2025年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
夢を見た。
真っ暗な部屋の中、目の前には重々しい木の扉がある。
ファイはそれをどうしても開ける気になれない。
いや、むしろ開けてはいけないのだと、この場所から動くべきではないのだと。
その理由はどうしても分からない。ただ漠然とそう感じる。
なのに、夢の中の自分は意思とは裏腹に迷うことなくドアノブに手を伸ばす。駄目だと叫びたくとも声が出ず、自分自身をコントロールすることが出来ない。
そして、容赦なく扉は開かれる。
中に入るとまた、同じ扉がある。その先も、そのまた先も、ずっとそれは続く。
そんなことを繰り返す度に、何かとても大切なものがポケットから一つ一つ零れていくような気がした。
もう行きたくない。
これ以上、何も失くしたくない。
引き返すことが出来ないなら、せめてここで立ち止まりたかった。
何を失くしてしまったのかさえ分からないのに。
やがて、「行くな」という声が背後から聞こえて来る。
その声はどんどん迫って来るのに、追いついてきてはくれない。
彼が近づくほどに、ファイはそれを凌ぐ速さでさらに扉を開き続ける。
そうしているうちに、大きな背中が見えて来る。
行くな、行くなと叫びながら、彼はどんどん先を行く。手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。
追っているのか、追われているのか、分からなくなる。
ただ一つ分かるのは、同じ扉を2人同時には、決してくぐれないということだけだった。
+++
目が覚めると、知らない部屋にいた。
カーテンの隙間から零れる光と鳥の囀りだけで、今が朝だという情報を得る。
視界がぼやけて仕方がないのは、自分が泣きながら目を覚ましたからだと気づいて、指先で目尻を拭う。
起き上がって、全く見ず知らずの部屋の中をぐるりと見回した。
畳みと、木の香りがする家の中には誰もいない。
頭の中がはっきりせず、ふわふわと宙に浮いているような気がする。
「……昨日、どうしたっけ」
思い出そうとしても、何も思い出せない。
ただ自然と、ファイは自分でも知らず知らずのうちに枕元に手を伸ばしていた。
白い大きな画用紙を手にして、少し驚く。身体が勝手に、まるで習慣のように動いてしまったから。
画用紙には黒いペンで、幾つかの事柄が箇条書きに記してあった。
この美しい字を、ファイはよく知っている。
黒鋼の字だ。
それだけで、少しほっとした。
けれど内容は、俄かには信じられないものだった。
2年前の夏に事故に遭い、記憶障害を患った自分が、仕事はおろか日常生活を送るのもままならない状態に陥ったこと。
毎朝のように記憶がリセットされるため、前日のことすら覚えていられないこと。
黒鋼とこの家に移り住んだのが1年以上も前だということ。
2人の左手には同じ指輪がはめられていること。
自分が庭の畑仕事に毎日勤しんでいること。日記をつけていること。
目が覚めて隣に黒鋼がいないときは、夜勤のため家を開けていること。
このメモを読んだら、すぐに隣の部屋のホワイトボードをチェックすること。
「そんな……こんなことって……」
信じられない。
でも、信じるしかない。
この字は紛れもなく黒鋼の字だし、これが事実でなければ今のこの状況は説明しようがない。
ファイは開け放たれた襖の向こうに視線を走らせた。
最低限の家具しかない質素な居間では、古い柱時計が時を刻む音が微かに鳴り響く。
開け放たれた出入り口には藍色の涼しげな麻暖簾がかかり、そのすぐ脇には背の低い茶箪笥がある。ちょうどその上の壁に面した位置に、白いボードが確かに見えた。
指示通りにそれを確認してみるため、のろのろと腰を上げようとしたその時、ファイの視界の隅に赤い何かが映った。
「日記……そうか、これが日記だ」
手を伸ばし赤い日記帳を開くと、確かにそこには自分の字がぎっしりと書き綴られていた。
最後に書かれているのは、おそらく昨日の日付。
ファイはそれを指先でなぞりながら、声に出して読んでみた。
「明日の、オレへ……」
『目が覚めて、何も思い出せなくても、大丈夫。
画用紙のメモは見た?
黒たんが、大事なことはちゃんと書いてくれている。
朝目が覚めると、オレは今の君と同じで記憶を失っていた。
信じられる?
オレは春にお花見をしていたはずなのに。
知らない家の知らない庭に、向日葵が咲いてるんだもの。
畑の作物や花は、昨日までのオレが育てたものだって。
今日はナスビと、赤シソを収穫したよ。
ナスビは漬物にして、シソは塩漬けの梅干しと一緒にしてあるから、冷蔵庫の中を見てごらん。
オクラが大きくなりすぎないように、もしよさそうだったら収穫しようね。
*
明日のオレに、お願いが一つ。
どうか落ち着いて、黒たんを困らせないで。
あの人は優しいから、痛いも苦しいも絶対に言わない。
君はオレだよ。ちゃんと一人の同じ人間だよ。
昨日のオレも、今日のオレも、明日のオレも、ずっとずっと一緒だから。
どんなに不安でも、怖くても、あの人の側にいてあげて。
あの人を一人にしないであげて。
大丈夫。大切なものは、きっとずっと失くさない。
オレは彼を、心から』
「愛しているから……」
閉じた日記帳を胸に抱いて、ファイは溢れる涙を抑えることが出来なかった。
黒鋼はどんな思いで、いつもこんな自分の側にいてくれるのだろう。
夢の中、幾つもの扉を開きながら零していたのは、彼と紡いでいたはずの日々の記憶だったのか。
決して届かない背に「行くな」と叫びながら、彼は必死でファイの落とした欠片を拾い集めている。
返す場所などないのに、それでも一つ一つ拾い上げて、自分の胸の中にだけ大切に積み重ねているのだ。
それを思うだけでこんなにも苦しいのに、今この瞬間、胸の中を満たしているこの感情すら、明日の自分は忘れているのか。
でも、だとしても。
ファイは子供のように手の甲で両目を拭うと、立ち上がって居間のボードへ向かった。
日記にあった通り、前日収穫したものや黒鋼の帰宅時間、職場の連絡先などがマジックで書かれている。
時計を見るとそろそろ8時を回る頃。
このメモ書き通りなら、もうすぐ彼が帰って来るはずだった。
「大丈夫」
呟きは、日記を記した昨日の自分へ。
大切なものは確かに胸の中、いっぱいに詰まっているから。
今日の自分は、明日の自分に繋ぐため。
よし、という掛け声を放ち、ファイは窓辺に歩み寄ると両開きのカーテンを勢いよく開く。
夏の日差しが部屋中に差し込んで、窓を開ければ夏の虫がいっせいに鳴きだした。
今日は暑い日になる。
きっと昨日も、そうだったように。
←戻る ・ 次へ→
真っ暗な部屋の中、目の前には重々しい木の扉がある。
ファイはそれをどうしても開ける気になれない。
いや、むしろ開けてはいけないのだと、この場所から動くべきではないのだと。
その理由はどうしても分からない。ただ漠然とそう感じる。
なのに、夢の中の自分は意思とは裏腹に迷うことなくドアノブに手を伸ばす。駄目だと叫びたくとも声が出ず、自分自身をコントロールすることが出来ない。
そして、容赦なく扉は開かれる。
中に入るとまた、同じ扉がある。その先も、そのまた先も、ずっとそれは続く。
そんなことを繰り返す度に、何かとても大切なものがポケットから一つ一つ零れていくような気がした。
もう行きたくない。
これ以上、何も失くしたくない。
引き返すことが出来ないなら、せめてここで立ち止まりたかった。
何を失くしてしまったのかさえ分からないのに。
やがて、「行くな」という声が背後から聞こえて来る。
その声はどんどん迫って来るのに、追いついてきてはくれない。
彼が近づくほどに、ファイはそれを凌ぐ速さでさらに扉を開き続ける。
そうしているうちに、大きな背中が見えて来る。
行くな、行くなと叫びながら、彼はどんどん先を行く。手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。
追っているのか、追われているのか、分からなくなる。
ただ一つ分かるのは、同じ扉を2人同時には、決してくぐれないということだけだった。
+++
目が覚めると、知らない部屋にいた。
カーテンの隙間から零れる光と鳥の囀りだけで、今が朝だという情報を得る。
視界がぼやけて仕方がないのは、自分が泣きながら目を覚ましたからだと気づいて、指先で目尻を拭う。
起き上がって、全く見ず知らずの部屋の中をぐるりと見回した。
畳みと、木の香りがする家の中には誰もいない。
頭の中がはっきりせず、ふわふわと宙に浮いているような気がする。
「……昨日、どうしたっけ」
思い出そうとしても、何も思い出せない。
ただ自然と、ファイは自分でも知らず知らずのうちに枕元に手を伸ばしていた。
白い大きな画用紙を手にして、少し驚く。身体が勝手に、まるで習慣のように動いてしまったから。
画用紙には黒いペンで、幾つかの事柄が箇条書きに記してあった。
この美しい字を、ファイはよく知っている。
黒鋼の字だ。
それだけで、少しほっとした。
けれど内容は、俄かには信じられないものだった。
2年前の夏に事故に遭い、記憶障害を患った自分が、仕事はおろか日常生活を送るのもままならない状態に陥ったこと。
毎朝のように記憶がリセットされるため、前日のことすら覚えていられないこと。
黒鋼とこの家に移り住んだのが1年以上も前だということ。
2人の左手には同じ指輪がはめられていること。
自分が庭の畑仕事に毎日勤しんでいること。日記をつけていること。
目が覚めて隣に黒鋼がいないときは、夜勤のため家を開けていること。
このメモを読んだら、すぐに隣の部屋のホワイトボードをチェックすること。
「そんな……こんなことって……」
信じられない。
でも、信じるしかない。
この字は紛れもなく黒鋼の字だし、これが事実でなければ今のこの状況は説明しようがない。
ファイは開け放たれた襖の向こうに視線を走らせた。
最低限の家具しかない質素な居間では、古い柱時計が時を刻む音が微かに鳴り響く。
開け放たれた出入り口には藍色の涼しげな麻暖簾がかかり、そのすぐ脇には背の低い茶箪笥がある。ちょうどその上の壁に面した位置に、白いボードが確かに見えた。
指示通りにそれを確認してみるため、のろのろと腰を上げようとしたその時、ファイの視界の隅に赤い何かが映った。
「日記……そうか、これが日記だ」
手を伸ばし赤い日記帳を開くと、確かにそこには自分の字がぎっしりと書き綴られていた。
最後に書かれているのは、おそらく昨日の日付。
ファイはそれを指先でなぞりながら、声に出して読んでみた。
「明日の、オレへ……」
『目が覚めて、何も思い出せなくても、大丈夫。
画用紙のメモは見た?
黒たんが、大事なことはちゃんと書いてくれている。
朝目が覚めると、オレは今の君と同じで記憶を失っていた。
信じられる?
オレは春にお花見をしていたはずなのに。
知らない家の知らない庭に、向日葵が咲いてるんだもの。
畑の作物や花は、昨日までのオレが育てたものだって。
今日はナスビと、赤シソを収穫したよ。
ナスビは漬物にして、シソは塩漬けの梅干しと一緒にしてあるから、冷蔵庫の中を見てごらん。
オクラが大きくなりすぎないように、もしよさそうだったら収穫しようね。
*
明日のオレに、お願いが一つ。
どうか落ち着いて、黒たんを困らせないで。
あの人は優しいから、痛いも苦しいも絶対に言わない。
君はオレだよ。ちゃんと一人の同じ人間だよ。
昨日のオレも、今日のオレも、明日のオレも、ずっとずっと一緒だから。
どんなに不安でも、怖くても、あの人の側にいてあげて。
あの人を一人にしないであげて。
大丈夫。大切なものは、きっとずっと失くさない。
オレは彼を、心から』
「愛しているから……」
閉じた日記帳を胸に抱いて、ファイは溢れる涙を抑えることが出来なかった。
黒鋼はどんな思いで、いつもこんな自分の側にいてくれるのだろう。
夢の中、幾つもの扉を開きながら零していたのは、彼と紡いでいたはずの日々の記憶だったのか。
決して届かない背に「行くな」と叫びながら、彼は必死でファイの落とした欠片を拾い集めている。
返す場所などないのに、それでも一つ一つ拾い上げて、自分の胸の中にだけ大切に積み重ねているのだ。
それを思うだけでこんなにも苦しいのに、今この瞬間、胸の中を満たしているこの感情すら、明日の自分は忘れているのか。
でも、だとしても。
ファイは子供のように手の甲で両目を拭うと、立ち上がって居間のボードへ向かった。
日記にあった通り、前日収穫したものや黒鋼の帰宅時間、職場の連絡先などがマジックで書かれている。
時計を見るとそろそろ8時を回る頃。
このメモ書き通りなら、もうすぐ彼が帰って来るはずだった。
「大丈夫」
呟きは、日記を記した昨日の自分へ。
大切なものは確かに胸の中、いっぱいに詰まっているから。
今日の自分は、明日の自分に繋ぐため。
よし、という掛け声を放ち、ファイは窓辺に歩み寄ると両開きのカーテンを勢いよく開く。
夏の日差しが部屋中に差し込んで、窓を開ければ夏の虫がいっせいに鳴きだした。
今日は暑い日になる。
きっと昨日も、そうだったように。
←戻る ・ 次へ→
「俺のそばで生きてくれるか」
ベッドの上で膝を抱えるファイに、黒鋼は小さな箱を差し出しながら言った。
昼なのか夜なのかさえ曖昧な暗い部屋。24時間つけっぱなしのテレビ画面が放つ光だけが、点滅したように辺りを照らす。
彼はどこか虚ろな目で、開かれた箱の中身を見つめる。
飾り気のない銀のリング。それでも想いがぎっしりと込められ、微かに光を放っていた。
ファイは覇気のなかった顔を苦しげに歪めると、嫌々と首を振った。
「……受け取れない」
「受け取ってほしい」
「ダメなんだ……きっと忘れる……無くなっちゃうよ……」
「それでも」
黒鋼はファイの手を取ると、手の平にそっと箱を握らせる。
また一回り細くなったようにも見える指先が、悲しげに震えていた。
「おまえが忘れても、俺が何度でも教えてやる」
そうやって繰り返し確かめ合えれば十分だった。
命ある限り、幾重にも同じ想いを重ねながら隣を歩かせてほしい。
躓きながらでもいい。泣いたっていい。恐れても。ずっと。
引き寄せた身体は折れそうなくらい頼りなく、震えながら呻く様は泣き方を知らない幼子のようだ。
強く強く抱きしめながら、その耳元に幾度も「愛してる」と告げた。
今この時だけでも刻むことが出来るなら、それだけで。
+++
一日の始まりには二通りある。
一つは、二人が同じ布団の中で目を覚ましたとき。
ファイはほとんどの場合、前日までの記憶がリセットされているから、起きた直後はここがどこかさえ分からない。
だから彼が理解し、納得するまで何度でも繰り返し、黒鋼は事故に遭った日からそれまでの経緯を根気よく話して聞かせる。
この場所に越してきた当初のファイは、朝目が覚める度にパニックを起こしていた。眠りから覚める度に「ここはどこ」と繰り返しながら怯えていた。
それは一年以上たった今も同じで、派手に混乱するには至らずとも、目覚めた直後の彼にとって、ここが知らない場所であることに変わりはなかった。
もう一つは、黒鋼が夜勤で朝に帰宅するとき。
どうにか彼の精神と生活が安定して来た頃から、黒鋼は山を降りた先に一軒だけある旅館で、深夜警備の仕事をしている。
一人で目を覚ましてもファイが混乱しないようにと、枕元には常に白い画用紙と日記帳を置いておく。
画用紙には黒いマジックで、いつも話して聞かせる内容と同じことを箇条書きに記し、さらに居間のホワイトボードを必ず見るように書き添えてある。
ボードには前日に何を食べ、何が冷蔵庫の中に残っているのかをはじめ、畑の作物の成長具合なども書かれており、黒鋼の帰宅時間もそれを見ればすぐに分かるようになっている。
そうやって時間をかけて習慣づけた結果、ファイは少しずつ記憶障害との付き合い方を訓練していった。
目を離していられる時間が増えたことは、黒鋼にとってむしろ安心に繋がった。
だがここのところ、ファイの精神状態が再び不安定なものになっていた。
縁側で涼んでいるかと思いきや突然パニックを起こしたり、朝起きてすぐに「今日は化学の実験だった」と慌てて出かける支度をしようとする。
記憶はリセットされても、身体は事故が起こった日のことを覚えているのだろうか。
保持しているはずの過去の記憶が前後し、思いがけないところまで遡るのは、彼の心の問題が大きいのかもしれない。
この時期、去年もそうだった。
折しも彼が事故に遭い、双子の片割れを失ったのは今頃のこと。
一週間後には、ユゥイの命日が迫っている。
+++
「……どうした?」
夜勤がなかった日の朝、黒鋼が意識を浮上させたとき、ファイはカーテンを開き切った窓の前にただ呆然と立ち尽くしていた。
浮かない空模様はどんよりとした鈍い光で室内を薄暗く照らしている。
起き上がり、その背中を見上げながらもう一度「どうした」と問うと、彼はこちらを見向きもせずに言った。
「お花見」
「……花見?」
「桜、いつ散った?」
「…………」
「ここ、どこだろう。オレ、さっきまで学校の校庭にいたんだ。みんなでお花見してた。なのにほら、この家の庭には、向日葵が咲いている」
ほんの数日前は蕾だった向日葵は、雨が止んだ翌日に大きく花を咲かせていた。
自分と同じくらいの身長にまで育った立派な花を見て、彼はとても嬉しそうにしていたのに。
黒鋼はゆっくりと瞬きをしてから立ち上がり、立ちつくしたままのファイの横に並んだ。
「おまえの言う花見ってのは、2年前の花見のことだな」
彼の言う2年前の春。事故が起こる数ヶ月前の記憶。
あれが教師として最後の春になった。
「……何を言ってるの?」
「毎年派手だが、あんときゃ心底呆れたもんだ」
「……そう、侑子先生がトラックでお酒とカラオケの機材を運んできたんだ。黒たん先生は近所迷惑だからやめろって、ついさっきまで凄く怒ってた」
「先生、か。懐かしいな。おまえのその呼び方」
「……ねぇ、変だよ。オレだけ急にタイムスリップでもしちゃったのかな。それとも、これは夢?」
夢。
そうならどれだけよかったろうか。
今の生活は幸せだ。
誰も知らない人間ばかりの土地で、二人きりで静かに同じ毎日を繰り返す日々。
築き上げた砂の城は毎朝のように波にさらわれ、昨日笑い合ったことさえもファイの中には残らない。
それでもこの男の笑顔が見たくて、ここに生きることを決めたのに。
ファイの口から語られる『思い出』が、時折酷く黒鋼を傷つける。
こうして2人で生きているのに、同じ時を共有することは、もう出来ない。
それでも約束したから。
彼が閉じた扉を、何度でも開けて追いかけて、教えてやると約束をした。
「信じられねぇのも分かるが。2年前の夏、おまえは事故にあって、頭を強く打った。そん時からな、記憶がしょっちゅう飛んじまうんだ」
「……なにそれ」
「俺もおまえも、もう教師じゃない。今はこの家に俺たち2人で暮らしてる。あの向日葵はおまえが育てて、一昨日咲いた」
「そんなの嘘だよ。だって、だってさっきまで……ッ」
ファイは目を泳がせて、幾度も首を振った。
口は半笑いだったが、汗の滲んだ額を押さえると床にぺたりと沈み込む。
黒鋼はその肩を抱きながら一緒に膝をついた。
このくらいのことは、今まで幾度となく繰り返してきた。
少しずつ息を荒げてゆくファイの背を摩り、深呼吸するように促す。
彼は無理やりにでも黒鋼の言ったことを自身に納得させようと、必死になっているようだった。
「わかった、わかったよ。じゃあオレは、その事故で脳に障害が残ったってことで……いいんだね?」
「そうだ。おまえが毎日つけてる日記がある。あとで、ゆっくり読め」
「……オレは黒たん先生と、今はここに暮らしてる」
「一年半になる」
「……わかった。大丈夫……大丈夫……」
自分に言い聞かせるように呟きながら額を押さえていたファイは、それからすぐに顔を上げて黒鋼の顔を凝視した。
「……なんで?」
「なにがだ」
「なんで、黒様も先生辞めたの……? オレのせい……?」
「バカ言うな」
でも、と言い募ろうとするファイの左手を取り、その薬指にはめられている銀の指輪に触れる。
彼はたった今その存在に気付いたようで、目を丸くして指輪と黒鋼の顔とを交互に見た。
黒鋼は笑って、さらに自分の左手も彼の目線へ上げて見せる。
薬指には同じものが、しっかりとはめられていた。
「同じ指輪……。黒たんとオレ、結婚した……?」
「そうだな。そんなようなもんだ」
「……嘘みたい」
「俺がここで暮らしたくて、おまえを連れてきた。おまえは俺の我儘に付き合っただけだ」
そう言ってくしゃりと前髪を撫でると、ファイは一瞬だけ切なげに瞳を揺らした後、くすぐったそうに笑った。
それから再び薬指の指輪を見つめて、そっと目を閉じた。
「……ごめんなさい」
繰り返す日々は切なくて、どれだけ嘘を重ねたとしても、それが真実になどなりえないことを知っている。
自分はただ彼を狭い檻に閉じ込めただけなのかもしれない。
けれどこんな風に笑ってくれるなら。
手放せば生きていけないのはきっと、黒鋼の方だった。
←戻る ・ 次へ→
ベッドの上で膝を抱えるファイに、黒鋼は小さな箱を差し出しながら言った。
昼なのか夜なのかさえ曖昧な暗い部屋。24時間つけっぱなしのテレビ画面が放つ光だけが、点滅したように辺りを照らす。
彼はどこか虚ろな目で、開かれた箱の中身を見つめる。
飾り気のない銀のリング。それでも想いがぎっしりと込められ、微かに光を放っていた。
ファイは覇気のなかった顔を苦しげに歪めると、嫌々と首を振った。
「……受け取れない」
「受け取ってほしい」
「ダメなんだ……きっと忘れる……無くなっちゃうよ……」
「それでも」
黒鋼はファイの手を取ると、手の平にそっと箱を握らせる。
また一回り細くなったようにも見える指先が、悲しげに震えていた。
「おまえが忘れても、俺が何度でも教えてやる」
そうやって繰り返し確かめ合えれば十分だった。
命ある限り、幾重にも同じ想いを重ねながら隣を歩かせてほしい。
躓きながらでもいい。泣いたっていい。恐れても。ずっと。
引き寄せた身体は折れそうなくらい頼りなく、震えながら呻く様は泣き方を知らない幼子のようだ。
強く強く抱きしめながら、その耳元に幾度も「愛してる」と告げた。
今この時だけでも刻むことが出来るなら、それだけで。
+++
一日の始まりには二通りある。
一つは、二人が同じ布団の中で目を覚ましたとき。
ファイはほとんどの場合、前日までの記憶がリセットされているから、起きた直後はここがどこかさえ分からない。
だから彼が理解し、納得するまで何度でも繰り返し、黒鋼は事故に遭った日からそれまでの経緯を根気よく話して聞かせる。
この場所に越してきた当初のファイは、朝目が覚める度にパニックを起こしていた。眠りから覚める度に「ここはどこ」と繰り返しながら怯えていた。
それは一年以上たった今も同じで、派手に混乱するには至らずとも、目覚めた直後の彼にとって、ここが知らない場所であることに変わりはなかった。
もう一つは、黒鋼が夜勤で朝に帰宅するとき。
どうにか彼の精神と生活が安定して来た頃から、黒鋼は山を降りた先に一軒だけある旅館で、深夜警備の仕事をしている。
一人で目を覚ましてもファイが混乱しないようにと、枕元には常に白い画用紙と日記帳を置いておく。
画用紙には黒いマジックで、いつも話して聞かせる内容と同じことを箇条書きに記し、さらに居間のホワイトボードを必ず見るように書き添えてある。
ボードには前日に何を食べ、何が冷蔵庫の中に残っているのかをはじめ、畑の作物の成長具合なども書かれており、黒鋼の帰宅時間もそれを見ればすぐに分かるようになっている。
そうやって時間をかけて習慣づけた結果、ファイは少しずつ記憶障害との付き合い方を訓練していった。
目を離していられる時間が増えたことは、黒鋼にとってむしろ安心に繋がった。
だがここのところ、ファイの精神状態が再び不安定なものになっていた。
縁側で涼んでいるかと思いきや突然パニックを起こしたり、朝起きてすぐに「今日は化学の実験だった」と慌てて出かける支度をしようとする。
記憶はリセットされても、身体は事故が起こった日のことを覚えているのだろうか。
保持しているはずの過去の記憶が前後し、思いがけないところまで遡るのは、彼の心の問題が大きいのかもしれない。
この時期、去年もそうだった。
折しも彼が事故に遭い、双子の片割れを失ったのは今頃のこと。
一週間後には、ユゥイの命日が迫っている。
+++
「……どうした?」
夜勤がなかった日の朝、黒鋼が意識を浮上させたとき、ファイはカーテンを開き切った窓の前にただ呆然と立ち尽くしていた。
浮かない空模様はどんよりとした鈍い光で室内を薄暗く照らしている。
起き上がり、その背中を見上げながらもう一度「どうした」と問うと、彼はこちらを見向きもせずに言った。
「お花見」
「……花見?」
「桜、いつ散った?」
「…………」
「ここ、どこだろう。オレ、さっきまで学校の校庭にいたんだ。みんなでお花見してた。なのにほら、この家の庭には、向日葵が咲いている」
ほんの数日前は蕾だった向日葵は、雨が止んだ翌日に大きく花を咲かせていた。
自分と同じくらいの身長にまで育った立派な花を見て、彼はとても嬉しそうにしていたのに。
黒鋼はゆっくりと瞬きをしてから立ち上がり、立ちつくしたままのファイの横に並んだ。
「おまえの言う花見ってのは、2年前の花見のことだな」
彼の言う2年前の春。事故が起こる数ヶ月前の記憶。
あれが教師として最後の春になった。
「……何を言ってるの?」
「毎年派手だが、あんときゃ心底呆れたもんだ」
「……そう、侑子先生がトラックでお酒とカラオケの機材を運んできたんだ。黒たん先生は近所迷惑だからやめろって、ついさっきまで凄く怒ってた」
「先生、か。懐かしいな。おまえのその呼び方」
「……ねぇ、変だよ。オレだけ急にタイムスリップでもしちゃったのかな。それとも、これは夢?」
夢。
そうならどれだけよかったろうか。
今の生活は幸せだ。
誰も知らない人間ばかりの土地で、二人きりで静かに同じ毎日を繰り返す日々。
築き上げた砂の城は毎朝のように波にさらわれ、昨日笑い合ったことさえもファイの中には残らない。
それでもこの男の笑顔が見たくて、ここに生きることを決めたのに。
ファイの口から語られる『思い出』が、時折酷く黒鋼を傷つける。
こうして2人で生きているのに、同じ時を共有することは、もう出来ない。
それでも約束したから。
彼が閉じた扉を、何度でも開けて追いかけて、教えてやると約束をした。
「信じられねぇのも分かるが。2年前の夏、おまえは事故にあって、頭を強く打った。そん時からな、記憶がしょっちゅう飛んじまうんだ」
「……なにそれ」
「俺もおまえも、もう教師じゃない。今はこの家に俺たち2人で暮らしてる。あの向日葵はおまえが育てて、一昨日咲いた」
「そんなの嘘だよ。だって、だってさっきまで……ッ」
ファイは目を泳がせて、幾度も首を振った。
口は半笑いだったが、汗の滲んだ額を押さえると床にぺたりと沈み込む。
黒鋼はその肩を抱きながら一緒に膝をついた。
このくらいのことは、今まで幾度となく繰り返してきた。
少しずつ息を荒げてゆくファイの背を摩り、深呼吸するように促す。
彼は無理やりにでも黒鋼の言ったことを自身に納得させようと、必死になっているようだった。
「わかった、わかったよ。じゃあオレは、その事故で脳に障害が残ったってことで……いいんだね?」
「そうだ。おまえが毎日つけてる日記がある。あとで、ゆっくり読め」
「……オレは黒たん先生と、今はここに暮らしてる」
「一年半になる」
「……わかった。大丈夫……大丈夫……」
自分に言い聞かせるように呟きながら額を押さえていたファイは、それからすぐに顔を上げて黒鋼の顔を凝視した。
「……なんで?」
「なにがだ」
「なんで、黒様も先生辞めたの……? オレのせい……?」
「バカ言うな」
でも、と言い募ろうとするファイの左手を取り、その薬指にはめられている銀の指輪に触れる。
彼はたった今その存在に気付いたようで、目を丸くして指輪と黒鋼の顔とを交互に見た。
黒鋼は笑って、さらに自分の左手も彼の目線へ上げて見せる。
薬指には同じものが、しっかりとはめられていた。
「同じ指輪……。黒たんとオレ、結婚した……?」
「そうだな。そんなようなもんだ」
「……嘘みたい」
「俺がここで暮らしたくて、おまえを連れてきた。おまえは俺の我儘に付き合っただけだ」
そう言ってくしゃりと前髪を撫でると、ファイは一瞬だけ切なげに瞳を揺らした後、くすぐったそうに笑った。
それから再び薬指の指輪を見つめて、そっと目を閉じた。
「……ごめんなさい」
繰り返す日々は切なくて、どれだけ嘘を重ねたとしても、それが真実になどなりえないことを知っている。
自分はただ彼を狭い檻に閉じ込めただけなのかもしれない。
けれどこんな風に笑ってくれるなら。
手放せば生きていけないのはきっと、黒鋼の方だった。
←戻る ・ 次へ→
ファイが記憶障害を患う以前、2人は同じ学校で教鞭を執る立場にあった。
黒鋼は体育を、ファイは化学を。
そして同じ教師である傍ら、プライベートでもパートナーとしての円満な関係を築いていた。
男同士ではあったが、雨が大地に染み込むような自然さで、気がつけば惹かれあっていた。
多分きっと、死ぬまでの長い付き合いになるだろうと、黒鋼はファイと出会った瞬間に感じたのを覚えている。
今でもその気持ちは薄れるどころか、日に日に大きくなっていた。
ファイが交通事故に巻き込まれたのは、ちょうど今のような暑い時期のことだった。
広く見通しのいい交差点で、横断歩道を渡っていた際に脇見運転の乗用車にはねられた。
運転手は電柱に衝突して即死。ファイは一命を取り留めたものの頭部を強打し、意識不明の状態で病院に緊急搬送され、その後二週間も意識不明のままだった。
あの日、黒鋼は顧問を務める部活の練習試合で彼の側にはいなかった。
連絡を受けて慌てて駆けつけた先で見た、ICUで死んだように眠るファイの痛々しい姿が、今でも忘れられない。
それでも、生きていてくれたことが大きな救いだった。
『彼だけでも』失わずに済んだことが、心から。
+++
あの事故の後、意識を取り戻したファイは検査などの結果、医師から記憶障害が起こる可能性が高いことを示唆された。
そしてその言葉通り、ほどなくして彼の記憶は緩やかに破綻の兆しを見せ始めた。
自分がどこにいたのか、たった今まで何をしていたのか、些細な約束や用事でさえも記憶に留めることができなくなり、その都度メモを取っても、たった数分後にはメモの存在自体を忘れる始末だった。
もちろん、職場に復帰することも叶わなかった。
今でこそ薬の量も安定し、ある程度の落ち着きは取り戻しているが、当初は日常生活もままならないほどの混乱に見舞われ、精神科の世話にもなった。
彼が生きるには都会という環境はあまりにも混濁しすぎていた。
電車に乗ってもバスに乗っても、次の瞬間には行き先を忘れてしまう。結果、訳の分からないままに下車して、見知らぬ街で茫然とする。
当然、自分で車を運転させるなど以ての外だった。
毎朝のように消失している記憶と、繰り返し訪れる混乱。
事故のこと、背負った障害、経過した日数。
それらを毎日のように言い聞かせれば、その都度ファイは受け入れがたい事実に大きなショックを受ける。気休めに飲ませる薬の量はどんどん増えて、起き上がっていられる時間も減少していった。
ファイは一日を暗い部屋の中だけで過ごすようになった。
食欲も減る一方で、頬がこけるほど痩せ細ってゆく姿を、黒鋼はとうとう見ていられなくなった。
せっかくあの酷い事故に巻き込まれながらも助かったというのに、このままでは彼の心が死んでしまう。
そして事故からおよそ半年後。
黒鋼は自らも教師という職を辞した。
2人で、どこか静かな場所でやり直したかった。
もう一度、真夏の太陽の下に咲く向日葵のように、ファイに笑ってほしくて。
+++
県境の山奥に、ぽつりと一件だけ建っている木造平屋の一軒家。
誰も寄りつかず、そして寄せつけず、立ち並ぶ木々に守られるようにして佇む小さな家に暮らすようになって、もう一年半になる。
ファイは庭で小さな作物や花を育てることに夢中になっていた。
時に我が子のように、親友のように、小さく囁きかけながらその成長を嬉しそうに見守っていた。
それは雨の日も同じで、しょっちゅう窓の外を眺めてはそれらを気にかける。
「もうすぐ向日葵が咲くね」
窓辺に置いた座編みの椅子に腰かけながら、ファイは庭を眺めてぽつりと言った。
待ちわびたような視線の先には、咲きかけの向日葵が幾本か根を下ろしている。
じきに空へ向かって、大輪の花を咲かせるであろうその花は、雨に打たれて僅かに俯いていた。
けれどファイは、その花のずっと先を見ているような遠い目をしている。
「ユゥイ、来るかな?」
彼の口からその名が出る度に、黒鋼は胸を抉られるような気分を味わう。
木製のテーブルの上に置いた雑誌をめくる手が、おのずと止まる。
「こんなに静かで素敵な場所だもの。早く遊びに来たらいいのに。ねぇ、そうでしょ?」
「……忙しいんだろうよ。店の方がな」
「そっか。そういえば最後に話したの、いつだったのかな?」
ファイは椅子から立ち上がると、隣室の文机へ向かって、すぐに戻って来た。
再び腰掛けた彼の手には、赤い表紙の日記帳がある。
これに、ファイは毎日のようにその日あった出来事を記していた。
思い出すためではなく、知るために。
書いた覚えのない日記を、辞書をなぞるような感覚で追っていく。
昨日の自分が、一昨日の自分が、どんな風に過ごしたのかを。
「……ダメだぁ」
けれど、どれだけ日記を遡ってもユゥイと会話した記録はなかったらしい。
彼は溜息をつくとそれを閉じ、腕の中に抱えて残念そうに俯いた。
「書き忘れちゃってるみたいだ。ユゥイの名前、ひとつも出て来ない」
ファイはちょっと困ったように肩をすくめてから、口許に指先を添えて楽しげに笑い出した。
「この日記帳ね、黒たんと庭のことしか書いてないの。オレって毎日そればっかり。やんなっちゃうよ」
「その割にゃ満足そうじゃねぇか」
「うん。覚えて無くても、毎日幸せだってことがこれを見れば分かるもの」
幸せという一言と無邪気な笑顔が、黒鋼の胸を安堵で満たした。
彼は何も思い出さなくていいし、不安になる必要だってない。
来るはずのない人間を待ち続ける『今』を、『明日』のファイは覚えていないから。
そう、ユゥイは絶対にここには来ない。
明日も明後日も、彼の日記には黒鋼の名と庭の様子だけが書き綴られる。
なぜなら彼の双子の弟は、2年前の夏に死んでいるからだ。
事故に遭ったあの瞬間、車にはねられたのはファイだけではなかった。
夕飯の買い出しに2人仲良く繰り出していた際に起こった、不幸な事故。
現場を目撃した人間の話では、ユゥイは車が突っ込んできた瞬間、並んで歩いていたファイをギリギリのところで突き飛ばす動作を見せたという。
そのおかげで兄はかろうじて致命傷を免れ、弟は帰らぬ人となった。
ユゥイは生前、故郷のイタリアで自分のレストランを持っていた。
いつか日本でも店を出すのだと言って、よく遊びに来ては料理の腕を振る舞ってくれた。
いつだって兄の身を案じていた彼は、最期の瞬間までファイを愛していた。
そしてその愛された記憶だけが、ファイの記憶に焼き付いている。
彼の中では今も、最愛の弟は遠くイタリアの空の下で生き続けているのだ。
だから黒鋼は平然と嘘をつく。
「休暇が取れたら来るんだろ? 最後に話したのはいつだったか……俺も忘れちまった」
読みかけの雑誌に視線を戻しながらそう言うと、ファイはくすくすと声を上げて笑った。
「もう! 黒たんまで忘れちゃったらダメじゃない」
「俺も日記をつけた方がよさそうか?」
「いいよ。特別に、今日だけこの日記帳、貸してあげる」
はい、と差し出された赤い日記帳を受け取りながら、黒鋼は「ありがてぇな」と言って微かに笑った。
←戻る ・ 次へ→
黒鋼は体育を、ファイは化学を。
そして同じ教師である傍ら、プライベートでもパートナーとしての円満な関係を築いていた。
男同士ではあったが、雨が大地に染み込むような自然さで、気がつけば惹かれあっていた。
多分きっと、死ぬまでの長い付き合いになるだろうと、黒鋼はファイと出会った瞬間に感じたのを覚えている。
今でもその気持ちは薄れるどころか、日に日に大きくなっていた。
ファイが交通事故に巻き込まれたのは、ちょうど今のような暑い時期のことだった。
広く見通しのいい交差点で、横断歩道を渡っていた際に脇見運転の乗用車にはねられた。
運転手は電柱に衝突して即死。ファイは一命を取り留めたものの頭部を強打し、意識不明の状態で病院に緊急搬送され、その後二週間も意識不明のままだった。
あの日、黒鋼は顧問を務める部活の練習試合で彼の側にはいなかった。
連絡を受けて慌てて駆けつけた先で見た、ICUで死んだように眠るファイの痛々しい姿が、今でも忘れられない。
それでも、生きていてくれたことが大きな救いだった。
『彼だけでも』失わずに済んだことが、心から。
+++
あの事故の後、意識を取り戻したファイは検査などの結果、医師から記憶障害が起こる可能性が高いことを示唆された。
そしてその言葉通り、ほどなくして彼の記憶は緩やかに破綻の兆しを見せ始めた。
自分がどこにいたのか、たった今まで何をしていたのか、些細な約束や用事でさえも記憶に留めることができなくなり、その都度メモを取っても、たった数分後にはメモの存在自体を忘れる始末だった。
もちろん、職場に復帰することも叶わなかった。
今でこそ薬の量も安定し、ある程度の落ち着きは取り戻しているが、当初は日常生活もままならないほどの混乱に見舞われ、精神科の世話にもなった。
彼が生きるには都会という環境はあまりにも混濁しすぎていた。
電車に乗ってもバスに乗っても、次の瞬間には行き先を忘れてしまう。結果、訳の分からないままに下車して、見知らぬ街で茫然とする。
当然、自分で車を運転させるなど以ての外だった。
毎朝のように消失している記憶と、繰り返し訪れる混乱。
事故のこと、背負った障害、経過した日数。
それらを毎日のように言い聞かせれば、その都度ファイは受け入れがたい事実に大きなショックを受ける。気休めに飲ませる薬の量はどんどん増えて、起き上がっていられる時間も減少していった。
ファイは一日を暗い部屋の中だけで過ごすようになった。
食欲も減る一方で、頬がこけるほど痩せ細ってゆく姿を、黒鋼はとうとう見ていられなくなった。
せっかくあの酷い事故に巻き込まれながらも助かったというのに、このままでは彼の心が死んでしまう。
そして事故からおよそ半年後。
黒鋼は自らも教師という職を辞した。
2人で、どこか静かな場所でやり直したかった。
もう一度、真夏の太陽の下に咲く向日葵のように、ファイに笑ってほしくて。
+++
県境の山奥に、ぽつりと一件だけ建っている木造平屋の一軒家。
誰も寄りつかず、そして寄せつけず、立ち並ぶ木々に守られるようにして佇む小さな家に暮らすようになって、もう一年半になる。
ファイは庭で小さな作物や花を育てることに夢中になっていた。
時に我が子のように、親友のように、小さく囁きかけながらその成長を嬉しそうに見守っていた。
それは雨の日も同じで、しょっちゅう窓の外を眺めてはそれらを気にかける。
「もうすぐ向日葵が咲くね」
窓辺に置いた座編みの椅子に腰かけながら、ファイは庭を眺めてぽつりと言った。
待ちわびたような視線の先には、咲きかけの向日葵が幾本か根を下ろしている。
じきに空へ向かって、大輪の花を咲かせるであろうその花は、雨に打たれて僅かに俯いていた。
けれどファイは、その花のずっと先を見ているような遠い目をしている。
「ユゥイ、来るかな?」
彼の口からその名が出る度に、黒鋼は胸を抉られるような気分を味わう。
木製のテーブルの上に置いた雑誌をめくる手が、おのずと止まる。
「こんなに静かで素敵な場所だもの。早く遊びに来たらいいのに。ねぇ、そうでしょ?」
「……忙しいんだろうよ。店の方がな」
「そっか。そういえば最後に話したの、いつだったのかな?」
ファイは椅子から立ち上がると、隣室の文机へ向かって、すぐに戻って来た。
再び腰掛けた彼の手には、赤い表紙の日記帳がある。
これに、ファイは毎日のようにその日あった出来事を記していた。
思い出すためではなく、知るために。
書いた覚えのない日記を、辞書をなぞるような感覚で追っていく。
昨日の自分が、一昨日の自分が、どんな風に過ごしたのかを。
「……ダメだぁ」
けれど、どれだけ日記を遡ってもユゥイと会話した記録はなかったらしい。
彼は溜息をつくとそれを閉じ、腕の中に抱えて残念そうに俯いた。
「書き忘れちゃってるみたいだ。ユゥイの名前、ひとつも出て来ない」
ファイはちょっと困ったように肩をすくめてから、口許に指先を添えて楽しげに笑い出した。
「この日記帳ね、黒たんと庭のことしか書いてないの。オレって毎日そればっかり。やんなっちゃうよ」
「その割にゃ満足そうじゃねぇか」
「うん。覚えて無くても、毎日幸せだってことがこれを見れば分かるもの」
幸せという一言と無邪気な笑顔が、黒鋼の胸を安堵で満たした。
彼は何も思い出さなくていいし、不安になる必要だってない。
来るはずのない人間を待ち続ける『今』を、『明日』のファイは覚えていないから。
そう、ユゥイは絶対にここには来ない。
明日も明後日も、彼の日記には黒鋼の名と庭の様子だけが書き綴られる。
なぜなら彼の双子の弟は、2年前の夏に死んでいるからだ。
事故に遭ったあの瞬間、車にはねられたのはファイだけではなかった。
夕飯の買い出しに2人仲良く繰り出していた際に起こった、不幸な事故。
現場を目撃した人間の話では、ユゥイは車が突っ込んできた瞬間、並んで歩いていたファイをギリギリのところで突き飛ばす動作を見せたという。
そのおかげで兄はかろうじて致命傷を免れ、弟は帰らぬ人となった。
ユゥイは生前、故郷のイタリアで自分のレストランを持っていた。
いつか日本でも店を出すのだと言って、よく遊びに来ては料理の腕を振る舞ってくれた。
いつだって兄の身を案じていた彼は、最期の瞬間までファイを愛していた。
そしてその愛された記憶だけが、ファイの記憶に焼き付いている。
彼の中では今も、最愛の弟は遠くイタリアの空の下で生き続けているのだ。
だから黒鋼は平然と嘘をつく。
「休暇が取れたら来るんだろ? 最後に話したのはいつだったか……俺も忘れちまった」
読みかけの雑誌に視線を戻しながらそう言うと、ファイはくすくすと声を上げて笑った。
「もう! 黒たんまで忘れちゃったらダメじゃない」
「俺も日記をつけた方がよさそうか?」
「いいよ。特別に、今日だけこの日記帳、貸してあげる」
はい、と差し出された赤い日記帳を受け取りながら、黒鋼は「ありがてぇな」と言って微かに笑った。
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おまえは生きるほどに失えばいい。
風が通り抜けるように、花が枯れるように。
雪が解けるように、蜻蛉の命のように。
何度でも手放して、何度でも泣けばいい。
そうして粉々に砕け散った破片は俺が拾い上げてやるから。
おまえはそれを綺麗だと言って、笑えばいい。
俺の側で、ただ生きてくれれば、それで。
+++
今日も暑くなりそうだ。
夜間警備の仕事を終えて、家までの曲がりくねった山道に車を滑らせながら、黒鋼は小さく息をつく。
走れども両脇には雑多な木々が延々と並び、隙間から差し込む朝日がオレンジ色の残像を網膜に焼きつける。
狭い二車線の道は対向車もなく、人っ子一人いやしない。
この先は民家もごく僅かしかなく、時折思い出したようにぽつりと佇む道路標識には、野生動物のシルエットが描かれていた。
山道を抜けると青空の下に広大な田畑が広がり、両脇の閉塞感が消えたことで道が広くなったように感じられた。
青々とした田んぼの真ん中にぽつりと佇む真紅の鳥居を横目に、枝分かれした道の一つを右折する。
一車線にまで狭まった上り坂を進み続けると、やがて青い瓦屋根の小さな家が見えて来きた。
あれは、まだ寝ているのだろうか。
家の脇に車を停車させ、腕時計で時刻を確認すると8時を指す少し前だった。
いつもであれば、庭の小さな畑でせっせと作業をしているはずの姿が、今朝は見当たらない。
昨夜は寝かしつけるのに少し時間がかかってしまったから、まだ起きられずにいるのか。
ここのところ不安定な状態が続いているのは、時期的にしょうがないことなのかもしれない。
曇りガラスの引き戸には鍵がかかっていた。
やはりまだ眠っているのだろうと、ジーンズのポケットから取り出した鍵を使って中に入る。
家の中はひんやりとしていて、板張りの廊下もその先のキッチンも薄暗い。
「帰ったぞ」
一応は小さく声をかけながら、廊下の左手側にある部屋の中を覗き込む。
居間として利用しているその部屋も、明け放たれた襖の向こうで寝室として利用している仏間も、カーテンがかかったままでやはり仄暗かった。
「……黒たん?」
そのとき、居間の片隅から、囁くような声がして目を向けた。
茶箪笥の影に隠れるようにして顔を覗かせる青年が、黒鋼の姿を認めるや安堵の表情を浮かべて立ちあがる。
すぐに側までやって来た彼は両腕を黒鋼の首に回し、ぎゅっとしがみついてきた。
「何かあったか。カーテンも窓も開けねぇで」
頼りない腰に腕を回して金色の前髪に唇を押し付けてから、窓辺に寄ってよもぎ色のカーテンに手を伸ばしかける。
だが、すかさず「ダメ!」という声が白い手と共に黒鋼の手首を掴んだ。
何事かと僅かに目を見開けば、彼は顔を強張らせて窓の方を睨みつけた。
「泥棒がいるんだ」
「泥棒だと?」
「お外、泥棒がいる。だから、気をつけないと……」
冗談を言っているようには見えない青年は、内緒話をするようなひっそりとした声で訴えかけてくる。
黒鋼は今まさに外から戻って来たが、庭にも家の周辺にも、泥棒どころか猫の子一匹見当たらなかった。
「トマト。黒たんが帰って来る前に収穫しようと思ったの」
「……ああ」
「でも、全部なくなってた。動物が食い荒らした感じもなかったし」
やはりそういうことか。
黒鋼は苦笑する。
笑いごとじゃないよと、唇を尖らせる青年の額を小さく小突いて、その青い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「いいか。いつも言ってんだろ? おかしいと感じた時には、そこのボードを必ず確認しろって」
「……ボード」
「あれだ。今朝は見たか?」
「……どうだろう……?」
彼が息を潜めて身を隠していた茶箪笥の、まさに上。
マジックで書きこむことのできる白いボードにはいくつも書き込みがされ、端には何枚もの付箋が張り付けられていた。
指差しでそこを示すと、彼は不思議そうにそれを見つめた。
「トマトは昨日の朝、おまえが収穫した。朝飯で食っただろう?」
「……そうなんだ」
「虫に食われたのも多かったが、美味かったな」
青年はボードに目を向けたまま、どこか茫然としている。
けれどすぐに悲しげに目を伏せて、それから顔を上げると小さな笑みを作って見せた。
「黒たんが美味しかったなら、よかった」
「おまえも美味い美味いって食ってたぞ」
「そっか。じゃあ、よかった」
彼はようやく納得したようで、黒鋼から離れるとカーテンと窓を開けた。
薄暗かった室内に眩しい朝日が射し込んで、青年の金色の髪を明るく照らす。
温い風に乗って、土や夏草の香りが鼻先を掠めた。
都会に暮らしていた頃には聞けなかった蝉の声が、気温の上昇に共鳴するように少しずつ強くなってゆく。
小さな畑の奥を流れる小川が奏でる水音が、耳に心地よかった。
すぐに朝ご飯を作るねと廊下に消える背中を見送りながら、今朝はまだいい方かと、黒鋼は幾分かホッとした。
+++
ファイは物事を認識し、その場で記憶することは出来ても、その記憶を長く保持し続けることができない。
彼の意識は『過去』に遡り、そして『今』に至る経緯を失う。
毎日のように前日までの記憶がリセットされるのに加え、稀にふとした瞬間にも記憶がすっ飛ぶことがある。
原因は2年前の夏。
ファイは交通事故に巻き込まれて、意識不明の重体に陥った。
一命は取り留めたが失ったものは大きく、そして脳に大きな障害を負うことになった。
彼の脳は虫に食われたトマトと同じだった。放っておけばその穴はどんどん増える。
黒鋼に出来ることといえば、その穴を『記憶』としてではなく、『知識』として根気よく埋め続けてやることくらいのものだ。
幸い、彼は事故に遭う前までの記憶はしっかりと持っている。
自分がどこで生まれ、どうやって育ち、それまでの人生を生きてきたのか。
黒鋼と出会い、気持ちを通じさせ、結ばれた日のことも、まだ失ってはいない。
だからこそ、ファイは『大切なもの』をなくしたことに気付かない。
それはとても皮肉で残酷なことではあるけれど。
彼の心と2人の暮らしが、それによって強固に守られていることは、逃れようもない事実だった。
←戻る ・ 次へ→
風が通り抜けるように、花が枯れるように。
雪が解けるように、蜻蛉の命のように。
何度でも手放して、何度でも泣けばいい。
そうして粉々に砕け散った破片は俺が拾い上げてやるから。
おまえはそれを綺麗だと言って、笑えばいい。
俺の側で、ただ生きてくれれば、それで。
+++
今日も暑くなりそうだ。
夜間警備の仕事を終えて、家までの曲がりくねった山道に車を滑らせながら、黒鋼は小さく息をつく。
走れども両脇には雑多な木々が延々と並び、隙間から差し込む朝日がオレンジ色の残像を網膜に焼きつける。
狭い二車線の道は対向車もなく、人っ子一人いやしない。
この先は民家もごく僅かしかなく、時折思い出したようにぽつりと佇む道路標識には、野生動物のシルエットが描かれていた。
山道を抜けると青空の下に広大な田畑が広がり、両脇の閉塞感が消えたことで道が広くなったように感じられた。
青々とした田んぼの真ん中にぽつりと佇む真紅の鳥居を横目に、枝分かれした道の一つを右折する。
一車線にまで狭まった上り坂を進み続けると、やがて青い瓦屋根の小さな家が見えて来きた。
あれは、まだ寝ているのだろうか。
家の脇に車を停車させ、腕時計で時刻を確認すると8時を指す少し前だった。
いつもであれば、庭の小さな畑でせっせと作業をしているはずの姿が、今朝は見当たらない。
昨夜は寝かしつけるのに少し時間がかかってしまったから、まだ起きられずにいるのか。
ここのところ不安定な状態が続いているのは、時期的にしょうがないことなのかもしれない。
曇りガラスの引き戸には鍵がかかっていた。
やはりまだ眠っているのだろうと、ジーンズのポケットから取り出した鍵を使って中に入る。
家の中はひんやりとしていて、板張りの廊下もその先のキッチンも薄暗い。
「帰ったぞ」
一応は小さく声をかけながら、廊下の左手側にある部屋の中を覗き込む。
居間として利用しているその部屋も、明け放たれた襖の向こうで寝室として利用している仏間も、カーテンがかかったままでやはり仄暗かった。
「……黒たん?」
そのとき、居間の片隅から、囁くような声がして目を向けた。
茶箪笥の影に隠れるようにして顔を覗かせる青年が、黒鋼の姿を認めるや安堵の表情を浮かべて立ちあがる。
すぐに側までやって来た彼は両腕を黒鋼の首に回し、ぎゅっとしがみついてきた。
「何かあったか。カーテンも窓も開けねぇで」
頼りない腰に腕を回して金色の前髪に唇を押し付けてから、窓辺に寄ってよもぎ色のカーテンに手を伸ばしかける。
だが、すかさず「ダメ!」という声が白い手と共に黒鋼の手首を掴んだ。
何事かと僅かに目を見開けば、彼は顔を強張らせて窓の方を睨みつけた。
「泥棒がいるんだ」
「泥棒だと?」
「お外、泥棒がいる。だから、気をつけないと……」
冗談を言っているようには見えない青年は、内緒話をするようなひっそりとした声で訴えかけてくる。
黒鋼は今まさに外から戻って来たが、庭にも家の周辺にも、泥棒どころか猫の子一匹見当たらなかった。
「トマト。黒たんが帰って来る前に収穫しようと思ったの」
「……ああ」
「でも、全部なくなってた。動物が食い荒らした感じもなかったし」
やはりそういうことか。
黒鋼は苦笑する。
笑いごとじゃないよと、唇を尖らせる青年の額を小さく小突いて、その青い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「いいか。いつも言ってんだろ? おかしいと感じた時には、そこのボードを必ず確認しろって」
「……ボード」
「あれだ。今朝は見たか?」
「……どうだろう……?」
彼が息を潜めて身を隠していた茶箪笥の、まさに上。
マジックで書きこむことのできる白いボードにはいくつも書き込みがされ、端には何枚もの付箋が張り付けられていた。
指差しでそこを示すと、彼は不思議そうにそれを見つめた。
「トマトは昨日の朝、おまえが収穫した。朝飯で食っただろう?」
「……そうなんだ」
「虫に食われたのも多かったが、美味かったな」
青年はボードに目を向けたまま、どこか茫然としている。
けれどすぐに悲しげに目を伏せて、それから顔を上げると小さな笑みを作って見せた。
「黒たんが美味しかったなら、よかった」
「おまえも美味い美味いって食ってたぞ」
「そっか。じゃあ、よかった」
彼はようやく納得したようで、黒鋼から離れるとカーテンと窓を開けた。
薄暗かった室内に眩しい朝日が射し込んで、青年の金色の髪を明るく照らす。
温い風に乗って、土や夏草の香りが鼻先を掠めた。
都会に暮らしていた頃には聞けなかった蝉の声が、気温の上昇に共鳴するように少しずつ強くなってゆく。
小さな畑の奥を流れる小川が奏でる水音が、耳に心地よかった。
すぐに朝ご飯を作るねと廊下に消える背中を見送りながら、今朝はまだいい方かと、黒鋼は幾分かホッとした。
+++
ファイは物事を認識し、その場で記憶することは出来ても、その記憶を長く保持し続けることができない。
彼の意識は『過去』に遡り、そして『今』に至る経緯を失う。
毎日のように前日までの記憶がリセットされるのに加え、稀にふとした瞬間にも記憶がすっ飛ぶことがある。
原因は2年前の夏。
ファイは交通事故に巻き込まれて、意識不明の重体に陥った。
一命は取り留めたが失ったものは大きく、そして脳に大きな障害を負うことになった。
彼の脳は虫に食われたトマトと同じだった。放っておけばその穴はどんどん増える。
黒鋼に出来ることといえば、その穴を『記憶』としてではなく、『知識』として根気よく埋め続けてやることくらいのものだ。
幸い、彼は事故に遭う前までの記憶はしっかりと持っている。
自分がどこで生まれ、どうやって育ち、それまでの人生を生きてきたのか。
黒鋼と出会い、気持ちを通じさせ、結ばれた日のことも、まだ失ってはいない。
だからこそ、ファイは『大切なもの』をなくしたことに気付かない。
それはとても皮肉で残酷なことではあるけれど。
彼の心と2人の暮らしが、それによって強固に守られていることは、逃れようもない事実だった。
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※死亡ルート。
承太郎はその狐の面を、ゆっくりと外した。
そしてふっと、笑みが零れる。
「変わらねえな、てめーは」
大人になった花京院の顔は、記憶の中の面影を十分に残していた。
笑おうとして不器用に震えるだけの唇は大きめで、悲しげに下がる眉の下で揺れる瞳は、すみれの花のように美しい。丸みを失った頬ですら愛おしくて。
手を伸ばし、その頬に触れた。目尻を親指で撫でてやれば、切れ長の瞳に溜まっていた涙が承太郎の手を伝う。
「泣くな、花京院」
「泣いてなんか、ないさ」
「……寂しい思いをさせた。遅くなったが……ようやく見つけたぜ」
長かった。この瞬間をどれほど夢見ていたか知れない。
例えこれが自身の作り上げた幻の世界でも、構わなかった。
花京院はここにいる。今この瞬間、目に見えているもの全てが承太郎にとっての真実だと思える。
「おまえなしでは生きられない。もう二度と、離さない」
「じょう、たろう……ッ」
かくれんぼはおしまいだ。
探し続けることも、待ち続けることも。
雑踏の中でふと足を止め、同じ顔をした人々の群れに鮮やかな赤い髪を探すことも。時がたつほどに嫌でも薄れていく記憶にしがみつくことも。
何もかもに疲れ切っていた。弱い男だと嘲笑われても、承太郎の孤独は花京院でしか埋められない。ならば、いっそ。
「駄目だ」
花京院は弱々しく首を左右に振ると、承太郎の手から逃れるように数歩、後退した。
「一緒にはいけない。ぼくはもう、どこにもいないんだ」
「花京院」
「死んでしまったんだよ。君だって本当は気づいてたんだろう?」
「ああ。どっかではな……ずっと諦めていた」
「ならそれでいいんだよ。君はなにも悪くない。これはぼくの自業自得さ。あの日、つまらない我儘を言って君を困らせた。だからぼくは」
――ここから、どこへもいくことができないんだ。
承太郎は花京院の足元に目をやった。透き通る青い水面に浸された彼の足に、二本の腕が絡みついている。
それは、男の遺体だった。
あの夜着ていた白いワイシャツが、薄汚れてボロボロに朽ちている。袖から覗く手も、顔も、無残に白骨化して原型を留めてはいなかった。
なんておぞましい楔だろうか。この無様で醜い執念が、ここに花京院の魂を縛りつけていた。
「そいつと、落ちたのか」
冷やかな視線で男を見つめながら問えば、花京院は悲しげに睫毛を伏せる。
「そうだよ。あの日、ぼくはこいつから逃れて山に入った。この上の崖っぷちまで追い詰められて……落ちたんだ」
不思議と、承太郎の脳裏にその時の光景が鮮明に映し出された。
息も絶え絶えに崖っぷちまで逃れた花京院と、いやらしい笑みを浮かべる男の姿が。
男は花京院に手を伸ばしたが、彼は必死で抵抗した。力の限り男の腰にしがみついて、やがて態勢を崩した男と、そのまま。
「怖かったよ。諦めてしまおうかとも思った。だけど、君ならどうするだろうって考えたんだ。承太郎なら、きっとこんなやつに屈したりしない。ぼくはいつだって、君と並んで恥ずかしくない人間でありたかった」
その幼い勇気が、強さが悲しくて、承太郎は奥歯を噛み締めながら痛みを堪えた。
細い腕や、小さな膝小僧から血を流し、震えながら逃げ惑う姿が脳裏をよぎる。伸ばしても届かなかった手の先には、思っていた通りの結末が待っていた。
飛び交う蛍の淡い光の中、どこか諦めたように笑う花京院を真っ直ぐに見据える。
こんなときですら強くあろうとしなくていい。囚われて身動きが取れないというのなら。
承太郎は花京院へと一歩踏み出す。彼は身を固くして、僅かに肩を竦めて見せる。その肩を掴み、そして。
「ッ、承太郎……!?」
憎しみの赴くまま、男の亡骸を踏み潰した。
それは驚くほどあっけなく、砂のように崩れ落ちて水の流れと同化した。砕けた骨がざらざらと音をたて、残った衣服もまた流されていく。
花京院はその一瞬の出来事に茫然としていた。その身体を引き寄せて強く抱きしめ、腕の中に閉じ込める。
強く強く抱きしめながら、心が満たされるのを感じた。
初めて言葉を交わした幼い日のように、陰鬱とした穴が陽だまりで溢れかえるような、あの温かさを。
花京院の身体は承太郎の腕にあまりにもよく馴染んだ。ようやく取り戻すことができた。ずっとずっと探し求めていた。約束を、果たすことができた。
「てめーはおれを、かいかぶりすぎだぜ。花京院」
「じょう、たろう……」
「言ったはずだ。てめーなしじゃ生きられねえと。おれはこんなにも、弱い男だった」
腕の中で花京院が震えた。嗚咽を堪えるような小さな呻きに、愛しさが募る。
彼は泣き濡れた声で「どうして」と吐き出した。
「ずっと、見ていたんだよ」
「そうか」
「ずっとずっと、ここで見ていたんだ。承太郎がぼくを忘れて、幸せに生きることを願っていた。なのに君は、いつまでたっても忘れちゃくれない」
――だからぼくも、諦めることができなかった。
ああ、そうか。
失くしたままでは生きられなかった。そして、逝くことができなかった。
同じだった。後悔と未練の檻に、二人はずっと閉じ込められたままだった。
承太郎は花京院に、花京院は承太郎に。
別たれた世界で想いの形を鎖に変えて、互いの魂を雁字搦めに縛りつけていた。
ならばもう迷うことはなかった。承太郎は取り戻した。そしてもう二度と離すつもりはない。承太郎の幸福は、ここにしかないのだから。
「おれの幸せを願うなら……もう駄目とは言わせねえぜ。花京院」
――だから、一緒に逝こう。
花京院の唇からついに嗚咽が漏れだした。承太郎の肩に目元を埋めて、引き攣ったように肩を震わせる。
赤い癖毛に頬を埋めながら、些細な口論の末、離れ離れになってしまったあの夜を思い出す。
祭の喧騒と、提灯の光を見上げていた彼は、承太郎が追いかけてくるのを待っていた。死してなお、ずっとずっと待っていた。
承太郎はふと、片手をズボンのポケットに忍ばせた。僅かに身を離し、中から取り出したものを花京院へと差し出す。
「これ、は」
すみれ色の濡れた瞳が見開かれる。チェリーのような形をしたピアスは、幼い彼が欲しがっていたものだった。
くすんでしまった赤が、蛍の光を弾いて輝きを取り戻す。
「受け取ってくれるか。花京院」
白い指先が、小刻みに震えながらピアスに触れる。
10年の歳月を経て、承太郎の想いはようやく報われた。
花京院はそれを握りしめ、口元に押し当てると微笑んだ。愛嬌のある大きめの口で、赤い頬で、幼い頃のまま。
「ぼくはきっと、地獄に落ちるな」
承太郎もまた笑みを浮かべる。
「こんな薄ら寒い場所よりは、幾らかマシかもしれねーぜ」
再び抱き合うと、水面から花弁のように蛍の群れが舞い上がる。
緑色の輝きと澄んだ川のせせらぎに包まれながら、承太郎と花京院は最初で最後の口付けを交わした。
*
安息を求め、飛び込んだ先に。
承太郎の望む世界は確かにあった。
もう羨むことはない。
自ら生を断つ弱さと、強さと、渇きに焦がれることも。
命を手放す最期の瞬間。
海の底を揺蕩うような泡沫に揺れ、ようやく二人、一つになれた。
*
8月某日。
真夏の炎天下の中、蝉時雨のこだまする渓谷の谷底で二つの遺体が見つかった。
一つは大柄な男性のものだった。
それはたった今まで息をしていたかのような瑞々しさで、目を見張るほどの美丈夫だった。
彼は白骨化した、小さな亡骸をその腕に抱いていた。
大切に守るように、包み込むように、労わるように。
原形をとどめていないはずの幼子の表情は、不思議と穏やかに微笑んでいるようにも見えた。その手には、赤いピアスがしっかりと握られていた。
寄り添う二つの亡骸は、美しく、奇妙で、うら悲しく、愛念に満ちていた。
「嫌だねぇ、また身投げかい」
「おかしな死体だってね。新しいのと古いのが抱き合ってるってさ」
「気味が悪いねぇ……」
渓谷にかかる橋には、噂を聞きつけた近隣住民が高みの見物に集まっていた。
警察や消防が遺体の回収作業を行う様をはるか上空から見下ろし、みな一様に奇怪な二つの亡骸に首を傾げる。
誰一人として、その愛の形を知る由はない。
「どっちにしろわからないもんだね、命数尽きないうちに死んじまう奴らの考えなんて」
一台の黒い乗用車が、そんな彼らを冷淡に傍観しながら、走り抜けて行った。
終
生存ルートも読んでみる
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承太郎はその狐の面を、ゆっくりと外した。
そしてふっと、笑みが零れる。
「変わらねえな、てめーは」
大人になった花京院の顔は、記憶の中の面影を十分に残していた。
笑おうとして不器用に震えるだけの唇は大きめで、悲しげに下がる眉の下で揺れる瞳は、すみれの花のように美しい。丸みを失った頬ですら愛おしくて。
手を伸ばし、その頬に触れた。目尻を親指で撫でてやれば、切れ長の瞳に溜まっていた涙が承太郎の手を伝う。
「泣くな、花京院」
「泣いてなんか、ないさ」
「……寂しい思いをさせた。遅くなったが……ようやく見つけたぜ」
長かった。この瞬間をどれほど夢見ていたか知れない。
例えこれが自身の作り上げた幻の世界でも、構わなかった。
花京院はここにいる。今この瞬間、目に見えているもの全てが承太郎にとっての真実だと思える。
「おまえなしでは生きられない。もう二度と、離さない」
「じょう、たろう……ッ」
かくれんぼはおしまいだ。
探し続けることも、待ち続けることも。
雑踏の中でふと足を止め、同じ顔をした人々の群れに鮮やかな赤い髪を探すことも。時がたつほどに嫌でも薄れていく記憶にしがみつくことも。
何もかもに疲れ切っていた。弱い男だと嘲笑われても、承太郎の孤独は花京院でしか埋められない。ならば、いっそ。
「駄目だ」
花京院は弱々しく首を左右に振ると、承太郎の手から逃れるように数歩、後退した。
「一緒にはいけない。ぼくはもう、どこにもいないんだ」
「花京院」
「死んでしまったんだよ。君だって本当は気づいてたんだろう?」
「ああ。どっかではな……ずっと諦めていた」
「ならそれでいいんだよ。君はなにも悪くない。これはぼくの自業自得さ。あの日、つまらない我儘を言って君を困らせた。だからぼくは」
――ここから、どこへもいくことができないんだ。
承太郎は花京院の足元に目をやった。透き通る青い水面に浸された彼の足に、二本の腕が絡みついている。
それは、男の遺体だった。
あの夜着ていた白いワイシャツが、薄汚れてボロボロに朽ちている。袖から覗く手も、顔も、無残に白骨化して原型を留めてはいなかった。
なんておぞましい楔だろうか。この無様で醜い執念が、ここに花京院の魂を縛りつけていた。
「そいつと、落ちたのか」
冷やかな視線で男を見つめながら問えば、花京院は悲しげに睫毛を伏せる。
「そうだよ。あの日、ぼくはこいつから逃れて山に入った。この上の崖っぷちまで追い詰められて……落ちたんだ」
不思議と、承太郎の脳裏にその時の光景が鮮明に映し出された。
息も絶え絶えに崖っぷちまで逃れた花京院と、いやらしい笑みを浮かべる男の姿が。
男は花京院に手を伸ばしたが、彼は必死で抵抗した。力の限り男の腰にしがみついて、やがて態勢を崩した男と、そのまま。
「怖かったよ。諦めてしまおうかとも思った。だけど、君ならどうするだろうって考えたんだ。承太郎なら、きっとこんなやつに屈したりしない。ぼくはいつだって、君と並んで恥ずかしくない人間でありたかった」
その幼い勇気が、強さが悲しくて、承太郎は奥歯を噛み締めながら痛みを堪えた。
細い腕や、小さな膝小僧から血を流し、震えながら逃げ惑う姿が脳裏をよぎる。伸ばしても届かなかった手の先には、思っていた通りの結末が待っていた。
飛び交う蛍の淡い光の中、どこか諦めたように笑う花京院を真っ直ぐに見据える。
こんなときですら強くあろうとしなくていい。囚われて身動きが取れないというのなら。
承太郎は花京院へと一歩踏み出す。彼は身を固くして、僅かに肩を竦めて見せる。その肩を掴み、そして。
「ッ、承太郎……!?」
憎しみの赴くまま、男の亡骸を踏み潰した。
それは驚くほどあっけなく、砂のように崩れ落ちて水の流れと同化した。砕けた骨がざらざらと音をたて、残った衣服もまた流されていく。
花京院はその一瞬の出来事に茫然としていた。その身体を引き寄せて強く抱きしめ、腕の中に閉じ込める。
強く強く抱きしめながら、心が満たされるのを感じた。
初めて言葉を交わした幼い日のように、陰鬱とした穴が陽だまりで溢れかえるような、あの温かさを。
花京院の身体は承太郎の腕にあまりにもよく馴染んだ。ようやく取り戻すことができた。ずっとずっと探し求めていた。約束を、果たすことができた。
「てめーはおれを、かいかぶりすぎだぜ。花京院」
「じょう、たろう……」
「言ったはずだ。てめーなしじゃ生きられねえと。おれはこんなにも、弱い男だった」
腕の中で花京院が震えた。嗚咽を堪えるような小さな呻きに、愛しさが募る。
彼は泣き濡れた声で「どうして」と吐き出した。
「ずっと、見ていたんだよ」
「そうか」
「ずっとずっと、ここで見ていたんだ。承太郎がぼくを忘れて、幸せに生きることを願っていた。なのに君は、いつまでたっても忘れちゃくれない」
――だからぼくも、諦めることができなかった。
ああ、そうか。
失くしたままでは生きられなかった。そして、逝くことができなかった。
同じだった。後悔と未練の檻に、二人はずっと閉じ込められたままだった。
承太郎は花京院に、花京院は承太郎に。
別たれた世界で想いの形を鎖に変えて、互いの魂を雁字搦めに縛りつけていた。
ならばもう迷うことはなかった。承太郎は取り戻した。そしてもう二度と離すつもりはない。承太郎の幸福は、ここにしかないのだから。
「おれの幸せを願うなら……もう駄目とは言わせねえぜ。花京院」
――だから、一緒に逝こう。
花京院の唇からついに嗚咽が漏れだした。承太郎の肩に目元を埋めて、引き攣ったように肩を震わせる。
赤い癖毛に頬を埋めながら、些細な口論の末、離れ離れになってしまったあの夜を思い出す。
祭の喧騒と、提灯の光を見上げていた彼は、承太郎が追いかけてくるのを待っていた。死してなお、ずっとずっと待っていた。
承太郎はふと、片手をズボンのポケットに忍ばせた。僅かに身を離し、中から取り出したものを花京院へと差し出す。
「これ、は」
すみれ色の濡れた瞳が見開かれる。チェリーのような形をしたピアスは、幼い彼が欲しがっていたものだった。
くすんでしまった赤が、蛍の光を弾いて輝きを取り戻す。
「受け取ってくれるか。花京院」
白い指先が、小刻みに震えながらピアスに触れる。
10年の歳月を経て、承太郎の想いはようやく報われた。
花京院はそれを握りしめ、口元に押し当てると微笑んだ。愛嬌のある大きめの口で、赤い頬で、幼い頃のまま。
「ぼくはきっと、地獄に落ちるな」
承太郎もまた笑みを浮かべる。
「こんな薄ら寒い場所よりは、幾らかマシかもしれねーぜ」
再び抱き合うと、水面から花弁のように蛍の群れが舞い上がる。
緑色の輝きと澄んだ川のせせらぎに包まれながら、承太郎と花京院は最初で最後の口付けを交わした。
*
安息を求め、飛び込んだ先に。
承太郎の望む世界は確かにあった。
もう羨むことはない。
自ら生を断つ弱さと、強さと、渇きに焦がれることも。
命を手放す最期の瞬間。
海の底を揺蕩うような泡沫に揺れ、ようやく二人、一つになれた。
*
8月某日。
真夏の炎天下の中、蝉時雨のこだまする渓谷の谷底で二つの遺体が見つかった。
一つは大柄な男性のものだった。
それはたった今まで息をしていたかのような瑞々しさで、目を見張るほどの美丈夫だった。
彼は白骨化した、小さな亡骸をその腕に抱いていた。
大切に守るように、包み込むように、労わるように。
原形をとどめていないはずの幼子の表情は、不思議と穏やかに微笑んでいるようにも見えた。その手には、赤いピアスがしっかりと握られていた。
寄り添う二つの亡骸は、美しく、奇妙で、うら悲しく、愛念に満ちていた。
「嫌だねぇ、また身投げかい」
「おかしな死体だってね。新しいのと古いのが抱き合ってるってさ」
「気味が悪いねぇ……」
渓谷にかかる橋には、噂を聞きつけた近隣住民が高みの見物に集まっていた。
警察や消防が遺体の回収作業を行う様をはるか上空から見下ろし、みな一様に奇怪な二つの亡骸に首を傾げる。
誰一人として、その愛の形を知る由はない。
「どっちにしろわからないもんだね、命数尽きないうちに死んじまう奴らの考えなんて」
一台の黒い乗用車が、そんな彼らを冷淡に傍観しながら、走り抜けて行った。
終
生存ルートも読んでみる
←戻る ・ Wavebox👏
※生存ルート。
承太郎はその狐の面を、外すことができなかった。
面に触れていた手がだらりと落ちる。
ふいに漏れたのは自嘲的な笑みで、承太郎は俯くと力なく首を振った。
「おれには、そんな資格はねえな」
花京院がどんな顔をしていようと、それはただの幻だ。
彼の言葉や仕草は、ずっと暗い水の底に沈んでいた心を救うには十分すぎた。諦める口実をどこかで求めていた承太郎に、彼は惜しみなく赦しを与えてくれる。
その顔を見てしまったら、きっとこの夢は美しい思い出の最後を飾って終わるだろう。めでたしめでたしで、都合よく。
確かに承太郎は救いを求めていた。だけど、そんな紛い物の救済に何の意味があるというのか。
ならばいっそ苦しいままでいい。花京院を守れなかった。その事実を風化させてしまうくらいなら、その罪を背負って生きていく方が、ずっと。
「おれは、おれ自身を許せそうにねえ。例えてめーがなんと言おうともだ」
「……ありもしない罪を背負い続けることに、一体なんの意味があると言うんだ?」
花京院の言葉には、呆れと仄かな苛立ちが込められていた。
ゆるゆると顔をあげた承太郎の正面で、蛍を纏わりつかせた狐が溜息を漏らす。
「君は一体、いつまでぼくを一人ぼっちにしておくつもりだい?」
「花京院……?」
「思いだせよ、承太郎」
――ぼくは、×んでなんかいないぞ。
「――ッ!!」
その瞬間、承太郎の意識が闇に飲まれ、遠のいた。
*
太鼓と笛の音に乗せて、母が舞台の上で厳かに舞い踊っている。
立ち込める熱気とカメラのフラッシュが点滅する中、承太郎はそれを最前列で見つめていた。
巫女装束に身を包み、鈴のついた榊を手に踊る母の姿は、神様が舞い降りたのかと思うほど荘厳で、美しかった。
(一緒に見るはずだったのに。花京院のヤツ)
幼い頬を上気させ、舞台上の母の姿を目に焼き付けながらも、承太郎は時おり背後を振り向いて花京院が来るのを今か今かと待っていた。
(あいつ小せえからな……ここまで来るのはやっぱ無理か)
舞台周辺は人だかりができていて、花京院の小さな身体で割り込んで来るのは難しいだろう。どこかで見ているのならいいのだが、口論になったうえに置いてきてしまった身としては、どうも気になって仕方がない。
(やれやれだぜ)
神楽はまだ始まったばかりだ。最後まで見届けたいという気持ちはあるが、気になりだすと止まらなくなる性分の承太郎は、舞台に背を向けると大人たちの群れを掻き分けた。
迷惑そうな舌打ちを食らいながらも人だかりから脱すると、周辺をざっと見渡す。ほとんどの人間が神楽に夢中になっていて、出店の連なる通路は先刻と比べると幾らか閑散として見えた。
ついさっき言い合いになってしまった雑貨屋もここからよく見えるが、そこに探している人物の姿は見当たらない。
承太郎はキョロキョロと視線を彷徨わせながら石畳の通路を歩く。花京院は身体は小さいが、あの特徴的な前髪や赤毛がよく目立つため、すぐに見つかるとばかり思っていたのだが。
「まさか臍曲げて帰っちまったわけじゃねえよな?」
少しばかりキツく言いすぎた自覚のある承太郎は、ぼりぼりと頭を掻きながら例の雑貨屋の前で足を止める。
そこに彼が欲しがっていたピアスが手つかずで残されているのを見て、なぜか胸騒ぎがした。
どうしてか、今すぐに探し出さなくては手遅れになるような気がして。
漠然とした焦燥感に身を焦がしながら、承太郎は気がつくとピアスを購入し、その足で神社の石段を駆け下りていた。
*
電球の切れかかった街灯が不規則に点滅する道には、田んぼから聞こえるカエルの合唱だけが響き渡っていた。
祭の喧騒を遠くに聞きながら、承太郎は行きは花京院と並んで歩いて来たはずの道をひた走っていた。
汗ばむ手の中には購入したばかりの赤いピアスがある。
早く花京院に会って、これを渡して謝罪しなければ。その一心で走り続けていた承太郎は、幾つか連なる道祖神の前でふと足を止めた。ここを曲がって田んぼのあぜ道に入って行けば、花京院の家がある方向なのだが。
承太郎は遥か前方に揺れ動く二つの影を見つけて、ぐっと目を凝らす。
それは子供の手を引く、大人の姿だった。ほとんど役割を果たさない街灯と月明かりを頼りに、さらに目を細めて食い入るように見つめると、その様子が少しばかりおかしいことに気がつく。
「あれは……花京院か!?」
二人のやりとりまでは聞こえない。だが、おそらく大人の男であろう影が小さな子供を強引に引きずって、山の方へと続く小道へ入って行こうとするのが、確かに見える。
そう認識した瞬間には走り出していた。あれは花京院に違いない。相手の男が誰かは知らないが、好ましい状況でないことは明白だ。
焦りと怒りに足を取られそうになりながらも全力で駆け抜け、二人が消えていった小道を曲がった。
そこは街灯もなく、ただ青白い月明かりだけが不気味に木々を浮かびあがらせる、暗い一本道だった。
「こんのクソガキッ!!」
声が聞こえたのは、そのときだ。
男が花京院の小さな身体を地面に投げ捨てる光景が目に飛び込んできた。承太郎の頭に、一瞬にして血がのぼる。
「この野郎……ッ!!」
脇目もふらず男目掛けて全力で駆け、その腰に飛びついた。
「承太郎!?」
「な、なんだお前はッ!?」
目を見開く花京院と、突然の乱入者によろめきながら狼狽える男の声が重なる。
「逃げろ花京院ッ! 誰か大人を呼んで来いッ!!」
手足を擦り剥かせ、血を流しながら唖然としている花京院に叫びながら、承太郎は激しく抵抗する男の腰に懸命にしがみついた。
「だ、だけど承太郎ッ!!」
「このガキがぁ!! 離せッ!! 離さねぇとぶっ殺すぞッ!!」
「いいから早く行けッ!!」
「ッ……!」
花京院は泣きそうにくしゃりと表情を歪めながら、それでも大きく頷いて立ち上がり、弾かれたように駆け出した。暴れる男によって激しく身を揺さぶられながらも、承太郎は闇に消えていく小さな背中に安堵する。
――ああ、守れた。守ることが、できた。
なんだってする。どんなことだってする。
だって失えば生きていけない。笑っている花京院が好きだ。怒っていても、泣いていても。可愛くて優しい、花京院のことが。
「クソガキがぁーッ!!」
焦った男が渾身の力で身を捩る。承太郎の腕を爪が食い込むほど掴み、皮を削ぐような乱暴さで引き剥がした。承太郎は同年代の子供たちより身体は大きかったが、大の大人を長時間押さえ込んでいられるだけの力は、流石になかった。
先刻花京院がされたのと同じように、整備されていない地面に身体を叩きつけられる。それでも諦めず、逃げ出そうとする男の足に両腕を絡めた。
男は血走った眼で激怒し、自由な方の足で承太郎の背や脇腹を蹴りあげる。
激しい痛みに呼吸が出来ない。それでも耐えた。もしここで諦めれば、この男は花京院の後を追うかもしれない。そんな真似は、絶対にさせてなるものか。
男はいよいよ承太郎を引き剥がすことを諦めたようだった。代わりに身を屈め、転がっていた石を鷲掴む。それは野球ボールより一回り大きな、先端の尖った石だった。
死ね、と。
そう言いながら、男が石を降り下ろしてくる光景が、やけにゆっくりと承太郎の目に映る。
夜空にはポッカリと丸い月が浮かび、こんなときであるにも関わらず綺麗だと思った。それから、花京院は無事に人気のある場所に辿り着けただろうかと。出来ればちゃんと謝りたかった。一人きりにして、怖い思いをさせてしまったことを。ずっと握りしめたままのピアスが熱い。
きっと喜んでくれるだろうと思うと、早く、会いたかった。
(花京院)
頭部への燃えるような衝撃と共に、重々しく鈍い音が、聞こえた気がした。
それが承太郎の最後の記憶だった。
――ぼくは、死んでなんかいないぞ。
(ああ、そうか)
闇の中、水中を漂うようにふわふわと身を任せ、承太郎は目を開ける。
花京院は死んでなどいなかった。なぜなら、この手で守ることができたから。
噛み締めるように口元に笑みを浮かべた承太郎の側に、一匹の蛍がふわりと飛んでくる。何も見えない、海の底のような暗闇の中で、緑色に輝く残像が金魚の尾びれのように美しかった。
蛍は寂しげに承太郎の周りをくるりと一周した。そっと長い腕を伸ばせば、人差し指の先にとまる。
――承太郎。
花京院の声が、聞こえた気がした。
自分がどこにいるのかさえ分からない空間で、それでも心の中は穏やかだ。
このまま、永遠に身を委ねていたい。まるで勤めを終えたかのように、承太郎は静かに瞼を閉じた。
――帰っておいで。かくれんぼは、もうおしまいだ。
*
ふと、目が覚めた。
(朝、か……?)
飛び込んできたのは白い光だった。
闇の中を彷徨っていた意識が認識できたのは、たったそれだけ。
だが、ぼやけた視界は徐々に輪郭を取り戻していく。視界を覆うのが白い天井だと知ったとき、名前を呼ばれた。
「承太郎……?」
その声はずっと夢の中で聞いていたものと同じだった。
けれど酷く震えていて、承太郎は瞬きをするのがやっとの瞳を声のした方へゆっくりと走らせる。
そこには、花京院が、いた。
「ッ……!」
名前を呼ぼうとして、上手く声にならなかった。
まるでずっと呼吸を遮られていたみたいに、空気を吸い込んだ瞬間、喉が引き攣れてちりちりと痛む。
なぜ。どうして。夢は終わったのではなかったのか。それとも、まだ眠りの中にいるのだろうか。身体が重くて、思考すらまともに動かない。
自分は確か、久しぶりに帰った家の自室で眠っていたはずだ。それがどういうわけか覚えのない白い空間でベッドに横たわっている。伸ばそうとして、結局は指先だけ震わせるに終わった手に、床に膝をついた花京院の手が重なった。そっと握られて、その温かさに確かな命の証を感じる。
生きている。
花京院は生きている。そして、承太郎も……。
深緑のタートルネックのセーターを着た花京院は、幼さの削ぎ落とされた頬で承太郎を見下ろし、やがて泣きそうに顔をくしゃりと歪めて笑った。
狐の面に隠れて見ることの叶わなかった、眩しい笑顔と切ない泣き顔。色濃い面影が、そこに確かに彼が存在しているのだということを承太郎に伝えた。
彼の両耳に揺れる、あの祭の出店で買った赤い果実のようなピアスを見て、承太郎は自分が長い間ずっと夢を見続けていたのだということを理解した。
花京院を失ったまま生きる夢を。そして今、ようやく目覚めた。
「おはよう、承太郎」
承太郎の手を両手でしっかりと握りしめ、花京院はやっとの思いで声を絞り出しているようだった。
「君は10年間もずっと、眠り続けていたんだよ」
その静かな声を、頭の中で幾度か反芻してみる。
あの祭の夜から、10年。
俄には信じられないことだったが、けれど少しずつその認識が身体の内側に染み渡っていく。最後に見上げた丸い月や、男の顔や、尖った石の大きさまでもが、鮮明に記憶にこびりついているからだ。
あの男がその後どうなったのかは知らないが、頭部に石を叩きつけられた承太郎はどうにか命を取り留めたものの、長い間ずっと眠り続けていたらしい。
ここは病院で、承太郎が身を横たえているのは病室の、ベッドの上だ。
投げ出されている方の腕から伸びる点滴の管によって、承太郎はどうにか生かされ続けていた。
『そんな君を、ただ見ているしかできないのは……辛いよ』
長い長い夢の果て、蛍の飛び交う川のほとりで寂しげに呟かれた言葉を思い出す。あれは確かに花京院の心の声だったのだと、今ならわかる。
いつ目覚めるとも知れない承太郎に寄り添いながら、彼がどれほど己を責め続けてきたか、握りしめてくる手の熱さや震えから痛いほど伝わって来る。
花京院はこくんと喉を鳴らして唇を噛み締めた。握っている承太郎の骨ばった手に額を押し付け、震える息を吐き出してから、濡れた瞳で精一杯の笑顔を浮かべる。
「遅いぞ、承太郎。この寝坊助め」
憎まれ口に乗せられた心からの安堵と労わりに、目頭が熱くなる。
花京院の瞳から、一筋の涙が零れた。そのキラキラと光るすみれ色へ、承太郎は懐かしさと愛しさを込めて目を細めると、小さく笑った。
「か、きょ、いん」
目覚めたばかりで調子を取り戻せない声帯で、承太郎は吐息を駆使して言葉を紡ぐ。
「よく、似合ってる、ぜ」
花京院の耳にさがる赤いピアス。
ただ飾って眺めるだけだと言っていたそれが、大人になった彼に不思議とよく似合っている。
力の入らない指先で、花京院の手をそっと握りしめた。彼は引き結んだ唇を震わせ、両手にいっそう力を込めると承太郎の指先に目頭を押し付ける。
ひくひくと肩を震わせる大人の男に、祠から助け出されて泣いていた子供がぴったりと重なった。
繋いだ手の平の熱と、燃えるような夕陽の赤に誓った想いが、失われることなく今なお息づいていることに、このうえない幸福を覚える。
泣くなよと言って微かに笑えば、花京院は鼻をすすりながら「泣いてないよ」と強がった。そんなところまであの日のままで。
身体中に溢れる熱い想いに、承太郎の頬にも涙が伝っていた。
言いすぎて悪かった。置き去りにして悪かった。一人にして悪かった。怖い思いをさせて悪かった。待たせて、悪かった。
言いたいことが沢山あったはずなのに、承太郎の言葉はたった一つに集約される。
「愛してる」
脆弱な吐息ではなく、しっかりと音になった声に目を見開いた花京院は、ゆっくりと大輪の花が咲くように、鮮やかな笑顔を浮かべた。
もう決して後悔しないように。見失わないように。
握り合った手と手の温もりに、あの懐かしい黄昏の空を瞼の裏に思い描きながら。
二人は未来を紡ぐための、新たな約束を交わす。
――もう二度と、繋いだこの手を離さない。
長い長い、夢は終わった。
終
死亡ルートも読んでみる
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承太郎はその狐の面を、外すことができなかった。
面に触れていた手がだらりと落ちる。
ふいに漏れたのは自嘲的な笑みで、承太郎は俯くと力なく首を振った。
「おれには、そんな資格はねえな」
花京院がどんな顔をしていようと、それはただの幻だ。
彼の言葉や仕草は、ずっと暗い水の底に沈んでいた心を救うには十分すぎた。諦める口実をどこかで求めていた承太郎に、彼は惜しみなく赦しを与えてくれる。
その顔を見てしまったら、きっとこの夢は美しい思い出の最後を飾って終わるだろう。めでたしめでたしで、都合よく。
確かに承太郎は救いを求めていた。だけど、そんな紛い物の救済に何の意味があるというのか。
ならばいっそ苦しいままでいい。花京院を守れなかった。その事実を風化させてしまうくらいなら、その罪を背負って生きていく方が、ずっと。
「おれは、おれ自身を許せそうにねえ。例えてめーがなんと言おうともだ」
「……ありもしない罪を背負い続けることに、一体なんの意味があると言うんだ?」
花京院の言葉には、呆れと仄かな苛立ちが込められていた。
ゆるゆると顔をあげた承太郎の正面で、蛍を纏わりつかせた狐が溜息を漏らす。
「君は一体、いつまでぼくを一人ぼっちにしておくつもりだい?」
「花京院……?」
「思いだせよ、承太郎」
――ぼくは、×んでなんかいないぞ。
「――ッ!!」
その瞬間、承太郎の意識が闇に飲まれ、遠のいた。
*
太鼓と笛の音に乗せて、母が舞台の上で厳かに舞い踊っている。
立ち込める熱気とカメラのフラッシュが点滅する中、承太郎はそれを最前列で見つめていた。
巫女装束に身を包み、鈴のついた榊を手に踊る母の姿は、神様が舞い降りたのかと思うほど荘厳で、美しかった。
(一緒に見るはずだったのに。花京院のヤツ)
幼い頬を上気させ、舞台上の母の姿を目に焼き付けながらも、承太郎は時おり背後を振り向いて花京院が来るのを今か今かと待っていた。
(あいつ小せえからな……ここまで来るのはやっぱ無理か)
舞台周辺は人だかりができていて、花京院の小さな身体で割り込んで来るのは難しいだろう。どこかで見ているのならいいのだが、口論になったうえに置いてきてしまった身としては、どうも気になって仕方がない。
(やれやれだぜ)
神楽はまだ始まったばかりだ。最後まで見届けたいという気持ちはあるが、気になりだすと止まらなくなる性分の承太郎は、舞台に背を向けると大人たちの群れを掻き分けた。
迷惑そうな舌打ちを食らいながらも人だかりから脱すると、周辺をざっと見渡す。ほとんどの人間が神楽に夢中になっていて、出店の連なる通路は先刻と比べると幾らか閑散として見えた。
ついさっき言い合いになってしまった雑貨屋もここからよく見えるが、そこに探している人物の姿は見当たらない。
承太郎はキョロキョロと視線を彷徨わせながら石畳の通路を歩く。花京院は身体は小さいが、あの特徴的な前髪や赤毛がよく目立つため、すぐに見つかるとばかり思っていたのだが。
「まさか臍曲げて帰っちまったわけじゃねえよな?」
少しばかりキツく言いすぎた自覚のある承太郎は、ぼりぼりと頭を掻きながら例の雑貨屋の前で足を止める。
そこに彼が欲しがっていたピアスが手つかずで残されているのを見て、なぜか胸騒ぎがした。
どうしてか、今すぐに探し出さなくては手遅れになるような気がして。
漠然とした焦燥感に身を焦がしながら、承太郎は気がつくとピアスを購入し、その足で神社の石段を駆け下りていた。
*
電球の切れかかった街灯が不規則に点滅する道には、田んぼから聞こえるカエルの合唱だけが響き渡っていた。
祭の喧騒を遠くに聞きながら、承太郎は行きは花京院と並んで歩いて来たはずの道をひた走っていた。
汗ばむ手の中には購入したばかりの赤いピアスがある。
早く花京院に会って、これを渡して謝罪しなければ。その一心で走り続けていた承太郎は、幾つか連なる道祖神の前でふと足を止めた。ここを曲がって田んぼのあぜ道に入って行けば、花京院の家がある方向なのだが。
承太郎は遥か前方に揺れ動く二つの影を見つけて、ぐっと目を凝らす。
それは子供の手を引く、大人の姿だった。ほとんど役割を果たさない街灯と月明かりを頼りに、さらに目を細めて食い入るように見つめると、その様子が少しばかりおかしいことに気がつく。
「あれは……花京院か!?」
二人のやりとりまでは聞こえない。だが、おそらく大人の男であろう影が小さな子供を強引に引きずって、山の方へと続く小道へ入って行こうとするのが、確かに見える。
そう認識した瞬間には走り出していた。あれは花京院に違いない。相手の男が誰かは知らないが、好ましい状況でないことは明白だ。
焦りと怒りに足を取られそうになりながらも全力で駆け抜け、二人が消えていった小道を曲がった。
そこは街灯もなく、ただ青白い月明かりだけが不気味に木々を浮かびあがらせる、暗い一本道だった。
「こんのクソガキッ!!」
声が聞こえたのは、そのときだ。
男が花京院の小さな身体を地面に投げ捨てる光景が目に飛び込んできた。承太郎の頭に、一瞬にして血がのぼる。
「この野郎……ッ!!」
脇目もふらず男目掛けて全力で駆け、その腰に飛びついた。
「承太郎!?」
「な、なんだお前はッ!?」
目を見開く花京院と、突然の乱入者によろめきながら狼狽える男の声が重なる。
「逃げろ花京院ッ! 誰か大人を呼んで来いッ!!」
手足を擦り剥かせ、血を流しながら唖然としている花京院に叫びながら、承太郎は激しく抵抗する男の腰に懸命にしがみついた。
「だ、だけど承太郎ッ!!」
「このガキがぁ!! 離せッ!! 離さねぇとぶっ殺すぞッ!!」
「いいから早く行けッ!!」
「ッ……!」
花京院は泣きそうにくしゃりと表情を歪めながら、それでも大きく頷いて立ち上がり、弾かれたように駆け出した。暴れる男によって激しく身を揺さぶられながらも、承太郎は闇に消えていく小さな背中に安堵する。
――ああ、守れた。守ることが、できた。
なんだってする。どんなことだってする。
だって失えば生きていけない。笑っている花京院が好きだ。怒っていても、泣いていても。可愛くて優しい、花京院のことが。
「クソガキがぁーッ!!」
焦った男が渾身の力で身を捩る。承太郎の腕を爪が食い込むほど掴み、皮を削ぐような乱暴さで引き剥がした。承太郎は同年代の子供たちより身体は大きかったが、大の大人を長時間押さえ込んでいられるだけの力は、流石になかった。
先刻花京院がされたのと同じように、整備されていない地面に身体を叩きつけられる。それでも諦めず、逃げ出そうとする男の足に両腕を絡めた。
男は血走った眼で激怒し、自由な方の足で承太郎の背や脇腹を蹴りあげる。
激しい痛みに呼吸が出来ない。それでも耐えた。もしここで諦めれば、この男は花京院の後を追うかもしれない。そんな真似は、絶対にさせてなるものか。
男はいよいよ承太郎を引き剥がすことを諦めたようだった。代わりに身を屈め、転がっていた石を鷲掴む。それは野球ボールより一回り大きな、先端の尖った石だった。
死ね、と。
そう言いながら、男が石を降り下ろしてくる光景が、やけにゆっくりと承太郎の目に映る。
夜空にはポッカリと丸い月が浮かび、こんなときであるにも関わらず綺麗だと思った。それから、花京院は無事に人気のある場所に辿り着けただろうかと。出来ればちゃんと謝りたかった。一人きりにして、怖い思いをさせてしまったことを。ずっと握りしめたままのピアスが熱い。
きっと喜んでくれるだろうと思うと、早く、会いたかった。
(花京院)
頭部への燃えるような衝撃と共に、重々しく鈍い音が、聞こえた気がした。
それが承太郎の最後の記憶だった。
――ぼくは、死んでなんかいないぞ。
(ああ、そうか)
闇の中、水中を漂うようにふわふわと身を任せ、承太郎は目を開ける。
花京院は死んでなどいなかった。なぜなら、この手で守ることができたから。
噛み締めるように口元に笑みを浮かべた承太郎の側に、一匹の蛍がふわりと飛んでくる。何も見えない、海の底のような暗闇の中で、緑色に輝く残像が金魚の尾びれのように美しかった。
蛍は寂しげに承太郎の周りをくるりと一周した。そっと長い腕を伸ばせば、人差し指の先にとまる。
――承太郎。
花京院の声が、聞こえた気がした。
自分がどこにいるのかさえ分からない空間で、それでも心の中は穏やかだ。
このまま、永遠に身を委ねていたい。まるで勤めを終えたかのように、承太郎は静かに瞼を閉じた。
――帰っておいで。かくれんぼは、もうおしまいだ。
*
ふと、目が覚めた。
(朝、か……?)
飛び込んできたのは白い光だった。
闇の中を彷徨っていた意識が認識できたのは、たったそれだけ。
だが、ぼやけた視界は徐々に輪郭を取り戻していく。視界を覆うのが白い天井だと知ったとき、名前を呼ばれた。
「承太郎……?」
その声はずっと夢の中で聞いていたものと同じだった。
けれど酷く震えていて、承太郎は瞬きをするのがやっとの瞳を声のした方へゆっくりと走らせる。
そこには、花京院が、いた。
「ッ……!」
名前を呼ぼうとして、上手く声にならなかった。
まるでずっと呼吸を遮られていたみたいに、空気を吸い込んだ瞬間、喉が引き攣れてちりちりと痛む。
なぜ。どうして。夢は終わったのではなかったのか。それとも、まだ眠りの中にいるのだろうか。身体が重くて、思考すらまともに動かない。
自分は確か、久しぶりに帰った家の自室で眠っていたはずだ。それがどういうわけか覚えのない白い空間でベッドに横たわっている。伸ばそうとして、結局は指先だけ震わせるに終わった手に、床に膝をついた花京院の手が重なった。そっと握られて、その温かさに確かな命の証を感じる。
生きている。
花京院は生きている。そして、承太郎も……。
深緑のタートルネックのセーターを着た花京院は、幼さの削ぎ落とされた頬で承太郎を見下ろし、やがて泣きそうに顔をくしゃりと歪めて笑った。
狐の面に隠れて見ることの叶わなかった、眩しい笑顔と切ない泣き顔。色濃い面影が、そこに確かに彼が存在しているのだということを承太郎に伝えた。
彼の両耳に揺れる、あの祭の出店で買った赤い果実のようなピアスを見て、承太郎は自分が長い間ずっと夢を見続けていたのだということを理解した。
花京院を失ったまま生きる夢を。そして今、ようやく目覚めた。
「おはよう、承太郎」
承太郎の手を両手でしっかりと握りしめ、花京院はやっとの思いで声を絞り出しているようだった。
「君は10年間もずっと、眠り続けていたんだよ」
その静かな声を、頭の中で幾度か反芻してみる。
あの祭の夜から、10年。
俄には信じられないことだったが、けれど少しずつその認識が身体の内側に染み渡っていく。最後に見上げた丸い月や、男の顔や、尖った石の大きさまでもが、鮮明に記憶にこびりついているからだ。
あの男がその後どうなったのかは知らないが、頭部に石を叩きつけられた承太郎はどうにか命を取り留めたものの、長い間ずっと眠り続けていたらしい。
ここは病院で、承太郎が身を横たえているのは病室の、ベッドの上だ。
投げ出されている方の腕から伸びる点滴の管によって、承太郎はどうにか生かされ続けていた。
『そんな君を、ただ見ているしかできないのは……辛いよ』
長い長い夢の果て、蛍の飛び交う川のほとりで寂しげに呟かれた言葉を思い出す。あれは確かに花京院の心の声だったのだと、今ならわかる。
いつ目覚めるとも知れない承太郎に寄り添いながら、彼がどれほど己を責め続けてきたか、握りしめてくる手の熱さや震えから痛いほど伝わって来る。
花京院はこくんと喉を鳴らして唇を噛み締めた。握っている承太郎の骨ばった手に額を押し付け、震える息を吐き出してから、濡れた瞳で精一杯の笑顔を浮かべる。
「遅いぞ、承太郎。この寝坊助め」
憎まれ口に乗せられた心からの安堵と労わりに、目頭が熱くなる。
花京院の瞳から、一筋の涙が零れた。そのキラキラと光るすみれ色へ、承太郎は懐かしさと愛しさを込めて目を細めると、小さく笑った。
「か、きょ、いん」
目覚めたばかりで調子を取り戻せない声帯で、承太郎は吐息を駆使して言葉を紡ぐ。
「よく、似合ってる、ぜ」
花京院の耳にさがる赤いピアス。
ただ飾って眺めるだけだと言っていたそれが、大人になった彼に不思議とよく似合っている。
力の入らない指先で、花京院の手をそっと握りしめた。彼は引き結んだ唇を震わせ、両手にいっそう力を込めると承太郎の指先に目頭を押し付ける。
ひくひくと肩を震わせる大人の男に、祠から助け出されて泣いていた子供がぴったりと重なった。
繋いだ手の平の熱と、燃えるような夕陽の赤に誓った想いが、失われることなく今なお息づいていることに、このうえない幸福を覚える。
泣くなよと言って微かに笑えば、花京院は鼻をすすりながら「泣いてないよ」と強がった。そんなところまであの日のままで。
身体中に溢れる熱い想いに、承太郎の頬にも涙が伝っていた。
言いすぎて悪かった。置き去りにして悪かった。一人にして悪かった。怖い思いをさせて悪かった。待たせて、悪かった。
言いたいことが沢山あったはずなのに、承太郎の言葉はたった一つに集約される。
「愛してる」
脆弱な吐息ではなく、しっかりと音になった声に目を見開いた花京院は、ゆっくりと大輪の花が咲くように、鮮やかな笑顔を浮かべた。
もう決して後悔しないように。見失わないように。
握り合った手と手の温もりに、あの懐かしい黄昏の空を瞼の裏に思い描きながら。
二人は未来を紡ぐための、新たな約束を交わす。
――もう二度と、繋いだこの手を離さない。
長い長い、夢は終わった。
終
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5・宵花ノ行方
暗闇に、川のせせらぎだけが木霊する。
承太郎は茫然としながら川原の砂利を踏みしめていた。
一体なにが起こったのだろう。今の今まで花京院と男の背を追っていたはずなのに。
あと少しで、届いていたかもしれないのに。
「花京院……」
低い声で紡いだ名前を、水の流れがさらっていく。ふと顔を上げれば、視線をさらうようにして蛍が一匹、ふわりと飛んでいた。
承太郎はその淡い光に導かれるまま目で追いかけ、そして息をつめる。
そこには、川の浅瀬に足元を浸しながら佇み、狐の面でこちらを見つめる花京院の姿があった。
浴衣姿の彼は、金魚の提灯を持ってはいなかった。
代わりに、数匹の蛍が彼を囲うようにゆらゆらと飛び交っている。
顔は見えないのに、承太郎は彼がまた幾らか歳を重ねていることを漠然と悟った。
今の花京院は、おそらく承太郎と同じ大人の男の姿をしている。
「ここがゴールか? 花京院」
長い長い夢の終わりが、ここに訪れようとしているのか。
花京院は何も言わなかった。ただ小さく首を傾げ、クスリと笑った。
承太郎は一歩一歩、浅瀬へ向かって砂利を踏み鳴らす。靴が水に浸るのも構わず、花京院の傍へと歩み寄った。
向き合うと、彼はまた笑った。
「やっと会えたね」
「ああ」
「遅いよ、承太郎」
「花京院……」
承太郎は下唇を噛み締め、瞼を閉じると俯いた。一度大きく息をつき、再び花京院を見下ろす。
「守れなかった。おまえとの約束を」
「そんなことはないさ。君はこうして、ぼくに会いに来てくれたじゃないか」
「おれは」
許されたいだけだ。
都合のいい夢を見て、幻を作り上げて、終わらせようとしているにすぎない。
花京院のいない日々はただ色を失くし、思い出さえも月輪のように朧がかるばかりだった。
時が経つほどに風化する想いに罪悪感を募らせ、諦めと後悔を繰り返す日々に囚われたまま、身動きが取れなかった。
いつしか故郷を離れ、足が遠のき、忘れたいと願いながら、それでも心は求めることを止められなくて。
「おまえと共にいきたかった。いつまでもずっと。だが、どこにもいやがらねえ。探しても探しても、てめーは見つからないままだった」
花京院の手が承太郎の頬を包み込む。いつの間に泣いていたのだろう。
触れられるまで、涙を流していたことに気がつかなかった。
「君がたくさん後悔したことを、ぼくは知っているよ。いつだって自分を責めてばかりいたことを」
滲む視界に、狐の面がぼやけていく。
「だけどもう、そんな必要はないんだと言いたくて」
「花京院……」
「そんな君を、ただ見ているしかできないのは……辛いよ」
そっと、白い指先が承太郎の目元を拭う。
小さく柔らかだったそれは、骨ばった男のものになっていた。
それでも綺麗だと思った。彼の指は細く繊細なままで、何より優しかった。
「承太郎、こんな風に縛られていては駄目だ。前を向いて歩かなくては」
そっと、指先が離れていった。
花京院は一歩二歩と、後退していく。そのまま蛍の儚げな光と共に消えてしまいそうで、承太郎は手を伸ばすと宙に浮いたままの手を取った。
浴衣に包まれた肩が、小さく揺れる。
その顔が、見たいと思った。
彼は今、泣いているのだろうか。それとも、笑っているのだろうか。
初めて神社で言葉を交わした日を思い出す。花京院が見せた笑顔を、かくれんぼをした日の、あの泣き顔を。
そのどちらも承太郎にとって大切な記憶だった。
だから今この瞬間、彼がどんな顔をしているのかを知りたいと思った。この目に焼き付けて、決して忘れないように。
もう片方の手を伸ばし、そっと狐の面に触れた。花京院は動かない。物言わぬ狐の瞳は、怒っているようにも、泣いているようにも、笑っているようにも見える。
承太郎はその狐の面を
『選択肢』
外すことができなかった。
ゆっくりと外した。
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暗闇に、川のせせらぎだけが木霊する。
承太郎は茫然としながら川原の砂利を踏みしめていた。
一体なにが起こったのだろう。今の今まで花京院と男の背を追っていたはずなのに。
あと少しで、届いていたかもしれないのに。
「花京院……」
低い声で紡いだ名前を、水の流れがさらっていく。ふと顔を上げれば、視線をさらうようにして蛍が一匹、ふわりと飛んでいた。
承太郎はその淡い光に導かれるまま目で追いかけ、そして息をつめる。
そこには、川の浅瀬に足元を浸しながら佇み、狐の面でこちらを見つめる花京院の姿があった。
浴衣姿の彼は、金魚の提灯を持ってはいなかった。
代わりに、数匹の蛍が彼を囲うようにゆらゆらと飛び交っている。
顔は見えないのに、承太郎は彼がまた幾らか歳を重ねていることを漠然と悟った。
今の花京院は、おそらく承太郎と同じ大人の男の姿をしている。
「ここがゴールか? 花京院」
長い長い夢の終わりが、ここに訪れようとしているのか。
花京院は何も言わなかった。ただ小さく首を傾げ、クスリと笑った。
承太郎は一歩一歩、浅瀬へ向かって砂利を踏み鳴らす。靴が水に浸るのも構わず、花京院の傍へと歩み寄った。
向き合うと、彼はまた笑った。
「やっと会えたね」
「ああ」
「遅いよ、承太郎」
「花京院……」
承太郎は下唇を噛み締め、瞼を閉じると俯いた。一度大きく息をつき、再び花京院を見下ろす。
「守れなかった。おまえとの約束を」
「そんなことはないさ。君はこうして、ぼくに会いに来てくれたじゃないか」
「おれは」
許されたいだけだ。
都合のいい夢を見て、幻を作り上げて、終わらせようとしているにすぎない。
花京院のいない日々はただ色を失くし、思い出さえも月輪のように朧がかるばかりだった。
時が経つほどに風化する想いに罪悪感を募らせ、諦めと後悔を繰り返す日々に囚われたまま、身動きが取れなかった。
いつしか故郷を離れ、足が遠のき、忘れたいと願いながら、それでも心は求めることを止められなくて。
「おまえと共にいきたかった。いつまでもずっと。だが、どこにもいやがらねえ。探しても探しても、てめーは見つからないままだった」
花京院の手が承太郎の頬を包み込む。いつの間に泣いていたのだろう。
触れられるまで、涙を流していたことに気がつかなかった。
「君がたくさん後悔したことを、ぼくは知っているよ。いつだって自分を責めてばかりいたことを」
滲む視界に、狐の面がぼやけていく。
「だけどもう、そんな必要はないんだと言いたくて」
「花京院……」
「そんな君を、ただ見ているしかできないのは……辛いよ」
そっと、白い指先が承太郎の目元を拭う。
小さく柔らかだったそれは、骨ばった男のものになっていた。
それでも綺麗だと思った。彼の指は細く繊細なままで、何より優しかった。
「承太郎、こんな風に縛られていては駄目だ。前を向いて歩かなくては」
そっと、指先が離れていった。
花京院は一歩二歩と、後退していく。そのまま蛍の儚げな光と共に消えてしまいそうで、承太郎は手を伸ばすと宙に浮いたままの手を取った。
浴衣に包まれた肩が、小さく揺れる。
その顔が、見たいと思った。
彼は今、泣いているのだろうか。それとも、笑っているのだろうか。
初めて神社で言葉を交わした日を思い出す。花京院が見せた笑顔を、かくれんぼをした日の、あの泣き顔を。
そのどちらも承太郎にとって大切な記憶だった。
だから今この瞬間、彼がどんな顔をしているのかを知りたいと思った。この目に焼き付けて、決して忘れないように。
もう片方の手を伸ばし、そっと狐の面に触れた。花京院は動かない。物言わぬ狐の瞳は、怒っているようにも、泣いているようにも、笑っているようにも見える。
承太郎はその狐の面を
『選択肢』
外すことができなかった。
ゆっくりと外した。
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4・隠れ鬼
「かくれんぼは、おれの負けだったな」
蛍の儚い光を見つめ、承太郎は独り言のように呟いた。
在りし日の遠い記憶。花京院がいて、自分がいて、手を繋いで歩いた夕焼け空の下。
強く願い、そして誓った約束を、果たすことはできなかった。
彼を失えば、生きていけないとすら思った。それでも承太郎は生きている。死んだように、ただ生き続けていた。
身体の半分を失ったみたいに、心が大きく欠けたまま。
「おまえを置いて、おれは大人になっちまったぜ」
花京院は、いつの間にか承太郎から遠く離れていた。
金魚の提灯を揺らめかせながら、変わらぬ装いでいる彼は、また少し大きくなっていた。
承太郎はもう驚かない。彼の背がすらりと伸びて、高校生ほどの姿に成長していても。
(これは、夢だからな)
花京院が存在しているのなら、いっそ夢でも構わないと思った。
けれど承太郎は、どこまで行っても10歳までの彼の姿しか知らない。
だからこれは幻だ。墨色に満ちた、暗い、冥いこの世界は承太郎が作り出した夢の国で、目の前の光景が全て作り物であることを知っている
見ることの叶わなかった、彼が大人の姿へと移り変わっていく光景は、あくまでも承太郎が思い描く想像でしかないのだ。
「降参だ、花京院」
――おまえは今、どこにいる?
もう分かっている。
彼はどこにもいない。だけど知りたかった。引導を渡してほしかった。
どこかで諦めるキッカケが欲しかったのだと思う。
だけど無情にも、花京院の幻は首を横に振った。
「かくれんぼは、まだ終わってないよ」
声は低く、大人の男のそれだった。
もうどこにも幼さの欠片も見当たらない。その変化に、胸を抉られるような気がした。承太郎の知らない花京院。同じ時を共有していた幼き日の彼は、失われてしまった。なのに愛しさだけは何ひとつ変わらぬままで、承太郎の中に在り続ける。
「花京院……」
「さあ、祭の時間だよ、承太郎」
花京院が、そのスラリと長い両腕を大きく開いた瞬間だった。
闇の世界が、大きく音を立ててひび割れる。
「ッ!?」
バラバラと崩れていく景色の中、承太郎の身体にざわりと鳥肌が立つ。
そして全てが一瞬のうちに移り変わった。
承太郎は鳥居の真下に立ち尽くしていた。
目の前には多くの人々が行き交い、社殿へと続く石畳に沿って露店が軒を連ねている。
そこは祭囃子と、人々の熱気で満ちていた。
「なんだ……これは……?」
煌々と輝きながら連なる提灯の下、浴衣を着た人々が承太郎の身体を通り抜けていく。擦れ違うのではない。文字通り、空気のように擦り抜けるのだ。
まるで幽霊にでもなった気分だった。誰も彼もが金魚すくいや射的などといった娯楽に興じる中、承太郎の姿が見えているものは一人もいない。
水風船と綿飴を手に、ヒーロー物のお面をつけた子供たちの一団が、はしゃいだ声をあげながら走り抜けていく。
喧騒の中に花京院の姿は見当たらない。たった今まで目の前にいたはずなのに。
そのとき。
『もういいよ! 承太郎のバカッ!』
声が、した。
「ッ!?」
承太郎は息を呑み、声のした方向へと視線を走らせる。
そこには10歳の自分と、花京院の姿があった。
承太郎は青い甚平姿で、花京院はあの緑色の浴衣を着て。二人がいるのは手作り雑貨を並べ立てる出店の前だった。
髪飾りや腕輪などといったアクセサリーをはじめ、ちりめん風の和雑貨などが所狭しと並んでいる。
花京院は浴衣に包まれた華奢な肩を怒らせて、眉を吊り上げていた。
それを見つめる幼い自分は、困ったように顔を顰めている。
『てめーなぁ、それ分かってんのか? ピアスだぜ。耳に穴開けるんだぜ』
『別に自分でつけたいわけじゃないよ! ただ飾っておきたいだけだ!』
『ああそうかい分かったよ。勝手にしろ。ただ、買い物は後だぜ。早くしねーともう神楽が始まっちまうんだ』
『売り切れたらどうするんだ! こんなに可愛いんだぞッ!』
言い争う二人の少年を茫然と眺めながら、承太郎はようやく状況を飲み込むことができた。
これは、過去だ。
今目の前で繰り広げられている光景は、まさに10年前のものだった。それは全ての命運を分けた瞬間でもある。
承太郎の胸に、どうしようもない絶望とジレンマが込み上げた。
あの日を再現して見せようというのか。かけがえのないただ一つの輝きを失った、愚かな幼き自分の姿を。
このとき、二人は母の神楽を見るために先を急いでいたはずだった。
最前列で見たいからと他の店には脇目もふらず向かっていたが、花京院がふとこの場所で足を止めた。
雑貨屋には、チェリーの赤い実を模したピアスが飾られていた。彼はその輝きに目を奪われ、そこから動かなくなってしまったのだ。
承太郎はどうにかして花京院の興味を逸らそうとして焦っていた。早くしないと間に合わない。せっかく母が巫女として選ばれたのだ。花京院だって楽しみにしていたはずなのに。
今にして思えば、ちょっとした買い物をする程度の時間くらい、十分にあったはずだ。けれどこのときの承太郎はとにかく気が急いていて、余裕がなかった。
花京院もまた、少し意地になっているように見える。
『そうかよ、じゃあもう知らねえぞ! おれは先に行ってるからなッ!』
承太郎は幼い自分の言葉を聞いて、痛みを堪えるように目を伏せた。
走り去っていく足音が、後悔となって胸を貫く。
このとき、なぜ傍にいてやらなかったのだろう。なぜ、離れてしまったのだろう。
たった今繰り広げられた光景が、二人を別つ結果をもたらしたというのに。
「もういい……頼む、もう許してくれ、花京院……ッ」
気づけば膝から崩れ落ちていた。
責められているのだと感じた。片時も忘れることは許さないと。けれど、これ以上見続けることは耐えられそうにない。
だけどふと思った。このまま目をそらさずにいれば、花京院の身に何が起こったのかを知ることができるのではないかと。
承太郎は大きく喉を鳴らしながら、視線を再び雑貨屋の前に走らせた。
花京院は去っていく承太郎の背を見つめ、少し泣きそうに唇を噛み締めていた。それからすぐに目当てのピアスに視線を戻し、じっと見つめる。
彼はしばらくずっとそうしていたが、結局ピアスは買わずに店を離れてしまった。
花京院はどういうわけか祭の会場に背を向け、承太郎の身体を擦り抜けて鳥居をくぐると石段を下りはじめた。
「おい、どこへ行く? 神楽はあっちだぜッ!」
届かないと知りつつ、声を発しながらその背を追った。
石段を降りるほどに太鼓の音色や騒がしい人の声が遠ざかる。一番下に到達する頃には、どこか祭の後の寂しささえ感じられた。カエルの大合唱だけが、申し訳程度に設置された街灯が照らす道にこだまする。
花京院は足を止めると、遥か先の鳥居と提灯の光を見上げた。
「花京院、早く戻れ。おれはな、別に怒っちゃいねえんだ。てめーだってそうだろ」
『承太郎のバカ』
「花京院……」
ああ、そうか。
このとき、承太郎は気づいてしまった。
彼は、待っていたのだ。
本当に置いて行かれるとは思わなくて、そのまま、戻って来ないとは思わなくて。追いかけて来てくれるのではと期待して、こうして足を止めていた。
見なければよかった。
承太郎は花京院を追ったことを後悔した。
この石段の先では、そろそろ神楽が始まっている頃だ。
あのとき、自分は花京院は必ずどこかで母の晴れ舞台を見ているのだと信じていた。並んで見ることはできなかったが、あんなにも楽しみにしていたのだから。
あのピアスを買ったあとすぐに駆けつけて、近くで見ているに違いないと。
母の神楽はとても綺麗だった。艶やかな衣を纏い、天女のように舞い踊っていた。太鼓と笛の音に乗せて、母は今まで見て来たどんなものより美しく輝いて見えた。
花京院も同じ気持ちでいるに違いない。このあと顔を合わせたら、興奮に頬を赤く染めながら笑顔を見せてくれるだろうと。
そうしたら、すぐに置いて行ってしまったことを謝ろう。赤いピアスを近くで見せてもらおう。金魚すくいやヨーヨーすくいをして遊んで、綿飴を買って、母の分の焼きそばやたこ焼きも買って、家で三人で食べよう。
そう思っていた。
だけど花京院はどこにもいなかった。
美しい巫女の舞に人々の歓声が冷めやらぬ中、承太郎はその姿を必死で探した。
もしやまだあの雑貨店にいるのかと思ったが、そこに姿はなく、赤いピアスも売れ残っていた。承太郎はすぐに財布を取り出し、そのピアスを買った。小学生に500円は少々痛かったが、売り切れてしまったらきっと花京院はガッカリするだろう。
もしかしたら臍を曲げて隠れているのかもしれない彼にこれを渡せば、すぐに機嫌がなおるだろうと。
「花京院、おれは絶対に戻って来る。てめーが欲しがってたピアスを買って、必ず探しに来るんだぜ。だから」
承太郎の声は、届かない。
花京院は唇を尖らせて、焼き下駄を履いた足をぶらぶらとさせながら歩き出してしまった。無駄と知りつつ手を伸ばし、その名を呼ぶ。
「おい花京院ッ!」
そのとき、承太郎の身体を擦り抜けて何者かが姿を現した。
『君、この辺の子かな?』
「!?」
それは見たことのない、若い男だった。今の承太郎と同じくらいか、少し上だろうか。ワイシャツとジーンズ姿の学生風の男に声をかけられ、花京院は足を止めると振り向いた。
「誰だてめーは」
『僕は観光客なんだけど、暗くて道に迷ってしまったんだ』
「おい花京院、構うんじゃねえぞ」
『この近くに小さな宿が一軒あるはずなんだけど……君、知らない?』
男は子供の目線に合わせるように膝を曲げ、首を傾げながら優しげな笑顔を見せた。
花京院は警戒しているようで、一歩後退ると「知りません」と言って、すぐに立ち去ろうとする。
賢い対応にホッと胸を撫で下ろしかけたが、男はすかさず手を伸ばし、細い二の腕を掴んだ。
「てめー……ッ!」
一瞬で頭に血がのぼった承太郎は、男に掴みかかろうとした。だが、誰も承太郎に触れられないのと同じく、承太郎の腕も相手の身体を擦り抜けてしまう。
(くそッ!)
目の前が赤く染まるようだった。自分がどんなに伸ばしても届かない手で、この男はやすやすと花京院に触れてしまう。
承太郎は確信していた。こいつだ。この男だ。違いない。この男が。
花京院を――。
『は、離して』
『お願いだよ。とても具合が悪いんだ。宿泊先に薬を置いてきちゃったんだよ』
男の演技がかった物言いは、大人であればすぐに身破れるほどの胡散臭さだった。だけど花京院はようやく10歳になったばかりの子供だ。
強張らせていた身を僅かに解いて、上目使いに男を見上げた。その探るような瞳に迷いの色が生じているのを悟り、承太郎の絶望感に拍車がかかる。
『……お兄さん、どこか悪いの?』
「聞くな花京院! そいつの言うことは全部嘘だッ!!」
『うん。病気なんだ。身体があまり丈夫じゃなくてさ』
『……わかった』
「花京院ッ!!」
承太郎の叫びも虚しく、花京院は男に向かって「こっちだよ」と言うと男の手を引いて歩き出した。
承太郎もすぐにその後を追おうとした。だが、そこでまた不可思議な現象が起きた。
どれほど足を前に進めても、先を行く二人に追いつけないのだ。
(なんだ? どういうことだ?)
承太郎は必死で足を前に進めるが、なぜか距離は離されていくばかりだった。まるで蜃気楼を追いかけているかのように、どれほど行っても二人の背中が遠い場所にある。
「ダメだ、行くなッ! 行くんじゃねぇッ!!」
声を振り絞りながら、承太郎は走り続けた。見えない何かが、ぴったりと背に張り付こうとしているような恐怖と焦燥感が、承太郎の四肢を凍らせていく。
『ありがとう。優しいね。名前はなんていうの?』
『花京院典明、です』
『典明くんか、何歳?』
『10歳』
『へぇ~、可愛いね。お祭には一人で来たの?』
『……違うけど』
男は気色の悪い猫なで声で花京院の警戒心を解しにかかっている。
生真面目な彼は男の問いかけに律儀に答えてやっていた。
『もしかして、友達とケンカでもしたのかな?』
『……なんでわかるの?』
花京院は男を見上げると目を見開いた。
『寂しそうだったからさ。何か酷いことでもされた?』
『……されてない。ぼくが我儘を言ってしまっただけ』
『そうなんだ。ちゃんと仲直りできるといいね』
『うん……』
慰めの声をかけながら、男は握っていた花京院の手をさらに強く握って引き寄せた。
驚いた花京院が顔を上げると「迷子にならないように、もっとくっつこう」と言う。
田舎道の数少ない街灯が点滅していた。承太郎からは男がどんな顔をしているかまでは分からない。だが花京院は何かしら感じるものがあったのか、その小さな身体を強張らせた。咄嗟に手を振りほどこうとするが、子供が大人の力に敵うはずがなかった。
男は花京院を引きずるようにして、歩いて来た道から外れると細い脇道に入って行く。
『こ、こっちは、違う。民宿はずっと向こうの、田んぼの先だよ』
『いいんだよ。大丈夫だから』
左右を鬱蒼とした木々と茂みに遮られた小道は、街灯のひとつもありはしない。ただ空に浮かぶ丸い月だけが辺りを薄ぼんやりと青く照らしているだけだった。
承太郎が行くな行くなと念じるほどに、花京院は身を震わせはじめる。
『イヤだ……そっちには行きたくない……!』
『いい子だからさ、大人しくしてろよ。ちょっと遊ぶだけだって』
『おまえなんかとは遊ばないッ!!』
「花京院……ッ」
過ぎた時間は戻らない。失くしたものは取り戻せない。この光景は過去のもので、なにもかも終わってしまったことだ。実際の光景かどうかだって怪しい。
分かっている。自分はこうして見ていることしかできないのだということを。
だけど足掻かずにはいられなかった。失いたくない。この手で守れるのなら、なんだってする。
承太郎は手の平に爪が食い込むほど強く拳を握った。怒りで頭がどうにかなりそうだった。この男は絶対に許さない。
殺してやる。
『イッテェ!!』
その瞬間、男の口から悲鳴が上がった。
目を見張る承太郎の眼前では、男の腕にしがみつくようにして、花京院が思い切りその手首に歯を立てていた。
『こんのクソガキッ!!』
男は悪態をつきながら表情を歪め、堪らず小さな身体を引き剥がすと地面へ投げ飛ばした。
整備されていない道に叩きつけられた花京院の腕や膝小僧が、小石や土に削られて血を流す。
「花京院! そのまま逃げろッ!!」
まるで承太郎の言葉が届いたかのように、花京院は痛む身体で立ち上がると走り出した。男は頭に血を上らせながら、当然それを追いかける。
『待てこのガキが!』
花京院は何度も転びそうになりながら、必死で夜の小道を駆け抜ける。だが、その歩幅の違いから男が追い付くのは時間の問題だった。証拠に、男はわざと一定の距離を保って花京院の背を追い上げている。
『ほらほら、早く逃げないと捕まえちゃうぞ~?』
どこまでも胸糞の悪い野郎だ。承太郎は己の無力さを噛み締めながらも憎悪を募らせる。
早く、早く、早く。頼むから早く逃げてくれ。どうにもならないことを理解していてなお、願わずにいられない。
花京院は息を切らし、肩を大きく上下させていた。あきらかに体力が限界を迎えようとしているのが分かる。
『ッ!!』
ついに花京院は足を縺れさせて派手に転んだ。その拍子に下駄が片方、脱げてしまう。
「花京院ッ!!」
『あ~、可哀想に、大丈夫?』
『……ッ』
楽しそうな声で、歌うように男が問いかけた。
花京院は半身を起こすと青褪めた表情で辺りを見回し、足を引きずりながらどうにか立ち上がると、すぐ側の茂みに分け入るようにして身体を潜り込ませた。
よろよろとした足取りで木々を縫い、そのまま山の中へ入っていこうとする。
男は余裕の態度を崩さなかった。すぐにでも捕まえられる距離に獲物がいて、しかもますますひと気のない場所へ自ら進んで行こうとしてるのだ。卑下た笑みを浮かべながら、同じく茂みに足を踏み入れるのがハッキリと見える。
「待てッ! 待ちやがれ……ッ!!」
行かせてなるものかと、承太郎は力の限り手を伸ばす。
全身に感覚はなく、自分がまともに走れているのかさえ分からない。それでも構わなかった。
守らなければならない。傷つきながら、小さな身体を恐怖に支配されている、あの子供を。幼い自分が、守れなかった彼を。
失くしたくない。取り戻したい。
ずっと共に生きていくのだと、黄昏に描いた未来を。
交わした約束を。
「花京院ッ!!」
承太郎の手が茂みに届く。
それを一気に掻き分けた、その瞬間。
世界が、再び闇に閉ざされた。
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「かくれんぼは、おれの負けだったな」
蛍の儚い光を見つめ、承太郎は独り言のように呟いた。
在りし日の遠い記憶。花京院がいて、自分がいて、手を繋いで歩いた夕焼け空の下。
強く願い、そして誓った約束を、果たすことはできなかった。
彼を失えば、生きていけないとすら思った。それでも承太郎は生きている。死んだように、ただ生き続けていた。
身体の半分を失ったみたいに、心が大きく欠けたまま。
「おまえを置いて、おれは大人になっちまったぜ」
花京院は、いつの間にか承太郎から遠く離れていた。
金魚の提灯を揺らめかせながら、変わらぬ装いでいる彼は、また少し大きくなっていた。
承太郎はもう驚かない。彼の背がすらりと伸びて、高校生ほどの姿に成長していても。
(これは、夢だからな)
花京院が存在しているのなら、いっそ夢でも構わないと思った。
けれど承太郎は、どこまで行っても10歳までの彼の姿しか知らない。
だからこれは幻だ。墨色に満ちた、暗い、冥いこの世界は承太郎が作り出した夢の国で、目の前の光景が全て作り物であることを知っている
見ることの叶わなかった、彼が大人の姿へと移り変わっていく光景は、あくまでも承太郎が思い描く想像でしかないのだ。
「降参だ、花京院」
――おまえは今、どこにいる?
もう分かっている。
彼はどこにもいない。だけど知りたかった。引導を渡してほしかった。
どこかで諦めるキッカケが欲しかったのだと思う。
だけど無情にも、花京院の幻は首を横に振った。
「かくれんぼは、まだ終わってないよ」
声は低く、大人の男のそれだった。
もうどこにも幼さの欠片も見当たらない。その変化に、胸を抉られるような気がした。承太郎の知らない花京院。同じ時を共有していた幼き日の彼は、失われてしまった。なのに愛しさだけは何ひとつ変わらぬままで、承太郎の中に在り続ける。
「花京院……」
「さあ、祭の時間だよ、承太郎」
花京院が、そのスラリと長い両腕を大きく開いた瞬間だった。
闇の世界が、大きく音を立ててひび割れる。
「ッ!?」
バラバラと崩れていく景色の中、承太郎の身体にざわりと鳥肌が立つ。
そして全てが一瞬のうちに移り変わった。
承太郎は鳥居の真下に立ち尽くしていた。
目の前には多くの人々が行き交い、社殿へと続く石畳に沿って露店が軒を連ねている。
そこは祭囃子と、人々の熱気で満ちていた。
「なんだ……これは……?」
煌々と輝きながら連なる提灯の下、浴衣を着た人々が承太郎の身体を通り抜けていく。擦れ違うのではない。文字通り、空気のように擦り抜けるのだ。
まるで幽霊にでもなった気分だった。誰も彼もが金魚すくいや射的などといった娯楽に興じる中、承太郎の姿が見えているものは一人もいない。
水風船と綿飴を手に、ヒーロー物のお面をつけた子供たちの一団が、はしゃいだ声をあげながら走り抜けていく。
喧騒の中に花京院の姿は見当たらない。たった今まで目の前にいたはずなのに。
そのとき。
『もういいよ! 承太郎のバカッ!』
声が、した。
「ッ!?」
承太郎は息を呑み、声のした方向へと視線を走らせる。
そこには10歳の自分と、花京院の姿があった。
承太郎は青い甚平姿で、花京院はあの緑色の浴衣を着て。二人がいるのは手作り雑貨を並べ立てる出店の前だった。
髪飾りや腕輪などといったアクセサリーをはじめ、ちりめん風の和雑貨などが所狭しと並んでいる。
花京院は浴衣に包まれた華奢な肩を怒らせて、眉を吊り上げていた。
それを見つめる幼い自分は、困ったように顔を顰めている。
『てめーなぁ、それ分かってんのか? ピアスだぜ。耳に穴開けるんだぜ』
『別に自分でつけたいわけじゃないよ! ただ飾っておきたいだけだ!』
『ああそうかい分かったよ。勝手にしろ。ただ、買い物は後だぜ。早くしねーともう神楽が始まっちまうんだ』
『売り切れたらどうするんだ! こんなに可愛いんだぞッ!』
言い争う二人の少年を茫然と眺めながら、承太郎はようやく状況を飲み込むことができた。
これは、過去だ。
今目の前で繰り広げられている光景は、まさに10年前のものだった。それは全ての命運を分けた瞬間でもある。
承太郎の胸に、どうしようもない絶望とジレンマが込み上げた。
あの日を再現して見せようというのか。かけがえのないただ一つの輝きを失った、愚かな幼き自分の姿を。
このとき、二人は母の神楽を見るために先を急いでいたはずだった。
最前列で見たいからと他の店には脇目もふらず向かっていたが、花京院がふとこの場所で足を止めた。
雑貨屋には、チェリーの赤い実を模したピアスが飾られていた。彼はその輝きに目を奪われ、そこから動かなくなってしまったのだ。
承太郎はどうにかして花京院の興味を逸らそうとして焦っていた。早くしないと間に合わない。せっかく母が巫女として選ばれたのだ。花京院だって楽しみにしていたはずなのに。
今にして思えば、ちょっとした買い物をする程度の時間くらい、十分にあったはずだ。けれどこのときの承太郎はとにかく気が急いていて、余裕がなかった。
花京院もまた、少し意地になっているように見える。
『そうかよ、じゃあもう知らねえぞ! おれは先に行ってるからなッ!』
承太郎は幼い自分の言葉を聞いて、痛みを堪えるように目を伏せた。
走り去っていく足音が、後悔となって胸を貫く。
このとき、なぜ傍にいてやらなかったのだろう。なぜ、離れてしまったのだろう。
たった今繰り広げられた光景が、二人を別つ結果をもたらしたというのに。
「もういい……頼む、もう許してくれ、花京院……ッ」
気づけば膝から崩れ落ちていた。
責められているのだと感じた。片時も忘れることは許さないと。けれど、これ以上見続けることは耐えられそうにない。
だけどふと思った。このまま目をそらさずにいれば、花京院の身に何が起こったのかを知ることができるのではないかと。
承太郎は大きく喉を鳴らしながら、視線を再び雑貨屋の前に走らせた。
花京院は去っていく承太郎の背を見つめ、少し泣きそうに唇を噛み締めていた。それからすぐに目当てのピアスに視線を戻し、じっと見つめる。
彼はしばらくずっとそうしていたが、結局ピアスは買わずに店を離れてしまった。
花京院はどういうわけか祭の会場に背を向け、承太郎の身体を擦り抜けて鳥居をくぐると石段を下りはじめた。
「おい、どこへ行く? 神楽はあっちだぜッ!」
届かないと知りつつ、声を発しながらその背を追った。
石段を降りるほどに太鼓の音色や騒がしい人の声が遠ざかる。一番下に到達する頃には、どこか祭の後の寂しささえ感じられた。カエルの大合唱だけが、申し訳程度に設置された街灯が照らす道にこだまする。
花京院は足を止めると、遥か先の鳥居と提灯の光を見上げた。
「花京院、早く戻れ。おれはな、別に怒っちゃいねえんだ。てめーだってそうだろ」
『承太郎のバカ』
「花京院……」
ああ、そうか。
このとき、承太郎は気づいてしまった。
彼は、待っていたのだ。
本当に置いて行かれるとは思わなくて、そのまま、戻って来ないとは思わなくて。追いかけて来てくれるのではと期待して、こうして足を止めていた。
見なければよかった。
承太郎は花京院を追ったことを後悔した。
この石段の先では、そろそろ神楽が始まっている頃だ。
あのとき、自分は花京院は必ずどこかで母の晴れ舞台を見ているのだと信じていた。並んで見ることはできなかったが、あんなにも楽しみにしていたのだから。
あのピアスを買ったあとすぐに駆けつけて、近くで見ているに違いないと。
母の神楽はとても綺麗だった。艶やかな衣を纏い、天女のように舞い踊っていた。太鼓と笛の音に乗せて、母は今まで見て来たどんなものより美しく輝いて見えた。
花京院も同じ気持ちでいるに違いない。このあと顔を合わせたら、興奮に頬を赤く染めながら笑顔を見せてくれるだろうと。
そうしたら、すぐに置いて行ってしまったことを謝ろう。赤いピアスを近くで見せてもらおう。金魚すくいやヨーヨーすくいをして遊んで、綿飴を買って、母の分の焼きそばやたこ焼きも買って、家で三人で食べよう。
そう思っていた。
だけど花京院はどこにもいなかった。
美しい巫女の舞に人々の歓声が冷めやらぬ中、承太郎はその姿を必死で探した。
もしやまだあの雑貨店にいるのかと思ったが、そこに姿はなく、赤いピアスも売れ残っていた。承太郎はすぐに財布を取り出し、そのピアスを買った。小学生に500円は少々痛かったが、売り切れてしまったらきっと花京院はガッカリするだろう。
もしかしたら臍を曲げて隠れているのかもしれない彼にこれを渡せば、すぐに機嫌がなおるだろうと。
「花京院、おれは絶対に戻って来る。てめーが欲しがってたピアスを買って、必ず探しに来るんだぜ。だから」
承太郎の声は、届かない。
花京院は唇を尖らせて、焼き下駄を履いた足をぶらぶらとさせながら歩き出してしまった。無駄と知りつつ手を伸ばし、その名を呼ぶ。
「おい花京院ッ!」
そのとき、承太郎の身体を擦り抜けて何者かが姿を現した。
『君、この辺の子かな?』
「!?」
それは見たことのない、若い男だった。今の承太郎と同じくらいか、少し上だろうか。ワイシャツとジーンズ姿の学生風の男に声をかけられ、花京院は足を止めると振り向いた。
「誰だてめーは」
『僕は観光客なんだけど、暗くて道に迷ってしまったんだ』
「おい花京院、構うんじゃねえぞ」
『この近くに小さな宿が一軒あるはずなんだけど……君、知らない?』
男は子供の目線に合わせるように膝を曲げ、首を傾げながら優しげな笑顔を見せた。
花京院は警戒しているようで、一歩後退ると「知りません」と言って、すぐに立ち去ろうとする。
賢い対応にホッと胸を撫で下ろしかけたが、男はすかさず手を伸ばし、細い二の腕を掴んだ。
「てめー……ッ!」
一瞬で頭に血がのぼった承太郎は、男に掴みかかろうとした。だが、誰も承太郎に触れられないのと同じく、承太郎の腕も相手の身体を擦り抜けてしまう。
(くそッ!)
目の前が赤く染まるようだった。自分がどんなに伸ばしても届かない手で、この男はやすやすと花京院に触れてしまう。
承太郎は確信していた。こいつだ。この男だ。違いない。この男が。
花京院を――。
『は、離して』
『お願いだよ。とても具合が悪いんだ。宿泊先に薬を置いてきちゃったんだよ』
男の演技がかった物言いは、大人であればすぐに身破れるほどの胡散臭さだった。だけど花京院はようやく10歳になったばかりの子供だ。
強張らせていた身を僅かに解いて、上目使いに男を見上げた。その探るような瞳に迷いの色が生じているのを悟り、承太郎の絶望感に拍車がかかる。
『……お兄さん、どこか悪いの?』
「聞くな花京院! そいつの言うことは全部嘘だッ!!」
『うん。病気なんだ。身体があまり丈夫じゃなくてさ』
『……わかった』
「花京院ッ!!」
承太郎の叫びも虚しく、花京院は男に向かって「こっちだよ」と言うと男の手を引いて歩き出した。
承太郎もすぐにその後を追おうとした。だが、そこでまた不可思議な現象が起きた。
どれほど足を前に進めても、先を行く二人に追いつけないのだ。
(なんだ? どういうことだ?)
承太郎は必死で足を前に進めるが、なぜか距離は離されていくばかりだった。まるで蜃気楼を追いかけているかのように、どれほど行っても二人の背中が遠い場所にある。
「ダメだ、行くなッ! 行くんじゃねぇッ!!」
声を振り絞りながら、承太郎は走り続けた。見えない何かが、ぴったりと背に張り付こうとしているような恐怖と焦燥感が、承太郎の四肢を凍らせていく。
『ありがとう。優しいね。名前はなんていうの?』
『花京院典明、です』
『典明くんか、何歳?』
『10歳』
『へぇ~、可愛いね。お祭には一人で来たの?』
『……違うけど』
男は気色の悪い猫なで声で花京院の警戒心を解しにかかっている。
生真面目な彼は男の問いかけに律儀に答えてやっていた。
『もしかして、友達とケンカでもしたのかな?』
『……なんでわかるの?』
花京院は男を見上げると目を見開いた。
『寂しそうだったからさ。何か酷いことでもされた?』
『……されてない。ぼくが我儘を言ってしまっただけ』
『そうなんだ。ちゃんと仲直りできるといいね』
『うん……』
慰めの声をかけながら、男は握っていた花京院の手をさらに強く握って引き寄せた。
驚いた花京院が顔を上げると「迷子にならないように、もっとくっつこう」と言う。
田舎道の数少ない街灯が点滅していた。承太郎からは男がどんな顔をしているかまでは分からない。だが花京院は何かしら感じるものがあったのか、その小さな身体を強張らせた。咄嗟に手を振りほどこうとするが、子供が大人の力に敵うはずがなかった。
男は花京院を引きずるようにして、歩いて来た道から外れると細い脇道に入って行く。
『こ、こっちは、違う。民宿はずっと向こうの、田んぼの先だよ』
『いいんだよ。大丈夫だから』
左右を鬱蒼とした木々と茂みに遮られた小道は、街灯のひとつもありはしない。ただ空に浮かぶ丸い月だけが辺りを薄ぼんやりと青く照らしているだけだった。
承太郎が行くな行くなと念じるほどに、花京院は身を震わせはじめる。
『イヤだ……そっちには行きたくない……!』
『いい子だからさ、大人しくしてろよ。ちょっと遊ぶだけだって』
『おまえなんかとは遊ばないッ!!』
「花京院……ッ」
過ぎた時間は戻らない。失くしたものは取り戻せない。この光景は過去のもので、なにもかも終わってしまったことだ。実際の光景かどうかだって怪しい。
分かっている。自分はこうして見ていることしかできないのだということを。
だけど足掻かずにはいられなかった。失いたくない。この手で守れるのなら、なんだってする。
承太郎は手の平に爪が食い込むほど強く拳を握った。怒りで頭がどうにかなりそうだった。この男は絶対に許さない。
殺してやる。
『イッテェ!!』
その瞬間、男の口から悲鳴が上がった。
目を見張る承太郎の眼前では、男の腕にしがみつくようにして、花京院が思い切りその手首に歯を立てていた。
『こんのクソガキッ!!』
男は悪態をつきながら表情を歪め、堪らず小さな身体を引き剥がすと地面へ投げ飛ばした。
整備されていない道に叩きつけられた花京院の腕や膝小僧が、小石や土に削られて血を流す。
「花京院! そのまま逃げろッ!!」
まるで承太郎の言葉が届いたかのように、花京院は痛む身体で立ち上がると走り出した。男は頭に血を上らせながら、当然それを追いかける。
『待てこのガキが!』
花京院は何度も転びそうになりながら、必死で夜の小道を駆け抜ける。だが、その歩幅の違いから男が追い付くのは時間の問題だった。証拠に、男はわざと一定の距離を保って花京院の背を追い上げている。
『ほらほら、早く逃げないと捕まえちゃうぞ~?』
どこまでも胸糞の悪い野郎だ。承太郎は己の無力さを噛み締めながらも憎悪を募らせる。
早く、早く、早く。頼むから早く逃げてくれ。どうにもならないことを理解していてなお、願わずにいられない。
花京院は息を切らし、肩を大きく上下させていた。あきらかに体力が限界を迎えようとしているのが分かる。
『ッ!!』
ついに花京院は足を縺れさせて派手に転んだ。その拍子に下駄が片方、脱げてしまう。
「花京院ッ!!」
『あ~、可哀想に、大丈夫?』
『……ッ』
楽しそうな声で、歌うように男が問いかけた。
花京院は半身を起こすと青褪めた表情で辺りを見回し、足を引きずりながらどうにか立ち上がると、すぐ側の茂みに分け入るようにして身体を潜り込ませた。
よろよろとした足取りで木々を縫い、そのまま山の中へ入っていこうとする。
男は余裕の態度を崩さなかった。すぐにでも捕まえられる距離に獲物がいて、しかもますますひと気のない場所へ自ら進んで行こうとしてるのだ。卑下た笑みを浮かべながら、同じく茂みに足を踏み入れるのがハッキリと見える。
「待てッ! 待ちやがれ……ッ!!」
行かせてなるものかと、承太郎は力の限り手を伸ばす。
全身に感覚はなく、自分がまともに走れているのかさえ分からない。それでも構わなかった。
守らなければならない。傷つきながら、小さな身体を恐怖に支配されている、あの子供を。幼い自分が、守れなかった彼を。
失くしたくない。取り戻したい。
ずっと共に生きていくのだと、黄昏に描いた未来を。
交わした約束を。
「花京院ッ!!」
承太郎の手が茂みに届く。
それを一気に掻き分けた、その瞬間。
世界が、再び闇に閉ざされた。
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3・黄昏の路
「君、足を怪我したようだが……」
大丈夫かい、と問いかけてくるその言葉遣いが大人びていて、承太郎は丸い瞳を見開きながら幾度か瞬きをした。
階段からうっかり足を踏み外し、何段か転げ落ちてしまった承太郎の左足は、膝小僧が擦りむけて血を流している。
それを見て、赤い髪をした少年は硬い表情でハンカチを差し出してきた。
小さな白い手が差し出す清潔そうなハンカチを、承太郎は胸を大きく高鳴らせながら咄嗟に受けとる。
「あ、ありがとうよ」
立ち上がって礼を言うと、少年は強ばった表情のまま無言で背を向けようとする。それを咄嗟に引きとめた。
「待て」
「……なに?」
「ああ、いや……おまえ、花京院、だったな。転校してきたばっかの」
「そう、だけど」
花京院は緊張した様子で肩を強ばらせていた。それもそうだ。同じクラスというだけで、一度も関わったことのない人間に急に引きとめられたら、誰だって驚くだろう。
だけど承太郎はこの花京院のことが、密かにずっと気になっていた。理由は違えどいつも一人でいる同士、もしかしたら、通ずるものがあるかもしれないと。
「おまえ、いまヒマか?」
「うん、まあ……」
「ならよ、ちょっと話さねーか」
勇気を振り絞っての誘いに、花京院の瞳が揺れる。それが少し不安そうに見えて、彼もやはり学校の連中と同じなのかと落胆しかけた。
だが、それはすぐに花京院が見せた笑顔によって掻き消された。
彼はゆっくりと花が開くように表情を和らげると、頬を赤くして「いいよ」と言った。
笑えば、きっととても可愛いだろうと思っていた。予想通り、花京院の少し恥ずかしそうな笑顔はまるで天使のようで、承太郎は自分まで頬が赤らむのを感じながら急いで目を逸らした。
それから二人は階段の隅に並んで腰掛けて、ぽつりぽつりと不器用に会話を重ねた。
「花京院は、どっから来たんだ。都会の方か?」
「どうかな……ここよりはもう少し建物が多い程度、だったと思うよ」
「へえ。なら、けっこう都会だな」
「わかんないよ」
花京院は少し困ったように眉をさげ、肩を竦めながら指先で頬を掻いて見せた。はにかんだような笑顔を真っ直ぐ見ることができなくて、承太郎は膝小僧の傷が気になる素振りで視線を落とす。
思えば、同年代の子供とこうしてまともに会話をするのは初めてだ。親戚にも子供はいて、盆や正月には遊びに来たりもするけれど、血の繋がりのない他人とこんな風に過ごすことは今までなかった。
「君、さっきのハンカチ」
「え?」
「ぼくに貸して」
承太郎は受け取ったハンカチをずっと握りしめたままだったことに気づいて、慌てて指を開いた。皺ひとつなかったそれがくしゃくしゃになっているのを見て、しまったと思う。
花京院は特に気にした様子もなくそれを取ると、どこか遠慮がちにハンカチで承太郎の膝小僧をつついた。
「イテッ」
「ご、ごめん。でも、すごい血が出てるから」
思わず泣き言を漏らしてしまったのが恥ずかしい。しかも花京院の白いハンカチが赤黒い血で汚れていくことに、罪悪感が募った。
ぐっと唇を引き結んだ承太郎に、花京院も同じく唇を噛み締めながら慎重に血を拭っていく。そして最後に「ちょっと足を伸ばして」と言われて素直に応じる。
花京院はハンカチを裏返し、細長く折りたたむと承太郎の傷ついた膝に巻き付け、きゅっと縛りつけた。
「うちに帰ったら、ちゃんと洗って薬をつけないとダメだよ」
「お、おう。ありがとな」
「どういたしまして」
花京院がホッとしたように肩から力を抜き、笑顔を浮かべる。やっぱり可愛いと思った。承太郎はますます胸がドキドキするのを感じながらそっぽを向く。
一体なんだろうこの気持ちは。花京院のことはずっと気になっていたが、いざとなるとこんなにも緊張するものなのか。
そのまま会話が途切れてしまったところで、承太郎はちらりと隣を横目で見た。
花京院は自分の両膝を両腕で抱きしめながら俯いている。その頬が耳まで赤いのを見て、もしかしたら彼も自分と同じなのかもしれないと感じた。
そうなら嬉しいが、同時に不安もある。
「なあ」
「なんだい?」
「おまえ、怖くねえのか」
「なにが?」
「おれが」
少し唇を尖らせ気味に、ぶっきらぼうに問いかけた。花京院はこちらを見ながら小首を傾げ、すぐに赤い前髪を揺らして首を左右に振る。
本当か、と問いかけると、今度は大きく頷かれた。
「そうか……」
嬉しかった。
クラスメイトや他の学年の連中は、承太郎の目の色がおかしいだとか、デカいからって威張ってるだとか、くだらないことばかり言って難癖をつけてくる。
女子は女子で、いつもグループを作ってこちらをチラチラと見てくるだけだ。言いたいことがあるならハッキリ言えと睨み付ければ、すぐに悲鳴をあげて逃げ出してしまう。
学校は、本当につまらない連中ばかりだった。だけどずっと、この花京院は何か違うような気がしていた。そんなイメージを勝手に抱いていただけだが、この目に狂いがなかったことを知って、つい頬が緩むのを抑えきれなかった。
花京院はそんな承太郎を見て、視線だけ俯かせながら膝の上で両手をもじもじとさせる。
「ぼく、キラキラした緑色が好きなんだ」
「緑?」
「うん……だから君の目、とてもキレイだと思って」
――本当はずっと、話をしてみたかった。
承太郎はその告白を聞いて、目と口を丸く見開いた。
お互いがお互いを意識していたなんて、こうして話をするまでちっとも分からなかった。
承太郎は今までずっと見て見ぬふりをしてきた孤独の存在を、このとき初めて認めることができたような気がした。本当はずっと寂しかったのだということを。
その心の隙間が、このたった短い間に埋まっていくのを感じる。
「おれ、承太郎だ」
花京院に向かって、手を差し出す。
「承太郎くん」
少し躊躇いがちではあったが、白い手がそっと重なり、同時に握り合った。花京院の手は小さくて、柔らかくて、そしてとても温かかった。どうしてか胸が締め付けられるような気がした。
「承太郎でいいぜ。花京院」
「じょうたろ?」
「そう、そんな感じだ」
「よろしく、承太郎」
「おう、よろしくな」
目と目を合わせて、二人はにっこりとほほ笑み合う。
この瞬間から、彼は承太郎にとって唯一無二の存在になった。
*
それから、二人はいつも一緒にいるようになった。
学校の行き帰りはもちろん、一度家に帰るとあの神社の石段で待ち合わせをして、日が暮れるまで話をしたり、遊んだりした。
承太郎は花京院と過ごすようになって、初めて誰かに歩幅を合わせるということを覚えた。自分と並んで歩く花京院が、いつも小走りで息を弾ませていることに気がついたからだ。
言ってくれればいいのにと思ったが、一緒に過ごすうちに花京院は決して弱音を吐かない性格だということが分かってきた。
いい意味でとても頑固で、負けず嫌いだ。顔は女みたいに可愛いが、その意外なギャップが承太郎はとても気に入っている。
花京院は最初こそ緊張して態度も控えめだったが、打ち解けていくほどに年相応の素顔を見せるようになっていった。
そして、承太郎に様々な話を聞かせてくれた。
ここに引っ越してきたのは、両親の仕事の都合であること。
前の学校でもあまりクラスに馴染めていなかったこと。
本を読んだり、ゲームをして遊ぶのが好きで、チェリーが大好物。あまりにも好きすぎて、家で使っている専用のマグカップや、箸や茶碗までチェリー柄なのだと、恥ずかしそうに教えてくれた。
承太郎はそんな花京院の話を聞くのが好きだった。
自分も星のマークが好きで、なんでもかんでも星で揃えてしまうんだと教えたら、ぼくたち似てるね、なんて言ってノォホホとおかしな笑い声をあげていた。
二人で過ごす時間は承太郎にとって何よりも心地よく、かけがえのないものになっていた。温かくて、優しい気持ちになれる、特別なものだった。
何度か家にも招いたが、花京院は母ともすぐに仲良くなった。あまりにもなついてしまったものだから、少し面白くないと感じてしまうほどに。
それは、そんなある日の出来事だ。
帰宅後にいつものように神社で待ち合わせをした二人は、しばらく話し込んだあと、かくれんぼをして遊ぶことになった。
じゃんけんで負けて、鬼になったのは承太郎。
「やった! ぼくが隠れる役だ!」
「ちぇ、しょうがねえな。すぐ見つけてやるぜ」
「それはどうかなー?」
花京院のどこか挑発的な笑みに、闘争心が沸き上がる。承太郎も彼に劣らず負けず嫌いだった。
「うるせえ! ゆっっくり数えてやるから、とっとと隠れな!」
高らかに宣言して、鳥居の柱に身を寄せ数を数え始めると、花京院の慌てたような足音がどんどん離れて行く。
(花京院のヤロウ、3分で見つけてやるぜ)
宣言通り十までゆっくり時間をかけて数えると、勢いよく辺りを見渡す。石畳の先へ駆け出し、まずは社殿の賽銭箱まで近づくと裏側を覗く。いない。それからすぐ格子状の扉に張り付くようにして社殿内部を覗き込んだが、中は暗くてよく見えなかった。
それ以前に鍵がかかっていて扉は開かないようだ。
「くそ、どこに隠れていやがる」
3分なんて目標は流石に無理だが、絶対に見つけ出すと決めて、今度は建物の縁の下を探すことにした。暗くて見えないが、四つん這いになればどうにか潜り込んで行けそうだ。
この辺りは他に隠れられそうな場所はないし、この神社は拝殿と神殿が一つになっていて他に建物はない。さらに山の中であるため周辺には森が広がっていて、子供だけで立ち入ることは禁じられている。だから花京院はここに潜んでいるような気がした。
「おい花京院、そこに隠れてんだろ? 諦めて出てきな」
ずりずりと膝を引きずり、暗闇の中で声をかける。が、返事はない。それもそうだ。しっかり目視で確認して初めて成立するのだし、なにより負けず嫌いな花京院が素直に出てくるはずがない。
だがほんの僅かだが気配のようなものを感じて、予想は確信に変わった。
承太郎はニヤリと笑いながらさらに奥へと押し入ろうとした。そのとき。
闇の中で、影が動いた。
「!?」
それはまさに黒い塊で、物凄い早さで承太郎の横をすり抜ける。
「うわッ!!」
あまりの驚きに、思わずその場で尻餅をついてしまった。慌てて這うようにしながら抜け出すと、遠ざかる影を目で追いかける。森の茂みに向かって全力で駆けていくのは、一匹の黒い野良猫だった。
「なんだ、ビックリさせやがって」
承太郎は立ち上がり、服や手足についた土を払い落とした。感じていた気配は、あの黒猫のものだったらしい。
だとしたら、花京院はどこにいる?
承太郎は考えながら社殿の裏手に回ったり、黒猫が消えた茂みなど、周辺をくまなく探した。
だが、見つからない。
「おい花京院! どこだ!」
呼びかけても返事はない。ただ、冷たい風がざわざわと木々を揺らすだけだ。
そうしている間に、夕陽はどんどん沈んでいこうとしていた。
まずい。早く見つけてかくれんぼを終わらせなければ、自分も花京院も帰れない。
ふと、この敷地内にいないのならば、石段の下にならいるかもしれないと思った。長い階段の下には小さな公園もある。遊具は錆びていて、誰も遊ぶ人間はいないが、もしかしたらそこにいるのではないか。
承太郎は急いで階段を駆けおりて、打ち捨てられたような遊具が並ぶ公園内部を見回した。そこには古いシーソーとブランコ、鉄棒があるだけで、野良猫一匹いやしない。
「花京院……」
承太郎の胸に、徐々に不安が押し寄せる。このまま見つからなかったらどうしよう。誰かに連れ去られたのではないか。それとも、なかなか見つけてもらえないから、先に帰ってしまったのか?
ならばいっそ、その方がよかった。無事に家に戻っているのなら、それが一番安心だ。
だが、花京院は絶対にそんな真似はしないだろう。承太郎を置いて先に帰るなんて、考えられない。
付き合いこそまだ短いが、承太郎は花京院がどんな人間か、よく分かっているつもりだ。だから絶対にどこかにいるはず。
承太郎は考えるよりも先に、再び神社へ向かって石段を駆けのぼっていた。
勘にしかすぎないが、やはり花京院はまだそこにいるような気がする。
息を切らしながら長い階段をのぼりきり、赤い鳥居をくぐると周辺を見渡す。吹き抜ける風に微かな夜の気配を感じながら、目を閉じて耳を澄ました。
すると、微かに何かを引っ掻いたり、叩くような音が聞こえた気がした。
「花京院ッ!」
承太郎が声を張り上げると、その音は止んだ。代わりに、小さな声が遠くから承太郎を呼んだ。
その声を頼りに走り出し、辿り着いたのは先刻も覗いたはずの、社殿の裏手だった。立ち並ぶスギノキが、黒い影のように狭い範囲を覆っている。そこには古びた祠が幾つか並んでいて、声はそこから聞こえているようだった。
「そこか! 花京院ッ!!」
「承太郎? 承太郎ッ!!」
はっきりと花京院の声を聞いた瞬間、安堵に膝から崩れ落ちそうになった。
よかった。彼はちゃんとここにいた。
承太郎の背丈ほどしかない小さな祠は、ちょうど小さな子供が一人くらいなら隠れられそうな大きさだ。どうしてさっき覗いたときに気がつかなかったんだと後悔しながら駆け寄り、手を伸ばす。両開きの扉は固く閉じられていて、片方に足をかけて全力で引っ張ることで、ようやくバキバキと音を立てながら開いた。
「ッ!!」
「承太郎ッ!!」
その瞬間、飛び出して来た花京院が両腕で抱き付いて来て、受け止めきれずに揃って地面に崩れ落ちる。
「遅いよ、承太郎……ッ」
「か、きょういん……」
承太郎の首に抱き付いたまま、花京院は小さく身を震わせていた。よほど不安だったのだろう。鼻をすすり、しゃくりを上げている様に、承太郎も一緒に泣きたくなったが、ぐっと堪えて思い切り抱き返した。
「このバカ! なんてとこに隠れてんだッ!!」
「だって、だってしょうがないだろ! ここなら絶対に見つからないと思ったし、それに、扉が開かなくなっちゃったんだッ!!」
どうやら花京院は、この小さな祠に入ったはいいものの出て来られない状況に陥っていたらしい。
少し呆れて言葉を失っていると、彼は承太郎の肩に埋めていた顔をあげた。鼻まで赤くして、不貞腐れたように唇を引き結んでいる。涙をいっぱいに溜めた瞳に、堪らない気持ちになって震える息を吐き出した。
「見つからなかったら、どうしようかと思ったじゃねーか……」
泣き濡れた丸い頬の片方に触れながら、労わるように撫でてやる。花京院は大きく鼻をすすって、ごめんと零すと項垂れた。
本当は何度でもバカと言ってやりたかった。だけど、彼が無事に見つかったことの方がずっと大きくて、言葉がでない。
一瞬でも考えた。もしこのまま、花京院を見つけ出すことができなかったら、と。
こうして無事を確認できた今、安堵と一緒に言い知れぬ不安が押し寄せる。
腕の中で泣いている、この小さくて大切な友達を。
永遠に失うことになったら、自分は生きていけるだろうかと。
(そんなの無理に決まってる)
承太郎にとって花京院は、なくてはならない存在だ。
初めて見たときからずっと近づきたいと思っていた。なにか不思議な力に引き寄せられるみたいに、惹かれていた。
多分きっと、これから先もずっとそうだ。ずっとずっと、大人になっても一緒にいたい。
「泣くな、花京院」
「泣いてなんか、ないよ」
「ぼろぼろ泣いてんじゃねーか。怖かったんだろ。遅くなって悪かった」
無造作に頭を撫でてやると、彼は嫌々とむずがるように首を左右に振ると「違う」と言った。
「そりゃ、ちょっとは怖かったさ。それは認める。だけど、信じてたから。承太郎のこと」
――きっとぼくを見つけてくれるって。
そう言って、花京院は笑った。
瞳にいっぱい涙を浮かべているくせに、承太郎の服を掴んだまま離さないくせに。
熱いものが胸に溢れそうなほど込み上げた。湧き水のように止まらない思いに少しだけ苦しくなりながら、承太郎も笑って頷いた。
「約束だ」
握った拳の、小指だけを立ててそっと差し出す。
「おまえがどこに隠れてたって、必ずおれが見つけてやるよ」
花京院はつぶらな瞳を見開いて、目の前の小指を見つめている。それからすぐに視線を承太郎の顔に向けて、嬉しそうにいちど唇を噛み締めると、同じように立てた小指を差し出して来た。
絡み合う指と指が熱い。なんだか照れ臭くなってきて、気づけば二人は真っ赤な顔で俯いていた。
離すタイミングが分からない小指を握り合ったまま、ぶらぶらと動かしたりして言葉を探した。その戯れが、なおのこと恥ずかしいような気がしてきた頃、先に沈黙を破ったのはおどけたような花京院の声だった。
「じゃあ、じゃあさ。次はもっと難しいところに、隠れなくちゃあいけないな」
思わず、小さく噴き出してしまった。
「このバカ野郎」
「だって悔しいじゃないか。かくれんぼは承太郎の勝ちだもん」
「だったらずっとおれの勝ちだぜ。残念だったな」
勝ち誇ったように言うと、花京院はあのノォホホというおかしな声で笑った。
「オラ、もう日が暮れちまう。帰ろうぜ」
「うん」
承太郎が立ち上がるのと一緒に、花京院も立ち上がる。小指は離れたが、代わりに手を繋いで、二人は同じ歩幅で歩き始めた。
このときの花京院を、承太郎は死ぬまでずっと覚えていようと思った。
色濃い夕陽に焼かれた、燃えるように赤い髪を、濡れたままキラキラと輝く瞳を、握った手の、汗ばむほどの熱さを。
沈みゆく夕陽の煌めきの中で。
カラスの鳴き声を聞きながら、彼と歩む、未来を想った。
←戻る ・ 次へ→
「君、足を怪我したようだが……」
大丈夫かい、と問いかけてくるその言葉遣いが大人びていて、承太郎は丸い瞳を見開きながら幾度か瞬きをした。
階段からうっかり足を踏み外し、何段か転げ落ちてしまった承太郎の左足は、膝小僧が擦りむけて血を流している。
それを見て、赤い髪をした少年は硬い表情でハンカチを差し出してきた。
小さな白い手が差し出す清潔そうなハンカチを、承太郎は胸を大きく高鳴らせながら咄嗟に受けとる。
「あ、ありがとうよ」
立ち上がって礼を言うと、少年は強ばった表情のまま無言で背を向けようとする。それを咄嗟に引きとめた。
「待て」
「……なに?」
「ああ、いや……おまえ、花京院、だったな。転校してきたばっかの」
「そう、だけど」
花京院は緊張した様子で肩を強ばらせていた。それもそうだ。同じクラスというだけで、一度も関わったことのない人間に急に引きとめられたら、誰だって驚くだろう。
だけど承太郎はこの花京院のことが、密かにずっと気になっていた。理由は違えどいつも一人でいる同士、もしかしたら、通ずるものがあるかもしれないと。
「おまえ、いまヒマか?」
「うん、まあ……」
「ならよ、ちょっと話さねーか」
勇気を振り絞っての誘いに、花京院の瞳が揺れる。それが少し不安そうに見えて、彼もやはり学校の連中と同じなのかと落胆しかけた。
だが、それはすぐに花京院が見せた笑顔によって掻き消された。
彼はゆっくりと花が開くように表情を和らげると、頬を赤くして「いいよ」と言った。
笑えば、きっととても可愛いだろうと思っていた。予想通り、花京院の少し恥ずかしそうな笑顔はまるで天使のようで、承太郎は自分まで頬が赤らむのを感じながら急いで目を逸らした。
それから二人は階段の隅に並んで腰掛けて、ぽつりぽつりと不器用に会話を重ねた。
「花京院は、どっから来たんだ。都会の方か?」
「どうかな……ここよりはもう少し建物が多い程度、だったと思うよ」
「へえ。なら、けっこう都会だな」
「わかんないよ」
花京院は少し困ったように眉をさげ、肩を竦めながら指先で頬を掻いて見せた。はにかんだような笑顔を真っ直ぐ見ることができなくて、承太郎は膝小僧の傷が気になる素振りで視線を落とす。
思えば、同年代の子供とこうしてまともに会話をするのは初めてだ。親戚にも子供はいて、盆や正月には遊びに来たりもするけれど、血の繋がりのない他人とこんな風に過ごすことは今までなかった。
「君、さっきのハンカチ」
「え?」
「ぼくに貸して」
承太郎は受け取ったハンカチをずっと握りしめたままだったことに気づいて、慌てて指を開いた。皺ひとつなかったそれがくしゃくしゃになっているのを見て、しまったと思う。
花京院は特に気にした様子もなくそれを取ると、どこか遠慮がちにハンカチで承太郎の膝小僧をつついた。
「イテッ」
「ご、ごめん。でも、すごい血が出てるから」
思わず泣き言を漏らしてしまったのが恥ずかしい。しかも花京院の白いハンカチが赤黒い血で汚れていくことに、罪悪感が募った。
ぐっと唇を引き結んだ承太郎に、花京院も同じく唇を噛み締めながら慎重に血を拭っていく。そして最後に「ちょっと足を伸ばして」と言われて素直に応じる。
花京院はハンカチを裏返し、細長く折りたたむと承太郎の傷ついた膝に巻き付け、きゅっと縛りつけた。
「うちに帰ったら、ちゃんと洗って薬をつけないとダメだよ」
「お、おう。ありがとな」
「どういたしまして」
花京院がホッとしたように肩から力を抜き、笑顔を浮かべる。やっぱり可愛いと思った。承太郎はますます胸がドキドキするのを感じながらそっぽを向く。
一体なんだろうこの気持ちは。花京院のことはずっと気になっていたが、いざとなるとこんなにも緊張するものなのか。
そのまま会話が途切れてしまったところで、承太郎はちらりと隣を横目で見た。
花京院は自分の両膝を両腕で抱きしめながら俯いている。その頬が耳まで赤いのを見て、もしかしたら彼も自分と同じなのかもしれないと感じた。
そうなら嬉しいが、同時に不安もある。
「なあ」
「なんだい?」
「おまえ、怖くねえのか」
「なにが?」
「おれが」
少し唇を尖らせ気味に、ぶっきらぼうに問いかけた。花京院はこちらを見ながら小首を傾げ、すぐに赤い前髪を揺らして首を左右に振る。
本当か、と問いかけると、今度は大きく頷かれた。
「そうか……」
嬉しかった。
クラスメイトや他の学年の連中は、承太郎の目の色がおかしいだとか、デカいからって威張ってるだとか、くだらないことばかり言って難癖をつけてくる。
女子は女子で、いつもグループを作ってこちらをチラチラと見てくるだけだ。言いたいことがあるならハッキリ言えと睨み付ければ、すぐに悲鳴をあげて逃げ出してしまう。
学校は、本当につまらない連中ばかりだった。だけどずっと、この花京院は何か違うような気がしていた。そんなイメージを勝手に抱いていただけだが、この目に狂いがなかったことを知って、つい頬が緩むのを抑えきれなかった。
花京院はそんな承太郎を見て、視線だけ俯かせながら膝の上で両手をもじもじとさせる。
「ぼく、キラキラした緑色が好きなんだ」
「緑?」
「うん……だから君の目、とてもキレイだと思って」
――本当はずっと、話をしてみたかった。
承太郎はその告白を聞いて、目と口を丸く見開いた。
お互いがお互いを意識していたなんて、こうして話をするまでちっとも分からなかった。
承太郎は今までずっと見て見ぬふりをしてきた孤独の存在を、このとき初めて認めることができたような気がした。本当はずっと寂しかったのだということを。
その心の隙間が、このたった短い間に埋まっていくのを感じる。
「おれ、承太郎だ」
花京院に向かって、手を差し出す。
「承太郎くん」
少し躊躇いがちではあったが、白い手がそっと重なり、同時に握り合った。花京院の手は小さくて、柔らかくて、そしてとても温かかった。どうしてか胸が締め付けられるような気がした。
「承太郎でいいぜ。花京院」
「じょうたろ?」
「そう、そんな感じだ」
「よろしく、承太郎」
「おう、よろしくな」
目と目を合わせて、二人はにっこりとほほ笑み合う。
この瞬間から、彼は承太郎にとって唯一無二の存在になった。
*
それから、二人はいつも一緒にいるようになった。
学校の行き帰りはもちろん、一度家に帰るとあの神社の石段で待ち合わせをして、日が暮れるまで話をしたり、遊んだりした。
承太郎は花京院と過ごすようになって、初めて誰かに歩幅を合わせるということを覚えた。自分と並んで歩く花京院が、いつも小走りで息を弾ませていることに気がついたからだ。
言ってくれればいいのにと思ったが、一緒に過ごすうちに花京院は決して弱音を吐かない性格だということが分かってきた。
いい意味でとても頑固で、負けず嫌いだ。顔は女みたいに可愛いが、その意外なギャップが承太郎はとても気に入っている。
花京院は最初こそ緊張して態度も控えめだったが、打ち解けていくほどに年相応の素顔を見せるようになっていった。
そして、承太郎に様々な話を聞かせてくれた。
ここに引っ越してきたのは、両親の仕事の都合であること。
前の学校でもあまりクラスに馴染めていなかったこと。
本を読んだり、ゲームをして遊ぶのが好きで、チェリーが大好物。あまりにも好きすぎて、家で使っている専用のマグカップや、箸や茶碗までチェリー柄なのだと、恥ずかしそうに教えてくれた。
承太郎はそんな花京院の話を聞くのが好きだった。
自分も星のマークが好きで、なんでもかんでも星で揃えてしまうんだと教えたら、ぼくたち似てるね、なんて言ってノォホホとおかしな笑い声をあげていた。
二人で過ごす時間は承太郎にとって何よりも心地よく、かけがえのないものになっていた。温かくて、優しい気持ちになれる、特別なものだった。
何度か家にも招いたが、花京院は母ともすぐに仲良くなった。あまりにもなついてしまったものだから、少し面白くないと感じてしまうほどに。
それは、そんなある日の出来事だ。
帰宅後にいつものように神社で待ち合わせをした二人は、しばらく話し込んだあと、かくれんぼをして遊ぶことになった。
じゃんけんで負けて、鬼になったのは承太郎。
「やった! ぼくが隠れる役だ!」
「ちぇ、しょうがねえな。すぐ見つけてやるぜ」
「それはどうかなー?」
花京院のどこか挑発的な笑みに、闘争心が沸き上がる。承太郎も彼に劣らず負けず嫌いだった。
「うるせえ! ゆっっくり数えてやるから、とっとと隠れな!」
高らかに宣言して、鳥居の柱に身を寄せ数を数え始めると、花京院の慌てたような足音がどんどん離れて行く。
(花京院のヤロウ、3分で見つけてやるぜ)
宣言通り十までゆっくり時間をかけて数えると、勢いよく辺りを見渡す。石畳の先へ駆け出し、まずは社殿の賽銭箱まで近づくと裏側を覗く。いない。それからすぐ格子状の扉に張り付くようにして社殿内部を覗き込んだが、中は暗くてよく見えなかった。
それ以前に鍵がかかっていて扉は開かないようだ。
「くそ、どこに隠れていやがる」
3分なんて目標は流石に無理だが、絶対に見つけ出すと決めて、今度は建物の縁の下を探すことにした。暗くて見えないが、四つん這いになればどうにか潜り込んで行けそうだ。
この辺りは他に隠れられそうな場所はないし、この神社は拝殿と神殿が一つになっていて他に建物はない。さらに山の中であるため周辺には森が広がっていて、子供だけで立ち入ることは禁じられている。だから花京院はここに潜んでいるような気がした。
「おい花京院、そこに隠れてんだろ? 諦めて出てきな」
ずりずりと膝を引きずり、暗闇の中で声をかける。が、返事はない。それもそうだ。しっかり目視で確認して初めて成立するのだし、なにより負けず嫌いな花京院が素直に出てくるはずがない。
だがほんの僅かだが気配のようなものを感じて、予想は確信に変わった。
承太郎はニヤリと笑いながらさらに奥へと押し入ろうとした。そのとき。
闇の中で、影が動いた。
「!?」
それはまさに黒い塊で、物凄い早さで承太郎の横をすり抜ける。
「うわッ!!」
あまりの驚きに、思わずその場で尻餅をついてしまった。慌てて這うようにしながら抜け出すと、遠ざかる影を目で追いかける。森の茂みに向かって全力で駆けていくのは、一匹の黒い野良猫だった。
「なんだ、ビックリさせやがって」
承太郎は立ち上がり、服や手足についた土を払い落とした。感じていた気配は、あの黒猫のものだったらしい。
だとしたら、花京院はどこにいる?
承太郎は考えながら社殿の裏手に回ったり、黒猫が消えた茂みなど、周辺をくまなく探した。
だが、見つからない。
「おい花京院! どこだ!」
呼びかけても返事はない。ただ、冷たい風がざわざわと木々を揺らすだけだ。
そうしている間に、夕陽はどんどん沈んでいこうとしていた。
まずい。早く見つけてかくれんぼを終わらせなければ、自分も花京院も帰れない。
ふと、この敷地内にいないのならば、石段の下にならいるかもしれないと思った。長い階段の下には小さな公園もある。遊具は錆びていて、誰も遊ぶ人間はいないが、もしかしたらそこにいるのではないか。
承太郎は急いで階段を駆けおりて、打ち捨てられたような遊具が並ぶ公園内部を見回した。そこには古いシーソーとブランコ、鉄棒があるだけで、野良猫一匹いやしない。
「花京院……」
承太郎の胸に、徐々に不安が押し寄せる。このまま見つからなかったらどうしよう。誰かに連れ去られたのではないか。それとも、なかなか見つけてもらえないから、先に帰ってしまったのか?
ならばいっそ、その方がよかった。無事に家に戻っているのなら、それが一番安心だ。
だが、花京院は絶対にそんな真似はしないだろう。承太郎を置いて先に帰るなんて、考えられない。
付き合いこそまだ短いが、承太郎は花京院がどんな人間か、よく分かっているつもりだ。だから絶対にどこかにいるはず。
承太郎は考えるよりも先に、再び神社へ向かって石段を駆けのぼっていた。
勘にしかすぎないが、やはり花京院はまだそこにいるような気がする。
息を切らしながら長い階段をのぼりきり、赤い鳥居をくぐると周辺を見渡す。吹き抜ける風に微かな夜の気配を感じながら、目を閉じて耳を澄ました。
すると、微かに何かを引っ掻いたり、叩くような音が聞こえた気がした。
「花京院ッ!」
承太郎が声を張り上げると、その音は止んだ。代わりに、小さな声が遠くから承太郎を呼んだ。
その声を頼りに走り出し、辿り着いたのは先刻も覗いたはずの、社殿の裏手だった。立ち並ぶスギノキが、黒い影のように狭い範囲を覆っている。そこには古びた祠が幾つか並んでいて、声はそこから聞こえているようだった。
「そこか! 花京院ッ!!」
「承太郎? 承太郎ッ!!」
はっきりと花京院の声を聞いた瞬間、安堵に膝から崩れ落ちそうになった。
よかった。彼はちゃんとここにいた。
承太郎の背丈ほどしかない小さな祠は、ちょうど小さな子供が一人くらいなら隠れられそうな大きさだ。どうしてさっき覗いたときに気がつかなかったんだと後悔しながら駆け寄り、手を伸ばす。両開きの扉は固く閉じられていて、片方に足をかけて全力で引っ張ることで、ようやくバキバキと音を立てながら開いた。
「ッ!!」
「承太郎ッ!!」
その瞬間、飛び出して来た花京院が両腕で抱き付いて来て、受け止めきれずに揃って地面に崩れ落ちる。
「遅いよ、承太郎……ッ」
「か、きょういん……」
承太郎の首に抱き付いたまま、花京院は小さく身を震わせていた。よほど不安だったのだろう。鼻をすすり、しゃくりを上げている様に、承太郎も一緒に泣きたくなったが、ぐっと堪えて思い切り抱き返した。
「このバカ! なんてとこに隠れてんだッ!!」
「だって、だってしょうがないだろ! ここなら絶対に見つからないと思ったし、それに、扉が開かなくなっちゃったんだッ!!」
どうやら花京院は、この小さな祠に入ったはいいものの出て来られない状況に陥っていたらしい。
少し呆れて言葉を失っていると、彼は承太郎の肩に埋めていた顔をあげた。鼻まで赤くして、不貞腐れたように唇を引き結んでいる。涙をいっぱいに溜めた瞳に、堪らない気持ちになって震える息を吐き出した。
「見つからなかったら、どうしようかと思ったじゃねーか……」
泣き濡れた丸い頬の片方に触れながら、労わるように撫でてやる。花京院は大きく鼻をすすって、ごめんと零すと項垂れた。
本当は何度でもバカと言ってやりたかった。だけど、彼が無事に見つかったことの方がずっと大きくて、言葉がでない。
一瞬でも考えた。もしこのまま、花京院を見つけ出すことができなかったら、と。
こうして無事を確認できた今、安堵と一緒に言い知れぬ不安が押し寄せる。
腕の中で泣いている、この小さくて大切な友達を。
永遠に失うことになったら、自分は生きていけるだろうかと。
(そんなの無理に決まってる)
承太郎にとって花京院は、なくてはならない存在だ。
初めて見たときからずっと近づきたいと思っていた。なにか不思議な力に引き寄せられるみたいに、惹かれていた。
多分きっと、これから先もずっとそうだ。ずっとずっと、大人になっても一緒にいたい。
「泣くな、花京院」
「泣いてなんか、ないよ」
「ぼろぼろ泣いてんじゃねーか。怖かったんだろ。遅くなって悪かった」
無造作に頭を撫でてやると、彼は嫌々とむずがるように首を左右に振ると「違う」と言った。
「そりゃ、ちょっとは怖かったさ。それは認める。だけど、信じてたから。承太郎のこと」
――きっとぼくを見つけてくれるって。
そう言って、花京院は笑った。
瞳にいっぱい涙を浮かべているくせに、承太郎の服を掴んだまま離さないくせに。
熱いものが胸に溢れそうなほど込み上げた。湧き水のように止まらない思いに少しだけ苦しくなりながら、承太郎も笑って頷いた。
「約束だ」
握った拳の、小指だけを立ててそっと差し出す。
「おまえがどこに隠れてたって、必ずおれが見つけてやるよ」
花京院はつぶらな瞳を見開いて、目の前の小指を見つめている。それからすぐに視線を承太郎の顔に向けて、嬉しそうにいちど唇を噛み締めると、同じように立てた小指を差し出して来た。
絡み合う指と指が熱い。なんだか照れ臭くなってきて、気づけば二人は真っ赤な顔で俯いていた。
離すタイミングが分からない小指を握り合ったまま、ぶらぶらと動かしたりして言葉を探した。その戯れが、なおのこと恥ずかしいような気がしてきた頃、先に沈黙を破ったのはおどけたような花京院の声だった。
「じゃあ、じゃあさ。次はもっと難しいところに、隠れなくちゃあいけないな」
思わず、小さく噴き出してしまった。
「このバカ野郎」
「だって悔しいじゃないか。かくれんぼは承太郎の勝ちだもん」
「だったらずっとおれの勝ちだぜ。残念だったな」
勝ち誇ったように言うと、花京院はあのノォホホというおかしな声で笑った。
「オラ、もう日が暮れちまう。帰ろうぜ」
「うん」
承太郎が立ち上がるのと一緒に、花京院も立ち上がる。小指は離れたが、代わりに手を繋いで、二人は同じ歩幅で歩き始めた。
このときの花京院を、承太郎は死ぬまでずっと覚えていようと思った。
色濃い夕陽に焼かれた、燃えるように赤い髪を、濡れたままキラキラと輝く瞳を、握った手の、汗ばむほどの熱さを。
沈みゆく夕陽の煌めきの中で。
カラスの鳴き声を聞きながら、彼と歩む、未来を想った。
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上手くいくか分からず、最初はただお互いの身体に触れるだけだった。
けれどその感覚に慣れもしないうちから、それだけでは足りなくなった。
ファイの全てを自分のものにしたかった。
どこもかしこも、触れられる場所には全て触れたかった。
日に日に膨らむ欲求の紐を解いたのはファイだった。
欲しいというたった三文字が黒鋼の理性をあっけなく奪った。
初めての夜。
彼は泣きながら、それでも嬉しいと言って笑った。
与えられるもの全てが、その痛みさえも愛おしいのだと。
+++
何度も抱いているはずなのに、触れる度に初めて繋がった時のことを思い出す。
汗ばむ肌が暗闇に浮かびあがり、それに手を這わせるだけで心が震える。
「あ、ァ、い、く……ッ、くろ……!」
黒鋼の胸に手をついて、必死で自分の体重を支えながら跨るファイの手を取った。
両手を合わせてぎゅっと握ると、もどかしい緩やかさで振られていた細腰がビクンと跳ねる。
彼の汗と涙が、黒鋼の鎖骨にぱたぱたと落ちた。
あと少しで達するというのを助けるようにして、黒鋼は下から幾度か突き上げる。
決して激しくはしない。もし彼がそこで意識を手放せば、せっかくの夜がそこで終わってしまう。
ファイの爪が、手の甲に鋭く食い込んできた。
同時に子犬のように短く甲高い声を上げた後、彼は息を詰まらせながらビクビクと身を躍らせた。
汗ばんだ黒鋼の腹に熱い飛沫がかかる。
両手を繋ぎ合わせたまま、ファイはガクンと首を落とし、断続的に震えながら荒々しい呼吸を繰り返す。
「もう休むか?」
もし彼がこれ以上は無理だと言うなら、無理強いはしないつもりだった。
まだこうして一度しか繋がってはいないが、自分が満足するのは後回しに黒鋼はファイを気遣った。
けれど彼は首を左右に振り、身体の奥に黒鋼自身を収めたまま胸に倒れこんでくる。
汗と体液が混ざり合い、2人の間で熱く蕩けてゆく。
「黒たん、まだイッてない」
「俺はいい」
「やだ……もっといっぱい、するの……」
繋ぎ合っていた両手が離れても、ファイは黒鋼から離れない。
黒鋼も離す気はなく、両腕で浅く乱れた呼吸を発する身体を抱きしめた。少し早めの心音が、合わせた胸から直に伝わってくることに安堵する。
ファイは一度だけ、すんと幼く鼻をすすった。
「あのね」
「ん」
「優しくしなくていいんだよ」
「なんだ。急に」
「もっと沢山、好きにして。初めての時みたいに、余裕がない黒たんが見たい。どんなに酷くされても、オレは嬉しい。それに……」
痛くても苦しくても、明日には忘れちゃうから。
その言葉が、黒鋼の胸を抉った。
わかっている。どんなに愛し合っても明日には何も残らない。
白い肌に食らいつき、多くの痕跡を残したとしても、明日のファイはそれを見て何があったかをただ察することしか出来ない。
「眠りたくない」
耳元で、再び鼻をすする音がした。
泣いているのは知っている。
黒鋼の優しさは、明日を掴むことの出来ない『今』のファイには残酷だった。
「怖いね。やっぱり」
いっそこのまま泥のように融けて一つになって、消えることができればと思う瞬間が幾度もある。
抱きしめるだけでは飽き足らず、何もかもが本当に分からなくなるくらい、一つに。
+++
開け放った窓の向こう。
螻蛄(ケラ)の鳴く庭の小川には、ほんの数匹の蛍が光を放ちながら飛び交っていた。
その灯は辺りを淡く照らし、月のない暗闇を浮かび上がらせている。
あれから、黒鋼はファイを幾度か抱いた。
彼の望むとおり、乱暴に揺さぶる度にファイはただ泣いていた。
泣きながら、嬉しいと繰り返した。
痛みと過ぎた快楽が、彼の途切れそうになる意識を繋ぎとめていた。
薄ぼんやりとした部屋の中で、今2人は寄り添って蛍を眺めていた。
幻想的な風景に目を奪われていると、肩に預けられていたファイの頭が一瞬だけカクリと揺れる。
黒鋼は小さく笑うと、毛先をほんのりと汗に濡らした金髪に指を通し、そっと頬ずりをした。
音にならない微かな声が、「黒たん」と名を呼ぶ。
「いつかね」
「ああ」
「……いつか、殺してね」
今度はファイが、黒鋼の頬に額を擦り寄せた。
「いつかオレが、君のことさえ分からなくなる日が来たら」
――殺して。
黒鋼は何も言わなかった。
ただゆらゆらと揺れる蛍火を見つめ、小川の囀りを聞いていた。
ファイの欲しがる返答を胸の奥底に押し込めたまま無言を貫き通すと、彼は「ごめんなさい」と言った。
「違うの……」
「いい。わかってる」
「傷つけて、ごめんなさい……」
それを最後にぷっつりと意識を手放したファイの、濡れた目尻に口付ける。
いつしか蛍火も闇夜に消えて、静寂だけが優しく肌を撫でた。
ああ、今日という日がまた終わってしまった。
朝が来れば新しい一日が始まり、昼が来て、夜が来て、また朝が来るのを繰り返す。
彼は知っているだろうか。
どれほど身を裂かれるような痛みを感じたとしても、それさえも愛しいのは黒鋼も同じだということを。
「おまえがな」
どんなに身体を重ねても、自分たちは一つにはなれないけれど。
「ただ俺の側で生きててくれりゃあ、それでいい」
規則正しい寝息に恋しさを募らせながら、黒鋼は闇夜の中で瞼を伏せた。
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