルはここでしょ、引き出しはここでいいかなー?」
そんなファイをしょうがないな、と苦笑しつつ眺めていた黒鋼だったが、込み上げてくるのはなんともいえない、もどかしさだった。
「ねぇ黒たん、あそびに来てくれるー?」
胡坐をかいていた黒鋼の正面までやってきて、ペタリと座り込んだファイに、ちょっとだけ困ってしまった。あと何年かすれば、この場所へ通じる穴は黒鋼だけじゃなく、ファイの身体をも拒むだろう。
今だけ。子供の自分達だけが入り込むことを許された小さな世界。考えずとも、そんなことくらいすぐに分かるはずなのに。
けれど今のファイは目の前の空間に夢中で、そこまで考えが回らない。『子供』だから、おつむが足りないから、先のことが少しも見通せない。一緒になって、無邪気にはしゃいでやれるほどの幼さを、黒鋼は持っていなかった。こんな時に、やけに冷静になってしまう自分の性格が、疎ましいとも思う。
「それまでここはオレと黒たんだけのヒミツ。ね?」
――秘密。
小さな唇から紡がれたその言葉が、沈みかけていた黒鋼の心に、まるで魔法のようにまた少しだけ、ワクワクとした気持ちを蘇らせた。
「秘密基地、だな?」
黒鋼がニヤリと悪戯っぽく笑えば、ファイは透き通るような瞳の青をキラキラと輝かせ「わぁ!」と声を上げた。
ここは二人だけの秘密の世界。今日からここは、ファイだけのものではなくて。そのことがバカみたいに嬉しい。
そうだ、大人になるのはまだずっと先なのだから。今はまだ、考えなくたっていいじゃないか。
「ヒミツキチ、かっこいいねー!」
光の柱に照らされたファイの眩しい笑顔に、黒鋼の胸はやっぱりほんの少しだけ、チクリと痛んだのだけれど。
←戻る ・ 次へ→
青い目の人形
「おまえ、なんで何も言わなかったんだ?」
黒鋼が問うても、傍らにしゃがみ込んだ子供はピクリとも反応しなかった。
子供、と言っても黒鋼も変わらない。むしろ二人は同じ小学校へ通うクラスメイトである。けれど、黒鋼が彼に向かって口を利くことはおろか、こうして二人きりでいることさえも、これが初めてのことだった。
なんとなく彼を自分よりも『子供』だと思ってしまうのは、単純に身体の大きさからだった。クラスで一番大きな黒鋼とは逆に、彼はとても小さく、小枝のように痩せ細っていた。
黒鋼は面白くねぇな、と思った。不本意な沈黙が流れるなか、放課後の校庭にはポツリポツリと駆け回る生徒達の姿があって、甲高い声が遠くから聞こえる。
隣の子供が白く小さな指先で摘んでいるのは細い木の棒で、彼は俯き、熱心に地面にその先端を走らせていた。淡い金色の髪が、ゆるゆると風に靡いている。その緩やかな風はどこか生暖かく、二人の頭上で満開に咲き誇る桜の花びらを幾つも散らしてゆく。
桜の雨だと、ぼんやり思う。
それから黒鋼は、おそらくは自らの殻に閉じこもっているのであろう彼の、その不思議な色合いの髪をなんとなく見つめた。
「…………」
なぜ、何も言おうとしないのだろう。悔しくはないのか。あんなことを言われて、きっと自分だったら我慢ならない。
黒鋼が苛立ちを募らせているのは、何も自分に反応を示してくれない彼の態度に対してではなくて。
『目も髪も、へんてこな色。お前、日本人じゃないんだろ』
『いつもヘラヘラ笑ってるだけで、キモチ悪ぃんだよ』
『なんか言えよ。しゃべれないなら、自分の国に帰ればいいだろ』
『お前と遊ぶと叱られるんだ。よそ者はどっか消えろ』
消えろとか、帰れとか、気持ち悪いとか。そんな拙い暴言の数々を思い出して、黒鋼はまた腹が立った。
この小さな生き物を取り囲んで好き勝手言いたい放題だった彼らは、いきなり割って入ってきた黒鋼に目を見開いていた。そしてバツが悪そうに砂を蹴って、帰っていったのだ。
黒鋼は弱いものイジメが大嫌いだ。彼らが同じクラスメイトで、普段は当たり前のように自分の周りにいる友人達だったとしても、許せない。
「嫌なら嫌とか、ちゃんと言えよおまえも。それに」
なんだかんだで、結局のところ面白くはない。
人から良くしてもらったらきちんと礼を言えと、挨拶はちゃんとしろと、先生や親だっていつも煩いくらい言っているではないか。なぜそんな当たり前のことが出来ないのだろう。
けれどすぐに、黒鋼は諦めた。この子は黒鋼と同い年だけれど、身体だけではなくて、中身も本当に幼い子供なのかもしれない。なぜか漠然と、そう感じたからだ。
黒鋼は彼の指先よりも下へと視線をずらした。何を熱心になって描いているのだろうか。
「それ、なに?」
ぶっきらぼうに放ったその問いに、彼は初めて手を止めて顔を上げた。
初めて視線が交わった瞬間、ピリリと皮膚に何かが走った。まるで人形のようだと思った。青い眼の、金色の髪をした、真っ白な肌の異国のお人形。黒鋼はそこで初めて、そんなものをしきりに欲しがる女子達の気持ちが、少しだけ理解できたような気がした。
例えば公園で、空き地で、彼女達が群がる中心には自慢げに人形を抱いている子供がいたりする。あんなもののどこがいいのかと、いつだって冷めた目で遠くから眺めていたものだが。
だけどこんな綺麗な人形ならば、誰だって飾っておきたいと、自慢のひとつもしたくなるかもしれないと、純粋にそう思えた。
大きなクリクリとした瞳は透き通るような青で、それが夕日を吸い込んでさらに透明な輝きを放っている。今にも零れ落ちてしまうのではないかと、酷く落ち着かない気持ちにさせられた。
ふと、自分がこれに見惚れていたのだと気がついて、なんだか居心地が悪くなる。
何か言って誤魔化そうとして、出来なかった。青い瞳がすっと、猫のように細められたかと思うと、ふにゃりと笑ったのだ。情けないようにも見える柔らかい笑顔は、知らず肩に力を入れていた黒鋼の緊張を、すっかりと解してしまった。
黒鋼はふっと息を吐き出すと、彼のすぐ隣に同じ様にしゃがみ込んだ。そしてもう一度問う。
「これ、なんだ?」
「――鬼だよ」
鈴を転がすような可愛らしい声だった。隣の家の飼い猫がつけていた、金色の鈴の音を思いだした。その猫は確か、去年の夏に事故で死んだのだったか。
「おに?」
「うん、そうー」
「でもこれは……」
黒鋼にはその絵が、彼が言うものにはとても見えなかった。
そもそもなんだってそんなものを描いているのかという疑問はさて置き、この絵には足りないものが幾つもある。
「違うだろ、鬼ってのはこんなんじゃない」
だって角も牙もないじゃないか。そう言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。綿飴のような髪がふわりと揺れると、はらはらと落ちてきた小さな花びらがそれに絡みつく。
「これは……そうだな、校長先生の顔だ」
今よりもっと幼い頃に絵本やテレビで見た鬼は、クルクルの黒髪に角があり、赤や青の肌をしていて、鋭い牙がチラリと覗いていたはずだ。豆まきの鬼の面だってそう。けれどそこに描かれているのは、どう見てもただの『人』の顔。本当にそうとしか表現できない。
拙い絵はそれが男なのか女なのかも判断がつかないほどだったけれど、黒鋼にはなんとなく、その顔がこの小学校の校長先生に見えたような気がした。
「な? そうだろ?」
問いかけると、彼はまたふんにゃりと笑った。
「オレ、校長先生好きだよー。だって、ナイショでおかしをくれたもの」
「ああ?」
小さく噛みあわなくなってしまった会話に黒鋼が戸惑っていると、彼は木の枝をポイと投げ出した。
「アメがなめたいなー」
「…………」
「スースーってするの、知ってる?」
「……ハッカか?」
「お鼻がね、スーってなって、ふわ~ってなるの。大好き」
無邪気な瞳が、黒鋼の顔を覗き込んでくる。黒鋼はやっぱり反応に困ってしまった。薄荷は、少し苦手だ。甘い味がするものも、正直好かない。
黒鋼は、ああそうか、と思った。
やっぱりこの子は『小さい子』なんだと。
こんな風に他人と上手に会話が出来なくて、不思議なことばかりを言う人間のことを、周りの大人は『おつむが足りない』と言う。
それは小さな子供と変わらないのだと思う。黒鋼の歳の離れた妹の知世だって、覚えたての言葉やなんかを、無闇に繰り返しては笑っていたりする。だからこの小さくて人形のような子供は、知世と同じなんだ。まだちょっと、おつむがたりないんだ。
可哀想な子なのだと思った。小さな子や可哀想な子には、優しくしてあげなくちゃならない。哀れむような目をした黒鋼に、彼はきょとんと不思議そうな顔をして、それからやっぱりまた笑った。
「あのね、鬼はね、きっとお豆じゃ退治できないよ」
「どうして?」
「お豆、おいしいからぜんぶ食べられちゃうもの。ね」
黒鋼は妙に納得して「そうだな」とだけ短く答えてやると、淡い金色の上に落ちた花びらを優しく払ってやった。
←戻る ・ 次へ→
「おまえ、なんで何も言わなかったんだ?」
黒鋼が問うても、傍らにしゃがみ込んだ子供はピクリとも反応しなかった。
子供、と言っても黒鋼も変わらない。むしろ二人は同じ小学校へ通うクラスメイトである。けれど、黒鋼が彼に向かって口を利くことはおろか、こうして二人きりでいることさえも、これが初めてのことだった。
なんとなく彼を自分よりも『子供』だと思ってしまうのは、単純に身体の大きさからだった。クラスで一番大きな黒鋼とは逆に、彼はとても小さく、小枝のように痩せ細っていた。
黒鋼は面白くねぇな、と思った。不本意な沈黙が流れるなか、放課後の校庭にはポツリポツリと駆け回る生徒達の姿があって、甲高い声が遠くから聞こえる。
隣の子供が白く小さな指先で摘んでいるのは細い木の棒で、彼は俯き、熱心に地面にその先端を走らせていた。淡い金色の髪が、ゆるゆると風に靡いている。その緩やかな風はどこか生暖かく、二人の頭上で満開に咲き誇る桜の花びらを幾つも散らしてゆく。
桜の雨だと、ぼんやり思う。
それから黒鋼は、おそらくは自らの殻に閉じこもっているのであろう彼の、その不思議な色合いの髪をなんとなく見つめた。
「…………」
なぜ、何も言おうとしないのだろう。悔しくはないのか。あんなことを言われて、きっと自分だったら我慢ならない。
黒鋼が苛立ちを募らせているのは、何も自分に反応を示してくれない彼の態度に対してではなくて。
『目も髪も、へんてこな色。お前、日本人じゃないんだろ』
『いつもヘラヘラ笑ってるだけで、キモチ悪ぃんだよ』
『なんか言えよ。しゃべれないなら、自分の国に帰ればいいだろ』
『お前と遊ぶと叱られるんだ。よそ者はどっか消えろ』
消えろとか、帰れとか、気持ち悪いとか。そんな拙い暴言の数々を思い出して、黒鋼はまた腹が立った。
この小さな生き物を取り囲んで好き勝手言いたい放題だった彼らは、いきなり割って入ってきた黒鋼に目を見開いていた。そしてバツが悪そうに砂を蹴って、帰っていったのだ。
黒鋼は弱いものイジメが大嫌いだ。彼らが同じクラスメイトで、普段は当たり前のように自分の周りにいる友人達だったとしても、許せない。
「嫌なら嫌とか、ちゃんと言えよおまえも。それに」
なんだかんだで、結局のところ面白くはない。
人から良くしてもらったらきちんと礼を言えと、挨拶はちゃんとしろと、先生や親だっていつも煩いくらい言っているではないか。なぜそんな当たり前のことが出来ないのだろう。
けれどすぐに、黒鋼は諦めた。この子は黒鋼と同い年だけれど、身体だけではなくて、中身も本当に幼い子供なのかもしれない。なぜか漠然と、そう感じたからだ。
黒鋼は彼の指先よりも下へと視線をずらした。何を熱心になって描いているのだろうか。
「それ、なに?」
ぶっきらぼうに放ったその問いに、彼は初めて手を止めて顔を上げた。
初めて視線が交わった瞬間、ピリリと皮膚に何かが走った。まるで人形のようだと思った。青い眼の、金色の髪をした、真っ白な肌の異国のお人形。黒鋼はそこで初めて、そんなものをしきりに欲しがる女子達の気持ちが、少しだけ理解できたような気がした。
例えば公園で、空き地で、彼女達が群がる中心には自慢げに人形を抱いている子供がいたりする。あんなもののどこがいいのかと、いつだって冷めた目で遠くから眺めていたものだが。
だけどこんな綺麗な人形ならば、誰だって飾っておきたいと、自慢のひとつもしたくなるかもしれないと、純粋にそう思えた。
大きなクリクリとした瞳は透き通るような青で、それが夕日を吸い込んでさらに透明な輝きを放っている。今にも零れ落ちてしまうのではないかと、酷く落ち着かない気持ちにさせられた。
ふと、自分がこれに見惚れていたのだと気がついて、なんだか居心地が悪くなる。
何か言って誤魔化そうとして、出来なかった。青い瞳がすっと、猫のように細められたかと思うと、ふにゃりと笑ったのだ。情けないようにも見える柔らかい笑顔は、知らず肩に力を入れていた黒鋼の緊張を、すっかりと解してしまった。
黒鋼はふっと息を吐き出すと、彼のすぐ隣に同じ様にしゃがみ込んだ。そしてもう一度問う。
「これ、なんだ?」
「――鬼だよ」
鈴を転がすような可愛らしい声だった。隣の家の飼い猫がつけていた、金色の鈴の音を思いだした。その猫は確か、去年の夏に事故で死んだのだったか。
「おに?」
「うん、そうー」
「でもこれは……」
黒鋼にはその絵が、彼が言うものにはとても見えなかった。
そもそもなんだってそんなものを描いているのかという疑問はさて置き、この絵には足りないものが幾つもある。
「違うだろ、鬼ってのはこんなんじゃない」
だって角も牙もないじゃないか。そう言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。綿飴のような髪がふわりと揺れると、はらはらと落ちてきた小さな花びらがそれに絡みつく。
「これは……そうだな、校長先生の顔だ」
今よりもっと幼い頃に絵本やテレビで見た鬼は、クルクルの黒髪に角があり、赤や青の肌をしていて、鋭い牙がチラリと覗いていたはずだ。豆まきの鬼の面だってそう。けれどそこに描かれているのは、どう見てもただの『人』の顔。本当にそうとしか表現できない。
拙い絵はそれが男なのか女なのかも判断がつかないほどだったけれど、黒鋼にはなんとなく、その顔がこの小学校の校長先生に見えたような気がした。
「な? そうだろ?」
問いかけると、彼はまたふんにゃりと笑った。
「オレ、校長先生好きだよー。だって、ナイショでおかしをくれたもの」
「ああ?」
小さく噛みあわなくなってしまった会話に黒鋼が戸惑っていると、彼は木の枝をポイと投げ出した。
「アメがなめたいなー」
「…………」
「スースーってするの、知ってる?」
「……ハッカか?」
「お鼻がね、スーってなって、ふわ~ってなるの。大好き」
無邪気な瞳が、黒鋼の顔を覗き込んでくる。黒鋼はやっぱり反応に困ってしまった。薄荷は、少し苦手だ。甘い味がするものも、正直好かない。
黒鋼は、ああそうか、と思った。
やっぱりこの子は『小さい子』なんだと。
こんな風に他人と上手に会話が出来なくて、不思議なことばかりを言う人間のことを、周りの大人は『おつむが足りない』と言う。
それは小さな子供と変わらないのだと思う。黒鋼の歳の離れた妹の知世だって、覚えたての言葉やなんかを、無闇に繰り返しては笑っていたりする。だからこの小さくて人形のような子供は、知世と同じなんだ。まだちょっと、おつむがたりないんだ。
可哀想な子なのだと思った。小さな子や可哀想な子には、優しくしてあげなくちゃならない。哀れむような目をした黒鋼に、彼はきょとんと不思議そうな顔をして、それからやっぱりまた笑った。
「あのね、鬼はね、きっとお豆じゃ退治できないよ」
「どうして?」
「お豆、おいしいからぜんぶ食べられちゃうもの。ね」
黒鋼は妙に納得して「そうだな」とだけ短く答えてやると、淡い金色の上に落ちた花びらを優しく払ってやった。
←戻る ・ 次へ→
「おかえりご主人様ー」
珍しくバイトが入っていない日。
日付が変わるよりだいぶ早く帰宅した黒鋼を、のんびりとした間抜けな声が出迎えた。
「その言い方はよせ。気色悪ぃ」
「ひどーい。愛するご主人様のために、ご飯作って待ってたのにー」
何が愛する、だ。小さな玄関と隣接するキッチンスペースで、お玉を持った黒ジャージ姿のファイが、指先で濡れてもいない目元を拭う動作を見せる。
サイズが合っていないため、足元はズルズルに引きずっているし、腕まくりをした袖は肩位置の線が思い切り下にズレている。
そんなわざとらしいリアクションにノーリアクションで応じた黒鋼は、靴を脱ぎながらすんと鼻を鳴らした。
「鍋か?」
「そ。そろそろ帰ってくるだろうと思って、温めなおしてた。一度冷ました方が、味が染みて美味しいもんねー」
階段を上る時点ですでに美味そうな匂いがしていたが、ドアを開けた途端にそれは熱気と共に黒鋼の胃袋を刺激した。
季節は晩秋。冬を間近に鍋というチョイスは悪くない。
なんとなくふらりとコンロ台の前にいるファイの横に並び、火にかけられた蓮こん柄の土鍋の蓋を覗き込んでみる。そしてふと首を傾げた。
「こんな土鍋なんか、うちにあったか?」
聞けば、ファイは手にすっかりはめ込むタイプの鍋掴みを装備して、蓋を開けながら「ないよー」と悠長に答える。
湯気と共によく煮込まれた味噌の香りが立ち込めた。
「んー、美味しそー! えとね、隣のおじさんに貸してもらったんだー。余ってるからって大根も一本くれたよー」
「……隣っておまえ」
ここはとにかくその安さだけが取り柄のような、防犯はセルフと言わんばかりのオンボロアパートだ。
明らかに借金の取り立てから逃れるべく潜伏しているような輩や、逆に取り立てる側の空気を纏う人間もいる。
近所付き合いは皆無に等しいものの、自分の記憶が確かなら、隣は取り立てる側の、いかにもな風貌の中年親父だった気がする。
「たまにお醤油とかも借りるよー。胸毛と刺青が渋くて、優しいオジサンだよね」
「……おまえ、まさかと思うが」
「へ?」
「…………」
横目でじっとりと睨み付ける黒鋼を、ファイは首を傾げながら見上げてきた。
きょとんとした表情だったが、すぐに合点がいったようで「あぁ」と短い声を漏らしながら苦笑する。
「 “売って”ないってよ。ただの純粋な、ご近所付、き、合、い」
猫のように目を細め、緩く口角を持ち上げる笑い方が相変わらず胡散臭いことこの上なかった。
*
このどこか得体の知れない男を一匹飼う羽目になってから、もうじき一ヶ月。
彼はこうして毎晩食事を作って、黒鋼の帰りを待っている。
もちろん朝食も作り、昼の弁当もしっかり作って寄越すという徹底ぶりで、しかもファイの料理は、まるで最初から知っていたかのように黒鋼好みの味付けだった。
別に一人暮らしの食生活に不便を感じていたわけではないのだが、なんだかんだで不規則になりがちだったのは否定できない。こうして手をかけて作られる食事の温かさは、味わってしまうとなかなか離れがたいものがある。
ファイは少々いい加減でズボラなところはあるものの、面倒な掃除や洗濯といった家事もそれなりにこなす。
手先が器用で、特に料理に関してこだわりを見せるだけあり、油汚れを放置したまま色褪せていたキッチンがピカピカに磨かれていたのを見たときは、思わず感動してしまった。
そんなこんなで、ついつい出て行けというタイミングを逃し続けている。
見事に甘い汁だけを吸わされ、飼いならされているのはこちらのような気がしないでもない。が、ファイがいて困るようなことが、ほぼ無いに等しいのだから、ついつい現状に甘んじてしまうのだった。
そして甘い汁といえば。
「ねぇ、してあげよっか」
美味い飯で腹を満たし、鍋がすっかり空になった頃。
そろそろ風呂にするかと考えつつ胡坐をかいて寛いでいた黒鋼の膝に、白い手が這うように触れてきた。
すり寄ってくる薄い肩に、一応は顔を顰めて見せる。
「ゆうべもしただろ。俺は今から風呂だ」
「いいじゃない。どうせ汚れるんだから、お風呂なんて後でいいよ」
「おまえな……」
呆れた溜息も、ファイをくすぐる材料にしかならないようだ。
彼は小さく肩を揺らしながら笑って、金色の前髪を片耳にかけながら身を屈める。節の目立たない華奢な指先で黒鋼の前を寛げると、慣れた手つきで下着の中から萎れた性器を引きずり出してしまう。
「もうこれなしじゃいられない身体になってるんでしょ?」
長い両足を折り重ねるようにして床に身を伏せたファイが、手にしたそれに口づけながら上目使いを寄越す。
最初のうちこそ突っぱねるばかりだった黒鋼も、ほぼ毎晩に渡り巧みな性技を味わわされた結果、今や黙り込むより他になかった。
例え口が裂けても言わないが、身体にしろ技術にしろ、これで稼いでいるだけのことはある。この男の言う通り、おそらくもう他では満足できないだろう。
音を立てながら降り注ぐ口づけと、時折向けられる物欲しげな濡れた瞳と。滑らかな手の中で情けないほど簡単に自身が育っていくのを、ただ黙って見ているしかなかった。
「ッ!」
乱れた息を必死でかみ殺し、柔らかな金糸に覆われた頭部を緩く掴む。
ファイの顔がすっかり身体の中心に埋まる頃になると、黒鋼の性器は熱い口内で膨らみきっていた。
唇で食むように飲み込みながら、こちらの呼吸に合わせて手を動かし、舌の裏側を擦り付けるようにして絡めてきたかと思えば、緩く歯を立ててよこす。
毎度のことだが、これはある種の我慢大会だ。
気を抜いたが最後、あっという間に搾り取られる。そのあとの満足げな笑顔を思い浮かべるだけで悔しさが募り、闘争心の炎に油が注がれていく。
最初から勝敗は見えているというのに。
現に黒鋼は、肉体だけならすでに白旗をあげかけている。どれほど気持ちで意地を張ったとしても、相手はプロで、こちらはただの素人だ。
心の中で「ちくしょう」と幾度も呟き、手の中の金糸をぐっと握りこむ。
閉じた瞼の裏側に、赤い波が押し寄せる。
だがそこで、ファイは鼻から楽しげな息を漏らして性器から口を離してしまった。
「ッ、……!」
あと少しというところで口淫が止み、黒鋼は強張りながら目を開けた。
「ねぇ、イキたい?」
「……なんだよ」
「イキたかったら、聞かせてほしいな。イかせてって言ってごらんよ」
ファイは床に右肘を立て、手の平に顎を載せながら左手の人差し指で先走りの滲む鈴口をくるりと撫でる。
ぐっと喉を詰まらせながら目を細め、眉間の皺を深くする黒鋼に、意地の悪そうな笑みを向けてきた。赤く色づいた唇が濡れて、てらてらと光り輝いている。
「可愛くおねだりしてみてよ。じゃなきゃもう、今日はしてあげない」
(仕掛けてきたのはどっちだこの野郎……)
正直な話、今にも再びこの生意気な口の中に捻じ込んで、喉の奥まで突き上げたい。
小さな顔の両頬を掴んで、泣こうが吐こうがお構いなしに。何度も何度も奥まで犯して、そして限界まで押し込んだところで、思い切り欲望をぶちまけてやりたかった。
この一ヶ月近く、何度も身体を交わらせたにも関わらず、一度も主導権を握れた試しがない。ねじ伏せることなど簡単なはずなのに、どういうわけかファイのペースに流されるばかりで、それが出来ない。
これを生業にしている相手へ対しての遠慮だろうか。翻弄されるだけのセックスに性欲だけが満たされる反面、支配したいという欲求が爆発的に膨らむ一方だった。
それすらも見透かしたように細められた青い瞳には、余裕の色しか見当たらない。優位に立つことに慣れきったその表情が、ただ憎らしい。
指先が、浮き上がった血管をつう、と撫でる。
「ッ、調子に乗りやがって……」
「可愛いなぁ。悔しがってる黒たんの顔、オレだぁい好き」
「そのふざけた呼び方もやめろ!」
「ふふ。ねぇ、言わないならいっそこれ縛っちゃおうか? 絶対にイケないようにして、いっぱい酷いことしてあげる」
冗談じゃない。性器だけでなく、苛立ちもまたギリギリまで張りつめていた。
拳を握りしめた瞬間、図ったかのように先端に口付けられて、奥歯を噛みしめる。欲求が、あっけないほど簡単に怒りを凌ぐ。いつだってこの繰り返し。
もうなんだっていい。今は高ぶらされたままチクチクと弄ばれるこの地獄を、どうにかしたい。
「いいから、とっとと終わらせろ」
黒鋼ができる、精一杯の懇願。
それでも満足したらしいファイは「しょうがないねぇ」と言って笑った。
*
「おまえ、結局これからどうするつもりだ?」
狭いベッドに一糸纏わぬ長身の男が二人。
後頭部で両手を組み、仰向けに寝そべる黒鋼の隣で、身体を起こしたファイはのんきに欠伸をする。
「ふぁー? なにがー?」
「何がじゃねぇよ」
そう言いながら、ちょうどいい位置で視界に収まる白い背中を眺める。
しなやかな背骨のラインと、肩甲骨のくぼみに落ちる影。それをなぞってみたくて、手を伸ばしかけて結局やめる。目を逸らし、鼻から小さく息を漏らした。
「いつまでいる気かって聞いてる」
「んー?」
ファイは振り向きがてらころりと横になり、黒鋼の胸に両手と顎を乗せた。
「なになにー? もしかして出てけって言ってるー?」
ぶぅ、と唇を尖らせる子供っぽい表情に「そうじゃねぇけど」と言葉を濁す。
ついさっきまで人の上に馬乗りになって淫らに腰を振っていたくせに、いちど性欲の波が引くと、まるで憑き物が落ちたように幼さを覗かせる。
結局あれから散々焦らされたあとにイかされて、その後乗り上げてきたファイの中で二度も出してしまった。
「こんなに尽くしてるのに、オレのこと邪険にするんだー」
「だから、そうじゃねぇって」
「じゃあなにー? オレとエッチするの飽きた……?」
「……別に。そうは言ってねぇだろ」
言いにくそうに答えれば、ファイは「だろうね」と言って余裕の笑みを浮かべる。
「せっかくオレなしじゃいられない身体に躾けてあげたんだから」
「躾けって何様のつもりだてめぇは……」
「オレ様ー」
本当に腹の立つ野郎だと思う。
決して否定しきれないから、なおのこと。
黒鋼がふつふつと腸を煮えくり返らせる中、ファイはそれでも何かしらは考えているようで「そうだなぁ」と呟いた。
「確かに、このままってわけにもいかないよねー……」
「一度も戻ってねぇだろ。自分の部屋に」
「だってー……」
ファイは再びぷうっと唇を尖らせた。
あの雨の夜にこの部屋に上がり込んでからというもの、ファイは黒鋼のジャージばかりを着用して生活している。
下着はかろうじてコンビニで適当なものを見繕ったようだが、彼は頑なに自分のマンションに帰ることを拒んでいるようだった。
ちなみにこの一ヶ月、彼が『仕事』に出かけた様子はない。余裕たっぷりな暮らしぶりを側で見ていると、相当貯めこんでいるらしいことは予想がつく。それだけこの男の身体は『高い』ということなのだろう。
「あんな鬼の棲家になんか帰れないよー……」
「鬼って……ただの虫だろ……」
最初こそ何かとてつもない事情があるのだろうかと思っていた黒鋼だが、雨の翌朝、この男が作った朝飯を食いながら聞いた理由は、実にくだらないものだった。
あの朝、彼は味噌汁の中の豆腐を箸でつつきながら、こう言った。
『台所にゴキブリが出て……一匹いると三十匹はいるっていうし……』
聞いたときは思わず鼻で笑ってしまった。
もちろんファイはその反応を見て頬を膨らませたが、大の男がゴキブリ一匹に泣きべそかいて、雨の中を飛び出したのかと思うと、やっぱり情けなくて笑えてしまう。
このアパートを雨宿りの場所に選んだのは、単なる偶然だったらしいが。
「業者にでも頼んでとっとと駆除してもらえ」
「そ、そうだけどー……」
「このままほっといて冬越えしようもんなら、来春はもうひと回りでかくなって出てくんぞ」
ファイはブルっと肩を震わせて、青い顔をしている。
人のことは散々コケにするくせに、たかが虫けらにこの有様とは。
なぜか何も言おうとしないのを見て「何か問題あんのか」と問えば、彼は目を逸らして「別にー」と答えた。
「狭くて汚くて見るからに貧しそうなボロアパートでも、住めば都っていうかー。ゴキブリがいないだけで天国っていうかー、具合のいいペットまでついてて、お得っていうかー?」
「何から何まで癪に障る言い方しやがる」
だいたい、と黒鋼は続けた。
「誰がペットだ。ここは俺んちだぞ。飼われてんのはてめぇの方だってこと忘れんな」
「すっかりオレに乗りこなされちゃってるくせにー?」
「殴るぞ。俺をてめぇの客と一緒にすんじゃねぇ」
「まぁね。黒たんは間違ってもお尻ぶたれて悦ぶタイプじゃないしねー。だから逆にイジメたくなるんだけど」
「…………」
こいつのサドっけ溢れる物言いや仕草を見れば、どんな客層かは容易に想像できる。
だが黒鋼には彼と対になる性癖がない。それこそ金を出してまでケツを叩かれる趣味もなければ、いい加減やりたい放題されるのだって限界だ。
どこかしらでひっくり返してやらなければ、この先もずっと支配者面され続けることになる。
そんなことは真っ平御免だ。いや、そもそも。
(……この先もずっと一緒にいる気かよ)
思わず額を押さえ、深々と溜息を洩らした。
すっかり餌付けされ、その居心地のよさに甘んじ、夜は夜で骨抜きにされて。
娼婦のような顔と無邪気な子供のような顔を使い分ける、この掴みどころのない男をどうにかして掴んでみたくて、気がつけば足掻いている。
散々人の上に乗って好き勝手した後、平然と『客』の話をするファイを目の当りにして、改めてこの男は『商品』なのだということを思い知ったような気がした。
ならば金と引き換えに身体で夢を与える彼にとって、自分もまたその他大勢と同じ存在ということになるのだろうか。宿を提供する代わりに、ちょっと他人より多くサービスをしてもらっているだけの。
だとしたら。
(……面白くねぇな)
どうしてか、異様なまでに腹が立つ。
言葉では言い表せない何かが、黒鋼の中に黒く渦巻いている。ぎりぎりまで膨らんだ風船が、許容量を超えて破裂するみたいに。
「ねぇ誤解しないでよー。別に好きでオッサンのお尻ぶったり、足で思いっきり玉潰したわけじゃないんだよ。やってくれーって頭下げてくるから、仕方なくだよ。大事なお客さんだもの」
額を押さえたまま動かなくなってしまった黒鋼を、流石に少しは気にしたのか。
聞いているだけでこちらの股間がキュッと萎みそうな空恐ろしいことを言ってのける顔を、指の隙間から睨み付けた。
どうせ楽しんでやっていたに違いない。なんといっても『天職』なのだから。
「だからいいでしょ?」
「……何が」
「家のことやるしー、食費も出すしー、ちゃんと身体で支払いもするしー」
「そうだな」
だったら。
黒鋼は胸の上にぺたりと這わされていたファイの手を強く掴む。そのまま抱き込むようにして身体を反転させ、ベッドに縫い付けた。
突然のことに小さく息を飲んだファイは、真上から見下ろす黒鋼の顔を見て目をパチクリとさせた。
あの雨の夜から、ずっと思っていた。
楽しげに人の身体を弄繰り回し、何もかも思いのままにしようとする憎たらしい笑みを、この手で歪ませてみたい。細腰を掴み上げて、壊れるくらい揺さぶってみたいと、何度も。
「まだするの? 若いねぇ」
「悪いか?」
「別にいいけど、ちょっとこの態勢は嫌かなぁ」
「うるせぇよ」
両膝を掴み、大きく開かせる。ファイは思い切り嫌そうな顔をして身を捩り、そこから逃げ出そうとした。
「おとなしくしろ」
「やだってばー。オレ乗るのは好きだけど、乗られるのは嫌い」
「なんでもてめぇの思い通りになると思うなよ。俺は客じゃねぇ」
「ッ!?」
身体を捻っているファイの片足を抱え込み、体重をかけるようにして押さえつける。
ぱっくりと開いた股の中心に指を差し込むと、先刻まで黒鋼のものを飲み込んでいた穴に人差し指と中指を深く突き立てた。
「いたっ……! ぁ、急に……っ!」
「痛ぇ? もっと太いもん散々食らっといて嘘つくな」
「ちょ、やめ、かき回さないで!」
どうやら本気で嫌がっているらしい声と、絡みつく媚肉の熱さにゾクリとする。ここに自身が納まり、嬲られていたのかと思うと、無意識に喉が鳴った。
二度も出したせいか、逆流した精液が指を突き動かす度にとめどなく溢れる。
ファイはシーツを両手で握りしめ、掻き毟るようにしてもがいていた。抱えられた足の先をバタつかせ、髪を振り乱す。
ここまで嫌がるとは正直予想外ではあるのだが、彼が逃れようとすればするほど、黒鋼の中の溜まりに溜まった凶暴な欲求が満たされ、そしてさらに燃え上がる。
「も、いいってば! オレがするから、黒たんはマグロやってればいいの!」
「ざけんな。性に合わねぇんだよ。受け身ってのは」
「ね、ホントにやめよ? ね?」
「支払いはもう十分だ。余ってる釣りを返さねぇとな」
「――ッ!!」
これ以上の御託はいいとばかりに、黒鋼は指を引き抜いた瞬間、息継ぐ間もなく濡れた穴に自身を突き立てた。
ファイの拒絶の声を聞き、焦る表情を見ただけで、すっかり天を仰ぐほど復活しきっていたそれを、思い切り体重をかけて押し込める。
「イッ、ぅあ……!!」
自分のタイミングで受け入れられない熱の鋭さに、ファイは苦しげに歪めた顔を腕で隠した。唇が震えながら噛みしめられるのを見て、黒鋼は身を乗り出すとそこに短く口づける。
「ッ!」
ビクンと肩を揺らしたファイは、顔を隠すのも忘れて目を見開いた。
なんて間抜けな表情だろうか。これだけ何度も身体を重ねていれば、キスくらいしたって何もおかしくはないのに。
今の今まで、一度もしたことがなかったなんて。
「な、ん……ッ、あっ、――……!?」
濡れた唇が何かを発する前に。ファイの弱い場所を目がけて抉るように突き上げる。何度も何度も繰り返し、呼吸する間も与えないほどに。
黒鋼だってただ攻められるだけに甘んじていたわけではない。彼が自分の上でどう動き、どんな瞬間に甘い息を漏らしていたか、この身体を支配する瞬間に思いを馳せながら、嫌というほど目に焼き付けていた。
汗ばむ素肌が薄紅に染まり、シーツの上で大きくしなる。
「ひッ、ぃ、やめってッ、そこ、ばっか、あ、ア……!」
これ以上ないくらいにベッドが激しく軋む。
ファイの身体がガクガクと揺れて、赤く染まった目元に透明な雫が伝う。苦しげに顔を歪めて、彼は情けなく上擦った声を途切れさせながら「やめて」と何度も繰り返し泣いた。
そのくせ、中心でそそり勃つ性器が揺さぶるたびに美味そうな蜜を零す。意図したものでなく、無意識に締め付ける感触に思わず口元が悦楽に歪む。
組み敷いて穿つだけで、この男はこんなにも余裕をなくす。優位に立てないという状況は、彼にとってどれほどの屈辱なのかと。考えるだけで興奮する。
もっと乱れればいい。泣けばいい。他では満足できなくなるくらい、いっそ溺れ死んでしまえばいい。
「ずいぶん感じてんじゃねぇか。こうされる方が合ってんだろ?」
「あっ、あっ、や、ぁ……! ほん、と、だめ、だめ! もうやだぁ……ッ!」
「こいつがなきゃ生きられなくなってんのは、どっちだ?」
「ヒぁ……――ッ!?」
シーツを掻き毟る両腕を取り、ぐいと強く引き寄せる。
華奢な身体を抱き込んで、自分はベッドに腰を落ち着け胡坐をかいた。体重がさらに深い場所への挿入を助け、最奥への圧迫にファイの身体がギクリと強張った。
「ッ、ぁ、……ッ、ふ、か……すぎ、る、ぅ……」
僅かに見上げる光景は見慣れたものでも、明らかに景色が違って見えた。
ファイは酷く怯えた表情で、時折小さく歯の根を鳴らす。カタカタと震える指先が、縋るもの欲しさに黒鋼の肩に爪を立てていた。
「乗られんのは好かねぇんだろ? おら、望み通りにしてやったぜ。いつもみたいに腰振ってみろよ」
古いなりに頑丈なベッドのスプリングを生かし、がっちりと腰を固定した状態で下から強く突き上げる。ファイは「あ」という形に口を開いたまま、背を反らしてガクンと揺れた。
相当乱暴に扱っているはずなのに、口とは裏腹にファイの性器は萎えない。膨らみ切って先走りを滴らせ、解放を求めて脈打っている。
堪らない。念願が叶っていること以前に。しなる身体を思うさま揺さぶりながら、黒鋼は自身の中に眠っていた獰猛さが解放されるのを感じていた。
こんなものを飼っていたのか。ずっとセックスに対しては淡泊な性分だと思っていた。これといって特別な性癖もなければ、今まで誰と付き合っても、こんな自分にはお目にかかったことが無い。
今、黒鋼は苦痛と快楽がせめぎ合うファイの表情を見て、どうしようもなく高揚していた。
どうしてだろう。どうしてこの男なのだろう。こんな自分を引きずりだしたのが、他の誰でもなく、どうして。
もしかしたら、どこかでこれを恐れていたのかもしれない。
あの雨の夜に初めて男を知ったときから。きっと本能が悟っていた。
傷つけてでも支配したい欲求に、歯止めがきかなくなるであろう自分に。
「あっ、んぐ、ぅ……ッ、い、ィ、く! いく、からぁッ、も、やめ、て……!」
黒鋼の肩の肉を抉りながら、ファイは呻くように言葉を紡いだ。
強烈な熱が一周して、いっそ寒いくらいのゾクゾクとした感覚に鳥肌が立つ。口元を笑みの形に歪めたまま、黒鋼は射抜くように目を細める。
吐息のような声で「いけよ」と漏らせば、ファイは顔をくしゃくしゃにして泣きながら達した。びゅう、と凄まじい勢いで噴出した精液が飛び散る。
ファイは何度も大きく身体を跳ねさせ、小刻みに内腿を痙攣させた。壊れた玩具のように幾度かそれを繰り返したあと、弛緩する。
グッタリとして落ちてきた額が首筋に押し付けられた。
締め付けに息を詰めていた黒鋼は、その後頭部と背中に手を這わせて支えると、挿入したままベッドに押し倒した。
ひ、ひ、と浅い呼吸を繰り返すファイは、どこか呆然とした表情で濁った視線を彷徨わせ、なすがまま力なくシーツに沈んだ。
「飛んでんじゃねぇよ。まだ俺がイってねぇ」
「も、ぉ……ゆる、し……」
ふん、と黒鋼はそれを鼻で笑って一蹴する。
「一ヶ月分だ。気が済むまで付き合ってもらうぜ」
絶望を色濃く滲ませた瞳で、ファイは再び顔を歪める。
そのまま小さな子供のように泣き出す姿に、あの小憎らしい勝者の笑みは影を潜め、そこには売り物でもなんでもない、支配に屈する憐れな男の姿があるだけだった。
*
朝方近くになって、心地よい疲労感からどっぷりと眠りに落ちていた黒鋼は、頭部に強い衝撃を受けて飛び起きた。
「いってぇ!! なんだ!?」
慌てて周囲をキョロキョロと見渡して、薄ぼんやりとした青い闇の中、隣で拳を震わせるファイの存在に気付く。
「てめぇかこら。無抵抗な人間になにしやがる」
「なにしやがる、じゃないよ! この鬼畜! 絶倫ー!!」
「あ? なんだ、ヒステリーか」
「このーっ」
ご立腹のファイは再び拳を叩きつけてこようとした。軽く手の平で受け止めて、腕を捻る。
「いったー! 痛いってば鬼ー! 悪魔ー!!」
「るっせぇ野郎だ……」
「やだって言ったのに! こんな酷い目にあったの初めてだよ!!」
キャンキャンと金髪を逆立てて怒り狂う様子に、黒鋼はうんざりとした息を漏らしながら頭を掻いた。
ボロアパートの壁は薄い。こんな朝方近くに騒がれたのでは近所迷惑に……なんて考えて、今更かと思い直した。騒音ならほぼ一晩中立てていたし、この夜に限ったことでもないし。
下の階や隣から苦情がこないのは、どの住人もどっこいどっこいだからだ。
このアパートに基本女っ気はないが、連れ込む輩は当然いて、昼夜お構いなしにお盛んだったりする。
それでも正直、黒鋼はもう少しゆっくり寝ていたかった。
だから仕方なくこんな時、相手を黙らせるにはどうするべきかと考えて、すぐに行動に移す。
「いくら若いからって精力ありすぎなんだよ! ガッバガバになって使い物にならなくなったらどうしっ、ぃ!?」
掴んだままだった拳を引き寄せ、肩を抱くとうるさい唇を唇で塞いでしまう。
一瞬怯えたように肩をビクつかせたファイは、それで一気に勢いをなくした。
唇はほんの僅かな時間で離れたけれど、効果覿面だったようだ。ぐっと押し黙ってしまったファイは、きっと真っ赤な顔をしているに違いない。腕の中の体温が急激に上がるのを感じて、小さく鼻で笑う。
「緩くて使いもんにならなくなっても、俺専用なら問題ねぇだろ」
「……なに勝手に開き直ってるの」
あーぁ、とため息交じりの声を放って、ファイは諦めたように黒鋼に身を預けてきた。
「こんなことならとっとと自分の部屋に帰ってればよかったなー」
「おっかねぇゴキブリの棲家にか?」
「……もういないもん」
「あ?」
ファイの顔を覗き込む。けれど、薄闇の中で俯かれては、何も見えない。ただ、熱い頬が胸に押し付けられる。
「とっくに駆除してもらったよ。あの雨の夜の翌日に、業者に連絡して」
「……どういうこった?」
「……鈍いなぁ」
「いってぇ!!」
次の瞬間、右の乳首に凄まじい激痛を感じた。
思い切り捻るようにして引っ張られたらしい。容赦ない攻撃に、流石の黒鋼も少し涙ぐんだ。
「いてぇぞこら!! 俺はマゾじゃねぇからな!! そんなんで喜ぶと思うなよ!!」
「知ってるよ! 実はとんでもないドSだったんでしょ! 猫かぶってたんでしょ!」
「……てめぇはマゾッ気があったんだな」
「このっ」
「いって!! だからいてぇっつうに!!」
またしても、今度は逆側をつねられた。
どちらもジンジンと痺れて痛みが引かない。これは下手すると腫れてしまう可能性がある。なんて凶暴な飼い猫だろうか。
最後の方なんて、すっかり壊れて「もっともっと」と泣きながら腰を振っていたくせに。
盛りのついたメス猫のように毛を逆立たせるファイは、なおも乳首をつねろうとしてくる。これ以上やられてたまるかと、逆に仕掛けてみたりして。薄暗い中ではもうお互いにどこをつねっているのか分からない状態だった。
しばらくの間、二人でギャンギャンと吠えながらの攻防が続いた。そうしているうちに、安物のカーテンの向こう側がどんどん白んでくる。
隙間から漏れた光の中で、案の定黒鋼とファイは乳首を真っ赤に腫らして、その他にも赤い痕が点々と散らばっているのが分かった。
流石に疲れたのか、先にぷいっと顔を背けたのはファイだった。
「嫁ぎ先間違えちゃった!」
「この野良猫が。最初っから居つく気満々だったんじゃねぇか」
「……だってー……気に入っちゃったんだもん。これ」
散々黒鋼の乳首や皮膚をつねっていた指先が、今度は股間をツンとつついた。
なんだか複雑な気持ちになる。用があるのはそこだけかと。
だが、こちらだってもうやられっぱなしではない。黒鋼はニヤリと笑うと、攻防のあと僅かに距離が開いていた肩を抱き、胸に引き寄せると素直に腕の中に納まる身体を抱きしめる。
「好きになっちゃダメ、なんて言っといてよ」
「……そんなこと言ったかな」
「先に惚れたんだろ。そうならそうと素直に言え」
「……もっと消極的でおとなしい子だと思ってたんだけどね」
「アテが外れたな」
そんなことを言いながら、本当はどちらが先かなんて問題ではなかった。
あの雨の夜に全てが始まっていて、どうせ二人同時に落ちていたのだろうから。
「餌ぐれぇは好きにくれてやるよ」
狭くて汚くて、見るからに貧しそうなボロアパートでも、住めば都なのだろうし。
どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべて見せれば、ファイはぷうっと唇を膨らませる。それからすかさず「食べ方くらいは選ばせてよね」なんて、居候のくせに生意気なことを言った。
躾けのし甲斐がありそうだと思えば、どんどん楽しい気分になってくる。黒鋼はおとなしくなんかないし、やられたらやり返すし、これからは多分、やられる前にやる。
だから傍にいて、もっともっと後悔すればいい。
そして、そうと決まればまず初めに言っておかねばならないことがあったのを思い出した。
「おまえ」
「なぁに」
「仕事、足洗えよ」
もう少し余裕たっぷりに、命じるように言うつもりが、無意識に真顔になってしまった。ここぞとばかりに揚げ足を取ってくるかと思いきや、ファイは目を丸くしたあと、どこかくすぐったそうに笑って肩を竦めた。
「黒様専用なんだもんね。オレ」
「分かってんじゃねぇか」
双方の意見がまとまったところで、二人は朝日の中、啄むようなキスをした。
←戻る ・ Wavebox👏
珍しくバイトが入っていない日。
日付が変わるよりだいぶ早く帰宅した黒鋼を、のんびりとした間抜けな声が出迎えた。
「その言い方はよせ。気色悪ぃ」
「ひどーい。愛するご主人様のために、ご飯作って待ってたのにー」
何が愛する、だ。小さな玄関と隣接するキッチンスペースで、お玉を持った黒ジャージ姿のファイが、指先で濡れてもいない目元を拭う動作を見せる。
サイズが合っていないため、足元はズルズルに引きずっているし、腕まくりをした袖は肩位置の線が思い切り下にズレている。
そんなわざとらしいリアクションにノーリアクションで応じた黒鋼は、靴を脱ぎながらすんと鼻を鳴らした。
「鍋か?」
「そ。そろそろ帰ってくるだろうと思って、温めなおしてた。一度冷ました方が、味が染みて美味しいもんねー」
階段を上る時点ですでに美味そうな匂いがしていたが、ドアを開けた途端にそれは熱気と共に黒鋼の胃袋を刺激した。
季節は晩秋。冬を間近に鍋というチョイスは悪くない。
なんとなくふらりとコンロ台の前にいるファイの横に並び、火にかけられた蓮こん柄の土鍋の蓋を覗き込んでみる。そしてふと首を傾げた。
「こんな土鍋なんか、うちにあったか?」
聞けば、ファイは手にすっかりはめ込むタイプの鍋掴みを装備して、蓋を開けながら「ないよー」と悠長に答える。
湯気と共によく煮込まれた味噌の香りが立ち込めた。
「んー、美味しそー! えとね、隣のおじさんに貸してもらったんだー。余ってるからって大根も一本くれたよー」
「……隣っておまえ」
ここはとにかくその安さだけが取り柄のような、防犯はセルフと言わんばかりのオンボロアパートだ。
明らかに借金の取り立てから逃れるべく潜伏しているような輩や、逆に取り立てる側の空気を纏う人間もいる。
近所付き合いは皆無に等しいものの、自分の記憶が確かなら、隣は取り立てる側の、いかにもな風貌の中年親父だった気がする。
「たまにお醤油とかも借りるよー。胸毛と刺青が渋くて、優しいオジサンだよね」
「……おまえ、まさかと思うが」
「へ?」
「…………」
横目でじっとりと睨み付ける黒鋼を、ファイは首を傾げながら見上げてきた。
きょとんとした表情だったが、すぐに合点がいったようで「あぁ」と短い声を漏らしながら苦笑する。
「 “売って”ないってよ。ただの純粋な、ご近所付、き、合、い」
猫のように目を細め、緩く口角を持ち上げる笑い方が相変わらず胡散臭いことこの上なかった。
*
このどこか得体の知れない男を一匹飼う羽目になってから、もうじき一ヶ月。
彼はこうして毎晩食事を作って、黒鋼の帰りを待っている。
もちろん朝食も作り、昼の弁当もしっかり作って寄越すという徹底ぶりで、しかもファイの料理は、まるで最初から知っていたかのように黒鋼好みの味付けだった。
別に一人暮らしの食生活に不便を感じていたわけではないのだが、なんだかんだで不規則になりがちだったのは否定できない。こうして手をかけて作られる食事の温かさは、味わってしまうとなかなか離れがたいものがある。
ファイは少々いい加減でズボラなところはあるものの、面倒な掃除や洗濯といった家事もそれなりにこなす。
手先が器用で、特に料理に関してこだわりを見せるだけあり、油汚れを放置したまま色褪せていたキッチンがピカピカに磨かれていたのを見たときは、思わず感動してしまった。
そんなこんなで、ついつい出て行けというタイミングを逃し続けている。
見事に甘い汁だけを吸わされ、飼いならされているのはこちらのような気がしないでもない。が、ファイがいて困るようなことが、ほぼ無いに等しいのだから、ついつい現状に甘んじてしまうのだった。
そして甘い汁といえば。
「ねぇ、してあげよっか」
美味い飯で腹を満たし、鍋がすっかり空になった頃。
そろそろ風呂にするかと考えつつ胡坐をかいて寛いでいた黒鋼の膝に、白い手が這うように触れてきた。
すり寄ってくる薄い肩に、一応は顔を顰めて見せる。
「ゆうべもしただろ。俺は今から風呂だ」
「いいじゃない。どうせ汚れるんだから、お風呂なんて後でいいよ」
「おまえな……」
呆れた溜息も、ファイをくすぐる材料にしかならないようだ。
彼は小さく肩を揺らしながら笑って、金色の前髪を片耳にかけながら身を屈める。節の目立たない華奢な指先で黒鋼の前を寛げると、慣れた手つきで下着の中から萎れた性器を引きずり出してしまう。
「もうこれなしじゃいられない身体になってるんでしょ?」
長い両足を折り重ねるようにして床に身を伏せたファイが、手にしたそれに口づけながら上目使いを寄越す。
最初のうちこそ突っぱねるばかりだった黒鋼も、ほぼ毎晩に渡り巧みな性技を味わわされた結果、今や黙り込むより他になかった。
例え口が裂けても言わないが、身体にしろ技術にしろ、これで稼いでいるだけのことはある。この男の言う通り、おそらくもう他では満足できないだろう。
音を立てながら降り注ぐ口づけと、時折向けられる物欲しげな濡れた瞳と。滑らかな手の中で情けないほど簡単に自身が育っていくのを、ただ黙って見ているしかなかった。
「ッ!」
乱れた息を必死でかみ殺し、柔らかな金糸に覆われた頭部を緩く掴む。
ファイの顔がすっかり身体の中心に埋まる頃になると、黒鋼の性器は熱い口内で膨らみきっていた。
唇で食むように飲み込みながら、こちらの呼吸に合わせて手を動かし、舌の裏側を擦り付けるようにして絡めてきたかと思えば、緩く歯を立ててよこす。
毎度のことだが、これはある種の我慢大会だ。
気を抜いたが最後、あっという間に搾り取られる。そのあとの満足げな笑顔を思い浮かべるだけで悔しさが募り、闘争心の炎に油が注がれていく。
最初から勝敗は見えているというのに。
現に黒鋼は、肉体だけならすでに白旗をあげかけている。どれほど気持ちで意地を張ったとしても、相手はプロで、こちらはただの素人だ。
心の中で「ちくしょう」と幾度も呟き、手の中の金糸をぐっと握りこむ。
閉じた瞼の裏側に、赤い波が押し寄せる。
だがそこで、ファイは鼻から楽しげな息を漏らして性器から口を離してしまった。
「ッ、……!」
あと少しというところで口淫が止み、黒鋼は強張りながら目を開けた。
「ねぇ、イキたい?」
「……なんだよ」
「イキたかったら、聞かせてほしいな。イかせてって言ってごらんよ」
ファイは床に右肘を立て、手の平に顎を載せながら左手の人差し指で先走りの滲む鈴口をくるりと撫でる。
ぐっと喉を詰まらせながら目を細め、眉間の皺を深くする黒鋼に、意地の悪そうな笑みを向けてきた。赤く色づいた唇が濡れて、てらてらと光り輝いている。
「可愛くおねだりしてみてよ。じゃなきゃもう、今日はしてあげない」
(仕掛けてきたのはどっちだこの野郎……)
正直な話、今にも再びこの生意気な口の中に捻じ込んで、喉の奥まで突き上げたい。
小さな顔の両頬を掴んで、泣こうが吐こうがお構いなしに。何度も何度も奥まで犯して、そして限界まで押し込んだところで、思い切り欲望をぶちまけてやりたかった。
この一ヶ月近く、何度も身体を交わらせたにも関わらず、一度も主導権を握れた試しがない。ねじ伏せることなど簡単なはずなのに、どういうわけかファイのペースに流されるばかりで、それが出来ない。
これを生業にしている相手へ対しての遠慮だろうか。翻弄されるだけのセックスに性欲だけが満たされる反面、支配したいという欲求が爆発的に膨らむ一方だった。
それすらも見透かしたように細められた青い瞳には、余裕の色しか見当たらない。優位に立つことに慣れきったその表情が、ただ憎らしい。
指先が、浮き上がった血管をつう、と撫でる。
「ッ、調子に乗りやがって……」
「可愛いなぁ。悔しがってる黒たんの顔、オレだぁい好き」
「そのふざけた呼び方もやめろ!」
「ふふ。ねぇ、言わないならいっそこれ縛っちゃおうか? 絶対にイケないようにして、いっぱい酷いことしてあげる」
冗談じゃない。性器だけでなく、苛立ちもまたギリギリまで張りつめていた。
拳を握りしめた瞬間、図ったかのように先端に口付けられて、奥歯を噛みしめる。欲求が、あっけないほど簡単に怒りを凌ぐ。いつだってこの繰り返し。
もうなんだっていい。今は高ぶらされたままチクチクと弄ばれるこの地獄を、どうにかしたい。
「いいから、とっとと終わらせろ」
黒鋼ができる、精一杯の懇願。
それでも満足したらしいファイは「しょうがないねぇ」と言って笑った。
*
「おまえ、結局これからどうするつもりだ?」
狭いベッドに一糸纏わぬ長身の男が二人。
後頭部で両手を組み、仰向けに寝そべる黒鋼の隣で、身体を起こしたファイはのんきに欠伸をする。
「ふぁー? なにがー?」
「何がじゃねぇよ」
そう言いながら、ちょうどいい位置で視界に収まる白い背中を眺める。
しなやかな背骨のラインと、肩甲骨のくぼみに落ちる影。それをなぞってみたくて、手を伸ばしかけて結局やめる。目を逸らし、鼻から小さく息を漏らした。
「いつまでいる気かって聞いてる」
「んー?」
ファイは振り向きがてらころりと横になり、黒鋼の胸に両手と顎を乗せた。
「なになにー? もしかして出てけって言ってるー?」
ぶぅ、と唇を尖らせる子供っぽい表情に「そうじゃねぇけど」と言葉を濁す。
ついさっきまで人の上に馬乗りになって淫らに腰を振っていたくせに、いちど性欲の波が引くと、まるで憑き物が落ちたように幼さを覗かせる。
結局あれから散々焦らされたあとにイかされて、その後乗り上げてきたファイの中で二度も出してしまった。
「こんなに尽くしてるのに、オレのこと邪険にするんだー」
「だから、そうじゃねぇって」
「じゃあなにー? オレとエッチするの飽きた……?」
「……別に。そうは言ってねぇだろ」
言いにくそうに答えれば、ファイは「だろうね」と言って余裕の笑みを浮かべる。
「せっかくオレなしじゃいられない身体に躾けてあげたんだから」
「躾けって何様のつもりだてめぇは……」
「オレ様ー」
本当に腹の立つ野郎だと思う。
決して否定しきれないから、なおのこと。
黒鋼がふつふつと腸を煮えくり返らせる中、ファイはそれでも何かしらは考えているようで「そうだなぁ」と呟いた。
「確かに、このままってわけにもいかないよねー……」
「一度も戻ってねぇだろ。自分の部屋に」
「だってー……」
ファイは再びぷうっと唇を尖らせた。
あの雨の夜にこの部屋に上がり込んでからというもの、ファイは黒鋼のジャージばかりを着用して生活している。
下着はかろうじてコンビニで適当なものを見繕ったようだが、彼は頑なに自分のマンションに帰ることを拒んでいるようだった。
ちなみにこの一ヶ月、彼が『仕事』に出かけた様子はない。余裕たっぷりな暮らしぶりを側で見ていると、相当貯めこんでいるらしいことは予想がつく。それだけこの男の身体は『高い』ということなのだろう。
「あんな鬼の棲家になんか帰れないよー……」
「鬼って……ただの虫だろ……」
最初こそ何かとてつもない事情があるのだろうかと思っていた黒鋼だが、雨の翌朝、この男が作った朝飯を食いながら聞いた理由は、実にくだらないものだった。
あの朝、彼は味噌汁の中の豆腐を箸でつつきながら、こう言った。
『台所にゴキブリが出て……一匹いると三十匹はいるっていうし……』
聞いたときは思わず鼻で笑ってしまった。
もちろんファイはその反応を見て頬を膨らませたが、大の男がゴキブリ一匹に泣きべそかいて、雨の中を飛び出したのかと思うと、やっぱり情けなくて笑えてしまう。
このアパートを雨宿りの場所に選んだのは、単なる偶然だったらしいが。
「業者にでも頼んでとっとと駆除してもらえ」
「そ、そうだけどー……」
「このままほっといて冬越えしようもんなら、来春はもうひと回りでかくなって出てくんぞ」
ファイはブルっと肩を震わせて、青い顔をしている。
人のことは散々コケにするくせに、たかが虫けらにこの有様とは。
なぜか何も言おうとしないのを見て「何か問題あんのか」と問えば、彼は目を逸らして「別にー」と答えた。
「狭くて汚くて見るからに貧しそうなボロアパートでも、住めば都っていうかー。ゴキブリがいないだけで天国っていうかー、具合のいいペットまでついてて、お得っていうかー?」
「何から何まで癪に障る言い方しやがる」
だいたい、と黒鋼は続けた。
「誰がペットだ。ここは俺んちだぞ。飼われてんのはてめぇの方だってこと忘れんな」
「すっかりオレに乗りこなされちゃってるくせにー?」
「殴るぞ。俺をてめぇの客と一緒にすんじゃねぇ」
「まぁね。黒たんは間違ってもお尻ぶたれて悦ぶタイプじゃないしねー。だから逆にイジメたくなるんだけど」
「…………」
こいつのサドっけ溢れる物言いや仕草を見れば、どんな客層かは容易に想像できる。
だが黒鋼には彼と対になる性癖がない。それこそ金を出してまでケツを叩かれる趣味もなければ、いい加減やりたい放題されるのだって限界だ。
どこかしらでひっくり返してやらなければ、この先もずっと支配者面され続けることになる。
そんなことは真っ平御免だ。いや、そもそも。
(……この先もずっと一緒にいる気かよ)
思わず額を押さえ、深々と溜息を洩らした。
すっかり餌付けされ、その居心地のよさに甘んじ、夜は夜で骨抜きにされて。
娼婦のような顔と無邪気な子供のような顔を使い分ける、この掴みどころのない男をどうにかして掴んでみたくて、気がつけば足掻いている。
散々人の上に乗って好き勝手した後、平然と『客』の話をするファイを目の当りにして、改めてこの男は『商品』なのだということを思い知ったような気がした。
ならば金と引き換えに身体で夢を与える彼にとって、自分もまたその他大勢と同じ存在ということになるのだろうか。宿を提供する代わりに、ちょっと他人より多くサービスをしてもらっているだけの。
だとしたら。
(……面白くねぇな)
どうしてか、異様なまでに腹が立つ。
言葉では言い表せない何かが、黒鋼の中に黒く渦巻いている。ぎりぎりまで膨らんだ風船が、許容量を超えて破裂するみたいに。
「ねぇ誤解しないでよー。別に好きでオッサンのお尻ぶったり、足で思いっきり玉潰したわけじゃないんだよ。やってくれーって頭下げてくるから、仕方なくだよ。大事なお客さんだもの」
額を押さえたまま動かなくなってしまった黒鋼を、流石に少しは気にしたのか。
聞いているだけでこちらの股間がキュッと萎みそうな空恐ろしいことを言ってのける顔を、指の隙間から睨み付けた。
どうせ楽しんでやっていたに違いない。なんといっても『天職』なのだから。
「だからいいでしょ?」
「……何が」
「家のことやるしー、食費も出すしー、ちゃんと身体で支払いもするしー」
「そうだな」
だったら。
黒鋼は胸の上にぺたりと這わされていたファイの手を強く掴む。そのまま抱き込むようにして身体を反転させ、ベッドに縫い付けた。
突然のことに小さく息を飲んだファイは、真上から見下ろす黒鋼の顔を見て目をパチクリとさせた。
あの雨の夜から、ずっと思っていた。
楽しげに人の身体を弄繰り回し、何もかも思いのままにしようとする憎たらしい笑みを、この手で歪ませてみたい。細腰を掴み上げて、壊れるくらい揺さぶってみたいと、何度も。
「まだするの? 若いねぇ」
「悪いか?」
「別にいいけど、ちょっとこの態勢は嫌かなぁ」
「うるせぇよ」
両膝を掴み、大きく開かせる。ファイは思い切り嫌そうな顔をして身を捩り、そこから逃げ出そうとした。
「おとなしくしろ」
「やだってばー。オレ乗るのは好きだけど、乗られるのは嫌い」
「なんでもてめぇの思い通りになると思うなよ。俺は客じゃねぇ」
「ッ!?」
身体を捻っているファイの片足を抱え込み、体重をかけるようにして押さえつける。
ぱっくりと開いた股の中心に指を差し込むと、先刻まで黒鋼のものを飲み込んでいた穴に人差し指と中指を深く突き立てた。
「いたっ……! ぁ、急に……っ!」
「痛ぇ? もっと太いもん散々食らっといて嘘つくな」
「ちょ、やめ、かき回さないで!」
どうやら本気で嫌がっているらしい声と、絡みつく媚肉の熱さにゾクリとする。ここに自身が納まり、嬲られていたのかと思うと、無意識に喉が鳴った。
二度も出したせいか、逆流した精液が指を突き動かす度にとめどなく溢れる。
ファイはシーツを両手で握りしめ、掻き毟るようにしてもがいていた。抱えられた足の先をバタつかせ、髪を振り乱す。
ここまで嫌がるとは正直予想外ではあるのだが、彼が逃れようとすればするほど、黒鋼の中の溜まりに溜まった凶暴な欲求が満たされ、そしてさらに燃え上がる。
「も、いいってば! オレがするから、黒たんはマグロやってればいいの!」
「ざけんな。性に合わねぇんだよ。受け身ってのは」
「ね、ホントにやめよ? ね?」
「支払いはもう十分だ。余ってる釣りを返さねぇとな」
「――ッ!!」
これ以上の御託はいいとばかりに、黒鋼は指を引き抜いた瞬間、息継ぐ間もなく濡れた穴に自身を突き立てた。
ファイの拒絶の声を聞き、焦る表情を見ただけで、すっかり天を仰ぐほど復活しきっていたそれを、思い切り体重をかけて押し込める。
「イッ、ぅあ……!!」
自分のタイミングで受け入れられない熱の鋭さに、ファイは苦しげに歪めた顔を腕で隠した。唇が震えながら噛みしめられるのを見て、黒鋼は身を乗り出すとそこに短く口づける。
「ッ!」
ビクンと肩を揺らしたファイは、顔を隠すのも忘れて目を見開いた。
なんて間抜けな表情だろうか。これだけ何度も身体を重ねていれば、キスくらいしたって何もおかしくはないのに。
今の今まで、一度もしたことがなかったなんて。
「な、ん……ッ、あっ、――……!?」
濡れた唇が何かを発する前に。ファイの弱い場所を目がけて抉るように突き上げる。何度も何度も繰り返し、呼吸する間も与えないほどに。
黒鋼だってただ攻められるだけに甘んじていたわけではない。彼が自分の上でどう動き、どんな瞬間に甘い息を漏らしていたか、この身体を支配する瞬間に思いを馳せながら、嫌というほど目に焼き付けていた。
汗ばむ素肌が薄紅に染まり、シーツの上で大きくしなる。
「ひッ、ぃ、やめってッ、そこ、ばっか、あ、ア……!」
これ以上ないくらいにベッドが激しく軋む。
ファイの身体がガクガクと揺れて、赤く染まった目元に透明な雫が伝う。苦しげに顔を歪めて、彼は情けなく上擦った声を途切れさせながら「やめて」と何度も繰り返し泣いた。
そのくせ、中心でそそり勃つ性器が揺さぶるたびに美味そうな蜜を零す。意図したものでなく、無意識に締め付ける感触に思わず口元が悦楽に歪む。
組み敷いて穿つだけで、この男はこんなにも余裕をなくす。優位に立てないという状況は、彼にとってどれほどの屈辱なのかと。考えるだけで興奮する。
もっと乱れればいい。泣けばいい。他では満足できなくなるくらい、いっそ溺れ死んでしまえばいい。
「ずいぶん感じてんじゃねぇか。こうされる方が合ってんだろ?」
「あっ、あっ、や、ぁ……! ほん、と、だめ、だめ! もうやだぁ……ッ!」
「こいつがなきゃ生きられなくなってんのは、どっちだ?」
「ヒぁ……――ッ!?」
シーツを掻き毟る両腕を取り、ぐいと強く引き寄せる。
華奢な身体を抱き込んで、自分はベッドに腰を落ち着け胡坐をかいた。体重がさらに深い場所への挿入を助け、最奥への圧迫にファイの身体がギクリと強張った。
「ッ、ぁ、……ッ、ふ、か……すぎ、る、ぅ……」
僅かに見上げる光景は見慣れたものでも、明らかに景色が違って見えた。
ファイは酷く怯えた表情で、時折小さく歯の根を鳴らす。カタカタと震える指先が、縋るもの欲しさに黒鋼の肩に爪を立てていた。
「乗られんのは好かねぇんだろ? おら、望み通りにしてやったぜ。いつもみたいに腰振ってみろよ」
古いなりに頑丈なベッドのスプリングを生かし、がっちりと腰を固定した状態で下から強く突き上げる。ファイは「あ」という形に口を開いたまま、背を反らしてガクンと揺れた。
相当乱暴に扱っているはずなのに、口とは裏腹にファイの性器は萎えない。膨らみ切って先走りを滴らせ、解放を求めて脈打っている。
堪らない。念願が叶っていること以前に。しなる身体を思うさま揺さぶりながら、黒鋼は自身の中に眠っていた獰猛さが解放されるのを感じていた。
こんなものを飼っていたのか。ずっとセックスに対しては淡泊な性分だと思っていた。これといって特別な性癖もなければ、今まで誰と付き合っても、こんな自分にはお目にかかったことが無い。
今、黒鋼は苦痛と快楽がせめぎ合うファイの表情を見て、どうしようもなく高揚していた。
どうしてだろう。どうしてこの男なのだろう。こんな自分を引きずりだしたのが、他の誰でもなく、どうして。
もしかしたら、どこかでこれを恐れていたのかもしれない。
あの雨の夜に初めて男を知ったときから。きっと本能が悟っていた。
傷つけてでも支配したい欲求に、歯止めがきかなくなるであろう自分に。
「あっ、んぐ、ぅ……ッ、い、ィ、く! いく、からぁッ、も、やめ、て……!」
黒鋼の肩の肉を抉りながら、ファイは呻くように言葉を紡いだ。
強烈な熱が一周して、いっそ寒いくらいのゾクゾクとした感覚に鳥肌が立つ。口元を笑みの形に歪めたまま、黒鋼は射抜くように目を細める。
吐息のような声で「いけよ」と漏らせば、ファイは顔をくしゃくしゃにして泣きながら達した。びゅう、と凄まじい勢いで噴出した精液が飛び散る。
ファイは何度も大きく身体を跳ねさせ、小刻みに内腿を痙攣させた。壊れた玩具のように幾度かそれを繰り返したあと、弛緩する。
グッタリとして落ちてきた額が首筋に押し付けられた。
締め付けに息を詰めていた黒鋼は、その後頭部と背中に手を這わせて支えると、挿入したままベッドに押し倒した。
ひ、ひ、と浅い呼吸を繰り返すファイは、どこか呆然とした表情で濁った視線を彷徨わせ、なすがまま力なくシーツに沈んだ。
「飛んでんじゃねぇよ。まだ俺がイってねぇ」
「も、ぉ……ゆる、し……」
ふん、と黒鋼はそれを鼻で笑って一蹴する。
「一ヶ月分だ。気が済むまで付き合ってもらうぜ」
絶望を色濃く滲ませた瞳で、ファイは再び顔を歪める。
そのまま小さな子供のように泣き出す姿に、あの小憎らしい勝者の笑みは影を潜め、そこには売り物でもなんでもない、支配に屈する憐れな男の姿があるだけだった。
*
朝方近くになって、心地よい疲労感からどっぷりと眠りに落ちていた黒鋼は、頭部に強い衝撃を受けて飛び起きた。
「いってぇ!! なんだ!?」
慌てて周囲をキョロキョロと見渡して、薄ぼんやりとした青い闇の中、隣で拳を震わせるファイの存在に気付く。
「てめぇかこら。無抵抗な人間になにしやがる」
「なにしやがる、じゃないよ! この鬼畜! 絶倫ー!!」
「あ? なんだ、ヒステリーか」
「このーっ」
ご立腹のファイは再び拳を叩きつけてこようとした。軽く手の平で受け止めて、腕を捻る。
「いったー! 痛いってば鬼ー! 悪魔ー!!」
「るっせぇ野郎だ……」
「やだって言ったのに! こんな酷い目にあったの初めてだよ!!」
キャンキャンと金髪を逆立てて怒り狂う様子に、黒鋼はうんざりとした息を漏らしながら頭を掻いた。
ボロアパートの壁は薄い。こんな朝方近くに騒がれたのでは近所迷惑に……なんて考えて、今更かと思い直した。騒音ならほぼ一晩中立てていたし、この夜に限ったことでもないし。
下の階や隣から苦情がこないのは、どの住人もどっこいどっこいだからだ。
このアパートに基本女っ気はないが、連れ込む輩は当然いて、昼夜お構いなしにお盛んだったりする。
それでも正直、黒鋼はもう少しゆっくり寝ていたかった。
だから仕方なくこんな時、相手を黙らせるにはどうするべきかと考えて、すぐに行動に移す。
「いくら若いからって精力ありすぎなんだよ! ガッバガバになって使い物にならなくなったらどうしっ、ぃ!?」
掴んだままだった拳を引き寄せ、肩を抱くとうるさい唇を唇で塞いでしまう。
一瞬怯えたように肩をビクつかせたファイは、それで一気に勢いをなくした。
唇はほんの僅かな時間で離れたけれど、効果覿面だったようだ。ぐっと押し黙ってしまったファイは、きっと真っ赤な顔をしているに違いない。腕の中の体温が急激に上がるのを感じて、小さく鼻で笑う。
「緩くて使いもんにならなくなっても、俺専用なら問題ねぇだろ」
「……なに勝手に開き直ってるの」
あーぁ、とため息交じりの声を放って、ファイは諦めたように黒鋼に身を預けてきた。
「こんなことならとっとと自分の部屋に帰ってればよかったなー」
「おっかねぇゴキブリの棲家にか?」
「……もういないもん」
「あ?」
ファイの顔を覗き込む。けれど、薄闇の中で俯かれては、何も見えない。ただ、熱い頬が胸に押し付けられる。
「とっくに駆除してもらったよ。あの雨の夜の翌日に、業者に連絡して」
「……どういうこった?」
「……鈍いなぁ」
「いってぇ!!」
次の瞬間、右の乳首に凄まじい激痛を感じた。
思い切り捻るようにして引っ張られたらしい。容赦ない攻撃に、流石の黒鋼も少し涙ぐんだ。
「いてぇぞこら!! 俺はマゾじゃねぇからな!! そんなんで喜ぶと思うなよ!!」
「知ってるよ! 実はとんでもないドSだったんでしょ! 猫かぶってたんでしょ!」
「……てめぇはマゾッ気があったんだな」
「このっ」
「いって!! だからいてぇっつうに!!」
またしても、今度は逆側をつねられた。
どちらもジンジンと痺れて痛みが引かない。これは下手すると腫れてしまう可能性がある。なんて凶暴な飼い猫だろうか。
最後の方なんて、すっかり壊れて「もっともっと」と泣きながら腰を振っていたくせに。
盛りのついたメス猫のように毛を逆立たせるファイは、なおも乳首をつねろうとしてくる。これ以上やられてたまるかと、逆に仕掛けてみたりして。薄暗い中ではもうお互いにどこをつねっているのか分からない状態だった。
しばらくの間、二人でギャンギャンと吠えながらの攻防が続いた。そうしているうちに、安物のカーテンの向こう側がどんどん白んでくる。
隙間から漏れた光の中で、案の定黒鋼とファイは乳首を真っ赤に腫らして、その他にも赤い痕が点々と散らばっているのが分かった。
流石に疲れたのか、先にぷいっと顔を背けたのはファイだった。
「嫁ぎ先間違えちゃった!」
「この野良猫が。最初っから居つく気満々だったんじゃねぇか」
「……だってー……気に入っちゃったんだもん。これ」
散々黒鋼の乳首や皮膚をつねっていた指先が、今度は股間をツンとつついた。
なんだか複雑な気持ちになる。用があるのはそこだけかと。
だが、こちらだってもうやられっぱなしではない。黒鋼はニヤリと笑うと、攻防のあと僅かに距離が開いていた肩を抱き、胸に引き寄せると素直に腕の中に納まる身体を抱きしめる。
「好きになっちゃダメ、なんて言っといてよ」
「……そんなこと言ったかな」
「先に惚れたんだろ。そうならそうと素直に言え」
「……もっと消極的でおとなしい子だと思ってたんだけどね」
「アテが外れたな」
そんなことを言いながら、本当はどちらが先かなんて問題ではなかった。
あの雨の夜に全てが始まっていて、どうせ二人同時に落ちていたのだろうから。
「餌ぐれぇは好きにくれてやるよ」
狭くて汚くて、見るからに貧しそうなボロアパートでも、住めば都なのだろうし。
どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべて見せれば、ファイはぷうっと唇を膨らませる。それからすかさず「食べ方くらいは選ばせてよね」なんて、居候のくせに生意気なことを言った。
躾けのし甲斐がありそうだと思えば、どんどん楽しい気分になってくる。黒鋼はおとなしくなんかないし、やられたらやり返すし、これからは多分、やられる前にやる。
だから傍にいて、もっともっと後悔すればいい。
そして、そうと決まればまず初めに言っておかねばならないことがあったのを思い出した。
「おまえ」
「なぁに」
「仕事、足洗えよ」
もう少し余裕たっぷりに、命じるように言うつもりが、無意識に真顔になってしまった。ここぞとばかりに揚げ足を取ってくるかと思いきや、ファイは目を丸くしたあと、どこかくすぐったそうに笑って肩を竦めた。
「黒様専用なんだもんね。オレ」
「分かってんじゃねぇか」
双方の意見がまとまったところで、二人は朝日の中、啄むようなキスをした。
←戻る ・ Wavebox👏
築30年以上の、新耐震基準前のボロアパート。
セキュリティ面や諸々の問題で、仲介業者がここを女性に紹介することは、まずありえない。
よって住人は男性ばかりで、その誰もがどこか訳あり感を漂わせる胡散臭げな人間か、黒鋼のような貧乏学生ばかりだった。
そのおかげか、逆に怪しげな人間は近寄らないという利点があった。
泥棒に入るにしても、ここはとてもではないが裕福な人間が住んでいるとは思えないし、女性がいないのでは変質者も腕の奮いようがないのだ。妙な性癖を持った人間であれば、話は別だが。
だから彼を見たとき、黒鋼はいかんとも判断しがたく、ただ眉を寄せるだけだった。
時刻は午前零時をとっくに過ぎている。
バイト先のスポーツクラブでの勤めを終え、寄り道をせずに真っ直ぐ帰宅すれば、大体いつもこの時間だった。
男は黒いスーツに身を包み、錆びた鉄製の階段の裏側に、自転車と並ぶようにして蹲っていた。雨に濡れそぼり、抱きしめた両膝に顔をすっかり埋めているせいで、その表情は見えない。
点滅する薄暗い照明の下、金髪であるということがかろうじて確認できる程度だ。
このアパートの住人の誰かに、待ちぼうけを食らっているのか。それとも、ただ単に雨宿りにここを選んだのか。
いずれにしろ怪しげであることに変わりはなく、黒鋼はただそれを横目に傘を閉じ、鉄製の階段に足をかけた。自室はこれを上りきった先の一番奥だ。
だが半分だけ上りきったところで、足を止める。暫し逡巡した後、身を屈めて鉄の板の隙間から男を見下ろし、声をかけてみる。
「おい」
雨に掻き消されるかと思ったが、声は確かに届いたようだった。男がビクリと肩を震わせ、顔を上げる。
青い目だった。顔立ちも綺麗に整っていて、色が白い。その線の細さと、どこか不安げな表情から、薄暗さも相まって一瞬女性かと思うほど。
「それ以上濡れたくなけりゃあ、他所へ行った方がいいぜ。じきにここは滝になる」
ここはその水はけの悪さから、酷い雨の翌日には、階段から滝のように水が激しく滴る。
いつまでいるつもりかは知らないが、それを知らずに直撃を食らうことがあれば、流石に気の毒だと思った。
すでに全身がどうしようもないくらいずぶ濡れであったとしても。
「……?」
彼は青い瞳を大きく見開き、不思議そうに小首を傾げた。言葉が通じないのかもしれない。水を含んだ金色が、冷えて青白くなった頬に張り付いている。上手い具合に哀れっぽさが演出されていて、黒鋼は思わず舌を打つ。
日本語スキル以外は、はっきり言って貧困だ。彼がどこの国の人間かは知らないが、どうにかして伝えようにも、内容が若干特殊である。
ジェスチャーを交えるより他にないかと、仕方なく半分だけ上った階段を降りると、自身も階段下に入り込む。
彼の前に立ちはだかり、口を開こうとしたとき、男はにっこり笑って両手を振った。
「大丈夫。オレ、日本語わかるよ。ありがとう」
確かに流暢な日本語だった。黒鋼は少しだけほっとして、すぐに引き返そうとした。だが、くいっと腕を何かが引いた。
「なんだ」
白い指先が、黒鋼のジャケットの袖をぎゅっと摘んでいる。
まるで帰り道を見失った迷子のようだ。彼は縋るような目をしながら、少し困った様子だった。何かを言おうとして迷っている。そう感じた。
黒鋼は手にしていた傘を思わず差し出した。どうせ安物だ。くれてやったとて、痛くも痒くもない。だが彼はやんわりと笑って首を振る。
「あのさ、それもありがたいんだけど、無理を承知でお願いしてもいいかな?」
「?」
「とりあえず、泊めてくれない?」
「あ?」
言うだけ言うと、男は軽快に立ち上がる。華奢だが、背の高い青年だった。
身体のラインが際立つ細身のスーツに、ノーネクタイのシャツから覘く形のいい鎖骨。
あからさまに夜の匂いを纏わせた男だが、少し垂れた目尻に、どこか危うい幼さと愛嬌が添えられている。
彼は両手を開くと「怪しいけど怪しくないよ」と言った。無防備であることを主張しているのだろうが、ふにゃりとした笑顔が逆に十分怪しかった。
「立ち話もなんだし、上がろうか。ちゃんと訳も話すよ」
「おいこら、何勝手に決めて」
「袖すりあうも多勢に無勢ってねー」
「多生の縁だ、あ、おい!」
そう言うと、男は黒鋼の横を擦り抜けて、さっさと階段を上っていく。
「部屋どこー? 早くー!」
どうかしていたのだと思う。
黒鋼は、出会ったばかりの名も知らぬ異国の青年の侵入を、許してしまった。
*
この部屋にもともと備え付けてあった木製のベッドは、前の住人の置き土産だった。
今日のような湿気の多い日には、身じろぎするだけでギシギシと嫌な音を立てて軋む。だが黒鋼は驚くほど寝相がよかったので、基本的にその音に悩まされることはなかった。
それが、なぜか今夜はやけに軋んでいる。
「おい」
「なぁにー?」
青年はファイと名乗った。本名かはわからない。
結局のことろ、強引に押し切る形で上がり込んだファイは、物珍しそうに六畳二間の家具の少ない室内をウロウロと物色しながら、くだらないことを喋るだけだった。
そして今、どういうわけか黒鋼は、華奢な身体によってベッドに押し倒されている。
「俺はそっちの趣味はねぇよ」
「ふふ」
猫のようなしなやかさで、犬のように無邪気に身を寄せてくる彼に、流されたと言えば単純だった。こんな見ず知らずの他人を部屋に上げてしまっただけでも、今夜の自分はどうかしている。
いざとなればこんな細いだけの身体など、ゴミのように窓から放り出すだけのことは容易だろう。
「一宿一飯のご恩返しってやつ。ね? オレ、結構イイよ」
黒鋼に馬乗りになって、ファイはスーツのジャケットを脱ぐと放った。濡れた白いシャツが張り付いていて、うっすらと肌が伺える。
自分には確かにこちらの気はない。あくまでノーマルな性癖を持ち合わせていると思う。当然、女性にしか興奮したことはないし、女性としか身体を重ねたことはない。
けれど今、その華奢な線を目の前に、黒鋼は胸の奥底が疼くのを不本意にも感じていた。
なぜだろう。彼には、そう思わせるだけの何かがあった。他の男とは、明らかにどこか違う。
「……商売人か」
それは的を射ていたらしい。彼は肩を揺らして笑い、どこかもったいぶるような動作で、ゆっくりとボタンを外している。焦れったいと感じてしまった時点で、もう黒鋼に彼を投げ飛ばすだけの意思は消えていたのかもしれない。
「ハマるよ、きっとね」
どうせ今夜の自分は何かがおかしいのだ。じゃなきゃこんな胡散臭い人間を相手にする気はない。
考えるのも、軌道を正すのも正直面倒だった。疲れているのだろうか。
彼はシャツのボタンを半分だけ外して、後は手を止めてしまった。膨らみのない、平らな胸が隙間から覗く。白い肌。触れようと手を伸ばして、やんわりと制される。
「だーめ。オレがするんだから。はい、バンザイしてー」
ファイの手が黒鋼のシャツをたくし上げる。小さな子供に言うような物言いにムッとしつつ、なぜか逆らえない。せめてもの反抗にその手を払うと、半身を僅かに起こして自らシャツを脱ぎ捨てた。
ピュー、と下手くそな口笛を吹きながら、ファイは白くしなやかな手を黒鋼の胸に這わせた。
「思ったとおり凄い……。ねぇ、絶対なにかスポーツとかしてるでしょー?」
「さぁな」
「なんだかドキドキするね」
白々しいと思う。けれど、ファイはうっとりとした恍惚の表情を浮かべ、すっかり身を屈めると、胸元に頬擦りをする。生乾きの金糸が皮膚を滑る感覚がくすぐったい。
ぴちゃりと音がする。首筋に、鎖骨に、舌が這う。それは初めて受身で感じる愛撫の感覚だった。
「ッ、おい、噛むんじゃねぇ」
「ふふ、痛いの嫌い? 気持ちよくない?」
「よくねぇよ。てめぇが好きなんだろ」
「さぁー? それはどうかな?」
本当に、もったいぶる男だと思う。時折香る甘い香りに、黒鋼は頭がクラクラとする感覚を持て余した。不慣れということもあるが、やはり受身は性に合わない。
「おい」
なおも唇と舌を這わせ、下へ下へと身体をずらしていくファイの髪に指を通した。
顔を上げた彼は、黒鋼の身体の中心を開放しながら、含んだように笑う。ベルトも器用に外されて、チャックを下ろされる音がやけにリアルに聞こえた。
下着の上から膨らみかけのそれを撫でられ、悔しいが一瞬息が詰まる。
「っ……」
下着をずらされ、慣れた手つきが性器を取り出した。ファイはそれにすらうっとりとした目をして、愛おしそうに頬擦りをする。
「こっちも凄いよ……大きくて、素敵だね」
煌々と照らす蛍光灯の白い明りの下で、赤黒い性器に口づける白皙の青年という図は、黒鋼にえも言われぬ倒錯感をもたらした。
ごくりと息を飲む気配が伝わったのか、彼は見せ付けるようにしてそれをねっとりと舐めあげて、口に含んだ。
「くっ……!」
瞬間、冗談じゃないと思った。
得体の知れない相手に、しかも男に性器を咥えられて、駆け抜けたのは嫌悪ではなく、今にも腰が砕けそうなほどの甘い快感だなんて。どうかしている。
彼の口や舌や手が、信じられないほど的確に黒鋼を官能の高みへと導いていく。膨らみきったそれを苦しげに、時折くぐもった声を上げながらも、実に美味そうにしゃぶっている。欲望の詰まりきった袋さえも柔らかく転がすようにして刺激するその手つきは、当然ながら慣れたものだった。
不思議と、苛立ちが募る。
なぜかは分からない。思考はすでに塞き止められていた。そもそも考える必要さえないはずなのに。
熱い口内では舌が巧みに性器に絡みつき、時折絶妙な力とタイミングで歯が当たる。悔しいと思いはしても、嫌でも腰が跳ねた。淫らな吸い付きに、黒鋼の若い身体は急速に解放を求めていた。
濡れた音が唇から漏れ聞こえ、上下する動きが早くなる。黒鋼は歯を食いしばり、柔らかな金糸を掴む。
「ッ、……おい……っ」
もう離せと言おうとして、間に合わなかった。引き離そうとした瞬間にはおびただしい量の精を放っていた。
「――ッ!!」
「んんっ……!」
口の中で黒鋼が全てを出し切っても、彼はそれを離さなかった。喉を鳴らして、放たれた精液を飲み込んでいる。黒鋼が半身を起こして頭を引き離そうとしても、ファイはくぐもった笑い声を上げてさらにそれを貪欲に咥え込んだ。
「て、め……っ、はなし……っ」
射精したばかりの性器を、仕上げとばかりにゆるく吸われ、扱かれる。彼は残りの全ても吸い出すようにそれを続けた後、ようやく口を離して身体を起こした。その目元が赤く染まり、うっとりとした瞳が今にも零れ落ちそうなほど潤んでいる。
濡れた唇から、忙しなく浅い呼吸が紡がれる。なんて淫らな男だろうか。
「飲むやつがあるか……」
簡単にいかされてしまったという事実に、プライドを傷つけられていた。
しかも、女性を相手にここまで要求したこともなければ、ましてやされたこともない。黒鋼は、どちらかと言えばセックスに対して淡泊な方だった。
ファイは指先で口の端についた残りの精液を掬い取ると、それも残さず舐めとった。自身の指を吸う様に、再び下半身が疼く。
「ご馳走様でしたー。結構濃かったね。久しぶりだった?」
「うるせぇな……」
「でも、まだ元気だ」
ファイが笑う。黒鋼は苛立ちと羞恥から彼を退けようとするが、白い手が再び性器を握る。
「って、めぇ……何を」
「何ってー? だってこれだけじゃ、まだ足りないでしょう?」
「あ?」
いいから寝ててよ、とファイは言った。白い手が胸に押し当てられて、再び背中をシーツに預ける形になる。
まさか、という予感はやはり的中した。さすがにそこまでは、という思いは、スラックスと下着を脱いだファイが晒した白い腿によって、掻き消される。肉の薄い太腿が、明りの下でしっとりと汗ばんでキラキラと輝いていた。
だが何より黒鋼が驚愕を覚えたのは、ファイの薄紅色の性器が勃起していたことだった。男のものをしゃぶって、この男はこれほどまでに興奮するのか。
いまだ中途半端に前を乱したままのシャツの裾から、金色の淡い茂みと美しい色をした性器がチラチラと覗くたび、黒鋼は自分自身に驚きを隠せない。
嫌悪感がまるでないのだ。むしろ、触れてみたいとさえ思う。先刻されたように、この経験豊かとは到底思えないような綺麗な色をした性器を弄んでやったら、この男はどうなるのだろうか。憎たらしい余裕の表情は、どのように歪むのだろう。
それとも、それさえもまるで女優のような演技で魅せつけるのだろうか。
「胡散臭いヤツだって顔してるね」
「今更だろうが」
「演技でこんな風になんてならないよ。いつだってちゃんと感じるし、楽しんでる。少なくとも、オレはね」
「天職ってやつか?」
「ふふ。何だって楽しんでお金貰えた方が幸せじゃない?」
確かにそうだと思う。黒鋼が学業の傍ら選んだスポーツインストラクターのバイトも、もともと身体を動かすのが好きだったからだ。そうやって好きと趣味を兼ねた仕事で収入を得ているのだから、変わりはないのかもしれない。
「ちょっとは偏見、無くせたー?」
知るか、と吐き捨てた黒鋼に、ファイは目を細めて微笑んだ。そして自分の人さし指と中指を口に含み、丹念に舐めはじめる。
その様子は先ほどまで受けていた口淫を思い起こさせて、目が離せなくなる。熱心に、糸が引くまで二本の指をしゃぶる姿を、黒鋼はただひたすら見つめた。
静まりかけていた胸の鼓動が、再び忙しなく音を立てる。
やがてファイはその濡れた指を己の身体の中心の、奥まった場所へと忍ばせた。黒鋼だって、多少の知識くらいはある。彼が目を閉じ、眉に皺を寄せながら何をしているかなど、その揺れる腰の動きから一目瞭然だった。
「んっ、ふ……」
「……おい」
「平気……ちょっとだけ、ぁ、待ってて」
そこは本来、受け入れるために存在する器官ではないはずだった。苦しげに額に汗を滲ま腰を揺らす姿は扇情的だが、こうしてただ手をこまねいて見ているだけでいいものかと、わずかに戸惑う。
ファイはまるで見透かしているかのように笑った。
「優しいね」
「なんのことだ」
「んっ」
さほど時間をかけることもなく、彼は指を引き抜いた。そして、すっかり力を取り戻している黒鋼の性器に指を添え、身体の位置を調節する。
その頃には、黒鋼はファイの姿にただただ魅入るばかりだった。実際、えらく情けない顔をして惚けていたかもしれない。
ファイが黒鋼と視線を合わせながら微笑むのと、彼がぐっと腰を落とし始めるのは同時だった。
「――ッ!!」
黒鋼は思わずその圧迫感に息を飲んだ。咄嗟にファイを見れば、彼は蕩けきったような表情で口元に笑みを浮かべていた。ゾクリと背筋に電流が走ったような感覚に襲われる。皮膚の表面をざわざわとしたものが駆け巡った。
「は……ッ、おっき、ぃ……!」
腹の上に体重を支えるようにして置かれていた白い手が、皮膚に爪を立てる。それさえも快感として黒鋼を丸のみにしていく。思わず両手で彼の白い腿に触れた。薄い肉を強く掴むと、彼は喉を反らして甘く啼いた。
やがて、黒鋼自身が熱く絡みつく肉壷に全て納まった。ファイは細い肩を大きく上下に震わせながら、荒々しい呼吸を繰り返している。その額から汗が一粒滑り落ち、黒鋼の脇腹を流れ落ちた。
黒鋼は知らず詰めていた呼吸を大きく吐き出した。今にも食い千切られそうなほどの圧迫感に、歯を食いしばる。彼が少しでも腰を揺らせば、一瞬にして再び搾り取られてしまうかもしれない。そこは柔らかな女の膣とは天と地ほどの差があった。
「おい……てめぇ、平気か……?」
さすがにキツかったのではないかと声をかければ、暫くは俯いて呼吸を整えていたファイは顔を上げ、ふんにゃりと情けないようにも見える笑みを浮かべた。
「ちょっと、ね。最近の子はホント発育がいいなぁ」
「てめぇ幾つだよ……」
「あっ、ぅん……! ダメ、じっとしてて……」
微かな振動でさえ刺激が強いのか、ファイが上げた甘い声に思わず喉が鳴った。高く上ずった声だった。
正直なところ、すぐにでも好き勝手突き上げたい衝動が胸の内に渦を巻いていた。だが、悔しいけれどこんな状況になってまで勝手が掴めない。
下手に暴走すれば、傷つけるのではないかという懸念が、ギリギリの所で理性を保たせている。相手がこういった行為に慣れているとしてもだ。
ひたすら息を飲み、掴み上げた腿への力を強めるだけしかできない黒鋼に、ファイが笑った。
「本当に……優しいね、君は」
優しいつもりなどない。それでもこの見透かされ、丸裸にされている感覚はどうしても癪に障る。なんていけ好かない男だろうと。
「いい子」
乗り出したファイが、思いっきり深く眉間に皺を刻む黒鋼の鼻先に口付けた。
思えば彼とはまだ唇を合わせていない。恋人同士のセックスではないのだから、そんなものに意味がないことは知っている。そもそもこの行為自体に、最初から意味などない。
ファイがゆっくりと腰を動かし始める。見上げる彼の表情が、何かを堪えるように歪んだ。けれど黒鋼にはそれをじっくりと観察するだけの余裕がない。少しでも歯を食いしばって堪えていなければ、すぐにでも達してしまいそうだ。
あの小憎たらしい微笑みを見るのは、正直もうウンザリだった。
「あっ、ぅ……あッ! すご、ぃ……ッ、太くて、きもちいい……!」
最初はゆっくりと、やがて激しく、彼はしきりに腰を揺すった。黒鋼はその細い腰に両手を添える。自然と入ってしまう力に、くすぐったいのかファイが身をくねらせる。シャツの隙間から突き出た性器が、淫らな動きに合わせて踊っていた。その先走りが零れる度に、黒鋼の腹を生暖かいものが濡らしていく。どうしようもなく興奮した。
いつしか黒鋼も、まるで彼の動きを補助するかのように腰を動かしていた。だが、いまだ主導権は完全に相手にある。
「イって、いい、よ……ッ、何回でも……っ」
「っ、……く、そ……!」
ギリギリまで堪えるつもりが、結局は制御が利かなくなってしまった。彼の巧みな腰使いに、黒鋼は二度目の精を熱い肉の壁の中で放った。幾度か大きく腰が跳ねる度、彼の中を汚していくのが分かる。
ファイは目を輝かせ、己の臍の辺りに手を這わせた。その指先が小刻みに震えている。
「あっ、は! ほら、凄いよ、さっきより出てるかも……!」
まるで無邪気な幼子のようだった。黒鋼が達したことに、馬鹿みたいに大喜びしてはしゃいでいる。その言動、仕草、表情、そして行為。幼く、淫らで、酷くアンバランスだ。。
移り変わるそれを見逃したくなくて、目が離せない。彼は引力を持っている。
「妊娠しちゃうなぁ」
「はっ……認知なんかしねぇぞ」
「なーんだ、冗談通じるんじゃない」
せめてもの仕返しにと鼻で笑ったつもりだったが、彼はサラリと楽しそうにかわしてしまう。悔しいが、踏んできた場数は相手の方が上であることは、認めざるを得ない。
だがやはり面白くはない。一方的にやられたに留まらず、彼はいまだに性器を張り詰めさせている。達していないのだ。
無言で手を伸ばすが、逆に腕を掴まれた。
「おまえは」
「ね? ハマるって、言った通りになったでしょう?」
思わずぐっと押し黙る。ファイが身を乗り出し、黒鋼の頬を両手で包むと、汗ばんだ額にキスをした。
性欲は確実に満たされながら、この男といると鬱憤が膨らんでいく気がした。だが言い返せないのは、実際に彼の言う通りだったからに他ならない。決して認めたくはないけれど。
「あ、でも好きにはなっちゃダメだよー?」
黒鋼は「冗談じゃねぇ」と吐き捨てながら、やはりこいつはいけ好かないと思った。
*
目覚めると、ファイの姿は忽然と消えていた。
安っぽいグレーのカーテンから射し込む朝日が、がらんとした室内を淡く照らす。
「……くそ」
だるい身体に鞭を打ちつつ身を起こした。部屋の中に変わった様子はなく、下手をすれば全てが夢だったのではないかとすら思える。
だが、夢じゃないことは身体の随所が覚えている、奴の感触が証明していた。
結局あのあとも散々好き勝手に翻弄されるだけで、全てが空になるまで吸い尽くされたような気さえしている。
一発ぶん殴ってやりたくとも、相手はもうどこにもいない。
「何が一宿一飯の恩返しだ……」
だいたい勝手に上がってこられただけで、飯など食わせちゃいないのだ。ある意味、食われた感は否めないが……。
黒鋼は一度見渡したはずの室内を、もう一度見回した。盗られて困るものは何もない。それでもベッドの下の辺りまで丹念に確認したのは、彼の痕跡を探すためだったのかもしれない。
だが何も見つからない。結局、名前以外は何も聞けなかった。なぜあんな場所で蹲っていたのかも、そして連絡先さえも。
そしてふと思う。
そんなものを見つけてどうするというのか。連絡先を聞いていたからといって、意味などあるのか。まさか今度は金を払ってでも、奴とセックスをするとでもいうのだろうか。
「……馬鹿馬鹿しい」
あれはある種の淫夢と変わりない。意味のないことなど、とっとと忘れてしまうに限る。
なんとなく残念に感じているのは、心のどこかに身を潜めていた人恋しさが、そう勘違いさせているだけだ。思い返せば、暫く特定の相手との付き合いをしていないように思う。
必然的にセックスも久々のことだった。恋に依存するタイプではないが、そう思わなければ引きずりそうで、癪に障って仕方がないのだ。本当に、むかっ腹の立つ男だった。
忘れよう。とにかく、一刻も早く。
だが、倦怠感と苛立ちを持て余しつつベッドから抜け出そうとしたその瞬間、玄関のドアが開いた。
「!」
「あれー? なんだぁ起きてたのー?」
「お、おまえ、なんで……」
そこにはなぜか黒いジャージ姿のファイが当たり前のように佇んでいる。そのジャージは明らかにサイズが合っておらず、そして見覚えがあった。
「いやー、ホントに滝になってたねぇー。サンダル脱げちゃうかと思ったよー。君、足もとんでもなく大きいねぇ」
ズケズケと濡れた裸足で上がりこんできたファイは、手にビニール袋を持っていた。ズッポリとネギがはみ出している。黒鋼はただあんぐりと口を開けて、彼を凝視することしかできなかった。
「スーツとワイシャツ、クリーニングに出しがてら買い物してきたんだー。冷蔵庫の中なーんもないんだもん。あ、ジャージとサンダル勝手に借りたからー。ぶっかぶかだけどねー。オレも大きい方だけど、君はもっと大きいもんねー。パンツも借りようかなーって思ったけど、やっぱおっきくてあんま意味なくてー。だからオレ今ノーパン。あはは、恥ずかしー」
ぺらぺらと絶えずよく喋るものである。黒鋼はとにかく戸惑いを押し隠すことに必死になった。
なんだってこのふざけた男が、まだここにいるのだろう。まるで我が家のような振る舞いでずぶ濡れの足で床を汚し、しかも勝手に服まで拝借しただなどと。
「て、てめぇ一体なんのつもりだ?」
「ん? あー、そっか。エッチするのに夢中で、何も話してなかったよねー」
ファイは荷物を台所に置き去りにすると、いまだに裸でベッドから抜け出せないでいる黒鋼の前に立ちはだかった。
「暫くお世話になるからー。別にいいよね? ほら、猫一匹飼うくらいの感じでさー」
「ああ!?」
「訳聞きたいよね? ね? とりあえずお腹も空いてるし、まずはご飯食べようかー!」
「はぁ!?」
「作っとくから、先お風呂入っておいでー」
のほほんと言い放ったファイに、黒鋼は「ふざけるんじゃねぇ」と、力の限り怒鳴り散らした。
そして、淫乱なだけでなくとんでもなくズボラで図々しい、胡散臭い男との生活が始まった……。
←戻る ・ Wavebox👏
セキュリティ面や諸々の問題で、仲介業者がここを女性に紹介することは、まずありえない。
よって住人は男性ばかりで、その誰もがどこか訳あり感を漂わせる胡散臭げな人間か、黒鋼のような貧乏学生ばかりだった。
そのおかげか、逆に怪しげな人間は近寄らないという利点があった。
泥棒に入るにしても、ここはとてもではないが裕福な人間が住んでいるとは思えないし、女性がいないのでは変質者も腕の奮いようがないのだ。妙な性癖を持った人間であれば、話は別だが。
だから彼を見たとき、黒鋼はいかんとも判断しがたく、ただ眉を寄せるだけだった。
時刻は午前零時をとっくに過ぎている。
バイト先のスポーツクラブでの勤めを終え、寄り道をせずに真っ直ぐ帰宅すれば、大体いつもこの時間だった。
男は黒いスーツに身を包み、錆びた鉄製の階段の裏側に、自転車と並ぶようにして蹲っていた。雨に濡れそぼり、抱きしめた両膝に顔をすっかり埋めているせいで、その表情は見えない。
点滅する薄暗い照明の下、金髪であるということがかろうじて確認できる程度だ。
このアパートの住人の誰かに、待ちぼうけを食らっているのか。それとも、ただ単に雨宿りにここを選んだのか。
いずれにしろ怪しげであることに変わりはなく、黒鋼はただそれを横目に傘を閉じ、鉄製の階段に足をかけた。自室はこれを上りきった先の一番奥だ。
だが半分だけ上りきったところで、足を止める。暫し逡巡した後、身を屈めて鉄の板の隙間から男を見下ろし、声をかけてみる。
「おい」
雨に掻き消されるかと思ったが、声は確かに届いたようだった。男がビクリと肩を震わせ、顔を上げる。
青い目だった。顔立ちも綺麗に整っていて、色が白い。その線の細さと、どこか不安げな表情から、薄暗さも相まって一瞬女性かと思うほど。
「それ以上濡れたくなけりゃあ、他所へ行った方がいいぜ。じきにここは滝になる」
ここはその水はけの悪さから、酷い雨の翌日には、階段から滝のように水が激しく滴る。
いつまでいるつもりかは知らないが、それを知らずに直撃を食らうことがあれば、流石に気の毒だと思った。
すでに全身がどうしようもないくらいずぶ濡れであったとしても。
「……?」
彼は青い瞳を大きく見開き、不思議そうに小首を傾げた。言葉が通じないのかもしれない。水を含んだ金色が、冷えて青白くなった頬に張り付いている。上手い具合に哀れっぽさが演出されていて、黒鋼は思わず舌を打つ。
日本語スキル以外は、はっきり言って貧困だ。彼がどこの国の人間かは知らないが、どうにかして伝えようにも、内容が若干特殊である。
ジェスチャーを交えるより他にないかと、仕方なく半分だけ上った階段を降りると、自身も階段下に入り込む。
彼の前に立ちはだかり、口を開こうとしたとき、男はにっこり笑って両手を振った。
「大丈夫。オレ、日本語わかるよ。ありがとう」
確かに流暢な日本語だった。黒鋼は少しだけほっとして、すぐに引き返そうとした。だが、くいっと腕を何かが引いた。
「なんだ」
白い指先が、黒鋼のジャケットの袖をぎゅっと摘んでいる。
まるで帰り道を見失った迷子のようだ。彼は縋るような目をしながら、少し困った様子だった。何かを言おうとして迷っている。そう感じた。
黒鋼は手にしていた傘を思わず差し出した。どうせ安物だ。くれてやったとて、痛くも痒くもない。だが彼はやんわりと笑って首を振る。
「あのさ、それもありがたいんだけど、無理を承知でお願いしてもいいかな?」
「?」
「とりあえず、泊めてくれない?」
「あ?」
言うだけ言うと、男は軽快に立ち上がる。華奢だが、背の高い青年だった。
身体のラインが際立つ細身のスーツに、ノーネクタイのシャツから覘く形のいい鎖骨。
あからさまに夜の匂いを纏わせた男だが、少し垂れた目尻に、どこか危うい幼さと愛嬌が添えられている。
彼は両手を開くと「怪しいけど怪しくないよ」と言った。無防備であることを主張しているのだろうが、ふにゃりとした笑顔が逆に十分怪しかった。
「立ち話もなんだし、上がろうか。ちゃんと訳も話すよ」
「おいこら、何勝手に決めて」
「袖すりあうも多勢に無勢ってねー」
「多生の縁だ、あ、おい!」
そう言うと、男は黒鋼の横を擦り抜けて、さっさと階段を上っていく。
「部屋どこー? 早くー!」
どうかしていたのだと思う。
黒鋼は、出会ったばかりの名も知らぬ異国の青年の侵入を、許してしまった。
*
この部屋にもともと備え付けてあった木製のベッドは、前の住人の置き土産だった。
今日のような湿気の多い日には、身じろぎするだけでギシギシと嫌な音を立てて軋む。だが黒鋼は驚くほど寝相がよかったので、基本的にその音に悩まされることはなかった。
それが、なぜか今夜はやけに軋んでいる。
「おい」
「なぁにー?」
青年はファイと名乗った。本名かはわからない。
結局のことろ、強引に押し切る形で上がり込んだファイは、物珍しそうに六畳二間の家具の少ない室内をウロウロと物色しながら、くだらないことを喋るだけだった。
そして今、どういうわけか黒鋼は、華奢な身体によってベッドに押し倒されている。
「俺はそっちの趣味はねぇよ」
「ふふ」
猫のようなしなやかさで、犬のように無邪気に身を寄せてくる彼に、流されたと言えば単純だった。こんな見ず知らずの他人を部屋に上げてしまっただけでも、今夜の自分はどうかしている。
いざとなればこんな細いだけの身体など、ゴミのように窓から放り出すだけのことは容易だろう。
「一宿一飯のご恩返しってやつ。ね? オレ、結構イイよ」
黒鋼に馬乗りになって、ファイはスーツのジャケットを脱ぐと放った。濡れた白いシャツが張り付いていて、うっすらと肌が伺える。
自分には確かにこちらの気はない。あくまでノーマルな性癖を持ち合わせていると思う。当然、女性にしか興奮したことはないし、女性としか身体を重ねたことはない。
けれど今、その華奢な線を目の前に、黒鋼は胸の奥底が疼くのを不本意にも感じていた。
なぜだろう。彼には、そう思わせるだけの何かがあった。他の男とは、明らかにどこか違う。
「……商売人か」
それは的を射ていたらしい。彼は肩を揺らして笑い、どこかもったいぶるような動作で、ゆっくりとボタンを外している。焦れったいと感じてしまった時点で、もう黒鋼に彼を投げ飛ばすだけの意思は消えていたのかもしれない。
「ハマるよ、きっとね」
どうせ今夜の自分は何かがおかしいのだ。じゃなきゃこんな胡散臭い人間を相手にする気はない。
考えるのも、軌道を正すのも正直面倒だった。疲れているのだろうか。
彼はシャツのボタンを半分だけ外して、後は手を止めてしまった。膨らみのない、平らな胸が隙間から覗く。白い肌。触れようと手を伸ばして、やんわりと制される。
「だーめ。オレがするんだから。はい、バンザイしてー」
ファイの手が黒鋼のシャツをたくし上げる。小さな子供に言うような物言いにムッとしつつ、なぜか逆らえない。せめてもの反抗にその手を払うと、半身を僅かに起こして自らシャツを脱ぎ捨てた。
ピュー、と下手くそな口笛を吹きながら、ファイは白くしなやかな手を黒鋼の胸に這わせた。
「思ったとおり凄い……。ねぇ、絶対なにかスポーツとかしてるでしょー?」
「さぁな」
「なんだかドキドキするね」
白々しいと思う。けれど、ファイはうっとりとした恍惚の表情を浮かべ、すっかり身を屈めると、胸元に頬擦りをする。生乾きの金糸が皮膚を滑る感覚がくすぐったい。
ぴちゃりと音がする。首筋に、鎖骨に、舌が這う。それは初めて受身で感じる愛撫の感覚だった。
「ッ、おい、噛むんじゃねぇ」
「ふふ、痛いの嫌い? 気持ちよくない?」
「よくねぇよ。てめぇが好きなんだろ」
「さぁー? それはどうかな?」
本当に、もったいぶる男だと思う。時折香る甘い香りに、黒鋼は頭がクラクラとする感覚を持て余した。不慣れということもあるが、やはり受身は性に合わない。
「おい」
なおも唇と舌を這わせ、下へ下へと身体をずらしていくファイの髪に指を通した。
顔を上げた彼は、黒鋼の身体の中心を開放しながら、含んだように笑う。ベルトも器用に外されて、チャックを下ろされる音がやけにリアルに聞こえた。
下着の上から膨らみかけのそれを撫でられ、悔しいが一瞬息が詰まる。
「っ……」
下着をずらされ、慣れた手つきが性器を取り出した。ファイはそれにすらうっとりとした目をして、愛おしそうに頬擦りをする。
「こっちも凄いよ……大きくて、素敵だね」
煌々と照らす蛍光灯の白い明りの下で、赤黒い性器に口づける白皙の青年という図は、黒鋼にえも言われぬ倒錯感をもたらした。
ごくりと息を飲む気配が伝わったのか、彼は見せ付けるようにしてそれをねっとりと舐めあげて、口に含んだ。
「くっ……!」
瞬間、冗談じゃないと思った。
得体の知れない相手に、しかも男に性器を咥えられて、駆け抜けたのは嫌悪ではなく、今にも腰が砕けそうなほどの甘い快感だなんて。どうかしている。
彼の口や舌や手が、信じられないほど的確に黒鋼を官能の高みへと導いていく。膨らみきったそれを苦しげに、時折くぐもった声を上げながらも、実に美味そうにしゃぶっている。欲望の詰まりきった袋さえも柔らかく転がすようにして刺激するその手つきは、当然ながら慣れたものだった。
不思議と、苛立ちが募る。
なぜかは分からない。思考はすでに塞き止められていた。そもそも考える必要さえないはずなのに。
熱い口内では舌が巧みに性器に絡みつき、時折絶妙な力とタイミングで歯が当たる。悔しいと思いはしても、嫌でも腰が跳ねた。淫らな吸い付きに、黒鋼の若い身体は急速に解放を求めていた。
濡れた音が唇から漏れ聞こえ、上下する動きが早くなる。黒鋼は歯を食いしばり、柔らかな金糸を掴む。
「ッ、……おい……っ」
もう離せと言おうとして、間に合わなかった。引き離そうとした瞬間にはおびただしい量の精を放っていた。
「――ッ!!」
「んんっ……!」
口の中で黒鋼が全てを出し切っても、彼はそれを離さなかった。喉を鳴らして、放たれた精液を飲み込んでいる。黒鋼が半身を起こして頭を引き離そうとしても、ファイはくぐもった笑い声を上げてさらにそれを貪欲に咥え込んだ。
「て、め……っ、はなし……っ」
射精したばかりの性器を、仕上げとばかりにゆるく吸われ、扱かれる。彼は残りの全ても吸い出すようにそれを続けた後、ようやく口を離して身体を起こした。その目元が赤く染まり、うっとりとした瞳が今にも零れ落ちそうなほど潤んでいる。
濡れた唇から、忙しなく浅い呼吸が紡がれる。なんて淫らな男だろうか。
「飲むやつがあるか……」
簡単にいかされてしまったという事実に、プライドを傷つけられていた。
しかも、女性を相手にここまで要求したこともなければ、ましてやされたこともない。黒鋼は、どちらかと言えばセックスに対して淡泊な方だった。
ファイは指先で口の端についた残りの精液を掬い取ると、それも残さず舐めとった。自身の指を吸う様に、再び下半身が疼く。
「ご馳走様でしたー。結構濃かったね。久しぶりだった?」
「うるせぇな……」
「でも、まだ元気だ」
ファイが笑う。黒鋼は苛立ちと羞恥から彼を退けようとするが、白い手が再び性器を握る。
「って、めぇ……何を」
「何ってー? だってこれだけじゃ、まだ足りないでしょう?」
「あ?」
いいから寝ててよ、とファイは言った。白い手が胸に押し当てられて、再び背中をシーツに預ける形になる。
まさか、という予感はやはり的中した。さすがにそこまでは、という思いは、スラックスと下着を脱いだファイが晒した白い腿によって、掻き消される。肉の薄い太腿が、明りの下でしっとりと汗ばんでキラキラと輝いていた。
だが何より黒鋼が驚愕を覚えたのは、ファイの薄紅色の性器が勃起していたことだった。男のものをしゃぶって、この男はこれほどまでに興奮するのか。
いまだ中途半端に前を乱したままのシャツの裾から、金色の淡い茂みと美しい色をした性器がチラチラと覗くたび、黒鋼は自分自身に驚きを隠せない。
嫌悪感がまるでないのだ。むしろ、触れてみたいとさえ思う。先刻されたように、この経験豊かとは到底思えないような綺麗な色をした性器を弄んでやったら、この男はどうなるのだろうか。憎たらしい余裕の表情は、どのように歪むのだろう。
それとも、それさえもまるで女優のような演技で魅せつけるのだろうか。
「胡散臭いヤツだって顔してるね」
「今更だろうが」
「演技でこんな風になんてならないよ。いつだってちゃんと感じるし、楽しんでる。少なくとも、オレはね」
「天職ってやつか?」
「ふふ。何だって楽しんでお金貰えた方が幸せじゃない?」
確かにそうだと思う。黒鋼が学業の傍ら選んだスポーツインストラクターのバイトも、もともと身体を動かすのが好きだったからだ。そうやって好きと趣味を兼ねた仕事で収入を得ているのだから、変わりはないのかもしれない。
「ちょっとは偏見、無くせたー?」
知るか、と吐き捨てた黒鋼に、ファイは目を細めて微笑んだ。そして自分の人さし指と中指を口に含み、丹念に舐めはじめる。
その様子は先ほどまで受けていた口淫を思い起こさせて、目が離せなくなる。熱心に、糸が引くまで二本の指をしゃぶる姿を、黒鋼はただひたすら見つめた。
静まりかけていた胸の鼓動が、再び忙しなく音を立てる。
やがてファイはその濡れた指を己の身体の中心の、奥まった場所へと忍ばせた。黒鋼だって、多少の知識くらいはある。彼が目を閉じ、眉に皺を寄せながら何をしているかなど、その揺れる腰の動きから一目瞭然だった。
「んっ、ふ……」
「……おい」
「平気……ちょっとだけ、ぁ、待ってて」
そこは本来、受け入れるために存在する器官ではないはずだった。苦しげに額に汗を滲ま腰を揺らす姿は扇情的だが、こうしてただ手をこまねいて見ているだけでいいものかと、わずかに戸惑う。
ファイはまるで見透かしているかのように笑った。
「優しいね」
「なんのことだ」
「んっ」
さほど時間をかけることもなく、彼は指を引き抜いた。そして、すっかり力を取り戻している黒鋼の性器に指を添え、身体の位置を調節する。
その頃には、黒鋼はファイの姿にただただ魅入るばかりだった。実際、えらく情けない顔をして惚けていたかもしれない。
ファイが黒鋼と視線を合わせながら微笑むのと、彼がぐっと腰を落とし始めるのは同時だった。
「――ッ!!」
黒鋼は思わずその圧迫感に息を飲んだ。咄嗟にファイを見れば、彼は蕩けきったような表情で口元に笑みを浮かべていた。ゾクリと背筋に電流が走ったような感覚に襲われる。皮膚の表面をざわざわとしたものが駆け巡った。
「は……ッ、おっき、ぃ……!」
腹の上に体重を支えるようにして置かれていた白い手が、皮膚に爪を立てる。それさえも快感として黒鋼を丸のみにしていく。思わず両手で彼の白い腿に触れた。薄い肉を強く掴むと、彼は喉を反らして甘く啼いた。
やがて、黒鋼自身が熱く絡みつく肉壷に全て納まった。ファイは細い肩を大きく上下に震わせながら、荒々しい呼吸を繰り返している。その額から汗が一粒滑り落ち、黒鋼の脇腹を流れ落ちた。
黒鋼は知らず詰めていた呼吸を大きく吐き出した。今にも食い千切られそうなほどの圧迫感に、歯を食いしばる。彼が少しでも腰を揺らせば、一瞬にして再び搾り取られてしまうかもしれない。そこは柔らかな女の膣とは天と地ほどの差があった。
「おい……てめぇ、平気か……?」
さすがにキツかったのではないかと声をかければ、暫くは俯いて呼吸を整えていたファイは顔を上げ、ふんにゃりと情けないようにも見える笑みを浮かべた。
「ちょっと、ね。最近の子はホント発育がいいなぁ」
「てめぇ幾つだよ……」
「あっ、ぅん……! ダメ、じっとしてて……」
微かな振動でさえ刺激が強いのか、ファイが上げた甘い声に思わず喉が鳴った。高く上ずった声だった。
正直なところ、すぐにでも好き勝手突き上げたい衝動が胸の内に渦を巻いていた。だが、悔しいけれどこんな状況になってまで勝手が掴めない。
下手に暴走すれば、傷つけるのではないかという懸念が、ギリギリの所で理性を保たせている。相手がこういった行為に慣れているとしてもだ。
ひたすら息を飲み、掴み上げた腿への力を強めるだけしかできない黒鋼に、ファイが笑った。
「本当に……優しいね、君は」
優しいつもりなどない。それでもこの見透かされ、丸裸にされている感覚はどうしても癪に障る。なんていけ好かない男だろうと。
「いい子」
乗り出したファイが、思いっきり深く眉間に皺を刻む黒鋼の鼻先に口付けた。
思えば彼とはまだ唇を合わせていない。恋人同士のセックスではないのだから、そんなものに意味がないことは知っている。そもそもこの行為自体に、最初から意味などない。
ファイがゆっくりと腰を動かし始める。見上げる彼の表情が、何かを堪えるように歪んだ。けれど黒鋼にはそれをじっくりと観察するだけの余裕がない。少しでも歯を食いしばって堪えていなければ、すぐにでも達してしまいそうだ。
あの小憎たらしい微笑みを見るのは、正直もうウンザリだった。
「あっ、ぅ……あッ! すご、ぃ……ッ、太くて、きもちいい……!」
最初はゆっくりと、やがて激しく、彼はしきりに腰を揺すった。黒鋼はその細い腰に両手を添える。自然と入ってしまう力に、くすぐったいのかファイが身をくねらせる。シャツの隙間から突き出た性器が、淫らな動きに合わせて踊っていた。その先走りが零れる度に、黒鋼の腹を生暖かいものが濡らしていく。どうしようもなく興奮した。
いつしか黒鋼も、まるで彼の動きを補助するかのように腰を動かしていた。だが、いまだ主導権は完全に相手にある。
「イって、いい、よ……ッ、何回でも……っ」
「っ、……く、そ……!」
ギリギリまで堪えるつもりが、結局は制御が利かなくなってしまった。彼の巧みな腰使いに、黒鋼は二度目の精を熱い肉の壁の中で放った。幾度か大きく腰が跳ねる度、彼の中を汚していくのが分かる。
ファイは目を輝かせ、己の臍の辺りに手を這わせた。その指先が小刻みに震えている。
「あっ、は! ほら、凄いよ、さっきより出てるかも……!」
まるで無邪気な幼子のようだった。黒鋼が達したことに、馬鹿みたいに大喜びしてはしゃいでいる。その言動、仕草、表情、そして行為。幼く、淫らで、酷くアンバランスだ。。
移り変わるそれを見逃したくなくて、目が離せない。彼は引力を持っている。
「妊娠しちゃうなぁ」
「はっ……認知なんかしねぇぞ」
「なーんだ、冗談通じるんじゃない」
せめてもの仕返しにと鼻で笑ったつもりだったが、彼はサラリと楽しそうにかわしてしまう。悔しいが、踏んできた場数は相手の方が上であることは、認めざるを得ない。
だがやはり面白くはない。一方的にやられたに留まらず、彼はいまだに性器を張り詰めさせている。達していないのだ。
無言で手を伸ばすが、逆に腕を掴まれた。
「おまえは」
「ね? ハマるって、言った通りになったでしょう?」
思わずぐっと押し黙る。ファイが身を乗り出し、黒鋼の頬を両手で包むと、汗ばんだ額にキスをした。
性欲は確実に満たされながら、この男といると鬱憤が膨らんでいく気がした。だが言い返せないのは、実際に彼の言う通りだったからに他ならない。決して認めたくはないけれど。
「あ、でも好きにはなっちゃダメだよー?」
黒鋼は「冗談じゃねぇ」と吐き捨てながら、やはりこいつはいけ好かないと思った。
*
目覚めると、ファイの姿は忽然と消えていた。
安っぽいグレーのカーテンから射し込む朝日が、がらんとした室内を淡く照らす。
「……くそ」
だるい身体に鞭を打ちつつ身を起こした。部屋の中に変わった様子はなく、下手をすれば全てが夢だったのではないかとすら思える。
だが、夢じゃないことは身体の随所が覚えている、奴の感触が証明していた。
結局あのあとも散々好き勝手に翻弄されるだけで、全てが空になるまで吸い尽くされたような気さえしている。
一発ぶん殴ってやりたくとも、相手はもうどこにもいない。
「何が一宿一飯の恩返しだ……」
だいたい勝手に上がってこられただけで、飯など食わせちゃいないのだ。ある意味、食われた感は否めないが……。
黒鋼は一度見渡したはずの室内を、もう一度見回した。盗られて困るものは何もない。それでもベッドの下の辺りまで丹念に確認したのは、彼の痕跡を探すためだったのかもしれない。
だが何も見つからない。結局、名前以外は何も聞けなかった。なぜあんな場所で蹲っていたのかも、そして連絡先さえも。
そしてふと思う。
そんなものを見つけてどうするというのか。連絡先を聞いていたからといって、意味などあるのか。まさか今度は金を払ってでも、奴とセックスをするとでもいうのだろうか。
「……馬鹿馬鹿しい」
あれはある種の淫夢と変わりない。意味のないことなど、とっとと忘れてしまうに限る。
なんとなく残念に感じているのは、心のどこかに身を潜めていた人恋しさが、そう勘違いさせているだけだ。思い返せば、暫く特定の相手との付き合いをしていないように思う。
必然的にセックスも久々のことだった。恋に依存するタイプではないが、そう思わなければ引きずりそうで、癪に障って仕方がないのだ。本当に、むかっ腹の立つ男だった。
忘れよう。とにかく、一刻も早く。
だが、倦怠感と苛立ちを持て余しつつベッドから抜け出そうとしたその瞬間、玄関のドアが開いた。
「!」
「あれー? なんだぁ起きてたのー?」
「お、おまえ、なんで……」
そこにはなぜか黒いジャージ姿のファイが当たり前のように佇んでいる。そのジャージは明らかにサイズが合っておらず、そして見覚えがあった。
「いやー、ホントに滝になってたねぇー。サンダル脱げちゃうかと思ったよー。君、足もとんでもなく大きいねぇ」
ズケズケと濡れた裸足で上がりこんできたファイは、手にビニール袋を持っていた。ズッポリとネギがはみ出している。黒鋼はただあんぐりと口を開けて、彼を凝視することしかできなかった。
「スーツとワイシャツ、クリーニングに出しがてら買い物してきたんだー。冷蔵庫の中なーんもないんだもん。あ、ジャージとサンダル勝手に借りたからー。ぶっかぶかだけどねー。オレも大きい方だけど、君はもっと大きいもんねー。パンツも借りようかなーって思ったけど、やっぱおっきくてあんま意味なくてー。だからオレ今ノーパン。あはは、恥ずかしー」
ぺらぺらと絶えずよく喋るものである。黒鋼はとにかく戸惑いを押し隠すことに必死になった。
なんだってこのふざけた男が、まだここにいるのだろう。まるで我が家のような振る舞いでずぶ濡れの足で床を汚し、しかも勝手に服まで拝借しただなどと。
「て、てめぇ一体なんのつもりだ?」
「ん? あー、そっか。エッチするのに夢中で、何も話してなかったよねー」
ファイは荷物を台所に置き去りにすると、いまだに裸でベッドから抜け出せないでいる黒鋼の前に立ちはだかった。
「暫くお世話になるからー。別にいいよね? ほら、猫一匹飼うくらいの感じでさー」
「ああ!?」
「訳聞きたいよね? ね? とりあえずお腹も空いてるし、まずはご飯食べようかー!」
「はぁ!?」
「作っとくから、先お風呂入っておいでー」
のほほんと言い放ったファイに、黒鋼は「ふざけるんじゃねぇ」と、力の限り怒鳴り散らした。
そして、淫乱なだけでなくとんでもなくズボラで図々しい、胡散臭い男との生活が始まった……。
←戻る ・ Wavebox👏
「たーだいまー! お外雪が降ってるよ黒たーん!」
帰宅したファイが陽気な声を上げながら黒鋼の部屋の扉を開けると、そこはなぜか真っ暗だった。
「あれー? 黒たん先生? いないのー?」
首を傾げながら暗い玄関に足を踏み入れ、ズカズカと上げりこむ。廊下はもちろん、部屋も真っ暗闇に閉ざされていて、空気が冷たかった。
外は小雪がチラつくほどの寒さだ。今日は日直当番のため、誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く退社したファイは、てっきり温かい部屋で黒鋼が待っていてくれるものとばかり思っていたのだが、少し拍子抜けしてしまった。
晩飯時はとっくに過ぎているから、自室へは帰らず真っ先にここを訪れてしまったが、もしかしてまだ隣の部屋にいるのだろうか。
だったらすぐに自室に戻るかと考えつつも、つい癖で灯りのスイッチに手を伸ばしてしまう。カチッという音と共に、幾度かの点滅のあと室内が白い光に包まれた。すると。
「!?」
明るくなった部屋の中央。冬の必須アイテムである炬燵の側に、てっきりいないものとばかり思っていたはずの黒鋼が、大の字でドーンと寝そべっていた。
「く、黒様!? いたの!?」
思わず驚きの声を上げたファイだが、黒鋼はピクリとも反応しない。疲れて居眠りでもしてしまったのかとも思ったが、それにしたって灯りもストーブもつけていないなんて妙だ。
それに、黒鋼は人の気配や物音に敏感で、例え眠っていたとしてもこうしてファイが訪れれば必ず気づくはずなのだが。
ファイはいつもと明らかに違うシチュエーションに戸惑いつつ、慌てて黒鋼の側に足を運んだ。
物音をたてないように慎重に膝をつき、その表情を覗き込む。
「!」
目を閉じている黒鋼の顔が、土気色に変わっている。眠っているというよりは気を失っているような様子で、ファイは息を飲むと黒鋼の胸に両手で縋りついて、その身体を揺さぶった。
「黒様!? ねぇどうしたの!? 黒様ってば……!」
どれほど揺すってもグッタリとしたまま動かない黒鋼に、ファイは青褪めた。
冬の外気に冷え切った指先が、違う意味で震えた。恐る恐る、投げ出された手首を取って脈を取る。
そして、痛みを堪えるように目を閉じて俯くと、首を左右に振った。
「……死んでる」
「生きてんだろうが!!」
豪快なツッコミと共に、クワァッと目を見開いた黒鋼が復活した。どうやら彼は例え虫の息だろうが、ファイのボケを放置できないらしい……。
「てめぇしっかり脈まで取っておいて人を殺すんじゃねぇ!!」
「だ、だってー! こういう台詞、一度でいいから言ってみたかったんだもんー!」
「だったら教師辞めて役者にでもなったらどうだ!!」
プリプリと怒っている黒鋼だが、起き上がってテーブルに片手をつくといつになく息を荒げている。額にもうっすら汗が滲んでいるし、やはり体調が優れないのは事実のようだった。
ファイは咄嗟に黒鋼の額に手の平を這わせると、あまりの熱さに眉根を寄せる。
「凄い熱……! こんなところで寝てたらダメじゃない!!」
「騒ぐな……響く……」
不機嫌そうな表情でこめかみを押さえている黒鋼は、肩に縋りつくようにしていたファイを鬱陶しそうに腕で遠ざけると立ち上がった。
よろめきながらもどすんと音を立ててベッドに腰を落ち着け、それからすぐに身を横たえると布団に潜り込んでしまう。腕で目元を隠すように覆った彼は、もう片方の腕を上げて手をヒラヒラとさせた。
「今日は帰れ。部屋で寝ろ」
「そんなわけにいかないよー! それに昨日だって自分の部屋で寝たもん! 今日は黒たん先生と寝るの!」
そう、ファイは今日、日直当番だった。
普段は黒鋼の部屋に入り浸りのファイだが、日直当番の前日はなるべく自室で夜を過ごすことにしている。いつもより早く起きなければならないことに、黒鋼を付き合わせることはしたくないからだ。
だから今夜は黒鋼の部屋にいたい。体調が悪いのなら、なおのこと放置するなんて真似はできなかった。
だが、黒鋼は断固としてそれを拒んだ。
「いいから戻れ。俺に構うな」
「黒たぁん……!」
にじにじと這うようにしてベッドの側に寄ったファイは、なおも言い縋ろうとした。が、そのまま黒鋼が動く様子はなかった。
静かな寝息が聞こえて、厚みのある胸が微かに上下しはじめる。
(一瞬で寝ちゃった……こんな辛そうな黒様、見たことない……)
彼が体調を崩すなんて、一年に一度あるかないかの大事件だ。弱っているところなんて見たことがないし、弱っていたとしてもこの男の性質上、決してそんな姿は見せない。
(最近ずっと寒かったし……風邪ひいちゃったんだな……)
昨夜は一緒にいなかったし、今日は今日で校内巡視や施設管理など、諸々の雑用が多くて、学校でもほとんど顔を合わせることができなかった。
一体いつから調子が悪かったのだろう。仕事で時間を取られていたとはいえ、黒鋼がここまで弱っていることに全く気付けずにいたなんて。
ファイは黒鋼の硬い黒髪に労わるように触れ、切なげに顔を歪める。
「ちゃんと一緒にいるからね」
彼がいつになくそっけない態度を取っていたのは、体調が悪いだけはないことくらい知っている。傍にいて風邪をうつしでもしたらと、そう考えたに違いなかった。
その気遣いは嬉しいが、こんな状態の黒鋼を放って部屋に戻ることは絶対にしたくない。今夜は徹夜覚悟で看病をしなくては。
「よし、まずは氷枕かな!」
この分だと薬も飲んでいないに違いない。ファイは気合いを入れるように大きく深呼吸をすると、力いっぱい腕まくりをした。
***
臭い、熱い、息苦しいの三重苦が、黒鋼を眠りの底から引きあげた。
重い瞼をどうにか開いてみても、目が眩んだように景色が黒く霞がかっている。部屋の灯りは消えているようだが、なぜか赤い光がチラチラと踊っているのが見えた。
(……なんだ?)
頭が重く痛み、思考がハッキリとしない。鼻の通りも悪いし、身体全体が倦怠感に包まれていた。顔の皮膚が燃えるように熱いのは発熱のせいだろうか。それにしてもこの赤い光はなんだろうかと、黒鋼は眉間の皺をぐっと深めた。
しかも、なんだか分からないが猛烈に臭い。生臭さと青臭さとでもいえばいいのか。喉に強い圧迫感もあるし、息がしにくい。
なぜだろう。とてつもなく嫌な予感がして仕方ない。ファイは大人しく部屋に戻ったのだろうか。いや、あの男のことだ。これは絶対、なにかやらかしている。
「黒たん、目が覚めた?」
少しずつハッキリしてきた視界に、ファイの不安そうな顔がぬっと現れる。
ベッドのすぐ脇に膝をついて顔を覗き込んでいるらしい彼を見て、黒鋼はやっぱりいやがった、と絶望的な気分になった。
「気分どう? 少しは楽になった……?」
「…………」
むしろ最悪だ。なんだってこんなに息苦しいのだろう。鼻づまりを起していてさえ感知できるほど、異臭もハンパない。
これは呑気に身を横たえていられる状況ではなさそうだ。重たい身体をどうにか起こそうとすると、ファイがすかさず両腕を伸ばして補助した。
「だいじょうぶ……?」
「……この臭いは一体なんだ?」
黒鋼は掠れた声を出しながら、違和感のある喉元に手を這わせた。すると、何かがグルグルに巻き付いているのが分かった。
「あ……?」
「ダメダメー! それは取っちゃダメなんだよー!」
「な、なんだこりゃ!?」
それはネギの束だった。幾本ものそれが首にぎゅうぎゅうと巻き付き、思いっきり締め上げる勢いでガッチリと結ばれている。
青臭さと息苦しさの正体はこれだ。
「それはね、曲がりネギっていうんだよー! ある程度まで育てたネギを一度引っこ抜いてから斜めに植え直してね、植物が光に向かって伸びる特性を生かして栽培するんだー。普通のネギよりぐにゃ~って曲がってるから、すっごく巻きやすかったー!」
「聞いてもいねぇのにうんちく披露してんじゃねぇ!! 何本巻いてんだこれ!? しかも取れねぇぞ! どんだけきつく縛りつけてんだよ!?」
「あっ、取ったらダメだってばー! 風邪のときは喉にネギを巻いて寝るといいんだってー!」
「限度ってもんがあるだろ!!」
しかも発想がそこはかとなく古い。おまえはおばあちゃんの知恵袋か……と苛立つ今の黒鋼は、さながら首長族のような有様だった。これだけのネギを一体どこから調達したのか、しかも呼吸を妨げるほどきつく巻きつけるという加減の知らなさに、命の危機さえ感じてしまう。
たかが風邪でダウンしてしまっただけのはずなのに
『死因:ネギによる窒息』
なんてお笑い草にもなりゃしない。
とにかく弱った身体に鞭を打ち、黒鋼は首に巻き付くネギの束をバリィッと剥がしてベッド下に叩きつけた。(後でスタッフが美味しく頂きます)
だがファイは「酷いよー!」と涙ぐみながらネギを拾い上げて、再び巻き付けてこようとする。それを容赦なく足蹴にした黒鋼は、ふと視界の隅に真っ赤な何かがチラついたことに動きを止め、背後を振り返った。
「な、なんだ……?」
黒鋼は我が目を疑った。
収納棚も兼ねているヘッドボードの上で、二本の太い蝋燭が燃え上がっている。なるほど、これが目覚めの間際に感じた異様な熱さと、赤い光の正体だったのか。
黒鋼の腕ほどはありそうな太さの蝋燭の先端で、巨大な炎がメラメラと踊り狂っていた。
だが、それ以上に黒鋼の目を引くのは、その二本の蝋燭の中央に置かれた、サンゴのような形状をした赤茶色の謎の物体だった。太い枝のようなものが幾本も張り出し、暗い室内で燃え上がる炎に照らされた壁が、その影を映し出す。揺らめくままに踊る影が、まるで触手のようにウネウネと蠢いて見えた。
なんという禍々しい光景だろうか
一体なんの意味があって、自室にこのような呪われし祭壇が……。
黒鋼が一言も声を発せないままでいると、ひとまずネギを諦めてテーブルに置いたファイが「あ、それねー」と能天気な声を出す。
「黒様の風邪が早く治りますようにーっていう、おまじないなんだー」
「分からねぇ……もう何をどう突っ込んだらいいか俺には分からねぇ……とりあえずこの中央の薄気味悪い物体はなんだ……」
「冬虫夏草だよー」
※冬虫夏草:昆虫や蜘蛛に寄生してにょきにょき育つキノコ。漢方としても高値で取引されている。
一体なぜそんなものをナチュラルに所持しているんだ……という疑問に、ゴクリと喉を鳴らしながら、よくよく顔を近づけて観察してみると、サンゴの根っこには昆虫と思しき生物がミイラのような姿で苗床になっていた。
こんな気色の悪いものの側で眠りこけていたのかと思うと、背筋にミミズが這うような薄ら寒さを感じてしまう。
「い、今すぐ全部片付けろ!! こんな胡散臭ぇ儀式で回復なんかして堪るか!!」
「えー!? おまじないはこれからが本番なんだよー!」
「これ以上の隠し玉がまだあるってのか!!」
このままではこちらまで頭がおかしくなってしまう。しかも怒鳴ったせいか、視界がグルグルと回り始めた。つい忘れていたが、頭痛や身体のだるさがぶり返してきて、黒鋼は思わず両手で頭を抱える。
「黒様しっかり! お薬あるから! それ飲んだら一瞬で風邪なんかすっ飛んじゃうからね!」
「く、薬、か……」
そういえば根性で一日の仕事終え、帰宅後はすぐに気を失うようにして床に転がってしまったため、薬どころか何も口にしていない。
たかが風邪で仕事を休んでもいられないし、生徒たちにうつしでもしたら大変だ。さらにこの男にうつろうものなら、頭のおかしさに拍車がかかってしまうかもしれない。
アホがさらなるアホへと超進化を遂げる悲劇だけは、どうしても避けたかった。
「さぁ黒たん、これ飲んで」
「悪いな……」
黒鋼は片手で顔半分を抑えながら、差し出された透明なグラスを受け取った。
アホ教師にくれてやるゲンコツは回復してからたっぷりお見舞いしてやるとして、とっとと薬を飲んで寝なおそう。今はこいつを部屋から蹴り出すだけの気力もない。
黒鋼は熱い息を漏らしながらグラスに口をつけようとした。が、鼻をつく血生臭さにムッと顔を顰め、硬直した。
「…………」
「ささ、ぐぐっと」
「……なぁ」
「どうかしたの?」
「このグラスの中身……おかしくねぇか……?」
黒鋼はメラメラと炎だけが燃え盛る異様な空間で、グラスを高く掲げてみた。
下から覗き込むようにして見たグラスの中身は、なぜか真っ赤だった。しかもただの液体ではなく、グラスを揺らす度に何かしらの黒い物体が一緒に揺れている。
「なんか……入ってんぞ……」
「うん、コブラの生血と心臓が入ってるよー」
「なるほどコブラの生血と心臓か。どうりで血生臭ぇわけだ」
「さぁ、一気に飲み干して!」
「で き る か !!」
グシャアッ……とグラスを握り潰してしまいたかったが、そんなことをすればベッドや床に飛び散って汚れるので、ひとまず我慢した。
大声で拒絶を示す黒鋼に、ファイは眉をきゅうっと吊り上げてベッドの端を拳で叩いた。
「そんなこと言っちゃダメ! 妙薬は口に苦しって言うでしょ!」
「良薬だ!! だいたいてめぇはどっからこんなもん入手してくるんだ!? 看病するつもりならもっと普通にやれ普通に!!」
「あのねぇ、子供じゃないんだから、ワガママばっかり言わないの! コブラは滋養強壮や栄養補給に最適なんだよ! すっぽんより凄いんだよ! 元気ビンビンになるから!!」
「どこを元気にしようとしてんだてめぇは!! あたかも正論を述べているかのようなドヤ顔でほざいてんじゃねぇ!!」
これだけ怒鳴れれば十分元気ビンビンな気がするのだが、おそらく熱は上がりっぱなしだ。だんだん息切れを起してきた黒鋼に、ファイはなぜか呆れ果てたような表情で溜息をついた。解せない。
「もー……黒様ってばほーんとワガママ! そんなんじゃ看病のしようがないよー」
「俺の知ってる看病とはだいぶ違うがな……」
「だってー、普通の看病だと、おかゆ作ったりしなくちゃいけないでしょー? オレ料理はあんま自信ないし、余計なことして台所を汚したりしたら、黒様が怒ると思って……」
もう十分すぎるほど余計なことをしている気がするのだが。
だからと言ってなぜ見るからに祟られそうな祭壇を作ったり、爬虫類の生血やモツ的なものを丸のみさせようという発想に至るのだろうか……。
黒鋼が夏の夕暮れ時に発生する蚊柱を見るような目で見ていると、ファイは「何が悪かったのかなぁ」と腕を組んで首を傾げる。普通の看病はできなくて、異常な看病なら出来るというのはどういう思考回路だ。
とにかく、このままでは精神的に殺されてしまうような気がして、黒鋼は重い身体でどうにかベッドから抜け出すと、ファイの頭部をむんずと掴み上げた。
「うわぁー!? 痛い痛い!! 砕けるー!! 可愛い恋人の頭をバスケットボールの要領で掴むの禁止ー!!」
「うるせぇ!! てめぇが何もしねぇのが最大の看病だ!!」
「そんな言い方って酷いよー! イタタッ! 痛いよー!! お願いだから離してよぉー!! もっと看病するー!!」
「お断りだ!!!!」
今にも意識が途切れそうなほど朦朧としていたが、黒鋼は暴れる化学教師を根性で玄関まで引きずっていくと、ドアを開けてポイッと放り投げた。
*
「あ~ぁ……けっきょく怒らせちゃったよ~……」
黒鋼によって外に放り出されてしまったファイは、しょんぼりと俯きながら小雪のチラつく寒空の下をトボトボと歩いていた。
人っ子一人いやしない真夜中の夜道では、細かな粒子のような雪が、街灯が照らすぼんやりとした光の範囲を踊るように舞っている。
あれから数十分が経過した今、ファイが大人しく自室に引っこまずに何をしているかというと、学園からほど近い場所にある24時間営業のスーパーへの買い出しだった。
今はその帰り道で、両手にはパンパンに詰まったビニール袋を提げている。
可能であれば自分の手で何か精のつくものを作りたいが、これまで繰り返してきた失敗の連続を思うと、勇気が出ない。
だからかろうじて残っていた出来合いの総菜や、レンジでチンするだけのおかゆなどを大量に買い込んだ。
思えば最初からこうしていれば、黒鋼がわざわざ起き上がって体力を消耗するような真似をせずに済んだような気がする。
(オレに出来ることって、やっぱり何もないのかなぁー……)
吐き出された溜息が、煙のように白く染まっていた。傘も持たずに来てしまったせいで、空を見上げると小さな雪が目に入る。
何もしないことが最大の看病。確かにそうなのかもしれない。最後に見た黒鋼の顔は真っ赤に染まっていて、きっとさらに熱が上がってしまったに違いなかった。
「普通……普通……もっとちゃんと、普通にしなきゃ……」
黒鋼にはああしてハッキリと言われてしまったし、自分でもその通りかもしれないとは思う。だけどやっぱり放ってなんておけない。
(こういうところが、しつこいとか重いとか言われちゃうんだろうな……)
分かってはいるけれど。多分、自分にはこういう愛し方しかできない。
ファイは真っ赤に染まった鼻をひとつすすると、きゅっと唇を噛み締めて歩く速度を上げた。
*
再び足を踏み入れた黒鋼の部屋は、蝋燭の炎もすっかり消されてぼんやりとした間接照明だけが灯されていた。(ネギも冬虫夏草もグラスも片づけられている)
ファイは極力物音を立てないようにそっとビニール袋を床に置き、ベッドの側に膝をつくと寝息を立てる黒鋼の額に触れる。
(凄く熱い……氷枕も溶けちゃってるだろうな……)
ファイは静かにその場を離れると、浴室から洗面器を持ってきて冷水を汲んだ。スーパーで念のため購入しておいた新品の手拭いを濡らし、絶えず滲む汗を拭い続ける。
鼻の通りが悪いのか、微かに開かれた唇から浅い呼吸が忙しなく吐き出されていた。黒鋼がこんなにも苦しそうにしている姿を見るのは、これが初めてだった。
どんなに大きくて強くて逞しくとも、黒鋼だって人間なのだ。怪我もすれば病気だってする。それをおくびにも出さずに平然と振舞おうとするのは尊敬するが、悪い癖でもある。
いつだって守って、支えてくれようとする彼だけど、ファイだって甘えてばかりいたいわけじゃなかった。誰よりも意志が強くて、誰よりも意地っ張りで、甘えるのが下手な人だから。
(オレだって黒様のこと守りたいし、支えたいって思ってるんだからね)
「黒たん……」
つい声に出して名前を呼んでしまい、ファイはハッとして口を噤む。
黒鋼は低く唸ると大きく息を吐き出すだけだった。眠りを妨げる結果にならなかったことに、ファイは安堵の息を漏らすと微かに微笑む。
すると、布団の中で何かがもぞりと動いた。
「?」
布団の端から僅かに姿を覗かせているのは、黒鋼の指先だった。シーツを緩く引っ掻くように動き続けるその動きは、まるで何かを探しているようにも見えて、ファイは濡れた手拭いを黒鋼の額に置くと、それに手を伸ばす。
ファイが弱々しく握ったり開いたりを繰り返す指に自分の指先を差し込むと、その動きはぴたりと止まった。そして、きゅうっと握られる。
黒鋼が、安心したような深い息をつく。胸が締め付けられるような切ない気持ちになって、ファイは少しだけ涙ぐみながらその手を握り返した。
***
目覚めたとき、あの嫌な頭痛も身体のだるさも消え失せていた。
カーテンの隙間から零れだす白い光が、部屋の中を優しく満たしている。遠くから微かに聞こえる小鳥の囀りが、朝の訪れを爽やかに告げていた。
黒鋼は幾度か瞬きを繰り返したあと、片手が何か温かな感触に包まれていることに気が付いて視線を巡らせる。
すると真っ先に目に飛び込んできたのは、しっかりと黒鋼の手を両手で握りしめてベッドの縁に顔を埋める、ファイの金色の癖毛だった。
「…………」
何か言いかけて、言葉が出なかった。
確か昨夜、頭を掴み上げて部屋から引きずり出したはずだ。流石に部屋で大人しく休んだとばかり思っていたのだが。
小さく寝息を立てるファイは、コートも脱がずに突っ伏している。あれからまた懲りずに戻って来たのか。何かしら追加でやらかしているのでは……と懸念する黒鋼の額から、ズルリと何かが滑り落ちる。咄嗟に開いている方の手で掴んでみると、それはすっかり温くなった手拭いだった。
「んぅー……」
どこか茫然とした表情でいる黒鋼の目の前で、ファイが呻きながら身じろぐ。そしてすぐにハッとしたように顔を上げた。
「ね、寝ちゃった!? いつの間に!?」
ファイはシーツの皺の痕がついた頬で辺りを忙しなく見回し、やがて黒鋼が目を覚ましていることに気づくと、ホッとしたような息を漏らした。
「黒様……よかったぁ、昨日よりずっと顔色がよくなってるよー」
「おまえ、部屋に戻ったんじゃねぇのか」
「う……えと、うん……戻らなかった……」
バツが悪そうに目を泳がせるファイの手を、黒鋼は憮然とした表情で見つめた。その指先はところどころが赤紫色に変色していて、微かに腫れているようだった。
さらに部屋の片隅にある二つのビニール袋に目を向けると、ファイは上目使いでこちらを見上げながら肩を竦める。
「へ、変なものは買ってないよー? ご飯とか飲み物とか、スーパーに買いに行っただけだからー。あ、黒様先生おかゆ食べる? 汗もいっぱいかいたでしょ? ポカリもあるんだよー!」
そう言って離れて行こうとする手を、強く握って引き止めた。驚いて見開かれる宝石のような青い瞳を真っ直ぐに見つめて、黒鋼は深い溜息を漏らした。
その反応を見たファイは、叱られた犬のようにしゅんと項垂れる。
「ごめん……やっぱ余計だったよね……でも、風邪の時って寂しいっていうか、一人ぼっちでいるの辛いっていうか……ッ、ぷちゅッ」
言葉の途中で、ファイはビクンと肩を震わせながらクシャミをした。その響きがおかしくて、黒鋼はつい笑ってしまう。
「なんだよぷちゅって。それクシャミか?」
「ふわぁ~。なんか鼻水でてきちゃったよ~」
赤くなっている鼻をグスグスと鳴らすファイに、黒鋼はいよいよ堪らない気持ちになった。握っている手を強く引っ張りながら半身を起すと「わ」と短く悲鳴を上げたファイが胸にぼすっと顔を埋めてくる。その金色の頭をここぞとばかりにわしゃわしゃと、乱暴なくらいの強さで撫でた。
「くく、黒様ぁー?」
「この馬鹿野郎が。おまえが風邪ひいちまってどうすんだ」
真冬の寒空の下わざわざ買い出しに行って、手がこんな有様になるまで、どれだけ長い時間冷水に触れ続けたのだろうか。
ハチャメチャなことをする以上に、こうして自分を顧みないほどに尽くしたがることも知っていたから。だから傍に置いておきたくなかったのに。
それでも最後にはこうして許してしまうのは、その健気さに愛しさが勝ってしまうからだ。
(なんだってこいつは……)
アホのくせに、こんなに可愛いんだろう。
いや、アホだから、かもしれない。
「あのな、馬鹿は風邪ひかねぇってのは迷信なんだぞ。だから無理すんな」
「今すっごく自然に失礼なこと言ったねー。でもオレ無理なんかしてないよー。それより黒様、もうどこも辛いとこない? 頭とか痛くない?」
「ああ、もうすっかりだ」
「よかったー。凄い回復力だねー。黒様先生が言うように、やっぱりオレに出来ることなんか何もなかったんだー」
「そうでもねぇよ」
やんわりとした否定と一緒にその額を軽く小突くと、ファイは目を丸くして小首を傾げた。
確かにあの極端すぎるぶっ飛んだ看病(?)には度肝を抜かれたが、ずっと傍にいてくれたことも、目覚めたときに真っ先に顔を見れたことも、本当はとても嬉しかった。寒い中わざわざ買い出しに行って、しもやけができるくらい尽くしてくれたことも、手を離さずにいてくれたことも。
何よりこの男が、こうして手の届く場所にいてくれるだけで。
「十分だ」
たったそれだけの短い言葉でも、込められた想いは伝わったようだった。恥ずかしそうに頬を赤らめながら嬉しそうな笑顔を浮かべるファイに、黒鋼も微かに笑った。
だが、その赤くなった鼻がぐずっているのを見て、すぐに表情を引き締めると、頬に手を這わせて体温を確かめた。顔色も悪くはないし、熱もないようだが……。
「おまえはどうなんだ。完全にうつっちまったんじゃねぇのか」
「へーきへーき! へっちゃらだよー! それにね」
黒鋼の首に抱き付いたファイが、耳元に口を寄せると内緒話をするみたいに声を潜めて言う。
「風邪ってね、好きな人と半分こすると、すぐに治っちゃうんだよー」
それはおまえの中だけの迷信じゃねぇのか、なんて思いつつ、その言葉には妙に説得力があるような気がした。
だが、この男は半分どころか全てかっさらって行ってしまったように思う。
黒鋼は眉間の皺を深くすると、ファイの頬を両手でぐっと押し潰すように強く包み込んだ。柔らかな頬肉が中央に寄って、唇がむにゅっと尖る。
「うむー! ほっぺたちゅぶれるよぉ~っ」
黒鋼の両手首を掴んだりしてバタバタ暴れるファイに、険しい表情をぐっと近づける。
「いいか、しんどくなったらすぐに言わねぇと、承知しねぇぞ」
可能な限り目は光らせるつもりだけど。
こいつは甘ったれのくせに、肝心なときは全て抱え込もうとする、悪い癖のあるやつだから。
「今度は俺が、てめぇの首にたっぷりネギでも巻いてやる」
そう言って額に口づれば、ファイは困ったように「それはやだなぁ~」なんて言ってのける。それからすぐにまた、あの妙ちきりんなクシャミを黒鋼の顔面めがけてお見舞いして寄越した。
←戻る ・ Wavebox👏
帰宅したファイが陽気な声を上げながら黒鋼の部屋の扉を開けると、そこはなぜか真っ暗だった。
「あれー? 黒たん先生? いないのー?」
首を傾げながら暗い玄関に足を踏み入れ、ズカズカと上げりこむ。廊下はもちろん、部屋も真っ暗闇に閉ざされていて、空気が冷たかった。
外は小雪がチラつくほどの寒さだ。今日は日直当番のため、誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く退社したファイは、てっきり温かい部屋で黒鋼が待っていてくれるものとばかり思っていたのだが、少し拍子抜けしてしまった。
晩飯時はとっくに過ぎているから、自室へは帰らず真っ先にここを訪れてしまったが、もしかしてまだ隣の部屋にいるのだろうか。
だったらすぐに自室に戻るかと考えつつも、つい癖で灯りのスイッチに手を伸ばしてしまう。カチッという音と共に、幾度かの点滅のあと室内が白い光に包まれた。すると。
「!?」
明るくなった部屋の中央。冬の必須アイテムである炬燵の側に、てっきりいないものとばかり思っていたはずの黒鋼が、大の字でドーンと寝そべっていた。
「く、黒様!? いたの!?」
思わず驚きの声を上げたファイだが、黒鋼はピクリとも反応しない。疲れて居眠りでもしてしまったのかとも思ったが、それにしたって灯りもストーブもつけていないなんて妙だ。
それに、黒鋼は人の気配や物音に敏感で、例え眠っていたとしてもこうしてファイが訪れれば必ず気づくはずなのだが。
ファイはいつもと明らかに違うシチュエーションに戸惑いつつ、慌てて黒鋼の側に足を運んだ。
物音をたてないように慎重に膝をつき、その表情を覗き込む。
「!」
目を閉じている黒鋼の顔が、土気色に変わっている。眠っているというよりは気を失っているような様子で、ファイは息を飲むと黒鋼の胸に両手で縋りついて、その身体を揺さぶった。
「黒様!? ねぇどうしたの!? 黒様ってば……!」
どれほど揺すってもグッタリとしたまま動かない黒鋼に、ファイは青褪めた。
冬の外気に冷え切った指先が、違う意味で震えた。恐る恐る、投げ出された手首を取って脈を取る。
そして、痛みを堪えるように目を閉じて俯くと、首を左右に振った。
「……死んでる」
「生きてんだろうが!!」
豪快なツッコミと共に、クワァッと目を見開いた黒鋼が復活した。どうやら彼は例え虫の息だろうが、ファイのボケを放置できないらしい……。
「てめぇしっかり脈まで取っておいて人を殺すんじゃねぇ!!」
「だ、だってー! こういう台詞、一度でいいから言ってみたかったんだもんー!」
「だったら教師辞めて役者にでもなったらどうだ!!」
プリプリと怒っている黒鋼だが、起き上がってテーブルに片手をつくといつになく息を荒げている。額にもうっすら汗が滲んでいるし、やはり体調が優れないのは事実のようだった。
ファイは咄嗟に黒鋼の額に手の平を這わせると、あまりの熱さに眉根を寄せる。
「凄い熱……! こんなところで寝てたらダメじゃない!!」
「騒ぐな……響く……」
不機嫌そうな表情でこめかみを押さえている黒鋼は、肩に縋りつくようにしていたファイを鬱陶しそうに腕で遠ざけると立ち上がった。
よろめきながらもどすんと音を立ててベッドに腰を落ち着け、それからすぐに身を横たえると布団に潜り込んでしまう。腕で目元を隠すように覆った彼は、もう片方の腕を上げて手をヒラヒラとさせた。
「今日は帰れ。部屋で寝ろ」
「そんなわけにいかないよー! それに昨日だって自分の部屋で寝たもん! 今日は黒たん先生と寝るの!」
そう、ファイは今日、日直当番だった。
普段は黒鋼の部屋に入り浸りのファイだが、日直当番の前日はなるべく自室で夜を過ごすことにしている。いつもより早く起きなければならないことに、黒鋼を付き合わせることはしたくないからだ。
だから今夜は黒鋼の部屋にいたい。体調が悪いのなら、なおのこと放置するなんて真似はできなかった。
だが、黒鋼は断固としてそれを拒んだ。
「いいから戻れ。俺に構うな」
「黒たぁん……!」
にじにじと這うようにしてベッドの側に寄ったファイは、なおも言い縋ろうとした。が、そのまま黒鋼が動く様子はなかった。
静かな寝息が聞こえて、厚みのある胸が微かに上下しはじめる。
(一瞬で寝ちゃった……こんな辛そうな黒様、見たことない……)
彼が体調を崩すなんて、一年に一度あるかないかの大事件だ。弱っているところなんて見たことがないし、弱っていたとしてもこの男の性質上、決してそんな姿は見せない。
(最近ずっと寒かったし……風邪ひいちゃったんだな……)
昨夜は一緒にいなかったし、今日は今日で校内巡視や施設管理など、諸々の雑用が多くて、学校でもほとんど顔を合わせることができなかった。
一体いつから調子が悪かったのだろう。仕事で時間を取られていたとはいえ、黒鋼がここまで弱っていることに全く気付けずにいたなんて。
ファイは黒鋼の硬い黒髪に労わるように触れ、切なげに顔を歪める。
「ちゃんと一緒にいるからね」
彼がいつになくそっけない態度を取っていたのは、体調が悪いだけはないことくらい知っている。傍にいて風邪をうつしでもしたらと、そう考えたに違いなかった。
その気遣いは嬉しいが、こんな状態の黒鋼を放って部屋に戻ることは絶対にしたくない。今夜は徹夜覚悟で看病をしなくては。
「よし、まずは氷枕かな!」
この分だと薬も飲んでいないに違いない。ファイは気合いを入れるように大きく深呼吸をすると、力いっぱい腕まくりをした。
***
臭い、熱い、息苦しいの三重苦が、黒鋼を眠りの底から引きあげた。
重い瞼をどうにか開いてみても、目が眩んだように景色が黒く霞がかっている。部屋の灯りは消えているようだが、なぜか赤い光がチラチラと踊っているのが見えた。
(……なんだ?)
頭が重く痛み、思考がハッキリとしない。鼻の通りも悪いし、身体全体が倦怠感に包まれていた。顔の皮膚が燃えるように熱いのは発熱のせいだろうか。それにしてもこの赤い光はなんだろうかと、黒鋼は眉間の皺をぐっと深めた。
しかも、なんだか分からないが猛烈に臭い。生臭さと青臭さとでもいえばいいのか。喉に強い圧迫感もあるし、息がしにくい。
なぜだろう。とてつもなく嫌な予感がして仕方ない。ファイは大人しく部屋に戻ったのだろうか。いや、あの男のことだ。これは絶対、なにかやらかしている。
「黒たん、目が覚めた?」
少しずつハッキリしてきた視界に、ファイの不安そうな顔がぬっと現れる。
ベッドのすぐ脇に膝をついて顔を覗き込んでいるらしい彼を見て、黒鋼はやっぱりいやがった、と絶望的な気分になった。
「気分どう? 少しは楽になった……?」
「…………」
むしろ最悪だ。なんだってこんなに息苦しいのだろう。鼻づまりを起していてさえ感知できるほど、異臭もハンパない。
これは呑気に身を横たえていられる状況ではなさそうだ。重たい身体をどうにか起こそうとすると、ファイがすかさず両腕を伸ばして補助した。
「だいじょうぶ……?」
「……この臭いは一体なんだ?」
黒鋼は掠れた声を出しながら、違和感のある喉元に手を這わせた。すると、何かがグルグルに巻き付いているのが分かった。
「あ……?」
「ダメダメー! それは取っちゃダメなんだよー!」
「な、なんだこりゃ!?」
それはネギの束だった。幾本ものそれが首にぎゅうぎゅうと巻き付き、思いっきり締め上げる勢いでガッチリと結ばれている。
青臭さと息苦しさの正体はこれだ。
「それはね、曲がりネギっていうんだよー! ある程度まで育てたネギを一度引っこ抜いてから斜めに植え直してね、植物が光に向かって伸びる特性を生かして栽培するんだー。普通のネギよりぐにゃ~って曲がってるから、すっごく巻きやすかったー!」
「聞いてもいねぇのにうんちく披露してんじゃねぇ!! 何本巻いてんだこれ!? しかも取れねぇぞ! どんだけきつく縛りつけてんだよ!?」
「あっ、取ったらダメだってばー! 風邪のときは喉にネギを巻いて寝るといいんだってー!」
「限度ってもんがあるだろ!!」
しかも発想がそこはかとなく古い。おまえはおばあちゃんの知恵袋か……と苛立つ今の黒鋼は、さながら首長族のような有様だった。これだけのネギを一体どこから調達したのか、しかも呼吸を妨げるほどきつく巻きつけるという加減の知らなさに、命の危機さえ感じてしまう。
たかが風邪でダウンしてしまっただけのはずなのに
『死因:ネギによる窒息』
なんてお笑い草にもなりゃしない。
とにかく弱った身体に鞭を打ち、黒鋼は首に巻き付くネギの束をバリィッと剥がしてベッド下に叩きつけた。(後でスタッフが美味しく頂きます)
だがファイは「酷いよー!」と涙ぐみながらネギを拾い上げて、再び巻き付けてこようとする。それを容赦なく足蹴にした黒鋼は、ふと視界の隅に真っ赤な何かがチラついたことに動きを止め、背後を振り返った。
「な、なんだ……?」
黒鋼は我が目を疑った。
収納棚も兼ねているヘッドボードの上で、二本の太い蝋燭が燃え上がっている。なるほど、これが目覚めの間際に感じた異様な熱さと、赤い光の正体だったのか。
黒鋼の腕ほどはありそうな太さの蝋燭の先端で、巨大な炎がメラメラと踊り狂っていた。
だが、それ以上に黒鋼の目を引くのは、その二本の蝋燭の中央に置かれた、サンゴのような形状をした赤茶色の謎の物体だった。太い枝のようなものが幾本も張り出し、暗い室内で燃え上がる炎に照らされた壁が、その影を映し出す。揺らめくままに踊る影が、まるで触手のようにウネウネと蠢いて見えた。
なんという禍々しい光景だろうか
一体なんの意味があって、自室にこのような呪われし祭壇が……。
黒鋼が一言も声を発せないままでいると、ひとまずネギを諦めてテーブルに置いたファイが「あ、それねー」と能天気な声を出す。
「黒様の風邪が早く治りますようにーっていう、おまじないなんだー」
「分からねぇ……もう何をどう突っ込んだらいいか俺には分からねぇ……とりあえずこの中央の薄気味悪い物体はなんだ……」
「冬虫夏草だよー」
※冬虫夏草:昆虫や蜘蛛に寄生してにょきにょき育つキノコ。漢方としても高値で取引されている。
一体なぜそんなものをナチュラルに所持しているんだ……という疑問に、ゴクリと喉を鳴らしながら、よくよく顔を近づけて観察してみると、サンゴの根っこには昆虫と思しき生物がミイラのような姿で苗床になっていた。
こんな気色の悪いものの側で眠りこけていたのかと思うと、背筋にミミズが這うような薄ら寒さを感じてしまう。
「い、今すぐ全部片付けろ!! こんな胡散臭ぇ儀式で回復なんかして堪るか!!」
「えー!? おまじないはこれからが本番なんだよー!」
「これ以上の隠し玉がまだあるってのか!!」
このままではこちらまで頭がおかしくなってしまう。しかも怒鳴ったせいか、視界がグルグルと回り始めた。つい忘れていたが、頭痛や身体のだるさがぶり返してきて、黒鋼は思わず両手で頭を抱える。
「黒様しっかり! お薬あるから! それ飲んだら一瞬で風邪なんかすっ飛んじゃうからね!」
「く、薬、か……」
そういえば根性で一日の仕事終え、帰宅後はすぐに気を失うようにして床に転がってしまったため、薬どころか何も口にしていない。
たかが風邪で仕事を休んでもいられないし、生徒たちにうつしでもしたら大変だ。さらにこの男にうつろうものなら、頭のおかしさに拍車がかかってしまうかもしれない。
アホがさらなるアホへと超進化を遂げる悲劇だけは、どうしても避けたかった。
「さぁ黒たん、これ飲んで」
「悪いな……」
黒鋼は片手で顔半分を抑えながら、差し出された透明なグラスを受け取った。
アホ教師にくれてやるゲンコツは回復してからたっぷりお見舞いしてやるとして、とっとと薬を飲んで寝なおそう。今はこいつを部屋から蹴り出すだけの気力もない。
黒鋼は熱い息を漏らしながらグラスに口をつけようとした。が、鼻をつく血生臭さにムッと顔を顰め、硬直した。
「…………」
「ささ、ぐぐっと」
「……なぁ」
「どうかしたの?」
「このグラスの中身……おかしくねぇか……?」
黒鋼はメラメラと炎だけが燃え盛る異様な空間で、グラスを高く掲げてみた。
下から覗き込むようにして見たグラスの中身は、なぜか真っ赤だった。しかもただの液体ではなく、グラスを揺らす度に何かしらの黒い物体が一緒に揺れている。
「なんか……入ってんぞ……」
「うん、コブラの生血と心臓が入ってるよー」
「なるほどコブラの生血と心臓か。どうりで血生臭ぇわけだ」
「さぁ、一気に飲み干して!」
「で き る か !!」
グシャアッ……とグラスを握り潰してしまいたかったが、そんなことをすればベッドや床に飛び散って汚れるので、ひとまず我慢した。
大声で拒絶を示す黒鋼に、ファイは眉をきゅうっと吊り上げてベッドの端を拳で叩いた。
「そんなこと言っちゃダメ! 妙薬は口に苦しって言うでしょ!」
「良薬だ!! だいたいてめぇはどっからこんなもん入手してくるんだ!? 看病するつもりならもっと普通にやれ普通に!!」
「あのねぇ、子供じゃないんだから、ワガママばっかり言わないの! コブラは滋養強壮や栄養補給に最適なんだよ! すっぽんより凄いんだよ! 元気ビンビンになるから!!」
「どこを元気にしようとしてんだてめぇは!! あたかも正論を述べているかのようなドヤ顔でほざいてんじゃねぇ!!」
これだけ怒鳴れれば十分元気ビンビンな気がするのだが、おそらく熱は上がりっぱなしだ。だんだん息切れを起してきた黒鋼に、ファイはなぜか呆れ果てたような表情で溜息をついた。解せない。
「もー……黒様ってばほーんとワガママ! そんなんじゃ看病のしようがないよー」
「俺の知ってる看病とはだいぶ違うがな……」
「だってー、普通の看病だと、おかゆ作ったりしなくちゃいけないでしょー? オレ料理はあんま自信ないし、余計なことして台所を汚したりしたら、黒様が怒ると思って……」
もう十分すぎるほど余計なことをしている気がするのだが。
だからと言ってなぜ見るからに祟られそうな祭壇を作ったり、爬虫類の生血やモツ的なものを丸のみさせようという発想に至るのだろうか……。
黒鋼が夏の夕暮れ時に発生する蚊柱を見るような目で見ていると、ファイは「何が悪かったのかなぁ」と腕を組んで首を傾げる。普通の看病はできなくて、異常な看病なら出来るというのはどういう思考回路だ。
とにかく、このままでは精神的に殺されてしまうような気がして、黒鋼は重い身体でどうにかベッドから抜け出すと、ファイの頭部をむんずと掴み上げた。
「うわぁー!? 痛い痛い!! 砕けるー!! 可愛い恋人の頭をバスケットボールの要領で掴むの禁止ー!!」
「うるせぇ!! てめぇが何もしねぇのが最大の看病だ!!」
「そんな言い方って酷いよー! イタタッ! 痛いよー!! お願いだから離してよぉー!! もっと看病するー!!」
「お断りだ!!!!」
今にも意識が途切れそうなほど朦朧としていたが、黒鋼は暴れる化学教師を根性で玄関まで引きずっていくと、ドアを開けてポイッと放り投げた。
*
「あ~ぁ……けっきょく怒らせちゃったよ~……」
黒鋼によって外に放り出されてしまったファイは、しょんぼりと俯きながら小雪のチラつく寒空の下をトボトボと歩いていた。
人っ子一人いやしない真夜中の夜道では、細かな粒子のような雪が、街灯が照らすぼんやりとした光の範囲を踊るように舞っている。
あれから数十分が経過した今、ファイが大人しく自室に引っこまずに何をしているかというと、学園からほど近い場所にある24時間営業のスーパーへの買い出しだった。
今はその帰り道で、両手にはパンパンに詰まったビニール袋を提げている。
可能であれば自分の手で何か精のつくものを作りたいが、これまで繰り返してきた失敗の連続を思うと、勇気が出ない。
だからかろうじて残っていた出来合いの総菜や、レンジでチンするだけのおかゆなどを大量に買い込んだ。
思えば最初からこうしていれば、黒鋼がわざわざ起き上がって体力を消耗するような真似をせずに済んだような気がする。
(オレに出来ることって、やっぱり何もないのかなぁー……)
吐き出された溜息が、煙のように白く染まっていた。傘も持たずに来てしまったせいで、空を見上げると小さな雪が目に入る。
何もしないことが最大の看病。確かにそうなのかもしれない。最後に見た黒鋼の顔は真っ赤に染まっていて、きっとさらに熱が上がってしまったに違いなかった。
「普通……普通……もっとちゃんと、普通にしなきゃ……」
黒鋼にはああしてハッキリと言われてしまったし、自分でもその通りかもしれないとは思う。だけどやっぱり放ってなんておけない。
(こういうところが、しつこいとか重いとか言われちゃうんだろうな……)
分かってはいるけれど。多分、自分にはこういう愛し方しかできない。
ファイは真っ赤に染まった鼻をひとつすすると、きゅっと唇を噛み締めて歩く速度を上げた。
*
再び足を踏み入れた黒鋼の部屋は、蝋燭の炎もすっかり消されてぼんやりとした間接照明だけが灯されていた。(ネギも冬虫夏草もグラスも片づけられている)
ファイは極力物音を立てないようにそっとビニール袋を床に置き、ベッドの側に膝をつくと寝息を立てる黒鋼の額に触れる。
(凄く熱い……氷枕も溶けちゃってるだろうな……)
ファイは静かにその場を離れると、浴室から洗面器を持ってきて冷水を汲んだ。スーパーで念のため購入しておいた新品の手拭いを濡らし、絶えず滲む汗を拭い続ける。
鼻の通りが悪いのか、微かに開かれた唇から浅い呼吸が忙しなく吐き出されていた。黒鋼がこんなにも苦しそうにしている姿を見るのは、これが初めてだった。
どんなに大きくて強くて逞しくとも、黒鋼だって人間なのだ。怪我もすれば病気だってする。それをおくびにも出さずに平然と振舞おうとするのは尊敬するが、悪い癖でもある。
いつだって守って、支えてくれようとする彼だけど、ファイだって甘えてばかりいたいわけじゃなかった。誰よりも意志が強くて、誰よりも意地っ張りで、甘えるのが下手な人だから。
(オレだって黒様のこと守りたいし、支えたいって思ってるんだからね)
「黒たん……」
つい声に出して名前を呼んでしまい、ファイはハッとして口を噤む。
黒鋼は低く唸ると大きく息を吐き出すだけだった。眠りを妨げる結果にならなかったことに、ファイは安堵の息を漏らすと微かに微笑む。
すると、布団の中で何かがもぞりと動いた。
「?」
布団の端から僅かに姿を覗かせているのは、黒鋼の指先だった。シーツを緩く引っ掻くように動き続けるその動きは、まるで何かを探しているようにも見えて、ファイは濡れた手拭いを黒鋼の額に置くと、それに手を伸ばす。
ファイが弱々しく握ったり開いたりを繰り返す指に自分の指先を差し込むと、その動きはぴたりと止まった。そして、きゅうっと握られる。
黒鋼が、安心したような深い息をつく。胸が締め付けられるような切ない気持ちになって、ファイは少しだけ涙ぐみながらその手を握り返した。
***
目覚めたとき、あの嫌な頭痛も身体のだるさも消え失せていた。
カーテンの隙間から零れだす白い光が、部屋の中を優しく満たしている。遠くから微かに聞こえる小鳥の囀りが、朝の訪れを爽やかに告げていた。
黒鋼は幾度か瞬きを繰り返したあと、片手が何か温かな感触に包まれていることに気が付いて視線を巡らせる。
すると真っ先に目に飛び込んできたのは、しっかりと黒鋼の手を両手で握りしめてベッドの縁に顔を埋める、ファイの金色の癖毛だった。
「…………」
何か言いかけて、言葉が出なかった。
確か昨夜、頭を掴み上げて部屋から引きずり出したはずだ。流石に部屋で大人しく休んだとばかり思っていたのだが。
小さく寝息を立てるファイは、コートも脱がずに突っ伏している。あれからまた懲りずに戻って来たのか。何かしら追加でやらかしているのでは……と懸念する黒鋼の額から、ズルリと何かが滑り落ちる。咄嗟に開いている方の手で掴んでみると、それはすっかり温くなった手拭いだった。
「んぅー……」
どこか茫然とした表情でいる黒鋼の目の前で、ファイが呻きながら身じろぐ。そしてすぐにハッとしたように顔を上げた。
「ね、寝ちゃった!? いつの間に!?」
ファイはシーツの皺の痕がついた頬で辺りを忙しなく見回し、やがて黒鋼が目を覚ましていることに気づくと、ホッとしたような息を漏らした。
「黒様……よかったぁ、昨日よりずっと顔色がよくなってるよー」
「おまえ、部屋に戻ったんじゃねぇのか」
「う……えと、うん……戻らなかった……」
バツが悪そうに目を泳がせるファイの手を、黒鋼は憮然とした表情で見つめた。その指先はところどころが赤紫色に変色していて、微かに腫れているようだった。
さらに部屋の片隅にある二つのビニール袋に目を向けると、ファイは上目使いでこちらを見上げながら肩を竦める。
「へ、変なものは買ってないよー? ご飯とか飲み物とか、スーパーに買いに行っただけだからー。あ、黒様先生おかゆ食べる? 汗もいっぱいかいたでしょ? ポカリもあるんだよー!」
そう言って離れて行こうとする手を、強く握って引き止めた。驚いて見開かれる宝石のような青い瞳を真っ直ぐに見つめて、黒鋼は深い溜息を漏らした。
その反応を見たファイは、叱られた犬のようにしゅんと項垂れる。
「ごめん……やっぱ余計だったよね……でも、風邪の時って寂しいっていうか、一人ぼっちでいるの辛いっていうか……ッ、ぷちゅッ」
言葉の途中で、ファイはビクンと肩を震わせながらクシャミをした。その響きがおかしくて、黒鋼はつい笑ってしまう。
「なんだよぷちゅって。それクシャミか?」
「ふわぁ~。なんか鼻水でてきちゃったよ~」
赤くなっている鼻をグスグスと鳴らすファイに、黒鋼はいよいよ堪らない気持ちになった。握っている手を強く引っ張りながら半身を起すと「わ」と短く悲鳴を上げたファイが胸にぼすっと顔を埋めてくる。その金色の頭をここぞとばかりにわしゃわしゃと、乱暴なくらいの強さで撫でた。
「くく、黒様ぁー?」
「この馬鹿野郎が。おまえが風邪ひいちまってどうすんだ」
真冬の寒空の下わざわざ買い出しに行って、手がこんな有様になるまで、どれだけ長い時間冷水に触れ続けたのだろうか。
ハチャメチャなことをする以上に、こうして自分を顧みないほどに尽くしたがることも知っていたから。だから傍に置いておきたくなかったのに。
それでも最後にはこうして許してしまうのは、その健気さに愛しさが勝ってしまうからだ。
(なんだってこいつは……)
アホのくせに、こんなに可愛いんだろう。
いや、アホだから、かもしれない。
「あのな、馬鹿は風邪ひかねぇってのは迷信なんだぞ。だから無理すんな」
「今すっごく自然に失礼なこと言ったねー。でもオレ無理なんかしてないよー。それより黒様、もうどこも辛いとこない? 頭とか痛くない?」
「ああ、もうすっかりだ」
「よかったー。凄い回復力だねー。黒様先生が言うように、やっぱりオレに出来ることなんか何もなかったんだー」
「そうでもねぇよ」
やんわりとした否定と一緒にその額を軽く小突くと、ファイは目を丸くして小首を傾げた。
確かにあの極端すぎるぶっ飛んだ看病(?)には度肝を抜かれたが、ずっと傍にいてくれたことも、目覚めたときに真っ先に顔を見れたことも、本当はとても嬉しかった。寒い中わざわざ買い出しに行って、しもやけができるくらい尽くしてくれたことも、手を離さずにいてくれたことも。
何よりこの男が、こうして手の届く場所にいてくれるだけで。
「十分だ」
たったそれだけの短い言葉でも、込められた想いは伝わったようだった。恥ずかしそうに頬を赤らめながら嬉しそうな笑顔を浮かべるファイに、黒鋼も微かに笑った。
だが、その赤くなった鼻がぐずっているのを見て、すぐに表情を引き締めると、頬に手を這わせて体温を確かめた。顔色も悪くはないし、熱もないようだが……。
「おまえはどうなんだ。完全にうつっちまったんじゃねぇのか」
「へーきへーき! へっちゃらだよー! それにね」
黒鋼の首に抱き付いたファイが、耳元に口を寄せると内緒話をするみたいに声を潜めて言う。
「風邪ってね、好きな人と半分こすると、すぐに治っちゃうんだよー」
それはおまえの中だけの迷信じゃねぇのか、なんて思いつつ、その言葉には妙に説得力があるような気がした。
だが、この男は半分どころか全てかっさらって行ってしまったように思う。
黒鋼は眉間の皺を深くすると、ファイの頬を両手でぐっと押し潰すように強く包み込んだ。柔らかな頬肉が中央に寄って、唇がむにゅっと尖る。
「うむー! ほっぺたちゅぶれるよぉ~っ」
黒鋼の両手首を掴んだりしてバタバタ暴れるファイに、険しい表情をぐっと近づける。
「いいか、しんどくなったらすぐに言わねぇと、承知しねぇぞ」
可能な限り目は光らせるつもりだけど。
こいつは甘ったれのくせに、肝心なときは全て抱え込もうとする、悪い癖のあるやつだから。
「今度は俺が、てめぇの首にたっぷりネギでも巻いてやる」
そう言って額に口づれば、ファイは困ったように「それはやだなぁ~」なんて言ってのける。それからすぐにまた、あの妙ちきりんなクシャミを黒鋼の顔面めがけてお見舞いして寄越した。
←戻る ・ Wavebox👏
「もう抜いて」
一度目の熱を分け合って、その余韻も消え去らぬ間に、白い手が黒鋼の胸を押した。
鈍い水音を立てながら引き抜いた瞬間だけ、ファイが低く呻いたのが分かる。
ささやかな照明の中、向かい合う形で繋がっていた二つの身体に距離が生じて、あっけないほど簡単に四肢が冷えていくの感じた。
前髪に隠された表情は翳りに覆われ、一切を読み取らせないまま彼は身を起こすと黒鋼に背を向けた。
「なんか、ごめん」
蚊の鳴くような声で謝罪の言葉を口にしたファイは、ベッドから抜け出て僅かにふらつきながら、バスルームがある廊下へ向かって行った。
白くスラリとした体躯が闇に紛れると、ほどなくしてこちら側にもかすかに零れる光と共に、シャワーの音が聞こえはじめる。
失ってしまった熱は、おそらく今夜はもう戻らない。そんな気がした。
黒鋼は鼻から小さく息を漏らして、自身も一度ベッドから抜け出した。投げ出されていたジャージの下を掴んで身につけてから、サイドテーブルに手を伸ばす。
蓋もせず置いてあった水のペットボトルを取り、半分ほど残っていた中身を喉の奥にぶつけるように流し込んでも、不思議と渇きは癒えなかった。
微かな苛立ちに身を任せ、ドスンと音を立てながら床に胡坐をかいて空のボトルを握り潰すと、いやに安っぽい音を奏でてそれは歪んだ。
*
様子がおかしいことには気付いていた。
三連休前夜の金曜日。
いつものようにファイと、その弟と三人で彼らの部屋で夕食をとっていた時から、彼はどことなく上の空だった。
ヘラヘラ笑っていることに変わりはないのだが、ふとした瞬間ぼんやりと何かを考え込んでは手を休める。
弟のユゥイが心配そうに声をかけると、一応は思いだしたように食べ物を口に詰め込んで見せるものの、なかなか飲みこめずに結局はお茶で流し込んでいた。
顔色もあまり優れないようだし、いつも元気が取り柄のような男だって体調を崩すこともあるだろうと、ゆっくり休めと声をかけた黒鋼から、ファイはやんわりと視線を逸らして頷いた。
それからしばらくした頃、もうじき日付も変わろうかという時間帯に、とっくに休んでいるものと思っていたファイが部屋を訪れた。
『眠れないからちょっと顔を見に来た』
そう言った彼はやはり元気がなくて、すぐに帰って行こうとする腕を引いてベッドに引きずりこんだ。
普段なら週末の夜ともなると鬱陶しいくらい甘えて擦り寄って来るはずのファイが、この部屋に来て一瞬で帰るなんてありえないことだった。
その異様ともいえる状況に違和感を覚えると同時に、黒鋼にだって人並み程度には恋人と一緒に過ごしたいという欲求くらいある。
弱っている様を見せつけられれば尚のこと帰したくなくて、そのまま抱き込んで眠るつもりだった。
そのはずが、どういうわけか致してしまった。
ファイに常時のテンションの高さはなかったものの、眠れないという彼に付き合って抱き合ったままポツポツと何気ない会話をしているうちに、互いになんとなく火がついてしまった。
行為の最中、ファイはどこか辛そうに声を押し殺していた。そのくせ、やはり止めておくかと身を引こうとすれば幼子のように首を横に振った。
体調が悪いわけではないのだと言う訴えを、黒鋼がすんなりと受け入れたのは、それに関しては薄々感づいていたからだった。いや、本当は夕飯時の段階で思い当たる節はあった。
それでも彼の顔色が悪かったのは本当で、まずはゆっくり休ませてやることを優先したまでだった。
*
「やっぱオレ、今夜は部屋に戻るよ」
潰したペットボトルをなんとはなしに手の中で弄んでいた黒鋼は、シャワーを浴びて着替えも済ませて戻って来たファイに視線をやった。
こちらの返事も待たずに立ち去ろうとする姿が薄闇に滲んで、咄嗟に「おい」と短く引きとめる。
今にも消える寸前だった背中が小さく震えた。
「おまえ、また妙な誤解してんじゃねぇのか?」
乾燥した空気が、喉をひりつかせる。
季節はまだ冬から片足が抜けかけた程度で、室内はひんやりとしたもので澱んでいた。
短い沈黙のあと、ファイは振り向きもせずに小さく頷く。
「うん……そうみたい。誤解してるんだと思う。でも……」
その先はいくら待っても続きがなかった。
ファイが何をどう誤解しているのか、理由に心当たりはある。だが、どうやらいつもと勝手が違うらしいことは今の状況が指し示していて、いくら長く付き合いのある相手といえども、黒鋼にだって読み取れないものはある。
なにかとてつもなく面倒な深みにハマっているらしいことを、察してやる程度しか出来なかった。
「言いてぇことはハッキリ言え。言わなきゃ分かんねぇこともあんだろ」
「……ごめん」
結局、ファイは口を割らないまま部屋を出て行ってしまった。
*
連休中は運動部で遠征試合があったため、同行した黒鋼は土日の二日間、宿舎を開けていた。
その間にもずっとファイのことが気がかりで、時間を見つけては連絡を入れたが、電話もメールも応答がなかった。
流石に少しばかり腹が立ったが、どうせ帰る場所も職場も一緒なのだから、焦る必要はない。
戻ったらしっかり話を聞く時間を設けるつもりだった。
……はずなのだが。
連休最終日の月曜日。帰宅はすっかり夜になってしまったが、真っ先に部屋を訪ねてもファイに会うことは出来なかった。
玄関先で迎えてくれたのは弟の方で、兄はとっくに寝てしまったと告げられた。
事実かどうかは置いておくにしろ叩き起こす気にもなれず、その場は引き下がるより他になかった。
出張の類で長い時間離れた後は、だいたい飛びついて来て喜ぶか、不貞腐れているかのどっちかで、黒鋼はどちらかというと後者の反応の方が好きだった。
面倒だと思いながらも軽くなだめてやった時に見せる、ファイのはにかんだ笑顔がお気に入りだったのだ。
それが今回はどちらの反応も見ることは叶わず、心臓の辺りに風通しのよさを感じて苛立ちが増した。
翌日、連休が明けてもファイと話をする機会には恵まれなかった。
彼は黒鋼よりも先に部屋を出たにも関わらず、朝の職員朝礼が始まるまで姿を見せなかった。
休み時間もいつもは例え1分しか余裕がなくたって体当たりしてくるはずなのに、その様子もない。
あからさまに避けているらしい人間をとっ捕まえるには、黒鋼にも時間的な余裕がなかった。
*
昼休み。
4時間目が終わってすぐ、体育倉庫で昼休み明けの授業に使うための備品をチェックしていた所に、白衣を着た金髪頭がひょっこり姿を現した。
まさか向こうから進んで顔を見せるとは思わず、首根っこを押さえるつもりでいた黒鋼は少し拍子抜けした。
「……今、いい?」
遠慮がちに言うその表情にはどことなく緊張の色が窺える。
思えば金曜の夜から丸三日が経過しており、最後に交わした会話があんな調子だったのでは、顔を合わせにくいのは当然のことだった。
おう、と短く返事をすると、ファイは小さく息を漏らして肩から力を抜いた。
「やっぱりこういう話は、引き延ばすとしにくくなると思って……」
積み上げられたマットや跳び箱、平均台などが雑然と置かれた広い倉庫内に、沈んだ声と靴音が響く。身長の割にあまり大きくない歩幅でこちらに向かって来たファイは、黒鋼の横を通り過ぎるとバスケットボールが山になっている籠の前で立ち止まる。
視界に白衣の後ろ姿だけを映しながら、漠然と胸を覆う嫌な気配に気が急いた。
この男が何を考えて落ち込み、ニコリとも笑えないでいるのか。その原因が自分にあって、理由にもハッキリとした心当たりがあるのだから、先に口を開くべきはこちらの方だと思った。
「おまえ、見てたんだろ?」
うん、と小さく返事をしながら、ファイはボールの山に両手を伸ばしているようだった。
「なんもねぇぞ。てめぇが思うようなことは」
「……わかってる」
「なら」
「そうじゃなくて」
黒鋼の言葉を遮って、ファイは一つだけボールを胸に抱えながらゆっくりと振り向いた。
身体は互いに向き合っているのに、視線は俯けられたまま交わらない。
彼は両手に持っているボールをじっと見つめ、一度小さく喉を鳴らすと言った。
「冷めた」
「あ?」
「だから、冷めた」
トーンを落とした声には、いつものようなふわふわとした柔らかさはなかった。
紡がれた言葉の意味を咄嗟に飲みこめないでいる黒鋼に、ファイは一瞬だけチラリと視線を向けると勢いよくボールをパスして寄こす。
黒鋼はそのパスを、小気味良い音を響かせながら片手で受け止める。ファイは白衣のポケットに両手を突っ込んで、再びクルリと背を向けると続けた。
「もう好きじゃなくなったってこと。こないだの夜に言うつもりでいたけど、なんとなく言いそびれちゃったっていうか」
「……別れ話のつもりか?」
「そ。なんかね、君があの子と一緒にいるの見て、確かにオレは誤解したけど」
――あの子。
今のこの状況を生み出す発端になったのは、一人の女子生徒の淡い初恋だった。
もうすぐバレンタインだからと、少し気が早いけど、どうしても伝えたかったのだと。
雪のように白く幼い頬を赤らめながら、10近くも歳の離れた少女が差し出してきた可愛らしいチョコ菓子を、黒鋼は受け取った。
微かな視線は感じていたのだ。ファイは黒鋼がいる場所なら、どこにだってしつこく現れるから。
猫のようなナリをして、犬のように纏わりついてくる彼がどこかからそれを見ていたとしても、なんらおかしいことはない。
「なんていうのかなぁー……そう、別にいいかなって思っちゃったんだよねー」
ファイはぶらぶらと身体を左右に揺らす。
少し癖のある金髪が、そのゆったりとした動きに合わせて、綿毛のように揺れていた。
「前みたいにヤキモチとか、そういうのぜんぜん感じなくって。だからそろそろ潮時かなーって」
白衣の裾を翻し、軽快に振り向いたファイは笑っていた。
酷く久しぶりに見たような気がする笑顔は、けれど黒鋼の胸に馴染むことなく風のように通り抜ける。
まるで知らない他人に向けるような、愛想笑いのようなそれは遠く冷たいものだった。
「まぁ、そういうことだからさ。ごめんね」
動けないままでいる黒鋼の横を、重力を感じさせない軽い足取りが横切っていく。
こちらの返答に耳を傾ける気がないらしいファイは、黒鋼の背に冷たく「さよなら」という言葉をかけて、姿を消した。
取り残された黒鋼は、ファイが消えて行った倉庫の出入り口を振り仰ぐ。
正直、夢でも見ているのかと思うほど現実味のない一連の出来事に、柄にもなく戸惑い揺れる自分を自覚した。
「……どうなってんだ。一体」
低い呟きとは対照的に、壁に叩きつけたバスケットボールが奏でた悲鳴は無音の倉庫内に大きく響き渡った。
*
黒鋼にしてみれば、彼女は大勢いる教え子の中の一人にしかすぎなかった。
生徒数が多いぶん学年ごとのクラスも多く、なかなか全員を事細かに把握するとなると至難の業だ。
だからその女子生徒に校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下で呼び止められた時、咄嗟に名前が出てこなかった。
彼女は小さな身体を一層小さく縮め、頬を赤く染めながら赤い包装紙でラッピングされたチョコ菓子を差し出してきた。
そういえばもうすぐバレンタインだったなと、ぼんやり思いつつ毎年この時期になると珍しくない出来事に黒鋼は「悪いが」と言いかけた。
「私、春に転校するんです」
その言葉に、黒鋼は開きかけていた口を噤む。
彼女は両親の仕事の都合だと言った。きっともうこの学園に戻って来ることはない。
だからどうしても最後に、ずっと好きだった初恋の先生に気持ちを告げたかったのだと。
よく見れば彼女の指先には幾つもの白いテープが巻かれていた。火傷の痕であることが窺い知れて、少女の不器用な頑張りを知らせていた。
受け取ってくれるだけでいいと、食べてくれなくてもいいんですと言う彼女の思いを跳ね除ける気には、どうしてもなれなかった。
なぜなら、毎年似たようなことを言いながらチョコを手渡してくる人間を、黒鋼は一人知っているからだ。
形だけ味わえたら十分なんだと、いつもは子供っぽくて甘ったれのくせに、変な所で遠慮して見せるものだから、ついつい無理をしてでも全て平らげてしまう。
拒めるはずがない。決して公にはできない関係だからこそ『形だけ』なんて口にするいじらしさが、黒鋼には愛おしくて仕方がないのだから。
恋人と重ねてしまったことでつい絆された黒鋼は、その赤い包みを受け取った。
それで気が済むのならと、新しい地へと赴く生徒への激励も込めて、黒鋼は彼女の目の前で包みを開けると、姿を現したチョコレートクッキーを口の中に放りこんで見せた。
甘いものはやはり苦手で、本当は思い切り顔を顰めたいのをぐっと堪えながら、小さく笑って「元気でやれよ」と声をかければ、少女は泣きながら満面の笑顔を浮かべた。
*
14日、バレンタイン当日の放課後。
軽い事務作業をこなすため、部活指導の合間に職員室に戻った黒鋼は、ひとまず茶でもしばくかと給湯室でお湯を沸かしていた。
ステンレス製のヤカンを火にかけ、腕を組みながら沸騰するのを待つ間、考えるのはアホの化学教師のことばかりだった。
体育館倉庫での一件は一昨日の出来事だったが、あれから時間の流れがやけに遅い。
あの男はどうせまたくだらないことを考えて、一人で勝手にぬかるみにハマっているだけだ。
ヒョロヒョロで頼りないくせに、なんでも自分だけで背負い込もうとする姿勢が、何より面白くなくて腹が立つ。
(つまんねぇ嘘つきやがって……)
分かっている。
そういう面倒くさい男と知っていて、ずっと好きで手放せなかったのは自分だ。
もちろん今でも、そしてこの先もそのつもりではいるけれど。
(もう勝手にすりゃあいいじゃねぇか)
その苛立ちが黒鋼を意固地にさせてしまったのもまた、事実だった。
ファイとは、あれからまともに目も合わせていない。
夕食も顔を出すに気になれず、カップ麺などで適当に済ませてしまった。
胸の風穴はどんどん広がって、寂しさを感じていることにすらムカッ腹が立つ始末だった。
このままでいいはずがないことは百も承知の上ではあるが、倉庫で見たファイの余所余所しい笑顔や、あからさまにこちらの存在から目を背ける態度が脳裏にカビのように根を張って、黒鋼を現状に留まらせている。
子供でもあるまいしと、自分に対して呆れてもいるけれど。
黒鋼はなかなか沸騰しないヤカンを睨みつけたまま、鼻から小さく溜息を零すと口を開いた。
「……気配消して近づくんじゃねぇ」
クスクスという笑い声がして、視線だけ横に走らせる。
そこには給湯室の入り口に背を預け、片肘を抱いた状態で口元に手を当てる、金髪の男の姿があった。
「なんだか面白いことになってますね」
彼の涼しげな笑顔は、一昨日のファイの笑い方を彷彿とさせる。
髪の長さ以外は寸分違わぬ姿かたちをしているのだから、無理もない。だが今の黒鋼にとっては可能な限り顔を合わせたくない人間の一人だった。
再びヤカンに視線を戻した黒鋼の横に、ユゥイが並び立つ。そして、どういうわけか腕に自身の腕を絡めてしなだれかかってきた。
「なんだてめぇは」
「はーい黒たん先生ー! 今年もオレのチョコ、残さず食べてねー!」
ファイと同じ声のトーンで差し出されたハート形の赤い箱に、思わず息が詰まる。
硬直したまま動けなくなった黒鋼を見て、ユゥイは悪戯が成功した子供のように上目使いで見上げて来た。
「受け取ってくれないんですか?」
「……てめぇのかよ」
「あれ? 黒鋼先生、ボクからのチョコが欲しかったんだ?」
冗談じゃないと返す前に、ユゥイはひっついていた身を離す。
「これが誰のチョコか、ちゃんと分かっているくせに」
「……なんでてめぇが持ってくるんだよ」
「ボクだってこんなお節介したくないですよ。何もわざわざこんなリア充が色めきたつシーズンに揉め事起こすことないでしょうに」
ユゥイは作り物めいた笑みを呆れ顔へと変化させた。
「とにかく、せっかくのチョコがゴミ箱の中で寂しそうにしてたので。ちゃんと持ち主に届けようと思って」
ずい、とさらに近づけられる赤いハートに、黒鋼は眉間の皺を深くした。
解れかかってかろうじて巻きつけられている白いレースのリボンが嫌に切なくて、思わず目を逸らすと吐き捨てるように言った。
「捨てたってことだろ。ならただのゴミじゃねぇか」
「捨てきれないからこんなところで腐ってるんでしょ?」
「…………」
捨てきれないから。図星すぎて耳が痛い。
その言葉は一時の感情に身を任せ、腹を立てて意地を張る黒鋼への戒めだった。
おそらく、ファイに対しての言葉でもある。
「あーもう、面倒くさいなぁ」
「!」
眉を寄せたユゥイは、黒鋼の手を取ると強引に箱を握らせる。
咄嗟に成すがままになってしまったことに、しまったと思いつつ受け取ってしまったハートは、もうどこにも返しようがなかった。
ましてや、捨てることなんて、絶対に。
「ファイならその辺でチョコに埋もれてると思いますよ」
ユゥイの言葉に背中を押されて、黒鋼はジャージのポケットにチョコレートの箱を突っ込むと足早に給湯室を後にした。
「本当に手のかかる人たちだなぁ」
残されたユゥイは沸騰したヤカンの火を止めながら、やれやれと苦笑した。
*
「ファイせんせー! チョコ受け取ってくださいーい!」
「先生のためにがんばって作って来たんですー!」
「ちょっと、押さないでよ! こっちが先なんだからー!」
文字通り、ファイはチョコレートの山に埋もれていた。
化学室前の廊下で、女子生徒達が人気者の化学教師にチョコを渡すべく群がっている。
毎年の光景ではあるが、あまりの量の多さに中心にいるファイは困り顔で笑っていた。
彼女達にとって、奴は教師というよりアイドルのような存在なのかもしれない。金髪碧眼の双子は学園中の女子生徒の憧れの的になっている。それでも弟のあの飄々とした様子を見るに、兄とは違って上手いこと撒いているのだろう。
その状況に多少の憐れみを抱きつつ、黒鋼は黄色い声を上げる生徒達の生垣を、その大柄な身体で割り開いた。
「てめぇら! 廊下でギャーギャー騒いでんじゃねぇ!」
突然の妨害に短い悲鳴が随所で上がったが、誰よりも驚いて目を見開いているのはファイだった。チョコの入った箱や袋がバタバタと床に散らばる。
黒鋼は手を伸ばし、その細い手首を掴む。そして鬼の体育教師の登場に委縮する女子生徒達の中から引きずり出した。
そのまま無言で手を引いて、ズカズカと大股で廊下を突っ切る。
ファイはただ大きく瞬きを繰り返すだけだったが、下へ向かう階段の踊り場でハッとして、黒鋼の手を振りほどこうとした。
「ちょっと、痛いってば!」
腕がぐんと突っ張って、黒鋼は仕方なく足を止める。けれど、どれほどファイがもがいても、掴んだ手は離さなかった。
それどころか、さらに手に力を込めて引き寄せる。非力な化学教師が黒鋼の胸にドンとぶつかり、その拍子にジャージのポケットから少しだけ顔を出していた赤いハートが床に落ちた。
人気のない階段の踊り場に、その乾いた音がやけに大きく響き渡り、ファイが凍りつくのが分かる。捨てたはずのそれを凝視したまま動かない身体に腕を回して、腰を強く抱くと白衣の肩がビクンと揺れた。
近い距離で大きく見開かれた青い瞳が、すぐに慌てたようにそっぽを向く。
「は、離して」
「離さねぇ」
「ここ、学校」
「俺の目を見ろ」
ファイは痛々しく眉を寄せ、唇を噛んだ。視線は俯きがちで、伏せられた睫毛の震えはそのまま彼の戸惑いを現しているようだった。
「……お願いだから離して……オレたちもう」
「何度も言わせんな。本当に別れてぇなら、真っ直ぐ目を見て言え」
「ッ……」
息を飲むファイの顎を掴み、強引に上向かせる。
はっきりと怯えの色が滲んだ瞳が濡れて、蝋燭の火のように小さく揺れていた。
黒鋼は鋭い視線でファイを射る。瞬き以外を許す気はないと、容赦のない重圧をかけた。
「一人で終わった気になってんなよ。もし本気なら、ちゃんと俺を納得させてみろ」
お節介な双子の弟が届けたチョコレート。
冷めたという相手に渡すにはあまりにも情熱的な色をしたその箱が、ただ静かに二人の成り行きを見守っていた。
どうせ嫌というほど甘いチョコが入っているに違いない。食べてもらうことを前提に作られていないそれは、年々糖度が増していることを黒鋼は知っていた。
ファイは苦しそうに瞳を細め、きゅうっと唇を噛みしめる。それが震えながらゆっくりと解れていくまで、根気よく待ち続けた。
「…………オレ」
頑なに閉じられていた心が、度重なる揺さぶりによってついに揺らいだ。
声の出し方を忘れてしまったかのように、ぎこちなくか細い呟きが冷えた空気を震わせる。
「別れたくなんか、ないよ」
黒鋼の胸にただ押しつけられていた白い手が、指先の色を変えるほど強く握り締められ、震えている。
「でも……でもさ……信じられないんだ……こんなに大事にしてくれる人のこと、ちょっとでも疑ったり、不安になったりする自分が、嫌で嫌で仕方なくなって……オレ、いつか絶対に黒たんを傷つけて、愛想尽かされちゃうと思って……それで……」
やはり思った通りだった。
ファイはつまらないことで一人勝手にがんじがらめになって、抜け出せないでいた。
黒鋼が目を閉じて深い息を漏らすと、彼は頭ごなしに叱られた子供のように項垂れた。
愛想を尽かすならとっくの昔に尽かしている。それが出来ないから、こうしてわざわざ捕まえに来てしまうし、同様に捕らわれてもいる。
信じる信じない以前に、互いにもう離れられないという認識が当たり前すぎて、ファイが思い詰めていた内容はいっそ新鮮にすら感じられた。
それでも本人から真意を聞いて、安堵している情けない自分もいる。
「くだらねぇことでウジウジしてんじゃねぇよ」
「……そんな言い方」
「くだらねぇだろ。てめぇは元からそういう女々しくて、面倒くせぇ野郎なんだからよ」
「ぅ……」
「まだあんだろ?」
ずっと顎に添えていた手を動かして、指先で白い頬をするりと撫でた。
「言いてぇこと、まだあるんじゃねぇのか」
「…………」
「言ってみろ」
濡れた目尻に触れると零れそうになっていた滴を拭う。くしゃりと表情を歪めたファイが黒鋼の肩に思い切り額をぶつけて、そのまま擦り付けてきた。
苛立ちと甘えが同時に合わさったような仕草に、つい口元が緩みそうになるのをどうにか堪える。
「……黒たん」
「おう」
「オレのチョコ以外……食べちゃヤダよ……」
黒鋼は、ついに耐えきれず小さく笑った。なんとなく誤魔化すみたいに、ヒヨコのような金色の頭に鼻先を押し付ける。
よく知る石鹸の香りが今は酷く懐かしくて、ずっと風通しのよかった胸の隙間が埋まっていくのを感じた。
「他の子のチョコなんか、食べないでよ……バカ……」
「悪かった」
本当のところ、決して間違ったことをしたつもりはなかったけれど、ファイは細かい事情を知らないのだから仕方ない。
自分を責めて身を引こうとした健気さとは、対照的な我儘に胸をくすぐられて、強く抱きしめると微かに鼻をすする音が聞こえる。
オレもごめんねと、掠れた声を絞り出すファイの背を、ぽんぽんと優しく叩いてやった。この場はひとまず、お互い様ということでいいではないか。
信じられないというなら、いっそ傍でずっと疑っていればいい。
黒鋼にはこの男を手放す気がないのだから、もしかしたら一生不安なままでいさせることになるのかもしれないが。
ファイは腕の中で身じろぐと、肩に押しつけていた顔を上げて赤い目元を手の甲で拭った。
そっと胸を押されて僅かに身を離せば、彼はするりと抜け出して、床に放置されていたハート型の箱を拾い上げる。
解けてしまったリボンは諦めて白衣のポケットに捻じ込んで、箱だけを両手で大切に持って差し出してきた。
「一度は捨てちゃったけど……それでもよかったら……。ただの形だし、無理はしなくていいけど、その……」
照れ臭くて仕方がなさそうに顔を赤らめて、口をモゴモゴとさせるファイの手から、黒鋼は改めて赤いハートを奪い取った。そして再び強く腰を抱き寄せ、成すがままで目を見開くファイの唇に、一瞬だけキスをする。
「俺はこいつが欲しかったんだ」
そう言って口の端を持ち上げて笑えば、ファイはみるみる泣き笑いの表情になる。
眉毛が八の字の、ふにゃふにゃとした笑顔。
それは黒鋼が何より愛してやまない、情けない笑い方だった。
←戻る ・ Wavebox👏
一度目の熱を分け合って、その余韻も消え去らぬ間に、白い手が黒鋼の胸を押した。
鈍い水音を立てながら引き抜いた瞬間だけ、ファイが低く呻いたのが分かる。
ささやかな照明の中、向かい合う形で繋がっていた二つの身体に距離が生じて、あっけないほど簡単に四肢が冷えていくの感じた。
前髪に隠された表情は翳りに覆われ、一切を読み取らせないまま彼は身を起こすと黒鋼に背を向けた。
「なんか、ごめん」
蚊の鳴くような声で謝罪の言葉を口にしたファイは、ベッドから抜け出て僅かにふらつきながら、バスルームがある廊下へ向かって行った。
白くスラリとした体躯が闇に紛れると、ほどなくしてこちら側にもかすかに零れる光と共に、シャワーの音が聞こえはじめる。
失ってしまった熱は、おそらく今夜はもう戻らない。そんな気がした。
黒鋼は鼻から小さく息を漏らして、自身も一度ベッドから抜け出した。投げ出されていたジャージの下を掴んで身につけてから、サイドテーブルに手を伸ばす。
蓋もせず置いてあった水のペットボトルを取り、半分ほど残っていた中身を喉の奥にぶつけるように流し込んでも、不思議と渇きは癒えなかった。
微かな苛立ちに身を任せ、ドスンと音を立てながら床に胡坐をかいて空のボトルを握り潰すと、いやに安っぽい音を奏でてそれは歪んだ。
*
様子がおかしいことには気付いていた。
三連休前夜の金曜日。
いつものようにファイと、その弟と三人で彼らの部屋で夕食をとっていた時から、彼はどことなく上の空だった。
ヘラヘラ笑っていることに変わりはないのだが、ふとした瞬間ぼんやりと何かを考え込んでは手を休める。
弟のユゥイが心配そうに声をかけると、一応は思いだしたように食べ物を口に詰め込んで見せるものの、なかなか飲みこめずに結局はお茶で流し込んでいた。
顔色もあまり優れないようだし、いつも元気が取り柄のような男だって体調を崩すこともあるだろうと、ゆっくり休めと声をかけた黒鋼から、ファイはやんわりと視線を逸らして頷いた。
それからしばらくした頃、もうじき日付も変わろうかという時間帯に、とっくに休んでいるものと思っていたファイが部屋を訪れた。
『眠れないからちょっと顔を見に来た』
そう言った彼はやはり元気がなくて、すぐに帰って行こうとする腕を引いてベッドに引きずりこんだ。
普段なら週末の夜ともなると鬱陶しいくらい甘えて擦り寄って来るはずのファイが、この部屋に来て一瞬で帰るなんてありえないことだった。
その異様ともいえる状況に違和感を覚えると同時に、黒鋼にだって人並み程度には恋人と一緒に過ごしたいという欲求くらいある。
弱っている様を見せつけられれば尚のこと帰したくなくて、そのまま抱き込んで眠るつもりだった。
そのはずが、どういうわけか致してしまった。
ファイに常時のテンションの高さはなかったものの、眠れないという彼に付き合って抱き合ったままポツポツと何気ない会話をしているうちに、互いになんとなく火がついてしまった。
行為の最中、ファイはどこか辛そうに声を押し殺していた。そのくせ、やはり止めておくかと身を引こうとすれば幼子のように首を横に振った。
体調が悪いわけではないのだと言う訴えを、黒鋼がすんなりと受け入れたのは、それに関しては薄々感づいていたからだった。いや、本当は夕飯時の段階で思い当たる節はあった。
それでも彼の顔色が悪かったのは本当で、まずはゆっくり休ませてやることを優先したまでだった。
*
「やっぱオレ、今夜は部屋に戻るよ」
潰したペットボトルをなんとはなしに手の中で弄んでいた黒鋼は、シャワーを浴びて着替えも済ませて戻って来たファイに視線をやった。
こちらの返事も待たずに立ち去ろうとする姿が薄闇に滲んで、咄嗟に「おい」と短く引きとめる。
今にも消える寸前だった背中が小さく震えた。
「おまえ、また妙な誤解してんじゃねぇのか?」
乾燥した空気が、喉をひりつかせる。
季節はまだ冬から片足が抜けかけた程度で、室内はひんやりとしたもので澱んでいた。
短い沈黙のあと、ファイは振り向きもせずに小さく頷く。
「うん……そうみたい。誤解してるんだと思う。でも……」
その先はいくら待っても続きがなかった。
ファイが何をどう誤解しているのか、理由に心当たりはある。だが、どうやらいつもと勝手が違うらしいことは今の状況が指し示していて、いくら長く付き合いのある相手といえども、黒鋼にだって読み取れないものはある。
なにかとてつもなく面倒な深みにハマっているらしいことを、察してやる程度しか出来なかった。
「言いてぇことはハッキリ言え。言わなきゃ分かんねぇこともあんだろ」
「……ごめん」
結局、ファイは口を割らないまま部屋を出て行ってしまった。
*
連休中は運動部で遠征試合があったため、同行した黒鋼は土日の二日間、宿舎を開けていた。
その間にもずっとファイのことが気がかりで、時間を見つけては連絡を入れたが、電話もメールも応答がなかった。
流石に少しばかり腹が立ったが、どうせ帰る場所も職場も一緒なのだから、焦る必要はない。
戻ったらしっかり話を聞く時間を設けるつもりだった。
……はずなのだが。
連休最終日の月曜日。帰宅はすっかり夜になってしまったが、真っ先に部屋を訪ねてもファイに会うことは出来なかった。
玄関先で迎えてくれたのは弟の方で、兄はとっくに寝てしまったと告げられた。
事実かどうかは置いておくにしろ叩き起こす気にもなれず、その場は引き下がるより他になかった。
出張の類で長い時間離れた後は、だいたい飛びついて来て喜ぶか、不貞腐れているかのどっちかで、黒鋼はどちらかというと後者の反応の方が好きだった。
面倒だと思いながらも軽くなだめてやった時に見せる、ファイのはにかんだ笑顔がお気に入りだったのだ。
それが今回はどちらの反応も見ることは叶わず、心臓の辺りに風通しのよさを感じて苛立ちが増した。
翌日、連休が明けてもファイと話をする機会には恵まれなかった。
彼は黒鋼よりも先に部屋を出たにも関わらず、朝の職員朝礼が始まるまで姿を見せなかった。
休み時間もいつもは例え1分しか余裕がなくたって体当たりしてくるはずなのに、その様子もない。
あからさまに避けているらしい人間をとっ捕まえるには、黒鋼にも時間的な余裕がなかった。
*
昼休み。
4時間目が終わってすぐ、体育倉庫で昼休み明けの授業に使うための備品をチェックしていた所に、白衣を着た金髪頭がひょっこり姿を現した。
まさか向こうから進んで顔を見せるとは思わず、首根っこを押さえるつもりでいた黒鋼は少し拍子抜けした。
「……今、いい?」
遠慮がちに言うその表情にはどことなく緊張の色が窺える。
思えば金曜の夜から丸三日が経過しており、最後に交わした会話があんな調子だったのでは、顔を合わせにくいのは当然のことだった。
おう、と短く返事をすると、ファイは小さく息を漏らして肩から力を抜いた。
「やっぱりこういう話は、引き延ばすとしにくくなると思って……」
積み上げられたマットや跳び箱、平均台などが雑然と置かれた広い倉庫内に、沈んだ声と靴音が響く。身長の割にあまり大きくない歩幅でこちらに向かって来たファイは、黒鋼の横を通り過ぎるとバスケットボールが山になっている籠の前で立ち止まる。
視界に白衣の後ろ姿だけを映しながら、漠然と胸を覆う嫌な気配に気が急いた。
この男が何を考えて落ち込み、ニコリとも笑えないでいるのか。その原因が自分にあって、理由にもハッキリとした心当たりがあるのだから、先に口を開くべきはこちらの方だと思った。
「おまえ、見てたんだろ?」
うん、と小さく返事をしながら、ファイはボールの山に両手を伸ばしているようだった。
「なんもねぇぞ。てめぇが思うようなことは」
「……わかってる」
「なら」
「そうじゃなくて」
黒鋼の言葉を遮って、ファイは一つだけボールを胸に抱えながらゆっくりと振り向いた。
身体は互いに向き合っているのに、視線は俯けられたまま交わらない。
彼は両手に持っているボールをじっと見つめ、一度小さく喉を鳴らすと言った。
「冷めた」
「あ?」
「だから、冷めた」
トーンを落とした声には、いつものようなふわふわとした柔らかさはなかった。
紡がれた言葉の意味を咄嗟に飲みこめないでいる黒鋼に、ファイは一瞬だけチラリと視線を向けると勢いよくボールをパスして寄こす。
黒鋼はそのパスを、小気味良い音を響かせながら片手で受け止める。ファイは白衣のポケットに両手を突っ込んで、再びクルリと背を向けると続けた。
「もう好きじゃなくなったってこと。こないだの夜に言うつもりでいたけど、なんとなく言いそびれちゃったっていうか」
「……別れ話のつもりか?」
「そ。なんかね、君があの子と一緒にいるの見て、確かにオレは誤解したけど」
――あの子。
今のこの状況を生み出す発端になったのは、一人の女子生徒の淡い初恋だった。
もうすぐバレンタインだからと、少し気が早いけど、どうしても伝えたかったのだと。
雪のように白く幼い頬を赤らめながら、10近くも歳の離れた少女が差し出してきた可愛らしいチョコ菓子を、黒鋼は受け取った。
微かな視線は感じていたのだ。ファイは黒鋼がいる場所なら、どこにだってしつこく現れるから。
猫のようなナリをして、犬のように纏わりついてくる彼がどこかからそれを見ていたとしても、なんらおかしいことはない。
「なんていうのかなぁー……そう、別にいいかなって思っちゃったんだよねー」
ファイはぶらぶらと身体を左右に揺らす。
少し癖のある金髪が、そのゆったりとした動きに合わせて、綿毛のように揺れていた。
「前みたいにヤキモチとか、そういうのぜんぜん感じなくって。だからそろそろ潮時かなーって」
白衣の裾を翻し、軽快に振り向いたファイは笑っていた。
酷く久しぶりに見たような気がする笑顔は、けれど黒鋼の胸に馴染むことなく風のように通り抜ける。
まるで知らない他人に向けるような、愛想笑いのようなそれは遠く冷たいものだった。
「まぁ、そういうことだからさ。ごめんね」
動けないままでいる黒鋼の横を、重力を感じさせない軽い足取りが横切っていく。
こちらの返答に耳を傾ける気がないらしいファイは、黒鋼の背に冷たく「さよなら」という言葉をかけて、姿を消した。
取り残された黒鋼は、ファイが消えて行った倉庫の出入り口を振り仰ぐ。
正直、夢でも見ているのかと思うほど現実味のない一連の出来事に、柄にもなく戸惑い揺れる自分を自覚した。
「……どうなってんだ。一体」
低い呟きとは対照的に、壁に叩きつけたバスケットボールが奏でた悲鳴は無音の倉庫内に大きく響き渡った。
*
黒鋼にしてみれば、彼女は大勢いる教え子の中の一人にしかすぎなかった。
生徒数が多いぶん学年ごとのクラスも多く、なかなか全員を事細かに把握するとなると至難の業だ。
だからその女子生徒に校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下で呼び止められた時、咄嗟に名前が出てこなかった。
彼女は小さな身体を一層小さく縮め、頬を赤く染めながら赤い包装紙でラッピングされたチョコ菓子を差し出してきた。
そういえばもうすぐバレンタインだったなと、ぼんやり思いつつ毎年この時期になると珍しくない出来事に黒鋼は「悪いが」と言いかけた。
「私、春に転校するんです」
その言葉に、黒鋼は開きかけていた口を噤む。
彼女は両親の仕事の都合だと言った。きっともうこの学園に戻って来ることはない。
だからどうしても最後に、ずっと好きだった初恋の先生に気持ちを告げたかったのだと。
よく見れば彼女の指先には幾つもの白いテープが巻かれていた。火傷の痕であることが窺い知れて、少女の不器用な頑張りを知らせていた。
受け取ってくれるだけでいいと、食べてくれなくてもいいんですと言う彼女の思いを跳ね除ける気には、どうしてもなれなかった。
なぜなら、毎年似たようなことを言いながらチョコを手渡してくる人間を、黒鋼は一人知っているからだ。
形だけ味わえたら十分なんだと、いつもは子供っぽくて甘ったれのくせに、変な所で遠慮して見せるものだから、ついつい無理をしてでも全て平らげてしまう。
拒めるはずがない。決して公にはできない関係だからこそ『形だけ』なんて口にするいじらしさが、黒鋼には愛おしくて仕方がないのだから。
恋人と重ねてしまったことでつい絆された黒鋼は、その赤い包みを受け取った。
それで気が済むのならと、新しい地へと赴く生徒への激励も込めて、黒鋼は彼女の目の前で包みを開けると、姿を現したチョコレートクッキーを口の中に放りこんで見せた。
甘いものはやはり苦手で、本当は思い切り顔を顰めたいのをぐっと堪えながら、小さく笑って「元気でやれよ」と声をかければ、少女は泣きながら満面の笑顔を浮かべた。
*
14日、バレンタイン当日の放課後。
軽い事務作業をこなすため、部活指導の合間に職員室に戻った黒鋼は、ひとまず茶でもしばくかと給湯室でお湯を沸かしていた。
ステンレス製のヤカンを火にかけ、腕を組みながら沸騰するのを待つ間、考えるのはアホの化学教師のことばかりだった。
体育館倉庫での一件は一昨日の出来事だったが、あれから時間の流れがやけに遅い。
あの男はどうせまたくだらないことを考えて、一人で勝手にぬかるみにハマっているだけだ。
ヒョロヒョロで頼りないくせに、なんでも自分だけで背負い込もうとする姿勢が、何より面白くなくて腹が立つ。
(つまんねぇ嘘つきやがって……)
分かっている。
そういう面倒くさい男と知っていて、ずっと好きで手放せなかったのは自分だ。
もちろん今でも、そしてこの先もそのつもりではいるけれど。
(もう勝手にすりゃあいいじゃねぇか)
その苛立ちが黒鋼を意固地にさせてしまったのもまた、事実だった。
ファイとは、あれからまともに目も合わせていない。
夕食も顔を出すに気になれず、カップ麺などで適当に済ませてしまった。
胸の風穴はどんどん広がって、寂しさを感じていることにすらムカッ腹が立つ始末だった。
このままでいいはずがないことは百も承知の上ではあるが、倉庫で見たファイの余所余所しい笑顔や、あからさまにこちらの存在から目を背ける態度が脳裏にカビのように根を張って、黒鋼を現状に留まらせている。
子供でもあるまいしと、自分に対して呆れてもいるけれど。
黒鋼はなかなか沸騰しないヤカンを睨みつけたまま、鼻から小さく溜息を零すと口を開いた。
「……気配消して近づくんじゃねぇ」
クスクスという笑い声がして、視線だけ横に走らせる。
そこには給湯室の入り口に背を預け、片肘を抱いた状態で口元に手を当てる、金髪の男の姿があった。
「なんだか面白いことになってますね」
彼の涼しげな笑顔は、一昨日のファイの笑い方を彷彿とさせる。
髪の長さ以外は寸分違わぬ姿かたちをしているのだから、無理もない。だが今の黒鋼にとっては可能な限り顔を合わせたくない人間の一人だった。
再びヤカンに視線を戻した黒鋼の横に、ユゥイが並び立つ。そして、どういうわけか腕に自身の腕を絡めてしなだれかかってきた。
「なんだてめぇは」
「はーい黒たん先生ー! 今年もオレのチョコ、残さず食べてねー!」
ファイと同じ声のトーンで差し出されたハート形の赤い箱に、思わず息が詰まる。
硬直したまま動けなくなった黒鋼を見て、ユゥイは悪戯が成功した子供のように上目使いで見上げて来た。
「受け取ってくれないんですか?」
「……てめぇのかよ」
「あれ? 黒鋼先生、ボクからのチョコが欲しかったんだ?」
冗談じゃないと返す前に、ユゥイはひっついていた身を離す。
「これが誰のチョコか、ちゃんと分かっているくせに」
「……なんでてめぇが持ってくるんだよ」
「ボクだってこんなお節介したくないですよ。何もわざわざこんなリア充が色めきたつシーズンに揉め事起こすことないでしょうに」
ユゥイは作り物めいた笑みを呆れ顔へと変化させた。
「とにかく、せっかくのチョコがゴミ箱の中で寂しそうにしてたので。ちゃんと持ち主に届けようと思って」
ずい、とさらに近づけられる赤いハートに、黒鋼は眉間の皺を深くした。
解れかかってかろうじて巻きつけられている白いレースのリボンが嫌に切なくて、思わず目を逸らすと吐き捨てるように言った。
「捨てたってことだろ。ならただのゴミじゃねぇか」
「捨てきれないからこんなところで腐ってるんでしょ?」
「…………」
捨てきれないから。図星すぎて耳が痛い。
その言葉は一時の感情に身を任せ、腹を立てて意地を張る黒鋼への戒めだった。
おそらく、ファイに対しての言葉でもある。
「あーもう、面倒くさいなぁ」
「!」
眉を寄せたユゥイは、黒鋼の手を取ると強引に箱を握らせる。
咄嗟に成すがままになってしまったことに、しまったと思いつつ受け取ってしまったハートは、もうどこにも返しようがなかった。
ましてや、捨てることなんて、絶対に。
「ファイならその辺でチョコに埋もれてると思いますよ」
ユゥイの言葉に背中を押されて、黒鋼はジャージのポケットにチョコレートの箱を突っ込むと足早に給湯室を後にした。
「本当に手のかかる人たちだなぁ」
残されたユゥイは沸騰したヤカンの火を止めながら、やれやれと苦笑した。
*
「ファイせんせー! チョコ受け取ってくださいーい!」
「先生のためにがんばって作って来たんですー!」
「ちょっと、押さないでよ! こっちが先なんだからー!」
文字通り、ファイはチョコレートの山に埋もれていた。
化学室前の廊下で、女子生徒達が人気者の化学教師にチョコを渡すべく群がっている。
毎年の光景ではあるが、あまりの量の多さに中心にいるファイは困り顔で笑っていた。
彼女達にとって、奴は教師というよりアイドルのような存在なのかもしれない。金髪碧眼の双子は学園中の女子生徒の憧れの的になっている。それでも弟のあの飄々とした様子を見るに、兄とは違って上手いこと撒いているのだろう。
その状況に多少の憐れみを抱きつつ、黒鋼は黄色い声を上げる生徒達の生垣を、その大柄な身体で割り開いた。
「てめぇら! 廊下でギャーギャー騒いでんじゃねぇ!」
突然の妨害に短い悲鳴が随所で上がったが、誰よりも驚いて目を見開いているのはファイだった。チョコの入った箱や袋がバタバタと床に散らばる。
黒鋼は手を伸ばし、その細い手首を掴む。そして鬼の体育教師の登場に委縮する女子生徒達の中から引きずり出した。
そのまま無言で手を引いて、ズカズカと大股で廊下を突っ切る。
ファイはただ大きく瞬きを繰り返すだけだったが、下へ向かう階段の踊り場でハッとして、黒鋼の手を振りほどこうとした。
「ちょっと、痛いってば!」
腕がぐんと突っ張って、黒鋼は仕方なく足を止める。けれど、どれほどファイがもがいても、掴んだ手は離さなかった。
それどころか、さらに手に力を込めて引き寄せる。非力な化学教師が黒鋼の胸にドンとぶつかり、その拍子にジャージのポケットから少しだけ顔を出していた赤いハートが床に落ちた。
人気のない階段の踊り場に、その乾いた音がやけに大きく響き渡り、ファイが凍りつくのが分かる。捨てたはずのそれを凝視したまま動かない身体に腕を回して、腰を強く抱くと白衣の肩がビクンと揺れた。
近い距離で大きく見開かれた青い瞳が、すぐに慌てたようにそっぽを向く。
「は、離して」
「離さねぇ」
「ここ、学校」
「俺の目を見ろ」
ファイは痛々しく眉を寄せ、唇を噛んだ。視線は俯きがちで、伏せられた睫毛の震えはそのまま彼の戸惑いを現しているようだった。
「……お願いだから離して……オレたちもう」
「何度も言わせんな。本当に別れてぇなら、真っ直ぐ目を見て言え」
「ッ……」
息を飲むファイの顎を掴み、強引に上向かせる。
はっきりと怯えの色が滲んだ瞳が濡れて、蝋燭の火のように小さく揺れていた。
黒鋼は鋭い視線でファイを射る。瞬き以外を許す気はないと、容赦のない重圧をかけた。
「一人で終わった気になってんなよ。もし本気なら、ちゃんと俺を納得させてみろ」
お節介な双子の弟が届けたチョコレート。
冷めたという相手に渡すにはあまりにも情熱的な色をしたその箱が、ただ静かに二人の成り行きを見守っていた。
どうせ嫌というほど甘いチョコが入っているに違いない。食べてもらうことを前提に作られていないそれは、年々糖度が増していることを黒鋼は知っていた。
ファイは苦しそうに瞳を細め、きゅうっと唇を噛みしめる。それが震えながらゆっくりと解れていくまで、根気よく待ち続けた。
「…………オレ」
頑なに閉じられていた心が、度重なる揺さぶりによってついに揺らいだ。
声の出し方を忘れてしまったかのように、ぎこちなくか細い呟きが冷えた空気を震わせる。
「別れたくなんか、ないよ」
黒鋼の胸にただ押しつけられていた白い手が、指先の色を変えるほど強く握り締められ、震えている。
「でも……でもさ……信じられないんだ……こんなに大事にしてくれる人のこと、ちょっとでも疑ったり、不安になったりする自分が、嫌で嫌で仕方なくなって……オレ、いつか絶対に黒たんを傷つけて、愛想尽かされちゃうと思って……それで……」
やはり思った通りだった。
ファイはつまらないことで一人勝手にがんじがらめになって、抜け出せないでいた。
黒鋼が目を閉じて深い息を漏らすと、彼は頭ごなしに叱られた子供のように項垂れた。
愛想を尽かすならとっくの昔に尽かしている。それが出来ないから、こうしてわざわざ捕まえに来てしまうし、同様に捕らわれてもいる。
信じる信じない以前に、互いにもう離れられないという認識が当たり前すぎて、ファイが思い詰めていた内容はいっそ新鮮にすら感じられた。
それでも本人から真意を聞いて、安堵している情けない自分もいる。
「くだらねぇことでウジウジしてんじゃねぇよ」
「……そんな言い方」
「くだらねぇだろ。てめぇは元からそういう女々しくて、面倒くせぇ野郎なんだからよ」
「ぅ……」
「まだあんだろ?」
ずっと顎に添えていた手を動かして、指先で白い頬をするりと撫でた。
「言いてぇこと、まだあるんじゃねぇのか」
「…………」
「言ってみろ」
濡れた目尻に触れると零れそうになっていた滴を拭う。くしゃりと表情を歪めたファイが黒鋼の肩に思い切り額をぶつけて、そのまま擦り付けてきた。
苛立ちと甘えが同時に合わさったような仕草に、つい口元が緩みそうになるのをどうにか堪える。
「……黒たん」
「おう」
「オレのチョコ以外……食べちゃヤダよ……」
黒鋼は、ついに耐えきれず小さく笑った。なんとなく誤魔化すみたいに、ヒヨコのような金色の頭に鼻先を押し付ける。
よく知る石鹸の香りが今は酷く懐かしくて、ずっと風通しのよかった胸の隙間が埋まっていくのを感じた。
「他の子のチョコなんか、食べないでよ……バカ……」
「悪かった」
本当のところ、決して間違ったことをしたつもりはなかったけれど、ファイは細かい事情を知らないのだから仕方ない。
自分を責めて身を引こうとした健気さとは、対照的な我儘に胸をくすぐられて、強く抱きしめると微かに鼻をすする音が聞こえる。
オレもごめんねと、掠れた声を絞り出すファイの背を、ぽんぽんと優しく叩いてやった。この場はひとまず、お互い様ということでいいではないか。
信じられないというなら、いっそ傍でずっと疑っていればいい。
黒鋼にはこの男を手放す気がないのだから、もしかしたら一生不安なままでいさせることになるのかもしれないが。
ファイは腕の中で身じろぐと、肩に押しつけていた顔を上げて赤い目元を手の甲で拭った。
そっと胸を押されて僅かに身を離せば、彼はするりと抜け出して、床に放置されていたハート型の箱を拾い上げる。
解けてしまったリボンは諦めて白衣のポケットに捻じ込んで、箱だけを両手で大切に持って差し出してきた。
「一度は捨てちゃったけど……それでもよかったら……。ただの形だし、無理はしなくていいけど、その……」
照れ臭くて仕方がなさそうに顔を赤らめて、口をモゴモゴとさせるファイの手から、黒鋼は改めて赤いハートを奪い取った。そして再び強く腰を抱き寄せ、成すがままで目を見開くファイの唇に、一瞬だけキスをする。
「俺はこいつが欲しかったんだ」
そう言って口の端を持ち上げて笑えば、ファイはみるみる泣き笑いの表情になる。
眉毛が八の字の、ふにゃふにゃとした笑顔。
それは黒鋼が何より愛してやまない、情けない笑い方だった。
←戻る ・ Wavebox👏
クリスマスを一週間後に控えた、ある寒い日の夕方。
たまたま手が空いていた黒鋼は、忙しくて手が離せないというユゥイに、運悪く捕まってしまった。
いいカモが現れたとばかりに笑顔で肩をポンと叩かれて、押しつけられたのは一枚の買い物メモだった。もちろん難色は示したものの「今日は黒鋼先生の大好物を作ります」と言われて結局折れた。
どういうわけかこの胃袋は、付き合っているはずの化学教師ではなく、その双子の弟の方にガッチリ掴まれてしまっているらしい。
そんなこんなでメモの通りにきっちり買い出しを済ませた黒鋼は、ネギの刺さった袋を引っ提げて、真っ直ぐに伸びた商店街を歩いていた。
他は特に用事もないし、あとはとっとと帰って好物とやらが出来あがるのを待つだけだ。
空っぽの胃袋を唸らせながら夕飯に思いを馳せて、奥様方で賑わう商店街のアーケードを抜ける。冬の冷たい風が頬を掠め、尚のことさっさと帰ろうと歩調を早めようとして、逆に足を止めた。
ふと見れば、そこはとある店の前だった。
「そういやここ……」
白い木壁のこじんまりとしたその店は、元は喫茶店だったものが閉店し、その後釜として数ヶ月前にオープンしたばかりの雑貨屋だった。
軒下の古びた木製椅子が花台としての役目を担い、赤いポインセチアの鉢植えが置かれている。
格子状の扉にはクリスマスリースが下げられ、汚れ一つない飾り窓にはスノースプレーで、雪の結晶と『Merry Christmas!』という文字が書かれていた。
そんなガラス越しに、じっとこちらを見つめるつぶらな瞳に気がついて、黒鋼はそれに向かって一歩踏み出すと、僅かに腰を屈める。
「おまえ、まだそこにいたのか」
それは真っ黒でもこもことしたボア素材で作られた、体長30センチほどの大きさの、クマのぬいぐるみだった。
思い出すのはほんの2ヶ月ほど前の、とある光景。
あれはまだ寒さもそれほどではなく、高く澄んだ空には赤いトンボがちらほらと飛び交う、秋真っ盛りの頃だった。
***
「あれー? ねぇねぇ黒様先生ー! ここ新しいお店になってるよー!」
例のごとくお使いメモを持った教師二人が、揃ってこの商店街で買い物を済ませた後のこと。
アーケードを抜けてすぐの地点で足を止めたファイが、黒鋼の腕を掴んでクイクイと引っ張った。
「確かここ喫茶店じゃなかったっけー?」
「そういやそうだったな」
「仲良しのおじいちゃんとおばあちゃんが、二人でやってたんだよー」
やめちゃったんだね、と少し寂しそうな表情を見せたファイだったが、雑貨屋になっているらしい店のショーウィンドウにとある物を見つけて、即座に駆け寄った。
何か気になるものでもあったのかと、すぐ横に並んで見ると、色とりどりのクマのぬいぐるみが幾つか並べてある。
その中の一つをじっと見つめていたファイが、真剣な面持ちで言った。
「黒たん先生」
「あ?」
「こんなところで何してるのー?」
「なに言ってんだおまえ」
「駄目だよー、ユゥイが待ってるから早くおうちに帰ろうよー」
「……てめぇ」
黒鋼は痛むこめかみを押さえつつ低い声をさらに低くした。
実は最初の時点でそこはかとなく気づいてはいたのだが、ファイはこちらに呼びかけているのではなく、ガラス越しのクマの群れの一つに向かって声をかけているのだ。
「人を小馬鹿にするのも大概にしろ!」
「だーってー! あの子、黒様先生にそっくりなんだもーん!」
「どこがだよ!!」
「黒いからだよ!!」
「黒けりゃなんでもいいのかこのアホは!」
「ふわ~可愛いな~真っ赤なリボンまでつけちゃっておっしゃれ~!」
「聞け!!」
道行く人々が不審そうな視線を寄こす中、そんなことなどお構いなしにファイはガラス越しの黒いクマに瞳を輝かせている。
イライラしながら腕を組み、アホの気が済むのを待っていると、そのアホは輝かせた瞳を今度はこちらに向けて来た。
「…………んだよ」
「これ買って?」
「ああ?」
「ねー買ってよー! オレこの子欲しいー連れて帰るー!」
「てめぇで買え! なんで俺が!」
ファイは「だってー」と言いつつ唇を尖らせて、羽織っていたジャケットのポケットにそれぞれ両手を突っ込んでは引き抜く動作を繰り返して見せる。
「お財布持ってきてないんだもーん。おねだりするしかないもーん」
「外出る時は財布ぐれぇ持ち歩け!」
「ねー、いいでしょー? 可愛い恋人の頼みだよー」
首を傾げながら胸のあたりで両手を合わせて見せるファイに、黒鋼は溜息を漏らす。
「前々から言おうと思ってたんだがな」
「うんうん、なになにー?」
「いい歳ぶっこいた男がぬいぐるみだなんだって、恥ずかしくねぇのか」
「はい先生! そういうのは差別だと思います!」
「てめぇ部屋にこんなんばっか山積みじゃねぇか! まずはまともに片付けることを覚えろ!!」
「しょーがないじゃん! 片付けようとすると逆に散らかるんだもん!!」
「威張んな!!」
それはある意味才能の一つなのではないかと思うほどに、この男は片付けができない。
いらない雑誌や漫画本を整理しようとすれば途中で読みふけり「これの続きどこだっけ~?」と次から次へと引っ張り出すし、問題のぬいぐるみは「サクラちゃんたちとゲーセン行ったんだー」などと言っては増えていく。(UFOキャッチャー)
そもそも生徒と一緒になってそんな場所へ遊びに行く神経からして、黒鋼には理解できない。
「とにかく! 俺は買わねぇぞ! だいたいこんな女子供が好きそうな店に、男二人で入れるか!」
「ちょっと!? それって女の子と二人なら入れるってこと!? 女の子のお願いだったら黒たんはこのお店に平気で入れるってこと!?」
「そこまで言ってねぇだろ!!」
「黒様先生の浮気者ぉー! ドケチー!!」
「あぁ!?」
わぁん、と人目も憚らず泣き出すファイをゲンコツで黙らせようと拳を握る。
が、すぐに控えめな「あのぉ……」という声に、二人は揃って目を向けた。
そこにはこの雑貨屋の店員らしき小柄な女性が、エプロン姿で身を縮込ませていた。
「す、すみません……お店の前で騒ぐのはちょっと……」
「あっ、ご、ごめんなさーい!」
今の今までピーピー泣いていたアホが、慌てて頭を下げる。
店員は、腹立たしさを引きずってそっぽを向く黒鋼に怯えたような視線を向けたあと、ファイに向かって引き攣った笑みを向けた。
「な、何かお探しでしょうか?」
「よくぞ聞いてくれましたー! 実はこの黒いクマちゃんが欲しくてー」
「こらてめぇ!」
「あ、そのぬいぐるみは……」
制止する黒鋼の声とかぶさるように言葉を発した店員は、申し訳なさそうに頭を下げると「すみません!」と言った。
***
あのあと結局どうなったかというと、このクマがまだここに並んでいることが答えのようなものだった。
要するにこれは売り物ではなく、ただの飾りに過ぎなかったのだ。
黒鋼は黒いクマを見下ろしながら深く息を漏らした。
「なにがそっくりだ。黒いってだけで……」
あの日の帰り道で、ファイは心底残念そうに肩を落としていた。
そこまで欲しかったのか、とドン底まで呆れ果てたが、沈んだ表情は見ていて気持ちのいいものではなかった。
あのアホはアホらしく、ヘラヘラ笑ってる顔が一番似合う。
まぁ泣き顔も悪くないけどな……と、思考が脱線してしまったことに、別に誰が見ているわけでもないのに思わず咳払いをした。
するとそこに、チリン、というドアベルの音が響いた。
咄嗟に顔を向ければ、あの日の女性店員がほうきを持って姿を現した。
彼女は黒鋼の姿を視界に捉えるや否や肩を揺らし「ヒッ」と言った。
今ヒッって言った? 言ったよな? 人の顔見て怯えたようにヒッて言いやがったよな? と若干気にしつつ、小さく会釈すると彼女もまた頭を下げた。
それから、あの日と同じようにクマを気にしていたらしい黒鋼に、申し訳なさそうな顔をしながらも、店先の掃除をはじめた。
なんとも気まずい空気に、これはとっとと退散したほうがよさそうだと感じる。
が、黒鋼は次の瞬間、小さく手を挙げて店員に声をかけていた。
「ちょっといいか」
「え!? あ、はい……?」
掃除の手を止め、女店員はどこか戸惑いがちに側までやって来る。
黒鋼は頬をガリガリと掻きつつ、ダメ元で彼女に頼んでみることにした。
「その、なんだ……こいつなんだがな……やっぱ譲っちゃもらえねぇか?」
言いながら、一体何をしているのかと自分の行動に呆れた。
すでに二ヶ月も前の話だし、おそらくあのアホ教師だって忘れ腐っているに違いない。
店員は明らかに困ったような……と、いうより
『なんか全体的に黒い人が全体的に黒いぬいぐるみ欲しがっててウケるんですけど。しかも二回目で草www』
と顔に書かれているような気さえして、今すぐ無かったことにしてしまいたい衝動に駆られる。
「あ、あの……」
「いや、いい。無理言って悪かったな」
そそくさと退散しようとした黒鋼だったが「ちょっと待っててください」と店員に引きとめられ、結局その場でしばらく待たされることになった。
***
ネギの刺さったビニール袋と、赤い紙袋を持って、黒鋼は帰路につくことになった。
紙袋の中には例の黒いクマが入っている。
あのあと店に戻って行った店員は、数分後にこの袋を持って戻って来た。
『お客様の熱意には負けました! お代は結構ですから、あの金髪の男の人とお幸せに!!』
という祝福の言葉と共に周囲から集めた視線を、黒鋼は一生忘れないだろう。(黒歴史として)
しばらくはこの辺りには来られないな、とげっそりしつつ、それでもまぁいいかと思う。
もうすぐクリスマスだし、実はすでにプレゼント的なものは用意しているのだが、こいつも添えてやったらあのアホ教師は泣いて大喜びするに違いない。
この際少々(?)の赤っ恥くらいは目をつぶろう。
ただ問題は、こいつを一体どんな顔をして渡せばいいのか、である。
ファイの喜ぶ姿はもちろん見たいが、これを渡す自分の姿を想像すると、とてつもなく恥ずかしい。
かと言って他の誰かに頼むわけにはいかないし、思えばすでに準備済みのプレゼントもまた、これに負けないくらい照れ臭い代物なのだ。
クリスマスは一週間後。
とりあえずその間にしっかり覚悟を決めておく必要があるなと、木枯らしの吹きすさぶ中、黒鋼は宿舎へと戻って行った。
***
「ねぇ黒様先生……神様ってさ……本当にいるのかなぁ……?」
熱っぽく潤んだ青い瞳が、今はただぼんやりと薄暗い天井に向けられている。
黒鋼はファイが横たわるベッドの側で床に胡坐をかいて「さぁな」と曖昧な返事をした。
「いるって信じてるヤツにとっちゃ、いるんじゃねぇのか」
「じゃあさ……オレが信じてた神様は、偽物だったってことかな……」
「知るか、そんなもん」
そっけない言葉と共に手を伸ばし、ファイの額にかかる金の前髪を払いのけると、張り付いていたシートをペリッと剥がした。
数時間前にはひんやりとしていたそれが、今は熱を吸収して生温い感触を指先に伝える。
ぐったりと横たわるアホには悟られぬ程度の息を漏らして、適当にゴミ箱に放ると新しいものを袋から出し、透明なフィルムを剥がす。
赤い頬に反してやけに白い額にそれを貼り付け、おまけにポンっと上から軽く叩いてやると、どこか虚ろな表情だったファイは、その瞳に涙を浮かべて震えだした。
「う……う……」
「……熱上がるぞ。泣くな」
「うぅ……う……うぶえぇ~~~」
黒鋼の制止は意味をなさず、不細工な泣き声を上げる彼は、黙ってさえいればイケメンと謳われる顔を歪め、しかも鼻水を垂らしはじめる。
すかさず何枚か箱から抜き取ったティッシュをそこに押しつけると、グリグリと拭き取ってやった。
「うっ、うっ、こんなのやだぁ~こんなはずじゃなかった~」
「そうだな……」
「オレなんにも悪いことしてないのにぃ~」
「しょうがねぇだろ……風邪ひいちまったもんはよ……」
「びええぇ~~~!」
いい歳ぶっこいてスーパーによくいる駄々っ子の勢いで泣き喚くファイは、案の定もともと赤かった頬をさらに真っ赤にした。
言わんこっちゃねぇと頭をガリガリと掻いた黒鋼は、引き続き垂れ流しの鼻水と涙を拭ってやりつつ、溜息を吐き出した。
12月24日、クリスマスイヴ。
毎年、この日は盛大にクリスマスパーティーが開かれる。
主催はもちろん祭り事とトラブルに目がない女理事長で、教師も生徒も関係なく、皆がその宴に巻き込まれる。
日も暮れないうちから始まり、翌朝まで続くそれはパーティーというより、最早ただの耐久レースだ。朝日が昇る頃まで意識を保っていられる人間はごく僅かである。
そういったハチャメチャな催しに生徒まで巻き込むことには賛成しかねるが、黒鋼にとっては決して嫌なイベントではない。
クリスマス云々というより、ただ存分に酒を飲むための口実として利用するには、都合がいいからだ。
けれど、黒鋼がそのパーティーに朝まで参加するケースはほとんどない。
夜も更けて、生徒の大半が船を漕ぐ頃になると、決まって化学教師がそわそわと落ち着きを失くす。
元々落ち着きに欠ける人間ではあるが、口数が極端に減って酒を飲むペースが格段に落ちるので、非常に分かりやすかったりする。
それは『そろそろ二人っきりになりたいなー』の合図であることを黒鋼は知っていて、あえて気付かない振りをしていると、そのうちジャージの袖をクイクイと引っ張られる。
実はその瞬間が、黒鋼にとって毎年の楽しみであったりもする。
普段は恥も外聞もないような騒がしい男が、一応は人目を気にして控えめに誘いをかけてくる様など、滅多なことでは拝めないからだ。
そういった流れでさりげなく宴の席を抜け出して、宿舎に戻ってすることといえば一つしかないのだが、それが毎年の決まった流れになっていた。
が、今年は少し違っていた。
『今年のイヴはさー、駅前のイルミネーション見に行こうよー!』
そう言い出したのはファイで、たまにはいいかと話に乗ったのは黒鋼だった。
毎年この時期になると、駅前広場の街路樹、街路灯、花壇までもが数十万個ものイルミネーションで装飾され、その時期限定のデートスポットになっている。
人ごみを嫌ってついつい足を向ける気になれずにいたが、時にはそういう場に出向いてみるのも悪くないと思った。
デートスポットと言っても家族連れや関係のない通行人だって大勢いるだろうから、男が二人で歩いていたとしても目立つことはないだろうし。
美しい電飾に彩られた街を歩いて、それからどこか洒落た店にでも連れて行けば、ファイはどんな反応をするのだろうか。どこかしらホテルでも予約して、夜景を楽しみながら静かに酒を飲むのもいいかもしれない、なんて。
なんだかんだで仕事に追われる日々の中、二人きりでどこかへ出掛けるなどという、いわゆるデートめいたことはまともにできた試しがない。(買い出しならしょっちゅうだが)
だからちょっとくらいサービスしてやるかと、サプライズなんて柄にもなくあれこれ計画を立ててみたりして、流石にホテルは全滅だったが、運よく夜景の見えるレストランの一席を予約することに成功した。
普段とは違うシチュエーションに身を置けば、例のプレゼントを渡すのもスムーズに行くように思えたからだ。
全ては準備万端。
……の、はずだったのだが。
イヴのこの日、数日前から風邪気味だったファイは高熱を出した。
朝の段階ではちょっと鼻をすすりながらも「今日なに着て行こうかなー」なんてはしゃいでいたくせに、その数時間後には真っ赤な顔をして目を回し、そのままパッタリである。
それでも絶対に出掛けるのだと駄々をこねていたが、夜が近づくにつれて熱は40度近くにまで上がり、流石のアホも虫の息だった。
「黒様せんせぇと、デート……楽しみに、してたのにぃ……」
めそめそと泣き続けるファイの、襟元のシーツを整えてやりつつ、黒鋼は苦笑した。
体調管理が出来ていなかったと言えばそれまでだが、今は慌ただしさと同時に、一年の疲れがどっと押し寄せる時期でもある。
色々と計画を立てていた身としては残念で仕方がないが、仮に今日こうして熱を出さずとも、元々風邪気味だった彼を寒空の下連れ回せば、おそらく同じ結果になっていたことだろう。
「もう泣くな」
そう言って、シーツを整えていた手をそのままファイの額に被せた。
冷却シート越しに熱が伝わって、どうにかして泣きやませなければ、さらに熱が上がってしまうと思った。
せっかく立てていたサプライズ計画も、黒鋼の胸の中にだけしまっておくのがよさそうだ。今さら言っても仕方がないことだし、このアホが知ればもっと泣き喚く結果になるのは目に見えている。
「とにかく今はとっとと治すことだけ考えろ。眠って起きりゃあ少しは楽になってるだろ」
「……ごめんね……オレから誘ったのに……せっかく黒たんもその気になってくれたのに……」
「いいから気にすんな」
何も今回がダメになったからといって、もう二度と機会がないわけじゃない。
クリスマスなんてものは嫌でも毎年やって来るのだし、なんならイベント事がなくたって、その気になればデートくらいいつでもできるのだ。
ファイはまるでこの機を逃せばもうチャンスはないと言わんばかりの落ち込みようだが、決してそんなことはない。
黒鋼だって、彼が行きたい場所へはどこへだって連れて行ってやりたいし、喜ばせてやりたいという気持ちは常にある。
けれど忙しさにかまけてプライベートを疎かにしてきた自覚もあって、今回の件に限らず、埋め合わせていかなければならないことが沢山あるような気がした。
「せっかく……せっかく神様にお願いしたのに……イヴまでに風邪治りますようにって……」
「わかったからもう喋るな」
「昨日は徹夜でお百度参りまでしたのに……」
「傍についててやるからとっとと眠…………おい待て今なんつった?」
聞き間違えだろうか。
今なにかアホの戯言のようなものが聞こえた気がして、黒鋼は小指で耳の穴をほじった。
「お百度参りだよ……それやると神様がお願いきいてくれるんだよ。黒たん知らないの?」
……は?
お百度参りというのはアレか。
神社だの寺だのに行って、一度に百回も行ったり来たりを繰り返して拝むとかいう、時代劇なんかで見たことがあるようなアレのことか……?
「凄く寒かったけど、頑張ったのに……」
しょうがねぇな、これからはもう少し甘やかしてやるか……なんて思っていた黒鋼の気持ちは、今この瞬間粉々に砕かれた。
「おまえは馬鹿か!?」
思わず立ち上がり、ベッドに片足をついて怒鳴り散らしていた。
馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが、これほどまでに壮絶な馬鹿がこの世に野放しになっているだなんて、それこそ神様だって目ん玉スポーンするに違いない。
(予想図⇒(.:; 益 ) 三 <@><@>スポーン)
そういえば昨日の夜、毎晩のように部屋に忍び込んでくるはずのこの男は来なかった。
きっと明日に備えて大人しく寝ているのだろうとばかり思っていたら……。
「十中八九その結果がコレだろうが!!」
「だってぇ! ぜんぜん風邪よくならないんだもん! もう神頼みしかないじゃんかー!!」
「どういう思考回路してんだよ!? てめぇが拝むべきだったのは神様じゃねぇ! 医者だこのタコ!!」
もう付き合いきれない。
このままでは病人であろうがお構いなしに、ベッドにめり込むほどの力で顔面に拳を叩きつけてしまいそうだった。
あの雑貨屋での出来事からこの一週間、自分が照れ臭さと戦いながら、どれほど過酷な(精神的に)シミュレーションを繰り返してきたと思っているのか。
時には寝る前に脳内で行っては唸りながら足をバタつかせ、時には実際に言うつもりの台詞を本番さながらに口にしては、壁に額を叩きつけて一人真っ赤になったりもした。
柄にもないことをし続けた結果、実はこの一週間で体重が3キロも落ちてしまった。
そうしてついに迎えた当日だったが、ファイの体調が優れないのなら諦めるより他になく、今の今まで恒例のパーティーにも顔を出さずに、付きっきりの看病をしていたというのに。
「もう知るか!! 一人で勝手に寝込んでろ!!」
「ちょお!? 病人を一人にしないでよー!!」
黒鋼が勢いよく背中を向けると、力の限りを振りしぼって起き上がったファイが腰にしがみついてきた。
だが、堪忍袋という名の宝石箱が、怒りのジュエルではち切れそう……いや、最早はち切れ済みの黒鋼がその言い分を聞き入れることはなかった。
「どうせパーティー行ってお酒飲むんでしょー!?」
「悪いか!? これが飲まずにいられるか!?」
「そんなのズルイー!! オレも行くー!!」
「一生寝てろーー!!」
振りむきざまにひえピタの張り付いた額を掴むと、枕に向かってその頭を叩きつけてやった。
一瞬本当にベッドがメリッと音を立てたような気がしたが、目を回して大人しくなったファイを残して、怒り心頭の黒鋼は部屋を後にした。
その後は言うまでもなく、パーティーに途中参加した黒鋼は浴びるほどのヤケ酒を食らって、朝まで戻ることはなかった……。
*
「ん……」
目覚めると、カーテンの隙間から射しこんだ光に少しだけ目が眩んだ。
手の甲でごしごしと目元を拭いながら起き上がると、ファイはしばらくぼんやりと瞬きを繰り返す。
頭の中は寝起きのせいでスッキリしないが、身体は軽いような気する。
思いっきり背伸びをして、ひとつ大きな欠伸をすると、額に張り付いたままのシートを剥がす。
「熱、下がった感じがするー」
昨日まではあれほど辛かった体調が、今は嘘のように回復しているのを感じた。
シートをゴミ箱に放りつつ身体の向きを変えて、ベッドの縁に腰を落ち着けると床に足をつける。
そのままなんとなく床を見下ろしながら、ファイは昨夜のことを思い出した。
(黒たん先生……昨日すっごい怒ってなかったっけ……)
思いっきり額を掴まれて、ベッドが軋むほど頭部を枕に叩きつけられた記憶がある。
なんでだっけ……と考えてはみたが、高熱に浮かされていた間のことはどうしても思い出せなかったので「まぁいっか~♪」と、とりあえず投げた。
「それより昨日は残念だったなー」
独り言をぽつりと吐き出して、裸足の足をぶらぶらさせる。
本当なら今頃二人揃って、ここではないどこかのベッドでクリスマスの朝を迎えていたはずだ。
ファイが黒鋼を誘ったのはクリスマスのほんの数日前だったから、綺麗なホテルやレストランの予約は初めから諦めきっていた。
駅前の美しいイルミネーションを見ながら、こっそり手を繋いだりして歩けたら素敵だなぁとか、そのままいっそ場末の寂れたラブホでもいいから泊まっちゃったりなんかして、とか。
あんなに楽しみに胸を躍らせていたのに、迎えた結果がこの有様だ。(自業自得)
黒鋼もいつになく乗り気な姿勢を見せてくれたのに、申し訳ないことをしてしまった。
はぁ、と深い溜息と共に肩を落とす。
とりあえず風邪は落ち着いたようだし、シャワーでも浴びてから黒鋼に頭を下げに行こう。
もしかしたらまだパーティー会場(体育館)にいるかもしれないし、ケーキくらいは残っているかもしれない。
そう思って立ち上がろうとしてふと、ファイは枕元に目をやった。
「ん?」
そこには、昨日まではなかったはずのものが置かれていた。
咄嗟に手に取り、膝の上に向かい合うようにして乗せる。
真っ赤なリボンをした、真っ黒なクマ。
どこかで見たような気がするその可愛らしいぬいぐるみは、瞳の色も真っ黒で、朝日を弾いてつぶらに光り輝いていた。
これは、もしかして……。
「あの時の黒たんクマ……!?」
なぜ、どうしてここに?
確かこれは非売品のはずで、買いたくても買えない代物だったはずだ。
それなのに、この黒いクマは今確かにこの手の中にいる。
誰がくれたかなんて、そんなのは考えるまでもなく……。
込み上げる驚きと、嬉しさや感動が、上手く言葉にならなかった。
ただどうしようもなく身体が震えて、ファイはそのふんわりとした手触りのクマをぎゅっと抱きしめた。
「……バカなんだから」
あんなに嫌がっていたのに、あのカタブツが一体どうやってこれを手に入れたのだろうか。どんな顔をして店員に頼みこんだのだろう。
そしてきっと、自分でもどうやってこんな可愛らしいものをファイに渡すか、相当考え込んだに違いなかった。
「黒たんは、バカだよぅ……」
ぬいぐるみの存在なんて、こっちはすっかり忘れていたのに。
なんだか泣けてきて、嬉しくて嬉しくて仕方がないのに、つい可愛くない言葉が口から零れる。
こんな渡し方をする方がずっとキザで恥ずかしいのに。
この後どんな顔をして会えばいいのか、こっちまで分からなくなってしまうではないか。
ファイは震える息を吐きだしながら、涙を拭った。
そして、可愛らしいクマの頭部を優しく撫でる。すると、その背中にチャックがついていることに気がついた。
どうやら小物を入れられるようになっているらしい。
ポプリなんかを入れたりしたらいいかもしれない、なんて思いつつクマを裏返し、なんとなくチャックを下ろしてみた。すると。
「あれ? これなんだろ……?」
開いた部分に指を入れてみると、何か硬い感触が指先を掠めた。
小首を傾げながらそれをそっと取り出し、ファイは思わず息を飲んだ。
***
「黒たん! 黒たんってばー!!」
てっきり自室か、まだパーティー会場にいるとばかり思っていた黒鋼は、ファイが寝室を飛び出してすぐのリビングで、ソファにどっかり背中を預けて寝こけていた。
「起きてよー! お酒臭いよー! 起きてー!」
「んが……なんだてめぇ……うるせぇぞ……」
思いっきり肩を揺すって声をかければ、彼は酒の臭いをプンプンさせつつも渋々目を開けた。
が、すぐにファイの腕に抱かれるクマを見て、いつにも増して嫌そうな顔をする。
そんな表情すら愛しくて、ファイはその膝に飛び乗るようにして思いっきり首に抱きついた。
「おわっ、こら、なんだいきなり!」
「だって、だってクマが……黒クマがぁ!!」
「わかったからとりあえず離れろ!」
「ありがとう黒たん……オレ、嬉しくて……!」
ベソをかきながら礼を言うと、思いっきり前髪を掴まれてべりっと剥がされた。
向かい合うような態勢でいる二人の間に、黒いクマがちょこんとハマる。
黒鋼はなんともいえない苦々しい表情で、ガリガリと頭を掻くと目を逸らした。
「なんのことだか、さっぱり分かんねぇぞ」
だいぶ苦しい言い分だが、どうやらしらばっくれるつもりでいるらしい。
ここでしつこくからかえばゲンコツを食らうのは目に見えていたので、ファイは声を上げて笑い出したいのをぐっと堪えた。
それでも肩が小刻みに震えてしまうのはどうにもならず、振動を受け止める黒鋼にきつく睨まれる。
「知らねぇからな、俺はそんなもん」
「うん、うん、サンタさんが来てくれたんだねぇ。これ、置いてあったんだー」
「そうかよ」
そっけなく言いながらそっぽを向く黒鋼の耳が、ほんのり赤い。
どうしてこの人はこんな怖い顔をしているくせに、こんなにも可愛いんだろう。
「あのね、あとね、これも貰ったんだ」
ファイはクマの背中に手をやると、中から銀色の指輪を取り出した。
緩やかな木目模様のそれには、裏側に小さく『K to F』と刻まれていた。
黒鋼から、ファイへ。
とことんクサイ真似をしてくれたサンタは、ふん、と鼻を鳴らしながらもやっぱり赤い顔と耳をしている。
きっと今にも壁に額を叩きつけて叫び出したいくらい、照れ臭いに違いなかった。
ファイはファイで、あまりの嬉しさにわんわん声を上げて泣いてしまいたかったけれど、鼻を大きくすすって我慢する。
そして、手にした指輪を左手の薬指にはめると「でもね」と言った。
「サンタさん、オレの指輪のサイズ間違っちゃったみたいだよ?」
「あ!?」
「ほらほらー」
「!!」
眉間の皺を深くして、くわっと目を見開く黒鋼の顔の前に左手を翳し、薬指だけ幾度か曲げる。
指輪は、ほんの僅かではあるがサイズが大きくて、ファイが指を曲げる度にグラグラと揺れた。
「…………」
瞬きも忘れて指輪を凝視する顔には『やっちまった……』という文字がくっきり浮き上がっているように見えた。
流石に堪え切れなくなって、ファイはぷっと吹き出してしまう。
身体全体を揺らしてクスクスと笑うと、それを膝に乗せている黒鋼は溜息と共に顔を片手で覆ってしまった。
そのまま指の隙間から睨みつけて来たかと思うと、一言短く「返せ」と言う。
「えー? なんでー?」
「合わねぇんだろ……いいから返せ」
「やだよー。だってこれサンタさんがくれたんだもーん。黒たんがくれたんじゃないもーん」
最初にしらばっくれたのは黒鋼なのだから。
それを逆手に、今度はファイがシラを切る番だった。
「これ、チェーン通してネックレスにするんだー。いいでしょー?」
見せつけるように薬指の指輪にキスをして見せれば、その筋の人でも尻尾を巻いて逃げだしそうな凶悪面が舌打ちをする。
ファイはにんまり笑って、またしてもそっぽを向いてしまった黒鋼の首に再び抱きつく。今度は、引っぺがされることはなかった。
密着する二人の間でクマが苦しそうに潰れているけれど、心の中で「ごめんね」を言うに留める。
「オレのサンタさん」
「…………」
「黒くておっきくて、ちょっと怖い顔だけど優しくて……カッコイイのに、すっごく可愛い人なんだ」
「……そうかよ」
「うん。だからね、オレ……」
肩に埋めた鼻先が、どうしようもなく痛んで仕方がない。
今朝起きて、枕元の黒いクマを手にした瞬間から、泣いたり笑ったりしてばかりで忙しいったらなかった。
今も嬉し涙が止まらなくて、笑いたいのに泣きたくて、愛しくて愛しくて、夢を見ているような気分だった。
「凄く、幸せ」
あまりにも胸がいっぱいで、最後にそれだけ絞り出すのが精一杯だった。
黒鋼が息を漏らし、ふっと笑うのが分かる。
囁くような小さな声が「そりゃよかったな」と言うと、ファイの背中をそっと優しく抱き返した。
イヴのデートは潰れてしまったけれど。
黒いジャージを着た、酒臭いサンタのプレゼントは、それを埋めるには十分すぎるほどの幸せを、ファイの元に届けてくれたのだった。
←戻る ・ Wavebox👏
たまたま手が空いていた黒鋼は、忙しくて手が離せないというユゥイに、運悪く捕まってしまった。
いいカモが現れたとばかりに笑顔で肩をポンと叩かれて、押しつけられたのは一枚の買い物メモだった。もちろん難色は示したものの「今日は黒鋼先生の大好物を作ります」と言われて結局折れた。
どういうわけかこの胃袋は、付き合っているはずの化学教師ではなく、その双子の弟の方にガッチリ掴まれてしまっているらしい。
そんなこんなでメモの通りにきっちり買い出しを済ませた黒鋼は、ネギの刺さった袋を引っ提げて、真っ直ぐに伸びた商店街を歩いていた。
他は特に用事もないし、あとはとっとと帰って好物とやらが出来あがるのを待つだけだ。
空っぽの胃袋を唸らせながら夕飯に思いを馳せて、奥様方で賑わう商店街のアーケードを抜ける。冬の冷たい風が頬を掠め、尚のことさっさと帰ろうと歩調を早めようとして、逆に足を止めた。
ふと見れば、そこはとある店の前だった。
「そういやここ……」
白い木壁のこじんまりとしたその店は、元は喫茶店だったものが閉店し、その後釜として数ヶ月前にオープンしたばかりの雑貨屋だった。
軒下の古びた木製椅子が花台としての役目を担い、赤いポインセチアの鉢植えが置かれている。
格子状の扉にはクリスマスリースが下げられ、汚れ一つない飾り窓にはスノースプレーで、雪の結晶と『Merry Christmas!』という文字が書かれていた。
そんなガラス越しに、じっとこちらを見つめるつぶらな瞳に気がついて、黒鋼はそれに向かって一歩踏み出すと、僅かに腰を屈める。
「おまえ、まだそこにいたのか」
それは真っ黒でもこもことしたボア素材で作られた、体長30センチほどの大きさの、クマのぬいぐるみだった。
思い出すのはほんの2ヶ月ほど前の、とある光景。
あれはまだ寒さもそれほどではなく、高く澄んだ空には赤いトンボがちらほらと飛び交う、秋真っ盛りの頃だった。
***
「あれー? ねぇねぇ黒様先生ー! ここ新しいお店になってるよー!」
例のごとくお使いメモを持った教師二人が、揃ってこの商店街で買い物を済ませた後のこと。
アーケードを抜けてすぐの地点で足を止めたファイが、黒鋼の腕を掴んでクイクイと引っ張った。
「確かここ喫茶店じゃなかったっけー?」
「そういやそうだったな」
「仲良しのおじいちゃんとおばあちゃんが、二人でやってたんだよー」
やめちゃったんだね、と少し寂しそうな表情を見せたファイだったが、雑貨屋になっているらしい店のショーウィンドウにとある物を見つけて、即座に駆け寄った。
何か気になるものでもあったのかと、すぐ横に並んで見ると、色とりどりのクマのぬいぐるみが幾つか並べてある。
その中の一つをじっと見つめていたファイが、真剣な面持ちで言った。
「黒たん先生」
「あ?」
「こんなところで何してるのー?」
「なに言ってんだおまえ」
「駄目だよー、ユゥイが待ってるから早くおうちに帰ろうよー」
「……てめぇ」
黒鋼は痛むこめかみを押さえつつ低い声をさらに低くした。
実は最初の時点でそこはかとなく気づいてはいたのだが、ファイはこちらに呼びかけているのではなく、ガラス越しのクマの群れの一つに向かって声をかけているのだ。
「人を小馬鹿にするのも大概にしろ!」
「だーってー! あの子、黒様先生にそっくりなんだもーん!」
「どこがだよ!!」
「黒いからだよ!!」
「黒けりゃなんでもいいのかこのアホは!」
「ふわ~可愛いな~真っ赤なリボンまでつけちゃっておっしゃれ~!」
「聞け!!」
道行く人々が不審そうな視線を寄こす中、そんなことなどお構いなしにファイはガラス越しの黒いクマに瞳を輝かせている。
イライラしながら腕を組み、アホの気が済むのを待っていると、そのアホは輝かせた瞳を今度はこちらに向けて来た。
「…………んだよ」
「これ買って?」
「ああ?」
「ねー買ってよー! オレこの子欲しいー連れて帰るー!」
「てめぇで買え! なんで俺が!」
ファイは「だってー」と言いつつ唇を尖らせて、羽織っていたジャケットのポケットにそれぞれ両手を突っ込んでは引き抜く動作を繰り返して見せる。
「お財布持ってきてないんだもーん。おねだりするしかないもーん」
「外出る時は財布ぐれぇ持ち歩け!」
「ねー、いいでしょー? 可愛い恋人の頼みだよー」
首を傾げながら胸のあたりで両手を合わせて見せるファイに、黒鋼は溜息を漏らす。
「前々から言おうと思ってたんだがな」
「うんうん、なになにー?」
「いい歳ぶっこいた男がぬいぐるみだなんだって、恥ずかしくねぇのか」
「はい先生! そういうのは差別だと思います!」
「てめぇ部屋にこんなんばっか山積みじゃねぇか! まずはまともに片付けることを覚えろ!!」
「しょーがないじゃん! 片付けようとすると逆に散らかるんだもん!!」
「威張んな!!」
それはある意味才能の一つなのではないかと思うほどに、この男は片付けができない。
いらない雑誌や漫画本を整理しようとすれば途中で読みふけり「これの続きどこだっけ~?」と次から次へと引っ張り出すし、問題のぬいぐるみは「サクラちゃんたちとゲーセン行ったんだー」などと言っては増えていく。(UFOキャッチャー)
そもそも生徒と一緒になってそんな場所へ遊びに行く神経からして、黒鋼には理解できない。
「とにかく! 俺は買わねぇぞ! だいたいこんな女子供が好きそうな店に、男二人で入れるか!」
「ちょっと!? それって女の子と二人なら入れるってこと!? 女の子のお願いだったら黒たんはこのお店に平気で入れるってこと!?」
「そこまで言ってねぇだろ!!」
「黒様先生の浮気者ぉー! ドケチー!!」
「あぁ!?」
わぁん、と人目も憚らず泣き出すファイをゲンコツで黙らせようと拳を握る。
が、すぐに控えめな「あのぉ……」という声に、二人は揃って目を向けた。
そこにはこの雑貨屋の店員らしき小柄な女性が、エプロン姿で身を縮込ませていた。
「す、すみません……お店の前で騒ぐのはちょっと……」
「あっ、ご、ごめんなさーい!」
今の今までピーピー泣いていたアホが、慌てて頭を下げる。
店員は、腹立たしさを引きずってそっぽを向く黒鋼に怯えたような視線を向けたあと、ファイに向かって引き攣った笑みを向けた。
「な、何かお探しでしょうか?」
「よくぞ聞いてくれましたー! 実はこの黒いクマちゃんが欲しくてー」
「こらてめぇ!」
「あ、そのぬいぐるみは……」
制止する黒鋼の声とかぶさるように言葉を発した店員は、申し訳なさそうに頭を下げると「すみません!」と言った。
***
あのあと結局どうなったかというと、このクマがまだここに並んでいることが答えのようなものだった。
要するにこれは売り物ではなく、ただの飾りに過ぎなかったのだ。
黒鋼は黒いクマを見下ろしながら深く息を漏らした。
「なにがそっくりだ。黒いってだけで……」
あの日の帰り道で、ファイは心底残念そうに肩を落としていた。
そこまで欲しかったのか、とドン底まで呆れ果てたが、沈んだ表情は見ていて気持ちのいいものではなかった。
あのアホはアホらしく、ヘラヘラ笑ってる顔が一番似合う。
まぁ泣き顔も悪くないけどな……と、思考が脱線してしまったことに、別に誰が見ているわけでもないのに思わず咳払いをした。
するとそこに、チリン、というドアベルの音が響いた。
咄嗟に顔を向ければ、あの日の女性店員がほうきを持って姿を現した。
彼女は黒鋼の姿を視界に捉えるや否や肩を揺らし「ヒッ」と言った。
今ヒッって言った? 言ったよな? 人の顔見て怯えたようにヒッて言いやがったよな? と若干気にしつつ、小さく会釈すると彼女もまた頭を下げた。
それから、あの日と同じようにクマを気にしていたらしい黒鋼に、申し訳なさそうな顔をしながらも、店先の掃除をはじめた。
なんとも気まずい空気に、これはとっとと退散したほうがよさそうだと感じる。
が、黒鋼は次の瞬間、小さく手を挙げて店員に声をかけていた。
「ちょっといいか」
「え!? あ、はい……?」
掃除の手を止め、女店員はどこか戸惑いがちに側までやって来る。
黒鋼は頬をガリガリと掻きつつ、ダメ元で彼女に頼んでみることにした。
「その、なんだ……こいつなんだがな……やっぱ譲っちゃもらえねぇか?」
言いながら、一体何をしているのかと自分の行動に呆れた。
すでに二ヶ月も前の話だし、おそらくあのアホ教師だって忘れ腐っているに違いない。
店員は明らかに困ったような……と、いうより
『なんか全体的に黒い人が全体的に黒いぬいぐるみ欲しがっててウケるんですけど。しかも二回目で草www』
と顔に書かれているような気さえして、今すぐ無かったことにしてしまいたい衝動に駆られる。
「あ、あの……」
「いや、いい。無理言って悪かったな」
そそくさと退散しようとした黒鋼だったが「ちょっと待っててください」と店員に引きとめられ、結局その場でしばらく待たされることになった。
***
ネギの刺さったビニール袋と、赤い紙袋を持って、黒鋼は帰路につくことになった。
紙袋の中には例の黒いクマが入っている。
あのあと店に戻って行った店員は、数分後にこの袋を持って戻って来た。
『お客様の熱意には負けました! お代は結構ですから、あの金髪の男の人とお幸せに!!』
という祝福の言葉と共に周囲から集めた視線を、黒鋼は一生忘れないだろう。(黒歴史として)
しばらくはこの辺りには来られないな、とげっそりしつつ、それでもまぁいいかと思う。
もうすぐクリスマスだし、実はすでにプレゼント的なものは用意しているのだが、こいつも添えてやったらあのアホ教師は泣いて大喜びするに違いない。
この際少々(?)の赤っ恥くらいは目をつぶろう。
ただ問題は、こいつを一体どんな顔をして渡せばいいのか、である。
ファイの喜ぶ姿はもちろん見たいが、これを渡す自分の姿を想像すると、とてつもなく恥ずかしい。
かと言って他の誰かに頼むわけにはいかないし、思えばすでに準備済みのプレゼントもまた、これに負けないくらい照れ臭い代物なのだ。
クリスマスは一週間後。
とりあえずその間にしっかり覚悟を決めておく必要があるなと、木枯らしの吹きすさぶ中、黒鋼は宿舎へと戻って行った。
***
「ねぇ黒様先生……神様ってさ……本当にいるのかなぁ……?」
熱っぽく潤んだ青い瞳が、今はただぼんやりと薄暗い天井に向けられている。
黒鋼はファイが横たわるベッドの側で床に胡坐をかいて「さぁな」と曖昧な返事をした。
「いるって信じてるヤツにとっちゃ、いるんじゃねぇのか」
「じゃあさ……オレが信じてた神様は、偽物だったってことかな……」
「知るか、そんなもん」
そっけない言葉と共に手を伸ばし、ファイの額にかかる金の前髪を払いのけると、張り付いていたシートをペリッと剥がした。
数時間前にはひんやりとしていたそれが、今は熱を吸収して生温い感触を指先に伝える。
ぐったりと横たわるアホには悟られぬ程度の息を漏らして、適当にゴミ箱に放ると新しいものを袋から出し、透明なフィルムを剥がす。
赤い頬に反してやけに白い額にそれを貼り付け、おまけにポンっと上から軽く叩いてやると、どこか虚ろな表情だったファイは、その瞳に涙を浮かべて震えだした。
「う……う……」
「……熱上がるぞ。泣くな」
「うぅ……う……うぶえぇ~~~」
黒鋼の制止は意味をなさず、不細工な泣き声を上げる彼は、黙ってさえいればイケメンと謳われる顔を歪め、しかも鼻水を垂らしはじめる。
すかさず何枚か箱から抜き取ったティッシュをそこに押しつけると、グリグリと拭き取ってやった。
「うっ、うっ、こんなのやだぁ~こんなはずじゃなかった~」
「そうだな……」
「オレなんにも悪いことしてないのにぃ~」
「しょうがねぇだろ……風邪ひいちまったもんはよ……」
「びええぇ~~~!」
いい歳ぶっこいてスーパーによくいる駄々っ子の勢いで泣き喚くファイは、案の定もともと赤かった頬をさらに真っ赤にした。
言わんこっちゃねぇと頭をガリガリと掻いた黒鋼は、引き続き垂れ流しの鼻水と涙を拭ってやりつつ、溜息を吐き出した。
12月24日、クリスマスイヴ。
毎年、この日は盛大にクリスマスパーティーが開かれる。
主催はもちろん祭り事とトラブルに目がない女理事長で、教師も生徒も関係なく、皆がその宴に巻き込まれる。
日も暮れないうちから始まり、翌朝まで続くそれはパーティーというより、最早ただの耐久レースだ。朝日が昇る頃まで意識を保っていられる人間はごく僅かである。
そういったハチャメチャな催しに生徒まで巻き込むことには賛成しかねるが、黒鋼にとっては決して嫌なイベントではない。
クリスマス云々というより、ただ存分に酒を飲むための口実として利用するには、都合がいいからだ。
けれど、黒鋼がそのパーティーに朝まで参加するケースはほとんどない。
夜も更けて、生徒の大半が船を漕ぐ頃になると、決まって化学教師がそわそわと落ち着きを失くす。
元々落ち着きに欠ける人間ではあるが、口数が極端に減って酒を飲むペースが格段に落ちるので、非常に分かりやすかったりする。
それは『そろそろ二人っきりになりたいなー』の合図であることを黒鋼は知っていて、あえて気付かない振りをしていると、そのうちジャージの袖をクイクイと引っ張られる。
実はその瞬間が、黒鋼にとって毎年の楽しみであったりもする。
普段は恥も外聞もないような騒がしい男が、一応は人目を気にして控えめに誘いをかけてくる様など、滅多なことでは拝めないからだ。
そういった流れでさりげなく宴の席を抜け出して、宿舎に戻ってすることといえば一つしかないのだが、それが毎年の決まった流れになっていた。
が、今年は少し違っていた。
『今年のイヴはさー、駅前のイルミネーション見に行こうよー!』
そう言い出したのはファイで、たまにはいいかと話に乗ったのは黒鋼だった。
毎年この時期になると、駅前広場の街路樹、街路灯、花壇までもが数十万個ものイルミネーションで装飾され、その時期限定のデートスポットになっている。
人ごみを嫌ってついつい足を向ける気になれずにいたが、時にはそういう場に出向いてみるのも悪くないと思った。
デートスポットと言っても家族連れや関係のない通行人だって大勢いるだろうから、男が二人で歩いていたとしても目立つことはないだろうし。
美しい電飾に彩られた街を歩いて、それからどこか洒落た店にでも連れて行けば、ファイはどんな反応をするのだろうか。どこかしらホテルでも予約して、夜景を楽しみながら静かに酒を飲むのもいいかもしれない、なんて。
なんだかんだで仕事に追われる日々の中、二人きりでどこかへ出掛けるなどという、いわゆるデートめいたことはまともにできた試しがない。(買い出しならしょっちゅうだが)
だからちょっとくらいサービスしてやるかと、サプライズなんて柄にもなくあれこれ計画を立ててみたりして、流石にホテルは全滅だったが、運よく夜景の見えるレストランの一席を予約することに成功した。
普段とは違うシチュエーションに身を置けば、例のプレゼントを渡すのもスムーズに行くように思えたからだ。
全ては準備万端。
……の、はずだったのだが。
イヴのこの日、数日前から風邪気味だったファイは高熱を出した。
朝の段階ではちょっと鼻をすすりながらも「今日なに着て行こうかなー」なんてはしゃいでいたくせに、その数時間後には真っ赤な顔をして目を回し、そのままパッタリである。
それでも絶対に出掛けるのだと駄々をこねていたが、夜が近づくにつれて熱は40度近くにまで上がり、流石のアホも虫の息だった。
「黒様せんせぇと、デート……楽しみに、してたのにぃ……」
めそめそと泣き続けるファイの、襟元のシーツを整えてやりつつ、黒鋼は苦笑した。
体調管理が出来ていなかったと言えばそれまでだが、今は慌ただしさと同時に、一年の疲れがどっと押し寄せる時期でもある。
色々と計画を立てていた身としては残念で仕方がないが、仮に今日こうして熱を出さずとも、元々風邪気味だった彼を寒空の下連れ回せば、おそらく同じ結果になっていたことだろう。
「もう泣くな」
そう言って、シーツを整えていた手をそのままファイの額に被せた。
冷却シート越しに熱が伝わって、どうにかして泣きやませなければ、さらに熱が上がってしまうと思った。
せっかく立てていたサプライズ計画も、黒鋼の胸の中にだけしまっておくのがよさそうだ。今さら言っても仕方がないことだし、このアホが知ればもっと泣き喚く結果になるのは目に見えている。
「とにかく今はとっとと治すことだけ考えろ。眠って起きりゃあ少しは楽になってるだろ」
「……ごめんね……オレから誘ったのに……せっかく黒たんもその気になってくれたのに……」
「いいから気にすんな」
何も今回がダメになったからといって、もう二度と機会がないわけじゃない。
クリスマスなんてものは嫌でも毎年やって来るのだし、なんならイベント事がなくたって、その気になればデートくらいいつでもできるのだ。
ファイはまるでこの機を逃せばもうチャンスはないと言わんばかりの落ち込みようだが、決してそんなことはない。
黒鋼だって、彼が行きたい場所へはどこへだって連れて行ってやりたいし、喜ばせてやりたいという気持ちは常にある。
けれど忙しさにかまけてプライベートを疎かにしてきた自覚もあって、今回の件に限らず、埋め合わせていかなければならないことが沢山あるような気がした。
「せっかく……せっかく神様にお願いしたのに……イヴまでに風邪治りますようにって……」
「わかったからもう喋るな」
「昨日は徹夜でお百度参りまでしたのに……」
「傍についててやるからとっとと眠…………おい待て今なんつった?」
聞き間違えだろうか。
今なにかアホの戯言のようなものが聞こえた気がして、黒鋼は小指で耳の穴をほじった。
「お百度参りだよ……それやると神様がお願いきいてくれるんだよ。黒たん知らないの?」
……は?
お百度参りというのはアレか。
神社だの寺だのに行って、一度に百回も行ったり来たりを繰り返して拝むとかいう、時代劇なんかで見たことがあるようなアレのことか……?
「凄く寒かったけど、頑張ったのに……」
しょうがねぇな、これからはもう少し甘やかしてやるか……なんて思っていた黒鋼の気持ちは、今この瞬間粉々に砕かれた。
「おまえは馬鹿か!?」
思わず立ち上がり、ベッドに片足をついて怒鳴り散らしていた。
馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが、これほどまでに壮絶な馬鹿がこの世に野放しになっているだなんて、それこそ神様だって目ん玉スポーンするに違いない。
(予想図⇒(.:; 益 ) 三 <@><@>スポーン)
そういえば昨日の夜、毎晩のように部屋に忍び込んでくるはずのこの男は来なかった。
きっと明日に備えて大人しく寝ているのだろうとばかり思っていたら……。
「十中八九その結果がコレだろうが!!」
「だってぇ! ぜんぜん風邪よくならないんだもん! もう神頼みしかないじゃんかー!!」
「どういう思考回路してんだよ!? てめぇが拝むべきだったのは神様じゃねぇ! 医者だこのタコ!!」
もう付き合いきれない。
このままでは病人であろうがお構いなしに、ベッドにめり込むほどの力で顔面に拳を叩きつけてしまいそうだった。
あの雑貨屋での出来事からこの一週間、自分が照れ臭さと戦いながら、どれほど過酷な(精神的に)シミュレーションを繰り返してきたと思っているのか。
時には寝る前に脳内で行っては唸りながら足をバタつかせ、時には実際に言うつもりの台詞を本番さながらに口にしては、壁に額を叩きつけて一人真っ赤になったりもした。
柄にもないことをし続けた結果、実はこの一週間で体重が3キロも落ちてしまった。
そうしてついに迎えた当日だったが、ファイの体調が優れないのなら諦めるより他になく、今の今まで恒例のパーティーにも顔を出さずに、付きっきりの看病をしていたというのに。
「もう知るか!! 一人で勝手に寝込んでろ!!」
「ちょお!? 病人を一人にしないでよー!!」
黒鋼が勢いよく背中を向けると、力の限りを振りしぼって起き上がったファイが腰にしがみついてきた。
だが、堪忍袋という名の宝石箱が、怒りのジュエルではち切れそう……いや、最早はち切れ済みの黒鋼がその言い分を聞き入れることはなかった。
「どうせパーティー行ってお酒飲むんでしょー!?」
「悪いか!? これが飲まずにいられるか!?」
「そんなのズルイー!! オレも行くー!!」
「一生寝てろーー!!」
振りむきざまにひえピタの張り付いた額を掴むと、枕に向かってその頭を叩きつけてやった。
一瞬本当にベッドがメリッと音を立てたような気がしたが、目を回して大人しくなったファイを残して、怒り心頭の黒鋼は部屋を後にした。
その後は言うまでもなく、パーティーに途中参加した黒鋼は浴びるほどのヤケ酒を食らって、朝まで戻ることはなかった……。
*
「ん……」
目覚めると、カーテンの隙間から射しこんだ光に少しだけ目が眩んだ。
手の甲でごしごしと目元を拭いながら起き上がると、ファイはしばらくぼんやりと瞬きを繰り返す。
頭の中は寝起きのせいでスッキリしないが、身体は軽いような気する。
思いっきり背伸びをして、ひとつ大きな欠伸をすると、額に張り付いたままのシートを剥がす。
「熱、下がった感じがするー」
昨日まではあれほど辛かった体調が、今は嘘のように回復しているのを感じた。
シートをゴミ箱に放りつつ身体の向きを変えて、ベッドの縁に腰を落ち着けると床に足をつける。
そのままなんとなく床を見下ろしながら、ファイは昨夜のことを思い出した。
(黒たん先生……昨日すっごい怒ってなかったっけ……)
思いっきり額を掴まれて、ベッドが軋むほど頭部を枕に叩きつけられた記憶がある。
なんでだっけ……と考えてはみたが、高熱に浮かされていた間のことはどうしても思い出せなかったので「まぁいっか~♪」と、とりあえず投げた。
「それより昨日は残念だったなー」
独り言をぽつりと吐き出して、裸足の足をぶらぶらさせる。
本当なら今頃二人揃って、ここではないどこかのベッドでクリスマスの朝を迎えていたはずだ。
ファイが黒鋼を誘ったのはクリスマスのほんの数日前だったから、綺麗なホテルやレストランの予約は初めから諦めきっていた。
駅前の美しいイルミネーションを見ながら、こっそり手を繋いだりして歩けたら素敵だなぁとか、そのままいっそ場末の寂れたラブホでもいいから泊まっちゃったりなんかして、とか。
あんなに楽しみに胸を躍らせていたのに、迎えた結果がこの有様だ。(自業自得)
黒鋼もいつになく乗り気な姿勢を見せてくれたのに、申し訳ないことをしてしまった。
はぁ、と深い溜息と共に肩を落とす。
とりあえず風邪は落ち着いたようだし、シャワーでも浴びてから黒鋼に頭を下げに行こう。
もしかしたらまだパーティー会場(体育館)にいるかもしれないし、ケーキくらいは残っているかもしれない。
そう思って立ち上がろうとしてふと、ファイは枕元に目をやった。
「ん?」
そこには、昨日まではなかったはずのものが置かれていた。
咄嗟に手に取り、膝の上に向かい合うようにして乗せる。
真っ赤なリボンをした、真っ黒なクマ。
どこかで見たような気がするその可愛らしいぬいぐるみは、瞳の色も真っ黒で、朝日を弾いてつぶらに光り輝いていた。
これは、もしかして……。
「あの時の黒たんクマ……!?」
なぜ、どうしてここに?
確かこれは非売品のはずで、買いたくても買えない代物だったはずだ。
それなのに、この黒いクマは今確かにこの手の中にいる。
誰がくれたかなんて、そんなのは考えるまでもなく……。
込み上げる驚きと、嬉しさや感動が、上手く言葉にならなかった。
ただどうしようもなく身体が震えて、ファイはそのふんわりとした手触りのクマをぎゅっと抱きしめた。
「……バカなんだから」
あんなに嫌がっていたのに、あのカタブツが一体どうやってこれを手に入れたのだろうか。どんな顔をして店員に頼みこんだのだろう。
そしてきっと、自分でもどうやってこんな可愛らしいものをファイに渡すか、相当考え込んだに違いなかった。
「黒たんは、バカだよぅ……」
ぬいぐるみの存在なんて、こっちはすっかり忘れていたのに。
なんだか泣けてきて、嬉しくて嬉しくて仕方がないのに、つい可愛くない言葉が口から零れる。
こんな渡し方をする方がずっとキザで恥ずかしいのに。
この後どんな顔をして会えばいいのか、こっちまで分からなくなってしまうではないか。
ファイは震える息を吐きだしながら、涙を拭った。
そして、可愛らしいクマの頭部を優しく撫でる。すると、その背中にチャックがついていることに気がついた。
どうやら小物を入れられるようになっているらしい。
ポプリなんかを入れたりしたらいいかもしれない、なんて思いつつクマを裏返し、なんとなくチャックを下ろしてみた。すると。
「あれ? これなんだろ……?」
開いた部分に指を入れてみると、何か硬い感触が指先を掠めた。
小首を傾げながらそれをそっと取り出し、ファイは思わず息を飲んだ。
***
「黒たん! 黒たんってばー!!」
てっきり自室か、まだパーティー会場にいるとばかり思っていた黒鋼は、ファイが寝室を飛び出してすぐのリビングで、ソファにどっかり背中を預けて寝こけていた。
「起きてよー! お酒臭いよー! 起きてー!」
「んが……なんだてめぇ……うるせぇぞ……」
思いっきり肩を揺すって声をかければ、彼は酒の臭いをプンプンさせつつも渋々目を開けた。
が、すぐにファイの腕に抱かれるクマを見て、いつにも増して嫌そうな顔をする。
そんな表情すら愛しくて、ファイはその膝に飛び乗るようにして思いっきり首に抱きついた。
「おわっ、こら、なんだいきなり!」
「だって、だってクマが……黒クマがぁ!!」
「わかったからとりあえず離れろ!」
「ありがとう黒たん……オレ、嬉しくて……!」
ベソをかきながら礼を言うと、思いっきり前髪を掴まれてべりっと剥がされた。
向かい合うような態勢でいる二人の間に、黒いクマがちょこんとハマる。
黒鋼はなんともいえない苦々しい表情で、ガリガリと頭を掻くと目を逸らした。
「なんのことだか、さっぱり分かんねぇぞ」
だいぶ苦しい言い分だが、どうやらしらばっくれるつもりでいるらしい。
ここでしつこくからかえばゲンコツを食らうのは目に見えていたので、ファイは声を上げて笑い出したいのをぐっと堪えた。
それでも肩が小刻みに震えてしまうのはどうにもならず、振動を受け止める黒鋼にきつく睨まれる。
「知らねぇからな、俺はそんなもん」
「うん、うん、サンタさんが来てくれたんだねぇ。これ、置いてあったんだー」
「そうかよ」
そっけなく言いながらそっぽを向く黒鋼の耳が、ほんのり赤い。
どうしてこの人はこんな怖い顔をしているくせに、こんなにも可愛いんだろう。
「あのね、あとね、これも貰ったんだ」
ファイはクマの背中に手をやると、中から銀色の指輪を取り出した。
緩やかな木目模様のそれには、裏側に小さく『K to F』と刻まれていた。
黒鋼から、ファイへ。
とことんクサイ真似をしてくれたサンタは、ふん、と鼻を鳴らしながらもやっぱり赤い顔と耳をしている。
きっと今にも壁に額を叩きつけて叫び出したいくらい、照れ臭いに違いなかった。
ファイはファイで、あまりの嬉しさにわんわん声を上げて泣いてしまいたかったけれど、鼻を大きくすすって我慢する。
そして、手にした指輪を左手の薬指にはめると「でもね」と言った。
「サンタさん、オレの指輪のサイズ間違っちゃったみたいだよ?」
「あ!?」
「ほらほらー」
「!!」
眉間の皺を深くして、くわっと目を見開く黒鋼の顔の前に左手を翳し、薬指だけ幾度か曲げる。
指輪は、ほんの僅かではあるがサイズが大きくて、ファイが指を曲げる度にグラグラと揺れた。
「…………」
瞬きも忘れて指輪を凝視する顔には『やっちまった……』という文字がくっきり浮き上がっているように見えた。
流石に堪え切れなくなって、ファイはぷっと吹き出してしまう。
身体全体を揺らしてクスクスと笑うと、それを膝に乗せている黒鋼は溜息と共に顔を片手で覆ってしまった。
そのまま指の隙間から睨みつけて来たかと思うと、一言短く「返せ」と言う。
「えー? なんでー?」
「合わねぇんだろ……いいから返せ」
「やだよー。だってこれサンタさんがくれたんだもーん。黒たんがくれたんじゃないもーん」
最初にしらばっくれたのは黒鋼なのだから。
それを逆手に、今度はファイがシラを切る番だった。
「これ、チェーン通してネックレスにするんだー。いいでしょー?」
見せつけるように薬指の指輪にキスをして見せれば、その筋の人でも尻尾を巻いて逃げだしそうな凶悪面が舌打ちをする。
ファイはにんまり笑って、またしてもそっぽを向いてしまった黒鋼の首に再び抱きつく。今度は、引っぺがされることはなかった。
密着する二人の間でクマが苦しそうに潰れているけれど、心の中で「ごめんね」を言うに留める。
「オレのサンタさん」
「…………」
「黒くておっきくて、ちょっと怖い顔だけど優しくて……カッコイイのに、すっごく可愛い人なんだ」
「……そうかよ」
「うん。だからね、オレ……」
肩に埋めた鼻先が、どうしようもなく痛んで仕方がない。
今朝起きて、枕元の黒いクマを手にした瞬間から、泣いたり笑ったりしてばかりで忙しいったらなかった。
今も嬉し涙が止まらなくて、笑いたいのに泣きたくて、愛しくて愛しくて、夢を見ているような気分だった。
「凄く、幸せ」
あまりにも胸がいっぱいで、最後にそれだけ絞り出すのが精一杯だった。
黒鋼が息を漏らし、ふっと笑うのが分かる。
囁くような小さな声が「そりゃよかったな」と言うと、ファイの背中をそっと優しく抱き返した。
イヴのデートは潰れてしまったけれど。
黒いジャージを着た、酒臭いサンタのプレゼントは、それを埋めるには十分すぎるほどの幸せを、ファイの元に届けてくれたのだった。
←戻る ・ Wavebox👏
「黒たんせんせぇ……オレ一人で寝るの寂しいよー……」
唇を尖らせつつ、携帯電話の向こう側にいる相手に愚痴を零すと
『しょうがねぇだろ。ガキみてぇなこと言ってねぇでさっさと寝ろ』
という、味も素っ気もない言葉が返ってきた。
「ぶー。ガキじゃないから言ってるのにぃ……嘘でもいいから俺もだ……くらい言えないのかなーこの人はー」
『お れ も だ (棒読み)』
「もう遅いよ! しかも何の感情もこもってないし! そんな虚ろな優しさはいらないよ!」
『言ってやったら言ってやったでこれだ。文句なら台風に言え、台風に』
「むー……」
仕方のないこととはいえ、ファイはずっとゴロゴロと寝転がっていた黒鋼の部屋のベッドから起き上がると、不満げに頬を膨らませた。
(ちぇ、ほんとついてない……)
月曜から二泊三日で、他校訪問と研修会のためにファイは出張で県外へ出向いていた。
たった二日、会えないだけでも寂しくて死ぬかと思うほどの苦痛だったというのに、帰宅したその日から、入れ違いで今度は黒鋼が出張で旅立ってしまった。
ファイと同じく二泊三日で、帰ってくるのは金曜日。
そしてまさに今日がその金曜で、本来なら今頃二人で週末の夜を共に過ごしているはずだったのだが……。
黒鋼の出張先に、まるで謀ったかのように超大型台風が接近、そしてものの見事に直撃した。
当然のように交通機関はすべからく麻痺し、黒鋼はもう一晩宿を取ることを余儀なくされた。
この分では明日もどうなるか分からない状況で、ファイはひたすら大自然の脅威を恨んだ。
黒鋼は文句なら台風に言えなんて言うけれど、話の通じる相手じゃないことは分かっているし、自然災害という敵はあまりにも大きすぎる。
となると、理不尽と知りつつぶつける相手は黒鋼しかいないわけで。
しかも、これが通常運転だと分かっていながら、そのそっけない受け答えに不満は膨らんだ。
「もういいよ黒バカー! 帰ってこないならオレ浮気するからねー! 寝取られてやるー!」
『あぁ? なにくだらねぇこと言って』
「男は黒たん先生だけじゃないもんねーだ!」
黒鋼が疲れ切ったような息を吐き出す。
ファイはそのまま「じゃあね!」と吐き捨てると、一方的に通話を断ち切った。
*
くっはぁー……という、おかしな溜息が漏れた。
後ろ手に探り、黒鋼の愛用羽毛枕を取ると胸に抱いて、顔を埋める。
「またバカとかアホって思われちゃったろうなー……」
いつものことだけに、慣れてはいるけれど。
どうせならもっと可愛く我儘を言えればいいのに、つい駄々っ子のように振舞ってしまったことを後悔する。
余所の土地で仕事をして、本来なら今頃は自室で寛ぐことができていたはずの黒鋼の方が、ずっとしんどい思いをしていることも知っているのに。
(あれ、オレ黒ぽんにお疲れ様って言ったっけか……)
言ってない、ような気がする。
帰ってくるはずの時間に彼が戻らないものだから、ニュースを見て台風の情報も知っていたし、何かあったのではと慌てて電話をかけたまではよかった。
受話器越しに聞こえた黒鋼の声は普段と変わりなく、ただ淡々と今夜は帰れそうもない旨をファイに伝えた。
仕方がないと頭の中で理解はできても、割り切りすぎている相手との温度差に、ついカチンときてしまった。
だからつい、労いの言葉もかけないままにあんな物言いをしてしまって。
しかも当然のように浮気をするような相手もいないし、いたとしても、そんな気はさらさらない。
再び溜息をつくために息を吸い込めば、羽毛の柔らかい香りと大好きな人の匂いが、一緒に鼻孔を満たした。
今夜はたくさん甘えて、たくさん話して、お酒を飲んで、美味しいものを食べて……たくさん抱いてほしかったのに。
それを楽しみに今週いっぱいを乗り切ったと言っても過言ではなく、はっきり言って今のファイは電池が空になり、赤く点滅している状態だった。
黒鋼は、そんな風には思ってくれないのだろうか。
「……大人だもんな。黒様は」
しょんぼりと項垂れながら羽毛枕をさらに強く抱きしめる。
こうして一人で腐っていたって仕方がないし、せめて今夜はここで黒鋼の匂いに包まれながら、眠ってしまおう。
***
適当にシャワーを浴び、寝巻は黒鋼のシャツとジャージのズボンを勝手に引っ張り出して着こんだファイだったが、ベッドに横たわっていても、なかなか眠気は訪れなかった。
黒鋼はもう眠っているだろうか。
ぼんやりと暗い天井を見つめながら、そんなことばかり考えている。
たかだか数日離れて、それが一日伸びただけだというのに、眠れないくらいの寂しさを持て余す自分が少し情けなかった。
「声、聞きたいなぁ」
小さく放り出された呟きが、闇色の室内に儚く溶けた。
外は少し風が強いらしく、時折木の枝やざわめく葉が窓を叩く音が聞こえる。
「…………」
ファイは小さく身じろぐと、天井に固定されていた視線を僅かに伏せた。
本当なら、今夜は今頃。
どちらかともなく手を伸ばして、キスをして、抱き合って。互いの熱を確かめ合いながら、蕩けそうなくらい愛して、愛されていたはず。
黒鋼は、いつもどんな風に触れてくれていたのだったか。
ベッドの上掛けの中、ゆるゆると左手を移動させると、白いシャツの裾に触れる。そのまま指先をそっと忍ばせて、風呂上がりのしっとりした素肌の上に滑らせた。胸の位置まで持ってくることで、おのずとシャツが中途半端にたくし上げられる。
(すごく、恥ずかしいことしようとしてる、けど……)
どうせ誰もいないのだし。
少しだけ自分を慰めてやったら、あとはどうでもよくなって、グッスリ眠れる気がした。
ファイは目を閉じると、自らに暗示をかける。
これは自分の指ではなくて、黒鋼の指だ。彼の太く節くれだった、男らしい長い指なのだと。
まだ柔らかな胸の一点を『黒鋼』の指が掠める。
彼はここを苛めるのが好きだ。
指先や舌で転がすように刺激して、やがて小さくしこった粒に緩く歯を立て、吸いつき、指先で摘まんでは絞るように強弱をつけて弄ぶ。
そこばかりは嫌だと、どんなに涙を滲ませて訴えても彼はやめない。
赤く充血するくらい時間をかけて嬲って、切なさにファイがすすり泣く声を聞いて満足するのだ。
意地悪な黒鋼。
思いだすだけで心も身体も高ぶって、ぷっくりと尖ってしまった乳首を指先できゅうっと摘まむ。
「ん……ッ」
――情けねぇな。こんぐれぇで泣く奴があるか。
(だって……ここ、いじめられると……)
そう、彼は言葉でもファイを嬲る。
羞恥心を煽る台詞でじわじわと追い詰める。
消えてなくなってしまいたいくらい恥ずかしいのに、身体が勝手に悦んでしまうのだ。
「……ッ、くろさま……」
その声や仕草を思い描きながら、両膝を立てるともう片方の手を身体の中心へ這わせた。
下着をつけずに下を履いていたせいで、そっと手を潜り込ませるだけで熱を持った塊に触れることが出来た。
「ッ……!」
ビクンと身体が踊り、シーツが擦れ合う音がやけに大きく響き渡った。
(もうこんなになっちゃってる……)
すっかり火がついてしまった身体を持て余すように下唇に緩く歯を立てながら、僅かに腰を浮かしてジャージのズボンを下ろし、両膝を引き抜くと足首の辺りまですっかり下ろしてしまう。
そして勃起しかけた性器を掌で包み込み、緩く扱きはじめた。
ここまで来てしまったら、もうさっさと終わらせた方がいい。
黒鋼の裸体を思い描き、その逞しい骨格となだらかに隆起した美しい筋肉や、日に焼けた健康的な素肌に浮き上がる血管に意識を馳せる。
堪らない。
どうしようもなく加速していく欲望が、ファイから自慰に耽ることの羞恥や屈辱を遠ざけ、脳内を甘く蝕む。
「んんっ、ぅ……ッ、は、ぁ……!」
完全に起き上がったモノから先走りが止め処なく溢れ、上下に手を動かす度に水音が大きくなっていく。
シーツの上で身をくねらせながら、ファイは忙しない呼吸の合間に身も世もなく喘いだ。
断続的に電流を流されているように跳ね上がる腰の、さらに奥まった場所に鈍痛にも似た痺れを感じる。
これは物足りなさだと気がついた時、ファイは仰向けだった身体を横向きに倒し、先走りに濡れそぼる指先をその場所へ伸ばしていた。
意識のずっと奥底で、一体何をしているのかと呆れかえる自分に気付かないふりをして、その窄まった小さな穴に指先を潜り込ませる。
いったん放り出された性器には、胸のしこりをいじくり回していた方の手を添えて扱いた。
「あっ……んぅ……!」
一本ではどうしても足りず、二本に増やした指でじくじくと熱い秘穴を穿つも、入口の浅い部分にしか届かず、もどかしさと切なさに涙が滲む。
それでもファイの両手はそれぞれを追い込む動きを止められないでいた。
切なくて、もどかしくて、足りなくて、気持ちがいいけど、寂しくて。
欲しくて欲しくて、気が狂いそうなくらい。
「くろ、さま……くろさま……も、いき、そ……ッ」
今はファイの中にしかいない黒鋼が、ふっと笑った気した。
そしてあの腰に響くような低音で言うのだ。
好きなだけイケ、と。
「ッ――!!」
ダンゴ虫のように横向きに丸まっていた身体が引き攣ったように痙攣し、大きく跳ね上がる。絶頂の瞬間は息が止まった。
溜まりに溜まっていた欲望が白濁となって勢いよく吐き出され、ファイの手を、腹を、シーツを汚す。
ゆっくりと弛緩していく身体で、ファイは浅く乱れた呼吸が落ち着くまで目を開けられないでいた。
***
「……やっちゃった」
生ぬるい液体に濡れそぼった手をぼんやりと見つめて、呆然と呟く。
せっかくシャワーを浴びたのだって台無しだし、勢いでシーツも汚してしまった。
後始末のことを考えると余韻に浸る間もなく、胸の中に黒く濁ったような後悔が押し寄せてきた。
なんて虚しい真似をしてしまったのだろうか。
スッキリするどころか、自分自身への嫌悪感だけが剥き出しになってしまったような気がして、泣きたくなった。
それなのに、だ。
身体はどうにも収まりがつかない状態のまま、いまだ燻っていた。
達した直後だというのに性器はまだ完全には萎れておらず、さらにそれとは別の場所が次の刺激を期待して、浅ましく疼いていた。
普通の男性なら一発すっきりと抜いてしまえば静まるはずの熱が、発散しきれずに体内に留まり、渦巻いている。
自分の性欲の強さに途方に暮れた時、ファイはすぐに気がついた。
(……違う)
きっとこれは、黒鋼のせいだ。
長いことあの男に抱かれて、馴らされた結果、作りかえられてしまったせいだ。
彼のいいように、彼のためだけにあるように、彼でしか満足できない身体に。
(どうしよう……)
それでも今ここに黒鋼はいない。
持て余した欲求を必死で堪えながら、この熱が過ぎ去るのをただ待つしか。
「……そういえば」
ファイはふと思い立って、気だるい身体を起こすと枕元の照明のスイッチを入れる。
ほんのりとした明りの中、足元に絡みついていたジャージの下を適当に取り払って放り投げると、シャツ一枚でベッドから降りて床に膝をついた。
そして、ほんの少し戸惑った後、おずおずとベッドの下に手を伸ばす。
指先で探り当て、引っ張り出したのは小さな段ボール箱だ。
この中には普段、黒鋼との行為で使用するローションやゴムのストックがしまわれている。
もし本当にあの理事長がこのベッドの下の秘密を知っているのだとしたら、弱みを握られているのは黒鋼だけではないということになるのだが、今は考えないことにした。
「えっと……あ、あった……」
中を探ると奥から出てきたのは、ちょっとした秘密のアイテムだ。
それをとりあえずベッドの上にポンと置いてみる。
「う、うわー……改めて見ると……なんかこう……」
なんともいえない羞恥心に頬を染めるファイの目の前にあるのは、いわゆる大人のオモチャというやつだった。
ピンク色のローターが一つと、小ぶりだがリアルに男性器をかたちどった、黒々としたバイブ。
なぜこんなものがあるかというと、それはちょっとした好奇心や悪戯心からだった。
ローションやゴムの類を堂々と薬局などで購入するのは気が引けて、普段から通信販売を利用しているのだが、これは以前ファイが気まぐれで一緒に注文したものだった。
黒鋼には内緒で購入し、いざ届いた箱を開けた瞬間にビックリさせようと思った。
どんな顔をするだろうかとワクワクしていたら案の定、彼は面食らったような顔をし、それからすぐに顔を顰めた。
『これ使って遊んでみようよー! あ、なんなら黒たん先生に使ってあげよっかー?』
などと冗談で口走った直後、ゲンコツを食らったものである……。
どうやら黒鋼はこういったアイテムにあまり前向きではないようで、それ以来なんとなくしまい込んだままだった。
「ま、まさか本当に使う日が来ようとは……」
ファイはゴクリと息を飲んだ。
とりあえずローターは置いておくとして、黒々としたバイブを手に取ってみる。
取っ手の部分には弱中強の三段階を切り替えるシンプルなスイッチがあり、なんとなく弱に合わせて機動させてみた。
「う、うわぁ……」
途端にそれは小さく振動しながらうねうねと緩く回転しはじめた。ウィンウィン、という音がやけに陳腐で笑いを誘う。
暖色系の淡い光の中、黒いバイブの先端が光り輝いて見える様は異様で、なのに目が離せない。
これはこれで、想像以上に卑猥な光景だった。
面白半分で購入したのは自分のくせに、今頃になってなんとも言えない気恥かしさに頬が赤くなる。
大きさこそ黒鋼に比べれば粗末でしかないが、あまりにもリアルな形状が実にいやらしい。
人差し指で突いてみると、ほどよい弾力が地味に心地よかった。
黒鋼でなければ満足できないことは大前提としても、せっかく買ったのに一度も使わないのは勿体ないしと、ファイは心の中で言い訳をしながらひとまずスイッチを切った。
*
床に膝をついたまま、ベッドの縁に片手をついて体重を支えると、後ろ手にバイブの先端を宛がう。
あらかじめローションを軽くまぶしたそれは、入口に押しつけた途端、くちゅりといやらしい水音を立てた。
凄まじい羞恥心に、やっぱりやめておけばよかったという後悔がじわじわと押し寄せるも、ファイは意地になったように手を止めなかった。
「いっ、ぁ……」
バイブが潜り込んで来た瞬間、自分の指で多少解した程度では足りなかったのか、僅かな痛みに肩を竦める。
けれど我慢できないほどではない。
黒鋼のものを受け入れる時の、あのとてつもない異物感と圧迫感に比べれば、こんなものは可愛いものだと思えた。
(黒たん以外の入れるの……初めてかも……)
そう思うほどに悪いことをしているような気がして、胸が締め付けられた。
どこか甘い背徳感に背筋を震わせながら、自分の匙加減で押し込めるバイブの生温い感触に、唇を噛みしめる。
「んぅ……ぁ、はい、った、かな……?」
中に入れた状態でスイッチを入れる勇気はないものの、早く終わらせたくて馴染むのも待たずに動かしはじめる。
自分でも恥ずかしいくらい締め付けているのが、擦る都度引き攣る肉の感触から伝わった。
まだどこか躊躇が勝っているせいか、それほど深くは銜えこめない。
けれど指よりは遥かに太く、己の感じる場所を狙って抉るには十分だった。
「あっ、ぁ! ん、んっ……!」
当たりをつけてイイ場所を突けば、甘い声を抑えられず、硬く張り詰めた性器からは先走りが滲んでいく。
物凄く恥ずかしくて、切なくて、愚かなことをしているという自覚さえも、人恋しさを忘れて快楽を貪るための餌になった。
(これ、結構気持ちい、かも……)
自然と腰を揺らしながら、ファイはこの一人遊びに夢中になりつつあった。
ベッドの縁に置いた手でシーツをぎゅっと握りしめ、汗の滲む額をそこに押しつける。
「くろ、た……ぁ、くろ……っ」
その名を呼ぶとさらに快感が増した。それでもあと一押しが足りない。
ただ単純に自分を慰めるだけなら十分な刺激は感じているものの、後ろだけでイクには無理があった。
(イキたい……イキたいよ……!)
シーツに額を強く押しつけたまま、ファイはもう片方の手を身体の中心に伸ばした。
吐き出せないまま震える性器を握りしめ、体液で滑るそれを扱きあげる。
ようやく満足のいく値まで快楽が競り上がり、あとはもうフィニッシュを迎えるだけ、というところでさらに黒鋼の名を呼んだ。
「あっ、あっ、いく、いく、黒様、黒様ぁ……!」
その時。
「呼んだか」
……え?
空気が一瞬にして凍りつくとは、まさにこのこと。
ファイは石のように硬直しながら、全身からヒヤリとした汗が噴き出すのを感じる。
いやまさか……そんなバカな……。
いっそギギギ、という音がしそうなほど固まりきった動きで、首だけ背後を振り返る。
するとそこにはいないはずの人間がスーツ姿で腕を組み、部屋の入り口に背を預けて立っているのが見えた。
その瞬間、サァ、と全身の血が足元へと下がっていくのを感じる。
「よう」
「く……く……くろ……ど……な……い……」
どうして、なぜ、いつから。
そのどれ一つとしてまともに声にならなかった。
頼りない明りの中、黒鋼がどんな顔をしているかまではよく見えない。
普段のジャージ姿とは対照的に、出張帰りの彼はスーツを纏っているが、ネクタイは外され、ジャケットも脱いで片腕に引っかかっている。
手の中からバイブが抜け落ちて、床にゴロリと転がる音が大きく響く。その瞬間、頭の中が真っ白になっていたファイは、目を回しながらパニックを起こす。
「ななななな、なんで~~~!? なんで黒様がここに~~~!?」
「俺が俺の部屋に帰ってくるのに理由がいるか?」
「だだだ、だって帰って来れないって~~~!!」
慌ててベッドの側面に背中を押しつけるようにして身体を丸めたファイは、あまりのショックと絶望感に終始声を裏返しながら叫ぶ。
一度冷え切った血液が沸騰し、全身火だるまになりそうなほどの羞恥に涙が出てきた。
黒鋼は「ふん」と鼻を鳴らすと足を踏み出し、こちらに向かって距離を詰める。
「こここ、来ないでー!!」
もっとも会いたかった人間に、もっとも見られたくない場面を見られてしまったことに、ファイはこの世の終わりのような気分を味わった。
出来ることなら今すぐ消えてなくなりたい。
彼が今、何をどう思っているかを考えるだけで、気がおかしくなりそうだ。
ファイは体育座りの姿勢の状態で真っ赤な顔を両手で覆うと、情けなさについに泣き出してしまった。
(もう終わりだよぉ……こんなの見られて生きていけないよぉ……)
こんなことになるなら、おとなしく我慢して寝ているべきだった。
そんな後悔をしてももう遅いのだが。
黒鋼はジャケットをベッドの上に放り、ファイのすぐ側にしゃがみ込むと、深い溜息を吐きだした。
呆れて果てている様が伝わって、思わず肩をビクンと揺らす。
「こんなもん引っ張り出して……こいつがあれか? てめぇの浮気相手か?」
先刻までファイを慰めていた物体を掴み上げると、黒鋼はそれをまじまじと眺めはじめた。
ファイは顔を上げることが出来ないまま肩を震わせる。
「うぅ……もうやめてよぉ……死んじゃいたいよぉ……」
「そう言う割には随分とお楽しみだったじゃねぇか、こいつで」
何も言えずに喉を詰まらせるファイに、黒鋼は「顔を見せろ」と短く命じた。
そんなこと出来るはずないと嫌々と首を振れば、強引に前髪を掴まれて上向かされる。
「ッ!?」
視界に飛び込んできた黒鋼は無表情でこちらを見下ろしていて、ファイはくしゃりと顔を歪めた。
きっと酷く軽蔑されてしまったに違いない。そう思うと、涙と震えが止まらない。
ファイの方からは何も言いだすことが出来なくて、ただ死の宣告を待つような心境で沈黙に耐え続ける。
すると黒鋼は無表情だった口元を僅かに歪めながら、驚くべきことを口にした。
「まだ途中だろ?」
「……ふ、ぇ……?」
「遊んでやるから、こっちにケツ向けろ」
***
黒鋼は口元こそ仄かに笑みを形作ってはいたものの、目だけは決して笑っていなかった。
何を言っているのかを脳が理解する前に強い力で腕を取られて、ファイはあれよあれよと言う間に上半身だけをベッドに預け、尻を突き出す姿勢を取らされていた。
黒鋼のシャツを拝借していたため、ギリギリ隠れていたはずの臀部もペロリと剥き出しになり、一気に血液が首から上に集中した。
「ちょ、なにを……!?」
咄嗟に逃げだそうと両手でシーツを引っ掻いたところで、黒鋼の低い声が「うるせぇ」と吐き捨てた。
同時に、勢いよく風船を割るような音と共に、臀部に衝撃が走る。
「ッ――!?」
そのまま幾度か尻をぶたれて、その都度ファイは引き攣ったような短い悲鳴を上げながら、身体を大きく震わせた。
痛みはそれほどでもないのに、気持ちがいいくらい小気味よい音の後に、薄い尻の肉がじんと痺れる。
「ヒィッ、ん! やだ、ぁ……ッ、痛い、よぉ……!」
「尻引っ叩かれて腰振ってるやつが、嘘つくんじゃねぇよ」
ファイの背後に胡坐をかいた黒鋼は、大きな両手でほんのり赤く染まった双丘を揉みしだくと、中心の窄まりが歪むほどに肉を割り開いた。
とんでもない場所に痛いほどの視線を感じて、ファイは涙の滲む瞳をぎゅっと閉じた。
これから何をされるのだろうかという不安と、期待にうち震える。
黒鋼が姿を現したことで一気に縮みあがっていた性器は、彼の言うとおり尻を打たれたことで、徐々に力を取り戻しつつあった。
つくづく自分という人間のマゾぶりに嫌気がさすけれど、もはやファイには自己嫌悪に頭を痛めるだけの余裕は残されていなかった。
黒鋼の両方の親指が、ひくひくと震える秘穴に引っかけるようにぐいと挿しこまれたかと思うと、それを左右に引っ張って広げるような動作を見せた。
体液とローションに濡れて、バイブで穿っていた場所はすっかり柔らかく解れ、蕩けきっているのが分かる。
中の肉まで見られているのかと思うと、たまらなく恥ずかしい。
「やっ、いや……ッ! 広げちゃだめ……ッ!」
「中までヒクヒクいってるぜ?」
「やだぁ! 見ないでぇ……!」
逃れようと腰を大きく揺らす様に満足したのか、黒鋼は鼻で笑いながら思いのほかアッサリと両手を離す。
ホッとしたのも束の間、すぐにきゅうっと口を噤んだ秘穴が切なく疼きだした。
シーツを強く握りしめたまま、上半身を捻って背後へ潤んだ目を向ける。
物欲しげなその視線に、黒鋼はにやりと笑うと「焦るなよ」と言った。
「まだ遊び足りねぇだろ?」
「くろ……?」
「こいつも面白そうだぜ」
そう言って黒鋼が手にしたのは、ベッドの片隅に追いやられていたピンク色のローターだった。
彼はそれを指先で摘まみ、舌を這わせると唾液で軽く濡らす。
この流れで次に起こることは簡単に予測できて、ファイは背筋にヒヤリとした何かが駆け抜けるのを感じた。
そしてその予想は寸分の狂いもなく実行される。
黒鋼の手が片方の尻の肉を掴み上げ、押し広げたと同時に、つるんとした丸いものが中に潜り込んできた。
「ひ、ぁ……!」
そのまま深く押し込まれて、異物を置き去りにしたまま指だけが引き抜かれる。
今のファイは、尻の穴からピンク色の細長いコードだけが伸びている状態だ。
その線を辿っていくと、ロータリー式の簡単なスイッチがある。オンオフと強弱の調節を兼ねたそれを手にした黒鋼は、興味深そうにそれを眺めながら、スイッチに親指を添えた。
「こいつを回せばいいのか?」
「ちょっ、だめ、うぁ……!?」
その途端、唸るようなモーター音と共に身体の内部でローターが振動しはじめた。
下腹部になんともいえない気持ちの悪さが重々しく広がっていく。
「やっ、やだこれ……ッ、中、響いて……ッ、きもち、わる、い……ッ!」
シーツに額や頬を擦りつけながら、まるで痒みに耐えるかのように腰をもじもじと揺らす動作を止められない。
身体の中に埋め込まれた異物が、ひたすら無機質な振動を繰り返す中、後ろで感じることを覚えこまされた身体は、すぐにそのもどかしい刺激を甘く受け入れはじめる。
細いコードだけを食んでいる入口がヒクついているのが、自分でも嫌というほど分かった。
振動によってもたらされる痺れは泣きたくなるほど甘くても、これだけでは絶対にイケない。
すぐに次の、もっと強い刺激が欲しくて仕方がなくなる。
「ねっ、ねぇ! これ、足りない! こんなのじゃ、オレ……!」
「弱いか? 刺激が」
そう言って、黒鋼は手の中のスイッチをさらに回した。
モーター音と振動が大きくなって、下腹部で留まり続けていた感覚が心臓にまで向かって痛いほど響いた。
「ひっ、ぃ!? ちがっ、アッ、響くから、もうやめてぇ……ッ」
嫌々と首を振ると幾つもの涙が飛び散って、シーツに吸い込まれていった。
こんな無様な姿を間近で見られていると思うと、理性とは裏腹に性器が痛いほど張り詰める。
ローターによる刺激というよりは、突き刺さるような視線の方に煽られていることは明白だった。
結局はお預けを食らったまま、限界点で縛られたままの快楽を、一刻も早く解放したくて仕方ない。
(もう、我慢できない……!)
シーツを握りしめていた右手を、自らの身体の中心へと伸ばしかける。
しかしあと少しで触れるというところで、背後から伸びてきた黒鋼の手がファイの右手首を強く掴んだ。
「えッ!?」
そのまま肩に痛みが走ったかと思うと、右腕を捻るようにして手首を背中にぐっと押しつけられてしまった。
もはや上半身はベッドに張り付けるように固定されてしまったも同然で、自由な左手でシーツを掻きながらもがいても、それは無駄な足掻きでしかなかった。
元々腕力に大きな差があるだけでなく、膝立ちになった黒鋼が僅かに体重をかけて寄こすだけで、ファイにはもはや成す術がない。
「は、離して……!」
「いいから黙っとけ」
黒鋼はそう言うと、床に転がっていたバイブを手に取る。
まともに身体を捻ることも叶わないファイだったが、痛いほど首を捻ってどうにかそれを視界の隅に収めた。
「や……まさか……」
「こいつが欲しかったんだろ?」
「ちが……ちがうよ……そうじゃな……」
嫌々と、泣きながら首を振る。
それはあくまでも黒鋼の代わりであって、本人が側にいる今では無用の代物のはずだった。
彼だってそれは分かっているはずなのに、どれほど首を振って意思表示をしても、受け入れられる様子はない。
「大事な浮気相手だ。しっかり味わえよ」
そしてついに、いまだ振動するローターが残されている穴に、バイブが奥深くまで押し込まれた。
「ッ――!!」
「すげぇ光景だな。美味そうに銜えこんでるぜ」
ショックに目を見開きながら、咄嗟に声も出せないでいるファイを置き去りに、黒鋼は感心したような息を漏らしながら呟いた。
ずっと物足りなさに疼いていた肉壺が、血の通わない無機物によって満たされて、ローターの振動を吸収する。
もしこれを動かされでもしたら……そう考えると恐ろしくて、歯の根が鳴るのを止められない。
「ぬいて……ぬいて……お願い……!」
「あ? これからだろ?」
「こんなのやだよ……! お願いだから……!」
「どうせなら最後まで堪能しようじゃねぇか」
血の気が引くのと比例するように競り上がる絶望的な感情は、カチ、という音を聞いた瞬間に真っ白に染まった。
「――ッ!?」
中で、バイブが唸る。
ぐりぐりと回転するように肉を擦り、ローターと一緒に無遠慮に暴れだす。
「ヒィッ、ん! あ、ぁッ! これだめ! これ、いやだぁ……ッ!!」
バイブが蛇のようにうねうねと動けば、中でローターごと掻きまわされる。
それは時折ファイの最も感じる場所を掠めては離れてを繰り返し、強制的にもたらされる快感はあまりにも暴力的で、理不尽なものでしかない。
そしてそこに、さらなる責めが加えられる。黒鋼の容赦ない手によって、抜き差しまでもが開始された。
「やだ、やだぁ……! ひぃぃッ、んッ、く、あ、やあぁッ!」
腹の中で響く不快な機械音と、肉を抉るように擦り上げる鈍い水音が重なりながら、ファイの中を滅茶苦茶に破壊しようとしている。
嫌だ嫌だと喉をひりつかせながら叫んでも、彼は何も言わずにただ攻め続ける手を止めなかった。
(黒たん、やっぱり怒ってるんだ)
どうして帰れないとはっきり宣言していたはずの彼が、ここにいるのかは分からない。
けれどきっと、子供のように自分勝手な我儘を言っただけでなく、一人のうのうと人の部屋で自慰になんぞ耽っていたことに呆れ果て、そして腹を立てているのだ。
今だってこんなもので感じてよがり狂っている姿を見て、彼は何を思っているのだろう。
「イケよ。限界だろ?」
せめて心だけはこんなオモチャなんかに屈したくないのに。
突き放す物言いは確実にファイの胸を抉るのに、快感がそれを飲みこもうとしていた。
口の端から犬のように唾液を滴らせるファイは、潤みきった瞳をどんよりと濁らせた。
黒鋼が穿つ度に響き渡るぐぽぐぽという下品な音に、無意識に口元が笑みを象った。
どれほど無様だとしても、抗いようがないなら、抗わずに落ちぶれてしまった方が、ずっと心が楽になる。
ファイは、完全に飲みこまれてしまった。
「あぁっ! あはっ! イイ……気持ちいいの……! 黒たんじゃないのに! 違うのに! 中、すごい、ぐちゃぐちゃって、気持ちいいッ!!」
「……この淫乱野郎が」
忌々しげな呟きに背筋が凍るほどにゾクゾクと震えた。
「もっと! あはっ、あぁ! もっといじめて! ぁ、もっ、と……ッ、酷いこと、言ってぇ……!!」
そしてイカせて、と。
甲高い声でそう叫んだとき、黒鋼の舌打ちを聞いた。
あと少しというところで、バイブとローターが一緒に引き抜かれる。
「ッ!?」
どうして、と抗議の声を上げる間もなく、ファイは身体を乱暴にベッドの上に引きずり上げられていた。
捲れ上がって剥き出しの背中に、柔らかなシーツの感触がぶつかる。
何が起こったのか理解できず、咄嗟に見上げた先には、縁に膝をついて乗り上げる黒鋼の、怒りに満ちた表情があった。
「くろ……?」
「こんなつまんねぇもんで、いつまでもよがり狂ってんじゃねぇぞ」
鋭い目つきに殺気すら感じて、ファイは身を竦ませた。
硬直したまま身動き一つ取れないでいるファイは、ベルトのバックルが立てる微かな金属音にハッとする。
彼はファイの片足の膝裏を掴み上げ、ぐっと押し上げながらも片手で器用に己の前を寛げ、そそり勃つ肉棒を勢いよく取り出して見せる。
「ッ……!」
その見事なまでの質量を誇る、逞しい性器にファイは息を飲んだ。
見慣れているはずのそれが、いつにも増して恐ろしい凶器に見えた。
「手加減はいらねぇな?」
獰猛な獣を思わせる口元で、彼は舌舐めずりをした。
瞬きも忘れて見入っていたファイは、次の瞬間ぐっと入口に押しつけられた高熱に我に返る。
咄嗟に口を開きかけた自分が何を言おうとしたのかは、分からない。
ただファイが声を発する前に、彼は勢いよく腰を打ちつけてきた。
ズン、という凄まじい衝撃と共に息が止まり、一瞬視界がブレる。
腹の奥を突き破られて、心臓まで貫かれたような感覚の後、凶暴な熱がそこから全身に広がった。
ファイは「あ」という形に口を開ききったまま目を見開いて、カチカチと小刻みに震えた。
「ッ! ッ、ぁ……! ヒ……ッ!!」
馴染むのさえ待たずに、黒鋼は容赦のない抽挿を開始した。
最初の挿入時に肺の中身を空にしていたファイは、満足に息を吸い込む隙も与えられないまま、ただ揺さぶられる。
舌を噛みそうなほどの乱暴な突き上げに身体をしならせながら、ブレ続ける視界で幾つもの光が爆ぜた。
「こんなもんじゃ足りねぇか? おい、答えろ淫乱」
「ぁ……ッ、が……、ぃッ、……ッ!」
「こいつとあのくだらねぇブツと、どっちがいいって?」
「まっ……ぃ、き……ッ、でき……なッ!」
下手に言葉を紡ごうと思えば、本当に舌を噛み切ってしまいそうだった。
指先が色を変えるほどシーツを握りしめていても、振り落とされそうな感覚が消えない。
中を限界まで満たす肉の質量によって、内臓ごと引きずりだされては押し込められるような、そんなおぞましい錯覚が皮膚の上を蛇のように這いずっている。
ファイが受け止めるにはこの衝撃は強すぎて、そしてまるで死と隣り合わせの快楽は、本能的な恐怖を剥き出しにさせた。
黒鋼の荒々しい息使いが、酷く遠くに聞こえる。
(凄い……これ、凄い……やっぱり、これがいい……)
恐れと同時に込み上げる甘美なそれは、麻薬のように脳を犯して、死への恐怖を覆い尽くしてしまった。
例えば今この瞬間、本当にこの命が尽きたとしても、この海で溺れるならば。
(いいや……それでも……)
「――ッ!!」
抱え込まれた足先と、シーツの波間を彷徨っていた爪先が、同時に突っ張った。
心臓に拳を叩き込まれたような感覚を味わいながら、ファイは散々先延ばしにされていた絶頂に全身を打たれた。
*
「ぃ……おい、しっか……ろ……」
真っ暗だった視界に、ほんのりと光が射しこんだ。
その光はゆっくりと滲むように広がって、ぼんやりと定まらない焦点を一つに結ぶ。
「ぁ……」
頬を軽く打たれる感覚と、むっつりとした表情で覗きこんでくる黒鋼の顔。
ファイが小さく声を上げて、幾度か瞬きをすると、彼はホッと息を吐き出した。
「あ、れ……? オレ……生きてる……?」
「悪い。やりすぎた」
どうやら酸欠と過ぎた快感に、失神していたらしい。
身なりは相変わらずシャツ一枚だけのようだが、しっかりと枕に頭を預けた形で身体はベッドに横たえられている。
まだ脳内はぼんやりしていて、全身が鉛のように重たいが、心はどことなくふわふわとした安心感に包まれていた。
理由はきっと、黒鋼から先ほどまでの刺々しさが抜けているからだ。
「水飲むか?」
彼はこちらに身体を向けるようにして腰を落ち着けていたベッドの縁から、立ち上がろうとした。
それを阻むように、ファイは咄嗟にその手を掴む。
ぴたりと動きを止めた黒鋼に見下ろされて、なんとなく頬を染めながら視線だけ逸らした。
「いらない」
「……そうか」
「あの……」
「なんだ」
「……ごめん」
ファイの短い謝罪を聞いて、黒鋼は僅かに小首を傾げた。
「その、オレ子供みたいに我儘ばっか言って……黒たんの部屋で……一人で恥ずかしいことして……」
黒鋼は何も言わず、ただ鼻から短く息を吐き出した。
ファイがおずおずとした上目使いで「まだ怒ってる?」と問うと、彼はムッと眉間の皺を深くした。
「……怒ってねぇ」
「嘘だー……だって黒様すっごく怖かったもん……あんな黒様、初めてだったし……」
「だから、俺は元々怒ってねぇって」
「ぜーったい嘘ー! オレが一人でいい子で待ってなかったから、怒ってるんだー!」
「うるせぇ奴だな。別にそんなんでムカついてたわけじゃねぇよ」
「じゃあ何でムカついたのー」
黒鋼はぷいっとそっぽを向くと「さぁな」と言った。
ならばさっきの鬼のような攻めっぷりは、一体なんだったのか……。
疑問に感じつつも、とりあえずもう怒ってもいなければムカついてもいないようだし、まぁいいかと思った。
それよりもっと根本的な疑問を思い出して、明後日の方を向いている黒鋼の白いワイシャツの袖を、くいくいと引っ張った。
「そういえば黒ワンコー、帰って来れないんじゃなかったのー?」
「……ああ、それか」
再び身を横たえるファイに視線を戻した黒鋼は、ここに帰って来るに至った経緯を簡単に話はじめた。
台風の影響で予定の時刻より僅かに遅れたものの、どうにか新幹線に乗り込むことには成功した黒鋼だったが、徐行運転の末に一時ストップを食らう羽目になった。
仕方なく時間潰しに仮眠を取っていたところで、ファイからの着信に叩き起こされ、すぐにデッキに出てそれを受けたのだという。
その後ほどなくして新幹線は動き出し、予定の時刻からは大幅に遅れたものの、黒鋼は無事帰宅を果たすことができた。
と、いうところまで聞いて、ファイは怪訝そうな顔をしながら首を傾げた。
「それは分かったけどー……でもなんで帰れないなんて言ったの?」
「……なんでだろうな」
再びそっぽを向いた黒鋼の横顔をぼんやり見つめて、ファイはふと察した。
こやつ、さてはサプライズを狙ったな……? と。
彼にしてみれば、ちょっとしたドッキリでも仕掛けるつもりだったのかもしれないが、すっかり間に受けてしまった自分は一人寝の孤独に耐えきれず、とんだ醜態を晒すことになってしまった。
あの唐突に背後から声をかけられた瞬間の、背筋の凍る感覚を思い出して、ファイは頬に熱を登らせると涙目になる。
「黒たん……酷いや……」
「あ?」
「ちゃんと言ってくれれば……オレは……オレは……」
「…………まぁ……なんだ……その……悪かったな」
「うぅ……ばかあぁ! 黒たん先生の黒バカぁ!!」
起き上がるには体力ゲージが空で、というより腰に力が入らず、ファイは両手を伸ばして黒鋼の肩や二の腕をポカポカと叩いた。
彼にしてみれば、喜ばせてやろうとワクワクして帰ったと思ったら、真っ先に嫁の痴態が目に飛び込んできたのだから、その驚愕たるや察するに余りあるのだが……。
「うるせぇな……悪かったっつってんだろ」
「せっかくお風呂も入ったのにさ……これじゃあもう一回入らないと寝れないよぉ」
「いや、それは元々……」
「うるさいバカー!」
キャンキャンと騒ぐファイの完全なる八つ当たりに、心底うんざりした様子の黒鋼だったが、彼は自分がとっとと折れてしまった方が、話が早いと判断したらしい。
再び悪かったと口にしてから「じゃあどうすりゃいい?」とこちらに選択を委ねた。
こうやって自ら折れる時の黒鋼には、どこまで甘えても許されることをファイは知っていた。
だからちょっと照れ臭そうに頬を染めてから、上目使いで彼を見上げた。
「じゃあ……お風呂一緒にはいろ」
「おう」
「動けないから抱っこして、オレのこと連れてくんだよ」
「わかった」
「そしたらね……」
誘うように手を伸ばすと、黒鋼は身体を倒して軽く覆いかぶさる形になった。
その首に両腕を絡めれば、大きな手がファイの額と柔らかな前髪を優しく撫でる。
くすぐったさに目を細めて笑って、近すぎる距離で視線を合わせながら、囁くように甘えた声で言う。
「もっかい、今度はちゃんとしよ」
鼻から小さな息を吐き出しながら笑った黒鋼は、答えの代わりにファイの唇を奪った。
やがて触れるだけでは済まなくなってきたその口づけに、ずっと不足していた心の栄養分が補われていく気がした。
物凄く恥ずかしくて怖い目にはあったが、今はこうして黒鋼が傍にいることが純粋に嬉しい。
一緒にいる時間の方がずっと長くて、離れていた時間なんてほんの些細なものでしかないのに、やっぱりこうして触れていなければ、すぐに足りなくなってしまう。
僅かに糸を引いて離れた唇から、震えた吐息を零しながら、ファイは潤んだ目元で花のように微笑んだ。
「おかえり黒様……それと、お疲れ様」
会いたかったよの言葉は、再び重ねられた唇に飲みこまれて、上手く紡ぐことはできなかった。
←戻る ・ Wavebox👏
唇を尖らせつつ、携帯電話の向こう側にいる相手に愚痴を零すと
『しょうがねぇだろ。ガキみてぇなこと言ってねぇでさっさと寝ろ』
という、味も素っ気もない言葉が返ってきた。
「ぶー。ガキじゃないから言ってるのにぃ……嘘でもいいから俺もだ……くらい言えないのかなーこの人はー」
『お れ も だ (棒読み)』
「もう遅いよ! しかも何の感情もこもってないし! そんな虚ろな優しさはいらないよ!」
『言ってやったら言ってやったでこれだ。文句なら台風に言え、台風に』
「むー……」
仕方のないこととはいえ、ファイはずっとゴロゴロと寝転がっていた黒鋼の部屋のベッドから起き上がると、不満げに頬を膨らませた。
(ちぇ、ほんとついてない……)
月曜から二泊三日で、他校訪問と研修会のためにファイは出張で県外へ出向いていた。
たった二日、会えないだけでも寂しくて死ぬかと思うほどの苦痛だったというのに、帰宅したその日から、入れ違いで今度は黒鋼が出張で旅立ってしまった。
ファイと同じく二泊三日で、帰ってくるのは金曜日。
そしてまさに今日がその金曜で、本来なら今頃二人で週末の夜を共に過ごしているはずだったのだが……。
黒鋼の出張先に、まるで謀ったかのように超大型台風が接近、そしてものの見事に直撃した。
当然のように交通機関はすべからく麻痺し、黒鋼はもう一晩宿を取ることを余儀なくされた。
この分では明日もどうなるか分からない状況で、ファイはひたすら大自然の脅威を恨んだ。
黒鋼は文句なら台風に言えなんて言うけれど、話の通じる相手じゃないことは分かっているし、自然災害という敵はあまりにも大きすぎる。
となると、理不尽と知りつつぶつける相手は黒鋼しかいないわけで。
しかも、これが通常運転だと分かっていながら、そのそっけない受け答えに不満は膨らんだ。
「もういいよ黒バカー! 帰ってこないならオレ浮気するからねー! 寝取られてやるー!」
『あぁ? なにくだらねぇこと言って』
「男は黒たん先生だけじゃないもんねーだ!」
黒鋼が疲れ切ったような息を吐き出す。
ファイはそのまま「じゃあね!」と吐き捨てると、一方的に通話を断ち切った。
*
くっはぁー……という、おかしな溜息が漏れた。
後ろ手に探り、黒鋼の愛用羽毛枕を取ると胸に抱いて、顔を埋める。
「またバカとかアホって思われちゃったろうなー……」
いつものことだけに、慣れてはいるけれど。
どうせならもっと可愛く我儘を言えればいいのに、つい駄々っ子のように振舞ってしまったことを後悔する。
余所の土地で仕事をして、本来なら今頃は自室で寛ぐことができていたはずの黒鋼の方が、ずっとしんどい思いをしていることも知っているのに。
(あれ、オレ黒ぽんにお疲れ様って言ったっけか……)
言ってない、ような気がする。
帰ってくるはずの時間に彼が戻らないものだから、ニュースを見て台風の情報も知っていたし、何かあったのではと慌てて電話をかけたまではよかった。
受話器越しに聞こえた黒鋼の声は普段と変わりなく、ただ淡々と今夜は帰れそうもない旨をファイに伝えた。
仕方がないと頭の中で理解はできても、割り切りすぎている相手との温度差に、ついカチンときてしまった。
だからつい、労いの言葉もかけないままにあんな物言いをしてしまって。
しかも当然のように浮気をするような相手もいないし、いたとしても、そんな気はさらさらない。
再び溜息をつくために息を吸い込めば、羽毛の柔らかい香りと大好きな人の匂いが、一緒に鼻孔を満たした。
今夜はたくさん甘えて、たくさん話して、お酒を飲んで、美味しいものを食べて……たくさん抱いてほしかったのに。
それを楽しみに今週いっぱいを乗り切ったと言っても過言ではなく、はっきり言って今のファイは電池が空になり、赤く点滅している状態だった。
黒鋼は、そんな風には思ってくれないのだろうか。
「……大人だもんな。黒様は」
しょんぼりと項垂れながら羽毛枕をさらに強く抱きしめる。
こうして一人で腐っていたって仕方がないし、せめて今夜はここで黒鋼の匂いに包まれながら、眠ってしまおう。
***
適当にシャワーを浴び、寝巻は黒鋼のシャツとジャージのズボンを勝手に引っ張り出して着こんだファイだったが、ベッドに横たわっていても、なかなか眠気は訪れなかった。
黒鋼はもう眠っているだろうか。
ぼんやりと暗い天井を見つめながら、そんなことばかり考えている。
たかだか数日離れて、それが一日伸びただけだというのに、眠れないくらいの寂しさを持て余す自分が少し情けなかった。
「声、聞きたいなぁ」
小さく放り出された呟きが、闇色の室内に儚く溶けた。
外は少し風が強いらしく、時折木の枝やざわめく葉が窓を叩く音が聞こえる。
「…………」
ファイは小さく身じろぐと、天井に固定されていた視線を僅かに伏せた。
本当なら、今夜は今頃。
どちらかともなく手を伸ばして、キスをして、抱き合って。互いの熱を確かめ合いながら、蕩けそうなくらい愛して、愛されていたはず。
黒鋼は、いつもどんな風に触れてくれていたのだったか。
ベッドの上掛けの中、ゆるゆると左手を移動させると、白いシャツの裾に触れる。そのまま指先をそっと忍ばせて、風呂上がりのしっとりした素肌の上に滑らせた。胸の位置まで持ってくることで、おのずとシャツが中途半端にたくし上げられる。
(すごく、恥ずかしいことしようとしてる、けど……)
どうせ誰もいないのだし。
少しだけ自分を慰めてやったら、あとはどうでもよくなって、グッスリ眠れる気がした。
ファイは目を閉じると、自らに暗示をかける。
これは自分の指ではなくて、黒鋼の指だ。彼の太く節くれだった、男らしい長い指なのだと。
まだ柔らかな胸の一点を『黒鋼』の指が掠める。
彼はここを苛めるのが好きだ。
指先や舌で転がすように刺激して、やがて小さくしこった粒に緩く歯を立て、吸いつき、指先で摘まんでは絞るように強弱をつけて弄ぶ。
そこばかりは嫌だと、どんなに涙を滲ませて訴えても彼はやめない。
赤く充血するくらい時間をかけて嬲って、切なさにファイがすすり泣く声を聞いて満足するのだ。
意地悪な黒鋼。
思いだすだけで心も身体も高ぶって、ぷっくりと尖ってしまった乳首を指先できゅうっと摘まむ。
「ん……ッ」
――情けねぇな。こんぐれぇで泣く奴があるか。
(だって……ここ、いじめられると……)
そう、彼は言葉でもファイを嬲る。
羞恥心を煽る台詞でじわじわと追い詰める。
消えてなくなってしまいたいくらい恥ずかしいのに、身体が勝手に悦んでしまうのだ。
「……ッ、くろさま……」
その声や仕草を思い描きながら、両膝を立てるともう片方の手を身体の中心へ這わせた。
下着をつけずに下を履いていたせいで、そっと手を潜り込ませるだけで熱を持った塊に触れることが出来た。
「ッ……!」
ビクンと身体が踊り、シーツが擦れ合う音がやけに大きく響き渡った。
(もうこんなになっちゃってる……)
すっかり火がついてしまった身体を持て余すように下唇に緩く歯を立てながら、僅かに腰を浮かしてジャージのズボンを下ろし、両膝を引き抜くと足首の辺りまですっかり下ろしてしまう。
そして勃起しかけた性器を掌で包み込み、緩く扱きはじめた。
ここまで来てしまったら、もうさっさと終わらせた方がいい。
黒鋼の裸体を思い描き、その逞しい骨格となだらかに隆起した美しい筋肉や、日に焼けた健康的な素肌に浮き上がる血管に意識を馳せる。
堪らない。
どうしようもなく加速していく欲望が、ファイから自慰に耽ることの羞恥や屈辱を遠ざけ、脳内を甘く蝕む。
「んんっ、ぅ……ッ、は、ぁ……!」
完全に起き上がったモノから先走りが止め処なく溢れ、上下に手を動かす度に水音が大きくなっていく。
シーツの上で身をくねらせながら、ファイは忙しない呼吸の合間に身も世もなく喘いだ。
断続的に電流を流されているように跳ね上がる腰の、さらに奥まった場所に鈍痛にも似た痺れを感じる。
これは物足りなさだと気がついた時、ファイは仰向けだった身体を横向きに倒し、先走りに濡れそぼる指先をその場所へ伸ばしていた。
意識のずっと奥底で、一体何をしているのかと呆れかえる自分に気付かないふりをして、その窄まった小さな穴に指先を潜り込ませる。
いったん放り出された性器には、胸のしこりをいじくり回していた方の手を添えて扱いた。
「あっ……んぅ……!」
一本ではどうしても足りず、二本に増やした指でじくじくと熱い秘穴を穿つも、入口の浅い部分にしか届かず、もどかしさと切なさに涙が滲む。
それでもファイの両手はそれぞれを追い込む動きを止められないでいた。
切なくて、もどかしくて、足りなくて、気持ちがいいけど、寂しくて。
欲しくて欲しくて、気が狂いそうなくらい。
「くろ、さま……くろさま……も、いき、そ……ッ」
今はファイの中にしかいない黒鋼が、ふっと笑った気した。
そしてあの腰に響くような低音で言うのだ。
好きなだけイケ、と。
「ッ――!!」
ダンゴ虫のように横向きに丸まっていた身体が引き攣ったように痙攣し、大きく跳ね上がる。絶頂の瞬間は息が止まった。
溜まりに溜まっていた欲望が白濁となって勢いよく吐き出され、ファイの手を、腹を、シーツを汚す。
ゆっくりと弛緩していく身体で、ファイは浅く乱れた呼吸が落ち着くまで目を開けられないでいた。
***
「……やっちゃった」
生ぬるい液体に濡れそぼった手をぼんやりと見つめて、呆然と呟く。
せっかくシャワーを浴びたのだって台無しだし、勢いでシーツも汚してしまった。
後始末のことを考えると余韻に浸る間もなく、胸の中に黒く濁ったような後悔が押し寄せてきた。
なんて虚しい真似をしてしまったのだろうか。
スッキリするどころか、自分自身への嫌悪感だけが剥き出しになってしまったような気がして、泣きたくなった。
それなのに、だ。
身体はどうにも収まりがつかない状態のまま、いまだ燻っていた。
達した直後だというのに性器はまだ完全には萎れておらず、さらにそれとは別の場所が次の刺激を期待して、浅ましく疼いていた。
普通の男性なら一発すっきりと抜いてしまえば静まるはずの熱が、発散しきれずに体内に留まり、渦巻いている。
自分の性欲の強さに途方に暮れた時、ファイはすぐに気がついた。
(……違う)
きっとこれは、黒鋼のせいだ。
長いことあの男に抱かれて、馴らされた結果、作りかえられてしまったせいだ。
彼のいいように、彼のためだけにあるように、彼でしか満足できない身体に。
(どうしよう……)
それでも今ここに黒鋼はいない。
持て余した欲求を必死で堪えながら、この熱が過ぎ去るのをただ待つしか。
「……そういえば」
ファイはふと思い立って、気だるい身体を起こすと枕元の照明のスイッチを入れる。
ほんのりとした明りの中、足元に絡みついていたジャージの下を適当に取り払って放り投げると、シャツ一枚でベッドから降りて床に膝をついた。
そして、ほんの少し戸惑った後、おずおずとベッドの下に手を伸ばす。
指先で探り当て、引っ張り出したのは小さな段ボール箱だ。
この中には普段、黒鋼との行為で使用するローションやゴムのストックがしまわれている。
もし本当にあの理事長がこのベッドの下の秘密を知っているのだとしたら、弱みを握られているのは黒鋼だけではないということになるのだが、今は考えないことにした。
「えっと……あ、あった……」
中を探ると奥から出てきたのは、ちょっとした秘密のアイテムだ。
それをとりあえずベッドの上にポンと置いてみる。
「う、うわー……改めて見ると……なんかこう……」
なんともいえない羞恥心に頬を染めるファイの目の前にあるのは、いわゆる大人のオモチャというやつだった。
ピンク色のローターが一つと、小ぶりだがリアルに男性器をかたちどった、黒々としたバイブ。
なぜこんなものがあるかというと、それはちょっとした好奇心や悪戯心からだった。
ローションやゴムの類を堂々と薬局などで購入するのは気が引けて、普段から通信販売を利用しているのだが、これは以前ファイが気まぐれで一緒に注文したものだった。
黒鋼には内緒で購入し、いざ届いた箱を開けた瞬間にビックリさせようと思った。
どんな顔をするだろうかとワクワクしていたら案の定、彼は面食らったような顔をし、それからすぐに顔を顰めた。
『これ使って遊んでみようよー! あ、なんなら黒たん先生に使ってあげよっかー?』
などと冗談で口走った直後、ゲンコツを食らったものである……。
どうやら黒鋼はこういったアイテムにあまり前向きではないようで、それ以来なんとなくしまい込んだままだった。
「ま、まさか本当に使う日が来ようとは……」
ファイはゴクリと息を飲んだ。
とりあえずローターは置いておくとして、黒々としたバイブを手に取ってみる。
取っ手の部分には弱中強の三段階を切り替えるシンプルなスイッチがあり、なんとなく弱に合わせて機動させてみた。
「う、うわぁ……」
途端にそれは小さく振動しながらうねうねと緩く回転しはじめた。ウィンウィン、という音がやけに陳腐で笑いを誘う。
暖色系の淡い光の中、黒いバイブの先端が光り輝いて見える様は異様で、なのに目が離せない。
これはこれで、想像以上に卑猥な光景だった。
面白半分で購入したのは自分のくせに、今頃になってなんとも言えない気恥かしさに頬が赤くなる。
大きさこそ黒鋼に比べれば粗末でしかないが、あまりにもリアルな形状が実にいやらしい。
人差し指で突いてみると、ほどよい弾力が地味に心地よかった。
黒鋼でなければ満足できないことは大前提としても、せっかく買ったのに一度も使わないのは勿体ないしと、ファイは心の中で言い訳をしながらひとまずスイッチを切った。
*
床に膝をついたまま、ベッドの縁に片手をついて体重を支えると、後ろ手にバイブの先端を宛がう。
あらかじめローションを軽くまぶしたそれは、入口に押しつけた途端、くちゅりといやらしい水音を立てた。
凄まじい羞恥心に、やっぱりやめておけばよかったという後悔がじわじわと押し寄せるも、ファイは意地になったように手を止めなかった。
「いっ、ぁ……」
バイブが潜り込んで来た瞬間、自分の指で多少解した程度では足りなかったのか、僅かな痛みに肩を竦める。
けれど我慢できないほどではない。
黒鋼のものを受け入れる時の、あのとてつもない異物感と圧迫感に比べれば、こんなものは可愛いものだと思えた。
(黒たん以外の入れるの……初めてかも……)
そう思うほどに悪いことをしているような気がして、胸が締め付けられた。
どこか甘い背徳感に背筋を震わせながら、自分の匙加減で押し込めるバイブの生温い感触に、唇を噛みしめる。
「んぅ……ぁ、はい、った、かな……?」
中に入れた状態でスイッチを入れる勇気はないものの、早く終わらせたくて馴染むのも待たずに動かしはじめる。
自分でも恥ずかしいくらい締め付けているのが、擦る都度引き攣る肉の感触から伝わった。
まだどこか躊躇が勝っているせいか、それほど深くは銜えこめない。
けれど指よりは遥かに太く、己の感じる場所を狙って抉るには十分だった。
「あっ、ぁ! ん、んっ……!」
当たりをつけてイイ場所を突けば、甘い声を抑えられず、硬く張り詰めた性器からは先走りが滲んでいく。
物凄く恥ずかしくて、切なくて、愚かなことをしているという自覚さえも、人恋しさを忘れて快楽を貪るための餌になった。
(これ、結構気持ちい、かも……)
自然と腰を揺らしながら、ファイはこの一人遊びに夢中になりつつあった。
ベッドの縁に置いた手でシーツをぎゅっと握りしめ、汗の滲む額をそこに押しつける。
「くろ、た……ぁ、くろ……っ」
その名を呼ぶとさらに快感が増した。それでもあと一押しが足りない。
ただ単純に自分を慰めるだけなら十分な刺激は感じているものの、後ろだけでイクには無理があった。
(イキたい……イキたいよ……!)
シーツに額を強く押しつけたまま、ファイはもう片方の手を身体の中心に伸ばした。
吐き出せないまま震える性器を握りしめ、体液で滑るそれを扱きあげる。
ようやく満足のいく値まで快楽が競り上がり、あとはもうフィニッシュを迎えるだけ、というところでさらに黒鋼の名を呼んだ。
「あっ、あっ、いく、いく、黒様、黒様ぁ……!」
その時。
「呼んだか」
……え?
空気が一瞬にして凍りつくとは、まさにこのこと。
ファイは石のように硬直しながら、全身からヒヤリとした汗が噴き出すのを感じる。
いやまさか……そんなバカな……。
いっそギギギ、という音がしそうなほど固まりきった動きで、首だけ背後を振り返る。
するとそこにはいないはずの人間がスーツ姿で腕を組み、部屋の入り口に背を預けて立っているのが見えた。
その瞬間、サァ、と全身の血が足元へと下がっていくのを感じる。
「よう」
「く……く……くろ……ど……な……い……」
どうして、なぜ、いつから。
そのどれ一つとしてまともに声にならなかった。
頼りない明りの中、黒鋼がどんな顔をしているかまではよく見えない。
普段のジャージ姿とは対照的に、出張帰りの彼はスーツを纏っているが、ネクタイは外され、ジャケットも脱いで片腕に引っかかっている。
手の中からバイブが抜け落ちて、床にゴロリと転がる音が大きく響く。その瞬間、頭の中が真っ白になっていたファイは、目を回しながらパニックを起こす。
「ななななな、なんで~~~!? なんで黒様がここに~~~!?」
「俺が俺の部屋に帰ってくるのに理由がいるか?」
「だだだ、だって帰って来れないって~~~!!」
慌ててベッドの側面に背中を押しつけるようにして身体を丸めたファイは、あまりのショックと絶望感に終始声を裏返しながら叫ぶ。
一度冷え切った血液が沸騰し、全身火だるまになりそうなほどの羞恥に涙が出てきた。
黒鋼は「ふん」と鼻を鳴らすと足を踏み出し、こちらに向かって距離を詰める。
「こここ、来ないでー!!」
もっとも会いたかった人間に、もっとも見られたくない場面を見られてしまったことに、ファイはこの世の終わりのような気分を味わった。
出来ることなら今すぐ消えてなくなりたい。
彼が今、何をどう思っているかを考えるだけで、気がおかしくなりそうだ。
ファイは体育座りの姿勢の状態で真っ赤な顔を両手で覆うと、情けなさについに泣き出してしまった。
(もう終わりだよぉ……こんなの見られて生きていけないよぉ……)
こんなことになるなら、おとなしく我慢して寝ているべきだった。
そんな後悔をしてももう遅いのだが。
黒鋼はジャケットをベッドの上に放り、ファイのすぐ側にしゃがみ込むと、深い溜息を吐きだした。
呆れて果てている様が伝わって、思わず肩をビクンと揺らす。
「こんなもん引っ張り出して……こいつがあれか? てめぇの浮気相手か?」
先刻までファイを慰めていた物体を掴み上げると、黒鋼はそれをまじまじと眺めはじめた。
ファイは顔を上げることが出来ないまま肩を震わせる。
「うぅ……もうやめてよぉ……死んじゃいたいよぉ……」
「そう言う割には随分とお楽しみだったじゃねぇか、こいつで」
何も言えずに喉を詰まらせるファイに、黒鋼は「顔を見せろ」と短く命じた。
そんなこと出来るはずないと嫌々と首を振れば、強引に前髪を掴まれて上向かされる。
「ッ!?」
視界に飛び込んできた黒鋼は無表情でこちらを見下ろしていて、ファイはくしゃりと顔を歪めた。
きっと酷く軽蔑されてしまったに違いない。そう思うと、涙と震えが止まらない。
ファイの方からは何も言いだすことが出来なくて、ただ死の宣告を待つような心境で沈黙に耐え続ける。
すると黒鋼は無表情だった口元を僅かに歪めながら、驚くべきことを口にした。
「まだ途中だろ?」
「……ふ、ぇ……?」
「遊んでやるから、こっちにケツ向けろ」
***
黒鋼は口元こそ仄かに笑みを形作ってはいたものの、目だけは決して笑っていなかった。
何を言っているのかを脳が理解する前に強い力で腕を取られて、ファイはあれよあれよと言う間に上半身だけをベッドに預け、尻を突き出す姿勢を取らされていた。
黒鋼のシャツを拝借していたため、ギリギリ隠れていたはずの臀部もペロリと剥き出しになり、一気に血液が首から上に集中した。
「ちょ、なにを……!?」
咄嗟に逃げだそうと両手でシーツを引っ掻いたところで、黒鋼の低い声が「うるせぇ」と吐き捨てた。
同時に、勢いよく風船を割るような音と共に、臀部に衝撃が走る。
「ッ――!?」
そのまま幾度か尻をぶたれて、その都度ファイは引き攣ったような短い悲鳴を上げながら、身体を大きく震わせた。
痛みはそれほどでもないのに、気持ちがいいくらい小気味よい音の後に、薄い尻の肉がじんと痺れる。
「ヒィッ、ん! やだ、ぁ……ッ、痛い、よぉ……!」
「尻引っ叩かれて腰振ってるやつが、嘘つくんじゃねぇよ」
ファイの背後に胡坐をかいた黒鋼は、大きな両手でほんのり赤く染まった双丘を揉みしだくと、中心の窄まりが歪むほどに肉を割り開いた。
とんでもない場所に痛いほどの視線を感じて、ファイは涙の滲む瞳をぎゅっと閉じた。
これから何をされるのだろうかという不安と、期待にうち震える。
黒鋼が姿を現したことで一気に縮みあがっていた性器は、彼の言うとおり尻を打たれたことで、徐々に力を取り戻しつつあった。
つくづく自分という人間のマゾぶりに嫌気がさすけれど、もはやファイには自己嫌悪に頭を痛めるだけの余裕は残されていなかった。
黒鋼の両方の親指が、ひくひくと震える秘穴に引っかけるようにぐいと挿しこまれたかと思うと、それを左右に引っ張って広げるような動作を見せた。
体液とローションに濡れて、バイブで穿っていた場所はすっかり柔らかく解れ、蕩けきっているのが分かる。
中の肉まで見られているのかと思うと、たまらなく恥ずかしい。
「やっ、いや……ッ! 広げちゃだめ……ッ!」
「中までヒクヒクいってるぜ?」
「やだぁ! 見ないでぇ……!」
逃れようと腰を大きく揺らす様に満足したのか、黒鋼は鼻で笑いながら思いのほかアッサリと両手を離す。
ホッとしたのも束の間、すぐにきゅうっと口を噤んだ秘穴が切なく疼きだした。
シーツを強く握りしめたまま、上半身を捻って背後へ潤んだ目を向ける。
物欲しげなその視線に、黒鋼はにやりと笑うと「焦るなよ」と言った。
「まだ遊び足りねぇだろ?」
「くろ……?」
「こいつも面白そうだぜ」
そう言って黒鋼が手にしたのは、ベッドの片隅に追いやられていたピンク色のローターだった。
彼はそれを指先で摘まみ、舌を這わせると唾液で軽く濡らす。
この流れで次に起こることは簡単に予測できて、ファイは背筋にヒヤリとした何かが駆け抜けるのを感じた。
そしてその予想は寸分の狂いもなく実行される。
黒鋼の手が片方の尻の肉を掴み上げ、押し広げたと同時に、つるんとした丸いものが中に潜り込んできた。
「ひ、ぁ……!」
そのまま深く押し込まれて、異物を置き去りにしたまま指だけが引き抜かれる。
今のファイは、尻の穴からピンク色の細長いコードだけが伸びている状態だ。
その線を辿っていくと、ロータリー式の簡単なスイッチがある。オンオフと強弱の調節を兼ねたそれを手にした黒鋼は、興味深そうにそれを眺めながら、スイッチに親指を添えた。
「こいつを回せばいいのか?」
「ちょっ、だめ、うぁ……!?」
その途端、唸るようなモーター音と共に身体の内部でローターが振動しはじめた。
下腹部になんともいえない気持ちの悪さが重々しく広がっていく。
「やっ、やだこれ……ッ、中、響いて……ッ、きもち、わる、い……ッ!」
シーツに額や頬を擦りつけながら、まるで痒みに耐えるかのように腰をもじもじと揺らす動作を止められない。
身体の中に埋め込まれた異物が、ひたすら無機質な振動を繰り返す中、後ろで感じることを覚えこまされた身体は、すぐにそのもどかしい刺激を甘く受け入れはじめる。
細いコードだけを食んでいる入口がヒクついているのが、自分でも嫌というほど分かった。
振動によってもたらされる痺れは泣きたくなるほど甘くても、これだけでは絶対にイケない。
すぐに次の、もっと強い刺激が欲しくて仕方がなくなる。
「ねっ、ねぇ! これ、足りない! こんなのじゃ、オレ……!」
「弱いか? 刺激が」
そう言って、黒鋼は手の中のスイッチをさらに回した。
モーター音と振動が大きくなって、下腹部で留まり続けていた感覚が心臓にまで向かって痛いほど響いた。
「ひっ、ぃ!? ちがっ、アッ、響くから、もうやめてぇ……ッ」
嫌々と首を振ると幾つもの涙が飛び散って、シーツに吸い込まれていった。
こんな無様な姿を間近で見られていると思うと、理性とは裏腹に性器が痛いほど張り詰める。
ローターによる刺激というよりは、突き刺さるような視線の方に煽られていることは明白だった。
結局はお預けを食らったまま、限界点で縛られたままの快楽を、一刻も早く解放したくて仕方ない。
(もう、我慢できない……!)
シーツを握りしめていた右手を、自らの身体の中心へと伸ばしかける。
しかしあと少しで触れるというところで、背後から伸びてきた黒鋼の手がファイの右手首を強く掴んだ。
「えッ!?」
そのまま肩に痛みが走ったかと思うと、右腕を捻るようにして手首を背中にぐっと押しつけられてしまった。
もはや上半身はベッドに張り付けるように固定されてしまったも同然で、自由な左手でシーツを掻きながらもがいても、それは無駄な足掻きでしかなかった。
元々腕力に大きな差があるだけでなく、膝立ちになった黒鋼が僅かに体重をかけて寄こすだけで、ファイにはもはや成す術がない。
「は、離して……!」
「いいから黙っとけ」
黒鋼はそう言うと、床に転がっていたバイブを手に取る。
まともに身体を捻ることも叶わないファイだったが、痛いほど首を捻ってどうにかそれを視界の隅に収めた。
「や……まさか……」
「こいつが欲しかったんだろ?」
「ちが……ちがうよ……そうじゃな……」
嫌々と、泣きながら首を振る。
それはあくまでも黒鋼の代わりであって、本人が側にいる今では無用の代物のはずだった。
彼だってそれは分かっているはずなのに、どれほど首を振って意思表示をしても、受け入れられる様子はない。
「大事な浮気相手だ。しっかり味わえよ」
そしてついに、いまだ振動するローターが残されている穴に、バイブが奥深くまで押し込まれた。
「ッ――!!」
「すげぇ光景だな。美味そうに銜えこんでるぜ」
ショックに目を見開きながら、咄嗟に声も出せないでいるファイを置き去りに、黒鋼は感心したような息を漏らしながら呟いた。
ずっと物足りなさに疼いていた肉壺が、血の通わない無機物によって満たされて、ローターの振動を吸収する。
もしこれを動かされでもしたら……そう考えると恐ろしくて、歯の根が鳴るのを止められない。
「ぬいて……ぬいて……お願い……!」
「あ? これからだろ?」
「こんなのやだよ……! お願いだから……!」
「どうせなら最後まで堪能しようじゃねぇか」
血の気が引くのと比例するように競り上がる絶望的な感情は、カチ、という音を聞いた瞬間に真っ白に染まった。
「――ッ!?」
中で、バイブが唸る。
ぐりぐりと回転するように肉を擦り、ローターと一緒に無遠慮に暴れだす。
「ヒィッ、ん! あ、ぁッ! これだめ! これ、いやだぁ……ッ!!」
バイブが蛇のようにうねうねと動けば、中でローターごと掻きまわされる。
それは時折ファイの最も感じる場所を掠めては離れてを繰り返し、強制的にもたらされる快感はあまりにも暴力的で、理不尽なものでしかない。
そしてそこに、さらなる責めが加えられる。黒鋼の容赦ない手によって、抜き差しまでもが開始された。
「やだ、やだぁ……! ひぃぃッ、んッ、く、あ、やあぁッ!」
腹の中で響く不快な機械音と、肉を抉るように擦り上げる鈍い水音が重なりながら、ファイの中を滅茶苦茶に破壊しようとしている。
嫌だ嫌だと喉をひりつかせながら叫んでも、彼は何も言わずにただ攻め続ける手を止めなかった。
(黒たん、やっぱり怒ってるんだ)
どうして帰れないとはっきり宣言していたはずの彼が、ここにいるのかは分からない。
けれどきっと、子供のように自分勝手な我儘を言っただけでなく、一人のうのうと人の部屋で自慰になんぞ耽っていたことに呆れ果て、そして腹を立てているのだ。
今だってこんなもので感じてよがり狂っている姿を見て、彼は何を思っているのだろう。
「イケよ。限界だろ?」
せめて心だけはこんなオモチャなんかに屈したくないのに。
突き放す物言いは確実にファイの胸を抉るのに、快感がそれを飲みこもうとしていた。
口の端から犬のように唾液を滴らせるファイは、潤みきった瞳をどんよりと濁らせた。
黒鋼が穿つ度に響き渡るぐぽぐぽという下品な音に、無意識に口元が笑みを象った。
どれほど無様だとしても、抗いようがないなら、抗わずに落ちぶれてしまった方が、ずっと心が楽になる。
ファイは、完全に飲みこまれてしまった。
「あぁっ! あはっ! イイ……気持ちいいの……! 黒たんじゃないのに! 違うのに! 中、すごい、ぐちゃぐちゃって、気持ちいいッ!!」
「……この淫乱野郎が」
忌々しげな呟きに背筋が凍るほどにゾクゾクと震えた。
「もっと! あはっ、あぁ! もっといじめて! ぁ、もっ、と……ッ、酷いこと、言ってぇ……!!」
そしてイカせて、と。
甲高い声でそう叫んだとき、黒鋼の舌打ちを聞いた。
あと少しというところで、バイブとローターが一緒に引き抜かれる。
「ッ!?」
どうして、と抗議の声を上げる間もなく、ファイは身体を乱暴にベッドの上に引きずり上げられていた。
捲れ上がって剥き出しの背中に、柔らかなシーツの感触がぶつかる。
何が起こったのか理解できず、咄嗟に見上げた先には、縁に膝をついて乗り上げる黒鋼の、怒りに満ちた表情があった。
「くろ……?」
「こんなつまんねぇもんで、いつまでもよがり狂ってんじゃねぇぞ」
鋭い目つきに殺気すら感じて、ファイは身を竦ませた。
硬直したまま身動き一つ取れないでいるファイは、ベルトのバックルが立てる微かな金属音にハッとする。
彼はファイの片足の膝裏を掴み上げ、ぐっと押し上げながらも片手で器用に己の前を寛げ、そそり勃つ肉棒を勢いよく取り出して見せる。
「ッ……!」
その見事なまでの質量を誇る、逞しい性器にファイは息を飲んだ。
見慣れているはずのそれが、いつにも増して恐ろしい凶器に見えた。
「手加減はいらねぇな?」
獰猛な獣を思わせる口元で、彼は舌舐めずりをした。
瞬きも忘れて見入っていたファイは、次の瞬間ぐっと入口に押しつけられた高熱に我に返る。
咄嗟に口を開きかけた自分が何を言おうとしたのかは、分からない。
ただファイが声を発する前に、彼は勢いよく腰を打ちつけてきた。
ズン、という凄まじい衝撃と共に息が止まり、一瞬視界がブレる。
腹の奥を突き破られて、心臓まで貫かれたような感覚の後、凶暴な熱がそこから全身に広がった。
ファイは「あ」という形に口を開ききったまま目を見開いて、カチカチと小刻みに震えた。
「ッ! ッ、ぁ……! ヒ……ッ!!」
馴染むのさえ待たずに、黒鋼は容赦のない抽挿を開始した。
最初の挿入時に肺の中身を空にしていたファイは、満足に息を吸い込む隙も与えられないまま、ただ揺さぶられる。
舌を噛みそうなほどの乱暴な突き上げに身体をしならせながら、ブレ続ける視界で幾つもの光が爆ぜた。
「こんなもんじゃ足りねぇか? おい、答えろ淫乱」
「ぁ……ッ、が……、ぃッ、……ッ!」
「こいつとあのくだらねぇブツと、どっちがいいって?」
「まっ……ぃ、き……ッ、でき……なッ!」
下手に言葉を紡ごうと思えば、本当に舌を噛み切ってしまいそうだった。
指先が色を変えるほどシーツを握りしめていても、振り落とされそうな感覚が消えない。
中を限界まで満たす肉の質量によって、内臓ごと引きずりだされては押し込められるような、そんなおぞましい錯覚が皮膚の上を蛇のように這いずっている。
ファイが受け止めるにはこの衝撃は強すぎて、そしてまるで死と隣り合わせの快楽は、本能的な恐怖を剥き出しにさせた。
黒鋼の荒々しい息使いが、酷く遠くに聞こえる。
(凄い……これ、凄い……やっぱり、これがいい……)
恐れと同時に込み上げる甘美なそれは、麻薬のように脳を犯して、死への恐怖を覆い尽くしてしまった。
例えば今この瞬間、本当にこの命が尽きたとしても、この海で溺れるならば。
(いいや……それでも……)
「――ッ!!」
抱え込まれた足先と、シーツの波間を彷徨っていた爪先が、同時に突っ張った。
心臓に拳を叩き込まれたような感覚を味わいながら、ファイは散々先延ばしにされていた絶頂に全身を打たれた。
*
「ぃ……おい、しっか……ろ……」
真っ暗だった視界に、ほんのりと光が射しこんだ。
その光はゆっくりと滲むように広がって、ぼんやりと定まらない焦点を一つに結ぶ。
「ぁ……」
頬を軽く打たれる感覚と、むっつりとした表情で覗きこんでくる黒鋼の顔。
ファイが小さく声を上げて、幾度か瞬きをすると、彼はホッと息を吐き出した。
「あ、れ……? オレ……生きてる……?」
「悪い。やりすぎた」
どうやら酸欠と過ぎた快感に、失神していたらしい。
身なりは相変わらずシャツ一枚だけのようだが、しっかりと枕に頭を預けた形で身体はベッドに横たえられている。
まだ脳内はぼんやりしていて、全身が鉛のように重たいが、心はどことなくふわふわとした安心感に包まれていた。
理由はきっと、黒鋼から先ほどまでの刺々しさが抜けているからだ。
「水飲むか?」
彼はこちらに身体を向けるようにして腰を落ち着けていたベッドの縁から、立ち上がろうとした。
それを阻むように、ファイは咄嗟にその手を掴む。
ぴたりと動きを止めた黒鋼に見下ろされて、なんとなく頬を染めながら視線だけ逸らした。
「いらない」
「……そうか」
「あの……」
「なんだ」
「……ごめん」
ファイの短い謝罪を聞いて、黒鋼は僅かに小首を傾げた。
「その、オレ子供みたいに我儘ばっか言って……黒たんの部屋で……一人で恥ずかしいことして……」
黒鋼は何も言わず、ただ鼻から短く息を吐き出した。
ファイがおずおずとした上目使いで「まだ怒ってる?」と問うと、彼はムッと眉間の皺を深くした。
「……怒ってねぇ」
「嘘だー……だって黒様すっごく怖かったもん……あんな黒様、初めてだったし……」
「だから、俺は元々怒ってねぇって」
「ぜーったい嘘ー! オレが一人でいい子で待ってなかったから、怒ってるんだー!」
「うるせぇ奴だな。別にそんなんでムカついてたわけじゃねぇよ」
「じゃあ何でムカついたのー」
黒鋼はぷいっとそっぽを向くと「さぁな」と言った。
ならばさっきの鬼のような攻めっぷりは、一体なんだったのか……。
疑問に感じつつも、とりあえずもう怒ってもいなければムカついてもいないようだし、まぁいいかと思った。
それよりもっと根本的な疑問を思い出して、明後日の方を向いている黒鋼の白いワイシャツの袖を、くいくいと引っ張った。
「そういえば黒ワンコー、帰って来れないんじゃなかったのー?」
「……ああ、それか」
再び身を横たえるファイに視線を戻した黒鋼は、ここに帰って来るに至った経緯を簡単に話はじめた。
台風の影響で予定の時刻より僅かに遅れたものの、どうにか新幹線に乗り込むことには成功した黒鋼だったが、徐行運転の末に一時ストップを食らう羽目になった。
仕方なく時間潰しに仮眠を取っていたところで、ファイからの着信に叩き起こされ、すぐにデッキに出てそれを受けたのだという。
その後ほどなくして新幹線は動き出し、予定の時刻からは大幅に遅れたものの、黒鋼は無事帰宅を果たすことができた。
と、いうところまで聞いて、ファイは怪訝そうな顔をしながら首を傾げた。
「それは分かったけどー……でもなんで帰れないなんて言ったの?」
「……なんでだろうな」
再びそっぽを向いた黒鋼の横顔をぼんやり見つめて、ファイはふと察した。
こやつ、さてはサプライズを狙ったな……? と。
彼にしてみれば、ちょっとしたドッキリでも仕掛けるつもりだったのかもしれないが、すっかり間に受けてしまった自分は一人寝の孤独に耐えきれず、とんだ醜態を晒すことになってしまった。
あの唐突に背後から声をかけられた瞬間の、背筋の凍る感覚を思い出して、ファイは頬に熱を登らせると涙目になる。
「黒たん……酷いや……」
「あ?」
「ちゃんと言ってくれれば……オレは……オレは……」
「…………まぁ……なんだ……その……悪かったな」
「うぅ……ばかあぁ! 黒たん先生の黒バカぁ!!」
起き上がるには体力ゲージが空で、というより腰に力が入らず、ファイは両手を伸ばして黒鋼の肩や二の腕をポカポカと叩いた。
彼にしてみれば、喜ばせてやろうとワクワクして帰ったと思ったら、真っ先に嫁の痴態が目に飛び込んできたのだから、その驚愕たるや察するに余りあるのだが……。
「うるせぇな……悪かったっつってんだろ」
「せっかくお風呂も入ったのにさ……これじゃあもう一回入らないと寝れないよぉ」
「いや、それは元々……」
「うるさいバカー!」
キャンキャンと騒ぐファイの完全なる八つ当たりに、心底うんざりした様子の黒鋼だったが、彼は自分がとっとと折れてしまった方が、話が早いと判断したらしい。
再び悪かったと口にしてから「じゃあどうすりゃいい?」とこちらに選択を委ねた。
こうやって自ら折れる時の黒鋼には、どこまで甘えても許されることをファイは知っていた。
だからちょっと照れ臭そうに頬を染めてから、上目使いで彼を見上げた。
「じゃあ……お風呂一緒にはいろ」
「おう」
「動けないから抱っこして、オレのこと連れてくんだよ」
「わかった」
「そしたらね……」
誘うように手を伸ばすと、黒鋼は身体を倒して軽く覆いかぶさる形になった。
その首に両腕を絡めれば、大きな手がファイの額と柔らかな前髪を優しく撫でる。
くすぐったさに目を細めて笑って、近すぎる距離で視線を合わせながら、囁くように甘えた声で言う。
「もっかい、今度はちゃんとしよ」
鼻から小さな息を吐き出しながら笑った黒鋼は、答えの代わりにファイの唇を奪った。
やがて触れるだけでは済まなくなってきたその口づけに、ずっと不足していた心の栄養分が補われていく気がした。
物凄く恥ずかしくて怖い目にはあったが、今はこうして黒鋼が傍にいることが純粋に嬉しい。
一緒にいる時間の方がずっと長くて、離れていた時間なんてほんの些細なものでしかないのに、やっぱりこうして触れていなければ、すぐに足りなくなってしまう。
僅かに糸を引いて離れた唇から、震えた吐息を零しながら、ファイは潤んだ目元で花のように微笑んだ。
「おかえり黒様……それと、お疲れ様」
会いたかったよの言葉は、再び重ねられた唇に飲みこまれて、上手く紡ぐことはできなかった。
←戻る ・ Wavebox👏
「ッ、ぅ……も、やめ、ろ……ッ、頼む、から……ッ」
忙しない呼吸と、苦しげに呻くような声がした。
それは聞きなれたもののように思えるのに、何かが、違うような気もして。
少女はふと、意識を浮上させる。
(あれ……私、どうして……?)
遠くで下校時間を知らせるチャイムが鳴り響いていた。
一体いつの間に眠ってしまったのだろう。こんな時間になるまで、目を覚まさないなんて。
まだ夢の中にいるようなぼんやりとした頭で、幾度か瞬きをしてみる。霞む視界が徐々に鮮明になってくると、そこには自分のスカートと、白い膝小僧が映っていた。
どうやら椅子に座ったまま、がっくりと項垂れた状態で居眠りをしていたようだ。だけど、なぜだろう?
ふと小さく身じろいだのと同時に、違和感を覚えた。瞬間、意識がハッキリと覚醒して、びくんと肩を揺らしながら息を飲んだ。
「ッ!?」
両手首が、椅子の背もたれに括り付けるようにして、きつく縛りつけられていた。両足もそれぞれ前脚部分に縄できっちりと固定されて、まるで身動きが取れない。
(な、なにこれ……なんで私、縛られてるの……!?)
全身が冷水を浴びたように硬直していく。導火線に火がついたみたいに、じわじわと混乱が押し寄せてきた。今にも悲鳴をあげそうになりながら、必死に前後の記憶を手繰り寄せてみる。
そうだ、自分は確か、具合が悪そうにしていた『彼』に付き添って、保健室を訪れていたはず。それがなぜ、四肢を拘束された状態で目を覚ますなんて、ありえない状況に置かれているのだろう?
一人でも平気だよと強がりを言う『彼』に寄り添い、保健室のドアをくぐった辺りから、記憶がぷっつりと途切れている。
「ぅぐ、あッ……! ダメ、だ……これ以上は、本当に……ッ」
またあの声が聞こえて、一気に思考が引き戻される。
知っている。少女はこの声を知っている。やっぱりこれは、『彼』のものだ。
「花京院」
それとは別に、低い男の声が『彼』の名を呼んだ。
少女はごくりと喉を鳴らしながら、ゆっくりと、ゆっくりと俯けていた視線を上げる
目に飛び込んできたものを、最初はまるで認識できなかった。
夕暮れ時の保健室。黒い。黒い、塊。
「てめーの大事なお姫様が、ようやくお目覚めのようだぜ」
窓から差し込む強い夕陽に、視界が眩む。黒い塊はその鮮烈な赤を背負って、そこにいた。
少しずつ目が慣れていくと、塊が二つの人の形を成していることに、気がつく。
全貌が認識できた途端に、少女は青褪めた表情で目を見開いた。
真っ先に、目が合った。
恐ろしいまでに美しく整った顔立ちをした男が、少女を見て笑っている。
凍り付いたように冷たい翡翠が、猫のように、すぅっと細められた。
――JOJO。
あまりにも整いすぎた、彫刻のような美を湛える容姿。教師ですら平伏す豪然たる振る舞い。不良という名のレッテルを欲しいままにする男。
こんなに近くで顔を見たのは、初めてだ。どうしてこの男がここにいるのだろう。それに。
なぜ、『彼』が……?
ベッドの縁に腰かけるJOJOの膝の上には、制服の前をシャツごと引きちぎられて素肌を覗かせる『彼』が……花京院が、座らされていた。その腹にはまるで一度大きな穴でも空けたかのように、歪な傷跡がこびりついている。
花京院はズボンと下着さえも剥ぎ取られ、完全に下肢を曝け出していた。長い両足の先で、靴下と上履きだけがいやに白く、そして寒々しく目に映る。
真っ赤なチェリーのようなピアスが、燃えさかる炎のように煌々と輝き、揺れる。
彼は後ろ手に拘束され、片足をJOJOの腕に引っ掛ける形で股を開かされていた。その身体の中心では、赤く腫れた性器が震えている。なぜか根本が白い布のようなもので縛りつけられているのが見えた。おそらく彼がいつも持ち歩いている、ハンカチ、だと思う。
あまりにも、異様な光景。
「ぁ……」
少女の視線を真正面から受け止めて、花京院はその表情を絶望に青白く染めながら、カタカタと震えだした。声もなく首を振り、身を捩って逃れようとするのを、JOJOの太い腕が許さない。
背けようとしていた顔はもう片方の手に顎を掴まれ、無理やりこちらを向かされる。
「しっかり見せつけてやんな」
「いや、だ……頼む、から……!」
「ッ――!!」
少女は咄嗟に悲鳴を上げようとしたが、それはどういうわけか叶わなかった。
息を吸いこもうとした瞬間、喉に強い圧迫感を覚えたのだ。まるで大きな手に首を一掴みにされているみたいに。ギリギリと締め付けられて、息ができない。
「ぁ、ッ、が……っ!?」
「やめろッ! 彼女には手を出さない約束だろう……ッ!!」
花京院の悲痛な叫びが、ずっとずっと遠くに聞こえる。そのくせJOJOが冷やかに鼻で笑う声だけは、ハッキリと聞こえた気がした。
このままでは死ぬ。死んでしまう。こんなにも死を身近に感じたのは、生まれて初めての経験だ。怖い。怖い。見えない『何か』が、今にも自分を締め殺そうとしている。それがどんなものかは見えないし、感じることもできないけれど、大人しくしていなければ、一瞬でくびり殺すことが出来るのだという警告だけは理解できた気がして、少女は大きく開けていた口をぐっと閉じた。
すると、圧迫感がほんの少しだけ和らいだ。ひゅうっと息を吸い込んだと同時に、思いだしたように全身に冷たい汗が噴き出す。
おかしい。絶対におかしい。得体の知れない恐怖に、全身の血が凍りつく。
「てめー次第だ。わかるな?」
「ッ、この、下衆が……ッ」
耳元で囁いたJOJOに、花京院は憎しみを露わに表情を歪め、気丈にも吐き捨てる。
JOJOはどこか満足そうに笑みを浮かべ、低く唸るような声で笑った。
「……約束だったな。この女が目を覚ましたら、イカせてやるってよ」
「ッ……!?」
息を飲んだのは、少女と花京院、同時だった。
「それとも、もっと焦らされてえのか?」
「いや、だ……いやだ……承太郎、頼む! やめろ……ッ!」
JOJOの大きな手が、容赦なく花京院の張り詰めた性器を扱きはじめた。どれだけ長い時間、こうして嬲られていたのだろう。花京院は苦悶に満ちた表情で、一言だけ「ひ」と短く悲鳴をあげたあと、痛々しいほど強く唇を噛み締める。
少女は、瞬きもせずにただ見つめることしかできなかった。目の前で起こっていることが信じられない。理解できない。頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいか分からなかった。
(これは……なに……?)
どうしてこんなことになっているの?
どうしてJOJOはこんなことをするの?
私は一体、なにを見せられているの……?
どうして、どうして、どうして。
わからない。何もわからない。
ただ今この瞬間、目を覚ましてしまったことを深く、後悔していた。
***
なんとなく。
本当に、ただなんとなく。
キッカケは、互いにほんの些細な気紛れから、だったのだと思う。
花京院典明といえば、転校初日に忽然と姿を消し、そのまま数ヶ月にもおよぶ失踪を遂げていたことで有名な人物だった。
その間どこにいたのか、何をしていたのか、真相を知るものは誰もいない。彼はある日、何事もなかったかのように姿を現し、当たり前のように学校という空間に溶け込んでしまった。
なにか重い病に侵されているのではないか。どこか裏の世界に通じていて、学生としての姿は仮のもの、なのではないか。様々な噂だけが次から次へと生まれては、消えていく。
何か秘密がありそうな、物静かでミステリアスなクラスメイト。
少女にとって、花京院典明は住んでいる世界の違う、遠い存在という認識だった。
そんな花京院と初めて言葉を交わしたのは、放課後の図書室でのことだった。
高い場所にある本が取れず、背伸びをしていたところに頭上から伸びて来た白い手。それが彼のものだった。
爽やかで濁りのない声が「どうぞ」と言って本を差し出してきた瞬間、その少女漫画のような光景に心臓を掴まれるような思いがした。
鮮やかな赤い髪に夕焼け色を吸い込ませ、すみれの花のように澄んだ瞳をして微笑む花京院は、今まで見てきたどんなものよりも、美しく輝いて見えたのを覚えている。
なんとなく。ただ、なんとなく。
それをキッカケに、二人はよく放課後の図書室で顔を合わせては、少しずつ会話をするようになった。
話してみると、彼とは読書を好む以外にも、多くの共通点があった。
好きな音楽や憧れている俳優、応援している野球チーム。女友達と話をするよりも、花京院との会話は驚くほど弾んだ。誰かと一緒にいて、これほど楽しく、そして心が安らぐのを感じたのは初めてだった。
なんの変哲もない平凡な日常は檻のようで、彼なら、きっと自分をここから連れ出してくれる。そんな予感めいたものを、漠然と感じはじめていた。
二人の交流は、いつしか学校の外にまで及んだ。
映画を見に行ったり、喫茶店でお茶を飲んだり、図書館で一緒にテスト勉強をしたり。
花京院はいつも優しくて、格好良くて、紳士的で大人びていて、まるで子供の頃に絵本で見た、王子様のようだった。彼と一緒にいると、まるで自分がお姫様にでもなったような気にさせられて、気がつくと、胸がドキドキと高鳴るようになっていた。
男女の間に友情が芽生えることがあるのかどうか、異性と親しい仲になったことのない少女には、まだ分からなかった。
だけど街を歩けばカップルに見られているだろうし、学校では、あっという間に噂になった。
だからお互い、意識してしまったのかもしれない。下校中、ふと会話が途切れたとき、偶然ふたりの指先が触れ合った。一瞬だけギクリとして、それから、どちらからともなく、手を繋いだ。
友情と判別のつかない、曖昧な関係がそこで終わった。
花京院とは手を繋ぐ以上のことはまだなくて、あくまでも清い関係が続いていた。
自分たちは高校生だし、キスだとか、ましてやその先のことなんてまだ早い。一緒に同じ時間を過ごせるだけで、十分に幸せだと感じられた。
彼は表情や仕草にこそ出さないものの、あまり身体が丈夫ではないようだった。けれどそんな強がりや儚い一面ですら、自分が支えになれたらいいと、そう思っていた。
だけど一つだけ、どうしても気になっていることがあった。
それは主に学校で。花京院の側にいると、ふと視線を感じることがあった。皮膚を刺すようなそれは、少女が辺りを見回すと、一瞬で消えてしまう。
彼に想いを寄せる女子生徒は少なくなかったし、嫉妬されること自体は決して不快なものではなかったけれど、その視線だけは、何かが違うような気がしていた。
多分あれは、嫉妬なんて生易しいものではなくて。
殺意、だったのではないか。
***
悪夢のような光景に硬直しながら、確信する。
あの刺すような感覚。背筋をナイフの切っ先でなぞられるような、深く暗い闇の底から覗き込まれているような、そんな恐ろしく冷たい視線の正体。
空条承太郎。この男に、違いないと。
花京院が失踪したのとまったく同じ時期。彼もまた姿を消し、そして二人同時に復帰したというのは、あまりにも有名は話だった。
彼らが親しげに談笑する姿は、勝手気ままな噂を助長する餌になっている。その光景は、少女も幾度か見かけたことがあった。
JOJOと、花京院。二人の間には他者が踏み込むことのできない、特別な世界があるような気がした。決して触れてはならない、何かが。
それが一体なんなのか、聞いてみたい気持ちはあったけれど、いつか話してくれる日が来たら、それでいいと思っていた。だって自分たちはただの友達ではなく、もっと特別で、深い関係なのだからと。
だけど思いもよらない形で、扉は開かれてしまった。
彼らの世界に、今、自分は異物として縛りつけられている。
初めて恋をした相手が、目の前でただ嬲られる姿を、息を殺して見つめていなければならない現実は、苦痛でしかなかった。
「み、るな」
花京院の唇は、あまりにも強く噛み締めていたせいで血が滲んでいる。その隙間から、彼は何度も苦しげに「見ないでくれ」と切れ切れな声を漏らした。
堰き止められたままの性器は、可哀想なほど赤く腫れている。JOJOの大きな手がそれをねっとりと扱き上げ、親指の腹で先端を擦るたび、彼の白い内腿がビクビクと激しく震えた。
男性の、ましてや勃起した性器を見るのは初めてだった。けれど感覚が麻痺しはじめているせいか、それ自体に不快感はまるでない。ただ、痛々しくて仕方がなかった。
お願いだから、もうやめて。
何度も叫びかけて、その度に不可思議な喉の圧迫感に怯え、口を引き結ぶ。
花京院はJOJOの腕の中で苦しそうに肩を上下させ、全身に汗を噴きだしながら、苦悶の表情を浮かべていた。
なぜこんなことになってしまったのだろう。どんなに考えても答えはでない。だけど彼がこれほどの屈辱に耐え続けているのは、他でもない自分を守るためなのだということだけは、分かる。
どうすることもできない無力感に、少女は大粒の涙が溢れるのを堪え切れなかった。
「だい、じょうぶ……」
そのとき、ずっと顔を背けていた花京院が、真っ直ぐにこちらを見てふと表情を和らげた。笑うと少し幼く見える、あの大きめの唇を震わせながら、ぎこちなく微笑んでいる。
「ぼくは、大丈夫だから……ッ、必ず、助ける、から。巻き込んで、ごめ、ん」
どうして花京院が謝らなくてはならないのだろう。
いつ終わるとも知れない地獄の中にいるのは、彼自身であるはずなのに。少女の目には、JOJOの姿は悪魔にしか見えない。
当の悪魔はバカにしたように鼻で笑って、「泣かせる光景だな」と白々しく吐き捨てた。
花京院が背後の承太郎に向かって、鋭い視線を走らせる。
「もう、いいだろう? ぼくのことは好きにしていい……だから、彼女だけは解放しろ」
「ずいぶんと強がるじゃあねえか。ところで、この女とはもうヤッたのか?」
「バカなことを聞くなッ! 君には、関係ない……ッ」
何が面白いのか、JOJOはくつくつと肩を揺らしながら低く笑った。
だけど目だけは笑っていない。
「てめーがまともに女を抱けるとは思えねえがな」
JOJOは酷く馬鹿にした様子で鼻を鳴らし、腫れあがった性器の先端を指先で乱暴に弾いた。花京院は大きく身体をビクつかせ、堪らず上擦った悲鳴を上げる。
「ひぅッ、ん……ッ!!」
「いつもなら、とっくにイカせてくれってピーピー泣いてる頃だぜ。女みてーによ」
(いつもなら……?)
その部分が、やけに強調されて聞こえた気がした。
JOJOは顔を背けようとする花京院の耳元に唇を押し付け、視線だけはこちらに向けながら目を細めて笑っている。
「花京院」
JOJOは花京院の首筋に音を立ててキスをしながら、嫌でも目立つ変色した腹の傷跡をゆるりと撫でた。
「ぅ、くッ、……んッ」
「辛いだろ? 可哀想にな」
何度も何度も、労わるように。
その優しい手つきとJOJOの伏せられた長い睫毛に、胸が締め付けられたのはなぜだろう。
目を覆いたくなるような、痛々しい傷跡。何があったのかは、分からない。けれどそこに、いつも感じていたあの立ち入ってはいけない『世界』そのものが、隠されているような気がする。
そこは他の部分よりも皮膚に受ける感覚が異なるのだろうか。花京院はJOJOがそっと撫でるたび、ひくひくと敏感に身を震わせていた。
心なしか、頬がうっすらと赤らんでいる。悦い、のかもしれない。
「も、ッ、さわ、るな……ッ」
「つれねえな。あの頃はもっと可愛げがあったぜ」
「うる、さッ、ぁ、ヒッ……!?」
するりと、根本を縛りつけていたハンカチが解かれる。くしゃくしゃになったそれが床に落ちる光景が、いやにゆっくりと目に映った。
花京院はガクンと身を揺らし、目を見開いて首を左右に振る。
「い、やだ……ッ、やめろ、やめ……ッ!!」
「とっとと楽になりてえだろ。我慢しねえでイッちまいな」
激しく身を捩る花京院の抵抗など気にもとめず、JOJOは再びねっとりと勃起した性器を扱きはじめる。そこは先端からだらだらと蜜を溢れさせ、淫らな水音を響かせていた。
花京院は何度も何度も首を振っては拒絶の言葉を口にする。開かされた内腿が小刻みに痙攣して、彼がもうとっくに限界を迎えていることを知らせていた。
血の滲んだ下唇に、さらにきつく歯を立てて、花京院はどうにかして感覚を痛みの方へ逃がそうと、必死に足掻き続けているようだった。
そんなささやかな抵抗にすら、JOJOはお見通しとばかりに笑みを崩さなかった。
「うぁッ……!?」
不意に、花京院の身体がこれまで以上に大きく跳ねた。
腹の傷跡を撫で摩っていたJOJOの手が、彼の身体の奥待った場所に伸ばされ、潜り込んでいるのが見える。
(指、を……?)
中に、捻じ込んだのか。あの太くて、長い指を。
花京院は女性ではない。だから、穴は一つしかないはずだ。
「いっ、痛……ッ、ぁ、じょ、たろ……ッ」
「キツイな。こっちに戻ってからは使ってねえから、当然か」
「そこ、は……やめ……ッ」
「これでも我慢してやってたんだぜ?」
「ッ、承太郎ッ!?」
JOJOは上体を僅かにのけ反らせ、花京院の片足を引っ掻けていた腕を、とくと見ろと言わんばかりにさらに強く持ち上げた。薄紅色をした恥部に、節くれだった太い指が三本も捻じ込まれ、強引に出たり入ったりを繰り返しているのが分かる。
あまりにも惨い。そしておぞましいと思うのに、少女はその小さな穴がいたぶられる光景から、目が離せなかった。心臓が、痛いほど高鳴っている。
JOJOが吐き出す言葉の全ては、自分が花京院と気持ちを通じあわせるずっと以前から、二人が身体の関係を結んでいたことを、明確に物語っている。
失踪していた間に起こった出来事であることは、確かなようだった。
「……漏らしちまったっけな」
中を指で掻きまわし、同時に性器を責めたてながら、おもむろに何かを思いだしたようにJOJOが言う。
痛みから小刻みに震えるばかりだった花京院が、それを聞いてギクリと身を強張らせた。
「覚えてねえか? ありゃ砂漠で野宿してるときだったか……ここに、おれのをブチ込んで」
「おい……なに、を……」
言うつもりだ……?
青褪めていく、花京院の唇。さっきよりもずっと、凍えたように震えだす身体。
彼を見つめるJOJOの瞳が、過去を懐かしむように優しく細められる。
「死ぬほどイカせてやったあとによ」
「やめろ……それ以上言うなッ! 彼女の前で、そんなこと……ッ!」
言わないでくれッ!!
花京院が悲痛な叫びをあげる。
けれど容赦なく開かれたJOJOの唇は、三日月のように美しく歪んでいた。
「しょんべん漏らしてよ。ガキみてぇに泣きじゃくったっけな?」
言うと同時に、JOJOが掴んでいた性器の先端にある窪みを、親指の爪で強く抉る。
花京院の口から、小さく引き攣ったような息が漏れた。
「ぃ、ひッ……――ッ!!」
びゅう、という音と共に、白濁の飛沫があがる。それは花京院の腹や胸に飛び散り、彼自身の肌を汚した。
長いこと堰き止められていた精が止め処なく溢れては震え、その度に花京院の胸がビクビクと跳ねる。JOJOはまるで悪戯が成功した子供のように笑い、舌なめずりをした。
精液で濡れた腹に大きな手の平を這わせ、馴染ませるように幾度も撫でる。
花京院は、絶頂の余韻にヒクつきながら、力なくがっくりと項垂れてしまった。やがて、その肩が小刻みに震えだす。
「……ッく、ぅ……どう、して……」
顔は見えないけれど。ぼろぼろと、雫が落ちては濡れた肌に吸い込まれていく。
「そんなこと、どうして、ここで……! なん、で、こんな、こと……ッ」
彼は小さくしゃくりを上げながら、ついに泣きだしてしまった。
少女はただただ、その憐れな姿を瞬きも忘れて凝視する。
いつも優しくて、大きな存在だった。紳士的で大人びた、王子様のように上品で格好いい、完璧な恋人。それが少女にとっての花京院だったし、彼もまた、そんな自分でありたかったに違いない。
だけどギリギリのところで保たれていたであろう彼のプライドは、恥かしい秘密をバラされながら達してしまったことで、いよいよ粉々に砕かれてしまった。
最後に残ったのは、自分より大きな相手に苛められて、めそめそと泣きじゃくるばかりの、小さな子供のような姿だった。
(なんて、ひどい……)
可哀想な花京院。
こんなことになるくらいなら、あの日、手なんか繋がなければよかったのだろうか。ただの友達でいれば。それすらも、JOJOは許さなかったのかもしれないけれど。
少女は気がついてしまった。いや、もしかしたら、ここで目を覚まして二人の姿を認識した瞬間には、すでに理解していたのかもしれない。
これは、見せしめだと。
花京院は、JOJOのものだったのだ。
本人にそのつもりはなかったのかもしれない。彼はきっとJOJOを大切な友達だと、そう思っていたのではないか。
だけどJOJOは違った。自分が抱いていた淡い恋心など、遥かにしのぐ執着をもってして、狂ったように、花京院を。
「なぜ……? やれやれ、それをてめーが聞くのか」
「うぁッ!!」
唐突に、JOJOが花京院の背を乱暴に突き飛ばした。
後ろ手に拘束されたままの彼は、顎や胸を打ち付けながら床に崩れ落ちる。少女の、足元に。
尻を高く突きだすという不様な格好を見下ろし、少女はごくりと喉を鳴らした。
多分きっと、ここからが本番だ。花京院は傷ついて、こんなにもボロボロになっているというのに。まだ、終わらない。
JOJOはベッドの縁から腰を上げると立ち上がり、自らの前を寛げながら花京院の背後に膝をつく。
姿を現したJOJOの性器は、赤黒く脈を浮き立たせながら勃起している。花京院のものとは、比べものにならないくらいリアルで、そして、あまりにも大きい。目の前で黒々とした男性器を見せつけられていることに、今更ショックを受けている自分が、少し可笑しかった。
「や、だ……やだ、嫌だ……それだけは……ッ」
酷く怯えながら逃れようとする腰を、JOJOの手が掴む。
そして、もう片方の手は自身を掴み、幾度か扱く動作を見せた。
(挿れるんだ……)
あんなものが、あそこに、入るのだろうか。あんな小さな場所に。そうしたら、花京院はどうなってしまうのだろう。
心臓が口から出そうだ。ばくばくと、大きく跳ねている。
怖いから? 見たくないから? 違う。多分、違う。瞬きが、できない。
「笑っちまうぜ」
「ぁ、や……ッ、じょ、たろ……?」
「なぁ、花京院」
白く引き締まった谷間に、JOJOが性器の先端を押し当てるのが分かる。そして次の瞬間、ぐっと腰を押し込んだ。
「や、やめ、や、ぁ゛ッ……――!?」
激痛に背を反らし、血の滲んだ唇を大きく開いた花京院の顔が、見下ろした先にある。彼は全身を引き攣らせ、見開いた菫色の瞳から大粒の涙を撒き散らしていた。
その衝撃と、苦痛をありありと滲ませた表情に、少女は背筋にゾクリとしたものが走るのを感じて、喉を鳴らす。
「ッ、ひぐ、ぅ、ッ……た、ぃッ……痛い、ッ、じょ、た、ろ……ッ!」
「流石に裂けちまったな。血が出てる」
JOJOの男根が、小さく引き締まった尻の谷間にずぶずぶと潜り込んでいく。
あんな大きなものをまともに慣らさないで挿れられたら、ひとたまりもないだろう。女性ですら、きっと耐えられない。
花京院は口の端から唾液を漏らし、歯の根をカタカタと鳴らしながら、痛い、痛いと悲痛な声をあげ続けていた。
「うぅッ、ぅ……やだ、いやだ……痛い、こんなの、やだ、ぁ……ッ!!」
「はっ、そう言うなよ。何度もこうやって愛し合った仲じゃあねえか」
「ちが、ぅ……ッ! 違う、だって、だってあのときは、お互い処理をしてただけで……ッ、君もぼくも、ちょっとおかしくなっていただけじゃあないかッ!!」
「……黙んな」
ばつん、という肌と肌がぶつかる音がして、JOJOが最奥まで性器を打ち込んだのが、わかる。
「あッ、が……ッ!!」
まともに悲鳴もあげられないほどの衝撃。
JOJOは息をつく間もなく、強張ったままの身体を揺さぶりはじめる。
何度も何度も、あの肌がぶつかる音がして、その度に舌を噛むのではないかと思うほど、ガクガクと花京院の身体が揺れていた。
まさにレイプと呼ぶに相応しい、酷い、光景。だけど。
「ひっ、んんッ、あッ、は、ッ……はぁッ、んッ!」
苦痛に呻くだけだった声に、なにか、違う色が混じりはじめていることに、少女は気づいた。
裂けてしまったことで滲む血が、潤滑油の代わりにでもなっているのだろうか。鈍い水音が、二人の荒々しい呼吸に混じり合っていく。
「慣れてきたか」
「あ、うぅッ、ぅ……や、だ……じょお、たろ、ッ、やだ、ぁ……ッ!」
「ちょっぴり痛いほうが、てめーはよく鳴くんだったな」
「ひぃッ、あ、あぁッ……!!」
突き上げる動きはそのままに、JOJOが拘束された腕を掴み上げる。そのままぐんと引き上げると、繋がり合ったまま花京院の身体が膝立ちの体勢になった。花京院の内腿には、ほんのりと血の混じった液体が伝っている。
ふるん、ふるん、と揺さぶられる度に赤く膨らんだ性器が揺れていた。それはもはや腹につくほど反り返り、力を取り戻している。奥を突かれる度、揺れる性器の先端からは先走りの蜜が飛び散り、床にシミを作り上げていた。
感じている、ということだ。花京院は、男に犯されて、感じている。
「や、だ……あッ、こんな、かっこ、アッ、くぅ、ん……ッ!」
目を逸らすことすらせず、少女はただ放心したようにそのぶつかり合う肉の音と、水音を聞いている。自分の心が、どこかに切り離されて遠くにあるような気がしていた。
そうやって押しやったのは理性だとか、常識だとか、人として必要なもの、だったのだと思う。
多分、それは花京院も同じだった。
顔を上げた花京院と、一瞬、目が合った。
どろりと濁っていく瞳に、あの日、夕焼けを吸い込んで輝いていたすみれ色の輝きはない。
圧倒的な支配と、屈辱と、羞恥。そして快楽。彼はそれらに蝕まれ、いま完全に堕ちようとしている。
「あれがただの性欲処理だと?」
薄笑いを浮かべるばかりだったはずのJOJOの顔が、僅かに歪んだ。
少女の中で、そこの知れない恐ろしい悪魔というイメージが、ゆっくりと崩れ落ちていく。
「花京院、おれはな。あの旅で、てめーの全てを手に入れたと……そう思ってたんだぜ」
大切なオモチャを取り上げられて、癇癪を起す寸前の子供のようだ。ゾッとするほど冷たく見えた翡翠がうっすらと潤んで、今にも零れ落ちそうに見える。
彼らの『旅』が、どんなものであったのかなんて、きっと自分は生涯、知る由もない。
だから。
「それが戻って来た途端、勝手に女なんか作っていやがった」
(……やめて)
お願いだから。
(私を、あなたたちの『世界』の登場人物にしないで)
ほう、と。
少女は頬を赤らめて、熱っぽい吐息を漏らしていた。
理不尽に責めたてられ、凌辱の限りを尽くされる、惨めで非力で、可哀想な王子様。それでも快楽に抗えず、逃げ道にしてしまった、淫らな王子様。
JOJOのあまりにも我儘で、強引な愛が、彼を壊してしまった。もはや何も映さない瞳で嬌声をあげながら揺さぶられる、その姿を。
とても、美しいと思った。
そこにはもう少女が憧れた姿はないけれど、どうしてか、今はひどく気分が高揚している。
だって、こんなにも素晴らしいショーを、真正面の特等席で見ることができているのだから。
同じ空間で、同じ熱を体感しながら、演者と観客の間には決して越えられない壁がある。舞台の上は、異世界でなくてはならないのだ。届かないからこそ永遠に憧れ続ける、それでこそ、素晴らしい。
気がつけば、喉に感じていた圧迫感が消えていた。
許されたような。そんな、気がする。
「てめーをこんな風に雌にしてやったのは誰だ?」
「んんッ、あッ……だ、め……ッ! これ、すご、い、気持ち、い……ッ!!」
「答えな花京院。おまえは」
――誰のものだ?
花京院の口元に、うっすらと、歪むような笑みが浮かんだ。ゾクリとする。なんて、笑い方。
滲む血液で赤く紅を引いたようにも見える唇が、酷く甘えたような声で、じょうたろう、と呼んだ。
「じょ、たろ……ッ、んあっ、あッ、じょぉ、たろう、です……ッ!」
そこにあるのは、ただの『雌』の顔だ。
「ぼくは、承太郎のッ、もの、ですッ……じょ、たろの、これ、ずっと……欲しかったッ!」
「……上出来だ」
JOJOが微笑む。掴んでいた両腕をさらに引き寄せ、首を捩じった花京院に求められるまま、深い口付けを交わす。赤い舌が絡み合い、角度を変えながら貪り合う。どちらのものともつかない唾液が、銀色に輝きながら伝い落ちていく。
JOJOの動きに合わせて、花京院も懸命に腰を揺らしていた。快楽だけを、ただあるがままに追いかける彼らは、美しく卑しい、獣のようだった。
「はぁ、アッ、いッく、イク! ぼく、もう……ッ!」
「いいぜ。どうしてほしい?」
「出して、ナカにッ、承太郎の、いっぱい、ぼくに……くださ、ッ、い……っ!!」
JOJOがより一層、大きく花京院を突き上げる。あ、という形に口を開いたまま、花京院はクジラが潮を噴くように激しく吐精した。弧を描きながら噴きだすそれが床を汚し、少女の上履きの先も、少しだけ、汚す。
びくん、びくん、と身を震わせる花京院の背後では、JOJOが低く唸って腰を僅かに震わせている。
「で、てる……ぁ、はッ、じょ、たろ……いっぱ、い……」
「はッ、かきょう、いん……!」
うっすらと笑みを浮かべたまま、花京院の身体が前のめりに崩れ落ちた。
JOJOもまた腰を屈め、小さく痙攣を繰り返す花京院の耳元に唇を押し付ける。何か囁いたようだが、あまりにも小さな声は、少女の耳には届かなかった。
(終わった……)
とても名残惜しい気分で、ぴくりとも動かなくなってしまった花京院を見下ろす。
頭の中がぼうっとして、熱に浮かされたように何も考えられない。
するりと、縄が解けて身体が自由になった。JOJOでもない。花京院でもない。あの得体のしれない何かが、少女の拘束を解いたのだ。
結局、それが何かは最後まで、分からなかったけれど、それで、いいのだと感じる。
「悪かったな」
伏せている花京院を抱き起こし、腕の中に収めながらJOJOが言う。その瞳からナイフのように尖ったものは消え失せていた。
「こういうわけだ。他にもっとまともな王子様でも探しな」
JOJOの口元に、ほんのりと笑みが浮かぶのを見て、少女もふわりと微笑んだ。まるで共犯者にでも、なったような気分だった。
少し痺れている足で、椅子から立ち上がる。
「ありがとう。とても素敵なショーだったわ」
***
あれから、学校で花京院の姿を見ることはなかった。
時が経つにつれ、あの保健室での出来事は本当は夢だったのではないかと、そんな風に思えてくる。
新しい王子様が見つかる気配はないけれど、当分は、そんな気になれそうもなかった。
花京院と出会う前の、ありふれた日常。その中を淡々と生きながら、放課後のチャイムをバックに一人夕焼け空を見ていると、時々、あのときの光景が鮮明に蘇る。
夢、だったのかもしれない。多分、そういうことにしておかなくてはいけない。
だけどどうしても、もう一度だけ、あの時の光景に触れてみたいと。そんな気もして。
だから、花京院の家を訪ねた。
クラスメイト思いの生徒を装って、学校帰りに彼の家の呼び鈴を鳴らす。
姿を現したのは、少しやつれた様子の綺麗な女の人だった。瞳の色も、赤い髪も、彼によく、似ていた。
「息子は身体の具合が悪くて、遠くの施設で療養しているの」
彼女は痩せた目元に暗い影を落としながら、力なくそう言った。
それ以上は何も聞くことができず、ただ「お大事に」という当たり障りない言葉だけを述べて、彼の家に背を向けた。
真っ赤に燃える夕陽を見つめながら、ふと気づく。
私は、ピエロだったのかもしれない、と。
赤く紅を引いたような唇で笑っていた、花京院が忘れられない。彼は心の底から悦んでいた。
本当は、ずっとああなることを待ち望んでいたのではないか。
彼こそが、檻の中から連れ出してくれる王子様を、待っていたのではないか。
そんなふうに思えてならない。
今となっては全てが幻のようで、真実を知る術もなければ、その必要もないことを、知っている。
花京院が消えた日から。
JOJOも、消えてしまった。
少女は軽やかな足取りで家路を辿る。
そうだ、読みかけのミステリ小説が、机の引き出しに仕舞ってあるのだった。帰ったら紅茶を淹れて、大好きなチョコレートを口に含みながら、読んでしまおう。
物語の中で、犯人が誰であるかの目星はついている。どんな動機で、どうやって罪を犯したのか、そのなにもかも。けれどその世界観がとても好きで、結末を知ってしまうのが惜しかった。
だけどそれではいつまでも終われない。最後のページを閉じることで、エンドマークをうつのは読者である、自分自身なのだから。
彼らがただ共に、幸せであればそれでいい。
だからきっと、この物語はハッピーエンドだ。
←戻る ・ Wavebox👏
忙しない呼吸と、苦しげに呻くような声がした。
それは聞きなれたもののように思えるのに、何かが、違うような気もして。
少女はふと、意識を浮上させる。
(あれ……私、どうして……?)
遠くで下校時間を知らせるチャイムが鳴り響いていた。
一体いつの間に眠ってしまったのだろう。こんな時間になるまで、目を覚まさないなんて。
まだ夢の中にいるようなぼんやりとした頭で、幾度か瞬きをしてみる。霞む視界が徐々に鮮明になってくると、そこには自分のスカートと、白い膝小僧が映っていた。
どうやら椅子に座ったまま、がっくりと項垂れた状態で居眠りをしていたようだ。だけど、なぜだろう?
ふと小さく身じろいだのと同時に、違和感を覚えた。瞬間、意識がハッキリと覚醒して、びくんと肩を揺らしながら息を飲んだ。
「ッ!?」
両手首が、椅子の背もたれに括り付けるようにして、きつく縛りつけられていた。両足もそれぞれ前脚部分に縄できっちりと固定されて、まるで身動きが取れない。
(な、なにこれ……なんで私、縛られてるの……!?)
全身が冷水を浴びたように硬直していく。導火線に火がついたみたいに、じわじわと混乱が押し寄せてきた。今にも悲鳴をあげそうになりながら、必死に前後の記憶を手繰り寄せてみる。
そうだ、自分は確か、具合が悪そうにしていた『彼』に付き添って、保健室を訪れていたはず。それがなぜ、四肢を拘束された状態で目を覚ますなんて、ありえない状況に置かれているのだろう?
一人でも平気だよと強がりを言う『彼』に寄り添い、保健室のドアをくぐった辺りから、記憶がぷっつりと途切れている。
「ぅぐ、あッ……! ダメ、だ……これ以上は、本当に……ッ」
またあの声が聞こえて、一気に思考が引き戻される。
知っている。少女はこの声を知っている。やっぱりこれは、『彼』のものだ。
「花京院」
それとは別に、低い男の声が『彼』の名を呼んだ。
少女はごくりと喉を鳴らしながら、ゆっくりと、ゆっくりと俯けていた視線を上げる
目に飛び込んできたものを、最初はまるで認識できなかった。
夕暮れ時の保健室。黒い。黒い、塊。
「てめーの大事なお姫様が、ようやくお目覚めのようだぜ」
窓から差し込む強い夕陽に、視界が眩む。黒い塊はその鮮烈な赤を背負って、そこにいた。
少しずつ目が慣れていくと、塊が二つの人の形を成していることに、気がつく。
全貌が認識できた途端に、少女は青褪めた表情で目を見開いた。
真っ先に、目が合った。
恐ろしいまでに美しく整った顔立ちをした男が、少女を見て笑っている。
凍り付いたように冷たい翡翠が、猫のように、すぅっと細められた。
――JOJO。
あまりにも整いすぎた、彫刻のような美を湛える容姿。教師ですら平伏す豪然たる振る舞い。不良という名のレッテルを欲しいままにする男。
こんなに近くで顔を見たのは、初めてだ。どうしてこの男がここにいるのだろう。それに。
なぜ、『彼』が……?
ベッドの縁に腰かけるJOJOの膝の上には、制服の前をシャツごと引きちぎられて素肌を覗かせる『彼』が……花京院が、座らされていた。その腹にはまるで一度大きな穴でも空けたかのように、歪な傷跡がこびりついている。
花京院はズボンと下着さえも剥ぎ取られ、完全に下肢を曝け出していた。長い両足の先で、靴下と上履きだけがいやに白く、そして寒々しく目に映る。
真っ赤なチェリーのようなピアスが、燃えさかる炎のように煌々と輝き、揺れる。
彼は後ろ手に拘束され、片足をJOJOの腕に引っ掛ける形で股を開かされていた。その身体の中心では、赤く腫れた性器が震えている。なぜか根本が白い布のようなもので縛りつけられているのが見えた。おそらく彼がいつも持ち歩いている、ハンカチ、だと思う。
あまりにも、異様な光景。
「ぁ……」
少女の視線を真正面から受け止めて、花京院はその表情を絶望に青白く染めながら、カタカタと震えだした。声もなく首を振り、身を捩って逃れようとするのを、JOJOの太い腕が許さない。
背けようとしていた顔はもう片方の手に顎を掴まれ、無理やりこちらを向かされる。
「しっかり見せつけてやんな」
「いや、だ……頼む、から……!」
「ッ――!!」
少女は咄嗟に悲鳴を上げようとしたが、それはどういうわけか叶わなかった。
息を吸いこもうとした瞬間、喉に強い圧迫感を覚えたのだ。まるで大きな手に首を一掴みにされているみたいに。ギリギリと締め付けられて、息ができない。
「ぁ、ッ、が……っ!?」
「やめろッ! 彼女には手を出さない約束だろう……ッ!!」
花京院の悲痛な叫びが、ずっとずっと遠くに聞こえる。そのくせJOJOが冷やかに鼻で笑う声だけは、ハッキリと聞こえた気がした。
このままでは死ぬ。死んでしまう。こんなにも死を身近に感じたのは、生まれて初めての経験だ。怖い。怖い。見えない『何か』が、今にも自分を締め殺そうとしている。それがどんなものかは見えないし、感じることもできないけれど、大人しくしていなければ、一瞬でくびり殺すことが出来るのだという警告だけは理解できた気がして、少女は大きく開けていた口をぐっと閉じた。
すると、圧迫感がほんの少しだけ和らいだ。ひゅうっと息を吸い込んだと同時に、思いだしたように全身に冷たい汗が噴き出す。
おかしい。絶対におかしい。得体の知れない恐怖に、全身の血が凍りつく。
「てめー次第だ。わかるな?」
「ッ、この、下衆が……ッ」
耳元で囁いたJOJOに、花京院は憎しみを露わに表情を歪め、気丈にも吐き捨てる。
JOJOはどこか満足そうに笑みを浮かべ、低く唸るような声で笑った。
「……約束だったな。この女が目を覚ましたら、イカせてやるってよ」
「ッ……!?」
息を飲んだのは、少女と花京院、同時だった。
「それとも、もっと焦らされてえのか?」
「いや、だ……いやだ……承太郎、頼む! やめろ……ッ!」
JOJOの大きな手が、容赦なく花京院の張り詰めた性器を扱きはじめた。どれだけ長い時間、こうして嬲られていたのだろう。花京院は苦悶に満ちた表情で、一言だけ「ひ」と短く悲鳴をあげたあと、痛々しいほど強く唇を噛み締める。
少女は、瞬きもせずにただ見つめることしかできなかった。目の前で起こっていることが信じられない。理解できない。頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいか分からなかった。
(これは……なに……?)
どうしてこんなことになっているの?
どうしてJOJOはこんなことをするの?
私は一体、なにを見せられているの……?
どうして、どうして、どうして。
わからない。何もわからない。
ただ今この瞬間、目を覚ましてしまったことを深く、後悔していた。
***
なんとなく。
本当に、ただなんとなく。
キッカケは、互いにほんの些細な気紛れから、だったのだと思う。
花京院典明といえば、転校初日に忽然と姿を消し、そのまま数ヶ月にもおよぶ失踪を遂げていたことで有名な人物だった。
その間どこにいたのか、何をしていたのか、真相を知るものは誰もいない。彼はある日、何事もなかったかのように姿を現し、当たり前のように学校という空間に溶け込んでしまった。
なにか重い病に侵されているのではないか。どこか裏の世界に通じていて、学生としての姿は仮のもの、なのではないか。様々な噂だけが次から次へと生まれては、消えていく。
何か秘密がありそうな、物静かでミステリアスなクラスメイト。
少女にとって、花京院典明は住んでいる世界の違う、遠い存在という認識だった。
そんな花京院と初めて言葉を交わしたのは、放課後の図書室でのことだった。
高い場所にある本が取れず、背伸びをしていたところに頭上から伸びて来た白い手。それが彼のものだった。
爽やかで濁りのない声が「どうぞ」と言って本を差し出してきた瞬間、その少女漫画のような光景に心臓を掴まれるような思いがした。
鮮やかな赤い髪に夕焼け色を吸い込ませ、すみれの花のように澄んだ瞳をして微笑む花京院は、今まで見てきたどんなものよりも、美しく輝いて見えたのを覚えている。
なんとなく。ただ、なんとなく。
それをキッカケに、二人はよく放課後の図書室で顔を合わせては、少しずつ会話をするようになった。
話してみると、彼とは読書を好む以外にも、多くの共通点があった。
好きな音楽や憧れている俳優、応援している野球チーム。女友達と話をするよりも、花京院との会話は驚くほど弾んだ。誰かと一緒にいて、これほど楽しく、そして心が安らぐのを感じたのは初めてだった。
なんの変哲もない平凡な日常は檻のようで、彼なら、きっと自分をここから連れ出してくれる。そんな予感めいたものを、漠然と感じはじめていた。
二人の交流は、いつしか学校の外にまで及んだ。
映画を見に行ったり、喫茶店でお茶を飲んだり、図書館で一緒にテスト勉強をしたり。
花京院はいつも優しくて、格好良くて、紳士的で大人びていて、まるで子供の頃に絵本で見た、王子様のようだった。彼と一緒にいると、まるで自分がお姫様にでもなったような気にさせられて、気がつくと、胸がドキドキと高鳴るようになっていた。
男女の間に友情が芽生えることがあるのかどうか、異性と親しい仲になったことのない少女には、まだ分からなかった。
だけど街を歩けばカップルに見られているだろうし、学校では、あっという間に噂になった。
だからお互い、意識してしまったのかもしれない。下校中、ふと会話が途切れたとき、偶然ふたりの指先が触れ合った。一瞬だけギクリとして、それから、どちらからともなく、手を繋いだ。
友情と判別のつかない、曖昧な関係がそこで終わった。
花京院とは手を繋ぐ以上のことはまだなくて、あくまでも清い関係が続いていた。
自分たちは高校生だし、キスだとか、ましてやその先のことなんてまだ早い。一緒に同じ時間を過ごせるだけで、十分に幸せだと感じられた。
彼は表情や仕草にこそ出さないものの、あまり身体が丈夫ではないようだった。けれどそんな強がりや儚い一面ですら、自分が支えになれたらいいと、そう思っていた。
だけど一つだけ、どうしても気になっていることがあった。
それは主に学校で。花京院の側にいると、ふと視線を感じることがあった。皮膚を刺すようなそれは、少女が辺りを見回すと、一瞬で消えてしまう。
彼に想いを寄せる女子生徒は少なくなかったし、嫉妬されること自体は決して不快なものではなかったけれど、その視線だけは、何かが違うような気がしていた。
多分あれは、嫉妬なんて生易しいものではなくて。
殺意、だったのではないか。
***
悪夢のような光景に硬直しながら、確信する。
あの刺すような感覚。背筋をナイフの切っ先でなぞられるような、深く暗い闇の底から覗き込まれているような、そんな恐ろしく冷たい視線の正体。
空条承太郎。この男に、違いないと。
花京院が失踪したのとまったく同じ時期。彼もまた姿を消し、そして二人同時に復帰したというのは、あまりにも有名は話だった。
彼らが親しげに談笑する姿は、勝手気ままな噂を助長する餌になっている。その光景は、少女も幾度か見かけたことがあった。
JOJOと、花京院。二人の間には他者が踏み込むことのできない、特別な世界があるような気がした。決して触れてはならない、何かが。
それが一体なんなのか、聞いてみたい気持ちはあったけれど、いつか話してくれる日が来たら、それでいいと思っていた。だって自分たちはただの友達ではなく、もっと特別で、深い関係なのだからと。
だけど思いもよらない形で、扉は開かれてしまった。
彼らの世界に、今、自分は異物として縛りつけられている。
初めて恋をした相手が、目の前でただ嬲られる姿を、息を殺して見つめていなければならない現実は、苦痛でしかなかった。
「み、るな」
花京院の唇は、あまりにも強く噛み締めていたせいで血が滲んでいる。その隙間から、彼は何度も苦しげに「見ないでくれ」と切れ切れな声を漏らした。
堰き止められたままの性器は、可哀想なほど赤く腫れている。JOJOの大きな手がそれをねっとりと扱き上げ、親指の腹で先端を擦るたび、彼の白い内腿がビクビクと激しく震えた。
男性の、ましてや勃起した性器を見るのは初めてだった。けれど感覚が麻痺しはじめているせいか、それ自体に不快感はまるでない。ただ、痛々しくて仕方がなかった。
お願いだから、もうやめて。
何度も叫びかけて、その度に不可思議な喉の圧迫感に怯え、口を引き結ぶ。
花京院はJOJOの腕の中で苦しそうに肩を上下させ、全身に汗を噴きだしながら、苦悶の表情を浮かべていた。
なぜこんなことになってしまったのだろう。どんなに考えても答えはでない。だけど彼がこれほどの屈辱に耐え続けているのは、他でもない自分を守るためなのだということだけは、分かる。
どうすることもできない無力感に、少女は大粒の涙が溢れるのを堪え切れなかった。
「だい、じょうぶ……」
そのとき、ずっと顔を背けていた花京院が、真っ直ぐにこちらを見てふと表情を和らげた。笑うと少し幼く見える、あの大きめの唇を震わせながら、ぎこちなく微笑んでいる。
「ぼくは、大丈夫だから……ッ、必ず、助ける、から。巻き込んで、ごめ、ん」
どうして花京院が謝らなくてはならないのだろう。
いつ終わるとも知れない地獄の中にいるのは、彼自身であるはずなのに。少女の目には、JOJOの姿は悪魔にしか見えない。
当の悪魔はバカにしたように鼻で笑って、「泣かせる光景だな」と白々しく吐き捨てた。
花京院が背後の承太郎に向かって、鋭い視線を走らせる。
「もう、いいだろう? ぼくのことは好きにしていい……だから、彼女だけは解放しろ」
「ずいぶんと強がるじゃあねえか。ところで、この女とはもうヤッたのか?」
「バカなことを聞くなッ! 君には、関係ない……ッ」
何が面白いのか、JOJOはくつくつと肩を揺らしながら低く笑った。
だけど目だけは笑っていない。
「てめーがまともに女を抱けるとは思えねえがな」
JOJOは酷く馬鹿にした様子で鼻を鳴らし、腫れあがった性器の先端を指先で乱暴に弾いた。花京院は大きく身体をビクつかせ、堪らず上擦った悲鳴を上げる。
「ひぅッ、ん……ッ!!」
「いつもなら、とっくにイカせてくれってピーピー泣いてる頃だぜ。女みてーによ」
(いつもなら……?)
その部分が、やけに強調されて聞こえた気がした。
JOJOは顔を背けようとする花京院の耳元に唇を押し付け、視線だけはこちらに向けながら目を細めて笑っている。
「花京院」
JOJOは花京院の首筋に音を立ててキスをしながら、嫌でも目立つ変色した腹の傷跡をゆるりと撫でた。
「ぅ、くッ、……んッ」
「辛いだろ? 可哀想にな」
何度も何度も、労わるように。
その優しい手つきとJOJOの伏せられた長い睫毛に、胸が締め付けられたのはなぜだろう。
目を覆いたくなるような、痛々しい傷跡。何があったのかは、分からない。けれどそこに、いつも感じていたあの立ち入ってはいけない『世界』そのものが、隠されているような気がする。
そこは他の部分よりも皮膚に受ける感覚が異なるのだろうか。花京院はJOJOがそっと撫でるたび、ひくひくと敏感に身を震わせていた。
心なしか、頬がうっすらと赤らんでいる。悦い、のかもしれない。
「も、ッ、さわ、るな……ッ」
「つれねえな。あの頃はもっと可愛げがあったぜ」
「うる、さッ、ぁ、ヒッ……!?」
するりと、根本を縛りつけていたハンカチが解かれる。くしゃくしゃになったそれが床に落ちる光景が、いやにゆっくりと目に映った。
花京院はガクンと身を揺らし、目を見開いて首を左右に振る。
「い、やだ……ッ、やめろ、やめ……ッ!!」
「とっとと楽になりてえだろ。我慢しねえでイッちまいな」
激しく身を捩る花京院の抵抗など気にもとめず、JOJOは再びねっとりと勃起した性器を扱きはじめる。そこは先端からだらだらと蜜を溢れさせ、淫らな水音を響かせていた。
花京院は何度も何度も首を振っては拒絶の言葉を口にする。開かされた内腿が小刻みに痙攣して、彼がもうとっくに限界を迎えていることを知らせていた。
血の滲んだ下唇に、さらにきつく歯を立てて、花京院はどうにかして感覚を痛みの方へ逃がそうと、必死に足掻き続けているようだった。
そんなささやかな抵抗にすら、JOJOはお見通しとばかりに笑みを崩さなかった。
「うぁッ……!?」
不意に、花京院の身体がこれまで以上に大きく跳ねた。
腹の傷跡を撫で摩っていたJOJOの手が、彼の身体の奥待った場所に伸ばされ、潜り込んでいるのが見える。
(指、を……?)
中に、捻じ込んだのか。あの太くて、長い指を。
花京院は女性ではない。だから、穴は一つしかないはずだ。
「いっ、痛……ッ、ぁ、じょ、たろ……ッ」
「キツイな。こっちに戻ってからは使ってねえから、当然か」
「そこ、は……やめ……ッ」
「これでも我慢してやってたんだぜ?」
「ッ、承太郎ッ!?」
JOJOは上体を僅かにのけ反らせ、花京院の片足を引っ掻けていた腕を、とくと見ろと言わんばかりにさらに強く持ち上げた。薄紅色をした恥部に、節くれだった太い指が三本も捻じ込まれ、強引に出たり入ったりを繰り返しているのが分かる。
あまりにも惨い。そしておぞましいと思うのに、少女はその小さな穴がいたぶられる光景から、目が離せなかった。心臓が、痛いほど高鳴っている。
JOJOが吐き出す言葉の全ては、自分が花京院と気持ちを通じあわせるずっと以前から、二人が身体の関係を結んでいたことを、明確に物語っている。
失踪していた間に起こった出来事であることは、確かなようだった。
「……漏らしちまったっけな」
中を指で掻きまわし、同時に性器を責めたてながら、おもむろに何かを思いだしたようにJOJOが言う。
痛みから小刻みに震えるばかりだった花京院が、それを聞いてギクリと身を強張らせた。
「覚えてねえか? ありゃ砂漠で野宿してるときだったか……ここに、おれのをブチ込んで」
「おい……なに、を……」
言うつもりだ……?
青褪めていく、花京院の唇。さっきよりもずっと、凍えたように震えだす身体。
彼を見つめるJOJOの瞳が、過去を懐かしむように優しく細められる。
「死ぬほどイカせてやったあとによ」
「やめろ……それ以上言うなッ! 彼女の前で、そんなこと……ッ!」
言わないでくれッ!!
花京院が悲痛な叫びをあげる。
けれど容赦なく開かれたJOJOの唇は、三日月のように美しく歪んでいた。
「しょんべん漏らしてよ。ガキみてぇに泣きじゃくったっけな?」
言うと同時に、JOJOが掴んでいた性器の先端にある窪みを、親指の爪で強く抉る。
花京院の口から、小さく引き攣ったような息が漏れた。
「ぃ、ひッ……――ッ!!」
びゅう、という音と共に、白濁の飛沫があがる。それは花京院の腹や胸に飛び散り、彼自身の肌を汚した。
長いこと堰き止められていた精が止め処なく溢れては震え、その度に花京院の胸がビクビクと跳ねる。JOJOはまるで悪戯が成功した子供のように笑い、舌なめずりをした。
精液で濡れた腹に大きな手の平を這わせ、馴染ませるように幾度も撫でる。
花京院は、絶頂の余韻にヒクつきながら、力なくがっくりと項垂れてしまった。やがて、その肩が小刻みに震えだす。
「……ッく、ぅ……どう、して……」
顔は見えないけれど。ぼろぼろと、雫が落ちては濡れた肌に吸い込まれていく。
「そんなこと、どうして、ここで……! なん、で、こんな、こと……ッ」
彼は小さくしゃくりを上げながら、ついに泣きだしてしまった。
少女はただただ、その憐れな姿を瞬きも忘れて凝視する。
いつも優しくて、大きな存在だった。紳士的で大人びた、王子様のように上品で格好いい、完璧な恋人。それが少女にとっての花京院だったし、彼もまた、そんな自分でありたかったに違いない。
だけどギリギリのところで保たれていたであろう彼のプライドは、恥かしい秘密をバラされながら達してしまったことで、いよいよ粉々に砕かれてしまった。
最後に残ったのは、自分より大きな相手に苛められて、めそめそと泣きじゃくるばかりの、小さな子供のような姿だった。
(なんて、ひどい……)
可哀想な花京院。
こんなことになるくらいなら、あの日、手なんか繋がなければよかったのだろうか。ただの友達でいれば。それすらも、JOJOは許さなかったのかもしれないけれど。
少女は気がついてしまった。いや、もしかしたら、ここで目を覚まして二人の姿を認識した瞬間には、すでに理解していたのかもしれない。
これは、見せしめだと。
花京院は、JOJOのものだったのだ。
本人にそのつもりはなかったのかもしれない。彼はきっとJOJOを大切な友達だと、そう思っていたのではないか。
だけどJOJOは違った。自分が抱いていた淡い恋心など、遥かにしのぐ執着をもってして、狂ったように、花京院を。
「なぜ……? やれやれ、それをてめーが聞くのか」
「うぁッ!!」
唐突に、JOJOが花京院の背を乱暴に突き飛ばした。
後ろ手に拘束されたままの彼は、顎や胸を打ち付けながら床に崩れ落ちる。少女の、足元に。
尻を高く突きだすという不様な格好を見下ろし、少女はごくりと喉を鳴らした。
多分きっと、ここからが本番だ。花京院は傷ついて、こんなにもボロボロになっているというのに。まだ、終わらない。
JOJOはベッドの縁から腰を上げると立ち上がり、自らの前を寛げながら花京院の背後に膝をつく。
姿を現したJOJOの性器は、赤黒く脈を浮き立たせながら勃起している。花京院のものとは、比べものにならないくらいリアルで、そして、あまりにも大きい。目の前で黒々とした男性器を見せつけられていることに、今更ショックを受けている自分が、少し可笑しかった。
「や、だ……やだ、嫌だ……それだけは……ッ」
酷く怯えながら逃れようとする腰を、JOJOの手が掴む。
そして、もう片方の手は自身を掴み、幾度か扱く動作を見せた。
(挿れるんだ……)
あんなものが、あそこに、入るのだろうか。あんな小さな場所に。そうしたら、花京院はどうなってしまうのだろう。
心臓が口から出そうだ。ばくばくと、大きく跳ねている。
怖いから? 見たくないから? 違う。多分、違う。瞬きが、できない。
「笑っちまうぜ」
「ぁ、や……ッ、じょ、たろ……?」
「なぁ、花京院」
白く引き締まった谷間に、JOJOが性器の先端を押し当てるのが分かる。そして次の瞬間、ぐっと腰を押し込んだ。
「や、やめ、や、ぁ゛ッ……――!?」
激痛に背を反らし、血の滲んだ唇を大きく開いた花京院の顔が、見下ろした先にある。彼は全身を引き攣らせ、見開いた菫色の瞳から大粒の涙を撒き散らしていた。
その衝撃と、苦痛をありありと滲ませた表情に、少女は背筋にゾクリとしたものが走るのを感じて、喉を鳴らす。
「ッ、ひぐ、ぅ、ッ……た、ぃッ……痛い、ッ、じょ、た、ろ……ッ!」
「流石に裂けちまったな。血が出てる」
JOJOの男根が、小さく引き締まった尻の谷間にずぶずぶと潜り込んでいく。
あんな大きなものをまともに慣らさないで挿れられたら、ひとたまりもないだろう。女性ですら、きっと耐えられない。
花京院は口の端から唾液を漏らし、歯の根をカタカタと鳴らしながら、痛い、痛いと悲痛な声をあげ続けていた。
「うぅッ、ぅ……やだ、いやだ……痛い、こんなの、やだ、ぁ……ッ!!」
「はっ、そう言うなよ。何度もこうやって愛し合った仲じゃあねえか」
「ちが、ぅ……ッ! 違う、だって、だってあのときは、お互い処理をしてただけで……ッ、君もぼくも、ちょっとおかしくなっていただけじゃあないかッ!!」
「……黙んな」
ばつん、という肌と肌がぶつかる音がして、JOJOが最奥まで性器を打ち込んだのが、わかる。
「あッ、が……ッ!!」
まともに悲鳴もあげられないほどの衝撃。
JOJOは息をつく間もなく、強張ったままの身体を揺さぶりはじめる。
何度も何度も、あの肌がぶつかる音がして、その度に舌を噛むのではないかと思うほど、ガクガクと花京院の身体が揺れていた。
まさにレイプと呼ぶに相応しい、酷い、光景。だけど。
「ひっ、んんッ、あッ、は、ッ……はぁッ、んッ!」
苦痛に呻くだけだった声に、なにか、違う色が混じりはじめていることに、少女は気づいた。
裂けてしまったことで滲む血が、潤滑油の代わりにでもなっているのだろうか。鈍い水音が、二人の荒々しい呼吸に混じり合っていく。
「慣れてきたか」
「あ、うぅッ、ぅ……や、だ……じょお、たろ、ッ、やだ、ぁ……ッ!」
「ちょっぴり痛いほうが、てめーはよく鳴くんだったな」
「ひぃッ、あ、あぁッ……!!」
突き上げる動きはそのままに、JOJOが拘束された腕を掴み上げる。そのままぐんと引き上げると、繋がり合ったまま花京院の身体が膝立ちの体勢になった。花京院の内腿には、ほんのりと血の混じった液体が伝っている。
ふるん、ふるん、と揺さぶられる度に赤く膨らんだ性器が揺れていた。それはもはや腹につくほど反り返り、力を取り戻している。奥を突かれる度、揺れる性器の先端からは先走りの蜜が飛び散り、床にシミを作り上げていた。
感じている、ということだ。花京院は、男に犯されて、感じている。
「や、だ……あッ、こんな、かっこ、アッ、くぅ、ん……ッ!」
目を逸らすことすらせず、少女はただ放心したようにそのぶつかり合う肉の音と、水音を聞いている。自分の心が、どこかに切り離されて遠くにあるような気がしていた。
そうやって押しやったのは理性だとか、常識だとか、人として必要なもの、だったのだと思う。
多分、それは花京院も同じだった。
顔を上げた花京院と、一瞬、目が合った。
どろりと濁っていく瞳に、あの日、夕焼けを吸い込んで輝いていたすみれ色の輝きはない。
圧倒的な支配と、屈辱と、羞恥。そして快楽。彼はそれらに蝕まれ、いま完全に堕ちようとしている。
「あれがただの性欲処理だと?」
薄笑いを浮かべるばかりだったはずのJOJOの顔が、僅かに歪んだ。
少女の中で、そこの知れない恐ろしい悪魔というイメージが、ゆっくりと崩れ落ちていく。
「花京院、おれはな。あの旅で、てめーの全てを手に入れたと……そう思ってたんだぜ」
大切なオモチャを取り上げられて、癇癪を起す寸前の子供のようだ。ゾッとするほど冷たく見えた翡翠がうっすらと潤んで、今にも零れ落ちそうに見える。
彼らの『旅』が、どんなものであったのかなんて、きっと自分は生涯、知る由もない。
だから。
「それが戻って来た途端、勝手に女なんか作っていやがった」
(……やめて)
お願いだから。
(私を、あなたたちの『世界』の登場人物にしないで)
ほう、と。
少女は頬を赤らめて、熱っぽい吐息を漏らしていた。
理不尽に責めたてられ、凌辱の限りを尽くされる、惨めで非力で、可哀想な王子様。それでも快楽に抗えず、逃げ道にしてしまった、淫らな王子様。
JOJOのあまりにも我儘で、強引な愛が、彼を壊してしまった。もはや何も映さない瞳で嬌声をあげながら揺さぶられる、その姿を。
とても、美しいと思った。
そこにはもう少女が憧れた姿はないけれど、どうしてか、今はひどく気分が高揚している。
だって、こんなにも素晴らしいショーを、真正面の特等席で見ることができているのだから。
同じ空間で、同じ熱を体感しながら、演者と観客の間には決して越えられない壁がある。舞台の上は、異世界でなくてはならないのだ。届かないからこそ永遠に憧れ続ける、それでこそ、素晴らしい。
気がつけば、喉に感じていた圧迫感が消えていた。
許されたような。そんな、気がする。
「てめーをこんな風に雌にしてやったのは誰だ?」
「んんッ、あッ……だ、め……ッ! これ、すご、い、気持ち、い……ッ!!」
「答えな花京院。おまえは」
――誰のものだ?
花京院の口元に、うっすらと、歪むような笑みが浮かんだ。ゾクリとする。なんて、笑い方。
滲む血液で赤く紅を引いたようにも見える唇が、酷く甘えたような声で、じょうたろう、と呼んだ。
「じょ、たろ……ッ、んあっ、あッ、じょぉ、たろう、です……ッ!」
そこにあるのは、ただの『雌』の顔だ。
「ぼくは、承太郎のッ、もの、ですッ……じょ、たろの、これ、ずっと……欲しかったッ!」
「……上出来だ」
JOJOが微笑む。掴んでいた両腕をさらに引き寄せ、首を捩じった花京院に求められるまま、深い口付けを交わす。赤い舌が絡み合い、角度を変えながら貪り合う。どちらのものともつかない唾液が、銀色に輝きながら伝い落ちていく。
JOJOの動きに合わせて、花京院も懸命に腰を揺らしていた。快楽だけを、ただあるがままに追いかける彼らは、美しく卑しい、獣のようだった。
「はぁ、アッ、いッく、イク! ぼく、もう……ッ!」
「いいぜ。どうしてほしい?」
「出して、ナカにッ、承太郎の、いっぱい、ぼくに……くださ、ッ、い……っ!!」
JOJOがより一層、大きく花京院を突き上げる。あ、という形に口を開いたまま、花京院はクジラが潮を噴くように激しく吐精した。弧を描きながら噴きだすそれが床を汚し、少女の上履きの先も、少しだけ、汚す。
びくん、びくん、と身を震わせる花京院の背後では、JOJOが低く唸って腰を僅かに震わせている。
「で、てる……ぁ、はッ、じょ、たろ……いっぱ、い……」
「はッ、かきょう、いん……!」
うっすらと笑みを浮かべたまま、花京院の身体が前のめりに崩れ落ちた。
JOJOもまた腰を屈め、小さく痙攣を繰り返す花京院の耳元に唇を押し付ける。何か囁いたようだが、あまりにも小さな声は、少女の耳には届かなかった。
(終わった……)
とても名残惜しい気分で、ぴくりとも動かなくなってしまった花京院を見下ろす。
頭の中がぼうっとして、熱に浮かされたように何も考えられない。
するりと、縄が解けて身体が自由になった。JOJOでもない。花京院でもない。あの得体のしれない何かが、少女の拘束を解いたのだ。
結局、それが何かは最後まで、分からなかったけれど、それで、いいのだと感じる。
「悪かったな」
伏せている花京院を抱き起こし、腕の中に収めながらJOJOが言う。その瞳からナイフのように尖ったものは消え失せていた。
「こういうわけだ。他にもっとまともな王子様でも探しな」
JOJOの口元に、ほんのりと笑みが浮かぶのを見て、少女もふわりと微笑んだ。まるで共犯者にでも、なったような気分だった。
少し痺れている足で、椅子から立ち上がる。
「ありがとう。とても素敵なショーだったわ」
***
あれから、学校で花京院の姿を見ることはなかった。
時が経つにつれ、あの保健室での出来事は本当は夢だったのではないかと、そんな風に思えてくる。
新しい王子様が見つかる気配はないけれど、当分は、そんな気になれそうもなかった。
花京院と出会う前の、ありふれた日常。その中を淡々と生きながら、放課後のチャイムをバックに一人夕焼け空を見ていると、時々、あのときの光景が鮮明に蘇る。
夢、だったのかもしれない。多分、そういうことにしておかなくてはいけない。
だけどどうしても、もう一度だけ、あの時の光景に触れてみたいと。そんな気もして。
だから、花京院の家を訪ねた。
クラスメイト思いの生徒を装って、学校帰りに彼の家の呼び鈴を鳴らす。
姿を現したのは、少しやつれた様子の綺麗な女の人だった。瞳の色も、赤い髪も、彼によく、似ていた。
「息子は身体の具合が悪くて、遠くの施設で療養しているの」
彼女は痩せた目元に暗い影を落としながら、力なくそう言った。
それ以上は何も聞くことができず、ただ「お大事に」という当たり障りない言葉だけを述べて、彼の家に背を向けた。
真っ赤に燃える夕陽を見つめながら、ふと気づく。
私は、ピエロだったのかもしれない、と。
赤く紅を引いたような唇で笑っていた、花京院が忘れられない。彼は心の底から悦んでいた。
本当は、ずっとああなることを待ち望んでいたのではないか。
彼こそが、檻の中から連れ出してくれる王子様を、待っていたのではないか。
そんなふうに思えてならない。
今となっては全てが幻のようで、真実を知る術もなければ、その必要もないことを、知っている。
花京院が消えた日から。
JOJOも、消えてしまった。
少女は軽やかな足取りで家路を辿る。
そうだ、読みかけのミステリ小説が、机の引き出しに仕舞ってあるのだった。帰ったら紅茶を淹れて、大好きなチョコレートを口に含みながら、読んでしまおう。
物語の中で、犯人が誰であるかの目星はついている。どんな動機で、どうやって罪を犯したのか、そのなにもかも。けれどその世界観がとても好きで、結末を知ってしまうのが惜しかった。
だけどそれではいつまでも終われない。最後のページを閉じることで、エンドマークをうつのは読者である、自分自身なのだから。
彼らがただ共に、幸せであればそれでいい。
だからきっと、この物語はハッピーエンドだ。
←戻る ・ Wavebox👏
「なぁ、それそんなに面白いか?」
黒鋼は実のところ暇を持て余していた。二人だけの秘密基地。ぽっかりと開いたその空間には、もう長いことずっと沈黙が流れ続けていた。
黒鋼の隣で、ファイは半ズボンから剥き出しになった素足を投げ出して、ただひたすら古ぼけた絵本を熱心に眺めている。あまりにも夢中な様に少しだけ面食らって、そして少しだけつまらないなと感じていた。
二人の周りには漫画本だってお菓子だってたくさんあるのに、ファイはそれに見向きもしないのだ。絵本を夢中で眺めて、時々「わぁ」とか「きゃあ」とかいう小さな悲鳴を上げていた。
「うん、これ、好きー」
「ガキのお古なんだぜ」
「うん、キレイだねー」
「そうか……?」
二人きりの秘密基地に、ファイと黒鋼はそれぞれ宝物を持ち込もうと約束をした。
黒鋼はどうしようかと悩みぬいた末に、結局は好きな漫画本とスナック菓子と、それからなんとなく、気紛れで絵本を数冊持ち込んだ。
その古びた絵本は黒鋼が幼い頃に読んでいたもので、他の新しいものを買い与えられた知世が、今ではすっかり飽きて見向きもしなくなり、物置に仕舞われていたものだった。
ファイは絵を描くのが好きだったから、もしかしたら興味があるかもしれないと思った。というよりは、黒鋼はファイをクラスメイトというよりは、知世と同じくまだ小さな子供なのだと思っていたから、きっと好きだろうなと、何の違和感もなくリュックに詰め込んだのである。
絵本は本当に古くて、所々ボロボロにささくれ立っていた。ずっと昔、もっと新しかった頃はページだって美しかったかもしれないが、今は煤けたように変色して、少し黴臭い。そんなもののどこが綺麗だと言うのか。
ファイの言うことはいつもズレているし、突然会話の流れが山の天気のようにガラリと変わってしまうことがある。突拍子もないように思えて、本人の中ではちゃんと筋が通っているらしいけれど。
「ボロボロじゃねぇか」
「キラキラだよー」
「どこが?」
呆れたように呟くと、ファイはようやく絵本から顔を上げて黒鋼を見た。その表情があまりにもポカンとして間抜けなものだったので、黒鋼はまるで自分の方がチンプンカンプンなことを言っているような気になってしまう。
「な、なんだよ」
「だってキラキラなのに」
「わかんねぇなぁ……」
「だって、だってねー、これは黒ぽんのタカラモノなんだよー」
「それは……」
そんな上等なものではない。ただファイが喜ぶと思って持ってきただけだったし、漫画本だってスナック菓子だって同じだ。
本当は宝物なんて言って誇れるものなど何ひとつ持っていなかったから、なんとなく掻き集めて来たものばかりで。
「タカラモノはね、キラキラなんだよー」
「……そうかよ」
再び絵本に夢中になった、ファイの横顔を見つめる。キラキラに光っているのだとすれば、それはファイの方だ。差し込む陽の光を受けて、金色の髪が輝いている。その色は、母が大切に鏡台の引き出しにしまっている、べっ甲細工の髪飾りを思い出させた。
『これはね、お父さんが初めてくれた贈り物なの』
そう言って髪飾りを見せてくれた母は、黒鋼の知らない女の顔をしていた。懐かしそうにそれを撫でて、愛おしそうな眼差しをして。幸せそうなその表情に、黒鋼はなぜか酷く落ち着かない気持ちになった。照れ臭いような、恥ずかしいような、むずむずとした感覚。
母を綺麗だと思い、父に焦燥を覚えた、初めての瞬間。
もっと見ていたいような、もっと知りたいような、それでいて早く過ぎてほしいとも感じていた、あのひととき。ファイの金色は、そんな甘いような酸っぱいような、不思議な感情を思い出させた。どうしてか無性に、柔らかくてふわふわとしていて、綺麗なこの髪に触れたいと思った。
母の大切なあの髪飾りには、どうしてか手を伸ばすことが出来なかったけれど。今は、触れたい。そっと手を伸ばして、少し戸惑いがちに緩く撫でた。
ファイが顔を上げて、丸い目を瞬かせる。
「どうしてなでるのー?」
「……嫌かよ」
口元をひん曲げて、照れ臭さを隠しもせず、ぶっきらぼうに問うてみる。
なぜかなんて、黒鋼にだって分からない。ただキラキラしていて、綺麗だったから。思えば妹の頭だって撫でたことなどないし、されたことはあっても、するのはこれが初めてだった。
どうにも尻の座りが悪い気分になって、黒鋼はおずおずと手を引っ込めた。ファイはぽっかりと口を開けたまま、その手の動きを目で追いかけている。それから、ふんわりと微笑んだ。
「ヤじゃないよ」
「そうか」
「オレ、おばあちゃん大好きだもん」
「なんの話だよ」
俺はおまえのおばあちゃんじゃねぇよと吐き捨てながら、今更のように胸が高鳴っていた。一体なにをしているのかと、自分に呆れもする。
俯いてむっつりしていると、今度はファイの手が伸びてきて驚いた。
「な、なんだよ」
「いやかよー」
黒鋼の口真似をして笑うファイの白くて小さな手に、黒くてツンツンの頭を撫でられる。
「おかえしだよ、黒たん」
「やめろバカ。あと、その変な呼び方もやめろ」
するよりもされる方が、なんだか子供扱いされている気がして酷く照れ臭かった。頭をブルブル振るとファイが幼く甲高い声で笑う。
同じだ。
今のこの瞬間がとても大切なのに、早く過ぎればいいと感じている。どうしたらいいのか、分からなくなってしまうから。
「おまえこそ、持ってきたのかよ。宝物ってやつ」
だから誤魔化すように慌てて聞いた。ファイは「あっ」と声を上げると、ポケットの中をゴソゴソと探り出す。そして出てきたものを手渡されて、素直に受け取った。
「おい……」
手の平に乗せられた、小さくて透明なビニールの包みは薄荷の飴玉だ。呆れたような目で見ると、ファイはニコニコ顔で包みを開けて、それを口に放り込んでしまった。ぎゅうと目を閉じて、身を震わせながら「スースーするー」と言っている。
「これがおまえの宝物なのか?」
仕方なく黒鋼も包みを開けるとその飴を口に放る。甘みと一緒に独特の苦味とスースーとした感覚が口いっぱいに広がって、やっぱり苦手だと感じた。ファイは嬉しそうに元気よく頷いた。
「だってオレ、おばあちゃん大好きなんだもん!」
「わかったよ……ったく」
ファイのおばあちゃん、とやらが持たせてくれたものなのだろう。一切の説明を省いて言いたい部分だけを言うのはファイの癖だ。それにもだんだん慣れてきたような気がする。
(ばあちゃん、か)
彼はこれまでも、会話の中によく「おばあちゃん」という単語をだしていた。よほど懐いているようで、ファイがおばあちゃん子であることが知れる。
「あのね、それにね」
――オレのタカラモノ、ここにあるからいいの。
「ッ!」
細められた青い瞳が、蕩けて零れ落ちそうに見えて、息をのんだ。彼の言葉は、この場所を指しているのだろうか。大切な秘密基地だから。ふたりの宝物だから。
それとも――。
不思議な言動にはすっかり慣れてきた、というのは、ただの勘違いだったのかもしれない。どうやらまだまだ、修行が足りないらしかった。
だけど感じる、あの尻の座りの悪い感じに、やけに頬が熱くて仕方が無かった。
薄荷の香りを纏いながら、幼い笑顔を見つめて。
今ならこのスースーとした苦味も、甘味も、好きになれそうな気がしていた。
←戻る ・ 次へ→