2025年7月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
ハリネズミュ4話を投稿しました🫡
現パロでも健在のご都合勇者パワー回です。お付き合いいただけたら嬉しいです!
よろ勇もいよいよ間近になってきましたね!来週の今頃は開催されてるんだなぁ~😙
今のところちょっと開催期間中の予定が微妙で、もしかしたら終日不在の可能性もあるのですが…チラッとでも遊びに行けたらいいなぁと思ってます🦐
現パロでも健在のご都合勇者パワー回です。お付き合いいただけたら嬉しいです!
よろ勇もいよいよ間近になってきましたね!来週の今頃は開催されてるんだなぁ~😙
今のところちょっと開催期間中の予定が微妙で、もしかしたら終日不在の可能性もあるのですが…チラッとでも遊びに行けたらいいなぁと思ってます🦐
その夜のことだった。
カーテンの隙間から月明かりがさす室内で、カミュはケージから抜けだした。
脱走する必要はなくなったが、せっかく鍵開けの技術を持っているのだし、おとなしくしている理由もない。
(へへっ、なにかすげえお宝があるかもな)
好奇心からカミュは室内を歩き回ったり、ベッドの下を探索したりした。
すると、やけに肌の露出が多い女性の本が数冊、ベッド下の奥に積んであるのを見つけた。きっとイレブンのお宝に違いない……が、カミュには意味がわからなかった。
他に面白そうなものもなく、こんなもんかと思いながらイレブンが眠るベッドによじ登った。彼は両手を胸の上に置き、行儀よく寝息をたてていた。
枕元に近づいて、改めてその顔をよく見てみた。眉が凛々しくてまつ毛が長くて、唇がふっくらしている。
(可愛い顔してるよな、こいつ)
まろい頬のラインが、そのままイレブンの柔和な人柄を現しているようで、カミュは小さな両手でペチペチと触れながら匂いをかいだ。
それから遠慮なく胸に乗り上げ、さらに匂いをかぎながらちょこまかと動き回ってみた。やっぱりいい匂いがする。カミュはこの匂いが好きだと思った。
胸の上に置かれた両手に近づくと、左手の甲に巻かれた包帯が取れかかっていることに気がついた。その隙間からアザのようなものが見え隠れしている。そういえばイレブンは出会ったときからこれをしていて、外しているのを見たことがない。
(最近できたアザってわけでもなさそうだが。変わった形だな)
鼻を近づけて匂いをかいでいるうちに、包帯の隙間から唇がちょこんとアザに触れた。そのとき──
「おわっ、なんだ!?」
カミュの全身が、まばゆい光に包まれた。悲鳴をあげ、床に転がり落ちる。
デンッと尻もちをつき、思わず「イテェ!」と声をあげた。しかしその声が、まるで人間の男のような声音であったことに驚いた。
(は? なんか変だぞ……?)
全身に違和感を覚え、カミュは自分の姿を見て愕然とした。スラリと長い手があって、足がある。針のような被毛はなく、身体全体がツルツルとした肌色だった。
信じられないことだが、カミュは人間の姿になっていた。
(嘘だろ!? なにが起こったっていうんだ!?)
パニックを起こしながら両手で顔に触れてみた。目や鼻や口、どれもすべてハリネズミのものとは形が異なっている。ついでに頭にも触れると、ツンツンと逆立ってはいるようだが、針とは違った柔らかな感触があった。
(オレは夢でも見てんのか!?)
カミュはとっさにイレブンを見た。するとさらに驚いたことに、さっきまで寝ていたはずの彼が起き上がり、不思議そうな瞳でこちらを見下ろしていた。物音に気づいて、目が覚めてしまったらしい。
これはマズイんじゃないかと、カミュは思った。自分でもまだ状況を把握しきれていないが、起きたら自室に見知らぬ男──しかもすっぽんぽん──がいるなんて、人間の世界にまだまだ疎いカミュだって、これが異常事態であることは分かる。
(マジかよ……)
なにをどう説明すればいいのだろう。夢ならはやく醒めてほしい。
カーテンの隙間からさす月明かりに照らされたカミュの姿に、イレブンはどこかぼうっとした様子で熱っぽい息を漏らした。そして、
「天使?」
と、なにやらワケのわからないことを口走った。寝ぼけているんだろうか。
「な、なに言ってんだお前? オレだ! カミュだ! 自分でもさっぱり意味が分からねえんだが、気づいたらこうなってた!」
「カミュ……それが、キミの名前?」
そこでカミュはハッとした。そうだ。イレブンはカミュの名前を知らないのだ。
「ちくしょう! ゴンザレスだよ!!」
半ば自棄になりながら言うと、そこでようやくイレブンが「えぇ!?」と声をひっくり返らせた。
*
煌々と明かりがつけられた部屋で、カミュは生まれて初めて服というものを着た。
水色の長袖Tシャツに、グレーのゆったりしたロングパンツは、イレブンが部屋着にしているものだ。
彼はなぜか頬を染め、「裸はちょっと」と言ってこれを着せてくれた。
「人間は毛がないせいか、どうも落ち着かなくてな。助かるぜ、ありがとな」
そう言うと、イレブンはやっぱり赤い頬でブンブンと首を左右に振った。
彼はカミュの正面に立つと、ズレているシャツの肩位置を正してくれた。
「なんてことないボクの服なのに、可愛く見える。なんでだろう。小柄だからかな?」
「そうか? まあ、ありがとな」
可愛いという言葉はショップ時代から言われ慣れているので、特に気にならない。小柄はちょっと微妙だが、確かにこうして並ぶとイレブンの方が背も高く、肩幅もあった。借りている服も裾や袖が余っており、体格の違いは明らかだ。
「ところで、キミは本当にゴンザレスなのか?」
おずおずといった様子でイレブンが問いかけてくる。そりゃにわかに信じられないのも無理はない。カミュ自身、いまだに夢でも見ている気分だ。
カミュは耳のピアスをちょこんと指さした。
「証拠っつってもこのピアスと髪の色くらいしかないが、マジだぜ。なにが起こったのか、オレにもさっぱり分からねえ」
大きくため息をつきながら、イレブンのベッドにドスンと腰掛けた。
イレブンは机の椅子を引き寄せ、こちらに身体を向けて座った。
「でも、その姿もすごくカッコいいよ」
「カッコいいだと? オレがか?」
イレブンが大きくうなずいた。
「スタイルもいいし、顔もキレイだ。髪型もワイルドな感じで、すごくいいと思う」
カッコいいだとかワイルドだとか、そんなことを言われたのは初めてだ。それらはカミュにとって、一度は言われてみたい憧れの言葉だった。ついつい気分がよくなってしまう。
「そ、そうか? ならまぁ、しばらくはこのままでもいいかもな!」
へへっ、と鼻の下をこするカミュに、イレブンはモジモジしながら「隣、いい?」と問いかけてくる。「おう」とうなずくと、彼は隣にやってきて腰掛けた。
「こんなふうにゴンザレスと話ができるなんて、夢にも思わなかった。嬉しいな」
「ハリネズミは喋れねえからな。オレもお前と話せて嬉しいぜ……って、あー、ところでひとつ相談なんだが、そのゴンザレスっての、できればやめてくんねえかな」
うつむきがちだったイレブンが顔をあげ、カミュを見ながら目を丸くする。
「嫌だった?」
「いや、まあ……イヤっつうかなんつうか……」
はっきり否定するのも悪い気がして、とりあえず濁しておいた。
カミュは気を取り直し、コホンと軽く咳払いをするとイレブンを見た。
「オレの名前はカミュ。覚えておいてくれよな」
するとイレブンが大きく見開いた瞳をじんわりと潤ませた。
「天使カミュ?」
どこかぽぅっとしながら言う彼に、カミュは「ブハッ」と笑ってしまった。
「天使じゃねえって。お前ってホント変わったヤツだよな」
「そう、かな」
恥ずかしそうに「へへ」と笑うイレブンの頬は、終始赤いままだった。
「じゃあ、これからはカミュって呼ぶよ。改めてよろしく、カミュ」
「おう、よろしくな!」
差しだされるイレブンの右手に、カミュは意図が掴めずとっさに左手をだした。
するとイレブンは「あ」となにかを察した様子で、右手を引っ込めると左手を出してカミュの手を握った。その甲には包帯がしっかり巻き直されている。
「これってなんだ?」
「握手だよ。仲良くしようっていう証」
「へえ。なんかいいな、こういうの」
カミュは白い歯を見せて屈託なく笑い、イレブンの左手を強く握り返した。
←戻る ・ 次へ→
カーテンの隙間から月明かりがさす室内で、カミュはケージから抜けだした。
脱走する必要はなくなったが、せっかく鍵開けの技術を持っているのだし、おとなしくしている理由もない。
(へへっ、なにかすげえお宝があるかもな)
好奇心からカミュは室内を歩き回ったり、ベッドの下を探索したりした。
すると、やけに肌の露出が多い女性の本が数冊、ベッド下の奥に積んであるのを見つけた。きっとイレブンのお宝に違いない……が、カミュには意味がわからなかった。
他に面白そうなものもなく、こんなもんかと思いながらイレブンが眠るベッドによじ登った。彼は両手を胸の上に置き、行儀よく寝息をたてていた。
枕元に近づいて、改めてその顔をよく見てみた。眉が凛々しくてまつ毛が長くて、唇がふっくらしている。
(可愛い顔してるよな、こいつ)
まろい頬のラインが、そのままイレブンの柔和な人柄を現しているようで、カミュは小さな両手でペチペチと触れながら匂いをかいだ。
それから遠慮なく胸に乗り上げ、さらに匂いをかぎながらちょこまかと動き回ってみた。やっぱりいい匂いがする。カミュはこの匂いが好きだと思った。
胸の上に置かれた両手に近づくと、左手の甲に巻かれた包帯が取れかかっていることに気がついた。その隙間からアザのようなものが見え隠れしている。そういえばイレブンは出会ったときからこれをしていて、外しているのを見たことがない。
(最近できたアザってわけでもなさそうだが。変わった形だな)
鼻を近づけて匂いをかいでいるうちに、包帯の隙間から唇がちょこんとアザに触れた。そのとき──
「おわっ、なんだ!?」
カミュの全身が、まばゆい光に包まれた。悲鳴をあげ、床に転がり落ちる。
デンッと尻もちをつき、思わず「イテェ!」と声をあげた。しかしその声が、まるで人間の男のような声音であったことに驚いた。
(は? なんか変だぞ……?)
全身に違和感を覚え、カミュは自分の姿を見て愕然とした。スラリと長い手があって、足がある。針のような被毛はなく、身体全体がツルツルとした肌色だった。
信じられないことだが、カミュは人間の姿になっていた。
(嘘だろ!? なにが起こったっていうんだ!?)
パニックを起こしながら両手で顔に触れてみた。目や鼻や口、どれもすべてハリネズミのものとは形が異なっている。ついでに頭にも触れると、ツンツンと逆立ってはいるようだが、針とは違った柔らかな感触があった。
(オレは夢でも見てんのか!?)
カミュはとっさにイレブンを見た。するとさらに驚いたことに、さっきまで寝ていたはずの彼が起き上がり、不思議そうな瞳でこちらを見下ろしていた。物音に気づいて、目が覚めてしまったらしい。
これはマズイんじゃないかと、カミュは思った。自分でもまだ状況を把握しきれていないが、起きたら自室に見知らぬ男──しかもすっぽんぽん──がいるなんて、人間の世界にまだまだ疎いカミュだって、これが異常事態であることは分かる。
(マジかよ……)
なにをどう説明すればいいのだろう。夢ならはやく醒めてほしい。
カーテンの隙間からさす月明かりに照らされたカミュの姿に、イレブンはどこかぼうっとした様子で熱っぽい息を漏らした。そして、
「天使?」
と、なにやらワケのわからないことを口走った。寝ぼけているんだろうか。
「な、なに言ってんだお前? オレだ! カミュだ! 自分でもさっぱり意味が分からねえんだが、気づいたらこうなってた!」
「カミュ……それが、キミの名前?」
そこでカミュはハッとした。そうだ。イレブンはカミュの名前を知らないのだ。
「ちくしょう! ゴンザレスだよ!!」
半ば自棄になりながら言うと、そこでようやくイレブンが「えぇ!?」と声をひっくり返らせた。
*
煌々と明かりがつけられた部屋で、カミュは生まれて初めて服というものを着た。
水色の長袖Tシャツに、グレーのゆったりしたロングパンツは、イレブンが部屋着にしているものだ。
彼はなぜか頬を染め、「裸はちょっと」と言ってこれを着せてくれた。
「人間は毛がないせいか、どうも落ち着かなくてな。助かるぜ、ありがとな」
そう言うと、イレブンはやっぱり赤い頬でブンブンと首を左右に振った。
彼はカミュの正面に立つと、ズレているシャツの肩位置を正してくれた。
「なんてことないボクの服なのに、可愛く見える。なんでだろう。小柄だからかな?」
「そうか? まあ、ありがとな」
可愛いという言葉はショップ時代から言われ慣れているので、特に気にならない。小柄はちょっと微妙だが、確かにこうして並ぶとイレブンの方が背も高く、肩幅もあった。借りている服も裾や袖が余っており、体格の違いは明らかだ。
「ところで、キミは本当にゴンザレスなのか?」
おずおずといった様子でイレブンが問いかけてくる。そりゃにわかに信じられないのも無理はない。カミュ自身、いまだに夢でも見ている気分だ。
カミュは耳のピアスをちょこんと指さした。
「証拠っつってもこのピアスと髪の色くらいしかないが、マジだぜ。なにが起こったのか、オレにもさっぱり分からねえ」
大きくため息をつきながら、イレブンのベッドにドスンと腰掛けた。
イレブンは机の椅子を引き寄せ、こちらに身体を向けて座った。
「でも、その姿もすごくカッコいいよ」
「カッコいいだと? オレがか?」
イレブンが大きくうなずいた。
「スタイルもいいし、顔もキレイだ。髪型もワイルドな感じで、すごくいいと思う」
カッコいいだとかワイルドだとか、そんなことを言われたのは初めてだ。それらはカミュにとって、一度は言われてみたい憧れの言葉だった。ついつい気分がよくなってしまう。
「そ、そうか? ならまぁ、しばらくはこのままでもいいかもな!」
へへっ、と鼻の下をこするカミュに、イレブンはモジモジしながら「隣、いい?」と問いかけてくる。「おう」とうなずくと、彼は隣にやってきて腰掛けた。
「こんなふうにゴンザレスと話ができるなんて、夢にも思わなかった。嬉しいな」
「ハリネズミは喋れねえからな。オレもお前と話せて嬉しいぜ……って、あー、ところでひとつ相談なんだが、そのゴンザレスっての、できればやめてくんねえかな」
うつむきがちだったイレブンが顔をあげ、カミュを見ながら目を丸くする。
「嫌だった?」
「いや、まあ……イヤっつうかなんつうか……」
はっきり否定するのも悪い気がして、とりあえず濁しておいた。
カミュは気を取り直し、コホンと軽く咳払いをするとイレブンを見た。
「オレの名前はカミュ。覚えておいてくれよな」
するとイレブンが大きく見開いた瞳をじんわりと潤ませた。
「天使カミュ?」
どこかぽぅっとしながら言う彼に、カミュは「ブハッ」と笑ってしまった。
「天使じゃねえって。お前ってホント変わったヤツだよな」
「そう、かな」
恥ずかしそうに「へへ」と笑うイレブンの頬は、終始赤いままだった。
「じゃあ、これからはカミュって呼ぶよ。改めてよろしく、カミュ」
「おう、よろしくな!」
差しだされるイレブンの右手に、カミュは意図が掴めずとっさに左手をだした。
するとイレブンは「あ」となにかを察した様子で、右手を引っ込めると左手を出してカミュの手を握った。その甲には包帯がしっかり巻き直されている。
「これってなんだ?」
「握手だよ。仲良くしようっていう証」
「へえ。なんかいいな、こういうの」
カミュは白い歯を見せて屈託なく笑い、イレブンの左手を強く握り返した。
←戻る ・ 次へ→
別館の倉庫サイトから過去ジャンル作品を少しずつこちらに移す作業をしています。
先日🌊箱から黒ファイ作品について問い合わせをいただいた(嬉しかった)のですが、なにしろアホみたいな量の作品数なので時間がかかってしまって申し訳ないです🤤
こんなに書いてたんだ~って自分でも驚いてます。この熱量…若さゆえの……!
本日は堀鐔短編を10本ほど投稿しました。Novelページから飛んでご覧ください。引き続き地道に投稿していきます~✌️
先日🌊箱から黒ファイ作品について問い合わせをいただいた(嬉しかった)のですが、なにしろアホみたいな量の作品数なので時間がかかってしまって申し訳ないです🤤
こんなに書いてたんだ~って自分でも驚いてます。この熱量…若さゆえの……!
本日は堀鐔短編を10本ほど投稿しました。Novelページから飛んでご覧ください。引き続き地道に投稿していきます~✌️
~前回までのあらすじ~
ファイを庇って脳天を強打した黒鋼。
彼は使い古されたテンプレート通り、記憶喪失にな……らなかった。
代わりにツン度80%からデレ100%へと人格をチェンジさせた黒鋼だったが、ファイの捨て身の荒治療によりツンを取り戻す。
だが事態は思わぬ方へと激流のように黒鋼を翻弄することになる。
黒鋼を正気に戻すため、共に階段からフライアウェイしたファイが今度はドタマを強打し、デレデレ100%から120%ツンツンへと変化してしまった。
まるで生ゴミでも見下ろすかのような冷酷な瞳に、ナニかに目覚めかける黒鋼は……?
*
6時間目は体育の授業だった。
体育館では生徒達が筋トレという名の自習を行わされている。
「今日は自習だ。俺がいいと言うまで腹筋でもやってろ」
という投げやりな指示を出し、体育館の隅っこで愛用の竹刀を抱えながら胡坐をかいた黒鋼からは、ジリジリとした黒いオーラが出ている。
「く、く、黒鋼先生! 腹筋から火が! 業火が!!」
かれこれ30分以上も腹筋放置を食らっている生徒達が悲鳴を上げているが、じっと眼を閉じて考え事に耽る黒鋼の耳には届いていなかった。
黒鋼の頭の中は現在、ファイのことでいっぱいになっている。
昼休みのあの一件から、ファイの様子が明らかにおかしい。
(一体なにがどうなってんだ……?)
気がついたら階段を転がり落ちていて、腕の中には一緒に落ちたらしいファイがいた。
怪我はないかと声をかけると、起き上ったファイは豹変していた。
そんな顔も出来るのかと思うほど冷やかな目をした彼は、黒鋼をまるで虫ケラのように扱うと姿を消した。
その態度に思わずキュn……いや、呆気にとられた黒鋼だったが、その後もファイは同じ調子で目を合わそうとしない。
まるで黒鋼という存在など、最初から見えていないとでも言うかのような徹底した態度だった。
いつもならうるさいくらい纏わりついてくるというのに。
知らず知らずのうちに、何か彼を激怒させるような真似でもしてしまったのだろうか。
「………」
思い当たるものが一切ない。
そもそもおかしなことに、ファイと共に階段から落ちる以前の記憶がない。
なにもかもが謎で、頭がおかしくなりそうだった。
*
結局その日、学園内では一度としてファイと関わることがなかった。
ちらりと盗み見た彼は普段と変わらぬ調子で、生徒達や他の教師連中と親しげに会話をし、人懐っこい笑顔ではしゃいでいた。
黒鋼にだけ態度を豹変させていることなど、他の人間は知りもしない。
二人がケンカをする、ということは割とよくある光景だったので、特別気にするものもいないようだった。
謎は深まるばかりだったが、とりあえず腹は減る。
いつも夕食は双子の部屋で世話になっているし、そこでならファイの真意を問うことが出来るだろう。
いや、別にあのアホのことが気になって何も手につかないだとか、そんなことは決してない。
黒鋼は空腹なのだ。宿舎に入った瞬間からすでに晩飯のいい香りがしていることには気がついていた。
おそらくユゥイが何か作っているのだろう。
だからあくまでファイのことは「ついで」だ。それ以外に理由などない。絶対ない。
べ、別にアンタのことなんてなんとも思ってないんだからね……ぐらいの心意気で一度自室へ戻り、それから普段通り隣の部屋へと向かった。
「あ、黒鋼先生おかえりなさい」
玄関先で出迎えたのはファイではなくユゥイだった。
珍しくエプロンをしていない。すでに夕食は完成しているのだろうか。
「お腹すいたでしょう? 今日はハンバーグですよ」
「おう」
短く返事をする黒鋼の顔を、ユゥイがじっと見つめてくる。
「……なんだ?」
「いえ……さぁどうぞ」
部屋に入ると、キッチンの方から何かを焼く香ばしい音と香りした。ふと目をやれば、なんとそこには料理をするファイの姿があった。
「お、おい……あいつにやらせていいのかよ? ろくなことにならねぇぞ……」
咄嗟にユゥイに身を寄せると耳元で問いただす。
「はぁ……ボクも驚いたんですが……ボクがここに戻ったときには、すでにファイが作り始めていて……しかも……」
そのあとに続いた言葉に、黒鋼は驚愕した。
なんとファイは、このユゥイよりも料理の手際がいいらしい。
こちらに背を向けて黙々とフライパンと向き合っているファイの周辺も、ピカピカに美しい状態を保っていた。
天地がひっくり返るよりあり得ない光景である。
ファイの料理センスのなさと奇跡に等しいほどの片付けのできなさは、いっそ神がかったレベルだったからだ。
「ありえねぇ……やっぱり今日の奴は何かがおかしい……」
「……」
てっきり賛同を得られるだろうと思っていたユゥイの生温かい視線が、なぜか痛い。その顔に『貴様が言うな』と書かれているような気がしたが、黒鋼には思い当たるふしがなかった。
そうこうしている間に、すぐ横に用意されていた皿にハンバーグを盛り付け終わったらしいファイが、ピンクのふりふりエプロンを翻しながら眩しい笑顔で振り返った。
「ユゥイー! ハンバーグ上手に作れたよー! ……って……?」
ここまでピンクのふりふりで笑う姿が似合う成人男性がいるのが、いっそ恐ろしい。
ま、俺のコレなんだけどよ、と内心で小指を立てる無表情の黒鋼を見て、ファイが顔色を変えた。
すっと細められる視線が肌に突き刺さる。ついでに心にも。
「ユゥイ、どうしてこの人がオレたちの部屋にいるの?」
「え、どうしてって……。いつものことでしょ?」
「なに言ってるの? 笑えないよ、その冗談」
双子の会話をその場で聞いていた黒鋼の元に、エプロンを外しながらファイがつかつかと歩み寄ってきた。
「悪いんだけど。お引き取り願えます? あなたのお部屋はお隣ですよ」
「……おいおまえ……昼間っから妙だぞ……?」
ふん、とファイが鼻で笑うと腕を組む。昼間に見た、あの見下すような冷たい笑みだった。
ドキリとするよりも、いっぞゾクリと背筋に嫌なものが駆け抜ける。
「聞こえなかった? オレ、帰れって行ったんだけど?」
「てめぇ……」
流石の黒鋼も、こうまで徹底的に拒絶を示されれば、戸惑いよりも苛立ちが勝る。
二人の間にビリビリとした張りつめた空気が流れた。間に挟まるようにしてその顔を交互に見やったユゥイが、引き攣った笑みを浮かべる。
「ま、まぁまぁ……同じ学校の先生同士で、部屋もお隣なんだし……ね? ファイも落ち着いて」
「オレは落ち着いてるよ」
「く、黒鋼先生も……ただでさえ顔が怖いんですから、まずは座って……」
「……帰る」
「えっ?」
「てめぇの気持ちはよくわかった。邪魔したな」
ファイに向かってそう言うと、静止するユゥイの声も聞かずに足早に玄関へと引き返した。
「黒鋼先生……!」
背中にかかるのは聞きなれたあの情けなく高い声ではなくて、黒鋼は柄にもなくダメージを受けている自分から目を背けた。
*
黒鋼が出て行ってしまうと、呆然とするユゥイとホッと胸を撫で下ろすファイが残された。
「よかったねー。不審者がおとなしく帰ってくれて」
「ねぇファイ……あのあと黒鋼先生とケンカでもしたの……?」
「へ? ケンカってー?」
「だから……」
ファイは何事もなかったかのように、テーブルの上に皿を並べ始める。
軽く混乱しそうになるが、どうやら黒鋼が通常の状態に戻ったのとは裏腹に、今度はファイがおかしなことになっているらしい。
(これってあんまりいい展開ではない、よね?)
流石に黒鋼の心境を思うと気の毒に感じられたユゥイは、ふとテーブルの上に乗っている二人分の皿を見て、そしてキッチンへも目をやった。
「あれ?」
小首を傾げて、その場所へ向かう。そこにはなぜか、もう一枚の皿が置かれていた。
野菜と一緒に盛り付けられているハンバーグは、ファイやユゥイのものよりも一回り以上大きなものだった。いっそ皿からはみ出しそうな勢いである。
「どうかしたー? 早く食べよー?」
背後からやってきたファイが、皿をじっと見つめるユゥイに声をかけた。
「ねぇファイ、これは誰の分?」
「えー?」
「これ、もしかして黒鋼先生の分なんじゃ?」
そう言ってファイを見ると、彼は思い切り嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「なに言ってんのユゥイ……どうしてオレがあの人の分まで作らないといけないの? 分量間違えちゃったから、まとめて焼いちゃっただけだよ」
「……ふーん」
(その割にちゃっかり野菜も盛り付けてあるんだけど……ひょっとして自覚がない?)
そもそもこれだけ大きなハンバーグである。分量を間違えるにしても、流石に無理があるように思えた。
これはなかなか面白い現象かもしれない……と、ほんの一瞬前まで黒鋼に同情していた気持ちが吹っ飛んだ。
考えてみれば、素直すぎる黒鋼はただ気持ちが悪いだけだったが、あんなにも冷酷な眼差しのファイなんて、なかなかお目にかかれるものではない。
そう思うと、これはかなり貴重なイベントのような気がした。
早く食べようとファイに急かされながら、とりあえずこの巨大ハンバーグは、後からコッソリ隣の部屋へ持って行こうとユゥイは思った。
*
「うわ……予想以上に背中に哀愁が漂ってますね」
部屋の中心にポツン……と胡坐をかいていた黒鋼の背中に声がかかった。
「勝手に入ってくんな」
「ノックもしたし声もかけましたよ」
「うるせぇな」
「今温め直しますからね。不貞腐れてないで、ちゃっちゃとご飯食べちゃってください。それにいつまでもジャージ着たままでいないで、着替えたらどうですか」
「こいつは部屋着用のジャージだ」
「一体何着の黒ジャージを所持してるんです……?」
「……ほっとけ」
余計なお世話だとイライラしつつ、ユゥイの手にしている皿の上のものを見て黒鋼は眉間の皺を深くする。
「食わねぇぞ俺は」
「食べ物に罪はないですよ。それにお腹ぺこぺこでしょう?」
そういえば空腹だったような気もしたが、今はもうどこかへ行ってしまった。
思い切り嫌そうな顔をする黒鋼を完全に無視し、ユゥイは着々と食事をする準備を整えている。
摘みだしてやろうかと考えて、レンジの中から出て来たブツを改めて見て、顔を顰める。
「デカくねぇかこれ」
ほぼ野菜を覆い尽くす勢いでギリギリ皿に収まっている、巨大ハンバーグ。
ユゥイはにっこりと笑った。
「そりゃあ、愛情がたっぷり詰まってますから」
「てめぇの愛情かよ」
「ボクが焼いたんじゃないですよ」
「あ?」
てっきりあのあと、この男が別に焼いて持ってきたのかとばかり思っていた。
あの様子のファイが、黒鋼の分まで作るとは到底思えなかったのだが。
「とりあえず食べながら話しましょう。ボクも色々確認したいし」
いまいち腑に落ちなかったが、ひとまず従う以外になさそうだった。
*
ハンバーグの味は、はっきり言ってとてつもなく美味だった。
随分昔に一度ファイが作ったものといえば、ハンバーグではなくただの消し炭だったのを思い出して、なんとも言えない気持ちになった。
「じゃあ、ファイと一緒に階段から落ちて、それからこうなったと」
「おう」
モグモグとひたすら口を動かす黒鋼を、テーブルに肘をついた手の上に顎を乗せたユゥイが見つめている。
そのまま何も言わずにただじっと見つめられて、黒鋼は箸を止めた。
「なんだよ」
「……ちなみに……それ以前のことって覚えてます?」
「……いや」
「ぷっ」
「!?」
ユゥイの目が三日月のようになった。
口に手を当ててぷぷぷと笑う姿に、どうやら思い切りバカにされているらしいことを察して、激しい憤りを覚える。
もしかしてもしかしなくてもこの男、今の状況を楽しんでいないか……?
「この野郎……何か知ってんならとっとと言え!」
「ああ~、やっぱり安心するなぁ口汚い黒鋼先生は」
「ああ!?」
同じ姿をしているくせに、こちらはファイとは別の意味で面倒くさい。
そしてこれがファイならば、容赦なくゲンコツでもブチ込んでスッキリしているところである。
「黒鋼先生は、とっても気色の悪いことになっていたんですよ」
そしてやっぱり少し楽しそうに、ユゥイは語り出した……。
十数分後……。
「………………」
「………………」
「……本当に笑えねぇな。おまえの冗談は」
「残念ながら真実です」
「………………」
俄かに信じがたい事態に、黒鋼はこの世の終わりを見たような心境だった。そして心から思った。消えたい、と……。
自ら命を絶つ人間の心境など知りたくもないと思っていた黒鋼が今、ロープはどこだったろうかと真剣に考えている。
どんと重い空気を背負いながら石のように動かない黒鋼を見て、ユゥイは「まぁまぁ」と苦笑しながら言った。
「そっちは解決したんだから、よかったじゃないですか。空白の時間も取り戻したわけだし」
慰めになっていない上に、取り戻したわけではない。知らされただけである。
「それに今問題なのはファイのことで……」
少し声を低くしたユゥイに黒鋼は握りしめていた箸をテーブルに置く。
確かに穴があったら入りたいほどの恥辱は味わっているが、彼の言うとおり今現在の問題はファイのことだった。
先刻の話をただストレートに聞けば、おそらく「そんなバカな」と一蹴するだけで、信じることはできなかっただろう。
だがあのファイの冷やかな表情や、攻撃的な態度を目の当たりにしている黒鋼は、おかげですんなり納得することができた。
同時に、極めて面白くない話だが、ホッとしている自分もいることに気がつく。
ファイのあの態度は、彼自身の意思ではなく、ただでさえアホだったのが、よりアホになっているだけの話なのだ。
「めんどくせぇな……」
舌打ちと共に毒を吐くと、黒鋼は気を取り直して再び箸を手に取り、完全に冷めきっている残りのハンバーグを平らげることにした。
そして小さな声で呟いた。
「美味い」
「え?」
目をまんまるにしているユゥイに、最後の一口を食べ終えた黒鋼が目を向ける。彼は驚いた様子で動かなくなってしまった。
「なんだよ」
「今、美味しいって言いました?」
「だからどうした」
ユゥイがまたにんまりと瞳を三日月型にさせて、いやらしい笑みを浮かべている。
「気持ち悪ぃな。なんだよ」
「いいえ? ファイは愛されてるなぁと思って」
「あ? いきなりなんなんだ。意味わかんねぇぞ。だいたい、ハンバーグなんて誰が作ったって……」
いや、同じではない。
ハンバーグを作るはずが、干乾びた臍の緒を思わせるような物体を作り上げてしまう人間を一人、黒鋼は知っている。
料理人の弟を凌ぐほどの手際の良さで完璧な料理が出来るファイなど、時々夢に見るくらいで丁度よかった。
「要するに、また同じような衝撃でも食らわせりゃいいんだろ?」
「そうなんでしょうね」
「殴るか」
「それで効いたらこれまで何回性格チェンジしたかわかりませんよ」
「……確かにな」
ならばまた階段から突き飛ばすしかないのか。それとも熱したフライパン辺りでぶん殴ればいいのだろうか。あるいは……。
「とんかち……」
「ちょっと黒鋼先生……今なにか物騒な呟きが漏れ聞こえてきたんですけど」
それでは殴るを通り越して陥没するだろうと、合いの手を入れて寄こすユゥイにムッとする。
「うっせぇな……どのみち最初から物騒この上ねぇ話しかしてねぇだろ。ならどうすりゃいいんだよ」
「うーん……ボクとしては、なるべくファイを危険な目には合わせたくないんですよね」
「そうは言ってもな……」
他に一体どんな手段があるというのだろうか。
重々しい溜息をつく黒鋼に、ユゥイは自信満々にニヤリと笑う。
「やっぱりこの場合、もう一つのお約束を実践するべきだと思います」
「おやくそく?」
「まぁ分かってはいても、ボクとしては複雑な部分もあるんですが……」
こうなればこの手しかないと言いながらユゥイが提案した方法は「ああ、こいつらやっぱり双子だな」と、妙に納得せざるを得ないものだった。
*
「単純です。なぜだかファイは黒鋼先生との関係についてだけ、スッポリ抜けているようですから、こういう場合は」
ユゥイはほんわかとしたニコニコ顔から、なぜか目つきを鋭くすると不敵な笑みを浮かべる。
「俺が思い出させてやるぜ……てめぇの身体にな……」
と、えらく低い声で言った。
「………………」
「………………」
「誰だよそれ?」
「黒鋼先生の真似」
「似てねぇだろ」
「あれ? 似てませんでした? ファイに出来たならボクにも出来ると思ったんですが……」
なぜかげんなりした。
言わんとしていることは伝わった。が、こんなふざけた男のふざけた策に乗って、果たして上手くいくのだろうか。
兄の方と比べると多少はマシな男かと思っていたが、テンションが違うだけでやっぱりこいつらは所詮双子だ。
だいたい……。
「俺はそんな薄ら寒い台詞は言わねぇぞ」
「え、でもファイなら絶対に泣いて喜ぶと思いますよ」
「知るか。そもそも仮に実行に移したとして、成功しなかったらどう責任取ってくれんだ? あ?」
今のファイを相手に失敗すれば、自分はただの性犯罪者になってしまうのではないか?
『高校体育教師、同僚の男性化学教師を強姦!!』
という新聞の見出しを思い浮かべて、いっそ例の空白の時間の真相を聞かされたときよりも遥かに怖気が立った。
そんな黒鋼の心配など余所に、ユゥイはなぜか無駄に余裕たっぷりだ。
「大丈夫ですよ。なんとかなります。そういうもんです」
「完全に他人事じゃねぇか」
「じゃあ……もし上手くいかなかったら、最悪ボクが責任を持ってファイと心中します。階段から」
「不吉なこと言うな。そんで今度はてめぇがアホになるとか面倒臭ぇ展開はお断りだぞ」
「そうなったら、今度は黒鋼先生がボクの身体に思い出させてくれると信じて……」
「未開の地に踏み込んで何をどう思い出させろって……?」
いくら双子といえども黒鋼は弟の方とは恋仲ではないし、もちろん肉体関係もない。
何やら学園内の一部では黒鋼とこの双子が3人でデキているらしい、という噂もたっているようだが、面倒くさいアホはファイだけで手一杯である。
突っ込みを入れられて楽しそうなユゥイは、まるで修学旅行に来てはしゃいでいる中学生のようだった。
こんなにも軽いノリの男だっただろうか……。
「まぁ冗談はこの辺りにして、上手くお膳立てはしますから、頑張ってください」
「頑張れって言われてもな……」
安心できる要素が一切ない。
それでも今は、縋るしかないのだろうか。
(あのバカ……元に戻ったらゲンコツ一発じゃ済まさねぇぞ……)
*
翌日、再び夜である。
黒鋼はなぜかユゥイの指令の元、自室ではなく双子の部屋にいた。一人で。
(あの野郎、何が上手くお膳立てしますだ……)
何をどうするつもりなのかと任せてみた結果、蓋を開ければ、ただここにいて何も知らずに帰宅したファイを待ち伏せろということだった。
そして言った本人は呑気に黒鋼の自室にいる。つまり丸投げである。
ソファに大股で腰掛けて腕を組む黒鋼は、見た目にはどっしり構えているものの、片膝は小刻みに上下している。
この待ち時間がなんとも落ち着かない。
だいたい『頑張れ』などと言われて、何を頑張ればいいのだろう。
どういうことかは分かってはいるが、ギラギラと目を光らせてやる気満々で挑める心境ではなかった。
いくら適当に丸投げされたからといって、ユゥイには心配をかけている(多分)ようだし、上手くやれるのであればそれに越したことはないのだが。
黒鋼にはファイの顔を見た途端、どこぞの怪盗三世のように全裸で飛びかかるつもりなど毛頭なかった。
いっそ話し合いで事が解決できるなら、どんなにいいか。
いや、実際は渾身の一撃をあのアホの頭にお見舞いすることであっさり済めばもっと簡単で、黒鋼的にはスカッとするのに。
沈黙の中で溜息を零すと、普段は気にならない時計の秒針が時を刻む音が、やけに耳についた。
それからおよそ数分後、ついに扉が開く音が聞こえた。
(来やがった……)
心臓が一度大きく高鳴った。
「ただいまユゥイー! 遅くなってごめんねー。今日はシチューに挑戦しちゃおっかなーってー」
ガサガサとビニール袋の音をさせながら顔を出したファイが、固い表情でソファにふんぞり返っている黒鋼の姿に気がつくと、一度大きく目を見開いた。
それからすぐに、荷物をその場に置いて「またお前か」と言わんばかりの呆れたような表情を見せる。
「君、よっぽどこの部屋が好きなんだね」
「……好きでいるんじゃねぇよ」
冷たい視線からつい目を逸らし、黒鋼はその居心地の悪さに小さく舌打ちをした。
なんだってこの男といるのにこうも緊張せねばならないのか。
「なにそれ。じゃあ帰れば」
ファイは相手にする気さえ失せているのか、一度床に放った袋を手にしてキッチンへと向かおうとする。
だがそこで辺りを軽く見まわし、ユゥイの姿がどこにもないことに気がついたようだ。
「弟ならいねぇぞ」
「なんで」
そもそもその弟にここで待ち伏せしろと言われている黒鋼は、どうしたものかと少し迷った。
すぐ隣にいる、ということが知れたら、このおざなりなお膳立てがおじゃんになってしまうことは目に見えた。
そうこうしているうちに、思案顔の黒鋼を見るファイの目が鋭く眇められた。
「オレの弟に何かしたんじゃないだろうね」
「何かってなんだこら」
「だって君、変態だろ」
「あ?」
思わず我が耳を疑った。そして言われた言葉を幾度も脳内で反芻する。
変態に……変態と言われた……。
「てめぇ……どういう意味だ……」
「そのまんま、言葉通りだよ。ユゥイ狙いでここに通ってるんじゃないの?」
「は……?」
……?
………………???
……………………はあぁ!?!?
あんまりのことに、黒鋼は派手に咳き込んだ。
僅かに身を引いたファイが『変な菌撒き散らすんじゃねぇぞ』と言わんばかりの不快そうな視線を寄こす。
だがそれどころではない。
なんたる勘違い。全身に嫌な汗が滲む。
俺の狙いはてめぇだと叫びたい衝動に駆られたが、咳き込むことに忙しい黒鋼は、ひとまず自分を落ち着かせることに専念する。
「悪いけど、ユゥイに指一本でも触れたら……」
どうにか落ち着いてきた黒鋼に、威嚇するように畳みかけるファイ。
「殺すよ」
少し寒気を覚えるほどに、その目は本気と書いてマジである。
そしてその言葉と視線を受けた黒鋼が、内心少しムラッとしたことは……絶対に秘密だ。
「ちょ、ちょっと待て……おまえな……」
何を隠そう、黒鋼が指一本触れることすら許されないらしい弟こそが、兄貴を襲っちゃえとゴーサインを出しているなどと、この男が知ったらどんな反応をするのだろう。
そう思うと誤解を晴らす意味でも、ちょっとネタばらししてみたい気がしないでもないのだが、相手の反応を窺って遊ぶだけの余裕はない。
なんと言っても、ファイのまさに変態を見るような冷たい視線が、この上なく痛かった。もうなんでもいいから、早くどうにかしなければ。
正直に言うと、クールでサドっぽいファイというのもまぁ悪くはない。この際そこは潔く認めよう。
だがやはり、あのよく知る賑やかで鬱陶しくて甘ったれのファイが、悔しいが今は無性に恋しいと感じた。
黒鋼は意を決し、負けじと睨みつけると言う。
「おまえの弟はここにはいねぇが、俺がここにいるのは、あいつも知ってる」
「……へぇ」
「俺はてめぇに話があってここへ来た」
「ふぅん」
ファイは意地の悪そうな笑みを浮かべると片手を腰に当てた。
見下ろしてくる視線はやっぱりあの虫ケラでも見るような眼で、黒鋼はやはり落ち着かない気持ちになる。あらゆる意味で。
「いいよ。聞こうじゃない」
こうなったら、ストレートに真っ向勝負だ……。
*
いつもいつも、ファイは騒がしくて鬱陶しくてアホでバカで、黒鋼が素直に言えない分を埋めるかのように、全力で想いをぶつけて来た。
黒鋼にとってそれは時に厄介で、面倒で、それでもバカな奴ほど可愛くて、こんな面倒な奴が他人の手に負えるものかと、いつしか妙な責任感も抱きながら不器用なりに気持ちを注いできたつもりだった。
けれどこうして改めて考えると、いつの間にか黒鋼は、ファイに愛されることが当たり前になっていたのかもしれない。
いつもは思っていても言えないこと、素直になれない部分。頭を打ってアホになっていたらしい自分は、それを真っすぐに隠すことなく表現したという。
ファイにとっては、きっと夢のような時間だったのではないか。
それなのに、彼は己の危険も顧みずに黒鋼と心中まがいのことをしたのだ。
素の状態でいる今の自分が、腹を括らなくてどうするというのか。
素直に気持ちを言葉や態度で示すことよりも、そんな風に思いあがっていた自分の方がずっと滑稽で、甲斐性のない小さな男に思えた。
「忘れちまってるようだがな、耳の穴かっぽじってよく聞けよ」
すっと立ち上がって、静かに深呼吸をした黒鋼の改まった様子に、ファイの表情から冷やかな笑みが消える。
「俺がここに来たのはな、てめぇを愛してるからだ」
ガサリ、という音を立てて、何やら材料が詰まったビニール袋が床に落ちた。
その音を皮切りとして、ぴんと張り詰めていた空気がさらに緊張を帯びたような気がする。
愛してる、なんて言葉をまともに声に出して言ったことなどこれまでない。(例の一件は別として)
その気持ちが揺るぎない真実だからこそ、軽はずみに口にすることに抵抗があったから。
だからあまり言い慣れない。今はただ相手の反応を見る以外になかった。
「は……?」
そして目を見開いたファイの表情には、僅かな困惑の色が伺える。
「……なに言ってるの?」
短い沈黙のあと、少し上ずった声。
「バカバカしい。何を言い出すのかと思えば」
うんざりしたように肩を竦めると、大きな溜息を零してファイはこちらから目を逸らす。
それを見て、黒鋼は何かを掴んだような気がした。
たった一言の告白が、冷たい笑みさえ浮かべる余裕をこの男から奪った。
決して簡単な言葉ではない。だからこそ、こうも一瞬で響くのか。
こうなると逆に余裕が生まれたのは黒鋼の方だった。
片眉をひょいと上げて見せた黒鋼をチラリとひと睨みして、ファイは苛立ったように背を向ける。
「どこに行くつもりだ?」
「君が出ていかないなら、オレが出てく」
そのまま薄暗い玄関先へと消える背中をすぐに追いかけた。
ぐっと腕を掴んで強引に振り向かせると、そこには親の仇でも見るような瞳があって、そのくせえらく潤んでいるものだから、ふと小さく笑ってしまった。
それがファイの神経を酷く逆なでしたらしい。
掴まれていない方の手が黒鋼の頬に向かって勢いよく振り下ろされる。大人しく殴られてなどやるものかと、それさえも軽々と手首を掴んで抑え込んだ。
「この……っ」
力の差など歴然で、身を捩るようにして抵抗をする身体を、半ば壁に叩きつけるかのようにして押さえつけた。
冷たい壁と黒鋼に挟まれ、完全に逃げ場を失ったファイは、肩で息をしながら上目づかいで睨みを効かせる。
悔しそうに噛みしめられた唇と、猫のように釣り上がった眉と目に、ゾクリとした。
「いい顔だな。悪くねぇ」
「ずいぶん楽しそうじゃない」
笑みの形に歪められた口端も、精一杯の虚勢にしか見えない。こちらが一瞬でも隙を見せるのを、虎視眈々と窺っているのが分る。
「そう見えるか?」
「さぁね。それよりこの馬鹿力、どうにかしてくれない?」
「てめぇがいい子にしてりゃあ、こんな荒っぽい真似もしなくて済むんだがな」
「っ……!」
一触即発。ファイの足が、黒鋼の身体を真っ二つにする勢いで振りあげられようとした瞬間を見逃さない。
拘束する腕の力をさらに強め、逆に自分の膝を彼の股下に滑り込ませると壁に固定した。表情を歪めながら、ますます縮まった互いの距離にファイがギクリと身を硬くする。
そして彼はうんざりしたように盛大な溜息を漏らした。
「何がしたいんだ君は……このまま強姦でもするつもり……?」
問いかけに、違うと答えられないのが痛いところだった。
だが否定したところでこの態勢である。ユゥイの言うことを信じるなら、いっそこのまま事に及ぶ以外にどうしようもない気がした。
だが再び脳裏に浮かぶ、新聞の見出し……。
この期に及んで顔を出した一瞬の揺らぎが、再び黒鋼から形勢を奪う。
沈黙を肯定と受け取ったファイが、蔑んだような冷笑を浮かべた。
「……いいよ。したいなら好きにすれば?」
「……なに?」
「その代わり、気が済んだら二度とオレの前に現れないで」
ピキ……。
黒鋼の額に青筋が浮かぶ。
とことんこちらをバカにしているらしいファイは、さらにこちらを煽るようなことを口にしはじめる。
「はっきり言って、同じ空気を吸ってるだけでも虫唾が走る」
不快を現す決定的な言葉。
それを聞いた瞬間、黒鋼は目を閉じると鼻で笑った。
だがそんな反応とは裏腹に、頭の中に大きな爆発のイメージが浮かんだ。
同時に聞こえたのは、何か太い糸が凄まじい勢いで千切れるような『ブチン』という音だった。
「上等だ」
低い声が、さらに低く唸るような響きを発した。
ファイが僅かに肩を震わせながら息を飲む。
いいだろう。そちらがその気なら、ここから先に言葉はいらない。
たった一言の告白が一瞬でも胸に響いたのなら、今度はそれを全ての感覚と共に引きずり出してやる。
誰を愛しているのか、誰に愛されているのか。
「俺が思い出させてやるぜ……てめぇの身体にな……」
結局、この言葉を口にすることになってしまった。
*
張り付けていた薄い身体を壁から乱暴に引きはがすと、それを素早く引っくり返して壁に押し付ける。
「ぃ、た! ちょっと、ここでするの?」
「それっぽくて雰囲気出るだろ」
振り向こうとするのを許さず、後頭部を手のひらで押さえつける。
事に及んでいる最中に先刻のように急所を狙うくらい、今のファイなら簡単にやってのけそうだった。
そんな真似を簡単にさせるつもりはなかったが、万が一ということがある。
部屋から漏れる明かりしか頼るものがない玄関先で、この体勢では顔があまり見えないというのは少し残念だが。たっぷりと時間をかけるつもりなのだから、そう悔やむこともないだろう。
咄嗟に抵抗を見せる身体をさらに壁に強く押し付けるようにして、黒鋼は首元まである薄手のセーターの中に背後から手を入れる。
そうしながら、ファイの耳元に唇を押し付けた。そしてとびきり低い声で吐息交じりに囁いてやる。
「好きにされてぇんだろ? だったらおとなしくてしてろよ」
「ッ……!」
冷えていた薄い皮膚が一瞬にして熱を発するのが分かる。
横目できつく睨みつけられても、それさえも潤んだ目元では説得力がなかった。
何しろすでに全身から力が抜けはじめていることは、ファイの身体を支えている黒鋼が一番よく知っている。
そしてこんなふうに囁いてやるのに、この男が弱いことも。
中身がどう変わろうが、ファイはファイだということが痛いほど理解できて、複雑な思いの中に切なさと愛おしさが渦を巻く。
ねっとりと耳たぶを嬲るように舌を這わせながらセーターをたくし上げて、確かめるように肌に触れた。
美しい曲線を描く背筋がブルリと震えるけれど、握った拳の甲を口元に押し付けるファイは、声を殺すのに必死なようだった。
どうせ長くは持つまい。わざと音を立てながら執拗に耳を責める黒鋼は、密かに内心でほくそ笑む。
手を這わせれば薄い胸の下で心臓が大きく高鳴っているのが伝わる。
もはや拘束は必要なくて、ただ両肩で覆いかぶさりながら壁に押し付けるだけで十分だった。
ねっとりと脇腹を撫で上げ、もう片方の手は悪戯に胸の引っ掛かりを掠める。
「ッ……!」
存分に耳たぶを嬲ったあとは耳裏から首へ、髪を鼻先で掻きわけるようにしながら項に吸いつく。
状況と反し、決して性急に事は進めない。いっそ哀れなほど快感に敏感なこの身体にとって、焦らすような愛撫は拷問に等しいのだ。
いつだって、ほんの少し苛めてやるだけで、すぐに泣きだすのだから。
「っ、ふ、ぁ……ッ、ぅ……」
押し付けた拳の隙間から、堪え切れない吐息が零れる。腰が揺れ、膝が震えても、必死で踏ん張っているのは今のファイのプライドの高さを象徴しているようだった。
けれどなおも焦れったい触り方しかしない黒鋼に、ついに苛立ちを爆発させた。
「ちょっ、と……!」
「なんだ」
無理やり首をこちらに向けながら睨みつけてくるくせに、その瞳からは今にも涙が零れ落ちそうになっている。
「遊んでないで、やるならとっとと済ませてよ……ッ」
ほら、やっぱり我慢などできない。
黒鋼は口元を微かに綻ばせる。
まだ『無理やりされている』というスタイルを守ろうとする物言いは可愛くないが、ひとまずはよしとする。
そうじゃなければ苛め甲斐がない。黒鋼はこの際だから、一連の生意気な暴言に対して意趣返ししてやる気満々だった。
「素直に肝心なとこに触れって言えねぇのか?」
「だれ、が……」
「ここだろ?」
「いっ……! った、ぃ……っ」
掠めるようにして触れるだけだった胸の、左側の乳首を親指と中指でぎゅっと摘みあげた。一瞬のことに身を竦めたファイがこれまでで一番大きな反応を見せる。
そのまま人差し指で先端をクリクリといじれば、ファイは腰を突きだすように背を反らし、黒鋼の肩に後頭部を預ける形で喉も反らした。
「痛ぇだけじゃねぇだろ?」
「く、ん……ッ、痛いだけ、だよ……! 変態! 下手くそ!」
「その下手くそ相手に、もうこんなにしてるのはどこの変態だ? あ?」
「ッ――!?」
黒鋼はファイの身体の中心に手を這わすと、スラックスの上からそれを強く擦った。
ファイの喉が「ひゅっ」という音を立てる。反らした喉で、くっきりと浮き上がる喉仏が引き攣っているのがはっきりと見えた。
それなりに厚さのある布越しにもわかるほど硬くなっている性器を、そのまま強弱をつけながら擦ってやる。
「ヒッ、や、やめ……! い、たい……から……!」
「その割にちっとも萎えねぇな。おら、しゃきっと立ってろ」
「う、るさ……ッ、あ、んっ、ぃ……!」
崩れ落ちそうな身体の足の間に、片膝を入れて支えてやる。
嫌々と首を振りながら、少々乱暴とも取れる間接的な刺激に、ファイは身体を痙攣させ始めた。
「イキたきゃイケよ」
「んな、わけ……ッ、な……! あっ! ほんとに、もう、や……――ッ!!」
どこまで耐えられるのかと思っていたら、終わりは呆気なかった。
ずっと忙しなく痙攣し続けていた身体が、大きく強張った。そのまま声もなく上半身を反らしながら、く、く、と小さなひきつけを起こしている。
「マジでイったのかよ」
「ぁ……ぅ……」
やがてゆっくりと弛緩していく身体に割り込ませていた膝を退けると、ファイの身体が力なく床へ崩れ落ちた。
両肩を抱きながら黒鋼も一緒に膝をつく。
そして力なく胸に背中を預けて寄こしながら、必死で呼吸を繰り返しているファイの顔を覗きこんだ。
蕩けたようにぼんやりとしている半開きの瞳は、焦点が定まっていない。けれどすぐにぎゅっときつく閉じられた。
「最低……」
「堪え性がねぇのはいつものこったろ」
腰が抜けているくせに、それでも身を離そうとするのをしっかりと抱きしめながら、こめかみに口づけを落とす。
泣いているくせに気丈に眉を吊り上げるファイだったが、身体を捻って黒鋼の胸を押しながらも小首を傾げた。
「……いつものことって、なにさ」
その反応に、つい溜息が零れた。
こうなってしまったものを今さら言っても仕方のないことだとは思うが……やっぱり忘れられてしまうというのは、寂しいものがある。
「優しくしてやんなきゃ思いだせねぇか?」
いつもは見られない反応に少しばかり遊んでしまったが、そろそろ本気で取りかかってみるかと、腕の中の身体を抱く力を強める。
頬に頬を擦りつけるようにすると、ファイが無意識に全身の力を抜いた。そして完全にこちらに全てを委ねる体勢でホッ、といううっとりとした吐息を漏らす。それは黒鋼がよく知るファイの動作だった。
だが彼は次の瞬間にはハッとして、身を強張らせた。
「ッ! は、離してよ……」
「今ちょっといい感じだったろ、おまえ」
「うるさいな……そんなはずないだろ……!」
だいぶ語尾が弱っているファイは、黒鋼の腕の中から抜け出すと、四つん這いで逃れようとする。
「どこ行く気だ」
「お、ふ、ろ! 誰かさんが好き勝手してくれたせいで、今すっごく気持ち悪いことになってるの! 察してよそのくらい!」
ああ……そうか……。
はいはいのポーズで振り返り、ギリリと睨んでくる涙目のファイを見て、黒鋼もすぐに彼の下半身がどんな状況かを理解した。
下着もスラックスも着用したまま射精させたのだから、おそらく中はどえらいことになっている。
黒鋼は手を伸ばすと、ファイの腰のベルト部分にむんずと手を伸ばした。
「う、わっ!?」
そのまま床が滑るのを利用してズルリと引き寄せる。ファイが手足をバタつかせるのも気にせず、もう片方の手を回し、慣れた動作で前の拘束をすべて解いてしまうと下着ごと一気に引きずり下ろす。
「な!?」
一連の動作は目にも止まらぬ素早さで、ファイは無防備な臀部をまるっと黒鋼に向けている状況にも反応できないまま、口をぽっかりと開けて硬直した。
が、すぐにひとまず萎えている股間を撫でられて、ビクリと大きく跳ねた。
「ひ、ゃ……!」
「見事にぐちゃぐちゃになってんな」
「誰のせいだッ!!」
ギャンギャンと捲し立てるファイを無視して、がっちりと腰を掴むと尻の割れ目に手を這わせる。
「っ――!?」
窮屈な場所で放たれた精液が流れ込み、そこもしっかりと濡れていた。
薄明かりに浮かぶ淫靡な有様に、鼻を鳴らすと舌舐めずりをする。
「まだ終わってねぇんだ。風呂ならあとで入れてやる」
低く言い放つと、黒鋼はその場所に顔を寄せた。
*
ファイの肌が粟立つのが分かる。
手足をバタつかせるも、いまだに力の入らない腰を掴まれているせいで、抵抗にもならない。
「い、やだ……! そんなとこ、ぁ、ヒッ……!?」
濡れた音を立てて窄まりに舌を押し付けた。心地よい弾力が一瞬の抵抗を見せながらも侵入を許す。
「あっ、や、やめて! 嘘……ッ」
ファイはついに腕を突っぱねる力も殺がれたのか、床に突っ伏した。腰だけが高く突きだされる。
舌先を尖らせ、ちくちくと穿るように入り口を解した。頼りない細腰が物欲しそうに揺れだすのに時間はかからなくて、必死で羞恥を堪えていることが分かるだけに、わざと大袈裟に水音を立てて聞かせた。
「うっ、んん……ッ、く……っ」
噛み殺される悲鳴が、むしろ黒鋼を興奮させる。
慣れているのはあくまでも身体だけ。暴力にあえて屈するつもりで黒鋼を煽ったファイは、自分の身体が男を受け入れるのに抵抗がないことを知らない。
舌を引き抜き、顔を上げてもすぐに指先をさし込んだ。ぐるりと円を描くように入り口を刺激すると、ビクビクと腰が大きく淫らな動きを見せる。
「そろそろ欲しいんだろ?」
「はっ、ぅ、く……ッ、なに、が……」
「これで満足か?」
「ぁあ……ッ」
入口ばかりを刺激していた指を深く突き入れる。ファイの腰が大きく跳ねて、きつく指を締めつける媚肉がさらに奥へと誘うように蠢いていた。
金色の髪が激しく左右に踊る。身体はすでに堕ちているというのに、理解だけが追いつかないというのは、果たしてどんな感覚なのだろう。
一度だけ突き入れたそれをすぐに引き抜いて、指を二本にすると第一関節まで潜り込ませた。それをじわりと押し開けば、赤く熟れたような穴がその動きに合わせて左右に歪む。
「それともここで止めるか?」
「!?」
中途半端に潜り込ませた指を引き抜く。はっとしたようにファイは振り返った。
その表情は明らかに不満そうで、ぎゅっと唇が噛みしめられた。
押すばかりだった黒鋼がいとも容易く引いてしまったことに、激しい戸惑いを見せていることがわかる。
押さえつけていた腰さえも自由にしてやると、ファイは腰を床にへにゃりと落とす代わりに、ゆるゆると上半身を起こした。
さあ、どう出る?
俯いて床を睨みつけているその横顔を、じっと見つめる。
ファイは一度だけきつく目を閉じると、すぐに顔を上げてこちらを睨みつけた。
「……ずるい」
「なにが?」
「はやく、してよ」
思わず綻びそうになる口元をぐっと堪えた。そして少しだけ小首を傾げて見せる。
「それじゃあ合意の上ってことになっちまうぜ?」
「っ……」
再び悔しそうに唇を噛みしめるファイは、床の上で拳を握った。
それから一度大きく息を飲むと、ついに折れた。
「もう……いい、から……」
プライドが完全にへし折れる瞬間。閉じられた瞳から大粒の涙が零れて頬を伝った。
「こんなのやだ……あそこが、身体が熱くて……切ないよ……」
それから吐息のようなささやかな声で、ファイは言った。欲しい、と。
黒鋼は両腕を伸ばす。少し強引に引き寄せて、腕の中にその身体を納めた。
ファイはもはや一切の抵抗を示さない。ただ黒鋼の胸に力なくもたれた。
沸き立つ感情は勝利を勝ち得たときのそれで、これでは元のファイを取り戻したくてしていたのか、それとも難攻不落の城を落とすことに躍起になっていたのか、もはや目的を失っているように思えた。
だがどちらにせよ、ファイは欲したのだから。
中身がどんなになっていようが、それを拒む理由などなかった。
「乗れ、上に」
「ん……」
低く命じると、ファイはおぼつかない腕に力を込めて、黒鋼の肩に手をついた。そしてそのまま力の入りきらない足腰を動かして、胡坐をかいた黒鋼を跨ぐ。
その間に猛りきった自身を取り出す。もしまかり間違ってファイがあのまま拒んでいれば、相当惨めな思いをするところだったと考えると、少し笑えた。
「ぁ……」
濡れた音と共に、膝立ちになっているファイの双丘の中心に性器を宛がう。
しっかりと両手で腰を掴んで固定すると、力を込めて腰を下ろせと無言で命じた。
「あ、あ、ぁ……うそ……はいっ、て……」
目を大きく見開いて、ファイは首を左右に振った。二人の身体の間で主張している紅色の性器が、揺れながら白い蜜を零していた。
熱く濡れた肉に飲み込まれていく感覚に、黒鋼は歯を食いしばる。情けない話だが、気を抜けばすぐにでも達してしまいそうだった。
「ッ、そのまま……そうだ……しっかり腰落とせ」
「んくっ、ぅ、や……で、も……だって……」
「突き破りゃしねぇよ。奥に届くだけだ」
ファイの身体の震えは快感によるものだけではなかった。すでに半分以上を飲み込んでいるが、そこから先に進まない。
この身体は最奥まで受け入れることを知ってはいるが、元々記憶が欠けていない状態であっても、ファイはいつも本能的な怯えを見せていた。
今の彼が容易く受け入れられる状態ではないことは知っている。だが黒鋼は容赦しない。初めて抱く身体ではないし、初めての相手を抱くわけでもない。
この身体はファイのものであると同時に、黒鋼のものだ。全て熟知している。
ぐっと力を込めて、引いた。ただでさえ腑抜けているファイの膝が、カクンと落ちる。
「―――ッ!?」
一気に全てが中に収まった。中の圧迫がより増して、黒鋼は歯を食いしばる。
ファイの内腿が痙攣し、見開かれた瞳からは生理的な涙がとめどなく溢れていた。
けれど、やがてその瞳はどろりと濁っていく。開かれたままの唇が、はくはくと頼りない呼吸を繰り返す。
「おら、飛んでんじゃねぇよ。こっからだ」
暫しの間を置いて、馴染んできた頃合いを見計らうと、黒鋼は腰を緩く揺さぶった。
必死に黒鋼の首に腕を回すファイは、バネのように背を反らすと堪え切れずに嬌声を上げる。
「あぁぁ……ッ!」
探るような動きから、揺さぶる早さを徐々に早いものにしていく。
結合部から響く淫らな水音と、ファイの高い声が重なる。
黒鋼の動きに合わせるようにその腰が蠢き、意識と裏腹の痴態に制御を失っているファイは、喘ぎながらも混乱していた。
「ヒィ、あ、あ……! なん、で、なんで……ッ、こんなに……!」
「ッ、いいんだろ?」
「ちが、違う……ッ! 違う、いいっ、すごい……ッ、これ、やだぁっ!」
「つまりどっちだよ」
答えは明白だが、悦いのか悪いのか、そのどちらも口走りながら正体を無くしていく様はなかなか見応えのあるもので、絶頂間近の黒鋼には同時に厳しいものがある。
だが時折ひたりと腹に当たるファイの性器も、限界まで膨らみ切っていた。
そろそろ頃合いだ。一層強く揺さぶりをかけて、彼の中の一番感じる場所を掠めるように攻め立てた。
強すぎる快楽はファイから嬌声さえも奪う。ひ、ひ、と呻く喉元に鼻先を埋める。
やがて溺れるように黒鋼の肩を掻き抱いて、一足先にファイが達した。
勢いよく噴き上がる精液が、二人の肌を濡らす。
「くッ……!!」
ファイの肩口に強く額を押しつけながら、黒鋼もまた低く呻いた。身体が大きく戦慄いて、引き抜く余裕もなく中に放つ。
痙攣の収まらない身体を強く抱きしめながら、絶頂の余波に全身が痺れていた。
しばらく忙しない呼吸を繰り返しながら余韻を楽しむと、やがて大きく息を吐きだして、ぐったりと項垂れるファイを見上げた。
蕩けたようになっている瞳と目が合うと、どちらかともなく唇を合わせる。
だがまだ完全に呼吸の整わないファイは、すぐに顔を逸らしてしまった。
「……思い出さねぇか?」
「……だから、なにを……?」
彼にしては低い声で、気だるげな目が向けられた。
「……そうか」
やはり上手くはいかないのか。
相手の体力面も含めて、この先を続けることに意味があるのかないのか。
顔を出しかける落胆の感情を押し込めて、ひとまず引く方向で黒鋼は身じろいだ。
ファイの身体がビクリと震え、そしてぎゅうぎゅうと強い力で首にしがみついてくる。
「おい」
「ま、って……まだ、動くのダメ……」
「なんだよ」
ファイの顔が見たくても、がっちりと頭を押さえこまれているせいで、首が動かせない。
耳元に押しつけられるファイの唇から洩れる小さな吐息が、静まりかけていた興奮を呼び覚ます。
なんだかんだで明日のことも考えれば、これ以上好き勝手やることは躊躇われる。
けれどそんな気遣いなど知りもしないで、ファイは言った。
「もう……しないの……?」
どこか不貞腐れているような物言い。
欲しいくせに欲しいと言えない意地っ張りなファイ。歯痒いような、ムズムズとしたものを覚える。
こんな気持ちは初めてで、いつもなら聞いてやらない我儘も、叶えてやりたくなる。
だが本当はいつだって、もっと上手に甘やかせたらと、そう思っていた。
「欲しいなら、くれてやる」
「……うん」
蚊の鳴くような返事。
「俺も……まだ足りねぇ。おまえが……足りねぇんだよ」
そして小さな声で囁いた。もう二度と戻らないかもしれない、出会ってからこれまでの時を共に過ごした恋人に。
愛してる、と。
「……っ」
言葉を失いながら、全身を真っ赤に染めたファイがきつくこちらの頭を抱え込んでくるのは、きっと顔を見られたくないからなのだろう。
その気持ちは、よくわかる。
「変なの」
「ん」
「涙、止まらない」
ひとつ、子供っぽく鼻をすする音が聞こえて、黒鋼は少しだけ笑った。
*
「いやー、でも黒鋼先生がお縄にならなくて本当によかったですよね」
昼休み。
天気がいいという理由で黒鋼とユゥイは校庭脇のベンチに腰掛けて、弁当をつついていた。
切り込まれて、タコのようになっている赤いウインナーを箸で摘みながら、黒鋼は横目で首を傾げているユゥイを睨んだ。
「そろそろてめぇ相手にもゲンコツ解禁してもいいか」
「あはは、ご冗談を」
「しかも例の作戦じゃ、結局どうにもならなかったしよ」
「不思議なんですよねー。テンプレートにはまらない辺り、ファイは斜め上を行くからなぁ……」
いやぁ失敬失敬、と片手を立てて「ごめん」のポーズをとりつつ、どこぞの洋菓子店の看板キャラクターよろしく、ペロンと舌を出してウィンクまでかますユゥイにイラッとする。
結果、この男が言ったように通報されて、新聞の見出しやワイドショーを騒がすという最悪な事態にはならなかった。
そして普段は見られないファイのツンっぷりを堪能できたのもいい。さらに寝技で落とすという美味しいプレイもできた。なかなかいい趣向だった……と、そこまで考えて黒鋼は自分に失望した。
(確実にアホ双子に毒されてきてやがる……)
「まぁ、ボクとしてはもうちょっとファイに冷たくされて、子犬みたいに縮こまってる黒鋼先生が見たかったんですけどね」
「やっぱり殴る。ゲンコツとは言わねぇ。平手でいい」
「今日の黒鋼先生はジョークが冴えわたってるなぁ。あ、ほら来ましたよ」
「あ?」
ユゥイの指さす方を見ると、肩を怒らせて明らかにご機嫌斜めの様子のファイが、ツカツカとこちらに向かってくるのが見えた。
「おう」
軽く手を上げると、猫のように毛を逆立たせたファイがきつく睨みつけてくる。
「おう、じゃないでしょー!? 待っててって言ったのに、先に行っちゃうとか! しかも先にユゥイのお弁当食べてるとか! タコさんウインナーとオレ、どっちが大事なの!?」
ギャンギャンと喚き散らして、ファイは黒鋼とユゥイの間に無理やり身体を押し込めた。
長身の男が3人も並ぶと、ベンチはきつきつである。いや、きつきつを通り越して、黒鋼は右半身が空気椅子状態である。
「うるせぇな……てめぇがグズグズしてっからだろうが」
「だいたいさー、黒たん先生とユゥイ、なんだか急に仲良しじゃない!? 怪しい……絶対に怪しい……」
確かにファイを除いて二人だけでいる、という構図は比較的珍しい。けれど勘ぐられるようなことは何一つない。
だがこの妄想魔人は限度というものを知らない。
「黒たん先生は見た目がオレならなんでもいいんだ……! この節操無し! 浮気者! ゴッドハンド!!」
最後の一文が一体なにを指すのか、黒鋼はあえて突っ込まない。
だが天を仰ぐようにしながら泣き真似をしているファイのウザったさに、額の辺りで何か切れてはいけない大事な血管が切れた。
「うるっせぇんだよてめぇは! 飯ぐれぇ静かに食わせろ!!」
「うわあぁあん! ここはそっとオレの肩を抱き寄せて、バカ野郎……俺がゾッコンLOVEなのはこの地上でただ一人……てめぇ……(ため)……だけだ……★ とか言う場面なのにーっ」
「その妄想の中の俺を殺せぇ!!」
「まぁまぁ……二人とも落ち着いて」
ドスッという音と共に、ファイと黒鋼の口の中にタコさんが押しこまれる。
口をもぐもぐさせるしかなくなった二人は、バチバチと火花を散らしながら無言で睨みあう。
「せっかくファイが元に戻ったんですから、ケンカはやめましょう」
「チッ……」
先に飲み込んだ黒鋼は、派手に舌打ちをした。
そう、ファイはあの翌朝、あっさり元に戻ったのだ。
宿舎の玄関を出てすぐの、階段でのことだった。
せめて学園につくまではと支えようとした黒鋼の手をつれない態度で振り払って、ガクガクの腰で見事にすっ転んだ。
一瞬だけ気を失ったファイは、もしや死んだのでは……と青褪めた黒鋼の腕の中で、すぐに目を覚ました。
第一声は「あ、黒たんせんせー。おはよー」だった。
こんなことなら、いっそのことフライパンやトンカチで一発ぶん殴ればよかった。
あの夜、黒鋼は一生分の愛の告白をしたような気がする。
もう二度と言うものか……と間違った決意をする黒鋼の横で、ようやくウインナーを飲み込んだファイがぷぅ、と口を尖らせた。
「あーあー。オレ何があったのかぜんぜん覚えてないよー。つまんない」
「面白かったよ。特に黒鋼先生が……ぷっ」
よし殴ろう……とそっと拳を握りしめたが、そこでユゥイがひらりと立ちあがってしまった。
「次の授業の準備がまだ残ってるから、ボクは先に行くよ」
「えー行っちゃうのー?」
「うん、じゃあね。黒鋼先生も」
爽やかな笑顔を残して颯爽と去っていく後ろ姿を見ながら、確実に逃げる口実だろうと黒鋼は思った。
そして取り残された二人は暫しの間、会話もなく黙々と弁当を食べた。
いつもならなんやかんやと喋り続けているファイが、珍しく口を噤んでいる。
これはこれで、妙な居心地の悪さがあった。
やがてあらかた食べ終わると、弁当に蓋をしながらようやくファイが口を開く。
「ねぇ、せんせ」
「おう……」
「オレ、どんなだった? やっぱ……変だった……?」
「そうだな……」
とは言ってもお互い様である。
恐縮そうにしているファイは、おそらく記憶がない間になにか迷惑をかけたのではないかと気にしているのだろう。
だが、迷惑の度合いで言えば普段の方がずっと被害が大きい。
「まぁ……いいんじゃねぇのか? デカイ怪我したわけじゃねぇんだし」
黒鋼的には心にダメージは受けたが……。
「そっかぁ」
そう言って、ファイはへにゃりと笑った。
冷たい微笑はゾクゾクするほど美しかったが、やはりこのどこか間の抜けた笑顔の方がいいと、黒鋼は思った。
たまに殴りたくなるし、今の黒鋼には声に出して言うのはとても難しいけれど。
ファイのこの笑顔には、普段は無愛想な黒鋼の頬をふと緩めてしまう魔力があった。
思わず伸びた手が、少し癖のある金の髪をそっと撫でる。
一瞬だけ驚いて目を丸くしたファイは、すぐに頬を赤らめながら猫のように目を細めた。
「やっぱ黒たん先生は、ときどき優しいくらいがカッコイイや」
えへへ、と珍しく照れたように笑いながら言うファイに、黒鋼もまた思う。
そう、この男は、ときどきこうしてしおらしくなるくらいが可愛い、なんて。
←戻る ・ Wavebox👏
ファイを庇って脳天を強打した黒鋼。
彼は使い古されたテンプレート通り、記憶喪失にな……らなかった。
代わりにツン度80%からデレ100%へと人格をチェンジさせた黒鋼だったが、ファイの捨て身の荒治療によりツンを取り戻す。
だが事態は思わぬ方へと激流のように黒鋼を翻弄することになる。
黒鋼を正気に戻すため、共に階段からフライアウェイしたファイが今度はドタマを強打し、デレデレ100%から120%ツンツンへと変化してしまった。
まるで生ゴミでも見下ろすかのような冷酷な瞳に、ナニかに目覚めかける黒鋼は……?
*
6時間目は体育の授業だった。
体育館では生徒達が筋トレという名の自習を行わされている。
「今日は自習だ。俺がいいと言うまで腹筋でもやってろ」
という投げやりな指示を出し、体育館の隅っこで愛用の竹刀を抱えながら胡坐をかいた黒鋼からは、ジリジリとした黒いオーラが出ている。
「く、く、黒鋼先生! 腹筋から火が! 業火が!!」
かれこれ30分以上も腹筋放置を食らっている生徒達が悲鳴を上げているが、じっと眼を閉じて考え事に耽る黒鋼の耳には届いていなかった。
黒鋼の頭の中は現在、ファイのことでいっぱいになっている。
昼休みのあの一件から、ファイの様子が明らかにおかしい。
(一体なにがどうなってんだ……?)
気がついたら階段を転がり落ちていて、腕の中には一緒に落ちたらしいファイがいた。
怪我はないかと声をかけると、起き上ったファイは豹変していた。
そんな顔も出来るのかと思うほど冷やかな目をした彼は、黒鋼をまるで虫ケラのように扱うと姿を消した。
その態度に思わずキュn……いや、呆気にとられた黒鋼だったが、その後もファイは同じ調子で目を合わそうとしない。
まるで黒鋼という存在など、最初から見えていないとでも言うかのような徹底した態度だった。
いつもならうるさいくらい纏わりついてくるというのに。
知らず知らずのうちに、何か彼を激怒させるような真似でもしてしまったのだろうか。
「………」
思い当たるものが一切ない。
そもそもおかしなことに、ファイと共に階段から落ちる以前の記憶がない。
なにもかもが謎で、頭がおかしくなりそうだった。
*
結局その日、学園内では一度としてファイと関わることがなかった。
ちらりと盗み見た彼は普段と変わらぬ調子で、生徒達や他の教師連中と親しげに会話をし、人懐っこい笑顔ではしゃいでいた。
黒鋼にだけ態度を豹変させていることなど、他の人間は知りもしない。
二人がケンカをする、ということは割とよくある光景だったので、特別気にするものもいないようだった。
謎は深まるばかりだったが、とりあえず腹は減る。
いつも夕食は双子の部屋で世話になっているし、そこでならファイの真意を問うことが出来るだろう。
いや、別にあのアホのことが気になって何も手につかないだとか、そんなことは決してない。
黒鋼は空腹なのだ。宿舎に入った瞬間からすでに晩飯のいい香りがしていることには気がついていた。
おそらくユゥイが何か作っているのだろう。
だからあくまでファイのことは「ついで」だ。それ以外に理由などない。絶対ない。
べ、別にアンタのことなんてなんとも思ってないんだからね……ぐらいの心意気で一度自室へ戻り、それから普段通り隣の部屋へと向かった。
「あ、黒鋼先生おかえりなさい」
玄関先で出迎えたのはファイではなくユゥイだった。
珍しくエプロンをしていない。すでに夕食は完成しているのだろうか。
「お腹すいたでしょう? 今日はハンバーグですよ」
「おう」
短く返事をする黒鋼の顔を、ユゥイがじっと見つめてくる。
「……なんだ?」
「いえ……さぁどうぞ」
部屋に入ると、キッチンの方から何かを焼く香ばしい音と香りした。ふと目をやれば、なんとそこには料理をするファイの姿があった。
「お、おい……あいつにやらせていいのかよ? ろくなことにならねぇぞ……」
咄嗟にユゥイに身を寄せると耳元で問いただす。
「はぁ……ボクも驚いたんですが……ボクがここに戻ったときには、すでにファイが作り始めていて……しかも……」
そのあとに続いた言葉に、黒鋼は驚愕した。
なんとファイは、このユゥイよりも料理の手際がいいらしい。
こちらに背を向けて黙々とフライパンと向き合っているファイの周辺も、ピカピカに美しい状態を保っていた。
天地がひっくり返るよりあり得ない光景である。
ファイの料理センスのなさと奇跡に等しいほどの片付けのできなさは、いっそ神がかったレベルだったからだ。
「ありえねぇ……やっぱり今日の奴は何かがおかしい……」
「……」
てっきり賛同を得られるだろうと思っていたユゥイの生温かい視線が、なぜか痛い。その顔に『貴様が言うな』と書かれているような気がしたが、黒鋼には思い当たるふしがなかった。
そうこうしている間に、すぐ横に用意されていた皿にハンバーグを盛り付け終わったらしいファイが、ピンクのふりふりエプロンを翻しながら眩しい笑顔で振り返った。
「ユゥイー! ハンバーグ上手に作れたよー! ……って……?」
ここまでピンクのふりふりで笑う姿が似合う成人男性がいるのが、いっそ恐ろしい。
ま、俺のコレなんだけどよ、と内心で小指を立てる無表情の黒鋼を見て、ファイが顔色を変えた。
すっと細められる視線が肌に突き刺さる。ついでに心にも。
「ユゥイ、どうしてこの人がオレたちの部屋にいるの?」
「え、どうしてって……。いつものことでしょ?」
「なに言ってるの? 笑えないよ、その冗談」
双子の会話をその場で聞いていた黒鋼の元に、エプロンを外しながらファイがつかつかと歩み寄ってきた。
「悪いんだけど。お引き取り願えます? あなたのお部屋はお隣ですよ」
「……おいおまえ……昼間っから妙だぞ……?」
ふん、とファイが鼻で笑うと腕を組む。昼間に見た、あの見下すような冷たい笑みだった。
ドキリとするよりも、いっぞゾクリと背筋に嫌なものが駆け抜ける。
「聞こえなかった? オレ、帰れって行ったんだけど?」
「てめぇ……」
流石の黒鋼も、こうまで徹底的に拒絶を示されれば、戸惑いよりも苛立ちが勝る。
二人の間にビリビリとした張りつめた空気が流れた。間に挟まるようにしてその顔を交互に見やったユゥイが、引き攣った笑みを浮かべる。
「ま、まぁまぁ……同じ学校の先生同士で、部屋もお隣なんだし……ね? ファイも落ち着いて」
「オレは落ち着いてるよ」
「く、黒鋼先生も……ただでさえ顔が怖いんですから、まずは座って……」
「……帰る」
「えっ?」
「てめぇの気持ちはよくわかった。邪魔したな」
ファイに向かってそう言うと、静止するユゥイの声も聞かずに足早に玄関へと引き返した。
「黒鋼先生……!」
背中にかかるのは聞きなれたあの情けなく高い声ではなくて、黒鋼は柄にもなくダメージを受けている自分から目を背けた。
*
黒鋼が出て行ってしまうと、呆然とするユゥイとホッと胸を撫で下ろすファイが残された。
「よかったねー。不審者がおとなしく帰ってくれて」
「ねぇファイ……あのあと黒鋼先生とケンカでもしたの……?」
「へ? ケンカってー?」
「だから……」
ファイは何事もなかったかのように、テーブルの上に皿を並べ始める。
軽く混乱しそうになるが、どうやら黒鋼が通常の状態に戻ったのとは裏腹に、今度はファイがおかしなことになっているらしい。
(これってあんまりいい展開ではない、よね?)
流石に黒鋼の心境を思うと気の毒に感じられたユゥイは、ふとテーブルの上に乗っている二人分の皿を見て、そしてキッチンへも目をやった。
「あれ?」
小首を傾げて、その場所へ向かう。そこにはなぜか、もう一枚の皿が置かれていた。
野菜と一緒に盛り付けられているハンバーグは、ファイやユゥイのものよりも一回り以上大きなものだった。いっそ皿からはみ出しそうな勢いである。
「どうかしたー? 早く食べよー?」
背後からやってきたファイが、皿をじっと見つめるユゥイに声をかけた。
「ねぇファイ、これは誰の分?」
「えー?」
「これ、もしかして黒鋼先生の分なんじゃ?」
そう言ってファイを見ると、彼は思い切り嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「なに言ってんのユゥイ……どうしてオレがあの人の分まで作らないといけないの? 分量間違えちゃったから、まとめて焼いちゃっただけだよ」
「……ふーん」
(その割にちゃっかり野菜も盛り付けてあるんだけど……ひょっとして自覚がない?)
そもそもこれだけ大きなハンバーグである。分量を間違えるにしても、流石に無理があるように思えた。
これはなかなか面白い現象かもしれない……と、ほんの一瞬前まで黒鋼に同情していた気持ちが吹っ飛んだ。
考えてみれば、素直すぎる黒鋼はただ気持ちが悪いだけだったが、あんなにも冷酷な眼差しのファイなんて、なかなかお目にかかれるものではない。
そう思うと、これはかなり貴重なイベントのような気がした。
早く食べようとファイに急かされながら、とりあえずこの巨大ハンバーグは、後からコッソリ隣の部屋へ持って行こうとユゥイは思った。
*
「うわ……予想以上に背中に哀愁が漂ってますね」
部屋の中心にポツン……と胡坐をかいていた黒鋼の背中に声がかかった。
「勝手に入ってくんな」
「ノックもしたし声もかけましたよ」
「うるせぇな」
「今温め直しますからね。不貞腐れてないで、ちゃっちゃとご飯食べちゃってください。それにいつまでもジャージ着たままでいないで、着替えたらどうですか」
「こいつは部屋着用のジャージだ」
「一体何着の黒ジャージを所持してるんです……?」
「……ほっとけ」
余計なお世話だとイライラしつつ、ユゥイの手にしている皿の上のものを見て黒鋼は眉間の皺を深くする。
「食わねぇぞ俺は」
「食べ物に罪はないですよ。それにお腹ぺこぺこでしょう?」
そういえば空腹だったような気もしたが、今はもうどこかへ行ってしまった。
思い切り嫌そうな顔をする黒鋼を完全に無視し、ユゥイは着々と食事をする準備を整えている。
摘みだしてやろうかと考えて、レンジの中から出て来たブツを改めて見て、顔を顰める。
「デカくねぇかこれ」
ほぼ野菜を覆い尽くす勢いでギリギリ皿に収まっている、巨大ハンバーグ。
ユゥイはにっこりと笑った。
「そりゃあ、愛情がたっぷり詰まってますから」
「てめぇの愛情かよ」
「ボクが焼いたんじゃないですよ」
「あ?」
てっきりあのあと、この男が別に焼いて持ってきたのかとばかり思っていた。
あの様子のファイが、黒鋼の分まで作るとは到底思えなかったのだが。
「とりあえず食べながら話しましょう。ボクも色々確認したいし」
いまいち腑に落ちなかったが、ひとまず従う以外になさそうだった。
*
ハンバーグの味は、はっきり言ってとてつもなく美味だった。
随分昔に一度ファイが作ったものといえば、ハンバーグではなくただの消し炭だったのを思い出して、なんとも言えない気持ちになった。
「じゃあ、ファイと一緒に階段から落ちて、それからこうなったと」
「おう」
モグモグとひたすら口を動かす黒鋼を、テーブルに肘をついた手の上に顎を乗せたユゥイが見つめている。
そのまま何も言わずにただじっと見つめられて、黒鋼は箸を止めた。
「なんだよ」
「……ちなみに……それ以前のことって覚えてます?」
「……いや」
「ぷっ」
「!?」
ユゥイの目が三日月のようになった。
口に手を当ててぷぷぷと笑う姿に、どうやら思い切りバカにされているらしいことを察して、激しい憤りを覚える。
もしかしてもしかしなくてもこの男、今の状況を楽しんでいないか……?
「この野郎……何か知ってんならとっとと言え!」
「ああ~、やっぱり安心するなぁ口汚い黒鋼先生は」
「ああ!?」
同じ姿をしているくせに、こちらはファイとは別の意味で面倒くさい。
そしてこれがファイならば、容赦なくゲンコツでもブチ込んでスッキリしているところである。
「黒鋼先生は、とっても気色の悪いことになっていたんですよ」
そしてやっぱり少し楽しそうに、ユゥイは語り出した……。
十数分後……。
「………………」
「………………」
「……本当に笑えねぇな。おまえの冗談は」
「残念ながら真実です」
「………………」
俄かに信じがたい事態に、黒鋼はこの世の終わりを見たような心境だった。そして心から思った。消えたい、と……。
自ら命を絶つ人間の心境など知りたくもないと思っていた黒鋼が今、ロープはどこだったろうかと真剣に考えている。
どんと重い空気を背負いながら石のように動かない黒鋼を見て、ユゥイは「まぁまぁ」と苦笑しながら言った。
「そっちは解決したんだから、よかったじゃないですか。空白の時間も取り戻したわけだし」
慰めになっていない上に、取り戻したわけではない。知らされただけである。
「それに今問題なのはファイのことで……」
少し声を低くしたユゥイに黒鋼は握りしめていた箸をテーブルに置く。
確かに穴があったら入りたいほどの恥辱は味わっているが、彼の言うとおり今現在の問題はファイのことだった。
先刻の話をただストレートに聞けば、おそらく「そんなバカな」と一蹴するだけで、信じることはできなかっただろう。
だがあのファイの冷やかな表情や、攻撃的な態度を目の当たりにしている黒鋼は、おかげですんなり納得することができた。
同時に、極めて面白くない話だが、ホッとしている自分もいることに気がつく。
ファイのあの態度は、彼自身の意思ではなく、ただでさえアホだったのが、よりアホになっているだけの話なのだ。
「めんどくせぇな……」
舌打ちと共に毒を吐くと、黒鋼は気を取り直して再び箸を手に取り、完全に冷めきっている残りのハンバーグを平らげることにした。
そして小さな声で呟いた。
「美味い」
「え?」
目をまんまるにしているユゥイに、最後の一口を食べ終えた黒鋼が目を向ける。彼は驚いた様子で動かなくなってしまった。
「なんだよ」
「今、美味しいって言いました?」
「だからどうした」
ユゥイがまたにんまりと瞳を三日月型にさせて、いやらしい笑みを浮かべている。
「気持ち悪ぃな。なんだよ」
「いいえ? ファイは愛されてるなぁと思って」
「あ? いきなりなんなんだ。意味わかんねぇぞ。だいたい、ハンバーグなんて誰が作ったって……」
いや、同じではない。
ハンバーグを作るはずが、干乾びた臍の緒を思わせるような物体を作り上げてしまう人間を一人、黒鋼は知っている。
料理人の弟を凌ぐほどの手際の良さで完璧な料理が出来るファイなど、時々夢に見るくらいで丁度よかった。
「要するに、また同じような衝撃でも食らわせりゃいいんだろ?」
「そうなんでしょうね」
「殴るか」
「それで効いたらこれまで何回性格チェンジしたかわかりませんよ」
「……確かにな」
ならばまた階段から突き飛ばすしかないのか。それとも熱したフライパン辺りでぶん殴ればいいのだろうか。あるいは……。
「とんかち……」
「ちょっと黒鋼先生……今なにか物騒な呟きが漏れ聞こえてきたんですけど」
それでは殴るを通り越して陥没するだろうと、合いの手を入れて寄こすユゥイにムッとする。
「うっせぇな……どのみち最初から物騒この上ねぇ話しかしてねぇだろ。ならどうすりゃいいんだよ」
「うーん……ボクとしては、なるべくファイを危険な目には合わせたくないんですよね」
「そうは言ってもな……」
他に一体どんな手段があるというのだろうか。
重々しい溜息をつく黒鋼に、ユゥイは自信満々にニヤリと笑う。
「やっぱりこの場合、もう一つのお約束を実践するべきだと思います」
「おやくそく?」
「まぁ分かってはいても、ボクとしては複雑な部分もあるんですが……」
こうなればこの手しかないと言いながらユゥイが提案した方法は「ああ、こいつらやっぱり双子だな」と、妙に納得せざるを得ないものだった。
*
「単純です。なぜだかファイは黒鋼先生との関係についてだけ、スッポリ抜けているようですから、こういう場合は」
ユゥイはほんわかとしたニコニコ顔から、なぜか目つきを鋭くすると不敵な笑みを浮かべる。
「俺が思い出させてやるぜ……てめぇの身体にな……」
と、えらく低い声で言った。
「………………」
「………………」
「誰だよそれ?」
「黒鋼先生の真似」
「似てねぇだろ」
「あれ? 似てませんでした? ファイに出来たならボクにも出来ると思ったんですが……」
なぜかげんなりした。
言わんとしていることは伝わった。が、こんなふざけた男のふざけた策に乗って、果たして上手くいくのだろうか。
兄の方と比べると多少はマシな男かと思っていたが、テンションが違うだけでやっぱりこいつらは所詮双子だ。
だいたい……。
「俺はそんな薄ら寒い台詞は言わねぇぞ」
「え、でもファイなら絶対に泣いて喜ぶと思いますよ」
「知るか。そもそも仮に実行に移したとして、成功しなかったらどう責任取ってくれんだ? あ?」
今のファイを相手に失敗すれば、自分はただの性犯罪者になってしまうのではないか?
『高校体育教師、同僚の男性化学教師を強姦!!』
という新聞の見出しを思い浮かべて、いっそ例の空白の時間の真相を聞かされたときよりも遥かに怖気が立った。
そんな黒鋼の心配など余所に、ユゥイはなぜか無駄に余裕たっぷりだ。
「大丈夫ですよ。なんとかなります。そういうもんです」
「完全に他人事じゃねぇか」
「じゃあ……もし上手くいかなかったら、最悪ボクが責任を持ってファイと心中します。階段から」
「不吉なこと言うな。そんで今度はてめぇがアホになるとか面倒臭ぇ展開はお断りだぞ」
「そうなったら、今度は黒鋼先生がボクの身体に思い出させてくれると信じて……」
「未開の地に踏み込んで何をどう思い出させろって……?」
いくら双子といえども黒鋼は弟の方とは恋仲ではないし、もちろん肉体関係もない。
何やら学園内の一部では黒鋼とこの双子が3人でデキているらしい、という噂もたっているようだが、面倒くさいアホはファイだけで手一杯である。
突っ込みを入れられて楽しそうなユゥイは、まるで修学旅行に来てはしゃいでいる中学生のようだった。
こんなにも軽いノリの男だっただろうか……。
「まぁ冗談はこの辺りにして、上手くお膳立てはしますから、頑張ってください」
「頑張れって言われてもな……」
安心できる要素が一切ない。
それでも今は、縋るしかないのだろうか。
(あのバカ……元に戻ったらゲンコツ一発じゃ済まさねぇぞ……)
*
翌日、再び夜である。
黒鋼はなぜかユゥイの指令の元、自室ではなく双子の部屋にいた。一人で。
(あの野郎、何が上手くお膳立てしますだ……)
何をどうするつもりなのかと任せてみた結果、蓋を開ければ、ただここにいて何も知らずに帰宅したファイを待ち伏せろということだった。
そして言った本人は呑気に黒鋼の自室にいる。つまり丸投げである。
ソファに大股で腰掛けて腕を組む黒鋼は、見た目にはどっしり構えているものの、片膝は小刻みに上下している。
この待ち時間がなんとも落ち着かない。
だいたい『頑張れ』などと言われて、何を頑張ればいいのだろう。
どういうことかは分かってはいるが、ギラギラと目を光らせてやる気満々で挑める心境ではなかった。
いくら適当に丸投げされたからといって、ユゥイには心配をかけている(多分)ようだし、上手くやれるのであればそれに越したことはないのだが。
黒鋼にはファイの顔を見た途端、どこぞの怪盗三世のように全裸で飛びかかるつもりなど毛頭なかった。
いっそ話し合いで事が解決できるなら、どんなにいいか。
いや、実際は渾身の一撃をあのアホの頭にお見舞いすることであっさり済めばもっと簡単で、黒鋼的にはスカッとするのに。
沈黙の中で溜息を零すと、普段は気にならない時計の秒針が時を刻む音が、やけに耳についた。
それからおよそ数分後、ついに扉が開く音が聞こえた。
(来やがった……)
心臓が一度大きく高鳴った。
「ただいまユゥイー! 遅くなってごめんねー。今日はシチューに挑戦しちゃおっかなーってー」
ガサガサとビニール袋の音をさせながら顔を出したファイが、固い表情でソファにふんぞり返っている黒鋼の姿に気がつくと、一度大きく目を見開いた。
それからすぐに、荷物をその場に置いて「またお前か」と言わんばかりの呆れたような表情を見せる。
「君、よっぽどこの部屋が好きなんだね」
「……好きでいるんじゃねぇよ」
冷たい視線からつい目を逸らし、黒鋼はその居心地の悪さに小さく舌打ちをした。
なんだってこの男といるのにこうも緊張せねばならないのか。
「なにそれ。じゃあ帰れば」
ファイは相手にする気さえ失せているのか、一度床に放った袋を手にしてキッチンへと向かおうとする。
だがそこで辺りを軽く見まわし、ユゥイの姿がどこにもないことに気がついたようだ。
「弟ならいねぇぞ」
「なんで」
そもそもその弟にここで待ち伏せしろと言われている黒鋼は、どうしたものかと少し迷った。
すぐ隣にいる、ということが知れたら、このおざなりなお膳立てがおじゃんになってしまうことは目に見えた。
そうこうしているうちに、思案顔の黒鋼を見るファイの目が鋭く眇められた。
「オレの弟に何かしたんじゃないだろうね」
「何かってなんだこら」
「だって君、変態だろ」
「あ?」
思わず我が耳を疑った。そして言われた言葉を幾度も脳内で反芻する。
変態に……変態と言われた……。
「てめぇ……どういう意味だ……」
「そのまんま、言葉通りだよ。ユゥイ狙いでここに通ってるんじゃないの?」
「は……?」
……?
………………???
……………………はあぁ!?!?
あんまりのことに、黒鋼は派手に咳き込んだ。
僅かに身を引いたファイが『変な菌撒き散らすんじゃねぇぞ』と言わんばかりの不快そうな視線を寄こす。
だがそれどころではない。
なんたる勘違い。全身に嫌な汗が滲む。
俺の狙いはてめぇだと叫びたい衝動に駆られたが、咳き込むことに忙しい黒鋼は、ひとまず自分を落ち着かせることに専念する。
「悪いけど、ユゥイに指一本でも触れたら……」
どうにか落ち着いてきた黒鋼に、威嚇するように畳みかけるファイ。
「殺すよ」
少し寒気を覚えるほどに、その目は本気と書いてマジである。
そしてその言葉と視線を受けた黒鋼が、内心少しムラッとしたことは……絶対に秘密だ。
「ちょ、ちょっと待て……おまえな……」
何を隠そう、黒鋼が指一本触れることすら許されないらしい弟こそが、兄貴を襲っちゃえとゴーサインを出しているなどと、この男が知ったらどんな反応をするのだろう。
そう思うと誤解を晴らす意味でも、ちょっとネタばらししてみたい気がしないでもないのだが、相手の反応を窺って遊ぶだけの余裕はない。
なんと言っても、ファイのまさに変態を見るような冷たい視線が、この上なく痛かった。もうなんでもいいから、早くどうにかしなければ。
正直に言うと、クールでサドっぽいファイというのもまぁ悪くはない。この際そこは潔く認めよう。
だがやはり、あのよく知る賑やかで鬱陶しくて甘ったれのファイが、悔しいが今は無性に恋しいと感じた。
黒鋼は意を決し、負けじと睨みつけると言う。
「おまえの弟はここにはいねぇが、俺がここにいるのは、あいつも知ってる」
「……へぇ」
「俺はてめぇに話があってここへ来た」
「ふぅん」
ファイは意地の悪そうな笑みを浮かべると片手を腰に当てた。
見下ろしてくる視線はやっぱりあの虫ケラでも見るような眼で、黒鋼はやはり落ち着かない気持ちになる。あらゆる意味で。
「いいよ。聞こうじゃない」
こうなったら、ストレートに真っ向勝負だ……。
*
いつもいつも、ファイは騒がしくて鬱陶しくてアホでバカで、黒鋼が素直に言えない分を埋めるかのように、全力で想いをぶつけて来た。
黒鋼にとってそれは時に厄介で、面倒で、それでもバカな奴ほど可愛くて、こんな面倒な奴が他人の手に負えるものかと、いつしか妙な責任感も抱きながら不器用なりに気持ちを注いできたつもりだった。
けれどこうして改めて考えると、いつの間にか黒鋼は、ファイに愛されることが当たり前になっていたのかもしれない。
いつもは思っていても言えないこと、素直になれない部分。頭を打ってアホになっていたらしい自分は、それを真っすぐに隠すことなく表現したという。
ファイにとっては、きっと夢のような時間だったのではないか。
それなのに、彼は己の危険も顧みずに黒鋼と心中まがいのことをしたのだ。
素の状態でいる今の自分が、腹を括らなくてどうするというのか。
素直に気持ちを言葉や態度で示すことよりも、そんな風に思いあがっていた自分の方がずっと滑稽で、甲斐性のない小さな男に思えた。
「忘れちまってるようだがな、耳の穴かっぽじってよく聞けよ」
すっと立ち上がって、静かに深呼吸をした黒鋼の改まった様子に、ファイの表情から冷やかな笑みが消える。
「俺がここに来たのはな、てめぇを愛してるからだ」
ガサリ、という音を立てて、何やら材料が詰まったビニール袋が床に落ちた。
その音を皮切りとして、ぴんと張り詰めていた空気がさらに緊張を帯びたような気がする。
愛してる、なんて言葉をまともに声に出して言ったことなどこれまでない。(例の一件は別として)
その気持ちが揺るぎない真実だからこそ、軽はずみに口にすることに抵抗があったから。
だからあまり言い慣れない。今はただ相手の反応を見る以外になかった。
「は……?」
そして目を見開いたファイの表情には、僅かな困惑の色が伺える。
「……なに言ってるの?」
短い沈黙のあと、少し上ずった声。
「バカバカしい。何を言い出すのかと思えば」
うんざりしたように肩を竦めると、大きな溜息を零してファイはこちらから目を逸らす。
それを見て、黒鋼は何かを掴んだような気がした。
たった一言の告白が、冷たい笑みさえ浮かべる余裕をこの男から奪った。
決して簡単な言葉ではない。だからこそ、こうも一瞬で響くのか。
こうなると逆に余裕が生まれたのは黒鋼の方だった。
片眉をひょいと上げて見せた黒鋼をチラリとひと睨みして、ファイは苛立ったように背を向ける。
「どこに行くつもりだ?」
「君が出ていかないなら、オレが出てく」
そのまま薄暗い玄関先へと消える背中をすぐに追いかけた。
ぐっと腕を掴んで強引に振り向かせると、そこには親の仇でも見るような瞳があって、そのくせえらく潤んでいるものだから、ふと小さく笑ってしまった。
それがファイの神経を酷く逆なでしたらしい。
掴まれていない方の手が黒鋼の頬に向かって勢いよく振り下ろされる。大人しく殴られてなどやるものかと、それさえも軽々と手首を掴んで抑え込んだ。
「この……っ」
力の差など歴然で、身を捩るようにして抵抗をする身体を、半ば壁に叩きつけるかのようにして押さえつけた。
冷たい壁と黒鋼に挟まれ、完全に逃げ場を失ったファイは、肩で息をしながら上目づかいで睨みを効かせる。
悔しそうに噛みしめられた唇と、猫のように釣り上がった眉と目に、ゾクリとした。
「いい顔だな。悪くねぇ」
「ずいぶん楽しそうじゃない」
笑みの形に歪められた口端も、精一杯の虚勢にしか見えない。こちらが一瞬でも隙を見せるのを、虎視眈々と窺っているのが分る。
「そう見えるか?」
「さぁね。それよりこの馬鹿力、どうにかしてくれない?」
「てめぇがいい子にしてりゃあ、こんな荒っぽい真似もしなくて済むんだがな」
「っ……!」
一触即発。ファイの足が、黒鋼の身体を真っ二つにする勢いで振りあげられようとした瞬間を見逃さない。
拘束する腕の力をさらに強め、逆に自分の膝を彼の股下に滑り込ませると壁に固定した。表情を歪めながら、ますます縮まった互いの距離にファイがギクリと身を硬くする。
そして彼はうんざりしたように盛大な溜息を漏らした。
「何がしたいんだ君は……このまま強姦でもするつもり……?」
問いかけに、違うと答えられないのが痛いところだった。
だが否定したところでこの態勢である。ユゥイの言うことを信じるなら、いっそこのまま事に及ぶ以外にどうしようもない気がした。
だが再び脳裏に浮かぶ、新聞の見出し……。
この期に及んで顔を出した一瞬の揺らぎが、再び黒鋼から形勢を奪う。
沈黙を肯定と受け取ったファイが、蔑んだような冷笑を浮かべた。
「……いいよ。したいなら好きにすれば?」
「……なに?」
「その代わり、気が済んだら二度とオレの前に現れないで」
ピキ……。
黒鋼の額に青筋が浮かぶ。
とことんこちらをバカにしているらしいファイは、さらにこちらを煽るようなことを口にしはじめる。
「はっきり言って、同じ空気を吸ってるだけでも虫唾が走る」
不快を現す決定的な言葉。
それを聞いた瞬間、黒鋼は目を閉じると鼻で笑った。
だがそんな反応とは裏腹に、頭の中に大きな爆発のイメージが浮かんだ。
同時に聞こえたのは、何か太い糸が凄まじい勢いで千切れるような『ブチン』という音だった。
「上等だ」
低い声が、さらに低く唸るような響きを発した。
ファイが僅かに肩を震わせながら息を飲む。
いいだろう。そちらがその気なら、ここから先に言葉はいらない。
たった一言の告白が一瞬でも胸に響いたのなら、今度はそれを全ての感覚と共に引きずり出してやる。
誰を愛しているのか、誰に愛されているのか。
「俺が思い出させてやるぜ……てめぇの身体にな……」
結局、この言葉を口にすることになってしまった。
*
張り付けていた薄い身体を壁から乱暴に引きはがすと、それを素早く引っくり返して壁に押し付ける。
「ぃ、た! ちょっと、ここでするの?」
「それっぽくて雰囲気出るだろ」
振り向こうとするのを許さず、後頭部を手のひらで押さえつける。
事に及んでいる最中に先刻のように急所を狙うくらい、今のファイなら簡単にやってのけそうだった。
そんな真似を簡単にさせるつもりはなかったが、万が一ということがある。
部屋から漏れる明かりしか頼るものがない玄関先で、この体勢では顔があまり見えないというのは少し残念だが。たっぷりと時間をかけるつもりなのだから、そう悔やむこともないだろう。
咄嗟に抵抗を見せる身体をさらに壁に強く押し付けるようにして、黒鋼は首元まである薄手のセーターの中に背後から手を入れる。
そうしながら、ファイの耳元に唇を押し付けた。そしてとびきり低い声で吐息交じりに囁いてやる。
「好きにされてぇんだろ? だったらおとなしくてしてろよ」
「ッ……!」
冷えていた薄い皮膚が一瞬にして熱を発するのが分かる。
横目できつく睨みつけられても、それさえも潤んだ目元では説得力がなかった。
何しろすでに全身から力が抜けはじめていることは、ファイの身体を支えている黒鋼が一番よく知っている。
そしてこんなふうに囁いてやるのに、この男が弱いことも。
中身がどう変わろうが、ファイはファイだということが痛いほど理解できて、複雑な思いの中に切なさと愛おしさが渦を巻く。
ねっとりと耳たぶを嬲るように舌を這わせながらセーターをたくし上げて、確かめるように肌に触れた。
美しい曲線を描く背筋がブルリと震えるけれど、握った拳の甲を口元に押し付けるファイは、声を殺すのに必死なようだった。
どうせ長くは持つまい。わざと音を立てながら執拗に耳を責める黒鋼は、密かに内心でほくそ笑む。
手を這わせれば薄い胸の下で心臓が大きく高鳴っているのが伝わる。
もはや拘束は必要なくて、ただ両肩で覆いかぶさりながら壁に押し付けるだけで十分だった。
ねっとりと脇腹を撫で上げ、もう片方の手は悪戯に胸の引っ掛かりを掠める。
「ッ……!」
存分に耳たぶを嬲ったあとは耳裏から首へ、髪を鼻先で掻きわけるようにしながら項に吸いつく。
状況と反し、決して性急に事は進めない。いっそ哀れなほど快感に敏感なこの身体にとって、焦らすような愛撫は拷問に等しいのだ。
いつだって、ほんの少し苛めてやるだけで、すぐに泣きだすのだから。
「っ、ふ、ぁ……ッ、ぅ……」
押し付けた拳の隙間から、堪え切れない吐息が零れる。腰が揺れ、膝が震えても、必死で踏ん張っているのは今のファイのプライドの高さを象徴しているようだった。
けれどなおも焦れったい触り方しかしない黒鋼に、ついに苛立ちを爆発させた。
「ちょっ、と……!」
「なんだ」
無理やり首をこちらに向けながら睨みつけてくるくせに、その瞳からは今にも涙が零れ落ちそうになっている。
「遊んでないで、やるならとっとと済ませてよ……ッ」
ほら、やっぱり我慢などできない。
黒鋼は口元を微かに綻ばせる。
まだ『無理やりされている』というスタイルを守ろうとする物言いは可愛くないが、ひとまずはよしとする。
そうじゃなければ苛め甲斐がない。黒鋼はこの際だから、一連の生意気な暴言に対して意趣返ししてやる気満々だった。
「素直に肝心なとこに触れって言えねぇのか?」
「だれ、が……」
「ここだろ?」
「いっ……! った、ぃ……っ」
掠めるようにして触れるだけだった胸の、左側の乳首を親指と中指でぎゅっと摘みあげた。一瞬のことに身を竦めたファイがこれまでで一番大きな反応を見せる。
そのまま人差し指で先端をクリクリといじれば、ファイは腰を突きだすように背を反らし、黒鋼の肩に後頭部を預ける形で喉も反らした。
「痛ぇだけじゃねぇだろ?」
「く、ん……ッ、痛いだけ、だよ……! 変態! 下手くそ!」
「その下手くそ相手に、もうこんなにしてるのはどこの変態だ? あ?」
「ッ――!?」
黒鋼はファイの身体の中心に手を這わすと、スラックスの上からそれを強く擦った。
ファイの喉が「ひゅっ」という音を立てる。反らした喉で、くっきりと浮き上がる喉仏が引き攣っているのがはっきりと見えた。
それなりに厚さのある布越しにもわかるほど硬くなっている性器を、そのまま強弱をつけながら擦ってやる。
「ヒッ、や、やめ……! い、たい……から……!」
「その割にちっとも萎えねぇな。おら、しゃきっと立ってろ」
「う、るさ……ッ、あ、んっ、ぃ……!」
崩れ落ちそうな身体の足の間に、片膝を入れて支えてやる。
嫌々と首を振りながら、少々乱暴とも取れる間接的な刺激に、ファイは身体を痙攣させ始めた。
「イキたきゃイケよ」
「んな、わけ……ッ、な……! あっ! ほんとに、もう、や……――ッ!!」
どこまで耐えられるのかと思っていたら、終わりは呆気なかった。
ずっと忙しなく痙攣し続けていた身体が、大きく強張った。そのまま声もなく上半身を反らしながら、く、く、と小さなひきつけを起こしている。
「マジでイったのかよ」
「ぁ……ぅ……」
やがてゆっくりと弛緩していく身体に割り込ませていた膝を退けると、ファイの身体が力なく床へ崩れ落ちた。
両肩を抱きながら黒鋼も一緒に膝をつく。
そして力なく胸に背中を預けて寄こしながら、必死で呼吸を繰り返しているファイの顔を覗きこんだ。
蕩けたようにぼんやりとしている半開きの瞳は、焦点が定まっていない。けれどすぐにぎゅっときつく閉じられた。
「最低……」
「堪え性がねぇのはいつものこったろ」
腰が抜けているくせに、それでも身を離そうとするのをしっかりと抱きしめながら、こめかみに口づけを落とす。
泣いているくせに気丈に眉を吊り上げるファイだったが、身体を捻って黒鋼の胸を押しながらも小首を傾げた。
「……いつものことって、なにさ」
その反応に、つい溜息が零れた。
こうなってしまったものを今さら言っても仕方のないことだとは思うが……やっぱり忘れられてしまうというのは、寂しいものがある。
「優しくしてやんなきゃ思いだせねぇか?」
いつもは見られない反応に少しばかり遊んでしまったが、そろそろ本気で取りかかってみるかと、腕の中の身体を抱く力を強める。
頬に頬を擦りつけるようにすると、ファイが無意識に全身の力を抜いた。そして完全にこちらに全てを委ねる体勢でホッ、といううっとりとした吐息を漏らす。それは黒鋼がよく知るファイの動作だった。
だが彼は次の瞬間にはハッとして、身を強張らせた。
「ッ! は、離してよ……」
「今ちょっといい感じだったろ、おまえ」
「うるさいな……そんなはずないだろ……!」
だいぶ語尾が弱っているファイは、黒鋼の腕の中から抜け出すと、四つん這いで逃れようとする。
「どこ行く気だ」
「お、ふ、ろ! 誰かさんが好き勝手してくれたせいで、今すっごく気持ち悪いことになってるの! 察してよそのくらい!」
ああ……そうか……。
はいはいのポーズで振り返り、ギリリと睨んでくる涙目のファイを見て、黒鋼もすぐに彼の下半身がどんな状況かを理解した。
下着もスラックスも着用したまま射精させたのだから、おそらく中はどえらいことになっている。
黒鋼は手を伸ばすと、ファイの腰のベルト部分にむんずと手を伸ばした。
「う、わっ!?」
そのまま床が滑るのを利用してズルリと引き寄せる。ファイが手足をバタつかせるのも気にせず、もう片方の手を回し、慣れた動作で前の拘束をすべて解いてしまうと下着ごと一気に引きずり下ろす。
「な!?」
一連の動作は目にも止まらぬ素早さで、ファイは無防備な臀部をまるっと黒鋼に向けている状況にも反応できないまま、口をぽっかりと開けて硬直した。
が、すぐにひとまず萎えている股間を撫でられて、ビクリと大きく跳ねた。
「ひ、ゃ……!」
「見事にぐちゃぐちゃになってんな」
「誰のせいだッ!!」
ギャンギャンと捲し立てるファイを無視して、がっちりと腰を掴むと尻の割れ目に手を這わせる。
「っ――!?」
窮屈な場所で放たれた精液が流れ込み、そこもしっかりと濡れていた。
薄明かりに浮かぶ淫靡な有様に、鼻を鳴らすと舌舐めずりをする。
「まだ終わってねぇんだ。風呂ならあとで入れてやる」
低く言い放つと、黒鋼はその場所に顔を寄せた。
*
ファイの肌が粟立つのが分かる。
手足をバタつかせるも、いまだに力の入らない腰を掴まれているせいで、抵抗にもならない。
「い、やだ……! そんなとこ、ぁ、ヒッ……!?」
濡れた音を立てて窄まりに舌を押し付けた。心地よい弾力が一瞬の抵抗を見せながらも侵入を許す。
「あっ、や、やめて! 嘘……ッ」
ファイはついに腕を突っぱねる力も殺がれたのか、床に突っ伏した。腰だけが高く突きだされる。
舌先を尖らせ、ちくちくと穿るように入り口を解した。頼りない細腰が物欲しそうに揺れだすのに時間はかからなくて、必死で羞恥を堪えていることが分かるだけに、わざと大袈裟に水音を立てて聞かせた。
「うっ、んん……ッ、く……っ」
噛み殺される悲鳴が、むしろ黒鋼を興奮させる。
慣れているのはあくまでも身体だけ。暴力にあえて屈するつもりで黒鋼を煽ったファイは、自分の身体が男を受け入れるのに抵抗がないことを知らない。
舌を引き抜き、顔を上げてもすぐに指先をさし込んだ。ぐるりと円を描くように入り口を刺激すると、ビクビクと腰が大きく淫らな動きを見せる。
「そろそろ欲しいんだろ?」
「はっ、ぅ、く……ッ、なに、が……」
「これで満足か?」
「ぁあ……ッ」
入口ばかりを刺激していた指を深く突き入れる。ファイの腰が大きく跳ねて、きつく指を締めつける媚肉がさらに奥へと誘うように蠢いていた。
金色の髪が激しく左右に踊る。身体はすでに堕ちているというのに、理解だけが追いつかないというのは、果たしてどんな感覚なのだろう。
一度だけ突き入れたそれをすぐに引き抜いて、指を二本にすると第一関節まで潜り込ませた。それをじわりと押し開けば、赤く熟れたような穴がその動きに合わせて左右に歪む。
「それともここで止めるか?」
「!?」
中途半端に潜り込ませた指を引き抜く。はっとしたようにファイは振り返った。
その表情は明らかに不満そうで、ぎゅっと唇が噛みしめられた。
押すばかりだった黒鋼がいとも容易く引いてしまったことに、激しい戸惑いを見せていることがわかる。
押さえつけていた腰さえも自由にしてやると、ファイは腰を床にへにゃりと落とす代わりに、ゆるゆると上半身を起こした。
さあ、どう出る?
俯いて床を睨みつけているその横顔を、じっと見つめる。
ファイは一度だけきつく目を閉じると、すぐに顔を上げてこちらを睨みつけた。
「……ずるい」
「なにが?」
「はやく、してよ」
思わず綻びそうになる口元をぐっと堪えた。そして少しだけ小首を傾げて見せる。
「それじゃあ合意の上ってことになっちまうぜ?」
「っ……」
再び悔しそうに唇を噛みしめるファイは、床の上で拳を握った。
それから一度大きく息を飲むと、ついに折れた。
「もう……いい、から……」
プライドが完全にへし折れる瞬間。閉じられた瞳から大粒の涙が零れて頬を伝った。
「こんなのやだ……あそこが、身体が熱くて……切ないよ……」
それから吐息のようなささやかな声で、ファイは言った。欲しい、と。
黒鋼は両腕を伸ばす。少し強引に引き寄せて、腕の中にその身体を納めた。
ファイはもはや一切の抵抗を示さない。ただ黒鋼の胸に力なくもたれた。
沸き立つ感情は勝利を勝ち得たときのそれで、これでは元のファイを取り戻したくてしていたのか、それとも難攻不落の城を落とすことに躍起になっていたのか、もはや目的を失っているように思えた。
だがどちらにせよ、ファイは欲したのだから。
中身がどんなになっていようが、それを拒む理由などなかった。
「乗れ、上に」
「ん……」
低く命じると、ファイはおぼつかない腕に力を込めて、黒鋼の肩に手をついた。そしてそのまま力の入りきらない足腰を動かして、胡坐をかいた黒鋼を跨ぐ。
その間に猛りきった自身を取り出す。もしまかり間違ってファイがあのまま拒んでいれば、相当惨めな思いをするところだったと考えると、少し笑えた。
「ぁ……」
濡れた音と共に、膝立ちになっているファイの双丘の中心に性器を宛がう。
しっかりと両手で腰を掴んで固定すると、力を込めて腰を下ろせと無言で命じた。
「あ、あ、ぁ……うそ……はいっ、て……」
目を大きく見開いて、ファイは首を左右に振った。二人の身体の間で主張している紅色の性器が、揺れながら白い蜜を零していた。
熱く濡れた肉に飲み込まれていく感覚に、黒鋼は歯を食いしばる。情けない話だが、気を抜けばすぐにでも達してしまいそうだった。
「ッ、そのまま……そうだ……しっかり腰落とせ」
「んくっ、ぅ、や……で、も……だって……」
「突き破りゃしねぇよ。奥に届くだけだ」
ファイの身体の震えは快感によるものだけではなかった。すでに半分以上を飲み込んでいるが、そこから先に進まない。
この身体は最奥まで受け入れることを知ってはいるが、元々記憶が欠けていない状態であっても、ファイはいつも本能的な怯えを見せていた。
今の彼が容易く受け入れられる状態ではないことは知っている。だが黒鋼は容赦しない。初めて抱く身体ではないし、初めての相手を抱くわけでもない。
この身体はファイのものであると同時に、黒鋼のものだ。全て熟知している。
ぐっと力を込めて、引いた。ただでさえ腑抜けているファイの膝が、カクンと落ちる。
「―――ッ!?」
一気に全てが中に収まった。中の圧迫がより増して、黒鋼は歯を食いしばる。
ファイの内腿が痙攣し、見開かれた瞳からは生理的な涙がとめどなく溢れていた。
けれど、やがてその瞳はどろりと濁っていく。開かれたままの唇が、はくはくと頼りない呼吸を繰り返す。
「おら、飛んでんじゃねぇよ。こっからだ」
暫しの間を置いて、馴染んできた頃合いを見計らうと、黒鋼は腰を緩く揺さぶった。
必死に黒鋼の首に腕を回すファイは、バネのように背を反らすと堪え切れずに嬌声を上げる。
「あぁぁ……ッ!」
探るような動きから、揺さぶる早さを徐々に早いものにしていく。
結合部から響く淫らな水音と、ファイの高い声が重なる。
黒鋼の動きに合わせるようにその腰が蠢き、意識と裏腹の痴態に制御を失っているファイは、喘ぎながらも混乱していた。
「ヒィ、あ、あ……! なん、で、なんで……ッ、こんなに……!」
「ッ、いいんだろ?」
「ちが、違う……ッ! 違う、いいっ、すごい……ッ、これ、やだぁっ!」
「つまりどっちだよ」
答えは明白だが、悦いのか悪いのか、そのどちらも口走りながら正体を無くしていく様はなかなか見応えのあるもので、絶頂間近の黒鋼には同時に厳しいものがある。
だが時折ひたりと腹に当たるファイの性器も、限界まで膨らみ切っていた。
そろそろ頃合いだ。一層強く揺さぶりをかけて、彼の中の一番感じる場所を掠めるように攻め立てた。
強すぎる快楽はファイから嬌声さえも奪う。ひ、ひ、と呻く喉元に鼻先を埋める。
やがて溺れるように黒鋼の肩を掻き抱いて、一足先にファイが達した。
勢いよく噴き上がる精液が、二人の肌を濡らす。
「くッ……!!」
ファイの肩口に強く額を押しつけながら、黒鋼もまた低く呻いた。身体が大きく戦慄いて、引き抜く余裕もなく中に放つ。
痙攣の収まらない身体を強く抱きしめながら、絶頂の余波に全身が痺れていた。
しばらく忙しない呼吸を繰り返しながら余韻を楽しむと、やがて大きく息を吐きだして、ぐったりと項垂れるファイを見上げた。
蕩けたようになっている瞳と目が合うと、どちらかともなく唇を合わせる。
だがまだ完全に呼吸の整わないファイは、すぐに顔を逸らしてしまった。
「……思い出さねぇか?」
「……だから、なにを……?」
彼にしては低い声で、気だるげな目が向けられた。
「……そうか」
やはり上手くはいかないのか。
相手の体力面も含めて、この先を続けることに意味があるのかないのか。
顔を出しかける落胆の感情を押し込めて、ひとまず引く方向で黒鋼は身じろいだ。
ファイの身体がビクリと震え、そしてぎゅうぎゅうと強い力で首にしがみついてくる。
「おい」
「ま、って……まだ、動くのダメ……」
「なんだよ」
ファイの顔が見たくても、がっちりと頭を押さえこまれているせいで、首が動かせない。
耳元に押しつけられるファイの唇から洩れる小さな吐息が、静まりかけていた興奮を呼び覚ます。
なんだかんだで明日のことも考えれば、これ以上好き勝手やることは躊躇われる。
けれどそんな気遣いなど知りもしないで、ファイは言った。
「もう……しないの……?」
どこか不貞腐れているような物言い。
欲しいくせに欲しいと言えない意地っ張りなファイ。歯痒いような、ムズムズとしたものを覚える。
こんな気持ちは初めてで、いつもなら聞いてやらない我儘も、叶えてやりたくなる。
だが本当はいつだって、もっと上手に甘やかせたらと、そう思っていた。
「欲しいなら、くれてやる」
「……うん」
蚊の鳴くような返事。
「俺も……まだ足りねぇ。おまえが……足りねぇんだよ」
そして小さな声で囁いた。もう二度と戻らないかもしれない、出会ってからこれまでの時を共に過ごした恋人に。
愛してる、と。
「……っ」
言葉を失いながら、全身を真っ赤に染めたファイがきつくこちらの頭を抱え込んでくるのは、きっと顔を見られたくないからなのだろう。
その気持ちは、よくわかる。
「変なの」
「ん」
「涙、止まらない」
ひとつ、子供っぽく鼻をすする音が聞こえて、黒鋼は少しだけ笑った。
*
「いやー、でも黒鋼先生がお縄にならなくて本当によかったですよね」
昼休み。
天気がいいという理由で黒鋼とユゥイは校庭脇のベンチに腰掛けて、弁当をつついていた。
切り込まれて、タコのようになっている赤いウインナーを箸で摘みながら、黒鋼は横目で首を傾げているユゥイを睨んだ。
「そろそろてめぇ相手にもゲンコツ解禁してもいいか」
「あはは、ご冗談を」
「しかも例の作戦じゃ、結局どうにもならなかったしよ」
「不思議なんですよねー。テンプレートにはまらない辺り、ファイは斜め上を行くからなぁ……」
いやぁ失敬失敬、と片手を立てて「ごめん」のポーズをとりつつ、どこぞの洋菓子店の看板キャラクターよろしく、ペロンと舌を出してウィンクまでかますユゥイにイラッとする。
結果、この男が言ったように通報されて、新聞の見出しやワイドショーを騒がすという最悪な事態にはならなかった。
そして普段は見られないファイのツンっぷりを堪能できたのもいい。さらに寝技で落とすという美味しいプレイもできた。なかなかいい趣向だった……と、そこまで考えて黒鋼は自分に失望した。
(確実にアホ双子に毒されてきてやがる……)
「まぁ、ボクとしてはもうちょっとファイに冷たくされて、子犬みたいに縮こまってる黒鋼先生が見たかったんですけどね」
「やっぱり殴る。ゲンコツとは言わねぇ。平手でいい」
「今日の黒鋼先生はジョークが冴えわたってるなぁ。あ、ほら来ましたよ」
「あ?」
ユゥイの指さす方を見ると、肩を怒らせて明らかにご機嫌斜めの様子のファイが、ツカツカとこちらに向かってくるのが見えた。
「おう」
軽く手を上げると、猫のように毛を逆立たせたファイがきつく睨みつけてくる。
「おう、じゃないでしょー!? 待っててって言ったのに、先に行っちゃうとか! しかも先にユゥイのお弁当食べてるとか! タコさんウインナーとオレ、どっちが大事なの!?」
ギャンギャンと喚き散らして、ファイは黒鋼とユゥイの間に無理やり身体を押し込めた。
長身の男が3人も並ぶと、ベンチはきつきつである。いや、きつきつを通り越して、黒鋼は右半身が空気椅子状態である。
「うるせぇな……てめぇがグズグズしてっからだろうが」
「だいたいさー、黒たん先生とユゥイ、なんだか急に仲良しじゃない!? 怪しい……絶対に怪しい……」
確かにファイを除いて二人だけでいる、という構図は比較的珍しい。けれど勘ぐられるようなことは何一つない。
だがこの妄想魔人は限度というものを知らない。
「黒たん先生は見た目がオレならなんでもいいんだ……! この節操無し! 浮気者! ゴッドハンド!!」
最後の一文が一体なにを指すのか、黒鋼はあえて突っ込まない。
だが天を仰ぐようにしながら泣き真似をしているファイのウザったさに、額の辺りで何か切れてはいけない大事な血管が切れた。
「うるっせぇんだよてめぇは! 飯ぐれぇ静かに食わせろ!!」
「うわあぁあん! ここはそっとオレの肩を抱き寄せて、バカ野郎……俺がゾッコンLOVEなのはこの地上でただ一人……てめぇ……(ため)……だけだ……★ とか言う場面なのにーっ」
「その妄想の中の俺を殺せぇ!!」
「まぁまぁ……二人とも落ち着いて」
ドスッという音と共に、ファイと黒鋼の口の中にタコさんが押しこまれる。
口をもぐもぐさせるしかなくなった二人は、バチバチと火花を散らしながら無言で睨みあう。
「せっかくファイが元に戻ったんですから、ケンカはやめましょう」
「チッ……」
先に飲み込んだ黒鋼は、派手に舌打ちをした。
そう、ファイはあの翌朝、あっさり元に戻ったのだ。
宿舎の玄関を出てすぐの、階段でのことだった。
せめて学園につくまではと支えようとした黒鋼の手をつれない態度で振り払って、ガクガクの腰で見事にすっ転んだ。
一瞬だけ気を失ったファイは、もしや死んだのでは……と青褪めた黒鋼の腕の中で、すぐに目を覚ました。
第一声は「あ、黒たんせんせー。おはよー」だった。
こんなことなら、いっそのことフライパンやトンカチで一発ぶん殴ればよかった。
あの夜、黒鋼は一生分の愛の告白をしたような気がする。
もう二度と言うものか……と間違った決意をする黒鋼の横で、ようやくウインナーを飲み込んだファイがぷぅ、と口を尖らせた。
「あーあー。オレ何があったのかぜんぜん覚えてないよー。つまんない」
「面白かったよ。特に黒鋼先生が……ぷっ」
よし殴ろう……とそっと拳を握りしめたが、そこでユゥイがひらりと立ちあがってしまった。
「次の授業の準備がまだ残ってるから、ボクは先に行くよ」
「えー行っちゃうのー?」
「うん、じゃあね。黒鋼先生も」
爽やかな笑顔を残して颯爽と去っていく後ろ姿を見ながら、確実に逃げる口実だろうと黒鋼は思った。
そして取り残された二人は暫しの間、会話もなく黙々と弁当を食べた。
いつもならなんやかんやと喋り続けているファイが、珍しく口を噤んでいる。
これはこれで、妙な居心地の悪さがあった。
やがてあらかた食べ終わると、弁当に蓋をしながらようやくファイが口を開く。
「ねぇ、せんせ」
「おう……」
「オレ、どんなだった? やっぱ……変だった……?」
「そうだな……」
とは言ってもお互い様である。
恐縮そうにしているファイは、おそらく記憶がない間になにか迷惑をかけたのではないかと気にしているのだろう。
だが、迷惑の度合いで言えば普段の方がずっと被害が大きい。
「まぁ……いいんじゃねぇのか? デカイ怪我したわけじゃねぇんだし」
黒鋼的には心にダメージは受けたが……。
「そっかぁ」
そう言って、ファイはへにゃりと笑った。
冷たい微笑はゾクゾクするほど美しかったが、やはりこのどこか間の抜けた笑顔の方がいいと、黒鋼は思った。
たまに殴りたくなるし、今の黒鋼には声に出して言うのはとても難しいけれど。
ファイのこの笑顔には、普段は無愛想な黒鋼の頬をふと緩めてしまう魔力があった。
思わず伸びた手が、少し癖のある金の髪をそっと撫でる。
一瞬だけ驚いて目を丸くしたファイは、すぐに頬を赤らめながら猫のように目を細めた。
「やっぱ黒たん先生は、ときどき優しいくらいがカッコイイや」
えへへ、と珍しく照れたように笑いながら言うファイに、黒鋼もまた思う。
そう、この男は、ときどきこうしてしおらしくなるくらいが可愛い、なんて。
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ファイは自分の恋人のことを、世界一のいい男だと思っている。
無愛想だし口は悪いし人相も悪いが、なんだかんだで面倒見がよく、優しくて思いやりのあるナイスガイだ。
初対面の人間が見れば、即座に「殺される……」と思うような鋭い目付きも、あれはおそらく生まれつきであって、本人に故意はないのだ。
むしろ怖そうな外見だからこそ、不器用であってもその優しさの片鱗に触れることで、ファイのようにコロリと参ってしまう人間がいるわけである。
それに、そんなどう見ても堅気の人間には見えないような顔つきだって、実はかなり端整な作りをしている。ついつい人相に気圧されて、ウッカリ気づくのが遅れるだけなのだ。
黒鋼ならば、その気になれば俳優のような華やかな職業にだって、難なく就くことが出来たに違いないとまで、ファイは思っている。テレビを見ていても愛想に乏しい俳優はいくらでもいるのだし、仮に黒鋼が業界人だったとして、Vシネ辺りに出演しようものなら、大当たり間違いなしだと思う。
もしそうなったら、自分はマネージャーとして黒鋼の仕事から人間関係から私生活から下の世話に至るまで、全てを管理しよう、などという妄想をしたりしては、ムフフと悦に浸るほどであった。
そんなこんなでどこまでも黒鋼にベタ惚れ状態のファイであるが、決して不満がないわけではない。
彼の内面の優しさも、そして愛されているということも十分に理解しているものの、たまにはほんの少しでもいいから、ベッタベタに甘やかされてみたい……などと思うことが稀にある。
ファイはスキンシップが好きだし、好きな相手にはぴったりと寄り添っていたいと思う。もともと自分は相当な甘ったれであるという自覚はあったが、黒鋼と恋人同士という関係を築いてからは、それに拍車がかかったような気さえしていた。
積極的に触れてこない黒鋼に焦れているからこそ、自分から過剰なスキンシップを計る。黒鋼が口に出して言ってくれないから、ファイがそのぶん熱烈に愛を囁く。
もうすっかり当たり前になってしまったそのバランスに、それでもたまに寂しいと感じてしまうのは、単なる我侭に過ぎないのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたある日、その出来事は起こった。
*
そもそもファイが臍を曲げたのは、単なる逆切れに他ならない。
黒鋼が正論を述べるのはいつものことだし、普段は何を言われようがヘラヘラと笑って流してしまうファイが、その時に限ってムッとして、しかも翌日にまでそれを持ち越してしまったのは、いずれも極めて珍しいことだった。
ファイは人気のない保健室で、ベッド脇の椅子に座って小さなため息を零した。
「ほんっと……オレってバカ……」
その呟きに答えてくれるものはいない。いたとしても、それは今ベッドの上で目を閉じていた。眠っている、というよりは、気を失っていると言うのが正しい。保健室の簡易ベッドは、黒鋼には酷く窮屈そうに見えた。
この部屋に常駐しているはずの養護教諭は、とりあえず氷枕だけ用意して、とっとといなくなってしまった。ニコニコ顔で「どうせ殺したって死にはしないでしょう」と失礼なことを口にしていた。今頃、どこぞのクラスの可愛い子と一緒に、ノンキに弁当でもついているに違いないのだ。
ファイだって、今頃はこの黒鋼と一緒に昼食をとっているはずだったのに。
「あ……でもオレ、怒ってたんだっけ……」
ふと思い出す。そう、ファイは腹を立てていたのだ。こんなことになったのも、そんな自分のつまらない意地が発端だった。
ファイは身動き一つせずにベッドに横たわる黒鋼の手に、そっと自分の手を重ねると、昨夜の出来事を思い出していた。
*
その夜はたまたまユゥイが不在だった。
彼が学園に講師としてやって来て以来、ほとんど毎日のように夕食はユゥイの手料理で、黒鋼も加えた3人でテーブルを囲むことが普通になっていた。
だがユゥイがいないとなると、夕食は自力でなんとかせねばならない。
そんなことを考えながら一日の仕事を終えたファイは、部活動が長引いているらしい黒鋼より先に宿舎に帰宅した。
「今日はユゥイがいないからー……」
冷蔵庫を覗き込みながら、何があるのかをチェックする。
そしてふと、ある考えが浮かんでにんまりとした。
「うふふ……たまにはオレが料理して、旦那様をお出迎えしよーかなー」
思い立ったら即行動である。食材を取り出して抱え込むと、ファイは隣の黒鋼の部屋へと向かった。
そして勝手知ったる黒鋼の部屋。
合鍵も持っているので容赦なく開けて中に入り込むと、ファイはさっそく調理にとりかかることにした。
ファイはユゥイほどではないが、手先は器用である。料理だってもちろん、そこそこ出来るつもりだった。
ただ問題なのは、几帳面なユゥイと比べると、少々いい加減な性格が災いして、後片付けというものが苦手なのだ。
そのせいでよく派手に散らかしては、黒鋼が青筋を立てる。
さらにつけ加えるなら、何事もそつなくこなすユゥイに比べると、ファイには少々そそっかしいところがあった。
「でも今日は大丈夫」
そう、ファイには秘策があった。要するに手間や材料のかかる料理を避ければいいだけの話なのである。
ふふふ、と笑いながらフライパンを火にかけて、豚肉が収まっているパックのラップをバリンと破いた。
そう、焼くだけ。ただ塩コショウをして豚肉を焼き、ちょちょいと野菜を添えてしまえば、それなりのものに仕上がる。
「そしてオレは黒様先生に褒められるー」
鼻歌を口ずさみながら、ファイは上機嫌で準備に取り掛かった。
鍵が開いていることも、ファイが勝手に入り込んでいることにも、すっかり慣れてしまっている黒鋼が帰宅すると、ファイはバンザイのポーズで出迎えた。
「おっかえりー!!」
「おう」
抱きつこうとした瞬間、黒鋼が後方に一歩退いたことで、両手が空を切る。前につんのめったファイをよそに、黒鋼は鼻をすんと犬のように慣らした。
「飯か」
「そう! 今日はユゥイがいないでしょー? だから」
「まさかてめぇが作ったんじゃねぇだろうな」
「え? そうだよ? オレが作ったんだよ?」
あからさまに嫌そうな顔をしてみせる黒鋼がキッチンへと向かおうとするのを、ファイがその前に立ちふさがり行く手を遮る。
黒鋼が眉間の皺を深くしつつ右へ避けようとすると同じく右へ、左へ行こうとすれば左へ。背伸びをして向こう側を見ようとすれば、ピョンっと飛んで視界を塞いだ。
「おい」
「な、なにかなー」
「邪魔だ」
「い、いいから黒様はテーブルについてよ。キッチンは妻にとっての城なのよ。むしろ合戦場なのよ」
「誰が妻だ、誰が! てか俺の部屋の台所を勝手に占領すんな!!」
額にピリリと青筋を立てた黒鋼が、怒鳴りながらファイの頭を片手でむんずと掴んだ。そのままギリギリと締め付けられてファイはのたうつ。
「いだいいだいいだいー!! 締め付け! 締め付け!! 頭割れる~っ!!」
そのまま脇にポイと放られて、ファイがよろめいた隙をつき、黒鋼がキッチンの惨状を目の当たりにしてしまった。
あちゃー、と思ったが、もう遅い。
「てめぇ……こいつは一体どういうこった……?」
台所の床を見て、黒鋼の背中が小刻みに震えている。
そこには一面、グシャグシャのタオルが散乱していた。
「い、いやー……うっかりね、油をぶちまけちゃってー。わざとじゃないよ? お肉焼くのに油垂らして、ちょっと脇に置いといたら肘がコツンとね、ランデブーしちゃったっていうか」
しまったと思ったときには時すでに遅く、キッチンの床は勢いよく零れ出した油にまみれてしまったのだ。
大慌てで手当たり次第のティッシュやタオルで拭き取ろうとしたが、ねっとりとした汚れがそう簡単に落ちるはずもなく、ただ悪戯に油を吸い込んで重量を増したそれらが、床にねっちゃりとへばりついてしまった。
それらを片付け、元の状態に戻すには、時間が足りなかったのだ。
「ランデブーしちゃった、じゃねぇだろ!? 使ったらすぐに蓋をしろ蓋を!! てめぇはバカか!? いや、バカだ!! 大バカだ!!」
「ご、ごめんってばぁ! ちゃんと片付けるからー!!」
「ひたひたじゃねぇか!! 油でひたひたのネトネトのヌラヌラになってんじゃねぇか!!」
「ワックス!! ワックスだと思って!! ピッカピカに磨くから!!」
「ふざっけんな!!」
「でもでもほらぁ! お肉はいい具合に焼けたから! 掃除してる間に食べてて!! ね!?」
実際のところ、夕食は肉も焦がすことなく見栄えのいいものが出来た。
ササッと肉と野菜が盛り付けられた皿を手に取り、肩で息をしている黒鋼の前に差し出す。
それを見て、黒鋼はウンザリしたように溜息を零した。
今日はひとまずこれで凌げるかもしれない。やらかしたと言っても、ファイがこれまでしでかしてきたことを思えば、まだマシな方だ。
ちょっと床を油びたしにしてしまったくらい、なんてことはない……。
黒鋼もすっかり諦めてしまったのか、むすっとした顔で皿の上のものを睨みつけると言った。
「米は」
「へ?」
「米は炊いたんだろうな」
「……あ」
忘れていた……。
「あ、じゃねぇだろ……ったく……だいたい、やらかすこたぁ目に見えてんだから、わざわざ俺の部屋ですんなよ……てめぇんとこの台所でやりゃあいいだろ」
「だってー。オレんとこはいっぱい調味料とか料理器具とかあって、よくわかんないんだもん。全部ユゥイのだし、台所汚すとユゥイが怒るし。ユゥイって怒らせるとほんっとこわいでしょー? その点こっちは……」
「ほう……?」
「あ……」
「その点こっちは好きに汚し放題してもいいってか……」
「あの、えっと、ちが……」
完全に墓穴を掘った。
その後、ファイは背が縮むのではないかというほどのゲンコツを脳天に食らい、そのまま生ゴミを放るように部屋の外へとポイ捨てされた。
結局せっかく作った夕食にもありつけなかったし、褒められるどころか、派手に怒らせてしまった。
とは言っても黒鋼が激怒することは日常のことだったし、今回のことにしたって、特に珍しいことではなかった。
けれどファイは不貞腐れた。そして空腹のまま不貞寝した。
別に失敗しようとしてしたわけではないし、メインの食材(と油)にかまけて米を炊き忘れたのも申し訳ないと思うが、そこには一片の悪意もない。ちょっと言い方は不味かったかもしれないが、ファイだってあんなドジを踏むなんて、予想もしていなかったのだ。
(あーぁ、ぜーんぶ台無しになっちゃった)
ユゥイがいない夜は久しぶりのことで、張り切った結果がこれだ。
本当なら一緒にご飯を食べて、あわよくばお風呂なんかも入っちゃって、さらにあわよくば、ちょっとくらいベッドでイチャイチャ出来たら……なんて考えていただけなのに。
黒鋼は滅多に甘やかしてはくれないし、こちらが調子に乗ればすぐに手痛い一発をお見舞いしてくるし、全部が全部、自分の思惑通りになるなんて都合のいいことは考えていなかった。
それがまさか、何もかもおじゃんになるとは……。
(そりゃあオレが悪いけどさ……だからってあんなに怒ることないじゃんかー)
黒鋼が激怒したこともそうだったが、自分のドジっぷりにもほとほと嫌気がさして、ファイは落ち込み、そして翌日になっても苛立ちがおさまらなかった。
黒鋼と顔を合わせても、普段なら「昨日はごめんね」と言ってまた少し怒られて、それで終わるはずだったのが、変に意地を張ってしまう始末だった。
職員室や廊下で擦れ違ってもプイと顔を背けてしまい、謝罪するタイミングを逃していた。
そんな中、4時間目の授業を終えて一階の準備室に戻ろうとしたとき、事件は起きた。
(うわ……)
階段を下りる途中の踊り場で、逆に上がろうとしている黒鋼に遭遇した。
一瞬目が合ってしまい、ギクリとしたものの、目を泳がせつつ余所見をしてやり過ごそうとしたところで、擦れ違った直後に声をかけられる。
「おい」
「ぎくっ」
思わず手にしていた教材を落としそうになったが、背中にかかる声に咄嗟に足を止める。それでも振り向くだけの勇気はない。
「昨日のことだがな」
「い、いいよ!」
「あ?」
黒鋼が何か言おうとしていたようだが、ファイはそれを慌てて遮った。
変に意固地になっている自分が恥ずかしくて、そのまままくし立てるようにして喋った。
「オレが余計なことしちゃったのが悪いし! も、もうしないから! ホントにごめんねっ」
「あ、おい」
そのまま足早に階段を下りていこうとしたその瞬間。
「!?」
勢いをつけすぎたせいか、ファイの片足が宙を切った。
一瞬のうちに心臓の辺りからヒヤリとしたものが込み上げる。体勢を崩し、転がり落ちると思ったそのとき、背後から伸びてきた腕がファイの白衣の後ろ襟を掴み、強く引き上げられた。抱えていたはずの教材がバラバラと下へと落ちていくのが、まるでスローモーションのようにファイの目に映った。
「あだっ!!」
壁に背中を打ち付け、ファイはそのままペタンと尻餅をつく。が、痛みなど感じている余裕はなかった。
「黒様先生!?」
ファイを引き上げた反動で、逆に振り子のように勢いづいた黒鋼が転倒し、階段下まで転がり落ちてしまった。
*
全ては一瞬の出来事で、せめて場所が平地であれば、何事もなく済んだだろう。だが不幸なことに、ファイがコケた場所は階段の途中だった。
「ごめんね……黒たん……」
いま目の前のベッドで死んだように目を閉じている黒鋼は、後頭部を打って目を回し、そのまま気を失ってしまったのだ。
ファイは大きな溜息を零しながら俯いた。気を緩めると泣いてしまいそうで、強く目を閉じる。
切欠は全て自分のつまらない意地と不注意で、結果的に黒鋼をこんな危険な目に合わせてしまった。それが悔しくて、自己嫌悪が膨らむ。
軟弱なファイとは違い、黒鋼は屈強な肉体を持っている。確かに、殺したって死にそうもない。それでも彼だって人間だ。その名の通り、決して鋼で出来ているわけではない。先刻だって、打ち所が悪ければ死んでいたのだ。
ファイは両手を膝の上で握り締めた。彼がこのまま目を覚まさなかったらどうしよう。そんなことばかり浮かんで、ついに堪えきれずに零れた涙が手の甲に落ちる。
そのときだった。
「っ!」
ふわりと、何かがファイの頬に触れた。
はっとして顔を上げると、目を覚ました黒鋼が、こちらをぼんやりと見つめていた。
「くろさま……?」
頬に触れていた指先を強く両手で掴み、ファイは瞳から大粒の涙を幾つも零す。
「くろさま! 黒たん……ッ、よ、よか……っ」
「保健室か、ここ」
「うん、うん……ほんと、よかった……オレ、このまま死んじゃうんじゃないかって……ッ」
「バカ言うんじゃねぇ」
黒鋼は呆れたように笑うと身を起こす。慌てて支えようとしたが、その必要はなかった。
ほっとしたファイは浮かしかけた腰を再び椅子へと戻し、そして意を決したように拳を握ると、黒鋼に向かってずずいと頭を差し出した。
「なんだ?」
「げ、ゲンコツ!」
「あ?」
「こ、ここんとこ! 真ん中は、まだちょっと昨日のタンコブが残ってるから、ここらへんに一発ガツンと!」
天辺から少しズレた位置を指差しながら言うファイに、黒鋼はぽかんと口を開けた。
「オレ、ほんとドジで……余計なことばっかして、迷惑かけちゃって……昨日だって黒たん先生、疲れて帰って来てるのに……あんなことになっちゃって……なのに臍曲げて……だから……どうぞ……」
語尾が弱々しくなるのを情けなく感じながら、ファイは待ち受ける衝撃に備えて目を閉じた。が、訪れるであろう痛みは襲ってこなかった。
代わりに大きな手が下からにゅっと伸びてきて、ファイの尖った顎をくいと持ち上げた。
「へ?」
目の前に黒鋼の顔がある。相変わらず眉間に皺は寄っているが、怒っている様子はなかった。
「く、くろたん……?」
「俺が可愛いおまえに、そんな野蛮な真似するとでも思ってんのか?」
「…………ふぁ?」
「そんなことより」
今何か聞こえたような気がしたのだが、どうもすんなりと頭に入ってこない。
そのままフリーズしたファイの頬や頭や身体を、黒鋼が撫でたり軽くタッチしたりして、入念にチェックしはじめる。
「どっか痛ぇとこはねぇか?」
「え……? あ、うん。ない、かな?」
「そうか……」
凍りついたように動けなくなっているファイに、黒鋼は安堵の微笑を浮かべる。そして次の瞬間、ふんわりとファイを抱きしめた。
「!?」
「てめぇが無事だったなら、それでいい」
「くく、くろさま……!?」
今の台詞は、ファイの『黒鋼に言って欲しい台詞ランキングベスト801』にランクインしている台詞だった。
思わず胸にドキュンときたファイは、彼の不自然さにも構わず目をキラキラとさせた。
だがそれも束の間、すぐに正気に戻る。おかしい。何かがおかしい。
この黒鋼はなんだかやたらと優しいし、先刻も可愛いとかなんとか、普段は太陽が地球に衝突しようとも決して口にしないようなことを口走っていた気がする。
「ね、ねぇ黒様先生……?」
「なんだ?」
腕の中でもぞりと動けば、黒鋼の腕の力が少し強くなった。離さないとばかりにぎゅっと抱きなおされて、眩暈がする。
なんかいいかも……とうっとりしかけて、だがやっぱりおかしい。
ここは学校である。いつもはファイが黒鋼の腕に抱きつくだけでもハエを追っ払うかのような態度を取られるというのに、今のこの状況は一体どういうことだろう。
まさか頭でもぶつけたのでは……と考えて……
(ぶつけたじゃん!!)
と、ファイは慌てて黒鋼の腕の中から抜け出した。
「?」
腰掛けていた椅子を倒すほどの勢いで立ち上がったファイは、信じられない思いで黒鋼の額に手を当て、熱がないかを確かめた。
「な、ない……ないよね……?」
「おい、どうした?」
「ちょっと待って……でもそんなバカな……いや、でも……」
「だからどうしたんだよ」
混乱しはじめているファイを、黒鋼が不思議そうに見上げる。その視線を受けて、ファイはイチかバチかの賭けに出た。
「ねぇ、あのさ」
「なんだよ」
「オレが今……ここでチュウしてって言ったら……どうする……?」
ごくりと喉を鳴らした。ファイの知る黒鋼であれば、ここで確実に一発くる。来なければおかしい。
さあ来いドンと来い……と構えるファイ。
だが黒鋼は顔色を変えることなく、立ち尽くすファイの腕を引いた。
「え、ちょ、え!?」
そのまま引き寄せられ、ファイはベッドに片膝をついて前屈みの状態になる。そして、唇には少し渇いた感触が押し当てられた。
学校で、保健室で、黒鋼とキスをしている……。
頭の中が真っ白になっていた。
唇が離れてからも、ファイは目を見開いたまま硬直していた。
「したけりゃいくらでもしてやる。だが……」
そんなファイを見て、黒鋼は笑った。
「続きは夜だ……待てるか?」
今のは『黒鋼に言って欲しい(略)』にベスト10入りしていた台詞だった……。
「い…………」
イヤアァァァァァ!?!?!?
ふ……と微笑む黒鋼に、ファイは歓喜とも拒絶ともつかない絶叫を上げた。
*
「ふ、普通さ、こういう展開って漫画とかだと記憶喪失じゃない? こーゆうのってアリなの? ねぇ? どう思う?」
「どうって言われても……今のとこごく普通に見えるけど?」
「で、でもさでもさ、ほら、オレがキッチンに立ってるのに、全然怒らないでしょ?」
「まぁ……確かにねぇ」
キッチンに並び立つ双子が、背後でテーブル前に胡坐をかきつつ、ニュース番組を見ている黒鋼をチラリと見やった。
ユゥイが再び目線を前に戻して調理を開始するのに合わせて、ファイはその横にぴったりと身を寄せる。
手伝うことは特別ない。むしろ禁止されているので、ただじっとしてパスタを茹でるユゥイの手元を見た。
ちなみに今夜はカルボナーラである。
「ファイ、いてもいいけど手は出しちゃ駄目だよ。火傷したら大変だからね」
「うん……くっついていたいだけ……」
普段はユゥイが夕食の支度をしている間、ファイは黒鋼と並んでテレビを見るか雑誌を眺めるか、ペラペラと一方的に喋ってばかりだった。
一度手伝おうとしてグラグラと煮立った鍋を引っくり返したことがあるため、それ以来ユゥイからはやんわりと、黒鋼からは厳重に料理中のキッチンに立つことを禁止されている。
ゆえにファイがちょっと摘み食いに行こうとするだけで、黒鋼にはギロリと睨まれる始末だった
それが今はまったくない。
(これは嵐か……それよりもっと……日本が沈没する前触れかもしれない……)
ファイが再び黒鋼を見やると、それまでテレビを眺めていたはずの彼がこちらをじっと見ている。視線がぶつかって、一瞬ひやりとした。
黒鋼は眉間の皺を少しだけ深くすると言った。
「こっち来て座ってろ」
ちょいちょい、と手招きをされて、ファイはぎくしゃくとしながら黒鋼の横の定位置に腰を下ろした。
そのまま一言も発さないファイの代わりに、黒鋼が口を開いた。
「ゆうべの飯、美味かった」
「……え」
黒鋼の手が伸びてきて、ファイの頭をくしゃりと撫でる。
「た、食べてくれた、の?」
「当たり前だ」
「で、でも、お米なかったし……」
すると黒鋼がふっと微笑む。
「米なんざいらねぇよ。お前の愛情が詰った肉で、俺の腹はパンパンになったぜ……」
ぶっ……!!
その瞬間、勢いよく噴き出したのはファイではなく、二人の背後に佇んでいたユゥイだった。手には出来上がった料理の皿を持っている。
「ゆ、ユゥイ!? 何その顔!? なんて顔してんの!?」
何かとてつもなく気色の悪い虫でも見つけてしまったときのような苦々しい顔をしたユゥイが、一つ咳払いをした。 ※こんな顔→(;'益')
「い、いや……この辺も物騒になってきたのかな……今、暴走族か何かが出す、不快な騒音みたいなものが聞こえた気が……」
「き、気のせいだよ! それにこの辺には流石にいないんじゃない!?」
「さぁ……? いるんじゃないかな……ここに(ボソッ)」
引き攣った表情のユゥイが「できたよ」と言いながらテーブルに皿を並べる。それを見て、黒鋼が口を開いた。
「いつもすまねぇな」
「……い?」
身を屈めたままだったユゥイが、そのままピタリと静止する。
「おまえの作る飯は最高だ。いつも感謝してる」
「ユゥイ!? だからその顔! 気持ちは分かるけどやめてよその顔!! てゆーかユゥイがそんな顔できるってことは、オレもできちゃうってことじゃんやめてよ!!」 ※そんな顔→(゚益゚;)
賑やかな夕食の一時は、そうして過ぎていった。
*
明日あたり……病院で検査でもしてもらった方がいいんじゃないかな?
と、言っていたユゥイは、口元はいつものように笑っていたが、はっきり言って目は完全に死んでいた。
黒鋼を一人部屋に帰すのがどうにも心配だったファイは、彼にくっついて隣の部屋へと足を運んでいた。
どうやら昨日の間にしっかり台所掃除は終わらせたらしく、ピカピカに磨かれている床を見たファイはその場に立ち尽くし、申し訳なさに肩を落とした。
だがそのとき、背後から伸びて来た腕にぎゅっと抱きすくめられて、ファイは妙な悲鳴を上げた。
「ぷぎゃっ」
「どうした? そんなとこ突っ立って」
「あ、あの、えっと……」
ぴったりと背中を包む黒鋼の体温と、大好きな彼の香りに眩暈がする。極端な話、セックスをする以外でこんな風に彼が触れてくることは、滅多になかった。
顔がどうしようもなく熱くなって、馬鹿みたいに心臓がドキドキとした。
自分から手を伸ばすのが当たり前になりすぎていたファイは、いざこうして積極的に触れられることに、実は慣れていないのかもしれない。
正直、たったいま死んでしまったとしても構わないと思えるくらい、嬉しかった。
ずっとこのままでもいいかも、などと思いかけて、それでもやっぱりこんな黒鋼は不自然だ。
「あのさ、黒たん」
「ん?」
「明日……病院行こ。オレも一緒に行くからさ……」
「なんでだ?」
「だって……ほら、頭、思いっきりぶつけたでしょ? やっぱりちゃんと診てもらった方がいいかなーって」
この不可思議現象について、それで何か分かるかは謎だが、気を失うほどに激しく頭部を強打したことにかわりはないのだから、異常がないならないで安心できるに越したことはない。
「いらねぇよ。そんな時間もねぇしな」
黒鋼がファイの耳の裏側に鼻先を押し付けてくる。なんだか甘えられているような気がして、立っていられるのが不思議なくらいクラクラした。
「で、で、でもさ、やっぱ心配だし。郁子先生に頼めば、半日くらいなら」
と、そこまで言いかけて、ファイはハッとした。
この黒鋼のことを彼女に言えば、きっと面白がって大事になるに違いない。今この瞬間だって、彼女はどこかで見ているかもしれないのだ。なんといっても、黒鋼のベッドの下のブツまで知っていたくらいなのだから。
一体どんな派手な祭りが開催されるか……。
普段はお祭り好きで、彼女と一緒になって大騒ぎするのが大好きなファイでも、今回ばかりは遠慮したい、ような気がする。
ならば休日でも診察している病院に、引きずってでも連れて行くしかない。
そんなことを考えていると、それを遮るかのように黒鋼が言った。
「おい、そんなことよりそろそろ風呂にするか」
「あ、うん。行ってらっしゃい……」
「なんだ? 入らねぇのか?」
「え? 入る、けど、って!?」
次の瞬間、ファイは強い力によって身体を掬い上げられていた。普段は見上げるばかりの黒鋼の顔が自分の目線より低い位置にあり、両足がふわふわと浮いているのを感じて、ようやく彼の腕に抱きあげられていることに気がついた。
いわゆる、お姫様抱っこというやつである。
「くくく、黒様なにやってんの!?」
「おら暴れんな。落ちても知らねぇぞ」
わたわたと慌てて手足をバタつかせるファイを見上げて、黒鋼は不敵に笑った。一瞬ドキリとして息をのむ。
「続きは夜だって言ったろ? 忘れちまったのか?」
「!?」
昼間の、あの保健室での衝撃的な出来事を思い出して、ファイは『ボンッ』と勢いよく全身を真っ赤に染めた。
「俺が綺麗に洗ってやるよ。隅々までな」
これは夢だ……。
赤々とした炎に焼かれた石のようになりながら、今のファイにはこの状況が悪夢なのかそうでないのか、判断することは不可能だった。
*
めくるめく夜が明け、朝である。
目を覚ましたファイは、まだ完全に目覚めていない思考で、ぼんやりとカーテンの隙間を見やった。
「あれ……今日ってお休みの日だっけー……」
乾いた喉から絞り出された声は掠れていて、何か飲みたいと思いはしたが、身体の怠さの方が勝っていた。シーツを引き上げもうひと眠り、と目を閉じかけたところで、ファイはガバッと起き上った。
「休みじゃないじゃん平日じゃん!!」
この喉の渇きや身体の怠さ、裸でシーツにくるまっていた感触がファイを錯覚させたが、本日は平日。授業のある日。
肌のいたるところにはくっきりと痕が残っていて、交わされた濃密な時間を裏付けている。
黒鋼は翌日が平日の夜には、どんなに誘っても決してファイを抱かない。
ファイの身体にかかる負担を気遣ってくれているからだと理解はしているものの、誘いをかけるファイへのあしらい方があまりにも雑なので、時々ちょっと傷つく。
それがなんと、昨夜は違ったのだ。
回数的には流石に週末ほどとはいかないものの、滅多に聞くことのできない黒鋼の甘い囁きに、絶頂だけなら幾度迎えたか知れない。
「夢じゃなかったんだなぁ……」
思いだすだけで顔から火を噴きだしそうで、ファイはシーツごと抱えた膝に顔を埋めた。
すると、そこへすっかり身支度を整えたジャージ姿の黒鋼が顔を出した。
「起きたか」
「ひゃっ」
黒鋼はベッドの縁に腰を下ろすと、いまだ裸でいるファイの肩を抱き寄せ、赤くなっている頬に小さなキスをした。夢にまで見た、黒鋼からのおはようのキスである。
「うっひゃー……」
「そろそろ起きてシャワーでも浴びたらどうだ? それとも身体が辛いか?」
加減したつもりなんだが、と気遣ってくれる黒鋼に、ファイは目が回りそうだった。
このままでは溶けて消えてしまいそうだ。
今の黒鋼なら、今ここで再び求めれば応えてくれそうな気がする。学校なんかそっちのけで、甘やかし放題してくれるに違いないと思った。
だが流石のファイも節度くらい弁えている。甘い妄想に胸を高鳴らせることはあっても、妄想は妄想の範疇で留めておかねばならないことくらい、ちゃんと理解していた。
「だ、大丈夫。シャワー浴びてくるから」
「わかった」
ファイが黒鋼の胸をやんわりと押すと、黒鋼は少しだけ申し訳なさそうに笑って、すんなり身体を離してくれた。
*
「なんかなー……」
温めのシャワーを浴びながら、ファイは悶々とした気持ちを抱えていた。
「幸せすぎるって怖いなー……」
ファイが欲しいものを欲しいだけ与えてくれる黒鋼。ゲンコツもしないし、料理もしていいと言ってくれる黒鋼。おはようのキスをしてくれる黒鋼。甘やかしてくれる黒鋼。
ずっとこんな風だったらいいのにと思っていた、理想の形の彼がいる。しかし、ファイが知っている黒鋼とはまるで別人だ。
我儘だとは思うけれど、心が満たされる分、すぐに溢れだして足りなくなってしまうような気がした。
ひっつけば振り払うし、すぐにゲンコツをお見舞いしてくるし、口は悪いし無愛想だし、まるで雷親父みたいな黒鋼。
けれど、そんな酷いとしか思えない男が、本当はいつだってさりげなく自分を支えてくれていたことを知っている。あの大きなごつごつとした手が、時々まるで羽に触れるみたいに優しくなる瞬間が、大好きだった。
「そうだよ。だからオレは……」
彼を好きになった。
「こうなったら……あの手しかない……」
*
シャワーから戻ると、黒鋼が朝食の準備を終えるところだった。
香ばしい匂いはトーストのもので、キッチンに立つ黒鋼は戻ってきたファイに気付くと、小さく微笑んだ。
「おまえの弟ほどとはいかねぇがな」
少し焦げ付いた卵焼きがフライパンの上で音を立てている。隣に並び立つと、黒鋼は火を止めた。
「美味しそうだよー。ねぇ、後はオレがやるから座ってて」
「おう、そうか」
何一つ嫌な顔をせず、黒鋼はあっさりと身を引いてテーブルについた。その背中を確認すると、ファイはあらかじめすぐ脇に用意してあった二枚の皿に、適当にフライ返しで切り分けた卵焼きを盛り付ける。
そして、フライパンの取っ手をぎゅっと握った。
「やるしか……ないんだ……」
そう。ファイには考えがあった。それはよく漫画やアニメで見たようなものだ。
(こういうときは、同じだけの衝撃を与えることで、元に戻ることは鉄則!!)
目をギラギラとさせている今のファイには、手にしているフライパンがまだ十分熱い状態であるということも、その後どうなるのかなんて頭からスッポリ抜けていた。
「夢は……終わらせなければ……」
どこかで聞いたような台詞を口にしつつ、両手でしっかりとフライパンの取っ手を握り締めて、新聞を読んでいる黒鋼の背後へと近付いた。
(ごめんね黒様先生……でも、オレはありのままの君を愛しているから……!)
スムーズにいけば、このままフォン、グシャ、といくことで事が上手く運ぶはずだった。(ファイ的には)
だが、ファイがフライパンを振り上げたその瞬間、黒鋼がクルリと振り向いた。
「おい、そういえばおまえ……ん? なにフライパン持って踊ってんだよ」
「い、いや~? ちょっとダンスでも習ってみようかな~なんて~」
フライパンを高く掲げてくるくると回るはめになったファイは、引き攣った笑みを浮かべて苦し紛れの言い訳をした。
呆れたようにそれでも笑った黒鋼は立ち上がると、そんなファイの手からフライパンを取り上げた。
「まだ熱いじゃねぇか。火傷したらどうすんだ?」
「あ、う、うん。そういえばそうだった……」
するりと、黒鋼の腕がファイの腰に回される。
「ダンスならいつでも俺が相手になってやる……フライパンなんかと踊ってんじゃねぇよ」
「は……はい……」
唇が触れそうなほどの至近距離で囁かれて、激しく胸をときめかせるファイの決心は、微妙な揺らぎを見せるのだった……。
*
もう奥の手しかなかった。
その日の昼休み。生徒や職員たちが昼食をとり始めたばかりのタイミングを見計らって、ファイは黒鋼を昨日の現場に呼び出していた。
階段を半分だけ登り切った踊り場で、ファイは黒鋼を待っている。彼は四時間目に授業が入っていたが、そろそろやって来る頃だ。
黒鋼を待つ間、壁に背を預けて足元を見つめながら、ファイは今朝交わしたユゥイとの会話を思い出していた。
「ゆうべ、大丈夫だった……?」
どこかゲッソリとした表情で着替えるために自室に戻ると、そこにユゥイが待っていた。
「う、うん……まぁ……変わりないっていうか……」
「どうせ病院行こうって言っても、聞かなかったんでしょ」
「うん……」
だろうね、とユゥイは腕を組むと眉間に皺を寄せ、何か考え込んでいるような仕草を見せた。そしてやがて口を開いた。
「ボクね、ちょっと思ったんだけど」
「なに?」
「まるで別の人みたいになっちゃったけど、別人ではないんだよね」
「?」
「いつもは思ってても、絶対に言わないこと」
「ユゥイ、それって……」
ユゥイは「うん」と頷きながら、少し困ったような嬉しいような顔をした。
「ファイのことが可愛くて大切だって気持ちとか、ボクの料理を素直に褒めてくれたこととか……。普段は絶対、あの人なら思ってても言わないことでしょ?」
「うわぁ……」
それを聞いて、ファイはまた頬を赤くした。
確かに黒鋼は素直じゃないし、何を考えているか分からないときもある。
けれど心の中では、本当はいつだって自分に触れたいと、甘やかしたいと思ってくれていたのかもしれない。不器用だから、ただ素直にできないだけで。
平日の夜だって、翌日のことを言われれば引きさがるしかなかったが、黒鋼だって気持ちは同じだったのかもしれない。
「嬉しいね、ファイ」
「うん……嬉しい……すごく……」
「でもさ、やっぱり……」
ポン、とファイの両肩にユゥイの手が優しく乗った。
「気持ち悪いね!」
ユゥイの天使のような満面の笑顔に「はよなんとかせい」 という文字が確かに書かれている気がした。
ほどなくして、階段下の角から黒鋼が姿を現した。
見上げた先にファイがいることを確認すると、口元に小さな笑みを作って上って来る。
「待ったか?」
「うぅん。ごめんね、呼び出しちゃって」
「構わねぇよ」
ファイが壁から背を離すのと、黒鋼が踊り場に到達するのはほとんど同時だった。
一気に緊張が押し寄せて来て、ファイは一つ喉を鳴らした。
「どうした」
「うん……」
ファイは黒鋼と向かい合う。彼の向こうに見えるのは低い位置にある床で、昨日の出来事が脳裏に蘇ると、自然と身がすくむ。
「あのね、黒たん先生」
「おう」
「オレ、いつも我儘ばっかり言ってごめんね」
「なんだよ、いきなり」
黒鋼は少しだけ目を丸くすると、微かに首を傾げた。
「でもね、オレちゃんとわかってるからね。黒たん先生が言葉にしてくれなくても、ちゃんとわかってるから。今回のことで、もっともっと、いっぱいわかったからね」
ファイが思いつめたように言うと、黒鋼は真剣な面持ちになった。
さらに一つ、ごくりと喉を鳴らす。
もうこうするしかない。自分が好きになった黒鋼に戻ってもらうためには。
ただ突き飛ばすのではダメだ。瞬発力に優れすぎている彼には、きっと避けられてしまう。
(さよなら……オレの夢……)
全く躊躇いがないわけではない。昨日、気を失った黒鋼がこのまま死んでしまったらと思うと、身体がどうしようもなく震えた。
けれど自分も一緒なら。死ぬときも一緒なら、それは本望だ。ちなみに「ん」と「う」を取れば……ホモだ。
「だからごめん!!」
「!?」
そしてファイは思い切り床を蹴り、黒鋼に抱きついた。いや、むしろ飛びかかったと言ってもいいぐらいの勢いだったかもしれない。
黒鋼の背後は何もない空間。彼は咄嗟のことに受け止めきれず、二人はそのまま転がり落ちた。
*
「いってぇー!! このクソ野郎、一体なにしてくれてんだ!?」
おむすびやまのおむすびのように、ゴロンゴロンと転がるようにして落下したあと、後頭部やら臀部やらを強く打ちつけた黒鋼は、痛みによる生理的な涙を滲ませながら、自分にしがみついてぐったりしているファイを怒鳴りつけた。
「おいこら!? 起きろバカ!! 無事かこのバカ!?」
罵っているのか労わっているのか、それらを織り交ぜつつ声をかけ続けると、ファイは小さく呻きながら目を覚まし、ゆっくりと起き上った。
後でガッツリと派手な一発をお見舞いしてやる、と思いつつ、黒鋼は彼の身体の随所に触れ、異常がないかを確かめる。
「てめぇは本当にそそっかしいったらありゃしねぇ! 打ち所が悪けりゃ今頃……っ」
だがそんな黒鋼の怒鳴り声を、パチンという小気味よい音が遮った。
「!?」
気付けば左手の甲にジンとした痛みが走っていた。ゆっくりと、赤く染まっていくをの見て、黒鋼は呆然とした。
けれど、そんな黒鋼が何より驚いたのは、目の前のファイの見たこともないような冷やかな表情だった。
「触るな」
しかも、とんでもない低音ボイスである。
「は……?」
ぽかんと口を開ける黒鋼に、ファイは心底薄汚いものを見るような眼をして、ゆらりと立ち上がる。
その動作さえただ呆然と眺めていた黒鋼の、床についていたもう片方の手の甲へ目がけて、ファイの革靴が振り下ろされた。
「っ!?」
ギリリと潰すかの勢いで踏みつけられ、黒鋼は痛みに表情を歪めた。
「その薄汚い手でオレに触るなって言ってんの。わからないの?」
「!!」
冷やかに見下ろす氷のような瞳……いまだかつてこれほどまでに見下されたことなどなかった黒鋼は、そのとき不覚にも胸がきゅん……とときめくのを感じた。
黒鋼の右手を踏みつけていたファイの足が、蹴り飛ばすような乱暴な動きで退いた。彼は馬鹿にしたように鼻で笑うと、白衣の裾を翻してそのまま背を向け、去っていく。
取り残された黒鋼は、ただただそのスラリと伸びた背が小さくなっていくのを見つめながら、ぽっと頬を赤らめていた。
引っ叩かれた方の手も、踏みつけられた方の手も、ジンジンと痛んでいたが。
「……悪く……ねぇな……」
なにやら開けてはいけない扉が開かれた瞬間だった……。
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無愛想だし口は悪いし人相も悪いが、なんだかんだで面倒見がよく、優しくて思いやりのあるナイスガイだ。
初対面の人間が見れば、即座に「殺される……」と思うような鋭い目付きも、あれはおそらく生まれつきであって、本人に故意はないのだ。
むしろ怖そうな外見だからこそ、不器用であってもその優しさの片鱗に触れることで、ファイのようにコロリと参ってしまう人間がいるわけである。
それに、そんなどう見ても堅気の人間には見えないような顔つきだって、実はかなり端整な作りをしている。ついつい人相に気圧されて、ウッカリ気づくのが遅れるだけなのだ。
黒鋼ならば、その気になれば俳優のような華やかな職業にだって、難なく就くことが出来たに違いないとまで、ファイは思っている。テレビを見ていても愛想に乏しい俳優はいくらでもいるのだし、仮に黒鋼が業界人だったとして、Vシネ辺りに出演しようものなら、大当たり間違いなしだと思う。
もしそうなったら、自分はマネージャーとして黒鋼の仕事から人間関係から私生活から下の世話に至るまで、全てを管理しよう、などという妄想をしたりしては、ムフフと悦に浸るほどであった。
そんなこんなでどこまでも黒鋼にベタ惚れ状態のファイであるが、決して不満がないわけではない。
彼の内面の優しさも、そして愛されているということも十分に理解しているものの、たまにはほんの少しでもいいから、ベッタベタに甘やかされてみたい……などと思うことが稀にある。
ファイはスキンシップが好きだし、好きな相手にはぴったりと寄り添っていたいと思う。もともと自分は相当な甘ったれであるという自覚はあったが、黒鋼と恋人同士という関係を築いてからは、それに拍車がかかったような気さえしていた。
積極的に触れてこない黒鋼に焦れているからこそ、自分から過剰なスキンシップを計る。黒鋼が口に出して言ってくれないから、ファイがそのぶん熱烈に愛を囁く。
もうすっかり当たり前になってしまったそのバランスに、それでもたまに寂しいと感じてしまうのは、単なる我侭に過ぎないのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたある日、その出来事は起こった。
*
そもそもファイが臍を曲げたのは、単なる逆切れに他ならない。
黒鋼が正論を述べるのはいつものことだし、普段は何を言われようがヘラヘラと笑って流してしまうファイが、その時に限ってムッとして、しかも翌日にまでそれを持ち越してしまったのは、いずれも極めて珍しいことだった。
ファイは人気のない保健室で、ベッド脇の椅子に座って小さなため息を零した。
「ほんっと……オレってバカ……」
その呟きに答えてくれるものはいない。いたとしても、それは今ベッドの上で目を閉じていた。眠っている、というよりは、気を失っていると言うのが正しい。保健室の簡易ベッドは、黒鋼には酷く窮屈そうに見えた。
この部屋に常駐しているはずの養護教諭は、とりあえず氷枕だけ用意して、とっとといなくなってしまった。ニコニコ顔で「どうせ殺したって死にはしないでしょう」と失礼なことを口にしていた。今頃、どこぞのクラスの可愛い子と一緒に、ノンキに弁当でもついているに違いないのだ。
ファイだって、今頃はこの黒鋼と一緒に昼食をとっているはずだったのに。
「あ……でもオレ、怒ってたんだっけ……」
ふと思い出す。そう、ファイは腹を立てていたのだ。こんなことになったのも、そんな自分のつまらない意地が発端だった。
ファイは身動き一つせずにベッドに横たわる黒鋼の手に、そっと自分の手を重ねると、昨夜の出来事を思い出していた。
*
その夜はたまたまユゥイが不在だった。
彼が学園に講師としてやって来て以来、ほとんど毎日のように夕食はユゥイの手料理で、黒鋼も加えた3人でテーブルを囲むことが普通になっていた。
だがユゥイがいないとなると、夕食は自力でなんとかせねばならない。
そんなことを考えながら一日の仕事を終えたファイは、部活動が長引いているらしい黒鋼より先に宿舎に帰宅した。
「今日はユゥイがいないからー……」
冷蔵庫を覗き込みながら、何があるのかをチェックする。
そしてふと、ある考えが浮かんでにんまりとした。
「うふふ……たまにはオレが料理して、旦那様をお出迎えしよーかなー」
思い立ったら即行動である。食材を取り出して抱え込むと、ファイは隣の黒鋼の部屋へと向かった。
そして勝手知ったる黒鋼の部屋。
合鍵も持っているので容赦なく開けて中に入り込むと、ファイはさっそく調理にとりかかることにした。
ファイはユゥイほどではないが、手先は器用である。料理だってもちろん、そこそこ出来るつもりだった。
ただ問題なのは、几帳面なユゥイと比べると、少々いい加減な性格が災いして、後片付けというものが苦手なのだ。
そのせいでよく派手に散らかしては、黒鋼が青筋を立てる。
さらにつけ加えるなら、何事もそつなくこなすユゥイに比べると、ファイには少々そそっかしいところがあった。
「でも今日は大丈夫」
そう、ファイには秘策があった。要するに手間や材料のかかる料理を避ければいいだけの話なのである。
ふふふ、と笑いながらフライパンを火にかけて、豚肉が収まっているパックのラップをバリンと破いた。
そう、焼くだけ。ただ塩コショウをして豚肉を焼き、ちょちょいと野菜を添えてしまえば、それなりのものに仕上がる。
「そしてオレは黒様先生に褒められるー」
鼻歌を口ずさみながら、ファイは上機嫌で準備に取り掛かった。
鍵が開いていることも、ファイが勝手に入り込んでいることにも、すっかり慣れてしまっている黒鋼が帰宅すると、ファイはバンザイのポーズで出迎えた。
「おっかえりー!!」
「おう」
抱きつこうとした瞬間、黒鋼が後方に一歩退いたことで、両手が空を切る。前につんのめったファイをよそに、黒鋼は鼻をすんと犬のように慣らした。
「飯か」
「そう! 今日はユゥイがいないでしょー? だから」
「まさかてめぇが作ったんじゃねぇだろうな」
「え? そうだよ? オレが作ったんだよ?」
あからさまに嫌そうな顔をしてみせる黒鋼がキッチンへと向かおうとするのを、ファイがその前に立ちふさがり行く手を遮る。
黒鋼が眉間の皺を深くしつつ右へ避けようとすると同じく右へ、左へ行こうとすれば左へ。背伸びをして向こう側を見ようとすれば、ピョンっと飛んで視界を塞いだ。
「おい」
「な、なにかなー」
「邪魔だ」
「い、いいから黒様はテーブルについてよ。キッチンは妻にとっての城なのよ。むしろ合戦場なのよ」
「誰が妻だ、誰が! てか俺の部屋の台所を勝手に占領すんな!!」
額にピリリと青筋を立てた黒鋼が、怒鳴りながらファイの頭を片手でむんずと掴んだ。そのままギリギリと締め付けられてファイはのたうつ。
「いだいいだいいだいー!! 締め付け! 締め付け!! 頭割れる~っ!!」
そのまま脇にポイと放られて、ファイがよろめいた隙をつき、黒鋼がキッチンの惨状を目の当たりにしてしまった。
あちゃー、と思ったが、もう遅い。
「てめぇ……こいつは一体どういうこった……?」
台所の床を見て、黒鋼の背中が小刻みに震えている。
そこには一面、グシャグシャのタオルが散乱していた。
「い、いやー……うっかりね、油をぶちまけちゃってー。わざとじゃないよ? お肉焼くのに油垂らして、ちょっと脇に置いといたら肘がコツンとね、ランデブーしちゃったっていうか」
しまったと思ったときには時すでに遅く、キッチンの床は勢いよく零れ出した油にまみれてしまったのだ。
大慌てで手当たり次第のティッシュやタオルで拭き取ろうとしたが、ねっとりとした汚れがそう簡単に落ちるはずもなく、ただ悪戯に油を吸い込んで重量を増したそれらが、床にねっちゃりとへばりついてしまった。
それらを片付け、元の状態に戻すには、時間が足りなかったのだ。
「ランデブーしちゃった、じゃねぇだろ!? 使ったらすぐに蓋をしろ蓋を!! てめぇはバカか!? いや、バカだ!! 大バカだ!!」
「ご、ごめんってばぁ! ちゃんと片付けるからー!!」
「ひたひたじゃねぇか!! 油でひたひたのネトネトのヌラヌラになってんじゃねぇか!!」
「ワックス!! ワックスだと思って!! ピッカピカに磨くから!!」
「ふざっけんな!!」
「でもでもほらぁ! お肉はいい具合に焼けたから! 掃除してる間に食べてて!! ね!?」
実際のところ、夕食は肉も焦がすことなく見栄えのいいものが出来た。
ササッと肉と野菜が盛り付けられた皿を手に取り、肩で息をしている黒鋼の前に差し出す。
それを見て、黒鋼はウンザリしたように溜息を零した。
今日はひとまずこれで凌げるかもしれない。やらかしたと言っても、ファイがこれまでしでかしてきたことを思えば、まだマシな方だ。
ちょっと床を油びたしにしてしまったくらい、なんてことはない……。
黒鋼もすっかり諦めてしまったのか、むすっとした顔で皿の上のものを睨みつけると言った。
「米は」
「へ?」
「米は炊いたんだろうな」
「……あ」
忘れていた……。
「あ、じゃねぇだろ……ったく……だいたい、やらかすこたぁ目に見えてんだから、わざわざ俺の部屋ですんなよ……てめぇんとこの台所でやりゃあいいだろ」
「だってー。オレんとこはいっぱい調味料とか料理器具とかあって、よくわかんないんだもん。全部ユゥイのだし、台所汚すとユゥイが怒るし。ユゥイって怒らせるとほんっとこわいでしょー? その点こっちは……」
「ほう……?」
「あ……」
「その点こっちは好きに汚し放題してもいいってか……」
「あの、えっと、ちが……」
完全に墓穴を掘った。
その後、ファイは背が縮むのではないかというほどのゲンコツを脳天に食らい、そのまま生ゴミを放るように部屋の外へとポイ捨てされた。
結局せっかく作った夕食にもありつけなかったし、褒められるどころか、派手に怒らせてしまった。
とは言っても黒鋼が激怒することは日常のことだったし、今回のことにしたって、特に珍しいことではなかった。
けれどファイは不貞腐れた。そして空腹のまま不貞寝した。
別に失敗しようとしてしたわけではないし、メインの食材(と油)にかまけて米を炊き忘れたのも申し訳ないと思うが、そこには一片の悪意もない。ちょっと言い方は不味かったかもしれないが、ファイだってあんなドジを踏むなんて、予想もしていなかったのだ。
(あーぁ、ぜーんぶ台無しになっちゃった)
ユゥイがいない夜は久しぶりのことで、張り切った結果がこれだ。
本当なら一緒にご飯を食べて、あわよくばお風呂なんかも入っちゃって、さらにあわよくば、ちょっとくらいベッドでイチャイチャ出来たら……なんて考えていただけなのに。
黒鋼は滅多に甘やかしてはくれないし、こちらが調子に乗ればすぐに手痛い一発をお見舞いしてくるし、全部が全部、自分の思惑通りになるなんて都合のいいことは考えていなかった。
それがまさか、何もかもおじゃんになるとは……。
(そりゃあオレが悪いけどさ……だからってあんなに怒ることないじゃんかー)
黒鋼が激怒したこともそうだったが、自分のドジっぷりにもほとほと嫌気がさして、ファイは落ち込み、そして翌日になっても苛立ちがおさまらなかった。
黒鋼と顔を合わせても、普段なら「昨日はごめんね」と言ってまた少し怒られて、それで終わるはずだったのが、変に意地を張ってしまう始末だった。
職員室や廊下で擦れ違ってもプイと顔を背けてしまい、謝罪するタイミングを逃していた。
そんな中、4時間目の授業を終えて一階の準備室に戻ろうとしたとき、事件は起きた。
(うわ……)
階段を下りる途中の踊り場で、逆に上がろうとしている黒鋼に遭遇した。
一瞬目が合ってしまい、ギクリとしたものの、目を泳がせつつ余所見をしてやり過ごそうとしたところで、擦れ違った直後に声をかけられる。
「おい」
「ぎくっ」
思わず手にしていた教材を落としそうになったが、背中にかかる声に咄嗟に足を止める。それでも振り向くだけの勇気はない。
「昨日のことだがな」
「い、いいよ!」
「あ?」
黒鋼が何か言おうとしていたようだが、ファイはそれを慌てて遮った。
変に意固地になっている自分が恥ずかしくて、そのまままくし立てるようにして喋った。
「オレが余計なことしちゃったのが悪いし! も、もうしないから! ホントにごめんねっ」
「あ、おい」
そのまま足早に階段を下りていこうとしたその瞬間。
「!?」
勢いをつけすぎたせいか、ファイの片足が宙を切った。
一瞬のうちに心臓の辺りからヒヤリとしたものが込み上げる。体勢を崩し、転がり落ちると思ったそのとき、背後から伸びてきた腕がファイの白衣の後ろ襟を掴み、強く引き上げられた。抱えていたはずの教材がバラバラと下へと落ちていくのが、まるでスローモーションのようにファイの目に映った。
「あだっ!!」
壁に背中を打ち付け、ファイはそのままペタンと尻餅をつく。が、痛みなど感じている余裕はなかった。
「黒様先生!?」
ファイを引き上げた反動で、逆に振り子のように勢いづいた黒鋼が転倒し、階段下まで転がり落ちてしまった。
*
全ては一瞬の出来事で、せめて場所が平地であれば、何事もなく済んだだろう。だが不幸なことに、ファイがコケた場所は階段の途中だった。
「ごめんね……黒たん……」
いま目の前のベッドで死んだように目を閉じている黒鋼は、後頭部を打って目を回し、そのまま気を失ってしまったのだ。
ファイは大きな溜息を零しながら俯いた。気を緩めると泣いてしまいそうで、強く目を閉じる。
切欠は全て自分のつまらない意地と不注意で、結果的に黒鋼をこんな危険な目に合わせてしまった。それが悔しくて、自己嫌悪が膨らむ。
軟弱なファイとは違い、黒鋼は屈強な肉体を持っている。確かに、殺したって死にそうもない。それでも彼だって人間だ。その名の通り、決して鋼で出来ているわけではない。先刻だって、打ち所が悪ければ死んでいたのだ。
ファイは両手を膝の上で握り締めた。彼がこのまま目を覚まさなかったらどうしよう。そんなことばかり浮かんで、ついに堪えきれずに零れた涙が手の甲に落ちる。
そのときだった。
「っ!」
ふわりと、何かがファイの頬に触れた。
はっとして顔を上げると、目を覚ました黒鋼が、こちらをぼんやりと見つめていた。
「くろさま……?」
頬に触れていた指先を強く両手で掴み、ファイは瞳から大粒の涙を幾つも零す。
「くろさま! 黒たん……ッ、よ、よか……っ」
「保健室か、ここ」
「うん、うん……ほんと、よかった……オレ、このまま死んじゃうんじゃないかって……ッ」
「バカ言うんじゃねぇ」
黒鋼は呆れたように笑うと身を起こす。慌てて支えようとしたが、その必要はなかった。
ほっとしたファイは浮かしかけた腰を再び椅子へと戻し、そして意を決したように拳を握ると、黒鋼に向かってずずいと頭を差し出した。
「なんだ?」
「げ、ゲンコツ!」
「あ?」
「こ、ここんとこ! 真ん中は、まだちょっと昨日のタンコブが残ってるから、ここらへんに一発ガツンと!」
天辺から少しズレた位置を指差しながら言うファイに、黒鋼はぽかんと口を開けた。
「オレ、ほんとドジで……余計なことばっかして、迷惑かけちゃって……昨日だって黒たん先生、疲れて帰って来てるのに……あんなことになっちゃって……なのに臍曲げて……だから……どうぞ……」
語尾が弱々しくなるのを情けなく感じながら、ファイは待ち受ける衝撃に備えて目を閉じた。が、訪れるであろう痛みは襲ってこなかった。
代わりに大きな手が下からにゅっと伸びてきて、ファイの尖った顎をくいと持ち上げた。
「へ?」
目の前に黒鋼の顔がある。相変わらず眉間に皺は寄っているが、怒っている様子はなかった。
「く、くろたん……?」
「俺が可愛いおまえに、そんな野蛮な真似するとでも思ってんのか?」
「…………ふぁ?」
「そんなことより」
今何か聞こえたような気がしたのだが、どうもすんなりと頭に入ってこない。
そのままフリーズしたファイの頬や頭や身体を、黒鋼が撫でたり軽くタッチしたりして、入念にチェックしはじめる。
「どっか痛ぇとこはねぇか?」
「え……? あ、うん。ない、かな?」
「そうか……」
凍りついたように動けなくなっているファイに、黒鋼は安堵の微笑を浮かべる。そして次の瞬間、ふんわりとファイを抱きしめた。
「!?」
「てめぇが無事だったなら、それでいい」
「くく、くろさま……!?」
今の台詞は、ファイの『黒鋼に言って欲しい台詞ランキングベスト801』にランクインしている台詞だった。
思わず胸にドキュンときたファイは、彼の不自然さにも構わず目をキラキラとさせた。
だがそれも束の間、すぐに正気に戻る。おかしい。何かがおかしい。
この黒鋼はなんだかやたらと優しいし、先刻も可愛いとかなんとか、普段は太陽が地球に衝突しようとも決して口にしないようなことを口走っていた気がする。
「ね、ねぇ黒様先生……?」
「なんだ?」
腕の中でもぞりと動けば、黒鋼の腕の力が少し強くなった。離さないとばかりにぎゅっと抱きなおされて、眩暈がする。
なんかいいかも……とうっとりしかけて、だがやっぱりおかしい。
ここは学校である。いつもはファイが黒鋼の腕に抱きつくだけでもハエを追っ払うかのような態度を取られるというのに、今のこの状況は一体どういうことだろう。
まさか頭でもぶつけたのでは……と考えて……
(ぶつけたじゃん!!)
と、ファイは慌てて黒鋼の腕の中から抜け出した。
「?」
腰掛けていた椅子を倒すほどの勢いで立ち上がったファイは、信じられない思いで黒鋼の額に手を当て、熱がないかを確かめた。
「な、ない……ないよね……?」
「おい、どうした?」
「ちょっと待って……でもそんなバカな……いや、でも……」
「だからどうしたんだよ」
混乱しはじめているファイを、黒鋼が不思議そうに見上げる。その視線を受けて、ファイはイチかバチかの賭けに出た。
「ねぇ、あのさ」
「なんだよ」
「オレが今……ここでチュウしてって言ったら……どうする……?」
ごくりと喉を鳴らした。ファイの知る黒鋼であれば、ここで確実に一発くる。来なければおかしい。
さあ来いドンと来い……と構えるファイ。
だが黒鋼は顔色を変えることなく、立ち尽くすファイの腕を引いた。
「え、ちょ、え!?」
そのまま引き寄せられ、ファイはベッドに片膝をついて前屈みの状態になる。そして、唇には少し渇いた感触が押し当てられた。
学校で、保健室で、黒鋼とキスをしている……。
頭の中が真っ白になっていた。
唇が離れてからも、ファイは目を見開いたまま硬直していた。
「したけりゃいくらでもしてやる。だが……」
そんなファイを見て、黒鋼は笑った。
「続きは夜だ……待てるか?」
今のは『黒鋼に言って欲しい(略)』にベスト10入りしていた台詞だった……。
「い…………」
イヤアァァァァァ!?!?!?
ふ……と微笑む黒鋼に、ファイは歓喜とも拒絶ともつかない絶叫を上げた。
*
「ふ、普通さ、こういう展開って漫画とかだと記憶喪失じゃない? こーゆうのってアリなの? ねぇ? どう思う?」
「どうって言われても……今のとこごく普通に見えるけど?」
「で、でもさでもさ、ほら、オレがキッチンに立ってるのに、全然怒らないでしょ?」
「まぁ……確かにねぇ」
キッチンに並び立つ双子が、背後でテーブル前に胡坐をかきつつ、ニュース番組を見ている黒鋼をチラリと見やった。
ユゥイが再び目線を前に戻して調理を開始するのに合わせて、ファイはその横にぴったりと身を寄せる。
手伝うことは特別ない。むしろ禁止されているので、ただじっとしてパスタを茹でるユゥイの手元を見た。
ちなみに今夜はカルボナーラである。
「ファイ、いてもいいけど手は出しちゃ駄目だよ。火傷したら大変だからね」
「うん……くっついていたいだけ……」
普段はユゥイが夕食の支度をしている間、ファイは黒鋼と並んでテレビを見るか雑誌を眺めるか、ペラペラと一方的に喋ってばかりだった。
一度手伝おうとしてグラグラと煮立った鍋を引っくり返したことがあるため、それ以来ユゥイからはやんわりと、黒鋼からは厳重に料理中のキッチンに立つことを禁止されている。
ゆえにファイがちょっと摘み食いに行こうとするだけで、黒鋼にはギロリと睨まれる始末だった
それが今はまったくない。
(これは嵐か……それよりもっと……日本が沈没する前触れかもしれない……)
ファイが再び黒鋼を見やると、それまでテレビを眺めていたはずの彼がこちらをじっと見ている。視線がぶつかって、一瞬ひやりとした。
黒鋼は眉間の皺を少しだけ深くすると言った。
「こっち来て座ってろ」
ちょいちょい、と手招きをされて、ファイはぎくしゃくとしながら黒鋼の横の定位置に腰を下ろした。
そのまま一言も発さないファイの代わりに、黒鋼が口を開いた。
「ゆうべの飯、美味かった」
「……え」
黒鋼の手が伸びてきて、ファイの頭をくしゃりと撫でる。
「た、食べてくれた、の?」
「当たり前だ」
「で、でも、お米なかったし……」
すると黒鋼がふっと微笑む。
「米なんざいらねぇよ。お前の愛情が詰った肉で、俺の腹はパンパンになったぜ……」
ぶっ……!!
その瞬間、勢いよく噴き出したのはファイではなく、二人の背後に佇んでいたユゥイだった。手には出来上がった料理の皿を持っている。
「ゆ、ユゥイ!? 何その顔!? なんて顔してんの!?」
何かとてつもなく気色の悪い虫でも見つけてしまったときのような苦々しい顔をしたユゥイが、一つ咳払いをした。 ※こんな顔→(;'益')
「い、いや……この辺も物騒になってきたのかな……今、暴走族か何かが出す、不快な騒音みたいなものが聞こえた気が……」
「き、気のせいだよ! それにこの辺には流石にいないんじゃない!?」
「さぁ……? いるんじゃないかな……ここに(ボソッ)」
引き攣った表情のユゥイが「できたよ」と言いながらテーブルに皿を並べる。それを見て、黒鋼が口を開いた。
「いつもすまねぇな」
「……い?」
身を屈めたままだったユゥイが、そのままピタリと静止する。
「おまえの作る飯は最高だ。いつも感謝してる」
「ユゥイ!? だからその顔! 気持ちは分かるけどやめてよその顔!! てゆーかユゥイがそんな顔できるってことは、オレもできちゃうってことじゃんやめてよ!!」 ※そんな顔→(゚益゚;)
賑やかな夕食の一時は、そうして過ぎていった。
*
明日あたり……病院で検査でもしてもらった方がいいんじゃないかな?
と、言っていたユゥイは、口元はいつものように笑っていたが、はっきり言って目は完全に死んでいた。
黒鋼を一人部屋に帰すのがどうにも心配だったファイは、彼にくっついて隣の部屋へと足を運んでいた。
どうやら昨日の間にしっかり台所掃除は終わらせたらしく、ピカピカに磨かれている床を見たファイはその場に立ち尽くし、申し訳なさに肩を落とした。
だがそのとき、背後から伸びて来た腕にぎゅっと抱きすくめられて、ファイは妙な悲鳴を上げた。
「ぷぎゃっ」
「どうした? そんなとこ突っ立って」
「あ、あの、えっと……」
ぴったりと背中を包む黒鋼の体温と、大好きな彼の香りに眩暈がする。極端な話、セックスをする以外でこんな風に彼が触れてくることは、滅多になかった。
顔がどうしようもなく熱くなって、馬鹿みたいに心臓がドキドキとした。
自分から手を伸ばすのが当たり前になりすぎていたファイは、いざこうして積極的に触れられることに、実は慣れていないのかもしれない。
正直、たったいま死んでしまったとしても構わないと思えるくらい、嬉しかった。
ずっとこのままでもいいかも、などと思いかけて、それでもやっぱりこんな黒鋼は不自然だ。
「あのさ、黒たん」
「ん?」
「明日……病院行こ。オレも一緒に行くからさ……」
「なんでだ?」
「だって……ほら、頭、思いっきりぶつけたでしょ? やっぱりちゃんと診てもらった方がいいかなーって」
この不可思議現象について、それで何か分かるかは謎だが、気を失うほどに激しく頭部を強打したことにかわりはないのだから、異常がないならないで安心できるに越したことはない。
「いらねぇよ。そんな時間もねぇしな」
黒鋼がファイの耳の裏側に鼻先を押し付けてくる。なんだか甘えられているような気がして、立っていられるのが不思議なくらいクラクラした。
「で、で、でもさ、やっぱ心配だし。郁子先生に頼めば、半日くらいなら」
と、そこまで言いかけて、ファイはハッとした。
この黒鋼のことを彼女に言えば、きっと面白がって大事になるに違いない。今この瞬間だって、彼女はどこかで見ているかもしれないのだ。なんといっても、黒鋼のベッドの下のブツまで知っていたくらいなのだから。
一体どんな派手な祭りが開催されるか……。
普段はお祭り好きで、彼女と一緒になって大騒ぎするのが大好きなファイでも、今回ばかりは遠慮したい、ような気がする。
ならば休日でも診察している病院に、引きずってでも連れて行くしかない。
そんなことを考えていると、それを遮るかのように黒鋼が言った。
「おい、そんなことよりそろそろ風呂にするか」
「あ、うん。行ってらっしゃい……」
「なんだ? 入らねぇのか?」
「え? 入る、けど、って!?」
次の瞬間、ファイは強い力によって身体を掬い上げられていた。普段は見上げるばかりの黒鋼の顔が自分の目線より低い位置にあり、両足がふわふわと浮いているのを感じて、ようやく彼の腕に抱きあげられていることに気がついた。
いわゆる、お姫様抱っこというやつである。
「くくく、黒様なにやってんの!?」
「おら暴れんな。落ちても知らねぇぞ」
わたわたと慌てて手足をバタつかせるファイを見上げて、黒鋼は不敵に笑った。一瞬ドキリとして息をのむ。
「続きは夜だって言ったろ? 忘れちまったのか?」
「!?」
昼間の、あの保健室での衝撃的な出来事を思い出して、ファイは『ボンッ』と勢いよく全身を真っ赤に染めた。
「俺が綺麗に洗ってやるよ。隅々までな」
これは夢だ……。
赤々とした炎に焼かれた石のようになりながら、今のファイにはこの状況が悪夢なのかそうでないのか、判断することは不可能だった。
*
めくるめく夜が明け、朝である。
目を覚ましたファイは、まだ完全に目覚めていない思考で、ぼんやりとカーテンの隙間を見やった。
「あれ……今日ってお休みの日だっけー……」
乾いた喉から絞り出された声は掠れていて、何か飲みたいと思いはしたが、身体の怠さの方が勝っていた。シーツを引き上げもうひと眠り、と目を閉じかけたところで、ファイはガバッと起き上った。
「休みじゃないじゃん平日じゃん!!」
この喉の渇きや身体の怠さ、裸でシーツにくるまっていた感触がファイを錯覚させたが、本日は平日。授業のある日。
肌のいたるところにはくっきりと痕が残っていて、交わされた濃密な時間を裏付けている。
黒鋼は翌日が平日の夜には、どんなに誘っても決してファイを抱かない。
ファイの身体にかかる負担を気遣ってくれているからだと理解はしているものの、誘いをかけるファイへのあしらい方があまりにも雑なので、時々ちょっと傷つく。
それがなんと、昨夜は違ったのだ。
回数的には流石に週末ほどとはいかないものの、滅多に聞くことのできない黒鋼の甘い囁きに、絶頂だけなら幾度迎えたか知れない。
「夢じゃなかったんだなぁ……」
思いだすだけで顔から火を噴きだしそうで、ファイはシーツごと抱えた膝に顔を埋めた。
すると、そこへすっかり身支度を整えたジャージ姿の黒鋼が顔を出した。
「起きたか」
「ひゃっ」
黒鋼はベッドの縁に腰を下ろすと、いまだ裸でいるファイの肩を抱き寄せ、赤くなっている頬に小さなキスをした。夢にまで見た、黒鋼からのおはようのキスである。
「うっひゃー……」
「そろそろ起きてシャワーでも浴びたらどうだ? それとも身体が辛いか?」
加減したつもりなんだが、と気遣ってくれる黒鋼に、ファイは目が回りそうだった。
このままでは溶けて消えてしまいそうだ。
今の黒鋼なら、今ここで再び求めれば応えてくれそうな気がする。学校なんかそっちのけで、甘やかし放題してくれるに違いないと思った。
だが流石のファイも節度くらい弁えている。甘い妄想に胸を高鳴らせることはあっても、妄想は妄想の範疇で留めておかねばならないことくらい、ちゃんと理解していた。
「だ、大丈夫。シャワー浴びてくるから」
「わかった」
ファイが黒鋼の胸をやんわりと押すと、黒鋼は少しだけ申し訳なさそうに笑って、すんなり身体を離してくれた。
*
「なんかなー……」
温めのシャワーを浴びながら、ファイは悶々とした気持ちを抱えていた。
「幸せすぎるって怖いなー……」
ファイが欲しいものを欲しいだけ与えてくれる黒鋼。ゲンコツもしないし、料理もしていいと言ってくれる黒鋼。おはようのキスをしてくれる黒鋼。甘やかしてくれる黒鋼。
ずっとこんな風だったらいいのにと思っていた、理想の形の彼がいる。しかし、ファイが知っている黒鋼とはまるで別人だ。
我儘だとは思うけれど、心が満たされる分、すぐに溢れだして足りなくなってしまうような気がした。
ひっつけば振り払うし、すぐにゲンコツをお見舞いしてくるし、口は悪いし無愛想だし、まるで雷親父みたいな黒鋼。
けれど、そんな酷いとしか思えない男が、本当はいつだってさりげなく自分を支えてくれていたことを知っている。あの大きなごつごつとした手が、時々まるで羽に触れるみたいに優しくなる瞬間が、大好きだった。
「そうだよ。だからオレは……」
彼を好きになった。
「こうなったら……あの手しかない……」
*
シャワーから戻ると、黒鋼が朝食の準備を終えるところだった。
香ばしい匂いはトーストのもので、キッチンに立つ黒鋼は戻ってきたファイに気付くと、小さく微笑んだ。
「おまえの弟ほどとはいかねぇがな」
少し焦げ付いた卵焼きがフライパンの上で音を立てている。隣に並び立つと、黒鋼は火を止めた。
「美味しそうだよー。ねぇ、後はオレがやるから座ってて」
「おう、そうか」
何一つ嫌な顔をせず、黒鋼はあっさりと身を引いてテーブルについた。その背中を確認すると、ファイはあらかじめすぐ脇に用意してあった二枚の皿に、適当にフライ返しで切り分けた卵焼きを盛り付ける。
そして、フライパンの取っ手をぎゅっと握った。
「やるしか……ないんだ……」
そう。ファイには考えがあった。それはよく漫画やアニメで見たようなものだ。
(こういうときは、同じだけの衝撃を与えることで、元に戻ることは鉄則!!)
目をギラギラとさせている今のファイには、手にしているフライパンがまだ十分熱い状態であるということも、その後どうなるのかなんて頭からスッポリ抜けていた。
「夢は……終わらせなければ……」
どこかで聞いたような台詞を口にしつつ、両手でしっかりとフライパンの取っ手を握り締めて、新聞を読んでいる黒鋼の背後へと近付いた。
(ごめんね黒様先生……でも、オレはありのままの君を愛しているから……!)
スムーズにいけば、このままフォン、グシャ、といくことで事が上手く運ぶはずだった。(ファイ的には)
だが、ファイがフライパンを振り上げたその瞬間、黒鋼がクルリと振り向いた。
「おい、そういえばおまえ……ん? なにフライパン持って踊ってんだよ」
「い、いや~? ちょっとダンスでも習ってみようかな~なんて~」
フライパンを高く掲げてくるくると回るはめになったファイは、引き攣った笑みを浮かべて苦し紛れの言い訳をした。
呆れたようにそれでも笑った黒鋼は立ち上がると、そんなファイの手からフライパンを取り上げた。
「まだ熱いじゃねぇか。火傷したらどうすんだ?」
「あ、う、うん。そういえばそうだった……」
するりと、黒鋼の腕がファイの腰に回される。
「ダンスならいつでも俺が相手になってやる……フライパンなんかと踊ってんじゃねぇよ」
「は……はい……」
唇が触れそうなほどの至近距離で囁かれて、激しく胸をときめかせるファイの決心は、微妙な揺らぎを見せるのだった……。
*
もう奥の手しかなかった。
その日の昼休み。生徒や職員たちが昼食をとり始めたばかりのタイミングを見計らって、ファイは黒鋼を昨日の現場に呼び出していた。
階段を半分だけ登り切った踊り場で、ファイは黒鋼を待っている。彼は四時間目に授業が入っていたが、そろそろやって来る頃だ。
黒鋼を待つ間、壁に背を預けて足元を見つめながら、ファイは今朝交わしたユゥイとの会話を思い出していた。
「ゆうべ、大丈夫だった……?」
どこかゲッソリとした表情で着替えるために自室に戻ると、そこにユゥイが待っていた。
「う、うん……まぁ……変わりないっていうか……」
「どうせ病院行こうって言っても、聞かなかったんでしょ」
「うん……」
だろうね、とユゥイは腕を組むと眉間に皺を寄せ、何か考え込んでいるような仕草を見せた。そしてやがて口を開いた。
「ボクね、ちょっと思ったんだけど」
「なに?」
「まるで別の人みたいになっちゃったけど、別人ではないんだよね」
「?」
「いつもは思ってても、絶対に言わないこと」
「ユゥイ、それって……」
ユゥイは「うん」と頷きながら、少し困ったような嬉しいような顔をした。
「ファイのことが可愛くて大切だって気持ちとか、ボクの料理を素直に褒めてくれたこととか……。普段は絶対、あの人なら思ってても言わないことでしょ?」
「うわぁ……」
それを聞いて、ファイはまた頬を赤くした。
確かに黒鋼は素直じゃないし、何を考えているか分からないときもある。
けれど心の中では、本当はいつだって自分に触れたいと、甘やかしたいと思ってくれていたのかもしれない。不器用だから、ただ素直にできないだけで。
平日の夜だって、翌日のことを言われれば引きさがるしかなかったが、黒鋼だって気持ちは同じだったのかもしれない。
「嬉しいね、ファイ」
「うん……嬉しい……すごく……」
「でもさ、やっぱり……」
ポン、とファイの両肩にユゥイの手が優しく乗った。
「気持ち悪いね!」
ユゥイの天使のような満面の笑顔に「はよなんとかせい」 という文字が確かに書かれている気がした。
ほどなくして、階段下の角から黒鋼が姿を現した。
見上げた先にファイがいることを確認すると、口元に小さな笑みを作って上って来る。
「待ったか?」
「うぅん。ごめんね、呼び出しちゃって」
「構わねぇよ」
ファイが壁から背を離すのと、黒鋼が踊り場に到達するのはほとんど同時だった。
一気に緊張が押し寄せて来て、ファイは一つ喉を鳴らした。
「どうした」
「うん……」
ファイは黒鋼と向かい合う。彼の向こうに見えるのは低い位置にある床で、昨日の出来事が脳裏に蘇ると、自然と身がすくむ。
「あのね、黒たん先生」
「おう」
「オレ、いつも我儘ばっかり言ってごめんね」
「なんだよ、いきなり」
黒鋼は少しだけ目を丸くすると、微かに首を傾げた。
「でもね、オレちゃんとわかってるからね。黒たん先生が言葉にしてくれなくても、ちゃんとわかってるから。今回のことで、もっともっと、いっぱいわかったからね」
ファイが思いつめたように言うと、黒鋼は真剣な面持ちになった。
さらに一つ、ごくりと喉を鳴らす。
もうこうするしかない。自分が好きになった黒鋼に戻ってもらうためには。
ただ突き飛ばすのではダメだ。瞬発力に優れすぎている彼には、きっと避けられてしまう。
(さよなら……オレの夢……)
全く躊躇いがないわけではない。昨日、気を失った黒鋼がこのまま死んでしまったらと思うと、身体がどうしようもなく震えた。
けれど自分も一緒なら。死ぬときも一緒なら、それは本望だ。ちなみに「ん」と「う」を取れば……ホモだ。
「だからごめん!!」
「!?」
そしてファイは思い切り床を蹴り、黒鋼に抱きついた。いや、むしろ飛びかかったと言ってもいいぐらいの勢いだったかもしれない。
黒鋼の背後は何もない空間。彼は咄嗟のことに受け止めきれず、二人はそのまま転がり落ちた。
*
「いってぇー!! このクソ野郎、一体なにしてくれてんだ!?」
おむすびやまのおむすびのように、ゴロンゴロンと転がるようにして落下したあと、後頭部やら臀部やらを強く打ちつけた黒鋼は、痛みによる生理的な涙を滲ませながら、自分にしがみついてぐったりしているファイを怒鳴りつけた。
「おいこら!? 起きろバカ!! 無事かこのバカ!?」
罵っているのか労わっているのか、それらを織り交ぜつつ声をかけ続けると、ファイは小さく呻きながら目を覚まし、ゆっくりと起き上った。
後でガッツリと派手な一発をお見舞いしてやる、と思いつつ、黒鋼は彼の身体の随所に触れ、異常がないかを確かめる。
「てめぇは本当にそそっかしいったらありゃしねぇ! 打ち所が悪けりゃ今頃……っ」
だがそんな黒鋼の怒鳴り声を、パチンという小気味よい音が遮った。
「!?」
気付けば左手の甲にジンとした痛みが走っていた。ゆっくりと、赤く染まっていくをの見て、黒鋼は呆然とした。
けれど、そんな黒鋼が何より驚いたのは、目の前のファイの見たこともないような冷やかな表情だった。
「触るな」
しかも、とんでもない低音ボイスである。
「は……?」
ぽかんと口を開ける黒鋼に、ファイは心底薄汚いものを見るような眼をして、ゆらりと立ち上がる。
その動作さえただ呆然と眺めていた黒鋼の、床についていたもう片方の手の甲へ目がけて、ファイの革靴が振り下ろされた。
「っ!?」
ギリリと潰すかの勢いで踏みつけられ、黒鋼は痛みに表情を歪めた。
「その薄汚い手でオレに触るなって言ってんの。わからないの?」
「!!」
冷やかに見下ろす氷のような瞳……いまだかつてこれほどまでに見下されたことなどなかった黒鋼は、そのとき不覚にも胸がきゅん……とときめくのを感じた。
黒鋼の右手を踏みつけていたファイの足が、蹴り飛ばすような乱暴な動きで退いた。彼は馬鹿にしたように鼻で笑うと、白衣の裾を翻してそのまま背を向け、去っていく。
取り残された黒鋼は、ただただそのスラリと伸びた背が小さくなっていくのを見つめながら、ぽっと頬を赤らめていた。
引っ叩かれた方の手も、踏みつけられた方の手も、ジンジンと痛んでいたが。
「……悪く……ねぇな……」
なにやら開けてはいけない扉が開かれた瞬間だった……。
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12月26日・日曜日・雪
クリスマス明けの日曜日。
イヴも昨日もずっと侑子先生たちと飲み明かしてたから、結局今年も二人きりでしっぽり~は出来なかったけど、お酒も料理も美味しかったし楽しかったからまぁいいや。
どうせ明日からユゥイは里帰りするし、その間ずーっと黒たん先生の部屋にいるもんね。いいもんね。
でも今日は流石にちょっとだるくて、二人でのんびり過ごした。
たった二日飲み明かしただけなのに、オレのお腹がちょっとぷにってしちゃった気がするのはきっと気のせいだよね。
でも、万が一ってこともあるから、今日はお菓子は我慢しよう。
なんて思っていたら、黒たん先生が不思議なことをしはじめたから、ビックリしたなぁ……。
「黒たん」
「なんだよ」
「なにしてるのー?」
「探してんだよ」
「……?」
ひとつ、ふたつ、みっつ……と、黒鋼は大きな手の太い指先で何かをちまちまと摘んではそれを確かめて、テーブルに並べていた。
彼の側にはファイが買い置きしておいた菓子のひとつ、コ●ラのマーチが置かれている。
封を開けた記憶はないのだが、いつの間にか開封されていた。
黒鋼はその中のコアラをひとつひとつ摘んで何か真剣にその絵柄と向き合っていた。
「探してるって……なにを?」
彼は甘いものが嫌いだ。
基本的に間食というのもあまりしない。
だからそんな黒鋼が菓子を手にしていること自体、ちょっと不思議な気がした。
「眉毛つきのコアラだよ。おまえ知ってるか?」
「えっと、たまにレアなのが混ざってる~とかいうやつー?」
こくりと、こちらを見ないまま黒鋼が頷いた。
「見つけるとなんかいいことあるらしいぞ」
「……へぇ~」
確かテレビか何かでその昔、女子高生の間で流行ったとかなんとか言っていたような。
しかしファイにしてみれば、そのようなことを真顔で言いつつコアラチェックしている黒鋼の方が、よほどレアに思えた。
そしてついつい、口をぽっかり開けて見入ってしまった。
「お、あったぞ」
人差し指と親指で摘んだそれを高く掲げて黒鋼は少し嬉しそうだった。(真顔だが)
ファイもつい興味をそそられて、黒鋼の肩にぴったりくっつくとそれを覗きこんだ。
「あ、ホントだー……」
ちょっと怒ったように眉を吊り上げているコアラ。少し黒鋼に似ていて、思わずふきだしそうになった。
そんなファイに気付かず、黒鋼がその怒ったコアラを口元に差し出してくる。
「食え」
「えー?」
「おら、いいことあるぞ」
言いながら唇にむにっと押し当てられたので、ファイは戸惑いつつもそれを口の中に収めた。
噛み砕くと、中のチョコレートがふわりと溶けだした。
あーあ、食べちゃった……と思いながら黒鋼を上目使いで見れば、彼はどこか満足そうな顔をしていた。(やっぱり真顔だが)
「美味いか」
「美味い……黒たんの味するよ」
「俺はそんな甘くねぇよ」
いや、十分すぎるほど甘い……と、ファイは思った。
1月3日・木曜日・曇りのち雪
今日はお正月休みの最終日。
三日ともなるとおめでたいムードもちょっと落ち着いてくる。
でも、お正月って昼間でもお笑い番組がやってて楽しいな。
オレがテレビを眺めている間、黒様先生も一緒に見てたけど特に笑っている様子はなかった。
この人の笑いのツボってどこにあるんだろう。
お腹抱えて笑うことってあるのかな?
見てみたいような、そうでないような。
そんなことをぼんやり考えてたら、黒様先生がいつの間にか、またなんか変なことしてた。
それは誰もが経験のある遊び。
食べ物で遊んではいけないと知りつつ、大人も子供もその誘惑には誰もが抗えない。
とん●りコーン……それは魅惑の菓子である。
「またなにかしてるのー?」
「ガキの頃はすっぽり入るのもあったんだがな」
大きさの不揃いなそれは、大人の指では先端にちょっとハマるだけで気をつけないとすぐに割れてしまう。
特に黒鋼の指ではハマるようなサイズを見つけるにも苦労するようだった。
だがいい具合のものを見つけるとそれを慎重に指先にハメる。
そしてそれをどうするかと見ていたら、なぜかおもむろにファイの口元に運ぶ。
「ちょ……」
まさかこれにも何かレアな種類や意味があるのだろうか…なんて思いつつ差し出されたそれを、大人しく食べた。
しゃりしゃり、もぐもぐ、ごくん。
しゃりしゃり、もぐもぐ、ごくん。
しゃりしゃり、もぐもぐ、ごくん。
暫しの間、その繰り返しだった。
「ね、ねぇ黒たん……オレ、実はあまりお腹空いてないんだけど」
しかし容赦なく尖った先端を押しつけられて、仕方なくまた口の中に入れた。
いっそのこと指ごと咥えてやろうかと考えたが、あとちょっとのところで間に合わない。
半ばムキになってもぐもぐしていると、なぜか急に彼は「ふっ」と小さく鼻で笑った。
「おまえ……食ってるときの顔がなんかに似てるな」
「えー? もう、なんなの一体」
「ウサギみてぇ」
「ちょ、やだ……それってオレがウサギみたいに可愛いってこと?」
「いや、ウサギの方が可愛いだろ普通に」
「んなっ!?」
文句の一つでも言ってやろうとして、だが再び押し込まれるとん●りコーン。
なんだよ……とファイは頬を膨らませながらもそれを噛み砕いた。
結局この男は人が物を食べているのを見るのが好きなだけなのではないか。
じっと見つめられるのがだんだん照れ臭くなってきて、ちょっと頬を染めた。
そして、どうしてこの人は時々こんなふうに可愛いことするんだろう……とファイは思った。
2月14日・月曜日・晴れ
今日はたくさんチョコレートをもらった……けど、毎年食べきれないんだよね。
黒たん先生は色んな人からおせんべいをもらってた。
みんな黒たんが甘いのダメって知ってるから。
侑子先生だけはオレでさえ気持ち悪くなっちゃうような甘いチョコを黒様にも渡してた。困った人だよね。
でも実はオレも人のこと言えない。
ユゥイに手伝ってもらってそれなりによく出来たチョコをプレゼントした。
凄く嫌そうな顔されちゃったけど……。
別に食べてもらえなくてもいいんだ。
毎年オレだけが黒たんに本命チョコを渡して、それを黒たんが受け取ってくれることが大事なの。
本当は食べてくれるのが一番嬉しいけどさ。
なんてあきらめてたら……見ちゃった……。
真夜中。
当たり前のように黒鋼の部屋で黒鋼のベッドに入り込んで眠っていたファイだが、ふと目が覚めた。
狭いだのなんだのと文句を言いつつ、くっついて寝てくれていたはずの黒鋼の温もりがない。
(あれ、黒たん先生……なにを……?)
トイレにでも行ったのかと思ったが、黒鋼は側にいた。
部屋の中がほのかに明るいのは、どうやら音を消した状態のテレビをつけて照明代わりにしているからのようだ。
黒鋼はベッドの縁に背を預けて胡坐をかいているらしい。
なんとなく声をかけられずに、横目でちらちらとその背中を見た。
「……はぁ」
重々しい溜息が聞こえた。
なにやらとんでもなく思い詰めているように聞こえる。
「はぁー……」
これはただ事ではない気がした。
ファイは思わずその背中に触れようと手を伸ばしたが、すぐにピタリと止めた。
カサカサという音がしたからだ。
「?」
それからすぐに、「よっしゃ」という小さな掛け声が聞こえた。
(よ、よっしゃ……?)
そして次は、ガリっという音がした。同時にチョコレートのほのかな香りがふんわりと漂う。
まさか、とファイは思った。
(黒たん、オレがあげたチョコを!?)
彼は義理チョコならぬ義理せんべいを大量に貰っていたし、理事長が嫌がらせで渡してきたチョコはファイに押し付けてきたから、彼が所持しているチョコレートといえば一つしかないはずだった。
あるいは知らぬ間にどこぞの泥棒猫が……?
なんて考えなくもなかったが、今日は誰が何を黒鋼に渡すか、それなりに目を光らせていたのできっとそれはない。
「はぁ……」
何口か無言で食べ続けていた黒鋼が、俯いて溜息を零した。かなり無理をしつつそれでも耐えているらしい。
胸がじんとした……。
もしかしたら、毎年こうして我慢して食べてくれていたのかもしれない。
どうせ食べてくれないだろうからと、いつも思いっきり甘く作っているのに。そしてそれは今年のチョコも同じだった。
(黒たんのバカ)
嫌いなら、捨ててしまえばいいのに。
別に一度でも受け取ってくれたなら、返して寄こされたって気にしないのに。
無理して食べてほしくて渡してるんじゃないのに。
大好きの気持ちと、ほんのちょっとの意地悪で渡してるだけなのに。
彼はその後もかなりの時間をかけて、溜息を幾度も零しながらそれを食べ続けた。
ファイは涙ぐみながらもその背中をずっと見守っていた。
やがて完食し終えたのを見計らうと、声をかけた。
「……黒たん」
「おまえな……今年もまたえらくえげつねぇなコレ」
デカいしよ……と、黒鋼はこちらを振り向かずにボソリと言った。きっとHPは0に近い。
ファイは思わず声を出して笑った。そして、起き上ると背後からぎゅっと抱きついた。
「バカだなぁ黒たんは」
「起きてんなら言えよ」
「気付いてたくせにさー」
そしてようやく顔を向けて来た黒鋼の眉間の皺は、いつも以上に深かった。
ふふふと笑って、唇を重ねる。
呆れるくらいベタな味のするキスだなぁと、ファイは思った。
「来年からは、甘さ控えめにしてあげる」
唇が離れるとすぐにそう言ったファイに、黒鋼はやっぱり溜息を零しながら、「そいつはありがてぇな」と言って少しだけ笑った。
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クリスマス明けの日曜日。
イヴも昨日もずっと侑子先生たちと飲み明かしてたから、結局今年も二人きりでしっぽり~は出来なかったけど、お酒も料理も美味しかったし楽しかったからまぁいいや。
どうせ明日からユゥイは里帰りするし、その間ずーっと黒たん先生の部屋にいるもんね。いいもんね。
でも今日は流石にちょっとだるくて、二人でのんびり過ごした。
たった二日飲み明かしただけなのに、オレのお腹がちょっとぷにってしちゃった気がするのはきっと気のせいだよね。
でも、万が一ってこともあるから、今日はお菓子は我慢しよう。
なんて思っていたら、黒たん先生が不思議なことをしはじめたから、ビックリしたなぁ……。
「黒たん」
「なんだよ」
「なにしてるのー?」
「探してんだよ」
「……?」
ひとつ、ふたつ、みっつ……と、黒鋼は大きな手の太い指先で何かをちまちまと摘んではそれを確かめて、テーブルに並べていた。
彼の側にはファイが買い置きしておいた菓子のひとつ、コ●ラのマーチが置かれている。
封を開けた記憶はないのだが、いつの間にか開封されていた。
黒鋼はその中のコアラをひとつひとつ摘んで何か真剣にその絵柄と向き合っていた。
「探してるって……なにを?」
彼は甘いものが嫌いだ。
基本的に間食というのもあまりしない。
だからそんな黒鋼が菓子を手にしていること自体、ちょっと不思議な気がした。
「眉毛つきのコアラだよ。おまえ知ってるか?」
「えっと、たまにレアなのが混ざってる~とかいうやつー?」
こくりと、こちらを見ないまま黒鋼が頷いた。
「見つけるとなんかいいことあるらしいぞ」
「……へぇ~」
確かテレビか何かでその昔、女子高生の間で流行ったとかなんとか言っていたような。
しかしファイにしてみれば、そのようなことを真顔で言いつつコアラチェックしている黒鋼の方が、よほどレアに思えた。
そしてついつい、口をぽっかり開けて見入ってしまった。
「お、あったぞ」
人差し指と親指で摘んだそれを高く掲げて黒鋼は少し嬉しそうだった。(真顔だが)
ファイもつい興味をそそられて、黒鋼の肩にぴったりくっつくとそれを覗きこんだ。
「あ、ホントだー……」
ちょっと怒ったように眉を吊り上げているコアラ。少し黒鋼に似ていて、思わずふきだしそうになった。
そんなファイに気付かず、黒鋼がその怒ったコアラを口元に差し出してくる。
「食え」
「えー?」
「おら、いいことあるぞ」
言いながら唇にむにっと押し当てられたので、ファイは戸惑いつつもそれを口の中に収めた。
噛み砕くと、中のチョコレートがふわりと溶けだした。
あーあ、食べちゃった……と思いながら黒鋼を上目使いで見れば、彼はどこか満足そうな顔をしていた。(やっぱり真顔だが)
「美味いか」
「美味い……黒たんの味するよ」
「俺はそんな甘くねぇよ」
いや、十分すぎるほど甘い……と、ファイは思った。
1月3日・木曜日・曇りのち雪
今日はお正月休みの最終日。
三日ともなるとおめでたいムードもちょっと落ち着いてくる。
でも、お正月って昼間でもお笑い番組がやってて楽しいな。
オレがテレビを眺めている間、黒様先生も一緒に見てたけど特に笑っている様子はなかった。
この人の笑いのツボってどこにあるんだろう。
お腹抱えて笑うことってあるのかな?
見てみたいような、そうでないような。
そんなことをぼんやり考えてたら、黒様先生がいつの間にか、またなんか変なことしてた。
それは誰もが経験のある遊び。
食べ物で遊んではいけないと知りつつ、大人も子供もその誘惑には誰もが抗えない。
とん●りコーン……それは魅惑の菓子である。
「またなにかしてるのー?」
「ガキの頃はすっぽり入るのもあったんだがな」
大きさの不揃いなそれは、大人の指では先端にちょっとハマるだけで気をつけないとすぐに割れてしまう。
特に黒鋼の指ではハマるようなサイズを見つけるにも苦労するようだった。
だがいい具合のものを見つけるとそれを慎重に指先にハメる。
そしてそれをどうするかと見ていたら、なぜかおもむろにファイの口元に運ぶ。
「ちょ……」
まさかこれにも何かレアな種類や意味があるのだろうか…なんて思いつつ差し出されたそれを、大人しく食べた。
しゃりしゃり、もぐもぐ、ごくん。
しゃりしゃり、もぐもぐ、ごくん。
しゃりしゃり、もぐもぐ、ごくん。
暫しの間、その繰り返しだった。
「ね、ねぇ黒たん……オレ、実はあまりお腹空いてないんだけど」
しかし容赦なく尖った先端を押しつけられて、仕方なくまた口の中に入れた。
いっそのこと指ごと咥えてやろうかと考えたが、あとちょっとのところで間に合わない。
半ばムキになってもぐもぐしていると、なぜか急に彼は「ふっ」と小さく鼻で笑った。
「おまえ……食ってるときの顔がなんかに似てるな」
「えー? もう、なんなの一体」
「ウサギみてぇ」
「ちょ、やだ……それってオレがウサギみたいに可愛いってこと?」
「いや、ウサギの方が可愛いだろ普通に」
「んなっ!?」
文句の一つでも言ってやろうとして、だが再び押し込まれるとん●りコーン。
なんだよ……とファイは頬を膨らませながらもそれを噛み砕いた。
結局この男は人が物を食べているのを見るのが好きなだけなのではないか。
じっと見つめられるのがだんだん照れ臭くなってきて、ちょっと頬を染めた。
そして、どうしてこの人は時々こんなふうに可愛いことするんだろう……とファイは思った。
2月14日・月曜日・晴れ
今日はたくさんチョコレートをもらった……けど、毎年食べきれないんだよね。
黒たん先生は色んな人からおせんべいをもらってた。
みんな黒たんが甘いのダメって知ってるから。
侑子先生だけはオレでさえ気持ち悪くなっちゃうような甘いチョコを黒様にも渡してた。困った人だよね。
でも実はオレも人のこと言えない。
ユゥイに手伝ってもらってそれなりによく出来たチョコをプレゼントした。
凄く嫌そうな顔されちゃったけど……。
別に食べてもらえなくてもいいんだ。
毎年オレだけが黒たんに本命チョコを渡して、それを黒たんが受け取ってくれることが大事なの。
本当は食べてくれるのが一番嬉しいけどさ。
なんてあきらめてたら……見ちゃった……。
真夜中。
当たり前のように黒鋼の部屋で黒鋼のベッドに入り込んで眠っていたファイだが、ふと目が覚めた。
狭いだのなんだのと文句を言いつつ、くっついて寝てくれていたはずの黒鋼の温もりがない。
(あれ、黒たん先生……なにを……?)
トイレにでも行ったのかと思ったが、黒鋼は側にいた。
部屋の中がほのかに明るいのは、どうやら音を消した状態のテレビをつけて照明代わりにしているからのようだ。
黒鋼はベッドの縁に背を預けて胡坐をかいているらしい。
なんとなく声をかけられずに、横目でちらちらとその背中を見た。
「……はぁ」
重々しい溜息が聞こえた。
なにやらとんでもなく思い詰めているように聞こえる。
「はぁー……」
これはただ事ではない気がした。
ファイは思わずその背中に触れようと手を伸ばしたが、すぐにピタリと止めた。
カサカサという音がしたからだ。
「?」
それからすぐに、「よっしゃ」という小さな掛け声が聞こえた。
(よ、よっしゃ……?)
そして次は、ガリっという音がした。同時にチョコレートのほのかな香りがふんわりと漂う。
まさか、とファイは思った。
(黒たん、オレがあげたチョコを!?)
彼は義理チョコならぬ義理せんべいを大量に貰っていたし、理事長が嫌がらせで渡してきたチョコはファイに押し付けてきたから、彼が所持しているチョコレートといえば一つしかないはずだった。
あるいは知らぬ間にどこぞの泥棒猫が……?
なんて考えなくもなかったが、今日は誰が何を黒鋼に渡すか、それなりに目を光らせていたのできっとそれはない。
「はぁ……」
何口か無言で食べ続けていた黒鋼が、俯いて溜息を零した。かなり無理をしつつそれでも耐えているらしい。
胸がじんとした……。
もしかしたら、毎年こうして我慢して食べてくれていたのかもしれない。
どうせ食べてくれないだろうからと、いつも思いっきり甘く作っているのに。そしてそれは今年のチョコも同じだった。
(黒たんのバカ)
嫌いなら、捨ててしまえばいいのに。
別に一度でも受け取ってくれたなら、返して寄こされたって気にしないのに。
無理して食べてほしくて渡してるんじゃないのに。
大好きの気持ちと、ほんのちょっとの意地悪で渡してるだけなのに。
彼はその後もかなりの時間をかけて、溜息を幾度も零しながらそれを食べ続けた。
ファイは涙ぐみながらもその背中をずっと見守っていた。
やがて完食し終えたのを見計らうと、声をかけた。
「……黒たん」
「おまえな……今年もまたえらくえげつねぇなコレ」
デカいしよ……と、黒鋼はこちらを振り向かずにボソリと言った。きっとHPは0に近い。
ファイは思わず声を出して笑った。そして、起き上ると背後からぎゅっと抱きついた。
「バカだなぁ黒たんは」
「起きてんなら言えよ」
「気付いてたくせにさー」
そしてようやく顔を向けて来た黒鋼の眉間の皺は、いつも以上に深かった。
ふふふと笑って、唇を重ねる。
呆れるくらいベタな味のするキスだなぁと、ファイは思った。
「来年からは、甘さ控えめにしてあげる」
唇が離れるとすぐにそう言ったファイに、黒鋼はやっぱり溜息を零しながら、「そいつはありがてぇな」と言って少しだけ笑った。
←戻る ・ Wavebox👏
まるで叩きつけられるようにして、乱暴にベッドへ突き飛ばされたとき、ファイは一体なにが起こったのか、まるで理解することが出来なかった。
ただ宝石のような青い瞳を見開き、相手を見上げて呆然とする。
「黒様先生……?」
見下ろしてくる黒鋼の表情は冷たく、なんの感情も読み取ることが出来ない。だが、その紅い瞳にはどこか灰暗い感情が秘められている気がして。
(もしかして、怒ってる……?)
明らかに普段と様子の異なる彼に、不安を覚えたファイは、慌てて身を起こそうとした。が、それより早く黒鋼がベッドに乗り上げてくる。
「く、黒たん!?」
咄嗟に抗おうとした両腕を掴まれ、体重をかけられることであっさり捻じ伏せられた。押さえつけられた両腕が、軋んだ音を立てる。
「痛いっ! ちょ、ちょっと! 痛いってば……ッ!!」
なぜ唐突にこのような扱いを受けるのか、痛みと混乱に、ファイは無駄と知りつつそれでも抵抗を止めなかった。身体を押さえ込まれてなお、身を捩り逃れるべく必死で足掻く。
黒鋼とするのはもちろん好きだ。だが、こんな風に強引に求められたことなど、ましてや乱暴に扱われたことなど今まで一度だってなかった。なぜこんなことになっているのか、せめて訳くらいは聞かせてほしい。
黒鋼がファイの纏うシャツの合わせを強引に掴み上げる。そのままブツブツッ、という嫌な音と共にボタンが飛び散り、引きちぎられたシャツの合間から白い肌が覗いた。
「ッ……!」
首筋に這わされた唇の熱さに、ファイは初めて黒鋼を相手に恐ろしいと感じた。
(これじゃレイプと変わらない……!)
こんなものは自分の知る黒鋼ではない。彼は強面だし、不器用ではあるが、根は誰よりも優しいのだ。絶対に、こんなことをする男ではないはずだった。
ファイはジャージ越しでも分かるほど、その肩に強く爪を立てて引き剥がそうとした。そして手も足も、身体全体を使ってこれ以上ないほど強く抵抗を示す。
「黒たんっ! お願いっ、ホントに嫌なの!! ねぇやだってば……ッ!」
激しく首を振って暴れるファイに、これまでピクリとも表情を動かさなかった黒鋼が、眉間に皺を寄せて物騒な舌打ちをした。
そして次の瞬間。
何かが弾けるみたいな、軽やかな音が室内に響いた。
瞬きも忘れて、ただ茫然と黒鋼を見上げる。驚きの方が勝り、痛みは感じなかった。何が起こったのか理解できない。
「ぁ……」
身を横たえているはずなのに、頭がクラクラして仕方がない。けれど、物理的な衝撃より、精神的なショックの方が何倍も大きかった。
(オレ……黒様にぶたれちゃった……)
恐る恐る触れた右の頬が熱かった。じわじわと熱が増すたびに、痛みが遅れて込み上げてくる。
こんなふうにぶたれたのは、これが初めてだ。タンコブが出来るほどのゲンコツの方が、いっそずっと優しい。
黒鋼は、すっと瞳を眇めてただファイを見下ろしている。
ポロポロと、自然に零れ出す涙で視界が滲む。心ごと打ちのめされた気がして、ファイは全身から一気に力を抜いた。パサリと音を立てて、両手がシーツの上に落ちた。
それが合図だとでもいうかのように、黒鋼が本格的にファイに覆いかぶさった。やだ、というか細い悲鳴など、彼の耳に届きはしない。
「やぁ……ぅ、い、たぃ……」
鼻を啜り、小さくしゃくり上げながら緩く首を振る。荒々しい動きで這い回る舌と唇が、時折鋭く歯を立てながら乱暴に痕を残していく。
節くれだった指に、ぷっくりと浮き上がる柔らかな乳首を強く擦られると、思わず喉が引き攣った。
快感よりも、痛みの方が大きい。けれど男に抱かれる行為を知っている身体は、無意識に快楽を拾い上げようとする。やがて痛みさえも悦びに塗り替えていくのに、時間はかからなかった。
ただファイにとって恐ろしいのは、こういった己の体質や性癖に、気持ちがついていかないことだ。戸惑いを飲み込むことができるまで、この浅ましい身体は待ってもくれないし、黒鋼の性急な愛撫もいっそう激しくなるばかりだった。
「ッ――!」
無意識に逃げを打とうとする腰に黒鋼の熱い手がかかる。ベルトを外す金属音が、今日はやけに残酷なものに聞こえる気がした。
抵抗しようとして、けれど先刻のあの衝撃を思いだして身を強張らせる。ぶたれた頬の熱さが、ファイの動きを封じてしまう。もう、あんなふうに暴力をふるわれるのは嫌だった。
見かけによらず器用なはずの彼の手が苛立ったように蠢き、ファイの下肢を守るもの全てを乱暴に剥いてしまった。もはや残されたのは中途半端に前を暴かれた白いシャツだけ。
太腿の内側を強く掴まれ、一気に押し開かれる。ファイは涙を溜めた瞳を見開いた。無理矢理に強いられている行為のはずが、身体の中心に息づく性器は、僅かながらに勃起していた。
黒鋼が鼻で笑う気配がして、けれど羞恥を痛感する間もなく、性器をぐっと掴まれる。全身を陸に打ち上げられた魚のように大きくしならせ、声もなく喉を反らした。
半勃ちのそれが、大きな手の中で扱かれる。押し潰されそうで、身が竦む。それでも黒鋼は手を止めない。その腕に両手を伸ばし、縋るように爪を立てた。
「ひっ、ぐ……ッ! ぁ、やだぁ……ッ! 黒、お願い……ッ、乱暴に、しないでぇ……ッ!」
「うるせぇな。だったらてめぇのこれは、なんだってこんなに濡れてきやがる?」
「ああぁ……ッ!!」
ぐりっと、親指の爪の先がデリケートな性器の窪みを抉った。絶頂の大波が全身を飲み込み、目の前が一瞬白く光ったような気がする。
黒鋼が再び鼻で嘲笑う。白濁の液で濡れた手を幾度か振れば、幾つも赤い痕の残るファイの胸や腹に、それがパタパタと降りかかる。
ファイは射精したばかりの敏感な身体を痙攣させながら、涙で頬を濡らした。両手で顔を覆い、もうやめて、と幾度も訴えた。
「もうやだよ……こんなのひどいよ……やめてよ……」
「てめぇ一人が出すもん出して終われると思ってんのか?」
「ッ……!?」
力なくベッドに沈むだけだった身体を、いとも簡単に引っくり返され、気がつくとファイは犬のように四つん這いにさせられていた。
尻だけを高く相手に突き出すような姿勢に、慌てて身体を捻ろうとして後頭部を鷲掴みにされる。そのままシーツに頬を強く押し付けられた。腫れている方の頬がシーツに擦れて、ファイはその痛みに呻く。
「ぅぐ……っ!」
先刻ファイが放ったもので濡れた指が、剥きだしの尻穴に押し付けられた。悲鳴を上げる間もなく、それが一気に2本も捻じ込まれる。
「――ッ!?」
太い指がなんの躊躇いもなく奥まで押し込まれ、ファイは大きく背中をしならせてシーツを掻いた。痛みより、息苦しさが競りあがってくる。
いつもは潤滑油を駆使して、じっくりと時間をかけて慣らされるのだ。じれったくて、ファイが急かしても黒鋼は決して妥協しない。一本、二本、と優しく開かれていくはずなのに。
指はそのまま、幾度かおざなりに出入りした後ズルリと引き抜かれた。
けれどほっと息をつく間もなく熱いものが入り口に押し付けられて、ビクリと身体が跳ねた。
頭部を鷲掴みにしていた手が腰をぐっと掴んで引き寄せようとする。首だけをどうにか捻り、あまりの恐怖に目を見開いた。
「黒、さま……? ま、って……、ぅ、そ……? ま……っ!?」
力の入らない腰を捩ってズルズルと逃げを打つ。けれど腰を強く引かれるのと、打ち付けられるのは同時だった。衝撃に背筋が弓のように反り返り、涙が辺りに飛び散った。
満足に声を出すことも出来ず、開かれたままの唇からは唾液が零れる。
引き裂かれるような痛み。あまりにも小さすぎる穴は、満足に潤いもないままに硬く大きな性器を飲み込まされ、悲鳴を上げている。
「ぁっ、ぐ……ッ! ぅ、うぅ……ッ!!」
黒鋼が、最後の一押しとでも言うかのように腰をぐっと押し進めた。ガツンというぶつかるような衝撃が、内部から脳天にかけて響き渡る。
上半身をすっかり脱力させて小刻みに震えるファイの頭上で、黒鋼は一つ息を吐き出すのが聞こえた。それから、小さく笑うような息遣いも。涙が、シーツにシミを作る。
「ど、して……こんなこと、するの……酷い……よ」
「そんなもん」
黒鋼が掴んでいる腰に再び力を入れた。ファイもギクリと全身を強張らせる。
「てめぇの胸にでも聞いてみやがれ」
「ひぎッ、ぃっ……!? や、あぁぁ……!!」
有無を言わさず、ぎちぎちと食いついて余裕の無い穴を肉棒が蹂躙する。ブチ、という音がして、皮膚が割けて傷ついたことがわかった。皮肉なことに、その出血が黒鋼の突き上げる動きの助けになる。
あまりの痛みと衝撃に、ファイはもはや切れ切れに悲鳴を上げて、シーツに縋りつくことしか術はなかった。
自分が何をしたというのだろう。どうして、彼はこれほどまでに豹変してしまったのか。
もし何か気に障ることをしてしまったのなら謝りたい。これ以上、自分に彼を恐がらせないでほしい。大好きなのに。彼が望むなら、どんな酷いことだって受け入れるのに。けれど、こんなふうに人形のように扱われるのだけは、あまりにも悲しかった。
「ぃ、ぎッ、……! ぁぐっ……! あっ、ぃ、痛い……―っ! 痛い、よぉ……ッ!!」
ガクガクと舌を噛みそうになるほど激しく揺さぶられて、このまま腹を破られてしまうのではないかという恐怖に駆られる。こんなにも深く咥えこまされたのも、これが初めてだった。
「ぉ、なか、お腹、が……ッ! 黒、さまっ……ッ、たす、けて……ッ!」
腹の中いっぱいに黒鋼の肉が容赦なく打ち込まれては、淫らな音を立てる。レイプされているというのに、やはりファイの意思は置いてきぼりを食らい、激痛の中によく知る感覚が生まれつつあった。
腰を打ちつけながら、黒鋼がそれを察して低く笑った。
「てめぇのここは悦んでるじゃねぇか……だらしねぇな、この淫乱が……ッ」
パンッと一つ尻の肉を叩かれ、ファイは犬のような甲高い悲鳴を上げて、背を反らした。
その隙をついて黒鋼の両手が伸びてくると、それぞれ背後からファイの二の腕を掴んで引き上げる。強引に膝立ちの姿勢にまで引き上げられて、ファイはその薄い胸を天井に向けて突き出す形になった。腹につくほど反り返った性器が粒のような液を滴らせ、揺さぶられる度に淫らに散っていた。
「やっ、ぁんっ……ッ! ちがうっ、オレ、違う、の……ッ! こんッ、なの、ッ……ちがっ……!」
「何が違うって? 強姦されて、メスブタみてぇによがってるてめぇの、何が違うってんだ?」
耳を塞ぎたくなるような黒鋼の言葉ごと、ファイは最早それを快感として受け止めていた。そうだ、無理矢理に犯されて、酷いことを言われて、この身体は上り詰めようとしている。
人形のように、玩具のように。弄ばれて犯されて、感じているのだ。
せめてもの抵抗は、ただひたすら「違う」だとか「嫌」だとかいう否定の言葉を、嫌々と首を振りながら紡ぐことのみだ。
けれどそれも、甘い嬌声に満ちている。
(嫌なのに……ちゃんと優しくしてほしいのに、オレ……もう……)
「だめっ……! あっ……ぃ、い……! イッちゃう……ッ! オレ、レイプされて、イッちゃう……ッ!!」
「いけよ、たっぷり出してやる……ッ」
「ヒッ……!? ぅあ……! だ、め……ッ、ナカ、やだ……ッ、や、ぁ――……ッ!!」
本当に突き破られるのではないかというくらい、一際強く突かれた瞬間、ファイは絶頂を迎えた。勢いよく飛び出した精液が胸や顔にまでかかり、同時に耳元で低い唸り声が聞こえた。
内部でドクドクと脈打つ黒鋼が、熱い迸りで内壁を満たす。断続的に中に出されるたびに、ファイは大きく痙攣した。
「ぁ、ぁ……でて、る……黒様のせーし、いっぱぃ……出ちゃって、る……」
黒鋼が獣のように吐息を震わせながら、肉棒を引き抜いた。同時に手綱のように掴まれていた両腕も放されて、ファイは尻だけを高く掲げたまま、上半身をぐったりとシーツに沈めた。痙攣が治まらない。
尻の肉を掴まれてぐっと押し広げられると、ヒクつく穴からドロリとした精液が大量に零れ落ちる。黒鋼は人差し指を中に押し込み、馴染ませるようにして掻き回すと、口元を緩めた。
「まだだ。もっと犯してやるよ」
「もっ……と……?」
(もっと……して欲しい……)
もはや何も考えられない。思考や理性など、とうに輪郭を失っていた。
自分の胸に聞いてみろ。そう言った黒鋼の言葉。そうだ、これを、これこそを、ファイは望んでいた。
もっともっと、奴隷のようにいたぶられたい。どろどろに穢して欲しい。彼なら、それを叶えてくれる……。
――ファイは虚ろな瞳で微笑んだ。
*
「て、ゆう夢を見たんだー」
穏やかな木漏れ日の差す昼下がりだった。
校庭を一望できる木陰のベンチで、ファイがヘラヘラと笑った。
黒鋼は口に放り込んだばかりのタコさんウィンナーを、ブッと噴出す。
「食べものは粗末にしないでください」
ユゥイが無表情でティッシュを取り出し、砂に塗れたウィンナーを拾った。
「てめぇ、なんつう胸糞悪い夢を見てやがる! てめぇも落ち着いてねぇで、変態兄貴になんとか言いやがれ!!」
「ほらファイ、口にご飯粒つけてるよ」
「んー、ありがとーユゥイー」
ユゥイが指でファイの口元の白い粒を摘んで、それを自分の口元に運び入れた。
そうして黒鋼を挟むようにして弁当をつついていた双子が、仲睦まじく笑い合っている。黒鋼の膝は、もはやユゥイが作ってきた弁当を置くためのテーブル代わりだった。
「聞いてんのか!?」
「ちょっとー、黒たん先生が暴れたらお弁当落ちちゃうでしょー」
「だから聞け!!」
一向に人の話を聞こうとしない2人に、黒鋼はちょっと涙目である。ファイは甘い玉子焼きをもちゃもちゃと頬張りながら、ウットリと空を見上げた。
「鬼畜な黒様先生、すっごいカッコよくてゾクゾクしちゃったよー……ねぇねぇ、今夜やってよー」
「はぁ!?」
いくらすっかりバレているとはいえ、兄弟がいる前でなんという発言をかますのか。
「黒様先生はちょっと淡泊すぎだよー。本当は無理矢理とか、ちょっとやってみたいくせにー」
もう怒鳴り散らすのも疲れきっていた。実際はゲンコツの一つもかましてやりたいところだが、それをすれば本当に膝の上の弁当箱が引っくり返る。そうすれば、お隣の弟さんにどんな仕打ちを受けるか分からない。
ファイは相変わらず耳を塞ぎたくなるような夢の内容を語り続けている。
「先生」
ブルブルと苛立ちに震える黒鋼の傍らから、勤めて冷静な声が呼びかけてきた。
「あ?」
「尻に拳を捻じ込まれたくなかったら、実際そんな馬鹿な真似しないでくださいね。絶対」
「……ッ!?」
「黒鋼先生、処女でしょ? いきなり拳はキツイですよ」
だから、ね? と握った拳を見せ付けつつ微笑むユゥイ。暗にもなにも、あからさまに『ファイにそんな真似したらケツの穴ガバガバにすんぞ』という、真昼間のフィスト宣言である。
なぜファイが勝手に見たとんでもない夢のせいで、自分がそのような宣言をされなければならないのか……。
ウゾゾ、と駆け抜けた悪寒に、黒鋼は自らの身体をぎゅっと抱きしめた。
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ただ宝石のような青い瞳を見開き、相手を見上げて呆然とする。
「黒様先生……?」
見下ろしてくる黒鋼の表情は冷たく、なんの感情も読み取ることが出来ない。だが、その紅い瞳にはどこか灰暗い感情が秘められている気がして。
(もしかして、怒ってる……?)
明らかに普段と様子の異なる彼に、不安を覚えたファイは、慌てて身を起こそうとした。が、それより早く黒鋼がベッドに乗り上げてくる。
「く、黒たん!?」
咄嗟に抗おうとした両腕を掴まれ、体重をかけられることであっさり捻じ伏せられた。押さえつけられた両腕が、軋んだ音を立てる。
「痛いっ! ちょ、ちょっと! 痛いってば……ッ!!」
なぜ唐突にこのような扱いを受けるのか、痛みと混乱に、ファイは無駄と知りつつそれでも抵抗を止めなかった。身体を押さえ込まれてなお、身を捩り逃れるべく必死で足掻く。
黒鋼とするのはもちろん好きだ。だが、こんな風に強引に求められたことなど、ましてや乱暴に扱われたことなど今まで一度だってなかった。なぜこんなことになっているのか、せめて訳くらいは聞かせてほしい。
黒鋼がファイの纏うシャツの合わせを強引に掴み上げる。そのままブツブツッ、という嫌な音と共にボタンが飛び散り、引きちぎられたシャツの合間から白い肌が覗いた。
「ッ……!」
首筋に這わされた唇の熱さに、ファイは初めて黒鋼を相手に恐ろしいと感じた。
(これじゃレイプと変わらない……!)
こんなものは自分の知る黒鋼ではない。彼は強面だし、不器用ではあるが、根は誰よりも優しいのだ。絶対に、こんなことをする男ではないはずだった。
ファイはジャージ越しでも分かるほど、その肩に強く爪を立てて引き剥がそうとした。そして手も足も、身体全体を使ってこれ以上ないほど強く抵抗を示す。
「黒たんっ! お願いっ、ホントに嫌なの!! ねぇやだってば……ッ!」
激しく首を振って暴れるファイに、これまでピクリとも表情を動かさなかった黒鋼が、眉間に皺を寄せて物騒な舌打ちをした。
そして次の瞬間。
何かが弾けるみたいな、軽やかな音が室内に響いた。
瞬きも忘れて、ただ茫然と黒鋼を見上げる。驚きの方が勝り、痛みは感じなかった。何が起こったのか理解できない。
「ぁ……」
身を横たえているはずなのに、頭がクラクラして仕方がない。けれど、物理的な衝撃より、精神的なショックの方が何倍も大きかった。
(オレ……黒様にぶたれちゃった……)
恐る恐る触れた右の頬が熱かった。じわじわと熱が増すたびに、痛みが遅れて込み上げてくる。
こんなふうにぶたれたのは、これが初めてだ。タンコブが出来るほどのゲンコツの方が、いっそずっと優しい。
黒鋼は、すっと瞳を眇めてただファイを見下ろしている。
ポロポロと、自然に零れ出す涙で視界が滲む。心ごと打ちのめされた気がして、ファイは全身から一気に力を抜いた。パサリと音を立てて、両手がシーツの上に落ちた。
それが合図だとでもいうかのように、黒鋼が本格的にファイに覆いかぶさった。やだ、というか細い悲鳴など、彼の耳に届きはしない。
「やぁ……ぅ、い、たぃ……」
鼻を啜り、小さくしゃくり上げながら緩く首を振る。荒々しい動きで這い回る舌と唇が、時折鋭く歯を立てながら乱暴に痕を残していく。
節くれだった指に、ぷっくりと浮き上がる柔らかな乳首を強く擦られると、思わず喉が引き攣った。
快感よりも、痛みの方が大きい。けれど男に抱かれる行為を知っている身体は、無意識に快楽を拾い上げようとする。やがて痛みさえも悦びに塗り替えていくのに、時間はかからなかった。
ただファイにとって恐ろしいのは、こういった己の体質や性癖に、気持ちがついていかないことだ。戸惑いを飲み込むことができるまで、この浅ましい身体は待ってもくれないし、黒鋼の性急な愛撫もいっそう激しくなるばかりだった。
「ッ――!」
無意識に逃げを打とうとする腰に黒鋼の熱い手がかかる。ベルトを外す金属音が、今日はやけに残酷なものに聞こえる気がした。
抵抗しようとして、けれど先刻のあの衝撃を思いだして身を強張らせる。ぶたれた頬の熱さが、ファイの動きを封じてしまう。もう、あんなふうに暴力をふるわれるのは嫌だった。
見かけによらず器用なはずの彼の手が苛立ったように蠢き、ファイの下肢を守るもの全てを乱暴に剥いてしまった。もはや残されたのは中途半端に前を暴かれた白いシャツだけ。
太腿の内側を強く掴まれ、一気に押し開かれる。ファイは涙を溜めた瞳を見開いた。無理矢理に強いられている行為のはずが、身体の中心に息づく性器は、僅かながらに勃起していた。
黒鋼が鼻で笑う気配がして、けれど羞恥を痛感する間もなく、性器をぐっと掴まれる。全身を陸に打ち上げられた魚のように大きくしならせ、声もなく喉を反らした。
半勃ちのそれが、大きな手の中で扱かれる。押し潰されそうで、身が竦む。それでも黒鋼は手を止めない。その腕に両手を伸ばし、縋るように爪を立てた。
「ひっ、ぐ……ッ! ぁ、やだぁ……ッ! 黒、お願い……ッ、乱暴に、しないでぇ……ッ!」
「うるせぇな。だったらてめぇのこれは、なんだってこんなに濡れてきやがる?」
「ああぁ……ッ!!」
ぐりっと、親指の爪の先がデリケートな性器の窪みを抉った。絶頂の大波が全身を飲み込み、目の前が一瞬白く光ったような気がする。
黒鋼が再び鼻で嘲笑う。白濁の液で濡れた手を幾度か振れば、幾つも赤い痕の残るファイの胸や腹に、それがパタパタと降りかかる。
ファイは射精したばかりの敏感な身体を痙攣させながら、涙で頬を濡らした。両手で顔を覆い、もうやめて、と幾度も訴えた。
「もうやだよ……こんなのひどいよ……やめてよ……」
「てめぇ一人が出すもん出して終われると思ってんのか?」
「ッ……!?」
力なくベッドに沈むだけだった身体を、いとも簡単に引っくり返され、気がつくとファイは犬のように四つん這いにさせられていた。
尻だけを高く相手に突き出すような姿勢に、慌てて身体を捻ろうとして後頭部を鷲掴みにされる。そのままシーツに頬を強く押し付けられた。腫れている方の頬がシーツに擦れて、ファイはその痛みに呻く。
「ぅぐ……っ!」
先刻ファイが放ったもので濡れた指が、剥きだしの尻穴に押し付けられた。悲鳴を上げる間もなく、それが一気に2本も捻じ込まれる。
「――ッ!?」
太い指がなんの躊躇いもなく奥まで押し込まれ、ファイは大きく背中をしならせてシーツを掻いた。痛みより、息苦しさが競りあがってくる。
いつもは潤滑油を駆使して、じっくりと時間をかけて慣らされるのだ。じれったくて、ファイが急かしても黒鋼は決して妥協しない。一本、二本、と優しく開かれていくはずなのに。
指はそのまま、幾度かおざなりに出入りした後ズルリと引き抜かれた。
けれどほっと息をつく間もなく熱いものが入り口に押し付けられて、ビクリと身体が跳ねた。
頭部を鷲掴みにしていた手が腰をぐっと掴んで引き寄せようとする。首だけをどうにか捻り、あまりの恐怖に目を見開いた。
「黒、さま……? ま、って……、ぅ、そ……? ま……っ!?」
力の入らない腰を捩ってズルズルと逃げを打つ。けれど腰を強く引かれるのと、打ち付けられるのは同時だった。衝撃に背筋が弓のように反り返り、涙が辺りに飛び散った。
満足に声を出すことも出来ず、開かれたままの唇からは唾液が零れる。
引き裂かれるような痛み。あまりにも小さすぎる穴は、満足に潤いもないままに硬く大きな性器を飲み込まされ、悲鳴を上げている。
「ぁっ、ぐ……ッ! ぅ、うぅ……ッ!!」
黒鋼が、最後の一押しとでも言うかのように腰をぐっと押し進めた。ガツンというぶつかるような衝撃が、内部から脳天にかけて響き渡る。
上半身をすっかり脱力させて小刻みに震えるファイの頭上で、黒鋼は一つ息を吐き出すのが聞こえた。それから、小さく笑うような息遣いも。涙が、シーツにシミを作る。
「ど、して……こんなこと、するの……酷い……よ」
「そんなもん」
黒鋼が掴んでいる腰に再び力を入れた。ファイもギクリと全身を強張らせる。
「てめぇの胸にでも聞いてみやがれ」
「ひぎッ、ぃっ……!? や、あぁぁ……!!」
有無を言わさず、ぎちぎちと食いついて余裕の無い穴を肉棒が蹂躙する。ブチ、という音がして、皮膚が割けて傷ついたことがわかった。皮肉なことに、その出血が黒鋼の突き上げる動きの助けになる。
あまりの痛みと衝撃に、ファイはもはや切れ切れに悲鳴を上げて、シーツに縋りつくことしか術はなかった。
自分が何をしたというのだろう。どうして、彼はこれほどまでに豹変してしまったのか。
もし何か気に障ることをしてしまったのなら謝りたい。これ以上、自分に彼を恐がらせないでほしい。大好きなのに。彼が望むなら、どんな酷いことだって受け入れるのに。けれど、こんなふうに人形のように扱われるのだけは、あまりにも悲しかった。
「ぃ、ぎッ、……! ぁぐっ……! あっ、ぃ、痛い……―っ! 痛い、よぉ……ッ!!」
ガクガクと舌を噛みそうになるほど激しく揺さぶられて、このまま腹を破られてしまうのではないかという恐怖に駆られる。こんなにも深く咥えこまされたのも、これが初めてだった。
「ぉ、なか、お腹、が……ッ! 黒、さまっ……ッ、たす、けて……ッ!」
腹の中いっぱいに黒鋼の肉が容赦なく打ち込まれては、淫らな音を立てる。レイプされているというのに、やはりファイの意思は置いてきぼりを食らい、激痛の中によく知る感覚が生まれつつあった。
腰を打ちつけながら、黒鋼がそれを察して低く笑った。
「てめぇのここは悦んでるじゃねぇか……だらしねぇな、この淫乱が……ッ」
パンッと一つ尻の肉を叩かれ、ファイは犬のような甲高い悲鳴を上げて、背を反らした。
その隙をついて黒鋼の両手が伸びてくると、それぞれ背後からファイの二の腕を掴んで引き上げる。強引に膝立ちの姿勢にまで引き上げられて、ファイはその薄い胸を天井に向けて突き出す形になった。腹につくほど反り返った性器が粒のような液を滴らせ、揺さぶられる度に淫らに散っていた。
「やっ、ぁんっ……ッ! ちがうっ、オレ、違う、の……ッ! こんッ、なの、ッ……ちがっ……!」
「何が違うって? 強姦されて、メスブタみてぇによがってるてめぇの、何が違うってんだ?」
耳を塞ぎたくなるような黒鋼の言葉ごと、ファイは最早それを快感として受け止めていた。そうだ、無理矢理に犯されて、酷いことを言われて、この身体は上り詰めようとしている。
人形のように、玩具のように。弄ばれて犯されて、感じているのだ。
せめてもの抵抗は、ただひたすら「違う」だとか「嫌」だとかいう否定の言葉を、嫌々と首を振りながら紡ぐことのみだ。
けれどそれも、甘い嬌声に満ちている。
(嫌なのに……ちゃんと優しくしてほしいのに、オレ……もう……)
「だめっ……! あっ……ぃ、い……! イッちゃう……ッ! オレ、レイプされて、イッちゃう……ッ!!」
「いけよ、たっぷり出してやる……ッ」
「ヒッ……!? ぅあ……! だ、め……ッ、ナカ、やだ……ッ、や、ぁ――……ッ!!」
本当に突き破られるのではないかというくらい、一際強く突かれた瞬間、ファイは絶頂を迎えた。勢いよく飛び出した精液が胸や顔にまでかかり、同時に耳元で低い唸り声が聞こえた。
内部でドクドクと脈打つ黒鋼が、熱い迸りで内壁を満たす。断続的に中に出されるたびに、ファイは大きく痙攣した。
「ぁ、ぁ……でて、る……黒様のせーし、いっぱぃ……出ちゃって、る……」
黒鋼が獣のように吐息を震わせながら、肉棒を引き抜いた。同時に手綱のように掴まれていた両腕も放されて、ファイは尻だけを高く掲げたまま、上半身をぐったりとシーツに沈めた。痙攣が治まらない。
尻の肉を掴まれてぐっと押し広げられると、ヒクつく穴からドロリとした精液が大量に零れ落ちる。黒鋼は人差し指を中に押し込み、馴染ませるようにして掻き回すと、口元を緩めた。
「まだだ。もっと犯してやるよ」
「もっ……と……?」
(もっと……して欲しい……)
もはや何も考えられない。思考や理性など、とうに輪郭を失っていた。
自分の胸に聞いてみろ。そう言った黒鋼の言葉。そうだ、これを、これこそを、ファイは望んでいた。
もっともっと、奴隷のようにいたぶられたい。どろどろに穢して欲しい。彼なら、それを叶えてくれる……。
――ファイは虚ろな瞳で微笑んだ。
*
「て、ゆう夢を見たんだー」
穏やかな木漏れ日の差す昼下がりだった。
校庭を一望できる木陰のベンチで、ファイがヘラヘラと笑った。
黒鋼は口に放り込んだばかりのタコさんウィンナーを、ブッと噴出す。
「食べものは粗末にしないでください」
ユゥイが無表情でティッシュを取り出し、砂に塗れたウィンナーを拾った。
「てめぇ、なんつう胸糞悪い夢を見てやがる! てめぇも落ち着いてねぇで、変態兄貴になんとか言いやがれ!!」
「ほらファイ、口にご飯粒つけてるよ」
「んー、ありがとーユゥイー」
ユゥイが指でファイの口元の白い粒を摘んで、それを自分の口元に運び入れた。
そうして黒鋼を挟むようにして弁当をつついていた双子が、仲睦まじく笑い合っている。黒鋼の膝は、もはやユゥイが作ってきた弁当を置くためのテーブル代わりだった。
「聞いてんのか!?」
「ちょっとー、黒たん先生が暴れたらお弁当落ちちゃうでしょー」
「だから聞け!!」
一向に人の話を聞こうとしない2人に、黒鋼はちょっと涙目である。ファイは甘い玉子焼きをもちゃもちゃと頬張りながら、ウットリと空を見上げた。
「鬼畜な黒様先生、すっごいカッコよくてゾクゾクしちゃったよー……ねぇねぇ、今夜やってよー」
「はぁ!?」
いくらすっかりバレているとはいえ、兄弟がいる前でなんという発言をかますのか。
「黒様先生はちょっと淡泊すぎだよー。本当は無理矢理とか、ちょっとやってみたいくせにー」
もう怒鳴り散らすのも疲れきっていた。実際はゲンコツの一つもかましてやりたいところだが、それをすれば本当に膝の上の弁当箱が引っくり返る。そうすれば、お隣の弟さんにどんな仕打ちを受けるか分からない。
ファイは相変わらず耳を塞ぎたくなるような夢の内容を語り続けている。
「先生」
ブルブルと苛立ちに震える黒鋼の傍らから、勤めて冷静な声が呼びかけてきた。
「あ?」
「尻に拳を捻じ込まれたくなかったら、実際そんな馬鹿な真似しないでくださいね。絶対」
「……ッ!?」
「黒鋼先生、処女でしょ? いきなり拳はキツイですよ」
だから、ね? と握った拳を見せ付けつつ微笑むユゥイ。暗にもなにも、あからさまに『ファイにそんな真似したらケツの穴ガバガバにすんぞ』という、真昼間のフィスト宣言である。
なぜファイが勝手に見たとんでもない夢のせいで、自分がそのような宣言をされなければならないのか……。
ウゾゾ、と駆け抜けた悪寒に、黒鋼は自らの身体をぎゅっと抱きしめた。
←戻る ・ Wavebox👏
「う、嘘でしょー!?」
朝の光が差し込む化学準備室に、ファイの悲鳴じみた声が響き渡った。
「嘘じゃねぇ」
無愛想を心なしかさらにムッツリとさせた黒鋼が、ファイの机の椅子にどっかりと腰を下ろし、腕を組みながらそれに返す。
「やだやだやだー! そんなの絶対やだー!! クリスマスだよ!? 二人でしっぽりロマン溢れた一夜を過ごす絶好のイベントなんだよ!?」
青褪めながらダダをこねるファイが、そんな黒鋼の両肩を掴んでガクガクと揺さぶった。が、それくらいで彼がガックンガックンするはずもなく、いとも容易く両手を払われてしまう。
「決まっちまったもんはしょうがねぇだろ。てかロマンてなんだロマンて」
「そんな……そんな……」
「どうでもいいが、いい加減そこどけ」
「そんなぁ……」
現在、絶望に打ちひしがれるファイが腰かけているのは、黒鋼の膝の上だった。
まるでしがみつくようにみっちりと彼と向き合っていたファイは、ほんの数分前までは上機嫌で黒いツンツン頭をワシャワシャしたり、引き締まっているようでいて実は案外よく伸びる頬をむにゅんと引っ張ったりして、無邪気にはしゃいでいた。
なんといっても黒鋼がこの化学準備室へわざわざ訪れること(怒って怒鳴り込んでくることはあっても)は珍しかった。それだけでも嬉しいのに、さらに撫でたり抓ったり突いたりしてもただ黙って受け入れる黒鋼に、ファイの機嫌は鰻上りだった。躁状態と言ってもいいほどに。
それが今や月とすっぽん……いや、太陽とミジンコくらいの勢いで落ち込まされていた。
いよいよ目前へと迫った今年のクリスマス、なんと黒鋼は急な出張が入ったというのだ。
「じゃあオレも行く……」
「馬鹿言うな」
上目使いで訴えてみるも、黒鋼は取り付く島もないほどにピシャリとそれを却下する。
「黒たぁん……」
どけ、と言われて素直にどくほど聞き分けのよくないファイが、唇を尖らせながら再び黒鋼の肩にしがみついた。
だが彼は眉間の皺を濃くしながら、面倒臭そうにため息を零すだけだった。
「あのなぁ……ガキじゃねぇんだからごねるんじゃねぇよ。幾つだてめぇは。だいたい俺だって」
「どうせオレは身体は大人で中身は子供だよー!! 黒たん先生にはどうでもいいイベントかもしれないけど、オレにとってはすっごい特別だったんだからぁ!! それをめんどくさそーにあしらうとか、そんなの酷いよぉー!!」
黒鋼の言葉を遮るように大声で不満をぶちまけながら、両肩を拳でガンガン叩いた。
「いてっ! こら! いてぇって言ってんだよこのアホ落ち着け!!」
「ハッ!? まさか、実は他に女が出来たんじゃないでしょうね!?」
「あぁ!?」
「誰よ!? 一体どこの泥棒猫なのよ!? 地方妻なんか作っちゃってこの浮気モノ!!」
なぜかオネェ言葉になりながらバタバタと暴れるファイだったが、次の瞬間チャイムの音が鳴り響いた。怒鳴り出す一歩手前だった黒鋼が顔を上げる。
「あ、やべぇ」
そして、膝でファイが暴れているのもお構いなしにすっくと立ち上がった。
「ぴぎゃあ!?」
ベターンと音を立てて床に放り出されたファイは、冷え切った床にその臀部を思いっきり打ち付けるはめになった。
「いったぁーいぃぃ!! お尻割れたぁーっ!!」
「てめぇ授業入ってんだろうが。遊んでねぇでとっとと行け!」
「うっうっ……」
床にペタンと女の子座りをしながらシクシクと泣き出したファイに、黒鋼は頭をガリガリと掻きながらしゃがみ込むと、ジャージのポケットの中から取り出したものをファイの膝にポンと置いた。
そういえば先刻から彼のポケット部分が不自然に盛り上がり、ガサガサしていたことはファイも気がついていた。
「……なにこれ」
「これやるから機嫌直せ」
それは校内の売店に売っている飴の袋だった。イチゴやバナナやメロンなど、何種類かの味が入った赤とピンクの大きな袋には、これまた可愛い白いウサギのキャラクターが描かれていた。
黒鋼なりの精一杯のご機嫌取りなのだとは思う。これも踏まえて、どうりで好き勝手いたずらしても黙って耐えていたわけだ。
いつものファイならこれで全てを水に流すことが出来ただろう。けれど、今はどうしてもこれだけでは納まらなかった。
子供っぽいキャラクターの書かれた飴の袋が、むしろ腹立たしくて仕方が無い。
「バカにして!! もう黒たん先生なんか大嫌いだよっ!!」
さっさと扉の向こうへ消えてしまった黒鋼に向けて、ファイは癇癪を起こした子供のように飴の袋を投げつけていた。
*
「黒たん先生のバカ……糖尿になって死んでやる……」
ファイの口の中では、五つ目の飴が転がされていた。
イチゴ、バナナ、メロンの他にモモとオレンジの飴が入っていて、ファイはそれをしらみつぶしに口の中に放り込んでいた。現在、口の中はオレンジで満たされている。
結局、今日はあれ以来黒鋼とは口を利いていない。いつもは必ず昼食は一緒だし、ヒマさえあれば顔を合わせているはずが、今日はそれをしなかった。
今は夕飯時だが、ファイは自室に閉じこもっている。
普段であればユゥイが作った夕飯を三人で食べている頃だったが、弟は少し早めの休暇を取り、実家へ戻っている。
いっそのこと自分も休みに入ったら一度国へ帰ろうか。
出来もしないことをふと考えて、ファイは重苦しい息を吐き出した。
冬休みだろうが夏休みだろうが、教師に遊ぶための時間などほとんどない。やることはそれなりに山積みなのだ。
「分かってるよ……そんなこと……」
ファイは口の中で溶けて小さくなっていた飴を、奥歯で噛み砕いた。そして、テーブルの中央に置かれた飴の群を眺める。
扉にぶち当たった飴の袋は、無残に破れて中身が散乱してしまった。
可愛い白いウサギは半分にざっくり破けてしまったけれど、あれほど怒っていたはずのファイは、それでも袋を捨てることが出来なかった。飴も、申し分なく甘くて美味しい。
学生だった頃のように、ある程度時間を好きに使うことが出来ない立場であることは、分かっている。
だから自分がどんなに理不尽で我侭であるかを、ファイはちゃんと知っていた。
「でも……悲しかったんだもん……」
口の中にはまだオレンジの味が残っていた。けれど粉々に砕けた飴は、もう消えてしまった。
*
イヴは毎年のように理事長室でどんちゃん騒ぎだった。今年はユゥイのケーキも彼自身も不在で、そして午前中には旅立ってしまった黒鋼も当然いなかったが、それでも盛大な盛り上がりを見せた。
あれから数日の間もファイが黒鋼とまともに口を利くことは無く、出張へと赴く彼を見送ることもしなかった。
出掛けに彼は一つ扉を叩いて「飲みすぎるなよ」と声をかけてくれた。
素直にドアを開けて謝ってしまえばそこで済んだ話なのに、意地を張り続けたせいで顔を合わせにくくなっていた。バカだなぁと、心底自分が嫌になる。
別に本気で浮気を疑っているわけではない。惚れた贔屓目を抜きにしても、黒鋼に限ってそんな真似をするはずがないことくらい、十分理解しているつもりだった。
それ以前に、職員室にあるボードにはちゃんと行き先が書かれていた。
出張なんて彼も自分も含めてこれまでだってあったことで、今回はそれがたまたま運悪くクリスマスというイベントに重なっただけだ。
けれど、ファイにとっては重要なことだった。特に今年は。
「キャンセル料……地味に痛い……」
携帯を閉じながらガックリと項垂れ、ファイが顔を埋めたのは自室のベッドではなく、なぜか黒鋼の部屋のベッドの枕だった。
酒に強いとはいっても相当量を摂取し、さすがに足もとのふらつく中でどうしても無人の自室へ戻る気になれなかったファイは、黒鋼の部屋のドアを合鍵を使って開けた。
せめて彼の生活空間の中で彼を感じながら過ごしたいなんて、オレってなんて健気なんだろう、などと思ったのも束の間、黒鋼の匂いを吸い込むほどに、もやもやとした苛立ちやら後悔が波のように押し寄せてくる。
「こんなことなら……」
呟きは黒鋼の愛用のふかふか枕の中へと吸い込まれてゆく。
――こんなことなら、サプライズなんて考えなきゃよかった。
黒鋼はイベント事にはどうにも疎い。クリスマスだろうがなんだろうが、酒を飲むための無礼講行事くらいにしか思っていないのだ。
ファイだってアルコールの類いは大好きだった。ハメを外すのも同じくらい好きだし、大勢でわいわいやるのだってとても楽しい。
けれど、たまには食い気やアルコールよりも色気を優先させたっていいと思う。
だがそんなことを黒鋼に訴えたところで、そっけなく気のない返事しかもらえないことは分かっていた。
そこで、ファイは今年のクリスマスにちょっとした計画を立てたのだった。
夜景の見える高級レストランを、思い切って。
実のところもう随分と以前からこのレストランは目をつけていた。黒鋼に連れて行ってほしいと強請ったこともあるが、当たり前のように面倒臭そうな返答しか得られなかったのだ。
だったら自分が強引にでも引っ張って行こうと決めたファイは、半年以上も前から予約して、様々な演出プランを練っていた。
酒さえ飲めればなんでもいいような男であったとしても、いっそあからさまなムードの中でくらいは、甘い台詞の一つでも囁いてくれるかもしれない……そのあと二人はしっぽりホテルで……なんてやましいことを考えては、ワクワクドキドキうふふあははと顔をにやつかせていた。
それが完璧に実行不可能になったファイは、黒鋼とケンカ(一方的にだが)したばかりか、それなりに痛々しい額のキャンセル料を支払う羽目になってしまった。
なので、本来なら黒鋼の知らぬところで勝手に計画を立てていたに過ぎないファイは、実に自分勝手で理不尽な怒りを彼にぶつけてしまったことになる。
「黒たん……ちゃんとご飯食べたかな……お腹壊したりしてないかな……」
電話でもしてみようかと身を起こして、携帯を開いた。けれどふと目に留まった画面の時刻が、もう随分と遅い時間であるのを見て、溜息を零す。
イヴはもう終わっていた。今日は、クリスマス。
連絡をするのは朝が来てから、メールくらいなら忙しくても合間を縫って返事をくれるかもしれない。一言でも謝罪しなければ気がすまなかった。
「うん。寝てたら悪いもんね。我慢しとこ……」
そう呟いて再び携帯を閉じようとした、そのときだった。携帯が着信を告げるメロディを奏ではじめる。ドキリとして画面を見れば、そこに表示されていたのは今ファイが一番話したいと思っていた人間の名前だった。
慌てて受話ボタンを押して、耳に当てる。
「もももっ、もひもひ!?」
『何だもひもひってのは。酔っ払ってんのか』
「ちが、酔ってないし!」
『だろうな。起きてたか?」
「うん、うん、うん!」
相手は受話器の向こうだというのに、ファイは幾度も首を振って頷いた。今朝、扉ごしに声は聞いているはずなのに、随分と久しぶりに彼の声を聞くような気がしてドキドキする。
そして、今の今まで謝罪したいと考えていたはずが、いざとなると胸がいっぱいになって言葉が出てこない。
「あ、あの、あのさ、黒たん先生、お、オレ、オレさ……」
『あ? ついにまともに人語も喋れなくなったのかよてめぇは』
「ちょ、違うよー! ちゃんと喋れるってば! せっかく人が素直にさー……」
受話器の向こうで、黒鋼が少しだけ笑った気配がした。
多分、彼はファイが自分の我侭を悔いていることも、顔を合わせにくかったことも、全てお見通しなのだと思う。
そう思うと、もう言葉はいらない気がした。胸の奥がすっと柔らかく解けていくような気がして、肩からも力が抜けてゆく。
彼はムードもへったくれもないし、意地悪なことばかり言うし、すぐに怒るけれど、甘くて美味しい飴をくれたりもする。この鬼のように目つきの悪いデカイ男が、一体どんな顔をしてあんな可愛らしいパッケージの飴なんぞを購入したのだろう。
分かっている。どれだけ大切に思われているか。愛されているか。痛いほど。
「黒たん……飴、ありがと」
そう思えばこそ、ファイは謝罪するよりも先に礼を述べていた。破けてしまったパッケージの白いウサギは、セロハンテープで補強して大事に仕舞ってある。
『美味かったか?』
「うん……もう一個しか残ってないよ」
『糖尿になるな』
「なったら黒たんのせいじゃんかー」
『それもそうだな』
彼がまた笑った気がした。顔が見たい。あからさまに笑顔を見せることのない黒鋼は、顔を合わせた途端にはすぐにむっつりと顔を顰めてしまうかもしれない。それでもよかった。あの眉間に寄った皺や、鋭いくせに優しい瞳を見たかった。
(なんだ……そういうことか……)
ふとファイは、クリスマスなんて別に特別なことでもなんでもないのかもしれないと思った。いつも一緒だから時々忘れてしまうけれど、こうして少しでも離れてみれば痛いほど分かる。
一緒だから、毎日が特別なのだと。
『もう寝ろ。どうせ俺の部屋にいるんだろ』
「うん。すぐバレちゃうんだねぇ」
『当たり前だ』
「そういえば、どうして電話くれたの? 何か用事あった?」
『ああ……』
黒鋼は、短い返事のあとに少し間を置いた。何か言い難いことでもあるのかと小首を傾げていると、小さな咳払いが聞こえた。
「なに?」
『明日……もう今日だな。日付が変わる前にはギリギリ帰る』
「え? でも、戻るのは26日の予定だったんじゃ……?」
確かボードにはそう書いてあった。そしてふと、黒鋼が日付が変わることを気にかけていることにピンときた。
「黒たん……」
『うるせぇな。それ以上文句は言わせねぇぞ』
「うん……うん……。ケーキ用意して待ってる」
『そんなもんいるか。酒だ酒。いいの隠してんだろ、どうせ』
「ほーんと、どうしてすぐにバレちゃうのかなぁ~」
半ば呆れたように口にすると、黒鋼は再び『当たり前だ』と言った。
ファイは結局、いつもと同じだなぁと思った。
最初から美しい夜景も、頬を蕩かすような絶品の料理もいらなかった。だってクリスマスは特別なんかじゃないから。二人でいればそれでいい。
ポケットの中に最後に残っている飴はイチゴ味だった。
ケーキの上に乗っている本物のそれよりも、こっちの方がずっと甘いことをファイは知っている。
最後の苺は、明日の夜までとっておこう。
彼が戻る少し前に口に放り込んで、舌の上でそれを転がしながらゆっくりと溶かしているうちに。
「待ってる。とっておきのお酒と一緒にね」
きっと黒鋼は帰ってきてくれるだろう。
←戻る ・ Wavebox👏
朝の光が差し込む化学準備室に、ファイの悲鳴じみた声が響き渡った。
「嘘じゃねぇ」
無愛想を心なしかさらにムッツリとさせた黒鋼が、ファイの机の椅子にどっかりと腰を下ろし、腕を組みながらそれに返す。
「やだやだやだー! そんなの絶対やだー!! クリスマスだよ!? 二人でしっぽりロマン溢れた一夜を過ごす絶好のイベントなんだよ!?」
青褪めながらダダをこねるファイが、そんな黒鋼の両肩を掴んでガクガクと揺さぶった。が、それくらいで彼がガックンガックンするはずもなく、いとも容易く両手を払われてしまう。
「決まっちまったもんはしょうがねぇだろ。てかロマンてなんだロマンて」
「そんな……そんな……」
「どうでもいいが、いい加減そこどけ」
「そんなぁ……」
現在、絶望に打ちひしがれるファイが腰かけているのは、黒鋼の膝の上だった。
まるでしがみつくようにみっちりと彼と向き合っていたファイは、ほんの数分前までは上機嫌で黒いツンツン頭をワシャワシャしたり、引き締まっているようでいて実は案外よく伸びる頬をむにゅんと引っ張ったりして、無邪気にはしゃいでいた。
なんといっても黒鋼がこの化学準備室へわざわざ訪れること(怒って怒鳴り込んでくることはあっても)は珍しかった。それだけでも嬉しいのに、さらに撫でたり抓ったり突いたりしてもただ黙って受け入れる黒鋼に、ファイの機嫌は鰻上りだった。躁状態と言ってもいいほどに。
それが今や月とすっぽん……いや、太陽とミジンコくらいの勢いで落ち込まされていた。
いよいよ目前へと迫った今年のクリスマス、なんと黒鋼は急な出張が入ったというのだ。
「じゃあオレも行く……」
「馬鹿言うな」
上目使いで訴えてみるも、黒鋼は取り付く島もないほどにピシャリとそれを却下する。
「黒たぁん……」
どけ、と言われて素直にどくほど聞き分けのよくないファイが、唇を尖らせながら再び黒鋼の肩にしがみついた。
だが彼は眉間の皺を濃くしながら、面倒臭そうにため息を零すだけだった。
「あのなぁ……ガキじゃねぇんだからごねるんじゃねぇよ。幾つだてめぇは。だいたい俺だって」
「どうせオレは身体は大人で中身は子供だよー!! 黒たん先生にはどうでもいいイベントかもしれないけど、オレにとってはすっごい特別だったんだからぁ!! それをめんどくさそーにあしらうとか、そんなの酷いよぉー!!」
黒鋼の言葉を遮るように大声で不満をぶちまけながら、両肩を拳でガンガン叩いた。
「いてっ! こら! いてぇって言ってんだよこのアホ落ち着け!!」
「ハッ!? まさか、実は他に女が出来たんじゃないでしょうね!?」
「あぁ!?」
「誰よ!? 一体どこの泥棒猫なのよ!? 地方妻なんか作っちゃってこの浮気モノ!!」
なぜかオネェ言葉になりながらバタバタと暴れるファイだったが、次の瞬間チャイムの音が鳴り響いた。怒鳴り出す一歩手前だった黒鋼が顔を上げる。
「あ、やべぇ」
そして、膝でファイが暴れているのもお構いなしにすっくと立ち上がった。
「ぴぎゃあ!?」
ベターンと音を立てて床に放り出されたファイは、冷え切った床にその臀部を思いっきり打ち付けるはめになった。
「いったぁーいぃぃ!! お尻割れたぁーっ!!」
「てめぇ授業入ってんだろうが。遊んでねぇでとっとと行け!」
「うっうっ……」
床にペタンと女の子座りをしながらシクシクと泣き出したファイに、黒鋼は頭をガリガリと掻きながらしゃがみ込むと、ジャージのポケットの中から取り出したものをファイの膝にポンと置いた。
そういえば先刻から彼のポケット部分が不自然に盛り上がり、ガサガサしていたことはファイも気がついていた。
「……なにこれ」
「これやるから機嫌直せ」
それは校内の売店に売っている飴の袋だった。イチゴやバナナやメロンなど、何種類かの味が入った赤とピンクの大きな袋には、これまた可愛い白いウサギのキャラクターが描かれていた。
黒鋼なりの精一杯のご機嫌取りなのだとは思う。これも踏まえて、どうりで好き勝手いたずらしても黙って耐えていたわけだ。
いつものファイならこれで全てを水に流すことが出来ただろう。けれど、今はどうしてもこれだけでは納まらなかった。
子供っぽいキャラクターの書かれた飴の袋が、むしろ腹立たしくて仕方が無い。
「バカにして!! もう黒たん先生なんか大嫌いだよっ!!」
さっさと扉の向こうへ消えてしまった黒鋼に向けて、ファイは癇癪を起こした子供のように飴の袋を投げつけていた。
*
「黒たん先生のバカ……糖尿になって死んでやる……」
ファイの口の中では、五つ目の飴が転がされていた。
イチゴ、バナナ、メロンの他にモモとオレンジの飴が入っていて、ファイはそれをしらみつぶしに口の中に放り込んでいた。現在、口の中はオレンジで満たされている。
結局、今日はあれ以来黒鋼とは口を利いていない。いつもは必ず昼食は一緒だし、ヒマさえあれば顔を合わせているはずが、今日はそれをしなかった。
今は夕飯時だが、ファイは自室に閉じこもっている。
普段であればユゥイが作った夕飯を三人で食べている頃だったが、弟は少し早めの休暇を取り、実家へ戻っている。
いっそのこと自分も休みに入ったら一度国へ帰ろうか。
出来もしないことをふと考えて、ファイは重苦しい息を吐き出した。
冬休みだろうが夏休みだろうが、教師に遊ぶための時間などほとんどない。やることはそれなりに山積みなのだ。
「分かってるよ……そんなこと……」
ファイは口の中で溶けて小さくなっていた飴を、奥歯で噛み砕いた。そして、テーブルの中央に置かれた飴の群を眺める。
扉にぶち当たった飴の袋は、無残に破れて中身が散乱してしまった。
可愛い白いウサギは半分にざっくり破けてしまったけれど、あれほど怒っていたはずのファイは、それでも袋を捨てることが出来なかった。飴も、申し分なく甘くて美味しい。
学生だった頃のように、ある程度時間を好きに使うことが出来ない立場であることは、分かっている。
だから自分がどんなに理不尽で我侭であるかを、ファイはちゃんと知っていた。
「でも……悲しかったんだもん……」
口の中にはまだオレンジの味が残っていた。けれど粉々に砕けた飴は、もう消えてしまった。
*
イヴは毎年のように理事長室でどんちゃん騒ぎだった。今年はユゥイのケーキも彼自身も不在で、そして午前中には旅立ってしまった黒鋼も当然いなかったが、それでも盛大な盛り上がりを見せた。
あれから数日の間もファイが黒鋼とまともに口を利くことは無く、出張へと赴く彼を見送ることもしなかった。
出掛けに彼は一つ扉を叩いて「飲みすぎるなよ」と声をかけてくれた。
素直にドアを開けて謝ってしまえばそこで済んだ話なのに、意地を張り続けたせいで顔を合わせにくくなっていた。バカだなぁと、心底自分が嫌になる。
別に本気で浮気を疑っているわけではない。惚れた贔屓目を抜きにしても、黒鋼に限ってそんな真似をするはずがないことくらい、十分理解しているつもりだった。
それ以前に、職員室にあるボードにはちゃんと行き先が書かれていた。
出張なんて彼も自分も含めてこれまでだってあったことで、今回はそれがたまたま運悪くクリスマスというイベントに重なっただけだ。
けれど、ファイにとっては重要なことだった。特に今年は。
「キャンセル料……地味に痛い……」
携帯を閉じながらガックリと項垂れ、ファイが顔を埋めたのは自室のベッドではなく、なぜか黒鋼の部屋のベッドの枕だった。
酒に強いとはいっても相当量を摂取し、さすがに足もとのふらつく中でどうしても無人の自室へ戻る気になれなかったファイは、黒鋼の部屋のドアを合鍵を使って開けた。
せめて彼の生活空間の中で彼を感じながら過ごしたいなんて、オレってなんて健気なんだろう、などと思ったのも束の間、黒鋼の匂いを吸い込むほどに、もやもやとした苛立ちやら後悔が波のように押し寄せてくる。
「こんなことなら……」
呟きは黒鋼の愛用のふかふか枕の中へと吸い込まれてゆく。
――こんなことなら、サプライズなんて考えなきゃよかった。
黒鋼はイベント事にはどうにも疎い。クリスマスだろうがなんだろうが、酒を飲むための無礼講行事くらいにしか思っていないのだ。
ファイだってアルコールの類いは大好きだった。ハメを外すのも同じくらい好きだし、大勢でわいわいやるのだってとても楽しい。
けれど、たまには食い気やアルコールよりも色気を優先させたっていいと思う。
だがそんなことを黒鋼に訴えたところで、そっけなく気のない返事しかもらえないことは分かっていた。
そこで、ファイは今年のクリスマスにちょっとした計画を立てたのだった。
夜景の見える高級レストランを、思い切って。
実のところもう随分と以前からこのレストランは目をつけていた。黒鋼に連れて行ってほしいと強請ったこともあるが、当たり前のように面倒臭そうな返答しか得られなかったのだ。
だったら自分が強引にでも引っ張って行こうと決めたファイは、半年以上も前から予約して、様々な演出プランを練っていた。
酒さえ飲めればなんでもいいような男であったとしても、いっそあからさまなムードの中でくらいは、甘い台詞の一つでも囁いてくれるかもしれない……そのあと二人はしっぽりホテルで……なんてやましいことを考えては、ワクワクドキドキうふふあははと顔をにやつかせていた。
それが完璧に実行不可能になったファイは、黒鋼とケンカ(一方的にだが)したばかりか、それなりに痛々しい額のキャンセル料を支払う羽目になってしまった。
なので、本来なら黒鋼の知らぬところで勝手に計画を立てていたに過ぎないファイは、実に自分勝手で理不尽な怒りを彼にぶつけてしまったことになる。
「黒たん……ちゃんとご飯食べたかな……お腹壊したりしてないかな……」
電話でもしてみようかと身を起こして、携帯を開いた。けれどふと目に留まった画面の時刻が、もう随分と遅い時間であるのを見て、溜息を零す。
イヴはもう終わっていた。今日は、クリスマス。
連絡をするのは朝が来てから、メールくらいなら忙しくても合間を縫って返事をくれるかもしれない。一言でも謝罪しなければ気がすまなかった。
「うん。寝てたら悪いもんね。我慢しとこ……」
そう呟いて再び携帯を閉じようとした、そのときだった。携帯が着信を告げるメロディを奏ではじめる。ドキリとして画面を見れば、そこに表示されていたのは今ファイが一番話したいと思っていた人間の名前だった。
慌てて受話ボタンを押して、耳に当てる。
「もももっ、もひもひ!?」
『何だもひもひってのは。酔っ払ってんのか』
「ちが、酔ってないし!」
『だろうな。起きてたか?」
「うん、うん、うん!」
相手は受話器の向こうだというのに、ファイは幾度も首を振って頷いた。今朝、扉ごしに声は聞いているはずなのに、随分と久しぶりに彼の声を聞くような気がしてドキドキする。
そして、今の今まで謝罪したいと考えていたはずが、いざとなると胸がいっぱいになって言葉が出てこない。
「あ、あの、あのさ、黒たん先生、お、オレ、オレさ……」
『あ? ついにまともに人語も喋れなくなったのかよてめぇは』
「ちょ、違うよー! ちゃんと喋れるってば! せっかく人が素直にさー……」
受話器の向こうで、黒鋼が少しだけ笑った気配がした。
多分、彼はファイが自分の我侭を悔いていることも、顔を合わせにくかったことも、全てお見通しなのだと思う。
そう思うと、もう言葉はいらない気がした。胸の奥がすっと柔らかく解けていくような気がして、肩からも力が抜けてゆく。
彼はムードもへったくれもないし、意地悪なことばかり言うし、すぐに怒るけれど、甘くて美味しい飴をくれたりもする。この鬼のように目つきの悪いデカイ男が、一体どんな顔をしてあんな可愛らしいパッケージの飴なんぞを購入したのだろう。
分かっている。どれだけ大切に思われているか。愛されているか。痛いほど。
「黒たん……飴、ありがと」
そう思えばこそ、ファイは謝罪するよりも先に礼を述べていた。破けてしまったパッケージの白いウサギは、セロハンテープで補強して大事に仕舞ってある。
『美味かったか?』
「うん……もう一個しか残ってないよ」
『糖尿になるな』
「なったら黒たんのせいじゃんかー」
『それもそうだな』
彼がまた笑った気がした。顔が見たい。あからさまに笑顔を見せることのない黒鋼は、顔を合わせた途端にはすぐにむっつりと顔を顰めてしまうかもしれない。それでもよかった。あの眉間に寄った皺や、鋭いくせに優しい瞳を見たかった。
(なんだ……そういうことか……)
ふとファイは、クリスマスなんて別に特別なことでもなんでもないのかもしれないと思った。いつも一緒だから時々忘れてしまうけれど、こうして少しでも離れてみれば痛いほど分かる。
一緒だから、毎日が特別なのだと。
『もう寝ろ。どうせ俺の部屋にいるんだろ』
「うん。すぐバレちゃうんだねぇ」
『当たり前だ』
「そういえば、どうして電話くれたの? 何か用事あった?」
『ああ……』
黒鋼は、短い返事のあとに少し間を置いた。何か言い難いことでもあるのかと小首を傾げていると、小さな咳払いが聞こえた。
「なに?」
『明日……もう今日だな。日付が変わる前にはギリギリ帰る』
「え? でも、戻るのは26日の予定だったんじゃ……?」
確かボードにはそう書いてあった。そしてふと、黒鋼が日付が変わることを気にかけていることにピンときた。
「黒たん……」
『うるせぇな。それ以上文句は言わせねぇぞ』
「うん……うん……。ケーキ用意して待ってる」
『そんなもんいるか。酒だ酒。いいの隠してんだろ、どうせ』
「ほーんと、どうしてすぐにバレちゃうのかなぁ~」
半ば呆れたように口にすると、黒鋼は再び『当たり前だ』と言った。
ファイは結局、いつもと同じだなぁと思った。
最初から美しい夜景も、頬を蕩かすような絶品の料理もいらなかった。だってクリスマスは特別なんかじゃないから。二人でいればそれでいい。
ポケットの中に最後に残っている飴はイチゴ味だった。
ケーキの上に乗っている本物のそれよりも、こっちの方がずっと甘いことをファイは知っている。
最後の苺は、明日の夜までとっておこう。
彼が戻る少し前に口に放り込んで、舌の上でそれを転がしながらゆっくりと溶かしているうちに。
「待ってる。とっておきのお酒と一緒にね」
きっと黒鋼は帰ってきてくれるだろう。
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その夜、ひとしきり情事を交わしたファイと黒鋼は、狭いベッドの上でダラダラと寝そべっていた。
「はー、久しぶりだったからちょっと疲れたねー」
猫のように伸びをするファイの声は少し掠れている。セックスの後はいつもこうだった。ファイはあまり喉が丈夫な方ではないから、すぐにシャガレてしまうのだ。
「ねー? 黒様先生はまだまだ余裕だよねー。オレも少し運動して体力つけようかなー?」
「…………」
「でもさー、オレが筋トレとかして、黒たん先生より筋肉モリモリになったらどうするー? やっぱイヤー?」
「…………」
「うーん、でもさすがにオレって体力なさすぎかなー? ねー、どう思うー?」
「……あぁ」
「黒様せんせー?」
黒鋼はどこか上の空だった。身体を横にして肘をつき、そこに頬を乗せながら彼がじっと見つめる先は、どうやらファイのシーツに隠れた下半身の辺りのようだった。
ファイはその視線を追うように、シーツをそっとずらして自分の臍を見た。そして首を傾げる。
どうかしたの、と問いかけようとするより先に、黒鋼の人差し指が伸びてきた。指の先で、下腹をツンツンと突かれる。
「え、ちょっと、くすぐったいよ」
「……あぁ」
つん、つん、つん、つん、つんつんつんつんつん……。
「く、黒りー?」
「……寝る」
「へ?」
ひとしきり腹をつついてから、彼はそれだけ口にしてゴロリとファイに背を向けた。ファイは慌てて半身を起こしてその肩を揺するが、ピクリとも反応しない。
「もう……一体なんなの……?」
仕方が無いので、ファイはシーツを引き上げるとその大きな背中にぺったり額をくっつけて寝ることにした。
*
それから数日後のことだった。
「ファイ、なんかウサギみたいだね」
ユゥイがこんがり焼けたトーストにバターを塗り込みつつ、小首を傾げた。ファイはどんよりと濁った目でレタスをもしゃもしゃと咀嚼している。
普段であればマヨネーズやドレッシングたっぷりで食べるところを、何もかけずにただ野菜だけ食べている兄に、ユゥイは目をパチクリさせた。
「……ごちそうさま」
「え? 野菜しか食べてないけど……もういいの?」
「いらない……」
「ダメだよ。ちゃんとバランス考えて作ってるんだから。しっかり食べなきゃ、お昼までもたないよ」
ファイの目の前にはユゥイが作った朝食が手付かずで残されている。
食が細いと思われがちなファイだが、基本的には生魚以外はなんでも食べるし、特にユゥイが食事を作るようになってからは、残したことなどまずないことだった。
「それに、どうしてトマトは残すのかな? 嫌いじゃないよね?」
サラダが盛り付けられていた小皿には、プチトマトが数個、コロコロと残されていた。ファイはそれを見て「うぅ」と小さく唸った。
「もしかして具合でも悪い? そういえば顔色もよくないし……」
ユゥイは椅子から立ち上がって手を伸ばし、ファイの額に触れた。
「熱はないみたいだけど……」
心配してくれる弟に、ファイは心底胸が痛んだ。もちろんご飯は食べたいのだ。お腹いっぱい食べたいのだ。けれど、のっぴきならない事情というものがある。
「大丈夫……オレ、元気……」
「元気そうに見えないんだけどな……」
「……あのね、知ってる? トマトってね、糖分が凄いんだって……」
「うん?」
再び椅子に腰を落ち着けたユゥイに、ファイはポツリポツリと打ち明け始めた。
「オレ、ダイエットすることにしたからね、食べるの……我慢しようと思って……」
「ダイエット~?」
「ん……あのね……」
ファイは先日の夜のことをユゥイに赤裸々に語った。あの夜はいつになく黒鋼がねちっこかったとか、何回したとか、あんな体位やこんな体位に挑戦したとか……。
「ごめんファイ……とりあえずその辺りははしょって教えてくれるかな……」
ひたすら単なる惚気を聞かされ続けたユゥイは、チラリと時計に目をやった。そういえばあまりゆっくりしている余裕はないのだった。
「あ、うん。でね、そのあとでね、黒様が……」
そこでファイはようやく事の発端を口にした。あのあと、目が覚めてからシャワーを浴びていたファイは、なんとなく黒鋼の奇行が気になり、鏡で己の姿を確かめつつ、つつかれた下腹を触ってみたのだ。
「そしたら……そしたら…オレのお腹が……ぷにってしてたの!!」
「はぁ?」
「黒様はオレのお腹をツンツンしてたんじゃなかったんだよ! ぷにぷに してたんだよ! 確かに最近ちょっとウエストきつくなってきたかな~って思ってたよ! 思ってたんだよオレは! でも気にしてなかったの! ぜんぜん気にしてなかったのー!!」
あの夜までは!
「黒鋼先生が言ったの? ダイエットしろって?」
滝のような涙を流して悲痛に叫ぶファイに、ユゥイは若干呆れた表情を見せた。
「言ってないよ……言ってくれた方がマシだったよ……いっそオレのこと、豚とかピザとか罵ってくれた方が……!」
「それはないでしょ……あのねぇ、ファイにそんなこと言ったら、本当に太ってる人に失礼だよ。いや、太ってる人が相手だってそれは言っちゃいけないことだと思うけど」
それに、とユゥイは子供に言い聞かせるような優しい声音で続けた。
「ファイはダイエットなんか必要ないよ。ボクたちは元々太りにくい体質だし、むしろもう少しお肉がついててもいいくらいじゃない?」
確かに彼の言う通りだ。自分たちは双子で、容姿だけでなく体質も似ている。
けれど、今まではその太りにくい体質とやらに胡坐をかいていたに過ぎなかったではないか。歳を重ねれば身体は何かと変化してくるだろうし、実際ファイの腹はぷにってるわけだし……。
ファイはどこか虚ろな目でユゥイを見た。決して太っているようには見えない。だが、世の中には着痩せという便利な言葉もあるわけで。
「ユゥイは……お腹ぷにってしてないのー?」
「え……?」
「二の腕はー? 太腿はー?」
ファイはゆらりと立ち上がり、テーブルを迂回しつつ手をわしゃわしゃさせながら、ユゥイににじり寄った。明らかに腰が引けてる弟の怯えた表情を華麗にスルーし、次の瞬間、飛び掛かる。
「ちょっと!? どこ触って、まっ、服! 服めくらないで!! 破かないで……!!」
…………。
「ぷにってない……」
「酷すぎる……」
服をボロボロにされたユゥイが、床に女の子座りしつつ両手で顔を隠して泣いている。
ノロノロと立ち上がったファイは拳をぐっと握り締めると、決意を新たにした。
痩せよう……と。
*
それからファイは数日に渡り、徹底的に自らをイジメ抜いた。
常に白衣のポケットに入れていた飴やチョコを机の引き出しに封印し、朝は少量の野菜で済ませ、あとは水だけで過ごす。ユゥイにどれほど間違ったダイエットが恐ろしいかを諭されても「ちょっとの間だけだから」と聞く耳を持たなかった。
昼時は化学準備室に篭って校内に充満する美味しそうな香りをシャットダウンし、爪を噛みつつジリジリと過ごした。夜も食事は抜き、町内を全速力で駆けたりもした。
明らかに顔色が悪く、頬がやつれ気味のファイを周りは酷く心配していた。黒鋼も例外ではなく、一体どうしたのかと聞かれるものの、ファイは決して答えなかった。秘密にして、次に裸を見せるときにあっと言わせる作戦だった。ユゥイにも、もちろん固く口止めしてある。
そうすると、見事にぷにっとした肉は消えた。
「うん」
自室の鏡の前で、服の裾を捲って腹をじっくりと眺める。あばらの浮いた上半身は、下へいくほどバターナイフで削ったようにへこんでいた。
触れてみると、あの忌々しい感触が消えていることにファイはにんまりした。
「これなら完璧だよねー。ウエストも緩くなったしー」
これで黒鋼をアッと驚かすことができる。もう絶対にぷにぷになんかさせない。
だけど……とファイは思う。身体は締まったとは思うが、これで食生活を元に戻してしまっていいものか。
ユゥイはリバウンドという言葉を仕切りに口にしていたし、倍以上に太ってしまったら何の意味もない。
この体系を維持し続けるには、これからどうしていけばいいのだろう。
だがファイは、なんだかんだで恐ろしいまでに楽観的だった。パシッと引き締まった、というよりはペシャンとへこんだ腹を叩いてウンウンと頷いた。
「食べるの我慢してたら全然お腹減らなくなったしー、急にドカ食いとかしなければ、きっと平気だよねー」
なんといっても自分には、食のスペシャリストである頼もしい弟もいるのだ。
きっとどうにでもなっていくはず。要は太らなければいいだけの話なのだから簡単だ。
そのとき。
コンコン、とドアをノックする音がした。
「はーい?」
腹を仕舞って玄関へ向かい、ドアを開けると、そこには黒鋼が仏頂面で佇んでいた。
「黒様先生?」
「おう」
邪魔するぜ、と短く言いながら、返事も待たずに黒鋼が部屋の中に上がりこんでくる。
「どうしたのー? 珍しいよね、黒りん先生がオレの部屋に来てくれるなんてー」
「……まぁな」
黒鋼はドカリと床に腰を下ろすと、テーブルの上に白い小さな箱を置いた。ファイはその傍らにちょこんと座りつつ首を傾げる。
「これなぁにー?」
「食え」
「え?」
何の飾り気もない箱におずおずと手を伸ばすと、そっと開けて見る。そこには、お世辞にも美しいとは言えないデコレーションが施された、苺のショートケーキがワンホール。
甘い香りがふわりと香り、ファイは目を輝かせた。
「こ、これどうしたのー? 買ったのー?」
「こんな不恰好なもん売ってるわきゃねぇだろ」
「え? じゃあ手作り?」
「まぁな」
黒鋼はぷいっとそっぽを向くと再び「食え」とだけ言った。
「え、ちょっと待ってよー。これってユゥイが作ったの? それにしては……」
なんというか、デロデロしている。目に見えてド素人がやらかしたとしか思えないデコレーションだ。本来ならツンと尖って天へ向かっているはずの苺が、生クリームが溶けかけているせいで横倒しになっていた。
「うるせぇ。ブツブツ言ってねぇで食え」
ファイはその不恰好なケーキを暫し眺めつつ、もしや、と思った。
「もしかして、これ作ったの黒様だったり……?」
「ッ、だからさっきからうるせぇって言ってんだろうが!!」
「!!」
ウガァッと鬼のような顔で怒りだした黒鋼だが、頬がちょっと赤い。ファイは信じられない思いでケーキと黒鋼を幾度も交互に見やった。
「う、う、嘘! 黒様先生がケーキ!? ケーキ作ったの!? ケーキを!? 黒様が!?」
「それ以上言うとその口セメントで塞ぐぞ!!」
「うっひゃー! 信じられないー!」
どちらかと言えば、ジャングルあたりで狩った獲物を掻っ捌いて焼いている方が様になるような男である。そんな彼がエプロンをして、生クリームや苺と格闘している姿など、まるで想像できない。
黒鋼が、一つ舌打ちをしつつ再びそっぽを向いた。
「……味はまぁ普通だろ。一応は側にてめぇの弟がいたからな」
「オレのために……?」
「別に」
「黒たん……っ」
ファイは感激のあまり、視界が涙で滲むのを感じた。黒鋼がこんなことを、自分のためにしてくれるなんて思いもしなかった。
「嬉しい……ありがとう……」
「馬鹿が……泣くやつがあるか」
「だってぇ……」
ファイは指先で涙を拭うと、再びケーキの箱に視線を戻した。泣くほど嬉しい。だけど。
「どうした」
「うん……」
これを食べてしまったら、また元に戻ってしまうかもしれない。そんなことになれば、せっかくの努力も水の泡になってしまう。食べることも甘いものも大好きなはずなのに、今のファイは食べものを口にすることを恐れている。
けれど、黒鋼が自分のために作ってくれたケーキを無駄にはしたくない。食べるのが勿体無いくらい嬉しくて、眺めているだけで十分幸せだけれど。
ファイが迷っていると、黒鋼がやれやれといった風に溜息をついた。
「てめぇ、それ以上ひょろひょろになってどうする?」
「え……?」
黒鋼は指先で頬を掻いていた。身体はファイを向いているけれど、視線は床の辺りを彷徨っている。
ああ、何かとても言いにくいことを言おうとしているんだと、ファイはぼんやり感じていた。
「……気持ちいいからな」
「?」
ボソリと小さく吐き出された言葉に、コトリと首を傾げると、黒鋼が僅かに声のトーンを上げた。
「だから、てめぇは細っこいくせして触ると柔らけぇから、まぁ、その、アレだ」
口篭るなんて、彼にしては珍しい。ファイは目を大きく見開いた。言わんとしてることは、分かった。
ただ信じられなくて、飲み込むのに少し時間がかかってしまっただけで。
「黒たん……オレ、オレね、もしかしたら……勘違いしちゃってたのかな?」
てっきりあの夜の奇行は、自分のぷにぷにの腹に呆れられてしまったからだとばかり思っていた。まさかそれが、全く逆だったなんて……。
「面倒臭ぇ奴だな、てめぇは」
「だってぇ……黒たん先生が紛らわしいんだよー……」
大きな溜息と共に、黒鋼はガリガリと乱暴に頭を掻いた。
それを眺めながら、ファイは不安ばかりを溜め込んでいた気持ちが驚くほど晴々としてゆくのを感じていた。
口止めはしていたものの、ユゥイの口添えもあったのだろう。ここ数日の我慢と努力は無駄だったけれど、黒鋼がしてくれたこと、言ってくれたことが本当に、心から嬉しかった。
ファイは満面の笑みを浮かべると、箱を大切に抱えながら勢いよく立ち上がる。
「オレ、お茶入れてくる! 一緒に食べよー?」
「俺はいい」
「黒様先生だって初めて作ったケーキの味、気になるでしょー?」
「だから味は」
「一緒に食べてくれなきゃやだよー。それにこんなに沢山、一人じゃ食べきれないもーん」
舌打ちが聞こえたが、それも照れ隠しだということを知っている。ファイは上機嫌でキッチンへ向かった。
けれどそこで、ぐんにゃりと視界が歪んだ。
「ぁ、れ……?」
「おい!?」
そこから、記憶がブツリと途切れてしまった。
*
唇に温かなものが触れて、甘い味が口の中いっぱいに広がると、ファイは意識を取り戻した。
優しい味が人肌の温度で流れ込んで来て、小さく声を上げながらそれを飲み下す。それでも足りなくて、ファイは両手ですぐ側の温もりに必死で縋った。
蕩けそうなほど柔らかな感触が、己の舌と絡まり合った。甘い。とても甘くて、優しかった。
額を包み込むように撫でられて、そっと目を開ける。すぐ間近に黒鋼の紅い瞳を見て、そこでようやく、キスをしていたのだと知った。
「はちみつ……?」
小さく呟くと、彼はふっと安堵したような息を零した。
「甘いな」
そう呟きながら、黒鋼は身を起こすとベッドサイドに白いマグカップを置いた。その様子を目で追うと、そのカップからはほのかに湯気が立ち上っている。
ファイが飲み下したのは、温かなミルクだったのだ。それも、はちみつ入りの。
甘いものが苦手で、普段なら進んで口にしたりなんか、絶対にしないくせに。
こんな心遣いが出来る男だったなんて、ずっと近くにいたはずなのに、どうして知らなかったんだろう。彼の何を見ていたんだろう。
黒鋼はベッドの縁に腰掛けて、ファイの様子を窺っている。表情は怒っているみたいに険しいけれど、だからといって怒っているわけではない、と思う。
「心配かけてごめん、黒様」
「もうロクでもねぇことすんなよ」
「うん……。でもね、オレ黒たんに嫌われたくなかったから……」
顰められた表情から、彼がどれほど呆れているかが窺い知れた。それでも、なんとなく続ける。
「オレ、あんまり自分の見た目とか気にしたことなかったけど……なんか急に恐くなっちゃって」
「それこそ見た目で選んだつもりはねぇよ」
「……オレがお相撲さんみたいに太ってても?」
「ああ」
「じゃあ、黒様より大きくてマッチョでも?」
「想像し辛いな、そいつは」
だが、と黒鋼は続けた。
「どっちにしたって、てめぇはてめぇだろ」
なんだか夢みたいだった。こんなときばかり真っ直ぐに思いを聞かせてくれるから、だからこそ彼の言うことが素直に胸に染みた。逆に自分の方が照れてしまって、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
「あ、そうだ、ケーキ……!」
ファイは照れ臭さを誤魔化すかのように慌てて起き上がった。
「まだ無理すんじゃねぇ」
「でも……っ」
キョロキョロと見渡すと、テーブルの上に歪に変形した箱が鎮座しているのを見つけた。
「!」
きっと中身も無事ではないだろう。ファイは思いっきり項垂れると「ごめん」と呟いた。
「せっかく黒様が作ってくれたのに……」
「気にしなくていい」
そうは言っても、そう簡単に割り切れるものではない。歴史的なケーキといっても過言ではないくらい貴重なものだっただけに。
「また作りゃいいだろうが」
「え!?」
「なんだよ」
「ホント? ホントにまた作ってくれるの? ホントのホント?」
その言葉に、ファイは目をキラキラと輝かせた。
「同じこと二度も言わせんな」
「黒たん…ッ!」
あまりにも嬉しくて、思いっきり抱きついた。黙って受け止めてくれることさえも、今夜はやけに特別なことに思えた。
「そ、そのときは、オレ、オレも、一緒に……っ」
舌を縺れさせながら興奮するファイに、黒鋼は「仕方ねぇな」と答えてくれた。
やがて再び合わさった唇には、まだほのかにはちみつの味が残っていた。
←戻る ・ Wavebox👏
「はー、久しぶりだったからちょっと疲れたねー」
猫のように伸びをするファイの声は少し掠れている。セックスの後はいつもこうだった。ファイはあまり喉が丈夫な方ではないから、すぐにシャガレてしまうのだ。
「ねー? 黒様先生はまだまだ余裕だよねー。オレも少し運動して体力つけようかなー?」
「…………」
「でもさー、オレが筋トレとかして、黒たん先生より筋肉モリモリになったらどうするー? やっぱイヤー?」
「…………」
「うーん、でもさすがにオレって体力なさすぎかなー? ねー、どう思うー?」
「……あぁ」
「黒様せんせー?」
黒鋼はどこか上の空だった。身体を横にして肘をつき、そこに頬を乗せながら彼がじっと見つめる先は、どうやらファイのシーツに隠れた下半身の辺りのようだった。
ファイはその視線を追うように、シーツをそっとずらして自分の臍を見た。そして首を傾げる。
どうかしたの、と問いかけようとするより先に、黒鋼の人差し指が伸びてきた。指の先で、下腹をツンツンと突かれる。
「え、ちょっと、くすぐったいよ」
「……あぁ」
つん、つん、つん、つん、つんつんつんつんつん……。
「く、黒りー?」
「……寝る」
「へ?」
ひとしきり腹をつついてから、彼はそれだけ口にしてゴロリとファイに背を向けた。ファイは慌てて半身を起こしてその肩を揺するが、ピクリとも反応しない。
「もう……一体なんなの……?」
仕方が無いので、ファイはシーツを引き上げるとその大きな背中にぺったり額をくっつけて寝ることにした。
*
それから数日後のことだった。
「ファイ、なんかウサギみたいだね」
ユゥイがこんがり焼けたトーストにバターを塗り込みつつ、小首を傾げた。ファイはどんよりと濁った目でレタスをもしゃもしゃと咀嚼している。
普段であればマヨネーズやドレッシングたっぷりで食べるところを、何もかけずにただ野菜だけ食べている兄に、ユゥイは目をパチクリさせた。
「……ごちそうさま」
「え? 野菜しか食べてないけど……もういいの?」
「いらない……」
「ダメだよ。ちゃんとバランス考えて作ってるんだから。しっかり食べなきゃ、お昼までもたないよ」
ファイの目の前にはユゥイが作った朝食が手付かずで残されている。
食が細いと思われがちなファイだが、基本的には生魚以外はなんでも食べるし、特にユゥイが食事を作るようになってからは、残したことなどまずないことだった。
「それに、どうしてトマトは残すのかな? 嫌いじゃないよね?」
サラダが盛り付けられていた小皿には、プチトマトが数個、コロコロと残されていた。ファイはそれを見て「うぅ」と小さく唸った。
「もしかして具合でも悪い? そういえば顔色もよくないし……」
ユゥイは椅子から立ち上がって手を伸ばし、ファイの額に触れた。
「熱はないみたいだけど……」
心配してくれる弟に、ファイは心底胸が痛んだ。もちろんご飯は食べたいのだ。お腹いっぱい食べたいのだ。けれど、のっぴきならない事情というものがある。
「大丈夫……オレ、元気……」
「元気そうに見えないんだけどな……」
「……あのね、知ってる? トマトってね、糖分が凄いんだって……」
「うん?」
再び椅子に腰を落ち着けたユゥイに、ファイはポツリポツリと打ち明け始めた。
「オレ、ダイエットすることにしたからね、食べるの……我慢しようと思って……」
「ダイエット~?」
「ん……あのね……」
ファイは先日の夜のことをユゥイに赤裸々に語った。あの夜はいつになく黒鋼がねちっこかったとか、何回したとか、あんな体位やこんな体位に挑戦したとか……。
「ごめんファイ……とりあえずその辺りははしょって教えてくれるかな……」
ひたすら単なる惚気を聞かされ続けたユゥイは、チラリと時計に目をやった。そういえばあまりゆっくりしている余裕はないのだった。
「あ、うん。でね、そのあとでね、黒様が……」
そこでファイはようやく事の発端を口にした。あのあと、目が覚めてからシャワーを浴びていたファイは、なんとなく黒鋼の奇行が気になり、鏡で己の姿を確かめつつ、つつかれた下腹を触ってみたのだ。
「そしたら……そしたら…オレのお腹が……ぷにってしてたの!!」
「はぁ?」
「黒様はオレのお腹をツンツンしてたんじゃなかったんだよ! ぷにぷに してたんだよ! 確かに最近ちょっとウエストきつくなってきたかな~って思ってたよ! 思ってたんだよオレは! でも気にしてなかったの! ぜんぜん気にしてなかったのー!!」
あの夜までは!
「黒鋼先生が言ったの? ダイエットしろって?」
滝のような涙を流して悲痛に叫ぶファイに、ユゥイは若干呆れた表情を見せた。
「言ってないよ……言ってくれた方がマシだったよ……いっそオレのこと、豚とかピザとか罵ってくれた方が……!」
「それはないでしょ……あのねぇ、ファイにそんなこと言ったら、本当に太ってる人に失礼だよ。いや、太ってる人が相手だってそれは言っちゃいけないことだと思うけど」
それに、とユゥイは子供に言い聞かせるような優しい声音で続けた。
「ファイはダイエットなんか必要ないよ。ボクたちは元々太りにくい体質だし、むしろもう少しお肉がついててもいいくらいじゃない?」
確かに彼の言う通りだ。自分たちは双子で、容姿だけでなく体質も似ている。
けれど、今まではその太りにくい体質とやらに胡坐をかいていたに過ぎなかったではないか。歳を重ねれば身体は何かと変化してくるだろうし、実際ファイの腹はぷにってるわけだし……。
ファイはどこか虚ろな目でユゥイを見た。決して太っているようには見えない。だが、世の中には着痩せという便利な言葉もあるわけで。
「ユゥイは……お腹ぷにってしてないのー?」
「え……?」
「二の腕はー? 太腿はー?」
ファイはゆらりと立ち上がり、テーブルを迂回しつつ手をわしゃわしゃさせながら、ユゥイににじり寄った。明らかに腰が引けてる弟の怯えた表情を華麗にスルーし、次の瞬間、飛び掛かる。
「ちょっと!? どこ触って、まっ、服! 服めくらないで!! 破かないで……!!」
…………。
「ぷにってない……」
「酷すぎる……」
服をボロボロにされたユゥイが、床に女の子座りしつつ両手で顔を隠して泣いている。
ノロノロと立ち上がったファイは拳をぐっと握り締めると、決意を新たにした。
痩せよう……と。
*
それからファイは数日に渡り、徹底的に自らをイジメ抜いた。
常に白衣のポケットに入れていた飴やチョコを机の引き出しに封印し、朝は少量の野菜で済ませ、あとは水だけで過ごす。ユゥイにどれほど間違ったダイエットが恐ろしいかを諭されても「ちょっとの間だけだから」と聞く耳を持たなかった。
昼時は化学準備室に篭って校内に充満する美味しそうな香りをシャットダウンし、爪を噛みつつジリジリと過ごした。夜も食事は抜き、町内を全速力で駆けたりもした。
明らかに顔色が悪く、頬がやつれ気味のファイを周りは酷く心配していた。黒鋼も例外ではなく、一体どうしたのかと聞かれるものの、ファイは決して答えなかった。秘密にして、次に裸を見せるときにあっと言わせる作戦だった。ユゥイにも、もちろん固く口止めしてある。
そうすると、見事にぷにっとした肉は消えた。
「うん」
自室の鏡の前で、服の裾を捲って腹をじっくりと眺める。あばらの浮いた上半身は、下へいくほどバターナイフで削ったようにへこんでいた。
触れてみると、あの忌々しい感触が消えていることにファイはにんまりした。
「これなら完璧だよねー。ウエストも緩くなったしー」
これで黒鋼をアッと驚かすことができる。もう絶対にぷにぷになんかさせない。
だけど……とファイは思う。身体は締まったとは思うが、これで食生活を元に戻してしまっていいものか。
ユゥイはリバウンドという言葉を仕切りに口にしていたし、倍以上に太ってしまったら何の意味もない。
この体系を維持し続けるには、これからどうしていけばいいのだろう。
だがファイは、なんだかんだで恐ろしいまでに楽観的だった。パシッと引き締まった、というよりはペシャンとへこんだ腹を叩いてウンウンと頷いた。
「食べるの我慢してたら全然お腹減らなくなったしー、急にドカ食いとかしなければ、きっと平気だよねー」
なんといっても自分には、食のスペシャリストである頼もしい弟もいるのだ。
きっとどうにでもなっていくはず。要は太らなければいいだけの話なのだから簡単だ。
そのとき。
コンコン、とドアをノックする音がした。
「はーい?」
腹を仕舞って玄関へ向かい、ドアを開けると、そこには黒鋼が仏頂面で佇んでいた。
「黒様先生?」
「おう」
邪魔するぜ、と短く言いながら、返事も待たずに黒鋼が部屋の中に上がりこんでくる。
「どうしたのー? 珍しいよね、黒りん先生がオレの部屋に来てくれるなんてー」
「……まぁな」
黒鋼はドカリと床に腰を下ろすと、テーブルの上に白い小さな箱を置いた。ファイはその傍らにちょこんと座りつつ首を傾げる。
「これなぁにー?」
「食え」
「え?」
何の飾り気もない箱におずおずと手を伸ばすと、そっと開けて見る。そこには、お世辞にも美しいとは言えないデコレーションが施された、苺のショートケーキがワンホール。
甘い香りがふわりと香り、ファイは目を輝かせた。
「こ、これどうしたのー? 買ったのー?」
「こんな不恰好なもん売ってるわきゃねぇだろ」
「え? じゃあ手作り?」
「まぁな」
黒鋼はぷいっとそっぽを向くと再び「食え」とだけ言った。
「え、ちょっと待ってよー。これってユゥイが作ったの? それにしては……」
なんというか、デロデロしている。目に見えてド素人がやらかしたとしか思えないデコレーションだ。本来ならツンと尖って天へ向かっているはずの苺が、生クリームが溶けかけているせいで横倒しになっていた。
「うるせぇ。ブツブツ言ってねぇで食え」
ファイはその不恰好なケーキを暫し眺めつつ、もしや、と思った。
「もしかして、これ作ったの黒様だったり……?」
「ッ、だからさっきからうるせぇって言ってんだろうが!!」
「!!」
ウガァッと鬼のような顔で怒りだした黒鋼だが、頬がちょっと赤い。ファイは信じられない思いでケーキと黒鋼を幾度も交互に見やった。
「う、う、嘘! 黒様先生がケーキ!? ケーキ作ったの!? ケーキを!? 黒様が!?」
「それ以上言うとその口セメントで塞ぐぞ!!」
「うっひゃー! 信じられないー!」
どちらかと言えば、ジャングルあたりで狩った獲物を掻っ捌いて焼いている方が様になるような男である。そんな彼がエプロンをして、生クリームや苺と格闘している姿など、まるで想像できない。
黒鋼が、一つ舌打ちをしつつ再びそっぽを向いた。
「……味はまぁ普通だろ。一応は側にてめぇの弟がいたからな」
「オレのために……?」
「別に」
「黒たん……っ」
ファイは感激のあまり、視界が涙で滲むのを感じた。黒鋼がこんなことを、自分のためにしてくれるなんて思いもしなかった。
「嬉しい……ありがとう……」
「馬鹿が……泣くやつがあるか」
「だってぇ……」
ファイは指先で涙を拭うと、再びケーキの箱に視線を戻した。泣くほど嬉しい。だけど。
「どうした」
「うん……」
これを食べてしまったら、また元に戻ってしまうかもしれない。そんなことになれば、せっかくの努力も水の泡になってしまう。食べることも甘いものも大好きなはずなのに、今のファイは食べものを口にすることを恐れている。
けれど、黒鋼が自分のために作ってくれたケーキを無駄にはしたくない。食べるのが勿体無いくらい嬉しくて、眺めているだけで十分幸せだけれど。
ファイが迷っていると、黒鋼がやれやれといった風に溜息をついた。
「てめぇ、それ以上ひょろひょろになってどうする?」
「え……?」
黒鋼は指先で頬を掻いていた。身体はファイを向いているけれど、視線は床の辺りを彷徨っている。
ああ、何かとても言いにくいことを言おうとしているんだと、ファイはぼんやり感じていた。
「……気持ちいいからな」
「?」
ボソリと小さく吐き出された言葉に、コトリと首を傾げると、黒鋼が僅かに声のトーンを上げた。
「だから、てめぇは細っこいくせして触ると柔らけぇから、まぁ、その、アレだ」
口篭るなんて、彼にしては珍しい。ファイは目を大きく見開いた。言わんとしてることは、分かった。
ただ信じられなくて、飲み込むのに少し時間がかかってしまっただけで。
「黒たん……オレ、オレね、もしかしたら……勘違いしちゃってたのかな?」
てっきりあの夜の奇行は、自分のぷにぷにの腹に呆れられてしまったからだとばかり思っていた。まさかそれが、全く逆だったなんて……。
「面倒臭ぇ奴だな、てめぇは」
「だってぇ……黒たん先生が紛らわしいんだよー……」
大きな溜息と共に、黒鋼はガリガリと乱暴に頭を掻いた。
それを眺めながら、ファイは不安ばかりを溜め込んでいた気持ちが驚くほど晴々としてゆくのを感じていた。
口止めはしていたものの、ユゥイの口添えもあったのだろう。ここ数日の我慢と努力は無駄だったけれど、黒鋼がしてくれたこと、言ってくれたことが本当に、心から嬉しかった。
ファイは満面の笑みを浮かべると、箱を大切に抱えながら勢いよく立ち上がる。
「オレ、お茶入れてくる! 一緒に食べよー?」
「俺はいい」
「黒様先生だって初めて作ったケーキの味、気になるでしょー?」
「だから味は」
「一緒に食べてくれなきゃやだよー。それにこんなに沢山、一人じゃ食べきれないもーん」
舌打ちが聞こえたが、それも照れ隠しだということを知っている。ファイは上機嫌でキッチンへ向かった。
けれどそこで、ぐんにゃりと視界が歪んだ。
「ぁ、れ……?」
「おい!?」
そこから、記憶がブツリと途切れてしまった。
*
唇に温かなものが触れて、甘い味が口の中いっぱいに広がると、ファイは意識を取り戻した。
優しい味が人肌の温度で流れ込んで来て、小さく声を上げながらそれを飲み下す。それでも足りなくて、ファイは両手ですぐ側の温もりに必死で縋った。
蕩けそうなほど柔らかな感触が、己の舌と絡まり合った。甘い。とても甘くて、優しかった。
額を包み込むように撫でられて、そっと目を開ける。すぐ間近に黒鋼の紅い瞳を見て、そこでようやく、キスをしていたのだと知った。
「はちみつ……?」
小さく呟くと、彼はふっと安堵したような息を零した。
「甘いな」
そう呟きながら、黒鋼は身を起こすとベッドサイドに白いマグカップを置いた。その様子を目で追うと、そのカップからはほのかに湯気が立ち上っている。
ファイが飲み下したのは、温かなミルクだったのだ。それも、はちみつ入りの。
甘いものが苦手で、普段なら進んで口にしたりなんか、絶対にしないくせに。
こんな心遣いが出来る男だったなんて、ずっと近くにいたはずなのに、どうして知らなかったんだろう。彼の何を見ていたんだろう。
黒鋼はベッドの縁に腰掛けて、ファイの様子を窺っている。表情は怒っているみたいに険しいけれど、だからといって怒っているわけではない、と思う。
「心配かけてごめん、黒様」
「もうロクでもねぇことすんなよ」
「うん……。でもね、オレ黒たんに嫌われたくなかったから……」
顰められた表情から、彼がどれほど呆れているかが窺い知れた。それでも、なんとなく続ける。
「オレ、あんまり自分の見た目とか気にしたことなかったけど……なんか急に恐くなっちゃって」
「それこそ見た目で選んだつもりはねぇよ」
「……オレがお相撲さんみたいに太ってても?」
「ああ」
「じゃあ、黒様より大きくてマッチョでも?」
「想像し辛いな、そいつは」
だが、と黒鋼は続けた。
「どっちにしたって、てめぇはてめぇだろ」
なんだか夢みたいだった。こんなときばかり真っ直ぐに思いを聞かせてくれるから、だからこそ彼の言うことが素直に胸に染みた。逆に自分の方が照れてしまって、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
「あ、そうだ、ケーキ……!」
ファイは照れ臭さを誤魔化すかのように慌てて起き上がった。
「まだ無理すんじゃねぇ」
「でも……っ」
キョロキョロと見渡すと、テーブルの上に歪に変形した箱が鎮座しているのを見つけた。
「!」
きっと中身も無事ではないだろう。ファイは思いっきり項垂れると「ごめん」と呟いた。
「せっかく黒様が作ってくれたのに……」
「気にしなくていい」
そうは言っても、そう簡単に割り切れるものではない。歴史的なケーキといっても過言ではないくらい貴重なものだっただけに。
「また作りゃいいだろうが」
「え!?」
「なんだよ」
「ホント? ホントにまた作ってくれるの? ホントのホント?」
その言葉に、ファイは目をキラキラと輝かせた。
「同じこと二度も言わせんな」
「黒たん…ッ!」
あまりにも嬉しくて、思いっきり抱きついた。黙って受け止めてくれることさえも、今夜はやけに特別なことに思えた。
「そ、そのときは、オレ、オレも、一緒に……っ」
舌を縺れさせながら興奮するファイに、黒鋼は「仕方ねぇな」と答えてくれた。
やがて再び合わさった唇には、まだほのかにはちみつの味が残っていた。
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