2025年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
01
「総士、おれこの人あまり好きじゃない」
目の前の少年は大きな瞳で甲洋を睨みつけてそう言った。
視線を交わしてわずか数秒。出し抜けに吐き捨てられた言葉に、甲洋は思わず丸くした目を瞬かせる。
「な、なんだ? 来主、突然なにを言いだすんだお前は」
来主と呼ばれた少年の背後で、保護者である皆城総士が困惑の表情を浮かべた。華奢な肩を上から押さえつけるように抱き、その顔を覗き込んで窘める。
少年は総士を見て、不満そうな顔で「だって」と何かを言いかけたが、総士が首を左右に振ったのを見てむうっと唇を尖らせた。
「だってじゃない。今すぐ非礼を詫びるんだ」
「あはは、いいよ総士。俺は別に気にしないから」
「いやしかし……」
「いいって。ほら、それより座って」
甲洋は内心の動揺をひた隠し、何食わぬ素振りでふたりを席に促した。店内は無人とはいえ、いつまでも扉の前で立ち話というのもなんである。
「ふたりともアイスコーヒーでいい?」
「すまない。ひとつはオレンジジュースで頼む」
「了解」
ふたりを店の中央テーブルに座らせ、甲洋は一度カウンターの奥に引っ込んだ。手早く用意したドリンクを運びながら戻ると、彼らの向かいに腰掛ける。
「それにしても似てるな。昔のお前に」
甲洋は総士の横に座っている少年の顔を見つめると言った。
柔らかそうな亜麻色の髪と、青年の域に手が届くかどうかという膨らみを帯びた頬。少女と見紛うほどだった少年時代の総士と、瓜二つとまでは言わないがうっすらと面影がある。
「我が強くてわがままだ。少し甘やかしすぎた」
甲洋の言葉を暗に否定するように、総士がため息まじりに言った。ぶすっとした顔で目も合わせようとしない少年を見て、なるほど確かに面影があるのは外見だけだと甲洋は思う。総士がこのくらいの年の頃は、これよりも遥かに大人びて礼儀も弁えていた。
総士は不貞腐れた顔の少年を肘で軽くこついた。それから小声で「挨拶を」と促すと、彼は渋々といった様子で甲洋を見る。
「……来主操。はじめまして」
実に面白くなさそうにそう言うと、操はペコリと頭をさげた。そしてまたそっぽを向いてしまう。その態度や声、表情の全てからはっきりと甲洋への拒絶が伝わってきた。
果たしてなにが彼をそこまで不快にさせたのか。全く心当たりがないまま、甲洋はただやんわりと笑みを繕うにとどめる。
冷えたグラスの中で、オレンジジュースに溺れた氷が鋭くひび割れた音を立てた。
*
操がこの竜宮島へやってきたのは、今から二年ほど前のことだった。火事で家族を一度に亡くしたという彼には身寄りがなく、遠い親戚筋にあたる皆城家に引き取られる形で島に移住してきたのだという。
しかし甲洋は彼がここに来た頃のことを知らない。二年前といえば、甲洋は島の外で一人暮らしをしている真っ只中だったのだ。
甲洋が島を出たのは両親との親子関係の不和が主な理由だった。
父も母も息子にはまるで興味を示さず、甲洋は幼い頃からただの一度だって愛されているという実感を得たことがない。
高校を卒業したらここを出ると言ったときも、ただ冷たく「ああそう」と言われるだけだった。同様に島を離れる友人たちと船に乗り込んだとき、見送りに訪れなかったのは甲洋の両親だけだった。
父が初めて連絡をよこしたのは、それから五年も経ってからのことだった。そのとき母との離婚を知らされた。今後はそれぞれ島を出るつもりでいるということも。
彼らはもともと島の人間ではない。田舎暮らしへの憧れから移住してきたにすぎない、根っからの都会人だった。脱サラして喫茶店をオープンさせたが、想像以上に不便を強いられる島での暮らしに、長年の不満がついに爆発したといったところか。夫婦関係に軋轢が生じはじめていたことは、甲洋も薄々ながら感じていたことだった。
ふたりとも島を出る以上、当然店も畳むことになる。けれどもしお前にその気があるのなら好きにしろと、父は他人事のようにそう言った。
実際のところ、甲洋と彼らの間に血の繋がりはなかった。子宝に恵まれなかった夫婦が、店の跡取り欲しさに施設から引き取った、所詮は義理の息子でしかない。
けれどそれも必要なくなった。両親はこうなることをずいぶん前から予見していたのだろう。島を出ていくと言ったとき反対されなかったのは、その時点で甲洋が跡取りとしての存在理由を失っていたからなのだ。
甲洋は少し迷った。両親との家族らしい思い出はなくとも、故郷を懐かしむ気持ちだけはいつだって忘れたことがなかった。魚釣りをした海、雪合戦をした広場、駆け抜けたススキの小道。あれらの景色に、変わりはないか。
総士や一騎といった幼馴染の面々も、それぞれ島を出て進学や就職を経たものの、みなポツリポツリと引き寄せられるように島へ帰っていったことを知っていた。
ならば自分もまた、島に帰ることは必然なのだろうか。なにより甲洋を外の世界へと駆り立てた存在は、もういないのだ。
友人たちをはじめ、島の人たちはみな甲洋の帰りを喜んだ。懐かしい顔が一同に会して、まるで同窓会のような空間で酒を酌み交わしていたとき、総士の口から出たのが来主操の名前だった。
大きな子供を育てているのだと、総士はほろ酔いの赤い頬で言った。一騎や真矢にもよく懐いている。島の大人たちからも可愛がられていて、へらへらといつも笑っている元気のいいヤツだと。近いうち店に連れて行くと言うので、甲洋は笑って頷いた。
総士が予告通り操を連れて店を訪れたのは、それから一週間後の出来事だった。
*
来主操と出会った日から、ひと月ほどが経過していた。
あれから総士はたまにフラリと店を訪れるが、操とは一度も顔を合わせていない。偶然なのか、あるいは故意に避けられているのか。おそらく後者だろうと、甲洋は半ば確信している。
甲洋は自身がどちらかといえば人好きのする顔立ちだということを自覚していた。そこにやんわりと受け止めるような笑みを乗せれば、初対面で悪印象を与えることはまずないはずだった。少なくとも、今まではそうだったのだ。
しかしどういうわけか、あの少年には甲洋の処世術が通じなかった。まさか初対面であんなことを言われるとは思わなかったし、その理由だって謎のままだ。いや、あるいは理由なんて存在しないのかもしれない。
ただ相性が悪かった。単純にそう割り切ることができれば、どんなに楽か。
劣悪な家庭環境に身を置き、圧倒的な愛情不足で育ったことに付随して、甲洋は他人から向けられる好悪の念に敏感だった。さりげなく人の顔色を伺う癖は、かえしのついた釣り針のように、春日井甲洋という人間の根っこに喰らいついて離れない。
相手にとって好ましい存在であるために、甲洋はどんなときも優しい人間であり続ける必要があった。だから好い顔をして、人当たりよく、決して否とは言わずに受け止める。そうしなければ、きっと居場所なんかどこにもない。
そんな甲洋にとって、来主操の存在は苦痛と恐怖以外のなにものでもなかった。
あれはいけない。二度と関わってはいけない。あれは甲洋を酷く傷つけ、ただイタズラに怯えさせる。たった一度会っただけで、お前の居場所などないのだと無条件に突きつけてきた。
避けられているならむしろ都合がいい。できることなら、なかったことにしてしまいたかった。
けれどその願いが叶うことはなかった。総士からかかってきた一本の電話。彼は言った。酷く申し訳なさそうに。
一週間だけ、操を預かってくれないか、と。
*
一ヶ月と七日ぶりだ。総士に連れられて操が店を訪れたのは。
甲洋はあの日と同じように何食わぬ顔で彼らを席に座らせ、自身もその向かいに腰掛けている。以前と違うのは、コーヒーとオレンジジュースを運んできたのは店のコックである真壁一騎で、彼もそのまま甲洋の隣に腰を落ち着けたという点だった。
昼時を過ぎた店内には自分たち四人を除いて誰もいない。ホールスタッフを担う遠見真矢は遅い昼休憩を利用して、いったん自宅に戻っているため不在だった。
「急にすまない」
相変わらず不機嫌そうな操の隣で、総士が申し訳なさそうに肩をすくめた。
甲洋はそんな総士を安心させるように微笑んで首を振ったが、内心は決して穏やかではなかった。
(──冗談だろ?)
正直なところ、それが本音である。
総士から電話が入ったのは二日前の夜のことだった。仕事で一週間ほど島の外に出るため、その間だけ操を預かってほしいのだと、彼は言った。
総士の父、公蔵は島にひとつしかない中高一貫校の校長である。そして息子もまた後を追うように教職についていた。
世間は夏休み中といえど、教師にそんなものは存在しない。公蔵も大概忙しい人で、講演会やら発表会やらで島にいないことがほとんどだった。
皆城家には乙姫と織姫という双子の姉妹もいるにはいるが、彼女たちは進学のため島を出ており、母親は幼い頃に病死している。つまり総士の留守中、操は家で一人きりになってしまうのだ。
「剣司の都合がつかなくなった。咲良の具合があまりよくないらしい」
友人である近藤剣司・咲良夫婦もまた、総士と同じく教職についていた。彼らは一年ほど前に入籍し、現在咲良は身重の身体である。
総士の出張が決まったとき、事情をよく知る剣司が操を預かると申し出てくれたが、連日の猛暑で咲良が体調を崩し、無理に頼める状況ではなくなった。
真矢はこの店で仕事をする傍ら、子育て中の姉の手助けをしているし、一騎はというと──
「ねぇ、なんで一騎は一緒に行くのに、おれは駄目なの?」
ずっと顰め面をしていた操が、いよいよ耐えきれないとばかりに声をあげた。総士と一騎が同時にギクリと肩を強張らせたことに、甲洋は気づかないふりをする。
「ほんとはふたりで遊びに行くんだ。だからおれが邪魔なんだ」
「それは違う」
総士と一騎が声を揃えて否定した。
「来主、おれが総士についていくのは、こいつがお前と同じだからだよ」
「なんでおれと総士が同じなの」
一騎は眉をハの字にしながら、幼子に語りかけるような優しい声音で先を続ける。
「ほっとけないってことさ。こいつは基本的に食うのも寝るのも後回しにするようなヤツなんだ。お前がいる手前ずいぶんマシな生活習慣になったけど、一人にしたらどうせ無理するに決まってるだろ?」
総士が咳払いをする。不本意そうではあるが、反論はしない。
「だから俺も行くんだよ。総士を監視しとかないとな」
最もらしいことを言ってはいるが、操の指摘もあながち間違ってはいないのだろうなと、甲洋は思う。
彼らの関係は一部の人間の間で暗黙の了解になっている。総士の出張が決まってすぐ、一騎はわざわざ彼が宿泊予定のホテルの別室に宿をとった。
総士の世話を焼くためというのは事実だろうが、ついでにそこで『息抜き』をするつもりでいるのだ。確かにこんな大きな子供がいたのでは、普段から満足に恋人らしいこともできやしないだろう。この場において、それに気づかず空気を読まないのは当の操だけだった。
甲洋としても、たまにはふたりでのんびり過ごさせてやりたいという気持ちはある。しかしそのしわ寄せがこちらに来るとは思いもしなかった。
だいたい操はもう十六歳だ。自分のことは自分でできて当然なはずで、たかが一週間程度の留守番くらい、放っておいたって問題はないように思える。それは操も同じ考えだったようで、彼はなおも不満そうに言い募った。
「一緒に行くのが駄目なら、おれ一人でいい。ここは嫌だ。いたくない」
操はチラリと甲洋を睨みつけ、それからすぐに目をそらす。その態度に一騎が芯から驚いた様子で目を見張った。
「どうしたんだよ来主。だってお前、前から甲洋のこと──」
「す、好きじゃないからだよ!」
操は急に声を荒げ、戸惑う一騎の言葉を遮る。一騎がなにを言うつもりでいたのかは気になるものの、操の言葉が胸に刺さって甲洋はなにも言えなかった。思いきり顔をしかめた総士が、深々と長い嘆息をもらす。
「お前はまたそんなことを……だいたい、お前は火が使えないだろう。料理どころか一人で米も炊けないくせに、偉そうなことを言うんじゃない」
「そ、それくらいできるよ! ちゃんとできるったら!」
「嘘をつくな。排水口に米をぶちまけたのはどこのどいつだ?」
「うっ!」
「積み上げていた食器を一枚残らず割ったのは?」
「あうぅ……」
ああこいつ、家事がまるでできないんだ……と、甲洋はうんざりした気持ちになった。
甲洋は独り身で家族もいないし、一騎が不在の間は後輩の西尾暉がヘルプで入ってくれることになっている。食事は店でとることになるだろうから、間違っても操がキッチンに立つことはない。
操は悔しそうに唇を噛みしめながら黙り込んでしまった。冗談じゃない。こっちだって願い下げだ。人の気も知らず不満を顕にする操に、かすかな苛立ちが込みあげる。
きっと他にいくらでも当てはあるのだ。この島の人達はみんな親切で、操は大人たちからとても可愛がられている。それでも総士が甲洋を頼ったのは、彼にとってそれが最も安心できるからに他ならない。
信頼されているということだ。その期待を裏切れば、彼らを失望させることになる。だから電話をもらった時点で、甲洋は了承してしまったのだ。操のことなどどうでもいい。ただ彼らにとって、いい幼馴染であり続けたかった。
「あまりふたりを困らせちゃダメだよ、来主」
半ば諦めの境地で、甲洋は言った。
「彼のことは俺に任せて、ふたりは安心して行っておいで。この際だから、少しくらいのんびりしてきたらいいさ」
あらかじめ用意していたシナリオをなぞるように、理想的な幼馴染として笑って見せる。一騎と総士が浮かべた安堵の笑みに、甲洋もまた深く安堵した。これが正解だ。これで大丈夫。友達を失わずにすむ。嫌われずにすむ。だから、これでいい。
操から向けられる忌々しげな視線には、気づかないふりをする。指先が凍ったように冷えていく手を、テーブルの下で強く握りしめながら。
←戻る ・ 次へ→
「総士、おれこの人あまり好きじゃない」
目の前の少年は大きな瞳で甲洋を睨みつけてそう言った。
視線を交わしてわずか数秒。出し抜けに吐き捨てられた言葉に、甲洋は思わず丸くした目を瞬かせる。
「な、なんだ? 来主、突然なにを言いだすんだお前は」
来主と呼ばれた少年の背後で、保護者である皆城総士が困惑の表情を浮かべた。華奢な肩を上から押さえつけるように抱き、その顔を覗き込んで窘める。
少年は総士を見て、不満そうな顔で「だって」と何かを言いかけたが、総士が首を左右に振ったのを見てむうっと唇を尖らせた。
「だってじゃない。今すぐ非礼を詫びるんだ」
「あはは、いいよ総士。俺は別に気にしないから」
「いやしかし……」
「いいって。ほら、それより座って」
甲洋は内心の動揺をひた隠し、何食わぬ素振りでふたりを席に促した。店内は無人とはいえ、いつまでも扉の前で立ち話というのもなんである。
「ふたりともアイスコーヒーでいい?」
「すまない。ひとつはオレンジジュースで頼む」
「了解」
ふたりを店の中央テーブルに座らせ、甲洋は一度カウンターの奥に引っ込んだ。手早く用意したドリンクを運びながら戻ると、彼らの向かいに腰掛ける。
「それにしても似てるな。昔のお前に」
甲洋は総士の横に座っている少年の顔を見つめると言った。
柔らかそうな亜麻色の髪と、青年の域に手が届くかどうかという膨らみを帯びた頬。少女と見紛うほどだった少年時代の総士と、瓜二つとまでは言わないがうっすらと面影がある。
「我が強くてわがままだ。少し甘やかしすぎた」
甲洋の言葉を暗に否定するように、総士がため息まじりに言った。ぶすっとした顔で目も合わせようとしない少年を見て、なるほど確かに面影があるのは外見だけだと甲洋は思う。総士がこのくらいの年の頃は、これよりも遥かに大人びて礼儀も弁えていた。
総士は不貞腐れた顔の少年を肘で軽くこついた。それから小声で「挨拶を」と促すと、彼は渋々といった様子で甲洋を見る。
「……来主操。はじめまして」
実に面白くなさそうにそう言うと、操はペコリと頭をさげた。そしてまたそっぽを向いてしまう。その態度や声、表情の全てからはっきりと甲洋への拒絶が伝わってきた。
果たしてなにが彼をそこまで不快にさせたのか。全く心当たりがないまま、甲洋はただやんわりと笑みを繕うにとどめる。
冷えたグラスの中で、オレンジジュースに溺れた氷が鋭くひび割れた音を立てた。
*
操がこの竜宮島へやってきたのは、今から二年ほど前のことだった。火事で家族を一度に亡くしたという彼には身寄りがなく、遠い親戚筋にあたる皆城家に引き取られる形で島に移住してきたのだという。
しかし甲洋は彼がここに来た頃のことを知らない。二年前といえば、甲洋は島の外で一人暮らしをしている真っ只中だったのだ。
甲洋が島を出たのは両親との親子関係の不和が主な理由だった。
父も母も息子にはまるで興味を示さず、甲洋は幼い頃からただの一度だって愛されているという実感を得たことがない。
高校を卒業したらここを出ると言ったときも、ただ冷たく「ああそう」と言われるだけだった。同様に島を離れる友人たちと船に乗り込んだとき、見送りに訪れなかったのは甲洋の両親だけだった。
父が初めて連絡をよこしたのは、それから五年も経ってからのことだった。そのとき母との離婚を知らされた。今後はそれぞれ島を出るつもりでいるということも。
彼らはもともと島の人間ではない。田舎暮らしへの憧れから移住してきたにすぎない、根っからの都会人だった。脱サラして喫茶店をオープンさせたが、想像以上に不便を強いられる島での暮らしに、長年の不満がついに爆発したといったところか。夫婦関係に軋轢が生じはじめていたことは、甲洋も薄々ながら感じていたことだった。
ふたりとも島を出る以上、当然店も畳むことになる。けれどもしお前にその気があるのなら好きにしろと、父は他人事のようにそう言った。
実際のところ、甲洋と彼らの間に血の繋がりはなかった。子宝に恵まれなかった夫婦が、店の跡取り欲しさに施設から引き取った、所詮は義理の息子でしかない。
けれどそれも必要なくなった。両親はこうなることをずいぶん前から予見していたのだろう。島を出ていくと言ったとき反対されなかったのは、その時点で甲洋が跡取りとしての存在理由を失っていたからなのだ。
甲洋は少し迷った。両親との家族らしい思い出はなくとも、故郷を懐かしむ気持ちだけはいつだって忘れたことがなかった。魚釣りをした海、雪合戦をした広場、駆け抜けたススキの小道。あれらの景色に、変わりはないか。
総士や一騎といった幼馴染の面々も、それぞれ島を出て進学や就職を経たものの、みなポツリポツリと引き寄せられるように島へ帰っていったことを知っていた。
ならば自分もまた、島に帰ることは必然なのだろうか。なにより甲洋を外の世界へと駆り立てた存在は、もういないのだ。
友人たちをはじめ、島の人たちはみな甲洋の帰りを喜んだ。懐かしい顔が一同に会して、まるで同窓会のような空間で酒を酌み交わしていたとき、総士の口から出たのが来主操の名前だった。
大きな子供を育てているのだと、総士はほろ酔いの赤い頬で言った。一騎や真矢にもよく懐いている。島の大人たちからも可愛がられていて、へらへらといつも笑っている元気のいいヤツだと。近いうち店に連れて行くと言うので、甲洋は笑って頷いた。
総士が予告通り操を連れて店を訪れたのは、それから一週間後の出来事だった。
*
来主操と出会った日から、ひと月ほどが経過していた。
あれから総士はたまにフラリと店を訪れるが、操とは一度も顔を合わせていない。偶然なのか、あるいは故意に避けられているのか。おそらく後者だろうと、甲洋は半ば確信している。
甲洋は自身がどちらかといえば人好きのする顔立ちだということを自覚していた。そこにやんわりと受け止めるような笑みを乗せれば、初対面で悪印象を与えることはまずないはずだった。少なくとも、今まではそうだったのだ。
しかしどういうわけか、あの少年には甲洋の処世術が通じなかった。まさか初対面であんなことを言われるとは思わなかったし、その理由だって謎のままだ。いや、あるいは理由なんて存在しないのかもしれない。
ただ相性が悪かった。単純にそう割り切ることができれば、どんなに楽か。
劣悪な家庭環境に身を置き、圧倒的な愛情不足で育ったことに付随して、甲洋は他人から向けられる好悪の念に敏感だった。さりげなく人の顔色を伺う癖は、かえしのついた釣り針のように、春日井甲洋という人間の根っこに喰らいついて離れない。
相手にとって好ましい存在であるために、甲洋はどんなときも優しい人間であり続ける必要があった。だから好い顔をして、人当たりよく、決して否とは言わずに受け止める。そうしなければ、きっと居場所なんかどこにもない。
そんな甲洋にとって、来主操の存在は苦痛と恐怖以外のなにものでもなかった。
あれはいけない。二度と関わってはいけない。あれは甲洋を酷く傷つけ、ただイタズラに怯えさせる。たった一度会っただけで、お前の居場所などないのだと無条件に突きつけてきた。
避けられているならむしろ都合がいい。できることなら、なかったことにしてしまいたかった。
けれどその願いが叶うことはなかった。総士からかかってきた一本の電話。彼は言った。酷く申し訳なさそうに。
一週間だけ、操を預かってくれないか、と。
*
一ヶ月と七日ぶりだ。総士に連れられて操が店を訪れたのは。
甲洋はあの日と同じように何食わぬ顔で彼らを席に座らせ、自身もその向かいに腰掛けている。以前と違うのは、コーヒーとオレンジジュースを運んできたのは店のコックである真壁一騎で、彼もそのまま甲洋の隣に腰を落ち着けたという点だった。
昼時を過ぎた店内には自分たち四人を除いて誰もいない。ホールスタッフを担う遠見真矢は遅い昼休憩を利用して、いったん自宅に戻っているため不在だった。
「急にすまない」
相変わらず不機嫌そうな操の隣で、総士が申し訳なさそうに肩をすくめた。
甲洋はそんな総士を安心させるように微笑んで首を振ったが、内心は決して穏やかではなかった。
(──冗談だろ?)
正直なところ、それが本音である。
総士から電話が入ったのは二日前の夜のことだった。仕事で一週間ほど島の外に出るため、その間だけ操を預かってほしいのだと、彼は言った。
総士の父、公蔵は島にひとつしかない中高一貫校の校長である。そして息子もまた後を追うように教職についていた。
世間は夏休み中といえど、教師にそんなものは存在しない。公蔵も大概忙しい人で、講演会やら発表会やらで島にいないことがほとんどだった。
皆城家には乙姫と織姫という双子の姉妹もいるにはいるが、彼女たちは進学のため島を出ており、母親は幼い頃に病死している。つまり総士の留守中、操は家で一人きりになってしまうのだ。
「剣司の都合がつかなくなった。咲良の具合があまりよくないらしい」
友人である近藤剣司・咲良夫婦もまた、総士と同じく教職についていた。彼らは一年ほど前に入籍し、現在咲良は身重の身体である。
総士の出張が決まったとき、事情をよく知る剣司が操を預かると申し出てくれたが、連日の猛暑で咲良が体調を崩し、無理に頼める状況ではなくなった。
真矢はこの店で仕事をする傍ら、子育て中の姉の手助けをしているし、一騎はというと──
「ねぇ、なんで一騎は一緒に行くのに、おれは駄目なの?」
ずっと顰め面をしていた操が、いよいよ耐えきれないとばかりに声をあげた。総士と一騎が同時にギクリと肩を強張らせたことに、甲洋は気づかないふりをする。
「ほんとはふたりで遊びに行くんだ。だからおれが邪魔なんだ」
「それは違う」
総士と一騎が声を揃えて否定した。
「来主、おれが総士についていくのは、こいつがお前と同じだからだよ」
「なんでおれと総士が同じなの」
一騎は眉をハの字にしながら、幼子に語りかけるような優しい声音で先を続ける。
「ほっとけないってことさ。こいつは基本的に食うのも寝るのも後回しにするようなヤツなんだ。お前がいる手前ずいぶんマシな生活習慣になったけど、一人にしたらどうせ無理するに決まってるだろ?」
総士が咳払いをする。不本意そうではあるが、反論はしない。
「だから俺も行くんだよ。総士を監視しとかないとな」
最もらしいことを言ってはいるが、操の指摘もあながち間違ってはいないのだろうなと、甲洋は思う。
彼らの関係は一部の人間の間で暗黙の了解になっている。総士の出張が決まってすぐ、一騎はわざわざ彼が宿泊予定のホテルの別室に宿をとった。
総士の世話を焼くためというのは事実だろうが、ついでにそこで『息抜き』をするつもりでいるのだ。確かにこんな大きな子供がいたのでは、普段から満足に恋人らしいこともできやしないだろう。この場において、それに気づかず空気を読まないのは当の操だけだった。
甲洋としても、たまにはふたりでのんびり過ごさせてやりたいという気持ちはある。しかしそのしわ寄せがこちらに来るとは思いもしなかった。
だいたい操はもう十六歳だ。自分のことは自分でできて当然なはずで、たかが一週間程度の留守番くらい、放っておいたって問題はないように思える。それは操も同じ考えだったようで、彼はなおも不満そうに言い募った。
「一緒に行くのが駄目なら、おれ一人でいい。ここは嫌だ。いたくない」
操はチラリと甲洋を睨みつけ、それからすぐに目をそらす。その態度に一騎が芯から驚いた様子で目を見張った。
「どうしたんだよ来主。だってお前、前から甲洋のこと──」
「す、好きじゃないからだよ!」
操は急に声を荒げ、戸惑う一騎の言葉を遮る。一騎がなにを言うつもりでいたのかは気になるものの、操の言葉が胸に刺さって甲洋はなにも言えなかった。思いきり顔をしかめた総士が、深々と長い嘆息をもらす。
「お前はまたそんなことを……だいたい、お前は火が使えないだろう。料理どころか一人で米も炊けないくせに、偉そうなことを言うんじゃない」
「そ、それくらいできるよ! ちゃんとできるったら!」
「嘘をつくな。排水口に米をぶちまけたのはどこのどいつだ?」
「うっ!」
「積み上げていた食器を一枚残らず割ったのは?」
「あうぅ……」
ああこいつ、家事がまるでできないんだ……と、甲洋はうんざりした気持ちになった。
甲洋は独り身で家族もいないし、一騎が不在の間は後輩の西尾暉がヘルプで入ってくれることになっている。食事は店でとることになるだろうから、間違っても操がキッチンに立つことはない。
操は悔しそうに唇を噛みしめながら黙り込んでしまった。冗談じゃない。こっちだって願い下げだ。人の気も知らず不満を顕にする操に、かすかな苛立ちが込みあげる。
きっと他にいくらでも当てはあるのだ。この島の人達はみんな親切で、操は大人たちからとても可愛がられている。それでも総士が甲洋を頼ったのは、彼にとってそれが最も安心できるからに他ならない。
信頼されているということだ。その期待を裏切れば、彼らを失望させることになる。だから電話をもらった時点で、甲洋は了承してしまったのだ。操のことなどどうでもいい。ただ彼らにとって、いい幼馴染であり続けたかった。
「あまりふたりを困らせちゃダメだよ、来主」
半ば諦めの境地で、甲洋は言った。
「彼のことは俺に任せて、ふたりは安心して行っておいで。この際だから、少しくらいのんびりしてきたらいいさ」
あらかじめ用意していたシナリオをなぞるように、理想的な幼馴染として笑って見せる。一騎と総士が浮かべた安堵の笑みに、甲洋もまた深く安堵した。これが正解だ。これで大丈夫。友達を失わずにすむ。嫌われずにすむ。だから、これでいい。
操から向けられる忌々しげな視線には、気づかないふりをする。指先が凍ったように冷えていく手を、テーブルの下で強く握りしめながら。
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NOT宇宙世紀・謎時空&謎世界線の捏造モリモリ謎AU🟥🟩小説を支部に投稿しました。→ファントムの森
家族を奪われ、故郷を追われた少年キャスバルが、迷い込んだ森の中で不思議な青年シャリアと出会って恋をするお話…的な感じです。めちゃくちゃハピエンです。
アルテイシアさんが亡くなってるんですが、どこかで生きているかもしれないなぁとも思います。あとガルマくん書くのすごく楽しかったです。オリジン見てたらあまりにも可愛くて大好きになりました。ありゃ間違いが起きても仕方ないぞって思うくらいには可愛い…。
このお話は表と裏に分けるつもりで書いていて、今回は🟥視点だったんですが🟩視点でも書きたいなぁと画策してます。書けたらいいな!
過去ジャンルのお引越しが完了したら、サイトの方にも🟥🟩まとめページ作りたいなぁと思います👍
家族を奪われ、故郷を追われた少年キャスバルが、迷い込んだ森の中で不思議な青年シャリアと出会って恋をするお話…的な感じです。めちゃくちゃハピエンです。
アルテイシアさんが亡くなってるんですが、どこかで生きているかもしれないなぁとも思います。あとガルマくん書くのすごく楽しかったです。オリジン見てたらあまりにも可愛くて大好きになりました。ありゃ間違いが起きても仕方ないぞって思うくらいには可愛い…。
このお話は表と裏に分けるつもりで書いていて、今回は🟥視点だったんですが🟩視点でも書きたいなぁと画策してます。書けたらいいな!
過去ジャンルのお引越しが完了したら、サイトの方にも🟥🟩まとめページ作りたいなぁと思います👍
さっきもしたみたいに、何度も繰り返し触れるだけのキスをした。その都度にちゅ、ちゅ、という濡れた音がして、それがやけに卑猥に感じられてしまう。
承太郎が花京院の腰に片腕を回す。そして緩く体重をかけてくるのに合わせて、自然と身体を後方へ倒して行くと、背中が柔らかなシーツに埋もれた。
ベッドに折り重なる形でささやかな口付けを繰り返していると、承太郎の手が花京院の頬に触れる。親指が顎に添えられ、下に引かれると唇が少しだけ開く。そこに、舌が潜り込んできた。
(し、舌、が……ッ)
それはどこか躊躇いがちに、奥で縮こまっている花京院の舌をつついてくる。誘われるようにおずおずと、自らも舌を持ち上げてみた。先端同士が触れ、ぬるりと擦れ合うと、身体に電流のようなものが駆け抜ける。
「んふ、ぁッ」
鼻から抜けた吐息が、自分の声ではないようだった。やけに上擦って、甘ったるい。けれどそれを合図に、舌はどんどんもつれ合う。
大人のキスだ、と思った。正しくできているのかは分からないけれど。何度も角度を変えながら、互いの舌や口腔を貪るうちに、やり方なんかどうでもよくなってくる。
(頭、ぼうっと……してき、た……)
どんどん力が抜けて、芯からじんと痺れてくるのを感じた。
自分のものと、承太郎の唾液がいっぱいに溢れ、口の端から零れ落ちる。
擦れ合う承太郎の舌は大きくて、肉厚で、気持ちが膨らむほどに、とても甘く感じてしまう。だからつい、無意識に。
「ッ!」
歯を、立ててしまった。
承太郎の唇が低く呻きながら離れるのを、花京院はとろんと潤み切った瞳で見上げた。そこまで強く噛んでしまったつもりはないのだが、痛いというよりは、ひどく驚かせてしまったようだった。
「てめー、こら」
「ごめ、ん……だって、なんだか、気持ちが、よくて……すごく、君のこと、好きだなって思ったら」
つい、食べてしまいたくなった。
はかはかと呼吸を乱しながら言うと、なぜか承太郎は悔しそうな顔を真っ赤にしながら、舌打ちをした。
機嫌を損ねてしまっただろうかと不安そうに見上げれば、強く抱き込まれて一瞬、呼吸が止まる。
「頼むから、煽るな」
耳元で言われて、ようやく自分がとても恥ずかしいことを言ってしまったのだと気がつく。顔中を赤くして承太郎にしがみつくと、消え入りそうな声で「ごめん」と謝る。承太郎が漏らした溜息は、何かを堪えるようにひどく震えていた。
お返しと言わんばかりに耳の裏をべろりと舐められて、身体が跳ねる。
「ひゃあッ!」
咄嗟に上ずった奇妙な悲鳴が漏れてしまう。承太郎はその反応に満足したようで、肩を震わせながら低く笑った。
「じょ、承太郎ッ」
羞恥に身を捩り、小さく抵抗をして見せる。けれどジャージの裾から潜り込んできた手に脇腹を撫でられると、もっとおかしな声が漏れてしまった。
「うひゃッ、あ! ちょ、っと!」
どこかもどかしい手つきで、承太郎がジャージのチャックを下ろしてしまう。そして剥き出しになった胸の中央に、唇が落とされた。多分、ここで色っぽい声のひとつも上げられればよかったのかもしれないが、花京院は。
「フハハッ!」
笑ってしまった。承太郎が一瞬動きを止めたが、彼はすぐにまた花京院の皮膚に手を這わせ、首筋から鎖骨へと口づける。
「じょ、たろ、だめだ! ノホッ、ノォホホ!!」
花京院は堪え切れず、承太郎の背中を思い切り叩いたり、シャツを掴んで引き剥がそうとした。その間も笑い声が抑えきれず、思い切り腹筋を震わせる。流石の承太郎も手を止め、顔を上げると実に嫌そうな顔を向けてきた。
「てめー……その奇妙なノホホってのは、笑ってんのか」
「ご、ごめ、だって! くすぐったくてしょうがないんだ!」
「……犬猫がジャレてんじゃねーんだぞ」
分かってる、と言いながら、花京院は指先で涙が滲んだ目元を拭う。承太郎の眉間に深く刻まれた皺に申し訳ないと思いつつ、くすぐったいものはどうしようもない。
「ぼくだって、もっと色気のある反応ができればと思っているさ! 承太郎、試しに君も脱いでみてくれ!」
承太郎は未だに渋い顔をしつつ、身を起こすとシャツを乱暴に脱ぎ捨てた。露わになった逞しい肉体に胸を高鳴らせ、長く息を漏らしながら見惚れる。
「筋肉、綺麗だ……」
ふと、右手の人差し指を美しく割れた腹筋の中央に伸ばす。くっきりと影が浮き上がるほどの窪みを、そのままつうっと撫でてみた。すると、承太郎の腰がビクンと跳ねて、小さく「ぷっ」と吐きだすのが聞こえた。
「……な? くすぐったいだろう?」
したり顔で見上げると、彼は苛立ったような息を漏らしながら再び覆いかぶさってくる。
「くそ、こうなったらとことん開発してやるぜ」
「じょ、じょうたろッ、やめ、や、フハッ! ノォホホ!!」
承太郎が花京院の胸に顔を埋め、両手を脇腹に這わせる。皮膚の上にキスの雨が降り注ぎ、肌を緩く刺激される感覚に、花京院は承太郎の肩や背中を引っ掻きながら、ケタケタと笑った。身を捩り、足をバタつかせ、小刻みに全身を震わせる。
ああ、どうしてこうなんだろう。これでは本当に、犬や猫がジャレているのと同じだ。それでもあまりのくすぐったさに、目に涙を浮かべて大笑いする。
だけどそれも、決して長くは続かなかった。
「あっ、ヒ、待っ、て! まっ……!」
笑うのも暴れるのも疲れて、抵抗が弱々しくなるほどに、くすぐったさよりも熱さが先だってくる。全身が薄紅に染まり、敏感になった肌がそれまでとは違う感覚を拾いはじめた。
「はっ、はっ、ぁ、はぅ……ッ、ん!」
まるで軟体動物にでもなったように、身体に力が入らない。
けれど承太郎が皮膚に吸い付き、緩く歯を立てる度に、身体がビクビクと跳ねあがってしまう。
「んん、ぁッ、や……へん、に、なって、きた……ッ」
「仕上がってきたじゃあねえか」
承太郎の大きな手が、花京院の胸を揉みしだきながら中央の粒を吸い上げた。今更ではあるが、その女性にするような愛撫がとてつもなく恥ずかしい。しかしおかしな話だが、その恥ずかしいという感情にすら、気分が高揚していくのを感じた。
「じょ、たろ……ッ、もう、や……」
甘えたような声が、自分のものではないようだ。こんな声が出せるのかと、自身に戸惑う。しかしもっと恥ずかしいのは、承太郎の身体の下ですっかり形を変えて、ジャージを押し上げる下半身の変化だった。
承太郎も当然、その変化に気がついていた。彼は僅かに身体を浮かし、片手を熱のこもったそこへ這わせる。そっと包むように触れながら、息を飲む花京院を見上げると、彼は熱い視線だけで「いいか」と問いかけてくる。
同じ男同士だ。ついているものだって同じで、性的な快感を得れば、反応の仕方だって同じのはず。それでも顔から火を噴きそうになりながら、花京院はこくんと頷いて見せた。
承太郎が喉を鳴らす音が聞こえる。彼はゆっくりと、慎重にウエストに引っ掛けた指を引き、ジャージを下へとズリ下げた。
瞬間、勃起しかけた赤い性器が、ふるん、と揺れて顔を出す。
花京院は思わず両手で顔を隠してしまった。
「花京院」
承太郎はジャージの下を全て取り払ってから、初めて聞くような優しい声で花京院を呼んだ。その声に反応して、指の隙間から潤んだ瞳を覗かせる。承太郎は嬉しそうにふっと笑って、花京院の方を向く形で隣に身を横たえた。太い腕の片方が首の後ろに滑り込み、肩を抱かれると引き寄せられる。
体勢が落ち着くと、承太郎は空いている方の手で花京院の性器に触れた。強張る身体を安心させるように、承太郎の唇が花京院の額に押し付けられる。その温もりに幾らか救われて、知らず詰めていた息を吐きだした。
「くっ、ぅ……ッ」
承太郎の長い指が、半起ちの性器をゆるりと撫でる。上から下へと幾度か繰り返し、やがてすっぽりと握り込まれた。先端を親指で優しく刺激されると、甘い痺れが身体の芯を駆け巡る。
「あッ、んん、ぅ……ッ」
あっという間に完全に育ちきった性器を、ゆっくりと扱かれる。花京院は自然と立てた膝を、無意識に開いていった。
(承太郎の手、大きくて……温かい)
それに、ゴツゴツとした見た目に反して、掌は意外にも柔らかかった。当然、自分でするのとは感覚がまるで違う。自慰はほんの何度か経験があるだけだが、比べようがないほどにその感覚は鋭かった。一人でするときは、こんな風に身体がビクビクと跳ねたりなんかしないのに。
(気持ち、いい……ッ)
花京院の身体を抱きこむ承太郎の腕が、その力強さを増していく。このまま承太郎の腕の中で、全てを見られながらイカされてしまうのだと、そう思うとどうしてかさらに気持ちが高ぶった。
「は、ぁッ、じょ、たろ、も……ッ、ダメ、だッ」
上半身を捻り、承太郎の胸に爪を立てながら縋りつく。花京院の性器を扱きながら、承太郎は興奮したように息を乱して、また喉を鳴らした。押し殺したような声が、低く「いいぜ」と紡がれて、その甘美な響きに心も身体も蕩けてしまう。
「いッ! あっ、ぁッ、じょ、た、アッ、ぁ――……ッ!!」
最後はもう、ほとんど声にならなかった。シーツを爪先で掻き、大きく跳ねた腰を浮かせながら、強張る。
承太郎の手の中で白濁を噴いて、花京院は一気に弛緩した。腕の中でくったりと力を失い、余韻に震えながら荒く上下する胸を見て、承太郎がほうっと熱く息をつく。濡れた掌で、小刻みに痙攣する花京院の腹筋をねっとりと撫で、顔中にキスを落とした。
「すげえ、可愛いな。おまえ」
「ッ、……恥ずかしい、です」
最中よりも、達したあとの方がずっと恥ずかしいと思った。
承太郎の首筋に赤い顔を埋め、別の意味でも震えてしまう。
「興奮した」
「だからやめてくださいってば……」
「見てみな」
おずおずと視線をやると、承太郎が自分のスウェットパンツに手をかけ、なんの戸惑いもなく下ろして見せる。
「もうこんなだ」
勢いよく反動をつけながら飛び出した性器は、見たことがないほど長く、大きくて、太い血管を走らせながら脈打っていた。
「なんだ……それ……?」
まさに馬並みと表現するに相応しい巨根ぶりに、花京院は羞恥も余韻も忘れて唖然とする。
「てめーも同じもん持ってんだろ」
「……モンキーバナナと、五百ミリのペットボトルくらいは、差がありませんかね……?」
「そこまでじゃあねえだろ」
確かに少し大袈裟だったかもしれないが。花京院の目には、そう映る。これほどのサイズは、過去に興味本位でチラリと視聴した、洋モノAVでしかお目にかかったことがない。
果たして入るのだろうか。こんなものが、あんな場所に。
「承太郎……ローションか何かは、ありますか……」
花京院は身体を起こし、承太郎の腕から抜け出すと、大きく喉を鳴して言った。
「なければこの際、ハンドクリームでもいいです……ぼくは女性ではないので、愛液的なものをセルフで分泌することはできません……」
正直、なんとなく勢いでイケちゃうんじゃあないか、なんて、どこかで甘く考えていたのは否めない。だがこのサイズを見て、花京院は確信した。裂ける。絶対に、と。
気休めの潤滑剤を用いたところでそれが回避できるかは謎だが、おそらく使わないよりはマシだ。好きな相手との初体験が、流血騒ぎで終わってしまうのだけは、避けたかった。
「ぼくがBL世界でいうところの、やおい穴ってやつを持っていれば、話は別なんだろうけどね」
思いつめた表情の花京院に、身を起こした承太郎が小さく首を傾げた。
「BL? またそれか……そんなに好きなら、明日の昼飯はBLTサンドでも食いに行くか?」
「あのね、ぼくはファンタジーやメルヘンの世界の話をしているのであって……いや、まあその提案に異存はないが」
今は明日の昼飯より、目の前のお化けキノコだ。花京院が承太郎に助けを求めるような視線をやると、彼はボリボリと耳の後ろを掻きながら「待ってろ」と言って、飛び出していたブツを一度しまいこみ、ベッドを下りて寝室を出て行った。しばらくして戻ってきた彼が手にしていたのは、どこの家庭にでもあるような軟膏ケースに入った傷薬だった。
「こんなもんしかなかったぜ……」
「よく分からないが……いいんじゃあないかな……二重の意味で役立ちそうで」
花京院は承太郎からケースを受け取ると、蓋を開けて中身を覗いた。白い軟膏を人差し指にちょんとつけ、親指の腹と擦りあわせて粘度を確かめてみる。なんとなくだが、ねっとりとした感触が悪くはない気がした。
「すまないが……ちょっと準備をしてみるので、後ろを向いていてもらえないか」
「なんで」
「なんでじゃなくて。恥ずかしいから見ないでくださいと言ってるんです」
すると承太郎はなぜかムッとした顔をしながら、ベッドに乗り上げてきた。そして花京院の手からケースを奪ってしまう。
「ちょ、ちょっと!」
「こういうのは共同作業だぜ。セックスってのは、ひとりでするもんじゃあねえんだからよ」
「ッ!」
全くもって、彼の言う通りである。押し黙ってしまった花京院の腕を取り、承太郎は「伏せろ」と短く指示を出してきた。
四つん這いになって、尻を突きだせということだ。なんて恥ずかしい格好をさせるつもりだと思ったが、よくよく考えれば多分その方が楽だし、何より顔を見られなくて済む。
この行為において、精神的にも肉体的にも、かかる負担が大きいのは花京院の方だということを、承太郎はちゃんと分かってくれているのだ。
花京院はのろのろとベッドの上で体勢を変えた。承太郎に背を向け、犬のように四つん這いになって尻を向ける。視線を感じた途端、カァッと全身に紅がのぼった。
背後に胡坐をかいた承太郎が、花京院の薄く筋肉の乗った尻たぶを片方、緩く掴んだ。ビクンと過敏に反応すると、優しく摩られる。
「尻、小せえな」
しみじみと呟かれ、なんだか泣きたくなってきた。死んでしまいたいくらい恥ずかしい。自分でも見たことのない奥まった場所を、全て見られてしまっているのだから。
承太郎が軟膏を乗せた指の腹で、窄まった穴に触れた。飛び上がりそうな勢いで身を震わせ、無意識に逃げ腰になる花京院の尻肉が、今度は強く掴まれる。
「やッ……!」
「逃げるなよ」
濡れた指は幾度か穴の周りをマッサージするようにくるくると動き回り、やがて、ぬぷ、という音を立てて、中心に潜り込んできた。
(うわ、うわ、うわああああ~~~)
承太郎の指が。とんでもない場所に。
身体が意図せず強張ってしまう。飲み込んだ異物をぎゅうぎゅうに締め付けてしまうのを、嫌というほど感じた。
花京院は赤くなったり青くなったりを繰り返しながら、それでもどうにか身体から力を抜こうとした。しかし、それがうまくいかない。およそ第一関節までを飲み込んだそこが、承太郎が指を押し進めようとするたびに、硬く窄まる。
これでは共同作業どころの話ではないと、脂汗をかきながら焦る花京院だったが、承太郎は意外な反応を示した。
「いいぜ花京院。なんかようわからんが、その調子だ」
「え、えッ? ぁ、あ……!?」
軟膏の助けも借りて、承太郎の指がズルリと深くまで侵入を果たした。花京院は目を見開き、喉と背を反らす。
力んでいたら、逆に想像以上にすんなりと入ってしまった。
痛みはない、けれど、凄まじい異物感を覚えた。指一本でこれかと思っていると、今度はゆっくりと引き抜かれる。この感覚がまた、排泄感に似ているせいか、いたたまれない。
「ヒッ、ぃ……や、だ……ッ」
抜いて、挿して、抜いて、挿して。繰り返される度に、花京院は涙が止まらなくなっていった。恥ずかしいし、なんだかとてつもなくいけないことをしている気になってくるし、何より。
「あはッ、ぁ、んッ!」
耐えがたいと感じていたはずの、引き抜かれる感覚に。いつの間にか、甘い声が漏れだすのを止められなくなってしまった。
花京院は上半身をガクリとシーツに沈め、目の前にあった羽毛枕を両手で掻きむしっていた。指を二本に増やされると圧迫感は増し、あのおかしな感覚もより強くなった。濡れた吐息が枕を湿らせる。
「痛くねえか」
問いかけに、花京院はガクガクと首を縦に振るだけで、精一杯だった。おかしい。身体が拾う感覚を、脳が上手く処理できないでいるけれど、これは、もしかしたら。
(すごく、癖になる、かも……ッ)
身体が熱くて堪らなかった。いちど達したはずの性器が、また少しだけ起ちあがっている。ぬるぬると出入りする承太郎の指を、もっともっと感じたくて腰が揺れた。
「なん、か……ッ、これ、おかし、い……おしり、痺れ、て」
「抜く瞬間が弱いみてーだな」
「も、いッ、から、たぶ、ん、もう……」
荒い呼吸の隙間をぬって、首を捻ると承太郎を見る。彼はごくりと喉を鳴らし、小さく「わかった」と言って頷くと、指をずるりと引き抜いた。
「ひぅ、んッ!」
その感覚に、甲高い悲鳴が漏れた。異物感から解放されると、一気に身体から力が抜けて、花京院はぐったりとシーツの上に横倒しになる。
「花京院」
浅く呼吸を繰り返し、ぼんやりと熱に浮かされた視線を彷徨わせていると、承太郎が身を乗り出してきた。臀部に硬くて熱い塊を感じる。花京院は仰向けになると、両腕をその太い首に這わせた。
承太郎が再びスウェットパンツを僅かにずらす。さっきよりも震えて、色味を増した性器が顔を出した。
今からこれを受け入れるのだと思うと、心臓が口から飛び出してきそうだった。
承太郎が片手で扱くようにして、自身にもたっぷりと軟膏を塗りつける。そして、熱を帯びた瞳を向けてきた。ゆっくりと頷きながら、花京院は両足を開いた。
本当はさっきと同じ態勢をとる方がいいのだと思う。それでも、なんとなくそんな気になれなかった。承太郎も何も言わない。お互いの顔を見ながら、したいと思った。
「ッ、ぁ」
承太郎が、ほぐされた穴に自身の熱い塊を押し付けた。花京院は小さく震えながら、来たる衝撃に備えて目を閉じる。
吐息だけで、名前を呼ばれた。うっすらと目を開けて、花京院はまた小さく頷く。そして笑って見せた。
「しよう、承太郎」
承太郎が奥歯を噛み締めたのが分かった。彼は片腕で花京院の肩を抱きこみ、もう片方の手は自身に添えながら、ゆっくりと腰を押し込んだ。
「ッ――!!」
想像以上の圧迫感。指二本を飲み込んだだけの小さな穴が、ぶつりと音を立てて抉じ開けられる。
「ヒィッ、ぐ、ぅ……ッ、――ッ!!」
先端が潜り込むと、目の前に真っ赤な星が飛び散った。やっぱり、指なんかとは質量がまるで違う。
(ふ、太いッ、これ、大きすぎる……ッ!!)
予想はしていたけれど、身体をふたつに裂かれるかのような激痛が走った。なにしろ馬並みだ。よく妊婦が出産を、鼻からスイカを産むようだと表現するが、自分は今まさにその逆を体感しているといっても過言ではない気がした。
うまく息ができない。全身がガチガチに硬直し、震えが止まらなかった。
「か、花京院……ッ、息を、しろ……ッ」
承太郎の声にも、余裕がなかった。先端を押し込んだだけで、それ以上は動こうとしない。花京院は激しく首を左右に振る。
「いッ、でき、ッ、な……ッ」
承太郎は大粒の汗を額に浮かせながら、ひどく辛そうにくしゃりと表情を歪めた。それから、両腕で花京院の身体をきつく抱きしめる。
「ゆっくりだ、花京院。ゆっくり、息を吐け」
耳元に囁かれた声が、驚くほど優しかった。言われて初めて、ただ息を吸いこむばかりで、吐きだしていなかったことに気がつく。
労わるように前髪を梳かれ、額や頬にキスをされると、内側からじわりと安堵が広がった。花京院が目を閉じ、ゆっくりと震えた息を吐きだすのを確認した承太郎は、耳元に唇を押し付けると、低い声で「好きだ」と言った。
「ッ」
「花京院。好きだ。おまえが好きだ」
「ッ、じょ、た、ろ」
「好きだ」
――瞬間、蕩けた。
熱が、言葉が、承太郎が。花京院の中も外も、全てをどろりと溶かしてしまった。今度は花京院が顔をくしゃりと歪めた。
「じょう、たろう……ッ、じょうたろう……」
膨らみ過ぎた感情が爆ぜて、涙になって溢れてきた。承太郎の首にしがみついて、その名を呼びながら、花京院は泣いた。
ゆっくりと、承太郎の腰が突き進んでくる。
「ヒッ、ぎッ……ぃ、た……ッ、い」
承太郎はよりいっそう強く花京院を抱き、押し殺した声で「悪い」と吐きだす。
「じょう、た……ろ……ッ、ぁ、いた、う、ぅ……あ、ぁッ」
タガが外れたみたいに、花京院は痛い痛いと繰り返し言っては、承太郎の肩や背に爪を立てた。その度に彼は息を荒げ、花京院に低く謝罪する。それでも決して行為をやめない。それがどうしてか嬉しくて、堪らなかった。
何もかもが初めてだった。セックスも、身体を暴かれることも、こんな甘え方があることも。
全てが収まり切ると、ふたりは深く唇を重ね合った。絡みつく舌と唾液に噎せそうになりながら、ゆっくりと、小刻みに揺さぶられる。
「熱い……ッ、じょうたろう、あつ、ア、あぁぁ……ッ!」
いつしか痛みは、焼けるような熱さに飲み込まれていた。びりびりという壮絶な痺れが、あの背徳的な快感を引き連れて、花京院の思考を焼き焦がす。奥を突かれると、その度に星が瞬いた。
自分のなかに、承太郎がいる。その形すらくっきりと分かるほどだった。鈍い水音が響き渡る。予想に反して、血は出ていないようだった。
「あぁッ、ぁ、承太郎、ぼく……ッ、ちゃんと、できて、る……セックス、して、る、ッ」
「ああ……すげえ、ッ、いい、ぜ。おまえの、ナカ」
「うれ、し、あ、ヒッ、ん……ッ」
抽挿が激しくなるにつれ、花京院はいよいよ自分が何を口走っているのか、分からなくなっていった。ただひたすら「好き」と繰り返し、承太郎もそれに応えた。
最後に聞いたのは、低い獣のような呻きだった。腹の中でなにか熱いものが弾けて、じわりと広がるのを感じる。
ぶるりと腰を震わせ、息を詰める承太郎を強く抱きしめて、花京院は意識が焼き切れる寸前でふと、微笑んだ。
「嬉しい……承太郎……ありがとう……」
――愛しています。
ちゃんと声に出して言えたかは、覚えていない。
***
目が覚めると、隣に承太郎はいなかった。
「……あれ」
重たい瞼で幾度か瞬きをして、花京院はキョロキョロと室内を見渡しながら、重たい身体をどうにか起こす。
「うぐッ!!」
その瞬間、腰に鈍い痛みが走った。もちろん、あの場所にも。
鐘の音が尾を引くような痛みを、背中を丸めてやり過ごす。
どうにか落ち着いてから再び辺りを見回しても、カーテンの隙間から漏れる朝の光に照らされた室内に、承太郎の姿は見当たらなかった。
花京院はぼんやりとした頭で、一糸まとわぬ自分の身体を見下ろした。下半身はシーツに隠れているが、肩や胸、鎖骨や脇腹など、いたるところに小さな鬱血の痕がある。
(あのあとが、なかなか大変だったんだ……)
初めての行為で気を失った花京院は、あれからすぐに承太郎の腕の中で目を覚ました。朦朧としながらも、いわゆるピロートークというものをして、その合間に何度もキスを交わした。
そうしているうちに、ふたりともだんだんまたその気になってきて、最初に手を伸ばしてきたのは、承太郎だった。
花京院は、あの行為で達してはいなかった。その前に承太郎が果て、その熱にあてられて気をやってしまったからだ。
それを悪かったと言って、それから嫌というほど奉仕されてしまった。二度目の挿入こそなかったが、中に出されたものをねちっこく掻きだされ、しかも思いだすだけでまた気が遠くなりそうなほど、言葉責めもされた気がする。その行為は、花京院が行き過ぎた快楽に気を失うまで、続いた。
(おのれ承太郎……晴れて脱童貞したからって、急にエロ親父みたいにならなくたって……ッ)
正直死ぬほど気持ちよかったし、ちょっと意地悪く攻める承太郎は、クラクラするほど格好良かったけれど。
「だが悔しい……」
「なにがだ?」
握りしめた拳を震わせていると、不思議そうな顔をした承太郎が、寝室に戻ってきた。いつもの格好にコートと帽子だけを脱いだ姿で、大皿の乗ったトレイを持っている。皿に乗っているのは、見たこともないような巨大なオムライスだった。
「な、なんだいそれ」
「朝飯だ。昨日は晩飯抜いちまったから、腹が減っただろ」
「いや、それにしたって……」
オムライスは、大皿からはみ出さんばかりの大きさだった。
喫茶店やファミレスで見るサイズの、何倍もありそうだ。承太郎はそれをトレイごと花京院の膝に乗せ、こちらに身体を向けて、ベッドの端に腰を下ろした。
「これ、承太郎が?」
「そうだぜ」
「君が料理をするイメージはなかったから、ちょっと意外だ」
「これでも一応は一人暮らしの身だからな。つっても、練習してまともに作れるようになったのは今のところこれだけだ」
どうしてオムライスだったのだろうと思いかけて、心当たりが十分にある花京院は、赤面した。巨大オムライスは、見るからに卵がトロトロのふわふわで、よほどの練習を積み重ねたであろうことが知れる。これは互いにとって思い入れのあるものだから、ふたりで初めて迎えた朝に、こうして作ってくれたのだと思った。
トレイの上にはスプーンがふたつと、ケチャップボトルも置いてある。承太郎はボトルを取ると、花京院に差し出した。
「なにか書いてくれねえか」
「ぼ、ぼくが?」
「おれだけのメイドさんになってくれるんじゃあ、なかったのか?」
「ぶふッ……!」
その言葉に、思わず噴きだしたあと派手に噎せた。背中を丸めて咳込む花京院の背中を、承太郎がくつくつと笑いながら摩ってくれる。
「そ、それは、こないだの……ッ、あの日のことは忘れてくれって言っただろう!?」
「そいつはできねえ相談だぜ」
「~~ッ!!」
耳まで赤くしながら、つい涙目になってしまう。あの日の自分は、なんて恥ずかしいことを言ってしまったのだろう。なのに承太郎はそれを平然と言って様になってしまうのだから、やっぱりイケメンはずるい。
花京院は承太郎の手にあるケチャップボトルを、引ったくるように奪うと、ひとつ大きな深呼吸をする。そして言った。
「なにかリクエストはございますか? 旦那様」
ご主人様ではなく、旦那様。今度は承太郎が小さく噴いて、照れ臭そうにする番だった。ちょっとだけ意趣返しができたような気がして、気分がいい。悪戯っ子のように笑うと、咳払いをしている承太郎を、上目使いで見上げた。
「ちょっと気が早かったかい?」
「……いや。グッときた」
「ノォホホ! それならよかった」
「やれやれだぜ」
承太郎が肩を竦めながら苦笑する。そして花京院を抱き寄せながら「任せる」と言った。
「かしこまりました」
花京院はボトルの蓋を開け、逆さにすると、巨大オムライスへケチャップを押し出した。
大きな皿に乗った、大きなオムライス。そこに、負けないくらい大きなハートマークを描く。使い切ってしまいそうな勢いで、隙間なく真っ赤に塗りつぶし、ふっと息をついた。
「どうかな?」
また恥ずかしいことをしてしまったかな、なんて思いつつ隣を見上げれば、承太郎は嬉しそうに笑っていた。彼はいつだって優しいけれど、今朝の笑顔はとびきり甘くて特別に見える。
「上出来だぜ、花京院」
唇が、自然と重なり合う。
真っ赤に熟れたハートマークが、いつまでも冷めることなく、甘ったるいふたりの口付けを見守っていた。
花京院がごっつい彼氏と結ばれる話・終
←戻る ・ Wavebox👏
承太郎が花京院の腰に片腕を回す。そして緩く体重をかけてくるのに合わせて、自然と身体を後方へ倒して行くと、背中が柔らかなシーツに埋もれた。
ベッドに折り重なる形でささやかな口付けを繰り返していると、承太郎の手が花京院の頬に触れる。親指が顎に添えられ、下に引かれると唇が少しだけ開く。そこに、舌が潜り込んできた。
(し、舌、が……ッ)
それはどこか躊躇いがちに、奥で縮こまっている花京院の舌をつついてくる。誘われるようにおずおずと、自らも舌を持ち上げてみた。先端同士が触れ、ぬるりと擦れ合うと、身体に電流のようなものが駆け抜ける。
「んふ、ぁッ」
鼻から抜けた吐息が、自分の声ではないようだった。やけに上擦って、甘ったるい。けれどそれを合図に、舌はどんどんもつれ合う。
大人のキスだ、と思った。正しくできているのかは分からないけれど。何度も角度を変えながら、互いの舌や口腔を貪るうちに、やり方なんかどうでもよくなってくる。
(頭、ぼうっと……してき、た……)
どんどん力が抜けて、芯からじんと痺れてくるのを感じた。
自分のものと、承太郎の唾液がいっぱいに溢れ、口の端から零れ落ちる。
擦れ合う承太郎の舌は大きくて、肉厚で、気持ちが膨らむほどに、とても甘く感じてしまう。だからつい、無意識に。
「ッ!」
歯を、立ててしまった。
承太郎の唇が低く呻きながら離れるのを、花京院はとろんと潤み切った瞳で見上げた。そこまで強く噛んでしまったつもりはないのだが、痛いというよりは、ひどく驚かせてしまったようだった。
「てめー、こら」
「ごめ、ん……だって、なんだか、気持ちが、よくて……すごく、君のこと、好きだなって思ったら」
つい、食べてしまいたくなった。
はかはかと呼吸を乱しながら言うと、なぜか承太郎は悔しそうな顔を真っ赤にしながら、舌打ちをした。
機嫌を損ねてしまっただろうかと不安そうに見上げれば、強く抱き込まれて一瞬、呼吸が止まる。
「頼むから、煽るな」
耳元で言われて、ようやく自分がとても恥ずかしいことを言ってしまったのだと気がつく。顔中を赤くして承太郎にしがみつくと、消え入りそうな声で「ごめん」と謝る。承太郎が漏らした溜息は、何かを堪えるようにひどく震えていた。
お返しと言わんばかりに耳の裏をべろりと舐められて、身体が跳ねる。
「ひゃあッ!」
咄嗟に上ずった奇妙な悲鳴が漏れてしまう。承太郎はその反応に満足したようで、肩を震わせながら低く笑った。
「じょ、承太郎ッ」
羞恥に身を捩り、小さく抵抗をして見せる。けれどジャージの裾から潜り込んできた手に脇腹を撫でられると、もっとおかしな声が漏れてしまった。
「うひゃッ、あ! ちょ、っと!」
どこかもどかしい手つきで、承太郎がジャージのチャックを下ろしてしまう。そして剥き出しになった胸の中央に、唇が落とされた。多分、ここで色っぽい声のひとつも上げられればよかったのかもしれないが、花京院は。
「フハハッ!」
笑ってしまった。承太郎が一瞬動きを止めたが、彼はすぐにまた花京院の皮膚に手を這わせ、首筋から鎖骨へと口づける。
「じょ、たろ、だめだ! ノホッ、ノォホホ!!」
花京院は堪え切れず、承太郎の背中を思い切り叩いたり、シャツを掴んで引き剥がそうとした。その間も笑い声が抑えきれず、思い切り腹筋を震わせる。流石の承太郎も手を止め、顔を上げると実に嫌そうな顔を向けてきた。
「てめー……その奇妙なノホホってのは、笑ってんのか」
「ご、ごめ、だって! くすぐったくてしょうがないんだ!」
「……犬猫がジャレてんじゃねーんだぞ」
分かってる、と言いながら、花京院は指先で涙が滲んだ目元を拭う。承太郎の眉間に深く刻まれた皺に申し訳ないと思いつつ、くすぐったいものはどうしようもない。
「ぼくだって、もっと色気のある反応ができればと思っているさ! 承太郎、試しに君も脱いでみてくれ!」
承太郎は未だに渋い顔をしつつ、身を起こすとシャツを乱暴に脱ぎ捨てた。露わになった逞しい肉体に胸を高鳴らせ、長く息を漏らしながら見惚れる。
「筋肉、綺麗だ……」
ふと、右手の人差し指を美しく割れた腹筋の中央に伸ばす。くっきりと影が浮き上がるほどの窪みを、そのままつうっと撫でてみた。すると、承太郎の腰がビクンと跳ねて、小さく「ぷっ」と吐きだすのが聞こえた。
「……な? くすぐったいだろう?」
したり顔で見上げると、彼は苛立ったような息を漏らしながら再び覆いかぶさってくる。
「くそ、こうなったらとことん開発してやるぜ」
「じょ、じょうたろッ、やめ、や、フハッ! ノォホホ!!」
承太郎が花京院の胸に顔を埋め、両手を脇腹に這わせる。皮膚の上にキスの雨が降り注ぎ、肌を緩く刺激される感覚に、花京院は承太郎の肩や背中を引っ掻きながら、ケタケタと笑った。身を捩り、足をバタつかせ、小刻みに全身を震わせる。
ああ、どうしてこうなんだろう。これでは本当に、犬や猫がジャレているのと同じだ。それでもあまりのくすぐったさに、目に涙を浮かべて大笑いする。
だけどそれも、決して長くは続かなかった。
「あっ、ヒ、待っ、て! まっ……!」
笑うのも暴れるのも疲れて、抵抗が弱々しくなるほどに、くすぐったさよりも熱さが先だってくる。全身が薄紅に染まり、敏感になった肌がそれまでとは違う感覚を拾いはじめた。
「はっ、はっ、ぁ、はぅ……ッ、ん!」
まるで軟体動物にでもなったように、身体に力が入らない。
けれど承太郎が皮膚に吸い付き、緩く歯を立てる度に、身体がビクビクと跳ねあがってしまう。
「んん、ぁッ、や……へん、に、なって、きた……ッ」
「仕上がってきたじゃあねえか」
承太郎の大きな手が、花京院の胸を揉みしだきながら中央の粒を吸い上げた。今更ではあるが、その女性にするような愛撫がとてつもなく恥ずかしい。しかしおかしな話だが、その恥ずかしいという感情にすら、気分が高揚していくのを感じた。
「じょ、たろ……ッ、もう、や……」
甘えたような声が、自分のものではないようだ。こんな声が出せるのかと、自身に戸惑う。しかしもっと恥ずかしいのは、承太郎の身体の下ですっかり形を変えて、ジャージを押し上げる下半身の変化だった。
承太郎も当然、その変化に気がついていた。彼は僅かに身体を浮かし、片手を熱のこもったそこへ這わせる。そっと包むように触れながら、息を飲む花京院を見上げると、彼は熱い視線だけで「いいか」と問いかけてくる。
同じ男同士だ。ついているものだって同じで、性的な快感を得れば、反応の仕方だって同じのはず。それでも顔から火を噴きそうになりながら、花京院はこくんと頷いて見せた。
承太郎が喉を鳴らす音が聞こえる。彼はゆっくりと、慎重にウエストに引っ掛けた指を引き、ジャージを下へとズリ下げた。
瞬間、勃起しかけた赤い性器が、ふるん、と揺れて顔を出す。
花京院は思わず両手で顔を隠してしまった。
「花京院」
承太郎はジャージの下を全て取り払ってから、初めて聞くような優しい声で花京院を呼んだ。その声に反応して、指の隙間から潤んだ瞳を覗かせる。承太郎は嬉しそうにふっと笑って、花京院の方を向く形で隣に身を横たえた。太い腕の片方が首の後ろに滑り込み、肩を抱かれると引き寄せられる。
体勢が落ち着くと、承太郎は空いている方の手で花京院の性器に触れた。強張る身体を安心させるように、承太郎の唇が花京院の額に押し付けられる。その温もりに幾らか救われて、知らず詰めていた息を吐きだした。
「くっ、ぅ……ッ」
承太郎の長い指が、半起ちの性器をゆるりと撫でる。上から下へと幾度か繰り返し、やがてすっぽりと握り込まれた。先端を親指で優しく刺激されると、甘い痺れが身体の芯を駆け巡る。
「あッ、んん、ぅ……ッ」
あっという間に完全に育ちきった性器を、ゆっくりと扱かれる。花京院は自然と立てた膝を、無意識に開いていった。
(承太郎の手、大きくて……温かい)
それに、ゴツゴツとした見た目に反して、掌は意外にも柔らかかった。当然、自分でするのとは感覚がまるで違う。自慰はほんの何度か経験があるだけだが、比べようがないほどにその感覚は鋭かった。一人でするときは、こんな風に身体がビクビクと跳ねたりなんかしないのに。
(気持ち、いい……ッ)
花京院の身体を抱きこむ承太郎の腕が、その力強さを増していく。このまま承太郎の腕の中で、全てを見られながらイカされてしまうのだと、そう思うとどうしてかさらに気持ちが高ぶった。
「は、ぁッ、じょ、たろ、も……ッ、ダメ、だッ」
上半身を捻り、承太郎の胸に爪を立てながら縋りつく。花京院の性器を扱きながら、承太郎は興奮したように息を乱して、また喉を鳴らした。押し殺したような声が、低く「いいぜ」と紡がれて、その甘美な響きに心も身体も蕩けてしまう。
「いッ! あっ、ぁッ、じょ、た、アッ、ぁ――……ッ!!」
最後はもう、ほとんど声にならなかった。シーツを爪先で掻き、大きく跳ねた腰を浮かせながら、強張る。
承太郎の手の中で白濁を噴いて、花京院は一気に弛緩した。腕の中でくったりと力を失い、余韻に震えながら荒く上下する胸を見て、承太郎がほうっと熱く息をつく。濡れた掌で、小刻みに痙攣する花京院の腹筋をねっとりと撫で、顔中にキスを落とした。
「すげえ、可愛いな。おまえ」
「ッ、……恥ずかしい、です」
最中よりも、達したあとの方がずっと恥ずかしいと思った。
承太郎の首筋に赤い顔を埋め、別の意味でも震えてしまう。
「興奮した」
「だからやめてくださいってば……」
「見てみな」
おずおずと視線をやると、承太郎が自分のスウェットパンツに手をかけ、なんの戸惑いもなく下ろして見せる。
「もうこんなだ」
勢いよく反動をつけながら飛び出した性器は、見たことがないほど長く、大きくて、太い血管を走らせながら脈打っていた。
「なんだ……それ……?」
まさに馬並みと表現するに相応しい巨根ぶりに、花京院は羞恥も余韻も忘れて唖然とする。
「てめーも同じもん持ってんだろ」
「……モンキーバナナと、五百ミリのペットボトルくらいは、差がありませんかね……?」
「そこまでじゃあねえだろ」
確かに少し大袈裟だったかもしれないが。花京院の目には、そう映る。これほどのサイズは、過去に興味本位でチラリと視聴した、洋モノAVでしかお目にかかったことがない。
果たして入るのだろうか。こんなものが、あんな場所に。
「承太郎……ローションか何かは、ありますか……」
花京院は身体を起こし、承太郎の腕から抜け出すと、大きく喉を鳴して言った。
「なければこの際、ハンドクリームでもいいです……ぼくは女性ではないので、愛液的なものをセルフで分泌することはできません……」
正直、なんとなく勢いでイケちゃうんじゃあないか、なんて、どこかで甘く考えていたのは否めない。だがこのサイズを見て、花京院は確信した。裂ける。絶対に、と。
気休めの潤滑剤を用いたところでそれが回避できるかは謎だが、おそらく使わないよりはマシだ。好きな相手との初体験が、流血騒ぎで終わってしまうのだけは、避けたかった。
「ぼくがBL世界でいうところの、やおい穴ってやつを持っていれば、話は別なんだろうけどね」
思いつめた表情の花京院に、身を起こした承太郎が小さく首を傾げた。
「BL? またそれか……そんなに好きなら、明日の昼飯はBLTサンドでも食いに行くか?」
「あのね、ぼくはファンタジーやメルヘンの世界の話をしているのであって……いや、まあその提案に異存はないが」
今は明日の昼飯より、目の前のお化けキノコだ。花京院が承太郎に助けを求めるような視線をやると、彼はボリボリと耳の後ろを掻きながら「待ってろ」と言って、飛び出していたブツを一度しまいこみ、ベッドを下りて寝室を出て行った。しばらくして戻ってきた彼が手にしていたのは、どこの家庭にでもあるような軟膏ケースに入った傷薬だった。
「こんなもんしかなかったぜ……」
「よく分からないが……いいんじゃあないかな……二重の意味で役立ちそうで」
花京院は承太郎からケースを受け取ると、蓋を開けて中身を覗いた。白い軟膏を人差し指にちょんとつけ、親指の腹と擦りあわせて粘度を確かめてみる。なんとなくだが、ねっとりとした感触が悪くはない気がした。
「すまないが……ちょっと準備をしてみるので、後ろを向いていてもらえないか」
「なんで」
「なんでじゃなくて。恥ずかしいから見ないでくださいと言ってるんです」
すると承太郎はなぜかムッとした顔をしながら、ベッドに乗り上げてきた。そして花京院の手からケースを奪ってしまう。
「ちょ、ちょっと!」
「こういうのは共同作業だぜ。セックスってのは、ひとりでするもんじゃあねえんだからよ」
「ッ!」
全くもって、彼の言う通りである。押し黙ってしまった花京院の腕を取り、承太郎は「伏せろ」と短く指示を出してきた。
四つん這いになって、尻を突きだせということだ。なんて恥ずかしい格好をさせるつもりだと思ったが、よくよく考えれば多分その方が楽だし、何より顔を見られなくて済む。
この行為において、精神的にも肉体的にも、かかる負担が大きいのは花京院の方だということを、承太郎はちゃんと分かってくれているのだ。
花京院はのろのろとベッドの上で体勢を変えた。承太郎に背を向け、犬のように四つん這いになって尻を向ける。視線を感じた途端、カァッと全身に紅がのぼった。
背後に胡坐をかいた承太郎が、花京院の薄く筋肉の乗った尻たぶを片方、緩く掴んだ。ビクンと過敏に反応すると、優しく摩られる。
「尻、小せえな」
しみじみと呟かれ、なんだか泣きたくなってきた。死んでしまいたいくらい恥ずかしい。自分でも見たことのない奥まった場所を、全て見られてしまっているのだから。
承太郎が軟膏を乗せた指の腹で、窄まった穴に触れた。飛び上がりそうな勢いで身を震わせ、無意識に逃げ腰になる花京院の尻肉が、今度は強く掴まれる。
「やッ……!」
「逃げるなよ」
濡れた指は幾度か穴の周りをマッサージするようにくるくると動き回り、やがて、ぬぷ、という音を立てて、中心に潜り込んできた。
(うわ、うわ、うわああああ~~~)
承太郎の指が。とんでもない場所に。
身体が意図せず強張ってしまう。飲み込んだ異物をぎゅうぎゅうに締め付けてしまうのを、嫌というほど感じた。
花京院は赤くなったり青くなったりを繰り返しながら、それでもどうにか身体から力を抜こうとした。しかし、それがうまくいかない。およそ第一関節までを飲み込んだそこが、承太郎が指を押し進めようとするたびに、硬く窄まる。
これでは共同作業どころの話ではないと、脂汗をかきながら焦る花京院だったが、承太郎は意外な反応を示した。
「いいぜ花京院。なんかようわからんが、その調子だ」
「え、えッ? ぁ、あ……!?」
軟膏の助けも借りて、承太郎の指がズルリと深くまで侵入を果たした。花京院は目を見開き、喉と背を反らす。
力んでいたら、逆に想像以上にすんなりと入ってしまった。
痛みはない、けれど、凄まじい異物感を覚えた。指一本でこれかと思っていると、今度はゆっくりと引き抜かれる。この感覚がまた、排泄感に似ているせいか、いたたまれない。
「ヒッ、ぃ……や、だ……ッ」
抜いて、挿して、抜いて、挿して。繰り返される度に、花京院は涙が止まらなくなっていった。恥ずかしいし、なんだかとてつもなくいけないことをしている気になってくるし、何より。
「あはッ、ぁ、んッ!」
耐えがたいと感じていたはずの、引き抜かれる感覚に。いつの間にか、甘い声が漏れだすのを止められなくなってしまった。
花京院は上半身をガクリとシーツに沈め、目の前にあった羽毛枕を両手で掻きむしっていた。指を二本に増やされると圧迫感は増し、あのおかしな感覚もより強くなった。濡れた吐息が枕を湿らせる。
「痛くねえか」
問いかけに、花京院はガクガクと首を縦に振るだけで、精一杯だった。おかしい。身体が拾う感覚を、脳が上手く処理できないでいるけれど、これは、もしかしたら。
(すごく、癖になる、かも……ッ)
身体が熱くて堪らなかった。いちど達したはずの性器が、また少しだけ起ちあがっている。ぬるぬると出入りする承太郎の指を、もっともっと感じたくて腰が揺れた。
「なん、か……ッ、これ、おかし、い……おしり、痺れ、て」
「抜く瞬間が弱いみてーだな」
「も、いッ、から、たぶ、ん、もう……」
荒い呼吸の隙間をぬって、首を捻ると承太郎を見る。彼はごくりと喉を鳴らし、小さく「わかった」と言って頷くと、指をずるりと引き抜いた。
「ひぅ、んッ!」
その感覚に、甲高い悲鳴が漏れた。異物感から解放されると、一気に身体から力が抜けて、花京院はぐったりとシーツの上に横倒しになる。
「花京院」
浅く呼吸を繰り返し、ぼんやりと熱に浮かされた視線を彷徨わせていると、承太郎が身を乗り出してきた。臀部に硬くて熱い塊を感じる。花京院は仰向けになると、両腕をその太い首に這わせた。
承太郎が再びスウェットパンツを僅かにずらす。さっきよりも震えて、色味を増した性器が顔を出した。
今からこれを受け入れるのだと思うと、心臓が口から飛び出してきそうだった。
承太郎が片手で扱くようにして、自身にもたっぷりと軟膏を塗りつける。そして、熱を帯びた瞳を向けてきた。ゆっくりと頷きながら、花京院は両足を開いた。
本当はさっきと同じ態勢をとる方がいいのだと思う。それでも、なんとなくそんな気になれなかった。承太郎も何も言わない。お互いの顔を見ながら、したいと思った。
「ッ、ぁ」
承太郎が、ほぐされた穴に自身の熱い塊を押し付けた。花京院は小さく震えながら、来たる衝撃に備えて目を閉じる。
吐息だけで、名前を呼ばれた。うっすらと目を開けて、花京院はまた小さく頷く。そして笑って見せた。
「しよう、承太郎」
承太郎が奥歯を噛み締めたのが分かった。彼は片腕で花京院の肩を抱きこみ、もう片方の手は自身に添えながら、ゆっくりと腰を押し込んだ。
「ッ――!!」
想像以上の圧迫感。指二本を飲み込んだだけの小さな穴が、ぶつりと音を立てて抉じ開けられる。
「ヒィッ、ぐ、ぅ……ッ、――ッ!!」
先端が潜り込むと、目の前に真っ赤な星が飛び散った。やっぱり、指なんかとは質量がまるで違う。
(ふ、太いッ、これ、大きすぎる……ッ!!)
予想はしていたけれど、身体をふたつに裂かれるかのような激痛が走った。なにしろ馬並みだ。よく妊婦が出産を、鼻からスイカを産むようだと表現するが、自分は今まさにその逆を体感しているといっても過言ではない気がした。
うまく息ができない。全身がガチガチに硬直し、震えが止まらなかった。
「か、花京院……ッ、息を、しろ……ッ」
承太郎の声にも、余裕がなかった。先端を押し込んだだけで、それ以上は動こうとしない。花京院は激しく首を左右に振る。
「いッ、でき、ッ、な……ッ」
承太郎は大粒の汗を額に浮かせながら、ひどく辛そうにくしゃりと表情を歪めた。それから、両腕で花京院の身体をきつく抱きしめる。
「ゆっくりだ、花京院。ゆっくり、息を吐け」
耳元に囁かれた声が、驚くほど優しかった。言われて初めて、ただ息を吸いこむばかりで、吐きだしていなかったことに気がつく。
労わるように前髪を梳かれ、額や頬にキスをされると、内側からじわりと安堵が広がった。花京院が目を閉じ、ゆっくりと震えた息を吐きだすのを確認した承太郎は、耳元に唇を押し付けると、低い声で「好きだ」と言った。
「ッ」
「花京院。好きだ。おまえが好きだ」
「ッ、じょ、た、ろ」
「好きだ」
――瞬間、蕩けた。
熱が、言葉が、承太郎が。花京院の中も外も、全てをどろりと溶かしてしまった。今度は花京院が顔をくしゃりと歪めた。
「じょう、たろう……ッ、じょうたろう……」
膨らみ過ぎた感情が爆ぜて、涙になって溢れてきた。承太郎の首にしがみついて、その名を呼びながら、花京院は泣いた。
ゆっくりと、承太郎の腰が突き進んでくる。
「ヒッ、ぎッ……ぃ、た……ッ、い」
承太郎はよりいっそう強く花京院を抱き、押し殺した声で「悪い」と吐きだす。
「じょう、た……ろ……ッ、ぁ、いた、う、ぅ……あ、ぁッ」
タガが外れたみたいに、花京院は痛い痛いと繰り返し言っては、承太郎の肩や背に爪を立てた。その度に彼は息を荒げ、花京院に低く謝罪する。それでも決して行為をやめない。それがどうしてか嬉しくて、堪らなかった。
何もかもが初めてだった。セックスも、身体を暴かれることも、こんな甘え方があることも。
全てが収まり切ると、ふたりは深く唇を重ね合った。絡みつく舌と唾液に噎せそうになりながら、ゆっくりと、小刻みに揺さぶられる。
「熱い……ッ、じょうたろう、あつ、ア、あぁぁ……ッ!」
いつしか痛みは、焼けるような熱さに飲み込まれていた。びりびりという壮絶な痺れが、あの背徳的な快感を引き連れて、花京院の思考を焼き焦がす。奥を突かれると、その度に星が瞬いた。
自分のなかに、承太郎がいる。その形すらくっきりと分かるほどだった。鈍い水音が響き渡る。予想に反して、血は出ていないようだった。
「あぁッ、ぁ、承太郎、ぼく……ッ、ちゃんと、できて、る……セックス、して、る、ッ」
「ああ……すげえ、ッ、いい、ぜ。おまえの、ナカ」
「うれ、し、あ、ヒッ、ん……ッ」
抽挿が激しくなるにつれ、花京院はいよいよ自分が何を口走っているのか、分からなくなっていった。ただひたすら「好き」と繰り返し、承太郎もそれに応えた。
最後に聞いたのは、低い獣のような呻きだった。腹の中でなにか熱いものが弾けて、じわりと広がるのを感じる。
ぶるりと腰を震わせ、息を詰める承太郎を強く抱きしめて、花京院は意識が焼き切れる寸前でふと、微笑んだ。
「嬉しい……承太郎……ありがとう……」
――愛しています。
ちゃんと声に出して言えたかは、覚えていない。
***
目が覚めると、隣に承太郎はいなかった。
「……あれ」
重たい瞼で幾度か瞬きをして、花京院はキョロキョロと室内を見渡しながら、重たい身体をどうにか起こす。
「うぐッ!!」
その瞬間、腰に鈍い痛みが走った。もちろん、あの場所にも。
鐘の音が尾を引くような痛みを、背中を丸めてやり過ごす。
どうにか落ち着いてから再び辺りを見回しても、カーテンの隙間から漏れる朝の光に照らされた室内に、承太郎の姿は見当たらなかった。
花京院はぼんやりとした頭で、一糸まとわぬ自分の身体を見下ろした。下半身はシーツに隠れているが、肩や胸、鎖骨や脇腹など、いたるところに小さな鬱血の痕がある。
(あのあとが、なかなか大変だったんだ……)
初めての行為で気を失った花京院は、あれからすぐに承太郎の腕の中で目を覚ました。朦朧としながらも、いわゆるピロートークというものをして、その合間に何度もキスを交わした。
そうしているうちに、ふたりともだんだんまたその気になってきて、最初に手を伸ばしてきたのは、承太郎だった。
花京院は、あの行為で達してはいなかった。その前に承太郎が果て、その熱にあてられて気をやってしまったからだ。
それを悪かったと言って、それから嫌というほど奉仕されてしまった。二度目の挿入こそなかったが、中に出されたものをねちっこく掻きだされ、しかも思いだすだけでまた気が遠くなりそうなほど、言葉責めもされた気がする。その行為は、花京院が行き過ぎた快楽に気を失うまで、続いた。
(おのれ承太郎……晴れて脱童貞したからって、急にエロ親父みたいにならなくたって……ッ)
正直死ぬほど気持ちよかったし、ちょっと意地悪く攻める承太郎は、クラクラするほど格好良かったけれど。
「だが悔しい……」
「なにがだ?」
握りしめた拳を震わせていると、不思議そうな顔をした承太郎が、寝室に戻ってきた。いつもの格好にコートと帽子だけを脱いだ姿で、大皿の乗ったトレイを持っている。皿に乗っているのは、見たこともないような巨大なオムライスだった。
「な、なんだいそれ」
「朝飯だ。昨日は晩飯抜いちまったから、腹が減っただろ」
「いや、それにしたって……」
オムライスは、大皿からはみ出さんばかりの大きさだった。
喫茶店やファミレスで見るサイズの、何倍もありそうだ。承太郎はそれをトレイごと花京院の膝に乗せ、こちらに身体を向けて、ベッドの端に腰を下ろした。
「これ、承太郎が?」
「そうだぜ」
「君が料理をするイメージはなかったから、ちょっと意外だ」
「これでも一応は一人暮らしの身だからな。つっても、練習してまともに作れるようになったのは今のところこれだけだ」
どうしてオムライスだったのだろうと思いかけて、心当たりが十分にある花京院は、赤面した。巨大オムライスは、見るからに卵がトロトロのふわふわで、よほどの練習を積み重ねたであろうことが知れる。これは互いにとって思い入れのあるものだから、ふたりで初めて迎えた朝に、こうして作ってくれたのだと思った。
トレイの上にはスプーンがふたつと、ケチャップボトルも置いてある。承太郎はボトルを取ると、花京院に差し出した。
「なにか書いてくれねえか」
「ぼ、ぼくが?」
「おれだけのメイドさんになってくれるんじゃあ、なかったのか?」
「ぶふッ……!」
その言葉に、思わず噴きだしたあと派手に噎せた。背中を丸めて咳込む花京院の背中を、承太郎がくつくつと笑いながら摩ってくれる。
「そ、それは、こないだの……ッ、あの日のことは忘れてくれって言っただろう!?」
「そいつはできねえ相談だぜ」
「~~ッ!!」
耳まで赤くしながら、つい涙目になってしまう。あの日の自分は、なんて恥ずかしいことを言ってしまったのだろう。なのに承太郎はそれを平然と言って様になってしまうのだから、やっぱりイケメンはずるい。
花京院は承太郎の手にあるケチャップボトルを、引ったくるように奪うと、ひとつ大きな深呼吸をする。そして言った。
「なにかリクエストはございますか? 旦那様」
ご主人様ではなく、旦那様。今度は承太郎が小さく噴いて、照れ臭そうにする番だった。ちょっとだけ意趣返しができたような気がして、気分がいい。悪戯っ子のように笑うと、咳払いをしている承太郎を、上目使いで見上げた。
「ちょっと気が早かったかい?」
「……いや。グッときた」
「ノォホホ! それならよかった」
「やれやれだぜ」
承太郎が肩を竦めながら苦笑する。そして花京院を抱き寄せながら「任せる」と言った。
「かしこまりました」
花京院はボトルの蓋を開け、逆さにすると、巨大オムライスへケチャップを押し出した。
大きな皿に乗った、大きなオムライス。そこに、負けないくらい大きなハートマークを描く。使い切ってしまいそうな勢いで、隙間なく真っ赤に塗りつぶし、ふっと息をついた。
「どうかな?」
また恥ずかしいことをしてしまったかな、なんて思いつつ隣を見上げれば、承太郎は嬉しそうに笑っていた。彼はいつだって優しいけれど、今朝の笑顔はとびきり甘くて特別に見える。
「上出来だぜ、花京院」
唇が、自然と重なり合う。
真っ赤に熟れたハートマークが、いつまでも冷めることなく、甘ったるいふたりの口付けを見守っていた。
花京院がごっつい彼氏と結ばれる話・終
←戻る ・ Wavebox👏
初恋が失恋という結末を迎えてから、花京院の生活はすっかり干乾びたものになってしまった。
見える景色は全て灰色にしか映らないし、考えないようにしていても、溜息ばかりが口から漏れる。今は勉強に打ち込まなければならない時期だし、なんの変哲もない日常が戻ってきただけだと分かってはいても、以前のようにアイドルに胸をときめかせるだけの情熱すら、失せていた。
今はただロボットのように、寝て起きて学校へ行って、ひたすら勉強するだけの日々が花京院の全てだった。
しかしそんなある日、金曜日の放課後のこと。のろのろとした足取りで校舎から出た花京院は、校門の辺りに人だかりができていることに気がついた。
「やばーい超カッコいい! もしかして芸能人!?」
「誰か待ってるのかしら! やっぱ彼女とか!?」
「ね、ねえ、ちょっと声かけてみない?」
よく見れば、その人だかりはほぼ女子の群れだけで出来上がっているのが分かった。ワーキャーという黄色い歓声を上げる彼女たちを、ドン引きした男子生徒が綺麗に避けて通っていく。
どこかで見たような光景だなぁ、くらいにしか思えなかったのは、そのときの自分が完全に腑抜けていた証拠であるということを、花京院はすぐに思い知ることになる。深く考えることなく、自分も同じく流れに沿って校門を出ようとした。
そのとき――。
「やかましいッ! おれは女が騒ぐとムカつくんだッ!!」
ご本家さんの台詞が聞こえた……。
「ッ!?」
聞き覚えがありすぎる声に、花京院はビクンと肩を跳ねさせて、咄嗟にその方向を見た。そうだ。これだけ女性を騒がせる人間なんて、芸能人か『あの男』くらいしか、考えられないではないか。
怒鳴られた女子たちが、なおもハートマークを飛ばしながら、キャイキャイと騒いでいる中心で、忌々しげに舌打ちをしている人物。帽子もコートもボトムも、全て白で統一した彼は、立ち止まって硬直している花京院を見つけると、表情をさらに険しくしながら目を細めた。
(じょ、承太郎ッ!? なぜここに!?)
「花京院」
承太郎が真っ直ぐにこちらを見据えると、彼を取り囲んでいた女子生徒全員も、一気にこちらに注目した。
ひ、と声なき悲鳴をあげて肩を竦めた花京院に、承太郎がヌシヌシと近づいてくる。何やら背中にドス黒い炎のようなものを纏っている気がするのは、目の錯覚だろうか。彼は明らかに怒っている。
(や、殺られる……)
とっとと逃げなければ、とんでもなく不味いことになる予感しかしない。が、金縛りにあったように身体が動かず、僅かに腰が引けただけで終わってしまった。あっという間に距離を縮めた承太郎が、花京院の手首をむんずと掴む。
「じょ、じょう、た、ろ?」
「デートするぜ」
「へ」
「来な」
「えええええッ!?」
驚きに絶叫したのは花京院ではなく、周りの女子たちだった。
引きずられるように歩く花京院は頭の中が真っ白で、声を出すどころの騒ぎではない。
どういうわけか女子の絶叫は、そのまま濃ゆいピンク色のどよめきに変わっていた。心なしか、さっきよりもずっと熱量が増して聞こえるのは気のせいだろうか。やはりホモが嫌いな女子はいないのか。
いや、いずれにしろいま確実に言えること、それは。
(もう二度と……学校に来られない……)
ということだけだった。
***
承太郎に連れられてやってきたのは、駅近くのファミレスだった。
一体どこの倉庫にでも連れて行かれるのかと怯えていた花京院は、彼の意図が分からず静かに混乱する。
店の片隅の席で向かい合う形で腰かけると、承太郎は店員に自分の分のコーヒーと、勝手にメロンクリームソーダを注文した。いつもファミレスへ行くとお互いが必ず頼むメニューだった。
注文品が運ばれてくるまで、承太郎は何も言わなかった。運ばれてきてからは、コーヒーをゆったりとした動作で飲んで見せるだけで、やはり口を開こうとしない。
花京院はチェリーの乗ったクリームソーダに手を伸ばすこともできず、ただこの謎の状況に思考を巡らせるだけで、精一杯だった。
(これは一体どういう状況なんだろう? なぜ何も言わないんだ? いや、そもそもどうして承太郎は、ぼくをここへ連れて来たんだ……?)
自分たちはすでに終わっているはずだし、そんな相手を強引に連れ出してすることといえば、何があるだろうか。
(ファミレス、ファミレス……あ)
なるほど、そういうことかと、花京院はひとつの答えに行きついた。
花京院は勝手に承太郎とは別れたものと決めつけていたが、実際は逃げるように関係を断ち切っただけで、まともに別れを告げたわけではないのだ。そういえば、合鍵もまだ持ったままだったことを思いだす。
そしてカップルが別れ話をする際、もっとも好ましいとされる場所はファミレスや喫茶店など、人が多くいる場所である。
人目につかない場所だと、感情的になった際に何かしら事件が起こらないとも限らないからだ。
だからおそらく、承太郎は穏便に話を済ませるために、ここへ自分を連れて来たに違いない。
花京院は緊張に強張る身体で深く深呼吸をし、ずっとポケットに入れたままにしていた合鍵を取り出すと、テーブルの上に置いた。
コーヒーカップを皿に戻した承太郎が、花京院の意図を探るように、じっと目を向けてくる。
「これ……お返しします。今まで、ありがとう」
承太郎が真っ先に作って渡してくれた鍵。わざわざチェリーのキーホルダーまでつけて、この厳つい男が、一体どんな店で、どんな顔をして、こんな可愛らしいものを購入したのだろう。
少なくとも、その頃はまだ自分を思ってくれていたのだろうか。それとも、あの彼女にも渡すついで、だったのだろうか。
いずれにしろ花京院は承太郎との思い出と一緒に、全てを彼に返す以外、道はないのだ。
承太郎は深い溜息をつき、呆れたような表情すら浮かべて「やれやれ」と言った。
「どういうつもりだ?」
「ど、どういうつもりって……別れ話をしているのですが」
「なぜ」
「な、なぜ?」
噛み合わない会話に、花京院は首を傾げる。こういう反応をされると、まるでこちらが見当違いな発言をしたかのような気持ちになってしまう。
「花京院、おれはデートをしようと言って、てめーをここに連れて来たんだぜ。どうして別れ話なんぞを切り出されなくちゃあならねえ?」
「い、いや、それは、だって……」
「言っておくが、別れるつもりはないぜ」
「……はい?」
なにがなんだか、さっぱり分からない。混乱する花京院に、承太郎はぐっと眉間に皺を寄せたまま、さらに続けた。
「そんなことより、おれに言うことがあるんじゃあねえか?」
言うべきことなら、すでに言ったつもりなのだが。承太郎が、また溜息をついた。
「電話もでねえ。メールも返して寄越さねえ。あれきり部屋にも来やがらねえ。こいつぁ一体、どういう了見だ?」
「だからそれは、君が……」
――もうぼくを、好きじゃないから。
(……あれ?)
ならどうして承太郎は、こうも平然と別れないなどとのたまっているのだろうか。心に決めた女性がいて、両親への挨拶まで済ませているはずの男が、すでに過去になってしまった相手に執着する理由とは、一体なんだろう。
「言い訳よりも先に、まずは心配かけてごめんなさい、じゃあねえのか」
「あ、はい……ごめんなさ……は?」
(ちょっと待て、なんでぼくが謝るんだ!?)
つい勢いで謝りかけたが、ギリギリのところで踏みとどまる。
確かに最初にキッチリ話をつけなかったことに関しては、自分にだって少なからず非はある。それは認めよう。しかし、なぜこちらが一方的に謝る必要があるのだろうか。むしろ言い訳をしなくてはならないのは、承太郎の方ではないのか。
なにがなんだか訳が分からないまま、だんだん腹が立ってくる。
ダンッ、と大きな音を立てて、テーブルに両手を叩きつけながら立ちあがった。コーヒーとクリームソーダが、衝撃に大きく波打つ。
「いい加減にしろよ承太郎ッ! そもそもの原因は、君が浮気をしていたからじゃあないかッ!!」
花京院の叫びが、ファミレス内部に響き渡った。
学校帰りの学生たち、外周り中のサラリーマン、接客に追われていた店員。諸々が動きを止め、丸い目を花京院に集中させる。その静まり返った微妙な空気に気がつき、花京院は耳まで真っ赤にして、息を飲んだ。しおしおと椅子に座り直すと、身を縮こまらせ「すみません」と蚊の鳴くような声で言った。
すると腕を組んで踏ん反り返った承太郎が、なぜか大声を張り上げる。
「おいこら花京院! 浮気ってのはどういう意味だッ!!」
「バカか! 君はバカかッ! なんでここで君まで叫び出すんだっていうか、わざとだろそれッ!!」
「も、申し訳ございません、他のお客様にご迷惑が」
「「やかましいッ!!」」
明らかに怯えた様子で注意をしにやってきた店員を、声を揃えて怒鳴りつけた、そのとき。
「ごめーん待った?」
店員の肩をぐいと押しのけ、一人の女が姿を現した。
「ッ!?」
「でっかい野郎がふたりしてなに騒いでんのよ。あ、あたし紅茶でいいわ。アイスでお願い」
「き、君は、あのときの……!?」
華奢な長身にお団子頭。さばさばとした物言いの彼女は、蜘蛛の糸を思わせる模様に、大きく腹部が開いた臍出しファッションで、承太郎の隣に腰かける。そして、かしこまりましたと言って足早に去っていく店員に、ヒラヒラと手を振った。
「徐倫」
承太郎が、そんな彼女を横目でじろりと睨み付ける。
徐倫。それが彼女の名前なのか。
「怖い顔して睨まないでよ。あたしだって暇じゃあないのよ。なんたって花の女子ダイセーよ。放課後のお喋りタイムだって、立派なお勤めのひとつだわ」
何がお喋りタイムだと言わんばかりに、承太郎が舌打ちをする。二人を交互に見やりながら、花京院はただ唖然とするばかりだった。
なぜ、どうして彼女がここに。ますます承太郎の考えていることが分からなくなってしまったところで、テーブルに頬杖をついた徐倫が、硬直するばかりの花京院を見て微笑んだ。
「ハーイ、こないだ会った以来ね」
「あの、あなたは……?」
「徐倫よ、ノリアキ。あなたのことは、横にいるやつから聞いたわ。色々とね」
「そ、そうですか……」
一体なんと吹き込まれているのだろう。まさか元恋人だなんて言えるはずがないだろうし、やはりただの友達ということになっているのだろうか。気にはなったが、聞く勇気も当然なくて口を噤んだ。花京院はまだ、この状況が飲み込めないままでいるのだ。思わず承太郎に視線をやると、彼はおもむろに帽子を取り、テーブルの脇に置く。
そして言った。
「空条徐倫。おれの双子の妹だ」
「…………え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。ただ、頬杖をやめて背を伸ばした徐倫と、腕組みしたままの承太郎の顔を、瞬きもせずに凝視する。
片方は無表情で、くっきりと凛々しい眉をした精悍な美男子。
もう片方は眉も細く整えて、女性らしくメイクを施した顔に、華やかな笑みを浮かべる美女。パッと見は別人に見えるけれど、意思が強そうな瞳の色も、肉厚でセクシーな唇も、よく見ればぴったりと重なった。
「ふ、双子……妹って、そんなこと聞いてないぞ!?」
「言ってねえからな」
「そんな……ッ」
そこから先の言葉が続かない。思いもよらない事実に直面して、花京院はずっと強張っていた身体から、力が抜けていくのを感じた。くったりと椅子の背凭れに背を預ける。
「君たちは、恋人同士じゃあ、なかったのか……」
「ちょっとやめてよ。冗談キツいわ、それ」
店員が運んできたアイスティーに、シロップを入れて掻き混ぜながら、承太郎より先に徐倫がすかさず反応する。
「あたしはしょっちゅう兄貴んとこに泊まってるだけ。だって聞いてよ、ママったら兄貴が出てって寂しいからって、あたしにべったりなのよ? うっとおしいったらありゃしないわ!」
「はあ……」
テーブルに身を乗り出して愚痴る徐倫に、花京院は若干引き気味で曖昧な返事をする。
徐倫は日本でいうところの高校時代を、祖父のいるニューヨークで過ごしていたのだと続けた。日本の大学に進学するために帰国を果たすと、入れ違いで承太郎が一人暮らしを始めてしまった。だから母親の愛情過多から逃れるために、定期的に兄の部屋に入り浸って、ガス抜きをしているのだと。
それを聞いた花京院はふと、承太郎と徐倫の両方からしていた、あの花の香りのことを思いだした。
「あの、ひょっとして……承太郎の部屋にあるシャンプーって、徐倫さんの?」
「ええそうよ? あたしが持ち込んだの。メンズ用なんて、香りからして野暮ったくて使えたもんじゃあないわよ」
「彼シャツの件に関しては……?」
「彼シャツ? なにそれ。もしかして、最初に会ったときの格好? あれはその辺にあったのを適当に借りただけよ。楽なのよね、風邪通しもよくて」
「花束を持ってご挨拶というのは……?」
「それってこないだの、ママの誕生日のこと?」
「た、誕生日……?」
微かに眩暈を感じて、テーブルに突っ伏してしまった花京院を見て、徐倫がきょとんとした顔をする。
(全部ぼくの……勘違いだったってことか……)
この数日というもの、傷心を引きずったまま廃人のように過ごしていた自分は、一体なんだったのだろう。全てがとんだ空回りもいいところではないか。
ふたりから同じ香りがしていたのは、徐倫が持ち込んだシャンプーを、承太郎も使っていたからだったのだ。そしてガラス越しに見た彼が持っていた花束は、ふたりの母ホリィへの、誕生日プレゼントだった。
(ああ、ぼくは本当にバカだ。大バカ野郎だッ!)
なんだ、そうだったのかと納得できるだけの理由が、ここにちゃんと存在していたではないか。
「そういうわけだから、あなたが言うような事実はないの。どう? これで安心した?」
「はい、とても――ん?」
最後の最後で引っ掛かりを覚えた花京院は、咄嗟に承太郎を見た。黙って話を聞いているだけだった彼は、テーブルに置いていた帽子をかぶり直すと、「やれやれだぜ」と言って、赤い頬を鍔で隠している。照れとる場合かーッと叫んでやりたい気分だったが、花京院もまた恥ずかしさのあまり、両手で顔を隠して小刻みに震えてしまった。
なんということだ。いくら双子とはいえ、オープンすぎやしないか。兄の恋人が男だと知っても、動じない徐倫にも驚くが。
恥ずかしい反応を見せる二人組を目の前に、彼女は鼻で笑って「やれやれだわ」と吐き捨てた。
「ところで徐倫。約束だぜ」
花京院が少し落ち着こうとして、もはやドロドロの状態になっているクリームソーダに口をつけると、すでに冷めたコーヒーを飲みほしていた承太郎が、おもむろに切り出した。
約束? と小首を傾げた花京院に、徐倫がニンマリとした笑みを浮かべる。
「あたし、今あっちにいる彼氏と遠距離してんの。兄貴ったらどんなヤツかってうるさいのよ。だから交換条件ってことにしたわけ。そんなに言うなら、あんたの可愛いベイビーも紹介しろってね」
「な、なるほど」
なんだか複雑な気がしないでもないが、納得はできた。が、ベイビーという呼称がやたらと恥ずかしくて、ますます赤面する。
「最初はいないなんて言って隠すつもりだったみたいだけど、舐めないでほしいわ。こいつの嘘を見抜くのだけは、昔から得意なの」
そこはやはり双子だから、だろうか。徐倫はテーブルに前腕をつくと、楽しそうに身を乗り出してくる。なんとなく、花京院もそれに合わせて身体を前に傾けた。
「そりゃあ見ものだったわよ。ノリアキのことを話す兄貴ったらさ、ニヤニヤするのを必死で堪えちゃって。ほんとムッツリよね。あなたをいずれ嫁にするとまで言ったのよ」
「よ、嫁ぇ!?」
内緒話をするようなトーンで告げられた徐倫の言葉に、花京院は思わず声を引っくり返して驚いた。
そういうことは、結婚してから。メイド服を着て迫ったあの日、承太郎はそう言った。
(ぼくと、って……意味だったのか)
「徐倫」
咳払いをした承太郎に横目で睨まれると、徐倫は悪戯が見つかった子供のようにヒョイと肩を竦めて、クスリと笑った。
「はいはい、わかったわよ。ま、とりあえず写真だけど」
徐倫はポケットから一枚の写真を無造作に取り出し、テーブルに置いた。自分も見ていいものなのか分からなかったが、なんとなく承太郎が身を乗り出すのに釣られて、覗き込んでみる。
そこには、男性とも女性ともつかない、中性的な人物が写りこんでいた。承太郎は写真を手に取ると、顔を顰めて言った。
「……女か?」
「男よ、お、と、こ!」
「やめとけ。こんな香水臭そうなオカマとの交際は認めん」
「はあ? てめー今なんつった? オカマじゃねーからッ!!」
「いいからやめろ。気に入らねえ」
「このクソ兄貴ッ!! てめーは一体何様だ!?」
「ちょ、ちょっとふたりとも、落ち着いてください!」
徐倫が怒鳴ったことによって、再び注目の的になってしまっていることに気づいた花京院が、慌ててどうどうと彼らを宥めた。しかしその瞬間。
「「やかましいッ!!」」
凄い形相の双子から、思い切り怒号を浴びせられてしまった。
(な、なんなんだよこの兄妹はッ!! 怖すぎだろッ!!)
最初はよく見れば似ている、という程度の印象だったが、彼らはやはり双子なのだと思った。キレた表情が実にそっくりで、相手がこのふたりだからいいものの、これが赤の他人だったら、今ごろ尻尾を巻いて逃げ出していたかもしれない。
けれど意外にも、承太郎にシスコンの気があることを知って、同時に微笑ましい気持ちにもなる。
目の前では相変わらずオカマがどうの、クソ兄貴がどうのと荒々しい口論が続いているが、こうして少し引いた位置から眺めていると、彼らは本当に仲のいい、お似合いの兄妹だと感じた。
今だって、見ようによってはカップル同士のケンカに見えなくもない。少々過激ではあるけれど。
(それでも承太郎は、浮気なんかしてなかった)
思えば自分は、乱暴な口調で言い合いをする二人よりも、ずっと酷いことを承太郎に言ってしまったのだ。信じているなんて表面だけで、本当は全く信じてなどいなかった。確かめもせずにただ疑って、勝手に腹を立てて、正拳突きまでかまして、逃げ出した。
(そんなぼくを、承太郎は恋人だって、思ってくれているんだ)
そう思うと嬉しくて、情けなくて、花京院は無意識のうちに、ポロポロと涙を零していた。
「か、花京院」
「ノリアキ!? ちょ、なんで泣いてんの!?」
途端に口論をやめてこちらを見たふたりに、花京院はきょとんとした顔をする。そして、自分の視界が酷くぼやけていることや、涙が頬を伝っていることに気がつく。意地になったように我慢していたはずなのに、あっさりと崩壊してしまった涙腺に、ひどく戸惑う。
「あ、あれ、なんでぼく……す、すみません」
「ああもう! 兄貴がやかましいなんて怒鳴るからッ!!」
自分のことを棚にあげ、徐倫が慌ててポケットを探る。
ハンカチを探しているらしいが、出てくるのは飴玉や紙屑、あとなぜか毛抜きなど、しょうもないものばかりだった。
やれやれと溜息をついた承太郎が、コートのポケットから白いハンカチを取り出し、花京院に差し出した。女子力に関しては、兄の方が上手のようだ。
それを受け取りながら、花京院は悔しそうな徐倫の表情を見て、困り眉で笑った。
「すみません……安心したら、なんだか気が抜けてしまって。ありがとう、承太郎」
濡れた目元を、承太郎の匂いがするハンカチで拭っていると、どうしてかもっと涙が溢れて、止まらなかった。ずっと迷子だった気持ちが、ようやく帰る場所を得たような、そんな安堵に胸が痛いほど締め付けられる。
しきりにハンカチで涙を拭いながら「恥ずかしいなあ」なんて零していると、それをぼうっとした表情で見つめていた徐倫が「ねえ兄貴」と呟いた。
「この子、可愛すぎない?」
「……せやろ」
なぜ関西弁……と、ツッコミを入れたくても、涙を拭くのに忙しくて、それどころじゃない花京院。頼みの綱だった徐倫すら、どこか上の空だった。
「あたしに譲る気ない?」
とんだ爆弾発言をかました徐倫に、承太郎の片眉がぴくりと動く。そしておもむろに花京院の前髪に手を伸ばし、くしゃくしゃと乱しながら、
「ぶちのめすぞ」
と、実の妹に向かって物騒なことを言い放った。
***
花京院が承太郎と共に彼のマンションについた頃、空はとっぷりと日が暮れていた。
(なんだか、すごく久しぶりな気がするな)
最後にここを訪れてから、そう大した日数が経過しているわけではないのだが、もう二度と来ることはないだろうと思っていた場所だけに、不思議な気分だ。
「花京院」
これといって変化があるわけでもない室内を、なんとなく見渡したりして所在無げにしていると、名前を呼ばれた。見ればソファに座った承太郎が、手の平ですぐ横を幾度か叩いている。
花京院はこくんと頷くと、少し遠慮がちにスペースを開けて、承太郎の隣に浅く腰かけた。
こうして改めて二人きりになると、何から話せばいいのか分からなくて、どうも落ち着かない。膝の上で両手を握りしめながら、なかなか承太郎の方を見ることができないでいた。
するとふいに、なにか温かなものが頬に触れるのを感じた。驚いて肩を震わせ、咄嗟に承太郎の方を見る。緩く曲げられた人差し指が、花京院の目元をするりと撫でた。
「目、まだ少し赤いぜ」
「みっともないところを見せてしまって……すみません」
顔を赤くして俯く花京院に、承太郎は緩く首を振ってみせた。
「泣かせちまったのはおれのほうだぜ」
「そ、そんなこと……ないよ」
勝手に勘違いをして突っ走ったのはこちらの方なのだから、承太郎にはなにひとつ非はない。そして花京院は、まだ彼にまともに謝ってすらいないのだ。
花京院はやたらと乾いている下唇を噛んで湿らせると、承太郎へと身体を向けて、ぎゅうと目を閉じながら頭を下げた。
「承太郎、ごめん!」
突然の謝罪に驚いた承太郎が、目を瞬かせる。
「ちゃんと確かめもしないで、ぼくは君を疑った。一人で勝手に拗ねて、君に酷いことを言って、あげく心配までかけて……すまなかった」
力なく首を前に垂れたまま、花京院は顔をあげることができなかった。承太郎がどんな表情でいるのか、それを確かめるのが、この期に及んで怖かったのだ。そしてそれを誤魔化すかのように、花京院の口からは言葉が溢れた。
「あの日、ぼくがメイド服を着て迫ったことも、どうか忘れてほしい。ぼくは今まで恋人がいたこともないし、童貞だし、勝手が分からなくて……キスはしても、それ以上の進展がないことに……焦っていたんだ」
膝の上で握りしめた拳の中で、掌に爪が食い込む。
「君が好きだと言った典香の姿でなら、少しはその気になってもらえるかもしれないと思った。だけど結果はあのザマで……本当に、悪かった」
承太郎はただ黙って、花京院の言葉に耳を傾けていた。沈黙が痛い。ますます顔を上げるタイミングが分からなくなって、ただただ項垂れる。けれどそんな花京院の頭に、承太郎は大きな手を乗せ「よせ」と言いながら、ポンポンと軽く叩いた。
「おれの方こそ悪かった。徐倫のことは、あらかじめおまえに話しておくべきだったし、それに――」
躊躇いがちに顔をあげると、承太郎は真剣な面持ちで花京院に視線を縫い付け、そして言った。
「おれは嬉しかったぜ。おまえの方から……その、なんだ」
言いにくそうに言葉を切る承太郎の頬に、仄かな赤がのぼっている。見ているこちらまで、なんだか恥ずかしいような気持ちになってきて、花京院も思わず頬を染めた。
「してえ、ってよ、誘ってきたの」
「ッ! ほ、本当に……?」
意外だった。承太郎には完全に引かれたとばかり思っていたし、はしたない奴だと思われても、当然の真似をしてしまったというのに。
思わず身を乗り出した花京院に、おう、と返事をした承太郎の瞳は、照れ臭そうではあったけれど、真剣そのものだった。
「おれにとって、典香は単なるキッカケだ」
「承太郎……?」
「てめーは未だに、おれが典香だけを追いかけてるみてーな言い方をしたが、そりゃあ大きな勘違いだ。マジだって言ったはずだぜ。おれは、バカみてーにおまえに惚れてるってよ」
まだふたりとも学生服だったあの日。黄昏の公園で、承太郎に強く抱きしめられた感覚が、今でも鮮明にこの身体に残っていた。なによりも大切な記憶。
あのときから今まで、承太郎はなにも変わってなどいなかった。大学生になっても、白い服に身を包んでも。ずっと、自分だけを思ってくれていたのだ。
「ッ……!」
安心するとつい、気持ちと一緒に涙腺も緩んでしまうようだった。またじわりと涙が浮かんできて、花京院は慌てて指先で目元を拭うと、なんとか笑顔を作って見せた。それを見て、どうしてか承太郎がぐっと喉を詰まらせ頬を赤らめる。
「ありがとう承太郎。すごく、嬉しいです」
「そうか」
そのまま、ふたりは何も言わずに見つめ合った。花京院は承太郎の瞳に、承太郎は花京院の瞳に。吸い寄せられるように、互いの距離がゆっくりと近づいていく。息遣いすら感じる距離であの花の香りがしても、もう不安はなかった。
瞳を閉じて、今にも唇が触れ合うというところで。
――また、アラームが鳴った。
「ッ!」
至近距離で、ふたりは同時に目を見開いた。けたたましく鳴るのは承太郎の携帯電話だ。舌打ちをして、ポケットから携帯を取り出した承太郎は、乱暴な手つきでアラームを切った。
花京院は肩を竦め、息をつくとソファから立ちあがる。
「高校生は帰る時間のようですね」
以前は不満でしかなかったアラームだが、今の花京院は受け入れることができる。承太郎は花京院を子供扱いしていたわけではないのだ。なにせ彼は、自分を本気で娶るつもりでいるのだそうだから。さしずめ今は、花京院が結婚できる年齢になるまで待っている、といったところか。
男同士で結婚もなにも、とは思いつつ、元はとんだ不良だったくせに、驚くほど生真面目な彼につい苦笑が漏れる。
「でも、もう少し一緒にいたいので、駅まで送ってもらえると嬉しいです」
我儘だろうか、なんてチラリと思いながら承太郎を見ると、彼は片手で赤くなっている目元を押さえ、溜息をついた。そして、立っている花京院に腕を伸ばして手首を掴むと、少し乱暴な動作で、引き寄せる。
「うわッ!?」
咄嗟の出来事に声を上げながら、花京院はソファに雪崩れ込むような勢いで、承太郎の腕の中におさまった。
「じょ、承太郎?」
「帰したくねえって言ったら……困るか?」
「ッ、え?」
強く抱き込まれているせいで顔をあげられず、承太郎の表情を見ることができない。ただ、その胸に手をついている花京院には、彼の心臓が大きく高鳴っているのが、よくわかった。
「本当は、いつも思ってた」
「もしかして、毎回アラームをかけていたのは」
「……時間を忘れちまう。おまえといると、離したくなくなる」
「承太郎……」
これ以上嬉しくさせて、一体どうするつもりだろう。今日だけで、一生分の幸せをもらったような気さえしていたのに。けれど、花京院には拒む理由が何ひとつなかった。
胸についていた手を、少しだけ押して小さく距離を開ける。
鼻先が触れ合う距離で承太郎の瞳を見つめ、花京院は言った。
「ぼくも……今日は帰りたくない、です」
ようやく。満を持して、時間の制約を取り払ったふたりの唇が、重なり合った。
***
それからふたりは、何度も何度も啄むようなキスをした。そのひとつひとつがぎこちなく、不器用で、繰り返される度にじれったさが募る。
どうしたらいいか分からないくせに、このままどうにでもしてほしいとも思った。多分、それは承太郎も同じだったのだと思う。花京院を引き止めた時点で、忍耐強いはずの彼の精神も、いよいよ揺らいでしまったようだった。
(うーん、なんか……思ってたのと違う)
風呂場の脱衣所で、鏡の前に立ちはだかって首を傾げた。
そこには学ランではなく、サイズの合わない、大きな黒いジャージを着た自分が写りこんでいる。
それは承太郎のもので、肩の位置もズレているし、袖も裾も余ってしまうほど大きい。自分もそれなりにタッパはある方だと思うのだが、改めてその体格差を思い知らされる。
ジャージの前を首まできっちり上げて、襟に顎を埋めている様は、制服姿よりもずっと野暮ったく見えた。
(これじゃあ彼シャツじゃなく、彼ジャージだ……)
花京院の中で、コレジャナイ感が膨らんでいく。とはいえ承太郎が用意してくれた着替えは他にないし、まさか全裸で飛び出して行くなんて真似も、できるはずがない。
(まあ、いっか)
あれからふたりはいったん身を引き、シャワーを浴びようという話になった。ムード的にはあのまま突っ走りたい気分ではあったのだが、いざ初めてというときに、自分が汗臭い状態というのは、どうしても耐えられなかったのだ。
しかし、いざとなると間を置いてしまったことを後悔もしている。家に連絡を入れ、シャワーを浴びて、借りたジャージに袖を通してはみたものの、なんとなく脱衣所から出にくくて、つい時間をかけてドライヤーで髪を乾かしてしまった。
今、花京院の髪からはあの花の香りがしている。いつもより髪質もふわふわで、なんだか妙な気分だ。けれど何より。
(全裸にジャージって……とてつもなく心許ないぞ……)
特に下半身が。いちど身に着けた下着を穿くことに抵抗がある以前に、セックスをするのだという実感が、妙なところでリアリティを発揮しているような気がした。今にもジャージを突き破って心臓が飛び出してきそうなほど、ばくばくと胸が高鳴っている。
(……こうしてたってしょうがない)
承太郎は花京院に経験がないことを知っているわけだし、自分は経験者である彼に、安心して身を委ねればいいのだ。
童貞を捨てる予定が一切ないまま、まさか処女を散らすことになるとは。チラリと過ったのは両親の顔だった。父さん母さんすみません……と、心の中で一応は謝罪して、花京院は意を決すると、脱衣所を飛び出した。
***
花京院が緊張に強張りながら寝室へ足を踏み入れると、先にシャワーを済ませていた承太郎が、黒いTシャツにスウェットパンツ姿で、ベッドの中央に正座していた。
「お、お待たせしました」
ベッドサイドに設置されたチェストの上で、間接照明が煌々と光を放っている。彫の深い顔に陰影を刻みながら、顔を上げた承太郎が自分の正面をポンポンと叩いた。さっきも同じ仕草を見たな、なんて思いながら、花京院は躊躇いがちにベッドへ乗り上げ、向かい合うように同じく正座をした。
承太郎が、神妙な面持ちで息をつく。そして、花京院を真っ直ぐに見つめながら口を開いた。
「もうひとつ、解いておきてえ誤解がある」
「誤解?」
小さく首を傾げた花京院に、承太郎はそうだと言って頷いた。
「てめーもよく知っているだろうが、確かに高校時代のおれは、不良のレッテルを貼られていた」
「うん、知っているよ」
「偉そうな教師には焼きを入れて……殺してねえぞ。辞職に追い込んだり、喧嘩相手は殺さない程度にぶちのめしていた」
「殺してなかったんだ……」
ついポロリと口から出た反応に、承太郎が咳払いをする。
「……だがな、女を取っかえ引っかえして遊んでいた覚えはねえぜ。付き合うのも、おまえが初めてだ」
「え?」
「だからこれだけは言っておかなくちゃあならねえと思った。花京院、おれは――童貞だ」
「…………ナンデスッテ?」
承太郎が放った『童貞だ』という一言が、脳内でエコーがかかったように、幾度も響き渡った。それでも我が耳を疑った花京院は、咄嗟に小指を耳の穴に突っこんで首を傾けながら、思いっきりほじってみる。
「すまない承太郎……どうも耳が遠くなったのか、よく聞き取れなかったようだ。もう一回いいかな」
「おれは童貞だ。混じりっけなし、純度百パーセントの」
「…………な、な、なんだって――ッ!?」
思わず叫んでいた。バカな。あの空条承太郎が、商業BLも震えあがって逃げ出しそうなほどの、高スペックスーパー攻め様を体現したようなこの男が。
「ど、童貞!? 童貞だってッ!?」
「おう」
「う、嘘だろ承太郎……」
恥じる素振りもなく「本当だぜ」と胸を張る承太郎に、花京院はあらゆる意味で衝撃を受けていた。
あれだけ女性を纏わりつかせておいて、よりどりみどりだったはずの彼が、大学に入学してもなお、その宝刀を鞘から抜かずに守り通していたなんて。俄かには信じられない。
てっきりとっくの昔に卒業しているものとばかり思っていたし、群がる女子は一通り食い散らかしているものと、確信すらしていた。
「な、なんで言ってくれなかったんだよッ!!」
「聞かれなかったからだぜ」
「またそのパターン!!」
花京院は頭を抱え、自分の太腿へ突っ伏すように、身体を折り曲げた。
「ぼくはてっきり、君は憎き悪の非童貞だとばかり……ッ」
「前から思っていたが、おまえのその非童貞に対する憎しみには並々ならぬものを感じるぜ」
どこか呆れた様子の承太郎と再び向き合い、花京院はその両手を取って、しっかりと握った。
「見直したよ承太郎! やはりぼくらは同志だッ!!」
「そこは恋人って言ってくれねえか」
「こ、こいびと、であり……同志だッ!」
「やれやれだ」
苦笑する承太郎を尻目に、花京院はこの日、何度目かになる感激に胸を打たれた。
承太郎も童貞。自分と同じ童貞。しかも承太郎の方が年上だから、ひとつ先輩の童貞というわけだ。じん、と胸に染み渡る響きに打ち震えていると、その両肩を承太郎によって掴まれる。
「そういうわけだからよ」
「は、はい」
「優しくできねえ、か も」
間接照明の頼りない灯りに照らされて、承太郎の瞳が揺らめいている。ただ身を委ねればいいと思っていた花京院は、改めて自分たちが初めて同士であることを実感した。彼とのキスを、いつもどこかぎこちなく感じていたのは、自分が不慣れなせいだとばかり思っていたのだけれど。
承太郎も同じだったのだと知って、不安になるどころか、なぜか不思議と安心してしまった。
「言っただろ。ぼくは君になら、なにをされたって構わないと。男に二言はない」
両肩を包んでいる承太郎の手の甲に、それぞれ手をかぶせて優しく握りしめる。
「好きだよ承太郎。君の全部を、ぼくにください」
ぐっと息を飲んだ後、承太郎はゆっくりと表情を和らげた。
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見える景色は全て灰色にしか映らないし、考えないようにしていても、溜息ばかりが口から漏れる。今は勉強に打ち込まなければならない時期だし、なんの変哲もない日常が戻ってきただけだと分かってはいても、以前のようにアイドルに胸をときめかせるだけの情熱すら、失せていた。
今はただロボットのように、寝て起きて学校へ行って、ひたすら勉強するだけの日々が花京院の全てだった。
しかしそんなある日、金曜日の放課後のこと。のろのろとした足取りで校舎から出た花京院は、校門の辺りに人だかりができていることに気がついた。
「やばーい超カッコいい! もしかして芸能人!?」
「誰か待ってるのかしら! やっぱ彼女とか!?」
「ね、ねえ、ちょっと声かけてみない?」
よく見れば、その人だかりはほぼ女子の群れだけで出来上がっているのが分かった。ワーキャーという黄色い歓声を上げる彼女たちを、ドン引きした男子生徒が綺麗に避けて通っていく。
どこかで見たような光景だなぁ、くらいにしか思えなかったのは、そのときの自分が完全に腑抜けていた証拠であるということを、花京院はすぐに思い知ることになる。深く考えることなく、自分も同じく流れに沿って校門を出ようとした。
そのとき――。
「やかましいッ! おれは女が騒ぐとムカつくんだッ!!」
ご本家さんの台詞が聞こえた……。
「ッ!?」
聞き覚えがありすぎる声に、花京院はビクンと肩を跳ねさせて、咄嗟にその方向を見た。そうだ。これだけ女性を騒がせる人間なんて、芸能人か『あの男』くらいしか、考えられないではないか。
怒鳴られた女子たちが、なおもハートマークを飛ばしながら、キャイキャイと騒いでいる中心で、忌々しげに舌打ちをしている人物。帽子もコートもボトムも、全て白で統一した彼は、立ち止まって硬直している花京院を見つけると、表情をさらに険しくしながら目を細めた。
(じょ、承太郎ッ!? なぜここに!?)
「花京院」
承太郎が真っ直ぐにこちらを見据えると、彼を取り囲んでいた女子生徒全員も、一気にこちらに注目した。
ひ、と声なき悲鳴をあげて肩を竦めた花京院に、承太郎がヌシヌシと近づいてくる。何やら背中にドス黒い炎のようなものを纏っている気がするのは、目の錯覚だろうか。彼は明らかに怒っている。
(や、殺られる……)
とっとと逃げなければ、とんでもなく不味いことになる予感しかしない。が、金縛りにあったように身体が動かず、僅かに腰が引けただけで終わってしまった。あっという間に距離を縮めた承太郎が、花京院の手首をむんずと掴む。
「じょ、じょう、た、ろ?」
「デートするぜ」
「へ」
「来な」
「えええええッ!?」
驚きに絶叫したのは花京院ではなく、周りの女子たちだった。
引きずられるように歩く花京院は頭の中が真っ白で、声を出すどころの騒ぎではない。
どういうわけか女子の絶叫は、そのまま濃ゆいピンク色のどよめきに変わっていた。心なしか、さっきよりもずっと熱量が増して聞こえるのは気のせいだろうか。やはりホモが嫌いな女子はいないのか。
いや、いずれにしろいま確実に言えること、それは。
(もう二度と……学校に来られない……)
ということだけだった。
***
承太郎に連れられてやってきたのは、駅近くのファミレスだった。
一体どこの倉庫にでも連れて行かれるのかと怯えていた花京院は、彼の意図が分からず静かに混乱する。
店の片隅の席で向かい合う形で腰かけると、承太郎は店員に自分の分のコーヒーと、勝手にメロンクリームソーダを注文した。いつもファミレスへ行くとお互いが必ず頼むメニューだった。
注文品が運ばれてくるまで、承太郎は何も言わなかった。運ばれてきてからは、コーヒーをゆったりとした動作で飲んで見せるだけで、やはり口を開こうとしない。
花京院はチェリーの乗ったクリームソーダに手を伸ばすこともできず、ただこの謎の状況に思考を巡らせるだけで、精一杯だった。
(これは一体どういう状況なんだろう? なぜ何も言わないんだ? いや、そもそもどうして承太郎は、ぼくをここへ連れて来たんだ……?)
自分たちはすでに終わっているはずだし、そんな相手を強引に連れ出してすることといえば、何があるだろうか。
(ファミレス、ファミレス……あ)
なるほど、そういうことかと、花京院はひとつの答えに行きついた。
花京院は勝手に承太郎とは別れたものと決めつけていたが、実際は逃げるように関係を断ち切っただけで、まともに別れを告げたわけではないのだ。そういえば、合鍵もまだ持ったままだったことを思いだす。
そしてカップルが別れ話をする際、もっとも好ましいとされる場所はファミレスや喫茶店など、人が多くいる場所である。
人目につかない場所だと、感情的になった際に何かしら事件が起こらないとも限らないからだ。
だからおそらく、承太郎は穏便に話を済ませるために、ここへ自分を連れて来たに違いない。
花京院は緊張に強張る身体で深く深呼吸をし、ずっとポケットに入れたままにしていた合鍵を取り出すと、テーブルの上に置いた。
コーヒーカップを皿に戻した承太郎が、花京院の意図を探るように、じっと目を向けてくる。
「これ……お返しします。今まで、ありがとう」
承太郎が真っ先に作って渡してくれた鍵。わざわざチェリーのキーホルダーまでつけて、この厳つい男が、一体どんな店で、どんな顔をして、こんな可愛らしいものを購入したのだろう。
少なくとも、その頃はまだ自分を思ってくれていたのだろうか。それとも、あの彼女にも渡すついで、だったのだろうか。
いずれにしろ花京院は承太郎との思い出と一緒に、全てを彼に返す以外、道はないのだ。
承太郎は深い溜息をつき、呆れたような表情すら浮かべて「やれやれ」と言った。
「どういうつもりだ?」
「ど、どういうつもりって……別れ話をしているのですが」
「なぜ」
「な、なぜ?」
噛み合わない会話に、花京院は首を傾げる。こういう反応をされると、まるでこちらが見当違いな発言をしたかのような気持ちになってしまう。
「花京院、おれはデートをしようと言って、てめーをここに連れて来たんだぜ。どうして別れ話なんぞを切り出されなくちゃあならねえ?」
「い、いや、それは、だって……」
「言っておくが、別れるつもりはないぜ」
「……はい?」
なにがなんだか、さっぱり分からない。混乱する花京院に、承太郎はぐっと眉間に皺を寄せたまま、さらに続けた。
「そんなことより、おれに言うことがあるんじゃあねえか?」
言うべきことなら、すでに言ったつもりなのだが。承太郎が、また溜息をついた。
「電話もでねえ。メールも返して寄越さねえ。あれきり部屋にも来やがらねえ。こいつぁ一体、どういう了見だ?」
「だからそれは、君が……」
――もうぼくを、好きじゃないから。
(……あれ?)
ならどうして承太郎は、こうも平然と別れないなどとのたまっているのだろうか。心に決めた女性がいて、両親への挨拶まで済ませているはずの男が、すでに過去になってしまった相手に執着する理由とは、一体なんだろう。
「言い訳よりも先に、まずは心配かけてごめんなさい、じゃあねえのか」
「あ、はい……ごめんなさ……は?」
(ちょっと待て、なんでぼくが謝るんだ!?)
つい勢いで謝りかけたが、ギリギリのところで踏みとどまる。
確かに最初にキッチリ話をつけなかったことに関しては、自分にだって少なからず非はある。それは認めよう。しかし、なぜこちらが一方的に謝る必要があるのだろうか。むしろ言い訳をしなくてはならないのは、承太郎の方ではないのか。
なにがなんだか訳が分からないまま、だんだん腹が立ってくる。
ダンッ、と大きな音を立てて、テーブルに両手を叩きつけながら立ちあがった。コーヒーとクリームソーダが、衝撃に大きく波打つ。
「いい加減にしろよ承太郎ッ! そもそもの原因は、君が浮気をしていたからじゃあないかッ!!」
花京院の叫びが、ファミレス内部に響き渡った。
学校帰りの学生たち、外周り中のサラリーマン、接客に追われていた店員。諸々が動きを止め、丸い目を花京院に集中させる。その静まり返った微妙な空気に気がつき、花京院は耳まで真っ赤にして、息を飲んだ。しおしおと椅子に座り直すと、身を縮こまらせ「すみません」と蚊の鳴くような声で言った。
すると腕を組んで踏ん反り返った承太郎が、なぜか大声を張り上げる。
「おいこら花京院! 浮気ってのはどういう意味だッ!!」
「バカか! 君はバカかッ! なんでここで君まで叫び出すんだっていうか、わざとだろそれッ!!」
「も、申し訳ございません、他のお客様にご迷惑が」
「「やかましいッ!!」」
明らかに怯えた様子で注意をしにやってきた店員を、声を揃えて怒鳴りつけた、そのとき。
「ごめーん待った?」
店員の肩をぐいと押しのけ、一人の女が姿を現した。
「ッ!?」
「でっかい野郎がふたりしてなに騒いでんのよ。あ、あたし紅茶でいいわ。アイスでお願い」
「き、君は、あのときの……!?」
華奢な長身にお団子頭。さばさばとした物言いの彼女は、蜘蛛の糸を思わせる模様に、大きく腹部が開いた臍出しファッションで、承太郎の隣に腰かける。そして、かしこまりましたと言って足早に去っていく店員に、ヒラヒラと手を振った。
「徐倫」
承太郎が、そんな彼女を横目でじろりと睨み付ける。
徐倫。それが彼女の名前なのか。
「怖い顔して睨まないでよ。あたしだって暇じゃあないのよ。なんたって花の女子ダイセーよ。放課後のお喋りタイムだって、立派なお勤めのひとつだわ」
何がお喋りタイムだと言わんばかりに、承太郎が舌打ちをする。二人を交互に見やりながら、花京院はただ唖然とするばかりだった。
なぜ、どうして彼女がここに。ますます承太郎の考えていることが分からなくなってしまったところで、テーブルに頬杖をついた徐倫が、硬直するばかりの花京院を見て微笑んだ。
「ハーイ、こないだ会った以来ね」
「あの、あなたは……?」
「徐倫よ、ノリアキ。あなたのことは、横にいるやつから聞いたわ。色々とね」
「そ、そうですか……」
一体なんと吹き込まれているのだろう。まさか元恋人だなんて言えるはずがないだろうし、やはりただの友達ということになっているのだろうか。気にはなったが、聞く勇気も当然なくて口を噤んだ。花京院はまだ、この状況が飲み込めないままでいるのだ。思わず承太郎に視線をやると、彼はおもむろに帽子を取り、テーブルの脇に置く。
そして言った。
「空条徐倫。おれの双子の妹だ」
「…………え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。ただ、頬杖をやめて背を伸ばした徐倫と、腕組みしたままの承太郎の顔を、瞬きもせずに凝視する。
片方は無表情で、くっきりと凛々しい眉をした精悍な美男子。
もう片方は眉も細く整えて、女性らしくメイクを施した顔に、華やかな笑みを浮かべる美女。パッと見は別人に見えるけれど、意思が強そうな瞳の色も、肉厚でセクシーな唇も、よく見ればぴったりと重なった。
「ふ、双子……妹って、そんなこと聞いてないぞ!?」
「言ってねえからな」
「そんな……ッ」
そこから先の言葉が続かない。思いもよらない事実に直面して、花京院はずっと強張っていた身体から、力が抜けていくのを感じた。くったりと椅子の背凭れに背を預ける。
「君たちは、恋人同士じゃあ、なかったのか……」
「ちょっとやめてよ。冗談キツいわ、それ」
店員が運んできたアイスティーに、シロップを入れて掻き混ぜながら、承太郎より先に徐倫がすかさず反応する。
「あたしはしょっちゅう兄貴んとこに泊まってるだけ。だって聞いてよ、ママったら兄貴が出てって寂しいからって、あたしにべったりなのよ? うっとおしいったらありゃしないわ!」
「はあ……」
テーブルに身を乗り出して愚痴る徐倫に、花京院は若干引き気味で曖昧な返事をする。
徐倫は日本でいうところの高校時代を、祖父のいるニューヨークで過ごしていたのだと続けた。日本の大学に進学するために帰国を果たすと、入れ違いで承太郎が一人暮らしを始めてしまった。だから母親の愛情過多から逃れるために、定期的に兄の部屋に入り浸って、ガス抜きをしているのだと。
それを聞いた花京院はふと、承太郎と徐倫の両方からしていた、あの花の香りのことを思いだした。
「あの、ひょっとして……承太郎の部屋にあるシャンプーって、徐倫さんの?」
「ええそうよ? あたしが持ち込んだの。メンズ用なんて、香りからして野暮ったくて使えたもんじゃあないわよ」
「彼シャツの件に関しては……?」
「彼シャツ? なにそれ。もしかして、最初に会ったときの格好? あれはその辺にあったのを適当に借りただけよ。楽なのよね、風邪通しもよくて」
「花束を持ってご挨拶というのは……?」
「それってこないだの、ママの誕生日のこと?」
「た、誕生日……?」
微かに眩暈を感じて、テーブルに突っ伏してしまった花京院を見て、徐倫がきょとんとした顔をする。
(全部ぼくの……勘違いだったってことか……)
この数日というもの、傷心を引きずったまま廃人のように過ごしていた自分は、一体なんだったのだろう。全てがとんだ空回りもいいところではないか。
ふたりから同じ香りがしていたのは、徐倫が持ち込んだシャンプーを、承太郎も使っていたからだったのだ。そしてガラス越しに見た彼が持っていた花束は、ふたりの母ホリィへの、誕生日プレゼントだった。
(ああ、ぼくは本当にバカだ。大バカ野郎だッ!)
なんだ、そうだったのかと納得できるだけの理由が、ここにちゃんと存在していたではないか。
「そういうわけだから、あなたが言うような事実はないの。どう? これで安心した?」
「はい、とても――ん?」
最後の最後で引っ掛かりを覚えた花京院は、咄嗟に承太郎を見た。黙って話を聞いているだけだった彼は、テーブルに置いていた帽子をかぶり直すと、「やれやれだぜ」と言って、赤い頬を鍔で隠している。照れとる場合かーッと叫んでやりたい気分だったが、花京院もまた恥ずかしさのあまり、両手で顔を隠して小刻みに震えてしまった。
なんということだ。いくら双子とはいえ、オープンすぎやしないか。兄の恋人が男だと知っても、動じない徐倫にも驚くが。
恥ずかしい反応を見せる二人組を目の前に、彼女は鼻で笑って「やれやれだわ」と吐き捨てた。
「ところで徐倫。約束だぜ」
花京院が少し落ち着こうとして、もはやドロドロの状態になっているクリームソーダに口をつけると、すでに冷めたコーヒーを飲みほしていた承太郎が、おもむろに切り出した。
約束? と小首を傾げた花京院に、徐倫がニンマリとした笑みを浮かべる。
「あたし、今あっちにいる彼氏と遠距離してんの。兄貴ったらどんなヤツかってうるさいのよ。だから交換条件ってことにしたわけ。そんなに言うなら、あんたの可愛いベイビーも紹介しろってね」
「な、なるほど」
なんだか複雑な気がしないでもないが、納得はできた。が、ベイビーという呼称がやたらと恥ずかしくて、ますます赤面する。
「最初はいないなんて言って隠すつもりだったみたいだけど、舐めないでほしいわ。こいつの嘘を見抜くのだけは、昔から得意なの」
そこはやはり双子だから、だろうか。徐倫はテーブルに前腕をつくと、楽しそうに身を乗り出してくる。なんとなく、花京院もそれに合わせて身体を前に傾けた。
「そりゃあ見ものだったわよ。ノリアキのことを話す兄貴ったらさ、ニヤニヤするのを必死で堪えちゃって。ほんとムッツリよね。あなたをいずれ嫁にするとまで言ったのよ」
「よ、嫁ぇ!?」
内緒話をするようなトーンで告げられた徐倫の言葉に、花京院は思わず声を引っくり返して驚いた。
そういうことは、結婚してから。メイド服を着て迫ったあの日、承太郎はそう言った。
(ぼくと、って……意味だったのか)
「徐倫」
咳払いをした承太郎に横目で睨まれると、徐倫は悪戯が見つかった子供のようにヒョイと肩を竦めて、クスリと笑った。
「はいはい、わかったわよ。ま、とりあえず写真だけど」
徐倫はポケットから一枚の写真を無造作に取り出し、テーブルに置いた。自分も見ていいものなのか分からなかったが、なんとなく承太郎が身を乗り出すのに釣られて、覗き込んでみる。
そこには、男性とも女性ともつかない、中性的な人物が写りこんでいた。承太郎は写真を手に取ると、顔を顰めて言った。
「……女か?」
「男よ、お、と、こ!」
「やめとけ。こんな香水臭そうなオカマとの交際は認めん」
「はあ? てめー今なんつった? オカマじゃねーからッ!!」
「いいからやめろ。気に入らねえ」
「このクソ兄貴ッ!! てめーは一体何様だ!?」
「ちょ、ちょっとふたりとも、落ち着いてください!」
徐倫が怒鳴ったことによって、再び注目の的になってしまっていることに気づいた花京院が、慌ててどうどうと彼らを宥めた。しかしその瞬間。
「「やかましいッ!!」」
凄い形相の双子から、思い切り怒号を浴びせられてしまった。
(な、なんなんだよこの兄妹はッ!! 怖すぎだろッ!!)
最初はよく見れば似ている、という程度の印象だったが、彼らはやはり双子なのだと思った。キレた表情が実にそっくりで、相手がこのふたりだからいいものの、これが赤の他人だったら、今ごろ尻尾を巻いて逃げ出していたかもしれない。
けれど意外にも、承太郎にシスコンの気があることを知って、同時に微笑ましい気持ちにもなる。
目の前では相変わらずオカマがどうの、クソ兄貴がどうのと荒々しい口論が続いているが、こうして少し引いた位置から眺めていると、彼らは本当に仲のいい、お似合いの兄妹だと感じた。
今だって、見ようによってはカップル同士のケンカに見えなくもない。少々過激ではあるけれど。
(それでも承太郎は、浮気なんかしてなかった)
思えば自分は、乱暴な口調で言い合いをする二人よりも、ずっと酷いことを承太郎に言ってしまったのだ。信じているなんて表面だけで、本当は全く信じてなどいなかった。確かめもせずにただ疑って、勝手に腹を立てて、正拳突きまでかまして、逃げ出した。
(そんなぼくを、承太郎は恋人だって、思ってくれているんだ)
そう思うと嬉しくて、情けなくて、花京院は無意識のうちに、ポロポロと涙を零していた。
「か、花京院」
「ノリアキ!? ちょ、なんで泣いてんの!?」
途端に口論をやめてこちらを見たふたりに、花京院はきょとんとした顔をする。そして、自分の視界が酷くぼやけていることや、涙が頬を伝っていることに気がつく。意地になったように我慢していたはずなのに、あっさりと崩壊してしまった涙腺に、ひどく戸惑う。
「あ、あれ、なんでぼく……す、すみません」
「ああもう! 兄貴がやかましいなんて怒鳴るからッ!!」
自分のことを棚にあげ、徐倫が慌ててポケットを探る。
ハンカチを探しているらしいが、出てくるのは飴玉や紙屑、あとなぜか毛抜きなど、しょうもないものばかりだった。
やれやれと溜息をついた承太郎が、コートのポケットから白いハンカチを取り出し、花京院に差し出した。女子力に関しては、兄の方が上手のようだ。
それを受け取りながら、花京院は悔しそうな徐倫の表情を見て、困り眉で笑った。
「すみません……安心したら、なんだか気が抜けてしまって。ありがとう、承太郎」
濡れた目元を、承太郎の匂いがするハンカチで拭っていると、どうしてかもっと涙が溢れて、止まらなかった。ずっと迷子だった気持ちが、ようやく帰る場所を得たような、そんな安堵に胸が痛いほど締め付けられる。
しきりにハンカチで涙を拭いながら「恥ずかしいなあ」なんて零していると、それをぼうっとした表情で見つめていた徐倫が「ねえ兄貴」と呟いた。
「この子、可愛すぎない?」
「……せやろ」
なぜ関西弁……と、ツッコミを入れたくても、涙を拭くのに忙しくて、それどころじゃない花京院。頼みの綱だった徐倫すら、どこか上の空だった。
「あたしに譲る気ない?」
とんだ爆弾発言をかました徐倫に、承太郎の片眉がぴくりと動く。そしておもむろに花京院の前髪に手を伸ばし、くしゃくしゃと乱しながら、
「ぶちのめすぞ」
と、実の妹に向かって物騒なことを言い放った。
***
花京院が承太郎と共に彼のマンションについた頃、空はとっぷりと日が暮れていた。
(なんだか、すごく久しぶりな気がするな)
最後にここを訪れてから、そう大した日数が経過しているわけではないのだが、もう二度と来ることはないだろうと思っていた場所だけに、不思議な気分だ。
「花京院」
これといって変化があるわけでもない室内を、なんとなく見渡したりして所在無げにしていると、名前を呼ばれた。見ればソファに座った承太郎が、手の平ですぐ横を幾度か叩いている。
花京院はこくんと頷くと、少し遠慮がちにスペースを開けて、承太郎の隣に浅く腰かけた。
こうして改めて二人きりになると、何から話せばいいのか分からなくて、どうも落ち着かない。膝の上で両手を握りしめながら、なかなか承太郎の方を見ることができないでいた。
するとふいに、なにか温かなものが頬に触れるのを感じた。驚いて肩を震わせ、咄嗟に承太郎の方を見る。緩く曲げられた人差し指が、花京院の目元をするりと撫でた。
「目、まだ少し赤いぜ」
「みっともないところを見せてしまって……すみません」
顔を赤くして俯く花京院に、承太郎は緩く首を振ってみせた。
「泣かせちまったのはおれのほうだぜ」
「そ、そんなこと……ないよ」
勝手に勘違いをして突っ走ったのはこちらの方なのだから、承太郎にはなにひとつ非はない。そして花京院は、まだ彼にまともに謝ってすらいないのだ。
花京院はやたらと乾いている下唇を噛んで湿らせると、承太郎へと身体を向けて、ぎゅうと目を閉じながら頭を下げた。
「承太郎、ごめん!」
突然の謝罪に驚いた承太郎が、目を瞬かせる。
「ちゃんと確かめもしないで、ぼくは君を疑った。一人で勝手に拗ねて、君に酷いことを言って、あげく心配までかけて……すまなかった」
力なく首を前に垂れたまま、花京院は顔をあげることができなかった。承太郎がどんな表情でいるのか、それを確かめるのが、この期に及んで怖かったのだ。そしてそれを誤魔化すかのように、花京院の口からは言葉が溢れた。
「あの日、ぼくがメイド服を着て迫ったことも、どうか忘れてほしい。ぼくは今まで恋人がいたこともないし、童貞だし、勝手が分からなくて……キスはしても、それ以上の進展がないことに……焦っていたんだ」
膝の上で握りしめた拳の中で、掌に爪が食い込む。
「君が好きだと言った典香の姿でなら、少しはその気になってもらえるかもしれないと思った。だけど結果はあのザマで……本当に、悪かった」
承太郎はただ黙って、花京院の言葉に耳を傾けていた。沈黙が痛い。ますます顔を上げるタイミングが分からなくなって、ただただ項垂れる。けれどそんな花京院の頭に、承太郎は大きな手を乗せ「よせ」と言いながら、ポンポンと軽く叩いた。
「おれの方こそ悪かった。徐倫のことは、あらかじめおまえに話しておくべきだったし、それに――」
躊躇いがちに顔をあげると、承太郎は真剣な面持ちで花京院に視線を縫い付け、そして言った。
「おれは嬉しかったぜ。おまえの方から……その、なんだ」
言いにくそうに言葉を切る承太郎の頬に、仄かな赤がのぼっている。見ているこちらまで、なんだか恥ずかしいような気持ちになってきて、花京院も思わず頬を染めた。
「してえ、ってよ、誘ってきたの」
「ッ! ほ、本当に……?」
意外だった。承太郎には完全に引かれたとばかり思っていたし、はしたない奴だと思われても、当然の真似をしてしまったというのに。
思わず身を乗り出した花京院に、おう、と返事をした承太郎の瞳は、照れ臭そうではあったけれど、真剣そのものだった。
「おれにとって、典香は単なるキッカケだ」
「承太郎……?」
「てめーは未だに、おれが典香だけを追いかけてるみてーな言い方をしたが、そりゃあ大きな勘違いだ。マジだって言ったはずだぜ。おれは、バカみてーにおまえに惚れてるってよ」
まだふたりとも学生服だったあの日。黄昏の公園で、承太郎に強く抱きしめられた感覚が、今でも鮮明にこの身体に残っていた。なによりも大切な記憶。
あのときから今まで、承太郎はなにも変わってなどいなかった。大学生になっても、白い服に身を包んでも。ずっと、自分だけを思ってくれていたのだ。
「ッ……!」
安心するとつい、気持ちと一緒に涙腺も緩んでしまうようだった。またじわりと涙が浮かんできて、花京院は慌てて指先で目元を拭うと、なんとか笑顔を作って見せた。それを見て、どうしてか承太郎がぐっと喉を詰まらせ頬を赤らめる。
「ありがとう承太郎。すごく、嬉しいです」
「そうか」
そのまま、ふたりは何も言わずに見つめ合った。花京院は承太郎の瞳に、承太郎は花京院の瞳に。吸い寄せられるように、互いの距離がゆっくりと近づいていく。息遣いすら感じる距離であの花の香りがしても、もう不安はなかった。
瞳を閉じて、今にも唇が触れ合うというところで。
――また、アラームが鳴った。
「ッ!」
至近距離で、ふたりは同時に目を見開いた。けたたましく鳴るのは承太郎の携帯電話だ。舌打ちをして、ポケットから携帯を取り出した承太郎は、乱暴な手つきでアラームを切った。
花京院は肩を竦め、息をつくとソファから立ちあがる。
「高校生は帰る時間のようですね」
以前は不満でしかなかったアラームだが、今の花京院は受け入れることができる。承太郎は花京院を子供扱いしていたわけではないのだ。なにせ彼は、自分を本気で娶るつもりでいるのだそうだから。さしずめ今は、花京院が結婚できる年齢になるまで待っている、といったところか。
男同士で結婚もなにも、とは思いつつ、元はとんだ不良だったくせに、驚くほど生真面目な彼につい苦笑が漏れる。
「でも、もう少し一緒にいたいので、駅まで送ってもらえると嬉しいです」
我儘だろうか、なんてチラリと思いながら承太郎を見ると、彼は片手で赤くなっている目元を押さえ、溜息をついた。そして、立っている花京院に腕を伸ばして手首を掴むと、少し乱暴な動作で、引き寄せる。
「うわッ!?」
咄嗟の出来事に声を上げながら、花京院はソファに雪崩れ込むような勢いで、承太郎の腕の中におさまった。
「じょ、承太郎?」
「帰したくねえって言ったら……困るか?」
「ッ、え?」
強く抱き込まれているせいで顔をあげられず、承太郎の表情を見ることができない。ただ、その胸に手をついている花京院には、彼の心臓が大きく高鳴っているのが、よくわかった。
「本当は、いつも思ってた」
「もしかして、毎回アラームをかけていたのは」
「……時間を忘れちまう。おまえといると、離したくなくなる」
「承太郎……」
これ以上嬉しくさせて、一体どうするつもりだろう。今日だけで、一生分の幸せをもらったような気さえしていたのに。けれど、花京院には拒む理由が何ひとつなかった。
胸についていた手を、少しだけ押して小さく距離を開ける。
鼻先が触れ合う距離で承太郎の瞳を見つめ、花京院は言った。
「ぼくも……今日は帰りたくない、です」
ようやく。満を持して、時間の制約を取り払ったふたりの唇が、重なり合った。
***
それからふたりは、何度も何度も啄むようなキスをした。そのひとつひとつがぎこちなく、不器用で、繰り返される度にじれったさが募る。
どうしたらいいか分からないくせに、このままどうにでもしてほしいとも思った。多分、それは承太郎も同じだったのだと思う。花京院を引き止めた時点で、忍耐強いはずの彼の精神も、いよいよ揺らいでしまったようだった。
(うーん、なんか……思ってたのと違う)
風呂場の脱衣所で、鏡の前に立ちはだかって首を傾げた。
そこには学ランではなく、サイズの合わない、大きな黒いジャージを着た自分が写りこんでいる。
それは承太郎のもので、肩の位置もズレているし、袖も裾も余ってしまうほど大きい。自分もそれなりにタッパはある方だと思うのだが、改めてその体格差を思い知らされる。
ジャージの前を首まできっちり上げて、襟に顎を埋めている様は、制服姿よりもずっと野暮ったく見えた。
(これじゃあ彼シャツじゃなく、彼ジャージだ……)
花京院の中で、コレジャナイ感が膨らんでいく。とはいえ承太郎が用意してくれた着替えは他にないし、まさか全裸で飛び出して行くなんて真似も、できるはずがない。
(まあ、いっか)
あれからふたりはいったん身を引き、シャワーを浴びようという話になった。ムード的にはあのまま突っ走りたい気分ではあったのだが、いざ初めてというときに、自分が汗臭い状態というのは、どうしても耐えられなかったのだ。
しかし、いざとなると間を置いてしまったことを後悔もしている。家に連絡を入れ、シャワーを浴びて、借りたジャージに袖を通してはみたものの、なんとなく脱衣所から出にくくて、つい時間をかけてドライヤーで髪を乾かしてしまった。
今、花京院の髪からはあの花の香りがしている。いつもより髪質もふわふわで、なんだか妙な気分だ。けれど何より。
(全裸にジャージって……とてつもなく心許ないぞ……)
特に下半身が。いちど身に着けた下着を穿くことに抵抗がある以前に、セックスをするのだという実感が、妙なところでリアリティを発揮しているような気がした。今にもジャージを突き破って心臓が飛び出してきそうなほど、ばくばくと胸が高鳴っている。
(……こうしてたってしょうがない)
承太郎は花京院に経験がないことを知っているわけだし、自分は経験者である彼に、安心して身を委ねればいいのだ。
童貞を捨てる予定が一切ないまま、まさか処女を散らすことになるとは。チラリと過ったのは両親の顔だった。父さん母さんすみません……と、心の中で一応は謝罪して、花京院は意を決すると、脱衣所を飛び出した。
***
花京院が緊張に強張りながら寝室へ足を踏み入れると、先にシャワーを済ませていた承太郎が、黒いTシャツにスウェットパンツ姿で、ベッドの中央に正座していた。
「お、お待たせしました」
ベッドサイドに設置されたチェストの上で、間接照明が煌々と光を放っている。彫の深い顔に陰影を刻みながら、顔を上げた承太郎が自分の正面をポンポンと叩いた。さっきも同じ仕草を見たな、なんて思いながら、花京院は躊躇いがちにベッドへ乗り上げ、向かい合うように同じく正座をした。
承太郎が、神妙な面持ちで息をつく。そして、花京院を真っ直ぐに見つめながら口を開いた。
「もうひとつ、解いておきてえ誤解がある」
「誤解?」
小さく首を傾げた花京院に、承太郎はそうだと言って頷いた。
「てめーもよく知っているだろうが、確かに高校時代のおれは、不良のレッテルを貼られていた」
「うん、知っているよ」
「偉そうな教師には焼きを入れて……殺してねえぞ。辞職に追い込んだり、喧嘩相手は殺さない程度にぶちのめしていた」
「殺してなかったんだ……」
ついポロリと口から出た反応に、承太郎が咳払いをする。
「……だがな、女を取っかえ引っかえして遊んでいた覚えはねえぜ。付き合うのも、おまえが初めてだ」
「え?」
「だからこれだけは言っておかなくちゃあならねえと思った。花京院、おれは――童貞だ」
「…………ナンデスッテ?」
承太郎が放った『童貞だ』という一言が、脳内でエコーがかかったように、幾度も響き渡った。それでも我が耳を疑った花京院は、咄嗟に小指を耳の穴に突っこんで首を傾けながら、思いっきりほじってみる。
「すまない承太郎……どうも耳が遠くなったのか、よく聞き取れなかったようだ。もう一回いいかな」
「おれは童貞だ。混じりっけなし、純度百パーセントの」
「…………な、な、なんだって――ッ!?」
思わず叫んでいた。バカな。あの空条承太郎が、商業BLも震えあがって逃げ出しそうなほどの、高スペックスーパー攻め様を体現したようなこの男が。
「ど、童貞!? 童貞だってッ!?」
「おう」
「う、嘘だろ承太郎……」
恥じる素振りもなく「本当だぜ」と胸を張る承太郎に、花京院はあらゆる意味で衝撃を受けていた。
あれだけ女性を纏わりつかせておいて、よりどりみどりだったはずの彼が、大学に入学してもなお、その宝刀を鞘から抜かずに守り通していたなんて。俄かには信じられない。
てっきりとっくの昔に卒業しているものとばかり思っていたし、群がる女子は一通り食い散らかしているものと、確信すらしていた。
「な、なんで言ってくれなかったんだよッ!!」
「聞かれなかったからだぜ」
「またそのパターン!!」
花京院は頭を抱え、自分の太腿へ突っ伏すように、身体を折り曲げた。
「ぼくはてっきり、君は憎き悪の非童貞だとばかり……ッ」
「前から思っていたが、おまえのその非童貞に対する憎しみには並々ならぬものを感じるぜ」
どこか呆れた様子の承太郎と再び向き合い、花京院はその両手を取って、しっかりと握った。
「見直したよ承太郎! やはりぼくらは同志だッ!!」
「そこは恋人って言ってくれねえか」
「こ、こいびと、であり……同志だッ!」
「やれやれだ」
苦笑する承太郎を尻目に、花京院はこの日、何度目かになる感激に胸を打たれた。
承太郎も童貞。自分と同じ童貞。しかも承太郎の方が年上だから、ひとつ先輩の童貞というわけだ。じん、と胸に染み渡る響きに打ち震えていると、その両肩を承太郎によって掴まれる。
「そういうわけだからよ」
「は、はい」
「優しくできねえ、か も」
間接照明の頼りない灯りに照らされて、承太郎の瞳が揺らめいている。ただ身を委ねればいいと思っていた花京院は、改めて自分たちが初めて同士であることを実感した。彼とのキスを、いつもどこかぎこちなく感じていたのは、自分が不慣れなせいだとばかり思っていたのだけれど。
承太郎も同じだったのだと知って、不安になるどころか、なぜか不思議と安心してしまった。
「言っただろ。ぼくは君になら、なにをされたって構わないと。男に二言はない」
両肩を包んでいる承太郎の手の甲に、それぞれ手をかぶせて優しく握りしめる。
「好きだよ承太郎。君の全部を、ぼくにください」
ぐっと息を飲んだ後、承太郎はゆっくりと表情を和らげた。
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「承太郎の……バカ野郎……」
夜の公園でベンチに腰掛け、花京院はひとり泣きだしそうになるのを堪えていた。
これが失恋の痛みというやつか。今までも好きなアイドルの熱愛報道や、メイド喫茶のメイドさんが男連れで歩いているプライベートを目撃する度に、地の底まで落ち込むことはあったが、これはそんな比ではなかった。
花京院はツンと痛む鼻を大きくすすると、片手をポケットの中に捻じ込んだ。中にある鍵を取り出し、掌に乗せて眺める。
(返すのを、忘れてしまった……)
赤々としたチェリーのキーホルダーが、街灯の頼りない光を弾いて輝いていた。このキーホルダーも、承太郎がくれたものだった。好きだろと言って、照れ臭そうに。
初めて店を訪れたとき、チェリーが好きだと言った花京院の言葉を、彼はずっと覚えていてくれたのだ。そんなこと、言った本人ですら忘れていたのに。
また涙が込み上げそうになるのを堪えて、花京院は鍵をポケットにしまい込む。暗闇にぼんやりと浮かび上がる公園の遊具たちが、とても無機質で寂しく感じた。
そういえば、承太郎と思いを通じあわせたのも公園だった。彼が通っていた高校の近くにあった、ここよりも少し規模の小さな、寂れた公園。じわりと浮かぶ涙を、星のない空を見上げてどうにか抑え込む。
なんて女々しいのだろう。けれど生まれて初めての失恋に、花京院の心はズタボロだった。
承太郎が恋人らしいことをしようとしなかったのも、夜は時間通りにキッチリ帰そうとしていたのも、全ては彼女の存在があったからなのか。
(一番の大バカ野郎は、ぼくだ……)
すでに気持ちが冷めている相手に勢いだけで押しかけ、女装までして迫ってしまった。結局は拒まれて、失恋して、公園でひとり惨めに涙を堪えているなんて。まるでピエロではないか。
「やぁ~だ~も~、マジありえないからぁ~」
「なぁんだよぉ~、別にいいじゃん? なぁ~」
そのときである。傷心の花京院の耳に、何やら謎の男女がイチャつく声が聞こえてきた。
「ちょっとだけ、なぁ、マジ先っぽだけだし」
「ダメだってば~ここ公園なんだけど~?」
「そんなのマジどうでもいいって~」
声は、すぐ隣のベンチからしているようだった。チャラチャラした感じの男が、必死で頭の悪そうな女を口説いている。
「でもぉ、今日の下着あんまり可愛くないってゆうかぁ~」
「ぜ~んぜんいいし! マジそのまんまでいいし? マジ素材が生きてるって感じだし?」
「マジ必死なんだけど~マジウケるんだけど~」
一体この短時間のうち、何度マジと言えば気が済むのか。
「マジでぇ~、なぁマジマジ~」
「マジ~? 超マジなのぉ~?」
ついにはマジ語しか喋らなくなったところで、花京院は頭の中で血管が切れるような音を聞いた。人の初恋が玉砕したというときに、容赦なくイチャイチャしやがって……と、激しい憎しみに駆られた花京院は、次の瞬間。
「やかましいッ! ぼくはリア充が騒ぐとムカつくんだッ!!」
つい、誰かさんの台詞をアレンジしたような言い回しで、怒鳴りつけていた。
ふたりのリア充はビクンと肩を震わせて驚いていたが、男の方がすぐに花京院を指さして、声をあげた。
「あれ!? おまえ典明じゃん!」
「え?」
唐突に名前を呼ばれ、花京院はベンチで女と密着している男の顔をまじまじと見た。するとそこには。
「よ、ヨシオさん!?」
花京院がバイトをしていた男の娘喫茶『CHERRY BOYS』にいた先輩、ヨシ子ことヨシオの姿があった。
***
まさかマジ語を操っていたリア充の一人が、ヨシオだったとは。世間は狭いなと思いつつ、花京院はなぜかヨシオを挟む形で、彼らと同じベンチに三人で密着しながら腰かけていた。
「マジ久しぶりじゃん? 店辞めてからぜんぜん顔出さねーから、マジ死んだと思ってたっつーの」
「生きてますよ……一応は……」
瀕死だが。
「なになに、元気ないじゃん。彼女にでもフラれたん?」
「ウッ!!」
グサァッと胸に突き刺さる地雷を踏んでくるヨシオ。退屈そうに長い金髪の毛先をいじくりまわしていた彼女まで、チラリとこちらに目を向ける。痛い。リア充の視線が痛すぎる。
生まれてこのかた彼女なんていた試しはないし、破局相手は男性である。そして、ついさっき初めての恋が終わったばかりだ。幾重にも刺し貫く言葉の刃に、青褪めた表情で痛む胸を押さえた。
「うわマジかー。ごめん典明」
「いえ、大丈夫です……では、ぼくはこれで……」
HPが0に近い状態で、花京院は膝の上に重ねて置いていた、ふたつの鞄を抱えて立ちあがる。そのままおぼつかない足取りで立ち去ろうとしたとき、ヨシオが「ちょい待ち」と言って引き止めた。
「なんでしょう……」
「おまえさ、次の休み暇? 久しぶりに店来いよ。ちょっとは気分転換になっかもしんねーよ」
「気分転換、ですか」
「そ。メイド服持参で」
「お客さんとしてではなく、ということですか?」
なぜかドキリとして、花京院は腕に抱えているメイド服が入った鞄を、強く抱きしめる。
「そそ。一日くらいならいいっしょ? 店長も喜ぶぞ~」
「久しぶりに、か」
トートバッグを見下ろしながら、花京院はそれもいいかもしれない、と思った。このままでは最後に着たメイド服の思い出が、失恋の記憶で終わってしまうし、確かに気分転換でもしないことには、立ち直れそうにない。
承太郎と出会ったのもあの店だった。結局また思いだしてしまうかもしれないが、接客に追われれば、そんなことを考えている余裕も、きっとなくなるだろう。
「そうですよね。ありがとうございます、ヨシオさん」
花京院が少しだけホッとしたように笑顔を浮かべると、ヨシオもうんうんと頷きながら、ニカッと笑った。
***
日曜日。
花京院は典香として、『CHERRY BOYS』で接客に励んでいた。
店を辞めたのは春休みのことで、ごく最近のことではあるのだが、ずいぶん長く離れていたような気がする。店内は相変わらず込み合っていて、中には辞めたはずの典香を覚えていてくれる常連客もいたのが、嬉しかった。
(やっぱり楽しいな)
注文品をせっせとテーブルへ運びながら、花京院は改めて思った。オムライスやクリームソーダを頼まれると、ほんの少しだけチクリと胸が痛んだが、幼い頃から憧れていたメイド姿で堂々としていられるひと時は、胸に開いた大穴を優しく埋めてくれるような気がする。
たぶん、気休めでしかないのは分かっているけれど。それでもクオリティの高いメイド仲間たちは目に優しいし、こんな格好でもしない限り、普段は話すこともできない女性客と会話をするのも、楽しかった。
「典香ちゃん辞めたって聞いて、あたしたちすごく寂しかったのよ」
そんな中、ふたりの女性客がついているテーブルで、花京院がオムライスにケチャップでイラストを描いていると、それを嬉しそうに眺めていた客の一人が言った。
「本当ですか。ありがとうございます」
「ねえ、なんで辞めちゃったの? あ、もしかして彼女ができたから、そんな暇なくなったとか?」
「ッ、ゲホッ」
「やだぁ、典香ちゃんなんだから、彼女じゃなくて彼氏って言ってあげなくちゃダメでしょ」
もう一人がからかうように言ったその瞬間、逆さにしていたボトルから嫌な音がして、オムライスの上にケチャップが血飛沫のように降り注いだ。
「うわぁっ、す、すみませんッ! すぐ新しいものをお持ちしますので……ッ」
青褪めた花京院がすぐに皿に手をかけたが、ふたりは「いいよいいよ」と言って笑った。それよりも、花京院が分かりやすい反応を示したことの方に、彼女たちは喜んでいるようだった。
「ねえねえどんな子!? 可愛い系!? 綺麗系!?」
「あ、あの、いや、えーと」
「年上でしょ!? 絶対そう!」
(うわああああもうやめてくれーッ)
好奇心に目をギラギラとさせる彼女たちに、花京院は今にも卒倒しそうだった。このまま悪意なき精神攻撃を食らい続ければ、確実に立ち直れなくなる。失恋の傷を癒すために来たはずが、さらに悪化させては元も子もなかった。
「すみません、わたしはこれでッ」
花京院は慌ててふたりに頭を下げると、その場を逃げるように後にした。
(女性って本当、こういう話が好きだな……)
そんなことがあってから、花京院はふと嫌な事実に気がついてしまった。
和やかなムードの店内は、ほんの一握りのカップルを除いては、女性客だけで席が埋まっている。彼女たちはそのほとんどが、いわゆる『恋バナ』に花を咲かせているのだ。
恋人がどうのとか、バイト先のイケメンがどうのとか、友達が彼氏と別れたとか。今はその手の話をいっさい耳に入れたくない花京院としては、一歩進むごとにダメージを受ける毒沼を、延々と歩かされている気分だった。
気づけば気分転換ではなく、ただの精神修行と化している状況に、そろそろ悟りのひとつでも開く頃かという、そのとき。
「ねえちょっとアレ見て! あのカップル素敵じゃない!?」
一人の女性客が、いやによく通る声で店の外を指さしながら言った。それを合図に、客が一斉にガラス張りの向こう側に視線を向ける。つい釣られた花京院も、注文品のクリームソーダが乗ったトレイを持ったまま、店の外を見た。
そして、息を飲んだ。
「ッ!?」
そこには承太郎と、あのお団子頭の彼シャツ彼女がいた。
ふたりは店のすぐ前の通りを歩いている。赤やピンクの薔薇の花束を持った承太郎の腕に、彼女がしがみつくような形で腕を組んで、ガラス張りの向こう側を横切っていく。
「すごい美男美女……もしかしてモデルさんかしら?」
「いいなぁ~、彼氏の方、超イケメンじゃなかった?」
たかだか店の前を通りがかったというだけで、女性というのはよく見ているものだ。そんなことをぼんやりと思う一方で、花京院はどんどん気が遠くなっていくのを感じていた。急速に冷えて固まった心臓に、小さなひびが入って一気に砕けるような、そんな感覚。
ズクン、という鋭い痛みが走ったとき、花京院は手に持っていたトレイを、床に落としてしまった。
「ッ……!!」
「典香ちゃん!? なにしてんの!?」
不快な音を立てて割れるグラス。床に飛び散る緑色の液体とクリーム、透明な氷。そして、真っ赤なチェリー。
驚いた客が小さな悲鳴をあげ、どよめきが起こるなかヨシ子が駆け寄ってくる。
「典香ちゃんってば、大丈夫!? ちょ、顔が真っ青!!」
「あ、あの……ぼく」
突如として襲ってきた震えに、花京院は瞬きも忘れて床の惨状を見下ろした。
「ここは私がやっておくから、典香ちゃんは裏で休んでて」
「すみません……すみません、ヨシ子さん」
「いいから、ね」
花京院は後ずさり、どうにか頭だけ下げると、よろけながらも店の裏側に引っ込んだ。
***
夕方。帰宅した花京院は、完全に虚脱状態に陥っていた。
「あら典明、おかえりなさい」
夕飯の支度をしている途中だったのか、エプロンの裾で両手を拭きながら、母が廊下に顔を出す。花京院はただいまも言わず、のろのろと自室へ続く階段をのぼった。
「典明? お母さんメールを送ったのだけれど、もしかして見てない?」
背中にかかる母の声に、かろうじて「見てないよ」と返し、自室の扉を開ける。やだわ、お醤油を買って来てほしかったのに、という母の声は、部屋に閉じこもってしまった花京院の耳に届くことはなかった。
花京院はベッドに鞄を放り投げると、縁に腰を下ろした。
夕闇に青く染まる室内は、空気が重く淀んでいる。ぼんやりと見つめた先で、壁に貼り付けられたアイドルの笑顔を見ても、花京院の心が動くことはなかった。
花京院は視線だけ壁に向けたまま、手探りで投げ出していた鞄を引き寄せて、中を探った。携帯電話を取り出して、ここ数日はずっと切ったままだった電源を入れる。画面には着信ありの文字が表示され、メールも数件、受信した。
それを見た途端、ギクリと身体が強張る。
着信は全て承太郎からのもので、メールは母からのものが一件に、つい先ほど送られたらしいヨシオからのものが一件。そして、残りは承太郎からのものだった。
花京院は咄嗟に画面から目を逸らし、着信に折り返すことも、メールを開くこともなく、携帯を閉じた。
あれから花京院は再びフロアに立つことができないまま、家に帰されてしまった。よほど酷い顔色をしていたようで、ヨシオには逆に悪かったと頭を下げられてしまう始末だった。
情けなくて、嫌になる。
だけどガラス越しに見たあの光景が、今も脳裏にこびりついて離れなかった。大きな薔薇の花束を持つ承太郎。彼の横顔はとても穏やかで、並んで歩く彼女の笑顔はとても幸せそうなものだった。
承太郎は、あの花束を彼女の母親にでも渡したのだろうか。あれほどスペックの高い男前がきて、娘はやらんなどと言える父親がいるはずはない。
終わったんだなぁと、改めて感じた。
承太郎と過ごしたこの三ヶ月あまりが、今では夢の中の出来事のように、遠く思える。あの幸福な日々がいつまでも続くと、どうして疑いもせず信じていたのだろう。
(短いリア充生活だったな……)
夜の公園では、あれほど必死で堪えていたのに。今は涙すら浮かばなかった。ただ、久しぶりにバイトをしたことで埋まったかに思えた心の穴が、より大きくぽっかりと広がってしまったような気がする。とても虚しい気分だった。
(一生呪うぞ、承太郎。君と、あの彼女に)
いつまでも末永く、幸せになってくれという呪いを。
←戻る ・ 次へ→
夜の公園でベンチに腰掛け、花京院はひとり泣きだしそうになるのを堪えていた。
これが失恋の痛みというやつか。今までも好きなアイドルの熱愛報道や、メイド喫茶のメイドさんが男連れで歩いているプライベートを目撃する度に、地の底まで落ち込むことはあったが、これはそんな比ではなかった。
花京院はツンと痛む鼻を大きくすすると、片手をポケットの中に捻じ込んだ。中にある鍵を取り出し、掌に乗せて眺める。
(返すのを、忘れてしまった……)
赤々としたチェリーのキーホルダーが、街灯の頼りない光を弾いて輝いていた。このキーホルダーも、承太郎がくれたものだった。好きだろと言って、照れ臭そうに。
初めて店を訪れたとき、チェリーが好きだと言った花京院の言葉を、彼はずっと覚えていてくれたのだ。そんなこと、言った本人ですら忘れていたのに。
また涙が込み上げそうになるのを堪えて、花京院は鍵をポケットにしまい込む。暗闇にぼんやりと浮かび上がる公園の遊具たちが、とても無機質で寂しく感じた。
そういえば、承太郎と思いを通じあわせたのも公園だった。彼が通っていた高校の近くにあった、ここよりも少し規模の小さな、寂れた公園。じわりと浮かぶ涙を、星のない空を見上げてどうにか抑え込む。
なんて女々しいのだろう。けれど生まれて初めての失恋に、花京院の心はズタボロだった。
承太郎が恋人らしいことをしようとしなかったのも、夜は時間通りにキッチリ帰そうとしていたのも、全ては彼女の存在があったからなのか。
(一番の大バカ野郎は、ぼくだ……)
すでに気持ちが冷めている相手に勢いだけで押しかけ、女装までして迫ってしまった。結局は拒まれて、失恋して、公園でひとり惨めに涙を堪えているなんて。まるでピエロではないか。
「やぁ~だ~も~、マジありえないからぁ~」
「なぁんだよぉ~、別にいいじゃん? なぁ~」
そのときである。傷心の花京院の耳に、何やら謎の男女がイチャつく声が聞こえてきた。
「ちょっとだけ、なぁ、マジ先っぽだけだし」
「ダメだってば~ここ公園なんだけど~?」
「そんなのマジどうでもいいって~」
声は、すぐ隣のベンチからしているようだった。チャラチャラした感じの男が、必死で頭の悪そうな女を口説いている。
「でもぉ、今日の下着あんまり可愛くないってゆうかぁ~」
「ぜ~んぜんいいし! マジそのまんまでいいし? マジ素材が生きてるって感じだし?」
「マジ必死なんだけど~マジウケるんだけど~」
一体この短時間のうち、何度マジと言えば気が済むのか。
「マジでぇ~、なぁマジマジ~」
「マジ~? 超マジなのぉ~?」
ついにはマジ語しか喋らなくなったところで、花京院は頭の中で血管が切れるような音を聞いた。人の初恋が玉砕したというときに、容赦なくイチャイチャしやがって……と、激しい憎しみに駆られた花京院は、次の瞬間。
「やかましいッ! ぼくはリア充が騒ぐとムカつくんだッ!!」
つい、誰かさんの台詞をアレンジしたような言い回しで、怒鳴りつけていた。
ふたりのリア充はビクンと肩を震わせて驚いていたが、男の方がすぐに花京院を指さして、声をあげた。
「あれ!? おまえ典明じゃん!」
「え?」
唐突に名前を呼ばれ、花京院はベンチで女と密着している男の顔をまじまじと見た。するとそこには。
「よ、ヨシオさん!?」
花京院がバイトをしていた男の娘喫茶『CHERRY BOYS』にいた先輩、ヨシ子ことヨシオの姿があった。
***
まさかマジ語を操っていたリア充の一人が、ヨシオだったとは。世間は狭いなと思いつつ、花京院はなぜかヨシオを挟む形で、彼らと同じベンチに三人で密着しながら腰かけていた。
「マジ久しぶりじゃん? 店辞めてからぜんぜん顔出さねーから、マジ死んだと思ってたっつーの」
「生きてますよ……一応は……」
瀕死だが。
「なになに、元気ないじゃん。彼女にでもフラれたん?」
「ウッ!!」
グサァッと胸に突き刺さる地雷を踏んでくるヨシオ。退屈そうに長い金髪の毛先をいじくりまわしていた彼女まで、チラリとこちらに目を向ける。痛い。リア充の視線が痛すぎる。
生まれてこのかた彼女なんていた試しはないし、破局相手は男性である。そして、ついさっき初めての恋が終わったばかりだ。幾重にも刺し貫く言葉の刃に、青褪めた表情で痛む胸を押さえた。
「うわマジかー。ごめん典明」
「いえ、大丈夫です……では、ぼくはこれで……」
HPが0に近い状態で、花京院は膝の上に重ねて置いていた、ふたつの鞄を抱えて立ちあがる。そのままおぼつかない足取りで立ち去ろうとしたとき、ヨシオが「ちょい待ち」と言って引き止めた。
「なんでしょう……」
「おまえさ、次の休み暇? 久しぶりに店来いよ。ちょっとは気分転換になっかもしんねーよ」
「気分転換、ですか」
「そ。メイド服持参で」
「お客さんとしてではなく、ということですか?」
なぜかドキリとして、花京院は腕に抱えているメイド服が入った鞄を、強く抱きしめる。
「そそ。一日くらいならいいっしょ? 店長も喜ぶぞ~」
「久しぶりに、か」
トートバッグを見下ろしながら、花京院はそれもいいかもしれない、と思った。このままでは最後に着たメイド服の思い出が、失恋の記憶で終わってしまうし、確かに気分転換でもしないことには、立ち直れそうにない。
承太郎と出会ったのもあの店だった。結局また思いだしてしまうかもしれないが、接客に追われれば、そんなことを考えている余裕も、きっとなくなるだろう。
「そうですよね。ありがとうございます、ヨシオさん」
花京院が少しだけホッとしたように笑顔を浮かべると、ヨシオもうんうんと頷きながら、ニカッと笑った。
***
日曜日。
花京院は典香として、『CHERRY BOYS』で接客に励んでいた。
店を辞めたのは春休みのことで、ごく最近のことではあるのだが、ずいぶん長く離れていたような気がする。店内は相変わらず込み合っていて、中には辞めたはずの典香を覚えていてくれる常連客もいたのが、嬉しかった。
(やっぱり楽しいな)
注文品をせっせとテーブルへ運びながら、花京院は改めて思った。オムライスやクリームソーダを頼まれると、ほんの少しだけチクリと胸が痛んだが、幼い頃から憧れていたメイド姿で堂々としていられるひと時は、胸に開いた大穴を優しく埋めてくれるような気がする。
たぶん、気休めでしかないのは分かっているけれど。それでもクオリティの高いメイド仲間たちは目に優しいし、こんな格好でもしない限り、普段は話すこともできない女性客と会話をするのも、楽しかった。
「典香ちゃん辞めたって聞いて、あたしたちすごく寂しかったのよ」
そんな中、ふたりの女性客がついているテーブルで、花京院がオムライスにケチャップでイラストを描いていると、それを嬉しそうに眺めていた客の一人が言った。
「本当ですか。ありがとうございます」
「ねえ、なんで辞めちゃったの? あ、もしかして彼女ができたから、そんな暇なくなったとか?」
「ッ、ゲホッ」
「やだぁ、典香ちゃんなんだから、彼女じゃなくて彼氏って言ってあげなくちゃダメでしょ」
もう一人がからかうように言ったその瞬間、逆さにしていたボトルから嫌な音がして、オムライスの上にケチャップが血飛沫のように降り注いだ。
「うわぁっ、す、すみませんッ! すぐ新しいものをお持ちしますので……ッ」
青褪めた花京院がすぐに皿に手をかけたが、ふたりは「いいよいいよ」と言って笑った。それよりも、花京院が分かりやすい反応を示したことの方に、彼女たちは喜んでいるようだった。
「ねえねえどんな子!? 可愛い系!? 綺麗系!?」
「あ、あの、いや、えーと」
「年上でしょ!? 絶対そう!」
(うわああああもうやめてくれーッ)
好奇心に目をギラギラとさせる彼女たちに、花京院は今にも卒倒しそうだった。このまま悪意なき精神攻撃を食らい続ければ、確実に立ち直れなくなる。失恋の傷を癒すために来たはずが、さらに悪化させては元も子もなかった。
「すみません、わたしはこれでッ」
花京院は慌ててふたりに頭を下げると、その場を逃げるように後にした。
(女性って本当、こういう話が好きだな……)
そんなことがあってから、花京院はふと嫌な事実に気がついてしまった。
和やかなムードの店内は、ほんの一握りのカップルを除いては、女性客だけで席が埋まっている。彼女たちはそのほとんどが、いわゆる『恋バナ』に花を咲かせているのだ。
恋人がどうのとか、バイト先のイケメンがどうのとか、友達が彼氏と別れたとか。今はその手の話をいっさい耳に入れたくない花京院としては、一歩進むごとにダメージを受ける毒沼を、延々と歩かされている気分だった。
気づけば気分転換ではなく、ただの精神修行と化している状況に、そろそろ悟りのひとつでも開く頃かという、そのとき。
「ねえちょっとアレ見て! あのカップル素敵じゃない!?」
一人の女性客が、いやによく通る声で店の外を指さしながら言った。それを合図に、客が一斉にガラス張りの向こう側に視線を向ける。つい釣られた花京院も、注文品のクリームソーダが乗ったトレイを持ったまま、店の外を見た。
そして、息を飲んだ。
「ッ!?」
そこには承太郎と、あのお団子頭の彼シャツ彼女がいた。
ふたりは店のすぐ前の通りを歩いている。赤やピンクの薔薇の花束を持った承太郎の腕に、彼女がしがみつくような形で腕を組んで、ガラス張りの向こう側を横切っていく。
「すごい美男美女……もしかしてモデルさんかしら?」
「いいなぁ~、彼氏の方、超イケメンじゃなかった?」
たかだか店の前を通りがかったというだけで、女性というのはよく見ているものだ。そんなことをぼんやりと思う一方で、花京院はどんどん気が遠くなっていくのを感じていた。急速に冷えて固まった心臓に、小さなひびが入って一気に砕けるような、そんな感覚。
ズクン、という鋭い痛みが走ったとき、花京院は手に持っていたトレイを、床に落としてしまった。
「ッ……!!」
「典香ちゃん!? なにしてんの!?」
不快な音を立てて割れるグラス。床に飛び散る緑色の液体とクリーム、透明な氷。そして、真っ赤なチェリー。
驚いた客が小さな悲鳴をあげ、どよめきが起こるなかヨシ子が駆け寄ってくる。
「典香ちゃんってば、大丈夫!? ちょ、顔が真っ青!!」
「あ、あの……ぼく」
突如として襲ってきた震えに、花京院は瞬きも忘れて床の惨状を見下ろした。
「ここは私がやっておくから、典香ちゃんは裏で休んでて」
「すみません……すみません、ヨシ子さん」
「いいから、ね」
花京院は後ずさり、どうにか頭だけ下げると、よろけながらも店の裏側に引っ込んだ。
***
夕方。帰宅した花京院は、完全に虚脱状態に陥っていた。
「あら典明、おかえりなさい」
夕飯の支度をしている途中だったのか、エプロンの裾で両手を拭きながら、母が廊下に顔を出す。花京院はただいまも言わず、のろのろと自室へ続く階段をのぼった。
「典明? お母さんメールを送ったのだけれど、もしかして見てない?」
背中にかかる母の声に、かろうじて「見てないよ」と返し、自室の扉を開ける。やだわ、お醤油を買って来てほしかったのに、という母の声は、部屋に閉じこもってしまった花京院の耳に届くことはなかった。
花京院はベッドに鞄を放り投げると、縁に腰を下ろした。
夕闇に青く染まる室内は、空気が重く淀んでいる。ぼんやりと見つめた先で、壁に貼り付けられたアイドルの笑顔を見ても、花京院の心が動くことはなかった。
花京院は視線だけ壁に向けたまま、手探りで投げ出していた鞄を引き寄せて、中を探った。携帯電話を取り出して、ここ数日はずっと切ったままだった電源を入れる。画面には着信ありの文字が表示され、メールも数件、受信した。
それを見た途端、ギクリと身体が強張る。
着信は全て承太郎からのもので、メールは母からのものが一件に、つい先ほど送られたらしいヨシオからのものが一件。そして、残りは承太郎からのものだった。
花京院は咄嗟に画面から目を逸らし、着信に折り返すことも、メールを開くこともなく、携帯を閉じた。
あれから花京院は再びフロアに立つことができないまま、家に帰されてしまった。よほど酷い顔色をしていたようで、ヨシオには逆に悪かったと頭を下げられてしまう始末だった。
情けなくて、嫌になる。
だけどガラス越しに見たあの光景が、今も脳裏にこびりついて離れなかった。大きな薔薇の花束を持つ承太郎。彼の横顔はとても穏やかで、並んで歩く彼女の笑顔はとても幸せそうなものだった。
承太郎は、あの花束を彼女の母親にでも渡したのだろうか。あれほどスペックの高い男前がきて、娘はやらんなどと言える父親がいるはずはない。
終わったんだなぁと、改めて感じた。
承太郎と過ごしたこの三ヶ月あまりが、今では夢の中の出来事のように、遠く思える。あの幸福な日々がいつまでも続くと、どうして疑いもせず信じていたのだろう。
(短いリア充生活だったな……)
夜の公園では、あれほど必死で堪えていたのに。今は涙すら浮かばなかった。ただ、久しぶりにバイトをしたことで埋まったかに思えた心の穴が、より大きくぽっかりと広がってしまったような気がする。とても虚しい気分だった。
(一生呪うぞ、承太郎。君と、あの彼女に)
いつまでも末永く、幸せになってくれという呪いを。
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花京院がごっつい彼氏と結ばれる話🔞
『おまえのことが好きだ……大好きだ――ッ!!』
何年か前に、戦隊モノの特撮ドラマで見たような気がするイケメン俳優が、夕焼けの美しい海辺で高らかに叫んだ。
彼が真っ直ぐに見つめる先には、黒いロングヘアの超絶美少女がいて、彼女はその告白を受けて感極まり、うっすらと目尻に涙を浮かべる。
『あたしも、あたしもずっと好きだった!』
波の音に掻き消されないように、彼女も声を張り上げた。
ふたりは両腕を広げながら駆け寄り、彼女が彼の胸に飛び込むと、そのままの勢いでクルクルと回る。寄せては返す白い波しぶきが、そんな彼らを祝福しているようだった。
ふたりは互いに抱き合ったまま、潤んだ瞳で見つめ合う。そこでゆっくりとカメラが引いた。燃えるような夕焼けをバックに、ふたつのシルエットが唇を重ね合おうとしたところで。
――手を、握られた。
「ッ!」
ソファに腰かけ、熱心に画面を見つめていた花京院は、とつぜん手の甲を包み込まれた感触に、制服の肩を大きく震わせる。
咄嗟に顔をあげて横を見やれば、隣に腰を下ろしている承太郎が、画面ではなくこちらを真剣な眼差しで見つめていた。その熱っぽい視線に、花京院は心臓が大きく跳ね上がるのを感じる。頬が熱くなり、じわりと視界が滲んでいった。
「花京院……」
承太郎の低く染み渡るような声で名前を呼ばれると、胸がきゅっと締め付けられるように震えた。
テレビ画面では紆余曲折の果てに気持ちを通じさせたふたりが、熱いキスシーンを繰り広げている。花京院はこのヒロインを演じるアイドルの大ファンだった。が、今はそっちのけで、承太郎ただ一人しか目に映っていない。
好きなアイドルを見つめている瞬間が、なによりも至福のひと時だった頃の自分からは、考えられないような大きな変化だ。
やたらとポップなエンディング曲が流れ始めるなか、承太郎が花京院へと僅かに身を屈め、顔を寄せてくる。ああ、キスをされるのだと、花京院は胸を高鳴らせながら目を閉じた。
距離が狭まっていくと、承太郎からふわりと甘い花の香りがした。使っているシャンプーか何かだろうか。彼にしては少し女性的な香りのような気がしたけれど、その甘さが今の気分とえらくマッチしていて、細かいことなどどうでもよくなる。
あと少し。もう少し。承太郎の微かな息遣いすらも、唇に感じるほどの距離。触れるか、触れないかのところで。
どこからか、アラームが鳴り響いた――。
「おっと、もうそんな時間か」
今にも唇同士が触れますよ、というところで承太郎が顔を背け、テーブルの上に置いてあった携帯を手にとる。アラームを解除し、白いボトムのポケットに捻じ込みながら、キス待ち顔で硬直する花京院に再び視線を戻すと、何事もなかったかのように言った。
「八時だぜ。駅まで送るから支度しな」
「は、へ?」
「帰らねえと、親御さんが心配する」
「え、ちょっと、まっ……」
き、キスは――? と、一瞬でブチ壊されてしまったいいムードと、その温度差に戸惑いながら目を瞬かせる。
リモコンを操作してDVDを取り出し、テレビ画面のスイッチを切っている承太郎を、唖然として見つめた。
待て待て、ここからじゃあないのか? 週末の夜、恋人の部屋で恋愛映画のDVDを見て、クライマックスシーンでふたりの気持ちも盛り上がり、さあいざゆかん愛の世界へ――というのが、リア充のお約束ではないのか……?
少なくとも、花京院の脳内辞書にある『リア充』の項目には、そう書いてある。
「ま、待ってくれ承太郎……その、今夜なんだが……両親には、その、あのですね」
――帰らないって、言ってきましたッ!
(……なんて言ったら、迷惑、か)
今夜は帰りたくないの、なんて、上目使いで言っていいのは、人気アイドルグループでセンターを張れるくらいには、華奢で可憐な美少女でなければ許されないことだ。
生憎、花京院は身長、体重、筋肉共に申し分ない、平川ボイスの男子高校生である。
「どうした花京院。なにかあるのか?」
取り出したDVDをケースにしまい、それを差し出してきながら、承太郎が不思議そうに問いかけてきた。花京院は思い切り首を振り、ケースを受け取る。
「い、いえ! そうですね、高校生はもう帰る時間です」
「おう。映画、面白かったぜ」
「ほんとですか? それはよかった。あはは」
引き攣った笑みを浮かべながら、花京院はただおとなしく帰り支度をする以外、他になかった。
***
承太郎に駅まで送り届けてもらった花京院は、どこか温い風にさらされながら、夜のホームで電車を待っていた。
(また今日も駄目だった……)
持参したDVDが入った学生鞄が、やけに重たい。それに比例して、花京院が漏らした溜息もまた、重かった。
花京院が承太郎と恋仲になってから、四ヶ月近くが経過していた。
その間、ふたりは以前のようにメイド喫茶を巡ることもあれば、承太郎が好きだという水族館でデートをしたりと、順調に交際を続けていた。花京院がバイトの日は、終わる頃にあの裏路地で承太郎が待っていてくれて、そのあとファミレスで食事をしたり、夜の公園で語らったりもした。(主に花京院のメイド&アイドル語りを、承太郎がうんうんと頷きながら聞いているだけだったが)
承太郎は本来、花京院が嫌う不良という札をぶら下げた人間ではあったが、あの瓶底眼鏡をして会いに来てくれていた頃となにひとつ変わらず、寡黙で優しい男だった。
そんな承太郎も水族館へ足を運ぶと、そこにいる生物たちを熱心に見つめながら、饒舌に知識を披露してくれる。その意外な一面や、キラキラとした瞳が少年のようで、つい可愛いなんて思ってしまうのだ。
一九五センチの大男を捕まえて、そんなふうに感じてしまう自分は、もはや末期である。
だけど、会えば会うほど好きになっていく。会わない時間は好きなアイドルのことを考えるより、彼に想いを馳せることの方が多くなっていった。
しかし順調と見せかけて、最近の花京院は日に日に溜息の数が増えている。不満、といってもいいかもしれない。
それは承太郎との関係が、あまりにも『清すぎる』というのが原因であった。
この四ヶ月というもの、キスをしたのは数える程しかない。
酷いときはキスどころか、指先が触れることすらなく終わる日もあった。会うのは必ず外だったし、人前で公にできる関係ではないものの、だんだんこれはデートではなく、ただの友達付き合いというやつなのでは――まともに友達がいた試しもないので分からないが――と、疑問さえ抱くようになっていった。
そうこうしているうちに季節は過ぎ、春になると承太郎は高校を卒業して、大学生になった。花京院の方はというと、今年は受験生ということもあり、バイトを辞めざるをえなくなってしまった。つまり、以前のように頻繁に会うことはできなくなってしまった、というわけだ。
けれど嬉しいこともあった。承太郎は大学入学を機に、駅近くにマンションを借りて一人暮らしをはじめた。しかも真っ先に合鍵を作って、花京院に渡してくれたのだ。
これはますますリア充っぽいぞ、と胸をときめかせた花京院だったのだが……。
(まあこの有様ですよね)
現実は、駅のホームで一人きり、である。
承太郎は例えどんなにいいムードになったとしても、花京院に手を出してくることはなかった。それどころか、夜の八時になるときっちり駅まで送ってくれるという有様だ。
今日なんて、わざわざそういうムード作りをするために、手持ちのDVDコレクションの中から、恋愛モノを選んで持ってきたというのに。あそこまで漕ぎつけてお預けを食らうのは、流石にショックが大きい。
(なにもアラームまでセットしなくたって……)
だんだん子供扱いされているような気になってくる。前はここまで時間に神経質ではなかったはずだ。
やはり大学生ともなると、高校生なんてただのガキにしか見えなくなるのだろうか。
承太郎は、ずっと黒で統一していた装いを、大学に入ってから真逆の白へガラリと変えた。その大きな変化が、より彼を大人の男性に昇華させたような気がする。きっと大学には綺麗で大人びた女性がごまんといて、相変わらず承太郎は大勢に群がられているに違いない。
なにせ彼は高校の頃から超がつくほどモテモテだったし、経験豊富なスーパー非童貞なのだ。そんな男がどうして自分なんかを? という今さらな疑問はさておき、花京院の憂心は増していくばかりだった。
「やっぱり童貞って、魅力ないんでしょうか……」
花京院がぽつりと呟くと、いつの間にやら隣で同じく電車を待っていた、よれよれスーツにバーコード頭のおじさんが「え!?」と肩を跳ねさせながら反応した。
「ど、童貞? 童貞なの? 君」
「はい。混じりっけなし、純度百パーセントの童貞です」
「へ、へえ、でも、若いし別にいいんじゃあないかな?」
「そうでしょうか……」
「そ、そうさ。ほら、元気をだして」
ただ近くに並んでいたというだけで、突如として男子高校生の性のお悩みを聞かされるおじさんは、きっとたまったものではないだろう。
「でも、やっぱりぼくなんか童貞だし、ドルオタだし、童貞だし、女性のような色気だってないし、童貞だし、メイドコスが好きな童貞だし――ん?」
(いや、待てよ?)
ハゲ散らかった頭でオロオロするおじさんを他所に、花京院はふと、ひらめいた。
同時に、電車がホームに滑り込んでくる。
「そうか、その手があったかッ!」
花京院が天を仰ぎ、ガッツポーズをしながら声をあげると、目の前で電車の扉が開いた。軽やかなステップで乗り込み、すぐにおじさんを振り返る。
「ありがとうございますおじさん! なんだかイケそうな気がしてきました! ぼく、がんばってみますッ!!」
「え、あ、そうかい? それはよか」
ったね、とおじさんが言い終わらぬうちに、ブシューッと音を立てて、扉が閉まった。
去り際に笑顔で手を振る花京院を見守る形で、心優しいモブおじさんは電車に乗りそびれたのである。
***
翌週。
学校帰りのその足で、承太郎が暮らすマンションまでやってきた花京院は、ガラス張りのエントランスを目前に、いったん歩みを止めた。
両腕に抱え込むようにして持っているのは、いつもの学生鞄の他にもうひとつ、紺色のトートバッグだ。中身はバイトを辞めて以来、めっきり着ることがなくなってしまった、あのメイド服である。
(ぼくとしたことが、盲点だったよ)
駅のホームで悲観的になっていた花京院は、あの瞬間ふと思いだしたのだ。典香としてではなく、素の自分として、初めて承太郎と会話をしたあの夜のことを。
彼は確かに言っていた。
『メイド姿のてめーは、誰よりもいい女に見えた。今まで出会った、どんな女よりもな』
と――。
未だに信じられない話だが、承太郎はメイドコスをした花京院を、本物の女性だと思い込んでいたのだ。
それはつまり、承太郎の目にはむさ苦しい学ランの高校生より、フリフリの衣装に身を包んだメイドの方が、魅力的に映るという何よりの証拠だ。なぜこんな当たり前のことに気がつかなかったのだろう。誰だってどっちに手を出すかと問われたら、断然メイドさんを選ぶに決まっている。
別に女性になりたくてメイド服を着ていたわけではない花京院にとっては、少しばかり不本意ではあるのだが。
(ぼくの中に本来あるはずのない乙女心が、少しでも承太郎の気を引きたくて燃え滾っている……)
死ぬほど恥ずかしいが、ここまできたら潔く認めざるをえないだろう。恋する気持ちが、花京院に羞恥を乗り越えさせようとしている。
花京院はふうっと大きく息をついてから、片手を制服のポケットの中にそっと忍ばせた。そこには承太郎から受け取って以来、まだ一度も使っていない合鍵が入っている。いつでも好きなときに来いと言われていたが、どうも遠慮してしまって使う機会がなかった鍵には、花京院が好きな赤いチェリーのキーホルダーがついている。
これを使って部屋に上がり込み、帰ってくる承太郎をメイド姿で出迎えるというのが今日の作戦だ。
「よし、行くぞ!」
花京院はマンションを見上げ、気合いを入れると作戦を実行に移すべく、エントランスへ突っ込んでいった。
当たり前だが、室内は薄暗く静まり返っていた。
合鍵を使い、承太郎の部屋に入った花京院は、しめしめとほくそ笑みながら、ひとまず鞄をソファの足元に立てかける。
(承太郎が戻るには、まだしばらく時間があるはず。まずは冷蔵庫のチェックをさせていだこう)
ただメイド姿で出迎えるというのも芸がないので、今夜はオムライスを作ろうと決めているのだ。そのために必要な食材等が揃っているかどうか、なければ近くのスーパーへ買い出しに行く必要がある。
合鍵を使うという第一関門を突破した今、花京院に遠慮や戸惑いはなかった。キッチンへ足を踏み入れ、一人暮らしにしては大きな冷蔵庫の扉に手をかける。
――だがそのとき。
ガチャリ、と背後で扉が開く音がした。
「――ッ!?」
ギクリと身を強張らせ、花京院は音のした方を振り返る。
ダイニングと、その向こうのリビングを見渡せるカウンターキッチン越しに、寝室へと続く扉がゴゴゴゴゴ……という、目に見える効果音つきで、ゆっくりと開かれるのが見えた。
(う、嘘だろ承太郎!? もう帰っていたのか!?)
全く気がつかなかった。そういえばこの部屋に入ったとき、玄関に靴があるかどうかのチェックを怠っていたのを思いだす。目先のことにとらわれすぎて、注意力に欠けていたことを後悔しても、もう遅い。
(なんてことだ……早くも作戦失敗か? い、いや、段取りが多少変わるだけで、作戦自体に支障はない……)
とりあえず、ここは不自然にならない程度に、いつも通り振舞わなければ。花京院は顔を出すであろう承太郎を迎え撃つため、キッチンから出てリビングへと一歩一歩近づいた。そして。
「や、やあ承太郎。今日は早かっ――」
「あー、よく寝たわ。つーか寝すぎたわ」
(……え?)
寝室から姿を現したのは、承太郎ではなかった。花京院は目を見張り、予想外の展開に声を失う。
――そこにいたのは……女だった。
金色のメッシュが入った黒髪を、ふたつのお団子頭にしたその女は、明らかにサイズの異なる大きなワイシャツに身体を泳がせながら、うん、と背伸びをしている。惜しげもなく晒される白い生足に、中途半端にボタンを留めているせいで、ざっくりと開いた合わせ目から、胸の谷間が覗いていた。
彼女は欠伸を噛み殺しながら、硬直する花京院に気づくと「あんた誰」と言った。
「……へッ!?」
状況が飲み込めないまま投じられた問いに、つい間抜けな声をあげてしまう。頭の中で、グルグルとジェットコースターが走り回っているような混乱が、花京院に襲いかかった。
(ど、どうなってるんだ!? ここは承太郎の部屋でいいんだよな!? 間違えてないよな!? っていうか彼女、これ、このあられもない格好は……彼シャツというやつじゃあないか!?)
「ちょっとあんた、聞いてんの? まあいいや。悪いんだけどさ、水持ってきてくんない? キンキンに冷えたやつ」
「は、はいッ」
ソファにどんと腰を下ろし、長い足を組んだ女の注文に、花京院はまるで条件反射のように姿勢を正し、大慌てでキッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、取り出したミネラルウォーターを伏せてあったグラスに注ぐ。それを素早くリビングへ運ぶと、ソファの足元に跪いて彼女に差し出した。
「お、お待たせいたしました」
「ん、ありがと」
女はよほど喉が渇いていたのか、グラスを一気に空にする。ぷは、とまるでビールでも飲みほしたような声をあげ、それからすぐに、こめかみを押さえてきつく目を閉じた。
「いでぇーッ! キンキンきたぁーッ!!」
彼女は絶叫しながら組んでいた足を男らしく開き、前屈みになって額を拳でガンガンと叩いている。シャツのサイズが大きすぎるため、大事な部分が今にも全てポロリしそうで、花京院は悲鳴を噛み殺しながら顔を背けた。
ハッキリ言って女性は母親以外、耐性がない。
メイド喫茶でもてなしてくれる女性は、花京院にとってテレビ画面越しに見る虚像と大差ないのだ。完璧にプロデュースされた、綺麗で可愛いお人形さんを眺めている感覚、だろうか。
けれど目の前にいるのは半裸の女性で、その生々しさは童貞にとって、ただの怪物でしかなかった。
怪物は痛みが治まると、すぐに花京院をロックオンしてきた。再び足を組み、ついでに両腕も組んで、ジロジロと上から下まで観察してくる。その威圧的ともとれる態度が、ふと誰かと重なったような気がしたが、蛇に睨まれた童貞……いや、カエル状態の花京院は嫌な汗が噴き出すばかりで、頭が真っ白になっていた。
「ねえあんた、ひょっとしてあいつの友達?」
あいつ、というのは、やはり承太郎のことだろうか。花京院は視線だけ外したまま、彼女に向かってどうにか頷いて見せる。
「ふぅん、なんか意外。パシらされてるとかじゃなく?」
「ち、違います」
「ま、別にどーでもいーけど。それより、あたし今夜は帰るわ」
「え、今夜は……って……?」
微かに首を傾げた花京院の傍を、立ちあがった女が横切っていく。背の高い女だと思った。花京院と、それほど大きな差は感じられない。
(――あれ?)
そのときふと。寝室へ向かう背中を見つめながら、鼻先を掠めた甘い残り香に、花京院は眉を顰めた。
(この、匂い)
週末、この部屋でDVDを見た夜のことを思いだす。
あのとき、キスをする寸前の承太郎からも、確かにこれと同じ匂いがしていた。
まるで女の子が使うようなシャンプーの香り。当たり前のように寝室へ消えて行く女は、裸に承太郎のシャツを羽織っていて、同じ匂いを纏わりつかせながら、今夜『は』帰ると、そう言った――。
「あ、そうだ」
血の気が引いて行くのを感じながら立ちすくむ花京院に、寝室のドアから顔だけを覗かせた女が言った。
「次の休みはパパも戻ってくるし、ママがいい加減、顔見せろってさ。花束くらいは用意しとけって、あのバカに言っておいてくれる?」
ドアの閉じる音が、いやに冷たく花京院の胸に突き刺さった。
どのくらいそうしていただろうか。
花京院がぼんやりと部屋の中央に座り込んでいると、遠くで玄関の扉が開く音がした。
「花京院? いたのか」
リビングに入ってきた承太郎が、灯りのスイッチを入れた。
ぼんやりと座り込んでいる花京院を見て、彼は少し驚いた様子だった。
「……うん、いた」
「来るのは歓迎だが、電気ぐらいつけて待っときな」
「承太郎」
花京院はピクリとも動かず、床の一点を見つめたまま、承太郎の名を呼んだ。承太郎はソファに鞄を置きながら、小さく「ん」と返事をする。
けれど先に続けるべき言葉が出てこなかった。口を開きかけて、すぐに下唇を噛み締める。
様子のおかしい花京院に承太郎が首を傾げ、傍までやってくるとしゃがみ込んだ。顔を覗き込まれて、ゆるゆると視線を上げれば、緑がかったブルーの瞳と視線が合わさる。
聞きたいことは、沢山あった。だけど怖かった。この短時間で、幾つもの動かぬ証拠を見せつけられたとしても。
――承太郎が、浮気をしているなんて。
(嫌だ)
そんなのは嫌だ。信じたくないし、信じない。例え自分ですらまだ着たことがない、彼シャツを羽織った女が寝室から出て来ようが、同じシャンプーの香りをさせていようが、何かの間違いに決まっている。理由を聞けば、きっと「なんだ、そうだったのか」と、納得できる答えが返ってくるはずだ。
なのに、どうしてかそれを確かめるのが怖くて仕方ない。だから花京院は、考えるのをやめた。
「……なしだ」
「あ?」
「ぼくは何も見なかった。だから、さっきのはなしだ」
「……なんの話だ?」
何を言っているんだこいつは、という顔で、承太郎が首を傾げている。花京院は勢いよく立ちあがり、ズァッと例のポーズを決めると言った。
「と、いうわけで、前回のセーブポイントまで、記憶をリセットさせていただこうッ!!」
だいたいこの部屋で、冷蔵庫を開けようとしていたあたりだろうか。花京院は気分をそのポイントまで、強制的に巻き戻した。完全なる現実逃避である。
(そう、あんなバッドエンドまっしぐらなイベントはなかった。だから、計画に変更もないッ!)
花京院はソファの足元に置き去りにしていたトートバッグをむんずと掴むと、ぽかんとしている承太郎をメラメラと燃えた瞳で見据える。
「ちょっと準備があるので、洗面所をお借りします」
「お、おう?」
「では失礼」
トートバッグを脇に抱え、右手で挙手の敬礼をしつつ、花京院はリビングを出ると洗面所へ向かった。中に入り込み、バァンと凄い音で扉を閉めること数秒。再びバァンと扉を開けて姿を現した花京院は、魔法少女や某男性アイドル事務所もビックリな早着替えで、メイド服にフォームチェンジしていた。
「か、花京院、その姿は……ッ!」
胸元の大きなリボン。黒いロングワンピースに黒タイツ、そして純白のエプロンとヘッドドレス。あの日承太郎が一目惚れをしたという、ごっつい――いや、可憐なメイドがそこにいた。
しゃがみ込んだままだった承太郎が、勢いよくすっくと立ちあがり、心なしか赤い頬をしてこちらを指さす。
「典香……ッ、典香じゃあねえかーッ!!」
「その通り。承太郎、今宵ぼくは君だけのメイドさんだ!! 存分に堪能していただこうッ!!」
「うおぉぉッ!!」
ガッツポーズをしている承太郎。少し複雑だが、ここまで掴みがバッチリだと、逆に気分爽快である。それに、店では基本ネタ枠扱いだったため、男性から喜ばれる、というのはやっぱり悪い気がしない。ましてやそれが好きな相手ともなれば、尚更だった。
(イケる……ぼくは今、確かな手応えを感じているッ!)
「承太郎ッ!」
「花京院ッ!」
互いに名前を呼んで、大きく両手を広げる。フローリングの床を蹴り、思い切りその胸に飛び込んだ。気分はさながら、夕暮れ時の白い砂浜だ。心なしか、波の打ち寄せる音すら聞こえるような気がしてくる。
広い背中に腕を回せば、逞しい両腕が花京院を抱きすくめた。ふわりと、あのシャンプーの香りがしたような気がしたけれど、花京院は承太郎の肩に鼻先を埋め、懸命に彼そのものの匂いを探して吸いこんだ。
(承太郎……好きだ……)
内側から思いが溢れて、なんだか少し、泣きたくなった。
(こんなに好きになるなんて)
自分は男で、相手も男で、ずっと可愛いアイドルを追いかけていたはずだし、いつかはこんな自分でも綺麗な奥さんをもらうのだと、当たり前のように思っていたのに。
承太郎の大きな手が、花京院のひと房だけ長い前髪を梳くように、優しく触れた。痛いくらい胸が締め付けられるのを感じながら、肩に埋めていた顔をあげる。
花京院は知らず知らずのうちに、すみれ色の瞳を潤ませていた。ぼやけた視界に、承太郎の瞳がキラキラと輝いて映る。綺麗だ。本当に、綺麗な男だ。だけど――。
この瞳が、柔らかそうな唇が、力強い腕が、他の誰かを抱いているかもしれない。忘れたふりでここまで突っ走ってはみたけれど、人の記憶や心は、ゲームをリセットするみたいに簡単にはできていないことを知っている。それでも。
「承太郎……キス」
承太郎が、息を飲む。
「キスが、したい、です」
こんな風に自分から誘うのは、初めてだった。だけど今は、この男がどこまで応えてくれるかが、何よりも重要な気がしている。
キスをして、その先へ進んで、彼がこの身体を愛してくれたなら。膨らみ続ける不安や疑念が、消えてなくなるような気がしていた。
ごくりと音を立てて、承太郎がぎこちなく喉を鳴らしたのがわかる。
前髪に触れていた指先が、熱を持った頬に滑り落ちてきた。親指が顎に添えられると、花京院は静かに目を閉じる。
承太郎の唇が、そっと優しい口付けを落とした。
心が震えて、じんと痺れるのを感じる。嬉しい。だけど、今の花京院には足りなかった。触れただけですぐに離れてしまった唇に、やっぱり不安はこびりついたまま消えることはなかった。だから恥も外聞も捨てて、言った。
「キスよりもっと先のことも、してください」
承太郎がまた息を飲んだ。さっきより大きく、肩すら震わせて。花京院は頬に触れていたその手を掴んで、自分の胸元へと導いた。大きなリボン越しに掌を押し付けさせて、高鳴る鼓動が届くようにと。
「承太郎、ぼくは君が好きだ。君になら、何をされてもいい」
もう一生童貞だっていい。魔法使いにだってなってやる。
だからどうか、信じさせてほしい。
その想いを込めて、花京院は爪先を立てて背伸びをする。今度は自分から、承太郎にキスがしたかった。けれど。
「花京院ッ……!」
触れる寸前で、両肩を強く掴まれ、引き離されていた。
「じょうたろう?」
「やめろ、花京院」
開いてしまった距離と、真っ直ぐに向き合っているはずなのに、逸らされている視線。花京院は身体が足元からガラガラと崩れ去っていくような感覚を味わった。
「承太郎……ぼくとは、したくありませんか……?」
「…………」
「君が好きな典香になっても、それでも、やっぱり本当の女の人じゃなくちゃあ、ダメですか……?」
「違う。そうじゃあねえ」
承太郎はどこか追い詰められたような顔をしていた。苛立っているようにも見えて、ああ、失敗だったのだと、そう感じる。
承太郎は何かを逃がすように、大きく息を吐きだした。そして、逸らしていた視線を、ようやく真っ直ぐに向けてくる。
「おれはな、花京院」
「……はい」
「そういうことは、結婚してからって決めてるんだぜ」
「……はい?」
結婚? 結婚というのは、あの結婚のことか?
「だから、ここでする気はねえ」
きっぱりと告げられた拒絶の言葉を聞きながら、花京院はさっきの女が残した言葉を思いだしていた。
『次の休みはパパも戻ってくるし、ママがいい加減、顔見せろってさ。花束くらいは用意しとけって、あのバカに言っておいてくれる?』
もう現実逃避はできそうもなかった。
承太郎はあの女性と、ここで結婚を前提とした半同棲暮らしを送っている。近いうちに花束を持って、彼女の実家へ挨拶に行く予定すらあるということだ。
「だ、だからよ花京院。積極的なてめーも悪かあねえが、もうしばらくは――おい、聞いてんのか?」
「……か……やろう」
「なんだ?」
「承太郎の、大バカ野郎ッ!!」
「ぅおおッ!?」
気がつくと、花京院は承太郎の腹部に正拳突きをかましていた。ドォンと音がして、その巨体が背中から壁に打ち付けられる。(ちょっと壁にめり込んだ)
「君はやっぱり最低の不良だッ! なにが結婚してからだ!! 笑わせるんじゃあない! さんざん女性を取っかえ引っかえしていたくせに、何を今更ッ!!」
「お、おいてめー、そりゃあ一体どういう……カハッ」
少年漫画の戦闘シーン吐血をしながら、承太郎が震える手を伸ばす。が、怒りに支配された花京院は、彼の声に耳を傾けるだけの余裕がなかった。
「こんな最低野郎に騙されていたぼくがバカだった! 君なんか、彼シャツ女子と末永く爆発していればいいッ!!」
「ま、待て花京院ッ!」
走り去ろうとした背中に、非痛な声がかけられる。背を向けたまま足を止めた花京院に、承太郎が言った。
「帰る、のか」
「……ああ、止めないでくれ」
「そんな可愛い格好じゃあ、変態モブに襲われちまう、ぜ」
「ハッ! そうだ、このまま飛び出して行ったら、補導されて職質されるのはぼくの方じゃあないかッ!!」
花京院は慌てて洗面所へ駆け込むと、一瞬で早着替えをして再びリビングへ戻った。ついでに鞄を忘れるところだったのを思いだし、ソファの足元から手に取ると、先ほどと同じ立ち位置に戻る。気を取り直し、こほんと咳払いをすると、息を吸いこんだ。
――テイク2――
「こんな最低野郎に騙されていたぼくがバカだった! 君なんか、彼シャツ女子と末永く爆はちゅ……ッ、く、くそ、噛んだッ!!」
「か、花京院ッ!!」
「ええいもういいッ! さよならッ!!」
今度こそ立ち止まることなく、花京院は承太郎の部屋から飛び出した。
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『おまえのことが好きだ……大好きだ――ッ!!』
何年か前に、戦隊モノの特撮ドラマで見たような気がするイケメン俳優が、夕焼けの美しい海辺で高らかに叫んだ。
彼が真っ直ぐに見つめる先には、黒いロングヘアの超絶美少女がいて、彼女はその告白を受けて感極まり、うっすらと目尻に涙を浮かべる。
『あたしも、あたしもずっと好きだった!』
波の音に掻き消されないように、彼女も声を張り上げた。
ふたりは両腕を広げながら駆け寄り、彼女が彼の胸に飛び込むと、そのままの勢いでクルクルと回る。寄せては返す白い波しぶきが、そんな彼らを祝福しているようだった。
ふたりは互いに抱き合ったまま、潤んだ瞳で見つめ合う。そこでゆっくりとカメラが引いた。燃えるような夕焼けをバックに、ふたつのシルエットが唇を重ね合おうとしたところで。
――手を、握られた。
「ッ!」
ソファに腰かけ、熱心に画面を見つめていた花京院は、とつぜん手の甲を包み込まれた感触に、制服の肩を大きく震わせる。
咄嗟に顔をあげて横を見やれば、隣に腰を下ろしている承太郎が、画面ではなくこちらを真剣な眼差しで見つめていた。その熱っぽい視線に、花京院は心臓が大きく跳ね上がるのを感じる。頬が熱くなり、じわりと視界が滲んでいった。
「花京院……」
承太郎の低く染み渡るような声で名前を呼ばれると、胸がきゅっと締め付けられるように震えた。
テレビ画面では紆余曲折の果てに気持ちを通じさせたふたりが、熱いキスシーンを繰り広げている。花京院はこのヒロインを演じるアイドルの大ファンだった。が、今はそっちのけで、承太郎ただ一人しか目に映っていない。
好きなアイドルを見つめている瞬間が、なによりも至福のひと時だった頃の自分からは、考えられないような大きな変化だ。
やたらとポップなエンディング曲が流れ始めるなか、承太郎が花京院へと僅かに身を屈め、顔を寄せてくる。ああ、キスをされるのだと、花京院は胸を高鳴らせながら目を閉じた。
距離が狭まっていくと、承太郎からふわりと甘い花の香りがした。使っているシャンプーか何かだろうか。彼にしては少し女性的な香りのような気がしたけれど、その甘さが今の気分とえらくマッチしていて、細かいことなどどうでもよくなる。
あと少し。もう少し。承太郎の微かな息遣いすらも、唇に感じるほどの距離。触れるか、触れないかのところで。
どこからか、アラームが鳴り響いた――。
「おっと、もうそんな時間か」
今にも唇同士が触れますよ、というところで承太郎が顔を背け、テーブルの上に置いてあった携帯を手にとる。アラームを解除し、白いボトムのポケットに捻じ込みながら、キス待ち顔で硬直する花京院に再び視線を戻すと、何事もなかったかのように言った。
「八時だぜ。駅まで送るから支度しな」
「は、へ?」
「帰らねえと、親御さんが心配する」
「え、ちょっと、まっ……」
き、キスは――? と、一瞬でブチ壊されてしまったいいムードと、その温度差に戸惑いながら目を瞬かせる。
リモコンを操作してDVDを取り出し、テレビ画面のスイッチを切っている承太郎を、唖然として見つめた。
待て待て、ここからじゃあないのか? 週末の夜、恋人の部屋で恋愛映画のDVDを見て、クライマックスシーンでふたりの気持ちも盛り上がり、さあいざゆかん愛の世界へ――というのが、リア充のお約束ではないのか……?
少なくとも、花京院の脳内辞書にある『リア充』の項目には、そう書いてある。
「ま、待ってくれ承太郎……その、今夜なんだが……両親には、その、あのですね」
――帰らないって、言ってきましたッ!
(……なんて言ったら、迷惑、か)
今夜は帰りたくないの、なんて、上目使いで言っていいのは、人気アイドルグループでセンターを張れるくらいには、華奢で可憐な美少女でなければ許されないことだ。
生憎、花京院は身長、体重、筋肉共に申し分ない、平川ボイスの男子高校生である。
「どうした花京院。なにかあるのか?」
取り出したDVDをケースにしまい、それを差し出してきながら、承太郎が不思議そうに問いかけてきた。花京院は思い切り首を振り、ケースを受け取る。
「い、いえ! そうですね、高校生はもう帰る時間です」
「おう。映画、面白かったぜ」
「ほんとですか? それはよかった。あはは」
引き攣った笑みを浮かべながら、花京院はただおとなしく帰り支度をする以外、他になかった。
***
承太郎に駅まで送り届けてもらった花京院は、どこか温い風にさらされながら、夜のホームで電車を待っていた。
(また今日も駄目だった……)
持参したDVDが入った学生鞄が、やけに重たい。それに比例して、花京院が漏らした溜息もまた、重かった。
花京院が承太郎と恋仲になってから、四ヶ月近くが経過していた。
その間、ふたりは以前のようにメイド喫茶を巡ることもあれば、承太郎が好きだという水族館でデートをしたりと、順調に交際を続けていた。花京院がバイトの日は、終わる頃にあの裏路地で承太郎が待っていてくれて、そのあとファミレスで食事をしたり、夜の公園で語らったりもした。(主に花京院のメイド&アイドル語りを、承太郎がうんうんと頷きながら聞いているだけだったが)
承太郎は本来、花京院が嫌う不良という札をぶら下げた人間ではあったが、あの瓶底眼鏡をして会いに来てくれていた頃となにひとつ変わらず、寡黙で優しい男だった。
そんな承太郎も水族館へ足を運ぶと、そこにいる生物たちを熱心に見つめながら、饒舌に知識を披露してくれる。その意外な一面や、キラキラとした瞳が少年のようで、つい可愛いなんて思ってしまうのだ。
一九五センチの大男を捕まえて、そんなふうに感じてしまう自分は、もはや末期である。
だけど、会えば会うほど好きになっていく。会わない時間は好きなアイドルのことを考えるより、彼に想いを馳せることの方が多くなっていった。
しかし順調と見せかけて、最近の花京院は日に日に溜息の数が増えている。不満、といってもいいかもしれない。
それは承太郎との関係が、あまりにも『清すぎる』というのが原因であった。
この四ヶ月というもの、キスをしたのは数える程しかない。
酷いときはキスどころか、指先が触れることすらなく終わる日もあった。会うのは必ず外だったし、人前で公にできる関係ではないものの、だんだんこれはデートではなく、ただの友達付き合いというやつなのでは――まともに友達がいた試しもないので分からないが――と、疑問さえ抱くようになっていった。
そうこうしているうちに季節は過ぎ、春になると承太郎は高校を卒業して、大学生になった。花京院の方はというと、今年は受験生ということもあり、バイトを辞めざるをえなくなってしまった。つまり、以前のように頻繁に会うことはできなくなってしまった、というわけだ。
けれど嬉しいこともあった。承太郎は大学入学を機に、駅近くにマンションを借りて一人暮らしをはじめた。しかも真っ先に合鍵を作って、花京院に渡してくれたのだ。
これはますますリア充っぽいぞ、と胸をときめかせた花京院だったのだが……。
(まあこの有様ですよね)
現実は、駅のホームで一人きり、である。
承太郎は例えどんなにいいムードになったとしても、花京院に手を出してくることはなかった。それどころか、夜の八時になるときっちり駅まで送ってくれるという有様だ。
今日なんて、わざわざそういうムード作りをするために、手持ちのDVDコレクションの中から、恋愛モノを選んで持ってきたというのに。あそこまで漕ぎつけてお預けを食らうのは、流石にショックが大きい。
(なにもアラームまでセットしなくたって……)
だんだん子供扱いされているような気になってくる。前はここまで時間に神経質ではなかったはずだ。
やはり大学生ともなると、高校生なんてただのガキにしか見えなくなるのだろうか。
承太郎は、ずっと黒で統一していた装いを、大学に入ってから真逆の白へガラリと変えた。その大きな変化が、より彼を大人の男性に昇華させたような気がする。きっと大学には綺麗で大人びた女性がごまんといて、相変わらず承太郎は大勢に群がられているに違いない。
なにせ彼は高校の頃から超がつくほどモテモテだったし、経験豊富なスーパー非童貞なのだ。そんな男がどうして自分なんかを? という今さらな疑問はさておき、花京院の憂心は増していくばかりだった。
「やっぱり童貞って、魅力ないんでしょうか……」
花京院がぽつりと呟くと、いつの間にやら隣で同じく電車を待っていた、よれよれスーツにバーコード頭のおじさんが「え!?」と肩を跳ねさせながら反応した。
「ど、童貞? 童貞なの? 君」
「はい。混じりっけなし、純度百パーセントの童貞です」
「へ、へえ、でも、若いし別にいいんじゃあないかな?」
「そうでしょうか……」
「そ、そうさ。ほら、元気をだして」
ただ近くに並んでいたというだけで、突如として男子高校生の性のお悩みを聞かされるおじさんは、きっとたまったものではないだろう。
「でも、やっぱりぼくなんか童貞だし、ドルオタだし、童貞だし、女性のような色気だってないし、童貞だし、メイドコスが好きな童貞だし――ん?」
(いや、待てよ?)
ハゲ散らかった頭でオロオロするおじさんを他所に、花京院はふと、ひらめいた。
同時に、電車がホームに滑り込んでくる。
「そうか、その手があったかッ!」
花京院が天を仰ぎ、ガッツポーズをしながら声をあげると、目の前で電車の扉が開いた。軽やかなステップで乗り込み、すぐにおじさんを振り返る。
「ありがとうございますおじさん! なんだかイケそうな気がしてきました! ぼく、がんばってみますッ!!」
「え、あ、そうかい? それはよか」
ったね、とおじさんが言い終わらぬうちに、ブシューッと音を立てて、扉が閉まった。
去り際に笑顔で手を振る花京院を見守る形で、心優しいモブおじさんは電車に乗りそびれたのである。
***
翌週。
学校帰りのその足で、承太郎が暮らすマンションまでやってきた花京院は、ガラス張りのエントランスを目前に、いったん歩みを止めた。
両腕に抱え込むようにして持っているのは、いつもの学生鞄の他にもうひとつ、紺色のトートバッグだ。中身はバイトを辞めて以来、めっきり着ることがなくなってしまった、あのメイド服である。
(ぼくとしたことが、盲点だったよ)
駅のホームで悲観的になっていた花京院は、あの瞬間ふと思いだしたのだ。典香としてではなく、素の自分として、初めて承太郎と会話をしたあの夜のことを。
彼は確かに言っていた。
『メイド姿のてめーは、誰よりもいい女に見えた。今まで出会った、どんな女よりもな』
と――。
未だに信じられない話だが、承太郎はメイドコスをした花京院を、本物の女性だと思い込んでいたのだ。
それはつまり、承太郎の目にはむさ苦しい学ランの高校生より、フリフリの衣装に身を包んだメイドの方が、魅力的に映るという何よりの証拠だ。なぜこんな当たり前のことに気がつかなかったのだろう。誰だってどっちに手を出すかと問われたら、断然メイドさんを選ぶに決まっている。
別に女性になりたくてメイド服を着ていたわけではない花京院にとっては、少しばかり不本意ではあるのだが。
(ぼくの中に本来あるはずのない乙女心が、少しでも承太郎の気を引きたくて燃え滾っている……)
死ぬほど恥ずかしいが、ここまできたら潔く認めざるをえないだろう。恋する気持ちが、花京院に羞恥を乗り越えさせようとしている。
花京院はふうっと大きく息をついてから、片手を制服のポケットの中にそっと忍ばせた。そこには承太郎から受け取って以来、まだ一度も使っていない合鍵が入っている。いつでも好きなときに来いと言われていたが、どうも遠慮してしまって使う機会がなかった鍵には、花京院が好きな赤いチェリーのキーホルダーがついている。
これを使って部屋に上がり込み、帰ってくる承太郎をメイド姿で出迎えるというのが今日の作戦だ。
「よし、行くぞ!」
花京院はマンションを見上げ、気合いを入れると作戦を実行に移すべく、エントランスへ突っ込んでいった。
当たり前だが、室内は薄暗く静まり返っていた。
合鍵を使い、承太郎の部屋に入った花京院は、しめしめとほくそ笑みながら、ひとまず鞄をソファの足元に立てかける。
(承太郎が戻るには、まだしばらく時間があるはず。まずは冷蔵庫のチェックをさせていだこう)
ただメイド姿で出迎えるというのも芸がないので、今夜はオムライスを作ろうと決めているのだ。そのために必要な食材等が揃っているかどうか、なければ近くのスーパーへ買い出しに行く必要がある。
合鍵を使うという第一関門を突破した今、花京院に遠慮や戸惑いはなかった。キッチンへ足を踏み入れ、一人暮らしにしては大きな冷蔵庫の扉に手をかける。
――だがそのとき。
ガチャリ、と背後で扉が開く音がした。
「――ッ!?」
ギクリと身を強張らせ、花京院は音のした方を振り返る。
ダイニングと、その向こうのリビングを見渡せるカウンターキッチン越しに、寝室へと続く扉がゴゴゴゴゴ……という、目に見える効果音つきで、ゆっくりと開かれるのが見えた。
(う、嘘だろ承太郎!? もう帰っていたのか!?)
全く気がつかなかった。そういえばこの部屋に入ったとき、玄関に靴があるかどうかのチェックを怠っていたのを思いだす。目先のことにとらわれすぎて、注意力に欠けていたことを後悔しても、もう遅い。
(なんてことだ……早くも作戦失敗か? い、いや、段取りが多少変わるだけで、作戦自体に支障はない……)
とりあえず、ここは不自然にならない程度に、いつも通り振舞わなければ。花京院は顔を出すであろう承太郎を迎え撃つため、キッチンから出てリビングへと一歩一歩近づいた。そして。
「や、やあ承太郎。今日は早かっ――」
「あー、よく寝たわ。つーか寝すぎたわ」
(……え?)
寝室から姿を現したのは、承太郎ではなかった。花京院は目を見張り、予想外の展開に声を失う。
――そこにいたのは……女だった。
金色のメッシュが入った黒髪を、ふたつのお団子頭にしたその女は、明らかにサイズの異なる大きなワイシャツに身体を泳がせながら、うん、と背伸びをしている。惜しげもなく晒される白い生足に、中途半端にボタンを留めているせいで、ざっくりと開いた合わせ目から、胸の谷間が覗いていた。
彼女は欠伸を噛み殺しながら、硬直する花京院に気づくと「あんた誰」と言った。
「……へッ!?」
状況が飲み込めないまま投じられた問いに、つい間抜けな声をあげてしまう。頭の中で、グルグルとジェットコースターが走り回っているような混乱が、花京院に襲いかかった。
(ど、どうなってるんだ!? ここは承太郎の部屋でいいんだよな!? 間違えてないよな!? っていうか彼女、これ、このあられもない格好は……彼シャツというやつじゃあないか!?)
「ちょっとあんた、聞いてんの? まあいいや。悪いんだけどさ、水持ってきてくんない? キンキンに冷えたやつ」
「は、はいッ」
ソファにどんと腰を下ろし、長い足を組んだ女の注文に、花京院はまるで条件反射のように姿勢を正し、大慌てでキッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、取り出したミネラルウォーターを伏せてあったグラスに注ぐ。それを素早くリビングへ運ぶと、ソファの足元に跪いて彼女に差し出した。
「お、お待たせいたしました」
「ん、ありがと」
女はよほど喉が渇いていたのか、グラスを一気に空にする。ぷは、とまるでビールでも飲みほしたような声をあげ、それからすぐに、こめかみを押さえてきつく目を閉じた。
「いでぇーッ! キンキンきたぁーッ!!」
彼女は絶叫しながら組んでいた足を男らしく開き、前屈みになって額を拳でガンガンと叩いている。シャツのサイズが大きすぎるため、大事な部分が今にも全てポロリしそうで、花京院は悲鳴を噛み殺しながら顔を背けた。
ハッキリ言って女性は母親以外、耐性がない。
メイド喫茶でもてなしてくれる女性は、花京院にとってテレビ画面越しに見る虚像と大差ないのだ。完璧にプロデュースされた、綺麗で可愛いお人形さんを眺めている感覚、だろうか。
けれど目の前にいるのは半裸の女性で、その生々しさは童貞にとって、ただの怪物でしかなかった。
怪物は痛みが治まると、すぐに花京院をロックオンしてきた。再び足を組み、ついでに両腕も組んで、ジロジロと上から下まで観察してくる。その威圧的ともとれる態度が、ふと誰かと重なったような気がしたが、蛇に睨まれた童貞……いや、カエル状態の花京院は嫌な汗が噴き出すばかりで、頭が真っ白になっていた。
「ねえあんた、ひょっとしてあいつの友達?」
あいつ、というのは、やはり承太郎のことだろうか。花京院は視線だけ外したまま、彼女に向かってどうにか頷いて見せる。
「ふぅん、なんか意外。パシらされてるとかじゃなく?」
「ち、違います」
「ま、別にどーでもいーけど。それより、あたし今夜は帰るわ」
「え、今夜は……って……?」
微かに首を傾げた花京院の傍を、立ちあがった女が横切っていく。背の高い女だと思った。花京院と、それほど大きな差は感じられない。
(――あれ?)
そのときふと。寝室へ向かう背中を見つめながら、鼻先を掠めた甘い残り香に、花京院は眉を顰めた。
(この、匂い)
週末、この部屋でDVDを見た夜のことを思いだす。
あのとき、キスをする寸前の承太郎からも、確かにこれと同じ匂いがしていた。
まるで女の子が使うようなシャンプーの香り。当たり前のように寝室へ消えて行く女は、裸に承太郎のシャツを羽織っていて、同じ匂いを纏わりつかせながら、今夜『は』帰ると、そう言った――。
「あ、そうだ」
血の気が引いて行くのを感じながら立ちすくむ花京院に、寝室のドアから顔だけを覗かせた女が言った。
「次の休みはパパも戻ってくるし、ママがいい加減、顔見せろってさ。花束くらいは用意しとけって、あのバカに言っておいてくれる?」
ドアの閉じる音が、いやに冷たく花京院の胸に突き刺さった。
どのくらいそうしていただろうか。
花京院がぼんやりと部屋の中央に座り込んでいると、遠くで玄関の扉が開く音がした。
「花京院? いたのか」
リビングに入ってきた承太郎が、灯りのスイッチを入れた。
ぼんやりと座り込んでいる花京院を見て、彼は少し驚いた様子だった。
「……うん、いた」
「来るのは歓迎だが、電気ぐらいつけて待っときな」
「承太郎」
花京院はピクリとも動かず、床の一点を見つめたまま、承太郎の名を呼んだ。承太郎はソファに鞄を置きながら、小さく「ん」と返事をする。
けれど先に続けるべき言葉が出てこなかった。口を開きかけて、すぐに下唇を噛み締める。
様子のおかしい花京院に承太郎が首を傾げ、傍までやってくるとしゃがみ込んだ。顔を覗き込まれて、ゆるゆると視線を上げれば、緑がかったブルーの瞳と視線が合わさる。
聞きたいことは、沢山あった。だけど怖かった。この短時間で、幾つもの動かぬ証拠を見せつけられたとしても。
――承太郎が、浮気をしているなんて。
(嫌だ)
そんなのは嫌だ。信じたくないし、信じない。例え自分ですらまだ着たことがない、彼シャツを羽織った女が寝室から出て来ようが、同じシャンプーの香りをさせていようが、何かの間違いに決まっている。理由を聞けば、きっと「なんだ、そうだったのか」と、納得できる答えが返ってくるはずだ。
なのに、どうしてかそれを確かめるのが怖くて仕方ない。だから花京院は、考えるのをやめた。
「……なしだ」
「あ?」
「ぼくは何も見なかった。だから、さっきのはなしだ」
「……なんの話だ?」
何を言っているんだこいつは、という顔で、承太郎が首を傾げている。花京院は勢いよく立ちあがり、ズァッと例のポーズを決めると言った。
「と、いうわけで、前回のセーブポイントまで、記憶をリセットさせていただこうッ!!」
だいたいこの部屋で、冷蔵庫を開けようとしていたあたりだろうか。花京院は気分をそのポイントまで、強制的に巻き戻した。完全なる現実逃避である。
(そう、あんなバッドエンドまっしぐらなイベントはなかった。だから、計画に変更もないッ!)
花京院はソファの足元に置き去りにしていたトートバッグをむんずと掴むと、ぽかんとしている承太郎をメラメラと燃えた瞳で見据える。
「ちょっと準備があるので、洗面所をお借りします」
「お、おう?」
「では失礼」
トートバッグを脇に抱え、右手で挙手の敬礼をしつつ、花京院はリビングを出ると洗面所へ向かった。中に入り込み、バァンと凄い音で扉を閉めること数秒。再びバァンと扉を開けて姿を現した花京院は、魔法少女や某男性アイドル事務所もビックリな早着替えで、メイド服にフォームチェンジしていた。
「か、花京院、その姿は……ッ!」
胸元の大きなリボン。黒いロングワンピースに黒タイツ、そして純白のエプロンとヘッドドレス。あの日承太郎が一目惚れをしたという、ごっつい――いや、可憐なメイドがそこにいた。
しゃがみ込んだままだった承太郎が、勢いよくすっくと立ちあがり、心なしか赤い頬をしてこちらを指さす。
「典香……ッ、典香じゃあねえかーッ!!」
「その通り。承太郎、今宵ぼくは君だけのメイドさんだ!! 存分に堪能していただこうッ!!」
「うおぉぉッ!!」
ガッツポーズをしている承太郎。少し複雑だが、ここまで掴みがバッチリだと、逆に気分爽快である。それに、店では基本ネタ枠扱いだったため、男性から喜ばれる、というのはやっぱり悪い気がしない。ましてやそれが好きな相手ともなれば、尚更だった。
(イケる……ぼくは今、確かな手応えを感じているッ!)
「承太郎ッ!」
「花京院ッ!」
互いに名前を呼んで、大きく両手を広げる。フローリングの床を蹴り、思い切りその胸に飛び込んだ。気分はさながら、夕暮れ時の白い砂浜だ。心なしか、波の打ち寄せる音すら聞こえるような気がしてくる。
広い背中に腕を回せば、逞しい両腕が花京院を抱きすくめた。ふわりと、あのシャンプーの香りがしたような気がしたけれど、花京院は承太郎の肩に鼻先を埋め、懸命に彼そのものの匂いを探して吸いこんだ。
(承太郎……好きだ……)
内側から思いが溢れて、なんだか少し、泣きたくなった。
(こんなに好きになるなんて)
自分は男で、相手も男で、ずっと可愛いアイドルを追いかけていたはずだし、いつかはこんな自分でも綺麗な奥さんをもらうのだと、当たり前のように思っていたのに。
承太郎の大きな手が、花京院のひと房だけ長い前髪を梳くように、優しく触れた。痛いくらい胸が締め付けられるのを感じながら、肩に埋めていた顔をあげる。
花京院は知らず知らずのうちに、すみれ色の瞳を潤ませていた。ぼやけた視界に、承太郎の瞳がキラキラと輝いて映る。綺麗だ。本当に、綺麗な男だ。だけど――。
この瞳が、柔らかそうな唇が、力強い腕が、他の誰かを抱いているかもしれない。忘れたふりでここまで突っ走ってはみたけれど、人の記憶や心は、ゲームをリセットするみたいに簡単にはできていないことを知っている。それでも。
「承太郎……キス」
承太郎が、息を飲む。
「キスが、したい、です」
こんな風に自分から誘うのは、初めてだった。だけど今は、この男がどこまで応えてくれるかが、何よりも重要な気がしている。
キスをして、その先へ進んで、彼がこの身体を愛してくれたなら。膨らみ続ける不安や疑念が、消えてなくなるような気がしていた。
ごくりと音を立てて、承太郎がぎこちなく喉を鳴らしたのがわかる。
前髪に触れていた指先が、熱を持った頬に滑り落ちてきた。親指が顎に添えられると、花京院は静かに目を閉じる。
承太郎の唇が、そっと優しい口付けを落とした。
心が震えて、じんと痺れるのを感じる。嬉しい。だけど、今の花京院には足りなかった。触れただけですぐに離れてしまった唇に、やっぱり不安はこびりついたまま消えることはなかった。だから恥も外聞も捨てて、言った。
「キスよりもっと先のことも、してください」
承太郎がまた息を飲んだ。さっきより大きく、肩すら震わせて。花京院は頬に触れていたその手を掴んで、自分の胸元へと導いた。大きなリボン越しに掌を押し付けさせて、高鳴る鼓動が届くようにと。
「承太郎、ぼくは君が好きだ。君になら、何をされてもいい」
もう一生童貞だっていい。魔法使いにだってなってやる。
だからどうか、信じさせてほしい。
その想いを込めて、花京院は爪先を立てて背伸びをする。今度は自分から、承太郎にキスがしたかった。けれど。
「花京院ッ……!」
触れる寸前で、両肩を強く掴まれ、引き離されていた。
「じょうたろう?」
「やめろ、花京院」
開いてしまった距離と、真っ直ぐに向き合っているはずなのに、逸らされている視線。花京院は身体が足元からガラガラと崩れ去っていくような感覚を味わった。
「承太郎……ぼくとは、したくありませんか……?」
「…………」
「君が好きな典香になっても、それでも、やっぱり本当の女の人じゃなくちゃあ、ダメですか……?」
「違う。そうじゃあねえ」
承太郎はどこか追い詰められたような顔をしていた。苛立っているようにも見えて、ああ、失敗だったのだと、そう感じる。
承太郎は何かを逃がすように、大きく息を吐きだした。そして、逸らしていた視線を、ようやく真っ直ぐに向けてくる。
「おれはな、花京院」
「……はい」
「そういうことは、結婚してからって決めてるんだぜ」
「……はい?」
結婚? 結婚というのは、あの結婚のことか?
「だから、ここでする気はねえ」
きっぱりと告げられた拒絶の言葉を聞きながら、花京院はさっきの女が残した言葉を思いだしていた。
『次の休みはパパも戻ってくるし、ママがいい加減、顔見せろってさ。花束くらいは用意しとけって、あのバカに言っておいてくれる?』
もう現実逃避はできそうもなかった。
承太郎はあの女性と、ここで結婚を前提とした半同棲暮らしを送っている。近いうちに花束を持って、彼女の実家へ挨拶に行く予定すらあるということだ。
「だ、だからよ花京院。積極的なてめーも悪かあねえが、もうしばらくは――おい、聞いてんのか?」
「……か……やろう」
「なんだ?」
「承太郎の、大バカ野郎ッ!!」
「ぅおおッ!?」
気がつくと、花京院は承太郎の腹部に正拳突きをかましていた。ドォンと音がして、その巨体が背中から壁に打ち付けられる。(ちょっと壁にめり込んだ)
「君はやっぱり最低の不良だッ! なにが結婚してからだ!! 笑わせるんじゃあない! さんざん女性を取っかえ引っかえしていたくせに、何を今更ッ!!」
「お、おいてめー、そりゃあ一体どういう……カハッ」
少年漫画の戦闘シーン吐血をしながら、承太郎が震える手を伸ばす。が、怒りに支配された花京院は、彼の声に耳を傾けるだけの余裕がなかった。
「こんな最低野郎に騙されていたぼくがバカだった! 君なんか、彼シャツ女子と末永く爆発していればいいッ!!」
「ま、待て花京院ッ!」
走り去ろうとした背中に、非痛な声がかけられる。背を向けたまま足を止めた花京院に、承太郎が言った。
「帰る、のか」
「……ああ、止めないでくれ」
「そんな可愛い格好じゃあ、変態モブに襲われちまう、ぜ」
「ハッ! そうだ、このまま飛び出して行ったら、補導されて職質されるのはぼくの方じゃあないかッ!!」
花京院は慌てて洗面所へ駆け込むと、一瞬で早着替えをして再びリビングへ戻った。ついでに鞄を忘れるところだったのを思いだし、ソファの足元から手に取ると、先ほどと同じ立ち位置に戻る。気を取り直し、こほんと咳払いをすると、息を吸いこんだ。
――テイク2――
「こんな最低野郎に騙されていたぼくがバカだった! 君なんか、彼シャツ女子と末永く爆はちゅ……ッ、く、くそ、噛んだッ!!」
「か、花京院ッ!!」
「ええいもういいッ! さよならッ!!」
今度こそ立ち止まることなく、花京院は承太郎の部屋から飛び出した。
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『ねえ典明、そっちのお人形さんより、こっちのロボットの方がカッコいいわよ。ここをこうするとほら、飛行機になるの。凄いでしょう? こっちを買ってあげるわ』
あれはまだ五つにも満たない、幼い頃だったろうか。
誕生日プレゼントに好きなものを買ってくれるというので、両親と三人でおもちゃ屋へ行ったときのことだ。
幼い花京院の胸をときめかせたのは、変身ヒーローでも変形ロボットでもなんでもなく、沢山のフリルがついたメイド服を着た、可愛らしい女の子の人形だった。
『や、です。ぼく、こっちのほうがいい。こっちのほうがかわいい』
『あのね、それは女の子のオモチャなの。典明は男の子なのだから、そんなものを欲しがってはいけないのよ』
『でも……』
可愛らしい人形を抱きしめながら俯く花京院に、ずっと黙っていた父が膝をついて目線を合わせながら、人形を奪い去った。
『あっ、ぼくのおにんぎょうさんっ』
『典明。おまえは家でも女の子のアニメばかり見ているそうじゃあないか。どうしてそんなものが好きなんだ?』
『だって、キラキラしてて、かわいいから……』
『そんなことでは笑われてしまうぞ。もっと男らしくしなさい。そうだ、この車のラジコンなんかどうだ? 赤くてかっこいいだろう。プレゼントはこれにしよう』
そう言って、父は勝手にラジコンの箱を手に、会計を済ませてしまった。
花京院はありがとうと言ってそれを受け取ったが、心の中ではちっとも嬉しく感じなかった。
父が言うように、花京院は女児向けのアニメばかりを好んで見ていた。綺麗で可愛らしい服を着て、魔法の力で敵を倒す姿が、剣や拳で荒々しく戦うヒーローたちよりもずっと、魅力的に見えたからだ。
だけど父と母は、それを恥ずかしいことだと言う。男なら、男らしくしなさいと。
花京院は別に、女の子になりたいなんて思っていたわけじゃない。ただ眺めていられるだけで満足だったのに、それさえもいけないことだと言われてしまう。
けれど駄目だと言われるほどに好きな気持ちは膨らんで、抑えられなくなっていった。しかし同時に、両親が間違ったことを言うはずがないとも思っていた。
だからきっとこれは父が言うように、人に知られたら笑われてしまうような、恥ずかしいことなのだと感じた。
以来、花京院は少女趣味をひた隠して、両親を含め周りの人間と接するようになった。小学校に上がると、クラスメイトの男子たちと無理にでも話を合わせるように、努力もした。
けれど、いつしかそれに疲れ切ってしまった。
あるときから、花京院はクラスメイトたちと距離を置くようになっていった。自分を偽り、好きでもなければ興味もない話題に食いついて行くことに、なんの意味もないことに気がついてしまったからだ。
一人で過ごすことが多くなっていった花京院は、大人しくて気弱そうな見た目も相まって、イジメの標的にされてしまった。
『おい典明、オレのランドセルしっかり持てよな』
それは小学四年生にあがった頃のことだ。
数人の男子グループに、花京院は毎日のようにイジメを受けていた。
形が残るような暴力を受けていたわけではないが、靴を隠されたり、体操着を泥まみれにされたり、放課後になると必ず全員のランドセルを持って歩かされた。
『お、重いよ……自分で持ってよ……』
『てめえこら、俺に口答えする気か!?』
少しでも抵抗すると、決まってそのグループのリーダー的存在が拳を振り上げ、殴るふりをする。彼は花京院よりも身体が大きく、そんな風にされると、例えふりでも恐ろしかった。実際、花京院はどちらかと言えば気弱な性格をしていたのだ。
リーダー格の少年は学校一の悪ガキと称され、先生たちも手を焼く存在だった。暴力的で、態度が大きく、口汚くて、しょっちゅう女子の髪を引っ張っては、泣かせているような問題児だ。近所の人たちはいつも彼のことを「そのうち不良になって、もっと手がつけられなくなるに違いない」なんて噂していた。
『女みてーな顔しやがって。おめー、実はチンコついてねぇんだろ!』
『な、そ、そんなわけないだろ! ちゃんとついてる!』
『嘘つけ~! おいみんな、コイツの服を脱がせて、ついてるかどうか確認しようぜ!』
花京院はゾッとして、両腕いっぱいに持っていたランドセルを、地面に落とした。そしてニヤニヤしながら飛びかかってこようとする男子たちから、必死で逃げた。
何度も追いつかれそうになりながら、泣きたいのをぐっと堪えて自宅に逃げ込むと、彼らは流石に諦めて帰って行った。
笑顔で迎えてくれる母は、花京院が帰ると決まって『学校はどうだった?』と聞いてくる。
花京院はそれに笑顔で『楽しかったよ』と答えて、部屋に閉じこもるとベッドに潜り、ひっそりと泣くのだ。そんな自分がとても惨めで、悔しくて仕方がなかった。
あの連中に、とりわけリーダー格の少年に自分の趣味がバレでもしたら、本当に外で丸裸にされてしまうかもしれない。そんな風に考えて怯える自分自身が何より許せなくて、あんな奴らに負けないよう、強くならなくてはと胸に誓った。
成長と共に、イジメはなくなっていった。
だけど惨めな子供時代を払拭するため、花京院は必死で身体を鍛えた。
趣味は相変わらずで、高校に入るとすぐに例の喫茶店でバイトを始めた。性別は男でも、毎日可愛いメイド仲間に囲まれて働くのは楽しかった。
バイト代が入ると、本格的にメイド喫茶に通うようになった。
そこには幼い頃、おもちゃ屋で父に奪われた人形にそっくりな、可愛らしいメイドが沢山いた。
彼女たちはみんな優しくて、明るくて可愛くて、常連客の多くが自分と同じようなオーラをまとっていた。家ですら本心をさらけ出せない花京院にとって、メイド喫茶はまさに心癒される、唯一の場所になっていった。
***
「はぁ……」
バイトが終わり、狭い休憩室でメイド服から制服に着替えた花京院は、ロッカーの扉を閉めながら、溜息を漏らした。
最近ずっとこの調子だ。ふと気がつくと溜息ばかりついていて、そういうときは決まって承太郎のことを考えている。
孤独な幼少期を過ごした花京院にとって、彼は初めてできた友達のはずだった。どこからどう見てもメイド服なんて似合うはずがない花京院を女だと思い込み、男だと知ってからも、似合うと言ってくれた。
店に来る男性客から冗談で褒められることはあっても、あんなに真剣な様子で言われたのは初めてで、変わった男だとは思ったが、純粋に嬉しかった。
見た目も規格外なデカさには少し驚いたが、多くを語らない物静かさに、安心感をもてた。
(でも今にして思うと、やっぱり変、だったよな)
メイドが好き、と言う割にはまるで知識がないように思えたし、何度か承太郎のおススメの店や、こだわりを尋ねたことはあったが、返答は得られなかった。
ただいつも、黙って花京院の行きたい場所について来てくれた。花京院の話に、いちいち丁寧に頷いてくれた。分厚い眼鏡に隠れた目元からは、彼が何を感じているのかは分からなかったけれど、時々ふっと口元に浮かぶ笑みに、承太郎の優しさを感じた。
彼のそばにいると、どうしてかとても楽に呼吸ができた。
歩道を歩くときはさりげなく車道側を歩いて、あの大きな身体で歩幅を合わせてくれていたことに、花京院はちゃんと気がついていた。
好きなものを好きだと言える、自分の在り方を否定せず、受け入れてくれる、そんな承太郎は花京院にとって、特別な存在になっていったのだ。
しかしそれは、彼の本来の姿ではなかった。
(あんな超ド級の男前が、どうしてわざわざあんな格好をしてまで……)
好きだ、なんて。
冗談にしては、あまりにも性質が悪い。
実際の彼は壁に手の平をめり込ませながら、不遜な物言いをする男だったのだ。
素顔はこの世のものとは思えないほどの美しさだったが、本当の承太郎は、花京院が苦手とする人種そのものといっても過言ではなかった。再び、溜息が漏れる。
「おう、典明お疲れ~」
するとそこに、少し遅れて上がってきたヨシオが、ガニ股で歩いてやって来た。
格好はまだメイド姿のため、店に出ているときとのギャップが激しい。せめて制服に着替えるまでは素を見せないでほしい……と思いつつ、笑顔で答える。
「お疲れ様です、ヨシオさん」
「なに、溜息なんかついて。なんかあったん?」
「い、いえ、なんでもありませんよ」
「そ~お?」
ヨシオはヘッドドレスとウィッグをまとめて外しながら、側にある革製の長椅子にどっかりと腰かけた。そして、何か思いついたように「そういやさ」と話を切り出す。
「最近あのでっかいお客さん来ないよな。確か典明、ダチなんだろ?」
思わずギクリと身を強張らせたが、すぐに笑顔を取り繕って「別に」とだけ返事をする。けれどヨシオはまだ気になる様子で、腕を組むと低く唸った。
「あのお客さん、前から思ってたけど、JOJOに似てるよな」
「JOJO、って……あの有名な不良の?」
「そそ。あの有名な不良」
「会ったことがあるのですか?」
「この近くの高校らしくて、たまに見かける程度だけどさ。そういや最近はあんま見ないなぁ……実はアレ、本人だったりして?」
「…………」
そういえば前にも同じことを聞いたような気がする。
あれは確か、駅裏を二人で歩いていたときのことだ。初めてメイド喫茶巡りをしたあの日、見知らぬ女性二人組が、承太郎を見て今のヨシオと同じようなことを言っていた。
自分も前に一度だけ、表の大通りでその姿を見かけたことがある。日本人離れしすぎた大きな身体と、鎖のついた改造長ランという、噂通りの装いをしてはいたが、その顔は帽子の鍔に隠れて見ることはできなかった。
花京院は力なく笑いながら「まさか」と言った。
「承太郎はそんな札付きのワルなんかじゃありませんよ。多分、ですけど」
言いながら、正直自信はなかった。
あの眼鏡も服装も変装だと言っていたし、いつもはどんな格好をしているかなんてわからない。結局のところ、花京院は『承太郎』という名前以外、彼のことを何も知らないのだ。だけど、流石に彼があのJOJOだなんて。
(ありえない……よな?)
なぜか縋るような目でヨシオを見た。そうだな、と言って笑い飛ばしてくれるものとばかり思っていたヨシオが、どうしてか真っ青な顔で目を見開き、花京院を見上げている。
これはもう、嫌な予感しかしない。
「よ、ヨシオさん?」
「承太郎、って……お、おまえ……マジか」
「え……?」
思わぬ形で、花京院は承太郎の正体を知ることになってしまったのである。
***
映画館での出来事から、一ヶ月ほどが経過していた。
その間にクリスマスが過ぎ、新年を迎え、冬休みが終わっていた。
かつて女に言い寄られることはあっても、フラれた経験がない承太郎は、ありえないほどドン底まで落ち込んでいた。
店に通うこともすっかりやめて、必要以上に売られたケンカを買っては、苛立ちを晴らす日々が続いている。
情けない。たった一度の失恋で、これほど荒んでしまうとは。
だけど時間が経つほどに、あの映画館でのことが承太郎の感情を蝕んでいくのだ。
花京院は、やはりこの素顔を見て怯えた。素の態度を見て、震えていた。好きだと真っ向から告げた思いを、ハッキリと拒絶した。
自分がこんなにも引きずってしまう性格をしていたなんて、こんなことになるまで知らなかった。元々こうだったのか、それとも花京院が自分をこんな情けない男に変えてしまったのか。
とにかく、承太郎は生まれて初めての失恋から、ただじめじめと腐っていくばかりだった。
放課後、校門から出る承太郎の周りには、相変わらずやかましい女どもが付き纏っていた。
「ねぇんJOJO! 今日こそ喫茶店! 一緒に行ってくれるでしょ?」
「やぁん! 映画の方がいいわよ! あま~い恋愛モノなんて……どうかしら?」
「それよりJOJO、晩ご飯食べに来ない? 愛情たっぷりのオムライスよ!」
喫茶店、映画、オムライス……ことごとく地雷をブチ抜いてくる彼女たちをガン無視する素振りで、承太郎は青筋を立てながらもダメージを食らう。
わちゃわちゃと騒ぎ続ける彼女たちは、そろそろキレてもおかしくない頃合いで黙り続けている承太郎を見て、顔を見あわせながら首を傾げた。
「JOJO、最近あまり元気がないわね」
「こないだまで放課後はさっさと消えていなくなっていたけど、それが何か関係あるのかしら」
「悩んでいるなら言ってくれれば、いくらでも慰めてあげるのに……」
(やれやれだぜ……)
鬱陶しい女どもにまで心配されてしまうとは、いよいよ焼きが回ったものだ。
このままいつまでもヘタレていていいわけがない。
だからと言ってあの花京院の、全力で放たれた「NO」がすぐに頭から離れるわけでもなく……つい低く溜息を漏らす承太郎だったが、女子の一人の「ねぇ、あの人ちょっとよくない?」という声に視線を上げた。
そして、目を見開いた。
「この辺では見ない顔よね? ……結構いいかも」
「やだ浮気? あたしは断然JOJOの方がいいわ!」
「あたしも! JOJOの方が素敵よ!」
「やかましいッ!!」
承太郎はその人物を真っ直ぐ視界に捉えながら足を止め、久しぶりに声を張り上げた。寒空の下、空気が一瞬でピンと張りつめる。
道端の電柱に背を預け、どこか険しい表情でこちらをじっと見つめているのは、あの緑色の長ランに赤いマフラーをした、花京院だった。
(花京院……なぜここに……?)
互いに見つめ合って何も言わないふたりを見て、女子たちは黄色い悲鳴をあげるでもなく「ケンカね」とコソコソと耳打ちしあう。
「おれはあの野郎に話がある。おまえらはさっさと帰りな」
花京院から目線は外さないまま、軽く顎をしゃくって見せた。
すると彼女たちは心得たとばかりに「頑張ってね!」「明日こそデートしましょ!」などと口々に言いながら、去って行く。
ひとまず邪魔な連中は消えたが、学校からさほど離れていない通学路には、他にも下校中の生徒たちが行きかっていた。
彼が何の用でここへ来たのかはさておき、ひとまず場所を変える必要がありそうだ。
「来な。ここじゃ目立つ」
承太郎の提案に、花京院は表情を強張らせたまま「わかった」と頷いて、電柱から背を離した。
花京院と連れだって向かったのは、そこからほど近い場所にある、小さな公園だった。
錆びて赤くなったブランコと滑り台、塗装が剥がれきって不気味な何かにしか見えなくなっているパンダなど、今や子供たちから見向きもされない遊具たちが、夕陽の下ひっそりと打ち捨てられている。
生え放題の雑草を踏みしめながら、二人は中央に一本だけ植えられた、枯れ木の側で足を止めた。
「花京院」
数歩先にある背中を見つめ、承太郎はその名を呼んだ。
すると彼は怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える下がり眉で、振り向いた。
「――空条承太郎」
少し大きめの唇が、はっきりと承太郎のフルネームを口にする。そして、小さな溜息を漏らした。
「それでJOJO、か」
「…………」
承太郎は何も返すことができなかった。
意図していたわけではないが、結果的に隠す形になっていた苗字。誰に聞いたのか訊ねたところで、意味はない。
可能なら自ら打ち明けたかったが、思えばいつバレてもおかしくはなかったのだ。
「まさか君があの有名な不良だったとは……やっぱりぼくを騙していたんだな」
「花京院、確かにおれは」
「しかも超ド級のイケメン、高身長に均整の取れた嫌味なくらい完璧な肉体、女子にモテモテなばかりか、顔色ひとつ変えずにやかましいと怒号を浴びせ、すげなく追い払ってもなお黄色い声援を送られる、これは確実に非童貞、確実に各地に恋人を作り、何股もかけている悪しきリア充、完全なる勝ち組、悪の秘密結社……」
「か、花京院……?」
「……ハッ」
鬱々とした黒いオーラを放ちながら、ブツブツとなにやら呟いていた花京院は、呼びかけると正気に戻った。軽く咳払いをしてから、大きく息を吐き出している。
その様子があまりにもドス黒かったため、「おれは童貞だぜ」と言いだすタイミングを完全に逃した。
「し、失礼。取り乱した」
「いや……それよりいいか。続けても」
「……駄目だ」
「花京院……?」
「もう十分だ。なんの余興か知らないが、やっぱり君はぼくを騙して、からかっていたんだ。ぼくがここに来たのは、君が本当にあのJOJOかどうかを、この目で直接確かめるためだ。だからもう用はない。さよならだ、承太郎」
そう言って、俯いた花京院は足早に承太郎の横を通り過ぎようとした。
承太郎は即座にその二の腕を掴んで引き止める。
「待て」
「離せ! 君と話すことはなにもない!」
「嘘をつくんじゃあねえッ!!」
「ッ!?」
思わず声を荒げると、花京院はビクンと大きく肩を震わせて、承太郎を見上げた。その見開かれた瞳には明らかに怯えの色が浮かんでいて、承太郎は掴んでいた二の腕の力を緩めると「すまん」と一言、謝罪する。
だがもちろんこのまま帰す気はない。
「ただその目で確かめるだけなら、わざわざおれの前に姿を現す必要はなかったはずだぜ」
「…………」
「だけどてめーはこうしておれの目の前にいる。それはなぜだ」
その疑問は、ただ引き止めたいだけの口実に過ぎなかったのかもしれない。だけど彼とこうして顔を合わせるのは、これが最後かもしれないのだ。どんな些細な疑問でも、残せばこの先一生、後悔するような気がした。
恨み言のひとつでも吐かなければ、気が済まなかっただけだと。もしそう言われてしまったら、本当にそれまでだった。どこまで行っても、自分は彼の苦手とするタイプの人間だ。だからこそ、あんなくだらない変装までしたのだから。
けれどそれによって、花京院の心を傷つけてしまったのは確かだった。
その気もない相手を力ずくでも手に入れようとするほど、承太郎の性根は腐っちゃいない。
本当は何がなんでも欲しいと思っていた。典香としての彼に恋をしたあの日、承太郎は確かにそのつもりでいた。
だけど花京院と共に過ごすうち、承太郎は知ってしまったのだ。失くしたくないと思うものほど、大切なものほど、ちっとも思い通りにならなくて、壊れやすいということ。
欲しいと思うものほど、決して手が届かないということを。
承太郎は恋をして、臆病になってしまった。
「確かにおれはてめーを騙していた。今さら何を言っても言い訳にしかならねえだろう。だがこれだけは言う。てめーを、傷つけるつもりはなかった」
掴んでいた二の腕を、そっと離した。
俯く花京院が何を言うのか、それとも何も言わずにこのまま去るのか。いずれにしろ受け止めるしかない。
心の底から惚れた相手をこれ以上不快にさせ、追い詰めることはしたくなかった。
花京院は承太郎の視線から逃れるように顔を背け、薄い唇を噛み締めた。それから、吐き出す息を白く震わせる。
「……楽しくないんだよ」
零された声は、独り言のように小さなものだった。
承太郎は全神経を張り詰めさせ、一語一句聞き逃すまいと耳をそばだてる。
「あれから……映画を観てもライブを観ても、メイド喫茶に行っても……なにも楽しくない……」
承太郎は目を見開いた。
どこか悔しそうに表情を歪める花京院の瞳がじわりと潤む光景を、信じがたい気持ちでじっと見つめる。
「承太郎がいないってだけで、何も楽しくないんだッ!」
彼はついに声を荒げた。寒々とした冬の空気が、大きく震える。堰を切ったように、胸の内を吐きだす花京院の言葉は止まらなかった。
「あれから店にだって来やしない! 君がJOJOだって知って、だけど信じたくなくて……だからそれを確かめたら、本当に帰るつもりだった! でも、だけど……ッ!」
――女の子達と歩いている姿を見たら、どうしようもなく腹が立った。
花京院は聞こえるか聞こえないかの小さな声でそう言って、涙を堪えながら承太郎を睨み付ける。
目元や鼻の先を赤く染めて、肩を怒らせて、眉を吊り上げて。
「ぼくのことが好きだって……言ったくせにさ……ッ!!」
その瞬間、承太郎は衝動的に彼を引き寄せ、思い切り抱きすくめていた。
「ッ……!!」
「だからわざわざ姿を現したって? おっかねえ不良のおれにくっついて、ここまでのこのこついて来たってのか?」
「……そうだよ。恨み言のひとつでも言ってやらなきゃ、気が収まらなかったんだ。だから来たんだよ」
「てめーは……可愛すぎか……」
(そのまま帰りゃあ済んだもんを、そうすりゃ諦めてやったもんを……ッ!)
彼は分かっているのだろうか。自分に惚れている男にそんなことを言えば、もうあの『NO』なんて拒絶の言葉が、無効になってしまうことを。
初めて抱きしめた花京院の身体は、承太郎の腕にあまりにもよく馴染んだ。
華奢というにはほど遠い、それなりにいいガタイをしているくせに、刀が鞘に収まるように、すっぽりと包み込めてしまう。
それがなぜか、酷く承太郎の胸を締め付けた。
「マジだぜおれは……花京院、てめーが好きだ。てめーに惚れてる。バカみてーによ」
花京院の強張っていた身体から、ほんの僅かに力が抜けた。
承太郎の肩に濡れた目元を押し付けて、彼は蚊の鳴くような声で言う。
「君のせいだ」
「花京院……?」
恐る恐るといった様子で、承太郎の背に花京院の腕が回った。
その感触は小さく震えていて、まだ彼が戸惑いや恐れを拭いきれないでいることを、承太郎に知らせる。
「ずっと一人でも平気だったのに。いつだってその方が楽だったのに。君のせいだ。君がぼくをこんな風にしたんだ。君が、承太郎が……ッ」
背中に添えられるだけだった手に、強く制服を掴まれる。その手は、もう震えてはいなかった。
「……ぼくも、好きだ」
か細い声が、それでも確かに承太郎の鼓膜を揺さぶる。
「好きに、なってしまった」
承太郎は目を見開き、今度は自分の身体が微かに震えていることに気がついた。胸の奥底から、熱くて激しい感情が溢れだして止まらない。
これ以上の喜びが他にあるだろうか。自分でも呆れるほどの手間をかけて、遠回りをして、諦めかけて。
それでもやっと、この手に掴むことができた。
承太郎は強く抱きしめていた腕の力を、僅かに緩めた。花京院がおずおずと顔をあげ、潤んだ瞳で見上げてくる。
近すぎるほどの距離で視線が絡み合うと、まるで時が止まったような気がした。ゆっくりと、引き寄せられるように、ふたりは同時に目を閉じると唇を重ね合った。
それはどこかぎこちなくて、ほんの一瞬で離れてしまったけれど、眩暈がするほど熱くて、柔らかくて、甘いと感じるキスだった。
「全部話すぜ。おれがどうやっててめーを知って、惚れて、あんな馬鹿な真似をしたのかをよ」
「……うん」
「そしたら、今度は最初から」
――おれと、ちゃんと恋をしてくれるか。
低い問いかけに、花京院はゆらゆらと涙に濡れた瞳を見開き、やがて何か込み上げてくるものをぐっと耐えるように目を細める。そして。
「――はい」
しとやかに恥じらいながら、花が綻ぶような美しい笑顔を見せた。
承太郎さんがごっつい女(?)に恋をする話・終
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あれはまだ五つにも満たない、幼い頃だったろうか。
誕生日プレゼントに好きなものを買ってくれるというので、両親と三人でおもちゃ屋へ行ったときのことだ。
幼い花京院の胸をときめかせたのは、変身ヒーローでも変形ロボットでもなんでもなく、沢山のフリルがついたメイド服を着た、可愛らしい女の子の人形だった。
『や、です。ぼく、こっちのほうがいい。こっちのほうがかわいい』
『あのね、それは女の子のオモチャなの。典明は男の子なのだから、そんなものを欲しがってはいけないのよ』
『でも……』
可愛らしい人形を抱きしめながら俯く花京院に、ずっと黙っていた父が膝をついて目線を合わせながら、人形を奪い去った。
『あっ、ぼくのおにんぎょうさんっ』
『典明。おまえは家でも女の子のアニメばかり見ているそうじゃあないか。どうしてそんなものが好きなんだ?』
『だって、キラキラしてて、かわいいから……』
『そんなことでは笑われてしまうぞ。もっと男らしくしなさい。そうだ、この車のラジコンなんかどうだ? 赤くてかっこいいだろう。プレゼントはこれにしよう』
そう言って、父は勝手にラジコンの箱を手に、会計を済ませてしまった。
花京院はありがとうと言ってそれを受け取ったが、心の中ではちっとも嬉しく感じなかった。
父が言うように、花京院は女児向けのアニメばかりを好んで見ていた。綺麗で可愛らしい服を着て、魔法の力で敵を倒す姿が、剣や拳で荒々しく戦うヒーローたちよりもずっと、魅力的に見えたからだ。
だけど父と母は、それを恥ずかしいことだと言う。男なら、男らしくしなさいと。
花京院は別に、女の子になりたいなんて思っていたわけじゃない。ただ眺めていられるだけで満足だったのに、それさえもいけないことだと言われてしまう。
けれど駄目だと言われるほどに好きな気持ちは膨らんで、抑えられなくなっていった。しかし同時に、両親が間違ったことを言うはずがないとも思っていた。
だからきっとこれは父が言うように、人に知られたら笑われてしまうような、恥ずかしいことなのだと感じた。
以来、花京院は少女趣味をひた隠して、両親を含め周りの人間と接するようになった。小学校に上がると、クラスメイトの男子たちと無理にでも話を合わせるように、努力もした。
けれど、いつしかそれに疲れ切ってしまった。
あるときから、花京院はクラスメイトたちと距離を置くようになっていった。自分を偽り、好きでもなければ興味もない話題に食いついて行くことに、なんの意味もないことに気がついてしまったからだ。
一人で過ごすことが多くなっていった花京院は、大人しくて気弱そうな見た目も相まって、イジメの標的にされてしまった。
『おい典明、オレのランドセルしっかり持てよな』
それは小学四年生にあがった頃のことだ。
数人の男子グループに、花京院は毎日のようにイジメを受けていた。
形が残るような暴力を受けていたわけではないが、靴を隠されたり、体操着を泥まみれにされたり、放課後になると必ず全員のランドセルを持って歩かされた。
『お、重いよ……自分で持ってよ……』
『てめえこら、俺に口答えする気か!?』
少しでも抵抗すると、決まってそのグループのリーダー的存在が拳を振り上げ、殴るふりをする。彼は花京院よりも身体が大きく、そんな風にされると、例えふりでも恐ろしかった。実際、花京院はどちらかと言えば気弱な性格をしていたのだ。
リーダー格の少年は学校一の悪ガキと称され、先生たちも手を焼く存在だった。暴力的で、態度が大きく、口汚くて、しょっちゅう女子の髪を引っ張っては、泣かせているような問題児だ。近所の人たちはいつも彼のことを「そのうち不良になって、もっと手がつけられなくなるに違いない」なんて噂していた。
『女みてーな顔しやがって。おめー、実はチンコついてねぇんだろ!』
『な、そ、そんなわけないだろ! ちゃんとついてる!』
『嘘つけ~! おいみんな、コイツの服を脱がせて、ついてるかどうか確認しようぜ!』
花京院はゾッとして、両腕いっぱいに持っていたランドセルを、地面に落とした。そしてニヤニヤしながら飛びかかってこようとする男子たちから、必死で逃げた。
何度も追いつかれそうになりながら、泣きたいのをぐっと堪えて自宅に逃げ込むと、彼らは流石に諦めて帰って行った。
笑顔で迎えてくれる母は、花京院が帰ると決まって『学校はどうだった?』と聞いてくる。
花京院はそれに笑顔で『楽しかったよ』と答えて、部屋に閉じこもるとベッドに潜り、ひっそりと泣くのだ。そんな自分がとても惨めで、悔しくて仕方がなかった。
あの連中に、とりわけリーダー格の少年に自分の趣味がバレでもしたら、本当に外で丸裸にされてしまうかもしれない。そんな風に考えて怯える自分自身が何より許せなくて、あんな奴らに負けないよう、強くならなくてはと胸に誓った。
成長と共に、イジメはなくなっていった。
だけど惨めな子供時代を払拭するため、花京院は必死で身体を鍛えた。
趣味は相変わらずで、高校に入るとすぐに例の喫茶店でバイトを始めた。性別は男でも、毎日可愛いメイド仲間に囲まれて働くのは楽しかった。
バイト代が入ると、本格的にメイド喫茶に通うようになった。
そこには幼い頃、おもちゃ屋で父に奪われた人形にそっくりな、可愛らしいメイドが沢山いた。
彼女たちはみんな優しくて、明るくて可愛くて、常連客の多くが自分と同じようなオーラをまとっていた。家ですら本心をさらけ出せない花京院にとって、メイド喫茶はまさに心癒される、唯一の場所になっていった。
***
「はぁ……」
バイトが終わり、狭い休憩室でメイド服から制服に着替えた花京院は、ロッカーの扉を閉めながら、溜息を漏らした。
最近ずっとこの調子だ。ふと気がつくと溜息ばかりついていて、そういうときは決まって承太郎のことを考えている。
孤独な幼少期を過ごした花京院にとって、彼は初めてできた友達のはずだった。どこからどう見てもメイド服なんて似合うはずがない花京院を女だと思い込み、男だと知ってからも、似合うと言ってくれた。
店に来る男性客から冗談で褒められることはあっても、あんなに真剣な様子で言われたのは初めてで、変わった男だとは思ったが、純粋に嬉しかった。
見た目も規格外なデカさには少し驚いたが、多くを語らない物静かさに、安心感をもてた。
(でも今にして思うと、やっぱり変、だったよな)
メイドが好き、と言う割にはまるで知識がないように思えたし、何度か承太郎のおススメの店や、こだわりを尋ねたことはあったが、返答は得られなかった。
ただいつも、黙って花京院の行きたい場所について来てくれた。花京院の話に、いちいち丁寧に頷いてくれた。分厚い眼鏡に隠れた目元からは、彼が何を感じているのかは分からなかったけれど、時々ふっと口元に浮かぶ笑みに、承太郎の優しさを感じた。
彼のそばにいると、どうしてかとても楽に呼吸ができた。
歩道を歩くときはさりげなく車道側を歩いて、あの大きな身体で歩幅を合わせてくれていたことに、花京院はちゃんと気がついていた。
好きなものを好きだと言える、自分の在り方を否定せず、受け入れてくれる、そんな承太郎は花京院にとって、特別な存在になっていったのだ。
しかしそれは、彼の本来の姿ではなかった。
(あんな超ド級の男前が、どうしてわざわざあんな格好をしてまで……)
好きだ、なんて。
冗談にしては、あまりにも性質が悪い。
実際の彼は壁に手の平をめり込ませながら、不遜な物言いをする男だったのだ。
素顔はこの世のものとは思えないほどの美しさだったが、本当の承太郎は、花京院が苦手とする人種そのものといっても過言ではなかった。再び、溜息が漏れる。
「おう、典明お疲れ~」
するとそこに、少し遅れて上がってきたヨシオが、ガニ股で歩いてやって来た。
格好はまだメイド姿のため、店に出ているときとのギャップが激しい。せめて制服に着替えるまでは素を見せないでほしい……と思いつつ、笑顔で答える。
「お疲れ様です、ヨシオさん」
「なに、溜息なんかついて。なんかあったん?」
「い、いえ、なんでもありませんよ」
「そ~お?」
ヨシオはヘッドドレスとウィッグをまとめて外しながら、側にある革製の長椅子にどっかりと腰かけた。そして、何か思いついたように「そういやさ」と話を切り出す。
「最近あのでっかいお客さん来ないよな。確か典明、ダチなんだろ?」
思わずギクリと身を強張らせたが、すぐに笑顔を取り繕って「別に」とだけ返事をする。けれどヨシオはまだ気になる様子で、腕を組むと低く唸った。
「あのお客さん、前から思ってたけど、JOJOに似てるよな」
「JOJO、って……あの有名な不良の?」
「そそ。あの有名な不良」
「会ったことがあるのですか?」
「この近くの高校らしくて、たまに見かける程度だけどさ。そういや最近はあんま見ないなぁ……実はアレ、本人だったりして?」
「…………」
そういえば前にも同じことを聞いたような気がする。
あれは確か、駅裏を二人で歩いていたときのことだ。初めてメイド喫茶巡りをしたあの日、見知らぬ女性二人組が、承太郎を見て今のヨシオと同じようなことを言っていた。
自分も前に一度だけ、表の大通りでその姿を見かけたことがある。日本人離れしすぎた大きな身体と、鎖のついた改造長ランという、噂通りの装いをしてはいたが、その顔は帽子の鍔に隠れて見ることはできなかった。
花京院は力なく笑いながら「まさか」と言った。
「承太郎はそんな札付きのワルなんかじゃありませんよ。多分、ですけど」
言いながら、正直自信はなかった。
あの眼鏡も服装も変装だと言っていたし、いつもはどんな格好をしているかなんてわからない。結局のところ、花京院は『承太郎』という名前以外、彼のことを何も知らないのだ。だけど、流石に彼があのJOJOだなんて。
(ありえない……よな?)
なぜか縋るような目でヨシオを見た。そうだな、と言って笑い飛ばしてくれるものとばかり思っていたヨシオが、どうしてか真っ青な顔で目を見開き、花京院を見上げている。
これはもう、嫌な予感しかしない。
「よ、ヨシオさん?」
「承太郎、って……お、おまえ……マジか」
「え……?」
思わぬ形で、花京院は承太郎の正体を知ることになってしまったのである。
***
映画館での出来事から、一ヶ月ほどが経過していた。
その間にクリスマスが過ぎ、新年を迎え、冬休みが終わっていた。
かつて女に言い寄られることはあっても、フラれた経験がない承太郎は、ありえないほどドン底まで落ち込んでいた。
店に通うこともすっかりやめて、必要以上に売られたケンカを買っては、苛立ちを晴らす日々が続いている。
情けない。たった一度の失恋で、これほど荒んでしまうとは。
だけど時間が経つほどに、あの映画館でのことが承太郎の感情を蝕んでいくのだ。
花京院は、やはりこの素顔を見て怯えた。素の態度を見て、震えていた。好きだと真っ向から告げた思いを、ハッキリと拒絶した。
自分がこんなにも引きずってしまう性格をしていたなんて、こんなことになるまで知らなかった。元々こうだったのか、それとも花京院が自分をこんな情けない男に変えてしまったのか。
とにかく、承太郎は生まれて初めての失恋から、ただじめじめと腐っていくばかりだった。
放課後、校門から出る承太郎の周りには、相変わらずやかましい女どもが付き纏っていた。
「ねぇんJOJO! 今日こそ喫茶店! 一緒に行ってくれるでしょ?」
「やぁん! 映画の方がいいわよ! あま~い恋愛モノなんて……どうかしら?」
「それよりJOJO、晩ご飯食べに来ない? 愛情たっぷりのオムライスよ!」
喫茶店、映画、オムライス……ことごとく地雷をブチ抜いてくる彼女たちをガン無視する素振りで、承太郎は青筋を立てながらもダメージを食らう。
わちゃわちゃと騒ぎ続ける彼女たちは、そろそろキレてもおかしくない頃合いで黙り続けている承太郎を見て、顔を見あわせながら首を傾げた。
「JOJO、最近あまり元気がないわね」
「こないだまで放課後はさっさと消えていなくなっていたけど、それが何か関係あるのかしら」
「悩んでいるなら言ってくれれば、いくらでも慰めてあげるのに……」
(やれやれだぜ……)
鬱陶しい女どもにまで心配されてしまうとは、いよいよ焼きが回ったものだ。
このままいつまでもヘタレていていいわけがない。
だからと言ってあの花京院の、全力で放たれた「NO」がすぐに頭から離れるわけでもなく……つい低く溜息を漏らす承太郎だったが、女子の一人の「ねぇ、あの人ちょっとよくない?」という声に視線を上げた。
そして、目を見開いた。
「この辺では見ない顔よね? ……結構いいかも」
「やだ浮気? あたしは断然JOJOの方がいいわ!」
「あたしも! JOJOの方が素敵よ!」
「やかましいッ!!」
承太郎はその人物を真っ直ぐ視界に捉えながら足を止め、久しぶりに声を張り上げた。寒空の下、空気が一瞬でピンと張りつめる。
道端の電柱に背を預け、どこか険しい表情でこちらをじっと見つめているのは、あの緑色の長ランに赤いマフラーをした、花京院だった。
(花京院……なぜここに……?)
互いに見つめ合って何も言わないふたりを見て、女子たちは黄色い悲鳴をあげるでもなく「ケンカね」とコソコソと耳打ちしあう。
「おれはあの野郎に話がある。おまえらはさっさと帰りな」
花京院から目線は外さないまま、軽く顎をしゃくって見せた。
すると彼女たちは心得たとばかりに「頑張ってね!」「明日こそデートしましょ!」などと口々に言いながら、去って行く。
ひとまず邪魔な連中は消えたが、学校からさほど離れていない通学路には、他にも下校中の生徒たちが行きかっていた。
彼が何の用でここへ来たのかはさておき、ひとまず場所を変える必要がありそうだ。
「来な。ここじゃ目立つ」
承太郎の提案に、花京院は表情を強張らせたまま「わかった」と頷いて、電柱から背を離した。
花京院と連れだって向かったのは、そこからほど近い場所にある、小さな公園だった。
錆びて赤くなったブランコと滑り台、塗装が剥がれきって不気味な何かにしか見えなくなっているパンダなど、今や子供たちから見向きもされない遊具たちが、夕陽の下ひっそりと打ち捨てられている。
生え放題の雑草を踏みしめながら、二人は中央に一本だけ植えられた、枯れ木の側で足を止めた。
「花京院」
数歩先にある背中を見つめ、承太郎はその名を呼んだ。
すると彼は怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える下がり眉で、振り向いた。
「――空条承太郎」
少し大きめの唇が、はっきりと承太郎のフルネームを口にする。そして、小さな溜息を漏らした。
「それでJOJO、か」
「…………」
承太郎は何も返すことができなかった。
意図していたわけではないが、結果的に隠す形になっていた苗字。誰に聞いたのか訊ねたところで、意味はない。
可能なら自ら打ち明けたかったが、思えばいつバレてもおかしくはなかったのだ。
「まさか君があの有名な不良だったとは……やっぱりぼくを騙していたんだな」
「花京院、確かにおれは」
「しかも超ド級のイケメン、高身長に均整の取れた嫌味なくらい完璧な肉体、女子にモテモテなばかりか、顔色ひとつ変えずにやかましいと怒号を浴びせ、すげなく追い払ってもなお黄色い声援を送られる、これは確実に非童貞、確実に各地に恋人を作り、何股もかけている悪しきリア充、完全なる勝ち組、悪の秘密結社……」
「か、花京院……?」
「……ハッ」
鬱々とした黒いオーラを放ちながら、ブツブツとなにやら呟いていた花京院は、呼びかけると正気に戻った。軽く咳払いをしてから、大きく息を吐き出している。
その様子があまりにもドス黒かったため、「おれは童貞だぜ」と言いだすタイミングを完全に逃した。
「し、失礼。取り乱した」
「いや……それよりいいか。続けても」
「……駄目だ」
「花京院……?」
「もう十分だ。なんの余興か知らないが、やっぱり君はぼくを騙して、からかっていたんだ。ぼくがここに来たのは、君が本当にあのJOJOかどうかを、この目で直接確かめるためだ。だからもう用はない。さよならだ、承太郎」
そう言って、俯いた花京院は足早に承太郎の横を通り過ぎようとした。
承太郎は即座にその二の腕を掴んで引き止める。
「待て」
「離せ! 君と話すことはなにもない!」
「嘘をつくんじゃあねえッ!!」
「ッ!?」
思わず声を荒げると、花京院はビクンと大きく肩を震わせて、承太郎を見上げた。その見開かれた瞳には明らかに怯えの色が浮かんでいて、承太郎は掴んでいた二の腕の力を緩めると「すまん」と一言、謝罪する。
だがもちろんこのまま帰す気はない。
「ただその目で確かめるだけなら、わざわざおれの前に姿を現す必要はなかったはずだぜ」
「…………」
「だけどてめーはこうしておれの目の前にいる。それはなぜだ」
その疑問は、ただ引き止めたいだけの口実に過ぎなかったのかもしれない。だけど彼とこうして顔を合わせるのは、これが最後かもしれないのだ。どんな些細な疑問でも、残せばこの先一生、後悔するような気がした。
恨み言のひとつでも吐かなければ、気が済まなかっただけだと。もしそう言われてしまったら、本当にそれまでだった。どこまで行っても、自分は彼の苦手とするタイプの人間だ。だからこそ、あんなくだらない変装までしたのだから。
けれどそれによって、花京院の心を傷つけてしまったのは確かだった。
その気もない相手を力ずくでも手に入れようとするほど、承太郎の性根は腐っちゃいない。
本当は何がなんでも欲しいと思っていた。典香としての彼に恋をしたあの日、承太郎は確かにそのつもりでいた。
だけど花京院と共に過ごすうち、承太郎は知ってしまったのだ。失くしたくないと思うものほど、大切なものほど、ちっとも思い通りにならなくて、壊れやすいということ。
欲しいと思うものほど、決して手が届かないということを。
承太郎は恋をして、臆病になってしまった。
「確かにおれはてめーを騙していた。今さら何を言っても言い訳にしかならねえだろう。だがこれだけは言う。てめーを、傷つけるつもりはなかった」
掴んでいた二の腕を、そっと離した。
俯く花京院が何を言うのか、それとも何も言わずにこのまま去るのか。いずれにしろ受け止めるしかない。
心の底から惚れた相手をこれ以上不快にさせ、追い詰めることはしたくなかった。
花京院は承太郎の視線から逃れるように顔を背け、薄い唇を噛み締めた。それから、吐き出す息を白く震わせる。
「……楽しくないんだよ」
零された声は、独り言のように小さなものだった。
承太郎は全神経を張り詰めさせ、一語一句聞き逃すまいと耳をそばだてる。
「あれから……映画を観てもライブを観ても、メイド喫茶に行っても……なにも楽しくない……」
承太郎は目を見開いた。
どこか悔しそうに表情を歪める花京院の瞳がじわりと潤む光景を、信じがたい気持ちでじっと見つめる。
「承太郎がいないってだけで、何も楽しくないんだッ!」
彼はついに声を荒げた。寒々とした冬の空気が、大きく震える。堰を切ったように、胸の内を吐きだす花京院の言葉は止まらなかった。
「あれから店にだって来やしない! 君がJOJOだって知って、だけど信じたくなくて……だからそれを確かめたら、本当に帰るつもりだった! でも、だけど……ッ!」
――女の子達と歩いている姿を見たら、どうしようもなく腹が立った。
花京院は聞こえるか聞こえないかの小さな声でそう言って、涙を堪えながら承太郎を睨み付ける。
目元や鼻の先を赤く染めて、肩を怒らせて、眉を吊り上げて。
「ぼくのことが好きだって……言ったくせにさ……ッ!!」
その瞬間、承太郎は衝動的に彼を引き寄せ、思い切り抱きすくめていた。
「ッ……!!」
「だからわざわざ姿を現したって? おっかねえ不良のおれにくっついて、ここまでのこのこついて来たってのか?」
「……そうだよ。恨み言のひとつでも言ってやらなきゃ、気が収まらなかったんだ。だから来たんだよ」
「てめーは……可愛すぎか……」
(そのまま帰りゃあ済んだもんを、そうすりゃ諦めてやったもんを……ッ!)
彼は分かっているのだろうか。自分に惚れている男にそんなことを言えば、もうあの『NO』なんて拒絶の言葉が、無効になってしまうことを。
初めて抱きしめた花京院の身体は、承太郎の腕にあまりにもよく馴染んだ。
華奢というにはほど遠い、それなりにいいガタイをしているくせに、刀が鞘に収まるように、すっぽりと包み込めてしまう。
それがなぜか、酷く承太郎の胸を締め付けた。
「マジだぜおれは……花京院、てめーが好きだ。てめーに惚れてる。バカみてーによ」
花京院の強張っていた身体から、ほんの僅かに力が抜けた。
承太郎の肩に濡れた目元を押し付けて、彼は蚊の鳴くような声で言う。
「君のせいだ」
「花京院……?」
恐る恐るといった様子で、承太郎の背に花京院の腕が回った。
その感触は小さく震えていて、まだ彼が戸惑いや恐れを拭いきれないでいることを、承太郎に知らせる。
「ずっと一人でも平気だったのに。いつだってその方が楽だったのに。君のせいだ。君がぼくをこんな風にしたんだ。君が、承太郎が……ッ」
背中に添えられるだけだった手に、強く制服を掴まれる。その手は、もう震えてはいなかった。
「……ぼくも、好きだ」
か細い声が、それでも確かに承太郎の鼓膜を揺さぶる。
「好きに、なってしまった」
承太郎は目を見開き、今度は自分の身体が微かに震えていることに気がついた。胸の奥底から、熱くて激しい感情が溢れだして止まらない。
これ以上の喜びが他にあるだろうか。自分でも呆れるほどの手間をかけて、遠回りをして、諦めかけて。
それでもやっと、この手に掴むことができた。
承太郎は強く抱きしめていた腕の力を、僅かに緩めた。花京院がおずおずと顔をあげ、潤んだ瞳で見上げてくる。
近すぎるほどの距離で視線が絡み合うと、まるで時が止まったような気がした。ゆっくりと、引き寄せられるように、ふたりは同時に目を閉じると唇を重ね合った。
それはどこかぎこちなくて、ほんの一瞬で離れてしまったけれど、眩暈がするほど熱くて、柔らかくて、甘いと感じるキスだった。
「全部話すぜ。おれがどうやっててめーを知って、惚れて、あんな馬鹿な真似をしたのかをよ」
「……うん」
「そしたら、今度は最初から」
――おれと、ちゃんと恋をしてくれるか。
低い問いかけに、花京院はゆらゆらと涙に濡れた瞳を見開き、やがて何か込み上げてくるものをぐっと耐えるように目を細める。そして。
「――はい」
しとやかに恥じらいながら、花が綻ぶような美しい笑顔を見せた。
承太郎さんがごっつい女(?)に恋をする話・終
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日曜日。
承太郎は花京院と、さっそくデートをすることになった。
誰がなんといおうがデートである。承太郎にとっては。
その申し出は、なんと花京院からのものだった。さっそく親睦を深めようという案に、なかなか積極的なやつだと密かに頬を赤らめつつ、二つ返事で承諾した。
服装は少し迷ったが、急に路線変更するのも驚かせてしまうかもしれないと、いつも通りのオタクルックにした。
行先は任せると言うと、花京院は嬉しそうに「ぼくの行きつけの店に行こう」と言った。
一体どんなところだろうかと期待に胸を膨らませつつ、駅前の噴水広場で待ち合わせをした。
花京院はシンプルな白いカジュアルシャツに、深緑のカーディガンとベージュのパンツ姿という、学生らしい出で立ちでやってきた。決して着飾っているわけでもないその装いにすら、キュンと胸をくすぐられていたのも束の間。
承太郎はまさしく、混沌と書いてカオスと読むに相応しい一日を、過ごすことになってしまった……。
花京院がよく行く店。そこは、メイド喫茶だった。
しかも一軒ではない。朝から夕方まで、延々とメイド喫茶巡りに付き合わされたのである。
おそらく正統派と思われる店は勿論のこと、猫耳やら巫女やらツンデレやら……とにかくあらゆるジャンルの店に連れていかれた。
まさかこいつらも全員男なのではあるまいな……と密かに疑ってかかる承太郎に、花京院は随所でその店やメイドの特徴について語り聞かせてくれたが、まったくもって世界観についていけなかった。
基本的に女が騒ぐのをよしとしない承太郎にとって、キンキンとした声で歌ったり踊ったり、しまいには「萌え萌えキュン♡」なんて呪文を唱えられた瞬間は、物理的に店を潰しそうになった。(花京院の手前我慢した)
とにかく承太郎は思った。おれの思っていたデートとは違う、と……。
「今日は付き合ってくれてありがとう。誰かと一緒にメイド喫茶巡りをするのは初めてだったけど、楽しかったよ」
夕暮れ時、人通りの少ない駅裏を並んで歩いていると、ふと足を止めた花京院が言った。どこか晴れやかな表情に、同じく足を止めた承太郎は、短く「おう」とだけ答える。
正直ヘトヘトだった。何十人と徒党を組んだ相手と連戦を繰り広げた後よりも、遥かに疲れている。主に心が。
とはいえそれをおくびにも出さない承太郎に、花京院は少し困ったような表情で小首を傾げる。
「一方的に連れ回すような形になってしまったな。疲れたんじゃあないか?」
「いや、そんなことはないぜ」
「そう? ならよかった」
確かに精神的には少々お疲れモードだが、結果的に楽しそうな花京院を、一日中そばで眺めることができたのだから、悪い日ではなかったと思う。
けれど心残りは十分にあって、それは花京院自身について、何も知ることができなかったという点だ。
彼がメイド喫茶巡りを趣味としているのは分かったが、それ以外でのプライベートな情報は、一つとして得られなかった。
熱心に語り、おどおどしつつもメイドと戯れる花京院に、口を挟む余地がなかったため、承太郎からは会話の糸口を見出すことができなかったのである。
そうこうしているうちに空は茜色に染まり、遠くの空には青い闇が迫っている。
このまま手も繋げず初めてのデート(?)が終わってしまうのは、あまりにも癪ではないか……?
(飯……そうだ、飯でも誘うか。そのへんのファミレスにでも)
が、しかし。
(腹が減ってねえ……)
本日巡ったのは、ジャンルはどうあれ喫茶店である。
行く先々でドリンクやフードを注文したため、総合するとかなりの量を飲み食いした。承太郎的には食べようと思えば食べられるが、果たして花京院はどうだろうか……。
無表情であれこれ考える承太郎の目の前で、そうとは知らず花京院が少し恥ずかしそうに笑って俯く。
「今日は本当に楽しかったよ。こんな風に一緒に過ごせる相手は、今までいなかったからね」
「一人か? いつも」
なんとここにきて、ようやく花京院本人に関する話が聞けそうな気配だ。承太郎がすかさず問いかけると、彼は言いにくそうに肩を竦めた。
「そうだね。恥ずかしながら、ぼくは人付き合いがあまり得意ではないんだ。この趣味は、両親にすら言っていないくらいだし」
「バイトのことも、か」
「言えるわけがないだろう。誰にも知られたくなくて、わざわざふたつ隣の町から通っているほどだからね」
「普通のバイトじゃあ駄目なのか。新聞配達とかよ」
「それじゃあメイドコスができないじゃあないかッ!」
ダンッ、と音を立てて、顔を上げた花京院が地面を踏み鳴らし、拳を握る。なんだか妙なスイッチが入ってしまったような気配を感じつつ、ちょっぴり呆れた。
「め、メイドコスって……てめー、それが目的で……?」
「当然だ! いいか承太郎、ぼくは別にそっちの趣味があるわけじゃあない。ぼくがメイドになりたいのは、憧れの芸能人と同じ服が着たいとか、髪型にしたいとか、そういう感覚に近いんだ」
「……なるほど」
見ているだけでは飽き足らず、その好意の対象そのものになりきりたい、という願望は、分からないでもない。承太郎も子供の頃は特撮ヒーローに憧れて、変身ベルトを買ってもらったりした経験がある。
が、なぜだろう。眩暈がしてくるのは……。
「ねえ、あそこに立ってる大きい方の人、ちょっとJOJOに似てない?」
そのときだった。
身に覚えのある渾名が耳に飛び込んできて、承太郎はギクリとしながら、黒縁眼鏡の内側で声のした方向に視線を走らせた。
せいぜい二車線あるかないかの道幅しかない道路の向いで、二人の女がこちらをチラチラと見ている。おそらく、いつも付き纏ってくる女子集団の中にいる顔ぶれだ。あまり一人一人を意識して見たことがないため、記憶は定かでないが。
なぜこんなところに……とは思ったが、彼女たちはちょうどレンタルビデオ店から出て来たばかりのようだった。
「やだぁ、JOJOがあんなモッサいオタクファッションに身を包んでるわけないでしょ?」
「でも、背格好が似すぎてるわよ。あんな日本人離れした体格、そうそういるかしら?」
「ありえないわよ! だって見てよ、あの顔の判別不能な凄い眼鏡。前髪もバサバサで姿勢も猫背だし……ムリムリあんなの」
「そうよね、ありえないわよね」
それより隣の赤毛の人イケメンじゃない? などと言いたい放題の女たちは、クスクスと笑いながら表通りの方へと消えて行った。
バレなかったことに内心ホッとする承太郎だったが、花京院は彼女らが去っていった方向を見つめたまま、なにやら考え込んでいる様子だった。
「……花京院?」
「JOJO、か……」
ドキーンと僅かに肩をビクつかせる承太郎に「ああ、すまない」と言って花京院が笑う。
「一度だけ、遠くから見かけたことがあるものだから。言われてみれば、背格好が君に似ているな」
「知ってた、のか」
「ええ。と言っても噂程度の知識くらいしかないですよ。なんでもすでに何十人と人を殺めているとか、無銭飲食の果てに店を爆破させただとか、気に入らない教師を生きたままドラム缶に詰めて、海に沈めただとか……とにかく物騒な話ばかり」
(す げ え 尾 ひ れ つ い て ん な)
と思っても言えず、ただギリギリと歯ぎしりをするに留める承太郎だったが、まさか目の前に本人がいるとも知らず、花京院は肩を竦めると苦笑した。
「そんな噂を全て信じているわけではないけどね。ろくでもない不良だというのは本当なのだろうが……背格好が似ているからって、何も気に病むことはないさ。君は君なんだから」
「花京院……」
じぃん……としかけたが、どこまでいっても本人である承太郎の心は、あまりにも複雑だった。というか、ろくでもない不良という言葉は、地味に心に突き刺さる。
確かにケンカ相手はちょっとやり過ぎなくらいブチのめすし、味とサービスが伴わない、ぼったくり同然の店に払う金があるなら、そのぶん募金した方が有意義だと思っている。尊敬に値しない、ただ踏ん反り返るだけでまともな授業すらしない教師は、人間のクズだ。
が、殺しちゃいない。承太郎自らが殺めるとすれば、それは夏場の蚊か、台所に出て来た黒い物体に、母ホリィが悲鳴をあげたときくらいのものだ。
(こいつはますます本当のことが言えなくなっちまった)
自分が不良のレッテルを貼られていることは、しばらく黙っておくつもりだったが、徐々に明かしていければと慎重に計画を練っていた。
それがまさか、ふたつ隣の町に住む花京院が『JOJO』を知っていたとは……。
「承太郎、君はとても寡黙な男だが、優しい心を持った人間だということを、ぼくは知っているつもりだよ」
「!」
「この間、店の裏にお客さんを連れて行ったぼくを、追いかけてきてくれただろう?」
「そ、それは……」
「君はたまたまだと言ったけど……心配してくれたんだよな。ありがとう」
「よ、よせ」
照れ隠しについ癖で帽子の鍔を摘まみかけて、かぶっていないことに気がついた。行き場を失った手で頭をぽりぽりと掻いて顔を背ける承太郎に、花京院がふわりと微笑みながら俯いた。
「あのときぼくが震えていたことも、きっと君はお見通しだったんだろうな。正直、ぼくは不良とか……なんていうのかな。ああいうのが、子供の頃からどうしても苦手なんだ。強引で、暴力的な人間がさ。好きだって人も珍しいだろうけど」
「……なにかあったのか?」
「いや……」
承太郎が問うと、花京院は明らかに言葉を濁して目を逸らした。だがすぐに笑った顔を上げて見せる。
「とにかくぼくは、君と知り合えてよかったと心から思うんだ。もしよければ、またこうして会ってくれると嬉しい」
「勿論だぜ。今まで通り、おまえの店にも行くつもりだ」
「本当かい? ありがとう!」
そう言って頬を染めながら嬉しそうに笑う花京院は、その赤い髪に夕焼けをいっぱい吸い込ませて、この世のどんな花よりも美しく輝いて見えた。
複雑さはまだ拭えないが、彼がこうして気持ちを語ってくれたのも、きっと承太郎に心を許しているからに他ならないのだと思うと、今のこの瞬間がなにより尊いものに思える。いずれ白黒ハッキリつけるつもりではいるが、もう少し、こうしてリラックスした彼の隣で、たくさんのことが知りたい。
それじゃあもう電車の時間だから、と言って、手を振りながら去っていく花京院の後姿を見守りながら、承太郎はよりいっそう、彼への気持ちを強いものにしていくのだった。
***
平和だが、何の進展もないまま時が過ぎていた。
承太郎はこれまで通り店に通い、休みの日は二人でメイド喫茶を巡る日々を送っている。他に行くところといえば、現役メイドで結成された、アイドルグループのライブくらいのものだろうか。
野郎ばかりの狭いライブハウスはあまりにもむさ苦しく、異様な熱気が溢れる場の空気に、正直ちょっと気を失いかけた。
そんなデート(?)を重ねていくうちに、承太郎もだんだんと麻痺してきてしまった。暑苦しく頭が痛くなるようなライブハウスに比べたら、まだキャピキャピのメイドがいる店の方が、マシと思えるようになってきた。最近ではどの店のオムライスが一番美味いか、どの店のどのメイドの声がオクターブ的に不快指数が低いか、などを熟知するまでになっていった。
が、やはり一切の進展がないというのは、あまりにも虚しい。
承太郎が想像するガクセーらしいデートといえば、映画を見たり、水族館に行ったり、公園を歩いたりしながらさりげなく手を繋いだりして、何気ない会話を楽しむというものだった。
幸せそうな花京院の笑顔を見ていると、ついつい「まあいいか」と流してしまうが、そろそろメイドから離れたデートをしてみたい。
このまま花京院に行先を任せていたのでは、確実になんの進展も見込めないだろう。
と、いうわけで、承太郎は次の日曜日に、花京院を水族館へ誘ってみることにした――のだが。
「承太郎、次の日曜は映画にでも行かないか?」
なんと、花京院からまともな行き先の提案があった!
もちろん承太郎は即座に頷いた。本当は水族館でお魚やヒトデと触れ合いを……なんて思っていたが、何も慌てる必要はない。映画の場合は上映期間があるだろうし、優先すべきはそちらの方である。
承太郎は、あまりの嬉しさに舞い上がった。顔や態度には出さないが、日曜日までの間ずっと夜も眠れない状態が続き、風呂場ではついつい、鼻歌をくちずさんで母に聞かれた。(めちゃ恥ずかしかった)
***
そんなこんなで迎えた日曜日。
駅前広場の噴水前でソワソワと待つ承太郎は、花京院が来る前に何度も繰り返した脳内シミュレーションを、最後にもう一度確認していた。
どんなジャンルの映画かは聞いていないが、恋愛モノなら最も盛り上がるシーンで手を握る。アクションでも、おそらく恋愛要素は多少なりともあるだろうと仮定して、やっぱりその手のシーンで手を握る。ホラーなら、随所で怯えるはずの花京院を安心させるため、手を握る。
どう転んでも、とにかく手を握るのが目標だ。
(花京院、おれは今日、なにがなんでも絶対にてめーの手を握る。おまえのその傷ひとつない白い手をよ!)
「やあ承太郎、待ったかい?」
「ッ!!」
そこへ時間ぴったりに花京院がやって来た。いつもの装いに緑色のダッフルコートを羽織っている。季節は秋から冬に移り変わっていて、今日は特に寒い日になると天気予報で言っていたが、燃え滾る承太郎は上着いらずだった。
「おう、待ってないぜ。いま来たところだ」
「ならよかった。それにしても君、いつも薄着だな。寒くないのかい?」
「むしろ暑いぜ」
「いい身体してるからな……代謝がハンパないのかな。でも、風邪をひかないように注意してくれよ」
「ああ」
(おれの花京院は今日も優しいぜ……)
心配そうに見上げてくる表情があまりにも可愛くて、手を握るどころか抱きすくめたい衝動を、ぐっと堪える。
そんな承太郎の気も知らず、花京院は「それじゃあ行こう」と言って、映画館の方を軽く指さした。
***
映画はホラーだった。
目的は花京院の手を握ることであったため、内容はいっそどうでもよかったのだが。
問題は出演者だった。なんとその映画は――。
あのメイドアイドルグループの、メンバーが主演だった。
しかもタイトルは
『戦慄! 美メイド狩り太郎から着信ナシ』
とかいう、俄かに信じられないものだった。誰だ。こんな壊滅的にセンスのないタイトルをつけるバカ野郎は。そんな奴からの着信など、なくて大正解だろう。どうでもいいが、頼むから太郎をつけるな……。
空席の目立つ場内の中央席に陣取った承太郎は、まだ何も映されていないスクリーンを遠い目で見つめていた。
その横では花京院がパンフレットを熱心に読みふけっている。
やっぱりこの花京院と普通のデートは望めないのか。そもそも彼は本当に、承太郎の気持ちを理解しているのだろうか。
友達から始めることに異論を唱えなかったのは自分だが、そろそろ付き合いもニヶ月を過ぎようという頃である。誰とも交際した経験がないため分からないが、こうも歩みが遅いものだろうか。
(い、いや、待て……今から見る映画は腐ってもホラーだ。花京院の反応如何によっちゃあ、まだ望みはあるッ!!)
とにかく手を握ろう。そうすることで少しでも花京院に意識させることが出来れば、いい加減こちらのペースに持って行くことも可能なはず。そろそろメイド三昧のお付き合いは限界だ。
「ときに花京院、おまえ、ホラーは得意か?」
決意も新たに問いかける。するとパンフレットから顔を上げた花京院は、肩を竦めて苦笑いした。
「あまり得意ではないかな。作り物だということは分かるんだがね、バーンとかドーンとか、驚かせることを狙った効果は心臓に悪くて」
「そうか。そうだな」
(イケるッ!!)
承太郎は花京院には見えないように、ぐっとガッツポーズをした。そうしている間に、空席が目立つままの場内が暗くなっていく。
諦めかけはしたものの、見えてきた希望に承太郎はレンズの奥で目を光らせながら、胸を躍らせた。
***
(おかしくねえか……?)
陰鬱なムードの映像がスクリーンに映し出される中、承太郎は首を傾げていた。
画面ではヒロイン(もちろんミニスカメイド服)が、いつ襲いかかるとも知れぬ殺人鬼(美メイド狩り太郎)に怯えながら、夜の森を歩いている。
小さな懐中電灯だけを頼りに、足を縺れさせながら進む彼女の背後で、草木が揺れる大きな音が響き渡った。
『ヒッ……!!』
声にならない悲鳴をあげながら、振り返るヒロイン。懐中電灯で照らしてみても、そこには鬱蒼とした木々が茂るだけで、誰もいなかった。
今のはそれなりにビックリポイントだったと思うのだが、隣の花京院はといえば……。
前のめりになって、画面を食い入るように見つめているだけだった。
(こいつ、ビクともしやがらねえぞ)
ホラーは得意じゃないという言葉は、嘘だったのだろうか。
映画がはじまってかれこれ一時間が経過するが、幾度となくあった恐怖演出に、彼は一切反応せず、ただ夢中で画面を見つめているだけだった。
承太郎の予定では、何度も身体をビクつかせては涙目になる花京院の手をナチュラルに握り、
「ふ……怖がりだな、花京院は」
「だ、だってじょおたろ、これ凄く怖いんだもん……」
「大丈夫だ。おれがこうして手を握っていてやるぜ」
「絶対、離さないでいてくれよ……」
「あたり前田のクラッカーよ」
と、なるはずだったのだが――。
(どういうことだ……実はホラー耐性ありまくりにしか見えねえ……いや、待てよ)
実は怖がりでも、変に強がりなところがある、それが花京院だ。本当は叫び出したいのをぐっと堪えて、情けない姿を見せまいとしているのかもしれない。
承太郎は一瞬でも彼の気を引くことができないかと、さりげなく咳払いをしてみた。が、反応はない。今度は思い切って肘で軽く突いてみたが、やはり反応がなかった。その横顔は真剣そのもので、よくよく見れば瞬きすらしていない。集中しすぎである。
「……おい、花京院」
「…………」
耳元で名前を呼んでみても、やっぱり無反応だった。
今の花京院はあまりにも映画に夢中になりすぎて、周りの一切をシャットダウンしている状態、ということか。
まったくもって予想していなかったパターンだ。承太郎は愕然としながらも、ここまできて何もしないなんて、冗談じゃないと思った。
花京院は肘掛に前腕を置いて、先端を強く握りしめている。
こいつを思いっきり握ってやったら、どうなるだろうか。流石に驚いて意識をこちらに向ける、と思いたい。
スクリーンではついに現れた殺人鬼が、ヒロインに錆びたバールのようなものを振り下ろそうとしている。引き攣った表情で悲鳴をあげるヒロインと、殺人鬼の笑い声が場内に響く。
そんな中、承太郎は花京院の拳に手の平をかぶせ、ぐっと握りしめた。
「…………」
無反応だった……。
承太郎は完全に負けを悟った。
花京院の意識は、完全にメイドヒロインに奪われている。
そして、その心も。何人たりとも入り込む余地など、一切ないということだ。急激に虚しさが襲ってきて、承太郎はこの場にいることに苦痛を覚える。
すっくと立ち上がって座席を離れても、やはり花京院は気づかず、スクリーンを見つめ続けるだけだった。
***
何もかもが、思っていたものとは違いすぎていたと。
承太郎は劇場内のトイレの個室に立てこもり、蓋をした便座に腰かけながら溜息を漏らす。
男も女も関係ないなんて考えが、そもそも間違っていたのだろうか。花京院と付き合うようになって初めて、承太郎は気持ちが揺らぐのを感じていた。
花京院にとっては興味の対象も、好意を寄せる相手も、そのどれにも承太郎は当てはまらない。それを嫌と言うほど思い知らされた気分だ。必ず手に入れると息巻いていたはずが、今の承太郎は完全に弱気になっている。
らしくない。分かっている。もちろん、だからってここであっさり引き下がる気にもなれない。諦めたほうがずっと楽だということも、分かっていながら。
(ここで腐ってたってしょうがねえ)
ひと気のない個室にこもってから、もうだいぶ時間が経っている。そろそろ映画も終わる頃だろう。弱気はここに全て置いていくことにして、承太郎は立ち上がると個室から出た。用を足したわけではないが手を洗い、ハンカチで拭う。そして通路に出ると
「承太郎ッ!」
前方から、花京院が焦った様子で駆けてきた。
「か、花京院?」
「ビックリしたじゃあないか。急にいなくなるから……もしかして、体調が優れないのか?」
「い、いや……それよりおまえ、映画は……?」
通路に客が一人も出てこないところを見ると、まだ映画は終わっていないはず。あれだけ夢中で見ていたのに、ラストの最もいいところを放り出して、わざわざ追いかけて来たというのか。
承太郎は信じられない思いで、少し怒ったような、困ったような顔で見上げてくる花京院を見つめた。
「いいんだ。それより承太郎の方が大事だから」
「!」
――承太郎の方が大事だから。
その言葉に、下降気味だった気持ちがぐんと上向くのを感じる。なんていじらしいのだろう。失望しかけていたぶん、胸の奥底から熱いものが込み上げて来た。
花京院がメイドよりも自分を優先した。たったそれだけのことが、承太郎にまるで偉業を達成したかのような感動と、充足感を与える。現金なものだと自分に呆れて、つい口元に笑みが浮かんだ。
が、それも束の間、花京院が次に放った言葉は、再び承太郎を凍り付かせるには、十分な威力があった。
「それにぼく、この映画はもう十回くらい観てるから」
…………?
「今、なんて?」
「ん? だから、この映画はすでに十三回は観ているんだ。仕掛けも結末も全て知っている。今日くらい最後を見逃したところで、なんら問題はないよ」
いやいやいや、何を言っているんだこいつは。しかも最初と最後で、地味に回数が増えているではないか。
すでに十回以上は観ている? だからどんな演出にも、顔色ひとつ変えずにいたのか? そのくせ手を握っても気づかないくらい、熱中していたのか? パンフレットまで毎回購入しているのか?
初めて見る映画の結末よりも、自分を優先してくれたのでは、なかったのか……。
ガラガラと何かが崩れるような音と共に、愕然とする承太郎を尻目に、花京院は「どうせまた観に来るから気にしないでくれ」と言って、朗らかに笑っている。が、すぐに少し残念そうに眉尻を下げた。
「でも、君と最後まで観られなかったのは少し惜しいかな。友達と映画なんて、初めてのことだしね」
その彼にとっては何気ない一言が、さらに承太郎の心にとどめをさした。
「友達……?」
呟いた承太郎に、花京院は「あ」と何か気づいたような顔をして、さらに追い打ちをかけてくる。
「違うな。ただの友達じゃあない。大切な同志だ」
その瞬間。
「ッ……!?」
承太郎は花京院の身体を思い切り叩きつけるようにして、壁に押し付けていた。
「アイタッ! じょ、承太郎……?」
何が起こったのか分からない。花京院の顔にはハッキリとそう書かれている。彼は切れ長の瞳を大きく見開いて、茫然としながら承太郎を見上げていた。
「ふざけんな」
「ぁ、え……?」
――もう限界だった。
何が友達だ。何が同志だ。承太郎の方が大事だと言ったあの言葉が、そんなままごとのような意味でしかなかったのかと思うと、目の前が真っ暗になるのを感じる。
そして、どうしようもなく怒りが湧いた。
「こんなに腸が煮えくり返る思いをさせられたのは、生まれて初めてだぜ。花京院」
ひと気のない通路に、ぴりぴりと凍り付くような空気が立ち込める。
ずっと花京院を怯えさせないようにと努めてきたけれど、このときの承太郎には、全てがどうでもいいことのように思えた。
やっぱり生温いやり方は性に合わない。最初からこうしていればよかったと。
案の定、明らかに様子の違う承太郎に、花京院はさぁっと表情から血の気を引かせる。
「ぼ、ぼくはなにか……気に障るようなことを言って……?」
承太郎はふと、肉厚な唇を獰猛な獣のように歪ませた。
「てめーは何も悪かねえのかもしれねえな。だが、おれはもう我慢できん」
「じょ、じょうたろう?」
「おまえはおれと付き合っている。そうだな」
「う、うん、そう、だな」
こくこくと何度も頷く花京院は、すっかり萎縮したように肩を竦め、握った両の拳を胸元に押し付けて震えていた。
その様が捕えられた小動物のようで、僅かに良心が痛む。それでも、ここまできたらもう引き返せない。
「だが、おれはこれ以上てめーとお友達ごっこをするのはご免だぜ」
「友達、ごっこ……?」
「好きだ」
「……へ?」
「てめーが好きだ。友達としてじゃあねえ。初めて見たときから、おれはてめーに恋をしている」
花京院は大きめの口を丸くぽかん、と開けて硬直していた。
だがすぐに顔を青くしたり、赤くしたりしながら忙しなく目を泳がせ始めた。
「わ、笑えない冗談はよせ承太郎ッ! た、確かに君はどういうわけか、ぼくを女性と勘違いしていたようだが……その疑いは晴れたはずだ! だから友達として、趣味を同じくする者としての付き合いを……ッ」
ズウゥン、と音を立てて、承太郎は花京院の青褪めた顔のすぐ横に、掌を打ち付けた。僅かに壁がへこむほどの威力だった。
「かか、か、壁ドン……? しか、しかも、め、めり、めりこん、で……?」
「遊びは終わりだ。花京院」
「な、ん……?」
「おれの目を見て、しっかり答えな。ハイかYES、どっちかでいい」
「せ、選択肢がないじゃあないかッ! しかも、目を見ろなんて言ったって、その眼鏡じゃ全く顔が見えないぞッ!!」
めり込み壁ドンがよほどショックだったのか、一層震えながら花京院は目を潤ませ、それでもどうにか声を張り上げている。
確かにこの眼鏡は濁った牛乳瓶のように分厚くて、ほぼ顔の判別は不能だ。地味さをアピールするためのアイテムとして選んだが、それももう無用の長物である。
承太郎は今、ハッキリと素を見せているのだから。
「そうだったな」
鼻で笑いながら眼鏡を外すと、床に放り投げた。
それからもっさりとおろされていた前髪を掻き上げ、後ろに撫でつける。幾本かの前髪だけが、はらりと額にかかった。
「これでいいか」
「な、なな、な……?」
緑がかったブルーの瞳を猫のように細め、花京院を見下ろす。
彼はこの世の終わりを見ているかのような形相で、目を見開いて唇を戦慄かせていた。小刻みだった身体の震えが、地震でも起こっているかのように、ガタガタと大きなものに変化している。その表情は青を通り越して、いっそ死人のように色を失っていた。
「い……い……」
「おい、花京院?」
「イケメンッ!!」
ドンっと両手で胸を押され、不覚にも少しよろめいてしまった。花京院はその隙に壁から離れ、反対側の壁に背を張り付けた。そのままにじにじと這うようにして遠ざかろうとしている。
すかさず近づこうとすると「来るなッ!!」と叫ばれてしまう。
「そそそ、そんな、そんな超絶イケメンだなんて、き、聞いてないぞッ!! ぼくを騙していたのか!?」
「否定はしねえ。あの眼鏡もこの服装も、全部変装だからな」
「なんの意味があってそんなことを!?」
「てめーを落とすために決まってんだろーが。この方が警戒されずに済むからな」
「まるで詐欺師の手口じゃあないかッ!!」
「ごちゃごちゃとやかましいぜ。いいからとっとと答えを聞かせな」
腕を組み、踏ん反り返って言い放つと、花京院は「ふざけるなッ!!」と悲鳴じみた声をあげた。
「どうして君のようなリア充の臭いしかしない、規格外な男前がぼくなんかを!? だいたい、ぼくにはBL趣味はないんだッ!」
「びーえる? BLTサンドのことか? それより花京院、おれはハイかYESしか選択肢を与えていないはずだぜ」
「NOだバカッ!!」
捨て台詞を吐き、花京院はそのまま脱兎のごとく走り去ってしまった。すぐに追いかけようとしたが、映画の上映が終了したのか、通路の随所にある扉から、人がぞろぞろと飛び出してきて、行く手を遮られた。
まばらにしかいないと思っていたが、意外と客が入っていたらしい。
「チッ……!」
忌々しげに舌打ちをして、承太郎は手の平に爪が食い込むほど拳を握りしめる。絨毯張りの床を、人も殺せそうなほどの鋭い視線で睨み付け、奥歯を噛み締めた。
『NOだバカッ!!』
頭の中で、幾度も花京院の声を反芻した。
NO、それはYESの反対。
「ふられたのか、おれは……」
花京院はこの世の終わりのような顔をしていたが、それは承太郎にとっても、同じことだった。
←戻る ・ 次へ→
承太郎は花京院と、さっそくデートをすることになった。
誰がなんといおうがデートである。承太郎にとっては。
その申し出は、なんと花京院からのものだった。さっそく親睦を深めようという案に、なかなか積極的なやつだと密かに頬を赤らめつつ、二つ返事で承諾した。
服装は少し迷ったが、急に路線変更するのも驚かせてしまうかもしれないと、いつも通りのオタクルックにした。
行先は任せると言うと、花京院は嬉しそうに「ぼくの行きつけの店に行こう」と言った。
一体どんなところだろうかと期待に胸を膨らませつつ、駅前の噴水広場で待ち合わせをした。
花京院はシンプルな白いカジュアルシャツに、深緑のカーディガンとベージュのパンツ姿という、学生らしい出で立ちでやってきた。決して着飾っているわけでもないその装いにすら、キュンと胸をくすぐられていたのも束の間。
承太郎はまさしく、混沌と書いてカオスと読むに相応しい一日を、過ごすことになってしまった……。
花京院がよく行く店。そこは、メイド喫茶だった。
しかも一軒ではない。朝から夕方まで、延々とメイド喫茶巡りに付き合わされたのである。
おそらく正統派と思われる店は勿論のこと、猫耳やら巫女やらツンデレやら……とにかくあらゆるジャンルの店に連れていかれた。
まさかこいつらも全員男なのではあるまいな……と密かに疑ってかかる承太郎に、花京院は随所でその店やメイドの特徴について語り聞かせてくれたが、まったくもって世界観についていけなかった。
基本的に女が騒ぐのをよしとしない承太郎にとって、キンキンとした声で歌ったり踊ったり、しまいには「萌え萌えキュン♡」なんて呪文を唱えられた瞬間は、物理的に店を潰しそうになった。(花京院の手前我慢した)
とにかく承太郎は思った。おれの思っていたデートとは違う、と……。
「今日は付き合ってくれてありがとう。誰かと一緒にメイド喫茶巡りをするのは初めてだったけど、楽しかったよ」
夕暮れ時、人通りの少ない駅裏を並んで歩いていると、ふと足を止めた花京院が言った。どこか晴れやかな表情に、同じく足を止めた承太郎は、短く「おう」とだけ答える。
正直ヘトヘトだった。何十人と徒党を組んだ相手と連戦を繰り広げた後よりも、遥かに疲れている。主に心が。
とはいえそれをおくびにも出さない承太郎に、花京院は少し困ったような表情で小首を傾げる。
「一方的に連れ回すような形になってしまったな。疲れたんじゃあないか?」
「いや、そんなことはないぜ」
「そう? ならよかった」
確かに精神的には少々お疲れモードだが、結果的に楽しそうな花京院を、一日中そばで眺めることができたのだから、悪い日ではなかったと思う。
けれど心残りは十分にあって、それは花京院自身について、何も知ることができなかったという点だ。
彼がメイド喫茶巡りを趣味としているのは分かったが、それ以外でのプライベートな情報は、一つとして得られなかった。
熱心に語り、おどおどしつつもメイドと戯れる花京院に、口を挟む余地がなかったため、承太郎からは会話の糸口を見出すことができなかったのである。
そうこうしているうちに空は茜色に染まり、遠くの空には青い闇が迫っている。
このまま手も繋げず初めてのデート(?)が終わってしまうのは、あまりにも癪ではないか……?
(飯……そうだ、飯でも誘うか。そのへんのファミレスにでも)
が、しかし。
(腹が減ってねえ……)
本日巡ったのは、ジャンルはどうあれ喫茶店である。
行く先々でドリンクやフードを注文したため、総合するとかなりの量を飲み食いした。承太郎的には食べようと思えば食べられるが、果たして花京院はどうだろうか……。
無表情であれこれ考える承太郎の目の前で、そうとは知らず花京院が少し恥ずかしそうに笑って俯く。
「今日は本当に楽しかったよ。こんな風に一緒に過ごせる相手は、今までいなかったからね」
「一人か? いつも」
なんとここにきて、ようやく花京院本人に関する話が聞けそうな気配だ。承太郎がすかさず問いかけると、彼は言いにくそうに肩を竦めた。
「そうだね。恥ずかしながら、ぼくは人付き合いがあまり得意ではないんだ。この趣味は、両親にすら言っていないくらいだし」
「バイトのことも、か」
「言えるわけがないだろう。誰にも知られたくなくて、わざわざふたつ隣の町から通っているほどだからね」
「普通のバイトじゃあ駄目なのか。新聞配達とかよ」
「それじゃあメイドコスができないじゃあないかッ!」
ダンッ、と音を立てて、顔を上げた花京院が地面を踏み鳴らし、拳を握る。なんだか妙なスイッチが入ってしまったような気配を感じつつ、ちょっぴり呆れた。
「め、メイドコスって……てめー、それが目的で……?」
「当然だ! いいか承太郎、ぼくは別にそっちの趣味があるわけじゃあない。ぼくがメイドになりたいのは、憧れの芸能人と同じ服が着たいとか、髪型にしたいとか、そういう感覚に近いんだ」
「……なるほど」
見ているだけでは飽き足らず、その好意の対象そのものになりきりたい、という願望は、分からないでもない。承太郎も子供の頃は特撮ヒーローに憧れて、変身ベルトを買ってもらったりした経験がある。
が、なぜだろう。眩暈がしてくるのは……。
「ねえ、あそこに立ってる大きい方の人、ちょっとJOJOに似てない?」
そのときだった。
身に覚えのある渾名が耳に飛び込んできて、承太郎はギクリとしながら、黒縁眼鏡の内側で声のした方向に視線を走らせた。
せいぜい二車線あるかないかの道幅しかない道路の向いで、二人の女がこちらをチラチラと見ている。おそらく、いつも付き纏ってくる女子集団の中にいる顔ぶれだ。あまり一人一人を意識して見たことがないため、記憶は定かでないが。
なぜこんなところに……とは思ったが、彼女たちはちょうどレンタルビデオ店から出て来たばかりのようだった。
「やだぁ、JOJOがあんなモッサいオタクファッションに身を包んでるわけないでしょ?」
「でも、背格好が似すぎてるわよ。あんな日本人離れした体格、そうそういるかしら?」
「ありえないわよ! だって見てよ、あの顔の判別不能な凄い眼鏡。前髪もバサバサで姿勢も猫背だし……ムリムリあんなの」
「そうよね、ありえないわよね」
それより隣の赤毛の人イケメンじゃない? などと言いたい放題の女たちは、クスクスと笑いながら表通りの方へと消えて行った。
バレなかったことに内心ホッとする承太郎だったが、花京院は彼女らが去っていった方向を見つめたまま、なにやら考え込んでいる様子だった。
「……花京院?」
「JOJO、か……」
ドキーンと僅かに肩をビクつかせる承太郎に「ああ、すまない」と言って花京院が笑う。
「一度だけ、遠くから見かけたことがあるものだから。言われてみれば、背格好が君に似ているな」
「知ってた、のか」
「ええ。と言っても噂程度の知識くらいしかないですよ。なんでもすでに何十人と人を殺めているとか、無銭飲食の果てに店を爆破させただとか、気に入らない教師を生きたままドラム缶に詰めて、海に沈めただとか……とにかく物騒な話ばかり」
(す げ え 尾 ひ れ つ い て ん な)
と思っても言えず、ただギリギリと歯ぎしりをするに留める承太郎だったが、まさか目の前に本人がいるとも知らず、花京院は肩を竦めると苦笑した。
「そんな噂を全て信じているわけではないけどね。ろくでもない不良だというのは本当なのだろうが……背格好が似ているからって、何も気に病むことはないさ。君は君なんだから」
「花京院……」
じぃん……としかけたが、どこまでいっても本人である承太郎の心は、あまりにも複雑だった。というか、ろくでもない不良という言葉は、地味に心に突き刺さる。
確かにケンカ相手はちょっとやり過ぎなくらいブチのめすし、味とサービスが伴わない、ぼったくり同然の店に払う金があるなら、そのぶん募金した方が有意義だと思っている。尊敬に値しない、ただ踏ん反り返るだけでまともな授業すらしない教師は、人間のクズだ。
が、殺しちゃいない。承太郎自らが殺めるとすれば、それは夏場の蚊か、台所に出て来た黒い物体に、母ホリィが悲鳴をあげたときくらいのものだ。
(こいつはますます本当のことが言えなくなっちまった)
自分が不良のレッテルを貼られていることは、しばらく黙っておくつもりだったが、徐々に明かしていければと慎重に計画を練っていた。
それがまさか、ふたつ隣の町に住む花京院が『JOJO』を知っていたとは……。
「承太郎、君はとても寡黙な男だが、優しい心を持った人間だということを、ぼくは知っているつもりだよ」
「!」
「この間、店の裏にお客さんを連れて行ったぼくを、追いかけてきてくれただろう?」
「そ、それは……」
「君はたまたまだと言ったけど……心配してくれたんだよな。ありがとう」
「よ、よせ」
照れ隠しについ癖で帽子の鍔を摘まみかけて、かぶっていないことに気がついた。行き場を失った手で頭をぽりぽりと掻いて顔を背ける承太郎に、花京院がふわりと微笑みながら俯いた。
「あのときぼくが震えていたことも、きっと君はお見通しだったんだろうな。正直、ぼくは不良とか……なんていうのかな。ああいうのが、子供の頃からどうしても苦手なんだ。強引で、暴力的な人間がさ。好きだって人も珍しいだろうけど」
「……なにかあったのか?」
「いや……」
承太郎が問うと、花京院は明らかに言葉を濁して目を逸らした。だがすぐに笑った顔を上げて見せる。
「とにかくぼくは、君と知り合えてよかったと心から思うんだ。もしよければ、またこうして会ってくれると嬉しい」
「勿論だぜ。今まで通り、おまえの店にも行くつもりだ」
「本当かい? ありがとう!」
そう言って頬を染めながら嬉しそうに笑う花京院は、その赤い髪に夕焼けをいっぱい吸い込ませて、この世のどんな花よりも美しく輝いて見えた。
複雑さはまだ拭えないが、彼がこうして気持ちを語ってくれたのも、きっと承太郎に心を許しているからに他ならないのだと思うと、今のこの瞬間がなにより尊いものに思える。いずれ白黒ハッキリつけるつもりではいるが、もう少し、こうしてリラックスした彼の隣で、たくさんのことが知りたい。
それじゃあもう電車の時間だから、と言って、手を振りながら去っていく花京院の後姿を見守りながら、承太郎はよりいっそう、彼への気持ちを強いものにしていくのだった。
***
平和だが、何の進展もないまま時が過ぎていた。
承太郎はこれまで通り店に通い、休みの日は二人でメイド喫茶を巡る日々を送っている。他に行くところといえば、現役メイドで結成された、アイドルグループのライブくらいのものだろうか。
野郎ばかりの狭いライブハウスはあまりにもむさ苦しく、異様な熱気が溢れる場の空気に、正直ちょっと気を失いかけた。
そんなデート(?)を重ねていくうちに、承太郎もだんだんと麻痺してきてしまった。暑苦しく頭が痛くなるようなライブハウスに比べたら、まだキャピキャピのメイドがいる店の方が、マシと思えるようになってきた。最近ではどの店のオムライスが一番美味いか、どの店のどのメイドの声がオクターブ的に不快指数が低いか、などを熟知するまでになっていった。
が、やはり一切の進展がないというのは、あまりにも虚しい。
承太郎が想像するガクセーらしいデートといえば、映画を見たり、水族館に行ったり、公園を歩いたりしながらさりげなく手を繋いだりして、何気ない会話を楽しむというものだった。
幸せそうな花京院の笑顔を見ていると、ついつい「まあいいか」と流してしまうが、そろそろメイドから離れたデートをしてみたい。
このまま花京院に行先を任せていたのでは、確実になんの進展も見込めないだろう。
と、いうわけで、承太郎は次の日曜日に、花京院を水族館へ誘ってみることにした――のだが。
「承太郎、次の日曜は映画にでも行かないか?」
なんと、花京院からまともな行き先の提案があった!
もちろん承太郎は即座に頷いた。本当は水族館でお魚やヒトデと触れ合いを……なんて思っていたが、何も慌てる必要はない。映画の場合は上映期間があるだろうし、優先すべきはそちらの方である。
承太郎は、あまりの嬉しさに舞い上がった。顔や態度には出さないが、日曜日までの間ずっと夜も眠れない状態が続き、風呂場ではついつい、鼻歌をくちずさんで母に聞かれた。(めちゃ恥ずかしかった)
***
そんなこんなで迎えた日曜日。
駅前広場の噴水前でソワソワと待つ承太郎は、花京院が来る前に何度も繰り返した脳内シミュレーションを、最後にもう一度確認していた。
どんなジャンルの映画かは聞いていないが、恋愛モノなら最も盛り上がるシーンで手を握る。アクションでも、おそらく恋愛要素は多少なりともあるだろうと仮定して、やっぱりその手のシーンで手を握る。ホラーなら、随所で怯えるはずの花京院を安心させるため、手を握る。
どう転んでも、とにかく手を握るのが目標だ。
(花京院、おれは今日、なにがなんでも絶対にてめーの手を握る。おまえのその傷ひとつない白い手をよ!)
「やあ承太郎、待ったかい?」
「ッ!!」
そこへ時間ぴったりに花京院がやって来た。いつもの装いに緑色のダッフルコートを羽織っている。季節は秋から冬に移り変わっていて、今日は特に寒い日になると天気予報で言っていたが、燃え滾る承太郎は上着いらずだった。
「おう、待ってないぜ。いま来たところだ」
「ならよかった。それにしても君、いつも薄着だな。寒くないのかい?」
「むしろ暑いぜ」
「いい身体してるからな……代謝がハンパないのかな。でも、風邪をひかないように注意してくれよ」
「ああ」
(おれの花京院は今日も優しいぜ……)
心配そうに見上げてくる表情があまりにも可愛くて、手を握るどころか抱きすくめたい衝動を、ぐっと堪える。
そんな承太郎の気も知らず、花京院は「それじゃあ行こう」と言って、映画館の方を軽く指さした。
***
映画はホラーだった。
目的は花京院の手を握ることであったため、内容はいっそどうでもよかったのだが。
問題は出演者だった。なんとその映画は――。
あのメイドアイドルグループの、メンバーが主演だった。
しかもタイトルは
『戦慄! 美メイド狩り太郎から着信ナシ』
とかいう、俄かに信じられないものだった。誰だ。こんな壊滅的にセンスのないタイトルをつけるバカ野郎は。そんな奴からの着信など、なくて大正解だろう。どうでもいいが、頼むから太郎をつけるな……。
空席の目立つ場内の中央席に陣取った承太郎は、まだ何も映されていないスクリーンを遠い目で見つめていた。
その横では花京院がパンフレットを熱心に読みふけっている。
やっぱりこの花京院と普通のデートは望めないのか。そもそも彼は本当に、承太郎の気持ちを理解しているのだろうか。
友達から始めることに異論を唱えなかったのは自分だが、そろそろ付き合いもニヶ月を過ぎようという頃である。誰とも交際した経験がないため分からないが、こうも歩みが遅いものだろうか。
(い、いや、待て……今から見る映画は腐ってもホラーだ。花京院の反応如何によっちゃあ、まだ望みはあるッ!!)
とにかく手を握ろう。そうすることで少しでも花京院に意識させることが出来れば、いい加減こちらのペースに持って行くことも可能なはず。そろそろメイド三昧のお付き合いは限界だ。
「ときに花京院、おまえ、ホラーは得意か?」
決意も新たに問いかける。するとパンフレットから顔を上げた花京院は、肩を竦めて苦笑いした。
「あまり得意ではないかな。作り物だということは分かるんだがね、バーンとかドーンとか、驚かせることを狙った効果は心臓に悪くて」
「そうか。そうだな」
(イケるッ!!)
承太郎は花京院には見えないように、ぐっとガッツポーズをした。そうしている間に、空席が目立つままの場内が暗くなっていく。
諦めかけはしたものの、見えてきた希望に承太郎はレンズの奥で目を光らせながら、胸を躍らせた。
***
(おかしくねえか……?)
陰鬱なムードの映像がスクリーンに映し出される中、承太郎は首を傾げていた。
画面ではヒロイン(もちろんミニスカメイド服)が、いつ襲いかかるとも知れぬ殺人鬼(美メイド狩り太郎)に怯えながら、夜の森を歩いている。
小さな懐中電灯だけを頼りに、足を縺れさせながら進む彼女の背後で、草木が揺れる大きな音が響き渡った。
『ヒッ……!!』
声にならない悲鳴をあげながら、振り返るヒロイン。懐中電灯で照らしてみても、そこには鬱蒼とした木々が茂るだけで、誰もいなかった。
今のはそれなりにビックリポイントだったと思うのだが、隣の花京院はといえば……。
前のめりになって、画面を食い入るように見つめているだけだった。
(こいつ、ビクともしやがらねえぞ)
ホラーは得意じゃないという言葉は、嘘だったのだろうか。
映画がはじまってかれこれ一時間が経過するが、幾度となくあった恐怖演出に、彼は一切反応せず、ただ夢中で画面を見つめているだけだった。
承太郎の予定では、何度も身体をビクつかせては涙目になる花京院の手をナチュラルに握り、
「ふ……怖がりだな、花京院は」
「だ、だってじょおたろ、これ凄く怖いんだもん……」
「大丈夫だ。おれがこうして手を握っていてやるぜ」
「絶対、離さないでいてくれよ……」
「あたり前田のクラッカーよ」
と、なるはずだったのだが――。
(どういうことだ……実はホラー耐性ありまくりにしか見えねえ……いや、待てよ)
実は怖がりでも、変に強がりなところがある、それが花京院だ。本当は叫び出したいのをぐっと堪えて、情けない姿を見せまいとしているのかもしれない。
承太郎は一瞬でも彼の気を引くことができないかと、さりげなく咳払いをしてみた。が、反応はない。今度は思い切って肘で軽く突いてみたが、やはり反応がなかった。その横顔は真剣そのもので、よくよく見れば瞬きすらしていない。集中しすぎである。
「……おい、花京院」
「…………」
耳元で名前を呼んでみても、やっぱり無反応だった。
今の花京院はあまりにも映画に夢中になりすぎて、周りの一切をシャットダウンしている状態、ということか。
まったくもって予想していなかったパターンだ。承太郎は愕然としながらも、ここまできて何もしないなんて、冗談じゃないと思った。
花京院は肘掛に前腕を置いて、先端を強く握りしめている。
こいつを思いっきり握ってやったら、どうなるだろうか。流石に驚いて意識をこちらに向ける、と思いたい。
スクリーンではついに現れた殺人鬼が、ヒロインに錆びたバールのようなものを振り下ろそうとしている。引き攣った表情で悲鳴をあげるヒロインと、殺人鬼の笑い声が場内に響く。
そんな中、承太郎は花京院の拳に手の平をかぶせ、ぐっと握りしめた。
「…………」
無反応だった……。
承太郎は完全に負けを悟った。
花京院の意識は、完全にメイドヒロインに奪われている。
そして、その心も。何人たりとも入り込む余地など、一切ないということだ。急激に虚しさが襲ってきて、承太郎はこの場にいることに苦痛を覚える。
すっくと立ち上がって座席を離れても、やはり花京院は気づかず、スクリーンを見つめ続けるだけだった。
***
何もかもが、思っていたものとは違いすぎていたと。
承太郎は劇場内のトイレの個室に立てこもり、蓋をした便座に腰かけながら溜息を漏らす。
男も女も関係ないなんて考えが、そもそも間違っていたのだろうか。花京院と付き合うようになって初めて、承太郎は気持ちが揺らぐのを感じていた。
花京院にとっては興味の対象も、好意を寄せる相手も、そのどれにも承太郎は当てはまらない。それを嫌と言うほど思い知らされた気分だ。必ず手に入れると息巻いていたはずが、今の承太郎は完全に弱気になっている。
らしくない。分かっている。もちろん、だからってここであっさり引き下がる気にもなれない。諦めたほうがずっと楽だということも、分かっていながら。
(ここで腐ってたってしょうがねえ)
ひと気のない個室にこもってから、もうだいぶ時間が経っている。そろそろ映画も終わる頃だろう。弱気はここに全て置いていくことにして、承太郎は立ち上がると個室から出た。用を足したわけではないが手を洗い、ハンカチで拭う。そして通路に出ると
「承太郎ッ!」
前方から、花京院が焦った様子で駆けてきた。
「か、花京院?」
「ビックリしたじゃあないか。急にいなくなるから……もしかして、体調が優れないのか?」
「い、いや……それよりおまえ、映画は……?」
通路に客が一人も出てこないところを見ると、まだ映画は終わっていないはず。あれだけ夢中で見ていたのに、ラストの最もいいところを放り出して、わざわざ追いかけて来たというのか。
承太郎は信じられない思いで、少し怒ったような、困ったような顔で見上げてくる花京院を見つめた。
「いいんだ。それより承太郎の方が大事だから」
「!」
――承太郎の方が大事だから。
その言葉に、下降気味だった気持ちがぐんと上向くのを感じる。なんていじらしいのだろう。失望しかけていたぶん、胸の奥底から熱いものが込み上げて来た。
花京院がメイドよりも自分を優先した。たったそれだけのことが、承太郎にまるで偉業を達成したかのような感動と、充足感を与える。現金なものだと自分に呆れて、つい口元に笑みが浮かんだ。
が、それも束の間、花京院が次に放った言葉は、再び承太郎を凍り付かせるには、十分な威力があった。
「それにぼく、この映画はもう十回くらい観てるから」
…………?
「今、なんて?」
「ん? だから、この映画はすでに十三回は観ているんだ。仕掛けも結末も全て知っている。今日くらい最後を見逃したところで、なんら問題はないよ」
いやいやいや、何を言っているんだこいつは。しかも最初と最後で、地味に回数が増えているではないか。
すでに十回以上は観ている? だからどんな演出にも、顔色ひとつ変えずにいたのか? そのくせ手を握っても気づかないくらい、熱中していたのか? パンフレットまで毎回購入しているのか?
初めて見る映画の結末よりも、自分を優先してくれたのでは、なかったのか……。
ガラガラと何かが崩れるような音と共に、愕然とする承太郎を尻目に、花京院は「どうせまた観に来るから気にしないでくれ」と言って、朗らかに笑っている。が、すぐに少し残念そうに眉尻を下げた。
「でも、君と最後まで観られなかったのは少し惜しいかな。友達と映画なんて、初めてのことだしね」
その彼にとっては何気ない一言が、さらに承太郎の心にとどめをさした。
「友達……?」
呟いた承太郎に、花京院は「あ」と何か気づいたような顔をして、さらに追い打ちをかけてくる。
「違うな。ただの友達じゃあない。大切な同志だ」
その瞬間。
「ッ……!?」
承太郎は花京院の身体を思い切り叩きつけるようにして、壁に押し付けていた。
「アイタッ! じょ、承太郎……?」
何が起こったのか分からない。花京院の顔にはハッキリとそう書かれている。彼は切れ長の瞳を大きく見開いて、茫然としながら承太郎を見上げていた。
「ふざけんな」
「ぁ、え……?」
――もう限界だった。
何が友達だ。何が同志だ。承太郎の方が大事だと言ったあの言葉が、そんなままごとのような意味でしかなかったのかと思うと、目の前が真っ暗になるのを感じる。
そして、どうしようもなく怒りが湧いた。
「こんなに腸が煮えくり返る思いをさせられたのは、生まれて初めてだぜ。花京院」
ひと気のない通路に、ぴりぴりと凍り付くような空気が立ち込める。
ずっと花京院を怯えさせないようにと努めてきたけれど、このときの承太郎には、全てがどうでもいいことのように思えた。
やっぱり生温いやり方は性に合わない。最初からこうしていればよかったと。
案の定、明らかに様子の違う承太郎に、花京院はさぁっと表情から血の気を引かせる。
「ぼ、ぼくはなにか……気に障るようなことを言って……?」
承太郎はふと、肉厚な唇を獰猛な獣のように歪ませた。
「てめーは何も悪かねえのかもしれねえな。だが、おれはもう我慢できん」
「じょ、じょうたろう?」
「おまえはおれと付き合っている。そうだな」
「う、うん、そう、だな」
こくこくと何度も頷く花京院は、すっかり萎縮したように肩を竦め、握った両の拳を胸元に押し付けて震えていた。
その様が捕えられた小動物のようで、僅かに良心が痛む。それでも、ここまできたらもう引き返せない。
「だが、おれはこれ以上てめーとお友達ごっこをするのはご免だぜ」
「友達、ごっこ……?」
「好きだ」
「……へ?」
「てめーが好きだ。友達としてじゃあねえ。初めて見たときから、おれはてめーに恋をしている」
花京院は大きめの口を丸くぽかん、と開けて硬直していた。
だがすぐに顔を青くしたり、赤くしたりしながら忙しなく目を泳がせ始めた。
「わ、笑えない冗談はよせ承太郎ッ! た、確かに君はどういうわけか、ぼくを女性と勘違いしていたようだが……その疑いは晴れたはずだ! だから友達として、趣味を同じくする者としての付き合いを……ッ」
ズウゥン、と音を立てて、承太郎は花京院の青褪めた顔のすぐ横に、掌を打ち付けた。僅かに壁がへこむほどの威力だった。
「かか、か、壁ドン……? しか、しかも、め、めり、めりこん、で……?」
「遊びは終わりだ。花京院」
「な、ん……?」
「おれの目を見て、しっかり答えな。ハイかYES、どっちかでいい」
「せ、選択肢がないじゃあないかッ! しかも、目を見ろなんて言ったって、その眼鏡じゃ全く顔が見えないぞッ!!」
めり込み壁ドンがよほどショックだったのか、一層震えながら花京院は目を潤ませ、それでもどうにか声を張り上げている。
確かにこの眼鏡は濁った牛乳瓶のように分厚くて、ほぼ顔の判別は不能だ。地味さをアピールするためのアイテムとして選んだが、それももう無用の長物である。
承太郎は今、ハッキリと素を見せているのだから。
「そうだったな」
鼻で笑いながら眼鏡を外すと、床に放り投げた。
それからもっさりとおろされていた前髪を掻き上げ、後ろに撫でつける。幾本かの前髪だけが、はらりと額にかかった。
「これでいいか」
「な、なな、な……?」
緑がかったブルーの瞳を猫のように細め、花京院を見下ろす。
彼はこの世の終わりを見ているかのような形相で、目を見開いて唇を戦慄かせていた。小刻みだった身体の震えが、地震でも起こっているかのように、ガタガタと大きなものに変化している。その表情は青を通り越して、いっそ死人のように色を失っていた。
「い……い……」
「おい、花京院?」
「イケメンッ!!」
ドンっと両手で胸を押され、不覚にも少しよろめいてしまった。花京院はその隙に壁から離れ、反対側の壁に背を張り付けた。そのままにじにじと這うようにして遠ざかろうとしている。
すかさず近づこうとすると「来るなッ!!」と叫ばれてしまう。
「そそそ、そんな、そんな超絶イケメンだなんて、き、聞いてないぞッ!! ぼくを騙していたのか!?」
「否定はしねえ。あの眼鏡もこの服装も、全部変装だからな」
「なんの意味があってそんなことを!?」
「てめーを落とすために決まってんだろーが。この方が警戒されずに済むからな」
「まるで詐欺師の手口じゃあないかッ!!」
「ごちゃごちゃとやかましいぜ。いいからとっとと答えを聞かせな」
腕を組み、踏ん反り返って言い放つと、花京院は「ふざけるなッ!!」と悲鳴じみた声をあげた。
「どうして君のようなリア充の臭いしかしない、規格外な男前がぼくなんかを!? だいたい、ぼくにはBL趣味はないんだッ!」
「びーえる? BLTサンドのことか? それより花京院、おれはハイかYESしか選択肢を与えていないはずだぜ」
「NOだバカッ!!」
捨て台詞を吐き、花京院はそのまま脱兎のごとく走り去ってしまった。すぐに追いかけようとしたが、映画の上映が終了したのか、通路の随所にある扉から、人がぞろぞろと飛び出してきて、行く手を遮られた。
まばらにしかいないと思っていたが、意外と客が入っていたらしい。
「チッ……!」
忌々しげに舌打ちをして、承太郎は手の平に爪が食い込むほど拳を握りしめる。絨毯張りの床を、人も殺せそうなほどの鋭い視線で睨み付け、奥歯を噛み締めた。
『NOだバカッ!!』
頭の中で、幾度も花京院の声を反芻した。
NO、それはYESの反対。
「ふられたのか、おれは……」
花京院はこの世の終わりのような顔をしていたが、それは承太郎にとっても、同じことだった。
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「いいか来主。この一週間は、甲洋がお前の保護者だ。彼の言うことには素直に従うこと。絶対に迷惑だけはかけるな。わかるな?」
「お土産買ってくるから。いい子で待ってな」
最後にそう言い聞かせ、午後の船で一騎と総士は旅立った。
彼らの見送りは休憩から戻ってきた真矢と、図ったかのようなタイミングでやってきた西尾暉のふたりに任せた。操も一緒に行きたがったが、土壇場でまた駄々をこねるのが目に見えていたので、今日から彼が生活するスペースを案内したいからとかなんとか、適当なことを言って納得させた。
二階には風呂場とトイレと手狭ながらダイニングキッチンがあり、寝室は二部屋ある。ひとつは甲洋の部屋で、もうひとつは両親が使っていた部屋だ。
「この部屋を好きに使って。クローゼットは空だから、服でもなんでも突っ込んじゃっていいよ。食事は下で、まかないが主になるかな。アレルギーとか、嫌いな食べ物はある?」
一週間分の操の衣類などが入ったカバンを、ベッドに置きながら問いかける。彼には両親の寝室を使ってもらうしかないため、ベッドはダブルサイズだ。
操は扉の前に立ち尽くしたままそっぽを向いている。質問に答えないどころか、荷物を運んでもらってもこの態度だ。甲洋は胃がキリキリと痛みだすのを感じた。
「来主、気に入らないのは分かるけど、一週間だけだから。俺はなるべく干渉しないようにするし、なんでも好きにしたらいい。遠慮はいらないよ」
間違っても剣のある言い方にならないよう、穏やかな声音を心がけながら言った。
操は甲洋を見ようともしないまま、やっぱりなにも答えない。むっと口をへの字に曲げて、不機嫌そうに眉間に皺を刻んでいる様子に、息が詰まりそうだった。
最初からまともにコミュニケーションがとれるとは思っていなかったが、早々に諦めて切り上げようとしたとき、操がようやく甲洋にチラリと視線を向けて口を開いた。
「……ねぇ、なんで引き受けたの?」
どこか責めるような物言いだった。言葉を発したら発したで、彼との対話は甲洋にとって苦痛でしかない。こうして同じ空間にいることも。けれど貼りつけた笑みを崩さないまま、無難に返す。
「なんでって。総士から頼まれれば、嫌とは言えないだろ? 大事な友達なんだから」
「友達なら、どんなに嫌なことでも我慢するの?」
「え……?」
「おれ、好きじゃないって言ったんだよ。君のこと。なんでそんな平気そうな顔して笑ってられるの?」
その問いかけに、心臓が止まるかと思った。けれど甲洋が不随意運動のように染みついた笑顔を崩すことはなかった。
「嫌じゃないさ。都合が悪ければ断ってたし、俺は別に気にしてないから」
「……ふぅん」
操は興味なさげに目を逸らすと、ベッドまでズカズカとやってきて荷解きをはじめる。その様子を見下ろしながら、甲洋の背中には冷たい汗が伝っていた。操が目を逸らさないままでいたら、この空気に耐えきれず部屋を飛びだしていたかもしれない。
彼は甲洋が嫌々引き受けたことに気がついている。あるいはもっとその先。奥の奥まで見透かされているのではないか。そんな不安に足元が揺らぎそうになる。
半分は嘘。だけど半分は本当だ。操の言葉に深く傷つきながら、けれど友達を助けたいという気持ちも確かにある。だがその一方で、甲洋を動かしているものの大半は自分の心を守るためのものでしかない。
しかしそれは決して他人に知られてはいけない、自分自身ですらどうにもできない甲洋の暗部だった。
(大丈夫。大丈夫だ。知られてなんかない。俺は、うまくやれているはずだ)
何度も繰り返し、自分に言い聞かせる。そうしなければどうにかなってしまいそうだった。
操は鞄の中から日用品や勉強道具などをとりだしている。するとその中に混ざって、革製のブックカバーがかけられた厚みのある本が一冊、姿を現した。その本から、スルリと一枚の紙切れが滑り落ちる。
「あっ」
操が短く声をあげる。白い紙は甲洋の足元にふわりと舞い降りた。
「これ、写真?」
光沢のある紙質から、どうやらそれは裏返った状態の写真であることが見てとれた。甲洋が拾い上げようとするより先に、操が引ったくるようにして写真を掴み取る。
「触らないで!」
ちょうど表面を胸に押しつけ、操は焦った様子で甲洋を睨んだ。
「用がないなら、もう行ってよ!」
「ああ、うん。ごめん」
反射的に謝罪した甲洋に背を向け、操はこれ以上話しかけるなといわんばかりの刺々しい空気を放った。どこにもとりつく島がない。
甲洋はそっと溜息をもらし、静かに部屋を後にする。
(……俺だって、お前が嫌いだよ)
気が遠くなるほど長い一週間が、今この瞬間から始まろうとしていた。
*
「いらない」
暉特製のカレーとポテトサラダ、デザートにはイチゴのショートケーキ。
テーブルの上に並ぶそれらを見て、操はぶっすりとした表情のままそう言った。
「食べなきゃ明日の朝までもたないよ」
「いらないったらいらない。食べたくない」
一応は椅子に腰掛けていた操は、テーブルから視線を外すと席を立つ。
「来主」
咎めるように名を呼ぶと、彼は文句があるのかとでも言いたげに甲洋を見上げた。
「お前、カレー好きなんだろ? せっかく暉が」
「おれは一騎カレーが好きなの! カレーならなんでもいいってわけじゃない」
それに、と操は俯きながら続けた。
「食欲ないんだ。だから、いらない」
これがただの我儘だということはすぐに分かった。あるいは当てつけだろうか。
そんなことをしたって総士たちが不在である事実に変わりはない。あのふたりは今ごろ宿に到着して、一息ついている頃だろう。落ち着いたら電話をよこすと言っていたが、今のところその気配はない。
操がしようとしているのは、ハンガーストライキのようなものだ。食わずして不満を訴えている。正直どうでもいいというのが甲洋の本音だった。食べたくないなら食べなきゃいい。どうせ空腹に耐えかねれば、いずれは黙ってたって食うだろう。
しかし甲洋はそれをそのまま言葉にはせず、心配する素振りでそっと小さな息をもらす。
「わかった。なら無理に食べなくていいよ。お腹が空いたら言ってくれればいいから」
当たり障りのない言葉選びをしたつもりだった。けれど操はきつく甲洋を睨みつけ、それからまた俯いた。
「こういうとき、一騎ならすぐに果物を剥いてくれるのに。桃とか、リンゴとか」
「……は?」
「総士は遠見先生のところに行こうって言うよ。なにか病気だったりしたら大変だからって」
操の言葉に、甲洋はただ戸惑った。彼は総士たちと甲洋を比べて、その至らなさを批難しているのだ。
あのふたりが普段からこの少年にどう接しているのかなんて、そんなことは甲洋の知ったことではない。あまりの理不尽さに、怒りを通り越して閉口してしまう。
(少しどころの話じゃないぞ、総士……いくらなんでも、甘やかしすぎたんじゃないのか?)
彼がどれだけ大切にされているかは理解できたが、それが当たり前になってしまっている少年の振る舞いには、さすがの甲洋も本気で頭を抱えたくなった。
「来主、してほしいことがあるなら直接言って。俺はお前のこと、まだよく知らないんだ」
「……一騎と総士に会いたい。家に帰りたい」
「それは無理だよ。頼むから、少しのあいだ我慢して」
甲洋は宥めすかすようにそう言って、操の肩に手を置いた。けれどすぐにその手をぴしゃりと叩き落とされてしまう。
「ッ!」
「もういい! おれのことはほっといて!」
操は甲洋から逃げるようにその場から離れ、二階へ続く階段へと駆けていく。乱暴な足取りで駆け上がる音を、甲洋はただ呆然としながら聞いていた。
叩き落とされた手の甲が、やけに痛んで仕方ない。どろりとした何かが内側から溢れてきそうな感覚に息苦しさを覚えて、思わずその手で心臓を押さえた。
激しい拒絶に、もう何度目か分からないくらい打ちのめされている。
「しょうがないねぇ」
気づくと真矢が隣にいた。彼女は木製のトレイに手付かずの料理をひとつひとつ乗せ、困り眉で甲洋に笑いかけた。
「操くん、皆城くんと一騎くんにべったりだったから。置いて行かれるなんてこと、今までなかったんだよね」
「……あいつが来たのって二年も前なんだろ? 総士の出張って、これが初めて?」
「うぅん。そんなことないよ」
真矢がゆるゆると首を振る。甲洋もまた彼女に釣られて眉をハの字にしながら微笑んだ。
「ああ、一騎がくっついて行ったのが、初めてなんだな」
「そ。どっちかは必ず傍にいたの。でも、今回はふたりして行っちゃった。春日井くんが帰ってきたからかもね」
「どういう意味さ」
「甘えてるんだよ、春日井くんに。損な役回りだねぇ」
真矢は甘くくすぐるような声でいたずらっぽく笑った。
けれどすぐに「でも」と続けながら表情を曇らせると、階段の方へ目を向ける。
「いくらなんでも、ちょっと様子が変かも。操くん」
「変?」
「うん……なんか、わざと春日井くんが嫌がる言葉とか、態度を選んでるみたいな……」
それはそうだ。彼の振る舞いや言動は、あきらかに甲洋へのあてつけでしかない。
思わず肩をすくめ、力なく笑った。
「……俺はあまり好かれてないみたいだからね」
「そうかなぁ」
彼女はなぜか腑に落ちないといった様子で首を傾げた。
「小さい頃、ああいう子いなかった? 気になる子にわざと意地悪したり、嫌われるようなこと言ったりする男の子。私もされたことあるんだ。でも、あとから考えるとそうだったのかなって」
「……遠見には、あれがそう見えるの?」
甲洋はきょとんとしたあと、苦笑した。その仮説は流石にどうだろうか。話がまるで違う次元に飛躍しているとしか思えない。
「わかんないけど、なんか思いだしちゃったんだもん。そういう子いたっけなって」
彼女は非常に鋭い勘の持ち主である。真矢が直感的に察した物事は、ほとんどの場合実情とよく合致するのは知っていた。けれどこの件に関してだけは、彼女の希望的観測が多分に含まれているように思えてならない。
現に発言した本人も「そっか、違うかぁ」と呟いて自己完結している。
「そうだったら、ちょっと面白かったんだけどね」
甲洋は茶化すように言って、そんな彼女にフォローを入れた。
「あはは、だよねぇ。でも、やっぱり不思議。だって操くん、ちょっと前、私に春日井くんのこと──」
そのとき、カラン、というドアベルの音がして扉が開いた。
「よ! やってる?」
顔を出したのは両親の頃からよく店に来ていた常連客の男性だった。
「あ、はーい! やってまーす!」
真矢は慌ててトレイを持ち上げ、それから甲洋を見てにっこり笑うと
「これ、一応ラップして置いておくね。操くんてね、あんなに細いのにすっごい食いしん坊なんだよ。だから本当はお腹ペコペコだと思うんだ」
と言って、カウンターの方へと消えていった。
訪れた客を席に案内し、二三会話をしながら、甲洋は真矢が言いかけていた言葉の先が気になって仕方ない。
そういえば一騎も、あれと似たようなニュアンスのことを言いかけてはいなかったか。あのとき遮ったのは操の「好きじゃないからだよ」という、苛立った声だった。
思いだして、またやりきれない気持ちになる。
これでまだ一日目だ。総士たちの旅の日程は七泊八日である。先はあまりにも長かった。
*
真夜中、板張りの階段がかすかに軋む音がした。
ベッドの背もたれに背を預け、まんじりともせず本のページをめくっていた甲洋は、ふと顔をあげると廊下の方へ耳を澄ませる。
その音は下へと向かって遠ざかり、やがて何事もなかったように静寂が訪れた。
「来主……?」
まさかとは思うが、こっそり家に帰るつもりでいるのではないか。彼ならやりかねないような気がして、甲洋は本を閉じるとベッドから抜けだし、静かに扉をあけて階段をおりた。
とっくに営業時間を過ぎている店内は薄暗く、当然人の姿はない。カウンターの方から溢れる照明に、テーブルに伏せられた椅子がぼんやりと浮かび上がっているだけだった。
甲洋は足音を立てないように下までおりると、カタカタと音のするほうを覗き込んだ。そこには冷蔵庫の扉を全開にして、中身を物色している操の背中がある。
(……まったく、だから言わんこっちゃない)
空腹に耐えかねて眠れなくなってしまったのだろう。結局、ハンストなど長くはもたないのだ。ましてや食べ盛りの十六歳男子では、一日三食だって物足りないくらいなのだから。
それにしたって一晩も続かないあたり、少し情けない気はするが。
「駄目だよ、来主」
「わっ!?」
ほっと息をつきながら声をかけると、操が悲鳴をあげながらビクリと肩を震わせた。慌ててこちらを振り向き、背中で冷蔵庫の扉を閉める。
甲洋は条件反射のように緩く口角を持ちあげた。
「それは店の冷蔵庫だから、開けるなら二階のにして」
イタズラの現場を押さえられた子供の顔で、操は肩をすくめていた。けれどすぐに開き直ったのか、つまらなそうに曇らせた表情を向けてくる。
「ビックリさせないでよ。別にいいでしょ。なんでも好きにしていいって言ったくせに」
「言ったけど、そこにはお客さんに出すものしか入ってないよ。お前の飯は二階の冷蔵庫。あっためてやるから、おいで」
「……いらない。君のせいで食べたくなくなった」
操は悪びれもせずぷいと顔を背けると、脇をすり抜けてキッチンから出ていこうとする。すれ違いざま、甲洋は咄嗟にその手首を掴んで引き止めていた。
「な、なに?」
操はやけに驚いて、目を丸くしたあとキッと睨みつけてくる。
自分でもなぜわざわざ引き止めてしまったのか分からない。彼は甲洋がなにを言ったって、どうせ聞きやしないのだから。
だけどふと、釣り上がった瞳を見下ろしながら甲洋は思う。
ここにいるのが総士だったなら、あるいは一騎だったなら、彼の瞳は全く違う色を放つのだろう。よく笑うやつだと聞いていたのに、甲洋は操が笑った顔をまだ一度も見たことがない。
(どうして俺だけ?)
疑問はずっと渦を巻いていた。どうしてこいつは俺だけをこうも嫌うのかと。
相性の問題。水と油。そういう人間もいるのだと割り切れたら、甲洋は今までだってずっと楽に生きてこられたはずだった。
だけどそれができなくて、どうしてもできなくて、恐ろしくて。人当たりのいい笑顔と態度で他人からの印象を操作しなければ、ここまでやってくることはできなかった。
唯一、どうにもできなかったのは両親だけだ。どれだけいい成績をとっても、家の手伝いをしても、欲しいものを我慢しても、彼らは甲洋を一度だって見ようとはしなかった。一欠片の情もかけてはくれなかった。無関心だった。
彼らはただ店の後継者が欲しかっただけで、甲洋を我が子としては見ていなかったのだと思う。都合のいい人形と同じだ。きっと人として見られてすらいなかった。
他の誰でもない。最も愛してほしかった人たちの中に、甲洋はどこにもいなかった。
そしていつしか甲洋はその存在価値すら失って、形ばかりの家族は離散した。
「ねぇ、用がないなら離してよ」
なにも言おうとしない甲洋に、操はますます不機嫌そうな顔をした。
彼の手首を掴んでいるのは、さっき叩き落とされた方と同じ手だ。痛い。痛い。どろどろとした汚泥のような何かが、甲洋の内側を浸食していく。痛い。苦しい。目眩がした。
(なんで俺だけ!)
──どこにも居場所がないのだろう?
「……お前さ、なにか俺に言うことないの」
ぷつりと、なにかが切れてしまったような感覚を覚えていた。
脆い心の膜を突き破って溢れ出したのは、暗く冷たい怒りの念だった。それが甲洋をどこか投げやりな気持ちにさせてしまう。
どうでもいい。最初からそうだった。こいつのことなど、どうでもいいと思っていた。
だったらどう扱おうが、もう勝手じゃないか。だって彼は、絶対に甲洋の思い通りにはならない。こいつも、あのふたりと同じなんだと。
不穏な空気を肌で感じとった操が、肩を強張らせている。訝しげに見上げてくるその瞳に映る自分が、面をかぶったように感情を失っているのが分かった。すると、ずっと強気だった眼差しに少しずつ不安の色が滲んでくる。いいなと思った。その目は、凄くいい。
「ッ、ぁ!」
次の瞬間、甲洋は掴んでいた手を強く引っぱると、階段下の壁に向かってその身体を叩きつけていた。背中を強か打ちつけた少年が、くぐもった悲鳴をあげる。
ぎゅうと目を閉じていた操が瞳を見開くのと同時に、壁に右の手のひらを打ちつけた。操の顔のすぐ斜め上だ。バン、という暴力的な音が空気を震わせ、一瞬で辺りを凍りつかせる。
驚愕して息をつめ、操は甲洋を凝視した。顔面は蒼白で、なにが起きているのか理解できていない様子だった。胸に押しつけるようにして、両手を握りしめている。
「──ごめんなさいだろ?」
「ッ、ぇ……?」
「生意気な態度をとってごめんなさい。ご飯を食べなくてごめんなさい。こそ泥みたいに冷蔵庫を漁ってごめんなさい。そのくらい、幼稚園児だって分かるぜ」
存分に侮蔑を込めた瞳で見下ろす。それは甲洋を軽視していた少年のプライドを傷つけるには、十分すぎるほどの嘲罵だった。豹変した甲洋に操は唖然としていたが、すぐに表情を一変させて、吊り上げた眉できつく睨みつけてくる。
「……こんなことして、いいの?」
操は声を震わせながら言った。
「総士に言いつけてやるから。こんな乱暴なこと、総士と一騎が知ったら絶対に許さないよ。だってこれって虐待でしょ?」
不自然に強ばる声から、彼が虚勢をはっているにすぎないことはすぐに分かった。
甲洋は鼻で笑うと、左手で操の顎を鷲掴む。皮膚に爪が食い込むほどの強さで固定して、無理やり上向かせた。
「痛っ、ぁ……!」
操の両手が咄嗟に甲洋の左手首にかかる。彼もまた皮膚に爪を立てながら、それを引き剥がそうとしてもがいた。そうすればするほど、甲洋は指先にギリギリと力を込めた。
「──言いたいなら言えばいい」
カウンターから漏れだす光を背に、甲洋の表情はひどく翳っていた。底なし沼のように虚ろな瞳に、絡めとられた操がぶるりと戦慄いたのが分かる。
甲洋を形作っていた装甲は、その全てがバラバラに砕け散っていた。最初にひびを入れたのはこの少年だ。液体にさらされた氷が鋭い音を立てるみたいに、その中心部には冷然とした素顔だけが隠されていた。
「自分勝手で我儘な悪ガキが、普段は温厚で優しい大人を怒らせた。それだけの話だよ。もちろん、お前をここまで甘やかした総士たちにも責任はある。お前のために、俺なんかに何度も頭を下げるだろうさ」
「っ、ぅ……」
小さく呻きながら、操の表情がくしゃりと歪む。
分が悪いことくらいは理解できているのか、彼はすっかり気圧されていた。大きな瞳にはみるみるうちに透明な膜がはり、今にも零れ落ちそうになっているのを見て、甲洋は激しい喜悦に胸が沸きたつのを感じていた。
「俺がこんなことするなんて誰が信じられる? お前を乱暴に扱って、こんなふうに痛みを与えて? 散々好き勝手に振る舞っておいて、悪びれもしないお前がなにを言ったところで」
甲洋は操の耳元にそっと唇を寄せた。
「誰がそれを信じると思う?」
吐息まじりに紡いだ声を、耳の穴にねっとりと吹き込んでやる。
甲洋には実績があるのだ。好い顔をして誰にでも優しく振るまって、善人の皮をかぶり続けてきた揺るぎない実績が。
操はビクンと身を震わせて首を左右に振ろうとしたが、顎を固定されているせいでままならない。ただ絞り出すように、か細く喉を震わせるだけだった。
「一騎と総士は、信じてくれるよ……おれの話、ちゃんと。だって、優しいもん。おれの言うこと、なんでも聞いてくれるし……いい子だって、いつも、褒めてくれるもん……!」
「いい子? お前が?」
甲洋は「ふぅん」と言うと皮肉を込めてせせら笑った。
「俺の言うことには素直に従うこと。絶対に迷惑はかけないこと。いい子で待ってること。お前の大好きな一騎と総士が言ってたことだよ。──ひとつも守れなかったな、お前」
操はギクリとした表情で青褪めるだけだった。
甲洋はわずかに手の力を緩めると、噛み締められた唇を親指でそっとなぞってやる。
楽しいと感じていた。人を追いつめ、じわじわと逃げ場を失っていくのを眺めるのは、とても楽しい。もっとその反応を見てみたいと思った。
「総士に言いつけてやろうか?」
わざとらしく、そして明確な悪意をもって、さっき彼がしたのと同じ脅し文句をかけてやる。
「愛想を尽かして、帰ってこなくなるかもね。ふたりとも」
「ぇ……?」
「捨てられたってしょうがないよな。だって来主は悪い子だから」
「う、嘘……? やだ、そんなのやだ! 総士がっ……一騎が、帰って来ないなんて……いやだ! ねぇお願い! 謝るから……だから、言わないで……」
想像してしまったのか、操は引きつった声をあげながら涙を零した。甲洋の手首にかかっていた両手が、いつしか引き剥がすためではなく、縋るためのものになっている。
完全に空気に飲まれてしまった未熟な心は、面白いほど簡単に甲洋が吐きだす言葉の毒に縛られる。気持ちがよかった。あの生意気だった来主操が泣いている。ひくひくと震えながら、大粒の涙を流しているのだ。
(なんだ、こんなに簡単に折れるんだ)
そのあっけなさに満足しながら、そんな彼が今度はひどく哀れに思えてきた。優しくしてやりたいという対極の気持ちが込み上げ、甲洋はふわりと微笑みながらその涙を拭ってやった。
「そんなに泣いたら目が腫れるよ。ああそうだ、来主は腹が減ってるんだったね」
顎を開放し、爪痕が残る頬をゆるゆると撫でさする。可哀想に。赤い痕がくっきりと残ってしまっている。
「泣くのは終わり。さあおいで、ケーキもちゃんととってあるから」
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