2025年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
つい出来心でシャアシャリ小説を支部に投稿してました。
最終決戦後、ご都合ゼクノヴァで異世界の日本(2025・現代)に飛ばされたシャアシャリが、シャアシャリ推しのモブ♂(オレ)に保護されてアパート暮らしをすることになる話です。→ゴミ捨て場で推しカプを拾った件
急に思い立ってすごい勢いで書き殴ってしまったのですが楽しかったです。
終始モブ視点ですがシャアシャリと言い張ります…。
↓続きの記事で波箱のお返事をさせていただきました!
コメントいただけると思っていなかったのでめちゃくちゃビックリしました😂
2025/9/4
🍷推しカプ拾うモブのお話~のお方
→返信ページ
畳む
最終決戦後、ご都合ゼクノヴァで異世界の日本(2025・現代)に飛ばされたシャアシャリが、シャアシャリ推しのモブ♂(オレ)に保護されてアパート暮らしをすることになる話です。→ゴミ捨て場で推しカプを拾った件
急に思い立ってすごい勢いで書き殴ってしまったのですが楽しかったです。
終始モブ視点ですがシャアシャリと言い張ります…。
↓続きの記事で波箱のお返事をさせていただきました!
コメントいただけると思っていなかったのでめちゃくちゃビックリしました😂
2025/9/4
🍷推しカプ拾うモブのお話~のお方
→返信ページ
畳む
2025年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
コツコツと倉庫サイトからの作品お引越し作業してます。
もうなんか…熱くてダメです…。何もする気が起こらない~!!
あと夏の間はエアコン事情のせいで一人になれる空間と時間が限られているため、なかなか集中して作業ができないので困ってます。
全部の部屋にエアコンがあったらいいのになぁ…。人の気配が傍にあるとどうしても集中できないんですよね。そんなの関係ねぇの精神でやれたらいいんだけど、ダメなもんはダメなんだ😂
もうなんか…熱くてダメです…。何もする気が起こらない~!!
あと夏の間はエアコン事情のせいで一人になれる空間と時間が限られているため、なかなか集中して作業ができないので困ってます。
全部の部屋にエアコンがあったらいいのになぁ…。人の気配が傍にあるとどうしても集中できないんですよね。そんなの関係ねぇの精神でやれたらいいんだけど、ダメなもんはダメなんだ😂
あの夏の日をなぞるように、操の足は自然と裏山へと伸びていた。
子供ひとりがやっと通れるくらいの獣道は、あのころよりも執拗に操を拒む。枯れ葉と小枝が敷き詰められた地面は足裏を傷つけ、張り出した鋭利な枝が皮膚をかすめる。
一秒ごとに薄青い闇が深くなっていくなか、強い雨が草木をひどく叩いていた。バタバタというその音にかき消され、甲洋が追いかけてきているかどうかすら、操には分からない。ただ、振り返るのが怖かった。
ずっと家の中でばかり過ごしていた操の足は、どのみち弱りきっていた。子供のころは平気で駆け抜けていたはずの山道で、いまは足をとられないようにするだけで精一杯だった。
行手を妨げる枝を両手で掻き分けながら、ひどく息が乱れてくる。降りしきる雨が確実に体力を削り取っていた。
(壊れた……ぜんぶ、おれが壊したんだ……!)
操は籠の外に飛び出してしまった。甲洋と寄り添ってきたはずの暮らしが、なにもかも幻のように輪郭をなくしている。
どこへ行けばいいのだろう。甲洋から逃れて、どこに行けば。操にとっては甲洋だけが世界のすべてだった。甲洋さえいればいいと思っていた。だけどその甲洋が、今は、怖い。
雨音に紛れるようにして、野鳥がギャアという声をあげる。恐ろしさのあまり漏れだしそうになった悲鳴を、操はどうにか飲み込んだ。酸素が足りず、肺ががさついた音を立てていた。
それでも前に進みながら、操は甲洋との日々を思いだしていた。
どうしてか、それはすべて幼い頃のものばかりだった。初めて出会ったあの夏の日。恥ずかしくて、なかなか顔を出せなかったこと。目を合わせたとき、お互いに頬を染めたこと。同じ布団に入って、いつまでも内緒話をした蚊帳の中。手をつないで駆け抜けた、あの蒼い空の下。甲洋の笑顔を。
(戻りたい)
強く思う。だってきっと、あのころならまだ間に合った。
幼かった操は今と同じように、こうして甲洋から逃げていた。だけど足を止め、甲洋と向き合って、たった一言「ごめんなさい」と言えたなら。きっと違う結末が待っていた。
それがどんなものなのか、操には分からない。考えたって意味がない。胸を刺すのは、冷たい後悔の雨だった。
(おれが欲張りだったから)
欲しいものはなんだって持っていたのに。愛してくれる家族も、服も、靴だって。それでも欲しかった。なにも持っていない甲洋が欲しかった。
「あッ──!」
そのとき、ぬかるみに足をとられた。
あのときと同じように、操は手近にあった枝のひとつを掴もうとした。だけどやっぱりあのときと同じで、なんだかすべてが、どうでもよくなってしまった。
(ねぇ甲洋)
あの夏は戻らない。水の煌めきも、釣った魚も、イタズラに捕らえた小さな命も。手を繋いで走ったあぜ道は、コンクリートに埋もれてしまった。
(自由って、なに?)
それはきっと途方もないこと。泳ぎ方も知らないままに、果てのない海を渡ろうとするのと同じこと。
操は生き方を知らない。世界を知らない。あの繭のような鳥籠に、甲洋さえいればそれでよかった。
だけどもう二度と、笑い合うことすらできないのなら──。
「来主っ!!」
諦めて宙を切ろうとした手首を、強い力が掴み上げる。
操の身体は思い切り引っ張り上げられ、振り子のように弾みをつけて後方の地面へと放り投げられる。
全ては一瞬の出来事だった。操は見た。代わりに空へと身を投げ出す、甲洋と目が合った。
まるでコマ送りをしているようだった。甲洋は操の無事を悟り、安心したように、ふわりと笑った。操がずっと好きだった、あの優しい笑顔で。
──間に合った
唇が、確かにそう動くのを見た。
彼は静かに目を閉じて、深い闇へと、落ちていった。
*
「甲洋!! 甲洋、甲洋っ、ああぁ──っ!!」
子供のように泣きじゃくり、操は死にものぐるいで甲洋が消えていった崖下を目指して走った。
斜面を滑り、木の根に足を取られながら、何度も転んで、傷ついて、泥まみれになりながら遠回りをして、必死で彼を探した。
彼はいた。薄暗いなか、崖下にぐったりとその身を横たえていた。
「甲洋! 甲洋!!」
操は尖った小石や小枝で傷つき、赤い靴を履いたみたいに血まみれになった足で彼に駆け寄る。
「甲洋……っ」
膝の上にもたれかけるようにして抱き起こした。その頬を頭の天辺から髪を乱すようにしながらなで擦ると、ぬるりとした冷たい感触が手のひらを濡らす。
「ッ!?」
ひどい血。操が息をのむのと同時に、甲洋の額から赤いものが流れ落ち、とろとろと頬を伝い落ちては、ワイシャツの白い襟さえも染めていく。
操はぐったりしたまま動かない甲洋を抱きしめて、枯れた声を絞り出すようにしながら泣き声をあげた。それは断末魔にも似た悲痛な叫び声だった。
「どうして……どうしてぇ! なんで助けたの……っ、なんで、なんで……ああぁ……ッ!!」
ここに横たわっていなければならないのは、彼ではなかったはずなのに。
「くる、す」
ひどく泣きながら身を震わせる操の頬に、冷たい指先が触れた。操はハッとして顔をあげ、その指先を強く強く握りしめる。
「甲洋!?」
薄暗いなか、叩きつけていたはずの雨はいつの間にか、包み込むような霧雨に変わっていた。甲洋が、操を見上げてほっと息をつきながら、ゆるりと笑う。
「よか、た。無事、で」
「喋らないで! いま誰かひとを呼んでくるから!!」
「くる、す……来主」
「うん、うん……大丈夫だから、大丈夫だから……」
甲洋は微笑みながら、なにかを伝えようとして青褪めた唇を震わせる。操はぼろぼろと涙を零し、彼を安心させるために何度も頷いた。
「かわい、かったんだ」
「こう、よ?」
「小さくて、すごく……可愛かった……恥ずかしそうにして、なかなか、顔を見せてくれなくて」
「ッ!」
「すごく、かわいかったんだ……」
血に染まった赤い瞳を懐かしそうに細めながら、甲洋は操越しに遠いあの夏の日を見つめていた。
初めて会ったときのことを、今でもよく覚えている。操はどうしても恥ずかしくて、ずっと祖母の後ろでしがみついていた。
「俺は、あのときから、お前が好きで……ずっと、守りたくて……」
「っ、ぅ……こう、よ……」
「だから、嬉しかった……お前が、俺のこと好きって、言ってくれたこと、本当に、嬉しかった」
「そうだよ! おれは君のことが大好きだよ! だからお願い……もう、喋らないで……」
操は甲洋の頭を抱き込むようにしながら背中を丸めた。
もう戻らないと思っていた、遠い夏。確かに操は、甲洋のことが大好きだった。純粋だった。ひたむきだった。ああ、あれは、恋だった。
「俺は、ね、来主。お前が怪我をした、あのとき……怖いのにさ、どこかで、喜んでたんだよ」
「っ……!」
「これで、お前はもう、一人では生きられないんだって……俺のことを、ずっと、必要としてくれるん、だって」
心臓を強く掴み上げられたような感覚に、操は喉を鳴らしながら息をのむ。
同じ気持ちだった。彼と操は同じだった。同じ形に、歪んでいた。
「だから、気づかないふりをしたんだよ……お前の足のこと……気づかないふりをしながら、怖かった……お前はいつか、きっと俺を置いていなくなる……それがずっと、こわかった……」
「だから、嘘をついたの……?」
操に繰り返し暗示をかけて、町の人を欺いて。そうやって操を世界から遠ざけた。
遠ざけながら、だけどきっと閉じ込められていたのは甲洋だったのだ。彼を縛っていたのは、操のちっぽけな嘘なんかではなくて。
──だっておれ、甲洋のこと大好きだもん
あの言葉が、彼を絡め取ったのだ。愛情に飢えた子供が、ようやく手に入れた『救い』が、少しずつ少しずつ、彼を壊していったのかもしれない。
その『好き』が永遠であるようにと願いながら、いつか失われるかもしれないと、同時に怯えてもいた。彼はとても臆病で、愛し方も、愛され方も知らない子供だったから。
操の腕のなかで、甲洋はクスリと笑った。体温が、どんどん失われていくのが分かる。
「い、嫌だ甲洋! 死なないで……おれをひとりにしないでよぉ!」
「愛してた……来主……ずっと、ずっと」
──お前は俺の、神様だったよ
その言葉が、最後だった。
*
初夏だった。
茂る若葉は散った桜の面影すら残していない。
ただ暑い真夏の到来を待ちながら、淡々と風に吹かれて蒼い空へと枝を伸ばす。そんな季節。
「こんにちはー!」
午前中の日差しが、清潔感に溢れた病棟の廊下を白く光らせている。
ナースステーションにはすっかり顔なじみになった看護師が何人かいた。元気に挨拶をしながらエレベーターからおりてきた操を、笑顔で出迎えてくれる。その中には、白衣を来た若い医者の姿もあった。
「おう、来たか」
「あ、剣司だ。こんにちは」
「元気そうだな、今日も」
近藤剣司はカウンター越しに操に笑いかける。左手の薬指には指輪が光っていた。つい最近結婚したらしい。奥さんは妊娠していて、来年には子供が産まれる予定なのだと、先日会ったとき嬉しそうに話をしていた。
そうやっていつもは会えばなにかと立ち話をするのだが、今日の操は少し焦っている。
「剣司、甲洋は?」
「相変わらずだよ。早く行ってやんな。俺もあとで顔出すよ」
「うん、わかった! またね!」
剣司に手を振り、足早に廊下を進む。
操は時間が許す限りこの隣町にある病院を訪れているが、昨日は事情があって来られなかった。だから早く、顔が見たい。
廊下の一番奥の病室に、甲洋はいる。
操は静かに扉をスライドさせ、ひょっこりと顔だけを出すようにしながら中を覗き込んだ。
「甲洋、来たよ」
甲洋は──。
ただそこで、眠っていた。
あれから二年。
彼はそのあいだ、ずっと昏睡状態のまま眠り続けている。
一時は危篤状態で、生命維持装置がなければ生きられなかった。けれどそこからどうにか持ち直し、今は片腕から最低限の管が通っているだけで、彼は自発的に呼吸ができるまでに回復している。
だけど意識だけは、ずっと戻らないままだった。
「ごめんね、昨日は来られなくて」
操はベッドの横に設置された椅子に腰掛け、明るく声をかける。彼の耳に届いているかは分からない。それでも構わず、ここに来るといつも絶え間なくお喋りをする。
「聞いてよ、店に新しい子が入ったんだ。高校生の男の子だよ。でも、一日来ただけで急に来なくなっちゃった。酷くない? あんまり急だから代わりもいないし。だから来られなかったよ。ごめん」
あれから、操は引きこもっていた時間を取り戻すように外へ出た。
洋服を着て、自分の足で歩いて、病院から近いこの隣町で、なんとなく楽しそうという理由からコンビニのアルバイトもはじめてみた。
ただ細々と暮らしていくだけなら、祖父母が遺した蓄えが十分にあったけれど、家にいたって甲洋は帰ってこない。その寂しさを、なにかで埋めていたかった。
甲洋はあの家での生活をすべて仕切りながら、祖父母の蓄えにはいっさい手をつけていなかった。操はそれをありがたく使わせてもらうことにした。バイトをしながら、車の免許をとった。今は甲洋の車を、勝手に乗り回している。
「甲洋、早く起きないかな。そしたら、おれが運転してるところを見てもらうんだ。楽しいね、運転って。早く君を助手席に乗せたいよ。君の車なんだけどね。大事に使ってるから、安心して」
彼が目覚めたら、一番最初にどこへ行きたがるだろう。甲洋が行きたい場所。ずっと近くにいたはずなのに、操には想像もつかない。だから早く知りたいのだ。彼が望む場所に、一緒に行きたいと思う。
だけど本当は、一番したいことは他にあった。それは操の我儘だけれど。
「釣り、行こっか?」
子供の頃に遊んだみたいに。川でもいいし、少しくらい遠くたって今なら海にだって行ける。また一緒に、手作りの竿で魚を釣ってみたかった。
「おれ、お弁当作るね。すごいでしょ。料理ができるようになったんだよ。前はそうめんを茹でるくらいしかできなかったけど……だって甲洋いないんだもん。誰もご飯作ってくれないんだ」
ねぇ甲洋、と、小さくその名を呼びながら、操は甲洋の手をとった。少し、痩せた。男性らしく厚みがあったはずの大きな手が、ひどく骨ばって乾燥していた。
「甲洋、ねぇ甲洋ってば。いろんなところに行きたいね。おれが連れてってあげるからね」
操はその手を両手でぎゅうと握りしめた。ベッドの縁に肘を置いて、唇にその長い指の甲を強く押しつける。
本当は生きていてくれただけで充分だった。だけどこうしていると、寂しさと恋しさがどこまでも高くその枝を伸ばしていく。
このまま目を覚まさない可能性もあると、剣司は言っていたけれど。
「早く起きてよ。君の声が聞きたい。話がしたいな」
操だけじゃない。みんなみんな、甲洋を知るひとは彼に会いたがっている。
友人知人をはじめとした近所のひとも、みんな時々ここを訪れては、眠り続ける甲洋を見て悲しそうにしている。
だけど彼を育てたはずの両親だけは、一度もここに来ていない。
あの事故のあと、操は春日井の家に電話を入れた。血の繋がりがなくたって、息子として育てた人間が生死の堺を彷徨っているのだ。どんな親だって絶対に駆けつけるはずだと、そう思った。
応じたのは父親だった。彼は一言、「そんなやつは知らん」と冷ややかに吐き捨てるだけだった。操はそのとき、初めて知った。
甲洋は彼らと絶縁状態にあった。店も継がずに出て行くのなら、もう二度と帰ってくるな。それが形ばかりの養親が息子に投げた、最後の言葉だったのだ。そうまでして、甲洋は来主の家にやってきた。操が冗談で言ったことを、本気で叶えるために。
「甲洋、ごめん」
じんわりと、涙で視界が曇っていった。
だけど甲洋の前では、いつも泣くのを我慢している。泣くのは家に帰ってからだ。
「花瓶の水、取り替えてこようかな! ちょっと待っててね」
そう言って、甲洋の手を離そうとした。だけどふと気がついた。
一瞬だけ、痩せた指先がピクリと動いたことに。
「っ!?」
操は息をのんだまま呼吸を止める。瞬きも忘れて、食い入るように甲洋の顔を見つめた。
ピクリ、ピクリと、また何度か指先が動いて、瞼が動いて、それから──
「甲洋……?」
ゆっくりと、長い睫毛を震わせながら。甲洋が、目を覚ました。
「……っ」
彼は小さく息を吸い込み、ぼんやりと天井を見つめたまま、幾度か瞬きをした。
久しぶりに見るその色素の薄い瞳に、操は込み上げてくる涙を止められなかった。
甲洋が目を覚ました。二年ものあいだずっと眠ったままだった彼が、やっと。
嬉しくて、今にも叫びだしてしまいそうなほど感情が溢れているのに、なにひとつ言葉にならない。
長かった。一分が、一秒が、永遠に感じられるほどだった。
けれどこれで、ようやくまた、一緒に──。
だけど。
彼は少しずつ、ぎこちない動きで視線を動かすと操を見た。目と目が合った瞬間、形容しがたい不思議な感覚にとらわれる。それは違和感だった。
なにかがおかしい。操は目を見張る。目の前で甲洋が口を開く。短く簡素に、
「だれ?」
と、言った。
「え……?」
ひび割れたように乾いた声だった。久しぶりに震わせた声帯が、ぎこちなく絡みついている。
操は耳を疑った。彼がなにを言ったのか、それだけでは理解できなかった。
「お兄さん、だれ? ここ、どこ? 父さんと、母さんは?」
甲洋はゆっくりと首を動かした。部屋中を見渡しながら、両親のことを探している。
その仕草も、言動も、不安そうな眼差しも。まるで小さな子供のようだった。
「甲洋……?」
操は震える声で、彼の名を呼んだ。甲洋は不安そうな瞳をしたまま、おそるおそる操を見る。
「どうして、俺の名前を知ってるの?」
操が覚えた不思議な違和感。それはまるで、彼が知らない人間を見るかのように、どこか幼く目を瞬かせていたから。
長い眠りから覚めた甲洋は、すべてを忘れてしまっていた。
あの夏の記憶も、あの腐った繭のようだった家での暮らしも。すべてを失って、幼い子供に還っていた。操に出会う前の、小さな春日井甲洋に。
「ッ……!」
信じられない思いと、引き裂かれたような喪失感に、操は肩を震わせた。涙と一緒に嗚咽を漏らし、彼の手を握りしめる。
どうして。ずっとずっと待っていたのに。あの夏を取り戻せるような気がしていたのに。笑顔が見られるのだと信じていたのに。優しい声が、名前を呼んでくれるのだと。
だけど操は失ったままだった。指の隙間からこぼれ落ちたものは、砂の一粒さえも残っていない。甲洋の記憶。甲洋と生きた時間。なにもかもを置き去りにして、彼はもう、ここにはいない。
泣きじゃくる操を見て、甲洋も泣きそうに顔を歪ませた。
駄目だと思った。泣いていてはいけない。彼を──この子を、これ以上不安にさせてはいけないと。操は涙を拭うと、無理やり笑顔を作ってみせる。
「おれの名前は、来主操」
「くるす、みさお?」
「うん。それがおれの名前だよ」
彼はとても不思議そうな顔をした。その名に聞き覚えがあるかのように、何度か唇で名前をなぞる。
だけど賢い甲洋は、他にも確かめなくてはいけないことが、山ほどあることに気がついていた。そしてここが病室であることを、幼いながらもすぐに理解したようだった。
どこか拙い話し方で、操に幾つも問いかける。
「俺は、ケガをしたの?」
「そうだよ。ケガをして、ずっと眠っていたんだよ」
「大きな病院……ここは、島の外?」
「そう。とても遠い場所」
「父さんと母さんは──」
言いかけて、甲洋は悲しそうに睫毛を伏せた。ここに両親はいない。知らない場所で目が覚めて、腕を管で繋がれて、それでも寄り添ってくれるはずの存在が傍にいないことを、彼はとっくに理解している。
甲洋がどんなに待ちわびても、彼らは来ない。絶対に。
「……俺、船に乗ってたはずなんだ。親戚の家に、行かなくちゃいけなくて」
ぽつりぽつりと、掠れた声が記憶をなぞっていくさまを、操は静かに見守った。
「父さんと母さん、旅行に行くから……俺は、連れてってもらえないから」
──ねぇ、甲洋は、どうしてここにひとりできたの?
「俺は……家族じゃないから」
ああ、あの日。操が問うた、その答え。
押し殺していた、彼の心。幼い胸に刻まれていた、本当の気持ち。
「……さみしい」
煤色の瞳から、透明な涙が一粒、落ちる。
後を追うように、それは幾つも幾つも、頬を伝った。
「父さん……母さん……さみしいよぉ……」
そう言って、彼はしくしくと泣きだした。
ひとりぼっちで船に乗って、電車に乗って、バスに乗って。あの日、初めて会ったあの日、きっとこの子は泣きながら来主の家までやってきた。そして、操と出会った。
あのころ、操の目に甲洋はとてもお兄さんのように見えていたけれど。
「甲洋」
大きな手。大人になっても、操の手は甲洋より小さくて。両手を使わなければ、彼の痩せた手ですら、すべて包み込むことができない。だけどこの手を、もう二度と離したくないと思った。
「ねぇ甲洋」
胸の奥底からとめどなく溢れだす感情が、操のすべてを飲み込んでいく。
甲洋はここにいる。生まれたての心で、ここにいる。だから愛そう。この子を愛そう。あの繭のような鳥籠で。ふたりぼっちで、もういちど。
「平気だよ」
操と甲洋は間違えてしまった。愛し方を間違えてしまった。
そしてまた、同じ間違いを繰り返そうとしている。この愛は、きっとまた彼を絡めとるだろう。
「おれがずっと一緒にいてあげる。だからもう、さみしくないよ」
操は彼の手を握ったままわずかに腰を浮かせ、乾いた唇にキスをした。
窓ガラスから差し込む初夏の日差しで、病室の中は白く眩しい。光のなかで、甲洋は濡れた瞳を見開いていた。その頬が、みるみるうちに赤く染まる。
可愛いと思った。幼くて、まっさらで、可哀想で──とても、愛しい。
「好きだよ甲洋」
操は知っている。甲洋の孤独を知っている。彼が欲しいものを、欲しい言葉を、知っている。そしてそれを与えられるのが自分だけだということを、知っていた。
「君を愛してる。世界でいちばん、誰よりも」
声も出せずに、「どうして」とだけ唇を動かした甲洋に、操は柔らかく微笑んだ。
「君はおれの、神様だから」
今この瞬間、操の言葉は呪いのように──。
繭の鳥籠/了
←戻る ・ Wavebox👏
子供ひとりがやっと通れるくらいの獣道は、あのころよりも執拗に操を拒む。枯れ葉と小枝が敷き詰められた地面は足裏を傷つけ、張り出した鋭利な枝が皮膚をかすめる。
一秒ごとに薄青い闇が深くなっていくなか、強い雨が草木をひどく叩いていた。バタバタというその音にかき消され、甲洋が追いかけてきているかどうかすら、操には分からない。ただ、振り返るのが怖かった。
ずっと家の中でばかり過ごしていた操の足は、どのみち弱りきっていた。子供のころは平気で駆け抜けていたはずの山道で、いまは足をとられないようにするだけで精一杯だった。
行手を妨げる枝を両手で掻き分けながら、ひどく息が乱れてくる。降りしきる雨が確実に体力を削り取っていた。
(壊れた……ぜんぶ、おれが壊したんだ……!)
操は籠の外に飛び出してしまった。甲洋と寄り添ってきたはずの暮らしが、なにもかも幻のように輪郭をなくしている。
どこへ行けばいいのだろう。甲洋から逃れて、どこに行けば。操にとっては甲洋だけが世界のすべてだった。甲洋さえいればいいと思っていた。だけどその甲洋が、今は、怖い。
雨音に紛れるようにして、野鳥がギャアという声をあげる。恐ろしさのあまり漏れだしそうになった悲鳴を、操はどうにか飲み込んだ。酸素が足りず、肺ががさついた音を立てていた。
それでも前に進みながら、操は甲洋との日々を思いだしていた。
どうしてか、それはすべて幼い頃のものばかりだった。初めて出会ったあの夏の日。恥ずかしくて、なかなか顔を出せなかったこと。目を合わせたとき、お互いに頬を染めたこと。同じ布団に入って、いつまでも内緒話をした蚊帳の中。手をつないで駆け抜けた、あの蒼い空の下。甲洋の笑顔を。
(戻りたい)
強く思う。だってきっと、あのころならまだ間に合った。
幼かった操は今と同じように、こうして甲洋から逃げていた。だけど足を止め、甲洋と向き合って、たった一言「ごめんなさい」と言えたなら。きっと違う結末が待っていた。
それがどんなものなのか、操には分からない。考えたって意味がない。胸を刺すのは、冷たい後悔の雨だった。
(おれが欲張りだったから)
欲しいものはなんだって持っていたのに。愛してくれる家族も、服も、靴だって。それでも欲しかった。なにも持っていない甲洋が欲しかった。
「あッ──!」
そのとき、ぬかるみに足をとられた。
あのときと同じように、操は手近にあった枝のひとつを掴もうとした。だけどやっぱりあのときと同じで、なんだかすべてが、どうでもよくなってしまった。
(ねぇ甲洋)
あの夏は戻らない。水の煌めきも、釣った魚も、イタズラに捕らえた小さな命も。手を繋いで走ったあぜ道は、コンクリートに埋もれてしまった。
(自由って、なに?)
それはきっと途方もないこと。泳ぎ方も知らないままに、果てのない海を渡ろうとするのと同じこと。
操は生き方を知らない。世界を知らない。あの繭のような鳥籠に、甲洋さえいればそれでよかった。
だけどもう二度と、笑い合うことすらできないのなら──。
「来主っ!!」
諦めて宙を切ろうとした手首を、強い力が掴み上げる。
操の身体は思い切り引っ張り上げられ、振り子のように弾みをつけて後方の地面へと放り投げられる。
全ては一瞬の出来事だった。操は見た。代わりに空へと身を投げ出す、甲洋と目が合った。
まるでコマ送りをしているようだった。甲洋は操の無事を悟り、安心したように、ふわりと笑った。操がずっと好きだった、あの優しい笑顔で。
──間に合った
唇が、確かにそう動くのを見た。
彼は静かに目を閉じて、深い闇へと、落ちていった。
*
「甲洋!! 甲洋、甲洋っ、ああぁ──っ!!」
子供のように泣きじゃくり、操は死にものぐるいで甲洋が消えていった崖下を目指して走った。
斜面を滑り、木の根に足を取られながら、何度も転んで、傷ついて、泥まみれになりながら遠回りをして、必死で彼を探した。
彼はいた。薄暗いなか、崖下にぐったりとその身を横たえていた。
「甲洋! 甲洋!!」
操は尖った小石や小枝で傷つき、赤い靴を履いたみたいに血まみれになった足で彼に駆け寄る。
「甲洋……っ」
膝の上にもたれかけるようにして抱き起こした。その頬を頭の天辺から髪を乱すようにしながらなで擦ると、ぬるりとした冷たい感触が手のひらを濡らす。
「ッ!?」
ひどい血。操が息をのむのと同時に、甲洋の額から赤いものが流れ落ち、とろとろと頬を伝い落ちては、ワイシャツの白い襟さえも染めていく。
操はぐったりしたまま動かない甲洋を抱きしめて、枯れた声を絞り出すようにしながら泣き声をあげた。それは断末魔にも似た悲痛な叫び声だった。
「どうして……どうしてぇ! なんで助けたの……っ、なんで、なんで……ああぁ……ッ!!」
ここに横たわっていなければならないのは、彼ではなかったはずなのに。
「くる、す」
ひどく泣きながら身を震わせる操の頬に、冷たい指先が触れた。操はハッとして顔をあげ、その指先を強く強く握りしめる。
「甲洋!?」
薄暗いなか、叩きつけていたはずの雨はいつの間にか、包み込むような霧雨に変わっていた。甲洋が、操を見上げてほっと息をつきながら、ゆるりと笑う。
「よか、た。無事、で」
「喋らないで! いま誰かひとを呼んでくるから!!」
「くる、す……来主」
「うん、うん……大丈夫だから、大丈夫だから……」
甲洋は微笑みながら、なにかを伝えようとして青褪めた唇を震わせる。操はぼろぼろと涙を零し、彼を安心させるために何度も頷いた。
「かわい、かったんだ」
「こう、よ?」
「小さくて、すごく……可愛かった……恥ずかしそうにして、なかなか、顔を見せてくれなくて」
「ッ!」
「すごく、かわいかったんだ……」
血に染まった赤い瞳を懐かしそうに細めながら、甲洋は操越しに遠いあの夏の日を見つめていた。
初めて会ったときのことを、今でもよく覚えている。操はどうしても恥ずかしくて、ずっと祖母の後ろでしがみついていた。
「俺は、あのときから、お前が好きで……ずっと、守りたくて……」
「っ、ぅ……こう、よ……」
「だから、嬉しかった……お前が、俺のこと好きって、言ってくれたこと、本当に、嬉しかった」
「そうだよ! おれは君のことが大好きだよ! だからお願い……もう、喋らないで……」
操は甲洋の頭を抱き込むようにしながら背中を丸めた。
もう戻らないと思っていた、遠い夏。確かに操は、甲洋のことが大好きだった。純粋だった。ひたむきだった。ああ、あれは、恋だった。
「俺は、ね、来主。お前が怪我をした、あのとき……怖いのにさ、どこかで、喜んでたんだよ」
「っ……!」
「これで、お前はもう、一人では生きられないんだって……俺のことを、ずっと、必要としてくれるん、だって」
心臓を強く掴み上げられたような感覚に、操は喉を鳴らしながら息をのむ。
同じ気持ちだった。彼と操は同じだった。同じ形に、歪んでいた。
「だから、気づかないふりをしたんだよ……お前の足のこと……気づかないふりをしながら、怖かった……お前はいつか、きっと俺を置いていなくなる……それがずっと、こわかった……」
「だから、嘘をついたの……?」
操に繰り返し暗示をかけて、町の人を欺いて。そうやって操を世界から遠ざけた。
遠ざけながら、だけどきっと閉じ込められていたのは甲洋だったのだ。彼を縛っていたのは、操のちっぽけな嘘なんかではなくて。
──だっておれ、甲洋のこと大好きだもん
あの言葉が、彼を絡め取ったのだ。愛情に飢えた子供が、ようやく手に入れた『救い』が、少しずつ少しずつ、彼を壊していったのかもしれない。
その『好き』が永遠であるようにと願いながら、いつか失われるかもしれないと、同時に怯えてもいた。彼はとても臆病で、愛し方も、愛され方も知らない子供だったから。
操の腕のなかで、甲洋はクスリと笑った。体温が、どんどん失われていくのが分かる。
「い、嫌だ甲洋! 死なないで……おれをひとりにしないでよぉ!」
「愛してた……来主……ずっと、ずっと」
──お前は俺の、神様だったよ
その言葉が、最後だった。
*
初夏だった。
茂る若葉は散った桜の面影すら残していない。
ただ暑い真夏の到来を待ちながら、淡々と風に吹かれて蒼い空へと枝を伸ばす。そんな季節。
「こんにちはー!」
午前中の日差しが、清潔感に溢れた病棟の廊下を白く光らせている。
ナースステーションにはすっかり顔なじみになった看護師が何人かいた。元気に挨拶をしながらエレベーターからおりてきた操を、笑顔で出迎えてくれる。その中には、白衣を来た若い医者の姿もあった。
「おう、来たか」
「あ、剣司だ。こんにちは」
「元気そうだな、今日も」
近藤剣司はカウンター越しに操に笑いかける。左手の薬指には指輪が光っていた。つい最近結婚したらしい。奥さんは妊娠していて、来年には子供が産まれる予定なのだと、先日会ったとき嬉しそうに話をしていた。
そうやっていつもは会えばなにかと立ち話をするのだが、今日の操は少し焦っている。
「剣司、甲洋は?」
「相変わらずだよ。早く行ってやんな。俺もあとで顔出すよ」
「うん、わかった! またね!」
剣司に手を振り、足早に廊下を進む。
操は時間が許す限りこの隣町にある病院を訪れているが、昨日は事情があって来られなかった。だから早く、顔が見たい。
廊下の一番奥の病室に、甲洋はいる。
操は静かに扉をスライドさせ、ひょっこりと顔だけを出すようにしながら中を覗き込んだ。
「甲洋、来たよ」
甲洋は──。
ただそこで、眠っていた。
あれから二年。
彼はそのあいだ、ずっと昏睡状態のまま眠り続けている。
一時は危篤状態で、生命維持装置がなければ生きられなかった。けれどそこからどうにか持ち直し、今は片腕から最低限の管が通っているだけで、彼は自発的に呼吸ができるまでに回復している。
だけど意識だけは、ずっと戻らないままだった。
「ごめんね、昨日は来られなくて」
操はベッドの横に設置された椅子に腰掛け、明るく声をかける。彼の耳に届いているかは分からない。それでも構わず、ここに来るといつも絶え間なくお喋りをする。
「聞いてよ、店に新しい子が入ったんだ。高校生の男の子だよ。でも、一日来ただけで急に来なくなっちゃった。酷くない? あんまり急だから代わりもいないし。だから来られなかったよ。ごめん」
あれから、操は引きこもっていた時間を取り戻すように外へ出た。
洋服を着て、自分の足で歩いて、病院から近いこの隣町で、なんとなく楽しそうという理由からコンビニのアルバイトもはじめてみた。
ただ細々と暮らしていくだけなら、祖父母が遺した蓄えが十分にあったけれど、家にいたって甲洋は帰ってこない。その寂しさを、なにかで埋めていたかった。
甲洋はあの家での生活をすべて仕切りながら、祖父母の蓄えにはいっさい手をつけていなかった。操はそれをありがたく使わせてもらうことにした。バイトをしながら、車の免許をとった。今は甲洋の車を、勝手に乗り回している。
「甲洋、早く起きないかな。そしたら、おれが運転してるところを見てもらうんだ。楽しいね、運転って。早く君を助手席に乗せたいよ。君の車なんだけどね。大事に使ってるから、安心して」
彼が目覚めたら、一番最初にどこへ行きたがるだろう。甲洋が行きたい場所。ずっと近くにいたはずなのに、操には想像もつかない。だから早く知りたいのだ。彼が望む場所に、一緒に行きたいと思う。
だけど本当は、一番したいことは他にあった。それは操の我儘だけれど。
「釣り、行こっか?」
子供の頃に遊んだみたいに。川でもいいし、少しくらい遠くたって今なら海にだって行ける。また一緒に、手作りの竿で魚を釣ってみたかった。
「おれ、お弁当作るね。すごいでしょ。料理ができるようになったんだよ。前はそうめんを茹でるくらいしかできなかったけど……だって甲洋いないんだもん。誰もご飯作ってくれないんだ」
ねぇ甲洋、と、小さくその名を呼びながら、操は甲洋の手をとった。少し、痩せた。男性らしく厚みがあったはずの大きな手が、ひどく骨ばって乾燥していた。
「甲洋、ねぇ甲洋ってば。いろんなところに行きたいね。おれが連れてってあげるからね」
操はその手を両手でぎゅうと握りしめた。ベッドの縁に肘を置いて、唇にその長い指の甲を強く押しつける。
本当は生きていてくれただけで充分だった。だけどこうしていると、寂しさと恋しさがどこまでも高くその枝を伸ばしていく。
このまま目を覚まさない可能性もあると、剣司は言っていたけれど。
「早く起きてよ。君の声が聞きたい。話がしたいな」
操だけじゃない。みんなみんな、甲洋を知るひとは彼に会いたがっている。
友人知人をはじめとした近所のひとも、みんな時々ここを訪れては、眠り続ける甲洋を見て悲しそうにしている。
だけど彼を育てたはずの両親だけは、一度もここに来ていない。
あの事故のあと、操は春日井の家に電話を入れた。血の繋がりがなくたって、息子として育てた人間が生死の堺を彷徨っているのだ。どんな親だって絶対に駆けつけるはずだと、そう思った。
応じたのは父親だった。彼は一言、「そんなやつは知らん」と冷ややかに吐き捨てるだけだった。操はそのとき、初めて知った。
甲洋は彼らと絶縁状態にあった。店も継がずに出て行くのなら、もう二度と帰ってくるな。それが形ばかりの養親が息子に投げた、最後の言葉だったのだ。そうまでして、甲洋は来主の家にやってきた。操が冗談で言ったことを、本気で叶えるために。
「甲洋、ごめん」
じんわりと、涙で視界が曇っていった。
だけど甲洋の前では、いつも泣くのを我慢している。泣くのは家に帰ってからだ。
「花瓶の水、取り替えてこようかな! ちょっと待っててね」
そう言って、甲洋の手を離そうとした。だけどふと気がついた。
一瞬だけ、痩せた指先がピクリと動いたことに。
「っ!?」
操は息をのんだまま呼吸を止める。瞬きも忘れて、食い入るように甲洋の顔を見つめた。
ピクリ、ピクリと、また何度か指先が動いて、瞼が動いて、それから──
「甲洋……?」
ゆっくりと、長い睫毛を震わせながら。甲洋が、目を覚ました。
「……っ」
彼は小さく息を吸い込み、ぼんやりと天井を見つめたまま、幾度か瞬きをした。
久しぶりに見るその色素の薄い瞳に、操は込み上げてくる涙を止められなかった。
甲洋が目を覚ました。二年ものあいだずっと眠ったままだった彼が、やっと。
嬉しくて、今にも叫びだしてしまいそうなほど感情が溢れているのに、なにひとつ言葉にならない。
長かった。一分が、一秒が、永遠に感じられるほどだった。
けれどこれで、ようやくまた、一緒に──。
だけど。
彼は少しずつ、ぎこちない動きで視線を動かすと操を見た。目と目が合った瞬間、形容しがたい不思議な感覚にとらわれる。それは違和感だった。
なにかがおかしい。操は目を見張る。目の前で甲洋が口を開く。短く簡素に、
「だれ?」
と、言った。
「え……?」
ひび割れたように乾いた声だった。久しぶりに震わせた声帯が、ぎこちなく絡みついている。
操は耳を疑った。彼がなにを言ったのか、それだけでは理解できなかった。
「お兄さん、だれ? ここ、どこ? 父さんと、母さんは?」
甲洋はゆっくりと首を動かした。部屋中を見渡しながら、両親のことを探している。
その仕草も、言動も、不安そうな眼差しも。まるで小さな子供のようだった。
「甲洋……?」
操は震える声で、彼の名を呼んだ。甲洋は不安そうな瞳をしたまま、おそるおそる操を見る。
「どうして、俺の名前を知ってるの?」
操が覚えた不思議な違和感。それはまるで、彼が知らない人間を見るかのように、どこか幼く目を瞬かせていたから。
長い眠りから覚めた甲洋は、すべてを忘れてしまっていた。
あの夏の記憶も、あの腐った繭のようだった家での暮らしも。すべてを失って、幼い子供に還っていた。操に出会う前の、小さな春日井甲洋に。
「ッ……!」
信じられない思いと、引き裂かれたような喪失感に、操は肩を震わせた。涙と一緒に嗚咽を漏らし、彼の手を握りしめる。
どうして。ずっとずっと待っていたのに。あの夏を取り戻せるような気がしていたのに。笑顔が見られるのだと信じていたのに。優しい声が、名前を呼んでくれるのだと。
だけど操は失ったままだった。指の隙間からこぼれ落ちたものは、砂の一粒さえも残っていない。甲洋の記憶。甲洋と生きた時間。なにもかもを置き去りにして、彼はもう、ここにはいない。
泣きじゃくる操を見て、甲洋も泣きそうに顔を歪ませた。
駄目だと思った。泣いていてはいけない。彼を──この子を、これ以上不安にさせてはいけないと。操は涙を拭うと、無理やり笑顔を作ってみせる。
「おれの名前は、来主操」
「くるす、みさお?」
「うん。それがおれの名前だよ」
彼はとても不思議そうな顔をした。その名に聞き覚えがあるかのように、何度か唇で名前をなぞる。
だけど賢い甲洋は、他にも確かめなくてはいけないことが、山ほどあることに気がついていた。そしてここが病室であることを、幼いながらもすぐに理解したようだった。
どこか拙い話し方で、操に幾つも問いかける。
「俺は、ケガをしたの?」
「そうだよ。ケガをして、ずっと眠っていたんだよ」
「大きな病院……ここは、島の外?」
「そう。とても遠い場所」
「父さんと母さんは──」
言いかけて、甲洋は悲しそうに睫毛を伏せた。ここに両親はいない。知らない場所で目が覚めて、腕を管で繋がれて、それでも寄り添ってくれるはずの存在が傍にいないことを、彼はとっくに理解している。
甲洋がどんなに待ちわびても、彼らは来ない。絶対に。
「……俺、船に乗ってたはずなんだ。親戚の家に、行かなくちゃいけなくて」
ぽつりぽつりと、掠れた声が記憶をなぞっていくさまを、操は静かに見守った。
「父さんと母さん、旅行に行くから……俺は、連れてってもらえないから」
──ねぇ、甲洋は、どうしてここにひとりできたの?
「俺は……家族じゃないから」
ああ、あの日。操が問うた、その答え。
押し殺していた、彼の心。幼い胸に刻まれていた、本当の気持ち。
「……さみしい」
煤色の瞳から、透明な涙が一粒、落ちる。
後を追うように、それは幾つも幾つも、頬を伝った。
「父さん……母さん……さみしいよぉ……」
そう言って、彼はしくしくと泣きだした。
ひとりぼっちで船に乗って、電車に乗って、バスに乗って。あの日、初めて会ったあの日、きっとこの子は泣きながら来主の家までやってきた。そして、操と出会った。
あのころ、操の目に甲洋はとてもお兄さんのように見えていたけれど。
「甲洋」
大きな手。大人になっても、操の手は甲洋より小さくて。両手を使わなければ、彼の痩せた手ですら、すべて包み込むことができない。だけどこの手を、もう二度と離したくないと思った。
「ねぇ甲洋」
胸の奥底からとめどなく溢れだす感情が、操のすべてを飲み込んでいく。
甲洋はここにいる。生まれたての心で、ここにいる。だから愛そう。この子を愛そう。あの繭のような鳥籠で。ふたりぼっちで、もういちど。
「平気だよ」
操と甲洋は間違えてしまった。愛し方を間違えてしまった。
そしてまた、同じ間違いを繰り返そうとしている。この愛は、きっとまた彼を絡めとるだろう。
「おれがずっと一緒にいてあげる。だからもう、さみしくないよ」
操は彼の手を握ったままわずかに腰を浮かせ、乾いた唇にキスをした。
窓ガラスから差し込む初夏の日差しで、病室の中は白く眩しい。光のなかで、甲洋は濡れた瞳を見開いていた。その頬が、みるみるうちに赤く染まる。
可愛いと思った。幼くて、まっさらで、可哀想で──とても、愛しい。
「好きだよ甲洋」
操は知っている。甲洋の孤独を知っている。彼が欲しいものを、欲しい言葉を、知っている。そしてそれを与えられるのが自分だけだということを、知っていた。
「君を愛してる。世界でいちばん、誰よりも」
声も出せずに、「どうして」とだけ唇を動かした甲洋に、操は柔らかく微笑んだ。
「君はおれの、神様だから」
今この瞬間、操の言葉は呪いのように──。
繭の鳥籠/了
←戻る ・ Wavebox👏
盆が過ぎると、ときどき遠くから聞こえていたはずの子供の声が、パタリと止んだ。
昔よりもずっと子供の数が減ったのだろうなと、縁側で空を見上げながらぼんやり思う。
あの日から、特に変わったこともなく日々は過ぎていた。
昨日、仕事が休みだった甲洋は朝から裏庭の草むしりに精をだしていた。操も手伝おうとしたけれど、やっぱり許してはもらえなかった。
操は考えることをやめていた。
甲洋の嘘を知ってもなお、責める気にはなれない。問いただす気にもなれなかった。
そうしているうちに、夢でも見ていたのではないかと思うようになった。操はあの日、外になんか出ていないし、誰とも顔を合わせていない。美羽とエメリーのことだってそう。
操には甲洋しかいない。操にはそれしかない。甲洋の腕の中だけが、その言葉だけが全てだ。身体が弱くて、足も悪くて、外にも出られない。非力で、自分一人では生きていけない。それが真実。それでいいような気がしていた。
だけどそうやって逃避する操の意識を、現実に引き戻すように声がした。
「ああ、いたいた。どうだい、具合は」
「ぁ……」
ハッとして目をやれば、枯れた紫陽花の茂みの傍に、西尾行美が立っていた。
*
「あんたは偉いよ、操」
冷えた麦茶のグラスを両手に持って、縁側に腰をおろした行美はしゃがれた声で呟いた。
「親がいなくたって、いっつもニコニコ笑ってさ。あんな事故があったって、それでも片足引きずって立派に学校に通ったんだ」
風鈴が、風に吹かれて涼しげな音を立てる。今日は虫の声がしない。嵐の前の静けさのように、ただ湿った空気が凪いでいるだけだった。
「甲洋がいたからだよ。甲洋が、なんでもやってくれたから」
操はただ甘えていただけだ。甲洋がこの家に暮らすようになってからは特に。身の回りのことはすべて彼がやってくれたし、決して外を一人で歩かせようともしなかった。
行美は麦茶をすすり、「そうだね」と言って小さく笑った。
「あの子も偉い。立派なもんだよ。だけどね、ずっとこのままってわけにはいかないだろうさ」
「え?」
行美はいったんグラスを脇に置いた。代わりに、白い大きな用紙を手にすると操に差し出してくる。
「これはなに?」
「まぁ、見てみな」
それは写真を収めるための両開きの台紙だった。操は言われたとおり、膝に乗せたそれをゆっくりと開いてみた。
「……誰?」
写真には、長い黒髪の若い女性が映っていた。ここいらではちょっとお目にかかれないくらい、可憐で美しい女性だ。柔らかくて、少し儚い笑顔。透けるような白い肌が、写真からも見て取れる。
「古い知り合いの娘さんなんだけどね、身体が弱くてさ。だけどほら、別嬪さんだろ?」
「……この子が、どうかしたの?」
「甲洋は、どうなんだい?」
「え?」
行美は再びグラスに手をやって、残りの麦茶をゆっくりと飲み干すと息をついた。
「老婆心ってやつだよ。ここじゃあ恋のひとつもできやしない」
「恋……」
「ここいらはじじばばばっかりだろ?」
ああそうかと、操は思った。これはお見合い写真なのだ。
「甲洋がさ、なかなか首を縦に振らないんだよ。自分にはまだ早いなんて言って、まともに写真すら見やしない。見れば気持ちも変わると思うんだがね」
操は改めて写真の女性に目をやった。長くて綺麗な、黒い髪。少女のように大きな瞳と、白い肌。
甲洋の好みなんか分からない。今まで一度だって、女の子の話なんかしたことがなかった。だけど、好きだろうなと、操は思った。甲洋は、多分、この子のことを好きになる。
どうしてか、とても容易に想像することができてしまった。
「あんたからも言っといておくれ。まだ若いったってさ。あんたたちはもう立派な大人なんだ。早いってことはないだろうよ」
空になったグラスを持ったまま、行美はふと、空を見上げる。湿り気の増した空気と、少し濁った空模様にシワの寄った目を細め、「こりゃひと雨きそうだね」と、呟いた。
*
瓦の屋根を叩く雨音。軒下に連なった置き石に落ちる雨だれ。
バタバタと音を立てながら降り注ぐそれが、夕時の薄暗い室内に響き渡る。
雨は嫌いだ。だって外に出られない。ここから見える小さな空さえも塗り潰して、狭い世界を烟らせてしまう。
操はその忌々しい音を聞きながら、仏壇の前にぺたりと座り込んでいた。
──ずっとこのままってわけにはいかないだろうさ
頭のなかで、行美の言葉が何度も再生されていた。壊れたレコードが、ただ同じフレーズだけを繰り返すみたいに。
(このままでは、いられない)
それは、このままではいけないということ。
外の人間から見たこの家は、羽化しそこねたまま腐り果てた繭のようなものだった。
どこかでは分かっていた。これがとても異常だということを。自分たちは、どうかしている。
「来主?」
背後で声がする。甲洋が帰ってきた。けれど操は振り返ることも、返事をすることもできなかった。
空気が震えた気がした。彼が、なにかに気づいたのが気配で伝わる。
「……誰?」
操は行美が来た痕跡を消さないままでいた。縁側には客用の座布団と、麦茶のグラスがふたつ、置き去りにされている。
なにも答えずにいると、甲洋がすぐ傍で膝をついた。少し乱暴に操の両肩を掴み、無理やり自分と向き合わせる。
「来主。さっきまで、ここに誰がいた?」
操はがっくりと項垂れたまま、なにも言わなかった。膝の上から白い台紙が滑り落ちる。行美が置いていったものだ。乾いた音を立てて畳の上に伏したそれを見て、甲洋は答えを得たようだった。
「……ああ、あのひとか」
甲洋が細長い息を漏らした。
「来るなって言っておいたのに」
彼の声は平坦で、焦った様子などはいっさい見られなかった。
ここに他人が訪れたということは、嘘がバレてしまったということだ。なのに、彼はなんの感情も見せはしない。不気味なほどに落ち着き払っていた。
「少し冷えるね。居間に行こう。すぐに食事の支度をするから」
「……いらない」
「来主」
「ねぇ、どうして嘘なんかついてたの?」
操はついにその問いを口にする。一度は目を背けたはずの疑問が膨れ上がり、いよいよ張り裂けそうになっていた。
「おれは病気なんかじゃないよ。話だってできるよ。身体だって、どこも弱くなんかない」
操は甲洋への不信感をハッキリと自覚していた。
彼は近所中の人を欺き、操をこの鳥籠のような家に閉じ込めていた。丁寧に、優しく、何度も何度も暗示をかけて、操を一人では生きていけない、脆弱な人間に仕立て上げていった。
そこまでする理由はなんだろう。愛していると、その甘い声で囁かれると、すべてがどうでもよくなった。頭が、心が、雨に烟るように霞んでいった。
だけど、彼が言う愛とはなんだろう。どうして愛せるというのだろう。
「おれのことひとりじゃ生きられないようにして……君は、どうするつもりでいたの?」
だってそうじゃないか。子供の頃だってそうだ。無神経な言葉で、きっと数えきれないくらい傷つけていた。彼は愛情を知らずに育っていた。靴もシャツも着古して、いつだってボロボロだった。
そんな彼の目に、操はどう映っていたのだろうか。操の言葉は、どれほど彼の心を抉っただろう。きっとすごく、嫌なやつだった。
本当はずっと、罪悪感に囚われていたのは操の方だった。
彼に嘘をついていた。後ろめたくて仕方がなかった。このちっぽけな嘘で、いつまで彼を繋ぎ止めておけるのか、不安でたまらなかった。それは暴力という形で発露していた。
可哀想な甲洋。償わなくてはいけない罪なんかないのに。いつもいつも傷だらけで。
今だって怖い。もしこの床で萎びたようになっている台紙を開けて、甲洋が彼女と『出会って』しまえば。どうなるだろう。示された明るい未来が、ぽっかりと大きく黒い口を開けている。
「復讐のつもりだったの……?」
操の言葉を聞いて、甲洋は目を丸くした。ひどく驚いた顔をして、それから、くつくつと肩を揺らして笑いだした。
「なんで笑うの?」
「ふふ、あはは……だってお前、復讐ってなにさ?」
甲洋はどかりとあぐらをかいて、指先で目尻を拭った。笑っている。喜劇でも目の当たりにしたみたいに、楽しそうだった。
まるで一人で踊らされているような気分だ。下手くそな踊りを、必死で。
「笑わないで! ……笑うな!!」
「だって、来主がおかしなこと言うからだろ」
ふっと息を吐き出して、甲洋は「ずるいな、お前は」と言った。
「ずるいって、なにが……?」
「自分だけ正気に戻っちゃうんだもんな」
「……え?」
「俺はもう、戻れそうにないのに」
甲洋の顔から、ロウソクの火が消えるみたいに笑顔が消えた。
ぬっと手が伸びてきて、操の二の腕を掴むと強引に引き寄せようとする。
「い、嫌だ! 触らないで!」
「いいから抱かせろよ。いつもみたいに、なにも分からなくしてやるから」
「っ、や……!!」
がむしゃらに暴れた。身を捩りながら、めちゃくちゃに腕を振り上げる。
「ッ!」
その拳が、意図せず甲洋の右頬に命中した。
「っ、ごめ──」
青ざめた操は、咄嗟に口をついた謝罪の言葉を最後まで述べることができなかった。
殴られて、顔を背けた甲洋が、ゆらりと視線をこちらに向ける。彼は笑っていた。どこか恍惚とした笑みを浮かべながら。やっと欲しいものを与えられた子供みたいに、切れた口の端から血を流し、うっとりと、熱い息を漏らした。
「……いいよ」
「こ、よ……?」
「ほら、もっとして」
もっと殴って。甲洋は言った。もっともっと、傷つけてほしいと。
ゾッとした。ずっと近くにいたはずの彼が、得体が知れない何かに見えた。
この人は、誰だろう。
「もっとちゃんと、縛っておけばよかったな。お前がどこにも行けないように」
今までずっと、誰と、いたんだろう?
「その唇も、縫いつけてしまえばよかった」
春日井甲洋とは、どんな人間だったろう?
「目も潰せばよかったのかな。耳も、鼻も」
なにを、支配したつもりでいたんだろう?
「手足もさ。いっそ切り落としてしまえばよかったよ。誰のものにもならないように」
ああ、この人は。
壊れている。
操はどうしたらいいか分からない。ただ恐ろしくて、ただ、悲しいと思った。
逃げなくては。本能がそう告げている。甲洋が怖い。怖くてたまらない。操にとって、彼は唯一安心できる止まり木だった。だけどその枝は、とっくに折れてしまっていた。
ずるずると床を這うようにして後退し、仏壇の横の手すりに掴まりながら立ち上がった。甲洋はわずかに首を傾げ、目を細めて微笑んでいる。
「いいよ。逃げたいなら逃げな」
「っ……」
「大丈夫。俺は知ってるよ。だから、あのときみたいに逃げてごらん」
ゆらりと、甲洋が立ち上がった。操はビクリと肩を震わせる。指の先まで冷え切っていた。
甲洋は知っていた。操の、嘘を。
「逃げ切れたら、自由をあげる」
知っていたのだ。最初から。
「愛してる。だから逃げて、来主」
操は弾かれたように走り出していた。
裸足のまま、杖も持たずに、それでも足を引きずることなく、雨の庭へ飛び出した。
甲洋は知っていた。操のちっぽけな『嘘』を、知っていた。
この足は、支えなんかなくてもちゃんと動くのだ。
本当はずっと、杖なんかいらなかった。病んでなんかいなかった。
ずっとずっと。彼の神様でいるために。
つまらない嘘を、ついていた。
←戻る ・ 次へ→
昔よりもずっと子供の数が減ったのだろうなと、縁側で空を見上げながらぼんやり思う。
あの日から、特に変わったこともなく日々は過ぎていた。
昨日、仕事が休みだった甲洋は朝から裏庭の草むしりに精をだしていた。操も手伝おうとしたけれど、やっぱり許してはもらえなかった。
操は考えることをやめていた。
甲洋の嘘を知ってもなお、責める気にはなれない。問いただす気にもなれなかった。
そうしているうちに、夢でも見ていたのではないかと思うようになった。操はあの日、外になんか出ていないし、誰とも顔を合わせていない。美羽とエメリーのことだってそう。
操には甲洋しかいない。操にはそれしかない。甲洋の腕の中だけが、その言葉だけが全てだ。身体が弱くて、足も悪くて、外にも出られない。非力で、自分一人では生きていけない。それが真実。それでいいような気がしていた。
だけどそうやって逃避する操の意識を、現実に引き戻すように声がした。
「ああ、いたいた。どうだい、具合は」
「ぁ……」
ハッとして目をやれば、枯れた紫陽花の茂みの傍に、西尾行美が立っていた。
*
「あんたは偉いよ、操」
冷えた麦茶のグラスを両手に持って、縁側に腰をおろした行美はしゃがれた声で呟いた。
「親がいなくたって、いっつもニコニコ笑ってさ。あんな事故があったって、それでも片足引きずって立派に学校に通ったんだ」
風鈴が、風に吹かれて涼しげな音を立てる。今日は虫の声がしない。嵐の前の静けさのように、ただ湿った空気が凪いでいるだけだった。
「甲洋がいたからだよ。甲洋が、なんでもやってくれたから」
操はただ甘えていただけだ。甲洋がこの家に暮らすようになってからは特に。身の回りのことはすべて彼がやってくれたし、決して外を一人で歩かせようともしなかった。
行美は麦茶をすすり、「そうだね」と言って小さく笑った。
「あの子も偉い。立派なもんだよ。だけどね、ずっとこのままってわけにはいかないだろうさ」
「え?」
行美はいったんグラスを脇に置いた。代わりに、白い大きな用紙を手にすると操に差し出してくる。
「これはなに?」
「まぁ、見てみな」
それは写真を収めるための両開きの台紙だった。操は言われたとおり、膝に乗せたそれをゆっくりと開いてみた。
「……誰?」
写真には、長い黒髪の若い女性が映っていた。ここいらではちょっとお目にかかれないくらい、可憐で美しい女性だ。柔らかくて、少し儚い笑顔。透けるような白い肌が、写真からも見て取れる。
「古い知り合いの娘さんなんだけどね、身体が弱くてさ。だけどほら、別嬪さんだろ?」
「……この子が、どうかしたの?」
「甲洋は、どうなんだい?」
「え?」
行美は再びグラスに手をやって、残りの麦茶をゆっくりと飲み干すと息をついた。
「老婆心ってやつだよ。ここじゃあ恋のひとつもできやしない」
「恋……」
「ここいらはじじばばばっかりだろ?」
ああそうかと、操は思った。これはお見合い写真なのだ。
「甲洋がさ、なかなか首を縦に振らないんだよ。自分にはまだ早いなんて言って、まともに写真すら見やしない。見れば気持ちも変わると思うんだがね」
操は改めて写真の女性に目をやった。長くて綺麗な、黒い髪。少女のように大きな瞳と、白い肌。
甲洋の好みなんか分からない。今まで一度だって、女の子の話なんかしたことがなかった。だけど、好きだろうなと、操は思った。甲洋は、多分、この子のことを好きになる。
どうしてか、とても容易に想像することができてしまった。
「あんたからも言っといておくれ。まだ若いったってさ。あんたたちはもう立派な大人なんだ。早いってことはないだろうよ」
空になったグラスを持ったまま、行美はふと、空を見上げる。湿り気の増した空気と、少し濁った空模様にシワの寄った目を細め、「こりゃひと雨きそうだね」と、呟いた。
*
瓦の屋根を叩く雨音。軒下に連なった置き石に落ちる雨だれ。
バタバタと音を立てながら降り注ぐそれが、夕時の薄暗い室内に響き渡る。
雨は嫌いだ。だって外に出られない。ここから見える小さな空さえも塗り潰して、狭い世界を烟らせてしまう。
操はその忌々しい音を聞きながら、仏壇の前にぺたりと座り込んでいた。
──ずっとこのままってわけにはいかないだろうさ
頭のなかで、行美の言葉が何度も再生されていた。壊れたレコードが、ただ同じフレーズだけを繰り返すみたいに。
(このままでは、いられない)
それは、このままではいけないということ。
外の人間から見たこの家は、羽化しそこねたまま腐り果てた繭のようなものだった。
どこかでは分かっていた。これがとても異常だということを。自分たちは、どうかしている。
「来主?」
背後で声がする。甲洋が帰ってきた。けれど操は振り返ることも、返事をすることもできなかった。
空気が震えた気がした。彼が、なにかに気づいたのが気配で伝わる。
「……誰?」
操は行美が来た痕跡を消さないままでいた。縁側には客用の座布団と、麦茶のグラスがふたつ、置き去りにされている。
なにも答えずにいると、甲洋がすぐ傍で膝をついた。少し乱暴に操の両肩を掴み、無理やり自分と向き合わせる。
「来主。さっきまで、ここに誰がいた?」
操はがっくりと項垂れたまま、なにも言わなかった。膝の上から白い台紙が滑り落ちる。行美が置いていったものだ。乾いた音を立てて畳の上に伏したそれを見て、甲洋は答えを得たようだった。
「……ああ、あのひとか」
甲洋が細長い息を漏らした。
「来るなって言っておいたのに」
彼の声は平坦で、焦った様子などはいっさい見られなかった。
ここに他人が訪れたということは、嘘がバレてしまったということだ。なのに、彼はなんの感情も見せはしない。不気味なほどに落ち着き払っていた。
「少し冷えるね。居間に行こう。すぐに食事の支度をするから」
「……いらない」
「来主」
「ねぇ、どうして嘘なんかついてたの?」
操はついにその問いを口にする。一度は目を背けたはずの疑問が膨れ上がり、いよいよ張り裂けそうになっていた。
「おれは病気なんかじゃないよ。話だってできるよ。身体だって、どこも弱くなんかない」
操は甲洋への不信感をハッキリと自覚していた。
彼は近所中の人を欺き、操をこの鳥籠のような家に閉じ込めていた。丁寧に、優しく、何度も何度も暗示をかけて、操を一人では生きていけない、脆弱な人間に仕立て上げていった。
そこまでする理由はなんだろう。愛していると、その甘い声で囁かれると、すべてがどうでもよくなった。頭が、心が、雨に烟るように霞んでいった。
だけど、彼が言う愛とはなんだろう。どうして愛せるというのだろう。
「おれのことひとりじゃ生きられないようにして……君は、どうするつもりでいたの?」
だってそうじゃないか。子供の頃だってそうだ。無神経な言葉で、きっと数えきれないくらい傷つけていた。彼は愛情を知らずに育っていた。靴もシャツも着古して、いつだってボロボロだった。
そんな彼の目に、操はどう映っていたのだろうか。操の言葉は、どれほど彼の心を抉っただろう。きっとすごく、嫌なやつだった。
本当はずっと、罪悪感に囚われていたのは操の方だった。
彼に嘘をついていた。後ろめたくて仕方がなかった。このちっぽけな嘘で、いつまで彼を繋ぎ止めておけるのか、不安でたまらなかった。それは暴力という形で発露していた。
可哀想な甲洋。償わなくてはいけない罪なんかないのに。いつもいつも傷だらけで。
今だって怖い。もしこの床で萎びたようになっている台紙を開けて、甲洋が彼女と『出会って』しまえば。どうなるだろう。示された明るい未来が、ぽっかりと大きく黒い口を開けている。
「復讐のつもりだったの……?」
操の言葉を聞いて、甲洋は目を丸くした。ひどく驚いた顔をして、それから、くつくつと肩を揺らして笑いだした。
「なんで笑うの?」
「ふふ、あはは……だってお前、復讐ってなにさ?」
甲洋はどかりとあぐらをかいて、指先で目尻を拭った。笑っている。喜劇でも目の当たりにしたみたいに、楽しそうだった。
まるで一人で踊らされているような気分だ。下手くそな踊りを、必死で。
「笑わないで! ……笑うな!!」
「だって、来主がおかしなこと言うからだろ」
ふっと息を吐き出して、甲洋は「ずるいな、お前は」と言った。
「ずるいって、なにが……?」
「自分だけ正気に戻っちゃうんだもんな」
「……え?」
「俺はもう、戻れそうにないのに」
甲洋の顔から、ロウソクの火が消えるみたいに笑顔が消えた。
ぬっと手が伸びてきて、操の二の腕を掴むと強引に引き寄せようとする。
「い、嫌だ! 触らないで!」
「いいから抱かせろよ。いつもみたいに、なにも分からなくしてやるから」
「っ、や……!!」
がむしゃらに暴れた。身を捩りながら、めちゃくちゃに腕を振り上げる。
「ッ!」
その拳が、意図せず甲洋の右頬に命中した。
「っ、ごめ──」
青ざめた操は、咄嗟に口をついた謝罪の言葉を最後まで述べることができなかった。
殴られて、顔を背けた甲洋が、ゆらりと視線をこちらに向ける。彼は笑っていた。どこか恍惚とした笑みを浮かべながら。やっと欲しいものを与えられた子供みたいに、切れた口の端から血を流し、うっとりと、熱い息を漏らした。
「……いいよ」
「こ、よ……?」
「ほら、もっとして」
もっと殴って。甲洋は言った。もっともっと、傷つけてほしいと。
ゾッとした。ずっと近くにいたはずの彼が、得体が知れない何かに見えた。
この人は、誰だろう。
「もっとちゃんと、縛っておけばよかったな。お前がどこにも行けないように」
今までずっと、誰と、いたんだろう?
「その唇も、縫いつけてしまえばよかった」
春日井甲洋とは、どんな人間だったろう?
「目も潰せばよかったのかな。耳も、鼻も」
なにを、支配したつもりでいたんだろう?
「手足もさ。いっそ切り落としてしまえばよかったよ。誰のものにもならないように」
ああ、この人は。
壊れている。
操はどうしたらいいか分からない。ただ恐ろしくて、ただ、悲しいと思った。
逃げなくては。本能がそう告げている。甲洋が怖い。怖くてたまらない。操にとって、彼は唯一安心できる止まり木だった。だけどその枝は、とっくに折れてしまっていた。
ずるずると床を這うようにして後退し、仏壇の横の手すりに掴まりながら立ち上がった。甲洋はわずかに首を傾げ、目を細めて微笑んでいる。
「いいよ。逃げたいなら逃げな」
「っ……」
「大丈夫。俺は知ってるよ。だから、あのときみたいに逃げてごらん」
ゆらりと、甲洋が立ち上がった。操はビクリと肩を震わせる。指の先まで冷え切っていた。
甲洋は知っていた。操の、嘘を。
「逃げ切れたら、自由をあげる」
知っていたのだ。最初から。
「愛してる。だから逃げて、来主」
操は弾かれたように走り出していた。
裸足のまま、杖も持たずに、それでも足を引きずることなく、雨の庭へ飛び出した。
甲洋は知っていた。操のちっぽけな『嘘』を、知っていた。
この足は、支えなんかなくてもちゃんと動くのだ。
本当はずっと、杖なんかいらなかった。病んでなんかいなかった。
ずっとずっと。彼の神様でいるために。
つまらない嘘を、ついていた。
←戻る ・ 次へ→
「顔色が悪いね。昨日、ずっと庭にいたんだろ」
朝食の席でなかなか食が進まない操を見て、甲洋が箸を置きながら言った。
「えっ?」
「あれだけ言ったのに。ほら」
伸びてきた手が亜麻色の前髪を掻き分けて額に触れる。
「やっぱり。少し熱がある。食事も進んでないみたいだし」
「ち、違うよ。熱なんかない。おれは元気だよ」
美羽たちが遊びに来たことを、操は甲洋に話していない。
誰にも言わないでと、エメリーは言っていた。そこにこの家の人間である彼も含まれているのかは分からなかったけれど、なんとなく、話してはいけないような気がしたのだ。
食が進まないのは、昨日の美羽の言葉が気になって上の空になっていたからだった。腹は普通に減っているし、発熱の際の気怠さだって感じない。昨日に引き続き、むしろ身体の具合は良好に思える。
けれど甲洋は難しい顔をして、咎めるように首を左右に振った。
「自分では分からない? 今は微熱だけど、夜にはもっと高くなると思うよ」
「ぜんぜんそんな感じはしないんだけどな……」
「リンゴくらいなら食べられそう?」
甲洋はふと腕時計に目をやってから立ち上がり、テーブルに並ぶ朝食を片付けはじめた。
「剥いて行くから。少しでも食べて。あと、今日は外には出ずに寝てること」
「えー! それじゃ退屈すぎて干からびちゃうよ!」
「来主」
無言で圧力をかけられ、操はぐっと喉を詰まらせて、それからしおしおと項垂れた。
甲洋はとても心配してくれている。彼の目には、操はよほど弱って見えているのだ。
(甲洋が言うなら、そうなのかなぁ。昨日ずっと庭にいたのもバレてるし……)
彼が言う通り、操は美羽とエメリーが帰ってからも、ずっと縁側にいたのだ。甲洋が帰ってくる頃を見計らって家の中に引っ込んだけれど、身体の変調までは誤魔化せなかったということだろうか。
「……わかった。今日は寝てる。リンゴも、ちゃんと食べるよ」
甲洋が息をつく。心から安心したという顔を見て、操も少しホッとした。
体調が思うように優れないことは、操にとって大きなコンプレックスだ。けれどそのぶん、甲洋が優しくしてくれる。彼は操以上に操の身体のことを知っているし、甲洋に委ねてさえいれば、決して間違いはないのだ。
甲洋は片付けを中断し、操の傍までやってくると膝をついた。長い両腕に抱き寄せられて、その胸におとなしく身体を預ける。
「そばについててやれなくて、ごめん」
染み入るような声がどこか切なくて、甲洋のほうがよほど弱っているような気がしてしまう。操はその背に両腕を回し、首を左右に振った。
「うぅん、平気。ごめんね、いっつも心配かけて」
「なるべく早く帰ってくるから」
「うん……」
大丈夫だと、操は思った。甲洋の言うことさえ聞いていれば、なにも間違いはない。
だけど、どうしてだろう。やっぱり消えない。昨日からずっと、美羽の、言葉が。
*
午前中は甲洋に言われたとおり、ずっと横になっていた。
いっそ眠ってしまえたら楽なのに、なかなか寝つくことができなくて、ただぼうっと天井を見上げているのも苦痛になってくる。甲洋はああ言ったけれど、身体の不調はやっぱり感じられない。操自身には、まるで自覚症状がないままだった。
結局おとなしくしていられない操は、のこのこと起きだすと縁側でサンダルを引っ掛け、杖をつきながら庭に出た。外の空気を吸わなければ、身体より先に気持ちが滅入ってしまいそうだった。
外気に触れると、ものの数秒で額に汗が滲むほどの熱気を感じる。家を囲むようにして高く聳える木々に、切り取られた蒼い空。太陽が煌々と照りつけて、少し、目眩がした。
「暑いなぁ」
ぼやきながら、操は庭の出入り口付近へと足を伸ばした。ちょうど昨日、あのふたりが顔を出した大きな紫陽花の茂み。その向こうに、玄関から伸びる石畳と、古い門扉が見える。甲洋が出入りする以外では、決して開かれることのない木製の扉。杖をつきながら、操はそこに一歩一歩、近づいた。
──いい? 庭までだよ。門の外には出ないで。
耳にタコができるくらい言い聞かせられた言葉が、脳裏をよぎる。
けれど美羽が言っていたことが、頭からずっと離れないのだ。この家には近づくなと、彼女は母親からきつく言われているのだと話していた。
(なんで?)
どうして今まで、まったく気にも留めなかったのだろう。二年間。操が家から出ずに暮らしていた間、この家を訪ねてくる者は誰ひとりとしていなかった。
祖母と仲がよかった近所のおばさんは、よく収穫した野菜で作りすぎた漬物を持って顔を出していた。しょっちゅう脱走する飼い犬を探しては勝手に庭まで入ってきて、ついでにお茶を飲んでいく人もいた。
食料品などを売りに、家々を回るトラックだって来ていたはずだ。気前のいいおじさんが、よくプリンやヨーグルトをおまけしてくれたのを覚えている。
以前は全てが当たり前の光景だった。それが今では、宅配便ですらこの家にはやって来ない。郵便配達のバイク音すら、聞こえることはなくなった。
甲洋が、そういった荷物や手紙の類を営業所で留めていることは知っていた。
けれどそれらは全て、職場から営業所が近いからという理由で、届くたびに彼が手ずから取りに行くからだ。操はなにひとつ、疑問に思うことがなかった。昨日、美羽から話を聞くまでは。
特別、意味はないのかもしれない。コミュニケーションの中心にいた祖父母が死んでしまったことで、それまでは密だった近所付き合いが途切れてしまっただけ。移動販売のトラックだって、今では車という足を持つ甲洋が一言、もう必要ないと言ってしまえばそれまでだったのだと思う。
けれど気味が悪いのだ。美羽は言っていた。オバケでもいるのかと思っていた、と。
「おれ、本当はオバケだったりして」
怪談の類によくある話だ。死んだ人間が、そうと気づかずごく当たり前に生活している。冗談のつもりで呟いたのに、どうしてか少しも笑えない。
操は勇気を振り絞り、門扉を開くと足を踏みだした。湿った熱気と一緒に、昔と比べて随分と弱々しくなったセミの声が、どこからともなく聞こえてくる。過保護に身を案じてくれる甲洋への後ろめたさに、緊張感が汗になって背中を伝った。
目の前には細い一本道が伸びていた。昔は両脇に畑が広がっていたが、祖父母が他界したのを機に手をかける人間がいなくなったため、伸びた雑草によって林と化している。
まっすぐに伸びる平坦な道を、見知らぬ景色を眺めるような気分でゆっくりと歩いていく。荒廃した世界にたった一人きり、取り残されているような気持ちになった。
長いこと家の中でばかり過ごしていた身体は、ものの十分もしないうちに疲れが滲む。徐々に息が乱れてきたころ、道の向こうにようやく民家が見えてきた。
褪せた景色が一瞬にして、瑞々しい緑に変わる。広大な田畑が広がるそこは、昔はあぜ道でしかなかった道が綺麗に舗装され、ところどころに見知らぬ家が建っていた。
「こんなに、変わるんだ……」
たった二年で。どこまでも広がる景色が、自分の記憶の中にあるものとは随分と印象が変わっている。家が増え、潰された畑の一角には小奇麗な駐車場までできていた。
こんな小さな、何もないはずの田舎町ですら、こうして姿を変えて移り変わっていく。たった一歩踏み出すだけで、世界には明確に時が流れているのだということを思い知らされる。
引き返した方がいいと、本能的にそう感じた。甲洋との暮らしを続けていきたいのなら、再び、繭のようなあの家に。こうして一人で外の世界にいると、迷子になってしまったような不安だけがひたひたと音を立てて押し寄せる。
なのに操は、一歩、また一歩と、足を踏み出していた。綺麗に舗装された道路に出て、改めて田畑を見つめる。少し湿った風が、ゆるやかに吹き抜けた。空は、こんなに広かったろうか。
「綺麗な空……」
甲洋とかけっこをしたあぜ道はコンクリートに潰されていたが、そこは確かにあの頃と同じ方角へまっすぐに伸びている。懐かしいと感じた。
「あんた、ひょっとして来主んとこの孫じゃないかい?」
そのときだった。ぼんやりと思い出に浸る操に、声をかける人間がいた。ハッとして振り返ると、そこには両手を背中にやった高齢の女性が、驚いた様子で立っている。その顔に、操は見覚えがあるような気がした。
「……あ! 西尾商店のおばあちゃんだ!」
この辺りに唯一ある小さな商店で、いつも店番をしていた姿を思いだす。
西尾行美はあの頃とまったく変わらない様子で、エプロンをしてそこに立っていた。
彼女は驚きと、そしてどこか憐れみを含んだ表情で傍までやってくると、立ち尽くす操をしみじみと眺めた。
「あんた、病気はもういいのかい? 心まで病んじまったとは聞いていたが……痩せちまったねぇ、ずいぶんと」
「病気? 心?」
顔を顰める操に、彼女はホッとしたように息をついた。
「外に出られるようになったのかい。甲洋から聞いて、ここいらの人間はみんな知ってるよ」
「知ってるって、なにを?」
「なんだいあんた、ボケちまったのかい?」
操はただ混乱していた。彼女の言う病気、というのは、自分の身体が丈夫ではないことを指しているのだろうか。しかし、操は確かに体調を崩しやすいけれど、なにか大きな病気を患っていたわけではない。
「ばあさんが逝っちまったのも急だったしね。よほどショックだったんだろうさ」
祖母が急死したのは操が高校を卒業し、家から出なくなったのとほぼ同じ時期だった。
葬儀には多くの人が集まったが、操は正直、そのときのことをほとんど覚えていない。全てのことは甲洋が先頭になって処理してしまったし、ただ慌ただしかったという記憶しかなかった。思えば、あれがまともに近所の人と関わった最後の日だったのかもしれない。
「甲洋がね、あんたはすっかり元気をなくして、口がきけなくなっちまったって言うんだよ。身体も壊したきりで、人と会える状態じゃないからってね」
「甲洋がそう言ったの?」
「そうさ。そっとしておきたいから、よくなるまで誰にも会わせたくないって……でもよかったよ。こんなに歩けるくらい元気になったんだからさ。それにしたってあんた、本当になにも覚えてないのかい?」
「……うん」
というより、知らない。
確かに操はすぐに体調を崩して、寝込んでしまうくらい身体が貧弱だった。長いあいだ外にはいられないし、激しい運動などもってのほかだ。けれど寝たきりだったわけじゃない。言葉も話せたし、幼い頃のあの事故以外で医者にかかったことだって、一度も──。
「あんたが病気なんてね。子供の頃はあんなに元気で、いっつも走り回ってたってのに」
はたと、気がつく。
「あんたは覚えちゃいないだろうけどね、赤ん坊の頃も、そりゃあ元気な子だったよ。大きな声でよく泣いてたもんさ。ここいらにまで声が届くくらいだからね」
張りつめていたなにかが、小さく音をたてて破れてしまうような感覚を覚えた。操を覆う薄い膜のようなものに、亀裂が入る音だ。それは矛盾という名の、透明な薄皮だった。
──お前は生まれつき身体が弱いだろ? 足のこともそうだけど、すぐに風邪を引くし、調子を崩して寝込んでしまう。
どうして──。
どうしてずっと、そう思いこんでいたのだろう。
夏休みには甲洋と虫やカエルをとって遊んだ。あぜ道を駆け抜けた。燦々と降り注ぐ太陽の下、川遊びをしてびしょ濡れになったりもした。冬には一日中雪のなかにいたって平気だった。
操は滅多なことでは風邪すらひかない、丈夫な子供だった。野山を平然と駆け抜けるだけの、強い足腰を持っていた。いつだって、こんなにも鮮明にあの頃を思いだすことができるのに。
パラパラと、乾いた膜が剥がれていく。幾つもの矛盾が浮き彫りになっていくのを感じていた。
──来主はそうやってすぐに油断する。明日寝込むことになっても知らないよ。
(そうだ、おれはよく具合が悪くなって、それで、寝込むことが多くって……ちょっと元気だからって気を抜くと、次の日には、必ず……)
必ず……?
──顔色が悪いね。昨日、長いこと庭にいたんだろ。
──やっぱり。少し熱がある。食事も進んでないみたいだし。
──自分では分からない? 今は微熱だけど、夜にはもっと高くなると思うよ。
甲洋が言うと、自分でもそうなのかもしれないと、なんの疑いもなく思いこまされた。けれどそれは必ずといっていいほど、操が『今日は調子がいい』と感じたその翌日ではなかったか。
そうだ。自分の意思で寝込んだことなど一度もない。甲洋が、無理やりにでも布団に押し込めてしまうから。操はただいい子でそれに従っていればよかった。信じていれば、間違いなかった。
まるで暗示だ。甲洋の言うことは、いつだって正しいはずだと。
ずっとずっと、そう思い込んでいた。
*
その話を聞いたあとでも、操が甲洋に対して怒りを覚えることはなかった。いつかのときみたいに、嘘つきと言って酷くなじる気にもなれない。ただ疑問だけが膨らんでいた。
この家に誰も訪れなかったのは、甲洋が遠ざけていたから。彼は二年間ものあいだ周りの人間を欺き、操を孤立させるように仕向けていた。
だけどどうして。なぜ、そんなことをする必要があったのだろう。なぜ、自分はなんの違和感も抱かずにいたのだろう。
身体のことだってそうだ。いつだって縋るみたいに、過去のことばかりを思いだしていたはずなのに。
陽が沈みかける頃、甲洋が帰宅した。
操はただ茫然としながら、仏間の中央に座り込んでいた。頭上で電気が灯される。
「来主?」
灯りもつけずに座り込んでいる操に、彼は眉をひそめながら首を傾げた。
「甲洋……おかえり」
のろのろと顔をあげ、心配そうに見下ろす瞳を見返す。覇気のなさがそのまま声に乗ってしまい、甲洋はよりいっそう顔を顰めると、しゃがみこんで操の頬や額に触れた。
「ちゃんと寝てるように言ったのに。どうしてそんな無理するの」
「無理なんか、してないよ」
「嘘。朝よりずっと顔色がひどくなってる」
たぶん、これは真実だ。自分でも全身から血の気が引いている自覚がある。甲洋は「早く横になって」と言って、操の手をとった。けれどそれを、反射的に振り払ってしまう。
「来主?」
「……いい。少し、ほっといて」
庭から鈴虫の声がしている。いつもより低い操の声は、その鳴き声よりも小さなものだった。
甲洋の戸惑いが皮膚から痛いほど伝わった。彼は本気で操の身を案じている。そこに嘘はないように感じられた。それが逆に、操を混乱へと導いていく。
(どうしておれを騙したの? 騙して、どうするつもりでいるの?)
あの日、操が山の斜面を転がり落ちて、足を怪我した日。あのとき、操は甲洋に呪いをかけた。
真っ赤な血と、惨たらしい右足を見せつけながら、君のせいだと言って静かに責めた。甲洋が意地悪をするから。もう知らないなんて言うから。だからこんなことになってしまったのだと。
甲洋は、一生をかけて償うと言った。操は甲洋の神様になったはずだった。罪の意識で縛りつけ、背負わなくてもいいはずの十字架を背負わせ、支配したはずだった。
(怖い)
そう思った。甲洋が怖い。なんだって知っていると思っていた。ずっと一緒にいたから。彼の優しさを、責任感を、全て利用しながら理解していると思いこんでいた。けれど違っていたのだろうか。
「来主、リンゴは食べた? 外にも出たね。どうして言うこと聞かなかったの?」
「……なんで分かるの?」
「縁側に杖がある。朝は廊下に立てかけてあったのに」
「なんでも分かっちゃうんだ、甲洋には」
だけど操には分からない。甲洋の気持ちも、考えていることも、なにも。
子供のころから、ずっと変わらない。分からないままだ。なにひとつ、甲洋のことを、知らない。
知らないから、平気で傷つけることができた。籠の中に閉じ込めた小さな命を殺めるみたいに。幼さを武器にして、無遠慮に、ズケズケと。触れてほしくないものに平気で触れて、そこにある痛みを、知ろうともせず。
けれど今は恐ろしい。知らないことが、恐ろしい。
「来主、部屋に戻ろう。すぐに夕飯の支度をするから。それまで横に」
「うるさいってば!」
「!」
「ほっといてって言ってるじゃん!!」
ああ、また。
目の前が真っ赤に染まった。傷つける。傷つけてしまう。傷つけるために、操は拳を振り上げる。
だけど振り下ろす寸前で、ピタリと、止まる。甲洋は、薄く微笑んでいた。
「──っ!」
(なんで……?)
目を閉じるでもなく、顔を背けようとするでもなく、ただ優しく、愛おしそうに、操を見つめている。
(なんで、そんな顔するの?)
焦がれるような瞳だった。まるで待ちわびているみたいだった。薄い唇に乗っていたささやかな笑みが、けれど操が動きを止めてしまったことに気づいて、不思議そうにほどけていった。
「来主?」
目を丸くしながら、甲洋はことりと首を傾げて見せる。その仕草が少し子供っぽくも見えて、そこに垣間見えた無邪気さに、操は足先からゾワゾワと冷たいなにかが這い上がってくるのを感じた。
(このひと、誰……?)
ふと、そんな疑問が頭をもたげる。
このひとは誰だろう。ずっと一緒にいた。子供の頃から、ずっとずっと。そばにいたのに。
「来主。ねぇ来主」
振り上げたままの拳を、甲洋の手が包み込む。そのまま引き寄せ、自分の頬へとあてがうと縋るように頬ずりをする。
「お前は俺に、なにをしたって許されるんだよ」
「っ、や、やめて」
「来主、頼むから」
甲洋の手が震えているのか、操の拳が震えてるのか、どちらなのか分からなかった。だけど祈るように閉じた瞼で、彼が凍えたように睫毛を震わせていることだけは、分かった。
「いやだ甲洋……泣かないで」
空いているほうの手を甲洋の頬に這わせて、操は上ずる声でそう言っていた。
どうしてだろう。初めてだったのに。彼を殴らずに済んだのは初めてだった。なのに、どうして後悔なんかしてるんだろう。傷つけずに済んだのに、ちゃんと傷つけてあげればよかったなんて。そんな狂ったことを思ってしまうのは。
操には分からなかった。甲洋のことが分からなかった。だけど自分自身のことも、もうなにも、分からなくなってしまった。
←戻る ・ 次へ→
朝食の席でなかなか食が進まない操を見て、甲洋が箸を置きながら言った。
「えっ?」
「あれだけ言ったのに。ほら」
伸びてきた手が亜麻色の前髪を掻き分けて額に触れる。
「やっぱり。少し熱がある。食事も進んでないみたいだし」
「ち、違うよ。熱なんかない。おれは元気だよ」
美羽たちが遊びに来たことを、操は甲洋に話していない。
誰にも言わないでと、エメリーは言っていた。そこにこの家の人間である彼も含まれているのかは分からなかったけれど、なんとなく、話してはいけないような気がしたのだ。
食が進まないのは、昨日の美羽の言葉が気になって上の空になっていたからだった。腹は普通に減っているし、発熱の際の気怠さだって感じない。昨日に引き続き、むしろ身体の具合は良好に思える。
けれど甲洋は難しい顔をして、咎めるように首を左右に振った。
「自分では分からない? 今は微熱だけど、夜にはもっと高くなると思うよ」
「ぜんぜんそんな感じはしないんだけどな……」
「リンゴくらいなら食べられそう?」
甲洋はふと腕時計に目をやってから立ち上がり、テーブルに並ぶ朝食を片付けはじめた。
「剥いて行くから。少しでも食べて。あと、今日は外には出ずに寝てること」
「えー! それじゃ退屈すぎて干からびちゃうよ!」
「来主」
無言で圧力をかけられ、操はぐっと喉を詰まらせて、それからしおしおと項垂れた。
甲洋はとても心配してくれている。彼の目には、操はよほど弱って見えているのだ。
(甲洋が言うなら、そうなのかなぁ。昨日ずっと庭にいたのもバレてるし……)
彼が言う通り、操は美羽とエメリーが帰ってからも、ずっと縁側にいたのだ。甲洋が帰ってくる頃を見計らって家の中に引っ込んだけれど、身体の変調までは誤魔化せなかったということだろうか。
「……わかった。今日は寝てる。リンゴも、ちゃんと食べるよ」
甲洋が息をつく。心から安心したという顔を見て、操も少しホッとした。
体調が思うように優れないことは、操にとって大きなコンプレックスだ。けれどそのぶん、甲洋が優しくしてくれる。彼は操以上に操の身体のことを知っているし、甲洋に委ねてさえいれば、決して間違いはないのだ。
甲洋は片付けを中断し、操の傍までやってくると膝をついた。長い両腕に抱き寄せられて、その胸におとなしく身体を預ける。
「そばについててやれなくて、ごめん」
染み入るような声がどこか切なくて、甲洋のほうがよほど弱っているような気がしてしまう。操はその背に両腕を回し、首を左右に振った。
「うぅん、平気。ごめんね、いっつも心配かけて」
「なるべく早く帰ってくるから」
「うん……」
大丈夫だと、操は思った。甲洋の言うことさえ聞いていれば、なにも間違いはない。
だけど、どうしてだろう。やっぱり消えない。昨日からずっと、美羽の、言葉が。
*
午前中は甲洋に言われたとおり、ずっと横になっていた。
いっそ眠ってしまえたら楽なのに、なかなか寝つくことができなくて、ただぼうっと天井を見上げているのも苦痛になってくる。甲洋はああ言ったけれど、身体の不調はやっぱり感じられない。操自身には、まるで自覚症状がないままだった。
結局おとなしくしていられない操は、のこのこと起きだすと縁側でサンダルを引っ掛け、杖をつきながら庭に出た。外の空気を吸わなければ、身体より先に気持ちが滅入ってしまいそうだった。
外気に触れると、ものの数秒で額に汗が滲むほどの熱気を感じる。家を囲むようにして高く聳える木々に、切り取られた蒼い空。太陽が煌々と照りつけて、少し、目眩がした。
「暑いなぁ」
ぼやきながら、操は庭の出入り口付近へと足を伸ばした。ちょうど昨日、あのふたりが顔を出した大きな紫陽花の茂み。その向こうに、玄関から伸びる石畳と、古い門扉が見える。甲洋が出入りする以外では、決して開かれることのない木製の扉。杖をつきながら、操はそこに一歩一歩、近づいた。
──いい? 庭までだよ。門の外には出ないで。
耳にタコができるくらい言い聞かせられた言葉が、脳裏をよぎる。
けれど美羽が言っていたことが、頭からずっと離れないのだ。この家には近づくなと、彼女は母親からきつく言われているのだと話していた。
(なんで?)
どうして今まで、まったく気にも留めなかったのだろう。二年間。操が家から出ずに暮らしていた間、この家を訪ねてくる者は誰ひとりとしていなかった。
祖母と仲がよかった近所のおばさんは、よく収穫した野菜で作りすぎた漬物を持って顔を出していた。しょっちゅう脱走する飼い犬を探しては勝手に庭まで入ってきて、ついでにお茶を飲んでいく人もいた。
食料品などを売りに、家々を回るトラックだって来ていたはずだ。気前のいいおじさんが、よくプリンやヨーグルトをおまけしてくれたのを覚えている。
以前は全てが当たり前の光景だった。それが今では、宅配便ですらこの家にはやって来ない。郵便配達のバイク音すら、聞こえることはなくなった。
甲洋が、そういった荷物や手紙の類を営業所で留めていることは知っていた。
けれどそれらは全て、職場から営業所が近いからという理由で、届くたびに彼が手ずから取りに行くからだ。操はなにひとつ、疑問に思うことがなかった。昨日、美羽から話を聞くまでは。
特別、意味はないのかもしれない。コミュニケーションの中心にいた祖父母が死んでしまったことで、それまでは密だった近所付き合いが途切れてしまっただけ。移動販売のトラックだって、今では車という足を持つ甲洋が一言、もう必要ないと言ってしまえばそれまでだったのだと思う。
けれど気味が悪いのだ。美羽は言っていた。オバケでもいるのかと思っていた、と。
「おれ、本当はオバケだったりして」
怪談の類によくある話だ。死んだ人間が、そうと気づかずごく当たり前に生活している。冗談のつもりで呟いたのに、どうしてか少しも笑えない。
操は勇気を振り絞り、門扉を開くと足を踏みだした。湿った熱気と一緒に、昔と比べて随分と弱々しくなったセミの声が、どこからともなく聞こえてくる。過保護に身を案じてくれる甲洋への後ろめたさに、緊張感が汗になって背中を伝った。
目の前には細い一本道が伸びていた。昔は両脇に畑が広がっていたが、祖父母が他界したのを機に手をかける人間がいなくなったため、伸びた雑草によって林と化している。
まっすぐに伸びる平坦な道を、見知らぬ景色を眺めるような気分でゆっくりと歩いていく。荒廃した世界にたった一人きり、取り残されているような気持ちになった。
長いこと家の中でばかり過ごしていた身体は、ものの十分もしないうちに疲れが滲む。徐々に息が乱れてきたころ、道の向こうにようやく民家が見えてきた。
褪せた景色が一瞬にして、瑞々しい緑に変わる。広大な田畑が広がるそこは、昔はあぜ道でしかなかった道が綺麗に舗装され、ところどころに見知らぬ家が建っていた。
「こんなに、変わるんだ……」
たった二年で。どこまでも広がる景色が、自分の記憶の中にあるものとは随分と印象が変わっている。家が増え、潰された畑の一角には小奇麗な駐車場までできていた。
こんな小さな、何もないはずの田舎町ですら、こうして姿を変えて移り変わっていく。たった一歩踏み出すだけで、世界には明確に時が流れているのだということを思い知らされる。
引き返した方がいいと、本能的にそう感じた。甲洋との暮らしを続けていきたいのなら、再び、繭のようなあの家に。こうして一人で外の世界にいると、迷子になってしまったような不安だけがひたひたと音を立てて押し寄せる。
なのに操は、一歩、また一歩と、足を踏み出していた。綺麗に舗装された道路に出て、改めて田畑を見つめる。少し湿った風が、ゆるやかに吹き抜けた。空は、こんなに広かったろうか。
「綺麗な空……」
甲洋とかけっこをしたあぜ道はコンクリートに潰されていたが、そこは確かにあの頃と同じ方角へまっすぐに伸びている。懐かしいと感じた。
「あんた、ひょっとして来主んとこの孫じゃないかい?」
そのときだった。ぼんやりと思い出に浸る操に、声をかける人間がいた。ハッとして振り返ると、そこには両手を背中にやった高齢の女性が、驚いた様子で立っている。その顔に、操は見覚えがあるような気がした。
「……あ! 西尾商店のおばあちゃんだ!」
この辺りに唯一ある小さな商店で、いつも店番をしていた姿を思いだす。
西尾行美はあの頃とまったく変わらない様子で、エプロンをしてそこに立っていた。
彼女は驚きと、そしてどこか憐れみを含んだ表情で傍までやってくると、立ち尽くす操をしみじみと眺めた。
「あんた、病気はもういいのかい? 心まで病んじまったとは聞いていたが……痩せちまったねぇ、ずいぶんと」
「病気? 心?」
顔を顰める操に、彼女はホッとしたように息をついた。
「外に出られるようになったのかい。甲洋から聞いて、ここいらの人間はみんな知ってるよ」
「知ってるって、なにを?」
「なんだいあんた、ボケちまったのかい?」
操はただ混乱していた。彼女の言う病気、というのは、自分の身体が丈夫ではないことを指しているのだろうか。しかし、操は確かに体調を崩しやすいけれど、なにか大きな病気を患っていたわけではない。
「ばあさんが逝っちまったのも急だったしね。よほどショックだったんだろうさ」
祖母が急死したのは操が高校を卒業し、家から出なくなったのとほぼ同じ時期だった。
葬儀には多くの人が集まったが、操は正直、そのときのことをほとんど覚えていない。全てのことは甲洋が先頭になって処理してしまったし、ただ慌ただしかったという記憶しかなかった。思えば、あれがまともに近所の人と関わった最後の日だったのかもしれない。
「甲洋がね、あんたはすっかり元気をなくして、口がきけなくなっちまったって言うんだよ。身体も壊したきりで、人と会える状態じゃないからってね」
「甲洋がそう言ったの?」
「そうさ。そっとしておきたいから、よくなるまで誰にも会わせたくないって……でもよかったよ。こんなに歩けるくらい元気になったんだからさ。それにしたってあんた、本当になにも覚えてないのかい?」
「……うん」
というより、知らない。
確かに操はすぐに体調を崩して、寝込んでしまうくらい身体が貧弱だった。長いあいだ外にはいられないし、激しい運動などもってのほかだ。けれど寝たきりだったわけじゃない。言葉も話せたし、幼い頃のあの事故以外で医者にかかったことだって、一度も──。
「あんたが病気なんてね。子供の頃はあんなに元気で、いっつも走り回ってたってのに」
はたと、気がつく。
「あんたは覚えちゃいないだろうけどね、赤ん坊の頃も、そりゃあ元気な子だったよ。大きな声でよく泣いてたもんさ。ここいらにまで声が届くくらいだからね」
張りつめていたなにかが、小さく音をたてて破れてしまうような感覚を覚えた。操を覆う薄い膜のようなものに、亀裂が入る音だ。それは矛盾という名の、透明な薄皮だった。
──お前は生まれつき身体が弱いだろ? 足のこともそうだけど、すぐに風邪を引くし、調子を崩して寝込んでしまう。
どうして──。
どうしてずっと、そう思いこんでいたのだろう。
夏休みには甲洋と虫やカエルをとって遊んだ。あぜ道を駆け抜けた。燦々と降り注ぐ太陽の下、川遊びをしてびしょ濡れになったりもした。冬には一日中雪のなかにいたって平気だった。
操は滅多なことでは風邪すらひかない、丈夫な子供だった。野山を平然と駆け抜けるだけの、強い足腰を持っていた。いつだって、こんなにも鮮明にあの頃を思いだすことができるのに。
パラパラと、乾いた膜が剥がれていく。幾つもの矛盾が浮き彫りになっていくのを感じていた。
──来主はそうやってすぐに油断する。明日寝込むことになっても知らないよ。
(そうだ、おれはよく具合が悪くなって、それで、寝込むことが多くって……ちょっと元気だからって気を抜くと、次の日には、必ず……)
必ず……?
──顔色が悪いね。昨日、長いこと庭にいたんだろ。
──やっぱり。少し熱がある。食事も進んでないみたいだし。
──自分では分からない? 今は微熱だけど、夜にはもっと高くなると思うよ。
甲洋が言うと、自分でもそうなのかもしれないと、なんの疑いもなく思いこまされた。けれどそれは必ずといっていいほど、操が『今日は調子がいい』と感じたその翌日ではなかったか。
そうだ。自分の意思で寝込んだことなど一度もない。甲洋が、無理やりにでも布団に押し込めてしまうから。操はただいい子でそれに従っていればよかった。信じていれば、間違いなかった。
まるで暗示だ。甲洋の言うことは、いつだって正しいはずだと。
ずっとずっと、そう思い込んでいた。
*
その話を聞いたあとでも、操が甲洋に対して怒りを覚えることはなかった。いつかのときみたいに、嘘つきと言って酷くなじる気にもなれない。ただ疑問だけが膨らんでいた。
この家に誰も訪れなかったのは、甲洋が遠ざけていたから。彼は二年間ものあいだ周りの人間を欺き、操を孤立させるように仕向けていた。
だけどどうして。なぜ、そんなことをする必要があったのだろう。なぜ、自分はなんの違和感も抱かずにいたのだろう。
身体のことだってそうだ。いつだって縋るみたいに、過去のことばかりを思いだしていたはずなのに。
陽が沈みかける頃、甲洋が帰宅した。
操はただ茫然としながら、仏間の中央に座り込んでいた。頭上で電気が灯される。
「来主?」
灯りもつけずに座り込んでいる操に、彼は眉をひそめながら首を傾げた。
「甲洋……おかえり」
のろのろと顔をあげ、心配そうに見下ろす瞳を見返す。覇気のなさがそのまま声に乗ってしまい、甲洋はよりいっそう顔を顰めると、しゃがみこんで操の頬や額に触れた。
「ちゃんと寝てるように言ったのに。どうしてそんな無理するの」
「無理なんか、してないよ」
「嘘。朝よりずっと顔色がひどくなってる」
たぶん、これは真実だ。自分でも全身から血の気が引いている自覚がある。甲洋は「早く横になって」と言って、操の手をとった。けれどそれを、反射的に振り払ってしまう。
「来主?」
「……いい。少し、ほっといて」
庭から鈴虫の声がしている。いつもより低い操の声は、その鳴き声よりも小さなものだった。
甲洋の戸惑いが皮膚から痛いほど伝わった。彼は本気で操の身を案じている。そこに嘘はないように感じられた。それが逆に、操を混乱へと導いていく。
(どうしておれを騙したの? 騙して、どうするつもりでいるの?)
あの日、操が山の斜面を転がり落ちて、足を怪我した日。あのとき、操は甲洋に呪いをかけた。
真っ赤な血と、惨たらしい右足を見せつけながら、君のせいだと言って静かに責めた。甲洋が意地悪をするから。もう知らないなんて言うから。だからこんなことになってしまったのだと。
甲洋は、一生をかけて償うと言った。操は甲洋の神様になったはずだった。罪の意識で縛りつけ、背負わなくてもいいはずの十字架を背負わせ、支配したはずだった。
(怖い)
そう思った。甲洋が怖い。なんだって知っていると思っていた。ずっと一緒にいたから。彼の優しさを、責任感を、全て利用しながら理解していると思いこんでいた。けれど違っていたのだろうか。
「来主、リンゴは食べた? 外にも出たね。どうして言うこと聞かなかったの?」
「……なんで分かるの?」
「縁側に杖がある。朝は廊下に立てかけてあったのに」
「なんでも分かっちゃうんだ、甲洋には」
だけど操には分からない。甲洋の気持ちも、考えていることも、なにも。
子供のころから、ずっと変わらない。分からないままだ。なにひとつ、甲洋のことを、知らない。
知らないから、平気で傷つけることができた。籠の中に閉じ込めた小さな命を殺めるみたいに。幼さを武器にして、無遠慮に、ズケズケと。触れてほしくないものに平気で触れて、そこにある痛みを、知ろうともせず。
けれど今は恐ろしい。知らないことが、恐ろしい。
「来主、部屋に戻ろう。すぐに夕飯の支度をするから。それまで横に」
「うるさいってば!」
「!」
「ほっといてって言ってるじゃん!!」
ああ、また。
目の前が真っ赤に染まった。傷つける。傷つけてしまう。傷つけるために、操は拳を振り上げる。
だけど振り下ろす寸前で、ピタリと、止まる。甲洋は、薄く微笑んでいた。
「──っ!」
(なんで……?)
目を閉じるでもなく、顔を背けようとするでもなく、ただ優しく、愛おしそうに、操を見つめている。
(なんで、そんな顔するの?)
焦がれるような瞳だった。まるで待ちわびているみたいだった。薄い唇に乗っていたささやかな笑みが、けれど操が動きを止めてしまったことに気づいて、不思議そうにほどけていった。
「来主?」
目を丸くしながら、甲洋はことりと首を傾げて見せる。その仕草が少し子供っぽくも見えて、そこに垣間見えた無邪気さに、操は足先からゾワゾワと冷たいなにかが這い上がってくるのを感じた。
(このひと、誰……?)
ふと、そんな疑問が頭をもたげる。
このひとは誰だろう。ずっと一緒にいた。子供の頃から、ずっとずっと。そばにいたのに。
「来主。ねぇ来主」
振り上げたままの拳を、甲洋の手が包み込む。そのまま引き寄せ、自分の頬へとあてがうと縋るように頬ずりをする。
「お前は俺に、なにをしたって許されるんだよ」
「っ、や、やめて」
「来主、頼むから」
甲洋の手が震えているのか、操の拳が震えてるのか、どちらなのか分からなかった。だけど祈るように閉じた瞼で、彼が凍えたように睫毛を震わせていることだけは、分かった。
「いやだ甲洋……泣かないで」
空いているほうの手を甲洋の頬に這わせて、操は上ずる声でそう言っていた。
どうしてだろう。初めてだったのに。彼を殴らずに済んだのは初めてだった。なのに、どうして後悔なんかしてるんだろう。傷つけずに済んだのに、ちゃんと傷つけてあげればよかったなんて。そんな狂ったことを思ってしまうのは。
操には分からなかった。甲洋のことが分からなかった。だけど自分自身のことも、もうなにも、分からなくなってしまった。
←戻る ・ 次へ→
乱れた浴衣の合わせから伸びる両足を、抱え込むようにして割り開き、ゆっくりと腰を前後させる甲洋の右肩には、鎖骨にかけて赤い亀裂が走っている。それはついさっき刻まれたばかりの、真新しい傷だった。
天井に向かってぶらぶらと揺れている操の足は、右の脛に古い傷跡が残っている。
灯りが煌々と灯された居間で重なり合うふたりの頭上では、小さな音量でサスペンスドラマが垂れ流されていた。猟奇殺人事件の捜査にあたる女刑事が、犯人に追い詰められて目の前にナイフを突きつけられている最中だった。ぼんやりと滲む視界の端で、銀の切っ先が女の頬をなぞっている。
「ッ、ぁ、あぅ、ん……ッ!」
太い楔で身体を揺さぶられながら、操は甲洋の切り裂かれた皮膚に震える指先を這わせた。傷は思ったよりも深くない。血も止まっていたけれど、甲洋は反射的に低く呻いて、小さく顔を歪ませる。
「こぉ、よ……」
「来主……?」
「ごめ、ん……ぁ、ごめ、なさ、ぃ」
喘ぎながら、何度も謝罪の言葉を口にした。甲洋はふと微笑んで、そんな操の額に音を立ててキスをする。操は中途半端に浴衣を引っ掛けたままの両腕を、その首に巻きつけるようにして強く抱きよせた。甲洋のキスが顔中に降り注ぐ。優しく労わるように、慰めるように。
また、彼を傷つけてしまった。夕食を終えてすぐだった。今朝の約束通り、定時で戻ってきた甲洋は、片付けなくてはいけない処理を明日に回してきたようだった。だから明日は、少しだけ残業で帰りが遅くなるかもしれない。わざわざそう断りを入れて寄こした甲洋に向けて、操はテーブルの片隅にリンゴと一緒に置かれていた、小さな果物ナイフを手に取ると、後先考えずに振り下ろしていた。
切れ味のいいそれは、甲洋が部屋着にしていたシャツを切り裂き、その下の皮膚にも当然、傷を走らせた。
シャツに滲む赤色を目にした途端、我に返った操は悲鳴をあげた。
少しでも位置が違えば、ナイフは彼の首を掻き切っていたかもしれない。永遠に失っていたかもしれないのだ。その声も、瞳も、力強い腕も、優しい温もりも。冷たく、ただ朽ちていくだけの冷えた肉の塊になっていたかもしれない。
甲洋は錯乱する操からすぐにナイフを取り上げ、強く抱きしめると、何度も優しい声音で「大丈夫」と繰り返し言った。
昔から暴力をふるったそのあとは、必ずといっていいほど身体を繋げるのが、ふたりの間では儀式のように繰り返されていた。甲洋は泣きじゃくる操をことさら優しく抱いて、いつだって罪の意識ごと蕩けさせてしまう。
「こう、よ……ねぇ、甲洋……っ」
「言わなくていい」
「あ、ぁぅ……ッ、ん……こう、よ……おねが……許し、て」
「愛してる。何も考えなくていいよ。悪いのは俺だ。ぜんぶ俺のせいだ」
甲洋の言葉は、麻酔のように操の痛みを和らげる。だけど心はずっと鋭いナイフが抜けないままだ。
違う、と言いたくて、けれど狙ったように甲洋の切っ先が中の弱い場所を抉ったせいで、言葉にすることは叶わなかった。代わりに、ただ甘く啼きながら嫌々と首を振る。汗ばんだ亜麻色が、涙に濡れた頬に張りついていた。
そこに甲洋が舌を這わせる。大きな獣に慰められているような安堵感が、操の思考を白く染め上げていく。
「あぁッ! あッ、ィ、く……こ、よ、も、ッ、いっちゃ、ぅッ──!!」
甲洋は身体すべてで閉じ込めるみたいにして、操の身体を抱え込んだ。
その腕の中で大きく身体をビクつかせ、精を放つ。少し遅れて腰を戦慄かせた甲洋が、中から自身を引き抜くと同時に射精した。焼けるような迸りは、先端からトロトロと吐精し続ける操の性器と、薄い下腹へぶちまけられる。ふたり分の白濁が混ざり合い、伝い落ちて浴衣を汚す。
互いに息が整わないまま、無言で抱き合った。意識が、夢と現を行き来する。ドラマはとっくに終わり、ニュース番組に切り替わっていた。女刑事はどうなっただろう。テンプレート通りの二時間サスペンスで、主人公が惨たらしく殺されるなんて結末はありえない。大団円。何事もなかったかのように、呑気に幕を閉じるのだ。
だけど現実はどうだろう。ギリギリのところで仲間の刑事が駆けつけるとか、都合よく状況が好転するなんてことは、まずないはずだ。犯人が手にしたナイフは、きっと女の喉笛を掻き切ってしまう。
「……怖くないの?」
甲洋の重みと、その鼓動を身体いっぱいに受け止めながら、操はその耳元で掠れた声を吐きだした。
「甲洋。おれはいつか、君を殺すよ」
だからその前に逃げだすべきだ。今までは運がよかっただけ。杖が急所に当たらなかったのも、ナイフが喉を切り裂かなかったのも、全ては甲洋が瞬時に避けているからだ。操自身が意図的に外したことなど、一度もない。
彼に手をあげるときは、いつだって目の前が赤く染まっている。苦痛に呻く声や、表情に、暴れ狂う衝動を煽られる。飢えた獣のほうが、よほど理性的かもしれない。
耳元で、甲洋が「いいぜ」と男臭く言って、笑った。
「お前がそれを望むなら」
「……どうして」
「俺はお前のものだから」
所有者と所有物。いらなくなったら捨てるか壊すかすればいいとでも言われているみたいで。
悲しいと思う。どうしてただ受け入れるんだろう。力づくでも止めてくれないんだろう。やめろと、一言でも言ってくれないのだろう。酷いことばかりしている。いつか本当に、殺されてしまうかもしれないのに。
甲洋にはそれをやってのける力がある。痩せてはいるが、大きくて健康的な肉体がある。今からだって遅くない。こんなにも弱々しい、歩くことすらおぼつかない非力な身体なんて、片手で捻じ伏せることができるはずなのに。
「……それじゃあ君は、まるでオモチャと変わらない。おれを憎いとは思わないの?」
「愛してる」
彼はそれしか、言ってくれない。だからなにもかもどうでもよくなってしまうのだ。操を愛すること、それが甲洋の償い。生涯を捧げるのは、当然のこと。そうやって言い聞かせることで、操はいつだっていびつな安堵に身を委ねることができた。
(怖がってるのは、おれのほう)
あの日、操は自ら足を踏み外したようなものだ。こんな身体になってしまったのは、全て自分が招いた結果だった。
甲洋はなにも悪くない。彼の孤独を知ろうともせず、傲慢な幼さで傷つけた。
あのとき、甲洋は魔法の靴が欲しかったんじゃない。ただ両親に愛されたくて、届かない手を必死に伸ばしていただけだ。彼が本当に欲しかったものを、操はすべて持っていた。
だけどそれだけでは足りなかった。操は甲洋が欲しかった。だから自らの意思で、あの斜面を転がり落ちた。
甲洋はそれを知らない。操の嘘を知らない。なにもかもを己の咎として受け入れている。知ればどうなってしまうだろう。きっともう、繋ぎ止めてはおけなくなる。
罪の意識が、後ろめたさが、不安を助長する。不安は操から理性を奪い、暴力へと駆り立てる。そして押し寄せる後悔は、こうして甲洋が甘く拭い去ってしまうのだ。悪循環。救いなんかどこにもなくて、心のどこかでは終わりにしたいと思うのに、彼への執着を捨てることもできない。
それらの思いは水と油のように、決して溶け合うことはないというのに。
*
真夏の猛暑が続くなか、それでも午前中はまだいくらか過ごしやすい。
なんとなく普段より身体の調子がいいような気がして、操は朝から庭に出ると、向日葵や朝顔に水をやっていた。杖で右半身を支えながら、左手で持った緑色のジョウロから雨を降らせる。咲き乱れる花々が水を弾き、朝の光に透明な粒を輝かせていた。
「来主」
今朝も仕事へ行くために玄関から出た甲洋が、庭に回り込んできたことに気づいて振り返る。
「あ、もう行くの?」
甲洋は操の傍に並び立つと「うん」と短く返事をしながら、微かに表情を曇らせた。大きな手が頬へ伸びてきて、指の甲でそっと撫でられる。
「顔色がよくないな。今日はあまり外に出ないほうがいい」
「え、そう? いつもより元気な気がしてるんだけどな」
「来主はそうやってすぐに油断する。明日寝込むことになっても知らないよ」
操はしょんぼりと項垂れた。せっかく体調もいいことだし、今日は久しぶりに洋服を来て、裏庭の草むしりでもしようかと思っていたのに。操がいつも浴衣姿なのは、自分でも楽に着替えができるからだ。
たまには気分転換もしたいし、膝をついて草むしりをするくらいは、そう難しいものではなかった。甲洋に任せてばかりいるけれど、調子がいいときくらいは、操だって家のことをしたいと思う。
そんな気持ちを上目遣いで訴えかける操を、甲洋が真剣な面持ちで見返してくる。眉間に寄った皺と無言の訴えに、根負けして唇を尖らせた。
「ちぇー。わかったよぅ……おとなしくしてればいいんでしょ」
確かに、これまでも調子がいいと思った翌日には、一日中布団で過ごす羽目になることが多かった。甲洋は操以上に操の体調を気遣っているし、自分では気づかないような些細な変化にすら敏感なのだ。
「裏庭、草がボーボーだから、キレイにしようと思ったのに」
「次の休みに俺がやるよ。お前はそんなことしなくていいから」
「わかったってば。ほら、もう行く時間なんでしょ」
ずっと心配そうに表情を曇らせていた甲洋だが、操が完全に諦めたのを確認すると安堵したように微笑んだ。それから一瞬身を屈め、操の額にキスをする。
「いってくる」
「ん、いってらっしゃい」
今日もいつもと変わらない、真夏の一日が始まる──はずだった。
*
甲洋が出かけてから小一時間ほどは、おとなしく家の中で過ごした。
けれどすぐに外の空気に触れたくなって、縁側に腰かけると息をつく。いつもの位置で、いつものようにオトギリソウの群れを眺めた。ほのかに吹く風に、草木がのんびりと揺れている。聞こえてくるのは、間延びしたセミの声だけだ。
一人きりで過ごす時間は、あまりにも長いものだった。空はこんなにも晴れ渡り、身体の調子も悪くはないのに──実際そう感じているのは操の思い違いなのだろうが──こうしてただぼんやりと過ごすしかない。
(今日はいつもより元気に動ける気がしてたのに)
せめて身体さえ丈夫であったなら、甲洋のように外へ働きに出ることができるのに。休日にはどこかへ出かけたり、旅行へ行ったり、やりたくてもできないことが山のようにあった。
「また昔みたいに、甲洋と一緒に川で釣りがしたいな……」
あの夏の日が、あまりにも遠い。いびつな満ち欠けを繰り返しながら、長い時だけが過ぎてしまった。
操がどんなに望んでも、甲洋は決して首を縦に振ってはくれないのだ。操の身体を気遣うあまり、一歩も外に出させようとしない。そうなるように仕向けたのは自分であるはずなのに、時々どうしようもなく身勝手なジレンマに苛まれる。
操は小さく息をつく。そろそろまた部屋へ引っ込もうか。そう考えていると、視界の端で何かが動いた。
「!」
ふと、玄関がある方向へ視線をやる。庭の出入り口、旬をすぎた紫陽花の陰から、ひょっこりと顔をだす丸い瞳と目が合った。
「あ……!」
大きく見開かれた目で、それは幼い声をあげた。
「だ、ダメだよ美羽! 私たちがいること、バレちゃう!」
「だってぇ! 葉っぱがチクチクするんだもんっ」
声はふたつあった。紫陽花の茂みがガサガサと音をたて、そこから小さなふたつの頭が飛び出ている。隠れているつもりなのかもしれないが、ぜんぜん隠れていない。
操は首を傾げながら問いかけた。
「ねぇ、君たちは誰? うちになにか用?」
「「!」」
息をのむ音を響かせたあと、手を繋いだ少女がふたり、おずおずと茂みから姿を現す。
茶色の髪をふたつに結った小さな女の子と、もうひとりは黒髪の少女だった。ちょうど操と甲洋が初めて出会った頃と、同じくらいの年の差だろうか。桃色のワンピースと白いワンピースはお揃いだった。
ふたつとも初めて見る顔だ。思えばこの2年というもの、甲洋以外の人間と顔を合わせるのも、言葉を交わすのも、これが初めてのことだった。
「あ、あの、勝手に入って、ごめんなさい!」
黒髪の少女がペコリと頭をさげる。
「美羽もごめんなさいして」
「ごめんなさい! 美羽たち、イタズラしに来たわけじゃないの!」
操はきょとんとしながら目を瞬かせた。叱られるとでも思っているのか、ふたりは不安そうに瞳を揺らしている。
「いいよ。今はおれしかいないし……あ、そうだ! ねぇ、一緒にゼリー食べない? くだものがいっぱい入ったやつ。美味しいよ」
「くだものゼリー!?」
大きな花火が打ち上がったみたいに、美羽の顔が明るくなった。
「食べる! 美羽、ゼリー大好きだよ! ね、エメリー!」
*
ふたりはここから比較的近い場所にある家からやってきた子供だった。
美羽は夏休みのこの時期、両親と共に親戚の家に遊びに来ていた。エメリーの家族はすでに他界しているが、ふたりは遠い親戚同士でとても仲良しなのだと、冷たいゼリーに夢中になりながらも教えてくれた。
「ふぅん、そうなんだ。遠いところから来たんだね」
問うと、ふたりは大きく頷いた。縁側に三人で並んで腰かけながら、操は美味しそうに桃のゼリーを頬張る美羽とエメリーの横顔を見つめる。自分たちもこんなに小さかったのだと思うと、懐かしさと一緒に不思議な感覚がこみ上げた。
美羽はゼリーを食べ終えると、お盆の上に容器とスプーンを置いた。それから隣の操を見上げ、興味深そうに瞬きを繰り返す。好奇心を隠しもしない無邪気な瞳に、虫かごに囚われた昆虫のような気分になる。
「あんよ、どうして引きずってるの?」
彼女の興味は、操の杖に向けられていた。ゼリーを運んでくるときも、手すりに掴まりながら足を引きずっていたから、ずっと気になっていたようだった。エメリーが慌てて美羽の名前を呼びながら咎めるが、操は緩く首を振りながら「平気だよ」と言った。
「ずっと昔にね、ケガしちゃったんだ」
「ケガ? ころんじゃったの? 痛い?」
美羽がくるくるとした大きな瞳で問いかけてくる。エメリーも同じように操を見上げた。美羽が小さいから抑えてはいるけれど、彼女も本当は気になっているのだ。
操と目が合うと、エメリーはハッとして「ごめんなさい!」と言いながら俯いてしまった。
どうしてか、少し胸が痛くなる。エメリーに甲洋の面影を見たような気がした。あの頃の彼も、きっと操が思っていたよりずっと、幼い子供だったのだと思う。
「うん。転んで、高いとこから落ちちゃった。だけど今は平気だよ。痛くない」
天気が崩れると痛むことはあるが、足を引きずりながら歩くことも、もうすっかり慣れてしまった。
操が笑うと美羽は「よかったぁ」と言って笑った。エメリーもホッとしたような顔をしている。
「あ、あの」
けれどエメリーはすぐに眉をハの字に下げた。どこかバツが悪そうに、肩をすくめて見せる。
「なぁに?」
「私たちがここに来たこと、誰にも言わないでもらえますか?」
「え? うん、それはいいけど」
「あのねあのね、おこられるの。このおうちには、ぜったい近づいちゃダメだって。ママったらうるさいんだもん」
美羽がまあるい頬をさらにぷくっと膨らませる。その言葉の意味を測りかね、操は瞬きを繰り返しながら微かに首を傾げた。
絶対に近づいてはいけない、とは、どういう意味だろう。この家は民家が密集している場所から多少離れてはいるが、近所付き合いで孤立していたという記憶は一切ない。
祖父母が生きていた頃は、ごく普通に近隣の住人との付き合いはあったはずだ。祖母が死に、高校を卒業した操が家に引きこもるようになってからは、全く交流がなくなってしまったが。
「なんでって聞いても、おしえてくれないの。だから美羽、気になって」
「……探検しに来たの?」
「うん。オバケがいるのかなーって」
「み、美羽!」
エメリーが慌てて美羽の口を塞ぐ。操は胸に引っかかりを覚えながらも、朗らかな笑みを浮かべた。
「へぇ、オバケかぁ。いるならおれも会ってみたいな」
「美羽も! オバケとお話してみたいの!」
美羽はエメリーの手を外し、嬉しそうに言いながら跳ねるように立ちあがった。エメリーもそれに続いて立ち上がり、「ごちそうさまでした」と礼儀正しく言って頭をさげる。
「ごちそうさまでした! ゼリーとってもおいしかったよ!」
「ふたりとも、もう帰っちゃうの?」
「うん。だってママが心配するもん」
「そっか」
「あんよ、早くなおるといいね。そしたら、美羽がいっしょにあそんであげる!」
「ほんと?」
「うん! エメリーもいっしょだよ! ね!」
小さな歯を見せながら見上げる美羽に、エメリーは優しく笑いかけたあと操に一歩近づいた。
彼女は白い手を操の右膝にちょこんと置いて、祈るように静かに目を閉じる。
「あなたの足が早く治りますように。少しでも、痛い思いをしなくてすみますように」
操は目を丸くしながら、膝に触れるエメリーの指先を見た。小さくて、触れたら溶けてなくなってしまいそうなくらい白かった。甲洋の手は、どんなだったろう。多分これよりもう少しだけ、大きかったような気がする。
だけど同じくらい優しかった。優しくて、とても背伸びをした子供だった。あのころの操には、なにも分からなかったけれど。
「ありがとう。君は優しくて、とてもいい子だね、エメリー」
華奢な指先にそっと手をかぶせても、彼女の手が溶けて消えることはなかった。エメリーは少しだけ驚いたような顔をしたけれど、くすぐったそうに目を細めて笑った。すると美羽が唇を尖らせ、小さな両手を操の手の甲にかぶせてくる。
「エメリーだけずるい! ねぇ美羽は?」
「うん、美羽もいい子だね」
「えへへ!」
三人で顔を見合わせて笑い合ったあと、それじゃあまたねと手を振りながら、ふたりの少女が駆けていく。
同じように手を振り返しながらも、操の胸には大きな疑問だけが、しこりのように残されていた。
←戻る ・ 次へ→
天井に向かってぶらぶらと揺れている操の足は、右の脛に古い傷跡が残っている。
灯りが煌々と灯された居間で重なり合うふたりの頭上では、小さな音量でサスペンスドラマが垂れ流されていた。猟奇殺人事件の捜査にあたる女刑事が、犯人に追い詰められて目の前にナイフを突きつけられている最中だった。ぼんやりと滲む視界の端で、銀の切っ先が女の頬をなぞっている。
「ッ、ぁ、あぅ、ん……ッ!」
太い楔で身体を揺さぶられながら、操は甲洋の切り裂かれた皮膚に震える指先を這わせた。傷は思ったよりも深くない。血も止まっていたけれど、甲洋は反射的に低く呻いて、小さく顔を歪ませる。
「こぉ、よ……」
「来主……?」
「ごめ、ん……ぁ、ごめ、なさ、ぃ」
喘ぎながら、何度も謝罪の言葉を口にした。甲洋はふと微笑んで、そんな操の額に音を立ててキスをする。操は中途半端に浴衣を引っ掛けたままの両腕を、その首に巻きつけるようにして強く抱きよせた。甲洋のキスが顔中に降り注ぐ。優しく労わるように、慰めるように。
また、彼を傷つけてしまった。夕食を終えてすぐだった。今朝の約束通り、定時で戻ってきた甲洋は、片付けなくてはいけない処理を明日に回してきたようだった。だから明日は、少しだけ残業で帰りが遅くなるかもしれない。わざわざそう断りを入れて寄こした甲洋に向けて、操はテーブルの片隅にリンゴと一緒に置かれていた、小さな果物ナイフを手に取ると、後先考えずに振り下ろしていた。
切れ味のいいそれは、甲洋が部屋着にしていたシャツを切り裂き、その下の皮膚にも当然、傷を走らせた。
シャツに滲む赤色を目にした途端、我に返った操は悲鳴をあげた。
少しでも位置が違えば、ナイフは彼の首を掻き切っていたかもしれない。永遠に失っていたかもしれないのだ。その声も、瞳も、力強い腕も、優しい温もりも。冷たく、ただ朽ちていくだけの冷えた肉の塊になっていたかもしれない。
甲洋は錯乱する操からすぐにナイフを取り上げ、強く抱きしめると、何度も優しい声音で「大丈夫」と繰り返し言った。
昔から暴力をふるったそのあとは、必ずといっていいほど身体を繋げるのが、ふたりの間では儀式のように繰り返されていた。甲洋は泣きじゃくる操をことさら優しく抱いて、いつだって罪の意識ごと蕩けさせてしまう。
「こう、よ……ねぇ、甲洋……っ」
「言わなくていい」
「あ、ぁぅ……ッ、ん……こう、よ……おねが……許し、て」
「愛してる。何も考えなくていいよ。悪いのは俺だ。ぜんぶ俺のせいだ」
甲洋の言葉は、麻酔のように操の痛みを和らげる。だけど心はずっと鋭いナイフが抜けないままだ。
違う、と言いたくて、けれど狙ったように甲洋の切っ先が中の弱い場所を抉ったせいで、言葉にすることは叶わなかった。代わりに、ただ甘く啼きながら嫌々と首を振る。汗ばんだ亜麻色が、涙に濡れた頬に張りついていた。
そこに甲洋が舌を這わせる。大きな獣に慰められているような安堵感が、操の思考を白く染め上げていく。
「あぁッ! あッ、ィ、く……こ、よ、も、ッ、いっちゃ、ぅッ──!!」
甲洋は身体すべてで閉じ込めるみたいにして、操の身体を抱え込んだ。
その腕の中で大きく身体をビクつかせ、精を放つ。少し遅れて腰を戦慄かせた甲洋が、中から自身を引き抜くと同時に射精した。焼けるような迸りは、先端からトロトロと吐精し続ける操の性器と、薄い下腹へぶちまけられる。ふたり分の白濁が混ざり合い、伝い落ちて浴衣を汚す。
互いに息が整わないまま、無言で抱き合った。意識が、夢と現を行き来する。ドラマはとっくに終わり、ニュース番組に切り替わっていた。女刑事はどうなっただろう。テンプレート通りの二時間サスペンスで、主人公が惨たらしく殺されるなんて結末はありえない。大団円。何事もなかったかのように、呑気に幕を閉じるのだ。
だけど現実はどうだろう。ギリギリのところで仲間の刑事が駆けつけるとか、都合よく状況が好転するなんてことは、まずないはずだ。犯人が手にしたナイフは、きっと女の喉笛を掻き切ってしまう。
「……怖くないの?」
甲洋の重みと、その鼓動を身体いっぱいに受け止めながら、操はその耳元で掠れた声を吐きだした。
「甲洋。おれはいつか、君を殺すよ」
だからその前に逃げだすべきだ。今までは運がよかっただけ。杖が急所に当たらなかったのも、ナイフが喉を切り裂かなかったのも、全ては甲洋が瞬時に避けているからだ。操自身が意図的に外したことなど、一度もない。
彼に手をあげるときは、いつだって目の前が赤く染まっている。苦痛に呻く声や、表情に、暴れ狂う衝動を煽られる。飢えた獣のほうが、よほど理性的かもしれない。
耳元で、甲洋が「いいぜ」と男臭く言って、笑った。
「お前がそれを望むなら」
「……どうして」
「俺はお前のものだから」
所有者と所有物。いらなくなったら捨てるか壊すかすればいいとでも言われているみたいで。
悲しいと思う。どうしてただ受け入れるんだろう。力づくでも止めてくれないんだろう。やめろと、一言でも言ってくれないのだろう。酷いことばかりしている。いつか本当に、殺されてしまうかもしれないのに。
甲洋にはそれをやってのける力がある。痩せてはいるが、大きくて健康的な肉体がある。今からだって遅くない。こんなにも弱々しい、歩くことすらおぼつかない非力な身体なんて、片手で捻じ伏せることができるはずなのに。
「……それじゃあ君は、まるでオモチャと変わらない。おれを憎いとは思わないの?」
「愛してる」
彼はそれしか、言ってくれない。だからなにもかもどうでもよくなってしまうのだ。操を愛すること、それが甲洋の償い。生涯を捧げるのは、当然のこと。そうやって言い聞かせることで、操はいつだっていびつな安堵に身を委ねることができた。
(怖がってるのは、おれのほう)
あの日、操は自ら足を踏み外したようなものだ。こんな身体になってしまったのは、全て自分が招いた結果だった。
甲洋はなにも悪くない。彼の孤独を知ろうともせず、傲慢な幼さで傷つけた。
あのとき、甲洋は魔法の靴が欲しかったんじゃない。ただ両親に愛されたくて、届かない手を必死に伸ばしていただけだ。彼が本当に欲しかったものを、操はすべて持っていた。
だけどそれだけでは足りなかった。操は甲洋が欲しかった。だから自らの意思で、あの斜面を転がり落ちた。
甲洋はそれを知らない。操の嘘を知らない。なにもかもを己の咎として受け入れている。知ればどうなってしまうだろう。きっともう、繋ぎ止めてはおけなくなる。
罪の意識が、後ろめたさが、不安を助長する。不安は操から理性を奪い、暴力へと駆り立てる。そして押し寄せる後悔は、こうして甲洋が甘く拭い去ってしまうのだ。悪循環。救いなんかどこにもなくて、心のどこかでは終わりにしたいと思うのに、彼への執着を捨てることもできない。
それらの思いは水と油のように、決して溶け合うことはないというのに。
*
真夏の猛暑が続くなか、それでも午前中はまだいくらか過ごしやすい。
なんとなく普段より身体の調子がいいような気がして、操は朝から庭に出ると、向日葵や朝顔に水をやっていた。杖で右半身を支えながら、左手で持った緑色のジョウロから雨を降らせる。咲き乱れる花々が水を弾き、朝の光に透明な粒を輝かせていた。
「来主」
今朝も仕事へ行くために玄関から出た甲洋が、庭に回り込んできたことに気づいて振り返る。
「あ、もう行くの?」
甲洋は操の傍に並び立つと「うん」と短く返事をしながら、微かに表情を曇らせた。大きな手が頬へ伸びてきて、指の甲でそっと撫でられる。
「顔色がよくないな。今日はあまり外に出ないほうがいい」
「え、そう? いつもより元気な気がしてるんだけどな」
「来主はそうやってすぐに油断する。明日寝込むことになっても知らないよ」
操はしょんぼりと項垂れた。せっかく体調もいいことだし、今日は久しぶりに洋服を来て、裏庭の草むしりでもしようかと思っていたのに。操がいつも浴衣姿なのは、自分でも楽に着替えができるからだ。
たまには気分転換もしたいし、膝をついて草むしりをするくらいは、そう難しいものではなかった。甲洋に任せてばかりいるけれど、調子がいいときくらいは、操だって家のことをしたいと思う。
そんな気持ちを上目遣いで訴えかける操を、甲洋が真剣な面持ちで見返してくる。眉間に寄った皺と無言の訴えに、根負けして唇を尖らせた。
「ちぇー。わかったよぅ……おとなしくしてればいいんでしょ」
確かに、これまでも調子がいいと思った翌日には、一日中布団で過ごす羽目になることが多かった。甲洋は操以上に操の体調を気遣っているし、自分では気づかないような些細な変化にすら敏感なのだ。
「裏庭、草がボーボーだから、キレイにしようと思ったのに」
「次の休みに俺がやるよ。お前はそんなことしなくていいから」
「わかったってば。ほら、もう行く時間なんでしょ」
ずっと心配そうに表情を曇らせていた甲洋だが、操が完全に諦めたのを確認すると安堵したように微笑んだ。それから一瞬身を屈め、操の額にキスをする。
「いってくる」
「ん、いってらっしゃい」
今日もいつもと変わらない、真夏の一日が始まる──はずだった。
*
甲洋が出かけてから小一時間ほどは、おとなしく家の中で過ごした。
けれどすぐに外の空気に触れたくなって、縁側に腰かけると息をつく。いつもの位置で、いつものようにオトギリソウの群れを眺めた。ほのかに吹く風に、草木がのんびりと揺れている。聞こえてくるのは、間延びしたセミの声だけだ。
一人きりで過ごす時間は、あまりにも長いものだった。空はこんなにも晴れ渡り、身体の調子も悪くはないのに──実際そう感じているのは操の思い違いなのだろうが──こうしてただぼんやりと過ごすしかない。
(今日はいつもより元気に動ける気がしてたのに)
せめて身体さえ丈夫であったなら、甲洋のように外へ働きに出ることができるのに。休日にはどこかへ出かけたり、旅行へ行ったり、やりたくてもできないことが山のようにあった。
「また昔みたいに、甲洋と一緒に川で釣りがしたいな……」
あの夏の日が、あまりにも遠い。いびつな満ち欠けを繰り返しながら、長い時だけが過ぎてしまった。
操がどんなに望んでも、甲洋は決して首を縦に振ってはくれないのだ。操の身体を気遣うあまり、一歩も外に出させようとしない。そうなるように仕向けたのは自分であるはずなのに、時々どうしようもなく身勝手なジレンマに苛まれる。
操は小さく息をつく。そろそろまた部屋へ引っ込もうか。そう考えていると、視界の端で何かが動いた。
「!」
ふと、玄関がある方向へ視線をやる。庭の出入り口、旬をすぎた紫陽花の陰から、ひょっこりと顔をだす丸い瞳と目が合った。
「あ……!」
大きく見開かれた目で、それは幼い声をあげた。
「だ、ダメだよ美羽! 私たちがいること、バレちゃう!」
「だってぇ! 葉っぱがチクチクするんだもんっ」
声はふたつあった。紫陽花の茂みがガサガサと音をたて、そこから小さなふたつの頭が飛び出ている。隠れているつもりなのかもしれないが、ぜんぜん隠れていない。
操は首を傾げながら問いかけた。
「ねぇ、君たちは誰? うちになにか用?」
「「!」」
息をのむ音を響かせたあと、手を繋いだ少女がふたり、おずおずと茂みから姿を現す。
茶色の髪をふたつに結った小さな女の子と、もうひとりは黒髪の少女だった。ちょうど操と甲洋が初めて出会った頃と、同じくらいの年の差だろうか。桃色のワンピースと白いワンピースはお揃いだった。
ふたつとも初めて見る顔だ。思えばこの2年というもの、甲洋以外の人間と顔を合わせるのも、言葉を交わすのも、これが初めてのことだった。
「あ、あの、勝手に入って、ごめんなさい!」
黒髪の少女がペコリと頭をさげる。
「美羽もごめんなさいして」
「ごめんなさい! 美羽たち、イタズラしに来たわけじゃないの!」
操はきょとんとしながら目を瞬かせた。叱られるとでも思っているのか、ふたりは不安そうに瞳を揺らしている。
「いいよ。今はおれしかいないし……あ、そうだ! ねぇ、一緒にゼリー食べない? くだものがいっぱい入ったやつ。美味しいよ」
「くだものゼリー!?」
大きな花火が打ち上がったみたいに、美羽の顔が明るくなった。
「食べる! 美羽、ゼリー大好きだよ! ね、エメリー!」
*
ふたりはここから比較的近い場所にある家からやってきた子供だった。
美羽は夏休みのこの時期、両親と共に親戚の家に遊びに来ていた。エメリーの家族はすでに他界しているが、ふたりは遠い親戚同士でとても仲良しなのだと、冷たいゼリーに夢中になりながらも教えてくれた。
「ふぅん、そうなんだ。遠いところから来たんだね」
問うと、ふたりは大きく頷いた。縁側に三人で並んで腰かけながら、操は美味しそうに桃のゼリーを頬張る美羽とエメリーの横顔を見つめる。自分たちもこんなに小さかったのだと思うと、懐かしさと一緒に不思議な感覚がこみ上げた。
美羽はゼリーを食べ終えると、お盆の上に容器とスプーンを置いた。それから隣の操を見上げ、興味深そうに瞬きを繰り返す。好奇心を隠しもしない無邪気な瞳に、虫かごに囚われた昆虫のような気分になる。
「あんよ、どうして引きずってるの?」
彼女の興味は、操の杖に向けられていた。ゼリーを運んでくるときも、手すりに掴まりながら足を引きずっていたから、ずっと気になっていたようだった。エメリーが慌てて美羽の名前を呼びながら咎めるが、操は緩く首を振りながら「平気だよ」と言った。
「ずっと昔にね、ケガしちゃったんだ」
「ケガ? ころんじゃったの? 痛い?」
美羽がくるくるとした大きな瞳で問いかけてくる。エメリーも同じように操を見上げた。美羽が小さいから抑えてはいるけれど、彼女も本当は気になっているのだ。
操と目が合うと、エメリーはハッとして「ごめんなさい!」と言いながら俯いてしまった。
どうしてか、少し胸が痛くなる。エメリーに甲洋の面影を見たような気がした。あの頃の彼も、きっと操が思っていたよりずっと、幼い子供だったのだと思う。
「うん。転んで、高いとこから落ちちゃった。だけど今は平気だよ。痛くない」
天気が崩れると痛むことはあるが、足を引きずりながら歩くことも、もうすっかり慣れてしまった。
操が笑うと美羽は「よかったぁ」と言って笑った。エメリーもホッとしたような顔をしている。
「あ、あの」
けれどエメリーはすぐに眉をハの字に下げた。どこかバツが悪そうに、肩をすくめて見せる。
「なぁに?」
「私たちがここに来たこと、誰にも言わないでもらえますか?」
「え? うん、それはいいけど」
「あのねあのね、おこられるの。このおうちには、ぜったい近づいちゃダメだって。ママったらうるさいんだもん」
美羽がまあるい頬をさらにぷくっと膨らませる。その言葉の意味を測りかね、操は瞬きを繰り返しながら微かに首を傾げた。
絶対に近づいてはいけない、とは、どういう意味だろう。この家は民家が密集している場所から多少離れてはいるが、近所付き合いで孤立していたという記憶は一切ない。
祖父母が生きていた頃は、ごく普通に近隣の住人との付き合いはあったはずだ。祖母が死に、高校を卒業した操が家に引きこもるようになってからは、全く交流がなくなってしまったが。
「なんでって聞いても、おしえてくれないの。だから美羽、気になって」
「……探検しに来たの?」
「うん。オバケがいるのかなーって」
「み、美羽!」
エメリーが慌てて美羽の口を塞ぐ。操は胸に引っかかりを覚えながらも、朗らかな笑みを浮かべた。
「へぇ、オバケかぁ。いるならおれも会ってみたいな」
「美羽も! オバケとお話してみたいの!」
美羽はエメリーの手を外し、嬉しそうに言いながら跳ねるように立ちあがった。エメリーもそれに続いて立ち上がり、「ごちそうさまでした」と礼儀正しく言って頭をさげる。
「ごちそうさまでした! ゼリーとってもおいしかったよ!」
「ふたりとも、もう帰っちゃうの?」
「うん。だってママが心配するもん」
「そっか」
「あんよ、早くなおるといいね。そしたら、美羽がいっしょにあそんであげる!」
「ほんと?」
「うん! エメリーもいっしょだよ! ね!」
小さな歯を見せながら見上げる美羽に、エメリーは優しく笑いかけたあと操に一歩近づいた。
彼女は白い手を操の右膝にちょこんと置いて、祈るように静かに目を閉じる。
「あなたの足が早く治りますように。少しでも、痛い思いをしなくてすみますように」
操は目を丸くしながら、膝に触れるエメリーの指先を見た。小さくて、触れたら溶けてなくなってしまいそうなくらい白かった。甲洋の手は、どんなだったろう。多分これよりもう少しだけ、大きかったような気がする。
だけど同じくらい優しかった。優しくて、とても背伸びをした子供だった。あのころの操には、なにも分からなかったけれど。
「ありがとう。君は優しくて、とてもいい子だね、エメリー」
華奢な指先にそっと手をかぶせても、彼女の手が溶けて消えることはなかった。エメリーは少しだけ驚いたような顔をしたけれど、くすぐったそうに目を細めて笑った。すると美羽が唇を尖らせ、小さな両手を操の手の甲にかぶせてくる。
「エメリーだけずるい! ねぇ美羽は?」
「うん、美羽もいい子だね」
「えへへ!」
三人で顔を見合わせて笑い合ったあと、それじゃあまたねと手を振りながら、ふたりの少女が駆けていく。
同じように手を振り返しながらも、操の胸には大きな疑問だけが、しこりのように残されていた。
←戻る ・ 次へ→
七歳の夏、甲洋が操の家を訪れてから、ふたりは毎日一緒に遊んでいた。
「来主はいいな」
彼が初めてこの田舎町へ遊びに来て、しばらく経った頃。
両手をハーフパンツのポケットに突っこんで、田んぼのあぜ道をブラブラと歩きながら、甲洋がぼやいた。
「なんで?」
首を傾げるようにしながら、顔を覗き込んで問いかける。独り言のつもりだったのかもしれない。甲洋は少し困った顔をしながらも、小さく笑った。
「家族がみんな、優しいひとたちだから」
「甲洋のお父さんとお母さんは、やさしいひとたちじゃないの?」
しばしの沈黙。操の舌足らずな質問に、甲洋は「あはは」と子供らしくない乾いた笑い声をあげた。
「あんまり、かな」
「どうして?」
甲洋がこんなに優しい子なのだから、きっとお父さんとお母さんも優しい人たちなのだと思っていた。問いかけに甲洋はなにも言ってくれなかったが、そういえば彼の両親は今ごろ、ふたりだけで旅行中なのだということを思いだした。
変だなと、操は思う。どうして甲洋だけ、連れて行ってもらえなかったのだろう。
「ねぇ、甲洋は、どうしてここにひとりできたの?」
甲洋はギクリと肩を強張らせ、どこか悲しそうな目をして操を見た。
「だってヘンだよ。甲洋だけ、りょこーに行けなかったんでしょ? おれのおじいちゃんとおばあちゃんは、ゼッタイそんなことしないよ。おれのこと、おいてったりしないよ」
「……そうだね」
「そんなのヘンだよ。甲洋だけ、どうして仲間ハズレなの?」
操の中には純粋な憤りだけがあった。無遠慮に踏みこむことで甲洋がどう思うかとか、優しい祖父母を比較対象にすることの残酷さなんて、考えもしなかった。
ただ可哀想だとしか思えなかったのだ。自分だけ仲間外れにされるなんて。置いてけぼりにされるなんて。操だったらわんわん泣いて、手がつけられなくなるだろう。だけど甲洋はそんな素振りをひとつも見せず、ひとりぼっちで船に乗って、電車に乗って、バスに乗ってここまで来た。そんなの、寂しすぎる。
操は足を止めるとぎゅっと眉間にシワを寄せ、唇を尖らせた。一緒に立ち止まった甲洋は曇らせていた表情を和らげ、笑顔で首を左右に振った。
「平気だよ。だってここに来られたし。来主といっしょに遊べるほうが、俺は楽しいよ」
「……ほんと?」
うん、と頷いた甲洋が、操の頭をぽんぽんと優しく撫でる。
確かにそうかもしれない。もし甲洋が旅行に行っていたら、今ごろここには来ていないのだ。
彼がここに来たのは偶然だった。知り合いの家だとか、もっと近い親戚の家だとかがあったけれど、どこも都合が悪くて甲洋を預かってくれる家がなかった。
だから普段は話題にものぼらないような、この遠い来主の家に来た。こんなことがなかったら、操は甲洋の存在すら知らないままだったかもしれない。
「おれも! おれも、甲洋といっしょに遊べて楽しい! 甲洋が来てくれて、すごくすごくうれしいよ!」
一緒に遊んで、一緒に同じクレヨンを使って絵日記を描いて、ご飯を食べて、スイカを食べて、同じ布団に入って。あまり夜更かしをしていると注意されてしまうけど、起きているのがバレないように布団の中で息を潜めて、コソコソと内緒話をするのがとても楽しい。
甲洋は操より二歳もお兄さんで、いろんなことを知っている。操が知らない遊びも、たくさん知っているのだ。
今日はこれから川へ行って、手作りの釣り竿で魚釣りをすることになっている。甲洋が作り方を教えてくれるというので、操は昨日の夜からワクワクしすぎてあまり眠れなかった。
「ねぇ甲洋、早く行こうよ! お魚いっぱいとれるといいね!」
「うん、そうだね。行こう!」
「そうだ! どっちが早くつくか、かけっこしよ!」
「あっ、ちょっと! ずるいよ来主!」
「えへへー! おれのかちー!」
はしゃいだ声をあげながら、操が先に走りだす。慌てた甲洋も、少し遅れて駆けだした。
真っ青な空のした、夏の風が、田んぼのあぜ道に吹き抜ける。全力で駆けるふたりの頬にはうっすらと汗が滲み、太陽を弾いてキラキラと瞬いていた。
だけど操は甲洋より小さくて、あっという間に追い抜かされてしまった。
「あっ、甲洋ずるいー!」
「来主は足が遅いね! 早くしないと置いてっちゃうよ!」
「や、やだぁ! いじわる! まってぇー!」
「しょうがないな! ほら!」
少しだけ速度を緩めた甲洋が、バトンを受け取るみたいに振り向いて操に手を差し出した。操は真っ赤な頬をしながら必死で手を伸ばし、その手にぎゅうと捕まった。甲洋は操の手をしっかりと握りしめると、また力いっぱい走りだす。
「わぁすごい! 早い早い!!」
まるで風になったみたいだ。このままジャンプしたら、空だって飛べそうな気がする。
花火が打ち上がるみたいに、パチパチと胸が躍りだしていた。こんなに楽しい気持ちになるのは初めてで、操は転びそうになりながらも必死で甲洋について行く。
全身を撫でる風も、日差しも、握りあった手も熱くてたまらなかった。ふと甲洋の手が滑りそうになったとき、操はその手をさらに強く握りしめた。離れないように。
(このままずっと、甲洋といっしょにいたいなぁ)
そう願いながら、蝉時雨の中を力の限り、駆け抜けた。
*
「来主、ねぇ来主、泣かないで」
夏休みの終わり。
甲洋が家に帰る日が来てしまった。操はそれが嫌で、朝からずっと泣いていた。
「だって甲洋、かえっちゃうんだもん……」
休みはあと2日残っている。だけど明日から甲洋はいないのだ。
すぐに学校が始まるけれど、それでも寂しい。甲洋がいない毎日に戻るのが悲しかった。
「ねぇ甲洋……うちの子にならない?」
「え?」
「おれ、甲洋がいなきゃイヤだ。さみしい」
縁側にふたり並んで腰掛けながら、操は彼の肩に両手で縋りついた。甲洋はただ困ったように眉尻を下げて見せるだけで、首を縦に振ってはくれない。
「どうしてうんって言ってくれないの……?」
名案だと思ったのに。だって甲洋の両親は、彼をのけ者にして旅行に行ってしまうような、優しくない人たちなのだ。そんな人たちがいる家に帰るより、きっとここにいたほうが楽しいに決まってる。甲洋は、そうは思ってくれないのだろうか。
「ねぇ甲洋ってば!」
「……俺だって」
甲洋は怒っているような、困っているような、複雑そうな顔をした。
「俺だってそうしたいよ。でも、子供が勝手に決められることじゃないから」
「じゃあ……じゃあおれ、甲洋のお父さんとお母さんにおねがいする! 甲洋をうちの子にしてくださいって、おねがいするよ!」
「来主……」
甲洋の瞳が揺れていた。ぽろぽろと涙をこぼす操に引きずられて、彼も少し泣きそうになっていた。
けれどそれ以上に、彼は戸惑っている様子を見せた。
「……なんでそんなに必死なの、お前」
彼にしては、珍しくどこかぶっきらぼうな言い方だった。押し殺したみたいに、少しだけ声が低くなっている。
「だっておれ、甲洋のこと大好きだもん」
「!」
操の言葉に、甲洋の肩が跳ねる。
まるで知らない異国の言葉でとつぜん話しかけられたみたいな、そんな驚いた顔をしていた。
「あのね、おれ、甲洋といるとたのしい。甲洋のことが好きだから、もっといっぱい、なかよくしたいの」
「……っ」
「甲洋は?」
「お、俺は……」
甲洋は顔を真っ赤にしながら口をごにょごにょとさせる。何度もよそ見をして、落ち着かない様子だった。
彼は忙しく目を泳がせると、やがて恥ずかしそうにおずおずと操を見た。それから、夜に布団の中で内緒話をしていたときと同じくらい小さな声で、「俺も」と言った。
「ほんとに?」
操が目を輝かせると、甲洋はこくこくと何度も頷いた。嬉しかった。甲洋も同じ気持ちでいてくれたことが。
甲洋の好きにはちょっと特別な意味があるのだけれど、操にはまだそこまでのことは分からない。操にとって好きは好きでしかなくて、それだけで充分だった。
「あ、あのさ」
「ん……」
「俺、また来るよ」
「いつ……?」
「冬休みにもまた来れるように、父さんと母さんに頼んでみる。たぶん、ダメって言われないと思うんだ。俺は、あの家にいないほうがいいから……」
甲洋は指先で操の涙を拭うと、笑顔を浮かべた。
「だからまた来る。ぜったい」
「うん……うん……」
「それまでに、もっと早く走れるようになっておきなよ。またかけっこしよう?」
「ん……わかった。おれ、甲洋より早くなる。こんどは、おれが甲洋のことひっぱるよ」
「うん。約束」
差し出された小指に、操は自分の小指を絡めた。甲洋の指は熱くて、少し汗ばんでいた。
操はやっぱり寂しくて、そのあともずっと泣き続けてしまったけれど、甲洋が赤くなった鼻を何度もすすって我慢しているのを見て、悲しいのに嬉しいと思った。
甲洋も、本当はずっと一緒にいたいと思ってくれている。それが伝わってくるから。
(また会える。冬になったら、またいっぱい遊ぶんだ!)
次の『約束』をくれたことが、なによりも。
*
それから甲洋は、毎年夏と冬の長期休暇には必ず操の家に泊りがけで遊びに来るようになった。
待っている時間はとても長いが、一緒に過ごす時間はあっという間だ。それでも別れ際には必ず次の約束をくれるから、操にとっては甲洋を待つ時間すら楽しいものに変わっていった。
操は甲洋が来るたびに毎日かけっこをした。長い田んぼのあぜ道を使って、何度も再戦を申し込んだ。けれど二歳の年の差は大きくて、なかなか勝つことができなかった。
初めて会ったときから二年が過ぎて、操が小学三年生になった夏のことだ。甲洋と出会って、三度目の夏休み。
操は遊びに来た甲洋と、さっそく外に遊びに出かけた。今年の夏はなにをして遊ぶか、ふたりで相談しながら家の周りをブラついていた。ゲーセンのひとつもないような田舎町だ。やることはいつもだいたい決まっているのだが、子供同士の無邪気な会議はとめどなく続いた。
家のすぐ脇を流れる小川を一緒にしゃがんで覗き込み、小魚を探したりして遊んでいるとき、操は甲洋が着ているTシャツを見て、ふと気がついた。
「ねぇ甲洋、そのシャツちょっと小さいね」
「え?」
透き通る川のせせらぎを熱心に見つめていた甲洋が、操に視線を向けてきょとんとする。
「それ、いつも着てる。冬に来たときも、セーターの下に着てたでしょ。あ、ほら見て。肩のとこ、ちょっと糸が出てるよ」
「あ……ほんとだ」
甲洋はほつれた肩口に目を向けて、弱ったように眉を下げた。
それはなんの変哲もない、どこにでも売っているようなプリントシャツだ。初めてここを訪れた夏も、確か彼はこれを着ていた。その次の夏も着ていたし、冬休みにも着て来ていた。最初はサイズが大きめだったが、会うたびにぐんぐん背が伸びる甲洋の身体に、今では少し窮屈そうに見える。
「新しいの買ってもらったらいいのに」
その何気ない言葉を受けて、甲洋の表情にわずかな翳りがさす。
「……気に入ってるんだ」
「でも、ボロボロだよ」
「うん……」
「買ってもらえないの? 新しい服」
甲洋は目を伏せ、「そんなことないよ」と言って、再び小川の方へと視線を向けた。
「いつも同じ服ばかり着てると、学校の先生が心配するんだ。だから最近は、たまに買ってもらえるようになったよ。しょうがなくって感じだけど……でもこれは、初めて誰にもなにも言われずに買ってもらえた服なんだ。父さんが買って来てくれた。俺の誕生日に」
「甲洋のお父さんとお母さんは……甲洋のことキライなの?」
短い沈黙。小川のせせらぎがなければ、もっと長く感じられていたかもしれない。
「……好きの反対ってね、嫌いじゃなくて、無関心なんだよ」
操には甲洋が言っていることがよく理解できなかった。だから素直に「わかんない」と口にすると、甲洋は無表情のまま小川を見つめて、「別にいいよ」と吐き捨てた。
「来主には、言ってもどうせ分かんないし」
「どうしてそんなこと言うの?」
操は少し不安になった。甲洋の横顔が凍りついたようになっている。こんな顔を見たのは初めてで、操はそれを怖いと感じた。
「甲洋……?」
顔を覗き込もうとした操から逃れるように、甲洋は立ち上がった。操も慌てて立ち上がると、彼は気を取り直したように笑おうとしたけれど、口元が不器用に強張ってしまう。
「ごめん。忘れて、今の話」
「そんなのムリだよ。気になるもん」
「……来主、その靴いいね。かっこいい」
話をそらされたことくらい、操にだって分かった。けれどそれ以上に、靴の話をされるのは嬉しかった。
「えへへ! これね、魔法の靴なんだよ!」
「魔法?」
「うん! おじいちゃんが買ってくれた! これをはくと、すっごく早く走れるんだって!」
それは新品の赤いスニーカーだった。
今度こそ甲洋にかけっこで勝つんだと意気込む操に、祖父が買い与えてくれたものだった。車でわざわざ大きな街のデパートまで出かけて行って、大きな靴屋で店員に選んでもらった。軽くて柔らかくて、履き心地は抜群だ。操はこれを、甲洋が来るまで履かずにとっておいた。ついさっき箱から出したばかりだから、汚れひとつ見当たらない。
「ねぇ甲洋! かけっこしようよ! 今度こそおれが勝つからね!」
最初の夏に甲洋に負けてから、操は毎日のように走る練習をしているのだ。ずいぶん早く走れるようになったと思う。操は甲洋の手を引っ張って走りたかった。あの夏。一緒に川を目指したときみたいに、今度は操が甲洋の手を引いて、どこまでも走ってみたかった。
だけど甲洋は浮かない顔のままじっと操の靴を見つめると、「やだよ」と言った。
「え?」
「しない。お前とは、もう走らない」
「な、なんでぇ?」
「……魔法の靴なんかに、勝てるわけないだろ」
甲洋は背を向けると、さっさと歩きだしてしまった。操は慌てて追いかけて、前に回り込むと甲洋の手を両手で掴んで揺さぶった。
「やだ! おれ、いっぱい練習したんだもん! 甲洋と走るの、楽しみにしてたんだもん!」
「だからやだってば。そんなに走りたいなら、ひとりで走ればいいだろ」
「なんで……なんでそんないじわる言うの……?」
涙が浮かんで、甲洋の顔が見えなくなった。
操には分からない。甲洋の気持ちなんか分からない。どんなにお兄さんでも、甲洋はまだ子供で、操と同じ、子供でしかなくて、欲しいものを満足に与えられたことのない彼の目に、恵まれた操がどう映っているのかなんて。それを素直に言えない程度には、彼にだってプライドというものがあるのだけれど、そんなこと、操に分かるはずがない。
「だったら甲洋も買ってもらえばいいじゃん! うらやましいなら、そう言えばいいのに!」
だからそれが、彼が今もっとも言ってほしくない言葉だということにも、気づかなかった。
甲洋はなにも言わず、ただ唇を噛み締めるだけだった。怒ってるみたいな、泣きだす寸前みたいな、そんな顔をしていた。
「……おまえなんか、もう知らない」
押し殺した声でそう言って、甲洋は操の手を乱暴に振り払った。操の小さな身体はその勢いを受け止めきれず、地面にぺたんと尻もちをついてしまう。
草むらの地面は柔らかくて、痛くも痒くもないはずだった。だけど、痛かった。
「ぅ……ふぇ……」
まんまるの瞳から大粒の涙をこぼして、操はわあわあと声をあげて泣いた。甲洋に突き飛ばされた。甲洋に意地悪をされた。あんなに楽しみにしてたのに、せっかくまた会えたのに。
(きらわれた……甲洋に、きらわれた……)
甲洋はどうしたらいいか分からないという顔をしていた。彼も初めてだった。今まで一度だって、誰かをこんなふうに傷つけて泣かせたことなんかなかった。甲洋だって、ひどくショックを受けている。
「く、来主……ごめ……」
甲洋の声も泣きそうに掠れていた。だけど自分の泣き声に掻き消されて、操の耳には届かなかった。
どこかでは分かっていた。言ってはいけないことを言ってしまったのだと。だって操は知っていた。甲洋の両親が、『優しくない人たち』だということを。ちゃんと、知っていたはずなのに。
(きらわれた……きらわれちゃった……)
大好きなのに、嫌われた。操の心は、頭は、それだけで埋め尽くされていた。
泣きながら立ち上がった。甲洋の顔を見ることができない。悲しくて、消えていなくなりたいと思った。甲洋から逃げたい。こうしていると、もっともっと嫌われてしまいそうな気がした。だからその場から駆けだしていた。
「来主! 待って!」
すぐに甲洋も追いかけてくる。操は全力で走った。家の敷地を出て、すぐ裏の山へ入る。かろうじて通れるか通れないかの狭い獣道。そこは数日前に降った雨で、ところどころがぬかるんでいた。足を滑らせそうになりながら、操はどんどん複雑な山道を分け入った。
「来主!!」
背中にかかる甲洋の声が遠かった。操にとって裏山は庭のようなものだけど、彼にとってはそうじゃない。
「来ないで! おれだって、甲洋なんかもう知らない!」
張りだした小枝で頬を傷つけながら、操は叫んだ。言わなくちゃいけないことは他にあるはずだった。分かっているのに、言えなかった。
息が切れて、足がもつれはじめる。新品だったはずの靴が、泥まみれになっていく。
「待って来主! そっちは危ない!!」
そのときだった。
「──!?」
ぬかるみを踏み抜いた足が、ズルリと滑る。転ぶ、と思った瞬間、咄嗟に手を伸ばして適当な枝を掴もうとした。けれどそこで、まるでスローモーションのように時の流れが変わった気がした。
(もう、いいかな)
伸ばした手が、掴もうとしていたはずの枝を空振る。それは操の意思だった。
「来主!!」
甲洋の声が、ずっとずっと遠くに聞こえた気がした。
かけっこは、操の勝ちだった。こんなふうに勝ちたかったわけではないけれど。
(だって、きらわれちゃったんだもん。もう一緒には、いられないもん──)
死んでしまおうなんて、そこまで重く考えたわけじゃない。
ただ、このまま走り続けることの無意味さくらい知っていたから、ただもっと他に、逃げ場所を求めただけだったのだと思う。
ぬかるんだ地面に足を取られるに任せ、操の身体は派手に転倒した。そのまま急な斜面を転がり落ちる。舌を噛みそうなほどの衝撃。世界が回って、意識が一瞬だけ、真っ暗闇に吸い寄せられた。
*
気がつくと、雨が降っていた。あまりの寒さに、全身の皮膚が痺れたようになっている。
草木が生い茂り、濡れた枯れ葉が敷き詰められた場所で、操はのろのろと半身を起こした。それから、自分の身体をゆっくりと、胸元から下へと徐々に見下ろしていく。シャツも半ズボンも、新品だった靴も、土に汚れてボロボロだった。どこもかしこも擦り切れて、真っ赤な血が滲んでいる。
中でもひときわ大量に血が噴きだしているのは、膝から下がおかしな方向に折れ曲がった、右足の脛部分だった。
「っ──!?」
その光景を見た瞬間、操は息をのんだ。あまりにも衝撃的な光景に、息ができない。
操の右足は、鋭く尖った木の枝が貫通した状態だったのだ。いつかの嵐で薙ぎ倒されでもしたのか、横倒しになって朽ちた木からささくれのように張りだした、枝のひとつだった。尖った先端が脛に突き刺さり、ふくらはぎから突きだして血まみれになっている。認識した途端、思いだしたように激痛が走った。
痛い、痛い、痛い。怖い、怖い、怖い。助けて、誰か──。
「ぁ……ああ……ぁ……」
声が酷く震えている。言葉にならない。けれどその声を発したのは、操ではなかった。
「くる、す……」
甲洋だった。
急斜面を滑り落ちた操を、死に物狂いで追いかけてきた甲洋もまた、顔や手などに酷い切り傷を負っていた。大切そうにしていたプリントシャツも、ところどころが裂けてボロボロになっている。
彼は真っ青な顔で操の足を見下ろしていた。全身を震わせ、歯の根を鳴らしている。踊っていた膝が崩れ、ついにはへたり込んでしまった。
「どう、して、こんな、ことに……」
声は上擦り、途切れ途切れになっていた。かろうじて絞りだしているという具合だった。彼は操以上にショックを受けていたのかもしれない。今にも死んでしまいそうに見えた。
どうしてこんなことに──。甲洋が放った言葉を、頭の中で繰り返す。どうして、どうして。ああ、そうだ。そうだった。
こんなことになってしまったのは、全部──。
「甲洋のせいだよ」
右足の膝から下が、見たこともないほどおびただしい量の血で染まっていた。冷たい雨に打たれ、皮膚が紫色に変色している。
「ほら見てよ……いっぱい血がでてる。おれの足、こわれちゃったよ」
過ぎた痛みが、皮肉にも感覚を麻痺させていく。
意識が虚ろになっていくなか、降りしきる雨が幼い体温を奪っていった。寒かった。もしかしたら、このまま死んでしまうのかもしれない。死んでしまっても、いいのかもしれない。
操は笑っていた。涙を流しながら笑っていた。心の中で、何かが音を立てて壊れてしまったような気がする。
「甲洋がいじわるだから、おれの足、こんなになっちゃったんだよ」
甲洋は死人のような顔色になっていた。見開かれたままの瞳は、焦点が合っていないように見えた。カチカチという歯の根がなる音だけが、空気を震わせている。
誰よりも優しい甲洋。目の前の光景に傷ついて、怯える甲洋。ああ、きっと自分を責めている。さっきまでの操には、甲洋の気持ちなんか分からなかった。だけど今は、分かる。
操は声をあげて笑ってしまった。実際、まともに声が出ていたかは分からない。だけどおかしくて、肩が小刻みに揺れ続ける。喜びに打ち震えながら、血と泥にまみれた頬に、涙が伝った。
今この瞬間、操の言葉は呪いのように、彼を縛りつけるのだ。
「これでおれたち、ずーっといっしょにいられるね」
操は見つけてしまった。彼と、ずっと一緒にいる方法。その理由を、片足の自由と引き換えに。
この右足は、もうダメだ。幼い操にだって、それくらい分かる。
賢い甲洋に、分からないはずがなかった。
*
あの瞬間から、甲洋と操の関係性は大きく変わった。
操が白と言えば、半紙の上にぶちまけた墨汁は白い絵の具に変わるし、黒と言えば洗いたてのシーツですら、どす黒い汚泥に染まる。
あるべきはずの秩序は砕かれ、そうやって全く別のものへと再構築された。
甲洋は操をまるで神様のように扱った。素手でカエルを潰せと言えば、その通りに実行した。セミの羽根をもぎ取れと言えば迷うことなく従ったし、カブトムシの角だって平気で折った。
操は彼にとって、絶対的な存在になったのだ。全てを聞き入れ、許し、尽くす。操にだけはいつだって優しくなければならないし、従順でなければならない。
その関係性がより歪に変化を遂げる兆しが見えたのは、祖父が他界して間もない頃だ。
ふたりはまだ中学生だった。
「甲洋もこっちの学校だったらいいのにな。部屋だって余ってるもん。ここに住んじゃえばいいのに」
小さな頃にも、同じようなことを言って甲洋を困らせたことがある。
あのときは本気だったが、今はさすがに冗談で言ったつもりだった。甲洋はただ静かに笑うだけだったから、間に受けているなんて思いもしなかった。だから次に会ったとき、こっちの高校を受験すると真顔で言った彼に、驚かされた。
両親とはあっさり話がついた。甲洋の将来を考えて、反対したのは担任の教師だけだった。けれど甲洋は、それを頑なに押し切った。
あとはここに住まいを移すことを、操の祖母に了承してもらうだけだと。
彼の意思は揺るぎないものだった。驚きはしたものの、操に異存はなかったし、祖父が死んでからすっかり元気を失くしていた祖母は、それを聞いて喜んだ。あまりにも話が上手く行きすぎているようで、少し怖くもあった。
高校はこの町から数キロ離れた隣町にあった。
進学後、この家に暮らしはじめた甲洋は、それまで以上に操の世話をするようになった。
当時の操はどこへ行くにも松葉杖をついていて、学校の行き帰りはもちろん、ちょっとそのあたりを散歩するのでさえ、必ず隣に甲洋が付き添った。
幼い頃、甲洋がうちの子になればいいのにと夢見たことが、現実になったのだ。幸せでしかない毎日と、過剰ともいえる庇護のもとに、操の傲慢さと甲洋への依存は日に日に膨らんだ。
最初に手をあげたのは、操も同じ高校に入学してすぐのことだった。
三年生になっていた甲洋は、美しい青年に成長を遂げていた。
背も高く、成績も優秀で優しい彼は、女子生徒から絶大な人気を誇っていた。二年遅れて入学した操は、そんなこと知りもしなかった。
彼の靴箱には、毎日のようにラブレターやらプレゼントが詰め込まれていた。甲洋はそれを全て断っていたし、興味を示すことはなかったけれど、間近で見せつけられた操は、生まれて初めての嫉妬に気が狂いそうだった。
甲洋が、誰か他の人のものになってしまう日が来るかもしれない。もしそうなったら、彼はどこか遠くへ行ってしまうかもしれない。
そう思った瞬間、目の前が真っ赤になった。
だから殴った。衝動的に、暴力をふるっていた。
自宅の小さな裏庭でのことだった。
操は甲洋にラブレターを全て燃やせと命じた。彼は従い、焼却炉の前にしゃがみこみ、手紙の束に火をつけようとしていた。そこを殴った。松葉杖で、何度も何度も。
支えがなければ立っているのもやっとの身体だ。避けようと思えばできたはずだし、最初こそ腕で顔や頭を庇う素振りを見せたが、甲洋はすぐに無防備になって、それらを受け入れた。口の端からも、額からも血を流した彼は、力尽きて態勢を崩した操をしっかりと抱きとめ、「大丈夫?」と言って微笑んだ。
我に返った操は、全身に痣や傷を負った甲洋に、何度も何度も泣きながら謝った。酷く混乱していた。当たり所が悪ければ、彼を死なせていたかもしれない。そんなことすら考えられないほど、感情を制御できなかった自分が、まるで自分じゃないみたいで怖かった。
操は自分が嫉妬してしまったことを、正直に打ち明けた。甲洋がいつか誰かのものになってしまうかもしれない。そう思うと怖くて怖くて、堪らないのだと。
甲洋は嬉しそうに笑って、「それは恋だよ」と、教えてくれた。
恋だとか愛だとか、操にはよく分からなかった。多分きっと、いつの間にか通り越していた。
甲洋は、自分も同じだと言った。初めて会ったあの夏の日には、もう恋に落ちていたのだと。そう言って、操の震える唇にキスを落とした。血の味がしたのを、よく覚えている。
セックスをしたのも、その夜が初めてのことだった。
←戻る ・ 次へ→
「来主はいいな」
彼が初めてこの田舎町へ遊びに来て、しばらく経った頃。
両手をハーフパンツのポケットに突っこんで、田んぼのあぜ道をブラブラと歩きながら、甲洋がぼやいた。
「なんで?」
首を傾げるようにしながら、顔を覗き込んで問いかける。独り言のつもりだったのかもしれない。甲洋は少し困った顔をしながらも、小さく笑った。
「家族がみんな、優しいひとたちだから」
「甲洋のお父さんとお母さんは、やさしいひとたちじゃないの?」
しばしの沈黙。操の舌足らずな質問に、甲洋は「あはは」と子供らしくない乾いた笑い声をあげた。
「あんまり、かな」
「どうして?」
甲洋がこんなに優しい子なのだから、きっとお父さんとお母さんも優しい人たちなのだと思っていた。問いかけに甲洋はなにも言ってくれなかったが、そういえば彼の両親は今ごろ、ふたりだけで旅行中なのだということを思いだした。
変だなと、操は思う。どうして甲洋だけ、連れて行ってもらえなかったのだろう。
「ねぇ、甲洋は、どうしてここにひとりできたの?」
甲洋はギクリと肩を強張らせ、どこか悲しそうな目をして操を見た。
「だってヘンだよ。甲洋だけ、りょこーに行けなかったんでしょ? おれのおじいちゃんとおばあちゃんは、ゼッタイそんなことしないよ。おれのこと、おいてったりしないよ」
「……そうだね」
「そんなのヘンだよ。甲洋だけ、どうして仲間ハズレなの?」
操の中には純粋な憤りだけがあった。無遠慮に踏みこむことで甲洋がどう思うかとか、優しい祖父母を比較対象にすることの残酷さなんて、考えもしなかった。
ただ可哀想だとしか思えなかったのだ。自分だけ仲間外れにされるなんて。置いてけぼりにされるなんて。操だったらわんわん泣いて、手がつけられなくなるだろう。だけど甲洋はそんな素振りをひとつも見せず、ひとりぼっちで船に乗って、電車に乗って、バスに乗ってここまで来た。そんなの、寂しすぎる。
操は足を止めるとぎゅっと眉間にシワを寄せ、唇を尖らせた。一緒に立ち止まった甲洋は曇らせていた表情を和らげ、笑顔で首を左右に振った。
「平気だよ。だってここに来られたし。来主といっしょに遊べるほうが、俺は楽しいよ」
「……ほんと?」
うん、と頷いた甲洋が、操の頭をぽんぽんと優しく撫でる。
確かにそうかもしれない。もし甲洋が旅行に行っていたら、今ごろここには来ていないのだ。
彼がここに来たのは偶然だった。知り合いの家だとか、もっと近い親戚の家だとかがあったけれど、どこも都合が悪くて甲洋を預かってくれる家がなかった。
だから普段は話題にものぼらないような、この遠い来主の家に来た。こんなことがなかったら、操は甲洋の存在すら知らないままだったかもしれない。
「おれも! おれも、甲洋といっしょに遊べて楽しい! 甲洋が来てくれて、すごくすごくうれしいよ!」
一緒に遊んで、一緒に同じクレヨンを使って絵日記を描いて、ご飯を食べて、スイカを食べて、同じ布団に入って。あまり夜更かしをしていると注意されてしまうけど、起きているのがバレないように布団の中で息を潜めて、コソコソと内緒話をするのがとても楽しい。
甲洋は操より二歳もお兄さんで、いろんなことを知っている。操が知らない遊びも、たくさん知っているのだ。
今日はこれから川へ行って、手作りの釣り竿で魚釣りをすることになっている。甲洋が作り方を教えてくれるというので、操は昨日の夜からワクワクしすぎてあまり眠れなかった。
「ねぇ甲洋、早く行こうよ! お魚いっぱいとれるといいね!」
「うん、そうだね。行こう!」
「そうだ! どっちが早くつくか、かけっこしよ!」
「あっ、ちょっと! ずるいよ来主!」
「えへへー! おれのかちー!」
はしゃいだ声をあげながら、操が先に走りだす。慌てた甲洋も、少し遅れて駆けだした。
真っ青な空のした、夏の風が、田んぼのあぜ道に吹き抜ける。全力で駆けるふたりの頬にはうっすらと汗が滲み、太陽を弾いてキラキラと瞬いていた。
だけど操は甲洋より小さくて、あっという間に追い抜かされてしまった。
「あっ、甲洋ずるいー!」
「来主は足が遅いね! 早くしないと置いてっちゃうよ!」
「や、やだぁ! いじわる! まってぇー!」
「しょうがないな! ほら!」
少しだけ速度を緩めた甲洋が、バトンを受け取るみたいに振り向いて操に手を差し出した。操は真っ赤な頬をしながら必死で手を伸ばし、その手にぎゅうと捕まった。甲洋は操の手をしっかりと握りしめると、また力いっぱい走りだす。
「わぁすごい! 早い早い!!」
まるで風になったみたいだ。このままジャンプしたら、空だって飛べそうな気がする。
花火が打ち上がるみたいに、パチパチと胸が躍りだしていた。こんなに楽しい気持ちになるのは初めてで、操は転びそうになりながらも必死で甲洋について行く。
全身を撫でる風も、日差しも、握りあった手も熱くてたまらなかった。ふと甲洋の手が滑りそうになったとき、操はその手をさらに強く握りしめた。離れないように。
(このままずっと、甲洋といっしょにいたいなぁ)
そう願いながら、蝉時雨の中を力の限り、駆け抜けた。
*
「来主、ねぇ来主、泣かないで」
夏休みの終わり。
甲洋が家に帰る日が来てしまった。操はそれが嫌で、朝からずっと泣いていた。
「だって甲洋、かえっちゃうんだもん……」
休みはあと2日残っている。だけど明日から甲洋はいないのだ。
すぐに学校が始まるけれど、それでも寂しい。甲洋がいない毎日に戻るのが悲しかった。
「ねぇ甲洋……うちの子にならない?」
「え?」
「おれ、甲洋がいなきゃイヤだ。さみしい」
縁側にふたり並んで腰掛けながら、操は彼の肩に両手で縋りついた。甲洋はただ困ったように眉尻を下げて見せるだけで、首を縦に振ってはくれない。
「どうしてうんって言ってくれないの……?」
名案だと思ったのに。だって甲洋の両親は、彼をのけ者にして旅行に行ってしまうような、優しくない人たちなのだ。そんな人たちがいる家に帰るより、きっとここにいたほうが楽しいに決まってる。甲洋は、そうは思ってくれないのだろうか。
「ねぇ甲洋ってば!」
「……俺だって」
甲洋は怒っているような、困っているような、複雑そうな顔をした。
「俺だってそうしたいよ。でも、子供が勝手に決められることじゃないから」
「じゃあ……じゃあおれ、甲洋のお父さんとお母さんにおねがいする! 甲洋をうちの子にしてくださいって、おねがいするよ!」
「来主……」
甲洋の瞳が揺れていた。ぽろぽろと涙をこぼす操に引きずられて、彼も少し泣きそうになっていた。
けれどそれ以上に、彼は戸惑っている様子を見せた。
「……なんでそんなに必死なの、お前」
彼にしては、珍しくどこかぶっきらぼうな言い方だった。押し殺したみたいに、少しだけ声が低くなっている。
「だっておれ、甲洋のこと大好きだもん」
「!」
操の言葉に、甲洋の肩が跳ねる。
まるで知らない異国の言葉でとつぜん話しかけられたみたいな、そんな驚いた顔をしていた。
「あのね、おれ、甲洋といるとたのしい。甲洋のことが好きだから、もっといっぱい、なかよくしたいの」
「……っ」
「甲洋は?」
「お、俺は……」
甲洋は顔を真っ赤にしながら口をごにょごにょとさせる。何度もよそ見をして、落ち着かない様子だった。
彼は忙しく目を泳がせると、やがて恥ずかしそうにおずおずと操を見た。それから、夜に布団の中で内緒話をしていたときと同じくらい小さな声で、「俺も」と言った。
「ほんとに?」
操が目を輝かせると、甲洋はこくこくと何度も頷いた。嬉しかった。甲洋も同じ気持ちでいてくれたことが。
甲洋の好きにはちょっと特別な意味があるのだけれど、操にはまだそこまでのことは分からない。操にとって好きは好きでしかなくて、それだけで充分だった。
「あ、あのさ」
「ん……」
「俺、また来るよ」
「いつ……?」
「冬休みにもまた来れるように、父さんと母さんに頼んでみる。たぶん、ダメって言われないと思うんだ。俺は、あの家にいないほうがいいから……」
甲洋は指先で操の涙を拭うと、笑顔を浮かべた。
「だからまた来る。ぜったい」
「うん……うん……」
「それまでに、もっと早く走れるようになっておきなよ。またかけっこしよう?」
「ん……わかった。おれ、甲洋より早くなる。こんどは、おれが甲洋のことひっぱるよ」
「うん。約束」
差し出された小指に、操は自分の小指を絡めた。甲洋の指は熱くて、少し汗ばんでいた。
操はやっぱり寂しくて、そのあともずっと泣き続けてしまったけれど、甲洋が赤くなった鼻を何度もすすって我慢しているのを見て、悲しいのに嬉しいと思った。
甲洋も、本当はずっと一緒にいたいと思ってくれている。それが伝わってくるから。
(また会える。冬になったら、またいっぱい遊ぶんだ!)
次の『約束』をくれたことが、なによりも。
*
それから甲洋は、毎年夏と冬の長期休暇には必ず操の家に泊りがけで遊びに来るようになった。
待っている時間はとても長いが、一緒に過ごす時間はあっという間だ。それでも別れ際には必ず次の約束をくれるから、操にとっては甲洋を待つ時間すら楽しいものに変わっていった。
操は甲洋が来るたびに毎日かけっこをした。長い田んぼのあぜ道を使って、何度も再戦を申し込んだ。けれど二歳の年の差は大きくて、なかなか勝つことができなかった。
初めて会ったときから二年が過ぎて、操が小学三年生になった夏のことだ。甲洋と出会って、三度目の夏休み。
操は遊びに来た甲洋と、さっそく外に遊びに出かけた。今年の夏はなにをして遊ぶか、ふたりで相談しながら家の周りをブラついていた。ゲーセンのひとつもないような田舎町だ。やることはいつもだいたい決まっているのだが、子供同士の無邪気な会議はとめどなく続いた。
家のすぐ脇を流れる小川を一緒にしゃがんで覗き込み、小魚を探したりして遊んでいるとき、操は甲洋が着ているTシャツを見て、ふと気がついた。
「ねぇ甲洋、そのシャツちょっと小さいね」
「え?」
透き通る川のせせらぎを熱心に見つめていた甲洋が、操に視線を向けてきょとんとする。
「それ、いつも着てる。冬に来たときも、セーターの下に着てたでしょ。あ、ほら見て。肩のとこ、ちょっと糸が出てるよ」
「あ……ほんとだ」
甲洋はほつれた肩口に目を向けて、弱ったように眉を下げた。
それはなんの変哲もない、どこにでも売っているようなプリントシャツだ。初めてここを訪れた夏も、確か彼はこれを着ていた。その次の夏も着ていたし、冬休みにも着て来ていた。最初はサイズが大きめだったが、会うたびにぐんぐん背が伸びる甲洋の身体に、今では少し窮屈そうに見える。
「新しいの買ってもらったらいいのに」
その何気ない言葉を受けて、甲洋の表情にわずかな翳りがさす。
「……気に入ってるんだ」
「でも、ボロボロだよ」
「うん……」
「買ってもらえないの? 新しい服」
甲洋は目を伏せ、「そんなことないよ」と言って、再び小川の方へと視線を向けた。
「いつも同じ服ばかり着てると、学校の先生が心配するんだ。だから最近は、たまに買ってもらえるようになったよ。しょうがなくって感じだけど……でもこれは、初めて誰にもなにも言われずに買ってもらえた服なんだ。父さんが買って来てくれた。俺の誕生日に」
「甲洋のお父さんとお母さんは……甲洋のことキライなの?」
短い沈黙。小川のせせらぎがなければ、もっと長く感じられていたかもしれない。
「……好きの反対ってね、嫌いじゃなくて、無関心なんだよ」
操には甲洋が言っていることがよく理解できなかった。だから素直に「わかんない」と口にすると、甲洋は無表情のまま小川を見つめて、「別にいいよ」と吐き捨てた。
「来主には、言ってもどうせ分かんないし」
「どうしてそんなこと言うの?」
操は少し不安になった。甲洋の横顔が凍りついたようになっている。こんな顔を見たのは初めてで、操はそれを怖いと感じた。
「甲洋……?」
顔を覗き込もうとした操から逃れるように、甲洋は立ち上がった。操も慌てて立ち上がると、彼は気を取り直したように笑おうとしたけれど、口元が不器用に強張ってしまう。
「ごめん。忘れて、今の話」
「そんなのムリだよ。気になるもん」
「……来主、その靴いいね。かっこいい」
話をそらされたことくらい、操にだって分かった。けれどそれ以上に、靴の話をされるのは嬉しかった。
「えへへ! これね、魔法の靴なんだよ!」
「魔法?」
「うん! おじいちゃんが買ってくれた! これをはくと、すっごく早く走れるんだって!」
それは新品の赤いスニーカーだった。
今度こそ甲洋にかけっこで勝つんだと意気込む操に、祖父が買い与えてくれたものだった。車でわざわざ大きな街のデパートまで出かけて行って、大きな靴屋で店員に選んでもらった。軽くて柔らかくて、履き心地は抜群だ。操はこれを、甲洋が来るまで履かずにとっておいた。ついさっき箱から出したばかりだから、汚れひとつ見当たらない。
「ねぇ甲洋! かけっこしようよ! 今度こそおれが勝つからね!」
最初の夏に甲洋に負けてから、操は毎日のように走る練習をしているのだ。ずいぶん早く走れるようになったと思う。操は甲洋の手を引っ張って走りたかった。あの夏。一緒に川を目指したときみたいに、今度は操が甲洋の手を引いて、どこまでも走ってみたかった。
だけど甲洋は浮かない顔のままじっと操の靴を見つめると、「やだよ」と言った。
「え?」
「しない。お前とは、もう走らない」
「な、なんでぇ?」
「……魔法の靴なんかに、勝てるわけないだろ」
甲洋は背を向けると、さっさと歩きだしてしまった。操は慌てて追いかけて、前に回り込むと甲洋の手を両手で掴んで揺さぶった。
「やだ! おれ、いっぱい練習したんだもん! 甲洋と走るの、楽しみにしてたんだもん!」
「だからやだってば。そんなに走りたいなら、ひとりで走ればいいだろ」
「なんで……なんでそんないじわる言うの……?」
涙が浮かんで、甲洋の顔が見えなくなった。
操には分からない。甲洋の気持ちなんか分からない。どんなにお兄さんでも、甲洋はまだ子供で、操と同じ、子供でしかなくて、欲しいものを満足に与えられたことのない彼の目に、恵まれた操がどう映っているのかなんて。それを素直に言えない程度には、彼にだってプライドというものがあるのだけれど、そんなこと、操に分かるはずがない。
「だったら甲洋も買ってもらえばいいじゃん! うらやましいなら、そう言えばいいのに!」
だからそれが、彼が今もっとも言ってほしくない言葉だということにも、気づかなかった。
甲洋はなにも言わず、ただ唇を噛み締めるだけだった。怒ってるみたいな、泣きだす寸前みたいな、そんな顔をしていた。
「……おまえなんか、もう知らない」
押し殺した声でそう言って、甲洋は操の手を乱暴に振り払った。操の小さな身体はその勢いを受け止めきれず、地面にぺたんと尻もちをついてしまう。
草むらの地面は柔らかくて、痛くも痒くもないはずだった。だけど、痛かった。
「ぅ……ふぇ……」
まんまるの瞳から大粒の涙をこぼして、操はわあわあと声をあげて泣いた。甲洋に突き飛ばされた。甲洋に意地悪をされた。あんなに楽しみにしてたのに、せっかくまた会えたのに。
(きらわれた……甲洋に、きらわれた……)
甲洋はどうしたらいいか分からないという顔をしていた。彼も初めてだった。今まで一度だって、誰かをこんなふうに傷つけて泣かせたことなんかなかった。甲洋だって、ひどくショックを受けている。
「く、来主……ごめ……」
甲洋の声も泣きそうに掠れていた。だけど自分の泣き声に掻き消されて、操の耳には届かなかった。
どこかでは分かっていた。言ってはいけないことを言ってしまったのだと。だって操は知っていた。甲洋の両親が、『優しくない人たち』だということを。ちゃんと、知っていたはずなのに。
(きらわれた……きらわれちゃった……)
大好きなのに、嫌われた。操の心は、頭は、それだけで埋め尽くされていた。
泣きながら立ち上がった。甲洋の顔を見ることができない。悲しくて、消えていなくなりたいと思った。甲洋から逃げたい。こうしていると、もっともっと嫌われてしまいそうな気がした。だからその場から駆けだしていた。
「来主! 待って!」
すぐに甲洋も追いかけてくる。操は全力で走った。家の敷地を出て、すぐ裏の山へ入る。かろうじて通れるか通れないかの狭い獣道。そこは数日前に降った雨で、ところどころがぬかるんでいた。足を滑らせそうになりながら、操はどんどん複雑な山道を分け入った。
「来主!!」
背中にかかる甲洋の声が遠かった。操にとって裏山は庭のようなものだけど、彼にとってはそうじゃない。
「来ないで! おれだって、甲洋なんかもう知らない!」
張りだした小枝で頬を傷つけながら、操は叫んだ。言わなくちゃいけないことは他にあるはずだった。分かっているのに、言えなかった。
息が切れて、足がもつれはじめる。新品だったはずの靴が、泥まみれになっていく。
「待って来主! そっちは危ない!!」
そのときだった。
「──!?」
ぬかるみを踏み抜いた足が、ズルリと滑る。転ぶ、と思った瞬間、咄嗟に手を伸ばして適当な枝を掴もうとした。けれどそこで、まるでスローモーションのように時の流れが変わった気がした。
(もう、いいかな)
伸ばした手が、掴もうとしていたはずの枝を空振る。それは操の意思だった。
「来主!!」
甲洋の声が、ずっとずっと遠くに聞こえた気がした。
かけっこは、操の勝ちだった。こんなふうに勝ちたかったわけではないけれど。
(だって、きらわれちゃったんだもん。もう一緒には、いられないもん──)
死んでしまおうなんて、そこまで重く考えたわけじゃない。
ただ、このまま走り続けることの無意味さくらい知っていたから、ただもっと他に、逃げ場所を求めただけだったのだと思う。
ぬかるんだ地面に足を取られるに任せ、操の身体は派手に転倒した。そのまま急な斜面を転がり落ちる。舌を噛みそうなほどの衝撃。世界が回って、意識が一瞬だけ、真っ暗闇に吸い寄せられた。
*
気がつくと、雨が降っていた。あまりの寒さに、全身の皮膚が痺れたようになっている。
草木が生い茂り、濡れた枯れ葉が敷き詰められた場所で、操はのろのろと半身を起こした。それから、自分の身体をゆっくりと、胸元から下へと徐々に見下ろしていく。シャツも半ズボンも、新品だった靴も、土に汚れてボロボロだった。どこもかしこも擦り切れて、真っ赤な血が滲んでいる。
中でもひときわ大量に血が噴きだしているのは、膝から下がおかしな方向に折れ曲がった、右足の脛部分だった。
「っ──!?」
その光景を見た瞬間、操は息をのんだ。あまりにも衝撃的な光景に、息ができない。
操の右足は、鋭く尖った木の枝が貫通した状態だったのだ。いつかの嵐で薙ぎ倒されでもしたのか、横倒しになって朽ちた木からささくれのように張りだした、枝のひとつだった。尖った先端が脛に突き刺さり、ふくらはぎから突きだして血まみれになっている。認識した途端、思いだしたように激痛が走った。
痛い、痛い、痛い。怖い、怖い、怖い。助けて、誰か──。
「ぁ……ああ……ぁ……」
声が酷く震えている。言葉にならない。けれどその声を発したのは、操ではなかった。
「くる、す……」
甲洋だった。
急斜面を滑り落ちた操を、死に物狂いで追いかけてきた甲洋もまた、顔や手などに酷い切り傷を負っていた。大切そうにしていたプリントシャツも、ところどころが裂けてボロボロになっている。
彼は真っ青な顔で操の足を見下ろしていた。全身を震わせ、歯の根を鳴らしている。踊っていた膝が崩れ、ついにはへたり込んでしまった。
「どう、して、こんな、ことに……」
声は上擦り、途切れ途切れになっていた。かろうじて絞りだしているという具合だった。彼は操以上にショックを受けていたのかもしれない。今にも死んでしまいそうに見えた。
どうしてこんなことに──。甲洋が放った言葉を、頭の中で繰り返す。どうして、どうして。ああ、そうだ。そうだった。
こんなことになってしまったのは、全部──。
「甲洋のせいだよ」
右足の膝から下が、見たこともないほどおびただしい量の血で染まっていた。冷たい雨に打たれ、皮膚が紫色に変色している。
「ほら見てよ……いっぱい血がでてる。おれの足、こわれちゃったよ」
過ぎた痛みが、皮肉にも感覚を麻痺させていく。
意識が虚ろになっていくなか、降りしきる雨が幼い体温を奪っていった。寒かった。もしかしたら、このまま死んでしまうのかもしれない。死んでしまっても、いいのかもしれない。
操は笑っていた。涙を流しながら笑っていた。心の中で、何かが音を立てて壊れてしまったような気がする。
「甲洋がいじわるだから、おれの足、こんなになっちゃったんだよ」
甲洋は死人のような顔色になっていた。見開かれたままの瞳は、焦点が合っていないように見えた。カチカチという歯の根がなる音だけが、空気を震わせている。
誰よりも優しい甲洋。目の前の光景に傷ついて、怯える甲洋。ああ、きっと自分を責めている。さっきまでの操には、甲洋の気持ちなんか分からなかった。だけど今は、分かる。
操は声をあげて笑ってしまった。実際、まともに声が出ていたかは分からない。だけどおかしくて、肩が小刻みに揺れ続ける。喜びに打ち震えながら、血と泥にまみれた頬に、涙が伝った。
今この瞬間、操の言葉は呪いのように、彼を縛りつけるのだ。
「これでおれたち、ずーっといっしょにいられるね」
操は見つけてしまった。彼と、ずっと一緒にいる方法。その理由を、片足の自由と引き換えに。
この右足は、もうダメだ。幼い操にだって、それくらい分かる。
賢い甲洋に、分からないはずがなかった。
*
あの瞬間から、甲洋と操の関係性は大きく変わった。
操が白と言えば、半紙の上にぶちまけた墨汁は白い絵の具に変わるし、黒と言えば洗いたてのシーツですら、どす黒い汚泥に染まる。
あるべきはずの秩序は砕かれ、そうやって全く別のものへと再構築された。
甲洋は操をまるで神様のように扱った。素手でカエルを潰せと言えば、その通りに実行した。セミの羽根をもぎ取れと言えば迷うことなく従ったし、カブトムシの角だって平気で折った。
操は彼にとって、絶対的な存在になったのだ。全てを聞き入れ、許し、尽くす。操にだけはいつだって優しくなければならないし、従順でなければならない。
その関係性がより歪に変化を遂げる兆しが見えたのは、祖父が他界して間もない頃だ。
ふたりはまだ中学生だった。
「甲洋もこっちの学校だったらいいのにな。部屋だって余ってるもん。ここに住んじゃえばいいのに」
小さな頃にも、同じようなことを言って甲洋を困らせたことがある。
あのときは本気だったが、今はさすがに冗談で言ったつもりだった。甲洋はただ静かに笑うだけだったから、間に受けているなんて思いもしなかった。だから次に会ったとき、こっちの高校を受験すると真顔で言った彼に、驚かされた。
両親とはあっさり話がついた。甲洋の将来を考えて、反対したのは担任の教師だけだった。けれど甲洋は、それを頑なに押し切った。
あとはここに住まいを移すことを、操の祖母に了承してもらうだけだと。
彼の意思は揺るぎないものだった。驚きはしたものの、操に異存はなかったし、祖父が死んでからすっかり元気を失くしていた祖母は、それを聞いて喜んだ。あまりにも話が上手く行きすぎているようで、少し怖くもあった。
高校はこの町から数キロ離れた隣町にあった。
進学後、この家に暮らしはじめた甲洋は、それまで以上に操の世話をするようになった。
当時の操はどこへ行くにも松葉杖をついていて、学校の行き帰りはもちろん、ちょっとそのあたりを散歩するのでさえ、必ず隣に甲洋が付き添った。
幼い頃、甲洋がうちの子になればいいのにと夢見たことが、現実になったのだ。幸せでしかない毎日と、過剰ともいえる庇護のもとに、操の傲慢さと甲洋への依存は日に日に膨らんだ。
最初に手をあげたのは、操も同じ高校に入学してすぐのことだった。
三年生になっていた甲洋は、美しい青年に成長を遂げていた。
背も高く、成績も優秀で優しい彼は、女子生徒から絶大な人気を誇っていた。二年遅れて入学した操は、そんなこと知りもしなかった。
彼の靴箱には、毎日のようにラブレターやらプレゼントが詰め込まれていた。甲洋はそれを全て断っていたし、興味を示すことはなかったけれど、間近で見せつけられた操は、生まれて初めての嫉妬に気が狂いそうだった。
甲洋が、誰か他の人のものになってしまう日が来るかもしれない。もしそうなったら、彼はどこか遠くへ行ってしまうかもしれない。
そう思った瞬間、目の前が真っ赤になった。
だから殴った。衝動的に、暴力をふるっていた。
自宅の小さな裏庭でのことだった。
操は甲洋にラブレターを全て燃やせと命じた。彼は従い、焼却炉の前にしゃがみこみ、手紙の束に火をつけようとしていた。そこを殴った。松葉杖で、何度も何度も。
支えがなければ立っているのもやっとの身体だ。避けようと思えばできたはずだし、最初こそ腕で顔や頭を庇う素振りを見せたが、甲洋はすぐに無防備になって、それらを受け入れた。口の端からも、額からも血を流した彼は、力尽きて態勢を崩した操をしっかりと抱きとめ、「大丈夫?」と言って微笑んだ。
我に返った操は、全身に痣や傷を負った甲洋に、何度も何度も泣きながら謝った。酷く混乱していた。当たり所が悪ければ、彼を死なせていたかもしれない。そんなことすら考えられないほど、感情を制御できなかった自分が、まるで自分じゃないみたいで怖かった。
操は自分が嫉妬してしまったことを、正直に打ち明けた。甲洋がいつか誰かのものになってしまうかもしれない。そう思うと怖くて怖くて、堪らないのだと。
甲洋は嬉しそうに笑って、「それは恋だよ」と、教えてくれた。
恋だとか愛だとか、操にはよく分からなかった。多分きっと、いつの間にか通り越していた。
甲洋は、自分も同じだと言った。初めて会ったあの夏の日には、もう恋に落ちていたのだと。そう言って、操の震える唇にキスを落とした。血の味がしたのを、よく覚えている。
セックスをしたのも、その夜が初めてのことだった。
←戻る ・ 次へ→
「甲洋のせいだよ」
右足の膝から下が、見たこともないほどおびただしい量の血で染まっていた。
「ほら見て……いっぱい血がでてる。おれの足、こわれちゃったよ」
過ぎた痛みが、皮肉にも感覚を麻痺させていく。
意識が虚ろになっていくなか、降りしきる雨が幼い体温を奪っていった。
ああ、多分、このまま死ぬ。子供心に、そう思う。けれど操は笑っていた。涙を流しながら笑っていた。嬉しいと、そう感じていた。
「甲洋がいじわるだから、おれの足、こんなになっちゃったんだよ」
甲洋は可哀想なくらい震えていた。その姿を見て、操は彼もまだ自分とそう変わらない、ちっぽけな子供でしかないことに気がついた。
古い倒木の、突き出た枝に脛を貫かれ、膝の関節からぽっきりとおかしな方向に折れ曲がっている操の右足を見て、アケビのような青紫の顔色で、歯の根をカチカチと鳴らしている。
その表情を見ていると、操の心が風船を束ねたように浮き上がる。ついにはクスクスと声を上げて、笑いだしていた。
「これでおれたち、ずーっといっしょにいられるね」
それはたったひとつの呪いの言葉。
幸せになんかなれないことを、操はちゃんと知っていたのに。
*
空を覆い尽くすようにして、闇が迫っていた。
遠くの山々が織りなす黒い起伏に、なけなしの橙が今にも押し潰されそうになっている。
カラスの群れが声を交差させる中、藍色の浴衣を着た少年がひとり、縁側に腰を落ち着けて薄ぼんやりとした庭を眺めていた。
時間だけが丹念に塗り重ねられた、古色の家屋。ここには今、彼しかいない。
本当なら、彼はもう少年と呼べる年齢ではなかった。けれど青年というには、あまりにも幼い顔立ちをしている。身体つきもどこか未成熟なままで、白い手は男性特有の骨ばった筋がほとんどない。淡桃の指先が、色づきはじめた果実のようにいとけなかった。
少年だ。彼は。少年のまま、時を止めている。そんな彼のことを二十歳を迎えた大人の男性だなんて、きっと誰も思わない。
暗く沈んだ視線の先では、群生するオトギリソウが夏の生暖かい風に吹かれて揺れていた。幻想的ともいえるその光景に、けれど彼の心が動かされることはない。
魂を持たない人形のように、彼はただ虚ろな瞳でそこに存在しているだけだった。
「来主」
涼やかで優しい声が、少年の名を呼んだ。少年は──来主操はたったいま息を吹き返したようにピクリと肩を揺らし、のったりとした動作で顔を上げる。
そこには目鼻立ちが整った長身の青年が、ジャケットだけを脱いだスーツ姿で佇んでいた。緩やかに波を描く焦げ茶の髪が頬にかかり、白皙の表情に理知的な揺らめきを見せている。
操はそんな青年に向かって、琥珀の瞳をすっと細めた。薄かった辺りの闇が、ぐっと濃くなったような気がする。
「……遅かったね、甲洋」
操が平坦な声でそう言うと、甲洋は小さく「ごめん」と言った。
「仕事の後処理に、少しね。どこか他で道草を食っていたわけじゃないよ」
理由なんてどうでもよかった。操にとって一番の問題は、『甲洋が約束していた通りの時間に戻らなかったこと』、ただそれだけだ。
彼は言った。今朝、家を出るときに言ったのだ。操の頬にキスをしながら、陽が沈む前には帰るからと。
その言葉を信じて、操は甲洋の帰りを待っていた。誰もいない、誰も来ないこの家で、縁側に座って、ずっと空を見上げ、時の経過と共に色を変える草木と共に、待っていた。そうしているうちに、すっかり陽は沈んでいた。甲洋は帰ってこなかった。約束を守らないやつは、ただの嘘つきだ。
操はすぐ側に立てかけていた木製の杖を右手に持つと、それで身体を支えながら踏み石の上に立ち上がる。
「謝って。そこに膝をついて、もっとちゃんとごめんなさいしてよ」
真正面の地面を指さすと、甲洋はなんのためらいもなく地面に両手両膝をつく。そして深々と頭を下げ、「本当にごめん」と改めて謝罪した。
それでも操の溜飲が下がることはなかった。抗おうとする素振りすら見せない、その落ち着き払った従順さに、どうしてか追い立てられるような苛立ちが募る。
操は杖をつき、右足を庇うようにして引きずりながら石の段差から静かに降りた。
「……甲洋」
額を地面に押し付けたままでいる甲洋の名を呼び、唇を戦慄かせながら見下ろした。さっきまで人形のように干からびていたのが嘘のように、今は腹の中が煮えたぎっている。許せなかった。甲洋にこんなことをさせてまで、なぜ怒りを抑えることができないのだろう。自分でも、理解できない。
(やめて)
操の意思を突き破り、赤黒い感情が噴きだしてくる。
(ねぇやめて。甲洋は謝ったよ。ちゃんとごめんなさいしたよ。だからお願い、出てこないで)
必死で抑え込もうとするのに、それは止め処なく溢れて、操の理性を丸飲みにする。
やめてやめてと訴える声がやがて途切れて、消えてしまった。
「本当は帰って来たくなかったんでしょ」
「違う」
「どうしてそんな嘘つくの」
「嘘じゃない。本当だよ」
「そんなの信じられるわけない!」
甲洋の言葉を頭ごなしに否定して、喉がヒリつくほど声を張り上げた。それはまるで引き金のように自身の怒りへ油を注いだ。炎が凄まじい勢いで燃え盛るような衝動に、抗うことができない。
気がつけば杖を両手に構え、大きく振り上げると丸くなっている背に思い切り打ちつけていた。
「待ってたのに! ずっと待ってたのに! 嘘つき! 甲洋の嘘つき!!」
「ッ、ぅぐ……ッ!」
何度も何度も、痛みにその背が跳ねあがる度に声を荒げ、杖で打ち据える。目の前が赤く染まっていた。だただた憎しみばかりが身体の内側で膨れ上がり、今にも弾け飛んでバラバラになってしまいそうだった。
「ねぇ、本当のこと言ってよ! 甲洋は、おれのことが嫌なんだ! おれなんかどうでもいいんだ! だから帰って来たくなかったんだ!!」
「話を……ッ」
聞いてくれ、と掠れた声を絞り出しながら顔を上げた甲洋の横っ面にさえ、杖を叩きつける。彼は低く呻きながら体勢を崩し、横倒しになってもなお、顔を上げた。
「来主、俺は」
「うるさい! 君のせいだ! 君のせいでおれはこんなふうになっちゃったんだ! おれの足がこんななのも、外に出られないのも、ぜんぶぜんぶ、君の……──ッ!!」
「来主!!」
一段と大きく杖を振り上げた瞬間、病んだ片足では体重を支えきれずに、操は体勢を崩した。地に伏していたはずの両腕が伸びて来て、力強く引き寄せられる。結果的に操は浴衣の裾を汚すことにはなってしまったが、衝撃はほとんどないに等しかった。
「大丈夫か?」
甲洋の胸に顔を埋め、きつく目を閉じていた操はピクリと肩を震わせる。恐る恐る顔を上げれば、濃い闇の中で気遣わしげに向けられる視線と目が合った。呆然とした表情で言葉を失う操を抱きしめ、甲洋が大きく安堵の息をつく。
「怪我なんかしたら、大変だ」
そう言って甲洋は操の肩を抱き、両の膝裏にも腕を差し込むと抱え上げる。縁側にそっと降ろされても、操は一言も声を発することが出来なかった。あまりにも急激に鎮火した炎が、白い煙だけをただ静かに立ち昇らせるように、操から思考を奪っていた。
甲洋が小さく笑うのが気配で伝わる。彼は地面に落ちた杖を拾い、操の側に立てかける。大きな手で亜麻色の髪を撫で、「お腹空いただろ」と諭すように言うと、革靴を脱いでそのまま縁側から家に上がり込んだ。
「……けが」
背後で灯された光を背負いながら、動けないままでいた操は呆然と呟いた。甲洋の足音が遠ざかり、沈黙だけが辺りを満たす。
ゆっくりと意識が浮上するにつれ、操は足元から這い上がるような悪寒に背筋を凍らせた。
たった今、怪我をしたのは甲洋だ。
何度も何度も杖で殴って、この手で痛めつけてしまった。
あの広い背中にも、綺麗な顔にも、きっと今ごろ酷い痣が──。
「ああ……なんで……おれ、また……」
やってしまった。
全身を震わせながら、操は這うようにして家の中へ入ると、壁に打ち付けられている手摺に縋って立ち上がる。掴まりながら廊下に出て移動した先は台所で、ネクタイを緩めて腕まくりをした甲洋が、土で汚れた手を洗っているところだった。
「甲洋……っ」
「来主? どうした?」
真っ青になりながらやって来た操に、水道の蛇口を閉めた甲洋が振り返る。その顔は案の定、左頬が赤黒く変色していた。薄く端正な唇の端にも、真っ赤な血がこびりついている。色素の薄い瞳を丸く見開き、首を傾げる甲洋に向かって、操は雪崩れ込むように両手を伸ばした。
「ッ、来主!?」
操が転倒するよりも先に、即座に甲洋が受け止める。
「危ない! 転んだらどうするんだ!」
「そんなの、いい」
「よくない。こんなに震えて……寒いのか?」
顔にこんな酷い痣を作っておきながら、それをやった張本人を優しく気遣う甲洋が、いっそ怖いとすら思えた。本当は怒っているんじゃないのか。さっきまでの自分のように、腸が煮えくり返るほど。
(嫌われちゃう……こんなことばっかしてたら、絶対に……)
いつだって操の怒りは理不尽だ。暴力をふるったのも、暴言を叩きつけたのも、今日が初めてのことじゃない。ほんの些細なことで我を忘れて、今までだって何度も彼を傷つけてきた。
そのたびにこうして後悔するのに、やめられない。一度でも感情に火がつくと、人格が入れ替わるみたいに制御が不能になってしまう。
「ごめん……ごめん甲洋、ごめんなさい、ごめんなさい……おれ、どうしてこんなひどいこと……もうしないよ……絶対に、もうしないから……!」
もうしない。これまで、なんど同じことを繰り返し言っただろう。だけど本心だった。もう殴りたくない。酷いことは言いたくない。傷つけたくない。操には甲洋しかいない。彼だけが、世界の全てだ。
けれどきっと、傍にいる限りまた、同じことを繰り返すに違いなかった。
「甲洋……おれのこと、殴っていいよ」
「バカ言うな」
「やり返していいから、だからお願い、嫌わないで……」
「来主」
縋りつく操の頬に、湿った指先が触れた。労るように撫でられると、琥珀の瞳から涙が溢れる。
「お前はなにも悪くない。悪いのは、帰りが遅れた俺の方だよ」
「うぅん違う……わかってるんだ。甲洋は嘘なんかつかない。おれの足がこんなだから、だからおれのぶんまで、いつもがんばってお仕事してる。ちゃんとわかってる。信じてるんだ……」
ふっと小さく息を漏らしながら、甲洋が笑う。操の額に唇を押しつけ、「それで十分だよ」と言った。
「お前がまともに歩けなくなったのも、外に出られないのも、なにもかも俺のせいだ。俺が子供のころ、お前に大怪我を負わせたから。覚えてるだろ?」
「……うん」
「あの時のことは、きっと死ぬまで忘れられない。俺が……俺があんなことさえしなければ……」
整った眉根を寄せながら、甲洋が苦しそうに目を細めた。その自責に満ちた表情を見ていると、操の胸から不思議と罪悪感が薄れていく。霧がかかったように思考がぼやけ、押し潰されそうになっていた心がふわりと軽くなる。
そう、操の右足が病んで使い物にならなくなったのは、幼い頃に起こった不幸な出来事が原因だった。そしてその発端は甲洋にある。『あんなこと』さえなければ、今ごろ操はこんな不自由な生活を強いられることもなかった。ごく普通に学校に行ったり、バイトをしたりして、好きなときに好きな場所へ行き、何にも縛られることなく生活できていたはずだ。
けれど今の操は、日がな一日この家に閉じこもって甲洋の帰りを待つだけの、籠の鳥も同然の生活を送っている。外に出るとすれば、せいぜい塀と木々で囲われた小さな庭を歩きまわる程度だ。
「だからいいんだよ。お前は俺になにをしたって許される。お前のためだけに生きるって、俺はあのとき誓ったんだ」
それに、と甲洋は優しい声音でさらに続ける。
「お前は生まれつき身体が弱いだろ? 足のこともそうだけど、すぐに風邪を引くし、調子を崩して寝込んでしまう」
「……うん」
「だから俺は、来主には家にいて欲しいと思ってる。どうせこの家には俺たちしかいないし、お前ひとり食わせていくぐらい、どうってことないよ」
「そっか……そうだよね……ありがと、甲洋」
甲洋の腕の中で、操は安堵の息を漏らした。彼が言うように、操は身体が弱かった。皮膚は青白く、華奢で、太陽の光を長時間浴びるだけでも貧血を起こすし、少しのことですぐに熱を出して寝込んでしまう。あげく杖をついていてさえ、足元がおぼつかない。
こんな自分がまともに外で生活できるわけがないのだ。ましてや一人で生きていくなんて。
「甲洋がおれのこと面倒みるのは、当たり前のこと、なんだよね」
自分は何も悪くない。悪いのは甲洋だ。甲洋が、『あのとき』意地悪をしたから。
自らに言い聞かせるように呟いた操に、甲洋は嬉しそうに微笑みながら頷いた。
「一生かけて、償わせてほしい」
一生。
その言葉はどこまでも甘く、けれど操の胸を酷くざわつかせる。甲洋の優しさと従順さを見せつけられるたびに、本当は。
(嘘つきなのは、おれのほうなのに)
どんなに満たされたふりをしても、決して消えない『嘘』を、操は心の奥底にしまい込んでいた。こうしていると得られる安堵の裏側には、いつだって冷たい影がぴったりと張りついて離れない。
(でも)
この鳥籠から出るということは、同時に甲洋を手放すということだった。操にとって、それ以上に怖いことなどない。
胸の底にこの嘘を沈めておく限り、甲洋はずっと、操のものであり続けるのだ。
「甲洋、大好き。あいしてる」
両腕で縋りつき、その肩口に顔を埋める操を抱きしめて、甲洋は囁くような声で「俺もだよ」と言った。
*
操が生まれたときからずっと暮らしているこの家は、操を産み捨てた母親の両親の家だった。
父親はどこの誰だか分からない。母は最後までなにも語らずに操を産んで、祖父母の家に置き去りにしたあと、蒸発してしまった。
けれど操は優しい祖父母のもとで、なんの不便も寂しさも感じずに暮らすことができていた。欲しいものはなんでも買ってもらえたし、イタズラをしたって叱られない。祖父母はいつもニコニコとして、孫の操をとても可愛がってくれていた。
初めて春日井甲洋と会ったのは、操がまだ小学一年生──七つになったばかりの頃だった。
夏休みに両親が長期旅行へ行くため、そのあいだ甲洋だけが、遠縁である来主の家に預けられることになったのだ。
遠くの島から親戚の子が遊びに来ると聞いたときから、操は彼に会うのをとても楽しみにしていた。なにをして遊ぼうかなと、毎日のようにワクワクしながら甲洋の訪れを指折り数えていた。
けれどいざとなるとなんだか恥ずかしくて、操は祖母の後ろに隠れたまま、甲洋の顔を見ることすらできなかった。
「操ちゃん、ほら。甲洋くんだよ。ご挨拶して」
オトギリソウの咲く庭で、一人はるばる船と電車を乗り継いでやってきた甲洋は、なかなか顔を見せようとしない操にきょとんとしていた。
祖母はしがみついて離れない操にとても困った顔をしている。けれど何度も促され、ようやくおそるおそる顔をだした。
もじもじとしながら前に出ると、上目使いで甲洋を見る。すると甲洋はなぜか一瞬、驚いたように目を丸くして頬を染めた。それからふわりと微笑んで、「はじめまして」と言うと操に手を差し出してきた。
「今日からよろしく。なかよくしよう?」
その手と笑顔を交互に見て、操も頬を赤くする。
優しそうな甲洋の笑顔は、緊張していた心を包み込むように解きほぐしてくれた。
この子となら、きっとすぐに仲良くなれる。そう思わせるものが甲洋にはあって、操はそのたった一瞬で、彼のことが大好きになってしまった。
「うん、よろしく甲洋! いっぱいあそぼうね!」
操は生えてきたばかりの白い前歯を見せながら、小さな手で甲洋の手を握ると笑った。
花が咲いたように明るい操の笑顔を見て、甲洋は嬉しそうだった。
その日から、ふたりは毎日のように一緒に遊んだ。
田んぼでカエルを捕まえたり、川で魚を釣ったり、セミやカブトムシを採ったりもした。夜は同じ布団に入って、いつまでも飽きることなくお喋りをした。
甲洋はいつだって優しくて、採った虫はその日のうちにそっと逃してやっていた。宿題も手伝ってくれたし、夜中に一人でトイレに行けない操に付き添ったりもしてくれた。
操はそんな甲洋が大好きだった。友達と兄弟が一度にできたみたいで、とても嬉しかったのだ。
*
朝からセミの合唱がこだまする中、リンの音が尾を引くように鳴り響いた。
澄んだ音色が静かに途切れ、余韻を残す。細い煙になって立ち込める白檀の香は、何度かいでも優しくて、どこか懐かしい。
祖父母の仏壇に手を合わせ、目を閉じていた操は、襖が開く音に顔を上げるとにっこり笑った。
「あ、甲洋。もう行く時間?」
ワイシャツの袖を捲り、ネクタイをきゅっと締め直す甲洋は、操に笑い返すと「うん」と頷く。畳の上に腰を下ろしたままでいた操は四つん這いになると、仏壇の横の手摺に縋ろうと手を伸ばした。玄関まで見送りをしようと思ったからだ。が、その手を取られて顔を上げる。
「いい。今日は縁側から出るよ」
「……あ、そっか」
障子が開け放たれた向こう側を見やる。青い空と強い陽射し。オトギリソウの咲き乱れる小さな庭と、よく磨かれた縁側の床板。昨日、甲洋はここから靴を脱いで中に入ったのだった。
再び座布団にぺたりと腰を落ち着ける操の隣に、甲洋が正座する。たった今まで操がしていたように、仏壇に手を合わせるその横顔には大きな湿布が張り付いていた。
顔を上げた甲洋は、そのまま仏壇に飾られている写真に向かって目を細める。
「あれから2年、か」
仏壇の写真には操の祖父母が笑顔で写り込んでいる。祖父は操が中学に上がってすぐの頃、そして祖母は高校卒業と同時に他界した。
甲洋がこの家に暮らすようになったのは7年も前のことだが、当時まだ祖母は存命だった。だからふたりきりになってからは2年弱、ということになる。操は二十歳に、甲洋は22歳になっていた。
「君が島を出て、こっちの学校に来るって聞いたときはびっくりしたよ。ずっとそうなればいいなって思ってたから、すごく嬉しかった」
「お前のおばあちゃんのおかげ。よく許してくれたと思うよ。血の繋がりなんかないのにさ」
「おれとふたりぼっちになっちゃったからね。寂しかったんだよ、きっと」
「そうだね……あっと、いけない。遅刻する」
腕時計に視線を落とした甲洋が立ち上がり、縁側に向かう背中を操は四つん這いで追いかける。靴を履く後ろ姿を、板の間にペタリと座り込んで眺めた。この薄いワイシャツの下には、昨日操が杖で叩きつけた痣がある。いや、彼の身体中には似たような傷跡が、幾つも残っているのだ。癒える前に次から次へと、操が感情を制御できなくなるたびに、彼に暴力をふるうから。
昨日のように杖を使うこともあるし、食器や瓶や、とにかくその場にあるもの全てを使って、彼を痛めつけてしまう。
「今日は絶対に定時で上がるよ。帰りに少し買い物をするけど、6時までには必ず帰るから」
「……わかった」
「昼飯、ちゃんと食うように」
「大丈夫だよ。おれだってそうめんくらい茹でられるもん」
「火の始末はしっかりね。長い時間庭に出ないように。暑いから、水分もマメに補給すること」
それと──甲洋は見上げてくる操の髪に手を伸ばし、名残を惜しむようにそっと撫でた。
「いい? 庭までだよ。門の外には出ないで。俺がいない間に何かあったら」
「もー! 大丈夫だってば。わかってる。ねぇ、早くしないと本当に遅刻するよ!」
操が少しうんざりしたように言うと、再び時計を見やった甲洋は珍しく舌打ちをした。すぐに駆けだすのかと思いきや、彼は身を屈めて操の顎に指を添えると、小さく唇を重ねて笑顔を見せる。
「いってきます」
「ん、いってらっしゃい」
大きな歩幅で去っていく背を見送りながら、操は溜息を漏らした。
「心配性だな、甲洋は」
もうずっとこんな調子だ。一緒に暮らしはじめておよそ7年。
甲洋がこの家に暮らすようになったのは、彼が中学を卒業してすぐのことだった。驚いたことに、彼は島からわざわざこの遠く離れた山奥の高校を受験し、入学を果たしたのだ。
彼と両親が──といっても実の親子ではないが──良好な親子関係を築けていなかったとはいえ、よくもあっさりと許したものだ。
甲洋は高校を卒業後、ここから車で20分ほどの町役場に就職して、事務員として働いていた。
彼の頭脳なら、高校にせよ大学にせよ、ましてや就職先ですら一流を目指すことなど容易かったろうに。こんなへんぴな田舎の小さな役場で、せっせと事務作業に追われる日々を送っているのだ。
けれどそれが甲洋の選んだ道だった。彼の世界は『あの日』からずっと、操を中心に廻り続けている。
そのとき、居間の方から鳩時計が9時を告げる音が聞こえてきた。ぼんやりしているうちに、だいぶ時間が過ぎていたことを知る。甲洋は遅刻せずについただろうか。職場のひとたちに、あの顔の痣はなんと説明するつもりだろう。
いつもは上手い具合に顔は避ける甲洋だが、昨日は暗かったこともあり、綺麗に命中してしまった。
今日、もし万が一また彼の帰りが遅くなるようなことがあったら。昨日の今日で、きっと同じことを繰り返してしまう。
帰宅時間だけではなく、その日の体調や精神状態によっては、何気ない会話のなかで少しでも気に食わないと、見境なく腹を立ててしまうこともある。何度も何度も、繰り返し。甲洋が生涯をかけて償うというのなら、この手は生涯、彼を傷つけ続けるのだろうか。
(どうしてこんなふうになっちゃったんだろ……)
操はおっとりした性格で、誰かに理不尽に怒りをぶつけるような真似ができる子供ではなかった。それがいつからか、自分でも信じられないほど不安定で、沸点の低い人間になっていた。
しかしこんな籠の鳥のような生活を強いられていれば、鬱憤が溜まるのは無理もない話だ。だからその原因を作った甲洋が操の面倒をみて、その怒りを受け止めるのは当然のこと。なにも不安に思うことなどないはずなのに。
「……甲洋」
その名を呼びながら、思考することを放棄した意識を沈ませる。けれどその耳に、遠くから風に乗り、小さな子供の笑い声が聞こえた気がして、ふと顔を上げた。
「そっか、もうそんな時期なんだ」
この家は小さな田舎町でも、特に山側の外れの方に位置した場所にある。辺りは鬱蒼とした木々が生い茂り、田畑と民家が密集している通りからは、少しばかり距離があった。しかし騒音とは遠い場所にあるため、子供が甲高い声を出せば、微かではあるが耳に届くこともある。
今はちょうどお盆の時期。子供を連れて里帰りする人がいたとしてもおかしくない。
うっすらと聞こえた無邪気な声に、嫌でも自分たちの幼い頃を思いだした。
昔は甲洋も遠い島暮らしで、ここに遊びに来るのは年に二度、夏休みと冬休みの期間だけだった。
今でもこうして、ふと思いだすことがある。
ひっそりとした家の中、一人孤独に甲洋の帰りを待つ、長い時間。
幼い頃の、幼い記憶。ただ無邪気に笑っていられた、あの頃のことを。
何もかも、まるで世界が引っくり返ったかのように変わってしまった、あの日のことを。
操はそっと目を閉じると、しばしの間、記憶の羅列に意識を這わせる作業に没頭しはじめた。
←戻る ・ 次へ→
右足の膝から下が、見たこともないほどおびただしい量の血で染まっていた。
「ほら見て……いっぱい血がでてる。おれの足、こわれちゃったよ」
過ぎた痛みが、皮肉にも感覚を麻痺させていく。
意識が虚ろになっていくなか、降りしきる雨が幼い体温を奪っていった。
ああ、多分、このまま死ぬ。子供心に、そう思う。けれど操は笑っていた。涙を流しながら笑っていた。嬉しいと、そう感じていた。
「甲洋がいじわるだから、おれの足、こんなになっちゃったんだよ」
甲洋は可哀想なくらい震えていた。その姿を見て、操は彼もまだ自分とそう変わらない、ちっぽけな子供でしかないことに気がついた。
古い倒木の、突き出た枝に脛を貫かれ、膝の関節からぽっきりとおかしな方向に折れ曲がっている操の右足を見て、アケビのような青紫の顔色で、歯の根をカチカチと鳴らしている。
その表情を見ていると、操の心が風船を束ねたように浮き上がる。ついにはクスクスと声を上げて、笑いだしていた。
「これでおれたち、ずーっといっしょにいられるね」
それはたったひとつの呪いの言葉。
幸せになんかなれないことを、操はちゃんと知っていたのに。
*
空を覆い尽くすようにして、闇が迫っていた。
遠くの山々が織りなす黒い起伏に、なけなしの橙が今にも押し潰されそうになっている。
カラスの群れが声を交差させる中、藍色の浴衣を着た少年がひとり、縁側に腰を落ち着けて薄ぼんやりとした庭を眺めていた。
時間だけが丹念に塗り重ねられた、古色の家屋。ここには今、彼しかいない。
本当なら、彼はもう少年と呼べる年齢ではなかった。けれど青年というには、あまりにも幼い顔立ちをしている。身体つきもどこか未成熟なままで、白い手は男性特有の骨ばった筋がほとんどない。淡桃の指先が、色づきはじめた果実のようにいとけなかった。
少年だ。彼は。少年のまま、時を止めている。そんな彼のことを二十歳を迎えた大人の男性だなんて、きっと誰も思わない。
暗く沈んだ視線の先では、群生するオトギリソウが夏の生暖かい風に吹かれて揺れていた。幻想的ともいえるその光景に、けれど彼の心が動かされることはない。
魂を持たない人形のように、彼はただ虚ろな瞳でそこに存在しているだけだった。
「来主」
涼やかで優しい声が、少年の名を呼んだ。少年は──来主操はたったいま息を吹き返したようにピクリと肩を揺らし、のったりとした動作で顔を上げる。
そこには目鼻立ちが整った長身の青年が、ジャケットだけを脱いだスーツ姿で佇んでいた。緩やかに波を描く焦げ茶の髪が頬にかかり、白皙の表情に理知的な揺らめきを見せている。
操はそんな青年に向かって、琥珀の瞳をすっと細めた。薄かった辺りの闇が、ぐっと濃くなったような気がする。
「……遅かったね、甲洋」
操が平坦な声でそう言うと、甲洋は小さく「ごめん」と言った。
「仕事の後処理に、少しね。どこか他で道草を食っていたわけじゃないよ」
理由なんてどうでもよかった。操にとって一番の問題は、『甲洋が約束していた通りの時間に戻らなかったこと』、ただそれだけだ。
彼は言った。今朝、家を出るときに言ったのだ。操の頬にキスをしながら、陽が沈む前には帰るからと。
その言葉を信じて、操は甲洋の帰りを待っていた。誰もいない、誰も来ないこの家で、縁側に座って、ずっと空を見上げ、時の経過と共に色を変える草木と共に、待っていた。そうしているうちに、すっかり陽は沈んでいた。甲洋は帰ってこなかった。約束を守らないやつは、ただの嘘つきだ。
操はすぐ側に立てかけていた木製の杖を右手に持つと、それで身体を支えながら踏み石の上に立ち上がる。
「謝って。そこに膝をついて、もっとちゃんとごめんなさいしてよ」
真正面の地面を指さすと、甲洋はなんのためらいもなく地面に両手両膝をつく。そして深々と頭を下げ、「本当にごめん」と改めて謝罪した。
それでも操の溜飲が下がることはなかった。抗おうとする素振りすら見せない、その落ち着き払った従順さに、どうしてか追い立てられるような苛立ちが募る。
操は杖をつき、右足を庇うようにして引きずりながら石の段差から静かに降りた。
「……甲洋」
額を地面に押し付けたままでいる甲洋の名を呼び、唇を戦慄かせながら見下ろした。さっきまで人形のように干からびていたのが嘘のように、今は腹の中が煮えたぎっている。許せなかった。甲洋にこんなことをさせてまで、なぜ怒りを抑えることができないのだろう。自分でも、理解できない。
(やめて)
操の意思を突き破り、赤黒い感情が噴きだしてくる。
(ねぇやめて。甲洋は謝ったよ。ちゃんとごめんなさいしたよ。だからお願い、出てこないで)
必死で抑え込もうとするのに、それは止め処なく溢れて、操の理性を丸飲みにする。
やめてやめてと訴える声がやがて途切れて、消えてしまった。
「本当は帰って来たくなかったんでしょ」
「違う」
「どうしてそんな嘘つくの」
「嘘じゃない。本当だよ」
「そんなの信じられるわけない!」
甲洋の言葉を頭ごなしに否定して、喉がヒリつくほど声を張り上げた。それはまるで引き金のように自身の怒りへ油を注いだ。炎が凄まじい勢いで燃え盛るような衝動に、抗うことができない。
気がつけば杖を両手に構え、大きく振り上げると丸くなっている背に思い切り打ちつけていた。
「待ってたのに! ずっと待ってたのに! 嘘つき! 甲洋の嘘つき!!」
「ッ、ぅぐ……ッ!」
何度も何度も、痛みにその背が跳ねあがる度に声を荒げ、杖で打ち据える。目の前が赤く染まっていた。だただた憎しみばかりが身体の内側で膨れ上がり、今にも弾け飛んでバラバラになってしまいそうだった。
「ねぇ、本当のこと言ってよ! 甲洋は、おれのことが嫌なんだ! おれなんかどうでもいいんだ! だから帰って来たくなかったんだ!!」
「話を……ッ」
聞いてくれ、と掠れた声を絞り出しながら顔を上げた甲洋の横っ面にさえ、杖を叩きつける。彼は低く呻きながら体勢を崩し、横倒しになってもなお、顔を上げた。
「来主、俺は」
「うるさい! 君のせいだ! 君のせいでおれはこんなふうになっちゃったんだ! おれの足がこんななのも、外に出られないのも、ぜんぶぜんぶ、君の……──ッ!!」
「来主!!」
一段と大きく杖を振り上げた瞬間、病んだ片足では体重を支えきれずに、操は体勢を崩した。地に伏していたはずの両腕が伸びて来て、力強く引き寄せられる。結果的に操は浴衣の裾を汚すことにはなってしまったが、衝撃はほとんどないに等しかった。
「大丈夫か?」
甲洋の胸に顔を埋め、きつく目を閉じていた操はピクリと肩を震わせる。恐る恐る顔を上げれば、濃い闇の中で気遣わしげに向けられる視線と目が合った。呆然とした表情で言葉を失う操を抱きしめ、甲洋が大きく安堵の息をつく。
「怪我なんかしたら、大変だ」
そう言って甲洋は操の肩を抱き、両の膝裏にも腕を差し込むと抱え上げる。縁側にそっと降ろされても、操は一言も声を発することが出来なかった。あまりにも急激に鎮火した炎が、白い煙だけをただ静かに立ち昇らせるように、操から思考を奪っていた。
甲洋が小さく笑うのが気配で伝わる。彼は地面に落ちた杖を拾い、操の側に立てかける。大きな手で亜麻色の髪を撫で、「お腹空いただろ」と諭すように言うと、革靴を脱いでそのまま縁側から家に上がり込んだ。
「……けが」
背後で灯された光を背負いながら、動けないままでいた操は呆然と呟いた。甲洋の足音が遠ざかり、沈黙だけが辺りを満たす。
ゆっくりと意識が浮上するにつれ、操は足元から這い上がるような悪寒に背筋を凍らせた。
たった今、怪我をしたのは甲洋だ。
何度も何度も杖で殴って、この手で痛めつけてしまった。
あの広い背中にも、綺麗な顔にも、きっと今ごろ酷い痣が──。
「ああ……なんで……おれ、また……」
やってしまった。
全身を震わせながら、操は這うようにして家の中へ入ると、壁に打ち付けられている手摺に縋って立ち上がる。掴まりながら廊下に出て移動した先は台所で、ネクタイを緩めて腕まくりをした甲洋が、土で汚れた手を洗っているところだった。
「甲洋……っ」
「来主? どうした?」
真っ青になりながらやって来た操に、水道の蛇口を閉めた甲洋が振り返る。その顔は案の定、左頬が赤黒く変色していた。薄く端正な唇の端にも、真っ赤な血がこびりついている。色素の薄い瞳を丸く見開き、首を傾げる甲洋に向かって、操は雪崩れ込むように両手を伸ばした。
「ッ、来主!?」
操が転倒するよりも先に、即座に甲洋が受け止める。
「危ない! 転んだらどうするんだ!」
「そんなの、いい」
「よくない。こんなに震えて……寒いのか?」
顔にこんな酷い痣を作っておきながら、それをやった張本人を優しく気遣う甲洋が、いっそ怖いとすら思えた。本当は怒っているんじゃないのか。さっきまでの自分のように、腸が煮えくり返るほど。
(嫌われちゃう……こんなことばっかしてたら、絶対に……)
いつだって操の怒りは理不尽だ。暴力をふるったのも、暴言を叩きつけたのも、今日が初めてのことじゃない。ほんの些細なことで我を忘れて、今までだって何度も彼を傷つけてきた。
そのたびにこうして後悔するのに、やめられない。一度でも感情に火がつくと、人格が入れ替わるみたいに制御が不能になってしまう。
「ごめん……ごめん甲洋、ごめんなさい、ごめんなさい……おれ、どうしてこんなひどいこと……もうしないよ……絶対に、もうしないから……!」
もうしない。これまで、なんど同じことを繰り返し言っただろう。だけど本心だった。もう殴りたくない。酷いことは言いたくない。傷つけたくない。操には甲洋しかいない。彼だけが、世界の全てだ。
けれどきっと、傍にいる限りまた、同じことを繰り返すに違いなかった。
「甲洋……おれのこと、殴っていいよ」
「バカ言うな」
「やり返していいから、だからお願い、嫌わないで……」
「来主」
縋りつく操の頬に、湿った指先が触れた。労るように撫でられると、琥珀の瞳から涙が溢れる。
「お前はなにも悪くない。悪いのは、帰りが遅れた俺の方だよ」
「うぅん違う……わかってるんだ。甲洋は嘘なんかつかない。おれの足がこんなだから、だからおれのぶんまで、いつもがんばってお仕事してる。ちゃんとわかってる。信じてるんだ……」
ふっと小さく息を漏らしながら、甲洋が笑う。操の額に唇を押しつけ、「それで十分だよ」と言った。
「お前がまともに歩けなくなったのも、外に出られないのも、なにもかも俺のせいだ。俺が子供のころ、お前に大怪我を負わせたから。覚えてるだろ?」
「……うん」
「あの時のことは、きっと死ぬまで忘れられない。俺が……俺があんなことさえしなければ……」
整った眉根を寄せながら、甲洋が苦しそうに目を細めた。その自責に満ちた表情を見ていると、操の胸から不思議と罪悪感が薄れていく。霧がかかったように思考がぼやけ、押し潰されそうになっていた心がふわりと軽くなる。
そう、操の右足が病んで使い物にならなくなったのは、幼い頃に起こった不幸な出来事が原因だった。そしてその発端は甲洋にある。『あんなこと』さえなければ、今ごろ操はこんな不自由な生活を強いられることもなかった。ごく普通に学校に行ったり、バイトをしたりして、好きなときに好きな場所へ行き、何にも縛られることなく生活できていたはずだ。
けれど今の操は、日がな一日この家に閉じこもって甲洋の帰りを待つだけの、籠の鳥も同然の生活を送っている。外に出るとすれば、せいぜい塀と木々で囲われた小さな庭を歩きまわる程度だ。
「だからいいんだよ。お前は俺になにをしたって許される。お前のためだけに生きるって、俺はあのとき誓ったんだ」
それに、と甲洋は優しい声音でさらに続ける。
「お前は生まれつき身体が弱いだろ? 足のこともそうだけど、すぐに風邪を引くし、調子を崩して寝込んでしまう」
「……うん」
「だから俺は、来主には家にいて欲しいと思ってる。どうせこの家には俺たちしかいないし、お前ひとり食わせていくぐらい、どうってことないよ」
「そっか……そうだよね……ありがと、甲洋」
甲洋の腕の中で、操は安堵の息を漏らした。彼が言うように、操は身体が弱かった。皮膚は青白く、華奢で、太陽の光を長時間浴びるだけでも貧血を起こすし、少しのことですぐに熱を出して寝込んでしまう。あげく杖をついていてさえ、足元がおぼつかない。
こんな自分がまともに外で生活できるわけがないのだ。ましてや一人で生きていくなんて。
「甲洋がおれのこと面倒みるのは、当たり前のこと、なんだよね」
自分は何も悪くない。悪いのは甲洋だ。甲洋が、『あのとき』意地悪をしたから。
自らに言い聞かせるように呟いた操に、甲洋は嬉しそうに微笑みながら頷いた。
「一生かけて、償わせてほしい」
一生。
その言葉はどこまでも甘く、けれど操の胸を酷くざわつかせる。甲洋の優しさと従順さを見せつけられるたびに、本当は。
(嘘つきなのは、おれのほうなのに)
どんなに満たされたふりをしても、決して消えない『嘘』を、操は心の奥底にしまい込んでいた。こうしていると得られる安堵の裏側には、いつだって冷たい影がぴったりと張りついて離れない。
(でも)
この鳥籠から出るということは、同時に甲洋を手放すということだった。操にとって、それ以上に怖いことなどない。
胸の底にこの嘘を沈めておく限り、甲洋はずっと、操のものであり続けるのだ。
「甲洋、大好き。あいしてる」
両腕で縋りつき、その肩口に顔を埋める操を抱きしめて、甲洋は囁くような声で「俺もだよ」と言った。
*
操が生まれたときからずっと暮らしているこの家は、操を産み捨てた母親の両親の家だった。
父親はどこの誰だか分からない。母は最後までなにも語らずに操を産んで、祖父母の家に置き去りにしたあと、蒸発してしまった。
けれど操は優しい祖父母のもとで、なんの不便も寂しさも感じずに暮らすことができていた。欲しいものはなんでも買ってもらえたし、イタズラをしたって叱られない。祖父母はいつもニコニコとして、孫の操をとても可愛がってくれていた。
初めて春日井甲洋と会ったのは、操がまだ小学一年生──七つになったばかりの頃だった。
夏休みに両親が長期旅行へ行くため、そのあいだ甲洋だけが、遠縁である来主の家に預けられることになったのだ。
遠くの島から親戚の子が遊びに来ると聞いたときから、操は彼に会うのをとても楽しみにしていた。なにをして遊ぼうかなと、毎日のようにワクワクしながら甲洋の訪れを指折り数えていた。
けれどいざとなるとなんだか恥ずかしくて、操は祖母の後ろに隠れたまま、甲洋の顔を見ることすらできなかった。
「操ちゃん、ほら。甲洋くんだよ。ご挨拶して」
オトギリソウの咲く庭で、一人はるばる船と電車を乗り継いでやってきた甲洋は、なかなか顔を見せようとしない操にきょとんとしていた。
祖母はしがみついて離れない操にとても困った顔をしている。けれど何度も促され、ようやくおそるおそる顔をだした。
もじもじとしながら前に出ると、上目使いで甲洋を見る。すると甲洋はなぜか一瞬、驚いたように目を丸くして頬を染めた。それからふわりと微笑んで、「はじめまして」と言うと操に手を差し出してきた。
「今日からよろしく。なかよくしよう?」
その手と笑顔を交互に見て、操も頬を赤くする。
優しそうな甲洋の笑顔は、緊張していた心を包み込むように解きほぐしてくれた。
この子となら、きっとすぐに仲良くなれる。そう思わせるものが甲洋にはあって、操はそのたった一瞬で、彼のことが大好きになってしまった。
「うん、よろしく甲洋! いっぱいあそぼうね!」
操は生えてきたばかりの白い前歯を見せながら、小さな手で甲洋の手を握ると笑った。
花が咲いたように明るい操の笑顔を見て、甲洋は嬉しそうだった。
その日から、ふたりは毎日のように一緒に遊んだ。
田んぼでカエルを捕まえたり、川で魚を釣ったり、セミやカブトムシを採ったりもした。夜は同じ布団に入って、いつまでも飽きることなくお喋りをした。
甲洋はいつだって優しくて、採った虫はその日のうちにそっと逃してやっていた。宿題も手伝ってくれたし、夜中に一人でトイレに行けない操に付き添ったりもしてくれた。
操はそんな甲洋が大好きだった。友達と兄弟が一度にできたみたいで、とても嬉しかったのだ。
*
朝からセミの合唱がこだまする中、リンの音が尾を引くように鳴り響いた。
澄んだ音色が静かに途切れ、余韻を残す。細い煙になって立ち込める白檀の香は、何度かいでも優しくて、どこか懐かしい。
祖父母の仏壇に手を合わせ、目を閉じていた操は、襖が開く音に顔を上げるとにっこり笑った。
「あ、甲洋。もう行く時間?」
ワイシャツの袖を捲り、ネクタイをきゅっと締め直す甲洋は、操に笑い返すと「うん」と頷く。畳の上に腰を下ろしたままでいた操は四つん這いになると、仏壇の横の手摺に縋ろうと手を伸ばした。玄関まで見送りをしようと思ったからだ。が、その手を取られて顔を上げる。
「いい。今日は縁側から出るよ」
「……あ、そっか」
障子が開け放たれた向こう側を見やる。青い空と強い陽射し。オトギリソウの咲き乱れる小さな庭と、よく磨かれた縁側の床板。昨日、甲洋はここから靴を脱いで中に入ったのだった。
再び座布団にぺたりと腰を落ち着ける操の隣に、甲洋が正座する。たった今まで操がしていたように、仏壇に手を合わせるその横顔には大きな湿布が張り付いていた。
顔を上げた甲洋は、そのまま仏壇に飾られている写真に向かって目を細める。
「あれから2年、か」
仏壇の写真には操の祖父母が笑顔で写り込んでいる。祖父は操が中学に上がってすぐの頃、そして祖母は高校卒業と同時に他界した。
甲洋がこの家に暮らすようになったのは7年も前のことだが、当時まだ祖母は存命だった。だからふたりきりになってからは2年弱、ということになる。操は二十歳に、甲洋は22歳になっていた。
「君が島を出て、こっちの学校に来るって聞いたときはびっくりしたよ。ずっとそうなればいいなって思ってたから、すごく嬉しかった」
「お前のおばあちゃんのおかげ。よく許してくれたと思うよ。血の繋がりなんかないのにさ」
「おれとふたりぼっちになっちゃったからね。寂しかったんだよ、きっと」
「そうだね……あっと、いけない。遅刻する」
腕時計に視線を落とした甲洋が立ち上がり、縁側に向かう背中を操は四つん這いで追いかける。靴を履く後ろ姿を、板の間にペタリと座り込んで眺めた。この薄いワイシャツの下には、昨日操が杖で叩きつけた痣がある。いや、彼の身体中には似たような傷跡が、幾つも残っているのだ。癒える前に次から次へと、操が感情を制御できなくなるたびに、彼に暴力をふるうから。
昨日のように杖を使うこともあるし、食器や瓶や、とにかくその場にあるもの全てを使って、彼を痛めつけてしまう。
「今日は絶対に定時で上がるよ。帰りに少し買い物をするけど、6時までには必ず帰るから」
「……わかった」
「昼飯、ちゃんと食うように」
「大丈夫だよ。おれだってそうめんくらい茹でられるもん」
「火の始末はしっかりね。長い時間庭に出ないように。暑いから、水分もマメに補給すること」
それと──甲洋は見上げてくる操の髪に手を伸ばし、名残を惜しむようにそっと撫でた。
「いい? 庭までだよ。門の外には出ないで。俺がいない間に何かあったら」
「もー! 大丈夫だってば。わかってる。ねぇ、早くしないと本当に遅刻するよ!」
操が少しうんざりしたように言うと、再び時計を見やった甲洋は珍しく舌打ちをした。すぐに駆けだすのかと思いきや、彼は身を屈めて操の顎に指を添えると、小さく唇を重ねて笑顔を見せる。
「いってきます」
「ん、いってらっしゃい」
大きな歩幅で去っていく背を見送りながら、操は溜息を漏らした。
「心配性だな、甲洋は」
もうずっとこんな調子だ。一緒に暮らしはじめておよそ7年。
甲洋がこの家に暮らすようになったのは、彼が中学を卒業してすぐのことだった。驚いたことに、彼は島からわざわざこの遠く離れた山奥の高校を受験し、入学を果たしたのだ。
彼と両親が──といっても実の親子ではないが──良好な親子関係を築けていなかったとはいえ、よくもあっさりと許したものだ。
甲洋は高校を卒業後、ここから車で20分ほどの町役場に就職して、事務員として働いていた。
彼の頭脳なら、高校にせよ大学にせよ、ましてや就職先ですら一流を目指すことなど容易かったろうに。こんなへんぴな田舎の小さな役場で、せっせと事務作業に追われる日々を送っているのだ。
けれどそれが甲洋の選んだ道だった。彼の世界は『あの日』からずっと、操を中心に廻り続けている。
そのとき、居間の方から鳩時計が9時を告げる音が聞こえてきた。ぼんやりしているうちに、だいぶ時間が過ぎていたことを知る。甲洋は遅刻せずについただろうか。職場のひとたちに、あの顔の痣はなんと説明するつもりだろう。
いつもは上手い具合に顔は避ける甲洋だが、昨日は暗かったこともあり、綺麗に命中してしまった。
今日、もし万が一また彼の帰りが遅くなるようなことがあったら。昨日の今日で、きっと同じことを繰り返してしまう。
帰宅時間だけではなく、その日の体調や精神状態によっては、何気ない会話のなかで少しでも気に食わないと、見境なく腹を立ててしまうこともある。何度も何度も、繰り返し。甲洋が生涯をかけて償うというのなら、この手は生涯、彼を傷つけ続けるのだろうか。
(どうしてこんなふうになっちゃったんだろ……)
操はおっとりした性格で、誰かに理不尽に怒りをぶつけるような真似ができる子供ではなかった。それがいつからか、自分でも信じられないほど不安定で、沸点の低い人間になっていた。
しかしこんな籠の鳥のような生活を強いられていれば、鬱憤が溜まるのは無理もない話だ。だからその原因を作った甲洋が操の面倒をみて、その怒りを受け止めるのは当然のこと。なにも不安に思うことなどないはずなのに。
「……甲洋」
その名を呼びながら、思考することを放棄した意識を沈ませる。けれどその耳に、遠くから風に乗り、小さな子供の笑い声が聞こえた気がして、ふと顔を上げた。
「そっか、もうそんな時期なんだ」
この家は小さな田舎町でも、特に山側の外れの方に位置した場所にある。辺りは鬱蒼とした木々が生い茂り、田畑と民家が密集している通りからは、少しばかり距離があった。しかし騒音とは遠い場所にあるため、子供が甲高い声を出せば、微かではあるが耳に届くこともある。
今はちょうどお盆の時期。子供を連れて里帰りする人がいたとしてもおかしくない。
うっすらと聞こえた無邪気な声に、嫌でも自分たちの幼い頃を思いだした。
昔は甲洋も遠い島暮らしで、ここに遊びに来るのは年に二度、夏休みと冬休みの期間だけだった。
今でもこうして、ふと思いだすことがある。
ひっそりとした家の中、一人孤独に甲洋の帰りを待つ、長い時間。
幼い頃の、幼い記憶。ただ無邪気に笑っていられた、あの頃のことを。
何もかも、まるで世界が引っくり返ったかのように変わってしまった、あの日のことを。
操はそっと目を閉じると、しばしの間、記憶の羅列に意識を這わせる作業に没頭しはじめた。
←戻る ・ 次へ→
とんとん、たんたん。遠くから聞こえる不思議な音色に、あの頃、幼いファイは胸を躍らせていた。
年代物の扇風機をすぐ側でカタカタといわせながら、網戸越しに眺めた遠くの櫓を、ファイは決して忘れない。垂れ幕の赤と白が、それぞれ何本だったのか。提灯はいくつぶら下がっていたか。
こっそりと抜けだして会いに来てくれた大好きな人の赤い頬や、夜なのに自慢げにかぶった麦わら帽子の優しい香りを、忘れない。
二人、手を繋いで眺めた宝物のような夜空を、絶対に。
「ほら見てー! これ懐かしいー!」
箪笥の開きに長い間ずっと仕舞われたそれを取り出して、ファイは目を輝かせた。
あの頃よりも少し、所々がささくれ立った麦わら帽子からは、ふわりと懐かしい香りがする。
「ああ」
赤と紫の朝顔が書かれた町内会のうちわでパタパタと首元を扇ぎ、のんびりと胡坐をかいている黒鋼が短く返事をする。
ファイは帽子を手にその横にちょこんと座りこんだ。
その弾みでゆるりと空気が動いて、縁側で炊いている蚊取り線香の香りが一瞬だけ強くなった気がした。
「ボロボロだぁ。気に入ってたのになー」
「昔見たときからボロだったぜ」
「そんなことないもーん」
これは他界した祖母がお古をくれたものだった。確かにあの当時から少し痛んではいたけれど、ファイにとっては宝物の一つだった。
「どう? 似合う?」
あの頃よりも頭にフィットするそれをかぶって、少し首を傾げて見せた。
黒鋼は思いっきり期待に満ちた目をするファイを見て、僅かに顔を顰める。そして、伸びて来た指によってファイはぎゅっと鼻を摘まれた。
「むぎゅっ!」
「似合わねぇよ」
「むー! おはにゃ潰れるー!」
必死になってがっしりとした手首を両手で掴んでバタバタする様が面白いのか、黒鋼は意地悪そうに笑ってそのまましばらくファイの鼻から指を離さなかった。
ようやく解放されたとき、少しヒリヒリする鼻を摩りながらファイは満足そうな顔をしている憎らしい男を睨みつける。
「いったいなー、もう…。昔はさー、顔真っ赤にして頷いてくれたのにねー。いつからこんな子になっちゃったのー」
「……気のせいだろ。それか夢だ。俺の記憶にはねぇな」
「気のせいじゃありませんー。夢でもありませんー」
「だから覚えてねぇっつってんだろ」
本当はしっかり覚えてるくせに、どうやら掘り返されると照れくさいらしい彼はとても嫌そうな顔をして、眉間の皺を濃いものにした。
頬を赤くしていた頃の彼も可愛かったけれど、案外分かりやすいこの男の性質も、申し分なく可愛い。
「ボケるには早いんじゃないの? おじいちゃん」
「誰がジジイだ、オラ」
「あう」
こつんと額を弾かれた拍子に、麦わら帽子はぽっかりと頭から離れて落ちてしまった。
「そろそろ出かけるぞ」
そっぽを向きながらうちわを投げ出した黒鋼に、ファイは「はぁい」と返事をした。
本当はあの頃のように無邪気にこれをかぶって行ければいいのだけれど。
ファイは古びた麦わら帽子をそっと箪笥の上に飾るだけで我慢した。
*
戻りたい過去はない。
戻ってやり直すには、あまりにも離れていた時間が長すぎたから。
それがどんなに幸せで、美しい思い出だったとしても。
*
昔と祭の規模は変わらない。
盆踊りのための櫓が集会所のある公園の真ん中にあって、幾つかの出店があって。ただ違うのは、当時と比べると子供の数が減ったことと、浴衣を着た華やかな女性や家族連れが少しだけ増えていることだった。
太鼓やお囃子に掻き消されない程度には夜の虫が声を上げる田んぼの畦道を、二人はやっぱり祭の会場を遠くに眺めながらのんびりと歩いていた。
見知った子供たちはみな祭の中心にいるから、顔を合わせることはなかった。
すれ違う人の中にはファイを目的に来ている観光客もいて、時々笑って手を振ったり振られたりするファイだったが、実は密かに隣を歩く黒鋼が少し面白くなさそうな雰囲気を醸し出していることには、ちゃっかり気が付いていた。
「可愛いね。浴衣の女の子って。ドキドキしちゃう」
だからそんなことを言ったのは、わざとだった。
どんな顔をするんだろうとか、何て反応するんだろうとか。手に取るように分かるくせに、そんなことを知らぬふりをして言ってのけるのは楽しかった。
自分は案外いい性格をしているとも思うけれど、別にそんな自分も嫌いではない。
それに、見透かしているのは相手も同じということを知っている。
ファイが仕掛ける単純で子供っぽい、駆け引きにもならない罠くらい、彼はお見通しのはずだった。
(それでも君はそんな顔をしてくれるんだ。知ってるよ。次に何を言ってくれるのかも)
「知るかよ。鼻の下伸ばしてっとすっ転ぶぞ」
「ふふふ。そうそう、そんな感じ。言うと思った」
「……てめぇこそ、どこでひん曲がっちまったんだろうな。その性格は」
「さぁ。どこでしょう」
小刻みに肩を揺らしながら笑うファイに、また若い浴衣の女性が手を振った。それに気がついて上げようとした手を、ふいに強く掴まれてファイはドキリとする。
夜目にはそこまではわからない。祭の提灯と出店の明かりは、少し離れたこの場所では薄ぼんやりとしていて、誰にも。
少しだけ苛立ったように早くなった相手の歩調に引っ張られながら、ファイはまた笑った。強く掴まれた手首が熱くて、それに負けないくらい胸の内側も熱かった。
その熱がそのままどんどん頭の方へも上って来て、今が夜でよかったとファイは思う。
少し悔しい。女の子が可愛くてドキドキするなんて、そんな軽い台詞を平気で言った自分を、こんな風に女の子にでもなったみたいにドキドキさせるのは、彼だけだった。
幾つになっても。妙なところで、どこか幼い、くすぐったいままの恋をし続けている。恥ずかしくて、悔しかった。多分、この気持ちに終わりが訪れることはない。
このまま行けば、ただの暗いだけの道まで行ってしまうのではないか。そんなことを考えていたとき、黒鋼が足を止めるのとヒュウと音がするのはほぼ同時だった。
二人は手と手で繋がったまま、夜の闇にぽっかりと咲く一瞬の花火を見上げた。
至るところから歓声が上がる。祭の最後を締めくくる、夜の花。
最初のうちは一定の間隔を開けて。やがて、盛り上がりと同時にそれは絶え間なく上がり続ける。
バラバラと音を立てながら、火の花は夜空を明るく染めていた。たった一瞬の光。けれど胸に焼きつく、永遠の光。
二人は何も言わずに、ただそれらを見守った。
道祖神の傍らで。
それは示し合わせたように。
足を止めたこの場所は、初めて二人で花火を見上げたあの場所で。
夏の夜と、火薬の匂い。つんと鼻先を掠めてゆくから、少しだけ大輪の花が滲んで見えた。
「綺麗。すごく、綺麗だね」
震えそうになる語尾を、その夜一番大きな音が掻き消した。
黒鋼は空から目を逸らさない。ファイの手を離さないまま、彼は何かを言った。聞こえない。今も、昔も。肝心な部分は必ず花火の音が掻き消した。
そしてあのときも今も、ファイは彼が何を言ったのかを問うことはしなかった。
途端に静寂が満ちる夜の世界は、たった今すべて散り終えた花火の残骸を薄くぼんやりと夜空に残し、やがて雲のように風と共に消えてゆく。
その頃には、二人は何も言わないままにただしっかりと指と指を絡めるようにして手を握り合って、元来た道を歩き出していた
戻る場所は一つで、戻ったら戻ったで、することは一つで。なんだかベタだなぁと思うと照れくさくて、ファイはそっと笑った。
でも仕方ない。田舎の片隅の、決して規模が大きいとは言えない花火に心も身体も煽られて、興奮している。早く誰もいない場所でもっと彼に触れたいし、声が聞きたいし、抱きしめたくてたまらなかった。
「来年も……」
ただ無言で熱を持てあますのが気恥ずかしくて、ファイは小さな声で呟きかけた。
「ん」
同じくらい小さく返す黒鋼に、ファイは首を振る。
「ううん。なんでもない」
言いかけた言葉の続きは、わざわざ声に出して言うほどのものではなかった。
――来年もまた来ようね。
約束はいらない。
また来年も同じ場所で手を繋ぎながら、同じ空を見上げるのだ。
そしてまた黒鋼は聞こえないタイミングで、そっと何かを呟くのだと思う。
彼が何を言っているのか、どんな顔をするのか。いつだって手に取るようにわかるのに、ファイにはそのときの彼が何を言っているのかだけは、どうしてもわからない。
けれどそれでいいと思っている。
いつか彼の気が向いたときにでも、聞かせてくれる日が来るかもしれない。
約束はいらない。戻りたい過去もない。
時が経てば経つほど麦わら帽子は痛んでいくし、とっくに壊れて、庭先の物置で眠っている扇風機にはホコリが積り続ける。
提灯の数も、紅白のしまの数も、もう遠目からは数えられない。
けれど繰り返すくらいなら、もっとずっと先まで二人で生きて行ける方が、ずっといい。
少し蒸し暑い夜の畦道。
まっすぐに続いていくその道を、二人は逸る気持ちとは裏腹に、殊更ゆっくり、歩いて帰った。
←戻る ・ Wavebox👏