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恥をかいた。
出張先の宿で、それはもう完膚なきまでに。
今まで生きてきて、あれほど恥ずかしい体験をしたのは初めてだったかもしれない。
問題の『部分』は自分でも全く自覚していなかっただけに、その降って沸いたようなコンプレックスに、ファイは頭を悩ませていた。
「く、黒様せんせ、ちょっと待って」
ベッドの側面に背を預けながら床に腰を下ろすファイは、迫ってくる黒鋼の顔に手の平をぺったりと押し付けて、その接近を拒んだ。
「なんだよ」
怪訝そうに漏らされるくぐもった声や息遣いを手の平に感じながら、ファイは落ち着かない気分で目を泳がせた。何か言おうとして震わせた唇に乾きを覚え、無意識に舌で湿らせると手首を掴まれ、引き剥がされる。
「どうした。気が乗らねぇならそう言え」
今にも覆いかぶさろうとして四足の獣のような体勢でいた黒鋼が、すっと身を引こうとするので慌てて首を振りながらその胸に縋りつく。
「そうじゃないよ! 乗ってるよ! 二十四時間、気分は常に!」
「……それもどうかと思うぞ」
呆れたような物言いをする彼だが、ファイがいつもと様子が違うことには気が付いたようだった。急かすでもなく反応を見守ろうとする紅い瞳に、つい赤面しつつ視線を俯けてしまう。
ファイの部屋で夕飯を済ませて、二人揃って黒鋼の部屋に戻ってくるのはいつものことだ。翌日に何もなければそのままの勢いで致してしまうのも、今ではすっかり当たり前になっている。
ただ違うのは、先週はファイが出張で部屋を数日開けていたということだ。本当なら毎日でもしたいところを我慢している身の上としては、一度でも週末を逃せば相当、溜まる。
それは黒鋼も同じのようで、今夜は特に身を寄せるのが早かったように思う。
はっきり言って嬉しい。我慢しているのが自分だけではないことや、すっかりその気になって色を覗かせる紅い瞳に射抜かれると、もうどうにでもして欲しいという気分になる。
だからしたい。今すぐにでも繋がりたい。だけど、行為が始まる前に、今日はどうしても伝えておきたいことがあった。
「あ、あのね」
「ん」
「今夜は、脱ぎたくないの……」
風呂上りはもっとラフな格好をするのが常で、大体の場合は黒鋼のTシャツやジャージを適当に引っ張り出して着ることがほとんどだった。
だが、今夜はそういう気分になれなかった。風呂も自室で済ませたし、だから着替えも自前である。
白いシャツを着込んだファイは、通常であれば幾つか外しておくボタンを喉元まできっちりはめていた。
黒鋼は不審そうに眉を寄せ、微かに首を傾げる。
「脱がねぇでどうすんだよ、脱がねぇで」
「あ、あの、下はいいんだけど……上には触れないでおいてくれないかなって」
「……何かあ」
「ない!」
黒鋼の問いかけに、つい食い気味で答えてしまった。これでは何かありましたと正直に言っているようなものだ。ファイはバツが悪そうに苦い顔をして、シャツの胸元をギュッと握りしめた。
どうしても、この服の下は見られなくない。理由も、できれば聞かれたくなかった。それはファイにとって忌まわしい記憶でしかないからだ。
「と、とにかく……嫌なんだよ。ほら、寒いし……」
「下半身はいいのか」
「あー、うん、そう。上半身だけが今日はやけに冷える気が」
「おいこら」
「むぎゃっ」
目を逸らしていたファイの鼻が、黒鋼の指先に思いっきり摘まれた。おかげで妙な声を上げながら上向かされてしまったファイは、至近距離でじっとりと睨み付けてくる黒鋼と目を合わせることになってしまった。息が詰まりそうになったが、悟られぬように目をぎゅっと閉じた。
「い、いたいよぉ~っ! 鼻呼吸妨害しないで~!」
「ったく……」
黒鋼はふんと鼻を鳴らして、すぐに指先を遠ざけた。ひりつく鼻を摩りながら涙目になっているファイを、探るように見つめたあと「まぁいい」と短く吐き捨てた
*
黒鋼は上を、ファイは下を脱いだ状態で場所をベッドの上に移動した。
組み敷かれた状態で唇を受け止め、ゆっくりと時間をかけて互いの舌と唾液を絡めあう。深まる接吻に呼吸さえも奪われて、口腔を蹂躙されながら太い首に両腕を回すことに必死になった。
気づけば、シャツのボタンが二つほど外されて鎖骨が露わになっていた。咄嗟に身体をビクつかせたが、黒鋼の指はとっくにそこを離れていて、それ以上皮膚を露出させるつもりはないようだった。
「は、んっ」
ぴちゃりという水音が大きく響いた。首筋に這わされる舌の熱さに皮膚が粟立つ。喉仏を舌先でくすぐられると、恥ずかしいくらい吐息が震えた。そのまま薄い皮膚に軽く歯を立てられるだけで、腰がビクビクと跳ねてしまうのを抑えられない。
黒鋼の大きな手が、シャツの上から片方の胸に這わされた。身を強張らせたファイに、彼は耳元で小さく笑う。
「警戒すんな。脱がさねぇよ」
「んっ、ぅん……」
「ただ」
「?」
赤く肉厚な舌で、黒鋼は誘うように己の下唇をぞろりと舐める。腹を空かせた獣のような仕草に、心臓が大きく高鳴り、一瞬で皮膚の内側を焼かれたような熱さを感じた。
「どうせ長くもたねぇのはてめぇの方だぜ」
「な、ん……?」
どういう意味だろう。黒鋼が醸し出す絶対的な自信に、根拠を見つけられない。
深く考える隙を与えず大きな手が胸の上をゆるゆると這い、やがて見つけた一点を布ごときゅうっと摘み上げる。
「あッ!」
「もう固くなってんじゃねぇか。シャツの上からでもよく分かるぜ」
そのままグリグリと押しつぶすように刺激されて、ファイは嫌々と首を振る。咄嗟に黒鋼の太い手首を掴んで遠ざけようとするが、まるで力が入らなかった。
「だ、だめ……そこ、触っちゃダメだよ……」
涙目で訴えても、黒鋼はただ口の端を歪めるだけだった。布ごと擦られると、その摩擦に敏感な場所が熱くなる。たったこれだけでもどかしいと感じてしまったファイは、ようやく黒鋼の言葉を理解した。
悪戯な指先はもう片方の粒も簡単に探り当ててしまう。中指と親指で乳輪ごとぎゅうっと摘ままれ、人差し指の爪で小さな先端を引っ掻かれると、直に触れられるのとはまた違った感覚が鈍痛のように身体中を駆け巡る。
「見ろよ。すっかり勃っちまって。結構くるな、これ」
「や……ッ」
ピンッと弾かれて、身体が跳ねた。
視線を胸へとやれば、そこはシャツの白い生地をツンと押し上げ、小さく勃起しているのが分かる。これは確かに直接見るよりもずっといやらしい。
墓穴を掘っただろうかと、僅かにもたげる後悔をすぐに追いやった。なぜならどんなに恥ずかしくても、もどかしくても、今のファイはこのはしたなく尖る二つの乳首を、直に見られることが我慢ならないのだ。
だから絶対に今夜はシャツを脱ぎたくなかった。なぜかなんて、理由すら今は思い出したくない。
「じれってぇだろ? 直接いじった方がいいんじゃねぇか?」
「だ、ダメ……」
強情なファイに、黒鋼はやれやれといった様子で鼻から息を吐き出した。けれどそれ以上は無理強いしてこない。彼は彼でこの遊びが気に入ったらしく、薄い布を押し上げる粒を刺激することに専念しはじめた。
「ね、ねぇ、そこ、もういいから……」
早く次に移ってほしい。黒鋼の下でファイの性器はすっかり勃ちあがっていて、彼もそれに気づいているはずだった。
どうにかして他に気を逸らしてほしくて、肩を押して遠ざけようとしても、ピクリとも動かない。それどころか、彼は指先で弄ぶだけでは我慢できなくなったのか、胸に顔を埋めるとシャツ越しに問題の個所へ舌を這わせた。
「ッ!?」
指よりも、それはずっと柔らかくて最初はただくすぐったいだけだった。だが、布はすぐに黒鋼の舌から唾液を吸収し、皮膚にぴったりと張り付きながら色を変えていく。そこだけが濡れて、僅かに皮膚が透けるのを見て、ファイの口から拒絶の悲鳴が漏れる。
「だ、ダメだってば! そんなことしないで!」
これではせっかく上を着込んでいる意味がない。両手で黒髪を掴んで引き剥がしにかかるが、黒鋼はやっぱり聞くつもりがないようで、湿った布ごときゅっと歯を立てられる。
声にならない声が喉の奥で脆弱に震えた。指よりも絶対的な刺激だけれど、やっぱり間に一枚挟んでいるだけでもどかしい。狂おしさに拍車がかかるだけだった。
黒鋼はもう片方へ唇を移動させた。そこもみるみるうちに湿り、皮膚を透けさせ、勃起した乳首に緩く歯を立てられる。黒鋼は、そのまま頭を左右に振って刺激したかと思うと、じゅうっという音を立てて強く吸い上げた。
「ひぁッ、あっ、あぁ……ッ!」
ファイが身を震わせながら甘い声を漏らすことに気をよくした彼は、もう片方の乳首も指先で摘み上げてこねくり回す。
もう何がなんだか、ただ熱く痺れる感覚に頭の中を掻きまわされているような気がした。いつもよりずっと快感が強い。だけど、それと比例して物足りなさも競りあがる。これを直接されたら、どうなってしまうんだろう。邪魔なシャツを剥ぎ取って、赤く熟れたようになっているであろう二つの粒に歯を立てられたら。
(して、ほしい……)
自分の堪え性のなさに、一気に涙が噴出した。
彼の言った通りだ。長くもたないのはファイの方だった。今にもシャツを真ん中から強引に引き裂いてほしい。じんじんと痛む場所を存分に嬲ってほしい。
(だけど……だけど……)
どうしても見られたくない『理由』がある。あまりにも恥ずかしくて、絶対に誰にも言えないけれど。
どうしてこんな風になってしまったんだろう。いっそ気づかないままでいられたらよかったのに。
(我慢、しなきゃ……でも、もう……)
このままじゃ気が狂ってしまう。
ファイは戦慄く唇をぎゅうっと噛み締めた。
きっと黒鋼はこちらが根を上げるまでこの遊びをやめるつもりはない。こんなときばかり、どこまでも意地が悪い男だ。
それほどまでに知り尽くされているということに悦びも感じながら、涙の色に悔しさも混ざる。でも、これ以上は限界だ。
「もう……ッ、や!」
切羽詰まったその声に、黒鋼はやっと顔を上げた。ファイの泣き顔を見て、ふっと笑って見せる。
「嫌か? 何が?」
「ッ、いいから……そこ、もう……」
「だから何が」
「~~~ッ」
やっぱり意地が悪い。だけどもうどうでもよかった。どうせ苛められるのが好きな身体だ。女みたいにされてしまった身体だ。
ファイはひゅっと息を吸い込むと、命乞いするように鬼気迫った声で懇願した。
「触ってほしいの! シャツ破いていいから! 乳首もどかしいの、もう嫌なの!」
言ってしまうと楽にはなったが、後悔も押し寄せる。羞恥に燃え上がる顔を両手で隠していても、黒鋼がふっと笑うのが気配で分かった。
言わせたのは自分のくせに、彼は「しょうがねぇな」とわざと呆れたように言うと、ゆっくりとシャツのボタンを外しにかかった。
涙で潤んだ瞳を指の隙間から覗かせて、ファイはしゃくりあげそうになる息をどうにか飲み込む。
(ああ、見られちゃう……隠していたかったのに、恥ずかしいの見られちゃう……)
心臓が早鐘のように打つのに合わせて、呼吸がみっともなく弾む。恐れと期待が混在している。
今にも真ん中から合わせ目を引き裂いて欲しかったのに、黒鋼は殊更ゆっくりボタンを外した。じれったさを下唇ごと噛み締めて堪えていると、そっとシャツの合わせを開いた黒鋼の息が、ふ、と薄い肌をくすぐった。
嫌でも視線を感じてしまい、ファイは涙を溢れさせてくしゃりと表情を歪めた。
「み、見ないで……」
「すげぇ真っ赤になってんじゃねぇか。分かるか?」
「やだよ……やだ……」
露わになった乳輪をくるりと指先でなぞられる。中心でそそり勃つ乳首が弾けそうなほど膨れ上がっていた。見ていられなくて、目を閉じると顔を背ける。
「相変わらずいやらしいな、おまえのここは」
「ぃ、や……言っちゃダメ……」
「見ろよ。パンパンに膨らんじまって」
「ッ、ぅ……お願いだから言わないで……恥ずかしいの……」
「今更だろ」
黒鋼が何気なく放ったその一言が、今のファイにはナイフのように胸に突き刺さる。
そう、今更。真っ赤に熟れた乳首だけじゃない。恥ずかしいところは嫌というほど見られてきたし、見られると感じてしまうくらい身体も敏感にされてしまった。
だけど、刺さる。ファイは先週行った出張先でのことを思い出した。忘れてしまいたいけれど、あのとき経験した屈辱が脳裏に張り付いて離れない。
そう、あのときファイは……。
「一体なにを気にして隠していやがった?」
「…………」
「どこも変わったところは見られねぇが……」
そう言って、黒鋼は赤く尖った粒の一つをきゅっと摘まんだ。ずっと欲しかった直接の刺激に、ファイは子犬のような甲高い声を漏らす。
「なぁ、言えよ」
「や、ぁ! 言わない……言いたいくない……ッ」
「強情だな。その分ここは素直だぜ?」
両方の乳首を摘ままれ、捻りを加えながら引っ張られる。痛みと一緒に甘い快感が駆け抜けた。こうされると、いつもどうしようもなく乱されてしまうけれど、今日はじれったい前置きがあったせいか、より敏感になっているようだった。
ファイはシーツに両手を這わせると、指先が白くなるほどそれを掴んで身悶えた。
「だめ! 引っ張っちゃ嫌だ……ッ、千切れちゃう……!」
これ以上そんな風に刺激されたら、形が変わってしまう。ただでさえもう手遅れなのに。
存分に痛みを与えられたあとは、ついに黒鋼の唇がそこに押し付けられた。拒絶しながらも待ちわびていた感覚に気が遠くなる。わざと大袈裟に水音を奏でながら、彼は吸い付いた乳首を舌で潰すようにこねまわした。指と、舌と、歯と。全てを存分に使ってこれでもかというほど嬲られる。
シャツ越しの刺激も決して悪くはなかったけれど、やっぱりこうしてダイレクトに刺激される方が圧倒的に気持ちいい。腰から下がドロドロに溶けてしまいそうだった。
「ふぁっ、アッ、あぁ……! も、だめ、ちくび、壊れる……ッ」
「また少し膨らんだか?」
「う、そ……? やだ、もうダメ、もうダメ、黒様……!」
(気持ちいい……気持ちいい……なんか、くる……!)
ひときわ強く吸い上げられた瞬間、ファイは大きく腰をビクつかせた。
勢いよく吐き出された白濁が黒鋼とファイの腹を濡らす。流石の黒鋼も驚いたのか、僅かに目を見開いて動きを止めた。
「……イったのか?」
「ふ、ぅ……ッ、うぅ……」
黒鋼以上に衝撃を受けているのはファイの方だ。自分の身体に起こった出来事があまりにもショックで、ファイはいよいよ声を出してすすり泣いた。
*
「なるほどな……」
ベッドの上で胡坐をかき、難しい表情で腕を組む黒鋼の向いで、ファイは背もたれに背を預けながら膝を抱えてしくしくと泣いていた。
結局、あの日のことを全て吐くことになってしまった。
思い出したくなかったし、忘れてしまいたかった。でも、乳首だけで達してしまうほど開発されてしまった身体から、目を背けても意味がないと思えた。
それに、これから先も黒鋼とは身体を重ねていくことになるのだから、いつまでも隠し通せるものではないのだし。
「で、てめぇはそのあとどうしたんだ」
「うん……」
全ての事情は、こうだった。
出張先はちょっとした田舎の温泉街だった。
その中でも古めかしい温泉宿に宿泊したファイは、せっかくだから温泉を堪能しようと大浴場へ向かった。
広い脱衣所には他にも多くの宿泊客が着替えをしていて、ファイはどうにか隅っこに開いている棚のスペースを見つけて、そこで衣服を脱ぎ始めた。
人は多いようだが、備え付けのパンフレットで見た浴槽は、泳げそうなほど広い印象を受けたし、何より露天風呂もある。今回は一人だが、いつか黒鋼と一緒に来られたらいいなと、気分が高揚していた。
そこでふと、上半身をすっかり露出したファイは視線を感じた。それはすぐ隣から向けられていて、見れば幼稚園くらいの少年がじっとファイを見上げている。
なぁに? と視線だけで問うと、彼はファイを指さして大声で言った。
「このお兄ちゃん、おっぱい凄いピンクだよ! ねぇお父さん!」
その場が一気にわざついた。それほどまでに、少年の声はよく通った。
全裸、または半裸のあらゆる世代の男たちが、一斉にファイの方を見た。ファイは一瞬、なにを言われているのか理解が追い付かず、ただ硬直するばかりだった。
「このお兄ちゃんね、お母さんよりおっぱいがピンクなの! お父さんのおっぱいは茶色いのに、どうしてー?」
少年の父親が、局部丸出しで屈み込み、息子の口を手で塞いだ。そして「すみませんすみません」と繰り返し、大急ぎで息子を抱えて浴場へ消えていった。
残されたファイは、茫然としながらもようやく辺りの視線に気づいた。中には「見事ですなー」なんて言いながら覗き込んでくる老人もいて、一気に全身の血液が沸騰した。
もう温泉どころの騒ぎではなかった。ファイは慌てて一度は脱いだ服を身に着けると、なぜか律儀にぺこりと頭を下げてその場から逃げだした。
「結局、部屋に備え付けられたシャワーだけで済ませたよ……オレ、もう二度と温泉なんか行かないから……」
立てた両膝に顔を埋めて、ファイはまた泣き出した。
あの少年に指摘されるまで、全く気がついていなかった。あのあと、部屋で恐る恐る自分の胸を見てみたら、確かに男性にしては少し艶めかしい色合いというか、形状というか、自分でいうのもなんだが……いやらしかった。
昔はこんな色じゃなかった。周りの皮膚とかろうじて見分けがつくくらいの、薄い桃色だったような気がするのだが、そこは記憶の中よりもずいぶん色味を増して、しかも乳輪もふっくらとしているようだった。
戸惑いがちに自ら触れた乳頭も、僅かに芯が通っただけで恥ずかしいくらいぷっくりと膨れ上がった。色も大きさも形も、明らかに昔とは違っていた。
「なんか、恥ずかしくなっちゃって……こんなやらしい乳首、もう誰にも見せられないよぉ……」
黒鋼が、どこか重々しい息を漏らすのが聞こえた。
彼にとっては今更でも、コンプレックスというものは傍からは分からないほど、本人の中では根深いものだったりする。
なまっちろくて、なかなか日に焼けない肌の上で、その色づいた乳首はあまりにも目立つ。じろじろと覗き込んできた老人のニヤけた顔や、大人数から注がれた視線を思い出すと、吐き気がしそうだった。
一応は自分の中にまだ男性としてのプライドが根づいていたことを、思いがけない形で自覚させられたような気分でもある。
「話は分かった。いつまでもメソメソすんな」
「黒たん先生には分かんないよ……オレの気持ちなんか……」
「いいからちょっと来い」
黒鋼の腕が伸びて、両膝を抱えていた手首を強く掴まれた。泣き濡れた顔を上げたファイは、引っ張られるままに身を寄せる。
ちょうど黒鋼の広い胸板に背中を預けるような形で、胡坐をかいた足の中心にちょこんと座らされる。
固い筋肉が美しく乗った両腕が、ファイの華奢な身体を包み込むように抱きしめた。大きな揺り籠に身を預けているような安心感に、無意識にほぅっと息が漏れる。
「誰にも見せられない、じゃねぇだろ」
そう言いながら、ファイの耳元に鼻先を埋めた黒鋼が、確かめるようにすんと鼻を鳴らした。
「他の誰にも見せんな。俺のもんだ」
「く、黒様……」
「おまえをこんな風にしちまったのは俺だろうが」
改めて言われると顔中が一気に熱くなって、恥ずかしい気持ちになった。同じ恥ずかしさでも、あの脱衣所と今とではまるで違う。黒鋼の言葉がじんと胸に沁み込んで、心の中でずっとモヤモヤとしていた嫌な感情を、ゆっくりと包み込んでいく。
「黒たんが」
こんな風にした。黒鋼がファイを淫乱にしてしまったし、胸の形だってそう。黒鋼がしつこいくらい苛めるから、どんどん色づいていやらしい形になってしまった。
分かってはいたけれど、やっぱりどうしようもなく顔が熱くて吐き出す息が震えてしまう。
嬉しいという気持ちと、まだどこか受け入れがたい変化への不安。それでもこれが彼の色に染まるということなら、もっともっとしてほしいと思う。
どうせもう、男としては機能しない。黒鋼にだけ愛されたいし、愛したい。
「責任、ちゃんと取ってくれる?」
こんな風にしたんだから。黒鋼がふっと笑う息が耳の中に入り込んできて、顔だけでなく身体も熱くなる。
「何べん言わせりゃ気が済むんだ? おまえは」
男らしく節くれだった手が、ファイの細い顎にかかった。向きを変えられ、唇が合わさる。少し苦しい体勢だったが、そんなことはどうでもいいと思えるくらい、その口づけは深くて甘かった。
舌先をじゃれ合わせ、ちゅっと音を立てて吸い合ってから離れた唇は、名残惜しそうに糸を引いた。
のぼせたようにぼんやりとした目をしたファイは、腰の辺りに感じる硬い感触に落ち着かない気分になって、居住まいを正すように身じろいだ。
「……黒様の、当たってる」
「そりゃこうなるだろ」
いつものことなのに、あっけらかんと言われてしまうと妙に照れるのはなぜだろう。かくいうファイも直接的には刺激を受けていない性器を腫らして、先走りを滲ませている。
黒鋼の指先が濡れた鈴口を緩く擦ると、「あん」という情けない声が漏れた。
「おまえも責任取れよ」
我慢がきかない身体になってしまったのは、黒鋼も同じだった。
*
「ひ、ぁ、アッ、凄い……!」
少し不安になるくらい、ベッドがギシギシと音を立てていた。
後ろから貫かれて同時に達したあと、そのまま抜かずに体勢を変え、今度は正面から受け入れている。
限界まで割開いた両足は、律動の圧がかかる度に股関節が軋み、もういっそ感覚がない。
黒鋼が突き上げる度にファイの性器からは蜜が溢れた。さっきからずっとこの状態で、絶頂に終わりが見えなかった。いつまでも高みに押しやられたまま、心も身体も止まらない。満たされすぎて、溺れそうだった。
「やっ、ぃ……ッ、だ、め! そこ、もう痛い……ッ」
揺さぶられながら膨らんだ乳頭を親指で押し潰される。鈍痛の痺れにファイの白い足先がピンと張った。
やだ、やだ、と甘い声で拒んでも、黒鋼は唇を笑みの形に歪めるだけで、嬲るのをやめない。逞しい二の腕にそれぞれ両手を這わせ、焼けた素肌に爪を立てることが、せめてもの意趣返しだった。
「ッ、いじると締まるな……分かるか?」
「んんっ、ぁ、わ、かる……おしり、きゅって、ッ、なって……ひぁ、あ、はずか、し……ッ」
乳首を刺激される度に、穿たれる孔が収縮を繰り返すのが分かる。痛くて、恥ずかしくて、怖いくらい気持ちがいい。
黒鋼の額に滲む汗や、堪えるように奥歯を噛み締めている姿に心が震える。
中で屹立がさらに膨らんだ。敏感な肉壁を擦り上げ、ぐん、と突き上げられる度に、呼吸と思考が同時に止まる。
黒鋼がファイの胸に顔を埋めた。あまりにも熱を持ちすぎた乳首に押し付けられた舌を、一瞬だけ氷のように冷たく感じる。
でもそれはすぐに身体の隅々にまで行きわたる灼熱の痺れに変わった。
散々嬲られて、もういっそ痛いくらいなのに、足りない。二の腕に這わせていた両手を黒鋼の頭部に回して、ぐしゃぐしゃと乱しながら身を捩る。
「あぁッ、ア、ア、もっと……! もっといじめて、乳首、もっと……ッ、噛んで……!」
「ッ、ん」
黒鋼の低い声が、ほんの少しだけ掠れる。彼は存分に乱れ狂うファイの赤い粒を思うさま舌先で嬲り、それから前歯で緩く歯を立てた。
「ッ、ぃ、! ぁ……――ッ!!」
目の前が真っ白になるのを感じながら、叩きつけられるような絶頂感を味わった。かろうじて意識を繋ぎ止めていられたのは、中で弾けた黒鋼の白濁が、あまりにも熱かったからだ。
獣じみた呻きを漏らした彼は、焦点が合わないまま弱々しく痙攣するファイの頬に汗ばんだ額を擦り付けた。甘えたような仕草にファイは少しだけ笑って、散々掻き乱してしまった頭部を優しく抱きしめた。
*
「うーん……これ、しばらくは洋服が擦れて痛いだろうねぇ……」
黒鋼の部屋の片隅で、ファイは姿見の前に立って自分の乳首をまじまじと見つめていた。流石に全裸で鏡の前に立つのはどうかと思い、シャワーの後に引っ張り出した黒鋼のジャージを履いている。だいぶ裾が余っているせいで、出ているのは足の爪先だけだ。
「黒たんせんせぇー! 絆創膏ないー?」
「あ? 何に使うんだよ」
「だからー、洋服擦れちゃうからー!」
「どれ」
洗面所から戻った黒鋼も身に着けているのはジャージの下だけだった。
彼はファイの背後に立ち、少し前屈みになると鏡に映っているファイの胸をじっと見つめる。時刻はもうじき昼だ。夜とは違った気恥ずかしさに、ファイは頬を染めた。
「明るい場所で見ると、改めてくるもんがあるな」
「もぉ……恥ずかしいんだからそういうこと言わないでよ……」
こうして鏡の前に二人揃うと、黒鋼の健康的で男らしい焼けた肌と、自分の貧弱でなまっちろい身体の対比が凄まじい。しかも散々嬲られた乳首はぷっくりと腫れあがり、つんと尖ったままだった。思わず両手でその二か所を覆う。
触るとやっぱりジンジンと痺れた。洋服の繊維なんかが擦れたら、激しく痛むに違いない。
「最近は男性用のブラジャーなんてのが流行ってるらしいな」
「真顔でなに言ってるの……」
「案外似合うんじゃねぇか?」
「あのねー! そんなの似合っても嬉しいわけないでしょー! だいたいオレより黒様の方がおっぱい大きいんだから、黒様がすればいいじゃん!」
「おまえジョークのセンスねぇな」
「黒たんにだけは言われたくないよー!!」
いわゆる『手ブラ』の状態で顔を赤らめ、キーキーと騒ぐファイから離れると、黒鋼はテレビ脇の引き出しを適当に漁った。
そして二枚の絆創膏を「おらよ」と言って手渡してくる。
「俺が貼ってやった方がいいか?」
「いいよ! バカー!」
ファイは片腕で胸を隠し、黒鋼の手から絆創膏を奪うと洗面所へ逃げ込んだ。
扉を閉めて、ホッと息を漏らす。なんだか色んな意味でどっと疲れた。
洗面所にも大きな鏡がある。覆っていた腕を外して、問題の個所に改めて視線をやった。
「…………」
(これから海とかプールとか行くとき、どうしたらいいんだろう……)
一瞬、頭の中にあの囚人服のようなボーダーの水着が浮かんだ。それを着ている自分を想像すると、なんだか間抜けで情けない気持ちになる。
(しばらく触らないでいたら……元に戻ったりしないかなぁ……)
今は充血して真っ赤になっているが、せめて色くらいは。元の薄桃に戻るだろうか。いや、考えてもみれば薄桃もそこはかとなく恥ずかしいような気はするけれど。
(触るなって言ったって、どうせあのイジメっ子は聞かないしなー……)
複雑だけど、これはきっと幸せな悩みだ。
洗面所の鏡の前で、ファイは諦めの心境を溜息に乗せて吐き出した。
←戻る ・ Wavebox👏
出張先の宿で、それはもう完膚なきまでに。
今まで生きてきて、あれほど恥ずかしい体験をしたのは初めてだったかもしれない。
問題の『部分』は自分でも全く自覚していなかっただけに、その降って沸いたようなコンプレックスに、ファイは頭を悩ませていた。
「く、黒様せんせ、ちょっと待って」
ベッドの側面に背を預けながら床に腰を下ろすファイは、迫ってくる黒鋼の顔に手の平をぺったりと押し付けて、その接近を拒んだ。
「なんだよ」
怪訝そうに漏らされるくぐもった声や息遣いを手の平に感じながら、ファイは落ち着かない気分で目を泳がせた。何か言おうとして震わせた唇に乾きを覚え、無意識に舌で湿らせると手首を掴まれ、引き剥がされる。
「どうした。気が乗らねぇならそう言え」
今にも覆いかぶさろうとして四足の獣のような体勢でいた黒鋼が、すっと身を引こうとするので慌てて首を振りながらその胸に縋りつく。
「そうじゃないよ! 乗ってるよ! 二十四時間、気分は常に!」
「……それもどうかと思うぞ」
呆れたような物言いをする彼だが、ファイがいつもと様子が違うことには気が付いたようだった。急かすでもなく反応を見守ろうとする紅い瞳に、つい赤面しつつ視線を俯けてしまう。
ファイの部屋で夕飯を済ませて、二人揃って黒鋼の部屋に戻ってくるのはいつものことだ。翌日に何もなければそのままの勢いで致してしまうのも、今ではすっかり当たり前になっている。
ただ違うのは、先週はファイが出張で部屋を数日開けていたということだ。本当なら毎日でもしたいところを我慢している身の上としては、一度でも週末を逃せば相当、溜まる。
それは黒鋼も同じのようで、今夜は特に身を寄せるのが早かったように思う。
はっきり言って嬉しい。我慢しているのが自分だけではないことや、すっかりその気になって色を覗かせる紅い瞳に射抜かれると、もうどうにでもして欲しいという気分になる。
だからしたい。今すぐにでも繋がりたい。だけど、行為が始まる前に、今日はどうしても伝えておきたいことがあった。
「あ、あのね」
「ん」
「今夜は、脱ぎたくないの……」
風呂上りはもっとラフな格好をするのが常で、大体の場合は黒鋼のTシャツやジャージを適当に引っ張り出して着ることがほとんどだった。
だが、今夜はそういう気分になれなかった。風呂も自室で済ませたし、だから着替えも自前である。
白いシャツを着込んだファイは、通常であれば幾つか外しておくボタンを喉元まできっちりはめていた。
黒鋼は不審そうに眉を寄せ、微かに首を傾げる。
「脱がねぇでどうすんだよ、脱がねぇで」
「あ、あの、下はいいんだけど……上には触れないでおいてくれないかなって」
「……何かあ」
「ない!」
黒鋼の問いかけに、つい食い気味で答えてしまった。これでは何かありましたと正直に言っているようなものだ。ファイはバツが悪そうに苦い顔をして、シャツの胸元をギュッと握りしめた。
どうしても、この服の下は見られなくない。理由も、できれば聞かれたくなかった。それはファイにとって忌まわしい記憶でしかないからだ。
「と、とにかく……嫌なんだよ。ほら、寒いし……」
「下半身はいいのか」
「あー、うん、そう。上半身だけが今日はやけに冷える気が」
「おいこら」
「むぎゃっ」
目を逸らしていたファイの鼻が、黒鋼の指先に思いっきり摘まれた。おかげで妙な声を上げながら上向かされてしまったファイは、至近距離でじっとりと睨み付けてくる黒鋼と目を合わせることになってしまった。息が詰まりそうになったが、悟られぬように目をぎゅっと閉じた。
「い、いたいよぉ~っ! 鼻呼吸妨害しないで~!」
「ったく……」
黒鋼はふんと鼻を鳴らして、すぐに指先を遠ざけた。ひりつく鼻を摩りながら涙目になっているファイを、探るように見つめたあと「まぁいい」と短く吐き捨てた
*
黒鋼は上を、ファイは下を脱いだ状態で場所をベッドの上に移動した。
組み敷かれた状態で唇を受け止め、ゆっくりと時間をかけて互いの舌と唾液を絡めあう。深まる接吻に呼吸さえも奪われて、口腔を蹂躙されながら太い首に両腕を回すことに必死になった。
気づけば、シャツのボタンが二つほど外されて鎖骨が露わになっていた。咄嗟に身体をビクつかせたが、黒鋼の指はとっくにそこを離れていて、それ以上皮膚を露出させるつもりはないようだった。
「は、んっ」
ぴちゃりという水音が大きく響いた。首筋に這わされる舌の熱さに皮膚が粟立つ。喉仏を舌先でくすぐられると、恥ずかしいくらい吐息が震えた。そのまま薄い皮膚に軽く歯を立てられるだけで、腰がビクビクと跳ねてしまうのを抑えられない。
黒鋼の大きな手が、シャツの上から片方の胸に這わされた。身を強張らせたファイに、彼は耳元で小さく笑う。
「警戒すんな。脱がさねぇよ」
「んっ、ぅん……」
「ただ」
「?」
赤く肉厚な舌で、黒鋼は誘うように己の下唇をぞろりと舐める。腹を空かせた獣のような仕草に、心臓が大きく高鳴り、一瞬で皮膚の内側を焼かれたような熱さを感じた。
「どうせ長くもたねぇのはてめぇの方だぜ」
「な、ん……?」
どういう意味だろう。黒鋼が醸し出す絶対的な自信に、根拠を見つけられない。
深く考える隙を与えず大きな手が胸の上をゆるゆると這い、やがて見つけた一点を布ごときゅうっと摘み上げる。
「あッ!」
「もう固くなってんじゃねぇか。シャツの上からでもよく分かるぜ」
そのままグリグリと押しつぶすように刺激されて、ファイは嫌々と首を振る。咄嗟に黒鋼の太い手首を掴んで遠ざけようとするが、まるで力が入らなかった。
「だ、だめ……そこ、触っちゃダメだよ……」
涙目で訴えても、黒鋼はただ口の端を歪めるだけだった。布ごと擦られると、その摩擦に敏感な場所が熱くなる。たったこれだけでもどかしいと感じてしまったファイは、ようやく黒鋼の言葉を理解した。
悪戯な指先はもう片方の粒も簡単に探り当ててしまう。中指と親指で乳輪ごとぎゅうっと摘ままれ、人差し指の爪で小さな先端を引っ掻かれると、直に触れられるのとはまた違った感覚が鈍痛のように身体中を駆け巡る。
「見ろよ。すっかり勃っちまって。結構くるな、これ」
「や……ッ」
ピンッと弾かれて、身体が跳ねた。
視線を胸へとやれば、そこはシャツの白い生地をツンと押し上げ、小さく勃起しているのが分かる。これは確かに直接見るよりもずっといやらしい。
墓穴を掘っただろうかと、僅かにもたげる後悔をすぐに追いやった。なぜならどんなに恥ずかしくても、もどかしくても、今のファイはこのはしたなく尖る二つの乳首を、直に見られることが我慢ならないのだ。
だから絶対に今夜はシャツを脱ぎたくなかった。なぜかなんて、理由すら今は思い出したくない。
「じれってぇだろ? 直接いじった方がいいんじゃねぇか?」
「だ、ダメ……」
強情なファイに、黒鋼はやれやれといった様子で鼻から息を吐き出した。けれどそれ以上は無理強いしてこない。彼は彼でこの遊びが気に入ったらしく、薄い布を押し上げる粒を刺激することに専念しはじめた。
「ね、ねぇ、そこ、もういいから……」
早く次に移ってほしい。黒鋼の下でファイの性器はすっかり勃ちあがっていて、彼もそれに気づいているはずだった。
どうにかして他に気を逸らしてほしくて、肩を押して遠ざけようとしても、ピクリとも動かない。それどころか、彼は指先で弄ぶだけでは我慢できなくなったのか、胸に顔を埋めるとシャツ越しに問題の個所へ舌を這わせた。
「ッ!?」
指よりも、それはずっと柔らかくて最初はただくすぐったいだけだった。だが、布はすぐに黒鋼の舌から唾液を吸収し、皮膚にぴったりと張り付きながら色を変えていく。そこだけが濡れて、僅かに皮膚が透けるのを見て、ファイの口から拒絶の悲鳴が漏れる。
「だ、ダメだってば! そんなことしないで!」
これではせっかく上を着込んでいる意味がない。両手で黒髪を掴んで引き剥がしにかかるが、黒鋼はやっぱり聞くつもりがないようで、湿った布ごときゅっと歯を立てられる。
声にならない声が喉の奥で脆弱に震えた。指よりも絶対的な刺激だけれど、やっぱり間に一枚挟んでいるだけでもどかしい。狂おしさに拍車がかかるだけだった。
黒鋼はもう片方へ唇を移動させた。そこもみるみるうちに湿り、皮膚を透けさせ、勃起した乳首に緩く歯を立てられる。黒鋼は、そのまま頭を左右に振って刺激したかと思うと、じゅうっという音を立てて強く吸い上げた。
「ひぁッ、あっ、あぁ……ッ!」
ファイが身を震わせながら甘い声を漏らすことに気をよくした彼は、もう片方の乳首も指先で摘み上げてこねくり回す。
もう何がなんだか、ただ熱く痺れる感覚に頭の中を掻きまわされているような気がした。いつもよりずっと快感が強い。だけど、それと比例して物足りなさも競りあがる。これを直接されたら、どうなってしまうんだろう。邪魔なシャツを剥ぎ取って、赤く熟れたようになっているであろう二つの粒に歯を立てられたら。
(して、ほしい……)
自分の堪え性のなさに、一気に涙が噴出した。
彼の言った通りだ。長くもたないのはファイの方だった。今にもシャツを真ん中から強引に引き裂いてほしい。じんじんと痛む場所を存分に嬲ってほしい。
(だけど……だけど……)
どうしても見られたくない『理由』がある。あまりにも恥ずかしくて、絶対に誰にも言えないけれど。
どうしてこんな風になってしまったんだろう。いっそ気づかないままでいられたらよかったのに。
(我慢、しなきゃ……でも、もう……)
このままじゃ気が狂ってしまう。
ファイは戦慄く唇をぎゅうっと噛み締めた。
きっと黒鋼はこちらが根を上げるまでこの遊びをやめるつもりはない。こんなときばかり、どこまでも意地が悪い男だ。
それほどまでに知り尽くされているということに悦びも感じながら、涙の色に悔しさも混ざる。でも、これ以上は限界だ。
「もう……ッ、や!」
切羽詰まったその声に、黒鋼はやっと顔を上げた。ファイの泣き顔を見て、ふっと笑って見せる。
「嫌か? 何が?」
「ッ、いいから……そこ、もう……」
「だから何が」
「~~~ッ」
やっぱり意地が悪い。だけどもうどうでもよかった。どうせ苛められるのが好きな身体だ。女みたいにされてしまった身体だ。
ファイはひゅっと息を吸い込むと、命乞いするように鬼気迫った声で懇願した。
「触ってほしいの! シャツ破いていいから! 乳首もどかしいの、もう嫌なの!」
言ってしまうと楽にはなったが、後悔も押し寄せる。羞恥に燃え上がる顔を両手で隠していても、黒鋼がふっと笑うのが気配で分かった。
言わせたのは自分のくせに、彼は「しょうがねぇな」とわざと呆れたように言うと、ゆっくりとシャツのボタンを外しにかかった。
涙で潤んだ瞳を指の隙間から覗かせて、ファイはしゃくりあげそうになる息をどうにか飲み込む。
(ああ、見られちゃう……隠していたかったのに、恥ずかしいの見られちゃう……)
心臓が早鐘のように打つのに合わせて、呼吸がみっともなく弾む。恐れと期待が混在している。
今にも真ん中から合わせ目を引き裂いて欲しかったのに、黒鋼は殊更ゆっくりボタンを外した。じれったさを下唇ごと噛み締めて堪えていると、そっとシャツの合わせを開いた黒鋼の息が、ふ、と薄い肌をくすぐった。
嫌でも視線を感じてしまい、ファイは涙を溢れさせてくしゃりと表情を歪めた。
「み、見ないで……」
「すげぇ真っ赤になってんじゃねぇか。分かるか?」
「やだよ……やだ……」
露わになった乳輪をくるりと指先でなぞられる。中心でそそり勃つ乳首が弾けそうなほど膨れ上がっていた。見ていられなくて、目を閉じると顔を背ける。
「相変わらずいやらしいな、おまえのここは」
「ぃ、や……言っちゃダメ……」
「見ろよ。パンパンに膨らんじまって」
「ッ、ぅ……お願いだから言わないで……恥ずかしいの……」
「今更だろ」
黒鋼が何気なく放ったその一言が、今のファイにはナイフのように胸に突き刺さる。
そう、今更。真っ赤に熟れた乳首だけじゃない。恥ずかしいところは嫌というほど見られてきたし、見られると感じてしまうくらい身体も敏感にされてしまった。
だけど、刺さる。ファイは先週行った出張先でのことを思い出した。忘れてしまいたいけれど、あのとき経験した屈辱が脳裏に張り付いて離れない。
そう、あのときファイは……。
「一体なにを気にして隠していやがった?」
「…………」
「どこも変わったところは見られねぇが……」
そう言って、黒鋼は赤く尖った粒の一つをきゅっと摘まんだ。ずっと欲しかった直接の刺激に、ファイは子犬のような甲高い声を漏らす。
「なぁ、言えよ」
「や、ぁ! 言わない……言いたいくない……ッ」
「強情だな。その分ここは素直だぜ?」
両方の乳首を摘ままれ、捻りを加えながら引っ張られる。痛みと一緒に甘い快感が駆け抜けた。こうされると、いつもどうしようもなく乱されてしまうけれど、今日はじれったい前置きがあったせいか、より敏感になっているようだった。
ファイはシーツに両手を這わせると、指先が白くなるほどそれを掴んで身悶えた。
「だめ! 引っ張っちゃ嫌だ……ッ、千切れちゃう……!」
これ以上そんな風に刺激されたら、形が変わってしまう。ただでさえもう手遅れなのに。
存分に痛みを与えられたあとは、ついに黒鋼の唇がそこに押し付けられた。拒絶しながらも待ちわびていた感覚に気が遠くなる。わざと大袈裟に水音を奏でながら、彼は吸い付いた乳首を舌で潰すようにこねまわした。指と、舌と、歯と。全てを存分に使ってこれでもかというほど嬲られる。
シャツ越しの刺激も決して悪くはなかったけれど、やっぱりこうしてダイレクトに刺激される方が圧倒的に気持ちいい。腰から下がドロドロに溶けてしまいそうだった。
「ふぁっ、アッ、あぁ……! も、だめ、ちくび、壊れる……ッ」
「また少し膨らんだか?」
「う、そ……? やだ、もうダメ、もうダメ、黒様……!」
(気持ちいい……気持ちいい……なんか、くる……!)
ひときわ強く吸い上げられた瞬間、ファイは大きく腰をビクつかせた。
勢いよく吐き出された白濁が黒鋼とファイの腹を濡らす。流石の黒鋼も驚いたのか、僅かに目を見開いて動きを止めた。
「……イったのか?」
「ふ、ぅ……ッ、うぅ……」
黒鋼以上に衝撃を受けているのはファイの方だ。自分の身体に起こった出来事があまりにもショックで、ファイはいよいよ声を出してすすり泣いた。
*
「なるほどな……」
ベッドの上で胡坐をかき、難しい表情で腕を組む黒鋼の向いで、ファイは背もたれに背を預けながら膝を抱えてしくしくと泣いていた。
結局、あの日のことを全て吐くことになってしまった。
思い出したくなかったし、忘れてしまいたかった。でも、乳首だけで達してしまうほど開発されてしまった身体から、目を背けても意味がないと思えた。
それに、これから先も黒鋼とは身体を重ねていくことになるのだから、いつまでも隠し通せるものではないのだし。
「で、てめぇはそのあとどうしたんだ」
「うん……」
全ての事情は、こうだった。
出張先はちょっとした田舎の温泉街だった。
その中でも古めかしい温泉宿に宿泊したファイは、せっかくだから温泉を堪能しようと大浴場へ向かった。
広い脱衣所には他にも多くの宿泊客が着替えをしていて、ファイはどうにか隅っこに開いている棚のスペースを見つけて、そこで衣服を脱ぎ始めた。
人は多いようだが、備え付けのパンフレットで見た浴槽は、泳げそうなほど広い印象を受けたし、何より露天風呂もある。今回は一人だが、いつか黒鋼と一緒に来られたらいいなと、気分が高揚していた。
そこでふと、上半身をすっかり露出したファイは視線を感じた。それはすぐ隣から向けられていて、見れば幼稚園くらいの少年がじっとファイを見上げている。
なぁに? と視線だけで問うと、彼はファイを指さして大声で言った。
「このお兄ちゃん、おっぱい凄いピンクだよ! ねぇお父さん!」
その場が一気にわざついた。それほどまでに、少年の声はよく通った。
全裸、または半裸のあらゆる世代の男たちが、一斉にファイの方を見た。ファイは一瞬、なにを言われているのか理解が追い付かず、ただ硬直するばかりだった。
「このお兄ちゃんね、お母さんよりおっぱいがピンクなの! お父さんのおっぱいは茶色いのに、どうしてー?」
少年の父親が、局部丸出しで屈み込み、息子の口を手で塞いだ。そして「すみませんすみません」と繰り返し、大急ぎで息子を抱えて浴場へ消えていった。
残されたファイは、茫然としながらもようやく辺りの視線に気づいた。中には「見事ですなー」なんて言いながら覗き込んでくる老人もいて、一気に全身の血液が沸騰した。
もう温泉どころの騒ぎではなかった。ファイは慌てて一度は脱いだ服を身に着けると、なぜか律儀にぺこりと頭を下げてその場から逃げだした。
「結局、部屋に備え付けられたシャワーだけで済ませたよ……オレ、もう二度と温泉なんか行かないから……」
立てた両膝に顔を埋めて、ファイはまた泣き出した。
あの少年に指摘されるまで、全く気がついていなかった。あのあと、部屋で恐る恐る自分の胸を見てみたら、確かに男性にしては少し艶めかしい色合いというか、形状というか、自分でいうのもなんだが……いやらしかった。
昔はこんな色じゃなかった。周りの皮膚とかろうじて見分けがつくくらいの、薄い桃色だったような気がするのだが、そこは記憶の中よりもずいぶん色味を増して、しかも乳輪もふっくらとしているようだった。
戸惑いがちに自ら触れた乳頭も、僅かに芯が通っただけで恥ずかしいくらいぷっくりと膨れ上がった。色も大きさも形も、明らかに昔とは違っていた。
「なんか、恥ずかしくなっちゃって……こんなやらしい乳首、もう誰にも見せられないよぉ……」
黒鋼が、どこか重々しい息を漏らすのが聞こえた。
彼にとっては今更でも、コンプレックスというものは傍からは分からないほど、本人の中では根深いものだったりする。
なまっちろくて、なかなか日に焼けない肌の上で、その色づいた乳首はあまりにも目立つ。じろじろと覗き込んできた老人のニヤけた顔や、大人数から注がれた視線を思い出すと、吐き気がしそうだった。
一応は自分の中にまだ男性としてのプライドが根づいていたことを、思いがけない形で自覚させられたような気分でもある。
「話は分かった。いつまでもメソメソすんな」
「黒たん先生には分かんないよ……オレの気持ちなんか……」
「いいからちょっと来い」
黒鋼の腕が伸びて、両膝を抱えていた手首を強く掴まれた。泣き濡れた顔を上げたファイは、引っ張られるままに身を寄せる。
ちょうど黒鋼の広い胸板に背中を預けるような形で、胡坐をかいた足の中心にちょこんと座らされる。
固い筋肉が美しく乗った両腕が、ファイの華奢な身体を包み込むように抱きしめた。大きな揺り籠に身を預けているような安心感に、無意識にほぅっと息が漏れる。
「誰にも見せられない、じゃねぇだろ」
そう言いながら、ファイの耳元に鼻先を埋めた黒鋼が、確かめるようにすんと鼻を鳴らした。
「他の誰にも見せんな。俺のもんだ」
「く、黒様……」
「おまえをこんな風にしちまったのは俺だろうが」
改めて言われると顔中が一気に熱くなって、恥ずかしい気持ちになった。同じ恥ずかしさでも、あの脱衣所と今とではまるで違う。黒鋼の言葉がじんと胸に沁み込んで、心の中でずっとモヤモヤとしていた嫌な感情を、ゆっくりと包み込んでいく。
「黒たんが」
こんな風にした。黒鋼がファイを淫乱にしてしまったし、胸の形だってそう。黒鋼がしつこいくらい苛めるから、どんどん色づいていやらしい形になってしまった。
分かってはいたけれど、やっぱりどうしようもなく顔が熱くて吐き出す息が震えてしまう。
嬉しいという気持ちと、まだどこか受け入れがたい変化への不安。それでもこれが彼の色に染まるということなら、もっともっとしてほしいと思う。
どうせもう、男としては機能しない。黒鋼にだけ愛されたいし、愛したい。
「責任、ちゃんと取ってくれる?」
こんな風にしたんだから。黒鋼がふっと笑う息が耳の中に入り込んできて、顔だけでなく身体も熱くなる。
「何べん言わせりゃ気が済むんだ? おまえは」
男らしく節くれだった手が、ファイの細い顎にかかった。向きを変えられ、唇が合わさる。少し苦しい体勢だったが、そんなことはどうでもいいと思えるくらい、その口づけは深くて甘かった。
舌先をじゃれ合わせ、ちゅっと音を立てて吸い合ってから離れた唇は、名残惜しそうに糸を引いた。
のぼせたようにぼんやりとした目をしたファイは、腰の辺りに感じる硬い感触に落ち着かない気分になって、居住まいを正すように身じろいだ。
「……黒様の、当たってる」
「そりゃこうなるだろ」
いつものことなのに、あっけらかんと言われてしまうと妙に照れるのはなぜだろう。かくいうファイも直接的には刺激を受けていない性器を腫らして、先走りを滲ませている。
黒鋼の指先が濡れた鈴口を緩く擦ると、「あん」という情けない声が漏れた。
「おまえも責任取れよ」
我慢がきかない身体になってしまったのは、黒鋼も同じだった。
*
「ひ、ぁ、アッ、凄い……!」
少し不安になるくらい、ベッドがギシギシと音を立てていた。
後ろから貫かれて同時に達したあと、そのまま抜かずに体勢を変え、今度は正面から受け入れている。
限界まで割開いた両足は、律動の圧がかかる度に股関節が軋み、もういっそ感覚がない。
黒鋼が突き上げる度にファイの性器からは蜜が溢れた。さっきからずっとこの状態で、絶頂に終わりが見えなかった。いつまでも高みに押しやられたまま、心も身体も止まらない。満たされすぎて、溺れそうだった。
「やっ、ぃ……ッ、だ、め! そこ、もう痛い……ッ」
揺さぶられながら膨らんだ乳頭を親指で押し潰される。鈍痛の痺れにファイの白い足先がピンと張った。
やだ、やだ、と甘い声で拒んでも、黒鋼は唇を笑みの形に歪めるだけで、嬲るのをやめない。逞しい二の腕にそれぞれ両手を這わせ、焼けた素肌に爪を立てることが、せめてもの意趣返しだった。
「ッ、いじると締まるな……分かるか?」
「んんっ、ぁ、わ、かる……おしり、きゅって、ッ、なって……ひぁ、あ、はずか、し……ッ」
乳首を刺激される度に、穿たれる孔が収縮を繰り返すのが分かる。痛くて、恥ずかしくて、怖いくらい気持ちがいい。
黒鋼の額に滲む汗や、堪えるように奥歯を噛み締めている姿に心が震える。
中で屹立がさらに膨らんだ。敏感な肉壁を擦り上げ、ぐん、と突き上げられる度に、呼吸と思考が同時に止まる。
黒鋼がファイの胸に顔を埋めた。あまりにも熱を持ちすぎた乳首に押し付けられた舌を、一瞬だけ氷のように冷たく感じる。
でもそれはすぐに身体の隅々にまで行きわたる灼熱の痺れに変わった。
散々嬲られて、もういっそ痛いくらいなのに、足りない。二の腕に這わせていた両手を黒鋼の頭部に回して、ぐしゃぐしゃと乱しながら身を捩る。
「あぁッ、ア、ア、もっと……! もっといじめて、乳首、もっと……ッ、噛んで……!」
「ッ、ん」
黒鋼の低い声が、ほんの少しだけ掠れる。彼は存分に乱れ狂うファイの赤い粒を思うさま舌先で嬲り、それから前歯で緩く歯を立てた。
「ッ、ぃ、! ぁ……――ッ!!」
目の前が真っ白になるのを感じながら、叩きつけられるような絶頂感を味わった。かろうじて意識を繋ぎ止めていられたのは、中で弾けた黒鋼の白濁が、あまりにも熱かったからだ。
獣じみた呻きを漏らした彼は、焦点が合わないまま弱々しく痙攣するファイの頬に汗ばんだ額を擦り付けた。甘えたような仕草にファイは少しだけ笑って、散々掻き乱してしまった頭部を優しく抱きしめた。
*
「うーん……これ、しばらくは洋服が擦れて痛いだろうねぇ……」
黒鋼の部屋の片隅で、ファイは姿見の前に立って自分の乳首をまじまじと見つめていた。流石に全裸で鏡の前に立つのはどうかと思い、シャワーの後に引っ張り出した黒鋼のジャージを履いている。だいぶ裾が余っているせいで、出ているのは足の爪先だけだ。
「黒たんせんせぇー! 絆創膏ないー?」
「あ? 何に使うんだよ」
「だからー、洋服擦れちゃうからー!」
「どれ」
洗面所から戻った黒鋼も身に着けているのはジャージの下だけだった。
彼はファイの背後に立ち、少し前屈みになると鏡に映っているファイの胸をじっと見つめる。時刻はもうじき昼だ。夜とは違った気恥ずかしさに、ファイは頬を染めた。
「明るい場所で見ると、改めてくるもんがあるな」
「もぉ……恥ずかしいんだからそういうこと言わないでよ……」
こうして鏡の前に二人揃うと、黒鋼の健康的で男らしい焼けた肌と、自分の貧弱でなまっちろい身体の対比が凄まじい。しかも散々嬲られた乳首はぷっくりと腫れあがり、つんと尖ったままだった。思わず両手でその二か所を覆う。
触るとやっぱりジンジンと痺れた。洋服の繊維なんかが擦れたら、激しく痛むに違いない。
「最近は男性用のブラジャーなんてのが流行ってるらしいな」
「真顔でなに言ってるの……」
「案外似合うんじゃねぇか?」
「あのねー! そんなの似合っても嬉しいわけないでしょー! だいたいオレより黒様の方がおっぱい大きいんだから、黒様がすればいいじゃん!」
「おまえジョークのセンスねぇな」
「黒たんにだけは言われたくないよー!!」
いわゆる『手ブラ』の状態で顔を赤らめ、キーキーと騒ぐファイから離れると、黒鋼はテレビ脇の引き出しを適当に漁った。
そして二枚の絆創膏を「おらよ」と言って手渡してくる。
「俺が貼ってやった方がいいか?」
「いいよ! バカー!」
ファイは片腕で胸を隠し、黒鋼の手から絆創膏を奪うと洗面所へ逃げ込んだ。
扉を閉めて、ホッと息を漏らす。なんだか色んな意味でどっと疲れた。
洗面所にも大きな鏡がある。覆っていた腕を外して、問題の個所に改めて視線をやった。
「…………」
(これから海とかプールとか行くとき、どうしたらいいんだろう……)
一瞬、頭の中にあの囚人服のようなボーダーの水着が浮かんだ。それを着ている自分を想像すると、なんだか間抜けで情けない気持ちになる。
(しばらく触らないでいたら……元に戻ったりしないかなぁ……)
今は充血して真っ赤になっているが、せめて色くらいは。元の薄桃に戻るだろうか。いや、考えてもみれば薄桃もそこはかとなく恥ずかしいような気はするけれど。
(触るなって言ったって、どうせあのイジメっ子は聞かないしなー……)
複雑だけど、これはきっと幸せな悩みだ。
洗面所の鏡の前で、ファイは諦めの心境を溜息に乗せて吐き出した。
←戻る ・ Wavebox👏
「このどアホがーー!!」
バーンと扉を開けてブチ切れ金剛状態の黒鋼が入って来た瞬間、セミヌードだったファイはすかさずTシャツで胸を隠した。
「キャア! 黒たん先生のエッチ! ド変態!」
ただでさえキレまくっていた黒鋼は、イラッとするファイの仕草と聞き捨てならない台詞にさらにキレて、自慢の拳をうならせた。
ゴッチーン★
という音がしたところで、夕食の準備途中だったユゥイが顔を出す。
「おかえりなさい黒鋼先生。あれ? もう部屋用ジャージに着替え終わったんですか?」
黒いジャージの下と、同じく黒いTシャツ姿の黒鋼は苛立ちが治まらないらしく、握りしめたままの拳をワナワナとさせながら答える。
「着替えどころの騒ぎじゃねぇ! このタコのせいでな!!」
「ファイ、またなにかしたの?」
うつ伏せに倒れて頭の天辺に出来たタンコブから煙を上げているファイに、ユゥイがしゃがみ込んで問いかけた。
「き……記憶にごじゃいましぇん……」
「だそうですよ?」
きょとんとした顔でユゥイが言うと、黒鋼はファイの後ろ首を掴んで力技で起こし、そのまま引きずり出した。
「このアホ借りてくぞ」
「はぁ、どうぞ」
まだ少し目を回していたファイは、セミヌードのまま隣の部屋へと連行された。
***
「んもう~なぁに~? オレまだ着替え途中……ってウワ!? けむ!!」
黒鋼の部屋に入った途端、霧のように辺りに立ち込める煙を一気に吸い込んでしまったファイは、ゲホゲホと咽た。
「誰のせいだ、誰の」
「わ~……これ蚊取り線香? 日本の夏の行きすぎた香りがするぅ……」
目をしばしばとさせていると次の瞬間、ファイの耳元で『プ~ン』という甲高い音がした。
「ぴゃっ!?」
咄嗟のことに驚いたファイは、奇妙な声を上げながら飛び上がり、黒鋼の腕に抱きついた。
「なんか音した! 今オレの耳が謎のモスキート音をキャッチした!」
「だからてめぇのせいだろ」
エアコンをつけていないため、思いっきり蒸し暑い中で上半身裸の男に抱きつかれているという状況を表向きスルーして(驚いて飛び上がったファイがちょっと可愛かった、というのは秘密)黒鋼はそれでも憎々しげに横目で睨みつける。
「な、なんでー? なんでオレのせい? 黒たん先生が怒ってるのオレのせい?」
「よく思い出してみろ……てめぇ……人の部屋の窓開けっぱにしただろ……」
「えー?」
そこでファイは首を傾げながら記憶の糸を手繰り寄せてみた。
黒鋼の部屋の窓は今、開け放たれてはいるが網戸がしっかりと閉じている。
それでも蚊取り線香で煙たくなっている空気に顔を顰めながら、やがてファイは思いだした。
「あ、そういえば……」
昨夜、いつものように寝る前に黒鋼の部屋に侵入したファイは、蒸し暑いにも関わらず黒鋼のベッドにインした。
暑いから離れろ、と抵抗された気がするが、ぎゅうぎゅうとしがみついているうちに、いつの間にか嫌がっていたはずの黒鋼の腕が腰に回り、気づけば揃って寝息を立て始めた。
暑さなんてなんのその……オレ達の愛情を前に温暖化なんて敵じゃない……。
「ハッ! 違う違う……そうじゃなくてー」
思わず頬を染めながらドヤ顔で悦に浸りかけたファイだったが、慌てて首を振ると思いだす作業に戻った。
「そうだー! そういえば今朝、空気の入れ替えをしようと思ってー」
そう、窓を開けたのだ。網戸まで開けてしまったのは、最近いつもやって来るスズメのために、細かく千切ったパンをまいていたからだった。
「そのまま……開けっ放しに……?」
上目使いで問うと、黒鋼は額に血管を浮き上がらせた。
「ちゃんと閉めてから出てこいって言ったはずだがな……」
黒鋼は部活の朝練のためにファイよりも先に部屋を出たのだった。
その忠告は、スズメの可愛らしさに夢中になっていたファイの右耳から左耳を思いっきり通り抜け、その後ついつい時間を忘れて見入っていたせいで、慌てて部屋を飛び出すことになった。
部屋の鍵は合鍵でしっかり閉めたが、どうやら窓の方はウッカリ忘れてしまったらしい。
そうと知らず帰宅した黒鋼は、まず窓が開け放たれていたことに驚き、そして怒り心頭で部屋を出る時には、すでに右手の甲と左の二の腕を二か所、蚊に刺されていた。
「てめぇの不注意のせいで、今この部屋は蚊の巣窟だ! 責任とってなんとかしろ!」
「そ、そんなぁ~! 蚊取り線香先生に任せて、隣の部屋に逃げてようよぉー……ん? あ? あ! 刺されたぁ!!」
黒鋼の腕から離れたファイは、右手首がぷっくりと赤くなっているのに気付いた途端、ガリガリとその場所を掻いた。
このなんともいえないムズ痒さ……まさに日本の夏……。
「ああこら! そんな強く掻くな! 赤くなる!」
「黒様先生が半裸のオレを引っ張り込んだせいじゃんかー! オレもう帰るー!!」
「てめぇの責任だろ……って、オイ! ちょっと動くなよ!?」
「え、なにな……にぃっ!?」
バチコーン★
と、音がしたと思った瞬間、ファイは背中に激痛を覚え、前につんのめってそのまま床に崩れ落ちた。
「い、い、いったぁーいぃ!! 今のDV!? DVなの!?」
「見ろ! 一匹仕留めたぞ! てめぇの背中はこの通り守られた!!」
涙目で見上げた先で、黒鋼が手の平を見せている。ありがたいとは思うが、物凄い勢いで張り手を食らったせいで転んだ上に、ぶたれた場所がヒリヒリする。
おそらくファイの白い背中には、彼の大きな手形が残っているだろう。
「もっと手加減してよ! そういうプレイかと思ったじゃん!! ん!? アー!! 黒たんちょっとストップ動かないで!!」
「!?」
ファイは俊敏な動きで態勢を立て直し、思いっきり床を蹴って黒鋼に飛びかかると、その形のいい額を思いっきりバチンと叩いた。
「とったどー!!」
「~~~ッ」
今度はファイが手の平を高らかに見せびらかす番だった。
黒鋼は、どうやら額にヒットしたビンタで目までやられたらしく、顔を押さえてしゃがみ込んでいる。これは痛い。
「て、てめぇ……」
流石にあの勢いのある平手が目にまで入ったとあって、指の隙間から睨みつけてくる黒鋼は瞳を赤くして涙ぐんでいた。
それを見たファイは思わずドキっとする。そして、ムラッとする。
(わぁ、黒たんがちょっと泣きそうになりながらオレのこと睨んでる……!)
それは生理的な現象であって決して深い意味はないのだが、屈辱的な表情の黒鋼に下から睨みつけられているというこの状況に、ファイはちょっとSな気分になりかけた。
(痛みで)泣きそうな瞳、(怒りで)赤くなった目元、(苛立ちで)歯を食いしばっている表情……。
なかなかお目にかかれないシチュエーションにゾクゾクした……のも束の間、黒鋼の俊敏な左手がビターンと音を立ててファイの腹にお見舞いされた。
「ッ!?」
衝撃を受け止めきれず、勢いよく尻もちをつくファイ。思わず腹を押さえてプルプルと震える。一瞬息が止まるほどに派手な一発だった。
「く、黒……これは……もはや正拳突きのレベ……ル……」
「見ろ、とったぞ!」
嬉しそうな黒鋼が、これ見よがしに蚊を仕留めた手を見せびらかしてくる。痛みに本気で泣きそうになっているファイは、これは確実に手形どころではなく痣になるだろうと思った。
だが……それもいい……!
なんだかとってもバイオレンスなプレイの餌食になっているような倒錯感。
相手を傷つけることで快感と愛情を得んとする恋人の、歪んだ心の捌け口にされる自分……と、いう設定を瞬時に妄想して、今度はドM精神にスイッチが入る。
しかし、状況がそれに浸る間を与えなかった。
「ハッ! 黒様危ない!!」
今度はファイのチョップが黒鋼の首筋に入った。
「いってぇ!! やりやがったなてめぇ!?」
「黒様の血は誰にもやらない! オレのだから! オレが吸うから!!」
「なんだこの妙な既視感は!!」(inインフィニティ)
その後しばらくの間、二人の殴り愛が繰り広げられた……。
*
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……」
「ね、ねぇ黒たん先生……」
「なんだ……アホ教師……」
「いっそバルサンでも焚かない……?」
「そいつは名案だな」
二人は痣と真っ赤な手形だらけになりながら「はぁ~……」と溜息を零し、床に座り込んだ。
汗だくになって一体なにをしているのだろう……。
しかもど突き合った割には双方、チョイチョイ刺されている。
「なんか……疲れちゃった……」
「だな……」
「でも、もう大体いなくなったような気もするね……」
「確かに」
「なんか……青春したって感じがしない……?」
「そうだな……。おまえ、なかなかいいパンチ持ってるじゃねぇか」
「黒様こそ、流石だよね」
拳で語り合った男たちに友情という名の絆が生まれる的な、妙に爽やかな気分だった。この場が夕暮れ時の海辺だったなら、もっと様になっただろう。だが残念ながら、ここは蚊取り線香で白く煙る宿舎の一室である。
「あ」
そのとき、ファイはある場所にムズムズとしたものを感じて肩を竦めた。
「どうした」
「うん……あの、なんでもない……」
咄嗟に左胸を手の平で押さえる。着替え途中に連れ込まれ、上半身裸だったファイは、とんでもない場所を刺されていた。
(やばい……思いっきり掻きたいけど……場所が場所だけに……)
左の乳首のすぐ脇。触れたらますます痒くなってきた。
「おまえ、そこ刺されたのか」
「ギクーッ」
どこか爽やかだった黒鋼の表情が、みるみるうちに企み顔に変貌した。嫌な予感がビンビンする。
「ちょっと見せてみろ」
「ぅえぇ!? い、いいよぉ……」
「おら、抵抗すんな」
「や!」
青春ムードが一気に爛れた空気に変わる。
ファイは問題の個所を押さえていた手首を取られ、思い切り引き寄せられた。
「こりゃまた際どいとこ刺されてんな」
「さ、触ったらダメだからね……」
「そう言われると逆にな」
「!?」
黒鋼の悪戯な指が、問題の場所をちょん、と突く。その瞬間、ムズムズとした痒さが爆発的なものへと変わって、ファイは身を激しく捩る。
「ぅひゃぁ! だ、ダメだってば!」
「なんだよ? 何がダメだって?」
「アッ! さわっちゃ、ぁ、んん、かゆ、ぃ……ッ」
その場所を指先で引っ掻かれる度に、ゾワゾワとした別の何かが背筋を駆け抜ける。
すっかり体力を消耗しきっている上に、持久力で遥かに劣るファイに抵抗の術はなかった。
(どうしよう……黒たん先生が完全にドSモード入っちゃったよ……!)
そんなファイはドM魂に思いっきり火がついているわけだが、流石にここで行為に及ぶのは不味い。
汗だくなのも気になるし、きっとユゥイがそろそろ夕飯の支度を終える頃だ。
黒鋼もそれは分かっているはずで、だからこそ真っ赤になって慌てふためくファイの反応を見て楽しんでいる。
ファイの両手を一纏めにして掴みあげる黒鋼が、獣のように舌舐めずりした。このままでは、玩具のように弄ばれてしまう。そんな気がする。
だが、そうは問屋が卸さなかった。
「二人ともー? 夕飯できたよ?」
ひょっこりと、ユゥイが顔を出した。
「「!?」」
子供に寝室を覗かれそうになった夫婦のように、二人は慌てて距離を取った。
「わ、わぁいご飯だー」
「うわ、この部屋けむい……。二人とも一体なにしてたの? ケンカ……? それともここは強姦未遂現場……?」
「ゲッホゲホゲホゴホォ!!」
痣と手形だらけになっている二人を見たユゥイが、怪訝そうな顔をした。黒鋼は派手に突っ込もうとして勢いをつけすぎたせいか、思いっきり咽ている。
「いきなり襲いかかって来た黒鋼先生にファイが激しく抵抗して、殴り合いの取っ組み合いに……?」
「ち、違うってばー!」
確かに、これではおかしな目で見られても仕方がない。無理やりされるのは嫌いじゃないけど……とは、今は口が裂けても言わない方がよさそうだ。
「あの、これはね、蚊が」
と、説明しかけたその瞬間、ユゥイがクワッと目を見開いた。
「いけない! 黒鋼先生!!」
「あ?」
「危ない!!」
ゴッ! ザシャァ……!!
という音がして、すぐ横にあったはずの黒鋼の姿が視界から消えていた。
「え……?」
何が起こったのか瞬時に理解できず、ファイはゆっくりと背後を見やった。
なぜか黒鋼が、部屋の端から端まで吹っ飛ばされて目を回していた。本棚から雑誌やDVD等の類が落ちてきて、身体の上に降り積もっている。その頬には、真っ赤な手形が……。
「く、黒様ぁぁぁ!?」
慌てて四つん這いでザカザカと駆け寄り、その両肩を掴んで激しく揺すった。すると、黒鋼はハッと意識を取り戻した。
「今、ただっ広い草原の向こうにでけぇ川が見えたんだが……」
「逝きかけた!? 黒たんアッチに逝きかけたの!? うわあぁん戻って来てくれてよかったよぉ~ッ」
泣きながら縋りつくファイの肩に触れつつ、黒鋼はようやく頬への痛みを感じ始めたらしい。思いっきり顔を顰めて、赤く腫れはじめた右頬を摩り始めた。
まだ視界がクラクラするらしく、幾度か頭を振っている。
「つーか何が起こったんだ……?」
「あれ、おかしいなぁ? 今、黒鋼先生の頬っぺたに蚊がいたはずなんですけど」
ユゥイは自分の右手の平を見て首を傾げた。
どうやら蚊を退治してくれようとしたらしい。が、黒鋼の巨体を軽く吹っ飛ばすほどのビンタをかますとは、なんたる威力……。
「て、てめ、蚊じゃなくて俺を殺す気だったろ!?」
「そんなぁ。人聞きが悪い……でも……」
(ゆ、ユゥイ……目が笑ってない……!?)
ユゥイは空ぶった右手を口元へとやった。
「残念。薄汚い虫ケラを仕留め損なっちゃったね」
冷ややかに言うと赤い舌で親指を舐め、優雅に、そして不敵に微笑んだ。
「「!?」」
それを見た瞬間、黒鋼とファイの背筋に凄まじい電流が駆け抜ける。
ほんまもんのドSの微笑……!!
「さぁ、ご飯にしようか」
冷笑をすぐさまにこやかな笑顔に変えたユゥイが、二人を残して部屋を後にした。
その背中を茫然と見送りながら、黒鋼とファイは手と手を取り合い、ゾクゾクとした感覚に身を震わせる。
「ユゥイ……うぅん、ユゥイ様……」
「よせ……行くんじゃねぇ……戻れなくなるぞ……」
そんな二人の表情は、どこか恍惚としていて悩ましげだったという……。
←戻る ・ Wavebox👏
バーンと扉を開けてブチ切れ金剛状態の黒鋼が入って来た瞬間、セミヌードだったファイはすかさずTシャツで胸を隠した。
「キャア! 黒たん先生のエッチ! ド変態!」
ただでさえキレまくっていた黒鋼は、イラッとするファイの仕草と聞き捨てならない台詞にさらにキレて、自慢の拳をうならせた。
ゴッチーン★
という音がしたところで、夕食の準備途中だったユゥイが顔を出す。
「おかえりなさい黒鋼先生。あれ? もう部屋用ジャージに着替え終わったんですか?」
黒いジャージの下と、同じく黒いTシャツ姿の黒鋼は苛立ちが治まらないらしく、握りしめたままの拳をワナワナとさせながら答える。
「着替えどころの騒ぎじゃねぇ! このタコのせいでな!!」
「ファイ、またなにかしたの?」
うつ伏せに倒れて頭の天辺に出来たタンコブから煙を上げているファイに、ユゥイがしゃがみ込んで問いかけた。
「き……記憶にごじゃいましぇん……」
「だそうですよ?」
きょとんとした顔でユゥイが言うと、黒鋼はファイの後ろ首を掴んで力技で起こし、そのまま引きずり出した。
「このアホ借りてくぞ」
「はぁ、どうぞ」
まだ少し目を回していたファイは、セミヌードのまま隣の部屋へと連行された。
***
「んもう~なぁに~? オレまだ着替え途中……ってウワ!? けむ!!」
黒鋼の部屋に入った途端、霧のように辺りに立ち込める煙を一気に吸い込んでしまったファイは、ゲホゲホと咽た。
「誰のせいだ、誰の」
「わ~……これ蚊取り線香? 日本の夏の行きすぎた香りがするぅ……」
目をしばしばとさせていると次の瞬間、ファイの耳元で『プ~ン』という甲高い音がした。
「ぴゃっ!?」
咄嗟のことに驚いたファイは、奇妙な声を上げながら飛び上がり、黒鋼の腕に抱きついた。
「なんか音した! 今オレの耳が謎のモスキート音をキャッチした!」
「だからてめぇのせいだろ」
エアコンをつけていないため、思いっきり蒸し暑い中で上半身裸の男に抱きつかれているという状況を表向きスルーして(驚いて飛び上がったファイがちょっと可愛かった、というのは秘密)黒鋼はそれでも憎々しげに横目で睨みつける。
「な、なんでー? なんでオレのせい? 黒たん先生が怒ってるのオレのせい?」
「よく思い出してみろ……てめぇ……人の部屋の窓開けっぱにしただろ……」
「えー?」
そこでファイは首を傾げながら記憶の糸を手繰り寄せてみた。
黒鋼の部屋の窓は今、開け放たれてはいるが網戸がしっかりと閉じている。
それでも蚊取り線香で煙たくなっている空気に顔を顰めながら、やがてファイは思いだした。
「あ、そういえば……」
昨夜、いつものように寝る前に黒鋼の部屋に侵入したファイは、蒸し暑いにも関わらず黒鋼のベッドにインした。
暑いから離れろ、と抵抗された気がするが、ぎゅうぎゅうとしがみついているうちに、いつの間にか嫌がっていたはずの黒鋼の腕が腰に回り、気づけば揃って寝息を立て始めた。
暑さなんてなんのその……オレ達の愛情を前に温暖化なんて敵じゃない……。
「ハッ! 違う違う……そうじゃなくてー」
思わず頬を染めながらドヤ顔で悦に浸りかけたファイだったが、慌てて首を振ると思いだす作業に戻った。
「そうだー! そういえば今朝、空気の入れ替えをしようと思ってー」
そう、窓を開けたのだ。網戸まで開けてしまったのは、最近いつもやって来るスズメのために、細かく千切ったパンをまいていたからだった。
「そのまま……開けっ放しに……?」
上目使いで問うと、黒鋼は額に血管を浮き上がらせた。
「ちゃんと閉めてから出てこいって言ったはずだがな……」
黒鋼は部活の朝練のためにファイよりも先に部屋を出たのだった。
その忠告は、スズメの可愛らしさに夢中になっていたファイの右耳から左耳を思いっきり通り抜け、その後ついつい時間を忘れて見入っていたせいで、慌てて部屋を飛び出すことになった。
部屋の鍵は合鍵でしっかり閉めたが、どうやら窓の方はウッカリ忘れてしまったらしい。
そうと知らず帰宅した黒鋼は、まず窓が開け放たれていたことに驚き、そして怒り心頭で部屋を出る時には、すでに右手の甲と左の二の腕を二か所、蚊に刺されていた。
「てめぇの不注意のせいで、今この部屋は蚊の巣窟だ! 責任とってなんとかしろ!」
「そ、そんなぁ~! 蚊取り線香先生に任せて、隣の部屋に逃げてようよぉー……ん? あ? あ! 刺されたぁ!!」
黒鋼の腕から離れたファイは、右手首がぷっくりと赤くなっているのに気付いた途端、ガリガリとその場所を掻いた。
このなんともいえないムズ痒さ……まさに日本の夏……。
「ああこら! そんな強く掻くな! 赤くなる!」
「黒様先生が半裸のオレを引っ張り込んだせいじゃんかー! オレもう帰るー!!」
「てめぇの責任だろ……って、オイ! ちょっと動くなよ!?」
「え、なにな……にぃっ!?」
バチコーン★
と、音がしたと思った瞬間、ファイは背中に激痛を覚え、前につんのめってそのまま床に崩れ落ちた。
「い、い、いったぁーいぃ!! 今のDV!? DVなの!?」
「見ろ! 一匹仕留めたぞ! てめぇの背中はこの通り守られた!!」
涙目で見上げた先で、黒鋼が手の平を見せている。ありがたいとは思うが、物凄い勢いで張り手を食らったせいで転んだ上に、ぶたれた場所がヒリヒリする。
おそらくファイの白い背中には、彼の大きな手形が残っているだろう。
「もっと手加減してよ! そういうプレイかと思ったじゃん!! ん!? アー!! 黒たんちょっとストップ動かないで!!」
「!?」
ファイは俊敏な動きで態勢を立て直し、思いっきり床を蹴って黒鋼に飛びかかると、その形のいい額を思いっきりバチンと叩いた。
「とったどー!!」
「~~~ッ」
今度はファイが手の平を高らかに見せびらかす番だった。
黒鋼は、どうやら額にヒットしたビンタで目までやられたらしく、顔を押さえてしゃがみ込んでいる。これは痛い。
「て、てめぇ……」
流石にあの勢いのある平手が目にまで入ったとあって、指の隙間から睨みつけてくる黒鋼は瞳を赤くして涙ぐんでいた。
それを見たファイは思わずドキっとする。そして、ムラッとする。
(わぁ、黒たんがちょっと泣きそうになりながらオレのこと睨んでる……!)
それは生理的な現象であって決して深い意味はないのだが、屈辱的な表情の黒鋼に下から睨みつけられているというこの状況に、ファイはちょっとSな気分になりかけた。
(痛みで)泣きそうな瞳、(怒りで)赤くなった目元、(苛立ちで)歯を食いしばっている表情……。
なかなかお目にかかれないシチュエーションにゾクゾクした……のも束の間、黒鋼の俊敏な左手がビターンと音を立ててファイの腹にお見舞いされた。
「ッ!?」
衝撃を受け止めきれず、勢いよく尻もちをつくファイ。思わず腹を押さえてプルプルと震える。一瞬息が止まるほどに派手な一発だった。
「く、黒……これは……もはや正拳突きのレベ……ル……」
「見ろ、とったぞ!」
嬉しそうな黒鋼が、これ見よがしに蚊を仕留めた手を見せびらかしてくる。痛みに本気で泣きそうになっているファイは、これは確実に手形どころではなく痣になるだろうと思った。
だが……それもいい……!
なんだかとってもバイオレンスなプレイの餌食になっているような倒錯感。
相手を傷つけることで快感と愛情を得んとする恋人の、歪んだ心の捌け口にされる自分……と、いう設定を瞬時に妄想して、今度はドM精神にスイッチが入る。
しかし、状況がそれに浸る間を与えなかった。
「ハッ! 黒様危ない!!」
今度はファイのチョップが黒鋼の首筋に入った。
「いってぇ!! やりやがったなてめぇ!?」
「黒様の血は誰にもやらない! オレのだから! オレが吸うから!!」
「なんだこの妙な既視感は!!」(inインフィニティ)
その後しばらくの間、二人の殴り愛が繰り広げられた……。
*
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……」
「ね、ねぇ黒たん先生……」
「なんだ……アホ教師……」
「いっそバルサンでも焚かない……?」
「そいつは名案だな」
二人は痣と真っ赤な手形だらけになりながら「はぁ~……」と溜息を零し、床に座り込んだ。
汗だくになって一体なにをしているのだろう……。
しかもど突き合った割には双方、チョイチョイ刺されている。
「なんか……疲れちゃった……」
「だな……」
「でも、もう大体いなくなったような気もするね……」
「確かに」
「なんか……青春したって感じがしない……?」
「そうだな……。おまえ、なかなかいいパンチ持ってるじゃねぇか」
「黒様こそ、流石だよね」
拳で語り合った男たちに友情という名の絆が生まれる的な、妙に爽やかな気分だった。この場が夕暮れ時の海辺だったなら、もっと様になっただろう。だが残念ながら、ここは蚊取り線香で白く煙る宿舎の一室である。
「あ」
そのとき、ファイはある場所にムズムズとしたものを感じて肩を竦めた。
「どうした」
「うん……あの、なんでもない……」
咄嗟に左胸を手の平で押さえる。着替え途中に連れ込まれ、上半身裸だったファイは、とんでもない場所を刺されていた。
(やばい……思いっきり掻きたいけど……場所が場所だけに……)
左の乳首のすぐ脇。触れたらますます痒くなってきた。
「おまえ、そこ刺されたのか」
「ギクーッ」
どこか爽やかだった黒鋼の表情が、みるみるうちに企み顔に変貌した。嫌な予感がビンビンする。
「ちょっと見せてみろ」
「ぅえぇ!? い、いいよぉ……」
「おら、抵抗すんな」
「や!」
青春ムードが一気に爛れた空気に変わる。
ファイは問題の個所を押さえていた手首を取られ、思い切り引き寄せられた。
「こりゃまた際どいとこ刺されてんな」
「さ、触ったらダメだからね……」
「そう言われると逆にな」
「!?」
黒鋼の悪戯な指が、問題の場所をちょん、と突く。その瞬間、ムズムズとした痒さが爆発的なものへと変わって、ファイは身を激しく捩る。
「ぅひゃぁ! だ、ダメだってば!」
「なんだよ? 何がダメだって?」
「アッ! さわっちゃ、ぁ、んん、かゆ、ぃ……ッ」
その場所を指先で引っ掻かれる度に、ゾワゾワとした別の何かが背筋を駆け抜ける。
すっかり体力を消耗しきっている上に、持久力で遥かに劣るファイに抵抗の術はなかった。
(どうしよう……黒たん先生が完全にドSモード入っちゃったよ……!)
そんなファイはドM魂に思いっきり火がついているわけだが、流石にここで行為に及ぶのは不味い。
汗だくなのも気になるし、きっとユゥイがそろそろ夕飯の支度を終える頃だ。
黒鋼もそれは分かっているはずで、だからこそ真っ赤になって慌てふためくファイの反応を見て楽しんでいる。
ファイの両手を一纏めにして掴みあげる黒鋼が、獣のように舌舐めずりした。このままでは、玩具のように弄ばれてしまう。そんな気がする。
だが、そうは問屋が卸さなかった。
「二人ともー? 夕飯できたよ?」
ひょっこりと、ユゥイが顔を出した。
「「!?」」
子供に寝室を覗かれそうになった夫婦のように、二人は慌てて距離を取った。
「わ、わぁいご飯だー」
「うわ、この部屋けむい……。二人とも一体なにしてたの? ケンカ……? それともここは強姦未遂現場……?」
「ゲッホゲホゲホゴホォ!!」
痣と手形だらけになっている二人を見たユゥイが、怪訝そうな顔をした。黒鋼は派手に突っ込もうとして勢いをつけすぎたせいか、思いっきり咽ている。
「いきなり襲いかかって来た黒鋼先生にファイが激しく抵抗して、殴り合いの取っ組み合いに……?」
「ち、違うってばー!」
確かに、これではおかしな目で見られても仕方がない。無理やりされるのは嫌いじゃないけど……とは、今は口が裂けても言わない方がよさそうだ。
「あの、これはね、蚊が」
と、説明しかけたその瞬間、ユゥイがクワッと目を見開いた。
「いけない! 黒鋼先生!!」
「あ?」
「危ない!!」
ゴッ! ザシャァ……!!
という音がして、すぐ横にあったはずの黒鋼の姿が視界から消えていた。
「え……?」
何が起こったのか瞬時に理解できず、ファイはゆっくりと背後を見やった。
なぜか黒鋼が、部屋の端から端まで吹っ飛ばされて目を回していた。本棚から雑誌やDVD等の類が落ちてきて、身体の上に降り積もっている。その頬には、真っ赤な手形が……。
「く、黒様ぁぁぁ!?」
慌てて四つん這いでザカザカと駆け寄り、その両肩を掴んで激しく揺すった。すると、黒鋼はハッと意識を取り戻した。
「今、ただっ広い草原の向こうにでけぇ川が見えたんだが……」
「逝きかけた!? 黒たんアッチに逝きかけたの!? うわあぁん戻って来てくれてよかったよぉ~ッ」
泣きながら縋りつくファイの肩に触れつつ、黒鋼はようやく頬への痛みを感じ始めたらしい。思いっきり顔を顰めて、赤く腫れはじめた右頬を摩り始めた。
まだ視界がクラクラするらしく、幾度か頭を振っている。
「つーか何が起こったんだ……?」
「あれ、おかしいなぁ? 今、黒鋼先生の頬っぺたに蚊がいたはずなんですけど」
ユゥイは自分の右手の平を見て首を傾げた。
どうやら蚊を退治してくれようとしたらしい。が、黒鋼の巨体を軽く吹っ飛ばすほどのビンタをかますとは、なんたる威力……。
「て、てめ、蚊じゃなくて俺を殺す気だったろ!?」
「そんなぁ。人聞きが悪い……でも……」
(ゆ、ユゥイ……目が笑ってない……!?)
ユゥイは空ぶった右手を口元へとやった。
「残念。薄汚い虫ケラを仕留め損なっちゃったね」
冷ややかに言うと赤い舌で親指を舐め、優雅に、そして不敵に微笑んだ。
「「!?」」
それを見た瞬間、黒鋼とファイの背筋に凄まじい電流が駆け抜ける。
ほんまもんのドSの微笑……!!
「さぁ、ご飯にしようか」
冷笑をすぐさまにこやかな笑顔に変えたユゥイが、二人を残して部屋を後にした。
その背中を茫然と見送りながら、黒鋼とファイは手と手を取り合い、ゾクゾクとした感覚に身を震わせる。
「ユゥイ……うぅん、ユゥイ様……」
「よせ……行くんじゃねぇ……戻れなくなるぞ……」
そんな二人の表情は、どこか恍惚としていて悩ましげだったという……。
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元旦。
大晦日から学園で飲んだくれていたファイと黒鋼は、昼過ぎ頃にようやく帰宅して、一息つこうとしていた。
「ふー、流石にちょっと飲み過ぎたね~。少し疲れちゃったよ~」
ファイがさっそく炬燵に入り込み、ゴロンと横になって伸びていると、水の入ったグラスを持ってきた黒鋼が眉間の皺をぐっと深める。
「さっそく寝正月してんじゃねぇ。一年の計は元旦にありってことわざを知らねぇのか」
「一年分のケーキは元旦にあるー? 素敵なことわざだね~🍰」
「てめぇそれわざとだろ! とりあえず水飲んでシャキっとしろ!」
「わかったよぅ~」
このまま夢の世界へダイブしてしまいたかったファイだが、仕方なくモゾモゾと起き上がると水を受け取り、一気に飲み干した。ほどよく冷えた水が身体の隅々へ行き渡るような気がして、少し頭がスッキリする。
その間、黒鋼は籠にこんもり積み上げたミカンやマガニャンをテーブルに置き、テレビのリモコンを手の届く位置にセッティングしている。自分も寝正月する気マンマンじゃん……と思ったが、夫を立てる妻のごとく黙っておいた。
「いいか、何事も始めが肝心ってことだ。てめぇはただでさえ普段からだらしねぇんだから、今年はしっかり目標を立てて、ちっとはまともな人間になれよ」
「え~……これでも結構まともなつもりなんだけどな~」
「どこがだ。なんかねぇのか、抱負とかよ」
ちょうど向かいの席にドーンと胡坐をかいた黒鋼が、真剣な表情で真っ直ぐ見つめてきた。今年も黒様は絶好調に男前だなぁ……と頬を染めつつ、ファイは腕を組んで考える。
「う~ん……あ、そうだ!」
「お、いいぞ、言ってみろ」
「上手にお料理を作r」
ピンポーン
「来客か。仕方ねぇな」
なぜかタイミングを見計らったかのように玄関チャイムが鳴り、立ち上がって玄関へ向かう黒鋼。そこはかとなく安堵の表情を浮かべているように見えたのは、炬燵の温もりが見せた幻覚だろうか。
キーッとなったファイがテーブルをガンガンしていると、チャイムの主が黒鋼と一緒に部屋へ戻って来た。
「お邪魔するよ」
「あれ? ユゥイだー。どうしたのー?」
彼がこの部屋に来るのは珍しい。しかも驚いたことに、戻って来た黒鋼は両腕に巨大な段ボール箱を抱えていた。
「なにそれー?」
ファイが首を傾げながらテーブルからミカンとマガニャンを退けると、見るからに中身の詰まっていそうな箱がドンッと置かれた。
「さっき届いたんだよ。宛名はファイだけど、送り主は黒鋼先生のご両親だったから、運んできたんだ」
「え? 黒たん先生のご両親がどうして?」
ファイとユゥイが顔を見合わせて首を傾げている間に、黒鋼は箱の包装を解き始める。開かれた中身を三人で覗き込んで見ると……。
「わ、わー!? 宝の山だー!!」
中には大量の餅や米、野菜やら味噌やらスルメやらが入っていた。
「凄い凄ーい! あ、もしかして、ご飯はいつもユゥイが作ってくれてるってお話したから、わざわざオレの部屋に届くように送ってくれたのかなー?」
「だろうな」
「こんなに沢山……助かりますね」
「うわ! このスルメおっきい! ほらほら、ユゥイの顔がすっぽり隠れちゃうよー! ……ん? なんだろこれ?」
巨大なスルメをユゥイの顔に翳して遊んでいたファイは、箱の隅に縦に入り込んでいた白い筒状のものに気がついた。
取り出してみると、それはだいぶ年期の入った画用紙だということが、見た目や質感から分かる。クルクルと丸められ、筒状になったものにゴムが巻き付いていた。
「ねぇこれなんだろー? お手紙……にしては、ちょっとおかしいし……宝の地図かなぁ?」
「なんだ? ちょっと寄越してみろ」
野菜類を箱から取り出していた黒鋼が、ファイに目を向けると手を差し出してきた。素直に渡すと、彼はすぐにゴムを外して画用紙を開く。そして、カッと目を見開いて、すぐにまたクルクルと元の形に丸めてしまった。
「なんで戻しちゃうのー? 気になるよー」
「……こいつのことは忘れろ。何もなかった。いいな?」
「いいわけないよー! 見せて見せて! 一体なんだったのー?」
「そういや外は雪が積もってたな。よし、雪合戦でもして遊ぶか」
なぜか童心に返ったような提案をしはじめる黒鋼。さっきまで寝正月の準備をしていたとは思えない強引な路線変更だった。
これは明らかに何かを隠ぺいしようとしている。そう察したファイは黒鋼に飛びつくようにして肩に縋ると、思いっきり揺さぶった。
「ちょっとー! そんな反応されてハイそうですかーって引き下がれるわけないでしょー! ちゃんと見せてよー!!」
「いいからスルメでも齧ってろ! おまえには関係ねぇ代物だ!」
「あるよ! だってこの荷物はオレ宛てに届いたんだもん!」
「うっせぇ! とにかく駄目なもんは駄目だ!!」
「わぁ、これって黒鋼先生が描いた絵ですか? 上手ですねー」
「!?」
その瞬間、ファイは心の中でユゥイに『GJ!』と親指を立てた。
よく出来た双子の弟は、黒鋼が背中に隠していた筒をスルッと奪取していたのである。
「わーい見せて見せて見せてー!」
「こらてめぇ!! いつの間に奪いやがった!?」
黒鋼がユゥイに飛びかかったが、彼はそれをクルリと踊るように回転してかわすと「ほら」と言ってファイに見せてくれた。
そこには、子供が描いたと思しき『絵』があった。

「うわー! ホントだ上手ー! ぜんぜん隠すことないじゃーん!」
極度の照れ屋である黒鋼は、鬼のような怖い顔でぷいっとそっぽを向いてしまう。
両親もなかなか粋なことをしてくれるものだ。子供らしいタッチで描かれたその絵はどうやら花見をしている場面のようで、三人で手を繋いでいる様子が微笑ましかった。
「よく描けてますね。幾つの時の絵なんですか?」
「確か……小1の時だったか」
見られてしまったからには仕方ないと、黒鋼はすっかり開き直ったようだ。溜息を漏らしながらもユゥイの問いに答えた。
そういえば去年の夏に黒鋼の里帰りについて行ったとき、母親が黒鋼の絵はクラスでも断トツの惨さだと話していた。が、そのくらいの年齢の子供の絵なら、いい意味で普通のレベルに感じられる。
「黒たん先生、お絵かき上手だったんだねー! 三人とも笑顔で、すっごく楽しそうだし。ちょっとお父さんが短足すぎる気はするけどー」
「ガキの絵にいちいち突っ込むんじゃねぇ」
ファイを横目で睨み付ける黒鋼を見て、ユゥイは小さく笑うと画用紙の一点を指さした。
「そういえばこの右の桜の木にある黒い物体は……鳥ですか?」
「あ、それオレも気になってたんだよねー。これ何?」
黒鋼は腕を組むと「ああ」と言った。
「コウモリだ」
「カラスじゃなくて!? それは珍しいものを見たね!! 描かずにはいられないだろうね!!」
「まぁな」
まさかの生物に驚きを隠せないながらも、ファイはこの絵を額縁に入れて部屋に飾ろうと決めた。この絵には幼い黒鋼の印象に強く残ったものが、ぎゅっと詰め込まれているのが分かるし、太陽が笑っているのも、それだけ家族で花見をした思い出が素晴らしいものだったことを、よく表しているような気がする。
(元旦からいいもの見たなー。今年もいっぱい楽しいことがありそうな気がするー)
幸せな気分に浸るファイだったが、ユゥイが「あ」という声を上げたので、視線を向けた。
「どうかしたのー?」
「まだあるよ。ほら」
「わー! 本当だー!」
ユゥイが花見の絵をずらすと、そこにはもう一枚、子供の絵が姿を現した。

「ちょ!? な、なにこれ!?」
「ああ、そいつは水族館に行った時の絵だな」
海の生物っぽいものが見て取れるので、それは納得できるのだが。
「見て! やっぱりお父さんの足が短いよ! なんなら一枚目より酷いよ! これ絶対に確信犯でしょ!? 悪意しか感じられないよ!?」
比較画像↓

「知るか!! ガキの頃の俺に聞け!!」
「お父さんの足も気になりますが……お母さんの胸がやけにリアルというか……ボインですね」
「ボインって単語久しぶりに聞いたぞ。死語は慎め」
「今突っ込まれてるのは黒たん先生だよ!! 死語とかどうでもいいよ!!」
普段は基本ボケを担当しているファイは、ツッコミスキルに自信がない。だがここは頑張らざるをえなかった。
確かに黒鋼の母はなかなかいい乳を……していたかどうか、そういう目で見ていなかったので記憶は曖昧だったが、先ほどの絵の情報と照らし合わせるに、幼い黒鋼の脳裏に鮮明に焼き付いていたのは、母のボインだったということになるのか……。
「黒たん先生って子供の頃からムッツリだったんだね!!」
「あ!? なに言ってんだてめぇは!? お袋だぞ!!」
「お母さんだからこそ嫉妬していいのかどうか、微妙に迷ってるオレの身にもなってよねこのムッツリスケベ!!」
「なんだと!? 胸なんざデカけりゃいいってもんじゃねぇだろうが!! 言っておくが、俺はあるかないか分かんねぇくらいの胸で十分だからな!!」
「ちょ、お正月からおっきな声でなに言ってるの!? そんなに言うなら、後でいっぱい触らせてあげるからね!!」
「上等だ!! 胸洗って待ってろ!!」
謎の痴話げんか(?)を始めたカップルに、ユゥイが「まぁまぁ」と両手で諌めるようなジェスチャーをしながら苦笑した。
「おっぱいが嫌いな男はいないでしょうし、おっぱいが目の前にあればチラチラ見てしまうのは男の性であり、おっぱいは男のロマンですから、おっぱいを大きく描いてしまったとしても、それは仕方がおっぱい」
「てめぇはその顔とそのキャラでおっぱいおっぱい連呼すんじゃねぇよ! どんだけおっぱいって言えば気が済むんだ!!」
「黒たん先生もその魅惑の稲田ボイスでおっぱいおっぱい連呼するのやめて!!」
*
怒鳴りすぎて疲れた二人と全く疲れていないユゥイは、とりあえず炬燵を囲んでミカンを食べながら休憩をしていた。
「なんかすっかり体力を奪われちゃったねー……」
「そうだな……」
今年も一年この調子か……と思いやられている様子の黒鋼が、遠い目をしている。
ぐったりとした息を漏らしている二人を尻目に、ユゥイは床に移動させた箱の中身を嬉しそうにまさぐっていた。料理人の腕が鳴っているに違いない。
だが、そんなユゥイがふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば、あの水族館の絵を描いたのは何歳くらいだったんですか? あれも一年生?」
言われてみればいつだったのだろう。
小一の頃に描いたという花見の絵では、まだ母親の胸はペタンコだった。だが、絵のレベル的には進歩が見られなかったので、せいぜい二、三年生くらいだろうか。
ファイとユゥイが揃って黒鋼を見つめていると、彼は腕を組んでなぜか偉そうに踏ん反り返って言った。
「中一だ」
…………。
「惨いね!」
そう言って親指を立ててウィンクしたファイは、ミカンを一個丸ごと口の中に押し込まれて、危うく窒息死しそうになるのだった。
~おまけ~
「あったよ、ファイ」
両親から荷物が届いた翌日、黒鋼がファイの部屋で雑煮や御節を食べていると、そこに何やら箱を持ったユゥイがやって来た。
「なんだ?」
箸を止めて見上げる黒鋼に、箱を床に置きながら腰を下ろしたユゥイが微笑む。
「前に実家に帰ったときに、懐かしくて持って来てたんです。昨日黒鋼先生の絵を見ていたら思い出したので」
「オレが子供の頃に描いた絵だよー」
ファイは黒鋼にべったりと張り付いて一緒に食事をしていたが、ひとまず離れてユゥイの側ににじり寄って行く。
数冊のアルバムと一緒に姿を現した大きな画用紙は、大昔のものとあって僅かに黄ばんでいる。
「どれ、見せてみろ」
昨日は散々馬鹿にされてしまったが、自分に絵心がないのは自覚していたので仕方がない。だが、ファイはこれで結構手先は器用な方だ。
どんな作品が飛び出すのか、おのずと期待は高まった。
「これはねー、幼稚園の頃に描いたんだけど、自分でも気に入ってるんだー!」
ファイが楽しそうに画用紙を寄越した。少しワクワクしながらその絵を見た黒鋼は

絶句した。
「…………」
どう贔屓目に見てもヤバかった。
薄気味悪い人形のような子供が、血を流しながら闇に飲まれようとしている絵にしか見えない。
黒鋼は背筋に悪寒を走らせながら、恐る恐るファイの表情を窺う。
彼は誇らしげに笑い、両手をパチンと叩いて喜んでいる。
「やっぱりねー! 幼稚園の先生も、今の黒たんみたいな顔してたよー! 園児が描いたとは思えないクオリティの高さだし、青褪めても仕方ないよねー!」
「むしろ園児が描いたとは思いたくねぇよこんなもん!! おまえ大丈夫か!? 当時どんな精神状態だったんだ!?」
ハッキリ言ってクオリティの問題を超越している。
この男は一体どんな環境に育ったのだろうか。まともな精神では絶対にこんな絵は描けないはずだ。
「えー? どんなって……毎日ユゥイやお友達と遊んだりして、すっごく楽しかったよー?」
ねー、と顔を見合わせて双子が笑った。
「ちなみにそれはねー、ユゥイの絵なんだよー。ユゥイがちょうちょと戯れて駆けまわってる時の絵なんだー」
「蝶!? どこだ!? 俺には深い闇しか見えねぇぞ!!」
「よく見てよー! いっぱい飛んでるでしょー?」
「この赤いやつか!? どう見ても血か心霊写真によくある警告色にしか見えねぇこの赤いやつのことか!?」
「走り回ってるスピード感もよく出てるよね。今見ても全身が震えるよ」
「そりゃただの戦慄きだ!!」
駄目だ、この弟も頭(と心)のネジが吹っ飛んでいる……。
新年二日目を美味い飯を食いながらのほほんと過ごしていたはずが、いつの間にか病んだ双子ワールドに引きずり込まれてしまった。
とにかくこんな絵は一刻も早く封印すべきだ。見続けていればこちらの精神が参ってしまいそうな気がして、黒鋼は慌てて画用紙を手放すと鳥肌が立っている二の腕を強く摩る。
「もっとポップな絵はねぇのか! 頼むから俺を和ませてくれ!」
全力で懇願する黒鋼に、ファイは不満そうに唇を尖らせると、箱の中をまさぐった。
「お気に入りだったのにな~。ポップって言われてもよく分かんないよ~……あ、これはどうかな~?」
なんでもいいからこの世界観を脱したい黒鋼は、ファイの手から画用紙を奪い取った。次こそ子供らしいポップでキュートな作品に出会えますようにと願いつつ、画用紙を開く。
「それはね、ユゥイとお散歩してるときの絵だよー」

「どこまで人の心を不安定にさせりゃ気が済むんだ!?」
暗い森の中で迷子になってしまったような、井戸の底に落ちたまま蓋を閉められてしまったような、とにかくそんな不安な気持ちにさせられるような気がした。
「完全に病んでんだろ!! 闇抱えすぎだろ!! なぁ聞いてやるから吐き出せよ! 本当は辛い過去があったんじゃねぇのか!?」
こんなものを見せられては「過去は関係ねぇ」なんて台詞も言えやしない。この絵を描いた子供をどうにかして救ってやらなくてはと、謎の使命感に駆られてしまう。
ファイの両肩を掴んで思いっきり揺さぶると、彼はガックンガックンしながら困ったような顔をした。
「ちょ、わ、な、なに言ってんのー! この頃は毎日がキラキラ輝いて見えるくらい、夢や希望に満ち溢れてたよー!」
「溢れてんのはドロドロした悪夢と絶望だったんじゃねぇのか!? 我慢すんな! 俺が受け止めてやるから吐け! 吐き出せ!!」
「やっ、だ、だめっ、吐く! このままだとさっき食べたもの吐いちゃうからやーめーてー!」
目を回したファイの顔色がどんどん青くなっていくので、ひとまずガクガクするのはやめた。それでも両肩はしっかり掴んだままでいると、彼はすっかり眉毛をハの字にして「うー」と唸った。
「何もなかったってば~。もぉ~酷いよ~」
「わ、悪い……取り乱した……」
そんな二人のやり取りを横目に、ナイフとフォークを使って紅白蒲鉾をムシャムシャしていたユゥイが「そういえば」と何か思い出したような声を上げた。
「ファイ、この絵を描いたあと先生に連れられてどこかに行ってなかった?」
「えー? そうだっけー?」
「うん。そのまましばらく戻って来なかった記憶があるよ」
うーん、と腕を組んでしばらく天井を見上げたまま考え込んでいたファイは、手の平を拳でポンっと叩いて「思い出した!」と言った。
「どこか小さな部屋に連れて行かれて、そこで知らない白衣の女の人と色んなお話してたんだよー。すっごく優しくて、綺麗なお姉さんだったな~」
「カウンセリング受けてんじゃねぇか!!」
「そうなのー? お喋り楽しかったよー」
思い出に浸るファイの頬がなぜか赤い。初恋か。そのお姉さんが初恋の相手なのか。そこはかとなくイラッとしながらも、黒鋼はズキズキと痛みはじめるこめかみを押さえながら、大きく深呼吸をした。
「わ、分かった……とりあえずこの話は保留だ……埒が明かねぇ」
ドッと押し寄せた疲労感に、もはや食欲も失せている。今日のところは部屋に戻ってマガニャンでも読むか……と撤退を決めた黒鋼だったが、箱の中にアルバムや絵をしまう作業を始めたユゥイの手から、ポロッともう一枚画用紙が滑り落ちた。
「あ! これもあったんだー!」
「お、おい、今日はもういいぞ」
「そんなこと言わないでー! これはかなりポップでキュートな仕上がりだよー!」
多分おまえのポップでキュートは俺の中の基準には当てはまらねぇぞ……と、もはや諦めの境地に立たされている黒鋼に、ファイが拾い上げた画用紙を嬉々として手渡してくる。
「キノコの絵だよー! どうかなぁ? 可愛いでしょー?」
「……どれ」

「ど う し て こ の 色 を 選 ん だ !?」
もっと他に子供らしい色使いはなかったのだろうか。百歩譲って星とハートはポップでキュートと言えなくもないが、ハートの位置がナニやら意味深だ。
どこか爛れたオーラを感じるのは、自分が薄汚れた大人になってしまった証拠なのだろうか。
自称配管工の男がパワーアップするような方面のキノコを期待していた黒鋼は、なぜか手酷く裏切られたような残念な気持ちになった。
「これは駄目だ……俺には完全にアウトにしか見えねぇ……」
「たまたま肌色と黄色とピンクしかなかっただけだよー。でも確かに、今になって見るとちょっといやらしいかもねー」
もしやこの散りばめられた星は夜を意味しているのだろうか……と、嫌でも深読みせざるを得ない問題作に、違った意味で鳥肌が立った。
流石のファイもユゥイも、揃って苦笑している。
先刻の絵よりはまだマシと言えなくもないような気がするが、とりあえず脳内の見なかったことにするリストに、即座に加えることにした黒鋼だった。
←戻る ・ Wavebox👏
大晦日から学園で飲んだくれていたファイと黒鋼は、昼過ぎ頃にようやく帰宅して、一息つこうとしていた。
「ふー、流石にちょっと飲み過ぎたね~。少し疲れちゃったよ~」
ファイがさっそく炬燵に入り込み、ゴロンと横になって伸びていると、水の入ったグラスを持ってきた黒鋼が眉間の皺をぐっと深める。
「さっそく寝正月してんじゃねぇ。一年の計は元旦にありってことわざを知らねぇのか」
「一年分のケーキは元旦にあるー? 素敵なことわざだね~🍰」
「てめぇそれわざとだろ! とりあえず水飲んでシャキっとしろ!」
「わかったよぅ~」
このまま夢の世界へダイブしてしまいたかったファイだが、仕方なくモゾモゾと起き上がると水を受け取り、一気に飲み干した。ほどよく冷えた水が身体の隅々へ行き渡るような気がして、少し頭がスッキリする。
その間、黒鋼は籠にこんもり積み上げたミカンやマガニャンをテーブルに置き、テレビのリモコンを手の届く位置にセッティングしている。自分も寝正月する気マンマンじゃん……と思ったが、夫を立てる妻のごとく黙っておいた。
「いいか、何事も始めが肝心ってことだ。てめぇはただでさえ普段からだらしねぇんだから、今年はしっかり目標を立てて、ちっとはまともな人間になれよ」
「え~……これでも結構まともなつもりなんだけどな~」
「どこがだ。なんかねぇのか、抱負とかよ」
ちょうど向かいの席にドーンと胡坐をかいた黒鋼が、真剣な表情で真っ直ぐ見つめてきた。今年も黒様は絶好調に男前だなぁ……と頬を染めつつ、ファイは腕を組んで考える。
「う~ん……あ、そうだ!」
「お、いいぞ、言ってみろ」
「上手にお料理を作r」
ピンポーン
「来客か。仕方ねぇな」
なぜかタイミングを見計らったかのように玄関チャイムが鳴り、立ち上がって玄関へ向かう黒鋼。そこはかとなく安堵の表情を浮かべているように見えたのは、炬燵の温もりが見せた幻覚だろうか。
キーッとなったファイがテーブルをガンガンしていると、チャイムの主が黒鋼と一緒に部屋へ戻って来た。
「お邪魔するよ」
「あれ? ユゥイだー。どうしたのー?」
彼がこの部屋に来るのは珍しい。しかも驚いたことに、戻って来た黒鋼は両腕に巨大な段ボール箱を抱えていた。
「なにそれー?」
ファイが首を傾げながらテーブルからミカンとマガニャンを退けると、見るからに中身の詰まっていそうな箱がドンッと置かれた。
「さっき届いたんだよ。宛名はファイだけど、送り主は黒鋼先生のご両親だったから、運んできたんだ」
「え? 黒たん先生のご両親がどうして?」
ファイとユゥイが顔を見合わせて首を傾げている間に、黒鋼は箱の包装を解き始める。開かれた中身を三人で覗き込んで見ると……。
「わ、わー!? 宝の山だー!!」
中には大量の餅や米、野菜やら味噌やらスルメやらが入っていた。
「凄い凄ーい! あ、もしかして、ご飯はいつもユゥイが作ってくれてるってお話したから、わざわざオレの部屋に届くように送ってくれたのかなー?」
「だろうな」
「こんなに沢山……助かりますね」
「うわ! このスルメおっきい! ほらほら、ユゥイの顔がすっぽり隠れちゃうよー! ……ん? なんだろこれ?」
巨大なスルメをユゥイの顔に翳して遊んでいたファイは、箱の隅に縦に入り込んでいた白い筒状のものに気がついた。
取り出してみると、それはだいぶ年期の入った画用紙だということが、見た目や質感から分かる。クルクルと丸められ、筒状になったものにゴムが巻き付いていた。
「ねぇこれなんだろー? お手紙……にしては、ちょっとおかしいし……宝の地図かなぁ?」
「なんだ? ちょっと寄越してみろ」
野菜類を箱から取り出していた黒鋼が、ファイに目を向けると手を差し出してきた。素直に渡すと、彼はすぐにゴムを外して画用紙を開く。そして、カッと目を見開いて、すぐにまたクルクルと元の形に丸めてしまった。
「なんで戻しちゃうのー? 気になるよー」
「……こいつのことは忘れろ。何もなかった。いいな?」
「いいわけないよー! 見せて見せて! 一体なんだったのー?」
「そういや外は雪が積もってたな。よし、雪合戦でもして遊ぶか」
なぜか童心に返ったような提案をしはじめる黒鋼。さっきまで寝正月の準備をしていたとは思えない強引な路線変更だった。
これは明らかに何かを隠ぺいしようとしている。そう察したファイは黒鋼に飛びつくようにして肩に縋ると、思いっきり揺さぶった。
「ちょっとー! そんな反応されてハイそうですかーって引き下がれるわけないでしょー! ちゃんと見せてよー!!」
「いいからスルメでも齧ってろ! おまえには関係ねぇ代物だ!」
「あるよ! だってこの荷物はオレ宛てに届いたんだもん!」
「うっせぇ! とにかく駄目なもんは駄目だ!!」
「わぁ、これって黒鋼先生が描いた絵ですか? 上手ですねー」
「!?」
その瞬間、ファイは心の中でユゥイに『GJ!』と親指を立てた。
よく出来た双子の弟は、黒鋼が背中に隠していた筒をスルッと奪取していたのである。
「わーい見せて見せて見せてー!」
「こらてめぇ!! いつの間に奪いやがった!?」
黒鋼がユゥイに飛びかかったが、彼はそれをクルリと踊るように回転してかわすと「ほら」と言ってファイに見せてくれた。
そこには、子供が描いたと思しき『絵』があった。

「うわー! ホントだ上手ー! ぜんぜん隠すことないじゃーん!」
極度の照れ屋である黒鋼は、鬼のような怖い顔でぷいっとそっぽを向いてしまう。
両親もなかなか粋なことをしてくれるものだ。子供らしいタッチで描かれたその絵はどうやら花見をしている場面のようで、三人で手を繋いでいる様子が微笑ましかった。
「よく描けてますね。幾つの時の絵なんですか?」
「確か……小1の時だったか」
見られてしまったからには仕方ないと、黒鋼はすっかり開き直ったようだ。溜息を漏らしながらもユゥイの問いに答えた。
そういえば去年の夏に黒鋼の里帰りについて行ったとき、母親が黒鋼の絵はクラスでも断トツの惨さだと話していた。が、そのくらいの年齢の子供の絵なら、いい意味で普通のレベルに感じられる。
「黒たん先生、お絵かき上手だったんだねー! 三人とも笑顔で、すっごく楽しそうだし。ちょっとお父さんが短足すぎる気はするけどー」
「ガキの絵にいちいち突っ込むんじゃねぇ」
ファイを横目で睨み付ける黒鋼を見て、ユゥイは小さく笑うと画用紙の一点を指さした。
「そういえばこの右の桜の木にある黒い物体は……鳥ですか?」
「あ、それオレも気になってたんだよねー。これ何?」
黒鋼は腕を組むと「ああ」と言った。
「コウモリだ」
「カラスじゃなくて!? それは珍しいものを見たね!! 描かずにはいられないだろうね!!」
「まぁな」
まさかの生物に驚きを隠せないながらも、ファイはこの絵を額縁に入れて部屋に飾ろうと決めた。この絵には幼い黒鋼の印象に強く残ったものが、ぎゅっと詰め込まれているのが分かるし、太陽が笑っているのも、それだけ家族で花見をした思い出が素晴らしいものだったことを、よく表しているような気がする。
(元旦からいいもの見たなー。今年もいっぱい楽しいことがありそうな気がするー)
幸せな気分に浸るファイだったが、ユゥイが「あ」という声を上げたので、視線を向けた。
「どうかしたのー?」
「まだあるよ。ほら」
「わー! 本当だー!」
ユゥイが花見の絵をずらすと、そこにはもう一枚、子供の絵が姿を現した。

「ちょ!? な、なにこれ!?」
「ああ、そいつは水族館に行った時の絵だな」
海の生物っぽいものが見て取れるので、それは納得できるのだが。
「見て! やっぱりお父さんの足が短いよ! なんなら一枚目より酷いよ! これ絶対に確信犯でしょ!? 悪意しか感じられないよ!?」
比較画像↓

「知るか!! ガキの頃の俺に聞け!!」
「お父さんの足も気になりますが……お母さんの胸がやけにリアルというか……ボインですね」
「ボインって単語久しぶりに聞いたぞ。死語は慎め」
「今突っ込まれてるのは黒たん先生だよ!! 死語とかどうでもいいよ!!」
普段は基本ボケを担当しているファイは、ツッコミスキルに自信がない。だがここは頑張らざるをえなかった。
確かに黒鋼の母はなかなかいい乳を……していたかどうか、そういう目で見ていなかったので記憶は曖昧だったが、先ほどの絵の情報と照らし合わせるに、幼い黒鋼の脳裏に鮮明に焼き付いていたのは、母のボインだったということになるのか……。
「黒たん先生って子供の頃からムッツリだったんだね!!」
「あ!? なに言ってんだてめぇは!? お袋だぞ!!」
「お母さんだからこそ嫉妬していいのかどうか、微妙に迷ってるオレの身にもなってよねこのムッツリスケベ!!」
「なんだと!? 胸なんざデカけりゃいいってもんじゃねぇだろうが!! 言っておくが、俺はあるかないか分かんねぇくらいの胸で十分だからな!!」
「ちょ、お正月からおっきな声でなに言ってるの!? そんなに言うなら、後でいっぱい触らせてあげるからね!!」
「上等だ!! 胸洗って待ってろ!!」
謎の痴話げんか(?)を始めたカップルに、ユゥイが「まぁまぁ」と両手で諌めるようなジェスチャーをしながら苦笑した。
「おっぱいが嫌いな男はいないでしょうし、おっぱいが目の前にあればチラチラ見てしまうのは男の性であり、おっぱいは男のロマンですから、おっぱいを大きく描いてしまったとしても、それは仕方がおっぱい」
「てめぇはその顔とそのキャラでおっぱいおっぱい連呼すんじゃねぇよ! どんだけおっぱいって言えば気が済むんだ!!」
「黒たん先生もその魅惑の稲田ボイスでおっぱいおっぱい連呼するのやめて!!」
*
怒鳴りすぎて疲れた二人と全く疲れていないユゥイは、とりあえず炬燵を囲んでミカンを食べながら休憩をしていた。
「なんかすっかり体力を奪われちゃったねー……」
「そうだな……」
今年も一年この調子か……と思いやられている様子の黒鋼が、遠い目をしている。
ぐったりとした息を漏らしている二人を尻目に、ユゥイは床に移動させた箱の中身を嬉しそうにまさぐっていた。料理人の腕が鳴っているに違いない。
だが、そんなユゥイがふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば、あの水族館の絵を描いたのは何歳くらいだったんですか? あれも一年生?」
言われてみればいつだったのだろう。
小一の頃に描いたという花見の絵では、まだ母親の胸はペタンコだった。だが、絵のレベル的には進歩が見られなかったので、せいぜい二、三年生くらいだろうか。
ファイとユゥイが揃って黒鋼を見つめていると、彼は腕を組んでなぜか偉そうに踏ん反り返って言った。
「中一だ」
…………。
「惨いね!」
そう言って親指を立ててウィンクしたファイは、ミカンを一個丸ごと口の中に押し込まれて、危うく窒息死しそうになるのだった。
~おまけ~
「あったよ、ファイ」
両親から荷物が届いた翌日、黒鋼がファイの部屋で雑煮や御節を食べていると、そこに何やら箱を持ったユゥイがやって来た。
「なんだ?」
箸を止めて見上げる黒鋼に、箱を床に置きながら腰を下ろしたユゥイが微笑む。
「前に実家に帰ったときに、懐かしくて持って来てたんです。昨日黒鋼先生の絵を見ていたら思い出したので」
「オレが子供の頃に描いた絵だよー」
ファイは黒鋼にべったりと張り付いて一緒に食事をしていたが、ひとまず離れてユゥイの側ににじり寄って行く。
数冊のアルバムと一緒に姿を現した大きな画用紙は、大昔のものとあって僅かに黄ばんでいる。
「どれ、見せてみろ」
昨日は散々馬鹿にされてしまったが、自分に絵心がないのは自覚していたので仕方がない。だが、ファイはこれで結構手先は器用な方だ。
どんな作品が飛び出すのか、おのずと期待は高まった。
「これはねー、幼稚園の頃に描いたんだけど、自分でも気に入ってるんだー!」
ファイが楽しそうに画用紙を寄越した。少しワクワクしながらその絵を見た黒鋼は

絶句した。
「…………」
どう贔屓目に見てもヤバかった。
薄気味悪い人形のような子供が、血を流しながら闇に飲まれようとしている絵にしか見えない。
黒鋼は背筋に悪寒を走らせながら、恐る恐るファイの表情を窺う。
彼は誇らしげに笑い、両手をパチンと叩いて喜んでいる。
「やっぱりねー! 幼稚園の先生も、今の黒たんみたいな顔してたよー! 園児が描いたとは思えないクオリティの高さだし、青褪めても仕方ないよねー!」
「むしろ園児が描いたとは思いたくねぇよこんなもん!! おまえ大丈夫か!? 当時どんな精神状態だったんだ!?」
ハッキリ言ってクオリティの問題を超越している。
この男は一体どんな環境に育ったのだろうか。まともな精神では絶対にこんな絵は描けないはずだ。
「えー? どんなって……毎日ユゥイやお友達と遊んだりして、すっごく楽しかったよー?」
ねー、と顔を見合わせて双子が笑った。
「ちなみにそれはねー、ユゥイの絵なんだよー。ユゥイがちょうちょと戯れて駆けまわってる時の絵なんだー」
「蝶!? どこだ!? 俺には深い闇しか見えねぇぞ!!」
「よく見てよー! いっぱい飛んでるでしょー?」
「この赤いやつか!? どう見ても血か心霊写真によくある警告色にしか見えねぇこの赤いやつのことか!?」
「走り回ってるスピード感もよく出てるよね。今見ても全身が震えるよ」
「そりゃただの戦慄きだ!!」
駄目だ、この弟も頭(と心)のネジが吹っ飛んでいる……。
新年二日目を美味い飯を食いながらのほほんと過ごしていたはずが、いつの間にか病んだ双子ワールドに引きずり込まれてしまった。
とにかくこんな絵は一刻も早く封印すべきだ。見続けていればこちらの精神が参ってしまいそうな気がして、黒鋼は慌てて画用紙を手放すと鳥肌が立っている二の腕を強く摩る。
「もっとポップな絵はねぇのか! 頼むから俺を和ませてくれ!」
全力で懇願する黒鋼に、ファイは不満そうに唇を尖らせると、箱の中をまさぐった。
「お気に入りだったのにな~。ポップって言われてもよく分かんないよ~……あ、これはどうかな~?」
なんでもいいからこの世界観を脱したい黒鋼は、ファイの手から画用紙を奪い取った。次こそ子供らしいポップでキュートな作品に出会えますようにと願いつつ、画用紙を開く。
「それはね、ユゥイとお散歩してるときの絵だよー」

「どこまで人の心を不安定にさせりゃ気が済むんだ!?」
暗い森の中で迷子になってしまったような、井戸の底に落ちたまま蓋を閉められてしまったような、とにかくそんな不安な気持ちにさせられるような気がした。
「完全に病んでんだろ!! 闇抱えすぎだろ!! なぁ聞いてやるから吐き出せよ! 本当は辛い過去があったんじゃねぇのか!?」
こんなものを見せられては「過去は関係ねぇ」なんて台詞も言えやしない。この絵を描いた子供をどうにかして救ってやらなくてはと、謎の使命感に駆られてしまう。
ファイの両肩を掴んで思いっきり揺さぶると、彼はガックンガックンしながら困ったような顔をした。
「ちょ、わ、な、なに言ってんのー! この頃は毎日がキラキラ輝いて見えるくらい、夢や希望に満ち溢れてたよー!」
「溢れてんのはドロドロした悪夢と絶望だったんじゃねぇのか!? 我慢すんな! 俺が受け止めてやるから吐け! 吐き出せ!!」
「やっ、だ、だめっ、吐く! このままだとさっき食べたもの吐いちゃうからやーめーてー!」
目を回したファイの顔色がどんどん青くなっていくので、ひとまずガクガクするのはやめた。それでも両肩はしっかり掴んだままでいると、彼はすっかり眉毛をハの字にして「うー」と唸った。
「何もなかったってば~。もぉ~酷いよ~」
「わ、悪い……取り乱した……」
そんな二人のやり取りを横目に、ナイフとフォークを使って紅白蒲鉾をムシャムシャしていたユゥイが「そういえば」と何か思い出したような声を上げた。
「ファイ、この絵を描いたあと先生に連れられてどこかに行ってなかった?」
「えー? そうだっけー?」
「うん。そのまましばらく戻って来なかった記憶があるよ」
うーん、と腕を組んでしばらく天井を見上げたまま考え込んでいたファイは、手の平を拳でポンっと叩いて「思い出した!」と言った。
「どこか小さな部屋に連れて行かれて、そこで知らない白衣の女の人と色んなお話してたんだよー。すっごく優しくて、綺麗なお姉さんだったな~」
「カウンセリング受けてんじゃねぇか!!」
「そうなのー? お喋り楽しかったよー」
思い出に浸るファイの頬がなぜか赤い。初恋か。そのお姉さんが初恋の相手なのか。そこはかとなくイラッとしながらも、黒鋼はズキズキと痛みはじめるこめかみを押さえながら、大きく深呼吸をした。
「わ、分かった……とりあえずこの話は保留だ……埒が明かねぇ」
ドッと押し寄せた疲労感に、もはや食欲も失せている。今日のところは部屋に戻ってマガニャンでも読むか……と撤退を決めた黒鋼だったが、箱の中にアルバムや絵をしまう作業を始めたユゥイの手から、ポロッともう一枚画用紙が滑り落ちた。
「あ! これもあったんだー!」
「お、おい、今日はもういいぞ」
「そんなこと言わないでー! これはかなりポップでキュートな仕上がりだよー!」
多分おまえのポップでキュートは俺の中の基準には当てはまらねぇぞ……と、もはや諦めの境地に立たされている黒鋼に、ファイが拾い上げた画用紙を嬉々として手渡してくる。
「キノコの絵だよー! どうかなぁ? 可愛いでしょー?」
「……どれ」

「ど う し て こ の 色 を 選 ん だ !?」
もっと他に子供らしい色使いはなかったのだろうか。百歩譲って星とハートはポップでキュートと言えなくもないが、ハートの位置がナニやら意味深だ。
どこか爛れたオーラを感じるのは、自分が薄汚れた大人になってしまった証拠なのだろうか。
自称配管工の男がパワーアップするような方面のキノコを期待していた黒鋼は、なぜか手酷く裏切られたような残念な気持ちになった。
「これは駄目だ……俺には完全にアウトにしか見えねぇ……」
「たまたま肌色と黄色とピンクしかなかっただけだよー。でも確かに、今になって見るとちょっといやらしいかもねー」
もしやこの散りばめられた星は夜を意味しているのだろうか……と、嫌でも深読みせざるを得ない問題作に、違った意味で鳥肌が立った。
流石のファイもユゥイも、揃って苦笑している。
先刻の絵よりはまだマシと言えなくもないような気がするが、とりあえず脳内の見なかったことにするリストに、即座に加えることにした黒鋼だった。
←戻る ・ Wavebox👏
秋も深まり、そろそろ朝晩の冷え込みも厳しくなってきた。
この時期の楽しみといえば様々で、運動会や遠足、文化祭、紅葉狩り等は勿論、新米をはじめとする秋の味覚も盛り沢山だ。長い夜に、好きな音楽を聴きながら読書というのもいいだろう。
そして、中でも忘れてはいけないのがハロィンだ。
ケーキ屋などに並ぶのもカボチャ系のスイーツがメインになり、街のいたるところでジャックオランタンやコウモリ等の装飾が目を楽しませてくれる。
クリスマスほどの煌びやかさはないかもしれないが、これから大忙しの季節を迎える前の、ちょっとした気休めには丁度いいのかもしれない。
+++
ファイの手の中にあるクッキーの包みは、ラッピング自体は地味なものだった。
中身がよく見えるように、透明なビニール袋に詰め込んで金色のビニタイで絞ってあるだけだ。
大事なのは味と形状だった。カボチャをふんだんに使ったクッキーは、ウサギに小鳥、イヌやネコなど、様々な動物の形をしている。
「んふふ。我ながら上手くできたなー」
昼休み間近、一階の渡り廊下を歩きながら、ファイは手の中の包みに視線を落として顔をニヤつかせた。
「ちょっと可愛すぎかもしれないけどー」
女性にでもプレゼントするならまだしも、これを渡そうとしている相手は厳つい体育教師(♂)だ。
しかも彼はこういった見るからに甘そうな菓子類は好まない。
受け取ってもらうだけでも苦労しそうなものだが、ファイにはちょっとした勝算がある。きっとうまくいくはずだ。
「せっかく愛情を詰め込んで作ったクッキーだもんねー。一口でもいいから食べてもらわなくっちゃー!」
ルンルン、と調子はずれな歌を口ずさみながら、ファイはスキップをして体育教官室へ向かった。
+++
グラウンドに面した体育館の東側は、運動器具などを収納する大きな倉庫になっている。黒鋼は職員室にも机があるにはあるが、普段はどちらかといえば倉庫の二階に位置する教官室を拠点にしていることが多い。
体育館は二階も一階も校舎と渡り廊下で繋がっているものの、教官室は二階から見ても奥まっていて、少し隔離されているような印象を受ける。体育教師という立場上、体育館や校庭等の管理を任されている彼にとっては、最も身動きが取りやすい最適な位置なのだろう。
倉庫からは二階に直結した小さな階段も設置されているし、授業前の準備もしやすい。
だが、ファイには不満がある。
奥まった雰囲気、用がない限り他人の出入りがない、ちょっと外れにあるような場所。学校でもイチャつくには最適といえる教官室に、主である黒鋼自身があまりファイを寄せつけない。
謹厳実直な彼の性格は理解しているが、少しくらい二人だけの憩いの場にしたっていいじゃないか、なんて思ってしまう。
とはいえ今日は話が別だ。今すぐ渡したくて仕方がないのだから、たまには大目に見てもらおう。
ファイは倉庫の重々しい扉を開くと、ボールが積まれた籠や跳び箱などを横目に、奥の階段を駆け上がった。一見非常ドアにも見える鉄製の扉を軽くノックしてから開けると、そこが体育教官室だ。
「やっほー! 黒たん先生お疲れー!」
「なんだてめぇ。ここには来んなって言ってんだろ」
黒鋼は事務作業をしていたようで、向かっていた机から目を離すと身体ごと椅子を回してこちらを向いた。眉間の皺が深くなっている。
「だーってどこ探してもいないんだもんー。事務作業くらいは職員室でやったらいいのにー」
「わざわざ戻ってられっか。それよりなんだ? 用がねぇなら」
「あるよー! あるあるー! だから来たんだよー」
教官室自体はファイが巣にしている準備室とそう広さは変わらない。
ただ、化学準備室は薬品を収納するため棚が幾つも幅をきかせていて、少し手狭だった。が、ここもどっこいどっこいだ。机や棚、ちょっとした給湯スペースしかないものの、なにせ主が日本人離れしすぎた体格の持ち主なため、どこか窮屈そうに見える。
ファイは後ろ手に扉を閉めると、軽快な足取りで窓際の机に近づいた。見上げてくる黒鋼に向かってニッコリ笑って、白衣のポケットに入れていたクッキーの包みを「はい」と渡した。
「なんだぁ? こりゃ」
「クッキーだよー。さっきねー、オレが作ったのー」
「……おまえがか?」
元々あまりいい顔をしていなかった黒鋼の表情が、さらに曇ったような気がしたが、そこはあえて気にしない。
ファイは大きく頷くと、黒鋼の胸元辺りに包みをグイグイと押し付けた。
「なんでも出来たてホヤホヤって美味しいでしょー? だから早く渡したくってー」
「……俺が甘いもんは好かねぇって知ってんだろ。しかもなんでてめぇにクッキーなんか焼く時間があるんだよ」
「たまたま授業がなくてねー、時間が開いて暇だったから、ユゥイんとこに遊びに行ったのー。そしたらちょうど調理実習やってて、ハロウィンスイーツ作りしてたんだよー」
「……乗り込んだのか」
「カボチャクッキーだよー。ほら見て、どれも可愛い形してるでしょー?」
あまりにもグイグイと押し付けたので、黒鋼は嫌そうな顔をしながらも渋々受け取った。透明なビニール越しに中身をじっと見つめている。
「黒様先生でも食べられるように、特別に作ったんだよー。カボチャ本来の甘みがちょこっとあるだけでー、余計なものは入れてな……あれ? どうかした?」
黒鋼は、なぜかクッキーを見つめたまま動かなくなってしまった。瞬きも忘れている様子に、いつもと違う雰囲気を感じたファイはちょこんと首を傾げる。その視線に気づいたのか、黒鋼は顔を上げると「悪い」と低い声で言う。
「気持ちだけ受け取っておく」
「そんなこと言わないでー! 一生懸命作ったんだよー!」
「それも問題っつうかな……」
往生際の悪い黒鋼に、ファイは「えっへん」と胸を張った。
「オレも味見したけど、バッチリだったよ! ユゥイも上手だって褒めてくれたしー」
「ちなみに聞くが、本当におまえが最初から最後まで作ったのか?」
「え? 違うよ? オレは型抜きでクッキーの型を抜いたんだよ。なぜかユゥイがそれしかやらせてくれなくってー、失礼しちゃうよねー」
「それで自分が作ったって言い切るのもどうかとは思うが、味に問題がねぇってことはよく分かった」
「なんか凄く分かりやすくバカにされた気がするのはオレの思い違いかなー?」
黒鋼が、す……っと目を逸らした。
もしや、少しでもファイが手を加えたものは口にできないとでも言うつもりなのか。だからこんなにも渋っているのか。
ファイは乙女心を踏みにじられたような気持ちになった。
「ひ、酷いよー! 黒様先生のセクシーな尺骨茎状突起(手首の小指側の突起)や、黒様先生のちょっと血管の浮いた前腕屈筋群(肘から下の筋肉)や黒様先生のきゅっと引き締まった大臀筋(ケツ)を想像しながら頑張って型抜きしたのにー!!」
「身体か!! 結局てめぇは俺の身体だけが目当てか!!」
「うわあぁんピュアな乙女心傷つけられたー!!」
「ゲスい助平心の間違いじゃねぇか!?」
まるで変質者でも見るような目でズバズバと突っ込みを入れられたファイは、さらに傷ついた。
身体目当てでなにが悪い。(下衆)
いや、もちろん黒鋼の魅力はその肉体美だけではない。外側も内側も、いっそ内臓に至るまで愛している。ちょっとムッツリなところはあるし、ベッドの上では意地悪だけど、これでいて実は思慮深いところがあったり、人相は悪いけど心根は優しかったり、見た目とのギャップもうんぬんかんぬん。
とにかく黒鋼に関しては語り尽せないほど重たい愛情に身を焼き尽くされそうになっているファイだが、クッキーの型抜きをしている時はまぁ……主に筋肉気分だったのだから仕方ない。
「もういいよー! 気持ち気持ちって、一口くらい食べてくれたって罰は当たらないのに! 黒バカ先生のバカー!!」
「二度も言うんじゃねぇ! 馬鹿って言った方が馬鹿だって有名な格言知らねぇのか!! とにかく俺はぜってぇ食わねぇぞ! てめぇが食え!!」
小学生のような残念な言い合いをしながら、両者共にどこか意地になっていた。
黒鋼は元から頑固だが、いつにも増して頑なになっているような気がする。そのちょっとした違和感に引っ掛かりを覚えつつ、ファイはさっさと撤退することを決めた。
「いいよ自分で食べるから!! それかその辺の男子生徒にでも思わせぶりな態度で渡すから!! 浮気してやるー!」
「おおやれるもんならやってみろ! 付き合ってられっか!!」
「~~~ッ、バカー!!」
ファイは黒鋼の手からクッキーの包みを奪い取ると、逃げるように元来た扉を乱暴に開けて、教官室を後にした。
+++
ダンダンダンッ、と大きな音を立てて倉庫へ続く階段を降りた。
部屋を出たとたん冷たい空気が皮膚を刺す。目が覚めるような寒さがファイの足取りを徐々に鈍くして、それに伴い高ぶっていた気分が沈静化する。
黒鋼に受け取ってもらえなかったのも悲しかったが、何より言い合いになってしまったことが辛くて涙ぐむと、鼻先がツンと痛んだ。
(なんでこんなくだらないことで、ケンカなんかしてんだろ)
階段を降り切ったところで足を止めたファイは、振り向いて扉を見上げた。ほんの少しだけ、追いかけて来てくれないかな、なんて期待しながら。だが辺りはしんと静まり返るだけで、そんな気配は感じられない。
俯いて弱々しく溜息を漏らす。
「バカ……」
ファイはそれを自分に対して呟いた。
きっと彼が言うように、気持ちだけで十分だった。最初に断られたときに、食い下がらずに引くべきだったのではないか。いくら控えめだからといって、黒鋼が甘いものを好まないことは知っていたのだし。
身勝手な言い分だとは思うが、少しくらいは喜んでくれるかな、なんて期待して胸を弾ませていた自分が恥ずかしい。
これではただの気持ちの押し付けだ。売り言葉に買い言葉状態で口喧嘩してしまったが、あとでちゃんと謝らなければ……。
それにしても、とファイは思う。
「黒たん先生って、どうしてあんなに甘いのダメなんだろ。それに……」
このクッキーと、バレンタインのチョコレートは何が違うんだろう。
黒鋼は苦手ながらも毎年ファイのチョコを食べてくれる。思いっきり顔を顰めて、時間をかけながらも、残さずしっかり。
それに比べたらこのクッキーなんて、大した甘さじゃない。砂糖は一切使っていないし、素材の味だけが生かされているのだから。
何か特別な理由があるような気がする。ファイは手の中の包みをじっと見つめた。
+++
ふと気づくと、ファイは畳の上で仰向けに寝転がっていた。
幾度か瞬きをして、輪っかの電球と傘がぶら下がった、緩やかな木目の天井をぼんやりと眺める。どこにでもあるような、日本の一般家庭といった天井だ。
「あれ……」
まだスッキリしない頭で身を起こし、おかしな癖がついてしまったらしい後ろ髪を撫でながら辺りを見回す。
いつの間に寝たのか、ここは一体どこなのか。
ただ、八畳ほどの和室にはどこか見覚えがあった。いや、それよりなにより。
(前にもこんなようなことなかったっけ)
おそらくこれは夢だ。
白衣を着たままであることを考えると、本体は学園のどこかしらで居眠りでもしているのか。黒鋼とケンカしたばかりだというのに、呑気なものだと我ながら少し呆れる。
そして以前にも、夢でどこか見覚えのある家の中で目を覚ましたことがあった。
これはあのときの状況によく似ている。
と、いうことは。
また小さな黒鋼や、女の子になっているユゥイに会えるんだろうか。平日はビシッとスーツを着こなし、休日には家族サービスをしてくれる夫が、どこかにいたりするんだろうか。(※もしもの世界の子供たち)
「でも……ここってあの時の家じゃないなぁ……黒たん先生の部屋だよねぇ?」
夏に黒鋼の実家へ強引について行ったのは、まだ記憶に新しい。
ここはあのとき寝泊りをした黒鋼の部屋だ。ただ違うのは……。
ファイはのろのろと立ち上がると部屋の片隅の机に足を向けた。そこには、記憶の中では本棚に納まっていたはずの昆虫図鑑が、開きっぱなしになっている。世界中のカブトムシの写真が掲載されていて、ついさっきまで人がいたような気配が感じられた。地球儀や船の模型もどこか真新しいし、机の脇には黒いランドセルがかけられている。
部屋の中は全体的に片付いていて、地味な印象はそのままだ。それでも縦笛が床に投げ出されていたり、読み古した数週間分のマガニャンが積まれていたり、サッカーボールが片隅に転がっていたり、子供らしさが漂っている。
もしや……とファイがある結論に達したのと、背後で襖が開くのは同時だった。
「ッ……!」
息を飲んで振り返れば、そこには。
「だ、誰だ、おまえ!」
部屋の主である少年が、大きな紅い瞳を見開いていた。
*
「おまえ泥棒か!」
警戒心をむき出しにした少年は、ファイの腰ほどしかない身長で身構えている。髪型は今と変わらないが、ふっくらとした額がほんのりと赤い。
車のキャラクターが描かれた黒い長袖シャツに、少しダボついたジーンズは裾がめくられていた。そしてなぜかオレンジジュースを片手に持っている。
ファイはポカンと口を開けたまま茫然とした。
可愛い。爆裂に可愛い。声だって女の子のように甲高い。
やっぱりここは黒鋼の部屋だった。おそらく過去の。
ファイは打ち震えると頬を染め、涙ぐみながら声にならない悲鳴を上げた。
「ヒイイィィアァアァ……ッ」
気色の悪い反応を示す白衣の男を見て、小さな黒鋼はビクンと肩を震わせ、なぜか押入れに向かって駆け出した。それに合わせてサ●エさんでいうところの、タ●ちゃんの足音効果音がファイの頭の中で再生される。
あまりにも必死なのか、襖を開ける瞬間に黒鋼の手からオレンジジュースが床に転がる。それでも構わず、彼が中から取り出したのは、まだどこか真新しい剣道用の竹刀だった。
「じっとしてろよ! やっつけてやる!!」
「わー!? もはや長い木の棒を所持しているー!!」
「はま・りゅうおうじん!!」
「ッ!!」
黒鋼は小さな身体で突進してくると、力いっぱい竹刀を振り上げ、叩きのめそうとしてきた。ファイは咄嗟に片膝をついて真剣白羽どりした。
微かな沈黙が流れたあと、黒鋼はどこか好戦的に笑った。
「なかなかやるじゃねぇか……泥棒のくせに」
「けっこう手がビリビリしてるけどねー……ところで、そのはまりゅうなんとかっていうのはなに……?」
「俺が徹夜で考えた必殺技だ」
「へ、へぇ~……か、かっこいいね~……」
子供らしさを隠しもしない愛らしい様子に、再びファイが恵比寿顔で打ち震えていると、竹刀ごと身を引いた黒鋼は「そんなことはいい」と吐き捨てる。(でもちょっと誇らしげだった)
「窓から入ったのか? それとも、もともと家ん中に隠れていやがったのか……けーさつ呼んだっていいんだぜ」
「警察の番号知ってるの? えらいねぇ~! ちなみに番号は何番?」
「119番だ!」
「あぁ惜しい! そっちは救急車と消防車でしたー!!」
「なっ、なんだと!?」
自信満々で答えたものが間違いだったと指摘され、黒鋼はみるみるうちに顔を赤らめ、悔し涙を浮かべた。握られた小さな拳がプルプルと震えている。
ファイは限界を迎えた。このさい救急車だろうが警察だろうが宇宙戦艦だろうが、なにを呼ばれたって関係ない。
「ショタ鋼たぁん!!」
「うわぁ!?」
ファイは小さな黒鋼に両手を伸ばすと思いっきり抱きしめて、頬ずりをした。咄嗟のことに驚いた黒鋼は竹刀を落とし、手足をバタつかせて暴れはじめる。
「は、はなせ! くっつくな!!」
「そんなの無理だよぉー! だって可愛すぎてもう離したくないんだもんー!!」
「はなさねぇと本気でやっつけるぞ!!」
「ね、ねぇお兄ちゃんといいことして遊ばない? ハァハァ……」
「うわなんだこいつマジで気持ちわりぃ!!」
「うぶっ!?」
明らかに生理的嫌悪感を抱かれてしまったファイ(これでも右側ポジ)は、闇雲に暴れる黒鋼の拳を顔面に食らった。
いくら小さくても、思いっきり叩きつけられればかなり痛い。
咄嗟に鼻を押さえて尻もちをついたファイから、黒鋼が後方に飛び退いた。
「これにこりたらさっさと帰……おい?」
「うぅ……痛いよぉ~酷いよぉ~……」
「な、なんだよ! 俺は殴ってねぇぞ……ちょっとぶつかっただけで……」
「オレは泥棒じゃないのにぃ……」
ファイの目からポロポロと零れ落ちる涙に、黒鋼はたじろいだ。
別に悲しくて泣いているのではなく、鼻に衝撃を受けたせいで自然と涙が零れているだけなのだが、彼は幼いながらに情が深いらしい。
やっぱり黒様だなぁ……と頬が緩みかけたが、ここでニヤニヤしてしまったらせっかく上手い具合に気を引くことに成功しそうなのが台無しだ。
「じゃ、じゃあ一体なんだってんだよ……」
まさかこんな年端もいかぬ少年に、
オレは君の将来のお嫁さんだよ♡
なんて流石に言えない。そのくらいの理性はまだ残っている。一応は適当にでっちあげて誤魔化すとするか。
ファイは両手で顔を覆って、さらに泣き真似をした。
「オレはただ、あのときの恩返しをしたいと思っていただけなのにー」
「あ、あのとき? あのときってなんだ? どっかで会ったか?」
食いついた。
黒鋼は畳の上に膝をつくと、少しだけこちらに近寄って顔を覗き込んできた。
ファイは顔を背けると、机脇のランドセルに目を向ける。真っ黒なランドセルは少しだけ潰れかけていて、光沢も失われつつある。
「君、いま何年生?」
「3年だ。もうすぐ4年」
「そっかー……」
なら、そろそろいい感じに記憶も薄れている頃か。
「オレはね、君が小学校に上がる少し前に、駅で君に拾われたホームレスなんだよ」
「!? う、ウソだろ……? だってあんときのおまえは、もっと真っ黒でヒゲもボーボーだったし、髪とか目の色だって……」
「あれからオレも色々あってね……あの頃より、ちょっと見た目も変わったかもしれないけど……」
黒鋼は床に胡坐をかくと腕を組み「うぅむ」と唸った。
「たしかにな……言われてみりゃ、あんときのおまえは帽子もかぶってたし、すげぇ汚れてたってキオクはあるんだが、顔まではいちいちおぼえてねぇ気もするな」
ここまで来たらファイの思う壺だ。
心優しい純粋な少年を騙すのは少々気が引けるが、このまま嘘を吐き通すしかない。
黒鋼の両親に色々と彼の昔話を聞いたことが、まさかこんな形で役に立つとは。
「でしょー? ボロボロだったオレも、今は幸せにやってるんだー。あのとき君がここに連れて帰ってくれて、お母さんのおむすびを貰ってなかったら、きっとお腹が空きすぎて死んじゃってたなぁ~……」
「……そうか。おまえはあの時のポチだったのか」
「ポチ!? え!? 名前つけてた!? やっぱり捨て犬感覚だったね!?」
子供に拾われ、ベタな犬の名前までつけられたホームレスの人は、一体どこまでプライドのない人間だったのか。あるいは、おかしな性癖でも持っていたのか。
いや、それはまぁいいとして、子供という生き物はここまで騙しやすいものなのか。うんうんと頷いている顔は真剣そのもので、疑う素振りがまるでない。
きっと今の黒鋼なら、サンタクロースだって本気で信じているに違いなかった。
「と、とにかくー、これでオレが泥棒じゃないってこと、分かってくれたー?」
「わかった。久しぶりだな、ポチ」
「うん、もうポチでいいやー。あのときはありがとー」
「話はわかったが、別に恩返しなんて気にするこたねぇぞ」
「まぁまぁ、そう言わず……」
ファイはふと、黒鋼が襖を開けるときに落としたオレンジジュースに目をやった。ファイが知っている黒鋼は、ジュースなんて絶対に飲まない。水の代わりに寝起きにビールジョッキを空にしたからといって、ケロリとしているような人間ではあるが。
となると、もしかして……?
「ねぇ黒たん」
「変な呼び方すんな」
「黒たんって甘いもの好きだっけ? あれって自分で飲もうとして持ってきたのかな?」
ファイがジュースを指さすので、黒鋼は「ああ」と返事をすると手を伸ばす。オレンジが描かれた缶を手に取り「飲むか?」と差し出してきた。
「え、いいよー。黒たんの……でしょ?」
「別にいい。下にまだあるから、これはおまえが飲め」
「だ、大丈夫ー。オレは喉乾いてないよ」
「そうか?」
黒鋼は無理強いすることなく、自分でジュースの缶を開けた。そして、なんの躊躇もなしにグビグビと飲み始めた。
ファイはその今では決して見られない光景に目を丸くする。
彼は確かもうすぐ小4だと言っていた。ということは、今は八歳か九歳か、そのくらいの年齢のはず。この頃はまだ甘いものが好きだった、ということになるわけだ。
(一体なにがキッカケだったんだろうなぁ~……)
「あ、そうだ!」
ファイは思い立って、白衣のポケットを漁った。そこにはクッキーの包みがしっかりと入っている。
「ねぇねぇ、黒たんクッキー好き?」
「なんだ?」
「あ、あのね……オレ、黒たんに食べてほしくて、クッキー焼いたんだけど……」
ファイは頬を赤らめて、そっとクッキーの包みを黒鋼に差し出した。彼は素直にそれを受け取り「俺のために?」と驚いた様子だった。
こくりと頷いて見せる。大人の黒鋼はちゃんと受け取ってくれなかったけれど、きっとこの子なら。
本当はちゃんと今の黒鋼に食べてほしかったけど。それは叶わないから、自分で食べるより、誰かに渡すより、捨ててしまうよりずっといいと思った。目の前の少年が黒鋼であることに変わりはないのだから。
黒鋼は透明な包みを目線まで持ち上げて、袋の中身をじっと見つめている。
「甘いの、好きだよね?」
「好きだけどよ……」
「けど? どうかした?」
黒鋼は俯くと、弱々しく首を左右に振った。
「俺は、このクッキーは食えねぇ」
「え!? だって……嫌いじゃないんだよね?」
「キライじゃねぇけど、これだけはダメだ」
「な、なんで~……?」
ファイはガックリと肩を落とす。
甘いものがまだ嫌いではないらしい黒鋼なら、きっと食べてくれると思ったのに。実際はかなり甘さが抑えられているから、今の彼には物足りない味かもしれないが。
黒鋼は、ファイがあまりにも落ち込んだ様子を見せるからか、ちょっとバツが悪そうな顔をした。それから、名案を思い付いたように「そうだ!」と声を上げる。
「これが恩返しだってんなら、こいつは母さんに渡すってのはどうだ? あのおむすびは、母さんが作ったもんだし」
「あー、うん……それでもいいけど……オレはできれば、黒たんに食べてほしかったんだよねー……」
でも、とファイは続ける。
「無理やりもらっても嬉しくないよねー。押し付けはよくないって、教えてくれたのは君だし」
「?」
「うぅん。こっちの話」
なんだか猛烈に、大きな黒鋼に会いたくて堪らなくなった。
早く目を覚まして、ケンカしてしまったことを謝りたい。それに、もしここに黒鋼の両親が来てしまったら、流石に彼らには息子にしたような言い訳は通じないだろうし。(天然だから分からないが)
ならば現実の自分が早いところ目を覚ますのを待つしかない。今のところその様子はなさそうだが、ならばせめて小さな黒鋼をもう少し堪能するか。
「ねぇねぇ、そういえば聞いてもいい?」
「なんだ?」
「どうしてそのクッキーは食べられないの? どこもおかしなところはないと思うんだけどー」
「……」
黒鋼は手の中にあるクッキーの包みをじっと見つめた。何か言いにくいことなのだろうか。無理に聞くつもりはないが、気にはなる。
すると黒鋼は、小さな息を漏らしてからボソッと呟いた。
「……動物」
「え? なに?」
「だから、そのクッキー……動物の形してんだろ」
「ああ、うん。そうだねぇ」
「可哀想だろ……」
え……?
ファイは咄嗟に意味が分からず、瞬きを繰り返しながら黒鋼を見つめた。その視線がよほど居心地悪かったのか、彼は赤い頬をぷうっと膨らませる。
「だから、食ったらカワイソウだろ!」
「ッ……!? ほわぁ……」
そういうことだったのか。
ファイのことを例のホームレスと疑って止まない純朴な少年は、例え食べ物といえども動物の姿をしたものに手を出すことはできない、と。そう言っているのだ。
「かっ……」
可愛い。
なんてピュアで優しくて、穢れ知らずなんだろうか。これがどこをどうすればあんなムッツリスケベに成長するんだろう。
その言い分が十分恥ずかしいことを自覚しているらしい少年は、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
鼻の下がどこまでも伸びきってしまいそうだ。と、同時に黒鋼(大)の肉体美を想像しながらクッキーの型抜きをした自分が、物凄く汚らしい存在に思えてくる。
ファイは両手で小さな手をクッキーの包みごとぎゅうっと握りしめた。
「ごめんね黒たん……! オレが間違ってた! そうだよね! ウサギさんやアヒルさんが可哀想だよね!!」
「お、おう……わかってくれたか」
「わかったよ! わかった! ならオレにいい考えがあるよ!」
「?」
「これがアニマルクッキーじゃなければ、食べてくれるんだよね?」
「そ、そうだな。うまそうなのは確かだしな」
「任せて!!」
この優しい少年に、何かしてあげたい。
形だけが問題で、彼はこれを美味しそうだと言ってくれた。なら、やっぱり食べてほしい。
それにはどうすればいいのか、答えは簡単だった。
「オレは醜い心を持った、穢れた大人だからね……君の綺麗な手を煩わせることなく、華麗に問題解決して見せるよ」
「あぁ?」
「それ貸して」
「あ、おい?」
ファイは黒鋼の手から包みを奪うと、それを畳の上に置いた。
一体なにをする気なのかと、ファイの顔とクッキーとを交互に見つめる黒鋼に、ニッコリ微笑んだあと、ファイは
「そぉい!!」
と、手刀をクッキーに叩きつけた……。
「!?」
バリィッ、グシャァ……という音がした。
ファイはやり遂げたような清々しい表情で大きく息を吐き出す。
「よーし、しっかり割れたよー。ちょっと粉々になりすぎたかな? でももう動物の原型はないから、これで食べられ……あれ? どうしたの?」
「て、てめぇ……ポチ……なんてことを……」
「え? なになに~?」
「このっ……おおばかやろう!!」
ファイはなぜ彼がここまで激昂しているのか、さっぱり分からなかった。
自分の手や歯で砕くのが嫌だというのなら、割って形を分からなくしてあげれば食べられるかな~? くらいの軽い気持ちだったのだが……。
「な、なんで? なんで怒ってるのー? だってこれ、黒たんが粉々にしたんじゃないんだよー?」
「ッ、ぅ……」
「あ、あれ……?」
小さな肩が震え出し、紅い瞳から大粒の涙が零れだした。
ずっと強気だった表情が弱々しいものへ変わっていって、つい興奮しそうに……いや、胸が痛む。
「誰が割るとか……そういう問題じゃ……」
ゆらり、と立ち上がった黒鋼は、投げ出されていた竹刀を掴み上げた。
「あのー……もしかしてまたあの必殺技……?」
「ねぇんだよ!!」
「――ッ!?」
今度は上からではなかった。白羽どりでしのぐつもりだったファイは横っ面を思いっきり竹刀で殴られて、その威力の凄まじさに横っ飛びした……。
*
「おい、こんなとこで寝てんじゃねぇ。風邪ひくぞ」
頬を何度か軽くポンポンと叩かれて、ファイはゆっくりと目を覚ました。
ついさっきまで見覚えのある和室にいたはずが、真っ先に目に飛び込んできたのは平均台や跳び箱だった。
「あれ? ここ体育館倉庫……?」
「飛び出してったと思ったら、一体どこで寝てんだよ」
「え? え? あれれ? ちっちゃな黒たんは?」
「しかも寝ぼけてやがる」
黒鋼に額を小突かれる。ファイは折りたたまれたマットの上に深く座り込み、壁に背を預けて眠っていたらしかった。
(そうか……そういえばここで、黒たん先生を待ってたんだっけ)
昼休み明けは体育の授業があることを知っていたから、きっと早めに降りて来て準備をするだろうと思った。だから、ここでもう少し頭を冷やしながら待っていようと、マットに腰を落ち着けて、そのまま寝入ってしまったのか。
黒鋼は、まだぼんやりしているファイを呆れ顔で見下ろしていた。それから「ちょっとズレろ」と言う。ファイが素直にマット脇まで身体をずらすと、すぐに隣にどっかり腰を下ろした。
そして、ファイが両手に包み込んでいるクッキーの包みを、ひょいと取り上げた。
「あっ」
「おい、なんだよこれ……粉々になってんじゃねぇか……」
「え……?」
ファイは黒鋼が持ち上げているクッキーの包みを凝視した。
確かに、中身は粉々に砕けてすっかり動物の形が失われている。せっかく上手く型抜きをしたのに、これでは台無しだ。
けれどファイが驚いたのは、透明なビニールに明らかに物理的な衝撃が加わった痕跡が見られることだった。
(確かに夢の中でクッキーを割ったのはオレだけど……そのときの痕に見えないことも……ないような……?)
「おまえな、型抜きしかしてねぇんだろ? これじゃてめぇの仕事がまるで意味ねぇじゃねぇか」
「う、うん……落としちゃった、かなぁ……?」
「落としてここまで粉々になるか?」
「えと……ごめん……」
「ったく」
黒鋼はファイを横目でチラリと見てから、金色のビニタイを外して中に指を突っ込むと、小さな欠片を摘まみだした。
ハッとして目を見開くファイの前で、彼はそれを口の中に放り込む。
「く、黒様……なんで……?」
「……美味い」
「ほんと……?」
「まんまカボチャだな」
これならイケる、という言葉につい泣きそうになった。
無理なんかしなくていいのに。気持ちを押し付けて嫌な思いをさせてしまったことを、まだ謝ってもいないのに。
「バカが。泣くやつがいるか」
「だ、だってぇ~……」
「まぁ……なんだ。俺もちっと意地張りすぎちまったな。悪かった」
「うぅん、オレの方が無理言っちゃって……ごめん」
それに、とファイは思う。
小さな黒鋼にも、嫌な思いをさせてしまった。あれが夢なのか現実なのかは謎だが、なんとなく夢ではなかったような、そんな気がして仕方がない。
さっきまで見ていた光景を思い出して押し黙るファイに、幾つかクッキーを食べた黒鋼は「昔な」と小さく切り出した。なぜか心臓が跳ねる。
「ガキの頃の話なんだが」
黒鋼は何かを思い出すように視線だけを上向けると、子供の頃のおかしな体験を話し出した。
それは、謎の変質者が突然部屋に現れて、無理やりクッキーを食べさせようとした、というものだった。
思いっきり身に覚えがある。まさかまさかと思いつつ、そんな稀な体験がそうそうあるとは思えない。
「七つか八つか……いつだったのかもはっきり覚えちゃいねぇが……ありゃ一体なんだったんだろうな」
「な、なんだったんだろうねぇ……」
「すげぇインパクトの変態だったって気がするんだがな……なぜか思い出そうとするとさっぱりだ。ただ、俺が妙なもんをよく連れて帰ってたってのは、おまえも聞いただろ?」
「うん、聞いた」
ホームレスや素手で仕留めたイノシシ。他にも色々と聞きすぎてすぐには思い出せない。どうやら黒鋼は、その変態とやらも自分が連れ込んだものだったのかもしれない、と解釈しているようだった。
いい感じに記憶が操作されていることに、少しホッとする。
「あんときからな、まずクッキーが食えなくなって、そのうち甘いもん全部が苦手になってった。どっかで連想しちまうんだろうな」
「ご、ごめん……」
「なんでおまえが謝るんだ」
とりあえずは謝っておかなければ気が済まなかった。
すぐには信じがたい不思議な話だと思うが、その変態は確実にファイだ。
ピュアピュアな少年に絶対的なトラウマを植え付けて、しかもそれが彼の甘味嫌いに繋がっていたとは……。
「まぁ、こんぐれぇならたまに食う分にはいいかもな」
そう言ってクッキーをもう一欠けら口に入れた黒鋼の手が、ファイのぴょこんと跳ねてしまっている後頭部の寝ぐせに触れる。そっと撫でられて、胸が締め付けられるような気がした。
あの小さくて可愛いばかりの子供が、こんなに大きく男前に成長するなんて。今じゃ見られないオレンジジュースを飲む姿や、必殺技を叫びながら竹刀を振りかざす姿を見れたのも嬉しかった。可哀想なことはしたけど、泣き顔も。
「黒たん、今度またクッキー作るときは、ハートの形にするからね」
「あ? なんだよ」
「動物型じゃなくて、ハートにする」
「だからなんだ急に。それじゃ可愛すぎやしねぇか?」
動物だってそう変わらないような気がするが、おそらく照れているだけだろう。
(おっきな黒様も可愛いなぁ。オレはやっぱり今の黒たんが一番好き)
「ねぇ黒たん、お願いしてもいい?」
「どうした」
「……チュウしたいなー、なんて」
ダメ元で言ってみると、彼は案の定ムッと顔を顰めた。でも、なんだか無性にしたいのだから仕方ない。
黒いジャージの胸元にそっと手を当てると、身を寄せて見上げてみる。黒鋼は少し苛立ったように溜息をついて、それから「学校だぞ」と低く吐き捨てた。
だけどファイがそっと目を閉じると、一瞬の間のあとに唇が重なる。ほんのりとカボチャの甘い匂いがした。
いつもよりドキドキして仕方がないのは、きっと学校ではこんなこと、滅多にないからだ。キスだけで、いやに興奮する。
「……わかった」
何度か啄むような口づけが終わったあと、ファイは吐息混じりに言った。
「わかったよ、黒たん」
「……なにが」
「どうして黒たんが、倉庫や教官室にオレを寄せ付けないのか」
奥まった雰囲気、用がない限り他人の出入りがない、ちょっと外れにあるような場所。こんなところで火がついてしまったら……。
「我慢、できなくなっちゃうね」
目元が熱い。たぶん、顔は真っ赤になっている。
白い両手で縋るように、黒鋼の胸元をぎゅうっと握った。あまり時間がないのは分かっているけど。
「もっと……ダメ……?」
少し泣きそうな顔で見上げると、大きな手が片頬を包み込んだ。またすぐにキスをするのだと、期待に肩を震わせるけれど、彼の唇はファイの額に落とされるだけだった。
「黒様ぁ……」
「阿呆」
不満を露わに唇を尖らせるファイに、黒鋼はふっと笑って見せた。少し困っているような表情にも見えて、彼も同じように耐えているのだということが分かる。
物足りないけれど、こんな顔をされては仕方ない。
黒鋼の指先が、幼子を窘めるような優しさでファイの赤い頬をふにっと摘まんだ。それから、
「また今度な」
そう言って、離れていった。
←戻る ・ Wavebox👏
この時期の楽しみといえば様々で、運動会や遠足、文化祭、紅葉狩り等は勿論、新米をはじめとする秋の味覚も盛り沢山だ。長い夜に、好きな音楽を聴きながら読書というのもいいだろう。
そして、中でも忘れてはいけないのがハロィンだ。
ケーキ屋などに並ぶのもカボチャ系のスイーツがメインになり、街のいたるところでジャックオランタンやコウモリ等の装飾が目を楽しませてくれる。
クリスマスほどの煌びやかさはないかもしれないが、これから大忙しの季節を迎える前の、ちょっとした気休めには丁度いいのかもしれない。
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ファイの手の中にあるクッキーの包みは、ラッピング自体は地味なものだった。
中身がよく見えるように、透明なビニール袋に詰め込んで金色のビニタイで絞ってあるだけだ。
大事なのは味と形状だった。カボチャをふんだんに使ったクッキーは、ウサギに小鳥、イヌやネコなど、様々な動物の形をしている。
「んふふ。我ながら上手くできたなー」
昼休み間近、一階の渡り廊下を歩きながら、ファイは手の中の包みに視線を落として顔をニヤつかせた。
「ちょっと可愛すぎかもしれないけどー」
女性にでもプレゼントするならまだしも、これを渡そうとしている相手は厳つい体育教師(♂)だ。
しかも彼はこういった見るからに甘そうな菓子類は好まない。
受け取ってもらうだけでも苦労しそうなものだが、ファイにはちょっとした勝算がある。きっとうまくいくはずだ。
「せっかく愛情を詰め込んで作ったクッキーだもんねー。一口でもいいから食べてもらわなくっちゃー!」
ルンルン、と調子はずれな歌を口ずさみながら、ファイはスキップをして体育教官室へ向かった。
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グラウンドに面した体育館の東側は、運動器具などを収納する大きな倉庫になっている。黒鋼は職員室にも机があるにはあるが、普段はどちらかといえば倉庫の二階に位置する教官室を拠点にしていることが多い。
体育館は二階も一階も校舎と渡り廊下で繋がっているものの、教官室は二階から見ても奥まっていて、少し隔離されているような印象を受ける。体育教師という立場上、体育館や校庭等の管理を任されている彼にとっては、最も身動きが取りやすい最適な位置なのだろう。
倉庫からは二階に直結した小さな階段も設置されているし、授業前の準備もしやすい。
だが、ファイには不満がある。
奥まった雰囲気、用がない限り他人の出入りがない、ちょっと外れにあるような場所。学校でもイチャつくには最適といえる教官室に、主である黒鋼自身があまりファイを寄せつけない。
謹厳実直な彼の性格は理解しているが、少しくらい二人だけの憩いの場にしたっていいじゃないか、なんて思ってしまう。
とはいえ今日は話が別だ。今すぐ渡したくて仕方がないのだから、たまには大目に見てもらおう。
ファイは倉庫の重々しい扉を開くと、ボールが積まれた籠や跳び箱などを横目に、奥の階段を駆け上がった。一見非常ドアにも見える鉄製の扉を軽くノックしてから開けると、そこが体育教官室だ。
「やっほー! 黒たん先生お疲れー!」
「なんだてめぇ。ここには来んなって言ってんだろ」
黒鋼は事務作業をしていたようで、向かっていた机から目を離すと身体ごと椅子を回してこちらを向いた。眉間の皺が深くなっている。
「だーってどこ探してもいないんだもんー。事務作業くらいは職員室でやったらいいのにー」
「わざわざ戻ってられっか。それよりなんだ? 用がねぇなら」
「あるよー! あるあるー! だから来たんだよー」
教官室自体はファイが巣にしている準備室とそう広さは変わらない。
ただ、化学準備室は薬品を収納するため棚が幾つも幅をきかせていて、少し手狭だった。が、ここもどっこいどっこいだ。机や棚、ちょっとした給湯スペースしかないものの、なにせ主が日本人離れしすぎた体格の持ち主なため、どこか窮屈そうに見える。
ファイは後ろ手に扉を閉めると、軽快な足取りで窓際の机に近づいた。見上げてくる黒鋼に向かってニッコリ笑って、白衣のポケットに入れていたクッキーの包みを「はい」と渡した。
「なんだぁ? こりゃ」
「クッキーだよー。さっきねー、オレが作ったのー」
「……おまえがか?」
元々あまりいい顔をしていなかった黒鋼の表情が、さらに曇ったような気がしたが、そこはあえて気にしない。
ファイは大きく頷くと、黒鋼の胸元辺りに包みをグイグイと押し付けた。
「なんでも出来たてホヤホヤって美味しいでしょー? だから早く渡したくってー」
「……俺が甘いもんは好かねぇって知ってんだろ。しかもなんでてめぇにクッキーなんか焼く時間があるんだよ」
「たまたま授業がなくてねー、時間が開いて暇だったから、ユゥイんとこに遊びに行ったのー。そしたらちょうど調理実習やってて、ハロウィンスイーツ作りしてたんだよー」
「……乗り込んだのか」
「カボチャクッキーだよー。ほら見て、どれも可愛い形してるでしょー?」
あまりにもグイグイと押し付けたので、黒鋼は嫌そうな顔をしながらも渋々受け取った。透明なビニール越しに中身をじっと見つめている。
「黒様先生でも食べられるように、特別に作ったんだよー。カボチャ本来の甘みがちょこっとあるだけでー、余計なものは入れてな……あれ? どうかした?」
黒鋼は、なぜかクッキーを見つめたまま動かなくなってしまった。瞬きも忘れている様子に、いつもと違う雰囲気を感じたファイはちょこんと首を傾げる。その視線に気づいたのか、黒鋼は顔を上げると「悪い」と低い声で言う。
「気持ちだけ受け取っておく」
「そんなこと言わないでー! 一生懸命作ったんだよー!」
「それも問題っつうかな……」
往生際の悪い黒鋼に、ファイは「えっへん」と胸を張った。
「オレも味見したけど、バッチリだったよ! ユゥイも上手だって褒めてくれたしー」
「ちなみに聞くが、本当におまえが最初から最後まで作ったのか?」
「え? 違うよ? オレは型抜きでクッキーの型を抜いたんだよ。なぜかユゥイがそれしかやらせてくれなくってー、失礼しちゃうよねー」
「それで自分が作ったって言い切るのもどうかとは思うが、味に問題がねぇってことはよく分かった」
「なんか凄く分かりやすくバカにされた気がするのはオレの思い違いかなー?」
黒鋼が、す……っと目を逸らした。
もしや、少しでもファイが手を加えたものは口にできないとでも言うつもりなのか。だからこんなにも渋っているのか。
ファイは乙女心を踏みにじられたような気持ちになった。
「ひ、酷いよー! 黒様先生のセクシーな尺骨茎状突起(手首の小指側の突起)や、黒様先生のちょっと血管の浮いた前腕屈筋群(肘から下の筋肉)や黒様先生のきゅっと引き締まった大臀筋(ケツ)を想像しながら頑張って型抜きしたのにー!!」
「身体か!! 結局てめぇは俺の身体だけが目当てか!!」
「うわあぁんピュアな乙女心傷つけられたー!!」
「ゲスい助平心の間違いじゃねぇか!?」
まるで変質者でも見るような目でズバズバと突っ込みを入れられたファイは、さらに傷ついた。
身体目当てでなにが悪い。(下衆)
いや、もちろん黒鋼の魅力はその肉体美だけではない。外側も内側も、いっそ内臓に至るまで愛している。ちょっとムッツリなところはあるし、ベッドの上では意地悪だけど、これでいて実は思慮深いところがあったり、人相は悪いけど心根は優しかったり、見た目とのギャップもうんぬんかんぬん。
とにかく黒鋼に関しては語り尽せないほど重たい愛情に身を焼き尽くされそうになっているファイだが、クッキーの型抜きをしている時はまぁ……主に筋肉気分だったのだから仕方ない。
「もういいよー! 気持ち気持ちって、一口くらい食べてくれたって罰は当たらないのに! 黒バカ先生のバカー!!」
「二度も言うんじゃねぇ! 馬鹿って言った方が馬鹿だって有名な格言知らねぇのか!! とにかく俺はぜってぇ食わねぇぞ! てめぇが食え!!」
小学生のような残念な言い合いをしながら、両者共にどこか意地になっていた。
黒鋼は元から頑固だが、いつにも増して頑なになっているような気がする。そのちょっとした違和感に引っ掛かりを覚えつつ、ファイはさっさと撤退することを決めた。
「いいよ自分で食べるから!! それかその辺の男子生徒にでも思わせぶりな態度で渡すから!! 浮気してやるー!」
「おおやれるもんならやってみろ! 付き合ってられっか!!」
「~~~ッ、バカー!!」
ファイは黒鋼の手からクッキーの包みを奪い取ると、逃げるように元来た扉を乱暴に開けて、教官室を後にした。
+++
ダンダンダンッ、と大きな音を立てて倉庫へ続く階段を降りた。
部屋を出たとたん冷たい空気が皮膚を刺す。目が覚めるような寒さがファイの足取りを徐々に鈍くして、それに伴い高ぶっていた気分が沈静化する。
黒鋼に受け取ってもらえなかったのも悲しかったが、何より言い合いになってしまったことが辛くて涙ぐむと、鼻先がツンと痛んだ。
(なんでこんなくだらないことで、ケンカなんかしてんだろ)
階段を降り切ったところで足を止めたファイは、振り向いて扉を見上げた。ほんの少しだけ、追いかけて来てくれないかな、なんて期待しながら。だが辺りはしんと静まり返るだけで、そんな気配は感じられない。
俯いて弱々しく溜息を漏らす。
「バカ……」
ファイはそれを自分に対して呟いた。
きっと彼が言うように、気持ちだけで十分だった。最初に断られたときに、食い下がらずに引くべきだったのではないか。いくら控えめだからといって、黒鋼が甘いものを好まないことは知っていたのだし。
身勝手な言い分だとは思うが、少しくらいは喜んでくれるかな、なんて期待して胸を弾ませていた自分が恥ずかしい。
これではただの気持ちの押し付けだ。売り言葉に買い言葉状態で口喧嘩してしまったが、あとでちゃんと謝らなければ……。
それにしても、とファイは思う。
「黒たん先生って、どうしてあんなに甘いのダメなんだろ。それに……」
このクッキーと、バレンタインのチョコレートは何が違うんだろう。
黒鋼は苦手ながらも毎年ファイのチョコを食べてくれる。思いっきり顔を顰めて、時間をかけながらも、残さずしっかり。
それに比べたらこのクッキーなんて、大した甘さじゃない。砂糖は一切使っていないし、素材の味だけが生かされているのだから。
何か特別な理由があるような気がする。ファイは手の中の包みをじっと見つめた。
+++
ふと気づくと、ファイは畳の上で仰向けに寝転がっていた。
幾度か瞬きをして、輪っかの電球と傘がぶら下がった、緩やかな木目の天井をぼんやりと眺める。どこにでもあるような、日本の一般家庭といった天井だ。
「あれ……」
まだスッキリしない頭で身を起こし、おかしな癖がついてしまったらしい後ろ髪を撫でながら辺りを見回す。
いつの間に寝たのか、ここは一体どこなのか。
ただ、八畳ほどの和室にはどこか見覚えがあった。いや、それよりなにより。
(前にもこんなようなことなかったっけ)
おそらくこれは夢だ。
白衣を着たままであることを考えると、本体は学園のどこかしらで居眠りでもしているのか。黒鋼とケンカしたばかりだというのに、呑気なものだと我ながら少し呆れる。
そして以前にも、夢でどこか見覚えのある家の中で目を覚ましたことがあった。
これはあのときの状況によく似ている。
と、いうことは。
また小さな黒鋼や、女の子になっているユゥイに会えるんだろうか。平日はビシッとスーツを着こなし、休日には家族サービスをしてくれる夫が、どこかにいたりするんだろうか。(※もしもの世界の子供たち)
「でも……ここってあの時の家じゃないなぁ……黒たん先生の部屋だよねぇ?」
夏に黒鋼の実家へ強引について行ったのは、まだ記憶に新しい。
ここはあのとき寝泊りをした黒鋼の部屋だ。ただ違うのは……。
ファイはのろのろと立ち上がると部屋の片隅の机に足を向けた。そこには、記憶の中では本棚に納まっていたはずの昆虫図鑑が、開きっぱなしになっている。世界中のカブトムシの写真が掲載されていて、ついさっきまで人がいたような気配が感じられた。地球儀や船の模型もどこか真新しいし、机の脇には黒いランドセルがかけられている。
部屋の中は全体的に片付いていて、地味な印象はそのままだ。それでも縦笛が床に投げ出されていたり、読み古した数週間分のマガニャンが積まれていたり、サッカーボールが片隅に転がっていたり、子供らしさが漂っている。
もしや……とファイがある結論に達したのと、背後で襖が開くのは同時だった。
「ッ……!」
息を飲んで振り返れば、そこには。
「だ、誰だ、おまえ!」
部屋の主である少年が、大きな紅い瞳を見開いていた。
*
「おまえ泥棒か!」
警戒心をむき出しにした少年は、ファイの腰ほどしかない身長で身構えている。髪型は今と変わらないが、ふっくらとした額がほんのりと赤い。
車のキャラクターが描かれた黒い長袖シャツに、少しダボついたジーンズは裾がめくられていた。そしてなぜかオレンジジュースを片手に持っている。
ファイはポカンと口を開けたまま茫然とした。
可愛い。爆裂に可愛い。声だって女の子のように甲高い。
やっぱりここは黒鋼の部屋だった。おそらく過去の。
ファイは打ち震えると頬を染め、涙ぐみながら声にならない悲鳴を上げた。
「ヒイイィィアァアァ……ッ」
気色の悪い反応を示す白衣の男を見て、小さな黒鋼はビクンと肩を震わせ、なぜか押入れに向かって駆け出した。それに合わせてサ●エさんでいうところの、タ●ちゃんの足音効果音がファイの頭の中で再生される。
あまりにも必死なのか、襖を開ける瞬間に黒鋼の手からオレンジジュースが床に転がる。それでも構わず、彼が中から取り出したのは、まだどこか真新しい剣道用の竹刀だった。
「じっとしてろよ! やっつけてやる!!」
「わー!? もはや長い木の棒を所持しているー!!」
「はま・りゅうおうじん!!」
「ッ!!」
黒鋼は小さな身体で突進してくると、力いっぱい竹刀を振り上げ、叩きのめそうとしてきた。ファイは咄嗟に片膝をついて真剣白羽どりした。
微かな沈黙が流れたあと、黒鋼はどこか好戦的に笑った。
「なかなかやるじゃねぇか……泥棒のくせに」
「けっこう手がビリビリしてるけどねー……ところで、そのはまりゅうなんとかっていうのはなに……?」
「俺が徹夜で考えた必殺技だ」
「へ、へぇ~……か、かっこいいね~……」
子供らしさを隠しもしない愛らしい様子に、再びファイが恵比寿顔で打ち震えていると、竹刀ごと身を引いた黒鋼は「そんなことはいい」と吐き捨てる。(でもちょっと誇らしげだった)
「窓から入ったのか? それとも、もともと家ん中に隠れていやがったのか……けーさつ呼んだっていいんだぜ」
「警察の番号知ってるの? えらいねぇ~! ちなみに番号は何番?」
「119番だ!」
「あぁ惜しい! そっちは救急車と消防車でしたー!!」
「なっ、なんだと!?」
自信満々で答えたものが間違いだったと指摘され、黒鋼はみるみるうちに顔を赤らめ、悔し涙を浮かべた。握られた小さな拳がプルプルと震えている。
ファイは限界を迎えた。このさい救急車だろうが警察だろうが宇宙戦艦だろうが、なにを呼ばれたって関係ない。
「ショタ鋼たぁん!!」
「うわぁ!?」
ファイは小さな黒鋼に両手を伸ばすと思いっきり抱きしめて、頬ずりをした。咄嗟のことに驚いた黒鋼は竹刀を落とし、手足をバタつかせて暴れはじめる。
「は、はなせ! くっつくな!!」
「そんなの無理だよぉー! だって可愛すぎてもう離したくないんだもんー!!」
「はなさねぇと本気でやっつけるぞ!!」
「ね、ねぇお兄ちゃんといいことして遊ばない? ハァハァ……」
「うわなんだこいつマジで気持ちわりぃ!!」
「うぶっ!?」
明らかに生理的嫌悪感を抱かれてしまったファイ(これでも右側ポジ)は、闇雲に暴れる黒鋼の拳を顔面に食らった。
いくら小さくても、思いっきり叩きつけられればかなり痛い。
咄嗟に鼻を押さえて尻もちをついたファイから、黒鋼が後方に飛び退いた。
「これにこりたらさっさと帰……おい?」
「うぅ……痛いよぉ~酷いよぉ~……」
「な、なんだよ! 俺は殴ってねぇぞ……ちょっとぶつかっただけで……」
「オレは泥棒じゃないのにぃ……」
ファイの目からポロポロと零れ落ちる涙に、黒鋼はたじろいだ。
別に悲しくて泣いているのではなく、鼻に衝撃を受けたせいで自然と涙が零れているだけなのだが、彼は幼いながらに情が深いらしい。
やっぱり黒様だなぁ……と頬が緩みかけたが、ここでニヤニヤしてしまったらせっかく上手い具合に気を引くことに成功しそうなのが台無しだ。
「じゃ、じゃあ一体なんだってんだよ……」
まさかこんな年端もいかぬ少年に、
オレは君の将来のお嫁さんだよ♡
なんて流石に言えない。そのくらいの理性はまだ残っている。一応は適当にでっちあげて誤魔化すとするか。
ファイは両手で顔を覆って、さらに泣き真似をした。
「オレはただ、あのときの恩返しをしたいと思っていただけなのにー」
「あ、あのとき? あのときってなんだ? どっかで会ったか?」
食いついた。
黒鋼は畳の上に膝をつくと、少しだけこちらに近寄って顔を覗き込んできた。
ファイは顔を背けると、机脇のランドセルに目を向ける。真っ黒なランドセルは少しだけ潰れかけていて、光沢も失われつつある。
「君、いま何年生?」
「3年だ。もうすぐ4年」
「そっかー……」
なら、そろそろいい感じに記憶も薄れている頃か。
「オレはね、君が小学校に上がる少し前に、駅で君に拾われたホームレスなんだよ」
「!? う、ウソだろ……? だってあんときのおまえは、もっと真っ黒でヒゲもボーボーだったし、髪とか目の色だって……」
「あれからオレも色々あってね……あの頃より、ちょっと見た目も変わったかもしれないけど……」
黒鋼は床に胡坐をかくと腕を組み「うぅむ」と唸った。
「たしかにな……言われてみりゃ、あんときのおまえは帽子もかぶってたし、すげぇ汚れてたってキオクはあるんだが、顔まではいちいちおぼえてねぇ気もするな」
ここまで来たらファイの思う壺だ。
心優しい純粋な少年を騙すのは少々気が引けるが、このまま嘘を吐き通すしかない。
黒鋼の両親に色々と彼の昔話を聞いたことが、まさかこんな形で役に立つとは。
「でしょー? ボロボロだったオレも、今は幸せにやってるんだー。あのとき君がここに連れて帰ってくれて、お母さんのおむすびを貰ってなかったら、きっとお腹が空きすぎて死んじゃってたなぁ~……」
「……そうか。おまえはあの時のポチだったのか」
「ポチ!? え!? 名前つけてた!? やっぱり捨て犬感覚だったね!?」
子供に拾われ、ベタな犬の名前までつけられたホームレスの人は、一体どこまでプライドのない人間だったのか。あるいは、おかしな性癖でも持っていたのか。
いや、それはまぁいいとして、子供という生き物はここまで騙しやすいものなのか。うんうんと頷いている顔は真剣そのもので、疑う素振りがまるでない。
きっと今の黒鋼なら、サンタクロースだって本気で信じているに違いなかった。
「と、とにかくー、これでオレが泥棒じゃないってこと、分かってくれたー?」
「わかった。久しぶりだな、ポチ」
「うん、もうポチでいいやー。あのときはありがとー」
「話はわかったが、別に恩返しなんて気にするこたねぇぞ」
「まぁまぁ、そう言わず……」
ファイはふと、黒鋼が襖を開けるときに落としたオレンジジュースに目をやった。ファイが知っている黒鋼は、ジュースなんて絶対に飲まない。水の代わりに寝起きにビールジョッキを空にしたからといって、ケロリとしているような人間ではあるが。
となると、もしかして……?
「ねぇ黒たん」
「変な呼び方すんな」
「黒たんって甘いもの好きだっけ? あれって自分で飲もうとして持ってきたのかな?」
ファイがジュースを指さすので、黒鋼は「ああ」と返事をすると手を伸ばす。オレンジが描かれた缶を手に取り「飲むか?」と差し出してきた。
「え、いいよー。黒たんの……でしょ?」
「別にいい。下にまだあるから、これはおまえが飲め」
「だ、大丈夫ー。オレは喉乾いてないよ」
「そうか?」
黒鋼は無理強いすることなく、自分でジュースの缶を開けた。そして、なんの躊躇もなしにグビグビと飲み始めた。
ファイはその今では決して見られない光景に目を丸くする。
彼は確かもうすぐ小4だと言っていた。ということは、今は八歳か九歳か、そのくらいの年齢のはず。この頃はまだ甘いものが好きだった、ということになるわけだ。
(一体なにがキッカケだったんだろうなぁ~……)
「あ、そうだ!」
ファイは思い立って、白衣のポケットを漁った。そこにはクッキーの包みがしっかりと入っている。
「ねぇねぇ、黒たんクッキー好き?」
「なんだ?」
「あ、あのね……オレ、黒たんに食べてほしくて、クッキー焼いたんだけど……」
ファイは頬を赤らめて、そっとクッキーの包みを黒鋼に差し出した。彼は素直にそれを受け取り「俺のために?」と驚いた様子だった。
こくりと頷いて見せる。大人の黒鋼はちゃんと受け取ってくれなかったけれど、きっとこの子なら。
本当はちゃんと今の黒鋼に食べてほしかったけど。それは叶わないから、自分で食べるより、誰かに渡すより、捨ててしまうよりずっといいと思った。目の前の少年が黒鋼であることに変わりはないのだから。
黒鋼は透明な包みを目線まで持ち上げて、袋の中身をじっと見つめている。
「甘いの、好きだよね?」
「好きだけどよ……」
「けど? どうかした?」
黒鋼は俯くと、弱々しく首を左右に振った。
「俺は、このクッキーは食えねぇ」
「え!? だって……嫌いじゃないんだよね?」
「キライじゃねぇけど、これだけはダメだ」
「な、なんで~……?」
ファイはガックリと肩を落とす。
甘いものがまだ嫌いではないらしい黒鋼なら、きっと食べてくれると思ったのに。実際はかなり甘さが抑えられているから、今の彼には物足りない味かもしれないが。
黒鋼は、ファイがあまりにも落ち込んだ様子を見せるからか、ちょっとバツが悪そうな顔をした。それから、名案を思い付いたように「そうだ!」と声を上げる。
「これが恩返しだってんなら、こいつは母さんに渡すってのはどうだ? あのおむすびは、母さんが作ったもんだし」
「あー、うん……それでもいいけど……オレはできれば、黒たんに食べてほしかったんだよねー……」
でも、とファイは続ける。
「無理やりもらっても嬉しくないよねー。押し付けはよくないって、教えてくれたのは君だし」
「?」
「うぅん。こっちの話」
なんだか猛烈に、大きな黒鋼に会いたくて堪らなくなった。
早く目を覚まして、ケンカしてしまったことを謝りたい。それに、もしここに黒鋼の両親が来てしまったら、流石に彼らには息子にしたような言い訳は通じないだろうし。(天然だから分からないが)
ならば現実の自分が早いところ目を覚ますのを待つしかない。今のところその様子はなさそうだが、ならばせめて小さな黒鋼をもう少し堪能するか。
「ねぇねぇ、そういえば聞いてもいい?」
「なんだ?」
「どうしてそのクッキーは食べられないの? どこもおかしなところはないと思うんだけどー」
「……」
黒鋼は手の中にあるクッキーの包みをじっと見つめた。何か言いにくいことなのだろうか。無理に聞くつもりはないが、気にはなる。
すると黒鋼は、小さな息を漏らしてからボソッと呟いた。
「……動物」
「え? なに?」
「だから、そのクッキー……動物の形してんだろ」
「ああ、うん。そうだねぇ」
「可哀想だろ……」
え……?
ファイは咄嗟に意味が分からず、瞬きを繰り返しながら黒鋼を見つめた。その視線がよほど居心地悪かったのか、彼は赤い頬をぷうっと膨らませる。
「だから、食ったらカワイソウだろ!」
「ッ……!? ほわぁ……」
そういうことだったのか。
ファイのことを例のホームレスと疑って止まない純朴な少年は、例え食べ物といえども動物の姿をしたものに手を出すことはできない、と。そう言っているのだ。
「かっ……」
可愛い。
なんてピュアで優しくて、穢れ知らずなんだろうか。これがどこをどうすればあんなムッツリスケベに成長するんだろう。
その言い分が十分恥ずかしいことを自覚しているらしい少年は、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
鼻の下がどこまでも伸びきってしまいそうだ。と、同時に黒鋼(大)の肉体美を想像しながらクッキーの型抜きをした自分が、物凄く汚らしい存在に思えてくる。
ファイは両手で小さな手をクッキーの包みごとぎゅうっと握りしめた。
「ごめんね黒たん……! オレが間違ってた! そうだよね! ウサギさんやアヒルさんが可哀想だよね!!」
「お、おう……わかってくれたか」
「わかったよ! わかった! ならオレにいい考えがあるよ!」
「?」
「これがアニマルクッキーじゃなければ、食べてくれるんだよね?」
「そ、そうだな。うまそうなのは確かだしな」
「任せて!!」
この優しい少年に、何かしてあげたい。
形だけが問題で、彼はこれを美味しそうだと言ってくれた。なら、やっぱり食べてほしい。
それにはどうすればいいのか、答えは簡単だった。
「オレは醜い心を持った、穢れた大人だからね……君の綺麗な手を煩わせることなく、華麗に問題解決して見せるよ」
「あぁ?」
「それ貸して」
「あ、おい?」
ファイは黒鋼の手から包みを奪うと、それを畳の上に置いた。
一体なにをする気なのかと、ファイの顔とクッキーとを交互に見つめる黒鋼に、ニッコリ微笑んだあと、ファイは
「そぉい!!」
と、手刀をクッキーに叩きつけた……。
「!?」
バリィッ、グシャァ……という音がした。
ファイはやり遂げたような清々しい表情で大きく息を吐き出す。
「よーし、しっかり割れたよー。ちょっと粉々になりすぎたかな? でももう動物の原型はないから、これで食べられ……あれ? どうしたの?」
「て、てめぇ……ポチ……なんてことを……」
「え? なになに~?」
「このっ……おおばかやろう!!」
ファイはなぜ彼がここまで激昂しているのか、さっぱり分からなかった。
自分の手や歯で砕くのが嫌だというのなら、割って形を分からなくしてあげれば食べられるかな~? くらいの軽い気持ちだったのだが……。
「な、なんで? なんで怒ってるのー? だってこれ、黒たんが粉々にしたんじゃないんだよー?」
「ッ、ぅ……」
「あ、あれ……?」
小さな肩が震え出し、紅い瞳から大粒の涙が零れだした。
ずっと強気だった表情が弱々しいものへ変わっていって、つい興奮しそうに……いや、胸が痛む。
「誰が割るとか……そういう問題じゃ……」
ゆらり、と立ち上がった黒鋼は、投げ出されていた竹刀を掴み上げた。
「あのー……もしかしてまたあの必殺技……?」
「ねぇんだよ!!」
「――ッ!?」
今度は上からではなかった。白羽どりでしのぐつもりだったファイは横っ面を思いっきり竹刀で殴られて、その威力の凄まじさに横っ飛びした……。
*
「おい、こんなとこで寝てんじゃねぇ。風邪ひくぞ」
頬を何度か軽くポンポンと叩かれて、ファイはゆっくりと目を覚ました。
ついさっきまで見覚えのある和室にいたはずが、真っ先に目に飛び込んできたのは平均台や跳び箱だった。
「あれ? ここ体育館倉庫……?」
「飛び出してったと思ったら、一体どこで寝てんだよ」
「え? え? あれれ? ちっちゃな黒たんは?」
「しかも寝ぼけてやがる」
黒鋼に額を小突かれる。ファイは折りたたまれたマットの上に深く座り込み、壁に背を預けて眠っていたらしかった。
(そうか……そういえばここで、黒たん先生を待ってたんだっけ)
昼休み明けは体育の授業があることを知っていたから、きっと早めに降りて来て準備をするだろうと思った。だから、ここでもう少し頭を冷やしながら待っていようと、マットに腰を落ち着けて、そのまま寝入ってしまったのか。
黒鋼は、まだぼんやりしているファイを呆れ顔で見下ろしていた。それから「ちょっとズレろ」と言う。ファイが素直にマット脇まで身体をずらすと、すぐに隣にどっかり腰を下ろした。
そして、ファイが両手に包み込んでいるクッキーの包みを、ひょいと取り上げた。
「あっ」
「おい、なんだよこれ……粉々になってんじゃねぇか……」
「え……?」
ファイは黒鋼が持ち上げているクッキーの包みを凝視した。
確かに、中身は粉々に砕けてすっかり動物の形が失われている。せっかく上手く型抜きをしたのに、これでは台無しだ。
けれどファイが驚いたのは、透明なビニールに明らかに物理的な衝撃が加わった痕跡が見られることだった。
(確かに夢の中でクッキーを割ったのはオレだけど……そのときの痕に見えないことも……ないような……?)
「おまえな、型抜きしかしてねぇんだろ? これじゃてめぇの仕事がまるで意味ねぇじゃねぇか」
「う、うん……落としちゃった、かなぁ……?」
「落としてここまで粉々になるか?」
「えと……ごめん……」
「ったく」
黒鋼はファイを横目でチラリと見てから、金色のビニタイを外して中に指を突っ込むと、小さな欠片を摘まみだした。
ハッとして目を見開くファイの前で、彼はそれを口の中に放り込む。
「く、黒様……なんで……?」
「……美味い」
「ほんと……?」
「まんまカボチャだな」
これならイケる、という言葉につい泣きそうになった。
無理なんかしなくていいのに。気持ちを押し付けて嫌な思いをさせてしまったことを、まだ謝ってもいないのに。
「バカが。泣くやつがいるか」
「だ、だってぇ~……」
「まぁ……なんだ。俺もちっと意地張りすぎちまったな。悪かった」
「うぅん、オレの方が無理言っちゃって……ごめん」
それに、とファイは思う。
小さな黒鋼にも、嫌な思いをさせてしまった。あれが夢なのか現実なのかは謎だが、なんとなく夢ではなかったような、そんな気がして仕方がない。
さっきまで見ていた光景を思い出して押し黙るファイに、幾つかクッキーを食べた黒鋼は「昔な」と小さく切り出した。なぜか心臓が跳ねる。
「ガキの頃の話なんだが」
黒鋼は何かを思い出すように視線だけを上向けると、子供の頃のおかしな体験を話し出した。
それは、謎の変質者が突然部屋に現れて、無理やりクッキーを食べさせようとした、というものだった。
思いっきり身に覚えがある。まさかまさかと思いつつ、そんな稀な体験がそうそうあるとは思えない。
「七つか八つか……いつだったのかもはっきり覚えちゃいねぇが……ありゃ一体なんだったんだろうな」
「な、なんだったんだろうねぇ……」
「すげぇインパクトの変態だったって気がするんだがな……なぜか思い出そうとするとさっぱりだ。ただ、俺が妙なもんをよく連れて帰ってたってのは、おまえも聞いただろ?」
「うん、聞いた」
ホームレスや素手で仕留めたイノシシ。他にも色々と聞きすぎてすぐには思い出せない。どうやら黒鋼は、その変態とやらも自分が連れ込んだものだったのかもしれない、と解釈しているようだった。
いい感じに記憶が操作されていることに、少しホッとする。
「あんときからな、まずクッキーが食えなくなって、そのうち甘いもん全部が苦手になってった。どっかで連想しちまうんだろうな」
「ご、ごめん……」
「なんでおまえが謝るんだ」
とりあえずは謝っておかなければ気が済まなかった。
すぐには信じがたい不思議な話だと思うが、その変態は確実にファイだ。
ピュアピュアな少年に絶対的なトラウマを植え付けて、しかもそれが彼の甘味嫌いに繋がっていたとは……。
「まぁ、こんぐれぇならたまに食う分にはいいかもな」
そう言ってクッキーをもう一欠けら口に入れた黒鋼の手が、ファイのぴょこんと跳ねてしまっている後頭部の寝ぐせに触れる。そっと撫でられて、胸が締め付けられるような気がした。
あの小さくて可愛いばかりの子供が、こんなに大きく男前に成長するなんて。今じゃ見られないオレンジジュースを飲む姿や、必殺技を叫びながら竹刀を振りかざす姿を見れたのも嬉しかった。可哀想なことはしたけど、泣き顔も。
「黒たん、今度またクッキー作るときは、ハートの形にするからね」
「あ? なんだよ」
「動物型じゃなくて、ハートにする」
「だからなんだ急に。それじゃ可愛すぎやしねぇか?」
動物だってそう変わらないような気がするが、おそらく照れているだけだろう。
(おっきな黒様も可愛いなぁ。オレはやっぱり今の黒たんが一番好き)
「ねぇ黒たん、お願いしてもいい?」
「どうした」
「……チュウしたいなー、なんて」
ダメ元で言ってみると、彼は案の定ムッと顔を顰めた。でも、なんだか無性にしたいのだから仕方ない。
黒いジャージの胸元にそっと手を当てると、身を寄せて見上げてみる。黒鋼は少し苛立ったように溜息をついて、それから「学校だぞ」と低く吐き捨てた。
だけどファイがそっと目を閉じると、一瞬の間のあとに唇が重なる。ほんのりとカボチャの甘い匂いがした。
いつもよりドキドキして仕方がないのは、きっと学校ではこんなこと、滅多にないからだ。キスだけで、いやに興奮する。
「……わかった」
何度か啄むような口づけが終わったあと、ファイは吐息混じりに言った。
「わかったよ、黒たん」
「……なにが」
「どうして黒たんが、倉庫や教官室にオレを寄せ付けないのか」
奥まった雰囲気、用がない限り他人の出入りがない、ちょっと外れにあるような場所。こんなところで火がついてしまったら……。
「我慢、できなくなっちゃうね」
目元が熱い。たぶん、顔は真っ赤になっている。
白い両手で縋るように、黒鋼の胸元をぎゅうっと握った。あまり時間がないのは分かっているけど。
「もっと……ダメ……?」
少し泣きそうな顔で見上げると、大きな手が片頬を包み込んだ。またすぐにキスをするのだと、期待に肩を震わせるけれど、彼の唇はファイの額に落とされるだけだった。
「黒様ぁ……」
「阿呆」
不満を露わに唇を尖らせるファイに、黒鋼はふっと笑って見せた。少し困っているような表情にも見えて、彼も同じように耐えているのだということが分かる。
物足りないけれど、こんな顔をされては仕方ない。
黒鋼の指先が、幼子を窘めるような優しさでファイの赤い頬をふにっと摘まんだ。それから、
「また今度な」
そう言って、離れていった。
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「里帰り!?」
夏の真っ盛り。
エアコンを嫌う黒鋼の部屋では扇風機が首を振り、開け放たれた窓にぶら下がる花火模様のガラス風鈴が涼やかな音を奏でている。
ほんのりと漂う蚊取り線香の香りが夏の風情を遺憾なく発揮する、そんな夜のこと。
「ちょっと待ってちょっと待って!? 里帰りって、あの里帰りのこと!?」
「他にどの里帰りがあるんだよ」
タンクトップに短パンという、夏休みの子供のような装いのファイは、風呂上りに冷えた水で喉を潤す黒鋼に縋りついてキャンキャンと吠えていた。
「急に言われても! そんなの聞いてないって!」
「今初めて言ったからな」
「そんなぁー!!」
高所から落ちてきた鉢植えが頭部に直撃したかの勢いで、ファイは衝撃を受けていた。唇を戦慄かせ、青い瞳にみるみる涙がたまってゆくのを見た黒鋼は、面倒臭そうにムッと顔を顰めて見せた。
「なんだっつうんだよ。なんか問題あんのか」
「あるよ! 大アリですー! 黒たん先生、オレとした約束忘れちゃったんだ!!」
「約束……?」
頭上に「?」マークを浮かべる黒鋼は腕を組み、首を傾げながら脳内で記憶の引き出しをまさぐっているらしい。
きっと思い出してくれるはず、と固唾を飲んで見守るファイだったが、いくら待っても沈黙が破られることはなく、ついに癇癪を起すと拳で床をガンガン叩く。
「キー! お盆休みはいっぱいお出かけしてイチャイチャするってあんなに約束してくれたのにー! 忘れるなんて最低ー!!」
「あぁ? おい待てよ。まったくもって記憶にねぇぞ」
「しーまーしーたー! お祭りに行ってー、映画見てー、海にも行ってー、動物園にトラの赤ちゃん見に行くって! 夢の中で約束したー!!」
「……ついに夢と現実の区別もつかなくなっちまったんだな」
紅い瞳が、どこか儚いものを見るように細められた。切なげに瞳を揺らす黒様も素敵というときめきは、今はとりあえず置いておく。
それよりなにより、今のファイにとってはせっかくの連休を二人で過ごせないことの方が大問題だった。
そう、数少ない連休。
しかも季節は夏、真っ盛り。思い出を積み重ねることによって、恋はさらに燃え上がる。
そんな期待を胸に黒鋼が好きそうな映画をチェックしてみたり、ネットの口コミで評判のいい店を探してみたりと、日々ウキウキ気分で過ごしていたというのに。
いよいよ盆休みまであと僅かというところで、まさかの「今年の盆は実家に帰る」発言が飛び出したのである。
これが困惑せずにいられようか。
黒鋼の予定を一切聞いていなかったことは、確かに身勝手だったかもしれない。が、当然のように二人で過ごす気満々でいたため、疑う余地もなかった。
「ねぇ黒様せんせぇ~……今からでも考え直さない? 黒たんさ、ほら、見たい映画あるって言ってたでしょ? 仁義なき宇宙冷戦だっけ? 戦闘力53万の宇宙ヤクザと、地球のヤクザが織りなす壮大なSFファンタジーでさー」
「誰がそんなB級以下の映画見たいっつった……しかも冷戦って言いきってる時点で壮大さの欠片も期待できねぇじゃねぇか」
そんなぁ……と肩を落とすファイに、黒鋼は重々しい息を漏らす。
「普段から嫌ってくらいくっついてんだから、たまにゃいいだろ。弟は国に帰るんだろ? てめぇも一緒に行ったらどうだ。ずっと帰ってねぇだろ」
「それは……そうだけど……」
確かに彼の言う通り。
まとまった連休が取りにくいというのもあるが、それを理由にファイも長らく故郷へ戻っていなかった。
例えどんなに重たいと思われようが、一日でも黒鋼と離れるなんて考えられない。出張の類ならまだ我慢できるものの、プライベートではそれこそ嫌というほどくっついていたかった。
だが、これが自分の我儘で、黒鋼の言っていることが正論であることも分かっている。
勝手に盛り上がっていたのはこちらの方だし、たまには静かに実家でのんびりしたい気持ちは分からないでもない。仕事が忙しいのはお互い様だが、特に黒鋼は運動部の夏合宿を終えたばかりで、疲れも溜まっていることだろう。
(諦めるしかないかなぁ……。これ以上疲れさせたくないし……)
そこでふと、ファイは思った。
黒鋼の故郷。彼を産み、ここまで大きく育て上げた両親や、長らく暮らしていた家や、町。黒鋼という人間を作り上げたルーツが、そこにある。
(どんなところなんだろう?)
出会ってから今までの黒鋼のことはよく知っているつもりでも、彼がどんな少年時代を過ごしたのか、どんな環境で育ったのかまでは何も知らない。
聞いたってどこまで教えてくれるか分からないし、そもそもこの男が自身の過去を饒舌に語り聞かせてくれるとは到底思えなかった。
(なんかすっごーく気になってきちゃった!)
ならば話は簡単だった。この身をもってして、直に触れればいいだけのことだ。
しょんぼりと俯いたままだったファイは、パッと顔を上げると目を輝かせた。
「黒わんころ!」
「あ?」
「オレね、いいこと思いついたよ!」
「……なんだよ」
そこはかとなく嫌そうな顔をしている黒鋼に向かって、ファイは声高らかに言った。
「オレも一緒に黒たん先生のおうちに帰る!」
嫌な予感が的中したとばかりに、黒鋼は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「バカ言ってんじゃねぇ! なんでてめぇまで一緒に!?」
「わー、楽しみだなー! あ、いくら実家だからって、久しぶりに帰るんだし手ぶらはダメだよー。なにか気の利いたお土産を用意しないとねー」
「おい!? 勝手に話を進めるな!」
「ふふふー。楽しみだなー!」
「聞けこのタコ!!」
荒げられた黒鋼の声を、浮かれきったファイは右耳から左耳へと聞き流した。
+++
そんなこんなでついにやってきた盆休み。
電車に揺られること数時間、蒸し暑い駅構内を出ると、そこには抜けるような夏の青空が広がっていた。
「到着ー! ずっと座りっぱなしで疲れたー!」
着替えなどが入ったバッグを地面に置いて、半そでシャツにジーンズ姿のファイは思いっきり両手を伸ばして背伸びをする。痺れるような解放感が、指先にまでじんと染み渡るのが心地よかった。
電車での長旅は快適なものではあったが、こうして外の空気を吸うとホッとして身体から力が抜ける。
「よく言うぜ。グースカいびきかいて寝てたやつが」
少し遅れて駅から出てきた黒鋼が吐き捨てる。彼もまた、いつもの黒ジャージを脱いでラフな装いだった。変わらないのは全体的に黒が基調となっていることくらいか。
彼はバッグの他に紙袋も手にしていた。中身はユゥイが持たせてくれたお手製の菓子類だ。その辺の有名店で買う土産物よりも、確実にこちらの方がハズレがない。
便利な……いや、いい弟を持ったなぁと、今はイタリアの地を踏みしめているであろう弟に感謝する。
「言っとくけどねー、先に寝ちゃったのは黒様先生の方だからねー。お弁当食べたらすぐに寝ちゃうんだもん。いきなりもたれかかってくるから、ビックリしちゃったよー」
うるせぇな、と吐き捨てる黒鋼についつい笑ってしまう。
本当は流れゆく景色を眺めながら会話を楽しんでいたかったけれど、そうやって無防備に身を預けてこられるのは嬉しかった。
眠っていることを口実に、人目を気にすることなく寄り添っていられることも。
電車の心地よい揺れと黒鋼の寝息に耳を傾けているうちに、ファイもまたすっかり意識をさらわれてしまったのだった。
「最後まで寝コケてたのはおまえだ。俺がいなけりゃ乗り過ごしてたぜ」
「はいはいわかったよー。のんきな寝ぼすけはオレの方ですー」
ファイが素直に折れたことに気を良くしたのか、黒鋼は満足気にふんと鼻を鳴らした。
この男は妙なところで子供っぽいし、何においても負けず嫌いだ。普段は頼りがいのあるお父さんタイプのくせに、こんなところがあるからつい可愛いなんて思ってしまう。
黒鋼がいなければ、そもそもこの場所にファイが訪れることだってなかったろうに。
+++
二人が出た場所は、ちょうど小規模な駅前ロータリーだった。
容赦なく降り注ぐ日差しと照り返しの中、それでも自分たちと同じように帰郷した家族連れなども目立って辺りはそこそこ賑わっている。
タクシーやバス、送迎マイカーなどが列をなす光景を横目に、二人は見通しのいい場所を目指してのんびりと歩き出した。
「お父さんわざわざ迎えに来てくれるなんて優しいねー。どんな車かなー?」
「さぁな。俺がガキの頃は軽トラばっか乗り回してたが……お袋の話じゃ、最近新車買ったとかなんとか言ってたな」
「じゃあどんなので来るかわかんないんだねー」
これだけ目立つ息子の姿を見落とすということもないだろうし、ファイもファイで太陽の下で光り輝く金髪頭がよく目立つ。
それと思しき車が見当たらないとなると、おそらくまだ到着していないのだろう。
ある程度ロータリーを迂回し、歩道近くに出たところで、二人は足を止めると息をつく。
日差しは厳しいが、どこかカラリとしていて決して不快な暑さではなかった。
黒鋼はどこか懐かしそうに目を細めながら、周辺の景色を眺めていた。ファイはその様子をちらりと見やり、肩を竦めるようにして微笑むと、覗き込むようにしてその表情を見上げる。
「懐かしい?」
「そうだな。俺がいた頃より、ここもずいぶん整備されてるみてぇだが……お」
「なにー?」
「いや」
黒鋼の視線が広い通りの向こう側に向けられるのを、同じく視線で追いかける。
そこはまだどこか真新しさを醸し出す大型のネットカフェと、その駐車場だった。
「昔あそこは本屋だった。その横は古くせぇ文房具屋だったんだが」
どっちもなくなっちまったんだな、と独り言のように落とされた声から、彼の郷愁がファイの胸にも伝染して、少し切ない気持ちになった。
なんとなく、脳裏に小さくて古びた本屋と文具屋が並んでいるのを思い浮かべてみる。
きっとよく利用していたのだろう。ファイが知らない頃の黒鋼の姿も想像して、物懐かしさの片鱗に触れた。
「変わるもんだな。長いこと離れてるとよ」
「そうだねー」
口元だけで小さく笑う黒鋼に、ファイもふわりと笑顔を返した。
時の流れにその景色がどれほど姿かたちを変えようとも、ここが黒鋼の生まれ育った故郷であることに変わりはない。
そんな場所に立って、同じ目線で『今』を見つめていられることに感動を覚えた。
無理を言ってしまったが、やっぱり来てよかった。そう思う。胸が、温かく震えていた。
しかもこれから会うことになるのは黒鋼の両親である。ファイがこうして最愛を得て日々を送ることができているのは、他ならぬ彼らのおかげだ。
「黒たん。オレ、失礼のないようにちゃんと振る舞うから安心してね」
いたって真面目に宣言したつもりが、それを聞いた黒鋼が珍しく小さく吹きだした。
「なんで笑うかなー?」
「借りてきた猫にでもなるつもりか、おまえは」
「もー! 真面目に言ったのにー!」
「気負うと逆にヘマすんぞ。騒がしくてアホみてぇな外人が一緒だってことは言ってある。安心しろ」
「ちょ、ちょっと黒様せんせー! 変な伝え方しないでよー!」
逆に不安になるではないか……。
とはいえ、どんな紹介のされ方をしようとも今のファイはあくまでも黒鋼の職場の同僚であり、友人だ。
久しぶりに帰ってきた息子が、まさか男の恋人を連れてきたなんて、そんなことを両親に悟られるわけにはいかない。
(ちょっと寂しいけど……連れてきてもらえただけで満足しなきゃねー)
よき友人としての振る舞いを、しっかりと見せなくては。
ファイが心の中で気合を入れたのと、小さく二度ほどクラクションを鳴らしながら黒の乗用車が路肩に横づけされたのはほぼ同時だった。
*
「アホな外人を連れてくるなんて言うもんだから、どんなアホかと思えば……可愛い顔した先生じゃないか。なぁ奥」
「ええ本当に……。外人さんって聞いたときは、もっと毛むくじゃらで大柄なのかと思ってましたけど、モデルさんみたいなイケメンさんね」
茶の間にあたる広い和室で、仲睦まじい夫婦が笑っている。
ファイと黒鋼と、四人で囲んだテーブルの上には、旬の野菜や魚介類を使った天ぷらや煮物に漬物など、豪華な食事が所狭しと並んでいた。酒はもちろん、さらに握り寿司が詰まった巨大な桶まで並ぶ様は圧巻の一言である。(残念ながら生魚は食べられないが)
日本の食卓ってどこもこんな感じなの? と驚きを隠せないファイだったが、おそらく久しぶりに戻る息子と客人のために奮発してくれたのだろう。
このさい悪意のない散々な言われようには、目をつぶらざるをえない。もとはと言えば黒鋼が失礼極まりない情報を事前に吹き込んだせいでもあるのだから。
じろ、と横目で隣を睨んではみたものの、元凶はふてぶてしく胡坐をかいてビールジョッキに口をつけるだけで、こちらを見ようともしない。
彼は父親が運転してきた車に乗り込んでから今まで、いつも以上に口数が減っていた。久しぶりの両親との対面は、幾つになっても照れ臭いものなのだろうか。
「さ、ファイ先生も遠慮なくどうぞ。お腹ぺこぺこでしょう?」
「足も崩して楽にするといい。正座は辛かろう」
「すみませんー。じゃあ、お言葉に甘えて……」
どこか辛気臭い雰囲気の息子とは違い、その両親は気さくでよく笑う人たちだった。
母親は長い黒髪に、ふわりとした淡い花柄の着物をまとった優しそうな女性で、父親はちょっと笑ってしまいそうになるくらい、息子と瓜二つである。
正直あと少し遅かったら引っくり返って悶絶していたであろう正座を崩しながら、ファイはにこりと笑い返す。
とりあえずは、明るい人たちで安心した。アホな外人でも、こうして快く迎え入れてくれるのだから。
「この子はしっかりやれていますか? この通り愛想のない子ですから、生徒さんたちに受け入れられているのかどうか……」
黒鋼母が小皿に天ぷらを盛りつけながら、少し困ったように眉尻を下げて微笑んだ。
この息子のことだから、まともに近況を告げてはいないのだろう。
どうぞ召し上がって、と差し出された皿を礼を言いつつ受け取りながら、ファイは安心させるようにこくりと頷いた。
「黒鋼先生はとっても頑張ってますよー。生徒たちも彼が大好きですし。理事長先生にはちょーっとこき使われてますけどねー」
「おいこら、余計なこと言うな」
「えー? お茶汲みだって立派なお仕事だよ黒た……黒鋼せんせー」
「てめぇ……帰ったら見てろよ……」
その掛け合いを聞いて、黒鋼父は豪快に笑った。
母親の方もどこかホッとしたように胸に手を当てながら、控えめな笑い声をあげた。
「そうか、昔はまともに茶のひとつも淹れられなかった息子が、今では立派にやっているというのは嬉しい知らせだ」
「え? そうだったんですかー?」
「おい親父……」
「ええ、誰に似たのか不器用な子でしたのよ。絵を描かせてもクラスで断トツの惨さで……」
「むご……お袋まで、勘弁してくれ」
「ぷぷっ」
「アホ教師! 笑うんじゃねぇ!!」
ただでさえ悪い目つきをさらに吊り上げて怒鳴る黒鋼に、他三人は大いに笑った。
舌打ちしながらそっぽを向く様子に多少は悪いと感じつつ、なかなか聞けない貴重な話にファイの気分は高揚する一方だった。
「もっと黒鋼先生の昔のお話、聞かせてくれませんかー?」
目を輝かせ、少し前のめりになって強請るファイに殺気立った視線が突き刺さる。が、黒鋼父はよしきたとばかりに頷いた。
「そうだな、とにかく変わった子供だった」
「変わった子……ですか。どんなふうに?」
「いつだったかな……これが小学校に上がる少し前だったか、なぁ奥」
「そうそう。この子、駅の近くで路上生活をしていた男の人を連れてきて……」
「大事に世話するから飼ってもいいか……ってな……」
「えぇ!? ホームレスをお持ち帰りしたんですか!? しかもペット扱い!?」
真っ先に飛び出す幼少期トークにしては、あまりにもヘビーな内容である。
咄嗟に見開いた目で黒鋼を見れば、彼は残り少ないジョッキのビールをチビチビと飲みながら恐ろしい形相で震えている。
これ以上は危険なのでは……と思いつつ、先が気になった。
「で……どうなったんですか……?」
「流石にちょっと……ちょうど新米が炊き立てだったので、おむすびと一緒に……」
お引き取り願ったわけか。
当たり前の話だとは思うが、ついて来る方もどうかしているような。
当時はそれだけで済んだそうだが、もし今の時代だったらどえらい騒動になっていただろう。擦れ違った児童に挨拶をしただけでも通報されて、ネットで祭り上げられる時代である。
「中学の頃もあったぞ。そこらへんの畑を荒らしまわっていた巨大イノシシを、担いで持ち帰ってきたことが」
「素手で仕留めたんですか!?」
「あの時は父として誇らしかったぞ。逞しい子に育ったもんだと」
「ええ、ご近所さんにもお裾分けして、美味しく頂きましたのよ」
鍋にでもして食ったんかい。
流石のファイも笑顔を引き攣らせ、パワフルなお子さんですね……と返すだけで精一杯だった。
なるほど、確かにここは黒鋼という人間を形成したルーツの宝庫だ。
そこはかとなくだが、この仲のいい夫婦からも天然チックなオーラが漂っている気がした。巨大イノシシを素手で仕留めて担ぐ中学生というのも常識外れだが、まずは無茶な真似をした息子を咎めるのが先のような気がするが……。
(黒たんも天然なとこあるからなぁ……このご両親なら納得かもー……)
「もういいだろ……こいつに余計な話は吹き込むなとあれほど」
「いいじゃないの。せっかくこうして楽しくお食事ができているんだもの。そうだわファイ先生、よければこの子の昔のアルバムもご覧になりません?」
「お、いいな。久しぶりにみんなで見るか!」
「頼むからもうよせ!!」
よほど恥ずかしいのか、黒鋼は顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
シャイな彼にとって今の状況は地獄に等しいものなのかもしれない。それでも嬉しそうに笑っている両親の顔を見ているうちに、ファイはふと、楽しかったはずの心が沈みかけているのに気づいてしまった。
(いいご両親だなぁ。優しくて、寛大で)
二人とも、長らく離れていた息子との時間を心から楽しんでいる。ファイのことも優しく迎えてくれる。
だけどきっと、彼らが本当に連れてきて欲しいのは、同僚でも友人でもないはずだ。
もしこの場にいるのが自分ではなく、将来可愛い孫を産むことができる綺麗な女性だったなら、二人はもっと喜んだに違いない。
黒鋼は絶対にいい夫になるし、いい父親になるし、そしてこの夫婦は優しいおじいちゃんと、おばあちゃんになる。このおっとりとした母親なら、嫁と折り合いがつかずに揉めるということもなさそうだ。
言い合う親子から、ファイはそっと目を逸らした。視線の先では障子が開け放たれていて、よく磨かれた板の間の縁側の向こうには、広い庭があった。
手入れされた木々と、花々と、綺麗な芝生。きっと黒鋼が幼い頃はここを駆けまわって父親と一緒に遊んでいたに違いない。
今度は黒鋼が同じように、自分の子供と過ごす姿を見せることこそが、きっと両親への最大の孝行になるのだと思う。
(あー……ダメだなぁ、こんなんじゃ)
今までだってこの手の不安は幾度も抱いてきた。
その度にどれほど落ち込んでも、必ず引きずり上げてくれたのは黒鋼の力強い腕と、真っ直ぐな愛情だった。
だからファイはいつだって彼の側で笑っていることができたし、ほんの数日だって離れていられない自分に、今さらこの幸せを手放すことが出来るとは思えない。
来てよかったという気持ちに偽りはないけれど、会うべきではなかったのかもしれない。どこかで捨てきれない後ろ暗さが、両親へ対する罪悪感にぴったりと折り重なった。
「おい、どうした急に」
「……ふぇ!?」
いつしか得意の笑顔すら手離して消沈していたファイの顔を、黒鋼が横から覗き込んでいた。咄嗟におかしな声を上げて肩を揺らしたファイに、彼は眉間の皺を深める。
ファイは慌てて大きく首を振ると、笑顔を取り繕った。
「な、なんでもないよー! 色々ビックリするお話聞いたから、ちょっと余韻が抜けきらないだけー」
「顔色が悪い。ちっと横になるか?」
「ッ……!」
そう言いながら、黒鋼の手が伸びて頬に触れようとするのを、咄嗟に身を引いて拒絶した。一瞬のことだが、明らかに避ける動作を見せたファイに、黒鋼は何か言いたげな様子で渋々手を引っ込める。
この場所で、まるで恋人を気遣うような触れ方をしてはいけないはずだ。
いつもの癖で出てしまったのかもしれないが、今もし彼に優しく触れられようものなら、ファイだって自信がない。瞳を潤ませて、いつものように甘えた口をきいてしまうかもしれない。
そんな姿を、目の前の両親には見せられない。友達でもただの同僚でもなく、深く愛し合っているという事実を、悟られるわけには。
もし万が一バレるようなことがあれば、反対されるのは目に見えている。何より、大切な息子が道を踏み外したと知ったら、きっと彼らは深く傷つくだろう。
「奥、だから言っただろう。長旅な上にこの暑い中、揚げ物はないだろうって」
「いやだわ、貴方が作れって言ったのに」
「そうだったか?」
「そうですよ」
ごめんなさいね、と申し訳なさそうに小首を傾げる母親に、ファイはぶんぶんと首を振って満面の笑みを浮かべた。
「ぜんぜん平気ですー! オレこう見えてけっこう食べるし、凄く美味しいですー!」
「そう? ならよかったわ。さ、煮物も召し上がって」
「はーい! いただきまーす! あ、そうだ、アルバムもぜひ拝見したいですー!」
「おおそうか! よし、じゃあ取ってくるとしよう」
「わーい! ありがとうございますー!」
横から突き刺さる黒鋼の視線はかなり痛かったが、ファイは大袈裟なくらいはしゃぎながら、その後も両親から様々な昔話を聞いたのだった。
*
アルバムを見たり、昔の黒鋼の話を聞いたり、学校での仕事ぶりを話したり。
そうこうしながら食事を終える頃には、とっぷりと陽が暮れようとしていた。
黒鋼父はすっかり酔い潰れて、息子に抱えられて部屋に引っ込んでいった。黒鋼の酒豪ぶりは見た目通り父親譲りかと思っていたが、どうやら違っていたらしい。
夫に勧められるままそれなりに杯を重ねた母親の方が、顔色ひとつ変えずにケロリとしているから驚いた。
広い台所では、黒鋼母が山のように積まれた食器を洗っていた。
いくら客人とはいえただ何もしないでいるわけにはいかないと、ファイはおずおずと台所を仕切るガラス戸を開けて、ひょこりと顔を出す。
「あ、あのー」
「あら先生、どうかし……あ、ごめんなさいね。お酒を飲んだあとは喉が渇きますものね」
私ったら気が利かなくて、なんて言いながら水道を止めようとする黒鋼母に、ファイは慌てて両手を翳すと首を振る。
「い、いえ、オレも何かお手伝いがしたくてー」
「まぁ、そんな気を使わなくてもいいんですよ。ゆっくりしてらして」
「でもやっぱり悪いですし」
普段、台所に立つことは黒鋼とユゥイに止められている。それでも何かしら手伝えることはあるはずだ。確かに料理センスは呪われているかもしれないが、片付けくらいは別にしようと思えばできる。ただしないだけで。
黒鋼母は嬉しそうにニッコリと微笑んで、「じゃあ、食器を拭くのをお願いしようかしら」と言った。
+++
うっかり手を滑らせて食器を割ったりしたら大変だと、ファイは緊張しながら次々と重ねられてゆく皿を和柄の上質な手拭で丁寧に拭いた。引け目を感じている相手と二人きり、ということも相まってか、時おり指先が震える。
その緊張感が隣で食器を洗っている母親に伝わったのか、彼女は小さく肩を揺らして笑った。
「す、すみません……普段家事は弟に任せきりで……」
「ごめんなさね。笑ってしまって。あの子に聞いていた通りだから、つい」
咄嗟に母親の方に顔を向けて、ファイは手を止めた。
「黒た……えと、黒鋼先生、他にもまだ何か言ってたんですか?」
「ええ、台所には立たせるなって。バレたら叱られてしまいますね」
「うわぁ……やだなぁもう……」
自分の近況はまともに伝えていなかったくせに、余計なことばかり話すあたり、人のことは言えないではないか。
軽く赤面して目を泳がせるファイを見て、黒鋼母はやっぱりクスクスと笑うと、それから少し間を置いて言った。
「とてもいい方だと。そうお聞きしていますよ」
「……え?」
黒鋼母もまた、手を止めてファイを見上げた。優しげに細められた瞳に、どうしてか息が詰まる。
「いつも明るくてニコニコしているくせに、辛いことは全て一人で背負い込もうとするから」
「……」
「だから側で、見ていてやらなくちゃいけないんですって」
ファイはただただ、戸惑った。
黒鋼がそんなことを言っていたというのも驚きだが、かといって返す言葉が咄嗟に見つからない。うまく声を発することすらできそうもなく、ファイはただ俯いた。
「あの子のこと、よろしくお願いしますね」
「……それは」
どういう意味だろう。
友達として。同僚として。それは分かっている。彼女が自分たちの関係を知っているはずはないのだから。
なのになぜだろう。この優しい瞳の前では、何も隠し事ができないような気がして。全て見透かされているような、心もとない気持ちにさせられた。
そんなはずはないと思いつつ、ファイは誤魔化すように無理やり笑って首を振った。
「オレは何もできません。黒鋼先生は一人でもちゃんとやっていける人だし……その、オレはたまたま一緒に仕事をすることが多くて、部屋も隣同士ってだけで……」
「そんなことはありません」
「お母さん……」
「あの子は、一人ではやっていけません。可愛いお嫁さんが、ちゃんと側で見ていてあげないと」
黒鋼母は少女のように「うふふ」と可憐に笑って、さらに続けた。
「嫁を連れて帰るって。あの子、そう言いましたのよ」
「……へ!?」
ファイは我が耳を疑った。
彼女は今、なんと言ったのだろうか。紡がれた言葉がすんなりと頭に入らず、戸惑いに拍車をかけるばかりだった。
嫁とはあの嫁のことでいいのか。女に家と書いてヨメと読ませる、あの嫁ことで間違いないのだろうか。
「お、お、お嫁さん!? あれ!? 今日ってここに来たのはオレ達ふたりだけでしたよねー? おっかしーなー?」
もしかしたら自分は、物凄く苦しい言い訳をしているのではないか。
そんな気にさせられるのは、天井を仰ぎ見るように目を泳がせるファイにとって、彼女の優しくて綺麗な瞳が皮膚に突き刺さるように感じられるからだった。背筋にヒヤリと冷たい汗が伝った気がする。
「気を使ってくださっていたのね」
「お、お母さん、あの……」
大きな瞳をゆっくりと細めて、彼女は微笑んだままだった。
ファイはその瞬間、ふっと肩から力が抜けたような気がした。悪戯が見つかった子供のような気分だ。あの決意はなんだったんだろう。なんのために無理をしていたんだろう。何も意味がなかったということだ。
両親は最初から知っていた。黒鋼が、包み隠さず言っていたから。
騒がしくてアホみたいな外人の嫁を、連れて帰る、と。
(最初に言っておいてよね……照れ屋にも程があるでしょ、バカ!)
知っていて、彼らはこうして受け入れてくれていた。
まだ驚きや戸惑いの方が大きいけれど、じわじわと込み上げてくる安堵や気恥ずかしさに、ファイはじんわりと浮かぶ涙を抑えきれない。
黒鋼が、そんなことを。しかも両親に向かってハッキリと。彼は初めから隠す気など毛頭なかったということだ。もしかしたら、ずっとどこか不機嫌そうだったのは、両親に二人並んだ姿を見られていることが照れ臭かったから、なのかもしれない。
(黒たんのバカ)
本当に嬉しかった。夢を見ているような気さえした。
けれど、かといって不安の種は完全に消えてはいなかった。
「でも……嫌じゃないですか? 大事に育てた息子さんなのに、相手が男って。お孫さんの顔だって……オレが相手じゃ見せてあげられない……」
「うふふ」
「あの、ここ笑うところじゃないんですけどー……」
「だって……ふふ、おかしい」
ジョークを言って笑わせようとしたわけでもないのに、黒鋼母は手拭で拭いた白い手を口元に当てて笑い続けている。本当によく笑う、可愛い人だ。
ファイはただ困惑するばかりで、彼女が落ち着くのを待っていることしかできなかった。
「ごめんなさい。だって、ホームレスの人を連れてきて大事にするって言ってのけた子ですもの。それに比べたら、こんなに可愛らしい顔をした若い男の人で、むしろ安心しましたわ。ふふふ」
ホームレスと比べられましても……というツッコミはとりあえず飲み込んだ。
そういえば彼女は「外人=毛むくじゃらの大男」という偏った思考の持ち主だった。父親の方も大方同じようなイメージを持っていたに違いない。
やっぱりこの親子は、天然だ……。
ファイはクスクスと笑い続けている母親に釣られて、思わず小さく吹きだしてしまった。しばらくの間、そうやって二人で手を止めたままずっと声をあげて笑った。
やがて、笑いすぎてうっすら浮かんだ涙を指先で拭いながら、黒鋼母は改めて言った。
「愛想のない不器用な子ですけれど……末永く、よろしくお願いしますね、ファイさん」
まだ少し恥ずかしかったけれど、ファイは今度こそなんの迷いもなく「はい」と返事をして、ふにゃりと泣きそうに笑った。
*
夜。
風呂上りには縁側で、四人並んで冷たいスイカを食べた。
黒鋼父は少し休んでどうにか復活したようで、尽きることのない話の中で、明日は買い物がてら海でも見に行こうかと言い出した。
道中には黒鋼が通っていた学校が小中高と見れると聞いて、ファイは万歳をしながら喜んだ。
黒鋼はもちろん渋い顔をしていたが、ファイはすっかり両親に心を開いて、絶え間なく三人の笑い声が夜の庭に響いていた。
+++
就寝場所は二階にある八畳ほどの広い和室で、黒鋼が子供の頃に使っていた部屋だった。
地球儀や船の模型が飾ってある机や、当時使っていたのであろう教科書や参考書などと一緒に、昆虫やら恐竜やらの図鑑が並べてある背の高い本棚。
これらはきっと、黒鋼がここを出た時のままの形で、常に綺麗に手入れされているに違いなかった。
「本当にいいご両親だねー」
今は灯りを落とし、枕元にある和紙の照明だけがほんのりと光を放っている。
二人は布団の脇に綺麗に畳まれていた浴衣を身にまとい、のんびりと寛いでいた。着替えは準備して来ていたが、せっかくの心遣いを無駄にはできなかった。
黒鋼は父親のお古で黒の綿麻、ファイには黒鋼が高校時代に着ていたという、濃紺のしじら織が用意されていたけれど、やっぱり少し大きい。
部屋の中央に布団を二組並べて、その上にちょこんと座り込んだファイは、枕を抱え込みながらゆらゆらと身体を揺らし、上機嫌で言った。
「最初は緊張したけど、ちゃんと仲良くなれてよかったー」
ファイは横に枕を放ると、胡坐をかく黒鋼のすぐ側まで近寄って、その顔を覗き込んでにっこり笑う。
「黒たん先生のおかげでね」
「俺は別に何もしてねぇよ」
ファイとは逆に、黒鋼の方はまだ少しばかり不機嫌そうだった。ぷいっと顔を背け、そのままこちらを見ようともしない。
子供の頃の話や、学園での話など。それらを存分に酒の肴にされてしまったことを、まだ根に持っているらしかった。
ファイは小さく笑うと、黒鋼にすっかり身を寄せてその腕に抱きつく。
「怒らないでよー。オレは黒様先生の昔のお話、いっぱい聞けて嬉しかったんだからー」
「怒ってねぇし、俺はまったく嬉しくねぇ」
「じゃあ、拗ねてる?」
「……うるせぇな」
がっしりとした腕に回していた手を、片方取られる。骨ばった大きな手に手首を掴まれ、引っ張られるようにして導かれれば、胡坐をかく黒鋼とちょうど向き合う形になった。
膝立ちのファイはその首に両腕を回しながら、いつもより低い位置にある仏頂面を見下ろして微かに笑った。
「ちょっと仲良くなりすぎちゃった?」
黒鋼の両親は賑やかで、会話も笑顔も途切れない人たちだった。
台所での母親とのやり取りですっかり立ち直ったファイの笑顔は、無理やり作り上げた愛想笑いとは程遠いもので、彼らとの時間を心から楽しむことができた。
きっと明日も、楽しい一日になるはずだ。もっと沢山、可愛い息子の話が聞きたいし、愛しい恋人の話をしたい。
黒鋼はもう一度、囁くように「うるせぇぞ」と言った。
腰に回された腕に強く引き寄せられて、自然と唇が重なる。
可愛いなと、ファイは思う。きっと彼はファイが両親と打ち解けたことに安堵している。けれど、少しばかり懐きすぎたせいか、こうしてヤキモチも妬いてくれる。
「愛しいよ」
軽く触れ合っただけの唇から、ファイは吐息のような声を漏らした。
黒鋼の額に自分の額を押し付けて、その頬を両手で包み込む。
「君を生んで、育ててくれた人たちだもの。オレのことも、ちゃんと……」
続きを待たずに、黒鋼がファイの腰を抱えたまま態勢を変えた。頭部にも手を添えられ、そっと厚みのある布団に押し倒された。
見下ろす姿勢から、見下ろされる態勢になって、胸が大きく高鳴った。キスもセックスも、数えきれないくらい交わしてきたはずなのに、いつだって初めての恋をしているみたいに心がきゅっと締め付けられる。
黒鋼は何も言わなかった。ただじっと、真っ直ぐに表情を見下ろされることに今度はファイの方が照れ臭くなってしまう。心臓の高鳴りが伝わってしまいそうな気がして。今更だけど恥ずかしい。
赤い頬で目を逸らし、弱々しくその胸板を押した。
「なんか、照れるよ……」
「今更だろ」
「だって……下でお父さんとお母さん、が、ッ」
寝てるのに、と続くはずだった言葉が熱い唇に塞がれた。
黒鋼の身体の下で大きく身を震わせたファイだったが、見開いた瞳は滑り込んでくる生温かい舌の感触に、すぐにとろりと溶けるようにして閉じられた。
抱きしめてくる腕の感覚と一緒に、言葉にできないくらいの幸福感がファイを包んだ。負けじと黒鋼の背に必死で腕を回して受け止める。
舌を絡ませ、唇を舐め合い、いっそ痺れて感覚がなくなるくらい、深く。
「はっ、ふ……」
「声、我慢できるか?」
銀色の糸を引いて一度離れた唇の隙間から、低く呟かれる声に耳まで犯されているような気持ちになる。
下の階では彼の両親が、明日に備えて休んでいるはずだ。
いつだって正体をなくすほどに乱されてしまうファイには正直、自信がなかったけれど。
火のついた身体が今にも一つになりたくて、疼いている。抗えるはずがなかった。
「ん……がんばる……」
こくんと頷いて見せたファイに、黒鋼は小さく、笑った。
+++
「ゃ、ん……ッ!」
思わず漏れてしまった声に、ファイはハッとして口元を両手を覆った。
黒鋼の太い指に大きく開いた両足の奥まった場所を探られながら、懸命に息を飲み込むことに努めた。
浴衣は上も下も肌蹴て、かろうじて帯だけで留まっているだけだった。素っ裸よりもずっと卑猥に思えて、羞恥心が存分に膨らんだ。
内壁の奥深い場所を指の腹で擦られる度に、ファイは泣きながら嫌々と首を振った。
「ん、ぅ、ッ」
行為はどちらかといえば性急だった。
いつもの黒鋼なら、丁寧に時間をかけて心も身体も蕩かすような抱き方をする。けれど、今日は流石にじっくりと時間をかけている余裕はないようだった。
でも今はそれが嬉しい。いくら公認とはいえ、両親がいる同じ家の中で行為に及んでいるというギリギリのスリルが、いけないと思いつつも興奮を掻きたてる。
黒鋼によって開発されてきた身体は、当然ながら黒鋼しか知らない。彼が欲してくれるなら、ファイはいつだって準備が出来ているも同然だった。
いいか、と吐息だけで投げかけられた問いに、ファイは睫毛を伏せて頷いた。
ゆらりと潤んだ瞳で見上げ、黒鋼の乱れた浴衣の胸元に両手を這わすと、そのまま肩まで撫で上げる。手首に引っかかるようにして大きく開いた襟の下から、逞しい両肩が姿を現した。
黒鋼はファイの中を解していた指を引き抜くと、もどかしげに浴衣の袖から両腕を引き抜いた。腰に纏わりつくだけの布と化したそれを掻き分けて、その手がいきり立った自身を取り出すのが緩い照明の中でもハッキリと見えた。
心臓が下から突き上げられるように鋭く高鳴っている。
ファイは喉を慣らし、両足をより大きく自ら割り開いた。飢えたような瞳と、真っ直ぐに視線が交わる。
「大好き。黒様」
汗ばんだ頬に金色の髪を張り付かせながら、ファイは小さく首を傾げると微笑んだ。
誘うように両手を黒鋼の後ろ首に這わせ、そっと抱き寄せると彼は逆らうことなくファイに覆いかぶさった。
白い足を抱え上げられ、熱の塊を濡れた穴に押し付けられながら、耳元にかかる熱い息が「愛してる」と紡ぐのを、幸福に濡れた瞳を細めて受け止めた。
+++
「オレ、本当に嬉しかったよ」
一度の交わりを、存分に時間をかけて楽しんだあと、ファイは黒鋼の腕の中でうっとりと呟いた。
二人とも、今は乱れた浴衣をすっかり元の形に正し、同じ布団に潜り込んで身を寄せ合っている。少し蒸し暑い気もするが、限界まで高まった熱が静かに収まってゆく感覚は気持ちがよくて、何より離れがたかった。
黒鋼からの返答はなかったが、まだ眠っていないことは知っている。
「多分ね。心のどこかでは、やっぱりいつかは別れなきゃいけない日が来るのかもって……そう思ってた部分があったんだ」
「馬鹿」
「えへへ。うん」
ごめんねと、小さく呟きながら、ファイは抱きつくように黒鋼の腹に手を回す。
いつだって不安を遠のけてくれるのはこの男だった。だから信じてる。なのに、怖くて。
今まではずっと、その繰り返しだったけれど。
「オレ、いいお嫁さんになれるかな」
料理センスは壊滅的だし、ついつい不要なものまで貯めこんでしまう癖もあるし。
今はすっかりユゥイや黒鋼に甘えきっているけれど、やっぱり少しずつでも成長していかなければ、なんて思う。
その辺りに関して一切の期待を寄せていない黒鋼は、ふっと小さく息を吐くような笑い方をした。
「もー……今バカにしたでしょー?」
「んなこたねぇよ」
「いいもん。いつかあっと驚かせてやるから」
「そりゃ楽しみだ」
絶対にまだ馬鹿にしている。
むぅっと頬を膨らませるファイの髪に、黒鋼の長い指が絡まった。毛糸を弄ぶみたいに触れられているうちに、心地いい疲労感が眠気を誘う。
だけど、なんとなくまだ眠りたくなくて、ファイはゆったりと言葉を紡いでいった。
「あのね、オレ、ご両親に申し訳ないなって。オレがね、黒たんを独り占めしてる限り、お孫さんの顔も見せてあげらんないって……苦しくなったんだ」
「知ってた。また余計なこと考えてるってことくらいな」
「ん。今は、もう平気。黒たんのおかげ。ありがと」
そこまで言い切ってしまうと、胸がすっとした。
諦めることは、決して悪いことばかりではないのかもしれないと思った。例えばどんなに愛し合っても自分たちの間に子供は生まれない。黒鋼の血は後に受け継がれることはないし、ファイだってそう。
あの優しい両親も、可能であれば死ぬまでに孫の顔を見たかったはずだ。けれどそれを諦めてでも、息子が選んだ相手を受け入れることを決めた。
きっと人は生きるほどに沢山のものを手放しているのだと思う。得るほどに失うものもあって、歳を重ねるほどに大切なものだけが手の中に残れば、それでいいじゃないかと。
体のいい逃げ口上かもしれない。でも、ファイにとってはこれが最良の答えだった。
「なぁ」
「……んー」
「いつかは、ここに帰ってくるとして。そんときゃ、もちろんおまえも連れてな」
「うん」
「猫でも飼うか? おまえに似た、白くて青い目ぇしたやつ」
「あはは、なにそれ。どうして急に?」
「子供ってんじゃねぇけどよ。悪くねぇだろ」
ああ、それもいいかもしれない。
不器用な優しさに口元を綻ばせ、ファイは枕にしている黒鋼の腕に強く目元を擦り付ける。
「オレは、犬がいいな」
「犬か」
「黒たんにそっくりな、黒くておっきなの」
「そりゃ駄目だ」
「どうしてー? ちゃんと面倒見るし、いっぱい可愛がるよー」
目線を上向けて見れば、むっつりと顔を顰める黒鋼と目が合った。
彼は思いっきり眉間の皺を深くして、紅い瞳で睨みつけてくる。
「また拗ねるぞ。俺が」
真剣に言い放つその声に、ファイは一瞬目を丸くした。が、すぐに思い切り吹きだして、肩を小刻みに揺らした。
その反応を振動ごと受け止めた黒鋼が、「笑いごとじゃねぇぞ」なんてまた真剣に言うものだから、ファイはしばらくずっと笑いながら身を震わせるしかなくなってしまった。
*
里帰り最終日。
朝食を食べたあとしばらくのんびりと寛いで、二人は実家を後にした。
帰り際には野菜やら米やら、なぜか新品のティッシュの箱や洗剤など、思いつく限りのものを持たせてくれようとしたが、流石に持ちきれずに宅急便で送ってもらうことにした。(米と野菜だけであとは断った)
まだゆっくりして行けばいいのに、と涙ぐむ母親に後ろ髪を引かれつつ、二人が電車に乗り込んだのは昼を少し過ぎた頃だった。
電車内はもっと混雑しているかと思いきや、行きよりも空席が目立っているように見える。これならちょっとくらいは隠れてイチャイチャできるかな、なんて目論みつつ、また居眠りしてしまうような気がしないでもない。
「そういえば黒たん、こんなに早く帰っちゃって、本当によかったの?」
母親が途中で食べるようにと作ってくれた弁当を食べ終えたあと、ファイはお茶を飲んで息をついている隣の黒鋼の顔を覗き込んで聞いた。
「あ?」
「あ? じゃなくてー」
連休は残り二日。最初に聞いていた話では、もう一泊してから帰宅するはずだった。
それを一日繰り上げて帰るぞと言い出したのは黒鋼で、理由を聞いてもはぐらかされるばかりだった。
「別にいいだろ」
「いいっちゃいいけど……お母さんもお父さんも寂しそうだったし、なんか急だったからー」
「……」
黒鋼は何も言わず、窓際にお茶のペットボトルを置いた。
やがて不思議そうにその表情を見つめ続けるファイに一瞥をくれたあと、映画、と一言呟いた。
「映画?」
「てめぇが見たいって言ってた、あのヤクザの冷戦がどうの」
「え、あぁ、うん。それが……どうかした?」
「明日までだろ」
「!」
ファイは目を丸くして、そのまま大きく瞬きを繰り返した。
黒鋼が映画の存在を覚えていたことも驚きだが、上映期間まで把握していたなんて。
「黒たん……調べててくれたの……?」
呆然としながら問いかければ、彼は腕を組み、ふんと鼻で笑いながら鋭い視線を窓の外へ向け、「たまたま雑誌で見かけただけだ」と吐き捨てるように言った。
そんなことが明らかに嘘であることくらい、ファイにはすぐに分かる。そっぽを向く黒鋼の耳たぶが、ほんの少しだけ赤くなっているのが目に入って、少し泣きそうになりながらふにゃりと笑った。
「ありがとー。黒ぽん」
「別に、付き合ってやるってだけの話だぞ。勘違いすんじゃねぇ」
「わかってるー」
ここが電車の中じゃなかったら、思いっきり抱き付いてキスをしているところだ。
自分たちは、例え両親が認めたとしてもやっぱり人前で堂々と恋人同士であることを主張することはできない。
(でも、こういうのってなんかいいかも)
忍ぶ恋。それはとても刺激的で、相手が黒鋼だからこそ、いつだってドキドキとした感覚を楽しめるような気がした。このスリルは、二人じゃなきゃ味わえない。
ファイは黒鋼に身を寄せると、その肩にもたれかかった。
「居眠りしちゃっていい?」
本当はちっとも眠くはないのだけれど。
ポツポツと等間隔で座席に座る乗客たちは、窓の外を見たり、連れと会話をしたり、本を読んだり、弁当を食べたり。それぞれの旅の最後を満喫している。
誰が見たってファイは居眠りをして隣の『友人』にもたれかかっているようにしか見えなくて、でも、二人にとっては恋人同士の戯れで。
黒鋼が、小さくふっと笑う気配にファイも口元を緩めた。
大きな身体に身を預けながら、楽しかった数日間に思いを馳せる。
本当に来てよかった。この国に、また大切な人たちができた。
窓の外は、来たときと同じように、空が青く晴れ渡っていた。
車窓を流れゆく景色は自然豊かで、まだ十分に故郷の名残を残している。これがいずれ立ち並ぶビル群に移り変わる頃、二人は日常へと帰ってゆく。
「また来ようね。絶対」
心地いい揺れと、ほどよい満腹感。寄り添うだけで満たされる安堵感に、ゆっくりと砂糖が溶けてゆくような静かさで眠気が押し寄せてくる。
そうだな、という囁くような声が金色の髪に押し付けられると、ファイはそっと目を閉じた。
←戻る ・ Wavebox👏
夏の真っ盛り。
エアコンを嫌う黒鋼の部屋では扇風機が首を振り、開け放たれた窓にぶら下がる花火模様のガラス風鈴が涼やかな音を奏でている。
ほんのりと漂う蚊取り線香の香りが夏の風情を遺憾なく発揮する、そんな夜のこと。
「ちょっと待ってちょっと待って!? 里帰りって、あの里帰りのこと!?」
「他にどの里帰りがあるんだよ」
タンクトップに短パンという、夏休みの子供のような装いのファイは、風呂上りに冷えた水で喉を潤す黒鋼に縋りついてキャンキャンと吠えていた。
「急に言われても! そんなの聞いてないって!」
「今初めて言ったからな」
「そんなぁー!!」
高所から落ちてきた鉢植えが頭部に直撃したかの勢いで、ファイは衝撃を受けていた。唇を戦慄かせ、青い瞳にみるみる涙がたまってゆくのを見た黒鋼は、面倒臭そうにムッと顔を顰めて見せた。
「なんだっつうんだよ。なんか問題あんのか」
「あるよ! 大アリですー! 黒たん先生、オレとした約束忘れちゃったんだ!!」
「約束……?」
頭上に「?」マークを浮かべる黒鋼は腕を組み、首を傾げながら脳内で記憶の引き出しをまさぐっているらしい。
きっと思い出してくれるはず、と固唾を飲んで見守るファイだったが、いくら待っても沈黙が破られることはなく、ついに癇癪を起すと拳で床をガンガン叩く。
「キー! お盆休みはいっぱいお出かけしてイチャイチャするってあんなに約束してくれたのにー! 忘れるなんて最低ー!!」
「あぁ? おい待てよ。まったくもって記憶にねぇぞ」
「しーまーしーたー! お祭りに行ってー、映画見てー、海にも行ってー、動物園にトラの赤ちゃん見に行くって! 夢の中で約束したー!!」
「……ついに夢と現実の区別もつかなくなっちまったんだな」
紅い瞳が、どこか儚いものを見るように細められた。切なげに瞳を揺らす黒様も素敵というときめきは、今はとりあえず置いておく。
それよりなにより、今のファイにとってはせっかくの連休を二人で過ごせないことの方が大問題だった。
そう、数少ない連休。
しかも季節は夏、真っ盛り。思い出を積み重ねることによって、恋はさらに燃え上がる。
そんな期待を胸に黒鋼が好きそうな映画をチェックしてみたり、ネットの口コミで評判のいい店を探してみたりと、日々ウキウキ気分で過ごしていたというのに。
いよいよ盆休みまであと僅かというところで、まさかの「今年の盆は実家に帰る」発言が飛び出したのである。
これが困惑せずにいられようか。
黒鋼の予定を一切聞いていなかったことは、確かに身勝手だったかもしれない。が、当然のように二人で過ごす気満々でいたため、疑う余地もなかった。
「ねぇ黒様せんせぇ~……今からでも考え直さない? 黒たんさ、ほら、見たい映画あるって言ってたでしょ? 仁義なき宇宙冷戦だっけ? 戦闘力53万の宇宙ヤクザと、地球のヤクザが織りなす壮大なSFファンタジーでさー」
「誰がそんなB級以下の映画見たいっつった……しかも冷戦って言いきってる時点で壮大さの欠片も期待できねぇじゃねぇか」
そんなぁ……と肩を落とすファイに、黒鋼は重々しい息を漏らす。
「普段から嫌ってくらいくっついてんだから、たまにゃいいだろ。弟は国に帰るんだろ? てめぇも一緒に行ったらどうだ。ずっと帰ってねぇだろ」
「それは……そうだけど……」
確かに彼の言う通り。
まとまった連休が取りにくいというのもあるが、それを理由にファイも長らく故郷へ戻っていなかった。
例えどんなに重たいと思われようが、一日でも黒鋼と離れるなんて考えられない。出張の類ならまだ我慢できるものの、プライベートではそれこそ嫌というほどくっついていたかった。
だが、これが自分の我儘で、黒鋼の言っていることが正論であることも分かっている。
勝手に盛り上がっていたのはこちらの方だし、たまには静かに実家でのんびりしたい気持ちは分からないでもない。仕事が忙しいのはお互い様だが、特に黒鋼は運動部の夏合宿を終えたばかりで、疲れも溜まっていることだろう。
(諦めるしかないかなぁ……。これ以上疲れさせたくないし……)
そこでふと、ファイは思った。
黒鋼の故郷。彼を産み、ここまで大きく育て上げた両親や、長らく暮らしていた家や、町。黒鋼という人間を作り上げたルーツが、そこにある。
(どんなところなんだろう?)
出会ってから今までの黒鋼のことはよく知っているつもりでも、彼がどんな少年時代を過ごしたのか、どんな環境で育ったのかまでは何も知らない。
聞いたってどこまで教えてくれるか分からないし、そもそもこの男が自身の過去を饒舌に語り聞かせてくれるとは到底思えなかった。
(なんかすっごーく気になってきちゃった!)
ならば話は簡単だった。この身をもってして、直に触れればいいだけのことだ。
しょんぼりと俯いたままだったファイは、パッと顔を上げると目を輝かせた。
「黒わんころ!」
「あ?」
「オレね、いいこと思いついたよ!」
「……なんだよ」
そこはかとなく嫌そうな顔をしている黒鋼に向かって、ファイは声高らかに言った。
「オレも一緒に黒たん先生のおうちに帰る!」
嫌な予感が的中したとばかりに、黒鋼は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「バカ言ってんじゃねぇ! なんでてめぇまで一緒に!?」
「わー、楽しみだなー! あ、いくら実家だからって、久しぶりに帰るんだし手ぶらはダメだよー。なにか気の利いたお土産を用意しないとねー」
「おい!? 勝手に話を進めるな!」
「ふふふー。楽しみだなー!」
「聞けこのタコ!!」
荒げられた黒鋼の声を、浮かれきったファイは右耳から左耳へと聞き流した。
+++
そんなこんなでついにやってきた盆休み。
電車に揺られること数時間、蒸し暑い駅構内を出ると、そこには抜けるような夏の青空が広がっていた。
「到着ー! ずっと座りっぱなしで疲れたー!」
着替えなどが入ったバッグを地面に置いて、半そでシャツにジーンズ姿のファイは思いっきり両手を伸ばして背伸びをする。痺れるような解放感が、指先にまでじんと染み渡るのが心地よかった。
電車での長旅は快適なものではあったが、こうして外の空気を吸うとホッとして身体から力が抜ける。
「よく言うぜ。グースカいびきかいて寝てたやつが」
少し遅れて駅から出てきた黒鋼が吐き捨てる。彼もまた、いつもの黒ジャージを脱いでラフな装いだった。変わらないのは全体的に黒が基調となっていることくらいか。
彼はバッグの他に紙袋も手にしていた。中身はユゥイが持たせてくれたお手製の菓子類だ。その辺の有名店で買う土産物よりも、確実にこちらの方がハズレがない。
便利な……いや、いい弟を持ったなぁと、今はイタリアの地を踏みしめているであろう弟に感謝する。
「言っとくけどねー、先に寝ちゃったのは黒様先生の方だからねー。お弁当食べたらすぐに寝ちゃうんだもん。いきなりもたれかかってくるから、ビックリしちゃったよー」
うるせぇな、と吐き捨てる黒鋼についつい笑ってしまう。
本当は流れゆく景色を眺めながら会話を楽しんでいたかったけれど、そうやって無防備に身を預けてこられるのは嬉しかった。
眠っていることを口実に、人目を気にすることなく寄り添っていられることも。
電車の心地よい揺れと黒鋼の寝息に耳を傾けているうちに、ファイもまたすっかり意識をさらわれてしまったのだった。
「最後まで寝コケてたのはおまえだ。俺がいなけりゃ乗り過ごしてたぜ」
「はいはいわかったよー。のんきな寝ぼすけはオレの方ですー」
ファイが素直に折れたことに気を良くしたのか、黒鋼は満足気にふんと鼻を鳴らした。
この男は妙なところで子供っぽいし、何においても負けず嫌いだ。普段は頼りがいのあるお父さんタイプのくせに、こんなところがあるからつい可愛いなんて思ってしまう。
黒鋼がいなければ、そもそもこの場所にファイが訪れることだってなかったろうに。
+++
二人が出た場所は、ちょうど小規模な駅前ロータリーだった。
容赦なく降り注ぐ日差しと照り返しの中、それでも自分たちと同じように帰郷した家族連れなども目立って辺りはそこそこ賑わっている。
タクシーやバス、送迎マイカーなどが列をなす光景を横目に、二人は見通しのいい場所を目指してのんびりと歩き出した。
「お父さんわざわざ迎えに来てくれるなんて優しいねー。どんな車かなー?」
「さぁな。俺がガキの頃は軽トラばっか乗り回してたが……お袋の話じゃ、最近新車買ったとかなんとか言ってたな」
「じゃあどんなので来るかわかんないんだねー」
これだけ目立つ息子の姿を見落とすということもないだろうし、ファイもファイで太陽の下で光り輝く金髪頭がよく目立つ。
それと思しき車が見当たらないとなると、おそらくまだ到着していないのだろう。
ある程度ロータリーを迂回し、歩道近くに出たところで、二人は足を止めると息をつく。
日差しは厳しいが、どこかカラリとしていて決して不快な暑さではなかった。
黒鋼はどこか懐かしそうに目を細めながら、周辺の景色を眺めていた。ファイはその様子をちらりと見やり、肩を竦めるようにして微笑むと、覗き込むようにしてその表情を見上げる。
「懐かしい?」
「そうだな。俺がいた頃より、ここもずいぶん整備されてるみてぇだが……お」
「なにー?」
「いや」
黒鋼の視線が広い通りの向こう側に向けられるのを、同じく視線で追いかける。
そこはまだどこか真新しさを醸し出す大型のネットカフェと、その駐車場だった。
「昔あそこは本屋だった。その横は古くせぇ文房具屋だったんだが」
どっちもなくなっちまったんだな、と独り言のように落とされた声から、彼の郷愁がファイの胸にも伝染して、少し切ない気持ちになった。
なんとなく、脳裏に小さくて古びた本屋と文具屋が並んでいるのを思い浮かべてみる。
きっとよく利用していたのだろう。ファイが知らない頃の黒鋼の姿も想像して、物懐かしさの片鱗に触れた。
「変わるもんだな。長いこと離れてるとよ」
「そうだねー」
口元だけで小さく笑う黒鋼に、ファイもふわりと笑顔を返した。
時の流れにその景色がどれほど姿かたちを変えようとも、ここが黒鋼の生まれ育った故郷であることに変わりはない。
そんな場所に立って、同じ目線で『今』を見つめていられることに感動を覚えた。
無理を言ってしまったが、やっぱり来てよかった。そう思う。胸が、温かく震えていた。
しかもこれから会うことになるのは黒鋼の両親である。ファイがこうして最愛を得て日々を送ることができているのは、他ならぬ彼らのおかげだ。
「黒たん。オレ、失礼のないようにちゃんと振る舞うから安心してね」
いたって真面目に宣言したつもりが、それを聞いた黒鋼が珍しく小さく吹きだした。
「なんで笑うかなー?」
「借りてきた猫にでもなるつもりか、おまえは」
「もー! 真面目に言ったのにー!」
「気負うと逆にヘマすんぞ。騒がしくてアホみてぇな外人が一緒だってことは言ってある。安心しろ」
「ちょ、ちょっと黒様せんせー! 変な伝え方しないでよー!」
逆に不安になるではないか……。
とはいえ、どんな紹介のされ方をしようとも今のファイはあくまでも黒鋼の職場の同僚であり、友人だ。
久しぶりに帰ってきた息子が、まさか男の恋人を連れてきたなんて、そんなことを両親に悟られるわけにはいかない。
(ちょっと寂しいけど……連れてきてもらえただけで満足しなきゃねー)
よき友人としての振る舞いを、しっかりと見せなくては。
ファイが心の中で気合を入れたのと、小さく二度ほどクラクションを鳴らしながら黒の乗用車が路肩に横づけされたのはほぼ同時だった。
*
「アホな外人を連れてくるなんて言うもんだから、どんなアホかと思えば……可愛い顔した先生じゃないか。なぁ奥」
「ええ本当に……。外人さんって聞いたときは、もっと毛むくじゃらで大柄なのかと思ってましたけど、モデルさんみたいなイケメンさんね」
茶の間にあたる広い和室で、仲睦まじい夫婦が笑っている。
ファイと黒鋼と、四人で囲んだテーブルの上には、旬の野菜や魚介類を使った天ぷらや煮物に漬物など、豪華な食事が所狭しと並んでいた。酒はもちろん、さらに握り寿司が詰まった巨大な桶まで並ぶ様は圧巻の一言である。(残念ながら生魚は食べられないが)
日本の食卓ってどこもこんな感じなの? と驚きを隠せないファイだったが、おそらく久しぶりに戻る息子と客人のために奮発してくれたのだろう。
このさい悪意のない散々な言われようには、目をつぶらざるをえない。もとはと言えば黒鋼が失礼極まりない情報を事前に吹き込んだせいでもあるのだから。
じろ、と横目で隣を睨んではみたものの、元凶はふてぶてしく胡坐をかいてビールジョッキに口をつけるだけで、こちらを見ようともしない。
彼は父親が運転してきた車に乗り込んでから今まで、いつも以上に口数が減っていた。久しぶりの両親との対面は、幾つになっても照れ臭いものなのだろうか。
「さ、ファイ先生も遠慮なくどうぞ。お腹ぺこぺこでしょう?」
「足も崩して楽にするといい。正座は辛かろう」
「すみませんー。じゃあ、お言葉に甘えて……」
どこか辛気臭い雰囲気の息子とは違い、その両親は気さくでよく笑う人たちだった。
母親は長い黒髪に、ふわりとした淡い花柄の着物をまとった優しそうな女性で、父親はちょっと笑ってしまいそうになるくらい、息子と瓜二つである。
正直あと少し遅かったら引っくり返って悶絶していたであろう正座を崩しながら、ファイはにこりと笑い返す。
とりあえずは、明るい人たちで安心した。アホな外人でも、こうして快く迎え入れてくれるのだから。
「この子はしっかりやれていますか? この通り愛想のない子ですから、生徒さんたちに受け入れられているのかどうか……」
黒鋼母が小皿に天ぷらを盛りつけながら、少し困ったように眉尻を下げて微笑んだ。
この息子のことだから、まともに近況を告げてはいないのだろう。
どうぞ召し上がって、と差し出された皿を礼を言いつつ受け取りながら、ファイは安心させるようにこくりと頷いた。
「黒鋼先生はとっても頑張ってますよー。生徒たちも彼が大好きですし。理事長先生にはちょーっとこき使われてますけどねー」
「おいこら、余計なこと言うな」
「えー? お茶汲みだって立派なお仕事だよ黒た……黒鋼せんせー」
「てめぇ……帰ったら見てろよ……」
その掛け合いを聞いて、黒鋼父は豪快に笑った。
母親の方もどこかホッとしたように胸に手を当てながら、控えめな笑い声をあげた。
「そうか、昔はまともに茶のひとつも淹れられなかった息子が、今では立派にやっているというのは嬉しい知らせだ」
「え? そうだったんですかー?」
「おい親父……」
「ええ、誰に似たのか不器用な子でしたのよ。絵を描かせてもクラスで断トツの惨さで……」
「むご……お袋まで、勘弁してくれ」
「ぷぷっ」
「アホ教師! 笑うんじゃねぇ!!」
ただでさえ悪い目つきをさらに吊り上げて怒鳴る黒鋼に、他三人は大いに笑った。
舌打ちしながらそっぽを向く様子に多少は悪いと感じつつ、なかなか聞けない貴重な話にファイの気分は高揚する一方だった。
「もっと黒鋼先生の昔のお話、聞かせてくれませんかー?」
目を輝かせ、少し前のめりになって強請るファイに殺気立った視線が突き刺さる。が、黒鋼父はよしきたとばかりに頷いた。
「そうだな、とにかく変わった子供だった」
「変わった子……ですか。どんなふうに?」
「いつだったかな……これが小学校に上がる少し前だったか、なぁ奥」
「そうそう。この子、駅の近くで路上生活をしていた男の人を連れてきて……」
「大事に世話するから飼ってもいいか……ってな……」
「えぇ!? ホームレスをお持ち帰りしたんですか!? しかもペット扱い!?」
真っ先に飛び出す幼少期トークにしては、あまりにもヘビーな内容である。
咄嗟に見開いた目で黒鋼を見れば、彼は残り少ないジョッキのビールをチビチビと飲みながら恐ろしい形相で震えている。
これ以上は危険なのでは……と思いつつ、先が気になった。
「で……どうなったんですか……?」
「流石にちょっと……ちょうど新米が炊き立てだったので、おむすびと一緒に……」
お引き取り願ったわけか。
当たり前の話だとは思うが、ついて来る方もどうかしているような。
当時はそれだけで済んだそうだが、もし今の時代だったらどえらい騒動になっていただろう。擦れ違った児童に挨拶をしただけでも通報されて、ネットで祭り上げられる時代である。
「中学の頃もあったぞ。そこらへんの畑を荒らしまわっていた巨大イノシシを、担いで持ち帰ってきたことが」
「素手で仕留めたんですか!?」
「あの時は父として誇らしかったぞ。逞しい子に育ったもんだと」
「ええ、ご近所さんにもお裾分けして、美味しく頂きましたのよ」
鍋にでもして食ったんかい。
流石のファイも笑顔を引き攣らせ、パワフルなお子さんですね……と返すだけで精一杯だった。
なるほど、確かにここは黒鋼という人間を形成したルーツの宝庫だ。
そこはかとなくだが、この仲のいい夫婦からも天然チックなオーラが漂っている気がした。巨大イノシシを素手で仕留めて担ぐ中学生というのも常識外れだが、まずは無茶な真似をした息子を咎めるのが先のような気がするが……。
(黒たんも天然なとこあるからなぁ……このご両親なら納得かもー……)
「もういいだろ……こいつに余計な話は吹き込むなとあれほど」
「いいじゃないの。せっかくこうして楽しくお食事ができているんだもの。そうだわファイ先生、よければこの子の昔のアルバムもご覧になりません?」
「お、いいな。久しぶりにみんなで見るか!」
「頼むからもうよせ!!」
よほど恥ずかしいのか、黒鋼は顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
シャイな彼にとって今の状況は地獄に等しいものなのかもしれない。それでも嬉しそうに笑っている両親の顔を見ているうちに、ファイはふと、楽しかったはずの心が沈みかけているのに気づいてしまった。
(いいご両親だなぁ。優しくて、寛大で)
二人とも、長らく離れていた息子との時間を心から楽しんでいる。ファイのことも優しく迎えてくれる。
だけどきっと、彼らが本当に連れてきて欲しいのは、同僚でも友人でもないはずだ。
もしこの場にいるのが自分ではなく、将来可愛い孫を産むことができる綺麗な女性だったなら、二人はもっと喜んだに違いない。
黒鋼は絶対にいい夫になるし、いい父親になるし、そしてこの夫婦は優しいおじいちゃんと、おばあちゃんになる。このおっとりとした母親なら、嫁と折り合いがつかずに揉めるということもなさそうだ。
言い合う親子から、ファイはそっと目を逸らした。視線の先では障子が開け放たれていて、よく磨かれた板の間の縁側の向こうには、広い庭があった。
手入れされた木々と、花々と、綺麗な芝生。きっと黒鋼が幼い頃はここを駆けまわって父親と一緒に遊んでいたに違いない。
今度は黒鋼が同じように、自分の子供と過ごす姿を見せることこそが、きっと両親への最大の孝行になるのだと思う。
(あー……ダメだなぁ、こんなんじゃ)
今までだってこの手の不安は幾度も抱いてきた。
その度にどれほど落ち込んでも、必ず引きずり上げてくれたのは黒鋼の力強い腕と、真っ直ぐな愛情だった。
だからファイはいつだって彼の側で笑っていることができたし、ほんの数日だって離れていられない自分に、今さらこの幸せを手放すことが出来るとは思えない。
来てよかったという気持ちに偽りはないけれど、会うべきではなかったのかもしれない。どこかで捨てきれない後ろ暗さが、両親へ対する罪悪感にぴったりと折り重なった。
「おい、どうした急に」
「……ふぇ!?」
いつしか得意の笑顔すら手離して消沈していたファイの顔を、黒鋼が横から覗き込んでいた。咄嗟におかしな声を上げて肩を揺らしたファイに、彼は眉間の皺を深める。
ファイは慌てて大きく首を振ると、笑顔を取り繕った。
「な、なんでもないよー! 色々ビックリするお話聞いたから、ちょっと余韻が抜けきらないだけー」
「顔色が悪い。ちっと横になるか?」
「ッ……!」
そう言いながら、黒鋼の手が伸びて頬に触れようとするのを、咄嗟に身を引いて拒絶した。一瞬のことだが、明らかに避ける動作を見せたファイに、黒鋼は何か言いたげな様子で渋々手を引っ込める。
この場所で、まるで恋人を気遣うような触れ方をしてはいけないはずだ。
いつもの癖で出てしまったのかもしれないが、今もし彼に優しく触れられようものなら、ファイだって自信がない。瞳を潤ませて、いつものように甘えた口をきいてしまうかもしれない。
そんな姿を、目の前の両親には見せられない。友達でもただの同僚でもなく、深く愛し合っているという事実を、悟られるわけには。
もし万が一バレるようなことがあれば、反対されるのは目に見えている。何より、大切な息子が道を踏み外したと知ったら、きっと彼らは深く傷つくだろう。
「奥、だから言っただろう。長旅な上にこの暑い中、揚げ物はないだろうって」
「いやだわ、貴方が作れって言ったのに」
「そうだったか?」
「そうですよ」
ごめんなさいね、と申し訳なさそうに小首を傾げる母親に、ファイはぶんぶんと首を振って満面の笑みを浮かべた。
「ぜんぜん平気ですー! オレこう見えてけっこう食べるし、凄く美味しいですー!」
「そう? ならよかったわ。さ、煮物も召し上がって」
「はーい! いただきまーす! あ、そうだ、アルバムもぜひ拝見したいですー!」
「おおそうか! よし、じゃあ取ってくるとしよう」
「わーい! ありがとうございますー!」
横から突き刺さる黒鋼の視線はかなり痛かったが、ファイは大袈裟なくらいはしゃぎながら、その後も両親から様々な昔話を聞いたのだった。
*
アルバムを見たり、昔の黒鋼の話を聞いたり、学校での仕事ぶりを話したり。
そうこうしながら食事を終える頃には、とっぷりと陽が暮れようとしていた。
黒鋼父はすっかり酔い潰れて、息子に抱えられて部屋に引っ込んでいった。黒鋼の酒豪ぶりは見た目通り父親譲りかと思っていたが、どうやら違っていたらしい。
夫に勧められるままそれなりに杯を重ねた母親の方が、顔色ひとつ変えずにケロリとしているから驚いた。
広い台所では、黒鋼母が山のように積まれた食器を洗っていた。
いくら客人とはいえただ何もしないでいるわけにはいかないと、ファイはおずおずと台所を仕切るガラス戸を開けて、ひょこりと顔を出す。
「あ、あのー」
「あら先生、どうかし……あ、ごめんなさいね。お酒を飲んだあとは喉が渇きますものね」
私ったら気が利かなくて、なんて言いながら水道を止めようとする黒鋼母に、ファイは慌てて両手を翳すと首を振る。
「い、いえ、オレも何かお手伝いがしたくてー」
「まぁ、そんな気を使わなくてもいいんですよ。ゆっくりしてらして」
「でもやっぱり悪いですし」
普段、台所に立つことは黒鋼とユゥイに止められている。それでも何かしら手伝えることはあるはずだ。確かに料理センスは呪われているかもしれないが、片付けくらいは別にしようと思えばできる。ただしないだけで。
黒鋼母は嬉しそうにニッコリと微笑んで、「じゃあ、食器を拭くのをお願いしようかしら」と言った。
+++
うっかり手を滑らせて食器を割ったりしたら大変だと、ファイは緊張しながら次々と重ねられてゆく皿を和柄の上質な手拭で丁寧に拭いた。引け目を感じている相手と二人きり、ということも相まってか、時おり指先が震える。
その緊張感が隣で食器を洗っている母親に伝わったのか、彼女は小さく肩を揺らして笑った。
「す、すみません……普段家事は弟に任せきりで……」
「ごめんなさね。笑ってしまって。あの子に聞いていた通りだから、つい」
咄嗟に母親の方に顔を向けて、ファイは手を止めた。
「黒た……えと、黒鋼先生、他にもまだ何か言ってたんですか?」
「ええ、台所には立たせるなって。バレたら叱られてしまいますね」
「うわぁ……やだなぁもう……」
自分の近況はまともに伝えていなかったくせに、余計なことばかり話すあたり、人のことは言えないではないか。
軽く赤面して目を泳がせるファイを見て、黒鋼母はやっぱりクスクスと笑うと、それから少し間を置いて言った。
「とてもいい方だと。そうお聞きしていますよ」
「……え?」
黒鋼母もまた、手を止めてファイを見上げた。優しげに細められた瞳に、どうしてか息が詰まる。
「いつも明るくてニコニコしているくせに、辛いことは全て一人で背負い込もうとするから」
「……」
「だから側で、見ていてやらなくちゃいけないんですって」
ファイはただただ、戸惑った。
黒鋼がそんなことを言っていたというのも驚きだが、かといって返す言葉が咄嗟に見つからない。うまく声を発することすらできそうもなく、ファイはただ俯いた。
「あの子のこと、よろしくお願いしますね」
「……それは」
どういう意味だろう。
友達として。同僚として。それは分かっている。彼女が自分たちの関係を知っているはずはないのだから。
なのになぜだろう。この優しい瞳の前では、何も隠し事ができないような気がして。全て見透かされているような、心もとない気持ちにさせられた。
そんなはずはないと思いつつ、ファイは誤魔化すように無理やり笑って首を振った。
「オレは何もできません。黒鋼先生は一人でもちゃんとやっていける人だし……その、オレはたまたま一緒に仕事をすることが多くて、部屋も隣同士ってだけで……」
「そんなことはありません」
「お母さん……」
「あの子は、一人ではやっていけません。可愛いお嫁さんが、ちゃんと側で見ていてあげないと」
黒鋼母は少女のように「うふふ」と可憐に笑って、さらに続けた。
「嫁を連れて帰るって。あの子、そう言いましたのよ」
「……へ!?」
ファイは我が耳を疑った。
彼女は今、なんと言ったのだろうか。紡がれた言葉がすんなりと頭に入らず、戸惑いに拍車をかけるばかりだった。
嫁とはあの嫁のことでいいのか。女に家と書いてヨメと読ませる、あの嫁ことで間違いないのだろうか。
「お、お、お嫁さん!? あれ!? 今日ってここに来たのはオレ達ふたりだけでしたよねー? おっかしーなー?」
もしかしたら自分は、物凄く苦しい言い訳をしているのではないか。
そんな気にさせられるのは、天井を仰ぎ見るように目を泳がせるファイにとって、彼女の優しくて綺麗な瞳が皮膚に突き刺さるように感じられるからだった。背筋にヒヤリと冷たい汗が伝った気がする。
「気を使ってくださっていたのね」
「お、お母さん、あの……」
大きな瞳をゆっくりと細めて、彼女は微笑んだままだった。
ファイはその瞬間、ふっと肩から力が抜けたような気がした。悪戯が見つかった子供のような気分だ。あの決意はなんだったんだろう。なんのために無理をしていたんだろう。何も意味がなかったということだ。
両親は最初から知っていた。黒鋼が、包み隠さず言っていたから。
騒がしくてアホみたいな外人の嫁を、連れて帰る、と。
(最初に言っておいてよね……照れ屋にも程があるでしょ、バカ!)
知っていて、彼らはこうして受け入れてくれていた。
まだ驚きや戸惑いの方が大きいけれど、じわじわと込み上げてくる安堵や気恥ずかしさに、ファイはじんわりと浮かぶ涙を抑えきれない。
黒鋼が、そんなことを。しかも両親に向かってハッキリと。彼は初めから隠す気など毛頭なかったということだ。もしかしたら、ずっとどこか不機嫌そうだったのは、両親に二人並んだ姿を見られていることが照れ臭かったから、なのかもしれない。
(黒たんのバカ)
本当に嬉しかった。夢を見ているような気さえした。
けれど、かといって不安の種は完全に消えてはいなかった。
「でも……嫌じゃないですか? 大事に育てた息子さんなのに、相手が男って。お孫さんの顔だって……オレが相手じゃ見せてあげられない……」
「うふふ」
「あの、ここ笑うところじゃないんですけどー……」
「だって……ふふ、おかしい」
ジョークを言って笑わせようとしたわけでもないのに、黒鋼母は手拭で拭いた白い手を口元に当てて笑い続けている。本当によく笑う、可愛い人だ。
ファイはただ困惑するばかりで、彼女が落ち着くのを待っていることしかできなかった。
「ごめんなさい。だって、ホームレスの人を連れてきて大事にするって言ってのけた子ですもの。それに比べたら、こんなに可愛らしい顔をした若い男の人で、むしろ安心しましたわ。ふふふ」
ホームレスと比べられましても……というツッコミはとりあえず飲み込んだ。
そういえば彼女は「外人=毛むくじゃらの大男」という偏った思考の持ち主だった。父親の方も大方同じようなイメージを持っていたに違いない。
やっぱりこの親子は、天然だ……。
ファイはクスクスと笑い続けている母親に釣られて、思わず小さく吹きだしてしまった。しばらくの間、そうやって二人で手を止めたままずっと声をあげて笑った。
やがて、笑いすぎてうっすら浮かんだ涙を指先で拭いながら、黒鋼母は改めて言った。
「愛想のない不器用な子ですけれど……末永く、よろしくお願いしますね、ファイさん」
まだ少し恥ずかしかったけれど、ファイは今度こそなんの迷いもなく「はい」と返事をして、ふにゃりと泣きそうに笑った。
*
夜。
風呂上りには縁側で、四人並んで冷たいスイカを食べた。
黒鋼父は少し休んでどうにか復活したようで、尽きることのない話の中で、明日は買い物がてら海でも見に行こうかと言い出した。
道中には黒鋼が通っていた学校が小中高と見れると聞いて、ファイは万歳をしながら喜んだ。
黒鋼はもちろん渋い顔をしていたが、ファイはすっかり両親に心を開いて、絶え間なく三人の笑い声が夜の庭に響いていた。
+++
就寝場所は二階にある八畳ほどの広い和室で、黒鋼が子供の頃に使っていた部屋だった。
地球儀や船の模型が飾ってある机や、当時使っていたのであろう教科書や参考書などと一緒に、昆虫やら恐竜やらの図鑑が並べてある背の高い本棚。
これらはきっと、黒鋼がここを出た時のままの形で、常に綺麗に手入れされているに違いなかった。
「本当にいいご両親だねー」
今は灯りを落とし、枕元にある和紙の照明だけがほんのりと光を放っている。
二人は布団の脇に綺麗に畳まれていた浴衣を身にまとい、のんびりと寛いでいた。着替えは準備して来ていたが、せっかくの心遣いを無駄にはできなかった。
黒鋼は父親のお古で黒の綿麻、ファイには黒鋼が高校時代に着ていたという、濃紺のしじら織が用意されていたけれど、やっぱり少し大きい。
部屋の中央に布団を二組並べて、その上にちょこんと座り込んだファイは、枕を抱え込みながらゆらゆらと身体を揺らし、上機嫌で言った。
「最初は緊張したけど、ちゃんと仲良くなれてよかったー」
ファイは横に枕を放ると、胡坐をかく黒鋼のすぐ側まで近寄って、その顔を覗き込んでにっこり笑う。
「黒たん先生のおかげでね」
「俺は別に何もしてねぇよ」
ファイとは逆に、黒鋼の方はまだ少しばかり不機嫌そうだった。ぷいっと顔を背け、そのままこちらを見ようともしない。
子供の頃の話や、学園での話など。それらを存分に酒の肴にされてしまったことを、まだ根に持っているらしかった。
ファイは小さく笑うと、黒鋼にすっかり身を寄せてその腕に抱きつく。
「怒らないでよー。オレは黒様先生の昔のお話、いっぱい聞けて嬉しかったんだからー」
「怒ってねぇし、俺はまったく嬉しくねぇ」
「じゃあ、拗ねてる?」
「……うるせぇな」
がっしりとした腕に回していた手を、片方取られる。骨ばった大きな手に手首を掴まれ、引っ張られるようにして導かれれば、胡坐をかく黒鋼とちょうど向き合う形になった。
膝立ちのファイはその首に両腕を回しながら、いつもより低い位置にある仏頂面を見下ろして微かに笑った。
「ちょっと仲良くなりすぎちゃった?」
黒鋼の両親は賑やかで、会話も笑顔も途切れない人たちだった。
台所での母親とのやり取りですっかり立ち直ったファイの笑顔は、無理やり作り上げた愛想笑いとは程遠いもので、彼らとの時間を心から楽しむことができた。
きっと明日も、楽しい一日になるはずだ。もっと沢山、可愛い息子の話が聞きたいし、愛しい恋人の話をしたい。
黒鋼はもう一度、囁くように「うるせぇぞ」と言った。
腰に回された腕に強く引き寄せられて、自然と唇が重なる。
可愛いなと、ファイは思う。きっと彼はファイが両親と打ち解けたことに安堵している。けれど、少しばかり懐きすぎたせいか、こうしてヤキモチも妬いてくれる。
「愛しいよ」
軽く触れ合っただけの唇から、ファイは吐息のような声を漏らした。
黒鋼の額に自分の額を押し付けて、その頬を両手で包み込む。
「君を生んで、育ててくれた人たちだもの。オレのことも、ちゃんと……」
続きを待たずに、黒鋼がファイの腰を抱えたまま態勢を変えた。頭部にも手を添えられ、そっと厚みのある布団に押し倒された。
見下ろす姿勢から、見下ろされる態勢になって、胸が大きく高鳴った。キスもセックスも、数えきれないくらい交わしてきたはずなのに、いつだって初めての恋をしているみたいに心がきゅっと締め付けられる。
黒鋼は何も言わなかった。ただじっと、真っ直ぐに表情を見下ろされることに今度はファイの方が照れ臭くなってしまう。心臓の高鳴りが伝わってしまいそうな気がして。今更だけど恥ずかしい。
赤い頬で目を逸らし、弱々しくその胸板を押した。
「なんか、照れるよ……」
「今更だろ」
「だって……下でお父さんとお母さん、が、ッ」
寝てるのに、と続くはずだった言葉が熱い唇に塞がれた。
黒鋼の身体の下で大きく身を震わせたファイだったが、見開いた瞳は滑り込んでくる生温かい舌の感触に、すぐにとろりと溶けるようにして閉じられた。
抱きしめてくる腕の感覚と一緒に、言葉にできないくらいの幸福感がファイを包んだ。負けじと黒鋼の背に必死で腕を回して受け止める。
舌を絡ませ、唇を舐め合い、いっそ痺れて感覚がなくなるくらい、深く。
「はっ、ふ……」
「声、我慢できるか?」
銀色の糸を引いて一度離れた唇の隙間から、低く呟かれる声に耳まで犯されているような気持ちになる。
下の階では彼の両親が、明日に備えて休んでいるはずだ。
いつだって正体をなくすほどに乱されてしまうファイには正直、自信がなかったけれど。
火のついた身体が今にも一つになりたくて、疼いている。抗えるはずがなかった。
「ん……がんばる……」
こくんと頷いて見せたファイに、黒鋼は小さく、笑った。
+++
「ゃ、ん……ッ!」
思わず漏れてしまった声に、ファイはハッとして口元を両手を覆った。
黒鋼の太い指に大きく開いた両足の奥まった場所を探られながら、懸命に息を飲み込むことに努めた。
浴衣は上も下も肌蹴て、かろうじて帯だけで留まっているだけだった。素っ裸よりもずっと卑猥に思えて、羞恥心が存分に膨らんだ。
内壁の奥深い場所を指の腹で擦られる度に、ファイは泣きながら嫌々と首を振った。
「ん、ぅ、ッ」
行為はどちらかといえば性急だった。
いつもの黒鋼なら、丁寧に時間をかけて心も身体も蕩かすような抱き方をする。けれど、今日は流石にじっくりと時間をかけている余裕はないようだった。
でも今はそれが嬉しい。いくら公認とはいえ、両親がいる同じ家の中で行為に及んでいるというギリギリのスリルが、いけないと思いつつも興奮を掻きたてる。
黒鋼によって開発されてきた身体は、当然ながら黒鋼しか知らない。彼が欲してくれるなら、ファイはいつだって準備が出来ているも同然だった。
いいか、と吐息だけで投げかけられた問いに、ファイは睫毛を伏せて頷いた。
ゆらりと潤んだ瞳で見上げ、黒鋼の乱れた浴衣の胸元に両手を這わすと、そのまま肩まで撫で上げる。手首に引っかかるようにして大きく開いた襟の下から、逞しい両肩が姿を現した。
黒鋼はファイの中を解していた指を引き抜くと、もどかしげに浴衣の袖から両腕を引き抜いた。腰に纏わりつくだけの布と化したそれを掻き分けて、その手がいきり立った自身を取り出すのが緩い照明の中でもハッキリと見えた。
心臓が下から突き上げられるように鋭く高鳴っている。
ファイは喉を慣らし、両足をより大きく自ら割り開いた。飢えたような瞳と、真っ直ぐに視線が交わる。
「大好き。黒様」
汗ばんだ頬に金色の髪を張り付かせながら、ファイは小さく首を傾げると微笑んだ。
誘うように両手を黒鋼の後ろ首に這わせ、そっと抱き寄せると彼は逆らうことなくファイに覆いかぶさった。
白い足を抱え上げられ、熱の塊を濡れた穴に押し付けられながら、耳元にかかる熱い息が「愛してる」と紡ぐのを、幸福に濡れた瞳を細めて受け止めた。
+++
「オレ、本当に嬉しかったよ」
一度の交わりを、存分に時間をかけて楽しんだあと、ファイは黒鋼の腕の中でうっとりと呟いた。
二人とも、今は乱れた浴衣をすっかり元の形に正し、同じ布団に潜り込んで身を寄せ合っている。少し蒸し暑い気もするが、限界まで高まった熱が静かに収まってゆく感覚は気持ちがよくて、何より離れがたかった。
黒鋼からの返答はなかったが、まだ眠っていないことは知っている。
「多分ね。心のどこかでは、やっぱりいつかは別れなきゃいけない日が来るのかもって……そう思ってた部分があったんだ」
「馬鹿」
「えへへ。うん」
ごめんねと、小さく呟きながら、ファイは抱きつくように黒鋼の腹に手を回す。
いつだって不安を遠のけてくれるのはこの男だった。だから信じてる。なのに、怖くて。
今まではずっと、その繰り返しだったけれど。
「オレ、いいお嫁さんになれるかな」
料理センスは壊滅的だし、ついつい不要なものまで貯めこんでしまう癖もあるし。
今はすっかりユゥイや黒鋼に甘えきっているけれど、やっぱり少しずつでも成長していかなければ、なんて思う。
その辺りに関して一切の期待を寄せていない黒鋼は、ふっと小さく息を吐くような笑い方をした。
「もー……今バカにしたでしょー?」
「んなこたねぇよ」
「いいもん。いつかあっと驚かせてやるから」
「そりゃ楽しみだ」
絶対にまだ馬鹿にしている。
むぅっと頬を膨らませるファイの髪に、黒鋼の長い指が絡まった。毛糸を弄ぶみたいに触れられているうちに、心地いい疲労感が眠気を誘う。
だけど、なんとなくまだ眠りたくなくて、ファイはゆったりと言葉を紡いでいった。
「あのね、オレ、ご両親に申し訳ないなって。オレがね、黒たんを独り占めしてる限り、お孫さんの顔も見せてあげらんないって……苦しくなったんだ」
「知ってた。また余計なこと考えてるってことくらいな」
「ん。今は、もう平気。黒たんのおかげ。ありがと」
そこまで言い切ってしまうと、胸がすっとした。
諦めることは、決して悪いことばかりではないのかもしれないと思った。例えばどんなに愛し合っても自分たちの間に子供は生まれない。黒鋼の血は後に受け継がれることはないし、ファイだってそう。
あの優しい両親も、可能であれば死ぬまでに孫の顔を見たかったはずだ。けれどそれを諦めてでも、息子が選んだ相手を受け入れることを決めた。
きっと人は生きるほどに沢山のものを手放しているのだと思う。得るほどに失うものもあって、歳を重ねるほどに大切なものだけが手の中に残れば、それでいいじゃないかと。
体のいい逃げ口上かもしれない。でも、ファイにとってはこれが最良の答えだった。
「なぁ」
「……んー」
「いつかは、ここに帰ってくるとして。そんときゃ、もちろんおまえも連れてな」
「うん」
「猫でも飼うか? おまえに似た、白くて青い目ぇしたやつ」
「あはは、なにそれ。どうして急に?」
「子供ってんじゃねぇけどよ。悪くねぇだろ」
ああ、それもいいかもしれない。
不器用な優しさに口元を綻ばせ、ファイは枕にしている黒鋼の腕に強く目元を擦り付ける。
「オレは、犬がいいな」
「犬か」
「黒たんにそっくりな、黒くておっきなの」
「そりゃ駄目だ」
「どうしてー? ちゃんと面倒見るし、いっぱい可愛がるよー」
目線を上向けて見れば、むっつりと顔を顰める黒鋼と目が合った。
彼は思いっきり眉間の皺を深くして、紅い瞳で睨みつけてくる。
「また拗ねるぞ。俺が」
真剣に言い放つその声に、ファイは一瞬目を丸くした。が、すぐに思い切り吹きだして、肩を小刻みに揺らした。
その反応を振動ごと受け止めた黒鋼が、「笑いごとじゃねぇぞ」なんてまた真剣に言うものだから、ファイはしばらくずっと笑いながら身を震わせるしかなくなってしまった。
*
里帰り最終日。
朝食を食べたあとしばらくのんびりと寛いで、二人は実家を後にした。
帰り際には野菜やら米やら、なぜか新品のティッシュの箱や洗剤など、思いつく限りのものを持たせてくれようとしたが、流石に持ちきれずに宅急便で送ってもらうことにした。(米と野菜だけであとは断った)
まだゆっくりして行けばいいのに、と涙ぐむ母親に後ろ髪を引かれつつ、二人が電車に乗り込んだのは昼を少し過ぎた頃だった。
電車内はもっと混雑しているかと思いきや、行きよりも空席が目立っているように見える。これならちょっとくらいは隠れてイチャイチャできるかな、なんて目論みつつ、また居眠りしてしまうような気がしないでもない。
「そういえば黒たん、こんなに早く帰っちゃって、本当によかったの?」
母親が途中で食べるようにと作ってくれた弁当を食べ終えたあと、ファイはお茶を飲んで息をついている隣の黒鋼の顔を覗き込んで聞いた。
「あ?」
「あ? じゃなくてー」
連休は残り二日。最初に聞いていた話では、もう一泊してから帰宅するはずだった。
それを一日繰り上げて帰るぞと言い出したのは黒鋼で、理由を聞いてもはぐらかされるばかりだった。
「別にいいだろ」
「いいっちゃいいけど……お母さんもお父さんも寂しそうだったし、なんか急だったからー」
「……」
黒鋼は何も言わず、窓際にお茶のペットボトルを置いた。
やがて不思議そうにその表情を見つめ続けるファイに一瞥をくれたあと、映画、と一言呟いた。
「映画?」
「てめぇが見たいって言ってた、あのヤクザの冷戦がどうの」
「え、あぁ、うん。それが……どうかした?」
「明日までだろ」
「!」
ファイは目を丸くして、そのまま大きく瞬きを繰り返した。
黒鋼が映画の存在を覚えていたことも驚きだが、上映期間まで把握していたなんて。
「黒たん……調べててくれたの……?」
呆然としながら問いかければ、彼は腕を組み、ふんと鼻で笑いながら鋭い視線を窓の外へ向け、「たまたま雑誌で見かけただけだ」と吐き捨てるように言った。
そんなことが明らかに嘘であることくらい、ファイにはすぐに分かる。そっぽを向く黒鋼の耳たぶが、ほんの少しだけ赤くなっているのが目に入って、少し泣きそうになりながらふにゃりと笑った。
「ありがとー。黒ぽん」
「別に、付き合ってやるってだけの話だぞ。勘違いすんじゃねぇ」
「わかってるー」
ここが電車の中じゃなかったら、思いっきり抱き付いてキスをしているところだ。
自分たちは、例え両親が認めたとしてもやっぱり人前で堂々と恋人同士であることを主張することはできない。
(でも、こういうのってなんかいいかも)
忍ぶ恋。それはとても刺激的で、相手が黒鋼だからこそ、いつだってドキドキとした感覚を楽しめるような気がした。このスリルは、二人じゃなきゃ味わえない。
ファイは黒鋼に身を寄せると、その肩にもたれかかった。
「居眠りしちゃっていい?」
本当はちっとも眠くはないのだけれど。
ポツポツと等間隔で座席に座る乗客たちは、窓の外を見たり、連れと会話をしたり、本を読んだり、弁当を食べたり。それぞれの旅の最後を満喫している。
誰が見たってファイは居眠りをして隣の『友人』にもたれかかっているようにしか見えなくて、でも、二人にとっては恋人同士の戯れで。
黒鋼が、小さくふっと笑う気配にファイも口元を緩めた。
大きな身体に身を預けながら、楽しかった数日間に思いを馳せる。
本当に来てよかった。この国に、また大切な人たちができた。
窓の外は、来たときと同じように、空が青く晴れ渡っていた。
車窓を流れゆく景色は自然豊かで、まだ十分に故郷の名残を残している。これがいずれ立ち並ぶビル群に移り変わる頃、二人は日常へと帰ってゆく。
「また来ようね。絶対」
心地いい揺れと、ほどよい満腹感。寄り添うだけで満たされる安堵感に、ゆっくりと砂糖が溶けてゆくような静かさで眠気が押し寄せてくる。
そうだな、という囁くような声が金色の髪に押し付けられると、ファイはそっと目を閉じた。
←戻る ・ Wavebox👏
それはまだ年が明けて間もない頃の、肌寒い夜のことだった。
「はーい次オレオレー! オレの番ねー!」
時刻は丑三つ時、真っ只中。
暗い部屋の中央のテーブルに、蝋燭が一本だけ立っている、そんな空間に似つかわしくない陽気な声を上げるファイ。
「あのねー、これはオレの友達の友達の親戚の、そのまた友達のおばあちゃんの女学生時代の友達のお母さんが体験した話なんだけど」
遠いなオイ……という突っ込みを入れたくてウズウズしている黒鋼を余所に、ファイは上機嫌で怪談話を始める。
終始無言で腕組みをする黒鋼の横で、ユゥイが「へぇ」とか「ふぅん」とか、いちいち相槌を打っていた。
一体これで何話目だろうか。
夕飯後、唐突に「冬こそ怪談だー!」と一人勝手に盛り上がりだしたファイによって、なぜか百物語的なものに付き合わされている。
流石に百本の蝋燭は用意できなかったので、有り合わせの一本だけだが。
「でね、朝目が覚めたら、天井にいっぱい手形がついてたんだってー!」
「へぇ。じゃあ掃除するのが大変だったろうね。ちゃんと綺麗に落とせたのかな?」
「気にするとこ違うんじゃねぇか……?」
のほーんとしたユゥイの反応に堪らず突っ込みを入れる。始まってからずっとこの調子だった。
そもそもニコニコ顔で怪談話をする兄もどうかと思うが、全く同じ笑顔で聞き入る弟もどうかと思う。(しかも反応する場所があきらかにズレてる)
興味のない振りでその実ちゃっかり耳を傾ける黒鋼にしてみれば、そこそこ背筋にゾッと来るような内容だったのだが。
「ユゥイも黒様先生も、もっと怖がってよー! 特に黒様先生は軽く失禁くらいしてくんなきゃつまんなーい」
「するか! くだらねぇ!」
「そうだよファイ。そんなことされたら絨毯を取り変えなくちゃいけなくなるよ」
「でもさー、将来的にはオレ、黒様の下の世話もする気満々だから、今から練習しておきたいんだよー。すでにオムツとか屎尿瓶もネットで購入済みだし」
「でも絨毯が……」
「おまえら……」
二人まとめて本気で顔の形が変わるまで殴りつけたい……と拳を震わせる。
だが、下の世話云々の下りにはちょっと感動している黒鋼。そのせいでオムツと屎尿瓶に突っ込むのを忘れた。
「うーん。どうすれば二人とも怖がるかなぁ……そろそろお話のストック尽きてきちゃったよー」
決して怖くないわけではない。中には『それ洒落にならねぇだろ』と思わざるをえない話も幾つかあった。
だが顔に出さないだけだ。ただでさえ平気な顔した双子に挟まれて、自分一人がビビっていると思われるのは癪だった。
そもそも実態の掴めない存在というものは性質が悪い。腹が立っても殴れないではないか。
「だったらもうお開きでいいんじゃねぇか?」
「ねぇねぇユゥイー。次はどんな話がいいー? 人形系? あ、幽体離脱の話とかは?」
余裕でストックあるじゃねぇか……しかも無視か……と密かに傷つく黒鋼を他所に、ユゥイはやんわりとした笑顔を崩さず「うーん」と小さく唸った。
「話はどれも面白いけど……幽霊話って実はどれもピンと来ないんだよね」
「ふぅん? じゃあユゥイは何が怖いのー?」
「そうだね……人間、かな……」
「え?」
「結局、生きてる人間が一番怖いと、ボクは思うな……」
フッ……と翳りのある笑みを浮かべるユゥイ。蝋燭だけの仄暗い空間に、その言葉はどこか重い。
彼に一体なにがあったのだろう。女か? 女関係か?
黒鋼の野生の勘が、詳しく聞けば本気で失禁しかねないぞ、と告げているので訊ねるのは止めておいた。
「そっかー。確かにそれは頷けるかもー。オレだってもし黒様がどっかのメス豚と浮気なんかしたら、細切れ
にしても気が済まないと思うしー」
おまえは愛が重い……。
「そういやぁ……」
黒鋼はそのとき、なぜかふといつだったか聞いたことのある噂話を思い出した。
「幽霊でも人間でもねぇが、エグい話があったな……」
「え!? なになに!? グロ!? グロなの!?」
ファイがテーブルに両手をついて身を乗り出す。その目が期待にキラキラしているのを見て、黒鋼は仕方なく話して聞かせることにした。
「ちょっと聞きかじった程度で、よくは知らねぇが……。確かえらく大昔の話だったか……」
それは、人里離れた山間部の小さな村が、体長2メートルを優に超える巨大なヒグマに襲われ、ほぼ壊滅状態に陥ったという話。
今のようにまともな通信手段もなければ車もなく、助けを呼ぶこともままならない中、一人、また一人と、村人たちはヒグマによってなす術もなく喰い荒されたと言う。
やがて町の討伐隊によって仕留められたヒグマの腹を裂くと、喰われた人間のものと思しき着物の切れ端や帯、髪の毛が次から次へと出てきたそうだ。
「クマってのは、一度目をつけた獲物にはとことん執着するらしいぜ。人間の味をしめて、しつこく襲って……って、おい、なんだよ……?」
気がつけば、室内がしんと静まり返っていた。
さっきまでバリバリの怪談話に花を咲かせていたファイですら、無言で『つつつ……』とこちらに身を寄せてくると、ぎゅっと腕を組んでくる。
「そ、それ……下手するとお化けよりずっと怖い……」
お? これはなかなか新鮮でいい反応だ……。
普段は幽霊だろうがゴキブリだろうが雷親父だろうが楽しげに飄々としている化学教師が、今は背筋を震わせながらしがみついているのだ。なかなか可愛げがあるではないか。
「ユゥイー、今だけ特別ユゥイも一秒五千円で黒たん先生にくっついてもいいよ……ってユゥイ? どうしたの? ユゥイ?」
見ると、ユゥイは相変わらずにこやかな顔をして動かない。
「おい」
思わず気になって手を伸ばし、その肩を指先でつつくと……。
ゴロン、と座っていた体勢のまま、ユゥイが床に転がった。
「うわあぁぁぁユゥイー!? 黒様のせいでユゥイが笑顔のまま気を失ったー!!!」
あわあわと騒ぎ出すファイを余所に、これまた意外な展開に黒鋼はただ戸惑うばかりだった。
*
と、いうひと騒動から半年近くが過ぎようとしていた。
季節はじきに夏へと差し掛かろうという、梅雨入り直前。
黒鋼の目の前で、ファイが難しい顔をして唸っている。
「なんなんだよ、わざわざ呼び出しやがって」
黒鋼は休み時間の合間を縫って、化学準備室に呼び出されていた。
次の枠に授業はないものの、それなりにすることはある。くだらないことに時間を割いている余裕はないのだが。
キャスター付きの椅子にどっかりと腰掛ける黒鋼の視線は、行儀悪く机に腰掛けて腕組みをするファイに真っすぐ向けられていた。
「ねぇ先生。ちょっと前に、怪談話した夜のこと、覚えてる?」
「あ? あのてめぇの弟が失神したあんときか」
「そう、それ」
切り出されるまでとっくに忘れ去っていた。なにしろ半年近くも前の話である。それが今更どうしたというのか。
今のファイにはいつものお祭りムードの騒がしさはなく、どこか真剣で思いつめた表情をしていた。
どうもただならぬ空気を感じて、黒鋼は大人しく話を聞いてやることにした。
「実はあれ以来ね……」
あれからというもの、ユゥイはすっかり『クマ』に拒絶反応を示すようになったらしい。
たまたまテレビで動物番組がやっていても、クマが映されるだけでチャンネルを変え、以前はよくクマの形のクッキーやドーナツやパンケーキを焼いてくれたのに、今はそれが全くない。
「……それ、てめぇが単にクマ型のパンケーキ食いてぇだけだろ」
「べ、別に……オレはウサギさんでも満足してるもーんだ……」
なるほど、クマ型からウサギ型にシフトしたんだな……。
凄くどうでもいい話に、黒鋼は一瞬にして冷めた。そして「くだらねぇ」と吐き捨てて立ち上がろうとする。
「待ってよー! こんなのまだまだ序の口なんだからー!」
「どうせゲームセンター辺りで取って来たクマの縫いぐるみ捨てられたとか、糞みてぇにどうでもいい話だろ。付き合いきれねぇ」
「なんで解ったのー!? 愛!? 愛なの!?」
瞳を輝かせるファイ。さらに膝に乗り上げるようにしてしがみついてくるものだから、より鬱陶しさに磨きがかかる。
そろそろ黄金の拳の出番か……と密かに左手をニギニギしていると、子供のように頬を膨らませたファイが愚痴りはじめる。
「あのリ●ックマ取るのに何千円かけたと思ってるのさ……それをオレが寝てる間にガムテープで簀巻きにして生ごみの袋に放り込むなんて、悪魔の所業としか思えない暴挙だよー……」
「……ふむ」
この男の主張は、ズバリくだらない。
だが、流石の黒鋼もそれは確かに重症な気がしはじめる。まさかそこまでトラウマになるというのは予想外だった。
どうやらあのヒグマトークは、ユゥイの中の恐怖のツボを酷く刺激してしまったようだ。
そしてそれは、あのとき何気なく話題を提供した自分に責がある、ような気がする。
どうしたものか……と、この隙に乗じてこちらに頬擦りしたり髪の毛をクシャクシャと乱してキャッキャしている化学教師を無視していると、彼は黒鋼の目の前にピンと人差し指を立てた。
「あのねー、実はそのことですっごい名案が浮かんだんだー」
「……」
にんまりとした笑顔は、妙な恐怖症にかかっている弟の身を案じている、というよりは、悪戯でも仕掛けてやろうとしている子供のような、性質の悪い顔にしか見えない。
なにやら物凄く面倒なことになりそうな、そんな予感に黒鋼は顔を顰めた。
*
広大な学園都市の外縁部に位置する場所には、長閑な住宅地が広がっていた。
公園なども多く、豊かな自然が多く残されている。
「天気もいいし緑も多いし、絶好の行楽日和って感じだねー」
のんびりと車を走らせること数十分。
ピクニックという名目で3人はここまでやって来た。
運転する黒鋼の隣でファイがのほほんとした口調で言うと、後部座席にいるユゥイが「そうだね」と返す。
「でもよかったのかな? ボクはお邪魔だったんじゃない? ねぇ、黒鋼先生」
「なんで俺に聞くんだよ」
「そうだよー。三人でお出かけってなかなか機会ないしー。ねぇ黒たん先生」
「だから俺に話を振るな」
「なんでー?」
ハンドルを操作しつつ、黒鋼は横目で白々しい化学教師を睨みつける。
バックミラー越しに見るユゥイは、それでもまだ遠慮がちに苦笑していた。
本当なら言ってやりたい。今日の主役はてめぇだと。
いくら自分がした話がキッカケとはいえ、黒鋼とてこんな大掛かりなことになるとは、夢にも思っていなかった。
それもこれも、全て横にいるアホのせいだ。
黒鋼は、腹立たしさを覚えつつ昨晩の出来ごとを思い出していた。
*
「ねぇ知ってる? 恐怖症の中には、ごく普通に生活してるオレ達には想像も及ばないようなものが、実際にあるんだよ」
生徒たちはもちろんのこと、ほとんどの教師たちも帰宅してしまった夜の校内。
作戦会議と称して化学準備室に再び呼び出された黒鋼の目の前に、長い脚を優雅に組んだファイが椅子に腰かけている。
「例えばピエロを極度に恐れる道化恐怖症なんてのもあるし、ボタノフォビアと呼ばれる植物恐怖症。水を恐れる水恐怖症……。狂犬病の特徴に怖水症があるけど、これはウィルス感染によるものだから、原因はハッキリしてるよね」
「原因、て。どうせガキの頃のトラウマとか、ほとんどの場合はそんなもんだろ」
「それがねぇ、明確な理由もなく発症するケースって、案外少なくないんだよ。まぁ今回のユゥイの件に関しては、原因は明らかなわけだけど……」
突かれると痛い部分だったので、思わず目を逸らす。
初めてファイからその話を聞いたときは、まだ半信半疑だった。
そこで試しに今日の昼休みに、校庭脇のベンチで昼食をとっていた際に、何気なく空を見上げながら「あの雲、クマの形してるぜ」と話題を振ってみた。
するとユゥイは手を滑らせ、熱々の緑茶が入ったステンレスマグを引っくり返した。黒鋼の膝に。 (凄く熱かった……)
これは本物だ……と確信した瞬間だった。
何がトラウマになるのか、理由があるにしろないにしろ人それぞれなら、何を恐れるかという恐怖のツボも、人それぞれなのだ。
確かに、どんなに完璧な人間だって、一つくらい弱点はあるだろう。
それにしても……と、壁に背を預け、腕組みをしつつ真剣に語るファイの様子を見て、黒鋼は思った。
今のファイは、まるで学校の先生のようだ……と。
普段はふにゃふにゃのアホアホな発言や行動が目立つ彼が、たまにこうしてまともな話をしているのを見ると、ギャップを感じて思わず感心してしまう。
べ、別に惚れ直してなんかいないんだからね、と内心ツンツンしている黒鋼だったが、いよいよ先刻から気になって仕方がなかったファイの身なりに、我慢の限界がきた。
「なぁ」
「ん?」
「ひとついいか?」
「なんでしょうー?」
「てめぇのその格好はなんだ……?」
「あ、これ?」

「はちみつ大好きなクマさんだよー」
椅子から立ち上がったファイは、くるりと一つ回転して見せた。
「可愛いでしょー?」
「アホだろてめぇ! なんで着ぐるみなんか着てんだって話だ!」
黒鋼が化学準備室に足を踏み入れた瞬間から、彼はすでにこのふざけた気ぐるみを纏っていた。
一瞬誰かわからず絶句してしまったこちらの身にもなって欲しい。が、すぐにこんなアホな真似をする人間はたった一人しかいないことを思いだし、無視していたのだが。
「やっと突っ込んでくれたねー。待ちわびたよー。これでユゥイを脅かして、ショック療法なんてどうかなーって。ねぇ、どう? 似合ってる?」
まぁそんなところだろうと薄々感づいてはいたが、だんだん頭が痛くなってきた。思わず額を抑えながら溜息を零す。
「似合う似合わないの問題じゃねぇ……とりあえずその着ぐるみは特大NGだろ……」
「えー? ダメー?」
不満そうな声を漏らすファイだが、表情は一切見えないので少し不気味である。
彼はしょうがないなぁ、と呟くと衝立の向こうに消えていった。
ゴソゴソと音がして、着替えているのがわかる。暫し待つ。
すると今度は。
「これならどうかなー?」

のっそり……
「!?」
そこには完全なクマがいた。
「てめぇそれ着ぐるみの域越えてんじゃねぇか!! 中身どうなってんだ今!?」
「え? そんなに完成度高い? やっぱりオレって才能あるなー」
「手作り!? その着ぐる……いや、クマはてめぇの手作りか!?」
「質感にこだわってみましたー」
そのハリウッドばりの技術と熱意をもっと他に生かす場所はなかったのか。ショック療法という名のドッキリ作戦のためだけに本気を出すのはやめてほしい。
それにしてもこれではユゥイでなくとも、誰だって腰を抜かすのではないか。流石の黒鋼も失禁……まではいかないが、正直ちょっとビビった。と、いうか普通に怖い。
「それだけはよせ! やめとけ! おまえがあの弟を愛してるなら、マジでやめとけ!」

「いいから脱げーー!!!」
リアルクマに飛びかかり表面を剥がそうとすると、クマ(ファイ)は激しく暴れた。
「イヤ! やめてこんなところで! 脱がすならベッドの上にして!」
「気色悪ぃこと言ってんじゃねぇ!! 腹かっ捌くぞ!!」
「奥の奥まで犯されるー!!」
「ド阿保!!!」
見た目はリアルなクマでも、所詮中身は非力な化学教師であることに代わりはなく、その後ファイはあっけなく剥かれた。
そして結局……。

見るもファンシーなクマに落ち着くことになった。
ファイは少し不満そうだったが、これなら誰でもただの着ぐるみだと判るだろう。
作戦としては、どこか自然豊かな山か森のような場所に当たりをつけて、そこにユゥイを呼び出し、驚かせよう……というものだった。
『驚かせよう』と言いきっている時点で、もはや治療という本来の目的から遠ざかっている気がするが、状況は違えども実際に似たような治療方法は存在するらしい。
例えば高所恐怖症の人間に、ひたすら高所から下を見下ろす映像を見せ続け、慣れさせていくことで恐怖を緩和させていく、というものらしいが、ファイの楽しげな様子を見ていると、完全にただのこじつけに思えてならない黒鋼だった……。
*
と、黒鋼が昨夜の回想に耽っている間に、目的の場所に辿り着いた。
そこは住宅地から外れた一角にある、大きな自然公園の駐車場だった。
小高い山は散歩コースになっているらしい。遠目から見ても丸太で出来た柵が小道沿いに連なっているのがわかった。
おそらくあそこが作戦の舞台になるのだろう……。
ここまで来ておいてなんだが、本気でやるのか……とファイを横目で見ると、彼はなぜか屈みこみ、口元を押さえて震えていた。
「うぅ……」
「ど、どうしたのファイ? 具合でも悪いの?」
後部座席から顔を出したユゥイが、心配そうにファイを覗き込む。
ファイは額に汗をにじませ、青白い顔を上げると頼りなげに微笑んだ。
女優だ……女優がいる……。
「うん……ちょっと、車酔いしたのかもしれない……少し休めば大丈夫だと思う……」
「でも……」
「せっかくだし、ユゥイと黒様先生は先に行ってて。よくなったらすぐに行くから」
ユゥイは困り顔で黒鋼に目を合わせてきた。
彼としては、調子の悪いファイを置いて先に行くなんて真似は考えられないのだろう。
よし、じゃあ今ここで弁当だけ食って家に帰ろう……と言いたかったが、ここまで来たら後戻りはできない。
チラチラとこちらに目配せしてくるファイにイラッとしつつ、シナリオ通りの台詞を口にする。
「せ っ か く 来 た ん だ。 先 に 行 っ て よ う ぜ」 (棒読み)
「でもファイが……」
「ホントに大丈夫だよー。お兄ちゃんすぐに追いかけるからー。ね?」
「……うん……」
渋々といった具合で頷くユゥイを見て、そういえば双子といえども、一応はファイの方が兄貴だったことを思い出す。
お兄ちゃん、という言葉をファイ自身が口にしたことで、なんだかんだで素直なユゥイはどうにか納得したらしい。
「そ れ じ ゃ あ 行 こ う ぜ」 (棒読み)
弁当の入ったバッグを担いで先に車を降りた黒鋼に続いて、ユゥイもドアを開ける。
二人並んで歩きながらも、ユゥイは幾度も車の中のファイを心配そうに振り返っていた。
*
木漏れ日の射す、森の散歩道。
初夏の風と小鳥のさえずりの中、黒鋼とユゥイはほとんど会話もなくコースを散策していた。
なぜこんな茶番に付き合わされているのだろう。
基本的に、人ひとりの生涯で巨大なクマに遭遇する確率というのは、如何ほどのものなのだろうか。少なくともアウトドアが趣味でもなければ、山奥に暮らす予定もない黒鋼のような人間にとっては、ほぼ0に近いのではないか。
たかだか縫いぐるみを捨てられるとか、クマ型の菓子類が食えないとか、そんなことは校庭の隅っこに生える雑草で羽を休めるハエ以上にどうでもいい話だ。
それでも律儀に付き合ってやっているのは、やはりユゥイに対して申し訳ない気持ちがあるから、なのかもしれない。
そこで黒鋼はハッとした。
申し訳ないと感じているなら、なぜ自分はこんなくだらないドッキリ作戦に参加しているのか。
ファイはアホなので、アホみたいな悪戯をアホの如く実行に移してしまうのは仕方がないとして、自分のキャラクターはそんなアホの悪行を、拳で止めるのが役目だったのではなかったか。
(なにやってんだ俺は……)
今更になって自分の方向性を見失っていたことに気づいても、もう遅い。今頃ファイは着々と準備を進めている頃だろう。
そうだ。何にしろ、奴がえらく楽しそうだったのが全ていけない。
あまりにウキウキとして、まるで本当にピクニックにでも出かけるような空気を出しているものだから、ついそんな様が微笑ましくて……。
(あーっ! ちくしょう!!)
ユゥイはよほどファイが気になるのか、時おり背後を気にしている。
だが、黒鋼が思い切り顔色を損ねていることに気がついて、顔を覗き込んできた。
「もしかして、黒鋼先生も体調が優れませんか?」
「あ? なんだ? なにか言ったか?」
まるで聞こえていなかった黒鋼の反応を見て、ユゥイは小さくクスリと笑った。
「なんだよ」
「いえ、やっぱりファイがいないと退屈なのかと思って」
「!?」
「黒鋼先生はなんだかんだ言って、ファイのことで頭がいっぱいですよね」
「!?」
なぜか否定できなかった。なんと言っても、今まさに黒鋼の頭はファイのことでパンクしそうになっていたからだ。
決してユゥイが微笑ましげに語るような、甘ったるい意味だけではないのが残念なところなのだが……。
「それにしてもファイは大丈夫なのかな。なんだか様子が妙でしたよね」
「……あいつが妙なのはいつものこったろ」
「いえ……ああいうときのファイって、必ず何か企んで」
「しかしあれだな、いい天気だな」
咄嗟にユゥイの言葉にかぶせて話題を逸らす。
何もここでバラしたところで罰は当たらない……というより、むしろファイに罰が下るだけで黒鋼的に問題はないはずなのだが。
反射的に庇う真似をしてしまったことに頭を抱えたくなる。
これら全てを惚れた弱みと呼ぶのなら、奴に惹かれてしまった自分の好みを呪いたい……。
ユゥイは少し不思議そうにしながらも「そうですね」とのんびり返してくる。
黒鋼としては、あんな残念な男でも一応は恋仲であり、自分なりに大切にしているつもりなのだ。
そして今、すぐ隣を歩く男はそれと同じ顔の造りをしているわけで、そんな相手を騙しているのだと思うと、それなりに罪悪感は拭えない。
そうだ、自分にも非があるのだと認めているのなら、せめて謝罪くらいはしておくか……。
「おい」
「はい?」
「奴から聞いた。俺が妙な話しちまったせいで、なんかえらいことになってるってな」
ユゥイは微かに眉をひそめ、そして足を止めた。
木の柵に手をつくと俯いて「いいえ」と首を振る。
「あのときは、ちょっと子供の頃の嫌なことを思い出してしまって……」
「ガキの頃?」
演技ではなく正真正銘、顔色を悪くしているユゥイが力なく笑う。
「……詳しく聞いてもいいか?」
「そうですね……」
遠くの空に瞳を眇めながら、ユゥイが語りだした。
「まだボクらが小さかった頃。ファイはよく寝る前に、ボクに色々なお伽噺を聞かせてくれました」
「ほう?」
あいつもあいつなりに、兄貴らしいことをしてきたんだな……と感心する。
以前、二人が子供の頃のアルバムを見せてもらったことがあったが、はっきり言ってそれこそ頭からかぶりつきたくなるくらい可愛らしかった。(口に出しては言わなかったが)
「それが、ファイなりに色々と脚色してあって……」
「ふむ……」
ただ童話の類を聞かせるだけでなく、自分なりに想像力を働かせてアレンジしていたのか。弟のためにそこまでするなんて、なんと心優しく聡明なお子さんだ。それがどうしてああなった……。
だがユゥイの表情はさらに曇っていく。
「なんと言うか……いちいち描写が詳細というか、グロテスクというか……絵本には描かれていない現実を、まざまざと見せつけられるような……」
「……あ?」
例えば赤ずきんの話。
おばあさんや赤ずきんが狼に食べられるシーンでは、肉や骨を噛み砕き、中から引きずりだした内臓の細部やら、赤黒い血液が壁一面に飛び散る場面などを、まるで実際に現場を見てきたかの如くリアルに話して聞かせられたらしい。
しかも最終的には狼はただ猟師に撃たれ、赤ずきんとおばあさんが救われるオチは、当然ながら揉み消されていた……。
「なぁそれってつまり……」
本当は怖い童話
ってやつではないのか……?
「幼いボクには刺激が強すぎました……眠る、というよりは、いつも途中で気を失っていただけでした……」
どこかやさグレた、力ない笑顔で、ユゥイは長年の胸の痞えを吐きだしたかのような溜息を零した。
「普段は忘れていられました……だけど、あの夜は部屋も暗かったし、状況が似ていたので、ついフラッシュバックのようなものを起こしてしまって……」
点と点が繋がったような気がした。
つまり、だ。
元を正せば彼がおかしな恐怖症を患ったのも、こんな茶番劇が繰り広げられているのも、全ての元凶は……。
「あんの野郎~~~っ!!!」
咄嗟に握った拳を、すぐ傍の大木に打ちつけていた。
ズドン、という音がして、枝が激しくざわめき、鳥たちが飛び立っていく。これが夏の真っ盛りだったら、カブトムシやクワガタの一匹や二匹くらいは落ちてきたかもしれない。
「黒鋼先生がそこまで怒らなくても……ファイはちょっと変わった子でしたけど、このトラウマはいまだに引きずっているボクの問題で……」
「てめぇだけの問題じゃねぇ!! 現に俺はあのアホのせいでわざわざこんな場所まで……っ」
「え……?」
ユゥイは、信じられないものを見る目で黒鋼の方を見た。
「だから、これはあの馬鹿が全部仕組んだくだらねぇドッキリ企画で、てめぇを怖がらせるためにだな……って、聞いてんのかこら!!」
「あ……」
ついに完全に顔面蒼白になっているユゥイは、震える指で黒鋼の方を指さしている。
だが、その表情も指先も、こちらに向けられているようでいて、実は違っていた。それはどちらも黒鋼を通り越して、後方へと向けられていたのだ。
「!?」
あの馬鹿がもう来たのか!? と、咄嗟に振り返る。
そこには……。

見事にリアリティ溢れるクマが、二人の視界の数メートル先にいた。
「こらてめぇ!! 全部聞いたぞ!! だいたいそのリアルな方の着ぐるみはよせってあれほど言ったろうが!!」

クマはいきなりこちらに向かって怒鳴りだした人間を見て、首を傾げている。
なんという白々しい演技だろう。明かされた事実も相まって、黒鋼はブチ切れた。
ボッコボコにするために飛びかかって行こうとしたその瞬間、背後から羽交い絞めにされる。
「!?」
見れば、相手は必死な形相のユゥイだった。
「おい……なんのつもりだ……?」
「食べるならこの黒い人を食べてください!!」
「あぁ!? 俺は生贄か!? この野郎なに考えて……っ」
「大丈夫……ファイは一生ボクが大切に面倒を見ていくので、黒鋼先生はここで大人しく」
「できるか!!」
「ファイの老後の下の世話もちゃんとしますから!!」
「てめ、マジふざけんじゃねぇってか、何だこの火事場の馬鹿力!?」
この自分がどんなに力を振り絞っても身動き一つ出来ないのだ。彼の細腕のどこにこれほどの力が眠っていたのか……。
そしてユゥイの中で完全に黒鋼は『捕食される側』として食物連鎖のピラミッドに組み込まれているこの事実。
とは言ってもあのクマの中身はファイなのだから、何もこんなに激しく揉み合うこともないのだが……と、思っていると、二人の後方から声がした。
「あれ!? ちょっとー、なに二人でくっついてんのさー!!」
「「!?」」
そこにいたのはファンシーなクマの着ぐるみ男だった。

その可愛らしいクマは、くっついて硬直している二人を見て酷く憤慨しているらしく、飛び跳ねて地団太を踏んでいる。
「駄目だよユゥイったらー!! しかもその体勢から察するに黒様が下なの!? ちょ、ダメダメ絶対に駄目ーっ!! 黒様の初めてはオレが狙ってるんだからー!!」
おまえ受のくせしてなんてもの狙ってやがる!?
などと突っ込みを入れる余裕など、微塵もない。
黒鋼はリアルな方とファンシーな方のクマを交互に見やった。
そしてふと一連の不自然さに気がつく。
そうだ、リアルなクマがいるのは黒鋼とユゥイが向かっていた方向であり、ファイは後から追いかけてくる手筈になっていた。
ファイが自分たちの前方から来ようと思えば、全力で山を迂回して、道なき道を突き進み、この遊歩道に入って来るしかなかったはず。
このへなちょこ化学教師に、それだけの気力と体力があるとは到底思えない。そんな簡単なことに、なぜ気がつかなかったのだろう……。
「……マジもんだ、ありゃあ……」
その瞬間、黒鋼の背後からユゥイが遠ざかる。
「おい……っ!?」
腕を引く間もなく、彼は地面にバッタリと倒れて気を失っていた……。
流石のファイも転びそうになりながら駆け寄って来た。そしてようやく彼も状況を飲み込んだ。
ユゥイの傍にしゃがみこみ、視線は数メートル先へ向けられている。
おそらく凍りついた表情をしてるのだろうが、着ぐるみのせいで読み取ることは出来ない。
「……ねぇ黒様……オレたち以外に、助っ人なんていたっけ……?」
「いるわけねぇだろ……ありゃあ正真正銘、リアルの方だ……」

こちらを注意深く窺いながら、クマがゆっくりと近づいてきた。
「逃げるぞ!!」
この距離で果たして逃げ切れるかはわからない。だが、最悪ファイとユゥイの二人だけでも、無事に逃がしてやらなければ。
即座に決意して、ユゥイを担ぎあげるために咄嗟に腕を伸ばそうとした、その瞬間、なぜか黒鋼は、再びとてつもない力によって羽交い絞めにされていた……。
「なっ!?」
「ギャアーーッ!! ごめんなさいごめんなさいオレなんか食べるとこないから美味しくないよーっ!! 食べるならこの極上の筋肉を!!」
「てめぇーー!? 揃いも揃って俺を人柱に捧げんじゃねぇー!!!」
「オレと黒様の愛は永遠に不滅だよ!! 会えなくなっても、ずっと愛してる!!!」
「破局だ破局!! てめぇとなんかやってられっか!!!」
一瞬でも身を犠牲にして守り抜こうとした決意を返せ……。
揉み合う二人に、ついに巨大なクマが雄たけびを上げて、襲いかかろうとした。その一瞬がまるでスローモーションのように黒鋼の目に映る。
(でけぇ……!!)
黒鋼と同等か、あるいはそれ以上かもしれない。二本足で立ちあがったクマの影が、二人をすっぽりと包みこむ。
咄嗟に、黒鋼はファイ(着ぐるみ)を抱き込んで背を向けた。
頭の中を行き来するのは、これまでの人生の走馬灯。
ごく平凡な家庭に育ち、多少のヤンチャはしたかもしれないが、真っ当な青春時代を過ごして教師になった。
そこでこの腕の中の男(着ぐるみ)と出会った。
出会って、なぜか惹かれてしまった。
時にはちょっとした擦れ違いから言い合うこともあったし、寂しい思いをさせたこともある。幾度ゲンコツを食らわせて昏倒させたかも解らない。
それでもいつでも笑顔を絶やさないファイ(着ぐるみ)を愛していた。
突っ込みどころ満載な仲間達に囲まれて、傍にはファイ(着ぐるみ)もいて、毎日が一瞬の光のように感じられていたのはきっと、それほどまでに満ち足りた日々だったことの、何よりの証に思えた。
(ちと短かったが……悪くない人生だったぜ……)
目を閉じて、覚悟を決める。
だが、衝撃はいつまで経っても訪れない。
「…………?」
代わりに、ドォンという何かが激しくぶつかるような衝撃音がした。それからすぐに、バキバキという音が立て続けに聞こえて、黒鋼とファイの二人は目を見開いてその方向を凝視する。(ファイは着ぐるみなので表情は謎だが)
「……ほへ?」
ファイが間抜けな声を上げた。二人の何メートルも先の山の斜面の一角の木々が、綺麗に薙ぎ倒されている。
その中心にはピクリとも動かないクマが、腹を見せて倒れていた。泡を噴いているところを見ると、完全に意識を失っているようだ。辺りにもうもうと土埃が立ち込めている。
「……何が起きた……?」
「ゆ、ユゥイ……?」
ファイの茫然とした呟きに、黒鋼も目を向ける。
そこには、ゆらりと立ち上がったユゥイが、肩で息をしている姿があった。
「ふふ……あはは……」
低い声で、彼は笑い声を上げた。その表情は前髪に隠れてよくは見えない。
「人間……死ぬ気でかかれば出来ないことはないんだね……」
「お、おい……おまえまさか……あれを……」
投げたのか……。
あの状況では、死ぬ気でかかっても生還できる確率は限りなく低く思えるのだが。
これが本当の火事場の馬鹿力というやつなのか。
「さてと……」
どこか禍々しいオーラを放つユゥイが、ゆっくりとこちらに向けて歩いてくる。
極限状態のせいか、足を縺れさせて近づいてくる身体は時折ガクンと左右に傾き、まるでテレビのブラウン管の中から物理的な概念を捻じ曲げて這い出して来た、あの超有名人のようになっていた。(主な生息地:井戸)
「ここにもまだ一匹、可愛い小熊がいるね……?
」
「ヒッ!? ゆ、ユゥイ? ユゥイちゃん? オレだよ、ほら、この頭のやつを取れば……って、あ、あれ? 取れない……?」
黒鋼の腕の中から飛び出したファイが、必死で着ぐるみの頭の部分を引っこ抜こうとしてもがいている。設計ミスだろうか。
「!?」
あはは……と笑いながら距離を縮めてくるユゥイを見て、黒鋼は彼があの夜、しみじみと呟いていた言葉を思い出していた。
『結局、生きてる人間が一番怖いと、ボクは思うな……』
なるほど、こういうことか……と、妙に納得している間に、ユゥイによって華麗に背負い投げされたファンシーなクマの悲鳴が、小高い山の中に響き渡った……。
*
あ、死んだ……と思ったファイは生きていた。
そして適当な枝の棒きれをついて、腰の曲がった老人のようにヨロヨロしながら背後をついてくる。
投げ飛ばされ、なぜかキリモミ状に吹っ飛んだ拍子に頭の部分だけは無事に取れていた。
季節は初夏である。風通し最悪の着ぐるみ姿のファイは、顔を真っ赤にして少しのぼせているようだった。ご利用は計画的に……。
「あのぉ~……黒たん先生……オレもおぶってほしいんだけど~……」
「定員オーバーだ」
黒鋼の背中には、ぐったりと気を失うユゥイが背負われ、気を失っている。
彼はファイを投げ飛ばしたあと「勝った……」という呟きを最後に、再び地に伏した。
果たして彼が勝利したのは、クマという存在に対してなのだろうか。黒鋼には、ユゥイが抱えていた深いトラウマのことのように思えてならなかった。
「これアバラの一本や二本は確実に行ってる気がする……」
それに関しては自業自得としか言いようがない。
「なんにしろ、一件落着だな……」
「無視しないでよーっ」
うわあぁぁぁ……と泣きべそをかくファイを、それでも「頑張れ」と励ましてやりながら、妙に長く感じる山の散歩コースを歩いて下山した。
*
翌日、気を失った巨大熊が捕獲されたという記事が、新聞の見出しを飾った。
クマは動物園に送られ、飼育される運びとなったらしい。
恐ろしい生き物ではあったが、決して罪はないぶん、殺されなかったことに少し安堵する。
ユゥイはその新聞の記事を見ながら「これってボクらが行った公園じゃない?」と目を丸くしていた。
彼は黒鋼と共に車を降りた辺りからの記憶が、スッポリと抜け落ちていいるらしい。
その横で、骨にはどこも異常のなかったファイが、ユゥイが焼いたパンケーキを頬張って幸せそうにしている。
日ごろから黒鋼の拳に鍛えられているせいか、頬に掠り傷を負った程度で頭にも異常はなかった。
そんなファイが美味そうに食べているパンケーキはクマの形。
弟はトラウマを克服できたらしいし、兄には多少はお灸をすえることが出来たし、晴れて丸く収まったことに安堵しながら、ほんの気まぐれで口に入れてみたパンケーキの甘さに咳込む黒鋼を見て、仲のいい双子が声を上げて笑った。
おしまい
素材・M/Y/D/S動物のイラスト集 いらすと や まぜわん。
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「はーい次オレオレー! オレの番ねー!」
時刻は丑三つ時、真っ只中。
暗い部屋の中央のテーブルに、蝋燭が一本だけ立っている、そんな空間に似つかわしくない陽気な声を上げるファイ。
「あのねー、これはオレの友達の友達の親戚の、そのまた友達のおばあちゃんの女学生時代の友達のお母さんが体験した話なんだけど」
遠いなオイ……という突っ込みを入れたくてウズウズしている黒鋼を余所に、ファイは上機嫌で怪談話を始める。
終始無言で腕組みをする黒鋼の横で、ユゥイが「へぇ」とか「ふぅん」とか、いちいち相槌を打っていた。
一体これで何話目だろうか。
夕飯後、唐突に「冬こそ怪談だー!」と一人勝手に盛り上がりだしたファイによって、なぜか百物語的なものに付き合わされている。
流石に百本の蝋燭は用意できなかったので、有り合わせの一本だけだが。
「でね、朝目が覚めたら、天井にいっぱい手形がついてたんだってー!」
「へぇ。じゃあ掃除するのが大変だったろうね。ちゃんと綺麗に落とせたのかな?」
「気にするとこ違うんじゃねぇか……?」
のほーんとしたユゥイの反応に堪らず突っ込みを入れる。始まってからずっとこの調子だった。
そもそもニコニコ顔で怪談話をする兄もどうかと思うが、全く同じ笑顔で聞き入る弟もどうかと思う。(しかも反応する場所があきらかにズレてる)
興味のない振りでその実ちゃっかり耳を傾ける黒鋼にしてみれば、そこそこ背筋にゾッと来るような内容だったのだが。
「ユゥイも黒様先生も、もっと怖がってよー! 特に黒様先生は軽く失禁くらいしてくんなきゃつまんなーい」
「するか! くだらねぇ!」
「そうだよファイ。そんなことされたら絨毯を取り変えなくちゃいけなくなるよ」
「でもさー、将来的にはオレ、黒様の下の世話もする気満々だから、今から練習しておきたいんだよー。すでにオムツとか屎尿瓶もネットで購入済みだし」
「でも絨毯が……」
「おまえら……」
二人まとめて本気で顔の形が変わるまで殴りつけたい……と拳を震わせる。
だが、下の世話云々の下りにはちょっと感動している黒鋼。そのせいでオムツと屎尿瓶に突っ込むのを忘れた。
「うーん。どうすれば二人とも怖がるかなぁ……そろそろお話のストック尽きてきちゃったよー」
決して怖くないわけではない。中には『それ洒落にならねぇだろ』と思わざるをえない話も幾つかあった。
だが顔に出さないだけだ。ただでさえ平気な顔した双子に挟まれて、自分一人がビビっていると思われるのは癪だった。
そもそも実態の掴めない存在というものは性質が悪い。腹が立っても殴れないではないか。
「だったらもうお開きでいいんじゃねぇか?」
「ねぇねぇユゥイー。次はどんな話がいいー? 人形系? あ、幽体離脱の話とかは?」
余裕でストックあるじゃねぇか……しかも無視か……と密かに傷つく黒鋼を他所に、ユゥイはやんわりとした笑顔を崩さず「うーん」と小さく唸った。
「話はどれも面白いけど……幽霊話って実はどれもピンと来ないんだよね」
「ふぅん? じゃあユゥイは何が怖いのー?」
「そうだね……人間、かな……」
「え?」
「結局、生きてる人間が一番怖いと、ボクは思うな……」
フッ……と翳りのある笑みを浮かべるユゥイ。蝋燭だけの仄暗い空間に、その言葉はどこか重い。
彼に一体なにがあったのだろう。女か? 女関係か?
黒鋼の野生の勘が、詳しく聞けば本気で失禁しかねないぞ、と告げているので訊ねるのは止めておいた。
「そっかー。確かにそれは頷けるかもー。オレだってもし黒様がどっかのメス豚と浮気なんかしたら、細切れ
おまえは愛が重い……。
「そういやぁ……」
黒鋼はそのとき、なぜかふといつだったか聞いたことのある噂話を思い出した。
「幽霊でも人間でもねぇが、エグい話があったな……」
「え!? なになに!? グロ!? グロなの!?」
ファイがテーブルに両手をついて身を乗り出す。その目が期待にキラキラしているのを見て、黒鋼は仕方なく話して聞かせることにした。
「ちょっと聞きかじった程度で、よくは知らねぇが……。確かえらく大昔の話だったか……」
それは、人里離れた山間部の小さな村が、体長2メートルを優に超える巨大なヒグマに襲われ、ほぼ壊滅状態に陥ったという話。
今のようにまともな通信手段もなければ車もなく、助けを呼ぶこともままならない中、一人、また一人と、村人たちはヒグマによってなす術もなく喰い荒されたと言う。
やがて町の討伐隊によって仕留められたヒグマの腹を裂くと、喰われた人間のものと思しき着物の切れ端や帯、髪の毛が次から次へと出てきたそうだ。
「クマってのは、一度目をつけた獲物にはとことん執着するらしいぜ。人間の味をしめて、しつこく襲って……って、おい、なんだよ……?」
気がつけば、室内がしんと静まり返っていた。
さっきまでバリバリの怪談話に花を咲かせていたファイですら、無言で『つつつ……』とこちらに身を寄せてくると、ぎゅっと腕を組んでくる。
「そ、それ……下手するとお化けよりずっと怖い……」
お? これはなかなか新鮮でいい反応だ……。
普段は幽霊だろうがゴキブリだろうが雷親父だろうが楽しげに飄々としている化学教師が、今は背筋を震わせながらしがみついているのだ。なかなか可愛げがあるではないか。
「ユゥイー、今だけ特別ユゥイも一秒五千円で黒たん先生にくっついてもいいよ……ってユゥイ? どうしたの? ユゥイ?」
見ると、ユゥイは相変わらずにこやかな顔をして動かない。
「おい」
思わず気になって手を伸ばし、その肩を指先でつつくと……。
ゴロン、と座っていた体勢のまま、ユゥイが床に転がった。
「うわあぁぁぁユゥイー!? 黒様のせいでユゥイが笑顔のまま気を失ったー!!!」
あわあわと騒ぎ出すファイを余所に、これまた意外な展開に黒鋼はただ戸惑うばかりだった。
*
と、いうひと騒動から半年近くが過ぎようとしていた。
季節はじきに夏へと差し掛かろうという、梅雨入り直前。
黒鋼の目の前で、ファイが難しい顔をして唸っている。
「なんなんだよ、わざわざ呼び出しやがって」
黒鋼は休み時間の合間を縫って、化学準備室に呼び出されていた。
次の枠に授業はないものの、それなりにすることはある。くだらないことに時間を割いている余裕はないのだが。
キャスター付きの椅子にどっかりと腰掛ける黒鋼の視線は、行儀悪く机に腰掛けて腕組みをするファイに真っすぐ向けられていた。
「ねぇ先生。ちょっと前に、怪談話した夜のこと、覚えてる?」
「あ? あのてめぇの弟が失神したあんときか」
「そう、それ」
切り出されるまでとっくに忘れ去っていた。なにしろ半年近くも前の話である。それが今更どうしたというのか。
今のファイにはいつものお祭りムードの騒がしさはなく、どこか真剣で思いつめた表情をしていた。
どうもただならぬ空気を感じて、黒鋼は大人しく話を聞いてやることにした。
「実はあれ以来ね……」
あれからというもの、ユゥイはすっかり『クマ』に拒絶反応を示すようになったらしい。
たまたまテレビで動物番組がやっていても、クマが映されるだけでチャンネルを変え、以前はよくクマの形のクッキーやドーナツやパンケーキを焼いてくれたのに、今はそれが全くない。
「……それ、てめぇが単にクマ型のパンケーキ食いてぇだけだろ」
「べ、別に……オレはウサギさんでも満足してるもーんだ……」
なるほど、クマ型からウサギ型にシフトしたんだな……。
凄くどうでもいい話に、黒鋼は一瞬にして冷めた。そして「くだらねぇ」と吐き捨てて立ち上がろうとする。
「待ってよー! こんなのまだまだ序の口なんだからー!」
「どうせゲームセンター辺りで取って来たクマの縫いぐるみ捨てられたとか、糞みてぇにどうでもいい話だろ。付き合いきれねぇ」
「なんで解ったのー!? 愛!? 愛なの!?」
瞳を輝かせるファイ。さらに膝に乗り上げるようにしてしがみついてくるものだから、より鬱陶しさに磨きがかかる。
そろそろ黄金の拳の出番か……と密かに左手をニギニギしていると、子供のように頬を膨らませたファイが愚痴りはじめる。
「あのリ●ックマ取るのに何千円かけたと思ってるのさ……それをオレが寝てる間にガムテープで簀巻きにして生ごみの袋に放り込むなんて、悪魔の所業としか思えない暴挙だよー……」
「……ふむ」
この男の主張は、ズバリくだらない。
だが、流石の黒鋼もそれは確かに重症な気がしはじめる。まさかそこまでトラウマになるというのは予想外だった。
どうやらあのヒグマトークは、ユゥイの中の恐怖のツボを酷く刺激してしまったようだ。
そしてそれは、あのとき何気なく話題を提供した自分に責がある、ような気がする。
どうしたものか……と、この隙に乗じてこちらに頬擦りしたり髪の毛をクシャクシャと乱してキャッキャしている化学教師を無視していると、彼は黒鋼の目の前にピンと人差し指を立てた。
「あのねー、実はそのことですっごい名案が浮かんだんだー」
「……」
にんまりとした笑顔は、妙な恐怖症にかかっている弟の身を案じている、というよりは、悪戯でも仕掛けてやろうとしている子供のような、性質の悪い顔にしか見えない。
なにやら物凄く面倒なことになりそうな、そんな予感に黒鋼は顔を顰めた。
*
広大な学園都市の外縁部に位置する場所には、長閑な住宅地が広がっていた。
公園なども多く、豊かな自然が多く残されている。
「天気もいいし緑も多いし、絶好の行楽日和って感じだねー」
のんびりと車を走らせること数十分。
ピクニックという名目で3人はここまでやって来た。
運転する黒鋼の隣でファイがのほほんとした口調で言うと、後部座席にいるユゥイが「そうだね」と返す。
「でもよかったのかな? ボクはお邪魔だったんじゃない? ねぇ、黒鋼先生」
「なんで俺に聞くんだよ」
「そうだよー。三人でお出かけってなかなか機会ないしー。ねぇ黒たん先生」
「だから俺に話を振るな」
「なんでー?」
ハンドルを操作しつつ、黒鋼は横目で白々しい化学教師を睨みつける。
バックミラー越しに見るユゥイは、それでもまだ遠慮がちに苦笑していた。
本当なら言ってやりたい。今日の主役はてめぇだと。
いくら自分がした話がキッカケとはいえ、黒鋼とてこんな大掛かりなことになるとは、夢にも思っていなかった。
それもこれも、全て横にいるアホのせいだ。
黒鋼は、腹立たしさを覚えつつ昨晩の出来ごとを思い出していた。
*
「ねぇ知ってる? 恐怖症の中には、ごく普通に生活してるオレ達には想像も及ばないようなものが、実際にあるんだよ」
生徒たちはもちろんのこと、ほとんどの教師たちも帰宅してしまった夜の校内。
作戦会議と称して化学準備室に再び呼び出された黒鋼の目の前に、長い脚を優雅に組んだファイが椅子に腰かけている。
「例えばピエロを極度に恐れる道化恐怖症なんてのもあるし、ボタノフォビアと呼ばれる植物恐怖症。水を恐れる水恐怖症……。狂犬病の特徴に怖水症があるけど、これはウィルス感染によるものだから、原因はハッキリしてるよね」
「原因、て。どうせガキの頃のトラウマとか、ほとんどの場合はそんなもんだろ」
「それがねぇ、明確な理由もなく発症するケースって、案外少なくないんだよ。まぁ今回のユゥイの件に関しては、原因は明らかなわけだけど……」
突かれると痛い部分だったので、思わず目を逸らす。
初めてファイからその話を聞いたときは、まだ半信半疑だった。
そこで試しに今日の昼休みに、校庭脇のベンチで昼食をとっていた際に、何気なく空を見上げながら「あの雲、クマの形してるぜ」と話題を振ってみた。
するとユゥイは手を滑らせ、熱々の緑茶が入ったステンレスマグを引っくり返した。黒鋼の膝に。 (凄く熱かった……)
これは本物だ……と確信した瞬間だった。
何がトラウマになるのか、理由があるにしろないにしろ人それぞれなら、何を恐れるかという恐怖のツボも、人それぞれなのだ。
確かに、どんなに完璧な人間だって、一つくらい弱点はあるだろう。
それにしても……と、壁に背を預け、腕組みをしつつ真剣に語るファイの様子を見て、黒鋼は思った。
今のファイは、まるで学校の先生のようだ……と。
普段はふにゃふにゃのアホアホな発言や行動が目立つ彼が、たまにこうしてまともな話をしているのを見ると、ギャップを感じて思わず感心してしまう。
べ、別に惚れ直してなんかいないんだからね、と内心ツンツンしている黒鋼だったが、いよいよ先刻から気になって仕方がなかったファイの身なりに、我慢の限界がきた。
「なぁ」
「ん?」
「ひとついいか?」
「なんでしょうー?」
「てめぇのその格好はなんだ……?」
「あ、これ?」

「はちみつ大好きなクマさんだよー」
椅子から立ち上がったファイは、くるりと一つ回転して見せた。
「可愛いでしょー?」
「アホだろてめぇ! なんで着ぐるみなんか着てんだって話だ!」
黒鋼が化学準備室に足を踏み入れた瞬間から、彼はすでにこのふざけた気ぐるみを纏っていた。
一瞬誰かわからず絶句してしまったこちらの身にもなって欲しい。が、すぐにこんなアホな真似をする人間はたった一人しかいないことを思いだし、無視していたのだが。
「やっと突っ込んでくれたねー。待ちわびたよー。これでユゥイを脅かして、ショック療法なんてどうかなーって。ねぇ、どう? 似合ってる?」
まぁそんなところだろうと薄々感づいてはいたが、だんだん頭が痛くなってきた。思わず額を抑えながら溜息を零す。
「似合う似合わないの問題じゃねぇ……とりあえずその着ぐるみは特大NGだろ……」
「えー? ダメー?」
不満そうな声を漏らすファイだが、表情は一切見えないので少し不気味である。
彼はしょうがないなぁ、と呟くと衝立の向こうに消えていった。
ゴソゴソと音がして、着替えているのがわかる。暫し待つ。
すると今度は。
「これならどうかなー?」

のっそり……
「!?」
そこには完全なクマがいた。
「てめぇそれ着ぐるみの域越えてんじゃねぇか!! 中身どうなってんだ今!?」
「え? そんなに完成度高い? やっぱりオレって才能あるなー」
「手作り!? その着ぐる……いや、クマはてめぇの手作りか!?」
「質感にこだわってみましたー」
そのハリウッドばりの技術と熱意をもっと他に生かす場所はなかったのか。ショック療法という名のドッキリ作戦のためだけに本気を出すのはやめてほしい。
それにしてもこれではユゥイでなくとも、誰だって腰を抜かすのではないか。流石の黒鋼も失禁……まではいかないが、正直ちょっとビビった。と、いうか普通に怖い。
「それだけはよせ! やめとけ! おまえがあの弟を愛してるなら、マジでやめとけ!」

「いいから脱げーー!!!」
リアルクマに飛びかかり表面を剥がそうとすると、クマ(ファイ)は激しく暴れた。
「イヤ! やめてこんなところで! 脱がすならベッドの上にして!」
「気色悪ぃこと言ってんじゃねぇ!! 腹かっ捌くぞ!!」
「奥の奥まで犯されるー!!」
「ド阿保!!!」
見た目はリアルなクマでも、所詮中身は非力な化学教師であることに代わりはなく、その後ファイはあっけなく剥かれた。
そして結局……。

見るもファンシーなクマに落ち着くことになった。
ファイは少し不満そうだったが、これなら誰でもただの着ぐるみだと判るだろう。
作戦としては、どこか自然豊かな山か森のような場所に当たりをつけて、そこにユゥイを呼び出し、驚かせよう……というものだった。
『驚かせよう』と言いきっている時点で、もはや治療という本来の目的から遠ざかっている気がするが、状況は違えども実際に似たような治療方法は存在するらしい。
例えば高所恐怖症の人間に、ひたすら高所から下を見下ろす映像を見せ続け、慣れさせていくことで恐怖を緩和させていく、というものらしいが、ファイの楽しげな様子を見ていると、完全にただのこじつけに思えてならない黒鋼だった……。
*
と、黒鋼が昨夜の回想に耽っている間に、目的の場所に辿り着いた。
そこは住宅地から外れた一角にある、大きな自然公園の駐車場だった。
小高い山は散歩コースになっているらしい。遠目から見ても丸太で出来た柵が小道沿いに連なっているのがわかった。
おそらくあそこが作戦の舞台になるのだろう……。
ここまで来ておいてなんだが、本気でやるのか……とファイを横目で見ると、彼はなぜか屈みこみ、口元を押さえて震えていた。
「うぅ……」
「ど、どうしたのファイ? 具合でも悪いの?」
後部座席から顔を出したユゥイが、心配そうにファイを覗き込む。
ファイは額に汗をにじませ、青白い顔を上げると頼りなげに微笑んだ。
女優だ……女優がいる……。
「うん……ちょっと、車酔いしたのかもしれない……少し休めば大丈夫だと思う……」
「でも……」
「せっかくだし、ユゥイと黒様先生は先に行ってて。よくなったらすぐに行くから」
ユゥイは困り顔で黒鋼に目を合わせてきた。
彼としては、調子の悪いファイを置いて先に行くなんて真似は考えられないのだろう。
よし、じゃあ今ここで弁当だけ食って家に帰ろう……と言いたかったが、ここまで来たら後戻りはできない。
チラチラとこちらに目配せしてくるファイにイラッとしつつ、シナリオ通りの台詞を口にする。
「せ っ か く 来 た ん だ。 先 に 行 っ て よ う ぜ」 (棒読み)
「でもファイが……」
「ホントに大丈夫だよー。お兄ちゃんすぐに追いかけるからー。ね?」
「……うん……」
渋々といった具合で頷くユゥイを見て、そういえば双子といえども、一応はファイの方が兄貴だったことを思い出す。
お兄ちゃん、という言葉をファイ自身が口にしたことで、なんだかんだで素直なユゥイはどうにか納得したらしい。
「そ れ じ ゃ あ 行 こ う ぜ」 (棒読み)
弁当の入ったバッグを担いで先に車を降りた黒鋼に続いて、ユゥイもドアを開ける。
二人並んで歩きながらも、ユゥイは幾度も車の中のファイを心配そうに振り返っていた。
*
木漏れ日の射す、森の散歩道。
初夏の風と小鳥のさえずりの中、黒鋼とユゥイはほとんど会話もなくコースを散策していた。
なぜこんな茶番に付き合わされているのだろう。
基本的に、人ひとりの生涯で巨大なクマに遭遇する確率というのは、如何ほどのものなのだろうか。少なくともアウトドアが趣味でもなければ、山奥に暮らす予定もない黒鋼のような人間にとっては、ほぼ0に近いのではないか。
たかだか縫いぐるみを捨てられるとか、クマ型の菓子類が食えないとか、そんなことは校庭の隅っこに生える雑草で羽を休めるハエ以上にどうでもいい話だ。
それでも律儀に付き合ってやっているのは、やはりユゥイに対して申し訳ない気持ちがあるから、なのかもしれない。
そこで黒鋼はハッとした。
申し訳ないと感じているなら、なぜ自分はこんなくだらないドッキリ作戦に参加しているのか。
ファイはアホなので、アホみたいな悪戯をアホの如く実行に移してしまうのは仕方がないとして、自分のキャラクターはそんなアホの悪行を、拳で止めるのが役目だったのではなかったか。
(なにやってんだ俺は……)
今更になって自分の方向性を見失っていたことに気づいても、もう遅い。今頃ファイは着々と準備を進めている頃だろう。
そうだ。何にしろ、奴がえらく楽しそうだったのが全ていけない。
あまりにウキウキとして、まるで本当にピクニックにでも出かけるような空気を出しているものだから、ついそんな様が微笑ましくて……。
(あーっ! ちくしょう!!)
ユゥイはよほどファイが気になるのか、時おり背後を気にしている。
だが、黒鋼が思い切り顔色を損ねていることに気がついて、顔を覗き込んできた。
「もしかして、黒鋼先生も体調が優れませんか?」
「あ? なんだ? なにか言ったか?」
まるで聞こえていなかった黒鋼の反応を見て、ユゥイは小さくクスリと笑った。
「なんだよ」
「いえ、やっぱりファイがいないと退屈なのかと思って」
「!?」
「黒鋼先生はなんだかんだ言って、ファイのことで頭がいっぱいですよね」
「!?」
なぜか否定できなかった。なんと言っても、今まさに黒鋼の頭はファイのことでパンクしそうになっていたからだ。
決してユゥイが微笑ましげに語るような、甘ったるい意味だけではないのが残念なところなのだが……。
「それにしてもファイは大丈夫なのかな。なんだか様子が妙でしたよね」
「……あいつが妙なのはいつものこったろ」
「いえ……ああいうときのファイって、必ず何か企んで」
「しかしあれだな、いい天気だな」
咄嗟にユゥイの言葉にかぶせて話題を逸らす。
何もここでバラしたところで罰は当たらない……というより、むしろファイに罰が下るだけで黒鋼的に問題はないはずなのだが。
反射的に庇う真似をしてしまったことに頭を抱えたくなる。
これら全てを惚れた弱みと呼ぶのなら、奴に惹かれてしまった自分の好みを呪いたい……。
ユゥイは少し不思議そうにしながらも「そうですね」とのんびり返してくる。
黒鋼としては、あんな残念な男でも一応は恋仲であり、自分なりに大切にしているつもりなのだ。
そして今、すぐ隣を歩く男はそれと同じ顔の造りをしているわけで、そんな相手を騙しているのだと思うと、それなりに罪悪感は拭えない。
そうだ、自分にも非があるのだと認めているのなら、せめて謝罪くらいはしておくか……。
「おい」
「はい?」
「奴から聞いた。俺が妙な話しちまったせいで、なんかえらいことになってるってな」
ユゥイは微かに眉をひそめ、そして足を止めた。
木の柵に手をつくと俯いて「いいえ」と首を振る。
「あのときは、ちょっと子供の頃の嫌なことを思い出してしまって……」
「ガキの頃?」
演技ではなく正真正銘、顔色を悪くしているユゥイが力なく笑う。
「……詳しく聞いてもいいか?」
「そうですね……」
遠くの空に瞳を眇めながら、ユゥイが語りだした。
「まだボクらが小さかった頃。ファイはよく寝る前に、ボクに色々なお伽噺を聞かせてくれました」
「ほう?」
あいつもあいつなりに、兄貴らしいことをしてきたんだな……と感心する。
以前、二人が子供の頃のアルバムを見せてもらったことがあったが、はっきり言ってそれこそ頭からかぶりつきたくなるくらい可愛らしかった。(口に出しては言わなかったが)
「それが、ファイなりに色々と脚色してあって……」
「ふむ……」
ただ童話の類を聞かせるだけでなく、自分なりに想像力を働かせてアレンジしていたのか。弟のためにそこまでするなんて、なんと心優しく聡明なお子さんだ。それがどうしてああなった……。
だがユゥイの表情はさらに曇っていく。
「なんと言うか……いちいち描写が詳細というか、グロテスクというか……絵本には描かれていない現実を、まざまざと見せつけられるような……」
「……あ?」
例えば赤ずきんの話。
おばあさんや赤ずきんが狼に食べられるシーンでは、肉や骨を噛み砕き、中から引きずりだした内臓の細部やら、赤黒い血液が壁一面に飛び散る場面などを、まるで実際に現場を見てきたかの如くリアルに話して聞かせられたらしい。
しかも最終的には狼はただ猟師に撃たれ、赤ずきんとおばあさんが救われるオチは、当然ながら揉み消されていた……。
「なぁそれってつまり……」
本当は怖い童話
「幼いボクには刺激が強すぎました……眠る、というよりは、いつも途中で気を失っていただけでした……」
どこかやさグレた、力ない笑顔で、ユゥイは長年の胸の痞えを吐きだしたかのような溜息を零した。
「普段は忘れていられました……だけど、あの夜は部屋も暗かったし、状況が似ていたので、ついフラッシュバックのようなものを起こしてしまって……」
点と点が繋がったような気がした。
つまり、だ。
元を正せば彼がおかしな恐怖症を患ったのも、こんな茶番劇が繰り広げられているのも、全ての元凶は……。
「あんの野郎~~~っ!!!」
咄嗟に握った拳を、すぐ傍の大木に打ちつけていた。
ズドン、という音がして、枝が激しくざわめき、鳥たちが飛び立っていく。これが夏の真っ盛りだったら、カブトムシやクワガタの一匹や二匹くらいは落ちてきたかもしれない。
「黒鋼先生がそこまで怒らなくても……ファイはちょっと変わった子でしたけど、このトラウマはいまだに引きずっているボクの問題で……」
「てめぇだけの問題じゃねぇ!! 現に俺はあのアホのせいでわざわざこんな場所まで……っ」
「え……?」
ユゥイは、信じられないものを見る目で黒鋼の方を見た。
「だから、これはあの馬鹿が全部仕組んだくだらねぇドッキリ企画で、てめぇを怖がらせるためにだな……って、聞いてんのかこら!!」
「あ……」
ついに完全に顔面蒼白になっているユゥイは、震える指で黒鋼の方を指さしている。
だが、その表情も指先も、こちらに向けられているようでいて、実は違っていた。それはどちらも黒鋼を通り越して、後方へと向けられていたのだ。
「!?」
あの馬鹿がもう来たのか!? と、咄嗟に振り返る。
そこには……。

見事にリアリティ溢れるクマが、二人の視界の数メートル先にいた。
「こらてめぇ!! 全部聞いたぞ!! だいたいそのリアルな方の着ぐるみはよせってあれほど言ったろうが!!」

クマはいきなりこちらに向かって怒鳴りだした人間を見て、首を傾げている。
なんという白々しい演技だろう。明かされた事実も相まって、黒鋼はブチ切れた。
ボッコボコにするために飛びかかって行こうとしたその瞬間、背後から羽交い絞めにされる。
「!?」
見れば、相手は必死な形相のユゥイだった。
「おい……なんのつもりだ……?」
「食べるならこの黒い人を食べてください!!」
「あぁ!? 俺は生贄か!? この野郎なに考えて……っ」
「大丈夫……ファイは一生ボクが大切に面倒を見ていくので、黒鋼先生はここで大人しく」
「できるか!!」
「ファイの老後の下の世話もちゃんとしますから!!」
「てめ、マジふざけんじゃねぇってか、何だこの火事場の馬鹿力!?」
この自分がどんなに力を振り絞っても身動き一つ出来ないのだ。彼の細腕のどこにこれほどの力が眠っていたのか……。
そしてユゥイの中で完全に黒鋼は『捕食される側』として食物連鎖のピラミッドに組み込まれているこの事実。
とは言ってもあのクマの中身はファイなのだから、何もこんなに激しく揉み合うこともないのだが……と、思っていると、二人の後方から声がした。
「あれ!? ちょっとー、なに二人でくっついてんのさー!!」
「「!?」」
そこにいたのはファンシーなクマの着ぐるみ男だった。
その可愛らしいクマは、くっついて硬直している二人を見て酷く憤慨しているらしく、飛び跳ねて地団太を踏んでいる。
「駄目だよユゥイったらー!! しかもその体勢から察するに黒様が下なの!? ちょ、ダメダメ絶対に駄目ーっ!! 黒様の初めてはオレが狙ってるんだからー!!」
おまえ受のくせしてなんてもの狙ってやがる!?
などと突っ込みを入れる余裕など、微塵もない。
黒鋼はリアルな方とファンシーな方のクマを交互に見やった。
そしてふと一連の不自然さに気がつく。
そうだ、リアルなクマがいるのは黒鋼とユゥイが向かっていた方向であり、ファイは後から追いかけてくる手筈になっていた。
ファイが自分たちの前方から来ようと思えば、全力で山を迂回して、道なき道を突き進み、この遊歩道に入って来るしかなかったはず。
このへなちょこ化学教師に、それだけの気力と体力があるとは到底思えない。そんな簡単なことに、なぜ気がつかなかったのだろう……。
「……マジもんだ、ありゃあ……」
その瞬間、黒鋼の背後からユゥイが遠ざかる。
「おい……っ!?」
腕を引く間もなく、彼は地面にバッタリと倒れて気を失っていた……。
流石のファイも転びそうになりながら駆け寄って来た。そしてようやく彼も状況を飲み込んだ。
ユゥイの傍にしゃがみこみ、視線は数メートル先へ向けられている。
おそらく凍りついた表情をしてるのだろうが、着ぐるみのせいで読み取ることは出来ない。
「……ねぇ黒様……オレたち以外に、助っ人なんていたっけ……?」
「いるわけねぇだろ……ありゃあ正真正銘、リアルの方だ……」

こちらを注意深く窺いながら、クマがゆっくりと近づいてきた。
「逃げるぞ!!」
この距離で果たして逃げ切れるかはわからない。だが、最悪ファイとユゥイの二人だけでも、無事に逃がしてやらなければ。
即座に決意して、ユゥイを担ぎあげるために咄嗟に腕を伸ばそうとした、その瞬間、なぜか黒鋼は、再びとてつもない力によって羽交い絞めにされていた……。
「なっ!?」
「ギャアーーッ!! ごめんなさいごめんなさいオレなんか食べるとこないから美味しくないよーっ!! 食べるならこの極上の筋肉を!!」
「てめぇーー!? 揃いも揃って俺を人柱に捧げんじゃねぇー!!!」
「オレと黒様の愛は永遠に不滅だよ!! 会えなくなっても、ずっと愛してる!!!」
「破局だ破局!! てめぇとなんかやってられっか!!!」
一瞬でも身を犠牲にして守り抜こうとした決意を返せ……。
揉み合う二人に、ついに巨大なクマが雄たけびを上げて、襲いかかろうとした。その一瞬がまるでスローモーションのように黒鋼の目に映る。
(でけぇ……!!)
黒鋼と同等か、あるいはそれ以上かもしれない。二本足で立ちあがったクマの影が、二人をすっぽりと包みこむ。
咄嗟に、黒鋼はファイ(着ぐるみ)を抱き込んで背を向けた。
頭の中を行き来するのは、これまでの人生の走馬灯。
ごく平凡な家庭に育ち、多少のヤンチャはしたかもしれないが、真っ当な青春時代を過ごして教師になった。
そこでこの腕の中の男(着ぐるみ)と出会った。
出会って、なぜか惹かれてしまった。
時にはちょっとした擦れ違いから言い合うこともあったし、寂しい思いをさせたこともある。幾度ゲンコツを食らわせて昏倒させたかも解らない。
それでもいつでも笑顔を絶やさないファイ(着ぐるみ)を愛していた。
突っ込みどころ満載な仲間達に囲まれて、傍にはファイ(着ぐるみ)もいて、毎日が一瞬の光のように感じられていたのはきっと、それほどまでに満ち足りた日々だったことの、何よりの証に思えた。
(ちと短かったが……悪くない人生だったぜ……)
目を閉じて、覚悟を決める。
だが、衝撃はいつまで経っても訪れない。
「…………?」
代わりに、ドォンという何かが激しくぶつかるような衝撃音がした。それからすぐに、バキバキという音が立て続けに聞こえて、黒鋼とファイの二人は目を見開いてその方向を凝視する。(ファイは着ぐるみなので表情は謎だが)
「……ほへ?」
ファイが間抜けな声を上げた。二人の何メートルも先の山の斜面の一角の木々が、綺麗に薙ぎ倒されている。
その中心にはピクリとも動かないクマが、腹を見せて倒れていた。泡を噴いているところを見ると、完全に意識を失っているようだ。辺りにもうもうと土埃が立ち込めている。
「……何が起きた……?」
「ゆ、ユゥイ……?」
ファイの茫然とした呟きに、黒鋼も目を向ける。
そこには、ゆらりと立ち上がったユゥイが、肩で息をしている姿があった。
「ふふ……あはは……」
低い声で、彼は笑い声を上げた。その表情は前髪に隠れてよくは見えない。
「人間……死ぬ気でかかれば出来ないことはないんだね……」
「お、おい……おまえまさか……あれを……」
投げたのか……。
あの状況では、死ぬ気でかかっても生還できる確率は限りなく低く思えるのだが。
これが本当の火事場の馬鹿力というやつなのか。
「さてと……」
どこか禍々しいオーラを放つユゥイが、ゆっくりとこちらに向けて歩いてくる。
極限状態のせいか、足を縺れさせて近づいてくる身体は時折ガクンと左右に傾き、まるでテレビのブラウン管の中から物理的な概念を捻じ曲げて這い出して来た、あの超有名人のようになっていた。(主な生息地:井戸)
「ここにもまだ一匹、可愛い小熊がいるね……?
「ヒッ!? ゆ、ユゥイ? ユゥイちゃん? オレだよ、ほら、この頭のやつを取れば……って、あ、あれ? 取れない……?」
黒鋼の腕の中から飛び出したファイが、必死で着ぐるみの頭の部分を引っこ抜こうとしてもがいている。設計ミスだろうか。
「!?」
あはは……と笑いながら距離を縮めてくるユゥイを見て、黒鋼は彼があの夜、しみじみと呟いていた言葉を思い出していた。
『結局、生きてる人間が一番怖いと、ボクは思うな……』
なるほど、こういうことか……と、妙に納得している間に、ユゥイによって華麗に背負い投げされたファンシーなクマの悲鳴が、小高い山の中に響き渡った……。
*
あ、死んだ……と思ったファイは生きていた。
そして適当な枝の棒きれをついて、腰の曲がった老人のようにヨロヨロしながら背後をついてくる。
投げ飛ばされ、なぜかキリモミ状に吹っ飛んだ拍子に頭の部分だけは無事に取れていた。
季節は初夏である。風通し最悪の着ぐるみ姿のファイは、顔を真っ赤にして少しのぼせているようだった。ご利用は計画的に……。
「あのぉ~……黒たん先生……オレもおぶってほしいんだけど~……」
「定員オーバーだ」
黒鋼の背中には、ぐったりと気を失うユゥイが背負われ、気を失っている。
彼はファイを投げ飛ばしたあと「勝った……」という呟きを最後に、再び地に伏した。
果たして彼が勝利したのは、クマという存在に対してなのだろうか。黒鋼には、ユゥイが抱えていた深いトラウマのことのように思えてならなかった。
「これアバラの一本や二本は確実に行ってる気がする……」
それに関しては自業自得としか言いようがない。
「なんにしろ、一件落着だな……」
「無視しないでよーっ」
うわあぁぁぁ……と泣きべそをかくファイを、それでも「頑張れ」と励ましてやりながら、妙に長く感じる山の散歩コースを歩いて下山した。
*
翌日、気を失った巨大熊が捕獲されたという記事が、新聞の見出しを飾った。
クマは動物園に送られ、飼育される運びとなったらしい。
恐ろしい生き物ではあったが、決して罪はないぶん、殺されなかったことに少し安堵する。
ユゥイはその新聞の記事を見ながら「これってボクらが行った公園じゃない?」と目を丸くしていた。
彼は黒鋼と共に車を降りた辺りからの記憶が、スッポリと抜け落ちていいるらしい。
その横で、骨にはどこも異常のなかったファイが、ユゥイが焼いたパンケーキを頬張って幸せそうにしている。
日ごろから黒鋼の拳に鍛えられているせいか、頬に掠り傷を負った程度で頭にも異常はなかった。
そんなファイが美味そうに食べているパンケーキはクマの形。
弟はトラウマを克服できたらしいし、兄には多少はお灸をすえることが出来たし、晴れて丸く収まったことに安堵しながら、ほんの気まぐれで口に入れてみたパンケーキの甘さに咳込む黒鋼を見て、仲のいい双子が声を上げて笑った。
おしまい
素材・M/Y/D/S動物のイラスト集 いらすと や まぜわん。
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春。
化学準備室から、校庭の桜の木々がよく見えた。
「わー、今年も満開だー!」
開け放った窓のサンに両手をついて、ファイは身を乗り出すと春の香りをいっぱいに吸い込んだ。真下から見る桜の花もいいが、こうして少し高い位置から眺める景色も絶景だ。
「美味しいお酒が飲みたくなっちゃうなー」
しかし、今はあいにく平日の昼間。
このあと立て続けに授業が控えているため、間違っても酒なんか飲めない。
どうせ今週末には花見大会があるし、とりあえず我慢しておこう。酒気帯び授業なんかやらかしたら、きっとの体育教師の刀(ゲンコツ)の錆になってしまう。
新入生も入ってきていっそう賑やかになった、この春真っ盛りの時期に頭蓋骨を陥没させているわけにもいなかい。
「ほんと、DV夫だよ黒たん先生は」
そういえば、とファイは思う。
こうして満開の桜を眺める度に、ふと思い出すことがある。
それは、この学園に来て最初に黒鋼と顔を合わせたときのことだ。あれからもうずいぶん時間が経ったが、あの記憶は決して色褪せることがない。
「懐かしいなぁ」
温かな春風にそっと瞼を伏せながら、ファイは教師になって最初の春のことに思いを馳せた。
以下、回想シーン↓
「やっぱり日本の春って凄いなー!」
校庭を取り囲むように、幾本もの桜の大木が鮮やかに咲き乱れていた。
ファイはその木の一本に片手をついて、空を仰ぐように美しい花を見上げる。朝の清んだ空気に春の香りが色濃く滲み、新しい生活への期待に胸が膨らむ。
今日からファイはこの学園の教師になる。
学生時代、休みを利用して訪れた憧れの国。ちょっと酷い目には遭ったが、直にその空気や人に触れ、ファイは日本への憧れを強めた。
そういえばあのとき出会った青年は、今頃どうしているのだろうか。
彼も観光客だったらしいが、名前すら聞けなかった。旅は一期一会。こうして日本に根を下ろしても、彼とはきっともう出会うことはない。
でも、どうしてだろう。彼のことが忘れられなかった。あのときからずっと、胸の中にあり続ける不思議な存在。
そのときだった。
土を踏みしめる音がして、ファイは上へ固定したままだった視線を戻し、音のする方向へ向けた。
自分と同じようにスーツを着た男が一人、桜の木々を見上げながらこちらへ歩いてくる。
ファイは大きく目を見開いた。
それはたった今、脳裏に思い描いていた青年の姿だった。
漆黒の髪と紅蓮の瞳、日本人離れした長身と、逞しい身体。ファイは、全身に鳥肌が立つような感覚を覚える。
息をするのも忘れて見つめていると、彼はその視線に気づいたのか、桜の木からこちらに顔を向けた。
「君は、あのときの……!」
ファイを見た彼は、僅かに目を見開いた。
時間が止まったような気がした。旅先で出会った青年。どうして彼がここに……。
二人はそのまましばらくの間、見つめ合ったまま動けなかった。
偶然の再会。けれど、強い力で結びつけられたような運命を感じる。
先に一歩を踏み出したのはどちらだったのか。引き合うようにファイと青年は歩み寄っていた。
手を伸ばし合い、交差するその両腕が互いをきつく抱きしめ合う。
「また会えるなんて……信じられない!」
「おまえを忘れたことはなかったぜ」
「ッ、オレも……オレも忘れたことなかったよ……!」
会いたかった。
ファイは溢れる涙を堪えることができなかった。憧れの地で、憧れの職について。
全てが新しく始まるまさにその日、運命の人と再会した。
「もう離さねぇ……俺たちの旅はこれからだ……」
「恋のチケットは……永遠にソウルドアウトだね……!」
そして二人は桜の木の下で、熱烈な再会のキs
「待てぇえぇぇい!!!」
そのとき、化学準備室のドアがスパーンと開いた。
「あ、黒様先生だ」
「あ、黒様先生だ、じゃねぇ!! てめぇはまた記憶を都合よく改竄してんのか!!」
校舎が揺れん勢いの足音を立てて、肩を怒らせた黒鋼が鬼の形相でやってくると、胸倉を掴まれる。
「改竄なんかしてないもん! オレの脳内の黒様メモリアルにはちゃんとそう書いてるもん!」
「脳ミソすり潰すか!? おまえはどこまでも頭がおかしい! 完膚なきまでにおかしいぞ!! おかしい!!」
「わざわざ3回も言うなんて酷すぎるぅー!!」
「何べんでも言うぞ俺は!! 何が俺たちの旅だ! 何が恋のチケットだ! あぁ!?」
「もー! 何がそんなに不満なの! こんな薄汚れた現実の世界より、妄想の世界の方が住みやすいんだから、それでいいじゃない!」
「仮にも教師のセリフかそれが!?」
とにかく、と、掴んでいた胸倉を乱暴に離した黒鋼は、側にあった椅子を引き寄せて座ると、腕を組んで言った。
「やりなおしだ! やりなおし! 現実と向き合え!」
「えー……どっからだっけなぁ……キスのあと?」
「君はあのときの! からだ!!」
テイク2
「君は、あのときの……!」
ファイの姿を見るやいなや、青年は『ゲッ』という顔をした。
なんだろうか。このあからさまにもう二度と会いたくないと思っていたはずの人間と、運悪く遭遇しちゃいました的な反応は。
だが、ファイは持前のポジティブさでその表情を華麗にスルーすると、懐かしさに両手を広げた。
「君ってあのときのふんどし忍者くんだよねー!? うわー! ひっさしぶりー!」
「ふんどしじゃねぇし忍者でもねぇ!! なんでてめぇがここにいる!?」
「あの時はどうもありがとー! おかげでちゃーんとお土産のお守り持って帰って渡せたよー!」
「質問に答えろこの変態外人!!」
相手は明らかにこちらに牙を剥き、威嚇している様子だった。
ずっと野生のライオンに育てられていた人間が、初めて人の世界に保護された時ってこんな感じの反応なのかなー、とファイは思った。
今にも唸りだしそうな恐ろしい表情も、奇跡的な出会いの中ではただただ感動を生む。
お互い旅の途中ですれ違った程度の間柄だし、もう二度と会うことはないだろうと思っていたので、なおのこと。
「もー! 昔のことは水に流してー、再会を喜び合おうよー!」
万歳のポーズで走り寄ろうとすると、彼は今度は声に出して「うげっ」と言った。
「来んな! 近寄んじゃねぇ変態!!」
「再会のハグー!」
青年は慌てて逃げ出そうと、ファイに背を向けた。
逃げられると追いかけたくなる本能に基づき、ファイは容赦なく追跡する。えいっと飛びかかり、力いっぱいタックルすると、走り去ろうとしていた青年はその勢いで態勢を崩し、思い切り前のめりになった。
「わあぁ!!」
ドテーンという音が重なり、土埃が立ち込める中で、二人はうつ伏せに地面に崩れ落ちた。
一瞬ファイは痛みに顔を歪めたが、すぐに自分の両手が何かを掴んでいることに気付く。その場所を見て「あ」と短く声を発した。
なんだか凄く懐かしい感じがする。ファイは彼のスーツのズボンのウエストに、指を引っかけるようにして手をかけていた。
ちょうどベルトに掴まるような形で掴んでいたせいで、半分だけずり下がっている。黒い下着に覆われた半ケツ状態の尻が目の前にあった。
「……なぁんだやっぱふんどしじゃないんだねー」
以前、同じようにズボンに手をかけたときは、すかさず抵抗されて中身は見られなかった。と、いうより、あの時はおそらく下着ごと下げてしまったので、文字通り割れ目くっきりの半ケツだったのだ。(公衆の面前)
宿泊先の風呂で再会した時も、彼が服を脱ぐ場面を見る前に追いかけまわされてしまった。結局ファイはふんどしへの心残りを残して帰国する羽目になったのだが。
「なーんかガッカリー。これってボクサー?」
ファイは中途半端な状態の尻に指をやると、下着を少しだけ摘み上げてテントを作った。どこにでもあるような素材の、男性用下着だ。
「せめてTバックとか履いててくれたらネタになったのにー。つまんなーい」
「…………す」
「それにしてもお尻のお肉カチカチだねー。引き締まってるー!」
「…………ろすぞ」
「ん? なぁに? あー、大丈夫ー、あの時と違って誰も見てな……ん?」
言いかけて、ファイはどこからか視線を感じた。
辺りを見回すと、遠くの校舎の窓に人影が。
「あそこって……確か理事長室? だっけ?」
そこから顔を覗かせているのは、長い黒髪の女性だった。
確か彼女はこの学園の理事長だったはず。彼女は赤い口紅を引いた唇を、にやりと笑みの形に歪めてサッと消えた。
「…………ごめん忍者くん……バッチリ見られてたみたい……」
「殺すぞ」
「!?」
その瞬間、後ろ手に手を伸ばした青年に片方の手首を掴まれた。
そして彼は膝をついて身体を起こすと同時に、ファイを一本背負いした……。
「ぴぎゃあああ!!!」
ファイは奇妙な悲鳴を上げながら、背中を地面にしたたか打ち付ける。
とてつもない衝撃に、一瞬本当に息が止まった。背面に激痛が走ってのたうつ。
「いったぁ~い~! ゲホッ ひ、酷いよー!」
「覚 悟 は で き て る な ?」
「え?」
仰向けの状態で制止したファイが視線を上へ走らせると、そこには指をバキバキと鳴らしながら仁王立ちしている男の姿があった。
テイク2終了
「いやー、あのあとはまさに地獄絵図だったよねー。黒様ったらどこまでも追いかけてくるし、生きるか死ぬかのリアル鬼ごっこだったなー」
ファイは腕を組んでしみじみと唸った。
「今でこそ黒たん先生のパンツなんか、見たければいつでも見れるような間柄だけどー、ここまでくるのには苦労させられたよー」
「おい」
「黒様ったらあれ以来しばらく口利いてくれなかったしー、でもそれも今ではいい思い出……ん? なに? どうかした?」
「回想シーンの合間にさりげなく人の膝に乗ってんじゃねぇよ!」
ファイは黒鋼の首に両腕を回しながら唇を尖らせ「えー、いいじゃーん」と言った。が、どうやらよくなかったらしい。黒鋼は当時の記憶と相まって、ただでさえ目つきの悪い両目をさらに吊り上げて内震えている。
「なんかこの姿勢……対面座位って感じでエッチだね……ハァハァ」
「どけこの変態教師!! てめぇのせいで俺は初日からあの女理事長に揺すりのネタを提供しちまったんだ! てめぇのアホのせいで俺のお茶汲み人生が始まったようなもんだ!!」
「プリプリしないでー。終わりよければ総て無駄って言葉もあるしー」
「あってたまるか!!」
黒鋼が必死で引き離しにかかってくるので、ファイは意地でも退くものかと両手両足でしがみついた。
どうやらファイにとって春という季節がいい思い出でも、彼にとってはトラウマをフラッシュバックさせる、暗黒の季節であるらしい……。
「やー! 今オレは黒様先生のお膝の上にいたい気分なのー!」
「生憎俺はそういう気分じゃねぇんだよ!!」
「もう許してよー。今夜もとっておきの中のとっておきなお酒持っていくからー。あ、夜桜見物でもしよっかー?」
「てめぇは一体どんだけのとっておきを隠し持ってんだ……」
地の底まで響きそうな深い溜息をついて、黒鋼は諦めたように脱力した。
やっぱりファイの『とっておき作戦』は効果覿面だ。彼も彼で、どこかで気持ちを静める材料が欲しかったのだろう。
もはや抱き付いてスリスリと頬ずりしても、何も言わなくなってしまった。
本当に丸くなったというか、なんというか。
「ねぇ、マイナスからスタートした方が、プラスになった時の気持ちって大きくなると思わない?」
今だって実はさりげなく腰に回される太い腕とか、もっと本気で抵抗すれば、とっくに開いているはずの二人の距離とか。
物凄く面白くなさそうな顔をしてるくせに、黒鋼は否定の言葉を口しない。
自覚があるのはいいことだ。
(オレの中では最初からプラスの感情しかなかったけどねー)
その感情は、マイナスから始まるものに負けないくらい、今も大きく成長し続けているのだが。
ここまで辿り着くまでの道のりを思い出すのは、また今度にしよう。
そう思いながら、怒られるんだろうなと知りつつも、ファイは黒鋼のむっつりと引き結ばれる唇に、音を立ててキスをした。
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化学準備室から、校庭の桜の木々がよく見えた。
「わー、今年も満開だー!」
開け放った窓のサンに両手をついて、ファイは身を乗り出すと春の香りをいっぱいに吸い込んだ。真下から見る桜の花もいいが、こうして少し高い位置から眺める景色も絶景だ。
「美味しいお酒が飲みたくなっちゃうなー」
しかし、今はあいにく平日の昼間。
このあと立て続けに授業が控えているため、間違っても酒なんか飲めない。
どうせ今週末には花見大会があるし、とりあえず我慢しておこう。酒気帯び授業なんかやらかしたら、きっとの体育教師の刀(ゲンコツ)の錆になってしまう。
新入生も入ってきていっそう賑やかになった、この春真っ盛りの時期に頭蓋骨を陥没させているわけにもいなかい。
「ほんと、DV夫だよ黒たん先生は」
そういえば、とファイは思う。
こうして満開の桜を眺める度に、ふと思い出すことがある。
それは、この学園に来て最初に黒鋼と顔を合わせたときのことだ。あれからもうずいぶん時間が経ったが、あの記憶は決して色褪せることがない。
「懐かしいなぁ」
温かな春風にそっと瞼を伏せながら、ファイは教師になって最初の春のことに思いを馳せた。
以下、回想シーン↓
「やっぱり日本の春って凄いなー!」
校庭を取り囲むように、幾本もの桜の大木が鮮やかに咲き乱れていた。
ファイはその木の一本に片手をついて、空を仰ぐように美しい花を見上げる。朝の清んだ空気に春の香りが色濃く滲み、新しい生活への期待に胸が膨らむ。
今日からファイはこの学園の教師になる。
学生時代、休みを利用して訪れた憧れの国。ちょっと酷い目には遭ったが、直にその空気や人に触れ、ファイは日本への憧れを強めた。
そういえばあのとき出会った青年は、今頃どうしているのだろうか。
彼も観光客だったらしいが、名前すら聞けなかった。旅は一期一会。こうして日本に根を下ろしても、彼とはきっともう出会うことはない。
でも、どうしてだろう。彼のことが忘れられなかった。あのときからずっと、胸の中にあり続ける不思議な存在。
そのときだった。
土を踏みしめる音がして、ファイは上へ固定したままだった視線を戻し、音のする方向へ向けた。
自分と同じようにスーツを着た男が一人、桜の木々を見上げながらこちらへ歩いてくる。
ファイは大きく目を見開いた。
それはたった今、脳裏に思い描いていた青年の姿だった。
漆黒の髪と紅蓮の瞳、日本人離れした長身と、逞しい身体。ファイは、全身に鳥肌が立つような感覚を覚える。
息をするのも忘れて見つめていると、彼はその視線に気づいたのか、桜の木からこちらに顔を向けた。
「君は、あのときの……!」
ファイを見た彼は、僅かに目を見開いた。
時間が止まったような気がした。旅先で出会った青年。どうして彼がここに……。
二人はそのまましばらくの間、見つめ合ったまま動けなかった。
偶然の再会。けれど、強い力で結びつけられたような運命を感じる。
先に一歩を踏み出したのはどちらだったのか。引き合うようにファイと青年は歩み寄っていた。
手を伸ばし合い、交差するその両腕が互いをきつく抱きしめ合う。
「また会えるなんて……信じられない!」
「おまえを忘れたことはなかったぜ」
「ッ、オレも……オレも忘れたことなかったよ……!」
会いたかった。
ファイは溢れる涙を堪えることができなかった。憧れの地で、憧れの職について。
全てが新しく始まるまさにその日、運命の人と再会した。
「もう離さねぇ……俺たちの旅はこれからだ……」
「恋のチケットは……永遠にソウルドアウトだね……!」
そして二人は桜の木の下で、熱烈な再会のキs
「待てぇえぇぇい!!!」
そのとき、化学準備室のドアがスパーンと開いた。
「あ、黒様先生だ」
「あ、黒様先生だ、じゃねぇ!! てめぇはまた記憶を都合よく改竄してんのか!!」
校舎が揺れん勢いの足音を立てて、肩を怒らせた黒鋼が鬼の形相でやってくると、胸倉を掴まれる。
「改竄なんかしてないもん! オレの脳内の黒様メモリアルにはちゃんとそう書いてるもん!」
「脳ミソすり潰すか!? おまえはどこまでも頭がおかしい! 完膚なきまでにおかしいぞ!! おかしい!!」
「わざわざ3回も言うなんて酷すぎるぅー!!」
「何べんでも言うぞ俺は!! 何が俺たちの旅だ! 何が恋のチケットだ! あぁ!?」
「もー! 何がそんなに不満なの! こんな薄汚れた現実の世界より、妄想の世界の方が住みやすいんだから、それでいいじゃない!」
「仮にも教師のセリフかそれが!?」
とにかく、と、掴んでいた胸倉を乱暴に離した黒鋼は、側にあった椅子を引き寄せて座ると、腕を組んで言った。
「やりなおしだ! やりなおし! 現実と向き合え!」
「えー……どっからだっけなぁ……キスのあと?」
「君はあのときの! からだ!!」
テイク2
「君は、あのときの……!」
ファイの姿を見るやいなや、青年は『ゲッ』という顔をした。
なんだろうか。このあからさまにもう二度と会いたくないと思っていたはずの人間と、運悪く遭遇しちゃいました的な反応は。
だが、ファイは持前のポジティブさでその表情を華麗にスルーすると、懐かしさに両手を広げた。
「君ってあのときのふんどし忍者くんだよねー!? うわー! ひっさしぶりー!」
「ふんどしじゃねぇし忍者でもねぇ!! なんでてめぇがここにいる!?」
「あの時はどうもありがとー! おかげでちゃーんとお土産のお守り持って帰って渡せたよー!」
「質問に答えろこの変態外人!!」
相手は明らかにこちらに牙を剥き、威嚇している様子だった。
ずっと野生のライオンに育てられていた人間が、初めて人の世界に保護された時ってこんな感じの反応なのかなー、とファイは思った。
今にも唸りだしそうな恐ろしい表情も、奇跡的な出会いの中ではただただ感動を生む。
お互い旅の途中ですれ違った程度の間柄だし、もう二度と会うことはないだろうと思っていたので、なおのこと。
「もー! 昔のことは水に流してー、再会を喜び合おうよー!」
万歳のポーズで走り寄ろうとすると、彼は今度は声に出して「うげっ」と言った。
「来んな! 近寄んじゃねぇ変態!!」
「再会のハグー!」
青年は慌てて逃げ出そうと、ファイに背を向けた。
逃げられると追いかけたくなる本能に基づき、ファイは容赦なく追跡する。えいっと飛びかかり、力いっぱいタックルすると、走り去ろうとしていた青年はその勢いで態勢を崩し、思い切り前のめりになった。
「わあぁ!!」
ドテーンという音が重なり、土埃が立ち込める中で、二人はうつ伏せに地面に崩れ落ちた。
一瞬ファイは痛みに顔を歪めたが、すぐに自分の両手が何かを掴んでいることに気付く。その場所を見て「あ」と短く声を発した。
なんだか凄く懐かしい感じがする。ファイは彼のスーツのズボンのウエストに、指を引っかけるようにして手をかけていた。
ちょうどベルトに掴まるような形で掴んでいたせいで、半分だけずり下がっている。黒い下着に覆われた半ケツ状態の尻が目の前にあった。
「……なぁんだやっぱふんどしじゃないんだねー」
以前、同じようにズボンに手をかけたときは、すかさず抵抗されて中身は見られなかった。と、いうより、あの時はおそらく下着ごと下げてしまったので、文字通り割れ目くっきりの半ケツだったのだ。(公衆の面前)
宿泊先の風呂で再会した時も、彼が服を脱ぐ場面を見る前に追いかけまわされてしまった。結局ファイはふんどしへの心残りを残して帰国する羽目になったのだが。
「なーんかガッカリー。これってボクサー?」
ファイは中途半端な状態の尻に指をやると、下着を少しだけ摘み上げてテントを作った。どこにでもあるような素材の、男性用下着だ。
「せめてTバックとか履いててくれたらネタになったのにー。つまんなーい」
「…………す」
「それにしてもお尻のお肉カチカチだねー。引き締まってるー!」
「…………ろすぞ」
「ん? なぁに? あー、大丈夫ー、あの時と違って誰も見てな……ん?」
言いかけて、ファイはどこからか視線を感じた。
辺りを見回すと、遠くの校舎の窓に人影が。
「あそこって……確か理事長室? だっけ?」
そこから顔を覗かせているのは、長い黒髪の女性だった。
確か彼女はこの学園の理事長だったはず。彼女は赤い口紅を引いた唇を、にやりと笑みの形に歪めてサッと消えた。
「…………ごめん忍者くん……バッチリ見られてたみたい……」
「殺すぞ」
「!?」
その瞬間、後ろ手に手を伸ばした青年に片方の手首を掴まれた。
そして彼は膝をついて身体を起こすと同時に、ファイを一本背負いした……。
「ぴぎゃあああ!!!」
ファイは奇妙な悲鳴を上げながら、背中を地面にしたたか打ち付ける。
とてつもない衝撃に、一瞬本当に息が止まった。背面に激痛が走ってのたうつ。
「いったぁ~い~! ゲホッ ひ、酷いよー!」
「覚 悟 は で き て る な ?」
「え?」
仰向けの状態で制止したファイが視線を上へ走らせると、そこには指をバキバキと鳴らしながら仁王立ちしている男の姿があった。
テイク2終了
「いやー、あのあとはまさに地獄絵図だったよねー。黒様ったらどこまでも追いかけてくるし、生きるか死ぬかのリアル鬼ごっこだったなー」
ファイは腕を組んでしみじみと唸った。
「今でこそ黒たん先生のパンツなんか、見たければいつでも見れるような間柄だけどー、ここまでくるのには苦労させられたよー」
「おい」
「黒様ったらあれ以来しばらく口利いてくれなかったしー、でもそれも今ではいい思い出……ん? なに? どうかした?」
「回想シーンの合間にさりげなく人の膝に乗ってんじゃねぇよ!」
ファイは黒鋼の首に両腕を回しながら唇を尖らせ「えー、いいじゃーん」と言った。が、どうやらよくなかったらしい。黒鋼は当時の記憶と相まって、ただでさえ目つきの悪い両目をさらに吊り上げて内震えている。
「なんかこの姿勢……対面座位って感じでエッチだね……ハァハァ」
「どけこの変態教師!! てめぇのせいで俺は初日からあの女理事長に揺すりのネタを提供しちまったんだ! てめぇのアホのせいで俺のお茶汲み人生が始まったようなもんだ!!」
「プリプリしないでー。終わりよければ総て無駄って言葉もあるしー」
「あってたまるか!!」
黒鋼が必死で引き離しにかかってくるので、ファイは意地でも退くものかと両手両足でしがみついた。
どうやらファイにとって春という季節がいい思い出でも、彼にとってはトラウマをフラッシュバックさせる、暗黒の季節であるらしい……。
「やー! 今オレは黒様先生のお膝の上にいたい気分なのー!」
「生憎俺はそういう気分じゃねぇんだよ!!」
「もう許してよー。今夜もとっておきの中のとっておきなお酒持っていくからー。あ、夜桜見物でもしよっかー?」
「てめぇは一体どんだけのとっておきを隠し持ってんだ……」
地の底まで響きそうな深い溜息をついて、黒鋼は諦めたように脱力した。
やっぱりファイの『とっておき作戦』は効果覿面だ。彼も彼で、どこかで気持ちを静める材料が欲しかったのだろう。
もはや抱き付いてスリスリと頬ずりしても、何も言わなくなってしまった。
本当に丸くなったというか、なんというか。
「ねぇ、マイナスからスタートした方が、プラスになった時の気持ちって大きくなると思わない?」
今だって実はさりげなく腰に回される太い腕とか、もっと本気で抵抗すれば、とっくに開いているはずの二人の距離とか。
物凄く面白くなさそうな顔をしてるくせに、黒鋼は否定の言葉を口しない。
自覚があるのはいいことだ。
(オレの中では最初からプラスの感情しかなかったけどねー)
その感情は、マイナスから始まるものに負けないくらい、今も大きく成長し続けているのだが。
ここまで辿り着くまでの道のりを思い出すのは、また今度にしよう。
そう思いながら、怒られるんだろうなと知りつつも、ファイは黒鋼のむっつりと引き結ばれる唇に、音を立ててキスをした。
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一月も半ばに差し掛かり、正月ムードもすっかり落ち着いてきたある夜。
ファイは黒鋼の部屋でダラリとくつろいでいた。
「お正月が終わるとー、なんか寂しい気持ちになるよねー」
「……」
「クリスマスくらいに戻りたいなーって思っちゃうー」
「……」
「年末ってバタバタして忙しいけどー、そわそわウキウキしちゃうよねー」
「……」
「クリスマスはー、いっぱいお酒飲むでしょー? ケーキも食べるしー、ご馳走いっぱいでしょー」
「……」
「お正月もお酒飲むでしょー、お餅美味しいでしょー、あ、かまぼこもーって、黒様先生ってば無視しないでー」
「うるせぇな……今忙しいんだよ」
黒鋼は先刻からずっとミカンの皮を剥いていた。
近所のスーパーで箱買いしたミカンは一つ一つが大ぶりだったが、彼の手の中では不思議と小ぶりに見える。
身体を丸めてコタツから頭だけ出していたファイは、もぞもぞと芋虫のように這い出して座りなおすと、向かいにいた黒鋼の横に四つん這いで近づいた。
「わー、キレイ」
隣に座ってコタツに入りなおすファイの唇に向かって、綺麗に薄皮まで剥かれたミカンが差し出されたので、黙って口をアーンと開ける。
「あまぁい」
噛みしめた途端に弾けた甘さに、ファイはニコニコと笑った。
それを見て黒鋼が舌打ちをする。
「てめぇで剥きやがれ。薄皮まで剥かせやがって」
「だってー、薄皮って舌触りが悪いし、剥いていると手が汚れるんだもーん」
「甘えやがって。ガキか」
「へへー」
ぐちぐちと文句を言いつつ、次々とミカンが口元に運ばれてくる。
ファイは顔がにやけるのを止められない。剥いてと頼んだ時は無言でやりはじめたのに、剥き終ってから文句を言うのが面白い。
しかもここまでしてくれなんて頼んでいないのに、わざわざ食べさせてくれるところが可愛いと思った。
「黒たん先生ってー、丸くなったよねー」
「あ? 別に体重に変わりはねぇぞ」
「そういう意味じゃなくてー。中身の話だよー」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃないよー。だって初対面でゲンコツしてくる狂犬だったしー」
そんな覚えはないとばかりにムッと顔を顰める黒鋼。忘れているとは何事だろうか。
ファイにとってはあまりにも衝撃的だった、あの初めて出会った時のことを。
だがすぐに、黒鋼はハッと思い出したように目を見開くと、すぐに手を額に当てて脱力した。
「まさかおまえ、あの時のこと言ってんじゃねぇだろうな……」
「そのまさかだよー! 記念すべき運命の出会いの時のことー!」
「それ以上言うんじゃねぇ……黒歴史の蓋開けやがって……思い出すだけで軽く殺意が湧くぜ」
「軽くって……おつまみ感覚で恋人に殺意抱かないでよー」
「それこそ思い出してもみやがれ! そもそも初対面の人間にゲンコツ食らうような自分の行いを!!」
「えー?」
なんだっけなぁ……と、ファイは視線を天井へ向けて記憶を呼び覚ます。
「そうだね……あの日は確か生憎の雨だった……。オレは一人異国の地をさすらう旅人で……」
「カッコつけてんじゃねぇ。ただの外国人観光客だろ。あと雨も降ってなかったぜ」
「ちょ、雰囲気でないから突っこみ入れないで」
黒鋼が、忌々しげに「けっ」と小さな声を上げた。
そう、あの時ファイはまだ学生で、休暇を利用して日本の某観光地に一人で訪れていた。
当時はまだ故郷であるイタリアに暮らしていたが、子供の頃に興味を持って以来、日本は一度は訪れたい憧れの国だった。
ユゥイを強制的に巻き込んで、一緒に会話をしながらある程度の日本語もマスターしていた。
「最初は順調だったんだよねー。ガイドブック片手に神社とかお寺巡りしたり、和菓子食べたり……」
だが、すぐに問題が発生した。
ユゥイへのお土産にと購入したお守りが入った紙袋を、紛失してしまったのだ。
それに気付いたのは、宿泊中の旅館へ戻る途中の駅の構内だった。
「今でも忘れられないなぁ……あのお守りを黒たん先生が拾ってくれた時のこと……」
「あんときアレに気付かなけりゃ……あんな悲劇は起こらなかったのにな……」
以下、当時の回想シーン↓
ユゥイのお守りを無くしてしまったファイは、多くの観光客が行き交う駅構内で困り果てていた。
確かに鞄に入れたと思っていたのだが、どこかで財布を取り出す時にでも落としたのだろうか。
明日にでも買い直せばいいかとも思ったが、探しもしないで諦めたのでは罰が当たる気がする。
だから慌てて引き返そうとしたその時だった。
「おい、そこの外人」
どこか不機嫌そうな声を背中に受けて、咄嗟に振り向いた。
そこには背の高い、若い日本人男性がこちらを真っすぐに見ていた。
今にも噛みつかれそうなほど鋭い目つきと、漆黒の髪。見上げるほどの長身に、服の上からでもわかるほど立派な体格を持つ若者だった。
日本人だ、と思った。
日本に観光に来て、周りも日本人だらけなのだから当たり前なのだが、ファイは彼を見てしみじみそう感じた。
それほどまでに彼が持つ『黒』は魅力的で、それを持たぬファイは強く惹きつけられた。
そして何より、そのときファイはなんとも言えない不思議な感覚にとらわれていた。
目が合ったその一瞬で、心臓を何かに掴まれたような気がしたのだ。
「これ、落としただろ」
一歩二歩と近づいてきた若者が、大きな手をこちらに向けてくる。
その手の中には白い小さな紙袋があった。
「あ! これ!」
「気をつけろよ」
「うわー! ありがとー!」
紙袋を受け取り、すぐにまた声をかけようとして顔を上げた。
だが、彼はすでにこちらに背を向けている。
「ぁ……」
このままでは行ってしまうと思ったとき、ファイは即座に男の肩を掴んでいた。
「ま、待って!」
「なんだよ」
「あ、あの……オレ、イタリアから今日初めて日本に来たんだけど」
「そうか」
「君も観光?」
上目使いに問うと、彼は短く「ああ」と答えた。
顔は恐ろしいが、親切な男だ。だがどうやらあまり社交的ではないらしい。けれど、すぐに立ち去る素振りもない。お互い、なぜかじっと見つめ合っていた。
不思議な沈黙が流れる中、ファイはこの青年を引きとめるための口実を、必死で考えていた。
初めて会った、ただ落し物を拾ってくれただけの相手。
それなのにどうしてか、このまま別れたくない。なんでもいいから、話題を……。
「あ、あのね、よければ教えてほしいことがあって……」
「……なんだよ」
「あの……一人……?」
「?」
「一人で、旅行してるの?」
男は何かを察したようだった。
「一人だが」
「ほんと?」
「おう」
「じゃ、じゃあ……、ぁ!」
パッと目を輝かせたファイは、ふいに強い力に腰を抱かれて息を詰まらせた。
「俺から誘うつもりだったんだが」
「え……」
至近距離に男の燃えるような紅蓮の瞳がある。ファイは瞬きさえ許されないような気がした。
頬が熱くなり、ドクドクと音を立てながら全身に血液が回る。
「右も左もわからねぇ外国人を、一人で歩かせるわけにはいかねぇだろ?」
腰に男の腕が回っていなければ、今にも膝から崩れ落ちていたかもしれない。
胸がときめいて、じんわりと瞳が潤んでしまうのを抑えられなかった。
男はその低い声で、ファイの耳元に甘く囁いた。
「なんなら教えてやるよ……日本式の、夜の営みってやつも……な 」
「す……素敵……!」
そうして異国の地で出会った名も知らぬ男に、ファイは身も心も奪わr
「待てぇえぇぇい!!!」
テーブルをバンと叩く音と共に、黒鋼の怒声が室内に響き渡った。
うっとりと当時の回想に耽っていたファイは、思いっきり不満そうに唇を尖らせる。
「いきなり大声出さないでよー。これから本番シーンの回想に入るとこだったのにー」
「事実にねぇことを回想すんな!! おまえ頭おかしいぞ! いいか!? よく聞け! おまえは、頭が、おかしい!!」
「二回も言うことないでしょー!?」
「大事なことだからに決まってんだろ!!」
「もー! どこが不満なのかさっぱりわかんない! この方がドラマがあってロマンティックが止まらないじゃん!」
「止まれ! やり直しを要求する!!」
「えー……どの辺からー?」
「よければ教えてほしいことがあって、からだ!!」
「むー……」
テイク2↓
「あ、あのね、よければ教えてほしいことがあって……」
「あ?」
男が怪訝そうな顔をする。その表情にはハッキリと『面倒』の二文字が浮き上がっていた気がするが、ファイはあえて空気を読まなかった。
他の観光客は年配の方ばかりだったので、年齢が近いと思しき日本人に対して親近感もあった。しかも顔は恐ろしいが親切な人のようだし、思い切って聞いてみることにした。
ガシッと両肩を掴んで男と向き合うと、真剣な表情で口を開いた。
「日本男児ってことは、君ってサムライだよね!?」
「……は?」
「サムライスピリッツだよね!?」
「そんな古めかしいタイトルは知らねぇな」
「違うの!? じゃあどこ!? 日本に降り立ってからずっと探してるんだけど、チョンマゲもカタナも見当たらないんだ!!」
「おまえ、いくら外国人だからって、ベタの王道行きすぎだぞ」
「じゃあ百歩譲ってニンジャはどこに!?」
「いねぇよそんなもん!!」
「そんなの嘘だー!!」
他の観光客が、二人を思いっきり避けて通っていく。
男はあからさまに「面倒くせぇのに捕まっちまった……」という空気を放っていた。
しかしファイはそんなこと知ったこっちゃなかった。
ユゥイにだって約束したのだ。侍や忍者に会ったら、サインをもらってくると。きっと今頃楽しみに待っているに違いない。
ならせめて、とファイは思った。
日本に来たら、どうしても見てみたいものがもう一つあったのだ。
「俺はもう行くぞ。じゃあな」
男がファイの手を振り払い、再び背を向けて歩き始めた。
その瞬間を狙って、一気に飛びかかる。
「そぉい!!」
掛け声と共に、ファイの両手が男のウエスト部分にかかり、見つけた引っかかりに指をかけて思いっきり体重をかけた。
「!?」
その瞬間、男のジーンズがズルッと中途半端に下げられた。
「て、てめぇなんのつもりだこらぁ!?」
「中のもの見せて!! このままじゃオレ帰れない!!」
「意味わかんねぇ何だこの変態外人!!」
男は必死でジーンズのウエスト部分を死守しながら、前へと前進する。
ファイは掴んだそれを離すまいと、そのままズルズルと引きずられた。
観光客のマダム達から悲鳴が上がる。やがて騒ぎを聞きつけた駅員まで駆けつけて、辺りは騒然とした。
そしてついに、男の臀部が半分だけ顔を覗かせたところで、ファイは人生初のゲンコツを食らった。
テイク2終了
「…………」
「…………」
重々しい沈黙が流れた。
若気の至りとは恐ろしいもので、流石のファイも当時の自分の奇行を振り返って遠い目をした。
「……ふんどしをね」
「…………」
「日本の男の人は、ふんどしを履いてるんだと思って……」
どうしてもそれが見てみたかった。
日本人はシャイだから、見せてくれと言っても見せてはくれないだろうと思った。
普通に考えればどこの国の人間だろうが、いきなり下着を見せてくれと頼まれて了承する者はいないだろう。
あの時の自分は一体どういう思考回路をしていたのか。初めての日本で浮かれ切っていたのだろうが、いくらなんでもあれはない。
しかも何もあの場で躍起にならずとも、どうせ旅館の大浴場にでも行けば、他の客でいくらでも確認のしようはあったはずだ。
「何が悲しくて旅先で半ケツさらして、大恥かかなきゃならなかったんだ……」
「デスヨネ」
ギロっと視線だけで人が殺せそうな目を向けられて、ファイは思いっきり背中を丸めて小さくなった。
当時の怒りと羞恥が蘇った黒鋼は、ブルブルと身を震わせていた。
マズい。これはおつまみ感覚など、とっくに通り越しているマジなやつだ……。
「ほ、ホントにごめん黒たん……。黒たんのこと、すっごく親切な人だなって思ったから……あ、ほら、旅は道連れ世はナスビって言葉もあるし……」
「情けだアホ」
「あのね、仲良くなるキッカケにもなるかな~って……」
「なるかアホ。もういい……。てめぇの人知を超える奇行は今もたいして変わらねぇからな……」
それは一体どういうことですか、しかもアホって二回も言いましたよね、と言いたかったが、今は余計なことは口にしないでおこうと思った。
それに仲良くなりたかったというのも嘘ではない。
だが、あの時あんなにも焦ることはなかった。当時の黒鋼にしては不幸以外の何物でもなかったろうが、なんと宿泊先の旅館も同じだったのだ。
男湯の入り口で再会してしまったときは、旅館中を追い回されて本気で殺されかけた。
それなのに、また会えたことに喜びを感じてしまったのだから、おそらく初めて目が合った瞬間から、ファイはこの男に落ちていたのだと思う。
そう、あの心臓を強く掴まれて、揺さぶられたような感覚。
呼び止められて、振り返って、その姿を瞳に捉えたあの時、直感的に感じたものがある。
「オレさ、黒たんと初めてあったときにね、思ったことがあるんだ」
「なんだよ」
再びミカンを剥き始めた黒鋼の手元を見つめる。
あんな出会い方をしたのに、今では当たり前のように傍にいる人。
「あー、オレこの人と死ぬまで一緒にいるんだなーって」
なんの根拠もなかったけれど。
言葉や理屈で片づけられるものではなくて、まるで息をするかのようにごく自然にそう思えた。
不思議だけど、不思議じゃない。
日本で教師になろうと決めて、その夢を叶えた途端に、名前すら聞けなかったこの人と再び出会った。
直感は確信に変わった。彼こそが、この先ずっと並んで歩いていく人だ、と。
黒鋼はミカンを剥く手を止めた。それから、大きな溜息をつくのと一緒に、一言、こう言った。
「そいつは奇遇だな」
全てを諦めたような言い方をするくせに、どこか満足気な表情を浮かべている黒鋼に、ファイは頬を染めてはにかんだ。
ちなにみファイの双子の弟、ユゥイは当時のことについてこう語る。
「ああ、あのボロボロの袋に入ってたお守りね。今も大事に持ってますよ。捨てられませんよ。祈願されても成就することはないでしょうけどね。生物学的に」
ファイのお土産のお守りには『安産祈願』と書かれていたという……。
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ファイは黒鋼の部屋でダラリとくつろいでいた。
「お正月が終わるとー、なんか寂しい気持ちになるよねー」
「……」
「クリスマスくらいに戻りたいなーって思っちゃうー」
「……」
「年末ってバタバタして忙しいけどー、そわそわウキウキしちゃうよねー」
「……」
「クリスマスはー、いっぱいお酒飲むでしょー? ケーキも食べるしー、ご馳走いっぱいでしょー」
「……」
「お正月もお酒飲むでしょー、お餅美味しいでしょー、あ、かまぼこもーって、黒様先生ってば無視しないでー」
「うるせぇな……今忙しいんだよ」
黒鋼は先刻からずっとミカンの皮を剥いていた。
近所のスーパーで箱買いしたミカンは一つ一つが大ぶりだったが、彼の手の中では不思議と小ぶりに見える。
身体を丸めてコタツから頭だけ出していたファイは、もぞもぞと芋虫のように這い出して座りなおすと、向かいにいた黒鋼の横に四つん這いで近づいた。
「わー、キレイ」
隣に座ってコタツに入りなおすファイの唇に向かって、綺麗に薄皮まで剥かれたミカンが差し出されたので、黙って口をアーンと開ける。
「あまぁい」
噛みしめた途端に弾けた甘さに、ファイはニコニコと笑った。
それを見て黒鋼が舌打ちをする。
「てめぇで剥きやがれ。薄皮まで剥かせやがって」
「だってー、薄皮って舌触りが悪いし、剥いていると手が汚れるんだもーん」
「甘えやがって。ガキか」
「へへー」
ぐちぐちと文句を言いつつ、次々とミカンが口元に運ばれてくる。
ファイは顔がにやけるのを止められない。剥いてと頼んだ時は無言でやりはじめたのに、剥き終ってから文句を言うのが面白い。
しかもここまでしてくれなんて頼んでいないのに、わざわざ食べさせてくれるところが可愛いと思った。
「黒たん先生ってー、丸くなったよねー」
「あ? 別に体重に変わりはねぇぞ」
「そういう意味じゃなくてー。中身の話だよー」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃないよー。だって初対面でゲンコツしてくる狂犬だったしー」
そんな覚えはないとばかりにムッと顔を顰める黒鋼。忘れているとは何事だろうか。
ファイにとってはあまりにも衝撃的だった、あの初めて出会った時のことを。
だがすぐに、黒鋼はハッと思い出したように目を見開くと、すぐに手を額に当てて脱力した。
「まさかおまえ、あの時のこと言ってんじゃねぇだろうな……」
「そのまさかだよー! 記念すべき運命の出会いの時のことー!」
「それ以上言うんじゃねぇ……黒歴史の蓋開けやがって……思い出すだけで軽く殺意が湧くぜ」
「軽くって……おつまみ感覚で恋人に殺意抱かないでよー」
「それこそ思い出してもみやがれ! そもそも初対面の人間にゲンコツ食らうような自分の行いを!!」
「えー?」
なんだっけなぁ……と、ファイは視線を天井へ向けて記憶を呼び覚ます。
「そうだね……あの日は確か生憎の雨だった……。オレは一人異国の地をさすらう旅人で……」
「カッコつけてんじゃねぇ。ただの外国人観光客だろ。あと雨も降ってなかったぜ」
「ちょ、雰囲気でないから突っこみ入れないで」
黒鋼が、忌々しげに「けっ」と小さな声を上げた。
そう、あの時ファイはまだ学生で、休暇を利用して日本の某観光地に一人で訪れていた。
当時はまだ故郷であるイタリアに暮らしていたが、子供の頃に興味を持って以来、日本は一度は訪れたい憧れの国だった。
ユゥイを強制的に巻き込んで、一緒に会話をしながらある程度の日本語もマスターしていた。
「最初は順調だったんだよねー。ガイドブック片手に神社とかお寺巡りしたり、和菓子食べたり……」
だが、すぐに問題が発生した。
ユゥイへのお土産にと購入したお守りが入った紙袋を、紛失してしまったのだ。
それに気付いたのは、宿泊中の旅館へ戻る途中の駅の構内だった。
「今でも忘れられないなぁ……あのお守りを黒たん先生が拾ってくれた時のこと……」
「あんときアレに気付かなけりゃ……あんな悲劇は起こらなかったのにな……」
以下、当時の回想シーン↓
ユゥイのお守りを無くしてしまったファイは、多くの観光客が行き交う駅構内で困り果てていた。
確かに鞄に入れたと思っていたのだが、どこかで財布を取り出す時にでも落としたのだろうか。
明日にでも買い直せばいいかとも思ったが、探しもしないで諦めたのでは罰が当たる気がする。
だから慌てて引き返そうとしたその時だった。
「おい、そこの外人」
どこか不機嫌そうな声を背中に受けて、咄嗟に振り向いた。
そこには背の高い、若い日本人男性がこちらを真っすぐに見ていた。
今にも噛みつかれそうなほど鋭い目つきと、漆黒の髪。見上げるほどの長身に、服の上からでもわかるほど立派な体格を持つ若者だった。
日本人だ、と思った。
日本に観光に来て、周りも日本人だらけなのだから当たり前なのだが、ファイは彼を見てしみじみそう感じた。
それほどまでに彼が持つ『黒』は魅力的で、それを持たぬファイは強く惹きつけられた。
そして何より、そのときファイはなんとも言えない不思議な感覚にとらわれていた。
目が合ったその一瞬で、心臓を何かに掴まれたような気がしたのだ。
「これ、落としただろ」
一歩二歩と近づいてきた若者が、大きな手をこちらに向けてくる。
その手の中には白い小さな紙袋があった。
「あ! これ!」
「気をつけろよ」
「うわー! ありがとー!」
紙袋を受け取り、すぐにまた声をかけようとして顔を上げた。
だが、彼はすでにこちらに背を向けている。
「ぁ……」
このままでは行ってしまうと思ったとき、ファイは即座に男の肩を掴んでいた。
「ま、待って!」
「なんだよ」
「あ、あの……オレ、イタリアから今日初めて日本に来たんだけど」
「そうか」
「君も観光?」
上目使いに問うと、彼は短く「ああ」と答えた。
顔は恐ろしいが、親切な男だ。だがどうやらあまり社交的ではないらしい。けれど、すぐに立ち去る素振りもない。お互い、なぜかじっと見つめ合っていた。
不思議な沈黙が流れる中、ファイはこの青年を引きとめるための口実を、必死で考えていた。
初めて会った、ただ落し物を拾ってくれただけの相手。
それなのにどうしてか、このまま別れたくない。なんでもいいから、話題を……。
「あ、あのね、よければ教えてほしいことがあって……」
「……なんだよ」
「あの……一人……?」
「?」
「一人で、旅行してるの?」
男は何かを察したようだった。
「一人だが」
「ほんと?」
「おう」
「じゃ、じゃあ……、ぁ!」
パッと目を輝かせたファイは、ふいに強い力に腰を抱かれて息を詰まらせた。
「俺から誘うつもりだったんだが」
「え……」
至近距離に男の燃えるような紅蓮の瞳がある。ファイは瞬きさえ許されないような気がした。
頬が熱くなり、ドクドクと音を立てながら全身に血液が回る。
「右も左もわからねぇ外国人を、一人で歩かせるわけにはいかねぇだろ?」
腰に男の腕が回っていなければ、今にも膝から崩れ落ちていたかもしれない。
胸がときめいて、じんわりと瞳が潤んでしまうのを抑えられなかった。
男はその低い声で、ファイの耳元に甘く囁いた。
「なんなら教えてやるよ……日本式の、夜の営みってやつも……な 」
「す……素敵……!」
そうして異国の地で出会った名も知らぬ男に、ファイは身も心も奪わr
「待てぇえぇぇい!!!」
テーブルをバンと叩く音と共に、黒鋼の怒声が室内に響き渡った。
うっとりと当時の回想に耽っていたファイは、思いっきり不満そうに唇を尖らせる。
「いきなり大声出さないでよー。これから本番シーンの回想に入るとこだったのにー」
「事実にねぇことを回想すんな!! おまえ頭おかしいぞ! いいか!? よく聞け! おまえは、頭が、おかしい!!」
「二回も言うことないでしょー!?」
「大事なことだからに決まってんだろ!!」
「もー! どこが不満なのかさっぱりわかんない! この方がドラマがあってロマンティックが止まらないじゃん!」
「止まれ! やり直しを要求する!!」
「えー……どの辺からー?」
「よければ教えてほしいことがあって、からだ!!」
「むー……」
テイク2↓
「あ、あのね、よければ教えてほしいことがあって……」
「あ?」
男が怪訝そうな顔をする。その表情にはハッキリと『面倒』の二文字が浮き上がっていた気がするが、ファイはあえて空気を読まなかった。
他の観光客は年配の方ばかりだったので、年齢が近いと思しき日本人に対して親近感もあった。しかも顔は恐ろしいが親切な人のようだし、思い切って聞いてみることにした。
ガシッと両肩を掴んで男と向き合うと、真剣な表情で口を開いた。
「日本男児ってことは、君ってサムライだよね!?」
「……は?」
「サムライスピリッツだよね!?」
「そんな古めかしいタイトルは知らねぇな」
「違うの!? じゃあどこ!? 日本に降り立ってからずっと探してるんだけど、チョンマゲもカタナも見当たらないんだ!!」
「おまえ、いくら外国人だからって、ベタの王道行きすぎだぞ」
「じゃあ百歩譲ってニンジャはどこに!?」
「いねぇよそんなもん!!」
「そんなの嘘だー!!」
他の観光客が、二人を思いっきり避けて通っていく。
男はあからさまに「面倒くせぇのに捕まっちまった……」という空気を放っていた。
しかしファイはそんなこと知ったこっちゃなかった。
ユゥイにだって約束したのだ。侍や忍者に会ったら、サインをもらってくると。きっと今頃楽しみに待っているに違いない。
ならせめて、とファイは思った。
日本に来たら、どうしても見てみたいものがもう一つあったのだ。
「俺はもう行くぞ。じゃあな」
男がファイの手を振り払い、再び背を向けて歩き始めた。
その瞬間を狙って、一気に飛びかかる。
「そぉい!!」
掛け声と共に、ファイの両手が男のウエスト部分にかかり、見つけた引っかかりに指をかけて思いっきり体重をかけた。
「!?」
その瞬間、男のジーンズがズルッと中途半端に下げられた。
「て、てめぇなんのつもりだこらぁ!?」
「中のもの見せて!! このままじゃオレ帰れない!!」
「意味わかんねぇ何だこの変態外人!!」
男は必死でジーンズのウエスト部分を死守しながら、前へと前進する。
ファイは掴んだそれを離すまいと、そのままズルズルと引きずられた。
観光客のマダム達から悲鳴が上がる。やがて騒ぎを聞きつけた駅員まで駆けつけて、辺りは騒然とした。
そしてついに、男の臀部が半分だけ顔を覗かせたところで、ファイは人生初のゲンコツを食らった。
テイク2終了
「…………」
「…………」
重々しい沈黙が流れた。
若気の至りとは恐ろしいもので、流石のファイも当時の自分の奇行を振り返って遠い目をした。
「……ふんどしをね」
「…………」
「日本の男の人は、ふんどしを履いてるんだと思って……」
どうしてもそれが見てみたかった。
日本人はシャイだから、見せてくれと言っても見せてはくれないだろうと思った。
普通に考えればどこの国の人間だろうが、いきなり下着を見せてくれと頼まれて了承する者はいないだろう。
あの時の自分は一体どういう思考回路をしていたのか。初めての日本で浮かれ切っていたのだろうが、いくらなんでもあれはない。
しかも何もあの場で躍起にならずとも、どうせ旅館の大浴場にでも行けば、他の客でいくらでも確認のしようはあったはずだ。
「何が悲しくて旅先で半ケツさらして、大恥かかなきゃならなかったんだ……」
「デスヨネ」
ギロっと視線だけで人が殺せそうな目を向けられて、ファイは思いっきり背中を丸めて小さくなった。
当時の怒りと羞恥が蘇った黒鋼は、ブルブルと身を震わせていた。
マズい。これはおつまみ感覚など、とっくに通り越しているマジなやつだ……。
「ほ、ホントにごめん黒たん……。黒たんのこと、すっごく親切な人だなって思ったから……あ、ほら、旅は道連れ世はナスビって言葉もあるし……」
「情けだアホ」
「あのね、仲良くなるキッカケにもなるかな~って……」
「なるかアホ。もういい……。てめぇの人知を超える奇行は今もたいして変わらねぇからな……」
それは一体どういうことですか、しかもアホって二回も言いましたよね、と言いたかったが、今は余計なことは口にしないでおこうと思った。
それに仲良くなりたかったというのも嘘ではない。
だが、あの時あんなにも焦ることはなかった。当時の黒鋼にしては不幸以外の何物でもなかったろうが、なんと宿泊先の旅館も同じだったのだ。
男湯の入り口で再会してしまったときは、旅館中を追い回されて本気で殺されかけた。
それなのに、また会えたことに喜びを感じてしまったのだから、おそらく初めて目が合った瞬間から、ファイはこの男に落ちていたのだと思う。
そう、あの心臓を強く掴まれて、揺さぶられたような感覚。
呼び止められて、振り返って、その姿を瞳に捉えたあの時、直感的に感じたものがある。
「オレさ、黒たんと初めてあったときにね、思ったことがあるんだ」
「なんだよ」
再びミカンを剥き始めた黒鋼の手元を見つめる。
あんな出会い方をしたのに、今では当たり前のように傍にいる人。
「あー、オレこの人と死ぬまで一緒にいるんだなーって」
なんの根拠もなかったけれど。
言葉や理屈で片づけられるものではなくて、まるで息をするかのようにごく自然にそう思えた。
不思議だけど、不思議じゃない。
日本で教師になろうと決めて、その夢を叶えた途端に、名前すら聞けなかったこの人と再び出会った。
直感は確信に変わった。彼こそが、この先ずっと並んで歩いていく人だ、と。
黒鋼はミカンを剥く手を止めた。それから、大きな溜息をつくのと一緒に、一言、こう言った。
「そいつは奇遇だな」
全てを諦めたような言い方をするくせに、どこか満足気な表情を浮かべている黒鋼に、ファイは頬を染めてはにかんだ。
ちなにみファイの双子の弟、ユゥイは当時のことについてこう語る。
「ああ、あのボロボロの袋に入ってたお守りね。今も大事に持ってますよ。捨てられませんよ。祈願されても成就することはないでしょうけどね。生物学的に」
ファイのお土産のお守りには『安産祈願』と書かれていたという……。
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今までもらった🌊箱の返信だとか、頂き物だとかはそっちにあるので、もったいないという理由から雑記帳として使っています。
気が向いたら覗いてもらえると嬉しいです😚
🌊箱、返信不要でコメントくださった方ありがとうございました!