2025年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
第八話『一号』
「おお、例の先生か! よく来てくれた!」
金曜日。
出迎えてくれたのは黒鋼でもその母親でもなく、紺の袴を身に纏う父親の方だった。
ファイは玄関先で彼と遭遇した瞬間、黒鋼が頭でもぶつけたのかと思った。
こんなにも明るく笑顔でいる黒鋼など、これまで一度たりとも見たことがなかったからだ。
「奥は昨日から友人と旅行に行っててな。むさ苦しい親父の出迎えで申し訳ない!」
「い、いいえ!」
彼は見れば見るほど黒鋼と瓜二つで、一瞬双子かと思うほどだった。
違いといえば、この精彩を放つ笑顔に話し方、そして長い後ろ髪を一つにまとめているくらいだろうか。
当然、迎えてくれるのは和服の美女のほうがありがたいが、袴姿の黒鋼一号(息子は二号)と遭遇するのはこれが初めてのことで、ファイは感激に胸を震わせた。
この絶世の男前から、あの超絶イケメンが生まれたのだと思うと納得の一言に尽きる。
黒鋼の家は代々剣道の道場を開いており、黒鋼も勿論その道を極めんと修行している……とは聞いていたが、基本的に訪れるのが夜なので、彼が剣道袴を身に着けている姿はまだ一度も拝んだことがない。
本人ではないにしろ、よく似た父親が袴を着こなす姿に黒鋼を重ねることは容易で、ちょっと得をした気分になる。
「茶はセルフだ。以前、なんとかいう高価な皿を一気に5枚割って以来、俺が台所に立つと奥が怒るんでな……。 まぁ、息子がやるだろう!」
「あ、いえいえ、お構いなくー」
黒鋼一号は豪快に笑いながら、ズカズカと大股で廊下の途中までついて来た。
こうして並ぶと、確かに二号もあの年齢にしては鍛え上げられているが、さらに完成された一号はもっと凄い。それに雰囲気は明るいが、やはり年齢を重ねているからか、なんともいえない大人の男の渋みを感じる。
あと何年かしたら、きっと二号もこんな風に……。
(ただでさえカッコイイのが、さらにカッコよくなっちゃうんだー)
一時はあの容貌の完璧さに妬みさえ覚えたことなど忘れて、ファイはどうしようもない胸のときめきを覚えていた。
寡黙な二号のことだから、きっと一号以上に渋くダンディな大人の男に成長するに違いない。
「どうだ先生、俺の息子は」
「…………ふえ?」
数年後の黒鋼に思いを馳せ、ついつい頬を緩めていたファイは一号の声に驚き、少しばかり反応を鈍らせた。
「ん? どうかしたか?」
「あ! い、いえ! なんでもないんですー!」
ファイが少し赤い頬でにっこりすると、きょとんとした表情の一号にも笑顔が戻った。
「息子のことだ。何か失礼があったら、遠慮なくゲンコツでもくれてやってくれ」
「えぇ!? だ、大丈夫ですよー。黒た……黒鋼君はすっごく優しくてカッコよくて、頭がいいですからー!」
そう言うと、一号は声を上げて笑った。
普段の二号があんな調子なので、その笑顔を見るとなんだかソワソワして妙な気分だった。
「それは父親として鼻が高いな。息子をよろしく頼む」
「こ、こちらこそ!」
律儀に頭を下げられて、ファイも慌ててペコリと頭を下げた。
***
季節は秋から冬へと移り変わろうとしていた。
家庭教師を始めてまだ間もないにしては黒鋼のテスト結果もまぁまぁで、ファイはほっと一安心していた。
最近はどうもお喋りがメインになっていたような気がしていたので、これで逆に成績が下がってしまってはただの金銭泥棒になってしまう。
それでもまだ期末考査を目前に控えて気は抜けないが、本日も勉強前にファイは黒鋼が淹れた茶で温まりつつ無駄話に興じていた。
「いや~、黒たんってばお父さんのまるで生き写しだねー。すっごいカッコよくってドキドキしちゃったよー!」
一方的な無駄話は、もっぱらさきほど遭遇した黒鋼一号に関することだった。
「なんて言うんだろ? 大人ーって感じでさー、余裕があるのかな? 袴姿がセクシーだしー」
物珍しさと緊張におどおどしてしまった先刻とは打って変わり、ファイはじわじわと込み上げてくる興奮に頬を上気させていた。
「ねぇねぇ、お父さんって何歳? 剣道の先生なんだよね? 黒たんも小さい頃から教わってたんでしょ? 怒るとやっぱり怖いの? いつもはどんな会話するのー?」
見た目は瓜二つだが全く違う雰囲気の二人が、揃って会話するとどうなるのだろう?
黒鋼が両親と話し込んでいるところを見たことがないので、特にあの父親とはどんな親子関係を築いているのかがとても気になった。
「ねぇねぇ黒様ってばー」
矢継ぎ早に質問を繰り返すファイだったが、黒鋼は普段通り……いや、いつも以上に無口で相槌すら打ってくれないことに気がついた。
それに、もはや挨拶代わりにもなっているおかしな渾名で呼ぶことへのお咎めもない。
「どうかしたのー? もしかして、今日はあんまり調子よくない、とか?」
文机に向かって胡坐をかき、黙って茶を啜っている黒鋼に膝立ちでにじり寄った。ひょいっと顔を覗き込もうとしても、黒鋼は顔を背けてしまう。
一瞬だけ見えた表情は、なんだかいつも以上に不機嫌そうでちょっと怖かった。
「ねーねー黒たーん……ねーってばー……どうしてお話してくれないのー?」
傍らにペタンと腰を落として、情けなく眉を八の字にして寄せる。
黒鋼はいつも適当に相槌を打ってくれていたし、質問にはそっけなくとも答えてくれていたのに。
だからファイはいつもついお喋りが過ぎてしまうという自覚はあったが、今日はそんな気分ではないのだろうか……。
俯くファイに、黒鋼は渋々といった様子で視線を寄越した。
そして湯飲み茶碗を文机に置くと、身体をこちらに向けて言った。
「……おまえ、ああいうのが好みか」
「へ?」
思わず顔を上げてポカンと口を開く。黒鋼が、むっとしたように睨みつけて来た。
「好みってー?」
「ずいぶん俺の親父が気に入ったみてぇじゃねぇか。違うか?」
ファイは瞬きを繰り返しながら黒鋼を見つめて、やがて遅れて顔を真っ赤にした。慌てて両手をぶんぶんと振る。
「ち、違うよー! なに言ってんの!? こ、好みってなに!? オレそっちの人じゃないからね!?」
思い切り否定するが、そんなファイを見て黒鋼は冷たく鼻で笑った。
態度にも言葉にも、随分と棘が含まれている気がする。不機嫌なオーラが目に見えるかのようだった。
もしかしたら、この年頃の少年(には見えないのだが)にとって、親のことを深く突っ込まれるのは苦痛だったのかもしれない。
ファイは幼い頃に両親が他界しているのでよく分からないが、黒鋼の大人びた容姿が相まって、つい彼が多感な年頃であるということを忘れていた。
また自分勝手なことをしてしまったと後悔して、慌てて頭を下げようとしたときだった。
次の黒鋼の言葉に、ファイは大きく目を見開いた。
「どうだかな。そっちの気がなけりゃ、男の痴漢相手にあんなことにはならねぇだろ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなくて、脳内で幾度か反芻してみる。
それでも意味が分からなかった。いや、分かりたくなかったという方が正しい。
ただ、胸の辺りにドキンという衝撃が走っていた。
「それ、どういう意味……?」
茫然と呟いた声が意図せず震えていた。
黒鋼が、苛立ちを隠しもせず舌打ちをしながら顔を背ける。そして追い討ちをかけた。
「……言った意味そのまんまだろ」
「……っ!!」
ファイが息を呑むのと、静まり返っていた室内に何かが弾けたような小気味よい音が響くのは同時だった。
見れば目を見開いたまま顔を背けている黒鋼がいて、そして自分の右手が宙に浮いていた。
何が起こったのか、己のしでかしたことなのに、まるで思考が追いつかない。
やがてじんわりと手の平が痺れきて、そこでファイはようやく、この手が彼の頬を打ったことに気がついた。
みるみるうちに赤くなる頬で、黒鋼がこちらを真っ直ぐに見据えると背筋が凍りつくのを感じた。
思わずカッとなって手を上げてしまったことに、自分でも信じられない。だがファイも引くに引けなかった。
おそらく、このままでは泣いてしまう。
「ごめん……。オレ、帰る……」
鞄とコートを手にして、そそくさと立ち上がった。黒鋼は何も言わない。ただ顔を背けて、そしてファイもまたあえて振り返ることはしなかった。
ただ今はひたすら、感情が爆発しないうちにここから消えてしまいたかった。
ファイは、逃げるようにしてその場を後にした。
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「おお、例の先生か! よく来てくれた!」
金曜日。
出迎えてくれたのは黒鋼でもその母親でもなく、紺の袴を身に纏う父親の方だった。
ファイは玄関先で彼と遭遇した瞬間、黒鋼が頭でもぶつけたのかと思った。
こんなにも明るく笑顔でいる黒鋼など、これまで一度たりとも見たことがなかったからだ。
「奥は昨日から友人と旅行に行っててな。むさ苦しい親父の出迎えで申し訳ない!」
「い、いいえ!」
彼は見れば見るほど黒鋼と瓜二つで、一瞬双子かと思うほどだった。
違いといえば、この精彩を放つ笑顔に話し方、そして長い後ろ髪を一つにまとめているくらいだろうか。
当然、迎えてくれるのは和服の美女のほうがありがたいが、袴姿の黒鋼一号(息子は二号)と遭遇するのはこれが初めてのことで、ファイは感激に胸を震わせた。
この絶世の男前から、あの超絶イケメンが生まれたのだと思うと納得の一言に尽きる。
黒鋼の家は代々剣道の道場を開いており、黒鋼も勿論その道を極めんと修行している……とは聞いていたが、基本的に訪れるのが夜なので、彼が剣道袴を身に着けている姿はまだ一度も拝んだことがない。
本人ではないにしろ、よく似た父親が袴を着こなす姿に黒鋼を重ねることは容易で、ちょっと得をした気分になる。
「茶はセルフだ。以前、なんとかいう高価な皿を一気に5枚割って以来、俺が台所に立つと奥が怒るんでな……。 まぁ、息子がやるだろう!」
「あ、いえいえ、お構いなくー」
黒鋼一号は豪快に笑いながら、ズカズカと大股で廊下の途中までついて来た。
こうして並ぶと、確かに二号もあの年齢にしては鍛え上げられているが、さらに完成された一号はもっと凄い。それに雰囲気は明るいが、やはり年齢を重ねているからか、なんともいえない大人の男の渋みを感じる。
あと何年かしたら、きっと二号もこんな風に……。
(ただでさえカッコイイのが、さらにカッコよくなっちゃうんだー)
一時はあの容貌の完璧さに妬みさえ覚えたことなど忘れて、ファイはどうしようもない胸のときめきを覚えていた。
寡黙な二号のことだから、きっと一号以上に渋くダンディな大人の男に成長するに違いない。
「どうだ先生、俺の息子は」
「…………ふえ?」
数年後の黒鋼に思いを馳せ、ついつい頬を緩めていたファイは一号の声に驚き、少しばかり反応を鈍らせた。
「ん? どうかしたか?」
「あ! い、いえ! なんでもないんですー!」
ファイが少し赤い頬でにっこりすると、きょとんとした表情の一号にも笑顔が戻った。
「息子のことだ。何か失礼があったら、遠慮なくゲンコツでもくれてやってくれ」
「えぇ!? だ、大丈夫ですよー。黒た……黒鋼君はすっごく優しくてカッコよくて、頭がいいですからー!」
そう言うと、一号は声を上げて笑った。
普段の二号があんな調子なので、その笑顔を見るとなんだかソワソワして妙な気分だった。
「それは父親として鼻が高いな。息子をよろしく頼む」
「こ、こちらこそ!」
律儀に頭を下げられて、ファイも慌ててペコリと頭を下げた。
***
季節は秋から冬へと移り変わろうとしていた。
家庭教師を始めてまだ間もないにしては黒鋼のテスト結果もまぁまぁで、ファイはほっと一安心していた。
最近はどうもお喋りがメインになっていたような気がしていたので、これで逆に成績が下がってしまってはただの金銭泥棒になってしまう。
それでもまだ期末考査を目前に控えて気は抜けないが、本日も勉強前にファイは黒鋼が淹れた茶で温まりつつ無駄話に興じていた。
「いや~、黒たんってばお父さんのまるで生き写しだねー。すっごいカッコよくってドキドキしちゃったよー!」
一方的な無駄話は、もっぱらさきほど遭遇した黒鋼一号に関することだった。
「なんて言うんだろ? 大人ーって感じでさー、余裕があるのかな? 袴姿がセクシーだしー」
物珍しさと緊張におどおどしてしまった先刻とは打って変わり、ファイはじわじわと込み上げてくる興奮に頬を上気させていた。
「ねぇねぇ、お父さんって何歳? 剣道の先生なんだよね? 黒たんも小さい頃から教わってたんでしょ? 怒るとやっぱり怖いの? いつもはどんな会話するのー?」
見た目は瓜二つだが全く違う雰囲気の二人が、揃って会話するとどうなるのだろう?
黒鋼が両親と話し込んでいるところを見たことがないので、特にあの父親とはどんな親子関係を築いているのかがとても気になった。
「ねぇねぇ黒様ってばー」
矢継ぎ早に質問を繰り返すファイだったが、黒鋼は普段通り……いや、いつも以上に無口で相槌すら打ってくれないことに気がついた。
それに、もはや挨拶代わりにもなっているおかしな渾名で呼ぶことへのお咎めもない。
「どうかしたのー? もしかして、今日はあんまり調子よくない、とか?」
文机に向かって胡坐をかき、黙って茶を啜っている黒鋼に膝立ちでにじり寄った。ひょいっと顔を覗き込もうとしても、黒鋼は顔を背けてしまう。
一瞬だけ見えた表情は、なんだかいつも以上に不機嫌そうでちょっと怖かった。
「ねーねー黒たーん……ねーってばー……どうしてお話してくれないのー?」
傍らにペタンと腰を落として、情けなく眉を八の字にして寄せる。
黒鋼はいつも適当に相槌を打ってくれていたし、質問にはそっけなくとも答えてくれていたのに。
だからファイはいつもついお喋りが過ぎてしまうという自覚はあったが、今日はそんな気分ではないのだろうか……。
俯くファイに、黒鋼は渋々といった様子で視線を寄越した。
そして湯飲み茶碗を文机に置くと、身体をこちらに向けて言った。
「……おまえ、ああいうのが好みか」
「へ?」
思わず顔を上げてポカンと口を開く。黒鋼が、むっとしたように睨みつけて来た。
「好みってー?」
「ずいぶん俺の親父が気に入ったみてぇじゃねぇか。違うか?」
ファイは瞬きを繰り返しながら黒鋼を見つめて、やがて遅れて顔を真っ赤にした。慌てて両手をぶんぶんと振る。
「ち、違うよー! なに言ってんの!? こ、好みってなに!? オレそっちの人じゃないからね!?」
思い切り否定するが、そんなファイを見て黒鋼は冷たく鼻で笑った。
態度にも言葉にも、随分と棘が含まれている気がする。不機嫌なオーラが目に見えるかのようだった。
もしかしたら、この年頃の少年(には見えないのだが)にとって、親のことを深く突っ込まれるのは苦痛だったのかもしれない。
ファイは幼い頃に両親が他界しているのでよく分からないが、黒鋼の大人びた容姿が相まって、つい彼が多感な年頃であるということを忘れていた。
また自分勝手なことをしてしまったと後悔して、慌てて頭を下げようとしたときだった。
次の黒鋼の言葉に、ファイは大きく目を見開いた。
「どうだかな。そっちの気がなけりゃ、男の痴漢相手にあんなことにはならねぇだろ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなくて、脳内で幾度か反芻してみる。
それでも意味が分からなかった。いや、分かりたくなかったという方が正しい。
ただ、胸の辺りにドキンという衝撃が走っていた。
「それ、どういう意味……?」
茫然と呟いた声が意図せず震えていた。
黒鋼が、苛立ちを隠しもせず舌打ちをしながら顔を背ける。そして追い討ちをかけた。
「……言った意味そのまんまだろ」
「……っ!!」
ファイが息を呑むのと、静まり返っていた室内に何かが弾けたような小気味よい音が響くのは同時だった。
見れば目を見開いたまま顔を背けている黒鋼がいて、そして自分の右手が宙に浮いていた。
何が起こったのか、己のしでかしたことなのに、まるで思考が追いつかない。
やがてじんわりと手の平が痺れきて、そこでファイはようやく、この手が彼の頬を打ったことに気がついた。
みるみるうちに赤くなる頬で、黒鋼がこちらを真っ直ぐに見据えると背筋が凍りつくのを感じた。
思わずカッとなって手を上げてしまったことに、自分でも信じられない。だがファイも引くに引けなかった。
おそらく、このままでは泣いてしまう。
「ごめん……。オレ、帰る……」
鞄とコートを手にして、そそくさと立ち上がった。黒鋼は何も言わない。ただ顔を背けて、そしてファイもまたあえて振り返ることはしなかった。
ただ今はひたすら、感情が爆発しないうちにここから消えてしまいたかった。
ファイは、逃げるようにしてその場を後にした。
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第七話『予感』
あれはいつのことだったろうか。
幾度となく繰り返しすぎて、もういちいち覚えているのもバカバカしい。
バイト先のカフェに、兄が最近付き合いはじめた彼女を連れてやって来た。
その女性を見て、ユゥイはニコリと微笑みながら心の中ではこっそり引いたのを覚えている。
異様に長すぎるつけ睫毛に、汗で崩れかかった濃いメイクと、目のやり場に困るほど胸元が開ききったノースリーブのミニワンピ。
一目で安物と分かるミュールが奏でる甲高い音が、静かな店内に雑音として響き渡った。
軽い挨拶を交わし、あくまでも社交辞令で「兄をよろしく」なんて心にもないことを言って。
ちょうど店内が込み合っていたことを理由にその場を離れ、黙々と仕事をこなしていたユゥイは、幾度も彼女の視線を感じた。
楽しそうに喋るファイに一応は相槌くらいは返しているようだが、意識は完全にこちらに向いている。
あえて真っ直ぐ見返し微笑んでやれば、彼女は一瞬肩を揺らし、赤く染まった目元を逸らした。
帰り際、会計を済ませているファイが気付かぬ間に、女はユゥイに連絡先を走り書きしたメモをこっそりと寄こした。
兄と自分は双子だが、纏う雰囲気が全く異なることは知っている。
そしてこういうことは、実はこれが初めてではない。
勘弁してくれよと内心鼻で笑いながら、ユゥイは確信していた。
今度の女もハズレか、と。
***
色々とゴタゴタはあったようだが、あれから一ヶ月。
ファイは家庭教師のバイト先の生徒とうまくやっているようだった。
帰宅後にお茶をしたり、空腹であれば軽食を取ったりしながら、いつも楽しげに彼とのことを話してくれる姿を見て、ユゥイはほっと胸を撫で下ろしていた。
夏休み前にそれまで付き合っていた彼女と別れて、休み中は毎日ほとんど休みなくバイトに没頭していたファイは、それが明けると廃人のようにぼんやりしていることが多かった。
気分転換になればと思い、たまたま常連客の女性との世間話の中で、彼女が息子の家庭教師を探していると話していたのを思い出し、それぞれに打診してみた。
その結果スムーズに事が運んだまではよかった。
が、ファイは初日にあらゆる意味で散々な目に遭ったらしい。
紹介した身としてはなんだか申し訳なくて、兄の精神面や向こうの息子の心境を思うと、こちらから早々に断りの連絡を入れるべきかと思っていた。
結果的に常連を失ったとしても、下手をすればそれによって自分がバイト先をクビになったとしても、優先すべきは可愛い兄の方だったからだ。
けれどファイは逃げることなくバイトを続けるために、自転車まで購入した。やはり、中途半端で投げ出すことはどうしても出来なかったらしい。
兄は少々甘えん坊で頼りない部分もあるが、あれで案外意思が強い。
へにゃへにゃしているので不真面目に見られることも多いようだが、彼はしっかりと中に一本芯の通った、誠実な人間だった。
それでもやはり、彼は主に恋愛面において誤解されることが多いらしい。
つい先日まで付き合っている彼女との惚気話をしていたかと思えば、それからたった数日後にはどんよりと沈んでいることがある。
破壊的なまでに女運がなさすぎると言えばそれまでだが、果たして兄の女性を見る目が悪いのか、それとも相手の目が性根ごと腐っているのか。
ユゥイとしては、その両方な気がしてならなかった。
恋愛を遊びやファッションの一部としてしか捉えていない人間は確かに存在して、ファイが捕まえてくる女はハッキリ言ってそういう人種ばかりだ。
容姿に優れていてノリがよければ、おのずと目立ってそういう輩が近づきやすい。
まるで光にたかる虫だ。
ユゥイはそれこそ虫も殺せぬような顔をしながらそう思う。
そしてそういった虫たちは、総じて飽きっぽく目移りが激しい。軽そうに見えて実は一途で愛情深いファイが、だんだん鬱陶しくなるのかもしれない。
浮気されればされたで目くじらを立てるくせに、深く気持ちを注げばそれを束縛と捉えて煙たがる。
だいたい、ファイもファイだ。
いつだって相手は慎重に選べと口が酸っぱくなるほど注意しているのに、その場のフィーリングだけで誰にでもすぐに懐いてしまうのは考え物だ。
もちろんそれが同時に彼の美点であることも承知した上で、弟としては胃に穴が開く思いだった。
だが本音を言えば、ファイが誰かに夢中になっているのを見ているのは、少し辛かったりもする。
要するにユゥイは思いっきり兄離れが出来ていないブラコンだった。
なので彼がフリーでいることは正直喜ばしいことだが、最近はその話題を全て黒鋼が独占しているような気がしてならない。
楽しくやっているのはユゥイとしても嬉しいけれど、なんとなく複雑だった。
「あのねーユゥイー、今日ねー、黒たんがー」
いつの間に渾名などで呼ぶようになったのか……。
そんなユゥイの気持ちなど知るよしもなく、ファイが上機嫌で語り出した内容は、以下である。
***
学校が終わってから真っ直ぐ帰宅して、まだ時間があるからとソファに寝転んだのが不味かった。
ちょっとの仮眠のはずが、気づけば家を出ていなければならない時間をとっくに過ぎていた。
これから準備をして全力で自転車を漕いだとしても、とてもではないが間に合いそうもない。
とりあえずは大慌てで寝癖を直したり準備をしたりして、やむなく駅へと全力で走って向かった。
黒鋼と打ち解けてからも、やはり電車は苦手だったけれど、遅刻をするよりはずっといい。
最近は時間よりも早くに行って、お茶をしながら色々なことを話すのが日課にもなっていた。
一方的に喋るのはファイの方だが、もともと無口な彼は聞き上手でもある。そして嫌なものは嫌と言うはっきりした性格でもあるので、そんな彼が何も言わないところを見るとついつい調子に乗って喋りすぎてしまう。
今日はそんな時間が取れなかったな、と思うと少し残念でもあった。
電車から降りて速攻で駅を出ると、さらに走った。
途中で躓いて転びそうになりながらも、チラリと時計を見やれば八時をとうに過ぎていて、ファイは情けない声で叫ぶ。
「うわー! もう最悪だよぉー!!」
それは自業自得なのだが、それによって迷惑をかけた挙句、信用を失くしてしまうかと思うと泣きたくなった。
やがて閑静な住宅街にたどり着いて、その頃にはもうすっかり肺が悲鳴を上げていた。
ゼェゼェと呼吸を乱し、胸元をぎゅっと押さえながら顔を上げる。
すると、前方にある門の前に人影が見えた。
「あ!」
思わず声を上げると、腕を組んでいたらしい影がピクリと反応する。
よろよろと走るファイに顔を上げたのは、教え子である黒鋼だった。
外灯の下、その表情は怒っているように見える。いや、実際に怒っているのだとは思うが。
「ご、ごめ、遅刻しちゃった……」
「そいつはいいが……何かあったのか……?」
「え?」
間近に向かいあった黒鋼は、僅かに身を屈めるようにしてファイの顔を覗きこんできた。思わず小首を傾げる。
「怒ってない?」
「別に怒っちゃいねぇが」
「よ、よかったー……。ちょっと居眠りして起きたら、もう七時半でー……」
「おまえ、電車で来たのか……?」
「あ、うん」
こっくりと頷くと、黒鋼は思い切り怖い顔をして、眉間の皺をさらに深くした。
「や、やっぱり怒ってるー!」
「だから怒ってねぇ! ただ……」
「?」
酷く言いにくそうにそっぽを向いて、黒鋼はボリボリと指先で頬を掻いた。
「……平気だったのか」
「え?」
なにが、と問い返そうとして、もしやと思った。
「もしかして、心配してくれてる?」
「あ!?」
薄ぼんやりとした外灯の下でも分かるほど、黒鋼は表情を赤らめた。
その珍しい光景に、ファイは信じられないものを見るような目で彼を見た。
「馬鹿か! なんで俺が!?」
「だってー、今だってわざわざ外で待っててくれたりして……」
「勘違いすんな!! たまたまだ! てめぇがなかなか来やがらねぇから、暇つぶしに食後の運動をだな!!」
「ふーん……そうなんだー」
にんまりと笑って上目使いで見ると、黒鋼は恐ろしい形相で「うるせぇ!!」と怒鳴り、先にズカズカと門の奥へと消えてしまった。
なんだか胸の中がむず痒くて、火が灯ったように温かかった。
最初は絡みにくい相手だとばかり思っていたのが嘘のように、最近では意地っ張りな黒鋼のことが分かるようになってきた気がする。
「素直じゃないとこが可愛いんだよねー……」
ファイはニヤけた顔を隠しもせず、その背に続いて門を潜った。
***
「って、ゆーことがあったんだー」
「ふぅん……」
兄はソファに深く腰掛けたまま、クッションを抱きしめてそれにグリグリと頬擦りをした。
「可愛いよねー! すっごい意地っ張りだけど、そこがたまんないよー! オレが来るの遅いからってわざわざ外に出て待っててくれたんだよー? 電車に乗ってまた変なのに襲われなかったかって、そこも心配してくれてさー」
ファイの頬がほんのりと薄紅に染まっているのを見て、ユゥイは複雑を通り越して不穏な予感がした。
黒鋼が彼を気遣い、心配してくれるのはありがたい。だがそんな黒鋼を語るときのファイは、彼女の惚気話をしていた姿とよく似ている。
もしくは、それ以上に……。
「ねぇファイ……?」
「んー? なぁにー?」
「一応言っておくけど……」
きょとん、という顔をしてクッションから顔を上げた兄に、弟は言った。
「高校生の、しかも男の子なんかたぶらかしちゃダメだよ……?」
「!?」
絶句したファイは、なぜか耳まで真っ赤に染めて、抱きしめていたクッションを後方に放り投げた。
「な、なに変なこと言ってんの!? そんなことするわけないでしょ!!」
手足をジタバタとさせて、大慌てで否定していたファイは、勢いでローテーブルの縁に足先をぶつけた。
ガンッと音がして、大きく傾いだカップから紅茶が零れる。
「い、いったーい!!」
「もうー……ファイってば……」
「ゆ、ユゥイが変なこと言うからだよー!!」
なおも真っ赤な顔で叫ぶファイを見て、ユゥイは今後についての不安がどうしようもなく膨らんでゆくのを感じていた。
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あれはいつのことだったろうか。
幾度となく繰り返しすぎて、もういちいち覚えているのもバカバカしい。
バイト先のカフェに、兄が最近付き合いはじめた彼女を連れてやって来た。
その女性を見て、ユゥイはニコリと微笑みながら心の中ではこっそり引いたのを覚えている。
異様に長すぎるつけ睫毛に、汗で崩れかかった濃いメイクと、目のやり場に困るほど胸元が開ききったノースリーブのミニワンピ。
一目で安物と分かるミュールが奏でる甲高い音が、静かな店内に雑音として響き渡った。
軽い挨拶を交わし、あくまでも社交辞令で「兄をよろしく」なんて心にもないことを言って。
ちょうど店内が込み合っていたことを理由にその場を離れ、黙々と仕事をこなしていたユゥイは、幾度も彼女の視線を感じた。
楽しそうに喋るファイに一応は相槌くらいは返しているようだが、意識は完全にこちらに向いている。
あえて真っ直ぐ見返し微笑んでやれば、彼女は一瞬肩を揺らし、赤く染まった目元を逸らした。
帰り際、会計を済ませているファイが気付かぬ間に、女はユゥイに連絡先を走り書きしたメモをこっそりと寄こした。
兄と自分は双子だが、纏う雰囲気が全く異なることは知っている。
そしてこういうことは、実はこれが初めてではない。
勘弁してくれよと内心鼻で笑いながら、ユゥイは確信していた。
今度の女もハズレか、と。
***
色々とゴタゴタはあったようだが、あれから一ヶ月。
ファイは家庭教師のバイト先の生徒とうまくやっているようだった。
帰宅後にお茶をしたり、空腹であれば軽食を取ったりしながら、いつも楽しげに彼とのことを話してくれる姿を見て、ユゥイはほっと胸を撫で下ろしていた。
夏休み前にそれまで付き合っていた彼女と別れて、休み中は毎日ほとんど休みなくバイトに没頭していたファイは、それが明けると廃人のようにぼんやりしていることが多かった。
気分転換になればと思い、たまたま常連客の女性との世間話の中で、彼女が息子の家庭教師を探していると話していたのを思い出し、それぞれに打診してみた。
その結果スムーズに事が運んだまではよかった。
が、ファイは初日にあらゆる意味で散々な目に遭ったらしい。
紹介した身としてはなんだか申し訳なくて、兄の精神面や向こうの息子の心境を思うと、こちらから早々に断りの連絡を入れるべきかと思っていた。
結果的に常連を失ったとしても、下手をすればそれによって自分がバイト先をクビになったとしても、優先すべきは可愛い兄の方だったからだ。
けれどファイは逃げることなくバイトを続けるために、自転車まで購入した。やはり、中途半端で投げ出すことはどうしても出来なかったらしい。
兄は少々甘えん坊で頼りない部分もあるが、あれで案外意思が強い。
へにゃへにゃしているので不真面目に見られることも多いようだが、彼はしっかりと中に一本芯の通った、誠実な人間だった。
それでもやはり、彼は主に恋愛面において誤解されることが多いらしい。
つい先日まで付き合っている彼女との惚気話をしていたかと思えば、それからたった数日後にはどんよりと沈んでいることがある。
破壊的なまでに女運がなさすぎると言えばそれまでだが、果たして兄の女性を見る目が悪いのか、それとも相手の目が性根ごと腐っているのか。
ユゥイとしては、その両方な気がしてならなかった。
恋愛を遊びやファッションの一部としてしか捉えていない人間は確かに存在して、ファイが捕まえてくる女はハッキリ言ってそういう人種ばかりだ。
容姿に優れていてノリがよければ、おのずと目立ってそういう輩が近づきやすい。
まるで光にたかる虫だ。
ユゥイはそれこそ虫も殺せぬような顔をしながらそう思う。
そしてそういった虫たちは、総じて飽きっぽく目移りが激しい。軽そうに見えて実は一途で愛情深いファイが、だんだん鬱陶しくなるのかもしれない。
浮気されればされたで目くじらを立てるくせに、深く気持ちを注げばそれを束縛と捉えて煙たがる。
だいたい、ファイもファイだ。
いつだって相手は慎重に選べと口が酸っぱくなるほど注意しているのに、その場のフィーリングだけで誰にでもすぐに懐いてしまうのは考え物だ。
もちろんそれが同時に彼の美点であることも承知した上で、弟としては胃に穴が開く思いだった。
だが本音を言えば、ファイが誰かに夢中になっているのを見ているのは、少し辛かったりもする。
要するにユゥイは思いっきり兄離れが出来ていないブラコンだった。
なので彼がフリーでいることは正直喜ばしいことだが、最近はその話題を全て黒鋼が独占しているような気がしてならない。
楽しくやっているのはユゥイとしても嬉しいけれど、なんとなく複雑だった。
「あのねーユゥイー、今日ねー、黒たんがー」
いつの間に渾名などで呼ぶようになったのか……。
そんなユゥイの気持ちなど知るよしもなく、ファイが上機嫌で語り出した内容は、以下である。
***
学校が終わってから真っ直ぐ帰宅して、まだ時間があるからとソファに寝転んだのが不味かった。
ちょっとの仮眠のはずが、気づけば家を出ていなければならない時間をとっくに過ぎていた。
これから準備をして全力で自転車を漕いだとしても、とてもではないが間に合いそうもない。
とりあえずは大慌てで寝癖を直したり準備をしたりして、やむなく駅へと全力で走って向かった。
黒鋼と打ち解けてからも、やはり電車は苦手だったけれど、遅刻をするよりはずっといい。
最近は時間よりも早くに行って、お茶をしながら色々なことを話すのが日課にもなっていた。
一方的に喋るのはファイの方だが、もともと無口な彼は聞き上手でもある。そして嫌なものは嫌と言うはっきりした性格でもあるので、そんな彼が何も言わないところを見るとついつい調子に乗って喋りすぎてしまう。
今日はそんな時間が取れなかったな、と思うと少し残念でもあった。
電車から降りて速攻で駅を出ると、さらに走った。
途中で躓いて転びそうになりながらも、チラリと時計を見やれば八時をとうに過ぎていて、ファイは情けない声で叫ぶ。
「うわー! もう最悪だよぉー!!」
それは自業自得なのだが、それによって迷惑をかけた挙句、信用を失くしてしまうかと思うと泣きたくなった。
やがて閑静な住宅街にたどり着いて、その頃にはもうすっかり肺が悲鳴を上げていた。
ゼェゼェと呼吸を乱し、胸元をぎゅっと押さえながら顔を上げる。
すると、前方にある門の前に人影が見えた。
「あ!」
思わず声を上げると、腕を組んでいたらしい影がピクリと反応する。
よろよろと走るファイに顔を上げたのは、教え子である黒鋼だった。
外灯の下、その表情は怒っているように見える。いや、実際に怒っているのだとは思うが。
「ご、ごめ、遅刻しちゃった……」
「そいつはいいが……何かあったのか……?」
「え?」
間近に向かいあった黒鋼は、僅かに身を屈めるようにしてファイの顔を覗きこんできた。思わず小首を傾げる。
「怒ってない?」
「別に怒っちゃいねぇが」
「よ、よかったー……。ちょっと居眠りして起きたら、もう七時半でー……」
「おまえ、電車で来たのか……?」
「あ、うん」
こっくりと頷くと、黒鋼は思い切り怖い顔をして、眉間の皺をさらに深くした。
「や、やっぱり怒ってるー!」
「だから怒ってねぇ! ただ……」
「?」
酷く言いにくそうにそっぽを向いて、黒鋼はボリボリと指先で頬を掻いた。
「……平気だったのか」
「え?」
なにが、と問い返そうとして、もしやと思った。
「もしかして、心配してくれてる?」
「あ!?」
薄ぼんやりとした外灯の下でも分かるほど、黒鋼は表情を赤らめた。
その珍しい光景に、ファイは信じられないものを見るような目で彼を見た。
「馬鹿か! なんで俺が!?」
「だってー、今だってわざわざ外で待っててくれたりして……」
「勘違いすんな!! たまたまだ! てめぇがなかなか来やがらねぇから、暇つぶしに食後の運動をだな!!」
「ふーん……そうなんだー」
にんまりと笑って上目使いで見ると、黒鋼は恐ろしい形相で「うるせぇ!!」と怒鳴り、先にズカズカと門の奥へと消えてしまった。
なんだか胸の中がむず痒くて、火が灯ったように温かかった。
最初は絡みにくい相手だとばかり思っていたのが嘘のように、最近では意地っ張りな黒鋼のことが分かるようになってきた気がする。
「素直じゃないとこが可愛いんだよねー……」
ファイはニヤけた顔を隠しもせず、その背に続いて門を潜った。
***
「って、ゆーことがあったんだー」
「ふぅん……」
兄はソファに深く腰掛けたまま、クッションを抱きしめてそれにグリグリと頬擦りをした。
「可愛いよねー! すっごい意地っ張りだけど、そこがたまんないよー! オレが来るの遅いからってわざわざ外に出て待っててくれたんだよー? 電車に乗ってまた変なのに襲われなかったかって、そこも心配してくれてさー」
ファイの頬がほんのりと薄紅に染まっているのを見て、ユゥイは複雑を通り越して不穏な予感がした。
黒鋼が彼を気遣い、心配してくれるのはありがたい。だがそんな黒鋼を語るときのファイは、彼女の惚気話をしていた姿とよく似ている。
もしくは、それ以上に……。
「ねぇファイ……?」
「んー? なぁにー?」
「一応言っておくけど……」
きょとん、という顔をしてクッションから顔を上げた兄に、弟は言った。
「高校生の、しかも男の子なんかたぶらかしちゃダメだよ……?」
「!?」
絶句したファイは、なぜか耳まで真っ赤に染めて、抱きしめていたクッションを後方に放り投げた。
「な、なに変なこと言ってんの!? そんなことするわけないでしょ!!」
手足をジタバタとさせて、大慌てで否定していたファイは、勢いでローテーブルの縁に足先をぶつけた。
ガンッと音がして、大きく傾いだカップから紅茶が零れる。
「い、いったーい!!」
「もうー……ファイってば……」
「ゆ、ユゥイが変なこと言うからだよー!!」
なおも真っ赤な顔で叫ぶファイを見て、ユゥイは今後についての不安がどうしようもなく膨らんでゆくのを感じていた。
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第六話 『錯乱』
しまった、と思ってももう遅く、それでも慌てて手の甲で目元を拭った。
「ご、ごめ」
黒鋼の顔など、やっぱりまともに見れやしなかった。
ただでさえ挙動不審なおかしな奴と思われているのに、さらにいきなり泣き出すだなんて、はっきり言って自分でも気持ちが悪い。
いや、むしろ出会ったときからすでにそう思われていたっておかしくなかった。
ダメだ。
ファイは諦めにも似た心境で感情を溢れさせた。
もう、なんだっていい。
「だ、だって……オレ、気持ち悪いなって……」
「あ?」
「だってさ! だって、男のくせに痴漢に遭って、それで、そのあと……き、君だって見たでしょ! オレのこと、トイレに連れてってくれたじゃない!」
声を張り上げて感情をぶちまけはじめると、不思議と黒鋼の視線を真っ直ぐに受け止めることが出来た。彼は、目を見開いてこちらを凝視していた。
けれどその表情も、溢れ出して止まらない涙によって微かにぼやけて見える。
「いっそのこと思いっきり笑ってバカにしてくれたら、オレだってこんなに悶々しなかったのに!」
「お、おい……」
黒鋼がテーブルに手をついて、僅かに腰を浮かせる。
ああ、思いっきり引かれてる。分かってはいても、なんだかもう止まらなかった。
一度爆発した思いはそのままの勢いを保ちながら、競りあがる嗚咽によってたどたどしくなってゆく。
「どうせオレは変態だよ……っ、普通あんな目に遭ったら、あんな風になんか、ならないしっ……!」
ズルズルと鼻水が流れ出しそうになるのを、必死で啜って堪えた。優しく鼻を拭ってくれる家族はここにはいない。
「なることも……あるんだろ…? 実際なっちまったもんは……」
「仕方なくない!!」
思い切り睨みつけると、相手はとりあえず押し黙った。ボリボリと頭を掻いている。
「言ってよ! おまえみたいな変態にっ、教わることなんか何もないって……!」
「別にそんなこたぁ……」
「オレの気持ちなんか絶対に分かんないくせに…! だって君みたいにカッコよかったら、オレだってもっとちゃんと、好きな子とずっと、一緒に……っ」
「?」
「オレに男としての魅力がないことくらい知ってるよ! でも……でもオレは軽い男なんかじゃない……!」
黒鋼がファイに向かって片手を翳した。待て、と指示しているらしい。
「なぁ、ちょっと待てよ。そいつは一体何の話だ? なんかおかしな流れになってねぇか?」
「おかしいよ……おかしいんだよ……でも、みんなはオレの方がおかしいって言うんだよ……」
「……確かに」
「うぅ……っ」
やっぱり肯定されてしまった。分かってはいたが、いざとなるとどうにも遣る瀬無い。
メソメソと両手で顔を覆って泣いていると、向かいの人物が立ち上がる気配がした。ガサゴソという音がして、すぐにその気配が傍らまで近づいてくるのが分かる。
怒鳴られるのだろうかと、ファイは意識のずっと遠い場所でぼんやりと思った。
自分でも色々なことがない混ぜになって、ほぼ錯乱状態にあったことを自覚している。
謝って礼を言うどころか、とんだことをしでかしてしまった。
それでも頭の中がぐちゃぐちゃで、高ぶった神経に涙と嗚咽がどうしても止まらなかった。
こんなのはただの八つ当たりだ。全く関係のない赤の他人にぶつけて許される感情ではない。
思い切り殴られて、叩き出されてもおかしくなかった。むしろ、そうされるべきだと思う。
「ごめん……ごめ……」
「おら」
「!」
恐る恐る顔を上げると、目の前に白い手ぬぐいが差し出されていた。驚いてそのまま相手を見上げると、少し怒っているような、困ったような表情が近くにあった。
「ぁ……」
冷たく突き放したような顔しか見たことがなかったファイは、その複雑そうな表情に見覚えがあった。
そう、あれは初めて会った、あの駅ホームの階段上で。
ファイの様子を察した彼は、確かこんな顔をしてはいなかったか?
あの時は余裕がなくて、細部までは記憶に残っていなかった。けれど今、目の前で彼の困り顔を見た瞬間、ふと脳内にくっきりと鮮やかに蘇った。
「大の大人がビービー泣くんじゃねぇよ……。てめぇの事情は知らねぇが……ったく、面倒臭ぇな……」
差し出された手ぬぐいを受け取らないまま、ポカンと口を開けていると、彼は腹立たしげに舌打ちをした。
そして、思いっきりファイの頭を鷲掴みにすると、手ぬぐいで顔をグリグリと拭き始めた。
「うわっぷ!? ひぇ、いひゃいー!」
「うっせぇ! 黙ってろ!」
強い力で乱暴に拭かれて、ファイは身体ごとガクンガクンと揺れた。
やっと解放されたときには、僅かに目が回っていた。
「ら、らんぼうものー!」
「んっとにうっせぇ野郎だ……」
顔を真っ赤にしてキャンキャンと吼えるファイから、黒鋼は頬を掻きながら顔を背けた。
それを見て、おや、と小首を傾げる。
(怒ってるのに、怒ってない顔に見える……)
ぼけっとしたままでいると、黒鋼はどすんと胡坐をかいて、何かを諦めたような溜息を零した。
「知らん顔してる方がいいかと思った。俺なりに、気ぃ回したつもりだったんだが」
「!」
ふと、ユゥイに泣きついた夜のことを思い出す。
本当は優しい子なんじゃないかと、弟は言っていた。
そしてあのとき自分は、己のことしか考えていなかったことを恥じて、猛反省したはずだったことも思い出した。
またやっちゃった……と思い、ファイは真っ赤な顔で俯いた。
それを、再び泣き出すのかとでも思ったのか、黒鋼は少し慌てた様子で続けた。
「おい、泣くんじゃねぇぞ。俺の配慮が足りなかったのは……謝る」
悪かった……という小さな台詞に、はっとして顔を上げた。そして、首を左右に振る。
「ち、違うよ! オレが自分のことしか考えてなくて……君は助けてくれたのに……オレ、お礼も言えてなかったよね……。あの……ありがと……」
黒鋼に真っ直ぐ見つめられると、どうしても居心地が悪くて目を逸らしてしまいたくなる。
でも、きっと今しか言えない。そしてたった今やらかしてしまった馬鹿に関しても、この際まとめて謝らなければ。
「そ、その……さっき言っちゃったことも……わ、忘れて……。オレ、いろいろ混乱しちゃって……ごめんなさい……」
ファイの恋愛事情や、自身が抱えるコンプレックスなど、彼には何一つ関係ない。
それを混同させて一気に爆発させてしまうだなんて、冷静になることが出来た今だからこそ、いっそ死んでしまいたいほど恥ずかしい。
結局、気を遣ってくれていた相手を不快にさせるだけの結果になってしまった。
「今日でこのバイト辞めさせてもらうから……。もう君に、迷惑かけられないから……」
そしてもう一度「ごめん」と言った。黒鋼は何も言わない。
またしても俯いてしまったファイは、唇を噛み締めてただ耐えた。
すると、ふいに伸びてきた手がファイの金髪をクシャクシャと乱した。
「!」
顔を上げれば、やっぱり怒っているような困っているような、複雑そうな顔がそこにあった。
見ていると胸が温かくなるような、不思議な感覚に囚われて目が離せない。
困らせているし、怒らせてもいるかもしれない。それでも、なんとなく、優しい顔だと思った。
「あ、あの……オレ、犬じゃ、ないんだけど……」
だがいつまでも見惚れているわけにもいかず、撫でられたままでいるのもくすぐったい。
けれど黒鋼はそんなことはお構いなしのようだった。
「犬っつーより、猫っぽいな。この毛」
「あ、そう? ……じゃなくてー」
「勘違いすんなよ」
「え?」
一通り撫でて満足したのかは知らないが、すっと手が引いた。
ほっとしたような、残念なような、妙な気持ちでファイは瞬きを繰り返す。
「てめぇは何にも悪くねぇ。悪いのも変態なのも、あの痴漢野郎の方じゃねぇか」
だからあまり自分を責めてやるなと、黒鋼は言った。
言われてみれば、確かにその通りだと思った。
墓穴を掘ったことで自分ばかり責めてしまったし、黒鋼に八つ当たりまでしてしまったが、元を正せばあの痴漢が発端であり、一番の悪であることは確かだった。
「許してくれるの……? オレのこと……」
「だから、許すもなにもてめぇは悪くねぇだろ」
その瞬間、心の中に詰まっていたズッシリとした石のようなものが、砂になってサラサラと流れ出してゆくような気がした。
なんだか力が抜けて、また少し涙が滲む。
「だから泣くな」
男らしい節の目立つ指先が、ファイの目元を強引に掠める。少し痛かったが、ファイはそこでようやくふんにゃりと笑った。
それを見た黒鋼は、なぜかぐっと息を詰めたように唇を真一文字に結んだ。
「ありがとー……。君、本当に優しい子なんだね」
「あ?」
「だってオレ、いっぱいバカやったのにこんなに気遣ってくれるし、顔は怒ってるみたいに怖いのに、ホントはぜんぜん怒ってないんだもん。優しいよ、凄く」
黒鋼の眉間にどんどん皺が寄ってゆく。照れているのかと思うとなんだか可愛くて、親近感が湧いてきた。
「最初はねー、あんな恥ずかしいトコ見られちゃって、絶対にバカにされてるって思ったんだー。顔もヤクザみたいに怖いしー、でもイケメンだからなんだか悔しいしー、お金持ちのお坊ちゃんのくせして言葉も乱暴だしー。でもホントはこーんなに良い子だって分かったから、オレ安心しちゃったー」
ファイはニコニコ顔で拳を黒鋼の胸元にグリグリと押し付けた。
「もっと早くに優しいこと言ってくれればよかったのにー! このこのー! この男前ー! イケメンヤクザ高校生ー!」
ご機嫌で喋り続けていたファイだが、次の瞬間、ガツンという音と共に地面が縦に揺らいだ気がして、座った状態のまま僅かにピョンと跳ねた。
「……へ?」
見れば黒鋼が、ブルブルと激しく震わせた拳をテーブルの上で置いている。どうやら、あの一瞬の縦揺れは彼が拳を叩きつけた音だったらしい。
そして、そんな彼の顔を見たファイは、声なき悲鳴を上げた。
ホラー映画でも見たことのないような恐ろしい鬼の形相が、そこにはあった……。
「言わせておけば……ふざけんじゃねぇぞ……?」
「あ、あれ? なに? お、オレ、なにか言っちゃった……?」
ゆらりと立ち上がった黒鋼に、ファイは顔面を蒼白にして思った。
殺される……と……。
「てめぇは……」
そして次の瞬間、黒鋼の「クビだ!!」という、大地を揺るがすほどの叫びによって、巨大な日本家屋が大きく揺らいだ。
***
「と、いうわけでねー、ちょーっと危なかったけど、オレ家庭教師続けることになりましたー!」
ユゥイが作ってくれた焼鮭と昆布のおにぎりをモグモグと租借しながら、ファイはご機嫌で本日のことを語った。
「本当に危なかったね……。殺されなくてよかったよ……」
「うん!」
テーブルを挟んで向かいの席についていたユゥイが苦笑している。彼にも本当に心配をかけてしまった。
あのあと、ファイは生まれて初めての土下座をした。
そしてなんのかんのとやり取りがあって、結局は帰り際に「またな」と言ってもらえた。
それにしても一体自分の言ったことの何が不満だったのか、褒めると怒るなんて不思議な人もいるものだと思った。
「褒めてるのか貶してるのかのラインが微妙だったんじゃないかな……」
と、ユゥイは言うが、おそらく黒鋼は真正面から褒められるのが苦手なのではないかと、ファイは思う。
そして、そんなところがなんだかとっても可愛いとも思った。(あの形相はチビリそうなほど恐ろしかったが)
「とにかく、オレ頑張るよーユゥイー!」
「う、うん。頑張ってね」
きっと黒鋼とはもっと仲良くなれる。
そう思ったファイは、これからのことにウキウキと胸を弾ませるのだった。
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しまった、と思ってももう遅く、それでも慌てて手の甲で目元を拭った。
「ご、ごめ」
黒鋼の顔など、やっぱりまともに見れやしなかった。
ただでさえ挙動不審なおかしな奴と思われているのに、さらにいきなり泣き出すだなんて、はっきり言って自分でも気持ちが悪い。
いや、むしろ出会ったときからすでにそう思われていたっておかしくなかった。
ダメだ。
ファイは諦めにも似た心境で感情を溢れさせた。
もう、なんだっていい。
「だ、だって……オレ、気持ち悪いなって……」
「あ?」
「だってさ! だって、男のくせに痴漢に遭って、それで、そのあと……き、君だって見たでしょ! オレのこと、トイレに連れてってくれたじゃない!」
声を張り上げて感情をぶちまけはじめると、不思議と黒鋼の視線を真っ直ぐに受け止めることが出来た。彼は、目を見開いてこちらを凝視していた。
けれどその表情も、溢れ出して止まらない涙によって微かにぼやけて見える。
「いっそのこと思いっきり笑ってバカにしてくれたら、オレだってこんなに悶々しなかったのに!」
「お、おい……」
黒鋼がテーブルに手をついて、僅かに腰を浮かせる。
ああ、思いっきり引かれてる。分かってはいても、なんだかもう止まらなかった。
一度爆発した思いはそのままの勢いを保ちながら、競りあがる嗚咽によってたどたどしくなってゆく。
「どうせオレは変態だよ……っ、普通あんな目に遭ったら、あんな風になんか、ならないしっ……!」
ズルズルと鼻水が流れ出しそうになるのを、必死で啜って堪えた。優しく鼻を拭ってくれる家族はここにはいない。
「なることも……あるんだろ…? 実際なっちまったもんは……」
「仕方なくない!!」
思い切り睨みつけると、相手はとりあえず押し黙った。ボリボリと頭を掻いている。
「言ってよ! おまえみたいな変態にっ、教わることなんか何もないって……!」
「別にそんなこたぁ……」
「オレの気持ちなんか絶対に分かんないくせに…! だって君みたいにカッコよかったら、オレだってもっとちゃんと、好きな子とずっと、一緒に……っ」
「?」
「オレに男としての魅力がないことくらい知ってるよ! でも……でもオレは軽い男なんかじゃない……!」
黒鋼がファイに向かって片手を翳した。待て、と指示しているらしい。
「なぁ、ちょっと待てよ。そいつは一体何の話だ? なんかおかしな流れになってねぇか?」
「おかしいよ……おかしいんだよ……でも、みんなはオレの方がおかしいって言うんだよ……」
「……確かに」
「うぅ……っ」
やっぱり肯定されてしまった。分かってはいたが、いざとなるとどうにも遣る瀬無い。
メソメソと両手で顔を覆って泣いていると、向かいの人物が立ち上がる気配がした。ガサゴソという音がして、すぐにその気配が傍らまで近づいてくるのが分かる。
怒鳴られるのだろうかと、ファイは意識のずっと遠い場所でぼんやりと思った。
自分でも色々なことがない混ぜになって、ほぼ錯乱状態にあったことを自覚している。
謝って礼を言うどころか、とんだことをしでかしてしまった。
それでも頭の中がぐちゃぐちゃで、高ぶった神経に涙と嗚咽がどうしても止まらなかった。
こんなのはただの八つ当たりだ。全く関係のない赤の他人にぶつけて許される感情ではない。
思い切り殴られて、叩き出されてもおかしくなかった。むしろ、そうされるべきだと思う。
「ごめん……ごめ……」
「おら」
「!」
恐る恐る顔を上げると、目の前に白い手ぬぐいが差し出されていた。驚いてそのまま相手を見上げると、少し怒っているような、困ったような表情が近くにあった。
「ぁ……」
冷たく突き放したような顔しか見たことがなかったファイは、その複雑そうな表情に見覚えがあった。
そう、あれは初めて会った、あの駅ホームの階段上で。
ファイの様子を察した彼は、確かこんな顔をしてはいなかったか?
あの時は余裕がなくて、細部までは記憶に残っていなかった。けれど今、目の前で彼の困り顔を見た瞬間、ふと脳内にくっきりと鮮やかに蘇った。
「大の大人がビービー泣くんじゃねぇよ……。てめぇの事情は知らねぇが……ったく、面倒臭ぇな……」
差し出された手ぬぐいを受け取らないまま、ポカンと口を開けていると、彼は腹立たしげに舌打ちをした。
そして、思いっきりファイの頭を鷲掴みにすると、手ぬぐいで顔をグリグリと拭き始めた。
「うわっぷ!? ひぇ、いひゃいー!」
「うっせぇ! 黙ってろ!」
強い力で乱暴に拭かれて、ファイは身体ごとガクンガクンと揺れた。
やっと解放されたときには、僅かに目が回っていた。
「ら、らんぼうものー!」
「んっとにうっせぇ野郎だ……」
顔を真っ赤にしてキャンキャンと吼えるファイから、黒鋼は頬を掻きながら顔を背けた。
それを見て、おや、と小首を傾げる。
(怒ってるのに、怒ってない顔に見える……)
ぼけっとしたままでいると、黒鋼はどすんと胡坐をかいて、何かを諦めたような溜息を零した。
「知らん顔してる方がいいかと思った。俺なりに、気ぃ回したつもりだったんだが」
「!」
ふと、ユゥイに泣きついた夜のことを思い出す。
本当は優しい子なんじゃないかと、弟は言っていた。
そしてあのとき自分は、己のことしか考えていなかったことを恥じて、猛反省したはずだったことも思い出した。
またやっちゃった……と思い、ファイは真っ赤な顔で俯いた。
それを、再び泣き出すのかとでも思ったのか、黒鋼は少し慌てた様子で続けた。
「おい、泣くんじゃねぇぞ。俺の配慮が足りなかったのは……謝る」
悪かった……という小さな台詞に、はっとして顔を上げた。そして、首を左右に振る。
「ち、違うよ! オレが自分のことしか考えてなくて……君は助けてくれたのに……オレ、お礼も言えてなかったよね……。あの……ありがと……」
黒鋼に真っ直ぐ見つめられると、どうしても居心地が悪くて目を逸らしてしまいたくなる。
でも、きっと今しか言えない。そしてたった今やらかしてしまった馬鹿に関しても、この際まとめて謝らなければ。
「そ、その……さっき言っちゃったことも……わ、忘れて……。オレ、いろいろ混乱しちゃって……ごめんなさい……」
ファイの恋愛事情や、自身が抱えるコンプレックスなど、彼には何一つ関係ない。
それを混同させて一気に爆発させてしまうだなんて、冷静になることが出来た今だからこそ、いっそ死んでしまいたいほど恥ずかしい。
結局、気を遣ってくれていた相手を不快にさせるだけの結果になってしまった。
「今日でこのバイト辞めさせてもらうから……。もう君に、迷惑かけられないから……」
そしてもう一度「ごめん」と言った。黒鋼は何も言わない。
またしても俯いてしまったファイは、唇を噛み締めてただ耐えた。
すると、ふいに伸びてきた手がファイの金髪をクシャクシャと乱した。
「!」
顔を上げれば、やっぱり怒っているような困っているような、複雑そうな顔がそこにあった。
見ていると胸が温かくなるような、不思議な感覚に囚われて目が離せない。
困らせているし、怒らせてもいるかもしれない。それでも、なんとなく、優しい顔だと思った。
「あ、あの……オレ、犬じゃ、ないんだけど……」
だがいつまでも見惚れているわけにもいかず、撫でられたままでいるのもくすぐったい。
けれど黒鋼はそんなことはお構いなしのようだった。
「犬っつーより、猫っぽいな。この毛」
「あ、そう? ……じゃなくてー」
「勘違いすんなよ」
「え?」
一通り撫でて満足したのかは知らないが、すっと手が引いた。
ほっとしたような、残念なような、妙な気持ちでファイは瞬きを繰り返す。
「てめぇは何にも悪くねぇ。悪いのも変態なのも、あの痴漢野郎の方じゃねぇか」
だからあまり自分を責めてやるなと、黒鋼は言った。
言われてみれば、確かにその通りだと思った。
墓穴を掘ったことで自分ばかり責めてしまったし、黒鋼に八つ当たりまでしてしまったが、元を正せばあの痴漢が発端であり、一番の悪であることは確かだった。
「許してくれるの……? オレのこと……」
「だから、許すもなにもてめぇは悪くねぇだろ」
その瞬間、心の中に詰まっていたズッシリとした石のようなものが、砂になってサラサラと流れ出してゆくような気がした。
なんだか力が抜けて、また少し涙が滲む。
「だから泣くな」
男らしい節の目立つ指先が、ファイの目元を強引に掠める。少し痛かったが、ファイはそこでようやくふんにゃりと笑った。
それを見た黒鋼は、なぜかぐっと息を詰めたように唇を真一文字に結んだ。
「ありがとー……。君、本当に優しい子なんだね」
「あ?」
「だってオレ、いっぱいバカやったのにこんなに気遣ってくれるし、顔は怒ってるみたいに怖いのに、ホントはぜんぜん怒ってないんだもん。優しいよ、凄く」
黒鋼の眉間にどんどん皺が寄ってゆく。照れているのかと思うとなんだか可愛くて、親近感が湧いてきた。
「最初はねー、あんな恥ずかしいトコ見られちゃって、絶対にバカにされてるって思ったんだー。顔もヤクザみたいに怖いしー、でもイケメンだからなんだか悔しいしー、お金持ちのお坊ちゃんのくせして言葉も乱暴だしー。でもホントはこーんなに良い子だって分かったから、オレ安心しちゃったー」
ファイはニコニコ顔で拳を黒鋼の胸元にグリグリと押し付けた。
「もっと早くに優しいこと言ってくれればよかったのにー! このこのー! この男前ー! イケメンヤクザ高校生ー!」
ご機嫌で喋り続けていたファイだが、次の瞬間、ガツンという音と共に地面が縦に揺らいだ気がして、座った状態のまま僅かにピョンと跳ねた。
「……へ?」
見れば黒鋼が、ブルブルと激しく震わせた拳をテーブルの上で置いている。どうやら、あの一瞬の縦揺れは彼が拳を叩きつけた音だったらしい。
そして、そんな彼の顔を見たファイは、声なき悲鳴を上げた。
ホラー映画でも見たことのないような恐ろしい鬼の形相が、そこにはあった……。
「言わせておけば……ふざけんじゃねぇぞ……?」
「あ、あれ? なに? お、オレ、なにか言っちゃった……?」
ゆらりと立ち上がった黒鋼に、ファイは顔面を蒼白にして思った。
殺される……と……。
「てめぇは……」
そして次の瞬間、黒鋼の「クビだ!!」という、大地を揺るがすほどの叫びによって、巨大な日本家屋が大きく揺らいだ。
***
「と、いうわけでねー、ちょーっと危なかったけど、オレ家庭教師続けることになりましたー!」
ユゥイが作ってくれた焼鮭と昆布のおにぎりをモグモグと租借しながら、ファイはご機嫌で本日のことを語った。
「本当に危なかったね……。殺されなくてよかったよ……」
「うん!」
テーブルを挟んで向かいの席についていたユゥイが苦笑している。彼にも本当に心配をかけてしまった。
あのあと、ファイは生まれて初めての土下座をした。
そしてなんのかんのとやり取りがあって、結局は帰り際に「またな」と言ってもらえた。
それにしても一体自分の言ったことの何が不満だったのか、褒めると怒るなんて不思議な人もいるものだと思った。
「褒めてるのか貶してるのかのラインが微妙だったんじゃないかな……」
と、ユゥイは言うが、おそらく黒鋼は真正面から褒められるのが苦手なのではないかと、ファイは思う。
そして、そんなところがなんだかとっても可愛いとも思った。(あの形相はチビリそうなほど恐ろしかったが)
「とにかく、オレ頑張るよーユゥイー!」
「う、うん。頑張ってね」
きっと黒鋼とはもっと仲良くなれる。
そう思ったファイは、これからのことにウキウキと胸を弾ませるのだった。
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第五話 『鬱屈』
ユゥイは怖い思いをしたのだろうと気遣ってくれたが、ファイとしては痴漢に遭ったということよりも、その後の出来事の方のダメージが大きかったので、それ自体は大した問題ではなかった。
だが、その微妙に的の外れたダメージの強大さがゆえに、ファイは電車というものが嫌いになった。
これからの季節や天候によっては、そのようなことも言っていられない場合が出てくるだろうが、なんとなく自分の中でほとぼりが冷めるまでは、当分の利用を控えたかった。
***
いざとなると、やはり緊張する。
ファイは先日と同じように、闇の中に聳える大きな日本家屋の門の前で立ち尽くしていた。
ただ、前回と異なるのはファイがここまでやって来た交通手段として、折りたためるタイプの自転車が同伴していることだった。
どんよりとしながらノロノロと徒歩で帰宅したときの、半分以下の時間でここまで到着することが出来たものの、少々時間が早すぎたようだ。
時計を見れば30分も早い。
「気合入れすぎちゃったかな……」
結局、あれからこの家の人間からの連絡は一切なかった。ユゥイは「良かったね」と言ってくれたが、ファイ的にはまだ安心しかねている。
直接顔を突き合わせてクビの宣告がなされる可能性だって、十分に残されているからだ。
結局、決めたことは最後までやり通そうという思いから、勢いで自転車を購入したものの、こればかりはこちらの意思だけではどうにもならない。
ファイはドキドキと高鳴る心臓を落ち着かせようと、幾度か深呼吸をした。
やっぱり黒鋼と顔を合わせるのは勇気がいる。ご機嫌取りというわけではないが、会話の糸口になればと、今日はユゥイの手製の菓子も持参してきた。
ひとまずどう転ぶにしたって黒鋼には礼を言わねば。
向こうが口を開こうとしないなら、ファイは持ち前の明るさで自ら冗談めかして話を切り出すつもりでいた。
重厚感溢れる空気など、いっそのこと思い切りぶち破ってしまえば、こちらのペースに運びやすい……かもしれない。
陽気なピエロにでもなったような気持ちで、当たって砕ける覚悟を決める。
ファイはその後も時間まで立ち尽くしていたが、意を決したように顔を上げるとコールボタンを押した。
***
正直、この期におよんでまだ心の準備が整っていなかったことを、ファイは痛感させられていた。
ボタンを押せばスピーカーから聞こえるのはあの優しげな声で、出迎えてくれるのもその人だとばかり思っていたからだ。
(あの綺麗なお母さん……まさかいないなんて……)
ファイを出迎えてくれたのは、なんと黒鋼本人だったのだ。
顔を突き合わせた途端、またしても言葉をなくしてしまったファイは、ガチガチに固まって挨拶もろくに交わせなかった。
何事も最初が肝心というが、こんな調子では前回の二の舞に終わる可能性が十分に考えられる。
どうもあの意思の強そうな鋭い眼光に見下ろされると、その威圧感に身体が竦んでしまうらしい。
彼の両親は知り合いに急な不幸があったとかで、本日は共に不在とのことだった。
今、ファイは黒鋼の部屋にて一人、緊張した面持ちで正座をしていた。
(ダメだダメだ! しっかりしないと! ちゃんとお礼言うって決めたんだから……!)
勢いよく息を吐き出し、心の中で気合いを入れる。
すると、背後で障子がするりと開かれた。
「!」
ピンと背筋を伸ばしたファイに、両手に茶の入った湯呑み茶碗を持った黒鋼が歩み寄ってくる。
そのまま無言で熱い茶を差し出され、ファイはどうにか声を振り絞って礼を言った。
「ぁりが、と……」
「おい」
ビクリと、身体が跳ねる。けれどなるべく平静を装って顔を向ける。
「な、なに、かな?」
「また足がバカにならねぇうちに、崩した方がいいんじゃねぇのか」
「あ、う、うん、そうだね……ごめん……」
「別に謝らなくていい」
「うっ……ごめん……」
縮こまっているファイに、黒鋼は呆れたような息を洩らした。
まずい。このままでは場の空気に呑まれたまま終わってしまう。どうにかせねば……。
ちょうど向かいに腰を下ろして、自分が淹れてきた茶を啜り出した黒鋼に向かって、ファイは思い出したように持参してきた菓子の箱を差し出した。
これは本日最大の秘密兵器である。
「あのね! こ、これ……」
「あ?」
(だから! いちいちガラ悪いんだってばー!)
内心ビビリつつ、ファイは顔の筋肉が引き攣るほどのわざとらしい笑顔を浮かべた。かつて、こんなにも笑うことを苦痛に感じたことはない。
黒鋼は眉間に皺を刻んだ表情で、目の前の白い箱を見ている。
「よ、よければなんだけど……」
手を伸ばしにくいかと察して、ファイは足を崩しがてら膝立ちになると箱を開けた。
中からは、この季節にぴったりなカボチャとナッツを使ったパウンドケーキが可愛らしくラッピングされて納まっている。
「オレの弟、ユゥイっていうんだけど、お菓子とかお料理作るの上手でね、これすっごく美味しいんだよー! ほら、勉強してると甘いもの欲しくなるでしょー?」
とりあえず一生懸命に喋った。
ファイにすればまだまだ口数は足りないほうなのだが、それでもよくやったと思う。
これで少しは打ち解ける切欠が作れたろうか……。
そう思い、上目使いで黒鋼を見やると、彼はなぜか渋い顔を作っていた。
「あれ……?」
「……せっかくだが……俺は甘いもんは好かねぇ」
「え」
「俺はいいから、おまえが食え」
ほんの数秒フリーズしたファイだが、すぐにブルブルと高速で首を振った。
「い、いいよー! それだと意味ないし……!」
自分が食べるために持ってきたものではない。
だがよくよく考えれば、彼は見るからに甘い物など好んで食べそうなイメージはなかった。
(オレのバカー!!)
ドーンと影を纏いながら肩を落とした。
心なしか、場が白けたムードに包まれているような気がするのは気のせいだといいが……。
「ご……ごめんね……」
「いい。お袋が喜ぶ。気にするな」
「うん……」
本当に、これではどちらが年上か分からない。
ファイの心境などお構いなしに、黒鋼はあっさり箱の蓋を閉めると脇に避けてしまった。
「それより、今日もとっとと始めるぞ」
そして本日も黒鋼の仕切りにより、授業が始まるようだ。目の前で教材を広げ始める様を唇を噛み締めながら見守ったファイだが、彼の様子からどうやらクビは免れたらしいということが知れた。
それなのに、なぜだかとても複雑な思いに囚われているのはなぜだろう……。
***
いけない。これでは本当に前回とまるで同じになってしまう。
ファイは時計をチラチラと確認しつつ、刻々と過ぎてゆく時の流れに焦っていた。
結局は黒鋼の威圧感と、秘密兵器の不発に引きずられて、必要最低限のこと以外を切り出せないでいる。
このまま暫く待てば、きりのいいところで休憩を挟むという手がある。そこできっと多少の隙は出来るはずだ。
が、なんだかどんどん自信がなくなってくる。
いっそのこと全て無かったことにして、今後もバイトを続けることが可能かもしれないが、それではやっぱり気が収まらない。
(ちゃんと謝りたい……お礼が言いたい……けど……やっぱり蒸し返したくない……でもお礼は言いたいし……)
今、黒鋼はファイが課した課題に取り組んでいる。
キリッとした真面目な顔を正面から盗み見て、ファイはグルグルとしていた余計な思考を一瞬だけ停止させた。
彼はとても頭がいいと思う。率直に見て、そう感じる。
わざわざこうして誰かが見ずとも自力でどうにでも苦手教科など克服できそうだし、会話をすることを恐れてついつい問題集にばかり逃げてしまう自分など、果たして家庭教師としての責務を果たすことは出来ているのだろうか。
せいぜい答え合わせをして、間違った場所をさらりと説明する程度だ。
それだって声が上ずって、時々何を言っているのか分からないときがある。舌を噛んで咳き込むこともある。その度に、相手の視線が痛いわけだが……。
そんなことを考えながら、ファイは黒鋼の伏せられた目蓋に茂る漆黒の睫毛に目を留めた。意外に長いことに気がついて、思わずドキリとする。
あの睫毛に覆われた鋭い眼光に射抜かれると、どうしてもしどろもどろになってしまう。
本当に、彼は見れば見るほど端正な顔つきをしている。
年齢にしてはだいぶ完成されている様子だが、その辺りは女の子だって同じだ。メイクがそうさせるのだろうが、はっきり言って十代にはとても見えない面構えの女性が、平然と制服を着て街中を闊歩している。
これで愛想がよければ、きっと女の子だって選り取りみどりに違いない。
(いやいや待てよ……もしかしたらクールだからこそ、よりカッコいいのかも……)
考えてみれば、黒鋼はファイとは対照的だ。
見るからに硬そうな黒髪に、よく陽に焼けた健康的な肌。身体だってただ背が高いだけでなく、がっしりと肩幅があってよく鍛えられている。
(ヘラヘラしてなくて、痴漢からだって助けてくれるし……)
完璧。
そんな言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。
きっと自分が女性なら、助けられたあの瞬間には恋に落ちていたに違いない。
彼ならば、好きになった相手から理不尽な捨て台詞をお見舞いされて、派手に振られることもないのだろう。
ユゥイにしたってそうだ。彼から浮いた話というのは滅多に聞かないが、あの弟はファイにはない落ち着きというものが備わっている。
容姿は同じだが、纏う空気はまるで違う。
「…………」
なんだか猛烈に悲しくなった。
こんな完璧な男前に恥ずかしい有様の一部始終を知られてしまったのだと思うと、改めて絶望的な気持ちになる。
彼といると自分がどこまでも情けなくて、不完全な人間に感じられて仕方ない。
黒鋼は自分の理想とする男性像に、悔しいほどぴたりと一致しすぎている。
ただ恥ずかしい気持ちになるだけでなく、年下の高校生を相手にこんなにも屈辱的な気持ちになるなんて。
彼には一切の非がないぶん、余計に自分の未熟さが身に染みるようだった。
この授業が終わったら謝るだけ謝って、やっぱりこの仕事は断ろうと思った。
こんな鬱屈した感情を抱いたままでは、きっとこの先もずっと彼との良好な関係は望めそうもない。
「おい、終わったぞ……って、おい?」
「……?」
「おまえ、何泣いてんだ……?」
「!」
指摘されて、慌てて指先で頬に触れた。しっとりと濡れている。
信じられないことに、ファイは自分でも知らない間にボロボロと涙を零していたのだった。
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ユゥイは怖い思いをしたのだろうと気遣ってくれたが、ファイとしては痴漢に遭ったということよりも、その後の出来事の方のダメージが大きかったので、それ自体は大した問題ではなかった。
だが、その微妙に的の外れたダメージの強大さがゆえに、ファイは電車というものが嫌いになった。
これからの季節や天候によっては、そのようなことも言っていられない場合が出てくるだろうが、なんとなく自分の中でほとぼりが冷めるまでは、当分の利用を控えたかった。
***
いざとなると、やはり緊張する。
ファイは先日と同じように、闇の中に聳える大きな日本家屋の門の前で立ち尽くしていた。
ただ、前回と異なるのはファイがここまでやって来た交通手段として、折りたためるタイプの自転車が同伴していることだった。
どんよりとしながらノロノロと徒歩で帰宅したときの、半分以下の時間でここまで到着することが出来たものの、少々時間が早すぎたようだ。
時計を見れば30分も早い。
「気合入れすぎちゃったかな……」
結局、あれからこの家の人間からの連絡は一切なかった。ユゥイは「良かったね」と言ってくれたが、ファイ的にはまだ安心しかねている。
直接顔を突き合わせてクビの宣告がなされる可能性だって、十分に残されているからだ。
結局、決めたことは最後までやり通そうという思いから、勢いで自転車を購入したものの、こればかりはこちらの意思だけではどうにもならない。
ファイはドキドキと高鳴る心臓を落ち着かせようと、幾度か深呼吸をした。
やっぱり黒鋼と顔を合わせるのは勇気がいる。ご機嫌取りというわけではないが、会話の糸口になればと、今日はユゥイの手製の菓子も持参してきた。
ひとまずどう転ぶにしたって黒鋼には礼を言わねば。
向こうが口を開こうとしないなら、ファイは持ち前の明るさで自ら冗談めかして話を切り出すつもりでいた。
重厚感溢れる空気など、いっそのこと思い切りぶち破ってしまえば、こちらのペースに運びやすい……かもしれない。
陽気なピエロにでもなったような気持ちで、当たって砕ける覚悟を決める。
ファイはその後も時間まで立ち尽くしていたが、意を決したように顔を上げるとコールボタンを押した。
***
正直、この期におよんでまだ心の準備が整っていなかったことを、ファイは痛感させられていた。
ボタンを押せばスピーカーから聞こえるのはあの優しげな声で、出迎えてくれるのもその人だとばかり思っていたからだ。
(あの綺麗なお母さん……まさかいないなんて……)
ファイを出迎えてくれたのは、なんと黒鋼本人だったのだ。
顔を突き合わせた途端、またしても言葉をなくしてしまったファイは、ガチガチに固まって挨拶もろくに交わせなかった。
何事も最初が肝心というが、こんな調子では前回の二の舞に終わる可能性が十分に考えられる。
どうもあの意思の強そうな鋭い眼光に見下ろされると、その威圧感に身体が竦んでしまうらしい。
彼の両親は知り合いに急な不幸があったとかで、本日は共に不在とのことだった。
今、ファイは黒鋼の部屋にて一人、緊張した面持ちで正座をしていた。
(ダメだダメだ! しっかりしないと! ちゃんとお礼言うって決めたんだから……!)
勢いよく息を吐き出し、心の中で気合いを入れる。
すると、背後で障子がするりと開かれた。
「!」
ピンと背筋を伸ばしたファイに、両手に茶の入った湯呑み茶碗を持った黒鋼が歩み寄ってくる。
そのまま無言で熱い茶を差し出され、ファイはどうにか声を振り絞って礼を言った。
「ぁりが、と……」
「おい」
ビクリと、身体が跳ねる。けれどなるべく平静を装って顔を向ける。
「な、なに、かな?」
「また足がバカにならねぇうちに、崩した方がいいんじゃねぇのか」
「あ、う、うん、そうだね……ごめん……」
「別に謝らなくていい」
「うっ……ごめん……」
縮こまっているファイに、黒鋼は呆れたような息を洩らした。
まずい。このままでは場の空気に呑まれたまま終わってしまう。どうにかせねば……。
ちょうど向かいに腰を下ろして、自分が淹れてきた茶を啜り出した黒鋼に向かって、ファイは思い出したように持参してきた菓子の箱を差し出した。
これは本日最大の秘密兵器である。
「あのね! こ、これ……」
「あ?」
(だから! いちいちガラ悪いんだってばー!)
内心ビビリつつ、ファイは顔の筋肉が引き攣るほどのわざとらしい笑顔を浮かべた。かつて、こんなにも笑うことを苦痛に感じたことはない。
黒鋼は眉間に皺を刻んだ表情で、目の前の白い箱を見ている。
「よ、よければなんだけど……」
手を伸ばしにくいかと察して、ファイは足を崩しがてら膝立ちになると箱を開けた。
中からは、この季節にぴったりなカボチャとナッツを使ったパウンドケーキが可愛らしくラッピングされて納まっている。
「オレの弟、ユゥイっていうんだけど、お菓子とかお料理作るの上手でね、これすっごく美味しいんだよー! ほら、勉強してると甘いもの欲しくなるでしょー?」
とりあえず一生懸命に喋った。
ファイにすればまだまだ口数は足りないほうなのだが、それでもよくやったと思う。
これで少しは打ち解ける切欠が作れたろうか……。
そう思い、上目使いで黒鋼を見やると、彼はなぜか渋い顔を作っていた。
「あれ……?」
「……せっかくだが……俺は甘いもんは好かねぇ」
「え」
「俺はいいから、おまえが食え」
ほんの数秒フリーズしたファイだが、すぐにブルブルと高速で首を振った。
「い、いいよー! それだと意味ないし……!」
自分が食べるために持ってきたものではない。
だがよくよく考えれば、彼は見るからに甘い物など好んで食べそうなイメージはなかった。
(オレのバカー!!)
ドーンと影を纏いながら肩を落とした。
心なしか、場が白けたムードに包まれているような気がするのは気のせいだといいが……。
「ご……ごめんね……」
「いい。お袋が喜ぶ。気にするな」
「うん……」
本当に、これではどちらが年上か分からない。
ファイの心境などお構いなしに、黒鋼はあっさり箱の蓋を閉めると脇に避けてしまった。
「それより、今日もとっとと始めるぞ」
そして本日も黒鋼の仕切りにより、授業が始まるようだ。目の前で教材を広げ始める様を唇を噛み締めながら見守ったファイだが、彼の様子からどうやらクビは免れたらしいということが知れた。
それなのに、なぜだかとても複雑な思いに囚われているのはなぜだろう……。
***
いけない。これでは本当に前回とまるで同じになってしまう。
ファイは時計をチラチラと確認しつつ、刻々と過ぎてゆく時の流れに焦っていた。
結局は黒鋼の威圧感と、秘密兵器の不発に引きずられて、必要最低限のこと以外を切り出せないでいる。
このまま暫く待てば、きりのいいところで休憩を挟むという手がある。そこできっと多少の隙は出来るはずだ。
が、なんだかどんどん自信がなくなってくる。
いっそのこと全て無かったことにして、今後もバイトを続けることが可能かもしれないが、それではやっぱり気が収まらない。
(ちゃんと謝りたい……お礼が言いたい……けど……やっぱり蒸し返したくない……でもお礼は言いたいし……)
今、黒鋼はファイが課した課題に取り組んでいる。
キリッとした真面目な顔を正面から盗み見て、ファイはグルグルとしていた余計な思考を一瞬だけ停止させた。
彼はとても頭がいいと思う。率直に見て、そう感じる。
わざわざこうして誰かが見ずとも自力でどうにでも苦手教科など克服できそうだし、会話をすることを恐れてついつい問題集にばかり逃げてしまう自分など、果たして家庭教師としての責務を果たすことは出来ているのだろうか。
せいぜい答え合わせをして、間違った場所をさらりと説明する程度だ。
それだって声が上ずって、時々何を言っているのか分からないときがある。舌を噛んで咳き込むこともある。その度に、相手の視線が痛いわけだが……。
そんなことを考えながら、ファイは黒鋼の伏せられた目蓋に茂る漆黒の睫毛に目を留めた。意外に長いことに気がついて、思わずドキリとする。
あの睫毛に覆われた鋭い眼光に射抜かれると、どうしてもしどろもどろになってしまう。
本当に、彼は見れば見るほど端正な顔つきをしている。
年齢にしてはだいぶ完成されている様子だが、その辺りは女の子だって同じだ。メイクがそうさせるのだろうが、はっきり言って十代にはとても見えない面構えの女性が、平然と制服を着て街中を闊歩している。
これで愛想がよければ、きっと女の子だって選り取りみどりに違いない。
(いやいや待てよ……もしかしたらクールだからこそ、よりカッコいいのかも……)
考えてみれば、黒鋼はファイとは対照的だ。
見るからに硬そうな黒髪に、よく陽に焼けた健康的な肌。身体だってただ背が高いだけでなく、がっしりと肩幅があってよく鍛えられている。
(ヘラヘラしてなくて、痴漢からだって助けてくれるし……)
完璧。
そんな言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。
きっと自分が女性なら、助けられたあの瞬間には恋に落ちていたに違いない。
彼ならば、好きになった相手から理不尽な捨て台詞をお見舞いされて、派手に振られることもないのだろう。
ユゥイにしたってそうだ。彼から浮いた話というのは滅多に聞かないが、あの弟はファイにはない落ち着きというものが備わっている。
容姿は同じだが、纏う空気はまるで違う。
「…………」
なんだか猛烈に悲しくなった。
こんな完璧な男前に恥ずかしい有様の一部始終を知られてしまったのだと思うと、改めて絶望的な気持ちになる。
彼といると自分がどこまでも情けなくて、不完全な人間に感じられて仕方ない。
黒鋼は自分の理想とする男性像に、悔しいほどぴたりと一致しすぎている。
ただ恥ずかしい気持ちになるだけでなく、年下の高校生を相手にこんなにも屈辱的な気持ちになるなんて。
彼には一切の非がないぶん、余計に自分の未熟さが身に染みるようだった。
この授業が終わったら謝るだけ謝って、やっぱりこの仕事は断ろうと思った。
こんな鬱屈した感情を抱いたままでは、きっとこの先もずっと彼との良好な関係は望めそうもない。
「おい、終わったぞ……って、おい?」
「……?」
「おまえ、何泣いてんだ……?」
「!」
指摘されて、慌てて指先で頬に触れた。しっとりと濡れている。
信じられないことに、ファイは自分でも知らない間にボロボロと涙を零していたのだった。
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第四話 『号泣』
「ファイ……!」
自宅マンションの部屋の扉を開けると、もう寝ているとばかり思っていたユゥイが玄関先で両手を広げて出迎えてくれた。
ぼうっとしていたところをぎゅうっと抱きしめられて、思わず手にしていた紙袋を落としてしまう。
ファイより幾分か長めの金髪に頬を撫でられて、くすぐったさに肩を竦めた。
「ゆ、ユゥイ、まだ起きてたのー?」
「当たり前でしょう? いつまでも帰ってこないし、電話にも出てくれないし……」
「あ……ごめん……」
そういえば携帯はマナーモードにしたままだった。カバンから取り出して時刻を見れば、とうに日付は変わって午前一時を過ぎていた。
ノロノロと歩いて戻ったにしても、ずいぶんと時間が経過していたことに少々驚く。遅くなるときは必ず連絡を寄越すようにと、普段から言われていたのをすっかり忘れていた。
心配性のユゥイは今までずっと起きて兄の帰宅を待ちわびていたらしい。
「寒かったでしょ? すっかり冷えて……ご飯もまだだよね?」
「うん……」
食欲はなかったが、ユゥイの優しさが申し訳ない反面無性に心地よくて、ファイは素直に頷いた。
***
まずは熱いシャワーを無心で浴びて、そのまま部屋着に着替えてからダイニングへ向かうと、食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐった。
「美味しい匂いがするー……」
くんくんと犬のように鼻を鳴らせば、忘れていた空腹にキュウと腹が鳴った。
「夜も遅いから、お腹に優しいもの。ね?」
ファイに寄り添ったユゥイは、その肩をやんわりと抱いて椅子へと導いた。そのまま大人しく腰掛ける。
真っ白の程よい大きさの中鉢には、ふんわりとした卵入りの雑炊がよそわれていて、その傍らにはホットミルクも沿えられていた。
「もう、ちゃんと乾かさなきゃ駄目だっていつも言ってるのに」
温かなカップを両手に包む込むように持ち、息を吹きかけていると、ユゥイがファイの首にかけられていたタオルを取って背後に立つ。そのまま、優しく髪に含まれた水分を取り除いてくれる。
ごめん、と小さく呟いてから、カップに口をつけた。ミルクの甘さにほんのり蜂蜜の味もして、ファイはほっと息をついた。
雑炊を白いレンゲですくってチマチマと食べ始めると、ゆったりとした静かな時間が流れた。
たまごの柔らかくて優しい味が、疲れ切った心と身体にじんわりと染みてゆく。
ユゥイの味だなと、ぼんやり思う。
「ねぇファイ」
「ん……なぁに」
「あまり、上手くいかなかったのかな?」
「え……?」
ファイの髪をタオルで拭い続けていたユゥイが手を止めた。思わず振り仰ぐと、自分と同じ顔をした弟がふわりと笑っていた。
「だって何も言わないんだもの。あのお喋り大好きなファイが」
「う……」
確かに。
もし、今日のことが何事も万事上手くいっていたとすれば、きっと今頃はユゥイに大ハシャギで話をしていたと思う。
それなのに、今の自分には大手を振って報告できることが何もない。
家庭教師のバイトを紹介してくれたのはユゥイなのだから、彼には初日の成果を知る権利がある。
ファイが俯くと、ユゥイの手が優しく再びタオルで髪を撫で始める。
こんな時間まで待っていてくれた弟に、笑顔で報告できない自分が情けなくて悔しかった。
「ユゥイ……」
「なぁに?」
「オレ、多分ダメだと思う……。ガッカリさせちゃって、ごめん……」
ただでさえあんなにもグダグダな状態に陥ってしまったのだから、向こうから断って来る可能性も大きい。
それはそれでファイとしては助かるのだが、人のコネで仕事を請ける以上、かかる迷惑がその分大きい。
ましてや相手はユゥイの店の常連さんである。
そう思ったら、いよいよ自分の無責任さに泣きたくなって鼻を啜った。
「ファイ。君がそんなに落ち込んでいるんだから、きっと何か事情があるんでしょう?」
事情。
ふとテーブルの端に目をやれば、先刻落としてしまったお土産の紙袋が置いてある。
中身は煎餅だから、もしかすれば粉々になっているかもしれない。
(ダメだな……オレってほんと……)
なんだかもう我慢の限界だった。
思い返せば思い返すほど、そしてユゥイに優しくされればされるほど、胸の中がいっぱいに溢れてしまいそうだった。
ファイは涙を溜めた瞳で顔を上げると、再びユゥイを振り仰いだ。
そして。
「うわぁぁぁんユゥイー!!!」
ガッターンという派手な音と共に、双子が床に崩れ落ちた……。
***
「わ、わかったからファイ……。事情はよく分かったから……」
床に引っくり返っている椅子の傍らで、泣きじゃくるファイの頭をユゥイの手があやすように幾度も撫でる。
「うぅ……だって……だってさぁ、あんなことになるなんて思わなかったんだもん……! オレだってバカだったかもしれないけど、神様って意地悪すぎだよぉ……!」
「ファイ、ほら、鼻水……」
ユゥイが咄嗟に投げ出されていたタオルをファイの顔に近づけた。それを思い切り取って、勢いよく鼻をかんだ。
「うわ、ちょっと……」
「あ、あんなさ、あんなの知られてまともに授業なんかできるわけないよ! だってその子、すっごい怖い顔してるんだよ! オレが悪いのは分かってるけど! てゆーかあの子、ホントに高校生!? 本当はどっかの組長かなんかじゃないの!?」
「く、組長って……ファイってば……」
困り顔の弟に、ファイはなおも続ける。
「だってさ、ずーっと眉間がこーんなんなって……!」
わざと眉間に深く皺を刻み、両方の人差し指で目尻を釣り上げて見せると、ユゥイは目を丸くした。
そして、そのままの表情で動かなくなったファイを見て、やがて笑い出した。
「ユゥイってば! 笑い事じゃないのに!」
「ご、ごめん……だって、ファイが変な顔するから……!」
彼が声を上げて笑うのは、とても珍しいことだった。綺麗な指先で目元を拭う姿を見て、なんだか気が抜けた。
「本当にごめん。確かに笑い事じゃないよね」
それから、ションボリとしたファイの頭を撫でながら、ユゥイは「でも」と続けた。
「痴漢は勿論絶対に許せないけど……ファイ、その子にちゃんとお礼は言ったの?」
「……え?」
「助けてくれたんでしょう? もしボクがその子の立場だったら……ボクだってなんだか申し訳なくて、ファイとは顔、合わせにくいかな……」
小さく小首を傾げて困ったように微笑む弟を見て、ファイはハッとした。
「オレ……言ってない……」
「ボクは会ったことがないから分からないけど、顔は怖くても本当はとても真っ直ぐで優しい子なんじゃない?」
「!」
目から鱗とは、まさにこのことだった。
ファイは見た目だけで人間性を判断される辛さを、自分自身の経験からも痛いほど知っているはずだった。
ましてや助けてくれた相手に礼を言うチャンスを、ことごとく逃してしまっている。
確かにユゥイの言うとおり、もし逆の立場だったら自分だって相手をどうフォローすべきか困り果てるに違いなかった。
それに、足が痺れて動けなくなった時だって、少々手荒ではあったが彼なりに気遣ってくれた。
「どうしよう……オレ、自分のことばっかり考えてた……」
「仕方がないよ。怖い思いもしたんだし……次に行ったときにちゃんと言おう。ね?」
「次……」
ユゥイの指に優しく髪を梳かされながらも、ファイは複雑な心境だった。
次があるかは分からない。もしかすれば、朝になれば向こうから断りの電話が入るかもしれない。
どんな事情があったにせよ、初日からまともな指導が出来なかったのだから。
「大丈夫だよファイ。それに、ボクに気を遣うことなんかないんだから。ファイがどうしても辛ければ、遠慮することないんだよ」
ユゥイがそう言って笑うから、ファイは素直に頷いた。
続けるか続けないか。先に向こうから断られればそれまでだが、ユゥイはファイにも選択権があると言ってくれているのだ。
けれどどちらにしろ、もう一度あの家へは行こうと思った。
どんな結果になるにせよ、一度はちゃんと面と向かって礼を言いたかった。
その翌朝。
ファイはいてもたってもいられず早起きして家を飛び出し、夏に溜め込んだ貯金の中から自転車を購入した。
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「ファイ……!」
自宅マンションの部屋の扉を開けると、もう寝ているとばかり思っていたユゥイが玄関先で両手を広げて出迎えてくれた。
ぼうっとしていたところをぎゅうっと抱きしめられて、思わず手にしていた紙袋を落としてしまう。
ファイより幾分か長めの金髪に頬を撫でられて、くすぐったさに肩を竦めた。
「ゆ、ユゥイ、まだ起きてたのー?」
「当たり前でしょう? いつまでも帰ってこないし、電話にも出てくれないし……」
「あ……ごめん……」
そういえば携帯はマナーモードにしたままだった。カバンから取り出して時刻を見れば、とうに日付は変わって午前一時を過ぎていた。
ノロノロと歩いて戻ったにしても、ずいぶんと時間が経過していたことに少々驚く。遅くなるときは必ず連絡を寄越すようにと、普段から言われていたのをすっかり忘れていた。
心配性のユゥイは今までずっと起きて兄の帰宅を待ちわびていたらしい。
「寒かったでしょ? すっかり冷えて……ご飯もまだだよね?」
「うん……」
食欲はなかったが、ユゥイの優しさが申し訳ない反面無性に心地よくて、ファイは素直に頷いた。
***
まずは熱いシャワーを無心で浴びて、そのまま部屋着に着替えてからダイニングへ向かうと、食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐった。
「美味しい匂いがするー……」
くんくんと犬のように鼻を鳴らせば、忘れていた空腹にキュウと腹が鳴った。
「夜も遅いから、お腹に優しいもの。ね?」
ファイに寄り添ったユゥイは、その肩をやんわりと抱いて椅子へと導いた。そのまま大人しく腰掛ける。
真っ白の程よい大きさの中鉢には、ふんわりとした卵入りの雑炊がよそわれていて、その傍らにはホットミルクも沿えられていた。
「もう、ちゃんと乾かさなきゃ駄目だっていつも言ってるのに」
温かなカップを両手に包む込むように持ち、息を吹きかけていると、ユゥイがファイの首にかけられていたタオルを取って背後に立つ。そのまま、優しく髪に含まれた水分を取り除いてくれる。
ごめん、と小さく呟いてから、カップに口をつけた。ミルクの甘さにほんのり蜂蜜の味もして、ファイはほっと息をついた。
雑炊を白いレンゲですくってチマチマと食べ始めると、ゆったりとした静かな時間が流れた。
たまごの柔らかくて優しい味が、疲れ切った心と身体にじんわりと染みてゆく。
ユゥイの味だなと、ぼんやり思う。
「ねぇファイ」
「ん……なぁに」
「あまり、上手くいかなかったのかな?」
「え……?」
ファイの髪をタオルで拭い続けていたユゥイが手を止めた。思わず振り仰ぐと、自分と同じ顔をした弟がふわりと笑っていた。
「だって何も言わないんだもの。あのお喋り大好きなファイが」
「う……」
確かに。
もし、今日のことが何事も万事上手くいっていたとすれば、きっと今頃はユゥイに大ハシャギで話をしていたと思う。
それなのに、今の自分には大手を振って報告できることが何もない。
家庭教師のバイトを紹介してくれたのはユゥイなのだから、彼には初日の成果を知る権利がある。
ファイが俯くと、ユゥイの手が優しく再びタオルで髪を撫で始める。
こんな時間まで待っていてくれた弟に、笑顔で報告できない自分が情けなくて悔しかった。
「ユゥイ……」
「なぁに?」
「オレ、多分ダメだと思う……。ガッカリさせちゃって、ごめん……」
ただでさえあんなにもグダグダな状態に陥ってしまったのだから、向こうから断って来る可能性も大きい。
それはそれでファイとしては助かるのだが、人のコネで仕事を請ける以上、かかる迷惑がその分大きい。
ましてや相手はユゥイの店の常連さんである。
そう思ったら、いよいよ自分の無責任さに泣きたくなって鼻を啜った。
「ファイ。君がそんなに落ち込んでいるんだから、きっと何か事情があるんでしょう?」
事情。
ふとテーブルの端に目をやれば、先刻落としてしまったお土産の紙袋が置いてある。
中身は煎餅だから、もしかすれば粉々になっているかもしれない。
(ダメだな……オレってほんと……)
なんだかもう我慢の限界だった。
思い返せば思い返すほど、そしてユゥイに優しくされればされるほど、胸の中がいっぱいに溢れてしまいそうだった。
ファイは涙を溜めた瞳で顔を上げると、再びユゥイを振り仰いだ。
そして。
「うわぁぁぁんユゥイー!!!」
ガッターンという派手な音と共に、双子が床に崩れ落ちた……。
***
「わ、わかったからファイ……。事情はよく分かったから……」
床に引っくり返っている椅子の傍らで、泣きじゃくるファイの頭をユゥイの手があやすように幾度も撫でる。
「うぅ……だって……だってさぁ、あんなことになるなんて思わなかったんだもん……! オレだってバカだったかもしれないけど、神様って意地悪すぎだよぉ……!」
「ファイ、ほら、鼻水……」
ユゥイが咄嗟に投げ出されていたタオルをファイの顔に近づけた。それを思い切り取って、勢いよく鼻をかんだ。
「うわ、ちょっと……」
「あ、あんなさ、あんなの知られてまともに授業なんかできるわけないよ! だってその子、すっごい怖い顔してるんだよ! オレが悪いのは分かってるけど! てゆーかあの子、ホントに高校生!? 本当はどっかの組長かなんかじゃないの!?」
「く、組長って……ファイってば……」
困り顔の弟に、ファイはなおも続ける。
「だってさ、ずーっと眉間がこーんなんなって……!」
わざと眉間に深く皺を刻み、両方の人差し指で目尻を釣り上げて見せると、ユゥイは目を丸くした。
そして、そのままの表情で動かなくなったファイを見て、やがて笑い出した。
「ユゥイってば! 笑い事じゃないのに!」
「ご、ごめん……だって、ファイが変な顔するから……!」
彼が声を上げて笑うのは、とても珍しいことだった。綺麗な指先で目元を拭う姿を見て、なんだか気が抜けた。
「本当にごめん。確かに笑い事じゃないよね」
それから、ションボリとしたファイの頭を撫でながら、ユゥイは「でも」と続けた。
「痴漢は勿論絶対に許せないけど……ファイ、その子にちゃんとお礼は言ったの?」
「……え?」
「助けてくれたんでしょう? もしボクがその子の立場だったら……ボクだってなんだか申し訳なくて、ファイとは顔、合わせにくいかな……」
小さく小首を傾げて困ったように微笑む弟を見て、ファイはハッとした。
「オレ……言ってない……」
「ボクは会ったことがないから分からないけど、顔は怖くても本当はとても真っ直ぐで優しい子なんじゃない?」
「!」
目から鱗とは、まさにこのことだった。
ファイは見た目だけで人間性を判断される辛さを、自分自身の経験からも痛いほど知っているはずだった。
ましてや助けてくれた相手に礼を言うチャンスを、ことごとく逃してしまっている。
確かにユゥイの言うとおり、もし逆の立場だったら自分だって相手をどうフォローすべきか困り果てるに違いなかった。
それに、足が痺れて動けなくなった時だって、少々手荒ではあったが彼なりに気遣ってくれた。
「どうしよう……オレ、自分のことばっかり考えてた……」
「仕方がないよ。怖い思いもしたんだし……次に行ったときにちゃんと言おう。ね?」
「次……」
ユゥイの指に優しく髪を梳かされながらも、ファイは複雑な心境だった。
次があるかは分からない。もしかすれば、朝になれば向こうから断りの電話が入るかもしれない。
どんな事情があったにせよ、初日からまともな指導が出来なかったのだから。
「大丈夫だよファイ。それに、ボクに気を遣うことなんかないんだから。ファイがどうしても辛ければ、遠慮することないんだよ」
ユゥイがそう言って笑うから、ファイは素直に頷いた。
続けるか続けないか。先に向こうから断られればそれまでだが、ユゥイはファイにも選択権があると言ってくれているのだ。
けれどどちらにしろ、もう一度あの家へは行こうと思った。
どんな結果になるにせよ、一度はちゃんと面と向かって礼を言いたかった。
その翌朝。
ファイはいてもたってもいられず早起きして家を飛び出し、夏に溜め込んだ貯金の中から自転車を購入した。
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第三話『混乱』
昔のコントなどでよく見かける、頭上からタライが落ちてくるような衝撃を、ファイはまさに味わっていた。
目も口も大きく開いたまま、震える指先で相手を指差す。
「な、なん……どう……」
なぜ、どうして君がここに……と言いたいが、上手く言葉にならない。
ファイの姿を見た黒鋼はというと、一瞬だけ目を見開いたがすぐに無表情に戻っていた。
冷ややかな視線で、立ち尽くしたまま震えているファイをじっと見つめている。
「あらあら、どうぞ先生。お座りくださいな」
廊下に突っ立ったままのファイを、遠慮しているとでも思ったのか、木の盆に茶と菓子を乗せてやってきた和服美女が、上品に「おほほ」と笑った。
***
カコンッと、庭でししおどしが鳴った。
「…………」
木製のテーブルの上に置かれた茶がすっかり冷めても、室内は沈黙で満たされていた。
ファイは石のように固まって苦手な正座に耐え忍んでいる。
(どうしよう……どうなってんのこれ……なんで、なんでこんな……)
先刻のショックからまだ完全に立ち直っていない状況でこれ、である。
痴漢になど二度と遭いたくはないが、この青年とも出来れば二度と顔を合わせたくはなかった。
(なんて切り出せばいいの……さっきのお母さんが紹介してくれたけど、改めて名乗った方が……?)
けれど相手の顔など、今はとてもではないが見れない。
テーブルを挟んだ向かい側にいる彼は、俯くファイからは腕を組んでいるということしか分からなかった。
トイレに押し込まれはしたものの、すっかり萎えきっていたので手を汚すことはせずに済んだ。それを言えばいいのか。
ああいった状況になってしまったのは、決して痴漢行為自体を快感として受け入れてしまったのではなく、逞しい妄想で不測の事態を補った結果、さらに事態を悪化させただけであって……。
なんて、それを言ったからといってなんだというのか。
ファイが男でありながら男の痴漢に遭い、思いっきり反応してしまった事実は覆らない。彼がそれを全て知っているという状況も変わらない。
(無理……もう無理……こんなカッコいい子に恥ずかしい秘密を知られて、今絶対オレのこと軽蔑してる……とんだ変態野郎が来ちゃったよとか思われてる……)
「おい」
(明日あたり学校の友達みんなに言いふらして笑いものにするに違いないよ……あの綺麗なお母さんにも言われちゃうかも……!)
「おい!」
真っ青になってじわりと涙を浮かべていたファイの耳に、苛立った声がようやく届いた。
「は、はい!?」
思わず勢いよく肩を震わせ顔を上げた途端、無理な正座が祟って両足に凄まじい痺れが走った。思わず態勢が斜めに崩れ落ちる。
「あいたー!!」
「……なにしてんだ」
胡坐をかいて腕を組んでいた黒鋼が、心底呆れた様子で溜息を洩らしている。
なんて情けない有様だろうと、痛みとショックも相まって、いよいよ声を上げて泣き出したい一歩手前だった。
一気に巡り出した血液が、ビリビリという不快な痺れを両足にもたらして、ファイは畳に爪を立てながらぎゅうと目を閉じた。
「そんなに正座が苦手だったら、とっとと足を崩せ」
「うぅ……ごめんなさい……」
蚊の鳴くような弱々しい声で謝罪すると、黒鋼は面倒臭そうに体勢を崩してファイの側まで身を寄せた。
思わずギクリとして、だがすぐに駆け抜ける激痛に悲鳴を上げる。
「ひぃぃぃ痛いーっ!!」
「うるせぇ。ちっとは我慢しろ」
ぬっと伸びて来た二本の手がファイの両足を掴み上げ、そのまま膝から足首にかけてを強く擦り出した。
痺れに伴いその凄まじい圧力と摩擦力に、もういよいよ訳が分からなくなって、涙と一緒に汗まで滲む。
が、痛みを伴う感覚はあっという間に緩やかなものへと変わっていった。
「あ……れ……? い、痛くない……?」
なんだかポカポカと温かくて、むしろ心地がいい。
きょとん、とした表情で両足を投げ出していたファイに、黒鋼が小さく鼻で笑う。
「こんぐれぇで泣くか? 普通」
「ぅ……」
一連の出来事につい頭からすっぽりと抜け落ちていたが、その冷静な言葉によって再びショックがタライとなって頭上に落ちた。
「な、泣いてないよっ! 泣く一歩手前だっただけだよ!」
かろうじて零れ落ちなかっただけで、すっかり目を赤くしながら言ったのでは説得力など欠片もない。
つれなく目を逸らした黒鋼に、「ガキか」と吐き捨てられたファイは、小さく唸りながら押し黙った。
(なんだよこの落ち着き……オレがどんな思いで……!)
「それより、てめぇはここに勉強教えに来たんじゃねぇのか」
(だいたい可愛くないんだよー! お金持ちのお坊ちゃんって言うから、もっと礼儀正しいのかと思ったらすっごい口悪いしー!)
「おい? 聞いてんのか?」
(ちょっとかっこいいからって、これじゃあヤクザだよ! ヤクザ高校生だよ!)
「だから聞け!!」
「ひゃ……!?」
野犬にでも吼えられたようなリアクションで、ファイは両手で頭を庇うようにして身を屈めた。恐る恐る上目使いで見上げると、黒鋼の額には見事に怒りのマークが刻まれている。
「グダグダしてねぇでとっとと始めるぞ!」
そして、なぜか教え子である黒鋼に仕切られる形で、30分近くも遅れて授業は始まった……。
***
帰り道。
ファイは電車に乗る気になれずに、徒歩で帰路についていた。
秋風が身に染みて、こんなことならもっと厚着をしてくればよかったと後悔する。
右手に引っ提げている紙袋の中身からは、時折ガサリという小さなビニールの音がしていた。
どこぞの有名な煎餅だかなんだか知らないが、それはあの和服美人の母親が、帰り際にユゥイの分もあるからと寄こしたものだった。
またお待ちしてます、という美しい微笑みに、ファイは死刑を宣告されたような気さえした。
正直、これから先もこのバイトを続けていける自信が一切ない。
あれから、ほぼ全てを仕切られる形でどうにか授業は終了した。
まるで立場が逆のような気もしたが、ファイがグズグズしている様に、彼は随分と苛立っていたように感じた。
勉強の仕方や進め方など、相手に促される形でおずおずと説明し、そして無造作に目の前に突き出されたテストの答案を見ながら、苦手な部分についてをボソボソと話し合った。
生きた心地がしない中、気がつけば案外すんなりと時間は経過していた。残りの時間は問題集から幾つかの問題を選んで、小テストまがいなことをさせながらどうにか切り抜けた。
黒鋼は必要最低限の会話もしなければ、怒ったような表情を一切崩すことがなかった。
勉強を教えに来ているのだから、静かに事を進めるのは当たり前なのだが、なぜか沈黙が痛くて仕方がなかった。
あんなことがあったから無駄に構えてしまっている自覚はあったが、きっと何もなかったとしても、波長の合わない相手だったに違いない。
どうにもコミュニケーションが取りづらく、これまでファイの周りには決していないタイプだということだけは、ハッキリとしていた。
「辞めたいって言ったら……ユゥイ困るかな……」
今夜は月も星も見えない。街の明りにぼんやりとした中途半端な闇が広がる空に、ファイはポツリと呟く。
右手に持つ煎餅の袋が、やけに重いものに感じた。
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昔のコントなどでよく見かける、頭上からタライが落ちてくるような衝撃を、ファイはまさに味わっていた。
目も口も大きく開いたまま、震える指先で相手を指差す。
「な、なん……どう……」
なぜ、どうして君がここに……と言いたいが、上手く言葉にならない。
ファイの姿を見た黒鋼はというと、一瞬だけ目を見開いたがすぐに無表情に戻っていた。
冷ややかな視線で、立ち尽くしたまま震えているファイをじっと見つめている。
「あらあら、どうぞ先生。お座りくださいな」
廊下に突っ立ったままのファイを、遠慮しているとでも思ったのか、木の盆に茶と菓子を乗せてやってきた和服美女が、上品に「おほほ」と笑った。
***
カコンッと、庭でししおどしが鳴った。
「…………」
木製のテーブルの上に置かれた茶がすっかり冷めても、室内は沈黙で満たされていた。
ファイは石のように固まって苦手な正座に耐え忍んでいる。
(どうしよう……どうなってんのこれ……なんで、なんでこんな……)
先刻のショックからまだ完全に立ち直っていない状況でこれ、である。
痴漢になど二度と遭いたくはないが、この青年とも出来れば二度と顔を合わせたくはなかった。
(なんて切り出せばいいの……さっきのお母さんが紹介してくれたけど、改めて名乗った方が……?)
けれど相手の顔など、今はとてもではないが見れない。
テーブルを挟んだ向かい側にいる彼は、俯くファイからは腕を組んでいるということしか分からなかった。
トイレに押し込まれはしたものの、すっかり萎えきっていたので手を汚すことはせずに済んだ。それを言えばいいのか。
ああいった状況になってしまったのは、決して痴漢行為自体を快感として受け入れてしまったのではなく、逞しい妄想で不測の事態を補った結果、さらに事態を悪化させただけであって……。
なんて、それを言ったからといってなんだというのか。
ファイが男でありながら男の痴漢に遭い、思いっきり反応してしまった事実は覆らない。彼がそれを全て知っているという状況も変わらない。
(無理……もう無理……こんなカッコいい子に恥ずかしい秘密を知られて、今絶対オレのこと軽蔑してる……とんだ変態野郎が来ちゃったよとか思われてる……)
「おい」
(明日あたり学校の友達みんなに言いふらして笑いものにするに違いないよ……あの綺麗なお母さんにも言われちゃうかも……!)
「おい!」
真っ青になってじわりと涙を浮かべていたファイの耳に、苛立った声がようやく届いた。
「は、はい!?」
思わず勢いよく肩を震わせ顔を上げた途端、無理な正座が祟って両足に凄まじい痺れが走った。思わず態勢が斜めに崩れ落ちる。
「あいたー!!」
「……なにしてんだ」
胡坐をかいて腕を組んでいた黒鋼が、心底呆れた様子で溜息を洩らしている。
なんて情けない有様だろうと、痛みとショックも相まって、いよいよ声を上げて泣き出したい一歩手前だった。
一気に巡り出した血液が、ビリビリという不快な痺れを両足にもたらして、ファイは畳に爪を立てながらぎゅうと目を閉じた。
「そんなに正座が苦手だったら、とっとと足を崩せ」
「うぅ……ごめんなさい……」
蚊の鳴くような弱々しい声で謝罪すると、黒鋼は面倒臭そうに体勢を崩してファイの側まで身を寄せた。
思わずギクリとして、だがすぐに駆け抜ける激痛に悲鳴を上げる。
「ひぃぃぃ痛いーっ!!」
「うるせぇ。ちっとは我慢しろ」
ぬっと伸びて来た二本の手がファイの両足を掴み上げ、そのまま膝から足首にかけてを強く擦り出した。
痺れに伴いその凄まじい圧力と摩擦力に、もういよいよ訳が分からなくなって、涙と一緒に汗まで滲む。
が、痛みを伴う感覚はあっという間に緩やかなものへと変わっていった。
「あ……れ……? い、痛くない……?」
なんだかポカポカと温かくて、むしろ心地がいい。
きょとん、とした表情で両足を投げ出していたファイに、黒鋼が小さく鼻で笑う。
「こんぐれぇで泣くか? 普通」
「ぅ……」
一連の出来事につい頭からすっぽりと抜け落ちていたが、その冷静な言葉によって再びショックがタライとなって頭上に落ちた。
「な、泣いてないよっ! 泣く一歩手前だっただけだよ!」
かろうじて零れ落ちなかっただけで、すっかり目を赤くしながら言ったのでは説得力など欠片もない。
つれなく目を逸らした黒鋼に、「ガキか」と吐き捨てられたファイは、小さく唸りながら押し黙った。
(なんだよこの落ち着き……オレがどんな思いで……!)
「それより、てめぇはここに勉強教えに来たんじゃねぇのか」
(だいたい可愛くないんだよー! お金持ちのお坊ちゃんって言うから、もっと礼儀正しいのかと思ったらすっごい口悪いしー!)
「おい? 聞いてんのか?」
(ちょっとかっこいいからって、これじゃあヤクザだよ! ヤクザ高校生だよ!)
「だから聞け!!」
「ひゃ……!?」
野犬にでも吼えられたようなリアクションで、ファイは両手で頭を庇うようにして身を屈めた。恐る恐る上目使いで見上げると、黒鋼の額には見事に怒りのマークが刻まれている。
「グダグダしてねぇでとっとと始めるぞ!」
そして、なぜか教え子である黒鋼に仕切られる形で、30分近くも遅れて授業は始まった……。
***
帰り道。
ファイは電車に乗る気になれずに、徒歩で帰路についていた。
秋風が身に染みて、こんなことならもっと厚着をしてくればよかったと後悔する。
右手に引っ提げている紙袋の中身からは、時折ガサリという小さなビニールの音がしていた。
どこぞの有名な煎餅だかなんだか知らないが、それはあの和服美人の母親が、帰り際にユゥイの分もあるからと寄こしたものだった。
またお待ちしてます、という美しい微笑みに、ファイは死刑を宣告されたような気さえした。
正直、これから先もこのバイトを続けていける自信が一切ない。
あれから、ほぼ全てを仕切られる形でどうにか授業は終了した。
まるで立場が逆のような気もしたが、ファイがグズグズしている様に、彼は随分と苛立っていたように感じた。
勉強の仕方や進め方など、相手に促される形でおずおずと説明し、そして無造作に目の前に突き出されたテストの答案を見ながら、苦手な部分についてをボソボソと話し合った。
生きた心地がしない中、気がつけば案外すんなりと時間は経過していた。残りの時間は問題集から幾つかの問題を選んで、小テストまがいなことをさせながらどうにか切り抜けた。
黒鋼は必要最低限の会話もしなければ、怒ったような表情を一切崩すことがなかった。
勉強を教えに来ているのだから、静かに事を進めるのは当たり前なのだが、なぜか沈黙が痛くて仕方がなかった。
あんなことがあったから無駄に構えてしまっている自覚はあったが、きっと何もなかったとしても、波長の合わない相手だったに違いない。
どうにもコミュニケーションが取りづらく、これまでファイの周りには決していないタイプだということだけは、ハッキリとしていた。
「辞めたいって言ったら……ユゥイ困るかな……」
今夜は月も星も見えない。街の明りにぼんやりとした中途半端な闇が広がる空に、ファイはポツリと呟く。
右手に持つ煎餅の袋が、やけに重いものに感じた。
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第二話『再会』
駅を出ると、すでに辺りは陽が沈んで薄青に包まれていた。傷心の胸に秋風の冷たさが堪える。
小さく身を震わせながら腕時計を見やれば、指定された時刻に間に合うかどうかと言ったところだった。
道に迷うことを恐れて早めに家を出たはずが、思っていた以上にトイレに篭っていた時間が長くなってしまった。
手書きの地図をカバンから取り出し、街の明りを頼りに確認しながら重い足を踏み出してゆく。
大通りは帰宅途中の学生やサラリーマン等で賑わっていて、ただでさえダメージから立ち直りきれず足取りのおぼつかないファイは、幾度もそれらに肩をぶつけては弱々しく頭を下げた。
数名のケバケバしい女子高生の群にぶつかった時、ガラの悪い舌打ちをお見舞いされた。
(帰りたい…)
なんだかまた泣きたくなって、ファイは胸のうちで切実に呟いた。
こんなことなら、気安くバイトなど引き受けるのではなかった……。
***
今年の夏休みは、適当なバイトでもして彼女と楽しくやる予定だった。
海にも行きたいし、映画も見たい。花火もしたいし、美味しいものも食べに行って……。
そんな風にウキウキと立てていた予定だが、それらは虚しく崩壊してしまった。彼女と上手くいかなくなってしまったからだ。
だが悲しいことに、恋人との破局はファイにとってそう珍しいことではなくなっていた。
目移りは激しいし、落ち着きに欠けるし、気紛れな性格だという自覚はある。
けれど、特定の相手と付き合えばその相手だけを見てるし、浮気だって滅多なことではしない。自分に出来る限りの愛情表現もしているつもりだった。
だがそれの一体何がいけないのか、いつだって振られるのはファイの方だった。
必ずと言っていいほどお決まりの文句だってある。
『テンションについて行けない』
『好きって言葉が軽すぎる』
『どうせ同じようなこと他の子にも言ってるんでしょ?』
『男の人として見れなくなってきちゃった』
などなど。
どうもチャラチャラとした軽い男だというイメージを持たれてしまうらしい。
ニコニコしていれば何を考えているのか分からないと言われ、真っ直ぐ気持ちを伝えれば言葉の安売りと言われる。
挙句の果てには男としての魅力を感じないときたものだ。要は全否定である。
いつも明るく笑っていることの何がいけないのだろう。
どんよりと何事にも悲観して暗い顔をしているより、どんなことだって楽しく感じられて笑顔でいる方がずっといい。好きな相手には、自分の気持ちを惜しみなく伝えたい。
楽しいし嬉しいから笑って、大好きだからそれを口にしているだけなのに、それでは駄目なのだろうか。
女の子は本当に難しい。一方的に三行半を叩きつけてきたかと思えば、次の日にはもう違う男と楽しげに手を繋いで歩いていたりする。
その度に同じ大学に通う友人達からは、「お前は女を見る目がないんだ」と言われたりもした。
そうして夏休み直前、彼女からお決まりの台詞を吐かれて、ファイは途方に暮れた。
また駄目だったという思いに持ち前のポジティブさもどこへやら、激しく落ち込んだ。
けれど、なんだかんだでくよくよしてばかりいるのは嫌だった。もう恋なんかするものかという思いから、バイトに明け暮れた。
肉体労働はあまり好きではないが、余計なことを考える時間をなくすために青空の下、工事現場で汗を流した。
だが、結果は最悪だった…。
生まれつき肌が白いファイは、長時間強い日差しの下にいるだけで皮膚は赤くただれるし、筋肉モリモリの汗臭い連中の中にいて、幾度嫌気が差したか知れない。
夏休みが終わる頃には、心も身体もボロボロだった。ちょっとは身体が鍛えられたかと期待はしたが、体質がそれを許してくれず、相変わらず細くひょろひょろのままだった。
財布は膨れたが、せっかくの二十歳の夏休みを自分は一体何をしていたのだろうかと、後悔ばかりが押し寄せた。
ぼんやりと打ちひしがれることが多くなっていたファイだったが、ある日それを見かねて新たなバイトでも始めてみないかと、そう持ちかけてきたのはユゥイだった。
ユゥイはファイの双子の弟で、現在は料理系の専門学校へ通う傍ら、とあるカフェでアルバイトをしていた。
「常連さんの息子さんなんだけど、家庭教師を探してるんだって」
よく主婦仲間とお茶をしに来るという女性の息子で、現在高校2年生だという。
条件は週に2回で火曜と金曜。午後8時から10時の二時間で、教科は現段階では数学と化学。
個人契約になるが、信頼に足るご家庭だと言って、ユゥイは太鼓判を押していた。
適当にバイトは続けようと思っていたファイだったので、あっさり了承した。
***
ある程度の回想が終わった頃、景色は人通りの多い街並みからひっそりとした住宅街へと移り変わっていた。
地図と、迷わないようにと書き添えられたメモを頼りに辺りを見回す。
確かユゥイは大きなお屋敷だからすぐに分かるだろうと言っていた。
「あ、やっぱりここだ」
瓦の葺かれた趣のある板塀を添うように歩いていたファイは、まさにその塀こそが目的の家のものであることになんとなく気がついていた。
すでに辺りは暗く、見上げてもぼんやりとしたシルエットでしか確認は出来ないものの、そこがとんでもなく大きな日本家屋であることが知れる。
こんなことでもない限り、ファイには一生縁がなさそうだ。
「お金持ちの家だぁー……」
思わず呟く。このような大きなお屋敷の息子ともなれば、一体どんな人物なのだろう。
きっと礼儀正しく、よく躾けのされた優等生に違いない。
なんとなく物怖じして気が引けてしまったファイだが、柄の悪いヤンキーよりはマシだと自らを奮い立たせる。
ひとまずは、案外あっさり辿り付けたことにホッと胸を撫で下ろし、同時にやはりもっとゆっくり家を出れば良かったとも思う。そうしていたら、先刻のような悲劇に見舞われずに済んだかもしれないのに。
けれどそこでブンブンと首を左右に振る。
「忘れよう……。オレはお仕事しにここに来たんだから……!」
ファイが見舞われた事故と、このお宅は一切関係がないのだから。
時計を見て、時間に間に合ったことを確認すると、ファイは木造の大きな門に備え付けられたインターホンのコールボタンを押した。
***
「本当にそっくりで、ビックリしましたわ」
出迎えてくれたのは、上品で優しげな若い女性だった。
淡い藤色に季節の吹き寄せ模様が施された着物に身を包み、長い黒髪がゆるゆると可憐に波を描いている。
とてもではないが、高校生の息子がいるとは思えないほどの若さと美貌を兼ね備えたその女性に、ファイの緊張のボルテージは頂点に達していた。
「いつもお友達と行くんですよ。ユゥイさんのいらっしゃるお店に」
「は、はぁ……」
「ケーキもお茶も本当に美味しくて……あ、こちらの廊下の角を曲がれば息子の部屋です」
ファイの前を摺り足で歩いていた女性が振り返り、そっと手で「どうぞ」と示す。
「少し頑固で気難しいところはありますが、真面目な子ですから……しっかり鍛えてやってくださいましね」
「あ、あの、はい……」
すぐにお茶をお持ちしますから、と言って彼女は行ってしまった。
ひっそりとした廊下に一人残されたファイは、長い黒髪が消えてゆくのを見送ると思いっきり息を吐き出した。
「ふわー……緊張したぁー……」
メインのイベントはこれからだと言うのに、なんだかどっと疲れきっている。
だがもはや引き返すことは出来ず、なぜかファイまで摺り足で示された方へ進んだ。
言われた通り角を曲がると、すぐの廊下に面した部屋の障子が開け放たれている。
広い和室で、文机の前に正座する男の後ろ姿があった。ピンと真っ直ぐに伸びた背は広く、皺ひとつない白いシャツに覆われている。
おそらく彼が今日から教える生徒だろう。
母親と同じ黒髪が、ツンツンと無造作に立っている。どこかで見たような気が、しないでもない。
「あ、えっと、黒鋼君、だよねー?」
名前はユゥイや、先刻の女性から聞いていた。極力明るく声をかけると、彼はゆっくりと振り向いた。
すると…。
「…!?」
そこには、先刻ファイを痴漢から救ってくれた、男前高校生の顔があった。
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駅を出ると、すでに辺りは陽が沈んで薄青に包まれていた。傷心の胸に秋風の冷たさが堪える。
小さく身を震わせながら腕時計を見やれば、指定された時刻に間に合うかどうかと言ったところだった。
道に迷うことを恐れて早めに家を出たはずが、思っていた以上にトイレに篭っていた時間が長くなってしまった。
手書きの地図をカバンから取り出し、街の明りを頼りに確認しながら重い足を踏み出してゆく。
大通りは帰宅途中の学生やサラリーマン等で賑わっていて、ただでさえダメージから立ち直りきれず足取りのおぼつかないファイは、幾度もそれらに肩をぶつけては弱々しく頭を下げた。
数名のケバケバしい女子高生の群にぶつかった時、ガラの悪い舌打ちをお見舞いされた。
(帰りたい…)
なんだかまた泣きたくなって、ファイは胸のうちで切実に呟いた。
こんなことなら、気安くバイトなど引き受けるのではなかった……。
***
今年の夏休みは、適当なバイトでもして彼女と楽しくやる予定だった。
海にも行きたいし、映画も見たい。花火もしたいし、美味しいものも食べに行って……。
そんな風にウキウキと立てていた予定だが、それらは虚しく崩壊してしまった。彼女と上手くいかなくなってしまったからだ。
だが悲しいことに、恋人との破局はファイにとってそう珍しいことではなくなっていた。
目移りは激しいし、落ち着きに欠けるし、気紛れな性格だという自覚はある。
けれど、特定の相手と付き合えばその相手だけを見てるし、浮気だって滅多なことではしない。自分に出来る限りの愛情表現もしているつもりだった。
だがそれの一体何がいけないのか、いつだって振られるのはファイの方だった。
必ずと言っていいほどお決まりの文句だってある。
『テンションについて行けない』
『好きって言葉が軽すぎる』
『どうせ同じようなこと他の子にも言ってるんでしょ?』
『男の人として見れなくなってきちゃった』
などなど。
どうもチャラチャラとした軽い男だというイメージを持たれてしまうらしい。
ニコニコしていれば何を考えているのか分からないと言われ、真っ直ぐ気持ちを伝えれば言葉の安売りと言われる。
挙句の果てには男としての魅力を感じないときたものだ。要は全否定である。
いつも明るく笑っていることの何がいけないのだろう。
どんよりと何事にも悲観して暗い顔をしているより、どんなことだって楽しく感じられて笑顔でいる方がずっといい。好きな相手には、自分の気持ちを惜しみなく伝えたい。
楽しいし嬉しいから笑って、大好きだからそれを口にしているだけなのに、それでは駄目なのだろうか。
女の子は本当に難しい。一方的に三行半を叩きつけてきたかと思えば、次の日にはもう違う男と楽しげに手を繋いで歩いていたりする。
その度に同じ大学に通う友人達からは、「お前は女を見る目がないんだ」と言われたりもした。
そうして夏休み直前、彼女からお決まりの台詞を吐かれて、ファイは途方に暮れた。
また駄目だったという思いに持ち前のポジティブさもどこへやら、激しく落ち込んだ。
けれど、なんだかんだでくよくよしてばかりいるのは嫌だった。もう恋なんかするものかという思いから、バイトに明け暮れた。
肉体労働はあまり好きではないが、余計なことを考える時間をなくすために青空の下、工事現場で汗を流した。
だが、結果は最悪だった…。
生まれつき肌が白いファイは、長時間強い日差しの下にいるだけで皮膚は赤くただれるし、筋肉モリモリの汗臭い連中の中にいて、幾度嫌気が差したか知れない。
夏休みが終わる頃には、心も身体もボロボロだった。ちょっとは身体が鍛えられたかと期待はしたが、体質がそれを許してくれず、相変わらず細くひょろひょろのままだった。
財布は膨れたが、せっかくの二十歳の夏休みを自分は一体何をしていたのだろうかと、後悔ばかりが押し寄せた。
ぼんやりと打ちひしがれることが多くなっていたファイだったが、ある日それを見かねて新たなバイトでも始めてみないかと、そう持ちかけてきたのはユゥイだった。
ユゥイはファイの双子の弟で、現在は料理系の専門学校へ通う傍ら、とあるカフェでアルバイトをしていた。
「常連さんの息子さんなんだけど、家庭教師を探してるんだって」
よく主婦仲間とお茶をしに来るという女性の息子で、現在高校2年生だという。
条件は週に2回で火曜と金曜。午後8時から10時の二時間で、教科は現段階では数学と化学。
個人契約になるが、信頼に足るご家庭だと言って、ユゥイは太鼓判を押していた。
適当にバイトは続けようと思っていたファイだったので、あっさり了承した。
***
ある程度の回想が終わった頃、景色は人通りの多い街並みからひっそりとした住宅街へと移り変わっていた。
地図と、迷わないようにと書き添えられたメモを頼りに辺りを見回す。
確かユゥイは大きなお屋敷だからすぐに分かるだろうと言っていた。
「あ、やっぱりここだ」
瓦の葺かれた趣のある板塀を添うように歩いていたファイは、まさにその塀こそが目的の家のものであることになんとなく気がついていた。
すでに辺りは暗く、見上げてもぼんやりとしたシルエットでしか確認は出来ないものの、そこがとんでもなく大きな日本家屋であることが知れる。
こんなことでもない限り、ファイには一生縁がなさそうだ。
「お金持ちの家だぁー……」
思わず呟く。このような大きなお屋敷の息子ともなれば、一体どんな人物なのだろう。
きっと礼儀正しく、よく躾けのされた優等生に違いない。
なんとなく物怖じして気が引けてしまったファイだが、柄の悪いヤンキーよりはマシだと自らを奮い立たせる。
ひとまずは、案外あっさり辿り付けたことにホッと胸を撫で下ろし、同時にやはりもっとゆっくり家を出れば良かったとも思う。そうしていたら、先刻のような悲劇に見舞われずに済んだかもしれないのに。
けれどそこでブンブンと首を左右に振る。
「忘れよう……。オレはお仕事しにここに来たんだから……!」
ファイが見舞われた事故と、このお宅は一切関係がないのだから。
時計を見て、時間に間に合ったことを確認すると、ファイは木造の大きな門に備え付けられたインターホンのコールボタンを押した。
***
「本当にそっくりで、ビックリしましたわ」
出迎えてくれたのは、上品で優しげな若い女性だった。
淡い藤色に季節の吹き寄せ模様が施された着物に身を包み、長い黒髪がゆるゆると可憐に波を描いている。
とてもではないが、高校生の息子がいるとは思えないほどの若さと美貌を兼ね備えたその女性に、ファイの緊張のボルテージは頂点に達していた。
「いつもお友達と行くんですよ。ユゥイさんのいらっしゃるお店に」
「は、はぁ……」
「ケーキもお茶も本当に美味しくて……あ、こちらの廊下の角を曲がれば息子の部屋です」
ファイの前を摺り足で歩いていた女性が振り返り、そっと手で「どうぞ」と示す。
「少し頑固で気難しいところはありますが、真面目な子ですから……しっかり鍛えてやってくださいましね」
「あ、あの、はい……」
すぐにお茶をお持ちしますから、と言って彼女は行ってしまった。
ひっそりとした廊下に一人残されたファイは、長い黒髪が消えてゆくのを見送ると思いっきり息を吐き出した。
「ふわー……緊張したぁー……」
メインのイベントはこれからだと言うのに、なんだかどっと疲れきっている。
だがもはや引き返すことは出来ず、なぜかファイまで摺り足で示された方へ進んだ。
言われた通り角を曲がると、すぐの廊下に面した部屋の障子が開け放たれている。
広い和室で、文机の前に正座する男の後ろ姿があった。ピンと真っ直ぐに伸びた背は広く、皺ひとつない白いシャツに覆われている。
おそらく彼が今日から教える生徒だろう。
母親と同じ黒髪が、ツンツンと無造作に立っている。どこかで見たような気が、しないでもない。
「あ、えっと、黒鋼君、だよねー?」
名前はユゥイや、先刻の女性から聞いていた。極力明るく声をかけると、彼はゆっくりと振り向いた。
すると…。
「…!?」
そこには、先刻ファイを痴漢から救ってくれた、男前高校生の顔があった。
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第一話 『遭遇』
ねぇ神様。
あなたはいつだって、とても意地悪だけど。
この小指にもし、赤い糸が括りつけられているのなら。
それを手繰り寄せた先に、どうか。
――どうか。
***
これは夢だ。夢に違いない。
だってこんな残酷なことが自分の身に起こるはずがない。起こっていいわけがない。
目を閉じて十まで数えて、そしてまた目を開けたとき、きっと全ては無かったことになっている。
そう信じてファイは目を閉じた。心の中でゆっくりとカウントする。
そして目を開くと。
「……バカ……オレのバカ……」
そこは変わらぬ現実が視界を塞いでいた。
駅の公衆トイレ。その薄汚れた壁。
消えかかった電話番号や、猥褻な落書きがうっすらと見える。
目を閉じる前に見た光景がそのまま、そこにあった。
***
平日の夕方6時台、電車の中。周りには密着するようにして人、人、人。
そんな帰宅ラッシュの波に揉まれて、出入り口に佇むファイはげんなりとしていた。
思わず目の前の扉に額をゴツンとぶつける。ひんやりとしたガラスの感覚に、多少は気が紛れるような気がした。
狭い車内はみっしりと帰路につく乗客で埋め尽くされていて、心なしが酸素濃度が低い。
見ず知らずの他人と押し競饅頭をしている状態は決して心地いいとは言い難いが、ファイが何よりも辟易としていたのは、そのなんとも言えない臭いの方だった。
汗であったり、整髪剤であったり、香水であったり。
あらゆる人間の纏うそれらが一気に合わさり、狭い空間の中で激しく渦を巻いている。
(せめてこれがみんな可愛い女の子や美人なお姉さんならなぁ……。そしたら我慢できるのに……)
しかし現実はあまりにも過酷だ。
身動きが取れないせいで見渡すまではいかないが、僅かに首を動かして確認できるだけでも、可愛い女の子や美女など一人も見当たらない。
表情も後頭部もくたびれきったサラリーマンや、怒らせると物凄く怖そうな中年の女性などがチラリと見えただけだった。
再び重苦しい溜息をゆっくりと吐き出すと、過ぎてゆく夕暮れの街並みが白く曇った。
とにかく、今は目的地に一刻も早く到着することをただ願うしかない。
頭上にある路線図の書かれた掲示板を見上げて、ちょうど次が自分の降りる駅であることを目視した。
解放の時を待ちわびて、知らず入っていた肩の力を僅かに抜く。
だが事件は、それと時を同じくして起こった。
「………?」
臍の辺りだろうか。
肩から提げている黒のトートバッグを押し退けるようにしながら、何かがもぞもぞと這っているような気がしてファイは眉を寄せた。
ドアと睨めっこ状態で張り付いているため、誰かが真後ろから腕でも回してこない限り、正面に違和感を覚えるはずはないのだが。
もぞり、もぞり……。
その何かが薄手のセーターの上を這いずっているのを、確かに感じた。
首を傾げつつも、だがこの異様に込み合った電車内である。真後ろの人間が掴まる場所がなくて困っているのかもしれない。
どうせ下車する駅は間近だし、気にするほどのことでもないかと、暢気に考えた。
けれど、そうも言っていられない事態が次の瞬間、その身に降りかかることとなる。
「……?」
ぎこちなく這っていたそれが、セーターの裾をゆっくりとたくし上げ、素肌に触れた。
そして、何やら腹や臍の辺りをゆるゆると弄り始めたのだ。
(……ん?)
どうにか壁から身を離し、僅かに出来た隙間から下を見る。
すると、何者かの両腕が自分の服の中をモゾモゾと探るように蠢いているのが確認できた。
「!?」
何が起こっているのか、まるで理解できない状態だった。
だがそうこうしているうちに、こちらが抵抗しないことに気を良くしたのか、片方の手が今度は徐々に下へと移動した。
それがいよいよ股間部分に辿りつこうとしたとき、ファイはようやく一つの結論に至った。
(ち、痴漢!?)
まさか、という信じられない思いに凍りつく。
(痴女!? これが痴女ってやつ!?)
だが、どうにも自分に覆いかぶさるように背中に密着している相手からは、女性の柔らか味を感じない。
同時に、耳元にかかる荒々しい呼吸の合間を縫って漏れ聞こえる声も、だいぶ低く太めのような……?
身じろいでもビクともしない力強さは、どう考えても男性のものだった。
そこでファイは、もしや自分は女性にでも間違われているのでは、と考えた。
幼い頃などは性別を間違われることが幾度となくあった。初対面の人間に対して、わざと女の子の振りをしてからかうという悪戯もした。
けれど、成長するに従って流石にそんな悪戯は通用しなくなった。
ファイは細身だが上背もあり、女性にあるような特有の丸みなど皆無である。
優男と称されることはあっても、女顔と言われることはまずない。
とは言っても背が高く、スレンダーでボーイッシュな女性だっているだろうし、この満員電車の中にあっては顔や容姿を吟味することも難しいのかもしれない。
きっと痴漢も相手を選んでいる余裕がなかったのだろうと。
計画的な痴漢は、電車に乗る前にホームに並んでいる獲物の中から目星をつけて、乗り込む際にさりげなく側を陣取っていたりするのだが、ファイにはそんな知識は皆無だった。ましてや、自分がターゲットとしてロックオンされるなど、毛ほども考えていなかった。
(どうしよう……気の毒だけど、オレ女じゃないですって教えてあげた方がいいのかな……)
きっと痴漢も必死すぎて、ちょっと肌に触れた程度では気付けないでいるのかもしれない。
この期に及んでお人好しなことを考えたファイは、勘違いで男の身体を弄っている相手の方に、なんとなく同情してしまった。
「ぁ、の……ッ」
息苦しい中でどうにか相手方に顔を向けようとして、けれど次の瞬間ドキリとして身を強張らせた。
相手が股間に触れてしまう前にどうにかして伝えたかったのだが、間に合わなかった。
ボトムの上からゆるゆると身体の中心を撫でられて、思わず息を呑む。
だが、触れられてしまってはもう仕方が無い。気の毒だが、これで相手も思い知るだろう。ついでにこれに懲りて、痴漢など一切止めてくれれば世の女性のためにもなると思った。
そのためならこの屈辱も甘んじて受けよう……と、おかしな方向に腹を括ったファイだったが、どういうわけか相手は一切の躊躇いを見せなかった。
むしろ、ファイの股間のブツをじっくりと吟味するかのようにねっとりと手の平を這わせている。
(……あれ?)
まるで形や大きさを確かめようとでもするかのように、執拗に這いまわる手。これだけ触れれば、いい加減そこにありえないブツが存在していることくらい、気がついてもいいものだが。
(おっかしーなー……)
心なしか、耳元にかかる呼吸に荒さが増したような気がする。
そして何より、臀部の辺りに硬いものが押し付けられているような気もした。ファイの脳内は再びフリーズする。
硬直するファイを置き去りにしたまま、徐々に大胆さを増してきた手が、ついにウエストのベルトにかかった。
器用に外されて、さらにボタンも外されたかと思うとズッポリと手が侵入してくる。
「ちょ……!?」
流石に声を上げそうになって、慌てて口を噤む。
信じられないことだが、男性である自分が男性である痴漢にターゲットを絞られたことが分かった今、はっきり言って絶対に周囲に知られてはならないと思ったのだ。
女性が声も上げられないという感覚が、少しだけ分かったような気がする。ファイの場合は、恐ろしいというより男性としてのプライドだけが邪魔をしているのだが。
ファイはどうにか身を捩って逃れようとした。けれど、それをすればするほど相手の男が身体を密着させてくる。
嫌でも感じる臀部付近の違和感。ぞっとして、全身に鳥肌が立った。
手は下着の上から性器を擦ってくる。不快以外の何物でもない感覚に、腹の底からぐっと込み上げてくるものをどうにか堪えるのに必死だ。
(ど、どうしよう……どうしたら……)
駅にはまだ到着しないのか。時間の経過が恐ろしく遅い。
このままの状態が続けば、いよいよ胃の中の物を全てぶちまけるかもしれない。
それでも辺りに助けを求めることは、どうしてもしくたくない。
そこでふと、ファイは考えた。
(この手は女の人! 大胆でエッチなお姉さんの手!)
これは名案だ……と、思わず自分の頭の回転速度に惚れ惚れする。
痴女、大いに結構ではないか。物静かで純情そうな女の子も好きだが、その対極を行くような肉食系お姉さんというのも悪くない。
むしろ一度くらいは食うより食われる経験をしてみてもいいかもなんて。
そう思いさえすれば、あとは臀部に感じる違和感さえどうにか無視することで、この場を乗り切れる気がした。
耳元の髪に顔を埋めて、「スーハースーハー」と匂いを嗅いでいる息遣いは綺麗なお姉さんとは程遠い気がするが、そこもどうにか気合で聞こえないフリをした。
もはや正常な思考と判断力が迷子になっていることに、ファイ自身は目をつぶった状態である。
そうしている間にも『お姉さん』の手はどんどん大胆にファイの性器を刺激してゆく。
脳内に、テレビで見たことのある好みの綺麗どころの顔を次々と思い浮かべた。
「っ……!」
そして思わず駆け抜けたものに身を震わせる。ぎゅっと唇を噛み締めて、きつく目を閉じた。
こんな状況であるに関わらず、鋼の妄想力によってファイは自身が反応し始めていることに気がつく。そして、はっとする。
(駄目じゃん!!)
そう、ここは満員電車。下手な妄想をするこで、むしろとんでもない方向へ自ら進んでしまっていることに今更気がついた。完全なる墓穴である。
しかしもう遅い。車が急に止まれないのと同じで、生理的な現象を急激にストップさせることなど出来はしない。
おそらく相手はプロに違いない。性器を刺激する手があまりにも巧みで、追い上げることに慣れているとしか思えなかった。
もう何がなんだか訳が分からなくなって、ファイはじんわりと目元に涙を浮かべる。
(どうしよう……男なんて気持ち悪いよぉ……でも変な感じになっちゃったよぉ……誰か……)
助けて、と胸の内で呟いたとき、手首を何か強い力によって掴まれた。
そして同時に、「ぐえっ」という小汚い悲鳴が聞こえる。
「!?」
何が起こったのか理解できないまま、目の前の扉が開いた。どっと流れる人の波に流されるようにして、ファイは何者かの強い手によって車内から引っ張り出された。
どうやらいつの間にか駅に到着していたらしい。
ベルト部分を必死で掴んで押さえながらも、ファイはぼやける視界で自分の手を引く人物を見上げた。
長身のファイを上回る大きな男の背中と、ツンツンの黒髪が見える。
彼が助けてくれたのか。さきほど聞こえた悲鳴は、おそらくファイに痴漢を働いていた男のものだった。
そんなことをぼんやりと考えているうちに、彼は地下へと続く階段の手前で足を止めた。
「ぁ……」
振り向いた青年は制服姿で、その身なりから高校生であることが知れた。
学校名までは知らないが、臙脂のブレザーには見覚えがあるような気がする。
ファイは思わずポカンと口を開けて、目の前の男の顔を見上げた。
(イケメンっていうか……男前だなぁ……俳優さんみたい……)
その表情は大人びていて、燃えるような色をした眼光の鋭さから目力が半端ない。
制服さえ着ていなければ、彼がまだ十代の青少年だとは誰も気がつかないだろう。
女性の容姿以外に興味を抱いたことはこれまで無いが、悔しいくらいの男前を目の前にファイは思わず見惚れてしまった。
「おい」
心地いいとさえ思える低音が、短く紡がれる。声までイケメンとは、なんとも憎らしい……。
「大丈夫か」
「……へ?」
思いっきり反応が遅れた上に間抜けな声を上げたファイに、青年は元々ある眉間の皺をさらに深くした。
ファイは慌てて幾度か頷くだけで精一杯だった。大丈夫だと言おうとして、けれど思い出したように身を強張らせる。
「う……ぁ……あの……」
上ずった妙な声を発して、ファイは俯くと僅かに身を屈めた。顔から火が噴出しそうなほど熱い。
ベルト部分を掴む指先に感覚がなくなるくらい力を込める。途端におかしな汗がじわりと額に滲みだした。
すっかり忘れかけていたが、ファイの身体ののっぴきならない事情は、いまだ継続中だった。
それほどまでに飢えていたということか……お姉さんに。
礼を言いたいけれど、今にも逃げ出したくて仕方が無い。しかし相手はまだファイの手首を掴んだままでいる。
「あの、あの、オレ」
ぎゅうと目を閉じて、いっそ泣いてしまいたいのを堪えていると、青年は無言で階段を降り始める。
「え!? あ、あの……!!」
力強い腕に引かれ、足を縺れさせながらも階段を降りきると、青年はさらにズンズンと前へ進んだ。
そして、改札の手前の公衆トイレへと足を踏み入れる。
「!?」
誰も利用者がいないことを確認すると、彼は三つ並んでいる個室の一番奥に、ファイを押し込めた。
腕を伸ばし、扉の上部に指を引っ掛けるようにして器用に閉められる。
状況が飲み込めないまま洋式便器の前に取り残されたファイに、扉越しに「鍵」というぶっきらぼうな声がかかった。
「あ、はい!」
咄嗟に返事をして、鍵をかけた。すると、上部で扉を押さえていた指がすっと消える。
「まぁ……がんばれ」
「!!」
その一言で、ファイはようやく状況を飲み込んだ。ようするに、ここで処理でもなんでもしろ、ということなのだ。
呆然とするファイを一人残して、足音と共に扉の向こうから気配が消える。
静まり返った空間で、力なく蓋の閉められた便座に腰を落とした。肩から提げていたバッグを膝に乗せ、ぎゅっと抱きしめる。
そのまま、ぼんやりと薄汚れた落書きだらけの扉を瞬きも忘れて見つめ続けた。頭の中が真っ白で、何も考えられない状態が暫く続いた。
けれどやがて。
「ああぁぁぁ~~~っ!!」
ファイは頭を抱えると、思いっきり身を屈めた。
「何これ!? これ夢!? 夢だよね!? こんなことってあるー!?」
痴漢に遭遇して、身動きが取れないどころか妙な妄想で気を紛らわした結果、思いっきり反応して。
それを助けてくれた高校生は絶世のイケメンで、しかも恥ずかしい状態を見抜かれて、そしてそして……。
「もう生きていけないよ!! 死んだほうがいいよ!! 電車なんかもう絶対乗れないって!!」
あまりの羞恥と屈辱に打ちのめされて、ファイは情けなさと悔しさと自己嫌悪に、抱えた頭を振り乱しながらジタバタと足踏みをする。
穴があったら入りたい。いっそこの便器の中でもいいから、流されて消えてしまいたかった。
「オレのバカ……オレのバカ……!」
下半身も、お陰ですっかり萎えた。
ここでしなければならないことは無くなってしまったが、当分は出られそうになく、ファイは溢れる涙に頬を濡らした。
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ねぇ神様。
あなたはいつだって、とても意地悪だけど。
この小指にもし、赤い糸が括りつけられているのなら。
それを手繰り寄せた先に、どうか。
――どうか。
***
これは夢だ。夢に違いない。
だってこんな残酷なことが自分の身に起こるはずがない。起こっていいわけがない。
目を閉じて十まで数えて、そしてまた目を開けたとき、きっと全ては無かったことになっている。
そう信じてファイは目を閉じた。心の中でゆっくりとカウントする。
そして目を開くと。
「……バカ……オレのバカ……」
そこは変わらぬ現実が視界を塞いでいた。
駅の公衆トイレ。その薄汚れた壁。
消えかかった電話番号や、猥褻な落書きがうっすらと見える。
目を閉じる前に見た光景がそのまま、そこにあった。
***
平日の夕方6時台、電車の中。周りには密着するようにして人、人、人。
そんな帰宅ラッシュの波に揉まれて、出入り口に佇むファイはげんなりとしていた。
思わず目の前の扉に額をゴツンとぶつける。ひんやりとしたガラスの感覚に、多少は気が紛れるような気がした。
狭い車内はみっしりと帰路につく乗客で埋め尽くされていて、心なしが酸素濃度が低い。
見ず知らずの他人と押し競饅頭をしている状態は決して心地いいとは言い難いが、ファイが何よりも辟易としていたのは、そのなんとも言えない臭いの方だった。
汗であったり、整髪剤であったり、香水であったり。
あらゆる人間の纏うそれらが一気に合わさり、狭い空間の中で激しく渦を巻いている。
(せめてこれがみんな可愛い女の子や美人なお姉さんならなぁ……。そしたら我慢できるのに……)
しかし現実はあまりにも過酷だ。
身動きが取れないせいで見渡すまではいかないが、僅かに首を動かして確認できるだけでも、可愛い女の子や美女など一人も見当たらない。
表情も後頭部もくたびれきったサラリーマンや、怒らせると物凄く怖そうな中年の女性などがチラリと見えただけだった。
再び重苦しい溜息をゆっくりと吐き出すと、過ぎてゆく夕暮れの街並みが白く曇った。
とにかく、今は目的地に一刻も早く到着することをただ願うしかない。
頭上にある路線図の書かれた掲示板を見上げて、ちょうど次が自分の降りる駅であることを目視した。
解放の時を待ちわびて、知らず入っていた肩の力を僅かに抜く。
だが事件は、それと時を同じくして起こった。
「………?」
臍の辺りだろうか。
肩から提げている黒のトートバッグを押し退けるようにしながら、何かがもぞもぞと這っているような気がしてファイは眉を寄せた。
ドアと睨めっこ状態で張り付いているため、誰かが真後ろから腕でも回してこない限り、正面に違和感を覚えるはずはないのだが。
もぞり、もぞり……。
その何かが薄手のセーターの上を這いずっているのを、確かに感じた。
首を傾げつつも、だがこの異様に込み合った電車内である。真後ろの人間が掴まる場所がなくて困っているのかもしれない。
どうせ下車する駅は間近だし、気にするほどのことでもないかと、暢気に考えた。
けれど、そうも言っていられない事態が次の瞬間、その身に降りかかることとなる。
「……?」
ぎこちなく這っていたそれが、セーターの裾をゆっくりとたくし上げ、素肌に触れた。
そして、何やら腹や臍の辺りをゆるゆると弄り始めたのだ。
(……ん?)
どうにか壁から身を離し、僅かに出来た隙間から下を見る。
すると、何者かの両腕が自分の服の中をモゾモゾと探るように蠢いているのが確認できた。
「!?」
何が起こっているのか、まるで理解できない状態だった。
だがそうこうしているうちに、こちらが抵抗しないことに気を良くしたのか、片方の手が今度は徐々に下へと移動した。
それがいよいよ股間部分に辿りつこうとしたとき、ファイはようやく一つの結論に至った。
(ち、痴漢!?)
まさか、という信じられない思いに凍りつく。
(痴女!? これが痴女ってやつ!?)
だが、どうにも自分に覆いかぶさるように背中に密着している相手からは、女性の柔らか味を感じない。
同時に、耳元にかかる荒々しい呼吸の合間を縫って漏れ聞こえる声も、だいぶ低く太めのような……?
身じろいでもビクともしない力強さは、どう考えても男性のものだった。
そこでファイは、もしや自分は女性にでも間違われているのでは、と考えた。
幼い頃などは性別を間違われることが幾度となくあった。初対面の人間に対して、わざと女の子の振りをしてからかうという悪戯もした。
けれど、成長するに従って流石にそんな悪戯は通用しなくなった。
ファイは細身だが上背もあり、女性にあるような特有の丸みなど皆無である。
優男と称されることはあっても、女顔と言われることはまずない。
とは言っても背が高く、スレンダーでボーイッシュな女性だっているだろうし、この満員電車の中にあっては顔や容姿を吟味することも難しいのかもしれない。
きっと痴漢も相手を選んでいる余裕がなかったのだろうと。
計画的な痴漢は、電車に乗る前にホームに並んでいる獲物の中から目星をつけて、乗り込む際にさりげなく側を陣取っていたりするのだが、ファイにはそんな知識は皆無だった。ましてや、自分がターゲットとしてロックオンされるなど、毛ほども考えていなかった。
(どうしよう……気の毒だけど、オレ女じゃないですって教えてあげた方がいいのかな……)
きっと痴漢も必死すぎて、ちょっと肌に触れた程度では気付けないでいるのかもしれない。
この期に及んでお人好しなことを考えたファイは、勘違いで男の身体を弄っている相手の方に、なんとなく同情してしまった。
「ぁ、の……ッ」
息苦しい中でどうにか相手方に顔を向けようとして、けれど次の瞬間ドキリとして身を強張らせた。
相手が股間に触れてしまう前にどうにかして伝えたかったのだが、間に合わなかった。
ボトムの上からゆるゆると身体の中心を撫でられて、思わず息を呑む。
だが、触れられてしまってはもう仕方が無い。気の毒だが、これで相手も思い知るだろう。ついでにこれに懲りて、痴漢など一切止めてくれれば世の女性のためにもなると思った。
そのためならこの屈辱も甘んじて受けよう……と、おかしな方向に腹を括ったファイだったが、どういうわけか相手は一切の躊躇いを見せなかった。
むしろ、ファイの股間のブツをじっくりと吟味するかのようにねっとりと手の平を這わせている。
(……あれ?)
まるで形や大きさを確かめようとでもするかのように、執拗に這いまわる手。これだけ触れれば、いい加減そこにありえないブツが存在していることくらい、気がついてもいいものだが。
(おっかしーなー……)
心なしか、耳元にかかる呼吸に荒さが増したような気がする。
そして何より、臀部の辺りに硬いものが押し付けられているような気もした。ファイの脳内は再びフリーズする。
硬直するファイを置き去りにしたまま、徐々に大胆さを増してきた手が、ついにウエストのベルトにかかった。
器用に外されて、さらにボタンも外されたかと思うとズッポリと手が侵入してくる。
「ちょ……!?」
流石に声を上げそうになって、慌てて口を噤む。
信じられないことだが、男性である自分が男性である痴漢にターゲットを絞られたことが分かった今、はっきり言って絶対に周囲に知られてはならないと思ったのだ。
女性が声も上げられないという感覚が、少しだけ分かったような気がする。ファイの場合は、恐ろしいというより男性としてのプライドだけが邪魔をしているのだが。
ファイはどうにか身を捩って逃れようとした。けれど、それをすればするほど相手の男が身体を密着させてくる。
嫌でも感じる臀部付近の違和感。ぞっとして、全身に鳥肌が立った。
手は下着の上から性器を擦ってくる。不快以外の何物でもない感覚に、腹の底からぐっと込み上げてくるものをどうにか堪えるのに必死だ。
(ど、どうしよう……どうしたら……)
駅にはまだ到着しないのか。時間の経過が恐ろしく遅い。
このままの状態が続けば、いよいよ胃の中の物を全てぶちまけるかもしれない。
それでも辺りに助けを求めることは、どうしてもしくたくない。
そこでふと、ファイは考えた。
(この手は女の人! 大胆でエッチなお姉さんの手!)
これは名案だ……と、思わず自分の頭の回転速度に惚れ惚れする。
痴女、大いに結構ではないか。物静かで純情そうな女の子も好きだが、その対極を行くような肉食系お姉さんというのも悪くない。
むしろ一度くらいは食うより食われる経験をしてみてもいいかもなんて。
そう思いさえすれば、あとは臀部に感じる違和感さえどうにか無視することで、この場を乗り切れる気がした。
耳元の髪に顔を埋めて、「スーハースーハー」と匂いを嗅いでいる息遣いは綺麗なお姉さんとは程遠い気がするが、そこもどうにか気合で聞こえないフリをした。
もはや正常な思考と判断力が迷子になっていることに、ファイ自身は目をつぶった状態である。
そうしている間にも『お姉さん』の手はどんどん大胆にファイの性器を刺激してゆく。
脳内に、テレビで見たことのある好みの綺麗どころの顔を次々と思い浮かべた。
「っ……!」
そして思わず駆け抜けたものに身を震わせる。ぎゅっと唇を噛み締めて、きつく目を閉じた。
こんな状況であるに関わらず、鋼の妄想力によってファイは自身が反応し始めていることに気がつく。そして、はっとする。
(駄目じゃん!!)
そう、ここは満員電車。下手な妄想をするこで、むしろとんでもない方向へ自ら進んでしまっていることに今更気がついた。完全なる墓穴である。
しかしもう遅い。車が急に止まれないのと同じで、生理的な現象を急激にストップさせることなど出来はしない。
おそらく相手はプロに違いない。性器を刺激する手があまりにも巧みで、追い上げることに慣れているとしか思えなかった。
もう何がなんだか訳が分からなくなって、ファイはじんわりと目元に涙を浮かべる。
(どうしよう……男なんて気持ち悪いよぉ……でも変な感じになっちゃったよぉ……誰か……)
助けて、と胸の内で呟いたとき、手首を何か強い力によって掴まれた。
そして同時に、「ぐえっ」という小汚い悲鳴が聞こえる。
「!?」
何が起こったのか理解できないまま、目の前の扉が開いた。どっと流れる人の波に流されるようにして、ファイは何者かの強い手によって車内から引っ張り出された。
どうやらいつの間にか駅に到着していたらしい。
ベルト部分を必死で掴んで押さえながらも、ファイはぼやける視界で自分の手を引く人物を見上げた。
長身のファイを上回る大きな男の背中と、ツンツンの黒髪が見える。
彼が助けてくれたのか。さきほど聞こえた悲鳴は、おそらくファイに痴漢を働いていた男のものだった。
そんなことをぼんやりと考えているうちに、彼は地下へと続く階段の手前で足を止めた。
「ぁ……」
振り向いた青年は制服姿で、その身なりから高校生であることが知れた。
学校名までは知らないが、臙脂のブレザーには見覚えがあるような気がする。
ファイは思わずポカンと口を開けて、目の前の男の顔を見上げた。
(イケメンっていうか……男前だなぁ……俳優さんみたい……)
その表情は大人びていて、燃えるような色をした眼光の鋭さから目力が半端ない。
制服さえ着ていなければ、彼がまだ十代の青少年だとは誰も気がつかないだろう。
女性の容姿以外に興味を抱いたことはこれまで無いが、悔しいくらいの男前を目の前にファイは思わず見惚れてしまった。
「おい」
心地いいとさえ思える低音が、短く紡がれる。声までイケメンとは、なんとも憎らしい……。
「大丈夫か」
「……へ?」
思いっきり反応が遅れた上に間抜けな声を上げたファイに、青年は元々ある眉間の皺をさらに深くした。
ファイは慌てて幾度か頷くだけで精一杯だった。大丈夫だと言おうとして、けれど思い出したように身を強張らせる。
「う……ぁ……あの……」
上ずった妙な声を発して、ファイは俯くと僅かに身を屈めた。顔から火が噴出しそうなほど熱い。
ベルト部分を掴む指先に感覚がなくなるくらい力を込める。途端におかしな汗がじわりと額に滲みだした。
すっかり忘れかけていたが、ファイの身体ののっぴきならない事情は、いまだ継続中だった。
それほどまでに飢えていたということか……お姉さんに。
礼を言いたいけれど、今にも逃げ出したくて仕方が無い。しかし相手はまだファイの手首を掴んだままでいる。
「あの、あの、オレ」
ぎゅうと目を閉じて、いっそ泣いてしまいたいのを堪えていると、青年は無言で階段を降り始める。
「え!? あ、あの……!!」
力強い腕に引かれ、足を縺れさせながらも階段を降りきると、青年はさらにズンズンと前へ進んだ。
そして、改札の手前の公衆トイレへと足を踏み入れる。
「!?」
誰も利用者がいないことを確認すると、彼は三つ並んでいる個室の一番奥に、ファイを押し込めた。
腕を伸ばし、扉の上部に指を引っ掛けるようにして器用に閉められる。
状況が飲み込めないまま洋式便器の前に取り残されたファイに、扉越しに「鍵」というぶっきらぼうな声がかかった。
「あ、はい!」
咄嗟に返事をして、鍵をかけた。すると、上部で扉を押さえていた指がすっと消える。
「まぁ……がんばれ」
「!!」
その一言で、ファイはようやく状況を飲み込んだ。ようするに、ここで処理でもなんでもしろ、ということなのだ。
呆然とするファイを一人残して、足音と共に扉の向こうから気配が消える。
静まり返った空間で、力なく蓋の閉められた便座に腰を落とした。肩から提げていたバッグを膝に乗せ、ぎゅっと抱きしめる。
そのまま、ぼんやりと薄汚れた落書きだらけの扉を瞬きも忘れて見つめ続けた。頭の中が真っ白で、何も考えられない状態が暫く続いた。
けれどやがて。
「ああぁぁぁ~~~っ!!」
ファイは頭を抱えると、思いっきり身を屈めた。
「何これ!? これ夢!? 夢だよね!? こんなことってあるー!?」
痴漢に遭遇して、身動きが取れないどころか妙な妄想で気を紛らわした結果、思いっきり反応して。
それを助けてくれた高校生は絶世のイケメンで、しかも恥ずかしい状態を見抜かれて、そしてそして……。
「もう生きていけないよ!! 死んだほうがいいよ!! 電車なんかもう絶対乗れないって!!」
あまりの羞恥と屈辱に打ちのめされて、ファイは情けなさと悔しさと自己嫌悪に、抱えた頭を振り乱しながらジタバタと足踏みをする。
穴があったら入りたい。いっそこの便器の中でもいいから、流されて消えてしまいたかった。
「オレのバカ……オレのバカ……!」
下半身も、お陰ですっかり萎えた。
ここでしなければならないことは無くなってしまったが、当分は出られそうになく、ファイは溢れる涙に頬を濡らした。
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今も昔も
寒かろうが暑かろうが、子供達は元気だ。
地面がぬかるんでいようが雪に埋め尽くされていようが、彼らの足取りは迷いなく、恐れを知らない。
一面が白銀の絨毯だった狭い校庭も、今はボコボコと幾つもの足跡によって荒らされ見る影もない。
わけの分からない奇声を上げて雪合戦に興じている子供達を尻目に、黒鋼は晴れた青空を見た。昨日までのどんよりとした空が嘘のようだ。今は雲ひとつない。
大粒の雪は降るだけ降ったらひとまずは満足したのか、今はなりを潜めている。
息を吸い込むと、澄んだ空気が肺を満たす。けれど同時に刺すような痛みも鼻の奥をツンと掠める。
空気が冷たすぎるのだ。あまりにも寒い。冬なのだから当たり前だ。
それでも、昔はもっと余裕があったような気がする。寒さも暑さもへっちゃらだった。
少し水を含んだ重い雪が、穿き潰したスニーカーから浸透して靴下を濡らし、皮膚にジンジンとした鈍痛をもたらすのも平気だったのに。
「俺も歳か……」
自分の耳にすら届くかどうかのほんの小さな囁きだったけれど、口に出してしまうと本当に老け込んでしまったような気がして後悔した。
重々しく吐き出した息が、うんざりするほど真っ白だ。
「せんせー! 早く頭のっけてー!」
ピンク色に白のボンボンをつけた毛糸の帽子を被った少女が、鼻や頬を真っ赤にして黒鋼を急かした。
真っ赤なミトンの手で、自分の身体の倍はありそうな雪の塊をパシパシと叩いている。
他にも2、3人の少年少女が同じように黒鋼を急かす。みな思い思いの防寒具に身を包んで、身体が一回り膨らんで見える。
黒鋼はというと、いつもの黒ジャージにオリーブグリーンのモッズコートを羽織り、手には校庭の倉庫から適当に発掘した薄汚れた軍手をしている。それさえもすっかり水を含んでただ不快なだけだった。
幾人かの子供達がモコモコの耳あてをしているのを見て、黒鋼はほんの少しだけそれを羨ましいと思った。
そういえば彼らくらいの頃、ファイも寒さの厳しい日にはよく耳あてをしていた。
女みたいだと言ってからかってやったら、彼は小さな唇を尖らせて「だってお耳がイタイんだもん」と呟いていた。
あのとき、本当は真っ白の耳あてをしたファイが可愛らしくて仕方がなかったのだ。
それを口に出すのが照れ臭くて、わざと馬鹿にしたみたいな言い方をしてしまったのだけれど。
「せんせーってば! なにボヤっとしてんのー」
「ああ、分かったよ。ったく、ちっとは浸らせろ……」
「何に?」
「なんでもねぇよ!」
そう言うと、黒鋼は巨大な雪の塊を両腕で抱え込むようにして持ち上げた。子供達が歓声を上げる。
持ち上げたそれを、もう一つの雪球にドンと乗せた。すると、大きな雪だるまが完成した。
「できたー!!」
「まだだよぉ! 目とか口とか、あとバケツの帽子も乗せるんだからぁ!」
はしゃぐ子供達を見て、黒鋼はやれやれと息を吐き出した。要するに、力仕事要員として黒鋼は召喚されていたのだ。
彼らは枝や葉っぱを集めると雪だるまに装飾し始める。
のっぺりとした顔がつけられて、緑色のバケツを帽子として乗せられたり、身体の脇にそれぞれ枝を突き刺されたりしている。
おまえも大変だな、と苦笑しながら黒鋼はそれを眺めた。
子供の頃にも同じことをした。ファイと二人で作った雪だるまはこれよりもずっと小さくて、そして翌朝にはほとんどが溶けてしまった。
それを見たファイはとても悲しそうだったけれど、また雪が積もったら作ろうと約束をしてやるとバカみたいにはしゃいで喜んでいた。
こうして子供達の遊びに付き合っていると、色々なことを思い出す。
そしてふと、また新たな記憶が蘇った。
『黒たんはオレのー…オレのー…』
あれは中学の頃の、雪の積もった帰り道でのこと。
――あいつはあのとき、なんだってあんなに機嫌が悪かったんだ?
そして言いかけた言葉の続きは何だったのだろう。今まですっかり忘れていた。
大きな雪だるまに真っ赤なマフラーが巻かれる様をじっと見つめながら、黒鋼はぼんやりと考える。
けれどそのとき、「あ!!」という高い声が背後から聞こえた。
ガツンッという衝撃を後頭部に食らって、黒鋼は目を回した。
*
「しょうがないねぇ、黒たんは」
楽しそうな声が、歌うように紡がれた。
黒鋼はむっとしたけれど、炬燵に向かってミカンの皮を剥くのに集中していた。
白い繊維はそのままに、二つに割ってパクンと一気に口に放り込む。なんだかやけに酸っぱかった。眉間に皺がぎゅっと寄る。
甘いものは苦手だが、果物ならある程度は話が別だ。特に真冬の炬燵にミカンというのは立派な日本の文化だとさえ思っている。
甘いか酸っぱいかは駄菓子屋のくじ引きと同じ感覚かもしれない。葉っぱがついていれば甘いという話は聞くけれど、黒鋼は滅多に当たりクジを引いたためしがない。
最近は週末によくこの屋敷に来ては、こうして寛ぐのが当たり前になっている。
テレビ画面では夜のニュース番組がスポーツの特集を組んでいるが、特に熱心に見ているというわけではない。
ファイは炬燵に入るでもミカンを食べるでもなく、黒鋼の背後に膝立ちしていた。ビニール袋を二重にしたものに水と氷を入れた氷嚢もどきを作り、黒鋼の後頭部にそっと押し当てている。
「もうろくしたんじゃないのー? 昔なら絶対にありえないのに。オレ、雪合戦で君に当てられたこと一度もないよ? ヒョイヒョイ避けられちゃってさー」
「今だって当たらねぇよ」
「それはどうかなぁ?」
クスクスと笑う声が聞こえる度に、後頭部から振動が伝わる。ポッコリと出来上がったタンコブが痛んで、黒鋼はチッと舌打ちをした。
二つに割ったうちのもう片方を口にして、その酸っぱさに顔を顰める。
「でも、本当にらしくないね。考え事でもしてた?」
ひょい、と背後から顔を覗きこまれて目を逸らす。ファイの髪がふわりと首や耳にあたると、少し遅れて石鹸の香りがした。
ファイは今年の夏のはじめ、暑苦しいという理由から長かった髪を切った。ある程度の長さは残しつつも、すっきりとした髪形は彼を子供の頃に返したかのように幼くさせて、なぜだか妙に心許ない気持ちにさせられたものだ。
けれどそれも夏が終わって秋が過ぎ、冬の真っ只中である今、また少し伸びた。縛るほどではない中途半端な長さだが、黒鋼は彼がときどき無意識に髪を耳にかける仕草を密かに気に入っていた。本人に言えば調子に乗るので、決して言わないけれど。
ファイは何も答えない黒鋼に、さらに楽しそうにニッコリと笑った。憎らしい。だいたいこんなタンコブを作ることになったのはこの男が原因だ。
雪合戦の玉(しかもガチガチに固められたもの)が思い切り頭を直撃して引っくり返った黒鋼は、生徒達に指差しで爆笑されてしまった。屈辱以外の何物でもない。
「最近、てめぇは可愛くねぇ」
勝手に記憶の蓋を開けて中身を漁ることに夢中になってしまったことは棚に上げて、黒鋼は子供染みた苛立ちを、子供染みた言葉に乗せた。
ファイは右目だけをパチクリとさせて、それを僅かに眇める。微笑む、というよりはニンマリする、という表現がしっくり来る笑い方だった。
「ふーん? まぁそりゃあ、黒様の可愛さに比べたらオレなんかまだまだだよねー」
「……おい、誰が可愛いだと?」
「黒様ってほんと可愛い。食べちゃいたいなぁ」
「てめぇ……」
氷嚢もどきを支える手はそのままに、もう片方の手がにゅっと伸びてきて黒鋼の頬をむにゅんと摘んだ。
「ほらかわいいー」
「このやろお……」
黒鋼は握った拳を小刻みに震わせた。こうして反応すればますますファイが喜ぶことは知っているのだが、なんだかムシャクシャして腹の虫が治まらない。
頬を抓っているファイの手を取ると、思いっきり引っ張って細い腰に腕を回した。そして、抱き込むようにして一気に畳に押し付ける。
「わわっ!?」
痩せっぽちの身体は簡単に黒鋼の身体の下敷きになった。その弾みで氷嚢もどきが床に投げ出される。パツン、という音はしたが、ビニールが破けた様子はなかった。
「く、黒たんってば乱暴! プロレスだったら流石に勝てないよオレ!」
「雪合戦だろうとなんだろうと、てめぇに負ける気はねぇんだよ」
ファイは唇を尖らせた。
「ズルイなーもぅー」
こうなってしまえばもう主導権は黒鋼のものだった。決してプロレスをするためにこの体勢を取っているわけではない。
ファイは当然それをよく知っているので、先刻までの余裕の表情はどこへやら、耳まで赤くなっている。
「ここで脱ぐのやだよ。寒いもん」
石油ストーブはガンガンに焚かれていて、室内はいっそ暑いくらいだ。畳の上に散った金糸を掬い上げて口付けをすると、僅かに身体を震わせながらも言い逃れをしたいらしいファイは、黒鋼の肩をぐいっと押すとなおも言った。
「あと、茶の間ではこーゆうこと、しちゃいけないんだよ。学校の先生に教わらなかった?」
「少なくとも俺は教わらなかったな」
「じゃあ、今度学校で教えてあげなよ。今は黒たんが先生なんだから」
赤くなっている首筋に手を這わせるようになぞって、熱を持つ頬を包んだ。ファイの左目を隠す眼帯に指先を潜り込ませると、邪魔だといわんばかりにそのまま外して、床に放った。
「質問されたらそん時にでも教えてやるさ」
「ひゃっ!」
ぴったりと閉じた目蓋を、縦から裂くようにして走る傷に唇を落とした。ファイは、ここでも感じる。妙な悲鳴を上げて、細い身体に緊張が走った。
こうして硬くなってしまう身体を、じっくりと時間をかけて解してやるのが黒鋼の楽しみなのだ。繋がる頃には、ぐにゃぐにゃのタコのようになっているのだから面白い。
「生意気な生徒にゃお仕置きってやつだ。せいぜい可愛く鳴いてみろ」
「うわ……オヤジくさぁい……」
きゅっと眉間に皺を寄せながら、ファイは負け惜しみのように言う。もう腹は立たなかった。
スポーツニュースはとっくに終わり、深夜のお笑い番組では芸人とアイドル達がわざとらしいくらいにはしゃいでいた。
*
茶の間で一度だけファイをいかせて、結局これからというところで場所を移ることになった。
背中が痛かったのと『強』のまま焚かれ続けた石油ストーブを放置したせいか、酷くのぼせてしまったらしい。
少々しつこく弄び過ぎたせいか、ファイの白い肌は真っ赤になって、本当に茹でたタコのようだった。
隣の部屋に引っ張り出した布団へ移動して、一度だけ繋がった。
事後、黒鋼に背を向けるようにして丸くなっていたファイが、コロンと向きを変えると肩口に頬を乗せてくる。
閉じた襖の隙間から、つけっぱなしの茶の間の明りが漏れていて、眩しかったのかファイは目をしばしばとさせた。
それから、掠れた声で「うふふ」と笑った。
「あんだよ」
「んー? 黒たんてさ、年上の人とばっかりお付き合いしてきたでしょ?」
「あ?」
唐突に何を言い出すのだ、この男は。
顔を顰めた黒鋼に、ファイはさらに問いかけてくる。
「どうなの?」
「なんでてめぇにそれが分かるんだ」
むっつりとした口調で答えれば、彼は実に楽しそうにクスクスと笑った。
「やっぱりそうなんだ」
「……このやろう」
ハメられた。ファイは昔からどういうわけか、よく人の内面をすっぱりと言い当てることがあった。それが黒鋼の中に下手に擦りこまれていたせいか、疑いもせず否定もせず、ただ墓穴を掘った形となった。
「だってさ、黒たんって母性本能をくすぐるタイプなんだよね」
僅かに身を乗り出してきたファイが、黒鋼の頬にちゅっと音を立ててキスをする。
「タンコブ作って帰ってくるいい歳した大男なんて、可愛くて仕方ないよ」
「ばかにしやがって……」
母性が云々とか可愛いがどうとか、この際それは放っておくにしても黒鋼が付き合ってきた女性が意図せず年上ばかりだったことや、理由はどうあれタンコブを作ってきたことは事実だった。
そしてきっと、こんな間抜けな事態に陥ったのはおまえのことを考えていたからだ、なんて言えば、彼はもっと得意気になるに違いなかった。それは面白くない。
だから結局、あの冬の日のことを聞くに聞けないのだった。
けれど黒鋼の中には、今それとは全く違う疑問が首を擡げている。自分ばかり探られるのは癪な気がした。
「てめぇは」
「ん?」
「てめぇはどうだったんだ」
この一年近くで、彼は男に抱かれることを覚えた。教えたのはもちろん、他でもない黒鋼だ。
だからこそ彼を抱く度に思う。この細腕に抱かれた女はどれくらいいるのだろうかと。その光景が、まるで想像できない。
誰と付き合おうとも、その相手に過去何人の恋人がいただとか、そんなことをいちいち気にしたことは一切なかった。
今にして思えば、その間もずっと心の底ではファイへの思いや未練を残していた自分は、果たしてまともに恋愛をしてきたのかさえ疑問ではあるのだが。
こんな流れでもなければ、黒鋼から率先して問うことは出来まい。ちょっとくらいの詮索は、許される範囲だろうと思う。恋人、なのだし。
「オレ?」
「てめぇだ」
「気になるの?」
「そんなのあたりま」
つい素直に言いかけた黒鋼の目に、ファイのニンマリ顔が飛び込んできてハッとする。
黒鋼は思いっきり頬に血液が集まってくるのを感じながら、身を起こして舌打ちをした。そしてガリガリと頭を掻く。すると後頭部のタンコブに激痛が走った。
「いってぇ!!」
「ぷっ……あはははははははは!!」
一連の動作をニヤニヤしながら見守っていたファイは、ついに堪え切れずに爆笑した。
「あー、くそ! このやろう!!」
「うわっ!」
腹立ち紛れに覆いかぶさると抱き込んで、乱暴に唇を塞いでやった。こうなってしまっては力技に持ち込むしか黒鋼には対抗の手段がない。
大人になったファイはお喋りが好きなのは相変わらずのようだが、随分と口が達者になったものである。気がつけば不利な状況に陥っているのは黒鋼の方だった。
それでもファイはカタカタと肩を震わせながら笑っていて、だが唇を塞いでいるせいで呼吸がままならず苦しくなってきたようだ。
黒鋼の背をバンバンと叩きながら身をくねらせるから、こちらもさらにムキになる。
そのうち組み敷いている身体から力が抜けて、解放してやるとその赤くなった唇からなんとも色っぽい吐息が忙しなく漏れた。一回戦を終えたはずの身体に再び火がつく。
熱くなっている中心の、奥まった場所を指先で探れば、そこはまだ十分に濡れていた。注意しているつもりでも、何回かに一度は中で出してしまうのだ。
「アッ……! も、今夜は、駄目だよ……!」
嫌々と首を振りながらも、ファイの瞳は今にも蕩けそうなまでに潤んでいた。身体の反応とは真逆のことを言われると、バカみたいに興奮してしまうのはなぜだろう。
柔らかく解された秘穴に、すっかり復活した己の先端を宛がうと、ファイの口からか細く震える悲鳴が上がった。
一度存分に穿った後なので、容赦は必要ない。一気に潜り込んでから、ようやく互いに息をついた。
「ばかぁ……」
「ふん。それにしちゃ締めつけが半端ねぇな」
「えろおやじ!」
顔をクシャリとさせて肩を拳で叩いてくる仕草を見て、今も昔もやっぱり可愛いのはてめぇの方だろ、とは決して本人には言わなかった。
*
結局、聞きたいことは何一つ聞けないまま夜が明けた。
目が覚めたファイは機嫌が悪く、起きぬけ一番に黒鋼に向かって「べー」と舌を出した。
「意地っ張りー! 気になるなら聞いてくれれば、なんだって教えてあげるんだから!」
そう言いながら、黒鋼の両頬をむにゅんと掴んで引っ張る。
だったら茶化すみたいにして俺で遊ぶな、と言いたくとも、おかしな形に顔が歪んでいるせいでまとも言葉に出来そうもない。
「だって黒たんはオレの」
――黒たんはオレのー……オレのー……
「オレの大事な、大好きな恋人なんだから」
ファイは勢いよく、黒鋼の鼻先にキスをした。
←戻る ・ Wavebox👏
寒かろうが暑かろうが、子供達は元気だ。
地面がぬかるんでいようが雪に埋め尽くされていようが、彼らの足取りは迷いなく、恐れを知らない。
一面が白銀の絨毯だった狭い校庭も、今はボコボコと幾つもの足跡によって荒らされ見る影もない。
わけの分からない奇声を上げて雪合戦に興じている子供達を尻目に、黒鋼は晴れた青空を見た。昨日までのどんよりとした空が嘘のようだ。今は雲ひとつない。
大粒の雪は降るだけ降ったらひとまずは満足したのか、今はなりを潜めている。
息を吸い込むと、澄んだ空気が肺を満たす。けれど同時に刺すような痛みも鼻の奥をツンと掠める。
空気が冷たすぎるのだ。あまりにも寒い。冬なのだから当たり前だ。
それでも、昔はもっと余裕があったような気がする。寒さも暑さもへっちゃらだった。
少し水を含んだ重い雪が、穿き潰したスニーカーから浸透して靴下を濡らし、皮膚にジンジンとした鈍痛をもたらすのも平気だったのに。
「俺も歳か……」
自分の耳にすら届くかどうかのほんの小さな囁きだったけれど、口に出してしまうと本当に老け込んでしまったような気がして後悔した。
重々しく吐き出した息が、うんざりするほど真っ白だ。
「せんせー! 早く頭のっけてー!」
ピンク色に白のボンボンをつけた毛糸の帽子を被った少女が、鼻や頬を真っ赤にして黒鋼を急かした。
真っ赤なミトンの手で、自分の身体の倍はありそうな雪の塊をパシパシと叩いている。
他にも2、3人の少年少女が同じように黒鋼を急かす。みな思い思いの防寒具に身を包んで、身体が一回り膨らんで見える。
黒鋼はというと、いつもの黒ジャージにオリーブグリーンのモッズコートを羽織り、手には校庭の倉庫から適当に発掘した薄汚れた軍手をしている。それさえもすっかり水を含んでただ不快なだけだった。
幾人かの子供達がモコモコの耳あてをしているのを見て、黒鋼はほんの少しだけそれを羨ましいと思った。
そういえば彼らくらいの頃、ファイも寒さの厳しい日にはよく耳あてをしていた。
女みたいだと言ってからかってやったら、彼は小さな唇を尖らせて「だってお耳がイタイんだもん」と呟いていた。
あのとき、本当は真っ白の耳あてをしたファイが可愛らしくて仕方がなかったのだ。
それを口に出すのが照れ臭くて、わざと馬鹿にしたみたいな言い方をしてしまったのだけれど。
「せんせーってば! なにボヤっとしてんのー」
「ああ、分かったよ。ったく、ちっとは浸らせろ……」
「何に?」
「なんでもねぇよ!」
そう言うと、黒鋼は巨大な雪の塊を両腕で抱え込むようにして持ち上げた。子供達が歓声を上げる。
持ち上げたそれを、もう一つの雪球にドンと乗せた。すると、大きな雪だるまが完成した。
「できたー!!」
「まだだよぉ! 目とか口とか、あとバケツの帽子も乗せるんだからぁ!」
はしゃぐ子供達を見て、黒鋼はやれやれと息を吐き出した。要するに、力仕事要員として黒鋼は召喚されていたのだ。
彼らは枝や葉っぱを集めると雪だるまに装飾し始める。
のっぺりとした顔がつけられて、緑色のバケツを帽子として乗せられたり、身体の脇にそれぞれ枝を突き刺されたりしている。
おまえも大変だな、と苦笑しながら黒鋼はそれを眺めた。
子供の頃にも同じことをした。ファイと二人で作った雪だるまはこれよりもずっと小さくて、そして翌朝にはほとんどが溶けてしまった。
それを見たファイはとても悲しそうだったけれど、また雪が積もったら作ろうと約束をしてやるとバカみたいにはしゃいで喜んでいた。
こうして子供達の遊びに付き合っていると、色々なことを思い出す。
そしてふと、また新たな記憶が蘇った。
『黒たんはオレのー…オレのー…』
あれは中学の頃の、雪の積もった帰り道でのこと。
――あいつはあのとき、なんだってあんなに機嫌が悪かったんだ?
そして言いかけた言葉の続きは何だったのだろう。今まですっかり忘れていた。
大きな雪だるまに真っ赤なマフラーが巻かれる様をじっと見つめながら、黒鋼はぼんやりと考える。
けれどそのとき、「あ!!」という高い声が背後から聞こえた。
ガツンッという衝撃を後頭部に食らって、黒鋼は目を回した。
*
「しょうがないねぇ、黒たんは」
楽しそうな声が、歌うように紡がれた。
黒鋼はむっとしたけれど、炬燵に向かってミカンの皮を剥くのに集中していた。
白い繊維はそのままに、二つに割ってパクンと一気に口に放り込む。なんだかやけに酸っぱかった。眉間に皺がぎゅっと寄る。
甘いものは苦手だが、果物ならある程度は話が別だ。特に真冬の炬燵にミカンというのは立派な日本の文化だとさえ思っている。
甘いか酸っぱいかは駄菓子屋のくじ引きと同じ感覚かもしれない。葉っぱがついていれば甘いという話は聞くけれど、黒鋼は滅多に当たりクジを引いたためしがない。
最近は週末によくこの屋敷に来ては、こうして寛ぐのが当たり前になっている。
テレビ画面では夜のニュース番組がスポーツの特集を組んでいるが、特に熱心に見ているというわけではない。
ファイは炬燵に入るでもミカンを食べるでもなく、黒鋼の背後に膝立ちしていた。ビニール袋を二重にしたものに水と氷を入れた氷嚢もどきを作り、黒鋼の後頭部にそっと押し当てている。
「もうろくしたんじゃないのー? 昔なら絶対にありえないのに。オレ、雪合戦で君に当てられたこと一度もないよ? ヒョイヒョイ避けられちゃってさー」
「今だって当たらねぇよ」
「それはどうかなぁ?」
クスクスと笑う声が聞こえる度に、後頭部から振動が伝わる。ポッコリと出来上がったタンコブが痛んで、黒鋼はチッと舌打ちをした。
二つに割ったうちのもう片方を口にして、その酸っぱさに顔を顰める。
「でも、本当にらしくないね。考え事でもしてた?」
ひょい、と背後から顔を覗きこまれて目を逸らす。ファイの髪がふわりと首や耳にあたると、少し遅れて石鹸の香りがした。
ファイは今年の夏のはじめ、暑苦しいという理由から長かった髪を切った。ある程度の長さは残しつつも、すっきりとした髪形は彼を子供の頃に返したかのように幼くさせて、なぜだか妙に心許ない気持ちにさせられたものだ。
けれどそれも夏が終わって秋が過ぎ、冬の真っ只中である今、また少し伸びた。縛るほどではない中途半端な長さだが、黒鋼は彼がときどき無意識に髪を耳にかける仕草を密かに気に入っていた。本人に言えば調子に乗るので、決して言わないけれど。
ファイは何も答えない黒鋼に、さらに楽しそうにニッコリと笑った。憎らしい。だいたいこんなタンコブを作ることになったのはこの男が原因だ。
雪合戦の玉(しかもガチガチに固められたもの)が思い切り頭を直撃して引っくり返った黒鋼は、生徒達に指差しで爆笑されてしまった。屈辱以外の何物でもない。
「最近、てめぇは可愛くねぇ」
勝手に記憶の蓋を開けて中身を漁ることに夢中になってしまったことは棚に上げて、黒鋼は子供染みた苛立ちを、子供染みた言葉に乗せた。
ファイは右目だけをパチクリとさせて、それを僅かに眇める。微笑む、というよりはニンマリする、という表現がしっくり来る笑い方だった。
「ふーん? まぁそりゃあ、黒様の可愛さに比べたらオレなんかまだまだだよねー」
「……おい、誰が可愛いだと?」
「黒様ってほんと可愛い。食べちゃいたいなぁ」
「てめぇ……」
氷嚢もどきを支える手はそのままに、もう片方の手がにゅっと伸びてきて黒鋼の頬をむにゅんと摘んだ。
「ほらかわいいー」
「このやろお……」
黒鋼は握った拳を小刻みに震わせた。こうして反応すればますますファイが喜ぶことは知っているのだが、なんだかムシャクシャして腹の虫が治まらない。
頬を抓っているファイの手を取ると、思いっきり引っ張って細い腰に腕を回した。そして、抱き込むようにして一気に畳に押し付ける。
「わわっ!?」
痩せっぽちの身体は簡単に黒鋼の身体の下敷きになった。その弾みで氷嚢もどきが床に投げ出される。パツン、という音はしたが、ビニールが破けた様子はなかった。
「く、黒たんってば乱暴! プロレスだったら流石に勝てないよオレ!」
「雪合戦だろうとなんだろうと、てめぇに負ける気はねぇんだよ」
ファイは唇を尖らせた。
「ズルイなーもぅー」
こうなってしまえばもう主導権は黒鋼のものだった。決してプロレスをするためにこの体勢を取っているわけではない。
ファイは当然それをよく知っているので、先刻までの余裕の表情はどこへやら、耳まで赤くなっている。
「ここで脱ぐのやだよ。寒いもん」
石油ストーブはガンガンに焚かれていて、室内はいっそ暑いくらいだ。畳の上に散った金糸を掬い上げて口付けをすると、僅かに身体を震わせながらも言い逃れをしたいらしいファイは、黒鋼の肩をぐいっと押すとなおも言った。
「あと、茶の間ではこーゆうこと、しちゃいけないんだよ。学校の先生に教わらなかった?」
「少なくとも俺は教わらなかったな」
「じゃあ、今度学校で教えてあげなよ。今は黒たんが先生なんだから」
赤くなっている首筋に手を這わせるようになぞって、熱を持つ頬を包んだ。ファイの左目を隠す眼帯に指先を潜り込ませると、邪魔だといわんばかりにそのまま外して、床に放った。
「質問されたらそん時にでも教えてやるさ」
「ひゃっ!」
ぴったりと閉じた目蓋を、縦から裂くようにして走る傷に唇を落とした。ファイは、ここでも感じる。妙な悲鳴を上げて、細い身体に緊張が走った。
こうして硬くなってしまう身体を、じっくりと時間をかけて解してやるのが黒鋼の楽しみなのだ。繋がる頃には、ぐにゃぐにゃのタコのようになっているのだから面白い。
「生意気な生徒にゃお仕置きってやつだ。せいぜい可愛く鳴いてみろ」
「うわ……オヤジくさぁい……」
きゅっと眉間に皺を寄せながら、ファイは負け惜しみのように言う。もう腹は立たなかった。
スポーツニュースはとっくに終わり、深夜のお笑い番組では芸人とアイドル達がわざとらしいくらいにはしゃいでいた。
*
茶の間で一度だけファイをいかせて、結局これからというところで場所を移ることになった。
背中が痛かったのと『強』のまま焚かれ続けた石油ストーブを放置したせいか、酷くのぼせてしまったらしい。
少々しつこく弄び過ぎたせいか、ファイの白い肌は真っ赤になって、本当に茹でたタコのようだった。
隣の部屋に引っ張り出した布団へ移動して、一度だけ繋がった。
事後、黒鋼に背を向けるようにして丸くなっていたファイが、コロンと向きを変えると肩口に頬を乗せてくる。
閉じた襖の隙間から、つけっぱなしの茶の間の明りが漏れていて、眩しかったのかファイは目をしばしばとさせた。
それから、掠れた声で「うふふ」と笑った。
「あんだよ」
「んー? 黒たんてさ、年上の人とばっかりお付き合いしてきたでしょ?」
「あ?」
唐突に何を言い出すのだ、この男は。
顔を顰めた黒鋼に、ファイはさらに問いかけてくる。
「どうなの?」
「なんでてめぇにそれが分かるんだ」
むっつりとした口調で答えれば、彼は実に楽しそうにクスクスと笑った。
「やっぱりそうなんだ」
「……このやろう」
ハメられた。ファイは昔からどういうわけか、よく人の内面をすっぱりと言い当てることがあった。それが黒鋼の中に下手に擦りこまれていたせいか、疑いもせず否定もせず、ただ墓穴を掘った形となった。
「だってさ、黒たんって母性本能をくすぐるタイプなんだよね」
僅かに身を乗り出してきたファイが、黒鋼の頬にちゅっと音を立ててキスをする。
「タンコブ作って帰ってくるいい歳した大男なんて、可愛くて仕方ないよ」
「ばかにしやがって……」
母性が云々とか可愛いがどうとか、この際それは放っておくにしても黒鋼が付き合ってきた女性が意図せず年上ばかりだったことや、理由はどうあれタンコブを作ってきたことは事実だった。
そしてきっと、こんな間抜けな事態に陥ったのはおまえのことを考えていたからだ、なんて言えば、彼はもっと得意気になるに違いなかった。それは面白くない。
だから結局、あの冬の日のことを聞くに聞けないのだった。
けれど黒鋼の中には、今それとは全く違う疑問が首を擡げている。自分ばかり探られるのは癪な気がした。
「てめぇは」
「ん?」
「てめぇはどうだったんだ」
この一年近くで、彼は男に抱かれることを覚えた。教えたのはもちろん、他でもない黒鋼だ。
だからこそ彼を抱く度に思う。この細腕に抱かれた女はどれくらいいるのだろうかと。その光景が、まるで想像できない。
誰と付き合おうとも、その相手に過去何人の恋人がいただとか、そんなことをいちいち気にしたことは一切なかった。
今にして思えば、その間もずっと心の底ではファイへの思いや未練を残していた自分は、果たしてまともに恋愛をしてきたのかさえ疑問ではあるのだが。
こんな流れでもなければ、黒鋼から率先して問うことは出来まい。ちょっとくらいの詮索は、許される範囲だろうと思う。恋人、なのだし。
「オレ?」
「てめぇだ」
「気になるの?」
「そんなのあたりま」
つい素直に言いかけた黒鋼の目に、ファイのニンマリ顔が飛び込んできてハッとする。
黒鋼は思いっきり頬に血液が集まってくるのを感じながら、身を起こして舌打ちをした。そしてガリガリと頭を掻く。すると後頭部のタンコブに激痛が走った。
「いってぇ!!」
「ぷっ……あはははははははは!!」
一連の動作をニヤニヤしながら見守っていたファイは、ついに堪え切れずに爆笑した。
「あー、くそ! このやろう!!」
「うわっ!」
腹立ち紛れに覆いかぶさると抱き込んで、乱暴に唇を塞いでやった。こうなってしまっては力技に持ち込むしか黒鋼には対抗の手段がない。
大人になったファイはお喋りが好きなのは相変わらずのようだが、随分と口が達者になったものである。気がつけば不利な状況に陥っているのは黒鋼の方だった。
それでもファイはカタカタと肩を震わせながら笑っていて、だが唇を塞いでいるせいで呼吸がままならず苦しくなってきたようだ。
黒鋼の背をバンバンと叩きながら身をくねらせるから、こちらもさらにムキになる。
そのうち組み敷いている身体から力が抜けて、解放してやるとその赤くなった唇からなんとも色っぽい吐息が忙しなく漏れた。一回戦を終えたはずの身体に再び火がつく。
熱くなっている中心の、奥まった場所を指先で探れば、そこはまだ十分に濡れていた。注意しているつもりでも、何回かに一度は中で出してしまうのだ。
「アッ……! も、今夜は、駄目だよ……!」
嫌々と首を振りながらも、ファイの瞳は今にも蕩けそうなまでに潤んでいた。身体の反応とは真逆のことを言われると、バカみたいに興奮してしまうのはなぜだろう。
柔らかく解された秘穴に、すっかり復活した己の先端を宛がうと、ファイの口からか細く震える悲鳴が上がった。
一度存分に穿った後なので、容赦は必要ない。一気に潜り込んでから、ようやく互いに息をついた。
「ばかぁ……」
「ふん。それにしちゃ締めつけが半端ねぇな」
「えろおやじ!」
顔をクシャリとさせて肩を拳で叩いてくる仕草を見て、今も昔もやっぱり可愛いのはてめぇの方だろ、とは決して本人には言わなかった。
*
結局、聞きたいことは何一つ聞けないまま夜が明けた。
目が覚めたファイは機嫌が悪く、起きぬけ一番に黒鋼に向かって「べー」と舌を出した。
「意地っ張りー! 気になるなら聞いてくれれば、なんだって教えてあげるんだから!」
そう言いながら、黒鋼の両頬をむにゅんと掴んで引っ張る。
だったら茶化すみたいにして俺で遊ぶな、と言いたくとも、おかしな形に顔が歪んでいるせいでまとも言葉に出来そうもない。
「だって黒たんはオレの」
――黒たんはオレのー……オレのー……
「オレの大事な、大好きな恋人なんだから」
ファイは勢いよく、黒鋼の鼻先にキスをした。
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火曜日。
ファイは風邪を引いたと言って、その日のバイトを休んだ。
あながち嘘というわけではない。あの夜の出来事が関係しているかは分からないが、体調は最悪だった。
熱は怖くて測っていないが、身体全体がだるくて食欲が湧かない。それに加えて頭痛が酷かった。
ユゥイが心配して消化にいいものを作ってくれても、せいぜい薬を飲むためにほんの数口だけ口に運んで、あとは残してしまった。
すっかり気温が下がってからも、思いのほか自転車での移動が気に入ってしまったファイは、電車を利用していなかった。
考えられるとすれば、それが原因かもしれない。
***
明けて水曜日、ファイは大学にすら行く気になれず、リビングに毛布を持参してそれにくるまると、ソファにごろ寝しながら昼間のバラエティ番組をぼんやりと見つめていた。
テレビの中でお笑い芸人が身振り手振りで面白おかしい話をし、共演者やスタジオ全体が笑いに包まれても、ファイはただその映像を瞳に映しているだけで、何の感情も湧くことはなかった。
一人でいると、口から吐き出されるのは熱を帯びた溜息ばかり。
幾度目になるか分からないそれを、ファイは翳した右の手の平に向けて放った。
あの夜から、ずっとここは熱を持ったままだった。誰かを衝動的に殴るなんて、生まれて初めての経験だった。
「黒たん……許してくれないだろうな……」
ポツリと呟くと、もういい加減枯れてもいいくらいに泣きはらしたはずの瞳に涙が滲む。
黒鋼の赤くなった頬と、あの鋭い眼光を同時に思い出し、ファイは毛布でごしごしと両目を拭った。
(なんであんなことしちゃったんだろう……黒たんは悪くないよ……。だって黒たんが言ったことは、本当のことだもん……)
言われても仕方のないことだった。自分でもそう思っている。
いくら気を紛らわすだめだったとはいえ、どんなに妄想で補おうとしたって無理がありすぎる状況だった。
「でもオレ……男の人を好きになんか、なったことないよ……」
それでも黒鋼には誤解されていた。
ファイがヘラヘラとお喋りに夢中になっていたときも、勉強を教えているときも、彼は本当はいつもそういう目でこちらを見ていたのかもしれない。
『そっちの気がなけりゃ、男の痴漢相手にあんなことにはならねぇだろ』
冷たい表情と、突き放した棘のある言葉。
思い出すだけで怖くて、恥ずかしくて、自分がしでかしたことに身体が震えた。
多分、もう駄目だろうと思った。
勝手にはしゃいで仲良くなれたと勘違いして、気を遣ってくれているだけの相手に図々しく接して。
あげく、頭に来たからといって手まで上げてしまった。
「やっぱりオレって最低だなぁ……」
ただちょっとだけ、黒鋼の父のことは素敵だと思った。
けれどそれは、きっと黒鋼もこんな風に大人になるのだと思ったからで。家族と黒鋼が、どんな風に会話をしたり、どんな風に一緒の時間を過ごすのかが、気になったからで。
ファイはだるい身体を起こすと、ソファの脇に放り投げられていた携帯電話を拾い上げた。
点滅する小さなランプが、新着メールの有無を知らせている。
ぼんやりとそれを開いて見ると、幾つかは同じ大学の友人からの見舞いのメールと、ユゥイからは食事をちゃんとするようにという内容のものだった。
そして最後の一つ、差出人の名前を見て、ファイはドキリと心臓を高鳴らせた。
「黒たんから……?」
彼とは以前、ファイが寝坊して遅刻したときに個人的な連絡先を交換していた。
何かあったときは家にではなく、直接知らせろと言われたからだ。
ファイからは幾度かどうでもいい内容のメールを送ったことはあったが、黒鋼からの返信があった試しはない。
今回の身体の不調による休みの連絡は自宅の方に入れた。こちらからはとてもではないが、黒鋼に直で連絡を入れるなんて真似は出来なかった。
それが、どうして今……。
「め、メールで……クビ宣告……?」
予想できる内容はそれしか思い浮かばない。
こんな俄か家庭教師ごときが、そのバイト先であるお金持ちの家のお坊ちゃんに手を上げて、無事で済むはずがなかった。
口の中がカラカラに乾く。指先も震えて、携帯電話を落としそうになるのを両手でしっかりと持った。
すぐにメールを開く勇気が持てなくて、幾度か深呼吸をする。
ごくりと喉を鳴らすと「えいっ」という掛け声と共にぎゅっと目を閉じ、ボタンを押した。
そっと目を開く。そして、内容に目を通した。
差出人:黒わんこ
件名:non title
本文:
話がある。
来れそうだったら次は来い。
「はなし……」
ずしりと、さらに胸に重いものが圧し掛かったような感覚を覚える。
あんなことさえなければ、黒鋼から初めてメールをもらえたことを飛び跳ねて喜んでいたのかもしれない。
ファイは、これまでで一番大きくて深い溜息を零しながらテーブルに突っ伏した。
***
「おはようファイ。調子はどう?」
自室からリビングへ出ると、ユゥイがテーブルに広げていた新聞から顔を上げて、優しく微笑んだ。
「うん……もう平気ー」
「すぐ紅茶を淹れるね。ご飯は食べられそう?」
「……ごめん。ご飯はまだいいや……」
寝癖もそのままに力なく椅子に腰掛けると、ユゥイがキッチンへ向かうがてらファイの額に触れる。
ひんやりとした柔らかな感触が心地いい。
「熱はないんだけど……まだ顔色が悪いね……」
果物でもいいから食べてと、そう言いながらユゥイが側から離れると、ファイは手にしていた携帯を開き、再び黒鋼からのメールを見つめた。
今日は金曜日。来いと言われた以上、流石にサボるわけにもいかない。学校だっていつまでも休んではいられない。
「あ、そうだ。あのね、さっき新聞で見たんだけど」
こちらに背を向けたまま果物の皮を剥いているらしいユゥイが、手元からは目を離さずに話題を切り出した。
ファイは携帯をパチンと閉じて、キッチンの方に目を向ける。
「男の子ばかり狙って痴漢をしてた犯人がね、この近くの駅で捕まったんだって。もしかしたら、ファイに痴漢した人と一緒かもしれないね」
「……へぇ。そうなんだー」
男を相手に痴漢を働く人間が、そうそういては困りものだ。
それは女性が相手であっても同じだが、確率的にいえばあの時の男が捕まったと考えるのは、自然なことかもしれない。
「もう寒いし、そろそろ電車を使った方がいいんじゃないかな? ねぇ、ファイ」
「うん……そうだね……」
どうせあの路線に乗るのは今日で最後になる。
気分も身体も重たいが、逃げてばかりもいられない。いい加減、腹を括ろう。
ファイはぎゅっと拳を握って思い切り深呼吸すると、ユゥイが剥いてきたリンゴと紅茶を残さず腹に収めた。
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