2025年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
オマケの番外編
帰ります、と言って操から逃げだそうとした甲洋は、足をもつれさせて転んでしまった。
ガツンという強い衝撃に脳が揺れて、瞼の裏で大きな花火が打ち上がる。甲洋はまるでたったいま眠りから覚めたように、意識がクリアになるのを感じた。
「だいじょうぶ!?」
操が慌てて駆け寄り、甲洋の身体を抱き起こした。
「頭打ったの!? ここすごいタンコブできてるよ! 早く帰って冷やさなきゃ!」
甲洋の頭部に触れながら顔を青くする操に、違和感を覚える。確か自分は、彼を庇って山の斜面から転がり落ちたはずだ。意識は朦朧としていたが、操がひどく泣いていたのを覚えている。が、今の彼にはあのときの悲壮感がない。そもそもここは山の中ですらないようだし、まるで状況が掴めなかった。
ズキズキと痛む頭部を押さえつけながら、甲洋は地面にあぐらをかいた。なぜか浴衣を着ているらしく、腿がむき出しになってしまうがそんなことはどうでもよかった。
「来主、俺はどのくらい寝てた?」
「へ……?」
「ここは……ああ、神社のそばか」
「あの、甲洋?」
甲洋の傍らに膝立ちしている操が、ポカンとしている。肩に鉛を羽織っているようなダルさを覚えながら、そんな操の丸い瞳を見返した。
「君、もしかして記憶が戻ったの?」
「記憶? うん、まぁ……この状況を鑑みるに、そういうことなんだろうね」
頭痛が痛すぎて(重複)、正直あまり余裕がない。寝すぎると逆に疲れてしまう、あの現象に似ている。そしてそれはあながち間違ってはいなさそうだ。
甲洋の記憶は虫の息になりながら操に抱き抱えられたあの瞬間から、ぷっつりと途切れていた。てっきり死んだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
急になんの脈絡もなく場面が切り替わったような状況に、記憶がどうのと驚いている操。自分が今の今まで記憶障害を患っていたらしいことくらい、寝起き(?)の頭でも察するのは朝飯前だった。
「こ、こうよう……ッ、甲洋、甲洋~~~!!」
呆然としたままだった操が、甲洋の名を連呼しながら抱きついてきた。彼はそのままわんわんと声をあげて泣きだしてしまう。自分の感覚としてはほんの一瞬の出来事だったが、あの時とはまた違った派手な泣きっぷりに、甲洋はジンと胸が痺れていくのを感じながら操の身体を抱き返した。
失わずに済んだことへの実感が、ふつふつと湧き上がってくる。
「来主、無事でよかった。本当に……」
「甲洋っ、甲洋……! ごめんね、ごめんね甲洋……っ、おれ、おれ……!」
「いいから……もう大丈夫だから」
操はひどく泣きじゃくり、身体を震わせていた。あれからどれだけの時間が経っているのかは分からない。だけど、こうしてまた彼を抱きしめることができた喜びを噛み締め、両腕にいっそう力を込める。
「よかった……甲洋の記憶が戻って、本当によかっ……ん? あれ?」
「どうかした?」
操は伏せていた顔をあげ、首を傾げるとなにか考え込んでいる様子を見せた。
「来主?」
「じゃあ、さっきまでの甲洋は? 可愛いショタ(中身)甲洋には、もう会えないの?」
「しょ、ショタ……?」
訳が分からないでいる甲洋に、操はこれまでなにが起こっていたのかを話してくれた。あのあと甲洋は二年ものあいだ眠り続け、ようやく目を覚ましたときには中身だけ子供時代にタイムスリップしていたらしい。いわゆる幼児退行だ。
操はそんな甲洋(子)と、一年という時間を共に過ごした。そしてお祭りに行った帰り道、甲洋(子)は急にメンヘラを爆発させたと思ったらすっ転び、頭を打って元の甲洋(大)に戻ったというわけである。
「そ、そんなことが……」
そこまでは予想していなかった。驚愕する甲洋に、操は残念そうに肩を落とす。
「そんなぁ……天使みたいに可愛くて、オドオドしてて、お世話し甲斐があったのに」
「悪魔みたいに可愛くなくて、ふてぶてしくて悪かったな……」
これにはさすがにムッとした。言っておくが、今の甲洋だって十分すぎるほどメンがヘラっている。いくらそれが自分自身であったとしても、操の心を掴んで離さない存在が他にいると思うと、再びメリバに一直線してしまいそうだった。
「残念だけど、夢はもうおしまいだ。この通り、すっかり元に戻ったしね。世話なんか必要ないよ」
「そんなのやだ! 甲洋はおれが一生お世話するんだ! 毎日お風呂で身体を洗ってあげて、ご飯は全部アーンで食べさせてあげて、夜は抱っこしながらいっぱいチュウして、寝るまで子守唄をうたってあげるんだ!」
「くそ! なんだその夢のような暮らしは!?」
中身ショタの俺は、そんな贅の限りを極めていたのか……と、どこにもぶつけようがない殺意を募らせていると、操がしょぼくれながら溜息をついた。
「まぁいっか……これからはずっと、おれが甲洋を養っていくのに変わりはないし」
「は? 養う?」
「安心して甲洋! 今度はおれがしっかり外で働いて、君に楽させてあげるからね!」
「いやいやいや、それじゃ俺はただのヒモになっちゃうだろ?」
「そうだよ! 君はなんの苦労も心配もせず、上げ膳据え膳でゲームしながらダラゴロする、顔がいいだけのヒモニートになるんだよ!」
「断る!!」
冗談じゃない。甲洋が操を閉じ込めてなにもさせなかったのは、病みに病んだ結果である。以前はこちらが押さえつける立場であったわけだから、文句を言える筋合いはないのかもしれないが。そこまで落ちぶれるくらいなら、いっそマグロ漁船にでも乗り込んだ方がマシだ。
「とにかく、俺は養われる気はないから」
「どうしてそんなワガママ言うかなぁ? 子う洋は素直で可愛かったのに……」
「やめろその表記」
操がすっかりママの顔になっていることにムカムカしながら、甲洋は秒で社会復帰してやろうと胸に誓った。
「いいから帰るよ。この蒸し暑さじゃ、その子達も可哀想だ」
甲洋は少しうんざりした気持ちになりながら、溜息を漏らすと立ち上がった。
「え? あ、うん」
少しポカンとしながら、頷いた操も立ち上がる。その手首にかかっている紐の先で、ビニールに入った二匹の金魚を見て懐かしさが込み上げた。じっと甲洋を見上げる操の頭に手を伸ばし、朝顔の髪飾りを優しく撫でる。
「懐かしいな」
呟くと、操がくすぐったそうに肩をすくめた。
「甲洋がくれたんだよ」
「へぇ?」
なにも覚えてなかったくせに、やるじゃないかと甲洋は我ながら少し得意げになる。三年間の空白を取り戻すことはできないが、どうやら自分は二度目の初恋をしていたらしい。
「悪くないな」
もういちど操の朝顔を撫でてから、甲洋は家の方向へ歩きだした。数歩進んで振り返り、操に向かって右手を差し出す。
「ほら、行くよ」
操はなぜか目を丸くしていた。なぜそんな顔をしているのかと首を傾げた甲洋に、彼は何度も瞬きを繰り返しながら同じように首を傾げた。
「さっきから不思議に思ってたんだけど」
「うん。なに?」
「君、なんで普通に立って歩けてるの?」
「?」
「これ!」
操は道の端に転がっていた杖を拾い上げると、甲洋に向かって差し出して見せた。
「これがないと、ちゃんと歩けなかったはずでしょ? 記憶と一緒に、足も元に戻ったの?」
「……ああ、なるほどね」
そういうことかと、甲洋は考えるまでもなく理解した。なんだか可笑しさが込み上げる。我ながら、結構したたかな奴だなと。
「お前と同じことをしてたんじゃない?」
そう言って、ふっと小さく息を漏らしながら微笑んだ。そのまま歩きだしてしまった甲洋の背中を、ぽっかりと口を開けた操が凝視する。愕然とした彼は、手から杖を落としてしまった。カラン、という音が、蒸し暑い夜道に大きく響く。
「う……嘘でしょお~!?」
声をひっくり返しながら叫んだ操に、甲洋はつい声をあげて笑ってしまった。
←戻る ・ Wavebox👏
帰ります、と言って操から逃げだそうとした甲洋は、足をもつれさせて転んでしまった。
ガツンという強い衝撃に脳が揺れて、瞼の裏で大きな花火が打ち上がる。甲洋はまるでたったいま眠りから覚めたように、意識がクリアになるのを感じた。
「だいじょうぶ!?」
操が慌てて駆け寄り、甲洋の身体を抱き起こした。
「頭打ったの!? ここすごいタンコブできてるよ! 早く帰って冷やさなきゃ!」
甲洋の頭部に触れながら顔を青くする操に、違和感を覚える。確か自分は、彼を庇って山の斜面から転がり落ちたはずだ。意識は朦朧としていたが、操がひどく泣いていたのを覚えている。が、今の彼にはあのときの悲壮感がない。そもそもここは山の中ですらないようだし、まるで状況が掴めなかった。
ズキズキと痛む頭部を押さえつけながら、甲洋は地面にあぐらをかいた。なぜか浴衣を着ているらしく、腿がむき出しになってしまうがそんなことはどうでもよかった。
「来主、俺はどのくらい寝てた?」
「へ……?」
「ここは……ああ、神社のそばか」
「あの、甲洋?」
甲洋の傍らに膝立ちしている操が、ポカンとしている。肩に鉛を羽織っているようなダルさを覚えながら、そんな操の丸い瞳を見返した。
「君、もしかして記憶が戻ったの?」
「記憶? うん、まぁ……この状況を鑑みるに、そういうことなんだろうね」
頭痛が痛すぎて(重複)、正直あまり余裕がない。寝すぎると逆に疲れてしまう、あの現象に似ている。そしてそれはあながち間違ってはいなさそうだ。
甲洋の記憶は虫の息になりながら操に抱き抱えられたあの瞬間から、ぷっつりと途切れていた。てっきり死んだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
急になんの脈絡もなく場面が切り替わったような状況に、記憶がどうのと驚いている操。自分が今の今まで記憶障害を患っていたらしいことくらい、寝起き(?)の頭でも察するのは朝飯前だった。
「こ、こうよう……ッ、甲洋、甲洋~~~!!」
呆然としたままだった操が、甲洋の名を連呼しながら抱きついてきた。彼はそのままわんわんと声をあげて泣きだしてしまう。自分の感覚としてはほんの一瞬の出来事だったが、あの時とはまた違った派手な泣きっぷりに、甲洋はジンと胸が痺れていくのを感じながら操の身体を抱き返した。
失わずに済んだことへの実感が、ふつふつと湧き上がってくる。
「来主、無事でよかった。本当に……」
「甲洋っ、甲洋……! ごめんね、ごめんね甲洋……っ、おれ、おれ……!」
「いいから……もう大丈夫だから」
操はひどく泣きじゃくり、身体を震わせていた。あれからどれだけの時間が経っているのかは分からない。だけど、こうしてまた彼を抱きしめることができた喜びを噛み締め、両腕にいっそう力を込める。
「よかった……甲洋の記憶が戻って、本当によかっ……ん? あれ?」
「どうかした?」
操は伏せていた顔をあげ、首を傾げるとなにか考え込んでいる様子を見せた。
「来主?」
「じゃあ、さっきまでの甲洋は? 可愛いショタ(中身)甲洋には、もう会えないの?」
「しょ、ショタ……?」
訳が分からないでいる甲洋に、操はこれまでなにが起こっていたのかを話してくれた。あのあと甲洋は二年ものあいだ眠り続け、ようやく目を覚ましたときには中身だけ子供時代にタイムスリップしていたらしい。いわゆる幼児退行だ。
操はそんな甲洋(子)と、一年という時間を共に過ごした。そしてお祭りに行った帰り道、甲洋(子)は急にメンヘラを爆発させたと思ったらすっ転び、頭を打って元の甲洋(大)に戻ったというわけである。
「そ、そんなことが……」
そこまでは予想していなかった。驚愕する甲洋に、操は残念そうに肩を落とす。
「そんなぁ……天使みたいに可愛くて、オドオドしてて、お世話し甲斐があったのに」
「悪魔みたいに可愛くなくて、ふてぶてしくて悪かったな……」
これにはさすがにムッとした。言っておくが、今の甲洋だって十分すぎるほどメンがヘラっている。いくらそれが自分自身であったとしても、操の心を掴んで離さない存在が他にいると思うと、再びメリバに一直線してしまいそうだった。
「残念だけど、夢はもうおしまいだ。この通り、すっかり元に戻ったしね。世話なんか必要ないよ」
「そんなのやだ! 甲洋はおれが一生お世話するんだ! 毎日お風呂で身体を洗ってあげて、ご飯は全部アーンで食べさせてあげて、夜は抱っこしながらいっぱいチュウして、寝るまで子守唄をうたってあげるんだ!」
「くそ! なんだその夢のような暮らしは!?」
中身ショタの俺は、そんな贅の限りを極めていたのか……と、どこにもぶつけようがない殺意を募らせていると、操がしょぼくれながら溜息をついた。
「まぁいっか……これからはずっと、おれが甲洋を養っていくのに変わりはないし」
「は? 養う?」
「安心して甲洋! 今度はおれがしっかり外で働いて、君に楽させてあげるからね!」
「いやいやいや、それじゃ俺はただのヒモになっちゃうだろ?」
「そうだよ! 君はなんの苦労も心配もせず、上げ膳据え膳でゲームしながらダラゴロする、顔がいいだけのヒモニートになるんだよ!」
「断る!!」
冗談じゃない。甲洋が操を閉じ込めてなにもさせなかったのは、病みに病んだ結果である。以前はこちらが押さえつける立場であったわけだから、文句を言える筋合いはないのかもしれないが。そこまで落ちぶれるくらいなら、いっそマグロ漁船にでも乗り込んだ方がマシだ。
「とにかく、俺は養われる気はないから」
「どうしてそんなワガママ言うかなぁ? 子う洋は素直で可愛かったのに……」
「やめろその表記」
操がすっかりママの顔になっていることにムカムカしながら、甲洋は秒で社会復帰してやろうと胸に誓った。
「いいから帰るよ。この蒸し暑さじゃ、その子達も可哀想だ」
甲洋は少しうんざりした気持ちになりながら、溜息を漏らすと立ち上がった。
「え? あ、うん」
少しポカンとしながら、頷いた操も立ち上がる。その手首にかかっている紐の先で、ビニールに入った二匹の金魚を見て懐かしさが込み上げた。じっと甲洋を見上げる操の頭に手を伸ばし、朝顔の髪飾りを優しく撫でる。
「懐かしいな」
呟くと、操がくすぐったそうに肩をすくめた。
「甲洋がくれたんだよ」
「へぇ?」
なにも覚えてなかったくせに、やるじゃないかと甲洋は我ながら少し得意げになる。三年間の空白を取り戻すことはできないが、どうやら自分は二度目の初恋をしていたらしい。
「悪くないな」
もういちど操の朝顔を撫でてから、甲洋は家の方向へ歩きだした。数歩進んで振り返り、操に向かって右手を差し出す。
「ほら、行くよ」
操はなぜか目を丸くしていた。なぜそんな顔をしているのかと首を傾げた甲洋に、彼は何度も瞬きを繰り返しながら同じように首を傾げた。
「さっきから不思議に思ってたんだけど」
「うん。なに?」
「君、なんで普通に立って歩けてるの?」
「?」
「これ!」
操は道の端に転がっていた杖を拾い上げると、甲洋に向かって差し出して見せた。
「これがないと、ちゃんと歩けなかったはずでしょ? 記憶と一緒に、足も元に戻ったの?」
「……ああ、なるほどね」
そういうことかと、甲洋は考えるまでもなく理解した。なんだか可笑しさが込み上げる。我ながら、結構したたかな奴だなと。
「お前と同じことをしてたんじゃない?」
そう言って、ふっと小さく息を漏らしながら微笑んだ。そのまま歩きだしてしまった甲洋の背中を、ぽっかりと口を開けた操が凝視する。愕然とした彼は、手から杖を落としてしまった。カラン、という音が、蒸し暑い夜道に大きく響く。
「う……嘘でしょお~!?」
声をひっくり返しながら叫んだ操に、甲洋はつい声をあげて笑ってしまった。
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*繭の鳥籠から一年後くらいのお話です。
*甲洋は左足が麻痺して杖をつかないと歩けなくなっています。
*オマケの番外編もあります。
羽化の花籠
9歳の夏だった。
ぶら下げられた風鈴が、気休めに涼を奏でている。グラスの中では、さっきまでしゅわしゅわと騒がしかったサイダーが凪いでいた。うだる熱気に、氷がずいぶん小さくなっている。
赤らんだ光がさす縁側で、甲洋はぼんやりと庭を眺めて座っていた。群れからはぐれたひぐらしが、どこからか金切り声をあげている。
夕暮れを告げるその寂しそうな叫びに耳を傾けていると、背後で障子が開く音がした。
「甲洋、おまたせ!」
振り向くと、そこには浴衣を着た操が立っている。甲洋は思わず目を丸くしてしまった。今日はこれから二人で夏祭りへ行くことになっている。操が浴衣を着せてもらうというので待っていたのだが、その姿は想像していたものとはだいぶ違っていた。
操は袖を広げるようにしながら、軽やかにくるりと一回転して見せた。水色と桃色の朝顔が散りばめられた淡黄色の生地に、赤い帯が背中でリボン結びされている。それはどう見ても女の子が着る浴衣で、髪には帯と同じ赤い朝顔の飾りまでつけていた。
「ねぇにあう?」
似合うなんてもんじゃない。似合いすぎている。まるで本当に女の子のようで、甲洋は瞬きひとつできずにポカンとしたまま、見惚れることしかできなかった。
「これね、おれのお母さんがちっちゃいころにきてたんだって! おれもきたいって言ったら、おばあちゃんがきせてくれたの!」
「そ、そうなんだ。その……かわいい。すごく」
「ほんとぉ?」
「うん、すごく、ほんとう」
甲洋はさっきからずっと顔が熱くて、胸がドキドキするのを止められないでいた。そのせいか言葉につまり、短い単語をどうにか繋げるだけで精一杯だった。
操はまんまるの赤い頬で、嬉しそうに「えへへ」と笑った。生えてきたばかりと分かる、小さな白い前歯がちらりと覗いている。甲洋は初めて会ったときから、この天使みたいに可愛い笑顔の虜になっていた。
「次は甲洋くん、お着替えするからこっちにおいで」
すると仏間から操の祖母が顔をだした。甲洋に向かって、笑顔で手招きをしている。
「え? でも俺、浴衣なんて」
戸惑う甲洋に、彼女は「いいからいいから」と言ってなおも手招きをした。
「こうよーはやくぅー! おまつりはじまっちゃうよー!」
腰掛けたままの甲洋の手をとり、操がブンブンと振り回すようにしながら引っ張ってくる。遠慮がちに頷いて立ち上がると、仏間に足を踏み入れた。
そこで甲洋は生まれてはじめて甚平を着せてもらった。墨色に線香花火柄の甚平は、操の祖父が昔着ていた浴衣を、わざわざ甲洋のためにリフォームしてくれたものだった。
そういえばこの家を訪れた初日に、寸法を測られたことを思いだす。不思議に思ってはいたが、「内緒」と言われて教えてはもらえなかった。こんな手間暇をかけてもらうのは初めてのことで、あまりの嬉しさと感動に甲洋は何度も繰り返しお礼を言った。
準備が終わると、操の祖父が二人分のお小遣いを入れた巾着袋を渡してくれた。たくさん遊んでおいでと言われ、甲洋と操は声を揃えて元気に返事をした。
夏祭りの会場は、家から歩いてすぐの場所にある小さな神社の境内だった。朱塗りの鳥居をくぐった先には多くの屋台が立ち並び、頭上には紅白の祭提灯が張り巡らされている。太鼓や笛のお囃子が響き渡る境内を、近所中から集まった人々が行き交っていた。
「わー! すごい! ひとがいっぱい!」
「あ、待って! はぐれるといけないから」
祭の熱気に気をとられた操が、今にも走り出そうとするのを慌てて止める。ずっと繋いだままだった手と手が汗ばみ、離れそうになるのをしっかりと握り直した。
「はやくはやく! ねぇ、あっちにわたあめがあるよ! あっ、りんごあめ! きんぎょもいる! こうよ! ねぇはやくぅ!」
操は立ち並ぶ屋台に目を輝かせ、甲洋の手をぐいぐいと引っ張ってくる。
すっかり興奮して真っ赤になっている頬と、祭の明かりを反射してキラキラと光る大きな瞳。甲洋の胸も熱く高ぶり、ふたりは次から次へと鉄砲玉のように走り回っては屋台を巡り、もらったお小遣いを使い果たすくらいたくさん遊んで、たくさん食べた。
かき氷を食べて、アニメのお面を頭の脇にかぶって、綿あめの袋を腕にぶら下げながら、りんご飴にかぶりついて。射的では小さなクマのぬいぐるみを当てて、水風船は三つも釣り上げ、一つは落として割ってしまったけれど、仲良く一つずつ指からぶら下げる。
もうすぐ打ち上げ花火がはじまるからと、少し慌ててすくった金魚は真っ赤な和金と、黒い出目金が一匹ずつだった。
「きんぎょ、くろい子が甲洋で、あかいのはおれ!」
操が目線の高さまでビニール袋を持ち上げ、嬉しそうにしている。二匹の金魚はくるりと交差し、花びらのように淡いヒレを踊らせていた。小さな小さな、二匹だけの透明な世界。
赤い和金は黒の出目金よりもサイズが小ぶりで、可憐に見えた。確かに似ている。本当に自分たちを見ているような気がして、嬉しさに胸がきゅんと締めつけられる。
「こうよー! はやく行こ! 花火がよく見えるとこ、つれてってあげる!」
操が甲洋の手を引いて走りだした。小さな手だ。しっかりと握っていなければ、風船のようにどこかへ飛んでいってしまいそうで。だけどあまりにも力を込めてしまえば、簡単に握り潰してしまいそうな気もして、少し怖い。
だけどその小ささが、儚さが、とても可愛くて大切だった。守りたいと、強く思う。
「待って来主、そんなに慌てなくても平気だよ!」
祭の喧騒。煌めきと人波と。早まる鼓動に重なる太鼓。小さな歩幅の、可愛い朝顔。
ずっと大切に胸に刻んでいようと、甲洋は誓った。この夏の夜を、キラキラとした花火のような一瞬を。むせ返るような熱気の中で、幼い恋をしていたことを。
それなのに。
どうしてだろう。今はもう、なにも思いだせない。
小さな小さな、ふたりの世界。眩しい笑顔と、切ないほどに震える心、それから──それから?
──ごめん来主……ごめん……本当に、ごめんな……
あの二匹の金魚たちは、そのあとどうしたんだっけ。
*
チリリン──。
風鈴が鳴る微かな音と、髪を撫でる優しい感触にふと目を覚ました。ぼんやりと滲んだままの視界で、ただゆっくりと瞬きを繰り返す。
いつの間に眠ってしまったのだろう。微睡んだままの意識をそっと導くように、柔らかなぬくもりが頬をなぞる。
「起きた?」
頭上からした声に誘われ、甲洋は視線を上へと向けた。優しげに細められた琥珀が見下ろしていて、目が合った瞬間、息を呑みながら飛び起きる。
「ッ!?」
咄嗟に声が出なかった。ぼぅっとしていたのが嘘のように、心臓が早鐘を打つ。頬に血液が集まっていくのを感じながら、甲洋は「ごめんなさい」と蚊の鳴くような声を搾りだした。
藍色の浴衣に赤い帯を結んだ大きな瞳の持ち主は、そんな甲洋の反応にパチパチと睫毛を踊らせてから、肩をすくめて微笑んだ。
「別にいいのに。謝らなくても」
「で、でも……」
思わず目を泳がせた先では、オトギリソウが揺れていた。夕暮れの庭には時おり風鈴の音が鳴り響き、その合間にひぐらしが声をあげる。夏の庭。その縁側で、甲洋は目の前の人の膝を枕に寝こけていたのだ。髪に触れていた優しい感触も、頬を撫でたぬくもりも、すべてこの人のものだった。
自分のせいで、彼はずっと動けずにいたに違いない。寝顔を見られていたことも恥ずかしいし、申し訳なさに甲洋はただ項垂れた。
「ねぇ、なんかごにょごにょって言ってたよ。夢でも見てた?」
萎れる甲洋を茶化すみたいに、目の前の人が悪戯っぽい笑みを浮かべた。
夢──そういえば、見ていたような気がする。だけどなにも覚えていない。不思議な懐かしさだけが、胸の奥底で小さく震えているような。
思いだそうとすればするほど、その振動はゆるやかに痛みを訴えはじめる。チクチクとした感覚に下唇を噛みながら、胸に手を押し当てた。
(いつも、こうだ)
あの日。真っ白な病室で目を覚ましてから、ずっと。
とても大切だった気がするのに、粉々に砕け散ったものは小さな欠片すら残っていない。どんな形をしていたのかさえ、甲洋には分からなかった。そこには空っぽの手の平と、かじかむように痛む心があるだけだ。
「そろそろ準備しよっか。浴衣を着せてあげるね」
「……え?」
キョトンとすると、「今日はお祭りに行く約束でしょ」と楽しげに言われた。歌うように言葉を紡ぐ人だと、甲洋は思う。来主操。目覚めてからずっと、甲洋の世界には彼しかいない。
だからこの人の言うことには頷いておけば間違いはないのだけれど、それでも甲洋は彼の顔色をうかがいながら、つい遠慮してしまう。
「あの……来主さん。俺、浴衣なんて」
持っていない。むしろ自分のものなんて、この家にはなにひとつないのだ。少なくとも、甲洋はそう思っている。
「来主」
「え?」
「さんはいらないって、いつも言ってるのに」
操は眉間にきゅっとシワを寄せ、小さな子供のように唇を尖らせる。
そんな顔をされても困ってしまうだけだ。甲洋にとっての操は、目上の存在という認識しかない。どれだけ指摘されようとも、気安く呼び捨てなんてできるわけがなかった。
『前』にいた自分がどうだったにせよ、『今』の甲洋には難しすぎる。
「まぁいいや」
そう言って立ち上がった操はどこか寂しそうに睫毛を伏せていたが、すぐに背を向けると障子を開いた。薄暗い仏間に足を踏み入れ、振り向いたときにはいつもの甘ったるい笑顔に戻っている。
「おいで、甲洋。浴衣、きっと似合うよ」
生ぬるい夏の風にくすぐられ、風鈴がまた微かな音を立てた。
*
一年前。あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
初夏の日差しに染まった病室。乾いた唇に押し当てられた熱と、泣きながら笑った操が、歌うように囁いた愛の言葉。あのときの甲洋は混乱していた。たくさんの「どうして」で、頭の中がいっぱいだった。
どうして、どうして、どうして──?
見知らぬ病室。会ったこともない、知らない他人。だけどその人は、甲洋のことが好きだと言う。世界で一番、誰よりも愛しているのだと。潤んだ瞳を大切そうに細めながら、甲洋のことを「神様」と、そう言った。
悪い夢でも見ているような世界で、その言葉だけが甲洋の胸を深く刺し貫いた。戸惑いと混乱に染まる思考を、燃えただれるような幸福に絡め取られながら。
だけどその後の甲洋を待っていたのは、受け入れがたい多くの現実でしかなかったのだ。
甲洋には9歳までの記憶しかなかった。厳密には9歳の夏、一人で船に乗って故郷を旅立った、あの瞬間までの記憶しか。そこからぷっつりと途切れて、目覚めたときには24歳の大人の男になっていた。二年前に大怪我をして、ずっと眠っていたらしい。
15年もの空白を埋めるすべなどあるはずもなく、その事実を受け入れることすら難しかった。きっと全てが夢なのだ。退屈な船旅で、つい居眠りをしてしまった。これはそんな自分が見ている、ただの夢なのだと。
けれどいつまで経っても夢は醒めなかった。そうしているうちに、甲洋は病院からリハビリセンターに移ることになった。甲洋の身体は、怪我の後遺症で左半身の手足に麻痺が残っていた。
甲洋はそこで半年ほど治療を受け、ある程度の機能は回復させることができた。足の麻痺だけはまだ残っているが、杖をつけば一人での歩行も問題ない。今は操の家で暮らしながらリハビリを行い、定期的に通院しながら療養している。甲洋は、25歳になっていた。
*
「やっぱり! よく似合ってる!」
操の手を借りて着せられたのは、淡く黄色がかった生成りの生地に、かすり縞の入った浴衣だった。黒い帯を結んでくれた操が、甲洋の背をポンと叩いて満足そうにしている。
「かっこいいよ! すごく!」
「あ、ありがとう」
気恥ずかしさに頬を染めれば、「ふふ」と嬉しそうに笑った操が部屋の隅から姿見を引っ張り寄せる。そこに映し出された自分の姿を見て、甲洋はまるで赤の他人と向き合っているような感覚を覚えた。
長い手足と広い肩幅。幼さが削げ落ちた頬に、伸びた焦げ茶の癖毛が張りついている。25歳の大人の瞳が、幼いまま取り残された自分を見ていた。
(こんなの、俺じゃない)
自分の身体は、もっと小さかったはずだ。父が気まぐれでプレゼントしてくれたTシャツは、まだ9歳の甲洋には少し大きいくらいだった。だけどとても嬉しくて、大切で、いつまでも着ていたいと思っていたのに。
そういえばあのTシャツは、今どこにあるんだろう。リュックに詰めたはずの夏休みの宿題も、日記帳も、筆箱も。ここにあるのは自分じゃない誰かの私物ばかりだ。着替えだとか、腕時計だとか、食器でさえも。それらがすべて君のものだと言われても、ひとつも実感を得られない。
「甲洋」
やり場のない感情を、ただ鏡に映る男を睨みつけることで堪えていた甲洋は、その声にハッとして振り向いた。操は甲洋と向き合うと、浴衣の襟を軽く指先で整えてくれる。
「これでよしっと」
「あの、ごめんなさい」
「うぅん、いいの。ねぇ、ちょっと屈んでよ」
「?」
操が甲洋の両肩に手を置いて、軽く背伸びをする。甲洋は疑問符を浮かべながら軽く身を屈めた。すると白い両手に頬を包まれ、ちゅっという音を立てながら唇同士が触れ合った。
「ッ、わっ!?」
甲洋は顔を真っ赤にしながら身体を跳ねさせ、腰が引けた状態で硬直した。けれど脇の下から回ってきた操の腕に背中を抱かれて、さらに身動きがとれなくなってしまう。
「あ、あ、あのっ、来主、さん」
「いっつもしてるじゃん。そろそろ慣れてよ」
「な、慣れ……? そんなの、無理に決まって……」
「おれは君のものなのに」
絶句。火がついたみたいに顔が熱い。操は甲洋の胸に頬を押しつけていて、今にも爆発しそうになっている心臓の音を聞かれていると思うと、どうしたらいいか分からなくなる。グルグルと目が回り、今にも倒れてしまいそうだった。
昔ここにいた自分なら、もっと当たり前のように受け止めていたのだろうか。されるばかりじゃなく、自分から彼を引き寄せていたのだろうか。
「好きだよ」
「ッ!」
「大好き。おれの神様」
粟立つ皮膚に、呼吸がとまる。胸が痛くて苦しくて、ただ泣きたくなった。
こんなとき、甲洋の中にはやっぱり幾つもの「どうして」が渦を巻く。この人のことを、自分はなにも知らないのに。どうして、どうして、どうして。どうしてこんなに、嬉しいんだろう──?
所在なく宙を彷徨っていた両手で、恐る恐る操の肩に触れようとした。抱きしめてくれるこの人を、同じように抱きしめてみたいと思ったから。だいじょうぶ。だって、こんなに好きだと言ってくれる。優しく、大切にしてくれる。だからきっと、触れたって許される。
「お祭り、また君と一緒に行けて嬉しい」
「!」
「今日はいっぱい遊ぼうね」
しみじみと言いながら顔をあげた操は、懐かしそうに目を細めて笑っていた。その綺麗な瞳には、呆然とした表情を浮かべた見知らぬ男が写り込んでいる。
(これは、俺じゃない)
この人が見ているのは。
(俺じゃないんだ)
一緒にお祭りに行きたいのも、キスをしたいのも、愛しているのも。
甲洋は今にも触れそうになっていた指先を、そっと両脇に下ろしてしまう。触れていいのはこの手じゃない。だって甲洋には、一度だって操とお祭りへ行った記憶がないのだ。思い出なんかひとつもなくて、この人のことを、やっぱりなにも知りはしない。
「はい」
今の甲洋にできるのは、ただ曖昧に笑って頷くことだけだった。
*
長い入院とリハビリ生活の中で、甲洋は待っていた。
思い通りにならない半身。自分の記憶の中にあるよりも長い手足。鏡に映る見知らぬ自分と、失ったという実感すらない空白の時間。そのすべてに怯えながら、両親のことを。
来ないことは分かっていた。来てくれるはずがない。だって自分は家族じゃないから。だから旅行にだって連れて行ってはもらえなかった。あの人達の中に自分という存在がどこにもいないことを、甲洋はちゃんと知っていた。
それでも会いたかった。迎えに来てほしかった。淡い期待を、どうしても捨て去ることができなかった。
そんな甲洋のそばに、いつも寄り添ってくれたのが来主操だった。遠い親戚の家の子。自分より年下の、まだ小学校に上がったばかりだと聞いていたはずの子供。
青年の姿をした彼は、毎日のように甲洋のもとを訪れた。いつまでたっても来てくれない両親の代わりに、甲洋を守るようにそっと優しく、抱きしめてくれた。髪を撫で、愛おしそうに目を細めて、顔中に小さなキスを降らせて。大好きだよと、ずっと一緒だよと、何度も何度も震える甲洋に言い聞かせた。
リハビリセンターから来主の家に移っても、それは変わらなかった。両親がなにひとつ与えてくれなかったもの。あるいはそれ以上のものを、操は惜しみなく与えてくれる。
爪の先まで痺れるような嬉しさに怯えながら、その愛情に溺れてしまえたらどんなによかっただろう。操がときどき聞かせてくれる、甲洋と過ごした日々の思い出。それを語るときの彼は、いつも懐かしそうにどこか遠くを見つめている。甲洋を通して、甲洋じゃない誰かのことを。
それがとても大切なものであったことだけは分かるのに。どんな話を聞かされても、甲洋にはどこかまったく別の国のお伽噺のようにしか思えなかった。記憶にないものは、最初から『無い』も同然だ。
だから操の中にも、自分の存在なんかどこにもいないのかもしれない。むしろ本当は、この世界のどこにも。あの日、一人ぼっちで船に乗り込んだ、あの夏の日。泣きそうな瞳で海を見つめていた9歳の春日井甲洋は、もうとっくに死んでいるのかもしれない。
*
来主の家から神社までの道のりを、甲洋は左手に杖をつきながら歩いていった。操は甲洋の右手をしっかりと握りしめ、注意を払いながら足並みを揃えてくれる。
少し小高い位置にある神社の石段をゆっくりと登っていくと、朱塗りの立派な鳥居が見えた。そこをくぐると蒸し暑さが一段と増し、煌々と提灯が輝く祭の風景が広がっている。
射的にくじ引き、かき氷だとか綿あめだとか、多くの屋台がひしめき合うなか、夏草の香りを掻き消すように焦げたソースの匂いが漂っていた。
「わぁ……」
甲洋は思わず声をあげていた。多くの人の喧騒と、日常から切り離されたような祭の空間。不思議な音色のお囃子に、色とりどりの屋台の品物。今にも走って飛び込んでいきたいような高ぶりに、ワクワクとした気持ちが止まらない。
「人がいっぱいだね。あ、そうだ」
「?」
操は空いている方の手にぶら下げていた小さな巾着袋を、甲洋の浴衣の袖にグイッと押し込んできた。
「お小遣いいっぱい持ってきちゃった。君が持ってて」
「え、でも」
「だっておれ、ぜったい落とすもん」
普通は大人がお金を持ち歩くものだと思うのだが。困惑しつつ、けれど確かにこうしたほうが安心な気もする。こんなことを思うのはとても失礼な話だけれど、人混みの中で気づいたら財布を失くしている操の姿が、なぜか容易に想像できてしまった。
この人は大人だが、妙に子供っぽくてそそっかしいところがある。そういえば肉体的な年齢だけなら、自分の方が年上でもあるのだった。ちぐはぐだなと、甲洋は思う。
「……わかりました。俺が持ってます」
「えへへー、お願いね!」
重圧から開放されたとばかりに笑う操に、甲洋にも自然と笑みが浮かんだ。そうか、自分は頼られているのかと、そう思うと急に誇らしくなってくる。
「今日は特別な日だもん! いっぱい遊ぼ! 君も好きなもの、なんでも買っちゃっていいよ!」
「えっ、さすがにそれは……」
「いいの! ほら行くよ! お腹空いたから、なんか食べたい!」
操が甲洋の腕をぐっと引っ張る。麻痺した片足が少しグラついたが、それ以上の強引さはなかった。この人だって、きっと今にも駆けだして行きたいはずなのに。はやる気持ちを抑えながらも、甲洋に合わせようとしてくれる。
申し訳ないのに、喜びのほうが勝っていた。この人は、絶対に俺を置いていったりしないのだと。祭の熱気に高鳴る胸が、今だけは甲洋から卑屈な感情を奪い去っていた。
*
それから二人はたこ焼きやらイカ焼きやら、目についたものを片っ端から食べてお腹を満たした。操はさらにクレープまで食べて口の横を汚し、そのことに全く気がつかないものだから、甲洋は肩を震わせて笑ってしまうのを止められなかった。
そのあとは射的をして、くじを引いて、ヨーヨーを釣って、ラムネを飲んで一息ついたあと、金魚すくいをやることになった。
「よぉーし! 一番おっきな金魚とるから! 見ててよ!」
プラスチック製の大きなタライの前にしゃがんだ操が、ポイを片手に腕まくりをしている。水が張り巡らされたタライの中では、金魚たちが所狭しとひしめき合って泳いでいた。
甲洋はその斜め後ろに立って、杖で身体を支えながら操の手元を覗き込む。彼は水に浸したポイで、狙った金魚を執拗に追い回していた。
「あっ、待って! あっ、あー! 破けたぁ!」
「あはははは! 下手だねぇ操ちゃん!」
「もー! あとちょっとだったのに! おじさん、もう一回!」
「はいよ!」
破れたポイを交換してもらった操が再び狙いを定めているとき、甲洋はふとなにかに誘われるように顔をあげて、とある露店の一角に目をやった。そこには手作りの雑貨品を並べている店がある。
どうして気になったのかは分からない。だけど甲洋は一瞬だけ操に目をやったあと、杖をつきながらそこに向かった。
テーブルの上にはぬいぐるみやブレスレットなど、子供や女性が喜びそうな雑貨品がずらりと並べられている。その中から、甲洋は一つだけある髪飾りに強く惹かれた。水色と桃色の朝顔を模した、つまみ細工の髪飾りだ。
矢も盾もたまらず、甲洋は店主に声をかけるとその髪飾りを購入した。
「甲洋ー! いたいた! 駄目じゃん一人で勝手にどっか行ったら!」
会計が済んで戻ろうとしたところで、先に操が駆け寄ってきた。彼は手に金魚が入ったビニール袋をぶら下げている。
「えへへー! じゃーん! 見て見て! 金魚!」
操が掲げた袋の中では、赤い和金と黒い出目金がゆったりと漂っていた。
「この黒い子、おっきいでしょ? この子が欲しかったんだ! ちょっと君に似てるから」
「俺に?」
「うん! 赤い子はね、おじさんがオマケで入れてくれた!」
甲洋は改めてビニールの中の金魚を見た。鮮やかな赤いヒレと、大きな黒いヒレが花びらのように揺れている。大勢の金魚たちの中から選ばれた二匹だけが、隔離された透明な世界で口をパクパクとさせながら身を寄せ合っていた。
甲洋は金魚から目が離せなくなった。さざ波のように押し寄せてくる、この懐かしさはなんだろう。小さな世界。寄り添う二匹。赤と黒。いつかどこかで、これと同じ光景を見たような──。
「ねぇ、甲洋はなにしてたの?」
「……あ」
魅入られていた甲洋は、首を傾げる操に小さく息を呑んだ。それから、手の中にあるつまみ細工に視線を落とす。
似ていると思った。この髪飾りを見たときの気持ちと。懐かしさと切なさに追い立てられて、迷う暇もなく買っていた。この朝顔は、きっと操に似合うはずだと。
「それ、朝顔?」
操が目を丸くしている。甲洋は少し緊張しながら、その髪飾りを操の左耳の脇に持っていくと、そっと髪に挿し込んだ。上手く固定されたのを確認して、ホッと息をつきながら笑みを浮かべる。
「やっぱり、よく似合う」
「甲洋……? これ、おれに?」
「あっ……すみません、勝手にこんな……」
すぐにハッとして顔をうつむけた。いくら好きなものを買えと言われたからって、考えなしにとってしまった行動を、操はどう思っただろう。おそるおそるその顔に目をやると、彼は頬を赤らめながらポカンと口を開けている。
判断しがたいその反応に、甲洋はさらに申し訳なくなって萎縮した。なにをしているんだろう。大体、この人は男の人だ。女の子がつけるものを貰って、喜ぶはずがないのに。
「ぁ、あの」
「嬉しい」
「え?」
「ありがとう」
見開いた視線の先で、操が笑顔を浮かべていた。溶けだしそうにとろんと瞳を潤ませて、赤い頬をして、胸が痛くなるくらい綺麗に、可愛く。
その笑顔に、甲洋も少しだけポカンとしながら頬を赤らめた。不思議な懐かしさに駆られて手にとった髪飾り。朝顔の花が、柔らかな亜麻色の髪に咲いている。
思った通り、よく似合う。祭の煌めきの中で、操は誰よりも輝いて甲洋の目に映った。
「……あ、そうだ。甲洋、もうすぐ花火がはじまるよ!」
互いに赤い顔をしたままの気恥ずかしい空気を、操の明るい声がうまく壊した。彼は甲洋の横に移動すると、来たときと同じように右手をぎゅっと握ってくる。
「ここは人が多いし。もっとゆっくり見られるところ、連れてってあげるね!」
甲洋が小さく笑って頷くのと同時に、操が少し焦ったように一歩踏みだす。そのとき下駄を履いた足先が引っかかるようにカラリと鳴って、操の身体が前のめりに傾いた。
「あっ!」
手からぶら下げているビニールの中で、金魚のヒレが大きくはためく。
「危ない!」
甲洋は握っていた手に力を込め、腕力だけで操の身体を引っ張り上げた。転倒を免れた操はすぐに金魚が入ったビニールを見て、二匹の無事を確かめると、ホッとしながら甲洋を見上げる。甲洋もまた深く安堵しながら口を開いた。
「今度は、失くさないで」
失くさないで──。
「え……?」
操が瞳を大きく見開く。甲洋も驚いて、しきりに瞬きを繰り返した。
それは無意識に口から出た言葉だった。だけどどうして? 今度、という言葉が今をさしているのなら、自分は一体いつの出来事と照らし合わせて、さっきの言葉を放ったのだろう?
訳が分からず呆然とする甲洋に、ゆっくりと目を細めた操が「うん」と頷いた。
*
神社から石段を下って、祭の会場から少し離れた位置まで移動するあいだ、ふたりは一言も声を発さなかった。
車一台が通れる程度の狭い道。濃い夏草の香りが少し湿った空気に立ち込め、遠ざかる祭囃子の代わりに、ケラやキリギリスといった虫たちが鳴いている。等間隔に立っている街灯が、うっすらと辺りを照らしていた。
「……子供の頃にね」
虫たちのささめきの中で、操がポツリと口を開いた。
「一緒に夏祭りに行ったときのこと、覚えてる?」
甲洋は驚いた。操はよく昔の話を聞かせてくれるが、こうして問いかけてくることは、今まで一度もなかったからだ。
「なにも……」
覚えていない。ゆるく首を振りながらそう答えるしかない甲洋に、操はふと足を止めると正面に回ってきて、追いすがるような目で「本当に?」とさらに問いを重ねてくる。
「……ごめんなさい」
薄闇の中で目を逸らす。喧騒が消え、祭囃子すらうっすらとしか聞こえない夜の道には、いっときだけ忘れることができていた現実が明確に広がっている。夢のような時間は、とっくに終わってしまっていた。
「そっか」
操は髪に咲く朝顔を指先でそっと撫でながら、淋しげに微笑んだ。
「昔ね、一緒に行ったお祭りでも、金魚をとったんだ。この子たちと同じ。赤と黒の」
その声に耳をすませながら、甲洋は左手に持つ杖を強く握りしめる。
「嬉しくてはしゃいでたら、おれ、転んじゃったんだ。そしたら金魚……すぐに弱ってダメになっちゃって。花火も見ないで、ずっと泣いてた」
甲洋の脳裏に、つい先ほどの光景がよぎっていく。操は真っ先に金魚の無事を確かめていた。甲洋もまた、意識せず深い安堵を覚えたのだ。無事でよかったと。もう失くしたくないから。この人に、泣いてほしくないから。
過去にそんなことがあったなんて、ひとつも覚えてないくせに。
「そのときね、なぜか甲洋は、おれに何度も何度も謝ってきたんだ。来主が転んだのは自分のせいだって。隣にいたのに、守れなかったって」
とつぜん、虫たちの声がピタリと止んだ。あれほど騒がしかったのに、なにかを予感したみたいに。
うつむきがちだった操が顔をあげた。ずっと遠くを見ているみたいに、寂しい瞳で。小さく笑って、懐かしそうに甲洋を見つめる。
「君っていつもそう。なにも悪くないのに、悪いのはおれなのに、いつもそうやって──」
ヒュウという音がして、頭上で大きな花火が上がった。色鮮やかな大輪の花が、真夏の夜空に咲き誇る。幾つも幾つも、祭の終わりを告げながら。甲洋と操はただ静かに、散っていく花びらを見つめ続けた。
どうしてだろう。同じ一瞬を生きているのに、同じ景色を見ているのに、どうしてこんなに遠いんだろう。確かに繋がれていたことだけは分かるのに、甲洋にはそのほつれた結び目を手繰り寄せるだけの力すらなかった。
(……大っ嫌いだ。俺は、俺のことが)
甲洋は、来主操と共に生きていたはずの春日井甲洋のことが憎かった。憎くて憎くて、そして羨ましかった。どんなに優しくされても、愛していると言われても、それは甲洋のものには決してならない。
だから悔しかった。虚しかった。悲しかった。勝手に生きて、勝手にいなくなってしまった見知らぬ自分。甲洋は甲洋に、嫉妬していた。
「帰ろっか」
花火が終わると、再び虫たちが鳴きはじめた。祭りのあとの寂しさを、火薬混じりのぬるい風がさらっていく。
操は甲洋にそっと手を差し出した。けれど甲洋は、その手を取ることができなかった。
「ごめんなさい」
操がことりと、首を傾げる。
「どうして謝るの?」
「……あなたの大事なものを、俺は返してあげられない。あなたが一緒に生きてきたのも、これからも一緒にいたいと思っているのも、俺じゃないのに」
操の顔が滲んでいく。切り裂かれるような胸の痛みと、悔しさと、罪悪感。甲洋は耐えるように一度だけ下唇を噛み締めたあと、吸い込んだ息を震わせながら吐きだした。
「それでも俺には、あなたしかいない。あなたに優しくされるのが嬉しい。大事にしてもらえるのが嬉しい。あなたに好きだって言ってもらえるのが嬉しい。俺は、あなたのことが……」
好きだとは、言えなかった。言えばなにもかもが壊れてしまいそうな気がした。あのときだってそうだ。甲洋は両親に「俺も一緒に行きたい」という、たった一言が言えなかった。自分だけ親戚の家になんか行きたくない。一人で船に乗るなんて嫌だ。父さんと母さんと、一緒にいたい──。
言えばどんな答えが返ってくるか、分かっていたから。お前なんか必要ないのだと、思い知らされるのが怖かった。だから甲洋は、自分の気持ちを伝えることができなかった。
「帰ります。一人で」
どうしようもなく逃げだしたい気持ちになって、甲洋は操に背を向けた。家の方向とはまったく違っていたけれど、それでもいいから今すぐ姿を消してしまいたかった。
「甲洋……!」
走れないことにもどかしさを覚えながら、杖をついて必死で足を引きずった。気持ちばかりが焦って、思い通りにならない身体にまた悔し涙が込み上げる。するとその焦燥が麻痺した足をもつれさせ、甲洋は転んで膝をついてしまった。杖が遠くに弾け飛ぶ。
「ッ……!」
「だいじょうぶ!?」
操がすぐに駆けつけて、甲洋のそばに膝をつく。正面から肩を支えられ、甲洋はその情けなさにいよいよ泣くのを我慢することができなかった。
「君が転んでどうするのさ」
操が少しだけ呆れたように笑った気がする。だけど甲洋はその顔を見ることができなかった。涙が溢れて、次から次へと頬を伝っていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめん、なさ……っ」
恥ずかしい。情けない。悔しくて悲しくて、自分なんか、早く消えてしまえばいいと思う。身体だけは大きいくせに、中身は小さな子供のままで。一人では逃げだすことさえ、できやしなくて。好きな人に、好きだと告げる勇気もない。
(俺なんか、どうせどこにもいないんだから……!)
身を震わせて泣く甲洋の頬に、白い指先がそっと触れた。思わず肩をビクリと跳ねさせ、咄嗟に顔を上げた瞬間、唇同士が軽く触れ合う。
「んッ……!」
「ごめんはもう禁止」
呆然とする甲洋に、操が優しく笑いかける。驚いた拍子に涙はスッと引いてしまった。ただ顔が熱くて、なにも言うことができなくなる。
操は潤んだ瞳をまっすぐ見つめて、「好きだよ」と言った。胸が痛くて、甲洋はくしゃりと表情を歪ませる。こんなに苦しいのに。悔しくて悲しいのに。飢えた心はその言葉を待ちわびていた。
「言ったでしょ。世界でいちばん愛してるって」
小さな白い手が、甲洋の両頬を包み込む。柔らかくて、とても優しい。
「君は君だよ。一人しかいない。おれが大好きな甲洋は、ちゃんとここにいるよ」
歌うような操の言葉。胸が震えて、締めつけられる。ツルが巻きつくように甲洋の心に絡みつき、がんじがらめにしてしまう。
「君が失くしてしまったものは、全部おれが持ってるから。だから……もう離さないで。これからの記憶は、甲洋がずっと持っててよ」
──今度は、失くさないで。
操が細い手首にかけている紐の先で、二匹の金魚が揺れていた。赤と黒の、花びらみたいに綺麗な命。少しでも傷をつければ、たちまち壊れて消えてしまう。二匹だけの、脆くて透明な、繭のように小さな世界。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、幼い笑顔の朝顔が脳裏によぎった気がした。握りしめた小さな手の感触が。甲洋は頬に触れている操の手の甲に、自分の手の平をかぶせてみる。小さな手。そっと握りしめて、また少し、泣きたくなった。
「大好きだよ甲洋。おれの神様……お願い、もうどこにも行かないで」
切なく顔を歪めた操が、甲洋に身を寄せてくる。するりとほどけた手を首にまわして、懸命にしがみついてくる。その身体は迷子のように震えていた。大人なのだと思っていた彼が、急に儚い存在に感じられてしまったとき、甲洋は気がついた。
自分がいなくなったら、きっとこの人は死んでしまう。地面に叩きつけられた金魚のように、ゆっくりと、けれど確実に、呼吸を止めてしまうだろうと。だから。
(俺が、俺だけが──)
この人を生かすことができるのだと。
指先まで痺れるような感覚に喉を鳴らしながら、甲洋は震える手で操の両肩に触れた。すっぽりと収まってしまうくらい細い肩。こんなに小さな人だったのかと、今さら気づいてまた胸が締めつけられる。甲洋はそのまま操の身体を抱きしめた。そして気づいた。
(この人が、俺を俺にしてくれるんだ)
腕に抱いたぬくもりに、自分という存在を確かに感じた。操が甲洋を、甲洋にしてくれる。まるでたったいま生まれたみたいに。一人ぼっちで船に乗り、泣きながら見つめていた海の青さが、遠い過去になっていく。
今はただ、この人に出会えたことが嬉しかった。ここにいることが。生きていることが。
(俺はちゃんと、ここにいる!)
操と生きていた春日井甲洋という男を、甲洋はこのとき初めて己の一部として許すことができたような気がした。自分自身の存在と共に。
「俺も」
だから強くなりたい。心の底からそう思う。
「俺も好きだ。あなたのことが……操のことが」
「ッ!」
操の肩がビクンと跳ねた。咄嗟に顔を上げた彼は、大きな目をさらに大きく見開いている。
「み、操って……? なんで、名前……?」
「ダメ、かな?」
「だ、ダメじゃない! ダメじゃないけど! だって、ずっと来主って! 今まで一度も、名前なんて……うわ、なにこれ? 変なのぉ……!」
操の頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。両手で自分の頬を包み込んで、涙ぐみながらあっちこっちに目を泳がせている。赤みは耳にまで広がって、やがて首筋まで染め上げた。甲洋は操が嫌がっているわけではないことにホッとした。
過去の自分に嫉妬している気持ちが、心の中から完全に消えてしまったわけではない。だから少しでも、別のなにかで張り合いたくて。
(呼べばよかったのに。そんな勇気、なかったんだろうな)
自分のことだから、分かる気がする。多分きっと、とても不器用にこの人のことを愛していたのだ。強く深く、恐れながら、もがくみたいに。
気がつけば、微かに聞こえていたはずの祭囃子が消えていた。生ぬるい夏の風が、少し強く吹き抜ける。虫たちは思うがままに声をあげ、広い世界で短い時を生きていた。
操はおずおずと顔をあげ、真っ赤な目元で甲洋を見た。懐かしそうに、恥ずかしそうに。朝顔が咲く髪を夏草の風に踊らせながら、「嬉しいな」と言って、笑った。
「だってまた、君と恋ができる」
最初から、今度こそもう一度。
甲洋は、彼を下の名前で呼ぶ以上の勇気を振り絞って、その肩を抱きながら身を屈めていった。操がゆっくりと目を閉じる。くちづけは、ほんの一瞬だけ触れ合わせるので精一杯だった。
「帰ろ、甲洋」
ビニール袋の中で、二匹の花が交差する。甲洋は頷いて、杖を引き寄せると立ち上がった。足を引きずる狭い歩幅に、操の小さな歩幅がぴたりと寄り添う。
熱をこもらせたコンクリートの道のりが、まっすぐまっすぐ、伸びていた。甲洋は操と手を繋ぎながら、ふたりだけの古色の家へと、帰っていった。
羽化の花籠 / 了
※甲洋くんの記憶ちゃんと戻らないとヤダ~!という方はこちら→オマケの番外編
←戻る ・ Wavebox👏
*甲洋は左足が麻痺して杖をつかないと歩けなくなっています。
*オマケの番外編もあります。
羽化の花籠
9歳の夏だった。
ぶら下げられた風鈴が、気休めに涼を奏でている。グラスの中では、さっきまでしゅわしゅわと騒がしかったサイダーが凪いでいた。うだる熱気に、氷がずいぶん小さくなっている。
赤らんだ光がさす縁側で、甲洋はぼんやりと庭を眺めて座っていた。群れからはぐれたひぐらしが、どこからか金切り声をあげている。
夕暮れを告げるその寂しそうな叫びに耳を傾けていると、背後で障子が開く音がした。
「甲洋、おまたせ!」
振り向くと、そこには浴衣を着た操が立っている。甲洋は思わず目を丸くしてしまった。今日はこれから二人で夏祭りへ行くことになっている。操が浴衣を着せてもらうというので待っていたのだが、その姿は想像していたものとはだいぶ違っていた。
操は袖を広げるようにしながら、軽やかにくるりと一回転して見せた。水色と桃色の朝顔が散りばめられた淡黄色の生地に、赤い帯が背中でリボン結びされている。それはどう見ても女の子が着る浴衣で、髪には帯と同じ赤い朝顔の飾りまでつけていた。
「ねぇにあう?」
似合うなんてもんじゃない。似合いすぎている。まるで本当に女の子のようで、甲洋は瞬きひとつできずにポカンとしたまま、見惚れることしかできなかった。
「これね、おれのお母さんがちっちゃいころにきてたんだって! おれもきたいって言ったら、おばあちゃんがきせてくれたの!」
「そ、そうなんだ。その……かわいい。すごく」
「ほんとぉ?」
「うん、すごく、ほんとう」
甲洋はさっきからずっと顔が熱くて、胸がドキドキするのを止められないでいた。そのせいか言葉につまり、短い単語をどうにか繋げるだけで精一杯だった。
操はまんまるの赤い頬で、嬉しそうに「えへへ」と笑った。生えてきたばかりと分かる、小さな白い前歯がちらりと覗いている。甲洋は初めて会ったときから、この天使みたいに可愛い笑顔の虜になっていた。
「次は甲洋くん、お着替えするからこっちにおいで」
すると仏間から操の祖母が顔をだした。甲洋に向かって、笑顔で手招きをしている。
「え? でも俺、浴衣なんて」
戸惑う甲洋に、彼女は「いいからいいから」と言ってなおも手招きをした。
「こうよーはやくぅー! おまつりはじまっちゃうよー!」
腰掛けたままの甲洋の手をとり、操がブンブンと振り回すようにしながら引っ張ってくる。遠慮がちに頷いて立ち上がると、仏間に足を踏み入れた。
そこで甲洋は生まれてはじめて甚平を着せてもらった。墨色に線香花火柄の甚平は、操の祖父が昔着ていた浴衣を、わざわざ甲洋のためにリフォームしてくれたものだった。
そういえばこの家を訪れた初日に、寸法を測られたことを思いだす。不思議に思ってはいたが、「内緒」と言われて教えてはもらえなかった。こんな手間暇をかけてもらうのは初めてのことで、あまりの嬉しさと感動に甲洋は何度も繰り返しお礼を言った。
準備が終わると、操の祖父が二人分のお小遣いを入れた巾着袋を渡してくれた。たくさん遊んでおいでと言われ、甲洋と操は声を揃えて元気に返事をした。
夏祭りの会場は、家から歩いてすぐの場所にある小さな神社の境内だった。朱塗りの鳥居をくぐった先には多くの屋台が立ち並び、頭上には紅白の祭提灯が張り巡らされている。太鼓や笛のお囃子が響き渡る境内を、近所中から集まった人々が行き交っていた。
「わー! すごい! ひとがいっぱい!」
「あ、待って! はぐれるといけないから」
祭の熱気に気をとられた操が、今にも走り出そうとするのを慌てて止める。ずっと繋いだままだった手と手が汗ばみ、離れそうになるのをしっかりと握り直した。
「はやくはやく! ねぇ、あっちにわたあめがあるよ! あっ、りんごあめ! きんぎょもいる! こうよ! ねぇはやくぅ!」
操は立ち並ぶ屋台に目を輝かせ、甲洋の手をぐいぐいと引っ張ってくる。
すっかり興奮して真っ赤になっている頬と、祭の明かりを反射してキラキラと光る大きな瞳。甲洋の胸も熱く高ぶり、ふたりは次から次へと鉄砲玉のように走り回っては屋台を巡り、もらったお小遣いを使い果たすくらいたくさん遊んで、たくさん食べた。
かき氷を食べて、アニメのお面を頭の脇にかぶって、綿あめの袋を腕にぶら下げながら、りんご飴にかぶりついて。射的では小さなクマのぬいぐるみを当てて、水風船は三つも釣り上げ、一つは落として割ってしまったけれど、仲良く一つずつ指からぶら下げる。
もうすぐ打ち上げ花火がはじまるからと、少し慌ててすくった金魚は真っ赤な和金と、黒い出目金が一匹ずつだった。
「きんぎょ、くろい子が甲洋で、あかいのはおれ!」
操が目線の高さまでビニール袋を持ち上げ、嬉しそうにしている。二匹の金魚はくるりと交差し、花びらのように淡いヒレを踊らせていた。小さな小さな、二匹だけの透明な世界。
赤い和金は黒の出目金よりもサイズが小ぶりで、可憐に見えた。確かに似ている。本当に自分たちを見ているような気がして、嬉しさに胸がきゅんと締めつけられる。
「こうよー! はやく行こ! 花火がよく見えるとこ、つれてってあげる!」
操が甲洋の手を引いて走りだした。小さな手だ。しっかりと握っていなければ、風船のようにどこかへ飛んでいってしまいそうで。だけどあまりにも力を込めてしまえば、簡単に握り潰してしまいそうな気もして、少し怖い。
だけどその小ささが、儚さが、とても可愛くて大切だった。守りたいと、強く思う。
「待って来主、そんなに慌てなくても平気だよ!」
祭の喧騒。煌めきと人波と。早まる鼓動に重なる太鼓。小さな歩幅の、可愛い朝顔。
ずっと大切に胸に刻んでいようと、甲洋は誓った。この夏の夜を、キラキラとした花火のような一瞬を。むせ返るような熱気の中で、幼い恋をしていたことを。
それなのに。
どうしてだろう。今はもう、なにも思いだせない。
小さな小さな、ふたりの世界。眩しい笑顔と、切ないほどに震える心、それから──それから?
──ごめん来主……ごめん……本当に、ごめんな……
あの二匹の金魚たちは、そのあとどうしたんだっけ。
*
チリリン──。
風鈴が鳴る微かな音と、髪を撫でる優しい感触にふと目を覚ました。ぼんやりと滲んだままの視界で、ただゆっくりと瞬きを繰り返す。
いつの間に眠ってしまったのだろう。微睡んだままの意識をそっと導くように、柔らかなぬくもりが頬をなぞる。
「起きた?」
頭上からした声に誘われ、甲洋は視線を上へと向けた。優しげに細められた琥珀が見下ろしていて、目が合った瞬間、息を呑みながら飛び起きる。
「ッ!?」
咄嗟に声が出なかった。ぼぅっとしていたのが嘘のように、心臓が早鐘を打つ。頬に血液が集まっていくのを感じながら、甲洋は「ごめんなさい」と蚊の鳴くような声を搾りだした。
藍色の浴衣に赤い帯を結んだ大きな瞳の持ち主は、そんな甲洋の反応にパチパチと睫毛を踊らせてから、肩をすくめて微笑んだ。
「別にいいのに。謝らなくても」
「で、でも……」
思わず目を泳がせた先では、オトギリソウが揺れていた。夕暮れの庭には時おり風鈴の音が鳴り響き、その合間にひぐらしが声をあげる。夏の庭。その縁側で、甲洋は目の前の人の膝を枕に寝こけていたのだ。髪に触れていた優しい感触も、頬を撫でたぬくもりも、すべてこの人のものだった。
自分のせいで、彼はずっと動けずにいたに違いない。寝顔を見られていたことも恥ずかしいし、申し訳なさに甲洋はただ項垂れた。
「ねぇ、なんかごにょごにょって言ってたよ。夢でも見てた?」
萎れる甲洋を茶化すみたいに、目の前の人が悪戯っぽい笑みを浮かべた。
夢──そういえば、見ていたような気がする。だけどなにも覚えていない。不思議な懐かしさだけが、胸の奥底で小さく震えているような。
思いだそうとすればするほど、その振動はゆるやかに痛みを訴えはじめる。チクチクとした感覚に下唇を噛みながら、胸に手を押し当てた。
(いつも、こうだ)
あの日。真っ白な病室で目を覚ましてから、ずっと。
とても大切だった気がするのに、粉々に砕け散ったものは小さな欠片すら残っていない。どんな形をしていたのかさえ、甲洋には分からなかった。そこには空っぽの手の平と、かじかむように痛む心があるだけだ。
「そろそろ準備しよっか。浴衣を着せてあげるね」
「……え?」
キョトンとすると、「今日はお祭りに行く約束でしょ」と楽しげに言われた。歌うように言葉を紡ぐ人だと、甲洋は思う。来主操。目覚めてからずっと、甲洋の世界には彼しかいない。
だからこの人の言うことには頷いておけば間違いはないのだけれど、それでも甲洋は彼の顔色をうかがいながら、つい遠慮してしまう。
「あの……来主さん。俺、浴衣なんて」
持っていない。むしろ自分のものなんて、この家にはなにひとつないのだ。少なくとも、甲洋はそう思っている。
「来主」
「え?」
「さんはいらないって、いつも言ってるのに」
操は眉間にきゅっとシワを寄せ、小さな子供のように唇を尖らせる。
そんな顔をされても困ってしまうだけだ。甲洋にとっての操は、目上の存在という認識しかない。どれだけ指摘されようとも、気安く呼び捨てなんてできるわけがなかった。
『前』にいた自分がどうだったにせよ、『今』の甲洋には難しすぎる。
「まぁいいや」
そう言って立ち上がった操はどこか寂しそうに睫毛を伏せていたが、すぐに背を向けると障子を開いた。薄暗い仏間に足を踏み入れ、振り向いたときにはいつもの甘ったるい笑顔に戻っている。
「おいで、甲洋。浴衣、きっと似合うよ」
生ぬるい夏の風にくすぐられ、風鈴がまた微かな音を立てた。
*
一年前。あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
初夏の日差しに染まった病室。乾いた唇に押し当てられた熱と、泣きながら笑った操が、歌うように囁いた愛の言葉。あのときの甲洋は混乱していた。たくさんの「どうして」で、頭の中がいっぱいだった。
どうして、どうして、どうして──?
見知らぬ病室。会ったこともない、知らない他人。だけどその人は、甲洋のことが好きだと言う。世界で一番、誰よりも愛しているのだと。潤んだ瞳を大切そうに細めながら、甲洋のことを「神様」と、そう言った。
悪い夢でも見ているような世界で、その言葉だけが甲洋の胸を深く刺し貫いた。戸惑いと混乱に染まる思考を、燃えただれるような幸福に絡め取られながら。
だけどその後の甲洋を待っていたのは、受け入れがたい多くの現実でしかなかったのだ。
甲洋には9歳までの記憶しかなかった。厳密には9歳の夏、一人で船に乗って故郷を旅立った、あの瞬間までの記憶しか。そこからぷっつりと途切れて、目覚めたときには24歳の大人の男になっていた。二年前に大怪我をして、ずっと眠っていたらしい。
15年もの空白を埋めるすべなどあるはずもなく、その事実を受け入れることすら難しかった。きっと全てが夢なのだ。退屈な船旅で、つい居眠りをしてしまった。これはそんな自分が見ている、ただの夢なのだと。
けれどいつまで経っても夢は醒めなかった。そうしているうちに、甲洋は病院からリハビリセンターに移ることになった。甲洋の身体は、怪我の後遺症で左半身の手足に麻痺が残っていた。
甲洋はそこで半年ほど治療を受け、ある程度の機能は回復させることができた。足の麻痺だけはまだ残っているが、杖をつけば一人での歩行も問題ない。今は操の家で暮らしながらリハビリを行い、定期的に通院しながら療養している。甲洋は、25歳になっていた。
*
「やっぱり! よく似合ってる!」
操の手を借りて着せられたのは、淡く黄色がかった生成りの生地に、かすり縞の入った浴衣だった。黒い帯を結んでくれた操が、甲洋の背をポンと叩いて満足そうにしている。
「かっこいいよ! すごく!」
「あ、ありがとう」
気恥ずかしさに頬を染めれば、「ふふ」と嬉しそうに笑った操が部屋の隅から姿見を引っ張り寄せる。そこに映し出された自分の姿を見て、甲洋はまるで赤の他人と向き合っているような感覚を覚えた。
長い手足と広い肩幅。幼さが削げ落ちた頬に、伸びた焦げ茶の癖毛が張りついている。25歳の大人の瞳が、幼いまま取り残された自分を見ていた。
(こんなの、俺じゃない)
自分の身体は、もっと小さかったはずだ。父が気まぐれでプレゼントしてくれたTシャツは、まだ9歳の甲洋には少し大きいくらいだった。だけどとても嬉しくて、大切で、いつまでも着ていたいと思っていたのに。
そういえばあのTシャツは、今どこにあるんだろう。リュックに詰めたはずの夏休みの宿題も、日記帳も、筆箱も。ここにあるのは自分じゃない誰かの私物ばかりだ。着替えだとか、腕時計だとか、食器でさえも。それらがすべて君のものだと言われても、ひとつも実感を得られない。
「甲洋」
やり場のない感情を、ただ鏡に映る男を睨みつけることで堪えていた甲洋は、その声にハッとして振り向いた。操は甲洋と向き合うと、浴衣の襟を軽く指先で整えてくれる。
「これでよしっと」
「あの、ごめんなさい」
「うぅん、いいの。ねぇ、ちょっと屈んでよ」
「?」
操が甲洋の両肩に手を置いて、軽く背伸びをする。甲洋は疑問符を浮かべながら軽く身を屈めた。すると白い両手に頬を包まれ、ちゅっという音を立てながら唇同士が触れ合った。
「ッ、わっ!?」
甲洋は顔を真っ赤にしながら身体を跳ねさせ、腰が引けた状態で硬直した。けれど脇の下から回ってきた操の腕に背中を抱かれて、さらに身動きがとれなくなってしまう。
「あ、あ、あのっ、来主、さん」
「いっつもしてるじゃん。そろそろ慣れてよ」
「な、慣れ……? そんなの、無理に決まって……」
「おれは君のものなのに」
絶句。火がついたみたいに顔が熱い。操は甲洋の胸に頬を押しつけていて、今にも爆発しそうになっている心臓の音を聞かれていると思うと、どうしたらいいか分からなくなる。グルグルと目が回り、今にも倒れてしまいそうだった。
昔ここにいた自分なら、もっと当たり前のように受け止めていたのだろうか。されるばかりじゃなく、自分から彼を引き寄せていたのだろうか。
「好きだよ」
「ッ!」
「大好き。おれの神様」
粟立つ皮膚に、呼吸がとまる。胸が痛くて苦しくて、ただ泣きたくなった。
こんなとき、甲洋の中にはやっぱり幾つもの「どうして」が渦を巻く。この人のことを、自分はなにも知らないのに。どうして、どうして、どうして。どうしてこんなに、嬉しいんだろう──?
所在なく宙を彷徨っていた両手で、恐る恐る操の肩に触れようとした。抱きしめてくれるこの人を、同じように抱きしめてみたいと思ったから。だいじょうぶ。だって、こんなに好きだと言ってくれる。優しく、大切にしてくれる。だからきっと、触れたって許される。
「お祭り、また君と一緒に行けて嬉しい」
「!」
「今日はいっぱい遊ぼうね」
しみじみと言いながら顔をあげた操は、懐かしそうに目を細めて笑っていた。その綺麗な瞳には、呆然とした表情を浮かべた見知らぬ男が写り込んでいる。
(これは、俺じゃない)
この人が見ているのは。
(俺じゃないんだ)
一緒にお祭りに行きたいのも、キスをしたいのも、愛しているのも。
甲洋は今にも触れそうになっていた指先を、そっと両脇に下ろしてしまう。触れていいのはこの手じゃない。だって甲洋には、一度だって操とお祭りへ行った記憶がないのだ。思い出なんかひとつもなくて、この人のことを、やっぱりなにも知りはしない。
「はい」
今の甲洋にできるのは、ただ曖昧に笑って頷くことだけだった。
*
長い入院とリハビリ生活の中で、甲洋は待っていた。
思い通りにならない半身。自分の記憶の中にあるよりも長い手足。鏡に映る見知らぬ自分と、失ったという実感すらない空白の時間。そのすべてに怯えながら、両親のことを。
来ないことは分かっていた。来てくれるはずがない。だって自分は家族じゃないから。だから旅行にだって連れて行ってはもらえなかった。あの人達の中に自分という存在がどこにもいないことを、甲洋はちゃんと知っていた。
それでも会いたかった。迎えに来てほしかった。淡い期待を、どうしても捨て去ることができなかった。
そんな甲洋のそばに、いつも寄り添ってくれたのが来主操だった。遠い親戚の家の子。自分より年下の、まだ小学校に上がったばかりだと聞いていたはずの子供。
青年の姿をした彼は、毎日のように甲洋のもとを訪れた。いつまでたっても来てくれない両親の代わりに、甲洋を守るようにそっと優しく、抱きしめてくれた。髪を撫で、愛おしそうに目を細めて、顔中に小さなキスを降らせて。大好きだよと、ずっと一緒だよと、何度も何度も震える甲洋に言い聞かせた。
リハビリセンターから来主の家に移っても、それは変わらなかった。両親がなにひとつ与えてくれなかったもの。あるいはそれ以上のものを、操は惜しみなく与えてくれる。
爪の先まで痺れるような嬉しさに怯えながら、その愛情に溺れてしまえたらどんなによかっただろう。操がときどき聞かせてくれる、甲洋と過ごした日々の思い出。それを語るときの彼は、いつも懐かしそうにどこか遠くを見つめている。甲洋を通して、甲洋じゃない誰かのことを。
それがとても大切なものであったことだけは分かるのに。どんな話を聞かされても、甲洋にはどこかまったく別の国のお伽噺のようにしか思えなかった。記憶にないものは、最初から『無い』も同然だ。
だから操の中にも、自分の存在なんかどこにもいないのかもしれない。むしろ本当は、この世界のどこにも。あの日、一人ぼっちで船に乗り込んだ、あの夏の日。泣きそうな瞳で海を見つめていた9歳の春日井甲洋は、もうとっくに死んでいるのかもしれない。
*
来主の家から神社までの道のりを、甲洋は左手に杖をつきながら歩いていった。操は甲洋の右手をしっかりと握りしめ、注意を払いながら足並みを揃えてくれる。
少し小高い位置にある神社の石段をゆっくりと登っていくと、朱塗りの立派な鳥居が見えた。そこをくぐると蒸し暑さが一段と増し、煌々と提灯が輝く祭の風景が広がっている。
射的にくじ引き、かき氷だとか綿あめだとか、多くの屋台がひしめき合うなか、夏草の香りを掻き消すように焦げたソースの匂いが漂っていた。
「わぁ……」
甲洋は思わず声をあげていた。多くの人の喧騒と、日常から切り離されたような祭の空間。不思議な音色のお囃子に、色とりどりの屋台の品物。今にも走って飛び込んでいきたいような高ぶりに、ワクワクとした気持ちが止まらない。
「人がいっぱいだね。あ、そうだ」
「?」
操は空いている方の手にぶら下げていた小さな巾着袋を、甲洋の浴衣の袖にグイッと押し込んできた。
「お小遣いいっぱい持ってきちゃった。君が持ってて」
「え、でも」
「だっておれ、ぜったい落とすもん」
普通は大人がお金を持ち歩くものだと思うのだが。困惑しつつ、けれど確かにこうしたほうが安心な気もする。こんなことを思うのはとても失礼な話だけれど、人混みの中で気づいたら財布を失くしている操の姿が、なぜか容易に想像できてしまった。
この人は大人だが、妙に子供っぽくてそそっかしいところがある。そういえば肉体的な年齢だけなら、自分の方が年上でもあるのだった。ちぐはぐだなと、甲洋は思う。
「……わかりました。俺が持ってます」
「えへへー、お願いね!」
重圧から開放されたとばかりに笑う操に、甲洋にも自然と笑みが浮かんだ。そうか、自分は頼られているのかと、そう思うと急に誇らしくなってくる。
「今日は特別な日だもん! いっぱい遊ぼ! 君も好きなもの、なんでも買っちゃっていいよ!」
「えっ、さすがにそれは……」
「いいの! ほら行くよ! お腹空いたから、なんか食べたい!」
操が甲洋の腕をぐっと引っ張る。麻痺した片足が少しグラついたが、それ以上の強引さはなかった。この人だって、きっと今にも駆けだして行きたいはずなのに。はやる気持ちを抑えながらも、甲洋に合わせようとしてくれる。
申し訳ないのに、喜びのほうが勝っていた。この人は、絶対に俺を置いていったりしないのだと。祭の熱気に高鳴る胸が、今だけは甲洋から卑屈な感情を奪い去っていた。
*
それから二人はたこ焼きやらイカ焼きやら、目についたものを片っ端から食べてお腹を満たした。操はさらにクレープまで食べて口の横を汚し、そのことに全く気がつかないものだから、甲洋は肩を震わせて笑ってしまうのを止められなかった。
そのあとは射的をして、くじを引いて、ヨーヨーを釣って、ラムネを飲んで一息ついたあと、金魚すくいをやることになった。
「よぉーし! 一番おっきな金魚とるから! 見ててよ!」
プラスチック製の大きなタライの前にしゃがんだ操が、ポイを片手に腕まくりをしている。水が張り巡らされたタライの中では、金魚たちが所狭しとひしめき合って泳いでいた。
甲洋はその斜め後ろに立って、杖で身体を支えながら操の手元を覗き込む。彼は水に浸したポイで、狙った金魚を執拗に追い回していた。
「あっ、待って! あっ、あー! 破けたぁ!」
「あはははは! 下手だねぇ操ちゃん!」
「もー! あとちょっとだったのに! おじさん、もう一回!」
「はいよ!」
破れたポイを交換してもらった操が再び狙いを定めているとき、甲洋はふとなにかに誘われるように顔をあげて、とある露店の一角に目をやった。そこには手作りの雑貨品を並べている店がある。
どうして気になったのかは分からない。だけど甲洋は一瞬だけ操に目をやったあと、杖をつきながらそこに向かった。
テーブルの上にはぬいぐるみやブレスレットなど、子供や女性が喜びそうな雑貨品がずらりと並べられている。その中から、甲洋は一つだけある髪飾りに強く惹かれた。水色と桃色の朝顔を模した、つまみ細工の髪飾りだ。
矢も盾もたまらず、甲洋は店主に声をかけるとその髪飾りを購入した。
「甲洋ー! いたいた! 駄目じゃん一人で勝手にどっか行ったら!」
会計が済んで戻ろうとしたところで、先に操が駆け寄ってきた。彼は手に金魚が入ったビニール袋をぶら下げている。
「えへへー! じゃーん! 見て見て! 金魚!」
操が掲げた袋の中では、赤い和金と黒い出目金がゆったりと漂っていた。
「この黒い子、おっきいでしょ? この子が欲しかったんだ! ちょっと君に似てるから」
「俺に?」
「うん! 赤い子はね、おじさんがオマケで入れてくれた!」
甲洋は改めてビニールの中の金魚を見た。鮮やかな赤いヒレと、大きな黒いヒレが花びらのように揺れている。大勢の金魚たちの中から選ばれた二匹だけが、隔離された透明な世界で口をパクパクとさせながら身を寄せ合っていた。
甲洋は金魚から目が離せなくなった。さざ波のように押し寄せてくる、この懐かしさはなんだろう。小さな世界。寄り添う二匹。赤と黒。いつかどこかで、これと同じ光景を見たような──。
「ねぇ、甲洋はなにしてたの?」
「……あ」
魅入られていた甲洋は、首を傾げる操に小さく息を呑んだ。それから、手の中にあるつまみ細工に視線を落とす。
似ていると思った。この髪飾りを見たときの気持ちと。懐かしさと切なさに追い立てられて、迷う暇もなく買っていた。この朝顔は、きっと操に似合うはずだと。
「それ、朝顔?」
操が目を丸くしている。甲洋は少し緊張しながら、その髪飾りを操の左耳の脇に持っていくと、そっと髪に挿し込んだ。上手く固定されたのを確認して、ホッと息をつきながら笑みを浮かべる。
「やっぱり、よく似合う」
「甲洋……? これ、おれに?」
「あっ……すみません、勝手にこんな……」
すぐにハッとして顔をうつむけた。いくら好きなものを買えと言われたからって、考えなしにとってしまった行動を、操はどう思っただろう。おそるおそるその顔に目をやると、彼は頬を赤らめながらポカンと口を開けている。
判断しがたいその反応に、甲洋はさらに申し訳なくなって萎縮した。なにをしているんだろう。大体、この人は男の人だ。女の子がつけるものを貰って、喜ぶはずがないのに。
「ぁ、あの」
「嬉しい」
「え?」
「ありがとう」
見開いた視線の先で、操が笑顔を浮かべていた。溶けだしそうにとろんと瞳を潤ませて、赤い頬をして、胸が痛くなるくらい綺麗に、可愛く。
その笑顔に、甲洋も少しだけポカンとしながら頬を赤らめた。不思議な懐かしさに駆られて手にとった髪飾り。朝顔の花が、柔らかな亜麻色の髪に咲いている。
思った通り、よく似合う。祭の煌めきの中で、操は誰よりも輝いて甲洋の目に映った。
「……あ、そうだ。甲洋、もうすぐ花火がはじまるよ!」
互いに赤い顔をしたままの気恥ずかしい空気を、操の明るい声がうまく壊した。彼は甲洋の横に移動すると、来たときと同じように右手をぎゅっと握ってくる。
「ここは人が多いし。もっとゆっくり見られるところ、連れてってあげるね!」
甲洋が小さく笑って頷くのと同時に、操が少し焦ったように一歩踏みだす。そのとき下駄を履いた足先が引っかかるようにカラリと鳴って、操の身体が前のめりに傾いた。
「あっ!」
手からぶら下げているビニールの中で、金魚のヒレが大きくはためく。
「危ない!」
甲洋は握っていた手に力を込め、腕力だけで操の身体を引っ張り上げた。転倒を免れた操はすぐに金魚が入ったビニールを見て、二匹の無事を確かめると、ホッとしながら甲洋を見上げる。甲洋もまた深く安堵しながら口を開いた。
「今度は、失くさないで」
失くさないで──。
「え……?」
操が瞳を大きく見開く。甲洋も驚いて、しきりに瞬きを繰り返した。
それは無意識に口から出た言葉だった。だけどどうして? 今度、という言葉が今をさしているのなら、自分は一体いつの出来事と照らし合わせて、さっきの言葉を放ったのだろう?
訳が分からず呆然とする甲洋に、ゆっくりと目を細めた操が「うん」と頷いた。
*
神社から石段を下って、祭の会場から少し離れた位置まで移動するあいだ、ふたりは一言も声を発さなかった。
車一台が通れる程度の狭い道。濃い夏草の香りが少し湿った空気に立ち込め、遠ざかる祭囃子の代わりに、ケラやキリギリスといった虫たちが鳴いている。等間隔に立っている街灯が、うっすらと辺りを照らしていた。
「……子供の頃にね」
虫たちのささめきの中で、操がポツリと口を開いた。
「一緒に夏祭りに行ったときのこと、覚えてる?」
甲洋は驚いた。操はよく昔の話を聞かせてくれるが、こうして問いかけてくることは、今まで一度もなかったからだ。
「なにも……」
覚えていない。ゆるく首を振りながらそう答えるしかない甲洋に、操はふと足を止めると正面に回ってきて、追いすがるような目で「本当に?」とさらに問いを重ねてくる。
「……ごめんなさい」
薄闇の中で目を逸らす。喧騒が消え、祭囃子すらうっすらとしか聞こえない夜の道には、いっときだけ忘れることができていた現実が明確に広がっている。夢のような時間は、とっくに終わってしまっていた。
「そっか」
操は髪に咲く朝顔を指先でそっと撫でながら、淋しげに微笑んだ。
「昔ね、一緒に行ったお祭りでも、金魚をとったんだ。この子たちと同じ。赤と黒の」
その声に耳をすませながら、甲洋は左手に持つ杖を強く握りしめる。
「嬉しくてはしゃいでたら、おれ、転んじゃったんだ。そしたら金魚……すぐに弱ってダメになっちゃって。花火も見ないで、ずっと泣いてた」
甲洋の脳裏に、つい先ほどの光景がよぎっていく。操は真っ先に金魚の無事を確かめていた。甲洋もまた、意識せず深い安堵を覚えたのだ。無事でよかったと。もう失くしたくないから。この人に、泣いてほしくないから。
過去にそんなことがあったなんて、ひとつも覚えてないくせに。
「そのときね、なぜか甲洋は、おれに何度も何度も謝ってきたんだ。来主が転んだのは自分のせいだって。隣にいたのに、守れなかったって」
とつぜん、虫たちの声がピタリと止んだ。あれほど騒がしかったのに、なにかを予感したみたいに。
うつむきがちだった操が顔をあげた。ずっと遠くを見ているみたいに、寂しい瞳で。小さく笑って、懐かしそうに甲洋を見つめる。
「君っていつもそう。なにも悪くないのに、悪いのはおれなのに、いつもそうやって──」
ヒュウという音がして、頭上で大きな花火が上がった。色鮮やかな大輪の花が、真夏の夜空に咲き誇る。幾つも幾つも、祭の終わりを告げながら。甲洋と操はただ静かに、散っていく花びらを見つめ続けた。
どうしてだろう。同じ一瞬を生きているのに、同じ景色を見ているのに、どうしてこんなに遠いんだろう。確かに繋がれていたことだけは分かるのに、甲洋にはそのほつれた結び目を手繰り寄せるだけの力すらなかった。
(……大っ嫌いだ。俺は、俺のことが)
甲洋は、来主操と共に生きていたはずの春日井甲洋のことが憎かった。憎くて憎くて、そして羨ましかった。どんなに優しくされても、愛していると言われても、それは甲洋のものには決してならない。
だから悔しかった。虚しかった。悲しかった。勝手に生きて、勝手にいなくなってしまった見知らぬ自分。甲洋は甲洋に、嫉妬していた。
「帰ろっか」
花火が終わると、再び虫たちが鳴きはじめた。祭りのあとの寂しさを、火薬混じりのぬるい風がさらっていく。
操は甲洋にそっと手を差し出した。けれど甲洋は、その手を取ることができなかった。
「ごめんなさい」
操がことりと、首を傾げる。
「どうして謝るの?」
「……あなたの大事なものを、俺は返してあげられない。あなたが一緒に生きてきたのも、これからも一緒にいたいと思っているのも、俺じゃないのに」
操の顔が滲んでいく。切り裂かれるような胸の痛みと、悔しさと、罪悪感。甲洋は耐えるように一度だけ下唇を噛み締めたあと、吸い込んだ息を震わせながら吐きだした。
「それでも俺には、あなたしかいない。あなたに優しくされるのが嬉しい。大事にしてもらえるのが嬉しい。あなたに好きだって言ってもらえるのが嬉しい。俺は、あなたのことが……」
好きだとは、言えなかった。言えばなにもかもが壊れてしまいそうな気がした。あのときだってそうだ。甲洋は両親に「俺も一緒に行きたい」という、たった一言が言えなかった。自分だけ親戚の家になんか行きたくない。一人で船に乗るなんて嫌だ。父さんと母さんと、一緒にいたい──。
言えばどんな答えが返ってくるか、分かっていたから。お前なんか必要ないのだと、思い知らされるのが怖かった。だから甲洋は、自分の気持ちを伝えることができなかった。
「帰ります。一人で」
どうしようもなく逃げだしたい気持ちになって、甲洋は操に背を向けた。家の方向とはまったく違っていたけれど、それでもいいから今すぐ姿を消してしまいたかった。
「甲洋……!」
走れないことにもどかしさを覚えながら、杖をついて必死で足を引きずった。気持ちばかりが焦って、思い通りにならない身体にまた悔し涙が込み上げる。するとその焦燥が麻痺した足をもつれさせ、甲洋は転んで膝をついてしまった。杖が遠くに弾け飛ぶ。
「ッ……!」
「だいじょうぶ!?」
操がすぐに駆けつけて、甲洋のそばに膝をつく。正面から肩を支えられ、甲洋はその情けなさにいよいよ泣くのを我慢することができなかった。
「君が転んでどうするのさ」
操が少しだけ呆れたように笑った気がする。だけど甲洋はその顔を見ることができなかった。涙が溢れて、次から次へと頬を伝っていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめん、なさ……っ」
恥ずかしい。情けない。悔しくて悲しくて、自分なんか、早く消えてしまえばいいと思う。身体だけは大きいくせに、中身は小さな子供のままで。一人では逃げだすことさえ、できやしなくて。好きな人に、好きだと告げる勇気もない。
(俺なんか、どうせどこにもいないんだから……!)
身を震わせて泣く甲洋の頬に、白い指先がそっと触れた。思わず肩をビクリと跳ねさせ、咄嗟に顔を上げた瞬間、唇同士が軽く触れ合う。
「んッ……!」
「ごめんはもう禁止」
呆然とする甲洋に、操が優しく笑いかける。驚いた拍子に涙はスッと引いてしまった。ただ顔が熱くて、なにも言うことができなくなる。
操は潤んだ瞳をまっすぐ見つめて、「好きだよ」と言った。胸が痛くて、甲洋はくしゃりと表情を歪ませる。こんなに苦しいのに。悔しくて悲しいのに。飢えた心はその言葉を待ちわびていた。
「言ったでしょ。世界でいちばん愛してるって」
小さな白い手が、甲洋の両頬を包み込む。柔らかくて、とても優しい。
「君は君だよ。一人しかいない。おれが大好きな甲洋は、ちゃんとここにいるよ」
歌うような操の言葉。胸が震えて、締めつけられる。ツルが巻きつくように甲洋の心に絡みつき、がんじがらめにしてしまう。
「君が失くしてしまったものは、全部おれが持ってるから。だから……もう離さないで。これからの記憶は、甲洋がずっと持っててよ」
──今度は、失くさないで。
操が細い手首にかけている紐の先で、二匹の金魚が揺れていた。赤と黒の、花びらみたいに綺麗な命。少しでも傷をつければ、たちまち壊れて消えてしまう。二匹だけの、脆くて透明な、繭のように小さな世界。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、幼い笑顔の朝顔が脳裏によぎった気がした。握りしめた小さな手の感触が。甲洋は頬に触れている操の手の甲に、自分の手の平をかぶせてみる。小さな手。そっと握りしめて、また少し、泣きたくなった。
「大好きだよ甲洋。おれの神様……お願い、もうどこにも行かないで」
切なく顔を歪めた操が、甲洋に身を寄せてくる。するりとほどけた手を首にまわして、懸命にしがみついてくる。その身体は迷子のように震えていた。大人なのだと思っていた彼が、急に儚い存在に感じられてしまったとき、甲洋は気がついた。
自分がいなくなったら、きっとこの人は死んでしまう。地面に叩きつけられた金魚のように、ゆっくりと、けれど確実に、呼吸を止めてしまうだろうと。だから。
(俺が、俺だけが──)
この人を生かすことができるのだと。
指先まで痺れるような感覚に喉を鳴らしながら、甲洋は震える手で操の両肩に触れた。すっぽりと収まってしまうくらい細い肩。こんなに小さな人だったのかと、今さら気づいてまた胸が締めつけられる。甲洋はそのまま操の身体を抱きしめた。そして気づいた。
(この人が、俺を俺にしてくれるんだ)
腕に抱いたぬくもりに、自分という存在を確かに感じた。操が甲洋を、甲洋にしてくれる。まるでたったいま生まれたみたいに。一人ぼっちで船に乗り、泣きながら見つめていた海の青さが、遠い過去になっていく。
今はただ、この人に出会えたことが嬉しかった。ここにいることが。生きていることが。
(俺はちゃんと、ここにいる!)
操と生きていた春日井甲洋という男を、甲洋はこのとき初めて己の一部として許すことができたような気がした。自分自身の存在と共に。
「俺も」
だから強くなりたい。心の底からそう思う。
「俺も好きだ。あなたのことが……操のことが」
「ッ!」
操の肩がビクンと跳ねた。咄嗟に顔を上げた彼は、大きな目をさらに大きく見開いている。
「み、操って……? なんで、名前……?」
「ダメ、かな?」
「だ、ダメじゃない! ダメじゃないけど! だって、ずっと来主って! 今まで一度も、名前なんて……うわ、なにこれ? 変なのぉ……!」
操の頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。両手で自分の頬を包み込んで、涙ぐみながらあっちこっちに目を泳がせている。赤みは耳にまで広がって、やがて首筋まで染め上げた。甲洋は操が嫌がっているわけではないことにホッとした。
過去の自分に嫉妬している気持ちが、心の中から完全に消えてしまったわけではない。だから少しでも、別のなにかで張り合いたくて。
(呼べばよかったのに。そんな勇気、なかったんだろうな)
自分のことだから、分かる気がする。多分きっと、とても不器用にこの人のことを愛していたのだ。強く深く、恐れながら、もがくみたいに。
気がつけば、微かに聞こえていたはずの祭囃子が消えていた。生ぬるい夏の風が、少し強く吹き抜ける。虫たちは思うがままに声をあげ、広い世界で短い時を生きていた。
操はおずおずと顔をあげ、真っ赤な目元で甲洋を見た。懐かしそうに、恥ずかしそうに。朝顔が咲く髪を夏草の風に踊らせながら、「嬉しいな」と言って、笑った。
「だってまた、君と恋ができる」
最初から、今度こそもう一度。
甲洋は、彼を下の名前で呼ぶ以上の勇気を振り絞って、その肩を抱きながら身を屈めていった。操がゆっくりと目を閉じる。くちづけは、ほんの一瞬だけ触れ合わせるので精一杯だった。
「帰ろ、甲洋」
ビニール袋の中で、二匹の花が交差する。甲洋は頷いて、杖を引き寄せると立ち上がった。足を引きずる狭い歩幅に、操の小さな歩幅がぴたりと寄り添う。
熱をこもらせたコンクリートの道のりが、まっすぐまっすぐ、伸びていた。甲洋は操と手を繋ぎながら、ふたりだけの古色の家へと、帰っていった。
羽化の花籠 / 了
※甲洋くんの記憶ちゃんと戻らないとヤダ~!という方はこちら→オマケの番外編
←戻る ・ Wavebox👏
翌朝、操は朝食までしっかり食べて帰っていった。
一緒にいたのはたった一晩だけなのに、空っぽになった部屋がやけに広くて、息がつまるような切なさが胸に刺さった。
それから一週間ほどは、どこかぼんやりとしたまま過ごした。
夜通し仕事をして、朝に戻って、夕方近くまで寝て起きる。相変わらずの格好でときどき買い物に行くだけで、甲洋の生活に変化はない。
操と偶然バッタリ会う、ということもなかった。すぐ隣に住んでいるはずなのに、驚くほど接点がない。外から戻るときは、また鍵でもなくしてあの子が座り込んでいるのではないかと、淡い期待をしては無人の廊下に落胆するばかりだった。
いっそ会いに行ってしまおうかと、幾度もそう考えた。
あれからどう? 住む場所は見つかりそう? また怖い目にあったりしてない? ──気になっているのは事実だし、その切り口ならたぶん自然に会話は成り立つ。
けれどどうしてもその勇気が持てなくて、日が経つほどに機会は失われていくばかりだった。壁一枚しか隔たりがないはずなのに、その距離がまるで異世界じみている。
来栖ミサオのビデオは、あれから一度も見ていない。どうしてかそんな気になれなかったのだ。
思いだすのは彼と過ごした一夜の出来事ばかりで、この記憶だけで一生オカズに困らないのではないかとすら思うほど。
だけど自慰にふけった後の虚無感は、以前と比べものにならないほど大きなものになっていた。記憶も想いも募るばかりで、恋しさだけが膨らんでいく。
このままでは自分がストーカーになりかねないのではないか。
あの子を追い込んだ男の気持ちが、まったく分からないでもないような気すらしてきて、甲洋は自己嫌悪に陥った。
もう忘れたほうがいい。あの夜のことは夢だったのだと、何度もそう思おうとして、けっきょく上手くいかなかった。
そうやって日々は過ぎ、操と過ごした夜から一ヶ月近くが経過した。
秋の空気が冬の気配へと移り変わってきた、ある冷えた朝のことである。
仕事を終えて帰宅したころ、時刻は午前9時を過ぎていた。
瓶底眼鏡を外し、軽くシャワーを浴びたあと、甲洋はキッチンでホットミルクを作っていた。以前よりも、これを作って飲む頻度が増している。
こんなことをしているからいつまで経っても過去にできないのだと、分かっているのにやめられない。健気というか、未練がましいというか。その女々しさが情けなかった。
煮立ってきたところで火を止めて、たっぷりの蜂蜜を入れる。スプーンでかき混ぜ、カップに注ぐとその場で少しずつ冷ましながら口をつけた。柔らかな甘さと熱が、冷え切った身体に染みていく。
──ピンポーン
そのときふいに、来客を知らせるチャイムが鳴り響いた。
新聞か宗教の勧誘だろうか。相手をするのが面倒で、無視してしまおうかとも考えた。けれど何度も繰り返し鳴らされるので、甲洋は仕方なくカップを置くと、重い足を玄関に向けて引きずった。すると──
「こうよー! ねぇいないのぉ?」
という声がして、甲洋は息を呑みながら咄嗟に耳を疑った。
「いないのかな。そういえばおれ、甲洋がなにしてる人か知らないんだった」
ああ、この声。よく知っている。
会いに行く勇気がもてなくて、だけどずっと会いたかった、大好きなあの子の声だ。
「来主ッ!」
甲洋は弾かれたように扉を開き、勢いよく廊下に顔を出した。すると暖かそうなキャメルのショートダッフルに身を包んだ操が、「うわ!?」と叫んで目を見開いた。
「ビックリしたぁ……いるなら早く出てきてよぉ」
操は生意気そうに眉を釣り上げ、ぶぅっと子供っぽく頬を膨らませた。
「なんで、お前……」
あれほど気持ちを募らせていたわりに、いざ目の前にすると胸がつまって言葉が出ない。なんの前触れもなく現れた操に、甲洋はただ狼狽えるだけだった。
彼の足元には、パンパンに膨らんだ巨大なスポーツバッグが4つも置かれている。どこか旅行にでも行っていたのだろうか。それにしたって荷物が多い。
操は「よいしょ!」と言ってそれらを両手で持ち上げると、元気よく部屋に押し入ってきた。
「お邪魔しまーす!」
「え、ちょっと?」
操はバッグの重さに身体をよろめかせながら、短い廊下をズンズンと進んで部屋に入って行ってしまう。甲洋も慌ててその背を追った。
すべての荷物を床にドサリと置いて、操が息をつきながら手の甲で額を拭う動作を見せる。
「ふぅ、重かった。これだけあると運ぶのが大変。ずいぶん処分したんだけどな」
「来主? これは一体……?」
まったく訳が分からず、困惑した瞳で操と荷物を交互に見やった。操は満面の笑みを浮かべて甲洋を見ると、
「おれ、今日からここに住むことにした」
と、当たり前のように言い放った。
「は!?」
「ねぇ、これぜんぶ服なんだけどさ、どこにしまえばいい? おれは別にこのままでもいいけど、君は散らかるの嫌でしょ? どうしよう?」
操はぺたんと座り込み、荷解きをしはじめながらそう言った。
彼のなかではすでに決定事項になっているらしい事柄も、甲洋にしてみれば寝耳に水だ。再会の喜びに浸る間すら与えられず、話が急展開を見せている。
「どうしようって……」
戸惑うばかりの甲洋を見上げ、操は丸い目をパチパチと踊らせながら首を傾げた。
「もしかしてダメだった? でもおれ他に行くとこないよ。事務所も辞めちゃったし」
「ダメではないよ。ダメではないけど」
「けど?」
甲洋にしてみれば、むしろ願ったり叶ったりの状況だ。しかし、この子は一体どういうつもりでいるのだろう。もし仮にただの友達感覚で同居を考えているのなら、あまりにも浅はかすぎやしないだろうか。
甲洋はヘタレだが、飢えた野獣でもある。彼がしようとしていることは、狼を閉じ込めた檻に素っ裸で転がり込んでいくのと同じだ。
甲洋は操の真意を問うために、彼の正面に正座した。膝にそれぞれ拳を置いて、少し険しい顔をしながら丸い瞳をじっと見つめる。
「来主は、それでいいの?」
「いいってなにが?」
「だから……ここにさ、本当に俺と住むつもり?」
操は「うん」と大きく頷いた。
甲洋はゆっくりと瞬きをしながら、すぅっと深呼吸をする。
「来主。この際だから開き直って言うけど、俺はお前と同じ部屋でなんか暮らしたら、きっといろいろ我慢できない」
「我慢?」
「手を出さない自信がない」
「そんなこと? いいよ、別に」
「……俺が言うのもなんだけど、来主はもっと自分を大切にしたほうがいい」
操は「してるよ」と言って呑気に笑った。
「だから仕事も辞めたんだ。君だってそうしろって言ったじゃん」
「それはそうだけど」
「それに、好きなら一緒にいたいって思うのは当然でしょ?」
「……ん?」
「だったらエッチするのだって普通じゃない?」
「ま、待って」
話が見えているようで見えてこない。なにかまたひとつ、操の口から甲洋が知らされていない事柄が飛び出したような気がした。
もう少し順を追って説明してほしい。甲洋の訴えるような眼差しに、操はなにを言っているんだとばかりに目をキョトンとさせた。
「だって言ったじゃん。おれも好きだよって」
「?」
なにを言われたのかやっぱり理解できない甲洋に、操の眉が困ったように八の字を描く。
「おかしいな。ちゃんと言ったのに」
「なんの話?」
「なんで分かんないの? 君が先に言ったんだよ。そばにいたいって。好きだよ来主って」
「……え!?」
一瞬、頭が真っ白になる。
確かに言った。甲洋は眠っている操の背中に向かって、自分の気持ちを吐き出した。ファンとしてではなくて、一人の男としての感情を。
だけどあれは彼に意識がないと思っていたからで、決して伝えるために漏らした言葉ではなかったのだ。
「お、お前……あれを聞いて……?」
「うん」
ボンッ、と音がしそうなほど、全身の血液が顔中に集まっていく。甲洋はあまりの羞恥に右手を顔に押し当ててうつむいた。
「だからおれも答えたのに」
操が唇を尖らせる。しかし甲洋には、そんな記憶は全くなかった。
「……聞いてないよ。だってお前、寝てたんじゃないの」
「寝オチてたけど、半分くらいは起きてたよ」
「俺は聞いてない」
「そっか、じゃあ夢のなかで言ったんだ」
本人はちゃんと声に出して言ったつもりでいたらしいが、それじゃ聞こえるわけがない。
甲洋は指の隙間から視線だけを持ち上げて、恨めしい眼差しを操に送る。
この一ヶ月、どんな気持ちでいたと思っているのだろう。爆発しそうなほど想いを募らせながら、それでもきっともう関わることはないのだと悲観に暮れていた。
操はセックスをしたことはおろか、下手をすれば甲洋の存在すらとっくに忘れているのだろうと。
「じゃあ今度はちゃんと言うね。おれも君のこと好きだよ」
「ッ……!」
「だから一緒に暮らしたい。いいでしょ?」
あ、これ夢だ──と、甲洋は思った。
今度こそ、いよいよ都合がよすぎる夢を見ているに違いない。現実の自分は、今頃ホットミルクを飲み干して泥のように眠っているのではないか。
だって甲洋はもともとただのファンで、雲の上にいる彼を見上げていられればそれでよかった。
そんな遠い存在が隣に越してきて、ひょんなことから一夜を共にして、童貞を捧げて──同居ではなく、同棲することになるなんて。これが夢じゃないなら、一体なんだというのだろう。
確かめたくて、甲洋は操を取り囲む荷物を脇によけると、両手をついて正座のままスイッと正面に移動した。女の子のようにぺたんと座っている膝と、甲洋の膝がかすかに触れ合う。
ドキドキと胸を高鳴らせながら遠慮がちに右手を伸ばすと、同じく伸ばされた操の左手が甲洋の指先をきゅうっと握る。温かかった。細くてやわい指先の感触に、じわりと熱いものがこみ上げてくる。夢じゃない。確かに感じるぬくもりに、甲洋は震える息を吐き出した。
おずおずと視線だけを持ち上げてみると、操の頬が赤くなっていた。少し恥ずかしそうに顔をうつむけて、繋がっている手と手をじっと見つめている。どこか少女めいた初々しさを感じとり、甲洋の胸がいっそう大きく高鳴った。
お互い頬を染め合いながら、なにを言うでもなく沈黙に身を置く。時が過ぎるほど照れくささに歯がゆくなって、甲洋は絞り出すように口を開いた。
「なんで」
「ん」
「なんで、俺なんかを」
好きになってくれたの。
いくら間がもたないからって、我ながらこっ恥ずかしいことを聞いてしまったと思う。だけど今さら取り消せない。茶化されて終わるかと思いきや、操は意外にも真面目な様子でそれに答えた。
「顔、かな」
「顔」
「うん。ベランダで会ったとき、かっこいい顔した人だなって」
どうしてか嫌じゃない。むしろ嬉しいとすら思ってしまった。操に眼鏡を奪われたときも、綺麗な顔をしていると言われて正直悪い気はしなかったのだ。
この顔のせいで、今までさんざん嫌な思いをしてきた。人前で顔を晒せなくなるくらいには、コンプレックスになっていたはずなのに。
けっきょく好きだからなんだろうなと、甲洋は思う。好きな子が気に入ってくれたなら、なんだって嬉しいしなんだって許せる。単純すぎて、自分でも少し呆れるくらい。
「あとね」
「ま、まだあるの」
操が頷く。
「困ってたら助けてくれたし、ご飯おいしかったし。おれが好きなものを知っててくれたのも嬉しかった。それとね──」
そこでいったん言葉を切り、操は甲洋の指先を握る手の力を強めた。どこか熱っぽく瞳を蕩けさせ、耳まで赤くしながら下唇を噛み締めて、合わせた両膝をもじもじと擦り合わせている。
「来主?」
「……内緒」
赤い顔をしたまま、操は恥ずかしそうにふにゃりと笑った。
なんだか一瞬おかしな空気になりかけたような気がしたが、甲洋はあえて追求しなかった。もちろん気にはなっている。だけど、おいおい聞けたらそれでいい。機会なら、これからいくらでもあるだろう。だって今日からは、ずっと一緒にいられるのだ。
自分は世界一幸せな男なんじゃないかと、わりと本気でそう思う。
はにかむ操につられて、甲洋もふわりと表情を綻ばせた。
そのままなんとなく見つめ合って、繋がっていた指先同士を絡め合う。お互いゆっくりと身体を倒し、顔を近づけていくとキスをした。
「甘いね」
唇が離れた瞬間、操がふわりと目を細めながら呟いた。
そりゃそうだろうと、甲洋は思う。虚無感に苛まれながらチビチビとホットミルクを飲んでいた、ほんの十数分前の自分におかしさを覚えた。
「まだあるよ。飲む?」
「うん、飲む。飲みたい」
「いいよ。いま温めなおすから」
その前にもう一度。唇と唇を軽く触れ合わせ、優しくて甘いキスをした。
さっきより少し長めのキスをしながら、操の服をしまうための家具を見に行かなければと考える。ついでにお揃いのマグカップを買うのもいいかもしれない。
操が大好きな蜂蜜入りのホットミルクを、ふたりで一緒に飲むために。
ハニーポットクライシス / 了
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一緒にいたのはたった一晩だけなのに、空っぽになった部屋がやけに広くて、息がつまるような切なさが胸に刺さった。
それから一週間ほどは、どこかぼんやりとしたまま過ごした。
夜通し仕事をして、朝に戻って、夕方近くまで寝て起きる。相変わらずの格好でときどき買い物に行くだけで、甲洋の生活に変化はない。
操と偶然バッタリ会う、ということもなかった。すぐ隣に住んでいるはずなのに、驚くほど接点がない。外から戻るときは、また鍵でもなくしてあの子が座り込んでいるのではないかと、淡い期待をしては無人の廊下に落胆するばかりだった。
いっそ会いに行ってしまおうかと、幾度もそう考えた。
あれからどう? 住む場所は見つかりそう? また怖い目にあったりしてない? ──気になっているのは事実だし、その切り口ならたぶん自然に会話は成り立つ。
けれどどうしてもその勇気が持てなくて、日が経つほどに機会は失われていくばかりだった。壁一枚しか隔たりがないはずなのに、その距離がまるで異世界じみている。
来栖ミサオのビデオは、あれから一度も見ていない。どうしてかそんな気になれなかったのだ。
思いだすのは彼と過ごした一夜の出来事ばかりで、この記憶だけで一生オカズに困らないのではないかとすら思うほど。
だけど自慰にふけった後の虚無感は、以前と比べものにならないほど大きなものになっていた。記憶も想いも募るばかりで、恋しさだけが膨らんでいく。
このままでは自分がストーカーになりかねないのではないか。
あの子を追い込んだ男の気持ちが、まったく分からないでもないような気すらしてきて、甲洋は自己嫌悪に陥った。
もう忘れたほうがいい。あの夜のことは夢だったのだと、何度もそう思おうとして、けっきょく上手くいかなかった。
そうやって日々は過ぎ、操と過ごした夜から一ヶ月近くが経過した。
秋の空気が冬の気配へと移り変わってきた、ある冷えた朝のことである。
仕事を終えて帰宅したころ、時刻は午前9時を過ぎていた。
瓶底眼鏡を外し、軽くシャワーを浴びたあと、甲洋はキッチンでホットミルクを作っていた。以前よりも、これを作って飲む頻度が増している。
こんなことをしているからいつまで経っても過去にできないのだと、分かっているのにやめられない。健気というか、未練がましいというか。その女々しさが情けなかった。
煮立ってきたところで火を止めて、たっぷりの蜂蜜を入れる。スプーンでかき混ぜ、カップに注ぐとその場で少しずつ冷ましながら口をつけた。柔らかな甘さと熱が、冷え切った身体に染みていく。
──ピンポーン
そのときふいに、来客を知らせるチャイムが鳴り響いた。
新聞か宗教の勧誘だろうか。相手をするのが面倒で、無視してしまおうかとも考えた。けれど何度も繰り返し鳴らされるので、甲洋は仕方なくカップを置くと、重い足を玄関に向けて引きずった。すると──
「こうよー! ねぇいないのぉ?」
という声がして、甲洋は息を呑みながら咄嗟に耳を疑った。
「いないのかな。そういえばおれ、甲洋がなにしてる人か知らないんだった」
ああ、この声。よく知っている。
会いに行く勇気がもてなくて、だけどずっと会いたかった、大好きなあの子の声だ。
「来主ッ!」
甲洋は弾かれたように扉を開き、勢いよく廊下に顔を出した。すると暖かそうなキャメルのショートダッフルに身を包んだ操が、「うわ!?」と叫んで目を見開いた。
「ビックリしたぁ……いるなら早く出てきてよぉ」
操は生意気そうに眉を釣り上げ、ぶぅっと子供っぽく頬を膨らませた。
「なんで、お前……」
あれほど気持ちを募らせていたわりに、いざ目の前にすると胸がつまって言葉が出ない。なんの前触れもなく現れた操に、甲洋はただ狼狽えるだけだった。
彼の足元には、パンパンに膨らんだ巨大なスポーツバッグが4つも置かれている。どこか旅行にでも行っていたのだろうか。それにしたって荷物が多い。
操は「よいしょ!」と言ってそれらを両手で持ち上げると、元気よく部屋に押し入ってきた。
「お邪魔しまーす!」
「え、ちょっと?」
操はバッグの重さに身体をよろめかせながら、短い廊下をズンズンと進んで部屋に入って行ってしまう。甲洋も慌ててその背を追った。
すべての荷物を床にドサリと置いて、操が息をつきながら手の甲で額を拭う動作を見せる。
「ふぅ、重かった。これだけあると運ぶのが大変。ずいぶん処分したんだけどな」
「来主? これは一体……?」
まったく訳が分からず、困惑した瞳で操と荷物を交互に見やった。操は満面の笑みを浮かべて甲洋を見ると、
「おれ、今日からここに住むことにした」
と、当たり前のように言い放った。
「は!?」
「ねぇ、これぜんぶ服なんだけどさ、どこにしまえばいい? おれは別にこのままでもいいけど、君は散らかるの嫌でしょ? どうしよう?」
操はぺたんと座り込み、荷解きをしはじめながらそう言った。
彼のなかではすでに決定事項になっているらしい事柄も、甲洋にしてみれば寝耳に水だ。再会の喜びに浸る間すら与えられず、話が急展開を見せている。
「どうしようって……」
戸惑うばかりの甲洋を見上げ、操は丸い目をパチパチと踊らせながら首を傾げた。
「もしかしてダメだった? でもおれ他に行くとこないよ。事務所も辞めちゃったし」
「ダメではないよ。ダメではないけど」
「けど?」
甲洋にしてみれば、むしろ願ったり叶ったりの状況だ。しかし、この子は一体どういうつもりでいるのだろう。もし仮にただの友達感覚で同居を考えているのなら、あまりにも浅はかすぎやしないだろうか。
甲洋はヘタレだが、飢えた野獣でもある。彼がしようとしていることは、狼を閉じ込めた檻に素っ裸で転がり込んでいくのと同じだ。
甲洋は操の真意を問うために、彼の正面に正座した。膝にそれぞれ拳を置いて、少し険しい顔をしながら丸い瞳をじっと見つめる。
「来主は、それでいいの?」
「いいってなにが?」
「だから……ここにさ、本当に俺と住むつもり?」
操は「うん」と大きく頷いた。
甲洋はゆっくりと瞬きをしながら、すぅっと深呼吸をする。
「来主。この際だから開き直って言うけど、俺はお前と同じ部屋でなんか暮らしたら、きっといろいろ我慢できない」
「我慢?」
「手を出さない自信がない」
「そんなこと? いいよ、別に」
「……俺が言うのもなんだけど、来主はもっと自分を大切にしたほうがいい」
操は「してるよ」と言って呑気に笑った。
「だから仕事も辞めたんだ。君だってそうしろって言ったじゃん」
「それはそうだけど」
「それに、好きなら一緒にいたいって思うのは当然でしょ?」
「……ん?」
「だったらエッチするのだって普通じゃない?」
「ま、待って」
話が見えているようで見えてこない。なにかまたひとつ、操の口から甲洋が知らされていない事柄が飛び出したような気がした。
もう少し順を追って説明してほしい。甲洋の訴えるような眼差しに、操はなにを言っているんだとばかりに目をキョトンとさせた。
「だって言ったじゃん。おれも好きだよって」
「?」
なにを言われたのかやっぱり理解できない甲洋に、操の眉が困ったように八の字を描く。
「おかしいな。ちゃんと言ったのに」
「なんの話?」
「なんで分かんないの? 君が先に言ったんだよ。そばにいたいって。好きだよ来主って」
「……え!?」
一瞬、頭が真っ白になる。
確かに言った。甲洋は眠っている操の背中に向かって、自分の気持ちを吐き出した。ファンとしてではなくて、一人の男としての感情を。
だけどあれは彼に意識がないと思っていたからで、決して伝えるために漏らした言葉ではなかったのだ。
「お、お前……あれを聞いて……?」
「うん」
ボンッ、と音がしそうなほど、全身の血液が顔中に集まっていく。甲洋はあまりの羞恥に右手を顔に押し当ててうつむいた。
「だからおれも答えたのに」
操が唇を尖らせる。しかし甲洋には、そんな記憶は全くなかった。
「……聞いてないよ。だってお前、寝てたんじゃないの」
「寝オチてたけど、半分くらいは起きてたよ」
「俺は聞いてない」
「そっか、じゃあ夢のなかで言ったんだ」
本人はちゃんと声に出して言ったつもりでいたらしいが、それじゃ聞こえるわけがない。
甲洋は指の隙間から視線だけを持ち上げて、恨めしい眼差しを操に送る。
この一ヶ月、どんな気持ちでいたと思っているのだろう。爆発しそうなほど想いを募らせながら、それでもきっともう関わることはないのだと悲観に暮れていた。
操はセックスをしたことはおろか、下手をすれば甲洋の存在すらとっくに忘れているのだろうと。
「じゃあ今度はちゃんと言うね。おれも君のこと好きだよ」
「ッ……!」
「だから一緒に暮らしたい。いいでしょ?」
あ、これ夢だ──と、甲洋は思った。
今度こそ、いよいよ都合がよすぎる夢を見ているに違いない。現実の自分は、今頃ホットミルクを飲み干して泥のように眠っているのではないか。
だって甲洋はもともとただのファンで、雲の上にいる彼を見上げていられればそれでよかった。
そんな遠い存在が隣に越してきて、ひょんなことから一夜を共にして、童貞を捧げて──同居ではなく、同棲することになるなんて。これが夢じゃないなら、一体なんだというのだろう。
確かめたくて、甲洋は操を取り囲む荷物を脇によけると、両手をついて正座のままスイッと正面に移動した。女の子のようにぺたんと座っている膝と、甲洋の膝がかすかに触れ合う。
ドキドキと胸を高鳴らせながら遠慮がちに右手を伸ばすと、同じく伸ばされた操の左手が甲洋の指先をきゅうっと握る。温かかった。細くてやわい指先の感触に、じわりと熱いものがこみ上げてくる。夢じゃない。確かに感じるぬくもりに、甲洋は震える息を吐き出した。
おずおずと視線だけを持ち上げてみると、操の頬が赤くなっていた。少し恥ずかしそうに顔をうつむけて、繋がっている手と手をじっと見つめている。どこか少女めいた初々しさを感じとり、甲洋の胸がいっそう大きく高鳴った。
お互い頬を染め合いながら、なにを言うでもなく沈黙に身を置く。時が過ぎるほど照れくささに歯がゆくなって、甲洋は絞り出すように口を開いた。
「なんで」
「ん」
「なんで、俺なんかを」
好きになってくれたの。
いくら間がもたないからって、我ながらこっ恥ずかしいことを聞いてしまったと思う。だけど今さら取り消せない。茶化されて終わるかと思いきや、操は意外にも真面目な様子でそれに答えた。
「顔、かな」
「顔」
「うん。ベランダで会ったとき、かっこいい顔した人だなって」
どうしてか嫌じゃない。むしろ嬉しいとすら思ってしまった。操に眼鏡を奪われたときも、綺麗な顔をしていると言われて正直悪い気はしなかったのだ。
この顔のせいで、今までさんざん嫌な思いをしてきた。人前で顔を晒せなくなるくらいには、コンプレックスになっていたはずなのに。
けっきょく好きだからなんだろうなと、甲洋は思う。好きな子が気に入ってくれたなら、なんだって嬉しいしなんだって許せる。単純すぎて、自分でも少し呆れるくらい。
「あとね」
「ま、まだあるの」
操が頷く。
「困ってたら助けてくれたし、ご飯おいしかったし。おれが好きなものを知っててくれたのも嬉しかった。それとね──」
そこでいったん言葉を切り、操は甲洋の指先を握る手の力を強めた。どこか熱っぽく瞳を蕩けさせ、耳まで赤くしながら下唇を噛み締めて、合わせた両膝をもじもじと擦り合わせている。
「来主?」
「……内緒」
赤い顔をしたまま、操は恥ずかしそうにふにゃりと笑った。
なんだか一瞬おかしな空気になりかけたような気がしたが、甲洋はあえて追求しなかった。もちろん気にはなっている。だけど、おいおい聞けたらそれでいい。機会なら、これからいくらでもあるだろう。だって今日からは、ずっと一緒にいられるのだ。
自分は世界一幸せな男なんじゃないかと、わりと本気でそう思う。
はにかむ操につられて、甲洋もふわりと表情を綻ばせた。
そのままなんとなく見つめ合って、繋がっていた指先同士を絡め合う。お互いゆっくりと身体を倒し、顔を近づけていくとキスをした。
「甘いね」
唇が離れた瞬間、操がふわりと目を細めながら呟いた。
そりゃそうだろうと、甲洋は思う。虚無感に苛まれながらチビチビとホットミルクを飲んでいた、ほんの十数分前の自分におかしさを覚えた。
「まだあるよ。飲む?」
「うん、飲む。飲みたい」
「いいよ。いま温めなおすから」
その前にもう一度。唇と唇を軽く触れ合わせ、優しくて甘いキスをした。
さっきより少し長めのキスをしながら、操の服をしまうための家具を見に行かなければと考える。ついでにお揃いのマグカップを買うのもいいかもしれない。
操が大好きな蜂蜜入りのホットミルクを、ふたりで一緒に飲むために。
ハニーポットクライシス / 了
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「──はい。それじゃあ、また」
朝。
先に目を覚ました甲洋は軽くシャワーを浴びたあと、玄関先まで移動して昨日の着信に折り返した。
通話を終えて部屋に戻ると、裸のままベッドに横たわっていた操が掛け布団から両腕を出し、ぐーっと背伸びをしていた。
「ふぁ~……あ、甲洋。おはよ」
「ん、おはよ」
枯れている声に苦笑しながら、ベッドの縁に腰を下ろす。起き抜けの赤い頬を指の甲で軽く撫で、ついでに目にかかっている前髪をそっと払い除けてやった。
「身体、平気……?」
すべすべの頬に指を触れさせたまま、眉尻を下げて問いかける。少し熱っぽいだろうか。操はまだどこか眠たそうな顔をしている。
昨夜、晴れてエッチ禁止令が解禁されて、甲洋は夢中で操を抱いた。
蕩けた身体とは対照的に、昨日の操はどこか不器用で初々しくすらあったように思う。いつもとは違った反応に激情を焚きつけられ、ずいぶんと性急に事を進めてしまったし、何度もナカに出してしまった。
「平気。そんな顔しなくていいよ」
ふにゃりと笑った操が、頬に触れていた甲洋の手をきゅうと握った。
彼の首筋からは手形が消えて、代わりに身体中に甲洋がつけた印が刻まれている。甲洋の背中にも操の爪痕が残されており、それは薄いシャツの下でヒリヒリとした熱を放っていた。
「ねぇ、それよりさ。聞いてもいい?」
「うん、なに?」
「宣戦布告ってなに?」
ずっと気になっていたことだったのだろう。操は興味津々の瞳で甲洋を見上げてくる。
「君、なんでアイツのこと知ってたのさ?」
「ああ……まぁ、うん」
甲洋は少し渋い表情を浮かべながらも、事の経緯を簡単に説明した。
ちょうど一週間前の夜、常連としてよく訪れるようになっていた男が残した痕跡と、その後始末をさせられた苦い記憶を。
一通り話を聞き終えた操は、「うぇ~」と呻きながら眉間にシワを寄せた。
「そんなことがあったんだ……」
「俺もちょくちょく監視されてたってことさ」
「……ごめん」
操は長いまつ毛を伏せながらモゾモゾと身を起こした。肩を抱いて補助してやると、甲洋の身体にくったりともたれかかってくる。
「おれ、AVもやめたし、住むとこだって変わったし……だからもう終わったことなんだって思い込んでて。でも……でもさ、もしかしたら、襲われてたのは甲洋の方だったかもしれないんだよね。おれ、なにも考えてなかったよ……」
あるいはその方がずっとよかったと、甲洋は思う。操をあんな恐ろしい目にあわせるくらいなら、自分が襲われていたほうがよっぽどマシだった。
もしあのタイミングでいったん部屋に引き返そうとしていなかったら。もし操の悲鳴を聞き逃していたら──考えるだけで背筋が凍る。
「もういいよ、来主」
子供みたいに頼りない肩を引き寄せて、両腕にすっぽりと閉じ込めた。強く抱きしめ、大きく息を吐き出す。
「お前が無事で、本当によかった」
あれは──あの男は、甲洋でもあったのかもしれない。
来栖ミサオへの感情を一歩でも間違えていれば、自分もどこかで歯車を狂わせていたかもしれないのだ。操には、そうさせるだけの魔性がある。
ともすれば永遠に失っていたかもしれない熱を抱きしめて、甲洋はしばし考えた。
操は芸能人のように派手な活動をしていたわけではないし、一般的な認知度が高いわけでもない。だけど彼が出演した作品は未だ世に出回っていて、これから先だって同じことが起こらないとは限らなかった。
かといって隠れ潜むようにコソコソと生きていくなんて、そんなことをこの子に強いたいわけでもない。そうやって生きていく孤独や窮屈さを、甲洋自身が誰よりも理解している。
「──あのさ、来主」
「ん、なに?」
「俺の故郷に、一緒に来ないか?」
甲洋の胸にすっかり顔を埋めていた操が、視線をあげて大きく目を瞬かせる。
「どういうこと?」
「言葉通りだよ。実家がさ、喫茶店をやっていて」
甲洋はついさっき通話をしていた相手──溝口恭介のことを操に話した。
彼と話したのは実に数ヶ月ぶりのことだった。こまめに電話しろと言われているけれど、甲洋から連絡したことはほとんどない。だから痺れを切らしたように、たまに電話を寄こすのだ。
子供の頃から知っているという理由だけで、赤の他人でしかない甲洋のことをなにかと気にかけてくれている。面倒見がよくて情が深くて、ちょっと風変わりな男でもあった。
そんな彼は今、甲洋の実家でもあったはずの喫茶『楽園』で、仮オーナーを務めている。もともとは両親がふたりで経営していたけれど、甲洋が学校を卒業して島を出た翌年に閉店し、彼らもまた島を出ていった。
甲洋は両親の行き先を知らされていない。かろうじて父の携帯番号くらいなら知ってはいるけれど、お互いに連絡を取り合ったことは一度もなかった。
親子らしい絆など欠片もないのだ。そういう家庭に、甲洋は育った。
島には楽園の他に、食堂がひとつあるだけだった。溝口はもともと店の常連で、貴重な飯場がなくなると困るという理由から、楽園の経営を半ば強引に引き継いだ。
だけど本当の理由は別にあることに、甲洋はずっと気がついていた。
『ここはお前さんの家だよ。いつでも帰ってきな』
問われたことにただ答えるだけの近況報告が済むと、溝口はいつも決まってその台詞を口にする。どこか諦めを滲ませながら、それでも甲洋を気遣っていた。
彼は自分が帰る場所を守ってくれているのだ。けれど甲洋には、島に戻ろうという意思がなかった。ほんのつい、最近までは。
「オシャレな店なんかないし、流行りの服も最新のゲームも、欲しいときすぐには手に入らない。相当な不便をかけると思う。だけど、もしお前さえよければ──そこで俺と、一緒に暮らしてほしい」
ここよりもずっと人が少なくて、穏やかなときが流れる小さな田舎の漁師町。洗練された都会育ちの操にとっては、未開の地もいいところかもしれない。
だけどそこで一緒に喫茶店をやりながら、同じ屋根の下で寄り添って生きることができたなら。それはとても幸せなことなんじゃないだろうか。
少なくとも今よりはずっと、のびのびと生きられる場所であるように思う。
それは操と出会わなければ、決して生まれなかったであろう人生の選択肢だった。彼とここで暮らすようになってから、時々ふと考えるようになっていた。
「それって君と一緒にお店屋さんしながら暮らすってこと?」
「そうなるかな」
「う~ん、どうかなぁ……」
操は珍しく考え込んでいるようだった。うんうんと唸りながら、難しい顔をして首を傾げている。
慣れない土地に突然移住しようなんて言われても、すぐに決断することは難しいだろう。しかしこの反応を見る限り、やはり望みは薄いだろうか。操が嫌と言うならば、決して無理強いはできない。甲洋の胸が落胆に沈みかける。
「おれにできるかなぁ……だってさおれ、ケーキだってしょっちゅうダメにしてたし。お店のお皿、何枚割るか分かんないよ?」
「……あ、そっち?」
操の気がかりは移住への決断をとっくに通り越し、喫茶店の方へと向けられていた。
「そっちってどっち?」
「いや、てっきり田舎暮らしを嫌がるとばかり」
「なんで?」
操はきょとんとした顔をして、大きな瞳をくるくると踊らせた。
「君はそこに帰りたいんでしょ? だったらおれも行くよ。喫茶店、けっこう楽しそうだしね」
「……いいの?」
さも当然とばかりに、操は「うん」と頷いた。
「君が帰る場所におれも帰るよ。お皿はたぶん割るけどさ」
あまりにもあっけらかんとして言うものだから、思わず拍子抜けしてしまう。なんの迷いもない操の瞳を見ていたら、迷っていたのは自分の方なのだと気づかされた。自分から誘っておいて、おかしな話ではあるけれど。
甲洋自身が島に帰りたいのかと聞かれれば、正直よく分からない。溝口がどんな言葉をかけてくれたって、自分にはもう帰る家はないと思っていた。
どこかで帰ってはいけないような、そんな気すらしていたのだ。逃げるように飛び出したあの島に、居心地の悪かったあの家に。
だけど操は言った。甲洋が帰る場所に、自分も帰ると。
疑いもせず無邪気に示されたその意思に、喜びが熱い波になって押し寄せた。ああ俺は、ずっとこの子と生きていくのだと。操とふたり、安心して帰ることができる家を作りたい、と。
「ありがとう、来主」
「変な甲洋。好きなら一緒にいたいって思うのは当然でしょ?」
そうやってまた。甲洋が欲しい言葉を、平然と。
操は覚えているだろうか。あの日、大荷物を抱えてこの部屋を訪れた彼は、今とまったく同じことを口にした。それがどんなに嬉しかったか。
どれほどの語彙を尽くしたとしても、この喜びを明確には伝えられないような気がした。だから代わりにその身を強く抱きしめる。えへへと笑って、操の腕が甲洋の背を抱き返した。
「皿くらい、いくら割ったっていいよ。俺がちゃんと教えるから」
「ん、わかった」
自分は世界一幸せな男かもしれないと、今この瞬間も本気でそう思いながら、甲洋は操の髪に鼻先を埋める。
お互いしばらくはずっとそうしていたけれど、やがて操が思いだしたように身じろぎをした。
「ねぇ甲洋、お願いがあるんだけど」
「うん、なに?」
もじもじと身を揺らす操が、うつむけていた顔をわずかに上げる。
「お風呂に連れてって。おれ、たぶん立てない」
「あ、ああ……そっか」
脳内が幸せモード一色で、すっかり忘れてしまっていた。
操が気を失っているあいだに軽く清めはしたけれど、それは十分な処理とはいえない。彼のナカには甲洋が放ったものがまだ残っていて、このまま放っておけば大変なことになってしまうだろう。
「でさ、一緒に入ろうよ。お風呂」
「ッ、え?」
思わず肩をギクリと跳ねさせた。
「い、いや、俺はもう……」
甲洋がすでにシャワーを済ませていることは、身につけている部屋着と石鹸の香りが証明しているはずだ。言いよどむ甲洋に、けれど操は不満そうな上目使いをした。
「だってダルいんだもん。ねぇいいでしょ? 洗うの手伝ってよ」
そう言われると、立場的に嫌とは言えない。そもそも身体にかかる負担は、甲洋と操ではまるで違うのだ。いくら許しを得たからとはいえ、さんざん出してしまったのは自分でもある。
「……わかった」
「えへへー、やった!」
にっこり笑った操が甘えた仕草で両腕を首にまわしてくる。よいせとお姫様抱っこをして浴室に向かいながら、また変な気を起こさないようにしようと心に誓った。操だって、そんなつもりはないはずだ。
今から行うのはあくまでも入浴の介助である。昨日あれだけ無理をさせた以上、また繰り返しては意味がない。
しがみついている操が、どんなにちゅっちゅと音を立てて頬にキスをしてこようとも、甲洋は鋼の理性を保つ必要があるのだ。
「そういえばお風呂ではまだ一度もしたことないね」
「言われてみれば確かにそう……じゃなくて。しないよ。しないから」
「しないの!?」
「えっ?」
「えっ?」
脱衣所の扉の前で咄嗟に足を止めた。お互い目をまん丸くして、しばらく無言で見つめ合う。
やがて操が猫のように瞳を細めて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ねぇ、しないの?」
「……する」
むっつりとした表情で短く答えた。浴室に辿り着きすらしないうちに、甲洋の理性はいともたやすく崩れ去ったのである。
*
あの事件から一ヶ月。
トントン拍子に引っ越しの準備が進んでいくうちに、季節は冬から春へと移ろいを見せはじめていた。
「忘れ物はない?」
すっかり空になった部屋の玄関で靴をはきながら、甲洋は背後の操に問いかけた。荷物はあらかた先に送ったはずだが、なにかあってもそうそう戻ってくることはできないのだ。
答えがないので振り向くと、操はなぜかむぅっと唇を尖らせていた。小さな顔に、まんまるのラウンド眼鏡がよく似合っている。
「来主?」
「ないよ。ないけどさ」
操はどこか不満そうに、スクエア型の黒縁眼鏡をかけた甲洋の顔をじっと見つめた。
「君、あの眼鏡はもうしないの?」
彼が言っているのは甲洋がずっと手放さずにかけていた、あのぐるぐる眼鏡のことである。やっぱりそのことかと、苦笑しながら頷いた。
「あれは壊れちゃっただろ」
「そうだけどさぁ」
操は口をモゴモゴとさせ、腑に落ちないといった様子で目を逸らす。
甲洋がどれだけ野暮ったい格好をしていても頓着しなかったはずの操だが、実はヤキモチ焼きの彼が気にしているのは眼鏡の件だけではないのだ。この一ヶ月で、甲洋はすっかり様変わりしていた。ボロボロのコートを着るのもやめたし、髪も切って身綺麗になっている。
眼鏡をかけているのは、あまりにも馴染みすぎたせいで落ち着かないからだ。だから前に操が似合うと言ってくれたものと、似たデザインの眼鏡を購入した。
操にはあのぐるぐる眼鏡はもうどこにも売っておらず、手に入らないと適当なことを言って納得させていた。あれはただのコスチューム小物で、通販サイトなどを利用すればいくらでも入手できるのだが。
「もういいんだ。あれはもう卒業」
今から向かおうとしているのは、顔馴染みばかりの故郷である。以前のような格好で帰ろうものなら驚かせてしまうだけだし、故郷でまで顔を隠す意味などない──というのは、実は建前だったりもする。
あの事件の際に男から言われた『ダサイモ野郎』という言葉が、地味に堪えてしまったからだ。
だったら可愛いこの子の横にいて、恥ずかしくない自分になってやろうじゃないかとそう決めた。過去のトラウマを引きずることに、どこかで疲れてもいたのかもしれない。
もし操に危害が及ぶようなことがあればと、ずっとそれを気にしていたけれど。どうせ何があったって、彼のことは自分がこの手で守るのだ。
あの件があったから自信と踏ん切りがついたなんて、皮肉にも程があるとは思うのだが。
「ふぅん……なんかよく分かんないけど。っていうかそもそも君、なんであんな眼鏡してたわけ?」
そういえばまだ話したことがない。操からも特に質問はなかったし、わざわざしたいと思えるような楽しい内容でもなかった。
なにより、それなりに長い話になってしまうから。
「道中話すよ」
そう言って、甲洋は操に手を差し出した。操は唇を可愛く尖らせたままではあったけれど、素直に手を重ねてくる。
(小さい手だな)
しっかりと握りしめながら、しみじみとそう思った。この手に触れたかった男たちが、この世界にはどれだけの数いるだろう。
それでも今こうして彼の手を握っているのは甲洋だ。まるで奇跡としか思えないのに、このぬくもりは現実だった。
「甲洋?」
重なる手と手を見つめながら黙り込んでしまった甲洋に、操が不思議そうな顔をする。甲洋は「なんでもないよ」と言って笑った。
「行こう、来主」
今日この日、甲洋は操を連れて生まれ育った故郷に帰る。
操はいっそ性別を超えて人を魅了するし、この先もきっと甲洋の不安の種が尽きることはないだろう。お互いこれからもちょっとしたことでヤキモチをやいたり、すれ違ったり、思い悩んだりするかもしれない。
望むところだと、甲洋は思う。恋の病は果てしない。
「うん!」
どこか晴れ晴れとした甲洋の微笑みに、操も自然と笑みをこぼれさせた。小さな手が、一回り大きい甲洋の手を強く握りしめる。可愛い笑顔。愛しいぬくもり。甲洋だけの、来主操。
これから築いていく新しい未来には、多くの喜びが溢れていると信じて。
そうしてふたり、空っぽになった部屋を出た。
ネバーエンドラブシック / 了
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朝。
先に目を覚ました甲洋は軽くシャワーを浴びたあと、玄関先まで移動して昨日の着信に折り返した。
通話を終えて部屋に戻ると、裸のままベッドに横たわっていた操が掛け布団から両腕を出し、ぐーっと背伸びをしていた。
「ふぁ~……あ、甲洋。おはよ」
「ん、おはよ」
枯れている声に苦笑しながら、ベッドの縁に腰を下ろす。起き抜けの赤い頬を指の甲で軽く撫で、ついでに目にかかっている前髪をそっと払い除けてやった。
「身体、平気……?」
すべすべの頬に指を触れさせたまま、眉尻を下げて問いかける。少し熱っぽいだろうか。操はまだどこか眠たそうな顔をしている。
昨夜、晴れてエッチ禁止令が解禁されて、甲洋は夢中で操を抱いた。
蕩けた身体とは対照的に、昨日の操はどこか不器用で初々しくすらあったように思う。いつもとは違った反応に激情を焚きつけられ、ずいぶんと性急に事を進めてしまったし、何度もナカに出してしまった。
「平気。そんな顔しなくていいよ」
ふにゃりと笑った操が、頬に触れていた甲洋の手をきゅうと握った。
彼の首筋からは手形が消えて、代わりに身体中に甲洋がつけた印が刻まれている。甲洋の背中にも操の爪痕が残されており、それは薄いシャツの下でヒリヒリとした熱を放っていた。
「ねぇ、それよりさ。聞いてもいい?」
「うん、なに?」
「宣戦布告ってなに?」
ずっと気になっていたことだったのだろう。操は興味津々の瞳で甲洋を見上げてくる。
「君、なんでアイツのこと知ってたのさ?」
「ああ……まぁ、うん」
甲洋は少し渋い表情を浮かべながらも、事の経緯を簡単に説明した。
ちょうど一週間前の夜、常連としてよく訪れるようになっていた男が残した痕跡と、その後始末をさせられた苦い記憶を。
一通り話を聞き終えた操は、「うぇ~」と呻きながら眉間にシワを寄せた。
「そんなことがあったんだ……」
「俺もちょくちょく監視されてたってことさ」
「……ごめん」
操は長いまつ毛を伏せながらモゾモゾと身を起こした。肩を抱いて補助してやると、甲洋の身体にくったりともたれかかってくる。
「おれ、AVもやめたし、住むとこだって変わったし……だからもう終わったことなんだって思い込んでて。でも……でもさ、もしかしたら、襲われてたのは甲洋の方だったかもしれないんだよね。おれ、なにも考えてなかったよ……」
あるいはその方がずっとよかったと、甲洋は思う。操をあんな恐ろしい目にあわせるくらいなら、自分が襲われていたほうがよっぽどマシだった。
もしあのタイミングでいったん部屋に引き返そうとしていなかったら。もし操の悲鳴を聞き逃していたら──考えるだけで背筋が凍る。
「もういいよ、来主」
子供みたいに頼りない肩を引き寄せて、両腕にすっぽりと閉じ込めた。強く抱きしめ、大きく息を吐き出す。
「お前が無事で、本当によかった」
あれは──あの男は、甲洋でもあったのかもしれない。
来栖ミサオへの感情を一歩でも間違えていれば、自分もどこかで歯車を狂わせていたかもしれないのだ。操には、そうさせるだけの魔性がある。
ともすれば永遠に失っていたかもしれない熱を抱きしめて、甲洋はしばし考えた。
操は芸能人のように派手な活動をしていたわけではないし、一般的な認知度が高いわけでもない。だけど彼が出演した作品は未だ世に出回っていて、これから先だって同じことが起こらないとは限らなかった。
かといって隠れ潜むようにコソコソと生きていくなんて、そんなことをこの子に強いたいわけでもない。そうやって生きていく孤独や窮屈さを、甲洋自身が誰よりも理解している。
「──あのさ、来主」
「ん、なに?」
「俺の故郷に、一緒に来ないか?」
甲洋の胸にすっかり顔を埋めていた操が、視線をあげて大きく目を瞬かせる。
「どういうこと?」
「言葉通りだよ。実家がさ、喫茶店をやっていて」
甲洋はついさっき通話をしていた相手──溝口恭介のことを操に話した。
彼と話したのは実に数ヶ月ぶりのことだった。こまめに電話しろと言われているけれど、甲洋から連絡したことはほとんどない。だから痺れを切らしたように、たまに電話を寄こすのだ。
子供の頃から知っているという理由だけで、赤の他人でしかない甲洋のことをなにかと気にかけてくれている。面倒見がよくて情が深くて、ちょっと風変わりな男でもあった。
そんな彼は今、甲洋の実家でもあったはずの喫茶『楽園』で、仮オーナーを務めている。もともとは両親がふたりで経営していたけれど、甲洋が学校を卒業して島を出た翌年に閉店し、彼らもまた島を出ていった。
甲洋は両親の行き先を知らされていない。かろうじて父の携帯番号くらいなら知ってはいるけれど、お互いに連絡を取り合ったことは一度もなかった。
親子らしい絆など欠片もないのだ。そういう家庭に、甲洋は育った。
島には楽園の他に、食堂がひとつあるだけだった。溝口はもともと店の常連で、貴重な飯場がなくなると困るという理由から、楽園の経営を半ば強引に引き継いだ。
だけど本当の理由は別にあることに、甲洋はずっと気がついていた。
『ここはお前さんの家だよ。いつでも帰ってきな』
問われたことにただ答えるだけの近況報告が済むと、溝口はいつも決まってその台詞を口にする。どこか諦めを滲ませながら、それでも甲洋を気遣っていた。
彼は自分が帰る場所を守ってくれているのだ。けれど甲洋には、島に戻ろうという意思がなかった。ほんのつい、最近までは。
「オシャレな店なんかないし、流行りの服も最新のゲームも、欲しいときすぐには手に入らない。相当な不便をかけると思う。だけど、もしお前さえよければ──そこで俺と、一緒に暮らしてほしい」
ここよりもずっと人が少なくて、穏やかなときが流れる小さな田舎の漁師町。洗練された都会育ちの操にとっては、未開の地もいいところかもしれない。
だけどそこで一緒に喫茶店をやりながら、同じ屋根の下で寄り添って生きることができたなら。それはとても幸せなことなんじゃないだろうか。
少なくとも今よりはずっと、のびのびと生きられる場所であるように思う。
それは操と出会わなければ、決して生まれなかったであろう人生の選択肢だった。彼とここで暮らすようになってから、時々ふと考えるようになっていた。
「それって君と一緒にお店屋さんしながら暮らすってこと?」
「そうなるかな」
「う~ん、どうかなぁ……」
操は珍しく考え込んでいるようだった。うんうんと唸りながら、難しい顔をして首を傾げている。
慣れない土地に突然移住しようなんて言われても、すぐに決断することは難しいだろう。しかしこの反応を見る限り、やはり望みは薄いだろうか。操が嫌と言うならば、決して無理強いはできない。甲洋の胸が落胆に沈みかける。
「おれにできるかなぁ……だってさおれ、ケーキだってしょっちゅうダメにしてたし。お店のお皿、何枚割るか分かんないよ?」
「……あ、そっち?」
操の気がかりは移住への決断をとっくに通り越し、喫茶店の方へと向けられていた。
「そっちってどっち?」
「いや、てっきり田舎暮らしを嫌がるとばかり」
「なんで?」
操はきょとんとした顔をして、大きな瞳をくるくると踊らせた。
「君はそこに帰りたいんでしょ? だったらおれも行くよ。喫茶店、けっこう楽しそうだしね」
「……いいの?」
さも当然とばかりに、操は「うん」と頷いた。
「君が帰る場所におれも帰るよ。お皿はたぶん割るけどさ」
あまりにもあっけらかんとして言うものだから、思わず拍子抜けしてしまう。なんの迷いもない操の瞳を見ていたら、迷っていたのは自分の方なのだと気づかされた。自分から誘っておいて、おかしな話ではあるけれど。
甲洋自身が島に帰りたいのかと聞かれれば、正直よく分からない。溝口がどんな言葉をかけてくれたって、自分にはもう帰る家はないと思っていた。
どこかで帰ってはいけないような、そんな気すらしていたのだ。逃げるように飛び出したあの島に、居心地の悪かったあの家に。
だけど操は言った。甲洋が帰る場所に、自分も帰ると。
疑いもせず無邪気に示されたその意思に、喜びが熱い波になって押し寄せた。ああ俺は、ずっとこの子と生きていくのだと。操とふたり、安心して帰ることができる家を作りたい、と。
「ありがとう、来主」
「変な甲洋。好きなら一緒にいたいって思うのは当然でしょ?」
そうやってまた。甲洋が欲しい言葉を、平然と。
操は覚えているだろうか。あの日、大荷物を抱えてこの部屋を訪れた彼は、今とまったく同じことを口にした。それがどんなに嬉しかったか。
どれほどの語彙を尽くしたとしても、この喜びを明確には伝えられないような気がした。だから代わりにその身を強く抱きしめる。えへへと笑って、操の腕が甲洋の背を抱き返した。
「皿くらい、いくら割ったっていいよ。俺がちゃんと教えるから」
「ん、わかった」
自分は世界一幸せな男かもしれないと、今この瞬間も本気でそう思いながら、甲洋は操の髪に鼻先を埋める。
お互いしばらくはずっとそうしていたけれど、やがて操が思いだしたように身じろぎをした。
「ねぇ甲洋、お願いがあるんだけど」
「うん、なに?」
もじもじと身を揺らす操が、うつむけていた顔をわずかに上げる。
「お風呂に連れてって。おれ、たぶん立てない」
「あ、ああ……そっか」
脳内が幸せモード一色で、すっかり忘れてしまっていた。
操が気を失っているあいだに軽く清めはしたけれど、それは十分な処理とはいえない。彼のナカには甲洋が放ったものがまだ残っていて、このまま放っておけば大変なことになってしまうだろう。
「でさ、一緒に入ろうよ。お風呂」
「ッ、え?」
思わず肩をギクリと跳ねさせた。
「い、いや、俺はもう……」
甲洋がすでにシャワーを済ませていることは、身につけている部屋着と石鹸の香りが証明しているはずだ。言いよどむ甲洋に、けれど操は不満そうな上目使いをした。
「だってダルいんだもん。ねぇいいでしょ? 洗うの手伝ってよ」
そう言われると、立場的に嫌とは言えない。そもそも身体にかかる負担は、甲洋と操ではまるで違うのだ。いくら許しを得たからとはいえ、さんざん出してしまったのは自分でもある。
「……わかった」
「えへへー、やった!」
にっこり笑った操が甘えた仕草で両腕を首にまわしてくる。よいせとお姫様抱っこをして浴室に向かいながら、また変な気を起こさないようにしようと心に誓った。操だって、そんなつもりはないはずだ。
今から行うのはあくまでも入浴の介助である。昨日あれだけ無理をさせた以上、また繰り返しては意味がない。
しがみついている操が、どんなにちゅっちゅと音を立てて頬にキスをしてこようとも、甲洋は鋼の理性を保つ必要があるのだ。
「そういえばお風呂ではまだ一度もしたことないね」
「言われてみれば確かにそう……じゃなくて。しないよ。しないから」
「しないの!?」
「えっ?」
「えっ?」
脱衣所の扉の前で咄嗟に足を止めた。お互い目をまん丸くして、しばらく無言で見つめ合う。
やがて操が猫のように瞳を細めて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ねぇ、しないの?」
「……する」
むっつりとした表情で短く答えた。浴室に辿り着きすらしないうちに、甲洋の理性はいともたやすく崩れ去ったのである。
*
あの事件から一ヶ月。
トントン拍子に引っ越しの準備が進んでいくうちに、季節は冬から春へと移ろいを見せはじめていた。
「忘れ物はない?」
すっかり空になった部屋の玄関で靴をはきながら、甲洋は背後の操に問いかけた。荷物はあらかた先に送ったはずだが、なにかあってもそうそう戻ってくることはできないのだ。
答えがないので振り向くと、操はなぜかむぅっと唇を尖らせていた。小さな顔に、まんまるのラウンド眼鏡がよく似合っている。
「来主?」
「ないよ。ないけどさ」
操はどこか不満そうに、スクエア型の黒縁眼鏡をかけた甲洋の顔をじっと見つめた。
「君、あの眼鏡はもうしないの?」
彼が言っているのは甲洋がずっと手放さずにかけていた、あのぐるぐる眼鏡のことである。やっぱりそのことかと、苦笑しながら頷いた。
「あれは壊れちゃっただろ」
「そうだけどさぁ」
操は口をモゴモゴとさせ、腑に落ちないといった様子で目を逸らす。
甲洋がどれだけ野暮ったい格好をしていても頓着しなかったはずの操だが、実はヤキモチ焼きの彼が気にしているのは眼鏡の件だけではないのだ。この一ヶ月で、甲洋はすっかり様変わりしていた。ボロボロのコートを着るのもやめたし、髪も切って身綺麗になっている。
眼鏡をかけているのは、あまりにも馴染みすぎたせいで落ち着かないからだ。だから前に操が似合うと言ってくれたものと、似たデザインの眼鏡を購入した。
操にはあのぐるぐる眼鏡はもうどこにも売っておらず、手に入らないと適当なことを言って納得させていた。あれはただのコスチューム小物で、通販サイトなどを利用すればいくらでも入手できるのだが。
「もういいんだ。あれはもう卒業」
今から向かおうとしているのは、顔馴染みばかりの故郷である。以前のような格好で帰ろうものなら驚かせてしまうだけだし、故郷でまで顔を隠す意味などない──というのは、実は建前だったりもする。
あの事件の際に男から言われた『ダサイモ野郎』という言葉が、地味に堪えてしまったからだ。
だったら可愛いこの子の横にいて、恥ずかしくない自分になってやろうじゃないかとそう決めた。過去のトラウマを引きずることに、どこかで疲れてもいたのかもしれない。
もし操に危害が及ぶようなことがあればと、ずっとそれを気にしていたけれど。どうせ何があったって、彼のことは自分がこの手で守るのだ。
あの件があったから自信と踏ん切りがついたなんて、皮肉にも程があるとは思うのだが。
「ふぅん……なんかよく分かんないけど。っていうかそもそも君、なんであんな眼鏡してたわけ?」
そういえばまだ話したことがない。操からも特に質問はなかったし、わざわざしたいと思えるような楽しい内容でもなかった。
なにより、それなりに長い話になってしまうから。
「道中話すよ」
そう言って、甲洋は操に手を差し出した。操は唇を可愛く尖らせたままではあったけれど、素直に手を重ねてくる。
(小さい手だな)
しっかりと握りしめながら、しみじみとそう思った。この手に触れたかった男たちが、この世界にはどれだけの数いるだろう。
それでも今こうして彼の手を握っているのは甲洋だ。まるで奇跡としか思えないのに、このぬくもりは現実だった。
「甲洋?」
重なる手と手を見つめながら黙り込んでしまった甲洋に、操が不思議そうな顔をする。甲洋は「なんでもないよ」と言って笑った。
「行こう、来主」
今日この日、甲洋は操を連れて生まれ育った故郷に帰る。
操はいっそ性別を超えて人を魅了するし、この先もきっと甲洋の不安の種が尽きることはないだろう。お互いこれからもちょっとしたことでヤキモチをやいたり、すれ違ったり、思い悩んだりするかもしれない。
望むところだと、甲洋は思う。恋の病は果てしない。
「うん!」
どこか晴れ晴れとした甲洋の微笑みに、操も自然と笑みをこぼれさせた。小さな手が、一回り大きい甲洋の手を強く握りしめる。可愛い笑顔。愛しいぬくもり。甲洋だけの、来主操。
これから築いていく新しい未来には、多くの喜びが溢れていると信じて。
そうしてふたり、空っぽになった部屋を出た。
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近隣住民の通報により駆けつけた警官に捕らえられた男は、パトカーに押し込められる寸前まで狂ったように『ミサオ』の名を叫び続けていた。
その声を聞くだけで震えが走り、甲洋が肩を抱いて支えていてくれなければ、操はその場に立っていることすら危うかったかもしれない。
その後は操の精神面を考慮して、ひとまず簡易的な聴取だけで済まされた。
詳しい話は後日ということになり、ふたりがマンションに帰宅できたのは21時を過ぎたころだった。
*
部屋に戻るとシャワーを浴びた。
土なのど汚れと一緒に男が乱暴に触れた場所を洗い流しても、首に残る感触が失せることはない。熱い湯に打たれてもなお青い顔をしながら浴室を出ると、甲洋がホットミルクを作って待っていてくれた。
ちびちびとカップに口をつけているあいだ、甲洋はその横でただ静かに操のことを見守っていた。ときどき小さくむせると、背中を優しく擦ってくれる。
ミルクと蜂蜜と、そして甲洋の優しさに包まれて、手足の先までジンジンとあたたかく痺れていくのを感じた。
「顔色、だいぶ戻ってきたな」
操の頬に赤みがさしてきたことを確かめて、甲洋は柔らかい笑みを浮かべた。操はこくりと頷いて、その顔をおずおずと見上げる。
「甲洋、ごめん」
「どうしたの?」
「だって、今日本当は仕事だったんでしょ?」
時刻はいつも甲洋が出かける時間を、とっくの昔に過ぎている。
あんなことがあったばかりで、一人きりにならずに済むのは嬉しいと思う。だけどさすがの操も、今日ばかりは消沈していた。勝手に飛びだして、危ないところを助けてもらって、仕事まで休ませて。
甲洋は優しく目を細め、癖のある前髪を揺らしながら首を軽く横に振った。
「気にしなくていい。俺がそばにいたいだけだから」
「……ありがと」
こんなふうに笑う甲洋を見ると、どうしてか目を逸したいような気持ちになる。初めてセックスをした夜もそうだった。だからあのときの操は、自分からやめろと言って取り上げたはずの眼鏡を、甲洋に押し返したのだ。
じゃなきゃなんだかくすぐったいような気がして、この顔を直視できないと思ったから。その眼鏡も、さっきの件ですっかり駄目になってしまったけれど。
逃げるようにテーブルの上に目をやって、空になったカップを置いた。すると自然と、そこに置かれたままの白い紙袋に意識が向く。
隣であぐらをかいていた甲洋は、いつ切り出そうかと密かにタイミングを図っていたようだった。
「俺こそごめん、来主」
項垂れるようにしながら、甲洋がガクリと頭をさげる。
この袋は古い友人から譲り受けたもので、捨てるに捨てられずただ置いておいただけだということ。操が出演していたビデオもこの中に入っており、それが来栖ミサオを知るキッカケになったこと。そして、他はいっさい見ていないということ。
言い訳にしか聞こえないかもしれないけど──そう付け加えながら話す甲洋はひどくバツが悪い顔をしていて、操がずっと見たいと思っていたはずの、叱られた大型犬のような姿をしていた。こんな形で見たかったわけではないから、どうにも複雑な気持ちになってしまう。
最後にもう一度「ごめん」と言って締めくくった甲洋に、操は首を横に振った。
「うぅん。いっぱい謝らなきゃいけないのはおれのほう。君はなにも悪くない」
だいたい操が常に部屋にいる状況で、AVを見る隙などどこにもありはしなかった。最近の甲洋は暇さえあれば一緒にゲームをして遊んでいたし、それ以外はまるで操を避けるかのようにして寝床で背中を丸めていたのだ。
考えれば分かることだったのに、早とちりもいいところである。
「変な誤解してごめんね。おれAV辞めちゃったし……だからもう飽きたのかなとか、君はやっぱり女の子の方がいいのかな、とか」
自分でも、らしくないなぁと思う。人の見た目だけじゃなく、性別にすらまるでこだわりはないはずだった。だから女の子の服を着ることに抵抗はなかったし、男とだって平気でセックスをすることができた。
だけどもう甲洋とは終わりなのかもしれないと思ったとき、初めて自分の価値に不安を覚えたのだ。女の子に興奮する甲洋を想像して、悔しいとも感じてしまった。
「そんなことあるはずないだろ!」
甲洋がひどく焦った声をあげたので、思わず肩を跳ねさせた。目を丸くした操に、彼はハッとしながら「ごめん」と言って、それから真剣な眼差しを向けてくる。
「俺は来主がいい」
「!」
「来主が好きだ。お前がAVに出ていようがいまいが、俺はきっと来主のことを好きになったよ」
照れもせずまっすぐに吐き出された想いに、操は丸くしていた瞳を潤ませる。
彼のひたむきな言葉が胸にしみた。そこから吹きこぼれるように込み上げた感情を抑えきれずに、操は甲洋の腕に勢いよく縋りついた。
「じゃあ……じゃあさっ!」
「うん」
「エッチしようよ!」
「……ッ、ぇ?」
面食らったように目を見開いた甲洋の頬が、さぁっと赤く染まっていった。
「な、なんでそんな、急に」
「急じゃないよ。むしろ自然な流れじゃないの?」
「や、あの……でも」
「でも?」
「……解かれてないだろ、禁止令」
たじろぎながら逸らされた瞳に、操はきゅっと眉を吊り上げる。
「そんなのもういい。っていうか、最初からどうでもよかったんだよ。なんで真に受けちゃうのさ」
「なんでってお前……え、そうだったの?」
「そうだよ。甲洋のバカ真面目。おれはずっと待ってたのに」
甲洋の顔が、いよいよ耳まで真っ赤になった。戸惑いを色濃く浮かべながらも、操に向けられた瞳はどこか爛々と輝いているように見える。単純なのか複雑なのか、よく分からない男だ。
今だって、きっとなにかグルグルと面倒くさいことを考えてはじめているのだろう。思いっきり期待に満ちた目をしているくせに、大人ぶった態度でまた視線を逸らそうとしている。
「でも、あんなことがあったばかりだろ。今夜はゆっくり休んだ方が……」
「もう! めんどくさいな! だから盛り上がるんじゃん!」
操は甲洋の後ろ首へ手を伸ばし、長い癖毛ごと強く掴んで引き寄せる。歯がぶつかりそうな勢いでガツンとキスして、それから見開かれている瞳をきつく睨みつけた。
「エッチ禁止令終わり! ねぇ、これでいい!?」
「く、来主」
「おれ、不安だったんだから! 君がぜんぜん触ってこないから、すごく不安だったんだから!」
(分かってるよ。おれも一緒。めんどくさいの。君だってそう思ってるんだろ)
甲洋はスケベだが、操だって同じだ。面倒くさいスケベがふたり。どうせお似合いなんだから、さっきの事件だって、いい感じに盛り上がるための材料にしてしまえばいいのだ。
それくらい分かってるくせに。どうせそうするつもりだったくせに。
「いいでしょ甲洋……おれに怖いこと、いっぱいしてよ」
呆けたような顔をしながら、甲洋がごくりとひとつ、喉を鳴らした。
*
「ん、んっ、ふぅ……」
ベッドの上にふたりで沈んで、キスをしながらもどかしい手つきで服を脱がせ合う。お互い下着姿になってからも、追いかけっこでもしているみたいに舌を絡ませ、吸いついて、歯を立てながら貪った。
暖房がきいた室内にいても、むき出しになった肌に触れる空気は少し冷たい。熱く息を乱しながら、甲洋の大きな手が皮膚を撫でる。急いている心と身体は、それだけで甘い吐息が漏れた。
「来主、来主……」
「ぁ、ッ、甲洋……はやく……っ」
ぴたりと肌を重ねていてさえ足りなくて、操は甲洋の頭を掻き抱いた。操の首には男に締められた痕がうっすらと残されていて、甲洋は痛ましそうに瞳を細めると、そこに顔を埋めて何度も繰り返しキスをする。
あまり出っ張っていない、小さな喉仏を覆う薄い皮膚に吸いつかれると、上ずった声が漏れて震えが走る。
「こう、よ……っ、ぁ、もっと……っ」
唇は徐々に鎖骨へとおりていき、やがて外気に触れてしこりを帯びた胸の粒へとたどり着いた。口に含んだそれを舌先で転がされ、ときどき甘く吸われたと思ったら、緩く歯を立てられる。
指も駆使しながら繰り返しなぶられて、腰が揺れてしまうのを止められない。
「ぁんっ、あっ、あ、ダメ……ッ、おっぱいイヤ……っ、そこいやっ」
操は髪を振り乱しながら嫌々と首を振る。それでも両腕は甲洋の頭を抱きしめたまま、指先は頭皮に甘く爪を立てていた。
嫌だとかダメだとか、操が泣き声をあげるほどに甲洋はそこを執拗に嬲り続ける。
「はぅんっ、ぁ! ちくびやだっ、そこ怖いの……っ、あ、もっと、もっとしてぇ……っ」
身体の中心が、もはや熱を帯びて膨らんでいるのを感じる。甲洋は空腹の犬のように荒く息を吐きだしながら、操の下着に指を引っ掛け、膝下まで一気にずり下げてしまう。形を変えた拙い性器が、先端からトロトロと蜜を滲ませていた。
そっと握り込まれて、操の口からは「くぅん」と子犬のような喘ぎが漏れる。
「もうこんなに濡れてる」
「だって……だってぇ、甲洋が、ずっと放っておくからぁ」
「うん、ごめん……」
くちくちと水音を立てながら緩く扱かれるだけで、操の屹立は決壊したように蜜を溢れさせた。自ら両足を大きく開くと、伝い落ちた体液が尻の谷間へと流れ落ちていく。
こんなに濡れてしまうのは初めてで、自分でも少し怖くなる。何回か軽く扱かれただけで、操の身体はいともたやすく追い込まれてしまった。
「ひんっ、ぁ! やっ、いく、アッ、やだイク……ッ、もう出ちゃうぅ……!」
「いいよ……イッて、来主」
じわりと膨らんだ熱が、抗うこともできないまま弾けてしまった。爪の先でくじられた場所から、ぷしゅ、と勢いよく白濁を散らして、操は内腿を痙攣させる。
ぴゅ、ぴゅ、と断続的に溢れる残滓が、シーツや下腹部にまで飛び散った。
「──ッ、ぁ……っ、……あぁ、ぁ──……っ」
頭の中が熱くジンジンと痺れている。内腿の震えが止まらず、余韻はいつまでも尾を引いた。
こんなに早くにイッてしまったのも初めてで、気持ちよすぎてやっぱり怖い。甲洋にされると、どこもかしこも怖いくらい感じてしまう。
「来主、ここ……いい?」
いつもならもっと愛撫に時間をかけるはずの甲洋の指先が、もはや身体の奥まった場所に伸びていく。その性急さが嬉しくて、操は自身の膝裏にそれぞれ腕を引っ掛けるようにしながら、より大きく足を開いた。
「すごい……もうこんなに……?」
いやらしい体液に濡れて、すぼまった孔はすでにヒクヒクと期待に震えている。甲洋は人差し指の先端を慎重に潜り込ませ、その蕩けた肉の感触に感慨深い声を漏らした。
「ヌルヌルだよ、来主。ローション、いらないかも」
「あっ、ぁう、ァ……ッ」
「閉じたり開いたりしてるの、分かる?」
「ふぅ、ぁ、あ、だって、だって……もう、欲し……っ」
「まだ……もう少し、待って」
操が慣れていることくらい知っているくせに、彼はここに来て急に慎重な手つきで太腿を割り開き、埋めた指先をゆっくりと飲み込ませていく。
たやすく根元まで飲み込んだ指を、きゅんきゅんと締めつけながら操は唇を噛みしめた。圧迫感はあるけれど、この孔はすでにもっと太くて熱い感触を知っている。それで得られる快感の大きさも知っていて、じわじわと慣らされていく過程は焦らし以外のなにものでもなかった。
「こう、よ……こうよ、はや、く……ねぇ、んんっ、ぁ……っ」
「待って、まだ……」
異物を察して分泌される腸液に、ひどく濡れた肉壺が疼いている。一度引き抜かれ、もう一本添えながらまたじわじわと飲み込まされた。指を軽く閉じたり開いたりしながら中をぐるりと擦られて、再び兆している操の陰茎がしくしくと涙を零しては、また孔を濡らした。
「お願い、おねが……っ、あ、ぁん、甲洋、はやく」
たった一週間していなかっただけで、焦がれすぎて今にも焼き切れてしまいそうだった。早く欲しい。甲洋だってもうとっくに──むしろ服を脱がせあったときには、すでに股間をパンパンに膨らませていたくせに。
それでも操を傷つけまいとする配慮がもどかしくて、同時に嬉しくもあって、だけどもう我慢も限界で。
(もうやだ、もう無理!)
そうだ。こんなときは、もっと分かりやすく強請ればいい。可愛い声をあげながら、いやらしい言葉をいっぱい吐きだして、甲洋の理性を壊してしまえば。
「ねぇもう我慢できないの……! 早く甲洋の──」
(……あれ?)
なのに、操はその先を続けることができなかった。急に声の出し方を忘れてしまったみたいに、喉の奥がきゅっと窄まる。
──早く甲洋のおちんぽちょうだい。おっきい大人ちんぽで、おれのエッチなお尻まんこ、いっぱいズボズボして。
いつもみたいに、そう言って下品に煽り倒すつもりだったのに。操があからさまな単語を発すると、甲洋はいつだって呆気なく陥落する。紳士であろうと努めていたはずの瞳を、飢えた野獣みたいにギラギラとさせ、隠し持っていた牙を曝け出してみせるのだ。操はその瞬間が好きだった。
だけど、どうしてか今日はそれができない。顔が焼けるように熱くて、胸がドキドキして、いつもみたいに恥も外聞もなく強請ることに戸惑いを覚えた。
「来主?」
真っ赤に茹だって黙り込んだ操に、様子がおかしいことに気づいた甲洋が目を丸くした。訳が分からず、操の思考はぐるぐると迷子のように回り続ける。
(なんで? なんで、急に、こんな……)
「どうかした?」
(なんでこんなに、恥ずかしいの……!?)
「ぁ……」
早く欲しい。その気持ちは本当で、早く太くて熱いもので嫌というほど泣かせてほしい。
だから早く言わなければ。これ以上時間をかけられたら、頭がバカになりそうで。
「あ、あの……あのね甲洋」
「うん、なに?」
「おれ、もう我慢できなくて……それでね、その……ち、ん……」
「うん……?」
「甲洋、の……ぉ、おち、ちん……欲しい……」
「……ぇ」
蚊の鳴くような声でようやく絞り出した操に、甲洋はぎょっとしたような顔をする。
「お、おちんちん……? 今、おちんちんって言ったの?」
「ッ、い、言ったよ! だからなに!?」
「え、だってお前、そんな……今までそんな可愛い言い方、したことないだろ……?」
「い、いいじゃんそんなこと!」
「いやだって、いつもはちんぽって……」
「バカぁ! 恥ずかしいから、今日は言いたくないだけだもん!」
「は、恥ずかしい……?」
お前にそんな感情があったのか──甲洋の顔には、それがハッキリと書かれている。
操にだってよく分からないのだ。どうして急にこんなに恥ずかしいと思ってしまうのか。それもこれも、下手に間を置いてしまったから、なのだろうか。久しぶりのセックス──と言ってもたったの一週間だけれど──だから、勝手を忘れてしまったのかもしれない。
(だけど、そんなことってあるのかな……?)
そこまで考えて、なにかが違うような気がした。
(……あ、そっか)
そしてふと、気がついた。
下品な物言いに慣れていたのは、操が【来栖ミサオ】だったからだ。AVの仕事を辞めて、甲洋と一緒に暮らすようになって、初めて仕事とは違うセックスをするようになってからも、操は無意識にどこかで来栖ミサオを演じていた。
そうすれば、きっと甲洋が喜ぶと思っていたから。可愛がってくれると思っていたから。
だけどもうそんな必要はないのだと気がついて、操は今この瞬間、ようやく来栖ミサオを卒業することができた。
だからこんなに恥ずかしいのだ。慣れているはずの行為が、言葉が、まるで初めてのようにも感じられて。急に不器用になってしまった。
(うわぁ、どうしよ……今までどうしてたんだっけ……!?)
自ら大きく足を開いて、惜しげもなく裸をさらして、心はまるで処女のようになっているなんて、あまりにもちぐはぐだ。
なにが正しいのか分からなくなってしまった操は、助けを求めるように甲洋を見た。甲洋はうつむき、なぜか肩を震わせている。
「こ、甲洋……?」
「……来主、それは不味い」
「え?」
「そんなの今更、反則だ……!」
顔を上げた甲洋は、それはもう飢えに飢えたケダモノの瞳をしていた。
刺さったんだなと、操は思う。操のこの初々しくもアンバランスな反応に、心の臓をぶち抜かれている。
なんだかよく分からないが、とりあえずこれでよかったらしい。このひと結局なんでもいいんだなぁとちょっと呆れた気もしつつ、操も少しだけ、調子を取り戻せたような気がした。
「ねぇ甲洋、しよ……甲洋のおちんちん、早くちょうだい?」
「……ん」
グッと口を引き結び、こくんと深く頷く仕草が子供みたいで可愛いと思う。歳上のくせに、妙な幼さを覗かせる甲洋に操もまた心臓をドスンと突かれた。
甲洋は埋め込んだままだった指を引き抜き、片手をつくとベッド脇のチェストに手を伸ばした。ゴソゴソとなにかを取り出そうとしているのを察して、操は咄嗟に彼の手首を掴んで引き止める。
「甲洋、ゴム……いらない」
「えっ?」
「今日は、しないでいいよ」
甲洋がぐっと喉を詰まらせた。眼球がわずかに左右に揺れて、彼がひどく戸惑い、迷っていることが伝わってくる。
操はふるふると首を横に振った。それから、「いれて」と乾いた喉で懇願する。甲洋の瞳がじわりと潤んで、喉がごくんと鳴らされた。
中で出されるのは、あまり好きじゃない。だけど今日は、ほんの薄い膜一枚ですら邪魔だと思った。
足首に引っかかっていた下着を蹴り飛ばすようにして床に落としながら、操は甲洋の股間の膨らみに目を奪われる。長い指によってズルリと引き出されたそれは限界まで膨らんで、先端をわずかに光らせながら血管を浮き上がらせていた。
「ぁ……甲洋、それ、はやく……」
「わかってる」
甲洋は押し殺したように声を発して、自身を幾度か扱いて先走りを馴染ませる。改めて割り開いた操の太腿を掴み、存分に濡れた窄まりにあてがった。
「いく、よ」
「んっ……あ、ぁ……っ、く、うぅ……!」
引き攣るようなわずかな痛みと、内臓を圧迫される異物感。欲望がみっちりと詰まった肉をずぶずぶと飲み込みながら、頭の芯まで突き破られるような快感に襲われる。
「ぁ、っく……ぅ、くる、す」
「あひっ、ぁ……あぁっ、こうよ、奥……あっ、おちんちん、奥まで……ッ、あ、来た、ぁ……っ!」
奥まで満たされ、ピンと張った爪先が震えた。操の身体の両脇に手をついて、項垂れた甲洋が荒く息をつく。生々しい肉の感触を味わいながら、しばらくはお互い挿入の余韻に絡め取られて動けなかった。
「来主、ちょっと……不味い、かも」
「ふ、ぅ……ぁ、なに……?」
「ごめん、待って。このまま、少し……」
甲洋が歯を食いしばっている。その身体が小刻みに震えているのを見て、挿れただけで限界寸前になっていることが分かった。
甲洋だってずっと我慢していたのだから、しょうがない。しかもナマでするのは、初めてしたとき以来のことだ。
「はっ、ぁ……はぁ、はぁ……っ」
「こうよ、動いて……いいよ、イッてもいいから」
両手を伸ばして、汗ばむ頬を包み込んだ。誘うように小さく笑うと、くしゃりと泣きそうに顔を歪めながら、甲洋の身体が倒れてくる。操の身体をしっかりと抱き込んで、首筋に顔を埋めてきた。
操は甲洋の頭を抱きしめながら、両足をその腰にクロスさせるようにして巻きつけた。腹に力を込めてナカのものを圧迫すると、甲洋の口から切羽詰まった呻きが漏れる。
「うぁ、あ……、来主……っ」
「甲洋好き、大好き」
「ッ、……俺、も、来主……俺も……」
甲洋が腰を揺らして、奥を軽くノックする。限界間際のところでどうにか堪え、歯を食いしばりながら、そのまま抜いては突く動作を繰り返した。
「やぁ、ぁ、アッ! きもちっ、……きもちぃの! そこダメ、あぁっ、ぁ゛……!」
ひと突きごとにナカの弱い場所をこねられ、またたくまに射精感が込み上げた。ふたりの身体に挟まれながらプルプルと震える陰茎が、赤く腫れて弾けそうになっている。
腹の奥にはどんどん熱が蓄積されていくようだった。引き抜かれる瞬間は気が遠くなるようで、全身が粟立つ。押し込まれる瞬間は、ほんの少しの鈍痛と共にくじられる泣き所から、怖いくらいの快感が大きな波のように襲ってくる。
「ダメ、やだ……ッ、そこもっと! だめ、きもちぃ、きもちぃよぉ……っ!」
「う、ァッ、来主……っ、来主、もう……っ」
「あぁッ、ぁ、こう、よ、好き……っ、ふぁッ、好き、大好き!」
「ッ、俺も好き、来主、来主……っ」
何度も何度も、お互いバカみたいに名前を呼んで、バカみたいに「好き」を繰り返す。一緒に腰を振りながら、もうどちらの声か分からないくらい、甘く喘いだ。
「ねぇ、出して……なか、いっぱい出してぇ……っ!」
多分、甲洋は最後の瞬間はナカから引き抜こうと思っていたのだ。それが分かってしまうから、両腕と両足を甲洋の身体にきつく絡めて、外で出せないようにしっかりとホールドする。
「く、来主っ、ぁ、う……──ッ!」
快感の波にすっぽりと飲み込まれ、ふたりほぼ同時に熱を吐き出す。頭を真っ白に染めながら、操は叩きつけるように吐き出された熱の飛沫を受け止めた。
どくどくと注がれる精に腹の奥を焼かれながら、意識を保つだけで精一杯だった。
「あっ、ぁ──っ、ぁ、ぁ……ッ、奥、出て……ひぃ、あぁ、ぁ、あ──……っ」
荒く蒸した呼吸を繰り返し、ふたりで腰を震わせた。余韻から力が抜けて、そのまましばらく動けない。はかはかと呼吸を繰り返せば、甲洋の汗の匂いに目眩がする。合わさった胸と胸から心臓の音が伝わった。空気と命。操と甲洋。あのときもし死んでいたら──そんなことを考えて、また急に怖くなる。
腹の中で甲洋がヒクヒクと震えているのを感じながら、抱き込んだ頭に何度も頬ずりをした。よかった。生きている。噛みしめて、また身体に火がついた。
「来主……」
「ん、ん……」
濡れた瞳と視線を交わらせ、降ってきた唇を受け止めた。抱き合いながら、舌を絡め合う。まだほんのりと残っている蜂蜜とミルクの味。とろとろに蕩けた二人分の唾液をこくんと飲み込んだとき、甲洋がまた腰を揺らす。
「ふあぁ、ぁ……っ、こう、よ……っ」
甲洋が放ったものが、ひどい水音を響かせた。抜かないままにゆっくりと抜き差しされる動きに合わせて、泡立ちながら結合部から溢れ出すのを感じる。
達したばかりの身体は神経が剥きだしたようになっていて、ピリピリと痺れる感覚の鋭さに涙と震えが止まらない。
甲洋は小刻みに抽挿を繰り返し、感じている操の顔をじっと見下ろしていた。
あまりにも近い距離で見つめられるものだから、少し恥ずかしいと思う。前はどんなに見られても平気だったのに。
不細工になってないといいなと、そんなことを考えながらもうっすらと開いた瞳で、同じように甲洋の顔を見返した。
汗を含んだ焦げ茶の髪を赤い頬に張りつけて、ハッ、ハッ、と短く息を吐き出す甲洋は、子供のように無防備な表情をしていた。快楽に濡れた瞳を細めて、ときどき小さく喘ぎを漏らして。
「来主……俺の、来主……」
甘く掠れた声がうわ言のようにそう吐き出すのを聞いて、受け入れている場所がさらに熱く痺れるのを感じる。腹の奥が、もっと欲しくて疼いていた。胸が熱くなり、溺れたように息が苦しい。嬉しくて、少しだけ泣きたくなった。
(おれ、甲洋のなんだなぁ)
とても不思議な感じがする。ずっと自由に生きてきた。誰かに縛られるのはきっととても窮屈で、面倒くさいのだろうと思いながら。だけど甲洋と出会って、操の心は変化した。
このひとになら、あげてもいいと。身動きがとれないくらい、縛られるのも悪くない。
そうしたら、甲洋だって操のものだ。世界でたった一人だけの。
(おれだけのひと)
徐々に大きくなっていく動きにカクカクと揺さぶられながら、堪らない気持ちになって甲洋の頭を抱き寄せる。大事にしようと、そう思った。自分のことも、甲洋のことも。
(このひとのことが、大好き)
確かめ合うように肌を重ねて、ふたりはそうしていつまでも抱き合った。
意識が遠のいて、ぷっつりと途切れてしまうまで。何度も何度も、繰り返し。
←戻る ・ 次へ→
その声を聞くだけで震えが走り、甲洋が肩を抱いて支えていてくれなければ、操はその場に立っていることすら危うかったかもしれない。
その後は操の精神面を考慮して、ひとまず簡易的な聴取だけで済まされた。
詳しい話は後日ということになり、ふたりがマンションに帰宅できたのは21時を過ぎたころだった。
*
部屋に戻るとシャワーを浴びた。
土なのど汚れと一緒に男が乱暴に触れた場所を洗い流しても、首に残る感触が失せることはない。熱い湯に打たれてもなお青い顔をしながら浴室を出ると、甲洋がホットミルクを作って待っていてくれた。
ちびちびとカップに口をつけているあいだ、甲洋はその横でただ静かに操のことを見守っていた。ときどき小さくむせると、背中を優しく擦ってくれる。
ミルクと蜂蜜と、そして甲洋の優しさに包まれて、手足の先までジンジンとあたたかく痺れていくのを感じた。
「顔色、だいぶ戻ってきたな」
操の頬に赤みがさしてきたことを確かめて、甲洋は柔らかい笑みを浮かべた。操はこくりと頷いて、その顔をおずおずと見上げる。
「甲洋、ごめん」
「どうしたの?」
「だって、今日本当は仕事だったんでしょ?」
時刻はいつも甲洋が出かける時間を、とっくの昔に過ぎている。
あんなことがあったばかりで、一人きりにならずに済むのは嬉しいと思う。だけどさすがの操も、今日ばかりは消沈していた。勝手に飛びだして、危ないところを助けてもらって、仕事まで休ませて。
甲洋は優しく目を細め、癖のある前髪を揺らしながら首を軽く横に振った。
「気にしなくていい。俺がそばにいたいだけだから」
「……ありがと」
こんなふうに笑う甲洋を見ると、どうしてか目を逸したいような気持ちになる。初めてセックスをした夜もそうだった。だからあのときの操は、自分からやめろと言って取り上げたはずの眼鏡を、甲洋に押し返したのだ。
じゃなきゃなんだかくすぐったいような気がして、この顔を直視できないと思ったから。その眼鏡も、さっきの件ですっかり駄目になってしまったけれど。
逃げるようにテーブルの上に目をやって、空になったカップを置いた。すると自然と、そこに置かれたままの白い紙袋に意識が向く。
隣であぐらをかいていた甲洋は、いつ切り出そうかと密かにタイミングを図っていたようだった。
「俺こそごめん、来主」
項垂れるようにしながら、甲洋がガクリと頭をさげる。
この袋は古い友人から譲り受けたもので、捨てるに捨てられずただ置いておいただけだということ。操が出演していたビデオもこの中に入っており、それが来栖ミサオを知るキッカケになったこと。そして、他はいっさい見ていないということ。
言い訳にしか聞こえないかもしれないけど──そう付け加えながら話す甲洋はひどくバツが悪い顔をしていて、操がずっと見たいと思っていたはずの、叱られた大型犬のような姿をしていた。こんな形で見たかったわけではないから、どうにも複雑な気持ちになってしまう。
最後にもう一度「ごめん」と言って締めくくった甲洋に、操は首を横に振った。
「うぅん。いっぱい謝らなきゃいけないのはおれのほう。君はなにも悪くない」
だいたい操が常に部屋にいる状況で、AVを見る隙などどこにもありはしなかった。最近の甲洋は暇さえあれば一緒にゲームをして遊んでいたし、それ以外はまるで操を避けるかのようにして寝床で背中を丸めていたのだ。
考えれば分かることだったのに、早とちりもいいところである。
「変な誤解してごめんね。おれAV辞めちゃったし……だからもう飽きたのかなとか、君はやっぱり女の子の方がいいのかな、とか」
自分でも、らしくないなぁと思う。人の見た目だけじゃなく、性別にすらまるでこだわりはないはずだった。だから女の子の服を着ることに抵抗はなかったし、男とだって平気でセックスをすることができた。
だけどもう甲洋とは終わりなのかもしれないと思ったとき、初めて自分の価値に不安を覚えたのだ。女の子に興奮する甲洋を想像して、悔しいとも感じてしまった。
「そんなことあるはずないだろ!」
甲洋がひどく焦った声をあげたので、思わず肩を跳ねさせた。目を丸くした操に、彼はハッとしながら「ごめん」と言って、それから真剣な眼差しを向けてくる。
「俺は来主がいい」
「!」
「来主が好きだ。お前がAVに出ていようがいまいが、俺はきっと来主のことを好きになったよ」
照れもせずまっすぐに吐き出された想いに、操は丸くしていた瞳を潤ませる。
彼のひたむきな言葉が胸にしみた。そこから吹きこぼれるように込み上げた感情を抑えきれずに、操は甲洋の腕に勢いよく縋りついた。
「じゃあ……じゃあさっ!」
「うん」
「エッチしようよ!」
「……ッ、ぇ?」
面食らったように目を見開いた甲洋の頬が、さぁっと赤く染まっていった。
「な、なんでそんな、急に」
「急じゃないよ。むしろ自然な流れじゃないの?」
「や、あの……でも」
「でも?」
「……解かれてないだろ、禁止令」
たじろぎながら逸らされた瞳に、操はきゅっと眉を吊り上げる。
「そんなのもういい。っていうか、最初からどうでもよかったんだよ。なんで真に受けちゃうのさ」
「なんでってお前……え、そうだったの?」
「そうだよ。甲洋のバカ真面目。おれはずっと待ってたのに」
甲洋の顔が、いよいよ耳まで真っ赤になった。戸惑いを色濃く浮かべながらも、操に向けられた瞳はどこか爛々と輝いているように見える。単純なのか複雑なのか、よく分からない男だ。
今だって、きっとなにかグルグルと面倒くさいことを考えてはじめているのだろう。思いっきり期待に満ちた目をしているくせに、大人ぶった態度でまた視線を逸らそうとしている。
「でも、あんなことがあったばかりだろ。今夜はゆっくり休んだ方が……」
「もう! めんどくさいな! だから盛り上がるんじゃん!」
操は甲洋の後ろ首へ手を伸ばし、長い癖毛ごと強く掴んで引き寄せる。歯がぶつかりそうな勢いでガツンとキスして、それから見開かれている瞳をきつく睨みつけた。
「エッチ禁止令終わり! ねぇ、これでいい!?」
「く、来主」
「おれ、不安だったんだから! 君がぜんぜん触ってこないから、すごく不安だったんだから!」
(分かってるよ。おれも一緒。めんどくさいの。君だってそう思ってるんだろ)
甲洋はスケベだが、操だって同じだ。面倒くさいスケベがふたり。どうせお似合いなんだから、さっきの事件だって、いい感じに盛り上がるための材料にしてしまえばいいのだ。
それくらい分かってるくせに。どうせそうするつもりだったくせに。
「いいでしょ甲洋……おれに怖いこと、いっぱいしてよ」
呆けたような顔をしながら、甲洋がごくりとひとつ、喉を鳴らした。
*
「ん、んっ、ふぅ……」
ベッドの上にふたりで沈んで、キスをしながらもどかしい手つきで服を脱がせ合う。お互い下着姿になってからも、追いかけっこでもしているみたいに舌を絡ませ、吸いついて、歯を立てながら貪った。
暖房がきいた室内にいても、むき出しになった肌に触れる空気は少し冷たい。熱く息を乱しながら、甲洋の大きな手が皮膚を撫でる。急いている心と身体は、それだけで甘い吐息が漏れた。
「来主、来主……」
「ぁ、ッ、甲洋……はやく……っ」
ぴたりと肌を重ねていてさえ足りなくて、操は甲洋の頭を掻き抱いた。操の首には男に締められた痕がうっすらと残されていて、甲洋は痛ましそうに瞳を細めると、そこに顔を埋めて何度も繰り返しキスをする。
あまり出っ張っていない、小さな喉仏を覆う薄い皮膚に吸いつかれると、上ずった声が漏れて震えが走る。
「こう、よ……っ、ぁ、もっと……っ」
唇は徐々に鎖骨へとおりていき、やがて外気に触れてしこりを帯びた胸の粒へとたどり着いた。口に含んだそれを舌先で転がされ、ときどき甘く吸われたと思ったら、緩く歯を立てられる。
指も駆使しながら繰り返しなぶられて、腰が揺れてしまうのを止められない。
「ぁんっ、あっ、あ、ダメ……ッ、おっぱいイヤ……っ、そこいやっ」
操は髪を振り乱しながら嫌々と首を振る。それでも両腕は甲洋の頭を抱きしめたまま、指先は頭皮に甘く爪を立てていた。
嫌だとかダメだとか、操が泣き声をあげるほどに甲洋はそこを執拗に嬲り続ける。
「はぅんっ、ぁ! ちくびやだっ、そこ怖いの……っ、あ、もっと、もっとしてぇ……っ」
身体の中心が、もはや熱を帯びて膨らんでいるのを感じる。甲洋は空腹の犬のように荒く息を吐きだしながら、操の下着に指を引っ掛け、膝下まで一気にずり下げてしまう。形を変えた拙い性器が、先端からトロトロと蜜を滲ませていた。
そっと握り込まれて、操の口からは「くぅん」と子犬のような喘ぎが漏れる。
「もうこんなに濡れてる」
「だって……だってぇ、甲洋が、ずっと放っておくからぁ」
「うん、ごめん……」
くちくちと水音を立てながら緩く扱かれるだけで、操の屹立は決壊したように蜜を溢れさせた。自ら両足を大きく開くと、伝い落ちた体液が尻の谷間へと流れ落ちていく。
こんなに濡れてしまうのは初めてで、自分でも少し怖くなる。何回か軽く扱かれただけで、操の身体はいともたやすく追い込まれてしまった。
「ひんっ、ぁ! やっ、いく、アッ、やだイク……ッ、もう出ちゃうぅ……!」
「いいよ……イッて、来主」
じわりと膨らんだ熱が、抗うこともできないまま弾けてしまった。爪の先でくじられた場所から、ぷしゅ、と勢いよく白濁を散らして、操は内腿を痙攣させる。
ぴゅ、ぴゅ、と断続的に溢れる残滓が、シーツや下腹部にまで飛び散った。
「──ッ、ぁ……っ、……あぁ、ぁ──……っ」
頭の中が熱くジンジンと痺れている。内腿の震えが止まらず、余韻はいつまでも尾を引いた。
こんなに早くにイッてしまったのも初めてで、気持ちよすぎてやっぱり怖い。甲洋にされると、どこもかしこも怖いくらい感じてしまう。
「来主、ここ……いい?」
いつもならもっと愛撫に時間をかけるはずの甲洋の指先が、もはや身体の奥まった場所に伸びていく。その性急さが嬉しくて、操は自身の膝裏にそれぞれ腕を引っ掛けるようにしながら、より大きく足を開いた。
「すごい……もうこんなに……?」
いやらしい体液に濡れて、すぼまった孔はすでにヒクヒクと期待に震えている。甲洋は人差し指の先端を慎重に潜り込ませ、その蕩けた肉の感触に感慨深い声を漏らした。
「ヌルヌルだよ、来主。ローション、いらないかも」
「あっ、ぁう、ァ……ッ」
「閉じたり開いたりしてるの、分かる?」
「ふぅ、ぁ、あ、だって、だって……もう、欲し……っ」
「まだ……もう少し、待って」
操が慣れていることくらい知っているくせに、彼はここに来て急に慎重な手つきで太腿を割り開き、埋めた指先をゆっくりと飲み込ませていく。
たやすく根元まで飲み込んだ指を、きゅんきゅんと締めつけながら操は唇を噛みしめた。圧迫感はあるけれど、この孔はすでにもっと太くて熱い感触を知っている。それで得られる快感の大きさも知っていて、じわじわと慣らされていく過程は焦らし以外のなにものでもなかった。
「こう、よ……こうよ、はや、く……ねぇ、んんっ、ぁ……っ」
「待って、まだ……」
異物を察して分泌される腸液に、ひどく濡れた肉壺が疼いている。一度引き抜かれ、もう一本添えながらまたじわじわと飲み込まされた。指を軽く閉じたり開いたりしながら中をぐるりと擦られて、再び兆している操の陰茎がしくしくと涙を零しては、また孔を濡らした。
「お願い、おねが……っ、あ、ぁん、甲洋、はやく」
たった一週間していなかっただけで、焦がれすぎて今にも焼き切れてしまいそうだった。早く欲しい。甲洋だってもうとっくに──むしろ服を脱がせあったときには、すでに股間をパンパンに膨らませていたくせに。
それでも操を傷つけまいとする配慮がもどかしくて、同時に嬉しくもあって、だけどもう我慢も限界で。
(もうやだ、もう無理!)
そうだ。こんなときは、もっと分かりやすく強請ればいい。可愛い声をあげながら、いやらしい言葉をいっぱい吐きだして、甲洋の理性を壊してしまえば。
「ねぇもう我慢できないの……! 早く甲洋の──」
(……あれ?)
なのに、操はその先を続けることができなかった。急に声の出し方を忘れてしまったみたいに、喉の奥がきゅっと窄まる。
──早く甲洋のおちんぽちょうだい。おっきい大人ちんぽで、おれのエッチなお尻まんこ、いっぱいズボズボして。
いつもみたいに、そう言って下品に煽り倒すつもりだったのに。操があからさまな単語を発すると、甲洋はいつだって呆気なく陥落する。紳士であろうと努めていたはずの瞳を、飢えた野獣みたいにギラギラとさせ、隠し持っていた牙を曝け出してみせるのだ。操はその瞬間が好きだった。
だけど、どうしてか今日はそれができない。顔が焼けるように熱くて、胸がドキドキして、いつもみたいに恥も外聞もなく強請ることに戸惑いを覚えた。
「来主?」
真っ赤に茹だって黙り込んだ操に、様子がおかしいことに気づいた甲洋が目を丸くした。訳が分からず、操の思考はぐるぐると迷子のように回り続ける。
(なんで? なんで、急に、こんな……)
「どうかした?」
(なんでこんなに、恥ずかしいの……!?)
「ぁ……」
早く欲しい。その気持ちは本当で、早く太くて熱いもので嫌というほど泣かせてほしい。
だから早く言わなければ。これ以上時間をかけられたら、頭がバカになりそうで。
「あ、あの……あのね甲洋」
「うん、なに?」
「おれ、もう我慢できなくて……それでね、その……ち、ん……」
「うん……?」
「甲洋、の……ぉ、おち、ちん……欲しい……」
「……ぇ」
蚊の鳴くような声でようやく絞り出した操に、甲洋はぎょっとしたような顔をする。
「お、おちんちん……? 今、おちんちんって言ったの?」
「ッ、い、言ったよ! だからなに!?」
「え、だってお前、そんな……今までそんな可愛い言い方、したことないだろ……?」
「い、いいじゃんそんなこと!」
「いやだって、いつもはちんぽって……」
「バカぁ! 恥ずかしいから、今日は言いたくないだけだもん!」
「は、恥ずかしい……?」
お前にそんな感情があったのか──甲洋の顔には、それがハッキリと書かれている。
操にだってよく分からないのだ。どうして急にこんなに恥ずかしいと思ってしまうのか。それもこれも、下手に間を置いてしまったから、なのだろうか。久しぶりのセックス──と言ってもたったの一週間だけれど──だから、勝手を忘れてしまったのかもしれない。
(だけど、そんなことってあるのかな……?)
そこまで考えて、なにかが違うような気がした。
(……あ、そっか)
そしてふと、気がついた。
下品な物言いに慣れていたのは、操が【来栖ミサオ】だったからだ。AVの仕事を辞めて、甲洋と一緒に暮らすようになって、初めて仕事とは違うセックスをするようになってからも、操は無意識にどこかで来栖ミサオを演じていた。
そうすれば、きっと甲洋が喜ぶと思っていたから。可愛がってくれると思っていたから。
だけどもうそんな必要はないのだと気がついて、操は今この瞬間、ようやく来栖ミサオを卒業することができた。
だからこんなに恥ずかしいのだ。慣れているはずの行為が、言葉が、まるで初めてのようにも感じられて。急に不器用になってしまった。
(うわぁ、どうしよ……今までどうしてたんだっけ……!?)
自ら大きく足を開いて、惜しげもなく裸をさらして、心はまるで処女のようになっているなんて、あまりにもちぐはぐだ。
なにが正しいのか分からなくなってしまった操は、助けを求めるように甲洋を見た。甲洋はうつむき、なぜか肩を震わせている。
「こ、甲洋……?」
「……来主、それは不味い」
「え?」
「そんなの今更、反則だ……!」
顔を上げた甲洋は、それはもう飢えに飢えたケダモノの瞳をしていた。
刺さったんだなと、操は思う。操のこの初々しくもアンバランスな反応に、心の臓をぶち抜かれている。
なんだかよく分からないが、とりあえずこれでよかったらしい。このひと結局なんでもいいんだなぁとちょっと呆れた気もしつつ、操も少しだけ、調子を取り戻せたような気がした。
「ねぇ甲洋、しよ……甲洋のおちんちん、早くちょうだい?」
「……ん」
グッと口を引き結び、こくんと深く頷く仕草が子供みたいで可愛いと思う。歳上のくせに、妙な幼さを覗かせる甲洋に操もまた心臓をドスンと突かれた。
甲洋は埋め込んだままだった指を引き抜き、片手をつくとベッド脇のチェストに手を伸ばした。ゴソゴソとなにかを取り出そうとしているのを察して、操は咄嗟に彼の手首を掴んで引き止める。
「甲洋、ゴム……いらない」
「えっ?」
「今日は、しないでいいよ」
甲洋がぐっと喉を詰まらせた。眼球がわずかに左右に揺れて、彼がひどく戸惑い、迷っていることが伝わってくる。
操はふるふると首を横に振った。それから、「いれて」と乾いた喉で懇願する。甲洋の瞳がじわりと潤んで、喉がごくんと鳴らされた。
中で出されるのは、あまり好きじゃない。だけど今日は、ほんの薄い膜一枚ですら邪魔だと思った。
足首に引っかかっていた下着を蹴り飛ばすようにして床に落としながら、操は甲洋の股間の膨らみに目を奪われる。長い指によってズルリと引き出されたそれは限界まで膨らんで、先端をわずかに光らせながら血管を浮き上がらせていた。
「ぁ……甲洋、それ、はやく……」
「わかってる」
甲洋は押し殺したように声を発して、自身を幾度か扱いて先走りを馴染ませる。改めて割り開いた操の太腿を掴み、存分に濡れた窄まりにあてがった。
「いく、よ」
「んっ……あ、ぁ……っ、く、うぅ……!」
引き攣るようなわずかな痛みと、内臓を圧迫される異物感。欲望がみっちりと詰まった肉をずぶずぶと飲み込みながら、頭の芯まで突き破られるような快感に襲われる。
「ぁ、っく……ぅ、くる、す」
「あひっ、ぁ……あぁっ、こうよ、奥……あっ、おちんちん、奥まで……ッ、あ、来た、ぁ……っ!」
奥まで満たされ、ピンと張った爪先が震えた。操の身体の両脇に手をついて、項垂れた甲洋が荒く息をつく。生々しい肉の感触を味わいながら、しばらくはお互い挿入の余韻に絡め取られて動けなかった。
「来主、ちょっと……不味い、かも」
「ふ、ぅ……ぁ、なに……?」
「ごめん、待って。このまま、少し……」
甲洋が歯を食いしばっている。その身体が小刻みに震えているのを見て、挿れただけで限界寸前になっていることが分かった。
甲洋だってずっと我慢していたのだから、しょうがない。しかもナマでするのは、初めてしたとき以来のことだ。
「はっ、ぁ……はぁ、はぁ……っ」
「こうよ、動いて……いいよ、イッてもいいから」
両手を伸ばして、汗ばむ頬を包み込んだ。誘うように小さく笑うと、くしゃりと泣きそうに顔を歪めながら、甲洋の身体が倒れてくる。操の身体をしっかりと抱き込んで、首筋に顔を埋めてきた。
操は甲洋の頭を抱きしめながら、両足をその腰にクロスさせるようにして巻きつけた。腹に力を込めてナカのものを圧迫すると、甲洋の口から切羽詰まった呻きが漏れる。
「うぁ、あ……、来主……っ」
「甲洋好き、大好き」
「ッ、……俺、も、来主……俺も……」
甲洋が腰を揺らして、奥を軽くノックする。限界間際のところでどうにか堪え、歯を食いしばりながら、そのまま抜いては突く動作を繰り返した。
「やぁ、ぁ、アッ! きもちっ、……きもちぃの! そこダメ、あぁっ、ぁ゛……!」
ひと突きごとにナカの弱い場所をこねられ、またたくまに射精感が込み上げた。ふたりの身体に挟まれながらプルプルと震える陰茎が、赤く腫れて弾けそうになっている。
腹の奥にはどんどん熱が蓄積されていくようだった。引き抜かれる瞬間は気が遠くなるようで、全身が粟立つ。押し込まれる瞬間は、ほんの少しの鈍痛と共にくじられる泣き所から、怖いくらいの快感が大きな波のように襲ってくる。
「ダメ、やだ……ッ、そこもっと! だめ、きもちぃ、きもちぃよぉ……っ!」
「う、ァッ、来主……っ、来主、もう……っ」
「あぁッ、ぁ、こう、よ、好き……っ、ふぁッ、好き、大好き!」
「ッ、俺も好き、来主、来主……っ」
何度も何度も、お互いバカみたいに名前を呼んで、バカみたいに「好き」を繰り返す。一緒に腰を振りながら、もうどちらの声か分からないくらい、甘く喘いだ。
「ねぇ、出して……なか、いっぱい出してぇ……っ!」
多分、甲洋は最後の瞬間はナカから引き抜こうと思っていたのだ。それが分かってしまうから、両腕と両足を甲洋の身体にきつく絡めて、外で出せないようにしっかりとホールドする。
「く、来主っ、ぁ、う……──ッ!」
快感の波にすっぽりと飲み込まれ、ふたりほぼ同時に熱を吐き出す。頭を真っ白に染めながら、操は叩きつけるように吐き出された熱の飛沫を受け止めた。
どくどくと注がれる精に腹の奥を焼かれながら、意識を保つだけで精一杯だった。
「あっ、ぁ──っ、ぁ、ぁ……ッ、奥、出て……ひぃ、あぁ、ぁ、あ──……っ」
荒く蒸した呼吸を繰り返し、ふたりで腰を震わせた。余韻から力が抜けて、そのまましばらく動けない。はかはかと呼吸を繰り返せば、甲洋の汗の匂いに目眩がする。合わさった胸と胸から心臓の音が伝わった。空気と命。操と甲洋。あのときもし死んでいたら──そんなことを考えて、また急に怖くなる。
腹の中で甲洋がヒクヒクと震えているのを感じながら、抱き込んだ頭に何度も頬ずりをした。よかった。生きている。噛みしめて、また身体に火がついた。
「来主……」
「ん、ん……」
濡れた瞳と視線を交わらせ、降ってきた唇を受け止めた。抱き合いながら、舌を絡め合う。まだほんのりと残っている蜂蜜とミルクの味。とろとろに蕩けた二人分の唾液をこくんと飲み込んだとき、甲洋がまた腰を揺らす。
「ふあぁ、ぁ……っ、こう、よ……っ」
甲洋が放ったものが、ひどい水音を響かせた。抜かないままにゆっくりと抜き差しされる動きに合わせて、泡立ちながら結合部から溢れ出すのを感じる。
達したばかりの身体は神経が剥きだしたようになっていて、ピリピリと痺れる感覚の鋭さに涙と震えが止まらない。
甲洋は小刻みに抽挿を繰り返し、感じている操の顔をじっと見下ろしていた。
あまりにも近い距離で見つめられるものだから、少し恥ずかしいと思う。前はどんなに見られても平気だったのに。
不細工になってないといいなと、そんなことを考えながらもうっすらと開いた瞳で、同じように甲洋の顔を見返した。
汗を含んだ焦げ茶の髪を赤い頬に張りつけて、ハッ、ハッ、と短く息を吐き出す甲洋は、子供のように無防備な表情をしていた。快楽に濡れた瞳を細めて、ときどき小さく喘ぎを漏らして。
「来主……俺の、来主……」
甘く掠れた声がうわ言のようにそう吐き出すのを聞いて、受け入れている場所がさらに熱く痺れるのを感じる。腹の奥が、もっと欲しくて疼いていた。胸が熱くなり、溺れたように息が苦しい。嬉しくて、少しだけ泣きたくなった。
(おれ、甲洋のなんだなぁ)
とても不思議な感じがする。ずっと自由に生きてきた。誰かに縛られるのはきっととても窮屈で、面倒くさいのだろうと思いながら。だけど甲洋と出会って、操の心は変化した。
このひとになら、あげてもいいと。身動きがとれないくらい、縛られるのも悪くない。
そうしたら、甲洋だって操のものだ。世界でたった一人だけの。
(おれだけのひと)
徐々に大きくなっていく動きにカクカクと揺さぶられながら、堪らない気持ちになって甲洋の頭を抱き寄せる。大事にしようと、そう思った。自分のことも、甲洋のことも。
(このひとのことが、大好き)
確かめ合うように肌を重ねて、ふたりはそうしていつまでも抱き合った。
意識が遠のいて、ぷっつりと途切れてしまうまで。何度も何度も、繰り返し。
←戻る ・ 次へ→
意識の外側で、スマホが着信を告げる音が鳴り響いていることに気がついた。
ふっと覚醒するのと同時に音は途切れて、間に合わなかったかと息をつきながらも、甲洋は枕元のスマホを手にとった。
ディスプレイにはたったいま電話をかけてきた主の名が表示されている。それは甲洋が故郷の島にいたころから、よく知る人物の名前だった。
懐かしさにふと目元を和らげながら、ゆっくりと身を起こす。少し寝すぎたかもしれない。起き抜けの四肢が、じんわりと心地よく痺れている。
すぐに折り返すために端末を操作しかけて、甲洋はふと周りが静か過ぎることに気がついた。
「……来主?」
薄闇の部屋を見渡してみる。しかしそこに操の姿は見えなかった。
トイレか、風呂にでも入っているのだろうか。しかしどんなに耳を澄ませても、いっさいの生活音が聞こえてこない。
(また一人でコンビニにでも行ったのか?)
結局、甲洋がしつこく注意しようがしまいが、操の動向は変わらない。束縛されるのは嫌いだと放った言葉の通り、彼は自由気ままな野良猫のように甲洋の腕からスルリと抜け出して行くのだ。
せめて防犯ブザーでも持たせようかと真剣に考えながら、甲洋はベッドから抜けだして部屋の明かりを灯した。そして次の瞬間、衝撃に打たれる。
「──ッ!?」
目の前にある光景に、全身の血管が凍りつくような感じがした。
テーブルの上には見覚えのある紙袋。少しよれているその白い袋は、前に居酒屋で剣司から押しつけられたものだ。中にはエロDVDが大量に入っている。この中から、甲洋は来栖ミサオという異色の存在を見つけた。
甲洋が見たのは彼のAVだけで、他はいっさい見ていない。大切な友人から託されたものを捨てることもできず、収納スペースに押し込んだままずっと放置していた。それが表に出ているということは──
「く、来主っ! 誤解だ!!」
真っ青になりながら思わず叫んだ。これがこうして置かれていること、操の姿が見当たらないこと。最悪のケースしか浮かばない。
実家に帰らせていただきます──そんな文言が頭に浮かんだ。
甲洋は弾かれたように玄関に走ると部屋を飛び出しかけた。が、寸でのところで思いとどまる。
(ま、待て、待て待て、落ち着け……まだそうと決まったわけじゃない……)
操のことだから、これらのDVDを甲洋をからかって遊ぶための材料にするつもりでいるのかもしれない。普段の彼なら、そのほうがむしろ自然だ。
実際コンビニに行っただけという可能性も否定できない。この周辺には幾つかコンビニが点在しており、操はそのときの気分でどこへ行くかを決めるため、闇雲に飛び出したところで行き違いになってしまう恐れがある。
まずは少し落ち着いて、おとなしく帰りを待つべきだ。しかしストーカーの件がある。嫌な考えが次から次へと押し寄せて、心の中はジリジリとした焦燥で満ちていた。
甲洋はいったん玄関から引き返すと、ベッドの上に投げ出されていたスマホを掴み取って操に電話をかけた。
すぐに留守番サービスに接続されることに舌打ちをしながら、ふと、眠る前までは床に散乱していたはずのゲーム機や菓子類が、すっかり消えていることに気がついた。
「!?」
甲洋は再び血の気が引くのを感じた。持ち主ごと消えてしまった彼の私物。この光景が意味するのはつまり──やっぱりそういうこと、なのではないか?
頭の中が真っ白になる。思えば女性がちょっと黄色い声をあげただけで、あんなにも拗ねてしまうような子なのだ。不快に思わないはずがないではないか。
もはや冷静ではいられなかった。どこだっていい。とにかく彼が行きそうな場所を、手当り次第探すしかない。
甲洋はいつものコートとスマホを乱暴に掴むと部屋を飛び出す。が、すぐに慌てて引き返し、ベッドのヘッドボードから瓶底眼鏡をとって素早くかけた。これをしないで外に出たら、またあの子が拗ねてしまうかもしれないから。
*
(これからどうしよう……)
甲洋が真っ青になりながら駆け回っているころ、操はマンションのすぐ隣に位置する公園でブランコに乗っていた。
辺りはすっかり夜の闇に覆われている。なけなしの街灯だけが、公園内部をうっすらと照らしだしていた。
キィキィとブランコを軋ませながら、操は真っ白い息を吐きだした。
寒い。当然だ。例の紙袋にショックを受けて、操はコートも着ずに部屋を飛び出してしまった。部屋着にしているパーカーは薄手のもので、寒さに全身が冷え切っている。ステンレスチェーンを掴んでいる両手がかじかみ、すっかり感覚がなくなっていた。
(嫌われたのかな……おれがちっとも言うこと聞かないから……)
甲洋は、きっと愛想を尽かしてしまったに違いない。
せめて身体くらい好きにさせてやっていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。もともと甲洋は来栖ミサオのファンだったのだ。AVの仕事を辞めて、ただの来主操に戻ってしまった自分になんの価値があるのか、操自身にも分からない。そんなこと、今まで考えたこともなかったけれど。
甲洋は操のことを諦めて、隠し持っていたあのDVDをこっそり見ていたのかもしれない。みんな胸もお尻も大きくて、可愛くてセクシーな女の子ばかりだった。
「……甲洋のバカ……スケベ……」
あんなに好きだ好きだと言いながら何度も抱いてきたくせに、結局は胸の大きなお姉さんのほうがいいんじゃないか。
どんどん視界がぼやけていく。悔しいと思う。耐えるように、唇を噛みしめた。
(自分のこと、嫌いになりそう)
どんなに注意されても聞かないし、夜ふかしをして部屋は散らかすし、パンケーキだってまともに焼けないし。エッチもさせてあげないし。
本当に腹が立っているのは、きっと甲洋に対してじゃない。なにもできない、ただの我儘な子供。そんな自分への苛立ちだった。
操はグスンと大きく鼻を鳴らして、握った拳で両目をぬぐった。
どのみち後悔したってもう遅いのだ。だけど、これからどうすればいいか分からない。つい勢いで飛び出してはきたものの、行く場所だってどこにもなかった。途方に暮れながら、もうずっと何時間もここでこうしている。
──ザッ、ザッ、ザッ
そのときだった。遠くから近づいてくる足音が聞こえて、操はハッと息を呑みながら顔を上げると音の方向へ目をやった。
(甲洋……!?)
沈んでいた心が、心音と一緒に大きく跳ね上がる。もしかしたら、探しに来てくれたのかもしれない。足音が近づくほどに、操の胸は期待に膨らんだ。
ぽつりぽつりと等間隔に設置された街灯は頼りなく、鉄棒や滑り台などの遊具を儚く浮き上がらせている。ブランコ脇の街灯は、時おりチカチカと点滅を繰り返していた。
すぐ側まで迫る足音。人型をした黒い影。チカ、チカ、チカ。明暗を繰り返す街灯の下。歩いてくる足先が見えて、膝が見えて──やがて徐々に、その姿を現していった。
「ミサオちゃん……」
操はヒュウと音を立てながら喉を詰まらせた。背中にぴったりとナイフを押し当てられたように、寒気が駆け抜ける。
違う。甲洋じゃない。忘れもしないその声と、金色の髪と、吊り上がった奥二重の目。『あのとき』も、こいつは今と同じグレーのフリースジャケットを着てベッドの下に潜んでいた。
「迎えに来たよ」
「ッ……!?」
にやけた口元を見た瞬間、内部から突き上げられるような戦慄が走る。身を固くしながら立ち上がると、ブランコの座面が金属音を立てて大きく揺れた。
こいつは前に操を襲ったストーカーだ。執拗に後をつけられ、毎日のように気色の悪い手紙だとか、ぬいぐるみなどのプレゼントを送られて、あげく部屋の中に侵入されてレイプされかけた。こいつが原因で操は元の住処を追われ、AVの仕事からも足を洗うキッカケになったのだ。
「……なんの用? 自分から捕まりに来たの?」
操はきつく男を睨みつけながら、冷ややかに言葉を放った。虚勢を張っていることを悟られぬよう、手の平に爪が食い込むほど強く拳を握る。
「また一人で夜に出歩いて……ミサオちゃんは本当に危なっかしいね。オレがついててやらないと」
一歩、また一歩と、男は暗く濁った瞳で近づいてくる。距離が近づくほどに、操はジリジリと後ずさりをした。
「それ以上こっち来ないで!」
「今日はコンビニ行かないの? そういえばケーキ屋も辞めたんだっけね……エプロン、よく似合ってたのになぁ」
「来るなってば!」
「あー、でもあの店長スケベそうだったからなぁ~。オレのミサオちゃんにベタベタ触りまくってさぁ、ムカついてたからよかったよ」
「ッ、うぁ……!?」
後ずさりする操の膝が、ブランコを囲む柵にぶつかった。膝が折れたことで身体のバランスが崩れ、水色の塗装が施された柵を乗り越える形で、派手に尻もちをついてしまう。
痛みを感じる間もなく這ってでも逃げだそうとした操の襟首を、柵を飛び越えてきた男が掴んで引きずり寄せる。
「ッ、やめ、離せ! 離して!!」
「ミサオちゃん! どうして逃げるの!? せっかく迎えに来てやったのに、嬉しくないの!? オレとミサオちゃんは恋人だろ!?」
男は急に声を荒げだし、背中に覆いかぶさってこようとする。
「こんなに愛してるのに! ミサオちゃんだってオレを愛してるはずだ! 毎日家まで送り迎えしてやっただろ!? プレゼントだって、幾つも送った! 手紙だって! あんなに喜んでくれたじゃないか!!」
「さっきからなに言ってんの!? そんなの知らない! 誰か助けてッ!!」
男は妄想と現実の区別がつかなくなっているのだ。彼にとって後をつける行為は純粋な『送迎』で、都合のいい妄想の中で育てた来栖ミサオは、彼からの手紙や贈り物にいつも喜んでいたことになっている。
ゾッとした。全身に毛虫が這っているかのようだった。手足をばたつかせ、身を捩ることで必死に抵抗するが、操が暴れるほどに相手も滅茶苦茶な動きで押さえつけてきた。
「なのにあんな男と……ッ! アイツのどこがいいんだ!? あんなぐるぐる眼鏡のイモみたいな男の、どこがいいって言うんだ!?」
操がよく一人でコンビニに行くこと。ケーキ屋でバイトをしていたこと。もちろんそれだけじゃない。男は操が甲洋と同棲していることすら突き止めていた。どこかで息をひそめ、ずっと監視し続けていたのだ。そして機会を伺っていた。
「嫌だ! やめて! 助けてっ……!!」
「騙されただけだよね? アイツに脅されてるんだろ? 事務所を辞めたのだってアイツのせいだ! 本当のこと言っていいんだよ! そうなんだろ!? じゃなきゃ……っ」
吊り上がった目をさらに吊り上げ、男は顔を怒りで真っ赤にしながら操の身体をひっくり返すと、腹の上に馬乗りになってきた。そして一瞬の隙を突き、操の首をその両手で思いきり掴んで締め上げる。
「ぁぐッ……!?」
「──殺してやる」
「っ!?」
怒鳴り散らしていた声が、ストンと一気に低くなる。暗く凍った執念が、瞳の奥にゆらゆらと虚ろに灯されていた。
頭のおかしな男だということは知っていた。だけどあのときは、操が大声を上げながら激しく抵抗したことに怯み、すぐに逃亡してしまったのだ。けれど今日は違う。あのときよりもずっと、その異常性を増している。
(殺される……!)
操はその執着と殺意に絡め取られ、もはや強がることもできないほどの恐怖に全身をすくませた。
「ぐ、ぅ……ッ、ぁ゛……っ」
首にかかる圧が増していく。苦しくて、息ができない。
男は瞬きもせず血走った目を見開き、うわ言のように「殺す、殺す」と呟きながら、締め上げる力を強めていった。
その手首を両手で掴んで爪を立て、操は涙が滲んでいた視界をきつく閉じる。
「おまえはオレだけの来栖ミサオなんだ……来栖ミサオでいなきゃいけないんだ……永遠に、ずっとオレだけの……」
意識が暗い闇に吸い込まれていくような感覚を覚えた。ゆっくりと、ゆっくりと海の底に沈んていくかのようだった。
凄まじい恐怖と絶望にさらされる意識から、不思議とどこか達観しはじめている自分が乖離する。それは諦めという感情だった。
(あーぁ、死んじゃうんだ、おれ。こんな最後は嫌だな……)
多分きっと、これが走馬灯というやつだ。
甲洋と一緒にいたのはまだほんの短い期間で、彼を知らずに生きてきた時間のほうが、ずっと長いはずなのに。思い出すのは甲洋のことばかりだった。出会った日のことだとか、彼が作ってくれるホットミルクの味だとか、繋いだ手のぬくもりだとか。何気ない日常が、次から次へと。
(ちゃんと言うこと、聞いておけばよかった……甲洋、あんなに心配してくれたのに……バカだなぁ、おれ……)
会いたいなぁと、そう思う。甲洋はもう、操のことなどなんとも思っていないのかもしれない。だけど、それでもいいから。
なにも言わずに飛び出して来たりなんかしないで、ちゃんと話をすればよかった。どうせ同じ結末を迎えるのなら、もっとちゃんと。
(甲洋、ごめん)
ああ、落ちる。これで終わりだと、そう思っていた。
「来主ッ!!」
遠くで名前を呼ばれるのと同時に、男が息を呑む音がした。
操から引き剥がされた男が、そのまま左頬を殴りつけられて吹っ飛ばされる。ぐぇ、という悲鳴をあげながら、ゴロゴロと地面を転がった。
操はその一瞬の光景を、こじ開けた瞳でただ呆然としながら眺めていた。拳を強く握りしめ、肩で息をしながら立ち尽くす甲洋の背中を。
(甲洋……?)
信じられなかった。彼がここにいることが。まるで夢でも見ているみたいだ。あるいは安いドラマかなにかだろうか。こんなギリギリのところで助けに来てくれるなんて、まるで正義のヒーローみたいだ。
操は身を起こし、甲洋の名を呼ぼうとした。しかしこみ上げてくる激しい咳によって、まともに声を出すことすらできない。
そうしている間にも男が低い呻きをあげながら、よろよろと身を起こして立ち上がろうとしていた。
「このっ、ダサイモ野郎が……よくもオレのミサオを……っ」
男は切れた口の端を手の甲で拭いながら、忌々しげに言って鬼のような形相を上げた──が、次の瞬間、正面から甲洋の顔を見てなぜか絶句してしまう。
ガサガサと音を立てる肺に必死で酸素を取り込みながらも、操はふと気がついた。
頼りなく点滅する街灯の下で、鈍くなにかが光っている。甲洋が常に身につけていた、あの濁った瓶底眼鏡だ。さっき男を殴りつけた拍子に、外れて落ちてしまったのだろう。
「やっぱりお前か」
甲洋が鼻で笑った気配がした。操は目を丸く見開く。
「あれは宣戦布告でもしたつもりか?」
甲洋は知っているのだ。この男のことを。それに、宣戦布告とはどういうことだろう。操が知らないところで、彼らがすでになんらかの接点を持っているということだけは、なんとなく理解できる。
それがなんなのか気にはなるが、それ以上に操を驚かせたのは、甲洋のまるで硝子のように冷えきった低い声だった。こんな声を、初めて聞いた。
(どんな顔してるんだろう?)
彼は今、どんな顔をしながらあの冷淡な声を発したのだろう。
操からは甲洋の広い背中しか見えない。憎悪に駆られた鬼のような形相よりも、それはきっとずっと恐ろしいものに違いなかった。それだけは分かったような気がして、ぞわぞわとした鳥肌がたつ。爪の先まで四肢が冷えるのを感じながら、操はひとつ身を震わせた。
男は甲洋の端正な美貌に圧倒され、言葉を失ったままだった。散々イモだのなんだのと見下していたのだから、ショックを受けるのも無理はない。
やがてガタガタとそこだけ地震が起きたように全身を戦慄かせ、男は怨念に血走る瞳をカッと見開いた。甲洋がまた少し、笑った気がする。
「いいぜ、来いよ。売られたケンカは買ってやる」
「くそ! くそ!! イケメンは死ね──!!」
「甲洋!!」
操は悲鳴じみた声で甲洋の名を呼んだ。
男が落ちている眼鏡を踏みつけながら、甲洋に殴りかかろうとしている。そこからは全てが一瞬の出来事だったが、操の目にはスローモーションのように映った。
甲洋は寸でのところで男の拳を受け流し、その手を掴むやいなや引き寄せるようにしながら腹部に右膝を突き入れた。潰れたカエルのような悲鳴があがり、男が身体をくの字に曲げる。甲洋はその隙に男の襟首を掴むと、トドメとばかりにその頬に拳を叩きつけた。
「ッ……!!」
男はもはや悲鳴すらあげることなく吹っ飛ばされて、再び地面を転がった。やがて大の字の姿勢で動かなくなってしまう。
操はポカンと口を開けたまま、瞬きひとつできなかった。
「凄い……映画みたいだ……」
「来主!!」
甲洋が焦った顔をして駆け寄ってきた。座り込んだまま呆然としている操のそばに膝をつき、思いきり抱きすくめる。
「こ、甲洋」
「間に合ってよかった……」
さっきまでの冷淡さが嘘のように、その声はわずかに震えて上ずっていた。
「君、どうしてここが分かったの?」
操はまだどこか夢を見ているような気分のままで問いかける。
「お前の声が聞こえたから」
わずかに身じろいで顔をあげると、甲洋は今にも泣きだしそうな、それでいてひどく怒っているような、複雑な表情を浮かべていた。操よりもずっと顔色が悪いように見える。
「この時間に来主が行きそうなところなんて、コンビニかゲーセンくらいしか思いつかなかった。俺はお前のこと、まだなにも知らないんだって思い知ったよ」
マンションを飛び出した甲洋は、とにかく手当り次第に近辺のコンビニを探し回り、駅前のゲーセンにまで足を伸ばした。
しかし操はどこにもおらず、途方に暮れながらいったん引き返そうとした。
声が聞こえたのは、マンションの正面まで戻ってきたときだ。聞こえるか聞こえないかの微かな悲鳴だったが、甲洋はそれが操のものであるに違いないと確信した。だから見つけることができたのだと、甲洋は言った。
「こんなに近くにいたのかよ……」
悔しさと情けなさを滲ませた声で吐きだしながら、甲洋は再び操の身体をきつく抱きしめた。
よく知る匂いと熱に包まれて、固結びされたようになっていた心が今更になって緩んでいく。安堵と一緒に涙が溢れ、操はその背に強く腕を回した。
自分と同じくらい甲洋の身体も震えていることに気がつくと、引き絞られたように胸が痛んだ。
「ッ、ごめん甲洋……ごめんね……っ!」
本当は行く場所くらい他にもあった。友達がいないわけじゃないし、適当なホテルに駆け込むことだってできたはずだ。
それなのにずっと公園で腐っていたのは、ここなら甲洋が探しに来やすいのではないかと、どこかで期待していたからだった。心の奥底では、きっと来てくれると信じていた。だからここで待っていたのだ。
「バカ」
「ごめん……ごめんなさいぃ……っ」
どうせもう飽きてしまったんだとか、どうでもよくなったんだとか。大きな身体を震わせながら、こんなにも強く抱きしめてくれるひとのことを、どうして疑ったりなんかしたんだろう。
彼が来てくれなかったら、きっとあのまま死んでいた。こうなることを恐れていたから、甲洋はずっと注意してくれていたのに。
操は泣きながら何度も謝って、甲洋はそんな操をずっと抱きしめていた。すると遠くから、パトカーのサイレンが近づく音が聞こえてくる。
ハッとして顔をあげた操の頭を軽く撫でながら、甲洋が音のほうに目をやった。
「誰かが通報したんだ。ずいぶん騒がしくしたから」
「あのひと……死んだ?」
大の字で転がったまま動かない男を見やり、それからまた甲洋を見上げる。揺れている操の瞳に笑いかけ、甲洋は静かに首を左右に振った。
「死んじゃいない。大丈夫だよ」
「君がこんなにケンカ強いなんて、なんか意外……」
「俺も意外。初めてだよ、人を殴ったのなんて」
「そうなの!?」
「殴られたことはあるけどね」
おどけたように言って笑う甲洋に、気が抜けた操はポカンとしたままなにも言うことができなかった。
←戻る ・ 次へ→
ふっと覚醒するのと同時に音は途切れて、間に合わなかったかと息をつきながらも、甲洋は枕元のスマホを手にとった。
ディスプレイにはたったいま電話をかけてきた主の名が表示されている。それは甲洋が故郷の島にいたころから、よく知る人物の名前だった。
懐かしさにふと目元を和らげながら、ゆっくりと身を起こす。少し寝すぎたかもしれない。起き抜けの四肢が、じんわりと心地よく痺れている。
すぐに折り返すために端末を操作しかけて、甲洋はふと周りが静か過ぎることに気がついた。
「……来主?」
薄闇の部屋を見渡してみる。しかしそこに操の姿は見えなかった。
トイレか、風呂にでも入っているのだろうか。しかしどんなに耳を澄ませても、いっさいの生活音が聞こえてこない。
(また一人でコンビニにでも行ったのか?)
結局、甲洋がしつこく注意しようがしまいが、操の動向は変わらない。束縛されるのは嫌いだと放った言葉の通り、彼は自由気ままな野良猫のように甲洋の腕からスルリと抜け出して行くのだ。
せめて防犯ブザーでも持たせようかと真剣に考えながら、甲洋はベッドから抜けだして部屋の明かりを灯した。そして次の瞬間、衝撃に打たれる。
「──ッ!?」
目の前にある光景に、全身の血管が凍りつくような感じがした。
テーブルの上には見覚えのある紙袋。少しよれているその白い袋は、前に居酒屋で剣司から押しつけられたものだ。中にはエロDVDが大量に入っている。この中から、甲洋は来栖ミサオという異色の存在を見つけた。
甲洋が見たのは彼のAVだけで、他はいっさい見ていない。大切な友人から託されたものを捨てることもできず、収納スペースに押し込んだままずっと放置していた。それが表に出ているということは──
「く、来主っ! 誤解だ!!」
真っ青になりながら思わず叫んだ。これがこうして置かれていること、操の姿が見当たらないこと。最悪のケースしか浮かばない。
実家に帰らせていただきます──そんな文言が頭に浮かんだ。
甲洋は弾かれたように玄関に走ると部屋を飛び出しかけた。が、寸でのところで思いとどまる。
(ま、待て、待て待て、落ち着け……まだそうと決まったわけじゃない……)
操のことだから、これらのDVDを甲洋をからかって遊ぶための材料にするつもりでいるのかもしれない。普段の彼なら、そのほうがむしろ自然だ。
実際コンビニに行っただけという可能性も否定できない。この周辺には幾つかコンビニが点在しており、操はそのときの気分でどこへ行くかを決めるため、闇雲に飛び出したところで行き違いになってしまう恐れがある。
まずは少し落ち着いて、おとなしく帰りを待つべきだ。しかしストーカーの件がある。嫌な考えが次から次へと押し寄せて、心の中はジリジリとした焦燥で満ちていた。
甲洋はいったん玄関から引き返すと、ベッドの上に投げ出されていたスマホを掴み取って操に電話をかけた。
すぐに留守番サービスに接続されることに舌打ちをしながら、ふと、眠る前までは床に散乱していたはずのゲーム機や菓子類が、すっかり消えていることに気がついた。
「!?」
甲洋は再び血の気が引くのを感じた。持ち主ごと消えてしまった彼の私物。この光景が意味するのはつまり──やっぱりそういうこと、なのではないか?
頭の中が真っ白になる。思えば女性がちょっと黄色い声をあげただけで、あんなにも拗ねてしまうような子なのだ。不快に思わないはずがないではないか。
もはや冷静ではいられなかった。どこだっていい。とにかく彼が行きそうな場所を、手当り次第探すしかない。
甲洋はいつものコートとスマホを乱暴に掴むと部屋を飛び出す。が、すぐに慌てて引き返し、ベッドのヘッドボードから瓶底眼鏡をとって素早くかけた。これをしないで外に出たら、またあの子が拗ねてしまうかもしれないから。
*
(これからどうしよう……)
甲洋が真っ青になりながら駆け回っているころ、操はマンションのすぐ隣に位置する公園でブランコに乗っていた。
辺りはすっかり夜の闇に覆われている。なけなしの街灯だけが、公園内部をうっすらと照らしだしていた。
キィキィとブランコを軋ませながら、操は真っ白い息を吐きだした。
寒い。当然だ。例の紙袋にショックを受けて、操はコートも着ずに部屋を飛び出してしまった。部屋着にしているパーカーは薄手のもので、寒さに全身が冷え切っている。ステンレスチェーンを掴んでいる両手がかじかみ、すっかり感覚がなくなっていた。
(嫌われたのかな……おれがちっとも言うこと聞かないから……)
甲洋は、きっと愛想を尽かしてしまったに違いない。
せめて身体くらい好きにさせてやっていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。もともと甲洋は来栖ミサオのファンだったのだ。AVの仕事を辞めて、ただの来主操に戻ってしまった自分になんの価値があるのか、操自身にも分からない。そんなこと、今まで考えたこともなかったけれど。
甲洋は操のことを諦めて、隠し持っていたあのDVDをこっそり見ていたのかもしれない。みんな胸もお尻も大きくて、可愛くてセクシーな女の子ばかりだった。
「……甲洋のバカ……スケベ……」
あんなに好きだ好きだと言いながら何度も抱いてきたくせに、結局は胸の大きなお姉さんのほうがいいんじゃないか。
どんどん視界がぼやけていく。悔しいと思う。耐えるように、唇を噛みしめた。
(自分のこと、嫌いになりそう)
どんなに注意されても聞かないし、夜ふかしをして部屋は散らかすし、パンケーキだってまともに焼けないし。エッチもさせてあげないし。
本当に腹が立っているのは、きっと甲洋に対してじゃない。なにもできない、ただの我儘な子供。そんな自分への苛立ちだった。
操はグスンと大きく鼻を鳴らして、握った拳で両目をぬぐった。
どのみち後悔したってもう遅いのだ。だけど、これからどうすればいいか分からない。つい勢いで飛び出してはきたものの、行く場所だってどこにもなかった。途方に暮れながら、もうずっと何時間もここでこうしている。
──ザッ、ザッ、ザッ
そのときだった。遠くから近づいてくる足音が聞こえて、操はハッと息を呑みながら顔を上げると音の方向へ目をやった。
(甲洋……!?)
沈んでいた心が、心音と一緒に大きく跳ね上がる。もしかしたら、探しに来てくれたのかもしれない。足音が近づくほどに、操の胸は期待に膨らんだ。
ぽつりぽつりと等間隔に設置された街灯は頼りなく、鉄棒や滑り台などの遊具を儚く浮き上がらせている。ブランコ脇の街灯は、時おりチカチカと点滅を繰り返していた。
すぐ側まで迫る足音。人型をした黒い影。チカ、チカ、チカ。明暗を繰り返す街灯の下。歩いてくる足先が見えて、膝が見えて──やがて徐々に、その姿を現していった。
「ミサオちゃん……」
操はヒュウと音を立てながら喉を詰まらせた。背中にぴったりとナイフを押し当てられたように、寒気が駆け抜ける。
違う。甲洋じゃない。忘れもしないその声と、金色の髪と、吊り上がった奥二重の目。『あのとき』も、こいつは今と同じグレーのフリースジャケットを着てベッドの下に潜んでいた。
「迎えに来たよ」
「ッ……!?」
にやけた口元を見た瞬間、内部から突き上げられるような戦慄が走る。身を固くしながら立ち上がると、ブランコの座面が金属音を立てて大きく揺れた。
こいつは前に操を襲ったストーカーだ。執拗に後をつけられ、毎日のように気色の悪い手紙だとか、ぬいぐるみなどのプレゼントを送られて、あげく部屋の中に侵入されてレイプされかけた。こいつが原因で操は元の住処を追われ、AVの仕事からも足を洗うキッカケになったのだ。
「……なんの用? 自分から捕まりに来たの?」
操はきつく男を睨みつけながら、冷ややかに言葉を放った。虚勢を張っていることを悟られぬよう、手の平に爪が食い込むほど強く拳を握る。
「また一人で夜に出歩いて……ミサオちゃんは本当に危なっかしいね。オレがついててやらないと」
一歩、また一歩と、男は暗く濁った瞳で近づいてくる。距離が近づくほどに、操はジリジリと後ずさりをした。
「それ以上こっち来ないで!」
「今日はコンビニ行かないの? そういえばケーキ屋も辞めたんだっけね……エプロン、よく似合ってたのになぁ」
「来るなってば!」
「あー、でもあの店長スケベそうだったからなぁ~。オレのミサオちゃんにベタベタ触りまくってさぁ、ムカついてたからよかったよ」
「ッ、うぁ……!?」
後ずさりする操の膝が、ブランコを囲む柵にぶつかった。膝が折れたことで身体のバランスが崩れ、水色の塗装が施された柵を乗り越える形で、派手に尻もちをついてしまう。
痛みを感じる間もなく這ってでも逃げだそうとした操の襟首を、柵を飛び越えてきた男が掴んで引きずり寄せる。
「ッ、やめ、離せ! 離して!!」
「ミサオちゃん! どうして逃げるの!? せっかく迎えに来てやったのに、嬉しくないの!? オレとミサオちゃんは恋人だろ!?」
男は急に声を荒げだし、背中に覆いかぶさってこようとする。
「こんなに愛してるのに! ミサオちゃんだってオレを愛してるはずだ! 毎日家まで送り迎えしてやっただろ!? プレゼントだって、幾つも送った! 手紙だって! あんなに喜んでくれたじゃないか!!」
「さっきからなに言ってんの!? そんなの知らない! 誰か助けてッ!!」
男は妄想と現実の区別がつかなくなっているのだ。彼にとって後をつける行為は純粋な『送迎』で、都合のいい妄想の中で育てた来栖ミサオは、彼からの手紙や贈り物にいつも喜んでいたことになっている。
ゾッとした。全身に毛虫が這っているかのようだった。手足をばたつかせ、身を捩ることで必死に抵抗するが、操が暴れるほどに相手も滅茶苦茶な動きで押さえつけてきた。
「なのにあんな男と……ッ! アイツのどこがいいんだ!? あんなぐるぐる眼鏡のイモみたいな男の、どこがいいって言うんだ!?」
操がよく一人でコンビニに行くこと。ケーキ屋でバイトをしていたこと。もちろんそれだけじゃない。男は操が甲洋と同棲していることすら突き止めていた。どこかで息をひそめ、ずっと監視し続けていたのだ。そして機会を伺っていた。
「嫌だ! やめて! 助けてっ……!!」
「騙されただけだよね? アイツに脅されてるんだろ? 事務所を辞めたのだってアイツのせいだ! 本当のこと言っていいんだよ! そうなんだろ!? じゃなきゃ……っ」
吊り上がった目をさらに吊り上げ、男は顔を怒りで真っ赤にしながら操の身体をひっくり返すと、腹の上に馬乗りになってきた。そして一瞬の隙を突き、操の首をその両手で思いきり掴んで締め上げる。
「ぁぐッ……!?」
「──殺してやる」
「っ!?」
怒鳴り散らしていた声が、ストンと一気に低くなる。暗く凍った執念が、瞳の奥にゆらゆらと虚ろに灯されていた。
頭のおかしな男だということは知っていた。だけどあのときは、操が大声を上げながら激しく抵抗したことに怯み、すぐに逃亡してしまったのだ。けれど今日は違う。あのときよりもずっと、その異常性を増している。
(殺される……!)
操はその執着と殺意に絡め取られ、もはや強がることもできないほどの恐怖に全身をすくませた。
「ぐ、ぅ……ッ、ぁ゛……っ」
首にかかる圧が増していく。苦しくて、息ができない。
男は瞬きもせず血走った目を見開き、うわ言のように「殺す、殺す」と呟きながら、締め上げる力を強めていった。
その手首を両手で掴んで爪を立て、操は涙が滲んでいた視界をきつく閉じる。
「おまえはオレだけの来栖ミサオなんだ……来栖ミサオでいなきゃいけないんだ……永遠に、ずっとオレだけの……」
意識が暗い闇に吸い込まれていくような感覚を覚えた。ゆっくりと、ゆっくりと海の底に沈んていくかのようだった。
凄まじい恐怖と絶望にさらされる意識から、不思議とどこか達観しはじめている自分が乖離する。それは諦めという感情だった。
(あーぁ、死んじゃうんだ、おれ。こんな最後は嫌だな……)
多分きっと、これが走馬灯というやつだ。
甲洋と一緒にいたのはまだほんの短い期間で、彼を知らずに生きてきた時間のほうが、ずっと長いはずなのに。思い出すのは甲洋のことばかりだった。出会った日のことだとか、彼が作ってくれるホットミルクの味だとか、繋いだ手のぬくもりだとか。何気ない日常が、次から次へと。
(ちゃんと言うこと、聞いておけばよかった……甲洋、あんなに心配してくれたのに……バカだなぁ、おれ……)
会いたいなぁと、そう思う。甲洋はもう、操のことなどなんとも思っていないのかもしれない。だけど、それでもいいから。
なにも言わずに飛び出して来たりなんかしないで、ちゃんと話をすればよかった。どうせ同じ結末を迎えるのなら、もっとちゃんと。
(甲洋、ごめん)
ああ、落ちる。これで終わりだと、そう思っていた。
「来主ッ!!」
遠くで名前を呼ばれるのと同時に、男が息を呑む音がした。
操から引き剥がされた男が、そのまま左頬を殴りつけられて吹っ飛ばされる。ぐぇ、という悲鳴をあげながら、ゴロゴロと地面を転がった。
操はその一瞬の光景を、こじ開けた瞳でただ呆然としながら眺めていた。拳を強く握りしめ、肩で息をしながら立ち尽くす甲洋の背中を。
(甲洋……?)
信じられなかった。彼がここにいることが。まるで夢でも見ているみたいだ。あるいは安いドラマかなにかだろうか。こんなギリギリのところで助けに来てくれるなんて、まるで正義のヒーローみたいだ。
操は身を起こし、甲洋の名を呼ぼうとした。しかしこみ上げてくる激しい咳によって、まともに声を出すことすらできない。
そうしている間にも男が低い呻きをあげながら、よろよろと身を起こして立ち上がろうとしていた。
「このっ、ダサイモ野郎が……よくもオレのミサオを……っ」
男は切れた口の端を手の甲で拭いながら、忌々しげに言って鬼のような形相を上げた──が、次の瞬間、正面から甲洋の顔を見てなぜか絶句してしまう。
ガサガサと音を立てる肺に必死で酸素を取り込みながらも、操はふと気がついた。
頼りなく点滅する街灯の下で、鈍くなにかが光っている。甲洋が常に身につけていた、あの濁った瓶底眼鏡だ。さっき男を殴りつけた拍子に、外れて落ちてしまったのだろう。
「やっぱりお前か」
甲洋が鼻で笑った気配がした。操は目を丸く見開く。
「あれは宣戦布告でもしたつもりか?」
甲洋は知っているのだ。この男のことを。それに、宣戦布告とはどういうことだろう。操が知らないところで、彼らがすでになんらかの接点を持っているということだけは、なんとなく理解できる。
それがなんなのか気にはなるが、それ以上に操を驚かせたのは、甲洋のまるで硝子のように冷えきった低い声だった。こんな声を、初めて聞いた。
(どんな顔してるんだろう?)
彼は今、どんな顔をしながらあの冷淡な声を発したのだろう。
操からは甲洋の広い背中しか見えない。憎悪に駆られた鬼のような形相よりも、それはきっとずっと恐ろしいものに違いなかった。それだけは分かったような気がして、ぞわぞわとした鳥肌がたつ。爪の先まで四肢が冷えるのを感じながら、操はひとつ身を震わせた。
男は甲洋の端正な美貌に圧倒され、言葉を失ったままだった。散々イモだのなんだのと見下していたのだから、ショックを受けるのも無理はない。
やがてガタガタとそこだけ地震が起きたように全身を戦慄かせ、男は怨念に血走る瞳をカッと見開いた。甲洋がまた少し、笑った気がする。
「いいぜ、来いよ。売られたケンカは買ってやる」
「くそ! くそ!! イケメンは死ね──!!」
「甲洋!!」
操は悲鳴じみた声で甲洋の名を呼んだ。
男が落ちている眼鏡を踏みつけながら、甲洋に殴りかかろうとしている。そこからは全てが一瞬の出来事だったが、操の目にはスローモーションのように映った。
甲洋は寸でのところで男の拳を受け流し、その手を掴むやいなや引き寄せるようにしながら腹部に右膝を突き入れた。潰れたカエルのような悲鳴があがり、男が身体をくの字に曲げる。甲洋はその隙に男の襟首を掴むと、トドメとばかりにその頬に拳を叩きつけた。
「ッ……!!」
男はもはや悲鳴すらあげることなく吹っ飛ばされて、再び地面を転がった。やがて大の字の姿勢で動かなくなってしまう。
操はポカンと口を開けたまま、瞬きひとつできなかった。
「凄い……映画みたいだ……」
「来主!!」
甲洋が焦った顔をして駆け寄ってきた。座り込んだまま呆然としている操のそばに膝をつき、思いきり抱きすくめる。
「こ、甲洋」
「間に合ってよかった……」
さっきまでの冷淡さが嘘のように、その声はわずかに震えて上ずっていた。
「君、どうしてここが分かったの?」
操はまだどこか夢を見ているような気分のままで問いかける。
「お前の声が聞こえたから」
わずかに身じろいで顔をあげると、甲洋は今にも泣きだしそうな、それでいてひどく怒っているような、複雑な表情を浮かべていた。操よりもずっと顔色が悪いように見える。
「この時間に来主が行きそうなところなんて、コンビニかゲーセンくらいしか思いつかなかった。俺はお前のこと、まだなにも知らないんだって思い知ったよ」
マンションを飛び出した甲洋は、とにかく手当り次第に近辺のコンビニを探し回り、駅前のゲーセンにまで足を伸ばした。
しかし操はどこにもおらず、途方に暮れながらいったん引き返そうとした。
声が聞こえたのは、マンションの正面まで戻ってきたときだ。聞こえるか聞こえないかの微かな悲鳴だったが、甲洋はそれが操のものであるに違いないと確信した。だから見つけることができたのだと、甲洋は言った。
「こんなに近くにいたのかよ……」
悔しさと情けなさを滲ませた声で吐きだしながら、甲洋は再び操の身体をきつく抱きしめた。
よく知る匂いと熱に包まれて、固結びされたようになっていた心が今更になって緩んでいく。安堵と一緒に涙が溢れ、操はその背に強く腕を回した。
自分と同じくらい甲洋の身体も震えていることに気がつくと、引き絞られたように胸が痛んだ。
「ッ、ごめん甲洋……ごめんね……っ!」
本当は行く場所くらい他にもあった。友達がいないわけじゃないし、適当なホテルに駆け込むことだってできたはずだ。
それなのにずっと公園で腐っていたのは、ここなら甲洋が探しに来やすいのではないかと、どこかで期待していたからだった。心の奥底では、きっと来てくれると信じていた。だからここで待っていたのだ。
「バカ」
「ごめん……ごめんなさいぃ……っ」
どうせもう飽きてしまったんだとか、どうでもよくなったんだとか。大きな身体を震わせながら、こんなにも強く抱きしめてくれるひとのことを、どうして疑ったりなんかしたんだろう。
彼が来てくれなかったら、きっとあのまま死んでいた。こうなることを恐れていたから、甲洋はずっと注意してくれていたのに。
操は泣きながら何度も謝って、甲洋はそんな操をずっと抱きしめていた。すると遠くから、パトカーのサイレンが近づく音が聞こえてくる。
ハッとして顔をあげた操の頭を軽く撫でながら、甲洋が音のほうに目をやった。
「誰かが通報したんだ。ずいぶん騒がしくしたから」
「あのひと……死んだ?」
大の字で転がったまま動かない男を見やり、それからまた甲洋を見上げる。揺れている操の瞳に笑いかけ、甲洋は静かに首を左右に振った。
「死んじゃいない。大丈夫だよ」
「君がこんなにケンカ強いなんて、なんか意外……」
「俺も意外。初めてだよ、人を殴ったのなんて」
「そうなの!?」
「殴られたことはあるけどね」
おどけたように言って笑う甲洋に、気が抜けた操はポカンとしたままなにも言うことができなかった。
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「はぁ……」
レジカウンターに設置された簡素な椅子に腰掛けて、甲洋は幾度となく重苦しい息を漏らしていた。
ネットカフェの薄暗い店内は、幾つものブースがパーテーションで区切られている。その向こう側で息を潜めるように過ごす人の気配を感じながら、鬱々とした気分でぼうっと暇を持て余す。
頭の中は『反省』の二文字でいっぱいになっていた。
(確かに調子に乗りすぎだったな……特に昨日は……)
嫉妬と苛立ちに駆られながら、それをひとつの要素として興奮材料にしてしまったのは否めない。
操が本当に嫌がることはしない主義だし、あれでいて彼も悦んでいたことは分かっているつもりだった。甲洋がサディズムを秘めていたように、操もまたマゾヒズムの側面を内包している。
だけど、それにしたって昨日のあれはやりすぎだ。エッチ禁止令を出されたって、文句は言えない。
(浮かれすぎだろ)
画面越しに追いかけていた頃よりも、操への想いは日に日に大きく膨らんでいく一方だった。恋人同士という特別な関係性に、未だ夢を見ているのではないかと思うほど、脳内がお花畑になっている。
そりゃあ浮かれもするだろうと開き直る反面、自分の気持ちの重たさに呆れてしまう。
(自重しないと)
いい意味での冷却期間だとでも考えればいいのだ。これ以上歯止めが効かなくなって、いよいよ操に嫌われでもしたら目も当てられない。そんなことになるくらいなら、大人しく従っておくべきだと。
それに、なにもセックスだけが全てではないのだ。甲洋は操と一緒にいられるだけで、十分すぎるほど幸せを感じられる。
お父さんなんて言われたことも尾を引いているし、ついでだから小言も少しは控えた方がいいのだろうか。例のストーカーのことは未だに気になっているけれど、あまりにも口うるさく言い過ぎていたのかもしれない。
何事もほどほどに。それが意外と、難しかったりもするのだけれど。
無意識のうちに、またひとつ溜息が漏れた。
0時を過ぎると客の出入りはぐっと減る。フードの注文も少なく、一人でも十分に回せるくらいには時間を持て余すことがある。
適当に雑誌でも眺めようかと思ったところで、一人の男性客がブースから出てくる姿が見えた。
甲洋が椅子から立ち上がると、レジまでやってきた男は無造作に伝票をカウンターに投げ置いた。金髪のマッシュヘアーに吊り上がった奥二重が印象的で、グレーのフリースジャケットを着ている。最近よく訪れるようになった客だった。
甲洋は顔がほとんど隠れているのをいいことに、密かに眉をひそめた。この客は苦手だ。毎回この鋭い吊り目で、ジロジロと値踏みするような眼差しを向けてくる。よほどこの瓶底眼鏡が気になるのか、それともなにか言いたいことでもあるのだろうか。
当たり障りなく対応を終え、礼を述べながら頭を下げる。男は最後まで甲洋に不躾な視線を送り続け、一言も声を発さないままポケットに手を突っ込んで店から出ていった。
完全に姿が見えなくなると、ほっと息をつく。けれどあの客は退店後の方が問題なのだ。甲洋は辟易としながらも消毒剤などの掃除用具一式を持って、男が使っていたブースへと足を運んだ。
天井が開けているにも関わらず、立ち込める嫌な臭いに顔をしかめる。中はひどい有様で、床になにやら意味深に丸められたティッシュが幾つも散らばっていた。フラットシートには乾きかけの白い液体までこびりついていて、なにをしていたかは一目瞭然である。
仕事とはいえ、なにが悲しくて野郎のオナニー後の片付けをしなくてはならないのだろう。あの客に限ったことではないし、ペアブースでは男女が性行為に及ぶことだって、決して珍しくはないのだが。
(今日も派手に汚してくれたな)
げんなりと息を漏らしながら、一緒に持ってきていたゴム手袋をはめた。
テーブルの上にはコンビニ弁当の空箱が置いてあり、食べカスまでボロボロと零れ落ちている。
しかもパソコンがシャットダウンされていない。画面にはいかにも違法なエロ動画サイトが表示されており、視聴途中の動画が一時停止されていた。
消毒剤を片手に近づいて、ふと画面を覗き込んだ瞬間──
「ッ……!?」
心臓をギュッと手掴みされたような衝撃に、大きく息を飲む。
そこには可憐な巫女姿でグロテスクな触手に蹂躙される、【来栖ミサオ】の姿が映し出されていたからだ。
*
早番のスタッフに引き継ぎを終えて帰路につきながら、甲洋は内心ひどく腹を立てていた。凍てつく冬の朝、いつもなら温かな缶コーヒーでも買って帰るところだが、今日ばかりはそんな気も起こらない。
あの不気味な吊り目が、ずっと頭の片隅にチラついている。
男が見ていたのは『生贄にされた美少年巫女~触手産卵奇譚~』という作品だった。
巫女に扮した来栖ミサオが不作続きの村を救うため、おぞましい触手の化け物たちに供物として捧げられる、という内容の作品だ。
白衣を乱され、緋袴を無残にも引き裂かれたミサオの肌に無数の触手が絡みつき、穴という穴を犯されながら苗床にされてしまう──といったロマン溢れる展開に、過去どれほどのティッシュを消費したことか。
(くそ)
薄いパーテーションの向こう側で、あの野郎はずっと触手に蹂躙されるミサオをオカズに耽っていたのだ。床に散乱していたティッシュは、奴が吐き出した精液にまみれていた。
(なんで俺が……!)
よりにもよってあんなものを処理しなくてはいけないのかと、考えるだけで腹の底がグラグラと煮立つほどの怒りが込み上げる。
これは為す術もない、理不尽ともいえる感情だ。なにで抜こうが、あの客に罪はない。
今この瞬間だって、世界のどこかではミサオをオカズにして興奮している男がいるのだ。かつての自分がそうであったように、引退した今なお熱烈なファンだっているだろう。
だけど操はもう来栖ミサオではない。業界から足を洗ったただの一般人で、甲洋だけの大切な恋人だ。
だからこそ頭がおかしくなりそうだった。もう誰の目にも触れさせたくない。だけど作品として出回っているものを消すことはできない。やり場のない感情が、落とし所を見つけられないままグルグルとルーレットのように回り続ける。
例のストーカーだってまだ捕まっていないのだ。むしろあの男が犯人なのではないか。だんだん道行く人間が、全て疑わしいとすら思えてくる。
そもそもあの客はマナーも悪いことだし、いっそ出禁にしてやろうか……なんてことを本気で考えながら、操が待つマンションに帰宅した。
早く顔が見たい。思いきり抱きしめて、その体温を感じたい。そして吸いたい。猫吸いならぬ、操吸いだ。本当はもっと色々とあらぬ場所を吸えればいいのだが、それは当分のあいだお預けなのである。だからせめて、匂いだけでも。
「ただい──うわ、クサッ」
逸る気持ちを抑えながら帰宅した瞬間、鼻をつく焦げ臭さに顔をしかめる。
「あ、おかえりー!」
そこに笑顔の操がひょっこりと顔をだした。
「来主、この臭いはなに?」
「君がそろそろ帰ってくる頃だと思ってさ。たまにはおれが朝ご飯の支度しとこうかなって」
「俺のために?」
そうだよ、と言って頷く操に胸がジンと熱くなった。
が、猛烈な焦げ臭さに目が痛くなってくる。心意気には感動したが、明らかにロクな結果になっていないことは丸わかりだった。
甲洋は眼鏡を外してコートのポケットに突っ込むと目尻を拭った。操は「そんなに感動した!?」と嬉しそうに目を輝かせている。そういうことにしておこう……と思いながら、恐る恐るテーブルの上を見やった。
「……ダークマター?」
丸い大皿の上に、暗黒物質がプスプスと黒煙を上げているのが見えた。操が「えへへ」と照れ笑いを浮かべながら、指先で頬を掻いている。
「パンケーキなんだけど……モ●ストやりながら焼いてたら、ついつい熱中しちゃって」
「火を使いながらゲームなんかするもんじゃないよ……」
パンケーキになるはずだったものは、完全に黒い煤の塊になって禍々しいオーラを放っていた。これを食べたら、さすがに死ぬ。おそらくキッチンもグチャグチャになっているだろう。見に行かなくても大体の予想がつく。
思わず溜息を漏らしながら、ふと視界に入ったテレビ画面ではプレイ中のゲームが一時停止されていることに気がついた。
「また一晩中ゲームし──」
(あ、まずい)
昨夜反省したことを思いだし、甲洋は咄嗟に言葉を切って口を噤む。
「甲洋?」
てっきりまた小言を食らうのだと身構えていた様子の操は、意表を突かれたように目をぱちくりとさせた。それを見て苦笑しながら首を左右に振る。
「いや。それより来主」
「なに、うわっ」
甲洋は操の身体を引き寄せて、両腕で思いきり抱きすくめた。
「ビックリしたぁ。どうしたの?」
「なんでもない。けど、ちょっと吸わせて」
「あふふっ、吸うってなにそれ!」
操が笑うと、腕の中からその振動が伝わってくる。
ちょっと焦げ臭い気はするが、柔らかくてどこか甘いような操の匂いを吸い込みながら、ほろほろとほどけた感情に幸せが染み込んでいくようだった。
「朝ご飯、作ってくれてありがとう、来主」
「ん、でも失敗しちゃったし……食べられないよね、これ……」
「その気持ちだけで十分」
「そっかぁ」
操の両腕が甲洋の背に回った。きゅっとしがみついてくる感覚に、胸が苦しくなる。あんなことがあったせいで心はささくれていたけれど、こうして操の体温を抱きしめるだけで、呆気なく癒やされていくのを感じた。
操はもうAVに出ていたころの操じゃない。甲洋のために黒焦げのパンケーキを作って待っていてくれる、たった一人の可愛い恋人だ。
彼が出ていた作品をこの世から消すことはできないが、これからの姿は全て独り占めしていたい。
「甲洋、苦しいって」
熱がこもり過ぎたせいで、加減ができなくなっていた。操は大きな子供をあやすみたいに、笑いながらポンポンと甲洋の背中を優しく叩く。
好きだと心の中で繰り返しながら、このまま甘ったるい感情に身を任せてしまいたかった。
だけど、駄目だ。
「シャワー浴びてくるよ。そうしたら朝飯は俺が作るから。少し待ってて」
「え? ぁ、うん」
甲洋は操の顔を見ないようにしながら腕をほどいた。本当はキスのひとつもしたいところだが、今そんなことをしたら絶対にその先も欲しくなってしまう。
操の頭に軽く手を乗せてひと撫ですると、甲洋は脱いだモッズコートをベッドに放り投げて、逃げるように浴室へ向かった。
その背中を、操がポカンとした表情で見つめていることには、気づかないまま。
*
エッチ禁止令を出してから、一週間が経過した。
操はクッションの上に胡座をかき、腕を組んで「う~ん」と唸り声をあげる。
ベッドでは夜勤明けの甲洋が、丸めた背中をこちらに向けて眠っていた。
いつも夕方頃になると起き出してくるため、そろそろ目を覚ますだろう。カーテンの隙間から、うっすらと西陽が差しはじめている。
(おかしくない?)
かすかに寝息をたてる甲洋の寝姿を見つめ、操は難しい顔をする。
(甲洋、ぜんぜん触ってこないじゃん……!)
エッチ禁止令を出してからというもの、甲洋はバカ正直にそれを守り続けている。触ってこないどころかキスすらしてこないし、あまり抱きしめてもくれなくなった。
さらにはあれだけうるさかった小言も減った。夜中に外出したことがバレると多少はチクリと言われるものの、前よりクドクドと説教じみた言い方はしない。休みの日には一緒にゲームをして遊び倒す始末で、疲れたらすぐに寝てしまう。
同じベッドで寝ていても、背を向けるばかりで指一本触れてこようとしないのである。
(てっきりすぐに我慢できなくなると思ったのに……)
いっそ襲いかかってしまおうか。禁止令は解かないまま、初めてしたときのように上に乗って好き勝手してしまうというのも、なかなか面白いかもしれない。
そう思いかけて、でもなぁ……と躊躇する。操は甲洋が情けなく頭を下げながら縋りついてくることを期待していたのだ。
こちらから手を出すのは、なんだか負けてしまうみたいで悔しい気がする。
(おれのほうが先に我慢できなくなったみたいじゃん)
実際、否定しきれないところがなおさら悔しい。操は歯痒さに唇を噛み締める。スケベのくせに、こんなに人を待たせるなんて。
だったらとっとと禁止令を解けばいいだけの話だし、律儀に言いつけを守っているだけの甲洋に対して理不尽だ。それは分かっているのだけれど。
(……もしかして)
ふと、頭の中に嫌な想像が駆けめぐる。
もしかしたら甲洋は、自分に興味がなくなってしまったのではないか、なんて。
小言が減ったのだって、操が言うことをきかずに反抗してばかりいることにすっかり呆れて──あるいは諦めて──しまったからなのではないか。
だけど甲洋は優しいから、気持ちが冷めていたとしても言いだせずにいるのかもしれない。
操は急激に襲いかかってくる不安に顔色を失くした。
(う、嘘、どうしよう……!?)
操にとって甲洋は初恋だ。仕事でセックスはしていても、特定の相手を作ったことだってない。むしろセックスそのものへの関心は薄かったように思う。
ただ街をフラフラしていたらスカウトされて、なんとなく始めただけだ。可愛い服を着ながらちょっと好きにさせるだけで、お金をもらうことができたから。
だけど甲洋とするようになって、初めてその悦びを知った。セックスだけじゃない。キスもハグも、全て甲洋が教えてくれたも同然だ。
だからどうすればいいか分からない。誰かを想って不安になることさえも、初めてのことだから。急に知らない場所に放り出されたみたいな気持ちになって、ぶるりと身体が震えてしまった。
(なにか、なにかしなくちゃ!)
いても立ってもいられなくなる。操は床に散乱しているゲーム機やソフト、お菓子の山に目をやった。ゲームのしすぎ。お菓子の食べすぎ。先日、ショッピングモールで甲洋が呈した苦言が頭の中でグルグル回る。
操はそれらを全てひとつにまとめると、引っ張り出したスポーツバッグに押し込めた。とりあえず、お菓子もゲームも封印だ。そして、甲洋が起きたら謝ろう。意地なんか張っている場合ではなかった。
起こしてしまわないよう静かに足音を忍ばせながら、部屋に備え付けられた収納スペースへバッグを運んだ。ここには主に甲洋の衣類などが入っているが、他にしまっておく場所がないため借りることにした。
そっと両開きの扉を開けて、置いておけそうなスペースを探す。すると片隅に、少しよれた白い紙袋を発見した。
「……なんだろ、これ?」
紙袋はそれなりの大きさだ。ズッシリと何かが詰まっているのが、見ただけでもよく分かる。操は首を傾げ、ほとんど無意識に袋へ手を伸ばしていた。
ぺたりと座り込み、引き寄せたそれを覗き込む。そして愕然とした。
中身は大量のエロDVDだった。
震える指先で一枚だけ取り出して、パッケージを見る。
豊満な胸を惜しげもなくさらけ出し、ピタピタのライダースーツに身を包んでいるセクシーな身体。どうしてこんな子がと思うほど綺麗な女の子が、女豹のようなポーズをとりながらこちらに妖しく笑いかけていた──。
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レジカウンターに設置された簡素な椅子に腰掛けて、甲洋は幾度となく重苦しい息を漏らしていた。
ネットカフェの薄暗い店内は、幾つものブースがパーテーションで区切られている。その向こう側で息を潜めるように過ごす人の気配を感じながら、鬱々とした気分でぼうっと暇を持て余す。
頭の中は『反省』の二文字でいっぱいになっていた。
(確かに調子に乗りすぎだったな……特に昨日は……)
嫉妬と苛立ちに駆られながら、それをひとつの要素として興奮材料にしてしまったのは否めない。
操が本当に嫌がることはしない主義だし、あれでいて彼も悦んでいたことは分かっているつもりだった。甲洋がサディズムを秘めていたように、操もまたマゾヒズムの側面を内包している。
だけど、それにしたって昨日のあれはやりすぎだ。エッチ禁止令を出されたって、文句は言えない。
(浮かれすぎだろ)
画面越しに追いかけていた頃よりも、操への想いは日に日に大きく膨らんでいく一方だった。恋人同士という特別な関係性に、未だ夢を見ているのではないかと思うほど、脳内がお花畑になっている。
そりゃあ浮かれもするだろうと開き直る反面、自分の気持ちの重たさに呆れてしまう。
(自重しないと)
いい意味での冷却期間だとでも考えればいいのだ。これ以上歯止めが効かなくなって、いよいよ操に嫌われでもしたら目も当てられない。そんなことになるくらいなら、大人しく従っておくべきだと。
それに、なにもセックスだけが全てではないのだ。甲洋は操と一緒にいられるだけで、十分すぎるほど幸せを感じられる。
お父さんなんて言われたことも尾を引いているし、ついでだから小言も少しは控えた方がいいのだろうか。例のストーカーのことは未だに気になっているけれど、あまりにも口うるさく言い過ぎていたのかもしれない。
何事もほどほどに。それが意外と、難しかったりもするのだけれど。
無意識のうちに、またひとつ溜息が漏れた。
0時を過ぎると客の出入りはぐっと減る。フードの注文も少なく、一人でも十分に回せるくらいには時間を持て余すことがある。
適当に雑誌でも眺めようかと思ったところで、一人の男性客がブースから出てくる姿が見えた。
甲洋が椅子から立ち上がると、レジまでやってきた男は無造作に伝票をカウンターに投げ置いた。金髪のマッシュヘアーに吊り上がった奥二重が印象的で、グレーのフリースジャケットを着ている。最近よく訪れるようになった客だった。
甲洋は顔がほとんど隠れているのをいいことに、密かに眉をひそめた。この客は苦手だ。毎回この鋭い吊り目で、ジロジロと値踏みするような眼差しを向けてくる。よほどこの瓶底眼鏡が気になるのか、それともなにか言いたいことでもあるのだろうか。
当たり障りなく対応を終え、礼を述べながら頭を下げる。男は最後まで甲洋に不躾な視線を送り続け、一言も声を発さないままポケットに手を突っ込んで店から出ていった。
完全に姿が見えなくなると、ほっと息をつく。けれどあの客は退店後の方が問題なのだ。甲洋は辟易としながらも消毒剤などの掃除用具一式を持って、男が使っていたブースへと足を運んだ。
天井が開けているにも関わらず、立ち込める嫌な臭いに顔をしかめる。中はひどい有様で、床になにやら意味深に丸められたティッシュが幾つも散らばっていた。フラットシートには乾きかけの白い液体までこびりついていて、なにをしていたかは一目瞭然である。
仕事とはいえ、なにが悲しくて野郎のオナニー後の片付けをしなくてはならないのだろう。あの客に限ったことではないし、ペアブースでは男女が性行為に及ぶことだって、決して珍しくはないのだが。
(今日も派手に汚してくれたな)
げんなりと息を漏らしながら、一緒に持ってきていたゴム手袋をはめた。
テーブルの上にはコンビニ弁当の空箱が置いてあり、食べカスまでボロボロと零れ落ちている。
しかもパソコンがシャットダウンされていない。画面にはいかにも違法なエロ動画サイトが表示されており、視聴途中の動画が一時停止されていた。
消毒剤を片手に近づいて、ふと画面を覗き込んだ瞬間──
「ッ……!?」
心臓をギュッと手掴みされたような衝撃に、大きく息を飲む。
そこには可憐な巫女姿でグロテスクな触手に蹂躙される、【来栖ミサオ】の姿が映し出されていたからだ。
*
早番のスタッフに引き継ぎを終えて帰路につきながら、甲洋は内心ひどく腹を立てていた。凍てつく冬の朝、いつもなら温かな缶コーヒーでも買って帰るところだが、今日ばかりはそんな気も起こらない。
あの不気味な吊り目が、ずっと頭の片隅にチラついている。
男が見ていたのは『生贄にされた美少年巫女~触手産卵奇譚~』という作品だった。
巫女に扮した来栖ミサオが不作続きの村を救うため、おぞましい触手の化け物たちに供物として捧げられる、という内容の作品だ。
白衣を乱され、緋袴を無残にも引き裂かれたミサオの肌に無数の触手が絡みつき、穴という穴を犯されながら苗床にされてしまう──といったロマン溢れる展開に、過去どれほどのティッシュを消費したことか。
(くそ)
薄いパーテーションの向こう側で、あの野郎はずっと触手に蹂躙されるミサオをオカズに耽っていたのだ。床に散乱していたティッシュは、奴が吐き出した精液にまみれていた。
(なんで俺が……!)
よりにもよってあんなものを処理しなくてはいけないのかと、考えるだけで腹の底がグラグラと煮立つほどの怒りが込み上げる。
これは為す術もない、理不尽ともいえる感情だ。なにで抜こうが、あの客に罪はない。
今この瞬間だって、世界のどこかではミサオをオカズにして興奮している男がいるのだ。かつての自分がそうであったように、引退した今なお熱烈なファンだっているだろう。
だけど操はもう来栖ミサオではない。業界から足を洗ったただの一般人で、甲洋だけの大切な恋人だ。
だからこそ頭がおかしくなりそうだった。もう誰の目にも触れさせたくない。だけど作品として出回っているものを消すことはできない。やり場のない感情が、落とし所を見つけられないままグルグルとルーレットのように回り続ける。
例のストーカーだってまだ捕まっていないのだ。むしろあの男が犯人なのではないか。だんだん道行く人間が、全て疑わしいとすら思えてくる。
そもそもあの客はマナーも悪いことだし、いっそ出禁にしてやろうか……なんてことを本気で考えながら、操が待つマンションに帰宅した。
早く顔が見たい。思いきり抱きしめて、その体温を感じたい。そして吸いたい。猫吸いならぬ、操吸いだ。本当はもっと色々とあらぬ場所を吸えればいいのだが、それは当分のあいだお預けなのである。だからせめて、匂いだけでも。
「ただい──うわ、クサッ」
逸る気持ちを抑えながら帰宅した瞬間、鼻をつく焦げ臭さに顔をしかめる。
「あ、おかえりー!」
そこに笑顔の操がひょっこりと顔をだした。
「来主、この臭いはなに?」
「君がそろそろ帰ってくる頃だと思ってさ。たまにはおれが朝ご飯の支度しとこうかなって」
「俺のために?」
そうだよ、と言って頷く操に胸がジンと熱くなった。
が、猛烈な焦げ臭さに目が痛くなってくる。心意気には感動したが、明らかにロクな結果になっていないことは丸わかりだった。
甲洋は眼鏡を外してコートのポケットに突っ込むと目尻を拭った。操は「そんなに感動した!?」と嬉しそうに目を輝かせている。そういうことにしておこう……と思いながら、恐る恐るテーブルの上を見やった。
「……ダークマター?」
丸い大皿の上に、暗黒物質がプスプスと黒煙を上げているのが見えた。操が「えへへ」と照れ笑いを浮かべながら、指先で頬を掻いている。
「パンケーキなんだけど……モ●ストやりながら焼いてたら、ついつい熱中しちゃって」
「火を使いながらゲームなんかするもんじゃないよ……」
パンケーキになるはずだったものは、完全に黒い煤の塊になって禍々しいオーラを放っていた。これを食べたら、さすがに死ぬ。おそらくキッチンもグチャグチャになっているだろう。見に行かなくても大体の予想がつく。
思わず溜息を漏らしながら、ふと視界に入ったテレビ画面ではプレイ中のゲームが一時停止されていることに気がついた。
「また一晩中ゲームし──」
(あ、まずい)
昨夜反省したことを思いだし、甲洋は咄嗟に言葉を切って口を噤む。
「甲洋?」
てっきりまた小言を食らうのだと身構えていた様子の操は、意表を突かれたように目をぱちくりとさせた。それを見て苦笑しながら首を左右に振る。
「いや。それより来主」
「なに、うわっ」
甲洋は操の身体を引き寄せて、両腕で思いきり抱きすくめた。
「ビックリしたぁ。どうしたの?」
「なんでもない。けど、ちょっと吸わせて」
「あふふっ、吸うってなにそれ!」
操が笑うと、腕の中からその振動が伝わってくる。
ちょっと焦げ臭い気はするが、柔らかくてどこか甘いような操の匂いを吸い込みながら、ほろほろとほどけた感情に幸せが染み込んでいくようだった。
「朝ご飯、作ってくれてありがとう、来主」
「ん、でも失敗しちゃったし……食べられないよね、これ……」
「その気持ちだけで十分」
「そっかぁ」
操の両腕が甲洋の背に回った。きゅっとしがみついてくる感覚に、胸が苦しくなる。あんなことがあったせいで心はささくれていたけれど、こうして操の体温を抱きしめるだけで、呆気なく癒やされていくのを感じた。
操はもうAVに出ていたころの操じゃない。甲洋のために黒焦げのパンケーキを作って待っていてくれる、たった一人の可愛い恋人だ。
彼が出ていた作品をこの世から消すことはできないが、これからの姿は全て独り占めしていたい。
「甲洋、苦しいって」
熱がこもり過ぎたせいで、加減ができなくなっていた。操は大きな子供をあやすみたいに、笑いながらポンポンと甲洋の背中を優しく叩く。
好きだと心の中で繰り返しながら、このまま甘ったるい感情に身を任せてしまいたかった。
だけど、駄目だ。
「シャワー浴びてくるよ。そうしたら朝飯は俺が作るから。少し待ってて」
「え? ぁ、うん」
甲洋は操の顔を見ないようにしながら腕をほどいた。本当はキスのひとつもしたいところだが、今そんなことをしたら絶対にその先も欲しくなってしまう。
操の頭に軽く手を乗せてひと撫ですると、甲洋は脱いだモッズコートをベッドに放り投げて、逃げるように浴室へ向かった。
その背中を、操がポカンとした表情で見つめていることには、気づかないまま。
*
エッチ禁止令を出してから、一週間が経過した。
操はクッションの上に胡座をかき、腕を組んで「う~ん」と唸り声をあげる。
ベッドでは夜勤明けの甲洋が、丸めた背中をこちらに向けて眠っていた。
いつも夕方頃になると起き出してくるため、そろそろ目を覚ますだろう。カーテンの隙間から、うっすらと西陽が差しはじめている。
(おかしくない?)
かすかに寝息をたてる甲洋の寝姿を見つめ、操は難しい顔をする。
(甲洋、ぜんぜん触ってこないじゃん……!)
エッチ禁止令を出してからというもの、甲洋はバカ正直にそれを守り続けている。触ってこないどころかキスすらしてこないし、あまり抱きしめてもくれなくなった。
さらにはあれだけうるさかった小言も減った。夜中に外出したことがバレると多少はチクリと言われるものの、前よりクドクドと説教じみた言い方はしない。休みの日には一緒にゲームをして遊び倒す始末で、疲れたらすぐに寝てしまう。
同じベッドで寝ていても、背を向けるばかりで指一本触れてこようとしないのである。
(てっきりすぐに我慢できなくなると思ったのに……)
いっそ襲いかかってしまおうか。禁止令は解かないまま、初めてしたときのように上に乗って好き勝手してしまうというのも、なかなか面白いかもしれない。
そう思いかけて、でもなぁ……と躊躇する。操は甲洋が情けなく頭を下げながら縋りついてくることを期待していたのだ。
こちらから手を出すのは、なんだか負けてしまうみたいで悔しい気がする。
(おれのほうが先に我慢できなくなったみたいじゃん)
実際、否定しきれないところがなおさら悔しい。操は歯痒さに唇を噛み締める。スケベのくせに、こんなに人を待たせるなんて。
だったらとっとと禁止令を解けばいいだけの話だし、律儀に言いつけを守っているだけの甲洋に対して理不尽だ。それは分かっているのだけれど。
(……もしかして)
ふと、頭の中に嫌な想像が駆けめぐる。
もしかしたら甲洋は、自分に興味がなくなってしまったのではないか、なんて。
小言が減ったのだって、操が言うことをきかずに反抗してばかりいることにすっかり呆れて──あるいは諦めて──しまったからなのではないか。
だけど甲洋は優しいから、気持ちが冷めていたとしても言いだせずにいるのかもしれない。
操は急激に襲いかかってくる不安に顔色を失くした。
(う、嘘、どうしよう……!?)
操にとって甲洋は初恋だ。仕事でセックスはしていても、特定の相手を作ったことだってない。むしろセックスそのものへの関心は薄かったように思う。
ただ街をフラフラしていたらスカウトされて、なんとなく始めただけだ。可愛い服を着ながらちょっと好きにさせるだけで、お金をもらうことができたから。
だけど甲洋とするようになって、初めてその悦びを知った。セックスだけじゃない。キスもハグも、全て甲洋が教えてくれたも同然だ。
だからどうすればいいか分からない。誰かを想って不安になることさえも、初めてのことだから。急に知らない場所に放り出されたみたいな気持ちになって、ぶるりと身体が震えてしまった。
(なにか、なにかしなくちゃ!)
いても立ってもいられなくなる。操は床に散乱しているゲーム機やソフト、お菓子の山に目をやった。ゲームのしすぎ。お菓子の食べすぎ。先日、ショッピングモールで甲洋が呈した苦言が頭の中でグルグル回る。
操はそれらを全てひとつにまとめると、引っ張り出したスポーツバッグに押し込めた。とりあえず、お菓子もゲームも封印だ。そして、甲洋が起きたら謝ろう。意地なんか張っている場合ではなかった。
起こしてしまわないよう静かに足音を忍ばせながら、部屋に備え付けられた収納スペースへバッグを運んだ。ここには主に甲洋の衣類などが入っているが、他にしまっておく場所がないため借りることにした。
そっと両開きの扉を開けて、置いておけそうなスペースを探す。すると片隅に、少しよれた白い紙袋を発見した。
「……なんだろ、これ?」
紙袋はそれなりの大きさだ。ズッシリと何かが詰まっているのが、見ただけでもよく分かる。操は首を傾げ、ほとんど無意識に袋へ手を伸ばしていた。
ぺたりと座り込み、引き寄せたそれを覗き込む。そして愕然とした。
中身は大量のエロDVDだった。
震える指先で一枚だけ取り出して、パッケージを見る。
豊満な胸を惜しげもなくさらけ出し、ピタピタのライダースーツに身を包んでいるセクシーな身体。どうしてこんな子がと思うほど綺麗な女の子が、女豹のようなポーズをとりながらこちらに妖しく笑いかけていた──。
←戻る ・ 次へ→
粘液が擦れて泡立つ音と、軋むベッドが奏でる音と。
背後から揺さぶられている操の背が、きらめく汗を滲ませながらしなやかにのたうっている。そこには甲洋がつけた赤い印が幾つも刻まれ、首筋にはうっすらと歯型まで浮き上がっていた。
「あっ、あぅ、ァッ、そこや、もうイヤ……っ、ぁ、だめぇ……ッ!」
赤く色づいた指先でシーツを掻き乱し、操は女の子のように嬌声をあげていた。
怒張する甲洋の陽物を深く咥え込んだ孔は、たっぷりと馴染ませたローションに濡れてぽってりとバラ色の膨らみを帯びている。
執拗に抽挿を繰り返しながら、甲洋は操の背に折り重なるようにしてその耳元に唇を寄せた。
「なにがダメ? 来主、またイクの?」
吐息のような囁きに、操の肌がまたいっそう赤みを増して粟立った。彼はひどく泣きながら、かろうじてコクコクと首を上下に振って見せる。
すでに何度も吐き出しているはずの濃桃の屹立が、揺さぶられる動きに合わせて瑞々しく跳ねていた。健気な膨らみを帯びた先端からは絶え間なく蜜が零れ落ちている。
「イッ、く! イクのッ! きもぢぃ、ァッ、きちゃう、あぁっ、やだぁ……ッ」
痙攣したようにひくつく熱い肉壺に締めつけられて、甲洋もまた全身に汗を滲ませながらもふっと笑った。
「これで何回目? 来主、分かる?」
しわくちゃになったシーツの谷間に、膨らんだコンドームが口を縛られて3つも転がっていた。それがすでに長い時間この行為が繰り返されていることを物語っている。
前立腺と、その少し先にある場所。操がひどく乱れてしまうポイントを雁首で擦り上げてやるだけで、彼は何度も潮を噴いては面白いほどあっけなく果てていた。今ではイキすぎて、もう境目が分からなくなっている。
そうと知りながら、わざと「ねぇ、何回目?」と再び耳元に問いかけてやった。
「わか、ないっ! もうわがんないぃ……ヒッ、や、やら、やめ、そこゴリゴリしないでっ、もうイヤッ、イグのやらっ、怖いのやらぁ……ッ!」
「ダメ。まだ終わらない」
操が嫌々と首を振る。嫌だ嫌だと繰り返し叫んで、ぽろぽろと涙を流している。それでも甲洋がやめないのは、自分の欲望を満たしたいがためだけではなかった。
幾度となく身体を重ねてきて、甲洋はいっそ哀れなほど泣き喚く操に興奮する自分をハッキリと自覚しているし、操もまた、こうしてひどく苛められることに悦びを覚えている。
表面上は素直に認めようとしないけれど、操が本当に気持ちがいいときの「イヤ」と、そうでないときの「イヤ」を、甲洋はすでに熟知していた。
甲洋はその細腰を両手で掴みあげると、肌同士がぶつかり合って音を立てるほど激しく腰を前後させた。弱い場所を強くノックしてやるたびに、操の屹立から壊れたポンプのように薄い体液が押しだされる。
「ひいぃっ! いっ、いっく、またイッ、ァッ、あ゛ぁ――……っ!!」
操の背がぐんと大きく反り返る。派手に身を震わせた割に、真っ赤な陰茎からはじわりと蜜が滲みだしているだけだった。
甲洋は絶頂の最中で身を震わせる操の二の腕をそれぞれ掴むと、馬の手綱を引くようにぐいと強く引き上げた。思い切り背を反らせ、胸を突き出す形を取らせると、そのままさらに抽挿を続行する。
「ッ、ぁ、ヒッ!? まっ、待って! イッってる! いまイッてるのっ、まっ……~~ッ!!」
「俺はまだイッてないよ、来主」
「ッ──!?」
極致の波から戻れずにいる操の身体を、休むことなく突き上げた。膝だけで体重を支えている身体は今にも崩れ落ちそうで、けれど掴み上げている二の腕を軸に反動をつけながら激しく揺さぶる。
「~~ッ、ひい゛ぃ゛ッ! あ゛ッ、ぁ──ッ!!」
操は喉を枯らしながら悲鳴を上げて、ガクガクと痙攣を繰り返していた。
反り返る艶めかしい背中を堪能しながら、正面からもこの光景を見ることができればいいのにと口惜しい気持ちになる。さんざん苛められて赤く腫れた乳首を、ぐんと突き出しながら揺さぶられる姿を、後ろからでは目に捉えることができない。いっそのことカメラでも設置してしまおうかと、快楽に浮かされながら本気で考えてしまう。
「おね、が、ッ、もう、っ、ズンズンしないでぇ……! もうやッ、おちんぽいらない、バカになっぢゃうぅ……ッ!!」
「ッ、来主……はっ、ぁ……っ」
いい加減、甲洋も限界が近かった。すでにゴムを3つも消費するほど出しているくせに、操とするセックスは──操しか知らないのだけれど──本当に頭がバカになってしまいそうなくらい気持ちがいい。愛しさに比例して快感が膨れ上がって、破裂してしまいそうなほど。
だけど上り詰めてしまう前に、どうしても確かめておきたいことがあった。
「来主、さっきの、答え」
「ッ、? へ、ぁ……っ?」
「まだ、聞いてない」
操が無理な姿勢で首をひねる。真っ赤な顔は涙と唾液でぐちゃぐちゃになっていた。なにかを問いかけたところで、まともに答えられる状態ではない。けれどまだハッキリさせていないことがあって、いつもより執拗に苛め抜いてしまったのは、それが原因であったりもする。
「店、もう行かないって。ちゃんと言って。じゃなきゃずっと終わらない」
「いっ、今!? そんなっ、アッ、ひんっ、や、ああぁ……っ!」
「来主」
夕時に喫茶店で交わした話は、操が笑いだしたせいで結局ハッキリとしたオチはつかなかった。彼がちゃんと首を縦に振るまでは、納得ができない。
こんなときにいやらしいなと、自分でもそう思う。だけど操が慣れているなんて言うから。他の男に触られて、なんとも感じないなんて。
分かっている。彼はセックスを生業にしていた。数え切れないくらいたくさんの男と身体を重ねてきた。けれど今は違う。触れていいのも、許されているのも、この自分だけのはずだった。
「腰も、お尻も……他は? どこを触られた?」
「って、な……どこも、ほか、どこも……あぅ、アッ、ぁ゛……ッ!」
「嘘」
「か、肩! 肩、抱かれ、た!」
掴み上げた両腕と、自らが打ちつける腰の動きとで、いっそう激しく反動をつけながら弱みを擦って突き上げる。パン、パン、と肉同士がぶつかり合うたび、操の柔らかな尻たぶがぷるりと震えた。
「ぅあッ、ひ、ひぎッ、ぃ!」
「他の男なんかにさ……なんで許したりなんかするんだよ……っ」
「やぁ、あぅ、ッ、ぅあ゛……ッ、ごめ、なざ……っ、ごめ……ッ」
舌を噛みそうなほど揺さぶられながら、操が絶えず痙攣を繰り返す。彼は小さくイキ続けていて、幼子のような陰茎から断続的に潮を撒き散らしている。
うわ言のように「ごめんなさい」を繰り返す様が憐れで、けれど同時に異常なまでの興奮に目が眩む。酷いことをして追いつめているのだと、そう思うほどに甲洋の血が湧き躍り、いっそ恐ろしいほどの陶酔感がもたらされた。
「やめ、へ……っ、も、らめ、ぇ……」
「来主」
「か、った、から」
「聞こえない」
「わかっ、た、わかった、から! やめる、から……やめるからぁ……っ」
「もう誰にも触らせないって、約束できる?」
ガクガクと、操が頷く。
「……いい子だ」
口元に緩く笑みを浮かべ、動きを止めて二の腕を開放する。
骨が抜き取られたようになっている身体をしっかりと抱きしめながら、そのまま折り重なるように身体を倒していった。操はもう膝も立たなくなっていて、ぐったりとうつ伏せの状態でシーツに沈み込んでしまう。
楽な姿勢になったことで、彼は一瞬ホッと息をついた。
けれどベッドと甲洋によって完全にサンドされている状態で、この体位には逃げ場がない。操の中にある甲洋は、まだ達しておらず張り詰めたままだ。
「ま、待ってこうよ……まだ……?」
「もうすぐ終わるよ、あと一回、俺がイッたら」
「や……これ、イヤ……」
「無理させてごめん。来主は寝てるだけでいいよ」
「や、や……これ、深いぃ……っ」
操の背には甲洋の体重がすべてかかっている。その重みで中の肉茎がより深い場所まで挿入されていた。甲洋は両手を操の身体の両脇につき、腕をピンと伸ばすことで上半身だけを浮き上がらせる。それによって、さらに重心が甲洋を受け入れている場所に集中してしまう。
「ヒッ、ひあ、ぁっ、だめ、これダメ……っ! 寝バックやだぁ!」
操はシーツを掻きむしって逃れようとするが、すっかり腰が抜けているせいで脱出は叶わない。甲洋がじわじわと腰を上下に動かしはじめると、身体をビクビクと勢いよく跳ねさせた。
ピンと足が伸びているせいで、ただでさえキツい孔がさらにぎゅっと肉棒を締めつけてくる。熱く蕩けた内壁に擦れて、目眩がするほど気持ちがよかった。
「くる、す……いい、気持ちいい……っ」
「や、あぁッ、は……っ、甲洋ダメ! 怖いっ、きもちいのっ、そこ、そんなにしたらっ、ヒァ、ぁ、あ゛――ッ、あ──……っ!」
さっきのような激しいピストンはできないが、角度的にたやすく弱い場所を狙って穿つことができてしまう。どすん、どすん、と押し潰すように攻め立てると、操は口から唾液をだらだらと零しながら身も世もなく喘ぎを漏らした。
「ぁ゛うぅ、も、ひゃらぁ……っ、きちゃうの……深いのきぢゃう……っ、もうダメなのにっ、イギたくないのにっ、おっきいのぎぢゃうぅ……ッ!!」
「俺も……俺も、来主……っ」
陸に打ち上げられた魚のように、操が激しく震える。
甲洋もまた目の前に星が瞬くのを見つめ、腰をブルリと震わせながら4つ目のゴムの中に精を放った。そのまま操の上にぐったりと身を沈め、野獣のように荒々しい呼吸を繰り返す。
「ぁ……、ぁぅ……ぁ──、ァ、ぁ──……」
操は断続的に痙攣を繰り返しながら、未だにか細い声を上げ続けている。シーツに片頬を埋め、焦点の合っていない瞳を虚ろに彷徨わせていた。
ああ、本当に可愛い。可愛くて可愛くて、愛しくてどうしようもない。
「来主、好きだよ」
ぐったりした身体をきつく抱きしめ、甲洋は汗ばむ項に吸いついた。
多分きっと、本当にバカになってしまったのだと思う。自分でも怖いくらい、この子が好きだ。止めどなく溢れて、止まらない。
「ごめん、来主……」
空虚な瞳のまま戻ってこられないでいる操の名前を呼びながら、まだもう少しだけ、長い夜は続きそうだった。
*
「君、最近ちょっと調子に乗りすぎ」
昼過ぎになってようやく遅すぎる朝食をとっている最中、先にあらかた食べ終えた操がむぅっと眉間にシワを寄せながら、そんなことを言いだした。
さんざん泣きわめいたせいで、声が少し枯れている。
つけっぱなしのテレビでは、昼の情報番組が最新の流行ファッションを取り上げているが、洋服が好きなはずの彼は目もくれないで甲洋を睨みつけていた。
「なに? 急に」
少し遅れてトーストと目玉焼きを平らげた甲洋は、内心ギクリとしながらも目を瞬かせた。
「しらばっくれてさ。終わりって言ったのにぜんぜんやめてくれないし! 嘘つき!」
「あー……」
やっぱりそのことで怒っていたかと、思わず目を逸してしまう。
操が言う通り、あのあと行為は朝方まで続いて、ゴムは全部で5つも消費することになってしまった。操は昼近くになってようやく意識を取り戻したが、腰が立たずにシャワーを浴びるにも四苦八苦していた。
いつものことではあるけれど、一度スイッチが入ってしまうと際限なく求めてしまう自分に、なかなか歯止めをかけられない。
それもこれも操が可愛いからいけないのだ──なんて、心の中で責任を押しつけながらも、甲洋は素直に「ごめん」と謝罪した。
「ぜんぜん心がこもってない! 顔ニヤけてるじゃん! エッチ! 性欲オバケ!!」
「ごめんって。ほら、あーん」
キーキーと顔を赤くして怒る操の口元に、自分の皿に残っていた赤ウィンナーをフォークに刺して運んでやった。すると操は条件反射のように「あーん」と口を開け、ウィンナーをパクンと口内に収めてしまう。
「ん~、おいし~」
「それはよかった。もうひとつ食べる?」
「食べる! ……じゃないよ! おれ怒ってるんだけど!?」
甲洋は耐えきれず肩を震わせながら笑ってしまった。操は赤い頬をリスのように膨らませ、さらにヘソを曲げてしまう。
「甲洋、最近ぜんぜん可愛くない! 最初はずーっとペコペコして可愛かったのにさ!」
「ペコペコはしてないだろ……」
「してましたー!」
ふんっと鼻から大きな息を吐いて、操は腕を組むとそっぽを向いた。けれどすぐにまた甲洋を睨みつけ、驚くべきことを口にした。
「しばらくはエッチしない!」
「……え?」
「君がちゃんと反省するまで、しばらくエッチはしないから!」
「ごめん、ちょっとなに言ってるか分かんないんだけど」
「エ ッ チ は 禁 止 !!」
ガンッ、と、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
エッチ禁止。つまり、セックス禁止。
「そ、おま……それは、お前、そっ……ど、どう、なん」
「動揺しすぎ」
「来主……あの、来主さん」
「今さらしおらしくなってもダメだね。おれがいいって言うまで、絶対に手出しして来ないでよ」
操はフォークを持った手を伸ばし、呆然とする甲洋の皿から最後の赤ウィンナーをブスリと刺すと口に放り込む。そして頬をもぐもぐと動かしながら、またプイッとそっぽを向いてしまった。
*
(ちょっと言い過ぎだったかな……)
夜。
甲洋が仕事に出かけたあと、操はテレビの前で胡座をかきながら、ひたすら対戦型の格闘ゲームをプレイしていた。
視線は画面に釘付けだが、まったく集中できていない。NPCにトドメの必殺技を食らったところで、いったんコントローラーを投げだした。
「はぁー、ぜんぜんダメ」
さっきからずっと、しょんぼりとした出掛けの甲洋が頭から離れない。
「まさかあんなに落ち込んじゃうなんて……」
スケベだなぁとは思っていたが、あれほど消沈するとは思ってもみなかった。
あのあと、甲洋は見るからに元気を失くしていた。夕飯も食べずにフラフラと仕事に出かけてしまったし、外出時の必須アイテムであるぐるぐる眼鏡が、心なしかズレてしまっていたのは気のせいだろうか。
(だってほんとに可愛くないんだもん。最近の甲洋)
最初はいちいち遠慮して、なにかというと「ごめん」が口癖だった。セックスをした翌朝は必ず床に正座しながら、この世の終わりのような顔をして頭を下げていたものだ。
操はそんな甲洋を見るのが好きだった。まるで叱られた大型犬のようで、自分より年上で身体も大きいくせに、どうしてかそれが可愛くて。
なのに今では童貞だった頃の初々しさはどこへやら、随分ふてぶてしくなってしまった。しかも口うるさいと来たものだ。一人で暮らしていた頃は好き勝手にできていたことが、甲洋と暮らしはじめてからはままならないことが多くなっている。
セクハラを軽くスルーするだけで毎日おいしいケーキにありつけていたのに、バイトだって辞めることを了承させられてしまった。だけど──。
「好きなんだけどさ、そういうとこ……」
それが操の本音でもある。
甲洋のことを好きになったキッカケは、他人の顔なんか全く気にしたことのなかった自分が、初めて「カッコいい」と思ったからだ。
あの顔に優しく微笑まれながら見つめられると、なんだかお尻のあたりがモゾモゾとして、落ち着かない気分にさせられる。
鍵を失くして困っているところに声をかけてくれて、色々と親切にしてくれて。いいなと思っていた人が、自分のファンだったと知ったときは本当に嬉しかった。
だからついついあんな特大ファンサービスをして、彼の童貞を奪ってしまったわけだが。
だけど本当に惹かれてしまったのは、甲洋の隠された二面性だった。
AVの仕事をしていたころ、操は甘やかされることに慣れきっていた。
自分がNGを出せば絶対にその通りになっていたし、その場で台本が丸々書き換えられるなんてことも、平然と繰り返されていた。すべてが操中心に回っていて、叱られるとか、注意されるなんてことも決してない。
ペコペコと気を使ってくる周りの大人達に、まるで王様にでもなった気分で好き勝手に振る舞うことが許されていた。
だから初めて甲洋とセックスをしたあの夜。
主導権を奪われた操は最初こそ本当に腹がたったけれど、正直とても気持ちがよかったのだ。嫌だと言っても聞いてもらえない。ダメだと言っても奪われる。あんなセックスは初めてで、自分でも驚くほど癖になってしまった。
だから当然、昨日の夜だって気持ちがよすぎて本当に死んでしまうかと思った。
(すごかったな、昨日は特に……)
今でも感じすぎると怖くなる。それは変わらない。だけど今は理性が飛ぶくらい快楽に飲まれる瞬間を、どこかで切望している自分がいる。
だいぶ悔しい気もするけれど、普段の優しい彼からは想像もできない抱き潰すようなセックスが、たまらなく好きで仕方ない。
(あ、やば……思いだしちゃった……)
昨夜の行為を思いだし、操は顔を赤らめると身体を丸めて体育座りをした。
こうして夜に一人でいると、甲洋とのセックスを思いだしておかしな気分になってしまうことが、度々ある。自分で慰めるのはなんだか癪で、他に意識を向けたくてつい朝方までゲームをして遊んでしまうのだ。
「甲洋のせいなんだからぁ……」
立てた両膝に顔を埋めて、ここにはいない男をなじる。
あんなに泣かされるくらい沢山したのに、次の日にはもう欲しくなっているなんて。知らなかった。こんな疼きも、恋をすることも。甲洋はきっと知らないだろうが、操にとってこれは初めての恋だった。
小言を言われるのだって、束縛されるのだって、鬱陶しいと感じながらも本当は嫌じゃない。甲洋は心から心配してくれるし、歳上の男が見せる子供っぽい独占欲が心地よかった。
だからわざと反抗的な態度をとったり、不安にさせるようなことをしてしまう。操は天の邪鬼なのだ。
「どうせすぐに我慢できなくなるんだろうな、甲洋」
だってすごくスケベだし。きっとすぐに謝り倒してくるに違いない。大型犬みたいに項垂れて、可愛く「ごめん」と頭を下げてくる。
そうしたら、今度は自分が思いっきり苛めてやろう。初めてしたときのように、臆病なくせに獰猛な犬を、厳しく躾けて服従させるみたいに。
そのあとに待っているのは、きっと手痛い反撃だ。そうなることくらい分かっている。分かっているから、期待がいっそう膨らんでしまう。
(甲洋のスケベが、おれにも移っちゃったみたい!)
操は赤い頬でふふっと笑い、転がっているコントローラーに再び手を伸ばした。
←戻る ・ 次へ→
背後から揺さぶられている操の背が、きらめく汗を滲ませながらしなやかにのたうっている。そこには甲洋がつけた赤い印が幾つも刻まれ、首筋にはうっすらと歯型まで浮き上がっていた。
「あっ、あぅ、ァッ、そこや、もうイヤ……っ、ぁ、だめぇ……ッ!」
赤く色づいた指先でシーツを掻き乱し、操は女の子のように嬌声をあげていた。
怒張する甲洋の陽物を深く咥え込んだ孔は、たっぷりと馴染ませたローションに濡れてぽってりとバラ色の膨らみを帯びている。
執拗に抽挿を繰り返しながら、甲洋は操の背に折り重なるようにしてその耳元に唇を寄せた。
「なにがダメ? 来主、またイクの?」
吐息のような囁きに、操の肌がまたいっそう赤みを増して粟立った。彼はひどく泣きながら、かろうじてコクコクと首を上下に振って見せる。
すでに何度も吐き出しているはずの濃桃の屹立が、揺さぶられる動きに合わせて瑞々しく跳ねていた。健気な膨らみを帯びた先端からは絶え間なく蜜が零れ落ちている。
「イッ、く! イクのッ! きもぢぃ、ァッ、きちゃう、あぁっ、やだぁ……ッ」
痙攣したようにひくつく熱い肉壺に締めつけられて、甲洋もまた全身に汗を滲ませながらもふっと笑った。
「これで何回目? 来主、分かる?」
しわくちゃになったシーツの谷間に、膨らんだコンドームが口を縛られて3つも転がっていた。それがすでに長い時間この行為が繰り返されていることを物語っている。
前立腺と、その少し先にある場所。操がひどく乱れてしまうポイントを雁首で擦り上げてやるだけで、彼は何度も潮を噴いては面白いほどあっけなく果てていた。今ではイキすぎて、もう境目が分からなくなっている。
そうと知りながら、わざと「ねぇ、何回目?」と再び耳元に問いかけてやった。
「わか、ないっ! もうわがんないぃ……ヒッ、や、やら、やめ、そこゴリゴリしないでっ、もうイヤッ、イグのやらっ、怖いのやらぁ……ッ!」
「ダメ。まだ終わらない」
操が嫌々と首を振る。嫌だ嫌だと繰り返し叫んで、ぽろぽろと涙を流している。それでも甲洋がやめないのは、自分の欲望を満たしたいがためだけではなかった。
幾度となく身体を重ねてきて、甲洋はいっそ哀れなほど泣き喚く操に興奮する自分をハッキリと自覚しているし、操もまた、こうしてひどく苛められることに悦びを覚えている。
表面上は素直に認めようとしないけれど、操が本当に気持ちがいいときの「イヤ」と、そうでないときの「イヤ」を、甲洋はすでに熟知していた。
甲洋はその細腰を両手で掴みあげると、肌同士がぶつかり合って音を立てるほど激しく腰を前後させた。弱い場所を強くノックしてやるたびに、操の屹立から壊れたポンプのように薄い体液が押しだされる。
「ひいぃっ! いっ、いっく、またイッ、ァッ、あ゛ぁ――……っ!!」
操の背がぐんと大きく反り返る。派手に身を震わせた割に、真っ赤な陰茎からはじわりと蜜が滲みだしているだけだった。
甲洋は絶頂の最中で身を震わせる操の二の腕をそれぞれ掴むと、馬の手綱を引くようにぐいと強く引き上げた。思い切り背を反らせ、胸を突き出す形を取らせると、そのままさらに抽挿を続行する。
「ッ、ぁ、ヒッ!? まっ、待って! イッってる! いまイッてるのっ、まっ……~~ッ!!」
「俺はまだイッてないよ、来主」
「ッ──!?」
極致の波から戻れずにいる操の身体を、休むことなく突き上げた。膝だけで体重を支えている身体は今にも崩れ落ちそうで、けれど掴み上げている二の腕を軸に反動をつけながら激しく揺さぶる。
「~~ッ、ひい゛ぃ゛ッ! あ゛ッ、ぁ──ッ!!」
操は喉を枯らしながら悲鳴を上げて、ガクガクと痙攣を繰り返していた。
反り返る艶めかしい背中を堪能しながら、正面からもこの光景を見ることができればいいのにと口惜しい気持ちになる。さんざん苛められて赤く腫れた乳首を、ぐんと突き出しながら揺さぶられる姿を、後ろからでは目に捉えることができない。いっそのことカメラでも設置してしまおうかと、快楽に浮かされながら本気で考えてしまう。
「おね、が、ッ、もう、っ、ズンズンしないでぇ……! もうやッ、おちんぽいらない、バカになっぢゃうぅ……ッ!!」
「ッ、来主……はっ、ぁ……っ」
いい加減、甲洋も限界が近かった。すでにゴムを3つも消費するほど出しているくせに、操とするセックスは──操しか知らないのだけれど──本当に頭がバカになってしまいそうなくらい気持ちがいい。愛しさに比例して快感が膨れ上がって、破裂してしまいそうなほど。
だけど上り詰めてしまう前に、どうしても確かめておきたいことがあった。
「来主、さっきの、答え」
「ッ、? へ、ぁ……っ?」
「まだ、聞いてない」
操が無理な姿勢で首をひねる。真っ赤な顔は涙と唾液でぐちゃぐちゃになっていた。なにかを問いかけたところで、まともに答えられる状態ではない。けれどまだハッキリさせていないことがあって、いつもより執拗に苛め抜いてしまったのは、それが原因であったりもする。
「店、もう行かないって。ちゃんと言って。じゃなきゃずっと終わらない」
「いっ、今!? そんなっ、アッ、ひんっ、や、ああぁ……っ!」
「来主」
夕時に喫茶店で交わした話は、操が笑いだしたせいで結局ハッキリとしたオチはつかなかった。彼がちゃんと首を縦に振るまでは、納得ができない。
こんなときにいやらしいなと、自分でもそう思う。だけど操が慣れているなんて言うから。他の男に触られて、なんとも感じないなんて。
分かっている。彼はセックスを生業にしていた。数え切れないくらいたくさんの男と身体を重ねてきた。けれど今は違う。触れていいのも、許されているのも、この自分だけのはずだった。
「腰も、お尻も……他は? どこを触られた?」
「って、な……どこも、ほか、どこも……あぅ、アッ、ぁ゛……ッ!」
「嘘」
「か、肩! 肩、抱かれ、た!」
掴み上げた両腕と、自らが打ちつける腰の動きとで、いっそう激しく反動をつけながら弱みを擦って突き上げる。パン、パン、と肉同士がぶつかり合うたび、操の柔らかな尻たぶがぷるりと震えた。
「ぅあッ、ひ、ひぎッ、ぃ!」
「他の男なんかにさ……なんで許したりなんかするんだよ……っ」
「やぁ、あぅ、ッ、ぅあ゛……ッ、ごめ、なざ……っ、ごめ……ッ」
舌を噛みそうなほど揺さぶられながら、操が絶えず痙攣を繰り返す。彼は小さくイキ続けていて、幼子のような陰茎から断続的に潮を撒き散らしている。
うわ言のように「ごめんなさい」を繰り返す様が憐れで、けれど同時に異常なまでの興奮に目が眩む。酷いことをして追いつめているのだと、そう思うほどに甲洋の血が湧き躍り、いっそ恐ろしいほどの陶酔感がもたらされた。
「やめ、へ……っ、も、らめ、ぇ……」
「来主」
「か、った、から」
「聞こえない」
「わかっ、た、わかった、から! やめる、から……やめるからぁ……っ」
「もう誰にも触らせないって、約束できる?」
ガクガクと、操が頷く。
「……いい子だ」
口元に緩く笑みを浮かべ、動きを止めて二の腕を開放する。
骨が抜き取られたようになっている身体をしっかりと抱きしめながら、そのまま折り重なるように身体を倒していった。操はもう膝も立たなくなっていて、ぐったりとうつ伏せの状態でシーツに沈み込んでしまう。
楽な姿勢になったことで、彼は一瞬ホッと息をついた。
けれどベッドと甲洋によって完全にサンドされている状態で、この体位には逃げ場がない。操の中にある甲洋は、まだ達しておらず張り詰めたままだ。
「ま、待ってこうよ……まだ……?」
「もうすぐ終わるよ、あと一回、俺がイッたら」
「や……これ、イヤ……」
「無理させてごめん。来主は寝てるだけでいいよ」
「や、や……これ、深いぃ……っ」
操の背には甲洋の体重がすべてかかっている。その重みで中の肉茎がより深い場所まで挿入されていた。甲洋は両手を操の身体の両脇につき、腕をピンと伸ばすことで上半身だけを浮き上がらせる。それによって、さらに重心が甲洋を受け入れている場所に集中してしまう。
「ヒッ、ひあ、ぁっ、だめ、これダメ……っ! 寝バックやだぁ!」
操はシーツを掻きむしって逃れようとするが、すっかり腰が抜けているせいで脱出は叶わない。甲洋がじわじわと腰を上下に動かしはじめると、身体をビクビクと勢いよく跳ねさせた。
ピンと足が伸びているせいで、ただでさえキツい孔がさらにぎゅっと肉棒を締めつけてくる。熱く蕩けた内壁に擦れて、目眩がするほど気持ちがよかった。
「くる、す……いい、気持ちいい……っ」
「や、あぁッ、は……っ、甲洋ダメ! 怖いっ、きもちいのっ、そこ、そんなにしたらっ、ヒァ、ぁ、あ゛――ッ、あ──……っ!」
さっきのような激しいピストンはできないが、角度的にたやすく弱い場所を狙って穿つことができてしまう。どすん、どすん、と押し潰すように攻め立てると、操は口から唾液をだらだらと零しながら身も世もなく喘ぎを漏らした。
「ぁ゛うぅ、も、ひゃらぁ……っ、きちゃうの……深いのきぢゃう……っ、もうダメなのにっ、イギたくないのにっ、おっきいのぎぢゃうぅ……ッ!!」
「俺も……俺も、来主……っ」
陸に打ち上げられた魚のように、操が激しく震える。
甲洋もまた目の前に星が瞬くのを見つめ、腰をブルリと震わせながら4つ目のゴムの中に精を放った。そのまま操の上にぐったりと身を沈め、野獣のように荒々しい呼吸を繰り返す。
「ぁ……、ぁぅ……ぁ──、ァ、ぁ──……」
操は断続的に痙攣を繰り返しながら、未だにか細い声を上げ続けている。シーツに片頬を埋め、焦点の合っていない瞳を虚ろに彷徨わせていた。
ああ、本当に可愛い。可愛くて可愛くて、愛しくてどうしようもない。
「来主、好きだよ」
ぐったりした身体をきつく抱きしめ、甲洋は汗ばむ項に吸いついた。
多分きっと、本当にバカになってしまったのだと思う。自分でも怖いくらい、この子が好きだ。止めどなく溢れて、止まらない。
「ごめん、来主……」
空虚な瞳のまま戻ってこられないでいる操の名前を呼びながら、まだもう少しだけ、長い夜は続きそうだった。
*
「君、最近ちょっと調子に乗りすぎ」
昼過ぎになってようやく遅すぎる朝食をとっている最中、先にあらかた食べ終えた操がむぅっと眉間にシワを寄せながら、そんなことを言いだした。
さんざん泣きわめいたせいで、声が少し枯れている。
つけっぱなしのテレビでは、昼の情報番組が最新の流行ファッションを取り上げているが、洋服が好きなはずの彼は目もくれないで甲洋を睨みつけていた。
「なに? 急に」
少し遅れてトーストと目玉焼きを平らげた甲洋は、内心ギクリとしながらも目を瞬かせた。
「しらばっくれてさ。終わりって言ったのにぜんぜんやめてくれないし! 嘘つき!」
「あー……」
やっぱりそのことで怒っていたかと、思わず目を逸してしまう。
操が言う通り、あのあと行為は朝方まで続いて、ゴムは全部で5つも消費することになってしまった。操は昼近くになってようやく意識を取り戻したが、腰が立たずにシャワーを浴びるにも四苦八苦していた。
いつものことではあるけれど、一度スイッチが入ってしまうと際限なく求めてしまう自分に、なかなか歯止めをかけられない。
それもこれも操が可愛いからいけないのだ──なんて、心の中で責任を押しつけながらも、甲洋は素直に「ごめん」と謝罪した。
「ぜんぜん心がこもってない! 顔ニヤけてるじゃん! エッチ! 性欲オバケ!!」
「ごめんって。ほら、あーん」
キーキーと顔を赤くして怒る操の口元に、自分の皿に残っていた赤ウィンナーをフォークに刺して運んでやった。すると操は条件反射のように「あーん」と口を開け、ウィンナーをパクンと口内に収めてしまう。
「ん~、おいし~」
「それはよかった。もうひとつ食べる?」
「食べる! ……じゃないよ! おれ怒ってるんだけど!?」
甲洋は耐えきれず肩を震わせながら笑ってしまった。操は赤い頬をリスのように膨らませ、さらにヘソを曲げてしまう。
「甲洋、最近ぜんぜん可愛くない! 最初はずーっとペコペコして可愛かったのにさ!」
「ペコペコはしてないだろ……」
「してましたー!」
ふんっと鼻から大きな息を吐いて、操は腕を組むとそっぽを向いた。けれどすぐにまた甲洋を睨みつけ、驚くべきことを口にした。
「しばらくはエッチしない!」
「……え?」
「君がちゃんと反省するまで、しばらくエッチはしないから!」
「ごめん、ちょっとなに言ってるか分かんないんだけど」
「エ ッ チ は 禁 止 !!」
ガンッ、と、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
エッチ禁止。つまり、セックス禁止。
「そ、おま……それは、お前、そっ……ど、どう、なん」
「動揺しすぎ」
「来主……あの、来主さん」
「今さらしおらしくなってもダメだね。おれがいいって言うまで、絶対に手出しして来ないでよ」
操はフォークを持った手を伸ばし、呆然とする甲洋の皿から最後の赤ウィンナーをブスリと刺すと口に放り込む。そして頬をもぐもぐと動かしながら、またプイッとそっぽを向いてしまった。
*
(ちょっと言い過ぎだったかな……)
夜。
甲洋が仕事に出かけたあと、操はテレビの前で胡座をかきながら、ひたすら対戦型の格闘ゲームをプレイしていた。
視線は画面に釘付けだが、まったく集中できていない。NPCにトドメの必殺技を食らったところで、いったんコントローラーを投げだした。
「はぁー、ぜんぜんダメ」
さっきからずっと、しょんぼりとした出掛けの甲洋が頭から離れない。
「まさかあんなに落ち込んじゃうなんて……」
スケベだなぁとは思っていたが、あれほど消沈するとは思ってもみなかった。
あのあと、甲洋は見るからに元気を失くしていた。夕飯も食べずにフラフラと仕事に出かけてしまったし、外出時の必須アイテムであるぐるぐる眼鏡が、心なしかズレてしまっていたのは気のせいだろうか。
(だってほんとに可愛くないんだもん。最近の甲洋)
最初はいちいち遠慮して、なにかというと「ごめん」が口癖だった。セックスをした翌朝は必ず床に正座しながら、この世の終わりのような顔をして頭を下げていたものだ。
操はそんな甲洋を見るのが好きだった。まるで叱られた大型犬のようで、自分より年上で身体も大きいくせに、どうしてかそれが可愛くて。
なのに今では童貞だった頃の初々しさはどこへやら、随分ふてぶてしくなってしまった。しかも口うるさいと来たものだ。一人で暮らしていた頃は好き勝手にできていたことが、甲洋と暮らしはじめてからはままならないことが多くなっている。
セクハラを軽くスルーするだけで毎日おいしいケーキにありつけていたのに、バイトだって辞めることを了承させられてしまった。だけど──。
「好きなんだけどさ、そういうとこ……」
それが操の本音でもある。
甲洋のことを好きになったキッカケは、他人の顔なんか全く気にしたことのなかった自分が、初めて「カッコいい」と思ったからだ。
あの顔に優しく微笑まれながら見つめられると、なんだかお尻のあたりがモゾモゾとして、落ち着かない気分にさせられる。
鍵を失くして困っているところに声をかけてくれて、色々と親切にしてくれて。いいなと思っていた人が、自分のファンだったと知ったときは本当に嬉しかった。
だからついついあんな特大ファンサービスをして、彼の童貞を奪ってしまったわけだが。
だけど本当に惹かれてしまったのは、甲洋の隠された二面性だった。
AVの仕事をしていたころ、操は甘やかされることに慣れきっていた。
自分がNGを出せば絶対にその通りになっていたし、その場で台本が丸々書き換えられるなんてことも、平然と繰り返されていた。すべてが操中心に回っていて、叱られるとか、注意されるなんてことも決してない。
ペコペコと気を使ってくる周りの大人達に、まるで王様にでもなった気分で好き勝手に振る舞うことが許されていた。
だから初めて甲洋とセックスをしたあの夜。
主導権を奪われた操は最初こそ本当に腹がたったけれど、正直とても気持ちがよかったのだ。嫌だと言っても聞いてもらえない。ダメだと言っても奪われる。あんなセックスは初めてで、自分でも驚くほど癖になってしまった。
だから当然、昨日の夜だって気持ちがよすぎて本当に死んでしまうかと思った。
(すごかったな、昨日は特に……)
今でも感じすぎると怖くなる。それは変わらない。だけど今は理性が飛ぶくらい快楽に飲まれる瞬間を、どこかで切望している自分がいる。
だいぶ悔しい気もするけれど、普段の優しい彼からは想像もできない抱き潰すようなセックスが、たまらなく好きで仕方ない。
(あ、やば……思いだしちゃった……)
昨夜の行為を思いだし、操は顔を赤らめると身体を丸めて体育座りをした。
こうして夜に一人でいると、甲洋とのセックスを思いだしておかしな気分になってしまうことが、度々ある。自分で慰めるのはなんだか癪で、他に意識を向けたくてつい朝方までゲームをして遊んでしまうのだ。
「甲洋のせいなんだからぁ……」
立てた両膝に顔を埋めて、ここにはいない男をなじる。
あんなに泣かされるくらい沢山したのに、次の日にはもう欲しくなっているなんて。知らなかった。こんな疼きも、恋をすることも。甲洋はきっと知らないだろうが、操にとってこれは初めての恋だった。
小言を言われるのだって、束縛されるのだって、鬱陶しいと感じながらも本当は嫌じゃない。甲洋は心から心配してくれるし、歳上の男が見せる子供っぽい独占欲が心地よかった。
だからわざと反抗的な態度をとったり、不安にさせるようなことをしてしまう。操は天の邪鬼なのだ。
「どうせすぐに我慢できなくなるんだろうな、甲洋」
だってすごくスケベだし。きっとすぐに謝り倒してくるに違いない。大型犬みたいに項垂れて、可愛く「ごめん」と頭を下げてくる。
そうしたら、今度は自分が思いっきり苛めてやろう。初めてしたときのように、臆病なくせに獰猛な犬を、厳しく躾けて服従させるみたいに。
そのあとに待っているのは、きっと手痛い反撃だ。そうなることくらい分かっている。分かっているから、期待がいっそう膨らんでしまう。
(甲洋のスケベが、おれにも移っちゃったみたい!)
操は赤い頬でふふっと笑い、転がっているコントローラーに再び手を伸ばした。
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駅裏にある喫茶店には、うっすらと冬の西陽が差していた。
広い店内はほんの数人の客がいるだけで、閑散と並ぶ小島のようにぽつりぽつりとテーブルを埋めている。コーヒーの香りが立ち込める空間に、レコード盤のジャズが緩やかな時の経過と共に流れていた。
そんな中、甲洋と操はフロアの片隅で向かい合って座っていた。
他に空席はいくらでもあるはずなのに、ふたりがついているのは人気のないトイレ脇の席である。俺のせいなんだよなと、甲洋は胸の内で嘆息を漏らした。
なにせ相変わらずの格好だ。
店の中でも脱がずにいるモッズコートは酷くくたびれ、サイズの大きさが長身をモヤシのように貧弱に見せていた。伸ばしっぱなしの癖毛を白い頬に張りつかせ、あげく牛乳瓶の底のように曇った丸眼鏡をかけている。
野暮で貧相。そして胡乱。一種独特のオーラを放ちながらのっそりと入店した甲洋を、店員はホームレスが迷い込んできたかのような不信感と憐憫を滲ませながら、この席に案内した。
甲洋は曇った眼鏡越しに操の様子をうかがった。
彼は熱々のミルクティーにすっかり気を取られている。執拗に息を吹きかけて、火傷をしないようにチビチビと口をつけて飲んでいた。白いニットセーターの袖からちょこんと出ている指先が、カップの熱で赤く染まっている。
操は席のことなどまるで気にしていないらしい。そのことに密かな安堵を覚えながら、甲洋は持ち上げていたコーヒーカップを受け皿に戻した。
「仕事はどう? そろそろ慣れた?」
甲洋の問いかけに、操は「ん」と声をあげながら顔をあげ、にっこり笑って頷いた。
「まぁまぁうまくやれてるよ。失敗することも多いけど」
「まだ一週間じゃしょうがないよ」
「うん。でもね、店長が優しいからぜんぜん平気。ずっと付きっきりで教えてくれるしね」
「付きっきりで?」
「そう、付きっきりで」
操は一週間ほど前から新しくアルバイトを始めていた。ふたりが暮らすマンションから、地下鉄で数駅の場所にある小さなケーキ屋だ。
所属していたAV事務所を辞めたあと、しばらくはのんびりと過ごしていた彼だったが、そろそろゲームばかりしているのにも飽きたらしい。ある日突然、「暇だからバイトする」なんてことを言いだした。
ケーキ屋を選んだのは「余ったケーキを食べられるかもしれない」という、甘党の彼らしい単純な理由からである。
ちなみに今日は操がバイト終わりに買いたいものがあると言うので、今夜は仕事が入っていない甲洋も付き合うことにした。
この喫茶店は駅の裏手にあり、ケーキ屋からも徒歩で10分とかからない場所にある。だからここを待ち合わせ場所にしたのだが、先についていたのが操の方であったなら、今とはまったく別の席へ案内されていただろう。
けれどそんなことよりも、甲洋は操の言葉のほうに大きな引っ掛かりを覚えていた。
「……その店長って」
「ん?」
「男?」
操はカップを皿に戻しながら、きょとんとした顔で首を傾げる。
「そうだけど、なんで?」
「……いや、別に」
言いながら、瓶底眼鏡の奥で思わず目を逸してしまう。操はパチパチと瞬きを繰り返していたが、やがて何かに気づいてにま~っとした笑みを浮かべて見せた。
「ねぇねぇ、それってもしかしてヤキモチ?」
「そういうわけじゃ……」
「ぷっ」
ケラケラと笑いだす操に、甲洋はそうと分かりにくい程度に顔をしかめた。
悪いかよ、と心のなかで毒づきながら赤く染めた頬が、鬱陶しい前髪と曇った眼鏡に上手く隠されていることが救いだった。
「俺はただ心配してるだけだよ」
恋人ができてみて初めて、甲洋は自分が過剰なまでに心配性で独占欲の強い人間であることを知った。
それは操が元AV男優であったことも、大いに関係しているだろう。
男優といってもネコ専で、もっぱら男の娘として売り出されていたため、甲洋のようにヘテロであるにも関わらず懸想してしまった男は、決して少なくないはずだ。
だからその店長の男とやらも、いつどんな気を起こすか知れたもんじゃない。いやむしろ、とっくにそんな気を起こしている可能性が──
「大丈夫だって。お尻触られるくらい、別にどうってことないもん」
「そう、ならいいけ、ど……いや待って。いまなんて言った?」
「ん? だから、腰とかお尻とか」
「……触られたのか?」
「うん。でもおれ、そういうのは慣れてるし。ほら、痴漢バスとかあったでしょ。あの要領だよ」
そんな要領あってたまるか!!
と、叫びたいのをどうにか堪えた。
つまり操はセクハラを受けているということだ。これでもかというほど深く刻まれた眉間のシワを、咄嗟に指先で強く押さえる。
ここがトイレの側だったのは、かえって好都合だった。周辺は席が埋まっておらず、他人に会話を聞かれる心配もない。
操が言っているのは『穢されたメガネっ子セーラー服・わいせつ集団バス痴漢』という作品のことである。部屋に戻ればミサオボックスにしっかり収納されている。過去に何度お世話になったか知れない作品のひとつだ。
内容はメガネにセーラー服姿の【来栖ミサオ】が、バスの車内で集団痴漢にあうというものだった。眼鏡にぶちまけられた白濁や、つり革に拘束されながら乱されていくセーラー服姿の彼に、どれほど興奮させられたことか──。
いや、今はそんな性の思い出に浸っている場合ではない。瓶底眼鏡のせいで分かりにくいが、甲洋は今とんでもなく険しい顔つきになっている。
「どうして今までそれを黙って……」
「別にあそこまでのことはされてな」
「当たり前だ」
食い気味に声を発しながら、もはや手遅れであったことに歯噛みする。
そもそも甲洋は操がバイトをすること自体、最初から手放しで賛成していたわけではないのだ。本音を言えば、ずっと家で遊んでいてくれて構わないとすら思っている。むしろその方が安心だと。
なにせ彼は以前、ストーカーと化したファンに襲われたことがあるのだ。留守のあいだ部屋に侵入され、隠れ潜んでいた男にレイプされかけた。
犯人は逃走したまま、未だに捕まっていない。そいつが今も操を狙っていないとも限らず、その懸念がどうしても胸に引っかかっている。
せめて犯人が捕まるまではなるべく一人で外を歩かせたくないし、夜のあいだ留守を任せておくことだって不安で仕方がないほどだった。
かと言って操がやりたいと思うことを頭ごなしに反対するわけにもいかず、明るい昼間の数時間程度ならばと、無理やり自分を納得させたのだ。
知らない人にはついて行かないこと、人通りの少ない道は避けること、仕事が終わったら連絡すること、そして寄り道しないで帰ってくること。あと、鍵は絶対に失くさないこと──それらもきっちり約束させていた。
操には「心配しすぎ!」と煙たがられてしまったが、甲洋としてはまだまだ言い足りないくらいである。が、やっぱり反対しておけばよかった。
「来主」
「なにー?」
「もうその店には行かなくていい」
「へ?」
「行くな」
「なにそれ! おれにバイト辞めろってこと!?」
深く頷いた甲洋に、操は眉を吊り上げながらテーブルに身を乗り出した。
「そんなのやだよ! せっかく慣れてきたとこなのに! ケーキだって食べられなくなるじゃん! だいたいなんで君が勝手にそんなこと──」
「来主」
低い声で名前を呼んだ。訪れた沈黙のなか、かすかに聞こえるジャズがやけに寒々しい。
瓶底眼鏡の奥で、甲洋は完全に目が据わっていた。レンズが分厚すぎて操からは見えないはずだが、威圧感だけは十分に伝わっているようだった。
それでも気が強い彼は怯むことなく、けれどそれ以上は声を荒げず、ぶぅっと頬を膨らませながら腕を組んでそっぽを向いた。
「おれ、束縛されるのは好きじゃない」
「好きじゃなくて結構だ。こればっかりは譲れない」
そんなドスケベ店長がいる店に、これ以上大事な操を通わせるわけにはいかなかった。自分以外の男が彼にベタベタと触れ、鼻の下を伸ばしているのだと想像するだけで、切れてはいけない血管がブチブチと音を立てて千切れてしまいそうだ。
今すぐ店に殴り込んで行かないだけ、まだ理性的だと思ってほしい。
操は眉を吊り上げたまま甲洋を睨みつけてくる。甲洋もその視線から決して目を逸らさなかった。今まではあまり強気に出られず、なんやかんやと甘やかしていたけれど、負けられない戦いがそこにはあるのだ。
するとだんだん、操の肩が震えてきたことに気がついた。口元も微妙にニヤけはじめ、やがて「ぷふっ」と噴き出したかと思うと笑いだした。
「あははは! やっぱその眼鏡だと緊張感ないや!」
険悪だったムードが、一瞬でふわりとほどけてしまう。
操はうっすらと目尻に滲んだ涙を指先で拭った。
「あーぁ、君ってホント心配性だな。おれは平気だって言ってるのにさ」
「……俺は嫌だ」
低くこぼされた甲洋の本音に、操は瞳をいたずらっぽく細めながら両手で頬杖をつき、「彼氏っぽいね」と楽しげに言った。
「ぽいってなんだよ。ぽいって」
「怒った?」
「……別に。まぁ少し……いや、かなり」
「君って怒らないやつなんだと思ってた。あのね、笑っちゃったけど、本当はちょっとカッコよかったよ」
憎らしさを覚えながらも、そう言われると悪い気はしない。言った本人も嬉しそうに下げた目尻や頬を赤くしているものだから、怒るに怒れなくなってしまった。
そういうところなんだよなぁと、甲洋は思う。格好つけさせてなんかくれやしない。このちょっと生意気で掴みどころのない態度に、いつも振り回されている。
操はまるで手を伸ばすほどにヒラヒラと身をかわす蝶のようだった。
だから甲洋は躍起になる。もうただのファンじゃない。そんなプライドに少しずつ傲慢さを肥大させながら、絶えず惑わされている。それがたまらなく癖になっているから、これはきっと病気なのだ。悩ましくて、狂おしい。
「ねぇ見て、ヤバくね? アレ」
そのときふと、広めの通路を挟んだ向かい側からヒソヒソという話し声が聞こえた。つい今しがた席についたばかりの若いカップルが、こちらに視線を向けている。
「完全に不審者じゃん」
「あの眼鏡どこで売ってんだろうな? 昭和のコントかよ」
「でも向かいにいる子可愛くない? 男の子?」
「女だったら趣味ヤベェっしょ」
カップルは派手に噴き出し、肩を震わせて笑っている。
甲洋は操のことが気になった。自分はいい。不審者扱いされることも、嘲笑の的になることにも慣れている。だけど彼はどうだろう。自分といて、恥ずかしく思うことはないのだろうか。
こんなとき、どうしても気に病んでしまう。
甲洋が未だにこのスタイルを崩せないでいるのは、容姿に対するコンプレックスが拭いきれないでいるからだ。過去には無関係の女友達に怪我を負わせたことがある。もし操が同じ目にあえば、甲洋はいよいよ立ち直れなくなってしまうだろう。
自意識過剰かもしれないと、そう思わないこともない。だけどそれほどまでに、自分の容姿には嫌な思い出しかないのだった。
「はぁー! いっぱい笑ったらお腹すいた!」
気持ちを澱ませていたところに、操が大きく息をつきながら声をあげた。そして脇を通り過ぎようとしていた店員に手をあげ、
「店員さーん! タマゴサンドとピザトーストとプリンアラモードくださーい! あとホットケーキも!」
と、声をかけた。甲洋は思わず目を丸くする。
「そんなに?」
「うん。ダメ?」
「いいけど、この時間にそんなに食べたら、夕飯どうするのさ」
「へーきへーき! ちゃんと食べるし!」
腹をぐぅっと鳴らしながら、操がにっこりと満面の笑みを浮かべた。その呑気な笑顔に、甲洋の肩からふっと力が抜けていく。
気にしないのだ。彼は。甲洋がどんな格好をしていたって、案内された席がトイレのすぐ脇だって。可愛いこの子と釣り合わない自分を、甲洋が心の底では密かに気にしていることも。
その頓着のなさに甲洋が救われていることを、彼は知らない。
「はんぶんこして一緒に食べようよ!」
「俺まで晩飯が入らなくなるだろ」
ソワソワと落ち着きがなくなっている操が腹を空かせた子犬にしか見えなくなって、甲洋はついささやかな声をあげて笑ってしまった。
*
秋の終わりに操が甲洋の部屋に転がり込んできてから、年をまたいでそろそろ二ヶ月半になる。
長いようで短いこの間、甲洋の心労は尽きることなく今も続いていた。
操はAV男優を引退してはいるけれど、彼の作品が未だに世に残り続けていることに変わりはない。今もどこかで操をオカズにしている男がいると思うと腹が立つし、例のストーカーだってまだ捕まっていないのだ。
それなのに当の操はどこ吹く風で、甲洋だけが神経質になっている。
夜は外に出るなと口を酸っぱくして言っても、操は面倒くさそうにするだけで効果はなかった。欲しいものがあれば夜中だろうが構うことなく、コンビニでもどこへでも行ってしまう。その無防備さが、甲洋にはまるで理解できない。
そういった心配事を除けば、操との暮らしは良好だった。
大量に持ち込まれた服を収納するための引き出しやクローゼットも買って、テレビも買ったら部屋は多少手狭になったが、特に困るということはない。
操はベタベタとくっついて構い倒してくることもあれば、急に興味をなくしたようにゲームに熱中しはじめることもある。邪魔するとぶーぶー怒るが、一緒にゲームをして遊んでやると無邪気に喜ぶ。
小さな子供と気まぐれな猫を、同時に相手しているような気分だった。
もちろんお揃いのマグカップも買った。
ふたりで蜂蜜たっぷりのホットミルクを飲みながら、夏でもこれなのかと聞いたことがある。すると操は、夏は冷えたミルクに溶けやすい蜂蜜シロップをたっぷり入れて飲むのだと言った。
お腹を壊しそうだと苦笑しながら、だったら揃いのグラスも買わなくちゃなと、これから先のことに思いを馳せてまた幸せを感じるのだった。
*
喫茶店を出たあと、ふたりは本来の目的である操の買い物を済ませるべく、そこからほど近いショッピングモールへと足を向けた。
モカ色をしたタータンチェックのガウンコートを着た操は、「早く早く」と言いながら甲洋の手を掴んで引っ張ってくる。
甲洋は「急ぐと転ぶよ」と軽く咎めながらも、今とっても恋人って感じがする……と、密かに感無量な思いだった。なにせ恋人とのこんなイチャイチャを、ずっと夢見ていたのである。
建物の中に入ってからも、操はずっと甲洋の手を引っ張っていた。時々ブラブラと揺らす仕草に、胸がキュッと締めつけられる。
どこもそれなりに混み合ってはいるものの、人が多いと逆に目につきにくくなるのか、ふだん道を歩いているときほど他人の視線が気にならない。男同士で手を繋いでいたとしても、せいぜい甘ったれで活発な弟と、買い物に付き合わされる野暮ったい兄、くらいにしか見られていなさそうな気がする。(それはそれでちょっと複雑だが)
操は気になるものがあると、しょっちゅう足を止めて寄り道をした。服屋や雑貨屋を何店舗かひやかしたあと、エスカレーターに乗って上階へと移動していく。
操は必ず甲洋より一段高いステップに乗って、「ほら、甲洋がちっちゃく見える」と言って笑った。表面的には苦笑しながら、心の中ではちくしょう可愛いな、と悶絶させられるばかりだった。
「あ!」
途中、操はエスカレーターを降りて正面にあった眼鏡屋に目をとめると、甲洋の手を引いたままそこへ一直線に向かって行った。
「ねぇ甲洋、ちょっとこれ見て」
「眼鏡? 来主って視力悪かったっけ?」
「違うって。ほらこれ、君に似合いそう」
店舗内には大きなテーブル型のディスプレイ台が幾つか設置してある。その上にズラリと眼鏡が並んでおり、好きに試着できるようになっていた。
「ちょっとかけてみてよ」
操はその中から黒縁の四角いスクエア型を手にとると、甲洋に差し出してきた。
「いや、俺はいいよ」
「なんで? ねぇちょっとだけ。かけてるとこ見せてよ!」
一応は眼鏡を受け取りながらも、甲洋はすっかり弱ってしまった。
店内には他にも客がいて、仕切りもないため人通りの多い通路からも丸見えだ。近所を歩くだけでも決して素顔を晒さない甲洋にとって、この状況はかなり厳しいものがある。
しかし操は甲洋の事情を知らないのだ。期待に満ちた瞳がキラキラと輝いているのを見て、甲洋はやむを得ず一瞬だけならと妥協した。
ずしりと重たい瓶底眼鏡をそっと外すと、受け取った眼鏡をかけてみる。それを見た操は「ほら、やっぱり似合うじゃん」と言って得意げだった。
褒められると素直に嬉しくなってしまう。ついつい設置してある鏡に目をやり、自分でも確かめてしまった。
「どう?」
「どう、って言われても。軽い、かな」
「重さの話じゃなくて! 気に入った?」
「うん、まぁ。悪くはない、かな」
はにかんで笑ってしまった甲洋だったが、そのときふと視線を感じてギクリと肩を強張らせた。見れば店内の端にあるカウンターで、女性店員がぽーっと頬を染めながら甲洋を見つめている。
「ちょっと、あのひとイケメンじゃない?」
「え、ヤバ……めっちゃ好みなんだけど……!」
「芸能人かな? 隣の子も可愛い~!」
別のディスプレイ台でフレーム選びをしていたはずの女性客たちまで、こちらを見ながらヒソヒソと耳打ちしあっているのが丸聞こえだった。
取り出したスマホで勝手に写真を撮ろうとしているのを見て、甲洋は慌てて眼鏡を外すと台に戻し、瓶底眼鏡を素早くかけた。
途端に女性客は表情を曇らせ、カウンターにいた店員も残念そうに眉をひそめる。面白いほどの反応の違いにいたたまれず、甲洋は操の手を引いてその場を離れた。
「行くよ、来主」
甲洋に手を引かれながら、なぜか操は終止無言だった。
ふと気になって足を止め、振り返ってみると彼は面白くなさそうに唇を尖らせている。瓶底の奥で目を丸くした甲洋から、プイッと顔を背けてしまった。
「なに、どうかした?」
「べっつにぃ」
さっきまであんなに楽しそうにしていたはずなのに。操は甲洋の手を軽く振り払うと、両手を頭の後ろへやって指を組んでしまった。
すっかり不機嫌な操に困惑しつつも、この態度を見て察せないほど甲洋は鈍くない。
「来主」
「なに」
妬いてる? ──そう口に出しかけた言葉を飲み込んで、甲洋は操に手を差し出すと柔らかく笑いかけた。
「欲しいものがあるんだろ? 早く行こう」
本当は喫茶店での意趣返しも込めて、直接確かめてみたかった。だけどそれをしたら、気が強いこの子はきっともっと不機嫌な顔になってしまうだろう。
甲洋は操のこの態度だけで十分に嬉しさを感じていた。もちろん、少しくらいはからかってやりたい気持ちもあったけれど。
操は差し出された手を横目でチラリと見やってから、頭にやっていた両手をおろしておずおずと指先を伸ばしてきた。手の平にちょんと触れると、また唇を尖らせる。
甲洋はそれを優しく握りしめ、軽く引いて歩きだした。
「……あのさ」
「なに?」
「君さ、やっぱそっちの眼鏡の方がいいよ」
遠回しだけれどとても分かりやすい物言いに、思わず肩を揺らして笑ってしまった。すると操はムッとしながらそっぽを向いてしまう。
せっかく気を使ったのに。どうしても堪えきれなかったものだから、けっきょく操は不機嫌なままだ。
「わかったから。もうそんな顔しないで」
一方的に想いを寄せることに慣れていたせいで、いまいち実感を得られずにいたけれど、自分もまた特別に想われていることに喜びを噛みしめる。
早く帰って抱きしめたいなと、ニヤけそうになるのをぐっと堪えた。
「来主、そういえば欲しいものってなに?」
空気を変えるという意味もあったが、目的が分からなければどこへ行けばいいかも分からない。
操は「そうだった!」と言って思いだしたように表情を明るくすると、甲洋の手を引っ張ってエスカレーターの方へと戻っていった。
「こっちこっち! いっこ上のフロアだよ!」
確かこの上は書籍等の複合量販店だったと記憶している。
「欲しいものって本?」
今度も一段高いステップから見下ろしてくる操に問えば、彼は大きく首を左右に振って、「ゲームだよ」と言った。
「新しいソフト買うんだ」
「来主……ゲームばかりしてると、本当に眼鏡をかけなきゃいけなくなるよ。だいたい、ゲームは飽きたんじゃなかったっけ?」
呆れ顔で言った甲洋に、操は肩をすくめながら眉間にきゅっとシワを寄せた。
「いいじゃん別にぃ」
「よくない。夜ふかしばかりしてさ。あと、ついでに言うけどお菓子も食べすぎ。昨日も夜中にコンビニ行っただろ?」
「えっ、なんで分かるの? 甲洋仕事でいなかったじゃん」
上階についたところでステップを降り、甲洋は大きな溜息をついた。
「ゴミ箱が知らないお菓子の空袋で山になってれば、嫌でも気づくよ」
むしろバレていないと思っていたことが驚きである。
仕事を終えて朝に帰宅すると、前日の夜まではなかったはずの見知らぬゴミが大量に出ているのだ。床に食べカスが落ちていることだってある。操はその横でグースカとゲーム機のコントローラーを握りしめて眠っているのだから、流石に呆れる。
甲洋は書店の出入り口でいったん足を止めると、瓶底越しに険しい瞳を操に向けた。
「来主、何度も言ってるだろ。夜中に一人で出歩くのは危険だって」
「もー、分かったって。それもう聞き飽きたよ」
「分かってないから何度でも言うんだよ。お前を襲ったストーカーだって、まだ捕まってないんだぞ」
操は心底うんざりとした様子で息を漏らした。それから面倒くさそうに甲洋を睨みつける。
「君ってさ、彼氏っていうよりお父さんって感じだよね」
「お、お父さん?」
「おれは嫁入り前の娘じゃないんだからさぁ」
自分としては遺憾なく彼氏面を発揮しているつもりでいたのに、お父さんとはこれいかに。さすがの甲洋もショックを拭えない。
操は甲洋に口うるさく注意されるたび、父親に反発する娘のような気分を味わっていたということだ。そこは『心配性な彼氏♡』と思っていてほしかった。
「そ、そういうんじゃないだろ。俺はお前の彼……」
「もういいよ! お父さんはここで待ってて! おれサクッと行って買ってくるから!」
男心をザクザクと踏み荒らしながら、操は甲洋の手を離すと足早に本屋の中へと消えていく。
要するに「お父さんウザい!」と言われたも同然で、甲洋はその背を追いかけることもできずにただ深く項垂れた。
←戻る ・ 次へ→
広い店内はほんの数人の客がいるだけで、閑散と並ぶ小島のようにぽつりぽつりとテーブルを埋めている。コーヒーの香りが立ち込める空間に、レコード盤のジャズが緩やかな時の経過と共に流れていた。
そんな中、甲洋と操はフロアの片隅で向かい合って座っていた。
他に空席はいくらでもあるはずなのに、ふたりがついているのは人気のないトイレ脇の席である。俺のせいなんだよなと、甲洋は胸の内で嘆息を漏らした。
なにせ相変わらずの格好だ。
店の中でも脱がずにいるモッズコートは酷くくたびれ、サイズの大きさが長身をモヤシのように貧弱に見せていた。伸ばしっぱなしの癖毛を白い頬に張りつかせ、あげく牛乳瓶の底のように曇った丸眼鏡をかけている。
野暮で貧相。そして胡乱。一種独特のオーラを放ちながらのっそりと入店した甲洋を、店員はホームレスが迷い込んできたかのような不信感と憐憫を滲ませながら、この席に案内した。
甲洋は曇った眼鏡越しに操の様子をうかがった。
彼は熱々のミルクティーにすっかり気を取られている。執拗に息を吹きかけて、火傷をしないようにチビチビと口をつけて飲んでいた。白いニットセーターの袖からちょこんと出ている指先が、カップの熱で赤く染まっている。
操は席のことなどまるで気にしていないらしい。そのことに密かな安堵を覚えながら、甲洋は持ち上げていたコーヒーカップを受け皿に戻した。
「仕事はどう? そろそろ慣れた?」
甲洋の問いかけに、操は「ん」と声をあげながら顔をあげ、にっこり笑って頷いた。
「まぁまぁうまくやれてるよ。失敗することも多いけど」
「まだ一週間じゃしょうがないよ」
「うん。でもね、店長が優しいからぜんぜん平気。ずっと付きっきりで教えてくれるしね」
「付きっきりで?」
「そう、付きっきりで」
操は一週間ほど前から新しくアルバイトを始めていた。ふたりが暮らすマンションから、地下鉄で数駅の場所にある小さなケーキ屋だ。
所属していたAV事務所を辞めたあと、しばらくはのんびりと過ごしていた彼だったが、そろそろゲームばかりしているのにも飽きたらしい。ある日突然、「暇だからバイトする」なんてことを言いだした。
ケーキ屋を選んだのは「余ったケーキを食べられるかもしれない」という、甘党の彼らしい単純な理由からである。
ちなみに今日は操がバイト終わりに買いたいものがあると言うので、今夜は仕事が入っていない甲洋も付き合うことにした。
この喫茶店は駅の裏手にあり、ケーキ屋からも徒歩で10分とかからない場所にある。だからここを待ち合わせ場所にしたのだが、先についていたのが操の方であったなら、今とはまったく別の席へ案内されていただろう。
けれどそんなことよりも、甲洋は操の言葉のほうに大きな引っ掛かりを覚えていた。
「……その店長って」
「ん?」
「男?」
操はカップを皿に戻しながら、きょとんとした顔で首を傾げる。
「そうだけど、なんで?」
「……いや、別に」
言いながら、瓶底眼鏡の奥で思わず目を逸してしまう。操はパチパチと瞬きを繰り返していたが、やがて何かに気づいてにま~っとした笑みを浮かべて見せた。
「ねぇねぇ、それってもしかしてヤキモチ?」
「そういうわけじゃ……」
「ぷっ」
ケラケラと笑いだす操に、甲洋はそうと分かりにくい程度に顔をしかめた。
悪いかよ、と心のなかで毒づきながら赤く染めた頬が、鬱陶しい前髪と曇った眼鏡に上手く隠されていることが救いだった。
「俺はただ心配してるだけだよ」
恋人ができてみて初めて、甲洋は自分が過剰なまでに心配性で独占欲の強い人間であることを知った。
それは操が元AV男優であったことも、大いに関係しているだろう。
男優といってもネコ専で、もっぱら男の娘として売り出されていたため、甲洋のようにヘテロであるにも関わらず懸想してしまった男は、決して少なくないはずだ。
だからその店長の男とやらも、いつどんな気を起こすか知れたもんじゃない。いやむしろ、とっくにそんな気を起こしている可能性が──
「大丈夫だって。お尻触られるくらい、別にどうってことないもん」
「そう、ならいいけ、ど……いや待って。いまなんて言った?」
「ん? だから、腰とかお尻とか」
「……触られたのか?」
「うん。でもおれ、そういうのは慣れてるし。ほら、痴漢バスとかあったでしょ。あの要領だよ」
そんな要領あってたまるか!!
と、叫びたいのをどうにか堪えた。
つまり操はセクハラを受けているということだ。これでもかというほど深く刻まれた眉間のシワを、咄嗟に指先で強く押さえる。
ここがトイレの側だったのは、かえって好都合だった。周辺は席が埋まっておらず、他人に会話を聞かれる心配もない。
操が言っているのは『穢されたメガネっ子セーラー服・わいせつ集団バス痴漢』という作品のことである。部屋に戻ればミサオボックスにしっかり収納されている。過去に何度お世話になったか知れない作品のひとつだ。
内容はメガネにセーラー服姿の【来栖ミサオ】が、バスの車内で集団痴漢にあうというものだった。眼鏡にぶちまけられた白濁や、つり革に拘束されながら乱されていくセーラー服姿の彼に、どれほど興奮させられたことか──。
いや、今はそんな性の思い出に浸っている場合ではない。瓶底眼鏡のせいで分かりにくいが、甲洋は今とんでもなく険しい顔つきになっている。
「どうして今までそれを黙って……」
「別にあそこまでのことはされてな」
「当たり前だ」
食い気味に声を発しながら、もはや手遅れであったことに歯噛みする。
そもそも甲洋は操がバイトをすること自体、最初から手放しで賛成していたわけではないのだ。本音を言えば、ずっと家で遊んでいてくれて構わないとすら思っている。むしろその方が安心だと。
なにせ彼は以前、ストーカーと化したファンに襲われたことがあるのだ。留守のあいだ部屋に侵入され、隠れ潜んでいた男にレイプされかけた。
犯人は逃走したまま、未だに捕まっていない。そいつが今も操を狙っていないとも限らず、その懸念がどうしても胸に引っかかっている。
せめて犯人が捕まるまではなるべく一人で外を歩かせたくないし、夜のあいだ留守を任せておくことだって不安で仕方がないほどだった。
かと言って操がやりたいと思うことを頭ごなしに反対するわけにもいかず、明るい昼間の数時間程度ならばと、無理やり自分を納得させたのだ。
知らない人にはついて行かないこと、人通りの少ない道は避けること、仕事が終わったら連絡すること、そして寄り道しないで帰ってくること。あと、鍵は絶対に失くさないこと──それらもきっちり約束させていた。
操には「心配しすぎ!」と煙たがられてしまったが、甲洋としてはまだまだ言い足りないくらいである。が、やっぱり反対しておけばよかった。
「来主」
「なにー?」
「もうその店には行かなくていい」
「へ?」
「行くな」
「なにそれ! おれにバイト辞めろってこと!?」
深く頷いた甲洋に、操は眉を吊り上げながらテーブルに身を乗り出した。
「そんなのやだよ! せっかく慣れてきたとこなのに! ケーキだって食べられなくなるじゃん! だいたいなんで君が勝手にそんなこと──」
「来主」
低い声で名前を呼んだ。訪れた沈黙のなか、かすかに聞こえるジャズがやけに寒々しい。
瓶底眼鏡の奥で、甲洋は完全に目が据わっていた。レンズが分厚すぎて操からは見えないはずだが、威圧感だけは十分に伝わっているようだった。
それでも気が強い彼は怯むことなく、けれどそれ以上は声を荒げず、ぶぅっと頬を膨らませながら腕を組んでそっぽを向いた。
「おれ、束縛されるのは好きじゃない」
「好きじゃなくて結構だ。こればっかりは譲れない」
そんなドスケベ店長がいる店に、これ以上大事な操を通わせるわけにはいかなかった。自分以外の男が彼にベタベタと触れ、鼻の下を伸ばしているのだと想像するだけで、切れてはいけない血管がブチブチと音を立てて千切れてしまいそうだ。
今すぐ店に殴り込んで行かないだけ、まだ理性的だと思ってほしい。
操は眉を吊り上げたまま甲洋を睨みつけてくる。甲洋もその視線から決して目を逸らさなかった。今まではあまり強気に出られず、なんやかんやと甘やかしていたけれど、負けられない戦いがそこにはあるのだ。
するとだんだん、操の肩が震えてきたことに気がついた。口元も微妙にニヤけはじめ、やがて「ぷふっ」と噴き出したかと思うと笑いだした。
「あははは! やっぱその眼鏡だと緊張感ないや!」
険悪だったムードが、一瞬でふわりとほどけてしまう。
操はうっすらと目尻に滲んだ涙を指先で拭った。
「あーぁ、君ってホント心配性だな。おれは平気だって言ってるのにさ」
「……俺は嫌だ」
低くこぼされた甲洋の本音に、操は瞳をいたずらっぽく細めながら両手で頬杖をつき、「彼氏っぽいね」と楽しげに言った。
「ぽいってなんだよ。ぽいって」
「怒った?」
「……別に。まぁ少し……いや、かなり」
「君って怒らないやつなんだと思ってた。あのね、笑っちゃったけど、本当はちょっとカッコよかったよ」
憎らしさを覚えながらも、そう言われると悪い気はしない。言った本人も嬉しそうに下げた目尻や頬を赤くしているものだから、怒るに怒れなくなってしまった。
そういうところなんだよなぁと、甲洋は思う。格好つけさせてなんかくれやしない。このちょっと生意気で掴みどころのない態度に、いつも振り回されている。
操はまるで手を伸ばすほどにヒラヒラと身をかわす蝶のようだった。
だから甲洋は躍起になる。もうただのファンじゃない。そんなプライドに少しずつ傲慢さを肥大させながら、絶えず惑わされている。それがたまらなく癖になっているから、これはきっと病気なのだ。悩ましくて、狂おしい。
「ねぇ見て、ヤバくね? アレ」
そのときふと、広めの通路を挟んだ向かい側からヒソヒソという話し声が聞こえた。つい今しがた席についたばかりの若いカップルが、こちらに視線を向けている。
「完全に不審者じゃん」
「あの眼鏡どこで売ってんだろうな? 昭和のコントかよ」
「でも向かいにいる子可愛くない? 男の子?」
「女だったら趣味ヤベェっしょ」
カップルは派手に噴き出し、肩を震わせて笑っている。
甲洋は操のことが気になった。自分はいい。不審者扱いされることも、嘲笑の的になることにも慣れている。だけど彼はどうだろう。自分といて、恥ずかしく思うことはないのだろうか。
こんなとき、どうしても気に病んでしまう。
甲洋が未だにこのスタイルを崩せないでいるのは、容姿に対するコンプレックスが拭いきれないでいるからだ。過去には無関係の女友達に怪我を負わせたことがある。もし操が同じ目にあえば、甲洋はいよいよ立ち直れなくなってしまうだろう。
自意識過剰かもしれないと、そう思わないこともない。だけどそれほどまでに、自分の容姿には嫌な思い出しかないのだった。
「はぁー! いっぱい笑ったらお腹すいた!」
気持ちを澱ませていたところに、操が大きく息をつきながら声をあげた。そして脇を通り過ぎようとしていた店員に手をあげ、
「店員さーん! タマゴサンドとピザトーストとプリンアラモードくださーい! あとホットケーキも!」
と、声をかけた。甲洋は思わず目を丸くする。
「そんなに?」
「うん。ダメ?」
「いいけど、この時間にそんなに食べたら、夕飯どうするのさ」
「へーきへーき! ちゃんと食べるし!」
腹をぐぅっと鳴らしながら、操がにっこりと満面の笑みを浮かべた。その呑気な笑顔に、甲洋の肩からふっと力が抜けていく。
気にしないのだ。彼は。甲洋がどんな格好をしていたって、案内された席がトイレのすぐ脇だって。可愛いこの子と釣り合わない自分を、甲洋が心の底では密かに気にしていることも。
その頓着のなさに甲洋が救われていることを、彼は知らない。
「はんぶんこして一緒に食べようよ!」
「俺まで晩飯が入らなくなるだろ」
ソワソワと落ち着きがなくなっている操が腹を空かせた子犬にしか見えなくなって、甲洋はついささやかな声をあげて笑ってしまった。
*
秋の終わりに操が甲洋の部屋に転がり込んできてから、年をまたいでそろそろ二ヶ月半になる。
長いようで短いこの間、甲洋の心労は尽きることなく今も続いていた。
操はAV男優を引退してはいるけれど、彼の作品が未だに世に残り続けていることに変わりはない。今もどこかで操をオカズにしている男がいると思うと腹が立つし、例のストーカーだってまだ捕まっていないのだ。
それなのに当の操はどこ吹く風で、甲洋だけが神経質になっている。
夜は外に出るなと口を酸っぱくして言っても、操は面倒くさそうにするだけで効果はなかった。欲しいものがあれば夜中だろうが構うことなく、コンビニでもどこへでも行ってしまう。その無防備さが、甲洋にはまるで理解できない。
そういった心配事を除けば、操との暮らしは良好だった。
大量に持ち込まれた服を収納するための引き出しやクローゼットも買って、テレビも買ったら部屋は多少手狭になったが、特に困るということはない。
操はベタベタとくっついて構い倒してくることもあれば、急に興味をなくしたようにゲームに熱中しはじめることもある。邪魔するとぶーぶー怒るが、一緒にゲームをして遊んでやると無邪気に喜ぶ。
小さな子供と気まぐれな猫を、同時に相手しているような気分だった。
もちろんお揃いのマグカップも買った。
ふたりで蜂蜜たっぷりのホットミルクを飲みながら、夏でもこれなのかと聞いたことがある。すると操は、夏は冷えたミルクに溶けやすい蜂蜜シロップをたっぷり入れて飲むのだと言った。
お腹を壊しそうだと苦笑しながら、だったら揃いのグラスも買わなくちゃなと、これから先のことに思いを馳せてまた幸せを感じるのだった。
*
喫茶店を出たあと、ふたりは本来の目的である操の買い物を済ませるべく、そこからほど近いショッピングモールへと足を向けた。
モカ色をしたタータンチェックのガウンコートを着た操は、「早く早く」と言いながら甲洋の手を掴んで引っ張ってくる。
甲洋は「急ぐと転ぶよ」と軽く咎めながらも、今とっても恋人って感じがする……と、密かに感無量な思いだった。なにせ恋人とのこんなイチャイチャを、ずっと夢見ていたのである。
建物の中に入ってからも、操はずっと甲洋の手を引っ張っていた。時々ブラブラと揺らす仕草に、胸がキュッと締めつけられる。
どこもそれなりに混み合ってはいるものの、人が多いと逆に目につきにくくなるのか、ふだん道を歩いているときほど他人の視線が気にならない。男同士で手を繋いでいたとしても、せいぜい甘ったれで活発な弟と、買い物に付き合わされる野暮ったい兄、くらいにしか見られていなさそうな気がする。(それはそれでちょっと複雑だが)
操は気になるものがあると、しょっちゅう足を止めて寄り道をした。服屋や雑貨屋を何店舗かひやかしたあと、エスカレーターに乗って上階へと移動していく。
操は必ず甲洋より一段高いステップに乗って、「ほら、甲洋がちっちゃく見える」と言って笑った。表面的には苦笑しながら、心の中ではちくしょう可愛いな、と悶絶させられるばかりだった。
「あ!」
途中、操はエスカレーターを降りて正面にあった眼鏡屋に目をとめると、甲洋の手を引いたままそこへ一直線に向かって行った。
「ねぇ甲洋、ちょっとこれ見て」
「眼鏡? 来主って視力悪かったっけ?」
「違うって。ほらこれ、君に似合いそう」
店舗内には大きなテーブル型のディスプレイ台が幾つか設置してある。その上にズラリと眼鏡が並んでおり、好きに試着できるようになっていた。
「ちょっとかけてみてよ」
操はその中から黒縁の四角いスクエア型を手にとると、甲洋に差し出してきた。
「いや、俺はいいよ」
「なんで? ねぇちょっとだけ。かけてるとこ見せてよ!」
一応は眼鏡を受け取りながらも、甲洋はすっかり弱ってしまった。
店内には他にも客がいて、仕切りもないため人通りの多い通路からも丸見えだ。近所を歩くだけでも決して素顔を晒さない甲洋にとって、この状況はかなり厳しいものがある。
しかし操は甲洋の事情を知らないのだ。期待に満ちた瞳がキラキラと輝いているのを見て、甲洋はやむを得ず一瞬だけならと妥協した。
ずしりと重たい瓶底眼鏡をそっと外すと、受け取った眼鏡をかけてみる。それを見た操は「ほら、やっぱり似合うじゃん」と言って得意げだった。
褒められると素直に嬉しくなってしまう。ついつい設置してある鏡に目をやり、自分でも確かめてしまった。
「どう?」
「どう、って言われても。軽い、かな」
「重さの話じゃなくて! 気に入った?」
「うん、まぁ。悪くはない、かな」
はにかんで笑ってしまった甲洋だったが、そのときふと視線を感じてギクリと肩を強張らせた。見れば店内の端にあるカウンターで、女性店員がぽーっと頬を染めながら甲洋を見つめている。
「ちょっと、あのひとイケメンじゃない?」
「え、ヤバ……めっちゃ好みなんだけど……!」
「芸能人かな? 隣の子も可愛い~!」
別のディスプレイ台でフレーム選びをしていたはずの女性客たちまで、こちらを見ながらヒソヒソと耳打ちしあっているのが丸聞こえだった。
取り出したスマホで勝手に写真を撮ろうとしているのを見て、甲洋は慌てて眼鏡を外すと台に戻し、瓶底眼鏡を素早くかけた。
途端に女性客は表情を曇らせ、カウンターにいた店員も残念そうに眉をひそめる。面白いほどの反応の違いにいたたまれず、甲洋は操の手を引いてその場を離れた。
「行くよ、来主」
甲洋に手を引かれながら、なぜか操は終止無言だった。
ふと気になって足を止め、振り返ってみると彼は面白くなさそうに唇を尖らせている。瓶底の奥で目を丸くした甲洋から、プイッと顔を背けてしまった。
「なに、どうかした?」
「べっつにぃ」
さっきまであんなに楽しそうにしていたはずなのに。操は甲洋の手を軽く振り払うと、両手を頭の後ろへやって指を組んでしまった。
すっかり不機嫌な操に困惑しつつも、この態度を見て察せないほど甲洋は鈍くない。
「来主」
「なに」
妬いてる? ──そう口に出しかけた言葉を飲み込んで、甲洋は操に手を差し出すと柔らかく笑いかけた。
「欲しいものがあるんだろ? 早く行こう」
本当は喫茶店での意趣返しも込めて、直接確かめてみたかった。だけどそれをしたら、気が強いこの子はきっともっと不機嫌な顔になってしまうだろう。
甲洋は操のこの態度だけで十分に嬉しさを感じていた。もちろん、少しくらいはからかってやりたい気持ちもあったけれど。
操は差し出された手を横目でチラリと見やってから、頭にやっていた両手をおろしておずおずと指先を伸ばしてきた。手の平にちょんと触れると、また唇を尖らせる。
甲洋はそれを優しく握りしめ、軽く引いて歩きだした。
「……あのさ」
「なに?」
「君さ、やっぱそっちの眼鏡の方がいいよ」
遠回しだけれどとても分かりやすい物言いに、思わず肩を揺らして笑ってしまった。すると操はムッとしながらそっぽを向いてしまう。
せっかく気を使ったのに。どうしても堪えきれなかったものだから、けっきょく操は不機嫌なままだ。
「わかったから。もうそんな顔しないで」
一方的に想いを寄せることに慣れていたせいで、いまいち実感を得られずにいたけれど、自分もまた特別に想われていることに喜びを噛みしめる。
早く帰って抱きしめたいなと、ニヤけそうになるのをぐっと堪えた。
「来主、そういえば欲しいものってなに?」
空気を変えるという意味もあったが、目的が分からなければどこへ行けばいいかも分からない。
操は「そうだった!」と言って思いだしたように表情を明るくすると、甲洋の手を引っ張ってエスカレーターの方へと戻っていった。
「こっちこっち! いっこ上のフロアだよ!」
確かこの上は書籍等の複合量販店だったと記憶している。
「欲しいものって本?」
今度も一段高いステップから見下ろしてくる操に問えば、彼は大きく首を左右に振って、「ゲームだよ」と言った。
「新しいソフト買うんだ」
「来主……ゲームばかりしてると、本当に眼鏡をかけなきゃいけなくなるよ。だいたい、ゲームは飽きたんじゃなかったっけ?」
呆れ顔で言った甲洋に、操は肩をすくめながら眉間にきゅっとシワを寄せた。
「いいじゃん別にぃ」
「よくない。夜ふかしばかりしてさ。あと、ついでに言うけどお菓子も食べすぎ。昨日も夜中にコンビニ行っただろ?」
「えっ、なんで分かるの? 甲洋仕事でいなかったじゃん」
上階についたところでステップを降り、甲洋は大きな溜息をついた。
「ゴミ箱が知らないお菓子の空袋で山になってれば、嫌でも気づくよ」
むしろバレていないと思っていたことが驚きである。
仕事を終えて朝に帰宅すると、前日の夜まではなかったはずの見知らぬゴミが大量に出ているのだ。床に食べカスが落ちていることだってある。操はその横でグースカとゲーム機のコントローラーを握りしめて眠っているのだから、流石に呆れる。
甲洋は書店の出入り口でいったん足を止めると、瓶底越しに険しい瞳を操に向けた。
「来主、何度も言ってるだろ。夜中に一人で出歩くのは危険だって」
「もー、分かったって。それもう聞き飽きたよ」
「分かってないから何度でも言うんだよ。お前を襲ったストーカーだって、まだ捕まってないんだぞ」
操は心底うんざりとした様子で息を漏らした。それから面倒くさそうに甲洋を睨みつける。
「君ってさ、彼氏っていうよりお父さんって感じだよね」
「お、お父さん?」
「おれは嫁入り前の娘じゃないんだからさぁ」
自分としては遺憾なく彼氏面を発揮しているつもりでいたのに、お父さんとはこれいかに。さすがの甲洋もショックを拭えない。
操は甲洋に口うるさく注意されるたび、父親に反発する娘のような気分を味わっていたということだ。そこは『心配性な彼氏♡』と思っていてほしかった。
「そ、そういうんじゃないだろ。俺はお前の彼……」
「もういいよ! お父さんはここで待ってて! おれサクッと行って買ってくるから!」
男心をザクザクと踏み荒らしながら、操は甲洋の手を離すと足早に本屋の中へと消えていく。
要するに「お父さんウザい!」と言われたも同然で、甲洋はその背を追いかけることもできずにただ深く項垂れた。
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中秋の月が輝く晩だった。
ほのかに湯気が立ち込める浴室で、腰にタオルを巻いた甲洋は風呂椅子に腰掛けていた。覇気のない表情で白い壁を見つめ、どこか現実逃避でもしているみたいにぼうっと過ごす。
「……」
やがて甲洋は思いだしたように、チラリと自分の身体の中心に視線を落とした。タオルの端を指先でつまんで、少し迷ってからぺろりとめくりあげてみる。
「うわぁ……」
引き気味の嘆声を漏らし、見つめる先には自分の分身ともいえる身体の一部があった。
なんというか、大人のソレだ。大きいし、毛が生えているし、剥けている。自分が知っている形とはかけ離れすぎていて、甲洋はこの姿で目を覚ましてからというもの、こいつをあまりしげしげと見られないでいる。
甲洋の中身はまだ小学生の子供だが、身体は25歳の青年だ。同級生に比べると発育はいい方だったが、今やゆうに180を超えている。サイズ感への戸惑いもさることながら、大人と子供では違いすぎるそのブツに、戸惑いを拭いきれないでいた。
別に大人の性器を見たことがないわけではない。島にいた頃には、よく友達と銭湯に行っていた。子供から老人まで幅広く利用者がいる中で、成熟した大人のイチモツを見て、まるでゾウさんみたいだなぁと思っていた。俺も大人になったら、あんなふうになるのかなぁと。
まだ毛も生えていない自分のモノと見比べて、信じられない気持ちになったりしたものだ。
それがまさかすべての成長過程をすっ飛ばして、目覚めたらゾウさんになっているとは思いもしなかった。可能な限り目を背けたくても、自分の身体の一部である以上はそうもいかない。風呂やトイレに行かないわけにもいかないし、いい加減この身体にも慣れていかないと──などと思っていると、
「甲洋ー! ちゃんと身体洗ったー?」
という、能天気な操の声が脱衣所の方から聞こえてきた。
「あっ、いえ、まだ……!」
ついついぼんやりと過ごしてしまって、まだなにもしていない。甲洋は肩をビクつかせながら声をあげたが、次の瞬間、
「まだ? じゃあおれが背中流してあげるー!」
と言って、すっぽんぽんの操がガラリと磨りガラスの戸を開けて中に入ってきた。
「うわっ!?」
甲洋は顔を真っ赤にしながら大慌てで背中を丸めた。同じ男同士とはいえ、甲洋は操に特別な感情を抱いている。まだまだ中身はピュアなお年頃の甲洋にとって、好きな人と二人っきりで裸のお付き合いなんて十年早い。(精神的に)
けれど操はそんなのお構いなしで、こうしてしょっちゅうズケズケと風呂場に入ってくるのだった。
「ちゃあんとキレイにしてあげるからね!」
本人は片足が不自由な甲洋の世話を焼きたいようだが、この家には至るところに手摺がついているため、わざわざ介助は必要ない。しかし操は甲洋の面倒を見ることが、楽しくてしょうがないらしかった。
どんなに断っても決して引き下がってくれないことを学習済みの甲洋は、ただ黙って縮こまりながら彼の好きにさせておくことしかできない。
「ふんふーん」
操は甲洋の背後で膝立ちをして、上機嫌で鼻歌を口ずさみながらスポンジで背中を隅々まで磨いていく。丁寧に肩や首の後ろにまでスポンジを走らせ、泡まみれにしていった。
この時間はいつも異様に長く感じてしまう。甲洋は真っ赤な顔のまま、早く終わってくれと願うばかりだ。間違っても後ろを振り向かないよう、身を硬くしながら猫背でうつむく。
「こんなもんかな? ほら、 前も洗うからこっち向いて」
「えっ、ちょ、い、いいです! 前は自分で洗うんで!」
「もー、なに恥ずかしがってんの?」
「べ、別に、そんなんじゃ……」
「ならいいじゃん! ほらほら、遠慮しないでさ!」
操は甲洋の肩に手をつき、膝でにじにじと脇に回り込んできた。スポンジを持った手を胸や腹にゴシゴシと走らせ、やがて下肢の方にまで伸ばしてくる。
今まではどうにかギリギリ回避してきたが、今日の操はやけにしつこい。不自然に顔を背けながらも、甲洋は慌てて身をよじった。
「ちょっと、まっ……! そこは、自分でやるから!」
「あっ、こら! 動いちゃだめ!」
「あっ!」
操が腰に巻かれているタオルを引っ剥がそうとするので、甲洋は青ざめながら大きく身じろいだ。するとその拍子にガタンと傾いた風呂椅子から、石鹸で滑った尻がずり落ちてしまう。
「ぁ、ッ!?」
「うわぁっ!」
臀部に鈍い衝撃が走ったが、それ以上に甲洋の頭の中は一瞬にして真っ白になった。まるで折り重なるような態勢で、操ごと転倒してしまったのだ。
「……!?」
ぴったりと合わさる胸と胸。軽く立てた足の片方に操の股がすっぽりとはまり、太ももを尻で挟みこまれるような形になっている。泡まみれでぬるつく肌の感触に、甲洋は目を大きく見開いて硬直した。
「わー、なになに? ビックリしたぁ……」
床に手をついてどうにか顔を上げた操が、すっかり仰向けに倒れている甲洋を見下ろすと、さすがの彼も不自然な体勢でいることに気がついたのか、「ぁ」と小さな声をあげながら頬を赤らめた。
「ッ──~~!?」
心臓が爆発する。そう思った瞬間、甲洋は片足が麻痺っているとは思えない早業でそこから抜け出すと、石鹸まみれのまま湯船に飛び込んだ。
「うわぁ!?」
大きな水しぶきを食らいながら、操がコロンと床に転がる。
「な、なに!? 今なにが起こったの!?」
半身を起こした操が湯船で丸くなっている甲洋を見て、目を白黒させている。
しかし甲洋はそれどころではなかった。限界まで身体を縮め、立てた両膝をしっかりと抱きしめると、ゆでダコのようになっている顔を鼻の上まで湯船につけた。
「変な甲洋」
操がそう言って、ぷぅっと唇を尖らせながら首を傾げる。甲洋はなにも言えず、ただブクブクと泡を吐きだすだけだった。
*
風呂上がり、甲洋はめちゃくちゃにショックを受けて落ち込んでいた。
「ふー、お風呂に入るとスッキリして気持ちいいね。今夜もぐっすり眠れそう」
体育座りをして項垂れている甲洋の背後では、淡い空色の浴衣を着た操がポンポンと布団を整えている。
普段着は洋服の彼だが、家にいるときは楽だし慣れているからという理由で浴衣を着用することが多い。甲洋は少し前まできっちり上下揃ったパジャマ(青のチェック柄)を着せられていたが、最近は操の真似をして浴衣で過ごすことが増えていた。
病んだ片足でも時間をかけずにすんなり着られて、慣れると確かに楽だった。ちなみに今夜は枯れ葉のような深い緑の浴衣を着用している。
「甲洋? どうかしたの?」
黙り込んで背を向けている甲洋の顔を、四つん這いでにじり寄ってきた操が覗き込んでくる。ギクリとしながら目を逸らすと、彼はキョトンと小首を傾げた。
「なんか変だよ。ずっと赤くなってるし、もしかしてのぼせた?」
「だ、だいじょうぶ」
「ほんと? あれからしばらく出てこなかったじゃん」
「それは……」
あのあとのことは、思いだすだけで嫌になる。
甲洋は操が身体を洗い終えて浴室から出ていくまで──浴槽は甲洋のせいで泡まみれになっていたので浸かるのは諦めた──あのままの状態で湯船から出られないでいた。その間ずっと心臓はバクバクしていたし、頭はグルグルしていたし、なにより身体の中心がイライラというか、ムズムズというか、とにかくおかしな状態だった。
操が浴室から出ていくと、甲洋はおそるおそる自分のブツに目をやった。するとそこは見たことがない形状に変化していて、甲洋はその反応に大ショックを受けてしまったのだ。
泣きそうになりながら身体を丸めていたら、どうにか少しずつ落ち着きを取り戻してはきたものの、またすぐにでもおかしくなってしまいそうで怖かった。
合わさった胸に感じた小さな粒のような感触だとか、太ももに押しつけられたプニプニだとか、フニフニだとか。思いだすだけで、あそこがイライラしてきてしまう。
(どうしよう……)
多分、これはとても悪いことだ。以前、友達と海辺の釣り小屋で拾ったエロ本を見たときに覚えた、よくない感じと酷似している。みんな大はしゃぎで興奮していたが、甲洋は真っ赤な顔でそっぽを向きながら、所在なく砂を蹴っているだけだった。
興味がないわけではなかったけれど、そんな自分に罪悪感を覚えてしまったのだ。だから素直に輪の中に入っていくことができなかったし、大人にバレたらきっと叱られてしまうとも思っていたから。
そのときのことを思いだして、甲洋は絶対に操には知られたくないと思った。
「……あの」
「ん? なに?」
「今夜は、ひとりで寝たい……です」
「へ? なんで?」
「な、なんでも!」
理由なんか言えるわけがない。あなたの大事な場所に触れた感触が忘れられずに、あそこがイライラするなんて。知られたらきっと嫌われる。だってこれはとても悪いことだから。
すると操が思いっきり不満そうな顔をしながら、駄々をこねてきた。
「えー! そんなのやだ! 甲洋のこと抱っこしてなきゃ、おれ寝られないもん!」
「だ、抱っこは……その、今日は、ダメ……」
「なんでぇ? ちゃんと理由を言ってくれなきゃ分かんないよぉ!」
操が甲洋の腕を掴んで揺さぶってくる。甲洋は立てた両膝に顔を埋めると、蚊の鳴くような声で「お願いだから」と漏らした。
「今日は、ひとりにして……」
「甲洋?」
さすがの操も、甲洋のただならぬ様子に気がついたらしい。すっかり身体を丸め、耳から首筋にかけてを真っ赤に染めているのを見て、なにかピンときたようだった。
「ねぇ、ひょっとしてさ」
わずかに声を潜めた操が、甲洋に寄り添って耳元に唇を寄せてきた。
「あそこ、勃っちゃった?」
「!?」
ハッとしながらとっさに顔をあげた甲洋の、あんぐりと開いた口を見て、操が肩を震わせながらクスクスと笑った。
「だから様子が変だったんだ。ごめんね、気づいてあげられなくて」
「ちっ、ちが……っ」
慌てて否定したところでもう遅い。
「そこ、そういうふうになったのは初めて?」
操は甲洋の肩に手を置いたまま、首を傾げて問いかけてくる。彼は目を細めて微笑んでいるだけで、揶揄したり咎めるような素振りをいっさい見せない。不安で仕方がなかった甲洋は、その様子に安堵を覚えて少しだけ涙ぐんでしまった。
子供らしい仕草でこくんと頷くと、操は「そっか」と言ってぽんぽんと甲洋の頭に優しく触れた。
「……ごめんなさい」
それでも甲洋の中にある罪悪感は消えなくて、小さな声で謝罪する。すると操がゆるく首を振った。
「ごめんは禁止って言ったでしょ。君はなんにも悪くないよ」
「……本当?」
「うん、本当」
操は頬を染め、瞳をじわりと潤ませていた。ドキリと胸を突かれたような感覚を覚え、とっさに視線をうつむける。するとちょうどよく操の浴衣の合わせに目がとまり、ざっくりと開いた胸元を食い入るように見つめてしまった。
「おっぱい、気になる?」
「ッ、ぁ……、ご、ごめ……」
また謝りかけて口を噤んだ。操は笑いながら「いいよ」と言って、胸を大きくはだけさせた。風呂上がりの清潔な香りが、ほのかな熱と一緒にむわっと辺りに立ち込める。
「ほら」
「わっ……!?」
甲洋はキツく目を閉じ、思いっきり顔を背けた。別に見たってどうということはないはずなのに、とてもいけないことのような気がしてしまう。
「し、しまって……早く……」
胸をバクバクとさせながら声を絞り出すと、操は楽しそうに「なんで?」と笑った。
「甲洋、ちゃんと見て」
「で、でも」
「ねぇ、早く」
観念したようにおずおずと目を開けて、操の胸に目をやった。ぺったんこだ。だけどそれぞれの胸には、ピンクに色づいた乳首が膨らみを帯びながら主張している。
(か、かわいい……)
甲洋の目はすっかり釘付けになってしまった。
「触っていいよ」
「ッ、え?」
「おれは君のものだもん。だからこのおっぱいも、君の好きにしていいんだよ」
ごくんと喉が鳴った。そんなことを言われて、拒む理由などあるはずがない。
甲洋は操と向き合い、緊張と期待に震える右手をそっと胸に伸ばしていった。指先が遠慮がちに尖った乳首に触れると、操がピクンと肩を揺らしながら「あっ」という甘ったるい声をあげた。
「ッ!」
初めて聞く声に驚いて硬直した甲洋に、操が切なそうな表情で「やめないで」と先を促す。けれど甲洋は軽く混乱していて、物欲しげに震えているようにも見える乳首と操の表情を、ただオロオロと交互に見比べた。
「で、でも、声が……」
いいのか悪いのか、甲洋には判別できない声色だった。ただ胸がザワザワするというか、あそこがムラムラするというか、とにかく落ち着かない気分になってしまう。操は戸惑う甲洋にはにかんだ笑みを浮かべて、「平気」と言った。
「気持ちいいと出ちゃうんだもん。変な声」
「き、気持ちいい? さっきの、気持ちよかったの……?」
「うん……だから、もっと触って」
そういうことならと頷いて、さらにツンツンと控えめにつついてみた。
「あっ、んんッ……! ぁ、あ……」
指の腹をくりくりと押しつけると、気持ちいいときの声が次から次へと漏れてくる。思考をぼうっと煙らせて、甲洋は両手でそれぞれの乳首を軽くつまんでみた。すると操はいっそう甲高い声をあげ、ピクピクと身を震わせる。
触れるほどに、そこは弾力を帯びて膨らんでいくようだった。ぎこちなかったはずの指先が、まるで心得たように勝手に動きだす。親指と人差し指で軽く扱いてみたり、絶妙な力加減できゅっと引っ張ってみたりした。
「あっ、やぁっ、ん……ッ!」
操は泣きだす寸前のような表情で首を振った。そして物欲しそうに濡れた瞳で甲洋を見た。
「ねぇ、そこ……舐めても、いいよ」
「ッ、!」
大きく息を呑んだ甲洋の肩に手をつきながら、操が膝立ちになってまたがってきた。見せつけるみたいに、腫れた乳首が目の前に突き出される。
「吸ったり舐めたり、いっぱい、して……」
両手で頬を包まれて、甲洋は我慢できずに片方の乳首をぱくんと食んだ。
「あんッ……!」
操の身体が大きく跳ねる。それを合図に、甲洋はタガが外れたようにそこを夢中で舐めまわした。薄い肉に両手をそれぞれ這わせると、寄せてあげるようにしながら揉みしだき、音を立てて吸い上げる。
「あはっ、んっ、アッ、ぁ……っ、おっぱいきもちい、ぁッ、こぉよ……っ」
操の両腕が甲洋の頭を掻き抱いた。頭皮に爪を立てられ、くしゃくしゃと髪を乱されるのが気持ちいい。背中にピリピリと小さな電気が流れていくみたいだった。
「すごい、ぁっ、じょうず……あんっ、ん……ッ」
褒められて、甲洋は嬉しくなった。そのまま「もっと」とねだられ、ますます熱心に吸ったり舐めたりを繰り返す。しっとりと滲みでる汗と甲洋の唾液で胸がベタベタになってしまうくらい、時間をかけて貪った。やがて操の腰に腕を回して引き寄せると、腫れぼったくなった乳首のひとつをキツく吸い上げ、歯を立てる。
「ヒッ、やぁっ、アッ、あぁ──……ッ!」
一段と高く上ずった声をあげ、操が軽く背を反らした。ビクビクッと身を大きく跳ねさせたかと思うと、糸が切れたように弛緩していく。太ももにペタリと尻を落ち着けながら倒れ込んできた身体を抱きとめ、甲洋は目を丸く見開いた。
あまりにも夢中になりすぎて、自分がどうしていたか分からなくなってしまう。ただ、ピクピクと震え続ける操の身体に、なにかが起きたらしいことだけは理解できた。
「ぁ、あの……だいじょうぶ……?」
「はぁ……はっ、ぁ……」
「み、操」
「ん……ぁ、こうよ……おれ、イッちゃったぁ」
泣きそうに蕩けた瞳で見上げられ、ぐっと言葉を詰まらせながらも、意味が分からず首を傾げる。
「だって久しぶりなんだもん……」
赤い頬でそう言って、操は浴衣の裾をめくりあげた。あっと声をあげる間もなく晒されたそこには、半勃ちで震える子供みたいな性器があって、白い内ももやその周辺がひどく濡れそぼっている。淡い水色の浴衣が、濡れた箇所だけ色味を濃くしているのを目の当たりにした甲洋は、ぽかんと口を開けたまま放心してしまった。
この人パンツ履いてなかったんだ、という驚きもさることながら……。
「おもらし、したの……?」
「ち、違うよぉ! バカぁ!」
操は顔を真っ赤にしながら甲洋の肩を軽くポカリと叩いた。
「で、でもこれ……?」
「おしっこじゃないもん!」
「?」
まだピンと来ていない甲洋に、操は珍しく困った顔をして見せた。うーんと唸りながら、やがておずおずと目を向けてくる。
「おちんちん、気持ちよくなるとおしっこじゃないのが出るの。えっと……あ、そうだ! 赤ちゃんの種!」
「精液のこと?」
「知ってんじゃん!」
「だ、だって図書室の本で読んだし……」
甲洋の学年ではまだ保健体育の授業は始まっていなかったが、図書室に置いてあった生物図鑑には、虫や動物の交尾についてが分かりやすく書かれていた。だから赤ちゃんができる仕組みくらいは知っている。
「でも、どうして胸を触っただけでそれが出てくるの?」
図鑑にそんな記述は一切なかった。だから不思議だ。子供らしい純粋な疑問を口にしただけなのに、操は顔いっぱいに赤みを広めながらまたひとつ、甲洋の肩をペチリと叩いた。
「君がこんなふうにしたんじゃん!」
「俺のせいなの!?」
「甲洋のバカぁ!」
「ご、ごめん!」
今度ばかりは「ごめん」を言っても、操はなにも言わなかった。ただ涙目でほっぺたを膨らませているだけだ。謝ったのは条件反射で、なにがいけないのかは分かっていない。
こういうとき、悪いのはだいたい記憶を失くす前の自分なのだ。もしかして俺は物凄くスケベな奴だったのかなと、恥ずかしい気持ちになりながらもなぜだか腑に落ちるものを感じてしまった。
(だって、可愛いし……)
甲洋はあえてそれ以上は視界に入れないようにしていた操の下肢に、チラリと視線を落とした。彼のそこはほとんど毛も生えていないし、形も小ぶりで桃色だ。それがぐしゃぐしゃに濡れて艶を放っている光景に、思わず喉を鳴らしてしまう。
(俺ってやっぱり、スケベなのかな)
さっきからずっと身体の中心がムズムズして、ちょっと痛いくらいだった。操は悪くないと言ってくれたが、この状態を一体どう収めればいいのだろう。
困り果てて目を泳がせる甲洋に気づいて、操はやっと余裕を取り戻したようだった。ふふんと得意げに笑うと、猫のように四つん這いの体勢をとって甲洋の浴衣の裾を割る。
「あっ、ちょ!?」
「君だっておれのこと言えないじゃん。パンツ濡れてるよ」
「え!?」
甲洋のそこはグレーの下着をぐんぐんと押し上げながら、先端にあたる部分の色味を濃く変えていた。操がウエストのゴムを指に引っ掛けてちょっとズラすだけで、勃起した大人の性器が勢いよく飛び出してくる。
「うわぁっ!?」
甲洋は思わず両手で顔を覆った。さっき風呂場で見たときよりも、さらに元気になっているような気がする。指の隙間から結局は視界に入れて、すっかり言葉をなくしてしまう。
先端からはじわりと透明な液が滲み出ているし、下腹部がジンジンと痺れたようになっている。それを操に見られていると思うと、恥ずかしすぎて死にそうだった。
「ビクビクしてて苦しそう……ずっと我慢してたんだね」
「ぁ、ち、ちが……」
何に対しての否定なのか、自分でも分かっていなかった。力なく首を振った甲洋を見上げて、操が愛おしそうに微笑んだ。
「大丈夫。気持ちよくしてあげるから」
「な、なに、するの……?」
「いいこと」
そう言って、操は甲洋のモノに触れるとそっと優しく撫であげた。
「ッ、ぁ!」
おかしな声が出てしまい、甲洋は引き結んだ唇を両手で強く覆った。
操の白くて柔らかな手が、先端から滲む体液を擦り込むように性器を幾度か扱きあげる。下肢にわだかまっていた熱と痺れが一気に広がる感覚に、甲洋はビクンと身を震わせた。
「んんっ、う、うぅ……っ!」
堪らえきれずに、指の隙間からくぐもった悲鳴が漏れてしまう。操は何度も勃起した性器を優しく扱いて、甲洋の反応に目を細めた。
「可愛い。ねぇ、我慢しないで。気持ちいときの声、おれにも聞かせて?」
「ッ、……! っ! ……!」
いっそう口元を抑え込む手に力を込めながら、甲洋はぎゅっと目を閉じて首を左右に振った。
「もー、頑固だなぁ。じゃあこれは?」
操が頬にかかる髪を片方だけ耳にかけ、先端にキスをしたかと思うと口の中にすっぽりと収めてしまう。
「ッ──!? な、なに……ッ、なにして……っ!?」
信じられない光景に、ガツンと一撃を食らったような衝撃が脳に走った。とっさに両手で操の頭部を掴んではみたものの、柔らかく濡れた口内の熱や絡みつく舌の感覚に、引き剥がすどころではなくなってしまう。
「うぁ、ぁ……っ、そんな、みさ、お……っ」
「んっ、んむ……っ、ん、はっ」
いやらしい水音を立てながら、操は両手と口を使って性器を上下に刺激していった。キャンディでもしゃぶっているみたいに恍惚とした表情を浮かべ、頬を窄めながら吸いついてくる。
切迫した快感に身悶えながら、甲洋は操の髪をぎゅうと掴んだ。気持ちよすぎて、脳がドロドロに蕩けてしまいそうだった。
「ぃ、あ……っ、そんな、そんなにしたら……っ」
「んっ、ふ……いいお、らひへ」
「~~ッ!?」
しゃぶったまま操が喋ると、かすかに歯があたって強く舌を擦りつけられる形になった。彼は出してもいいと、多分そう言ったのだと思う。もうダメだと、甲洋は思った。異様な興奮と快感が身体中に満ちて、とても耐えられそうにない。
「で、出る、出るから! アッ、みさ、もう離し……うぅ、~~!!」
いよいよ頭を引き剥がそうとして、間に合わなかった。熱い波に全身を飲み込まれ、甲洋は身を引き攣らせながらイクという感覚を味わった。射精の鋭い快感に大きく脈打つ性器を、操がしっかりと咥えこんで受け止めている。
「──ッ、ぁ、うっく……、はぁ……っ」
腹の底からじわりと温かいものが広がっていく。呆けたような表情で、甲洋はがっくりと項垂れながら長い息を吐きだした。
(射精って、こんなに気持ちいいんだ……)
頭の中まで痺れているみたいだった。身体がふわふわとして、意識がぼうっとしたままなかなか戻ってこられない。
「んっ……」
操がごくんと喉を鳴らして、大きく息をつきながら身を起こした。口の端にはどろりとした白いものが付着している。彼はそれを手の甲で拭き取ると、下唇に舌を走らせながら満足そうに微笑んだ。
「甲洋の味、久しぶり」
「っ? ぁ、え……?」
「飲んじゃった。ごちそうさま!」
「の、飲んだの……ッ!?」
平然と頷く操に唖然としながら、甲洋の中にはどこかしみじみと感じ入るものがあった。薄々気づいてはいたけれど、やっぱり自分たちは日頃からこういうことをしていたんだな、と。
今さら驚くようなことではないのかもしれない。だけど手を繋いだり、キスするだけで精一杯の甲洋にとっては、まるで嘘みたいな話に思える。
(だって俺は、そんなことぜんぜん覚えてないし……)
あの夏祭りの夜に一皮むけたつもりでいたけれど、甲洋はまだどこかで過去の自身に対する嫉妬を拭い去れないでいた。だからちょっと面白くない。慣れている操のことも、過去には平気でこんなことをしていた自分のことも。どうしようもないことだとは思うけど。
「どしたの?」
密かに拗ねる甲洋の顔を覗き込み、操が大きな瞳をパチクリとさせた。なんでもないと横に振った首に、細い両腕が巻きついてくる。音を立てて唇同士が触れ合うと、かぁっと頬を染めた甲洋に操が楽しげな含み笑いを漏らした。
「ねぇ、もっと気持ちいいこと、しようよ」
「も、もっと?」
「うん。もっとすごいこと」
「すごいこと……」
途端にソワソワしてしまうことに恥ずかしさを覚えながらも、胸が高鳴る。期待と不安を交差させ、へそを曲げていたことも置き去りにして甲洋は頷いた。
胸を押されて、逆らわずにそのまま仰向けに寝転んだ。操が甲洋の腹に手をつくと、もう片方の手を自分の股へと伸ばしていく。
「んっ……」
「な、なにしてるの?」
性器に触れているのかと思ったが、指先はそのさらに奥の方をまさぐっているようだった。操はモゾモゾと身じろぎながら、「はぁ」と色っぽい息をついた。
「おれのお尻ね、濡れるんだよ」
「?」
「エッチなことしてるとね、ちょっとずつ濡れてくるの。君がそういうふうにしたんだよ。おれのこと、女の子みたいにしちゃったの」
「お、女の子? そんなの俺、知らないよ……」
とっさに目を泳がせる。なら、操はいま自分で自分の尻の孔に触れているということだ。頭の中が熱くなり、沸き立つように血が騒いだ。
(お尻で、するんだ……)
男同士でも子供を作るみたいな行為ができることに、甲洋は衝撃を受けていた。前の自分が、そうなるように操の身体を変えたから。生唾を飲みながら、どんな顔をすればいいか分からずにいると、操は「うん」と頷いて笑った。
「いいんだ。それだけ知っててくれたら……んっ、ぁ……おれの身体が、ぜんぶ君のためにあるってこと、ちゃんと知っててくれたら、それでいいの」
「……うん」
素直に頷きながら、心が震えた。過去の自分がどんなふうに操の身体を作り変えていったのかは分からない。だからやっぱり少しだけ複雑な気持ちはあるけれど、期待に張り詰めた自身が痛いくらい力を取り戻しているのが、はっきりと分かる。自分の身体が、喜び勇んでいることが。
「ぅ、あ……っ、ん……もうちょっと、待ってね。おれも、すごく久しぶりだから……」
甲洋は呆けた顔をして操を見上げた。彼は小刻みに震えながら腰を揺らしている。尻にやった指先を蠢かせ、悩ましそうに眉根を寄せていた。浴衣は肘までずり落ちて、帯でかろうじて巻きついているだけになっている。浮き上がった汗に艶めく素肌を、綺麗だと思った。
「は、ぁっ……そろそろ、挿れるね」
熱い吐息を漏らす操に、甲洋は緊張しながら頷いた。弾けそうなほど勃起した性器に指を添えられると、先端を濡れた孔に押しつけられる。
「ぁ、うっ……!」
たったそれだけで圧迫感を覚え、甲洋は呻きながらブルリと腰を震わせた。
彼が言ったとおり、そこはぐっしょりと濡れている。操自身が放った精液だとか、分泌されるその他の体液で柔らかくなっていた。女の人のあそこなんか見たことも触ったこともないけれど、操のそこは本当に女の子になってるんだと甲洋は思った。
操がじわじわと体重をかけていくと、鈍い水音を立てながら亀頭がズルリと潜り込む。
「うぁッ……!」
「あぁっ、ん……! はぁ……っ!」
口の中とは比べ物にならない圧迫感と、競り上がる鋭い快感に、いっそ恐怖すら覚える。ふたり同時に悲鳴をあげて、甲洋は泣きそうな目で操を見た。
「はっ、ぁ……ッ、だいじょう、ぶ、怖く、ないからね。おれのナカ、ちゃんと甲洋のカタチに、ピッタリだから」
「で、でも、操が……」
操は微笑んでいるが、甲洋よりもずっと苦しそうに見えた。内ももがブルブルと震えているし、大粒の汗が首筋に伝っている。操は甲洋を安心させるように首をゆるく振って、左手を伸ばしてきた。
「手、繋いでて」
「うん……」
右手を伸ばし、大きさの違う手のひら同士をぴったりと重ねた。お互いの指の隙間を縫うように、しっかりと強く握りあう。そうすると鼓動も一緒に重なるみたいで、少しだけホッとした。
「こうしてたら、怖くないからね」
「あっ、ぁ……! み、みさ、お……っ」
操がどんどん腰を落としていく。ズブズブと熱い肉壁に飲み込まれ、このまま食い千切られてしまうのではないかと思うほど、そこは小さくて狭い孔だった。
「ん……ぁ、甲洋のっ、甲洋のが……っ、あっ、はうぅ……っ!」
腹の奥まで収めながら、操は感極まったような嬌声をあげた。しゃがみ込むような形で立てた両膝をガクガクと踊らせて、ぽってりと腫れた屹立からよだれを垂らしている。
すべてがナカに収まりきってしまうと、甲洋と操は息を荒げて言葉を失くした。握りあった手と手に力を込め合い、しばらくはそのまま身じろぐことさえできなかった。
「ね、ピッタリでしょ? おれのナカ」
やがて操が目を細めてそう言った。唇を震わせて、甲洋はこくこくと何度も頷く。
「操のナカ、熱くて、濡れてて……気持ちいい……」
「これからもっともっと気持ちよくなるの……おれが教えてあげるからね」
操がゆっくりと腰を揺らしはじめた。抜けそうになるギリギリまで引き抜いたかと思うと、ズブっとまた押し込める。
「ぅっ、あ! みさ、お、これ……すご、ぃ……っ」
「はぁっ、あッ! あんっ……ぁッ、こう、よ……こうよぉ……っ!」
緩慢だった動きが徐々に大きくなっていくと、操も甲洋もひっきりなしにあられもない悲鳴をあげた。目の前がチカチカするくらい気持ちがよくて、頭がバカになりそうだった。
「あっ、あぁ……っ、ん! きもち……ッ、あぅっ、アッ、すご、い……っ」
夢中で腰を揺らしながら、操は空いている方の手を後方へやり、甲洋の緩く立てられた膝の辺りをぐっと掴んだ。自然と胸が反り返り、赤く膨らんだ乳首が突き出される。甲洋は無意識に片方の手を伸ばし、小さな胸の薄い肉をぎゅうと掴んで揉みしだく。そして同時に、操の動きに合わせて自らも腰を突き上げた。
「ひ、ぃッ……!? アッ、あぁ! あっ、や、やぁ……っ!」
「みさお……みさお……っ」
操が嫌々と首を振ると、目尻に浮かんでいた涙が一緒に飛び散る。
「まっ、待って! 急にそんな……っ、お腹、そんなにズンズンしたらダメぇ……っ!」
「だって、ぁッ、俺だって……!」
操のことをもっと気持ちよくしたい。そう思ったら、身体が勝手に動いてしまう。執拗に胸を揉みながら、何度も何度も操の身体を突き上げた。
「やぁぁっ……っ、あん、あッ、やだ、イッちゃ、あっ、イっく! いくぅ……っ!」
ナカで甲洋のものが大きく脈打つのと、熱い肉壁がキュウッと収縮するのは同時だった。握りあった互いの手の甲に爪を立てながら、同時に果てる。
絶頂に身を震わせながら、操の飛沫は甲洋の下腹を汚し、甲洋は操のナカを汚した。ブルリと身震いをして、残滓もすべて吐きだしてしまう。
深く息をつき、隅々まで幸福感に満たされた。
「あ、ぁ……っ、ぁ……」
か細く声をあげながら、操が胸に倒れ込んできた。握り合っていた手と手が解け、甲洋はその身体を両腕で受け止める。彼はまだ戻ってこられないようで、痙攣を繰り返しながら呼吸を荒げていた。
「み、操……」
自分とは違ったイキっぷりを見せる操に、甲洋は少し不安になった。抱きしめたまま半身を起こすと、慰めるように背中を擦る。操の呼吸が落ち着くまで、ずっとそれを繰り返した。
「ぅ……甲洋のバカ。おれが最後までしたかったのに……!」
やがて少しずつ調子を取り戻した操が、不満そうな声をあげた。至近距離で睨まれて、甲洋はしおしおと肩をすくめる。
「ご、ごめん」
「覚えてないなんて嘘なんじゃないの!?」
「……そうかも」
疑うのはもっともだと思う。記憶がないことに嘘はないが、甲洋の身体はどうすれば操が悦ぶかを、ちゃんと覚えているようだった。実感がわかないままだった記憶への手応えを感じた気がして、甲洋は胸を熱く痺れさせた。
けれど手取り足取り最初から教え込みたかったらしい操は、やっぱり不満そうだ。彼は甲洋の首に回した腕に力を込め、両膝を立てて踏ん張ると、ナカのものをキツく締め上げた。
「っ!?」
「君がおれをリードするのはね、んっ、ぁ、まだ、早いんだから!」
「アッ、ちょ……っ、まだ、イッたばかりで……!」
「だーめ! いい子だから、おとなしくしてて!」
操はそのままぐりんぐりんと波打つような腰使いをしてみせた。鈍い水音が大きく響き、脳がひどく揺れているような気がする。
「うぁっ、ぁ……! まって、みさお、まっ、ぁ……ッ!」
達したばかりで剥き出した神経が悲鳴をあげる。ヒリつくようなかすかな痛みと、息もつけない快感の狭間で、甲洋は泣きだしそうだった。キツく食いしめられた性器が、もはやカチカチに固くなっている。
「これぇ、ずっと、欲しかったの……っ! アッ、あぁっ、ん! 甲洋の、欲しかったのぉ……っ!」
うっすらと笑みを滲ませながら、操が蕩けた表情で甘く叫んだ。甲洋は自分のことをすごくスケベな男なんだと思ったけれど、それはきっと操も同じだ。彼は何年もずっと我慢して、熟れた熱を持て余していた。子供に返ってしまった甲洋を優しく甘やかす傍ら、ずっと欲望を募らせていたのだ。彼はそれをすっかり爆発させて、歯止めがきかなくなっている。
そんな操のことを、甲洋はなんていやらしくて可愛い人なんだろうと思った。いっそ健気にすら感じてしまう。そしてやっぱり、甲洋は甲洋のことが憎かった。だってこの人のことを、こんなふうにした男だから。
(だったら、俺が……!)
憎たらしい自分ごと喰ってやろうと、甲洋の中に激しい欲求が生まれた。この人が自分のものだと、もっと強くそう思えるようになるには、こんなものではまだ足りない。
甲洋は操の腰を強く抱き込み、一気に体勢を変えた。あっと驚いている操の身体を布団に押し倒し、横抱きにするみたいにして白い片足を抱えると深く突き挿れる。
「ヒィんっ……!? やっ、こ、甲洋……ッ? なに、アッ、あっ、ああぁッ……!」
目をむいた操が悲鳴をあげる。衝動に抗うことなく腰を引いては穿ち、絶妙に角度を変えてはまた打ちつけた。
確実に弱いところを狙って先端で擦り上げると、操の下腹がビクビクと痙攣する。彼は布団に深く爪を立て、しがみつきながら達してしまった。薄くなった精液を吐きだしながら声も出せずに震える身体を、さらにそのまま突き上げる。
「ぃっ、ァ゛……ッ! まっ、イッた……ッ、ひっ、イッたから! まだ、イッてるからぁッ!」
突き上げるたびに操の赤い屹立からは残滓が弾け飛ぶ。
甲洋は獣のように息を荒げ、抱え込んでいた足を下ろすとその身体をひっくり返した。四つん這いの姿勢をとらせ、背中にぴったりと胸を押し付けるようにしながら抱きかかえると、さらに腰を突き動かす。
「あぅッ、アッ、あぁんッ……! ダメ、おれが、おれがするのにっ、バカ、バカぁっ……っ!」
まだ年上風を吹かせようとする操におかしさを覚えながら、甲洋は夢中で腰を揺さぶった。汗ばむ項に唇を押しつけ、両胸を揉みしだきながらさらに激しく打ちつける。
「みさお……っ、みさお、気持ちいい……っ、好き……好きだよ、操……っ」
「はぁっ、ぁ、アッ……っ、おれ、も……おれも好き、あっ、あぁ、イッちゃう、また、イクぅ……!」
「ッ、ん、いいよ……一緒にイこう──来主」
「ぇ……? アッ、あぁ! や、待って、まっ、ああぁ……っ!」
操の身体がビクンと跳ねる。腕のなかで引き攣る身体に愛おしさを募らせながら、甲洋もまたナカで自身を弾けさせた。頭の中が真っ白に染まる。長く尾を引くような射精の果てに、操を抱きしめたまま柔らかな布団に身を沈ませた。
*
白い障子紙から朝日が差し込んでいる。
深い眠りからふと浮上した甲洋は、操の腕に抱かれて胸に顔を埋めていることに気がついた。甲洋はかろうじて下着だけ身につけていたが、操は一糸まとわぬ姿で横たわっている。
「!?」
頭の中に、昨夜の記憶が物凄い速さで駆け巡っていた。あのあとも熱が収まらず、カラカラになるくらい何度も抱き合った。甲洋を抱き込んでいる操の肩や二の腕には歯型までついていて、行為の激しさを物語っている。
(俺、なんてこと……!)
操の胸に顔を埋めたまま、甲洋は消え入りたいような気持ちになった。昨夜の自分は、なにかいけない薬でもキメていたんじゃないだろうか。かなり調子に乗ってしまったと思うし、好き放題してさんざん彼を泣かせてしまった。
(操、起きたら怒るかな……)
謝らなくちゃと思うのに、どんな顔をすればいいか分からない。彼も悦んでいたとは思うけど……。
「んー……」
すると、ぴったりとくっついている身体がもぞりと動いて、操が小さな呻きをあげた。ビクリと身を震わせると、動いちゃダメとばかりにぎゅっと強く抱きしめられる。
「み、みさお」
「もう朝ぁ?」
操の声は掠れていた。たくさん声をあげたから、喉を痛めてしまったのかもしれない。
「こうよ、おはよぉ」
ぽやん、という表現がしっくりきそうな寝起きの表情で、操が布団を剥ぎながらゆっくりと身を起こした。甲洋も「おはよう」と返しながら起き上がったが、歯型やキスマークだらけの身体を直視できずに、真っ赤な顔をさりげなく逸した。
操が手を伸ばし、ゴソゴソと浴衣を引き寄せている。袖を通しただけで帯はしなかったが、剥き出しの面積が減っただけでも幾らかホッとして胸を撫で下ろす。
「あ、あの、操……」
おずおずと目をやりながら、潜めた声をかけてみる。すると操が真剣な眼差しで甲洋を見た。
「甲洋」
「は、はい!」
ぜったい怒られる! と思いながらシャンと背筋を伸ばした甲洋の頬に、操が片手を伸ばしてきた。そっと触れながらまんまるの目で見つめられ、ことりと首を傾げる。
「操?」
「昨日、おれの名前……」
「名前?」
ふたりしてキョトンとしながら瞬きしあい、やがて操がふっと笑って手を下ろす。
「……うぅん。なんでもないや」
「どうかしたの?」
「んー? やっぱり甲洋は甲洋だなって思っただけ!」
「?」
おかしそうに笑って肩をすくめる操に、よく分からないが甲洋もつられて笑みを浮かべた。昨夜のことは反省しなきゃと思うけど、身体も気分も満たされてスッキリしている。
甲洋はふと、浴衣の裾から剥き出している操の右足に視線をやった。その脛には古いものと思しき傷跡が、うっすらと残されている。
「……」
今までは聞くに聞けなかった。触れていいものなのか分からずに、遠慮してしまっていたのだ。ただ、見ているとやけに胸が騒ぐ。この気持ちがなんなのかを確かめたくて、甲洋は少しだけ勇気を振り絞ることにした。
「あの、操」
「なに?」
「その傷……」
軽く指をさすと、操は自分の右足の脛に視線を落とし、愛しげに目を細めた。
「これは、罰と証だよ」
「罰と、証?」
操が頷いて甲洋を見る。
「君を傷つけた罰と、君がおれの神様だってことの証──ねぇ、甲洋」
白い手が、布団の上にある甲洋の手の甲にそっと重ねられた。
「覚えていてね。おれが嘘つきだったこと。君をずっと愛してること」
「操……」
「大好き。おれの神様」
そう言って、操が傾けた頭を肩に預けてくる。かすかな重みと柔らかいぬくもりを受け止めながら、甲洋には漠然と感じるものがあった。操の記憶は甲洋の記憶。彼は自分が失くしてしまったものを、いつまでだって大切に持っていてくれる。だからきっと、操の罪は甲洋の罪でもあるのだろうと。
「──俺にとっては」
「ん」
「俺にとっては、操が神様だよ」
小さくて可愛い、甲洋だけの神様。いつか思いだせる日が来たら、操の足に残るこの傷跡を、今よりもっと深く愛しいと思えるようになるのかもしれない。
うん、と頷いた操の声は、なぜか少しだけ泣きそうに上ずっていた。彼はそれを誤魔化すみたいにイタズラっぽく笑って顔をあげると、甲洋の腕に抱きついて頬にちゅっとキスをする。
「わっ」
「すごかったよ、昨日の君」
「ッ!」
「またしようね。いっぱい」
甲洋はかぁっと頬を赤らめた。あまり思いださせないでほしい。散々したのに、またあそこがおかしくなってしまいそうな気がする。だけど嬉しいと感じてしまう自分は、やっぱりスケベなんだと思う。こくんと素直に頷くと、操が嬉しそうに「えへへ」と笑った。
「お風呂はいろ! そしたら朝ご飯にしようよ。玉子焼き、うーんと甘くしてあげる!」
布団も干さなきゃと言いながら立ち上がろうとした操が身体をよろめかせたので、甲洋はそれを支えながらまた頷くと、はにかみながら笑顔を浮かべた。
種の月喰 / 了
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