2025年6月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
09
毎週のように物の怪喫茶に通っているうちに、気づけば一ヶ月近くが過ぎていた。季節は夏の名残を存分に残しながらも、少しずつ秋の気配を見せている。
操は相変わらず快適な人里ライフを満喫していたが、同時に焦れったさも感じていた。まだそれほど回数を重ねたわけではないけれど、これだけせっせと通っているのに、あれ以来まだ一度も甲洋の笑った顔が見れていないからだ。
それどころか、いつ行っても繁盛しているせいでゆっくり話もできないし、あまり構ってもらえない。操の不満は募るばかりだった。
そんなある日のこと。
夕方、容子がいつもより少し早めに帰宅した。その隣には甲洋もいて、彼は百合の花束と焼き菓子の袋を持参していた。
「なんでお母さんと君が一緒に帰ってくるの!?」
玄関で出迎えた操が驚いて声をあげると、なにも答えない甲洋の代わりに容子が教えてくれた。
「すぐそこでバッタリ会ったのよ。今日は翔子の月命日でね、甲洋くんは毎月お線香を上げに来てくれるの」
「つきめいにちってなに?」
「亡くなった日と、毎月同じ日にちのことをそう言うのよ。故人を想って、お花やお菓子をお供えするの」
「ふぅん。よく分かんないけど、ずっと忘れないってこと?」
そうねと言って容子が笑う。
「じゃあ甲洋は毎月ここに来てるんだ」
「先月も来てくれたわよ。あなたが来る、ほんの数日前にね」
「そうなんだ」
つくづく人間には変わった風習があるものだ。里で仲間のタヌキが死んだとしても、操はいちいち日にちを覚えていたりなんかしない。死んだら他の生き物に食われるか、土に還って命が巡る。それ以上でもそれ以下でもない。
けれど人間はわざわざ墓を建て、花を供えて写真を飾り、線香を上げて手を合わせる。生きている限り、ずっとそれを続けていくのだ。不思議だけれど、もし自分が翔子の立場だったら、きっと嬉しいに違いない。
容子がお茶を淹れているあいだ、甲洋は和室で翔子の仏壇に線香を上げ、手を合わせていた。
操もその横にちょこんと座り、彼の真似をして手を合わせた。ちらりと横目で見ると、甲洋はずっと手を合わせたまま目を閉じている。
彼は今どんなことを思っているんだろう。甲洋と翔子。きっと大切な友達だったのだ。小さな頃から、ずっと一緒の。なぜかふと、美羽に会いたくなってきた。
「ねぇ、翔子ってどんな子だったの? 仲良しだったんでしょ?」
するといつの間にか姿を現し、甲洋に寄り添っていたショコラが『ガウッ』と鋭い唸りをあげた。
「ひぇっ!? な、なんで怒るのぉ!?」
お前には関係ないとでも言われているようで、操は怯えながらも不満を覚える。
「甲洋くんはね、いつも翔子を気にかけてくれていたのよ」
そこに容子がお茶を運んでやってきた。膝を折るといったんお盆を置き、操と甲洋の分をそれぞれテーブルの上に置く。
「翔子もいろいろと不思議なものが視える子だったし、甲洋くんもそうなんでしょう? だから話が合ったのね、きっと」
「ふーん……」
目には見えないものが視える同士、理解しあっていたということか。
だったらそう言えばいいのにと、ついモヤモヤしてしまう。操の問いかけに答えてくれたのはショコラ──怒られただけだけど──と容子だけで、甲洋はいつにもまして喋らない。
(なんだよ。ぼくとは話してくれないんだ。つまんないの!)
会えるのは週に一度、物の怪喫茶の営業日だけ。だけど今日はわざわざ甲洋の方から来てくれて──操に会いに来たわけではないけど──せっかく同じ空間にいるはずなのに、彼はこちらを見向きもしない。
ただ静かに仏壇を見つめ続けているだけだ。そこに翔子はいないのに、まるでいつまでも対話しているかのように。
(ちぇ……ほんと、つまんない……)
その横顔からは、いつもよりさらに感情が読み取れなかった。なによりも見たいと思っているはずの笑顔から、彼はずっと遠い場所にいる。
いっそう気持ちをモヤつかせて、操はぶぅっと唇を尖らせた。
*
「ねぇ、ほんとにもう帰っちゃうの!?」
お茶を飲み終えるとすぐに帰っていこうとする甲洋を、操は玄関先まで追いかけた。靴を履き終えた彼の右手首を、両手でぎゅっと掴んで引き止める。
「……帰るけど、なに?」
「早くない? せっかく来たのにさ。ぜんぜん話せてないじゃん!」
「話すって、なにを?」
「いろいろだよ! ぼくとお話しようよ!」
「だから、なにを?」
表情は乏しいが、その声色にはかすかな困惑が滲んでいる。
操はどうにかして彼を引き止めたかった。客が多い店とは違い、ここならゆっくり話すことができる。つまりもう少し一緒にいたいということなのだが、それを言ったところで、この男のことだから「どうして?」と首を傾げるだけだろう。
「あ、あのね! あの、えっと……そうだ、ぼくね、料理の練習してるんだよ。お母さんにいろいろ教えてもらって……」
なにか彼の興味を引きそうな話題はないかと考え、だけどそれが分からなかった。だからひとまず、自分の近況をひねり出してみた。
すると意外にも、彼は少しだけ目を見開いて「へぇ」という声を漏らした。
「凄いな。タヌキなのに」
「でしょ? ホットケーキも上手に焼けるよ。あとね、ジャガイモとかニンジンの皮むきもできるし、あとは、えっと……お味噌汁! お味噌汁ってね、沸騰する前に火を止めるんだよ! 知ってた?」
「……うん、知らなかった」
「えへへー! ぼくって偉いでしょ! タヌキなのにさ!」
「ふっ」
「!」
あきらかに軽く吹きだしかけた甲洋だったが、彼はすんでのところで空いている左手を口元にやり、コホンと軽く咳払いをして表情を取り繕った。
笑いたいなら笑えばいいのに、彼はなぜかそれをしたがらない。疑問を抱きながらも、あとちょっとだったのにと悔しく思った。
「……手」
掴まれている右手首をじっと見下ろし、甲洋がポツリと言った。
「離してもらっていい?」
「え? あっ、うん!」
今の今まで、操はずっと甲洋の右手首を掴みっぱなしだった。急に恥ずかしいような気になって、頬を赤らめながら手を離す。
上目遣いでモジモジと甲洋を見ると、彼は軽く顔を背けていた。いつもは血色の悪い頬が、心なしかうっすら赤くなっているように見える。
開放された右手をポケットに突っ込んで、甲洋はなにかを逃がすようにふっと息を漏らした。
「それじゃ、これで」
「ま、待って! じゃあぼく、途中まで送っていくよ!」
とっさに出た言葉だが、これは名案だと思った。引き止めるのが無理なら、一緒にくっついて行けばいいのだ。けれど操の耳としっぽに目をやった甲洋に、「その格好で?」と言われてハッとする。
「そうだったぁ……」
いくらか日は短くなったが、外はまだ明るい。この姿では人目についてしまうだろう。どうせおかしな変装をしているとしか思われないだろうが、総士からも注意するように言われている。
(ぼくも総士みたいに、上手に変身できたらよかったのにな……)
操は耳としっぽをしょぼんとさせてうつむいた。これさえなければ散歩気分でついて行けたはずだし、昼間に店へ遊びに行くことだってできるのに。
歯がゆく思いながらも、今日は諦めるしかなさそうだった。
「なにか俺に用でもあるの?」
「用っていうか……」
ただ一緒にいたいだけだ。それだけじゃ駄目なのだろうか。自分自身でも理解できていない感情を、言語化するのは難しい。どうしてこんなに彼のことが気になるんだろう。たいして会話も弾まない相手と、どうして一緒にいたいんだろう。容子への気持ちとはどこか違う。甲洋だけ、なにが特別なのか分からない。
「……今夜」
そのとき、玄関のドアノブに手をかけながら甲洋が口を開いた。
「え?」
「来れば?」
操はキョトンとしながら目をパチパチとさせた。
「いいの? 今日は金曜じゃないのに?」
「飲み物くらいしか出せないけど。それでよければ」
「い、行く! ぜったい行く!」
すかさず応じると、甲洋の目元がほんのかすかに和らいだように見えた。
「わかった。なら、開けておくよ」
甲洋が帰っていくと、操は思わずピョンと飛び跳ねて万歳をした。
「やったー! 今夜もまた会えるんだ!」
彼があんなことを言いだすなんて、思ってもみなかった。嬉しくて、操はスキップするような軽やかさでリビングに戻っていった。
「あら、なにかいいことでもあったの?」
夕飯の支度をするためにキッチンに立った容子が、エプロンの紐を結びながら問いかけてきた。ご機嫌な操はニコニコ顔で「なんでもないよ」と首を振る。
「甲洋くんは?」
「帰ったよ。ちゃんとお見送りしといたからね!」
「ありがとう、操」
「うん! あ、ねぇそれよりお母さん、今夜のお味噌汁はぼくが作ってもいい?」
「ええ、いいわよ。助かるわ」
「任せといてよ!」
ドン、と拳で胸を叩いた操は張り切って腕をまくり、流しで手を洗う。そしてふと、気がついた。
(あ、そっか。ご飯食べてってもらえばよかったんだ)
無理にあーだこーだとゴネてしまったが、夕飯に誘うという手があった。それならもっとすんなり引き止めることができたのかもしれない。
だけどそのおかげ──かどうかは分からないが、営業日でもないのに店にお呼ばれしたのだから、まぁいっかと操は思う。
(今度はそう言ってみようかな。来月もまた来るはずだし)
次に誘う理由が見つかって、操はウキウキと胸を踊らせた。
味噌汁はまだ容子のように美味しくは作れない。でも一ヶ月もあれば、きっと今より上手になっているはずだ。他にももっといろいろ作れるようになっておけば、甲洋はさぞかし驚くだろう。
(ぼく、今度こそ天才になれるかも!)
大きな目標ができて、操はますます張り切った。
←戻る ・ 次へ→
毎週のように物の怪喫茶に通っているうちに、気づけば一ヶ月近くが過ぎていた。季節は夏の名残を存分に残しながらも、少しずつ秋の気配を見せている。
操は相変わらず快適な人里ライフを満喫していたが、同時に焦れったさも感じていた。まだそれほど回数を重ねたわけではないけれど、これだけせっせと通っているのに、あれ以来まだ一度も甲洋の笑った顔が見れていないからだ。
それどころか、いつ行っても繁盛しているせいでゆっくり話もできないし、あまり構ってもらえない。操の不満は募るばかりだった。
そんなある日のこと。
夕方、容子がいつもより少し早めに帰宅した。その隣には甲洋もいて、彼は百合の花束と焼き菓子の袋を持参していた。
「なんでお母さんと君が一緒に帰ってくるの!?」
玄関で出迎えた操が驚いて声をあげると、なにも答えない甲洋の代わりに容子が教えてくれた。
「すぐそこでバッタリ会ったのよ。今日は翔子の月命日でね、甲洋くんは毎月お線香を上げに来てくれるの」
「つきめいにちってなに?」
「亡くなった日と、毎月同じ日にちのことをそう言うのよ。故人を想って、お花やお菓子をお供えするの」
「ふぅん。よく分かんないけど、ずっと忘れないってこと?」
そうねと言って容子が笑う。
「じゃあ甲洋は毎月ここに来てるんだ」
「先月も来てくれたわよ。あなたが来る、ほんの数日前にね」
「そうなんだ」
つくづく人間には変わった風習があるものだ。里で仲間のタヌキが死んだとしても、操はいちいち日にちを覚えていたりなんかしない。死んだら他の生き物に食われるか、土に還って命が巡る。それ以上でもそれ以下でもない。
けれど人間はわざわざ墓を建て、花を供えて写真を飾り、線香を上げて手を合わせる。生きている限り、ずっとそれを続けていくのだ。不思議だけれど、もし自分が翔子の立場だったら、きっと嬉しいに違いない。
容子がお茶を淹れているあいだ、甲洋は和室で翔子の仏壇に線香を上げ、手を合わせていた。
操もその横にちょこんと座り、彼の真似をして手を合わせた。ちらりと横目で見ると、甲洋はずっと手を合わせたまま目を閉じている。
彼は今どんなことを思っているんだろう。甲洋と翔子。きっと大切な友達だったのだ。小さな頃から、ずっと一緒の。なぜかふと、美羽に会いたくなってきた。
「ねぇ、翔子ってどんな子だったの? 仲良しだったんでしょ?」
するといつの間にか姿を現し、甲洋に寄り添っていたショコラが『ガウッ』と鋭い唸りをあげた。
「ひぇっ!? な、なんで怒るのぉ!?」
お前には関係ないとでも言われているようで、操は怯えながらも不満を覚える。
「甲洋くんはね、いつも翔子を気にかけてくれていたのよ」
そこに容子がお茶を運んでやってきた。膝を折るといったんお盆を置き、操と甲洋の分をそれぞれテーブルの上に置く。
「翔子もいろいろと不思議なものが視える子だったし、甲洋くんもそうなんでしょう? だから話が合ったのね、きっと」
「ふーん……」
目には見えないものが視える同士、理解しあっていたということか。
だったらそう言えばいいのにと、ついモヤモヤしてしまう。操の問いかけに答えてくれたのはショコラ──怒られただけだけど──と容子だけで、甲洋はいつにもまして喋らない。
(なんだよ。ぼくとは話してくれないんだ。つまんないの!)
会えるのは週に一度、物の怪喫茶の営業日だけ。だけど今日はわざわざ甲洋の方から来てくれて──操に会いに来たわけではないけど──せっかく同じ空間にいるはずなのに、彼はこちらを見向きもしない。
ただ静かに仏壇を見つめ続けているだけだ。そこに翔子はいないのに、まるでいつまでも対話しているかのように。
(ちぇ……ほんと、つまんない……)
その横顔からは、いつもよりさらに感情が読み取れなかった。なによりも見たいと思っているはずの笑顔から、彼はずっと遠い場所にいる。
いっそう気持ちをモヤつかせて、操はぶぅっと唇を尖らせた。
*
「ねぇ、ほんとにもう帰っちゃうの!?」
お茶を飲み終えるとすぐに帰っていこうとする甲洋を、操は玄関先まで追いかけた。靴を履き終えた彼の右手首を、両手でぎゅっと掴んで引き止める。
「……帰るけど、なに?」
「早くない? せっかく来たのにさ。ぜんぜん話せてないじゃん!」
「話すって、なにを?」
「いろいろだよ! ぼくとお話しようよ!」
「だから、なにを?」
表情は乏しいが、その声色にはかすかな困惑が滲んでいる。
操はどうにかして彼を引き止めたかった。客が多い店とは違い、ここならゆっくり話すことができる。つまりもう少し一緒にいたいということなのだが、それを言ったところで、この男のことだから「どうして?」と首を傾げるだけだろう。
「あ、あのね! あの、えっと……そうだ、ぼくね、料理の練習してるんだよ。お母さんにいろいろ教えてもらって……」
なにか彼の興味を引きそうな話題はないかと考え、だけどそれが分からなかった。だからひとまず、自分の近況をひねり出してみた。
すると意外にも、彼は少しだけ目を見開いて「へぇ」という声を漏らした。
「凄いな。タヌキなのに」
「でしょ? ホットケーキも上手に焼けるよ。あとね、ジャガイモとかニンジンの皮むきもできるし、あとは、えっと……お味噌汁! お味噌汁ってね、沸騰する前に火を止めるんだよ! 知ってた?」
「……うん、知らなかった」
「えへへー! ぼくって偉いでしょ! タヌキなのにさ!」
「ふっ」
「!」
あきらかに軽く吹きだしかけた甲洋だったが、彼はすんでのところで空いている左手を口元にやり、コホンと軽く咳払いをして表情を取り繕った。
笑いたいなら笑えばいいのに、彼はなぜかそれをしたがらない。疑問を抱きながらも、あとちょっとだったのにと悔しく思った。
「……手」
掴まれている右手首をじっと見下ろし、甲洋がポツリと言った。
「離してもらっていい?」
「え? あっ、うん!」
今の今まで、操はずっと甲洋の右手首を掴みっぱなしだった。急に恥ずかしいような気になって、頬を赤らめながら手を離す。
上目遣いでモジモジと甲洋を見ると、彼は軽く顔を背けていた。いつもは血色の悪い頬が、心なしかうっすら赤くなっているように見える。
開放された右手をポケットに突っ込んで、甲洋はなにかを逃がすようにふっと息を漏らした。
「それじゃ、これで」
「ま、待って! じゃあぼく、途中まで送っていくよ!」
とっさに出た言葉だが、これは名案だと思った。引き止めるのが無理なら、一緒にくっついて行けばいいのだ。けれど操の耳としっぽに目をやった甲洋に、「その格好で?」と言われてハッとする。
「そうだったぁ……」
いくらか日は短くなったが、外はまだ明るい。この姿では人目についてしまうだろう。どうせおかしな変装をしているとしか思われないだろうが、総士からも注意するように言われている。
(ぼくも総士みたいに、上手に変身できたらよかったのにな……)
操は耳としっぽをしょぼんとさせてうつむいた。これさえなければ散歩気分でついて行けたはずだし、昼間に店へ遊びに行くことだってできるのに。
歯がゆく思いながらも、今日は諦めるしかなさそうだった。
「なにか俺に用でもあるの?」
「用っていうか……」
ただ一緒にいたいだけだ。それだけじゃ駄目なのだろうか。自分自身でも理解できていない感情を、言語化するのは難しい。どうしてこんなに彼のことが気になるんだろう。たいして会話も弾まない相手と、どうして一緒にいたいんだろう。容子への気持ちとはどこか違う。甲洋だけ、なにが特別なのか分からない。
「……今夜」
そのとき、玄関のドアノブに手をかけながら甲洋が口を開いた。
「え?」
「来れば?」
操はキョトンとしながら目をパチパチとさせた。
「いいの? 今日は金曜じゃないのに?」
「飲み物くらいしか出せないけど。それでよければ」
「い、行く! ぜったい行く!」
すかさず応じると、甲洋の目元がほんのかすかに和らいだように見えた。
「わかった。なら、開けておくよ」
甲洋が帰っていくと、操は思わずピョンと飛び跳ねて万歳をした。
「やったー! 今夜もまた会えるんだ!」
彼があんなことを言いだすなんて、思ってもみなかった。嬉しくて、操はスキップするような軽やかさでリビングに戻っていった。
「あら、なにかいいことでもあったの?」
夕飯の支度をするためにキッチンに立った容子が、エプロンの紐を結びながら問いかけてきた。ご機嫌な操はニコニコ顔で「なんでもないよ」と首を振る。
「甲洋くんは?」
「帰ったよ。ちゃんとお見送りしといたからね!」
「ありがとう、操」
「うん! あ、ねぇそれよりお母さん、今夜のお味噌汁はぼくが作ってもいい?」
「ええ、いいわよ。助かるわ」
「任せといてよ!」
ドン、と拳で胸を叩いた操は張り切って腕をまくり、流しで手を洗う。そしてふと、気がついた。
(あ、そっか。ご飯食べてってもらえばよかったんだ)
無理にあーだこーだとゴネてしまったが、夕飯に誘うという手があった。それならもっとすんなり引き止めることができたのかもしれない。
だけどそのおかげ──かどうかは分からないが、営業日でもないのに店にお呼ばれしたのだから、まぁいっかと操は思う。
(今度はそう言ってみようかな。来月もまた来るはずだし)
次に誘う理由が見つかって、操はウキウキと胸を踊らせた。
味噌汁はまだ容子のように美味しくは作れない。でも一ヶ月もあれば、きっと今より上手になっているはずだ。他にももっといろいろ作れるようになっておけば、甲洋はさぞかし驚くだろう。
(ぼく、今度こそ天才になれるかも!)
大きな目標ができて、操はますます張り切った。
←戻る ・ 次へ→
08
それから操は、よく容子の手伝いをするようになった。
中でも料理に関心を持ち、彼女のそばにくっついて調理のしかたを学んだりしている。その延長でクーの世話もするようになったし、部屋の掃除だとか、庭の植物の手入れだとか、そういった何気ない生活習慣も身につけていった。
なんにでも興味を示して学ぶ姿勢を見せる操に、容子は嬉しそうだった。
ホットケーキを焦がすことなく、綺麗な焼き色に仕上げることができたときには、手を叩いて一緒に喜んでくれた。彼女が喜ぶと操も嬉しい。それは操の自信にも繋がった。
少しずつできることが増えてくると、まるで自分がどんどん人間に近づいているような気がしてくる。里でポンコツと言われながらいるよりも、ここでずっと容子と一緒に暮らしているほうが、性に合っているのかもしれない。
そんなことを、本気で考えるようになっていった。
*
容子が倒れた日から、ちょうど一週間が経過した。
夜更けにこっそり家を抜け出し、操は甲洋に言われたとおり店に向かった。
この一週間というもの、ことあるごとに彼の笑顔を思いだしては気持ちをふわふわさせていた。今夜もまた笑った顔が見れたらいいなと、そう思いながらドアベルを鳴らす。
そして操は目の前に広がる異様な光景に目を丸くした。
「な、なにこれ……!?」
前回と違い、店のテーブルはほとんどが客で埋まっていた。けれどそのどれもが、普通の客ではなかった。
今にも井戸から這い上がってきそうな、白いワンピースを着た黒髪の女。全身が異様なほどに青白い、ブリーフ一丁の男の子。一つしか目がない小坊主や、首が天井につくぐらいにゅるんと伸びた着物の女など。
そこにはあらゆる幽霊、妖怪たちの姿があって、みなコーヒーを飲んだり食事をしたりと、思い思いに過ごしている。
操は立ち尽くしたまま呆然とした。自分の存在がすっかり霞んでいる。タヌキの耳としっぽを生やしているだけじゃ、まるでパンチの弱い仮装も同然だ。
それほどまでに、店内は奇怪な様相を見せていた。
「一体なにがどうなってるの……?」
「夜は人間の客は来ないよ」
「わっ!?」
気づくとすぐ横に甲洋がいた。驚きすぎて心臓をバクバクさせる操に、彼は「いらっしゃい」と言ってカウンター席に促した。
操がおとなしく席につくのを見届けると、カウンター裏に回り込んでいく。
「これで分かった? 今夜は、って意味」
分かったような、分からないような。
すると操の目の前に、横からスッと水が差しだされる。見上げると、すぐそばに白いウサ耳を生やした青年がお盆を抱えて立っていた。
「ここは毎週金曜の夜にだけ、物の怪喫茶になるんだよ」
穏やかに微笑む一騎に、操は身震いしながら腰を引かせる。これだけ魑魅魍魎がひしめく魔窟なら、ウサギ男の一人や二人いたってなにも不思議な話じゃない。それでもウサギはトラウマだ。
一騎は丸いしっぽをふわふわとさせながらカウンター裏に回り込み、グラスを磨きはじめる甲洋の横に並んだ。そして、意外なことを言いだした。
「と言っても、俺にはなにも視えてないけど」
「視えてない? どういうこと?」
「席、ほとんど埋まってるんだろ? だけど俺からすれば、店の中はがらんとしてるよ」
「君にはお化けや妖怪が視えてないってこと?」
「なんとなくざわざわした気配は感じるけど。俺はただの人間だし」
「人間?」
このウサギはなにを言ってるんだろう。彼はウサギだ。長い耳とふわふわのしっぽを生やした、操と同類の物の怪であるはず。証拠に、彼からは獣の匂いが──と、そこで操は気がついた。
一騎と甲洋。目の前にいる二人の男からは、体臭がまったくしない。操に分かるのは、カウンターで立ち込める不思議なお香の香りだけだ。
「んん……?」
はてなマークを浮かべる操にクスリと笑って、一騎は自分の頭に両手をやった。耳の脇にそれぞれ指先を添え、スポン、と上に持ち上げる。
「え!?」
「カチューシャだよ。ウサ耳の。しっぽもくっつけてるだけだ」
「一騎」
そのとき、甲洋が咎めるように一騎をチラリと横目で見やった。一騎は「わかってるよ」と言って、ウサ耳カチューシャを元通り頭にはめる。
「ぜんっぜん意味わかんないよ。君たちって一体なんなの?」
混乱する操に、一騎がのんびりとしたペースで話しはじめた。
このコーヒー喫茶楽園は、毎週金曜の夜にだけ物の怪たちが集う店になる。
彼らは石ころだとか木の実だとか、操のように葉っぱを対価に支払うシステムになっている。しかし中には人間と知るやいなや、悪さをしようとするやつもいるらしい。だから匂い消しの特殊なお香を焚き、妖怪の変装をしているのだという。
どうりで鼻が鈍るわけだ。完全に機能しなくなるわけではなく、彼らがもつ人間特有の匂いだけが、上手く誤魔化されている。
「でも、どうして一騎だけ変装してるの? 甲洋だって人間でしょ?」
すると手元のグラスから目を離さないまま、「俺にはショコラがいるから」と甲洋が言った。つまり強力な番犬だ。ショコラがいれば、誰も甲洋に手出しできない。何度も撃退されたことがある身としては、やけに納得がいく説明だった。
接客はもっぱらその手の類が視える甲洋の仕事で、一騎はせっせとオーダー品を作るだけ。彼の目には、皿やカップがただテーブルの上に置かれているようにしか映らない。それが気づくと空になっていて、横に石ころや葉っぱ、時には木の実や貝殻が置いてあるのだという。
「なぁんだ、そういうことだったんだ」
なぜ夜は葉っぱでもいいのかという疑問が、ようやく晴れた。それに、どうして甲洋が操の正体に動じなかったのかも。化け狸くらい、彼にとっては珍しくもなんともないのだ。
それはそれとして、ウサギ男が実はウサギじゃなかったことにも安堵した。
「だけどさ、俺だけコスプレって、なんかズルいぞ」
操がホッと息を漏らしていると、一騎が甲洋をチラリと見やって不満を漏らす。すっかり気安さが生まれた操が「似合ってるよ」と言うと、一騎は眉をハの字にしながらスッ、となにかを取りだした。
「でもほら、せっかく甲洋の分も用意してあるし」
彼がどこからか取りだしたのは、焦げ茶色のウサ耳カチューシャだった。一騎のものとは違い、垂れ下がっているタイプのものだ。ロップイヤーという種類のウサ耳らしい。
甲洋はそれを冷めた目で見て、「嫌だよ」と低い声で吐き捨てた。表情は無だが、これは相当嫌がっていると見える。操は声をあげて笑ってしまった。
「ぷっ! あはは! いいじゃん、してみてよ! ぜったい可愛いよ!」
「……嫌だってば」
さすがの鉄仮面も、うっすら眉間にシワを寄せながら睨んでくる。彼の表情が動くと、なぜか嬉しくなってしまう。だからなおさら、操は笑った。
すると背後でカラリとドアベルが鳴る音がした。
「やってるか?」
入ってきたのは背が高い、眼鏡をした髪の長い青年だった。一見すると普通の人間だが、どこか引っかかるものがある。初対面であるはずなのに、なぜか初めて会った気がしない。
「総士。ああ、やってるよ」
「そ、総士……!?」
その名を聞いて、操は驚きの声をあげた。鼻をクンクンと鳴らし、その匂いを確かめる。やっぱりだ。操はこの青年を知っている。
長髪の青年は見ず知らずのタヌキ人間に首をかしげたが、彼もまたスンと鼻を鳴らすと、なにかに気づいた様子で「まさか来主か?」と問いかけてきた。
「そうだよ! ぼくだよ! タヌキの里の来主操!」
椅子から勢いよく立ち上がった操をしげしげと見て、総士は困惑の表情を浮かべている。そんな彼に向かって、一騎が「この子、お前の知り合いか?」と目を丸くした。
「知ってるもなにも……」
「総士のバカ!」
操は総士に駆け寄ると、その胸をポカポカと叩いた。
「今まで一体どこにいたのさ!? 急にいなくなっちゃって、ずっと寂しかったんだから!」
皆城総士はキツネ村の化け狐で、操は幼い頃から彼のことを知っている。
けれど数年前、総士はとつぜん姿を消してしまった。風のうわさで人里に下りたらしいということは聞いていたが、まさかこんなところで再会するなんて。
「分かったから、落ち着け来主。それより、どうしてお前がここにいる? その姿は一体どうした?」
「これはその、あの……」
聞きたいことも、話したいことも山程ある。どれから処理すればいいか分からずにいると、
「とりあえず座れば?」
と、一瞥をくれた甲洋に促された。
*
総士は操にとって先生のようなものだった。
小さなころから化け術が不得意だった操は、しょっちゅうキツネの村に足を運んでは彼に化け術を習っていたのだ。
そんな総士は数年前にフラリと人里に下り、今ではすっかり人間社会に溶け込みながら生活している。この町の中学校に潜り込み、教師の職につきながら一騎と一緒に暮らしているらしい。
中学校といえば、容子の職場でもある。総士に聞くと、もちろん彼女のことを知っていた。容子はまさか総士が化け狐だなんて知りもしないだろうが、その意外な接点に操は心底驚いた。
「それで? お前は一体ここでなにをしているんだ?」
一通り総士が話し終えると、次は操の番だった。
悪ガキたちにバカにされ、意地になって里を飛び出したとは言いにくい。操は目を泳がせながらも、「社会勉強だよ」と言って適当に誤魔化した。
「でも、元に戻れなくなっちゃった。耳もしっぽも隠せないし……」
「なにか心当たりはないのか?」
「一騎の激辛カレー、かなぁ……?」
あのカレーを口にしたとき、あまりの強烈さに操は天地がひっくり返るほど驚いた。それがどう影響を及ぼしたのかは知らないが、心当たりは他にない。
だったら辛いものを食べれば元に戻るのではないかと、一度だけ勇気を出して唐辛子をかじったことがある。だが結果はこの通り、操はタヌキ人間のままだった。
「まるでぶんぶく茶釜だな」
総士はコーヒーに口をつけ、一口飲むと重い息をつく。彼ならなにか分かるのではないかと期待したが、どうやらアテが外れたらしい。
「それで、これからどうするつもりだ?」
「えっ? あ、うーん……」
言いよどみながらも、正直あまり焦っていない自分がいる。だってここでの暮らしは快適だし、里に戻ったって叱られて、どうせまたバカにされるだけだ。
だったらこのまま人里で暮らしていた方が、ずっといい。
「美羽が心配してるんじゃないのか?」
「うっ!」
すっかり開き直りかけていた操だったが、総士の口から出た美羽の名前に声を詰まらせる。
「それに、遠見は怒らせると怖いだろう」
「うぅっ……!」
「明確な理由がないのなら、一刻も早く戻るべきだ。ここにいるよりも里で千鶴さんに診てもらった方が、元に戻る方法も見つかりやすいだろう。なにより──」
総士はコーヒーカップを皿に戻すと、険しい表情で操を見据えた。
「お前が関わった人間がたまたま特殊だったというだけで、人は私欲と好奇心を満たすためならなんだってする生き物だ。そんな未熟な化け術で生きられるほど、甘い世界じゃない」
なにも言い返せない。操はすっかりしょげてしまった。
彼の言うことはもっともだ。里では子供のころから、人間の恐ろしさを嫌というほど教えられてきた。だから最初はひどく警戒していたし、捕まれば一巻の終わりだと思い込んでいた。それが今では人間と一緒に生活しているなんて、里にいた頃には考えられないことだった。
「……総士は、どんな理由があってここにいるの?」
なにも答えられない代わりに、操は総士に疑問をぶつけた。『明確な理由』というものが、彼にはあるということだ。それは一体どれほど大切なものなんだろう。
「総士はこれが好きでここにいるんだよな」
すると厨房でせっせと何かをしていた一騎が、操と総士の前にドンと大皿を置いて笑った。
皿にはズラリと大量のお稲荷さんが並べられている。飴色の揚げがキラキラと光沢を放ち、脇には丁寧にガリまで添えられていた。
「うわぁ、なにこれ美味しそう! 甘くていい匂いがする!」
操は皿にグッと顔を近づけて、クンクンと匂いをかいだ。
「来主はお稲荷さん初めてか?」
「うん! まだ食べたことないよ!」
「それならよかった。いっぱい食べな」
「わーい! そっか、総士にとっては、これが明確な理由なんだね!」
「一騎、誤解を招くような発言は控えろ……」
総士がこめかみを押さえて苦々しい顔をしている。一騎はキョトンとしたあと、残念そうに眉を下げた。
「そっか……じゃあこれは没収だな」
「あっ、おい!」
一騎が皿を下げようとするのを、総士が慌てて止めている。彼は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、「せっかくだからな」と言ってお稲荷さんを食べはじめた。それを見て、一騎が楽しそうに肩を揺らして笑っている。
二人の間に流れる空気は微笑ましくて、なんだか少しくすぐったい。総士は一騎がいるからここを離れずにいるのかもしれないと、操は思った。
(それなら、ぼくだって……)
一番に浮かんだのは容子の顔だった。できればもう少しそばにいて、もっとたくさんのことを教えてほしい。里に帰ればなんの役にも立たないことばかりだけれど、一緒にキッチンに立っているときの容子はとても楽しそうだった。あの笑顔を、もっと見ていたい。
それに、もうひとつ──。
操はホールにいる甲洋に目を向けた。彼は山伏の格好をした天狗を相手にオーダーを取っている。
淡々とした横顔をぼうっと見つめていると、視線に気づいた甲洋がこちらを向いた。バチンと目が合い、操は思わず肩を跳ねさせると顔をそらした。
(また耳が熱くなっちゃった……)
たぶん顔も赤くなっている。
甲洋を見ていると、なぜかふわふわして落ち着かない。おんぶされたときの広い背中だとか、頭を撫でてくれた大きな手だとか、ささやかな笑顔だとか。思いだすとドキドキして、胸だとか頬だとか、いろんなところが熱くなる。
(なんでこんなふうになっちゃうんだろう?)
いつまでも帰らないと、悪ガキたちは操が逃げだしたと思うだろう。美羽だって心配している。だけど操は甲洋のことが気になって仕方ない。どうしてこんなに気になってしまうのか、ちっとも分からないけれど。
(今日はもう話せないのかな……)
店は物の怪たちで繁盛している。甲洋の足元には、威圧するように目つきを鋭くしたショコラがついて回っていた。この様子では、のんびり話す時間もなさそうだ。せっかく来たのにと、操は肩を落として息をつく。
(もう一度、ちゃんとぼくを見て笑ってほしいのに!)
これが明確な理由になるのかは分からない。けれど操にとっては、なにより素直な気持ちでもあるのだった。
←戻る ・ 次へ→
それから操は、よく容子の手伝いをするようになった。
中でも料理に関心を持ち、彼女のそばにくっついて調理のしかたを学んだりしている。その延長でクーの世話もするようになったし、部屋の掃除だとか、庭の植物の手入れだとか、そういった何気ない生活習慣も身につけていった。
なんにでも興味を示して学ぶ姿勢を見せる操に、容子は嬉しそうだった。
ホットケーキを焦がすことなく、綺麗な焼き色に仕上げることができたときには、手を叩いて一緒に喜んでくれた。彼女が喜ぶと操も嬉しい。それは操の自信にも繋がった。
少しずつできることが増えてくると、まるで自分がどんどん人間に近づいているような気がしてくる。里でポンコツと言われながらいるよりも、ここでずっと容子と一緒に暮らしているほうが、性に合っているのかもしれない。
そんなことを、本気で考えるようになっていった。
*
容子が倒れた日から、ちょうど一週間が経過した。
夜更けにこっそり家を抜け出し、操は甲洋に言われたとおり店に向かった。
この一週間というもの、ことあるごとに彼の笑顔を思いだしては気持ちをふわふわさせていた。今夜もまた笑った顔が見れたらいいなと、そう思いながらドアベルを鳴らす。
そして操は目の前に広がる異様な光景に目を丸くした。
「な、なにこれ……!?」
前回と違い、店のテーブルはほとんどが客で埋まっていた。けれどそのどれもが、普通の客ではなかった。
今にも井戸から這い上がってきそうな、白いワンピースを着た黒髪の女。全身が異様なほどに青白い、ブリーフ一丁の男の子。一つしか目がない小坊主や、首が天井につくぐらいにゅるんと伸びた着物の女など。
そこにはあらゆる幽霊、妖怪たちの姿があって、みなコーヒーを飲んだり食事をしたりと、思い思いに過ごしている。
操は立ち尽くしたまま呆然とした。自分の存在がすっかり霞んでいる。タヌキの耳としっぽを生やしているだけじゃ、まるでパンチの弱い仮装も同然だ。
それほどまでに、店内は奇怪な様相を見せていた。
「一体なにがどうなってるの……?」
「夜は人間の客は来ないよ」
「わっ!?」
気づくとすぐ横に甲洋がいた。驚きすぎて心臓をバクバクさせる操に、彼は「いらっしゃい」と言ってカウンター席に促した。
操がおとなしく席につくのを見届けると、カウンター裏に回り込んでいく。
「これで分かった? 今夜は、って意味」
分かったような、分からないような。
すると操の目の前に、横からスッと水が差しだされる。見上げると、すぐそばに白いウサ耳を生やした青年がお盆を抱えて立っていた。
「ここは毎週金曜の夜にだけ、物の怪喫茶になるんだよ」
穏やかに微笑む一騎に、操は身震いしながら腰を引かせる。これだけ魑魅魍魎がひしめく魔窟なら、ウサギ男の一人や二人いたってなにも不思議な話じゃない。それでもウサギはトラウマだ。
一騎は丸いしっぽをふわふわとさせながらカウンター裏に回り込み、グラスを磨きはじめる甲洋の横に並んだ。そして、意外なことを言いだした。
「と言っても、俺にはなにも視えてないけど」
「視えてない? どういうこと?」
「席、ほとんど埋まってるんだろ? だけど俺からすれば、店の中はがらんとしてるよ」
「君にはお化けや妖怪が視えてないってこと?」
「なんとなくざわざわした気配は感じるけど。俺はただの人間だし」
「人間?」
このウサギはなにを言ってるんだろう。彼はウサギだ。長い耳とふわふわのしっぽを生やした、操と同類の物の怪であるはず。証拠に、彼からは獣の匂いが──と、そこで操は気がついた。
一騎と甲洋。目の前にいる二人の男からは、体臭がまったくしない。操に分かるのは、カウンターで立ち込める不思議なお香の香りだけだ。
「んん……?」
はてなマークを浮かべる操にクスリと笑って、一騎は自分の頭に両手をやった。耳の脇にそれぞれ指先を添え、スポン、と上に持ち上げる。
「え!?」
「カチューシャだよ。ウサ耳の。しっぽもくっつけてるだけだ」
「一騎」
そのとき、甲洋が咎めるように一騎をチラリと横目で見やった。一騎は「わかってるよ」と言って、ウサ耳カチューシャを元通り頭にはめる。
「ぜんっぜん意味わかんないよ。君たちって一体なんなの?」
混乱する操に、一騎がのんびりとしたペースで話しはじめた。
このコーヒー喫茶楽園は、毎週金曜の夜にだけ物の怪たちが集う店になる。
彼らは石ころだとか木の実だとか、操のように葉っぱを対価に支払うシステムになっている。しかし中には人間と知るやいなや、悪さをしようとするやつもいるらしい。だから匂い消しの特殊なお香を焚き、妖怪の変装をしているのだという。
どうりで鼻が鈍るわけだ。完全に機能しなくなるわけではなく、彼らがもつ人間特有の匂いだけが、上手く誤魔化されている。
「でも、どうして一騎だけ変装してるの? 甲洋だって人間でしょ?」
すると手元のグラスから目を離さないまま、「俺にはショコラがいるから」と甲洋が言った。つまり強力な番犬だ。ショコラがいれば、誰も甲洋に手出しできない。何度も撃退されたことがある身としては、やけに納得がいく説明だった。
接客はもっぱらその手の類が視える甲洋の仕事で、一騎はせっせとオーダー品を作るだけ。彼の目には、皿やカップがただテーブルの上に置かれているようにしか映らない。それが気づくと空になっていて、横に石ころや葉っぱ、時には木の実や貝殻が置いてあるのだという。
「なぁんだ、そういうことだったんだ」
なぜ夜は葉っぱでもいいのかという疑問が、ようやく晴れた。それに、どうして甲洋が操の正体に動じなかったのかも。化け狸くらい、彼にとっては珍しくもなんともないのだ。
それはそれとして、ウサギ男が実はウサギじゃなかったことにも安堵した。
「だけどさ、俺だけコスプレって、なんかズルいぞ」
操がホッと息を漏らしていると、一騎が甲洋をチラリと見やって不満を漏らす。すっかり気安さが生まれた操が「似合ってるよ」と言うと、一騎は眉をハの字にしながらスッ、となにかを取りだした。
「でもほら、せっかく甲洋の分も用意してあるし」
彼がどこからか取りだしたのは、焦げ茶色のウサ耳カチューシャだった。一騎のものとは違い、垂れ下がっているタイプのものだ。ロップイヤーという種類のウサ耳らしい。
甲洋はそれを冷めた目で見て、「嫌だよ」と低い声で吐き捨てた。表情は無だが、これは相当嫌がっていると見える。操は声をあげて笑ってしまった。
「ぷっ! あはは! いいじゃん、してみてよ! ぜったい可愛いよ!」
「……嫌だってば」
さすがの鉄仮面も、うっすら眉間にシワを寄せながら睨んでくる。彼の表情が動くと、なぜか嬉しくなってしまう。だからなおさら、操は笑った。
すると背後でカラリとドアベルが鳴る音がした。
「やってるか?」
入ってきたのは背が高い、眼鏡をした髪の長い青年だった。一見すると普通の人間だが、どこか引っかかるものがある。初対面であるはずなのに、なぜか初めて会った気がしない。
「総士。ああ、やってるよ」
「そ、総士……!?」
その名を聞いて、操は驚きの声をあげた。鼻をクンクンと鳴らし、その匂いを確かめる。やっぱりだ。操はこの青年を知っている。
長髪の青年は見ず知らずのタヌキ人間に首をかしげたが、彼もまたスンと鼻を鳴らすと、なにかに気づいた様子で「まさか来主か?」と問いかけてきた。
「そうだよ! ぼくだよ! タヌキの里の来主操!」
椅子から勢いよく立ち上がった操をしげしげと見て、総士は困惑の表情を浮かべている。そんな彼に向かって、一騎が「この子、お前の知り合いか?」と目を丸くした。
「知ってるもなにも……」
「総士のバカ!」
操は総士に駆け寄ると、その胸をポカポカと叩いた。
「今まで一体どこにいたのさ!? 急にいなくなっちゃって、ずっと寂しかったんだから!」
皆城総士はキツネ村の化け狐で、操は幼い頃から彼のことを知っている。
けれど数年前、総士はとつぜん姿を消してしまった。風のうわさで人里に下りたらしいということは聞いていたが、まさかこんなところで再会するなんて。
「分かったから、落ち着け来主。それより、どうしてお前がここにいる? その姿は一体どうした?」
「これはその、あの……」
聞きたいことも、話したいことも山程ある。どれから処理すればいいか分からずにいると、
「とりあえず座れば?」
と、一瞥をくれた甲洋に促された。
*
総士は操にとって先生のようなものだった。
小さなころから化け術が不得意だった操は、しょっちゅうキツネの村に足を運んでは彼に化け術を習っていたのだ。
そんな総士は数年前にフラリと人里に下り、今ではすっかり人間社会に溶け込みながら生活している。この町の中学校に潜り込み、教師の職につきながら一騎と一緒に暮らしているらしい。
中学校といえば、容子の職場でもある。総士に聞くと、もちろん彼女のことを知っていた。容子はまさか総士が化け狐だなんて知りもしないだろうが、その意外な接点に操は心底驚いた。
「それで? お前は一体ここでなにをしているんだ?」
一通り総士が話し終えると、次は操の番だった。
悪ガキたちにバカにされ、意地になって里を飛び出したとは言いにくい。操は目を泳がせながらも、「社会勉強だよ」と言って適当に誤魔化した。
「でも、元に戻れなくなっちゃった。耳もしっぽも隠せないし……」
「なにか心当たりはないのか?」
「一騎の激辛カレー、かなぁ……?」
あのカレーを口にしたとき、あまりの強烈さに操は天地がひっくり返るほど驚いた。それがどう影響を及ぼしたのかは知らないが、心当たりは他にない。
だったら辛いものを食べれば元に戻るのではないかと、一度だけ勇気を出して唐辛子をかじったことがある。だが結果はこの通り、操はタヌキ人間のままだった。
「まるでぶんぶく茶釜だな」
総士はコーヒーに口をつけ、一口飲むと重い息をつく。彼ならなにか分かるのではないかと期待したが、どうやらアテが外れたらしい。
「それで、これからどうするつもりだ?」
「えっ? あ、うーん……」
言いよどみながらも、正直あまり焦っていない自分がいる。だってここでの暮らしは快適だし、里に戻ったって叱られて、どうせまたバカにされるだけだ。
だったらこのまま人里で暮らしていた方が、ずっといい。
「美羽が心配してるんじゃないのか?」
「うっ!」
すっかり開き直りかけていた操だったが、総士の口から出た美羽の名前に声を詰まらせる。
「それに、遠見は怒らせると怖いだろう」
「うぅっ……!」
「明確な理由がないのなら、一刻も早く戻るべきだ。ここにいるよりも里で千鶴さんに診てもらった方が、元に戻る方法も見つかりやすいだろう。なにより──」
総士はコーヒーカップを皿に戻すと、険しい表情で操を見据えた。
「お前が関わった人間がたまたま特殊だったというだけで、人は私欲と好奇心を満たすためならなんだってする生き物だ。そんな未熟な化け術で生きられるほど、甘い世界じゃない」
なにも言い返せない。操はすっかりしょげてしまった。
彼の言うことはもっともだ。里では子供のころから、人間の恐ろしさを嫌というほど教えられてきた。だから最初はひどく警戒していたし、捕まれば一巻の終わりだと思い込んでいた。それが今では人間と一緒に生活しているなんて、里にいた頃には考えられないことだった。
「……総士は、どんな理由があってここにいるの?」
なにも答えられない代わりに、操は総士に疑問をぶつけた。『明確な理由』というものが、彼にはあるということだ。それは一体どれほど大切なものなんだろう。
「総士はこれが好きでここにいるんだよな」
すると厨房でせっせと何かをしていた一騎が、操と総士の前にドンと大皿を置いて笑った。
皿にはズラリと大量のお稲荷さんが並べられている。飴色の揚げがキラキラと光沢を放ち、脇には丁寧にガリまで添えられていた。
「うわぁ、なにこれ美味しそう! 甘くていい匂いがする!」
操は皿にグッと顔を近づけて、クンクンと匂いをかいだ。
「来主はお稲荷さん初めてか?」
「うん! まだ食べたことないよ!」
「それならよかった。いっぱい食べな」
「わーい! そっか、総士にとっては、これが明確な理由なんだね!」
「一騎、誤解を招くような発言は控えろ……」
総士がこめかみを押さえて苦々しい顔をしている。一騎はキョトンとしたあと、残念そうに眉を下げた。
「そっか……じゃあこれは没収だな」
「あっ、おい!」
一騎が皿を下げようとするのを、総士が慌てて止めている。彼は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、「せっかくだからな」と言ってお稲荷さんを食べはじめた。それを見て、一騎が楽しそうに肩を揺らして笑っている。
二人の間に流れる空気は微笑ましくて、なんだか少しくすぐったい。総士は一騎がいるからここを離れずにいるのかもしれないと、操は思った。
(それなら、ぼくだって……)
一番に浮かんだのは容子の顔だった。できればもう少しそばにいて、もっとたくさんのことを教えてほしい。里に帰ればなんの役にも立たないことばかりだけれど、一緒にキッチンに立っているときの容子はとても楽しそうだった。あの笑顔を、もっと見ていたい。
それに、もうひとつ──。
操はホールにいる甲洋に目を向けた。彼は山伏の格好をした天狗を相手にオーダーを取っている。
淡々とした横顔をぼうっと見つめていると、視線に気づいた甲洋がこちらを向いた。バチンと目が合い、操は思わず肩を跳ねさせると顔をそらした。
(また耳が熱くなっちゃった……)
たぶん顔も赤くなっている。
甲洋を見ていると、なぜかふわふわして落ち着かない。おんぶされたときの広い背中だとか、頭を撫でてくれた大きな手だとか、ささやかな笑顔だとか。思いだすとドキドキして、胸だとか頬だとか、いろんなところが熱くなる。
(なんでこんなふうになっちゃうんだろう?)
いつまでも帰らないと、悪ガキたちは操が逃げだしたと思うだろう。美羽だって心配している。だけど操は甲洋のことが気になって仕方ない。どうしてこんなに気になってしまうのか、ちっとも分からないけれど。
(今日はもう話せないのかな……)
店は物の怪たちで繁盛している。甲洋の足元には、威圧するように目つきを鋭くしたショコラがついて回っていた。この様子では、のんびり話す時間もなさそうだ。せっかく来たのにと、操は肩を落として息をつく。
(もう一度、ちゃんとぼくを見て笑ってほしいのに!)
これが明確な理由になるのかは分からない。けれど操にとっては、なにより素直な気持ちでもあるのだった。
←戻る ・ 次へ→
07
甲洋と共に帰宅すると、容子は変わらない姿勢でソファに横たわっていた。
「お母さん!」
すぐさま駆け寄った操を差し置いて、どこからか姿を現したショコラが彼女のそばに歩み寄る。容子の顔に鼻を近づけ、軽く匂いを嗅いだあとその頬をペロンと舐めた。
「お母さんに近寄らないで!」
警戒して声を荒げる操を、甲洋が片手で制して「大丈夫」と言った。
「で、でもお母さんが!」
「悪さはしない。ショコラは羽佐間先生のことが好きだから」
「え……?」
操は目を丸くしながらショコラを見た。弱々しく「クゥン」と鳴いて、まるで労るように容子の頬を幾度もペロペロと舐めている。
どういうことかと首を傾げていると、甲洋がソファの足元に膝をついて容子の額に手を当てた。
「少し熱っぽい」
するとそこで、ずっと眠り続けていた容子がはたと目を覚ました。
「お母さん!」
「操……それに、甲洋くん……?」
操と甲洋の顔を交互に見やり、容子は不思議そうな顔をした。
身を起こした彼女の横ではショコラがソファに乗り上げ、『ワン!』と嬉しそうに鳴きながらしっぽを振っている。けれど容子にはその姿が見えず、声も聞こえていないようだった。
「ごめんなさい。私ったら、すっかり眠ってしまったのね」
「よかったぁ……このままだったらどうしようかと思ったよ……」
操は安堵から力が抜けて、ペタリと床に座り込んでしまった。
眉を下げながら苦笑し、容子が改めて甲洋を見る。
「あなたたち、知り合いだったの?」
知り合いというかなんというか。化かしてやりたくて、たびたびちょっかいを出していたとは言いにくい。
そもそも操がああして力尽きていたのは、甲洋に悪さをしようとして失敗した結果だったのだ。でも、それを知られるのはちょっぴり嫌だった。
「えっ、と……う、うん」
容子の前ではいい子でいたい操は、目を泳がせながら曖昧に頷いた。チラリ、と甲洋に横目で見られたような気がしたが、そこは知らんぷりを決め込んだ。
「お母さんに、なにか食べさせなくちゃと思ったんだ。でも、ぼくだけじゃどうしたらいいか分からなくて……だからご飯をもらいにお店に行ったの。そしたら一緒に来てくれた」
「そうだったの。ありがとう、操。甲洋くんも、わざわざごめんなさいね」
甲洋がかぶりを振った。澄ました表情をしているが、目元が少し柔らかい。
「軽い夏バテよ。毎年この時期になると疲れやすくなってしまって。嫌ね、もう歳かしら」
「そんなこと」
甲洋がまた首を振る。
「羽佐間先生には、元気でいてもらわないと」
そう言って、彼は部屋の片隅に目をやった。視線の先には棚に飾られた翔子の写真がある。容子もまた写真を見つめ、どこかしみじみと「そうね」と言った。
ショコラはそんな彼女の隣で行儀よく座っている。黒目がちの濡れた瞳をかすかに細め、容子の顔を見つめていた。
(仲良しなんだ、三人とも)
甲洋にしろショコラにしろ、容子とはどんな間柄なのだろう。
容子にはショコラの姿が見えていないようだが、彼女を見つめるショコラの瞳は慈愛に満ちている。
気にはなったが口を挟める空気ではなくて、操はただ親密そうな彼らを見つめていることしかできなかった。
*
その後、容子の代わりにキッチンに立った甲洋が、温かいそうめんを作ってくれた。
あの細長い棒状の束が、少し手を加えるだけでまるで違うものに変化してしまうなんて。もしかしたら、人間のほうがよほど化け術に長けているのではないかと、操は思った。
初めて食べるそうめんは、その温かさも相まって優しく胃に染み込んだ。溶き卵がふわふわしていて、出汁の風味と一緒にネギの香りが引き立っていた。
容子は終始すまなそうにしていたが、そうめんを食べると少しずつ顔色が戻ってきたようだった。それを見て、操は心底ホッとした。
甲洋は作るだけ作って、食べている二人の姿を静かに見守るだけだった。
そのとき容子から、甲洋が昔の教え子だったことを教えてもらった。ときどき彼の店に食事をしに行くこともあり、今でも交流があるのだと。
だから彼は容子を先生と呼んでいたのか。納得はしたが、子供時代の甲洋というのは、あまり想像できなかった。
食後、容子は自室に戻っていった。今夜は早く休んでほしいと、甲洋が促したからだ。
食器の片付けまで全て終え、帰ろうとする彼を操は玄関先まで見送ることにした。
「それじゃあ、俺はこれで」
「ねぇ、ちょっと待って」
靴を履き、背を向けようとする甲洋を引き止める。色素の薄い瞳が、無言で「なに?」と問いかけてきた。
「えっと、その……今日はありがと。助けてくれて。あと、足のことも。まだお礼言ってなかったから」
「気にしなくていい」
「ん……でも、ありがと」
あのとき彼が助けてくれなければ、足の腫れはさらに悪化していたはずだ。そうなれば操はもっと早い段階で動けなくなって、力尽きていただろう。
今日だって、甲洋がいなければなにもできなかった。容子は命の恩人なのに、操はそんな彼女が弱っているのをただ見ていることしかできなかった。
「まだ、なにかある?」
黙りこくってうつむいてしまった操の顔を、甲洋がかすかに首をかしげて覗き込んでくる。
「……ぼく」
「うん」
「ぼくってやっぱり、ポンコツなのかな……」
一週間ここでのんきに暮らして、忘れたつもりでいたけれど。悪ガキたちが言っていたように、操は失敗ばかりの駄目なタヌキだ。
こんな弱音を甲洋にぶつけたところで、なんの意味もないことは知っている。だけど吐きださずにはいられなくて、操はまた涙を滲ませた。
「……泣き虫タヌキ」
すると小さく息を漏らした甲洋が、澄ましたトーンでぽつりと言った。操は思わずムッとして、ポコンとしっぽを跳ねさせながら彼を睨みつけた。
「ぼくそんな名前じゃないもん! 来主操って名前があるもん!」
泣き虫じゃないし──とも言いかけて、やっぱりやめた。とっさに腹を立ててしまったけれど、甲洋の言う通りだったからだ。さっきからずっと泣き顔ばかり見せている。
なんだかバツが悪くて、操はぶぅっと唇を尖らせた。
「じゃあ来主、お前はちゃんとやれていた。羽佐間先生を助けたよ」
「え?」
「俺のところに来た」
「……でも、それってぼくが助けたとは言えないよ」
「来主が知らせてくれなければ、俺だってなにもできなかった。だから、来主がいてくれて助かった」
それはそうかもしれないが。なんだかいまいちピンと来ない。
だけどもし操がいなければ、一人きりの容子は今ごろどうなっていただろう。自力で助けを求めることさえできなかったはずだ。
操がそばにいたから、すぐに彼女の異変に気づくことができた。だから甲洋が来てくれて、容子を助けることができたのだ。
「そっか……ぼく、ちゃんとお母さんの役に立てたんだ……!」
現金なもので、考え方ひとつで操の心は驚くほど軽くなった。表情にも明るさが戻ってくる。ちょっと誇らしい気持ちにすらなってきて、操は人差し指で鼻の下をこすりながら「えへへ」と笑った。
「……単純」
「えー? なにか言った?」
「いや、なにも」
「そっか、えへへー」
操の笑顔に釣られたのか、甲洋はふっと口元に笑みを浮かべた。そしてまるでショコラにでもするみたいに、ふかふかの耳が生えた操の頭をくしゃりと撫でた。
「!」
驚いて息を呑んだのは二人同時だった。ポカンとする操に、彼はすぐさま背を向けた。
「じゃあ、俺はもう帰るから」
声はいつにもまして平坦で、押し殺したように低かった。
いよいよ帰ろうとしてドアノブに手をかける甲洋にハッとして、操は「待って」と引き止めた。
「……なに」
振り向かないまま、彼はぶっきらぼうな返事をする。
「どうして夜だと、葉っぱでもご飯がもらえるの?」
操はさっきの店でのやり取りが、ずっと胸に引っかかっていた。
思えば初めて偽札を持って店に突撃したときも、彼は「夜に出直せ」と言っていた。昼間は駄目で、夜ならいいというのはなぜなんだろう。
次はいつ会えるか分からないし、今しか聞くチャンスがないと思った。
「……気になるなら、一週間後の夜にまたおいで」
甲洋はそれだけ言うと帰っていった。
残された操は、彼が出ていった扉を見つめたまましばらく動くことができなかった。家の中はシンと静まり返っていて、今までのことがまるで夢のようだった。
「……笑った、よね?」
夢じゃないことを確かめるように、操は自分自身に問いかけた。時間差でジワジワと胸が熱くなってくる。
「わ、ぁ……わぁ……」
感嘆の声をしきりに漏らし、操はとっさに両手を頭にやった。左右それぞれの耳をきゅっと掴んで、頬を赤くする。大きな手の感触が、まだそこに残っているような気がした。だんだん耳まで熱くなる。
「ぼくに笑ってくれたんだ!」
ショコラにしていたみたいに、優しく頭を撫でながら。
操はそこでようやく、自分がショコラを羨んでいたことに気がついた。あの坂道で、初めて彼の笑顔を見たときから。心のどこかでずっとそう思っていたことに。
どうして羨ましかったのかは分からないし、今だってこの感情につける名前を持たないけれど。
(嬉しい……!)
それだけは確かで、操はぎゅうぎゅうと耳を握りしめたまま喜びに胸を波打たせた。
←戻る ・ 次へ→
甲洋と共に帰宅すると、容子は変わらない姿勢でソファに横たわっていた。
「お母さん!」
すぐさま駆け寄った操を差し置いて、どこからか姿を現したショコラが彼女のそばに歩み寄る。容子の顔に鼻を近づけ、軽く匂いを嗅いだあとその頬をペロンと舐めた。
「お母さんに近寄らないで!」
警戒して声を荒げる操を、甲洋が片手で制して「大丈夫」と言った。
「で、でもお母さんが!」
「悪さはしない。ショコラは羽佐間先生のことが好きだから」
「え……?」
操は目を丸くしながらショコラを見た。弱々しく「クゥン」と鳴いて、まるで労るように容子の頬を幾度もペロペロと舐めている。
どういうことかと首を傾げていると、甲洋がソファの足元に膝をついて容子の額に手を当てた。
「少し熱っぽい」
するとそこで、ずっと眠り続けていた容子がはたと目を覚ました。
「お母さん!」
「操……それに、甲洋くん……?」
操と甲洋の顔を交互に見やり、容子は不思議そうな顔をした。
身を起こした彼女の横ではショコラがソファに乗り上げ、『ワン!』と嬉しそうに鳴きながらしっぽを振っている。けれど容子にはその姿が見えず、声も聞こえていないようだった。
「ごめんなさい。私ったら、すっかり眠ってしまったのね」
「よかったぁ……このままだったらどうしようかと思ったよ……」
操は安堵から力が抜けて、ペタリと床に座り込んでしまった。
眉を下げながら苦笑し、容子が改めて甲洋を見る。
「あなたたち、知り合いだったの?」
知り合いというかなんというか。化かしてやりたくて、たびたびちょっかいを出していたとは言いにくい。
そもそも操がああして力尽きていたのは、甲洋に悪さをしようとして失敗した結果だったのだ。でも、それを知られるのはちょっぴり嫌だった。
「えっ、と……う、うん」
容子の前ではいい子でいたい操は、目を泳がせながら曖昧に頷いた。チラリ、と甲洋に横目で見られたような気がしたが、そこは知らんぷりを決め込んだ。
「お母さんに、なにか食べさせなくちゃと思ったんだ。でも、ぼくだけじゃどうしたらいいか分からなくて……だからご飯をもらいにお店に行ったの。そしたら一緒に来てくれた」
「そうだったの。ありがとう、操。甲洋くんも、わざわざごめんなさいね」
甲洋がかぶりを振った。澄ました表情をしているが、目元が少し柔らかい。
「軽い夏バテよ。毎年この時期になると疲れやすくなってしまって。嫌ね、もう歳かしら」
「そんなこと」
甲洋がまた首を振る。
「羽佐間先生には、元気でいてもらわないと」
そう言って、彼は部屋の片隅に目をやった。視線の先には棚に飾られた翔子の写真がある。容子もまた写真を見つめ、どこかしみじみと「そうね」と言った。
ショコラはそんな彼女の隣で行儀よく座っている。黒目がちの濡れた瞳をかすかに細め、容子の顔を見つめていた。
(仲良しなんだ、三人とも)
甲洋にしろショコラにしろ、容子とはどんな間柄なのだろう。
容子にはショコラの姿が見えていないようだが、彼女を見つめるショコラの瞳は慈愛に満ちている。
気にはなったが口を挟める空気ではなくて、操はただ親密そうな彼らを見つめていることしかできなかった。
*
その後、容子の代わりにキッチンに立った甲洋が、温かいそうめんを作ってくれた。
あの細長い棒状の束が、少し手を加えるだけでまるで違うものに変化してしまうなんて。もしかしたら、人間のほうがよほど化け術に長けているのではないかと、操は思った。
初めて食べるそうめんは、その温かさも相まって優しく胃に染み込んだ。溶き卵がふわふわしていて、出汁の風味と一緒にネギの香りが引き立っていた。
容子は終始すまなそうにしていたが、そうめんを食べると少しずつ顔色が戻ってきたようだった。それを見て、操は心底ホッとした。
甲洋は作るだけ作って、食べている二人の姿を静かに見守るだけだった。
そのとき容子から、甲洋が昔の教え子だったことを教えてもらった。ときどき彼の店に食事をしに行くこともあり、今でも交流があるのだと。
だから彼は容子を先生と呼んでいたのか。納得はしたが、子供時代の甲洋というのは、あまり想像できなかった。
食後、容子は自室に戻っていった。今夜は早く休んでほしいと、甲洋が促したからだ。
食器の片付けまで全て終え、帰ろうとする彼を操は玄関先まで見送ることにした。
「それじゃあ、俺はこれで」
「ねぇ、ちょっと待って」
靴を履き、背を向けようとする甲洋を引き止める。色素の薄い瞳が、無言で「なに?」と問いかけてきた。
「えっと、その……今日はありがと。助けてくれて。あと、足のことも。まだお礼言ってなかったから」
「気にしなくていい」
「ん……でも、ありがと」
あのとき彼が助けてくれなければ、足の腫れはさらに悪化していたはずだ。そうなれば操はもっと早い段階で動けなくなって、力尽きていただろう。
今日だって、甲洋がいなければなにもできなかった。容子は命の恩人なのに、操はそんな彼女が弱っているのをただ見ていることしかできなかった。
「まだ、なにかある?」
黙りこくってうつむいてしまった操の顔を、甲洋がかすかに首をかしげて覗き込んでくる。
「……ぼく」
「うん」
「ぼくってやっぱり、ポンコツなのかな……」
一週間ここでのんきに暮らして、忘れたつもりでいたけれど。悪ガキたちが言っていたように、操は失敗ばかりの駄目なタヌキだ。
こんな弱音を甲洋にぶつけたところで、なんの意味もないことは知っている。だけど吐きださずにはいられなくて、操はまた涙を滲ませた。
「……泣き虫タヌキ」
すると小さく息を漏らした甲洋が、澄ましたトーンでぽつりと言った。操は思わずムッとして、ポコンとしっぽを跳ねさせながら彼を睨みつけた。
「ぼくそんな名前じゃないもん! 来主操って名前があるもん!」
泣き虫じゃないし──とも言いかけて、やっぱりやめた。とっさに腹を立ててしまったけれど、甲洋の言う通りだったからだ。さっきからずっと泣き顔ばかり見せている。
なんだかバツが悪くて、操はぶぅっと唇を尖らせた。
「じゃあ来主、お前はちゃんとやれていた。羽佐間先生を助けたよ」
「え?」
「俺のところに来た」
「……でも、それってぼくが助けたとは言えないよ」
「来主が知らせてくれなければ、俺だってなにもできなかった。だから、来主がいてくれて助かった」
それはそうかもしれないが。なんだかいまいちピンと来ない。
だけどもし操がいなければ、一人きりの容子は今ごろどうなっていただろう。自力で助けを求めることさえできなかったはずだ。
操がそばにいたから、すぐに彼女の異変に気づくことができた。だから甲洋が来てくれて、容子を助けることができたのだ。
「そっか……ぼく、ちゃんとお母さんの役に立てたんだ……!」
現金なもので、考え方ひとつで操の心は驚くほど軽くなった。表情にも明るさが戻ってくる。ちょっと誇らしい気持ちにすらなってきて、操は人差し指で鼻の下をこすりながら「えへへ」と笑った。
「……単純」
「えー? なにか言った?」
「いや、なにも」
「そっか、えへへー」
操の笑顔に釣られたのか、甲洋はふっと口元に笑みを浮かべた。そしてまるでショコラにでもするみたいに、ふかふかの耳が生えた操の頭をくしゃりと撫でた。
「!」
驚いて息を呑んだのは二人同時だった。ポカンとする操に、彼はすぐさま背を向けた。
「じゃあ、俺はもう帰るから」
声はいつにもまして平坦で、押し殺したように低かった。
いよいよ帰ろうとしてドアノブに手をかける甲洋にハッとして、操は「待って」と引き止めた。
「……なに」
振り向かないまま、彼はぶっきらぼうな返事をする。
「どうして夜だと、葉っぱでもご飯がもらえるの?」
操はさっきの店でのやり取りが、ずっと胸に引っかかっていた。
思えば初めて偽札を持って店に突撃したときも、彼は「夜に出直せ」と言っていた。昼間は駄目で、夜ならいいというのはなぜなんだろう。
次はいつ会えるか分からないし、今しか聞くチャンスがないと思った。
「……気になるなら、一週間後の夜にまたおいで」
甲洋はそれだけ言うと帰っていった。
残された操は、彼が出ていった扉を見つめたまましばらく動くことができなかった。家の中はシンと静まり返っていて、今までのことがまるで夢のようだった。
「……笑った、よね?」
夢じゃないことを確かめるように、操は自分自身に問いかけた。時間差でジワジワと胸が熱くなってくる。
「わ、ぁ……わぁ……」
感嘆の声をしきりに漏らし、操はとっさに両手を頭にやった。左右それぞれの耳をきゅっと掴んで、頬を赤くする。大きな手の感触が、まだそこに残っているような気がした。だんだん耳まで熱くなる。
「ぼくに笑ってくれたんだ!」
ショコラにしていたみたいに、優しく頭を撫でながら。
操はそこでようやく、自分がショコラを羨んでいたことに気がついた。あの坂道で、初めて彼の笑顔を見たときから。心のどこかでずっとそう思っていたことに。
どうして羨ましかったのかは分からないし、今だってこの感情につける名前を持たないけれど。
(嬉しい……!)
それだけは確かで、操はぎゅうぎゅうと耳を握りしめたまま喜びに胸を波打たせた。
←戻る ・ 次へ→
06
羽佐間家の二階には、翔子の部屋がそのままの状態で残されている。
他とは少し違ったその空気を、操はクンクンと鼻を鳴らして確かめた。ほんのりと甘くて、ふわふわとした柔らかな匂い。それは本当にかすかな残り香のようなものだったが、容子のものと似ているようで、ほんの少しだけ違う気もした。
「娘が使っていた部屋なのよ。いつも綺麗にしてあるから、すぐにでも使えるわ」
「こんな立派な部屋、本当にぼくが使っていいの?」
「ええ、いいわよ。遠慮しないで」
「わぁ……!」
操は目をキラキラとさせながら部屋の中を見回した。
植物があしらわれた薄桃色の壁紙に、棚や机にはぬいぐるみが飾られている。とりわけ操の目を引いたのは、整えられた大きなベッドだった。そっと腰をおろして、ふかふかの感触を確かめる。
「わわっ、しっぽとお尻が埋もれちゃう! すっごくふかふか!」
「ふふっ」
操の無邪気な反応に、容子はついといった様子で手を口元に添えながら笑った。けれどすぐに少し困ったような顔をして、
「男の子には、少し可愛すぎるかもしれないけれど……」
と、気にしている様子を見せる。確かにこの部屋の愛らしさは、ここが女の子の部屋であることを強く主張している。けれど操は思いっきり首を左右に振った。
「そんなことないよ! ぼく、この部屋大好き!」
ベッドで軽く身体を上下させ、ウキウキと声を弾ませる。これから毎晩このふかふかのベッドで寝られるなんて、まるで夢みたいだと操は思った。
その様子に安堵の息を漏らした容子が、ベッド脇のカーテンと窓を開けて換気をはじめる。少しぬるいが、昼間よりはいくらか涼しい空気が流れ込んできた。
夏の虫の声を乗せ、緩やかに吹く風が肩まで伸びた容子の髪を揺らしている。それを軽く手で押さえる横顔を見て、操はことりと首をかしげた。
(翔子って子はもういないのに、どうしてずっと綺麗にしとくんだろう?)
まるで今も翔子がいるかのように、彼女はこの部屋をそのままの状態で残し続けている。使う人間がいないのに、わざわざ掃除までしておくことになんの意味があるんだろう。
(人間の風習は、ぼくにはよく分かんないや)
だけどそのおかげで、今日からさっそくこの部屋を使うことができるのだ。それにしばらくここにいてみれば、人間のことを少しずつ理解できるようになるかもしれない。
なんだかワクワクしてきた操は、ニッコリ笑って容子に言った。
「この部屋、大事に使うね。お母さん」
操の笑顔に容子は一瞬だけ瞳を揺らし、眉をハの字に下げると「ありがとう」と言って微笑んだ。
*
それから一週間が過ぎた。
容子はこの町の小さな中学校で教師の仕事についており、昼間は不在だ。
操はそのあいだ猫のクーと遊んだり、一緒に昼寝をしたり、テレビ──これも最初は驚いた──を見たりしながら留守番している。
家の中は安全だし、エアコンがあれば涼しいし、冷蔵庫にはいつもおやつのアイスが入っている。甘くて冷たくて美味しくて、初めて食べたときから操はこれの虜だった。
だけどアイスは一日に一つしか食べられない決まりになっている。食べ過ぎるとお腹を壊してしまうらしい。少し不満に思ったが、だからって夜中にこっそり食べてしまおうなんて思わない。だって容子と約束したから。
操はここでの暮らしをすっかり気に入り、人里生活を満喫していた。優しい母に美味しいご飯、可愛い猫とふかふかの寝床。そしてアイス。いっそこのまま本当にここんちの子になろうかな、なんて、ちょっと本気で思いはじめている。
──だけど、里のことはやっぱり気がかりだ。
美羽にはちゃんと帰ると約束している。きっと心配しているだろう。せめて一言でも無事を知らせることができたらいいのだが、そのための手段がない。なおのこと、一日でも早く里に戻るべきだと分かってはいるのだが──。
問題はこの半妖の姿だった。あれから何度も試したが、一向に元に戻れない。
葉っぱを小物に変える程度なら、この姿でも術が使える。なのにタヌキに戻ることだけが、どうしてもできない状態だった。
足はほぼ完治して、包帯も取れている。あとは変化が解けさえすれば、里に帰ることができるのに。
「元に戻れないんじゃ、しょうがないよね~」
現自室のベッドでごろ寝していた操は、コロリとのんきに寝返りを打つ。
今日も容子が朝から仕事で不在だった。昼に彼女が用意してくれたサンドイッチを食べ、庭をクーと一緒に散歩したり、今日の分のアイスを食べながらテレビを見たりしたあと、部屋に戻って昼寝をしていた。そしてたったいま目を覚ましたところである。
ふぁ、とあくびをしながら身を起こし、壁にかかっている時計に目をやる。時間の見方は教えてもらった。時刻は18時を過ぎており、そろそろ容子が戻ってくる頃だった。
「今日の夜ご飯なんだろ?」
問題を先延ばしにしている自覚は、一応ある。だけど、どうせ帰ったって叱られるだけだ。だったらご飯のことを考えている方が楽しいし、気が楽だった。
先っちょがまん丸のしっぽをウキウキと揺らしながら部屋を出て、一階に下りる。するとちょうど容子が帰宅したところだった。
「あっ、おかえり! お母さん!」
「ただいま、操。すぐにご飯の支度をするわね」
「やったー! ご飯だー!」
容子は普段持ち歩いているバッグの他に、ネギが刺さった買い物袋を持っていた。玄関からリビングに向かうその後ろを、操はヒヨコのようにくっついて歩いた。
「ねぇねぇお母さん、今日の夜なに?」
「今夜はおそうめんを茹でようと思っ、て……」
キッチン横のテーブルにバッグごと袋を置いた瞬間、容子の身体がフラリと一瞬よろめいた。
「お母さん!? どうかしたの!?」
操は容子の肩にしがみつくようにしてその身体を支えた。よく見れば顔色が悪い。くしゃりと表情を歪めた操に、容子はうっすらと額に汗を滲ませながらも笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。少し休めば、すぐによくなるから」
そう言って、容子はリビングのソファへ向かうと腰をおろして息をつく。操もすぐに駆け寄って、床に膝をつくとその顔を見上げた。
「お母さん、どこか苦しいの?」
「平気よ。ほら、こうして休んでいれば楽になるわ」
容子は肘掛けにすがるような形で半身を横向きにもたれかけ、そのまま目を閉じてしまった。操は耳をしょげさせながら床にペタリと座り込む。
しばらくは彼女が目を覚ますのを待っていたが、一向にその気配はなかった。むしろどんどん顔色が失われていくような気がして、不安な気持ちが次から次へと湧いてくる。
(どうしよう……お母さん、病気になっちゃったのかな……)
こんなとき、人間の子供ならどうするんだろう。どうするのが正解なんだろう。
里では怪我や病気をしたときは、薬草を飲んだり塗ったりして治療する。美羽の祖母にあたる千鶴というタヌキが、薬草を煎じる術に長けていた。だけどここはまるで別世界の人里だ。誰にどうやって助けを求めればいいのか、操には皆目検討もつかなかった。
(ご飯……そうだ、ご飯だ!)
もしかしたら、容子は腹が減りすぎて力が出ないのかもしれない。彼女に保護されるまで、自分もこんなふうにグッタリして動けなかった。だけど容子が作ってくれた食事のおかげで、今はこうしてピンピンしている。
(なにか食べれば、お母さんもきっと元気になる!)
操は大急ぎでキッチンに向かった。テーブルの上にある買い物袋から中身を出すと、そこにはそうめんとネギとかつお節の袋があった。
「そーめんってこれのこと? これをどうやって食べるの?」
ネギとかつお節は知っている。どちらも冷奴の上に乗っているものを食べたことがあった。しかし、この細長い棒状の束は一体なんだろう。
操には「そうめんを茹でる」という、人間なら子供ですら知っている常識が備わっていない。そもそもの話、料理をするという概念そのものを持ち合わせていなかったのだ。もっぱら食べるのが専門で、いつも台所に立つ容子の背中をワクワクしながら見ているだけだった。
「ぼくってもしかして、なにもできない……?」
青ざめながら呆然とした。なにか食べさせようにも、なにをどうすればいいかさっぱりだ。けれどこうしている間にも、容子はどんどん弱ってしまう。
時間がない。焦りばかりが膨らむなか、操はぐったりとソファに沈む容子を見た。
(どうしよう、どうしよう……あっ、そうだ!)
一人だけ、助けを求められそうな人物を知っている。その顔を思い浮かべた瞬間、操は弾かれたようにその場から駆けだしていた。
*
外はすっかり日が落ちて暗くなっていた。
人通りはごくわずかで、夜闇に乗じてしまえば誰にも姿を見られる心配がない。
操は甲洋がいるあの店を目指して必死で走った。道順はさっぱりだったが、野生の勘もフル稼働させ、さして迷うこともなくなんとか辿り着くことができた。
「よかった……っ、まだやってる!」
店にはあの夜と同じように灯りがついていた。
操はそのへんに落ちていた葉っぱを拾うと、千円札に変化させた。今回は『へのへのもへじ』になっていない。容子に紙幣を見せてもらったことがあるから、ちゃんとイメージ通りにできている。
これならバレないはずだと、偽札を握りしめると店に飛び込んだ。
ドアベルを鳴らしながらやってきた操に、エプロン姿の甲洋は驚くでもなく視線をくれるだけだった。相変わらずの反応の薄さだ。彼はレジに立ち、なにか作業をしていたようだった。
またあのウサギ男がいたらどうしようかと思ったが、店内は他に人気がなく、シンと静まり返っている。奥のカウンターではあの夜と同じようにお香が焚かれており、不思議な香りが漂っていた。
「ご飯、ちょうだい!」
操は息を切らしながら甲洋のもとへ駆け寄ると、レジカウンターの上に例の偽札をバンっと勢いよく置いた。
「今度はお金も持ってきたから! ほら……っ、あ、あれ……?」
しかしそこにあるはずの偽札は、元の葉っぱの姿に戻っていた。一箇所だけ虫食いがある、青々とした小さな葉っぱに。
それを見た操は、ショックを受けて言葉を失くす。さっきまではちゃんとお札だったのに。焦るあまり集中が切れて、術が解けてしまったのだ。
「そ、そんな……」
これではなんの役にも立たない。こうしているあいだにも、容子がどんどん弱ってしまう。最悪、死んでしまうかもしれないのに。
焦りと不安がピークに達して、みるみるうちに涙が溢れた。
(肝心なときに……どうしてぼくっていつもこうなの!?)
こらえきれずにこぼれた涙が、レジカウンターに置かれた葉っぱに落ちた。ぎゅっと目を閉じてうつむいていると、頭上で小さく溜息を漏らす音が聞こえた。
「いいよ」
「……え?」
顔を上げれば、あの乏しい表情が静かに操を見つめている。
「まだ夜の営業時間には早いけど。いいよ。なにがいいの?」
「でも、ぼく葉っぱしか持ってないよ?」
「それで十分。今夜はね」
今夜は、という言葉に首をかしげた操を、甲洋が視線だけで席に促す。操は慌てて首を横に振った。
「あのね、違うの。食べるのはぼくじゃないの」
「?」
「辛くないご飯ならなんでもいい。早くお母さんに食べさせないと……」
「お母さん?」
今度は甲洋が首をかしげる番だった。
「おっきな家に、白い猫と二人っきりで暮らしてる女の人。その人がぼくを助けてくれて、お母さんになってくれたの」
拙く簡素な説明だったが、甲洋はそれだけでなにかピンと来た様子だった。
「……もしかして、羽佐間容子さん?」
「知ってるの!?」
再び身を乗りだすと、甲洋は距離をとるように少しだけ腰を引かせた。落ち着き払った顔つきではあるが、その瞳がかすかに険しさを帯びている。
「羽佐間先生に、なにかあった?」
「動かなくなっちゃった。きっとお腹がすいてるんだと思う。ぼくも同じだったから」
ぐったりとソファで目を閉じる容子の姿を思いだし、操はまた涙を浮かべた。
まだほんの短い間だけれど、操にとって彼女は大切な存在だ。綺麗で優しくてあったかくて、まるで本当のお母さんみたいだと思っている。だけどもしこのまま目を覚まさなかったら──。
不安な気持ちごと涙がこぼれそうになったとき、濡れた目元になにかが触れた。
「っ、……!」
それは甲洋の指だった。彼は人差し指の背で、見開かれた操の目尻をそっと拭った。
「泣かなくていい」
じわりと染み込むような声だった。優しい仕草に、頬がぽーっと熱くなる。
あっけなく涙が引くのと同時に、甲洋の指先も遠のいた。なぜだか寂しいような気がして、操はモジモジと肩を揺らした。変な感じだ。今はそれどころじゃないはずなのに、心がふわふわしてしまう。
「一騎」
なにも言えずにまごまごするだけになってしまった操をよそに、甲洋がバックヤードの方に声をかけている。
「なんだー?」
扉が開かれ、真っ白いウサ耳の男がひょいと顔だけを覗かせた。
「うわっ、ウサギ!?」
「ああ、あのときの。大丈夫だったか? あのカレー、ちょっと辛かっただろ?」
「ひ、ひえぇ……っ」
震え上がる操に、ウサギ男が気さくに声をかけてくる。表情も柔らかくて優しげだったが、怖いもんはやっぱり怖い。
「一騎、ちょっと出てくる。頼めるか?」
甲洋がウサギに言うと、彼──一騎は腕時計をチラリと見やり、「ああ」と頷く。
「まだ時間もあるし、いいよ。わかった」
察するに、一騎はここの従業員であるらしい。操は思わずポカンとした。
そもそもタヌキ、キツネ、イタチであるならいざ知らず、ウサギが人間に化けるなんて見たことも聞いたこともない。それだけでも驚きなのに、人間の下で働いているなんて。
(この人、いったい何者なんだろう?)
ますます甲洋のことが分からなくなる。母系の犬に守護されながら、世にも珍しい化けウサギを雇っている人間。彼と関わると、やっぱりこちらの方が化かされているような気にさせられるから複雑だ。
なんとも言えない顔で突っ立っていると、甲洋に「行くよ」と声をかけられた。
「え? 行くってどこに?」
「羽佐間先生の家」
短く答えながら、甲洋は外したエプロンをレジカウンターの裏に押し込んだ。
←戻る ・ 次へ→
羽佐間家の二階には、翔子の部屋がそのままの状態で残されている。
他とは少し違ったその空気を、操はクンクンと鼻を鳴らして確かめた。ほんのりと甘くて、ふわふわとした柔らかな匂い。それは本当にかすかな残り香のようなものだったが、容子のものと似ているようで、ほんの少しだけ違う気もした。
「娘が使っていた部屋なのよ。いつも綺麗にしてあるから、すぐにでも使えるわ」
「こんな立派な部屋、本当にぼくが使っていいの?」
「ええ、いいわよ。遠慮しないで」
「わぁ……!」
操は目をキラキラとさせながら部屋の中を見回した。
植物があしらわれた薄桃色の壁紙に、棚や机にはぬいぐるみが飾られている。とりわけ操の目を引いたのは、整えられた大きなベッドだった。そっと腰をおろして、ふかふかの感触を確かめる。
「わわっ、しっぽとお尻が埋もれちゃう! すっごくふかふか!」
「ふふっ」
操の無邪気な反応に、容子はついといった様子で手を口元に添えながら笑った。けれどすぐに少し困ったような顔をして、
「男の子には、少し可愛すぎるかもしれないけれど……」
と、気にしている様子を見せる。確かにこの部屋の愛らしさは、ここが女の子の部屋であることを強く主張している。けれど操は思いっきり首を左右に振った。
「そんなことないよ! ぼく、この部屋大好き!」
ベッドで軽く身体を上下させ、ウキウキと声を弾ませる。これから毎晩このふかふかのベッドで寝られるなんて、まるで夢みたいだと操は思った。
その様子に安堵の息を漏らした容子が、ベッド脇のカーテンと窓を開けて換気をはじめる。少しぬるいが、昼間よりはいくらか涼しい空気が流れ込んできた。
夏の虫の声を乗せ、緩やかに吹く風が肩まで伸びた容子の髪を揺らしている。それを軽く手で押さえる横顔を見て、操はことりと首をかしげた。
(翔子って子はもういないのに、どうしてずっと綺麗にしとくんだろう?)
まるで今も翔子がいるかのように、彼女はこの部屋をそのままの状態で残し続けている。使う人間がいないのに、わざわざ掃除までしておくことになんの意味があるんだろう。
(人間の風習は、ぼくにはよく分かんないや)
だけどそのおかげで、今日からさっそくこの部屋を使うことができるのだ。それにしばらくここにいてみれば、人間のことを少しずつ理解できるようになるかもしれない。
なんだかワクワクしてきた操は、ニッコリ笑って容子に言った。
「この部屋、大事に使うね。お母さん」
操の笑顔に容子は一瞬だけ瞳を揺らし、眉をハの字に下げると「ありがとう」と言って微笑んだ。
*
それから一週間が過ぎた。
容子はこの町の小さな中学校で教師の仕事についており、昼間は不在だ。
操はそのあいだ猫のクーと遊んだり、一緒に昼寝をしたり、テレビ──これも最初は驚いた──を見たりしながら留守番している。
家の中は安全だし、エアコンがあれば涼しいし、冷蔵庫にはいつもおやつのアイスが入っている。甘くて冷たくて美味しくて、初めて食べたときから操はこれの虜だった。
だけどアイスは一日に一つしか食べられない決まりになっている。食べ過ぎるとお腹を壊してしまうらしい。少し不満に思ったが、だからって夜中にこっそり食べてしまおうなんて思わない。だって容子と約束したから。
操はここでの暮らしをすっかり気に入り、人里生活を満喫していた。優しい母に美味しいご飯、可愛い猫とふかふかの寝床。そしてアイス。いっそこのまま本当にここんちの子になろうかな、なんて、ちょっと本気で思いはじめている。
──だけど、里のことはやっぱり気がかりだ。
美羽にはちゃんと帰ると約束している。きっと心配しているだろう。せめて一言でも無事を知らせることができたらいいのだが、そのための手段がない。なおのこと、一日でも早く里に戻るべきだと分かってはいるのだが──。
問題はこの半妖の姿だった。あれから何度も試したが、一向に元に戻れない。
葉っぱを小物に変える程度なら、この姿でも術が使える。なのにタヌキに戻ることだけが、どうしてもできない状態だった。
足はほぼ完治して、包帯も取れている。あとは変化が解けさえすれば、里に帰ることができるのに。
「元に戻れないんじゃ、しょうがないよね~」
現自室のベッドでごろ寝していた操は、コロリとのんきに寝返りを打つ。
今日も容子が朝から仕事で不在だった。昼に彼女が用意してくれたサンドイッチを食べ、庭をクーと一緒に散歩したり、今日の分のアイスを食べながらテレビを見たりしたあと、部屋に戻って昼寝をしていた。そしてたったいま目を覚ましたところである。
ふぁ、とあくびをしながら身を起こし、壁にかかっている時計に目をやる。時間の見方は教えてもらった。時刻は18時を過ぎており、そろそろ容子が戻ってくる頃だった。
「今日の夜ご飯なんだろ?」
問題を先延ばしにしている自覚は、一応ある。だけど、どうせ帰ったって叱られるだけだ。だったらご飯のことを考えている方が楽しいし、気が楽だった。
先っちょがまん丸のしっぽをウキウキと揺らしながら部屋を出て、一階に下りる。するとちょうど容子が帰宅したところだった。
「あっ、おかえり! お母さん!」
「ただいま、操。すぐにご飯の支度をするわね」
「やったー! ご飯だー!」
容子は普段持ち歩いているバッグの他に、ネギが刺さった買い物袋を持っていた。玄関からリビングに向かうその後ろを、操はヒヨコのようにくっついて歩いた。
「ねぇねぇお母さん、今日の夜なに?」
「今夜はおそうめんを茹でようと思っ、て……」
キッチン横のテーブルにバッグごと袋を置いた瞬間、容子の身体がフラリと一瞬よろめいた。
「お母さん!? どうかしたの!?」
操は容子の肩にしがみつくようにしてその身体を支えた。よく見れば顔色が悪い。くしゃりと表情を歪めた操に、容子はうっすらと額に汗を滲ませながらも笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。少し休めば、すぐによくなるから」
そう言って、容子はリビングのソファへ向かうと腰をおろして息をつく。操もすぐに駆け寄って、床に膝をつくとその顔を見上げた。
「お母さん、どこか苦しいの?」
「平気よ。ほら、こうして休んでいれば楽になるわ」
容子は肘掛けにすがるような形で半身を横向きにもたれかけ、そのまま目を閉じてしまった。操は耳をしょげさせながら床にペタリと座り込む。
しばらくは彼女が目を覚ますのを待っていたが、一向にその気配はなかった。むしろどんどん顔色が失われていくような気がして、不安な気持ちが次から次へと湧いてくる。
(どうしよう……お母さん、病気になっちゃったのかな……)
こんなとき、人間の子供ならどうするんだろう。どうするのが正解なんだろう。
里では怪我や病気をしたときは、薬草を飲んだり塗ったりして治療する。美羽の祖母にあたる千鶴というタヌキが、薬草を煎じる術に長けていた。だけどここはまるで別世界の人里だ。誰にどうやって助けを求めればいいのか、操には皆目検討もつかなかった。
(ご飯……そうだ、ご飯だ!)
もしかしたら、容子は腹が減りすぎて力が出ないのかもしれない。彼女に保護されるまで、自分もこんなふうにグッタリして動けなかった。だけど容子が作ってくれた食事のおかげで、今はこうしてピンピンしている。
(なにか食べれば、お母さんもきっと元気になる!)
操は大急ぎでキッチンに向かった。テーブルの上にある買い物袋から中身を出すと、そこにはそうめんとネギとかつお節の袋があった。
「そーめんってこれのこと? これをどうやって食べるの?」
ネギとかつお節は知っている。どちらも冷奴の上に乗っているものを食べたことがあった。しかし、この細長い棒状の束は一体なんだろう。
操には「そうめんを茹でる」という、人間なら子供ですら知っている常識が備わっていない。そもそもの話、料理をするという概念そのものを持ち合わせていなかったのだ。もっぱら食べるのが専門で、いつも台所に立つ容子の背中をワクワクしながら見ているだけだった。
「ぼくってもしかして、なにもできない……?」
青ざめながら呆然とした。なにか食べさせようにも、なにをどうすればいいかさっぱりだ。けれどこうしている間にも、容子はどんどん弱ってしまう。
時間がない。焦りばかりが膨らむなか、操はぐったりとソファに沈む容子を見た。
(どうしよう、どうしよう……あっ、そうだ!)
一人だけ、助けを求められそうな人物を知っている。その顔を思い浮かべた瞬間、操は弾かれたようにその場から駆けだしていた。
*
外はすっかり日が落ちて暗くなっていた。
人通りはごくわずかで、夜闇に乗じてしまえば誰にも姿を見られる心配がない。
操は甲洋がいるあの店を目指して必死で走った。道順はさっぱりだったが、野生の勘もフル稼働させ、さして迷うこともなくなんとか辿り着くことができた。
「よかった……っ、まだやってる!」
店にはあの夜と同じように灯りがついていた。
操はそのへんに落ちていた葉っぱを拾うと、千円札に変化させた。今回は『へのへのもへじ』になっていない。容子に紙幣を見せてもらったことがあるから、ちゃんとイメージ通りにできている。
これならバレないはずだと、偽札を握りしめると店に飛び込んだ。
ドアベルを鳴らしながらやってきた操に、エプロン姿の甲洋は驚くでもなく視線をくれるだけだった。相変わらずの反応の薄さだ。彼はレジに立ち、なにか作業をしていたようだった。
またあのウサギ男がいたらどうしようかと思ったが、店内は他に人気がなく、シンと静まり返っている。奥のカウンターではあの夜と同じようにお香が焚かれており、不思議な香りが漂っていた。
「ご飯、ちょうだい!」
操は息を切らしながら甲洋のもとへ駆け寄ると、レジカウンターの上に例の偽札をバンっと勢いよく置いた。
「今度はお金も持ってきたから! ほら……っ、あ、あれ……?」
しかしそこにあるはずの偽札は、元の葉っぱの姿に戻っていた。一箇所だけ虫食いがある、青々とした小さな葉っぱに。
それを見た操は、ショックを受けて言葉を失くす。さっきまではちゃんとお札だったのに。焦るあまり集中が切れて、術が解けてしまったのだ。
「そ、そんな……」
これではなんの役にも立たない。こうしているあいだにも、容子がどんどん弱ってしまう。最悪、死んでしまうかもしれないのに。
焦りと不安がピークに達して、みるみるうちに涙が溢れた。
(肝心なときに……どうしてぼくっていつもこうなの!?)
こらえきれずにこぼれた涙が、レジカウンターに置かれた葉っぱに落ちた。ぎゅっと目を閉じてうつむいていると、頭上で小さく溜息を漏らす音が聞こえた。
「いいよ」
「……え?」
顔を上げれば、あの乏しい表情が静かに操を見つめている。
「まだ夜の営業時間には早いけど。いいよ。なにがいいの?」
「でも、ぼく葉っぱしか持ってないよ?」
「それで十分。今夜はね」
今夜は、という言葉に首をかしげた操を、甲洋が視線だけで席に促す。操は慌てて首を横に振った。
「あのね、違うの。食べるのはぼくじゃないの」
「?」
「辛くないご飯ならなんでもいい。早くお母さんに食べさせないと……」
「お母さん?」
今度は甲洋が首をかしげる番だった。
「おっきな家に、白い猫と二人っきりで暮らしてる女の人。その人がぼくを助けてくれて、お母さんになってくれたの」
拙く簡素な説明だったが、甲洋はそれだけでなにかピンと来た様子だった。
「……もしかして、羽佐間容子さん?」
「知ってるの!?」
再び身を乗りだすと、甲洋は距離をとるように少しだけ腰を引かせた。落ち着き払った顔つきではあるが、その瞳がかすかに険しさを帯びている。
「羽佐間先生に、なにかあった?」
「動かなくなっちゃった。きっとお腹がすいてるんだと思う。ぼくも同じだったから」
ぐったりとソファで目を閉じる容子の姿を思いだし、操はまた涙を浮かべた。
まだほんの短い間だけれど、操にとって彼女は大切な存在だ。綺麗で優しくてあったかくて、まるで本当のお母さんみたいだと思っている。だけどもしこのまま目を覚まさなかったら──。
不安な気持ちごと涙がこぼれそうになったとき、濡れた目元になにかが触れた。
「っ、……!」
それは甲洋の指だった。彼は人差し指の背で、見開かれた操の目尻をそっと拭った。
「泣かなくていい」
じわりと染み込むような声だった。優しい仕草に、頬がぽーっと熱くなる。
あっけなく涙が引くのと同時に、甲洋の指先も遠のいた。なぜだか寂しいような気がして、操はモジモジと肩を揺らした。変な感じだ。今はそれどころじゃないはずなのに、心がふわふわしてしまう。
「一騎」
なにも言えずにまごまごするだけになってしまった操をよそに、甲洋がバックヤードの方に声をかけている。
「なんだー?」
扉が開かれ、真っ白いウサ耳の男がひょいと顔だけを覗かせた。
「うわっ、ウサギ!?」
「ああ、あのときの。大丈夫だったか? あのカレー、ちょっと辛かっただろ?」
「ひ、ひえぇ……っ」
震え上がる操に、ウサギ男が気さくに声をかけてくる。表情も柔らかくて優しげだったが、怖いもんはやっぱり怖い。
「一騎、ちょっと出てくる。頼めるか?」
甲洋がウサギに言うと、彼──一騎は腕時計をチラリと見やり、「ああ」と頷く。
「まだ時間もあるし、いいよ。わかった」
察するに、一騎はここの従業員であるらしい。操は思わずポカンとした。
そもそもタヌキ、キツネ、イタチであるならいざ知らず、ウサギが人間に化けるなんて見たことも聞いたこともない。それだけでも驚きなのに、人間の下で働いているなんて。
(この人、いったい何者なんだろう?)
ますます甲洋のことが分からなくなる。母系の犬に守護されながら、世にも珍しい化けウサギを雇っている人間。彼と関わると、やっぱりこちらの方が化かされているような気にさせられるから複雑だ。
なんとも言えない顔で突っ立っていると、甲洋に「行くよ」と声をかけられた。
「え? 行くってどこに?」
「羽佐間先生の家」
短く答えながら、甲洋は外したエプロンをレジカウンターの裏に押し込んだ。
←戻る ・ 次へ→
05
ふかふかのふわふわ。この感覚には覚えがある。まるで雲の上にいるみたいな心地よさ。ソファの感触だ。
加えて頬にザラザラとしたものが触れている。ほんのり濡れているそれは、何度も何度も操の頬を行き来していた。
「う~ん……くすぐったいよ~……」
むずがりながら寝返りを打った操は、その瞬間ハッとして飛び起きた。まさかまたあの店に逆戻りしてしまったのかと思ったが、そこはまったく見覚えのない場所だった。
温かみのあるカーテンに、小綺麗な家具類が並ぶ室内。一つだけ置かれたテーブルセットの向こう側はキッチンになっており、全体的に生活感が漂っている。
(人間の匂い……でも、甲洋のじゃない。知らない匂いだ……)
不安に駆られながらも、とっさに自分の身体に目をやった。操の変化は未だ解けずに、フサフサの耳としっぽだけが生えたタヌキ人間のままだった。あの店で目を覚ましたときのように、てっきりタヌキの姿に戻っているものとばかり思っていたのに。
違和感を覚えつつも、ふいに視線を感じてソファの足元に目をやった。そこには真っ白い猫が行儀よく座って、こちらを見上げている姿がある。
「にゃぁん」
猫は丸い瞳をくるくるとさせ、ひと鳴きすると操の膝に飛び乗ってきた。ちょこん、と腰を落ち着かせ、不思議そうに小首を傾げて見せる。操もまた同じように首を傾げた。
「ここ、君んち? もしかして、君がぼくを助けてくれたの?」
「んにゃ~ん?」
「わぁ……ぼく、猫って初めて。可愛いね」
指先を口元に持っていくと、匂いをかがれたあとペロンと舐められた。ザラついた舌の感触は、さっき頬に感じたものと同じだった。
操は肩をすくめながら思わず笑って、その頭を幾度か撫でた。猫がゴロゴロと喉を鳴らしはじめる。もっと触れていたかったが、今はそんなことをしている場合じゃない。
「ごめんね。よく分かんないけど、ぼくもう行かなきゃ」
状況はまったく飲み込めないが、このままここにい続けるのは絶対マズい。甲洋がたまたまお人好しだったというだけで、他の人間もそうとは限らないのだ。これ以上余計に人と関わりを持つことは、なるべく避けたい事態だった。
早く逃げだそうとして、操はタヌキの姿に戻ろうとした。人間の身体では小回りがきかないし、脚力も弱いからだ。が、なぜか変化が解けてくれない。
「え、な、なんで!?」
「にゃん?」
何度も試したが、どんなに集中して念じてもダメだった。どうしたらいいか分からず、頭が混乱してしまう。
「どうして!? なんで元に戻れないの!?」
「あら、目が覚めたのね」
「ッ!?」
そのときふいに声がして、操は悲鳴すら上げられないほど驚いた。膝から飛びおりた猫が、声の主の足元へとすり寄っていく。
そこにはワンピースに薄手のカーディガンを羽織った、見知らぬ女性の姿があった。
「驚かせてしまったかしら。ごめんなさいね」
「ぁ、あ……だ、誰……?」
怯えながら恐る恐る口を開いた操に、女性はにっこりと穏やかな笑みを浮かべた。
*
女性は羽佐間容子と名乗った。
飼い猫のクーが窓の外を見てやけに騒ぐので、気になって様子を見に庭へ出たところ、倒れていた操を発見したのだと教えてくれた。
彼女は操の姿にまるで動じる気配がなかった。それどころか、キッチン横のテーブルに招くと、料理を振る舞ってくれた。
「い、いいの? ぼく、これ食べていいの?」
目の前には容子が準備してくれた食事がある。塩焼きのタラと薬味がたっぷりの冷奴、白菜の漬物にワカメとじゃがいものお味噌汁。操にとってはどれもこれもが初めてのものだった。
「どうぞ、召し上がれ」
「わあぁ……ありがとう! いただきまーす!」
操は大喜びでそれを食べた。箸がどうしても上手く使えず、途中で容子がスプーンとフォークを出してくれた。
彼女は向かい側の席につき、がっつく操に時おり苦笑しながら自らも食事に手をつけた。その足元では、クーも専用のご飯をカリカリと食べている。
「これ! これ美味しい! この葉っぱ、しょっぱくていい匂いがする!」
「白菜よ。柚子と一緒に漬けてあるの」
「じゃあこれは? このお魚、ふわふわしてて柔らかい」
「タラを塩焼きにしたものよ。骨が刺さらないように気をつけて」
「うん! 気をつけるね!」
初めの警戒心が嘘のように、操は満面の笑顔で次から次へと食べ物を口に運んだ。木の実や樹液とはまったく違う。温かくて、塩気があったり甘みがあったり、香りも豊かですべてが初めての味だった。
夢中で食べているうちに、なぜだか涙が溢れてきた。お腹いっぱい食べられることが、こんなに幸せなことだなんて。そんなことすら初めて知った。
グスングスンと鼻をすすりながら食べる操を、容子はずっと優しく見守っていた。
*
「ねぇ、あなたはぼくが怖くないの?」
食後、容子が淹れてくれたアイスティーというものを飲みながら、操はおずおずと問いかけた。
「どうしてそう思うのかしら」
「……だって、ぼく本当はタヌキなんだよ。ほら、耳としっぽがあるでしょ?」
甲洋もそうだったが、人間である彼女が化け狸を恐れたり、気味悪がったりしないのが不思議でならない。まるでごく普通の、人間の子供にするかのように扱うのだから。
すると容子は持ち上げていた自分のグラスをテーブルに戻し、「怖くないわよ」と言った。
「小さい頃、祖父母から化け狸やキツネの話をよく聞いたわ。今よりもずっと、あなたのような存在はごく身近なものだったんでしょうね。それに──」
容子は部屋の片隅へと目をやった。棚に飾られた写真立ての中には、黒髪の可愛らしい少女が笑顔で収まっている。
小首を傾げる操に、容子は「私の娘よ」と言って淋しげに笑った。
「幽霊だとか妖精だとか、目には見えないものを視ることができる子だったの。そういう力があったのよ。私にはそんな力はなかったけれど……。だからかしらね。あなたの姿を見たとき、少しも不思議に思わなかったわ」
「その子、もういないの?」
「ええ……まだ子供の頃に、病気でね」
「……そうなんだ」
うつむきながら、操は情けない気持ちが込み上げてくるのを感じた。
人間なんて、ちょっと本気を出せばいくらでも化かしてやれると思っていた。はなからバカにしきっていたのだ。だけどいざやってみると、ひとつも上手くいきやしない。
それどころか、半妖の姿を晒してさえ容子にはたやすく受け入れられてしまった。甲洋にいたっては、むしろこっちが化かされているような気にさせられる。
「ぼく、ぜんぜん天才なんかじゃないや」
里の悪ガキたちに言われた通りだ。人間の一人も化かせない。それどころか助けられてばかりいる、ただのポンコツ。
操はすっかり自信をなくしてしまった。さっきさんざん泣いたのに、凝りもせずまた涙が溢れる。
「だけどぼく、こんなんじゃもう帰れないよぅ……」
勝手に人里におりるだけでも掟破りなのに、操はそれ以上の失態を犯している。そのあげく、元の姿に戻ることすらできなくなってしまった。
こんな中途半端な姿の自分を、里の仲間たちが以前のように受け入れてくれるとは思えない。そもそもこのか弱い人間の足腰では、里までの山道をろくに越えることすらできないだろう。
「うぅ……うっ……ひっ、く……うぅ……」
両手で目尻をこすりながら、操は肩を震わせて泣いた。足元でくつろいでいたはずのクーが、何事かと目を丸くして操の様子をじっと見上げる。
容子は痛ましそうな表情を浮かべていたが、やがてゆっくりと席を立った。すぐそばまでやってきて、そっと操の肩に手を置いた。
「娘がいなくなってから、この家はずっと私とクーの二人きりなの。なにがあったのかは分からないけど……あなたさえよければ、好きなだけここにいればいいわ」
「ッ、いいの……?」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、容子が目を細めるようにして優しく笑った。胸の奥が熱く痺れたようになって、ますます涙が込み上げる。
どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。操は人間をバカにしていたし、困らせてやったところで、どうということはないと思っていた。こうなってしまったのだって、ぜんぶ自業自得でしかないのに。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
干からびて空っぽになってしまうんじゃないかと思うくらい、操はその後もしばらくの間、ずっとメソメソと泣いてしまった。容子はそんな操に寄り添って、ときどき困ったように笑いながら涙と鼻水を拭いてくれた。
(なんだかお母さんみたい)
操には母親の記憶がない。物心ついた頃には、すでにいなかった。だけど美羽や里の仲間たちがいたから、寂しい思いをせずにすんでいた。あそこでは、みんなが家族のようなものだったから。だから母親の存在を気にしたことすらなかった。
けれど容子の優しさに触れているうちに、こんな人が母親だったらいいなと、操はふとそんなことを思ってしまった。
「ねぇ、あなたのこと、お母さんって呼んでもいい?」
少しずつ涙が引いてきたころ、真っ赤な目と鼻をしながらそう言った操に、容子は一瞬だけ目を丸くした。
会ったばかりの、しかも中途半端な化け狸にそんなことを言われて、戸惑うのは当たり前だ。けれど容子は少しだけ切なそうに、そしてどこかくすぐったそうに笑いながら、
「いいわよ」
と言って、ふわふわの耳が生えた操の頭を優しく撫でた。
←戻る ・ 次へ→
ふかふかのふわふわ。この感覚には覚えがある。まるで雲の上にいるみたいな心地よさ。ソファの感触だ。
加えて頬にザラザラとしたものが触れている。ほんのり濡れているそれは、何度も何度も操の頬を行き来していた。
「う~ん……くすぐったいよ~……」
むずがりながら寝返りを打った操は、その瞬間ハッとして飛び起きた。まさかまたあの店に逆戻りしてしまったのかと思ったが、そこはまったく見覚えのない場所だった。
温かみのあるカーテンに、小綺麗な家具類が並ぶ室内。一つだけ置かれたテーブルセットの向こう側はキッチンになっており、全体的に生活感が漂っている。
(人間の匂い……でも、甲洋のじゃない。知らない匂いだ……)
不安に駆られながらも、とっさに自分の身体に目をやった。操の変化は未だ解けずに、フサフサの耳としっぽだけが生えたタヌキ人間のままだった。あの店で目を覚ましたときのように、てっきりタヌキの姿に戻っているものとばかり思っていたのに。
違和感を覚えつつも、ふいに視線を感じてソファの足元に目をやった。そこには真っ白い猫が行儀よく座って、こちらを見上げている姿がある。
「にゃぁん」
猫は丸い瞳をくるくるとさせ、ひと鳴きすると操の膝に飛び乗ってきた。ちょこん、と腰を落ち着かせ、不思議そうに小首を傾げて見せる。操もまた同じように首を傾げた。
「ここ、君んち? もしかして、君がぼくを助けてくれたの?」
「んにゃ~ん?」
「わぁ……ぼく、猫って初めて。可愛いね」
指先を口元に持っていくと、匂いをかがれたあとペロンと舐められた。ザラついた舌の感触は、さっき頬に感じたものと同じだった。
操は肩をすくめながら思わず笑って、その頭を幾度か撫でた。猫がゴロゴロと喉を鳴らしはじめる。もっと触れていたかったが、今はそんなことをしている場合じゃない。
「ごめんね。よく分かんないけど、ぼくもう行かなきゃ」
状況はまったく飲み込めないが、このままここにい続けるのは絶対マズい。甲洋がたまたまお人好しだったというだけで、他の人間もそうとは限らないのだ。これ以上余計に人と関わりを持つことは、なるべく避けたい事態だった。
早く逃げだそうとして、操はタヌキの姿に戻ろうとした。人間の身体では小回りがきかないし、脚力も弱いからだ。が、なぜか変化が解けてくれない。
「え、な、なんで!?」
「にゃん?」
何度も試したが、どんなに集中して念じてもダメだった。どうしたらいいか分からず、頭が混乱してしまう。
「どうして!? なんで元に戻れないの!?」
「あら、目が覚めたのね」
「ッ!?」
そのときふいに声がして、操は悲鳴すら上げられないほど驚いた。膝から飛びおりた猫が、声の主の足元へとすり寄っていく。
そこにはワンピースに薄手のカーディガンを羽織った、見知らぬ女性の姿があった。
「驚かせてしまったかしら。ごめんなさいね」
「ぁ、あ……だ、誰……?」
怯えながら恐る恐る口を開いた操に、女性はにっこりと穏やかな笑みを浮かべた。
*
女性は羽佐間容子と名乗った。
飼い猫のクーが窓の外を見てやけに騒ぐので、気になって様子を見に庭へ出たところ、倒れていた操を発見したのだと教えてくれた。
彼女は操の姿にまるで動じる気配がなかった。それどころか、キッチン横のテーブルに招くと、料理を振る舞ってくれた。
「い、いいの? ぼく、これ食べていいの?」
目の前には容子が準備してくれた食事がある。塩焼きのタラと薬味がたっぷりの冷奴、白菜の漬物にワカメとじゃがいものお味噌汁。操にとってはどれもこれもが初めてのものだった。
「どうぞ、召し上がれ」
「わあぁ……ありがとう! いただきまーす!」
操は大喜びでそれを食べた。箸がどうしても上手く使えず、途中で容子がスプーンとフォークを出してくれた。
彼女は向かい側の席につき、がっつく操に時おり苦笑しながら自らも食事に手をつけた。その足元では、クーも専用のご飯をカリカリと食べている。
「これ! これ美味しい! この葉っぱ、しょっぱくていい匂いがする!」
「白菜よ。柚子と一緒に漬けてあるの」
「じゃあこれは? このお魚、ふわふわしてて柔らかい」
「タラを塩焼きにしたものよ。骨が刺さらないように気をつけて」
「うん! 気をつけるね!」
初めの警戒心が嘘のように、操は満面の笑顔で次から次へと食べ物を口に運んだ。木の実や樹液とはまったく違う。温かくて、塩気があったり甘みがあったり、香りも豊かですべてが初めての味だった。
夢中で食べているうちに、なぜだか涙が溢れてきた。お腹いっぱい食べられることが、こんなに幸せなことだなんて。そんなことすら初めて知った。
グスングスンと鼻をすすりながら食べる操を、容子はずっと優しく見守っていた。
*
「ねぇ、あなたはぼくが怖くないの?」
食後、容子が淹れてくれたアイスティーというものを飲みながら、操はおずおずと問いかけた。
「どうしてそう思うのかしら」
「……だって、ぼく本当はタヌキなんだよ。ほら、耳としっぽがあるでしょ?」
甲洋もそうだったが、人間である彼女が化け狸を恐れたり、気味悪がったりしないのが不思議でならない。まるでごく普通の、人間の子供にするかのように扱うのだから。
すると容子は持ち上げていた自分のグラスをテーブルに戻し、「怖くないわよ」と言った。
「小さい頃、祖父母から化け狸やキツネの話をよく聞いたわ。今よりもずっと、あなたのような存在はごく身近なものだったんでしょうね。それに──」
容子は部屋の片隅へと目をやった。棚に飾られた写真立ての中には、黒髪の可愛らしい少女が笑顔で収まっている。
小首を傾げる操に、容子は「私の娘よ」と言って淋しげに笑った。
「幽霊だとか妖精だとか、目には見えないものを視ることができる子だったの。そういう力があったのよ。私にはそんな力はなかったけれど……。だからかしらね。あなたの姿を見たとき、少しも不思議に思わなかったわ」
「その子、もういないの?」
「ええ……まだ子供の頃に、病気でね」
「……そうなんだ」
うつむきながら、操は情けない気持ちが込み上げてくるのを感じた。
人間なんて、ちょっと本気を出せばいくらでも化かしてやれると思っていた。はなからバカにしきっていたのだ。だけどいざやってみると、ひとつも上手くいきやしない。
それどころか、半妖の姿を晒してさえ容子にはたやすく受け入れられてしまった。甲洋にいたっては、むしろこっちが化かされているような気にさせられる。
「ぼく、ぜんぜん天才なんかじゃないや」
里の悪ガキたちに言われた通りだ。人間の一人も化かせない。それどころか助けられてばかりいる、ただのポンコツ。
操はすっかり自信をなくしてしまった。さっきさんざん泣いたのに、凝りもせずまた涙が溢れる。
「だけどぼく、こんなんじゃもう帰れないよぅ……」
勝手に人里におりるだけでも掟破りなのに、操はそれ以上の失態を犯している。そのあげく、元の姿に戻ることすらできなくなってしまった。
こんな中途半端な姿の自分を、里の仲間たちが以前のように受け入れてくれるとは思えない。そもそもこのか弱い人間の足腰では、里までの山道をろくに越えることすらできないだろう。
「うぅ……うっ……ひっ、く……うぅ……」
両手で目尻をこすりながら、操は肩を震わせて泣いた。足元でくつろいでいたはずのクーが、何事かと目を丸くして操の様子をじっと見上げる。
容子は痛ましそうな表情を浮かべていたが、やがてゆっくりと席を立った。すぐそばまでやってきて、そっと操の肩に手を置いた。
「娘がいなくなってから、この家はずっと私とクーの二人きりなの。なにがあったのかは分からないけど……あなたさえよければ、好きなだけここにいればいいわ」
「ッ、いいの……?」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、容子が目を細めるようにして優しく笑った。胸の奥が熱く痺れたようになって、ますます涙が込み上げる。
どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。操は人間をバカにしていたし、困らせてやったところで、どうということはないと思っていた。こうなってしまったのだって、ぜんぶ自業自得でしかないのに。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
干からびて空っぽになってしまうんじゃないかと思うくらい、操はその後もしばらくの間、ずっとメソメソと泣いてしまった。容子はそんな操に寄り添って、ときどき困ったように笑いながら涙と鼻水を拭いてくれた。
(なんだかお母さんみたい)
操には母親の記憶がない。物心ついた頃には、すでにいなかった。だけど美羽や里の仲間たちがいたから、寂しい思いをせずにすんでいた。あそこでは、みんなが家族のようなものだったから。だから母親の存在を気にしたことすらなかった。
けれど容子の優しさに触れているうちに、こんな人が母親だったらいいなと、操はふとそんなことを思ってしまった。
「ねぇ、あなたのこと、お母さんって呼んでもいい?」
少しずつ涙が引いてきたころ、真っ赤な目と鼻をしながらそう言った操に、容子は一瞬だけ目を丸くした。
会ったばかりの、しかも中途半端な化け狸にそんなことを言われて、戸惑うのは当たり前だ。けれど容子は少しだけ切なそうに、そしてどこかくすぐったそうに笑いながら、
「いいわよ」
と言って、ふわふわの耳が生えた操の頭を優しく撫でた。
←戻る ・ 次へ→
04
その夜──。
操は少年の姿のまま、建物の裏手にある藪の中に潜んでいた。
かすかに虫の声がするだけで、辺りは閑散とした静寂に満たされている。店はすっかり客足が途絶え、人の出入りが一切なくなっていた。
そろそろ頃合いかと、操は藪からひょっこりと顔をだした。ムッと眉を吊り上げ、不満もあらわに建物を睨みつける。
昼間、あの青年は「夜に出直せ」と言っていた。しかし操がこうして待機していたのは、その言葉を素直に聞き入れたからではない。
(もう怒ったぞ……食べ物の恨みは怖いんだ……!)
完全に逆恨みだ。けれど空腹と苛立ちに取り憑かれた操にとって、それは些細なことだった。どんな手を使っても、あの青年にギャフンと言わせなければ気が済まない。
そこで操はひらめいた。人気が失せた夜の店内に忍び込み、そこにある全てのものを食べ尽くしてやろう、と。
(そもそもぼくはタヌキなんだから、そのほうが野生らしくて自然だよね)
操は化け狸である以前に野生動物だ。野生に生きる獣は、畑を荒らすにもわざわざ人間に断りを入れたりなんかしない。だから下手に人の真似事をするのはやめて、正攻法で挑むことにした。
名付けて『のた坊主作戦』だ。
のた坊主とはその昔、人間の子供に化けて勝手に酒蔵に忍び込み、元酒を飲んでしまうという悪さをしていた化け狸のことである。
操の狙いは酒ではないが、シチュエーション的にはそっくりだ。
知らぬまに店の食べ物が全てなくなっていたら、さすがに彼──甲洋も冷静ではいられないはずだ。少しは慌てる姿が見られるかもしれないとワクワクしたが、そこでふと、今までとは違った感情が胸をよぎった。
(……ぜんぶ食べちゃうのは、さすがにやめとこうかなぁ)
操は彼をほんのちょっぴり困らせたいだけであって、なにも物凄く困らせたいわけではない。一応は手当をしてもらった恩もあるし、おんぶしてくれたのも嬉しかった。操の足を、ずっと気にかけてくれていたことも。
それにもし食べ物が全部なくなってしまったら、今度は甲洋がひもじい思いをすることになる。お腹がすくと悲しくて、泣きたい気持ちになってしまう。人里におりてから、操はそれを嫌というほど学んだ。同じ思いをさせるのは、なんだかちょっと嫌だった。
甲洋の困った顔は見たいけど、泣き顔は別に見たくない。むしろどちらかといえばその逆で──
(あのひと、なんで犬にしか笑わないんだろ)
店で接客しているときでさえ、彼は誰に対してもほとんど表情を動かすことがなかった。決まった動作を、ただ淡々と繰り返すだけの人形みたいに。
だけどあの坂道で通せんぼする操を追い払った犬──ショコラにだけは、優しい笑顔を見せていた。
そんなのズルいと操は思う。なにがどうズルいのか、自分でもよく分からないけど。あの笑顔を思いだすと、胸の奥がモヤモヤしてくるような気がするのはなぜだろう。
「……まぁいいや。ぼくにはもっと大事なことがあるんだし」
甲洋のことが気になるのは確かだが、早く帰らなければ今ごろ美羽が心配している。雑念を振り払うように両手でパチパチと頬を叩き、息をついて気合いを入れた。
「よーし、これが最後だ! がんばるぞ!」
藪の中からピョンと飛びだし、操は店の裏口へと忍び寄った。
*
慎重に扉を開けると、そこはちょうどカウンター裏のキッチンになっていた。
明かりはついているが、人の気配は感じられない。ただ、昼間と違ってハーブのような爽やかな香りが漂っている。決して不快なものではないが、操は思わず顔をしかめた。
「うわ、なにこの匂い。鼻が変になっちゃいそう」
ふと見やると、カウンターテーブルに置かれた小皿の上で、スティックタイプのお香が煙を上げていることに気がついた。あれが匂いの発生源だ。
けれどすぐに慣れて気にならなくなったので、操は構わずキッチンの奥まで足を踏み入れた。
するとそこには、コンロの上で火にかけられた大きな鍋があった。
くつくつと音がする丸い鍋を覗き込み、操はパァッと瞳を輝かせた。これが一騎カレーに違いない。昼に見たものより少しばかり赤みが強い気がするが、煮込まれた野菜が見るからにトロトロになっている。
「やったー! これをお腹いっぱい食べちゃうぞ!」
操はウキウキしながらお玉を手に取り、カレーをすくい上げた。ふぅふぅと息を吹きかけ、冷めてきたところを見計らって口をつける。すると舌の上いっぱいに、今まで味わったことのない未知の旨味が──広がらなかった。
「う゛……ッ!?」
駆け抜けたのは強烈な刺激だった。操の顔が一瞬にして真っ赤に染まり、全身からドッと汗が噴きだしてくる。口いっぱいに広がったのは、一言で言えば激痛だった。
「~~ッ! か、からぁい! 痛い! にゃにこれぇ!?」
とっさに手放したお玉が、派手な音を立てて床に転がる。操は目に涙をためながら、火を吹きそうになっている口を両手で押さえた。
どうにか飲み込んだものの、焼けつくような痛みは喉の奥にまで広がっている。両足をバタつかせながら、ゲホゲホと激しくむせた。
(ムリムリ! こんなのぜんぜん美味しくないよ!!)
衝撃のあまり中途半端に変化が解けて、ポンッと音を立てながら耳としっぽだけがタヌキに戻ってしまった。けれど構っている余裕がない。水を求めて周辺をガチャガチャと荒らしていると、ふいに背後から声がした。
「どこの子だ?」
「ッ!?」
振り返ると、そこには白いウサ耳を生やした黒髪の青年がいた。カウンター越しにキョトンとしながら、こちらを見ている。
それを見た操は、今度は一気に青ざめた。悪事を働いたタヌキと、罰を下すウサギの伝説。カチカチ山がトラウマ化している操にとって、ウサギもまた恐怖の対象だ。しかも、現在進行形で悪さをしている最中である。
「裏から入ったのか? そこはキッチンだから、お客さんは入っちゃダメだぞ?」
ウサギ青年の声と表情は優しげだが、激辛と恐怖のコンボでそれどころじゃない操は、目が回るほどの大パニックになってしまった。
「ヒイィィ……ッ、う、う、ウサギだぁー!!」
「あ、おい! ちょっとっ……!」
上ずった悲鳴を漏らし、操は一も二もなく逃げだした。腰を抜かしそうになりながらも、裏口から全力で飛びだしていく。
残されたウサギの青年は、呆然としながら目を瞬かせた。クツクツというカレーを煮込む音だけが、静かな店内に大きく響く。
「な、なんだ? あれ……」
「どうかした?」
騒ぎを聞きつけ、バックヤードから姿を現したのは店主である甲洋だった。うさ耳青年は、戸惑った表情のまま小首を傾げる。
「えーと……タヌキ、かな?」
「……ああ、あの子か」
裏口の扉が開けっ放しのまま、ギィギィと音を立てている。甲洋はそれを見て、心のうちで呆れながら嘆息を漏らした。
*
操は泣きながら、夜の道をがむしゃらに走って逃げていた。
口の中はいまだに燃えるように痛いし、胃袋にまでその感覚が広がっている。しかも無理をして走っているせいで、せっかく落ち着いていた足の痛みまでぶり返してきた。
だけど、気を抜けばあのウサギ男が追いかけてくるかもしれない。そう思うとどうしても足を止めることができなかった。
(なんなのあれ!? もうやだ! こんなとこいたくないよ……!!)
人里に下りてから、散々な目にばかりあっている。こんなことなら美羽の言うことを聞いて、あのとき素直に里へ引き返していればよかった。今さら後悔しても仕方のないことを、それでも思わずにはいられない。
甲洋に背負われてのぼった坂を下り、それでもなお操は走った。やがて住宅地に迷い込み、ついに体力が限界を迎えた。
「こ、ここまで来れば、もう大丈夫だよね……」
操は適当な民家の庭に侵入すると、木陰に膝をついてそのままうつ伏せに倒れた。ゼェゼェと荒く息をつき、意識を朦朧とさせる。
これからどうしたらいいのだろう。考えかけて、やめてしまった。今はとにかく休みたい。けっきょく腹も満たせなかったし、喉もカラカラだ。夜のジメジメとした蒸し暑さが、操からわずかな気力すら奪い去る。
(もう、どうだっていいや……)
耳としっぽだけを生やした半妖のまま、操は意識を手放した。
←戻る ・ 次へ→
その夜──。
操は少年の姿のまま、建物の裏手にある藪の中に潜んでいた。
かすかに虫の声がするだけで、辺りは閑散とした静寂に満たされている。店はすっかり客足が途絶え、人の出入りが一切なくなっていた。
そろそろ頃合いかと、操は藪からひょっこりと顔をだした。ムッと眉を吊り上げ、不満もあらわに建物を睨みつける。
昼間、あの青年は「夜に出直せ」と言っていた。しかし操がこうして待機していたのは、その言葉を素直に聞き入れたからではない。
(もう怒ったぞ……食べ物の恨みは怖いんだ……!)
完全に逆恨みだ。けれど空腹と苛立ちに取り憑かれた操にとって、それは些細なことだった。どんな手を使っても、あの青年にギャフンと言わせなければ気が済まない。
そこで操はひらめいた。人気が失せた夜の店内に忍び込み、そこにある全てのものを食べ尽くしてやろう、と。
(そもそもぼくはタヌキなんだから、そのほうが野生らしくて自然だよね)
操は化け狸である以前に野生動物だ。野生に生きる獣は、畑を荒らすにもわざわざ人間に断りを入れたりなんかしない。だから下手に人の真似事をするのはやめて、正攻法で挑むことにした。
名付けて『のた坊主作戦』だ。
のた坊主とはその昔、人間の子供に化けて勝手に酒蔵に忍び込み、元酒を飲んでしまうという悪さをしていた化け狸のことである。
操の狙いは酒ではないが、シチュエーション的にはそっくりだ。
知らぬまに店の食べ物が全てなくなっていたら、さすがに彼──甲洋も冷静ではいられないはずだ。少しは慌てる姿が見られるかもしれないとワクワクしたが、そこでふと、今までとは違った感情が胸をよぎった。
(……ぜんぶ食べちゃうのは、さすがにやめとこうかなぁ)
操は彼をほんのちょっぴり困らせたいだけであって、なにも物凄く困らせたいわけではない。一応は手当をしてもらった恩もあるし、おんぶしてくれたのも嬉しかった。操の足を、ずっと気にかけてくれていたことも。
それにもし食べ物が全部なくなってしまったら、今度は甲洋がひもじい思いをすることになる。お腹がすくと悲しくて、泣きたい気持ちになってしまう。人里におりてから、操はそれを嫌というほど学んだ。同じ思いをさせるのは、なんだかちょっと嫌だった。
甲洋の困った顔は見たいけど、泣き顔は別に見たくない。むしろどちらかといえばその逆で──
(あのひと、なんで犬にしか笑わないんだろ)
店で接客しているときでさえ、彼は誰に対してもほとんど表情を動かすことがなかった。決まった動作を、ただ淡々と繰り返すだけの人形みたいに。
だけどあの坂道で通せんぼする操を追い払った犬──ショコラにだけは、優しい笑顔を見せていた。
そんなのズルいと操は思う。なにがどうズルいのか、自分でもよく分からないけど。あの笑顔を思いだすと、胸の奥がモヤモヤしてくるような気がするのはなぜだろう。
「……まぁいいや。ぼくにはもっと大事なことがあるんだし」
甲洋のことが気になるのは確かだが、早く帰らなければ今ごろ美羽が心配している。雑念を振り払うように両手でパチパチと頬を叩き、息をついて気合いを入れた。
「よーし、これが最後だ! がんばるぞ!」
藪の中からピョンと飛びだし、操は店の裏口へと忍び寄った。
*
慎重に扉を開けると、そこはちょうどカウンター裏のキッチンになっていた。
明かりはついているが、人の気配は感じられない。ただ、昼間と違ってハーブのような爽やかな香りが漂っている。決して不快なものではないが、操は思わず顔をしかめた。
「うわ、なにこの匂い。鼻が変になっちゃいそう」
ふと見やると、カウンターテーブルに置かれた小皿の上で、スティックタイプのお香が煙を上げていることに気がついた。あれが匂いの発生源だ。
けれどすぐに慣れて気にならなくなったので、操は構わずキッチンの奥まで足を踏み入れた。
するとそこには、コンロの上で火にかけられた大きな鍋があった。
くつくつと音がする丸い鍋を覗き込み、操はパァッと瞳を輝かせた。これが一騎カレーに違いない。昼に見たものより少しばかり赤みが強い気がするが、煮込まれた野菜が見るからにトロトロになっている。
「やったー! これをお腹いっぱい食べちゃうぞ!」
操はウキウキしながらお玉を手に取り、カレーをすくい上げた。ふぅふぅと息を吹きかけ、冷めてきたところを見計らって口をつける。すると舌の上いっぱいに、今まで味わったことのない未知の旨味が──広がらなかった。
「う゛……ッ!?」
駆け抜けたのは強烈な刺激だった。操の顔が一瞬にして真っ赤に染まり、全身からドッと汗が噴きだしてくる。口いっぱいに広がったのは、一言で言えば激痛だった。
「~~ッ! か、からぁい! 痛い! にゃにこれぇ!?」
とっさに手放したお玉が、派手な音を立てて床に転がる。操は目に涙をためながら、火を吹きそうになっている口を両手で押さえた。
どうにか飲み込んだものの、焼けつくような痛みは喉の奥にまで広がっている。両足をバタつかせながら、ゲホゲホと激しくむせた。
(ムリムリ! こんなのぜんぜん美味しくないよ!!)
衝撃のあまり中途半端に変化が解けて、ポンッと音を立てながら耳としっぽだけがタヌキに戻ってしまった。けれど構っている余裕がない。水を求めて周辺をガチャガチャと荒らしていると、ふいに背後から声がした。
「どこの子だ?」
「ッ!?」
振り返ると、そこには白いウサ耳を生やした黒髪の青年がいた。カウンター越しにキョトンとしながら、こちらを見ている。
それを見た操は、今度は一気に青ざめた。悪事を働いたタヌキと、罰を下すウサギの伝説。カチカチ山がトラウマ化している操にとって、ウサギもまた恐怖の対象だ。しかも、現在進行形で悪さをしている最中である。
「裏から入ったのか? そこはキッチンだから、お客さんは入っちゃダメだぞ?」
ウサギ青年の声と表情は優しげだが、激辛と恐怖のコンボでそれどころじゃない操は、目が回るほどの大パニックになってしまった。
「ヒイィィ……ッ、う、う、ウサギだぁー!!」
「あ、おい! ちょっとっ……!」
上ずった悲鳴を漏らし、操は一も二もなく逃げだした。腰を抜かしそうになりながらも、裏口から全力で飛びだしていく。
残されたウサギの青年は、呆然としながら目を瞬かせた。クツクツというカレーを煮込む音だけが、静かな店内に大きく響く。
「な、なんだ? あれ……」
「どうかした?」
騒ぎを聞きつけ、バックヤードから姿を現したのは店主である甲洋だった。うさ耳青年は、戸惑った表情のまま小首を傾げる。
「えーと……タヌキ、かな?」
「……ああ、あの子か」
裏口の扉が開けっ放しのまま、ギィギィと音を立てている。甲洋はそれを見て、心のうちで呆れながら嘆息を漏らした。
*
操は泣きながら、夜の道をがむしゃらに走って逃げていた。
口の中はいまだに燃えるように痛いし、胃袋にまでその感覚が広がっている。しかも無理をして走っているせいで、せっかく落ち着いていた足の痛みまでぶり返してきた。
だけど、気を抜けばあのウサギ男が追いかけてくるかもしれない。そう思うとどうしても足を止めることができなかった。
(なんなのあれ!? もうやだ! こんなとこいたくないよ……!!)
人里に下りてから、散々な目にばかりあっている。こんなことなら美羽の言うことを聞いて、あのとき素直に里へ引き返していればよかった。今さら後悔しても仕方のないことを、それでも思わずにはいられない。
甲洋に背負われてのぼった坂を下り、それでもなお操は走った。やがて住宅地に迷い込み、ついに体力が限界を迎えた。
「こ、ここまで来れば、もう大丈夫だよね……」
操は適当な民家の庭に侵入すると、木陰に膝をついてそのままうつ伏せに倒れた。ゼェゼェと荒く息をつき、意識を朦朧とさせる。
これからどうしたらいいのだろう。考えかけて、やめてしまった。今はとにかく休みたい。けっきょく腹も満たせなかったし、喉もカラカラだ。夜のジメジメとした蒸し暑さが、操からわずかな気力すら奪い去る。
(もう、どうだっていいや……)
耳としっぽだけを生やした半妖のまま、操は意識を手放した。
←戻る ・ 次へ→
03
気持ちいいなぁと操は思った。
ふかふかとした柔らかなものに、身体を委ねている感覚。雲の上にでも寝転んでいるみたいな気分だ。
身体をプルプルとさせながら伸びをして、操はゆっくりと目を覚ます。疲れていたせいか、だいぶ深く眠っていたらしい。寝起きの手足がポカポカしていた。
「ふぁ~、よく寝たぁ」
あくびをすると身を起こし、まだ少しぼうっとしながらあたりを見渡す。
広々とした板張りの室内が、窓からさす夕焼けに照らされていた。テーブルと椅子のセットが幾つか設置されており、奥はカウンターになっている。遠くからカナカナカナ、という虫の声が聞こえるだけで、他には誰もいなかった。
「ここどこぉ?」
見慣れない景色に首をかしげる。
操が腰を落ち着けているのは、室内の片隅にあるアンティークソファだった。これがとにかくふかふかしていて、柔らかく沈み込む感触が心地いい。どうりで寝心地がいいわけだと納得してから、ふとここに至る経緯を思いだす。
「……あ、そっか。ここはきっとあの人の家だ」
どこへ行くのかと尋ねられ、自分でそう答えたのだから間違いない。
急に眠ってしまった操に、彼はどんな反応をしたのだろう。困らせてしまったかなと思ったが、そもそも困らせることが目的だったのだから気にすることはない。
あの青年のことだから、ノーリアクションだった可能性も十分にある。寝こけていた操には確かめようがないことだ。それにしても──
「人間の家って立派だな。ぼくんちとは大違いだ」
操が里で寝床にしているのは、広葉樹の裂け目にできた空洞だ。そこでいつも丸くなって眠っている。木の葉をたくさん敷き詰めているけれど、ここまでふかふかしていない。
どうにかしてこのソファを里に持ち帰ることはできないものかと考えながら、操はまた一つあくびをした。ついでにまぶたを擦ろうとしたとき、自分の手が丸くてふわふわとした獣の形をしていることに気がついて、一気に血の気が引いていく。
「嘘!? いつのまに!?」
操はすっかりタヌキの姿に戻っていた。眠りに落ちたせいで気が緩み、変化が解けてしまったのだ。しかもあの青年におんぶされた状態で。あまりにもリラックスしすぎて、今の今まで気づかなかった。
(ど、どうしよう!? ぼくがタヌキだってことバレちゃった!!)
まるで宗固狸(そうこだぬき)だ。操はとっさに里に伝わる化け狸の話を思いだした。
寺の僧に化けていた宗固狸はある日、昼寝をしているときにうっかり正体を現してしまった。けれど人々に受け入れられ、その後も僧として仕え続けたという。
しかしそれは人と物の怪の距離が近かったころの稀な一例であって、現代ではとても通用しない。だから人間に正体を知られることは、今のタヌキの里ではご法度なのだ。
(に、逃げなきゃ!)
明らかに手遅れな状況だが、誰もいないうちに姿を消してしまえば、今ならまだなかったことにできるのではないか。そう考えた操は、とにかくここから逃げようと思った。
パニック寸前の頭でソファから飛び降りようとしたとき、ふと自分の足首になにかが巻きついていることに気づいて動きを止める。
「なにこれ……?」
それは白くて清潔な包帯だった。腫れていた右足首に、グルグルと丁寧に巻きつけてある。熱を持って痛んでいたはずが、すいぶん楽になっていた。
もしかして、あの青年が手当してくれたのだろうか。
「目が覚めた?」
「ッ……!?」
すると突然、抑揚のない声がして飛び上がるほど驚いた。
見れば黒いエプロンをした青年が、カウンターの奥から姿を現したところだった。手にお盆を持っていて、なにかが盛られた皿を乗せている。甘酸っぱい香りから察するに、おそらくリンゴだ。
「まだ動かないほうがいい。治りが遅くなるから」
「ッ、……! ま、待って! 来ないで!」
操は毛を逆立てて、近づいてこようとする青年を威嚇した。
「ぼ、ぼくをどうするつもりなの!? 煮たり焼いたりして、食べるつもりなんでしょ!?」
タヌキである操は、人の言葉を話せない。だから青年の耳には、キャンキャンという子犬のような鳴き声にしか聞こえていないだろう。
ぶわわっ、と小さな身体を膨らませて叫ぶ操に、彼はかすかに小首をかしげた。
「リンゴ、もしかして嫌いだった?」
「その手には乗らないよ! リンゴなんかじゃ釣られないから! リンゴなんか! リンゴなんか!」
本音を言えばめちゃくちゃ食べたい。お腹もぐーぐー鳴っている。
だけどこれは罠に違いなかった。昔はそこらじゅうに猟師がいて、多くのタヌキが鉄砲で撃たれたり、罠にかかって捕らえられていた。そうして人間はタヌキを殺し、料理して食べてしまうのだ。
しかもそれを歌にして、鞠つきをして遊ぶ風習まである残忍な生き物だと、里では小さな頃から教わっている。
(っていうかこの人、なんでビックリしてないの!?)
現代での化け狸は、都市伝説的な扱いであるはずだ。しかし彼は操の正体を知っても、まったく驚くそぶりをみせない。むしろ最初から知っていたとでも言わんばかりに、ただ無表情で見つめてくるだけだった。
あまりにも何を考えているか分からないものだから、気味が悪くなった操はいっそう毛を逆立てた。こうなったら、噛みついてでも逃げるしかない。覚悟を決めて飛びかかろうとした、そのとき――
『ワウッ! ワウワウッ!!』
主の危機を察知して、またあの犬が現れた。
「ひいぃっ!?」
操は驚いた拍子にソファから落ちてしまった。ベタンとお尻から着地したのを見て、青年が「だいじょうぶ?」と問いかけてきたが、パニックに陥った操の耳には届かなかった。
肉球がすべって転びそうになりながらも、必死で床を引っ掻くようにして扉の方へ走っていく。ジャンプして掴んだドアノブを回すと、わずかな隙間から外の世界に飛びだした。
(逃げなきゃ! 逃げなきゃ! 食べられちゃう!)
一心不乱に走って、適当な茂みに飛び込むと身を隠す。
震えながら様子を窺うと、青年が扉を開けて外に出てくるのが見えた。彼はあたりを見回し、小さく息をつくと建物の中に戻っていった。
「た、助かった……」
はあぁ、と大きく息をつき、操はぐったりとその場に突っ伏した。
*
「お腹がすいて力がでない……」
人里に下りてから丸三日。茂みの中でそのまま一夜を明かした操は、あまりの空腹から動けなくなっていた。
真夏の太陽が降り注ぐなか、ミンミンと元気にセミが合唱している。ここは山の深部に比べると暑さも厳しく、もはや木の実を探し歩くだけの体力も残っていない。
こうなってくると、昨日のリンゴが惜しくなってくる。罠だと決めつけて拒んでしまったが、こんな思いをするくらいならちょっとくらい食べておけばよかった。
茂みの中でうずくまり、操はクスンと鼻を鳴らした。
「もう帰るしかないのかな」
勝手に里を飛びだして、人間に正体まで知られてしまった。あの何事にも無関心そうな青年が、わざわざ山奥まで里を荒らしにくるとは考えにくいが、こってり絞られることはまず間違いない。そして悪ガキたちには、ますますポンコツとバカにされてしまうだろう。
「そんなのやだ……」
叱られるのも嫌だし、バカにされるのも嫌だ。そもそもこんな状態では、険しい山道を越えられる自信もなかった。だけど里が恋しいのも確かで、完全にホームシックを発症した操はうるうると涙を浮かべる。すると──
「……ん?」
どこからかいい香りがしてきて、操は顔を上げると鼻をピクピクさせながら、しきりに匂いを吸い込んだ。
「おいしい匂いがする……これなんの匂い……?」
なんと表現したらいいか分からないが、里でよく使われている薬草の匂いに少し似ている。だけど苦味を含む嫌なものではない。今にもよだれが出てきそうなくらい、スパイシーで不思議な香りだ。
操は鼻を鳴らしながら、誘われるように茂みから顔を出していた。視界の先には例の建物がある。匂いはそこから漂っていた。
しばらく様子を見ていると、人間が一人、また一人と出たり入ったりしていることに気がついた。
「あの人の家、どうしてこんなに人が集まってくるんだろ?」
気になりだしたら止まらなくなり、操は勇気をだして茂みから飛びだすと、素早く建物の壁に身を寄せた。飛び上がって窓枠に掴まり、こっそり中を覗いてみる。
するとそこには、多くの人が席について食事をしている光景があった。
(わかった! ここはお店屋さんなんだ!)
どうりで椅子やテーブルが幾つも設置されていたわけだ。ここは食べ物を提供している店で、おそらくあの青年は店主なのだろう。注文を受けたり、料理を運ぶなどして忙しそうにしている姿が見える。
カウンターの奥にも誰かいるようだが、ここからではよく見えなかった。
(いいな……ぼくも食べたい……)
口の端から、タラッとよだれがこぼれてしまう。もはや空腹も限界を突破していた。
「よーし、こうなったら!」
操は窓枠を離して地面に着地すると、そこいらにある葉っぱを掴んで頭に乗せた。拝むように両手を合わせて念じると、ポンっと葉っぱから煙があがる。ひらりひらりと落ちてきたそれをキャッチして、わっと瞳を輝かせた。
「やったぁ! 大成功!」
葉っぱは千円札に姿を変えていた。人間がなにかを得るためには、お金が必要なことくらい知っている。つまり、これを使えば堂々と飯にありつけるというわけだ。
「ぼくってやっぱり天才だ!」
腹も満たせるし、ついでに偽札であの青年を化かすこともできる。一石二鳥の作戦に、操はすっかり元の調子を取り戻すことができたのだった。
*
「いらっしゃ……なんだ、戻ってきたのか?」
少年の姿に化け、ドアベルを鳴らしながら入店した操に、青年は意外そうな顔をした。昨日は顔色ひとつ変えなかったくせに、操がのこのこと再び姿を現したことには、多少なりとも驚いたらしい。
青年の表情をわずかでも動かせたことに、操は上機嫌で「ふふん」と得意げに鼻を鳴らすと、適当に空いている席に腰掛けた。
「今日のぼくはお客さんだよ。ちゃーんとおもてなししてよね」
すっかり気が大きくなってふんぞり返る操の目の前に、無表情に戻った青年が水を置く。
これはタダなのかなぁと興味深くグラスを覗き込んでいると、操の右足首に視線を落とした青年が、「足は?」と問いかけてきた。
「へ?」
「足。具合は?」
人の姿に化けてからも、包帯はしっかりと巻きつけられたままだ。食べ物のことしか頭になくて、すっかり忘れていた。だから余計に驚いてしまう。
思わず目をまん丸に見開いた操のことを、青年はただ黙って見下ろしていた。その瞳がかすかに揺れているような気がして、操はポカンとしたまま首をかしげる。
「もしかして、ずっと心配してくれてたの? ぼくのこと」
「……気にはしていた。ひどい腫れだったから」
「ぼく、タヌキだよ。人間じゃないよ?」
「それがなに?」
操はとっさに何も返すことができなかった。
青年の声は平淡で、ともすれば冷たくそっけないものに聞こえてしまう。だけどその裏側にある優しさは、坂道で操を背負ってくれたときのものと同じだった。
(すっごく分かりにくいけど……この人、多分いい人だ)
里では人間の恐ろしさばかりを教わってきたけれど、そうじゃない人間もいる。昨日だってそうだ。少なくとも、彼は操がタヌキと知ってもなお危害を加えることはしなかった。
食べるつもりならわざわざ手当なんかしないはずだし、寝てる間にいくらでも殺すことができただろう。昨日は取り乱していて、そこまで頭が回らなかったけど。
「えっと、平気だよ。足、もう痛くないよ」
この何にも興味がなさそうな青年が、あれからずっと自分のことを気にかけてくれていた。そう思うと、なぜだか頬が赤くなってモジモジしてしまう。うつむきながら肩をすくめて、股に挟み込んだ両手を意味もなくこすり合わせた。
なんだかよく分からないが、照れくさいような、こそばゆいような、とにかくふわふわして妙な気分だ。
「……そう。ならよかった」
青年の声には相変わらず抑揚がなく、感情がまったく読み取れない。だけど不思議と、昨日のように気味が悪いとは感じなかった。調子は狂わされているような気がするが。
「それで? 注文は?」
ぼくなにしに来たんだっけと目的を見失っていた操は、青年の問いかけにハッとした。
「そうだった!」
慌てて身を乗りだし、目の前に広げられたメニュー表を見る。しかしズラリと文字が並んでいるだけで、なにがなんだかよく分からなかった。
操はとっさに辺りを見回し、客の一人が食べているものに目をとめると指をさした。
「あれ! あれがいい!」
「一騎カレー?」
「そう! かずきかれー!」
あの客が食べているものは、カレーという名前らしい。漂ってくる匂いも、外で嗅いだものと同じだ。スプーンで美味しそうに食べている姿に、操はごくんと喉を鳴らした。
「いいけど、お金は持ってるの?」
「持ってるに決まってるじゃん! ほら、この通り!」
よくぞ聞いてくれましたとばかりに、自信満々で例の偽札をテーブルに置いた。
青年はそれを手にとり、一目見た瞬間に溜息をつく。
「残念だけど、これじゃなにも提供できない」
「え? なんで?」
「偉人の顔。へのへのもへじになってるよ」
「えぇ!?」
青年の手から偽札を奪い、穴が空くほど凝視した。確かに、そこにある人物の顔はペンで書きなぐったかのように簡略化されたものだが、かといってどこがどう違うのかさっぱり分からない。それもそのはずで、操は本物の紙幣を見たことがなかったのだ。だから術が失敗していることにも気づけなかった。
けれどここまで来て引き下がるのは癪である。一騎カレーとやらを食べないことには、操の気持ちも腹の虫も収まらない。
「やだやだ! ぼくカレー食べたい! ねぇいいでしょ!?」
「駄目だ」
「なんでぇ!? 昨日はリンゴ剥いてくれたじゃん!」
「君は客としてここに来た。だったら相応の対価は支払うべきだ」
「そんなぁ! ケチ! ケチケチ! いい人だと思って損した!」
操はあまりの悔しさに癇癪を起こし、両手でテーブルをバンバンと叩いた。他の客が、何事かと目を丸くしてこちらを見ている。
見かねた青年が、少しだけ眉尻を下げて軽く息をついた。
「腹が減ってるなら、今夜にでも出直して来な」
「なんで夜なの!? なんで今じゃダメなの!? 今がいい! 今すぐ食べたいの!」
『ガウッ!!』
「ひょわ!?」
青年の背後から、またあの黒い犬が飛びだした。駄々をこねる操を叱りつけるかのように、姿勢を低くして激しく吠える。
『ガウガウッ! ガウッ!!』
「わあぁっ……!? また出たぁ!」
慌てて飛び退くと、椅子がガタンと音を立ててひっくり返った。ますます客の視線を集めることになったが、吠え立てる犬が視えているものは誰ひとりとしていなかった。
「甲洋、どうかしたのか?」
カウンターの方からなにやら優しげな男性の声がして、甲洋と呼ばれた青年が「なんでもないよ」と答えている。その間、操は牙をむき出しにする犬から目を離すことができなかった。低い唸り声に冷や汗をかき、壁を背にしてにじにじと横歩きで距離をとる。
『ウウゥゥ……ワウッ!!』
「ッ、うわあぁぁん! バカー!!」
今にも飛びかかられそうになった瞬間、操はその場から一目散に逃げだした。
騒然とする店内に残されたのは、拙い捨て台詞とテーブルに置かれた一枚の葉っぱだけだった。
←戻る ・ 次へ→
気持ちいいなぁと操は思った。
ふかふかとした柔らかなものに、身体を委ねている感覚。雲の上にでも寝転んでいるみたいな気分だ。
身体をプルプルとさせながら伸びをして、操はゆっくりと目を覚ます。疲れていたせいか、だいぶ深く眠っていたらしい。寝起きの手足がポカポカしていた。
「ふぁ~、よく寝たぁ」
あくびをすると身を起こし、まだ少しぼうっとしながらあたりを見渡す。
広々とした板張りの室内が、窓からさす夕焼けに照らされていた。テーブルと椅子のセットが幾つか設置されており、奥はカウンターになっている。遠くからカナカナカナ、という虫の声が聞こえるだけで、他には誰もいなかった。
「ここどこぉ?」
見慣れない景色に首をかしげる。
操が腰を落ち着けているのは、室内の片隅にあるアンティークソファだった。これがとにかくふかふかしていて、柔らかく沈み込む感触が心地いい。どうりで寝心地がいいわけだと納得してから、ふとここに至る経緯を思いだす。
「……あ、そっか。ここはきっとあの人の家だ」
どこへ行くのかと尋ねられ、自分でそう答えたのだから間違いない。
急に眠ってしまった操に、彼はどんな反応をしたのだろう。困らせてしまったかなと思ったが、そもそも困らせることが目的だったのだから気にすることはない。
あの青年のことだから、ノーリアクションだった可能性も十分にある。寝こけていた操には確かめようがないことだ。それにしても──
「人間の家って立派だな。ぼくんちとは大違いだ」
操が里で寝床にしているのは、広葉樹の裂け目にできた空洞だ。そこでいつも丸くなって眠っている。木の葉をたくさん敷き詰めているけれど、ここまでふかふかしていない。
どうにかしてこのソファを里に持ち帰ることはできないものかと考えながら、操はまた一つあくびをした。ついでにまぶたを擦ろうとしたとき、自分の手が丸くてふわふわとした獣の形をしていることに気がついて、一気に血の気が引いていく。
「嘘!? いつのまに!?」
操はすっかりタヌキの姿に戻っていた。眠りに落ちたせいで気が緩み、変化が解けてしまったのだ。しかもあの青年におんぶされた状態で。あまりにもリラックスしすぎて、今の今まで気づかなかった。
(ど、どうしよう!? ぼくがタヌキだってことバレちゃった!!)
まるで宗固狸(そうこだぬき)だ。操はとっさに里に伝わる化け狸の話を思いだした。
寺の僧に化けていた宗固狸はある日、昼寝をしているときにうっかり正体を現してしまった。けれど人々に受け入れられ、その後も僧として仕え続けたという。
しかしそれは人と物の怪の距離が近かったころの稀な一例であって、現代ではとても通用しない。だから人間に正体を知られることは、今のタヌキの里ではご法度なのだ。
(に、逃げなきゃ!)
明らかに手遅れな状況だが、誰もいないうちに姿を消してしまえば、今ならまだなかったことにできるのではないか。そう考えた操は、とにかくここから逃げようと思った。
パニック寸前の頭でソファから飛び降りようとしたとき、ふと自分の足首になにかが巻きついていることに気づいて動きを止める。
「なにこれ……?」
それは白くて清潔な包帯だった。腫れていた右足首に、グルグルと丁寧に巻きつけてある。熱を持って痛んでいたはずが、すいぶん楽になっていた。
もしかして、あの青年が手当してくれたのだろうか。
「目が覚めた?」
「ッ……!?」
すると突然、抑揚のない声がして飛び上がるほど驚いた。
見れば黒いエプロンをした青年が、カウンターの奥から姿を現したところだった。手にお盆を持っていて、なにかが盛られた皿を乗せている。甘酸っぱい香りから察するに、おそらくリンゴだ。
「まだ動かないほうがいい。治りが遅くなるから」
「ッ、……! ま、待って! 来ないで!」
操は毛を逆立てて、近づいてこようとする青年を威嚇した。
「ぼ、ぼくをどうするつもりなの!? 煮たり焼いたりして、食べるつもりなんでしょ!?」
タヌキである操は、人の言葉を話せない。だから青年の耳には、キャンキャンという子犬のような鳴き声にしか聞こえていないだろう。
ぶわわっ、と小さな身体を膨らませて叫ぶ操に、彼はかすかに小首をかしげた。
「リンゴ、もしかして嫌いだった?」
「その手には乗らないよ! リンゴなんかじゃ釣られないから! リンゴなんか! リンゴなんか!」
本音を言えばめちゃくちゃ食べたい。お腹もぐーぐー鳴っている。
だけどこれは罠に違いなかった。昔はそこらじゅうに猟師がいて、多くのタヌキが鉄砲で撃たれたり、罠にかかって捕らえられていた。そうして人間はタヌキを殺し、料理して食べてしまうのだ。
しかもそれを歌にして、鞠つきをして遊ぶ風習まである残忍な生き物だと、里では小さな頃から教わっている。
(っていうかこの人、なんでビックリしてないの!?)
現代での化け狸は、都市伝説的な扱いであるはずだ。しかし彼は操の正体を知っても、まったく驚くそぶりをみせない。むしろ最初から知っていたとでも言わんばかりに、ただ無表情で見つめてくるだけだった。
あまりにも何を考えているか分からないものだから、気味が悪くなった操はいっそう毛を逆立てた。こうなったら、噛みついてでも逃げるしかない。覚悟を決めて飛びかかろうとした、そのとき――
『ワウッ! ワウワウッ!!』
主の危機を察知して、またあの犬が現れた。
「ひいぃっ!?」
操は驚いた拍子にソファから落ちてしまった。ベタンとお尻から着地したのを見て、青年が「だいじょうぶ?」と問いかけてきたが、パニックに陥った操の耳には届かなかった。
肉球がすべって転びそうになりながらも、必死で床を引っ掻くようにして扉の方へ走っていく。ジャンプして掴んだドアノブを回すと、わずかな隙間から外の世界に飛びだした。
(逃げなきゃ! 逃げなきゃ! 食べられちゃう!)
一心不乱に走って、適当な茂みに飛び込むと身を隠す。
震えながら様子を窺うと、青年が扉を開けて外に出てくるのが見えた。彼はあたりを見回し、小さく息をつくと建物の中に戻っていった。
「た、助かった……」
はあぁ、と大きく息をつき、操はぐったりとその場に突っ伏した。
*
「お腹がすいて力がでない……」
人里に下りてから丸三日。茂みの中でそのまま一夜を明かした操は、あまりの空腹から動けなくなっていた。
真夏の太陽が降り注ぐなか、ミンミンと元気にセミが合唱している。ここは山の深部に比べると暑さも厳しく、もはや木の実を探し歩くだけの体力も残っていない。
こうなってくると、昨日のリンゴが惜しくなってくる。罠だと決めつけて拒んでしまったが、こんな思いをするくらいならちょっとくらい食べておけばよかった。
茂みの中でうずくまり、操はクスンと鼻を鳴らした。
「もう帰るしかないのかな」
勝手に里を飛びだして、人間に正体まで知られてしまった。あの何事にも無関心そうな青年が、わざわざ山奥まで里を荒らしにくるとは考えにくいが、こってり絞られることはまず間違いない。そして悪ガキたちには、ますますポンコツとバカにされてしまうだろう。
「そんなのやだ……」
叱られるのも嫌だし、バカにされるのも嫌だ。そもそもこんな状態では、険しい山道を越えられる自信もなかった。だけど里が恋しいのも確かで、完全にホームシックを発症した操はうるうると涙を浮かべる。すると──
「……ん?」
どこからかいい香りがしてきて、操は顔を上げると鼻をピクピクさせながら、しきりに匂いを吸い込んだ。
「おいしい匂いがする……これなんの匂い……?」
なんと表現したらいいか分からないが、里でよく使われている薬草の匂いに少し似ている。だけど苦味を含む嫌なものではない。今にもよだれが出てきそうなくらい、スパイシーで不思議な香りだ。
操は鼻を鳴らしながら、誘われるように茂みから顔を出していた。視界の先には例の建物がある。匂いはそこから漂っていた。
しばらく様子を見ていると、人間が一人、また一人と出たり入ったりしていることに気がついた。
「あの人の家、どうしてこんなに人が集まってくるんだろ?」
気になりだしたら止まらなくなり、操は勇気をだして茂みから飛びだすと、素早く建物の壁に身を寄せた。飛び上がって窓枠に掴まり、こっそり中を覗いてみる。
するとそこには、多くの人が席について食事をしている光景があった。
(わかった! ここはお店屋さんなんだ!)
どうりで椅子やテーブルが幾つも設置されていたわけだ。ここは食べ物を提供している店で、おそらくあの青年は店主なのだろう。注文を受けたり、料理を運ぶなどして忙しそうにしている姿が見える。
カウンターの奥にも誰かいるようだが、ここからではよく見えなかった。
(いいな……ぼくも食べたい……)
口の端から、タラッとよだれがこぼれてしまう。もはや空腹も限界を突破していた。
「よーし、こうなったら!」
操は窓枠を離して地面に着地すると、そこいらにある葉っぱを掴んで頭に乗せた。拝むように両手を合わせて念じると、ポンっと葉っぱから煙があがる。ひらりひらりと落ちてきたそれをキャッチして、わっと瞳を輝かせた。
「やったぁ! 大成功!」
葉っぱは千円札に姿を変えていた。人間がなにかを得るためには、お金が必要なことくらい知っている。つまり、これを使えば堂々と飯にありつけるというわけだ。
「ぼくってやっぱり天才だ!」
腹も満たせるし、ついでに偽札であの青年を化かすこともできる。一石二鳥の作戦に、操はすっかり元の調子を取り戻すことができたのだった。
*
「いらっしゃ……なんだ、戻ってきたのか?」
少年の姿に化け、ドアベルを鳴らしながら入店した操に、青年は意外そうな顔をした。昨日は顔色ひとつ変えなかったくせに、操がのこのこと再び姿を現したことには、多少なりとも驚いたらしい。
青年の表情をわずかでも動かせたことに、操は上機嫌で「ふふん」と得意げに鼻を鳴らすと、適当に空いている席に腰掛けた。
「今日のぼくはお客さんだよ。ちゃーんとおもてなししてよね」
すっかり気が大きくなってふんぞり返る操の目の前に、無表情に戻った青年が水を置く。
これはタダなのかなぁと興味深くグラスを覗き込んでいると、操の右足首に視線を落とした青年が、「足は?」と問いかけてきた。
「へ?」
「足。具合は?」
人の姿に化けてからも、包帯はしっかりと巻きつけられたままだ。食べ物のことしか頭になくて、すっかり忘れていた。だから余計に驚いてしまう。
思わず目をまん丸に見開いた操のことを、青年はただ黙って見下ろしていた。その瞳がかすかに揺れているような気がして、操はポカンとしたまま首をかしげる。
「もしかして、ずっと心配してくれてたの? ぼくのこと」
「……気にはしていた。ひどい腫れだったから」
「ぼく、タヌキだよ。人間じゃないよ?」
「それがなに?」
操はとっさに何も返すことができなかった。
青年の声は平淡で、ともすれば冷たくそっけないものに聞こえてしまう。だけどその裏側にある優しさは、坂道で操を背負ってくれたときのものと同じだった。
(すっごく分かりにくいけど……この人、多分いい人だ)
里では人間の恐ろしさばかりを教わってきたけれど、そうじゃない人間もいる。昨日だってそうだ。少なくとも、彼は操がタヌキと知ってもなお危害を加えることはしなかった。
食べるつもりならわざわざ手当なんかしないはずだし、寝てる間にいくらでも殺すことができただろう。昨日は取り乱していて、そこまで頭が回らなかったけど。
「えっと、平気だよ。足、もう痛くないよ」
この何にも興味がなさそうな青年が、あれからずっと自分のことを気にかけてくれていた。そう思うと、なぜだか頬が赤くなってモジモジしてしまう。うつむきながら肩をすくめて、股に挟み込んだ両手を意味もなくこすり合わせた。
なんだかよく分からないが、照れくさいような、こそばゆいような、とにかくふわふわして妙な気分だ。
「……そう。ならよかった」
青年の声には相変わらず抑揚がなく、感情がまったく読み取れない。だけど不思議と、昨日のように気味が悪いとは感じなかった。調子は狂わされているような気がするが。
「それで? 注文は?」
ぼくなにしに来たんだっけと目的を見失っていた操は、青年の問いかけにハッとした。
「そうだった!」
慌てて身を乗りだし、目の前に広げられたメニュー表を見る。しかしズラリと文字が並んでいるだけで、なにがなんだかよく分からなかった。
操はとっさに辺りを見回し、客の一人が食べているものに目をとめると指をさした。
「あれ! あれがいい!」
「一騎カレー?」
「そう! かずきかれー!」
あの客が食べているものは、カレーという名前らしい。漂ってくる匂いも、外で嗅いだものと同じだ。スプーンで美味しそうに食べている姿に、操はごくんと喉を鳴らした。
「いいけど、お金は持ってるの?」
「持ってるに決まってるじゃん! ほら、この通り!」
よくぞ聞いてくれましたとばかりに、自信満々で例の偽札をテーブルに置いた。
青年はそれを手にとり、一目見た瞬間に溜息をつく。
「残念だけど、これじゃなにも提供できない」
「え? なんで?」
「偉人の顔。へのへのもへじになってるよ」
「えぇ!?」
青年の手から偽札を奪い、穴が空くほど凝視した。確かに、そこにある人物の顔はペンで書きなぐったかのように簡略化されたものだが、かといってどこがどう違うのかさっぱり分からない。それもそのはずで、操は本物の紙幣を見たことがなかったのだ。だから術が失敗していることにも気づけなかった。
けれどここまで来て引き下がるのは癪である。一騎カレーとやらを食べないことには、操の気持ちも腹の虫も収まらない。
「やだやだ! ぼくカレー食べたい! ねぇいいでしょ!?」
「駄目だ」
「なんでぇ!? 昨日はリンゴ剥いてくれたじゃん!」
「君は客としてここに来た。だったら相応の対価は支払うべきだ」
「そんなぁ! ケチ! ケチケチ! いい人だと思って損した!」
操はあまりの悔しさに癇癪を起こし、両手でテーブルをバンバンと叩いた。他の客が、何事かと目を丸くしてこちらを見ている。
見かねた青年が、少しだけ眉尻を下げて軽く息をついた。
「腹が減ってるなら、今夜にでも出直して来な」
「なんで夜なの!? なんで今じゃダメなの!? 今がいい! 今すぐ食べたいの!」
『ガウッ!!』
「ひょわ!?」
青年の背後から、またあの黒い犬が飛びだした。駄々をこねる操を叱りつけるかのように、姿勢を低くして激しく吠える。
『ガウガウッ! ガウッ!!』
「わあぁっ……!? また出たぁ!」
慌てて飛び退くと、椅子がガタンと音を立ててひっくり返った。ますます客の視線を集めることになったが、吠え立てる犬が視えているものは誰ひとりとしていなかった。
「甲洋、どうかしたのか?」
カウンターの方からなにやら優しげな男性の声がして、甲洋と呼ばれた青年が「なんでもないよ」と答えている。その間、操は牙をむき出しにする犬から目を離すことができなかった。低い唸り声に冷や汗をかき、壁を背にしてにじにじと横歩きで距離をとる。
『ウウゥゥ……ワウッ!!』
「ッ、うわあぁぁん! バカー!!」
今にも飛びかかられそうになった瞬間、操はその場から一目散に逃げだした。
騒然とする店内に残されたのは、拙い捨て台詞とテーブルに置かれた一枚の葉っぱだけだった。
←戻る ・ 次へ→
02
その翌日。
操は雑木林の中で一夜を明かし、再びあの青年が通るのを待ち構えていた。
しかし運良くまたここを通るとは限らない。こんなことなら昨日、後をつけて住処を調べておけばよかった──と後悔していると、なんと再び青年が現れた。
(やったぁ! 今日こそ絶対に成功してみせるぞ!)
操は青年が坂道をのぼるよりも先に、全速力で林を駆け抜けた。昨日は背後からだったが、今日は正面からの真っ向勝負だ。名付けて『小僧タヌキ作戦』である。
小僧タヌキとは、とある地方に古くから伝わる化け狸のことだ。その名のとおり小僧に化けて、通行人の行く手を妨げるというイタズラをする。
昨日に引き続き地味すぎる気もするが、操は青年の困った顔が見れさえすればそれでいいのだ。
坂と同じ傾斜の林をせっせとのぼり、操は昨日と同じ少年の姿に変化した。今日も一発で成功だ。そして青年が丁度いい位置にさしかかるタイミングで、林から飛びだした。目の前で両手を広げて、通せんぼする。
「へへー! ここは通さないよ!」
さぞかしビックリするだろうと思いきや、青年はピクリとも動じなかった。ただ無表情で、行く手を阻む操のドヤ顔を見つめるだけだ。
(あれ、なんか反応がイマイチだな……)
初めてまともにその顔を見たが、それにしても不健康そうだなと操は思った。肌も青白いし、全体的に覇気がない。夜道で遭遇したら、お化けと勘違いしかねない気がする。
今が昼間でよかったと思いつつ、操は気を取り直してふんぞり返った。
「困るでしょ! ここ通れないと困るでしょ!」
「……いや、別に」
「やったぁ! ぼくってやっぱり天才なのかも!」
都合が悪いことは聞こえていないことにした。今日は謎の犬も出てこない。あれはやっぱりただの気のせいだったのだろう。
操が上機嫌でいると、青年が脇を通り抜けようとした。当然、操も手を広げたまま移動する。右へ、左へ、そしてまた右。そろそろ怒るかなとドキドキしたが、彼はやっぱり表情を動かさない。ただ軽く首を傾げて、「どこの子?」と問いかけてくるだけだった。
「そんなの君には関係ないでしょ! とにかくここは通さないよ!」
「なんのために?」
「決まってるじゃん! 君を困らせたいからさ!」
「だからなんのために?」
「う、うるさいなぁ! っていうか君、その反応の薄さなんとかならないの!?」
もっと困るなり悔しがるなりしてもらわないと、こっちとしては手応えがない。
眉を吊り上げる操をじっと見つめていた青年は、やがて小さく息をつくと「ショコラ」と呟いた。その瞬間──
『ガウッ! ガウガウッ!!』
降って湧いたように、突然またあの黒い犬が激しく吠えながら姿を現した。
「ヒッ……──!?」
あまりにも驚きすぎて、まともに悲鳴すら上げられなかった。犬は青年の隣で姿勢を低くし、唸りながら今にも襲いかかってこようとしている。逆だった毛先から、くろぐろとした気が炎のように立ちのぼっていた。
操は真っ青になり、すっかり尻もちをついて震えあがった。
「な、なんなのこいつ!? どっから出てきたのぉ!?」
『ウゥゥゥ……ワウッ! ワウワウッ!!』
「ひええぇぇ……っ!!」
得意の狸寝入りをする余裕もなかった。さらに吠えられ、操は這うようにして一目散に林の茂みに飛び込んだ。その瞬間、変化が解けて元の姿に戻ってしまう。
茂みの中でガタガタと震えながら様子を窺うと、犬はこちらを向いていまだに威嚇を続けてる。
「もういいよ、ショコラ」
青年が声をかけ、片膝を地面についた。犬は落ち着きを取り戻し、青年の方を向くと嬉しそうにしっぽを振る。
「ありがとう」
そう言って微笑むと、青年が大きな手で犬の頭を優しく撫でる。操は怯えるのも忘れて、その横顔に見入ってしまった。
(……なんだよ、ぼくには無表情だったくせに。あんな顔して笑っちゃってさ)
猛烈な悔しさがこみ上げる。また失敗してしまった。一度ならず二度までも。
「ショコラ、行こう」
ぎりぎりタヌキの姿は見られていないと思うが、ここに操が隠れていることは明らかなのに、青年は目もくれずに歩きだす。その瞬間、犬は煙のように消えてしまった。
(見間違いじゃなかったんだ。でも、なんで?)
あの黒い犬が青年の守護霊であることは間違いない。しかし操が不思議でならないのは、犬が『男性』に憑いて守護しているということだった。
母系である犬は、本来なら『女性』を守る存在であるはずだ。男性に憑くのは珍しい。
操は以前、里のすぐ近くで犬神に会ったことがある。ディラン、というなにやらハイカラな名前の、男性の姿をした犬神だった。
彼は人間の巫女に仕えており、お使いのために山奥を訪れていた。そのとき知り合って仲良くなり、いろいろ教えてもらったのだ。だから少しは知識がある。
(なにか秘密があるのかも)
母系の犬に守護される、無表情で謎めいた青年に、操は興味を惹かれていた。彼を化かしてやりたいという野望も、もちろん捨てきれない。むしろそっちがメインである。
できれば早く里に帰りたいところだが、もう少しここで粘るしかなさそうだ。あの守護犬は厄介だが、狙った獲物を諦めるのは癪だった。
「よーし、次もがんば……イタッ!」
張り切って茂みから出ようとしたそのとき、右の足首に激痛が走って目を剥いた。さっき慌てて茂みに飛び込んだとき、ひねって痛めてしまったのだ。それどころじゃなくて気づくのが遅れたが、よく見れば右足首が腫れてズキズキしている。
「うぅ~、痛いよぉ……」
操はプルプルと震えてうずくまり、涙を浮かべながら途方に暮れた。
*
さらに翌日。
操はもはや人間に化け、坂のスタート地点にある電柱に背を預けながら、膝を抱えて座り込んでいた。
「足痛い……お腹すいた……」
右足首はさらに腫れてパンパンになっている。この二日間はそこらへんの木の実を食べて飢えをしのいでいたが、それもそろそろ限界だった。人間の生活圏ということもあり、ここは山の深部に比べて食べられるものの数も少ない。
足は痛いしお腹は減ったし、今にも心が折れそうだ。とりあえずは変化して青年を待ち伏せてはいるが、これといって作戦も浮かばない。ろくに食べていないせいで、脳がまともに機能していなかった。
「どうかした?」
涙目でうつむいていると、目の前に例の青年がたたずんで見下ろしていた。操は青年に恨みがましい瞳を向ける。
「……足が痛いの」
誰かさんのせいで、という言葉はひとまず飲み込む。青年は操の右足首の腫れに気づくと、ほんの少しだけ眉をしかめた。それは些細な表情の変化だったが、彼はまるで隠すように背中を向けるとしゃがみ込む。そして「ほら」と言った。
「え?」
「動けないんだろ? おぶってやるから」
「!」
青年の親切な申し出に、操は一瞬でピンと閃いた。
(ぼくをおんぶしてこの長い坂道をのぼったら、すっごく疲れて困っちゃうかも!)
日差しも強く、なかなかの猛暑日でもある。ひと一人を背負って坂道を登るなんて、まさに地獄でしかないはずだ。なにせ相手はひょろ長いだけのモヤシである。
操はこれを、『赤殿中(あかでんちゅう)作戦』と名付けた。赤殿中も古い言い伝えにある化け狸だ。赤い半纏を着た子供に化けて、人間にしつこくおんぶをねだる。操は自らねだったわけではないが、この状況を利用しない手はなかった。
「ほら、早く」
「いいの!? ありがとう!」
操は喜んで青年の背中に覆いかぶさり、首にぎゅっと抱きついた。彼は意外にも軽々と操を背負い、さっそうと坂道を登りはじめた。
「わー! 高い高い! 君ってけっこう力持ちだね!」
「暴れると落ちるよ」
「あはは! 風が顔に当たって気持ちいや!」
タヌキに比べて、人間の目線はとても高い。そのうえ長身に背負われて、操の目線はさらに高くなっている。つい楽しくて、すっかり目的を忘れてはしゃいでしまった。
「それで? どこまで行くの?」
その肩を叩いたりしながら喜んでいると、まったく疲れを感じさせない足取りで青年が問いかけてきた。
「んー、どこでもいいよ!」
「それじゃ困る」
「じゃあー、君んち!」
「俺んち?」
「うん! 君んちに行く!」
住処も突き止められて、一石二鳥だ。やっぱりぼくって天才かも、と操は思った。青年は特になにも答えず、淡々と歩き続けている。
やがて坂の中腹を過ぎた辺りで、操はひとつ欠伸をした。揺り籠に揺られているような心地よさが、疲れ切った身体に眠りを誘う。まぶたがどんどん落ちてきて、頭がゆらゆらと船をこぐ。
(背中おっきい……なんか、安心する……)
カクン、と落ちた頭を青年の首元にすっかり埋めて、操は眠りに落ちてしまった。
←戻る ・ 次へ→
その翌日。
操は雑木林の中で一夜を明かし、再びあの青年が通るのを待ち構えていた。
しかし運良くまたここを通るとは限らない。こんなことなら昨日、後をつけて住処を調べておけばよかった──と後悔していると、なんと再び青年が現れた。
(やったぁ! 今日こそ絶対に成功してみせるぞ!)
操は青年が坂道をのぼるよりも先に、全速力で林を駆け抜けた。昨日は背後からだったが、今日は正面からの真っ向勝負だ。名付けて『小僧タヌキ作戦』である。
小僧タヌキとは、とある地方に古くから伝わる化け狸のことだ。その名のとおり小僧に化けて、通行人の行く手を妨げるというイタズラをする。
昨日に引き続き地味すぎる気もするが、操は青年の困った顔が見れさえすればそれでいいのだ。
坂と同じ傾斜の林をせっせとのぼり、操は昨日と同じ少年の姿に変化した。今日も一発で成功だ。そして青年が丁度いい位置にさしかかるタイミングで、林から飛びだした。目の前で両手を広げて、通せんぼする。
「へへー! ここは通さないよ!」
さぞかしビックリするだろうと思いきや、青年はピクリとも動じなかった。ただ無表情で、行く手を阻む操のドヤ顔を見つめるだけだ。
(あれ、なんか反応がイマイチだな……)
初めてまともにその顔を見たが、それにしても不健康そうだなと操は思った。肌も青白いし、全体的に覇気がない。夜道で遭遇したら、お化けと勘違いしかねない気がする。
今が昼間でよかったと思いつつ、操は気を取り直してふんぞり返った。
「困るでしょ! ここ通れないと困るでしょ!」
「……いや、別に」
「やったぁ! ぼくってやっぱり天才なのかも!」
都合が悪いことは聞こえていないことにした。今日は謎の犬も出てこない。あれはやっぱりただの気のせいだったのだろう。
操が上機嫌でいると、青年が脇を通り抜けようとした。当然、操も手を広げたまま移動する。右へ、左へ、そしてまた右。そろそろ怒るかなとドキドキしたが、彼はやっぱり表情を動かさない。ただ軽く首を傾げて、「どこの子?」と問いかけてくるだけだった。
「そんなの君には関係ないでしょ! とにかくここは通さないよ!」
「なんのために?」
「決まってるじゃん! 君を困らせたいからさ!」
「だからなんのために?」
「う、うるさいなぁ! っていうか君、その反応の薄さなんとかならないの!?」
もっと困るなり悔しがるなりしてもらわないと、こっちとしては手応えがない。
眉を吊り上げる操をじっと見つめていた青年は、やがて小さく息をつくと「ショコラ」と呟いた。その瞬間──
『ガウッ! ガウガウッ!!』
降って湧いたように、突然またあの黒い犬が激しく吠えながら姿を現した。
「ヒッ……──!?」
あまりにも驚きすぎて、まともに悲鳴すら上げられなかった。犬は青年の隣で姿勢を低くし、唸りながら今にも襲いかかってこようとしている。逆だった毛先から、くろぐろとした気が炎のように立ちのぼっていた。
操は真っ青になり、すっかり尻もちをついて震えあがった。
「な、なんなのこいつ!? どっから出てきたのぉ!?」
『ウゥゥゥ……ワウッ! ワウワウッ!!』
「ひええぇぇ……っ!!」
得意の狸寝入りをする余裕もなかった。さらに吠えられ、操は這うようにして一目散に林の茂みに飛び込んだ。その瞬間、変化が解けて元の姿に戻ってしまう。
茂みの中でガタガタと震えながら様子を窺うと、犬はこちらを向いていまだに威嚇を続けてる。
「もういいよ、ショコラ」
青年が声をかけ、片膝を地面についた。犬は落ち着きを取り戻し、青年の方を向くと嬉しそうにしっぽを振る。
「ありがとう」
そう言って微笑むと、青年が大きな手で犬の頭を優しく撫でる。操は怯えるのも忘れて、その横顔に見入ってしまった。
(……なんだよ、ぼくには無表情だったくせに。あんな顔して笑っちゃってさ)
猛烈な悔しさがこみ上げる。また失敗してしまった。一度ならず二度までも。
「ショコラ、行こう」
ぎりぎりタヌキの姿は見られていないと思うが、ここに操が隠れていることは明らかなのに、青年は目もくれずに歩きだす。その瞬間、犬は煙のように消えてしまった。
(見間違いじゃなかったんだ。でも、なんで?)
あの黒い犬が青年の守護霊であることは間違いない。しかし操が不思議でならないのは、犬が『男性』に憑いて守護しているということだった。
母系である犬は、本来なら『女性』を守る存在であるはずだ。男性に憑くのは珍しい。
操は以前、里のすぐ近くで犬神に会ったことがある。ディラン、というなにやらハイカラな名前の、男性の姿をした犬神だった。
彼は人間の巫女に仕えており、お使いのために山奥を訪れていた。そのとき知り合って仲良くなり、いろいろ教えてもらったのだ。だから少しは知識がある。
(なにか秘密があるのかも)
母系の犬に守護される、無表情で謎めいた青年に、操は興味を惹かれていた。彼を化かしてやりたいという野望も、もちろん捨てきれない。むしろそっちがメインである。
できれば早く里に帰りたいところだが、もう少しここで粘るしかなさそうだ。あの守護犬は厄介だが、狙った獲物を諦めるのは癪だった。
「よーし、次もがんば……イタッ!」
張り切って茂みから出ようとしたそのとき、右の足首に激痛が走って目を剥いた。さっき慌てて茂みに飛び込んだとき、ひねって痛めてしまったのだ。それどころじゃなくて気づくのが遅れたが、よく見れば右足首が腫れてズキズキしている。
「うぅ~、痛いよぉ……」
操はプルプルと震えてうずくまり、涙を浮かべながら途方に暮れた。
*
さらに翌日。
操はもはや人間に化け、坂のスタート地点にある電柱に背を預けながら、膝を抱えて座り込んでいた。
「足痛い……お腹すいた……」
右足首はさらに腫れてパンパンになっている。この二日間はそこらへんの木の実を食べて飢えをしのいでいたが、それもそろそろ限界だった。人間の生活圏ということもあり、ここは山の深部に比べて食べられるものの数も少ない。
足は痛いしお腹は減ったし、今にも心が折れそうだ。とりあえずは変化して青年を待ち伏せてはいるが、これといって作戦も浮かばない。ろくに食べていないせいで、脳がまともに機能していなかった。
「どうかした?」
涙目でうつむいていると、目の前に例の青年がたたずんで見下ろしていた。操は青年に恨みがましい瞳を向ける。
「……足が痛いの」
誰かさんのせいで、という言葉はひとまず飲み込む。青年は操の右足首の腫れに気づくと、ほんの少しだけ眉をしかめた。それは些細な表情の変化だったが、彼はまるで隠すように背中を向けるとしゃがみ込む。そして「ほら」と言った。
「え?」
「動けないんだろ? おぶってやるから」
「!」
青年の親切な申し出に、操は一瞬でピンと閃いた。
(ぼくをおんぶしてこの長い坂道をのぼったら、すっごく疲れて困っちゃうかも!)
日差しも強く、なかなかの猛暑日でもある。ひと一人を背負って坂道を登るなんて、まさに地獄でしかないはずだ。なにせ相手はひょろ長いだけのモヤシである。
操はこれを、『赤殿中(あかでんちゅう)作戦』と名付けた。赤殿中も古い言い伝えにある化け狸だ。赤い半纏を着た子供に化けて、人間にしつこくおんぶをねだる。操は自らねだったわけではないが、この状況を利用しない手はなかった。
「ほら、早く」
「いいの!? ありがとう!」
操は喜んで青年の背中に覆いかぶさり、首にぎゅっと抱きついた。彼は意外にも軽々と操を背負い、さっそうと坂道を登りはじめた。
「わー! 高い高い! 君ってけっこう力持ちだね!」
「暴れると落ちるよ」
「あはは! 風が顔に当たって気持ちいや!」
タヌキに比べて、人間の目線はとても高い。そのうえ長身に背負われて、操の目線はさらに高くなっている。つい楽しくて、すっかり目的を忘れてはしゃいでしまった。
「それで? どこまで行くの?」
その肩を叩いたりしながら喜んでいると、まったく疲れを感じさせない足取りで青年が問いかけてきた。
「んー、どこでもいいよ!」
「それじゃ困る」
「じゃあー、君んち!」
「俺んち?」
「うん! 君んちに行く!」
住処も突き止められて、一石二鳥だ。やっぱりぼくって天才かも、と操は思った。青年は特になにも答えず、淡々と歩き続けている。
やがて坂の中腹を過ぎた辺りで、操はひとつ欠伸をした。揺り籠に揺られているような心地よさが、疲れ切った身体に眠りを誘う。まぶたがどんどん落ちてきて、頭がゆらゆらと船をこぐ。
(背中おっきい……なんか、安心する……)
カクン、と落ちた頭を青年の首元にすっかり埋めて、操は眠りに落ちてしまった。
←戻る ・ 次へ→
01
「もー! あったまきた! みんなしてぼくをバカにして!」
まん丸の小さな身体に、ふかふかの毛並みをした子だぬきが、山深い森の小道を全速力で駆けていた。先がまぁるく見える太いしっぽが、疾走する子だぬきの動きに合わせてポコポコと上下に揺れている。
彼はこの近くにあるタヌキの里に住む子だぬきだった。
その里には変化(へんげ)の術を得意とする化け狸たちが暮らしている。カテゴリー的には妖怪だ。現代ではすっかり数を減らしてしまったが、人間がそうそう踏み入ることのできない深い山奥に、ひっそりと身を寄せ合って生きている。
ちなみにすぐ近くには化け狐たちが暮らすキツネの村がある。タヌキとキツネは仲が悪いと思われがちだが、決してそんなことはない。昔はいがみ合っていたそうだが、今では数少ない化け仲間という認識で、それなりにうまく交流している。
話が逸れたが、なぜこの子だぬきがキレながら爆走しているかというと、それは彼の化け術の未熟さが原因だった。
他のタヌキたちは草木に化けたり、他の動物に化けたり、もちろん人間に化けることもできる。大昔には夜空のお月さまに化け、人間をからかっては遊んでいた猛者もいたと聞く。
しかしこの子だぬきは、化け術があまり得意ではなかった。人に化ければ顔だけタヌキのタヌキ人間に、木に化ければなぜかしっぽが生えたおかしな木に。必ずどこかしら身体の一部が残ってしまい、成功例がほとんどない。
だから里の悪ガキたちに、ポンコツと言われてバカにされてしまった。悔しかったら、人間の一人くらい化かしてみせろ、と。
「今に見てろよ! ぼくだってやればできるんだ!」
完全に煽り耐性0である。子だぬきはカンカンで、そのぐらい朝飯前だと啖呵を切ると里を飛びだした。なにがなんでもバカにしたやつらを見返してやりたい。成功するまで、絶対に里には戻らないと胸に誓った。
「操ー! ねぇ待ってぇー!」
すると後ろの方から、よく知る声が自分の名前を呼ぶのが聞こえた。
足を止めて振り返ると、耳の片方に花の飾りをつけたふわふわの子だぬきが、必死で走ってくる姿が見える。
「美羽、どうしたの?」
「どうしたの、じゃないでしょ! 帰るよ、操!」
目の前で足をとめ、美羽はハァハァと少し苦しそうに息をしながら言った。
彼女は幼馴染で、大の仲良しの子だぬきだった。一匹で里を飛びだした操を心配して、追いかけてきたのだろう。けれど操は、そんな美羽にぷいっと顔を背けて見せた。
「やだね! ぼくが立派な化け狸だってこと証明するまで、絶対に帰らないよ!」
「あんなの気にしちゃダメだよ。それに、人里におりたら怒られちゃう。美羽たちみたいなタヌキがいるって知られたら、人間が捕まえにくるかもしれないんだよ」
「そ、それは……」
「だから美羽たちは、里から出ちゃいけないの。真矢お姉ちゃんたちだって、いつも言ってるでしょ?」
それは小さなころから、口を酸っぱくして言われていることだった。
いま人里の近くに暮らすタヌキの多くは、化ける術を忘れてしまった普通の野生動物でしかない。タヌキたちが化かすことを忘れたように、現代に暮らす人々もまた、化かされていた頃の暮らしを覚えているものはほとんどいなくなっている。
だからもし操たちのような物の怪の存在が知れたら、人間たちは必ず興味本位で里を荒らしに来るだろう。
「それにほら……操ってちょっと、あれでしょ……?」
「あれってなに? はっきり言ってよ」
「だから……化けるの、ちょっと苦手でしょ……?」
「美羽までぼくをバカにした!」
「ち、ちがうってば! そうじゃなくってぇ!」
あたふたする美羽に、操は悔しくてますますへそを曲げた。泣きそうな目で睨むと、「もういいよ!」と言って全速力で再び駆けだす。
「ちょっと、操!?」
「ぼく絶対にうまくやってみせるから! そしたらちゃんと帰ってくるよ!」
「絶対ムリに決まってるでしょ!? もう! 操のバカぁー!!」
美羽の叫びが、ますますやる気に火がついた操の耳に届くことはなかった。
*
山をおりると、操は道沿いの雑木林に隠れて人間たちの世界を観察することにした。
もっとわんさか人や建物で溢れているのかと思ったら、そこは意外と自然豊かな場所だった。田んぼや畑も多くあり、人の行き来も極端に少ない。片田舎という言葉がぴったり当てはまるような、のどかな町並みが広がっている。
操はその中から、とある子供たちの一団に目をとめた。5、6人の少年少女たちが集まって、網で田んぼの用水路をガサガサしている。カエルやザリガニを捕まえて遊んでいるのだろう。ワイワイとはしゃぐ声が聞こえてくる。
(いいなぁ楽しそう……ぼくも一緒に遊んでみたいな……)
つい興味をひかれてしまったが、すぐに目的を思いだしてハッとした。操はこの人里に、遊びに来たわけでも友達を作りに来たわけでもないのだ。早く人間をあっと言わせて、里に帰って自慢しなければ。
手っ取り早くあの子供たちを化かしてやろうかと思ったが、そこでふと考えた。
(子供を化かすなんてヌルゲーすぎるよね。獲物はもっと大きくなくちゃ)
と、見栄を張ってターゲットを変えることにした。
操は獲物探しをしながら林の中を移動していく。すると反対側の道端に、タンクトップを着た角刈りのおじさんが歩いているのを発見した。
……ダメだ。なんか傭兵みたいな顔つきをしてるし、取って食われそうな気がする。
次に、エプロンをした白髪のおばあさんが散歩しているのを発見した。
……やっぱりダメだ。胸にそれぞれ『りな』『あきら』と書かれたバッチをつけた、小さな双子を連れている。ちびっ子を泣かせたら可哀想だし、なにより『おばあさん』というのがいけない。
操は里に伝わる昔話を思いだし、ブルッと身震いをした。
それはおばあさんを騙して殺害した悪いタヌキが、人間に味方するウサギによって成敗される物語だった。火傷を負ったり最後には溺れ死んだりと、悪ダヌキは悲惨な末路を遂げている。先に酷いことをしたのはタヌキの方だが、初めてその話を聞いたときは恐ろしくて眠れなかった。
悪いことをすれば、それ相応のバチが当たる。だから操は暴力や殺生は絶対にしないと決めていた。
どうしようかな、と引き続き道路沿いに伸びる林を進んでいると、道は長い坂道に差しかかった。
するとそこに、今まさに坂を登ろうとしている人間の姿を発見した。焦げ茶の髪を無造作に伸ばし、物憂げな横顔をした青年をひと目見た瞬間、操は「これだ!」と思った。
(あれなら弱そうだし、簡単に化かせそう!)
さっきのタンクトップおじさんと違い、ひょろりと痩せていて軟弱そうだ。それでも上背はなかなかのもので、獲物としては十分に立派なサイズである。
操は雑木林に生える太いクヌギの裏に身を隠し、落ちていた葉っぱを頭に乗せると目を閉じた。人間の姿をイメージしながら念じると、ポンッと煙をあげて変化する。
「やった! うまくいった!」
一発で成功したのは初めてだ。耳もしっぽも綺麗に消えて、操はどこからどう見ても人間の少年になっていた。歳は15、6歳といったところだろうか。ボタンがついた赤いシャツと、七分丈のパンツはカーキ色で、靴にはリボンのアクセントがついている。
さっきの子供たちの装いを参考に、なんとなくイメージしたものがいい感じに再現されていた。
「ぼくって実は天才かも!」
キャッキャと跳ねて喜んでいるうちに、青年はすでに坂道の中腹まで行っていた。操は道路に飛びだすと、青年の後を追いかけた。
足音を立てないように注意しながら、少しずつ距離をつめていく。
操の頭の中には、先代の化け狸にちなんだとある作戦が浮かんでいた。その名も『大かむろ作戦』だ。
大かむろとは、タヌキが化けたとされている巨大な顔だけの妖怪のことである。人を驚かせることが目的で、それ以上の悪さはしない。その妖怪に習って、ただただシンプルにワッと驚かせることにした。実に平和的なイタズラだ。
本当は姿もそっくり真似できればいいのだが、操にそこまで高度な技術はない。
(よーし、そろそろいいかな?)
十分に距離をつめたところで、ごくりと喉を鳴らす。近くで見ると、思っていたより背中が広い。ちょっと尻込みしそうになったが、ここまで来たらやるしかなかった。
操は緊張で胸をバクバクさせながら、心の中でカウントを開始する。
(1、2の、3──)
青年の背中をめがけて、ワッと声をあげようとしたそのときだった。
『ガウゥゥゥッ!!』
突如として目の前に真っ黒い犬が現れて、操に飛びかかってきた。まるで青年の背中から、ニュルッと這い出てきたように見えたのは目の錯覚だろうか。
とにかく操は息が止まるほど驚いて、思いっきり悲鳴をあげていた。
「うわあぁぁっ!?」
なにがなんだか分からないが、とにかくおしまいだ……食い殺される……! と、そう思ったとき、操は一瞬にして元の丸々としたタヌキの姿に戻っていた。そして、パタッと横向きに地面に倒れた。
「なに?」
その悲鳴に振り返った青年が、戸惑いの声をあげている。が、操はすっかり呼吸を止めて目を閉じているので、彼がどんな顔をしているかは分からない。これが古くから里に伝わる『狸寝入り』という名の秘技、死んだフリである。
「……タヌキ?」
青年が近づいてくる気配がする。操は震えそうになるのをぐっと堪えて、死にそうな気分で死んだフリに徹した。
(死んでる! ぼく死んでるから! 早くあっちに行ってよぉ!)
「死んではいないようだけど」
「(ギクッ)」
「こんなところで寝てたら、車にひかれるよ」
青年は小さく息をつき、ガチガチに身を固くするタヌキを抱き上げると林に入った。適当な木の根元に寝かせると、足音を遠のかせていく。
その気配が完全に消えてなくなると、操はドッと汗をかきながら起き上がった。
「ッ、はぁー! こ、怖かった! なに!? なんなのあの犬!? 狸寝入りしてなかったら、ぼく食べられちゃってたかもしれない!!」
操は心臓をバクバクさせながら、恐る恐る草むらから顔をだして坂道を覗き込んだ。青年の背が、もうずっと遠くに見える。しかし、黒い犬の姿はなかった。
「……どういうこと? なんかの見間違い?」
操はこてんと首を傾げる。しかし確かにこの目で見たはずだ。白い牙をむき出しにして、飛びかかってこようとする黒い犬の姿を。思いだすだけで身震いがする。
けれど青年は最初から一人だったはずだし、去っていく姿も一人きりだ。犬の姿なんかどこにもない。まるでキツネかタヌキに化かされたような気分である。
「ぼくが化かされてどうするんだよ!」
結局、あの犬がなんだったのかは分からない。なんにせよ、簡単だと思っていたミッションは失敗に終わってしまった。
青年の背中はすっかり見えなくなっている。それでもなお操は彼が消えていった方向を睨みつけ、ダンダンッと小さな足で地団駄を踏む。
「あの人間、ぜーったいに化かしてビックリさせてやるんだから!」
悔しさに涙ぐみながら、操は強く胸に誓った。
←戻る ・ 次へ→
「もー! あったまきた! みんなしてぼくをバカにして!」
まん丸の小さな身体に、ふかふかの毛並みをした子だぬきが、山深い森の小道を全速力で駆けていた。先がまぁるく見える太いしっぽが、疾走する子だぬきの動きに合わせてポコポコと上下に揺れている。
彼はこの近くにあるタヌキの里に住む子だぬきだった。
その里には変化(へんげ)の術を得意とする化け狸たちが暮らしている。カテゴリー的には妖怪だ。現代ではすっかり数を減らしてしまったが、人間がそうそう踏み入ることのできない深い山奥に、ひっそりと身を寄せ合って生きている。
ちなみにすぐ近くには化け狐たちが暮らすキツネの村がある。タヌキとキツネは仲が悪いと思われがちだが、決してそんなことはない。昔はいがみ合っていたそうだが、今では数少ない化け仲間という認識で、それなりにうまく交流している。
話が逸れたが、なぜこの子だぬきがキレながら爆走しているかというと、それは彼の化け術の未熟さが原因だった。
他のタヌキたちは草木に化けたり、他の動物に化けたり、もちろん人間に化けることもできる。大昔には夜空のお月さまに化け、人間をからかっては遊んでいた猛者もいたと聞く。
しかしこの子だぬきは、化け術があまり得意ではなかった。人に化ければ顔だけタヌキのタヌキ人間に、木に化ければなぜかしっぽが生えたおかしな木に。必ずどこかしら身体の一部が残ってしまい、成功例がほとんどない。
だから里の悪ガキたちに、ポンコツと言われてバカにされてしまった。悔しかったら、人間の一人くらい化かしてみせろ、と。
「今に見てろよ! ぼくだってやればできるんだ!」
完全に煽り耐性0である。子だぬきはカンカンで、そのぐらい朝飯前だと啖呵を切ると里を飛びだした。なにがなんでもバカにしたやつらを見返してやりたい。成功するまで、絶対に里には戻らないと胸に誓った。
「操ー! ねぇ待ってぇー!」
すると後ろの方から、よく知る声が自分の名前を呼ぶのが聞こえた。
足を止めて振り返ると、耳の片方に花の飾りをつけたふわふわの子だぬきが、必死で走ってくる姿が見える。
「美羽、どうしたの?」
「どうしたの、じゃないでしょ! 帰るよ、操!」
目の前で足をとめ、美羽はハァハァと少し苦しそうに息をしながら言った。
彼女は幼馴染で、大の仲良しの子だぬきだった。一匹で里を飛びだした操を心配して、追いかけてきたのだろう。けれど操は、そんな美羽にぷいっと顔を背けて見せた。
「やだね! ぼくが立派な化け狸だってこと証明するまで、絶対に帰らないよ!」
「あんなの気にしちゃダメだよ。それに、人里におりたら怒られちゃう。美羽たちみたいなタヌキがいるって知られたら、人間が捕まえにくるかもしれないんだよ」
「そ、それは……」
「だから美羽たちは、里から出ちゃいけないの。真矢お姉ちゃんたちだって、いつも言ってるでしょ?」
それは小さなころから、口を酸っぱくして言われていることだった。
いま人里の近くに暮らすタヌキの多くは、化ける術を忘れてしまった普通の野生動物でしかない。タヌキたちが化かすことを忘れたように、現代に暮らす人々もまた、化かされていた頃の暮らしを覚えているものはほとんどいなくなっている。
だからもし操たちのような物の怪の存在が知れたら、人間たちは必ず興味本位で里を荒らしに来るだろう。
「それにほら……操ってちょっと、あれでしょ……?」
「あれってなに? はっきり言ってよ」
「だから……化けるの、ちょっと苦手でしょ……?」
「美羽までぼくをバカにした!」
「ち、ちがうってば! そうじゃなくってぇ!」
あたふたする美羽に、操は悔しくてますますへそを曲げた。泣きそうな目で睨むと、「もういいよ!」と言って全速力で再び駆けだす。
「ちょっと、操!?」
「ぼく絶対にうまくやってみせるから! そしたらちゃんと帰ってくるよ!」
「絶対ムリに決まってるでしょ!? もう! 操のバカぁー!!」
美羽の叫びが、ますますやる気に火がついた操の耳に届くことはなかった。
*
山をおりると、操は道沿いの雑木林に隠れて人間たちの世界を観察することにした。
もっとわんさか人や建物で溢れているのかと思ったら、そこは意外と自然豊かな場所だった。田んぼや畑も多くあり、人の行き来も極端に少ない。片田舎という言葉がぴったり当てはまるような、のどかな町並みが広がっている。
操はその中から、とある子供たちの一団に目をとめた。5、6人の少年少女たちが集まって、網で田んぼの用水路をガサガサしている。カエルやザリガニを捕まえて遊んでいるのだろう。ワイワイとはしゃぐ声が聞こえてくる。
(いいなぁ楽しそう……ぼくも一緒に遊んでみたいな……)
つい興味をひかれてしまったが、すぐに目的を思いだしてハッとした。操はこの人里に、遊びに来たわけでも友達を作りに来たわけでもないのだ。早く人間をあっと言わせて、里に帰って自慢しなければ。
手っ取り早くあの子供たちを化かしてやろうかと思ったが、そこでふと考えた。
(子供を化かすなんてヌルゲーすぎるよね。獲物はもっと大きくなくちゃ)
と、見栄を張ってターゲットを変えることにした。
操は獲物探しをしながら林の中を移動していく。すると反対側の道端に、タンクトップを着た角刈りのおじさんが歩いているのを発見した。
……ダメだ。なんか傭兵みたいな顔つきをしてるし、取って食われそうな気がする。
次に、エプロンをした白髪のおばあさんが散歩しているのを発見した。
……やっぱりダメだ。胸にそれぞれ『りな』『あきら』と書かれたバッチをつけた、小さな双子を連れている。ちびっ子を泣かせたら可哀想だし、なにより『おばあさん』というのがいけない。
操は里に伝わる昔話を思いだし、ブルッと身震いをした。
それはおばあさんを騙して殺害した悪いタヌキが、人間に味方するウサギによって成敗される物語だった。火傷を負ったり最後には溺れ死んだりと、悪ダヌキは悲惨な末路を遂げている。先に酷いことをしたのはタヌキの方だが、初めてその話を聞いたときは恐ろしくて眠れなかった。
悪いことをすれば、それ相応のバチが当たる。だから操は暴力や殺生は絶対にしないと決めていた。
どうしようかな、と引き続き道路沿いに伸びる林を進んでいると、道は長い坂道に差しかかった。
するとそこに、今まさに坂を登ろうとしている人間の姿を発見した。焦げ茶の髪を無造作に伸ばし、物憂げな横顔をした青年をひと目見た瞬間、操は「これだ!」と思った。
(あれなら弱そうだし、簡単に化かせそう!)
さっきのタンクトップおじさんと違い、ひょろりと痩せていて軟弱そうだ。それでも上背はなかなかのもので、獲物としては十分に立派なサイズである。
操は雑木林に生える太いクヌギの裏に身を隠し、落ちていた葉っぱを頭に乗せると目を閉じた。人間の姿をイメージしながら念じると、ポンッと煙をあげて変化する。
「やった! うまくいった!」
一発で成功したのは初めてだ。耳もしっぽも綺麗に消えて、操はどこからどう見ても人間の少年になっていた。歳は15、6歳といったところだろうか。ボタンがついた赤いシャツと、七分丈のパンツはカーキ色で、靴にはリボンのアクセントがついている。
さっきの子供たちの装いを参考に、なんとなくイメージしたものがいい感じに再現されていた。
「ぼくって実は天才かも!」
キャッキャと跳ねて喜んでいるうちに、青年はすでに坂道の中腹まで行っていた。操は道路に飛びだすと、青年の後を追いかけた。
足音を立てないように注意しながら、少しずつ距離をつめていく。
操の頭の中には、先代の化け狸にちなんだとある作戦が浮かんでいた。その名も『大かむろ作戦』だ。
大かむろとは、タヌキが化けたとされている巨大な顔だけの妖怪のことである。人を驚かせることが目的で、それ以上の悪さはしない。その妖怪に習って、ただただシンプルにワッと驚かせることにした。実に平和的なイタズラだ。
本当は姿もそっくり真似できればいいのだが、操にそこまで高度な技術はない。
(よーし、そろそろいいかな?)
十分に距離をつめたところで、ごくりと喉を鳴らす。近くで見ると、思っていたより背中が広い。ちょっと尻込みしそうになったが、ここまで来たらやるしかなかった。
操は緊張で胸をバクバクさせながら、心の中でカウントを開始する。
(1、2の、3──)
青年の背中をめがけて、ワッと声をあげようとしたそのときだった。
『ガウゥゥゥッ!!』
突如として目の前に真っ黒い犬が現れて、操に飛びかかってきた。まるで青年の背中から、ニュルッと這い出てきたように見えたのは目の錯覚だろうか。
とにかく操は息が止まるほど驚いて、思いっきり悲鳴をあげていた。
「うわあぁぁっ!?」
なにがなんだか分からないが、とにかくおしまいだ……食い殺される……! と、そう思ったとき、操は一瞬にして元の丸々としたタヌキの姿に戻っていた。そして、パタッと横向きに地面に倒れた。
「なに?」
その悲鳴に振り返った青年が、戸惑いの声をあげている。が、操はすっかり呼吸を止めて目を閉じているので、彼がどんな顔をしているかは分からない。これが古くから里に伝わる『狸寝入り』という名の秘技、死んだフリである。
「……タヌキ?」
青年が近づいてくる気配がする。操は震えそうになるのをぐっと堪えて、死にそうな気分で死んだフリに徹した。
(死んでる! ぼく死んでるから! 早くあっちに行ってよぉ!)
「死んではいないようだけど」
「(ギクッ)」
「こんなところで寝てたら、車にひかれるよ」
青年は小さく息をつき、ガチガチに身を固くするタヌキを抱き上げると林に入った。適当な木の根元に寝かせると、足音を遠のかせていく。
その気配が完全に消えてなくなると、操はドッと汗をかきながら起き上がった。
「ッ、はぁー! こ、怖かった! なに!? なんなのあの犬!? 狸寝入りしてなかったら、ぼく食べられちゃってたかもしれない!!」
操は心臓をバクバクさせながら、恐る恐る草むらから顔をだして坂道を覗き込んだ。青年の背が、もうずっと遠くに見える。しかし、黒い犬の姿はなかった。
「……どういうこと? なんかの見間違い?」
操はこてんと首を傾げる。しかし確かにこの目で見たはずだ。白い牙をむき出しにして、飛びかかってこようとする黒い犬の姿を。思いだすだけで身震いがする。
けれど青年は最初から一人だったはずだし、去っていく姿も一人きりだ。犬の姿なんかどこにもない。まるでキツネかタヌキに化かされたような気分である。
「ぼくが化かされてどうするんだよ!」
結局、あの犬がなんだったのかは分からない。なんにせよ、簡単だと思っていたミッションは失敗に終わってしまった。
青年の背中はすっかり見えなくなっている。それでもなお操は彼が消えていった方向を睨みつけ、ダンダンッと小さな足で地団駄を踏む。
「あの人間、ぜーったいに化かしてビックリさせてやるんだから!」
悔しさに涙ぐみながら、操は強く胸に誓った。
←戻る ・ 次へ→
その夜──。
容子が眠りにつくのを見計らい、操はドキドキしながら楽園に向かった。
カラリとドアベルを鳴らして扉を開けると、店内はカウンターにだけ明かりが灯されている。甲洋はカウンター席で眼鏡をかけて本を読んでいたが、操の来訪に気がつくと、
「こんばんは」
と言って出迎えてくれた。
「こ、こんばんは!」
「座って」
彼は本を閉じると席を立ち、カウンター裏のキッチンに回り込んでいく。入れ替わるように席につきながら、操は新鮮な感覚を味わっていた。
(眼鏡かけてるとこ、初めて見た)
今日はお香も焚かれておらず、甲洋はエプロンをしていない。代わりに普段はかけていない眼鏡をしている。そこにいるのは喫茶店のマスターではなく、ただの春日井甲洋だ。営業日でもないのにわざわざお呼ばれした物の怪なんて、きっと自分が初めてに違いない。その特別感は操をこの上なく満足させた。
「はい」
カウンターの向こうからオレンジジュースがそっと置かれた。操は満面の笑顔で「ありがとう」と言ってグラスを手にとる。
しかしそこでふと視線を感じた。その方向に目をやると、店の片隅に伏せの姿勢をとったショコラの姿がある。暗がりのなか、彼女は値踏みするような目を操に向けていた。
思わず顔をしかめた操に、甲洋が「悪さしなければ何もしないよ」と言った。
「悪さなんかしないもん」
ムッとしながら睨みつけると、甲洋はなに食わぬ顔で肩をすくめる。
実際の話、操にはもう彼を化かそうなんて気はさらさらないのだ。しかし出会いが出会いだっただけに、ショコラから警戒されるのは無理もないことだった。
ちぇ、と心のなかで密かにごちて、ストローに口をつけた。オレンジの爽やかな甘酸っぱさに、口の中が満たされる。半分ほど飲み干したところでグラスを置くと、氷がカラリと音を立てた。夜のしじまに、それはやけに大きく響き渡った。
(……静かだなぁ)
沈黙を意識したとたん、急に落ち着かない気分になった。家の玄関ではペラペラとよく喋っていたくせに、いざとなったらなにをどう切りだせばいいか分からない。どうしようかと考えていると、意外にも甲洋が先に口を開いた。
「それで、なにを話すの?」
グラスに浮き上がる水滴を所在なく指でつついていた操は、「へ?」と素っ頓狂な声をあげてしまう。
「なにか話したいことがあるんじゃないの?」
帰りしなに操がやたらとゴネていたことを、彼なりに気遣っているのだろう。だからわざわざこうした場を設けてくれたのだ。やっぱり優しいなと思いながら、取っ掛かりを得た安堵からホッと息をつく。
「うん、そう。君と話がしたかったんだ。でも、ぼくの話はさっきしたから。今度は君の話を聞かせてよ」
「急にそう言われても」
「じゃあ、ぼくから質問してもいい?」
うなずく代わりに、形のいい眉が少しだけ上下にヒョイッと動く。
操はテーブルの上に両手を置いて、わずかに身を乗りだした。それは初めてあの坂道で会ったときから、ずっと不思議に思っていたこと。
「どうしてショコラは君に憑いてるの? 犬は母系で、女の人を守るはずでしょ? 君って実は女の子?」
「……」
瞳をくるくるとさせる操に、甲洋はなにを言っているんだとばかりに息を漏らした。それから一瞬だけ瞳を揺らして、迷うような素振りを見せる。
床にあごを落ち着けていたショコラが、顔を上げて主を見た。案じるようなその視線に気づいた甲洋は、彼女を安心させるように目許をやわらげた。
「ねぇ、もしかして聞いちゃダメなことだった?」
なんだか見せつけられた気がして、モヤモヤしながら口を尖らせる。甲洋はそんな操に「いや」と言って首を振った。
「ショコラはもともと翔子に憑いていた。小さな頃からそばにいて、ずっと彼女を守り続けていた」
「そうだったの!?」
甲洋がかすかに頷く。
「いなくなる前、彼女はショコラを俺に託した。だから今は俺に憑いてる」
ショコラは羽佐間先生のことが好きだから――。
容子が倒れてしまった日、ショコラはいの一番に駆け寄って、彼女をひどく心配していた。あのときは意味が分からなかったけど。
「知らなかった。ショコラはお母さんたちと暮らしてたんだね」
今の操が容子を母として慕うように、ショコラにとってもまた、彼女は愛すべき家族だったのだ。そんなショコラが今はまるで母親のように甲洋に寄り添い、そして甲洋は翔子亡きあとの容子を見守っている。
操は店の片隅で伏せているショコラに目を向けた。翔子を中心に彼らの関係性が見えてきて、少しだけモヤが晴れたような気持ちになった。だけど他にもまだ知りたいことはたくさんある。それは甲洋自身のことだった。
「じゃあもういっこ質問。君はどうしたら笑ってくれるの?」
操が店に通っているのは、彼の笑顔が見たいからだ。あの夜のように、もういちど自分に笑いかけてほしいから。なのにちっとも望む成果が得られず、不満は募る一方だ。
しかしあれは甲洋にとって、なかば事故のようなものだったのかもしれない。ほんの一瞬の気の緩みから起こった、思いがけない事故。だけど操にしてみれば、笑いたいのを我慢するほうがよっぽど変だ。
「……それって翔子のせいなの?」
漠然とした問いかけではあったが、根っこには確信があった。甲洋は黙って目を逸らしてしまう。答えあぐねているようにも見えたが、沈黙は肯定でしかない。
容子に似ていると、操は思った。今なお翔子の部屋をそのままの形で残し続ける母の姿と、今の甲洋がどこか重なる。
(いいなぁ、翔子は。お母さんと甲洋のこと、いつまでも独り占めできて)
欠かさず線香をあげるのも、部屋を掃除し続けるのも、操には意味があることとは思えない。そんなことをしたって、翔子が戻ってくるわけでもないのに。だけどそうやって覚えていてくれる人がいれば、彼女はいつまでも愛されたまま彼らの記憶に残り続ける。操はそれを羨ましいと思った。
(ぼくもそこに入れてもらえるかなぁ……)
操もいずれは里に帰らなければならない身だ。本当にいるべき場所は他にあって、大切な仲間もそこにいる。ここでの暮らしが楽しくて、忘れたふりをしているけれど。総士が言っていた通り、このままではいられないことくらい知っていた。
だからいつかは必ず別れの日が訪れる。そして里に戻れば、もう二度と人里に下りることは許されないだろう。
「ねぇ、もしぼくがいなくなっても、翔子みたいにずっと忘れないでいてくれる?」
そうだったらいいなと願いながら、気安く聞いてみたつもりだった。けれど甲洋はうっすらと眉根を寄せ、怪訝そうな目を向けてくる。
「縁起でもないことを言うな。羽佐間先生が悲しむよ」
「でもさ、初めてじゃないでしょ。子供がいなくなるの、一度は経験してるんだもん。お母さんなら大丈夫だよ」
「……ッ」
「そのときがきたら、ぼくの写真も飾ってよ。家だけじゃなく、このお店にも!」
その瞬間、伏せていたショコラが立ち上がって激しく吠えはじめた。あまりの剣幕に、操は悲鳴をあげると身をすくませる。
「ひゃっ、な、なに!?」
「ショコラ」
カウンターから出て、甲洋がショコラのもとに歩み寄る。しゃがみ込むと、首や頭を撫でてどうにか落ち着かせた。けれどショコラはなおも低くうなり続け、甲洋の背中越しに鋭く睨みつけてくる。
操は青ざめながら喉を鳴らし、握りしめた両手を胸に押し当てた。すると甲洋が静かに口を開いた。
「……今の話、羽佐間先生にもした?」
「し、してないけど……」
「そう」
甲洋が深く息を吐きだす。まるで無理やり押し込めたものを、誰にも知られないようにそっと遠くへ逃がすみたいに。
「なら、その話は絶対にしないでほしい」
「どうして……?」
立ち上がった甲洋が、操の方に身体を向ける。その表情はいつもとなんら変わりなく、無感情なものだった。けれど眼差しは凍りついていて、明らかな蔑みが浮かんで見えた。
「冷やかし目的のイタズラ狸には、どうせ言っても分からない。人の痛みなんか」
その後に続いた「帰れ」という言葉に、操はただ呆然とするだけだった。
←戻る ・ 次へ→