2025年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
07
そこから一騎のアパートまで、全速力で走って30分とかからなかった。
階段を駆け上り、つい先日訪れたばかりの部屋のドアを何度も叩く。
「一騎! 俺だ! 開けてくれ!」
すると扉を開けて顔を出したのは、えらく迷惑そうな顔をした総士だった。
「総士、操は?」
「いいからまずは入れ。近所迷惑だ」
総士は軽く顎をしゃくるようにして甲洋を中に招き入れた。先日初めて会ったときよりも、心なしかやつれて見えるのは気のせいだろうか。髪も引っ掻き回されたように乱れているし、表情に疲れが滲んでいる。毛足の長いしっぽが、苛立ったように左右に激しく揺れていた。
甲洋は促されるまま中に入ると、先をいく総士を追って部屋へと足を踏み入れた。するとそこには──。
「この通り、やつなら寝てる」
「……これは、どういう状況?」
目の前の光景に困惑しながら、甲洋は口元を引きつらせた。
操はのんきに眠りこけていた。買ってやったばかりの赤いパーカーを着て、カーキ色のパンツを履いて、ベッドでぬくぬくと幸せそうに。
が、それだけではない。彼はなぜか一騎に腕枕をされていた。ぴったりと身を寄せて、すっかり安心しきっている。そして一騎も一騎でなぜか爆睡していた。
通話を終えてわずか30分足らずである。それがどうしてこうなった……。
「それは僕が聞きたい」
総士は極めて不愉快そうに吐き捨てた。
甲洋は全く状況が飲み込めない。操が親友とひとつのベッドで眠っているという捨て置けない事実もさることながら、そもそもどうしてこの子がここにいるのか。
立ち尽くす甲洋に、総士はため息を漏らすと「とりあえず座れ」と言った。それから台所へと消えてしまう。
しかたなく、甲洋は言われたとおり床に腰をおろした。
ベッドの上をジリジリと睨みつけながら待つこと数分。
総士がお茶を淹れて運んできた。この子は家事ができるのか。大人びてはいるが操とそう歳が変わらないように見えるのに、大したものだと思わず感心してしまう。
「ありがとう。凄いな、総士は」
「このくらい赤ん坊だってできる」
「え? ああ……うん」
うちの操には無理だなぁ……と思ったが、なんとなく悔しいので黙っておいた。そもそもキッチンに立たせたことがないなんて言ったら、猛烈にバカにされそうな気がする。
(うちの操、か……)
ふと漏れたため息が、湯呑みから立ち上る白い湯気を掻き乱す。
総士はソファにドカリと腰をおろして足を組み、さらに両手を組むと膝にかぶせた。
「とんだやんちゃ坊主だな。最初は死にそうな顔をしていたくせに」
「死にそう……? 操は、どうしてここに?」
「一騎が拾った。僕もその場に同行していたが」
総士は不服そうな表情を崩すことなく、操を保護した経緯を話してくれた。
操を見つけたのはこの近くのスーパーの出入り口だった。総士は一騎と一緒に買い物に訪れていて、自動ドアの横にうずくまっていた操を見つけたのは一騎だった。
「最初は野良かと思ったよ。裸足だったからな」
総士は操を気にする一騎に放っておけと言った。いちいち野良ネコを気にかけていたらキリがない。だが一騎は操の身なりが綺麗なことから、どこかの飼いネコが迷子になっているのかもしれないと考え、声をかけた。
どこから来たのか、飼い主はどこにいるのか。そう訪ねると、彼はしばらく迷った末にただ首を横に振った。なにを問いかけても、そうやって首を振り続けるだけでなにも言わない。
やがてみるみるうちに涙をためて、ついには泣きだした。困り果てた一騎はさながら犬のお巡りさんだった。
見かねた総士は仕方なく心に直接問いかけた。操は心を閉ざしていたため、その背景をうかがい知ることはできなかったが、かろうじて自分の名前だけは答えたという。
その名を聞いて、すぐにピンときた。甲洋が先日ここで話していた捨てネコと、同じ名前。茶トラの鍵しっぽという点も一致していた。
なにかしら事情があるのだろうと、一騎と総士はひとまず操を自宅に連れ帰って保護することにした。
操はずっとふさぎ込んだ様子でいたが、一騎カレーを出すと急に目の色を変えた。わっと声をあげ、カレーを口にすると「この味知ってる!」と言って夢中で食べた。おかわりもした。
食後、一騎が片付けをしているあいだ総士は操に懐かれていた。彼はしきりに総士の匂いを嗅いで、「君の匂いも知ってる!」と言った。それから、めちゃくちゃジャレつかれた。
今まで同族と接したことがなかったからかもしれない。歳も近いし、友達ができたことが──かなり一方的だが──嬉しかったのだろう。
「それでボロボロだったんだね、お前……」
総士も総士で、操のようなタイプと接したことがなかったのかもしれない。髪もめちゃくちゃで、疲れ切った様子だったのは、操の相手をさせられていたからだったのだ。
さんざん食べてさんざん遊んで、疲れた操はやがて総士の髪を引っ掴んだまま船を漕ぎだした。片付けを終え、甲洋に連絡を入れて戻ってきた一騎が操をベッドに寝かせようとしたが、操は一騎にしがみついて離れようとしなかった。
無理に剥がそうとすると赤ん坊のようにぐずるので、結局そのまま抱いて寝かしつけるしかなかった。
「で、そのうち一騎まで寝たと?」
総士は眉間に深く皺を刻み、鼻を鳴らしながらそっぽを向いた。
彼としてもそりゃあ面白くないだろう。めちゃくちゃにペースを乱されたあげく、大好きな飼い主と寝床まで占領されてしまったのだから。
けれどそれは甲洋も同じだった。あれだけ心配させておいて、蓋を開けたらたらふくカレーを食ったあげく、他の男にしがみついてのんきに寝ているのだから。
本音を言えば今すぐにでも引っ剥がしてやりたいところだが、そもそもこうなったのは甲洋に責任があるのだ。とはいえこのままジリジリと待ち続けるというのも、それはそれで正直しんどい。
甲洋の複雑な胸中を感じ取ったのか、総士がやれやれといった様子で息を漏らした。
「気持ちはわかるがそっとしておけ。無理をして、ずいぶんはしゃいでいた」
「……大人だね、お前」
「お前はナリだけ大人だな」
ぐうの音も出ないとはまさにこのことだ。
読心能力というものは厄介だなと、甲洋は苦笑しながら目を泳がせる。
するとベッドの方から小さなうめき声がした。
「ん……あ、やばい寝てた」
目を覚ました一騎のどこか間の抜けた呟きに、「お早いお目覚めだな」と総士が嫌味を言っている。
「おはよう総士。甲洋も。遅かったな」
「結構早く来たつもりなんだけどね……」
一騎は操を起こさないよう慎重にベッドから抜け出すと、小さく欠伸をしながら総士の横に腰をおろした。すると総士が一騎の伸びた横髪を引っ掴み、ぐいと引っ張ると鼻を近づけてしきりに匂いをかぎはじめる。
「痛い痛い、引っぱるなよ総士」
一騎は困った様子で、けれど笑って好きにさせていた。総士は一騎の髪や首筋、胸元などの匂いをかいで、険しかった表情をより一層しかめて見せる。
「あいつの匂いがついてる」
そう言って、今度は一騎の首に両腕を回してさらに引き寄せると、頬や鼻先を擦りつけはじめた。
どこかで見た光景だなと甲洋は思う。総士の仕草は操よりも幾らか控えめだが、あの子もよくこんなふうに甲洋に身体を擦りつけていた。
一見するとただ甘えているようにしか見えない光景だ。けれど総士の真剣な表情を見ると、とてもそんな微笑ましさは感じない。
なにを見せつけられているのだろうかと戸惑いながらも、ふと気がついた。
「もしかして、自分の匂いをつけてる?」
操は甲洋が帰宅すると必ず熱心に匂いをかぎ、顔や身体を擦りつけていた。
特に初めて「おかえり」を言われた日は、知らないネコの匂い──総士の匂いだ──に敏感に反応していたことを思いだす。
あれはただ甘えているだけではなく、自分の匂いをつけて他の匂いを消すための行為でもあったのではないか。
すると総士は甲洋のほうにチラリと目を向け、「当然だ」と言った。
「お前たち人間だって、自分の所有物には名前くらい書くだろう。それと同じことだ」
「しょ、所有物……」
まるでモノ扱いである。
どこか複雑な気持ちになりながら、甲洋は一向に起きる気配のない操の寝姿に目をやった。すっかり身体を丸くして、胎児のような格好で寝息を立てている。
(俺って、こいつのものだったのか……?)
知らなかった。なんともいえないおかしな気分だ。誰かのものになるなんて、経験したことがないから分からない。
くすぐったいような、なにかが腑に落ちないような。だけど不思議と嫌ではなかった。
「一騎は僕のものだからな。譲る気はない。分かったら早くそいつを連れて帰れ」
「総士……!」
一騎は感激した様子で目を潤ませながら破顔して、総士を抱きしめると頬ずりをしはじめた。総士の発言がよほど嬉しかったらしく、まさにメロメロである。いまだかつてこんな親友の締りない顔は見たことがない。
やがて一騎はどこからともなく取り出したブラシで、乱れた総士の髪を丁寧に梳かしはじめた。気が済んだらしい総士は腕を組み、ソファにゆったりと背を預けると気持ちよさそうに目を閉じている。
これがネコ飼いというものかと、甲洋は思った。ヒトは所詮、ネコのしもべなのだ。世話をしているんじゃない。お世話をさせてもらっている。
飼い主とは名ばかりで、飼われているのは人間の方なのかもしれない。
王様と家来。あながち間違ってはいないのだ。
*
雪はすっかりやんでいたが、空気は鋭く冷え切ったままだった。
甲洋は眠っている操の肩に脱いだコートをかぶせると、背負いあげてアパートの階段をおりていく。
一騎は甲洋の足元に注意を払いながら傍に付き添い、寒いなか見送りに来てくれた。
「迷惑かけたな。一騎にも、総士にも」
別れ際に声をかけると、一騎は笑って首を左右に振る。
「総士もあれでけっこう楽しそうだったよ。兄弟みたいで可愛かったし」
「そっか」
その笑顔に甲洋もゆるりと微笑んだ。
街灯だけが辺りを照らすなか、こうしているとあの雨の夜を思いだす。行くあてもなく、ただ途方に暮れていた甲洋と子犬を救ってくれたのも彼だった。結局、いつも一騎に助けられてばかりいる。
今回のことだって彼と総士が見つけてくれなければ、今ごろ甲洋は操と無事に再会できていたか分からない。
ダメなやつだ。自分という人間は。ほとほと嫌になって白いため息を漏らす。
「ところで甲洋」
自己嫌悪に沈みかける意識を、一騎の穏やかな声がそっと引き止めた。うつむきがちだった甲洋が顔をあげると、彼は「頼まれてたことだけど」と言って操の寝顔に視線を向ける。
「ネコ、欲しいって人がいてさ。バイト先の常連さんなんだけど」
どうする? と甲洋を見て、一騎は小さく首を傾げた。
ドキリと胸を突き上げられたような気がして、甲洋は肩に乗っている操の頭に目をやった。耳のすぐ近くで規則正しい寝息が聞こえる。背中に感じる体温に目を細め、甲洋は静かにうつむいた。
取り戻したいと、強く願って彼を探した。もう会えないかもしれないと思うと、怖くて怖くてたまらなくて。今こうしてそばにあるぬくもりに、甲洋は深く安堵している。
けれど操はどうだろう。どんな気持ちで、あの部屋を飛び出したのだろうか。彼はこんな自分を、まだ自分のものだと思ってくれているのだろうか。以前のように、鼻にキスをしてくれるだろうか。
「──」
そのとき、耳元で声がした。
それは聞こえるか聞こえないかの微かな音で、冷えた風が通り抜ける音を、都合よく聞き間違えただけだったのかもしれない。だけどその音は、確かに自分の名前を呼んだ気がした。
小さな声で、「こうよう」と。
「……ごめん一騎」
「うん?」
「その話、なしにできるか?」
操がどうして黙って家を飛び出したのか、本当のところは分からない。
けれど甲洋は、どんな理由があったにせよもうこの子を手放せる気がしないのだ。そんなところまで、心は走り出してしまっていた。
新しい飼い主のもとで暮らすようになれば、それなりの幸せは約束されているのだと思う。一騎の紹介なら、きっと信用できる人物であるに違いないのだから。
それでも他の誰かに委ねるなんて、今の甲洋には考えられなかった。もうなにもできない子供じゃない。この手で、操を幸せにしたいと思った。
すると一騎は、あらかじめ甲洋がそう答えることを知っていたかのように、あっさりと「できるさ」と言って笑った。
「だって嘘だし」
「……は?」
甲洋はそのままぽっかり口を開けて固まった。嘘、とは、どういう意味だろう?
一騎は肩をすくめると、申し訳なさそうに眉をハの字にして見せる。
「ごめん甲洋。総士がそう言ってカマかけろって言うから」
「か、かま……?」
「もどかしくて、ついお節介したくなるんだってさ。お前たち、両思いらしいぞ?」
そう言ってのほほんと笑う一騎を見て、腑抜けたように力が抜けていくのを感じた。
帰り際に総士が一騎の耳元でなにか囁いていたことには気がついていた。けれど甲洋はくったりと眠ったままの操に、自分のコートを着せたり毛糸の靴下──総士がくれた──を履かせたりと忙しかったのだ。いちいち気にかけてもいられなかった。
「策士だな。まんまと気分を盛り上げられたよ」
「可愛いだろ? うちの総士」
得意げな笑顔がやけに子供っぽく見えて、言い返す気も失せてしまった。
憎たらしいなぁと思う。だけどそこから可笑しさがはみ出すように滲みでてくる。
「うちの操も負けてないけどね」
そう言った甲洋の笑顔も、一騎に負けないくらい子供っぽいものだった。
←戻る ・ 次へ→
そこから一騎のアパートまで、全速力で走って30分とかからなかった。
階段を駆け上り、つい先日訪れたばかりの部屋のドアを何度も叩く。
「一騎! 俺だ! 開けてくれ!」
すると扉を開けて顔を出したのは、えらく迷惑そうな顔をした総士だった。
「総士、操は?」
「いいからまずは入れ。近所迷惑だ」
総士は軽く顎をしゃくるようにして甲洋を中に招き入れた。先日初めて会ったときよりも、心なしかやつれて見えるのは気のせいだろうか。髪も引っ掻き回されたように乱れているし、表情に疲れが滲んでいる。毛足の長いしっぽが、苛立ったように左右に激しく揺れていた。
甲洋は促されるまま中に入ると、先をいく総士を追って部屋へと足を踏み入れた。するとそこには──。
「この通り、やつなら寝てる」
「……これは、どういう状況?」
目の前の光景に困惑しながら、甲洋は口元を引きつらせた。
操はのんきに眠りこけていた。買ってやったばかりの赤いパーカーを着て、カーキ色のパンツを履いて、ベッドでぬくぬくと幸せそうに。
が、それだけではない。彼はなぜか一騎に腕枕をされていた。ぴったりと身を寄せて、すっかり安心しきっている。そして一騎も一騎でなぜか爆睡していた。
通話を終えてわずか30分足らずである。それがどうしてこうなった……。
「それは僕が聞きたい」
総士は極めて不愉快そうに吐き捨てた。
甲洋は全く状況が飲み込めない。操が親友とひとつのベッドで眠っているという捨て置けない事実もさることながら、そもそもどうしてこの子がここにいるのか。
立ち尽くす甲洋に、総士はため息を漏らすと「とりあえず座れ」と言った。それから台所へと消えてしまう。
しかたなく、甲洋は言われたとおり床に腰をおろした。
ベッドの上をジリジリと睨みつけながら待つこと数分。
総士がお茶を淹れて運んできた。この子は家事ができるのか。大人びてはいるが操とそう歳が変わらないように見えるのに、大したものだと思わず感心してしまう。
「ありがとう。凄いな、総士は」
「このくらい赤ん坊だってできる」
「え? ああ……うん」
うちの操には無理だなぁ……と思ったが、なんとなく悔しいので黙っておいた。そもそもキッチンに立たせたことがないなんて言ったら、猛烈にバカにされそうな気がする。
(うちの操、か……)
ふと漏れたため息が、湯呑みから立ち上る白い湯気を掻き乱す。
総士はソファにドカリと腰をおろして足を組み、さらに両手を組むと膝にかぶせた。
「とんだやんちゃ坊主だな。最初は死にそうな顔をしていたくせに」
「死にそう……? 操は、どうしてここに?」
「一騎が拾った。僕もその場に同行していたが」
総士は不服そうな表情を崩すことなく、操を保護した経緯を話してくれた。
操を見つけたのはこの近くのスーパーの出入り口だった。総士は一騎と一緒に買い物に訪れていて、自動ドアの横にうずくまっていた操を見つけたのは一騎だった。
「最初は野良かと思ったよ。裸足だったからな」
総士は操を気にする一騎に放っておけと言った。いちいち野良ネコを気にかけていたらキリがない。だが一騎は操の身なりが綺麗なことから、どこかの飼いネコが迷子になっているのかもしれないと考え、声をかけた。
どこから来たのか、飼い主はどこにいるのか。そう訪ねると、彼はしばらく迷った末にただ首を横に振った。なにを問いかけても、そうやって首を振り続けるだけでなにも言わない。
やがてみるみるうちに涙をためて、ついには泣きだした。困り果てた一騎はさながら犬のお巡りさんだった。
見かねた総士は仕方なく心に直接問いかけた。操は心を閉ざしていたため、その背景をうかがい知ることはできなかったが、かろうじて自分の名前だけは答えたという。
その名を聞いて、すぐにピンときた。甲洋が先日ここで話していた捨てネコと、同じ名前。茶トラの鍵しっぽという点も一致していた。
なにかしら事情があるのだろうと、一騎と総士はひとまず操を自宅に連れ帰って保護することにした。
操はずっとふさぎ込んだ様子でいたが、一騎カレーを出すと急に目の色を変えた。わっと声をあげ、カレーを口にすると「この味知ってる!」と言って夢中で食べた。おかわりもした。
食後、一騎が片付けをしているあいだ総士は操に懐かれていた。彼はしきりに総士の匂いを嗅いで、「君の匂いも知ってる!」と言った。それから、めちゃくちゃジャレつかれた。
今まで同族と接したことがなかったからかもしれない。歳も近いし、友達ができたことが──かなり一方的だが──嬉しかったのだろう。
「それでボロボロだったんだね、お前……」
総士も総士で、操のようなタイプと接したことがなかったのかもしれない。髪もめちゃくちゃで、疲れ切った様子だったのは、操の相手をさせられていたからだったのだ。
さんざん食べてさんざん遊んで、疲れた操はやがて総士の髪を引っ掴んだまま船を漕ぎだした。片付けを終え、甲洋に連絡を入れて戻ってきた一騎が操をベッドに寝かせようとしたが、操は一騎にしがみついて離れようとしなかった。
無理に剥がそうとすると赤ん坊のようにぐずるので、結局そのまま抱いて寝かしつけるしかなかった。
「で、そのうち一騎まで寝たと?」
総士は眉間に深く皺を刻み、鼻を鳴らしながらそっぽを向いた。
彼としてもそりゃあ面白くないだろう。めちゃくちゃにペースを乱されたあげく、大好きな飼い主と寝床まで占領されてしまったのだから。
けれどそれは甲洋も同じだった。あれだけ心配させておいて、蓋を開けたらたらふくカレーを食ったあげく、他の男にしがみついてのんきに寝ているのだから。
本音を言えば今すぐにでも引っ剥がしてやりたいところだが、そもそもこうなったのは甲洋に責任があるのだ。とはいえこのままジリジリと待ち続けるというのも、それはそれで正直しんどい。
甲洋の複雑な胸中を感じ取ったのか、総士がやれやれといった様子で息を漏らした。
「気持ちはわかるがそっとしておけ。無理をして、ずいぶんはしゃいでいた」
「……大人だね、お前」
「お前はナリだけ大人だな」
ぐうの音も出ないとはまさにこのことだ。
読心能力というものは厄介だなと、甲洋は苦笑しながら目を泳がせる。
するとベッドの方から小さなうめき声がした。
「ん……あ、やばい寝てた」
目を覚ました一騎のどこか間の抜けた呟きに、「お早いお目覚めだな」と総士が嫌味を言っている。
「おはよう総士。甲洋も。遅かったな」
「結構早く来たつもりなんだけどね……」
一騎は操を起こさないよう慎重にベッドから抜け出すと、小さく欠伸をしながら総士の横に腰をおろした。すると総士が一騎の伸びた横髪を引っ掴み、ぐいと引っ張ると鼻を近づけてしきりに匂いをかぎはじめる。
「痛い痛い、引っぱるなよ総士」
一騎は困った様子で、けれど笑って好きにさせていた。総士は一騎の髪や首筋、胸元などの匂いをかいで、険しかった表情をより一層しかめて見せる。
「あいつの匂いがついてる」
そう言って、今度は一騎の首に両腕を回してさらに引き寄せると、頬や鼻先を擦りつけはじめた。
どこかで見た光景だなと甲洋は思う。総士の仕草は操よりも幾らか控えめだが、あの子もよくこんなふうに甲洋に身体を擦りつけていた。
一見するとただ甘えているようにしか見えない光景だ。けれど総士の真剣な表情を見ると、とてもそんな微笑ましさは感じない。
なにを見せつけられているのだろうかと戸惑いながらも、ふと気がついた。
「もしかして、自分の匂いをつけてる?」
操は甲洋が帰宅すると必ず熱心に匂いをかぎ、顔や身体を擦りつけていた。
特に初めて「おかえり」を言われた日は、知らないネコの匂い──総士の匂いだ──に敏感に反応していたことを思いだす。
あれはただ甘えているだけではなく、自分の匂いをつけて他の匂いを消すための行為でもあったのではないか。
すると総士は甲洋のほうにチラリと目を向け、「当然だ」と言った。
「お前たち人間だって、自分の所有物には名前くらい書くだろう。それと同じことだ」
「しょ、所有物……」
まるでモノ扱いである。
どこか複雑な気持ちになりながら、甲洋は一向に起きる気配のない操の寝姿に目をやった。すっかり身体を丸くして、胎児のような格好で寝息を立てている。
(俺って、こいつのものだったのか……?)
知らなかった。なんともいえないおかしな気分だ。誰かのものになるなんて、経験したことがないから分からない。
くすぐったいような、なにかが腑に落ちないような。だけど不思議と嫌ではなかった。
「一騎は僕のものだからな。譲る気はない。分かったら早くそいつを連れて帰れ」
「総士……!」
一騎は感激した様子で目を潤ませながら破顔して、総士を抱きしめると頬ずりをしはじめた。総士の発言がよほど嬉しかったらしく、まさにメロメロである。いまだかつてこんな親友の締りない顔は見たことがない。
やがて一騎はどこからともなく取り出したブラシで、乱れた総士の髪を丁寧に梳かしはじめた。気が済んだらしい総士は腕を組み、ソファにゆったりと背を預けると気持ちよさそうに目を閉じている。
これがネコ飼いというものかと、甲洋は思った。ヒトは所詮、ネコのしもべなのだ。世話をしているんじゃない。お世話をさせてもらっている。
飼い主とは名ばかりで、飼われているのは人間の方なのかもしれない。
王様と家来。あながち間違ってはいないのだ。
*
雪はすっかりやんでいたが、空気は鋭く冷え切ったままだった。
甲洋は眠っている操の肩に脱いだコートをかぶせると、背負いあげてアパートの階段をおりていく。
一騎は甲洋の足元に注意を払いながら傍に付き添い、寒いなか見送りに来てくれた。
「迷惑かけたな。一騎にも、総士にも」
別れ際に声をかけると、一騎は笑って首を左右に振る。
「総士もあれでけっこう楽しそうだったよ。兄弟みたいで可愛かったし」
「そっか」
その笑顔に甲洋もゆるりと微笑んだ。
街灯だけが辺りを照らすなか、こうしているとあの雨の夜を思いだす。行くあてもなく、ただ途方に暮れていた甲洋と子犬を救ってくれたのも彼だった。結局、いつも一騎に助けられてばかりいる。
今回のことだって彼と総士が見つけてくれなければ、今ごろ甲洋は操と無事に再会できていたか分からない。
ダメなやつだ。自分という人間は。ほとほと嫌になって白いため息を漏らす。
「ところで甲洋」
自己嫌悪に沈みかける意識を、一騎の穏やかな声がそっと引き止めた。うつむきがちだった甲洋が顔をあげると、彼は「頼まれてたことだけど」と言って操の寝顔に視線を向ける。
「ネコ、欲しいって人がいてさ。バイト先の常連さんなんだけど」
どうする? と甲洋を見て、一騎は小さく首を傾げた。
ドキリと胸を突き上げられたような気がして、甲洋は肩に乗っている操の頭に目をやった。耳のすぐ近くで規則正しい寝息が聞こえる。背中に感じる体温に目を細め、甲洋は静かにうつむいた。
取り戻したいと、強く願って彼を探した。もう会えないかもしれないと思うと、怖くて怖くてたまらなくて。今こうしてそばにあるぬくもりに、甲洋は深く安堵している。
けれど操はどうだろう。どんな気持ちで、あの部屋を飛び出したのだろうか。彼はこんな自分を、まだ自分のものだと思ってくれているのだろうか。以前のように、鼻にキスをしてくれるだろうか。
「──」
そのとき、耳元で声がした。
それは聞こえるか聞こえないかの微かな音で、冷えた風が通り抜ける音を、都合よく聞き間違えただけだったのかもしれない。だけどその音は、確かに自分の名前を呼んだ気がした。
小さな声で、「こうよう」と。
「……ごめん一騎」
「うん?」
「その話、なしにできるか?」
操がどうして黙って家を飛び出したのか、本当のところは分からない。
けれど甲洋は、どんな理由があったにせよもうこの子を手放せる気がしないのだ。そんなところまで、心は走り出してしまっていた。
新しい飼い主のもとで暮らすようになれば、それなりの幸せは約束されているのだと思う。一騎の紹介なら、きっと信用できる人物であるに違いないのだから。
それでも他の誰かに委ねるなんて、今の甲洋には考えられなかった。もうなにもできない子供じゃない。この手で、操を幸せにしたいと思った。
すると一騎は、あらかじめ甲洋がそう答えることを知っていたかのように、あっさりと「できるさ」と言って笑った。
「だって嘘だし」
「……は?」
甲洋はそのままぽっかり口を開けて固まった。嘘、とは、どういう意味だろう?
一騎は肩をすくめると、申し訳なさそうに眉をハの字にして見せる。
「ごめん甲洋。総士がそう言ってカマかけろって言うから」
「か、かま……?」
「もどかしくて、ついお節介したくなるんだってさ。お前たち、両思いらしいぞ?」
そう言ってのほほんと笑う一騎を見て、腑抜けたように力が抜けていくのを感じた。
帰り際に総士が一騎の耳元でなにか囁いていたことには気がついていた。けれど甲洋はくったりと眠ったままの操に、自分のコートを着せたり毛糸の靴下──総士がくれた──を履かせたりと忙しかったのだ。いちいち気にかけてもいられなかった。
「策士だな。まんまと気分を盛り上げられたよ」
「可愛いだろ? うちの総士」
得意げな笑顔がやけに子供っぽく見えて、言い返す気も失せてしまった。
憎たらしいなぁと思う。だけどそこから可笑しさがはみ出すように滲みでてくる。
「うちの操も負けてないけどね」
そう言った甲洋の笑顔も、一騎に負けないくらい子供っぽいものだった。
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06
子供の頃、親に内緒でこっそり犬を飼っていたことがある。
小さな黒柴の、メスの子犬だった。全身がふわふわとした毛に覆われていて、抱きしめると泣きたくなるくらいあたたかかったのを覚えている。
その子は神社の境内の下でうずくまっていた。ひどく腹を空かせて、つぶらな瞳を寂しそうに潤ませながら、か細く鼻を鳴らしていた。
まだ幼かった甲洋は、どうしてもその子を見捨てることができなかった。ひとりぼっちで寂しそうにしている子犬が、自分と重なって見えてしまったから。
甲洋は自宅の裏手に子犬を隠し、自分の分の食事をこっそり残して分け与えながら、その子の面倒を見た。
けれどある日の夜、それが父に見つかってしまった。
父は激高しながら「捨ててこい」と言った。ちゃんと面倒を見るからと、どんなに懇願しても聞き入れてはくれなかった。
雨降りの夜だった。甲洋は傘をさし、子犬を連れて歩きまわった。友人に頼み込もうかとも思ったが、訪ねるには時間も遅い。それに、急な申し出に首を縦に振ってもらえるとも思えなかった。
なにより、甲洋自身が子犬と離れたくなかった。ずっと一緒にいたかった。甲洋にとって、初めてできた『あたたかな家族』だったから。
やがて歩き疲れて、甲洋と子犬は公園の遊具の下に身を寄せた。
そこで懸命に考えた。これからどうするべきか。どうするのが正しいのか。この子を守るために、自分にできることはなんなのかを。
考えても考えても、答えはでなかった。自分の非力さを思い知らされるだけだった。
そのときだ。偶然、クラスメイトの少年がそこを通りがかった。一騎だ。買い物帰りだった彼は、自分が食べるために買ったはずのパンを子犬に分け与えてくれた。
甲洋は迷った末に、一騎に相談して子犬を託すことにした。彼しか頼れる人間がいなかった。
一騎に預けられた子犬は、後日貰い手が見つかった。
海が見える大きな一軒家に一人で暮らす、綺麗で優しそうな女性だった。お礼を言うために訪ねると、子犬は広い庭を元気に駆け回って遊んでいた。
食うにも寝るにも何不自由なく、女性からの愛情を一身に受けて幸せそうだった。
本当はこの手で幸せにしてやりたかったけれど。甲洋にそんな力はなかった。もしあのまま一緒にいれば、ただ不幸にしてしまうだけだった。
だからこれでよかったのだ。そう思った。
だって自分には、子犬一匹幸せにしてやれる力すらないのだから、と──。
*
朝起きて、キッチンに立つと二人分の朝食を作る。
玉子とハムを焼いて皿に盛り付け、ポテトサラダにトマトも添えた。白樺のパン籠にバターロールをありったけ積み上げていると、起きだした操が寝室から飛び出してくるのが音と気配で分かった。
「操、起きた? もう準備が終わるから、顔洗って歯を磨いておいで」
「甲洋!」
「なに、ちょ、うわっ」
キッチンに身体を向けたままだった甲洋の背中に、ドンッという衝撃が走る。操の両腕が腹に強く巻きついて、肩に顎が乗せられた。
「び、ビックリした。パンが落ちるだろ」
「おかえり! 甲洋!」
「寝ぼけてる? 朝はおはようだよ」
相変わらず慣れない距離感に動揺しながら、平静を装う。操は甲洋の指摘に「うぅん」と首を左右に振った。
「だって昨日おかえりって言ってないもん。待ってたけど寝ちゃった。ごめんね」
「い、いいよ別に。俺こそ遅くなってごめん。あ、そうだ」
甲洋は腹に回っている操の両手をそっと外すと、キッチンから出てリビングに向かった。操もあとからヒヨコのようにくっついてくる。
ソファの足元に置きっぱなしにしていたコンビニの袋を持ち上げると、「お土産」と言って操に渡した。
「え! なにこれ! うわー! お菓子がいっぱいだ! これ食べていいの!?」
「いいよ。でも、一度に全部はダメ。ご飯の前と、食べたあとすぐもダメだよ」
「うんわかった! こんなにいっぱいのお菓子、初めて見たよ!」
操は床に膝をつくと袋の中身を全部出して、嬉しそうにバンザイをした。よほど興奮しているのか、それとも寝起きだからか、耳の内側を真っ赤にしながら可愛い形のかぎしっぽをまっすぐ立てている。
思った通りの反応に満足しながら、甲洋は操の頭をくしゃりと撫でて笑顔を浮かべた。
「よかった、喜んでくれて」
「うん! ありがと甲洋! あとで一緒に食べようね!」
「俺はいいよ、全部お前のなんだから」
「だって一緒に食べたほうがおいしいよ!」
操はクッキーの箱を持ち上げると、嬉しそうにそれを胸に抱きしめた。
「おれ、ここに来てから毎日嬉しい。こういうのを、幸せっていうのかな?」
幸せ、という言葉にドキリとする。
「ねぇ甲洋、おれ、これからも毎日甲洋におかえりって言うね!」
「え……?」
「あのね、おれがおかえりって言うと、甲洋の心が嬉しいって気持ちでいっぱいになるんだ。だからおれも嬉しくなる。甲洋のこと嬉しくさせられるの、すごくすごく、嬉しいって思う」
甲洋は膝をつくと、もういちど操の頭を優しく撫でた。心がジンと痺れたようになっていて、少しだけ、指先が震えてしまう。
「お前は、もっともっと幸せになれるよ」
「もっと?」
目を丸くする操に、甲洋は微笑みながら頷いた。
「ここじゃないどこかでね。お前が幸せに暮らせるように、早く新しいご主人様を見つけるから」
「新しいご主人様……?」
「聞いて、操。ここはネコが飼えない家なんだ。お前が前にいた場所と同じ。だけど俺は、お前のことをどこかに置き去りになんて絶対にしないから。必ず見つけるから、だからなにも心配しないで」
操はぽかんとした表情で甲洋を見上げ、それから、ゆっくりと視線を下向けた。
「おれは、甲洋と一緒にはいられないの?」
「……ごめん」
甲洋もまた下向きに目を逸らした。操の手からクッキーの箱が転がり落ちる。
「……おれが役に立たないから? 使い物にならないから?」
「違う!」
慌てて否定の声を上げながら、甲洋は操の両肩を掴んだ。
「最初に来た日に言ったこと覚えてる? 役に立つとか立たないとか、そういうことじゃなくて……お前は、操は、いるだけで人を幸せにできるんだよ」
「だけど、甲洋のことは幸せにできないんだね」
「ッ、それは」
甲洋だって操と一緒にいたいと思っている。
だけどどうしても自信がないのだ。だから決断ができない。
操には他に幸せになれる場所があるはずだ。
可愛いから。懐いてくれているから。一緒にいると、寂しさを感じなくて済むから。そんな理由だけで、雨のなかを引きずり回したあの子犬のように。
甲洋が飼い殺している孤独を、この子で埋めようとしてはいけないのだ。
「ッ、ぁ、ぅ!」
「操?」
長く続いた沈黙を、操の小さな悲鳴が切り裂いた。
彼は両手で胸を押さえ、華奢な肩をすくめて苦しそうに顔を歪めている。
「どうした!? そこ、痛むのか!?」
激しく動揺する甲洋に、操はゆらりと視線をあげる。
「これは、甲洋の痛みだよ……」
「ッ!」
縋るような瞳が泣きそうに細められた。悲しげに伏せられた耳が小刻みに震えている。
「こんなに痛いのに、どうしてずっと我慢してるの……?」
その言葉に、なんと返したらいいか分からず息を呑んだ。
ただひとつわかるのは、甲洋にはどうしようもないということだった。彼にはすべて伝わってしまう。心は嘘をつけないから。甲洋の孤独は、こうして操に痛みを与える。
「おれのぶんと、甲洋のぶん。だけど、君のほうが壊れそう」
操は呼吸をするのも苦しそうに弱々しく喉を鳴らした。それから、明らかに無理をしているとわかる様子で、精一杯の笑顔を作る。
「わかった。いうこと聞いて待ってるね。だから、あとで一緒にお菓子食べようよ。ねぇ、甲洋」
*
あの朝から、操は元気をなくしていた。
笑顔は見せるし、普段通り食事もする。甲洋が帰宅すれば変わらず足音を聞きつけて待っていて、ちゃんと「おかえり」と言ってくれる。
けれど以前のように抱きついて鼻にキスをしたり、匂いをかぎながら擦り寄ってくることはなくなった。お喋りだった口数も減り、しっぽもしょげたようにダランと下げたままになっている。うまく言えないが、心に壁を作っているような。
甲洋を困らせていたあの近すぎる距離感は、もうそこにはなかった。
だが甲洋はあえてなにも言わず、気づかないふりをしてやり過ごしている。
どうせ一緒にいられなくなる日が来るのだから、その前にお互い一定の距離で接するのは、むしろ正しいことのように思えた。そうすればするほど、きっと別れのときが楽になる。
それは操にとっても同じことだ。
あの子は甲洋に依存しているけれど、それはなにも自分が特別だからじゃない。あの日、たまたま彼を助けたのが甲洋だったから。あの子に優しく接したのが甲洋だったから。
甲洋だってそうだ。あのとき弱っていたのが操じゃなくても、きっと手を差し伸べていた。それがイヌでもネコでも、人間でも。
だからなにも特別ではないのだ。お互いに深い縁なんかないし、新しい飼い主のもとで新しい暮らしが始まれば、操はすぐに甲洋のことなんか忘れてしまうだろう。
そうやって頭の中では割り切っているつもりだった。
けれど心の中は煮え切らない。操を見ていると、どうしようもない切なさに胸が苦しくなってしまう。
(俺がこんな気持ちでいることも、あいつには伝わってるんだろうな)
ため息は寒さで白く煙っていた。
ここ数日は12月を迎えたとは思えないくらい暖かな日が続いていたが、寒冷前線の通過と共に大きく気温が下がりはじめている。
今日は一日どんよりとした曇り空で、いつ雪が降りはじめてもおかしくない空模様だった。
バイトがなかったその日、甲洋は暗くなるより前に早く帰宅することができた。
雪が降りだす前でよかったと、そんなことをぼんやりと思いながら鍵を開けようとして、すぐに違和感に気がついた。
なぜか最初から鍵が開いた状態になっていたのだ。締め忘れたなんてことは絶対にありえない。
甲洋は訝しげに眉を寄せ、そっと扉を開けると玄関を覗き込む。薄暗い空間はしんと静まり返っていた。
「操……?」
以前のようにわざと大きく足音を立てることはしないが、操は必ず玄関で待っている。けれど、今日はその姿がない。それどころか、家の中から一切の気配を感じなかった。
嫌な予感がする。甲洋は急いで部屋に上がりこむとリビングへ向かった。いない。寝室にも、トイレにも、風呂場にも。ただ冷えた空気が立ち込めるだけで、どこを探しても操の姿は見当たらない。
足元からヒヤリとした悪寒が這い上がってきて、口元に震えが走った。
操がいなくなった。なにも告げずに、甲洋がいない間に──。
心臓を掻きむしられるような焦燥感を覚え、甲洋はカバンの中から財布だけを取り出してコートのポケットに突っ込むと、慌てて玄関を飛び出した。
(嘘だろ? あいつ、一体どこに行ったんだよ!?)
操に行くあてがないように、甲洋にも探すあてがない。けれどただじっとしていることはできなかった。酷い焦りと不安が、甲洋の胸を駆り立てている。
近所の公園だとか、空き地だとか、あるいはコンビニやスーパーのようなあたたかな場所にいるかもしれないと考え、くまなく探しまわった。けれどどこにも操はいない。
やがて日が沈み、辺りが暗くなると同時に雪が降りだした。初雪だ。冷たい風が皮膚を貫き、痺れるような痛みが走る。
全力で走り続けていた甲洋の肺は悲鳴を上げて、ついに足を止めると膝に両手をついて息を荒げた。
「どこにいるんだ……操……」
思いつく限りの場所は全て探し尽くした。彼はどこに消えたのだろう。
もしかしたら、帰りたくても帰れない状況に陥っているのではないか?
(誰かに連れて行かれた? それとも、歩き回ってるうちに迷子になった?)
そのどちらも考えられる。彼はネコだが、おそらく方向音痴だ。家を出て闇雲に歩き続けているうちに、自分がどこから来たのかさえ分からなくなってしまったのかもしれない。
だがそれ以上に怖いのは、誰かに連れ去られたという可能性だ。それが善人ならばいい。親切な人に拾われて、今頃あたたかな場所で保護されているだろうと、そう都合よく解釈してしまうのは簡単だった。
だけどもしそうじゃなかったら? もし酷い目にあっていたら? 元の飼い主がそうしていたように、あるいはもっと、それ以上に、恐ろしいことになっているのだとしたら……。
(俺のせいだ……!)
身体がひどく震えて、甲洋はその場にしゃがみこんだ。伸びっぱなしの髪を両手でぐしゃりと乱して、きつく奥歯を噛みしめる。
操はきっと耐えられなくなったのだ。甲洋と一緒にいることで伝わる痛みだとか、孤独だとか、虚しさだとか。彼にはなにひとつ関係ないはずなのに、背負わせてしまった。
ずっと一緒にいようと、そのたった一言が言えたなら、あの子にあんな苦痛を与えずに済んだのに。
(なにがあったかい家庭を作るだよ……こんなんじゃ……)
ネコ一匹、幸せにすることができないくせに。こんな自分が理想の家庭だなんて笑わせる。
だってそうじゃないか。きっといくらでもそのチャンスはあったのに。好意を寄せてくれた女の子たちのなかに、共に未来を作れる人がいたかもしれないのに。
甲洋はその全てから目を背け、誰の手も取らずに生きてきた。運命の出会いなんて、そんなロマンチックなものにかこつけて。思い描いた未来に執着しながら、本当はどこかで恐れ、逃げ続けていただけなのだ。
愛する自信がなかったんじゃない。愛される自信がなかった。甲洋が愛せなかったのは他の誰でもない、自分自身だったから。
──おれ、甲洋のこと好き
──ねぇ甲洋、おれ、これからも毎日甲洋におかえりって言うね!
──甲洋のこと嬉しくさせられるの、すごくすごく、嬉しいって思う
ああ、どうして。
あんなにも優しく、ひたむきな気持ちを向けられていたのに。
まっすぐな言葉で。仕草で。眠りのなかで、操は甲洋の名前を呼んでいた。甲洋のシャツを抱きしめて、腹を空かせながら、それでもずっとずっと待っていた。甲洋に、おかえりを言うために。
けれど甲洋はそれを拒んでしまった。操の気持ちに応えもせずに、突き放すような真似をしてしまったのだ。
「ッ……!」
鼻の先がツンと痛んだ。視界がどんどんぼやけてくる。
失ってしまったかもしれない。もう二度と会えないかもしれない。ただ痛い思いだけをさせて、謝ることもできないまま。
(……嫌だ)
乾いた唇を噛みしめる。強く強く、拳を握りしめながら。
(このまま終わりになんか、したくない)
取り戻したいと思った。
あの子が笑った顔が好きだ。柔らかな声が好きだ。甘えたで食いしん坊で、おしゃべりなあの子のことが。彼が嬉しいと、甲洋も嬉しい。
──こういうのを、幸せっていうのかな?
(探さなきゃ)
雪の中、甲洋は立ち上がった。これ以上どこを探せばいいのかなんて分からない。だけどここでこうしていたって始まらないのだ。
強く一歩を踏み出そうとしたとき、コートのポケットから鳴り響いた電子音に甲洋は動きを止めた。
取り出した端末のディスプレイには、一騎の名前が表示されている。かじかむ指先で、通話ボタンをスライドさせた。
『あ、甲洋、俺だけど』
「ごめん一騎、今ちょっと急いでて」
『……お前、今どこにいる? ひょっとして外じゃないか?』
「そうだけど」
焦りを堪えてそう答えると、一騎は『やっぱり』と言って微かに笑った。そしてどこかホッとしたようにこう続けたのだ。
『あのさ、お前が保護した捨てネコって、確か操って名前じゃなかったか?』
と──。
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子供の頃、親に内緒でこっそり犬を飼っていたことがある。
小さな黒柴の、メスの子犬だった。全身がふわふわとした毛に覆われていて、抱きしめると泣きたくなるくらいあたたかかったのを覚えている。
その子は神社の境内の下でうずくまっていた。ひどく腹を空かせて、つぶらな瞳を寂しそうに潤ませながら、か細く鼻を鳴らしていた。
まだ幼かった甲洋は、どうしてもその子を見捨てることができなかった。ひとりぼっちで寂しそうにしている子犬が、自分と重なって見えてしまったから。
甲洋は自宅の裏手に子犬を隠し、自分の分の食事をこっそり残して分け与えながら、その子の面倒を見た。
けれどある日の夜、それが父に見つかってしまった。
父は激高しながら「捨ててこい」と言った。ちゃんと面倒を見るからと、どんなに懇願しても聞き入れてはくれなかった。
雨降りの夜だった。甲洋は傘をさし、子犬を連れて歩きまわった。友人に頼み込もうかとも思ったが、訪ねるには時間も遅い。それに、急な申し出に首を縦に振ってもらえるとも思えなかった。
なにより、甲洋自身が子犬と離れたくなかった。ずっと一緒にいたかった。甲洋にとって、初めてできた『あたたかな家族』だったから。
やがて歩き疲れて、甲洋と子犬は公園の遊具の下に身を寄せた。
そこで懸命に考えた。これからどうするべきか。どうするのが正しいのか。この子を守るために、自分にできることはなんなのかを。
考えても考えても、答えはでなかった。自分の非力さを思い知らされるだけだった。
そのときだ。偶然、クラスメイトの少年がそこを通りがかった。一騎だ。買い物帰りだった彼は、自分が食べるために買ったはずのパンを子犬に分け与えてくれた。
甲洋は迷った末に、一騎に相談して子犬を託すことにした。彼しか頼れる人間がいなかった。
一騎に預けられた子犬は、後日貰い手が見つかった。
海が見える大きな一軒家に一人で暮らす、綺麗で優しそうな女性だった。お礼を言うために訪ねると、子犬は広い庭を元気に駆け回って遊んでいた。
食うにも寝るにも何不自由なく、女性からの愛情を一身に受けて幸せそうだった。
本当はこの手で幸せにしてやりたかったけれど。甲洋にそんな力はなかった。もしあのまま一緒にいれば、ただ不幸にしてしまうだけだった。
だからこれでよかったのだ。そう思った。
だって自分には、子犬一匹幸せにしてやれる力すらないのだから、と──。
*
朝起きて、キッチンに立つと二人分の朝食を作る。
玉子とハムを焼いて皿に盛り付け、ポテトサラダにトマトも添えた。白樺のパン籠にバターロールをありったけ積み上げていると、起きだした操が寝室から飛び出してくるのが音と気配で分かった。
「操、起きた? もう準備が終わるから、顔洗って歯を磨いておいで」
「甲洋!」
「なに、ちょ、うわっ」
キッチンに身体を向けたままだった甲洋の背中に、ドンッという衝撃が走る。操の両腕が腹に強く巻きついて、肩に顎が乗せられた。
「び、ビックリした。パンが落ちるだろ」
「おかえり! 甲洋!」
「寝ぼけてる? 朝はおはようだよ」
相変わらず慣れない距離感に動揺しながら、平静を装う。操は甲洋の指摘に「うぅん」と首を左右に振った。
「だって昨日おかえりって言ってないもん。待ってたけど寝ちゃった。ごめんね」
「い、いいよ別に。俺こそ遅くなってごめん。あ、そうだ」
甲洋は腹に回っている操の両手をそっと外すと、キッチンから出てリビングに向かった。操もあとからヒヨコのようにくっついてくる。
ソファの足元に置きっぱなしにしていたコンビニの袋を持ち上げると、「お土産」と言って操に渡した。
「え! なにこれ! うわー! お菓子がいっぱいだ! これ食べていいの!?」
「いいよ。でも、一度に全部はダメ。ご飯の前と、食べたあとすぐもダメだよ」
「うんわかった! こんなにいっぱいのお菓子、初めて見たよ!」
操は床に膝をつくと袋の中身を全部出して、嬉しそうにバンザイをした。よほど興奮しているのか、それとも寝起きだからか、耳の内側を真っ赤にしながら可愛い形のかぎしっぽをまっすぐ立てている。
思った通りの反応に満足しながら、甲洋は操の頭をくしゃりと撫でて笑顔を浮かべた。
「よかった、喜んでくれて」
「うん! ありがと甲洋! あとで一緒に食べようね!」
「俺はいいよ、全部お前のなんだから」
「だって一緒に食べたほうがおいしいよ!」
操はクッキーの箱を持ち上げると、嬉しそうにそれを胸に抱きしめた。
「おれ、ここに来てから毎日嬉しい。こういうのを、幸せっていうのかな?」
幸せ、という言葉にドキリとする。
「ねぇ甲洋、おれ、これからも毎日甲洋におかえりって言うね!」
「え……?」
「あのね、おれがおかえりって言うと、甲洋の心が嬉しいって気持ちでいっぱいになるんだ。だからおれも嬉しくなる。甲洋のこと嬉しくさせられるの、すごくすごく、嬉しいって思う」
甲洋は膝をつくと、もういちど操の頭を優しく撫でた。心がジンと痺れたようになっていて、少しだけ、指先が震えてしまう。
「お前は、もっともっと幸せになれるよ」
「もっと?」
目を丸くする操に、甲洋は微笑みながら頷いた。
「ここじゃないどこかでね。お前が幸せに暮らせるように、早く新しいご主人様を見つけるから」
「新しいご主人様……?」
「聞いて、操。ここはネコが飼えない家なんだ。お前が前にいた場所と同じ。だけど俺は、お前のことをどこかに置き去りになんて絶対にしないから。必ず見つけるから、だからなにも心配しないで」
操はぽかんとした表情で甲洋を見上げ、それから、ゆっくりと視線を下向けた。
「おれは、甲洋と一緒にはいられないの?」
「……ごめん」
甲洋もまた下向きに目を逸らした。操の手からクッキーの箱が転がり落ちる。
「……おれが役に立たないから? 使い物にならないから?」
「違う!」
慌てて否定の声を上げながら、甲洋は操の両肩を掴んだ。
「最初に来た日に言ったこと覚えてる? 役に立つとか立たないとか、そういうことじゃなくて……お前は、操は、いるだけで人を幸せにできるんだよ」
「だけど、甲洋のことは幸せにできないんだね」
「ッ、それは」
甲洋だって操と一緒にいたいと思っている。
だけどどうしても自信がないのだ。だから決断ができない。
操には他に幸せになれる場所があるはずだ。
可愛いから。懐いてくれているから。一緒にいると、寂しさを感じなくて済むから。そんな理由だけで、雨のなかを引きずり回したあの子犬のように。
甲洋が飼い殺している孤独を、この子で埋めようとしてはいけないのだ。
「ッ、ぁ、ぅ!」
「操?」
長く続いた沈黙を、操の小さな悲鳴が切り裂いた。
彼は両手で胸を押さえ、華奢な肩をすくめて苦しそうに顔を歪めている。
「どうした!? そこ、痛むのか!?」
激しく動揺する甲洋に、操はゆらりと視線をあげる。
「これは、甲洋の痛みだよ……」
「ッ!」
縋るような瞳が泣きそうに細められた。悲しげに伏せられた耳が小刻みに震えている。
「こんなに痛いのに、どうしてずっと我慢してるの……?」
その言葉に、なんと返したらいいか分からず息を呑んだ。
ただひとつわかるのは、甲洋にはどうしようもないということだった。彼にはすべて伝わってしまう。心は嘘をつけないから。甲洋の孤独は、こうして操に痛みを与える。
「おれのぶんと、甲洋のぶん。だけど、君のほうが壊れそう」
操は呼吸をするのも苦しそうに弱々しく喉を鳴らした。それから、明らかに無理をしているとわかる様子で、精一杯の笑顔を作る。
「わかった。いうこと聞いて待ってるね。だから、あとで一緒にお菓子食べようよ。ねぇ、甲洋」
*
あの朝から、操は元気をなくしていた。
笑顔は見せるし、普段通り食事もする。甲洋が帰宅すれば変わらず足音を聞きつけて待っていて、ちゃんと「おかえり」と言ってくれる。
けれど以前のように抱きついて鼻にキスをしたり、匂いをかぎながら擦り寄ってくることはなくなった。お喋りだった口数も減り、しっぽもしょげたようにダランと下げたままになっている。うまく言えないが、心に壁を作っているような。
甲洋を困らせていたあの近すぎる距離感は、もうそこにはなかった。
だが甲洋はあえてなにも言わず、気づかないふりをしてやり過ごしている。
どうせ一緒にいられなくなる日が来るのだから、その前にお互い一定の距離で接するのは、むしろ正しいことのように思えた。そうすればするほど、きっと別れのときが楽になる。
それは操にとっても同じことだ。
あの子は甲洋に依存しているけれど、それはなにも自分が特別だからじゃない。あの日、たまたま彼を助けたのが甲洋だったから。あの子に優しく接したのが甲洋だったから。
甲洋だってそうだ。あのとき弱っていたのが操じゃなくても、きっと手を差し伸べていた。それがイヌでもネコでも、人間でも。
だからなにも特別ではないのだ。お互いに深い縁なんかないし、新しい飼い主のもとで新しい暮らしが始まれば、操はすぐに甲洋のことなんか忘れてしまうだろう。
そうやって頭の中では割り切っているつもりだった。
けれど心の中は煮え切らない。操を見ていると、どうしようもない切なさに胸が苦しくなってしまう。
(俺がこんな気持ちでいることも、あいつには伝わってるんだろうな)
ため息は寒さで白く煙っていた。
ここ数日は12月を迎えたとは思えないくらい暖かな日が続いていたが、寒冷前線の通過と共に大きく気温が下がりはじめている。
今日は一日どんよりとした曇り空で、いつ雪が降りはじめてもおかしくない空模様だった。
バイトがなかったその日、甲洋は暗くなるより前に早く帰宅することができた。
雪が降りだす前でよかったと、そんなことをぼんやりと思いながら鍵を開けようとして、すぐに違和感に気がついた。
なぜか最初から鍵が開いた状態になっていたのだ。締め忘れたなんてことは絶対にありえない。
甲洋は訝しげに眉を寄せ、そっと扉を開けると玄関を覗き込む。薄暗い空間はしんと静まり返っていた。
「操……?」
以前のようにわざと大きく足音を立てることはしないが、操は必ず玄関で待っている。けれど、今日はその姿がない。それどころか、家の中から一切の気配を感じなかった。
嫌な予感がする。甲洋は急いで部屋に上がりこむとリビングへ向かった。いない。寝室にも、トイレにも、風呂場にも。ただ冷えた空気が立ち込めるだけで、どこを探しても操の姿は見当たらない。
足元からヒヤリとした悪寒が這い上がってきて、口元に震えが走った。
操がいなくなった。なにも告げずに、甲洋がいない間に──。
心臓を掻きむしられるような焦燥感を覚え、甲洋はカバンの中から財布だけを取り出してコートのポケットに突っ込むと、慌てて玄関を飛び出した。
(嘘だろ? あいつ、一体どこに行ったんだよ!?)
操に行くあてがないように、甲洋にも探すあてがない。けれどただじっとしていることはできなかった。酷い焦りと不安が、甲洋の胸を駆り立てている。
近所の公園だとか、空き地だとか、あるいはコンビニやスーパーのようなあたたかな場所にいるかもしれないと考え、くまなく探しまわった。けれどどこにも操はいない。
やがて日が沈み、辺りが暗くなると同時に雪が降りだした。初雪だ。冷たい風が皮膚を貫き、痺れるような痛みが走る。
全力で走り続けていた甲洋の肺は悲鳴を上げて、ついに足を止めると膝に両手をついて息を荒げた。
「どこにいるんだ……操……」
思いつく限りの場所は全て探し尽くした。彼はどこに消えたのだろう。
もしかしたら、帰りたくても帰れない状況に陥っているのではないか?
(誰かに連れて行かれた? それとも、歩き回ってるうちに迷子になった?)
そのどちらも考えられる。彼はネコだが、おそらく方向音痴だ。家を出て闇雲に歩き続けているうちに、自分がどこから来たのかさえ分からなくなってしまったのかもしれない。
だがそれ以上に怖いのは、誰かに連れ去られたという可能性だ。それが善人ならばいい。親切な人に拾われて、今頃あたたかな場所で保護されているだろうと、そう都合よく解釈してしまうのは簡単だった。
だけどもしそうじゃなかったら? もし酷い目にあっていたら? 元の飼い主がそうしていたように、あるいはもっと、それ以上に、恐ろしいことになっているのだとしたら……。
(俺のせいだ……!)
身体がひどく震えて、甲洋はその場にしゃがみこんだ。伸びっぱなしの髪を両手でぐしゃりと乱して、きつく奥歯を噛みしめる。
操はきっと耐えられなくなったのだ。甲洋と一緒にいることで伝わる痛みだとか、孤独だとか、虚しさだとか。彼にはなにひとつ関係ないはずなのに、背負わせてしまった。
ずっと一緒にいようと、そのたった一言が言えたなら、あの子にあんな苦痛を与えずに済んだのに。
(なにがあったかい家庭を作るだよ……こんなんじゃ……)
ネコ一匹、幸せにすることができないくせに。こんな自分が理想の家庭だなんて笑わせる。
だってそうじゃないか。きっといくらでもそのチャンスはあったのに。好意を寄せてくれた女の子たちのなかに、共に未来を作れる人がいたかもしれないのに。
甲洋はその全てから目を背け、誰の手も取らずに生きてきた。運命の出会いなんて、そんなロマンチックなものにかこつけて。思い描いた未来に執着しながら、本当はどこかで恐れ、逃げ続けていただけなのだ。
愛する自信がなかったんじゃない。愛される自信がなかった。甲洋が愛せなかったのは他の誰でもない、自分自身だったから。
──おれ、甲洋のこと好き
──ねぇ甲洋、おれ、これからも毎日甲洋におかえりって言うね!
──甲洋のこと嬉しくさせられるの、すごくすごく、嬉しいって思う
ああ、どうして。
あんなにも優しく、ひたむきな気持ちを向けられていたのに。
まっすぐな言葉で。仕草で。眠りのなかで、操は甲洋の名前を呼んでいた。甲洋のシャツを抱きしめて、腹を空かせながら、それでもずっとずっと待っていた。甲洋に、おかえりを言うために。
けれど甲洋はそれを拒んでしまった。操の気持ちに応えもせずに、突き放すような真似をしてしまったのだ。
「ッ……!」
鼻の先がツンと痛んだ。視界がどんどんぼやけてくる。
失ってしまったかもしれない。もう二度と会えないかもしれない。ただ痛い思いだけをさせて、謝ることもできないまま。
(……嫌だ)
乾いた唇を噛みしめる。強く強く、拳を握りしめながら。
(このまま終わりになんか、したくない)
取り戻したいと思った。
あの子が笑った顔が好きだ。柔らかな声が好きだ。甘えたで食いしん坊で、おしゃべりなあの子のことが。彼が嬉しいと、甲洋も嬉しい。
──こういうのを、幸せっていうのかな?
(探さなきゃ)
雪の中、甲洋は立ち上がった。これ以上どこを探せばいいのかなんて分からない。だけどここでこうしていたって始まらないのだ。
強く一歩を踏み出そうとしたとき、コートのポケットから鳴り響いた電子音に甲洋は動きを止めた。
取り出した端末のディスプレイには、一騎の名前が表示されている。かじかむ指先で、通話ボタンをスライドさせた。
『あ、甲洋、俺だけど』
「ごめん一騎、今ちょっと急いでて」
『……お前、今どこにいる? ひょっとして外じゃないか?』
「そうだけど」
焦りを堪えてそう答えると、一騎は『やっぱり』と言って微かに笑った。そしてどこかホッとしたようにこう続けたのだ。
『あのさ、お前が保護した捨てネコって、確か操って名前じゃなかったか?』
と──。
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05
「……あのさ」
閉じた本を脇に置いて、真下を向く。そこにはソファに深く腰掛けている甲洋の膝を、すっかり枕にして寝ている操のまんまるな瞳があった。
「にゃあに?」
「ずっと見られてると、気になって集中できないんだけど」
本を読んでいた甲洋のそばで、操はさっきまであーだこーだとおしゃべりをしていた。しかしそのうち眠くなったのか、もぞもぞと膝に頭を乗せると寝息をたてはじめた。
特に気にせず読書を続けていたのだが、そのうち下からじぃっと視線が注がれていることに気がついたのだ。話しかけてくる様子もないので放っておいたけれど、さすがに視線に耐えきれなくなってしまった。
「だって甲洋の顔があったから」
操はまだ少し眠たいのか、とろんとした瞳で笑った。尖った耳の内側が、薄紅色に染まっている。甲洋は『キュン』なんて恥ずかしい音を立てながら締めつけられた胸の感覚に、思わず喉を詰まらせた。
眠いなら寝てればいいのにと思うのだが、こういったことはこれが初めてではなかった。操はなにをしていても、気づくとこちらをじっと見ていることがある。
例えば食事中。夢中で食べていたと思ったら急に手を止め、甲洋に視線を向けるとそのまま熱心に見つめ続けるのだ。気になった甲洋が操を見て、目が合うとようやく満足したように食事を再開する。
「甲洋、ちゃんといるかなぁって確かめてたんだ」
「なんだよそれ。いるだろ、ちゃんと」
「うん。でも、確かめたくなるんだよ」
操はえへへと笑って、また目を閉じた。甲洋の膝を枕にしたまま、ころりと寝返りをうって丸くなる。そのまま何度か頬を腿に擦りつけると、安心しきった様子でまた寝息を立てはじめた。
ネコって不思議だなと、甲洋は思う。それとも操が変わっているのだろうか。今までネコと暮らしたことがないので分からない。
ただ、操との生活は思いのほか快適ではあった。
夜中にうろちょろと動き回ったり、なにかにじゃれついたりして散らかすということもないし、操はただそばにいて楽しそうにお喋りをしているか、こうして眠たくなると丸くなって寝ているだけだ。
ただ困るのは、少しばかり甘えん坊がすぎるという点だろうか。
操は朝になると先に起きだして、甲洋の鼻にキスをしながら擦り寄ってくる。抱きついて離れようとしないので、朝の支度をはじめるまでに時間がかかってしまうのだ。
出掛けは寂しそうに耳を寝かせ、しっぽをだらりと下げながら玄関まで見送りにくるので、後ろ髪を引かれてしょうがない。帰ってきたら来たで、また過剰なスキンシップの洗礼が待っている。
だが決して悪い気はしなかった。未だに慣れない距離感に戸惑いつつも、甘えられると可愛くて、つい受け入れてしまうのだ。
「どんな夢を見てるんだろうな」
ネコも夢を見るのだろうか。そんなことを考えながら、頬がつい緩んでしまう。
指先で柔らかな耳の付け根に触れると、くすぐったいのか耳がピクンピクンと小刻みに動いた。
ふふっと小さく笑いながら肩を揺らして、甲洋は操が目を覚ますまでその寝顔を飽きずに見つめ続けた。
*
飼い主探しは難航していた。
ペットが飼えない環境であったり、すでにペットと暮らしていたり、各々に事情があってなかなか話はいい方向に進んでくれない。
しかし、中には興味を示してくれたものも何人かはいたのだ。
全員が女子で、甲洋がネコの飼い主探しをしているという噂を聞きつけて、声をかけてくれた。
だが甲洋は、その申し出をすべて丁重にお断りした。ネコが好きだからではなく、あわよくばそのまま甲洋とどうにかなりたい、という下心が透けて見えてしまったためである。
甲洋には幼い頃から人の顔色を伺ってしまう癖があった。あまり褒められたことではないと思うが、たまには役に立つこともある。表情だったり仕草だったり、そういったものからなんとなく相手の考えを見抜く鋭さが培われていたからだ。
慎重に観察しながらネコと暮らせる環境であるかを確認してみると、全員が全員おもしろいほど似通った返答を寄こした。内緒で飼えばバレないだろうし、ネコってほっといても別に平気だよね? と。
その言葉には、苦笑するより他になかった。
操は完全室内飼いのネコだったせいか外に出たがる様子はないものの、今の状態は彼が前に暮らしていた環境と変わらない。一日も早く自由に過ごさせてやりたいと思うほどに、焦りが増す。
剣司にも相談して協力を仰ぐことはできたが、今のところ連絡はなかった。
そもそも動物病院で募集の広告を見る人間は限られている上に、すでにペットと暮らしているのだ。総士のときのように、運良く親切な人が名乗り出てくれるという保証はない。
(そう簡単にホイホイ決まるもんじゃないよな……)
バイト終わりに立ち寄ったコンビニで、甲洋はそっと小さなため息を漏らす。
コーヒーでもと思ってフラリと店に入ったが、今日はいつもより帰りが遅くなってしまったので、早く帰らなければ操のことが心配だ。
冷蔵庫の中にはなにかしら作り置きのおかずを常備しているので、帰りが遅いときは好きに食べるように言ってあるけれど、操は「甲洋も一緒がいい」と言って、食べずに必ず待っているのだ。
操は食べることが大好きで、痩せっぽちだが甲洋以上によく食べる。先日の一騎カレーもおかわりをして食べていた。
甲洋は、そんな彼の食べている姿を見るのが好きだった。
ほっぺたを一生懸命動かしながら嬉しそうに食べているのを見ていると、なんとも言えない満足感で胸がいっぱいになる。なんならそれだけで腹が満たされてしまうくらいだ。
それまでの甲洋にとって、食事は生きるために必要な最低限の作業にすぎなかった。実家ではいつも一人で味気ない食事をしていたこともあり、食に対する興味が培われてこなかったのだ。けれどおしゃべりな操との食事は賑やかで、そのひと時は今の甲洋にとって得難い時間になっていた。
ドリンクコーナーで缶コーヒーを手に取り、レジに向かう途中の食品コーナーで足を止める。
おにぎりやサンドイッチが並ぶ棚のすぐ横はスイーツコーナーになっていて、ケーキやプリンなどが並べられているのを見た甲洋は、ふと思う。
(ケーキも買って行こうかな……こないだすごく喜んでたし。そういえば食事のことしか頭になくて、おやつは買ってやったことないな)
コーヒーだけを買うつもりでいた甲洋はカゴを持っていなかったが、すぐそばに重ねられているのを見つけてすかさず手に取る。コーヒーを入れ、さらにケーキのパックもカゴに突っ込んだあと、さっそうとお菓子コーナーに向かった。
今のところ操に好き嫌いはないようだが、かといって好みを完全に把握しているわけではない。きのこ派なのかたけのこ派なのか、ア●フォート派なのかブラ●チュール派なのか……とにかく、あれこれ選んではカゴを山にしていく。
流石に買いすぎかもしれないと思ったが、一騎も総士のために常にお菓子を大量にストックするようになったと話していた。だったら、うちの子だって──
まるで張り合うかのようにそんなことを考えて、甲洋ははたと我に返る。
(う ち の 子 ?)
一瞬、手の中からポテチの袋を落としそうになってしまった。
まったく何を考えているのだろう。
(それじゃまるで飼い主の思考じゃないか……)
はあぁと深く息を漏らした。
甲洋はあくまでも次の飼い主が見つかるまでの間、操を保護しているだけに過ぎない。
だからあの子は決して『うちの子』ではなく、『よその子』になる予定──は、まだ立っていないが、とにかく甲洋の飼いネコではないのだ。
(……まぁ、でも)
これだけのお菓子を目にしたら、どんな反応をするだろうかと想像を巡らせる。
先日、下着を含めた衣類を何着か購入した際も、操は顔を真っ赤にして興奮しながら喜んでいた。操はすべての服を試着して、玄関に設置されている姿見の前でクルクルと回っていた。
あんなふうに、今度もきっと喜んでくれるだろう。その姿を思い浮かべると、頬がゆるりとほどけそうになる。
飼い主を名乗ることはできないが、今は飼い主の代わりなわけだし、不自由な暮らしをさせるわけにはいかない。特にあの子は酷い環境のもとで暮らしていたのだ。元の飼い主がしなかったことを、ほんの少しだけ、新しい飼い主が見つかるまでの間だけ、自分がしてやったってバチは当たらないだろう。
そう自身に言い訳をしながら、甲洋は見事に財布を空にしたのである。
*
ウキウキとした気持ちが顔に出ないように意識しながら、普段通りに帰宅した。
けれど初めて操に「おかえり」と出迎えられた日の翌日から、実は甲洋の帰宅時の挙動は微妙に変化していた。
どう変化したかというと、階段をのぼり、部屋までのほんの短い距離を歩く足音を、あえて少し大きめに立てるようにしたのだ。
そんなことをしなくたって操の耳にはちゃんと届く。なんたってネコの聴覚は人間の3倍もあるのだから。だけどなんとなく。そう、なんとなくだ。別に深い意味なんかない。
「ただいま」
ちょっと間違えば唇同士が触れ合ってしまいそうな距離にはまだ慣れないが、今日もめちゃくちゃに匂いをかがれながら、鼻にキスをされてしまう気満々で扉を開ける。
が、玄関は真っ暗でしんと静まり返っていた。
「あれ……操?」
いつもなら足音を聞きつけて、明かりを灯してスタンバっているはずの操がいない。
パンパンに膨らんだコンビニの袋を手に立ち尽くし、甲洋は肩を落とした。
いつもよりだいぶ遅くなってしまったせいで、時刻は23時をとっくに過ぎている。ついついコンビニに長居をしてしまったことも原因のひとつだ。
この時間では、もう寝てしまったのかもしれない。腹も空かせていただろうに、申し訳ないことをしてしまった。
(ちょっと寂しい、かな……)
ふとそんなことを思って、すぐに首を振って否定した。
情が移ってはいけないと気持ちを引き締めたのは、まだ記憶に新しい。いくら懐いてくれているとはいえ、いつまでもこうしていられるわけではないのだ。
いま一度しっかり胸に刻んでおく必要性を感じながらリビングに入り、明かりをつけると荷物を置いた。コートを脱いでソファに放ると、寝室のドアをそっと開けて覗き込む。
部屋には明かりが灯っており、ベッドの上で操が丸くなっている姿が見えた。まだ新品のルームウェアはモコモコとした素材で暖かそうだが、彼は上になにもかけずに眠っている。
しょうがないなと苦笑しながら部屋に足を踏み入れた甲洋は、改めて操の寝姿を見てぎょっとした。
ベッドの上にはクローゼットや引き出しにしまってあったはずの甲洋の衣類が、派手に散乱している。操はそれらをすっかり下敷きにした状態で丸くなっていたのだ。
彼は甲洋のワイシャツを抱き寄せ、鼻を埋めていた。すぅすぅと匂いをかぐようにしながら、安心しきった様子で深く眠り込んでいる。そして、小さな声で「こうよう」と、寝言を言ったのだ。
「……ッ!?」
喉を詰まらせながら、甲洋は思わず膝から崩れ落ちた。ベッドの縁に突っ伏して、込み上げてくるものに身を震わせる。
ズルい。こんなのはズルい。反則すぎやしないか。だってこんなの──
(可愛すぎるだろっ!!)
この瞬間、甲洋は心が折れる音を聞いた。ぽっきりと、それはものの見事に。そして痛いほど自覚させられた。
操の「おかえり」がないと寂しい。鼻キスがないと寂しい。笑顔が見られないのは寂しい。一緒に夕飯が食べられないのは寂しい。たくさんお菓子を買ってきたのに、今すぐその反応が見られないのは寂しい。
なにをしていてもこの子のことが気になるし、なにを買うにもこの子が喜ぶ姿ばかりを想像している。
甲洋は、とっくに操に情が移っていたのだ。
きっといつもより甲洋の帰りが遅いから、寂しくなってしまったのだろう。
もしかしたら、また置き去りにされたのかと不安にさせてしまったのかもしれない。甲洋の服を引っ張りだして、甲洋の匂いを吸い込んで、そんな気持ちを紛らわせていたのだろうか。
ネコも、夢を見るのだ。操は甲洋の帰りを待ちながら、甲洋の夢を、見ている。
「遅くなってごめん、操……」
静かにベッドの縁に腰を下ろすと、綿菓子のように柔らかいミルクティー色の髪に触れた。ぽかぽかと熱を放つ尖った耳ごと、優しく撫でる。
指先から愛おしさが溢れそうだった。こんな気持ちは初めてだ。求められているという実感を得て、胸が震えるほどに喜びを覚えていた。
今この瞬間、この子は自分という存在なくしては生きられない。この手で守り、世話をしてやらなければ、一人ではなにもできないのだ。依存されていることへの心地よさ。彼を生かしているのが自分であるということへの充足感に、目眩がした。
(このままずっと一緒にいられたらいいのに)
こんな姿を見せられたら、気持ちが大きく傾いてしまう。
(だけど俺なんかじゃ……)
──この野良犬がぁっ!
ふと、記憶の蓋をこじ開けて、父の言葉が蘇る。
──うちには犬になんか食わせる飯は無いぞ! さっさと捨ててこい!
それは幼い日の記憶だった。覚えているのが嫌で、だけど忘れることができなくて、ずっと奥底に閉じ込めていたあの雨の夜。腹を空かせた黒芝の子犬が、悲しそうに鳴いていた。
「ッ……!」
思いだすだけで胸が張り裂けそうになる。甲洋はその記憶を振り払うように首を左右に振った。
昔のことだ。今は両親と離れて暮らしている。ほとんど他人も同然だった。いつまでも囚われ続ける必要などないはずなのに──。
(やっぱり、ダメだ)
ここがペット禁止の物件であることを差し引いても、甲洋には操と生きる自信がない。
自己分析くらいはできている。家庭環境へのコンプレックス。甲洋が育った環境は、いわゆる機能不全家族と呼ばれるものだった。愛された記憶のない自分が、本当に心から愛情を注ぐことなんかできるのだろうか? 自分と一緒にいて、この子は本当に幸せになれるのだろうか?
甲洋の胸は、そんな自分自身への自戒と不信感だけで埋め尽くされていた。
「操……」
幼い寝顔に切なさを募らせながら、甲洋は暫くのあいだそこから動くことができなかった。
←戻る ・ 次へ→
「……あのさ」
閉じた本を脇に置いて、真下を向く。そこにはソファに深く腰掛けている甲洋の膝を、すっかり枕にして寝ている操のまんまるな瞳があった。
「にゃあに?」
「ずっと見られてると、気になって集中できないんだけど」
本を読んでいた甲洋のそばで、操はさっきまであーだこーだとおしゃべりをしていた。しかしそのうち眠くなったのか、もぞもぞと膝に頭を乗せると寝息をたてはじめた。
特に気にせず読書を続けていたのだが、そのうち下からじぃっと視線が注がれていることに気がついたのだ。話しかけてくる様子もないので放っておいたけれど、さすがに視線に耐えきれなくなってしまった。
「だって甲洋の顔があったから」
操はまだ少し眠たいのか、とろんとした瞳で笑った。尖った耳の内側が、薄紅色に染まっている。甲洋は『キュン』なんて恥ずかしい音を立てながら締めつけられた胸の感覚に、思わず喉を詰まらせた。
眠いなら寝てればいいのにと思うのだが、こういったことはこれが初めてではなかった。操はなにをしていても、気づくとこちらをじっと見ていることがある。
例えば食事中。夢中で食べていたと思ったら急に手を止め、甲洋に視線を向けるとそのまま熱心に見つめ続けるのだ。気になった甲洋が操を見て、目が合うとようやく満足したように食事を再開する。
「甲洋、ちゃんといるかなぁって確かめてたんだ」
「なんだよそれ。いるだろ、ちゃんと」
「うん。でも、確かめたくなるんだよ」
操はえへへと笑って、また目を閉じた。甲洋の膝を枕にしたまま、ころりと寝返りをうって丸くなる。そのまま何度か頬を腿に擦りつけると、安心しきった様子でまた寝息を立てはじめた。
ネコって不思議だなと、甲洋は思う。それとも操が変わっているのだろうか。今までネコと暮らしたことがないので分からない。
ただ、操との生活は思いのほか快適ではあった。
夜中にうろちょろと動き回ったり、なにかにじゃれついたりして散らかすということもないし、操はただそばにいて楽しそうにお喋りをしているか、こうして眠たくなると丸くなって寝ているだけだ。
ただ困るのは、少しばかり甘えん坊がすぎるという点だろうか。
操は朝になると先に起きだして、甲洋の鼻にキスをしながら擦り寄ってくる。抱きついて離れようとしないので、朝の支度をはじめるまでに時間がかかってしまうのだ。
出掛けは寂しそうに耳を寝かせ、しっぽをだらりと下げながら玄関まで見送りにくるので、後ろ髪を引かれてしょうがない。帰ってきたら来たで、また過剰なスキンシップの洗礼が待っている。
だが決して悪い気はしなかった。未だに慣れない距離感に戸惑いつつも、甘えられると可愛くて、つい受け入れてしまうのだ。
「どんな夢を見てるんだろうな」
ネコも夢を見るのだろうか。そんなことを考えながら、頬がつい緩んでしまう。
指先で柔らかな耳の付け根に触れると、くすぐったいのか耳がピクンピクンと小刻みに動いた。
ふふっと小さく笑いながら肩を揺らして、甲洋は操が目を覚ますまでその寝顔を飽きずに見つめ続けた。
*
飼い主探しは難航していた。
ペットが飼えない環境であったり、すでにペットと暮らしていたり、各々に事情があってなかなか話はいい方向に進んでくれない。
しかし、中には興味を示してくれたものも何人かはいたのだ。
全員が女子で、甲洋がネコの飼い主探しをしているという噂を聞きつけて、声をかけてくれた。
だが甲洋は、その申し出をすべて丁重にお断りした。ネコが好きだからではなく、あわよくばそのまま甲洋とどうにかなりたい、という下心が透けて見えてしまったためである。
甲洋には幼い頃から人の顔色を伺ってしまう癖があった。あまり褒められたことではないと思うが、たまには役に立つこともある。表情だったり仕草だったり、そういったものからなんとなく相手の考えを見抜く鋭さが培われていたからだ。
慎重に観察しながらネコと暮らせる環境であるかを確認してみると、全員が全員おもしろいほど似通った返答を寄こした。内緒で飼えばバレないだろうし、ネコってほっといても別に平気だよね? と。
その言葉には、苦笑するより他になかった。
操は完全室内飼いのネコだったせいか外に出たがる様子はないものの、今の状態は彼が前に暮らしていた環境と変わらない。一日も早く自由に過ごさせてやりたいと思うほどに、焦りが増す。
剣司にも相談して協力を仰ぐことはできたが、今のところ連絡はなかった。
そもそも動物病院で募集の広告を見る人間は限られている上に、すでにペットと暮らしているのだ。総士のときのように、運良く親切な人が名乗り出てくれるという保証はない。
(そう簡単にホイホイ決まるもんじゃないよな……)
バイト終わりに立ち寄ったコンビニで、甲洋はそっと小さなため息を漏らす。
コーヒーでもと思ってフラリと店に入ったが、今日はいつもより帰りが遅くなってしまったので、早く帰らなければ操のことが心配だ。
冷蔵庫の中にはなにかしら作り置きのおかずを常備しているので、帰りが遅いときは好きに食べるように言ってあるけれど、操は「甲洋も一緒がいい」と言って、食べずに必ず待っているのだ。
操は食べることが大好きで、痩せっぽちだが甲洋以上によく食べる。先日の一騎カレーもおかわりをして食べていた。
甲洋は、そんな彼の食べている姿を見るのが好きだった。
ほっぺたを一生懸命動かしながら嬉しそうに食べているのを見ていると、なんとも言えない満足感で胸がいっぱいになる。なんならそれだけで腹が満たされてしまうくらいだ。
それまでの甲洋にとって、食事は生きるために必要な最低限の作業にすぎなかった。実家ではいつも一人で味気ない食事をしていたこともあり、食に対する興味が培われてこなかったのだ。けれどおしゃべりな操との食事は賑やかで、そのひと時は今の甲洋にとって得難い時間になっていた。
ドリンクコーナーで缶コーヒーを手に取り、レジに向かう途中の食品コーナーで足を止める。
おにぎりやサンドイッチが並ぶ棚のすぐ横はスイーツコーナーになっていて、ケーキやプリンなどが並べられているのを見た甲洋は、ふと思う。
(ケーキも買って行こうかな……こないだすごく喜んでたし。そういえば食事のことしか頭になくて、おやつは買ってやったことないな)
コーヒーだけを買うつもりでいた甲洋はカゴを持っていなかったが、すぐそばに重ねられているのを見つけてすかさず手に取る。コーヒーを入れ、さらにケーキのパックもカゴに突っ込んだあと、さっそうとお菓子コーナーに向かった。
今のところ操に好き嫌いはないようだが、かといって好みを完全に把握しているわけではない。きのこ派なのかたけのこ派なのか、ア●フォート派なのかブラ●チュール派なのか……とにかく、あれこれ選んではカゴを山にしていく。
流石に買いすぎかもしれないと思ったが、一騎も総士のために常にお菓子を大量にストックするようになったと話していた。だったら、うちの子だって──
まるで張り合うかのようにそんなことを考えて、甲洋ははたと我に返る。
(う ち の 子 ?)
一瞬、手の中からポテチの袋を落としそうになってしまった。
まったく何を考えているのだろう。
(それじゃまるで飼い主の思考じゃないか……)
はあぁと深く息を漏らした。
甲洋はあくまでも次の飼い主が見つかるまでの間、操を保護しているだけに過ぎない。
だからあの子は決して『うちの子』ではなく、『よその子』になる予定──は、まだ立っていないが、とにかく甲洋の飼いネコではないのだ。
(……まぁ、でも)
これだけのお菓子を目にしたら、どんな反応をするだろうかと想像を巡らせる。
先日、下着を含めた衣類を何着か購入した際も、操は顔を真っ赤にして興奮しながら喜んでいた。操はすべての服を試着して、玄関に設置されている姿見の前でクルクルと回っていた。
あんなふうに、今度もきっと喜んでくれるだろう。その姿を思い浮かべると、頬がゆるりとほどけそうになる。
飼い主を名乗ることはできないが、今は飼い主の代わりなわけだし、不自由な暮らしをさせるわけにはいかない。特にあの子は酷い環境のもとで暮らしていたのだ。元の飼い主がしなかったことを、ほんの少しだけ、新しい飼い主が見つかるまでの間だけ、自分がしてやったってバチは当たらないだろう。
そう自身に言い訳をしながら、甲洋は見事に財布を空にしたのである。
*
ウキウキとした気持ちが顔に出ないように意識しながら、普段通りに帰宅した。
けれど初めて操に「おかえり」と出迎えられた日の翌日から、実は甲洋の帰宅時の挙動は微妙に変化していた。
どう変化したかというと、階段をのぼり、部屋までのほんの短い距離を歩く足音を、あえて少し大きめに立てるようにしたのだ。
そんなことをしなくたって操の耳にはちゃんと届く。なんたってネコの聴覚は人間の3倍もあるのだから。だけどなんとなく。そう、なんとなくだ。別に深い意味なんかない。
「ただいま」
ちょっと間違えば唇同士が触れ合ってしまいそうな距離にはまだ慣れないが、今日もめちゃくちゃに匂いをかがれながら、鼻にキスをされてしまう気満々で扉を開ける。
が、玄関は真っ暗でしんと静まり返っていた。
「あれ……操?」
いつもなら足音を聞きつけて、明かりを灯してスタンバっているはずの操がいない。
パンパンに膨らんだコンビニの袋を手に立ち尽くし、甲洋は肩を落とした。
いつもよりだいぶ遅くなってしまったせいで、時刻は23時をとっくに過ぎている。ついついコンビニに長居をしてしまったことも原因のひとつだ。
この時間では、もう寝てしまったのかもしれない。腹も空かせていただろうに、申し訳ないことをしてしまった。
(ちょっと寂しい、かな……)
ふとそんなことを思って、すぐに首を振って否定した。
情が移ってはいけないと気持ちを引き締めたのは、まだ記憶に新しい。いくら懐いてくれているとはいえ、いつまでもこうしていられるわけではないのだ。
いま一度しっかり胸に刻んでおく必要性を感じながらリビングに入り、明かりをつけると荷物を置いた。コートを脱いでソファに放ると、寝室のドアをそっと開けて覗き込む。
部屋には明かりが灯っており、ベッドの上で操が丸くなっている姿が見えた。まだ新品のルームウェアはモコモコとした素材で暖かそうだが、彼は上になにもかけずに眠っている。
しょうがないなと苦笑しながら部屋に足を踏み入れた甲洋は、改めて操の寝姿を見てぎょっとした。
ベッドの上にはクローゼットや引き出しにしまってあったはずの甲洋の衣類が、派手に散乱している。操はそれらをすっかり下敷きにした状態で丸くなっていたのだ。
彼は甲洋のワイシャツを抱き寄せ、鼻を埋めていた。すぅすぅと匂いをかぐようにしながら、安心しきった様子で深く眠り込んでいる。そして、小さな声で「こうよう」と、寝言を言ったのだ。
「……ッ!?」
喉を詰まらせながら、甲洋は思わず膝から崩れ落ちた。ベッドの縁に突っ伏して、込み上げてくるものに身を震わせる。
ズルい。こんなのはズルい。反則すぎやしないか。だってこんなの──
(可愛すぎるだろっ!!)
この瞬間、甲洋は心が折れる音を聞いた。ぽっきりと、それはものの見事に。そして痛いほど自覚させられた。
操の「おかえり」がないと寂しい。鼻キスがないと寂しい。笑顔が見られないのは寂しい。一緒に夕飯が食べられないのは寂しい。たくさんお菓子を買ってきたのに、今すぐその反応が見られないのは寂しい。
なにをしていてもこの子のことが気になるし、なにを買うにもこの子が喜ぶ姿ばかりを想像している。
甲洋は、とっくに操に情が移っていたのだ。
きっといつもより甲洋の帰りが遅いから、寂しくなってしまったのだろう。
もしかしたら、また置き去りにされたのかと不安にさせてしまったのかもしれない。甲洋の服を引っ張りだして、甲洋の匂いを吸い込んで、そんな気持ちを紛らわせていたのだろうか。
ネコも、夢を見るのだ。操は甲洋の帰りを待ちながら、甲洋の夢を、見ている。
「遅くなってごめん、操……」
静かにベッドの縁に腰を下ろすと、綿菓子のように柔らかいミルクティー色の髪に触れた。ぽかぽかと熱を放つ尖った耳ごと、優しく撫でる。
指先から愛おしさが溢れそうだった。こんな気持ちは初めてだ。求められているという実感を得て、胸が震えるほどに喜びを覚えていた。
今この瞬間、この子は自分という存在なくしては生きられない。この手で守り、世話をしてやらなければ、一人ではなにもできないのだ。依存されていることへの心地よさ。彼を生かしているのが自分であるということへの充足感に、目眩がした。
(このままずっと一緒にいられたらいいのに)
こんな姿を見せられたら、気持ちが大きく傾いてしまう。
(だけど俺なんかじゃ……)
──この野良犬がぁっ!
ふと、記憶の蓋をこじ開けて、父の言葉が蘇る。
──うちには犬になんか食わせる飯は無いぞ! さっさと捨ててこい!
それは幼い日の記憶だった。覚えているのが嫌で、だけど忘れることができなくて、ずっと奥底に閉じ込めていたあの雨の夜。腹を空かせた黒芝の子犬が、悲しそうに鳴いていた。
「ッ……!」
思いだすだけで胸が張り裂けそうになる。甲洋はその記憶を振り払うように首を左右に振った。
昔のことだ。今は両親と離れて暮らしている。ほとんど他人も同然だった。いつまでも囚われ続ける必要などないはずなのに──。
(やっぱり、ダメだ)
ここがペット禁止の物件であることを差し引いても、甲洋には操と生きる自信がない。
自己分析くらいはできている。家庭環境へのコンプレックス。甲洋が育った環境は、いわゆる機能不全家族と呼ばれるものだった。愛された記憶のない自分が、本当に心から愛情を注ぐことなんかできるのだろうか? 自分と一緒にいて、この子は本当に幸せになれるのだろうか?
甲洋の胸は、そんな自分自身への自戒と不信感だけで埋め尽くされていた。
「操……」
幼い寝顔に切なさを募らせながら、甲洋は暫くのあいだそこから動くことができなかった。
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04
甲洋は凄いと、操は思う。
だっていろいろなことを知っているし、朝も昼も夜もちゃんとご飯をくれる。
操がなにもしなくても優しくしてくれて、ベッドで寝てもいいと言ってくれるし、操にぴったりの新しい服までくれた。
モコモコとした素材のルームウェアは着ているだけで暖かくて、布団の中にいるとちょっと熱いくらいだ。部屋の中も、いつも暖房がきいてポカポカしている。
ご主人様は新しい服なんかくれなかったし、ご飯だって何日かに一度だけ、気が向いたときに操に『仕事』をさせて、適当な残り物をくれるだけだった。
だけどここは天国みたいだ。夢のような暮らしだなと思うけれど、甲洋はそれが『普通』なのだと教えてくれた。
普通って凄い。だけど本当に凄いのは、操にそれを教えてくれる甲洋なのだ。
「こうよ、朝だよ! 起きて起きて!」
甲洋に拾われて数日。
操の朝はソファの横に膝をついて、甲洋の身体をゆさゆさと揺り動かすことから始まる。本当は毛布にもぐり込んで一緒にくっついて寝たいけれど、それをねだると甲洋を困らせてしまう。
だから我慢して、『普通』に起こすのだ。普通のことができている自分を、操は嬉しいと思う。
毛布に包まっていた甲洋は小さく呻き、重たそうにまぶたを持ち上げた。
「おはよ! 甲洋!」
「……はよ」
寝起きの甲洋の声はちょっぴり低く掠れていたが、操の顔を見てふっと微笑んだ。それがなんだか嬉しくて、操は甲洋の胸に両手を置くとぐーんと顔を近づける。
甲洋の身体が少し強張ったような気がしたが、操は構わず自分の鼻を甲洋の鼻にくっつけた。そのまま何度かつんつんとしながら匂いをかいで、ほんのりと赤く染まった頬に頬ずりをする。
いい匂いだなと思う。静かで優しくて、少しだけ寂しい。ここで目を覚まして、初めて甲洋に触れたときから、操はこの匂いが大好きだった。
「……その、鼻くっつけるやつ」
ややしばらくのあいだ黙って好きにさせていた甲洋は、遠慮がちに操の耳に触れながら口を開いた。
「にゃあに?」
「挨拶、かなにか?」
「んー、多分そう」
「多分?」
「わかんない。でも、したくなっちゃう」
ネコに備わる習性を、ネコである操は深く意識したことがない。もしかしたら子ネコの頃に母ネコに教わったのかもしれないが、操にはそんな昔の記憶はなかった。
「それ、前の飼い主にもした?」
「したことないよ? どうしてそんなこと聞くの?」
そういえば、ご主人様にはしたことないなと操は思う。
そもそも『仕事』のとき以外で触ったことだってない。こんなふうにくっつきたいと思ったのは、甲洋が初めてだった。
「……別に、なんとなく」
甲洋はそう言って頬を赤くしたまま目を逸らした。顔にはなんの表情も浮かんではいなかったけれど、甲洋からは恥ずかしいという気持ちと、嬉しいという気持ちがごちゃ混ぜになったものが伝わってきた。けれど操には『恥ずかしい』がよく分からない。ただ、甲洋から伝わるものを受け止めた途端、どうしてかちょっぴり顔が赤くなるのを感じてしまった。
(なにこれ、変なの!)
だけど嫌な感じはしない。甲洋からも嫌だという感情は伝わってこなかった。だから、まぁいっかと操は思った。
「ねぇ甲洋、今日も朝から狩りに行くの?」
起き上がって背伸びをしている甲洋に問いかけると、彼は「狩り?」と不思議そうに首を傾げた。
「なにそれ?」
「昨日もおとといも行ったでしょ?」
「……ああ、大学とバイトのこと? 今日は午後からだから、少しのんびりできるよ」
「ダイガクとバイトってところに行ってるんだね」
「そうだよ」
「そっか。甲洋は偉いね」
操がにっこり笑って言うと、甲洋は困った顔をしながら指先で頬を掻いた。
「普通のことをしてるだけだよ」
「普通って凄いことなんだよ。だから甲洋は偉いよ」
操は思ったことをそのまま伝えただけだ。なのに甲洋はやっぱりとても困った顔をした。それは『恥ずかしい』に少し似ていたけれど、それよりもっとくすぐったい感じがする。
甲洋は褒められるとくすぐったくなるのだ。操はまたひとつ、彼のことを知ることができた。それが嬉しい。操は甲洋のことをもっともっと知りたいと思った。
「甲洋!」
操はソファに乗り上げると、両腕で甲洋にぎゅうと抱きついた。
「わっ!」
「おれは甲洋が狩りに失敗して帰ってきても、ぜんぜん平気だからね! だから今日もがんばってね!」
「だからさ、その狩りってなに……?」
いまいち会話が噛み合わないが、言いたいことさえ言えたなら操はいちいち気にしない。甲洋は気になっているようだが、操が頬ずりをすると、戸惑いながらも少しずつ心がポカポカとあたたまってくるのが伝わってきた。
(甲洋は、ぎゅってすると喜ぶ!)
そこにはやっぱり恥ずかしいという気持ちも混ざっているけれど、嬉しいという気持ちのほうが勝っているような気がして、操の心もポカポカだった。
*
甲洋は凄い。そして同じくらい、とても偉い。
操のご主人様はあまり『狩り』に行かない人だったけれど、甲洋はほとんど毎日『狩り』に行く。朝から出かける日もあれば、昼や夕方から出かける日もある。
ダイガクとかバイトとか彼は言うが、操にはそれがなんなのか分からない。きっと甲洋が狩り場にしている場所なんだろうなと、ぼんやり理解している程度だった。
そこで甲洋は一生懸命に狩りをして、操に美味しいご飯や洋服を運んできてくれるのだ。
先日、狩りに成功した甲洋はケーキとカレーを持ち帰ってきた。
初めてのケーキの味には感動したけれど、それ以上にビックリしたのはカレーだった。この世にこんなに美味しいカレーがあるなんて知らなくて、おかわりまでしてしまった。甲洋は、操が食べている姿を楽しそうに笑って見ていた。
だけど甲洋は、狩りに出かけても手ぶらで帰ってくることが多かった。
操はまともに狩りをしたことがないので分からないが、とても難しいのだということは、つい最近学んだばかりだ。先日ゴミ捨て場で食べ物探しをしようとしたけれど、そこいらを縄張りにしているカラスを怒らせてしまった。
だから甲洋も、いつもそんな危険を犯しながら食べ物を調達しているのだ。
失敗して帰ってきた甲洋のことを、操はなぜか可愛いと思ってしまう。きっとこの人は、あまり狩りが得意ではないんだろうなぁと、そう思うと少し可哀想な気がして、胸がキュンと締めつけられたようになる。狩りが下手なのは子供の証拠だ。
もしかしたら、自分が外に出て行って狩りをしたほうがいいのかもしれない。またカラスに襲われてしまうかもしれないが、甲洋のためなら頑張れるような気がする。
大学は勉強をする場所で、バイトは仕事をしてお金を稼ぐこと。お金がなければ食べ物だって服だって買えない。手ぶらで帰ってくるのは冷蔵庫に食べ物が十分入っているから、いちいち買い物をして帰ってくる必要がないからだということを、ネコである操は知らないのである。
*
甲洋の足音はすぐ分かる。
他の人のものとそう変わらないけれど、操はたった一度聞いただけで、それが甲洋のものであることが分かるようになった。
だから彼の足音が聞こえると玄関まで駆けていき、胸を踊らせながら待っているのだ。
「ただいま」
「おかえり!」
夜気を引き連れて帰ってきた甲洋に飛びつきながら、操は彼を出迎える。
甲洋は操が「おかえり」を言うととても喜ぶ。あまり顔には出さないけれど、心がじわりとあたたかくなって、ちょっと泣きたくなるくらい『嬉しい』という感情が伝わってくる。
操はこの瞬間が大好きだった。甲洋が嬉しいと操も嬉しくて、無意識にしっぽがピーンと上にまっすぐ伸びる。
「玄関は寒いだろ。わざわざ出てこなくてもいいのに」
甲洋は嬉しいくせにそんなことを言って苦笑する。
「だって甲洋の足音がすると、じっとしてられないんだもん」
ぐんと背伸びをして顔を近づけると、甲洋の腰が少しだけ引けた。だけど彼はいつも操の好きにさせてくれるのだ。
「今日も知らない匂いがいっぱいついてるね、甲洋」
鼻にキスをしながら匂いをかいで、その情報を得る。操も少しの間だけ外にいたから分かるけれど、外はいろいろな匂いがごちゃごちゃと溢れかえっている場所だった。
出かける前にあんなにたくさん自分の匂いをつけておいたのに、帰ってくるころにはすべて消えてしまっている。操はそれが少し嫌で、なんだか気になってしまって、甲洋に身体をぴったりくっつけながら、いろんな場所に自分の一部を擦りつけるとまた匂いをつけなおすのだ。
ヒト型のネコには獣型の猫のように分かりやすい臭腺というものはないけれど、それでも必死で甲洋についている『外』の匂いを自分のもので上書きしていく。そうしなければ安心できない。
そのあいだ、甲洋は非常に困った顔をして戸惑っているが、嫌だとは感じていないようだった。
一通り終えて満足すると、操は甲洋が鞄の他に白いビニール袋を手にぶら下げていることに気がついて、「それなぁに」と問いかけた。
「ああ、今朝ちょうど玉子がなくなったから。あとうどん。寒いから、煮込みなんてどうかと思って」
「すごいね甲洋! 今日は成功したんだ!」
いつもは失敗することの方が多い甲洋が、今日は玉子とうどんを狩ってきた。
すごいすごいと言って目を輝かせる操に、甲洋は「成功? なにが?」と首を傾げている。操は手を伸ばし、こげ茶色のくせ毛の頭を優しく撫でた。
「甲洋、いい子いい子」
「あのね、子供じゃないんだからやめて」
ムッとした顔をしながら、甲洋の頬が赤くなる。少し嫌だったようだが、あのくすぐったい感じもそこには混ざっていた。
(甲洋って不思議。いろんな気持ちがごちゃごちゃしてる)
「さ、そろそろ離れて。お腹すいてるだろ? すぐに作るから」
「やったー! うどん! あったかいうどん!」
「お前のは少し冷ましてからね」
いつまでもくっついていると甲洋が動けないので、操はようやく彼から身体を離した。甲洋は靴すらまだ脱いでいないのだ。明日からは、ちゃんと家に上がってから抱きつこうかなぁと、操は思った。
「俺の帰りが遅いときは、冷蔵庫のなかのものを好きに食べてもいいんだよ」
甲洋はそのままキッチンへ行き、うどんと玉子を調理スペースに置きながら言う。操はその隣に並びながら首を傾げた。
「なんで?」
「なんでって。バイトがある日はいつもより遅いだろ。せっかくいろいろ作り置きしてあるし」
甲洋は毎日、朝ごはんと一緒に操の昼ごはんも作る。それ以外にも料理をして、いつでも食べられるものを冷蔵庫に入れているのだ。
確かに夕方頃になると少しずつお腹が空いてくるけれど、操はどうしても一人で夕飯を食べる気になれなかった。
「でもおれは甲洋と一緒に食べたいよ。だって、ひとりぼっちのご飯は寂しいでしょ?」
「……そっか。そうだね」
甲洋は一瞬、なにかを思い出したように目を伏せた。それからふっと笑って操の頭を撫でると、リビングへ行ってコートを脱ぐ。
操はそれを目で追いながら、チクリと胸が痛むのを感じていた。これは甲洋の痛みだ。公園に置いてけぼりにされて、ひとりぼっちで夜を過ごしていたあのときの感覚に、それはよく似ていた。寒くて暗くて寂しくて、とても不安だったあのときの気持ちと。
ふとした瞬間、彼から伝わってくる痛みは、操の心に棘を刺す。
操は甲洋のことが心配だった。彼は狩りが下手だし、思っていることとはぜんぜん違うことを言ったりするし、笑っているのに、ときどきすごく我慢しているような気がした。だから自分がちゃんとそばにいて、見ていてあげなければいけないような気がしている。
ご主人様にはこんな気持ちになったことがないのに、どうして甲洋のことはそう思ってしまうのだろう。たぶん、とても柔らかいからだ。甲洋の心には、いつも雨が降っている。
どんなに喜んでいても、心がポカポカしているときでも、ぴったりとくっついていても。彼の心臓の音に重なって、冷たい雨音が聞こえてくるのだ。
(ずっと一緒にいたら、いつか止むかなぁ……甲洋の雨)
甲洋が嬉しいと操も嬉しい。だから甲洋が悲しいと、操も悲しい。
だから甲洋には、いつも嬉しい気持ちでいてほしいと思う。
毎日ふたりでご飯を食べたら、きっと甲洋は寂しくない。今夜はうどん。ちょっとくらい火傷してもいいから、熱々のものが食べたいなぁと、操は思った。
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甲洋は凄いと、操は思う。
だっていろいろなことを知っているし、朝も昼も夜もちゃんとご飯をくれる。
操がなにもしなくても優しくしてくれて、ベッドで寝てもいいと言ってくれるし、操にぴったりの新しい服までくれた。
モコモコとした素材のルームウェアは着ているだけで暖かくて、布団の中にいるとちょっと熱いくらいだ。部屋の中も、いつも暖房がきいてポカポカしている。
ご主人様は新しい服なんかくれなかったし、ご飯だって何日かに一度だけ、気が向いたときに操に『仕事』をさせて、適当な残り物をくれるだけだった。
だけどここは天国みたいだ。夢のような暮らしだなと思うけれど、甲洋はそれが『普通』なのだと教えてくれた。
普通って凄い。だけど本当に凄いのは、操にそれを教えてくれる甲洋なのだ。
「こうよ、朝だよ! 起きて起きて!」
甲洋に拾われて数日。
操の朝はソファの横に膝をついて、甲洋の身体をゆさゆさと揺り動かすことから始まる。本当は毛布にもぐり込んで一緒にくっついて寝たいけれど、それをねだると甲洋を困らせてしまう。
だから我慢して、『普通』に起こすのだ。普通のことができている自分を、操は嬉しいと思う。
毛布に包まっていた甲洋は小さく呻き、重たそうにまぶたを持ち上げた。
「おはよ! 甲洋!」
「……はよ」
寝起きの甲洋の声はちょっぴり低く掠れていたが、操の顔を見てふっと微笑んだ。それがなんだか嬉しくて、操は甲洋の胸に両手を置くとぐーんと顔を近づける。
甲洋の身体が少し強張ったような気がしたが、操は構わず自分の鼻を甲洋の鼻にくっつけた。そのまま何度かつんつんとしながら匂いをかいで、ほんのりと赤く染まった頬に頬ずりをする。
いい匂いだなと思う。静かで優しくて、少しだけ寂しい。ここで目を覚まして、初めて甲洋に触れたときから、操はこの匂いが大好きだった。
「……その、鼻くっつけるやつ」
ややしばらくのあいだ黙って好きにさせていた甲洋は、遠慮がちに操の耳に触れながら口を開いた。
「にゃあに?」
「挨拶、かなにか?」
「んー、多分そう」
「多分?」
「わかんない。でも、したくなっちゃう」
ネコに備わる習性を、ネコである操は深く意識したことがない。もしかしたら子ネコの頃に母ネコに教わったのかもしれないが、操にはそんな昔の記憶はなかった。
「それ、前の飼い主にもした?」
「したことないよ? どうしてそんなこと聞くの?」
そういえば、ご主人様にはしたことないなと操は思う。
そもそも『仕事』のとき以外で触ったことだってない。こんなふうにくっつきたいと思ったのは、甲洋が初めてだった。
「……別に、なんとなく」
甲洋はそう言って頬を赤くしたまま目を逸らした。顔にはなんの表情も浮かんではいなかったけれど、甲洋からは恥ずかしいという気持ちと、嬉しいという気持ちがごちゃ混ぜになったものが伝わってきた。けれど操には『恥ずかしい』がよく分からない。ただ、甲洋から伝わるものを受け止めた途端、どうしてかちょっぴり顔が赤くなるのを感じてしまった。
(なにこれ、変なの!)
だけど嫌な感じはしない。甲洋からも嫌だという感情は伝わってこなかった。だから、まぁいっかと操は思った。
「ねぇ甲洋、今日も朝から狩りに行くの?」
起き上がって背伸びをしている甲洋に問いかけると、彼は「狩り?」と不思議そうに首を傾げた。
「なにそれ?」
「昨日もおとといも行ったでしょ?」
「……ああ、大学とバイトのこと? 今日は午後からだから、少しのんびりできるよ」
「ダイガクとバイトってところに行ってるんだね」
「そうだよ」
「そっか。甲洋は偉いね」
操がにっこり笑って言うと、甲洋は困った顔をしながら指先で頬を掻いた。
「普通のことをしてるだけだよ」
「普通って凄いことなんだよ。だから甲洋は偉いよ」
操は思ったことをそのまま伝えただけだ。なのに甲洋はやっぱりとても困った顔をした。それは『恥ずかしい』に少し似ていたけれど、それよりもっとくすぐったい感じがする。
甲洋は褒められるとくすぐったくなるのだ。操はまたひとつ、彼のことを知ることができた。それが嬉しい。操は甲洋のことをもっともっと知りたいと思った。
「甲洋!」
操はソファに乗り上げると、両腕で甲洋にぎゅうと抱きついた。
「わっ!」
「おれは甲洋が狩りに失敗して帰ってきても、ぜんぜん平気だからね! だから今日もがんばってね!」
「だからさ、その狩りってなに……?」
いまいち会話が噛み合わないが、言いたいことさえ言えたなら操はいちいち気にしない。甲洋は気になっているようだが、操が頬ずりをすると、戸惑いながらも少しずつ心がポカポカとあたたまってくるのが伝わってきた。
(甲洋は、ぎゅってすると喜ぶ!)
そこにはやっぱり恥ずかしいという気持ちも混ざっているけれど、嬉しいという気持ちのほうが勝っているような気がして、操の心もポカポカだった。
*
甲洋は凄い。そして同じくらい、とても偉い。
操のご主人様はあまり『狩り』に行かない人だったけれど、甲洋はほとんど毎日『狩り』に行く。朝から出かける日もあれば、昼や夕方から出かける日もある。
ダイガクとかバイトとか彼は言うが、操にはそれがなんなのか分からない。きっと甲洋が狩り場にしている場所なんだろうなと、ぼんやり理解している程度だった。
そこで甲洋は一生懸命に狩りをして、操に美味しいご飯や洋服を運んできてくれるのだ。
先日、狩りに成功した甲洋はケーキとカレーを持ち帰ってきた。
初めてのケーキの味には感動したけれど、それ以上にビックリしたのはカレーだった。この世にこんなに美味しいカレーがあるなんて知らなくて、おかわりまでしてしまった。甲洋は、操が食べている姿を楽しそうに笑って見ていた。
だけど甲洋は、狩りに出かけても手ぶらで帰ってくることが多かった。
操はまともに狩りをしたことがないので分からないが、とても難しいのだということは、つい最近学んだばかりだ。先日ゴミ捨て場で食べ物探しをしようとしたけれど、そこいらを縄張りにしているカラスを怒らせてしまった。
だから甲洋も、いつもそんな危険を犯しながら食べ物を調達しているのだ。
失敗して帰ってきた甲洋のことを、操はなぜか可愛いと思ってしまう。きっとこの人は、あまり狩りが得意ではないんだろうなぁと、そう思うと少し可哀想な気がして、胸がキュンと締めつけられたようになる。狩りが下手なのは子供の証拠だ。
もしかしたら、自分が外に出て行って狩りをしたほうがいいのかもしれない。またカラスに襲われてしまうかもしれないが、甲洋のためなら頑張れるような気がする。
大学は勉強をする場所で、バイトは仕事をしてお金を稼ぐこと。お金がなければ食べ物だって服だって買えない。手ぶらで帰ってくるのは冷蔵庫に食べ物が十分入っているから、いちいち買い物をして帰ってくる必要がないからだということを、ネコである操は知らないのである。
*
甲洋の足音はすぐ分かる。
他の人のものとそう変わらないけれど、操はたった一度聞いただけで、それが甲洋のものであることが分かるようになった。
だから彼の足音が聞こえると玄関まで駆けていき、胸を踊らせながら待っているのだ。
「ただいま」
「おかえり!」
夜気を引き連れて帰ってきた甲洋に飛びつきながら、操は彼を出迎える。
甲洋は操が「おかえり」を言うととても喜ぶ。あまり顔には出さないけれど、心がじわりとあたたかくなって、ちょっと泣きたくなるくらい『嬉しい』という感情が伝わってくる。
操はこの瞬間が大好きだった。甲洋が嬉しいと操も嬉しくて、無意識にしっぽがピーンと上にまっすぐ伸びる。
「玄関は寒いだろ。わざわざ出てこなくてもいいのに」
甲洋は嬉しいくせにそんなことを言って苦笑する。
「だって甲洋の足音がすると、じっとしてられないんだもん」
ぐんと背伸びをして顔を近づけると、甲洋の腰が少しだけ引けた。だけど彼はいつも操の好きにさせてくれるのだ。
「今日も知らない匂いがいっぱいついてるね、甲洋」
鼻にキスをしながら匂いをかいで、その情報を得る。操も少しの間だけ外にいたから分かるけれど、外はいろいろな匂いがごちゃごちゃと溢れかえっている場所だった。
出かける前にあんなにたくさん自分の匂いをつけておいたのに、帰ってくるころにはすべて消えてしまっている。操はそれが少し嫌で、なんだか気になってしまって、甲洋に身体をぴったりくっつけながら、いろんな場所に自分の一部を擦りつけるとまた匂いをつけなおすのだ。
ヒト型のネコには獣型の猫のように分かりやすい臭腺というものはないけれど、それでも必死で甲洋についている『外』の匂いを自分のもので上書きしていく。そうしなければ安心できない。
そのあいだ、甲洋は非常に困った顔をして戸惑っているが、嫌だとは感じていないようだった。
一通り終えて満足すると、操は甲洋が鞄の他に白いビニール袋を手にぶら下げていることに気がついて、「それなぁに」と問いかけた。
「ああ、今朝ちょうど玉子がなくなったから。あとうどん。寒いから、煮込みなんてどうかと思って」
「すごいね甲洋! 今日は成功したんだ!」
いつもは失敗することの方が多い甲洋が、今日は玉子とうどんを狩ってきた。
すごいすごいと言って目を輝かせる操に、甲洋は「成功? なにが?」と首を傾げている。操は手を伸ばし、こげ茶色のくせ毛の頭を優しく撫でた。
「甲洋、いい子いい子」
「あのね、子供じゃないんだからやめて」
ムッとした顔をしながら、甲洋の頬が赤くなる。少し嫌だったようだが、あのくすぐったい感じもそこには混ざっていた。
(甲洋って不思議。いろんな気持ちがごちゃごちゃしてる)
「さ、そろそろ離れて。お腹すいてるだろ? すぐに作るから」
「やったー! うどん! あったかいうどん!」
「お前のは少し冷ましてからね」
いつまでもくっついていると甲洋が動けないので、操はようやく彼から身体を離した。甲洋は靴すらまだ脱いでいないのだ。明日からは、ちゃんと家に上がってから抱きつこうかなぁと、操は思った。
「俺の帰りが遅いときは、冷蔵庫のなかのものを好きに食べてもいいんだよ」
甲洋はそのままキッチンへ行き、うどんと玉子を調理スペースに置きながら言う。操はその隣に並びながら首を傾げた。
「なんで?」
「なんでって。バイトがある日はいつもより遅いだろ。せっかくいろいろ作り置きしてあるし」
甲洋は毎日、朝ごはんと一緒に操の昼ごはんも作る。それ以外にも料理をして、いつでも食べられるものを冷蔵庫に入れているのだ。
確かに夕方頃になると少しずつお腹が空いてくるけれど、操はどうしても一人で夕飯を食べる気になれなかった。
「でもおれは甲洋と一緒に食べたいよ。だって、ひとりぼっちのご飯は寂しいでしょ?」
「……そっか。そうだね」
甲洋は一瞬、なにかを思い出したように目を伏せた。それからふっと笑って操の頭を撫でると、リビングへ行ってコートを脱ぐ。
操はそれを目で追いながら、チクリと胸が痛むのを感じていた。これは甲洋の痛みだ。公園に置いてけぼりにされて、ひとりぼっちで夜を過ごしていたあのときの感覚に、それはよく似ていた。寒くて暗くて寂しくて、とても不安だったあのときの気持ちと。
ふとした瞬間、彼から伝わってくる痛みは、操の心に棘を刺す。
操は甲洋のことが心配だった。彼は狩りが下手だし、思っていることとはぜんぜん違うことを言ったりするし、笑っているのに、ときどきすごく我慢しているような気がした。だから自分がちゃんとそばにいて、見ていてあげなければいけないような気がしている。
ご主人様にはこんな気持ちになったことがないのに、どうして甲洋のことはそう思ってしまうのだろう。たぶん、とても柔らかいからだ。甲洋の心には、いつも雨が降っている。
どんなに喜んでいても、心がポカポカしているときでも、ぴったりとくっついていても。彼の心臓の音に重なって、冷たい雨音が聞こえてくるのだ。
(ずっと一緒にいたら、いつか止むかなぁ……甲洋の雨)
甲洋が嬉しいと操も嬉しい。だから甲洋が悲しいと、操も悲しい。
だから甲洋には、いつも嬉しい気持ちでいてほしいと思う。
毎日ふたりでご飯を食べたら、きっと甲洋は寂しくない。今夜はうどん。ちょっとくらい火傷してもいいから、熱々のものが食べたいなぁと、操は思った。
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03
あたたかいなぁと思った。
ぴったりと寄り添う高めの体温が心地よくて、無意識に抱き寄せながら頬を擦り寄せれば、鼻先がふわふわとしたものに埋もれる。全身を包み込まれるような柔らかさと、このままずっと浸っていたいようなぬくもりに、ほどけきった心が空に浮かんでいきそうだった。
なんて幸せな気分だろう。まるで夢でも見ているみたいに──
(……夢?)
はたと意識が覚醒する。朝だ。安物のカーテンを通して、白い光が射している。
起き抜けのぼやけた視界が、瞬きのたびにゆっくりと像を結んでいった。
目の前にはふさふさの毛に覆われた獣の耳がある。小さな手が、甲洋の胸の上できゅうと握りしめられていた。
ふわふわの髪の毛に鼻先を埋めながら、甲洋が抱いて寝ていたのは──
「うわっ!?」
認識した途端ビクンと身体が跳ね上がり、狭いソファから滑り落ちるようにして落下する。
「んにゃ!?」
下敷きにしてしまわないよう咄嗟に両腕で強く抱き込んだので、ひっついていた操まで一緒に落ちてしまった。甲洋の上に、すっかり折り重なっている。昨日と全く同じ状況だ。
尻や腰を思いきり打ちつけたような気がしたが、頭の中が真っ白でそれどころではなかった。
「な、な……?」
「んに~……なぁに? どうしたのぉ?」
「み、操……なんで……?」
どうしてここにいるのだろう。彼は甲洋のベッドを使っていたはず。前の家ではずっと床で寝ていたから、ベッドで寝るのは初めてだと言ってとても喜んでいた。
しかも、問題はそれだけではなかった。
「お、お前! なんて格好してるのさ!?」
操は甲洋の腰にすっかりまたがる形でのろのろと身を起こした。しっぽをゆったりと大きく左右に振りながら、のんきに目を擦ってふにゃあと欠伸をしている。
寝る直前までは確かにグレーのスウェット上下を着ていたはずなのに、どうしてか操は下になにも身に着けていなかった。
基本的にサイズが大きいため、かろうじて上衣の裾に大事な場所は隠れているが、それはむしろ逆効果である。すっぽんぽんにも焦ったが、見えそうで見えないギリギリのラインは視覚的にいささかマニアックで、想像力を刺激されてしまうからだ。(昨日がっつり見ているが)
いかにも柔らかそうな太ももを大きく開く体勢で乗り上げている操は、両手を甲洋の腹に置いてふにゃりと首を傾げた。寝起きの赤い目元に、とろりと潤んだ瞳が揺れる。仕草も容姿も幼いくせに、そこには不思議な色気があった。
もし彼が少しでも身じろぎをすれば……見えてしまう。しかも彼がぺたりと腰を落ち着けているのは、非常によろしくない部分である。それはちょうど甲洋の大事な場所で、そこにぷにぷにとした柔らかな肉の感触がほぼダイレクトに伝わってくるのだ。なにせ操は、下着すら履いていない。
(まずいまずいまずいまずい……ていうか、昨日からおかしくないか俺……!?)
甲洋にはそっちの気は0であるはずだった。同性を相手におかしな気を起こしたことなんかないし、子供の頃はよく友達同士で銭湯に行ったりなんかもした。どっちの方が大きいとか、毛が生えてきてるから大人だとか、そんなくだらないことをあーだこーだと言っては年頃の男同士で張り合っていた。
誰がどんな形をしていたとか、桁外れの記憶力を持つ甲洋は今でもしっかり覚えている。だけどそれを思いだして変な気分になるとか、そんなことは絶対にありえない。むしろ少年時代のいい思い出だ。
それがどうしてか、操が相手だとなにかがおかしい。昨日から、頭のネジが吹っ飛んだみたいに意識させられている。
頭に血が上るのを感じながら、それ以上は声が出ない。バクバクと踊る心音の息苦しさに、思わず喉が鳴った。
「こうよ、おはよぉ」
まだ寝ぼけ眼でいる操は問には答えず、そのまま身体を前に倒して甲洋の顔にぐっと顔を近づけた。腰が引けそうになるが、床と操にサンドされているせいで身動きができない。
甲洋の視線は、操の艶めいた唇に注がれた。小さくて、だけど肉感的で、淡桃色をしたそれがどんどん近づいてくる。
(ちょ、ちょっと待っ……う、嘘だろ? まさか、まさか……)
このままキスをされてしまうとでも……いうのだろうか……?
「ッ!!」
某ビデオのようなナレーションを脳内で再生させながら、咄嗟にぎゅうと目をつぶる。どうしてか拒絶するという選択肢が浮かばない。まともに思考が動く状態ではなかった。ドクンドクンと、心臓が頭の位置にあるかのように激しく動悸を打っている。
が、いつまでたってもそのときは訪れない。代わりに鼻の先につんつんと何かが当たるのを感じて、恐る恐る目を開けた。
(……?)
唇と唇ではなくて、鼻と鼻。
操はすんすんと鼻を鳴らしながら、気持ちよさそうに目を閉じて甲洋の鼻先に自分の鼻先を何度もくっつけている。そして、そのまま頬ずりをしてきた。
「は、ぇ……?」
つい間抜けな声が漏れる。これはどういう意思表示なのだろうか。てっきりファーストキスを奪われるものとばかり思い込んでいた甲洋は、拍子抜けしてしまった。
(なにこれ……ひょっとして挨拶、みたいなもの……?)
鼻キスのあとに何度も何度も頬ずりをされながら、安堵している自分と落胆している自分が同時に存在している。当然、後者には戸惑いを覚えた。それじゃあまるで期待していたみたいではないか。
「み、操、いいから離れて。ねぇ、なんで脱いだの? それに、お前の寝る場所はここじゃないよ」
どうにか自分のペースを手繰り寄せ、操の両肩を掴むと引き離した。操は不服そうに唇を尖らせたが、彼の満足がいくまで放っておいたら時間的にも精神的にも手遅れになりそうだった。
(手遅れ? 手遅れって、なにが……?)
どうして今、あの『感覚』を思いだしてしまったのだろう。
操と初めて目が合ったとき、全身を駆け抜けたあの不可解な痺れを。あれは気のせいということで方がついたはずだ。
(あぁもう!)
自分で自分が分からない。とにかく、今日は一限から授業を入れている。のんびりしていたら遅刻してしまうということだけはハッキリしていた。だから、そう、さっさと疑問を解消して、朝の支度に取り掛からなければならないのだ。
甲洋は腹筋の力だけで身を起こし、座り込んでいる操の下から抜け出した。床にぺたりと腰を落ち着けた操の下半身に、丸まって落ちていた毛布をさりげなくかぶせる。
「起きたら甲洋がまだ寝てたから、起きるまで一緒に寝てたよ」
「そういうときは普通に起こしてくれればいいよ……で、ズボンは?」
「だってあれ、しっぽが動かせなくて嫌だったんだもん。だから布団の中で脱いじゃった」
「そういうことは初めに言ってよ……」
とはいえ、気づかなかった自分も悪かったように思う。イヌやネコには、ヒトと違ってしっぽがある。だから彼ら専用の衣類には、ちゃんとしっぽ穴がついているのだ。
あとどのくらい一緒にいることになるかはまだ分からないが、ちゃんと操に合ったサイズのネコ用の衣類を、何着か買い揃えるべきかもしれない。それに、彼は下着をつけていないのだ。新品ならまだしも、そこは流石に自分のものをというわけにはいかない気がして──操は気にしないだろうが──あえて考えないようにしていたのだが。
「ねぇ甲洋、バラバラに寝ないで一緒に寝ようよ。そのほうがあったかいでしょ?」
確かいつも利用しているスーパーに、そこそこ大きな衣料品コーナーがあったなと思考を巡らせていると、操が大きな瞳をくるくるとさせながら無邪気に口を開いた。
突然の提案に、なぜかギクリとしてしまう。
「いや、それはちょっと……」
思わず目を逸らす。
「なんで? だってさっきはあんなに気持ちよさそうだったよ。甲洋の心、嬉しいって言ってたの感じたもん。おれも甲洋にくっついて寝るの気持ちよかったし……ねぇダメ?」
「……ダメ、かな」
「むー、甲洋のケチんぼ……」
真冬にネコを抱いて寝るなんて、独り寝の冷えた寝床しか知らなかった甲洋にとってあまりにも魅力的な誘惑だ。けれどその一線だけは超えてはいけないような気がした。
たかがネコを抱いて寝るくらいと、自分でも思うのだが。
(だって絶対、癖になるだろ……)
甲洋はこれから、操の新たな飼い主探しを始めるのつもりでいる。
その上で忘れちゃいけないのは、決して情が移ってはならないということだ。大事に扱うことはしても、愛情を寄せることになれば別れが辛い。この寒い時期にさっき感じたような夢心地をこれ以上味わってしまったら、確実に手放し難くなってしまうのは火を見るよりも明らかである。
しかも、だ。極めて認めたくはないが、さきほど甲洋は完全にアレがアレしかけた。操のあられもない姿を見て、その肌の熱に触れて、うっかり生理現象を引き起こしかけたのだ。
(そんなに欲求不満だったのか、俺)
そう、欲求不満。なにせ童貞歴20年である。それだけ長いこと自身の宝刀を抜かずにいれば、こじらせてしまったとしても仕方ない。決して何かに目覚めしてしまったとかそういうことではなくて、あれはちょっとした事故のようなものだ。
どんなに可愛い顔をしていようとも、やたらと太ももが艶かしくとも、操はそういう対象ではない。そもそもネコをそんな目で見るなんて、甲洋にはまったく理解できなかった。
それに、どんなにすました面をしていようが甲洋は巨乳な女子が好きなのである。ついでだから言うが、実はバリバリの犬派だ。将来的には黒髪ロングな巨乳のお嫁さんをもらって、庭付きの一戸建てで黒柴の子犬を──いや、長くなるのでやめておこう。
(とにかく早く探さなきゃ。こいつの新しい飼い主……)
操はぶぅと頬を膨らませて甲洋を睨みつけている。そんな顔をしたって、ダメなものはダメなのだ。
「ねぇ~、甲洋ってば~」
「しつこいよ。それより早くご飯にしよう。今朝はあまりのんびりしてられないから」
昨日、あれからすぐにスーパーに走ってある程度の食材は調達済みだ。おかげで冷蔵庫の中は見たことがないくらいパンパンにものが詰まっている。
ちなみにスーパーでは操が使うための歯ブラシと、なんとなく勢いで子供用歯磨き粉まで買ってしまった。イチゴ味である。
「ご飯!? やったー!」
不満顔だった操の表情が、一気にパッと華やいだ。彼はしっぽをまっすぐ上に伸ばし、嬉しそうにバンザイをして、そのまま毛布を払い除けてしまう。
「わっ!? お前、せっかく隠してやったのに!」
「朝ご飯の前には歯磨きしなきゃ! イチゴ味のやつ!」
再び露になってしまった魅惑の太ももに慌てて顔を逸らす甲洋を他所に、操は元気よく立ち上がると軽やかな足取りでリビングを出て行ってしまう。
忙しないったらありゃしない。ネコはもっと静かな生き物だとばかり思っていた。
「顔も洗うんだよ。タオルは置いてあるやつを適当に使っていいから」
大きな音を立てて閉じた扉の向こうに声をかける。「はーい」という返事がして、甲洋はホッと息をつきながらようやく肩の力を抜きかけた、が、すぐに遠くから「ぎゃん!」という悲鳴が聞こえてぎょっとした。
「操!? どうした!? なにかあっ──」
慌てて駆け寄った甲洋が扉を開くと、廊下の中腹に横倒しのような状態で床に倒れている操の姿があった。ちょうど尻がこちらを向いていて、しかも、裾がぺろりとめくれあがっている。
「転んじゃったよぉ……」
「~~ッ!?」
甲洋は絶句しながら両手で覆った顔を背けた。
丸見えだった。予想外の出来事とはいえ、まるまるとした操のお尻が。しかもとんでもない角度から。
せめてもの救いは彼がしっぽを足の間に挟み込んでいたおかげで、割れ目のラインがちょうどよく隠されていたことだろうか。いや、この場合むしろ逆かもしれない。
人間には隠されるほど見たくなるという心理がある。カリギュラ効果というやつだ。
まったくそんな気などないはずなのに、こいつはどうしてか甲洋のそういった心理をいちいち刺激してくる。わざとか? わざとやってんのか?
「なんでなにもないところで転ぶのさ!?」
「そんなの知らないよぉ」
「いいから隠して! お尻が風邪ひくから!」
「お尻って風邪ひくの?」
「頼むから早くしてくれ!!」
なにがなんでも、一刻も早く新しい飼い主を見つけよう。
改めてそう心に誓う甲洋だった。
*
真壁一騎は子供のころから付き合いのある友人だ。
甲洋の実家が営む喫茶店に、父親と二人でよく訪れていたことがキッカケで打ち解けた。
甲洋は家族運がないぶん友人には多く恵まれていたが、本当に親しい人間というのはごく僅かしかいない。中でも一騎とは親友と呼べるほど気の置けない間柄だった。
一騎は甲洋が暮らすマンションから、二駅ほど離れた場所にあるアパートに住んでいる。彼もまた大学に通いながら、夜は居酒屋でアルバイトをしていた。以前は週に一度のペースで互いの家を行き来していたが、ここ数ヶ月は忙しくて顔を合わせる機会は減っていた。
そんな一騎に「折り入って相談がある」と連絡を入れたのは今朝、通学途中のバスの中でだ。彼は今日はちょうどバイトが休みだからと、すぐに時間を作ってくれた。
「悪い、ちょっと散らかってて」
大学帰りに立ち寄った甲洋を出迎えた一騎は、すまなそうに肩をすくめて苦笑した。少し見ないうちに髪が伸びていて、艶のある黒髪を軽くひとつに結っている。
玄関先には巨大なダンボールが折り畳まれた状態で立てかけられていた。大きな家具でも購入したのか、ダンボールはその他にも幾つか重ねてあって、狭い廊下で場所をとっていた。
立て込んでいるときに邪魔をしてしまったかもしれない。甲洋もまた肩をすくめて眉を下げる。
「俺の方こそ。せっかくの休みに邪魔して悪い」
「いいって別に。それより珍しいよな。甲洋が相談なんてさ」
「うん、まぁ……」
咄嗟に濁すような態度をとった甲洋を気にする様子もなく、一騎は「とりあえず立ち話もなんだから」と部屋へ促した。
しばらく会っていなかったからといって、なにも緊張するような間柄ではない。だけど今日ばかりは、表情がいささか強張ってしまうのを感じていた。
相談というのは、もちろん操のことである。
一騎が暮らすこのアパートはペット可の物件だ。同時に、信用に値するという条件を満たしているのも、甲洋が知る限り一騎だけだった。
操に必要なのは、何不自由なく安心して暮らせる環境だ。そこには優しい飼い主の存在が必要不可欠だった。誰か適任はいないだろうかと考えたとき、真っ先に浮かんだのが一騎の顔だった。
もちろん無理に押しつけようなんてつもりはない。命を預かるということは、その一生に責任を持つということだ。特にヒト型のイヌやネコは、人間とそう変わらない平均寿命を持っている。長い人生を共にすることを思えば、そうやすやすと決められる問題ではないのだから。
けれどもし可能なら、一騎に操の新しい飼い主になってほしいと思っている。
穏やかで心優しい彼ならば、操もきっと安心して暮らせるだろう。今のマンションでは一緒に暮らすことはできないし、なにより操の幸せを第一に考えたとき、甲洋は自分という人間にその資格があるとはとても思えないのだ。要するに、自信がなかった。
なにはともあれ話だけでも聞いてほしい。そんな思いでここまで来たわけだ──
が。
「なんだ、手ぶらか。親しき仲にも礼儀ありという言葉を知らないのか?」
部屋に足を踏み入れた甲洋は、藪から棒に投げかけられた言葉に目を丸くした。視線の先では二人がけのソファの真ん中に、ゆったりと腰をおろす『ネコ』の姿がある。
絹糸のような長い髪は操と同じ亜麻色をしていた。大人びてはいるが、年齢もだいたい同じくらいだろうか。ピンと尖った大きな耳と、どこか苛立ったように座面を叩くしっぽも同じ色をしていたが、操と比べるとずいぶん毛足が長く、つやつやとした光を放っている。
その端正な顔立ちには、よく見れば左目を縦に裂くようにしてうっすら傷が走っているのが見えた。
それにしてもなぜここにネコがいるのだろう。
しかも微妙にディスられたような気がする。ちゅ~るでも持参するべきだったのだろうか。
(なんだこれ……どういうことだ……?)
それだけじゃない。さらに甲洋を驚かせたのは、様変わりした部屋の様子だった。以前までは簡素なちゃぶ台と、薄っぺらい布団が置いてあるだけの殺風景な部屋だったはずなのに、今や立派なテレビとふかふかのベッドやクローゼットまで置かれており、裸ん坊だった畳はカーペットに覆われていた。しかも足の裏が温かい。電気カーペットである。
もちろん彼が腰をおろすソファも新品だ。上質な家具が揃う中にあって、変わらず古びたちゃぶ台だけが完全に浮いていた。
「総士だよ。ペルシャのクリームなんだ。可愛いだろ?」
お茶を持って後からやってきた一騎は、彼のことを総士と呼んだ。総士は足と腕を組み、吊り上げた瞳でじっと甲洋を観察している。
「どうした? 座れよ」
そう言って指された座布団もふかふかだった。前は煎餅だったのに。
一騎は湯気をのぼらせる湯飲み茶碗を甲洋の前に置き、自分は総士の足元に腰をおろした。かたやソファにふんぞり返るネコ。かたや床に正座する人間。その図はペットと飼い主というよりも、王様と家来といったほうがしっくりくる。
「……驚いた。いつから?」
戸惑いながらも腰をおろして問いかけると、一騎はよくぞ聞いてくれたとばかりに破顔した。
「一ヶ月くらい前かな。剣司って覚えてるか?」
「もちろん」
「剣司のバイト先で里親を募集してたんだ。元はちゃんと飼い主がいたんだけど……」
近藤剣司は一騎と甲洋の共通の友人で、獣医志望の学生だ。彼は現在、動物病院でアルバイトをしているらしかった。
そこに半年ほど前、大怪我を負った総士が運び込まれた。飼い主と外出中、不運にも交通事故に巻き込まれてしまったのだ。総士の顔の傷はそのときのもので、彼は左目の視力を失っていた。
しかし総士が失ったのはそれだけではなかった。事故の際、飼い主の女性は帰らぬ人となっていた。
総士は入院して治療を行い、回復後はそのまま病院で里親募集をかけることになった。だが新しい飼い主は決まらなかった。
病院の利用者の中には、ごくわずかだが里親に名乗り出てくれた人はいた。けれど総士自身がそれを拒絶し続けたのだ。
飼い主を失ったショックから心を閉ざしてしまった彼は、誰にも気を許そうとはしなかった。しまいには野良として、一人で生きていくとまで言いだしたのだ。
そこでほとほと困り果てた剣司が相談を持ちかけたのが一騎である。
いわば駆け込み寺だ。考えることはみんな同じだなと、甲洋は思わず苦笑した。
剣司から相談を受けた一騎は、試しに総士と会ってみることにした。すると驚いたことに、あれほど頑なだった総士の心が一瞬でほどけた。
一騎もひと目で気に入ってしまい、会ったその日に連れ帰ってきて、今に至るというわけである。
「なるほど……」
総士に視線を向けると、彼はそっぽを向いていた。けれど耳だけは一騎の方にしっかりと向けられている。話はちゃんと聞いているようだった。
自身も酷い傷を受け、そして懐いていた飼い主を失ってしまった彼の気持ちを思うと、胸が痛む。するとその感情が総士に伝わったのか、彼は甲洋をちらりと見やると、またすぐにそっぽを向いてしまった。
どうやら一騎の友人というだけでは、初対面の人間に心を開いてはくれないようだ。その警戒心の強さはいかにもネコだなと、甲洋は感心する。どこかの操とは大違いだ。
あの子はネコというより、イヌの方が近い気がする。生まれてくる種族を間違えたのではなかろうか。
「ネコを飼うなんて初めてだからさ。戸惑うことも多いよ。剣司にも甘やかしすぎには注意しろって言われてるし。躾って難しいんだな」
「一騎、僕にもお茶」
「はいはいちょっと待ってな。そうだ、おやつは? クッキー食べるか?」
「嫌だ。チョコレートケーキがいい」
「はいはい、可愛いな総士は」
躾は難しいと言ったその口で、めちゃくちゃに甘やかしていらっしゃる……。
(頼めそうもないな、このぶんだと)
デレデレの一騎が総士のぶんのお茶とケーキを用意するあいだ、甲洋は肩を落としながらこっそり溜息を漏らす。
まさか先住ネコがいるなんて予想もしていなかった。さらにもう一匹どうかなんて厚かましい相談は、とてもできそうにない。この部屋の広さでは、ネコ一匹がせいぜいだろう。
なにより誰にも心を開かなかったという総士が、一騎にはこうして我儘を言っている。彼なりに甘えている証拠だ。彼らは実に良好な関係を築いているように見えた。
里親を申し出てくれた人たちとなにが違ったのか知らないが、一騎とはお互いになにかしら感じるものがあったのかもしれない。
(例えば運命、とか)
またあの鐘の音が聞こえてきそうな気がして、甲洋は慌てて首を振った。
「お待たせ総士。はい、甲洋も」
戻ってきた一騎は総士の分と一緒に、甲洋のケーキも用意してくれた。
総士はソファからわずかに身を乗り出し、毛足の長いしっぽを天井に向けてピンと伸ばしている。そういえば、操も喜んでいるときは同じようにしっぽを立てていた。
彼は操ほど感情を表に出すタイプではないようだが、ネコは嬉しいとしっぽを立てるのだ。
一騎は総士の隣に座って、ケーキを食べる姿を微笑ましそうに見つめている。可愛くてしょうがないと、その顔にはハッキリと書かれているようだった。
誰かと誰かが仲睦まじくしているのを見るのはいいものだ。こちらまで嬉しくなってくる。
「凄いな一騎は。家具も全部この子のために揃えたんだろ?」
一騎は少しだけ照れくさそうに頬を染めると、指先で頬を掻いた。
「俺は特に欲しいものもないし、目的があって貯金してたわけでもないからさ。それに、テレビもないところで留守番させるなんて可哀想だろ?」
「そうだね」
酷かったもんな、お前の部屋……と思ったが、総士のおかげで一騎の生活水準も同時に上がったことは、甲洋としても喜ばしい限りだった。
「ところで甲洋、相談って? 俺の話ばっかりしちゃったけど」
「あー……うん、いや、まぁ」
「なんだよ、煮え切らないな。言えって」
ケーキを食べていた総士まで手をとめて甲洋を見る。その間、一騎は総士の口元についていたチョコクリームをサッとティッシュ(鼻セレブ)で拭き取ってやっていた。
王様と家来なのか、あるいは母と子なのか分からない状態のふたりに見つめられながら、甲洋はとりあえず話すだけ話してみることにした。
*
帰り道、甲洋の手にはお土産の袋がぶら下がっていた。
中身はケーキと、前日に作りすぎたという一騎カレーが入ったタッパーである。
暗い夜道で冷たい風にさらされながら、甲洋は一騎と交わした会話を思いだしていた。
捨てネコを保護しているが、自分ではどうしても飼えない事情があるため飼い主を探していることを話すと、一騎は残念そうにこう言った。
「ふわふわであったかくて、一緒に寝ると最高なのにな……」
と──。
そんなことは知っている。
しかも操は甲洋の腕にジャストフィットなサイズであることも。痩せているくせにやたらと肌が柔らかいことも、子供らしく体温が高いことも、昨日の今日で知っているのだ。
毎晩あれを抱きしめて眠れたら、どんなに幸せだろう。髪もしっぽもふわふわで、それはもう至福の毎日であるに違いない。
だが、現実問題としてそれは不可能だ。一時の感情に身を任せていいことではないし、くどいようだが甲洋のマンションではネコと暮らすことはできない。いつまでも閉じ込めておくわけにもいかないし、あまり猶予はなかった。
一騎はバイト先の知り合いにあたってみると約束してくれた。甲洋も引き続き交流のある友人知人にあたってみるつもりでいるが、どうなることか。
モヤモヤと考えを巡らせているうちに、自宅マンションは目の前だった。
操はどうしているだろう。今朝、朝食の支度と同時進行でサンドイッチを作り、留守中ちゃんと食べるようにと声はかけてきたが、三日三晩ものあいだ飲まず食わずで徘徊していた操の疲労は相当なものだったようで、彼は朝食を食べ終えると毛布にくるまりながらソファで船を漕いでいた。
あの様子だと、もしかしたらまだ起きられないでいるかもしれない。心配は尽きないが、同時に気がかりなことがある。
(あいつ、また脱いだりしてないだろうな……)
あのあと、甲洋はスウェットの尻部分にハサミでしっぽ用の切り込みを入れた。服にあえて穴を開けるという行為には多少なりとも罪悪感があったけれど、あんな格好でウロチョロされたのではたまったもんじゃない。躊躇してる場合ではなかった。
ちゃんと服を身に着けた状態で休んでいてくれるといいのだが……。
「ただいま」
帰宅するなり甲洋がその言葉を言うのは、ほとんど癖のようなものだった。
おかえりを言ってくれるような家族はいなかったし、ましてや一人暮らしでは意味がないと分かってはいるのだが、染みついた癖はなかなか抜けない。
こんなときは、よりいっそう結婚への憧れが強まるのだ。自分の帰りを待つ家族がいる家。そこに帰るという感覚は、一体どんなものだろう。
けれど今日はいつもと様子が違っていた。
暗いはずの玄関には最初から明かりが灯されていて、おやと思う間もなく
「おかえり!」
という声に迎えられたのだ。
「!」
そこには操の笑顔があった。てっきりまだ休んでいるとばかり思っていた甲洋は、その出迎えに見開いた瞳を瞬かせる。
彼はちゃんと上下共に服を着た姿で、甲洋の顔を見るなりドンと胸に飛び込んできた。
「え、ぅわっ」
その衝撃に少し身体がグラついたが、お土産の袋を落とさなかったことは褒めてほしい。
操は甲洋の首にぎゅっと抱きつき、また例の鼻と鼻をくっつけて匂いをかぐと、そのまま顔中にグリグリと頬や額を擦りつけてくる。
「ほっぺた冷たいね、甲洋。外の匂いがいっぱいついてる! あれ? なんか、おれじゃないネコの匂いがするよ! なんで!? これ誰の匂い!?」
操はなぜか少し焦った様子を見せ、何度も鼻を鳴らして匂いをかぐと、いっそう強く鼻や頬を擦りつけてきた。
頬同士がこすれると、操の熱が冷えた皮膚にじわりと伝わってくる。そのまま燃え広がっていくのを感じながら、甲洋は思わず赤くなった顔を背けてしまう。
「ちょ、ちょっと、ち、近いって」
この距離感にはどうしても戸惑いを覚える。母親にすら抱きしめられたことがないのだ。いつもならただポツリと床に落ちるだけの「ただいま」という言葉に、「おかえり」と返されることも。
いつか結婚して、家族ができたら経験できるかもしれないと膨らませていた夢のひとつが、思いもよらない形で叶ってしまった。むしろ、思い描いていたものよりかなり激しい。心の準備をいっさいしていなかったものだから、咄嗟にどんな反応を返すのが正解なのか分からなかった。
操はそんなのお構いなしで、あごや首筋にまで顔を擦りつけてきた。このままでは、いつ部屋に上がれるか分からない。
「わかった、わかったから。それよりお前、ずっと玄関にいたの?」
「ずっとではないけど、足音が聞こえたから甲洋かもって思ってここで待ってた。そしたら本当に甲洋だったから嬉しい!」
「そ、そう」
「ねぇ、おれちゃんと留守番してたよ。服も脱がなかったし、パンも食べた。背中伸ばして、ゆっくり食べたよ!」
「そっか……偉いな、操は」
「うん、えへへ」
自然と頬が綻んでいくのを感じながらぽんぽんと優しく頭を撫でてやると、操は赤い頬でふにゃりと笑った。さっきからずっとしっぽが真上に伸びている。
甲洋は人間で、読心能力は使えない。だけどそのしっぽの動きや操の表情を見れば、彼の嬉しいという感情が充分に伝わってくる。
(なんか、まずいな、これ……)
心の奥からじんわりと熱いものが込み上げて、嬉しいはずなのに胸が苦しい。なぜか少しだけ、泣きたくなった。
「そろそろ離して……そう、ケーキ。ケーキがあるよ。カレーも」
「ケーキ!? カレー!?」
操が見開いた瞳を輝かせるのと同時に、耳と尻尾の毛が逆立った。
「お、おれ、ケーキ……食べたことないよ!」
「え、本当に?」
「ないよ!」
「そっか、じゃあ、すぐに支度するから」
「わぁいやったー! 嬉しいー!!」
一度は離れかけた操が、また強く抱きついてくる。
結局、抱え込む形でズルズルと引きずりながら部屋に入ることになってしまった。
←戻る ・ 次へ→
あたたかいなぁと思った。
ぴったりと寄り添う高めの体温が心地よくて、無意識に抱き寄せながら頬を擦り寄せれば、鼻先がふわふわとしたものに埋もれる。全身を包み込まれるような柔らかさと、このままずっと浸っていたいようなぬくもりに、ほどけきった心が空に浮かんでいきそうだった。
なんて幸せな気分だろう。まるで夢でも見ているみたいに──
(……夢?)
はたと意識が覚醒する。朝だ。安物のカーテンを通して、白い光が射している。
起き抜けのぼやけた視界が、瞬きのたびにゆっくりと像を結んでいった。
目の前にはふさふさの毛に覆われた獣の耳がある。小さな手が、甲洋の胸の上できゅうと握りしめられていた。
ふわふわの髪の毛に鼻先を埋めながら、甲洋が抱いて寝ていたのは──
「うわっ!?」
認識した途端ビクンと身体が跳ね上がり、狭いソファから滑り落ちるようにして落下する。
「んにゃ!?」
下敷きにしてしまわないよう咄嗟に両腕で強く抱き込んだので、ひっついていた操まで一緒に落ちてしまった。甲洋の上に、すっかり折り重なっている。昨日と全く同じ状況だ。
尻や腰を思いきり打ちつけたような気がしたが、頭の中が真っ白でそれどころではなかった。
「な、な……?」
「んに~……なぁに? どうしたのぉ?」
「み、操……なんで……?」
どうしてここにいるのだろう。彼は甲洋のベッドを使っていたはず。前の家ではずっと床で寝ていたから、ベッドで寝るのは初めてだと言ってとても喜んでいた。
しかも、問題はそれだけではなかった。
「お、お前! なんて格好してるのさ!?」
操は甲洋の腰にすっかりまたがる形でのろのろと身を起こした。しっぽをゆったりと大きく左右に振りながら、のんきに目を擦ってふにゃあと欠伸をしている。
寝る直前までは確かにグレーのスウェット上下を着ていたはずなのに、どうしてか操は下になにも身に着けていなかった。
基本的にサイズが大きいため、かろうじて上衣の裾に大事な場所は隠れているが、それはむしろ逆効果である。すっぽんぽんにも焦ったが、見えそうで見えないギリギリのラインは視覚的にいささかマニアックで、想像力を刺激されてしまうからだ。(昨日がっつり見ているが)
いかにも柔らかそうな太ももを大きく開く体勢で乗り上げている操は、両手を甲洋の腹に置いてふにゃりと首を傾げた。寝起きの赤い目元に、とろりと潤んだ瞳が揺れる。仕草も容姿も幼いくせに、そこには不思議な色気があった。
もし彼が少しでも身じろぎをすれば……見えてしまう。しかも彼がぺたりと腰を落ち着けているのは、非常によろしくない部分である。それはちょうど甲洋の大事な場所で、そこにぷにぷにとした柔らかな肉の感触がほぼダイレクトに伝わってくるのだ。なにせ操は、下着すら履いていない。
(まずいまずいまずいまずい……ていうか、昨日からおかしくないか俺……!?)
甲洋にはそっちの気は0であるはずだった。同性を相手におかしな気を起こしたことなんかないし、子供の頃はよく友達同士で銭湯に行ったりなんかもした。どっちの方が大きいとか、毛が生えてきてるから大人だとか、そんなくだらないことをあーだこーだと言っては年頃の男同士で張り合っていた。
誰がどんな形をしていたとか、桁外れの記憶力を持つ甲洋は今でもしっかり覚えている。だけどそれを思いだして変な気分になるとか、そんなことは絶対にありえない。むしろ少年時代のいい思い出だ。
それがどうしてか、操が相手だとなにかがおかしい。昨日から、頭のネジが吹っ飛んだみたいに意識させられている。
頭に血が上るのを感じながら、それ以上は声が出ない。バクバクと踊る心音の息苦しさに、思わず喉が鳴った。
「こうよ、おはよぉ」
まだ寝ぼけ眼でいる操は問には答えず、そのまま身体を前に倒して甲洋の顔にぐっと顔を近づけた。腰が引けそうになるが、床と操にサンドされているせいで身動きができない。
甲洋の視線は、操の艶めいた唇に注がれた。小さくて、だけど肉感的で、淡桃色をしたそれがどんどん近づいてくる。
(ちょ、ちょっと待っ……う、嘘だろ? まさか、まさか……)
このままキスをされてしまうとでも……いうのだろうか……?
「ッ!!」
某ビデオのようなナレーションを脳内で再生させながら、咄嗟にぎゅうと目をつぶる。どうしてか拒絶するという選択肢が浮かばない。まともに思考が動く状態ではなかった。ドクンドクンと、心臓が頭の位置にあるかのように激しく動悸を打っている。
が、いつまでたってもそのときは訪れない。代わりに鼻の先につんつんと何かが当たるのを感じて、恐る恐る目を開けた。
(……?)
唇と唇ではなくて、鼻と鼻。
操はすんすんと鼻を鳴らしながら、気持ちよさそうに目を閉じて甲洋の鼻先に自分の鼻先を何度もくっつけている。そして、そのまま頬ずりをしてきた。
「は、ぇ……?」
つい間抜けな声が漏れる。これはどういう意思表示なのだろうか。てっきりファーストキスを奪われるものとばかり思い込んでいた甲洋は、拍子抜けしてしまった。
(なにこれ……ひょっとして挨拶、みたいなもの……?)
鼻キスのあとに何度も何度も頬ずりをされながら、安堵している自分と落胆している自分が同時に存在している。当然、後者には戸惑いを覚えた。それじゃあまるで期待していたみたいではないか。
「み、操、いいから離れて。ねぇ、なんで脱いだの? それに、お前の寝る場所はここじゃないよ」
どうにか自分のペースを手繰り寄せ、操の両肩を掴むと引き離した。操は不服そうに唇を尖らせたが、彼の満足がいくまで放っておいたら時間的にも精神的にも手遅れになりそうだった。
(手遅れ? 手遅れって、なにが……?)
どうして今、あの『感覚』を思いだしてしまったのだろう。
操と初めて目が合ったとき、全身を駆け抜けたあの不可解な痺れを。あれは気のせいということで方がついたはずだ。
(あぁもう!)
自分で自分が分からない。とにかく、今日は一限から授業を入れている。のんびりしていたら遅刻してしまうということだけはハッキリしていた。だから、そう、さっさと疑問を解消して、朝の支度に取り掛からなければならないのだ。
甲洋は腹筋の力だけで身を起こし、座り込んでいる操の下から抜け出した。床にぺたりと腰を落ち着けた操の下半身に、丸まって落ちていた毛布をさりげなくかぶせる。
「起きたら甲洋がまだ寝てたから、起きるまで一緒に寝てたよ」
「そういうときは普通に起こしてくれればいいよ……で、ズボンは?」
「だってあれ、しっぽが動かせなくて嫌だったんだもん。だから布団の中で脱いじゃった」
「そういうことは初めに言ってよ……」
とはいえ、気づかなかった自分も悪かったように思う。イヌやネコには、ヒトと違ってしっぽがある。だから彼ら専用の衣類には、ちゃんとしっぽ穴がついているのだ。
あとどのくらい一緒にいることになるかはまだ分からないが、ちゃんと操に合ったサイズのネコ用の衣類を、何着か買い揃えるべきかもしれない。それに、彼は下着をつけていないのだ。新品ならまだしも、そこは流石に自分のものをというわけにはいかない気がして──操は気にしないだろうが──あえて考えないようにしていたのだが。
「ねぇ甲洋、バラバラに寝ないで一緒に寝ようよ。そのほうがあったかいでしょ?」
確かいつも利用しているスーパーに、そこそこ大きな衣料品コーナーがあったなと思考を巡らせていると、操が大きな瞳をくるくるとさせながら無邪気に口を開いた。
突然の提案に、なぜかギクリとしてしまう。
「いや、それはちょっと……」
思わず目を逸らす。
「なんで? だってさっきはあんなに気持ちよさそうだったよ。甲洋の心、嬉しいって言ってたの感じたもん。おれも甲洋にくっついて寝るの気持ちよかったし……ねぇダメ?」
「……ダメ、かな」
「むー、甲洋のケチんぼ……」
真冬にネコを抱いて寝るなんて、独り寝の冷えた寝床しか知らなかった甲洋にとってあまりにも魅力的な誘惑だ。けれどその一線だけは超えてはいけないような気がした。
たかがネコを抱いて寝るくらいと、自分でも思うのだが。
(だって絶対、癖になるだろ……)
甲洋はこれから、操の新たな飼い主探しを始めるのつもりでいる。
その上で忘れちゃいけないのは、決して情が移ってはならないということだ。大事に扱うことはしても、愛情を寄せることになれば別れが辛い。この寒い時期にさっき感じたような夢心地をこれ以上味わってしまったら、確実に手放し難くなってしまうのは火を見るよりも明らかである。
しかも、だ。極めて認めたくはないが、さきほど甲洋は完全にアレがアレしかけた。操のあられもない姿を見て、その肌の熱に触れて、うっかり生理現象を引き起こしかけたのだ。
(そんなに欲求不満だったのか、俺)
そう、欲求不満。なにせ童貞歴20年である。それだけ長いこと自身の宝刀を抜かずにいれば、こじらせてしまったとしても仕方ない。決して何かに目覚めしてしまったとかそういうことではなくて、あれはちょっとした事故のようなものだ。
どんなに可愛い顔をしていようとも、やたらと太ももが艶かしくとも、操はそういう対象ではない。そもそもネコをそんな目で見るなんて、甲洋にはまったく理解できなかった。
それに、どんなにすました面をしていようが甲洋は巨乳な女子が好きなのである。ついでだから言うが、実はバリバリの犬派だ。将来的には黒髪ロングな巨乳のお嫁さんをもらって、庭付きの一戸建てで黒柴の子犬を──いや、長くなるのでやめておこう。
(とにかく早く探さなきゃ。こいつの新しい飼い主……)
操はぶぅと頬を膨らませて甲洋を睨みつけている。そんな顔をしたって、ダメなものはダメなのだ。
「ねぇ~、甲洋ってば~」
「しつこいよ。それより早くご飯にしよう。今朝はあまりのんびりしてられないから」
昨日、あれからすぐにスーパーに走ってある程度の食材は調達済みだ。おかげで冷蔵庫の中は見たことがないくらいパンパンにものが詰まっている。
ちなみにスーパーでは操が使うための歯ブラシと、なんとなく勢いで子供用歯磨き粉まで買ってしまった。イチゴ味である。
「ご飯!? やったー!」
不満顔だった操の表情が、一気にパッと華やいだ。彼はしっぽをまっすぐ上に伸ばし、嬉しそうにバンザイをして、そのまま毛布を払い除けてしまう。
「わっ!? お前、せっかく隠してやったのに!」
「朝ご飯の前には歯磨きしなきゃ! イチゴ味のやつ!」
再び露になってしまった魅惑の太ももに慌てて顔を逸らす甲洋を他所に、操は元気よく立ち上がると軽やかな足取りでリビングを出て行ってしまう。
忙しないったらありゃしない。ネコはもっと静かな生き物だとばかり思っていた。
「顔も洗うんだよ。タオルは置いてあるやつを適当に使っていいから」
大きな音を立てて閉じた扉の向こうに声をかける。「はーい」という返事がして、甲洋はホッと息をつきながらようやく肩の力を抜きかけた、が、すぐに遠くから「ぎゃん!」という悲鳴が聞こえてぎょっとした。
「操!? どうした!? なにかあっ──」
慌てて駆け寄った甲洋が扉を開くと、廊下の中腹に横倒しのような状態で床に倒れている操の姿があった。ちょうど尻がこちらを向いていて、しかも、裾がぺろりとめくれあがっている。
「転んじゃったよぉ……」
「~~ッ!?」
甲洋は絶句しながら両手で覆った顔を背けた。
丸見えだった。予想外の出来事とはいえ、まるまるとした操のお尻が。しかもとんでもない角度から。
せめてもの救いは彼がしっぽを足の間に挟み込んでいたおかげで、割れ目のラインがちょうどよく隠されていたことだろうか。いや、この場合むしろ逆かもしれない。
人間には隠されるほど見たくなるという心理がある。カリギュラ効果というやつだ。
まったくそんな気などないはずなのに、こいつはどうしてか甲洋のそういった心理をいちいち刺激してくる。わざとか? わざとやってんのか?
「なんでなにもないところで転ぶのさ!?」
「そんなの知らないよぉ」
「いいから隠して! お尻が風邪ひくから!」
「お尻って風邪ひくの?」
「頼むから早くしてくれ!!」
なにがなんでも、一刻も早く新しい飼い主を見つけよう。
改めてそう心に誓う甲洋だった。
*
真壁一騎は子供のころから付き合いのある友人だ。
甲洋の実家が営む喫茶店に、父親と二人でよく訪れていたことがキッカケで打ち解けた。
甲洋は家族運がないぶん友人には多く恵まれていたが、本当に親しい人間というのはごく僅かしかいない。中でも一騎とは親友と呼べるほど気の置けない間柄だった。
一騎は甲洋が暮らすマンションから、二駅ほど離れた場所にあるアパートに住んでいる。彼もまた大学に通いながら、夜は居酒屋でアルバイトをしていた。以前は週に一度のペースで互いの家を行き来していたが、ここ数ヶ月は忙しくて顔を合わせる機会は減っていた。
そんな一騎に「折り入って相談がある」と連絡を入れたのは今朝、通学途中のバスの中でだ。彼は今日はちょうどバイトが休みだからと、すぐに時間を作ってくれた。
「悪い、ちょっと散らかってて」
大学帰りに立ち寄った甲洋を出迎えた一騎は、すまなそうに肩をすくめて苦笑した。少し見ないうちに髪が伸びていて、艶のある黒髪を軽くひとつに結っている。
玄関先には巨大なダンボールが折り畳まれた状態で立てかけられていた。大きな家具でも購入したのか、ダンボールはその他にも幾つか重ねてあって、狭い廊下で場所をとっていた。
立て込んでいるときに邪魔をしてしまったかもしれない。甲洋もまた肩をすくめて眉を下げる。
「俺の方こそ。せっかくの休みに邪魔して悪い」
「いいって別に。それより珍しいよな。甲洋が相談なんてさ」
「うん、まぁ……」
咄嗟に濁すような態度をとった甲洋を気にする様子もなく、一騎は「とりあえず立ち話もなんだから」と部屋へ促した。
しばらく会っていなかったからといって、なにも緊張するような間柄ではない。だけど今日ばかりは、表情がいささか強張ってしまうのを感じていた。
相談というのは、もちろん操のことである。
一騎が暮らすこのアパートはペット可の物件だ。同時に、信用に値するという条件を満たしているのも、甲洋が知る限り一騎だけだった。
操に必要なのは、何不自由なく安心して暮らせる環境だ。そこには優しい飼い主の存在が必要不可欠だった。誰か適任はいないだろうかと考えたとき、真っ先に浮かんだのが一騎の顔だった。
もちろん無理に押しつけようなんてつもりはない。命を預かるということは、その一生に責任を持つということだ。特にヒト型のイヌやネコは、人間とそう変わらない平均寿命を持っている。長い人生を共にすることを思えば、そうやすやすと決められる問題ではないのだから。
けれどもし可能なら、一騎に操の新しい飼い主になってほしいと思っている。
穏やかで心優しい彼ならば、操もきっと安心して暮らせるだろう。今のマンションでは一緒に暮らすことはできないし、なにより操の幸せを第一に考えたとき、甲洋は自分という人間にその資格があるとはとても思えないのだ。要するに、自信がなかった。
なにはともあれ話だけでも聞いてほしい。そんな思いでここまで来たわけだ──
が。
「なんだ、手ぶらか。親しき仲にも礼儀ありという言葉を知らないのか?」
部屋に足を踏み入れた甲洋は、藪から棒に投げかけられた言葉に目を丸くした。視線の先では二人がけのソファの真ん中に、ゆったりと腰をおろす『ネコ』の姿がある。
絹糸のような長い髪は操と同じ亜麻色をしていた。大人びてはいるが、年齢もだいたい同じくらいだろうか。ピンと尖った大きな耳と、どこか苛立ったように座面を叩くしっぽも同じ色をしていたが、操と比べるとずいぶん毛足が長く、つやつやとした光を放っている。
その端正な顔立ちには、よく見れば左目を縦に裂くようにしてうっすら傷が走っているのが見えた。
それにしてもなぜここにネコがいるのだろう。
しかも微妙にディスられたような気がする。ちゅ~るでも持参するべきだったのだろうか。
(なんだこれ……どういうことだ……?)
それだけじゃない。さらに甲洋を驚かせたのは、様変わりした部屋の様子だった。以前までは簡素なちゃぶ台と、薄っぺらい布団が置いてあるだけの殺風景な部屋だったはずなのに、今や立派なテレビとふかふかのベッドやクローゼットまで置かれており、裸ん坊だった畳はカーペットに覆われていた。しかも足の裏が温かい。電気カーペットである。
もちろん彼が腰をおろすソファも新品だ。上質な家具が揃う中にあって、変わらず古びたちゃぶ台だけが完全に浮いていた。
「総士だよ。ペルシャのクリームなんだ。可愛いだろ?」
お茶を持って後からやってきた一騎は、彼のことを総士と呼んだ。総士は足と腕を組み、吊り上げた瞳でじっと甲洋を観察している。
「どうした? 座れよ」
そう言って指された座布団もふかふかだった。前は煎餅だったのに。
一騎は湯気をのぼらせる湯飲み茶碗を甲洋の前に置き、自分は総士の足元に腰をおろした。かたやソファにふんぞり返るネコ。かたや床に正座する人間。その図はペットと飼い主というよりも、王様と家来といったほうがしっくりくる。
「……驚いた。いつから?」
戸惑いながらも腰をおろして問いかけると、一騎はよくぞ聞いてくれたとばかりに破顔した。
「一ヶ月くらい前かな。剣司って覚えてるか?」
「もちろん」
「剣司のバイト先で里親を募集してたんだ。元はちゃんと飼い主がいたんだけど……」
近藤剣司は一騎と甲洋の共通の友人で、獣医志望の学生だ。彼は現在、動物病院でアルバイトをしているらしかった。
そこに半年ほど前、大怪我を負った総士が運び込まれた。飼い主と外出中、不運にも交通事故に巻き込まれてしまったのだ。総士の顔の傷はそのときのもので、彼は左目の視力を失っていた。
しかし総士が失ったのはそれだけではなかった。事故の際、飼い主の女性は帰らぬ人となっていた。
総士は入院して治療を行い、回復後はそのまま病院で里親募集をかけることになった。だが新しい飼い主は決まらなかった。
病院の利用者の中には、ごくわずかだが里親に名乗り出てくれた人はいた。けれど総士自身がそれを拒絶し続けたのだ。
飼い主を失ったショックから心を閉ざしてしまった彼は、誰にも気を許そうとはしなかった。しまいには野良として、一人で生きていくとまで言いだしたのだ。
そこでほとほと困り果てた剣司が相談を持ちかけたのが一騎である。
いわば駆け込み寺だ。考えることはみんな同じだなと、甲洋は思わず苦笑した。
剣司から相談を受けた一騎は、試しに総士と会ってみることにした。すると驚いたことに、あれほど頑なだった総士の心が一瞬でほどけた。
一騎もひと目で気に入ってしまい、会ったその日に連れ帰ってきて、今に至るというわけである。
「なるほど……」
総士に視線を向けると、彼はそっぽを向いていた。けれど耳だけは一騎の方にしっかりと向けられている。話はちゃんと聞いているようだった。
自身も酷い傷を受け、そして懐いていた飼い主を失ってしまった彼の気持ちを思うと、胸が痛む。するとその感情が総士に伝わったのか、彼は甲洋をちらりと見やると、またすぐにそっぽを向いてしまった。
どうやら一騎の友人というだけでは、初対面の人間に心を開いてはくれないようだ。その警戒心の強さはいかにもネコだなと、甲洋は感心する。どこかの操とは大違いだ。
あの子はネコというより、イヌの方が近い気がする。生まれてくる種族を間違えたのではなかろうか。
「ネコを飼うなんて初めてだからさ。戸惑うことも多いよ。剣司にも甘やかしすぎには注意しろって言われてるし。躾って難しいんだな」
「一騎、僕にもお茶」
「はいはいちょっと待ってな。そうだ、おやつは? クッキー食べるか?」
「嫌だ。チョコレートケーキがいい」
「はいはい、可愛いな総士は」
躾は難しいと言ったその口で、めちゃくちゃに甘やかしていらっしゃる……。
(頼めそうもないな、このぶんだと)
デレデレの一騎が総士のぶんのお茶とケーキを用意するあいだ、甲洋は肩を落としながらこっそり溜息を漏らす。
まさか先住ネコがいるなんて予想もしていなかった。さらにもう一匹どうかなんて厚かましい相談は、とてもできそうにない。この部屋の広さでは、ネコ一匹がせいぜいだろう。
なにより誰にも心を開かなかったという総士が、一騎にはこうして我儘を言っている。彼なりに甘えている証拠だ。彼らは実に良好な関係を築いているように見えた。
里親を申し出てくれた人たちとなにが違ったのか知らないが、一騎とはお互いになにかしら感じるものがあったのかもしれない。
(例えば運命、とか)
またあの鐘の音が聞こえてきそうな気がして、甲洋は慌てて首を振った。
「お待たせ総士。はい、甲洋も」
戻ってきた一騎は総士の分と一緒に、甲洋のケーキも用意してくれた。
総士はソファからわずかに身を乗り出し、毛足の長いしっぽを天井に向けてピンと伸ばしている。そういえば、操も喜んでいるときは同じようにしっぽを立てていた。
彼は操ほど感情を表に出すタイプではないようだが、ネコは嬉しいとしっぽを立てるのだ。
一騎は総士の隣に座って、ケーキを食べる姿を微笑ましそうに見つめている。可愛くてしょうがないと、その顔にはハッキリと書かれているようだった。
誰かと誰かが仲睦まじくしているのを見るのはいいものだ。こちらまで嬉しくなってくる。
「凄いな一騎は。家具も全部この子のために揃えたんだろ?」
一騎は少しだけ照れくさそうに頬を染めると、指先で頬を掻いた。
「俺は特に欲しいものもないし、目的があって貯金してたわけでもないからさ。それに、テレビもないところで留守番させるなんて可哀想だろ?」
「そうだね」
酷かったもんな、お前の部屋……と思ったが、総士のおかげで一騎の生活水準も同時に上がったことは、甲洋としても喜ばしい限りだった。
「ところで甲洋、相談って? 俺の話ばっかりしちゃったけど」
「あー……うん、いや、まぁ」
「なんだよ、煮え切らないな。言えって」
ケーキを食べていた総士まで手をとめて甲洋を見る。その間、一騎は総士の口元についていたチョコクリームをサッとティッシュ(鼻セレブ)で拭き取ってやっていた。
王様と家来なのか、あるいは母と子なのか分からない状態のふたりに見つめられながら、甲洋はとりあえず話すだけ話してみることにした。
*
帰り道、甲洋の手にはお土産の袋がぶら下がっていた。
中身はケーキと、前日に作りすぎたという一騎カレーが入ったタッパーである。
暗い夜道で冷たい風にさらされながら、甲洋は一騎と交わした会話を思いだしていた。
捨てネコを保護しているが、自分ではどうしても飼えない事情があるため飼い主を探していることを話すと、一騎は残念そうにこう言った。
「ふわふわであったかくて、一緒に寝ると最高なのにな……」
と──。
そんなことは知っている。
しかも操は甲洋の腕にジャストフィットなサイズであることも。痩せているくせにやたらと肌が柔らかいことも、子供らしく体温が高いことも、昨日の今日で知っているのだ。
毎晩あれを抱きしめて眠れたら、どんなに幸せだろう。髪もしっぽもふわふわで、それはもう至福の毎日であるに違いない。
だが、現実問題としてそれは不可能だ。一時の感情に身を任せていいことではないし、くどいようだが甲洋のマンションではネコと暮らすことはできない。いつまでも閉じ込めておくわけにもいかないし、あまり猶予はなかった。
一騎はバイト先の知り合いにあたってみると約束してくれた。甲洋も引き続き交流のある友人知人にあたってみるつもりでいるが、どうなることか。
モヤモヤと考えを巡らせているうちに、自宅マンションは目の前だった。
操はどうしているだろう。今朝、朝食の支度と同時進行でサンドイッチを作り、留守中ちゃんと食べるようにと声はかけてきたが、三日三晩ものあいだ飲まず食わずで徘徊していた操の疲労は相当なものだったようで、彼は朝食を食べ終えると毛布にくるまりながらソファで船を漕いでいた。
あの様子だと、もしかしたらまだ起きられないでいるかもしれない。心配は尽きないが、同時に気がかりなことがある。
(あいつ、また脱いだりしてないだろうな……)
あのあと、甲洋はスウェットの尻部分にハサミでしっぽ用の切り込みを入れた。服にあえて穴を開けるという行為には多少なりとも罪悪感があったけれど、あんな格好でウロチョロされたのではたまったもんじゃない。躊躇してる場合ではなかった。
ちゃんと服を身に着けた状態で休んでいてくれるといいのだが……。
「ただいま」
帰宅するなり甲洋がその言葉を言うのは、ほとんど癖のようなものだった。
おかえりを言ってくれるような家族はいなかったし、ましてや一人暮らしでは意味がないと分かってはいるのだが、染みついた癖はなかなか抜けない。
こんなときは、よりいっそう結婚への憧れが強まるのだ。自分の帰りを待つ家族がいる家。そこに帰るという感覚は、一体どんなものだろう。
けれど今日はいつもと様子が違っていた。
暗いはずの玄関には最初から明かりが灯されていて、おやと思う間もなく
「おかえり!」
という声に迎えられたのだ。
「!」
そこには操の笑顔があった。てっきりまだ休んでいるとばかり思っていた甲洋は、その出迎えに見開いた瞳を瞬かせる。
彼はちゃんと上下共に服を着た姿で、甲洋の顔を見るなりドンと胸に飛び込んできた。
「え、ぅわっ」
その衝撃に少し身体がグラついたが、お土産の袋を落とさなかったことは褒めてほしい。
操は甲洋の首にぎゅっと抱きつき、また例の鼻と鼻をくっつけて匂いをかぐと、そのまま顔中にグリグリと頬や額を擦りつけてくる。
「ほっぺた冷たいね、甲洋。外の匂いがいっぱいついてる! あれ? なんか、おれじゃないネコの匂いがするよ! なんで!? これ誰の匂い!?」
操はなぜか少し焦った様子を見せ、何度も鼻を鳴らして匂いをかぐと、いっそう強く鼻や頬を擦りつけてきた。
頬同士がこすれると、操の熱が冷えた皮膚にじわりと伝わってくる。そのまま燃え広がっていくのを感じながら、甲洋は思わず赤くなった顔を背けてしまう。
「ちょ、ちょっと、ち、近いって」
この距離感にはどうしても戸惑いを覚える。母親にすら抱きしめられたことがないのだ。いつもならただポツリと床に落ちるだけの「ただいま」という言葉に、「おかえり」と返されることも。
いつか結婚して、家族ができたら経験できるかもしれないと膨らませていた夢のひとつが、思いもよらない形で叶ってしまった。むしろ、思い描いていたものよりかなり激しい。心の準備をいっさいしていなかったものだから、咄嗟にどんな反応を返すのが正解なのか分からなかった。
操はそんなのお構いなしで、あごや首筋にまで顔を擦りつけてきた。このままでは、いつ部屋に上がれるか分からない。
「わかった、わかったから。それよりお前、ずっと玄関にいたの?」
「ずっとではないけど、足音が聞こえたから甲洋かもって思ってここで待ってた。そしたら本当に甲洋だったから嬉しい!」
「そ、そう」
「ねぇ、おれちゃんと留守番してたよ。服も脱がなかったし、パンも食べた。背中伸ばして、ゆっくり食べたよ!」
「そっか……偉いな、操は」
「うん、えへへ」
自然と頬が綻んでいくのを感じながらぽんぽんと優しく頭を撫でてやると、操は赤い頬でふにゃりと笑った。さっきからずっとしっぽが真上に伸びている。
甲洋は人間で、読心能力は使えない。だけどそのしっぽの動きや操の表情を見れば、彼の嬉しいという感情が充分に伝わってくる。
(なんか、まずいな、これ……)
心の奥からじんわりと熱いものが込み上げて、嬉しいはずなのに胸が苦しい。なぜか少しだけ、泣きたくなった。
「そろそろ離して……そう、ケーキ。ケーキがあるよ。カレーも」
「ケーキ!? カレー!?」
操が見開いた瞳を輝かせるのと同時に、耳と尻尾の毛が逆立った。
「お、おれ、ケーキ……食べたことないよ!」
「え、本当に?」
「ないよ!」
「そっか、じゃあ、すぐに支度するから」
「わぁいやったー! 嬉しいー!!」
一度は離れかけた操が、また強く抱きついてくる。
結局、抱え込む形でズルズルと引きずりながら部屋に入ることになってしまった。
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02
冷蔵庫の中にはニンジン、タマネギといった僅かな残り野菜と卵が2個。
甲洋はそれらを全て使い切って炒飯を作ると、かろうじて棚にストックされていたインスタント味噌汁をつけて出してやった。
「わぁ、いいの? これ食べていいの?」
操はテーブルの上と甲洋の顔を交互に見て、潤んだ瞳を輝かせる。ぽっかりと開いた唇の端から今にもよだれがこぼれ落ちそうになっているのを見て、甲洋は苦笑すると頷いた。
「どうぞ。間に合わせで悪いけど」
「やったー! いただきまーす!」
操は相変わらず床にペタリと女の子座りをして、大喜びで炒飯を食べはじめる。
頬を上気させながら、拳で掴み上げたスプーンですくったものに一生懸命「ふーっふーっ」と息を吹きかけてから口に運んでいた。ヒト型でも、ネコはネコ舌ということか。食べやすく冷ましてから出すべきだったなと反省する。
その様子をテーブル越しにあぐらをかいて見つめながら、甲洋の頭のなかはさっきのやり取りが拭えないままだった。
まだどこか半信半疑なのは、それが甲洋が持ち合わせる常識からあまりにも大きくかけ離れているせいだ。子供の、しかもネコに。あんな非常識なことを平然と仕込める人間がこの世にいるということを、どうしても認めたくない自分がいる。
けれど動物への虐待は、獣型でもヒト型でも往々にして社会問題になっているのが現状だ。特にヒト型は性的にもその対象になりやすく、犯罪が横行しているのもまた事実だった。
未成年の少年少女を斡旋して売春させる他、わいせつなビデオを販売するなどのよくある事件が、ヒト型動物でも同様に頻発してニュースで取り上げられては世間を賑わせている。
家庭内など、外からでは目につきにくい場所での犯行ならば、きっと星の数ほどあるだろう。この子のケースもまたその一端でしかないのだ。
(やりきれないな……)
一体どれだけの間まともに食事をしていなかったのだろう。夢中で炒飯を食べる操は、まさにがっつくという表現がピッタリなほど周りが見えていなかった。
そのうち冷ます時間すら惜しくなったのか、熱いのを無視して無理やり口に押し込めるものだから、目尻いっぱいに溜まった涙が今にもこぼれ落ちそうになっている。
それでも彼は必死で食べ続けていた。スプーンを拳で掴むような持ち方をして、皿から米粒を幾つも飛び散らせながら。口の端も汚しているし、猫背になってテーブルに肘を乗せているせいで、味噌汁のカップとぶつかって中身が大きく波打っていた。
食事前のありえないルールは教えられているのに、食事中の基本的なマナーはなにも知らないのだ。
「んぐっ、ケホッ、ゴホッ!」
あまりにも忙しなく食べているものだから、喉を詰まらせた操が咽る。甲洋はそばにあったウェットティッシュのケースを掴むと、腰を上げてその隣へと移動した。膝をつくと優しく背中を擦ってやる。
「慌てないで。ゆっくり食べな」
「ケホッ、ケホッ、んぅ」
「ほら」
並べられていた水のグラスを手にとり、差し出す。操はそれを受け取ると中身を一気に飲み干した。
「ぷは! はぁ……死んじゃうかと思った。ありがとう」
顔を真っ赤にしている操の口元をウェットティッシュで拭うと、ついでにテーブルに飛び散っているものも拭き取ってゴミ箱に放り投げる。
そのまま腰を落ち着けた甲洋は右手を差し出すと、「スプーン貸して」と言った。不思議そうに小首を傾げながらも、操が言われたとおり握っていたスプーンを寄越す。
甲洋はそれを彼がしていたのと同じように、拳で掴む持ち方をして見せた。
「持ち方はこうじゃない。こう。よく見て」
すぐに正しい持ち方をして見せると、操は甲洋の手にぐっと顔を近づける。
「肘はテーブルに置かないように。背中も丸めないで。無理に口の中に詰め込まなくていいから、少しずつよく噛んで食べなきゃ駄目だよ」
「そうなんだ。うん、わかった」
操は素直に頷くと、甲洋からスプーンを受け取って教えられた通りの持ち方を実践しようとした。が、慣れないせいか上手く手に馴染まずに落としてしまう。
「あ、あれぇ……えっと、どうするんだっけ?」
情けなく困り眉になるのと同じ角度で、茶色の耳が垂れ下がる。
甲洋はすぐにスプーンを拾って渡すと、操の身体に腕を回した。手に手をかぶせる形で補助してやりながら、もういちど持ち方を教えてやる。
「ほら、こうだよ」
「わぁ」
感嘆の声をあげた操が嬉しそうに甲洋を見上げた。
やたらと近い距離であの金色の瞳と視線がぶつかる。無意識にとった行動だったが、ずいぶんと身体を密着させていることに今さら気づいて、心臓がドキンと飛び跳ねた。
操の身体は甲洋よりも一回り小さくて、腕の中にすっぽりと収まってしまうサイズだった。手も小さい。甲洋の骨ばった手に比べると、まるでいたいけな少女のようだった。
「ッ!」
意識した途端とんでもなく恥ずかしいことをしているような気がして、慌てて離れる。
「ご、ごめん」
「なんでごめんって言うの?」
「なんでもないよ。いいから食べな」
「うん、見ててね。食べるとこ見てて」
「見てるよ、ちゃんと」
教えられたとおりに食べる姿を見ていてほしいらしい。気を取り直した甲洋はクスリと笑うと、その場から離れることなく操が食事を再開する様子を眺めた。
彼はどこかおぼつかない手つきでスプーンを扱い、背筋を伸ばしてまた炒飯を食べはじめる。いい具合に熱も冷めて、すっかり食べやすくなっているようだった。こぼさないように口に運んで、よく噛んでから飲み込んでいる。
「美味しい?」
「ん! おいしー!」
いい子だなと思った。素直で、純粋で、とても可愛い。
どうしてこんな子に虐待なんかできるのだろう。だけどきっと、こんな子だからなのだとも思う。
まっさらな画用紙は何色にも染まってしまうのだ。そしてこの子は自分がどんな色に染まっているかさえ知らないまま、ただ無邪気に生きている。
ヒト型のイヌやネコは本来ヒトと変わらぬ水準で思考したり、行動したりするだけの知能が備わっているはずだが、操はまるでようやく自我を持ちはじめた子供のように、無知で幼い。
「おいしかった! ごちそうさま!」
冷めた味噌汁まで残さず食べ終えると、操は腹をさすりながら安堵の息をついた。床に伏せられている長いしっぽが、穏やかな動きでゆったりと波打っている。その安心しきった表情に、曇っていた甲洋の心がほんの少しだけ和らいだ。
「親切にしてくれてありがとう。えっと、そうだ。ねぇ、君の名前を教えてよ」
「甲洋だよ。春日井甲洋。どういたしまして」
操は小さな声で幾度か甲洋の名前を繰り返すと、にっこり笑って頷いた。
「甲洋。覚えたよ。おれは──」
「操」
「なんで知ってるの?」
目を丸くした操の首を軽く指差す。それからふと思いたち、甲洋は彼の細い首にぶら下がるようにしてはめられている、古びた首輪を外してやった。
「ほら、ここにお前の名前が書いてある」
「ふぅん。おれの名前ってこんな字書くだ。初めて見たよ。ねぇ、これ外しちゃっていいの?」
「……ボロボロだからさ。気に入ってるなら返すけど」
操は首を左右に振ると「別にいらない」と言った。
その答えにホッとする。大きくて無骨な首輪はただ痛々しいばかりで、最初に見たときからずっと気がかりだったのだ。
「お腹いっぱになったし、なにかお礼をしなくちゃ」
「いいよ、気にしなくても」
「でも……」
操は困った様子で耳を寝かせると、甲洋の身体の中心に視線を向ける。
「ねぇ、本当にしなくていいの? 甲洋のこと、嬉しくさせなくていいの?」
「またその話?」
「だってさ、おれにはそれしかないんだよ。他にあげられるものがないの」
「……ご主人様がそう言ったの?」
こくりと操が頷いた。
「ご主人様はね、本当はメスのネコが欲しかったんだよ。オスは使い物にならないんだって」
「使い物、ね」
最悪だ。吐き気がした。使い物。その意味は想像に難しくない。甲洋はひとつ拳を握りしめ、静かに震える息を吐きだした。
「でも顔だけは可愛いからって、おれに仕事をくれたんだ。ご主人様を嬉しくさせるのがおれの仕事だよ。おれはそれしか役に立たないから、だからちゃんと──」
「もういいよ」
それ以上は言わせたくなくて、操の言葉を遮ると手を伸ばし、その頭をくしゃりと撫でた。
産毛のように短な毛で覆われた耳は、ほんのりと熱を持っている。満腹になったから、少し眠たくなっているのかもしれない。
甲洋の手が離れると、操がことりと首を傾げた。
「どうして怒ってるの?」
「……別に」
「嘘だ。君は怒ってるし、悲しいって思ってる。そうでしょ?」
「ああ、そっか」
いわゆる読心能力と呼ばれるものだ。実際にハッキリと読みとれるわけではないそうだが、イヌやネコには人間の心の動きを敏感に感じとる能力があるらしい。特にヒト型である彼らは感じたものを言葉にすることができるぶん、獣型よりも上位のコミュニケーション能力を有している。
ネコはイヌと比べれば能力そのものは劣るといわれているが、操にも甲洋のおおまかな心の動きくらいは感じとれるようだった。
甲洋はゆっくり大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、緩く首を振ってみせる。
「お前に怒ってるわけじゃない。お前のご主人様に怒ってるんだよ」
「どうして?」
「……聞いて、操。いい? ご飯をもらうときも、食べ終わったあとも、お前がなにかをする必要はないんだ。役に立つとか立たないとか、そんなことは関係ない。それが普通なんだよ」
噛んで含めるように言い聞かせる。けれど操はどこか腑に落ちない様子で首を傾げた。
「でも、そう教わったよ」
「それは嘘。お前は間違ったことを教えられてきただけ」
「うそ?」
操はどこか呆然とした様子で幾度か視線を彷徨わせる。
「ふぅん。そっか、嘘なんだ」
意外にもあっさりと甲洋の言葉を受け止めた彼は、すぐにパッと明るい笑顔を浮かべて甲洋を見た。
「なにもしなくても優しくしてもらえるなんて、ふつうって凄いんだね」
甲洋は咄嗟になにも言うことができなかった。
「あのね、おれ、本当はアレするの嫌いだったんだ。だってあれは苦いし、息ができなくなるし、ご飯の味が分からなくなるんだもん。だから、しなくていいのは嬉しいよ」
操は感動した様子で頬を染め、嬉しそうになおも続けた。
「でも甲洋の炒飯は、すごくすごく美味しかった!」
*
それから甲洋は操に幾つかの質問を投げかけた。
飼い主は今どこにいるのか、なぜボロボロの姿であんな場所にいたのか。
操はたどたどしく、拙い語彙で一生懸命に話してくれた。
その結果わかったことは、彼は迷いネコではなく捨てネコであるということだけだった。操は飼い主の男性の名前を含め、自分の家がどこにあるのかすら、いっさい知らなかったのだ。
小さなアパートで完全室内飼いだった操は、家の外に出ることを禁じられていた。
首輪には長い鎖をつけられて柱に固定され、トイレも風呂も、飼い主の許可がなければ自由に行き来することはできない。締め切られたカーテンの隙間から、ときどきこっそり窓の外を眺めるだけの、そんな生活を送っていた。
けれどある日、操は焦った様子の飼い主によって外に連れだされた。
車に乗せられて移動する最中、飼い主がこぼした「大家にバレた」という言葉だけは覚えているそうだが、操は外の景色に夢中でそれどころではなかった。
なにせ普段からずっと部屋のなかに閉じ込められていたのだ。目につくもの全てに胸を踊らせ、窓に張りつきながら移りゆく景色に夢中になっていた。
ずいぶん長いこと車に揺られて、たどり着いたのは見知らぬ大きな公園だった。飼い主はそこで操をおろすと、「用事があるからここでしばらく遊んでろ」と命じ、車を発進させた。
取り残された操はただ素直に喜んで、広い公園のなかを好きなだけ散歩した。やがて飽きてしまうと、ベンチに腰掛けてずっと空を見上げて過ごしていた。
やがて日が暮れる頃、お腹がすいてきた。寒さも耐え難くなってきて、操は飼い主を探しはじめた。車が停車した場所に戻ってしばらく待ってみたが、飼い主は姿を現さない。
どうすることもできず、その場にうずくまって一晩中寒さに震えながら飼い主を待ち続けた。だけど迎えは来なかった。
朝になり、操はあてもなく歩きはじめた。自分がどこから来たのか、その方角すら分からない。見知らぬ土地で、ただなんとなく勘だけを頼りに飼い主を探した。
三日三晩、飲まず食わずで歩き続けた。
夜は狭い路地にある飲食店の換気口に身を寄せて、暖を取りながら漂ってくる美味しそうな匂いを嗅いで過ごした。
その頃にはもう元いた公園の場所すら分からなくなっていた。それでも行くあてのない彼は、たださまよい歩くしかなかった。
体力と空腹が限界を迎えるころ、ゴミ捨て場が目についた。耐えかねた操はなんでもいいから食べ物を探そうとしたが、そこをカラスの集団に襲われたのだ。
身体中を突かれて悲鳴を上げているうちに、意識がだんだん遠のいてきた。そこから先の記憶はなく、目が覚めたら見知らぬ部屋で、見知らぬ男が居眠りをしていたというわけである。
*
操が食べ終えた食器を片したあと、甲洋はコーヒーを淹れてソファへ深く腰掛けた。
やるせない気持ちで深い息を漏らす。同時に憤りも覚えていた。
飼い主が漏らしたという呟きから察するに、彼が暮らしていたアパートはペットの飼育を禁じられていたのだろう。それがなんらかの理由で家主の知るところとなった。
結果、飼い主は操を手放すことを選択した。この冬の寒い時期に、そうそう帰っては来られないよう、わざわざ車で遠方まで足を運んで彼を置き去りにしたのだ。
(……俺も捨てられてたのかな)
ふと、今は連絡すら取りあっていない両親のことを思いだした。
もし自分がネコだったら。あるいはイヌだったら。あの両親のことだから、飼いきれないと思えばなんの躊躇いもなく甲洋を捨てただろう。
操はなんでもないことのようにあっけらかんとしていたが、それは本人が自覚できていないだけなのだ。愛情をかけてもらえず、ただ厄介者のように扱われる苦しみを、甲洋はよく知っていた。
だけど甲洋には一人で生きていくだけの力がある。術がある。だから自らの意思で家を出た。けれどあの子にはそれがない。飼い主に依存しなければ、まともに生きてはいけないのだ。
その違いさえ除けば、自分も彼もそう変わらないような気がしていた。
「さて、どうしようか」
ぽつりとこぼしながら、気休めにコーヒーをひとくち飲む。少し濃く淹れすぎたようで、口の中に嫌な苦味が広がった。わずかに顔をしかめながら、頭にあるのは操の今後のことだった。
彼を捨てた男についてはどうにも腹に据えかねるとはいえ、今は操がこれからの一生を安心して暮らせるよう、手を尽くすことを第一に考えるべきだ。
このマンションはペットの飼育を禁止されているため、長く置いておくことはできない。けれど保護した以上は責任がある。
甲洋は再び深い息を漏らし、キッチン横にある廊下の扉へ目をやった。
操は風呂に入っている。そのくらいの生活動作は備わっているようで、正直ホッとした。
タオルと新しい着替えは、頃合いをみて今しがた置いてきたばかりだ。甲洋のものだからサイズは大きいだろうが、他にないので仕方ない。
汚れたシャツはほとんどボロ雑巾に近い状態とはいえ、なんの了承もなく処分するのは気が引けて、迷った末に袋に入れて置いてある。
「甲洋! 甲洋ー!」
そのとき、廊下の奥から声がした。バタバタと足音を響かせながら近づいてくる気配に、手にしていたカップをテーブルに置く。
「操? ちゃんとあったまった?」
「大変だ甲洋!」
バタン、と勢いよく扉が開く。飛び込んできた操は、なぜか素っ裸だった。
「ッ!?」
「服がある! 知らない服があるよ!!」
全身ずぶ濡れの操が、床を水浸しにしながら廊下の奥にある浴室の方向を指さして叫んだ。
「ば、バカ! お前、なんでそんな格好で出てくるわけ!?」
普段、甲洋は滅多に声を荒げない。動揺することだってほとんどない。感情を押し殺すのは得意なほうだと自負している。だけどこの子といると、どうも調子が狂ってしまう。
「服は!? 服! 置いといたはずだけど!?」
甲洋は両手で顔を覆うと慌てて顔を背ける。
どうしてか、見てはいけないものを見てしまったような気がしてならない。
操はオスなわけだし、裸を見たところでどうということはないはずだ。未発達で毛も生えていなかったが、甲洋だって基本的には同じブツを持っている。胸だってぺったんこで、膨らみひとつない。なのにこうも酷い罪悪感に苛まれてしまうのはなぜだろう。
しかし操はそれどころじゃない様子だった。彼はどういうわけか、ひどく興奮している。
「あったよ! 置いてあった! でも、あれはおれのじゃないよ!」
「せっかく風呂に入ったのに、汚れた服なんか着たら意味がないだろ!」
「じゃあ、あれはおれが着てもいいってこと!?」
「それ以外にある!?」
「甲洋~!」
操は感極まった様子で甲洋の名を呼び、それから勢いよく飛びかかってきた。
両手ですっかり顔を覆っていた甲洋は、咄嗟にそれを避けることができなかった。突然の衝撃に、悲鳴すら上げられない。
ふたりの身体が折り重なるようにしてソファになだれ込んだ。細い両腕が、ぎゅうと首に絡みついている。
「~~ッ!!」
「新しい服! 嬉しい! ありがと、甲洋!」
別に新品というわけではないのだが。大喜びの彼には関係ないようだった。
操の身体はずぶ濡れで、ピンとまっすぐ上向けられたしっぽからも、髪からも、水が大量に滴り落ちている。床もソファも、そして甲洋もすっかりびしょ濡れになっていた。
だけど構っていられない。そんなことは、この状況においては些細なことだ。
ぴったりと密着した身体からは石鹸の香りがする。その肌の感触が、熱が、水分と一緒にじんわりと染み入るように伝わってきて、目眩がした。
「ねぇ、ここって天国?」
操は上体を起こして甲洋の胸に手をつくと、身を乗り出すようにして顔を覗き込んできた。水分を含んで色味を濃くした髪の毛先から、伝い落ちた雫が甲洋の頬に落ちてくる。
蕩けたように潤んだ琥珀が嬉しそうに細められ、跳ねていた甲洋の心臓を鷲掴む。息ができない。やっぱり綺麗だ。その瞳に吸い込まれそうになる。
「おれ、甲洋のこと好き。優しくて、なんでも教えてくれるから」
好き、という言葉に、肌が粟立ち痺れが走る。掴まれたままの心臓を、ひどく揺さぶられたような気がした。
落ち着け、落ち着け、と念じながら、甲洋は震える息を吐きだすと緩く首を左右に振った。
「別に、優しくなんか」
絞り出した否定の言葉に、操は「うぅん」と小さく唸りながら首を振る。
「優しいよ。優しくて、やわらかくて──ちょっと壊れそう」
ああ、なぜかまた。
頭のなかで、鐘の音が鳴り響いていた。
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冷蔵庫の中にはニンジン、タマネギといった僅かな残り野菜と卵が2個。
甲洋はそれらを全て使い切って炒飯を作ると、かろうじて棚にストックされていたインスタント味噌汁をつけて出してやった。
「わぁ、いいの? これ食べていいの?」
操はテーブルの上と甲洋の顔を交互に見て、潤んだ瞳を輝かせる。ぽっかりと開いた唇の端から今にもよだれがこぼれ落ちそうになっているのを見て、甲洋は苦笑すると頷いた。
「どうぞ。間に合わせで悪いけど」
「やったー! いただきまーす!」
操は相変わらず床にペタリと女の子座りをして、大喜びで炒飯を食べはじめる。
頬を上気させながら、拳で掴み上げたスプーンですくったものに一生懸命「ふーっふーっ」と息を吹きかけてから口に運んでいた。ヒト型でも、ネコはネコ舌ということか。食べやすく冷ましてから出すべきだったなと反省する。
その様子をテーブル越しにあぐらをかいて見つめながら、甲洋の頭のなかはさっきのやり取りが拭えないままだった。
まだどこか半信半疑なのは、それが甲洋が持ち合わせる常識からあまりにも大きくかけ離れているせいだ。子供の、しかもネコに。あんな非常識なことを平然と仕込める人間がこの世にいるということを、どうしても認めたくない自分がいる。
けれど動物への虐待は、獣型でもヒト型でも往々にして社会問題になっているのが現状だ。特にヒト型は性的にもその対象になりやすく、犯罪が横行しているのもまた事実だった。
未成年の少年少女を斡旋して売春させる他、わいせつなビデオを販売するなどのよくある事件が、ヒト型動物でも同様に頻発してニュースで取り上げられては世間を賑わせている。
家庭内など、外からでは目につきにくい場所での犯行ならば、きっと星の数ほどあるだろう。この子のケースもまたその一端でしかないのだ。
(やりきれないな……)
一体どれだけの間まともに食事をしていなかったのだろう。夢中で炒飯を食べる操は、まさにがっつくという表現がピッタリなほど周りが見えていなかった。
そのうち冷ます時間すら惜しくなったのか、熱いのを無視して無理やり口に押し込めるものだから、目尻いっぱいに溜まった涙が今にもこぼれ落ちそうになっている。
それでも彼は必死で食べ続けていた。スプーンを拳で掴むような持ち方をして、皿から米粒を幾つも飛び散らせながら。口の端も汚しているし、猫背になってテーブルに肘を乗せているせいで、味噌汁のカップとぶつかって中身が大きく波打っていた。
食事前のありえないルールは教えられているのに、食事中の基本的なマナーはなにも知らないのだ。
「んぐっ、ケホッ、ゴホッ!」
あまりにも忙しなく食べているものだから、喉を詰まらせた操が咽る。甲洋はそばにあったウェットティッシュのケースを掴むと、腰を上げてその隣へと移動した。膝をつくと優しく背中を擦ってやる。
「慌てないで。ゆっくり食べな」
「ケホッ、ケホッ、んぅ」
「ほら」
並べられていた水のグラスを手にとり、差し出す。操はそれを受け取ると中身を一気に飲み干した。
「ぷは! はぁ……死んじゃうかと思った。ありがとう」
顔を真っ赤にしている操の口元をウェットティッシュで拭うと、ついでにテーブルに飛び散っているものも拭き取ってゴミ箱に放り投げる。
そのまま腰を落ち着けた甲洋は右手を差し出すと、「スプーン貸して」と言った。不思議そうに小首を傾げながらも、操が言われたとおり握っていたスプーンを寄越す。
甲洋はそれを彼がしていたのと同じように、拳で掴む持ち方をして見せた。
「持ち方はこうじゃない。こう。よく見て」
すぐに正しい持ち方をして見せると、操は甲洋の手にぐっと顔を近づける。
「肘はテーブルに置かないように。背中も丸めないで。無理に口の中に詰め込まなくていいから、少しずつよく噛んで食べなきゃ駄目だよ」
「そうなんだ。うん、わかった」
操は素直に頷くと、甲洋からスプーンを受け取って教えられた通りの持ち方を実践しようとした。が、慣れないせいか上手く手に馴染まずに落としてしまう。
「あ、あれぇ……えっと、どうするんだっけ?」
情けなく困り眉になるのと同じ角度で、茶色の耳が垂れ下がる。
甲洋はすぐにスプーンを拾って渡すと、操の身体に腕を回した。手に手をかぶせる形で補助してやりながら、もういちど持ち方を教えてやる。
「ほら、こうだよ」
「わぁ」
感嘆の声をあげた操が嬉しそうに甲洋を見上げた。
やたらと近い距離であの金色の瞳と視線がぶつかる。無意識にとった行動だったが、ずいぶんと身体を密着させていることに今さら気づいて、心臓がドキンと飛び跳ねた。
操の身体は甲洋よりも一回り小さくて、腕の中にすっぽりと収まってしまうサイズだった。手も小さい。甲洋の骨ばった手に比べると、まるでいたいけな少女のようだった。
「ッ!」
意識した途端とんでもなく恥ずかしいことをしているような気がして、慌てて離れる。
「ご、ごめん」
「なんでごめんって言うの?」
「なんでもないよ。いいから食べな」
「うん、見ててね。食べるとこ見てて」
「見てるよ、ちゃんと」
教えられたとおりに食べる姿を見ていてほしいらしい。気を取り直した甲洋はクスリと笑うと、その場から離れることなく操が食事を再開する様子を眺めた。
彼はどこかおぼつかない手つきでスプーンを扱い、背筋を伸ばしてまた炒飯を食べはじめる。いい具合に熱も冷めて、すっかり食べやすくなっているようだった。こぼさないように口に運んで、よく噛んでから飲み込んでいる。
「美味しい?」
「ん! おいしー!」
いい子だなと思った。素直で、純粋で、とても可愛い。
どうしてこんな子に虐待なんかできるのだろう。だけどきっと、こんな子だからなのだとも思う。
まっさらな画用紙は何色にも染まってしまうのだ。そしてこの子は自分がどんな色に染まっているかさえ知らないまま、ただ無邪気に生きている。
ヒト型のイヌやネコは本来ヒトと変わらぬ水準で思考したり、行動したりするだけの知能が備わっているはずだが、操はまるでようやく自我を持ちはじめた子供のように、無知で幼い。
「おいしかった! ごちそうさま!」
冷めた味噌汁まで残さず食べ終えると、操は腹をさすりながら安堵の息をついた。床に伏せられている長いしっぽが、穏やかな動きでゆったりと波打っている。その安心しきった表情に、曇っていた甲洋の心がほんの少しだけ和らいだ。
「親切にしてくれてありがとう。えっと、そうだ。ねぇ、君の名前を教えてよ」
「甲洋だよ。春日井甲洋。どういたしまして」
操は小さな声で幾度か甲洋の名前を繰り返すと、にっこり笑って頷いた。
「甲洋。覚えたよ。おれは──」
「操」
「なんで知ってるの?」
目を丸くした操の首を軽く指差す。それからふと思いたち、甲洋は彼の細い首にぶら下がるようにしてはめられている、古びた首輪を外してやった。
「ほら、ここにお前の名前が書いてある」
「ふぅん。おれの名前ってこんな字書くだ。初めて見たよ。ねぇ、これ外しちゃっていいの?」
「……ボロボロだからさ。気に入ってるなら返すけど」
操は首を左右に振ると「別にいらない」と言った。
その答えにホッとする。大きくて無骨な首輪はただ痛々しいばかりで、最初に見たときからずっと気がかりだったのだ。
「お腹いっぱになったし、なにかお礼をしなくちゃ」
「いいよ、気にしなくても」
「でも……」
操は困った様子で耳を寝かせると、甲洋の身体の中心に視線を向ける。
「ねぇ、本当にしなくていいの? 甲洋のこと、嬉しくさせなくていいの?」
「またその話?」
「だってさ、おれにはそれしかないんだよ。他にあげられるものがないの」
「……ご主人様がそう言ったの?」
こくりと操が頷いた。
「ご主人様はね、本当はメスのネコが欲しかったんだよ。オスは使い物にならないんだって」
「使い物、ね」
最悪だ。吐き気がした。使い物。その意味は想像に難しくない。甲洋はひとつ拳を握りしめ、静かに震える息を吐きだした。
「でも顔だけは可愛いからって、おれに仕事をくれたんだ。ご主人様を嬉しくさせるのがおれの仕事だよ。おれはそれしか役に立たないから、だからちゃんと──」
「もういいよ」
それ以上は言わせたくなくて、操の言葉を遮ると手を伸ばし、その頭をくしゃりと撫でた。
産毛のように短な毛で覆われた耳は、ほんのりと熱を持っている。満腹になったから、少し眠たくなっているのかもしれない。
甲洋の手が離れると、操がことりと首を傾げた。
「どうして怒ってるの?」
「……別に」
「嘘だ。君は怒ってるし、悲しいって思ってる。そうでしょ?」
「ああ、そっか」
いわゆる読心能力と呼ばれるものだ。実際にハッキリと読みとれるわけではないそうだが、イヌやネコには人間の心の動きを敏感に感じとる能力があるらしい。特にヒト型である彼らは感じたものを言葉にすることができるぶん、獣型よりも上位のコミュニケーション能力を有している。
ネコはイヌと比べれば能力そのものは劣るといわれているが、操にも甲洋のおおまかな心の動きくらいは感じとれるようだった。
甲洋はゆっくり大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、緩く首を振ってみせる。
「お前に怒ってるわけじゃない。お前のご主人様に怒ってるんだよ」
「どうして?」
「……聞いて、操。いい? ご飯をもらうときも、食べ終わったあとも、お前がなにかをする必要はないんだ。役に立つとか立たないとか、そんなことは関係ない。それが普通なんだよ」
噛んで含めるように言い聞かせる。けれど操はどこか腑に落ちない様子で首を傾げた。
「でも、そう教わったよ」
「それは嘘。お前は間違ったことを教えられてきただけ」
「うそ?」
操はどこか呆然とした様子で幾度か視線を彷徨わせる。
「ふぅん。そっか、嘘なんだ」
意外にもあっさりと甲洋の言葉を受け止めた彼は、すぐにパッと明るい笑顔を浮かべて甲洋を見た。
「なにもしなくても優しくしてもらえるなんて、ふつうって凄いんだね」
甲洋は咄嗟になにも言うことができなかった。
「あのね、おれ、本当はアレするの嫌いだったんだ。だってあれは苦いし、息ができなくなるし、ご飯の味が分からなくなるんだもん。だから、しなくていいのは嬉しいよ」
操は感動した様子で頬を染め、嬉しそうになおも続けた。
「でも甲洋の炒飯は、すごくすごく美味しかった!」
*
それから甲洋は操に幾つかの質問を投げかけた。
飼い主は今どこにいるのか、なぜボロボロの姿であんな場所にいたのか。
操はたどたどしく、拙い語彙で一生懸命に話してくれた。
その結果わかったことは、彼は迷いネコではなく捨てネコであるということだけだった。操は飼い主の男性の名前を含め、自分の家がどこにあるのかすら、いっさい知らなかったのだ。
小さなアパートで完全室内飼いだった操は、家の外に出ることを禁じられていた。
首輪には長い鎖をつけられて柱に固定され、トイレも風呂も、飼い主の許可がなければ自由に行き来することはできない。締め切られたカーテンの隙間から、ときどきこっそり窓の外を眺めるだけの、そんな生活を送っていた。
けれどある日、操は焦った様子の飼い主によって外に連れだされた。
車に乗せられて移動する最中、飼い主がこぼした「大家にバレた」という言葉だけは覚えているそうだが、操は外の景色に夢中でそれどころではなかった。
なにせ普段からずっと部屋のなかに閉じ込められていたのだ。目につくもの全てに胸を踊らせ、窓に張りつきながら移りゆく景色に夢中になっていた。
ずいぶん長いこと車に揺られて、たどり着いたのは見知らぬ大きな公園だった。飼い主はそこで操をおろすと、「用事があるからここでしばらく遊んでろ」と命じ、車を発進させた。
取り残された操はただ素直に喜んで、広い公園のなかを好きなだけ散歩した。やがて飽きてしまうと、ベンチに腰掛けてずっと空を見上げて過ごしていた。
やがて日が暮れる頃、お腹がすいてきた。寒さも耐え難くなってきて、操は飼い主を探しはじめた。車が停車した場所に戻ってしばらく待ってみたが、飼い主は姿を現さない。
どうすることもできず、その場にうずくまって一晩中寒さに震えながら飼い主を待ち続けた。だけど迎えは来なかった。
朝になり、操はあてもなく歩きはじめた。自分がどこから来たのか、その方角すら分からない。見知らぬ土地で、ただなんとなく勘だけを頼りに飼い主を探した。
三日三晩、飲まず食わずで歩き続けた。
夜は狭い路地にある飲食店の換気口に身を寄せて、暖を取りながら漂ってくる美味しそうな匂いを嗅いで過ごした。
その頃にはもう元いた公園の場所すら分からなくなっていた。それでも行くあてのない彼は、たださまよい歩くしかなかった。
体力と空腹が限界を迎えるころ、ゴミ捨て場が目についた。耐えかねた操はなんでもいいから食べ物を探そうとしたが、そこをカラスの集団に襲われたのだ。
身体中を突かれて悲鳴を上げているうちに、意識がだんだん遠のいてきた。そこから先の記憶はなく、目が覚めたら見知らぬ部屋で、見知らぬ男が居眠りをしていたというわけである。
*
操が食べ終えた食器を片したあと、甲洋はコーヒーを淹れてソファへ深く腰掛けた。
やるせない気持ちで深い息を漏らす。同時に憤りも覚えていた。
飼い主が漏らしたという呟きから察するに、彼が暮らしていたアパートはペットの飼育を禁じられていたのだろう。それがなんらかの理由で家主の知るところとなった。
結果、飼い主は操を手放すことを選択した。この冬の寒い時期に、そうそう帰っては来られないよう、わざわざ車で遠方まで足を運んで彼を置き去りにしたのだ。
(……俺も捨てられてたのかな)
ふと、今は連絡すら取りあっていない両親のことを思いだした。
もし自分がネコだったら。あるいはイヌだったら。あの両親のことだから、飼いきれないと思えばなんの躊躇いもなく甲洋を捨てただろう。
操はなんでもないことのようにあっけらかんとしていたが、それは本人が自覚できていないだけなのだ。愛情をかけてもらえず、ただ厄介者のように扱われる苦しみを、甲洋はよく知っていた。
だけど甲洋には一人で生きていくだけの力がある。術がある。だから自らの意思で家を出た。けれどあの子にはそれがない。飼い主に依存しなければ、まともに生きてはいけないのだ。
その違いさえ除けば、自分も彼もそう変わらないような気がしていた。
「さて、どうしようか」
ぽつりとこぼしながら、気休めにコーヒーをひとくち飲む。少し濃く淹れすぎたようで、口の中に嫌な苦味が広がった。わずかに顔をしかめながら、頭にあるのは操の今後のことだった。
彼を捨てた男についてはどうにも腹に据えかねるとはいえ、今は操がこれからの一生を安心して暮らせるよう、手を尽くすことを第一に考えるべきだ。
このマンションはペットの飼育を禁止されているため、長く置いておくことはできない。けれど保護した以上は責任がある。
甲洋は再び深い息を漏らし、キッチン横にある廊下の扉へ目をやった。
操は風呂に入っている。そのくらいの生活動作は備わっているようで、正直ホッとした。
タオルと新しい着替えは、頃合いをみて今しがた置いてきたばかりだ。甲洋のものだからサイズは大きいだろうが、他にないので仕方ない。
汚れたシャツはほとんどボロ雑巾に近い状態とはいえ、なんの了承もなく処分するのは気が引けて、迷った末に袋に入れて置いてある。
「甲洋! 甲洋ー!」
そのとき、廊下の奥から声がした。バタバタと足音を響かせながら近づいてくる気配に、手にしていたカップをテーブルに置く。
「操? ちゃんとあったまった?」
「大変だ甲洋!」
バタン、と勢いよく扉が開く。飛び込んできた操は、なぜか素っ裸だった。
「ッ!?」
「服がある! 知らない服があるよ!!」
全身ずぶ濡れの操が、床を水浸しにしながら廊下の奥にある浴室の方向を指さして叫んだ。
「ば、バカ! お前、なんでそんな格好で出てくるわけ!?」
普段、甲洋は滅多に声を荒げない。動揺することだってほとんどない。感情を押し殺すのは得意なほうだと自負している。だけどこの子といると、どうも調子が狂ってしまう。
「服は!? 服! 置いといたはずだけど!?」
甲洋は両手で顔を覆うと慌てて顔を背ける。
どうしてか、見てはいけないものを見てしまったような気がしてならない。
操はオスなわけだし、裸を見たところでどうということはないはずだ。未発達で毛も生えていなかったが、甲洋だって基本的には同じブツを持っている。胸だってぺったんこで、膨らみひとつない。なのにこうも酷い罪悪感に苛まれてしまうのはなぜだろう。
しかし操はそれどころじゃない様子だった。彼はどういうわけか、ひどく興奮している。
「あったよ! 置いてあった! でも、あれはおれのじゃないよ!」
「せっかく風呂に入ったのに、汚れた服なんか着たら意味がないだろ!」
「じゃあ、あれはおれが着てもいいってこと!?」
「それ以外にある!?」
「甲洋~!」
操は感極まった様子で甲洋の名を呼び、それから勢いよく飛びかかってきた。
両手ですっかり顔を覆っていた甲洋は、咄嗟にそれを避けることができなかった。突然の衝撃に、悲鳴すら上げられない。
ふたりの身体が折り重なるようにしてソファになだれ込んだ。細い両腕が、ぎゅうと首に絡みついている。
「~~ッ!!」
「新しい服! 嬉しい! ありがと、甲洋!」
別に新品というわけではないのだが。大喜びの彼には関係ないようだった。
操の身体はずぶ濡れで、ピンとまっすぐ上向けられたしっぽからも、髪からも、水が大量に滴り落ちている。床もソファも、そして甲洋もすっかりびしょ濡れになっていた。
だけど構っていられない。そんなことは、この状況においては些細なことだ。
ぴったりと密着した身体からは石鹸の香りがする。その肌の感触が、熱が、水分と一緒にじんわりと染み入るように伝わってきて、目眩がした。
「ねぇ、ここって天国?」
操は上体を起こして甲洋の胸に手をつくと、身を乗り出すようにして顔を覗き込んできた。水分を含んで色味を濃くした髪の毛先から、伝い落ちた雫が甲洋の頬に落ちてくる。
蕩けたように潤んだ琥珀が嬉しそうに細められ、跳ねていた甲洋の心臓を鷲掴む。息ができない。やっぱり綺麗だ。その瞳に吸い込まれそうになる。
「おれ、甲洋のこと好き。優しくて、なんでも教えてくれるから」
好き、という言葉に、肌が粟立ち痺れが走る。掴まれたままの心臓を、ひどく揺さぶられたような気がした。
落ち着け、落ち着け、と念じながら、甲洋は震える息を吐きだすと緩く首を左右に振った。
「別に、優しくなんか」
絞り出した否定の言葉に、操は「うぅん」と小さく唸りながら首を振る。
「優しいよ。優しくて、やわらかくて──ちょっと壊れそう」
ああ、なぜかまた。
頭のなかで、鐘の音が鳴り響いていた。
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01
春日井甲洋には夢がある。
それは綺麗で優しくて、ちょっぴり天然ボケな可愛いお嫁さん(黒髪ロングで巨乳ならなおよし)をもらって、海が一望できる高台に庭付き一戸建てを購入し、子宝にも恵まれて幸せな家庭を築くこと。
ただいまを言えばおかえりと言ってくれる家族がいる暮らし。その日あった出来事や、何気ない会話を楽しみながら全員で囲むあたたかな食卓。笑顔と笑い声がたえない明るい家。
どこにでもあるような、ごくありふれた、だけど誰もが羨むような。そんな理想の家庭を作ることが、甲洋の幼い頃からの憧れだ。
庭では黒柴の子犬を飼いたいと思う。豊かな芝生の絨毯を子供と愛犬が元気に走りまわって遊ぶ姿を、奥さんと一緒に見守りながら穏やかな休日の午後を過ごすのだ。
ひだまりの中にベンチを置いて、そこにふたり並んで腰掛けて。子供たちのはしゃぐ声を聞きながら、いつまでも恋人気分でそっと手を握り合ったりなんかして──
などという幸せ妄想に日々明け暮れる甲洋は、二十歳にして恋人いない歴=年齢だった。
けれどそれは決して彼が非モテ男子なわけではなく、むしろ甲洋は子供の頃からそれはそれはよくモテた。ラブレターは毎日のようにもらっていたし、休み時間や放課後に呼び出しを受けて告白されるなんてことも、一度や二度ではなかった。
そして今もなおその人気ぶりは健在だ。
が、甲洋はその全てを律儀に断り続けてきた。
好いてくれるのはありがたいし、とても嬉しく思う。可愛いなと思う子もいたし、まるで気にならなかったわけじゃない。
だけど付き合うとなると、何かが違うような気がしたのだ。ピントがずれたままのレンズを覗き込んでいるみたいに、相手に対しておぼろげな感情を抱くことしかできなかった。
もしもの話。この世界のどこかに『運命の人』と呼べるような相手がいたとして、その相手と出会う瞬間というのは、やはりなにか特別なものを感じたりするのだろうか。
互いが引力に吸い寄せられたように惹かれ合い、「このひとだ」と強く確信を抱くような、決定的な何か。例えば目と目が合った瞬間ビビッと電気が走るとか、頭のなかに鐘の音が響き渡るとか。
もしそんなドラマチックな出会いがあるのだとしたら、死ぬまでに一度は経験してみたいと思う。まるで少女漫画のような発想が、少し恥ずかしい気もするけれど。
とにもかくにも甲洋はいつか巡り合う(かもしれない)運命の人のため、夢である幸せ家族計画のため、真面目にコツコツ勉強をしながらバイトをして、貯金をして、来たる理想の未来に備えている。
しかし今のところ運命の出会いは訪れる気配を見せていない。
大学に通いながら塾講師のアルバイトに勤しむだけの、ごくごく平坦な日常が続いている。
特待生制度を利用して進学した甲洋は学費の面での負担はないが、一人で暮らしていくための生活費は全て自力で捻出する必要があった。
彼の両親は絵に描いたような毒親だったので、仕送りなどの援助はいっさい望めないのだ。
家を出てからは他人も同然で、連絡すら取りあっていない。甲洋自身も最初から期待はしていなかったし、なによりあたたかな家庭を築くという夢に固執する最大の原因は、この毒親たちにこそあるのだった。
*
ある朝、土曜日。
十一月が終わりを迎えようとするなか、寒さもよりいっそう厳しさを増してきた。
部屋着の上から軽くネイビーのコートに袖を通しただけの甲洋が、ゴミ袋を片手にゴミ捨て場を訪れると、ギャアギャアと騒がしく数羽のカラスが暴れ狂っている光景に遭遇した。
彼らは黒い羽根をバタつかせ、執拗にゴミを突きまわしている。地面に散乱する野菜カスなどに顔を顰めた甲洋だったが、よくよく見れば群れの中心にあるものがゴミではないことに気がついた。
「やだー! やめて! 痛いよ助けて! 誰か助けてぇー!!」
それは悲痛な声をあげながら、両腕で頭を守るようにして蹲っている人間の姿だった。大きさから見て、おそらくまだ子供だ。
甲洋は一も二もなく駆け寄ると、ゴミ袋を振り回すようにしながらカラスたちを追い払う。
「やめろってこら! あっちに行け!」
ガアガアと掠れた声をあげながら、カラスたちが飛び去っていく。
甲洋はゴミ袋をゴミ山へ投げ捨てると、すぐさま膝をついて丸くなっている少年を抱き起こした。
「しっかり! もう大丈夫だから……って、ネコ?」
人間だとばかり思っていた少年の頭には、尖った獣の耳がついていた。
紅茶にたっぷりとミルクを含ませたような淡い髪色。それとよく似た色味の尖った耳は、今はへにゃりと力なく倒れてしまっている。
土埃にすっかり汚れた白いロングシャツは膝丈だったが、ぺろりと捲くれ上がって太ももまでがむき出しになっていた。ほっそりとした裸足の両足と一緒に、シマシマ模様の長いしっぽが伸びている。先端がくるりと曲がった、愛嬌のあるかぎしっぽだった。
茶トラの子ネコは甲洋の腕のなかでぐったりとして動かない。
痩せっぽちの身体は冷え切っていて、閉じられた瞼を縁取る長い睫毛は涙にしっとりと濡れていた。
その青白い頬に、甲洋の血の気が引いていく。
「まさか、死んで……?」
そう思った瞬間、
「……すぅー、すぅー」
という、安らかな寝息が聞こえて力が抜けた。
子ネコはうっすらと開かれた唇の端から、のんきによだれまで垂らして眠っている。
「ビックリした。人騒がせなやつ……」
そのあどけない寝顔に思わず大きな息を漏らしながら、ふと子ネコの首に赤い首輪がぶら下がる形ではめられていることに気がついた。
革製のそれは酷くくたびれて年季が入っている。サイズから見て、おそらく四足タイプの大型犬につけるものだ。
(ヒト型のネコに首輪……?)
それは一般的には珍しいことだった。
犬猫とはいえ、ヒトに近い姿形をしている生き物に首輪をつけることは、倫理上問題があるとして昨今なにかと騒がれているからだ。
首輪をつけたヒト型のイヌネコ画像をSNSに投稿し、飼い主が炎上したという話も最近よく耳にする。甲洋は今どき珍しくそういったものを利用していないので、実際に見たのはこれが初めてのことだった。
とはいえ、首輪は彼が野良ではないことの証明にはなっている。つまり迷いネコということだ。早く飼い主のもとへ返してやらなければ、きっと今ごろ心配しているだろう。
「困ったな」
送り届けてやろうにも、まずは話を聞かないことには身動きがとれない。けれど子ネコはすっかり眠り込んでいる。
どうしたものかと少しばかり途方に暮れながらも、寒空の下こんな薄着でいる幼いネコを放っておけば、どうなるかは目に見えていた。
(……しょうがない)
ここはひとまず保護する以外に道はなさそうだ。
甲洋は寝息をたて続ける子ネコを、起こさないようにそうっと静かに抱き上げると、もと来た道を引き返した。
*
自宅である小規模マンションは四階建てで、甲洋の部屋はその二階にあった。
1LDKでそこそこの広さだが、築年数の古さや交通の便があまりよくないことから、家賃はだいぶ抑えられている。
いつもは階段を使うところを、エレベーターを利用して部屋へ戻ると、暖房をつけていたおかげでリビングは暖かな室温が保たれていた。
甲洋はひとまず子ネコの身体をL字ソファのカウチ部分へ横たえさせた。
脱いだコートを腹のあたりにかけてやり、キッチンに向かうとぬるま湯に浸して絞った手拭いを持ってくる。傷ついている場所はないかを確認しながら、顔や手足についた汚れをそれで丁寧に拭き取ってやった。
あらかた終えると自分もソファに腰掛けて、ふっと小さく息をつく。
憔悴しきった様子でこんこんと眠り続ける子ネコは、年の頃はせいぜい15、6といったところだろうか。
髪は艶がなくパサついているし、耳と尻尾の毛並みも悪い。とりわけ足先の汚れが酷かったことから、ずいぶん長いこと外をさまよっていたことが見てとれた。
けれど青白かった肌は少しずつ血色を取り戻し、手足の先も薄桃に染まりつつある。その頬にもうっすらと赤みがさしはじめていることを確認して、ホッと胸を撫で下ろした。
ふと、例の首輪にも改めて目を向けてみる。さっきは気づかなかったが、よく見ればボロボロにひび割れた側面に、黒いマジックで『操』と書かれていることに気がついた。
「操、か。いい名前だな」
少し不安だったが、わざわざ首輪に名前を記すくらいなのだから、きっと可愛がられていたのだろう。ついでに連絡先のひとつでも記されていれば言うことなしだったのだが。
子ネコは相変わらずすやすやと寝息を立てていた。
その幼い寝顔にふっと笑みをこぼしながら、甲洋はローテーブルの上に置かれた本に手を伸ばし、彼が目覚めるのをただ静かに待つことにした。
*
ゴソゴソと、なにかが腹の下あたりで蠢いている気配がする。
(あれ……寝てたのか、俺)
ゆっくりと瞼を持ち上げると、見慣れたリビングの天井が広がっていた。
本を読んでいるうちに、ソファの背もたれにすっかり首まで預けて眠っていたらしい。
それにしてもなんだろうか。この腰のあたりで何かがもぞもぞと動いている感覚は。
どこかぼうっとしながら首を起こして、視線を下へ移動させる。ピンと尖った耳の先。内側から白が混ざった茶色の毛が生えていて、ふさふさとした茂みから少しだけ、ピンク色の皮膚が覗いている。
──ネコ。そうだ、今この部屋には、ネコがいる。
「な……?」
足元に、子ネコが。
大きく開かれた甲洋の両足の間に身体を収め、床に女の子のようにペタリと座り込みながら、彼は白い両手を甲洋の下肢に這わせていた。生地の上からそこにあるものを確かめるように幾度か摩り、それから指先をイージーパンツの紐へと伸ばす。摘み上げてスルリとほどき、緩くなったウエスト部分を中の下着ごと掴むと、思いっきりぐいっと引き下げようとした。
「ッ!?」
あわや息子(未使用)が『こんにちは』しそうになった寸でのところで、甲洋は冷水を浴びせられたような気分を味わい、身体を大きく跳ねさせた。
「ちょ、な、なに!?」
咄嗟に上ずった声をあげ、ウエスト部分を押さえながら白い両手を振り払う。そのまま素早く避難して、ソファの端っこギリギリまで身を寄せた。
一体なにが起こったのだろう。いや、起ころうとしていたのだろうか。
今まで感じたことのない類の危機感に、心臓がバクバクと音を立てていた。混乱する頭で目を見開いたままの甲洋に、子ネコがぽかんとしながら丸い瞳を向けてくる。
かっちりと視線が交わった瞬間、甲洋は無意識に息を呑んだ。
「ッ!」
大きな瞳だった。色づいた銀杏並木のような、金色の。
縁取る睫毛はくるりと長くカールしていて、彼がまばたきをするたびに花びらがくるくると瞬いているように見える。
金縛りにあったみたいに身動きができなくて、まるで自分だけが静止した時の中に囚われているようだった。ああ、これが見惚れるということかと理解したとき、背筋になにかが駆け抜ける。
(え)
その感覚に呆然とした。
(電気……?)
それは甲洋が漠然とした憧れを抱いていた、あの感覚だった。
世界中でたったひとり、出会った瞬間、恋に落ちる。そんな特別な誰かと巡り会えたとき、全身を駆け抜ける痺れと一緒に祝福の鐘が鳴り響く。
頭のなかで、リーンゴーンと、運命を告げる鐘の音が──。
まばたきすら忘れて硬直する甲洋に、子ネコが不思議そうに首を傾げる。くるんと曲がったかぎしっぽは、ちょうどハテナマークのような形に見えた。ゆらりゆらりと、揺れている。
「……いやいやいや」
スッ……と、甲洋は片手を子ネコに向かって翳した。待て、の合図だ。同時に顔をうつむけて、もう片方の手で目元を覆い隠すと、大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐きだしていく。
(待て、落ち着け、今のは違う。違うったら違う)
ポーカーフェイスを装っているため分かりにくいが、甲洋の頭は混乱していた。顔中に血液が集まり、赤く火照っていくのを感じる。ドッドッドッ、と心臓が激しく動悸を打っていた。
違う違う。そうじゃない。そう、瞳が綺麗だったから。あんなに綺麗な瞳を見たのは初めてだったから、ちょっと驚いてしまっただけだ。電気なんか走ってないし、鐘の音なんか聞いてない。
たいだいこの子はネコである。黒髪ロングの巨乳でもない(重要)し、そもそもオスだ。
とにかく、無理矢理にでも気のせいということにして片付けることにした。
それよりなにより、今はもっと他に問題にしなければならないことがあるはずだ。
「お前、いま一体なにをしようとしてたわけ……?」
待ての合図を解いて、顔を上げると問いかける。
見ず知らずの他人(しかも寝ている)の股間を、なんの断りもなく(あっても困るが)暴こうだなんて、一体どういう考えがあってのことだろうか。
紐にジャレていたというには少々無理があるような気がする。あの迷いのない手つきには、何かしら明確な『意図』があったようにしか感じられなかった。
それともネコという生き物には、人間の下半身を撫で回して露出させたがる習性でもあるのだろうか……いやそんなバカな。
甲洋が内心でツッコミを入れていると、子ネコはケロリとした顔で言い放つ。
「嬉しくさせようと思っただけだよ」
「……はい?」
「だってお腹が空いたから」
「ごめん、ちょっと意味が分からない」
なんの話をしているのだろう? 甲洋の頭に幾つもの疑問符が浮かぶ。
「人にお願いするときは、まずは相手を嬉しくさせなきゃいけないんでしょ?」
「……嬉しく、とは?」
ごくり。思わず喉を鳴らしてしまう。なぜだかとても嫌な予感がする。この先は聞かないほうがいいんじゃないか。そんな気がしてしょうがない。じわりと額に汗が滲んだ。
子ネコは大きな目をくるくるとさせながら、甲洋の股間を指さした。
「そこ、舐めると嬉しくなるんでしょ?」
──絶句した。
この子はなにを言っているんだ? それともなにかの聞き間違いか?
童貞をこじらせすぎて、夢と現実の区別がつかなくなっているのだろうか。少し……いや、かなり虚しい気がするが、きっとそうに違いない。
けれど薄桃の指先は迷いなく股間を指し続けている。股間。甲洋の股間。ここにあるのは──
「おちんちん、舐めたらご飯くれるんじゃないの?」
「~~ッ!?」
天使のような可愛い顔から、爆弾発言が落とされた。
二度目の絶句。全身に激しい稲光が生じたような衝撃を覚える。
その常識外れな内容もさることながら、もしほんの少しでも起きるのが遅れていたら、甲洋の甲洋は今頃どうなっていたのだろう。この可憐な唇のなかに、すっぽり収まっていたということに──
「な、なに言って……!?」
うっかり想像しかけてしまい、反射的に両手で股間を抑えると、気持ち内股気味になりながら声を上ずらせた。得意なはずのポーカーフェイスも忘れ、愕然としながら頬を赤らめる。
おち……ん、を舐めるとかなんとか、この顔で無邪気に言っていいことではないはずだ。じゃあどんな顔なら許されるのかと聞かれても、そうそう答えられる問題ではないのだが。
「なんで? おれなにかおかしなこと言った?」
「おかしいもなにも……いったい誰がそんなことを?」
「誰って、ご主人様だよ。それがヒトとネコが一緒に暮らすためのルール。でしょ?」
「そんなルール聞いたことないけど!?」
咄嗟に声を荒げてしまう。自分でも珍しいほど取り乱しているという自覚はあった。
ご主人様とやらが彼の飼い主をさしていて、男性であることは分かる。しかしこの子が言うルールとやらは、これまでの人生で一度も耳にしたことがなかった。
そんな間違ったルールは、AVやエロ同人の世界にしか存在してはいけないものだ。現実に起こっているのだとしたら、それはただの──。
(虐待じゃないか!)
しかし子ネコは自らの行動や言動に、なんら疑問を抱いていない様子だった。冗談を言っているようにも見えない。その真っ直ぐすぎる瞳に、むしろこちらの方が常識を疑われているような気持ちにさせられる。
くうぅ……。
戸惑うあまり言葉を発せないでいると、乾いた音が室内に響き渡った。
子ネコは耳を弱々しくぺたりと寝かせ、眉を下げると両手で腹を押さえている。それからきゅっと下唇を噛みしめて、助けを求めるような上目遣いで甲洋を見上げると、弱々しく「にゃぁ」と鳴いた。
そうだ、この子は腹を空かしているのだ。どうにもざわざわとして気分が落ち着かないが、まずはなにか食べさせてやらなければ。
「わ、わかった。いま食事を用意するから」
「ほんと!? やったー!」
子ネコは嬉しそうに表情を明るくし、床に伏せていた尻尾をピンっと元気よく上向ける。
そうすると丈の長いシャツの裾が引っかかるようにして持ち上がるものだから、うっかり太ももから尻のラインが見えそうになって慌てて目を逸らす。
甲洋は解かれてしまったウエストの紐を結び直すと、にじり寄って来ようとする子ネコから逃れるべく、勢いよく立ち上がった。
「だけど、なにもしなくていい。そこでただおとなしく待っていて」
「え? でも」
「いいから。それが普通なんだから」
「ふつう?」
再びぺたんと床に尻を落ち着け、瞬きをしながら小首を傾げる子ネコを見下ろし、甲洋は「そうだよ」と言って力なく笑うと頷いた。
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春日井甲洋には夢がある。
それは綺麗で優しくて、ちょっぴり天然ボケな可愛いお嫁さん(黒髪ロングで巨乳ならなおよし)をもらって、海が一望できる高台に庭付き一戸建てを購入し、子宝にも恵まれて幸せな家庭を築くこと。
ただいまを言えばおかえりと言ってくれる家族がいる暮らし。その日あった出来事や、何気ない会話を楽しみながら全員で囲むあたたかな食卓。笑顔と笑い声がたえない明るい家。
どこにでもあるような、ごくありふれた、だけど誰もが羨むような。そんな理想の家庭を作ることが、甲洋の幼い頃からの憧れだ。
庭では黒柴の子犬を飼いたいと思う。豊かな芝生の絨毯を子供と愛犬が元気に走りまわって遊ぶ姿を、奥さんと一緒に見守りながら穏やかな休日の午後を過ごすのだ。
ひだまりの中にベンチを置いて、そこにふたり並んで腰掛けて。子供たちのはしゃぐ声を聞きながら、いつまでも恋人気分でそっと手を握り合ったりなんかして──
などという幸せ妄想に日々明け暮れる甲洋は、二十歳にして恋人いない歴=年齢だった。
けれどそれは決して彼が非モテ男子なわけではなく、むしろ甲洋は子供の頃からそれはそれはよくモテた。ラブレターは毎日のようにもらっていたし、休み時間や放課後に呼び出しを受けて告白されるなんてことも、一度や二度ではなかった。
そして今もなおその人気ぶりは健在だ。
が、甲洋はその全てを律儀に断り続けてきた。
好いてくれるのはありがたいし、とても嬉しく思う。可愛いなと思う子もいたし、まるで気にならなかったわけじゃない。
だけど付き合うとなると、何かが違うような気がしたのだ。ピントがずれたままのレンズを覗き込んでいるみたいに、相手に対しておぼろげな感情を抱くことしかできなかった。
もしもの話。この世界のどこかに『運命の人』と呼べるような相手がいたとして、その相手と出会う瞬間というのは、やはりなにか特別なものを感じたりするのだろうか。
互いが引力に吸い寄せられたように惹かれ合い、「このひとだ」と強く確信を抱くような、決定的な何か。例えば目と目が合った瞬間ビビッと電気が走るとか、頭のなかに鐘の音が響き渡るとか。
もしそんなドラマチックな出会いがあるのだとしたら、死ぬまでに一度は経験してみたいと思う。まるで少女漫画のような発想が、少し恥ずかしい気もするけれど。
とにもかくにも甲洋はいつか巡り合う(かもしれない)運命の人のため、夢である幸せ家族計画のため、真面目にコツコツ勉強をしながらバイトをして、貯金をして、来たる理想の未来に備えている。
しかし今のところ運命の出会いは訪れる気配を見せていない。
大学に通いながら塾講師のアルバイトに勤しむだけの、ごくごく平坦な日常が続いている。
特待生制度を利用して進学した甲洋は学費の面での負担はないが、一人で暮らしていくための生活費は全て自力で捻出する必要があった。
彼の両親は絵に描いたような毒親だったので、仕送りなどの援助はいっさい望めないのだ。
家を出てからは他人も同然で、連絡すら取りあっていない。甲洋自身も最初から期待はしていなかったし、なによりあたたかな家庭を築くという夢に固執する最大の原因は、この毒親たちにこそあるのだった。
*
ある朝、土曜日。
十一月が終わりを迎えようとするなか、寒さもよりいっそう厳しさを増してきた。
部屋着の上から軽くネイビーのコートに袖を通しただけの甲洋が、ゴミ袋を片手にゴミ捨て場を訪れると、ギャアギャアと騒がしく数羽のカラスが暴れ狂っている光景に遭遇した。
彼らは黒い羽根をバタつかせ、執拗にゴミを突きまわしている。地面に散乱する野菜カスなどに顔を顰めた甲洋だったが、よくよく見れば群れの中心にあるものがゴミではないことに気がついた。
「やだー! やめて! 痛いよ助けて! 誰か助けてぇー!!」
それは悲痛な声をあげながら、両腕で頭を守るようにして蹲っている人間の姿だった。大きさから見て、おそらくまだ子供だ。
甲洋は一も二もなく駆け寄ると、ゴミ袋を振り回すようにしながらカラスたちを追い払う。
「やめろってこら! あっちに行け!」
ガアガアと掠れた声をあげながら、カラスたちが飛び去っていく。
甲洋はゴミ袋をゴミ山へ投げ捨てると、すぐさま膝をついて丸くなっている少年を抱き起こした。
「しっかり! もう大丈夫だから……って、ネコ?」
人間だとばかり思っていた少年の頭には、尖った獣の耳がついていた。
紅茶にたっぷりとミルクを含ませたような淡い髪色。それとよく似た色味の尖った耳は、今はへにゃりと力なく倒れてしまっている。
土埃にすっかり汚れた白いロングシャツは膝丈だったが、ぺろりと捲くれ上がって太ももまでがむき出しになっていた。ほっそりとした裸足の両足と一緒に、シマシマ模様の長いしっぽが伸びている。先端がくるりと曲がった、愛嬌のあるかぎしっぽだった。
茶トラの子ネコは甲洋の腕のなかでぐったりとして動かない。
痩せっぽちの身体は冷え切っていて、閉じられた瞼を縁取る長い睫毛は涙にしっとりと濡れていた。
その青白い頬に、甲洋の血の気が引いていく。
「まさか、死んで……?」
そう思った瞬間、
「……すぅー、すぅー」
という、安らかな寝息が聞こえて力が抜けた。
子ネコはうっすらと開かれた唇の端から、のんきによだれまで垂らして眠っている。
「ビックリした。人騒がせなやつ……」
そのあどけない寝顔に思わず大きな息を漏らしながら、ふと子ネコの首に赤い首輪がぶら下がる形ではめられていることに気がついた。
革製のそれは酷くくたびれて年季が入っている。サイズから見て、おそらく四足タイプの大型犬につけるものだ。
(ヒト型のネコに首輪……?)
それは一般的には珍しいことだった。
犬猫とはいえ、ヒトに近い姿形をしている生き物に首輪をつけることは、倫理上問題があるとして昨今なにかと騒がれているからだ。
首輪をつけたヒト型のイヌネコ画像をSNSに投稿し、飼い主が炎上したという話も最近よく耳にする。甲洋は今どき珍しくそういったものを利用していないので、実際に見たのはこれが初めてのことだった。
とはいえ、首輪は彼が野良ではないことの証明にはなっている。つまり迷いネコということだ。早く飼い主のもとへ返してやらなければ、きっと今ごろ心配しているだろう。
「困ったな」
送り届けてやろうにも、まずは話を聞かないことには身動きがとれない。けれど子ネコはすっかり眠り込んでいる。
どうしたものかと少しばかり途方に暮れながらも、寒空の下こんな薄着でいる幼いネコを放っておけば、どうなるかは目に見えていた。
(……しょうがない)
ここはひとまず保護する以外に道はなさそうだ。
甲洋は寝息をたて続ける子ネコを、起こさないようにそうっと静かに抱き上げると、もと来た道を引き返した。
*
自宅である小規模マンションは四階建てで、甲洋の部屋はその二階にあった。
1LDKでそこそこの広さだが、築年数の古さや交通の便があまりよくないことから、家賃はだいぶ抑えられている。
いつもは階段を使うところを、エレベーターを利用して部屋へ戻ると、暖房をつけていたおかげでリビングは暖かな室温が保たれていた。
甲洋はひとまず子ネコの身体をL字ソファのカウチ部分へ横たえさせた。
脱いだコートを腹のあたりにかけてやり、キッチンに向かうとぬるま湯に浸して絞った手拭いを持ってくる。傷ついている場所はないかを確認しながら、顔や手足についた汚れをそれで丁寧に拭き取ってやった。
あらかた終えると自分もソファに腰掛けて、ふっと小さく息をつく。
憔悴しきった様子でこんこんと眠り続ける子ネコは、年の頃はせいぜい15、6といったところだろうか。
髪は艶がなくパサついているし、耳と尻尾の毛並みも悪い。とりわけ足先の汚れが酷かったことから、ずいぶん長いこと外をさまよっていたことが見てとれた。
けれど青白かった肌は少しずつ血色を取り戻し、手足の先も薄桃に染まりつつある。その頬にもうっすらと赤みがさしはじめていることを確認して、ホッと胸を撫で下ろした。
ふと、例の首輪にも改めて目を向けてみる。さっきは気づかなかったが、よく見ればボロボロにひび割れた側面に、黒いマジックで『操』と書かれていることに気がついた。
「操、か。いい名前だな」
少し不安だったが、わざわざ首輪に名前を記すくらいなのだから、きっと可愛がられていたのだろう。ついでに連絡先のひとつでも記されていれば言うことなしだったのだが。
子ネコは相変わらずすやすやと寝息を立てていた。
その幼い寝顔にふっと笑みをこぼしながら、甲洋はローテーブルの上に置かれた本に手を伸ばし、彼が目覚めるのをただ静かに待つことにした。
*
ゴソゴソと、なにかが腹の下あたりで蠢いている気配がする。
(あれ……寝てたのか、俺)
ゆっくりと瞼を持ち上げると、見慣れたリビングの天井が広がっていた。
本を読んでいるうちに、ソファの背もたれにすっかり首まで預けて眠っていたらしい。
それにしてもなんだろうか。この腰のあたりで何かがもぞもぞと動いている感覚は。
どこかぼうっとしながら首を起こして、視線を下へ移動させる。ピンと尖った耳の先。内側から白が混ざった茶色の毛が生えていて、ふさふさとした茂みから少しだけ、ピンク色の皮膚が覗いている。
──ネコ。そうだ、今この部屋には、ネコがいる。
「な……?」
足元に、子ネコが。
大きく開かれた甲洋の両足の間に身体を収め、床に女の子のようにペタリと座り込みながら、彼は白い両手を甲洋の下肢に這わせていた。生地の上からそこにあるものを確かめるように幾度か摩り、それから指先をイージーパンツの紐へと伸ばす。摘み上げてスルリとほどき、緩くなったウエスト部分を中の下着ごと掴むと、思いっきりぐいっと引き下げようとした。
「ッ!?」
あわや息子(未使用)が『こんにちは』しそうになった寸でのところで、甲洋は冷水を浴びせられたような気分を味わい、身体を大きく跳ねさせた。
「ちょ、な、なに!?」
咄嗟に上ずった声をあげ、ウエスト部分を押さえながら白い両手を振り払う。そのまま素早く避難して、ソファの端っこギリギリまで身を寄せた。
一体なにが起こったのだろう。いや、起ころうとしていたのだろうか。
今まで感じたことのない類の危機感に、心臓がバクバクと音を立てていた。混乱する頭で目を見開いたままの甲洋に、子ネコがぽかんとしながら丸い瞳を向けてくる。
かっちりと視線が交わった瞬間、甲洋は無意識に息を呑んだ。
「ッ!」
大きな瞳だった。色づいた銀杏並木のような、金色の。
縁取る睫毛はくるりと長くカールしていて、彼がまばたきをするたびに花びらがくるくると瞬いているように見える。
金縛りにあったみたいに身動きができなくて、まるで自分だけが静止した時の中に囚われているようだった。ああ、これが見惚れるということかと理解したとき、背筋になにかが駆け抜ける。
(え)
その感覚に呆然とした。
(電気……?)
それは甲洋が漠然とした憧れを抱いていた、あの感覚だった。
世界中でたったひとり、出会った瞬間、恋に落ちる。そんな特別な誰かと巡り会えたとき、全身を駆け抜ける痺れと一緒に祝福の鐘が鳴り響く。
頭のなかで、リーンゴーンと、運命を告げる鐘の音が──。
まばたきすら忘れて硬直する甲洋に、子ネコが不思議そうに首を傾げる。くるんと曲がったかぎしっぽは、ちょうどハテナマークのような形に見えた。ゆらりゆらりと、揺れている。
「……いやいやいや」
スッ……と、甲洋は片手を子ネコに向かって翳した。待て、の合図だ。同時に顔をうつむけて、もう片方の手で目元を覆い隠すと、大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐きだしていく。
(待て、落ち着け、今のは違う。違うったら違う)
ポーカーフェイスを装っているため分かりにくいが、甲洋の頭は混乱していた。顔中に血液が集まり、赤く火照っていくのを感じる。ドッドッドッ、と心臓が激しく動悸を打っていた。
違う違う。そうじゃない。そう、瞳が綺麗だったから。あんなに綺麗な瞳を見たのは初めてだったから、ちょっと驚いてしまっただけだ。電気なんか走ってないし、鐘の音なんか聞いてない。
たいだいこの子はネコである。黒髪ロングの巨乳でもない(重要)し、そもそもオスだ。
とにかく、無理矢理にでも気のせいということにして片付けることにした。
それよりなにより、今はもっと他に問題にしなければならないことがあるはずだ。
「お前、いま一体なにをしようとしてたわけ……?」
待ての合図を解いて、顔を上げると問いかける。
見ず知らずの他人(しかも寝ている)の股間を、なんの断りもなく(あっても困るが)暴こうだなんて、一体どういう考えがあってのことだろうか。
紐にジャレていたというには少々無理があるような気がする。あの迷いのない手つきには、何かしら明確な『意図』があったようにしか感じられなかった。
それともネコという生き物には、人間の下半身を撫で回して露出させたがる習性でもあるのだろうか……いやそんなバカな。
甲洋が内心でツッコミを入れていると、子ネコはケロリとした顔で言い放つ。
「嬉しくさせようと思っただけだよ」
「……はい?」
「だってお腹が空いたから」
「ごめん、ちょっと意味が分からない」
なんの話をしているのだろう? 甲洋の頭に幾つもの疑問符が浮かぶ。
「人にお願いするときは、まずは相手を嬉しくさせなきゃいけないんでしょ?」
「……嬉しく、とは?」
ごくり。思わず喉を鳴らしてしまう。なぜだかとても嫌な予感がする。この先は聞かないほうがいいんじゃないか。そんな気がしてしょうがない。じわりと額に汗が滲んだ。
子ネコは大きな目をくるくるとさせながら、甲洋の股間を指さした。
「そこ、舐めると嬉しくなるんでしょ?」
──絶句した。
この子はなにを言っているんだ? それともなにかの聞き間違いか?
童貞をこじらせすぎて、夢と現実の区別がつかなくなっているのだろうか。少し……いや、かなり虚しい気がするが、きっとそうに違いない。
けれど薄桃の指先は迷いなく股間を指し続けている。股間。甲洋の股間。ここにあるのは──
「おちんちん、舐めたらご飯くれるんじゃないの?」
「~~ッ!?」
天使のような可愛い顔から、爆弾発言が落とされた。
二度目の絶句。全身に激しい稲光が生じたような衝撃を覚える。
その常識外れな内容もさることながら、もしほんの少しでも起きるのが遅れていたら、甲洋の甲洋は今頃どうなっていたのだろう。この可憐な唇のなかに、すっぽり収まっていたということに──
「な、なに言って……!?」
うっかり想像しかけてしまい、反射的に両手で股間を抑えると、気持ち内股気味になりながら声を上ずらせた。得意なはずのポーカーフェイスも忘れ、愕然としながら頬を赤らめる。
おち……ん、を舐めるとかなんとか、この顔で無邪気に言っていいことではないはずだ。じゃあどんな顔なら許されるのかと聞かれても、そうそう答えられる問題ではないのだが。
「なんで? おれなにかおかしなこと言った?」
「おかしいもなにも……いったい誰がそんなことを?」
「誰って、ご主人様だよ。それがヒトとネコが一緒に暮らすためのルール。でしょ?」
「そんなルール聞いたことないけど!?」
咄嗟に声を荒げてしまう。自分でも珍しいほど取り乱しているという自覚はあった。
ご主人様とやらが彼の飼い主をさしていて、男性であることは分かる。しかしこの子が言うルールとやらは、これまでの人生で一度も耳にしたことがなかった。
そんな間違ったルールは、AVやエロ同人の世界にしか存在してはいけないものだ。現実に起こっているのだとしたら、それはただの──。
(虐待じゃないか!)
しかし子ネコは自らの行動や言動に、なんら疑問を抱いていない様子だった。冗談を言っているようにも見えない。その真っ直ぐすぎる瞳に、むしろこちらの方が常識を疑われているような気持ちにさせられる。
くうぅ……。
戸惑うあまり言葉を発せないでいると、乾いた音が室内に響き渡った。
子ネコは耳を弱々しくぺたりと寝かせ、眉を下げると両手で腹を押さえている。それからきゅっと下唇を噛みしめて、助けを求めるような上目遣いで甲洋を見上げると、弱々しく「にゃぁ」と鳴いた。
そうだ、この子は腹を空かしているのだ。どうにもざわざわとして気分が落ち着かないが、まずはなにか食べさせてやらなければ。
「わ、わかった。いま食事を用意するから」
「ほんと!? やったー!」
子ネコは嬉しそうに表情を明るくし、床に伏せていた尻尾をピンっと元気よく上向ける。
そうすると丈の長いシャツの裾が引っかかるようにして持ち上がるものだから、うっかり太ももから尻のラインが見えそうになって慌てて目を逸らす。
甲洋は解かれてしまったウエストの紐を結び直すと、にじり寄って来ようとする子ネコから逃れるべく、勢いよく立ち上がった。
「だけど、なにもしなくていい。そこでただおとなしく待っていて」
「え? でも」
「いいから。それが普通なんだから」
「ふつう?」
再びぺたんと床に尻を落ち着け、瞬きをしながら小首を傾げる子ネコを見下ろし、甲洋は「そうだよ」と言って力なく笑うと頷いた。
←戻る ・ 次へ→
全てを思い出した黒鋼は、ただ力なく地面に膝をつき、ただひたすら百合の花を見つめていた。
心の中が空っぽだった。
全てを思い出しても、穴は塞がるどころか、何もかもが消えうせてしまった。
この世界に、もうファイはいない。
あの日、全て失くしてしまったから。
「あれから……どれだけ経った……?」
漠然と、呆然と、声にも生気が抜けたように力がなかった。
「今日で、ちょうど一年」
「そうか……」
地面についていた拳を握る。
爪の中に細かな土が入り込む。
百合の花が揺れた。
あの日。
ファイのいない時間を少しは満喫しようと、ゆっくりと朝食を摂った。
それから、何も持たずに出て行ってしまったファイのために、タオルを何枚か用意した。
あの子供より手のかかる男のことだから、きっと泳ぐまではせずとも、ろくなことはしないに違いなかったから。
そんなときだ。
慌てたホテルマンの若い男が、真っ青な顔をして駆け込んできたのは。
あの時の光景を、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
あまりにも鮮明すぎて、むしろスローモーションのようにのろのろとした速度で脳内に再生される。
セピア色の記憶。
「あいつは……一年前の今日……ここで……」
当時、あまりの衝撃に動転していたけれど、事件の大まかな話は覚えている。
溺れている子供を助けようとして、泳げもしないくせに、あの男はこの湖へと身を投じたのだ。
子供は無事に救出されたが、どれほど探してもファイの姿は見当たらなかった。
警察や青年団が必死の捜索に当たったが、彼の遺体は上がらないまま、やがて捜査は打ち切られた。
ファイの亡骸は、今もこの湖の底で……。
「あのお母さん、よほど驚いたんだろうね。この場所でボクを見て、ちょっとおかしくなった。お葬式の日に、一度会ってるのにね」
ユゥイは、少しだけ悲しそうに眉を寄せて、寂しげに笑った。
「君ともね。でも、君の目はそのとき、何も映してはいなかったから」
ずっと壊れていたのだと、ユゥイは言っていた。
そう、黒鋼は壊れていた。
信じられないという思いと、信じたくないという現実からの逃避と、そして後悔と。
それはどれだけ悔やんでも悔やみきれるものではなかった。
なぜあのとき、彼を一人で行かせてしまったのだろう。
なぜすぐにでも追わなかったのだろう。
なぜ、離してしまったのだろう。
ファイのいない世界はあまりにも静かで、あまりにも色褪せていた。
ふとした瞬間、あの浮かれた声が自分の名を呼ぶのが聞こえてくるようで、その度に悪夢は終わったのだろうかと彼の姿を探して回った。
どこかで迷子にでもなっているのか。
ファイは興味を引かれればそれに夢中になってしまうから。
自分が見ていてやらないと、ふらふらと何処へ行ってしまうか分からない。
だから離してはいけなかったのに。
あの白く、温かな細い手を、指先を、彼自身を。
そして黒鋼は自らを壊し、心を、世界を閉ざした。
見たくないものから目を逸らした。
ただ一人をその目で探し続けて、やがてあの雨の日、亡骸のない墓標の前で、『彼』を見つけた。
ここにいたのか。
ずっと探していた。
もう一度あの日を、俺とおまえで最初からやり直そう。
もう何処へも行くな。
おまえの行きたいところへは、何処へでも俺が連れて行くから。
俺がずっと、見ていてやるから。
ユゥイを抱きしめて、黒鋼は彼を失ってから初めて泣いたのだ。
ファイの名を呼びながら。
「あの日から、ボクはファイになった。君がそれを望んだから。本当は、君のことを憎んでいたよ。ボクからファイを奪っておいて……失くしてしまった」
――でも、あまりにも哀れだったから。
黒鋼は再び力なく項垂れた。
まるで今まで忘れていたかのように、熱い涙が頬を伝う。
後から後から流れ出すそれは黒い土の上に落ちて、やがて溶けるようにして消えてゆく。
握り締めた拳で口元を押さえても、込み上げる嗚咽は止まらなかった。
ゆっくりとユゥイが近づく。目の前に、白い手が差し出される。
「さぁ行こう黒鋼。ファイは今でも、君を待っている」
『早く来てね? オレ、先に行って待ってるから』
その手を取ることを、黒鋼は迷わなかった。
*
霧は晴れていた。
今はただ悲しげな曇天が、やがて訪れる水の恵みを匂いと共に知らせている。
ユゥイに見守られて、黒鋼は冷えた水の中に足を踏み入れた。
何ものも拒まない透き通るそれは、黒鋼を誘うようにゆらゆらと美しい綾を描く。
一歩一歩、確かな歩みで、彼の待つ世界へ。
新しい世界へ。
「男は、ほんとはずっと女の正体を知っていたんだろうね」
死にゆこうとする者を目の前にしているとは思えない穏やかさで、ユゥイが語りかけてくる。
黒鋼の心もまた嘘のように穏やかなものだった。
「そうだな」
男は、本当は最初から知っていたのだ。
今なら分かる。
娘も同じ願いだったのだろう。
だから幸せだった。
誰もが望む、幸福な結末。
黒鋼は僅かに口元を綻ばせた。
水が迫ってくる。
あと少し。
もう少し。
心がそのときを待ちわびて、静かに凪いでいる。
「ねぇ、君が望んだファイは、どうだった?」
水底の藻が、まるで蛇のように足元に絡みつく。
深く深く、招き入れるような優しさで。
黒鋼はふわりと浮き上がる両腕で、愛しいそれらをそっと撫でた。
酷く待たせてしまった。
けれど、もう、すぐ。
「あいつは、小煩いくらいが丁度よかったのさ」
そこで、黒鋼の世界は完全に閉じた。
やっと、会えたね。
『聞いてよユゥイー! 明日からね、黒様と旅行に行くんだー』
『ふぅん? そうなんだ』
『湖がすっごくキレイでね、しかもコテージ借りて2人っきり!』
『はしゃぎすぎて危ないことしないでよ?』
『わかってるよぉ……もう、ユゥイって黒たんと同じようなこと言うよねー』
最後の会話で、受話器越しのファイは本当に楽しそうだった。
いつもそう。
黒鋼のことを話す彼は幸せそうで、今にも蕩けて消えてしまうのではないかと思うほど
「本当に、消えちゃったね」
ユゥイは笑うと、あの親子が手向けていった花束を手にした。
萎びた百合の花からは、それでも甘い香りが漂っていた。
黒鋼が消えていった湖を見つめる。
会えただろうか。
ファイは、もう退屈も寂しさも感じないで済むだろうか。
「戻ってくるときは、きっとファイを連れて帰ってきてね」
どんな姿に変わり果てていても、2人を抱きしめて、キスがしたいから。
「おかえり」と、「愛してる」を、言わせてほしい。
ユゥイは、百合の花束を水面に放った。
白い花びらが美しく散ってゆく。
そっと目を閉じると、一筋の涙が頬を伝った。
けれど、それは悲しくて流す涙ではなかった。
また会える日まで。
例え永久の別れでも、2人一緒ならそれでいい。
ユゥイは幸せだった。
「さようなら」
優しく微笑みながら、ゆらゆらと流れゆく純白の花束を、いつまでも見つめていた。
あなたは私の名前を呼んでくれました。
抱き寄せて、罪深い私に口付けをくれました。
私の姿は変わり果てていて、この声帯は人の言の葉を紡ぐようには出来ていません。
それでも伝わるでしょうか。
私は心からあなたを待っていたのです。
私は心からあなたを愛しているのです。
やがてあなたは瞳を閉じ、永遠に覚めない眠りに就きました。
この声が決して届かないことを、私は知っているのです。
私はあなたと。
幸せに、どこまでも深く、堕ちてゆくのです。
End
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心の中が空っぽだった。
全てを思い出しても、穴は塞がるどころか、何もかもが消えうせてしまった。
この世界に、もうファイはいない。
あの日、全て失くしてしまったから。
「あれから……どれだけ経った……?」
漠然と、呆然と、声にも生気が抜けたように力がなかった。
「今日で、ちょうど一年」
「そうか……」
地面についていた拳を握る。
爪の中に細かな土が入り込む。
百合の花が揺れた。
あの日。
ファイのいない時間を少しは満喫しようと、ゆっくりと朝食を摂った。
それから、何も持たずに出て行ってしまったファイのために、タオルを何枚か用意した。
あの子供より手のかかる男のことだから、きっと泳ぐまではせずとも、ろくなことはしないに違いなかったから。
そんなときだ。
慌てたホテルマンの若い男が、真っ青な顔をして駆け込んできたのは。
あの時の光景を、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
あまりにも鮮明すぎて、むしろスローモーションのようにのろのろとした速度で脳内に再生される。
セピア色の記憶。
「あいつは……一年前の今日……ここで……」
当時、あまりの衝撃に動転していたけれど、事件の大まかな話は覚えている。
溺れている子供を助けようとして、泳げもしないくせに、あの男はこの湖へと身を投じたのだ。
子供は無事に救出されたが、どれほど探してもファイの姿は見当たらなかった。
警察や青年団が必死の捜索に当たったが、彼の遺体は上がらないまま、やがて捜査は打ち切られた。
ファイの亡骸は、今もこの湖の底で……。
「あのお母さん、よほど驚いたんだろうね。この場所でボクを見て、ちょっとおかしくなった。お葬式の日に、一度会ってるのにね」
ユゥイは、少しだけ悲しそうに眉を寄せて、寂しげに笑った。
「君ともね。でも、君の目はそのとき、何も映してはいなかったから」
ずっと壊れていたのだと、ユゥイは言っていた。
そう、黒鋼は壊れていた。
信じられないという思いと、信じたくないという現実からの逃避と、そして後悔と。
それはどれだけ悔やんでも悔やみきれるものではなかった。
なぜあのとき、彼を一人で行かせてしまったのだろう。
なぜすぐにでも追わなかったのだろう。
なぜ、離してしまったのだろう。
ファイのいない世界はあまりにも静かで、あまりにも色褪せていた。
ふとした瞬間、あの浮かれた声が自分の名を呼ぶのが聞こえてくるようで、その度に悪夢は終わったのだろうかと彼の姿を探して回った。
どこかで迷子にでもなっているのか。
ファイは興味を引かれればそれに夢中になってしまうから。
自分が見ていてやらないと、ふらふらと何処へ行ってしまうか分からない。
だから離してはいけなかったのに。
あの白く、温かな細い手を、指先を、彼自身を。
そして黒鋼は自らを壊し、心を、世界を閉ざした。
見たくないものから目を逸らした。
ただ一人をその目で探し続けて、やがてあの雨の日、亡骸のない墓標の前で、『彼』を見つけた。
ここにいたのか。
ずっと探していた。
もう一度あの日を、俺とおまえで最初からやり直そう。
もう何処へも行くな。
おまえの行きたいところへは、何処へでも俺が連れて行くから。
俺がずっと、見ていてやるから。
ユゥイを抱きしめて、黒鋼は彼を失ってから初めて泣いたのだ。
ファイの名を呼びながら。
「あの日から、ボクはファイになった。君がそれを望んだから。本当は、君のことを憎んでいたよ。ボクからファイを奪っておいて……失くしてしまった」
――でも、あまりにも哀れだったから。
黒鋼は再び力なく項垂れた。
まるで今まで忘れていたかのように、熱い涙が頬を伝う。
後から後から流れ出すそれは黒い土の上に落ちて、やがて溶けるようにして消えてゆく。
握り締めた拳で口元を押さえても、込み上げる嗚咽は止まらなかった。
ゆっくりとユゥイが近づく。目の前に、白い手が差し出される。
「さぁ行こう黒鋼。ファイは今でも、君を待っている」
『早く来てね? オレ、先に行って待ってるから』
その手を取ることを、黒鋼は迷わなかった。
*
霧は晴れていた。
今はただ悲しげな曇天が、やがて訪れる水の恵みを匂いと共に知らせている。
ユゥイに見守られて、黒鋼は冷えた水の中に足を踏み入れた。
何ものも拒まない透き通るそれは、黒鋼を誘うようにゆらゆらと美しい綾を描く。
一歩一歩、確かな歩みで、彼の待つ世界へ。
新しい世界へ。
「男は、ほんとはずっと女の正体を知っていたんだろうね」
死にゆこうとする者を目の前にしているとは思えない穏やかさで、ユゥイが語りかけてくる。
黒鋼の心もまた嘘のように穏やかなものだった。
「そうだな」
男は、本当は最初から知っていたのだ。
今なら分かる。
娘も同じ願いだったのだろう。
だから幸せだった。
誰もが望む、幸福な結末。
黒鋼は僅かに口元を綻ばせた。
水が迫ってくる。
あと少し。
もう少し。
心がそのときを待ちわびて、静かに凪いでいる。
「ねぇ、君が望んだファイは、どうだった?」
水底の藻が、まるで蛇のように足元に絡みつく。
深く深く、招き入れるような優しさで。
黒鋼はふわりと浮き上がる両腕で、愛しいそれらをそっと撫でた。
酷く待たせてしまった。
けれど、もう、すぐ。
「あいつは、小煩いくらいが丁度よかったのさ」
そこで、黒鋼の世界は完全に閉じた。
やっと、会えたね。
『聞いてよユゥイー! 明日からね、黒様と旅行に行くんだー』
『ふぅん? そうなんだ』
『湖がすっごくキレイでね、しかもコテージ借りて2人っきり!』
『はしゃぎすぎて危ないことしないでよ?』
『わかってるよぉ……もう、ユゥイって黒たんと同じようなこと言うよねー』
最後の会話で、受話器越しのファイは本当に楽しそうだった。
いつもそう。
黒鋼のことを話す彼は幸せそうで、今にも蕩けて消えてしまうのではないかと思うほど
「本当に、消えちゃったね」
ユゥイは笑うと、あの親子が手向けていった花束を手にした。
萎びた百合の花からは、それでも甘い香りが漂っていた。
黒鋼が消えていった湖を見つめる。
会えただろうか。
ファイは、もう退屈も寂しさも感じないで済むだろうか。
「戻ってくるときは、きっとファイを連れて帰ってきてね」
どんな姿に変わり果てていても、2人を抱きしめて、キスがしたいから。
「おかえり」と、「愛してる」を、言わせてほしい。
ユゥイは、百合の花束を水面に放った。
白い花びらが美しく散ってゆく。
そっと目を閉じると、一筋の涙が頬を伝った。
けれど、それは悲しくて流す涙ではなかった。
また会える日まで。
例え永久の別れでも、2人一緒ならそれでいい。
ユゥイは幸せだった。
「さようなら」
優しく微笑みながら、ゆらゆらと流れゆく純白の花束を、いつまでも見つめていた。
あなたは私の名前を呼んでくれました。
抱き寄せて、罪深い私に口付けをくれました。
私の姿は変わり果てていて、この声帯は人の言の葉を紡ぐようには出来ていません。
それでも伝わるでしょうか。
私は心からあなたを待っていたのです。
私は心からあなたを愛しているのです。
やがてあなたは瞳を閉じ、永遠に覚めない眠りに就きました。
この声が決して届かないことを、私は知っているのです。
私はあなたと。
幸せに、どこまでも深く、堕ちてゆくのです。
End
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部屋に戻ると甲洋は操の身体を毛布で包み、ソファのカウチ部分に横たえさせた。
自分も傍に腰掛けて、その髪に触れながら寝顔を見つめる。
懐かしいなと思った。彼を保護して、まだ一ヶ月も経っていないのに。ずいぶん長いこと一緒にいるような気がしてしまう。
あのときは、この子がこんなにも特別な存在になるなんて思いもしなかった。
(……いや、違うな。多分、あのときから)
駆け抜けた電流。鳴り響いた鐘の音。気のせいで片付けてしまったあの感覚。瞳が綺麗だったから。あんなに綺麗な瞳は初めて見たから。囚われてしまった。
あまりにも唐突に。あまりにも自然に。操は甲洋の心に入り込んできた。
「んぅ~……」
小さな呻きに、甲洋は思わず髪に触れていた手を引っ込めた。長いまつ毛が小さく揺れて、ゆっくりと琥珀の瞳が開かれる。彼はぼんやりと瞬きを繰り返し、やがてハッと見開きながら勢いよく身を起こした。
「え!? なんで!? なんでおれここにいるの!? 一騎と総士は!?」
その言葉に、少しムッとする。
「俺んちで悪かったな」
「こ、甲洋? なんで? おれ、甲洋とはさよならしたはずなのに!」
まんまるの目を瞬かせてこちらを見る操に、甲洋はより深く眉間の皺を深くした。
「さよならってなに? された覚えがないんだけど?」
「したよ。だって、ちゃんとお別れの準備してから行ったもん」
「はぁ?」
すると操はテーブルの上を指さして「ほら」と言った。
そこには広げられたティッシュの上に、クッキーが数枚置いてあるだけである。
「……これがなに?」
「甲洋がお腹空いても大丈夫なように、準備してったんだよ。なんで食べなかったの?」
「なんで食べなかったのって聞かれても」
意味が分からない。
クッキーが置いてあるのには気づいていたが、てっきり操の食べ残しかと思っていたのだ。
(いや待てよ……なんか似たような話を聞いたことがあるぞ……)
昔、猫を飼っていた友人が困り果てた様子で話していたのを思いだす。
朝起きると枕元にネズミや昆虫の死骸が置かれていて、どうやらそれは愛猫の仕業であるらしいと。よくよく調べてみると、その死骸は猫からのプレゼントであることが判明した。
そういった行動をとる猫は母性本能が強く、飼い主のことを『狩りもできない未熟な子供』だと思っているため、お世話をしているつもりでいるらしい。
「お前なぁ……」
甲洋は大仰なため息をつき、ガックリと項垂れた。
「俺のことなんだと思ってるわけ……?」
「?」
未熟な子ネコに、未熟な子供だと思われていた……。
ショックである。だいたいオスのくせに母性とは何事か。世話を焼いていたつもりが、操はその逆の意識でいたということだ。世話をされた覚えがない上に、クッキーを数枚置いていかれたところでどうしようもない。ネズミや虫の死骸が置かれているよりはマシかもしれないが。
これが人間の仕業なら、流石の甲洋も今ごろ一発くらいぶん殴っているところだ。しかしネコにヒトの常識を説いても意味がない。今は他に追求すべき大事な問題もある。
「それは分か……りたくはなかったけど、いいよ。分かった。それより、どうして急に黙っていなくなったりしたの?」
「……探したの?」
「当たり前だろ」
操は耳をしゅんとさせ、うつむいてしまった。
「操」
「……だって」
きゅうと身体を固くしながら、操は膝の上でくしゃくしゃになっている毛布を掴む拳に力を込めた。肩に首が埋まるほど身をすくめ、今にも泣き出しそうな声を絞りだす。
「甲洋が、苦しそうだったから。一緒にいたら、ダメだと思った」
「操……」
「だっておれのせいなんでしょ? おれといるから、甲洋のここはずっと痛いままなんでしょ?」
操は小さな白い手を自分の胸に当てて、涙で潤んだ目をしながら甲洋を見た。
「そんなのやだよ。おれのせいで甲洋が悲しくなるのは嫌なんだ……でも、でもさ……」
大きな瞳から、ついに涙が溢れ出した。ずっと堪えていたのが分かるほど大粒のそれが、後から後から赤い頬を伝い落ちていく。
「おれは、甲洋と一緒がいい……新しいご主人様なんかいらないよ。甲洋がいい……けど、そしたら甲洋、おれのせいでずっと苦しいまんまで、ずっと痛くて……だったら、おれがいなくなれば……」
そのうち涙だけじゃなく、鼻水まで出てきてしまった。操の心がぐちゃぐちゃになるほど、顔も一緒にぐちゃぐちゃになっていく。もう完全に泣いてしまっているのに、まだ堪えているつもりでいるのか、ヒクヒクと肩を引きつらせながら鼻の穴を膨らませている。
笑う場面じゃないはずなのに、自分のためにこんなにも辛い気持ちを吐露しているのに、甲洋は気が抜けたようにふっと息を吐きだしながら笑ってしまった。笑いながら、「違うよ」と言って首を振る。
「こぉよ……?」
「おいで、操」
その肩を抱いて引き寄せると、そばにあったティッシュの箱から中身を数枚引き抜く。それを操の鼻にあてがって、緩く摘んだ。
「チンして、チン」
「んにゅ、うぅ~」
「よしよし」
操が力むと、ズビッという間抜けな音がする。
緊張感がないなぁと思った。だけどたぶん、重たくなるよりずっといい。操の一生懸命な泣き顔を見ていたら、心の中にあったしこりがほどけていくような感覚を覚えた。
いつまでたっても思い出に変えることができなかった過去の記憶。だけどそろそろ手放してもいい頃なんだろうなと、そんなふうに思うことができた。
愛されなかった過去も、あの雨の夜のことも。甲洋が見つめていたいと思うのは過去じゃない。いま目の前で泣いている操のことだ。操と一緒に紡ぐ未来だけを、見つめていたい。
甲洋は鼻が出きったところでティッシュを丸めて、ついでに操の顔も綺麗にぬぐった。ポイとゴミ箱に放り投げてから、改めて操を腕に閉じ込める。
片手で頬を包み込んで上向かせると、操は濡れた瞳をパチパチと踊らせた。そういえば、自分からこんなふうに手を伸ばしたのはこれが初めてだ。いつも飛びついてくるのは操のほうで、甲洋はただ受け止めるだけだった。
甲洋は操の赤くなっている鼻に自分の鼻を近づけ、いつも彼がそうしていたように小さく触れ合わせた。そのままゆるりと頬を擦り寄せると、操の肌が熱を上げるのが分かる。
まんまるに見開かれた琥珀の瞳を間近に見つめ、甲洋は目を細めて笑った。
「こぉよ……?」
「お前がいないと、もっと痛いよ」
「!」
「俺は、操がいないとダメみたいだ」
甲洋の中にぽっかりと開いていた穴は、最初はただの大きな丸だったのだと思う。だけど気づいたらその穴は操の形をしていて、こうして抱きしめていなければ、きっと凍えて死んでしまう。
「ここにいて、操。俺と、一緒に暮らそう」
腕の中で操が揺れた。揺れながら、蚊の鳴くような声で「いいの?」と言った。尖った耳は後ろ向きにぺたりと倒れ、頼りなく震えていた。なんていじらしいんだろうと、甲洋は思う。
細い身体で、小さな胸で、この子は必死に甲洋のことを考えていた。甲洋の痛みを感じながら、それが自分の責任だと心を痛めて、テーブルの上にクッキーを置いて、裸足で家を飛び出した。
可愛い。そして、愛しい。あのとき助けたのがこの子でよかった。この子を助けたのが、自分でよかった。逢えてよかった。多分、きっと、死ぬまでずっとこの子と離れることはないんだろうなと、漠然とした、けれど確かな予感が胸をさらう。
甲洋は答える代わりに、強く強く、操の身体を抱きしめた。
「おれ、これからも毎日、甲洋におかえりって言ってもいいの? 匂いつけてもいいの?」
「いいよ」
ふわふわの髪に鼻を埋める。自分も使っているはずのシャンプーの香りに、春めいた陽だまりのような匂いが混ざっている。これが操の匂いだ。こんなにもあたたかな匂いに包まれていたことに、どうして気づけなかったのだろう。
「嬉しい……甲洋、大好き……!」
操の両腕が甲洋の首に回された。息ができないくらい強く抱きしめられて、甲洋は笑いながら「俺も」と言った。
操は甲洋のうなじの髪を両手でくしゃりと乱しながら、頬や額を擦りつけてくる。グリグリと一生懸命に自分の匂いをつけながら、ふとなにかに気がついたように「ぁ」と声をあげた。
「なに?」
「甲洋……雨、やんだね」
鼻と鼻が触れ合う距離で、操は嬉しそうにそう言った。
「雨なんか降ってないよ」
雪は少しだけ降ったけれど、すぐにやんでしまった。
小首を傾げる甲洋に、操は肩をすくめて溶け出しそうなくらい甘ったるい笑顔を浮かべる。
「うぅん、いいの。なんでもない」
甲洋は「変なやつ」と言ってクスリと笑うと、視線を交わしあったまま、ゆっくりと、お互いの鼻の先をくっつけあった。
*
春日井甲洋には夢があった。
それは綺麗で優しくて、ちょっぴり天然ボケな可愛いお嫁さん(黒髪ロングで巨乳ならなおよし)をもらって、海が一望できる高台に庭付き一戸建てを購入し、子宝にも恵まれて幸せな家庭を築くこと。
庭では黒柴の子犬を飼って、陽だまりのなかにベンチを置いて、理想の家族と過ごしたかった。
そのためにコツコツ貯金もしてきたし、暇さえあれば出会ってすらいない運命の人に想いを馳せ、幸せな家庭像への妄想を膨らませていた。
けれどそれは、もう過去の話になってしまった。
甲洋が一緒にいたいと思った黒柴の子犬は『あの子』だけで、代わりなんかどこにもいない。
海が見える庭付き一戸建てには憧れるけれど、とりあえず当面は、ネコ一匹と窮屈せずに暮らせる部屋があれば、十分だった。
おしゃべりな可愛い子ネコは陽だまりの匂いをさせながら、いつも自分の帰りを待っている。「ただいま」と言えば「おかえり」と元気に飛びついてくる。甲洋はそんな彼のために、毎日せっせと『狩り』へ出かけているらしい。
まるで原始の暮らしを送っているかのような言いようだが、大学だってバイトだって知識や生活費を得るために行っているのだから、あながち間違った表現でもないような気がする。
なんにせよ、甲洋は今の暮らしに満足している。
ネコ一匹、幸せにできるだけの力があれば、それだけで甲洋も幸せなのだ。
そのために、コツコツと積み立ててきた貯金もおろした。住み慣れた小規模マンションを引っ越して、ペットとの入居が可能な新居に移り住むためである。
「あ、ご主人様だ」
ある朝、操が焼き立てのパンに齧りつきながらテレビを指差し、そう言った。
「えっ?」
口をつけていたコーヒーに咽そうになりながら、甲洋も慌ててテレビ画面へと視線を走らせる。
どこにでもいそうな平凡な顔立ちをした男性の顔写真をバックに、ニュースキャスターが最新ニュースを読み上げている。
それはヒト型動物への性的虐待未遂で、一人の男性が逮捕されたというものだった。
男は自宅アパートに散歩中のメスネコを連れ込み、無理やり猥褻な行為に及ぼうとしたところを、悲鳴を聞きつけた近隣住民によって取り押さえられ、通報された。しかも一連の様子は動画に撮られてSNSで拡散されたらしく、男が無様に取り押さえられている光景がテレビ画面に映しだされている。
ネコは無事に飼い主のもとに返され、男はさらに児童買春の疑いもあるとして、現在取り調べを行っているらしい。
「本当に? こいつで間違いない?」
「うん。この人だよ。ねぇ甲洋、ご主人様はどうしてテレビに出てるの?」
口の端にパンくずをつけた操が、くるくるとした瞳で問いかけてくる。甲洋はそれを指先で取り払ってやりながら、「悪いことをしたからだよ」と言った。
「わるいこと?」
「そう。お前だけじゃなくて、他の子にまで酷いことをしようとしたから。だから捕まったんだよ」
操にも分かる言葉で柔らかく説明しながら、甲洋は安堵していた。
一度は捨てたとはいえ、急に惜しくなって連れ戻しに来るなんてことになりはしないかと、少し──いや、かなり心配していたのだ。だって、その可能性は決して0ではない。
(うちの操は世界一可愛いからなぁ……)
もはや立派な親ばかである。だが仕方ない。操が可愛いのは事実なのだ。
年が明けたら新居に引っ越すことになっているが、こういったニュースを目にしてしまうと、あまりひとりで出歩かせないほうがいいような気がしてきてしまう。
「甲洋、甲洋ってば。ねぇ、どうしたの?」
「ん、なに?」
「さっきからずっと怖い顔してるよ」
「ああ、ごめん、なんでもないよ。操、パンは? もういいの?」
「うん、もうお腹いっぱーい! あのね甲洋、ご飯もお菓子も、食べ過ぎると太っちゃうんだよ。知ってた?」
「知ってるよ」
そう言って笑うと、操はむぅっと眉を寄せて唇を尖らせた。
先端がくるりと丸まったかぎしっぽをブンブンと大きく振って、床を叩きはじめる。
「なぁんだ。せっかく教えてあげようと思ったのに」
……しまった。
操はおそらく、甲洋がいぬ間にテレビから仕入れたのであろう新しい知識を、得意げに披露したかったのだ。食べすぎると太るなんてあまりにも常識すぎて、選択肢を間違えてしまった。
「知ってる、けど、忘れがちかもね。うん、忘れてた。操は物知りだな」
「甲洋って、もしかして嘘つくのも下手なのかな?」
「もってなに? もって……」
可愛いくせに、たまに可愛くないことを言うネコである。
甲洋は少しムッとしながら、テーブルの上で空になっている皿を重ねた。
「食べ過ぎが気になるなら、今夜のケーキはなしかな」
「え!? ケーキ!?」
「クリスマスだからね、今日は」
「クリスマス!?」
操の耳がぴょこんと跳ねた。
そう、今日はクリスマス。正確にはイブである。世間は浮かれモード一色で、しかも今夜は雪の予報が出ていた。的中すればホワイトクリスマスになるだろう。
数日前、甲洋は街のケーキ屋でクリスマスケーキを予約した。4号のワンホールだ。このあと取りに行くことになっている。
「わーいやったー! クリスマスにケーキなんて初めて! 夢みたい!」
操はかぎしっぽをピンと立て、バンザイをすると甲洋に飛びかかってきた。
その勢いが凄まじいものだから、咄嗟に受け止めきれずに横倒しになってしまう。
「うわ、危ない! コーヒー! まだ入ってるから!」
うっかりカップを倒しそうになったが、なんとか無事だった。
床に押し倒されてしまった甲洋は、そのまま操の頬ずり攻撃を食らう。甲洋はその背に両腕をまわし、背中をぽんぽんと軽く叩いた。
「甲洋、おれ嬉しいよぅ」
「わかったから。あまり興奮しないで」
「太ってもいいから、ケーキいっぱい食べたいよ!」
「いやそれはダメだろ……」
操は食べても食べても痩せっぽちだけれど、保護したときよりはずっと頬がふっくらしてきている。毛並みも艶がでてきたし、そういえばひょろひょろだったしっぽも、ほんの少しだけ太くなったかもしれない。
このままもっとふくふくとして、なんならぷくぷくになってしまったとしても、それはそれで猛烈に可愛いだろうなと甲洋は思う。だが、やっぱり食べ過ぎはいけない。健康管理は飼い主としての立派な勤めである。そこでふと、気がついた。
「そうだ、操。ひとつ言っておきたいことがあるよ」
「にゃあに~?」
甲洋の頬にスリスリと頬を擦りつけていた操が、顔をあげて見下ろしてくる。
「お前はもううちの子だから。他所の人をご主人様なんて呼ぶのは禁止」
あの男は操の飼い主である責任を放棄したのだ。そもそも果たしてすらいなかった。操はヤツの名前を知らないそうだから、他に呼びようがないのかもしれないが、それでもだ。
甲洋は操の飼い主で、そしてある意味、仕えてもいるのである。
操は一瞬だけきょとんとして首を傾げたが、すぐにふにゃあと笑って「そっか」と言った。
「おれはもう、甲洋んちの子になったんだもんね」
そして嬉しそうに鼻を寄せてくる。いつものあれだ。甲洋は小さく笑って目を閉じた。鼻と鼻のキス。くすぐったいあの感触を待ちわびて、けれど、鼻にキスは落とされない。
代わりに唇に、むにゅりと何か柔らかなものが押しつけられる感触があった。
(へ……?)
目を見開く。信じられないくらい近い距離で、伏せられた操のまつ毛が揺れる。
頭の中が真っ白になって、甲洋はそのまま石のように固まった。すると次の瞬間、唇をぺろりと舐められ、さらに歯が、立てられた。
「んむっ!?」
それは軽い甘噛だったが、あまりにもショッキングな出来事だった。思わず悲鳴をあげた甲洋が、操の両肩を掴んで引き剥がす。耳まで真っ赤になっているのを感じながら、口をパクパクとさせた。
「な、なに……? な、な……?」
なにが、起こったんだ──?
操はとろりと潤んだ瞳で、「どうして邪魔するの」と言わんばかりに小首を傾げた。心臓が、胸を突き破って破裂しそうなほど高鳴っている。
「なに、したの……今……?」
「甲洋のこと好きって思ったら、ちゅうして噛みたくなっちゃった」
「ッ……!?」
きっとこの子は、自分がなにをしたか分かっていない。
行き過ぎた愛情表現。甲洋にとっては、ファーストキス。頭の中では、やっぱりあの祝福の鐘が鳴り響いていた。
操は甲洋の上で「えへへ」と笑う。無邪気で可愛い、甲洋の子ネコ。
独りぼっちで思い描いていたはずの未来。理想の家庭は夢のまた夢。もういっそどうでもよくすらなっていて、この子が笑っていてさえくれれば、それでいい。
ただそう遠くない未来、童貞まで捧げてしまう日が来ることを、このときの甲洋はまだ知らないのだ。
毛玉の気持ち/了
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