2025年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
「ファイ先生……あのー、ファイ先生ー?」
「…………うーん」
「もう10分過ぎてるんですけどー……」
「…………はぁー」
黒板前の椅子に座って、教卓に頬杖をついたまま上の空でいる化学教師に、生徒達が戸惑っている。
次第にざわつきが増す中、ファイはフラリと立ち上がると一言「ダメだ……」と呟いた。
「せ、先生?」
「答案、適当に集めたら後で誰か職員室に持ってきて……」
「はぁ……」
「今日はあと自習……」
生徒達がぽかんと口を開けているのも構わず、ファイはよろよろとした足取りで教室を後にした。
今日はずっとこんな調子だ。何も手につかず、考えられない。
計画が狂うと分かってはいても、適当な問題集をコピーして生徒に与えるだけで、授業なんてまともに出来る状態でもなかった。
(……ちょっと一人になりたい)
ふらつきながら、化学準備室へ向かって静まりかえった廊下の隅を歩く。
精神的なダメージがファイの感情を絶えず揺さぶっていた。
何がどうして『あんなこと』になったのか、ほんの数時間前の、朝の出来事が嫌でも脳内に再生されて、頭痛がした。
*
それは今朝のことだった。
強引に居候を決め込んだ黒鋼は、宣言通り本当にベッドを独占した。
そのせいでファイはソファに丸まって眠ることになったのだが、なかなか寝付けず、ようやく眠ったのは朝方近くになってからだった。
結果、ファイは目覚ましのアラームに気がつかなかった。
「おい、起きろ」
夢の中で、聞き慣れない低音が呼びかけるのを聞いた。
それでも浮上しかけた意識はすぐに眠りへと磁石のように吸い寄せられる。
「もうちょっとー……」
「教師が寝坊して遅刻ってのはまずいだろ」
「んー……」
「起きねぇとキスんぞ」
「んー、いいよー……なんでもいいからー」
(分かったから、あと少しだけ……)
その時のファイは黒鋼が何を言っているのかなんて、まるで聞き取れてはいなかった。むしろ相手さえ認識できていなかったと言っていい。
今この瞬間を少しでも長引かせることが出来るなら、もう何もかもがどうでもよくて、そればかりに心も身体も支配されていた。
チッ、というガラの悪そうな舌打ちが聞こえたような気がした。
それでも目を開けることができず、眠りに落ちていくファイの前髪に、何かが絡みついた。
それによってぐっと髪を引っ張られ、首の角度を無理に変えられて、無意識に「痛い」と叫びそうになった時、何かが唇に押し付けられた。
(……? ……あー、そっか、これ夢かー)
夢にしては感じる首の捻じれがリアルだし、さっきの髪を掴まれたような感触も残っていたが、考える脳が停止しているファイは全てを『夢』として片付けてしまった。
覆いかぶさるように重ねられた唇の熱さや、その弾力が心地よくて、鼻から抜けるような吐息で微かに笑った。
こんな風に誰かと触れあうのは、久しぶりだ。
(なんか、気持ちいいな……)
突き動かされるような衝動と共に、忙しさにかまけてすっかり忘れ去っていた欲求不満を自覚した。
無意識に両腕を伸ばし、相手の首にそれを絡めるとさらに強く引き寄せてみる。
女にしてはやけに首が太くて、肩幅があるなと思ったのは一瞬だった。僅かに身じろいだ相手の舌が口腔に差し込まれるのと、ファイが相手の唇目がけて舌を捻じ込もうとしたのは同時だった。
「ん、ぅ……ッ」
舌先が強く擦れ合い、そのままぬるぬると競うように絡め合う。重たい瞼と混濁する意識に反して、感覚だけは水音が増す度に研ぎ澄まされた。
指先や足の先まで、じん、という痺れに襲われる。思わずビクンと肩を震わせた瞬間、対等だった主導権が相手に移った。
「ふっ、ん……ッ!」
慣れない受け身の口付けに戸惑う隙もなく、肉厚なそれが歯列を滑り、ファイの口腔を暴れまわった。同時に後ろ首に手を這わされ、髪の中に差し込まれた指が梳かすような動きで頭皮に爪を立ててくる。
絶妙にリンクする二つの刺激に、目を閉じていながら世界が回るような眩暈を覚えた。
(ぅ、わ……! これ、気持ちよすぎる……!)
息をつく間もなく、きゅう、と甘く舌を吸われるのが堪らない。
もっともっとと、同じように相手の頭部に指を這わせ、爪を立てて掻き乱した。ふと、随分と短くて硬い髪だなと、熱に浮かされながらも引っかかりを覚える。
なにか、おかしい気がした。
腕の中に納まりきらない大きな身体。こちらに主導権を明け渡さない、荒々しい獣のようなキス。まるでこっちが女にでもなったような。
(女……?)
そう、この部屋に女なんかいないし、連れ込んだこともない。
ならこれは誰だろう。そもそもこれは本当に夢なのだろうか?確か今、自分以外でここにいるのは、ただ一人のはず……。
「ッ!?」
その時、ファイの意識は完全に覚醒した。
目を見開いたと同時に相手を思いっきり突き飛ばし、慌てて身を起こす。
「な、なん、何して……!?」
「なにって言われてもな」
強く突き飛ばしたつもりだったが、黒鋼はほとんどダメージを受けていなかった。床に胡坐をかいて、濡れた口元を手の甲で拭いながらケロリとした顔をしている。
カッと、頭に血が上った。
「い、一体なにをしてるのかって聞いてるの!!」
「キスだな」
「な、な、な、なんで!?」
「なんか不味かったか?」
「不味いでしょそりゃあ!!」
「了承は得たぞ」
「そんなの知らないし! 許した覚えなし!」
だいたいね、とファイは興奮状態のまま黒鋼を指差した。
「寝起きにあんな濃厚なの普通する!? 信じらんない!!」
「てめぇがノリノリだったんだろ。据え膳食らって何が悪い?」
「すすす、すえぜ……!?」
頭の中が真っ白どころか、上りきっていた血で爆発でもしたかのように真っ赤に点滅していた。
黒鋼が何を言っているのか分からないし、分かりたくないし、分かってはいけない気がする。そもそも、今は混乱が先だって何一つ自分の中で処理できない。
「朝飯食ってる時間はねぇな」
半ば恐慌状態に陥っているファイから視線を時計へと移し、黒鋼は立ち上がって脱衣所の方へ向かった。
口を閉じられないまま彼の動きを凝視していると、一度は消えた姿がひょいっと再び現れる。
「ぼけっとしてねぇで、シャキっとしろよ」
顔を出した黒鋼は偉そうに言うと、思い出したようにニヤリと口元で笑った。片方の口角だけを上げて見せる、あのどこか意地の悪そうな笑みだ。
「おまえ、なかなかそそる反応するんだな」
「は……!?」
「ご馳走さん」
そこからどうやって学校まで駆け込んだのか、ファイはまるで覚えていない。
*
まだ授業中ということもあり、学校全体はひっそりと静まりかえっている。
南校舎三階、東側にある化学準備室の鍵を開けて、ファイは引き戸を開けると中に入った。後ろ手で扉を閉めた途端、それを背にしてズルズルと床にしゃがみ込むと、重い溜息をつきながら前髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
薬品の香りがする狭い室内は、入って左手には薬品や実験器具がみっしりと並べられた鉄の大棚、右手側には書籍や書類の詰まったファイルが隙間なく立てられた突っ張り棚が設置され、正面には窓と机、椅子が置かれている。
とにかく一人になって落ち着こうと、自分の縄張りと言ってもいいこの場所を選んだものの、逆にこの静けさと孤立感はじっくりと物を考えるには最適すぎた。
(一体どこで育ち方間違って来たんだろう、あの子……)
彼は冗談の一つもまともに言えないような、硬い性格をした子供だった。単純で、純粋で、態度は突っ張っていても人を疑うことを知らなくて。
そんな黒鋼だったからこそ、手の平で転がすように弄ぶのが楽しくて仕方がなかった。睨まれたり、怒鳴られたりすると不思議とワクワクして、もっとそんな反応が見たくて飽きることなくからかったものだ。
それが今ではどうだ。やけに落ち着いて、余裕しか感じられなくて、あれではまるで大人の男ではないか。
「……大人、だけどさ……もう……」
この際、認めよう。黒鋼はもう立派な成人男性で、小さくて可愛くてピュアだった幼い彼は、ファイの記憶の中にしか存在しない。
離れていた年月を思えば、そりゃあ誰だって様々な経験をするだろうが。
だけど、それにしたって。
(どこであんなキス……覚えてきたんだろうね、全く)
思い出すだけで頬に熱が集まって来るのを感じる。あれは正直、本当にまずかった。
朝、ということもあったのかもしれないが、それによってうっかり生理現象を催すくらいには、気持ちがよかった。
相手を知ったあまりの衝撃で萎えたのが唯一の救いだったかもしれないが、まざまざと思い出してしまっている今、気を抜くと危険だ。
寝ぼけていたとはいえ、感じ入ってしまった自分に対するショックが最も大きいかもしれない。
ファイは頭を抱えると「うわあぁ」と悲鳴を上げる。
だいたい、冗談にしては行きすぎではないか。据え膳とかなんとか、訳の分からないことを言っていたような気がするが、ふざけるにしたって悪質すぎる。
しかしふと、そこでファイは気がついた。
(悪質な……悪ふざけ……)
思い出してもみれば、程度は違えど自分は彼に全く同じようなイタズラをしていたのだった。純粋で穢れ知らずの、初恋さえ済んでいるか怪しい初な少年を相手に。
おそらく彼にとってあれは初めてのキスだった。
多感で複雑な年頃の少年を相手に仕掛けるには、あまりにも非常識で変態的な行為ではなかったか。
今や教師としての意識がいっぱしに確立しているファイは、今更になって自分がやらかした行いの犯罪性に気がついた。
「まさか、あの時の仕返し、とかじゃないだろうね……?」
いつだったか、彼は「いつか泣かす」なんてことを言っていたような気がしないでもない。
「……流石に考えすぎか」
とにかく、今朝のことはなかったことにして忘れよう。
いつまでもボケっとしているわけにもいかない。午後は実習生が見学に訪れる予定になっているし、残りの授業はしっかりと気合いを入れることにした。
*
放課後。
受け持ちの文化部に顔を出して、午前中は小テストで誤魔化してしまった分の答案の採点を行うべく職員室へ向かったファイは、途中で実習生控室の前を通りがかった。
もしかしたら黒鋼も中にいるのではないかと少し緊張しつつ、扉の小窓から中を覗き込んで見る。
が、そこには数名の実習生が帰り支度や教材研究に没頭する姿以外、見知った顔はなかった。
その姿が見えないことにホッと胸を撫で下ろす。
気を取り直してその場から一歩踏み出そうとしたところで、大きな壁のようなものに弾かれ「わ」と声を上げた。
「なんだ、ぼうっとすんな」
壁は、どうやら黒鋼だったらしい。
その胸板に弾かれてよろめいた腕を取られて、ファイはギクリと身を硬くする。
「あ、えーっと、お疲れ様ー」
緊張を悟られるのは癪で、何事もなかったかのように笑顔で声をかけた。さりげなく取られていた手首を遠ざけることは忘れない。
「今日はもう終わり?」
「ぼちぼちな」
まだジャージ姿でいるところを見ると、部活動の方にも顔を出したのかもしれない。
実習生が帰宅するためには指導報告書を提出し、担当教官にサインを貰わなければならず、それが終わらないことには一日を締めくくることはできない。
教材研究を怠ることも出来ないし、きっと担当教官からのダメだしも相当食らうことになるはずだ。
(がんばってるんだなぁー)
そう思うと、今朝のことなどされ忘れて胸がじんとする。
あの小さかった黒鋼が、こうして自分の将来に向けて頑張っている姿を近くで見られるというのは、なんだか嬉しい。
それに、思ったより普通だ。
黒鋼は今朝のことなどまるでなかったかのようにごく自然な様子だし、そのおかげかファイも少しずつ肩の力を抜くことが出来た。
「そっかー。じゃあオレはまだ仕事あるから行くねー」
「おう。あんま無理すんなよ」
「そっちもねー」
そう片肘を張る必要もないんだな、なんて思いつつファイはファイで自分の仕事をこなすべく職員室へ向かった。
*
しばらく職員室で作業をしていると、窓から吹く夕時の風が少し冷たくなってきた。時計を見上げると、そろそろ6時を回ろうとする頃だ。
先刻まではちらほらと見えていた教師達の姿も、気づけばまったくなくなっている。
今日のところは早めに帰宅しようかな、などと考えていると、またあの嫌な視線を感じた。
(……まただよ。一体どこから感じるんだろうこれは)
窓の外は薄暗く、校庭に人がいる様子もないのだが。
気味の悪さを覚えつつ立ち上がり、窓とカーテンを閉める。
そこに、報告書にサインを貰って帰り支度を終えたスーツ姿の黒鋼が顔を出した。職員玄関を利用するがてら、通りすがりに中を覗いて見たらしい。
「おう。まだやってんのか」
「あ、うん。もうだいたい終わったけどねー」
「採点か?」
「そそー」
気を取り直したように再び椅子に落ち着いたファイの傍に、黒鋼が近寄って来る。
ひょい、と机の上に重なるプリントを覗きこんで来るので、少しだけ椅子を引いて見せた。
「おい、こいつやる気あんのか? 落書きだらけじゃねぇか」
「あははー、問題はちゃんと解いてるからいいんだよー」
「いいのかよ」
「いいのいいのー。時間あまっちゃうと退屈なんだよねー」
「おまえのいい加減さはガキ共の評判通りだな」
「やだなー。あの子達そんなこと言ってたのー?」
「緩いとこが面白ぇってよ」
「ぷっ」
ファイは思わず肩を竦めてふき出した。
確かに、よく緩いとは言われる。それを不真面目だと指摘して睨んでくる教師もいるにはいるが、自然体でいることで生徒たちが懐いてくれるのは嬉しい。
そんな中、黒鋼はすっかり口を閉ざしてしまった。もしかして、真面目な性分の彼は呆れて物も言えない状態なのだろうか。
どうしたの、と顔を上げるのと、長い後ろ髪を緩く引っ張られるのは同時だった。
「!?」
なにが起きたのか分からないまま、真っ黒の影に視界が遮られて目を見開いた。
(な……?)
ファイの髪を掴んだままの黒鋼が身を屈ませている。唇に温かなものが押し付けられていて、脳内がフリーズした。
硬直状態だったファイは、それでもすぐにハッとして「うわぁ!!」と叫びながら身を捩り、結果、椅子から転げ落ちた。
「いったぁーい!!」
「おい、気をつけろよ」
「こ、ここどこだと思って……!?」
ここは学校で、職員室で、カーテンは閉め切られているが、誰が来たっておかしくない場所で。あの嫌な視線は感じられないが、ただ単に感じている余裕がないだけかもしれないというのに。
顔から火を噴きそうになっているファイを見下ろす黒鋼は、無表情でケロリとしている。
そして彼は、さも当然のように「したくなった」と言い放った。
「はい!?」
「じゃあ先に戻ってるぞ」
「ちょ、話終ってない!!」
「とっとと帰って来いよ」
「待っ……!」
まるで聞く耳を持たない黒鋼は、そっけなく背を向けると尻もちをついたままのファイを残して職員室を出て行ってしまった。
←戻る ・ 次へ→
「…………うーん」
「もう10分過ぎてるんですけどー……」
「…………はぁー」
黒板前の椅子に座って、教卓に頬杖をついたまま上の空でいる化学教師に、生徒達が戸惑っている。
次第にざわつきが増す中、ファイはフラリと立ち上がると一言「ダメだ……」と呟いた。
「せ、先生?」
「答案、適当に集めたら後で誰か職員室に持ってきて……」
「はぁ……」
「今日はあと自習……」
生徒達がぽかんと口を開けているのも構わず、ファイはよろよろとした足取りで教室を後にした。
今日はずっとこんな調子だ。何も手につかず、考えられない。
計画が狂うと分かってはいても、適当な問題集をコピーして生徒に与えるだけで、授業なんてまともに出来る状態でもなかった。
(……ちょっと一人になりたい)
ふらつきながら、化学準備室へ向かって静まりかえった廊下の隅を歩く。
精神的なダメージがファイの感情を絶えず揺さぶっていた。
何がどうして『あんなこと』になったのか、ほんの数時間前の、朝の出来事が嫌でも脳内に再生されて、頭痛がした。
*
それは今朝のことだった。
強引に居候を決め込んだ黒鋼は、宣言通り本当にベッドを独占した。
そのせいでファイはソファに丸まって眠ることになったのだが、なかなか寝付けず、ようやく眠ったのは朝方近くになってからだった。
結果、ファイは目覚ましのアラームに気がつかなかった。
「おい、起きろ」
夢の中で、聞き慣れない低音が呼びかけるのを聞いた。
それでも浮上しかけた意識はすぐに眠りへと磁石のように吸い寄せられる。
「もうちょっとー……」
「教師が寝坊して遅刻ってのはまずいだろ」
「んー……」
「起きねぇとキスんぞ」
「んー、いいよー……なんでもいいからー」
(分かったから、あと少しだけ……)
その時のファイは黒鋼が何を言っているのかなんて、まるで聞き取れてはいなかった。むしろ相手さえ認識できていなかったと言っていい。
今この瞬間を少しでも長引かせることが出来るなら、もう何もかもがどうでもよくて、そればかりに心も身体も支配されていた。
チッ、というガラの悪そうな舌打ちが聞こえたような気がした。
それでも目を開けることができず、眠りに落ちていくファイの前髪に、何かが絡みついた。
それによってぐっと髪を引っ張られ、首の角度を無理に変えられて、無意識に「痛い」と叫びそうになった時、何かが唇に押し付けられた。
(……? ……あー、そっか、これ夢かー)
夢にしては感じる首の捻じれがリアルだし、さっきの髪を掴まれたような感触も残っていたが、考える脳が停止しているファイは全てを『夢』として片付けてしまった。
覆いかぶさるように重ねられた唇の熱さや、その弾力が心地よくて、鼻から抜けるような吐息で微かに笑った。
こんな風に誰かと触れあうのは、久しぶりだ。
(なんか、気持ちいいな……)
突き動かされるような衝動と共に、忙しさにかまけてすっかり忘れ去っていた欲求不満を自覚した。
無意識に両腕を伸ばし、相手の首にそれを絡めるとさらに強く引き寄せてみる。
女にしてはやけに首が太くて、肩幅があるなと思ったのは一瞬だった。僅かに身じろいだ相手の舌が口腔に差し込まれるのと、ファイが相手の唇目がけて舌を捻じ込もうとしたのは同時だった。
「ん、ぅ……ッ」
舌先が強く擦れ合い、そのままぬるぬると競うように絡め合う。重たい瞼と混濁する意識に反して、感覚だけは水音が増す度に研ぎ澄まされた。
指先や足の先まで、じん、という痺れに襲われる。思わずビクンと肩を震わせた瞬間、対等だった主導権が相手に移った。
「ふっ、ん……ッ!」
慣れない受け身の口付けに戸惑う隙もなく、肉厚なそれが歯列を滑り、ファイの口腔を暴れまわった。同時に後ろ首に手を這わされ、髪の中に差し込まれた指が梳かすような動きで頭皮に爪を立ててくる。
絶妙にリンクする二つの刺激に、目を閉じていながら世界が回るような眩暈を覚えた。
(ぅ、わ……! これ、気持ちよすぎる……!)
息をつく間もなく、きゅう、と甘く舌を吸われるのが堪らない。
もっともっとと、同じように相手の頭部に指を這わせ、爪を立てて掻き乱した。ふと、随分と短くて硬い髪だなと、熱に浮かされながらも引っかかりを覚える。
なにか、おかしい気がした。
腕の中に納まりきらない大きな身体。こちらに主導権を明け渡さない、荒々しい獣のようなキス。まるでこっちが女にでもなったような。
(女……?)
そう、この部屋に女なんかいないし、連れ込んだこともない。
ならこれは誰だろう。そもそもこれは本当に夢なのだろうか?確か今、自分以外でここにいるのは、ただ一人のはず……。
「ッ!?」
その時、ファイの意識は完全に覚醒した。
目を見開いたと同時に相手を思いっきり突き飛ばし、慌てて身を起こす。
「な、なん、何して……!?」
「なにって言われてもな」
強く突き飛ばしたつもりだったが、黒鋼はほとんどダメージを受けていなかった。床に胡坐をかいて、濡れた口元を手の甲で拭いながらケロリとした顔をしている。
カッと、頭に血が上った。
「い、一体なにをしてるのかって聞いてるの!!」
「キスだな」
「な、な、な、なんで!?」
「なんか不味かったか?」
「不味いでしょそりゃあ!!」
「了承は得たぞ」
「そんなの知らないし! 許した覚えなし!」
だいたいね、とファイは興奮状態のまま黒鋼を指差した。
「寝起きにあんな濃厚なの普通する!? 信じらんない!!」
「てめぇがノリノリだったんだろ。据え膳食らって何が悪い?」
「すすす、すえぜ……!?」
頭の中が真っ白どころか、上りきっていた血で爆発でもしたかのように真っ赤に点滅していた。
黒鋼が何を言っているのか分からないし、分かりたくないし、分かってはいけない気がする。そもそも、今は混乱が先だって何一つ自分の中で処理できない。
「朝飯食ってる時間はねぇな」
半ば恐慌状態に陥っているファイから視線を時計へと移し、黒鋼は立ち上がって脱衣所の方へ向かった。
口を閉じられないまま彼の動きを凝視していると、一度は消えた姿がひょいっと再び現れる。
「ぼけっとしてねぇで、シャキっとしろよ」
顔を出した黒鋼は偉そうに言うと、思い出したようにニヤリと口元で笑った。片方の口角だけを上げて見せる、あのどこか意地の悪そうな笑みだ。
「おまえ、なかなかそそる反応するんだな」
「は……!?」
「ご馳走さん」
そこからどうやって学校まで駆け込んだのか、ファイはまるで覚えていない。
*
まだ授業中ということもあり、学校全体はひっそりと静まりかえっている。
南校舎三階、東側にある化学準備室の鍵を開けて、ファイは引き戸を開けると中に入った。後ろ手で扉を閉めた途端、それを背にしてズルズルと床にしゃがみ込むと、重い溜息をつきながら前髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
薬品の香りがする狭い室内は、入って左手には薬品や実験器具がみっしりと並べられた鉄の大棚、右手側には書籍や書類の詰まったファイルが隙間なく立てられた突っ張り棚が設置され、正面には窓と机、椅子が置かれている。
とにかく一人になって落ち着こうと、自分の縄張りと言ってもいいこの場所を選んだものの、逆にこの静けさと孤立感はじっくりと物を考えるには最適すぎた。
(一体どこで育ち方間違って来たんだろう、あの子……)
彼は冗談の一つもまともに言えないような、硬い性格をした子供だった。単純で、純粋で、態度は突っ張っていても人を疑うことを知らなくて。
そんな黒鋼だったからこそ、手の平で転がすように弄ぶのが楽しくて仕方がなかった。睨まれたり、怒鳴られたりすると不思議とワクワクして、もっとそんな反応が見たくて飽きることなくからかったものだ。
それが今ではどうだ。やけに落ち着いて、余裕しか感じられなくて、あれではまるで大人の男ではないか。
「……大人、だけどさ……もう……」
この際、認めよう。黒鋼はもう立派な成人男性で、小さくて可愛くてピュアだった幼い彼は、ファイの記憶の中にしか存在しない。
離れていた年月を思えば、そりゃあ誰だって様々な経験をするだろうが。
だけど、それにしたって。
(どこであんなキス……覚えてきたんだろうね、全く)
思い出すだけで頬に熱が集まって来るのを感じる。あれは正直、本当にまずかった。
朝、ということもあったのかもしれないが、それによってうっかり生理現象を催すくらいには、気持ちがよかった。
相手を知ったあまりの衝撃で萎えたのが唯一の救いだったかもしれないが、まざまざと思い出してしまっている今、気を抜くと危険だ。
寝ぼけていたとはいえ、感じ入ってしまった自分に対するショックが最も大きいかもしれない。
ファイは頭を抱えると「うわあぁ」と悲鳴を上げる。
だいたい、冗談にしては行きすぎではないか。据え膳とかなんとか、訳の分からないことを言っていたような気がするが、ふざけるにしたって悪質すぎる。
しかしふと、そこでファイは気がついた。
(悪質な……悪ふざけ……)
思い出してもみれば、程度は違えど自分は彼に全く同じようなイタズラをしていたのだった。純粋で穢れ知らずの、初恋さえ済んでいるか怪しい初な少年を相手に。
おそらく彼にとってあれは初めてのキスだった。
多感で複雑な年頃の少年を相手に仕掛けるには、あまりにも非常識で変態的な行為ではなかったか。
今や教師としての意識がいっぱしに確立しているファイは、今更になって自分がやらかした行いの犯罪性に気がついた。
「まさか、あの時の仕返し、とかじゃないだろうね……?」
いつだったか、彼は「いつか泣かす」なんてことを言っていたような気がしないでもない。
「……流石に考えすぎか」
とにかく、今朝のことはなかったことにして忘れよう。
いつまでもボケっとしているわけにもいかない。午後は実習生が見学に訪れる予定になっているし、残りの授業はしっかりと気合いを入れることにした。
*
放課後。
受け持ちの文化部に顔を出して、午前中は小テストで誤魔化してしまった分の答案の採点を行うべく職員室へ向かったファイは、途中で実習生控室の前を通りがかった。
もしかしたら黒鋼も中にいるのではないかと少し緊張しつつ、扉の小窓から中を覗き込んで見る。
が、そこには数名の実習生が帰り支度や教材研究に没頭する姿以外、見知った顔はなかった。
その姿が見えないことにホッと胸を撫で下ろす。
気を取り直してその場から一歩踏み出そうとしたところで、大きな壁のようなものに弾かれ「わ」と声を上げた。
「なんだ、ぼうっとすんな」
壁は、どうやら黒鋼だったらしい。
その胸板に弾かれてよろめいた腕を取られて、ファイはギクリと身を硬くする。
「あ、えーっと、お疲れ様ー」
緊張を悟られるのは癪で、何事もなかったかのように笑顔で声をかけた。さりげなく取られていた手首を遠ざけることは忘れない。
「今日はもう終わり?」
「ぼちぼちな」
まだジャージ姿でいるところを見ると、部活動の方にも顔を出したのかもしれない。
実習生が帰宅するためには指導報告書を提出し、担当教官にサインを貰わなければならず、それが終わらないことには一日を締めくくることはできない。
教材研究を怠ることも出来ないし、きっと担当教官からのダメだしも相当食らうことになるはずだ。
(がんばってるんだなぁー)
そう思うと、今朝のことなどされ忘れて胸がじんとする。
あの小さかった黒鋼が、こうして自分の将来に向けて頑張っている姿を近くで見られるというのは、なんだか嬉しい。
それに、思ったより普通だ。
黒鋼は今朝のことなどまるでなかったかのようにごく自然な様子だし、そのおかげかファイも少しずつ肩の力を抜くことが出来た。
「そっかー。じゃあオレはまだ仕事あるから行くねー」
「おう。あんま無理すんなよ」
「そっちもねー」
そう片肘を張る必要もないんだな、なんて思いつつファイはファイで自分の仕事をこなすべく職員室へ向かった。
*
しばらく職員室で作業をしていると、窓から吹く夕時の風が少し冷たくなってきた。時計を見上げると、そろそろ6時を回ろうとする頃だ。
先刻まではちらほらと見えていた教師達の姿も、気づけばまったくなくなっている。
今日のところは早めに帰宅しようかな、などと考えていると、またあの嫌な視線を感じた。
(……まただよ。一体どこから感じるんだろうこれは)
窓の外は薄暗く、校庭に人がいる様子もないのだが。
気味の悪さを覚えつつ立ち上がり、窓とカーテンを閉める。
そこに、報告書にサインを貰って帰り支度を終えたスーツ姿の黒鋼が顔を出した。職員玄関を利用するがてら、通りすがりに中を覗いて見たらしい。
「おう。まだやってんのか」
「あ、うん。もうだいたい終わったけどねー」
「採点か?」
「そそー」
気を取り直したように再び椅子に落ち着いたファイの傍に、黒鋼が近寄って来る。
ひょい、と机の上に重なるプリントを覗きこんで来るので、少しだけ椅子を引いて見せた。
「おい、こいつやる気あんのか? 落書きだらけじゃねぇか」
「あははー、問題はちゃんと解いてるからいいんだよー」
「いいのかよ」
「いいのいいのー。時間あまっちゃうと退屈なんだよねー」
「おまえのいい加減さはガキ共の評判通りだな」
「やだなー。あの子達そんなこと言ってたのー?」
「緩いとこが面白ぇってよ」
「ぷっ」
ファイは思わず肩を竦めてふき出した。
確かに、よく緩いとは言われる。それを不真面目だと指摘して睨んでくる教師もいるにはいるが、自然体でいることで生徒たちが懐いてくれるのは嬉しい。
そんな中、黒鋼はすっかり口を閉ざしてしまった。もしかして、真面目な性分の彼は呆れて物も言えない状態なのだろうか。
どうしたの、と顔を上げるのと、長い後ろ髪を緩く引っ張られるのは同時だった。
「!?」
なにが起きたのか分からないまま、真っ黒の影に視界が遮られて目を見開いた。
(な……?)
ファイの髪を掴んだままの黒鋼が身を屈ませている。唇に温かなものが押し付けられていて、脳内がフリーズした。
硬直状態だったファイは、それでもすぐにハッとして「うわぁ!!」と叫びながら身を捩り、結果、椅子から転げ落ちた。
「いったぁーい!!」
「おい、気をつけろよ」
「こ、ここどこだと思って……!?」
ここは学校で、職員室で、カーテンは閉め切られているが、誰が来たっておかしくない場所で。あの嫌な視線は感じられないが、ただ単に感じている余裕がないだけかもしれないというのに。
顔から火を噴きそうになっているファイを見下ろす黒鋼は、無表情でケロリとしている。
そして彼は、さも当然のように「したくなった」と言い放った。
「はい!?」
「じゃあ先に戻ってるぞ」
「ちょ、話終ってない!!」
「とっとと帰って来いよ」
「待っ……!」
まるで聞く耳を持たない黒鋼は、そっけなく背を向けると尻もちをついたままのファイを残して職員室を出て行ってしまった。
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あの子は小さくて、陽だまりのような香りのする、とても可愛い男の子だった。
大きな目はサクランボみたいに赤くて丸くて、頬っぺたはお餅みたいにふにふにしてて。
怒るとすぐに瞳をうるうるさせて、子犬みたいにキャンキャン吠えた。
小さくて可愛くて、子犬のようだったあの子は、今どうしているんだろう。
*
それは教師になって7年目の、美しい新緑の季節のこと。
「ふあぁ……」
職員室の窓際の席で、ファイは大きな欠伸をした。
授業が終わり、部活指導の傍ら山積みになっていた校務をある程度こなすと、一日の疲れが一気に押し寄せて少しばかり気が抜ける。
首の付け根に手を当てて軽く横に傾けると、関節の鳴る小さな音がして思わず「あいたっ」という声が洩れた。
肩が凝ったような気がするのは、基本的に常に着用している長白衣のせいか、それとも面倒くさがって伸ばしっぱなしの髪が、地味に重たいせいなのだろうか。
ふと、夕焼けの校庭で部活動に励む生徒たちの声が、爽やかな風に乗って耳に届いた。
笛の号令と一緒に短い掛け声を上げながら、校庭を何周もしている少年少女がやけに眩しい。
(最近どうも弛んでるなー)
頬杖をつきながら小さく息を吐きだす。
そして再び欠伸をしかけたところで、ファイは皮膚にチクリと何かが刺さるような違和感を覚えて、顔を顰めた。
(あー、まただ……)
最近、ふとした瞬間どこからともなく視線を感じる時がある。新入生が入ってきた頃からだから、ここ一ヶ月ほどだろうか。
ファイは気味の悪さを覚えつつ、改めて校庭の方へ目を向ける。相変わらず爽やかに青春の汗を流す生徒達の他には、それを指導する顧問や青いツナギを着た用務員が、せっせと草むしりする後ろ姿しか見えない。
見慣れた光景だ。何もおかしなところはない。
(気のせいかなぁ。疲れてるのかもしれないし)
こんなことではいかんと、一度強く瞬きをしてから両手で頬をパンパンと叩く。さらに深呼吸をしたところで、他の教師達でざわつく職員室に校長と教頭が揃って姿を見せた。
そしてその背後から見知らぬ男女が数名、スーツ姿で職員室に入って来る。
そういえばどこぞの大学から教育実習生がやって来るのは明日からだったか。今春は自分が担当する実習生はいないため、すっかり忘れていた。
今日はその最終的な打ち合わせも兼ねた顔合わせと言ったところだろう。各自仕事にあたっていた教師達がのっそりと立ち上がるのに合わせて、ファイもとりあえず起立する。
果たしてこの中の何人が本気で教師を目指しているかは知らないが、緊張に張りつめた若者たちの様子は微笑ましく、自分の時もこんな感じだったなぁと懐かしさが込み上げる。
しかし、そんなものにゆっくりと浸る間もなく、一番最後に入って来た若者を見てファイは少し驚いた。
それは他の教師達も同じだったようで、皆が口を揃えて「でかいなぁ」と驚きの声を上げている。
彼はとんでもなく日本人離れした、規格外の体格の持ち主だった。
ファイも長身の方だが、おそらく彼はそれよりもさらに、頭一つ分は軽く飛びぬけている。しかも大きいのは背丈だけでなく、見るからに格闘技に精通していそうな逞しい身体つきが、黒のスーツ越しにも見て取れた。
最近の子は発育がいいなんてよく耳にするが、彼からはすでに成熟しきった大人の貫録をたっぷりと感じる。緊張する面々の中でも、一人だけ威風堂々として浮いた存在に見えた。
言い方を変えれば、威圧感、だろうか。
あなた一体どれほどの死線を潜り抜けて来た猛者ですか、と問いかけたくなるほど眼光が鋭い。
(……でもこの子、どっかで見たかな)
たった一人に視線を奪われたまま小首を傾げるファイを尻目に、教頭が実習生たちを紹介しはじめる。
全体の挨拶もそこそこに、実習生が一人一人、声を上ずらせながら出身の大学やら何やらを自己紹介していくが、ファイの耳には入らない。
(こんな目立つの、一度見たら絶対に忘れないと思うんだけど)
見覚えがあるというよりは、どことなく懐かしいような。
うーん、と首を傾げながら、ファイは改めてそのバカでかい男を上から下まで眺めた。
ツンツンと尖った硬そうな黒髪と、眉間に寄った皺。普通にしていても怒っているのかと勘違いされそうな人相の悪さで、損することもありそうだな、などとと余計なことを考える。
切れ長の目は赤く、ふとこんな配色をどこかで見た気がして記憶の蓋を開けた時、ファイは一人の少年の姿を脳裏に思い描いた。
(ん……?)
確かに、似てると思えば似ているような気がしないでもない。
するとだんだん、視線の先にある男の顔と、大きな瞳の可愛い少年の像がだぶって見えた。
(あれ……あれあれ……? この子、もしかして……?)
「アァー!?」
その瞬間、ファイは大声を上げて彼を指差していた。
自己紹介の途中だった実習生の若い女の子が、ぎょっとして肩を震わせる。咄嗟に両手で口元を抑えたがすでに遅く、周りの全員が視線をファイに集中させた。
「あ、いえ、すみません……続けてください……」
眼鏡の奥を光らせる校長の視線からさりげなく目を逸らしつつ、ファイは肩を竦めて身体を小さくした。
気を取り直して実習生が再び自己紹介を始める中、額に嫌な汗をかきながらチラリと問題の人物を窺うと、ファイは思わず身を硬くする。
男は、じっとファイを見つめている。
そして、無表情だった口元を不敵に笑みの形に釣りあげて見せた。
向こうはいつから気付いていたのか知らないが、ファイのように取り乱す様子は一切なく、すぐに視線が逸らされる。
(こここ、これは……)
悪夢か?
そうだ。そうに違いない。これは紛れもなく悪夢だ。決してあってはならないことだ。
目が合ったような気がするのも、なんだか底意地悪そうな笑みを浮かべていたような気がするのも『そんな気がする』だけであって、きっと見間違いだ。
だから一瞬だけあの懐かしい面影が重なって見えたのだって、きっと疲れ目のせいに違いない。
だって今、この目に映る大きな男のどこにも可愛らしさなんて欠片もないし、あの思いっきりシャープな頬はつついたって絶対に柔らかくなんてない。
(違う……違う……あれは違う……あんなどっかの傭兵か格闘家みたいなごっついのが、あの可愛い黒たんなわけない……だからこれは夢……夢……)
ファイの静かなる混乱を尻目に、一人また一人とたどたどしい自己紹介が終わる中、ついに彼の番がやってくる。
だが次の瞬間、とんだド低音で容赦なく告げられた忘れもしない名前に、ファイは気が遠のくのを感じた。
***
初めて見た時は、気難しそうな子だなという印象を受けた。
気が強くて生意気そうで、扱いにくそうだな、と。
それでも家が隣同士で、世話になっている祖父母も可愛がっているらしいし、上手くやって行くに越したことはないだろうと思った。
だからって努力して仲良くなろうとか、ご機嫌を取ろうとか、そういったことは特に考えていなかった。関わることがあれば愛想よくすればいいだろう、くらいにしか。
あの朝。
学校へ行くのに、偶然同じタイミングで家を出た、あの時までは。
「ガッコ、一緒に行こう?」
ランドセルの肩ベルトをぎゅっと握って、俯きながら門から出て来る姿を見た瞬間、ファイはその子供に声をかけていた。
どことなく寂しそうに見えて、なんとなく見過ごすのが嫌で。
黒鋼は近くで見るとびっくりするくらい小さくて、驚きに見開かれた瞳は赤い果実のようだった。
警戒心を丸出しにする様は、幼い頃に公園の片隅に捨てられていた子犬を思い出させた。ユゥイと2人で連れて帰って、少しの間だけ面倒を見ていたら、すぐに里親が見つかり、引き取られて行った。
黒くて小さくて、ファイにだけはなぜか大人しく抱っこさせてくれなかったけれど、とても可愛い子だったから。別れの時は、ユゥイと一緒に声を上げて泣いたっけ。
愛しい記憶を手繰り寄せるように、日に焼けた小さな手を取っていた。
柔らかくて温かくて、守ってあげたくなるような手だった。
この子と仲良くなりたいなと。
そのとき初めて思った。
歳は離れているし、このくらいの子供が何をすれば喜ぶかも分からなかったけれど。
でもきっと『可愛い』と言われて嫌がる子供はいないだろうと思った。
だって本当に、よく見ればとても可愛い顔をしていたし。頬っぺただって、指先で摘まんでふにふにしたくらい柔らかそうだし。
だから衝動の赴くままに接したら。
「おまえなんか……大っきらいだ!!」
……好かれるどころか、嫌われてしまった。
なのに全くショックじゃなかった。むしろ、なぜかワクワクした。
すぐに感情を露わにしてぶつかって来る様が、打てば響く太鼓のようで。
逃げられると、追いかけたくて仕方なくなる。
自分の意思で家を出たのに、本当は故郷を離れたことが少しだけ寂しかったファイは、あっと言う間に隣の家の、可愛い少年に夢中になってしまった。
*
「すみませーん、新聞の勧誘なら間に合ってますー」
とっぷりと日が暮れた頃、職員宿舎に帰宅したファイはドアに背を預け、腕を組んでいる大男にわざとらしいくらいの笑顔でそう言った。
スーツ姿の男は片眉をひょいと上げて見せると、口の端だけを持ち上げるような笑みを浮かべる。
「久しぶりだってのに。随分なあしらい方だな」
「えー? どこかでお会いしましたっけー?」
「だいたい9年ぶりってとこか?」
「いやいやー、知りませんホント、勘弁してくださーい」
「人間30にもなると、もうボケが始まるもんなのか?」
「ちょ、まだギリなってませんー!!」
一体どうしてここに彼がいるのか。
ここは幼等部から大学院まで連なる、巨大な学園都市の内部だ。遠方に家がある生徒のための学生寮もあれば、もちろん教員専用の宿舎もある。
ファイは高校教師として化学を担当しつつ、この宿舎の一室を住処としていた。
だが、たかだか教育実習生に部屋が割り当てられることは絶対にない。都市在住でない限りは、言うまでもなく自宅から通うのが基本のはずだった。
チラリと視線を落とせば、彼の足元には黒いスーツケースと、青いスポーツバッグがどっしりと置かれている。
そこはかとなく嫌な予感が背筋を這う中、ファイは一刻も早く自室に引きこもりたくて仕方がなかった。
すっと目を泳がせるファイを気にも留めず、男は足元のそれらを掴み上げると「よし」と言った。
「とっとと開けろ」
「はいー?」
「ここおまえの部屋だろ。さっさと開けて中に入れろ」
「ちょちょちょ、ちょっと待って! それは一体どういう!?」
「うるせぇな。俺は腹が減ってるんだよ。なんか作れ」
「うわー! すっごい横暴ー!」
その後もファイが何を言っても全く相手にされず、結局は押し切られる形で部屋への侵入を許してしまった。
揃って中に入る間際、またあの薄気味悪い視線を遠くから感じたような気がしたが、その時のファイはそれに構ってる余裕はなかった。
*
ソファにテレビ、ベッド、ガラス製のローテーブルや、背が高く横幅もあるユニット棚。クローゼットなどの収納スペースも充実しているこの部屋は、窓際に大きな観葉植物なんかも置けてしまうくらいには、広く快適なワンルームだった。
しかしそこにガタイのいい長身の男が一人余計に入り込むだけで、少々手狭に感じられる。
ローテーブルを挟んでテレビと向かい合うソファにどっかりと腰を下ろした黒鋼は、スーツのジャケットを肘かけに放り投げた。
「あの……聞いてもいいかなー?」
「なんだ」
そこ、オレの定位置なんだけど……と内心ぼやきながらも、ファイは行き場を失ったように立ち尽くす。
黒鋼はこちらにチラリと視線を寄こしながら、片手でネクタイを緩めていた。
その手つきが妙に男臭い仕草に見えて、胸の中の複雑な感情が肥大した。
「色々と聞きたいことはあるんだけど」
「おう」
「……君、ホントにあの黒たん?」
「あ?」
瞳を眇めて見せる彼は、やっぱりどう見ても人相が悪い。
獣の骨なんかをワイルドに齧る仕草が、思いっきり似合いそうだと思った。
「……野蛮そうー」
「てめぇは相変わらず失敬な野郎だな」
「……いやいやー、ないわー。これは酷い」
「ぶん殴るぞこら」
「うーわー……その脅し、まぎれもなく黒たんだー……」
大きな喪失感に力が抜けて、ファイは膝から床に崩れ落ちた。
「どっからどう見ても俺だろ。てめぇの目は節穴か」
「よく言うよー! まるっきり別人じゃん! 詐欺だよ詐欺! 訴えたら勝てる物件だよこれ!」
「安心しろ。そんな物件を相手にする弁護士なんかまずいねぇ」
「やだー! オレは信じないー!!」
「信じるも信じねぇもてめぇの勝手だがな。9年も経ってりゃあ」
「アーアーアー! 聞こえませーん!!」
両手で耳を塞いでブルブルと頭を振るファイを見て、黒鋼は呆れた様に溜息を零した。
***
こんなにも長い空白の時が開いてしまったのには、事情がある。
黒鋼とその母親が赴任先の父のもとへ引っ越してから、2年後にまずは祖母が他界した。そしてその翌年、祖父も逝った。
すでに自立して一人暮らしをしていたファイは、祖父母が生きていた頃はしょっちゅう家に足を運んでいた。
だが彼らが他界した後、あの家は遠い親戚の手に渡ってしまった。何分遠すぎて、ファイにしてみればほとんど他人も同然だ。気軽に足を運ぶことなど、到底できなかった。
だからファイは黒鋼がいつ実家に戻って来たのかを、知ることができなかった。
いつかまた会えたらいいなと、たまに思い出しては楽しかった頃に思いを馳せるのが関の山だったのだ。
*
「それにしても、黒たんが学校の先生になりたいなんて知らなかったなー」
いつまでも悲観に暮れていたって仕方がないと気を取り直したファイは、紅茶のカップを2つ、テーブルに置きながらしみじみ呟いた。
定位置のソファは相変わらず占領されているので、床にクッションを敷いてぺったりと腰を下ろす。
「体育の先生だっけー?」
「おう」
「そういえば黒たんは駆けっこも一番だったもんねぇ」
熱い紅茶に口をつける横顔を眺めながら、懐かしい姿を思い浮かべると胸がほっこりした。
黒鋼がまだ小学生だった頃、本当に一等賞なのか見てみたくて、こっそり運動会を覗きに行ったことがある。
彼は他の誰よりも身体が小さかったが、誰よりも差をつけてゴールテープを切っていた。一人でギャーギャー騒いで応援していたら黒鋼の母に見つかって、結局一緒にお弁当をご馳走になった。
黒鋼は「なんでてめぇがいるんだよ!」とプリプリ怒りながらも、美味しそうにおにぎりを食べていた。
頬っぺたに米粒がついていたから取ってあげたら、真っ赤になってさらに怒っていたっけ。
(あぁー……ホントあの頃は可愛かったなぁー……)
そういえば昔、庭でキャッチボールをした時に将来の夢を訊ねたことがあった。あの時、彼は「まだ何も考えてない」と言っていた気がする。
そんな黒鋼が自分と同じ教師の道を選んだというのは、なんだか不思議な感じがした。しかも実習先の学校に自分がいて、こんな形で再会を果たすことになるなんて。
そこでファイは、少しずつ昔の感覚が戻って来るような気がして「うふふ」と笑った。
「なんだよ」
「んー? ひょっとしてー、オレが学校の先生になりたいって言ってたから、黒たんも真似ッ子したのかなーって?」
こういう言葉の選び方をすれば、ファイの知っている黒鋼なら絶対に顔を真っ赤にして否定するはずだった。
彼はこちらの言うことには何かと突っかかって来たから、仮に本当にファイの存在がキッカケになっていたとしても、素直に認めることはしないだろうと。
見た目こそどんなに変わっても、人間中身までは早々変わらないはずだ。だからファイは、せめて内面くらいは幼い頃の片鱗を見せてほしくて、胸を躍らせながらにんまりと微笑んだ。
(さぁ来い黒わんこ! ファイお兄さんが久しぶりに遊んであげちゃう!)
だが、その目論見は外れた。
黒鋼は紅茶のカップをテーブルに戻すと、ふぅっと息を吐きだして緩く口角を上げる。目元はどこか優しげに、うっすらと細められてファイを捉えた。
「そうだ」
「……ぇ?」
「てめぇの背中を追いかけて、ここまで来た」
は、という形に口を開けた状態で、ファイは思考も動きも静止した。今の今まで、自分が一体誰と会話をしていたのかさえ、分からなくなる。
一応は重なり合っていた幼い黒鋼と、今の黒鋼の像が一瞬にしてバラバラに分離して見えた。
別に昔のように、涙目になるほどの大袈裟なリアクションを期待していたわけではない。そういうわけでは、決してないのだが。
(この人……誰だろ……)
少なくとも、見た目も中身も自分が知っている黒鋼でないことは確かな気がする。
激しく戸惑い言葉を失うファイに、黒鋼はすっかり大きくなった手をおもむろに伸ばしてきた。
ファイはただ、それを茫然と眺める。
武骨そうな指先が優しく頬を掠めた後、そっと頬にかかる鬱陶しい前髪を撫でた。
「髪、伸びたな」
「……え、ぁ、ぅん」
「悪くない」
「へっ? あ、ぁりが、と……?」
そこはかとなく場の空気を甘ったるく感じるのは気のせいだろうか。
ファイは離れていく手を、伸ばされた時と同じくただ視線で追いかける。骨ばっていて、大きくて、長い指。まるで知らない人の、知らない手だと思った。
なぜか胸が苦しい。そして、一瞬だけ触れられた頬が、火をつけられたように熱くなっていることに気がついた。
(な、なにこれ……なんだこの変な感じ……)
いつまでも石のように硬直したまま戻って来られないファイを置き去りに、黒鋼は再び無表情を取り戻していた。
ソファにのったりと背中を預け、さも当然のように不遜に言い放つ。
「とりあえず飯と風呂」
「……うん」
「あと、しばらく泊めろよ」
「……うん……うん!?」
「おまえソファで寝ろ。ベッドは俺が使ってやる」
「ちょ、ちょっと!?」
黒鋼は床に放り出されていた荷物を手に立ちあがると、ベッドにそれをドスンと置いた。ファイはテーブルに手をつき、慌てて腰を浮かす。
「ちょっとホントに待ってよ! そんな勝手に……!」
「あ? おまえそんだけひょろけりゃソファで十分だろ」
「そ、そういうことを言ってるんじゃなくって!」
「一緒に寝るには流石に狭ぇぞ。このベッドじゃ」
「だからあぁー!!」
広かったら問題ないのかよと突っ込みかけて、内心ハッとする。
噛み合わない会話にちょっと泣きそうになっている自分と、何事にも動じないように見えるマイペースな黒鋼。
これではまるで、昔と立場が逆転しているではないか、と。
もういっそ可愛くなくなったどころの騒ぎではない。ハッキリ言って、この男。
(なんかすっごーく、やりにくいー!!)
しかしこの黒鋼が、その後ただ扱いにくいだけでなく、凄まじい脅威の存在となっていくことを、この時のファイは知るよしもなかった……。
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大きな目はサクランボみたいに赤くて丸くて、頬っぺたはお餅みたいにふにふにしてて。
怒るとすぐに瞳をうるうるさせて、子犬みたいにキャンキャン吠えた。
小さくて可愛くて、子犬のようだったあの子は、今どうしているんだろう。
*
それは教師になって7年目の、美しい新緑の季節のこと。
「ふあぁ……」
職員室の窓際の席で、ファイは大きな欠伸をした。
授業が終わり、部活指導の傍ら山積みになっていた校務をある程度こなすと、一日の疲れが一気に押し寄せて少しばかり気が抜ける。
首の付け根に手を当てて軽く横に傾けると、関節の鳴る小さな音がして思わず「あいたっ」という声が洩れた。
肩が凝ったような気がするのは、基本的に常に着用している長白衣のせいか、それとも面倒くさがって伸ばしっぱなしの髪が、地味に重たいせいなのだろうか。
ふと、夕焼けの校庭で部活動に励む生徒たちの声が、爽やかな風に乗って耳に届いた。
笛の号令と一緒に短い掛け声を上げながら、校庭を何周もしている少年少女がやけに眩しい。
(最近どうも弛んでるなー)
頬杖をつきながら小さく息を吐きだす。
そして再び欠伸をしかけたところで、ファイは皮膚にチクリと何かが刺さるような違和感を覚えて、顔を顰めた。
(あー、まただ……)
最近、ふとした瞬間どこからともなく視線を感じる時がある。新入生が入ってきた頃からだから、ここ一ヶ月ほどだろうか。
ファイは気味の悪さを覚えつつ、改めて校庭の方へ目を向ける。相変わらず爽やかに青春の汗を流す生徒達の他には、それを指導する顧問や青いツナギを着た用務員が、せっせと草むしりする後ろ姿しか見えない。
見慣れた光景だ。何もおかしなところはない。
(気のせいかなぁ。疲れてるのかもしれないし)
こんなことではいかんと、一度強く瞬きをしてから両手で頬をパンパンと叩く。さらに深呼吸をしたところで、他の教師達でざわつく職員室に校長と教頭が揃って姿を見せた。
そしてその背後から見知らぬ男女が数名、スーツ姿で職員室に入って来る。
そういえばどこぞの大学から教育実習生がやって来るのは明日からだったか。今春は自分が担当する実習生はいないため、すっかり忘れていた。
今日はその最終的な打ち合わせも兼ねた顔合わせと言ったところだろう。各自仕事にあたっていた教師達がのっそりと立ち上がるのに合わせて、ファイもとりあえず起立する。
果たしてこの中の何人が本気で教師を目指しているかは知らないが、緊張に張りつめた若者たちの様子は微笑ましく、自分の時もこんな感じだったなぁと懐かしさが込み上げる。
しかし、そんなものにゆっくりと浸る間もなく、一番最後に入って来た若者を見てファイは少し驚いた。
それは他の教師達も同じだったようで、皆が口を揃えて「でかいなぁ」と驚きの声を上げている。
彼はとんでもなく日本人離れした、規格外の体格の持ち主だった。
ファイも長身の方だが、おそらく彼はそれよりもさらに、頭一つ分は軽く飛びぬけている。しかも大きいのは背丈だけでなく、見るからに格闘技に精通していそうな逞しい身体つきが、黒のスーツ越しにも見て取れた。
最近の子は発育がいいなんてよく耳にするが、彼からはすでに成熟しきった大人の貫録をたっぷりと感じる。緊張する面々の中でも、一人だけ威風堂々として浮いた存在に見えた。
言い方を変えれば、威圧感、だろうか。
あなた一体どれほどの死線を潜り抜けて来た猛者ですか、と問いかけたくなるほど眼光が鋭い。
(……でもこの子、どっかで見たかな)
たった一人に視線を奪われたまま小首を傾げるファイを尻目に、教頭が実習生たちを紹介しはじめる。
全体の挨拶もそこそこに、実習生が一人一人、声を上ずらせながら出身の大学やら何やらを自己紹介していくが、ファイの耳には入らない。
(こんな目立つの、一度見たら絶対に忘れないと思うんだけど)
見覚えがあるというよりは、どことなく懐かしいような。
うーん、と首を傾げながら、ファイは改めてそのバカでかい男を上から下まで眺めた。
ツンツンと尖った硬そうな黒髪と、眉間に寄った皺。普通にしていても怒っているのかと勘違いされそうな人相の悪さで、損することもありそうだな、などとと余計なことを考える。
切れ長の目は赤く、ふとこんな配色をどこかで見た気がして記憶の蓋を開けた時、ファイは一人の少年の姿を脳裏に思い描いた。
(ん……?)
確かに、似てると思えば似ているような気がしないでもない。
するとだんだん、視線の先にある男の顔と、大きな瞳の可愛い少年の像がだぶって見えた。
(あれ……あれあれ……? この子、もしかして……?)
「アァー!?」
その瞬間、ファイは大声を上げて彼を指差していた。
自己紹介の途中だった実習生の若い女の子が、ぎょっとして肩を震わせる。咄嗟に両手で口元を抑えたがすでに遅く、周りの全員が視線をファイに集中させた。
「あ、いえ、すみません……続けてください……」
眼鏡の奥を光らせる校長の視線からさりげなく目を逸らしつつ、ファイは肩を竦めて身体を小さくした。
気を取り直して実習生が再び自己紹介を始める中、額に嫌な汗をかきながらチラリと問題の人物を窺うと、ファイは思わず身を硬くする。
男は、じっとファイを見つめている。
そして、無表情だった口元を不敵に笑みの形に釣りあげて見せた。
向こうはいつから気付いていたのか知らないが、ファイのように取り乱す様子は一切なく、すぐに視線が逸らされる。
(こここ、これは……)
悪夢か?
そうだ。そうに違いない。これは紛れもなく悪夢だ。決してあってはならないことだ。
目が合ったような気がするのも、なんだか底意地悪そうな笑みを浮かべていたような気がするのも『そんな気がする』だけであって、きっと見間違いだ。
だから一瞬だけあの懐かしい面影が重なって見えたのだって、きっと疲れ目のせいに違いない。
だって今、この目に映る大きな男のどこにも可愛らしさなんて欠片もないし、あの思いっきりシャープな頬はつついたって絶対に柔らかくなんてない。
(違う……違う……あれは違う……あんなどっかの傭兵か格闘家みたいなごっついのが、あの可愛い黒たんなわけない……だからこれは夢……夢……)
ファイの静かなる混乱を尻目に、一人また一人とたどたどしい自己紹介が終わる中、ついに彼の番がやってくる。
だが次の瞬間、とんだド低音で容赦なく告げられた忘れもしない名前に、ファイは気が遠のくのを感じた。
***
初めて見た時は、気難しそうな子だなという印象を受けた。
気が強くて生意気そうで、扱いにくそうだな、と。
それでも家が隣同士で、世話になっている祖父母も可愛がっているらしいし、上手くやって行くに越したことはないだろうと思った。
だからって努力して仲良くなろうとか、ご機嫌を取ろうとか、そういったことは特に考えていなかった。関わることがあれば愛想よくすればいいだろう、くらいにしか。
あの朝。
学校へ行くのに、偶然同じタイミングで家を出た、あの時までは。
「ガッコ、一緒に行こう?」
ランドセルの肩ベルトをぎゅっと握って、俯きながら門から出て来る姿を見た瞬間、ファイはその子供に声をかけていた。
どことなく寂しそうに見えて、なんとなく見過ごすのが嫌で。
黒鋼は近くで見るとびっくりするくらい小さくて、驚きに見開かれた瞳は赤い果実のようだった。
警戒心を丸出しにする様は、幼い頃に公園の片隅に捨てられていた子犬を思い出させた。ユゥイと2人で連れて帰って、少しの間だけ面倒を見ていたら、すぐに里親が見つかり、引き取られて行った。
黒くて小さくて、ファイにだけはなぜか大人しく抱っこさせてくれなかったけれど、とても可愛い子だったから。別れの時は、ユゥイと一緒に声を上げて泣いたっけ。
愛しい記憶を手繰り寄せるように、日に焼けた小さな手を取っていた。
柔らかくて温かくて、守ってあげたくなるような手だった。
この子と仲良くなりたいなと。
そのとき初めて思った。
歳は離れているし、このくらいの子供が何をすれば喜ぶかも分からなかったけれど。
でもきっと『可愛い』と言われて嫌がる子供はいないだろうと思った。
だって本当に、よく見ればとても可愛い顔をしていたし。頬っぺただって、指先で摘まんでふにふにしたくらい柔らかそうだし。
だから衝動の赴くままに接したら。
「おまえなんか……大っきらいだ!!」
……好かれるどころか、嫌われてしまった。
なのに全くショックじゃなかった。むしろ、なぜかワクワクした。
すぐに感情を露わにしてぶつかって来る様が、打てば響く太鼓のようで。
逃げられると、追いかけたくて仕方なくなる。
自分の意思で家を出たのに、本当は故郷を離れたことが少しだけ寂しかったファイは、あっと言う間に隣の家の、可愛い少年に夢中になってしまった。
*
「すみませーん、新聞の勧誘なら間に合ってますー」
とっぷりと日が暮れた頃、職員宿舎に帰宅したファイはドアに背を預け、腕を組んでいる大男にわざとらしいくらいの笑顔でそう言った。
スーツ姿の男は片眉をひょいと上げて見せると、口の端だけを持ち上げるような笑みを浮かべる。
「久しぶりだってのに。随分なあしらい方だな」
「えー? どこかでお会いしましたっけー?」
「だいたい9年ぶりってとこか?」
「いやいやー、知りませんホント、勘弁してくださーい」
「人間30にもなると、もうボケが始まるもんなのか?」
「ちょ、まだギリなってませんー!!」
一体どうしてここに彼がいるのか。
ここは幼等部から大学院まで連なる、巨大な学園都市の内部だ。遠方に家がある生徒のための学生寮もあれば、もちろん教員専用の宿舎もある。
ファイは高校教師として化学を担当しつつ、この宿舎の一室を住処としていた。
だが、たかだか教育実習生に部屋が割り当てられることは絶対にない。都市在住でない限りは、言うまでもなく自宅から通うのが基本のはずだった。
チラリと視線を落とせば、彼の足元には黒いスーツケースと、青いスポーツバッグがどっしりと置かれている。
そこはかとなく嫌な予感が背筋を這う中、ファイは一刻も早く自室に引きこもりたくて仕方がなかった。
すっと目を泳がせるファイを気にも留めず、男は足元のそれらを掴み上げると「よし」と言った。
「とっとと開けろ」
「はいー?」
「ここおまえの部屋だろ。さっさと開けて中に入れろ」
「ちょちょちょ、ちょっと待って! それは一体どういう!?」
「うるせぇな。俺は腹が減ってるんだよ。なんか作れ」
「うわー! すっごい横暴ー!」
その後もファイが何を言っても全く相手にされず、結局は押し切られる形で部屋への侵入を許してしまった。
揃って中に入る間際、またあの薄気味悪い視線を遠くから感じたような気がしたが、その時のファイはそれに構ってる余裕はなかった。
*
ソファにテレビ、ベッド、ガラス製のローテーブルや、背が高く横幅もあるユニット棚。クローゼットなどの収納スペースも充実しているこの部屋は、窓際に大きな観葉植物なんかも置けてしまうくらいには、広く快適なワンルームだった。
しかしそこにガタイのいい長身の男が一人余計に入り込むだけで、少々手狭に感じられる。
ローテーブルを挟んでテレビと向かい合うソファにどっかりと腰を下ろした黒鋼は、スーツのジャケットを肘かけに放り投げた。
「あの……聞いてもいいかなー?」
「なんだ」
そこ、オレの定位置なんだけど……と内心ぼやきながらも、ファイは行き場を失ったように立ち尽くす。
黒鋼はこちらにチラリと視線を寄こしながら、片手でネクタイを緩めていた。
その手つきが妙に男臭い仕草に見えて、胸の中の複雑な感情が肥大した。
「色々と聞きたいことはあるんだけど」
「おう」
「……君、ホントにあの黒たん?」
「あ?」
瞳を眇めて見せる彼は、やっぱりどう見ても人相が悪い。
獣の骨なんかをワイルドに齧る仕草が、思いっきり似合いそうだと思った。
「……野蛮そうー」
「てめぇは相変わらず失敬な野郎だな」
「……いやいやー、ないわー。これは酷い」
「ぶん殴るぞこら」
「うーわー……その脅し、まぎれもなく黒たんだー……」
大きな喪失感に力が抜けて、ファイは膝から床に崩れ落ちた。
「どっからどう見ても俺だろ。てめぇの目は節穴か」
「よく言うよー! まるっきり別人じゃん! 詐欺だよ詐欺! 訴えたら勝てる物件だよこれ!」
「安心しろ。そんな物件を相手にする弁護士なんかまずいねぇ」
「やだー! オレは信じないー!!」
「信じるも信じねぇもてめぇの勝手だがな。9年も経ってりゃあ」
「アーアーアー! 聞こえませーん!!」
両手で耳を塞いでブルブルと頭を振るファイを見て、黒鋼は呆れた様に溜息を零した。
***
こんなにも長い空白の時が開いてしまったのには、事情がある。
黒鋼とその母親が赴任先の父のもとへ引っ越してから、2年後にまずは祖母が他界した。そしてその翌年、祖父も逝った。
すでに自立して一人暮らしをしていたファイは、祖父母が生きていた頃はしょっちゅう家に足を運んでいた。
だが彼らが他界した後、あの家は遠い親戚の手に渡ってしまった。何分遠すぎて、ファイにしてみればほとんど他人も同然だ。気軽に足を運ぶことなど、到底できなかった。
だからファイは黒鋼がいつ実家に戻って来たのかを、知ることができなかった。
いつかまた会えたらいいなと、たまに思い出しては楽しかった頃に思いを馳せるのが関の山だったのだ。
*
「それにしても、黒たんが学校の先生になりたいなんて知らなかったなー」
いつまでも悲観に暮れていたって仕方がないと気を取り直したファイは、紅茶のカップを2つ、テーブルに置きながらしみじみ呟いた。
定位置のソファは相変わらず占領されているので、床にクッションを敷いてぺったりと腰を下ろす。
「体育の先生だっけー?」
「おう」
「そういえば黒たんは駆けっこも一番だったもんねぇ」
熱い紅茶に口をつける横顔を眺めながら、懐かしい姿を思い浮かべると胸がほっこりした。
黒鋼がまだ小学生だった頃、本当に一等賞なのか見てみたくて、こっそり運動会を覗きに行ったことがある。
彼は他の誰よりも身体が小さかったが、誰よりも差をつけてゴールテープを切っていた。一人でギャーギャー騒いで応援していたら黒鋼の母に見つかって、結局一緒にお弁当をご馳走になった。
黒鋼は「なんでてめぇがいるんだよ!」とプリプリ怒りながらも、美味しそうにおにぎりを食べていた。
頬っぺたに米粒がついていたから取ってあげたら、真っ赤になってさらに怒っていたっけ。
(あぁー……ホントあの頃は可愛かったなぁー……)
そういえば昔、庭でキャッチボールをした時に将来の夢を訊ねたことがあった。あの時、彼は「まだ何も考えてない」と言っていた気がする。
そんな黒鋼が自分と同じ教師の道を選んだというのは、なんだか不思議な感じがした。しかも実習先の学校に自分がいて、こんな形で再会を果たすことになるなんて。
そこでファイは、少しずつ昔の感覚が戻って来るような気がして「うふふ」と笑った。
「なんだよ」
「んー? ひょっとしてー、オレが学校の先生になりたいって言ってたから、黒たんも真似ッ子したのかなーって?」
こういう言葉の選び方をすれば、ファイの知っている黒鋼なら絶対に顔を真っ赤にして否定するはずだった。
彼はこちらの言うことには何かと突っかかって来たから、仮に本当にファイの存在がキッカケになっていたとしても、素直に認めることはしないだろうと。
見た目こそどんなに変わっても、人間中身までは早々変わらないはずだ。だからファイは、せめて内面くらいは幼い頃の片鱗を見せてほしくて、胸を躍らせながらにんまりと微笑んだ。
(さぁ来い黒わんこ! ファイお兄さんが久しぶりに遊んであげちゃう!)
だが、その目論見は外れた。
黒鋼は紅茶のカップをテーブルに戻すと、ふぅっと息を吐きだして緩く口角を上げる。目元はどこか優しげに、うっすらと細められてファイを捉えた。
「そうだ」
「……ぇ?」
「てめぇの背中を追いかけて、ここまで来た」
は、という形に口を開けた状態で、ファイは思考も動きも静止した。今の今まで、自分が一体誰と会話をしていたのかさえ、分からなくなる。
一応は重なり合っていた幼い黒鋼と、今の黒鋼の像が一瞬にしてバラバラに分離して見えた。
別に昔のように、涙目になるほどの大袈裟なリアクションを期待していたわけではない。そういうわけでは、決してないのだが。
(この人……誰だろ……)
少なくとも、見た目も中身も自分が知っている黒鋼でないことは確かな気がする。
激しく戸惑い言葉を失うファイに、黒鋼はすっかり大きくなった手をおもむろに伸ばしてきた。
ファイはただ、それを茫然と眺める。
武骨そうな指先が優しく頬を掠めた後、そっと頬にかかる鬱陶しい前髪を撫でた。
「髪、伸びたな」
「……え、ぁ、ぅん」
「悪くない」
「へっ? あ、ぁりが、と……?」
そこはかとなく場の空気を甘ったるく感じるのは気のせいだろうか。
ファイは離れていく手を、伸ばされた時と同じくただ視線で追いかける。骨ばっていて、大きくて、長い指。まるで知らない人の、知らない手だと思った。
なぜか胸が苦しい。そして、一瞬だけ触れられた頬が、火をつけられたように熱くなっていることに気がついた。
(な、なにこれ……なんだこの変な感じ……)
いつまでも石のように硬直したまま戻って来られないファイを置き去りに、黒鋼は再び無表情を取り戻していた。
ソファにのったりと背中を預け、さも当然のように不遜に言い放つ。
「とりあえず飯と風呂」
「……うん」
「あと、しばらく泊めろよ」
「……うん……うん!?」
「おまえソファで寝ろ。ベッドは俺が使ってやる」
「ちょ、ちょっと!?」
黒鋼は床に放り出されていた荷物を手に立ちあがると、ベッドにそれをドスンと置いた。ファイはテーブルに手をつき、慌てて腰を浮かす。
「ちょっとホントに待ってよ! そんな勝手に……!」
「あ? おまえそんだけひょろけりゃソファで十分だろ」
「そ、そういうことを言ってるんじゃなくって!」
「一緒に寝るには流石に狭ぇぞ。このベッドじゃ」
「だからあぁー!!」
広かったら問題ないのかよと突っ込みかけて、内心ハッとする。
噛み合わない会話にちょっと泣きそうになっている自分と、何事にも動じないように見えるマイペースな黒鋼。
これではまるで、昔と立場が逆転しているではないか、と。
もういっそ可愛くなくなったどころの騒ぎではない。ハッキリ言って、この男。
(なんかすっごーく、やりにくいー!!)
しかしこの黒鋼が、その後ただ扱いにくいだけでなく、凄まじい脅威の存在となっていくことを、この時のファイは知るよしもなかった……。
←戻る ・ 次へ→
「黒たん、元気出してー」
終業式があったその日の夜、黒鋼は自室にいた。
「仕方ないよー。だって決まっちゃったことだもんー」
むっつりとした顔で腕を組み、机に向かって椅子に座った黒鋼の真正面の窓。
「そんなに泣かないでー。今生の別れじゃないんだしー」
「うるせぇ! 泣いてねぇし、そもそもおまえはなんつーとこから顔出してやがる!!」
ダァン、と拳で机を叩くと、白い光を放っていたデスクライトが一瞬跳ねた。ファイはそれを見て「マンガみたーい」と言ってへらりと笑う。
そんなアホが顔を覗かせているのは黒鋼の自室の窓で、まるで湯船に浸かるようにサッシに両肘をかけるファイは庭の木をよじ登り、屋根を伝ってここまでやって来た。まるで忍者である。
「いやー。普通に登場するのもつまんないかと思ってー」
「つまんねぇとかそういう問題じゃねぇ……」
「だってもうしばらく会えなくなるでしょ? だからインパクトのあることがしたいなーって」
「……ふん」
黒鋼は思わず鼻で笑うとそっぽを向いた。
そう、彼の言う通り、こんな風にこの男と顔を合わせるのは、今夜が最後なのだ。
それは本当に突然のことだった。
黒鋼は長いこと離れていた父と、再び一緒に暮らすことになった。
父が戻って来たのではなく、母と黒鋼が父の元へ行くことになったのだ。
父はずっと社員寮で生活していたが、長い間ずっと社宅として一軒家を借りられるようにと申請していたらしい。
そして長いこと空きがなかった社宅に、ようやく一軒の空きが出た。
そんなこと自体、全くの初耳だった黒鋼は、嬉しそうな母の様子にただ複雑な心境を持て余すことになった。
住み慣れた家は戻って来るまでの間、父の知り合いに貸すことに決まった。
もちろん転校も余儀なくされるし、今の中学へ通うのは今学期いっぱいとなった。
何もかもが自分の預かり知らぬところで進められて、それは仕方のないことではあるけれど、なんだか取り残されたような気分だった。
父と母と、また3人で一緒に暮らせるのは嬉しいはずなのに。
黒鋼は引っ越しの件をなかなかファイに話せずにいた。
彼の耳にはなんらかの形で情報が入っていたはずだが、向こうからも何も言ってこなかった。
そうして迎えた引っ越し前夜。
明日は早いしそろそろ寝るかと思っていた矢先に窓が叩かれて、見れば窓ガラスにファイが張り付いていた。(心臓が飛び出るかと思った)
「でもよかったねー。またお父さんと一緒に暮らせるようになって」
「……まぁな」
「お母さんも凄く嬉しそうだったし、なんだかオレも嬉しいなー」
「てめぇには何も関係ねぇだろ」
「あるよー。君がお母さんの笑顔が好きなのと一緒でさー」
黒たんが幸せだとオレも嬉しいと、ファイは恥ずかしげもなく言って笑った。そう言われたら悪い気はしないけれど、やっぱり複雑だ。
それは喉の奥に小骨が突き刺さっているような気持ち悪さに似ている。
別にこれで何もかもが終わってしまうわけじゃない。いつかは戻って来るのだし、例えば密かに楽しみにしていた今年の祭りだって、帰ってくればまた毎年参加できるはずだ。
だがそこで、黒鋼はなんだかバツが悪くなって椅子に座りなおした。
素直に認めるのは、嫌だ。嫌だけど、それでも多分、黒鋼が楽しみにしていたのは『今年の夏祭り』であって、いつになるか分からない先のことなど、正直どうでもいい。
(なんでだよ。なんで俺は、こんなアホのこと、こんなに……)
その先は続かなかった。どんな言葉を繋げればしっくり来るのだろう。
やっぱり、ファイといると気持ちにムラが出来る。自分の心の中なのに掴みどころがなくなって、むしろ何を掴みたいのか、何をハッキリさせたいのかさえ、分からなくなる。
「ねぇ黒たーん。元気出してよー。オレとお別れするの寂しいのは分かるけどー」
「は!? おまえ思いあがってんじゃねぇぞ! 逆だ逆! 清々すらぁ!」
「あははー、そっかー」
つい勢いで吐いてしまった暴言に、ファイは相変わらずへらへらと笑っていた。
ちょっとくらいは傷つけよ、と思わなくもなかったが、どうもこの男は本音が見えない。思い起こせば出会ってからずっと、いつだって感情的にぶつかっていたのは自分だけだ。
それはつまり、本気で相手にされていたわけではない、ということになる。
「……おまえって、変だ。ムカつく」
「えー? 今更ー?」
「人形みてぇだ」
「うん?」
「笑ってるけど、別に楽しくて笑ってるわけじゃねぇんだ。きっとそういう顔に作られたから、仕方なく笑ってるだけなんだろ」
ファイは一瞬キョトンとした顔をした。それから、肩を揺らしてくすくすと笑いだす。
何が可笑しいのか知らないが、なんだか腹が立って睨みつけた。
肩の揺れがおさまると、ファイは頬杖をついて目を細め、にやりと口角を上げた。
「……ッ」
それはいつも見るような無邪気な笑顔ではなかったが、確かに見覚えがある。初めて彼に口づけられた日に見た唇と、同じ形をしていたからだ。
心臓が大きく跳ねるのを感じながら、黒鋼は自分の意思でそれから目を逸らすことをしなかった。
なぜか挑まれているような気になる。目を逸らしたら、この先もずっと負け続けることが確定してしまうような、おかしな意地が一瞬にして芽生えるのを感じた。
「生意気だなぁと思ってさ」
笑い方一つで、声音の違いで、この男は纏う空気を自在に操る。
今が夏の盛りだということを忘れるくらい、冷えた空気に。
「取っつきにくくて、可愛くないガキだなって」
「それがてめぇの本性か……」
ファイは目を閉じ、清々したような様子でふっと息を吐きだした。
それを真っ直ぐに見つめながら、黒鋼はひたすら喉が渇くのを感じていた。
ずっとおかしいとは思っていた。
なぜこんなにもベタベタと猫の子を可愛がるように接してくるのか、そういうマニアックな人種なのかと思っていた時期もあったし、今でも少し疑っているが、今のファイの様子を見てやっと分かった。
こいつは『可愛いから』からかっていたのではなく『生意気そうなクソガキ』だから、バカにしておちょくっていただけなのだと。
黒鋼は机の下で拳を握りしめた。
ずっとからかわれて、バカにされて、酷い思いをさせられてきたとは思うけれど、ここまで胸を抉られるような痛みを感じるのは初めてだった。
今までの思い出が全て否定されたような気がする。自分にとっては全て最悪でしかなったはずなのに、なぜか酷く傷ついた。
もういい。どうせ今夜でこいつの顔も見おさめだ。
これ以上一緒にいたら、自分がどんどん弱くなっていく気がして許せない。
だから帰れと一言告げるために息を吸いかける。だが。
「なーんちゃってー!」
次の瞬間、ガラリと空気が温く変わるのを黒鋼は肌で感じた。
「……あ?」
「ビックリした? ねぇどうだった? オレ、ミステリアスなイケメンって感じしたでしょー!」
「…………は」
「どこか影のある儚げな美青年……よし、これからはこのキャラで行こうかなー!」
「…………」
「ふふ!」
……おちょくられた。
最後の最後。これが本当に、最後の夜。
イケメンだの美青年だの、自分で言うなと突っ込みたいのに、開いた口が塞がらなくて何も言えない。
黒鋼は全く違った意味で拳を震わせた。とんでもなく腹が立っている。けれど同じくらい、心底ホッとしている。
ペテン師のような男のくだらない嘘や、冗談や、仕草が、いつだってこんなにも気がかりでしょうがない。
そうだ。『可愛い』も『小さい』も、きっとファイだから尚のことムカついていた。出会った時から多分、こいつだけは理由もなく何かが特別で。
嫌よ嫌よも、という言葉が、黒鋼の脳内にぽっかりと浮かび上がる。そして気がついた。
先刻は見つけられなかった『こんなに』の続き。
きっと自分はこの男のことが好きだった。
それは女と笑い合っているのを見ただけで臍を曲げてしまうような、そういう類いの……。
「だって黒たんオレの未来のお嫁さんでしょー? 可愛くないなんて思うわけないじゃーん!」
「……だったらてめぇ、自分の言った言葉に責任持てるんだよな?」
「はへ?」
いつものように、怒鳴り散らすことはしない。
そんな真似をすればファイの思い通りだし、下で休んでいる母を起してしまう。
黒鋼は小刻みに語尾を震わせながら、椅子から立ち上がるとファイを見下ろした。
「次に会った時」
「え、うん?」
「もし俺がてめぇよりデカくなってたら」
「うんうん」
「てめぇが俺の嫁になれ」
「へ?」
「いいか。男と男の約束だからな!」
「え、いや、あの、嫁とか言ってる時点で男同士の約束もクソもないような」
「てめぇが言うな!!」
結局怒鳴ってしまった黒鋼は、すっかり片付いた荷物の上にあったバスケットボールを掴むと、ファイの顔面に向かって投げつけた。
それが額にヒットしたファイは「ふぎゃ!」と間抜けな声を上げて窓から闇夜へフェードアウトしていく。
屋根を転がる派手な音と、悲鳴と、ドスンという音が聞こえた気がしたが、黒鋼は容赦なく窓を締め、カーテンも締めきった。
そしてそれが、少年時代の黒鋼にとってファイとの最後の思い出になった。
←戻る ・ 下剋上編へ→
終業式があったその日の夜、黒鋼は自室にいた。
「仕方ないよー。だって決まっちゃったことだもんー」
むっつりとした顔で腕を組み、机に向かって椅子に座った黒鋼の真正面の窓。
「そんなに泣かないでー。今生の別れじゃないんだしー」
「うるせぇ! 泣いてねぇし、そもそもおまえはなんつーとこから顔出してやがる!!」
ダァン、と拳で机を叩くと、白い光を放っていたデスクライトが一瞬跳ねた。ファイはそれを見て「マンガみたーい」と言ってへらりと笑う。
そんなアホが顔を覗かせているのは黒鋼の自室の窓で、まるで湯船に浸かるようにサッシに両肘をかけるファイは庭の木をよじ登り、屋根を伝ってここまでやって来た。まるで忍者である。
「いやー。普通に登場するのもつまんないかと思ってー」
「つまんねぇとかそういう問題じゃねぇ……」
「だってもうしばらく会えなくなるでしょ? だからインパクトのあることがしたいなーって」
「……ふん」
黒鋼は思わず鼻で笑うとそっぽを向いた。
そう、彼の言う通り、こんな風にこの男と顔を合わせるのは、今夜が最後なのだ。
それは本当に突然のことだった。
黒鋼は長いこと離れていた父と、再び一緒に暮らすことになった。
父が戻って来たのではなく、母と黒鋼が父の元へ行くことになったのだ。
父はずっと社員寮で生活していたが、長い間ずっと社宅として一軒家を借りられるようにと申請していたらしい。
そして長いこと空きがなかった社宅に、ようやく一軒の空きが出た。
そんなこと自体、全くの初耳だった黒鋼は、嬉しそうな母の様子にただ複雑な心境を持て余すことになった。
住み慣れた家は戻って来るまでの間、父の知り合いに貸すことに決まった。
もちろん転校も余儀なくされるし、今の中学へ通うのは今学期いっぱいとなった。
何もかもが自分の預かり知らぬところで進められて、それは仕方のないことではあるけれど、なんだか取り残されたような気分だった。
父と母と、また3人で一緒に暮らせるのは嬉しいはずなのに。
黒鋼は引っ越しの件をなかなかファイに話せずにいた。
彼の耳にはなんらかの形で情報が入っていたはずだが、向こうからも何も言ってこなかった。
そうして迎えた引っ越し前夜。
明日は早いしそろそろ寝るかと思っていた矢先に窓が叩かれて、見れば窓ガラスにファイが張り付いていた。(心臓が飛び出るかと思った)
「でもよかったねー。またお父さんと一緒に暮らせるようになって」
「……まぁな」
「お母さんも凄く嬉しそうだったし、なんだかオレも嬉しいなー」
「てめぇには何も関係ねぇだろ」
「あるよー。君がお母さんの笑顔が好きなのと一緒でさー」
黒たんが幸せだとオレも嬉しいと、ファイは恥ずかしげもなく言って笑った。そう言われたら悪い気はしないけれど、やっぱり複雑だ。
それは喉の奥に小骨が突き刺さっているような気持ち悪さに似ている。
別にこれで何もかもが終わってしまうわけじゃない。いつかは戻って来るのだし、例えば密かに楽しみにしていた今年の祭りだって、帰ってくればまた毎年参加できるはずだ。
だがそこで、黒鋼はなんだかバツが悪くなって椅子に座りなおした。
素直に認めるのは、嫌だ。嫌だけど、それでも多分、黒鋼が楽しみにしていたのは『今年の夏祭り』であって、いつになるか分からない先のことなど、正直どうでもいい。
(なんでだよ。なんで俺は、こんなアホのこと、こんなに……)
その先は続かなかった。どんな言葉を繋げればしっくり来るのだろう。
やっぱり、ファイといると気持ちにムラが出来る。自分の心の中なのに掴みどころがなくなって、むしろ何を掴みたいのか、何をハッキリさせたいのかさえ、分からなくなる。
「ねぇ黒たーん。元気出してよー。オレとお別れするの寂しいのは分かるけどー」
「は!? おまえ思いあがってんじゃねぇぞ! 逆だ逆! 清々すらぁ!」
「あははー、そっかー」
つい勢いで吐いてしまった暴言に、ファイは相変わらずへらへらと笑っていた。
ちょっとくらいは傷つけよ、と思わなくもなかったが、どうもこの男は本音が見えない。思い起こせば出会ってからずっと、いつだって感情的にぶつかっていたのは自分だけだ。
それはつまり、本気で相手にされていたわけではない、ということになる。
「……おまえって、変だ。ムカつく」
「えー? 今更ー?」
「人形みてぇだ」
「うん?」
「笑ってるけど、別に楽しくて笑ってるわけじゃねぇんだ。きっとそういう顔に作られたから、仕方なく笑ってるだけなんだろ」
ファイは一瞬キョトンとした顔をした。それから、肩を揺らしてくすくすと笑いだす。
何が可笑しいのか知らないが、なんだか腹が立って睨みつけた。
肩の揺れがおさまると、ファイは頬杖をついて目を細め、にやりと口角を上げた。
「……ッ」
それはいつも見るような無邪気な笑顔ではなかったが、確かに見覚えがある。初めて彼に口づけられた日に見た唇と、同じ形をしていたからだ。
心臓が大きく跳ねるのを感じながら、黒鋼は自分の意思でそれから目を逸らすことをしなかった。
なぜか挑まれているような気になる。目を逸らしたら、この先もずっと負け続けることが確定してしまうような、おかしな意地が一瞬にして芽生えるのを感じた。
「生意気だなぁと思ってさ」
笑い方一つで、声音の違いで、この男は纏う空気を自在に操る。
今が夏の盛りだということを忘れるくらい、冷えた空気に。
「取っつきにくくて、可愛くないガキだなって」
「それがてめぇの本性か……」
ファイは目を閉じ、清々したような様子でふっと息を吐きだした。
それを真っ直ぐに見つめながら、黒鋼はひたすら喉が渇くのを感じていた。
ずっとおかしいとは思っていた。
なぜこんなにもベタベタと猫の子を可愛がるように接してくるのか、そういうマニアックな人種なのかと思っていた時期もあったし、今でも少し疑っているが、今のファイの様子を見てやっと分かった。
こいつは『可愛いから』からかっていたのではなく『生意気そうなクソガキ』だから、バカにしておちょくっていただけなのだと。
黒鋼は机の下で拳を握りしめた。
ずっとからかわれて、バカにされて、酷い思いをさせられてきたとは思うけれど、ここまで胸を抉られるような痛みを感じるのは初めてだった。
今までの思い出が全て否定されたような気がする。自分にとっては全て最悪でしかなったはずなのに、なぜか酷く傷ついた。
もういい。どうせ今夜でこいつの顔も見おさめだ。
これ以上一緒にいたら、自分がどんどん弱くなっていく気がして許せない。
だから帰れと一言告げるために息を吸いかける。だが。
「なーんちゃってー!」
次の瞬間、ガラリと空気が温く変わるのを黒鋼は肌で感じた。
「……あ?」
「ビックリした? ねぇどうだった? オレ、ミステリアスなイケメンって感じしたでしょー!」
「…………は」
「どこか影のある儚げな美青年……よし、これからはこのキャラで行こうかなー!」
「…………」
「ふふ!」
……おちょくられた。
最後の最後。これが本当に、最後の夜。
イケメンだの美青年だの、自分で言うなと突っ込みたいのに、開いた口が塞がらなくて何も言えない。
黒鋼は全く違った意味で拳を震わせた。とんでもなく腹が立っている。けれど同じくらい、心底ホッとしている。
ペテン師のような男のくだらない嘘や、冗談や、仕草が、いつだってこんなにも気がかりでしょうがない。
そうだ。『可愛い』も『小さい』も、きっとファイだから尚のことムカついていた。出会った時から多分、こいつだけは理由もなく何かが特別で。
嫌よ嫌よも、という言葉が、黒鋼の脳内にぽっかりと浮かび上がる。そして気がついた。
先刻は見つけられなかった『こんなに』の続き。
きっと自分はこの男のことが好きだった。
それは女と笑い合っているのを見ただけで臍を曲げてしまうような、そういう類いの……。
「だって黒たんオレの未来のお嫁さんでしょー? 可愛くないなんて思うわけないじゃーん!」
「……だったらてめぇ、自分の言った言葉に責任持てるんだよな?」
「はへ?」
いつものように、怒鳴り散らすことはしない。
そんな真似をすればファイの思い通りだし、下で休んでいる母を起してしまう。
黒鋼は小刻みに語尾を震わせながら、椅子から立ち上がるとファイを見下ろした。
「次に会った時」
「え、うん?」
「もし俺がてめぇよりデカくなってたら」
「うんうん」
「てめぇが俺の嫁になれ」
「へ?」
「いいか。男と男の約束だからな!」
「え、いや、あの、嫁とか言ってる時点で男同士の約束もクソもないような」
「てめぇが言うな!!」
結局怒鳴ってしまった黒鋼は、すっかり片付いた荷物の上にあったバスケットボールを掴むと、ファイの顔面に向かって投げつけた。
それが額にヒットしたファイは「ふぎゃ!」と間抜けな声を上げて窓から闇夜へフェードアウトしていく。
屋根を転がる派手な音と、悲鳴と、ドスンという音が聞こえた気がしたが、黒鋼は容赦なく窓を締め、カーテンも締めきった。
そしてそれが、少年時代の黒鋼にとってファイとの最後の思い出になった。
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中学生になって、黒鋼はバスケ部に入った。
本当は剣道がしたかったものの、残念なことに剣道部自体がなかったため、諦めた。そこで悩んだ末、バスケをすると背が伸びると聞いて入部を決めた。
今は毎日のように日が暮れるまで部活動に勤しんでいる。
その日も暗くなってから帰宅すると、母が夕食の支度をしていた。
「あらおかえりなさい」
母は笑顔で黒鋼に声をかけながら、大きなボウルに山のように積まれたジャガイモの皮を剥いていた。
「こんな大量のジャガイモ、一体どうしたんだ?」
「うふふ、凄いでしょ? お隣さんがさっきいらして、お裾分けしてくださったの。コロッケとポテトサラダにしようと思って。出来上がったらお隣さんにも少し持って行くって約束したのよ」
それにしたったこれだけの量を一人で剥くのは大変だろうと、手を洗って腕まくりをした黒鋼がジャガイモの一つに手を伸ばしたとき、母が思い出したように「そうそう!」と少し大き目の声を上げた。
「これを頂いた時に聞いたんだけど……」
母が告げた言葉を聞いて、黒鋼は思わずジャガイモを取り落とした。
*
夜、自室のベッドに寝転んで暗い天井を眺めながら、ジャガイモ料理で腹を膨れさせた黒鋼は、久しぶりに悶々とした気持ちに取り憑かれていた。
最近は新しい環境の中、勉強や部活動に忙しくて忘れていられた感覚だったのに。
台所で母から聞いたのは、ファイが突然イタリアへ帰国することになった、という内容だった。
しかも明日、出発するのだと。
別にヤツがどこへ行こうと、もう自分には関係ない。
それでも一応は最後に顔でも見ておくかと、出来あがったコロッケとポテトサラダを隣に持っていく役を買った。
しかしファイは不在で、会うことは叶わなかった。
前のようにしょっちゅう顔を合わせる仲だったら、もっと事前に直接本人から話を聞けたのかもしれない。
こんなにもモヤモヤすることもなく、ごく普通に見送れた気もする。
ファイは黒鋼のことを『わんこ』なんて呼んだけど、今思えばヤツの方がずっと犬みたいに纏わりついて騒々しかった。
疎遠になってからというもの、本当はずっと胸に風穴が空いたような気がしていた。
今でもおちょくられていた日々を思い出せば腹も立つし、無闇やたらとキスされまくったことも面白くない。
おそらくあれは、犬や猫に飼い主がするような類のキスだったのだと思う。それ以上の特別な意味などなかったのだ。そもそも外人は挨拶代わりに平気でキスをするらしいし。
ならあのキスが、普通に男女が交わすような意味合いを含んでいたとしたら?
去年の夏の夜、ファイが彼女を連れている場面に遭遇しなかったとしたら?
あんなにも腹を立てることはなかったのか……?
「……アホ」
一体なにを考えているのだろう。
そんな気色の悪いことがあってはたまらない。
そう思うのに。
どうして嫌じゃなかったんだろう、と。
別に女のようにファーストキスなんてものに憧れを持っていたわけではないが、初めてを不意打ちのように奪われたことへの衝撃が大きすぎて、抗うまでに気持ちが回らなかったのだろうか。
だがそうすると、それ以降もまるで抵抗できなかったことに説明がつかない。
わからない。何がなんだか、自分がさっぱりわからない。
また腹が立ってきた。会わなくなってまで、まるでヤツにおちょくられているような気がする。
あんなバカはとっととイタリアでもどこでも行ってしまえばいい。考えるだけ無駄だと、黒鋼は寝返りを打って壁と向き合った。
そのまま目を閉じて眠ろうとした時。
『わんわーん、わーんわーん』
「?」
どこからかふざけた声が聞こえた気がして、黒鋼は腰を捩って僅かに半身を起した。
『わんわんわーん、わーんーこー』
わんこ……だと……?
まさか……と思い、ベッドから抜け出すとカーテンを開け、大きな音を立てないようにそっと窓を開けた。
「あ、わんこー!」
「!?」
黒鋼の部屋の窓から丁度見下ろせる門扉の前で、ファイが街灯に照らされながらウサギのように跳ねて両手を振っている。
しかも、もはや黒鋼の『黒』すらなく、ただのわんこ呼びである。
一応、コソコソ話をするようなトーンで声を潜めてはいるらしいが、もし近所の者が見たらただの危ない人だ。
(あのバカ……!)
黒鋼は一つ舌打ちをすると、上着を手に慌てて部屋を飛び出した。
*
夏隣と呼ばれる晩春のこの時期、夜の風はどこか生温く、いやに湿っぽい。
家の前で会話するには時間も遅すぎて、2人はなんとなくすぐ近くの公園へ向かった。
顔を合わせた時に一言二言声を交わした程度で、その道のりでは他に会話らしい会話はなかった。
並んで歩くとやっぱりファイは長身で、黒鋼とは頭一つ分くらいの差があった。
これでも多少は伸びた方なのだが、改めて並ぶとまだまだ届きそうもないなと、ぼんやり思う。
ほんの数分歩くだけで、目的地にはすぐ到着した。
夜の公園はどこか不気味で、しかも街灯が切れかかっているせいでいかにも何か出そうな雰囲気を醸し出している。
敷地内にある自販機横のベンチに腰掛ける黒鋼に、ファイがそこで買った冷たいお茶の缶を手渡してきた。
とりあえず素直に受け取っておく。
「こんな時間に話ってなんだ」
貰ったお茶は脇に置いて、一人分くらい空白を開けて隣に座ったファイを横目で睨んだ。おそらく帰国の話だろうと思ったが、何もわざわざ律儀に顔を見せに来ることもないのに。
そうは思いつつ、最後に顔を見れたことに少しだけホッとしたが、その感情は胸の奥底に押し込めた。
「久しぶりに未来のお嫁さんの顔を見に来たんだよー」
「てめぇ……まだそんなこと言ってんのか」
呆れて怒る気にもなれない黒鋼を見て、ファイは「ふふふ」と笑った。
こんなやり取りは久しぶりで、でも思い出しみれば彼と顔を合わせなくなってから、まだ1年も経っていないことに気がついた。
あの頃まだ自分は小学生で、ファイはギリギリ10代だった。それがまるでずっと昔のことのように感じる。
「黒たんにさー、一応は謝らないとなーって思って」
懐かしさに浸っていた黒鋼に、ファイが珍しく俯いてしおらしげに切り出した。
こんなことは今までにないことで、らしくない様を見せられると落ち着かない気持ちになる。
「なんだよ。今更よせよ」
「そうかもだけどー……お母さんからは、聞いたでしょ?」
「ああ……」
「黒たんが来てくれたって聞いたけど、会えなかったから」
「別に、それ聞いたから行ったわけじゃねぇからな」
嘘なわけだが。
どうも素直になれない黒鋼だったが、それでもファイは嬉しそうに笑った。
「よかったー」
「何が」
「またこうしてお話してもらえて」
「…………」
「嫌われるようなこと沢山しちゃったのは分かってたけど、急に会えなくなっちゃったから」
「それは、おまえが……」
『最後だ』なんて言うから。それが悔しくて、腹が立って。
しかし改めて言われると、ごく普通に挨拶を交わす程度の付き合いすら放棄してしまった自分の方が、悪いことをしてしまったような気になってくる。
「だからね、こうやってちゃんと会ってもらえて、本当によかったー」
そう言って、ファイは目元を指先で拭いながら笑った。
その手首にオモチャのようなアクセサリーが光っていることに、黒鋼は息を飲んだ。それはあの夜に投げつけたものだ。
ゴミとまで言ったものをわざわざ作って、しかも大事に身につけているだなんて。
「あ、ほら。これのお礼もまだ言えてなかったしね」
黒鋼の目がブレスレットに釘付けになっていることに気付いたファイが、手首を緩く振って「ありがと」と小さな声で言う。
「これ、ずっと大事にするからね」
「別に……」
そう言って目を背けるつもりが、タイミングを逃してしまった。
自販機の煌々とした明かりが、彼の潤んだ瞳に写し出されていた。また嘘泣きかと思ったのは一瞬で、思えば今夜限りでファイはこの国を去るのだということを思い出した。
今更のようにそれが重く圧し掛かって来るような気がする。なぜか少し、焦った。
「もう帰ってこれねぇのか……?」
だから咄嗟に聞いていた。
そもそも、どんな理由があって帰ることになったのかまでは、聞いていない。
ファイは小さく唸ると、また俯いた。
「オレの母親、日本人だったんだけど、オレが小さい頃に死んじゃったって話は、したことあったかな?」
「いや、初耳だ……」
「そっかー。オレねー、母親の影響でずっと日本に憧れてて。それで無理言ってこっちに来させてもらってたんだー」
黒鋼はファイが幼い頃に母を亡くしているという事実に、ショックを受けた。
思えばなぜ一人きりでわざわざ日本へやって来たのかも、考えてみれば不思議な話だったが、彼の口から聞いて初めて知った。
「でも、昨日連絡があって……ユゥイが身体壊して倒れちゃったって……」
「弟、だったな」
「うん……あの子は小さな頃から身体が弱かったから……」
ファイはその弟を心配して、傍で看病するために帰国することを決めたのだと言った。
「オレが傍にいてあげないと。きっと今ごろ、凄く不安だと思うから」
「……そうか」
ならば、いつまた日本へ戻って来られるかは分からないということなのだろう。ただ分かるのは、ファイが弟のことを深く案じているということだった。
黒鋼は何を言えばいいのか、言うべきなのか、ただ言葉を失っていた。向こうでも頑張れよ、だとか、気をつけて行って来い、だとか。多分、そういった月並みな言葉が正解なのだと、頭では分かっていた。
なのに、なぜかそんな簡単な言葉がすんなりと口から出てこない。
昔はあんなに関わりたくないと思っていたのに。一緒にいると腹の立つことばかりで、嫌な思いばかりさせられたのに。
どうしていざ会えなくなると分かった途端、それらがまるでいい思い出だったかのように脳裏に甦って来るのだろう。
それでも、湿っぽくなるのは御免だった。
黒鋼は全てを吹っ切るように大きく息を吐きだした。
「別に、一生会えねぇわけじゃないだろ」
「……うん」
「湿っぽい顔すんな。戻ってきたら、また一緒に太鼓でも叩いてやるよ」
「黒たん……」
そこでやっと、黒鋼は小さく笑うことができた。ファイは情けなく鼻をすすりながら、大きく頷いた。
「なんか、初めて黒たんカッコイイって思っちゃったー」
「初めてが余計だ」
「カッコイイお嫁さんっていうのも、悪くないかもだねー」
「あのなぁ、いい加減その嫁ってのよせ」
えへへ、と照れ臭そうに笑いながら、ファイは子供のように拳で頬の涙をぬぐっていた。
こんな形でファイの泣き顔を見ることになったのは少し複雑だが、こうして改めて言葉を交わしたことで、新たにいい関係が築けたような気がして清々しい気持ちになる。
しかしそれも束の間。
カツンと音を立てて、何かが足元に転がったかと思うと、サンダルを突っかけてきた黒鋼の足先に冷たい何かがぶつかった。
「何か落としたぞ」
「あ」
「……なんだこれ?」
咄嗟に拾い上げたものを確認するために、目の位置から少し高いところまで持ち上げて見た。
それは『うるるんMAX』と表記された、ピンクの液体の目薬だった……。
「おい……これは何だ……?」
拾い上げた目薬を摘まんでいる指先が、カタカタと震えていた。
「あ、あれー? これなんだろうねー?」
「おまえの方から落ちてきたみてぇだがな?」
「隕石かなー? 急に落ちて来るなんてビックリだねー? あ、あれ? 黒たん? どうしたのそんなに震えて……?」
「てめぇ……」
すすす、とベンチの端まで移動して、そのままそっと立ち上がろうとしているファイの頭に、ぬうっと手を伸ばした。
今日という今日は。
「絶っっっ対に許さねぇぞ!!!」
「ギャーッ! 痛い痛い!! 助けてーっ!!」
金の髪を思い切り鷲掴み、ハゲろとばかりにグイグイと力いっぱい引っ張ってやる。ファイが悲鳴を上げてジタバタ暴れても、もう容赦するつもりはなかった。
近所迷惑だろうが何だろうが、仮に警察が駆けつけたところでコイツを「おまわりさん、コイツ変態です」と言って突き出してやれば済む話だ。
「最後の最後まで嘘泣きすんじゃねぇ!! 死ね!! ハゲ上がって死ね!!」
「ハゲるのイヤーッ! 雰囲気出した方がいいかと思っただけなのにー!」
「俺の感動を返せ!! てめぇなんか二度と帰ってくんな!!」
「いきなりハゲて帰ったらユゥイがビックリしちゃうよぉー!!」
「知るか!!!」
黒鋼は本気でファイの髪を全て毟る気満々だったが、持ち主に似て図太い毛根はなかなかの踏ん張りを見せ、やがてファイが逃げ出すことに成功したお陰で目論見は失敗に終わった。
黒鋼の怒りは収まるどころか無限に膨らみ、走って逃げていくファイを鬼の形相で追いかける。
「待てえぇ!!!」
「子鬼が!! 可愛い子鬼が追いかけて来るぅー!!」
「ぶん殴る!!!」
「キャーッ!!」
公園の遊具をグルグルと回るようにして追いかけ回す中、いつの間にやら楽しげに笑いだしているファイが憎たらしくて仕方がなかった。
なんとしても捕まえて、一発殴らなければ気が済まない。
だが、足の速さに自信のある黒鋼でも、ちょこまかと動き回るファイを捕えることがなかなかできない。
「あははー! 早く捕まえてごらーん!」
「バカにしやがって!! 止まれ!! マジで殴る!!」
「殴ると言われて止まるバカはいないよー!」
「うるせぇアホ!! バカ!!」
「あ、オレ来週には普通に帰ってくるからねー!」
「……はぁあぁ!?」
黒鋼は、思わず足をもつれさせて思いっきりすっ転んだ。
目薬を使って嘘泣きを演出したどころか、最初からまるっきり騙されていたということか。
どこまで人をコケにすれば気が済むのだろう。
黒鋼は砂地に四つん這いになったまま、開いた口が塞がらない状態だった。
「わーい! ドッキリ大成功ー!!」
ファイはキャーキャーと楽しそうにはしゃいで、飛び跳ねながら万歳をしている。
黒鋼は震える指先をぐしゃりと握った。公園の乾いた砂が、爪の中に深く潜り込んでくるのもお構いなしに。
(こいつ……こいつだけは……死んでも許さねぇ……)
「いいか!? いつかぜってー泣かすからな!! 覚えとけよ!!」
未だに変声期を向かえないままの黒鋼の少年らしい甲高い声と、ファイの楽しげに笑う声が、静まりかえっていた町中に響き渡った。
やがて本当に巡回中だったお巡りさんがやってきて、2人揃ってたっぷり叱られたのは別の話である。
*
結局、ファイによる壮大な釣り作戦は大成功し、黒鋼はそれにまんまと引っかかって終った。
弟のユゥイはそもそも身体が弱いなどという設定もなく、ちょっと風邪をこじらせただけで、お見舞いがてら里帰りしたファイは本当にきっかり一週間で日本に帰って来た。
そして幸か不幸か、以前のように顔を合わせればからかわれる日常が戻ってきた。
その度に悔しいし、殴りかかりたくて仕方がなかったけれど、不思議と安堵している自分もいた。疎遠になっていた間ずっと風通しのよかった胸の隙間が、すっかり塞がったような気がする。
「今年の夏祭り、一緒に行かない?」
そう言われて、咄嗟に「彼女とは別れたのか」と聞くと、「そんなのいないよ?」と不思議そうに返された。
そこで初めてファイが去年の祭りで出店のバイトに加わっていたことを知った。まるっきり勘違いしていた自分が恥ずかしくて、そしてバカバカしかった。
そして黒鋼は、ちょっとだけ嫌そうな顔をして見せたものの一緒に祭へ行くことを了承した。
昨年は少し苦いような、甘酸っぱい思い出に終わってしまったけれど、今年はきっといい夏になると思えた。
なんだかんだで、ファイが傍にいるとホッとするし、悔しい半面、楽しい。そのくらいはそろそろ認めてやってもいいかと思った。
それなのに。
夏を待たずして、黒鋼の生活に変化が訪れることになった。
皮肉なことに、嘘でも冗談でもなく本当に『別れ』の時が来てしまったのだ。
←戻る ・ 次へ→
本当は剣道がしたかったものの、残念なことに剣道部自体がなかったため、諦めた。そこで悩んだ末、バスケをすると背が伸びると聞いて入部を決めた。
今は毎日のように日が暮れるまで部活動に勤しんでいる。
その日も暗くなってから帰宅すると、母が夕食の支度をしていた。
「あらおかえりなさい」
母は笑顔で黒鋼に声をかけながら、大きなボウルに山のように積まれたジャガイモの皮を剥いていた。
「こんな大量のジャガイモ、一体どうしたんだ?」
「うふふ、凄いでしょ? お隣さんがさっきいらして、お裾分けしてくださったの。コロッケとポテトサラダにしようと思って。出来上がったらお隣さんにも少し持って行くって約束したのよ」
それにしたったこれだけの量を一人で剥くのは大変だろうと、手を洗って腕まくりをした黒鋼がジャガイモの一つに手を伸ばしたとき、母が思い出したように「そうそう!」と少し大き目の声を上げた。
「これを頂いた時に聞いたんだけど……」
母が告げた言葉を聞いて、黒鋼は思わずジャガイモを取り落とした。
*
夜、自室のベッドに寝転んで暗い天井を眺めながら、ジャガイモ料理で腹を膨れさせた黒鋼は、久しぶりに悶々とした気持ちに取り憑かれていた。
最近は新しい環境の中、勉強や部活動に忙しくて忘れていられた感覚だったのに。
台所で母から聞いたのは、ファイが突然イタリアへ帰国することになった、という内容だった。
しかも明日、出発するのだと。
別にヤツがどこへ行こうと、もう自分には関係ない。
それでも一応は最後に顔でも見ておくかと、出来あがったコロッケとポテトサラダを隣に持っていく役を買った。
しかしファイは不在で、会うことは叶わなかった。
前のようにしょっちゅう顔を合わせる仲だったら、もっと事前に直接本人から話を聞けたのかもしれない。
こんなにもモヤモヤすることもなく、ごく普通に見送れた気もする。
ファイは黒鋼のことを『わんこ』なんて呼んだけど、今思えばヤツの方がずっと犬みたいに纏わりついて騒々しかった。
疎遠になってからというもの、本当はずっと胸に風穴が空いたような気がしていた。
今でもおちょくられていた日々を思い出せば腹も立つし、無闇やたらとキスされまくったことも面白くない。
おそらくあれは、犬や猫に飼い主がするような類のキスだったのだと思う。それ以上の特別な意味などなかったのだ。そもそも外人は挨拶代わりに平気でキスをするらしいし。
ならあのキスが、普通に男女が交わすような意味合いを含んでいたとしたら?
去年の夏の夜、ファイが彼女を連れている場面に遭遇しなかったとしたら?
あんなにも腹を立てることはなかったのか……?
「……アホ」
一体なにを考えているのだろう。
そんな気色の悪いことがあってはたまらない。
そう思うのに。
どうして嫌じゃなかったんだろう、と。
別に女のようにファーストキスなんてものに憧れを持っていたわけではないが、初めてを不意打ちのように奪われたことへの衝撃が大きすぎて、抗うまでに気持ちが回らなかったのだろうか。
だがそうすると、それ以降もまるで抵抗できなかったことに説明がつかない。
わからない。何がなんだか、自分がさっぱりわからない。
また腹が立ってきた。会わなくなってまで、まるでヤツにおちょくられているような気がする。
あんなバカはとっととイタリアでもどこでも行ってしまえばいい。考えるだけ無駄だと、黒鋼は寝返りを打って壁と向き合った。
そのまま目を閉じて眠ろうとした時。
『わんわーん、わーんわーん』
「?」
どこからかふざけた声が聞こえた気がして、黒鋼は腰を捩って僅かに半身を起した。
『わんわんわーん、わーんーこー』
わんこ……だと……?
まさか……と思い、ベッドから抜け出すとカーテンを開け、大きな音を立てないようにそっと窓を開けた。
「あ、わんこー!」
「!?」
黒鋼の部屋の窓から丁度見下ろせる門扉の前で、ファイが街灯に照らされながらウサギのように跳ねて両手を振っている。
しかも、もはや黒鋼の『黒』すらなく、ただのわんこ呼びである。
一応、コソコソ話をするようなトーンで声を潜めてはいるらしいが、もし近所の者が見たらただの危ない人だ。
(あのバカ……!)
黒鋼は一つ舌打ちをすると、上着を手に慌てて部屋を飛び出した。
*
夏隣と呼ばれる晩春のこの時期、夜の風はどこか生温く、いやに湿っぽい。
家の前で会話するには時間も遅すぎて、2人はなんとなくすぐ近くの公園へ向かった。
顔を合わせた時に一言二言声を交わした程度で、その道のりでは他に会話らしい会話はなかった。
並んで歩くとやっぱりファイは長身で、黒鋼とは頭一つ分くらいの差があった。
これでも多少は伸びた方なのだが、改めて並ぶとまだまだ届きそうもないなと、ぼんやり思う。
ほんの数分歩くだけで、目的地にはすぐ到着した。
夜の公園はどこか不気味で、しかも街灯が切れかかっているせいでいかにも何か出そうな雰囲気を醸し出している。
敷地内にある自販機横のベンチに腰掛ける黒鋼に、ファイがそこで買った冷たいお茶の缶を手渡してきた。
とりあえず素直に受け取っておく。
「こんな時間に話ってなんだ」
貰ったお茶は脇に置いて、一人分くらい空白を開けて隣に座ったファイを横目で睨んだ。おそらく帰国の話だろうと思ったが、何もわざわざ律儀に顔を見せに来ることもないのに。
そうは思いつつ、最後に顔を見れたことに少しだけホッとしたが、その感情は胸の奥底に押し込めた。
「久しぶりに未来のお嫁さんの顔を見に来たんだよー」
「てめぇ……まだそんなこと言ってんのか」
呆れて怒る気にもなれない黒鋼を見て、ファイは「ふふふ」と笑った。
こんなやり取りは久しぶりで、でも思い出しみれば彼と顔を合わせなくなってから、まだ1年も経っていないことに気がついた。
あの頃まだ自分は小学生で、ファイはギリギリ10代だった。それがまるでずっと昔のことのように感じる。
「黒たんにさー、一応は謝らないとなーって思って」
懐かしさに浸っていた黒鋼に、ファイが珍しく俯いてしおらしげに切り出した。
こんなことは今までにないことで、らしくない様を見せられると落ち着かない気持ちになる。
「なんだよ。今更よせよ」
「そうかもだけどー……お母さんからは、聞いたでしょ?」
「ああ……」
「黒たんが来てくれたって聞いたけど、会えなかったから」
「別に、それ聞いたから行ったわけじゃねぇからな」
嘘なわけだが。
どうも素直になれない黒鋼だったが、それでもファイは嬉しそうに笑った。
「よかったー」
「何が」
「またこうしてお話してもらえて」
「…………」
「嫌われるようなこと沢山しちゃったのは分かってたけど、急に会えなくなっちゃったから」
「それは、おまえが……」
『最後だ』なんて言うから。それが悔しくて、腹が立って。
しかし改めて言われると、ごく普通に挨拶を交わす程度の付き合いすら放棄してしまった自分の方が、悪いことをしてしまったような気になってくる。
「だからね、こうやってちゃんと会ってもらえて、本当によかったー」
そう言って、ファイは目元を指先で拭いながら笑った。
その手首にオモチャのようなアクセサリーが光っていることに、黒鋼は息を飲んだ。それはあの夜に投げつけたものだ。
ゴミとまで言ったものをわざわざ作って、しかも大事に身につけているだなんて。
「あ、ほら。これのお礼もまだ言えてなかったしね」
黒鋼の目がブレスレットに釘付けになっていることに気付いたファイが、手首を緩く振って「ありがと」と小さな声で言う。
「これ、ずっと大事にするからね」
「別に……」
そう言って目を背けるつもりが、タイミングを逃してしまった。
自販機の煌々とした明かりが、彼の潤んだ瞳に写し出されていた。また嘘泣きかと思ったのは一瞬で、思えば今夜限りでファイはこの国を去るのだということを思い出した。
今更のようにそれが重く圧し掛かって来るような気がする。なぜか少し、焦った。
「もう帰ってこれねぇのか……?」
だから咄嗟に聞いていた。
そもそも、どんな理由があって帰ることになったのかまでは、聞いていない。
ファイは小さく唸ると、また俯いた。
「オレの母親、日本人だったんだけど、オレが小さい頃に死んじゃったって話は、したことあったかな?」
「いや、初耳だ……」
「そっかー。オレねー、母親の影響でずっと日本に憧れてて。それで無理言ってこっちに来させてもらってたんだー」
黒鋼はファイが幼い頃に母を亡くしているという事実に、ショックを受けた。
思えばなぜ一人きりでわざわざ日本へやって来たのかも、考えてみれば不思議な話だったが、彼の口から聞いて初めて知った。
「でも、昨日連絡があって……ユゥイが身体壊して倒れちゃったって……」
「弟、だったな」
「うん……あの子は小さな頃から身体が弱かったから……」
ファイはその弟を心配して、傍で看病するために帰国することを決めたのだと言った。
「オレが傍にいてあげないと。きっと今ごろ、凄く不安だと思うから」
「……そうか」
ならば、いつまた日本へ戻って来られるかは分からないということなのだろう。ただ分かるのは、ファイが弟のことを深く案じているということだった。
黒鋼は何を言えばいいのか、言うべきなのか、ただ言葉を失っていた。向こうでも頑張れよ、だとか、気をつけて行って来い、だとか。多分、そういった月並みな言葉が正解なのだと、頭では分かっていた。
なのに、なぜかそんな簡単な言葉がすんなりと口から出てこない。
昔はあんなに関わりたくないと思っていたのに。一緒にいると腹の立つことばかりで、嫌な思いばかりさせられたのに。
どうしていざ会えなくなると分かった途端、それらがまるでいい思い出だったかのように脳裏に甦って来るのだろう。
それでも、湿っぽくなるのは御免だった。
黒鋼は全てを吹っ切るように大きく息を吐きだした。
「別に、一生会えねぇわけじゃないだろ」
「……うん」
「湿っぽい顔すんな。戻ってきたら、また一緒に太鼓でも叩いてやるよ」
「黒たん……」
そこでやっと、黒鋼は小さく笑うことができた。ファイは情けなく鼻をすすりながら、大きく頷いた。
「なんか、初めて黒たんカッコイイって思っちゃったー」
「初めてが余計だ」
「カッコイイお嫁さんっていうのも、悪くないかもだねー」
「あのなぁ、いい加減その嫁ってのよせ」
えへへ、と照れ臭そうに笑いながら、ファイは子供のように拳で頬の涙をぬぐっていた。
こんな形でファイの泣き顔を見ることになったのは少し複雑だが、こうして改めて言葉を交わしたことで、新たにいい関係が築けたような気がして清々しい気持ちになる。
しかしそれも束の間。
カツンと音を立てて、何かが足元に転がったかと思うと、サンダルを突っかけてきた黒鋼の足先に冷たい何かがぶつかった。
「何か落としたぞ」
「あ」
「……なんだこれ?」
咄嗟に拾い上げたものを確認するために、目の位置から少し高いところまで持ち上げて見た。
それは『うるるんMAX』と表記された、ピンクの液体の目薬だった……。
「おい……これは何だ……?」
拾い上げた目薬を摘まんでいる指先が、カタカタと震えていた。
「あ、あれー? これなんだろうねー?」
「おまえの方から落ちてきたみてぇだがな?」
「隕石かなー? 急に落ちて来るなんてビックリだねー? あ、あれ? 黒たん? どうしたのそんなに震えて……?」
「てめぇ……」
すすす、とベンチの端まで移動して、そのままそっと立ち上がろうとしているファイの頭に、ぬうっと手を伸ばした。
今日という今日は。
「絶っっっ対に許さねぇぞ!!!」
「ギャーッ! 痛い痛い!! 助けてーっ!!」
金の髪を思い切り鷲掴み、ハゲろとばかりにグイグイと力いっぱい引っ張ってやる。ファイが悲鳴を上げてジタバタ暴れても、もう容赦するつもりはなかった。
近所迷惑だろうが何だろうが、仮に警察が駆けつけたところでコイツを「おまわりさん、コイツ変態です」と言って突き出してやれば済む話だ。
「最後の最後まで嘘泣きすんじゃねぇ!! 死ね!! ハゲ上がって死ね!!」
「ハゲるのイヤーッ! 雰囲気出した方がいいかと思っただけなのにー!」
「俺の感動を返せ!! てめぇなんか二度と帰ってくんな!!」
「いきなりハゲて帰ったらユゥイがビックリしちゃうよぉー!!」
「知るか!!!」
黒鋼は本気でファイの髪を全て毟る気満々だったが、持ち主に似て図太い毛根はなかなかの踏ん張りを見せ、やがてファイが逃げ出すことに成功したお陰で目論見は失敗に終わった。
黒鋼の怒りは収まるどころか無限に膨らみ、走って逃げていくファイを鬼の形相で追いかける。
「待てえぇ!!!」
「子鬼が!! 可愛い子鬼が追いかけて来るぅー!!」
「ぶん殴る!!!」
「キャーッ!!」
公園の遊具をグルグルと回るようにして追いかけ回す中、いつの間にやら楽しげに笑いだしているファイが憎たらしくて仕方がなかった。
なんとしても捕まえて、一発殴らなければ気が済まない。
だが、足の速さに自信のある黒鋼でも、ちょこまかと動き回るファイを捕えることがなかなかできない。
「あははー! 早く捕まえてごらーん!」
「バカにしやがって!! 止まれ!! マジで殴る!!」
「殴ると言われて止まるバカはいないよー!」
「うるせぇアホ!! バカ!!」
「あ、オレ来週には普通に帰ってくるからねー!」
「……はぁあぁ!?」
黒鋼は、思わず足をもつれさせて思いっきりすっ転んだ。
目薬を使って嘘泣きを演出したどころか、最初からまるっきり騙されていたということか。
どこまで人をコケにすれば気が済むのだろう。
黒鋼は砂地に四つん這いになったまま、開いた口が塞がらない状態だった。
「わーい! ドッキリ大成功ー!!」
ファイはキャーキャーと楽しそうにはしゃいで、飛び跳ねながら万歳をしている。
黒鋼は震える指先をぐしゃりと握った。公園の乾いた砂が、爪の中に深く潜り込んでくるのもお構いなしに。
(こいつ……こいつだけは……死んでも許さねぇ……)
「いいか!? いつかぜってー泣かすからな!! 覚えとけよ!!」
未だに変声期を向かえないままの黒鋼の少年らしい甲高い声と、ファイの楽しげに笑う声が、静まりかえっていた町中に響き渡った。
やがて本当に巡回中だったお巡りさんがやってきて、2人揃ってたっぷり叱られたのは別の話である。
*
結局、ファイによる壮大な釣り作戦は大成功し、黒鋼はそれにまんまと引っかかって終った。
弟のユゥイはそもそも身体が弱いなどという設定もなく、ちょっと風邪をこじらせただけで、お見舞いがてら里帰りしたファイは本当にきっかり一週間で日本に帰って来た。
そして幸か不幸か、以前のように顔を合わせればからかわれる日常が戻ってきた。
その度に悔しいし、殴りかかりたくて仕方がなかったけれど、不思議と安堵している自分もいた。疎遠になっていた間ずっと風通しのよかった胸の隙間が、すっかり塞がったような気がする。
「今年の夏祭り、一緒に行かない?」
そう言われて、咄嗟に「彼女とは別れたのか」と聞くと、「そんなのいないよ?」と不思議そうに返された。
そこで初めてファイが去年の祭りで出店のバイトに加わっていたことを知った。まるっきり勘違いしていた自分が恥ずかしくて、そしてバカバカしかった。
そして黒鋼は、ちょっとだけ嫌そうな顔をして見せたものの一緒に祭へ行くことを了承した。
昨年は少し苦いような、甘酸っぱい思い出に終わってしまったけれど、今年はきっといい夏になると思えた。
なんだかんだで、ファイが傍にいるとホッとするし、悔しい半面、楽しい。そのくらいはそろそろ認めてやってもいいかと思った。
それなのに。
夏を待たずして、黒鋼の生活に変化が訪れることになった。
皮肉なことに、嘘でも冗談でもなく本当に『別れ』の時が来てしまったのだ。
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あれは一体どういうつもりだったのだろう。
あのキスからというもの、黒鋼はファイを嫌でも意識してしまうようになった。
気がつくとあの薄く微笑んでいた唇を思い出してしまって、恥ずかしくて顔が赤くなってしまう。
だから、あんなことをしたなんて嘘のように変わらないファイ笑顔が、真っ直ぐ見れなくなってしまった。
それを知ってか知らずか、ファイの悪戯の中にキスが加わってしまった。
黒鋼の初な反応がツボにハマったのか、いつものようにからかわれて憤慨すると、諌めるように唇を重ねて来るようになった。
ファイの顔がぐっと近づくと、なぜか魔法にかかったように身体が動かなくなる。
そうされるのが嫌なのか、そうでないのか、毎晩のように悶々と考えるのに、答えが出なかった。
相手が男なのに気持ち悪くないのも不思議で、自分のことなのに、さっぱり分からないのだ。
どっちつかずのまま、遊ぼうと誘われるといつもなんだかんだと問答の末、結局はヤツを受け入れてしまう。
でも、こういうことは誰とでもしていいことじゃないのは知ってる。
だからちゃんと止めるように言わなければ。いつもそう思うのに、なかなか言えないでいるのも不思議だった。
(やめろって言ったって、どうせやめねぇし)
そうだ。言っても無駄なことを言ったって仕方ない。
嫌がる素振りを見せれば、逆にエスカレートしかねないのだし。だから『言えない』のではなくて、あえて『言わない』のだ。
黒鋼はそう自分を納得させたつもりでいたけれど、なぜか言い訳をしているみたいに後ろめたい気もして、また頭の中がグルグルするのだった。
*
7月下旬、小学校は夏休みに入った。
その翌週の日曜日には近所の神社でお祭りがあって、黒鋼はクラスメイトの男子数人と連れだってそれに参加した。
紺地に源氏車柄の浴衣を母に着せてもらい、黒い鼻緒の桐下駄を履いて、お小遣いの入った巾着袋を持たせてもらった。
こんな風に祭りだからと着飾るのは、今年が初めてだった。
祭り会場にはたくさんの出店が出ていて、夜とは思えない明るさだった。
店主が客引きをする声が至るところから響き渡り、それに負けじと金魚すくいや射的などで遊ぶ人々も歓声を上げる。
見上げれば張り巡らされた提灯が、人々と夏の夜の熱気に煽られて揺れている。
どこからともなく聞こえて来る祭囃子を聞きながら、黒鋼も様々な出店をひやかして回った。
こういう場所は、普段なら欲しいとも思わないくだらない品物でも、なぜか無性に欲しくなる。積み上げられたダルマとか、面倒を見切れるかも分からない金魚とか。
焼き鳥や焼きそばなどの食べ物だって、その辺りのスーパーで買ったものの方がずっと安くて美味しいのに、食わずにいられないから不思議だ。
そんな中、友人たちとウロついていた黒鋼は、くじ引きの出店でふと足を止めた。
安っぽい文房具やガード、女子が好みそうな雑貨品などが並ぶ中に、最新のゲーム機なんかも景品として並べられている。
ふと、そういえば今日はファイの姿を見てないな、と思った。
毎年この時期、祭りとなると必ず「一緒に行こう」とうるさく誘ってくるのだが、今年はそれがなかった。
奴にも人付き合いがあるだろうし、あるいは何か用事でもあったのかもしれない。
黒鋼はそのくじ引きの出店にフラフラと足を向け、改めて景品を見まわした。当たるとは思えなかったが、一回くらい運試ししてみるのも面白い。
もし万が一ゲーム機が当たったら、アイツが喜ぶかな、なんて思う。
(別にアイツの喜ぶ顔なんか、見たかねぇけど!)
そんな言い訳をしながら店主に500円玉を渡して、黒鋼はゆっくりと息を吐き出しながら無意味に精神統一をした。
*
しょうもないものが当たってしまった。
せめて文房具でも当たれば学校で使うことも出来たのだが、黒鋼が当てたのはビーズアクセサリーを作るための子供向けキットだった。
ピンク色に星がキラキラしているド派手なパッケージに、中身はカラフルなビーズがジャラジャラと入っている。
こんなものを貰って、一体どうすればいいのか。
母に渡せば喜ぶかもしれないが、得をするどころかとてつもない損をした気分になった。
くじ運がないなと友人には笑われるし、それもこれも全てファイが悪いような気がしてくる。完全な八つ当たりだったが、貴重な最後の500円だっただけに、誰かのせいにせずにはいられない。
そんな時だった。
出店に群がる人々の中に、ひときわ明るい金色を見つけて足を止めた。
浴衣姿ではなく、ラフなシャツにジーンズ姿の彼は頭の側面にキツネの面をして笑っている。
なんとなく距離を縮めてみると、彼は一人ではなかった。朝顔の描かれた綺麗な浴衣を着た、若い女と水風船を釣ってはしゃいでいる。
それを見て、なぜかムッとした。
いつもは何処へ行くにも纏わりついてくるくせに。
こっちがちょっとでも気にしてやると、途端にどこか他へ行くとは何事か。
そもそもあれは、つまり、彼女的なものだろうか。いわゆるお祭りデートというやつなのか。
だとすれば、仕方ない。
臍を曲げるのはお門違いだし、別に曲げてなんかいない。曲げるわけがない。
なのにどういうわけか、無性に腹が立つ。
くじ引きで大外れを引いたことも加担して、黒鋼は思いっきり気分が悪くなった。
「帰る」
友人たちにそっけなく告げて、くるりと背を向ける。
みな不思議そうにしていたが、これ以上この辺りを歩いてファイに存在を気づかれるのも嫌だった。何かそれによって困ることがあるわけではなかったが、なんとなく顔を合わせる気になれない。
だからその前に、とっとと退散することを決めた。
石畳の階段を、ガツガツと乱暴に下駄を鳴らして下りながら、どうしてか初めてあの男に唇を奪われた日のことが脳裏に甦って、苛立ちに拍車をかけた。
*
「あれ?」
ふと顔を上げて、ファイは人通りの多い通路の先に、遠ざかる小さな背中を見た。
「黒たんどうしたんだろー?」
さっきまで友達と店を練り歩き、くじ引きをしてガックリと肩を落としていたはずだが。
食いすぎで気分でも悪くなったのか。それとも、立ち直れないくらいのハズレを引いてしまい、臍でも曲げたのか。
「お客さーん、オレちょっと外しますねー」
「えー! お兄さんもう行っちゃうの?」
「ごめんねー、はい、水風船二つねー」
「お兄さんカッコイイから一個あげる!」
「わー! ありがとー!」
朝顔柄の浴衣で着飾った若い女性が、笑顔で頬を染めながら赤い金魚が描かれた青い水風船を手渡してくる。
それを喜んで受け取ると、店主に軽く断りを入れてファイはその場を後にした。
*
今年の祭りは、大学の友人が店を出すというので、それを手伝うことになった。
大学はテスト期間の真っ最中で、実はこんなことをしている場合ではないのだけれど。祭りはたった一夜にして終ってしまうのだから、参加しなければ後悔しそうな気がした。
本当は黒鋼を無理やりにでも誘って繰り出すつもりだったのだが、どうしてもと頭を下げられて断ることができなかった。
仕方がないので、店を手伝いつつ黒鋼の浴衣姿を遠目から眺めるという、ある種のストーカー行為に専念することにした。
朝顔浴衣の女性は「アタシ上手に取れなーい!」と上目遣いしてくるので、一緒に釣ってやっていただけだった。
友達と一緒になって遊びまわる黒鋼は、暑さに頬を赤く染めているのが、よだれが出そうなくらい可愛かった。
彼はごく普通の子供のように無邪気に笑うことはしないし、ぱっと見はちょっと気難しそうだけど、ずっと見ているとなんとなく分かるようになってくる。
むっつりと口を閉ざしていても楽しい時は楽しいし、祭りの提灯が映り込む大きな瞳には、年相応の子供らしさがちゃんと宿っていた。
ちょっと背伸びした色合いの浴衣も本当によく似合っていて、下駄を履いて歩きにくそうにしているところも、胸にキュンと響いた。
接客もおざなりに目をギラギラさせていたというのに、ちょっと水風船に気を取られていた間に黒鋼の変化を見逃すとは、手痛い失敗だった。
「後から声かけるつもりだったのにー……黒たんどこまで行っちゃったかなー」
慌てて人の群れをすり抜けて、足早に階段を下りる。ひとたび祭り会場から背を向けるだけで、祭囃子も歓声も、酷く遠くに感じられた。
階段を下り切ったところで、ファイはキョロキョロと辺りを見回す。すぐ上では煌々と明かりが灯されているが、ここはすっかり暗くて街灯だけが頼りだ。
家の方向へ走りだそうとしたところで、ファイは「あ!」と声を上げた。
「黒たん! おーい!」
神社の敷地を囲む、低い石垣。ちょうど街灯の真下に、黒鋼が腰掛けている。こちらに気づいたようで、なぜかギクリと肩を揺らすのが見えた。
ファイはぶんぶんと手を振ってそれに駆け寄る。
「わぁい見つけたー! まだお祭り終わらないのに、もう帰っちゃうのー?」
「お、おまえ……なんで」
「なんでってー? あれ、どうかした?」
近づいてみて分かったのだが、黒鋼は左足の下駄だけ脱いで、その足をちょっと高く持ち上げている。ファイが問うと、彼は慌てた様で「なんでもねぇ!」と声を張り上げた。ああそうか、とその様に合点がいく。
「ちょっと見せてごらん」
「なんだよ、触んな」
「あー、腫れてきちゃって可哀想に……ひねった?」
「…………」
ファイが正面に膝をつき、痛めたらしい左足にそっと触れて確かめると、彼はムッとしたような顔をしていたが、素直にこくんと頷いた。
きっと慣れない下駄で、無理して足早に階段を下りたのだろう。なぜそんなに急いでいたのかは分からないが、もしかしたら自分があの場にいたことがバレたのかもしれない。
今だって、なぜか全くと言っていいほど目を合わせたがらないし。
(最近ちょっとからかいすぎちゃったからなー)
多分、この子はあのことを気にしてる。ファイが悪戯に奪ってしまった唇のこと。
日本人に不向きな冗談は、とりわけ真面目で純粋な黒鋼少年には、少しばかりキツかったのかもしれない。
あの時は、からかってやろうとか、悪戯してやろうとか、そんな風に思ったのではなかった。
故郷ではよく子供の頃にユゥイとケンカすると、仲直りのキスをしていた。
ファイは活発で口が達者な子供だったから、口論になるとおっとりした性格の弟は必ず負ける。
すると彼は頬を真っ赤にして、青い瞳にいっぱいの涙を溜めていた。それが可愛くて、そしてちょっぴり申し訳なくて『ごめんね』のキスをすると照れ臭そうに笑って許してくれた。
だからついその感覚で触れてみたら、黒鋼があまりにも初な反応をするから。怒るかと思いきや口を噤んで真っ赤になる姿が面白くて、ほんの少しだけ、悪いことをしてしまったことへの背徳感もあって。
その後もそれが癖になって、うっかり常習化してしまった。
「ごめんねー、黒わんこー」
「……なんで謝る?」
「おんぶしてあげるから、一緒に帰ろ?」
「は!? ふざけんな! 俺は一人でも歩けるぞ!」
遠慮しなくていいのにな、と思っていると、浴衣を着た親子連れが道を通りすがった。
黒鋼は彼らをチラリと見やって居心地悪そうにしている。なるほど、背負われているのを誰かに見られるのが嫌なのか。
大人が子供を背負う姿なんて、誰が見ても気にしないと思うのだが。子供扱いされるのを嫌がる少年にしてみれば、そんなことは関係ないのかもしれない。
ファイは小さく笑うと、頭にしていたキツネの面を外し、黒鋼の頭に輪を通そうとした。
だが、まるでハエを追い払うように避けられてしまう。
「なんだよ、そんなもんいらねぇよ」
「お面して。顔隠しちゃえば平気。ね?」
「!」
恥ずかしがっていたことを見透かされたのが、さらに恥ずかしかったらしい。黒鋼は街灯の下でもわかるほど頬を赤らめて、不満そうに唇を尖らせた。
(やっぱ可愛いなー……)
たった一人の少年を相手に、こんなにハマるとは正直自分でも思わなかった。
黒鋼はすぐ怒るし、いじけるし、顔を赤くしたり涙目になったり、出会った頃からずっと変わらずイジり甲斐がある。
流してしまえば済むことにも、その都度いちいち突っかかって来るから、退屈しない。だからつい、あの手この手でちょっかいをかけてしまうのだけれど。
(ちゅうするのは、もうやめてあげよーっと)
ファイは笑って、もう一度黒鋼の頭に面の輪を持って行った。今度は抵抗しない。
そこでようやく、目と目が合った。
「これで最後にしてあげる」
「……?」
目を丸くした黒鋼の唇に、一瞬のキスをした。なぜかどうしても、最後に一度だけ触れたくて。
すぐにそれを離すと、すかさず彼の小さな顔に面をかぶせた。ついでに貰った水風船も指に通してやる。
そしてそのまま手をそっと引きがてら背中を向けると、ほんの少しの抵抗のあと、背中に熱が圧し掛かる。
よいしょ、という掛け声と同時に少年を背負い、立ち上がると歩き出した。
(意外と重いんだなー)
いつかキスどころか、気軽にからかったりも出来なくなるのかな、なんて。
ますます遠ざかる祭囃子を聞きながら、寂しさを感じずにはいられなかった。
*
『これで最後にしてあげる』
その言葉が、黒鋼にはまるで別れの言葉のように聞こえた。
ファイには優先させるべき事柄は他にも沢山あって、特別な存在もいる。いつまでも、たかだか隣に住んでいるというだけの子供を相手にする時間など、ないのだと。
別に構ってほしくて構われていたわけではないし、これで解放されるなら願ってもないことだけど。
だからあれが別れのキスだったのだと考えると、実にすんなり理解が及んだ。
なのに、なぜかとんでもなく腹が立って仕方がない。心にぽっかりと大きな隙間が生まれたような、そんな気がした。
ファイに背負われて家につくまでの間、黒鋼は彼が何を言っても無視してやった。
唇がやけに熱くて、別に今はからかわれているわけでもないのに、キツネの面の下で悔し涙が目尻を濡らした。
何が悔しいのかさえも分からなかったけれど、とにかく苛々が後を絶たなかった。
ただひょろ長いだけにしか見えない背中を大きく感じて、けれど遠くにも感じて、掴めない何かに手を伸ばす感覚は、ただひたすら黒鋼の未熟な胸中をジリジリと炙った。
ファイは特に気にした様子もなく、一人で勝手にあーだこーだとバカみたいに喋っていた。
そういえばあの彼女はどうしたのだろう。神社に置き去りにしてきたのだろうか。あんな人ごみの中に、大切な人を。
「おうちについたよー。お母さん起きてるかなー?」
自宅前まで来たところで、ファイが門に手をかける前に黒鋼はその背中から強引に下りた。指に引っかかっている水風船が激しく踊る。
その拍子にうっかり捻ってしまった足首が痛んだが、顔に出さないようにぐっと堪える。
「大丈夫? 玄関までおんぶしてあげたのに」
「……いらねぇ」
「そお? あ、いけない! それじゃあオレ神社に戻るねー!」
やっぱり彼女を置き去りのままにはできないらしい。
慌てた様子にさらにムッとして、たった今まで負ぶさっていた背中を睨むと、彼が駆け出す前にくじ引きで引いたビーズアクセサリーのキットを投げつけた。
「アイタ!」
パッケージの角がファイの背中に直撃し、そのままコンクリートの地面に落ちた。
ファイはキョトンとしてそれを拾い上げる。
「なにこれ? わあ、可愛いー」
「ゴミだ。おまえにやる」
「なんでこれがゴミなのー?」
「俺からも最後にくれてやる」
「へ? 最後?」
「じゃあな!!」
「く、黒たんどしたのー!?」
黒鋼は痛む足を引きずって玄関のドアを開けると、ファイの声を無視して素早く家の中に入った。
*
その後も黒鋼のムカムカは静まらなかった。
次の日になってもその次の日になっても、ファイのことを考えると前以上に腹が立つようになった。
毎日うんざりするほど暑いのも、部屋のエアコンが壊れたのも、宿題が終わらないのも、全部がヤツのせいに思えてくる。
だからファイと遭遇することがあっても、あからさまにそっぽを向いて無視してやった。すると彼はわざとらしく「えーん」と言って嘘泣きをする。
それを見るとますます腹立たしくて、黒鋼はいつか絶対に本気で泣かせてやる、と何度も決心を新たにする。
あからさまに避けるようになってから暫くすると、ファイもあまり顔を見せなくなった。彼だって実際のところただ暇なわけではないのだろうし、きっと彼女に夢中になっているに違いない。
そんな風に思っていたら、母からファイがどこぞでバイトをしつつ、自動車学校へも通い始めたという話を聞いた。
やっぱりそれなりに忙しくしていて、自分に飽きたわけではないんだなと、そう思うと悔しいけれどなぜかホッとした。
だが、それからもずっとファイと以前のように遊ぶ機会はなかった。
ちょっと無視するつもりが、風邪をこじらせたみたいに長引いて、会うキッカケを失ってしまった。
でもよくよく考えてみれば、誘ってくるのはいつもファイの方からで、こちらから飛び込んで行ったことなんて一度もないことに気がついた。
すぐ隣に住んでいて、小さな頃からずっと一緒だったのに。
あの祭りの夜から、なんだかとてつもなく遠い存在になってしまったような、そんな気がした。
そして彼が本当に遠い存在になるのは、黒鋼が中学生になってからのことだった。
←戻る ・ 次へ→
あのキスからというもの、黒鋼はファイを嫌でも意識してしまうようになった。
気がつくとあの薄く微笑んでいた唇を思い出してしまって、恥ずかしくて顔が赤くなってしまう。
だから、あんなことをしたなんて嘘のように変わらないファイ笑顔が、真っ直ぐ見れなくなってしまった。
それを知ってか知らずか、ファイの悪戯の中にキスが加わってしまった。
黒鋼の初な反応がツボにハマったのか、いつものようにからかわれて憤慨すると、諌めるように唇を重ねて来るようになった。
ファイの顔がぐっと近づくと、なぜか魔法にかかったように身体が動かなくなる。
そうされるのが嫌なのか、そうでないのか、毎晩のように悶々と考えるのに、答えが出なかった。
相手が男なのに気持ち悪くないのも不思議で、自分のことなのに、さっぱり分からないのだ。
どっちつかずのまま、遊ぼうと誘われるといつもなんだかんだと問答の末、結局はヤツを受け入れてしまう。
でも、こういうことは誰とでもしていいことじゃないのは知ってる。
だからちゃんと止めるように言わなければ。いつもそう思うのに、なかなか言えないでいるのも不思議だった。
(やめろって言ったって、どうせやめねぇし)
そうだ。言っても無駄なことを言ったって仕方ない。
嫌がる素振りを見せれば、逆にエスカレートしかねないのだし。だから『言えない』のではなくて、あえて『言わない』のだ。
黒鋼はそう自分を納得させたつもりでいたけれど、なぜか言い訳をしているみたいに後ろめたい気もして、また頭の中がグルグルするのだった。
*
7月下旬、小学校は夏休みに入った。
その翌週の日曜日には近所の神社でお祭りがあって、黒鋼はクラスメイトの男子数人と連れだってそれに参加した。
紺地に源氏車柄の浴衣を母に着せてもらい、黒い鼻緒の桐下駄を履いて、お小遣いの入った巾着袋を持たせてもらった。
こんな風に祭りだからと着飾るのは、今年が初めてだった。
祭り会場にはたくさんの出店が出ていて、夜とは思えない明るさだった。
店主が客引きをする声が至るところから響き渡り、それに負けじと金魚すくいや射的などで遊ぶ人々も歓声を上げる。
見上げれば張り巡らされた提灯が、人々と夏の夜の熱気に煽られて揺れている。
どこからともなく聞こえて来る祭囃子を聞きながら、黒鋼も様々な出店をひやかして回った。
こういう場所は、普段なら欲しいとも思わないくだらない品物でも、なぜか無性に欲しくなる。積み上げられたダルマとか、面倒を見切れるかも分からない金魚とか。
焼き鳥や焼きそばなどの食べ物だって、その辺りのスーパーで買ったものの方がずっと安くて美味しいのに、食わずにいられないから不思議だ。
そんな中、友人たちとウロついていた黒鋼は、くじ引きの出店でふと足を止めた。
安っぽい文房具やガード、女子が好みそうな雑貨品などが並ぶ中に、最新のゲーム機なんかも景品として並べられている。
ふと、そういえば今日はファイの姿を見てないな、と思った。
毎年この時期、祭りとなると必ず「一緒に行こう」とうるさく誘ってくるのだが、今年はそれがなかった。
奴にも人付き合いがあるだろうし、あるいは何か用事でもあったのかもしれない。
黒鋼はそのくじ引きの出店にフラフラと足を向け、改めて景品を見まわした。当たるとは思えなかったが、一回くらい運試ししてみるのも面白い。
もし万が一ゲーム機が当たったら、アイツが喜ぶかな、なんて思う。
(別にアイツの喜ぶ顔なんか、見たかねぇけど!)
そんな言い訳をしながら店主に500円玉を渡して、黒鋼はゆっくりと息を吐き出しながら無意味に精神統一をした。
*
しょうもないものが当たってしまった。
せめて文房具でも当たれば学校で使うことも出来たのだが、黒鋼が当てたのはビーズアクセサリーを作るための子供向けキットだった。
ピンク色に星がキラキラしているド派手なパッケージに、中身はカラフルなビーズがジャラジャラと入っている。
こんなものを貰って、一体どうすればいいのか。
母に渡せば喜ぶかもしれないが、得をするどころかとてつもない損をした気分になった。
くじ運がないなと友人には笑われるし、それもこれも全てファイが悪いような気がしてくる。完全な八つ当たりだったが、貴重な最後の500円だっただけに、誰かのせいにせずにはいられない。
そんな時だった。
出店に群がる人々の中に、ひときわ明るい金色を見つけて足を止めた。
浴衣姿ではなく、ラフなシャツにジーンズ姿の彼は頭の側面にキツネの面をして笑っている。
なんとなく距離を縮めてみると、彼は一人ではなかった。朝顔の描かれた綺麗な浴衣を着た、若い女と水風船を釣ってはしゃいでいる。
それを見て、なぜかムッとした。
いつもは何処へ行くにも纏わりついてくるくせに。
こっちがちょっとでも気にしてやると、途端にどこか他へ行くとは何事か。
そもそもあれは、つまり、彼女的なものだろうか。いわゆるお祭りデートというやつなのか。
だとすれば、仕方ない。
臍を曲げるのはお門違いだし、別に曲げてなんかいない。曲げるわけがない。
なのにどういうわけか、無性に腹が立つ。
くじ引きで大外れを引いたことも加担して、黒鋼は思いっきり気分が悪くなった。
「帰る」
友人たちにそっけなく告げて、くるりと背を向ける。
みな不思議そうにしていたが、これ以上この辺りを歩いてファイに存在を気づかれるのも嫌だった。何かそれによって困ることがあるわけではなかったが、なんとなく顔を合わせる気になれない。
だからその前に、とっとと退散することを決めた。
石畳の階段を、ガツガツと乱暴に下駄を鳴らして下りながら、どうしてか初めてあの男に唇を奪われた日のことが脳裏に甦って、苛立ちに拍車をかけた。
*
「あれ?」
ふと顔を上げて、ファイは人通りの多い通路の先に、遠ざかる小さな背中を見た。
「黒たんどうしたんだろー?」
さっきまで友達と店を練り歩き、くじ引きをしてガックリと肩を落としていたはずだが。
食いすぎで気分でも悪くなったのか。それとも、立ち直れないくらいのハズレを引いてしまい、臍でも曲げたのか。
「お客さーん、オレちょっと外しますねー」
「えー! お兄さんもう行っちゃうの?」
「ごめんねー、はい、水風船二つねー」
「お兄さんカッコイイから一個あげる!」
「わー! ありがとー!」
朝顔柄の浴衣で着飾った若い女性が、笑顔で頬を染めながら赤い金魚が描かれた青い水風船を手渡してくる。
それを喜んで受け取ると、店主に軽く断りを入れてファイはその場を後にした。
*
今年の祭りは、大学の友人が店を出すというので、それを手伝うことになった。
大学はテスト期間の真っ最中で、実はこんなことをしている場合ではないのだけれど。祭りはたった一夜にして終ってしまうのだから、参加しなければ後悔しそうな気がした。
本当は黒鋼を無理やりにでも誘って繰り出すつもりだったのだが、どうしてもと頭を下げられて断ることができなかった。
仕方がないので、店を手伝いつつ黒鋼の浴衣姿を遠目から眺めるという、ある種のストーカー行為に専念することにした。
朝顔浴衣の女性は「アタシ上手に取れなーい!」と上目遣いしてくるので、一緒に釣ってやっていただけだった。
友達と一緒になって遊びまわる黒鋼は、暑さに頬を赤く染めているのが、よだれが出そうなくらい可愛かった。
彼はごく普通の子供のように無邪気に笑うことはしないし、ぱっと見はちょっと気難しそうだけど、ずっと見ているとなんとなく分かるようになってくる。
むっつりと口を閉ざしていても楽しい時は楽しいし、祭りの提灯が映り込む大きな瞳には、年相応の子供らしさがちゃんと宿っていた。
ちょっと背伸びした色合いの浴衣も本当によく似合っていて、下駄を履いて歩きにくそうにしているところも、胸にキュンと響いた。
接客もおざなりに目をギラギラさせていたというのに、ちょっと水風船に気を取られていた間に黒鋼の変化を見逃すとは、手痛い失敗だった。
「後から声かけるつもりだったのにー……黒たんどこまで行っちゃったかなー」
慌てて人の群れをすり抜けて、足早に階段を下りる。ひとたび祭り会場から背を向けるだけで、祭囃子も歓声も、酷く遠くに感じられた。
階段を下り切ったところで、ファイはキョロキョロと辺りを見回す。すぐ上では煌々と明かりが灯されているが、ここはすっかり暗くて街灯だけが頼りだ。
家の方向へ走りだそうとしたところで、ファイは「あ!」と声を上げた。
「黒たん! おーい!」
神社の敷地を囲む、低い石垣。ちょうど街灯の真下に、黒鋼が腰掛けている。こちらに気づいたようで、なぜかギクリと肩を揺らすのが見えた。
ファイはぶんぶんと手を振ってそれに駆け寄る。
「わぁい見つけたー! まだお祭り終わらないのに、もう帰っちゃうのー?」
「お、おまえ……なんで」
「なんでってー? あれ、どうかした?」
近づいてみて分かったのだが、黒鋼は左足の下駄だけ脱いで、その足をちょっと高く持ち上げている。ファイが問うと、彼は慌てた様で「なんでもねぇ!」と声を張り上げた。ああそうか、とその様に合点がいく。
「ちょっと見せてごらん」
「なんだよ、触んな」
「あー、腫れてきちゃって可哀想に……ひねった?」
「…………」
ファイが正面に膝をつき、痛めたらしい左足にそっと触れて確かめると、彼はムッとしたような顔をしていたが、素直にこくんと頷いた。
きっと慣れない下駄で、無理して足早に階段を下りたのだろう。なぜそんなに急いでいたのかは分からないが、もしかしたら自分があの場にいたことがバレたのかもしれない。
今だって、なぜか全くと言っていいほど目を合わせたがらないし。
(最近ちょっとからかいすぎちゃったからなー)
多分、この子はあのことを気にしてる。ファイが悪戯に奪ってしまった唇のこと。
日本人に不向きな冗談は、とりわけ真面目で純粋な黒鋼少年には、少しばかりキツかったのかもしれない。
あの時は、からかってやろうとか、悪戯してやろうとか、そんな風に思ったのではなかった。
故郷ではよく子供の頃にユゥイとケンカすると、仲直りのキスをしていた。
ファイは活発で口が達者な子供だったから、口論になるとおっとりした性格の弟は必ず負ける。
すると彼は頬を真っ赤にして、青い瞳にいっぱいの涙を溜めていた。それが可愛くて、そしてちょっぴり申し訳なくて『ごめんね』のキスをすると照れ臭そうに笑って許してくれた。
だからついその感覚で触れてみたら、黒鋼があまりにも初な反応をするから。怒るかと思いきや口を噤んで真っ赤になる姿が面白くて、ほんの少しだけ、悪いことをしてしまったことへの背徳感もあって。
その後もそれが癖になって、うっかり常習化してしまった。
「ごめんねー、黒わんこー」
「……なんで謝る?」
「おんぶしてあげるから、一緒に帰ろ?」
「は!? ふざけんな! 俺は一人でも歩けるぞ!」
遠慮しなくていいのにな、と思っていると、浴衣を着た親子連れが道を通りすがった。
黒鋼は彼らをチラリと見やって居心地悪そうにしている。なるほど、背負われているのを誰かに見られるのが嫌なのか。
大人が子供を背負う姿なんて、誰が見ても気にしないと思うのだが。子供扱いされるのを嫌がる少年にしてみれば、そんなことは関係ないのかもしれない。
ファイは小さく笑うと、頭にしていたキツネの面を外し、黒鋼の頭に輪を通そうとした。
だが、まるでハエを追い払うように避けられてしまう。
「なんだよ、そんなもんいらねぇよ」
「お面して。顔隠しちゃえば平気。ね?」
「!」
恥ずかしがっていたことを見透かされたのが、さらに恥ずかしかったらしい。黒鋼は街灯の下でもわかるほど頬を赤らめて、不満そうに唇を尖らせた。
(やっぱ可愛いなー……)
たった一人の少年を相手に、こんなにハマるとは正直自分でも思わなかった。
黒鋼はすぐ怒るし、いじけるし、顔を赤くしたり涙目になったり、出会った頃からずっと変わらずイジり甲斐がある。
流してしまえば済むことにも、その都度いちいち突っかかって来るから、退屈しない。だからつい、あの手この手でちょっかいをかけてしまうのだけれど。
(ちゅうするのは、もうやめてあげよーっと)
ファイは笑って、もう一度黒鋼の頭に面の輪を持って行った。今度は抵抗しない。
そこでようやく、目と目が合った。
「これで最後にしてあげる」
「……?」
目を丸くした黒鋼の唇に、一瞬のキスをした。なぜかどうしても、最後に一度だけ触れたくて。
すぐにそれを離すと、すかさず彼の小さな顔に面をかぶせた。ついでに貰った水風船も指に通してやる。
そしてそのまま手をそっと引きがてら背中を向けると、ほんの少しの抵抗のあと、背中に熱が圧し掛かる。
よいしょ、という掛け声と同時に少年を背負い、立ち上がると歩き出した。
(意外と重いんだなー)
いつかキスどころか、気軽にからかったりも出来なくなるのかな、なんて。
ますます遠ざかる祭囃子を聞きながら、寂しさを感じずにはいられなかった。
*
『これで最後にしてあげる』
その言葉が、黒鋼にはまるで別れの言葉のように聞こえた。
ファイには優先させるべき事柄は他にも沢山あって、特別な存在もいる。いつまでも、たかだか隣に住んでいるというだけの子供を相手にする時間など、ないのだと。
別に構ってほしくて構われていたわけではないし、これで解放されるなら願ってもないことだけど。
だからあれが別れのキスだったのだと考えると、実にすんなり理解が及んだ。
なのに、なぜかとんでもなく腹が立って仕方がない。心にぽっかりと大きな隙間が生まれたような、そんな気がした。
ファイに背負われて家につくまでの間、黒鋼は彼が何を言っても無視してやった。
唇がやけに熱くて、別に今はからかわれているわけでもないのに、キツネの面の下で悔し涙が目尻を濡らした。
何が悔しいのかさえも分からなかったけれど、とにかく苛々が後を絶たなかった。
ただひょろ長いだけにしか見えない背中を大きく感じて、けれど遠くにも感じて、掴めない何かに手を伸ばす感覚は、ただひたすら黒鋼の未熟な胸中をジリジリと炙った。
ファイは特に気にした様子もなく、一人で勝手にあーだこーだとバカみたいに喋っていた。
そういえばあの彼女はどうしたのだろう。神社に置き去りにしてきたのだろうか。あんな人ごみの中に、大切な人を。
「おうちについたよー。お母さん起きてるかなー?」
自宅前まで来たところで、ファイが門に手をかける前に黒鋼はその背中から強引に下りた。指に引っかかっている水風船が激しく踊る。
その拍子にうっかり捻ってしまった足首が痛んだが、顔に出さないようにぐっと堪える。
「大丈夫? 玄関までおんぶしてあげたのに」
「……いらねぇ」
「そお? あ、いけない! それじゃあオレ神社に戻るねー!」
やっぱり彼女を置き去りのままにはできないらしい。
慌てた様子にさらにムッとして、たった今まで負ぶさっていた背中を睨むと、彼が駆け出す前にくじ引きで引いたビーズアクセサリーのキットを投げつけた。
「アイタ!」
パッケージの角がファイの背中に直撃し、そのままコンクリートの地面に落ちた。
ファイはキョトンとしてそれを拾い上げる。
「なにこれ? わあ、可愛いー」
「ゴミだ。おまえにやる」
「なんでこれがゴミなのー?」
「俺からも最後にくれてやる」
「へ? 最後?」
「じゃあな!!」
「く、黒たんどしたのー!?」
黒鋼は痛む足を引きずって玄関のドアを開けると、ファイの声を無視して素早く家の中に入った。
*
その後も黒鋼のムカムカは静まらなかった。
次の日になってもその次の日になっても、ファイのことを考えると前以上に腹が立つようになった。
毎日うんざりするほど暑いのも、部屋のエアコンが壊れたのも、宿題が終わらないのも、全部がヤツのせいに思えてくる。
だからファイと遭遇することがあっても、あからさまにそっぽを向いて無視してやった。すると彼はわざとらしく「えーん」と言って嘘泣きをする。
それを見るとますます腹立たしくて、黒鋼はいつか絶対に本気で泣かせてやる、と何度も決心を新たにする。
あからさまに避けるようになってから暫くすると、ファイもあまり顔を見せなくなった。彼だって実際のところただ暇なわけではないのだろうし、きっと彼女に夢中になっているに違いない。
そんな風に思っていたら、母からファイがどこぞでバイトをしつつ、自動車学校へも通い始めたという話を聞いた。
やっぱりそれなりに忙しくしていて、自分に飽きたわけではないんだなと、そう思うと悔しいけれどなぜかホッとした。
だが、それからもずっとファイと以前のように遊ぶ機会はなかった。
ちょっと無視するつもりが、風邪をこじらせたみたいに長引いて、会うキッカケを失ってしまった。
でもよくよく考えてみれば、誘ってくるのはいつもファイの方からで、こちらから飛び込んで行ったことなんて一度もないことに気がついた。
すぐ隣に住んでいて、小さな頃からずっと一緒だったのに。
あの祭りの夜から、なんだかとてつもなく遠い存在になってしまったような、そんな気がした。
そして彼が本当に遠い存在になるのは、黒鋼が中学生になってからのことだった。
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そんな調子であっという間に月日が流れ、黒鋼は小学6年生になっていた。この頃になるとファイとの登下校地獄からはすっかり解放されていた。
ファイは大学に進学し、小学校がある方向とは真逆にある駅を利用するようになった。たったそれだけで地獄の苦しみから逃れられたような気がした。
……にも関わらず。
ヤツは暇を見つけては黒鋼にちょっかいをかけにくるのを止めなかった。
母に気に入られているからと言って、野菜や果物のお裾分けを持ってきたついでに、なぜか家に上がり込んでくつろいでいく。時には晩飯まで一緒に食べる。
彼は賑やかで、いつもくだらないことを喋っては母を笑わせた。黒鋼は父と離れて暮らすようになってから、少し元気がなかった彼女のそんな姿を見るのが嬉しかった。
だから、ちょっとくらいの図々しさはしょうがないかと大目に見ている。
*
「くーろたーん、おかえりー」
カラスの群れが鳴く夕暮れ時。
いつものように学校が終わり、クラブ活動に参加してから帰宅すると、自宅前でファイに声をかけられ、ギクリとした。
「……おう」
彼は自宅の庭にいるようで、塀の向こうからひょっこりと顔を出している。こちらから見ると、まるで晒し首がヘラっと笑っているようだ。
思えば、こいつはいつもどこかしらに潜んで顔だけを覗かせているような気がする。
「おまえはまたそんなところから」
「黒たんが帰ってくるの、ここから覗いてずーっと待ってたよー」
「今日もブレないキモさだなおまえは」
「未来のお嫁さんに褒められちゃったー」
ふにゃん、と首を傾げて頬を染める変態に、黒鋼は横目で睨むだけで突っ込まなかった。変に相手をするから調子に乗るのだ。
付き合いが長くなるにつれ、黒鋼は日々学習している。
「ささ、早く上がっておいでよー。お煎餅あるよー」
「いらねぇ」
「なんでー? 冷たいお茶もあるよー?」
「だから、い、ら、ね、え!」
「今日は蒸し暑かったねー。喉乾いたでしょー?」
「あのなぁ」
黒鋼は乱暴な足取りでファイの正面まで行って見上げると、うんざりしたように溜息を吐いた。
「俺はおまえと違ってヒマじゃねぇんだ。そんなに遊びてぇなら、その辺の野良猫でも捕まえて構ってもらえよ」
実際は特にやることもなく暇なのだが、毎回こんな奴に捕まってたまるかと拒絶する黒鋼に、暇人は唇を不満そうに尖らせる。
「やだー。にゃんこよりわんこと遊ぶー」
「わんこって誰だ!」
「うふふ」
「うふふじゃねーよ殴るぞ」
「太鼓の達人やろっかー」
「話を聞け! とにかく! おまえに付き合ってる時間はねぇ! じゃあな!」
そう言い切ってクルリと背を向け、自宅へ戻ろうとしたが、なぜか足を前に踏み出せない。
ランドセルの肩ベルトが両脇に思いっきり食い込んでいて、黒鋼は怒りに拳を震わせた。
「はなせこら!!」
首だけ背後を振り返って怒鳴ると、ファイが塀から上半身を思いっきり乗り出して、ランドセルのフック金具を掴みながらニッコリしている。
黒鋼がどれほど暴れて振り解こうとしてもビクともせず、むしろ身体はどんどん後退していくばかりだった。
まるで首根っこを押さえられた子猫のような、屈辱的な気分だ。
「このやろお! しつけぇんだよ!! はなせ!!」
「あのねー、お母さんから大事なでんごーん」
「は!?」
「お買い物ついでにお友達とお茶してくるから、お隣で待たせてもらってねーって」
「はあぁ!?」
「ってことで、黒たんはオレが責任を持ってお預かりしまーす」
「俺は荷物じゃねぇぞ!!」
結局、黒鋼はどう足掻いても逃げ切れずファイの家に引きずり込まれることになった。
*
ことファイに関して、とことん天は自分を見離しているような気がする。
だいたい母も母である。息子はもう12歳で、来年には中学生になるのに、一人ではまともに留守番も出来ないと思われているのだろうか。
なんだかいつまでも幼児扱いされているようで面白くない。
未だに身長に大きな変化はないし、同学年の中にはもう声変わりを迎えた男子がいることだって気にしているというのに、まるで追い打ちをかけられているようだった。
「ふー! いい汗かいたね!」
額にうっすら滲んだ汗を手の甲で拭いながら、ファイがやり遂げたような顔で笑った。
黒鋼はそれを横目で睨みつつ、何もかも納得がいかない。
煎餅とお茶をご馳走になると他にすることもなく、結局はファイの部屋でゲームをすることになった。
ファイが必死で「太鼓! 太鼓!」とせがむので、仕方なく付き合ってやることにしたのだが、惜しいところで得点が伸びない黒鋼に対し、ファイは難易度の高い曲でも最高得点を叩きだしていた。
終始「あははー」と笑いながらもバチを握り、太鼓を叩く手元はプロ並みで、負けず嫌いの身としては相当に悔しい結果に終わった。
「あり? 黒たんもしかしてイジケちゃったー?」
胡坐をかいてそっぽを向いた黒鋼の顔を、ファイが身体を屈めて下から覗き込んでくる。
普段、見下ろすことが滅多にないせいか少し驚いた。
だがそれよりも、ファイのバカにしたような言い方が癪に触った。
「ガキ相手にフルパワー出しやがって! 次は俺が勝つからな!」
「わー、次も一緒に遊んでくれるんだねー」
「!?」
花が綻ぶような笑顔にギクリとしたのは、迂闊なことを口にしてしまったことへの後悔からなのか、それとも、あまりにもファイが嬉しそうにするからなのか、よく分からなかった。
ただ、どっちにしろ頬が赤くなってしまうのを抑えられない。物凄く居心地が悪い気分だった。
「黒たん黒たん、頬っぺたが赤いのどうして? ねぇどうしてー?」
「う、うるせぇんだよてめぇはいちいち!!」
「可愛いよぅ! 赤い頬っぺ触らせて!」
「ざけんな!!」
両手をわきわきさせて迫ってこようとするファイから、慌てて逃げた。距離を取るために立ちあがって、ベッドの上にボスンと腰を落ち着ける。すると今度は遠目からファイを見下ろす形になった。
ちぇー、と唇を尖らせるファイは黒鋼に飛びかかるところを避けられたせいで、両足をくの字に折りたたむような横座りの姿勢になっている。そのせいでますますナヨナヨして見えた。
でも、なぜか違和感がないから不思議だった。
もしコイツが女だったら、可愛いなんて言われてもここまで嫌な気持ちにならないのだろうか?
一瞬だけそんなことを考えて、黒鋼はそれを心の中で否定した。
可愛いという言葉は女が喜ぶ言葉であって、誰であろうと男の自分が言われて嬉しいものではない。
しかも黒鋼にとってそれは、いつも『小さい』という言葉もセットで付きまとって来る。だからどちらも同じくらい嫌だ。
自分がチビなのは本当だから仕方がない気もするが、どうしても気になる。気にしていることは、わざわざ言われたくない。
悪い癖や悪戯なんかを咎められるなら意識して直すことも出来るし、反省もできるけど、改めようがないものはどうにもならないのだから。
「ね、ねぇ黒たん? ホントはまだ気にしてる? ほら、次は勝てるよー!」
なんとなく物思いに耽ってぼうっとしていた黒鋼を気にしてか、ファイが心配そうに眉をハの字にしていた。
「バカ。気にしてねぇよ」
「そっかー。よかったー」
そう言ってやるとすぐに笑顔を取り戻して、別にこの笑った顔は嫌いではないな、と思った。たまに物凄くムカつくけれど、心の中のトゲトゲがうっかり丸くなってしまいそうな気がする。
それにコイツは、根っから悪い奴でもない。明るいし気さくだし、結構優しいところもあるし、友達も沢山いるんだろうなと思った。
でも、ふと気がついた。
友達が大勢いるなら、わざわざ7つも年下の子供と必死になって遊ぶ必要なんかないのではないか、と。
「なぁ、聞いてもいいか」
「なぁにー?」
「……おまえ、俺しか遊ぶヤツいないのか?」
「へ?」
どうしてそんなことを聞くのか、とでも言いたげに、ファイが小首を傾げている。
「友達いねぇのかって聞いた」
「……あー、そっか」
ファイは少しの間、天井を見上げて何かを思案している様子だった。
それから、寂しげに睫毛を伏せた。
「そうなんだ……実はオレ、まだ日本に馴染めてなくて……変だよね、もう3年もいるのに……」
やっぱりそうだったのか。黒鋼は、そんなファイを少し気の毒に思う。
学校でも今まで転入生が来たりして、そいつがなかなか馴染めないでいるのを見たことがあるし、ましてや外国なんて、きっと誰だってすんなり溶け込むには時間がかかるだろうと思った。
「ごめんね……オレ、友達って呼べるのは黒たんだけなんだ……だからつい甘えちゃって……もう大人なのに、恥ずかしいよね……」
「別に恥ずかしくなんてねぇよ」
「……え?」
「大人とか子供とか、そんなのいちいち気にすんな」
「黒たん……」
「しょうがねぇな……」
黒鋼は少し照れくさくなって、目を泳がせながら頬を掻いた。
ファイは確かにもうすぐ二十歳の大人なのに頼りないし、しつこいし、変態だけど、もしそれが甘えているという意味でのことなら、悪い気はしない。
むしろ大人のファイが自分を頼ってくれているなんて、そう思うとちょっと誇らしくて、嬉しくもあった。
自分が少しだけ大きくなれたような気もした。
「おまえにちゃんと友達が出来るまでは、一緒に遊んでやってもいいぜ」
相変わらず照れくさかったが、こんな話を聞いた後に突き放すような言い方はできない。
だから真っ直ぐに面と向かってそう言うと、ファイは途端に涙ぐんだ。
「泣くほどのことかよ」
「だ、だって……そんな風に言ってもらえるなんて思わなくて……うっ」
「わかったから泣くな……男だろ?」
「黒たーん!!」
「うお!?」
感極まった様子のファイが、ベッドの縁に腰掛ける黒鋼の下半身に飛びついて来た。
咄嗟のことに避け切れず、腰をがっちりと抱きこまれて腹に顔が埋められる。
「ばっ、こら! 抱きつくな!」
「…………」
「……?」
なぜか何も言わなくなったファイを疑問に思い、戸惑いながら見下ろした。
一体どうしたというのか。まさか本当に泣きだすつもりなのではないか……なんて思っていると、肩が小刻みに震えだした。
(マジか……)
黒鋼の腰に抱きついて、腹に顔を埋めたまま、ファイは小刻みに震えて泣いているようだった。
大人の男が泣くところを見るのは初めてのことで、黒鋼はどうするべきなのか軽く混乱していた。
「バカ、泣くなって……」
嬉し泣きの部類なのだとは分かっていても、これは自分が泣かせてしまったということになる。
何をどう言えば止まるのか、いや、嬉しくて泣いてるなら悪い意味ではないし、別に気にすることもないのか……とにかくどうしたらいいかわからない。
そして同時に、こんなに喜ぶほど本当は寂しかったのか、とちょっと切なくなった。
今までずっと自分に対しては嫌な奴だと思って避けたり怒鳴ったりしてきたのを、今更になって後悔しはじめる。
「なぁ、もう泣きやめよ。もう一回太鼓で遊んでやるから」
「…………」
「太鼓は飽きたか? じゃあキャッチボールでもするか?」
「…………ぶふっ」
「あ……?」
気のせいか、噴きだすような声と風圧を腹に感じたような?
「ぷはーっははは!! 黒たん素直でいい子すぎー!!」
顔をガバリと上げたファイは、思いっきり大声で笑い出した。
震えていたのは笑いを堪えるためだったのか、相当苦しかったらしい彼は顔全体を真っ赤にして、涙ぐんで笑っていた。
黒鋼はあんぐりと口を開けたまま硬直した。
「そんなんじゃ悪い人にすぐ騙されちゃうよー!」
謀られたことにようやく気付いた黒鋼は、あまりのショックと怒り、そして屈辱に身体を震わせた。
ダメだダメだと思っても、悔し涙が目尻に溜った。
ハッキリ言って、悪い大人なら今まさに目の前にいるし、とっくに騙され済みである。
「お……おまえ……また俺をバカにして……」
「バカにしてないよー! だってあんなにすんなり信じてくれるなんて……あふっ、思い出すともう駄目だ!」
「も、もう、ぜったい、ぜったい、許さねぇからな!!」
「あっ! いっ、イタ! ちょっと黒たん痛い! 可愛いけど痛いよー!」
「うるせぇ黙れ!! 可愛い言うな!!」
「黒たんってお日様みたいなポカポカの匂いがするねー!」
「離れろヘンタイ!!」
癇癪を起した子供のように叫びながら、黒鋼は足をバタつかせた。が、開いた両足の中心に陣取っているファイが腰を離してくれないせいで効果はない。どうにかして身体を捻ったりして踏ん張ってみたが、ダメだった。
仕方なく思いっきり髪を掴んで引っ張ったり、両手をグーにして金髪頭をボカボカ殴った。結構な力で殴っているし、痛い痛いと連呼するくせに、ファイはなぜか幸せそうに頬を緩めきっていた。
しばらくの間ずっと暴れているうちに、だんだん体力が限界に達してきた。
所詮、身体の大きな大人に子供が勝てるわけがない。
「おまえ、いい加減あっち行け……」
いつまで抱きついている気なのか、ファイはふにゃりと笑って黒鋼の顔を見上げて来る。
逆にコイツは何をどうすれば怒ったり泣いたり悔しがったりするのだろう。自分一人でぎゃんぎゃん吠えて勝手に疲れてるみたいで、なんだかアホらしい。
それでもまだ悔しさは静まらない。
「えへへ。ごめんねー黒わんこー。でも、嬉しかったのはホントだよー?」
「もう騙されねぇぞ。てめぇとは絶交する」
「そんなことされちゃったら、オレ本当に寂しくて死んじゃうなー」
「死ねバカ」
「そんなこと言わないで? ね?」
ようやくファイの腕が腰から離れたかと思ったら、彼は黒鋼の両脇に手をついた。そして膝立ちになって身体をぐんと伸ばしてくる。
何をする気なのかと、咄嗟に反応する前にファイの顔が驚くほど近づいた。
次の瞬間、ふわりと甘い香りがして、頬を何かにくすぐられた。
そのいい匂いはファイの髪からしていて、そしてそれが頬をくすぐっているのだと気付いたとき、相手との距離はゼロになっていた。
唇に、温かくて柔らかいものが押し当てられている。
黒鋼はまるで時が止まったかのように目を見開いて、身じろぐこともできないまま固まっていた。
いっそぼやけそうなくらい近くに、少し濃い色味の金の睫毛が伏せられている。
甘い匂いと、くすぐったさと、唇を塞がれる感触。気が遠くなるような気がした。
永遠のようにも感じられたそれは、すぐに離れて行った。
それでも近い距離で見つめられて、その瞳の青にこのまま吸い込まれてしまうのではないかと思う。
身体がふわふわして、不思議な感じがした。
「ね、もう怒らないで」
怒る……ああ、そういえば怒っていたのだった。
なのに、今はもうそんな気が起きない。たった今、自分に何が起こったのかを考えようとすると、頭の中に分厚い膜がかかったように思考が止まる。
だから今この瞬間、どう反応すればいいのか全く思いつかない。
ファイがクスリと笑った。いつものような、気の抜けるような笑い方じゃない。
今更のように胸が大きく高鳴るのを感じた。わけもわからず、茫然とする。
ただ分かるのは、この薄い唇をこれ以上見てはいけないということだった。それなのに目が離せない。
『ピンポーン』
そのとき、下の階から気の抜けるようなチャイムの音が聞こえた。おそらく帰宅した母が迎えに来たのだと思う。
それでも黒鋼はぼうっとしたまま動けなかった。
「あ、お母さんが来たみたい。黒たん、また明日ねー」
いつものように「二度と来ない」と突っぱねることができない。
何も言い返すことが出来ず、ただ素直にコクンと頷いていた。
←戻る ・ 次へ→
ファイは大学に進学し、小学校がある方向とは真逆にある駅を利用するようになった。たったそれだけで地獄の苦しみから逃れられたような気がした。
……にも関わらず。
ヤツは暇を見つけては黒鋼にちょっかいをかけにくるのを止めなかった。
母に気に入られているからと言って、野菜や果物のお裾分けを持ってきたついでに、なぜか家に上がり込んでくつろいでいく。時には晩飯まで一緒に食べる。
彼は賑やかで、いつもくだらないことを喋っては母を笑わせた。黒鋼は父と離れて暮らすようになってから、少し元気がなかった彼女のそんな姿を見るのが嬉しかった。
だから、ちょっとくらいの図々しさはしょうがないかと大目に見ている。
*
「くーろたーん、おかえりー」
カラスの群れが鳴く夕暮れ時。
いつものように学校が終わり、クラブ活動に参加してから帰宅すると、自宅前でファイに声をかけられ、ギクリとした。
「……おう」
彼は自宅の庭にいるようで、塀の向こうからひょっこりと顔を出している。こちらから見ると、まるで晒し首がヘラっと笑っているようだ。
思えば、こいつはいつもどこかしらに潜んで顔だけを覗かせているような気がする。
「おまえはまたそんなところから」
「黒たんが帰ってくるの、ここから覗いてずーっと待ってたよー」
「今日もブレないキモさだなおまえは」
「未来のお嫁さんに褒められちゃったー」
ふにゃん、と首を傾げて頬を染める変態に、黒鋼は横目で睨むだけで突っ込まなかった。変に相手をするから調子に乗るのだ。
付き合いが長くなるにつれ、黒鋼は日々学習している。
「ささ、早く上がっておいでよー。お煎餅あるよー」
「いらねぇ」
「なんでー? 冷たいお茶もあるよー?」
「だから、い、ら、ね、え!」
「今日は蒸し暑かったねー。喉乾いたでしょー?」
「あのなぁ」
黒鋼は乱暴な足取りでファイの正面まで行って見上げると、うんざりしたように溜息を吐いた。
「俺はおまえと違ってヒマじゃねぇんだ。そんなに遊びてぇなら、その辺の野良猫でも捕まえて構ってもらえよ」
実際は特にやることもなく暇なのだが、毎回こんな奴に捕まってたまるかと拒絶する黒鋼に、暇人は唇を不満そうに尖らせる。
「やだー。にゃんこよりわんこと遊ぶー」
「わんこって誰だ!」
「うふふ」
「うふふじゃねーよ殴るぞ」
「太鼓の達人やろっかー」
「話を聞け! とにかく! おまえに付き合ってる時間はねぇ! じゃあな!」
そう言い切ってクルリと背を向け、自宅へ戻ろうとしたが、なぜか足を前に踏み出せない。
ランドセルの肩ベルトが両脇に思いっきり食い込んでいて、黒鋼は怒りに拳を震わせた。
「はなせこら!!」
首だけ背後を振り返って怒鳴ると、ファイが塀から上半身を思いっきり乗り出して、ランドセルのフック金具を掴みながらニッコリしている。
黒鋼がどれほど暴れて振り解こうとしてもビクともせず、むしろ身体はどんどん後退していくばかりだった。
まるで首根っこを押さえられた子猫のような、屈辱的な気分だ。
「このやろお! しつけぇんだよ!! はなせ!!」
「あのねー、お母さんから大事なでんごーん」
「は!?」
「お買い物ついでにお友達とお茶してくるから、お隣で待たせてもらってねーって」
「はあぁ!?」
「ってことで、黒たんはオレが責任を持ってお預かりしまーす」
「俺は荷物じゃねぇぞ!!」
結局、黒鋼はどう足掻いても逃げ切れずファイの家に引きずり込まれることになった。
*
ことファイに関して、とことん天は自分を見離しているような気がする。
だいたい母も母である。息子はもう12歳で、来年には中学生になるのに、一人ではまともに留守番も出来ないと思われているのだろうか。
なんだかいつまでも幼児扱いされているようで面白くない。
未だに身長に大きな変化はないし、同学年の中にはもう声変わりを迎えた男子がいることだって気にしているというのに、まるで追い打ちをかけられているようだった。
「ふー! いい汗かいたね!」
額にうっすら滲んだ汗を手の甲で拭いながら、ファイがやり遂げたような顔で笑った。
黒鋼はそれを横目で睨みつつ、何もかも納得がいかない。
煎餅とお茶をご馳走になると他にすることもなく、結局はファイの部屋でゲームをすることになった。
ファイが必死で「太鼓! 太鼓!」とせがむので、仕方なく付き合ってやることにしたのだが、惜しいところで得点が伸びない黒鋼に対し、ファイは難易度の高い曲でも最高得点を叩きだしていた。
終始「あははー」と笑いながらもバチを握り、太鼓を叩く手元はプロ並みで、負けず嫌いの身としては相当に悔しい結果に終わった。
「あり? 黒たんもしかしてイジケちゃったー?」
胡坐をかいてそっぽを向いた黒鋼の顔を、ファイが身体を屈めて下から覗き込んでくる。
普段、見下ろすことが滅多にないせいか少し驚いた。
だがそれよりも、ファイのバカにしたような言い方が癪に触った。
「ガキ相手にフルパワー出しやがって! 次は俺が勝つからな!」
「わー、次も一緒に遊んでくれるんだねー」
「!?」
花が綻ぶような笑顔にギクリとしたのは、迂闊なことを口にしてしまったことへの後悔からなのか、それとも、あまりにもファイが嬉しそうにするからなのか、よく分からなかった。
ただ、どっちにしろ頬が赤くなってしまうのを抑えられない。物凄く居心地が悪い気分だった。
「黒たん黒たん、頬っぺたが赤いのどうして? ねぇどうしてー?」
「う、うるせぇんだよてめぇはいちいち!!」
「可愛いよぅ! 赤い頬っぺ触らせて!」
「ざけんな!!」
両手をわきわきさせて迫ってこようとするファイから、慌てて逃げた。距離を取るために立ちあがって、ベッドの上にボスンと腰を落ち着ける。すると今度は遠目からファイを見下ろす形になった。
ちぇー、と唇を尖らせるファイは黒鋼に飛びかかるところを避けられたせいで、両足をくの字に折りたたむような横座りの姿勢になっている。そのせいでますますナヨナヨして見えた。
でも、なぜか違和感がないから不思議だった。
もしコイツが女だったら、可愛いなんて言われてもここまで嫌な気持ちにならないのだろうか?
一瞬だけそんなことを考えて、黒鋼はそれを心の中で否定した。
可愛いという言葉は女が喜ぶ言葉であって、誰であろうと男の自分が言われて嬉しいものではない。
しかも黒鋼にとってそれは、いつも『小さい』という言葉もセットで付きまとって来る。だからどちらも同じくらい嫌だ。
自分がチビなのは本当だから仕方がない気もするが、どうしても気になる。気にしていることは、わざわざ言われたくない。
悪い癖や悪戯なんかを咎められるなら意識して直すことも出来るし、反省もできるけど、改めようがないものはどうにもならないのだから。
「ね、ねぇ黒たん? ホントはまだ気にしてる? ほら、次は勝てるよー!」
なんとなく物思いに耽ってぼうっとしていた黒鋼を気にしてか、ファイが心配そうに眉をハの字にしていた。
「バカ。気にしてねぇよ」
「そっかー。よかったー」
そう言ってやるとすぐに笑顔を取り戻して、別にこの笑った顔は嫌いではないな、と思った。たまに物凄くムカつくけれど、心の中のトゲトゲがうっかり丸くなってしまいそうな気がする。
それにコイツは、根っから悪い奴でもない。明るいし気さくだし、結構優しいところもあるし、友達も沢山いるんだろうなと思った。
でも、ふと気がついた。
友達が大勢いるなら、わざわざ7つも年下の子供と必死になって遊ぶ必要なんかないのではないか、と。
「なぁ、聞いてもいいか」
「なぁにー?」
「……おまえ、俺しか遊ぶヤツいないのか?」
「へ?」
どうしてそんなことを聞くのか、とでも言いたげに、ファイが小首を傾げている。
「友達いねぇのかって聞いた」
「……あー、そっか」
ファイは少しの間、天井を見上げて何かを思案している様子だった。
それから、寂しげに睫毛を伏せた。
「そうなんだ……実はオレ、まだ日本に馴染めてなくて……変だよね、もう3年もいるのに……」
やっぱりそうだったのか。黒鋼は、そんなファイを少し気の毒に思う。
学校でも今まで転入生が来たりして、そいつがなかなか馴染めないでいるのを見たことがあるし、ましてや外国なんて、きっと誰だってすんなり溶け込むには時間がかかるだろうと思った。
「ごめんね……オレ、友達って呼べるのは黒たんだけなんだ……だからつい甘えちゃって……もう大人なのに、恥ずかしいよね……」
「別に恥ずかしくなんてねぇよ」
「……え?」
「大人とか子供とか、そんなのいちいち気にすんな」
「黒たん……」
「しょうがねぇな……」
黒鋼は少し照れくさくなって、目を泳がせながら頬を掻いた。
ファイは確かにもうすぐ二十歳の大人なのに頼りないし、しつこいし、変態だけど、もしそれが甘えているという意味でのことなら、悪い気はしない。
むしろ大人のファイが自分を頼ってくれているなんて、そう思うとちょっと誇らしくて、嬉しくもあった。
自分が少しだけ大きくなれたような気もした。
「おまえにちゃんと友達が出来るまでは、一緒に遊んでやってもいいぜ」
相変わらず照れくさかったが、こんな話を聞いた後に突き放すような言い方はできない。
だから真っ直ぐに面と向かってそう言うと、ファイは途端に涙ぐんだ。
「泣くほどのことかよ」
「だ、だって……そんな風に言ってもらえるなんて思わなくて……うっ」
「わかったから泣くな……男だろ?」
「黒たーん!!」
「うお!?」
感極まった様子のファイが、ベッドの縁に腰掛ける黒鋼の下半身に飛びついて来た。
咄嗟のことに避け切れず、腰をがっちりと抱きこまれて腹に顔が埋められる。
「ばっ、こら! 抱きつくな!」
「…………」
「……?」
なぜか何も言わなくなったファイを疑問に思い、戸惑いながら見下ろした。
一体どうしたというのか。まさか本当に泣きだすつもりなのではないか……なんて思っていると、肩が小刻みに震えだした。
(マジか……)
黒鋼の腰に抱きついて、腹に顔を埋めたまま、ファイは小刻みに震えて泣いているようだった。
大人の男が泣くところを見るのは初めてのことで、黒鋼はどうするべきなのか軽く混乱していた。
「バカ、泣くなって……」
嬉し泣きの部類なのだとは分かっていても、これは自分が泣かせてしまったということになる。
何をどう言えば止まるのか、いや、嬉しくて泣いてるなら悪い意味ではないし、別に気にすることもないのか……とにかくどうしたらいいかわからない。
そして同時に、こんなに喜ぶほど本当は寂しかったのか、とちょっと切なくなった。
今までずっと自分に対しては嫌な奴だと思って避けたり怒鳴ったりしてきたのを、今更になって後悔しはじめる。
「なぁ、もう泣きやめよ。もう一回太鼓で遊んでやるから」
「…………」
「太鼓は飽きたか? じゃあキャッチボールでもするか?」
「…………ぶふっ」
「あ……?」
気のせいか、噴きだすような声と風圧を腹に感じたような?
「ぷはーっははは!! 黒たん素直でいい子すぎー!!」
顔をガバリと上げたファイは、思いっきり大声で笑い出した。
震えていたのは笑いを堪えるためだったのか、相当苦しかったらしい彼は顔全体を真っ赤にして、涙ぐんで笑っていた。
黒鋼はあんぐりと口を開けたまま硬直した。
「そんなんじゃ悪い人にすぐ騙されちゃうよー!」
謀られたことにようやく気付いた黒鋼は、あまりのショックと怒り、そして屈辱に身体を震わせた。
ダメだダメだと思っても、悔し涙が目尻に溜った。
ハッキリ言って、悪い大人なら今まさに目の前にいるし、とっくに騙され済みである。
「お……おまえ……また俺をバカにして……」
「バカにしてないよー! だってあんなにすんなり信じてくれるなんて……あふっ、思い出すともう駄目だ!」
「も、もう、ぜったい、ぜったい、許さねぇからな!!」
「あっ! いっ、イタ! ちょっと黒たん痛い! 可愛いけど痛いよー!」
「うるせぇ黙れ!! 可愛い言うな!!」
「黒たんってお日様みたいなポカポカの匂いがするねー!」
「離れろヘンタイ!!」
癇癪を起した子供のように叫びながら、黒鋼は足をバタつかせた。が、開いた両足の中心に陣取っているファイが腰を離してくれないせいで効果はない。どうにかして身体を捻ったりして踏ん張ってみたが、ダメだった。
仕方なく思いっきり髪を掴んで引っ張ったり、両手をグーにして金髪頭をボカボカ殴った。結構な力で殴っているし、痛い痛いと連呼するくせに、ファイはなぜか幸せそうに頬を緩めきっていた。
しばらくの間ずっと暴れているうちに、だんだん体力が限界に達してきた。
所詮、身体の大きな大人に子供が勝てるわけがない。
「おまえ、いい加減あっち行け……」
いつまで抱きついている気なのか、ファイはふにゃりと笑って黒鋼の顔を見上げて来る。
逆にコイツは何をどうすれば怒ったり泣いたり悔しがったりするのだろう。自分一人でぎゃんぎゃん吠えて勝手に疲れてるみたいで、なんだかアホらしい。
それでもまだ悔しさは静まらない。
「えへへ。ごめんねー黒わんこー。でも、嬉しかったのはホントだよー?」
「もう騙されねぇぞ。てめぇとは絶交する」
「そんなことされちゃったら、オレ本当に寂しくて死んじゃうなー」
「死ねバカ」
「そんなこと言わないで? ね?」
ようやくファイの腕が腰から離れたかと思ったら、彼は黒鋼の両脇に手をついた。そして膝立ちになって身体をぐんと伸ばしてくる。
何をする気なのかと、咄嗟に反応する前にファイの顔が驚くほど近づいた。
次の瞬間、ふわりと甘い香りがして、頬を何かにくすぐられた。
そのいい匂いはファイの髪からしていて、そしてそれが頬をくすぐっているのだと気付いたとき、相手との距離はゼロになっていた。
唇に、温かくて柔らかいものが押し当てられている。
黒鋼はまるで時が止まったかのように目を見開いて、身じろぐこともできないまま固まっていた。
いっそぼやけそうなくらい近くに、少し濃い色味の金の睫毛が伏せられている。
甘い匂いと、くすぐったさと、唇を塞がれる感触。気が遠くなるような気がした。
永遠のようにも感じられたそれは、すぐに離れて行った。
それでも近い距離で見つめられて、その瞳の青にこのまま吸い込まれてしまうのではないかと思う。
身体がふわふわして、不思議な感じがした。
「ね、もう怒らないで」
怒る……ああ、そういえば怒っていたのだった。
なのに、今はもうそんな気が起きない。たった今、自分に何が起こったのかを考えようとすると、頭の中に分厚い膜がかかったように思考が止まる。
だから今この瞬間、どう反応すればいいのか全く思いつかない。
ファイがクスリと笑った。いつものような、気の抜けるような笑い方じゃない。
今更のように胸が大きく高鳴るのを感じた。わけもわからず、茫然とする。
ただ分かるのは、この薄い唇をこれ以上見てはいけないということだった。それなのに目が離せない。
『ピンポーン』
そのとき、下の階から気の抜けるようなチャイムの音が聞こえた。おそらく帰宅した母が迎えに来たのだと思う。
それでも黒鋼はぼうっとしたまま動けなかった。
「あ、お母さんが来たみたい。黒たん、また明日ねー」
いつものように「二度と来ない」と突っぱねることができない。
何も言い返すことが出来ず、ただ素直にコクンと頷いていた。
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「ガッコ、一緒に行こう?」
朝、玄関の門を出たところで偶然同じタイミングで門から出てきた金髪が、ニッコリ笑って手を差し出してきた。
臙脂のブレザーを着た彼は16歳の高校生で、ついこないだ隣の家に引っ越してきたばかりだった。名前は……なんだったか忘れた。
小学3年生の黒鋼は、背負っている黒のランドセルの肩ベルトをぎゅっと掴みながら、そのやけに白い手と彼の笑顔を交互に見る。
金色のふわふわした髪が朝の光を弾いて輝いていた。細められた瞳は青で、まつ毛がやたらと長いのに驚く。
別に相手は知らない人間ではないし、警戒する必要はないのだが、9歳にもなって誰かに手を引かれて学校に行くというのは、ちょっと恥ずかしい。
差し出された手の平だって、なんだか女のように柔らかそうで、触れるのが照れくさかった。
金髪の高校生は戸惑う黒鋼の心境を知ってか知らずか、肩ベルトを握っていた手を掴んできた。ドキリとして身体をビクつかせたが、振り払うタイミングを逃してそのまま引かれて歩きだす。
母の手よりは僅かに大きめで骨ばり、そして父の手よりは小さくて柔らかい。初めての感触だった。
「学校では今、どんなお勉強してるのー?」
のんびりとした優しい声は、語尾が甘ったるく伸びる。
自分が子供だからそんな声で接してくるのかと思いきや、彼は挨拶に来た時もこんなふわふわとした調子だった。
あの時は母親が対応していて、自分はただ少し離れた位置から眺めていただけだった。
「べつに。いろいろだ」
俯いて歩きながら、なんとなく突き放したような返答をしてしまった。
すると彼は気にした様子もなく「そっかー。そうだよねー」と言って嬉しそうだった。
「じゃあ、どの教科が一番好きなのかなー?」
「……体育」
「へー! じゃあ駆けっこは一等賞なのかなぁ?」
「あたりまえだ」
「凄いねー! 小さいのに一番なんだー」
小さい、という言葉にムッとした。
それは黒鋼にとって『地雷』と言ってもいいほどの強烈なワードだった。
途端に顔を上げて、眉を吊り上げると相手を睨む。
「俺は小さくねぇ!!」
急に声を荒げた黒鋼に、彼は目を丸くして一瞬キョトンとした。が、すぐに蕩けそうな笑みを浮かべて頬を赤らめる。
てっきり不快にさせたとばかり思ったのだが、的が外れたようだ。
「可愛いねー」
彼はにやにやとだらしない顔で笑っていた。
可愛いという言葉も、好きではない。いや、大嫌いだ。
黒鋼の身体はクラスの中でも小柄で、整列の順番だって一番前という有様だった。それがコンプレックスで仕方がない。父親は大きくてがっしりとしていて、誰と比べても抜きん出て長身なのに、そんな父親に瓜二つだと言われる自分が誰よりもチビだなんて。
(こいつ、キライだ)
女みたいな顔をしてるくせに、こいつだって多分平均よりも背が高い。
バカにされているみたいで、頭に血が昇りそうだった。
繋いでいた手を強引に振り払って、黒鋼は毛を逆立てた猫のようにきつく相手を睨み上げる。
「バカにすんな! 俺はチビじゃねぇし、かわいいとか言うな!!」
しかしそれは逆効果で、金髪男はよだれを垂らしかねない勢いでうっとりと悦に浸っている。目がキラキラと輝き、そして潤んでいた。
そこはかとなく息も荒いような……。
「だってだって、怒ってるとこも可愛すぎるんだもん! たまんないよぉ! 思い切って声かけてよかったー!」
「……おまえ、ヘンタイか?」
「ヘンタイで結構だよー。ね、黒たん、プニプニのおてて、もっかい繋ご? ね?」
「ふざけんな! あと俺のなまえは黒鋼だ! ヘンな呼び方すんな!!」
「なんでー? こんなに小さくて可愛いのに、黒鋼なんて強そうな名前は似合わないよー」
「なんだとぉ!?」
「黒るーとか、黒りんとか……あ、黒わんこも可愛いかもー」
かつてこれほどまでに怒りを覚えた経験があっただろうか。
可愛い、小さい、これらの二つのワードを一気に浴びせかけ、しかも名前までアレンジされるなど……。
あまりのことに、黒鋼は全身を震わせた。振動でランドセルの中の定規がカタカタと鳴る。
冗談じゃない。こいつは自分を怒らせる天才だ。
隣に住んでいるというだけでよく知りもしない人間に、なぜここまでコケにされなければならないだろう。こんなに悔しい思いをしたのは、生まれて初めてだ。
堪え切れずに緩んでしまった涙腺のせいで、目尻に涙が溜まってしまう。
「な、泣くの!? 泣いちゃうの!? わぁんどうしよう!? でも可愛すぎてどうしよぉー!?」
そんな様子にすら、目の前のヘンタイは両手を頬に添えては飛び跳ねて悶え狂っていた。
「おまえなんか……大っきらいだ!!」
力の限り振り絞った声を捨て置き、黒鋼は逃げるように駆け出した。
それが隣人のヘンタイ、ファイとの一番最初の嫌な思い出だった。
*
あの朝の一件で、黒鋼は隣の男に苦手意識を抱いた。
もう二度と関わってたまるかと、もし運悪く顔を合わせることになっても無視を決め込むことにした。
が、その決断はすぐに覆されることになってしまった。
隣の家には黒鋼が生まれた時から年老いた夫婦が暮らしていた。
黒鋼もよくお菓子(しょっぱいもの限定)を貰ったりして可愛がられていたし、双方の家が余りものをお裾分けし合うなど、円満な近所付き合いを行っていた。
そんな中、隣に家族が増えた。ファイはその老夫婦の孫だった。
イタリアから日本へ、母方の実家に一人で移り住むことになったと聞いた。
その辺りの詳しい事情は、幼い黒鋼にはわからない。でも、たとえ家族仲がよくたって、離れ離れで暮らさなければならないこともある。寂しくても我儘は言えない。黒鋼はそれをよく知っていた。
黒鋼の家は両親共に健在だが、半年ほど前から父が単身赴任で家を開けているため、今は母と二人だけの生活だった。
休みの日に父と遊べなくなって、一緒にお風呂も入れなくなって、寂しい日々が続いていたが、それは母も同じなのだと自分に言い聞かせながら堪えている。
せめてファイが同じ歳くらいだったら友達になれたかもしれないのにと、少しガッカリした。
彼は一緒に遊ぶには歳が離すぎていて、そのせいか黒鋼が興味を引かれることはなかった。向こうだってきっと同じことを思ってるに違いない。小学生と高校生では話だって合わないだろうと。
……そのはずが。
いざ関わってみたら、ヤツはとんだ変態だった。彼はどういうわけか7歳も年の離れた黒鋼に興味深々だったのだ。
黒鋼を視界に捉えるや否や、端整な顔をだらしなく緩めきって迫ってこようとする。
黙ってさえいればさぞ女にモテるだろうに、あれがよく言う残念なイケメンという奴かとしみじみ思う。
さらに運の悪いことに、ファイの通う高校と黒鋼の小学校は目と鼻の先の距離にあった。
最初こそ登下校の時間がカブったとしても、全力で走って逃げればいいと考えていたのだが、そうはいかなくなった。
なんと黒鋼の母親が、ファイのことをいたく気に入ってしまったのだ。
途中で息子がブチ切れて走り去ってしまったことなど知りもしない母は、どうやらファイが黒鋼の手を引いて学校へ向かう姿を見ていたらしい。
素敵なお兄ちゃんが出来てよかったわねと、その日の夜に嬉しそうにしていた母に、アイツはとんだ変態野郎だなんて、そんなことは言えなかった。
下手したらずっといい関係だった隣との付き合いが歪んでしまうかもしれないし、我が事のように喜んでいる母に悪い気がした。
子供は子供なりに、実は大人の知らないところで何かと気を使っていたりするのだ。
それからは毎朝のように母に見送られ、ヤツと一緒に学校へ行くことになってしまった。運が悪い日は帰りまで。
流石に手を繋ぐことは拒んだが、友達がいるからと断っても、むしろあの変態は「友達も紹介してー!」とせがんでくる始末だった。
こっちがどんなに怒ってもふざけた呼び方や、可愛いだのとほざくのを止めないし、事あるごとに頬っぺたをツンツンしたがるし、そうして黒鋼が嫌がってバタバタするのが楽しくて仕方がないらしい。
どうにかして関わらずに済む方法はないかと頭を抱える日々が、延々と続いている状態だった。
*
日曜日の昼下がり、黒鋼は家の庭で一人グローブを手に、塀を相手に野球ボールを投げていた。
父親がいた頃は公園まで出かけてよく一緒に遊んだが、今はそれが出来ない。
誰かしら友達を捕まえて遊んでもいいけれど、今日はなんとなくそういう気分ではなかった。
父に教えてもらったようにグローブを構え、振りかぶってボールを投げる。ガツンと音を立てて壁に弾かれたボールが、一度のバウンドを経て上手く戻って来た。黒鋼はそれを飽きもせず、延々と繰り返していた。
すると、庭の隅の丸い形の植木がガサゴソと動いた気がして、手を止めると視線を向ける。
「うげ」
思わずそんな声が漏れていた。
植木の陰から、ファイがひょっこりと顔を出して、へらっと笑った。頭の天辺に葉っぱがくっついている。
「へへへー。やっと気づいてくれたー」
「……ストーカーか?」
「ボールに夢中でぜんぜん気づいてくれないんだもんー。ついついオレもそんな黒たんに夢中になって、穴が空くほど見つめちゃったよー」
「本気でキモイぞ」
「黒わんこに言ってもらうと、何でも褒め言葉に聞こえちゃう」
「だから変な呼び方やめろって!」
黒鋼が目を吊り上げて怒鳴るのも構わず、ファイはニコニコ顔で植木の裏から出て来ると、転がり落ちていたボールを拾い上げた。
「野球が好きなのー?」
「別にそういうんじゃねぇけどさ」
「へー。オレ、キャッチボールってあんまりしたことないなー」
「父親とやらなかったのか?」
「んー。ユゥイとはたまーにやったかなー?」
「ふぅん」
ユゥイという名前は、時々ファイの口から出て来るものだった。双子の弟で、イタリアで暮らしていると言っていた。
ふと、もしかしてコイツもやっぱり家族と離れているのが寂しいのかもしれない、と思った。
黒鋼はすぐ近くの物置へおもむろに足を向けると、父が使っていたグローブを取り、ファイに向かって放り投げた。
「わぁ」
小さく声を上げながら、ファイがそれを両手でキャッチする。
それだけで黒鋼の意図を察した彼は、ぱっと目を輝かせた。
「一緒に遊んでくれるのー!?」
「じっと見てられるのがキモいだけだ」
「黒たんやっさしー!」
「う、うっせぇ!」
「かわいー!」
「次それ言ったらもう喋ってやらねぇからな!」
「(黒たん可愛い)」
「脳内に直接言うのも禁止だバカ!!」
別に優しくしてやろうなんて、これっぽっちも思ってない。
壁を相手にしているのに飽きてしまっただけで、ましてや自分が寂しかったからとか、そんなことは絶対。
たまたま近くにいたのが、隣の家の変態野郎だったってだけの話だった。
*
ファイはハッキリ言って、下手くそだった。
思いっきり投げたかと思えばボールがなぜか真後ろにぶっ飛んで行ったり、真っ直ぐ投げたはずの球が消えたと思ったら屋根の天辺から転がり落ちてきたりと、逆に奇跡としか言いようのない神がかったセンスを光らせた。
逆にすげぇなと皮肉を言うと、褒められたと勘違いして大喜びだった。バカだ。
それでも根気よく練習すると、なんとか様になってきた。
父としていた頃に比べれば物足りなさはあったが、なんだか懐かしかった。
「黒たんはさー、大きくなったら何になりたいのー?」
ボールと一緒に、ファイの問いかけもキャッチする。黒鋼はそれを、答えと一緒に思い切り投げ返した。
「まだなんも決めてねぇ」
「じゃあオレと結婚するー?」
「おまえ頭イカれてるだろ!」
「黒たんはきっと大人になってもオレよりちっちゃいから、お嫁さんねー」
「決めつけんな! つーか俺は男だからな!」
「ずーっと小ちゃくて可愛いままだったらいいのになー」
「どアホ!!」
そんな暴言を吐いても、ファイは「えへへー」と楽しそうだった。
本当に腹が立つ。何がお嫁さんだ。何が大人になってもちっちゃいだ。家族だって親戚だって、みんな口を揃えて自分のことを父親にそっくりだと言う。だから絶対に大人になったら身長だって同じくらいになる。
そう信じて、黒鋼は毎日のように小魚を大量に食べていた。だが、それでは足りないかもしれない。
牛乳は好きじゃないから避けていたが『りょうやくくちににがし』という難しい言葉もあるように、よく効く薬ほど不味いのだと思う。こうなったら我慢して、たくさん飲んだ方がいいのかもしれない。給食でも毎回残しているけれど、明日からは頑張って飲もうと決めた。
少なくとも何が何でも、このバカで変態でふざけた野郎よりは大きくなりたい。
心の中で闘志を燃やしながら、これ以上からかわれてたまるかと、キャッチボールを続けたまま話を摩り替えた。
「おまえは?」
「オレー?」
「そうだ」
「オレはー、ガッコのせんせー!」
「おまえみたいなアホが勉強なんて教えられるのか?」
「わかんないけど、がんばればきっとできるよー!」
てっきりアホな返答が来るかと思えば、意外に普通で少し驚いた。何も考えていなさそうなのに、ちゃんと将来の希望を持っていることにも。
ファイは仕草も言葉使いも幼いから忘れていたが、高校生といったら黒鋼にしてみれば大人も同然で遠い存在だ。いいお兄ちゃんが出来てよかったわね、なんて母が言っていたのをなんとなく思い出した。
(兄貴、か)
自分に兄弟がいたらこんな感じなのかと、そう考えるとくすぐったい。
出来ればもっと男らしくて、おかしなことを言わない兄貴がよかったが。
「あら? 遊んでもらってたの?」
その時、縁側から母が長い黒髪を揺らしながら顔を出した。買い物に行くと言って出かけて行ったのだが、帰って来たらしい。
ボールはファイがキャッチした状態で止まってしまった。
「おばさんこんにちはー!」
「いつも本当にありがとう。そうだわ、さっき向かいの奥さんからプリンをいただいたの。どうせ黒鋼は食べないし、よかったらどうかしら?」
「わーいプリンだー!」
ファイは飛び跳ねるように両手を上げて、ボールとグローブを投げ出してしまう。短く刈られた緑の芝生に、それらが音を立てて落下する。
縁側から這うようにして家の中にゴリゴリと押し入っていく背中を見て、黒鋼は溜息をこぼした。兄というより、あれでは弟といった方がいいような気がしてならない。
でも、ファイとのキャッチボールはほんの少しだけ、楽しかったような気がする。
黒鋼に対する物言いは相変わらず許せないが、これからはちょっとくらいは仲良くしてやってもいいかな、なんて思った。
が。
ファイはやっぱりファイで、それからというもの彼の黒鋼をからかう言葉の数々に『黒たんはオレの嫁』が加わるようになった。
ふざけたことに、母がいる目の前でもそれを言われ、しかも母まで
「将来の旦那さんと、これからも仲良くしないとね」
なんて息子をからかう始末だった。
仕舞には「お父さんにも報告しなくちゃ」なんて言いだして、黒鋼は本気で泣きたくなった。
(やっぱりアイツは許せねぇ……!)
絶対にファイよりも大きくなること、そしていつか絶対に自分をバカにしたことを後悔させてやろうと、黒鋼は幼い胸に改めて強く誓った。
←戻る ・ 次へ→
朝、玄関の門を出たところで偶然同じタイミングで門から出てきた金髪が、ニッコリ笑って手を差し出してきた。
臙脂のブレザーを着た彼は16歳の高校生で、ついこないだ隣の家に引っ越してきたばかりだった。名前は……なんだったか忘れた。
小学3年生の黒鋼は、背負っている黒のランドセルの肩ベルトをぎゅっと掴みながら、そのやけに白い手と彼の笑顔を交互に見る。
金色のふわふわした髪が朝の光を弾いて輝いていた。細められた瞳は青で、まつ毛がやたらと長いのに驚く。
別に相手は知らない人間ではないし、警戒する必要はないのだが、9歳にもなって誰かに手を引かれて学校に行くというのは、ちょっと恥ずかしい。
差し出された手の平だって、なんだか女のように柔らかそうで、触れるのが照れくさかった。
金髪の高校生は戸惑う黒鋼の心境を知ってか知らずか、肩ベルトを握っていた手を掴んできた。ドキリとして身体をビクつかせたが、振り払うタイミングを逃してそのまま引かれて歩きだす。
母の手よりは僅かに大きめで骨ばり、そして父の手よりは小さくて柔らかい。初めての感触だった。
「学校では今、どんなお勉強してるのー?」
のんびりとした優しい声は、語尾が甘ったるく伸びる。
自分が子供だからそんな声で接してくるのかと思いきや、彼は挨拶に来た時もこんなふわふわとした調子だった。
あの時は母親が対応していて、自分はただ少し離れた位置から眺めていただけだった。
「べつに。いろいろだ」
俯いて歩きながら、なんとなく突き放したような返答をしてしまった。
すると彼は気にした様子もなく「そっかー。そうだよねー」と言って嬉しそうだった。
「じゃあ、どの教科が一番好きなのかなー?」
「……体育」
「へー! じゃあ駆けっこは一等賞なのかなぁ?」
「あたりまえだ」
「凄いねー! 小さいのに一番なんだー」
小さい、という言葉にムッとした。
それは黒鋼にとって『地雷』と言ってもいいほどの強烈なワードだった。
途端に顔を上げて、眉を吊り上げると相手を睨む。
「俺は小さくねぇ!!」
急に声を荒げた黒鋼に、彼は目を丸くして一瞬キョトンとした。が、すぐに蕩けそうな笑みを浮かべて頬を赤らめる。
てっきり不快にさせたとばかり思ったのだが、的が外れたようだ。
「可愛いねー」
彼はにやにやとだらしない顔で笑っていた。
可愛いという言葉も、好きではない。いや、大嫌いだ。
黒鋼の身体はクラスの中でも小柄で、整列の順番だって一番前という有様だった。それがコンプレックスで仕方がない。父親は大きくてがっしりとしていて、誰と比べても抜きん出て長身なのに、そんな父親に瓜二つだと言われる自分が誰よりもチビだなんて。
(こいつ、キライだ)
女みたいな顔をしてるくせに、こいつだって多分平均よりも背が高い。
バカにされているみたいで、頭に血が昇りそうだった。
繋いでいた手を強引に振り払って、黒鋼は毛を逆立てた猫のようにきつく相手を睨み上げる。
「バカにすんな! 俺はチビじゃねぇし、かわいいとか言うな!!」
しかしそれは逆効果で、金髪男はよだれを垂らしかねない勢いでうっとりと悦に浸っている。目がキラキラと輝き、そして潤んでいた。
そこはかとなく息も荒いような……。
「だってだって、怒ってるとこも可愛すぎるんだもん! たまんないよぉ! 思い切って声かけてよかったー!」
「……おまえ、ヘンタイか?」
「ヘンタイで結構だよー。ね、黒たん、プニプニのおてて、もっかい繋ご? ね?」
「ふざけんな! あと俺のなまえは黒鋼だ! ヘンな呼び方すんな!!」
「なんでー? こんなに小さくて可愛いのに、黒鋼なんて強そうな名前は似合わないよー」
「なんだとぉ!?」
「黒るーとか、黒りんとか……あ、黒わんこも可愛いかもー」
かつてこれほどまでに怒りを覚えた経験があっただろうか。
可愛い、小さい、これらの二つのワードを一気に浴びせかけ、しかも名前までアレンジされるなど……。
あまりのことに、黒鋼は全身を震わせた。振動でランドセルの中の定規がカタカタと鳴る。
冗談じゃない。こいつは自分を怒らせる天才だ。
隣に住んでいるというだけでよく知りもしない人間に、なぜここまでコケにされなければならないだろう。こんなに悔しい思いをしたのは、生まれて初めてだ。
堪え切れずに緩んでしまった涙腺のせいで、目尻に涙が溜まってしまう。
「な、泣くの!? 泣いちゃうの!? わぁんどうしよう!? でも可愛すぎてどうしよぉー!?」
そんな様子にすら、目の前のヘンタイは両手を頬に添えては飛び跳ねて悶え狂っていた。
「おまえなんか……大っきらいだ!!」
力の限り振り絞った声を捨て置き、黒鋼は逃げるように駆け出した。
それが隣人のヘンタイ、ファイとの一番最初の嫌な思い出だった。
*
あの朝の一件で、黒鋼は隣の男に苦手意識を抱いた。
もう二度と関わってたまるかと、もし運悪く顔を合わせることになっても無視を決め込むことにした。
が、その決断はすぐに覆されることになってしまった。
隣の家には黒鋼が生まれた時から年老いた夫婦が暮らしていた。
黒鋼もよくお菓子(しょっぱいもの限定)を貰ったりして可愛がられていたし、双方の家が余りものをお裾分けし合うなど、円満な近所付き合いを行っていた。
そんな中、隣に家族が増えた。ファイはその老夫婦の孫だった。
イタリアから日本へ、母方の実家に一人で移り住むことになったと聞いた。
その辺りの詳しい事情は、幼い黒鋼にはわからない。でも、たとえ家族仲がよくたって、離れ離れで暮らさなければならないこともある。寂しくても我儘は言えない。黒鋼はそれをよく知っていた。
黒鋼の家は両親共に健在だが、半年ほど前から父が単身赴任で家を開けているため、今は母と二人だけの生活だった。
休みの日に父と遊べなくなって、一緒にお風呂も入れなくなって、寂しい日々が続いていたが、それは母も同じなのだと自分に言い聞かせながら堪えている。
せめてファイが同じ歳くらいだったら友達になれたかもしれないのにと、少しガッカリした。
彼は一緒に遊ぶには歳が離すぎていて、そのせいか黒鋼が興味を引かれることはなかった。向こうだってきっと同じことを思ってるに違いない。小学生と高校生では話だって合わないだろうと。
……そのはずが。
いざ関わってみたら、ヤツはとんだ変態だった。彼はどういうわけか7歳も年の離れた黒鋼に興味深々だったのだ。
黒鋼を視界に捉えるや否や、端整な顔をだらしなく緩めきって迫ってこようとする。
黙ってさえいればさぞ女にモテるだろうに、あれがよく言う残念なイケメンという奴かとしみじみ思う。
さらに運の悪いことに、ファイの通う高校と黒鋼の小学校は目と鼻の先の距離にあった。
最初こそ登下校の時間がカブったとしても、全力で走って逃げればいいと考えていたのだが、そうはいかなくなった。
なんと黒鋼の母親が、ファイのことをいたく気に入ってしまったのだ。
途中で息子がブチ切れて走り去ってしまったことなど知りもしない母は、どうやらファイが黒鋼の手を引いて学校へ向かう姿を見ていたらしい。
素敵なお兄ちゃんが出来てよかったわねと、その日の夜に嬉しそうにしていた母に、アイツはとんだ変態野郎だなんて、そんなことは言えなかった。
下手したらずっといい関係だった隣との付き合いが歪んでしまうかもしれないし、我が事のように喜んでいる母に悪い気がした。
子供は子供なりに、実は大人の知らないところで何かと気を使っていたりするのだ。
それからは毎朝のように母に見送られ、ヤツと一緒に学校へ行くことになってしまった。運が悪い日は帰りまで。
流石に手を繋ぐことは拒んだが、友達がいるからと断っても、むしろあの変態は「友達も紹介してー!」とせがんでくる始末だった。
こっちがどんなに怒ってもふざけた呼び方や、可愛いだのとほざくのを止めないし、事あるごとに頬っぺたをツンツンしたがるし、そうして黒鋼が嫌がってバタバタするのが楽しくて仕方がないらしい。
どうにかして関わらずに済む方法はないかと頭を抱える日々が、延々と続いている状態だった。
*
日曜日の昼下がり、黒鋼は家の庭で一人グローブを手に、塀を相手に野球ボールを投げていた。
父親がいた頃は公園まで出かけてよく一緒に遊んだが、今はそれが出来ない。
誰かしら友達を捕まえて遊んでもいいけれど、今日はなんとなくそういう気分ではなかった。
父に教えてもらったようにグローブを構え、振りかぶってボールを投げる。ガツンと音を立てて壁に弾かれたボールが、一度のバウンドを経て上手く戻って来た。黒鋼はそれを飽きもせず、延々と繰り返していた。
すると、庭の隅の丸い形の植木がガサゴソと動いた気がして、手を止めると視線を向ける。
「うげ」
思わずそんな声が漏れていた。
植木の陰から、ファイがひょっこりと顔を出して、へらっと笑った。頭の天辺に葉っぱがくっついている。
「へへへー。やっと気づいてくれたー」
「……ストーカーか?」
「ボールに夢中でぜんぜん気づいてくれないんだもんー。ついついオレもそんな黒たんに夢中になって、穴が空くほど見つめちゃったよー」
「本気でキモイぞ」
「黒わんこに言ってもらうと、何でも褒め言葉に聞こえちゃう」
「だから変な呼び方やめろって!」
黒鋼が目を吊り上げて怒鳴るのも構わず、ファイはニコニコ顔で植木の裏から出て来ると、転がり落ちていたボールを拾い上げた。
「野球が好きなのー?」
「別にそういうんじゃねぇけどさ」
「へー。オレ、キャッチボールってあんまりしたことないなー」
「父親とやらなかったのか?」
「んー。ユゥイとはたまーにやったかなー?」
「ふぅん」
ユゥイという名前は、時々ファイの口から出て来るものだった。双子の弟で、イタリアで暮らしていると言っていた。
ふと、もしかしてコイツもやっぱり家族と離れているのが寂しいのかもしれない、と思った。
黒鋼はすぐ近くの物置へおもむろに足を向けると、父が使っていたグローブを取り、ファイに向かって放り投げた。
「わぁ」
小さく声を上げながら、ファイがそれを両手でキャッチする。
それだけで黒鋼の意図を察した彼は、ぱっと目を輝かせた。
「一緒に遊んでくれるのー!?」
「じっと見てられるのがキモいだけだ」
「黒たんやっさしー!」
「う、うっせぇ!」
「かわいー!」
「次それ言ったらもう喋ってやらねぇからな!」
「(黒たん可愛い)」
「脳内に直接言うのも禁止だバカ!!」
別に優しくしてやろうなんて、これっぽっちも思ってない。
壁を相手にしているのに飽きてしまっただけで、ましてや自分が寂しかったからとか、そんなことは絶対。
たまたま近くにいたのが、隣の家の変態野郎だったってだけの話だった。
*
ファイはハッキリ言って、下手くそだった。
思いっきり投げたかと思えばボールがなぜか真後ろにぶっ飛んで行ったり、真っ直ぐ投げたはずの球が消えたと思ったら屋根の天辺から転がり落ちてきたりと、逆に奇跡としか言いようのない神がかったセンスを光らせた。
逆にすげぇなと皮肉を言うと、褒められたと勘違いして大喜びだった。バカだ。
それでも根気よく練習すると、なんとか様になってきた。
父としていた頃に比べれば物足りなさはあったが、なんだか懐かしかった。
「黒たんはさー、大きくなったら何になりたいのー?」
ボールと一緒に、ファイの問いかけもキャッチする。黒鋼はそれを、答えと一緒に思い切り投げ返した。
「まだなんも決めてねぇ」
「じゃあオレと結婚するー?」
「おまえ頭イカれてるだろ!」
「黒たんはきっと大人になってもオレよりちっちゃいから、お嫁さんねー」
「決めつけんな! つーか俺は男だからな!」
「ずーっと小ちゃくて可愛いままだったらいいのになー」
「どアホ!!」
そんな暴言を吐いても、ファイは「えへへー」と楽しそうだった。
本当に腹が立つ。何がお嫁さんだ。何が大人になってもちっちゃいだ。家族だって親戚だって、みんな口を揃えて自分のことを父親にそっくりだと言う。だから絶対に大人になったら身長だって同じくらいになる。
そう信じて、黒鋼は毎日のように小魚を大量に食べていた。だが、それでは足りないかもしれない。
牛乳は好きじゃないから避けていたが『りょうやくくちににがし』という難しい言葉もあるように、よく効く薬ほど不味いのだと思う。こうなったら我慢して、たくさん飲んだ方がいいのかもしれない。給食でも毎回残しているけれど、明日からは頑張って飲もうと決めた。
少なくとも何が何でも、このバカで変態でふざけた野郎よりは大きくなりたい。
心の中で闘志を燃やしながら、これ以上からかわれてたまるかと、キャッチボールを続けたまま話を摩り替えた。
「おまえは?」
「オレー?」
「そうだ」
「オレはー、ガッコのせんせー!」
「おまえみたいなアホが勉強なんて教えられるのか?」
「わかんないけど、がんばればきっとできるよー!」
てっきりアホな返答が来るかと思えば、意外に普通で少し驚いた。何も考えていなさそうなのに、ちゃんと将来の希望を持っていることにも。
ファイは仕草も言葉使いも幼いから忘れていたが、高校生といったら黒鋼にしてみれば大人も同然で遠い存在だ。いいお兄ちゃんが出来てよかったわね、なんて母が言っていたのをなんとなく思い出した。
(兄貴、か)
自分に兄弟がいたらこんな感じなのかと、そう考えるとくすぐったい。
出来ればもっと男らしくて、おかしなことを言わない兄貴がよかったが。
「あら? 遊んでもらってたの?」
その時、縁側から母が長い黒髪を揺らしながら顔を出した。買い物に行くと言って出かけて行ったのだが、帰って来たらしい。
ボールはファイがキャッチした状態で止まってしまった。
「おばさんこんにちはー!」
「いつも本当にありがとう。そうだわ、さっき向かいの奥さんからプリンをいただいたの。どうせ黒鋼は食べないし、よかったらどうかしら?」
「わーいプリンだー!」
ファイは飛び跳ねるように両手を上げて、ボールとグローブを投げ出してしまう。短く刈られた緑の芝生に、それらが音を立てて落下する。
縁側から這うようにして家の中にゴリゴリと押し入っていく背中を見て、黒鋼は溜息をこぼした。兄というより、あれでは弟といった方がいいような気がしてならない。
でも、ファイとのキャッチボールはほんの少しだけ、楽しかったような気がする。
黒鋼に対する物言いは相変わらず許せないが、これからはちょっとくらいは仲良くしてやってもいいかな、なんて思った。
が。
ファイはやっぱりファイで、それからというもの彼の黒鋼をからかう言葉の数々に『黒たんはオレの嫁』が加わるようになった。
ふざけたことに、母がいる目の前でもそれを言われ、しかも母まで
「将来の旦那さんと、これからも仲良くしないとね」
なんて息子をからかう始末だった。
仕舞には「お父さんにも報告しなくちゃ」なんて言いだして、黒鋼は本気で泣きたくなった。
(やっぱりアイツは許せねぇ……!)
絶対にファイよりも大きくなること、そしていつか絶対に自分をバカにしたことを後悔させてやろうと、黒鋼は幼い胸に改めて強く誓った。
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905号室の恋人
微かに上下する金色の頭に手を這わせる。
柔らかな手触りの髪はほんのりと癖があって、梳く度に指の隙間をふわふわとくすぐった。
ふと、黒鋼は笑って小さな息を漏らす。
「やっぱり下手だな、おまえ」
ベッドの縁に腰かけた黒鋼の身体の中心に顔を埋めていたファイが、むぅっと唇を尖らせて睨み上げてくる。
「下手じゃないもん。きっとまだ生身の身体に慣れてないから、調子悪いだけだよー」
「いいや、おまえは下手だ」
「半勃ちしてるくせに……」
「そりゃあそうだろ」
「え、わ、ぁ!」
寝室の床に座り込んでいるファイの両脇に両手を差し込み、腕の力だけで引っ張り上げると、すぐに抱え込むようにしてくるりと態勢を引っくり返す。
白いシーツの波間を縫うように金色の髪が広がった。
その表情をまっすぐ見下ろすと、彼はハッとしたように顔を赤らめて視線を背けた。
熱を持った頬に片手を這わせ、眼帯越しに左目があった場所へ口付ければ、ファイはぎゅっと右目を閉じて肩を竦めた。ふと見れば、胸の上で握られた二つの拳が震えている。
「なんだよ。まさか怖ぇのか?」
「こ、怖いっていうか……」
ファイは一度、緩く下唇を噛んだ。
それから胸の上の拳をもじもじと擦りあわせ、潤んだ瞳を彷徨わせる。
「そ、その……こういうの初めてだし……」
「経験あんだろ?」
「あ、る……けど、でも……」
「?」
「好きな人とするのは……初めてだから……」
そう言って、ファイはついに真っ赤な目元を手の甲で隠してしまった。
黒鋼は柄にもなく自分まで顔が赤くなるのを感じて、むっと唇を引き結んだ。
もし今の感情を音にするのなら、きゅん、という可愛らしいものがしっくりくる。それこそキャラじゃないと突っぱねたくなったりしつつ、とにかくもうどうしようもないくらい胸が熱くなるのを感じた。
黒鋼が深く息を漏らすのを、ファイは何か勘違いしたのか、小さくひくりと肩を震わせた。
「……ごめん」
「……なにが」
「めんどくさい奴で、ごめん……」
「馬鹿」
ぼそりと吐き捨てるように言うと、ファイの細い手首を取った。
泣きそうに揺れる、たった一つの青が不安げに見上げてくる。聞けば彼は黒鋼よりも僅かに年上らしいのだが、そのあまりにも余裕のない姿はいっそ小動物めいて見えてしまう。
それだけでもう黒鋼の胸は掻き毟られるようで、先走りそうになる意識をぐっと押し殺した。
掴んだままだった手に唇を寄せると手の平にキスをする。そして、その手を自分の首の後ろへ導くように引き寄せて、ファイの両腕がおずおずと絡みついてくるのを確認してから、白い額に自分の額を押し付けた。
そのまましばらく互いの息遣いを感じながら至近距離で見つめ合った。
「……なぁ」
「ん」
「優しくする」
「うん……」
幾度か音を立てて唇を啄んだ。ファイはまだ身を固くしていたが、伏せた睫毛を震わせながらそれを受け止めていた。
本当の意味で『初めて』なのは、むしろ黒鋼の方だった。
これまでの人生で異性を相手にしたことはあっても、同性とは経験がない。だからある程度はファイに教えを乞うつもりでいた。
が、彼は黒鋼がその白い素肌に触れる度にビクビクと震えるばかりで、とてもそんな余裕はないようだった。
「んっ、ぅ、ッ……!」
上のシャツを脱がせると、性急にならないよう出来る限り優しく手を這わせ、唇で薄い皮膚を辿る。ファイは引き寄せたシーツを口元に押し付けて、必死で声を噛み殺していた。
胸に吸い付くように口付けると、華奢な身体が大きくしなった。早鐘を打つ心臓の音が、唇を通して伝わってくる。
手の平を這わせ、さらにその鼓動を確かめた。しっとりと汗ばんだ肌は、吸い付くような滑らかさで心地がいい。
「ッ、胸、ないよ……」
「阿呆。知ってる」
ただ彼が『生きている』ことを、こうして感じていたかっただけだ。
胸の膨らみなど、あってもなくてもどうでもいい。
ファイが目の前で消えてしまったときの絶望や、生きていると知り、そして初めて抱きしめたときの安堵と感動。黒鋼がどんな思いでいたのか、きっとこの男には分からない。
当たり前のように触れて、熱や鼓動を確かめることがこんなにも幸せなことだったなんて、ファイと出会わなければ一生知らないままだった。
こうしてまた誰かを愛そうとする気持ちさえ、取り戻すことができなかったかもしれない。
「ッ、んっ!」
おうとつのない胸を幾度も撫でながら、小さな粒に口付けた。ファイは顔を背け、ぎゅっと目を閉じてそれに耐える。
「声だせ」
短く命じると、彼はブルブルと首を左右に振った。
そして蚊の鳴くような声を泣きそうに掠れさせて「はずかしい」と言う。
「その恥ずかしい声が聞きてぇんだよ」
黒鋼はにやりと笑ってそう言うと、彼の手からシーツを奪った。あ、という形に口を開いたファイの手首を掴んで、シーツの上に縫い付ける。
わざと大きな音を立てて首筋に吸い付き、片方の胸に手を這わせると乳輪をくるりと悪戯になぞった。小さな胸は感度がいいなんて話を耳にしたことがあるが、噂は真実かもしれない。
ファイはぶるりと大きな身震いをして「ダメ」とか「やだ」なんて言葉を可愛らしく繰り返しては、また首を振った。
その反応に気をよくして、指先で尖りはじめた粒を潰すようにこねながら這わせた唇を下降させてゆく。
じわりと刻印を刻むように白い皮膚に痕を残せば、それはみるみるうちに赤い花弁のように色づいた。
「や、ぁ……」
ファイの吐息も少しずつ甘く掠れ、身体から無駄な力が抜けてゆくのが分かる。まだ羞恥心を捨てきれない、控えめな喘ぎが黒鋼の胸をくすぐった。
蕩けてゆく様に手ごたえを感じながらヘソのくぼみに口付けて、ファイのウエストに手をかけた。寝間着にしている緩いボトムを下着ごと下ろしてゆくと、彼は一度だけ身を固くしたが、すぐに諦めたように長い息を吐き出しながら力を抜いた。自ら膝を上げ、足先を引き抜くようにして黒鋼を補助する。
ファイを生まれたままの姿にしてしまうと、黒鋼もシャツを脱ぎ捨てた。ベッド下に放られるそれを青い右目が追いかける。
彼が気を逸らしている間に、黒鋼は長い両足を割り開くと中心の淡い茂みに指を這わせた。
「ッ!!」
僅かに形を変える性器の根本に生える体毛は、ファイの明るい髪色よりは少しだけ色味の濃い金色だった。
ファイの身体にカッと朱がのぼる。サラサラとしたそれを執拗に撫で続けていた指先を掴まれて、遠ざけられてしまう。
「な、なんで、そんなとこばっか触って……!」
「いや……面白れぇなと」
「面白くないよそんなの!」
「ヒヨコのトサカみてぇだぞ」
「ど、どうせ薄いよバカー!」
可愛い、という言葉を素直に言えない黒鋼の、精一杯の褒め言葉だったのだが。
どうやら言われた方はお気に召さなかったらしい。
なかなか難しいところだなと考えつつ、本人が気に入らないのならこれ以上いじるのは気の毒なので、密かなお気に入りにだけしておこうと思った。
黒鋼は指先を半分ほど勃ちあがっている性器にやった。ゆるく握ると、ファイの腰が大きく跳ねる。
自分のもの以外で男性器に初めて触れたという感覚が、あまりわかなかった。
黒鋼の大きな手の中にあっては、成人男性のそれも子供のおもちゃのようで、これはこれで可愛いかもな、なんて密かに思ってしまう。
違和感もなければ嫌悪感もない自分に安堵しながら、育てるようにゆっくりと緩く扱き、ときおり親指で先端のくぼみを擦った。武骨な手で、出来る限り優しく扱う。
ファイは立てた両膝をガクガクと震わせ、しばらくは声を押し殺そうと必死だった。でも、降参したのかついに泣きながら悲鳴を上げた。
「やぁ、ぁッ! ん、あぁっ……!」
シーツを掻き毟る両手は、もう口元へやられることはなかった。
聞きたくて仕方のなかった恥ずかしい声は高く上擦り、黒鋼の欲求を満たしながらより煽ってゆく。性器を刺激しつつ見上げた表情は切なく歪んで、赤い頬を生理的な涙が伝うさまが堪らなかった。
自然と、黒鋼の漏らす息も熱く湿ったものになってゆく。
「いくか……?」
ファイはきつく目を閉じながらこくとくとしきりに頷いた。
声を抑えられなくなってから、彼の性器は一気に張りつめて先走りが伝い落ちるほどだった。
その滑りを借りて、黒鋼は少しだけ早さと強さを加えてさらにファイを追い詰めた。
「イッ、ちゃ、ぅ! 黒、たんの、ッ、手、きもち……ッ!」
「呼べ。俺の名前」
「ふぁッ、あ! くろ、黒様っ、あ、イッ、く、ッ――……!!」
白い足先がシーツを掻いた。背筋が浮き上がるほどのけぞって、ファイが達する。
赤く熟れたように色づいた性器から白濁の液体が勢いよく噴出して、腹や胸にまで飛び散った。
ファイは幾度か背を反らし、痙攣を繰り返しながら赤い花弁の散る薄い胸を上下させた。最後の一滴まで出しきるのをぐっと息を殺して見守る。やがて黒鋼とファイは同時に長い息を吐き出した。
睫毛を震わせながらゆらりと開かれた右目に誘われるように、身を乗り出すと唇を奪う。華奢な腕が黒鋼の頭をやんわりと抱き込んだ。
「こっから、どうすりゃいい?」
「くろさま……」
「ここ、いけんのか?」
「ッ!」
右手でファイの髪を梳きながら、左手を下肢へ伸ばすと双丘の奥まった場所に中指の腹を押し当てた。
そこは伝い落ちていた先走りですでにほんのりと濡れている。きゅっと窄まるのが指先を通して伝わって、黒鋼は無意識に喉を鳴らした。
ファイの言葉を待たずに、中指を押し込んでみる。つぷ、という音がして、第一関節の引っかかりまでを飲み込ませた。
熱い肉の窄まりは黒鋼の指を拒むどころか、切ないほど締め付けて来た。
「あっ、ぁ、ん!」
黒鋼の肩に縋りながら、ファイがぶるりと震える。吐息だけで「辛いか」と問えば、彼は首を左右に振った。
胸や腹に飛び散っていた体液も使い、その反応を見ながら小さな穴により深く指を押し進めていった。時間をかけて根気よく解しながら、中指に人差し指も添えて飲み込ませる頃、黒鋼はファイが押し込むよりも、引き抜く際に甘い声を漏らすことに気が付いた。
傷つけないように慎重に中へ進み、それから二本の指をバラバラと動かしながら抜いてみる。
「ひぁッ、あっ、ぁッ! それ、や、だ!」
「おまえの嫌ってのは全くアテになんねぇぞ」
「んっ、もぉ、いい……も、いぃ、から!」
たった二本の指をこれだけキツく食んでくる場所への準備が、この程度でいいのだろうか。
黒鋼は多少戸惑いつつ、本音を言えば自分自身もそろそろ辛いところだった。
ひとまず指を引き抜けば、ファイはホッと安堵の息を漏らした。
「クッション、取ってもらっていい?」
ファイの言う通り、黒鋼は枕の側にあったクッションを一つ手に取って渡した。
すると彼は自分の腰を浮かして、クッションを下に敷いて調節しはじめる。
「楽か。それやると」
「うん……。あのね、他の人とはバックしかやったことないの……ほんとはその方が楽だし、なんか……見られるのやだったし。でも」
ファイは黒鋼を見上げ、ふにゃんと情けなく笑って言った。
「恥ずかしいけど、黒たんの顔が見たいから。このまましよ」
「……おまえってやつは、いちいち……」
「?」
「もういい。黙ってろ阿保」
いちいち人の心の的を貫いてくる。
相手の経験値やその人数を気にしたことはないけれど、ただの性欲処理ではなく、この男を初めて『愛する』のが自分だと思うと、いっそ鳥肌が立つほどの歓喜を覚えた。
黒鋼は大きく息を吐き出すと、ファイの膝を掴んでぐっと押し広げる。そしていったん仕舞われていた自身を片手で取り出し、情けなく滲む先走りを馴染ませるように一度、竿を扱いた。
一秒でも早く繋がりたくて、それは脈打ちながらぐんと反り返っていた。
ファイが息を呑むのが分かる。ふっと目をやれば、蕩けたような視線が物欲しげに揺れているから、笑ってしまう。
「なんつう目で見てんだ」
からかうように言う黒鋼に、ハッとしたファイは慌てて目を逸らす。
「ご、ごめん」
「やるよ。全部」
しっとりと濡れた穴に、幾度か先端を擦り付けると押し当てた。
小さな尻の肉がひくっと痙攣して僅かに強張る。力を抜けとわざわざ命じずとも、彼は必死にそれをしようと浅く深呼吸を繰り返していた。
緊張に震えそうになる息をぐっと飲み込んで、黒鋼はファイの両足を抱えてゆっくりと腰を前進させた。
「ッ――!!」
黒鋼は想像以上の圧迫感に、ファイは予想以上の質量に、同時に喉を詰まらせた。
もっとも敏感な先端部分をぎゅっと肉壁に食われるだけで、すべて持っていかれそうになる。果たしてこのこぢんまりとした穴に、全て納めきることは出来るのだろうか。あるいは、それまで自分がもつかどうか。
果てしなく自信がないが、ひたすら歯を食いしばって耐えるしかない。
「うぁ……ッ! ア、ぁッ! くろ、さま、黒様ぁ……!」
ファイは何度も黒鋼の名を呼んだ。伸びて来た白い両腕へ飛び込むように、黒鋼は身体を前へ倒すと、覆いかぶさるようにしてその身を強く抱き込む。
黒鋼が腰を進める度に彼の爪が背中に食い込むのを感じた。強張る身体から、相当の無理をさせていることが伝わってくる。
「おい、もう……」
やめておくかと、黒鋼が言う前にファイが「嫌」と叫んだ。アテにならないとばかり思っていたそれが、今は鬼気迫って聞こえる。
「ぜんぶ、くれるって言った!」
「だが」
「奥まで入れて……オレも、ぜんぶ黒たんにあげたい……」
「ッ……!」
ああもう、本当に。気が狂いそうだ。
誰かを愛しいと感じて、そして愛されて、これほどまでに胸が苦しいことなどあっただろうか。
黒鋼は「ちくしょう」と低く吐き捨て、意を決して一気に腰を突き入れた。
「ヒ、ぁ……――ッ!!」
ファイの首が仰け反る。上擦った声には苦痛の色が滲んでいた。痛みを引き受けることができない代わりに、黒鋼はただ強く彼を抱きしめる。
すぐにでも動き出したいのを堪えて、その呼吸が落ち着くまでずっと額に唇を押し付け続けた。
食いちぎられそうなほどの締め付けに慣れるのには、時間がかかりそうだった。それでもゆっくりと、少しずつ中に馴染んでゆくのを感じる。熱い媚肉がずっと奥深い場所に至っているにも関わらず、さらに誘い込むように蠢いていた。
「全部、もらったからな」
乱れそうになる息で、そっと耳元で囁く。ファイはこくりと頷いて、「オレも」と言った。
それを合図に、黒鋼は奥を探るような慎重さで腰をゆっくりと揺り動かす。
ファイはか細い悲鳴を上げながら、その動きに合わせてカクン、カクン、とシーツの上を上下に揺れた。
「ぁ、ぁ、は……んぁ、あ、ぁっ……」
決して乱暴にしないよう、労わりながらファイの表情を窺う。そこから徐々に苦しげな色が薄れて、ずっと閉じられていた右目が半分だけ開かれる。とろん、と蕩けているのが分かった。
黒鋼は、小刻みに揺するだけだった動きを少しずつ深いものにしていった。最初は半分だけ、そして時間と共に先端まで引き抜いてはまた押し込める。ファイの両足が離さないとばかりに黒鋼の腰に巻き付いた。
火傷しそうなほど熱い内壁が、容赦なく絡みついてくる。鈍い水音と荒々しい黒鋼の呼吸と、ファイの嬌声が重なり合っていた。
「やぁ、ぁ! だ、め、だめ……も、だめ、ぇ」
「駄目? 何が駄目か言わなきゃわかんねぇぞ」
「ぁ、やッ、す、き、好き……ッ、ん、ぁ! だめ、黒、たん……!」
まるでそれしか知らないみたいに、ファイは嫌とダメと、好きと黒鋼の名前を繰り返しながら喘いだ。
気づけば黒鋼の腹に彼の勃起した性器が当たっていた。蜜を零しながら、揺さぶるたびに健気に震える。
やっぱりアテにならねぇなと笑いながら、全ての快楽を分かち合うように、深く唇を重ね合わせる。
舌を交わらせながらファイが切なげに呻き声を発し、黒鋼の皮膚に食い込む爪の力が強まった。
「ぅんっ、ぅ! んんん……――ッ!!」
腕の中の身体がビクンと大きく跳ね上がり、挟まれるようにして張りつめていた性器から二度目の飛沫が上がった。
「ッ、ぅ……!!」
一瞬遅れて黒鋼もぐっと喉を詰まらせながら唸った。
絡まるファイの両足が腰を離さず、考える間もなく射精感に身を任せる。最も深い場所に、黒鋼は全てを出し切った。
まとわりつく余韻に身を震わせ、二人は抱き合ったまましばらく動くことができなかった。
はかはかと繰り返される忙しない呼吸に耳を傾けながら、尽きることのない愛おしさに胸が張り裂けそうになる。
そうして過ぎるほど満たされる中で、黒鋼はこの時を絶対に手放すものかと固く胸に誓う。
「……離さねぇからな」
「黒様……?」
「消えるなよ。もう二度と」
目を見開いたファイは青い瞳を揺らしながら、泣きそうな声で「うん」と返事を寄越した。
*
「お母さんに……」
シーツにくるまり、少しだけ眠って起きたあと。
黒鋼の腕を枕にしたファイがぽつりと言った。その声は少しだけ枯れて、語尾が不安定に掠れている。
「お袋がどうした」
「ん……ちゃんと挨拶、しに行きたいなぁって。隠れてるばっかで、失礼なことしちゃったでしょ?」
確かになと返しつつも、おそらくあの母親は気にしちゃいないだろうと思った。
むしろ彼女はファイが生きていることに気付いていたはずだ。すっかり手の平で弄ばれたような気がして、息子としては多少不貞腐れた気分である。
そんなことなど知りもしないファイは、今度はちゃんとスーツを着てくべきかな、なんて細かいことを気にしている。意外に真面目な面を見せられた気がした。
「なぁ、それもいいが」
あーだこーだと独り言を垂れているファイの、ほんのり汗ばんだ髪に指を通す。
頭皮を滑る指先の感触が心地いいのか、ファイは猫のように目を細めて「んー」と間の抜けた返事をした。
「どっか旅行でも行かねぇか」
「ふえ?」
「いつ……ってのはまだ、具体的に約束はできねぇが……」
「い、行く!!」
くったりと黒鋼の腕に納まっていたはずの身体が、勢いよく弾かれたように身を起こす。
だが、すぐに腰に鈍痛が走ったのか、「イタッ」と声を発して顔を顰めた。
「ばかやろう、無理すんな」
「大丈夫ー!」
ファイは心底嬉しそうにぱぁっと笑って、黒鋼の胸に乗り上げるように飛びついて来た。胸と胸が合わさって、自分のものより少しだけ早い鼓動が感じられる。
どれほど彼が胸を弾ませているかが窺い知れて、黒鋼は小さく笑うとその頬を猫にでもするようにちょこちょこと指でくすぐった。
「どこがいい?」
肩を竦めながらクスクスと笑っていたファイは、黒鋼の手を取ると指先に軽やかな音をたててキスをする。そして、「どこだっていいよ」と言って右目を細めた。
「なんだよ。喜んだ割に投げやりだな」
「うぅん。だってホントに、どこだっていいんだもん」
骨ばった大きな手の平と、白い華奢な手の平がぴったりと重なり合った。祈るような形に指を曲げて、握り合う。
確かな感触が温もりを乗せて身体中に流れ込んでくる。
鼓動と、熱と、愛しさと。命と。
905号室の怪異がもたらした出会いと別れが、出会うはずのなかった二人を幸福で包み込む。
「生きて、こうして同じ場所にいられるだけで、毎日が特別なんだ」
健気で可愛い黒鋼の恋人は、そう言ってふわりと微笑んで見せた。
End
←戻る ・ Wavebox👏
微かに上下する金色の頭に手を這わせる。
柔らかな手触りの髪はほんのりと癖があって、梳く度に指の隙間をふわふわとくすぐった。
ふと、黒鋼は笑って小さな息を漏らす。
「やっぱり下手だな、おまえ」
ベッドの縁に腰かけた黒鋼の身体の中心に顔を埋めていたファイが、むぅっと唇を尖らせて睨み上げてくる。
「下手じゃないもん。きっとまだ生身の身体に慣れてないから、調子悪いだけだよー」
「いいや、おまえは下手だ」
「半勃ちしてるくせに……」
「そりゃあそうだろ」
「え、わ、ぁ!」
寝室の床に座り込んでいるファイの両脇に両手を差し込み、腕の力だけで引っ張り上げると、すぐに抱え込むようにしてくるりと態勢を引っくり返す。
白いシーツの波間を縫うように金色の髪が広がった。
その表情をまっすぐ見下ろすと、彼はハッとしたように顔を赤らめて視線を背けた。
熱を持った頬に片手を這わせ、眼帯越しに左目があった場所へ口付ければ、ファイはぎゅっと右目を閉じて肩を竦めた。ふと見れば、胸の上で握られた二つの拳が震えている。
「なんだよ。まさか怖ぇのか?」
「こ、怖いっていうか……」
ファイは一度、緩く下唇を噛んだ。
それから胸の上の拳をもじもじと擦りあわせ、潤んだ瞳を彷徨わせる。
「そ、その……こういうの初めてだし……」
「経験あんだろ?」
「あ、る……けど、でも……」
「?」
「好きな人とするのは……初めてだから……」
そう言って、ファイはついに真っ赤な目元を手の甲で隠してしまった。
黒鋼は柄にもなく自分まで顔が赤くなるのを感じて、むっと唇を引き結んだ。
もし今の感情を音にするのなら、きゅん、という可愛らしいものがしっくりくる。それこそキャラじゃないと突っぱねたくなったりしつつ、とにかくもうどうしようもないくらい胸が熱くなるのを感じた。
黒鋼が深く息を漏らすのを、ファイは何か勘違いしたのか、小さくひくりと肩を震わせた。
「……ごめん」
「……なにが」
「めんどくさい奴で、ごめん……」
「馬鹿」
ぼそりと吐き捨てるように言うと、ファイの細い手首を取った。
泣きそうに揺れる、たった一つの青が不安げに見上げてくる。聞けば彼は黒鋼よりも僅かに年上らしいのだが、そのあまりにも余裕のない姿はいっそ小動物めいて見えてしまう。
それだけでもう黒鋼の胸は掻き毟られるようで、先走りそうになる意識をぐっと押し殺した。
掴んだままだった手に唇を寄せると手の平にキスをする。そして、その手を自分の首の後ろへ導くように引き寄せて、ファイの両腕がおずおずと絡みついてくるのを確認してから、白い額に自分の額を押し付けた。
そのまましばらく互いの息遣いを感じながら至近距離で見つめ合った。
「……なぁ」
「ん」
「優しくする」
「うん……」
幾度か音を立てて唇を啄んだ。ファイはまだ身を固くしていたが、伏せた睫毛を震わせながらそれを受け止めていた。
本当の意味で『初めて』なのは、むしろ黒鋼の方だった。
これまでの人生で異性を相手にしたことはあっても、同性とは経験がない。だからある程度はファイに教えを乞うつもりでいた。
が、彼は黒鋼がその白い素肌に触れる度にビクビクと震えるばかりで、とてもそんな余裕はないようだった。
「んっ、ぅ、ッ……!」
上のシャツを脱がせると、性急にならないよう出来る限り優しく手を這わせ、唇で薄い皮膚を辿る。ファイは引き寄せたシーツを口元に押し付けて、必死で声を噛み殺していた。
胸に吸い付くように口付けると、華奢な身体が大きくしなった。早鐘を打つ心臓の音が、唇を通して伝わってくる。
手の平を這わせ、さらにその鼓動を確かめた。しっとりと汗ばんだ肌は、吸い付くような滑らかさで心地がいい。
「ッ、胸、ないよ……」
「阿呆。知ってる」
ただ彼が『生きている』ことを、こうして感じていたかっただけだ。
胸の膨らみなど、あってもなくてもどうでもいい。
ファイが目の前で消えてしまったときの絶望や、生きていると知り、そして初めて抱きしめたときの安堵と感動。黒鋼がどんな思いでいたのか、きっとこの男には分からない。
当たり前のように触れて、熱や鼓動を確かめることがこんなにも幸せなことだったなんて、ファイと出会わなければ一生知らないままだった。
こうしてまた誰かを愛そうとする気持ちさえ、取り戻すことができなかったかもしれない。
「ッ、んっ!」
おうとつのない胸を幾度も撫でながら、小さな粒に口付けた。ファイは顔を背け、ぎゅっと目を閉じてそれに耐える。
「声だせ」
短く命じると、彼はブルブルと首を左右に振った。
そして蚊の鳴くような声を泣きそうに掠れさせて「はずかしい」と言う。
「その恥ずかしい声が聞きてぇんだよ」
黒鋼はにやりと笑ってそう言うと、彼の手からシーツを奪った。あ、という形に口を開いたファイの手首を掴んで、シーツの上に縫い付ける。
わざと大きな音を立てて首筋に吸い付き、片方の胸に手を這わせると乳輪をくるりと悪戯になぞった。小さな胸は感度がいいなんて話を耳にしたことがあるが、噂は真実かもしれない。
ファイはぶるりと大きな身震いをして「ダメ」とか「やだ」なんて言葉を可愛らしく繰り返しては、また首を振った。
その反応に気をよくして、指先で尖りはじめた粒を潰すようにこねながら這わせた唇を下降させてゆく。
じわりと刻印を刻むように白い皮膚に痕を残せば、それはみるみるうちに赤い花弁のように色づいた。
「や、ぁ……」
ファイの吐息も少しずつ甘く掠れ、身体から無駄な力が抜けてゆくのが分かる。まだ羞恥心を捨てきれない、控えめな喘ぎが黒鋼の胸をくすぐった。
蕩けてゆく様に手ごたえを感じながらヘソのくぼみに口付けて、ファイのウエストに手をかけた。寝間着にしている緩いボトムを下着ごと下ろしてゆくと、彼は一度だけ身を固くしたが、すぐに諦めたように長い息を吐き出しながら力を抜いた。自ら膝を上げ、足先を引き抜くようにして黒鋼を補助する。
ファイを生まれたままの姿にしてしまうと、黒鋼もシャツを脱ぎ捨てた。ベッド下に放られるそれを青い右目が追いかける。
彼が気を逸らしている間に、黒鋼は長い両足を割り開くと中心の淡い茂みに指を這わせた。
「ッ!!」
僅かに形を変える性器の根本に生える体毛は、ファイの明るい髪色よりは少しだけ色味の濃い金色だった。
ファイの身体にカッと朱がのぼる。サラサラとしたそれを執拗に撫で続けていた指先を掴まれて、遠ざけられてしまう。
「な、なんで、そんなとこばっか触って……!」
「いや……面白れぇなと」
「面白くないよそんなの!」
「ヒヨコのトサカみてぇだぞ」
「ど、どうせ薄いよバカー!」
可愛い、という言葉を素直に言えない黒鋼の、精一杯の褒め言葉だったのだが。
どうやら言われた方はお気に召さなかったらしい。
なかなか難しいところだなと考えつつ、本人が気に入らないのならこれ以上いじるのは気の毒なので、密かなお気に入りにだけしておこうと思った。
黒鋼は指先を半分ほど勃ちあがっている性器にやった。ゆるく握ると、ファイの腰が大きく跳ねる。
自分のもの以外で男性器に初めて触れたという感覚が、あまりわかなかった。
黒鋼の大きな手の中にあっては、成人男性のそれも子供のおもちゃのようで、これはこれで可愛いかもな、なんて密かに思ってしまう。
違和感もなければ嫌悪感もない自分に安堵しながら、育てるようにゆっくりと緩く扱き、ときおり親指で先端のくぼみを擦った。武骨な手で、出来る限り優しく扱う。
ファイは立てた両膝をガクガクと震わせ、しばらくは声を押し殺そうと必死だった。でも、降参したのかついに泣きながら悲鳴を上げた。
「やぁ、ぁッ! ん、あぁっ……!」
シーツを掻き毟る両手は、もう口元へやられることはなかった。
聞きたくて仕方のなかった恥ずかしい声は高く上擦り、黒鋼の欲求を満たしながらより煽ってゆく。性器を刺激しつつ見上げた表情は切なく歪んで、赤い頬を生理的な涙が伝うさまが堪らなかった。
自然と、黒鋼の漏らす息も熱く湿ったものになってゆく。
「いくか……?」
ファイはきつく目を閉じながらこくとくとしきりに頷いた。
声を抑えられなくなってから、彼の性器は一気に張りつめて先走りが伝い落ちるほどだった。
その滑りを借りて、黒鋼は少しだけ早さと強さを加えてさらにファイを追い詰めた。
「イッ、ちゃ、ぅ! 黒、たんの、ッ、手、きもち……ッ!」
「呼べ。俺の名前」
「ふぁッ、あ! くろ、黒様っ、あ、イッ、く、ッ――……!!」
白い足先がシーツを掻いた。背筋が浮き上がるほどのけぞって、ファイが達する。
赤く熟れたように色づいた性器から白濁の液体が勢いよく噴出して、腹や胸にまで飛び散った。
ファイは幾度か背を反らし、痙攣を繰り返しながら赤い花弁の散る薄い胸を上下させた。最後の一滴まで出しきるのをぐっと息を殺して見守る。やがて黒鋼とファイは同時に長い息を吐き出した。
睫毛を震わせながらゆらりと開かれた右目に誘われるように、身を乗り出すと唇を奪う。華奢な腕が黒鋼の頭をやんわりと抱き込んだ。
「こっから、どうすりゃいい?」
「くろさま……」
「ここ、いけんのか?」
「ッ!」
右手でファイの髪を梳きながら、左手を下肢へ伸ばすと双丘の奥まった場所に中指の腹を押し当てた。
そこは伝い落ちていた先走りですでにほんのりと濡れている。きゅっと窄まるのが指先を通して伝わって、黒鋼は無意識に喉を鳴らした。
ファイの言葉を待たずに、中指を押し込んでみる。つぷ、という音がして、第一関節の引っかかりまでを飲み込ませた。
熱い肉の窄まりは黒鋼の指を拒むどころか、切ないほど締め付けて来た。
「あっ、ぁ、ん!」
黒鋼の肩に縋りながら、ファイがぶるりと震える。吐息だけで「辛いか」と問えば、彼は首を左右に振った。
胸や腹に飛び散っていた体液も使い、その反応を見ながら小さな穴により深く指を押し進めていった。時間をかけて根気よく解しながら、中指に人差し指も添えて飲み込ませる頃、黒鋼はファイが押し込むよりも、引き抜く際に甘い声を漏らすことに気が付いた。
傷つけないように慎重に中へ進み、それから二本の指をバラバラと動かしながら抜いてみる。
「ひぁッ、あっ、ぁッ! それ、や、だ!」
「おまえの嫌ってのは全くアテになんねぇぞ」
「んっ、もぉ、いい……も、いぃ、から!」
たった二本の指をこれだけキツく食んでくる場所への準備が、この程度でいいのだろうか。
黒鋼は多少戸惑いつつ、本音を言えば自分自身もそろそろ辛いところだった。
ひとまず指を引き抜けば、ファイはホッと安堵の息を漏らした。
「クッション、取ってもらっていい?」
ファイの言う通り、黒鋼は枕の側にあったクッションを一つ手に取って渡した。
すると彼は自分の腰を浮かして、クッションを下に敷いて調節しはじめる。
「楽か。それやると」
「うん……。あのね、他の人とはバックしかやったことないの……ほんとはその方が楽だし、なんか……見られるのやだったし。でも」
ファイは黒鋼を見上げ、ふにゃんと情けなく笑って言った。
「恥ずかしいけど、黒たんの顔が見たいから。このまましよ」
「……おまえってやつは、いちいち……」
「?」
「もういい。黙ってろ阿保」
いちいち人の心の的を貫いてくる。
相手の経験値やその人数を気にしたことはないけれど、ただの性欲処理ではなく、この男を初めて『愛する』のが自分だと思うと、いっそ鳥肌が立つほどの歓喜を覚えた。
黒鋼は大きく息を吐き出すと、ファイの膝を掴んでぐっと押し広げる。そしていったん仕舞われていた自身を片手で取り出し、情けなく滲む先走りを馴染ませるように一度、竿を扱いた。
一秒でも早く繋がりたくて、それは脈打ちながらぐんと反り返っていた。
ファイが息を呑むのが分かる。ふっと目をやれば、蕩けたような視線が物欲しげに揺れているから、笑ってしまう。
「なんつう目で見てんだ」
からかうように言う黒鋼に、ハッとしたファイは慌てて目を逸らす。
「ご、ごめん」
「やるよ。全部」
しっとりと濡れた穴に、幾度か先端を擦り付けると押し当てた。
小さな尻の肉がひくっと痙攣して僅かに強張る。力を抜けとわざわざ命じずとも、彼は必死にそれをしようと浅く深呼吸を繰り返していた。
緊張に震えそうになる息をぐっと飲み込んで、黒鋼はファイの両足を抱えてゆっくりと腰を前進させた。
「ッ――!!」
黒鋼は想像以上の圧迫感に、ファイは予想以上の質量に、同時に喉を詰まらせた。
もっとも敏感な先端部分をぎゅっと肉壁に食われるだけで、すべて持っていかれそうになる。果たしてこのこぢんまりとした穴に、全て納めきることは出来るのだろうか。あるいは、それまで自分がもつかどうか。
果てしなく自信がないが、ひたすら歯を食いしばって耐えるしかない。
「うぁ……ッ! ア、ぁッ! くろ、さま、黒様ぁ……!」
ファイは何度も黒鋼の名を呼んだ。伸びて来た白い両腕へ飛び込むように、黒鋼は身体を前へ倒すと、覆いかぶさるようにしてその身を強く抱き込む。
黒鋼が腰を進める度に彼の爪が背中に食い込むのを感じた。強張る身体から、相当の無理をさせていることが伝わってくる。
「おい、もう……」
やめておくかと、黒鋼が言う前にファイが「嫌」と叫んだ。アテにならないとばかり思っていたそれが、今は鬼気迫って聞こえる。
「ぜんぶ、くれるって言った!」
「だが」
「奥まで入れて……オレも、ぜんぶ黒たんにあげたい……」
「ッ……!」
ああもう、本当に。気が狂いそうだ。
誰かを愛しいと感じて、そして愛されて、これほどまでに胸が苦しいことなどあっただろうか。
黒鋼は「ちくしょう」と低く吐き捨て、意を決して一気に腰を突き入れた。
「ヒ、ぁ……――ッ!!」
ファイの首が仰け反る。上擦った声には苦痛の色が滲んでいた。痛みを引き受けることができない代わりに、黒鋼はただ強く彼を抱きしめる。
すぐにでも動き出したいのを堪えて、その呼吸が落ち着くまでずっと額に唇を押し付け続けた。
食いちぎられそうなほどの締め付けに慣れるのには、時間がかかりそうだった。それでもゆっくりと、少しずつ中に馴染んでゆくのを感じる。熱い媚肉がずっと奥深い場所に至っているにも関わらず、さらに誘い込むように蠢いていた。
「全部、もらったからな」
乱れそうになる息で、そっと耳元で囁く。ファイはこくりと頷いて、「オレも」と言った。
それを合図に、黒鋼は奥を探るような慎重さで腰をゆっくりと揺り動かす。
ファイはか細い悲鳴を上げながら、その動きに合わせてカクン、カクン、とシーツの上を上下に揺れた。
「ぁ、ぁ、は……んぁ、あ、ぁっ……」
決して乱暴にしないよう、労わりながらファイの表情を窺う。そこから徐々に苦しげな色が薄れて、ずっと閉じられていた右目が半分だけ開かれる。とろん、と蕩けているのが分かった。
黒鋼は、小刻みに揺するだけだった動きを少しずつ深いものにしていった。最初は半分だけ、そして時間と共に先端まで引き抜いてはまた押し込める。ファイの両足が離さないとばかりに黒鋼の腰に巻き付いた。
火傷しそうなほど熱い内壁が、容赦なく絡みついてくる。鈍い水音と荒々しい黒鋼の呼吸と、ファイの嬌声が重なり合っていた。
「やぁ、ぁ! だ、め、だめ……も、だめ、ぇ」
「駄目? 何が駄目か言わなきゃわかんねぇぞ」
「ぁ、やッ、す、き、好き……ッ、ん、ぁ! だめ、黒、たん……!」
まるでそれしか知らないみたいに、ファイは嫌とダメと、好きと黒鋼の名前を繰り返しながら喘いだ。
気づけば黒鋼の腹に彼の勃起した性器が当たっていた。蜜を零しながら、揺さぶるたびに健気に震える。
やっぱりアテにならねぇなと笑いながら、全ての快楽を分かち合うように、深く唇を重ね合わせる。
舌を交わらせながらファイが切なげに呻き声を発し、黒鋼の皮膚に食い込む爪の力が強まった。
「ぅんっ、ぅ! んんん……――ッ!!」
腕の中の身体がビクンと大きく跳ね上がり、挟まれるようにして張りつめていた性器から二度目の飛沫が上がった。
「ッ、ぅ……!!」
一瞬遅れて黒鋼もぐっと喉を詰まらせながら唸った。
絡まるファイの両足が腰を離さず、考える間もなく射精感に身を任せる。最も深い場所に、黒鋼は全てを出し切った。
まとわりつく余韻に身を震わせ、二人は抱き合ったまましばらく動くことができなかった。
はかはかと繰り返される忙しない呼吸に耳を傾けながら、尽きることのない愛おしさに胸が張り裂けそうになる。
そうして過ぎるほど満たされる中で、黒鋼はこの時を絶対に手放すものかと固く胸に誓う。
「……離さねぇからな」
「黒様……?」
「消えるなよ。もう二度と」
目を見開いたファイは青い瞳を揺らしながら、泣きそうな声で「うん」と返事を寄越した。
*
「お母さんに……」
シーツにくるまり、少しだけ眠って起きたあと。
黒鋼の腕を枕にしたファイがぽつりと言った。その声は少しだけ枯れて、語尾が不安定に掠れている。
「お袋がどうした」
「ん……ちゃんと挨拶、しに行きたいなぁって。隠れてるばっかで、失礼なことしちゃったでしょ?」
確かになと返しつつも、おそらくあの母親は気にしちゃいないだろうと思った。
むしろ彼女はファイが生きていることに気付いていたはずだ。すっかり手の平で弄ばれたような気がして、息子としては多少不貞腐れた気分である。
そんなことなど知りもしないファイは、今度はちゃんとスーツを着てくべきかな、なんて細かいことを気にしている。意外に真面目な面を見せられた気がした。
「なぁ、それもいいが」
あーだこーだと独り言を垂れているファイの、ほんのり汗ばんだ髪に指を通す。
頭皮を滑る指先の感触が心地いいのか、ファイは猫のように目を細めて「んー」と間の抜けた返事をした。
「どっか旅行でも行かねぇか」
「ふえ?」
「いつ……ってのはまだ、具体的に約束はできねぇが……」
「い、行く!!」
くったりと黒鋼の腕に納まっていたはずの身体が、勢いよく弾かれたように身を起こす。
だが、すぐに腰に鈍痛が走ったのか、「イタッ」と声を発して顔を顰めた。
「ばかやろう、無理すんな」
「大丈夫ー!」
ファイは心底嬉しそうにぱぁっと笑って、黒鋼の胸に乗り上げるように飛びついて来た。胸と胸が合わさって、自分のものより少しだけ早い鼓動が感じられる。
どれほど彼が胸を弾ませているかが窺い知れて、黒鋼は小さく笑うとその頬を猫にでもするようにちょこちょこと指でくすぐった。
「どこがいい?」
肩を竦めながらクスクスと笑っていたファイは、黒鋼の手を取ると指先に軽やかな音をたててキスをする。そして、「どこだっていいよ」と言って右目を細めた。
「なんだよ。喜んだ割に投げやりだな」
「うぅん。だってホントに、どこだっていいんだもん」
骨ばった大きな手の平と、白い華奢な手の平がぴったりと重なり合った。祈るような形に指を曲げて、握り合う。
確かな感触が温もりを乗せて身体中に流れ込んでくる。
鼓動と、熱と、愛しさと。命と。
905号室の怪異がもたらした出会いと別れが、出会うはずのなかった二人を幸福で包み込む。
「生きて、こうして同じ場所にいられるだけで、毎日が特別なんだ」
健気で可愛い黒鋼の恋人は、そう言ってふわりと微笑んで見せた。
End
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つづれ織る日々
「ファイ……ファイ……!?」
暗い暗い闇の底から、ゆっくりと浮上したファイが真先に聞いたのは、弟の声だった。
ピクリと動かした指先を取られ、強く握り締められる。
まだハッキリとしない意識で、ファイは右目を声のする方へ向けた。
薬品の香りと、ユゥイの泣き顔。
弟の泣いた顔なんて、子供の頃以来ずっと見ていない。
「ユゥイ……?」
「おはようファイ……おはよう……」
おはよう。それは目覚めの言葉。ファイは小さく、首を傾げた。
「……寝てた?」
「そうだよ……ずっと寝てたんだよ……半年も、ずっと」
「はんとし」
意識はいまだに霧がかかったように薄ぼんやりと彷徨うばかりだった。
ただ、異常な喉の渇きと身体の重さだけが圧し掛かる。
「ファイ……?」
気づくと、ファイは泣いていた。
涙がとめどなく溢れて止まらなかった。
「夢を」
「夢……?」
「うん……ずっと、夢を見ていたよ……」
大好きな人と一緒にいる、幸せな夢を。
*
「黒たーん! 早く行かないと遅刻しちゃうよー!」
朝食で使った食器を洗いながら、寝室へ向かって声をかける。
すぐに鞄を手に出て来た黒鋼は表情こそむっつりとしているが、本当は少し焦っているに違いない。朝はたった5分でも命取りになる。いつもならとっくに家を出ている時間だった。
「あぁ待って! お弁当忘れてるってば!」
「おう、悪い」
「待って待って! ネクタイ曲がってるよ!」
カウンター越しに青いハンカチで包んだ弁当箱を渡し、そのまま出て行こうとする黒鋼の襟を引っ張る。腕時計を見やる彼のネクタイをサッと正して、よし、と呟くと今度はこちらがシャツの胸倉を掴まれて引っ張られた。
「ッ!」
一瞬だけ唇が触れて、ファイはほんの数秒硬直したあと、真っ赤な顔で息を呑む。
黒鋼はふん、と少し意地悪そうに鼻で笑った。不意打ちが成功すると、彼は決まってこういう笑い方をするから、食らう方としてはちょっと悔しい。
「おまえも今日は取材だったな」
「う、うん。午後からだから帰りは同じくらいか……ちょっと遅くなるかも」
「そうか」
「晩ご飯、適当に済ませちゃってね」
「……わかった。じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃーい!」
リビングを出て行く黒鋼の背に向かって、カウンターに乗り出して思い切り手を振った。
五月。
病院を退院したファイは元々暮らしていた、そして今は黒鋼がいるマンションへ戻って来ていた。
病院のベッドで目覚めた時、ファイは黒鋼と過ごした時間を夢だとばかり思い込んでいた。
自分の理想のタイプが目の前に現れて、恋人として生活するなんて、あまりにも都合がよすぎてただ虚しいだけだった。だから黒鋼と中庭で再会したとき、ファイはまだ夢の中にいるような気分だった。
そもそも今にして思えば、うだうだせずにユゥイの様子を見に行っていればよかったのだ。
そうしたら自分がしっかり生きていて、幽体離脱しているだけだとすぐに分かったのに。
黒鋼も事あるごとにそれを言う。それだけ悲痛な思いをさせてしまったのだと思うと申し訳ないが、実は少し嬉しかったりもする。
自分が死者であると思い込んでいた以前に、ファイは黒鋼が同じだけの思いを返してくれるなんて、それこそ夢にも思っていなかったから。
「さーて、お茶でも飲んでひと息つこうかなー」
片付けを終えたファイはハンドタオルで両手を拭きながら、リビングの壁掛け時計を見やる。
あらかじめ水を入れておいたカウンターの電気ポットにスイッチを入れて、カップや紅茶の缶などを用意する。だがそこで、テーブルの上に置きっぱなしだった携帯が鳴った。
ファイは慌ててカウンターを迂回すると、携帯を取って通話ボタンを押す。
「はいはーい」
『おはよ、ファイ』
着信はユゥイからのものだった。ファイは同じく「おはよーユゥイー」と笑顔で返し、携帯を耳に押し当てたままソファに腰かける。
『今日の調子はどう?』
「元気だよー! 今ね、朝ご飯の片付け終わらせたとこー」
じゃあいいタイミングだったねと、受話器越しでユゥイが笑った。
彼はファイが退院してこのマンションに戻ってから、こうして毎日のように電話をかけて寄越すようになっていた。
以前は便りがないのは良い便りとばかりにベタベタするような関係ではなかったのが、事故後はすっかり心配する癖が身に付いたのか、一日一回は安否確認をされるようになってしまった。
心配のしすぎでそのうちハゲてしまうんじゃないかと、むしろこちらが心配になる。
でも、それもやっぱり仕方がないのかもしれない。
本当は退院後、昔のように兄弟揃って暮らす予定でいた計画も狂わせてしまったし、あの事故で、ファイは左目を失う結果になってしまった。
今は閉じてしまった瞼を眼帯で隠しているが、もうじき義眼を入れることになっている。
それでも視力が戻るわけではないし、常に側で見ていられないのは不安で仕方がないのだろう。
だが、弟は黒鋼と面識がある。悪い印象は持っていないようだった。ユゥイと黒鋼が偶然顔を合わせなかったら、自分たちの再会はまだずっと先か、永遠に互いの存在に気付かないままだったかもしれない。
『彼とは上手くいってるの?』
「え!」
『赤くならなくていいよ』
まるで側で見ているような口ぶりだが、実際のところファイはついさっき奪われた唇の感触を思い出して赤面していた。
「い、いってるよー。仲良くしてもらってる」
『ならよかった。あからさまにファイの好みのタイプだもんね』
「えへへへー」
『あんまり心配かけないようにね。目のこともあるんだから、外を歩くときは特に気を付けて』
「わかってるよぅ」
それは耳にタコができるほど聞かされている。
でも実のところ、彼が心配するほどファイは片目だけの生活に不便を感じてはいなかった。この状態で飛び回っていた生活は無駄ではなかったようで、もはや全く違和感がない。
仕事へも思っていた以上に早く復帰できて、部屋に缶詰になるか、取材や打ち合わせで一日中家を空けることも多くなっていた。
幽霊もどきだった頃はただのんびりと黒鋼の帰りを待っていればよかったが、今はそういうわけにもいかない。
『じゃあ、ボクはそろそろ時間だから切るね』
ほぼ日課になっている注意喚起をするだけして、スッキリしたらしい。清々しい笑顔が目に浮かぶようだった。
「うん。忙しいのにいつもごめんね」
『ごめんねより、ありがとうの方が嬉しいかな』
「あはは、そだね。ありがと」
『今度ふたりでおいで。ちゃんと挨拶させてよ』
「うん……今度ね」
じゃあねと同時に言って、ファイは双子の弟との通話を終えた。
ふぅ、と息をつきながらソファの背もたれに頭部を預け、天井を見上げる。
「挨拶、かー」
黒鋼も残業や休日出勤が当たり前の仕事ぶりなので、こうして一緒に暮らしていても、なかなか二人でゆっくりと過ごせる時間には恵まれていない。
眠る時間もバラバラだったりして、タイミングが合ったとしてもぴったりとくっつきながらすぐに眠りに落ちてしまう。
ゆっくり外で食事を楽しむなんて機会も、頼めばどうにかして時間を作ってくれるかもしれないが、負担になるような真似はさせたくなかった。
それでもファイは十分すぎるほど毎日が幸せだった。
黒鋼はいつも帰りが遅いくせに、ファイが家にいる日は必ず遅くなるというメールを寄越す。そんなことくらい知っているのだから、いちいち連絡を寄越すこともないのに。
あの大きな手でちまちまとメールを打っているのかと思うと、可愛すぎてどうしたらいいか分からない。
でも、それがもし『前』の失敗を踏まえてのことなのだとしたら、無理をしているのではないかと少し不安にもなった。
だからこちらからは、なかなか彼の生活スタイルに口出しできない。
仕事で遅いのか、それとも付き合いで遅いのか、気になっても確認することは躊躇われる。
結局、まだ半分幽霊だった頃の気持ちが抜けないのだと思う。もはや踏み込んで壊れる関係ではないのだと信じたいのに。
多分、ファイにはあの女の生霊の気持ちがよく分かる。
ファイには今までの人生で特定の相手というものがいなかったから、黒鋼と付き合うようになって初めて自覚した。
自分はバカみたいにヤキモチ焼きで、すぐに不安になってしまう性分だということを。
黒鋼はファイにとってまさに理想を形にしたような男だった。
だから贔屓目で見てしまうのかもしれない。それでも、あれだけの男前なら引く手数多に違いないし、彼は元々ノンケである。
そんな相手をどこまで繋ぎとめていられるのか、ファイには正直自信がない。
飽きられたらどうしようとか、やっぱり男は無理だと捨てられたらどうしようとか。
今がいつまで続くのだろうかと、考え出すと眠れなくなったりもする。
幸せすぎると怖くなるなんて。
よく聞く話だ。
恋人なんて諦めていたから、きっと無縁の人生を送ることになるだろうと諦めていたファイは、まさに降って湧いたような幸福が怖くなる。
こんな風にいちいち不安になってしまう面倒臭い自分を知られたら、呆れられてしまうのではないか。
「はぁ……オレって鬱陶しいなぁ……」
情けなくて、溜息と一緒にさらに深くソファに沈み込む。そしてすぐに紅茶を飲もうとしていたことを思い出し、のろのろと立ち上がった。
だがそこで、手の中で握りっぱなしだった携帯が再び音を立てた。
画面を見ると、メールが一件。
「黒たん?」
それはつい今しがた出て行ったばかりの黒鋼からだった。
『件名:言い忘れてた
本文:寄り道なんかして遅くなるんじゃねぇぞ。気をつけて行ってこい。』
それを見て、ファイは身体から力が抜けるような気がした。
前と違って重力に逆らないながら生きる身体は、あっけないほど簡単に崩れ落ちて、ぼすんという音と共に再び座り込んでしまった。
時間帯から察するに今、黒鋼は朝の満員電車に押し潰されそうになっているに違いなかった。そんな中でわざわざメールを、あの大きな手で、チマチマと……。
もしかしたら、あの男はああ見えて元からマメな性格なのかもしれない。そして多分、過保護だ。
なんだか一人で悶々としていたのが一瞬で馬鹿らしくなってくる。
「もう……なんなのこの人!」
頬が熱い。だから不安になるのに、怖くなるのに。それなのに、この面倒で鬱陶しい感情と、ずっと付き合っていたいとも思ってしまう。
それは光と影のように。朝と夜のように。表があるから、裏があるように。
何も特別なんかじゃない、ありふれた日常のありふれた言葉や出来事が、ちょっとしたことですぐにこびりつく錆のような不安を、真新しいペンキで塗り潰す。その繰り返し。
ファイは零れる笑みを抑えきれないまま、手早くメールに返信した。
そして他に誰がいるわけでもないのに、「えへへ」と照れ笑いを浮かべながら元気よく再び立ち上がった。
『件名:Re:言い忘れてた
本文:愛してる!』
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「ファイ……ファイ……!?」
暗い暗い闇の底から、ゆっくりと浮上したファイが真先に聞いたのは、弟の声だった。
ピクリと動かした指先を取られ、強く握り締められる。
まだハッキリとしない意識で、ファイは右目を声のする方へ向けた。
薬品の香りと、ユゥイの泣き顔。
弟の泣いた顔なんて、子供の頃以来ずっと見ていない。
「ユゥイ……?」
「おはようファイ……おはよう……」
おはよう。それは目覚めの言葉。ファイは小さく、首を傾げた。
「……寝てた?」
「そうだよ……ずっと寝てたんだよ……半年も、ずっと」
「はんとし」
意識はいまだに霧がかかったように薄ぼんやりと彷徨うばかりだった。
ただ、異常な喉の渇きと身体の重さだけが圧し掛かる。
「ファイ……?」
気づくと、ファイは泣いていた。
涙がとめどなく溢れて止まらなかった。
「夢を」
「夢……?」
「うん……ずっと、夢を見ていたよ……」
大好きな人と一緒にいる、幸せな夢を。
*
「黒たーん! 早く行かないと遅刻しちゃうよー!」
朝食で使った食器を洗いながら、寝室へ向かって声をかける。
すぐに鞄を手に出て来た黒鋼は表情こそむっつりとしているが、本当は少し焦っているに違いない。朝はたった5分でも命取りになる。いつもならとっくに家を出ている時間だった。
「あぁ待って! お弁当忘れてるってば!」
「おう、悪い」
「待って待って! ネクタイ曲がってるよ!」
カウンター越しに青いハンカチで包んだ弁当箱を渡し、そのまま出て行こうとする黒鋼の襟を引っ張る。腕時計を見やる彼のネクタイをサッと正して、よし、と呟くと今度はこちらがシャツの胸倉を掴まれて引っ張られた。
「ッ!」
一瞬だけ唇が触れて、ファイはほんの数秒硬直したあと、真っ赤な顔で息を呑む。
黒鋼はふん、と少し意地悪そうに鼻で笑った。不意打ちが成功すると、彼は決まってこういう笑い方をするから、食らう方としてはちょっと悔しい。
「おまえも今日は取材だったな」
「う、うん。午後からだから帰りは同じくらいか……ちょっと遅くなるかも」
「そうか」
「晩ご飯、適当に済ませちゃってね」
「……わかった。じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃーい!」
リビングを出て行く黒鋼の背に向かって、カウンターに乗り出して思い切り手を振った。
五月。
病院を退院したファイは元々暮らしていた、そして今は黒鋼がいるマンションへ戻って来ていた。
病院のベッドで目覚めた時、ファイは黒鋼と過ごした時間を夢だとばかり思い込んでいた。
自分の理想のタイプが目の前に現れて、恋人として生活するなんて、あまりにも都合がよすぎてただ虚しいだけだった。だから黒鋼と中庭で再会したとき、ファイはまだ夢の中にいるような気分だった。
そもそも今にして思えば、うだうだせずにユゥイの様子を見に行っていればよかったのだ。
そうしたら自分がしっかり生きていて、幽体離脱しているだけだとすぐに分かったのに。
黒鋼も事あるごとにそれを言う。それだけ悲痛な思いをさせてしまったのだと思うと申し訳ないが、実は少し嬉しかったりもする。
自分が死者であると思い込んでいた以前に、ファイは黒鋼が同じだけの思いを返してくれるなんて、それこそ夢にも思っていなかったから。
「さーて、お茶でも飲んでひと息つこうかなー」
片付けを終えたファイはハンドタオルで両手を拭きながら、リビングの壁掛け時計を見やる。
あらかじめ水を入れておいたカウンターの電気ポットにスイッチを入れて、カップや紅茶の缶などを用意する。だがそこで、テーブルの上に置きっぱなしだった携帯が鳴った。
ファイは慌ててカウンターを迂回すると、携帯を取って通話ボタンを押す。
「はいはーい」
『おはよ、ファイ』
着信はユゥイからのものだった。ファイは同じく「おはよーユゥイー」と笑顔で返し、携帯を耳に押し当てたままソファに腰かける。
『今日の調子はどう?』
「元気だよー! 今ね、朝ご飯の片付け終わらせたとこー」
じゃあいいタイミングだったねと、受話器越しでユゥイが笑った。
彼はファイが退院してこのマンションに戻ってから、こうして毎日のように電話をかけて寄越すようになっていた。
以前は便りがないのは良い便りとばかりにベタベタするような関係ではなかったのが、事故後はすっかり心配する癖が身に付いたのか、一日一回は安否確認をされるようになってしまった。
心配のしすぎでそのうちハゲてしまうんじゃないかと、むしろこちらが心配になる。
でも、それもやっぱり仕方がないのかもしれない。
本当は退院後、昔のように兄弟揃って暮らす予定でいた計画も狂わせてしまったし、あの事故で、ファイは左目を失う結果になってしまった。
今は閉じてしまった瞼を眼帯で隠しているが、もうじき義眼を入れることになっている。
それでも視力が戻るわけではないし、常に側で見ていられないのは不安で仕方がないのだろう。
だが、弟は黒鋼と面識がある。悪い印象は持っていないようだった。ユゥイと黒鋼が偶然顔を合わせなかったら、自分たちの再会はまだずっと先か、永遠に互いの存在に気付かないままだったかもしれない。
『彼とは上手くいってるの?』
「え!」
『赤くならなくていいよ』
まるで側で見ているような口ぶりだが、実際のところファイはついさっき奪われた唇の感触を思い出して赤面していた。
「い、いってるよー。仲良くしてもらってる」
『ならよかった。あからさまにファイの好みのタイプだもんね』
「えへへへー」
『あんまり心配かけないようにね。目のこともあるんだから、外を歩くときは特に気を付けて』
「わかってるよぅ」
それは耳にタコができるほど聞かされている。
でも実のところ、彼が心配するほどファイは片目だけの生活に不便を感じてはいなかった。この状態で飛び回っていた生活は無駄ではなかったようで、もはや全く違和感がない。
仕事へも思っていた以上に早く復帰できて、部屋に缶詰になるか、取材や打ち合わせで一日中家を空けることも多くなっていた。
幽霊もどきだった頃はただのんびりと黒鋼の帰りを待っていればよかったが、今はそういうわけにもいかない。
『じゃあ、ボクはそろそろ時間だから切るね』
ほぼ日課になっている注意喚起をするだけして、スッキリしたらしい。清々しい笑顔が目に浮かぶようだった。
「うん。忙しいのにいつもごめんね」
『ごめんねより、ありがとうの方が嬉しいかな』
「あはは、そだね。ありがと」
『今度ふたりでおいで。ちゃんと挨拶させてよ』
「うん……今度ね」
じゃあねと同時に言って、ファイは双子の弟との通話を終えた。
ふぅ、と息をつきながらソファの背もたれに頭部を預け、天井を見上げる。
「挨拶、かー」
黒鋼も残業や休日出勤が当たり前の仕事ぶりなので、こうして一緒に暮らしていても、なかなか二人でゆっくりと過ごせる時間には恵まれていない。
眠る時間もバラバラだったりして、タイミングが合ったとしてもぴったりとくっつきながらすぐに眠りに落ちてしまう。
ゆっくり外で食事を楽しむなんて機会も、頼めばどうにかして時間を作ってくれるかもしれないが、負担になるような真似はさせたくなかった。
それでもファイは十分すぎるほど毎日が幸せだった。
黒鋼はいつも帰りが遅いくせに、ファイが家にいる日は必ず遅くなるというメールを寄越す。そんなことくらい知っているのだから、いちいち連絡を寄越すこともないのに。
あの大きな手でちまちまとメールを打っているのかと思うと、可愛すぎてどうしたらいいか分からない。
でも、それがもし『前』の失敗を踏まえてのことなのだとしたら、無理をしているのではないかと少し不安にもなった。
だからこちらからは、なかなか彼の生活スタイルに口出しできない。
仕事で遅いのか、それとも付き合いで遅いのか、気になっても確認することは躊躇われる。
結局、まだ半分幽霊だった頃の気持ちが抜けないのだと思う。もはや踏み込んで壊れる関係ではないのだと信じたいのに。
多分、ファイにはあの女の生霊の気持ちがよく分かる。
ファイには今までの人生で特定の相手というものがいなかったから、黒鋼と付き合うようになって初めて自覚した。
自分はバカみたいにヤキモチ焼きで、すぐに不安になってしまう性分だということを。
黒鋼はファイにとってまさに理想を形にしたような男だった。
だから贔屓目で見てしまうのかもしれない。それでも、あれだけの男前なら引く手数多に違いないし、彼は元々ノンケである。
そんな相手をどこまで繋ぎとめていられるのか、ファイには正直自信がない。
飽きられたらどうしようとか、やっぱり男は無理だと捨てられたらどうしようとか。
今がいつまで続くのだろうかと、考え出すと眠れなくなったりもする。
幸せすぎると怖くなるなんて。
よく聞く話だ。
恋人なんて諦めていたから、きっと無縁の人生を送ることになるだろうと諦めていたファイは、まさに降って湧いたような幸福が怖くなる。
こんな風にいちいち不安になってしまう面倒臭い自分を知られたら、呆れられてしまうのではないか。
「はぁ……オレって鬱陶しいなぁ……」
情けなくて、溜息と一緒にさらに深くソファに沈み込む。そしてすぐに紅茶を飲もうとしていたことを思い出し、のろのろと立ち上がった。
だがそこで、手の中で握りっぱなしだった携帯が再び音を立てた。
画面を見ると、メールが一件。
「黒たん?」
それはつい今しがた出て行ったばかりの黒鋼からだった。
『件名:言い忘れてた
本文:寄り道なんかして遅くなるんじゃねぇぞ。気をつけて行ってこい。』
それを見て、ファイは身体から力が抜けるような気がした。
前と違って重力に逆らないながら生きる身体は、あっけないほど簡単に崩れ落ちて、ぼすんという音と共に再び座り込んでしまった。
時間帯から察するに今、黒鋼は朝の満員電車に押し潰されそうになっているに違いなかった。そんな中でわざわざメールを、あの大きな手で、チマチマと……。
もしかしたら、あの男はああ見えて元からマメな性格なのかもしれない。そして多分、過保護だ。
なんだか一人で悶々としていたのが一瞬で馬鹿らしくなってくる。
「もう……なんなのこの人!」
頬が熱い。だから不安になるのに、怖くなるのに。それなのに、この面倒で鬱陶しい感情と、ずっと付き合っていたいとも思ってしまう。
それは光と影のように。朝と夜のように。表があるから、裏があるように。
何も特別なんかじゃない、ありふれた日常のありふれた言葉や出来事が、ちょっとしたことですぐにこびりつく錆のような不安を、真新しいペンキで塗り潰す。その繰り返し。
ファイは零れる笑みを抑えきれないまま、手早くメールに返信した。
そして他に誰がいるわけでもないのに、「えへへ」と照れ笑いを浮かべながら元気よく再び立ち上がった。
『件名:Re:言い忘れてた
本文:愛してる!』
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学校から寮への短い距離を、ファイは冷たい風を切り裂くように大きな足音を立てながら急いでいた。陽は沈み、すっかり暗くなった夜道には、そんなファイの苛立ったような靴音が大きく響く。
なぜあんな真似をするのか、やっぱり昔のことに対する意趣返し以外に動機が思いつかない。
(この際ハッキリさせて、場合によっては摘まみ出すんだから!)
黒鋼の言っていた通り、おそらく先刻のことは誰にも見られていない、とは思う。それでも一歩間違えれば大変なことになっていたのだから、簡単に見過ごすことは出来ない。
昔のことを謝れと言うなら土下座でもなんでもしてやるつもりで、ファイは拳を握りしめた。
その時。
「こんばんわ……」
「ッ!?」
ファイは咄嗟に足を止め、息を飲んだ。
自分以外、誰もいないと思っていたはずの夜道に、唐突に黒い影がくっきりと浮かび上がったからだ。しかも、驚くほどすぐ目の前に。
まったく気配が感じられなかったのは、単に頭に血が上っていて注意力に欠けていたせいだろうか。
その影はゆっくりと近づき、頼りない街灯の下に姿を現した。
「こ、こん、ばんわ」
青いツナギを着た男は、にたりと引き攣ったような笑みを浮かべつつ、再びファイに挨拶を寄こした。
身長は低く、猫背のせいで小太りな体系が際立って見える。腹回りなどはまるで風船のようだ。街灯の薄暗さでそう見えるのかもしれなが、肌も白いというよりは青い。
口元が乾燥しているのか、白く粉をふいているようにも見え、無精髭がさらに清潔感を遠ざけている。
黒くうねる癖毛の隙間から、濁ったような瞳がこちらに向けられていた。
(ああ、この人……)
たまに見かける用務員の一人だ。
女子生徒からはすごくぶる評判が悪く、彼女たちが「気持ち悪い」などと陰口を叩いているのを幾度か聞いたことがあった。
その度に人を見かけで判断してはいけないよと窘めていたファイだったが、こうして間近で見ると、確かにこれでは特に女性が嫌がるのも無理はない。
それでもファイはなんとか笑顔を作って挨拶を返そうとした。が、彼の右手に使いこまれた草刈り鎌が握られているのを見て、ドキリとする。
男はファイの視線が己の手の中にある凶器に向けられていることに気がつくと、それを少しだけ高く持ち上げて「……草」と言うと、またにたりと笑う。
よく見れば彼の軍手にも土や草のクズが付着している。
ファイはホッと息をついた。
「こんなに暗くまで、お疲れ様です」
「うん……あ、あり、がと……」
「じゃあ、オレはこれでー……」
「うん……き、気を、つけて……」
えらく擦れて籠った声は、男性にしては少し高めかもしれない。
話し方もたどたどしい感じで、よくどもるせいで聞きとりにくい印象を受ける。
あまり長く話し込みたい相手ではないなと、ファイはそそくさとその横を通り抜けて足早にその場を去った。
背中からいつまでも離れないねっとりとした視線が、ただただ不快だった。
*
「遅かったな」
玄関の扉を開けると、問題の人物がひょいっと顔を覗かせた。
まずは思いっきり叱りつけてやろうと思っていたのだが、さきほど遭遇した男の視線が未だに張り付いているようで気分が悪かったファイは、黒鋼の顔を見た途端に安堵が込み上げてきた。
「……なにかあったか?」
気遣わしげに問いかけてくる心地よい低音にほぅっと息を吐き出し、ファイは緩く首を振った。
「んー、まぁちょっとね……あ、そうだ! それどころじゃないよ! あのね黒たん! さっそくだけど、ちょっとお話があります!!」
「おう。まず入れ」
「入れってねぇ、ここオレの部屋なんだからねっ、て……ん?」
思い出したように鼻息を荒くしていたファイは、部屋の奥から香ばしいソースの香りが漂ってくることに気がついて、ウサギのように鼻をすんすんと鳴らした。
「なにこれ……すごく美味しい匂いがする……」
「焼きそば」
「え? 作ったの?」
「手の込んだもんは作れねぇからな」
「すっごーい! 見せて見せてー!!」
バタバタと子供のように部屋の中へ入って行くと、二つの皿にこんもりと焼きそばが盛られていた。
たっぷりとソースが絡められた麺に野菜や肉もしっかり入っていて、白い湯気がソースと青のりの香りを乗せてもくもくと踊っている。
ちゃんと自分の分まで用意してくれたのかと思うと、胸がジーンとした。
(あのちっちゃかった黒たんが、お料理も一人で出来るようになって……)
黒鋼の家は長いこと父親が単身赴任で家を開けていたため、彼がよく母を手伝っていたことは知っていた。
あの家の息子さんはお母さん思いで偉いわね、という近所の評判を聞くと、我が事のように嬉しかったものだ。
だがもっぱら料理は母親がしていて、傍でちょこちょこと手伝っているところしか見たことがない。
あの頃の自分が黒鋼の手料理を食べることになるなんて知ったら、きっと血管が切れるまで興奮して気絶するに違いない。
「冷めねぇうちに食えよ。腹減ったろ?」
「うん! オレ手洗ってくるー!」
わぁいと万歳をして、ファイは上着と鞄を投げ出して洗面所へ向かった。
ルンルンと浮かれながらうがいと手洗いを済ませ、クッションの敷かれた床にべたんと座る。
黒鋼はファイを待っていてくれたようで「いただきまーす!」と言って手を合わせるのを見てから自分も箸を手に取った。
山もりの麺の中に箸を入れ、摘まんで持ち上げると、白い湯気がさらに熱気を帯びて立ち上る。ぱぁ、と目を輝かせながらふぅふぅと冷まして口に運ぶと、それは期待を裏切らない美味さだった。
「すーっごく美味し…………ん?」
(あれ……? なんでオレ、こんなほのぼのしてるんだろう……?)
ここに来て今更のように、ファイは自分が憤慨していたことを思い出した。
うっかり感動と嬉しさに忘れていたが、本来こんなことをしている場合ではない。
これは不味いと、ファイは箸をテーブルにバンっと音を立てて戻した。
「あ、あのねー! 言っとくけどオレ怒ってるからね!」
「あ?」
「ノンキに食べてる場合じゃないんだからー!」
「口に合わなかったか?」
「さっきのことだけど、え? あ、そんなことないよー! 合う合うー! この焼きそばは絶品だよー!」
「そりゃよかった。しっかり食えよ」
「あ、はい」
うまく自分のペースに持っていけずに、萎んだ風船のように素直に頷いてしまった。
なぜならそれはとても単純な理由からで、黒鋼が嬉しそうに笑うから。決して満面の笑みを浮かべているわけではなく、あの口角だけを持ち上げるささやかなものなのだが、そこから彼の優しさが伝わって来るような気がした。
それに、なんだか。
(落ち着かないんだよなぁ……)
今朝見せた意地の悪そうな笑顔は腹が立つが、今のこれは昨夜見たものと同じだった。
目付きは悪いのに、なにか愛しいものでも見るように瞳を細められると、どうも胸の辺りがムズムズしてきて仕方ない。
昔は滅多に笑いかけてなんてくれなかったし、子供の頃はどちらかと言えば嫌われていたはずだ。彼の嫌がることを、あえて中毒患者のように止められないでいた本人なのだから、よく分かっている。
(とりあえず……今はいっか)
焼きそばが美味いのだって、いけない。
全ては食事を済ませてからにしようと、ファイは冷めかけているそれに慌てて箸をつけた。
*
流石に黒鋼と同じだけの量は、元々小食のファイにはキツかった。
無理をするなと途中で止められたが、残すのは嫌で完食した。結果、食後は全く動く気になれずテーブルに突っ伏していた。
「お腹の中で麺が膨らんでるー」
人間、腹八分目が一番だ。
どんなに美味いものでも、吐き気がするほどたんまり食うのは絶対によくない。それを痛いほど体感しつつ、度を超えた満腹感に意識が重たくなってくる。
睡魔が後から後から襲ってきて、ファイは勢いよく顔を上げると自分で自分の頬をパチンと叩いた。
「シャキッとしないと」
風呂だってまだ入ってないし、やりたいこともあるし、何より肝心な黒鋼との話が済んでいない。
彼は食後の後片付けもしっかり終わらせ、今は風呂に入っている。
正直な話、腹が膨らみすぎて先ほどまでの勢いはないものの、ファイは黒鋼が戻るのをじりじりと待つことにした。
それからさほど時間をかけず、黒鋼が風呂からあがって来る気配を感じた。洗面所の扉が開く音がして、ファイは眉間にきゅっと皺を寄せると振り返る。
丁度ジャージの下だけを履いて上半身を露出した黒鋼が、首にかけたタオルで頬を拭いながらのっそりと姿を現した。
「!」
それが視界に飛び込んできた瞬間、ドキリとして息を飲む。目を見開き、身を強張らせたまま、視線が彼の露出した素肌に釘付けになった。
石のように固まってしまったファイを見て、黒鋼が不思議そうに眉を顰めている。
「なんだ?」
乾ききっていない黒髪から、時折ぽたりと雫が落ちて、美しく隆起する肩や腕のライン、そして胸板を伝っていく。ほどよく焼け、そしてよく鍛え上げられているなだらかな筋肉が、太く恵まれた骨組みの上に嫌みなほど精妙なバランスで引き伸ばされていた。
テレビなんかでたまに見かけるような、ボディビルダーのやけにテラテラして隆々としすぎた身体とは、また違うのだ。
(なんだろう……なんていうのかな……。そう、綺麗なんだ)
それは同性である相手に言うには語弊があるかもしれない。だがそこにはまさに完成された『男』の肉体があった。
鋭く研ぎ澄まされた、野生の獣のような。
(この期に及んでさ……つくづく……)
「おい?」
「……ライオンとか虎の子供って」
「あ?」
「子供の頃はちょっと大きい猫って感じでさ……このまんま大きくならなければ、家でも飼えるかもーとか、思っちゃうよねー……」
「……なんだ急に」
「でっかくなったライオンなんて飼えっこないって話!!」
「はぁ?」
ファイの中で、膨らみきった何かが音を立てて爆発した。
「昨日の今日で、オレはもう限界だよ黒たん!」
「なにがだよ」
「なにもかもだよ! バカみたいにでっかくなっちゃって! 羨ましいくらい鍛えちゃってさ! どうやったらアレがコレになるのかな! 可愛くないったらありゃしないんだよ!」
「……そうは言われてもな」
「しかもだよ!!」
ファイは床から勢いよく立ち上がると、黒鋼に向かってビシっと指をさした。
「今朝のアレと! 夕方のアレ!! いくら子供の頃の仕返しって言ったって、やりすぎだよ!!」
「仕返し?」
「なにも今更になってやり返すことないじゃない!」
そこまで一気に吐き出した途端、ちょっと噎せた。黒鋼は困惑の表情で頭をガリガリと掻いている。
「ケホッ、と、とにかく、なんなら土下座でもなんでもするし、特に学校でああいうことは、もう」
「何が悪いんだか、さっぱりわからねぇな」
「はー!? 悪いに決まってるでしょ!」
「旦那が嫁を好き勝手して何が悪い?」
「あのね、夫婦だろうがなんだろうが、一方的に……んぇ?」
「他の女に手ぇ出すよりよっぽどいいじゃねぇか」
「ちょ、ちょっと待った。言ってる意味がよく分からないんだけど」
黒鋼は心底呆れた様子で溜息を吐き、腕を組んだ。なぜこちらが寝言を言っているような空気になっているのかも分からないし、そもそも旦那とか嫁とか、この男は何を言っているのだろうか。
昔は黒鋼がまるで女の子のように小さかったから「未来のお嫁さん」なんて言ってからかってはいた。母親まで便乗してファイの冗談に加担するものだから、それも楽しくてつい癖になってしまったのだが。
「本気で忘れてんのか?」
「忘れてはいないよ……でもほら、黒たんもう可愛くないしー……オレ、貰うなら美人で華奢で、でも胸はおっきめの髪の長い美脚なお嫁さんがいいなー、なんて」
「贅沢な夢語ってんじゃねぇぞ。思い出せ。俺と約束しただろう」
ファイは腕を組み、首を傾げて「うーん」と考え込んだ。
そうしている間に黒鋼はソファへ移動し、タオルで髪をガシガシと拭きはじめる。
(約束……約束……なんのこと……?)
過去の楽しかった記憶を呼び起こすと、顔を真っ赤にして怒っている黒鋼の顔ばかりが甦る。大きな目に溜った涙とか、不満そうに膨らむ赤い頬とか、女の子みたいに高く怒鳴る声とか。
うっかり口元が緩みそうになりつつも、ファイはふと彼とその母が引っ越す前夜のことを思い出した。
あの時は、最後にビックリさせてやろうと思って隣の庭に侵入し、木によじ登って屋根に飛び移った。窓から顔を出し、最後の最後まで黒鋼をからかって、それから最後に……。
『次に会った時』
『え、うん?』
『もし俺がてめぇよりデカくなってたら』
『うんうん』
『てめぇが俺の嫁になれ』
「……あ」
思い出した……。
黒鋼は顔を上げると「やっと思い出したかアホ」と言って鼻で笑う。ファイはわざとらしく顔を逸らし、唇を尖らせて吹けない口笛を吹く真似をした。
「いやー? 黒るーにボールぶつけられて窓から転がり落ちたことしか覚えてないなー? あの時に記憶飛んじゃったのかもなー? おっきいタンコブできたしなー? お尻にも蒙古斑みたいな青痣できたしなー?」
「そいつは悪かったな。だが約束は約束だ」
「約束って言うけど、オレあの時オッケーしてないからね? そもそもオッケーする前にボールがガーンて当たって」
「やっぱり覚えてんじゃねぇか」
「…………」
できれば思い出したくなかったような気がしないでもない。
だが、これでハッキリしたような気もする。まさか本気で旦那だ嫁だとほざいているわけではないだろうし、要するに彼の一連の行動は、それをネタにした過去の制裁なのだということが。
「あー、もう! わかったよ! 昔のことはここで謝る。色々と嫌なことしたり言ったりしてごめんね。これでいい?」
ファイはツンとそっぽを向きながら、溜息混じりのおざなりな謝罪をした。
人に頭を下げる態度でないことはもちろん分かっている。だがどんな形であれ、これで決着がつくなら何だっていい気がした。
勝手な言い分かもしれないが、ここまで根に持たれていたことにショックを受けてもいる。
そりゃあ、彼にとってはトラウマレベルで嫌な思い出かもしれない。けれど、ファイにとっては黒鋼との記憶は宝物だった。
知らない土地に来て、慣れない環境の中、彼はもっとも身近に感じられる初めての友達だったから。
誠意のないファイの謝罪を、黒鋼は特に腹を立てるでもなく静かに聞いていた。
それからすぐ「なるほど」とぽつりと零す。
「……なにが?」
「仕返し、か。確かに今なら屁でもねぇな」
「え」
「やってみるか?」
「へ?」
「ただ、俺ももうガキじゃねぇからな。大人になってからの仕返しとなると、性質が悪いぜ?」
またあの意地の悪そうな笑い方だ。鋭い瞳がすっと細められる様子は、まるで獲物を狙う肉食獣のようで、ファイは足元が竦むのを感じた。
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