2025年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
ひとりの気持ち
雨音に気がついて、明け方ふと目を覚ます。
カーテンの隙間からこぼれ差す光には、ほのかに青みがかっていた。アラームが鳴るのは、まだもう少し先のはずだ。ずいぶん早くに目覚めてしまった。
起き抜けの頭は芯が重く痺れたようになっていて、身体と意識がいまいちうまく繋がらない。ぼうっとしながら天井を見上げ、甲洋は幾度かまばたきを繰り返す。
──夢を、見ていたような気がする。
長い長い夢を。怖いくらい幸せで、あたたかく満たされていた感覚が、胸の内側に残っている。だけど、肝心の内容はすっぽりと頭から抜け落ちていた。
明け方の夢なんて、だいたいそんなものだろう。曖昧な痕跡だけを残して、目覚めたときには消えている。
いっそ眠ったままでいればよかったと、ひどく落胆しながら身を起こす。
ベッドを抜けだし、すぐ隣のリビングへ足を運ぶと、甲洋は無意識に誰かを探すように視線を巡らせていた。L字のカウチソファと、テーブルと、テレビと、最低限の家具。見慣れた一人暮らしの一室が、なぜかやたらと広く感じる。
「……?」
響く雨音に言い知れぬ喪失感が込み上げて、訳も分からず顔をしかめた。
足りない。なにかが。抜け落ちてしまったみたいに。けれど、それがなにかは分からない。大切なことを忘れている気がするのに、思いだそうとしても欠片のひとつも浮かばなかった。あたたかな夢の名残りは消え失せ、心がぽっかりと空虚に染まる。
取り残されたような寂寥に、甲洋はただ立ち尽くすことしかできなかった。
*
それからずっと、得体の知れない喪失感は甲洋の中で膨らみ続けた。
次の日も、またその次の日も。大学へ行き、バイトをして、誰もいない家に帰る。繰り返す日々は、まるでモノクロの無声映画を見ているように味気ない。
気がつけば視線は誰かを探してさまよっている。なにを求めているのかも、なにが欠けているのかすらも、分からないまま。
5月の初め。その日も天気は雨降りだった。
大型連休に突入しても、普段と変わらずバイトはある。一張羅のスーツに身を包み、甲洋はいつものように塾講師のアルバイトに専念していた。
パーテーションで仕切られた空間には、甲洋と受け持ちの女子生徒が一人いるだけだ。
切りのいいところで腕時計を確認すれば、残り時間はあと十分。なにか質問はないかと問いかけると、セーラー服を着た黒髪の女子生徒は身体をわずかにこちらに向ける。他のブースに迷惑がかからないよう、彼女は静かに口を開いた。
「ねぇ、先生」
「なに?」
「先生って、もうすぐ誕生日だよね?」
制服の赤いスカーフを指先でいじりながら、少女がソワソワと見上げてくる。勉強とは一切関係のない内容だったが、残り時間のちょっとした雑談は普段からよくあることだ。
「そうだけど。よく知ってるな」
「従兄弟が先生と同じ大学に通ってるの。それで、たまたま聞いて……」
その従兄弟とやらが甲洋の見知った人物かはさておき、たまたま聞いたという点には少し無理があるように思えた。証拠に彼女は落ち着かない様子で目を泳がせている。
思いがけないところまで自分の情報が知れ渡っていることは、甲洋にとってよくある話だ。とりわけ女性の間で、それらは共有されている。いちいち追及していたら切りがない。
「それでね……ちょっと早いけど、先生にプレゼントがあるの」
「プレゼント?」
「私、誕生日の日は塾がないから。渡すなら、今日しかないと思って」
少女は机の脇に手を伸ばし、鞄を手にすると膝の上に乗せた。いそいそと中から取り出したのは、透明なラッピング袋に綺麗に包まれたカップケーキだった。
二つ並んだケーキはチョコとプレーンで、それぞれナッツやドライフルーツがたっぷりトッピングされている。袋の口を固定するワイヤータイには、赤いサテンリボンがついていた。
「これ、作ってみたの。味はあんまり自信ないけど……」
「わざわざ俺のために?」
頷いた少女が、真っ赤な顔をしながら両手でカップケーキの包みを差しだしてきた。受け取ってくれるかどうか、不安に駆られているのだろう。キュッと身体を固くしている。
少し迷ったが、断る理由は特になかった。受け取る瞬間、細い指先と甲洋の手がかすかに触れる。彼女はいっそう頬を赤くして、恥ずかしそうにうつむきながら手を引っ込めた。
「ありがとう。大事に食べるよ」
微笑んだ甲洋に、顔を上げた少女は潤んだ瞳で眩しいほどの笑顔を浮かべた。
その綺麗な黒髪に、甲洋はふと目を細める。胸の奥底から、じわりと呼び覚まされる思い。今の今まで、どうして忘れていたんだろう。
──甲洋には、ずっと思い描いていた夢があった。
それは黒髪の綺麗な女性と運命的な恋をして、結婚したら海が見える高台に一戸建てを購入し、そこで幸せな家庭を築くこと。子宝にも恵まれて、庭では黒柴の元気な子犬を飼いたいと夢見ていた。
その未来に想いを馳せているあいだは、孤独であることを忘れていられた。甲洋にとって、大きな拠り所であったはずなのに。まるで最初からなかったかのように、忘れ去っていた。
彼女の髪に気をとめなければ、ずっと忘れたままでいたかもしれない。けれど何よりも甲洋が衝撃を受けたのは、思いだしたところでまるで心が動かないことだった。
「先生、またね」
いまだ頬を赤らめたまま、笑顔の女子生徒が小さく手を振って帰っていく。
その背を見届けると、甲洋は手の中にあるカップケーキの包みに視線を落とした。ひたむきな彼女の想いが、手のひらを通して伝わってくる。
だけど、甲洋の胸には冷たい空洞があるだけだ。剥き出しの孤独が、雨ざらしになっている。虚しかった。今日もまた、あの誰もいない部屋に帰らなくてはいけないことが。
*
「……今日も雨か」
アラームが鳴るよりも先に目を覚まし、遠くから聞こえる雨音にうんざりとした息を漏らした。
手探りでスマホを引き寄せると、覗き込んだディスプレイには数件のメッセージを知らせる表示がある。それらはすべて、友人たちからの誕生日を祝うメッセージだった。
『誕生日おめでとう!』
思い思いに寄せられたあたたかなメッセージに、ふと頬が緩みかける。だけど上手く笑えずに、ただ口元が不格好に引き攣るだけで終わってしまった。
「誕生日、か」
友人らの気持ちは嬉しいと感じているし、ありがたいとも思っている。けれどこうして祝われても、甲洋には今日という日に大した思い入れがない。連休が明け、今日から普通に学校があるし、バイトもある。同じことの繰り返し。空っぽの一日が始まるだけだ。
胸の空洞は、いつまで経っても埋まりそうにない。
*
一日を無難にやり過ごし、夜になっても雨は降り続いていた。
帰り道でふと足を止めてスマホを見ると、また数件のメッセージが来ていることに気がついた。どれも友人からで、誕生日を祝うもの。当たり前のように、両親からの連絡は一切ない。毎年そうだ。
あえて無視をしているわけではない。きっと彼らは、今日がなんの日であるかすら意識せずにいるだろう。期待するだけ、虚しいだけだ。
ふと漏らした儚い吐息を、バタバタと傘を叩く雨音がかき消した。こんな夜は、あの黒柴の子犬のことを思いだす。子供の頃、ほんの短い間だけそばにあった小さなぬくもり。
あの子はどうしているだろう。今もまだ、あの海が見える立派な家に暮らしているだろうか。優しい飼い主の女性のそばで、我が子のように愛されているだろうか。
「……寂しいな」
針のように細く地面を刺す雨を見つめて、ぽつりとこぼす。寂しかった。虚しかった。どうしようもなく、独りで生きていることが。独りで死んでいくことが。
いつしか一歩も足を動かす気にならなくなっていた。帰っても、どうせ誰もいない部屋が待っているだけだ。おかえりと言ってくれるあたたかな声も、笑顔も、なにもない。
多分きっと、すべては失くしてしまった夢の話だ。がらんどうになった心では、涙のひとつも流せない。
──みぃ
そのときふと、遠くからなにかが聞こえた気がして顔をあげた。
──みぃ……みぃ……
降りしきる雨のなか、か細くて切ない、小さな鳴き声が確かに聞こえる。
甲洋はその声を頼りに視線をやった。すぐ先にはゴミ捨て場がある。弱々しい鳴き声は、そこから聞こえているようだった。
スマホをスーツのポケットにねじこんで、ゴミ捨て場へと足を向ける。街灯を頼りに探してみると、ネットを被された小さな段ボール箱が、ポツンと一つだけ置かれているのを発見した。声はそこから聞こえてくる。
傘を肩に引っ掛けて、鞄は脇に挟み込み、甲洋はしゃがみ込むとネットを外して、箱を足元まで引き寄せた。蓋を開けて、目を見開く。そこにはふわふわの体毛に覆われた、茶トラの子猫の姿があった。
「みぃー、みぃー」
子猫は必死で声を上げながら、段ボールの壁面を両手でカリカリと引っ掻いている。呆然と見下ろす甲洋に、なにかを訴えかけているようだった。
「……お前、捨て猫か?」
戸惑いながらも手を伸ばし、そっと胸に抱きあげる。片手に収まってしまうくらい小さな子猫は、よく見るとしっぽの先が少しだけ丸くなっていた。まだ開いたばかりであろう瞳で、まっすぐに甲洋を見つめている。
ほのかな街灯の下、そのビー玉のような輝きに目を奪われた。とても綺麗だ。まるで色づいた銀杏並木のような、金色の瞳。どこかで、同じものを見たような──。
「……っ」
その瞬間、胸を激しく揺さぶられたような感覚に息を呑む。泉のように懐かしさが込み上げて、手のひらに感じる命のぬくもりに泣きたくなった。ずっと欠けていたものに、それはとてもよく似ている気がして。
鼻の先がツンと痛んで、視界がどんどんぼやけていった。泣くことすらできないでいたはずなのに。ついにこぼれ落ちた透明な雫が、子猫の鼻先にぽたりと落ちる。
「みゃ!」
子猫は驚いたようにぴくんっと身を震わせると、小さな身体をぐんと伸ばした。涙で濡れた自分の鼻を、甲洋の鼻にコツンとぶつける。何度かキスをするみたいにくっつけて、まるで泣かないでとでも言うかのように、甲高い声で鳴き続けた。
「みぃー、みぃー!」
──……よう……こう……よう……
その声に重なるようにして、遠くから別の声が入り交じる。
「みぃー、みぃー!」
──こう……よう……きて……
それはよく知る声だった。世界中の誰よりも、甲洋の胸を震わせる。柔らかくてあたたかな、大好きな『あの子』の声。
甲洋は子猫を抱きしめ、ふわふわの身体に頬ずりをしながら微笑んだ。雨が少しずつ弱まっていく。きっともうすぐ晴れるだろう。厚い雨雲の向こうには、綺麗な月が待っているから。
「わかってるよ。いま帰るから、そこにいて」
操──。
「もおー! 甲洋ぉ! 甲洋ってば! 起きてよぉ!」
急かす声に引っ張られ、甲洋はハッとしながら目を覚ました。頭はまだ半分ほどぬるい泥に浸かったようになっていて、すぐにはうまく機能しない。ぼんやりとした視線の先には、今年になって越してきたばかりの狭いワンルームの天井がある。
「やっと起きたぁ。甲洋ぜんぜん起きないんだもん! 息してないかと思ったじゃん!」
軽く混乱しながらさまよわせた視線の先では、操が困り顔で甲洋を見下ろしていた。
「……みさ、お?」
ベッドのそばに膝をつき、彼は長いことずっと呼びかけていたらしかった。ようやく甲洋が目を覚まし、心底安堵したように大きく息をついている。けれど、それは甲洋も同じだった。
「ッ、操……!」
「えっ、わ!?」
飛び起きた甲洋は、とっさに操を抱きしめた。突然のことに驚いて、先端がくるんと丸まったかぎしっぽを一回り大きく膨らませている。
「にゃ、にゃに!? どしたの急に!?」
「操……操……っ!」
「え、ちょっと? 甲洋、泣いてるの!?」
「操……みさ……っ」
「嘘、なんでぇ!? ど、どうしよう!? ねぇおれどうしたらいい!?」
操の耳はもはや髪と同化するくらい、下向きにペタリと落ちていた。やっと起きたと思ったら急に泣きだした甲洋に、パニックを起こしながら彼まで泣きそうになっている。
「やだよ甲洋、泣かないで……ねぇどうしちゃったの? 痛いよ、すごく……」
それは甲洋があまりにも強く掻き抱いているせいではない。甲洋が感じる痛みが、そのまま操の胸にも伝わっているからだ。ヒト型のイヌやネコには、人間の心を敏感に感じとる能力がある。
だからどうにか気持ちを静めようとするのだが、高ぶったまま一向に涙が止まらない。
「……ごめん、平気だから。少しだけ、このままでいさせて」
鼻をすすりながら小声で言うと、操はしぶしぶ「わかった」と言って頷いた。甲洋の背に両腕をまわし、彼なりに必死で泣き止ませようと優しく擦る。
その髪に鼻をうずめて、甲洋は震える息を吸い込んだ。陽だまりのような匂いがする。操の匂いだ。腕の中にすっぽりと収まってしまう身体は、あたたかくて柔らかい。胸の空洞が、ぴたりと埋まる。
(夢でよかった……)
生々しくて、思いだすだけで身がすくむ。あまりにも恐ろしい夢だった。
あれは操と出会うことのなかった、もう一人の自分の姿だ。このぬくもりを得ていなければ、今ごろ甲洋はまだあの小規模マンションに暮らしていただろう。いつしか夢さえ諦めて、からっぽの人生を孤独に歩むことになっていた。
(本当に……よかった……)
操がいない世界で生きるなんて、今の甲洋には考えられないことだった。他のなにを失くしても、この子だけは離したくない。
「こよ、もう平気になった……?」
少しずつ落ち着きを取り戻したのを感じ取ったのか、操がおずおずと声をあげた。甲洋は腕の力を少しだけ緩めると、わずかに隙間を作ってその顔を覗き込む。涙を浮かべた大きな瞳と、不安そうに噛み締められた下唇にふっと笑った。
「だいじょうぶ。もう平気だよ」
「怖い夢見たの?」
「うん。だから起こしてもらえて助かった。ありがとう、操」
操はホッとしながら笑うと、夢で見た子猫と同じ仕草でぐんと身体を伸ばし、まだほんのりと涙のあとが残る甲洋の頬に口づけた。
「よかった。また雨にならなくて」
「雨?」
意味が分からず小首を傾げた甲洋に、操は肩をすくめて「えへへ」と笑う。夢の中ではずっと雨が降っていたから、少しドキリとさせられた。けれど操が夢の内容を知っているはずがない。だから甲洋はゆるく微笑むだけで受け流す。彼が不思議なことを言うのは、今にはじまったことではないのだ。
「そういえば……」
ふと見やった窓からは、夕方の明かりが差していた。操は早い時間から公園に遊びに行っており、本当なら今ごろ甲洋が迎えに行っているはずだったのだが。しかし、彼はすでに帰宅している。
「操、お前まさか一人で家に帰ってきたのか?」
すると操は「違うよ」と言って首を左右に振った。
「一騎と総士が一緒に送ってくれたもん」
「そうか……悪いことしたな。俺が行くはずだったのに」
連休中は、ずっとバイトが入っていた。明けてようやく一日だけ休みをとったが、思っていた以上に疲れていたのかもしれない。操が遊んでいるあいだ、ほんの少し横になるだけのつもりが、いつの間にか深く眠り込んでいた。
「気にしないで! それより甲洋、いいものがあるよ!」
操は待ってましたとばかりにパッと目を輝かせ、甲洋の腕をグイグイ引くとベッドから引きずり下ろした。見ればテーブルの上に、真っ白の箱が置かれている。
「これは?」
あぐらをかきながらしげしげと見つめていると、操が箱に両手を添えて「じゃーん!」と言いながら上蓋を取り払った。
「!」
現れたのは、チョコレートのホールケーキだった。真っ赤なイチゴとチョコクリームが美しく円を描き、中央のプレートにはミミズのような文字で「おたんじょうびおめでとう」と書かれている。
「甲洋、誕生日おめでとう!」
操が満面の笑顔でパチパチと拍手をしながら言った。
「凄いでしょ! これ手作りなんだよ!」
とっさに言葉が出てこない。甲洋は目をまんまるにして、操とケーキを交互に見やる。
「一騎がね、こっそり教えてくれたんだ。もうすぐ甲洋の誕生日だぞって。でもおれ、誕生日ってしたことないからよく分かんなくて……そしたら総士が、ケーキを食べてお祝いする日だって教えてくれたんだ」
操は胸を突き出して、得意げに鼻の下をこすって見せる。
「だから今日は一騎のうちに行って、みんなで甲洋の誕生日ケーキを作ったんだよ!」
「操……」
ジン、と熱いものが込み上げて、甲洋はまた泣きたくなった。てっきりいつものように、総士と公園で遊んでいるものとばかり思っていたのに。
操の口ぶりからは、だいぶ前から計画していたことが伺い知れる。お喋りな彼が、よく今日まで黙っていられたものだ。きっと言いたくてウズウズしていたことだろう。だけど甲洋を驚かせたくて、ずっと我慢していたに違いない。
「うわっ、甲洋また泣いちゃった!」
「ッ、だって、こんな……こんなの、泣くだろ普通……」
さっきのアレで、涙腺はまだ緩んだままだった。うまく言葉が出ない代わりに、涙が溢れてしょうがない。手の甲で涙を拭う甲洋を、膝立ちの操が横からぎゅっと抱きしめる。よしよしと頭を撫でられ、小さな子供にでもされた気分だ。
たまらない気持ちになって、甲洋は操の腰に腕を回すと、あぐらをかいている足のあいだに横抱きにして座らせた。思いっきり閉じ込めるみたいにして抱きしめると、眉をハの字にした操が肩を揺らしてクスクス笑う。
「今日の甲洋、泣き虫だ」
涙で濡れた片頬にぴたりと手を添え、操は目を細めて微笑みながら、もう一度「おめでとう」と言った。
「操……」
「おれ、すごく嬉しいよ。甲洋が生まれてきたこと」
「ッ、うん……」
「すごくすごく、嬉しいんだ」
操が言う通り、今日の自分は泣き虫だ。呼吸が震えて、まともに返事が返せない。甲洋だって同じ気持ちだ。ずっと無意味だと思っていた誕生日が、初めて意味のある日だと思えた。この世界に生まれてきたことが、とても嬉しい。操と一緒に生きていることが、こんなにも。
足の間からスルリと伸びた長いしっぽが、ゆらりゆらりと大きな動作で揺れている。幸せを引っかけてくると言われるかぎしっぽ。操は甲洋にとって、幸福の形そのものだった。
「ありがとう、操」
操が蕩けそうな笑顔を浮かべる。ほんのり赤に染まった頬の丸みに、甲洋は思わずキスをした。すると今度は操が甲洋の首に両腕を回し、唇に思い切りキスされる。
子供みたいな拙いキスに、胸が甘く疼きだす。できればこのまま押し倒してしまいたかったが、操の
「ねぇ、ケーキ食べようよ!」
という無邪気な声に、残念ながらお預けを食らった。
だけど操と親友とその愛ネコが、気持ちを込めて作ってくれたケーキの味もとても気になる。どうせなら一緒にテーブルを囲めたらよかったけれど、きっと総士が気を利かせたのだろう。一緒に食べないのか? なんて言いながら目を丸くする一騎を引っ張り、帰っていく姿が目に浮かぶ。
「俺たちだけじゃ食べ切れないから。明日、一緒に二人の分を届けに行こう」
大きな耳ごと髪をくしゃりと撫でながら言うと、操が「うん!」と元気に返事した。その笑顔を見て、甲洋はふと思い立つ。
今年の冬には、操にも誕生日ケーキを贈ろうと。彼が生まれた日は分からない。けれど、出会った日のことは忘れない。11月の下旬。日付もちゃんと覚えている。
そうしたら、この子はどんな顔をするだろう。ケーキよりも甘く、クリームよりも蕩けた笑顔で、嬉しいと言って泣いてくれるだろうか。
そうなればいいと願いながら、まだずっと先にある遠い冬の日に、想いを馳せた。
ひとりの気持ち / 了
2021.05.07***HAPPY BIRTHDAY!
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雨音に気がついて、明け方ふと目を覚ます。
カーテンの隙間からこぼれ差す光には、ほのかに青みがかっていた。アラームが鳴るのは、まだもう少し先のはずだ。ずいぶん早くに目覚めてしまった。
起き抜けの頭は芯が重く痺れたようになっていて、身体と意識がいまいちうまく繋がらない。ぼうっとしながら天井を見上げ、甲洋は幾度かまばたきを繰り返す。
──夢を、見ていたような気がする。
長い長い夢を。怖いくらい幸せで、あたたかく満たされていた感覚が、胸の内側に残っている。だけど、肝心の内容はすっぽりと頭から抜け落ちていた。
明け方の夢なんて、だいたいそんなものだろう。曖昧な痕跡だけを残して、目覚めたときには消えている。
いっそ眠ったままでいればよかったと、ひどく落胆しながら身を起こす。
ベッドを抜けだし、すぐ隣のリビングへ足を運ぶと、甲洋は無意識に誰かを探すように視線を巡らせていた。L字のカウチソファと、テーブルと、テレビと、最低限の家具。見慣れた一人暮らしの一室が、なぜかやたらと広く感じる。
「……?」
響く雨音に言い知れぬ喪失感が込み上げて、訳も分からず顔をしかめた。
足りない。なにかが。抜け落ちてしまったみたいに。けれど、それがなにかは分からない。大切なことを忘れている気がするのに、思いだそうとしても欠片のひとつも浮かばなかった。あたたかな夢の名残りは消え失せ、心がぽっかりと空虚に染まる。
取り残されたような寂寥に、甲洋はただ立ち尽くすことしかできなかった。
*
それからずっと、得体の知れない喪失感は甲洋の中で膨らみ続けた。
次の日も、またその次の日も。大学へ行き、バイトをして、誰もいない家に帰る。繰り返す日々は、まるでモノクロの無声映画を見ているように味気ない。
気がつけば視線は誰かを探してさまよっている。なにを求めているのかも、なにが欠けているのかすらも、分からないまま。
5月の初め。その日も天気は雨降りだった。
大型連休に突入しても、普段と変わらずバイトはある。一張羅のスーツに身を包み、甲洋はいつものように塾講師のアルバイトに専念していた。
パーテーションで仕切られた空間には、甲洋と受け持ちの女子生徒が一人いるだけだ。
切りのいいところで腕時計を確認すれば、残り時間はあと十分。なにか質問はないかと問いかけると、セーラー服を着た黒髪の女子生徒は身体をわずかにこちらに向ける。他のブースに迷惑がかからないよう、彼女は静かに口を開いた。
「ねぇ、先生」
「なに?」
「先生って、もうすぐ誕生日だよね?」
制服の赤いスカーフを指先でいじりながら、少女がソワソワと見上げてくる。勉強とは一切関係のない内容だったが、残り時間のちょっとした雑談は普段からよくあることだ。
「そうだけど。よく知ってるな」
「従兄弟が先生と同じ大学に通ってるの。それで、たまたま聞いて……」
その従兄弟とやらが甲洋の見知った人物かはさておき、たまたま聞いたという点には少し無理があるように思えた。証拠に彼女は落ち着かない様子で目を泳がせている。
思いがけないところまで自分の情報が知れ渡っていることは、甲洋にとってよくある話だ。とりわけ女性の間で、それらは共有されている。いちいち追及していたら切りがない。
「それでね……ちょっと早いけど、先生にプレゼントがあるの」
「プレゼント?」
「私、誕生日の日は塾がないから。渡すなら、今日しかないと思って」
少女は机の脇に手を伸ばし、鞄を手にすると膝の上に乗せた。いそいそと中から取り出したのは、透明なラッピング袋に綺麗に包まれたカップケーキだった。
二つ並んだケーキはチョコとプレーンで、それぞれナッツやドライフルーツがたっぷりトッピングされている。袋の口を固定するワイヤータイには、赤いサテンリボンがついていた。
「これ、作ってみたの。味はあんまり自信ないけど……」
「わざわざ俺のために?」
頷いた少女が、真っ赤な顔をしながら両手でカップケーキの包みを差しだしてきた。受け取ってくれるかどうか、不安に駆られているのだろう。キュッと身体を固くしている。
少し迷ったが、断る理由は特になかった。受け取る瞬間、細い指先と甲洋の手がかすかに触れる。彼女はいっそう頬を赤くして、恥ずかしそうにうつむきながら手を引っ込めた。
「ありがとう。大事に食べるよ」
微笑んだ甲洋に、顔を上げた少女は潤んだ瞳で眩しいほどの笑顔を浮かべた。
その綺麗な黒髪に、甲洋はふと目を細める。胸の奥底から、じわりと呼び覚まされる思い。今の今まで、どうして忘れていたんだろう。
──甲洋には、ずっと思い描いていた夢があった。
それは黒髪の綺麗な女性と運命的な恋をして、結婚したら海が見える高台に一戸建てを購入し、そこで幸せな家庭を築くこと。子宝にも恵まれて、庭では黒柴の元気な子犬を飼いたいと夢見ていた。
その未来に想いを馳せているあいだは、孤独であることを忘れていられた。甲洋にとって、大きな拠り所であったはずなのに。まるで最初からなかったかのように、忘れ去っていた。
彼女の髪に気をとめなければ、ずっと忘れたままでいたかもしれない。けれど何よりも甲洋が衝撃を受けたのは、思いだしたところでまるで心が動かないことだった。
「先生、またね」
いまだ頬を赤らめたまま、笑顔の女子生徒が小さく手を振って帰っていく。
その背を見届けると、甲洋は手の中にあるカップケーキの包みに視線を落とした。ひたむきな彼女の想いが、手のひらを通して伝わってくる。
だけど、甲洋の胸には冷たい空洞があるだけだ。剥き出しの孤独が、雨ざらしになっている。虚しかった。今日もまた、あの誰もいない部屋に帰らなくてはいけないことが。
*
「……今日も雨か」
アラームが鳴るよりも先に目を覚まし、遠くから聞こえる雨音にうんざりとした息を漏らした。
手探りでスマホを引き寄せると、覗き込んだディスプレイには数件のメッセージを知らせる表示がある。それらはすべて、友人たちからの誕生日を祝うメッセージだった。
『誕生日おめでとう!』
思い思いに寄せられたあたたかなメッセージに、ふと頬が緩みかける。だけど上手く笑えずに、ただ口元が不格好に引き攣るだけで終わってしまった。
「誕生日、か」
友人らの気持ちは嬉しいと感じているし、ありがたいとも思っている。けれどこうして祝われても、甲洋には今日という日に大した思い入れがない。連休が明け、今日から普通に学校があるし、バイトもある。同じことの繰り返し。空っぽの一日が始まるだけだ。
胸の空洞は、いつまで経っても埋まりそうにない。
*
一日を無難にやり過ごし、夜になっても雨は降り続いていた。
帰り道でふと足を止めてスマホを見ると、また数件のメッセージが来ていることに気がついた。どれも友人からで、誕生日を祝うもの。当たり前のように、両親からの連絡は一切ない。毎年そうだ。
あえて無視をしているわけではない。きっと彼らは、今日がなんの日であるかすら意識せずにいるだろう。期待するだけ、虚しいだけだ。
ふと漏らした儚い吐息を、バタバタと傘を叩く雨音がかき消した。こんな夜は、あの黒柴の子犬のことを思いだす。子供の頃、ほんの短い間だけそばにあった小さなぬくもり。
あの子はどうしているだろう。今もまだ、あの海が見える立派な家に暮らしているだろうか。優しい飼い主の女性のそばで、我が子のように愛されているだろうか。
「……寂しいな」
針のように細く地面を刺す雨を見つめて、ぽつりとこぼす。寂しかった。虚しかった。どうしようもなく、独りで生きていることが。独りで死んでいくことが。
いつしか一歩も足を動かす気にならなくなっていた。帰っても、どうせ誰もいない部屋が待っているだけだ。おかえりと言ってくれるあたたかな声も、笑顔も、なにもない。
多分きっと、すべては失くしてしまった夢の話だ。がらんどうになった心では、涙のひとつも流せない。
──みぃ
そのときふと、遠くからなにかが聞こえた気がして顔をあげた。
──みぃ……みぃ……
降りしきる雨のなか、か細くて切ない、小さな鳴き声が確かに聞こえる。
甲洋はその声を頼りに視線をやった。すぐ先にはゴミ捨て場がある。弱々しい鳴き声は、そこから聞こえているようだった。
スマホをスーツのポケットにねじこんで、ゴミ捨て場へと足を向ける。街灯を頼りに探してみると、ネットを被された小さな段ボール箱が、ポツンと一つだけ置かれているのを発見した。声はそこから聞こえてくる。
傘を肩に引っ掛けて、鞄は脇に挟み込み、甲洋はしゃがみ込むとネットを外して、箱を足元まで引き寄せた。蓋を開けて、目を見開く。そこにはふわふわの体毛に覆われた、茶トラの子猫の姿があった。
「みぃー、みぃー」
子猫は必死で声を上げながら、段ボールの壁面を両手でカリカリと引っ掻いている。呆然と見下ろす甲洋に、なにかを訴えかけているようだった。
「……お前、捨て猫か?」
戸惑いながらも手を伸ばし、そっと胸に抱きあげる。片手に収まってしまうくらい小さな子猫は、よく見るとしっぽの先が少しだけ丸くなっていた。まだ開いたばかりであろう瞳で、まっすぐに甲洋を見つめている。
ほのかな街灯の下、そのビー玉のような輝きに目を奪われた。とても綺麗だ。まるで色づいた銀杏並木のような、金色の瞳。どこかで、同じものを見たような──。
「……っ」
その瞬間、胸を激しく揺さぶられたような感覚に息を呑む。泉のように懐かしさが込み上げて、手のひらに感じる命のぬくもりに泣きたくなった。ずっと欠けていたものに、それはとてもよく似ている気がして。
鼻の先がツンと痛んで、視界がどんどんぼやけていった。泣くことすらできないでいたはずなのに。ついにこぼれ落ちた透明な雫が、子猫の鼻先にぽたりと落ちる。
「みゃ!」
子猫は驚いたようにぴくんっと身を震わせると、小さな身体をぐんと伸ばした。涙で濡れた自分の鼻を、甲洋の鼻にコツンとぶつける。何度かキスをするみたいにくっつけて、まるで泣かないでとでも言うかのように、甲高い声で鳴き続けた。
「みぃー、みぃー!」
──……よう……こう……よう……
その声に重なるようにして、遠くから別の声が入り交じる。
「みぃー、みぃー!」
──こう……よう……きて……
それはよく知る声だった。世界中の誰よりも、甲洋の胸を震わせる。柔らかくてあたたかな、大好きな『あの子』の声。
甲洋は子猫を抱きしめ、ふわふわの身体に頬ずりをしながら微笑んだ。雨が少しずつ弱まっていく。きっともうすぐ晴れるだろう。厚い雨雲の向こうには、綺麗な月が待っているから。
「わかってるよ。いま帰るから、そこにいて」
操──。
「もおー! 甲洋ぉ! 甲洋ってば! 起きてよぉ!」
急かす声に引っ張られ、甲洋はハッとしながら目を覚ました。頭はまだ半分ほどぬるい泥に浸かったようになっていて、すぐにはうまく機能しない。ぼんやりとした視線の先には、今年になって越してきたばかりの狭いワンルームの天井がある。
「やっと起きたぁ。甲洋ぜんぜん起きないんだもん! 息してないかと思ったじゃん!」
軽く混乱しながらさまよわせた視線の先では、操が困り顔で甲洋を見下ろしていた。
「……みさ、お?」
ベッドのそばに膝をつき、彼は長いことずっと呼びかけていたらしかった。ようやく甲洋が目を覚まし、心底安堵したように大きく息をついている。けれど、それは甲洋も同じだった。
「ッ、操……!」
「えっ、わ!?」
飛び起きた甲洋は、とっさに操を抱きしめた。突然のことに驚いて、先端がくるんと丸まったかぎしっぽを一回り大きく膨らませている。
「にゃ、にゃに!? どしたの急に!?」
「操……操……っ!」
「え、ちょっと? 甲洋、泣いてるの!?」
「操……みさ……っ」
「嘘、なんでぇ!? ど、どうしよう!? ねぇおれどうしたらいい!?」
操の耳はもはや髪と同化するくらい、下向きにペタリと落ちていた。やっと起きたと思ったら急に泣きだした甲洋に、パニックを起こしながら彼まで泣きそうになっている。
「やだよ甲洋、泣かないで……ねぇどうしちゃったの? 痛いよ、すごく……」
それは甲洋があまりにも強く掻き抱いているせいではない。甲洋が感じる痛みが、そのまま操の胸にも伝わっているからだ。ヒト型のイヌやネコには、人間の心を敏感に感じとる能力がある。
だからどうにか気持ちを静めようとするのだが、高ぶったまま一向に涙が止まらない。
「……ごめん、平気だから。少しだけ、このままでいさせて」
鼻をすすりながら小声で言うと、操はしぶしぶ「わかった」と言って頷いた。甲洋の背に両腕をまわし、彼なりに必死で泣き止ませようと優しく擦る。
その髪に鼻をうずめて、甲洋は震える息を吸い込んだ。陽だまりのような匂いがする。操の匂いだ。腕の中にすっぽりと収まってしまう身体は、あたたかくて柔らかい。胸の空洞が、ぴたりと埋まる。
(夢でよかった……)
生々しくて、思いだすだけで身がすくむ。あまりにも恐ろしい夢だった。
あれは操と出会うことのなかった、もう一人の自分の姿だ。このぬくもりを得ていなければ、今ごろ甲洋はまだあの小規模マンションに暮らしていただろう。いつしか夢さえ諦めて、からっぽの人生を孤独に歩むことになっていた。
(本当に……よかった……)
操がいない世界で生きるなんて、今の甲洋には考えられないことだった。他のなにを失くしても、この子だけは離したくない。
「こよ、もう平気になった……?」
少しずつ落ち着きを取り戻したのを感じ取ったのか、操がおずおずと声をあげた。甲洋は腕の力を少しだけ緩めると、わずかに隙間を作ってその顔を覗き込む。涙を浮かべた大きな瞳と、不安そうに噛み締められた下唇にふっと笑った。
「だいじょうぶ。もう平気だよ」
「怖い夢見たの?」
「うん。だから起こしてもらえて助かった。ありがとう、操」
操はホッとしながら笑うと、夢で見た子猫と同じ仕草でぐんと身体を伸ばし、まだほんのりと涙のあとが残る甲洋の頬に口づけた。
「よかった。また雨にならなくて」
「雨?」
意味が分からず小首を傾げた甲洋に、操は肩をすくめて「えへへ」と笑う。夢の中ではずっと雨が降っていたから、少しドキリとさせられた。けれど操が夢の内容を知っているはずがない。だから甲洋はゆるく微笑むだけで受け流す。彼が不思議なことを言うのは、今にはじまったことではないのだ。
「そういえば……」
ふと見やった窓からは、夕方の明かりが差していた。操は早い時間から公園に遊びに行っており、本当なら今ごろ甲洋が迎えに行っているはずだったのだが。しかし、彼はすでに帰宅している。
「操、お前まさか一人で家に帰ってきたのか?」
すると操は「違うよ」と言って首を左右に振った。
「一騎と総士が一緒に送ってくれたもん」
「そうか……悪いことしたな。俺が行くはずだったのに」
連休中は、ずっとバイトが入っていた。明けてようやく一日だけ休みをとったが、思っていた以上に疲れていたのかもしれない。操が遊んでいるあいだ、ほんの少し横になるだけのつもりが、いつの間にか深く眠り込んでいた。
「気にしないで! それより甲洋、いいものがあるよ!」
操は待ってましたとばかりにパッと目を輝かせ、甲洋の腕をグイグイ引くとベッドから引きずり下ろした。見ればテーブルの上に、真っ白の箱が置かれている。
「これは?」
あぐらをかきながらしげしげと見つめていると、操が箱に両手を添えて「じゃーん!」と言いながら上蓋を取り払った。
「!」
現れたのは、チョコレートのホールケーキだった。真っ赤なイチゴとチョコクリームが美しく円を描き、中央のプレートにはミミズのような文字で「おたんじょうびおめでとう」と書かれている。
「甲洋、誕生日おめでとう!」
操が満面の笑顔でパチパチと拍手をしながら言った。
「凄いでしょ! これ手作りなんだよ!」
とっさに言葉が出てこない。甲洋は目をまんまるにして、操とケーキを交互に見やる。
「一騎がね、こっそり教えてくれたんだ。もうすぐ甲洋の誕生日だぞって。でもおれ、誕生日ってしたことないからよく分かんなくて……そしたら総士が、ケーキを食べてお祝いする日だって教えてくれたんだ」
操は胸を突き出して、得意げに鼻の下をこすって見せる。
「だから今日は一騎のうちに行って、みんなで甲洋の誕生日ケーキを作ったんだよ!」
「操……」
ジン、と熱いものが込み上げて、甲洋はまた泣きたくなった。てっきりいつものように、総士と公園で遊んでいるものとばかり思っていたのに。
操の口ぶりからは、だいぶ前から計画していたことが伺い知れる。お喋りな彼が、よく今日まで黙っていられたものだ。きっと言いたくてウズウズしていたことだろう。だけど甲洋を驚かせたくて、ずっと我慢していたに違いない。
「うわっ、甲洋また泣いちゃった!」
「ッ、だって、こんな……こんなの、泣くだろ普通……」
さっきのアレで、涙腺はまだ緩んだままだった。うまく言葉が出ない代わりに、涙が溢れてしょうがない。手の甲で涙を拭う甲洋を、膝立ちの操が横からぎゅっと抱きしめる。よしよしと頭を撫でられ、小さな子供にでもされた気分だ。
たまらない気持ちになって、甲洋は操の腰に腕を回すと、あぐらをかいている足のあいだに横抱きにして座らせた。思いっきり閉じ込めるみたいにして抱きしめると、眉をハの字にした操が肩を揺らしてクスクス笑う。
「今日の甲洋、泣き虫だ」
涙で濡れた片頬にぴたりと手を添え、操は目を細めて微笑みながら、もう一度「おめでとう」と言った。
「操……」
「おれ、すごく嬉しいよ。甲洋が生まれてきたこと」
「ッ、うん……」
「すごくすごく、嬉しいんだ」
操が言う通り、今日の自分は泣き虫だ。呼吸が震えて、まともに返事が返せない。甲洋だって同じ気持ちだ。ずっと無意味だと思っていた誕生日が、初めて意味のある日だと思えた。この世界に生まれてきたことが、とても嬉しい。操と一緒に生きていることが、こんなにも。
足の間からスルリと伸びた長いしっぽが、ゆらりゆらりと大きな動作で揺れている。幸せを引っかけてくると言われるかぎしっぽ。操は甲洋にとって、幸福の形そのものだった。
「ありがとう、操」
操が蕩けそうな笑顔を浮かべる。ほんのり赤に染まった頬の丸みに、甲洋は思わずキスをした。すると今度は操が甲洋の首に両腕を回し、唇に思い切りキスされる。
子供みたいな拙いキスに、胸が甘く疼きだす。できればこのまま押し倒してしまいたかったが、操の
「ねぇ、ケーキ食べようよ!」
という無邪気な声に、残念ながらお預けを食らった。
だけど操と親友とその愛ネコが、気持ちを込めて作ってくれたケーキの味もとても気になる。どうせなら一緒にテーブルを囲めたらよかったけれど、きっと総士が気を利かせたのだろう。一緒に食べないのか? なんて言いながら目を丸くする一騎を引っ張り、帰っていく姿が目に浮かぶ。
「俺たちだけじゃ食べ切れないから。明日、一緒に二人の分を届けに行こう」
大きな耳ごと髪をくしゃりと撫でながら言うと、操が「うん!」と元気に返事した。その笑顔を見て、甲洋はふと思い立つ。
今年の冬には、操にも誕生日ケーキを贈ろうと。彼が生まれた日は分からない。けれど、出会った日のことは忘れない。11月の下旬。日付もちゃんと覚えている。
そうしたら、この子はどんな顔をするだろう。ケーキよりも甘く、クリームよりも蕩けた笑顔で、嬉しいと言って泣いてくれるだろうか。
そうなればいいと願いながら、まだずっと先にある遠い冬の日に、想いを馳せた。
ひとりの気持ち / 了
2021.05.07***HAPPY BIRTHDAY!
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08
いつの間にか降りだしていた雨音が、眠りに落ちていた意識を揺り動かした。
サラサラという音を遠くに聞きながら、ゆっくりと目を開ける。安物のカーテンの隙間から差し込んでいるのは、薄ぼんやりとした朝の光だった。
甲洋はほんのりと白く染まる天井を見つめ、ぼうっとしながら瞬きをする。頬のあたりがくすぐったい。柔らかなものが触れていることに気づいて視線を動かせば、操が甲洋の腕の中で眠っていた。
皮膚をくすぐっていたのは操の尖った耳の先だった。腕というよりはほとんど肩に頭を乗せて、甲洋にしがみつきながらすぅすぅと寝息を立てている。胸の上に置かれている小さな拳が、軽く握ったり緩めたりというあの愛らしい動作を見せていた。
赤ん坊だった頃の夢でも見ているのだろうか。その無防備に甘える仕草にふと笑みを溢れさせ、甲洋は白い手の甲に自分の手をそっとかぶせた。
「ん」
ピクピクと蝶がはためくような動きで耳が跳ね、操が小さな声を漏らしながら目を覚ました。上向けられた視線と目が合う。操はまだ半分眠りの中にいるような、とろりとした表情を浮かべていた。
「ごめん、起こしちゃったな」
「うぅん。おはよ、こうよ」
「おはよう」
腕の中で、操がもぞもぞと芋虫のように身じろいだ。甲洋の上に半身を乗り上げるような形で、顔を近づけて鼻に鼻を擦りつけてくる。だんだんそれだけでは足りなくなって、唇にも何度も口づけの雨が落とされた。
小鳥が啄むような可愛いキスを受け止めながら、甲洋は柔らかな亜麻色の髪に優しく触れた。そのまま耳に指先を滑らせて、ほんのりと桃色を帯びた内側を親指でくすぐる。肩をすくめて、操が笑った。
なにも変わらない朝だなと、甲洋は思った。操はやっぱり幼くて、子ネコのような仕草で甘えてくる。だけど普段と違うのは、お互いが裸で同じベッドにいるということ。操の肩や首筋に、花びらを散らしたような鬱血のあとがうっすら残っているということだった。
(うわ……)
昨夜の出来事が一気にフラッシュバックして、甲洋は小さく息を呑みながら赤面する。今の今まで、やけに落ち着いていられた自分が不思議でしかたなかった。
甲洋は昨夜、操と生まれてはじめてセックスをした。朝方まで何度も、しつこいくらい繰り返し。ひたすら優しくしようと思っていたはずなのに、その意思は長くは続かなかった。操の声や反応に幾度となく煽られて、激情に身を任せてしまった。
「操、身体は? その、平気か……?」
両肩を掴んで軽く引き剥がすと、気分よくキスをしていた操はむずがるような呻きをあげて不満げに甲洋を見た。
その瞳は見慣れたまん丸の瞳孔をしている。ずっと茹だったように熱を帯びていた赤い顔も、ほんのり頬が淡桃に染まっているだけの、いつもの彼に戻っていた。
「……終わったのか?」
「なにが?」
「発情期だよ。説明しただろ?」
あの状態でいくら説明したところで、まともに頭に入っていなかったらしい。無理もないと思いながら、今はほっと安堵の息をつく。
とんだ荒治療になってしまったが、操はどうにか発情期を越えたようだった。
よかったと、心からそう思う。だけど。
(本当によかったのか……?)
もし甲洋のタガが外れてしまわなければ、きっと今もまだあの状態は続いていただろう。操にとっても甲洋にとっても、ただ辛いだけの時間が引き伸ばされていた。
それでも一夜明けて冷静になってみると、これで本当によかったのだろうかという葛藤が、胸の奥底に未だ根を残していることに気がついた。
丸みを帯びていたはずの操の頬は、心なしか削げてしまったようにも見える。そこにはハッキリと疲労が浮かび上がっていた。
「……ごめん」
甲洋が越えてしまったのは、この子の前の飼い主ですら越えなかった一線だ。
発情期の影響を受け、昨夜までの操の意識が正常だったとは言い難い。甲洋は流される体で、そこにつけ込んだも同然だった。
そのことを、操はどう思っているのだろう。ただ優しいだけの飼い主でいられなかった自分のことを、この子は今、どう感じているのだろうか。
「なんで謝るの?」
目を逸らす甲洋に、操はキョトンとしながら首を傾げる。
「なんでって……」
「またぐるぐるしてるんだね」
性懲りもなく。そんな甲洋のことを、しょうがないなと言わんばかりに操は笑う。
「甲洋、起こして。なんかね、足とか腰とか、うまく力が入らない」
甲洋は華奢な肩を抱きこむと自身も一緒に半身を起こした。操は腕のなかでホッと息をつき、甲洋の肩に縋りながら傷ついた唇の端にキスをする。痛みはない。血も止まっているし、思ったほど目立つ傷でもなさそうだった。
「おれこそごめんね。痛かったでしょ?」
「平気だよ。気にしないで」
「うん……でも、ごめんね」
しゅんと耳を寝かせながら、操はまた何度も傷口にキスをした。ただおとなしくされるがままでいると、丸い瞳が甲洋の顔を覗き込んでくる。なに? と視線だけで問えば、彼はふにゃりと砂糖菓子が蕩けるような笑みを浮かべた。
「キスしても、いつもみたいに駄目って言わなくなったね、甲洋」
嬉しいと言って、操は甲洋の頬に額をグリグリと擦りつけてくる。そのまま顔中にちゅ、ちゅ、と唇を押しつけてきた。操は今にも鼻歌を歌い出しそうなほどご機嫌だ。先端がくるりと丸まったかぎしっぽが、ピンと垂直に立っている。
繰り返される熱烈な愛情表現を受け止めながら、急に気が抜けていくのを感じた。この子はなにも気にしちゃいないのだと、甲洋は思う。深く考えてすらいないのかもしれない。
(なんで悩んでたんだっけ……)
虚脱にも似た心境のなか、ふいに訪れたのは一気に霧が晴れていくような感覚だった。胸の奥底に絡みついていたものがスルスルと解けて、心がクリアになっていく。
(ああ、そうか)
甲洋は操を抱いたことを、ひとつも後悔していない自分がいることに、ようやく気がついた。あの飼い主の男と同じところまで堕ちてしまったとも、これっぽっちも思っていない。思っていないのにぐるぐると悩んでいたのは、自分が臆病で面倒くさい男だからなのだ。
この子にどう思われているのかだけを気にかけながら、そのくせすっかり彼氏気取りで、当たり前の顔をしてキスを受け止めている。
(ただの開き直り、かな)
そんな自分を存外あっさり受け止めて、甲洋は苦笑した。
ネコだとかヒトだとか、雄だからとか、どうしてそんなものに囚われていたのか分からなくなってしまうくらい、甲洋は操のことが好きで好きでしかたない。求めていたし、求められたから、セックスをした。それはとても自然なことで、なにも間違っちゃいないのだ。
甲洋は操を抱きすくめ、少し強引に、奪うようなキスをした。ふいをつかれた操は目を見開いて、耳としっぽをピョンと跳ねさせている。だけどすぐに嬉しそうに甲洋の首に両腕を絡みつかせた。
何度も何度も、互いにキスを繰り返す。それは徐々に深くなり、小さな水音が響き渡るまでになっていく。熱を持つ唇を吸い上げながら、このままではまた止まらなくなってしまうような気がした。
「ぁ」
どうしようかと迷っていると、操が微かな声をあげる。彼はふっと窓の方を見やり、真っ直ぐに立てた耳をピクピクと小さく動かした。
「雨、やんだね」
サラサラと静かに響き渡っていた雨音が、いつの間にか消えていた。
いつかも聞いたセリフを漏らす横顔が、さっきよりも明るくなった朝の光に照らされている。綺麗だなと、甲洋は思った。少しだけ、ほんの少しだけ、その横顔が大人びて見えて、少しだけ、それを寂しいと感じる。
だけど次の瞬間『きゅうぅ』という音がして、ほのかに覚えた寂寥感はどこか遠くに四散した。操の腹が鳴ったのだ。彼は甲洋を見上げ、耳と眉を同じ角度に下向けた。
「甲洋」
「うん」
「お腹減った……」
潤んだ瞳の情けない表情に、甲洋は思わず小さく吹き出した。恋人の顔から、愛ネコを溺愛する飼い主の顔に、一気に引き戻されたような気がしてしまう。
結局のところ操は操だし、甲洋は甲洋だ。ただそこに、新しい関係性が産声をあげただけ。それはこれからゆっくりと時間をかけて、この子と一緒に死ぬまで育んでいきたいと思える尊いものだ。
「わかった。今なにか作るから」
「わーいやったー!」
ようやく戻ってきた食いしん坊の無邪気な笑顔に、甲洋は瞳を細めて微笑んだ。
まずはシャワーを浴びたほうがいいような気もしたけれど、今は操の腹の虫を慰めることを優先させる。冷蔵庫に入っている食材を頭の中にひとつひとつ思い浮かべながら、ベッドを抜けだした。
(ああ、そうだ)
こないだよりも大きめに刻んだピーマンを入れて、炒飯でも作ろうか。ほんの少しだけ大人になった──かもしれない操は、どんな顔をするだろう。早く反応が見てみたい。
浮き立つ感情。高鳴る鼓動。その正体は、いつかも聞いた祝福の鐘の音に似ている。甲洋のなかに、もう躊躇う気持ちは存在しない。
しっぽの気持ち/了
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いつの間にか降りだしていた雨音が、眠りに落ちていた意識を揺り動かした。
サラサラという音を遠くに聞きながら、ゆっくりと目を開ける。安物のカーテンの隙間から差し込んでいるのは、薄ぼんやりとした朝の光だった。
甲洋はほんのりと白く染まる天井を見つめ、ぼうっとしながら瞬きをする。頬のあたりがくすぐったい。柔らかなものが触れていることに気づいて視線を動かせば、操が甲洋の腕の中で眠っていた。
皮膚をくすぐっていたのは操の尖った耳の先だった。腕というよりはほとんど肩に頭を乗せて、甲洋にしがみつきながらすぅすぅと寝息を立てている。胸の上に置かれている小さな拳が、軽く握ったり緩めたりというあの愛らしい動作を見せていた。
赤ん坊だった頃の夢でも見ているのだろうか。その無防備に甘える仕草にふと笑みを溢れさせ、甲洋は白い手の甲に自分の手をそっとかぶせた。
「ん」
ピクピクと蝶がはためくような動きで耳が跳ね、操が小さな声を漏らしながら目を覚ました。上向けられた視線と目が合う。操はまだ半分眠りの中にいるような、とろりとした表情を浮かべていた。
「ごめん、起こしちゃったな」
「うぅん。おはよ、こうよ」
「おはよう」
腕の中で、操がもぞもぞと芋虫のように身じろいだ。甲洋の上に半身を乗り上げるような形で、顔を近づけて鼻に鼻を擦りつけてくる。だんだんそれだけでは足りなくなって、唇にも何度も口づけの雨が落とされた。
小鳥が啄むような可愛いキスを受け止めながら、甲洋は柔らかな亜麻色の髪に優しく触れた。そのまま耳に指先を滑らせて、ほんのりと桃色を帯びた内側を親指でくすぐる。肩をすくめて、操が笑った。
なにも変わらない朝だなと、甲洋は思った。操はやっぱり幼くて、子ネコのような仕草で甘えてくる。だけど普段と違うのは、お互いが裸で同じベッドにいるということ。操の肩や首筋に、花びらを散らしたような鬱血のあとがうっすら残っているということだった。
(うわ……)
昨夜の出来事が一気にフラッシュバックして、甲洋は小さく息を呑みながら赤面する。今の今まで、やけに落ち着いていられた自分が不思議でしかたなかった。
甲洋は昨夜、操と生まれてはじめてセックスをした。朝方まで何度も、しつこいくらい繰り返し。ひたすら優しくしようと思っていたはずなのに、その意思は長くは続かなかった。操の声や反応に幾度となく煽られて、激情に身を任せてしまった。
「操、身体は? その、平気か……?」
両肩を掴んで軽く引き剥がすと、気分よくキスをしていた操はむずがるような呻きをあげて不満げに甲洋を見た。
その瞳は見慣れたまん丸の瞳孔をしている。ずっと茹だったように熱を帯びていた赤い顔も、ほんのり頬が淡桃に染まっているだけの、いつもの彼に戻っていた。
「……終わったのか?」
「なにが?」
「発情期だよ。説明しただろ?」
あの状態でいくら説明したところで、まともに頭に入っていなかったらしい。無理もないと思いながら、今はほっと安堵の息をつく。
とんだ荒治療になってしまったが、操はどうにか発情期を越えたようだった。
よかったと、心からそう思う。だけど。
(本当によかったのか……?)
もし甲洋のタガが外れてしまわなければ、きっと今もまだあの状態は続いていただろう。操にとっても甲洋にとっても、ただ辛いだけの時間が引き伸ばされていた。
それでも一夜明けて冷静になってみると、これで本当によかったのだろうかという葛藤が、胸の奥底に未だ根を残していることに気がついた。
丸みを帯びていたはずの操の頬は、心なしか削げてしまったようにも見える。そこにはハッキリと疲労が浮かび上がっていた。
「……ごめん」
甲洋が越えてしまったのは、この子の前の飼い主ですら越えなかった一線だ。
発情期の影響を受け、昨夜までの操の意識が正常だったとは言い難い。甲洋は流される体で、そこにつけ込んだも同然だった。
そのことを、操はどう思っているのだろう。ただ優しいだけの飼い主でいられなかった自分のことを、この子は今、どう感じているのだろうか。
「なんで謝るの?」
目を逸らす甲洋に、操はキョトンとしながら首を傾げる。
「なんでって……」
「またぐるぐるしてるんだね」
性懲りもなく。そんな甲洋のことを、しょうがないなと言わんばかりに操は笑う。
「甲洋、起こして。なんかね、足とか腰とか、うまく力が入らない」
甲洋は華奢な肩を抱きこむと自身も一緒に半身を起こした。操は腕のなかでホッと息をつき、甲洋の肩に縋りながら傷ついた唇の端にキスをする。痛みはない。血も止まっているし、思ったほど目立つ傷でもなさそうだった。
「おれこそごめんね。痛かったでしょ?」
「平気だよ。気にしないで」
「うん……でも、ごめんね」
しゅんと耳を寝かせながら、操はまた何度も傷口にキスをした。ただおとなしくされるがままでいると、丸い瞳が甲洋の顔を覗き込んでくる。なに? と視線だけで問えば、彼はふにゃりと砂糖菓子が蕩けるような笑みを浮かべた。
「キスしても、いつもみたいに駄目って言わなくなったね、甲洋」
嬉しいと言って、操は甲洋の頬に額をグリグリと擦りつけてくる。そのまま顔中にちゅ、ちゅ、と唇を押しつけてきた。操は今にも鼻歌を歌い出しそうなほどご機嫌だ。先端がくるりと丸まったかぎしっぽが、ピンと垂直に立っている。
繰り返される熱烈な愛情表現を受け止めながら、急に気が抜けていくのを感じた。この子はなにも気にしちゃいないのだと、甲洋は思う。深く考えてすらいないのかもしれない。
(なんで悩んでたんだっけ……)
虚脱にも似た心境のなか、ふいに訪れたのは一気に霧が晴れていくような感覚だった。胸の奥底に絡みついていたものがスルスルと解けて、心がクリアになっていく。
(ああ、そうか)
甲洋は操を抱いたことを、ひとつも後悔していない自分がいることに、ようやく気がついた。あの飼い主の男と同じところまで堕ちてしまったとも、これっぽっちも思っていない。思っていないのにぐるぐると悩んでいたのは、自分が臆病で面倒くさい男だからなのだ。
この子にどう思われているのかだけを気にかけながら、そのくせすっかり彼氏気取りで、当たり前の顔をしてキスを受け止めている。
(ただの開き直り、かな)
そんな自分を存外あっさり受け止めて、甲洋は苦笑した。
ネコだとかヒトだとか、雄だからとか、どうしてそんなものに囚われていたのか分からなくなってしまうくらい、甲洋は操のことが好きで好きでしかたない。求めていたし、求められたから、セックスをした。それはとても自然なことで、なにも間違っちゃいないのだ。
甲洋は操を抱きすくめ、少し強引に、奪うようなキスをした。ふいをつかれた操は目を見開いて、耳としっぽをピョンと跳ねさせている。だけどすぐに嬉しそうに甲洋の首に両腕を絡みつかせた。
何度も何度も、互いにキスを繰り返す。それは徐々に深くなり、小さな水音が響き渡るまでになっていく。熱を持つ唇を吸い上げながら、このままではまた止まらなくなってしまうような気がした。
「ぁ」
どうしようかと迷っていると、操が微かな声をあげる。彼はふっと窓の方を見やり、真っ直ぐに立てた耳をピクピクと小さく動かした。
「雨、やんだね」
サラサラと静かに響き渡っていた雨音が、いつの間にか消えていた。
いつかも聞いたセリフを漏らす横顔が、さっきよりも明るくなった朝の光に照らされている。綺麗だなと、甲洋は思った。少しだけ、ほんの少しだけ、その横顔が大人びて見えて、少しだけ、それを寂しいと感じる。
だけど次の瞬間『きゅうぅ』という音がして、ほのかに覚えた寂寥感はどこか遠くに四散した。操の腹が鳴ったのだ。彼は甲洋を見上げ、耳と眉を同じ角度に下向けた。
「甲洋」
「うん」
「お腹減った……」
潤んだ瞳の情けない表情に、甲洋は思わず小さく吹き出した。恋人の顔から、愛ネコを溺愛する飼い主の顔に、一気に引き戻されたような気がしてしまう。
結局のところ操は操だし、甲洋は甲洋だ。ただそこに、新しい関係性が産声をあげただけ。それはこれからゆっくりと時間をかけて、この子と一緒に死ぬまで育んでいきたいと思える尊いものだ。
「わかった。今なにか作るから」
「わーいやったー!」
ようやく戻ってきた食いしん坊の無邪気な笑顔に、甲洋は瞳を細めて微笑んだ。
まずはシャワーを浴びたほうがいいような気もしたけれど、今は操の腹の虫を慰めることを優先させる。冷蔵庫に入っている食材を頭の中にひとつひとつ思い浮かべながら、ベッドを抜けだした。
(ああ、そうだ)
こないだよりも大きめに刻んだピーマンを入れて、炒飯でも作ろうか。ほんの少しだけ大人になった──かもしれない操は、どんな顔をするだろう。早く反応が見てみたい。
浮き立つ感情。高鳴る鼓動。その正体は、いつかも聞いた祝福の鐘の音に似ている。甲洋のなかに、もう躊躇う気持ちは存在しない。
しっぽの気持ち/了
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07
薄く血がこびりついた唇は、ほのかに鉄の味がする。
甲洋から積極的にキスをするのは初めてだった。存外激しい口づけに、操は潤んだ瞳をまん丸に見開いて驚いていた。けれどその唇も表情も、幾度となく音を立てて吸っているうちに徐々にほどけて柔らかくなっていく。
「んにゅ、ぅ、ぁ……うれ、し……っ」
一瞬だけ唇がほつれた拍子に漏らされた声を、かぶりつくようにして吐息ごと丸飲みにする。くぐもった声と二人分の唾液が混ざり合う音が、頭の芯にジクジクと響き渡っていた。
発情する操の身体はとても顕著に反応を示した。舌と舌が強く擦れ合うたびに、腕の中で健気に身を震わせる。必死でしがみついてくる両手が、スーツのジャケット越しに甲洋の背中を引っ掻いていた。厚い布越しの感覚にもどかしさが止まらない。
唇を重ねたまま、片手でネクタイの結び目を緩めた。首元まできっちり留められていたボタンも幾つか外し、乱暴にジャケットを脱ぎ捨てる。
操は甲洋の傷ついた口端に赤い舌を這わせていた。ちゅうと吸い上げられると、痛みと一緒に気が遠くなるような心地よさを覚えて、背筋が震える。
「ふぁっ、ぅ、んッ」
平べったい舌を絡めとり、仕返しとばかりに緩く歯を立てながら、甲洋の手は自然と操の胸を探るように蠢いていた。膨らみなど存在しない。摘める程度の肉しか乗っていないそこを、それでも少し強引にシャツの上から揉みしだく。すると手の平にほんの小さなしこりのようなものを感じて、甲洋は咄嗟に動きを止める。
操の乳首はまともに触れてもいないうちから勃起していた。ツンと影ができるほどシャツを押し上げている二ヶ所の点に、茹だるような興奮が込み上げる。
完全に意識を他所にもっていかれたことで唇が開放されると、酸欠気味の操は息を乱しながら放心状態になっていた。
(落ち着け、落ち着け)
暴走しそうになる意識を繋ぎ止め、甲洋は操の下肢へと手を伸ばす。そっとシャツをたくし上げていくと、下着を穿いていない半身がいともたやすく露わになった。ついさっき達したばかりの赤い屹立は、放ったもので濡れている。薄い白濁が股の付け根にまで伝い落ち、粗相をしたようにぐちゃぐちゃになっていた。
「あっ……ぁ、ん……っ!」
ゆるく勃ちあがりかけている茎に軽く触れただけで、操は甘ったるい声をあげながらその身を大きく揺らした。立てた両膝でピンと爪先を突っ張らせ、床から腰を浮かせている。甲洋はその隙間を縫って、シャツを一気に胸の上までたくし上げてしまう。
しなやかな曲線が露わになり、白い肌は汗ばんで艶を放っていた。ぷっくりと膨らんだふたつの粒が、薄い胸の上にはしたなく乗っている。それは野いちごのように真っ赤に色づき、誘い込むために存在を主張しているようだった。
呼吸も忘れて思わず見入る。操のここは、これほど色が濃かっただろうか。
甲洋は幾度か彼の裸体を見たことがあった。そのどれもがほとんど事故のようなものだったが、そうと分かるほどにうっすら色が違っていた程度だったと記憶している。
(これも、発情期のせい……?)
もしそうなのだとしたら、なんていやらしい身体なんだろう。甲洋は操の腰を抱き込むと、誘われるままにその粒へと唇を寄せていった。
「ふぁ、ん、にゃあぁ……っ」
操の腰がビクビクと踊った。しっかりと押さえつけながら、甲洋は堪らない気持ちでそこにむしゃぶりついた。尖らせた舌の先で執拗に転がし、じゅうと大きな音を立てて吸い上げる。操は初めてとは思えないほど淫らに身をくねらせて、甘ったるい嬌声を発していた。甲洋の髪を掴んでは掻き乱し、いやいやと首を振りたくる。
「くぅ、ぁ、だめ……それ、や、やぁ、ぁ……ッ」
唇はもう一方にも移動して、夢中で責め立てながら片手を改めて操の下肢へと伸ばしていく。そこはもはや完全に勃起して、蜜を零しながら脈打っていた。扱けばさらに溢れてくる。
胸と性器を同時に愛撫しながら、甲洋は口内で芯をもつ粒に堪らず歯を立てた。操は涙を浮かべた瞳を見開き、いっそう大きく身をしならせる。
その瞬間、手の中で幹が弾けた。潮を吹くように精を吐きだし、声なき悲鳴をあげながら達してしまう。抱き込んでいる腰がひどくのたうち、毛が逆立って一回り膨らんだしっぽの先まで、ブルブルと激しく痙攣していた。
「ッ、~~……! はぁ、ぅ、──ぁっ、ぁー、……!」
やがて甲洋の頭を掻き乱していた両手が、床に力なくパタリと落ちた。極致の余韻に絡めとられたまま、操はときどき引き攣ったように身を跳ねさせて、か細い喘ぎ混じりの呼吸を繰り返している。瞳孔が狭まった瞳は焦点が定まっていない。口の端からはだらしなく唾液が滴っていた。
この手で施した愛撫で忘我の状態になっている操に、甲洋は愛しさを募らせる。
「操、動ける?」
「……っ、?」
「床、背中痛いだろ」
気遣う言葉とは裏腹な餓えた眼差しで、甲洋は投げ出されている操の手首を掴むと引っ張り起こした。ぐったりと胸にもたれかかってくる身体を軽々と担ぎ上げ、勢いをつけてベッドの上へと移動させる。シャツをすっぽりと脱がせてしまうと、骨が抜けたようになっている身体をひっくり返して、四つん這いの体勢をとらせた。
朦朧としたまま未だに戻って来られない様子の操は、ただなすがままだった。
「こ、こう、よ」
操は自分が求めているものを、分かっているようでいて分かっていない。身体はどこまでも素直に快感を受け入れるくせに、それでいてこれから起こることが分からず、不安に苛まれてもいる。真後ろに向けてぴったりと伏せている耳を戦慄かせ、長いしっぽを小刻みに振っているのがその証拠だった。
それでも今の甲洋は後先を考えていられない。桃色に色づく臀部と、その濡れた谷間を目の前に突きだされ、気づかってやれるだけの余裕など残されてはいなかった。
ごくりと喉を鳴らし、柔らかな曲線を描く小さな尻に手の平を這わせる。しっとりと吸いつくような感触に熱い息を漏らしていると、しっぽがムチを振るうような動きで上下にしなった。
甲洋はふとそれに手をやり、緩く握って付け根から先端にかけてをするりと扱きあげてみた。すると操の腰がピクンと跳ねて、尻がさらに高く持ち上がる。その反応に味をしめ、甲洋はしっぽの付け根の裏側を親指で軽く擦り上げてみた。
「んっ、んにゃっ、ぁ、ゃ」
「ここ、いい?」
シーツに片頬を擦りつけ、握りしめた拳を唇に宛てがいながら操がこくこくと頷いた。皮膚が粟立っているのがよく分かる。傷ひとつない白い背が、ぶるりと大きく戦慄いていた。
「じゃあ、ここは?」
もう片方の手で谷間の中心に触れてみる。伝い落ちた体液でしとどに濡れた孔の窄まりを、指先でくるくるとなぞってみた。
「あっ、ひゃぅ、ん!」
異物への警戒からか、孔がさらにきゅっと窄まった。それでも漏れ聞こえる声の甘ったるさから判断し、甲洋はゆっくりと、人差し指を奥へと進めてみる。まずは浅い場所からじわじわと探り、内壁に体液を馴染ませるようにしながら徐々に深くまで侵入していくと、操の口から漏れだす声がいっそう甘く艶めいてくる。
「ぁん、ぁ、や……おしり、なんで、っ、ぁ、ぁ……っ」
「つらい?」
「っく、なぃ……けど、ぁ、んっ、んっ」
背中へ向かって反り返るようにピンと張りつめたしっぽが、小刻みに震えている。白い指先が、カリカリと悩ましそうにシーツを掻き乱していた。
赤く濡れた粘膜が、しっとりと熟れたように甲洋の指に絡みつく。早く犯してしまいたいという欲求をギリギリのところで押し殺し、辛抱強くそこを解きほぐす動作に没頭した。身を屈めると唇を寄せ、しっぽの付け根の裏側にキスをすると、孔がぎゅうと窄まって指がさらに締めつけられる。
「にゃぅッ、ぁ、あ! しっぽやだ、へんになるぅ……っ」
言葉とは反対に、尻がさらに高く持ち上がって左右に揺れていた。初めて触れられるとは思えないほどの感度のよさに、甲洋の手はさらに大胆になっていく。指を二本に増やしながら、しっぽの付け根に緩く歯を立てて吸い上げた。
操が涙を散らしながら、「やあぁ!」と高い悲鳴を漏らした。再び勃ち上がって震えていた赤い幼茎から、プシュウと音を立てて薄い白濁が吐き出される。
「また、イッたんだね」
「ぁ……ぁー、ぁー、……っ」
ゆっくりと指を引き抜きながら問いかけても、操は答えられる状態ではなかった。腰がすっかり抜けて、ぐにゃりと身体がシーツに沈む。
少し休ませてやったほうがいいのかもしれない。だけどスラックスを押し上げる中心が、早く早くと痛いほど張りつめて先を急かしている。
苦しそうに上下する肩を見下ろし、甲洋もまた興奮から息を荒げていた。身体が熱い。全身に汗が滲んでいた。
膝立ちになりながら、緩めていただけのネクタイを解いてベッドの下に放り投げる。ワイシャツのボタンも全て外して前をはだけてしまうと、ベルトに手をかけ寛げていく。
「こう、よ……」
半ば意識を飛ばしかけていた操が、顔をこちらに向けていた。ぼうっとした表情で半身を起こし、甲洋のウエストに手を伸ばしてくる。
「っ、操?」
操が完全に身体をこちらに向けた。軽く腹を押されて、甲洋の腰があっけなく沈む。
下着に手がかかり、軽くずらされるだけで怒張した肉茎がぶるりと飛びだした。甲洋は息を呑み、カッと頬に熱を集める。
操は天を突くように張りつめたそれに目を細め、蕩けるような笑みを浮かべた。
「あは……甲洋の、嬉しくなってる」
操の手が怒張に触れる。ただ呆然とその光景を見ていた甲洋だったが、唇を寄せようとする操の頭に慌てて手を置いて遠ざけた。
「いいから! そんなことしなくても」
「なんでぇ?」
赤面しながら目を泳がせる甲洋に、操は悲しそうに眉を寄せ、可愛く唇を尖らせた。
「おれだって甲洋のこと嬉しくしたいのに」
「操……っ」
「ずっとこうしたかったんだ」
操は甲洋の制止も聞かず、迷わず顔を近づけて先端の窪みに舌を這わせた。滲んだ先走りを舐め取られ、一気に駆け抜けた背徳感に背筋が震える。
「ぅ、あ……ッ!」
上ずった声を漏らしながら、片手で顔半分を覆い隠した。ひどい罪悪感。本気で拒めば幾らでも払いのけることができたはずなのに、それをしなかった自分への苛立ちと失望に胸を焼かれる。だけど甲洋の雄は期待に震え、滾ったままだ。
「ほら、甲洋のここだって、してほしいって言ってるよ」
裏筋に真っ赤な舌を滑らせて、操は竿の根元に小さな両手を添えると先端を口の中に収めてしまう。たっぷり唾液をまとった舌と口腔を絡みつかせ、悩ましそうに睫毛を伏せながら頭を上下に振りはじめた。
いたたまれない。だけどその卑猥すぎる光景に、指の隙間から目が離せなかった。
操は慣れていた。他を知らないから比べようがない。だけど多分、とても上手いのだと思う。
「操、もう、いい!」
このまま身を委ねたい欲求を薙ぎ払い、前髪を掴んで引き剥がした。操は唾液と甲洋の先走りで口の端を光らせたまま、ぼうっとした眼差しで見上げてくる。
「ッ、? 甲洋……? よく、なかった……?」
みるみるうちに、その表情が悲しげに歪んでくる。甲洋は焦燥にも似た感情に唇を噛み締め、それでも首を左右に振った。
「じゃあ、どうして怒ってるの?」
それは簡潔に答えられるものではなかった。お前がエロすぎるから。慣れているから。この子にこんな真似を仕込んだ男に殺意すら覚えているのに、どうしてそれが自分じゃなかったのかという、詮無い苛立ちを抑えられない。
甲洋にとっては初めてのことで、あと一瞬でも遅ければイかされていた。他の男がよくなるために教え込まれた技で、自分が気持ちよくなってしまうのが悔しかった。だったらぜんぶ塗り替えてしまいたい。嫉妬と独占欲が渦巻いている。
甲洋は操に手を伸ばし、少し乱暴に引き寄せると力いっぱい抱きすくめた。
「こ、甲洋?」
「怒ってないし、すごく、よかった。だから……怒ってる」
「怒ってるんじゃん、やっぱり」
「……うん。怒ってる」
「そっか」
操が笑った。
「やっぱり君って迷路みたい。ぐちゃぐちゃしてて、難しい」
「……ごめん」
「いいよ。だってそれが甲洋だもん」
やわい両腕に頭を抱き込まれると、なぜだか少し泣きたくなった。小さな白い手が、焦げ茶の癖毛を許すように優しく撫でる。たまらなく熱いものが込み上げて、甲洋は震える息を吐きだした。
「……好きだ、操」
その胸に顔を埋めて、心の底から溢れた想いを言葉に乗せた。
「好きなんだ。お前のなかに挿れたい。俺で、お前のなかを汚したい。本当はずっと、お前のことが欲しかった」
「甲洋は、ずっとそれを我慢してたの?」
言葉もなく、ただ頷いた。その仕草が我ながら子供っぽいような気がして、格好がつかないことにまた少し苛立つ。けれど操は嬉しそうだった。甲洋の頭をぎゅうと抱きしめ、焦げ茶の髪に何度も頬を擦りつける。
「嬉しい。やっと君の欲しいものがわかった」
操の唇が甲洋の額に押しつけられる。彼はこのあと何をどうするのかを、なんとなくではあるが察していたようだった。
「お尻で、するんだね」
「うん、挿れたい」
「──ん、いいよ」
操が甲洋から離れ、さっきと同じようにシーツに胸を伏せながら高く掲げた尻を突き出してくる。
「来て、甲洋。君と一緒に嬉しくなりたい」
甘い誘いに、脳がふやけたようになる。その背を追って膝立ちになると、汗ばんだ双丘に手を這わせながら、掴み上げた自身の先端をそっと孔に押しつけた。
操は首をひねって甲洋を見ている。なにか言うべきなのかもしれない。だけど気の利いた言葉は浮かんでこなかった。心臓が痛い。怖いくらい高鳴っている。ただ、名前を呼んだ。
「操……」
「ぁ、ぅぐ……っ」
窄まりに押しつけた切っ先を、ゆっくりと潜り込ませた。苦しげにくぐもった声が聞こえる。それでも甲洋は止まらなかった。薄い肉の丘をそれぞれ掴み、前のめりになって圧をかける。指とは比べ物にならない存在感に、狭すぎる入り口がめくれあがった。
「あつ……ぃッ、ぁ、甲洋、はいって、くる……!」
「みさお、ぁ、みさお……!」
熱い肉癖が抵抗を示したのは最初だけだった。はじめに慣らしたぶんと、腸壁の滑りに助けられ、ずるずると飲み込まれていく。
操は苦しそうに全身を震わせていたが、痛がっている様子はない。しかし実際に痛みがないわけではなく、ただ麻痺しているだけなのだということは察しがついた。発情する身体が、持ち主を守るためにすべての感覚を快感として拾い上げようとしている。それは甲洋にとっての免罪符にもなった。
「ぁぐ、ぅ! おな、か、苦し……ッ、ぁ、こう、よ」
「ごめん、操……あと、少し……」
薄っぺらい下腹部が、ぎゅうと緊張して今にも搾り取られてしまいそうだった。甲洋は歯を食いしばって堪えながら、根元まで全てを収めきってしまう。操がひゅっと息を呑んで背を反らし、やがて力なくシーツに胸を沈ませた。
結合部から痺れるように這い上がる快感の大きさに、身動きが取れない。一言も声を発せないまま、甲洋は獣じみた息を漏らした。大粒の汗が、白い背に吸い込まれるように落ちていく。
「ぁ、ぁ……ぅ……」
操は息絶える寸前のような呼吸と、か細い喘ぎを繰り返していた。その後孔は限界までシワが伸ばされ、甲洋の形になっている。
(俺の、形……操の、身体が)
その瞬間、溺れそうなほどの充足感で満たされていくのを感じた。小さな孔も、狭い中も、誘うみたいに赤く染まった胸の先端も、蜜をこぼす屹立も。ぜんぶぜんぶ俺に愛されるためだけにあるのだと、傲慢な雄の支配欲が噴き出して止まらなくなる。
「操……っ」
本能に抗うことなく、甲洋は腰を揺り動かした。初めてだから優しくしようとか、無理をさせないようにゆっくりしようとか、頭の片隅にあるだけで理性がうまく働かない。ヒトから獣へと変わり果てたような、そんな気分だった。
「あっ、ヒッ、あぁっ!」
操は立てたしっぽを痙攣させて、甲高い嬌声を漏らした。その声がよりいっそう甲洋の欲を駆り立てる。狭い腸内に擦られて、噴き出すような快感が腹の底から湧き上がる。穿てば穿つほど、切羽詰まった操の声は甘く上ずり、甲洋の脳を犯していった。
「にゃぅ、あっ、だめ、き、きも、ちぃ……っ、おしり、きもちい、よぉ……!」
「俺もいい……なか、すごく……」
その背を抱いて、柔らかな産毛に覆われた耳に唇を押しつける。甲洋が漏らす声や吐息にも感じてしまうのか、操の下腹がブルリと震えた。中の締めつけがいっそう増す。きゅうきゅうと食んでは、まるで射精を促すように肉壁が蠢いていた。
「好きだ……操、好きだ……っ」
「おれ、おれも、ッ、こうよ、アッ、好き、赤ちゃん、ほし、っ……!」
激しく腰を打ちつけながら、いっそのこと本当に孕んでしまえばいいと思った。一滴も余すことなく、この子のナカに注ぎたい。どんなにしたって赤ん坊なんかできるはずがないのに、今はそんな摂理や常識すらどうでもよかった。
ぱたぱたと首を振って悶える操の耳の根元を、唇で捕らえる。ぱっくりと咥えて音を立てながら吸い上げると、腕の中の身体がガクガクと大きく跳ねた。
「にゃあぁっ、あ、あぁ──……っ!」
揺さぶられるたびにプルプルと震えていた操の赤い陰茎から、透明な液が噴き出した。その瞬間、甲洋の頭が真っ白になる。ドクン、と心臓が大きく音を立て、総毛立つような感覚が背筋を這った。
「ぁっ、く……ぅ……ッ!」
低く呻きながら腰を震わせ、奥に叩きつけるように一気に欲望をぶちまける。頭の中は白く発光したまま、幾度かの明滅を繰り返していた。
「──ッ、ぁ、ぁー……っ、ぁ……出て、る……熱いの、ビクビク、してる……」
放流を受け止めながら、操は下腹部と内腿を痙攣させた。甲洋の腰が跳ねるたび、同時に身を跳ねさせる。
やがて身体から力が抜けて、折り重なるようにぐったりと沈んだ。指の先まで痺れたようになっている。シーツの上で震えている小さな手の甲に手をかぶせ、指の隙間を縫うように強く握りしめると、一瞬だけ気をやっていた操の耳が小さく跳ねた。
「こう、よ」
「操……平気……?」
軽く首をひねった操と、至近距離で目が合った。彼は夢を見ているようにぽぅっとした瞳を瞬かせ、「へいき」と言いながら幼い仕草で頷いた。そして甲洋の指を握り返してくる。
「甲洋、好き」
「うん……俺も……」
「ねぇ、もっとしよ。もっといっぱい欲しい」
「……ん、俺も」
同じ返事を繰り返すしかできないことが、格好悪くて情けなかった。それでもこの子は気にしないし、ただ受け止めてくれるんだなと、そう思うとまた少し泣きたくなる。
甲洋は操の柔らかな裸体の上に体重をかけたままで、操はその重さを受け止めている。中には未だ、甲洋が入ったままだ。
(今度は……今度こそ……)
軽く唇を触れ合わせながら、優しくしようと、そう思う。
叩きつけるみたいな欲望の波が一度は去り、今は愛おしさだけが、ゆるゆると熱を取り戻してそこにあった。
←戻る ・ 次へ→
薄く血がこびりついた唇は、ほのかに鉄の味がする。
甲洋から積極的にキスをするのは初めてだった。存外激しい口づけに、操は潤んだ瞳をまん丸に見開いて驚いていた。けれどその唇も表情も、幾度となく音を立てて吸っているうちに徐々にほどけて柔らかくなっていく。
「んにゅ、ぅ、ぁ……うれ、し……っ」
一瞬だけ唇がほつれた拍子に漏らされた声を、かぶりつくようにして吐息ごと丸飲みにする。くぐもった声と二人分の唾液が混ざり合う音が、頭の芯にジクジクと響き渡っていた。
発情する操の身体はとても顕著に反応を示した。舌と舌が強く擦れ合うたびに、腕の中で健気に身を震わせる。必死でしがみついてくる両手が、スーツのジャケット越しに甲洋の背中を引っ掻いていた。厚い布越しの感覚にもどかしさが止まらない。
唇を重ねたまま、片手でネクタイの結び目を緩めた。首元まできっちり留められていたボタンも幾つか外し、乱暴にジャケットを脱ぎ捨てる。
操は甲洋の傷ついた口端に赤い舌を這わせていた。ちゅうと吸い上げられると、痛みと一緒に気が遠くなるような心地よさを覚えて、背筋が震える。
「ふぁっ、ぅ、んッ」
平べったい舌を絡めとり、仕返しとばかりに緩く歯を立てながら、甲洋の手は自然と操の胸を探るように蠢いていた。膨らみなど存在しない。摘める程度の肉しか乗っていないそこを、それでも少し強引にシャツの上から揉みしだく。すると手の平にほんの小さなしこりのようなものを感じて、甲洋は咄嗟に動きを止める。
操の乳首はまともに触れてもいないうちから勃起していた。ツンと影ができるほどシャツを押し上げている二ヶ所の点に、茹だるような興奮が込み上げる。
完全に意識を他所にもっていかれたことで唇が開放されると、酸欠気味の操は息を乱しながら放心状態になっていた。
(落ち着け、落ち着け)
暴走しそうになる意識を繋ぎ止め、甲洋は操の下肢へと手を伸ばす。そっとシャツをたくし上げていくと、下着を穿いていない半身がいともたやすく露わになった。ついさっき達したばかりの赤い屹立は、放ったもので濡れている。薄い白濁が股の付け根にまで伝い落ち、粗相をしたようにぐちゃぐちゃになっていた。
「あっ……ぁ、ん……っ!」
ゆるく勃ちあがりかけている茎に軽く触れただけで、操は甘ったるい声をあげながらその身を大きく揺らした。立てた両膝でピンと爪先を突っ張らせ、床から腰を浮かせている。甲洋はその隙間を縫って、シャツを一気に胸の上までたくし上げてしまう。
しなやかな曲線が露わになり、白い肌は汗ばんで艶を放っていた。ぷっくりと膨らんだふたつの粒が、薄い胸の上にはしたなく乗っている。それは野いちごのように真っ赤に色づき、誘い込むために存在を主張しているようだった。
呼吸も忘れて思わず見入る。操のここは、これほど色が濃かっただろうか。
甲洋は幾度か彼の裸体を見たことがあった。そのどれもがほとんど事故のようなものだったが、そうと分かるほどにうっすら色が違っていた程度だったと記憶している。
(これも、発情期のせい……?)
もしそうなのだとしたら、なんていやらしい身体なんだろう。甲洋は操の腰を抱き込むと、誘われるままにその粒へと唇を寄せていった。
「ふぁ、ん、にゃあぁ……っ」
操の腰がビクビクと踊った。しっかりと押さえつけながら、甲洋は堪らない気持ちでそこにむしゃぶりついた。尖らせた舌の先で執拗に転がし、じゅうと大きな音を立てて吸い上げる。操は初めてとは思えないほど淫らに身をくねらせて、甘ったるい嬌声を発していた。甲洋の髪を掴んでは掻き乱し、いやいやと首を振りたくる。
「くぅ、ぁ、だめ……それ、や、やぁ、ぁ……ッ」
唇はもう一方にも移動して、夢中で責め立てながら片手を改めて操の下肢へと伸ばしていく。そこはもはや完全に勃起して、蜜を零しながら脈打っていた。扱けばさらに溢れてくる。
胸と性器を同時に愛撫しながら、甲洋は口内で芯をもつ粒に堪らず歯を立てた。操は涙を浮かべた瞳を見開き、いっそう大きく身をしならせる。
その瞬間、手の中で幹が弾けた。潮を吹くように精を吐きだし、声なき悲鳴をあげながら達してしまう。抱き込んでいる腰がひどくのたうち、毛が逆立って一回り膨らんだしっぽの先まで、ブルブルと激しく痙攣していた。
「ッ、~~……! はぁ、ぅ、──ぁっ、ぁー、……!」
やがて甲洋の頭を掻き乱していた両手が、床に力なくパタリと落ちた。極致の余韻に絡めとられたまま、操はときどき引き攣ったように身を跳ねさせて、か細い喘ぎ混じりの呼吸を繰り返している。瞳孔が狭まった瞳は焦点が定まっていない。口の端からはだらしなく唾液が滴っていた。
この手で施した愛撫で忘我の状態になっている操に、甲洋は愛しさを募らせる。
「操、動ける?」
「……っ、?」
「床、背中痛いだろ」
気遣う言葉とは裏腹な餓えた眼差しで、甲洋は投げ出されている操の手首を掴むと引っ張り起こした。ぐったりと胸にもたれかかってくる身体を軽々と担ぎ上げ、勢いをつけてベッドの上へと移動させる。シャツをすっぽりと脱がせてしまうと、骨が抜けたようになっている身体をひっくり返して、四つん這いの体勢をとらせた。
朦朧としたまま未だに戻って来られない様子の操は、ただなすがままだった。
「こ、こう、よ」
操は自分が求めているものを、分かっているようでいて分かっていない。身体はどこまでも素直に快感を受け入れるくせに、それでいてこれから起こることが分からず、不安に苛まれてもいる。真後ろに向けてぴったりと伏せている耳を戦慄かせ、長いしっぽを小刻みに振っているのがその証拠だった。
それでも今の甲洋は後先を考えていられない。桃色に色づく臀部と、その濡れた谷間を目の前に突きだされ、気づかってやれるだけの余裕など残されてはいなかった。
ごくりと喉を鳴らし、柔らかな曲線を描く小さな尻に手の平を這わせる。しっとりと吸いつくような感触に熱い息を漏らしていると、しっぽがムチを振るうような動きで上下にしなった。
甲洋はふとそれに手をやり、緩く握って付け根から先端にかけてをするりと扱きあげてみた。すると操の腰がピクンと跳ねて、尻がさらに高く持ち上がる。その反応に味をしめ、甲洋はしっぽの付け根の裏側を親指で軽く擦り上げてみた。
「んっ、んにゃっ、ぁ、ゃ」
「ここ、いい?」
シーツに片頬を擦りつけ、握りしめた拳を唇に宛てがいながら操がこくこくと頷いた。皮膚が粟立っているのがよく分かる。傷ひとつない白い背が、ぶるりと大きく戦慄いていた。
「じゃあ、ここは?」
もう片方の手で谷間の中心に触れてみる。伝い落ちた体液でしとどに濡れた孔の窄まりを、指先でくるくるとなぞってみた。
「あっ、ひゃぅ、ん!」
異物への警戒からか、孔がさらにきゅっと窄まった。それでも漏れ聞こえる声の甘ったるさから判断し、甲洋はゆっくりと、人差し指を奥へと進めてみる。まずは浅い場所からじわじわと探り、内壁に体液を馴染ませるようにしながら徐々に深くまで侵入していくと、操の口から漏れだす声がいっそう甘く艶めいてくる。
「ぁん、ぁ、や……おしり、なんで、っ、ぁ、ぁ……っ」
「つらい?」
「っく、なぃ……けど、ぁ、んっ、んっ」
背中へ向かって反り返るようにピンと張りつめたしっぽが、小刻みに震えている。白い指先が、カリカリと悩ましそうにシーツを掻き乱していた。
赤く濡れた粘膜が、しっとりと熟れたように甲洋の指に絡みつく。早く犯してしまいたいという欲求をギリギリのところで押し殺し、辛抱強くそこを解きほぐす動作に没頭した。身を屈めると唇を寄せ、しっぽの付け根の裏側にキスをすると、孔がぎゅうと窄まって指がさらに締めつけられる。
「にゃぅッ、ぁ、あ! しっぽやだ、へんになるぅ……っ」
言葉とは反対に、尻がさらに高く持ち上がって左右に揺れていた。初めて触れられるとは思えないほどの感度のよさに、甲洋の手はさらに大胆になっていく。指を二本に増やしながら、しっぽの付け根に緩く歯を立てて吸い上げた。
操が涙を散らしながら、「やあぁ!」と高い悲鳴を漏らした。再び勃ち上がって震えていた赤い幼茎から、プシュウと音を立てて薄い白濁が吐き出される。
「また、イッたんだね」
「ぁ……ぁー、ぁー、……っ」
ゆっくりと指を引き抜きながら問いかけても、操は答えられる状態ではなかった。腰がすっかり抜けて、ぐにゃりと身体がシーツに沈む。
少し休ませてやったほうがいいのかもしれない。だけどスラックスを押し上げる中心が、早く早くと痛いほど張りつめて先を急かしている。
苦しそうに上下する肩を見下ろし、甲洋もまた興奮から息を荒げていた。身体が熱い。全身に汗が滲んでいた。
膝立ちになりながら、緩めていただけのネクタイを解いてベッドの下に放り投げる。ワイシャツのボタンも全て外して前をはだけてしまうと、ベルトに手をかけ寛げていく。
「こう、よ……」
半ば意識を飛ばしかけていた操が、顔をこちらに向けていた。ぼうっとした表情で半身を起こし、甲洋のウエストに手を伸ばしてくる。
「っ、操?」
操が完全に身体をこちらに向けた。軽く腹を押されて、甲洋の腰があっけなく沈む。
下着に手がかかり、軽くずらされるだけで怒張した肉茎がぶるりと飛びだした。甲洋は息を呑み、カッと頬に熱を集める。
操は天を突くように張りつめたそれに目を細め、蕩けるような笑みを浮かべた。
「あは……甲洋の、嬉しくなってる」
操の手が怒張に触れる。ただ呆然とその光景を見ていた甲洋だったが、唇を寄せようとする操の頭に慌てて手を置いて遠ざけた。
「いいから! そんなことしなくても」
「なんでぇ?」
赤面しながら目を泳がせる甲洋に、操は悲しそうに眉を寄せ、可愛く唇を尖らせた。
「おれだって甲洋のこと嬉しくしたいのに」
「操……っ」
「ずっとこうしたかったんだ」
操は甲洋の制止も聞かず、迷わず顔を近づけて先端の窪みに舌を這わせた。滲んだ先走りを舐め取られ、一気に駆け抜けた背徳感に背筋が震える。
「ぅ、あ……ッ!」
上ずった声を漏らしながら、片手で顔半分を覆い隠した。ひどい罪悪感。本気で拒めば幾らでも払いのけることができたはずなのに、それをしなかった自分への苛立ちと失望に胸を焼かれる。だけど甲洋の雄は期待に震え、滾ったままだ。
「ほら、甲洋のここだって、してほしいって言ってるよ」
裏筋に真っ赤な舌を滑らせて、操は竿の根元に小さな両手を添えると先端を口の中に収めてしまう。たっぷり唾液をまとった舌と口腔を絡みつかせ、悩ましそうに睫毛を伏せながら頭を上下に振りはじめた。
いたたまれない。だけどその卑猥すぎる光景に、指の隙間から目が離せなかった。
操は慣れていた。他を知らないから比べようがない。だけど多分、とても上手いのだと思う。
「操、もう、いい!」
このまま身を委ねたい欲求を薙ぎ払い、前髪を掴んで引き剥がした。操は唾液と甲洋の先走りで口の端を光らせたまま、ぼうっとした眼差しで見上げてくる。
「ッ、? 甲洋……? よく、なかった……?」
みるみるうちに、その表情が悲しげに歪んでくる。甲洋は焦燥にも似た感情に唇を噛み締め、それでも首を左右に振った。
「じゃあ、どうして怒ってるの?」
それは簡潔に答えられるものではなかった。お前がエロすぎるから。慣れているから。この子にこんな真似を仕込んだ男に殺意すら覚えているのに、どうしてそれが自分じゃなかったのかという、詮無い苛立ちを抑えられない。
甲洋にとっては初めてのことで、あと一瞬でも遅ければイかされていた。他の男がよくなるために教え込まれた技で、自分が気持ちよくなってしまうのが悔しかった。だったらぜんぶ塗り替えてしまいたい。嫉妬と独占欲が渦巻いている。
甲洋は操に手を伸ばし、少し乱暴に引き寄せると力いっぱい抱きすくめた。
「こ、甲洋?」
「怒ってないし、すごく、よかった。だから……怒ってる」
「怒ってるんじゃん、やっぱり」
「……うん。怒ってる」
「そっか」
操が笑った。
「やっぱり君って迷路みたい。ぐちゃぐちゃしてて、難しい」
「……ごめん」
「いいよ。だってそれが甲洋だもん」
やわい両腕に頭を抱き込まれると、なぜだか少し泣きたくなった。小さな白い手が、焦げ茶の癖毛を許すように優しく撫でる。たまらなく熱いものが込み上げて、甲洋は震える息を吐きだした。
「……好きだ、操」
その胸に顔を埋めて、心の底から溢れた想いを言葉に乗せた。
「好きなんだ。お前のなかに挿れたい。俺で、お前のなかを汚したい。本当はずっと、お前のことが欲しかった」
「甲洋は、ずっとそれを我慢してたの?」
言葉もなく、ただ頷いた。その仕草が我ながら子供っぽいような気がして、格好がつかないことにまた少し苛立つ。けれど操は嬉しそうだった。甲洋の頭をぎゅうと抱きしめ、焦げ茶の髪に何度も頬を擦りつける。
「嬉しい。やっと君の欲しいものがわかった」
操の唇が甲洋の額に押しつけられる。彼はこのあと何をどうするのかを、なんとなくではあるが察していたようだった。
「お尻で、するんだね」
「うん、挿れたい」
「──ん、いいよ」
操が甲洋から離れ、さっきと同じようにシーツに胸を伏せながら高く掲げた尻を突き出してくる。
「来て、甲洋。君と一緒に嬉しくなりたい」
甘い誘いに、脳がふやけたようになる。その背を追って膝立ちになると、汗ばんだ双丘に手を這わせながら、掴み上げた自身の先端をそっと孔に押しつけた。
操は首をひねって甲洋を見ている。なにか言うべきなのかもしれない。だけど気の利いた言葉は浮かんでこなかった。心臓が痛い。怖いくらい高鳴っている。ただ、名前を呼んだ。
「操……」
「ぁ、ぅぐ……っ」
窄まりに押しつけた切っ先を、ゆっくりと潜り込ませた。苦しげにくぐもった声が聞こえる。それでも甲洋は止まらなかった。薄い肉の丘をそれぞれ掴み、前のめりになって圧をかける。指とは比べ物にならない存在感に、狭すぎる入り口がめくれあがった。
「あつ……ぃッ、ぁ、甲洋、はいって、くる……!」
「みさお、ぁ、みさお……!」
熱い肉癖が抵抗を示したのは最初だけだった。はじめに慣らしたぶんと、腸壁の滑りに助けられ、ずるずると飲み込まれていく。
操は苦しそうに全身を震わせていたが、痛がっている様子はない。しかし実際に痛みがないわけではなく、ただ麻痺しているだけなのだということは察しがついた。発情する身体が、持ち主を守るためにすべての感覚を快感として拾い上げようとしている。それは甲洋にとっての免罪符にもなった。
「ぁぐ、ぅ! おな、か、苦し……ッ、ぁ、こう、よ」
「ごめん、操……あと、少し……」
薄っぺらい下腹部が、ぎゅうと緊張して今にも搾り取られてしまいそうだった。甲洋は歯を食いしばって堪えながら、根元まで全てを収めきってしまう。操がひゅっと息を呑んで背を反らし、やがて力なくシーツに胸を沈ませた。
結合部から痺れるように這い上がる快感の大きさに、身動きが取れない。一言も声を発せないまま、甲洋は獣じみた息を漏らした。大粒の汗が、白い背に吸い込まれるように落ちていく。
「ぁ、ぁ……ぅ……」
操は息絶える寸前のような呼吸と、か細い喘ぎを繰り返していた。その後孔は限界までシワが伸ばされ、甲洋の形になっている。
(俺の、形……操の、身体が)
その瞬間、溺れそうなほどの充足感で満たされていくのを感じた。小さな孔も、狭い中も、誘うみたいに赤く染まった胸の先端も、蜜をこぼす屹立も。ぜんぶぜんぶ俺に愛されるためだけにあるのだと、傲慢な雄の支配欲が噴き出して止まらなくなる。
「操……っ」
本能に抗うことなく、甲洋は腰を揺り動かした。初めてだから優しくしようとか、無理をさせないようにゆっくりしようとか、頭の片隅にあるだけで理性がうまく働かない。ヒトから獣へと変わり果てたような、そんな気分だった。
「あっ、ヒッ、あぁっ!」
操は立てたしっぽを痙攣させて、甲高い嬌声を漏らした。その声がよりいっそう甲洋の欲を駆り立てる。狭い腸内に擦られて、噴き出すような快感が腹の底から湧き上がる。穿てば穿つほど、切羽詰まった操の声は甘く上ずり、甲洋の脳を犯していった。
「にゃぅ、あっ、だめ、き、きも、ちぃ……っ、おしり、きもちい、よぉ……!」
「俺もいい……なか、すごく……」
その背を抱いて、柔らかな産毛に覆われた耳に唇を押しつける。甲洋が漏らす声や吐息にも感じてしまうのか、操の下腹がブルリと震えた。中の締めつけがいっそう増す。きゅうきゅうと食んでは、まるで射精を促すように肉壁が蠢いていた。
「好きだ……操、好きだ……っ」
「おれ、おれも、ッ、こうよ、アッ、好き、赤ちゃん、ほし、っ……!」
激しく腰を打ちつけながら、いっそのこと本当に孕んでしまえばいいと思った。一滴も余すことなく、この子のナカに注ぎたい。どんなにしたって赤ん坊なんかできるはずがないのに、今はそんな摂理や常識すらどうでもよかった。
ぱたぱたと首を振って悶える操の耳の根元を、唇で捕らえる。ぱっくりと咥えて音を立てながら吸い上げると、腕の中の身体がガクガクと大きく跳ねた。
「にゃあぁっ、あ、あぁ──……っ!」
揺さぶられるたびにプルプルと震えていた操の赤い陰茎から、透明な液が噴き出した。その瞬間、甲洋の頭が真っ白になる。ドクン、と心臓が大きく音を立て、総毛立つような感覚が背筋を這った。
「ぁっ、く……ぅ……ッ!」
低く呻きながら腰を震わせ、奥に叩きつけるように一気に欲望をぶちまける。頭の中は白く発光したまま、幾度かの明滅を繰り返していた。
「──ッ、ぁ、ぁー……っ、ぁ……出て、る……熱いの、ビクビク、してる……」
放流を受け止めながら、操は下腹部と内腿を痙攣させた。甲洋の腰が跳ねるたび、同時に身を跳ねさせる。
やがて身体から力が抜けて、折り重なるようにぐったりと沈んだ。指の先まで痺れたようになっている。シーツの上で震えている小さな手の甲に手をかぶせ、指の隙間を縫うように強く握りしめると、一瞬だけ気をやっていた操の耳が小さく跳ねた。
「こう、よ」
「操……平気……?」
軽く首をひねった操と、至近距離で目が合った。彼は夢を見ているようにぽぅっとした瞳を瞬かせ、「へいき」と言いながら幼い仕草で頷いた。そして甲洋の指を握り返してくる。
「甲洋、好き」
「うん……俺も……」
「ねぇ、もっとしよ。もっといっぱい欲しい」
「……ん、俺も」
同じ返事を繰り返すしかできないことが、格好悪くて情けなかった。それでもこの子は気にしないし、ただ受け止めてくれるんだなと、そう思うとまた少し泣きたくなる。
甲洋は操の柔らかな裸体の上に体重をかけたままで、操はその重さを受け止めている。中には未だ、甲洋が入ったままだ。
(今度は……今度こそ……)
軽く唇を触れ合わせながら、優しくしようと、そう思う。
叩きつけるみたいな欲望の波が一度は去り、今は愛おしさだけが、ゆるゆると熱を取り戻してそこにあった。
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06
午後9時過ぎのファーストフード店は、雑多な賑わいを見せていた。
塾や部活帰りの学生たちや、カラオケやゲームセンターなどで遊ぶ合間に時間をつぶす若者たちで混み合っている。
スーツ姿の甲洋は、その場の空気からは少し浮いていた。
「ごめんね、無理に誘っちゃって」
二階奥の窓際席は、仕切りと背の高い観葉植物によって死角になっていた。二人掛けのテーブルの真向かいで、桜色のワンピースを着た女性が緊張した様子ではにかんだ笑みを浮かべている。
彼女は同じ大学に通う学生だった。普段はほとんど接点がない。ただ一度だけ、話をしたことがある程度。甲洋が操の飼い主探しをしていた頃、噂を聞きつけて声をかけてきた女性たちの中の一人だった。
彼女とはついさっきバイトを終えて帰宅しようとしていたところ、道でバッタリ会った。食事でもと声をかけられたが、甲洋はその誘いを断っている。
それがなぜこんな騒がしい場所で顔を突き合わせているかというと、えらく神妙な顔つきで「大事な話があるの」と言われたからだ。
甲洋にはのんびりしている時間がなかった。今こうしている間にも操がどうしているかと思うと、気にかかってしょうがない。
それでも最終的に誘いに乗ってしまったのは、なにも甲洋がお人好しだからという理由だけではなかった。
早く帰らなければと思う反面、鉄の鎖を巻かれたように気が重たいのも事実だったのだ。うまく感情を据えておく場所が見つからず、操と向き合うことを恐れている。彼といて、またあの時間に耐えなければならないかもしれないと思うと、どうしても。
前置きとしてあまり時間が取れないことだけは告げると、甲洋は彼女と連れ立って手近のファーストフード店に入った。お互いコーヒーだけを注文して、この窓際の2階席についたのだった。
「いや、構わないよ。それで、さっそくだけど話って?」
甲洋にとっては意味のない時間稼ぎだ。けれど相手は思いつめた様子で顔を俯けていた。彼女が言いよどむ素振りを見せるあいだ、店内には若い男女の笑い声が響き渡り、沈黙を掻き消している。ゆっくり話が聞けるような場所じゃないなと、甲洋は視線だけを壁掛け時計に走らせた。操はどうしているだろう。
「私、雰囲気変わったと思わない?」
たっぷりと間をおいて顔を上げた彼女が切り出した最初の一声に、甲洋はいささか面食らった。彼女は肩を過ぎるほど長いストレートの黒髪を、指先に軽く絡めて遊ばせている。
「……うん、そうだね」
流すように答えた甲洋に、彼女は滲みでるような笑みを浮かべて頬を染めた。
「春日井くん、黒髪の子が好みだって聞いたの。だからね、染めちゃった」
確かに、ずいぶん感じが変わったとは思っていた。
飼い主探しをしていた頃に顔を合わせた彼女は、ゆるゆると巻いた髪をピンクブラウンに染めていた。服装もメイクも、どちらかといえば派手な方だったと記憶している。
彼女は毛先を指先でいじりながら、上目遣いで甲洋を見た。空気を察して条件反射のように微笑みながら「似合うよ」と言えば、彼女はさらに嬉しそうな笑顔を見せる。
一体どこまで情報の共有がされているのだろうかと、甲洋は少し呆れた気持ちになった。普段、男友達との会話のなかで何気なく漏らした些細な話が、気づけば接点のない異性の耳にまで入っている。そういったことはざらにあった。
今まで特に気にしたことはないし、少し前の甲洋だったらもっと胸を打たれていたのかもしれない。好きでしていたはずの髪型や服装を、自分のために曲げてまで好みに近づけてくれたのだから、そこになんの感慨も浮かばないはずはなかった。
けれど甲洋はどれだけ想いを寄せられても、誰とも付き合うことをしてこなかった。
それは自分に自信がなかったからで、運命の出会いなんてものにかこつけて、ずっと遠ざけてきたにすぎない。今までだってきっと良縁はあったはずなのに、甲洋自身が他者と触れ合うことを避けていたのだ。操と出会って、そのことに気づかされた。
「春日井くんは、ちゃんと気づいてくれるんだね。ガラッと変わっちゃったから、最初は誰も私だって分からなくてビックリされちゃうの」
「最初は驚いたよ、俺も」
「嘘。ぜんぜんそんな顔してなかったくせに」
ふわりとしたワンピースの肩をすくめて、彼女はクスクスと笑った。綺麗な黒髪が揺れると、強い花の香りがここまで漂ってくる。可愛いと思う。女の子は、可愛い。
「私ね、春日井くんのことが好きなの。気づいてた?」
「……ごめん、ぜんぜん気づいてなかった」
嘘だった。本当は初めて言葉を交わしたときから気づいていたし、今日だってこういう話になることは予想がついていた。今までだって何度もあったことだ。
些細な仕草や表情の変化、声色や視線。ずっと他人の顔色を覗ってばかりの生き方をしてきたから、甲洋には相手の気持ちがなんとなく分かる。とりわけ異性の感情は分かりやすいものだった。
鈍い男のふりをするのは防御策でもあり、相手に気を持たせないための配慮でもある。
甲洋がここにいるのはただの防衛機制による逃避行動のようなもので、少しでも問題を先送りしたいからに他ならなかった。彼女が思いつめた様子だったから、放っておけない優しい男の体で利用したにすぎない。
今だって彼女が恥ずかしそうに目を伏せているのをいいことに、ときどき時計に目を走らせている。操のことが心配だった。だけど、あの子の顔を見るのも怖い。ただの親バカな飼い主でいたいのに、甲洋は一人の男として操を意識してしまっている。
もう気の迷いなんかで片付けられないところまで、気持ちを認めざるを得なくなってしまった。その後ろめたさが、甲洋をひどく苛んでいる。
そんな自分がひどく穢らわしい存在に思えてしまうのだ。家族として純粋な愛情を注ぐ自信がなくなってしまったことで、あの子を裏切ってしまったような気がしていた。
「さっきね、春日井くんに偶然会えたこと、本当に嬉しかったの。ずっと会いたいって思ってたから……なんか、勝手に運命感じちゃったんだよね」
「……運命?」
思わずドキリとさせられる。
彼女は甲洋の顔を真っ直ぐに見て、潤んだ瞳を細めながら頷いた。
「春日井くんが、私の運命のひとだったらいいなって」
運命。その響きに、胸を突かれるような感覚を覚えた。
彼女と偶然顔を合わせたこと。今ここで向き合っていること。もしこの瞬間が運命なのだとしたら──いっそのこと、運命ということにしてしまえたら。
あの子への気持ちを、なかったことにできるだろうか。やっぱり気の迷いだったと、そう思い直すことができるだろうか。彼女の想いに応じさえすれば。
ただの親バカな飼い主に、戻ることができるのではないか?
「春日井くん。私と付き合ってくれない?」
緊張した面持ちで彼女が言った。雑多な店内。ギャアギャアと楽しげになにかを言い合っている若者たちの喧騒。丸めた紙くずがどこからか転がってきて、革靴の先に軽くぶつかる。
あまりにも真っ直ぐな恋する瞳に、甲洋はひとつ、喉を鳴らした。
*
店を出て彼女と別れたのは、午後10時をほんの少し過ぎた頃だった。
甲洋は足早に駅へと向かい、電車に乗ると5つ先の駅で下車する。改札を抜けて表に出ると、星のない夜空は厚い雲に覆われていた。植物が発する化合物の独特な匂いが、ふわりと鼻先をかすめていく。多分もうすぐ雨が降る。
結論から言うと、甲洋が彼女の告白を受け取ることはなかった。
できるわけがなかったのだ。誰かの気持ちを利用してまで心に嘘をつこうだなんて、一瞬でも浮かんでしまった考えにいっそう気を落とすだけで終わってしまった。
彼女は「ごめん」とだけ言って目を伏せた甲洋に、「そっか」と言って黙り込むだけだった。重たい沈黙のなか、手持ち無沙汰で口をつけた安いコーヒーの味が忘れられない。苦味だけが、今も口の中に残っていた。
あいも変わらず帰路へつく足取りは重かった。駅から自宅までの距離が、一瞬で過ぎ去っていくような気がする。マンションが目の前に迫る頃には、雨の匂いがさらに強くなっていた。
長雨になるのなら、桜は流れてしまうだろう。一緒に操の厄介な体質も洗い流してはくれないものかと、引きずるような足取りで夜道を帰路につきながら、そう願わずにはいられなかった。
「ただいま」
玄関に光はなく、その先に続く空間もとっぷりと闇に埋もれていた。
しんと静まり返った中で甲洋は落胆の息を漏らす。操が迎えに出てこないということは、彼がまだまともに動ける状態ではないということだ。
眠っているのならそれでいい。その方が今の甲洋にはありがたかった。だけど元気に「おかえり」と言いながら飛びついてくる姿が見られないのは、やはり寂しい。
いつも通り陽だまりのように明るくて可愛いあの子の笑顔を見れば、すべてが元通りになるような気がしていたのに。
しかしここで立ち尽くしていたって仕方がない。どれだけ意味のない時間稼ぎをしたところで、この行き場のない感情が消えてなくなるわけではないのだ。
甲洋は短い通路を進み、手探りで部屋の明かりのスイッチを入れた。幾度かの明滅のあと、狭いワンルームが白い光に包まれる。眩しさに目を眇める間もなく、飛び込んできた光景に大きく息を呑んだ。
「操!?」
操はベッドの下で丸めた身を横たえていた。畳んで置かれていたはずの甲洋の毛布を手繰り寄せ、掻き抱くようにしながら浅い呼吸を繰り返し、震えている。テーブルの上にはバターロールが手つかずで残されていた。
甲洋は鞄を投げだして操に駆け寄り、その身体を抱き起こすと軽く揺さぶる。
「操、操しっかり……!」
「ぁ……こう、よ?」
ゆらりと開かれた瞼の下で、あの餓えたように狭まった瞳孔が甲洋を捉える。初めて彼が公園で倒れた日の夜を思いだし、ドキリとして声を詰まらせたのも束の間、操の手が項に向かって伸ばされた。癖のある長い襟足をきゅうと掴まれ、思いのほか強い力で引き寄せられる。
唇に押しつけられた熱に目を見開く。首に絡みついた両腕に思いきり引き寄せられ、甲洋の身体が前のめりに傾いた。
「っ、みさ、んッ」
押し潰してしまわぬよう咄嗟に膝と肘を床について、どうにか胸を浮かせる。それでも覆いかぶさるような体勢であることは変わらなかった。より強く抱き寄せられて、唇がさらに深く押しつけられる。
かすかな水音に、面白いほど一瞬で頭が沸騰するのを感じた。操は何度も甲洋の唇に噛みつくようなキスをして、合間に熱い息を漏らした。
「こ、よ……ぁ、はぁ、んっ」
「ちょ、と、待っ……!」
わずかに顔を背けると、操は追いかけるように首を伸ばして唇の端にすら吸いついた。必死で甲洋の頭を掻き抱いて、緩く立てた両膝をときどき交差させるようにしながらもじもじと擦り合わせ、身をくねらせては喘いでいる。
様子がおかしいのは今に始まったことではない。けれどこの悶え方は尋常ではなかった。どうにかして落ち着かせなければと、甲洋は操の二の腕を強く掴んだ。引き剥がそうとしたそのとき、口端に焼けるような痛みが走る。それと同時に、操の身体がビク、ビク、と大きくバネのように跳ね上がった。
「い……ッ!?」
「ッ──、ぁ……っ、ァ……──っ!」
操がぐんと喉を反らした。その唇は紅を引いたように赤く染まっている。真っ直ぐに伸びたしっぽが、ブルブルと小刻みに痙攣していた。
溺れたみたいに荒く掠れた呼吸を繰り返す姿を、甲洋はただ呆然とした眼差しで見下ろすことしかできなかった。操に牙を立てられた唇の端が、じくじくと鋭い痛みを放っていた。鉄の味に目眩がする。
やがて強く首に絡みついていた両腕から、ゆっくりと力が抜けていった。ズルズルと糸が切れたように落ちていき、甲洋の肩にそれぞれ両手が這わされる。
「……操、お前」
イッたのか──と、最後まで問うまでもなかった。
薄い胸を上下させながら浅い呼吸を繰り返し、断続的に身を震わせるその反応は、まさに達したあとのそれだった。信じられないことだが、操は一方的なキスだけで上りつめてしまったのだ。それも甲洋の唇に傷をつけた瞬間に。
痛みもそっちのけで呆けたままでいる甲洋に、ぴったりと閉じられていた瞼をこじ開けた操が、その表情をくしゃりと歪めて見せた。
「ひとりで、できな、かっ」
「ッ!」
「自分でしても、ぜんぜん、ダメだった……甲洋がいい……甲洋がいいよぉ」
子供のように泣きだしてしまった操が、スーツの肩口をぎゅっと握りしめている。
開放しきれない熱を持て余したまま、ずっと甲洋の毛布を抱きしめながら襲ってくる波に耐え続けていたのだ。気が遠くなるほどの時間だったに違いない。
赤い頬に涙が伝うのを見て、甲洋は痛みに疼く下唇を噛み締める。やっぱり一人にしておくべきではなかった。なにがなんでも傍にいるべきだったのだと、迫り上がる後悔にみぞおちを押しつぶされる。
「……操」
甲洋は操の下に両手を差し込み、その半身が床からわずかに浮き上がるほど強く抱きしめた。ぺたりと倒れたまま震え続ける耳に唇を押しつけて、低い声で「ごめん」と囁く。操の肩がぴくんと跳ねた。
「もう大丈夫だから。お前の身体がちゃんと元に戻るまで、ずっと俺が傍にいるから」
唇の疼きは胸の疼きへと変わっていた。けれど甲洋は、これを殺さなければならない。とても簡単な話。ひたすら耐えればいいだけなのだ。
感情のベクトルがどこへ向かっていようとも、この子が大切だという気持ちに変わりはない。だから逃げずに傍にいようと、操を抱きしめながら甲洋は腹を括る。
操は甲洋の首筋に顔を埋めると、確かめるようにすぅと匂いを吸い込みながら両腕を首に回してきた。
「甲洋の匂い、どうしてこんなに苦しくなるの……?」
腕のなかで、操が小さく身じろいだ。わずかに力を緩めると、鼻先が触れそうな至近距離で熱っぽく潤んだ眼差しとぶつかる。するりと指先が伸びてきて、切れた口端をそっとなぞった。
「とても安心するはずなのに、今日は違った。こうしてると……甲洋の匂いを感じると、お腹の奥がジンジンしてきて」
「操……?」
あのね、と内緒話をするみたいに操が唇を耳元に寄せてくる。
「おれ、甲洋の──」
熱い吐息と一緒に吹き込まれた言葉に、甲洋は絶句した。強い衝撃に脳震盪を起こしたような錯覚すら覚える。訳が分からず、頭の中が真っ白だった。だけど操は言った。確かに言ったのだ。それだけは、鼓膜にぺたりと張りついている。
甲洋の──赤ちゃんが欲しい、と。
岩のように固まってしまった甲洋を、操がまたあの熱っぽい瞳で見上げてくる。ひたむきに注がれる眼差しが、ファーストフード店で告白してきた女のそれとよく似ているような気がするのは、甲洋が都合のいい夢でも見ているせいだろうか。決定的に違うのは、そこに隠すことなく情欲の色が滲みでていることだった。
「甲洋……ねぇお願い……」
艶めいた声が急かすように甘ったるく言葉を紡いだ。時に奇妙な母性を垣間見せるこの子は、確かに雄であるはずなのに。どうしてか蕩けきった瞳を揺らしながらほぅっと熱く息を漏らし、甲洋に『子種』をねだっている。
親でもない。兄弟でもない。ましてや狩りもできない子供でもなく。甲洋は雄として、操に求められているのだ。その事実に細胞が沸き立つような感覚を覚えた。指の先まで余すことなく広がっていくそれは、あまりにも強烈で本能的な喜びだった。
プツン、と。
頭の奥で──あるいは心の奥底で、なにかが切れる音を聞いた。理性の糸が切れるとき、本当にこんな音がするなんて初めて知った。
「なに言ってるか、わかってる……?」
かろうじて絞り出した低い問いかけに、操はどこか切なげに眉間にしわを寄せながら小首を傾げた。
「わかんないよ」
この子らしいなと、そう思う。けれどその無知な幼さは、もはや甲洋を止めるだけのブレーキにはなりえなかった。もう知るかという、ぶん投げるような思いだけがそこにはある。
悟りを開いた聖人のようであろうとした精神は、大事な柱を失ってたったいま崩壊してしまった。大切にしようと思っていたのに。ただ傍にいようと。それなのに。
「どうなっても、知らないからな」
それはどちらへ向けて放った言葉だったろう。
自分自身と操。多分、その両方だ。
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午後9時過ぎのファーストフード店は、雑多な賑わいを見せていた。
塾や部活帰りの学生たちや、カラオケやゲームセンターなどで遊ぶ合間に時間をつぶす若者たちで混み合っている。
スーツ姿の甲洋は、その場の空気からは少し浮いていた。
「ごめんね、無理に誘っちゃって」
二階奥の窓際席は、仕切りと背の高い観葉植物によって死角になっていた。二人掛けのテーブルの真向かいで、桜色のワンピースを着た女性が緊張した様子ではにかんだ笑みを浮かべている。
彼女は同じ大学に通う学生だった。普段はほとんど接点がない。ただ一度だけ、話をしたことがある程度。甲洋が操の飼い主探しをしていた頃、噂を聞きつけて声をかけてきた女性たちの中の一人だった。
彼女とはついさっきバイトを終えて帰宅しようとしていたところ、道でバッタリ会った。食事でもと声をかけられたが、甲洋はその誘いを断っている。
それがなぜこんな騒がしい場所で顔を突き合わせているかというと、えらく神妙な顔つきで「大事な話があるの」と言われたからだ。
甲洋にはのんびりしている時間がなかった。今こうしている間にも操がどうしているかと思うと、気にかかってしょうがない。
それでも最終的に誘いに乗ってしまったのは、なにも甲洋がお人好しだからという理由だけではなかった。
早く帰らなければと思う反面、鉄の鎖を巻かれたように気が重たいのも事実だったのだ。うまく感情を据えておく場所が見つからず、操と向き合うことを恐れている。彼といて、またあの時間に耐えなければならないかもしれないと思うと、どうしても。
前置きとしてあまり時間が取れないことだけは告げると、甲洋は彼女と連れ立って手近のファーストフード店に入った。お互いコーヒーだけを注文して、この窓際の2階席についたのだった。
「いや、構わないよ。それで、さっそくだけど話って?」
甲洋にとっては意味のない時間稼ぎだ。けれど相手は思いつめた様子で顔を俯けていた。彼女が言いよどむ素振りを見せるあいだ、店内には若い男女の笑い声が響き渡り、沈黙を掻き消している。ゆっくり話が聞けるような場所じゃないなと、甲洋は視線だけを壁掛け時計に走らせた。操はどうしているだろう。
「私、雰囲気変わったと思わない?」
たっぷりと間をおいて顔を上げた彼女が切り出した最初の一声に、甲洋はいささか面食らった。彼女は肩を過ぎるほど長いストレートの黒髪を、指先に軽く絡めて遊ばせている。
「……うん、そうだね」
流すように答えた甲洋に、彼女は滲みでるような笑みを浮かべて頬を染めた。
「春日井くん、黒髪の子が好みだって聞いたの。だからね、染めちゃった」
確かに、ずいぶん感じが変わったとは思っていた。
飼い主探しをしていた頃に顔を合わせた彼女は、ゆるゆると巻いた髪をピンクブラウンに染めていた。服装もメイクも、どちらかといえば派手な方だったと記憶している。
彼女は毛先を指先でいじりながら、上目遣いで甲洋を見た。空気を察して条件反射のように微笑みながら「似合うよ」と言えば、彼女はさらに嬉しそうな笑顔を見せる。
一体どこまで情報の共有がされているのだろうかと、甲洋は少し呆れた気持ちになった。普段、男友達との会話のなかで何気なく漏らした些細な話が、気づけば接点のない異性の耳にまで入っている。そういったことはざらにあった。
今まで特に気にしたことはないし、少し前の甲洋だったらもっと胸を打たれていたのかもしれない。好きでしていたはずの髪型や服装を、自分のために曲げてまで好みに近づけてくれたのだから、そこになんの感慨も浮かばないはずはなかった。
けれど甲洋はどれだけ想いを寄せられても、誰とも付き合うことをしてこなかった。
それは自分に自信がなかったからで、運命の出会いなんてものにかこつけて、ずっと遠ざけてきたにすぎない。今までだってきっと良縁はあったはずなのに、甲洋自身が他者と触れ合うことを避けていたのだ。操と出会って、そのことに気づかされた。
「春日井くんは、ちゃんと気づいてくれるんだね。ガラッと変わっちゃったから、最初は誰も私だって分からなくてビックリされちゃうの」
「最初は驚いたよ、俺も」
「嘘。ぜんぜんそんな顔してなかったくせに」
ふわりとしたワンピースの肩をすくめて、彼女はクスクスと笑った。綺麗な黒髪が揺れると、強い花の香りがここまで漂ってくる。可愛いと思う。女の子は、可愛い。
「私ね、春日井くんのことが好きなの。気づいてた?」
「……ごめん、ぜんぜん気づいてなかった」
嘘だった。本当は初めて言葉を交わしたときから気づいていたし、今日だってこういう話になることは予想がついていた。今までだって何度もあったことだ。
些細な仕草や表情の変化、声色や視線。ずっと他人の顔色を覗ってばかりの生き方をしてきたから、甲洋には相手の気持ちがなんとなく分かる。とりわけ異性の感情は分かりやすいものだった。
鈍い男のふりをするのは防御策でもあり、相手に気を持たせないための配慮でもある。
甲洋がここにいるのはただの防衛機制による逃避行動のようなもので、少しでも問題を先送りしたいからに他ならなかった。彼女が思いつめた様子だったから、放っておけない優しい男の体で利用したにすぎない。
今だって彼女が恥ずかしそうに目を伏せているのをいいことに、ときどき時計に目を走らせている。操のことが心配だった。だけど、あの子の顔を見るのも怖い。ただの親バカな飼い主でいたいのに、甲洋は一人の男として操を意識してしまっている。
もう気の迷いなんかで片付けられないところまで、気持ちを認めざるを得なくなってしまった。その後ろめたさが、甲洋をひどく苛んでいる。
そんな自分がひどく穢らわしい存在に思えてしまうのだ。家族として純粋な愛情を注ぐ自信がなくなってしまったことで、あの子を裏切ってしまったような気がしていた。
「さっきね、春日井くんに偶然会えたこと、本当に嬉しかったの。ずっと会いたいって思ってたから……なんか、勝手に運命感じちゃったんだよね」
「……運命?」
思わずドキリとさせられる。
彼女は甲洋の顔を真っ直ぐに見て、潤んだ瞳を細めながら頷いた。
「春日井くんが、私の運命のひとだったらいいなって」
運命。その響きに、胸を突かれるような感覚を覚えた。
彼女と偶然顔を合わせたこと。今ここで向き合っていること。もしこの瞬間が運命なのだとしたら──いっそのこと、運命ということにしてしまえたら。
あの子への気持ちを、なかったことにできるだろうか。やっぱり気の迷いだったと、そう思い直すことができるだろうか。彼女の想いに応じさえすれば。
ただの親バカな飼い主に、戻ることができるのではないか?
「春日井くん。私と付き合ってくれない?」
緊張した面持ちで彼女が言った。雑多な店内。ギャアギャアと楽しげになにかを言い合っている若者たちの喧騒。丸めた紙くずがどこからか転がってきて、革靴の先に軽くぶつかる。
あまりにも真っ直ぐな恋する瞳に、甲洋はひとつ、喉を鳴らした。
*
店を出て彼女と別れたのは、午後10時をほんの少し過ぎた頃だった。
甲洋は足早に駅へと向かい、電車に乗ると5つ先の駅で下車する。改札を抜けて表に出ると、星のない夜空は厚い雲に覆われていた。植物が発する化合物の独特な匂いが、ふわりと鼻先をかすめていく。多分もうすぐ雨が降る。
結論から言うと、甲洋が彼女の告白を受け取ることはなかった。
できるわけがなかったのだ。誰かの気持ちを利用してまで心に嘘をつこうだなんて、一瞬でも浮かんでしまった考えにいっそう気を落とすだけで終わってしまった。
彼女は「ごめん」とだけ言って目を伏せた甲洋に、「そっか」と言って黙り込むだけだった。重たい沈黙のなか、手持ち無沙汰で口をつけた安いコーヒーの味が忘れられない。苦味だけが、今も口の中に残っていた。
あいも変わらず帰路へつく足取りは重かった。駅から自宅までの距離が、一瞬で過ぎ去っていくような気がする。マンションが目の前に迫る頃には、雨の匂いがさらに強くなっていた。
長雨になるのなら、桜は流れてしまうだろう。一緒に操の厄介な体質も洗い流してはくれないものかと、引きずるような足取りで夜道を帰路につきながら、そう願わずにはいられなかった。
「ただいま」
玄関に光はなく、その先に続く空間もとっぷりと闇に埋もれていた。
しんと静まり返った中で甲洋は落胆の息を漏らす。操が迎えに出てこないということは、彼がまだまともに動ける状態ではないということだ。
眠っているのならそれでいい。その方が今の甲洋にはありがたかった。だけど元気に「おかえり」と言いながら飛びついてくる姿が見られないのは、やはり寂しい。
いつも通り陽だまりのように明るくて可愛いあの子の笑顔を見れば、すべてが元通りになるような気がしていたのに。
しかしここで立ち尽くしていたって仕方がない。どれだけ意味のない時間稼ぎをしたところで、この行き場のない感情が消えてなくなるわけではないのだ。
甲洋は短い通路を進み、手探りで部屋の明かりのスイッチを入れた。幾度かの明滅のあと、狭いワンルームが白い光に包まれる。眩しさに目を眇める間もなく、飛び込んできた光景に大きく息を呑んだ。
「操!?」
操はベッドの下で丸めた身を横たえていた。畳んで置かれていたはずの甲洋の毛布を手繰り寄せ、掻き抱くようにしながら浅い呼吸を繰り返し、震えている。テーブルの上にはバターロールが手つかずで残されていた。
甲洋は鞄を投げだして操に駆け寄り、その身体を抱き起こすと軽く揺さぶる。
「操、操しっかり……!」
「ぁ……こう、よ?」
ゆらりと開かれた瞼の下で、あの餓えたように狭まった瞳孔が甲洋を捉える。初めて彼が公園で倒れた日の夜を思いだし、ドキリとして声を詰まらせたのも束の間、操の手が項に向かって伸ばされた。癖のある長い襟足をきゅうと掴まれ、思いのほか強い力で引き寄せられる。
唇に押しつけられた熱に目を見開く。首に絡みついた両腕に思いきり引き寄せられ、甲洋の身体が前のめりに傾いた。
「っ、みさ、んッ」
押し潰してしまわぬよう咄嗟に膝と肘を床について、どうにか胸を浮かせる。それでも覆いかぶさるような体勢であることは変わらなかった。より強く抱き寄せられて、唇がさらに深く押しつけられる。
かすかな水音に、面白いほど一瞬で頭が沸騰するのを感じた。操は何度も甲洋の唇に噛みつくようなキスをして、合間に熱い息を漏らした。
「こ、よ……ぁ、はぁ、んっ」
「ちょ、と、待っ……!」
わずかに顔を背けると、操は追いかけるように首を伸ばして唇の端にすら吸いついた。必死で甲洋の頭を掻き抱いて、緩く立てた両膝をときどき交差させるようにしながらもじもじと擦り合わせ、身をくねらせては喘いでいる。
様子がおかしいのは今に始まったことではない。けれどこの悶え方は尋常ではなかった。どうにかして落ち着かせなければと、甲洋は操の二の腕を強く掴んだ。引き剥がそうとしたそのとき、口端に焼けるような痛みが走る。それと同時に、操の身体がビク、ビク、と大きくバネのように跳ね上がった。
「い……ッ!?」
「ッ──、ぁ……っ、ァ……──っ!」
操がぐんと喉を反らした。その唇は紅を引いたように赤く染まっている。真っ直ぐに伸びたしっぽが、ブルブルと小刻みに痙攣していた。
溺れたみたいに荒く掠れた呼吸を繰り返す姿を、甲洋はただ呆然とした眼差しで見下ろすことしかできなかった。操に牙を立てられた唇の端が、じくじくと鋭い痛みを放っていた。鉄の味に目眩がする。
やがて強く首に絡みついていた両腕から、ゆっくりと力が抜けていった。ズルズルと糸が切れたように落ちていき、甲洋の肩にそれぞれ両手が這わされる。
「……操、お前」
イッたのか──と、最後まで問うまでもなかった。
薄い胸を上下させながら浅い呼吸を繰り返し、断続的に身を震わせるその反応は、まさに達したあとのそれだった。信じられないことだが、操は一方的なキスだけで上りつめてしまったのだ。それも甲洋の唇に傷をつけた瞬間に。
痛みもそっちのけで呆けたままでいる甲洋に、ぴったりと閉じられていた瞼をこじ開けた操が、その表情をくしゃりと歪めて見せた。
「ひとりで、できな、かっ」
「ッ!」
「自分でしても、ぜんぜん、ダメだった……甲洋がいい……甲洋がいいよぉ」
子供のように泣きだしてしまった操が、スーツの肩口をぎゅっと握りしめている。
開放しきれない熱を持て余したまま、ずっと甲洋の毛布を抱きしめながら襲ってくる波に耐え続けていたのだ。気が遠くなるほどの時間だったに違いない。
赤い頬に涙が伝うのを見て、甲洋は痛みに疼く下唇を噛み締める。やっぱり一人にしておくべきではなかった。なにがなんでも傍にいるべきだったのだと、迫り上がる後悔にみぞおちを押しつぶされる。
「……操」
甲洋は操の下に両手を差し込み、その半身が床からわずかに浮き上がるほど強く抱きしめた。ぺたりと倒れたまま震え続ける耳に唇を押しつけて、低い声で「ごめん」と囁く。操の肩がぴくんと跳ねた。
「もう大丈夫だから。お前の身体がちゃんと元に戻るまで、ずっと俺が傍にいるから」
唇の疼きは胸の疼きへと変わっていた。けれど甲洋は、これを殺さなければならない。とても簡単な話。ひたすら耐えればいいだけなのだ。
感情のベクトルがどこへ向かっていようとも、この子が大切だという気持ちに変わりはない。だから逃げずに傍にいようと、操を抱きしめながら甲洋は腹を括る。
操は甲洋の首筋に顔を埋めると、確かめるようにすぅと匂いを吸い込みながら両腕を首に回してきた。
「甲洋の匂い、どうしてこんなに苦しくなるの……?」
腕のなかで、操が小さく身じろいだ。わずかに力を緩めると、鼻先が触れそうな至近距離で熱っぽく潤んだ眼差しとぶつかる。するりと指先が伸びてきて、切れた口端をそっとなぞった。
「とても安心するはずなのに、今日は違った。こうしてると……甲洋の匂いを感じると、お腹の奥がジンジンしてきて」
「操……?」
あのね、と内緒話をするみたいに操が唇を耳元に寄せてくる。
「おれ、甲洋の──」
熱い吐息と一緒に吹き込まれた言葉に、甲洋は絶句した。強い衝撃に脳震盪を起こしたような錯覚すら覚える。訳が分からず、頭の中が真っ白だった。だけど操は言った。確かに言ったのだ。それだけは、鼓膜にぺたりと張りついている。
甲洋の──赤ちゃんが欲しい、と。
岩のように固まってしまった甲洋を、操がまたあの熱っぽい瞳で見上げてくる。ひたむきに注がれる眼差しが、ファーストフード店で告白してきた女のそれとよく似ているような気がするのは、甲洋が都合のいい夢でも見ているせいだろうか。決定的に違うのは、そこに隠すことなく情欲の色が滲みでていることだった。
「甲洋……ねぇお願い……」
艶めいた声が急かすように甘ったるく言葉を紡いだ。時に奇妙な母性を垣間見せるこの子は、確かに雄であるはずなのに。どうしてか蕩けきった瞳を揺らしながらほぅっと熱く息を漏らし、甲洋に『子種』をねだっている。
親でもない。兄弟でもない。ましてや狩りもできない子供でもなく。甲洋は雄として、操に求められているのだ。その事実に細胞が沸き立つような感覚を覚えた。指の先まで余すことなく広がっていくそれは、あまりにも強烈で本能的な喜びだった。
プツン、と。
頭の奥で──あるいは心の奥底で、なにかが切れる音を聞いた。理性の糸が切れるとき、本当にこんな音がするなんて初めて知った。
「なに言ってるか、わかってる……?」
かろうじて絞り出した低い問いかけに、操はどこか切なげに眉間にしわを寄せながら小首を傾げた。
「わかんないよ」
この子らしいなと、そう思う。けれどその無知な幼さは、もはや甲洋を止めるだけのブレーキにはなりえなかった。もう知るかという、ぶん投げるような思いだけがそこにはある。
悟りを開いた聖人のようであろうとした精神は、大事な柱を失ってたったいま崩壊してしまった。大切にしようと思っていたのに。ただ傍にいようと。それなのに。
「どうなっても、知らないからな」
それはどちらへ向けて放った言葉だったろう。
自分自身と操。多分、その両方だ。
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05
頭上から冷たいシャワーが雨のように降り注いでいた。
バスチェアに腰を落ち着けながら、甲洋はあごが胸につくほど項垂れて背中を丸めている。泥沼にでも落ち込んだように、気持ちが沈みきっていた。
(……やってしまった)
やってしまったのだ。甲洋は。
あれから何度か、操の熱を処理してやった。吐き出させると、一度は落ち着く。けれど数時間と経たないうちに目を覚まし、またグズりだす。そのたびに慰め続け、そのたびに、甲洋は浴室で冷えたシャワーに無心で身を打たせた。
甘ったるく掠れた高い声。生まれて初めての快感に染まる肌はバラ色で、蕩けた瞳からは止めどなく涙が溢れていた。すべてにどうしようもなく煽られて、いきり勃つ自身を気合いで抑え込む。その繰り返し。まるで拷問だ。
しかしついに我慢の限界は訪れた。時刻は朝方。項垂れる頭の角度と同様に垂れ下がる甲洋の右手からは、冷水と共につい今しがた放ったばかりの白濁とした液体が滴っている。
やってしまった。決してするまいと思っていたこと。甲洋は、操をオカズに耽ってしまったのだ。これまでの人生で、最も気持ちのいい自慰だった。そして、最低最悪の後味でもある。ひどい罪悪感に打ちのめされていた。
よく耐えたほうだと思うし、最後まで手を出さなかっただけ偉いじゃないかと、自身を慰めんとするもうひとりの自分の声がする。だけど同様に、よくもあの子を穢したなと、責め苛む声もするのだ。
あの子を捌け口に欲を吐き出してしまったという事実だけでも、甲洋は自分自身を許せそうになかった。
(どうすりゃよかったのさ)
操はほとんど身体に力が入らず、意識もおぼつかない状態だった。目を覚ますたび、ただうわ言のように甲洋の名前を呼んではすすり泣く。放っておけるわけがなかった。
快感に身を震わせながら、操はさらに甲洋の名を呼び続けた。何度も何度も甘く喘ぎながら呼ばれているうちに、まるで雄として求められているような錯覚を覚えた。
その度に抱きたいと思った。膨らみきった欲を突き立て、あの子の全てを手に入れてしまいたいと。
(……最低だ)
操は甲洋のことを純粋に家族として慕っているだけだ。親のように、兄弟のように。ときには奇妙な母性すら垣間見せる彼は、甲洋のことを子供だと思っている節すらある。
甲洋は操が求める通りの自分でありたかった。だから欲求不満だとか、一般常識だとか、そんなものにかこつけて必死で心にブレーキをかけていたのだ。
けれどどんなに取り繕ったところで、あれが甲洋の本心だった。
あの子が好きだ。あの子が欲しい。これは紛れもなく恋慕の情で、劣情はそれに伴っている。ずっと煮えきらないまま目を背けていた感情。こんな形で、認めたくなんかなかったのに。
「あぁもう……あー……あぁー……」
とりとめのない呻きが浴室に響く。降りしきる冷たいシャワーは、熱を逃しきった甲洋の心と身体をただいたずらに凍えさせるばかりだった。
*
「甲洋、甲洋ってば」
肩を揺すられ、甲洋は意識を浮上させた。ハッとして顔を上げると、ベッドから起き上がった操が小さく首を傾げていた。
いつの間に眠っていたのか。浴室を出たあと、甲洋はベッド脇に腰を落ち着けて操の様子を悶々と眺めていたが、知らぬ間にもたれかかって意識を手放していたようだった。
「身体は、もう平気?」
「んん……わかんない、けど。なんだか少し、ふわふわしてる」
「抜けた、ってことなのか……?」
「なにが?」
操は意味が分かっていない。自分の身に起こった変化が特異な体質によるものだということを、彼はまだ知らないのだ。
一瞬だけ迷ったが、甲洋は総士から聞いた話を操に全て話して聞かせた。自分の身体のことである。今後も付き合っていくしかない以上、彼にはよく理解しておいてもらう必要があった。
まだぼうっとしている様子だが、操はしっぽの先だけをゆらゆらと小さく揺らし、甲洋の話に集中して耳を傾けているようだった。
話し終えると、操は「そっか」と言ってうつむいた。やはりまだ少しぼんやりしている。顔も赤いし、目も充血していた。
「腹減ったろ? 今なにか作るから。もう少し休んでな」
時計を見ると、時刻は昼の12時を少し過ぎていた。昨日の昼食以降、お互いなにも食べていない。食事をする気分ではなかったが、操は腹を空かせているだろうと、甲洋は勢いよく立ち上がってシャツの袖をまくった。けれど操は力なく首を左右に振る。
「ご飯は、いらないや」
「操?」
「汗でベタベタ。シャワー浴びるね」
操はのろのろとした動きでベッドから抜けだした。立ち上がった途端によろけてしまった身体を支えてやると、そのまま肩を抱いて浴室の前まで連れて行った。
「平気? ひとりで入れる?」
「ん、だいじょうぶ」
服を脱ぎはじめる操から慌てて目を逸らし、甲洋は死角であるキッチンへ移動した。今日ばかりは仕切りのないワンルームが恨めしい。浴室は玄関がある廊下に面しているが、廊下とは名ばかりのほんの短い通路でしかなかった。
コンロの前に立ち、甲洋は腕を組むと指先をあごに添える。
「あの食いしん坊に食欲がないなんて……」
普段なら決してありえないことだ。
やはりまだ発情期から抜けきっていないのだろうか。昨日に比べればずいぶん落ち着いているように見えるが──昨夜のようなことがまだ続くのかもしれないと思うと、甲洋の心は鉛を詰めたように重たく沈む。
本当なら目を離さず傍にいるべきだということは分かっていた。けれど今日はこのあとバイトが入っている。飼いネコが盛っているので休みます、なんて理由がまかり通るはずがない。
だけどどこかで安堵している自分がいるのも確かだった。ほんの僅かでもあの子から離れて、他のことで思考を埋められる時間を得られることは、今の甲洋にとって一時の救いだった。
(ごめん、操……)
薄い壁の向こうからはシャワーの音が聞こえはじめる。こうしていたって仕方がないと、甲洋は苦い息をつきながら取り出したゴムで髪を縛った。
*
「なるべく早く帰るようにするから。ゆっくり横になって休んでな」
そう言って、甲洋は夕方からバイトへ出かけていった。
テーブルの上にはバターロールに切れ目を入れたものに、玉子とハムを挟んだものが三つ、皿に並べられてラップがかけられている。食べられそうなら食べるようにと、甲洋が作ってくれたものだった。けれどどうしても、手をつける気になれないでいる。
「発情期、かぁ」
ベッドの縁にぼんやりと腰掛けていた操は、熱っぽさを持て余しながら小さく零すと、そのまま横向きに転がった。シャワーで汗を流したあとの身体に、サラサラとしたロング丈のシャツが心地いい。
そういえば、いつもは下を穿かずにいると小言を漏らすはずの甲洋が、どうしてか今日だけは目をそらすだけで、なにも言ってこなかった。その心にはまるで硬く蓋がされているようで、なにかを感じとることすらできなかった。
それもこれも、すべては『発情期』とやらのせいなのだろうか。この熱っぽさも、重だるい感覚も。
だけど正直、操にはまだよく理解できていなかった。風邪のようなもの、くらいの認識でしかない。
分かっているのは、あのどこか甘ったるいような匂いがすると、決まって身体の具合がおかしくなってしまうということ。炙られたように熱くなって、意識が遠くへ押しやられる。
昨日だってそうだ。一騎たちとお花見をして、総士と一緒にアリの行列を眺めていた。せっせとパン屑を運ぶ姿が面白くて、夢中で観察していたはずなのに。気がついたら部屋にいて、甲洋が心配そうに見つめていた。それから、それから──?
──これはお前の身体が大人になった証拠だよ。
発情期が来ると、身体を大人にされてしまう。大人になるとあそこが変な感じになって、怖いくらい熱くなって、どうしたらいいのか、分からなくなって。
「ッ──!」
ズクン、と、なにかに突き上げられるような感覚が胸を貫く。そこからじわじわと熱いものが込み上げて、四肢の先まで広がった。
操は取り替えられたばかりのシーツに爪を立て、どうしようもなく身を震わせる。あの甘い匂いはどこにもない。不安を駆り立てられる鳴き声だって聞こえない。だけど、操の耳には甲洋の声が残っている。この部屋には、彼の匂いが満ちていた。身体がまた、どんどん熱くなっていく。
──操
優しい声。どうしてか切なくて、涙がでてくる。
「こう、よ」
昨日はこうして名前を呼ぶと彼が手を差し伸べてくれた。震える身体を抱きしめてくれた。大きな手で、あそこをたくさん触ってくれた。嬉しかった。胸がドキドキしていた。恥ずかしいという気持ちに似た、不思議な感情。くすぐったいばかりだったはずなのに、それはやがて締めつけるような狂おしさに変わって、操の心をぐちゃぐちゃにした。
何度も甲洋の唇に噛みついてしまいたかったけれど、どんなにねだっても彼は顔を背けて一度もさせてくれなかった。どうしてだろう。どうして、唇にキスをしてはいけないのだろう。
どうして。どうして──牙を立ててしまいたくなるんだろう?
──次からは一人でもできるように、ちゃんと見ていて。
「ぁ……」
甲洋の言葉を思いだし、操は仰向けになると両膝を立てた。無意識に縮こまろうとするしっぽを太腿に巻きつけ、長いシャツをたくし上げる。
ぷっくりと膨らんで赤く染まった屹立が、鼓動に合わせて揺れていた。蜜を滲ませるそれにおそるおそる指先を伸ばし、甲洋がしてくれたようにそっと握ってみた。
「ふぁッ、ぁ」
熱い。少し触っただけなのに、弾けそうなほどに熱が膨らむ。浅く呼吸を繰り返し、操は甲洋がどうしていたかを思いだす。大きな手。指も長くて、とてもキレイな爪の形をしている。あの手が、昨日はひどく濡れそぼって、くちゅくちゅと音を立てていた。
「はっ、ぁう……あ、ぁ……っ、こう、よ……こうよ……」
名前を呼びながら扱いてみると、ひりつくような痛みと一緒に甘ったるい感覚が駆け抜けた。それは頭の芯まで重く響いて、操からどんどん思考を奪う。
止めどなく溢れる蜜が滑りをよくして、ささやかな水音が響き渡っていた。
──操……気持ちいい……?
耳に押しつけられた甲洋の声。感度がよすぎるネコの耳は、ささやき声すら脳に響いた。それがどれほど操の心を掻き乱したか、きっとあのひとには分からない。
操は昨日の甲洋の問いかけに、今になって何度も頷いた。あのときはよく分からなかったけれど。
「きもち、い、こぉよ、きもちい……ッ、あ、ぁう、んっ」
声が抑えられない。誰もいない部屋の中に、操の喘ぎと水音だけがこだましている。内腿を震わせながら、爪先でシーツに弧を描く。自分の身体が自分のものではないみたいだった。
「甲洋……甲洋……っ」
してほしいと思った。甲洋に。傍にいて、触って欲しい。もっともっと強く、その身体に鼻を押しつけたい。しっぽを擦りつけて、匂いをつけたい。自分でいっぱいになってほしい。混ざり合って、もうなにも分からなくなってしまうくらい、嬉しくなりたい。
「こうよ、ぁッ、こう、よ……っ、ねぇ、さみしい……っ」
──いけそう?
操は激しく首を振る。昨日は、いけた。だけど今は、あの波が遠い。こんなに熱くて気持ちがいいのに、頭がおかしくなってしまいそうなのに。感覚が、高いところに登りきらない。
「いけ、ない……っ、いけないよっ! 甲洋……ねぇ甲洋……!」
欲しい。欲しくて堪らない。腹の奥が疼いている。怖い。こんなに切なくて、こんなに胸が苦しくなるなら、大人になんかなりたくなかった。
操は解放しきれない熱を両手で握りしめると、横向きになって身体を丸める。涙がポロポロと溢れて止まらなかった。どうして、『こんな気持ち』になるんだろう?
「……おれ、甲洋の──」
どれほど泣いても、名前を呼んでも、あの感覚は訪れないままだった。
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頭上から冷たいシャワーが雨のように降り注いでいた。
バスチェアに腰を落ち着けながら、甲洋はあごが胸につくほど項垂れて背中を丸めている。泥沼にでも落ち込んだように、気持ちが沈みきっていた。
(……やってしまった)
やってしまったのだ。甲洋は。
あれから何度か、操の熱を処理してやった。吐き出させると、一度は落ち着く。けれど数時間と経たないうちに目を覚まし、またグズりだす。そのたびに慰め続け、そのたびに、甲洋は浴室で冷えたシャワーに無心で身を打たせた。
甘ったるく掠れた高い声。生まれて初めての快感に染まる肌はバラ色で、蕩けた瞳からは止めどなく涙が溢れていた。すべてにどうしようもなく煽られて、いきり勃つ自身を気合いで抑え込む。その繰り返し。まるで拷問だ。
しかしついに我慢の限界は訪れた。時刻は朝方。項垂れる頭の角度と同様に垂れ下がる甲洋の右手からは、冷水と共につい今しがた放ったばかりの白濁とした液体が滴っている。
やってしまった。決してするまいと思っていたこと。甲洋は、操をオカズに耽ってしまったのだ。これまでの人生で、最も気持ちのいい自慰だった。そして、最低最悪の後味でもある。ひどい罪悪感に打ちのめされていた。
よく耐えたほうだと思うし、最後まで手を出さなかっただけ偉いじゃないかと、自身を慰めんとするもうひとりの自分の声がする。だけど同様に、よくもあの子を穢したなと、責め苛む声もするのだ。
あの子を捌け口に欲を吐き出してしまったという事実だけでも、甲洋は自分自身を許せそうになかった。
(どうすりゃよかったのさ)
操はほとんど身体に力が入らず、意識もおぼつかない状態だった。目を覚ますたび、ただうわ言のように甲洋の名前を呼んではすすり泣く。放っておけるわけがなかった。
快感に身を震わせながら、操はさらに甲洋の名を呼び続けた。何度も何度も甘く喘ぎながら呼ばれているうちに、まるで雄として求められているような錯覚を覚えた。
その度に抱きたいと思った。膨らみきった欲を突き立て、あの子の全てを手に入れてしまいたいと。
(……最低だ)
操は甲洋のことを純粋に家族として慕っているだけだ。親のように、兄弟のように。ときには奇妙な母性すら垣間見せる彼は、甲洋のことを子供だと思っている節すらある。
甲洋は操が求める通りの自分でありたかった。だから欲求不満だとか、一般常識だとか、そんなものにかこつけて必死で心にブレーキをかけていたのだ。
けれどどんなに取り繕ったところで、あれが甲洋の本心だった。
あの子が好きだ。あの子が欲しい。これは紛れもなく恋慕の情で、劣情はそれに伴っている。ずっと煮えきらないまま目を背けていた感情。こんな形で、認めたくなんかなかったのに。
「あぁもう……あー……あぁー……」
とりとめのない呻きが浴室に響く。降りしきる冷たいシャワーは、熱を逃しきった甲洋の心と身体をただいたずらに凍えさせるばかりだった。
*
「甲洋、甲洋ってば」
肩を揺すられ、甲洋は意識を浮上させた。ハッとして顔を上げると、ベッドから起き上がった操が小さく首を傾げていた。
いつの間に眠っていたのか。浴室を出たあと、甲洋はベッド脇に腰を落ち着けて操の様子を悶々と眺めていたが、知らぬ間にもたれかかって意識を手放していたようだった。
「身体は、もう平気?」
「んん……わかんない、けど。なんだか少し、ふわふわしてる」
「抜けた、ってことなのか……?」
「なにが?」
操は意味が分かっていない。自分の身に起こった変化が特異な体質によるものだということを、彼はまだ知らないのだ。
一瞬だけ迷ったが、甲洋は総士から聞いた話を操に全て話して聞かせた。自分の身体のことである。今後も付き合っていくしかない以上、彼にはよく理解しておいてもらう必要があった。
まだぼうっとしている様子だが、操はしっぽの先だけをゆらゆらと小さく揺らし、甲洋の話に集中して耳を傾けているようだった。
話し終えると、操は「そっか」と言ってうつむいた。やはりまだ少しぼんやりしている。顔も赤いし、目も充血していた。
「腹減ったろ? 今なにか作るから。もう少し休んでな」
時計を見ると、時刻は昼の12時を少し過ぎていた。昨日の昼食以降、お互いなにも食べていない。食事をする気分ではなかったが、操は腹を空かせているだろうと、甲洋は勢いよく立ち上がってシャツの袖をまくった。けれど操は力なく首を左右に振る。
「ご飯は、いらないや」
「操?」
「汗でベタベタ。シャワー浴びるね」
操はのろのろとした動きでベッドから抜けだした。立ち上がった途端によろけてしまった身体を支えてやると、そのまま肩を抱いて浴室の前まで連れて行った。
「平気? ひとりで入れる?」
「ん、だいじょうぶ」
服を脱ぎはじめる操から慌てて目を逸らし、甲洋は死角であるキッチンへ移動した。今日ばかりは仕切りのないワンルームが恨めしい。浴室は玄関がある廊下に面しているが、廊下とは名ばかりのほんの短い通路でしかなかった。
コンロの前に立ち、甲洋は腕を組むと指先をあごに添える。
「あの食いしん坊に食欲がないなんて……」
普段なら決してありえないことだ。
やはりまだ発情期から抜けきっていないのだろうか。昨日に比べればずいぶん落ち着いているように見えるが──昨夜のようなことがまだ続くのかもしれないと思うと、甲洋の心は鉛を詰めたように重たく沈む。
本当なら目を離さず傍にいるべきだということは分かっていた。けれど今日はこのあとバイトが入っている。飼いネコが盛っているので休みます、なんて理由がまかり通るはずがない。
だけどどこかで安堵している自分がいるのも確かだった。ほんの僅かでもあの子から離れて、他のことで思考を埋められる時間を得られることは、今の甲洋にとって一時の救いだった。
(ごめん、操……)
薄い壁の向こうからはシャワーの音が聞こえはじめる。こうしていたって仕方がないと、甲洋は苦い息をつきながら取り出したゴムで髪を縛った。
*
「なるべく早く帰るようにするから。ゆっくり横になって休んでな」
そう言って、甲洋は夕方からバイトへ出かけていった。
テーブルの上にはバターロールに切れ目を入れたものに、玉子とハムを挟んだものが三つ、皿に並べられてラップがかけられている。食べられそうなら食べるようにと、甲洋が作ってくれたものだった。けれどどうしても、手をつける気になれないでいる。
「発情期、かぁ」
ベッドの縁にぼんやりと腰掛けていた操は、熱っぽさを持て余しながら小さく零すと、そのまま横向きに転がった。シャワーで汗を流したあとの身体に、サラサラとしたロング丈のシャツが心地いい。
そういえば、いつもは下を穿かずにいると小言を漏らすはずの甲洋が、どうしてか今日だけは目をそらすだけで、なにも言ってこなかった。その心にはまるで硬く蓋がされているようで、なにかを感じとることすらできなかった。
それもこれも、すべては『発情期』とやらのせいなのだろうか。この熱っぽさも、重だるい感覚も。
だけど正直、操にはまだよく理解できていなかった。風邪のようなもの、くらいの認識でしかない。
分かっているのは、あのどこか甘ったるいような匂いがすると、決まって身体の具合がおかしくなってしまうということ。炙られたように熱くなって、意識が遠くへ押しやられる。
昨日だってそうだ。一騎たちとお花見をして、総士と一緒にアリの行列を眺めていた。せっせとパン屑を運ぶ姿が面白くて、夢中で観察していたはずなのに。気がついたら部屋にいて、甲洋が心配そうに見つめていた。それから、それから──?
──これはお前の身体が大人になった証拠だよ。
発情期が来ると、身体を大人にされてしまう。大人になるとあそこが変な感じになって、怖いくらい熱くなって、どうしたらいいのか、分からなくなって。
「ッ──!」
ズクン、と、なにかに突き上げられるような感覚が胸を貫く。そこからじわじわと熱いものが込み上げて、四肢の先まで広がった。
操は取り替えられたばかりのシーツに爪を立て、どうしようもなく身を震わせる。あの甘い匂いはどこにもない。不安を駆り立てられる鳴き声だって聞こえない。だけど、操の耳には甲洋の声が残っている。この部屋には、彼の匂いが満ちていた。身体がまた、どんどん熱くなっていく。
──操
優しい声。どうしてか切なくて、涙がでてくる。
「こう、よ」
昨日はこうして名前を呼ぶと彼が手を差し伸べてくれた。震える身体を抱きしめてくれた。大きな手で、あそこをたくさん触ってくれた。嬉しかった。胸がドキドキしていた。恥ずかしいという気持ちに似た、不思議な感情。くすぐったいばかりだったはずなのに、それはやがて締めつけるような狂おしさに変わって、操の心をぐちゃぐちゃにした。
何度も甲洋の唇に噛みついてしまいたかったけれど、どんなにねだっても彼は顔を背けて一度もさせてくれなかった。どうしてだろう。どうして、唇にキスをしてはいけないのだろう。
どうして。どうして──牙を立ててしまいたくなるんだろう?
──次からは一人でもできるように、ちゃんと見ていて。
「ぁ……」
甲洋の言葉を思いだし、操は仰向けになると両膝を立てた。無意識に縮こまろうとするしっぽを太腿に巻きつけ、長いシャツをたくし上げる。
ぷっくりと膨らんで赤く染まった屹立が、鼓動に合わせて揺れていた。蜜を滲ませるそれにおそるおそる指先を伸ばし、甲洋がしてくれたようにそっと握ってみた。
「ふぁッ、ぁ」
熱い。少し触っただけなのに、弾けそうなほどに熱が膨らむ。浅く呼吸を繰り返し、操は甲洋がどうしていたかを思いだす。大きな手。指も長くて、とてもキレイな爪の形をしている。あの手が、昨日はひどく濡れそぼって、くちゅくちゅと音を立てていた。
「はっ、ぁう……あ、ぁ……っ、こう、よ……こうよ……」
名前を呼びながら扱いてみると、ひりつくような痛みと一緒に甘ったるい感覚が駆け抜けた。それは頭の芯まで重く響いて、操からどんどん思考を奪う。
止めどなく溢れる蜜が滑りをよくして、ささやかな水音が響き渡っていた。
──操……気持ちいい……?
耳に押しつけられた甲洋の声。感度がよすぎるネコの耳は、ささやき声すら脳に響いた。それがどれほど操の心を掻き乱したか、きっとあのひとには分からない。
操は昨日の甲洋の問いかけに、今になって何度も頷いた。あのときはよく分からなかったけれど。
「きもち、い、こぉよ、きもちい……ッ、あ、ぁう、んっ」
声が抑えられない。誰もいない部屋の中に、操の喘ぎと水音だけがこだましている。内腿を震わせながら、爪先でシーツに弧を描く。自分の身体が自分のものではないみたいだった。
「甲洋……甲洋……っ」
してほしいと思った。甲洋に。傍にいて、触って欲しい。もっともっと強く、その身体に鼻を押しつけたい。しっぽを擦りつけて、匂いをつけたい。自分でいっぱいになってほしい。混ざり合って、もうなにも分からなくなってしまうくらい、嬉しくなりたい。
「こうよ、ぁッ、こう、よ……っ、ねぇ、さみしい……っ」
──いけそう?
操は激しく首を振る。昨日は、いけた。だけど今は、あの波が遠い。こんなに熱くて気持ちがいいのに、頭がおかしくなってしまいそうなのに。感覚が、高いところに登りきらない。
「いけ、ない……っ、いけないよっ! 甲洋……ねぇ甲洋……!」
欲しい。欲しくて堪らない。腹の奥が疼いている。怖い。こんなに切なくて、こんなに胸が苦しくなるなら、大人になんかなりたくなかった。
操は解放しきれない熱を両手で握りしめると、横向きになって身体を丸める。涙がポロポロと溢れて止まらなかった。どうして、『こんな気持ち』になるんだろう?
「……おれ、甲洋の──」
どれほど泣いても、名前を呼んでも、あの感覚は訪れないままだった。
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04
翌朝、操は昨日の不調が嘘のように元気になっていた。
彼は公園で倒れたときのことや、一騎に連れ帰られたこと──そして夜中に甲洋を襲ったことも、なにも覚えていなかった。
それでも念のため病院に引きずっていこうとする甲洋を泣いて困らせ、しまいには風呂場に立てこもり、ストライキを起こしはじめる始末だった。
「操、いいかげん出ておいで」
「やだ! 出てったらぜったい病院連れてくでしょ!」
「また倒れたりしたらどうするのさ? ちゃんと調べてもらわないと」
「やだったらやだ! ぜっっったいやだ!!」
困った。病院嫌いは知っていたが、ここまで頑なに譲らないとまでは思わなかった。
簀巻きにするにも、まずはここから引きずり出さないことには始まらない。こうなれば奥の手を使うしかなさそうだった。
「わかった。じゃあ朝ご飯は抜きだよ。それでもいいの?」
「……いいよ」
少し間があったが、彼はなおも折れなかった。曇りガラスの向こうで、扉を背にした操が背中を丸めて体育座りをしているのが分かる。少し可哀想な気もしたが、心を鬼にしてその場を離れた。
甲洋はポケットからゴムを取り出すと、髪をひとつに纏めながらキッチンスペースへと足を向けた。冷蔵庫を開けて、一騎が持ってきてくれたカレーのタッパを取り出すと、中身を鍋にあける。そしてコンロに火をつけ、じっくりコトコト温めはじめた。
具を崩さないよう、慎重に木べらで鍋をかき混ぜていると、食欲をそそるカレーの匂いが辺り一面に広がっていく。
──カラリ
あまりにもあっけなく、けれど控えめに開かれた風呂場のドア音に、甲洋は思わず噴きだしかけた。が、表情を引き締め、黙々とカレーを温め続ける。
「……あの、甲洋」
操がひょっこりと顔を出す。両手をモジモジとさせながら、上目遣いでこちらを見ている。けれど甲洋はあえて鍋から視線を外すことなく、淡々とした口調で言った。
「なに? 朝ご飯はいらないんじゃなかったの?」
「あのね、おれ病院は行かないけど、一騎カレーは食べるよ」
「そんな都合のいい話があるとでも?」
「……グスッ」
操が鼻をすすったのを聞いて、甲洋はガクリと項垂れた。わんわん泣かれるのも困るが、静かに泣かれるのはそれ以上に弱ってしまう。
鍋をかき混ぜていた手を止めて、チラリと横目で操を見た。彼は耳としっぽをしょんぼりとさせ、うつむいて下唇を噛んでいた。風呂場に立てこもる前にもさんざん泣いたから、目が赤くなっている。腹のあたりを両手でぎゅうと握りしめている様子が、これまた上手い具合に憐れみを誘っていた。
心の中で「あーぁ」と嘆声を漏らしながら、甲洋はいったんコンロの火を止めて操に身体を向けた。
「具合は? どこもつらいところはない?」
「……ない」
「少しでも様子が変だと思ったら、すぐに連れて行くよ。次は絶対。約束できる?」
「ぅ……できる……する、約束……」
操がこくんと頷いた。泣いたせいで目元は赤いが、顔色はいい。起き抜けに確かめたが熱もないし、そもそも朝からこれだけ元気に泣いて喚いて立てこもり、食い意地もはっているのだから、少しくらい様子を見てもいいのかもしれないと思った。
総士じゃないが、じっさい知恵熱という線も捨てきれない。
(あまり過保護すぎるのもな……)
それは分かっちゃいるのだが。
「……わかった。座って待ってな。いま用意してるから」
「!」
ため息混じりに言うと、操が耳としっぽを同時にピンッと立てながら顔をあげて万歳をした。
「やったー! カレーだ! 甲洋大好き!」
「お前ね、本当にわかってる?」
「わかってるよー!」
跳ねるような足取りで部屋の中央のテーブルにつき、嬉しそうに身体を揺らしてカレーを待っている姿に、ぜったい分かってないだろと甲洋は思った。
(色気より食い気だもんな、こいつは)
色気の方に勝られても困るのは甲洋だ。昨夜の人が──いや、ネコが変わったような操の痴態を思いだし、慌てて首を振って追いやりながら、コンロに再び火をつけた。
*
それから三日後、桜がちょうど見頃を迎えていた。
芝生に覆われた広い敷地に、満開に花を咲かせた木々が不規則に転々と連なっている。春休み中とはいえ平日ということもあり、花見客はそう多くない。所々に酒盛りをしている若者の姿はあるものの、のどかな光景が広がっていた。
「わぁ、すごいね甲洋! 桜ってこんなに立派に花が咲くんだ!」
昼近くに公園へと足を運んだ甲洋と操は、手を繋ぎながら美しい桜の木々を眺めて歩いていた。降り注ぐ春の日差しを受けて、桃色を帯びた花の群れが淡く光り輝いている。
「一騎と総士、もう来てるかな? お弁当どんなだろ? 楽しみ!」
「花より団子」
「え? ダンゴムシ? あまり得意じゃないな……食べたくない」
「違うよ」
ここでも食い気ばかりの操に、甲洋は肩を揺らして笑ってしまった。
今日はこれから一騎たちと一緒に花見をすることになっている。弁当は一騎が用意してくれるというので、甲洋はコーラやオレンジジュースなどを買い込んだ袋を片手にぶら下げていた。操が気合いたっぷりに背負っているリュックには、彼が昨日の晩にせっせと詰めたお菓子が大量に入っている。
「桜の下でみんなでご飯かぁ。嬉しいな。こんなの初めてだよ!」
操は肩をすくめ、ぎゅうっと目を閉じて嬉しそうに頬を染めていた。よほど興奮しているのか、ぷるぷると震えるしっぽが一回り大きく膨らんでいる。
弾むような胸の高鳴りすらも伝わってくるような気がして、甲洋は愛しさと幸福感を同時に覚えながら操を見つめる瞳を細めた。
去年まで、春はただ通り過ぎていくだけの季節のひとつに過ぎなかった。家族と花見をした思い出だってない。彼らとの暮らしは白黒の紙芝居のように淡々としていて、四季の彩りを感じさせるものなど何もなかった。
そしてそれは操も同じだったのだ。この子には家族の記憶すらない。ただ一年中、カーテンの締め切られた部屋で痩せ細りながら生きていた。
この場所に来られてよかったと、甲洋は思う。あたたかな春の陽だまり。この明るい場所に、操を連れて来られてよかった。だけど本当は、連れて来られたのは甲洋のほうなのかもしれない。操は甲洋の手を強く握りしめて離さない。
「あ! 一騎だ! ねぇほら! あそこで手を振ってるよ!」
操が指さした方向を見ると、ひときわ大きな桜の木の下を陣取っている一騎が、優しく笑顔で手を振っていた。総士もいる。三段重ねの大きな重箱が三つも並んでいるのを見て、操のしっぽがまた一回り膨らんだ。
「甲洋! 早く行こ!」
甲洋の手をグイグイと引っ張って、操が走り出した。
*
一騎が作ってきた豪華弁当を食べたあと、操は渋る総士を引っ張って遊びに行った。
甲洋と一騎は目の届く範囲にいる二匹を眺めながら、のんびり一息ついている。
「操、元気になってよかったな」
一騎が紙コップにお茶を注いで、甲洋に差し出しながら言った。それを受け取りながら頷いて、少し離れた位置でしゃがみこんで何かをしている操と総士の背中を見やる。
「助かったよ、本当に。お前と総士がいなかったらと思うと、ゾッとする」
眉尻を下げながら苦笑した甲洋に、一騎は自分の分のコップにもお茶を注ぎながらやんわりと笑い返した。それから、また二匹の背中に視線を注ぐ。
「本当に兄弟みたいだよな。どこかで血が繋がってたりして」
「まさか。そうだったら面白いけど」
「ところでなにしてるんだ? あいつら」
「さぁ?」
しゃがみ込んでいる二匹は、どちらもしっぽの先だけをくねくねと揺らして地面をじっと見つめているようだった。その頭上を、つがいのモンシロチョウが交差するように円を描きながら通り過ぎていく。
平和だ。食後ということもあり、和やかな光景と春の陽気に眠気を誘われる。というより、ネコを見ていると眠たくなってくるような気がするのはなぜだろう。
「アリでも見てるのかな?」
「アリ? アリか……」
なにが楽しいんだろうかと思いつつ、飼い主のほうも大概のんきで和やかである。
そのまま特に言葉を交わすでもなく二匹を見守り、ふたり同時に欠伸を噛み殺した。
──アオーン、アオォーン
するとどこからか、この時期になるとよく耳にする猫の声が聞こえてきた。甲洋と一騎は同時にその方向へと目を向ける。遠くのほうで獣型の三毛猫が声をあげていた。細い桜の木の根元でうずくまり、切なそうに目を細めてずっと鳴き続けている。
「あの子、どうしたんだろうな?」
一騎が気遣わしげに言うのに対し、甲洋は生暖かい眼差しをしながら息をつく。
「春だからね」
繁殖期を迎えたメス猫が、子種を求めて盛っているのだ。猫の恋は春の季語にもなっている。しかし、果たして猫にもそんな感情はあるのだろうか。
少なくとも、操にはないのだろうなと甲洋は思う。
──甲洋のこと好きって思ったら、ちゅうして噛みたくなっちゃった
あれは年が明ける前のこと。クリスマスイブの朝だった。甲洋のファーストキスは操によって奪われて、おまけに歯まで立てられた。あのときの衝撃は、今でも甲洋の胸に大きな波紋を広げている。
だけどそれは、甲洋が人間の物差しで一方的に意識してしまっているだけの話でしかなかった。操にそんなつもりは毛頭なくて、あの子のなかにあるのは親兄弟に対する深い親愛の情でしかない。
(どこまでいってもネコなんだよな)
あれから何度も唇を重ねている──あくまで一方的に奪われているのだが──からといって、それを恋なんてものに結びつけてはいけないのだ。そもそもイヌやネコを恋愛対象として見ること自体、一般常識としてありえないことでもある。
(……なし、だよなぁ)
当たり前の話だ。なのにどこかで落胆している自分がいることに気がついて、煮え切らない感情から目をそらす。もういっそ、誰でもいいから恋人でも作るべきなのだろうか。ふっと浮かんだ考えの浅はかさに、自己嫌悪がムカムカと胸を焼く。
そんな理由で誰かを心から想うことなど、できるはずがないのに。
「操! しっかりしろ! 一騎! 甲洋!」
「ッ!?」
ぼんやりと三毛猫を眺めていた甲洋と一騎は、総士の焦った声にハッと息をのんだ。
すぐさま視線を走らせれば、さっきまでしゃがみこんでいたはずの操が地面に崩れ落ちていた。総士が青い顔をしながらその身体を揺り動かし、助けを求めている。
「操!?」
甲洋もまた青褪めながら、弾かれたように立ち上がるとその場に駆け寄った。ぐったりとして動かない操を抱き起こし、その頬や額に触れる。
(熱い……!)
さっきまでなんでもなさそうにしていたはずなのに。少し目を離したすきに、操は再び発熱していた。赤い顔をして、苦しそうにはかはかと呼吸を乱している。
「総士! なにがあったんだ!?」
駆けつけた一騎が、総士の横に膝をついた。総士は難しい顔をしながら操を見つめ、それから一騎の方を見て言った。
「前と同じだ。急に倒れた」
「一体どうして?」
一騎の漠然とした問いかけに、総士は首を左右に振る。
「わからない。ただアリがパン屑を運んでいるのを、一緒に観察していただけだ──ただ」
総士がなにかを言いかけていたが、甲洋はいてもたってもいられず、操を抱き上げながら立ち上がった。素人がここでなにを話し合っていても埒が明かない。とにかく、一刻も早く病院へ連れて行かなくては。
(やっぱりあのとき、無理にでも連れて行くべきだった……!)
操の身体は、どんどん熱を上げていくようだった。腕のなかで苦しそうに呼吸を荒げ、額に汗を滲ませている様子を見て、甲洋は下唇を噛みしめる。
あのときなにがなんでも連れて行って、この子の身体になにが起こっているのか、徹底的に調べてもらうべきだったと。
「待て」
走り出そうとしたその瞬間、総士に引き止められた。逸る気持ちを押し殺し、どうにかその場に足を留めた甲洋に、彼はなにか思うところがあるようだった。数秒ほど逡巡したのち、立ち上がって一騎を見下ろす。
「一騎。水がほしい。頼めるか」
「水か? わかった!」
頷いた一騎が即座に駆けだしていく背を見届けて、総士は改めて甲洋を見据えた。そして険しいなかに憮然とした表情を滲ませながら、「病院へは行く必要がない」と、言い切った。
「なぜ?」
「おそらく──いや、これは確信だ。僕自身、本で読んだ程度の知識しかないが……今回のことでハッキリした」
「総士?」
どうして彼がわざわざ一騎に席を外させたのか。それは、保護者の前では極めて言いにくいことを言おうとしていたからだったのだ。
「甲洋、操のそれは病気じゃない。彼は──発情している」
*
帰宅した甲洋は途方に暮れていた。
ベッドに操を寝かせてそのまま縁に腰掛けると、肺ごと魂が抜け落ちてしまうのではないかと思うほど深くかすれた息をつく。
「発情って……なんだよそれ……?」
少しばかり伸びすぎて鬱陶しくなってきた髪をぐしゃぐしゃと乱しながら、公園で聞いた総士の話を脳裏に反芻する。
ヒト型のネコには本来、獣型の猫のように明確な発情期というものはないのだと、総士は言った。けれど稀に、そういう『体質』を持つものもいるのだと。
獣型の猫の雄は通常、繁殖期を迎えた雌が発する声やフェロモンよって、発情が誘発される。本来ヒト型のネコには無効であるはずだが、いわゆる『発情体質』を持っているらしい操は、獣型の雌猫が発する声やフェロモンの影響を強く受けてしまったのだ。よって、発情が誘発された。
三日前に倒れたときも、今日と同じ状況だったのだ。操は雌の三毛猫が発する声にひどく怯えて、それから意識を手放した。総士は同じ場面に二度も出くわし、確信を得たようだった。
病院に駆け込んだところでどうしようもない。ヒト型の発情については症例があまりにも少ないことから、対処法が未だに確立されていないらしい。まるで奇病だ。
なら一体どうすればいいんだと問いかけた甲洋に、総士はどこかバツが悪そうに咳払いをしながら操の身体の中心を見つめると、「今はまだ顕著な反応は現れていないようだが……」と切りだし、こう続けた。
「状況に応じて適切な指導、あるいは処理を施すことでやり過ごす以外に、方法はないだろう。そしてそれは、飼い主の役目だ」
と──。
その後、コンビニから一騎が水を買って戻ってきた。総士はそれを受け取り、お姫様抱っこされている操の手にソッ……と握らせて身を引くと、明らかに何かを含んだ眼差しをしながら「健闘を祈る」と言った。
秘密裏に交わされた会話の内容など知る由もない一騎は、最後まで操の身を案じながらも総士に引きずられて帰っていった。
甲洋は浅い呼吸を繰り返しながら眠っている操に横目を走らせる。
生死を脅かすような病が潜んでいたわけではないと分かって安堵はしたが、まさか原因が発情期を迎えたことによる不調──しかも特異体質──だったとは。
あの夜の痴態も、つまりは発情によるものだったのだ。彼は全身から壮絶な色香を放っていて、本能だけが剥き出しになった状態だった。あのときもし操の腹の虫が鳴らなかったら、今頃どうなっていただろう。
「俺が誘発されてどうするんだよ……」
ネコでもあるまいし──いや、むしろ人間だからなのかもしれない。明確な発情期がないのは人間だって同じだ。それは要するに、年がら年中いつでも繁殖期ということでもあるわけで。
(……だからなんだっていうのさ)
甲洋はまた髪をぐしゃぐしゃと乱して頭を抱えた。
今は眠っているからいいが、またあの夜と同じ状態が再現されてしまったら──
「ぅ……」
「!」
そのとき、操が苦しげな呻きを上げた。
甲洋がギクリと身を強張らせながら振り向くと、彼は泣きそうに顔を歪めて額に汗を滲ませていた。息を荒げ、さまよわせた両手でシーツを掻き乱しながら「痛い」とこぼされた声に、血の気が引く。ベッドから腰を上げると、その身体を揺り動かした。
「操! 操、しっかり! 痛いって、どこが!?」
「ぁ、こ、よ……」
うっすらと開かれた瞳は、三日前の夜のように瞳孔がほんのりと狭まっていた。
しかし正気は保たれているようで、あのただならぬ異様な空気は感じられない。けれど今が非常事態であることに変わりはなく、この子の身体に何かが起こっているのは確かだった。
操は大粒の涙を溢れさせ、上掛けのなかで身悶えながら寝返りをうった。くるりと背中を丸め、小刻みに身を震わせて泣いている。
「操!?」
「ぅ、おな、か」
「お腹!? 痛いのか!?」
「おなか、の……した……」
「……えっ」
「おれ……病気、なっちゃったのかな……」
嫌でもひらめくものがあって、つい押し黙ってしまう。
甲洋は思わず喉を鳴らし、しくしくと泣いている操の上からおそるおそる上掛けを剥いだ。彼は胎児のような体勢で両足の間に両手を潜り込ませ、もじもじと腰を揺らしていた。
──やっぱりそうだ。
愕然としながら立ち尽くす。眼下では操が子供のようにしゃくりを上げている。
男が勃起しているのを処理したことはあっても、それが自身に起こるなんて思ってもみなかったのだろう。初めて迎える身体の変化にひどく怯えて、彼はしっぽをくるりと丸めてしまっていた。
(……そうだよなぁ)
考えてもみれば、こんなことがなくたっていずれは起こりうることだった。この子の外見からおおよその年齢を考慮するに、いっそ遅いくらいだったのではないか。
状況に応じて適切な指導を。適切な処理を。まさに今がそのときで、甲洋のなかに去来したのはある種の諦めだったのかもしれないし、あるいは開き直りだったのかもしれない。いずれにせよ、これは飼い主としての義務なのだ。
操が助けを必要としているのなら、手を差し伸べるのは当然のこと。そして今の甲洋に必要なのは──完全なる無の境地である。
(俺の煩悩、無に還れ)
「操」
甲洋はいつも通りの声のトーンを心がけ、ベッドに膝をつくと操の身体を抱き起こす。ぺたりと横倒しになった耳が、プルプルと可哀想なくらい震えていた。泣きぬれた瞳に見上げられ、甲洋は安心させるように優しくふわりと微笑んだ。
「大丈夫だから。泣かないで」
「こうよ……」
「おいで」
あぐらをかくと、ベッドがわずかに軋んだ音を立てた。甲洋は開かれた足の間に操を誘い、背後から抱き包むようにして腰を落ち着かせる。その間も操の両手は股に差し込まれていて、立てた膝頭をもじもじと擦り合わせていた。
甲洋はふうぅと細長い息を吐きだすと、操の両手を掴んで外させる。
「そこ、痛くなるのは初めて?」
ともすれば不格好に上ずりそうになる声を抑え、静かに問うと操は弱々しく頷いた。その拍子にぽろりと涙がこぼれ落ちる。
「怖がらなくていい。俺に任せて」
淡々とした動作を心がけながら、甲洋は操のウエストに指を滑らせ、ボトムの前をくつろげていく。こういうことは思いきりよくやったほうがいいのだ。じわじわと事を進めれば、逆にいやらしくなってしまう。
(平常心だ、平常心)
その間も操はしきりにすんすんと控えめにしゃくりをあげて、握りしめた両の拳を胸に押しつけていた。任せて、という言葉を拠り所に、彼は必死で不安と戦っている。
甲洋が躊躇すれば、その感情はそのまま操に伝わってしまうのだ。心を蓋で閉ざすようなイメージを思い描きながら、下着のゴムに手をかけた。
(これは教育、性教育)
そう、やましいことはなにもない。甲洋は腹の底にぐっと力を込めると、下着を一気にずり下ろす。
「ッ!?」
ぷるりと小さく震えながら、操の屹立がその姿を現した。ふたり同時に息を呑む。操が受けた衝撃は、初めて直視した自身の身体の変化に対するものだ。だけど甲洋が覚えたのは、いよいよ自分の価値観が崩壊する音を聞いたような気がしたからだった。
(待って……不味くないか、これ……?)
だってそうだろう。甲洋の性的な関心は、ずっと女性に限定されていたはずなのだ。ふとした折に操に対して覚えた劣情は、彼の未熟な身体がどこか女性的に映っていたからに過ぎないのだと。だから勃起した状態の性器を目の当たりにした瞬間、夢から覚めたようにこの幻想も終わりを告げるのではないか。心のどこかでは、そう期待していたのに。
甲洋の唇が戦慄く。頭の中で、カンカンと警報が鳴り響いていた。なんて──。
なんて、可愛いんだろう?
操のものは小さくて、綺麗な薄紅色をしていた。慎ましく薄皮に守られながら兆している小さな肉が、外気に触れてぷるぷると健気に震えている。狂おしいほどの愛しさを覚えて、意図せず熱い息が漏れてしまう。
堪えきれずに操が呻いた。真っ赤に染まった頬や目元を両手で何度も擦り、か細くすすり泣いている。
「うぅ、ぅ……ッ、やだ、おれ、やっぱり病気だ……死んじゃうんだ……おちんちん、病気になっちゃったんだぁ……っ」
悲痛な声が、甲洋の正気を手繰り寄せる。今ショックを受けているのは操の方なのだ。これを正しく導いて、理解させてやらなければどうしようもない。新たに目覚めてしまった性癖に、放心している場合ではないのだ。
「大丈夫。大丈夫だから。病気なんかじゃないよ」
両腕で強く抱きしめてやりながら、落ち着いた声で優しく言い聞かせた。けれど彼は首を振り、混乱し続けている。
「だって、だってぇっ」
「よく聞いて、操。なにも怖いことじゃない。これはお前の身体が、大人になった証拠だよ」
「おと、な……?」
「そうだよ」
「じゃあこれ、甲洋もなる……?」
「……なるさ、そりゃ」
今だって、正直かなり不味いことになっている。いつ操に気づかれるかとヒヤヒヤしているのだ。甲洋自身も、申し開きのしようがないほど興奮状態に陥っていた。
しかし今は切り離して考えるしかない。これは男子であれば避けては通れないもので、甲洋はあくまでも飼い主としてそれを手伝おうとしているだけだ。性行為とは全く異なるものだし、越えてはならない一線は死んでも守り通したい。じゃなきゃ本当に、この子を食い物にしていた前の飼い主と同じになってしまうのだから。
「嬉しくさせたら、元に戻る……?」
「うん。戻るよ」
甲洋は片腕で操を抱いたまま、もう片方の手を兆している性器に這わせた。操の身体がビクンと跳ねる。落ち着かせるように、熱を持った耳に唇を押しつけた。
「次からは一人でもできるように、ちゃんと見ていて」
手の平で優しくすっぽりと包み込むと、性急にならないように慎重に幾度か扱く。その途端、先端から堰を切ったように先走りの蜜があふれ出した。まるで粗相をしているかのように量が多い。発情する身体が操の幼い精神だけを置き去りにして、来るべく極致へと準備を整えている。
「あッ、ヒ、ぃ、や……! やだ、それ……ッ、や!」
しとどに濡れて吸いつく薄皮の感触に喉を鳴らして、のたうつ身体を抑え込む。甲洋が性器を扱くたびに、操の身体は大きくバネのように跳ね上がった。
何度かそれを繰り返しながら、甲洋は親指と人差し指に力を込めると、薄く張りのある皮をじわじわと下ろしていった。先走りが十分に潤滑剤の役目を果たし、熟れた桃色の先端を難なく覗かせる。鈴口から丸い雫がぷつぷつと浮き上がり、甲洋の指を伝っていった。指の腹をこすりつけ、また幾度となく扱き上げていく。その拍子に止めどなく溢れる蜜が、ピッ、ピッ、と潮を噴くように何度も飛び散る。
「ふにゃうっ、んっ! ぁ、……だめッ、おちんちん、ピリピリするよぉ……っ」
発情している操の身体は、快感を迷わず享受しはじめていた。潤んだ瞳に戸惑いを残しながらも、甲洋の肩や腕に手をやってカリカリと甘く爪を立てる。足先は悩ましげにシーツを掻き乱し、性器を追い上げられる動きに合わせて腰を跳ねさせていた。丸まっていたはずのしっぽはピンと伸び、根元が小刻みに震え続けている。
甲洋の息も上がっていた。上ずった声が可愛くて、どうにかなってしまいそうだった。頭のなかが沸騰している。
「操……気持ちいい……?」
甲洋の肩に項を預ける操の表情が、朦朧としながらも蕩けきっていた。彼はゆるく首を振り、「わからない」と言って涙を流す。
「変、なの……なんか、変……ッ、ぁ、ぁん、ぁ、こう、よ……っ」
「いけそう?」
「ッ、イ、く……? ぁ、アッ、だめ、だめ……なんか、なんか、きちゃ……ッ」
操の内腿が痙攣している。終わりが近い身体が一瞬、ぐっと強張りを見せた。甲洋はほとんど無意識に、操を抱く片腕に力を込める。
「にゃぅぅ……っ、ひ、くぅ……ッ、 ~~っ、あ、……ぁ゛、ッ、──っ!」
爪先をぎゅうと丸めながら、操が達した。全身を震わせて、数回に渡って甲洋の手の中で飛沫をあげる。パタパタとシーツに滴る液は色も薄く、匂いすらない。混じり合った甲洋と操の汗の匂いだけが、辺りにふわりと立ち込めた。
バネのように突っ張っていた身体が、腕のなかで力を失くした。ひっ、ひっ、という脆弱な呼吸に薄い胸を上下させ、全身を小さく痙攣させている。
「操……」
呼びかけても、彼は力なく空虚に瞳をさまよわせるだけだった。意識が、どこか別の場所へ飛んでいる。だけど、甲洋の手に収まったままの性器はピクピクと震えながら、未だ弾力を帯びていた。
(まだ、か……?)
たった一度だけでは、この子の厄介な体質が落ち着くことはなさそうだった。
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翌朝、操は昨日の不調が嘘のように元気になっていた。
彼は公園で倒れたときのことや、一騎に連れ帰られたこと──そして夜中に甲洋を襲ったことも、なにも覚えていなかった。
それでも念のため病院に引きずっていこうとする甲洋を泣いて困らせ、しまいには風呂場に立てこもり、ストライキを起こしはじめる始末だった。
「操、いいかげん出ておいで」
「やだ! 出てったらぜったい病院連れてくでしょ!」
「また倒れたりしたらどうするのさ? ちゃんと調べてもらわないと」
「やだったらやだ! ぜっっったいやだ!!」
困った。病院嫌いは知っていたが、ここまで頑なに譲らないとまでは思わなかった。
簀巻きにするにも、まずはここから引きずり出さないことには始まらない。こうなれば奥の手を使うしかなさそうだった。
「わかった。じゃあ朝ご飯は抜きだよ。それでもいいの?」
「……いいよ」
少し間があったが、彼はなおも折れなかった。曇りガラスの向こうで、扉を背にした操が背中を丸めて体育座りをしているのが分かる。少し可哀想な気もしたが、心を鬼にしてその場を離れた。
甲洋はポケットからゴムを取り出すと、髪をひとつに纏めながらキッチンスペースへと足を向けた。冷蔵庫を開けて、一騎が持ってきてくれたカレーのタッパを取り出すと、中身を鍋にあける。そしてコンロに火をつけ、じっくりコトコト温めはじめた。
具を崩さないよう、慎重に木べらで鍋をかき混ぜていると、食欲をそそるカレーの匂いが辺り一面に広がっていく。
──カラリ
あまりにもあっけなく、けれど控えめに開かれた風呂場のドア音に、甲洋は思わず噴きだしかけた。が、表情を引き締め、黙々とカレーを温め続ける。
「……あの、甲洋」
操がひょっこりと顔を出す。両手をモジモジとさせながら、上目遣いでこちらを見ている。けれど甲洋はあえて鍋から視線を外すことなく、淡々とした口調で言った。
「なに? 朝ご飯はいらないんじゃなかったの?」
「あのね、おれ病院は行かないけど、一騎カレーは食べるよ」
「そんな都合のいい話があるとでも?」
「……グスッ」
操が鼻をすすったのを聞いて、甲洋はガクリと項垂れた。わんわん泣かれるのも困るが、静かに泣かれるのはそれ以上に弱ってしまう。
鍋をかき混ぜていた手を止めて、チラリと横目で操を見た。彼は耳としっぽをしょんぼりとさせ、うつむいて下唇を噛んでいた。風呂場に立てこもる前にもさんざん泣いたから、目が赤くなっている。腹のあたりを両手でぎゅうと握りしめている様子が、これまた上手い具合に憐れみを誘っていた。
心の中で「あーぁ」と嘆声を漏らしながら、甲洋はいったんコンロの火を止めて操に身体を向けた。
「具合は? どこもつらいところはない?」
「……ない」
「少しでも様子が変だと思ったら、すぐに連れて行くよ。次は絶対。約束できる?」
「ぅ……できる……する、約束……」
操がこくんと頷いた。泣いたせいで目元は赤いが、顔色はいい。起き抜けに確かめたが熱もないし、そもそも朝からこれだけ元気に泣いて喚いて立てこもり、食い意地もはっているのだから、少しくらい様子を見てもいいのかもしれないと思った。
総士じゃないが、じっさい知恵熱という線も捨てきれない。
(あまり過保護すぎるのもな……)
それは分かっちゃいるのだが。
「……わかった。座って待ってな。いま用意してるから」
「!」
ため息混じりに言うと、操が耳としっぽを同時にピンッと立てながら顔をあげて万歳をした。
「やったー! カレーだ! 甲洋大好き!」
「お前ね、本当にわかってる?」
「わかってるよー!」
跳ねるような足取りで部屋の中央のテーブルにつき、嬉しそうに身体を揺らしてカレーを待っている姿に、ぜったい分かってないだろと甲洋は思った。
(色気より食い気だもんな、こいつは)
色気の方に勝られても困るのは甲洋だ。昨夜の人が──いや、ネコが変わったような操の痴態を思いだし、慌てて首を振って追いやりながら、コンロに再び火をつけた。
*
それから三日後、桜がちょうど見頃を迎えていた。
芝生に覆われた広い敷地に、満開に花を咲かせた木々が不規則に転々と連なっている。春休み中とはいえ平日ということもあり、花見客はそう多くない。所々に酒盛りをしている若者の姿はあるものの、のどかな光景が広がっていた。
「わぁ、すごいね甲洋! 桜ってこんなに立派に花が咲くんだ!」
昼近くに公園へと足を運んだ甲洋と操は、手を繋ぎながら美しい桜の木々を眺めて歩いていた。降り注ぐ春の日差しを受けて、桃色を帯びた花の群れが淡く光り輝いている。
「一騎と総士、もう来てるかな? お弁当どんなだろ? 楽しみ!」
「花より団子」
「え? ダンゴムシ? あまり得意じゃないな……食べたくない」
「違うよ」
ここでも食い気ばかりの操に、甲洋は肩を揺らして笑ってしまった。
今日はこれから一騎たちと一緒に花見をすることになっている。弁当は一騎が用意してくれるというので、甲洋はコーラやオレンジジュースなどを買い込んだ袋を片手にぶら下げていた。操が気合いたっぷりに背負っているリュックには、彼が昨日の晩にせっせと詰めたお菓子が大量に入っている。
「桜の下でみんなでご飯かぁ。嬉しいな。こんなの初めてだよ!」
操は肩をすくめ、ぎゅうっと目を閉じて嬉しそうに頬を染めていた。よほど興奮しているのか、ぷるぷると震えるしっぽが一回り大きく膨らんでいる。
弾むような胸の高鳴りすらも伝わってくるような気がして、甲洋は愛しさと幸福感を同時に覚えながら操を見つめる瞳を細めた。
去年まで、春はただ通り過ぎていくだけの季節のひとつに過ぎなかった。家族と花見をした思い出だってない。彼らとの暮らしは白黒の紙芝居のように淡々としていて、四季の彩りを感じさせるものなど何もなかった。
そしてそれは操も同じだったのだ。この子には家族の記憶すらない。ただ一年中、カーテンの締め切られた部屋で痩せ細りながら生きていた。
この場所に来られてよかったと、甲洋は思う。あたたかな春の陽だまり。この明るい場所に、操を連れて来られてよかった。だけど本当は、連れて来られたのは甲洋のほうなのかもしれない。操は甲洋の手を強く握りしめて離さない。
「あ! 一騎だ! ねぇほら! あそこで手を振ってるよ!」
操が指さした方向を見ると、ひときわ大きな桜の木の下を陣取っている一騎が、優しく笑顔で手を振っていた。総士もいる。三段重ねの大きな重箱が三つも並んでいるのを見て、操のしっぽがまた一回り膨らんだ。
「甲洋! 早く行こ!」
甲洋の手をグイグイと引っ張って、操が走り出した。
*
一騎が作ってきた豪華弁当を食べたあと、操は渋る総士を引っ張って遊びに行った。
甲洋と一騎は目の届く範囲にいる二匹を眺めながら、のんびり一息ついている。
「操、元気になってよかったな」
一騎が紙コップにお茶を注いで、甲洋に差し出しながら言った。それを受け取りながら頷いて、少し離れた位置でしゃがみこんで何かをしている操と総士の背中を見やる。
「助かったよ、本当に。お前と総士がいなかったらと思うと、ゾッとする」
眉尻を下げながら苦笑した甲洋に、一騎は自分の分のコップにもお茶を注ぎながらやんわりと笑い返した。それから、また二匹の背中に視線を注ぐ。
「本当に兄弟みたいだよな。どこかで血が繋がってたりして」
「まさか。そうだったら面白いけど」
「ところでなにしてるんだ? あいつら」
「さぁ?」
しゃがみ込んでいる二匹は、どちらもしっぽの先だけをくねくねと揺らして地面をじっと見つめているようだった。その頭上を、つがいのモンシロチョウが交差するように円を描きながら通り過ぎていく。
平和だ。食後ということもあり、和やかな光景と春の陽気に眠気を誘われる。というより、ネコを見ていると眠たくなってくるような気がするのはなぜだろう。
「アリでも見てるのかな?」
「アリ? アリか……」
なにが楽しいんだろうかと思いつつ、飼い主のほうも大概のんきで和やかである。
そのまま特に言葉を交わすでもなく二匹を見守り、ふたり同時に欠伸を噛み殺した。
──アオーン、アオォーン
するとどこからか、この時期になるとよく耳にする猫の声が聞こえてきた。甲洋と一騎は同時にその方向へと目を向ける。遠くのほうで獣型の三毛猫が声をあげていた。細い桜の木の根元でうずくまり、切なそうに目を細めてずっと鳴き続けている。
「あの子、どうしたんだろうな?」
一騎が気遣わしげに言うのに対し、甲洋は生暖かい眼差しをしながら息をつく。
「春だからね」
繁殖期を迎えたメス猫が、子種を求めて盛っているのだ。猫の恋は春の季語にもなっている。しかし、果たして猫にもそんな感情はあるのだろうか。
少なくとも、操にはないのだろうなと甲洋は思う。
──甲洋のこと好きって思ったら、ちゅうして噛みたくなっちゃった
あれは年が明ける前のこと。クリスマスイブの朝だった。甲洋のファーストキスは操によって奪われて、おまけに歯まで立てられた。あのときの衝撃は、今でも甲洋の胸に大きな波紋を広げている。
だけどそれは、甲洋が人間の物差しで一方的に意識してしまっているだけの話でしかなかった。操にそんなつもりは毛頭なくて、あの子のなかにあるのは親兄弟に対する深い親愛の情でしかない。
(どこまでいってもネコなんだよな)
あれから何度も唇を重ねている──あくまで一方的に奪われているのだが──からといって、それを恋なんてものに結びつけてはいけないのだ。そもそもイヌやネコを恋愛対象として見ること自体、一般常識としてありえないことでもある。
(……なし、だよなぁ)
当たり前の話だ。なのにどこかで落胆している自分がいることに気がついて、煮え切らない感情から目をそらす。もういっそ、誰でもいいから恋人でも作るべきなのだろうか。ふっと浮かんだ考えの浅はかさに、自己嫌悪がムカムカと胸を焼く。
そんな理由で誰かを心から想うことなど、できるはずがないのに。
「操! しっかりしろ! 一騎! 甲洋!」
「ッ!?」
ぼんやりと三毛猫を眺めていた甲洋と一騎は、総士の焦った声にハッと息をのんだ。
すぐさま視線を走らせれば、さっきまでしゃがみこんでいたはずの操が地面に崩れ落ちていた。総士が青い顔をしながらその身体を揺り動かし、助けを求めている。
「操!?」
甲洋もまた青褪めながら、弾かれたように立ち上がるとその場に駆け寄った。ぐったりとして動かない操を抱き起こし、その頬や額に触れる。
(熱い……!)
さっきまでなんでもなさそうにしていたはずなのに。少し目を離したすきに、操は再び発熱していた。赤い顔をして、苦しそうにはかはかと呼吸を乱している。
「総士! なにがあったんだ!?」
駆けつけた一騎が、総士の横に膝をついた。総士は難しい顔をしながら操を見つめ、それから一騎の方を見て言った。
「前と同じだ。急に倒れた」
「一体どうして?」
一騎の漠然とした問いかけに、総士は首を左右に振る。
「わからない。ただアリがパン屑を運んでいるのを、一緒に観察していただけだ──ただ」
総士がなにかを言いかけていたが、甲洋はいてもたってもいられず、操を抱き上げながら立ち上がった。素人がここでなにを話し合っていても埒が明かない。とにかく、一刻も早く病院へ連れて行かなくては。
(やっぱりあのとき、無理にでも連れて行くべきだった……!)
操の身体は、どんどん熱を上げていくようだった。腕のなかで苦しそうに呼吸を荒げ、額に汗を滲ませている様子を見て、甲洋は下唇を噛みしめる。
あのときなにがなんでも連れて行って、この子の身体になにが起こっているのか、徹底的に調べてもらうべきだったと。
「待て」
走り出そうとしたその瞬間、総士に引き止められた。逸る気持ちを押し殺し、どうにかその場に足を留めた甲洋に、彼はなにか思うところがあるようだった。数秒ほど逡巡したのち、立ち上がって一騎を見下ろす。
「一騎。水がほしい。頼めるか」
「水か? わかった!」
頷いた一騎が即座に駆けだしていく背を見届けて、総士は改めて甲洋を見据えた。そして険しいなかに憮然とした表情を滲ませながら、「病院へは行く必要がない」と、言い切った。
「なぜ?」
「おそらく──いや、これは確信だ。僕自身、本で読んだ程度の知識しかないが……今回のことでハッキリした」
「総士?」
どうして彼がわざわざ一騎に席を外させたのか。それは、保護者の前では極めて言いにくいことを言おうとしていたからだったのだ。
「甲洋、操のそれは病気じゃない。彼は──発情している」
*
帰宅した甲洋は途方に暮れていた。
ベッドに操を寝かせてそのまま縁に腰掛けると、肺ごと魂が抜け落ちてしまうのではないかと思うほど深くかすれた息をつく。
「発情って……なんだよそれ……?」
少しばかり伸びすぎて鬱陶しくなってきた髪をぐしゃぐしゃと乱しながら、公園で聞いた総士の話を脳裏に反芻する。
ヒト型のネコには本来、獣型の猫のように明確な発情期というものはないのだと、総士は言った。けれど稀に、そういう『体質』を持つものもいるのだと。
獣型の猫の雄は通常、繁殖期を迎えた雌が発する声やフェロモンよって、発情が誘発される。本来ヒト型のネコには無効であるはずだが、いわゆる『発情体質』を持っているらしい操は、獣型の雌猫が発する声やフェロモンの影響を強く受けてしまったのだ。よって、発情が誘発された。
三日前に倒れたときも、今日と同じ状況だったのだ。操は雌の三毛猫が発する声にひどく怯えて、それから意識を手放した。総士は同じ場面に二度も出くわし、確信を得たようだった。
病院に駆け込んだところでどうしようもない。ヒト型の発情については症例があまりにも少ないことから、対処法が未だに確立されていないらしい。まるで奇病だ。
なら一体どうすればいいんだと問いかけた甲洋に、総士はどこかバツが悪そうに咳払いをしながら操の身体の中心を見つめると、「今はまだ顕著な反応は現れていないようだが……」と切りだし、こう続けた。
「状況に応じて適切な指導、あるいは処理を施すことでやり過ごす以外に、方法はないだろう。そしてそれは、飼い主の役目だ」
と──。
その後、コンビニから一騎が水を買って戻ってきた。総士はそれを受け取り、お姫様抱っこされている操の手にソッ……と握らせて身を引くと、明らかに何かを含んだ眼差しをしながら「健闘を祈る」と言った。
秘密裏に交わされた会話の内容など知る由もない一騎は、最後まで操の身を案じながらも総士に引きずられて帰っていった。
甲洋は浅い呼吸を繰り返しながら眠っている操に横目を走らせる。
生死を脅かすような病が潜んでいたわけではないと分かって安堵はしたが、まさか原因が発情期を迎えたことによる不調──しかも特異体質──だったとは。
あの夜の痴態も、つまりは発情によるものだったのだ。彼は全身から壮絶な色香を放っていて、本能だけが剥き出しになった状態だった。あのときもし操の腹の虫が鳴らなかったら、今頃どうなっていただろう。
「俺が誘発されてどうするんだよ……」
ネコでもあるまいし──いや、むしろ人間だからなのかもしれない。明確な発情期がないのは人間だって同じだ。それは要するに、年がら年中いつでも繁殖期ということでもあるわけで。
(……だからなんだっていうのさ)
甲洋はまた髪をぐしゃぐしゃと乱して頭を抱えた。
今は眠っているからいいが、またあの夜と同じ状態が再現されてしまったら──
「ぅ……」
「!」
そのとき、操が苦しげな呻きを上げた。
甲洋がギクリと身を強張らせながら振り向くと、彼は泣きそうに顔を歪めて額に汗を滲ませていた。息を荒げ、さまよわせた両手でシーツを掻き乱しながら「痛い」とこぼされた声に、血の気が引く。ベッドから腰を上げると、その身体を揺り動かした。
「操! 操、しっかり! 痛いって、どこが!?」
「ぁ、こ、よ……」
うっすらと開かれた瞳は、三日前の夜のように瞳孔がほんのりと狭まっていた。
しかし正気は保たれているようで、あのただならぬ異様な空気は感じられない。けれど今が非常事態であることに変わりはなく、この子の身体に何かが起こっているのは確かだった。
操は大粒の涙を溢れさせ、上掛けのなかで身悶えながら寝返りをうった。くるりと背中を丸め、小刻みに身を震わせて泣いている。
「操!?」
「ぅ、おな、か」
「お腹!? 痛いのか!?」
「おなか、の……した……」
「……えっ」
「おれ……病気、なっちゃったのかな……」
嫌でもひらめくものがあって、つい押し黙ってしまう。
甲洋は思わず喉を鳴らし、しくしくと泣いている操の上からおそるおそる上掛けを剥いだ。彼は胎児のような体勢で両足の間に両手を潜り込ませ、もじもじと腰を揺らしていた。
──やっぱりそうだ。
愕然としながら立ち尽くす。眼下では操が子供のようにしゃくりを上げている。
男が勃起しているのを処理したことはあっても、それが自身に起こるなんて思ってもみなかったのだろう。初めて迎える身体の変化にひどく怯えて、彼はしっぽをくるりと丸めてしまっていた。
(……そうだよなぁ)
考えてもみれば、こんなことがなくたっていずれは起こりうることだった。この子の外見からおおよその年齢を考慮するに、いっそ遅いくらいだったのではないか。
状況に応じて適切な指導を。適切な処理を。まさに今がそのときで、甲洋のなかに去来したのはある種の諦めだったのかもしれないし、あるいは開き直りだったのかもしれない。いずれにせよ、これは飼い主としての義務なのだ。
操が助けを必要としているのなら、手を差し伸べるのは当然のこと。そして今の甲洋に必要なのは──完全なる無の境地である。
(俺の煩悩、無に還れ)
「操」
甲洋はいつも通りの声のトーンを心がけ、ベッドに膝をつくと操の身体を抱き起こす。ぺたりと横倒しになった耳が、プルプルと可哀想なくらい震えていた。泣きぬれた瞳に見上げられ、甲洋は安心させるように優しくふわりと微笑んだ。
「大丈夫だから。泣かないで」
「こうよ……」
「おいで」
あぐらをかくと、ベッドがわずかに軋んだ音を立てた。甲洋は開かれた足の間に操を誘い、背後から抱き包むようにして腰を落ち着かせる。その間も操の両手は股に差し込まれていて、立てた膝頭をもじもじと擦り合わせていた。
甲洋はふうぅと細長い息を吐きだすと、操の両手を掴んで外させる。
「そこ、痛くなるのは初めて?」
ともすれば不格好に上ずりそうになる声を抑え、静かに問うと操は弱々しく頷いた。その拍子にぽろりと涙がこぼれ落ちる。
「怖がらなくていい。俺に任せて」
淡々とした動作を心がけながら、甲洋は操のウエストに指を滑らせ、ボトムの前をくつろげていく。こういうことは思いきりよくやったほうがいいのだ。じわじわと事を進めれば、逆にいやらしくなってしまう。
(平常心だ、平常心)
その間も操はしきりにすんすんと控えめにしゃくりをあげて、握りしめた両の拳を胸に押しつけていた。任せて、という言葉を拠り所に、彼は必死で不安と戦っている。
甲洋が躊躇すれば、その感情はそのまま操に伝わってしまうのだ。心を蓋で閉ざすようなイメージを思い描きながら、下着のゴムに手をかけた。
(これは教育、性教育)
そう、やましいことはなにもない。甲洋は腹の底にぐっと力を込めると、下着を一気にずり下ろす。
「ッ!?」
ぷるりと小さく震えながら、操の屹立がその姿を現した。ふたり同時に息を呑む。操が受けた衝撃は、初めて直視した自身の身体の変化に対するものだ。だけど甲洋が覚えたのは、いよいよ自分の価値観が崩壊する音を聞いたような気がしたからだった。
(待って……不味くないか、これ……?)
だってそうだろう。甲洋の性的な関心は、ずっと女性に限定されていたはずなのだ。ふとした折に操に対して覚えた劣情は、彼の未熟な身体がどこか女性的に映っていたからに過ぎないのだと。だから勃起した状態の性器を目の当たりにした瞬間、夢から覚めたようにこの幻想も終わりを告げるのではないか。心のどこかでは、そう期待していたのに。
甲洋の唇が戦慄く。頭の中で、カンカンと警報が鳴り響いていた。なんて──。
なんて、可愛いんだろう?
操のものは小さくて、綺麗な薄紅色をしていた。慎ましく薄皮に守られながら兆している小さな肉が、外気に触れてぷるぷると健気に震えている。狂おしいほどの愛しさを覚えて、意図せず熱い息が漏れてしまう。
堪えきれずに操が呻いた。真っ赤に染まった頬や目元を両手で何度も擦り、か細くすすり泣いている。
「うぅ、ぅ……ッ、やだ、おれ、やっぱり病気だ……死んじゃうんだ……おちんちん、病気になっちゃったんだぁ……っ」
悲痛な声が、甲洋の正気を手繰り寄せる。今ショックを受けているのは操の方なのだ。これを正しく導いて、理解させてやらなければどうしようもない。新たに目覚めてしまった性癖に、放心している場合ではないのだ。
「大丈夫。大丈夫だから。病気なんかじゃないよ」
両腕で強く抱きしめてやりながら、落ち着いた声で優しく言い聞かせた。けれど彼は首を振り、混乱し続けている。
「だって、だってぇっ」
「よく聞いて、操。なにも怖いことじゃない。これはお前の身体が、大人になった証拠だよ」
「おと、な……?」
「そうだよ」
「じゃあこれ、甲洋もなる……?」
「……なるさ、そりゃ」
今だって、正直かなり不味いことになっている。いつ操に気づかれるかとヒヤヒヤしているのだ。甲洋自身も、申し開きのしようがないほど興奮状態に陥っていた。
しかし今は切り離して考えるしかない。これは男子であれば避けては通れないもので、甲洋はあくまでも飼い主としてそれを手伝おうとしているだけだ。性行為とは全く異なるものだし、越えてはならない一線は死んでも守り通したい。じゃなきゃ本当に、この子を食い物にしていた前の飼い主と同じになってしまうのだから。
「嬉しくさせたら、元に戻る……?」
「うん。戻るよ」
甲洋は片腕で操を抱いたまま、もう片方の手を兆している性器に這わせた。操の身体がビクンと跳ねる。落ち着かせるように、熱を持った耳に唇を押しつけた。
「次からは一人でもできるように、ちゃんと見ていて」
手の平で優しくすっぽりと包み込むと、性急にならないように慎重に幾度か扱く。その途端、先端から堰を切ったように先走りの蜜があふれ出した。まるで粗相をしているかのように量が多い。発情する身体が操の幼い精神だけを置き去りにして、来るべく極致へと準備を整えている。
「あッ、ヒ、ぃ、や……! やだ、それ……ッ、や!」
しとどに濡れて吸いつく薄皮の感触に喉を鳴らして、のたうつ身体を抑え込む。甲洋が性器を扱くたびに、操の身体は大きくバネのように跳ね上がった。
何度かそれを繰り返しながら、甲洋は親指と人差し指に力を込めると、薄く張りのある皮をじわじわと下ろしていった。先走りが十分に潤滑剤の役目を果たし、熟れた桃色の先端を難なく覗かせる。鈴口から丸い雫がぷつぷつと浮き上がり、甲洋の指を伝っていった。指の腹をこすりつけ、また幾度となく扱き上げていく。その拍子に止めどなく溢れる蜜が、ピッ、ピッ、と潮を噴くように何度も飛び散る。
「ふにゃうっ、んっ! ぁ、……だめッ、おちんちん、ピリピリするよぉ……っ」
発情している操の身体は、快感を迷わず享受しはじめていた。潤んだ瞳に戸惑いを残しながらも、甲洋の肩や腕に手をやってカリカリと甘く爪を立てる。足先は悩ましげにシーツを掻き乱し、性器を追い上げられる動きに合わせて腰を跳ねさせていた。丸まっていたはずのしっぽはピンと伸び、根元が小刻みに震え続けている。
甲洋の息も上がっていた。上ずった声が可愛くて、どうにかなってしまいそうだった。頭のなかが沸騰している。
「操……気持ちいい……?」
甲洋の肩に項を預ける操の表情が、朦朧としながらも蕩けきっていた。彼はゆるく首を振り、「わからない」と言って涙を流す。
「変、なの……なんか、変……ッ、ぁ、ぁん、ぁ、こう、よ……っ」
「いけそう?」
「ッ、イ、く……? ぁ、アッ、だめ、だめ……なんか、なんか、きちゃ……ッ」
操の内腿が痙攣している。終わりが近い身体が一瞬、ぐっと強張りを見せた。甲洋はほとんど無意識に、操を抱く片腕に力を込める。
「にゃぅぅ……っ、ひ、くぅ……ッ、 ~~っ、あ、……ぁ゛、ッ、──っ!」
爪先をぎゅうと丸めながら、操が達した。全身を震わせて、数回に渡って甲洋の手の中で飛沫をあげる。パタパタとシーツに滴る液は色も薄く、匂いすらない。混じり合った甲洋と操の汗の匂いだけが、辺りにふわりと立ち込めた。
バネのように突っ張っていた身体が、腕のなかで力を失くした。ひっ、ひっ、という脆弱な呼吸に薄い胸を上下させ、全身を小さく痙攣させている。
「操……」
呼びかけても、彼は力なく空虚に瞳をさまよわせるだけだった。意識が、どこか別の場所へ飛んでいる。だけど、甲洋の手に収まったままの性器はピクピクと震えながら、未だ弾力を帯びていた。
(まだ、か……?)
たった一度だけでは、この子の厄介な体質が落ち着くことはなさそうだった。
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03
「あはは! 変な動き! 早く逃げないと捕まえちゃうよ!」
暖かく穏やかな春空のした、いつもの公園で操はカエル飛びをしていた。
しゃがみこんだ姿勢で両手を地面につき、ピョンピョンと飛び跳ねるたびに、ポケットの中にある鈴つきの鍵が軽やかな音を奏でる。甲洋と暮らす部屋の合鍵だ。
追いかけているのは、黄緑色の小さくて可愛いアマガエルだった。今日の獲物はこいつに決めた。冬眠から覚めてまだ間もないのか、昨日のスズメよりは遥かに動きが鈍い。どこかぎこちなく飛び跳ねる姿が面白くて、つい目的を忘れて遊んでいる操のすぐ近くでは、ベンチに腰掛けた総士が優雅に足を組んで小難しそうな本を読んでいる。
「ねぇ総士。本ばっかり読んでないで、一緒にカエルと遊ぼうよ」
操はカエルの姿勢のままで動きを止めると、総士を見上げる。ヒラヒラとどこからか飛んできた一羽のモンシロチョウが、総士のクリーム色の耳の先で一瞬羽根を休めたが、ピクリと動かしたせいで飛び去ってしまった。
基本的に動き回っている操とは対象的に、総士はいつもこうして本を読んでいる。彼は本から視線を外すことなく、「断る」とだけそっけなく答えた。
「ふーん。つまんないの……アッ! こら待て!」
気をそらしていた隙に、カエルが草むらに姿を消した。操は慌ててその方向へ飛びかかったが、頭から草地に突っ込んだだけで成果はなかった。
「嘘ぉ!? 逃げられた!?」
完全にナメきっていた相手に敗北し、操はその場に座り込んで項垂れる。そこでようやく総士が呆れた顔を上げた。
「なにをしているんだお前は」
「総士ぃ……カエル逃げた……」
「目的もなく生き物を追い回すんじゃない」
「目的ならあるよ。捕まえて持って帰るんだ」
総士は鼻から小さく息を漏らし、本を脇に置くと腕を組んだ。
「この際だからハッキリ言うが、獲物を捕えて持ち帰ったところで甲洋は喜ばないぞ」
「え?」
「むしろ困惑させるだけだ」
「え!?」
寝耳に水だった。ぎょっとした操は口をポカンと開けたまま、丸い目を瞬かせる。
「獣型の野良であればまだしも、僕らはヒト型であり飼いネコだ。基本的には人間と同じものを好んで食べる。お前の飼い主は、一度でもカエルやスズメを食卓に並べたことがあるか? ネズミは? 虫は?」
「!!」
……ない。それどころか、たまにくっついて行く甲洋の狩場──スーパーというらしい──でも、それらの肉にはお目にかかったことがなかった。もちろん虫もだ。
「で、でも! おれが獲物を持って帰ったら、きっと甲洋は食べてくれるよ!」
「なにを根拠に言っている? そもそも、お前はカエルを食べたいと思うのか?」
「思わないよ」
「極めて理不尽だ。断言しよう。お前の飼い主はそのうちハゲると」
なぜか総士は可哀想なものを見るような瞳をしていた。操にではない。ここにはいない飼い主へと、その憐れみは注がれている。
「とにかく、そこいらにいる生物を捕まえて持ち帰ろうなんて考えは捨てろ。重ねて言うが、甲洋がハゲる」
「なんでぇ!? じゃあおれはどうすればいいのぉ!?」
操は四つん這いで総士のもと這いずって行くと、イカのように耳を寝かせてその膝に縋りついた。
「どうするもなにもない。なにもしなければいいだけだ」
「それじゃダメだよ! だって甲洋は狩りが下手だし! おれが世話してあげないとでしょ!?」
「お前は一体どの立場からものを言っているんだ……?」
総士の戸惑いが伝わってくる。けれどそれは操にとっても同じことだった。
毎日せっせと獲物を捕まえ、家に持ち帰り、甲洋にお腹いっぱい食べさせる。それこそが操の思い描く理想の未来像であり、理想とする愛情表現だった──のだが、総士はそんなことをしても無駄だと言う。
一瞬にして目的を失ってしまった操は、どうしたらいいか分からず涙目になった。
「飼い主に養われている分際で、飼い主を養う気でいたとはな」
心底あきれた様子で息をつきながら、総士が操に向かって人差し指を立てて見せた。
「いいか、よく聞け。僕らはただ健やかに、彼らと共にあればいい。よく食べ、よく寝て、よく遊び、時には我儘を言えばいい。甘えたいときに甘え、気が向かなければそっけない態度をとったって構わない。彼らはそれすら愛しく思う」
「えー、そっけない態度なんかとったら、甲洋が泣いちゃうかもよ」
「一騎は喜ぶ」
「調教済みってこと?」
「それが真のネコ飼いだ」
確かに総士の言う通りなのかもしれない。
前に甲洋も言っていた。操はそこにいるだけで人を幸せにできるのだと。その言葉通り、よく食べよく寝てよく遊ぶ操の姿を見ているだけで、甲洋の心はお日様が射したようにポカポカとあたたかくなる。そこに雨は降っていない。操はそれが嬉しくて、同じくらい、あたたかくて幸せな気持ちになることができた。
だけど操には、最近ずっと気になっていることがある。
それは甲洋の気持ちだ。彼の心は、時々どうしようもなくぐちゃぐちゃになる。
初めて会った頃からそうだった。様々な感情が入り混じって、まるで迷路のように複雑な甲洋の心。とても不思議で、だけど少しずつ触れながら、彼のことを知っていけるのが嬉しかった。
けれど最近の甲洋は、なんだか少し様子がおかしい。うまく言えないが、ふとした拍子にモヤモヤとした霧のようなものがかかって、その心をどんよりと濁らせているような──例えばそう、今朝みたいに。
(甲洋は、またなにか我慢してるような気がする。それがおれに理解できたらいいのに……)
実際、理解なんかされたら甲洋が死ぬ。精神的に。しかし操には年齢=恋人いない歴=童貞の複雑な男(スケベ)心など理解できない。
操の頭には、狩りを成功させて甲洋を喜ばせることしかなかったのだ。そうすれば今よりもっと上手に愛情を伝えられるはずで、あのおかしな心の霧だって吹き飛ぶはずだと。なんの根拠もなく、無邪気に信じ込んでいた。
だけどそれが無駄なことだと知り、ただ途方に暮れるしかなかった。
(おれにできることって、本当になにもないのかな……)
──アオーン
「!」
そのとき、またあの声がした。
総士の膝に縋ったまま項垂れていた操は、ドキリとしながら顔を上げる。声の方向に目をやれば、桜の木の根元に獣型の三毛猫がいることに気がついた。遠目から見ても、雌であることが『匂い』で分かる。
「アオーン! アオォーン!」
それはよく知る猫の鳴き声とは、少し違っていた。
咆哮、とでも言えばいいのだろうか。三毛猫はどこか落ち着きのない様子で木の幹に身体を擦り寄せ、なにかを必死で呼び込もうとしているようにも見える。
操は肩をすくめ、猫から視線を外さないままベンチに腰掛けると、総士の肩にぴったりと縋りついた。どうしてか、あの声を聞くと不安になる。
「春だからな」
総士がポツリと言った。操とは違い、ケロリとした顔で猫を見ている。
「総士、おれ、あれ嫌だ。怖い」
「怖い?」
不可解な面持ちで総士が操に顔を向けてくる。
「なにをそこまで不安になる必要がある?」
「総士は怖くないの? なんで怖くないの?」
総士からは不安も恐れも伝わってこない。逆に総士も操の漠然とした感情をキャッチしているが、それが何に起因するものなのかまでは、彼にも分からないようだった。
猫はずっと鳴いている。喉が枯れてもなお、鳴き続ける。ふわりふわりと、あの甘い香りが漂ってきた。心臓が激しく動悸を打つのを感じ、総士に縋る両手を握りしめる。息切れと共に、目眩がした。
「怖いもなにも、あれはただの──おい操? おい! どうした!?」
世界がまわり、力が抜けて、総士の声が遠のいていく。熱い。身体の内側に、小さな火がついたみたいに。じわじわと侵されていく。
猫が、ずっとずっと鳴いていた。
*
「おかえり」
帰宅すると、いつも迎えに出てくるはずの操の姿がなかった。
代わりにひょっこりと顔を出したのは一騎で、甲洋は思いがけず目を丸くする。
「一騎?」
「悪い。勝手に上がらせてもらってた」
「それは構わないけど──操?」
ネクタイを緩めながら部屋を覗き込んだ甲洋の目に、ベッドに横たわる操の姿が飛び込んできた。
ただごとではない様子に顔色を変えながら駆け寄り、うっすらと赤くなっている頬に触れる。少し熱い。呼びかけても目をさます気配がなかった。
「操! 操……っ、どうしたんだ? なにがあった?」
「公園で急に倒れたんだよ」
一騎がベッドの縁に腰掛け、心配そうに曇らせた瞳で操を見つめながら言った。
「倒れたって、どうして?」
「分からない。直前までカエルを追いかけ回して、元気にしてたみたいだけど」
「……総士は?」
「大丈夫。家だよ。こっちは心配しなくていい」
一騎の話はこうだった。
彼は総士と操が公園で遊んでいるあいだ、家でカレー作りに没頭していた。できあがったら迎えに行くつもりでいたのだが、一騎が行くより先に総士が帰ってきた。しかも、ぐったりとして動かない操を背負って。
操は苦しそうに息を乱していた。のぼせたように顔を赤くしているのを見て、一騎はすぐに病院へ連れて行こうとした。が、気配を察したのか、目を覚ました操がビービーと泣きだした。
そこまで聞いて、甲洋は「あぁ」と小さく嘆息を漏らす。
「悪い……こいつ、病院はトラウマなんだ」
ここに引っ越してきてすぐ、甲洋は操を動物病院へ連れて行った。総士を一騎に託した、近藤剣司がいる病院だ。本気で面倒を見るつもりでいるのなら、一度は連れてこいという打診を受けてのものだった。
操はそこで生まれて初めて、健康診断を受けた。そして採血でわんわん泣いた。よほどショックだったらしく、帰り道でもずっと甲洋の手を握ってベソベソと泣き続けていたので、コンビニで好きなお菓子を買ってやった。するとその場はおさまったものの、以来すっかり病院嫌いになってしまったというわけだ。(ちなみに検査結果は健康そのものだった)
泣いている操と、どうにかご機嫌を取ろうとしている甲洋の姿を想像してしまったのか、一騎は堪えきれずに小さく噴きだしかけたが、すぐに気を取り直して先を続ける。
操は派手に泣きわめきながら、「家に帰る」と言ってきかなかった。そのときの彼には、一騎の顔が注射器にでも見えていたのかもしれない。這ってでも帰っていこうとするのを見て、総士は「これだけ元気があるなら問題ないだろう」と投げやりに言った。
どうにも収集がつかないので、一騎は操をマンションに連れ帰ることにした。鈴付きの合鍵を使って部屋に入り、操をベッドに横たえさせる頃にはもう日が暮れかけていて、一騎はそのまま甲洋の帰りを待つことにしたのだった。
「迷惑かけたな……ありがとう」
深く息を漏らしながら床にあぐらをかいた甲洋に、一騎は笑みを浮かべて首を振る。
「カレー持ってきたんだ。よかったら食べてくれ。冷蔵庫に入れてあるから」
「なにからなにまで悪い」
「いいって」
一騎は立ち上がると、操の寝顔を確かめるように覗き込む。
「総士は知恵熱じゃないかなんて言ってたけど」
「赤ん坊じゃないんだからさ」
「はは、だよな。……うん、呼吸も落ち着いてる。さっきよりだいぶ顔色もいいみたいだ。このまま落ち着くといいな」
険しく眉根を寄せながら操の寝顔を見つめる甲洋の肩を、一騎がポンと労うように軽く叩いた。
*
操は夕飯時を過ぎても眠り続けていた。
それどころか、深夜0時近くなっても目を覚ます気配がない。
枕元の電気スタンドだけを灯し、甲洋はベッドのすぐ脇の床にあぐらをかくとその頬に触れる。ときどき寝返りもうつし、呼吸もいたって穏やかだ。けれど手のひらに感じる体温は、いまだよく知るものより少し高めのままだった。
「明日は病院だよ、操」
可哀想だが、簀巻きにしてでも連れて行くしかない。
暑いからと言って脱いだりなんかするから、風邪を引いてしまったのだろうか。なんにせよ、原因をハッキリさせないことにはどうしようもなかった。
「んぅ」
操がむずがるような声をあげ、こちらに身体を向ける形で寝返りをうった。枕に這わされた小さな手にふと愛おしさが溢れだし、その手の甲に自分の手をそっとかぶせる。軽く握りしめると、指先をきゅっと握り返された。目を覚ましたのかと思ったが、彼はいまだに眠ったままだ。その無意識がまた愛しい。
ほんのりと淡桃に染まる指先に、どうしようもなくそそられてしまう庇護欲が、甲洋の胸を締めつける。
(──今夜だけ)
抱きしめて眠ろうか。そんな考えが頭をよぎる。ふとした瞬間にもたげてしまう劣情だとか、そんなものは今ひどく遠い場所にあった。ただ腕の中に閉じ込めて、そっと静かに守っていたい。
「操」
囁くように名前を呼んだ。すると、操の瞼がピクリと動いた。睫毛を小さく震わせながら、ゆらりとその目が開かれる。
「操? よかった、目が覚めて」
意識が戻ったことにひとまず安堵の息をつきながら笑いかける。しかし操はぼんやりとしたまま、なにも反応を示さなかった。
「どうかした?」
様子がおかしい。虚ろにも見える表情に違和感を覚え、すぐにその正体に気がついた。甲洋を見つめる瞳孔が、縦に細くなっているのだ。それが彼の幼い顔立ちの印象を、いささか尖ったものへと変えている。電気スタンドの僅かな光を反射して、琥珀の瞳がどこか妖しい輝きを放っていた。
手の中から、操の手がするりと逃げた。白い手はそのまま甲洋に向かってぬぅっと伸ばされ、指先が頬へと這わされる。じわじわと耳の方へ向かってなぞられる感覚にゾワリとしながら、甲洋は声をつまらせた。
そして指先は、やがて後ろ首へと辿りつき──
「ッ!」
長い癖毛を巻き込むようにして項を掴まれ、ぐっと強く引き寄せられた。
「みっ、みさ……ッ」
目を剥く甲洋の唇が、ベッドから不自然な体勢で身を乗りだした操の唇によって塞がれていた。一瞬だけ頭の中が白く染まって、けれどすぐにその両肩を掴んで引き剥がそうとするが、操は両腕を甲洋の首に強く絡めて口づけをより深いものにした。
咄嗟に身を引いたのと同時に、操の身体がベッドから引きずりだされ、覆いかぶさってくる。狼狽するあまり反応が鈍り、支えきれずに背中から崩れ落ちた甲洋に、彼は何度も何度も角度を変えながら口づけを繰り返した。なにが起こっているのかまるで処理しきれないまま、鼓動が乱れた早鐘を打ち鳴らす。
「み、みさ、ぉッ、ちょっ!」
ぴちゃりと音を立てながら、唇に舌を這わされた。操は熱い息を漏らし、しきりに身をくねらせはじめる。甲洋の唇に吸いつきながら、何度も何度もまるで身体の中心を擦りつけるようにして、腰を揺らしていた。その痴態に、雷を受けたような衝撃が走る。
「おまっ、え、なにして……んぅッ!」
下唇に歯を立てられて、頭の芯に焼けるような痺れが走る。ずっと遠い場所でおとなしく眠っていたはずの劣情が、手掴みで引きずり出される感覚を覚えた。
(まずい……!)
甲洋はどうにか顔を背けると、操の両肩を強く掴む。そのまま引き剥がすことくらい簡単にできたはずだった。けれどそれができなかったのは、操が吐息まじりの小さな声で甲洋の名を呼んだからだった。
「ッ!」
こうよう、と。耳元に押しつけられたその声は、舌足らずなくせにひどく艶を帯びていて、泣き濡れたように切なくかすれていた。なんて声。朗らかではつらつとした幼い子ネコからは想像もつかなくて、そのみだりな声音に思考が蒸発しそうになる。
恐る恐る見上げた操の表情は、どこか朦朧としているようにも見えた。
「みさ、お?」
「こう、よ……はぁッ、こうよ……」
心臓に爪を立てられたように、息ができなかった。頭のなかにまで鼓動がドクドクと鳴り響いている。
「おれ、甲洋の──」
金色に輝く操の瞳孔が、また一段と細く狭まるのが分かった。獣の瞳だと、甲洋は思う。彼はなにかに餓えていて、そしてなにかを、欲しがっている。
(ダメだ)
この先を言わせてはいけない。それはきっとトリガーになる。予感、という曖昧な殻をかぶせた確信が、甲洋の背を駆り立てる。なのに、指先ひとつ動かすことができなかった。ただごくりと、大きく喉を鳴らす。
操が次の言葉を紡ぐため、小さく息を吸い込んだ。そのとき。
──きゅううぅ~
「…………は?」
響き渡った緊張感のない音に、甲洋は息を呑んだまま唖然とした。操はいつも通りの丸い瞳で、キョトンとした表情を浮かべている。さっきまでの艶も、取り憑かれたような虚ろさも、そこには影すら見当たらなかった。
──きゅるるぅ~ん
沈黙のなか、またあの怪音が鳴り響く。操の耳と眉が、どんどんハの字に下がっていった。
「こうよ」
「……なに?」
「おなかすいた」
謎の音。それは操の腹の虫だった。
(なんだったんだよ、一体……!)
まさか寝ぼけていたとでもいうのだろうか。甲洋は地の底から響くような溜息を漏らし、両手を床に投げ出した。安堵している。とてつもなく。だけど、なぜか腑に落ちない。いっそ落胆すらしている自分への言い訳を必死で探しながら、少しばかりヤバいことになりかけていた甲洋Jrも、完全に萎れきっていた。
操は甲洋の上にまたがったまま、不思議そうに小首を傾げている。今の今までなにをしていたのか、きっとこの子は分かっていない。完全に意識の外であったことが、その表情からも読み取れる。
「……夜遅いから、なにか軽めのものでいい?」
全く整理がつかないまま、甲洋は操のために小さな塩むすびを二つ、作ってやることにした。
←戻る ・ 次へ→
「あはは! 変な動き! 早く逃げないと捕まえちゃうよ!」
暖かく穏やかな春空のした、いつもの公園で操はカエル飛びをしていた。
しゃがみこんだ姿勢で両手を地面につき、ピョンピョンと飛び跳ねるたびに、ポケットの中にある鈴つきの鍵が軽やかな音を奏でる。甲洋と暮らす部屋の合鍵だ。
追いかけているのは、黄緑色の小さくて可愛いアマガエルだった。今日の獲物はこいつに決めた。冬眠から覚めてまだ間もないのか、昨日のスズメよりは遥かに動きが鈍い。どこかぎこちなく飛び跳ねる姿が面白くて、つい目的を忘れて遊んでいる操のすぐ近くでは、ベンチに腰掛けた総士が優雅に足を組んで小難しそうな本を読んでいる。
「ねぇ総士。本ばっかり読んでないで、一緒にカエルと遊ぼうよ」
操はカエルの姿勢のままで動きを止めると、総士を見上げる。ヒラヒラとどこからか飛んできた一羽のモンシロチョウが、総士のクリーム色の耳の先で一瞬羽根を休めたが、ピクリと動かしたせいで飛び去ってしまった。
基本的に動き回っている操とは対象的に、総士はいつもこうして本を読んでいる。彼は本から視線を外すことなく、「断る」とだけそっけなく答えた。
「ふーん。つまんないの……アッ! こら待て!」
気をそらしていた隙に、カエルが草むらに姿を消した。操は慌ててその方向へ飛びかかったが、頭から草地に突っ込んだだけで成果はなかった。
「嘘ぉ!? 逃げられた!?」
完全にナメきっていた相手に敗北し、操はその場に座り込んで項垂れる。そこでようやく総士が呆れた顔を上げた。
「なにをしているんだお前は」
「総士ぃ……カエル逃げた……」
「目的もなく生き物を追い回すんじゃない」
「目的ならあるよ。捕まえて持って帰るんだ」
総士は鼻から小さく息を漏らし、本を脇に置くと腕を組んだ。
「この際だからハッキリ言うが、獲物を捕えて持ち帰ったところで甲洋は喜ばないぞ」
「え?」
「むしろ困惑させるだけだ」
「え!?」
寝耳に水だった。ぎょっとした操は口をポカンと開けたまま、丸い目を瞬かせる。
「獣型の野良であればまだしも、僕らはヒト型であり飼いネコだ。基本的には人間と同じものを好んで食べる。お前の飼い主は、一度でもカエルやスズメを食卓に並べたことがあるか? ネズミは? 虫は?」
「!!」
……ない。それどころか、たまにくっついて行く甲洋の狩場──スーパーというらしい──でも、それらの肉にはお目にかかったことがなかった。もちろん虫もだ。
「で、でも! おれが獲物を持って帰ったら、きっと甲洋は食べてくれるよ!」
「なにを根拠に言っている? そもそも、お前はカエルを食べたいと思うのか?」
「思わないよ」
「極めて理不尽だ。断言しよう。お前の飼い主はそのうちハゲると」
なぜか総士は可哀想なものを見るような瞳をしていた。操にではない。ここにはいない飼い主へと、その憐れみは注がれている。
「とにかく、そこいらにいる生物を捕まえて持ち帰ろうなんて考えは捨てろ。重ねて言うが、甲洋がハゲる」
「なんでぇ!? じゃあおれはどうすればいいのぉ!?」
操は四つん這いで総士のもと這いずって行くと、イカのように耳を寝かせてその膝に縋りついた。
「どうするもなにもない。なにもしなければいいだけだ」
「それじゃダメだよ! だって甲洋は狩りが下手だし! おれが世話してあげないとでしょ!?」
「お前は一体どの立場からものを言っているんだ……?」
総士の戸惑いが伝わってくる。けれどそれは操にとっても同じことだった。
毎日せっせと獲物を捕まえ、家に持ち帰り、甲洋にお腹いっぱい食べさせる。それこそが操の思い描く理想の未来像であり、理想とする愛情表現だった──のだが、総士はそんなことをしても無駄だと言う。
一瞬にして目的を失ってしまった操は、どうしたらいいか分からず涙目になった。
「飼い主に養われている分際で、飼い主を養う気でいたとはな」
心底あきれた様子で息をつきながら、総士が操に向かって人差し指を立てて見せた。
「いいか、よく聞け。僕らはただ健やかに、彼らと共にあればいい。よく食べ、よく寝て、よく遊び、時には我儘を言えばいい。甘えたいときに甘え、気が向かなければそっけない態度をとったって構わない。彼らはそれすら愛しく思う」
「えー、そっけない態度なんかとったら、甲洋が泣いちゃうかもよ」
「一騎は喜ぶ」
「調教済みってこと?」
「それが真のネコ飼いだ」
確かに総士の言う通りなのかもしれない。
前に甲洋も言っていた。操はそこにいるだけで人を幸せにできるのだと。その言葉通り、よく食べよく寝てよく遊ぶ操の姿を見ているだけで、甲洋の心はお日様が射したようにポカポカとあたたかくなる。そこに雨は降っていない。操はそれが嬉しくて、同じくらい、あたたかくて幸せな気持ちになることができた。
だけど操には、最近ずっと気になっていることがある。
それは甲洋の気持ちだ。彼の心は、時々どうしようもなくぐちゃぐちゃになる。
初めて会った頃からそうだった。様々な感情が入り混じって、まるで迷路のように複雑な甲洋の心。とても不思議で、だけど少しずつ触れながら、彼のことを知っていけるのが嬉しかった。
けれど最近の甲洋は、なんだか少し様子がおかしい。うまく言えないが、ふとした拍子にモヤモヤとした霧のようなものがかかって、その心をどんよりと濁らせているような──例えばそう、今朝みたいに。
(甲洋は、またなにか我慢してるような気がする。それがおれに理解できたらいいのに……)
実際、理解なんかされたら甲洋が死ぬ。精神的に。しかし操には年齢=恋人いない歴=童貞の複雑な男(スケベ)心など理解できない。
操の頭には、狩りを成功させて甲洋を喜ばせることしかなかったのだ。そうすれば今よりもっと上手に愛情を伝えられるはずで、あのおかしな心の霧だって吹き飛ぶはずだと。なんの根拠もなく、無邪気に信じ込んでいた。
だけどそれが無駄なことだと知り、ただ途方に暮れるしかなかった。
(おれにできることって、本当になにもないのかな……)
──アオーン
「!」
そのとき、またあの声がした。
総士の膝に縋ったまま項垂れていた操は、ドキリとしながら顔を上げる。声の方向に目をやれば、桜の木の根元に獣型の三毛猫がいることに気がついた。遠目から見ても、雌であることが『匂い』で分かる。
「アオーン! アオォーン!」
それはよく知る猫の鳴き声とは、少し違っていた。
咆哮、とでも言えばいいのだろうか。三毛猫はどこか落ち着きのない様子で木の幹に身体を擦り寄せ、なにかを必死で呼び込もうとしているようにも見える。
操は肩をすくめ、猫から視線を外さないままベンチに腰掛けると、総士の肩にぴったりと縋りついた。どうしてか、あの声を聞くと不安になる。
「春だからな」
総士がポツリと言った。操とは違い、ケロリとした顔で猫を見ている。
「総士、おれ、あれ嫌だ。怖い」
「怖い?」
不可解な面持ちで総士が操に顔を向けてくる。
「なにをそこまで不安になる必要がある?」
「総士は怖くないの? なんで怖くないの?」
総士からは不安も恐れも伝わってこない。逆に総士も操の漠然とした感情をキャッチしているが、それが何に起因するものなのかまでは、彼にも分からないようだった。
猫はずっと鳴いている。喉が枯れてもなお、鳴き続ける。ふわりふわりと、あの甘い香りが漂ってきた。心臓が激しく動悸を打つのを感じ、総士に縋る両手を握りしめる。息切れと共に、目眩がした。
「怖いもなにも、あれはただの──おい操? おい! どうした!?」
世界がまわり、力が抜けて、総士の声が遠のいていく。熱い。身体の内側に、小さな火がついたみたいに。じわじわと侵されていく。
猫が、ずっとずっと鳴いていた。
*
「おかえり」
帰宅すると、いつも迎えに出てくるはずの操の姿がなかった。
代わりにひょっこりと顔を出したのは一騎で、甲洋は思いがけず目を丸くする。
「一騎?」
「悪い。勝手に上がらせてもらってた」
「それは構わないけど──操?」
ネクタイを緩めながら部屋を覗き込んだ甲洋の目に、ベッドに横たわる操の姿が飛び込んできた。
ただごとではない様子に顔色を変えながら駆け寄り、うっすらと赤くなっている頬に触れる。少し熱い。呼びかけても目をさます気配がなかった。
「操! 操……っ、どうしたんだ? なにがあった?」
「公園で急に倒れたんだよ」
一騎がベッドの縁に腰掛け、心配そうに曇らせた瞳で操を見つめながら言った。
「倒れたって、どうして?」
「分からない。直前までカエルを追いかけ回して、元気にしてたみたいだけど」
「……総士は?」
「大丈夫。家だよ。こっちは心配しなくていい」
一騎の話はこうだった。
彼は総士と操が公園で遊んでいるあいだ、家でカレー作りに没頭していた。できあがったら迎えに行くつもりでいたのだが、一騎が行くより先に総士が帰ってきた。しかも、ぐったりとして動かない操を背負って。
操は苦しそうに息を乱していた。のぼせたように顔を赤くしているのを見て、一騎はすぐに病院へ連れて行こうとした。が、気配を察したのか、目を覚ました操がビービーと泣きだした。
そこまで聞いて、甲洋は「あぁ」と小さく嘆息を漏らす。
「悪い……こいつ、病院はトラウマなんだ」
ここに引っ越してきてすぐ、甲洋は操を動物病院へ連れて行った。総士を一騎に託した、近藤剣司がいる病院だ。本気で面倒を見るつもりでいるのなら、一度は連れてこいという打診を受けてのものだった。
操はそこで生まれて初めて、健康診断を受けた。そして採血でわんわん泣いた。よほどショックだったらしく、帰り道でもずっと甲洋の手を握ってベソベソと泣き続けていたので、コンビニで好きなお菓子を買ってやった。するとその場はおさまったものの、以来すっかり病院嫌いになってしまったというわけだ。(ちなみに検査結果は健康そのものだった)
泣いている操と、どうにかご機嫌を取ろうとしている甲洋の姿を想像してしまったのか、一騎は堪えきれずに小さく噴きだしかけたが、すぐに気を取り直して先を続ける。
操は派手に泣きわめきながら、「家に帰る」と言ってきかなかった。そのときの彼には、一騎の顔が注射器にでも見えていたのかもしれない。這ってでも帰っていこうとするのを見て、総士は「これだけ元気があるなら問題ないだろう」と投げやりに言った。
どうにも収集がつかないので、一騎は操をマンションに連れ帰ることにした。鈴付きの合鍵を使って部屋に入り、操をベッドに横たえさせる頃にはもう日が暮れかけていて、一騎はそのまま甲洋の帰りを待つことにしたのだった。
「迷惑かけたな……ありがとう」
深く息を漏らしながら床にあぐらをかいた甲洋に、一騎は笑みを浮かべて首を振る。
「カレー持ってきたんだ。よかったら食べてくれ。冷蔵庫に入れてあるから」
「なにからなにまで悪い」
「いいって」
一騎は立ち上がると、操の寝顔を確かめるように覗き込む。
「総士は知恵熱じゃないかなんて言ってたけど」
「赤ん坊じゃないんだからさ」
「はは、だよな。……うん、呼吸も落ち着いてる。さっきよりだいぶ顔色もいいみたいだ。このまま落ち着くといいな」
険しく眉根を寄せながら操の寝顔を見つめる甲洋の肩を、一騎がポンと労うように軽く叩いた。
*
操は夕飯時を過ぎても眠り続けていた。
それどころか、深夜0時近くなっても目を覚ます気配がない。
枕元の電気スタンドだけを灯し、甲洋はベッドのすぐ脇の床にあぐらをかくとその頬に触れる。ときどき寝返りもうつし、呼吸もいたって穏やかだ。けれど手のひらに感じる体温は、いまだよく知るものより少し高めのままだった。
「明日は病院だよ、操」
可哀想だが、簀巻きにしてでも連れて行くしかない。
暑いからと言って脱いだりなんかするから、風邪を引いてしまったのだろうか。なんにせよ、原因をハッキリさせないことにはどうしようもなかった。
「んぅ」
操がむずがるような声をあげ、こちらに身体を向ける形で寝返りをうった。枕に這わされた小さな手にふと愛おしさが溢れだし、その手の甲に自分の手をそっとかぶせる。軽く握りしめると、指先をきゅっと握り返された。目を覚ましたのかと思ったが、彼はいまだに眠ったままだ。その無意識がまた愛しい。
ほんのりと淡桃に染まる指先に、どうしようもなくそそられてしまう庇護欲が、甲洋の胸を締めつける。
(──今夜だけ)
抱きしめて眠ろうか。そんな考えが頭をよぎる。ふとした瞬間にもたげてしまう劣情だとか、そんなものは今ひどく遠い場所にあった。ただ腕の中に閉じ込めて、そっと静かに守っていたい。
「操」
囁くように名前を呼んだ。すると、操の瞼がピクリと動いた。睫毛を小さく震わせながら、ゆらりとその目が開かれる。
「操? よかった、目が覚めて」
意識が戻ったことにひとまず安堵の息をつきながら笑いかける。しかし操はぼんやりとしたまま、なにも反応を示さなかった。
「どうかした?」
様子がおかしい。虚ろにも見える表情に違和感を覚え、すぐにその正体に気がついた。甲洋を見つめる瞳孔が、縦に細くなっているのだ。それが彼の幼い顔立ちの印象を、いささか尖ったものへと変えている。電気スタンドの僅かな光を反射して、琥珀の瞳がどこか妖しい輝きを放っていた。
手の中から、操の手がするりと逃げた。白い手はそのまま甲洋に向かってぬぅっと伸ばされ、指先が頬へと這わされる。じわじわと耳の方へ向かってなぞられる感覚にゾワリとしながら、甲洋は声をつまらせた。
そして指先は、やがて後ろ首へと辿りつき──
「ッ!」
長い癖毛を巻き込むようにして項を掴まれ、ぐっと強く引き寄せられた。
「みっ、みさ……ッ」
目を剥く甲洋の唇が、ベッドから不自然な体勢で身を乗りだした操の唇によって塞がれていた。一瞬だけ頭の中が白く染まって、けれどすぐにその両肩を掴んで引き剥がそうとするが、操は両腕を甲洋の首に強く絡めて口づけをより深いものにした。
咄嗟に身を引いたのと同時に、操の身体がベッドから引きずりだされ、覆いかぶさってくる。狼狽するあまり反応が鈍り、支えきれずに背中から崩れ落ちた甲洋に、彼は何度も何度も角度を変えながら口づけを繰り返した。なにが起こっているのかまるで処理しきれないまま、鼓動が乱れた早鐘を打ち鳴らす。
「み、みさ、ぉッ、ちょっ!」
ぴちゃりと音を立てながら、唇に舌を這わされた。操は熱い息を漏らし、しきりに身をくねらせはじめる。甲洋の唇に吸いつきながら、何度も何度もまるで身体の中心を擦りつけるようにして、腰を揺らしていた。その痴態に、雷を受けたような衝撃が走る。
「おまっ、え、なにして……んぅッ!」
下唇に歯を立てられて、頭の芯に焼けるような痺れが走る。ずっと遠い場所でおとなしく眠っていたはずの劣情が、手掴みで引きずり出される感覚を覚えた。
(まずい……!)
甲洋はどうにか顔を背けると、操の両肩を強く掴む。そのまま引き剥がすことくらい簡単にできたはずだった。けれどそれができなかったのは、操が吐息まじりの小さな声で甲洋の名を呼んだからだった。
「ッ!」
こうよう、と。耳元に押しつけられたその声は、舌足らずなくせにひどく艶を帯びていて、泣き濡れたように切なくかすれていた。なんて声。朗らかではつらつとした幼い子ネコからは想像もつかなくて、そのみだりな声音に思考が蒸発しそうになる。
恐る恐る見上げた操の表情は、どこか朦朧としているようにも見えた。
「みさ、お?」
「こう、よ……はぁッ、こうよ……」
心臓に爪を立てられたように、息ができなかった。頭のなかにまで鼓動がドクドクと鳴り響いている。
「おれ、甲洋の──」
金色に輝く操の瞳孔が、また一段と細く狭まるのが分かった。獣の瞳だと、甲洋は思う。彼はなにかに餓えていて、そしてなにかを、欲しがっている。
(ダメだ)
この先を言わせてはいけない。それはきっとトリガーになる。予感、という曖昧な殻をかぶせた確信が、甲洋の背を駆り立てる。なのに、指先ひとつ動かすことができなかった。ただごくりと、大きく喉を鳴らす。
操が次の言葉を紡ぐため、小さく息を吸い込んだ。そのとき。
──きゅううぅ~
「…………は?」
響き渡った緊張感のない音に、甲洋は息を呑んだまま唖然とした。操はいつも通りの丸い瞳で、キョトンとした表情を浮かべている。さっきまでの艶も、取り憑かれたような虚ろさも、そこには影すら見当たらなかった。
──きゅるるぅ~ん
沈黙のなか、またあの怪音が鳴り響く。操の耳と眉が、どんどんハの字に下がっていった。
「こうよ」
「……なに?」
「おなかすいた」
謎の音。それは操の腹の虫だった。
(なんだったんだよ、一体……!)
まさか寝ぼけていたとでもいうのだろうか。甲洋は地の底から響くような溜息を漏らし、両手を床に投げ出した。安堵している。とてつもなく。だけど、なぜか腑に落ちない。いっそ落胆すらしている自分への言い訳を必死で探しながら、少しばかりヤバいことになりかけていた甲洋Jrも、完全に萎れきっていた。
操は甲洋の上にまたがったまま、不思議そうに小首を傾げている。今の今までなにをしていたのか、きっとこの子は分かっていない。完全に意識の外であったことが、その表情からも読み取れる。
「……夜遅いから、なにか軽めのものでいい?」
全く整理がつかないまま、甲洋は操のために小さな塩むすびを二つ、作ってやることにした。
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02
「えぇー! ピーマン入ってるのぉ!?」
山盛りの炒飯を目の前に、操はスプーンを握りしめて不満を漏らした。
食べやすいように少し冷まされた炒飯には、細かく刻まれたニンジン、玉ねぎ、玉子にベーコン、そして問題のピーマンが入っている。
インスタントだった味噌汁もちゃんと鍋で作ったものだし、サラダも添えてテーブルの上はなかなかの見栄えだ。今ではすっかり潤っている冷蔵庫の食材をフル活用して、腕によりをかけたというのに。
「ピーマンは苦いから嫌いだな……」
「細かく刻んであるから、ほとんど気にならないはずだよ」
「嘘だぁ。ぜったい苦いもん。騙されないよ」
このところ、操は好き嫌いがハッキリしてきた。
以前は出せば掃除機のようになんでも口に押し込んでいたものだが、最近はあれが嫌だこれが嫌だと言っては、食べ物を選り好みするようになった。ピーマンの他にもセロリだとかナスだとか、いかにも子供が不得意そうな野菜たちが、彼のなかの『嫌いなものランキング』を席巻している。
手を変え品を変え、どうにかして食べさせるのに一苦労だ。子供の好き嫌いに頭を悩ませる母親の気持ちが、すっかり理解できてしまったような気がしていた。
けれど決して悪い傾向とも言い切れない。
操が過去に身を置いていた環境は、あまりに劣悪なものだった。まともな食事すら与えられず、たまにありつけるかと思えば性的な奉仕を対価として義務づけられていた。
甲洋との出会いだって、飼い主に捨てられた操が空腹のあまりゴミ捨て場を漁ろうとして、カラスに襲われていたところを保護したのがキッカケだ。
この子にとって、食べ物の味なんてものは二の次でしかなかった。口に入れられさえすればなんでもいいというところまで、追いつめられていたからだ。
そんな操が、今ではピーマンひとつに唇を尖らせている。それはこの子がごく当たり前の暮らしを、ごく当たり前に享受しつつあることの証に思えた。彼が小さな唇を尖らせながら我儘を言うたび、甲洋はつい微笑ましい気持ちになる。
とはいえ、それとピーマンの件とでは話が別だ。肉も魚も野菜も、できればバランスよくなんでも食べてほしいと思ってしまうのは、飼い主としての愛情である。
「食べ物で遊ばない」
ピーマンを退けようと、スプーンの先で炒飯をほじくっている操を咎めると、彼はぶぅっと頬を膨らませてそっぽを向いた。亜麻色の髪と同じ色をしたシマシマ模様のかぎしっぽが、ビタンビタンと床を叩いている。
「遊んでないもん。甲洋、最近ちょっとうるさい」
「お前は最近ちょっと生意気になってきたな。いいから食べてみな」
「ちぇー」
渋々といった様子で、操が炒飯を口に運ぶ。きつく目を閉じながら咀嚼していたが、ごくんと飲み込んだあとに目をまん丸にして甲洋を見た。
「美味しい! 苦い味どこにもない!」
「だろ?」
「やったー! おれピーマン食べられるようになった!」
「えらいな操は」
「えへへー」
丹念に細かく刻んだ甲斐があった。甲洋の努力の賜物なのだが、操は我が手柄とばかりに鼻の穴を膨らませている。そしてそのまま嬉しそうに炒飯を食べはじめた。
食べ方はずいぶん綺麗になったが、それでもご飯粒を口の端にくっつけている。もぐもぐと、リスのように膨らんだ頬が赤く染まっていた。
可愛い。目に入れても痛くないとか、食べてしまいたいとか、そういった気持ちがよく分かる。親バカ全開で緩みそうになる表情筋をぐっと引き締め、甲洋も冷めた炒飯を食べはじめた。
*
年明け早々に引っ越した先は、動物との入居が可能なワンルームマンションだった。
ワンルームといってもスタジオタイプで間仕切りがないぶん、広々として見えはするものの、玄関やキッチン等を除くと実質6畳ほどしか広さがない。そこに最低限の家具を収めるしかなく、カウチ付きのL字ソファは手放すより他になかった。
なにせ大急ぎで物件探しをしたのだから仕方ない。またコツコツと貯金をして、いずれはもう少し広い部屋への引っ越しも考えている。
けれど環境はとてもいい。以前より一騎が暮らすアパートがぐっと近くなった。お互い過保護なネコ飼いとして連携がとりやすく、操と総士を一緒に遊ばせることができるのは安心に繋がっている。
彼らは歳も近く──外見からしか判断できないが──髪や毛色も似ているせいか、並んでいるとまるで兄弟のようだった。総士は世間知らずで危なっかしい操の面倒をよく見てくれる、兄貴分のような存在になっていた。
しかし、順調な暮らしの中にも唯一『弊害』はある。
その問題は朝になると、必ず起こった。
「ん、ぅ……?」
ゆっくりと浮上する意識で最初に感じたのは、一定のリズムで胸を圧迫される感覚だった。それと重なるようにして、むにゅ、むにゅ、むにゅ、と、なにかが唇に押しつけられている。
小さく呻きながら瞼をこじ開けた甲洋の視界に、操のどアップが飛び込んできた。彼は床で毛布に包まりながら寝ている甲洋に、すっかり覆いかぶさっていた。握りしめた両手を揃え、甲洋の胸をもにもにと交互に押している──というか、揉んでいる。これが圧迫感の正体だった。
操は寝起きでぼんやりしているときなどに甘えん坊スイッチが入ると、こうして赤ちゃん猫が母猫の乳を吸うときに見せる動作を、甲洋に対して行うことがある。 ウールサッキングと呼ばれる、子猫特有の習性だ。彼はおそらく、これを無意識にやっている。
完全に甘えたモードに入っている操は、うっとりとした表情で甲洋の胸板をふみふみし、キスの雨を降らせていた。今にもゴロゴロと喉を鳴らす音が聞こえてきそうなほどご機嫌な様子で、甲洋の唇に歯を立てる。
「──ッ!?」
甲洋は声にならない悲鳴をあげて飛び起きた。すっかり乗り上げていた操は「ふぎゃ!」という声をあげながら、脇にずり落ちる。
「んぅ~……にゃに~? びっくりしたぁ~」
操はすぐに半身を起こし、丸めた手で目をこすっている。まだだいぶ眠たい様子だが、甲洋はそれどころではなかった。操の姿を上から下まで視界に収めた瞬間、頭にカァッと血がのぼる。
「お、お前! なん、なんで下になにも穿いてないのさ!?」
どうしてベッドで寝ていたはずの操が、床で寝ている甲洋の上にいたかという問題なんて、この際どうでもいい。いや、どうでもよくはないのだが、これはいつものことである。彼は毎朝のように甲洋より先に起きだし、べったりとくっついて甘えてくるのだ。どんなにやめろと言っても聞きやしない。
だけどそれよりなにより、今朝の操はなぜか下を穿いていなかった。
寝起きの頭でパニックを起こしながら目を剥く甲洋に、操はことりと首を傾げた。空中で、しっぽの先がゆらりゆらりと揺れている。
寝る間際まで、彼は確かに上も下もモコモコ素材の部屋着を着込んでいたはずだった。腹を冷やしてはいけないと、裾をウエストの中に押し込んでやったのは甲洋なのだから(見た目はちょっとダサいが)間違いない。
それがどういうわけか、彼が身につけているのは上だけだ。女の子のように斜め座りをしている操の生足は、よく食べるようになったせいか以前より太腿がふっくらしていた。見えるか見えないかのギリギリのラインで艶めかしい素足をさらす姿に、既視感を覚える。彼を保護してすぐの頃にも、これと同じようなことがあった。
甲洋はほとんど無意識にその太腿を凝視し、ごくりと喉を鳴らしてしまう。
「ん~? だぁって暑かったんだもん。脱いじゃったよ」
操の言葉にハッとする。危ない。太腿に魅入られて、つい意識を飛ばしかけていた。甲洋は赤くなっている顔半分を片手で覆い、自己嫌悪から盛大な息を漏らす。
「……確かに、もう真冬じゃないしね」
朝晩はまだまだ冷えるからと、裾をきっちりズボンにINしてしまったのが裏目に出た。ネコは人間よりも体温が高い。それ以前に、操は子供体温なのだ。
謎が解けてスッキリしたが、煩悩だけはスッキリしない。身体の中心にはハッキリと違和感があり、毛布で隠していなければ大変なことになっていた。
(やっぱり欲求不満なのかな、俺)
季節は春。初夏の入り口には甲洋の誕生日が控えている。今年も童貞歴を更新する目処は立っているが、捨てるフラグはいつまでたっても立ちそうにない。
そんな甲洋にとって、幼く中性的な操の顔立ちと健康的で未成熟な身体は、気を迷わせるに充分な刺激になってしまう。
しかしいくら童貞をこじらせていようとも、ネコに劣情を覚えるなんて事実は、決してあってはならないことだ。それでは前の飼い主と変わらない。甲洋の罪悪感は膨れ上がる一方だった。
(そういえばぜんぜん抜いてないな、最近……)
どんなにすましたツラをしていようとも、甲洋だって健康体の雄である。溜まるものは溜まるし、そんなときは右手を活用するくらいしなくては、とてもやっていられない。
けれど操と暮らすようになってからは、そういった自己処理はご無沙汰だった。忙しかったというのもあるけれど、精神的な充実感が大きかったからかもしれない。それは今でも変わらないけれど、だからといっていつまでも誤魔化されてくれないのが、生理現象というものである。
甲洋は顔半分を覆ったままきつく目を閉じて、むっちりとした白い太腿の像を頭の中から追い出そうとする。しかし困ったことに消えてくれない。あたたかくて柔らかな唇の感触さえも、残ったままだ。
高鳴っている心臓に、甲洋はほとほと嫌気がさした。
(落ち着け俺……こんなんじゃやっていけないだろ……)
どんなに可愛い顔をしていようとも、甲洋好みの太腿をしていようとも、操はネコだ。性の対象にしてはならない。絶対に。
細長い息を漏らしながら、内にこもる熱をゆっくり逃す。脳裏の片隅で素数を数えながら、絞り出すように口を開いた。
「操……とりあえずズボン穿いて。どこで脱いだの?」
「布団の中だよ」
「風邪ひかないうちに早く……あと、唇同士をくっつけるのはダメだって、いつも言ってるだろ」
操のほうを見ないようにしながら言った甲洋に、我儘ネコが「だぁってぇ」と不満そうな声を漏らした。
「したくなっちゃうんだもん。しょうがないでしょ。ねぇ甲洋、いい加減ベッドで一緒に寝ようよ。床は固いよ。甲洋だって風邪ひいたら困るでしょ?」
「……ダメ」
「なんで? ねぇなんで?」
「ダメなものはダメなんだ」
「ケチ!」
なんとでも言え。
どうあってもこの我儘だけはきけそうにない。バラバラに寝ていてさえこんなことになってしまうのに、一緒に寝るなんてとんでもない話だ。
操がぶぅっと唇を尖らせ、睨みつけてくる。甲洋はそれをあえて無視した。
「甲洋ってどうしてそうなの? 嬉しいと嬉しくないが混ざってぐちゃぐちゃ。変な感じ」
「読むなバカ……」
厄介だ。ネコの読心能力はイヌほど優れたものじゃない。だけど、厄介なのだ。
甲洋自身にさえ処理しきれない感情を、操はそのまま感じとる。問われたところで説明のしようがない。欲求不満だなんて、口が裂けても言えるわけがなかった。
そりゃあ甲洋だって本音を言えば、ネコを抱いたときのあのふわふわであったかくて最高の気分を、思う存分味わってみたい。だけどもし万が一、なにか間違いを起こすようなことになったらと思うと──ゾッとする。前の飼い主と同じになってしまうことだけは、絶対に許しがたいことだった。
そんな現・飼い主の気もすらず、操が尖らせていた唇をほどいて、にこりと笑った。目を逸らしたままの甲洋になにを思ったのか知らないが、再び上に乗り上げてくると勢いよく首に抱きついてくる。
「わっ!? 駄目だって! せっかくおさまってきたのに!」
「こうよー!」
歌うように名前を呼んだかと思ったら、目を白黒させる甲洋の鼻に強く自分の鼻を押しつける。楽しそうに何度も何度も繰り返して、最後に一度だけ唇にちゅっとキスをすると、顔中に頬ずりをしてきた。
「みっ、みさ、みさおっ、お前なぁ」
「おはよ、甲洋ぉ」
「あー、もう……」
こんなことが毎朝起こる。最近ちょっと生意気で、我儘になってきた操は、ちっとも言うことをきかなくなった。とてつもなく困るのに、この上なく可愛くて、甲洋の中は様々な感情が入り交ざる。
この子はただ甘えているだけだ。鼻へのキスがその範囲を広げて、唇に落とされたとしても。たまに舌を這わされ、歯を立てられても。それはネコだからこその愛情表現で、コミュニケーションのひとつでしかない。
そこに性は絡まないし、絡めてはいけない、純粋な領域であるはずだ。
「おはよう、操」
半分諦めたように苦笑する甲洋に、操はしっぽをピンと立てながらいっそう強く抱きついてくる。その背をぽんぽんと軽く叩きながら、こっそりと溜息を漏らした。
(とりあえず、シャワー浴びるか……)
余計な煩悩は冷たいシャワーでも浴びて流してしまおう。出すものは出してしまったほうが楽になることは分かっているが、今はどうしてもダメだ。なにせ操の太腿がいまだ脳裏から離れない。オカズにしない自信がなかった。
これが『弊害』の正体だ。甲洋はこのあってはならない劣情と、日夜必死で戦っている。
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「えぇー! ピーマン入ってるのぉ!?」
山盛りの炒飯を目の前に、操はスプーンを握りしめて不満を漏らした。
食べやすいように少し冷まされた炒飯には、細かく刻まれたニンジン、玉ねぎ、玉子にベーコン、そして問題のピーマンが入っている。
インスタントだった味噌汁もちゃんと鍋で作ったものだし、サラダも添えてテーブルの上はなかなかの見栄えだ。今ではすっかり潤っている冷蔵庫の食材をフル活用して、腕によりをかけたというのに。
「ピーマンは苦いから嫌いだな……」
「細かく刻んであるから、ほとんど気にならないはずだよ」
「嘘だぁ。ぜったい苦いもん。騙されないよ」
このところ、操は好き嫌いがハッキリしてきた。
以前は出せば掃除機のようになんでも口に押し込んでいたものだが、最近はあれが嫌だこれが嫌だと言っては、食べ物を選り好みするようになった。ピーマンの他にもセロリだとかナスだとか、いかにも子供が不得意そうな野菜たちが、彼のなかの『嫌いなものランキング』を席巻している。
手を変え品を変え、どうにかして食べさせるのに一苦労だ。子供の好き嫌いに頭を悩ませる母親の気持ちが、すっかり理解できてしまったような気がしていた。
けれど決して悪い傾向とも言い切れない。
操が過去に身を置いていた環境は、あまりに劣悪なものだった。まともな食事すら与えられず、たまにありつけるかと思えば性的な奉仕を対価として義務づけられていた。
甲洋との出会いだって、飼い主に捨てられた操が空腹のあまりゴミ捨て場を漁ろうとして、カラスに襲われていたところを保護したのがキッカケだ。
この子にとって、食べ物の味なんてものは二の次でしかなかった。口に入れられさえすればなんでもいいというところまで、追いつめられていたからだ。
そんな操が、今ではピーマンひとつに唇を尖らせている。それはこの子がごく当たり前の暮らしを、ごく当たり前に享受しつつあることの証に思えた。彼が小さな唇を尖らせながら我儘を言うたび、甲洋はつい微笑ましい気持ちになる。
とはいえ、それとピーマンの件とでは話が別だ。肉も魚も野菜も、できればバランスよくなんでも食べてほしいと思ってしまうのは、飼い主としての愛情である。
「食べ物で遊ばない」
ピーマンを退けようと、スプーンの先で炒飯をほじくっている操を咎めると、彼はぶぅっと頬を膨らませてそっぽを向いた。亜麻色の髪と同じ色をしたシマシマ模様のかぎしっぽが、ビタンビタンと床を叩いている。
「遊んでないもん。甲洋、最近ちょっとうるさい」
「お前は最近ちょっと生意気になってきたな。いいから食べてみな」
「ちぇー」
渋々といった様子で、操が炒飯を口に運ぶ。きつく目を閉じながら咀嚼していたが、ごくんと飲み込んだあとに目をまん丸にして甲洋を見た。
「美味しい! 苦い味どこにもない!」
「だろ?」
「やったー! おれピーマン食べられるようになった!」
「えらいな操は」
「えへへー」
丹念に細かく刻んだ甲斐があった。甲洋の努力の賜物なのだが、操は我が手柄とばかりに鼻の穴を膨らませている。そしてそのまま嬉しそうに炒飯を食べはじめた。
食べ方はずいぶん綺麗になったが、それでもご飯粒を口の端にくっつけている。もぐもぐと、リスのように膨らんだ頬が赤く染まっていた。
可愛い。目に入れても痛くないとか、食べてしまいたいとか、そういった気持ちがよく分かる。親バカ全開で緩みそうになる表情筋をぐっと引き締め、甲洋も冷めた炒飯を食べはじめた。
*
年明け早々に引っ越した先は、動物との入居が可能なワンルームマンションだった。
ワンルームといってもスタジオタイプで間仕切りがないぶん、広々として見えはするものの、玄関やキッチン等を除くと実質6畳ほどしか広さがない。そこに最低限の家具を収めるしかなく、カウチ付きのL字ソファは手放すより他になかった。
なにせ大急ぎで物件探しをしたのだから仕方ない。またコツコツと貯金をして、いずれはもう少し広い部屋への引っ越しも考えている。
けれど環境はとてもいい。以前より一騎が暮らすアパートがぐっと近くなった。お互い過保護なネコ飼いとして連携がとりやすく、操と総士を一緒に遊ばせることができるのは安心に繋がっている。
彼らは歳も近く──外見からしか判断できないが──髪や毛色も似ているせいか、並んでいるとまるで兄弟のようだった。総士は世間知らずで危なっかしい操の面倒をよく見てくれる、兄貴分のような存在になっていた。
しかし、順調な暮らしの中にも唯一『弊害』はある。
その問題は朝になると、必ず起こった。
「ん、ぅ……?」
ゆっくりと浮上する意識で最初に感じたのは、一定のリズムで胸を圧迫される感覚だった。それと重なるようにして、むにゅ、むにゅ、むにゅ、と、なにかが唇に押しつけられている。
小さく呻きながら瞼をこじ開けた甲洋の視界に、操のどアップが飛び込んできた。彼は床で毛布に包まりながら寝ている甲洋に、すっかり覆いかぶさっていた。握りしめた両手を揃え、甲洋の胸をもにもにと交互に押している──というか、揉んでいる。これが圧迫感の正体だった。
操は寝起きでぼんやりしているときなどに甘えん坊スイッチが入ると、こうして赤ちゃん猫が母猫の乳を吸うときに見せる動作を、甲洋に対して行うことがある。 ウールサッキングと呼ばれる、子猫特有の習性だ。彼はおそらく、これを無意識にやっている。
完全に甘えたモードに入っている操は、うっとりとした表情で甲洋の胸板をふみふみし、キスの雨を降らせていた。今にもゴロゴロと喉を鳴らす音が聞こえてきそうなほどご機嫌な様子で、甲洋の唇に歯を立てる。
「──ッ!?」
甲洋は声にならない悲鳴をあげて飛び起きた。すっかり乗り上げていた操は「ふぎゃ!」という声をあげながら、脇にずり落ちる。
「んぅ~……にゃに~? びっくりしたぁ~」
操はすぐに半身を起こし、丸めた手で目をこすっている。まだだいぶ眠たい様子だが、甲洋はそれどころではなかった。操の姿を上から下まで視界に収めた瞬間、頭にカァッと血がのぼる。
「お、お前! なん、なんで下になにも穿いてないのさ!?」
どうしてベッドで寝ていたはずの操が、床で寝ている甲洋の上にいたかという問題なんて、この際どうでもいい。いや、どうでもよくはないのだが、これはいつものことである。彼は毎朝のように甲洋より先に起きだし、べったりとくっついて甘えてくるのだ。どんなにやめろと言っても聞きやしない。
だけどそれよりなにより、今朝の操はなぜか下を穿いていなかった。
寝起きの頭でパニックを起こしながら目を剥く甲洋に、操はことりと首を傾げた。空中で、しっぽの先がゆらりゆらりと揺れている。
寝る間際まで、彼は確かに上も下もモコモコ素材の部屋着を着込んでいたはずだった。腹を冷やしてはいけないと、裾をウエストの中に押し込んでやったのは甲洋なのだから(見た目はちょっとダサいが)間違いない。
それがどういうわけか、彼が身につけているのは上だけだ。女の子のように斜め座りをしている操の生足は、よく食べるようになったせいか以前より太腿がふっくらしていた。見えるか見えないかのギリギリのラインで艶めかしい素足をさらす姿に、既視感を覚える。彼を保護してすぐの頃にも、これと同じようなことがあった。
甲洋はほとんど無意識にその太腿を凝視し、ごくりと喉を鳴らしてしまう。
「ん~? だぁって暑かったんだもん。脱いじゃったよ」
操の言葉にハッとする。危ない。太腿に魅入られて、つい意識を飛ばしかけていた。甲洋は赤くなっている顔半分を片手で覆い、自己嫌悪から盛大な息を漏らす。
「……確かに、もう真冬じゃないしね」
朝晩はまだまだ冷えるからと、裾をきっちりズボンにINしてしまったのが裏目に出た。ネコは人間よりも体温が高い。それ以前に、操は子供体温なのだ。
謎が解けてスッキリしたが、煩悩だけはスッキリしない。身体の中心にはハッキリと違和感があり、毛布で隠していなければ大変なことになっていた。
(やっぱり欲求不満なのかな、俺)
季節は春。初夏の入り口には甲洋の誕生日が控えている。今年も童貞歴を更新する目処は立っているが、捨てるフラグはいつまでたっても立ちそうにない。
そんな甲洋にとって、幼く中性的な操の顔立ちと健康的で未成熟な身体は、気を迷わせるに充分な刺激になってしまう。
しかしいくら童貞をこじらせていようとも、ネコに劣情を覚えるなんて事実は、決してあってはならないことだ。それでは前の飼い主と変わらない。甲洋の罪悪感は膨れ上がる一方だった。
(そういえばぜんぜん抜いてないな、最近……)
どんなにすましたツラをしていようとも、甲洋だって健康体の雄である。溜まるものは溜まるし、そんなときは右手を活用するくらいしなくては、とてもやっていられない。
けれど操と暮らすようになってからは、そういった自己処理はご無沙汰だった。忙しかったというのもあるけれど、精神的な充実感が大きかったからかもしれない。それは今でも変わらないけれど、だからといっていつまでも誤魔化されてくれないのが、生理現象というものである。
甲洋は顔半分を覆ったままきつく目を閉じて、むっちりとした白い太腿の像を頭の中から追い出そうとする。しかし困ったことに消えてくれない。あたたかくて柔らかな唇の感触さえも、残ったままだ。
高鳴っている心臓に、甲洋はほとほと嫌気がさした。
(落ち着け俺……こんなんじゃやっていけないだろ……)
どんなに可愛い顔をしていようとも、甲洋好みの太腿をしていようとも、操はネコだ。性の対象にしてはならない。絶対に。
細長い息を漏らしながら、内にこもる熱をゆっくり逃す。脳裏の片隅で素数を数えながら、絞り出すように口を開いた。
「操……とりあえずズボン穿いて。どこで脱いだの?」
「布団の中だよ」
「風邪ひかないうちに早く……あと、唇同士をくっつけるのはダメだって、いつも言ってるだろ」
操のほうを見ないようにしながら言った甲洋に、我儘ネコが「だぁってぇ」と不満そうな声を漏らした。
「したくなっちゃうんだもん。しょうがないでしょ。ねぇ甲洋、いい加減ベッドで一緒に寝ようよ。床は固いよ。甲洋だって風邪ひいたら困るでしょ?」
「……ダメ」
「なんで? ねぇなんで?」
「ダメなものはダメなんだ」
「ケチ!」
なんとでも言え。
どうあってもこの我儘だけはきけそうにない。バラバラに寝ていてさえこんなことになってしまうのに、一緒に寝るなんてとんでもない話だ。
操がぶぅっと唇を尖らせ、睨みつけてくる。甲洋はそれをあえて無視した。
「甲洋ってどうしてそうなの? 嬉しいと嬉しくないが混ざってぐちゃぐちゃ。変な感じ」
「読むなバカ……」
厄介だ。ネコの読心能力はイヌほど優れたものじゃない。だけど、厄介なのだ。
甲洋自身にさえ処理しきれない感情を、操はそのまま感じとる。問われたところで説明のしようがない。欲求不満だなんて、口が裂けても言えるわけがなかった。
そりゃあ甲洋だって本音を言えば、ネコを抱いたときのあのふわふわであったかくて最高の気分を、思う存分味わってみたい。だけどもし万が一、なにか間違いを起こすようなことになったらと思うと──ゾッとする。前の飼い主と同じになってしまうことだけは、絶対に許しがたいことだった。
そんな現・飼い主の気もすらず、操が尖らせていた唇をほどいて、にこりと笑った。目を逸らしたままの甲洋になにを思ったのか知らないが、再び上に乗り上げてくると勢いよく首に抱きついてくる。
「わっ!? 駄目だって! せっかくおさまってきたのに!」
「こうよー!」
歌うように名前を呼んだかと思ったら、目を白黒させる甲洋の鼻に強く自分の鼻を押しつける。楽しそうに何度も何度も繰り返して、最後に一度だけ唇にちゅっとキスをすると、顔中に頬ずりをしてきた。
「みっ、みさ、みさおっ、お前なぁ」
「おはよ、甲洋ぉ」
「あー、もう……」
こんなことが毎朝起こる。最近ちょっと生意気で、我儘になってきた操は、ちっとも言うことをきかなくなった。とてつもなく困るのに、この上なく可愛くて、甲洋の中は様々な感情が入り交ざる。
この子はただ甘えているだけだ。鼻へのキスがその範囲を広げて、唇に落とされたとしても。たまに舌を這わされ、歯を立てられても。それはネコだからこその愛情表現で、コミュニケーションのひとつでしかない。
そこに性は絡まないし、絡めてはいけない、純粋な領域であるはずだ。
「おはよう、操」
半分諦めたように苦笑する甲洋に、操はしっぽをピンと立てながらいっそう強く抱きついてくる。その背をぽんぽんと軽く叩きながら、こっそりと溜息を漏らした。
(とりあえず、シャワー浴びるか……)
余計な煩悩は冷たいシャワーでも浴びて流してしまおう。出すものは出してしまったほうが楽になることは分かっているが、今はどうしてもダメだ。なにせ操の太腿がいまだ脳裏から離れない。オカズにしない自信がなかった。
これが『弊害』の正体だ。甲洋はこのあってはならない劣情と、日夜必死で戦っている。
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01
五分咲きの桜の根元に膝をつき、その幹に爪を立てながら息をひそめて身を隠す。前方およそ二メートル先ではスズメが一羽、ぴょこぴょこと小気味よく飛び跳ねては時おり地面をつついている。
操はそれを瞬きもせず食い入るように見つめていた。くるりと丸まったかぎしっぽの先を揺らし、ときどき小さく尻を振る。
(今日こそぜったい成功させるんだ)
形の良い眉をキリッとさせて、スズメの動向に全神経を注ぎ込む。
夕暮れ時の公園はとても静かだ。さっきまで騒がしく走り回っていた子どもたちの姿もない。咲きはじめの桜の枝が、頭上で乾いた音を立てながら揺れているだけ。集中力が最高潮まで高まったところに、スズメがこれまででもっとも近い位置へと移動してきた。
(今だ──!)
操はカッと目を見開くと、爪先で思い切り地面を蹴る。スズメ目掛けて飛びかかり、その丸々とした身体に素早く手を伸ばした──が。
「ピチョチョチョチョッ!」
スズメはまるで小バカにしたように軽快な声をあげ、一瞬にして空高く飛び立ってしまった。
「あぁー! 逃げられたぁ!」
操はその場にぺたんと座り込み、夕暮れの空を仰ぎ見た。スズメは遥か遠く、電線で羽根を休める群れの中に混ざって、もはやどいつが獲物であったかすら分からなくなっている。
「あーぁ、今日も失敗。やっぱり狩りって難しい」
大きな溜息をもらし、尖った耳ごと項垂れる。
今日こそ仕留めて、飼い主である甲洋へのお土産にしようと思っていたのに。
「これじゃいつまで経っても甲洋に喜んでもらえない。こんなにがんばってるのに、なんで上手くいかないのぉ?」
操はこうしていつも狩りの練習をしている。けれど今まで一度も成功した試しがなかった。スズメを持ち帰ったところで甲洋を困らせるだけだという頭を、ネコである操は持ち合わせていない。あるのは獣であるがゆえの狩猟本能だ。
新居に引っ越してから数ヶ月。外で遊べるようになってからというもの、室内飼いだった操の中に眠っていたその本能はすくすくと育ち、今ではこうして小鳥や虫などを追いかけ回す日々を送っている。
操のなかでは、甲洋は未だに狩りが下手くそな子供のようなものだった。だから早く獲物を捕まえられるようになって、甲洋をお世話したいと思っている。
「残念だったねぇ。あと少しだったのに」
そのとき、声がした。
操は項垂れていた耳をピンと立てながら顔をあげる。するとすぐ近くのベンチに、ベージュのスーツを着た中年男性が腰掛けていた。膝の上に黒いビジネスバッグを置いて、ニコニコと優しそうな笑顔を浮かべている。
「お腹が空いてるのかい? よければおじさんがなにかご馳走しようか?」
「ご馳走!?」
その言葉についつい反応してしまったが、操はすぐにハッとして男から目を逸らす。そのまま何事もなかったふりをして立ち上がり、両手を頭の後ろで組みながら誤魔化すように「ぴゅ~っ」とわざとらしく口笛を鳴らした。
知らない人とは絶対に口をきくな。普段、甲洋から耳にタコができるほど言い聞かせられていることだ。ご馳走というワードにつられて、危うく言いつけを破ってしまうところだった。
「おうち帰ろっと。もうすぐ甲洋も帰ってくるし」
甲洋は塾という場所で講師というバイトをしている。それがどんなものなのか操にはよく分からないけれど、世間が春休みに突入してからというもの、彼は午前中から出かけていくことが多かった。帰ってくるのは夕方を少し過ぎるくらいだ。しゅんきこうしゅう、とかなんとか言っていたような気がするが、そのへんはやっぱりよく分からない。
操にとって大切なのは、帰ってきた甲洋に必ず「おかえり」を言うことだ。そのためにも、これ以上道草を食っている余裕はない。
(今日もいっぱいおかえりのチュウしちゃおーっと!)
ウキウキしながらくるりと背を向け、歩きだす。すると男が、急に焦ったように大きな声を張りあげた。
「あーっ! イタタタタッ!」
「にゃっ!?」
突然のことにビクンと肩を跳ねさせながら振り返る。
さっきまでゆったりと腰掛けて笑顔を浮かべていたはずの男が、なぜか今度は背中を丸めて「痛い痛い」としきりに呟いては、表情を歪めていた。時おり操にチラッチラッと視線を向けてくる。明らかになにかをアピールしている様子だった。
一体なんだというのだろう。けれど操は無理やり気づかないふりをして、再び背を向けるとその場からさっさと逃げだすことにした。が──
「痛いなぁ! 痛い痛い! どこかに親切で可愛い子ネコちゃんはいないかなぁ! おじさんこのままだと、痛すぎて死んじゃうかもなぁー!?」
「もー! なに!? なんなのさっきから! 親切で可愛い子ネコなんて、そんなのおれ以外いないじゃん!」
あまりのしつこさに耐えきれず、操はイラっとしながら結局また振り向いてしまった。すると男は待ってましたとばかりにパァッと明るい表情を浮かべて見せる。
「あぁよかった! 親切で可愛いおじさん好みの子ネコちゃん!」
「なにか用? おれもう帰らないといけないんだけど」
「そ、そんなこと言わず! ちょっとでいいから助けてくれない?」
よく見ると、男は面積の広い額にうっすら汗を滲ませていた。顔も赤いような気がするし、もしかしたら本当に助けが必要な状態なのかもしれない。
操は「しょうがないなぁ」とこぼしながら、男の傍まで歩み寄る。
「なんなの? どこか痛いの?」
「それが……おじさん病気にかかっちゃったみたいなんだ」
「病気?」
男はビジネスバッグを両手で抱え込みながら、ずっと背中を丸めている。というより、前かがみになっている。
「ねぇ、病気ってどこが悪いの?」
操が首を傾ると、男は「とりあえずもっと近くに来て」と言いながら軽くアゴをしゃくった。仕方なく隣にちょこんと腰掛けると、嬉しそうに息を乱しながらニタリと笑う。そして屈めていた姿勢を正すと、ビジネスバッグを脇に放った。
その瞬間、開ききった社会の窓からボロンと跳ねるようにして、勃起した男性器が姿を現した。
「!」
とつぜん顔をだした元気なブツに、操はまんまるにした目を瞬かせる。
男はそんな操の反応をニヤニヤしながら覗っていた。
「……これって病気なの?」
「ハァ、ハァ……そ、そうなんだ。放っておくと死んじゃう病気なんだ」
「ふぅん。そうなんだ」
操の視線によってさらに興奮が増したらしいブツが、ピクピクと脈打ちながら天を仰いでいる。
男は性に疎い子ネコに勃起した性器を見せつけている、という図に興奮しているのだが、操にはそんな男の性癖は理解できない。むしろこういった状態に陥っているブツは何度も見てきたし、怖くもなければ珍しくもなかった。
操が感じていたのは、これが『病気』によるものだという、新たな知識への純粋な驚きだった。前の飼い主もよくこうなっていたが、まさか放っておくと死に至るほど恐ろしい病だったとは知らなかった。
「大変だね。おれ、これの治し方知ってるよ」
「えっ?」
操の言葉に、男がぎょっとした。彼からしてみれば、無知で純粋でいたいけな子ネコという解釈が、一気に揺らぐほどの爆弾発言である。
「嬉しくさせればいいんだ。そうすればすぐによくなるよ」
「ううう、嬉しく? そ、そそ、それってどうするんだい?」
「おれは口でしてたよ。前のご主人様がよくこうなってたし、やらなきゃご飯がもらえなかったから」
「へっ、へえぇ!? なら話は早いなぁ!」
ブツがまた一段と元気に膨らんだような気がする。純真無垢な子ネコから、一瞬で玄人ビッチへと解釈の書き換えが済んだらしい男が、勢いよくパァンと膝を叩いた。何事かと肩を跳ねさせた操の手首を掴んで、急に立ち上がると強引に引っ張る。
「わっ! な、なに!?」
「向こうにトイレがあるから! あっちでおじさんの病気を治してくれるかな!」
「えーっ! やだよ! おれもうそういうことはしてないの!」
操はまるで綱引きのような体勢で腰を落として、掴まれた腕を引き離そうと激しくもがいた。しかし男は容赦なく操の身体を引きずっていこうとする。
「いいからいいから、さぁおいで! 慣れてるんだろ? 減るもんじゃなし!」
「やだってばー! そんなの他の子に頼めばいいじゃん! おれはやだぁー!」
「うるせぇな! たかがネコの分際で人間様に逆らうな!!」
男は急に顔つきも口調も変えて本性を見せはじめる。その豹変ぶりに操は身をすくませた。こんなふうに怒鳴られるなんて初めての経験だったし、男からは苛立ちと欲望にまみれた黒い感情が、鉛玉のように重たく伝わってくる。
それが恐ろしくて、操は震えるしっぽを両足の間にくるりと巻き込みながら、きつく目を閉じた。
(こいつやだ! 怖いよ甲洋……!!)
心の中で、大好きな飼い主に助けを求める。今の操のご主人様だ。
甲洋と出会って、操は『仕事』をしなくても済むようになった。他にはなんの役にも立たないと思い込まされていた操に、それは間違いだと教えてくれたのが甲洋だった。
彼はいっそもどかしいくらい、操になにも求めない。ただそばにいてくれればいいのだと、そう言ってとても大事にしてくれる。
操はそんな甲洋のことが大好きだ。優しくて、あたたかくて、とてもいい匂いがする。だから、嬉しくさせたいと思うのも彼だけだった。他の誰でもない。甲洋さえ望むなら、操はきっとなんだってできる。
「やだやだ! 絶対やだー! 離してよぉ!!」
「おとなしくしろって言うのが分からなぶっへぇッ!?」
「!?」
そのとき、男の後頭部にビジネスバッグが飛んできた。それは男がベンチに置き去りにしていたものだった。まさに剛速球といえるスピードで、一直線に飛んできたバッグの角がヒットして、男は前のめりになって派手に転んだ。その拍子に掴まれていた手が解放される。
操はポカンとしながら倒れ込んだ男を見下ろしていたが、強い力に肩を抱き寄せられてハッと息をのんだ。
「遅くなってごめん。操」
「甲洋……!!」
操の肩を強く抱いて引き寄せているのは、飼い主である春日井甲洋だった。
彼はきっちりと紺のスーツを着こなしている。整った白皙にやんわりと浮かぶ綺麗な笑顔に、操は安堵から涙を浮かべるとその胸にしがみついた。甲洋はそんな操の髪を耳ごとくしゃりと優しく撫でる。
「な、なんだ!? なにが起こった!?」
すっかり転倒していた男は、慌てて起きあがると頭部を押さえてパニックを起こしている。けれどすぐに甲洋の存在に気づき、顔を真っ赤にしながらむき出しだった股間を隠した。
「なんだね君は!? こんなことして、ただで済むと思ってるのか!?」
ツバを飛ばしながら怒鳴った男に、甲洋が小さく鼻で笑った。
「それはこっちのセリフですよ、毛部山(もぶやま)一郎さん」
「へ!? な、なぜ私の名前を!?」
甲洋は笑顔だが、瞳だけは笑っていない。ゴミでも見るような冷ややかな微笑を浮かべ、目の高さまでなにやら白い紙切れのようなものをスッと持ち上げた。
「そ、それは!?」
「バッグからケースがはみ出していたので、一枚拝借しました」
それは男の名刺だった。操にはそのアイテムがどれほど重要なものかは分からない。けれど男は──毛部山は一気に青褪め、急に小さく縮こまってしまった。
「いいところにお勤めですね。ポストも重役。それも今日限りでおしまい、か」
「い、いや、ここ、これはだね、その……ゆ、許してくれ! 魔が差しただけなんだ! あっ、そうだ!」
毛部山は慌ててバッグの中身を漁ると、中から黒革の財布を取り出した。
「お、お金をあげよう! その子にもちゃんと払うつもりだったんだ! だからどうか見逃してくれ! か、可愛い妻と子供たちがいるんだ! 下の子はまだ小学生で……っ」
「……とっとと失せな。次はないぜ」
聞いたこともないようなドスの利いた低音だった。冷笑さえも消えている。毛部山はその気迫に「ひぃん」とおかしな声をあげ、拾い上げたバッグで股間を隠しながらペコペコと頭をさげると、甲洋の手から名刺を奪って一目散に逃げていく。
「無駄だ。確かに覚えたぞ、毛部山……」
こんな甲洋を見たのは初めてで、これが殺意……これが……と肌で感じながら、操はブルリと震えてしまった。が、毛部山の姿が完全に消えるのを見届けたあと、甲洋は大きな溜息を漏らしながら安堵の表情で操を見た。
「間に合ってよかった。怪我はない? なにもされてない?」
「う、うん! ありがとう甲洋! 助けてくれなかったら、嬉しくさせたくない人を嬉しくさせなきゃいけないところだったよ!」
「いつまでも一人で遊んでるからだ……どうして一騎に送ってもらわなかったの?」
甲洋が困り眉で肩を落とした。
ふたりが新しく引っ越したのは、友人の真壁一騎とその愛ネコ、総士が暮らすアパートから、徒歩十分とかからない場所にあるワンルームマンションだった。この公園はちょうど中間地点で、操は総士といつもここで一緒に遊んでいる。
日暮れ間近になると一騎が総士を迎えにやってきて、甲洋が来られないときは操をマンションまで送ってくれる。逆もまた然りだ。
一騎も甲洋も超がつくほどの過保護なので、総士と操を決して単体では歩かせない。だから今日も送ってもらうはずだったのだが、操はもう少し狩りの練習がしたかったので、思いきり駄々をこねて居残った。一騎は居酒屋でバイトをしているため、時間の都合上どうしても操を残していくよりほかになかったのだ。
甲洋は一騎からその知らせを受けて、全速力で帰ってきたらしかった。
「これでわかっただろ? 外は危険がいっぱいだって。今日はたまたま間に合ったけど、またいつこんなことが起こるか」
「わかったよぉ。わかったから甲洋、肩痛いってば」
「あ、ごめん」
話しながら熱が入ったらしく、甲洋は操の肩から手を離すとまた大きく息をついた。
「心労が尽きないよ、俺は」
「ねぇ甲洋。大丈夫だって。次からはちゃんと送ってもらうから、安心してよ」
「頼むからそうして……」
心なしかげっそりしている甲洋に、さすがの操も申し訳ない気持ちになる。
一騎に我儘を言って困らせ、しかも言いつけを破って知らない人と口まできいてしまった。その結果がこれである。怖い思いをしたあげく、甲洋に心配までかけてしまった。もしあそこで助けてもらわなかったらどうなっていたか、考えるだけで込み上げる嫌な気持ちに、胸が押しつぶされそうだった。
「ごめんね、甲洋」
結局、なにをしてもうまくいかない。狩りだって失敗続きだし、嬉しくさせるどころか大変な思いばかりさせてしまう。甲洋がどれほど心配していたかが伝わってくるだけに、なおのこと操は落ち込んだ。
(あーぁ、おれって駄目ネコなのかなぁ……)
しっぽと耳をダラリとさげてうつむくと、甲洋が大きな手で頭をわしゃわしゃと撫でてきた。遠慮がちに上目使いで見上げた操に、ふっと優しく笑顔を浮かべる。
「帰ろう、操。腹減ったろ?」
「甲洋……うん! お腹すいた!」
甲洋の手からは、操を大事に思う気持ちが痛いほど伝わってくる。それを感じるとどうしようもなく嬉しくなって、落ち込んでいたのも忘れて自然と笑顔になってしまう。
操は甲洋と手を繋ぐと一緒に歩きはじめた。くるりと曲がったかぎしっぽをまっすぐ立てて、喜びを表現しながら繋いだ手をぶらぶらとさせる。
「ねぇ甲洋、今夜のご飯はなぁに?」
「そうだな。操はなにが食べたい?」
「んーっとねぇ」
じきに満開を迎えるであろう桜が枝を揺らし、風に乗せて春の匂いを運んでくる。
ふたつの影が手と手を繋いでひとつになって、夕暮れを背に道の先へと伸びていた。
──アオーン、アオーン
(ん……?)
「どうした?」
どこからか聞こえてきた鳴き声が、ふと気になって辺りを見回す操に、甲洋が首を傾げる。操は慌てて首を左右に振ると、「なんでもないよ」と言って笑った。
「そう?」
「うん。あ、ねぇ、おれ炒飯がいいな! 甲洋の炒飯!」
初めて会った日に、腹を空かせた操に甲洋が作ってくれたのが炒飯だった。
ご主人様に捨てられて、何日も飲まず食わずでさまよって、弱りきった操はゴミ捨て場でカラスに襲われてしまった。あのときも、甲洋が助けてくれなければ今頃どうなっていたか分からない。
彼はありあわせのもので簡単に作っただけだと言うけれど、あの優しい味は操にとって特別な思い出だった。
「いいよ」
そう言って笑う甲洋の横顔を見て、操は頬が熱くなるのを感じた。走っているわけでもないのに、胸の鼓動が早くなる。
甲洋と一緒にいると、操は嬉しいと思う。だけどその嬉しいという感情に、なにか別のものが入り交じっていることを、最近少しずつ意識するようになっていた。それは最近少しずつ分かるようになってきた『恥ずかしい』という気持ちに、どこか似ている。くすぐったいようなその感情が不思議で、だけどとても大切だと思えるのだ。
──アオーン、アオーン
また、声がした。あれはきっと、猫の声だ。
操は耳をピクピクと動かして、それからすんっと鼻を鳴らした。
(なんだろう?)
どこからか漂う甘い香りに、胸がざわつく。
なぜだかちょっぴり怖いような気がして、操は無意識に甲洋の手をぎゅうと強く握りしめていた。
←戻る ・ 次へ→
五分咲きの桜の根元に膝をつき、その幹に爪を立てながら息をひそめて身を隠す。前方およそ二メートル先ではスズメが一羽、ぴょこぴょこと小気味よく飛び跳ねては時おり地面をつついている。
操はそれを瞬きもせず食い入るように見つめていた。くるりと丸まったかぎしっぽの先を揺らし、ときどき小さく尻を振る。
(今日こそぜったい成功させるんだ)
形の良い眉をキリッとさせて、スズメの動向に全神経を注ぎ込む。
夕暮れ時の公園はとても静かだ。さっきまで騒がしく走り回っていた子どもたちの姿もない。咲きはじめの桜の枝が、頭上で乾いた音を立てながら揺れているだけ。集中力が最高潮まで高まったところに、スズメがこれまででもっとも近い位置へと移動してきた。
(今だ──!)
操はカッと目を見開くと、爪先で思い切り地面を蹴る。スズメ目掛けて飛びかかり、その丸々とした身体に素早く手を伸ばした──が。
「ピチョチョチョチョッ!」
スズメはまるで小バカにしたように軽快な声をあげ、一瞬にして空高く飛び立ってしまった。
「あぁー! 逃げられたぁ!」
操はその場にぺたんと座り込み、夕暮れの空を仰ぎ見た。スズメは遥か遠く、電線で羽根を休める群れの中に混ざって、もはやどいつが獲物であったかすら分からなくなっている。
「あーぁ、今日も失敗。やっぱり狩りって難しい」
大きな溜息をもらし、尖った耳ごと項垂れる。
今日こそ仕留めて、飼い主である甲洋へのお土産にしようと思っていたのに。
「これじゃいつまで経っても甲洋に喜んでもらえない。こんなにがんばってるのに、なんで上手くいかないのぉ?」
操はこうしていつも狩りの練習をしている。けれど今まで一度も成功した試しがなかった。スズメを持ち帰ったところで甲洋を困らせるだけだという頭を、ネコである操は持ち合わせていない。あるのは獣であるがゆえの狩猟本能だ。
新居に引っ越してから数ヶ月。外で遊べるようになってからというもの、室内飼いだった操の中に眠っていたその本能はすくすくと育ち、今ではこうして小鳥や虫などを追いかけ回す日々を送っている。
操のなかでは、甲洋は未だに狩りが下手くそな子供のようなものだった。だから早く獲物を捕まえられるようになって、甲洋をお世話したいと思っている。
「残念だったねぇ。あと少しだったのに」
そのとき、声がした。
操は項垂れていた耳をピンと立てながら顔をあげる。するとすぐ近くのベンチに、ベージュのスーツを着た中年男性が腰掛けていた。膝の上に黒いビジネスバッグを置いて、ニコニコと優しそうな笑顔を浮かべている。
「お腹が空いてるのかい? よければおじさんがなにかご馳走しようか?」
「ご馳走!?」
その言葉についつい反応してしまったが、操はすぐにハッとして男から目を逸らす。そのまま何事もなかったふりをして立ち上がり、両手を頭の後ろで組みながら誤魔化すように「ぴゅ~っ」とわざとらしく口笛を鳴らした。
知らない人とは絶対に口をきくな。普段、甲洋から耳にタコができるほど言い聞かせられていることだ。ご馳走というワードにつられて、危うく言いつけを破ってしまうところだった。
「おうち帰ろっと。もうすぐ甲洋も帰ってくるし」
甲洋は塾という場所で講師というバイトをしている。それがどんなものなのか操にはよく分からないけれど、世間が春休みに突入してからというもの、彼は午前中から出かけていくことが多かった。帰ってくるのは夕方を少し過ぎるくらいだ。しゅんきこうしゅう、とかなんとか言っていたような気がするが、そのへんはやっぱりよく分からない。
操にとって大切なのは、帰ってきた甲洋に必ず「おかえり」を言うことだ。そのためにも、これ以上道草を食っている余裕はない。
(今日もいっぱいおかえりのチュウしちゃおーっと!)
ウキウキしながらくるりと背を向け、歩きだす。すると男が、急に焦ったように大きな声を張りあげた。
「あーっ! イタタタタッ!」
「にゃっ!?」
突然のことにビクンと肩を跳ねさせながら振り返る。
さっきまでゆったりと腰掛けて笑顔を浮かべていたはずの男が、なぜか今度は背中を丸めて「痛い痛い」としきりに呟いては、表情を歪めていた。時おり操にチラッチラッと視線を向けてくる。明らかになにかをアピールしている様子だった。
一体なんだというのだろう。けれど操は無理やり気づかないふりをして、再び背を向けるとその場からさっさと逃げだすことにした。が──
「痛いなぁ! 痛い痛い! どこかに親切で可愛い子ネコちゃんはいないかなぁ! おじさんこのままだと、痛すぎて死んじゃうかもなぁー!?」
「もー! なに!? なんなのさっきから! 親切で可愛い子ネコなんて、そんなのおれ以外いないじゃん!」
あまりのしつこさに耐えきれず、操はイラっとしながら結局また振り向いてしまった。すると男は待ってましたとばかりにパァッと明るい表情を浮かべて見せる。
「あぁよかった! 親切で可愛いおじさん好みの子ネコちゃん!」
「なにか用? おれもう帰らないといけないんだけど」
「そ、そんなこと言わず! ちょっとでいいから助けてくれない?」
よく見ると、男は面積の広い額にうっすら汗を滲ませていた。顔も赤いような気がするし、もしかしたら本当に助けが必要な状態なのかもしれない。
操は「しょうがないなぁ」とこぼしながら、男の傍まで歩み寄る。
「なんなの? どこか痛いの?」
「それが……おじさん病気にかかっちゃったみたいなんだ」
「病気?」
男はビジネスバッグを両手で抱え込みながら、ずっと背中を丸めている。というより、前かがみになっている。
「ねぇ、病気ってどこが悪いの?」
操が首を傾ると、男は「とりあえずもっと近くに来て」と言いながら軽くアゴをしゃくった。仕方なく隣にちょこんと腰掛けると、嬉しそうに息を乱しながらニタリと笑う。そして屈めていた姿勢を正すと、ビジネスバッグを脇に放った。
その瞬間、開ききった社会の窓からボロンと跳ねるようにして、勃起した男性器が姿を現した。
「!」
とつぜん顔をだした元気なブツに、操はまんまるにした目を瞬かせる。
男はそんな操の反応をニヤニヤしながら覗っていた。
「……これって病気なの?」
「ハァ、ハァ……そ、そうなんだ。放っておくと死んじゃう病気なんだ」
「ふぅん。そうなんだ」
操の視線によってさらに興奮が増したらしいブツが、ピクピクと脈打ちながら天を仰いでいる。
男は性に疎い子ネコに勃起した性器を見せつけている、という図に興奮しているのだが、操にはそんな男の性癖は理解できない。むしろこういった状態に陥っているブツは何度も見てきたし、怖くもなければ珍しくもなかった。
操が感じていたのは、これが『病気』によるものだという、新たな知識への純粋な驚きだった。前の飼い主もよくこうなっていたが、まさか放っておくと死に至るほど恐ろしい病だったとは知らなかった。
「大変だね。おれ、これの治し方知ってるよ」
「えっ?」
操の言葉に、男がぎょっとした。彼からしてみれば、無知で純粋でいたいけな子ネコという解釈が、一気に揺らぐほどの爆弾発言である。
「嬉しくさせればいいんだ。そうすればすぐによくなるよ」
「ううう、嬉しく? そ、そそ、それってどうするんだい?」
「おれは口でしてたよ。前のご主人様がよくこうなってたし、やらなきゃご飯がもらえなかったから」
「へっ、へえぇ!? なら話は早いなぁ!」
ブツがまた一段と元気に膨らんだような気がする。純真無垢な子ネコから、一瞬で玄人ビッチへと解釈の書き換えが済んだらしい男が、勢いよくパァンと膝を叩いた。何事かと肩を跳ねさせた操の手首を掴んで、急に立ち上がると強引に引っ張る。
「わっ! な、なに!?」
「向こうにトイレがあるから! あっちでおじさんの病気を治してくれるかな!」
「えーっ! やだよ! おれもうそういうことはしてないの!」
操はまるで綱引きのような体勢で腰を落として、掴まれた腕を引き離そうと激しくもがいた。しかし男は容赦なく操の身体を引きずっていこうとする。
「いいからいいから、さぁおいで! 慣れてるんだろ? 減るもんじゃなし!」
「やだってばー! そんなの他の子に頼めばいいじゃん! おれはやだぁー!」
「うるせぇな! たかがネコの分際で人間様に逆らうな!!」
男は急に顔つきも口調も変えて本性を見せはじめる。その豹変ぶりに操は身をすくませた。こんなふうに怒鳴られるなんて初めての経験だったし、男からは苛立ちと欲望にまみれた黒い感情が、鉛玉のように重たく伝わってくる。
それが恐ろしくて、操は震えるしっぽを両足の間にくるりと巻き込みながら、きつく目を閉じた。
(こいつやだ! 怖いよ甲洋……!!)
心の中で、大好きな飼い主に助けを求める。今の操のご主人様だ。
甲洋と出会って、操は『仕事』をしなくても済むようになった。他にはなんの役にも立たないと思い込まされていた操に、それは間違いだと教えてくれたのが甲洋だった。
彼はいっそもどかしいくらい、操になにも求めない。ただそばにいてくれればいいのだと、そう言ってとても大事にしてくれる。
操はそんな甲洋のことが大好きだ。優しくて、あたたかくて、とてもいい匂いがする。だから、嬉しくさせたいと思うのも彼だけだった。他の誰でもない。甲洋さえ望むなら、操はきっとなんだってできる。
「やだやだ! 絶対やだー! 離してよぉ!!」
「おとなしくしろって言うのが分からなぶっへぇッ!?」
「!?」
そのとき、男の後頭部にビジネスバッグが飛んできた。それは男がベンチに置き去りにしていたものだった。まさに剛速球といえるスピードで、一直線に飛んできたバッグの角がヒットして、男は前のめりになって派手に転んだ。その拍子に掴まれていた手が解放される。
操はポカンとしながら倒れ込んだ男を見下ろしていたが、強い力に肩を抱き寄せられてハッと息をのんだ。
「遅くなってごめん。操」
「甲洋……!!」
操の肩を強く抱いて引き寄せているのは、飼い主である春日井甲洋だった。
彼はきっちりと紺のスーツを着こなしている。整った白皙にやんわりと浮かぶ綺麗な笑顔に、操は安堵から涙を浮かべるとその胸にしがみついた。甲洋はそんな操の髪を耳ごとくしゃりと優しく撫でる。
「な、なんだ!? なにが起こった!?」
すっかり転倒していた男は、慌てて起きあがると頭部を押さえてパニックを起こしている。けれどすぐに甲洋の存在に気づき、顔を真っ赤にしながらむき出しだった股間を隠した。
「なんだね君は!? こんなことして、ただで済むと思ってるのか!?」
ツバを飛ばしながら怒鳴った男に、甲洋が小さく鼻で笑った。
「それはこっちのセリフですよ、毛部山(もぶやま)一郎さん」
「へ!? な、なぜ私の名前を!?」
甲洋は笑顔だが、瞳だけは笑っていない。ゴミでも見るような冷ややかな微笑を浮かべ、目の高さまでなにやら白い紙切れのようなものをスッと持ち上げた。
「そ、それは!?」
「バッグからケースがはみ出していたので、一枚拝借しました」
それは男の名刺だった。操にはそのアイテムがどれほど重要なものかは分からない。けれど男は──毛部山は一気に青褪め、急に小さく縮こまってしまった。
「いいところにお勤めですね。ポストも重役。それも今日限りでおしまい、か」
「い、いや、ここ、これはだね、その……ゆ、許してくれ! 魔が差しただけなんだ! あっ、そうだ!」
毛部山は慌ててバッグの中身を漁ると、中から黒革の財布を取り出した。
「お、お金をあげよう! その子にもちゃんと払うつもりだったんだ! だからどうか見逃してくれ! か、可愛い妻と子供たちがいるんだ! 下の子はまだ小学生で……っ」
「……とっとと失せな。次はないぜ」
聞いたこともないようなドスの利いた低音だった。冷笑さえも消えている。毛部山はその気迫に「ひぃん」とおかしな声をあげ、拾い上げたバッグで股間を隠しながらペコペコと頭をさげると、甲洋の手から名刺を奪って一目散に逃げていく。
「無駄だ。確かに覚えたぞ、毛部山……」
こんな甲洋を見たのは初めてで、これが殺意……これが……と肌で感じながら、操はブルリと震えてしまった。が、毛部山の姿が完全に消えるのを見届けたあと、甲洋は大きな溜息を漏らしながら安堵の表情で操を見た。
「間に合ってよかった。怪我はない? なにもされてない?」
「う、うん! ありがとう甲洋! 助けてくれなかったら、嬉しくさせたくない人を嬉しくさせなきゃいけないところだったよ!」
「いつまでも一人で遊んでるからだ……どうして一騎に送ってもらわなかったの?」
甲洋が困り眉で肩を落とした。
ふたりが新しく引っ越したのは、友人の真壁一騎とその愛ネコ、総士が暮らすアパートから、徒歩十分とかからない場所にあるワンルームマンションだった。この公園はちょうど中間地点で、操は総士といつもここで一緒に遊んでいる。
日暮れ間近になると一騎が総士を迎えにやってきて、甲洋が来られないときは操をマンションまで送ってくれる。逆もまた然りだ。
一騎も甲洋も超がつくほどの過保護なので、総士と操を決して単体では歩かせない。だから今日も送ってもらうはずだったのだが、操はもう少し狩りの練習がしたかったので、思いきり駄々をこねて居残った。一騎は居酒屋でバイトをしているため、時間の都合上どうしても操を残していくよりほかになかったのだ。
甲洋は一騎からその知らせを受けて、全速力で帰ってきたらしかった。
「これでわかっただろ? 外は危険がいっぱいだって。今日はたまたま間に合ったけど、またいつこんなことが起こるか」
「わかったよぉ。わかったから甲洋、肩痛いってば」
「あ、ごめん」
話しながら熱が入ったらしく、甲洋は操の肩から手を離すとまた大きく息をついた。
「心労が尽きないよ、俺は」
「ねぇ甲洋。大丈夫だって。次からはちゃんと送ってもらうから、安心してよ」
「頼むからそうして……」
心なしかげっそりしている甲洋に、さすがの操も申し訳ない気持ちになる。
一騎に我儘を言って困らせ、しかも言いつけを破って知らない人と口まできいてしまった。その結果がこれである。怖い思いをしたあげく、甲洋に心配までかけてしまった。もしあそこで助けてもらわなかったらどうなっていたか、考えるだけで込み上げる嫌な気持ちに、胸が押しつぶされそうだった。
「ごめんね、甲洋」
結局、なにをしてもうまくいかない。狩りだって失敗続きだし、嬉しくさせるどころか大変な思いばかりさせてしまう。甲洋がどれほど心配していたかが伝わってくるだけに、なおのこと操は落ち込んだ。
(あーぁ、おれって駄目ネコなのかなぁ……)
しっぽと耳をダラリとさげてうつむくと、甲洋が大きな手で頭をわしゃわしゃと撫でてきた。遠慮がちに上目使いで見上げた操に、ふっと優しく笑顔を浮かべる。
「帰ろう、操。腹減ったろ?」
「甲洋……うん! お腹すいた!」
甲洋の手からは、操を大事に思う気持ちが痛いほど伝わってくる。それを感じるとどうしようもなく嬉しくなって、落ち込んでいたのも忘れて自然と笑顔になってしまう。
操は甲洋と手を繋ぐと一緒に歩きはじめた。くるりと曲がったかぎしっぽをまっすぐ立てて、喜びを表現しながら繋いだ手をぶらぶらとさせる。
「ねぇ甲洋、今夜のご飯はなぁに?」
「そうだな。操はなにが食べたい?」
「んーっとねぇ」
じきに満開を迎えるであろう桜が枝を揺らし、風に乗せて春の匂いを運んでくる。
ふたつの影が手と手を繋いでひとつになって、夕暮れを背に道の先へと伸びていた。
──アオーン、アオーン
(ん……?)
「どうした?」
どこからか聞こえてきた鳴き声が、ふと気になって辺りを見回す操に、甲洋が首を傾げる。操は慌てて首を左右に振ると、「なんでもないよ」と言って笑った。
「そう?」
「うん。あ、ねぇ、おれ炒飯がいいな! 甲洋の炒飯!」
初めて会った日に、腹を空かせた操に甲洋が作ってくれたのが炒飯だった。
ご主人様に捨てられて、何日も飲まず食わずでさまよって、弱りきった操はゴミ捨て場でカラスに襲われてしまった。あのときも、甲洋が助けてくれなければ今頃どうなっていたか分からない。
彼はありあわせのもので簡単に作っただけだと言うけれど、あの優しい味は操にとって特別な思い出だった。
「いいよ」
そう言って笑う甲洋の横顔を見て、操は頬が熱くなるのを感じた。走っているわけでもないのに、胸の鼓動が早くなる。
甲洋と一緒にいると、操は嬉しいと思う。だけどその嬉しいという感情に、なにか別のものが入り交じっていることを、最近少しずつ意識するようになっていた。それは最近少しずつ分かるようになってきた『恥ずかしい』という気持ちに、どこか似ている。くすぐったいようなその感情が不思議で、だけどとても大切だと思えるのだ。
──アオーン、アオーン
また、声がした。あれはきっと、猫の声だ。
操は耳をピクピクと動かして、それからすんっと鼻を鳴らした。
(なんだろう?)
どこからか漂う甘い香りに、胸がざわつく。
なぜだかちょっぴり怖いような気がして、操は無意識に甲洋の手をぎゅうと強く握りしめていた。
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男は一九五センチという長身を猫背に丸め、電柱に張り付き身を潜めていた。
その形姿と醸し出されるオーラは異様で、どう見ても怪しげとしか表現できない。
彼は昔のアニメでしか見たことがないような、黒縁の分厚い丸眼鏡をかけていた。一切セットされていないモッサリとした黒い前髪が、牛乳瓶の底のようなレンズを半分ほど覆い隠している。
赤いチェックシャツのボタンを喉まできっちり締め、青々としたジーンズに裾を容赦なく入れ込み、とどめに野暮ったい黒のリュックサックを背負うという有様だ。
どこからどう見ても、残念かつベタなオタクファッションであった。
「ちょ、何あのキモオタ超ださーい」
「グルグル眼鏡とか激ヤバなんだけど~」
「電柱からほぼハミ出てんじゃんマジウケる~」
そんな男の姿を、通りすがりの女子高生たちがクスクスと笑いながら通り過ぎていく。が、男は全く意に介さない。
(――ついにこの時が来たぜ……)
彼は胸に迸る熱い思いに武者震いをしながら、瓶底の奥で鋭い眼を光らせていた。レンズがあまりにも分厚いため、傍からはどこを見ているか分からないのだが、その瞳は広い歩道を挟んだ向かい側へと向けられている。
そこは『CHERRY BOYS』という看板が掲げられた、一軒の喫茶店だった。
この距離からでも、店内がそこそこ賑わっているのがよく見える。男はここにいるある人物に用があって、こうして電柱に張り付いているのだ。
(今日この日、おれは必ずあの女をモノにしてみせるぜ)
そう、女だ。男は惚れた女に一世一代の大告白をするために、ここにいる。この日を迎えるまでには、それなりに長い道のりがあった。
男は分厚いレンズの内側で、長い睫毛を静かに伏せる。瞼の裏に思い描くのはあの日、初めて見た『彼女』の姿だった。
***
「ねぇ~んJOJO~! これからケーキが美味しい喫茶店にでも行きましょ~?」
「なに言ってんのよ! JOJO、それより映画のチケットが2枚あるの。だけどホラーだからあたし怖くて……ねぇ、一緒に観に行きましょう?」
「ざけんじゃないわよ! JOJOはこれからあたしの家で、手作りクッキーを食べてくれる約束してるんだから!」
「は!? いつそんなしょーもない約束したってのよ!?」
秋のはじめ、少しばかり冷えた風が吹く、夕暮れの駅前通り。
空条承太郎はセーラー服の女子集団に付き纏われていた。
JOJOとは彼の苗字と名前からとった渾名である。すっかり浸透しきっているその名のせいで、承太郎を本名で呼ぶ人間は、今ではせいぜい家族くらいのものだった。
一九五センチの長身に、完成された肉体、非の打ち所がない美貌。とても未成年には見えない彼だが、れっきとした十七歳の高校三年生である。
鎖のついた改造長ランに身を包み、髪はワイルドに後ろへ流してボロボロの学帽をかぶっている彼は、この街ではちょっとした有名人だ。泣く子は黙り、女は濡れる。卒業後はぜひうちの組へとスカウトの絶えない、バリバリの不良であった。
そんなモテ男の周辺では、常に女の争いが絶えない。今も我こそはと、承太郎の彼女ポジションを狙う女子生徒たちが、盛りのついたメス猫のように毛を逆立てて喚き散らしている。
「JOJOはあたしとデートするの! わかったらすっこんでなさいよ、このペチャパイ!!」
「でかけりゃいいってもんじゃあないわよこのドブス!!」
「なぁんですってぇ~~~ッ!?」
ついには取っ組み合いの喧嘩がはじまりそうなピリピリとした空気に、ここまでどうにか無視を決め込んでいた承太郎の、堪忍袋の緒が切れた。
「やかましいッ! うっとおしいぜおまえらッ!!」
賑やかな街中に、稲妻のような怒号が響き渡る。
女子生徒たちはその声に口を噤んだが、それは一瞬のことで、すぐに頬を桃色に染め上げると、
「きゃー! あたしに言ったのよ!」
「あたしよおー!!」
と、一斉に叫びだした。
てめーら全員に言ったのだと、承太郎は帽子の鍔を摘まんで引下げながら「やれやれだぜ」と吐き捨てる。
女たちがくねくねと身悶えているうちに、承太郎はさっさとこの場を去ろうと決めた。長い足でヌシヌシと先を急ぎ、そしてふと目についた横道に入る。
建物と建物に挟まれた細い路地は、軽自動車くらいならギリギリ通れるかという道幅で、しんと静まり返っていた。
この道を通るのは初めてだったが、女たちが追いかけてくる様子もなく、承太郎はふっと息を漏らしてそのまま進むことにした。
このまま行けば、適当に駅裏にでも出るだろう。表を行くより少し遠回りだが、騒がしいよりはずっといい。
そういえば、駅裏には大型のレンタルビデオ店があったはずだ。母が観たいと言っていた映画のタイトルをふと思い出して、覗いてみるのも悪くないかと思った。
承太郎は不良だが、なんだかんだで母親思いのいい息子なのである。
――と、そのときだった。
「ウボァ!!」
前方で汚い悲鳴をあげた男が、ゴミ袋の山に背中から突っ込む姿が目に飛び込んできた。
「いってぇ~……こ、こんの野郎~!」
男はサングラスをして、派手な水色のスカジャンを身に着けていた。龍と虎が刺繍されているあたり、昔からあるコテコテのチンピラルックである。
(やれやれ、ケンカか)
足を止めた承太郎は、面倒に巻き込まれるのはご免だと、壁にゆったりと背を預け、事が収まるのを待つことにした。
スカジャンのチンピラは、ゴミ山から抜け出すと野良犬のように威勢よく吠えはじめる。
「おいこらぁッ!! 俺はお客様だぞ!? アァン!? お客様は神様だろうがアァン!?」
「お店の子達に暴力をふるうような人間は、例えお客様だろうが願い下げです。どうぞお引き取りください」
チンピラのケンカ相手は、鞭を打つように凛とした声で言い放った。ふと興味を惹かれ、承太郎は声の主へと視線を走らせる。
そして、目を見開いた。
まず真っ先に目についたのは、両耳で光る真っ赤なチェリーのようなピアスだった。それから、襟元に大きなリボンを結んだ、黒いロングワンピース。控えめなフリルのついた純白のエプロンに、桃色がかった赤い髪。片方の前髪がひと房だけ長い特徴的な頭には、ヘッドドレスがふわりと揺れている。
いわゆるメイド姿の女が、堂々と胸を張って佇んでいた。
――だがこの女、どこからどう見ても雄々しい。
ざっと見て身長も一八〇近くはありそうだし、肩幅もなかなかのものだった。なによりリボンを押し上げる胸板が厚い。女性特有の膨らみとは、明らかに違って見えた。
「てんめぇ~ムカつくんだよ、そのスカしたツラがよ~!!」
ブチ切れ金剛状態のチンピラが、謎のメイドに勢いよく殴りかかる。なんだかよく分からないが、とりあえず女(?)に手を上げるとは、許せん男だ。
承太郎は止めに入ろうと、即座に一歩踏み込んだ。が、その前にメイドが男の拳を素早くかわし、相手が前のめりになったところを鮮やかに背負い投げした。
「うおぉッ!?」
チンピラは頭からゴミの山に突っ込んだ。生ごみの臭いがつんと辺りに漂い、鼻の奥を刺激してくるが、承太郎の目はメイドに釘づけだった。
メイドはほこりを払うかのように幾度か両手を叩き、ふんと鼻で笑った。
「ここは不良、チンピラの類は入店お断りです。分かったらさっさとお帰りください」
「く、くっそぉ~~! 覚えてやがれッ!!」
「嫌ですよ。脳ミソの容量が勿体ない」
頭に野菜カスを付着させ、ヒビの入ったサングラスが顔からずれている男は、負け犬の遠吠えよろしく吐き捨てると、腰を庇いながら遥か遠くへ走り去っていった。
(な、なんて女だ……いや、本当に女なのかあれは……?)
承太郎は全身に痺れが走るのを感じていた。
ガラの悪い男に絡まれ、殴りかかられても平然と撃退する女なんて、承太郎の常識では考えられないことだった。
メイドは、逃げ出した男の背が見えなくなるまで凛々しく眉間に皺を刻み、睨み付けていた。だがその姿が完全に見えなくなると、へなへなと力が抜けたように膝から地面に崩れ、ぺたんと座り込んでしまった。
その姿は、再び承太郎に衝撃を与える。
「……こ、怖かった」
蚊の鳴くような声で、メイドが言った。
すっかりハの字に垂れ下がった眉はあまりにも情けなく、すみれ色の瞳にはじんわりと涙が浮かぶ。頬が血色を失い、少し大きめの唇からは忙しない息を吐き出していた。撫でおろしたように下がった肩は震え、大きなリボンに両方の握った拳を押し付けている。
ズキュウゥゥン……と、心臓が聞いたこともないような音をたてた。
(……女だ)
その様子を見て、承太郎は確信した。
こいつは正真正銘、女だ。しかしただの女ではない。
ならず者に立ち向かい、退けるほどの強さとは対照的に、一人になった瞬間、弱々しく身を震わせて涙を浮かべる。あの凛々しく勇敢な表情はどこへやら、今の彼女はまるで暗い穴倉に放り込まれた子犬のようだ。
強さと儚さを併せ持つ彼女の姿に、承太郎は完全に胸を射抜かれた。いわゆるギャップ萌えというやつである。
(この空条承太郎の胸をここまで熱くさせた女は、あんたが初めてだぜ、メイドさんよ)
自分の隣に並び立つのはあの女しかいない。そう確信した承太郎は、俯いて息をついているメイドに近づこうと、一歩踏み出した。が、そのとき。
「典香ちゃーん! 大丈夫だったー!?」
「ッ!」
声がして、裏口と思しき鉄製の扉が勢いよく開かれた。
そこから顔を覗かせたのは、フリルの主張が激しいミニスカのメイド服に身を包んだ、華奢で小柄なロングヘアの女だった。
(典香? それがあの女の名か。似合ってるじゃあねーか。可愛らしくてよいぜ)
さっと壁に身を寄せて、承太郎は心のメモ帳にその名を刻み込む。典香。いい名前だ。
典香は慌てて立ち上がると、さっきまでの震えはどこへやら、涼しげな紳士のようにふわりと微笑む。
「ええ、心配いりませんよ。それよりヨシ子さん、お店の中は大丈夫ですか?」
「うん、典香ちゃんのおかげで、大きな騒ぎにならずに済んだよ。本当に、いつもごめんね?」
「気にしないでください。わたしは皆さんと違って、腕っぷしだけが自慢ですから」
さっきまで震えていたくせに、健気なことを。
話しかけるタイミングは逃したが、承太郎の中ではすでに典香を手中に収めることは、決定事項だった。
この場はひとまず、名前を知れただけでもよしとしよう。
町一番の不良に目をつけられたことなど知る由もない典香は、メイド仲間と親しげに笑いながら、扉の向こうへ消えて行った。
***
それからすぐに、承太郎は行動を開始した。
まずは典香が勤める『店』についてだ。
あのあと速攻で店に乗り込もうかと考えた承太郎だったが、彼女が言っていた「不良、チンピラはお断り」という言葉を思い出して、踏みとどまった。
このいかにもな改造長ラン姿では、口説くどころか速攻で典香とのバトルが勃発しかねない。
承太郎はまず、典香の店がどんなものなのか、表通りからガラス張りの店内を遠目に探ってみることにした。
そこは『CHERRY BOYS』という名の、喫茶店らしかった。
店員が思い思いのメイド服を着用している店内は、意外にも女性客が多い。いちばん体格がよく、そして赤い髪をした典香は、中でもよく目立っていた。周りは華奢な女ばかりだったが、長身で肩幅もある典香の姿は、承太郎の目に最も勇ましく輝いて見える。
視力にも絶対的な自信がある承太郎は、そんな典香が一人の男性客と談笑している様子を捉えた。
イラッ……としたが、ここはひとまず堪えて観察に徹することにした。
彼女はレジに立って会計をしながら、相手の男に笑いかけている。
――もしや典香は、ああいう男が好みなのか?
男は地味なチェックシャツにジーンズを穿き、黒縁の眼鏡をしてデカい鞄を肩からさげていた。ぼさぼさの前髪と、猫背の姿勢がいかにも冴えない。
承太郎は腕を組んで顎に手を添えると、考え込んだ。
少し癪だが、あの男の装いを参考にするのは、悪くないかもしれない。この格好のままでは店に入れないし、態度や言葉使いも、それなりに注意を払う必要がありそうだ。
なんといっても典香は、内面は誰よりも女らしいのだ。
最初からオラオラと乗り込んだのでは、怯えさせてしまうかもしれない。
あの凛々しく逞しい振る舞いで、勝負を仕掛けられてみたい気はするが、相手が女である以上、力技でねじ伏せるなんて真似はしたくなかった。
そうして完成したのが、物語冒頭における残念仕様のオタクスタイルだ。
承太郎はいかにも野暮ったい物静かな雰囲気を演出し、背筋を僅かに丸めると、ついに『CHERRY BOYS』へと初の入店を果した。
典香と出会った二日後、学校が休みの土曜日、昼下がりのことである。
「お帰りなさいませ、ご主人様~!」
入店と同時に、ロングヘアのフリフリメイドに挨拶をされた。
典香がヨシ子、とか呼んでいた、あのロングヘアの女だ。こいつもこいつで、女にしては声が低い。酒焼けしたような声を、無理に上ずらせているような印象を受けた。
別に帰って来たわけではないのだが……と内心戸惑ったが、承太郎の背後から続いて入店してきた客にも同じ対応をしているところを見ると、なるほどこれがメイド喫茶ってやつかと納得がいった。ちなみに女はご主人様ではなく、お嬢様と呼ばれるらしい。なかなか興味深い接客だ。
広い店内はこれといって特筆するべき点のない、ごく普通のありふれた喫茶店といった様子だった。座席数は三十ほどで、土曜日ということもあり、先日観察したときよりも賑わいを見せる店内は、やはり女性客の方が多かった。
承太郎は、ちょうど空席だった一番奥のテーブルに案内された。メニュー表を眺めるふりをして、周りを観察しつつ典香の姿を探す。流石はガタイのいい長身メイド。赤い髪はすぐに見つけることができた。
彼女は数人いるメイドの中でも、一番きびきびとした動作でそつなく接客に励んでいる。女性客からの人気が高いようで、彼女に微笑みかけられた女性はみな頬を赤らめ、甲高い悲鳴を上げていた。
女に使う言葉ではないのかもしれないが、典香にはハンサムという表現がよく似合う。少し大きめの唇には愛嬌もあって、どこか繊細で神経質そうなところがまた、胸をくすぐる。
(このおれの目に狂いはなかった。あんたはやっぱりいい女だぜ典香。さあ、こっちへ来な)
承太郎は分厚い丸眼鏡の下で、獲物を捕らえる獣のように目を細め、メニュー表の中から適当なものに目星をつけると、典香に向かって手を挙げる。
すると典香はいかにも男らしい歩みで、あの紳士的な笑みを浮かべながら、承太郎のテーブルまでやって来た。
「ご主人様、ご注文はお決まりでしょうか?」
僅かに小首を傾げながらのご主人様呼び。柔らかな笑顔と、最初に承太郎を惹きつけた、あの美しく通る低い声。
アメジストのような澄んだ視線の直撃を食らった承太郎は、思わず息をのんでしまった。
「ご主人様?」
絶句したような状態の承太郎に、典香は不思議そうに瞬きを繰り返す。
ハッとした承太郎は、思い切り咳払いをしてから、決めていたメニューを告げようとした……が、なぜか
「おススメは……あるか」
と、口走っていた。承太郎が思い描いていた台本にはなかった台詞だ。スマートにコーヒーのひとつでも頼めば十分だろうと考えていたのだが、ここはこのままいくしかない。
「おススメでしたらこちらの」
「い、いや、待て……あ、あんたの、好きなもので、いい」
「わたしの? ですか?」
きょとんとした表情を見せる典香に、承太郎の心臓はうるさいくらいバクバクと跳ねあがっていた。言葉使いもそれなりにシミュレーションしてきたつもりだが、頭の中からすっ飛んでしまっている。
おかしい。こんなはずではなかった。心意気だけは今にもかっさらって、口説き落とす気満々だというのに、これではまるで挙動不審な怪しい男ではないか。
なんとここで、まさかの衝撃的事実が発覚した。
――承太郎は、実はとってもシャイボーイだった……。
こんなところで自分の意外な一面を新発見することになるとは。恋ってやつはままならぬものよ……と実感しつつ、気になるのは典香の反応だ。濁った瓶底眼鏡を通して、承太郎はその表情を食い入るように見つめた。
「わたしはメロンクリームソーダが好きですよ」
「めっ……メロン、か」
「ええ。緑色で綺麗ですし、チェリーが乗っていますから」
「チェリー……チェリー、な。じゃあ、それで」
「かしこまりました」
典香は嬉しそうに微笑んで、ぺこりと頭を下げる。今日もチェリーのようなピアスが、可憐に揺れていた。
承太郎は彼女が去っていくと同時に、無意識に力んでいたらしい肩から力が抜けるのを感じる。そして、唇をひくひくと痙攣させながら、ニヤけそうになるのを堪えた。
典香が好きな色は緑。そして、好物はチェリー。
可愛いじゃあねーか……と何度も心の中で繰り返し、それらの情報を胸に刻んだ。
***
結果的に、初日はそれだけだった。
甘ったるいメロンクリームソーダを飲みながら、接客に励む典香を眺めるだけで終わってしまったのだ。帰り際に会計してくれたのはヨシ子で、残念ながら典香は他の客の対応に追われていた。
けれど承太郎の胸は満たされていた。
典香を視界に捉え、その瞳を見つめながら僅かながらも会話をした。好きな色、好きな食べ物を知ることができた。
この装いのおかげで不良オーラも隠せたようだし、結果はまずまずだ。
しかし誤算は自分のシャイな一面である。オラオラ街道をまっしぐらに突き進んできたつもりだが、本気で惚れた女の前では、妙な素が顔を覗かせてしまうらしかった。
情けないったらない。承太郎は悔しさを胸に、脳内で反省会を行った。
***
それから承太郎は足しげく店に通い続けた。
学校帰りは速攻で女たちをまき、駅のトイレで持参した洋服に着替えれば、誰にも気づかれることはなかった。
そうしてしばらく熱心に通っているうちに、典香や店に関して幾つか分かったことがある。
まず、たまたま、あくまでもたまたま他の客との会話を聞いた限り、彼女は承太郎のひとつ下で、高校二年生だった。シフトは一週間のうち土曜と火木の週三日。平日は午後四時から閉店時間の夜八時までで、土曜日はほぼフルで入っているらしい。
そのため、承太郎が店に通う曜日も限定されていった。
店には多種多様なサービスが設けられていた。
メニューによってはメイドが目の前でおにぎりを握ってくれたり、パンケーキにデコレーションしてくれたり、オムライスにケチャップで絵を描いてくれるなどなど。
時間はせいぜい五分ほどではあるが、その間は会話を楽しむこともできるようだった。しかもなんと、お気に入りのメイドを指名できるというシステムだ。
とはいえ、承太郎がそのサービスを利用したことは、まだ一度もなかった。通い始めてかれこれ一ヶ月になるが、未だに注文や会計以外で、典香と関わりが持てないでいる。いざとなると目が泳ぎ、意識せずとも猫背になってしまうのだ。
今の段階で、承太郎はただのデカい常連客という認識しか持たれていないだろう。それ以上でも、それ以下でもない。
これではシャイを通り越して、ただのヘタレだ。
鬱陶しい女どもに怒声を浴びせ、ケンカを売って来た相手は必要以上にぶちのめす、この空条承太郎がである。
心底惚れた女ひとり口説けず二の足を踏んでいるなど、あってはならない由々しき事態だ。
と、いうわけでその日、承太郎は意を決し、典香を指名した。
すると典香は
「ええ!? わたしをですか!?」
と驚いていた。彼女が指名されるとすれば、それは女性客ばかりであるため、本人はだいぶ戸惑った様子だった。
ほどなくして、オムライスとクリームソーダを運んできた典香は、少し恥ずかしそうにはにかみながら、承太郎がつくテーブルの横に、ちょこんと膝をついた。
(つ、ついに来たぜオイ!!)
「え、えっと……ご指名ありがとうございます。ご主人様」
「お、おう」
「今日は、本当にわたしなんかでいいのでしょうか」
「い、いいもなにも……」
かつてない緊張が承太郎を襲った。
あの典香が、今日も清楚で小奇麗なメイド服に身を包んだ典香が、手を伸ばせば触れられる距離にいる。
彼女からは仄かに花のような、石鹸のような淡い香りがした。
使っているボディソープか、あるいは香水でもつけているのだろうか。いずれにしろ、香りまでドンピシャに好みだった。
承太郎は堪らない気持ちになって、膝の上で握っている拳を震わせた。
「男性のお客様に指名されるのは、今日が初めてです」
「は、初めて……?」
「ええ、この完成度ですしね。ちょっとしたネタ枠というか。基本はお嬢様方のお相手をさせていただくことが多いので……ビックリです」
完成度だとかネタだとか、言っている意味はよく分からないが、典香が言った「初めて」という言葉に、えも言われぬ感動と興奮を覚える。
承太郎は猫背気味の背をさらに丸めて、ぶるぶると小刻みに打ち震えた。傍から見れば、ごついメイドを跪かせる、ただのデカい不審者である。
「すげぇ、グッときたぜ……」
「え?」
「い、いや……なんでも」
不思議そうに目を丸くして顔を覗き込んでくる典香から、思わず目を逸らすと咳払いをした。
(イケる……今日こそイケるぜ……!)
まともに会話ができているわけでもないのに、承太郎はすでにちょっとした達成感を得ていた。店に通い始めて一ヶ月。改めて典香への熱い高ぶりを抑えきれなくなっていると同時に、確かな手ごたえを感じていた。
(根拠はない)
この笑顔を必ずやモノにしてみせよう。そして可能であれば、今日はこのまま典香を担いで家に連れて帰りたい。
が、強引に事を進めて警戒されては、今までの苦労が水の泡になってしまう。
今は五分間という限られた時間しかないし、まずは連絡先の交換から始めるのが無難な線か。
もうヘタレている場合ではなかった。承太郎はやると決めたら、必ずやる男である。
そうこうしている間にも、典香はケチャップを手にして「じゃあ、何かリクエストはございますか?」と問いかけてきた。
「そう、だな……じゃあ、ヒトデを……」
「ヒトデ? 星じゃなくてヒトデ?」
「イルカも頼む」
「が、がんばります」
こくん、と頷いた典香は、逆さにしたケチャップボトルを両手で持って、ふっくらとした曲線を描く黄色い山に絵を描いていく。唇をきゅっと引き結び、真剣な瞳でヒトデとイルカを描こうとしているその表情に、きゅぅんと胸が締め付けられた。
徐々に完成していく絵は、イルカというよりデカい背びれのサメにしか見えないが、まあいい。その周りには小さな血飛沫――いや、ヒトデが散りばめられていく。
(ケチャップボトルになりてえと思ったのは、生まれて初めてだぜ……)
一生懸命なその姿を、穴が開きそうなほど見つめながら悦に浸る。このまま永遠に眺めていたいが、時間もないことだし、ぼちぼち本題を切り出そうとしたその瞬間。
グラスが割れる、派手な音がした。
「ッ!?」
店内が一瞬で凍り付き、承太郎と典香を含めこの場にいる全員が音の方へ目を向けた。
そこには酷く怯えた様子のヨシ子と、一人の青年がいた。
「なんだよ!? 別に連絡先ぐらい、いいじゃないかッ!!」
「こ、困ります……そういうのは禁止されているって、いつも申し上げて……」
「禁止ってなんだ!? 俺はここの常連だぞ! どんだけ通ってやってると思ってんだよ!?」
着古した青いパーカーに縁のない眼鏡をかけた、見た目は地味でおとなしそうな青年が、キレにキレまくって額に青筋を立てている。
彼は何やらくしゃくしゃのメモ紙を手にしていた。それをヨシ子に受け取らせようとして、お断りされたらしい。
あの様子から察するに、今までもだいぶしつこく言い寄っていたようだ。が、青筋度では承太郎の方が勝っていた。
あと少しというところで典香の連絡先をゲットできるはずだったのに、とんだ邪魔が……と、そこで気がついた。
――今まさに、承太郎もあの青年と同じことをする気満々だったのである。
なるほど、自分の連絡先を書いたメモを渡す方がスムーズだったか……なんて感心している場合ではない。どのみちあの様子では、メイドとの連絡先交換は禁止されているということだ。
なんという誤算。ならば一体どうすればいいのか。拉致か。拉致しかないのか。俵担ぎで。
「ご主人様、申し訳ありませんが、お時間のようです」
承太郎が思考を巡らせていると、典香がボトルに蓋をしながらすっくと立ち上がった。その視線は例の青年とヨシ子に注がれている。
典香はこちらが何かを言う前に颯爽と二人の元へ行き、がなり立てている青年の首根っこをむんずと掴んだ。
「うぉ!? な、なんだよ!?」
「この店は出会いの場ではありませんよ。今すぐお引き取り願えますか?」
「ふざけるな! これが客に対する態度か!?」
「ここでは他のご主人様方にご迷惑ですので、裏で話をしましょうか」
「上等だ!! いてっ、おいこら離せ! いでででっ」
「の、典香ちゃん……」
ジタバタと暴れる男を引きずる典香に、涙を浮かべたヨシ子が声をかける。典香は彼女を安心させるように優しく微笑んで、すぐに裏へ引っ込んで行ってしまった。
「ヨシ子、大丈夫?」
他のメイドがヨシ子に駆け寄り、声をかける。ヨシ子は頷きながら「私のことより典香ちゃんが……」と不安そうに言ったが、メイドはそれを笑い飛ばした。
「大丈夫だよー。典香がいれば、あんなの一瞬でボコボコにしてくれるから」
「そ、それもそうよね」
「そうそう~」
(やれやれ……)
典香の腕っぷしは本物だ。このケンカ慣れした自分が思うのだから、それは確かである。
が、どこまでいってもあいつは女だ。
凛々しく勇敢な姿が彼女の強がりだということを、承太郎は知っている。
「おい、そこのメイド」
「あ、はい!」
「このオムライスを包んでくれ。絵は一ミリも崩すなよ。大至急だ」
承太郎の呼びかけに飛んできたメイドにそう命じると、彼女は「かしこまりましたご主人様!」と言って、オムライスの皿を持ってカウンター裏に消えて行った。
その間にひとくちも口をつけなかったクリームソーダを残し、伝票を手に席を立つ。会計を済ませている間に紙袋を持ったメイドがやってきて、それを受け取るとすぐに店から出た。そして、すぐさまあの細い路地に入る。
すると、案の定ゴミの山に突っ込む青年の姿が見えた。
彼はすぐにそこから這い出すと「うわああんママ~」とベソをかきながら、承太郎の脇を走り去っていった。情けない。あのチンピラの方が、まだ幾らかましだったろうか。
凝りもせず向かって行くようなら、この手で直々にぶちのめしてやるつもりだったのだが。
すぐに典香の方へ目をやった。彼女は胸に手を当てて、ほうっと息を漏らしている。その身体が地面にへたり込む前に、承太郎は一歩踏み出した。
「大丈夫か」
声をかけると、典香が見開いた目を向けてくる。
「ご主人様!? な、なぜこんなところに……?」
「い、いや、まぁ、その、なんだ。たまたまだ。それより、怪我はねえか」
典香が胸に当てている手は、まだ微かに震えていた。それをじっと見つめると、彼女は慌てて腕を背中にやってしまう。そして笑った。
「ありがとうございます。お騒がせして、申し訳ありませんでした」
ぺこりと頭を下げた典香は、ふと承太郎が手に持っている店のロゴが入った紙袋に気づき、何かを問いかけるように顔をあげた。急に照れ臭くなった承太郎は咳払いをすると、僅かに顔を背ける。
「せ、せっかく……あんたが描いてくれたからな」
そう言うと、典香はきょとんとした顔をして、すぐにどこかくすぐったそうに肩を竦めて笑った。その笑顔があまりにも可憐に見えて、天使か、とマジに思った。
「ありがとうございます」
それじゃあわたしはこれで、と頭を下げて背を向けようとする典香を、咄嗟に「待て」と引き止めた。
「なんでしょう?」
「ああ、いや……ひとつ、聞いてもいいか」
「ええ、どうぞ?」
「……店の決まり、ってやつだがよ。そいつは、営業時間が過ぎちまったあとは、どうなる?」
「?」
連絡先すら聞けないのなら、口説くなんてもってのほかに違いない。だがそれに甘んじていては、本当にただの常連客で終わってしまう。承太郎には、そんなつもりは毛頭なかった。必ず目の前の女をモノにすると決めて、今日までここに通ってきたのだ。
承太郎が分厚い丸眼鏡でじっと見つめていると、典香は幾度か不思議そうに瞬きをして、それからすぐに合点がいったように「ああ」と漏らした。
「メイド服を脱いでお店を出てしまえば、そこからはプライベートですから。常識の範疇であれば、自由なのではないでしょうか」
「そうか。ありがとうよ」
「いえ」
典香は口元に手をやり、クスリと笑って小首を傾げる。
「もしやとは思っていましたが……それで今日、わたしを指名したのですね」
「ッ……!?」
つい、大きく息を飲んでしまった。
この女、気づいていたのか。承太郎の秘めたる気持ちに。
「正直、あまりおススメはしませんが。頑張ってくださいね、ご主人様」
何もかもお見通しと言わんばかりの笑みを浮かべて、典香は黒いワンピースの裾を翻しながら、鉄製の扉の向こうへ消えた。
残された承太郎は口元を歪めると、低く笑い声をあげる。
「典香……なんて女だ……」
ますます惚れてしまった。
この一ヶ月、ひた隠していた感情に気がついていただけでなく、挑発までして寄越すとは。
承太郎はこれを、宣戦布告と見なした。
(全力で落としてみせろ……そういうことか)
ならばもう二の足を踏む必要はないということだ。
承太郎は血沸き肉躍る感覚に肩を震わせ、決戦の日に向けて拳を強く握りしめた。
***
そしてようやく、本題の冒頭に至る。
決戦は本日、木曜日。
承太郎が一連の回想を終えた頃、空はすっかり夜の闇に覆われ、腕時計に目をやると二十時を僅かに過ぎていた。
そろそろいい頃合いだ。今の今まで電柱に張り付き続けていた承太郎は、そこから離れて店横の路地へと足を向けた。
薄ぼんやりとした街灯が、かろうじて設置されただけの路地は裏寒く、冷え込んだ空気が流れている。いっそ暑いと感じるほどに内側で闘志を燃やす承太郎には、それがむしろ心地よい。
やがて承太郎は、典香と出会ったあのゴミ山の側で足を止めた。するとタイミングよく、鉄製の裏口が開かれる。
「お先に失礼します」
典香の声だ。それを聞いて、承太郎の胸のときめきと緊張は、最高潮を迎えた。
だがしかし。
裏口から出て来たのはあのごつい女ではなく――ただのごつい『男』だった。
(典香、じゃ……ない……?)
男は緑色をした長ランの学生服に、赤いマフラーを巻いて、茶色の学生鞄を手に持っていた。どこからどう見ても立派な男子高校生だが、奇妙なことに髪型もピアスも、典香と一致する。
一体どういうことだと、ゴミ山の横で静かに混乱する承太郎の目の前に、問題の男子高校生がやって来た。彼は立ち尽くす承太郎に気がつくと、よほど驚いたのか大きく肩を震わせた。
「ひぇっ……あ、え? ……こ、こんばんは?」
「お、おう……?」
彼は持っていた学生鞄を両腕に抱いて背を丸め、おずおずと上目使いで声をかけてきた。服装だけでなく、雰囲気からして違って見える。
暗闇に突然姿を現したデカい常連客に、青年はどこかおどおどとした様子で、怯えたように肩を竦めていた。
典香が花屋の店先に並ぶゴージャスな薔薇の花ならば、彼は道端で萎れきったシロツメクサ、だろうか。とにかく、まとう空気があまりにも異なっている。
「あ、あの、今日はもう、閉店です、よ……?」
「おぉ、おう……?」
「?」
頼りない街灯の下、小首を傾げて見せる姿が、メイド服の女と重なる。ハの字眉の下で切れ長の瞳をぱちぱちと躍らせる様は、承太郎が愛してやまない、彼女そのものだった。
承太郎は恐る恐る、僅かに震える指先を彼(?)に向けた。
「お、おいおまえ、もしかして……典香、か?」
「そ、そう、ですが」
「服は、どうした……そりゃあ、学ランってやつじゃあねえのか?」
「きょ、今日はもうバイトは終わりましたし……ぼくはガクセーです、から」
「ぼ、ぼく、だと!?」
服装や雰囲気だけでなく、一人称まで変わっている。
(い、意味がわからねえ……)
混乱してわなわなと震える承太郎に、男子高校生もまた訳が分からないといった様子で眉を顰める。
なんということだ。典香は、承太郎が心底惚れた女は
「てめー、男だったのか――ッ!?」
「はあ?」
(おれは……おれは騙されてたってのかッ!?)
ガラガラと、足元から崩れ落ちて行くような感覚を味わう。
今日この日、承太郎は典香に一世一代の大告白をして、交際をスタートさせるつもりだった。もちろん結婚を前提に、である。そのために一ヶ月もの間、こんなしたくもない変装までして店に通い詰めたのだ。
確かに女にしてはごついと思っていた。だが、そのへんのなよなよとした女よりもずっと、承太郎の目には魅力的に映ったのだ。
当の典香は宇宙人でも見るような目で承太郎を凝視する。
「あの、言っている意味が……分からないのですが」
「おれにもサッパリわからん! てめー、いつの間に野郎に変身しやがった!?」
「はい!?」
「ウィーッス典明、お疲れちゃーん!」
そのとき、再び鉄製の扉が開かれた。現れたいかにもチャラそうな茶髪の男は、紺色のブレザーの制服を着崩し、ダボついたズボンに手を突っ込んでいた。
「あ、お疲れ様ですヨシオさん」
「ヨシ……オ……?」
その名に、引っ掛かりを覚える。
男の顔をまじまじと見ると、どこか見覚えが……。
「なになに? その常連さんと典明ってダチだったん?」
「ああ、いや……彼はその……」
「なんか分かんねーけど~、オレこれから彼女とデートだからさ~、まったな~!」
「あ、はい、お疲れ様です。気をつけて」
チャラチャラとした男は、最後までチャラチャラとした様子で夜の街へ姿を消した。静寂を取り戻した空間で頭を真っ白にさせている承太郎に、典香は「じゃ、ぼくもこれで」と言ってそそくさと退散しようとする。
その肩を、むんずと掴んで引き止めた。
「ま、待て! 説明しろ! ありゃもしかしてヨシ子か!? てめー、典明って名前なのか!?」
「うわぁッ! なな、なんなんですかあなたは!? そ、そうですよ! ぼくの名前は花京院典明! さっきのは彼女持ちの、リア充ヨシ子さんですよッ!!」
「て、てめーら……オカマ、か?」
「はぁー!? ここは男の娘喫茶なんですから、店員が全員男なのは当たり前じゃあないですかッ!!」
「お と こ の こ と は !?」
「男に娘と書いて、男の娘です!! まさかあなた、知らずに通っていたんですか!?」
「ッ……!」
「え……ほ、ほんとに……?」
絶句する承太郎の手をさりげなく肩から外しながら、典香……いや、花京院典明と名乗った男子高校生は、怯えた様子で後退して距離をとる。
「ヨシオさんはウィッグもメイクもしていて、華奢なので分からないでもありませんが……こんな厳つい男を本物の女性と思い込むなんて、どうかしてます。声を聞いただけでも明らかでしょうし」
「そういう女がいたって……おかしくねえ……か、も」
「お、おかしいでしょ!? どこの世界にこんな強そうな平川ボイスの女性がいるってんです!?」
「ま、待て……てめーの言うことはよくわかった……だが、それならあの頑張れってのはどういう意味だ……てめー、おれの気持ちに気づいてやがったろ」
「まぁ……薄々、ですけど」
花京院は目を泳がせると、戸惑いがちに言った。
「ヨシ子さん、でしょう?」
「あ?」
「だ、だから言ったじゃありませんか。おススメしませんよって。ヨシ子さんはノンケですし、あの通り彼女さんもいらっしゃいますし」
「おい待ちな。なんでここでヨシ子が出てくる?」
「なんでって……ヨシ子さんに告白するつもりだったんでしょう?」
彼女……いや、彼のことを知るためにあの日、自分を指名して何かと話を聞きだそうとしたのではなかったのか? と、花京院は言った。
「ヨシオさんがお店に出ている日は、必ずいらっしゃってますよね。あ、ぼくはたまたま彼とシフトが同じなので、いつも一緒なんです。未熟者のぼくをフォローしてくださる、優しい方ですよ。でも」
腕の中の鞄をさらに強く抱きしめ、花京院は承太郎に遠慮がちな視線を向けて来た。
「やっぱり望みは薄いと思うので……諦めた方がいい、です」
それでは今度こそこれで、と言って、花京院は足早に去っていく。承太郎は放心状態で、彼を引き止めることすらできなかった。
典香は男だった。しかも彼は承太郎の想い人がヨシ子だと、勘違いまでしていた。
けれど今となっては、その間違いを正す気にもなれない。なぜなら典香なんて女は、この世のどこにも存在しないからだ。
しかし……。
(本当にこれでいいのか……?)
ふと、側にあるゴミ山に目を向ける。
ここに突っ込んできたチンピラに、足を止めなかったら。そもそも、この普段なら存在すら気にもとめない路地に、足を運ばなかったら。
あの凛々しく美しい、典香という存在を知ることもなく、今も承太郎は退屈な日々を過ごしていたに違いない。
素の彼はどこか弱々しく、臆病そうで、店での堂々とした振る舞いとは、大きくかけ離れていた。だけどその姿はチンピラを撃退したあと、地面に崩れ落ちて一人震えていたあの典香の姿と、確かに重なる。
メイド仲間を守るため、客に迷惑がかからないため、本当は怖がりのくせに、あえて立ち向かうその勇気に、自分は心惹かれたのではなかったか。
男とか女とか。そんなくだらない理由で終わってしまうほど、この恋は生半可なものだったのか……?
そう思った瞬間、承太郎は弾かれたように花京院の背を追っていた。
表通りに出て辺りを見回すと、緑色の背中はすぐに見つけることができた。走ってその背に追いつくと、声をかける。
「待ちな!」
「ッ!?」
ビクン、と大きく震えながら、花京院が振り返る。まだ何か用かと言わんばかりの不安げな瞳を、瓶底眼鏡で真っ直ぐに見据えた。
「花京院典明、といったな」
「……はぁ」
「おれと付き合いな」
「……へぁ?」
間抜けな声をあげる花京院に、一歩前進する。ぐっと近づいた距離に彼は息をのみ、上半身をのけぞらせた。
「つ、つきあう、って……?」
「おれの目当てはヨシ子じゃねえ。おまえだ」
「え、え?」
「メイド姿のてめーは、誰よりもいい女に見えた。今まで出会った、どんな女よりもな」
「!」
花京院が、その言葉にハッとする。青褪めていた頬に少しずつ赤がのぼり、やがて感激した様子で目を潤ませた。
「ほ、本当、ですか?」
「ああ、本当だ。それだけよく似合っていたってことだぜ」
「ぼく、男のお客さんに笑われたことはあっても、そんな風に言ってもらったのは、初めてです」
ありがとうございます、と言って笑う彼は、夜でも明るい駅前通りの光を一身に受けて、輝いているように見えた。
典香のあの紳士的で自信に満ちた微笑みもいいが、情けない八の字眉のはにかんだ笑顔には、つい守ってやりたくなるような魅力があった。
やっぱりこの気持ちは本物だったのだと確信する承太郎に、彼は小首を傾げながら「名前を聞いても?」と問うてくる。
「承太郎でいい。おまえと同じ高校生だ」
「わかった。じゃあ、そう呼ばせていただくよ」
「いいぜ」
「承太郎、メイド、好きなんだね」
「まぁな」
おまえ限定だがな、という肝心の言葉をすっ飛ばした承太郎に、花京院はずずいと一歩踏み込んでくると、力いっぱい両手を握ってきた。学生鞄がドスンと落ちる。
なんて大胆な……と密かに胸を高鳴らせる承太郎に、彼は言った。
「なら、君とぼくは仲間だ! 喜んで君と付き合おう!」
「マジか花京院!」
「マジだとも! メイド好きのオタクに悪い人はいない! 承太郎、今日から君とぼくは同じ志を持つ、同志だッ!!」
「おッ、ぉう?」
そこはかとなく意識のズレを感じる……気はするが、まぁ友達からスタートするというのも悪くはない。
「よろしく頼むよ、承太郎!」
かくして二人の交際(?)はスタートしたのだった。
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