2025年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
ファイ、にゃんこにバイバイの巻
案の定、降りだした雨は夜になる頃にも止まずに、優しく降り続けていた。
どうせ朝にはいつだって同じ布団の中で目を覚ますけれど、それでも律儀に敷かれた二組の布団をぴったりとくっつけて、その境目で向かい合った二人はゆったりとした口付けを交わし合っていた。
シャツのボタンを一つ一つ外されていくのを感じながら、ファイは窓ガラスを緩く叩いている雨音に耳を傾ける。
(懐かしい……)
あの日、初めてこの世界に来た日。もし雨が降らなかったら。
もし迷子にならずに、故郷への帰り道を探しあてることができていたら。
今こうしていることは決してなかった。ましてや人間になりたいなんて、どう引っくり返ろうが考えもしなかっただろう。
ただ長閑で平和なだけの世界で、何の刺激もないまま、退屈を持て余しながら今も猫として生きていたはずだ。
それはそれでとても幸せなことで、退屈ではあってもユゥイや仲間たちがいれば、寂しくはない。
なのに、今の暮らしとは対極であるその世界を考えると、ファイは酷く恐ろしくなった。
「なに考えてんだよ」
雨音に耳を澄ましながらぼんやりとしていたファイは、黒鋼の唇が離れていたことにも気がつかなかった。
問いかけと一緒にぎゅっと鼻を摘まれて、おかしな悲鳴を上げてしまった。
「うにゃー! いたいよーっ」
「余裕かこら、てめぇ」
「違うってー」
声を上げて笑いながら、その首に両腕を回して硬い黒髪にキスをした。
人間になってから嗅覚は弱くなったけれど、彼の匂いはこれから先もずっと変わらず大好きだと思う。
本当は、耳も尻尾もない状態でする『セックス』は、まだちょっとだけ慣れない。
なぜなら、感覚を逃がすことが出来ないから。感情の機微を表すためのそれらが消えて、全てがこの身体の中にグルグルと留まる。
何もかもが剥きだしになるような気がして、不安になるのだ。
それでも一人じゃないと感じられるのは、大きくて優しい、大好きな人が抱きしめてくれるからだった。だからなにも心配せずに、身を委ねることができた。
猫の国にはたくさんの猫がいた。ユゥイがいた。
今、ファイが生きると決めたこの世界には、まだ黒鋼しかない。
それでも多くの仲間が傍にいても得られなかった幸せが、ファイの手の中にある。
でも多分、それだけじゃダメなのだとファイは思い始めている。
+++
「お、やってるな」
春休みが終わって、黒鋼は昼間の短期のバイトを辞めた。
学校へ行く支度を終えて洗面所から戻ってきた黒鋼が、テーブルに向って指先を震わせるファイの手元を覗きこんでくる。
「う、う、うん、ちょっと、話、かけ、ない、で」
ファイの右手には箸が形よく握られていて、テーブルの上には二枚の皿が並べられていた。
片方に豆が幾つも乗せられていて、その一つ一つを摘まんでは隣の皿に移すことで、箸の使い方を練習をしていたのだ。
今、震える二本の箸の先には豆がしっかりと摘ままれていて、ファイも黒鋼もその一瞬に息を飲んだ。
コロン
「お!」
「出来たー!」
最後の一つが音を立てて皿の上に乗った。
「3分! 3分で10個だよ黒たん! 昨日は5分だったー!」
ファイは万歳をする。黒鋼の大きな手が、金髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「たいしたもんだ」
「えへへー」
褒められると嬉しいけど恥ずかしくて、ファイは頬を少し桜色に染めてはにかんだ。
今、ファイは様々なことを勉強中だった。
日常生活や人間社会へ出る上でのルールは勿論、基本的な一般教養も身に付けたほうがいいだろう、ということになったのだ。
ファイはどちらかと言えば漢字と睨めっこをするよりも、数字を追いかける方が好きだった。あと、化学式というものを覚えるのが楽しい。
時々勉強を見に来てくれるユゥイは「ファイは理数系だね」と言って、嬉しそうに笑っていた。
そのうちあの怪しげな魔法の研究を手伝わせる気満々らしい。
「今日の夜ご飯は何がいいー?」
出かけようとする黒鋼をよたよたと歩いて玄関先まで送りながら、ファイは小首を傾げながら聞いた。
すると彼は靴をはきながら苦笑する。
「玉子焼きだろ?」
「うん!」
「砂糖は入れるなよ」
「はぁい!」
ファイは最近、少しずつ料理の勉強もしている。
目玉焼きとスクランブルエッグと厚焼き玉子をマスターしたため、ここのところ食事といえば、もっぱら玉子料理だった。
現段階ではどうせレパートリーは少ないくせに、それでも晩のおかずを聞いてくるファイがツボにハマって仕方ないらしい黒鋼は、無表情ではあるが上機嫌でファイに手を伸ばす。
項に温もりが触れて、引き寄せられるまでもなくファイは彼の肩に手をついて、目を閉じた。
いってらっしゃいのキスをしたら、今度は玄関から出ていく黒鋼を追うようにして、窓辺に寄って外を覗く。
階段を下りて歩道に出た黒鋼がこちらを見上げて、少しだけ口元を綻ばせながら手を上げる瞬間が好きだった。
ファイはそのまま、彼の背中が見えなくなってもずっと外の景色を眺めていた。
+++
一晩中静かに降り続けていた雨は止み、澄んだ青空がどこまでも広がっていた。
緑の少ない、大きな家やコンクリートの建物が目立つ景色。電柱は電線で繋がれて、小鳥たちは木の枝ではなく、その太い線の上に並んで羽を休めている。人の嗅覚でも車の破棄ガスは嫌なもので、騒音もまた同じだった。
広すぎる世界は、決して美しいものばかりではなかった。
ファイは、汚いものも恐ろしいことも残酷なことも、辛いことも苦しいことも、もっとたくさんのことを知ろうと思った。
それと同じくらい、楽しいことも嬉しいことも、もっともっと知りたい。黒鋼の傍で。
多分、幸せなだけではダメなのだと、ファイは思う。
一緒に生きていくことを選んでくれた、たった一人の人を幸せに出来るのも、自分だけのはずだから。
頼ったり守られたりするだけではなく、いつか黒鋼にも頼ってもらえるような、そんな強い自分になれたらいい。
まだまだ出来ないことや、知らないことの方が多い未熟者ではあるけれど、きっとこれからもっとたくさんのことを覚えて、たくさんの人に出会って、そこからまた世界が広がっていくのだと思う。
そんな広すぎる世界でファイは黒鋼を、そして黒鋼はファイを選んでくれた。
本当ならお互いの存在を知ることすらなかったはずのふたりには、0を100に変えるだけの力が、きっとあるから。
(あ、ボス猫だ)
ふと見れば、窓のすぐ下の塀の上を灰色のボス猫が優雅に歩いていた。
猫にはタイムスケジュールがあるらしいので、ファイは声をかけたい気持ちをぐっと堪えた。
けれどボス猫は、足を止めてファイのいる窓を見上げた。
「なーご」
彼は野太い声で鳴いた。
愚か者の化け猫と罵られているのか、それとも食べ物を寄こせとでも言っているのか。
いずれにしろ、彼の言葉はもうファイには届かない。
あの白く尖った耳を失ったときから、不思議と猫の言葉が理解できなくなってしまった。
ボス猫はただファイをじっと見つめて、それからすっと目を細めると、もう一度だけ太い声を上げる。
まぁ頑張れよ、なんて言ってくれていたら嬉しいな、なんて思う。
実際のところはさっぱり分からないけれど、それでもファイは「うん!」と強く頷いた。
そう、今日も勉強。明日も勉強。黒鋼が帰ってきたら塩と砂糖を間違えないように、分厚い玉子焼きを焼く。今日は絶対に失敗しない。
覚えること、練習することがたくさんある。前のようにテレビを見たり、散歩をしたり、昼寝をするだけの生活とはお別れしたのだ。
ファイは今、短い時の中を懸命に生きている。
今日一日だけでも、びっしりとスケジュールが詰まっているのだから。
「だからそんなに見つめられても、オレには遊んでる暇がないの」
何もない小さな世界で、退屈を持てあましていた白猫に。
暗くて冷たい雨の中、ゴミ箱の下で震えていた白猫に。
恋を知って、切なさを知って、永遠を手放した白猫に。
「バイバイ、にゃんこ」
少し寂しい気もしたけれど、ファイは去っていくボス猫に笑顔で小さく手を振った。
終わり
←戻る ・ 次へ→
案の定、降りだした雨は夜になる頃にも止まずに、優しく降り続けていた。
どうせ朝にはいつだって同じ布団の中で目を覚ますけれど、それでも律儀に敷かれた二組の布団をぴったりとくっつけて、その境目で向かい合った二人はゆったりとした口付けを交わし合っていた。
シャツのボタンを一つ一つ外されていくのを感じながら、ファイは窓ガラスを緩く叩いている雨音に耳を傾ける。
(懐かしい……)
あの日、初めてこの世界に来た日。もし雨が降らなかったら。
もし迷子にならずに、故郷への帰り道を探しあてることができていたら。
今こうしていることは決してなかった。ましてや人間になりたいなんて、どう引っくり返ろうが考えもしなかっただろう。
ただ長閑で平和なだけの世界で、何の刺激もないまま、退屈を持て余しながら今も猫として生きていたはずだ。
それはそれでとても幸せなことで、退屈ではあってもユゥイや仲間たちがいれば、寂しくはない。
なのに、今の暮らしとは対極であるその世界を考えると、ファイは酷く恐ろしくなった。
「なに考えてんだよ」
雨音に耳を澄ましながらぼんやりとしていたファイは、黒鋼の唇が離れていたことにも気がつかなかった。
問いかけと一緒にぎゅっと鼻を摘まれて、おかしな悲鳴を上げてしまった。
「うにゃー! いたいよーっ」
「余裕かこら、てめぇ」
「違うってー」
声を上げて笑いながら、その首に両腕を回して硬い黒髪にキスをした。
人間になってから嗅覚は弱くなったけれど、彼の匂いはこれから先もずっと変わらず大好きだと思う。
本当は、耳も尻尾もない状態でする『セックス』は、まだちょっとだけ慣れない。
なぜなら、感覚を逃がすことが出来ないから。感情の機微を表すためのそれらが消えて、全てがこの身体の中にグルグルと留まる。
何もかもが剥きだしになるような気がして、不安になるのだ。
それでも一人じゃないと感じられるのは、大きくて優しい、大好きな人が抱きしめてくれるからだった。だからなにも心配せずに、身を委ねることができた。
猫の国にはたくさんの猫がいた。ユゥイがいた。
今、ファイが生きると決めたこの世界には、まだ黒鋼しかない。
それでも多くの仲間が傍にいても得られなかった幸せが、ファイの手の中にある。
でも多分、それだけじゃダメなのだとファイは思い始めている。
+++
「お、やってるな」
春休みが終わって、黒鋼は昼間の短期のバイトを辞めた。
学校へ行く支度を終えて洗面所から戻ってきた黒鋼が、テーブルに向って指先を震わせるファイの手元を覗きこんでくる。
「う、う、うん、ちょっと、話、かけ、ない、で」
ファイの右手には箸が形よく握られていて、テーブルの上には二枚の皿が並べられていた。
片方に豆が幾つも乗せられていて、その一つ一つを摘まんでは隣の皿に移すことで、箸の使い方を練習をしていたのだ。
今、震える二本の箸の先には豆がしっかりと摘ままれていて、ファイも黒鋼もその一瞬に息を飲んだ。
コロン
「お!」
「出来たー!」
最後の一つが音を立てて皿の上に乗った。
「3分! 3分で10個だよ黒たん! 昨日は5分だったー!」
ファイは万歳をする。黒鋼の大きな手が、金髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「たいしたもんだ」
「えへへー」
褒められると嬉しいけど恥ずかしくて、ファイは頬を少し桜色に染めてはにかんだ。
今、ファイは様々なことを勉強中だった。
日常生活や人間社会へ出る上でのルールは勿論、基本的な一般教養も身に付けたほうがいいだろう、ということになったのだ。
ファイはどちらかと言えば漢字と睨めっこをするよりも、数字を追いかける方が好きだった。あと、化学式というものを覚えるのが楽しい。
時々勉強を見に来てくれるユゥイは「ファイは理数系だね」と言って、嬉しそうに笑っていた。
そのうちあの怪しげな魔法の研究を手伝わせる気満々らしい。
「今日の夜ご飯は何がいいー?」
出かけようとする黒鋼をよたよたと歩いて玄関先まで送りながら、ファイは小首を傾げながら聞いた。
すると彼は靴をはきながら苦笑する。
「玉子焼きだろ?」
「うん!」
「砂糖は入れるなよ」
「はぁい!」
ファイは最近、少しずつ料理の勉強もしている。
目玉焼きとスクランブルエッグと厚焼き玉子をマスターしたため、ここのところ食事といえば、もっぱら玉子料理だった。
現段階ではどうせレパートリーは少ないくせに、それでも晩のおかずを聞いてくるファイがツボにハマって仕方ないらしい黒鋼は、無表情ではあるが上機嫌でファイに手を伸ばす。
項に温もりが触れて、引き寄せられるまでもなくファイは彼の肩に手をついて、目を閉じた。
いってらっしゃいのキスをしたら、今度は玄関から出ていく黒鋼を追うようにして、窓辺に寄って外を覗く。
階段を下りて歩道に出た黒鋼がこちらを見上げて、少しだけ口元を綻ばせながら手を上げる瞬間が好きだった。
ファイはそのまま、彼の背中が見えなくなってもずっと外の景色を眺めていた。
+++
一晩中静かに降り続けていた雨は止み、澄んだ青空がどこまでも広がっていた。
緑の少ない、大きな家やコンクリートの建物が目立つ景色。電柱は電線で繋がれて、小鳥たちは木の枝ではなく、その太い線の上に並んで羽を休めている。人の嗅覚でも車の破棄ガスは嫌なもので、騒音もまた同じだった。
広すぎる世界は、決して美しいものばかりではなかった。
ファイは、汚いものも恐ろしいことも残酷なことも、辛いことも苦しいことも、もっとたくさんのことを知ろうと思った。
それと同じくらい、楽しいことも嬉しいことも、もっともっと知りたい。黒鋼の傍で。
多分、幸せなだけではダメなのだと、ファイは思う。
一緒に生きていくことを選んでくれた、たった一人の人を幸せに出来るのも、自分だけのはずだから。
頼ったり守られたりするだけではなく、いつか黒鋼にも頼ってもらえるような、そんな強い自分になれたらいい。
まだまだ出来ないことや、知らないことの方が多い未熟者ではあるけれど、きっとこれからもっとたくさんのことを覚えて、たくさんの人に出会って、そこからまた世界が広がっていくのだと思う。
そんな広すぎる世界でファイは黒鋼を、そして黒鋼はファイを選んでくれた。
本当ならお互いの存在を知ることすらなかったはずのふたりには、0を100に変えるだけの力が、きっとあるから。
(あ、ボス猫だ)
ふと見れば、窓のすぐ下の塀の上を灰色のボス猫が優雅に歩いていた。
猫にはタイムスケジュールがあるらしいので、ファイは声をかけたい気持ちをぐっと堪えた。
けれどボス猫は、足を止めてファイのいる窓を見上げた。
「なーご」
彼は野太い声で鳴いた。
愚か者の化け猫と罵られているのか、それとも食べ物を寄こせとでも言っているのか。
いずれにしろ、彼の言葉はもうファイには届かない。
あの白く尖った耳を失ったときから、不思議と猫の言葉が理解できなくなってしまった。
ボス猫はただファイをじっと見つめて、それからすっと目を細めると、もう一度だけ太い声を上げる。
まぁ頑張れよ、なんて言ってくれていたら嬉しいな、なんて思う。
実際のところはさっぱり分からないけれど、それでもファイは「うん!」と強く頷いた。
そう、今日も勉強。明日も勉強。黒鋼が帰ってきたら塩と砂糖を間違えないように、分厚い玉子焼きを焼く。今日は絶対に失敗しない。
覚えること、練習することがたくさんある。前のようにテレビを見たり、散歩をしたり、昼寝をするだけの生活とはお別れしたのだ。
ファイは今、短い時の中を懸命に生きている。
今日一日だけでも、びっしりとスケジュールが詰まっているのだから。
「だからそんなに見つめられても、オレには遊んでる暇がないの」
何もない小さな世界で、退屈を持てあましていた白猫に。
暗くて冷たい雨の中、ゴミ箱の下で震えていた白猫に。
恋を知って、切なさを知って、永遠を手放した白猫に。
「バイバイ、にゃんこ」
少し寂しい気もしたけれど、ファイは去っていくボス猫に笑顔で小さく手を振った。
終わり
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元白猫、アレをかぶるの巻
「は? 二度と会えないなんて一言も言ってないでしょ。だいたいファイが人間として暮らして行く以上、これから色々とやらなきゃいけないことあるじゃない。君らじゃ手に負えないよ? ほら、なんやかんやと偽造と捏造しないきゃいけないでしょ、アレやらコレやら諸々さ。とりあえずどこの国の人ってことにしよっか? イタリアでいい? いいよね? ファイってイタリアだもんね。あー、忙しい忙しい」
あれから、ユゥイはそんなようなことを言いながら帰って行った。
ファイにはよくわからないことばかり(特にイタリアらへん)だったが、どことなく犯罪の香りがしないでもないことも、とりあえずユゥイに任せておけばいいのだろうと、深く考察することは止めておいた。
黒鋼もまた同じく、彼に至ってはその高いツッコミスキルを完全に放棄していた。
+++
そんなこんなで、ファイは人間としての生活をスタートさせた。
尻尾を失ったことでまさかこのような弊害が生じるなど思いもしなかったが、黒鋼に「ハイハイしろ、ハイハイ」と赤ちゃん歩きを教えられるところから始まり、ほんの数日で何かに掴まりながらの歩行はどうにかマスターした。
人間になってみて、変わったことは他にもある。
一つは、いよいよ本格的に鼻が利かなくなったこと。
もちろん臭覚が完全に失われたわけではないが、それまではほんの微かでも感じることが出来ていた多くのものが、ほとんど分からなくなってしまった。
今もまだ続いているメス猫の発情の香りも、もう感じない。
そしてもう一つは、耳だ。
臭覚同様、聴力が失われたわけではないものの、基本的に狩りをするのに小さな物音でも聞き取れるほど発達していた猫の耳と人の耳では、雲泥の差があった。
ユゥイに零せば「すぐに慣れるよ」と笑われた。
当たり前のものだったことを全て失ってみて、ファイは初めて「生まれ変わった」という意味を理解できたような気がした。
+++
この数日はそんな風に急激な変化に慣れていくことに夢中で、一日があっという間に過ぎていた。
黒鋼も少しばかり忙しい日々を過ごしていたが、今日は丸一日フリーな日を利用して、改めて買い物へ行こうという話になった。
お目当てのものはファイの服を含めた、諸々の日用品だった。
ついでに歩く練習を兼ねて、まるで介護される老人のように、すぐ傍で黒鋼に見守られながらヨロヨロと歩いた。
転びそうになるとすかさず首根っこを掴まれるか、ユゥイが持ってきた木製の杖に助けられた。
そうして二人は様々な店を巡り、帰路についていた。
「ご、ごめんね黒たん……怒ってる……?」
遠慮がちに、隣をむっつりとした表情で歩く黒鋼の横顔を見やる。
彼の手には大きな荷物が山ほど抱えられており、杖をつきながらまだおぼつかない足取りのファイは、何も持たせてもらえない。
だがそれ以上に、ファイはとある店内で、黒鋼にとんだ迷惑をかけてしまったのだ。
「別にいい。あらかじめ教えとかなかった俺に責任があるからな」
「で、でも……」
思い出すだけで消えてしまいたくなる先刻の出来事を思い出して、ファイはしゅんと項垂れる。
(知らなかったとはいっても……流石にあれは……)
一体なにが起こったのかというと。
それは百貨店の下着コーナーでのことだった。
ついつい色々なものが珍しくて黒鋼からはぐれたファイは、気がつけば女性用の下着売り場に迷い込んでいた。
白やピンクや、様々な色の下着はフリフリだったり、リボンがついていたりとどれも可愛くて、そしてそれを『下着』であると理解していなかったファイは、予想を裏切らずやらかしてしまった。
ワゴン品の籠の中に山になっていたそれを何気なく手に取り、頭にかぶってしまったのだ……。
途端に女性の悲鳴が上がったのを覚えている。
ファイにしてみれば変わった帽子だなぁとか、これじゃあ耳は隠せないだろうなぁとか、そんな興味から考えなしに取った行動だった。
ファイがいなくなったことを察知した黒鋼がすっ飛んで来たが、時すでに遅しである。
完全に変態を見る眼差しの中、頭のそれを毟り取られたファイは脇に抱えられてその場を一目散に退散することとなった。
何がいけなかったのかを大憤慨する黒鋼から道々聞いて、正直死にたくなった……。
「ほんとにごめんね黒たん……パンツかぶってごめん……」
下着という存在はもちろん知っていたが、女性用と男性用で全く異なるなんて、思いもしなかった。
ファイの知る下着といえば黒鋼が着用するものばかりで、黒や紺や灰色といった味気ない色とデザインのものばかりだったからだ。
項垂れたままのファイをチラリと横目で見た黒鋼が、小さな溜息を零した。
「だからもういい。ひとつ利口になったな」
「うん……」
幼い動作で首を縦に振ったファイを見て、少しだけ口元を綻ばせた黒鋼は、そのあとふと空を見上げた。
「降りそうだな。とっとと帰るぞ」
「あ、ホントだー」
少しよろけながらそれでも歩く速さを上げれば、黒鋼もその歩調に合わせてくれる。
そんな些細なことが嬉しくて、しょぼくれていた胸に温かなものが蘇った。
今日はたくさんお金を使わせてしまっただけでなく、恥までかかせてしまったし、やっぱり申し訳ない気がしたけれど、今はまだ全てにおいて頼れるのは黒鋼しかいない。
もっともっと色々なことを覚えて、人間らしくなれたら、いつか自分もバイトというものがしてみたいと思った。頑張れば、ガッコウへだって行けるようになるかもしれない。
(そうだ。そしたら黒たんの好きなものを、今度はオレが買ってあげるんだ)
なんだか途端にやる気が増してきた。
まずは今よりもっと上手に早く歩けるようになろうと、ファイは出来ることから目標を掲げることにした。
←戻る ・ 次へ→
「は? 二度と会えないなんて一言も言ってないでしょ。だいたいファイが人間として暮らして行く以上、これから色々とやらなきゃいけないことあるじゃない。君らじゃ手に負えないよ? ほら、なんやかんやと偽造と捏造しないきゃいけないでしょ、アレやらコレやら諸々さ。とりあえずどこの国の人ってことにしよっか? イタリアでいい? いいよね? ファイってイタリアだもんね。あー、忙しい忙しい」
あれから、ユゥイはそんなようなことを言いながら帰って行った。
ファイにはよくわからないことばかり(特にイタリアらへん)だったが、どことなく犯罪の香りがしないでもないことも、とりあえずユゥイに任せておけばいいのだろうと、深く考察することは止めておいた。
黒鋼もまた同じく、彼に至ってはその高いツッコミスキルを完全に放棄していた。
+++
そんなこんなで、ファイは人間としての生活をスタートさせた。
尻尾を失ったことでまさかこのような弊害が生じるなど思いもしなかったが、黒鋼に「ハイハイしろ、ハイハイ」と赤ちゃん歩きを教えられるところから始まり、ほんの数日で何かに掴まりながらの歩行はどうにかマスターした。
人間になってみて、変わったことは他にもある。
一つは、いよいよ本格的に鼻が利かなくなったこと。
もちろん臭覚が完全に失われたわけではないが、それまではほんの微かでも感じることが出来ていた多くのものが、ほとんど分からなくなってしまった。
今もまだ続いているメス猫の発情の香りも、もう感じない。
そしてもう一つは、耳だ。
臭覚同様、聴力が失われたわけではないものの、基本的に狩りをするのに小さな物音でも聞き取れるほど発達していた猫の耳と人の耳では、雲泥の差があった。
ユゥイに零せば「すぐに慣れるよ」と笑われた。
当たり前のものだったことを全て失ってみて、ファイは初めて「生まれ変わった」という意味を理解できたような気がした。
+++
この数日はそんな風に急激な変化に慣れていくことに夢中で、一日があっという間に過ぎていた。
黒鋼も少しばかり忙しい日々を過ごしていたが、今日は丸一日フリーな日を利用して、改めて買い物へ行こうという話になった。
お目当てのものはファイの服を含めた、諸々の日用品だった。
ついでに歩く練習を兼ねて、まるで介護される老人のように、すぐ傍で黒鋼に見守られながらヨロヨロと歩いた。
転びそうになるとすかさず首根っこを掴まれるか、ユゥイが持ってきた木製の杖に助けられた。
そうして二人は様々な店を巡り、帰路についていた。
「ご、ごめんね黒たん……怒ってる……?」
遠慮がちに、隣をむっつりとした表情で歩く黒鋼の横顔を見やる。
彼の手には大きな荷物が山ほど抱えられており、杖をつきながらまだおぼつかない足取りのファイは、何も持たせてもらえない。
だがそれ以上に、ファイはとある店内で、黒鋼にとんだ迷惑をかけてしまったのだ。
「別にいい。あらかじめ教えとかなかった俺に責任があるからな」
「で、でも……」
思い出すだけで消えてしまいたくなる先刻の出来事を思い出して、ファイはしゅんと項垂れる。
(知らなかったとはいっても……流石にあれは……)
一体なにが起こったのかというと。
それは百貨店の下着コーナーでのことだった。
ついつい色々なものが珍しくて黒鋼からはぐれたファイは、気がつけば女性用の下着売り場に迷い込んでいた。
白やピンクや、様々な色の下着はフリフリだったり、リボンがついていたりとどれも可愛くて、そしてそれを『下着』であると理解していなかったファイは、予想を裏切らずやらかしてしまった。
ワゴン品の籠の中に山になっていたそれを何気なく手に取り、頭にかぶってしまったのだ……。
途端に女性の悲鳴が上がったのを覚えている。
ファイにしてみれば変わった帽子だなぁとか、これじゃあ耳は隠せないだろうなぁとか、そんな興味から考えなしに取った行動だった。
ファイがいなくなったことを察知した黒鋼がすっ飛んで来たが、時すでに遅しである。
完全に変態を見る眼差しの中、頭のそれを毟り取られたファイは脇に抱えられてその場を一目散に退散することとなった。
何がいけなかったのかを大憤慨する黒鋼から道々聞いて、正直死にたくなった……。
「ほんとにごめんね黒たん……パンツかぶってごめん……」
下着という存在はもちろん知っていたが、女性用と男性用で全く異なるなんて、思いもしなかった。
ファイの知る下着といえば黒鋼が着用するものばかりで、黒や紺や灰色といった味気ない色とデザインのものばかりだったからだ。
項垂れたままのファイをチラリと横目で見た黒鋼が、小さな溜息を零した。
「だからもういい。ひとつ利口になったな」
「うん……」
幼い動作で首を縦に振ったファイを見て、少しだけ口元を綻ばせた黒鋼は、そのあとふと空を見上げた。
「降りそうだな。とっとと帰るぞ」
「あ、ホントだー」
少しよろけながらそれでも歩く速さを上げれば、黒鋼もその歩調に合わせてくれる。
そんな些細なことが嬉しくて、しょぼくれていた胸に温かなものが蘇った。
今日はたくさんお金を使わせてしまっただけでなく、恥までかかせてしまったし、やっぱり申し訳ない気がしたけれど、今はまだ全てにおいて頼れるのは黒鋼しかいない。
もっともっと色々なことを覚えて、人間らしくなれたら、いつか自分もバイトというものがしてみたいと思った。頑張れば、ガッコウへだって行けるようになるかもしれない。
(そうだ。そしたら黒たんの好きなものを、今度はオレが買ってあげるんだ)
なんだか途端にやる気が増してきた。
まずは今よりもっと上手に早く歩けるようになろうと、ファイは出来ることから目標を掲げることにした。
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黒鋼、ツッコミ厳禁の巻
「お、おい……その不吉な物言いはなんだ……」
ファイの両目を覗きこむユゥイの目が据わっている。
背筋に薄ら寒いものが駆け抜けるのは気のせいだろうか……。
「言った通り、そのまんまだよ」
「目ん玉えぐってぐちゃぐちゃ食うとか、そんな鬼展開じゃねぇだろうな……」
ファイの肩がビクッと震えた。
「な、なんかオレも……そんなようなビジョンが一瞬見えたような……」
「二人とも何を言っているの?」
ユゥイが呆れたような顔をしつつ、ようやくファイの両頬を解放した。
「なんでそんなN●Kじゃとてもじゃないけど放送できないようなグロ展開になるのさ」
「いや、なんとなくな……」
「オレも……なんとなく……」
「あのね、言葉のあやだよ。ファイの魔力の源はこの両目の青なの。これさえ取り除けば、ファイのMPカラカラだから」
「あれ? HPはー? オレ吸血鬼じゃないよー?」
「まぁいいじゃない、そんな細かいことは」
「おまえらRPGみてぇな言い方すんなよ……」
事実なんだから仕方ないでしょ、とユゥイは吐き捨てるように言った。
「あとはそこにボクがちょちょいっと変身魔法でもかけちゃえば、どうにでもなるんじゃない?」
「てめぇはまたアバウトなことを……」
「だからさー、難しいことばっか考えてるとハゲるよ。……むしろハゲろ(ぼそっ)」
「聞こえてんぞてめぇ」
「あーぁ……んじゃやっちゃおっかー」
「堂々と無視か!!」
黒鋼に対してドスルーを決め込んだらしいユゥイが、ダルそうに首の後ろを掻きながら立ち上がった。
そして指先でなにやら怪しげな呪文のようなものを描きだす。
太陽のような眩い光に辺りが包まれたのは、一瞬のことだった。
「もう終わりか……?」
「そ、終わり」
黒鋼はチカチカと眩んでいる目でファイとユゥイ、両方を幾度も見やる。
ぽかんとした顔で座り込んだままのファイの頭上からは、耳が消えている。もちろん、尻尾も。
残されていたはずの猫の特徴が二つとも消えて、彼はどこからどう見ても人間の姿へと変身を遂げていた。
黒鋼はファイへ腕を伸ばすと両頬を掴むようにして自分へ向けた。派手に間接の鳴る音が聞こえたような気がしたが、まぁいい……。
「いだだだっ! コキャって鳴ったー!!」
「お、おまえ、しっかり目ぇ開けろ……!」
ぎゅうと閉じた目元に涙を浮かべていたファイが、ゆっくりと瞼を開ける。
美しい青が消え、代わりに黄金の瞳が黒鋼を映す。
「こいつは一体……どんなメカニズムだ……?」
「だから突っ込むなって何度言わせるんだか」
「そいつはなんだ?」
黒鋼は頭の中で収拾がつかないことを整理するのを諦め、とりあえずユゥイの手の上に浮かんでいる、青い宝石のような物体を指さした。
人間の頭一つ分を優に超えるほどの大きさの石は、ほんのりと淡い光を放っている。その色はファイの元々の瞳の青を思わせた。
「魔力がぎゅぎゅっと凝縮された結晶だよ。満タン状態が二つ分だからね。見事なもんだね」
「これがオレの中にあったんだねー。感慨深いなぁ」
「あ、触らない方がいいよ。魔力を持たない普通の人間が下手に触れば、一体どうなるか……」
「ど、どうなるの……?」
「軽く星を巻きこむレベルの爆発が……」
「!」
「起こったら困るから気をつけよう」
「はぁい」
「……」
もういちいち突っ込むのは止めよう、と黒鋼は思った。
ユゥイがパチンと指を鳴らすと、青い結晶はどこかへ姿を消してしまう。そして彼は両手を腰に当てると「ふぅ」と息をついた。
「ファイ、どう? 身体、どこかおかしいとこない?」
聞かれて、ファイは自分の頭を両手でポンポンと触ると「ない」と呟く。さらに後ろへ手をやって臀部の辺りを探して、また「ない」と言った。
「す、凄い! オレ本物の人間みたいだー!」
そう言いながら勢いよく立ちあがる。だが。
「あいた!!」
すぐにベタンと派手に尻餅をついてしまった。
「あ、あれー?」
「あはは。尻尾がなくてもバランス取れるように、訓練しないとねぇ」
「変な感じー……」
なるほど、細長いだけに見えた尻尾でも、ファイが身体のバランスを取る上では大事な部分だったらしい。
四足歩行から突如として二足歩行に変わっても彼がなんなく動けていたのは、あの尻尾があってこそだったのだ。
不思議なものだが、どこからどう見ても大人の男がまず始めなければならないのは、立って歩くことらしい。
手始めに『はいはい』でもさせればいいのか……と少し悩むところである。
「でもオレ……ホントに人間になれちゃったんだ……」
それでも感動した様子のファイは、瞳にじんわりと涙を浮かべていた。
ちょっと呆れたような、どこか苦しそうな、それでも笑顔を見せるユゥイがファイを優しく見つめていた。
+++
別れのときがやってきた。
なんとなく窓辺に寄って壁に背を預けると腕を組み、黒鋼はしばし彼らを見守ることにした。
今の二人に口を出すのは、野暮なことのように思えたからだ。
「ありがとうユゥイ……ワガママ聞いてくれて……」
上手く立ち上がることができずに床に座り込んでいるファイは、泣きそうな目をしてユゥイを見上げて言った。
畳みに片膝をついたユゥイが、そんなファイをふわりと抱きしめる。
「ファイは新しく生まれ変わったんだよ。あの青を失った時点で、ボクとは違う時間軸を、すでに生きはじめてるんだ」
ユゥイの背中を掻き抱くようにして腕を回したファイの瞳から、ついにポロリと涙が零れ落ちる。
宝石のような黄金から零れたそれがあまりにも切なくて、黒鋼はただ瞳を眇めた。
「ユゥイ……ごめんなさい……オレ……ユゥイを、一人ぼっちに……」
白い耳がなくなってしまった、金色の頭を労わるように撫でるユゥイの手はどこまでも優しい。
「ボクは一人じゃないよ。猫の国には、たくさんの可愛い子供たちがいるんだから」
少しだけ笑って、彼は懐かしそうに瞳を細めた。
「ファイはいつものんびり屋で、おっとりしてて、甘えん坊で……ボクがいなくちゃ、なにも出来ない子だったのにね」
「あのねユゥイ……オレは、ユゥイのこと……」
「ファイ、幸せになりなさい」
「……ッ」
泣き濡れて少し赤くなっている目元を、そっと華奢な両手が包み込む。
「いつだって君を想ってる。忘れないで」
そっと、黒鋼は目を逸らした。
双子のような彼らが交わす、秘め事のような口付けから。
次の瞬間、部屋の中に一陣の強い風が巻き起こり、大きな青い光に包まれた。
視線を戻せば、床に手をついて肩を震わせるファイが一人、残されている。小さく息をつき、壁から背を離すと静かに歩み寄り、膝をつく。
かける言葉はなく、ただ肩を抱き寄せれば、耳も尾もなくした一人の青年が、しがみつくようにして胸に顔を埋めてきた。
「オレ……っ、自分のことばっかりだ……!」
黒鋼には想像も及ばないほどの年月を、彼らは共に歩んできた。
血の繋がりはなくとも、そこには計り知れない絆があって、本当ならこれから先もずっと、唯一無二の存在として長きを歩むはずだったふたり。
気の遠くなるほどの生を、消えて行った彼は一人で歩むことになるのだろう。
けれどファイや黒鋼が選んだように、全てを許した時点で、ユゥイもまた自らその道を選んだということになる。
きつく抱き返しながら、黒鋼は小さく首を左右に振った。
「それでも選らんだ道なら、後悔はさせねぇ。おまえにも、あいつにも……」
少しの間、幼子のように泣いていたファイは、鼻を啜りながら小さな声で「うん」と返事をした。
泣きじゃくってしまったことが照れ臭かったのか、顔を上げた彼はようやく情けない笑顔を浮かべる。黒鋼もまた小さく笑って、柔らかく癖のある金色の髪を梳くようにして撫でた。
猫のように目を細めたファイの瞳が完全に閉じられて、ふたりは互いに自然と顔を近づけ合った。
唇が重なる……かと思ったその瞬間。
どろん、と間抜けな音がした。
「そうそう忘れてたー」
ユゥイが現れた……。
「これこれ、渡すの忘れちゃってたから届けに来たんだけど……ってちょっと……人がいなくなった途端なにイチャコラしはじめてるの」
「お、おま……」
白い携帯電話を手にしたユゥイが、物凄く嫌そうな顔をしてこちらを睨んでいる。
あの感動の別れのシーンは一体なんだったのだろうか……。
まさに開いた口が塞がらない状態の黒鋼を無視し、ユゥイは二人の間にズンズンと割り込むと、ファイに白くのっぺりとした板のようなものを手渡す。
流石のファイも少し拍子抜けしたような顔をしつつ、大人しくそれを受け取ると首を傾げた。
「これなぁに?」
「スマホだよ。ガラケーもいいけど、やっぱり時代はこれだよね。あ、防水加工もばっちりだから、お風呂に入りながらワンセグ視聴も楽しめちゃう優れモノ」
「わんせぐ?」
「テレビだよテレビ。ファイ好きでしょ?」
途端、ファイはぱっと目を輝かせた。
「お風呂でテレビ見れちゃうのー!?」
「ふふふ」
ワンセグなんて今どき珍しくもなんともない。一体いつの時代の感覚なのか。
だが満足げなユゥイの笑顔に、控えるまでもなく突っ込む言葉さえ見つからない黒鋼は、激しい頭痛に襲われながら、がっくりと項垂れた。
←戻る ・ 次へ→
「お、おい……その不吉な物言いはなんだ……」
ファイの両目を覗きこむユゥイの目が据わっている。
背筋に薄ら寒いものが駆け抜けるのは気のせいだろうか……。
「言った通り、そのまんまだよ」
「目ん玉えぐってぐちゃぐちゃ食うとか、そんな鬼展開じゃねぇだろうな……」
ファイの肩がビクッと震えた。
「な、なんかオレも……そんなようなビジョンが一瞬見えたような……」
「二人とも何を言っているの?」
ユゥイが呆れたような顔をしつつ、ようやくファイの両頬を解放した。
「なんでそんなN●Kじゃとてもじゃないけど放送できないようなグロ展開になるのさ」
「いや、なんとなくな……」
「オレも……なんとなく……」
「あのね、言葉のあやだよ。ファイの魔力の源はこの両目の青なの。これさえ取り除けば、ファイのMPカラカラだから」
「あれ? HPはー? オレ吸血鬼じゃないよー?」
「まぁいいじゃない、そんな細かいことは」
「おまえらRPGみてぇな言い方すんなよ……」
事実なんだから仕方ないでしょ、とユゥイは吐き捨てるように言った。
「あとはそこにボクがちょちょいっと変身魔法でもかけちゃえば、どうにでもなるんじゃない?」
「てめぇはまたアバウトなことを……」
「だからさー、難しいことばっか考えてるとハゲるよ。……むしろハゲろ(ぼそっ)」
「聞こえてんぞてめぇ」
「あーぁ……んじゃやっちゃおっかー」
「堂々と無視か!!」
黒鋼に対してドスルーを決め込んだらしいユゥイが、ダルそうに首の後ろを掻きながら立ち上がった。
そして指先でなにやら怪しげな呪文のようなものを描きだす。
太陽のような眩い光に辺りが包まれたのは、一瞬のことだった。
「もう終わりか……?」
「そ、終わり」
黒鋼はチカチカと眩んでいる目でファイとユゥイ、両方を幾度も見やる。
ぽかんとした顔で座り込んだままのファイの頭上からは、耳が消えている。もちろん、尻尾も。
残されていたはずの猫の特徴が二つとも消えて、彼はどこからどう見ても人間の姿へと変身を遂げていた。
黒鋼はファイへ腕を伸ばすと両頬を掴むようにして自分へ向けた。派手に間接の鳴る音が聞こえたような気がしたが、まぁいい……。
「いだだだっ! コキャって鳴ったー!!」
「お、おまえ、しっかり目ぇ開けろ……!」
ぎゅうと閉じた目元に涙を浮かべていたファイが、ゆっくりと瞼を開ける。
美しい青が消え、代わりに黄金の瞳が黒鋼を映す。
「こいつは一体……どんなメカニズムだ……?」
「だから突っ込むなって何度言わせるんだか」
「そいつはなんだ?」
黒鋼は頭の中で収拾がつかないことを整理するのを諦め、とりあえずユゥイの手の上に浮かんでいる、青い宝石のような物体を指さした。
人間の頭一つ分を優に超えるほどの大きさの石は、ほんのりと淡い光を放っている。その色はファイの元々の瞳の青を思わせた。
「魔力がぎゅぎゅっと凝縮された結晶だよ。満タン状態が二つ分だからね。見事なもんだね」
「これがオレの中にあったんだねー。感慨深いなぁ」
「あ、触らない方がいいよ。魔力を持たない普通の人間が下手に触れば、一体どうなるか……」
「ど、どうなるの……?」
「軽く星を巻きこむレベルの爆発が……」
「!」
「起こったら困るから気をつけよう」
「はぁい」
「……」
もういちいち突っ込むのは止めよう、と黒鋼は思った。
ユゥイがパチンと指を鳴らすと、青い結晶はどこかへ姿を消してしまう。そして彼は両手を腰に当てると「ふぅ」と息をついた。
「ファイ、どう? 身体、どこかおかしいとこない?」
聞かれて、ファイは自分の頭を両手でポンポンと触ると「ない」と呟く。さらに後ろへ手をやって臀部の辺りを探して、また「ない」と言った。
「す、凄い! オレ本物の人間みたいだー!」
そう言いながら勢いよく立ちあがる。だが。
「あいた!!」
すぐにベタンと派手に尻餅をついてしまった。
「あ、あれー?」
「あはは。尻尾がなくてもバランス取れるように、訓練しないとねぇ」
「変な感じー……」
なるほど、細長いだけに見えた尻尾でも、ファイが身体のバランスを取る上では大事な部分だったらしい。
四足歩行から突如として二足歩行に変わっても彼がなんなく動けていたのは、あの尻尾があってこそだったのだ。
不思議なものだが、どこからどう見ても大人の男がまず始めなければならないのは、立って歩くことらしい。
手始めに『はいはい』でもさせればいいのか……と少し悩むところである。
「でもオレ……ホントに人間になれちゃったんだ……」
それでも感動した様子のファイは、瞳にじんわりと涙を浮かべていた。
ちょっと呆れたような、どこか苦しそうな、それでも笑顔を見せるユゥイがファイを優しく見つめていた。
+++
別れのときがやってきた。
なんとなく窓辺に寄って壁に背を預けると腕を組み、黒鋼はしばし彼らを見守ることにした。
今の二人に口を出すのは、野暮なことのように思えたからだ。
「ありがとうユゥイ……ワガママ聞いてくれて……」
上手く立ち上がることができずに床に座り込んでいるファイは、泣きそうな目をしてユゥイを見上げて言った。
畳みに片膝をついたユゥイが、そんなファイをふわりと抱きしめる。
「ファイは新しく生まれ変わったんだよ。あの青を失った時点で、ボクとは違う時間軸を、すでに生きはじめてるんだ」
ユゥイの背中を掻き抱くようにして腕を回したファイの瞳から、ついにポロリと涙が零れ落ちる。
宝石のような黄金から零れたそれがあまりにも切なくて、黒鋼はただ瞳を眇めた。
「ユゥイ……ごめんなさい……オレ……ユゥイを、一人ぼっちに……」
白い耳がなくなってしまった、金色の頭を労わるように撫でるユゥイの手はどこまでも優しい。
「ボクは一人じゃないよ。猫の国には、たくさんの可愛い子供たちがいるんだから」
少しだけ笑って、彼は懐かしそうに瞳を細めた。
「ファイはいつものんびり屋で、おっとりしてて、甘えん坊で……ボクがいなくちゃ、なにも出来ない子だったのにね」
「あのねユゥイ……オレは、ユゥイのこと……」
「ファイ、幸せになりなさい」
「……ッ」
泣き濡れて少し赤くなっている目元を、そっと華奢な両手が包み込む。
「いつだって君を想ってる。忘れないで」
そっと、黒鋼は目を逸らした。
双子のような彼らが交わす、秘め事のような口付けから。
次の瞬間、部屋の中に一陣の強い風が巻き起こり、大きな青い光に包まれた。
視線を戻せば、床に手をついて肩を震わせるファイが一人、残されている。小さく息をつき、壁から背を離すと静かに歩み寄り、膝をつく。
かける言葉はなく、ただ肩を抱き寄せれば、耳も尾もなくした一人の青年が、しがみつくようにして胸に顔を埋めてきた。
「オレ……っ、自分のことばっかりだ……!」
黒鋼には想像も及ばないほどの年月を、彼らは共に歩んできた。
血の繋がりはなくとも、そこには計り知れない絆があって、本当ならこれから先もずっと、唯一無二の存在として長きを歩むはずだったふたり。
気の遠くなるほどの生を、消えて行った彼は一人で歩むことになるのだろう。
けれどファイや黒鋼が選んだように、全てを許した時点で、ユゥイもまた自らその道を選んだということになる。
きつく抱き返しながら、黒鋼は小さく首を左右に振った。
「それでも選らんだ道なら、後悔はさせねぇ。おまえにも、あいつにも……」
少しの間、幼子のように泣いていたファイは、鼻を啜りながら小さな声で「うん」と返事をした。
泣きじゃくってしまったことが照れ臭かったのか、顔を上げた彼はようやく情けない笑顔を浮かべる。黒鋼もまた小さく笑って、柔らかく癖のある金色の髪を梳くようにして撫でた。
猫のように目を細めたファイの瞳が完全に閉じられて、ふたりは互いに自然と顔を近づけ合った。
唇が重なる……かと思ったその瞬間。
どろん、と間抜けな音がした。
「そうそう忘れてたー」
ユゥイが現れた……。
「これこれ、渡すの忘れちゃってたから届けに来たんだけど……ってちょっと……人がいなくなった途端なにイチャコラしはじめてるの」
「お、おま……」
白い携帯電話を手にしたユゥイが、物凄く嫌そうな顔をしてこちらを睨んでいる。
あの感動の別れのシーンは一体なんだったのだろうか……。
まさに開いた口が塞がらない状態の黒鋼を無視し、ユゥイは二人の間にズンズンと割り込むと、ファイに白くのっぺりとした板のようなものを手渡す。
流石のファイも少し拍子抜けしたような顔をしつつ、大人しくそれを受け取ると首を傾げた。
「これなぁに?」
「スマホだよ。ガラケーもいいけど、やっぱり時代はこれだよね。あ、防水加工もばっちりだから、お風呂に入りながらワンセグ視聴も楽しめちゃう優れモノ」
「わんせぐ?」
「テレビだよテレビ。ファイ好きでしょ?」
途端、ファイはぱっと目を輝かせた。
「お風呂でテレビ見れちゃうのー!?」
「ふふふ」
ワンセグなんて今どき珍しくもなんともない。一体いつの時代の感覚なのか。
だが満足げなユゥイの笑顔に、控えるまでもなく突っ込む言葉さえ見つからない黒鋼は、激しい頭痛に襲われながら、がっくりと項垂れた。
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黒鋼、息子さんを僕にくださいの巻
そういえばファイは本来、住む世界が異なるのだと黒鋼は思った。
どうやら勝手に家を飛び出してきたらしいし、もし自分があの魔法使いの立場だったとしても「とっとと帰って来い」と言うに違いない。
ましてやそれが世間知らずのアホとあれば、心配で胃に穴が開きかねないだろう。
けれど彼は子供ではないのだし、自分の生き方は自分で決めればいい。
もしファイが本心から帰りたいと望んでいたのなら、止める権利はなかった。
しかし黒鋼は彼の気持ちを知っていたし、言葉よりも雄弁に感情を表わす便利なものが、ファイの頭や尻の辺りにはついているのだ。だからどちらかと言えば自信はあった。
それでも正直、直接「帰りたくない」という言葉を聞いたときは安堵した。
何も告げず、ましてやはっきりと意思も確かめないまま帰せば、確実に後悔するであろうことは目に見えていたから、結果的に恥じらいを捨てるに至ったわけである。
+++
それから数日後。
本当なら善は急げとすぐにでも動きたかった黒鋼だが、ファイに「少し時間をくれ」と言われた。
確かに彼としては故郷を捨てるほどの覚悟で臨むことなのだから、こちらばかりが急いても仕方がなかった。
なにしろちょっとお隣の町へお引っ越し……どころの騒ぎではないのだ。未だに信じがたいことだが、彼の故郷はこことは異なる次元にある。
この数日、ファイは気がつくと何か思い詰めたような顔をしていた。ここに留まることに迷いが生じたのかというと、そうではないようだが……。
とにかく話し合いは次に黒鋼が一日まるっと何もない日に、ということになり、そしてついに当日を迎えた。
「で? なにかな。いきなり呼びつけて」
不味いタイミングで呼んでしまったのではないか、と黒鋼は思った。
行儀悪くテーブルに足を組んで腰かけているユゥイは、毛先がちょっと焦げていた。白いはずの頬に煤までくっつけている。
「また失敗したの、ユゥイ……」
ファイがおずおずと問うと、彼は「まぁね……」と苦々しい表情で答えた。
一体なにを失敗したのか、その辺りへ突っ込むのは止める。
腕組みをしつつ顔を逸らすユゥイと向き合う形で畳の上に胡坐をかいて、黒鋼は同じく腕を組んでいた。ファイはその隣で苦手なはずの正座をしている。
例の怪しげな携帯電話で呼び出された先に黒鋼までいたのを見たユゥイは、より一層不機嫌な顔になってしまった。
「それより話ってなに? そこはかとなく嫌な予感がするのは、気のせいであってほしいね」
ギクリ、と身体を強張らせつつ目を泳がせたのはファイだけだった。
黒鋼はそれまでじっと目を閉じていたが、ゆっくりと見開くと遂に切り出した。
「呼びつけたのは俺だ」
「そのようだね」
「嫌な予感が的中するようで悪いが」
黒鋼は一度足を崩すと、ファイと同様に正座をする。
「こいつの身柄は今後も預からせてもらう」
びしっと背筋を伸ばしつつ言った言葉に、ユゥイがガクッとズッコケる動作をした。
「ちょ、ちょっと……その言い方……普通ここって……」
「てめぇもてめぇで反応するとこ違うんじゃねぇのか」
「いやいやいや、だってまるで刑事(デカ)か誘拐犯みたいな言い方するから……」
案外ベタな形式にこだわる野郎だと思いつつ、その後の反応を見守った。
なぜか髪の毛先を焦がし、頬に煤をつけている男は「あー」という溜息と共に唸り、片手を顔半分に押し付けた。
「……恐れていた瞬間が遂にきたー」
申し訳ない気がしないでもないが、察しのよさは正直助かる。
こちらが切り出さないまでも、どうやらこの流れは予測済みだったらしいし、あとは粘るだけだと思った。
ユゥイはその後も溜息を幾度かつき、頭を掻いたり腕を組んで難しそうに目を閉じたりしていた。
が、やがて黒鋼にじっとりとした視線を向けて来た。
「釘刺したはずだけどね」
「逆効果だった」
「……手を出した、と?」
「まぁ……あ、いや……」
す……っと目を逸らす黒鋼。
うっかりノリで「まぁな」と言いそうになり、慌てて否定するもユゥイは額に青筋を立てて拳を震わせていた。
「ま、待て。俺は中途半端な気持ちで手を出したわけじゃ」
「やめて!! 聞きたくない!! ボクの可愛いファイが! こんな野蛮そうな黒い人に純潔を散らされた!!」
両耳を塞いで首を左右に振るユゥイ。
「ちょ、落ちつけ! あと野蛮ってのは余計だ!」
「あぁファイがっ! ファイがーっ」
「おいおまえもなんとか言え……って、足を崩せ!! なに無理してんだ!?」
「うぅ……う……」
半狂乱に陥っているユゥイを尻目に、正座をしていたファイは前かがみになってプルプルしている。
「こんな人に穢されるために育てて来たわけじゃないのに……! ん? 待ってよ、ファイってボクをコピーしてるんだよね? え!? じゃあボクも同時に穢されたってことに!?」
「ならねぇよ!!」
「もう……無理……限界……さよなら……」
「だから足を崩せ!!」
ダメだ。対処しきれない……。
黒鋼はただただ途方に暮れた。
+++
初対面で茶を出して「熱い、渋い、不味い」と言われたものの他に出すものがなく、しょうがないのでせめて少し薄めに淹れたものを軽く冷ましてから、テーブルに出した。
ひとまず落ち着きを取り戻したユゥイはよほど喉が渇いたのか、大人しくそれに口をつけると「不味い」とだけ呟いた。
ファイはようやく痺れが治まり、足を伸ばしてほっこりした表情を浮かべている。
まだ話は終わっていないにも関わらず、一気に歳を取ったような疲労感が押し寄せた。
三人同時に「ふぅ」と息を吐き出してから、やや沈黙が流れた。
やがて第二ラウンドの口火を切ったのは、憐憫の表情でファイを見つめるユゥイだった。
「ファイ……」
「うん」
ほっこりしていたファイだが、一度肩を震わせて背筋を正した。流石にもう正座はしないらしい。
「全部、合意の上なの?」
ファイが頬を赤らめる。そして、はにかんだ表情で「うん」と頷いた。
「あのね、オレ嘘ついてた。本当はね、なっちゃったんだ……凄く久しぶりに……」
「ああ、発情……」
「う、うん」
なんだか聞いているだけでいたたまれない。黒鋼は思わずよそ見をして、指先で頬を掻いた。
「それでね……黒たんはオレを心配してくれて……助けてくれて……」
いたたまれないのはユゥイも同じだったようで、彼は不味いと言った茶を全て飲み干すと大きく息をつく。
彼にとってファイは我が子も同然なのだろう。そんな可愛い子供の初体験を、直接本人から告白されているのだから、その心境は察するに余りある。
「それで?」
「それで、あの……雄同士でも、平気なんだなーって……」
えへへと笑って、ファイは黒鋼と同じく頬を掻いた。
「そしたらなんか、急に楽になって。オレは、この人のこと好きでもいいんだって……その、普通の好きじゃなくて、特別な方の好きね?」
「わかるよ」
ユゥイは少し諦めたような力ない返事をした。
恐る恐る伺う素振りのファイをじっと見つめてから、煤のついた手でその手を取るとぎゅっと握った。
「だから、ずっと傍にいたい?」
「うん……」
「その姿で?」
問われると、ファイはここ数日見せていたあの難しい表情を浮かべる。
だがどこか違って見えるのは、もうそこに一切の迷いが感じられないことだった。
黒鋼はなんとなく握る拳に力を込めて、彼の言葉の先を静かに待った。
「オレね、ちゃんと……人間になりたい」
「……」
「何度も試したんだ。こんな中途半端な形じゃなくて、もっとちゃんとした人間に変身できないかなって。そしたら帽子なんて被らなくても、堂々と黒たんとお外を歩けるし、ユゥイにも一人前って認めてもらえると思ったから……でも、ダメだった」
「そう……」
「でもね、ただ上手に変身できるだけじゃ、ダメなんだ」
ファイの視線が黒鋼に向けられる。
この数日間、彼はずっと思い悩んでいた。
その答えは。
「オレ、黒たんと同じ時を生きたい」
「おまえ……」
「一緒に歳をとって、一緒におじいちゃんになって……最期まで同じ時間の中で生きていたい」
目頭が熱くなるのを感じる。
気が遠くなるほどの時を生きて来たと、彼は言っていた。
この先も長い長い時を約束されているファイは、けれどその生を捨ててまで、共にありたいと願ってくれているのだ。
けれどそんなことが、果たして出来るのだろうか。
何もかもハチャメチャな展開続きではあったが、そこまでの願いを叶えることが果たして。
黒鋼とファイは同時にユゥイを見やった。
彼は怒っているようにも泣きそうにも見える、複雑な表情をしていた。
「本気なんだね」
「ユゥイ……」
「君はどうなの」
鋭く瞳を眇め、射るような眼差しが黒鋼に向けられた。
「これはこの子の運命を大きく変える問題だ。はっきり言って重いよ。背負うだけの覚悟が、本当にあるのかな?」
黒鋼は目を閉じた。
思えばあの雨の夜、たった一匹の白猫を拾ったところから、これは始まった。
あのときはただの気紛れで、きっとすぐに別れが訪れるものとばかり思っていた。
雑踏の中でただ行き交い、すれ違う他人同士のように、ほんの少しばかり手をかけただけで離れゆく、薄い縁(えにし)だと。
運命がその道筋を変えるのは、そんな風に何気ない一瞬。
あのときすでに、幾重にも無限に枝別れしているうちのただひとつを、黒鋼も、そしてファイも選び取っていたのだとすれば。
「必然なんだろ。これが」
目を開ける。真っすぐに、鋭い眼差しへ思いを返す。
これ以上どんな言葉が必要だろうか。言葉を並べ立てたところで、結果はずっと先にある。
この瞬間、この胸にある思いこそが全てで、そして『今』があるからこそ『未来』があるのだ。
黒鋼はその一秒一秒を、ファイと共に歩きたいと強く願っている。そしてファイの意思もまた、固いのだ。
だからこそ今、なにより必要なものはただ一つ。
「信じることしかできないんだね。ボクは」
そう。けれどそれが何よりの力になる。『不確か』を『確か』なものにする、ただ一つに。
ずっと険しいままだったユゥイの表情が、ようやく僅かに綻んだ。微笑みと呼ぶには苦くて切なくて、黒鋼の胸は少し痛んだ。
「あるよ。一つだけ、方法が」
ユゥイの顔に浮かんだ小さな笑みはすぐに消えた。代わりに、真剣な眼差しがファイを捉える。
「ファイ」
そして煤のついた白い両手が、彼の両頬を包んだ。
親指の先で、不安げに揺れる二つの目元をそっとなぞる。
そして言った。
「この両目を、奪ってしまえばいい」
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そういえばファイは本来、住む世界が異なるのだと黒鋼は思った。
どうやら勝手に家を飛び出してきたらしいし、もし自分があの魔法使いの立場だったとしても「とっとと帰って来い」と言うに違いない。
ましてやそれが世間知らずのアホとあれば、心配で胃に穴が開きかねないだろう。
けれど彼は子供ではないのだし、自分の生き方は自分で決めればいい。
もしファイが本心から帰りたいと望んでいたのなら、止める権利はなかった。
しかし黒鋼は彼の気持ちを知っていたし、言葉よりも雄弁に感情を表わす便利なものが、ファイの頭や尻の辺りにはついているのだ。だからどちらかと言えば自信はあった。
それでも正直、直接「帰りたくない」という言葉を聞いたときは安堵した。
何も告げず、ましてやはっきりと意思も確かめないまま帰せば、確実に後悔するであろうことは目に見えていたから、結果的に恥じらいを捨てるに至ったわけである。
+++
それから数日後。
本当なら善は急げとすぐにでも動きたかった黒鋼だが、ファイに「少し時間をくれ」と言われた。
確かに彼としては故郷を捨てるほどの覚悟で臨むことなのだから、こちらばかりが急いても仕方がなかった。
なにしろちょっとお隣の町へお引っ越し……どころの騒ぎではないのだ。未だに信じがたいことだが、彼の故郷はこことは異なる次元にある。
この数日、ファイは気がつくと何か思い詰めたような顔をしていた。ここに留まることに迷いが生じたのかというと、そうではないようだが……。
とにかく話し合いは次に黒鋼が一日まるっと何もない日に、ということになり、そしてついに当日を迎えた。
「で? なにかな。いきなり呼びつけて」
不味いタイミングで呼んでしまったのではないか、と黒鋼は思った。
行儀悪くテーブルに足を組んで腰かけているユゥイは、毛先がちょっと焦げていた。白いはずの頬に煤までくっつけている。
「また失敗したの、ユゥイ……」
ファイがおずおずと問うと、彼は「まぁね……」と苦々しい表情で答えた。
一体なにを失敗したのか、その辺りへ突っ込むのは止める。
腕組みをしつつ顔を逸らすユゥイと向き合う形で畳の上に胡坐をかいて、黒鋼は同じく腕を組んでいた。ファイはその隣で苦手なはずの正座をしている。
例の怪しげな携帯電話で呼び出された先に黒鋼までいたのを見たユゥイは、より一層不機嫌な顔になってしまった。
「それより話ってなに? そこはかとなく嫌な予感がするのは、気のせいであってほしいね」
ギクリ、と身体を強張らせつつ目を泳がせたのはファイだけだった。
黒鋼はそれまでじっと目を閉じていたが、ゆっくりと見開くと遂に切り出した。
「呼びつけたのは俺だ」
「そのようだね」
「嫌な予感が的中するようで悪いが」
黒鋼は一度足を崩すと、ファイと同様に正座をする。
「こいつの身柄は今後も預からせてもらう」
びしっと背筋を伸ばしつつ言った言葉に、ユゥイがガクッとズッコケる動作をした。
「ちょ、ちょっと……その言い方……普通ここって……」
「てめぇもてめぇで反応するとこ違うんじゃねぇのか」
「いやいやいや、だってまるで刑事(デカ)か誘拐犯みたいな言い方するから……」
案外ベタな形式にこだわる野郎だと思いつつ、その後の反応を見守った。
なぜか髪の毛先を焦がし、頬に煤をつけている男は「あー」という溜息と共に唸り、片手を顔半分に押し付けた。
「……恐れていた瞬間が遂にきたー」
申し訳ない気がしないでもないが、察しのよさは正直助かる。
こちらが切り出さないまでも、どうやらこの流れは予測済みだったらしいし、あとは粘るだけだと思った。
ユゥイはその後も溜息を幾度かつき、頭を掻いたり腕を組んで難しそうに目を閉じたりしていた。
が、やがて黒鋼にじっとりとした視線を向けて来た。
「釘刺したはずだけどね」
「逆効果だった」
「……手を出した、と?」
「まぁ……あ、いや……」
す……っと目を逸らす黒鋼。
うっかりノリで「まぁな」と言いそうになり、慌てて否定するもユゥイは額に青筋を立てて拳を震わせていた。
「ま、待て。俺は中途半端な気持ちで手を出したわけじゃ」
「やめて!! 聞きたくない!! ボクの可愛いファイが! こんな野蛮そうな黒い人に純潔を散らされた!!」
両耳を塞いで首を左右に振るユゥイ。
「ちょ、落ちつけ! あと野蛮ってのは余計だ!」
「あぁファイがっ! ファイがーっ」
「おいおまえもなんとか言え……って、足を崩せ!! なに無理してんだ!?」
「うぅ……う……」
半狂乱に陥っているユゥイを尻目に、正座をしていたファイは前かがみになってプルプルしている。
「こんな人に穢されるために育てて来たわけじゃないのに……! ん? 待ってよ、ファイってボクをコピーしてるんだよね? え!? じゃあボクも同時に穢されたってことに!?」
「ならねぇよ!!」
「もう……無理……限界……さよなら……」
「だから足を崩せ!!」
ダメだ。対処しきれない……。
黒鋼はただただ途方に暮れた。
+++
初対面で茶を出して「熱い、渋い、不味い」と言われたものの他に出すものがなく、しょうがないのでせめて少し薄めに淹れたものを軽く冷ましてから、テーブルに出した。
ひとまず落ち着きを取り戻したユゥイはよほど喉が渇いたのか、大人しくそれに口をつけると「不味い」とだけ呟いた。
ファイはようやく痺れが治まり、足を伸ばしてほっこりした表情を浮かべている。
まだ話は終わっていないにも関わらず、一気に歳を取ったような疲労感が押し寄せた。
三人同時に「ふぅ」と息を吐き出してから、やや沈黙が流れた。
やがて第二ラウンドの口火を切ったのは、憐憫の表情でファイを見つめるユゥイだった。
「ファイ……」
「うん」
ほっこりしていたファイだが、一度肩を震わせて背筋を正した。流石にもう正座はしないらしい。
「全部、合意の上なの?」
ファイが頬を赤らめる。そして、はにかんだ表情で「うん」と頷いた。
「あのね、オレ嘘ついてた。本当はね、なっちゃったんだ……凄く久しぶりに……」
「ああ、発情……」
「う、うん」
なんだか聞いているだけでいたたまれない。黒鋼は思わずよそ見をして、指先で頬を掻いた。
「それでね……黒たんはオレを心配してくれて……助けてくれて……」
いたたまれないのはユゥイも同じだったようで、彼は不味いと言った茶を全て飲み干すと大きく息をつく。
彼にとってファイは我が子も同然なのだろう。そんな可愛い子供の初体験を、直接本人から告白されているのだから、その心境は察するに余りある。
「それで?」
「それで、あの……雄同士でも、平気なんだなーって……」
えへへと笑って、ファイは黒鋼と同じく頬を掻いた。
「そしたらなんか、急に楽になって。オレは、この人のこと好きでもいいんだって……その、普通の好きじゃなくて、特別な方の好きね?」
「わかるよ」
ユゥイは少し諦めたような力ない返事をした。
恐る恐る伺う素振りのファイをじっと見つめてから、煤のついた手でその手を取るとぎゅっと握った。
「だから、ずっと傍にいたい?」
「うん……」
「その姿で?」
問われると、ファイはここ数日見せていたあの難しい表情を浮かべる。
だがどこか違って見えるのは、もうそこに一切の迷いが感じられないことだった。
黒鋼はなんとなく握る拳に力を込めて、彼の言葉の先を静かに待った。
「オレね、ちゃんと……人間になりたい」
「……」
「何度も試したんだ。こんな中途半端な形じゃなくて、もっとちゃんとした人間に変身できないかなって。そしたら帽子なんて被らなくても、堂々と黒たんとお外を歩けるし、ユゥイにも一人前って認めてもらえると思ったから……でも、ダメだった」
「そう……」
「でもね、ただ上手に変身できるだけじゃ、ダメなんだ」
ファイの視線が黒鋼に向けられる。
この数日間、彼はずっと思い悩んでいた。
その答えは。
「オレ、黒たんと同じ時を生きたい」
「おまえ……」
「一緒に歳をとって、一緒におじいちゃんになって……最期まで同じ時間の中で生きていたい」
目頭が熱くなるのを感じる。
気が遠くなるほどの時を生きて来たと、彼は言っていた。
この先も長い長い時を約束されているファイは、けれどその生を捨ててまで、共にありたいと願ってくれているのだ。
けれどそんなことが、果たして出来るのだろうか。
何もかもハチャメチャな展開続きではあったが、そこまでの願いを叶えることが果たして。
黒鋼とファイは同時にユゥイを見やった。
彼は怒っているようにも泣きそうにも見える、複雑な表情をしていた。
「本気なんだね」
「ユゥイ……」
「君はどうなの」
鋭く瞳を眇め、射るような眼差しが黒鋼に向けられた。
「これはこの子の運命を大きく変える問題だ。はっきり言って重いよ。背負うだけの覚悟が、本当にあるのかな?」
黒鋼は目を閉じた。
思えばあの雨の夜、たった一匹の白猫を拾ったところから、これは始まった。
あのときはただの気紛れで、きっとすぐに別れが訪れるものとばかり思っていた。
雑踏の中でただ行き交い、すれ違う他人同士のように、ほんの少しばかり手をかけただけで離れゆく、薄い縁(えにし)だと。
運命がその道筋を変えるのは、そんな風に何気ない一瞬。
あのときすでに、幾重にも無限に枝別れしているうちのただひとつを、黒鋼も、そしてファイも選び取っていたのだとすれば。
「必然なんだろ。これが」
目を開ける。真っすぐに、鋭い眼差しへ思いを返す。
これ以上どんな言葉が必要だろうか。言葉を並べ立てたところで、結果はずっと先にある。
この瞬間、この胸にある思いこそが全てで、そして『今』があるからこそ『未来』があるのだ。
黒鋼はその一秒一秒を、ファイと共に歩きたいと強く願っている。そしてファイの意思もまた、固いのだ。
だからこそ今、なにより必要なものはただ一つ。
「信じることしかできないんだね。ボクは」
そう。けれどそれが何よりの力になる。『不確か』を『確か』なものにする、ただ一つに。
ずっと険しいままだったユゥイの表情が、ようやく僅かに綻んだ。微笑みと呼ぶには苦くて切なくて、黒鋼の胸は少し痛んだ。
「あるよ。一つだけ、方法が」
ユゥイの顔に浮かんだ小さな笑みはすぐに消えた。代わりに、真剣な眼差しがファイを捉える。
「ファイ」
そして煤のついた白い両手が、彼の両頬を包んだ。
親指の先で、不安げに揺れる二つの目元をそっとなぞる。
そして言った。
「この両目を、奪ってしまえばいい」
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白猫、本当の気持ちの巻
「そうか」
暫しの沈黙の後、黒鋼は小さく呟いた。それから、
「……それは、おまえの意思でか?」
と問うた。
「……」
ファイはただ唇を噛みしめて、無言で俯いた。指先が白くなるほど、ぎゅっと服の裾を握り締める。
無言で続きを促されているのがわかるから、ファイは焦る気持ちから選び取るべき言葉を見失っていた。
やがて黒鋼がゆっくりと息を吐き出すのが、気配で分かった。
「帰るか」
「……うん」
結局、食事はせずにただ無言で帰宅することになった。
+++
会話もないまま帰宅する頃には、すっかり外は暗くなっていた。
そして黒鋼はただ明かりをつけただけで、どっかりと胡坐をかくと腕を組んだ。
「おまえ、そこ座れ」
なんとなく立ち尽くしていたファイだったが、顎をしゃくられて向かい側にペタリと腰を下ろす。
帽子を取りながらこっそり相手の顔を見やって、耳をしゅんとさせる。
いきなりすぎて、怒らせてしまったのだろうか。
食事もしそこねたし、気分がよかったところを色々とブチ壊してしまった気がする。
「黒たん……あの……」
「確かに、中途半端にズルズル続けるってのは、気持ちのいいもんじゃねぇ」
「……うん」
胸にズキリと響いた。
いくらオス同士で身体を重ねることが出来るとしても、それは決して「当たり前のこと」ではないらしい。
人が人を好きになることは当たり前でも、同性を好きになることに対して嫌悪感を示す人間も、残念ながら多いようだ。
「だからオレ、帰るって決め」
「話はちゃんと聞け。お互いはっきりさせようじゃねぇかってことだ」
「だ、だから……」
「俺はおまえに惚れてる」
「!」
しゅんとしたままだった猫耳が、ピンと立った。同時に目を見開いたファイは、ワンテンポ置いてから頬を赤らめる。
「い、いきなりどうしたの……」
「面倒臭ぇ生き物なんだよ。人間ってのは。順番を間違っただけで、ろくなことにならねぇ」
「順番……?」
「そうだ。だから、ろくなことにならねぇうちに、俺は俺の気持ちをはっきり伝える必要があると思った。それこそ順番は逆になっちまったが……おまえもおまえで、面倒臭ぇ奴だからな」
それで、先刻の告白に繋がるのか。
確かにお互いに気持ちを確認する間もなく、あれよあれよという間に身体だけ先走ってしまった。
「うん……ごめん」
「別にいい。俺も悪かった」
それから彼は、念を押すかのようにもう一度言った。
「惚れちまったんだ。俺はおまえに」
頬が熱くて、ファイは咄嗟に右手の甲を左頬に押し当てた。なんだか頭がクラクラしてしまう。
思えばこんな風に黒鋼から気持ちを告げられることは、初めてだった。
触れる手の優しさや、包み込んでくれる腕の力強さだけで満たされたつもりでいたような気がする。
それですっかりゴールした気になっていたのだから、なんとも間抜けだ。
だからこうして改めて面と向かって言われてしまうと……恥ずかしい。
「こんなときばっか照れんな」
「だ、だ、だって、だってさ……っ」
言葉を詰まらせるファイを見て、黒鋼はふんと鼻で息を吐き出し、立ちあがると台所へ向かった。
そしてすぐに戻って来ると、ペットボトルの水を差し出してきた。
「まず落ちつけ」
「はい……」
素直に受け取り、キャップをひねって口をつける。
喉を通り抜けてゆく冷水にほっと息をつき、熱くて仕方が無い顔を手のひらでパタパタと仰いだ。
「黒たんって開き直ると凄いんだねぇ」
「なんだよそりゃ。俺はとっくに開き直ってたぜ。肝心なことを言いそびれてただけだ」
「そ、そっか……」
でも、なぜそれを今言うのだろうか。
ファイは首を傾げる。
そんな疑問などお見通しらしい黒鋼は、再び向かいに腰を下ろすと続けた。
「察しろよ。つまり、俺はおまえを帰す気がねぇってことだ」
「!」
「さっき聞いたな。それはおまえの意思かと」
「うん……」
「おまえの気持ちは知ってるつもりだ。だからちゃんと言え。おまえは、どうしたい?」
ファイはいつだって黒鋼に向かって真っ直ぐに気持ちをぶつけていたから、だからこの男は知っている。
どうしたいかなんて言葉にしなくても。
けれど言葉にされて初めて、向けられている思いを噛みしめることができたファイは、だから同じように彼に伝えなければならない。
『どうすべきか』ではなくて『どうしたいか』を。
「オレは……」
口の中が乾いている気がして、それでもペットボトルに口をつけることなくただ強く握った。
軋む音を聞いて、それからこくりと頷くようにして俯いた。ぎゅっと目を閉じる。
「ここに、いたい……黒たんは特別だから……好きだから……ずっと、傍にいたい……」
例え同じ時を生きられなくても。
それはとても恐ろしいことだけど、だからこそいつも近くで見つめていたい。
しかしそれはファイの我侭で、ユゥイにはもう随分と心配をかけてしまった。
本当ならいつでもファイを連れ戻すくらい、造作もないことだったはずなのに。
「でもオレ、ここんちの子じゃないし……他に帰る場所があるのは事実だし……」
向こうへ帰っても結局は元通り、退屈な暮らしに変わりはない。交尾への恐れは消えたが、かと言って黒鋼以外は考えられない。
ファイが生きている限り、それらはおそらく永遠に続くものだった。つまり切りがないということだ。
「オレ、中途半端だし……メスじゃないから結婚だってできないし……どう頑張っても黒たんのお嫁さんになれないし……それなのに、ずっと傍にいるなんて……」
「結婚だぁ?」
黒鋼が少し呆れた声を出した。
「それでおまえ……あんなもん見てたのか」
ピクリ。ファイの耳が動く。
その言い方には少し引っ掛かりを覚えてしまう。
思わず涙目で、くわっと顔を上げた。
「あ、あんなもんってなにさー!?」
どんな思いでドレスを見上げていたと思っているのか。
「だってさ! あれを着れる人が黒たんとずっと一緒にいられる人でしょ!? あれって女の人の着るものじゃん! オレ着れないじゃん!」
「落ちつけバカ」
「これが落ち着いていられるかって話だよー!」
泣きながら声を張り上げるファイに、めんどくせぇ……という文字がありありと浮かんで見える顔をして、黒鋼は頭を掻いた。
「あのなぁ……結婚なんてのはあくまで形式だろ。どう引っくり返ってもできねぇもんに拘ってどうする。アホ」
「あ……アホって……」
「あと、ドレスが着れるってのが結婚の条件じゃねぇし、離婚する夫婦だって大勢いるだろ」
「……え?」
「まぁどっか余所の国じゃあ、男同士でも結婚できるらしいが……」
「できるの!?」
「日本じゃ考えられねぇがな」
なんということだ……。国が違えば文化も違うとはまさにこのことかと、ファイは植え付けられて間もない常識が一気に揺らぐのを確かに感じた。
うち震えるファイの手から、いよいよ握り潰してしまう前に黒鋼がペットボトルを掴むと遠ざけた。
それから、ぽかんと口を開けたままでいるファイの鼻に2、3枚抜き取ったティッシュを押しつける。どうやら鼻水が垂れていたようだ……。
「ちんしろ、ちん」
「ぅぐ、グスッ」
「よし」
黒鋼は頷きながら丸めたティッシュをゴミ箱に放り投げた。一度壁に当たったそれは、そのままスコンと綺麗にヒットする。
「とりあえずおまえの気持ちはわかった」
「黒たん……?」
「言ったろ。あの魔法使いに言うときは、俺から言うってな」
大きな手が伸びて来て、耳ごとファイの頭をくしゃりと撫でた。
そして、少し不敵に笑うと言った。
「いわゆる娘さんを俺にくださいってやつだ」
ファイにしてみれば初めて聞く言葉ではあったけれど、やっぱりこの人はどこまでも頼もしいと思った。
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「そうか」
暫しの沈黙の後、黒鋼は小さく呟いた。それから、
「……それは、おまえの意思でか?」
と問うた。
「……」
ファイはただ唇を噛みしめて、無言で俯いた。指先が白くなるほど、ぎゅっと服の裾を握り締める。
無言で続きを促されているのがわかるから、ファイは焦る気持ちから選び取るべき言葉を見失っていた。
やがて黒鋼がゆっくりと息を吐き出すのが、気配で分かった。
「帰るか」
「……うん」
結局、食事はせずにただ無言で帰宅することになった。
+++
会話もないまま帰宅する頃には、すっかり外は暗くなっていた。
そして黒鋼はただ明かりをつけただけで、どっかりと胡坐をかくと腕を組んだ。
「おまえ、そこ座れ」
なんとなく立ち尽くしていたファイだったが、顎をしゃくられて向かい側にペタリと腰を下ろす。
帽子を取りながらこっそり相手の顔を見やって、耳をしゅんとさせる。
いきなりすぎて、怒らせてしまったのだろうか。
食事もしそこねたし、気分がよかったところを色々とブチ壊してしまった気がする。
「黒たん……あの……」
「確かに、中途半端にズルズル続けるってのは、気持ちのいいもんじゃねぇ」
「……うん」
胸にズキリと響いた。
いくらオス同士で身体を重ねることが出来るとしても、それは決して「当たり前のこと」ではないらしい。
人が人を好きになることは当たり前でも、同性を好きになることに対して嫌悪感を示す人間も、残念ながら多いようだ。
「だからオレ、帰るって決め」
「話はちゃんと聞け。お互いはっきりさせようじゃねぇかってことだ」
「だ、だから……」
「俺はおまえに惚れてる」
「!」
しゅんとしたままだった猫耳が、ピンと立った。同時に目を見開いたファイは、ワンテンポ置いてから頬を赤らめる。
「い、いきなりどうしたの……」
「面倒臭ぇ生き物なんだよ。人間ってのは。順番を間違っただけで、ろくなことにならねぇ」
「順番……?」
「そうだ。だから、ろくなことにならねぇうちに、俺は俺の気持ちをはっきり伝える必要があると思った。それこそ順番は逆になっちまったが……おまえもおまえで、面倒臭ぇ奴だからな」
それで、先刻の告白に繋がるのか。
確かにお互いに気持ちを確認する間もなく、あれよあれよという間に身体だけ先走ってしまった。
「うん……ごめん」
「別にいい。俺も悪かった」
それから彼は、念を押すかのようにもう一度言った。
「惚れちまったんだ。俺はおまえに」
頬が熱くて、ファイは咄嗟に右手の甲を左頬に押し当てた。なんだか頭がクラクラしてしまう。
思えばこんな風に黒鋼から気持ちを告げられることは、初めてだった。
触れる手の優しさや、包み込んでくれる腕の力強さだけで満たされたつもりでいたような気がする。
それですっかりゴールした気になっていたのだから、なんとも間抜けだ。
だからこうして改めて面と向かって言われてしまうと……恥ずかしい。
「こんなときばっか照れんな」
「だ、だ、だって、だってさ……っ」
言葉を詰まらせるファイを見て、黒鋼はふんと鼻で息を吐き出し、立ちあがると台所へ向かった。
そしてすぐに戻って来ると、ペットボトルの水を差し出してきた。
「まず落ちつけ」
「はい……」
素直に受け取り、キャップをひねって口をつける。
喉を通り抜けてゆく冷水にほっと息をつき、熱くて仕方が無い顔を手のひらでパタパタと仰いだ。
「黒たんって開き直ると凄いんだねぇ」
「なんだよそりゃ。俺はとっくに開き直ってたぜ。肝心なことを言いそびれてただけだ」
「そ、そっか……」
でも、なぜそれを今言うのだろうか。
ファイは首を傾げる。
そんな疑問などお見通しらしい黒鋼は、再び向かいに腰を下ろすと続けた。
「察しろよ。つまり、俺はおまえを帰す気がねぇってことだ」
「!」
「さっき聞いたな。それはおまえの意思かと」
「うん……」
「おまえの気持ちは知ってるつもりだ。だからちゃんと言え。おまえは、どうしたい?」
ファイはいつだって黒鋼に向かって真っ直ぐに気持ちをぶつけていたから、だからこの男は知っている。
どうしたいかなんて言葉にしなくても。
けれど言葉にされて初めて、向けられている思いを噛みしめることができたファイは、だから同じように彼に伝えなければならない。
『どうすべきか』ではなくて『どうしたいか』を。
「オレは……」
口の中が乾いている気がして、それでもペットボトルに口をつけることなくただ強く握った。
軋む音を聞いて、それからこくりと頷くようにして俯いた。ぎゅっと目を閉じる。
「ここに、いたい……黒たんは特別だから……好きだから……ずっと、傍にいたい……」
例え同じ時を生きられなくても。
それはとても恐ろしいことだけど、だからこそいつも近くで見つめていたい。
しかしそれはファイの我侭で、ユゥイにはもう随分と心配をかけてしまった。
本当ならいつでもファイを連れ戻すくらい、造作もないことだったはずなのに。
「でもオレ、ここんちの子じゃないし……他に帰る場所があるのは事実だし……」
向こうへ帰っても結局は元通り、退屈な暮らしに変わりはない。交尾への恐れは消えたが、かと言って黒鋼以外は考えられない。
ファイが生きている限り、それらはおそらく永遠に続くものだった。つまり切りがないということだ。
「オレ、中途半端だし……メスじゃないから結婚だってできないし……どう頑張っても黒たんのお嫁さんになれないし……それなのに、ずっと傍にいるなんて……」
「結婚だぁ?」
黒鋼が少し呆れた声を出した。
「それでおまえ……あんなもん見てたのか」
ピクリ。ファイの耳が動く。
その言い方には少し引っ掛かりを覚えてしまう。
思わず涙目で、くわっと顔を上げた。
「あ、あんなもんってなにさー!?」
どんな思いでドレスを見上げていたと思っているのか。
「だってさ! あれを着れる人が黒たんとずっと一緒にいられる人でしょ!? あれって女の人の着るものじゃん! オレ着れないじゃん!」
「落ちつけバカ」
「これが落ち着いていられるかって話だよー!」
泣きながら声を張り上げるファイに、めんどくせぇ……という文字がありありと浮かんで見える顔をして、黒鋼は頭を掻いた。
「あのなぁ……結婚なんてのはあくまで形式だろ。どう引っくり返ってもできねぇもんに拘ってどうする。アホ」
「あ……アホって……」
「あと、ドレスが着れるってのが結婚の条件じゃねぇし、離婚する夫婦だって大勢いるだろ」
「……え?」
「まぁどっか余所の国じゃあ、男同士でも結婚できるらしいが……」
「できるの!?」
「日本じゃ考えられねぇがな」
なんということだ……。国が違えば文化も違うとはまさにこのことかと、ファイは植え付けられて間もない常識が一気に揺らぐのを確かに感じた。
うち震えるファイの手から、いよいよ握り潰してしまう前に黒鋼がペットボトルを掴むと遠ざけた。
それから、ぽかんと口を開けたままでいるファイの鼻に2、3枚抜き取ったティッシュを押しつける。どうやら鼻水が垂れていたようだ……。
「ちんしろ、ちん」
「ぅぐ、グスッ」
「よし」
黒鋼は頷きながら丸めたティッシュをゴミ箱に放り投げた。一度壁に当たったそれは、そのままスコンと綺麗にヒットする。
「とりあえずおまえの気持ちはわかった」
「黒たん……?」
「言ったろ。あの魔法使いに言うときは、俺から言うってな」
大きな手が伸びて来て、耳ごとファイの頭をくしゃりと撫でた。
そして、少し不敵に笑うと言った。
「いわゆる娘さんを俺にくださいってやつだ」
ファイにしてみれば初めて聞く言葉ではあったけれど、やっぱりこの人はどこまでも頼もしいと思った。
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白猫、ふと立ち止まるの巻
なんだかんだで先延ばしになっていたファイの靴を選ぶため、やって来たのは人通りの多い駅前の商店街だった。
そこは大きな百貨店を中心に様々な店や飲食店などが軒を連ね、行き交う人々で賑やかだった。
ここ最近はずっと外に出ていなかったこともあって、久しぶりに風に当たりながら歩くのは気持ちがいい。
こういった人通りのある場所へ改めて来るのは、初めてこの世界に足を踏み入れたあの夜のことで、あのときは雨が降っていたり、精神的にも肉体的にもボロボロだった。
だが、ああしてボロボロになりながら迷い込んだからこそ黒鋼と出会えたのもまた事実で、今にしてみればいい思い出、と呼べるのかもしれない。
ファイの気持ちは先刻のユゥイとの会話で曇りがちだったけれど、黒鋼とこんな場所まで足を運ぶことは初めてで、ただ純粋に嬉しかった。
今は、何も考えたくない。
「凄いねー! たくさんお店があるんだねー」
少し前を行く黒鋼の後ろで、ファイは物珍しげにキョロキョロと辺りを見回しながら歩いていた。
「おまえ、迷子になっても知らねぇぞ」
「平気だよー」
なんて言いつつ知らない人と肩がぶつかって、ファイは慌てて頭を下げると小走りで黒鋼の隣にくっついた。
「言わんこっちゃねぇ」
「猫だったら擦り抜けるの簡単なのにねぇ」
「猫じゃねぇんだからもっと自覚持て」
「はーい」
ファイは指先でそっと黒鋼の服の袖を握った。
人目が気になるかもしれないと思いはしたが、行き交う人々は一々こちらに目を向けたりはしなかった。
携帯電話を耳に押し当てながら、どこかへ急ぐサラリーマン。
乳母車に子供を乗せた母親、杖をついて歩く老人。
友達同士でじゃれあっている学生や、恋人達の群れ。
色々な人間達がひしめきあっていて、それでも彼らは他の誰に干渉するでもなく、ましてや肩を触れ合わせることもなく、溶け込むようにして各々の世界を持っている。
不思議だなぁと思った。
こんなにたくさんの人たちがいて、こんなに広い世界の中にいて、ただすれ違うだけの人たちは、様々な年齢や、職種や、それぞれ帰る場所があって。
(こんなにいっぱい人がいるのに、オレが知ってて、オレが頼れるのはこの人だけなんだなぁ)
ふと、ファイは黒鋼の横顔を見た。
(たくさんたくさん人がいるのに、俺はこの人を好きになったんだ)
少し頬を染めていると、視線に気づいた黒鋼がこちらに顔を向けた。
「歩きやすいだろ?」
そう問われて、慌てて首を縦に振る。
黒鋼が何足も持ちだしては選んでくれたカジュアルシューズは、しょっちゅう散歩をしたり、芝生や砂の上を歩くファイの行動パターンを考慮してのチョイスで、大きな靴を引きずるようにして歩いていたときに比べると、格段の歩きやすさだった。
「楽ちんになったよー。ありがとー」
「そうか。じゃあ、次は洋服だ」
「だからそれはいいって言ってるのにー」
「遠慮すんな。おまえ、あれだぞ、今日は給料日だ」
「さっきも聞いたよー」
少し自慢げな黒鋼に、思わず小さく吹き出した。
彼は何かしらおねだりをしてほしいらしい。
ファイにしてみれば黒鋼さえ傍にいてくれれば、それでいいのに。
「しょうがねぇな……じゃあ、なんか食ってくか?」
「お外でご飯食べるの?」
「初めてだろ?」
「うん! 初めて!」
「じゃあ決まりだな」
「うん!」
黒鋼が出した妥協案に素直に従う。
確かに遠慮しているというのもあるけれど。
「あ」
小さく声を上げたファイは、ショーウィンドウの前で足を止めた。
大きなガラスの向こう側には、無機質なマネキンがタキシードを着ている。そしてその隣には、純白のドレスにブーケを持ったマネキンがあった。
これは結婚式で着るもの。テレビで見たことがある。
静かに足を止めたファイの指から、黒鋼の服の裾が離れた。
ガラスに手をついて、美しいドレスに暫し見とれる。
(これを着れるのは、女の人だ)
きらびやかなそれは、遠くへ押しやっていたファイの憂鬱を手繰り寄せた。
(これが欲しいって言ったら、黒たんは困るかな)
きっと凄く高いし、何よりこんなものを買ったとしても、ファイは着ることができない。着れたとしても、結婚はできないのだ。
(オレだってバカじゃないよ。ねぇ、ユゥイ)
雑踏の中で少しだけ遠くなった黒鋼の背を見つめた。
泣きたくなって、慌てて目を逸らすと目線を上げる。そこには美しいドレスを纏うマネキンがある。
(お別れしなくちゃいけないのに、これ以上何か買ってなんて言えないよ)
たくさんの人の声。足音。広い世界。
ファイは異端の存在で、帽子を取った途端に、これまで無関心を装っていた人々からおかしな目を向けられることを、知っている。
今のファイは人でもなければ猫でもなくて、こんな自分が黒鋼の傍にずっといるためには、完全に人間にでもなるか、猫の姿にでも戻ってペットとして暮らす以外にない。
どのみち結ばれることが出来ないならば、何よりも確実なのは後者なのだと思う。
もう言葉は通じないけれど、こんな風に一緒に買い物だってできないけれど。
やがて歳を取っていく黒鋼の傍にずっといて、それを看取って。
これからも変わらず長い時を生き続ける自分にとって、それは光の速さでしかない。
それくらいの我儘なら、ユゥイは許してくれるだろうか。
そしてそのときにはもう、彼は他の人と結ばれて子供が産まれているかもしれない。孫だっているかもしれない。
この雑踏の中に、黒鋼が結ばれるべき人がきっといる。
たくさんの人間たちの中から、ファイが彼を選んだように、彼に選ばれ、彼を選び取る人が、必ず。
「……ッ」
少し口元を歪めて、ファイは緩く首を振った。
「むずかしいよ……オレには」
見ていられるはずがない。
ただ傍にいるだけで幸せなんて、慎ましやかな願いなど、本当は嘘の塊だ。抱けるはずがない。
そんなものを見るくらいなら。
「おい」
声がして、ふと見れば黒鋼がすぐ傍にいた。
「おまえなぁ、迷子になっても知らねぇって……」
むっつりと顔を顰めていた黒鋼が、ファイの潤んだ目元を見て眉間の皺を色濃くした。
「なんだ? 腹でも空き過ぎたか?」
「もう……違うよー」
ファイは笑って首を振った。それから、身体ごと黒鋼に向かい合った。
「あのね、オレ……時々は遊びに来てもいいかなぁ?」
「あ?」
「ユゥイにお願いして、たまには遊びに来てもいい?」
二度と会わないなんて、そこまでの決意はまだ持てない。時々でいいから、黒鋼が独り身でいる間だけでもいいから、顔だけでも見に来られたらいいなと思った。
黙り込んだ黒鋼は、じっとファイの揺れる瞳を見つめた。
「春が終わったらね……」
――ファイがそこにいる意味なんてもうないでしょ。
「帰ることにしたから」
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なんだかんだで先延ばしになっていたファイの靴を選ぶため、やって来たのは人通りの多い駅前の商店街だった。
そこは大きな百貨店を中心に様々な店や飲食店などが軒を連ね、行き交う人々で賑やかだった。
ここ最近はずっと外に出ていなかったこともあって、久しぶりに風に当たりながら歩くのは気持ちがいい。
こういった人通りのある場所へ改めて来るのは、初めてこの世界に足を踏み入れたあの夜のことで、あのときは雨が降っていたり、精神的にも肉体的にもボロボロだった。
だが、ああしてボロボロになりながら迷い込んだからこそ黒鋼と出会えたのもまた事実で、今にしてみればいい思い出、と呼べるのかもしれない。
ファイの気持ちは先刻のユゥイとの会話で曇りがちだったけれど、黒鋼とこんな場所まで足を運ぶことは初めてで、ただ純粋に嬉しかった。
今は、何も考えたくない。
「凄いねー! たくさんお店があるんだねー」
少し前を行く黒鋼の後ろで、ファイは物珍しげにキョロキョロと辺りを見回しながら歩いていた。
「おまえ、迷子になっても知らねぇぞ」
「平気だよー」
なんて言いつつ知らない人と肩がぶつかって、ファイは慌てて頭を下げると小走りで黒鋼の隣にくっついた。
「言わんこっちゃねぇ」
「猫だったら擦り抜けるの簡単なのにねぇ」
「猫じゃねぇんだからもっと自覚持て」
「はーい」
ファイは指先でそっと黒鋼の服の袖を握った。
人目が気になるかもしれないと思いはしたが、行き交う人々は一々こちらに目を向けたりはしなかった。
携帯電話を耳に押し当てながら、どこかへ急ぐサラリーマン。
乳母車に子供を乗せた母親、杖をついて歩く老人。
友達同士でじゃれあっている学生や、恋人達の群れ。
色々な人間達がひしめきあっていて、それでも彼らは他の誰に干渉するでもなく、ましてや肩を触れ合わせることもなく、溶け込むようにして各々の世界を持っている。
不思議だなぁと思った。
こんなにたくさんの人たちがいて、こんなに広い世界の中にいて、ただすれ違うだけの人たちは、様々な年齢や、職種や、それぞれ帰る場所があって。
(こんなにいっぱい人がいるのに、オレが知ってて、オレが頼れるのはこの人だけなんだなぁ)
ふと、ファイは黒鋼の横顔を見た。
(たくさんたくさん人がいるのに、俺はこの人を好きになったんだ)
少し頬を染めていると、視線に気づいた黒鋼がこちらに顔を向けた。
「歩きやすいだろ?」
そう問われて、慌てて首を縦に振る。
黒鋼が何足も持ちだしては選んでくれたカジュアルシューズは、しょっちゅう散歩をしたり、芝生や砂の上を歩くファイの行動パターンを考慮してのチョイスで、大きな靴を引きずるようにして歩いていたときに比べると、格段の歩きやすさだった。
「楽ちんになったよー。ありがとー」
「そうか。じゃあ、次は洋服だ」
「だからそれはいいって言ってるのにー」
「遠慮すんな。おまえ、あれだぞ、今日は給料日だ」
「さっきも聞いたよー」
少し自慢げな黒鋼に、思わず小さく吹き出した。
彼は何かしらおねだりをしてほしいらしい。
ファイにしてみれば黒鋼さえ傍にいてくれれば、それでいいのに。
「しょうがねぇな……じゃあ、なんか食ってくか?」
「お外でご飯食べるの?」
「初めてだろ?」
「うん! 初めて!」
「じゃあ決まりだな」
「うん!」
黒鋼が出した妥協案に素直に従う。
確かに遠慮しているというのもあるけれど。
「あ」
小さく声を上げたファイは、ショーウィンドウの前で足を止めた。
大きなガラスの向こう側には、無機質なマネキンがタキシードを着ている。そしてその隣には、純白のドレスにブーケを持ったマネキンがあった。
これは結婚式で着るもの。テレビで見たことがある。
静かに足を止めたファイの指から、黒鋼の服の裾が離れた。
ガラスに手をついて、美しいドレスに暫し見とれる。
(これを着れるのは、女の人だ)
きらびやかなそれは、遠くへ押しやっていたファイの憂鬱を手繰り寄せた。
(これが欲しいって言ったら、黒たんは困るかな)
きっと凄く高いし、何よりこんなものを買ったとしても、ファイは着ることができない。着れたとしても、結婚はできないのだ。
(オレだってバカじゃないよ。ねぇ、ユゥイ)
雑踏の中で少しだけ遠くなった黒鋼の背を見つめた。
泣きたくなって、慌てて目を逸らすと目線を上げる。そこには美しいドレスを纏うマネキンがある。
(お別れしなくちゃいけないのに、これ以上何か買ってなんて言えないよ)
たくさんの人の声。足音。広い世界。
ファイは異端の存在で、帽子を取った途端に、これまで無関心を装っていた人々からおかしな目を向けられることを、知っている。
今のファイは人でもなければ猫でもなくて、こんな自分が黒鋼の傍にずっといるためには、完全に人間にでもなるか、猫の姿にでも戻ってペットとして暮らす以外にない。
どのみち結ばれることが出来ないならば、何よりも確実なのは後者なのだと思う。
もう言葉は通じないけれど、こんな風に一緒に買い物だってできないけれど。
やがて歳を取っていく黒鋼の傍にずっといて、それを看取って。
これからも変わらず長い時を生き続ける自分にとって、それは光の速さでしかない。
それくらいの我儘なら、ユゥイは許してくれるだろうか。
そしてそのときにはもう、彼は他の人と結ばれて子供が産まれているかもしれない。孫だっているかもしれない。
この雑踏の中に、黒鋼が結ばれるべき人がきっといる。
たくさんの人間たちの中から、ファイが彼を選んだように、彼に選ばれ、彼を選び取る人が、必ず。
「……ッ」
少し口元を歪めて、ファイは緩く首を振った。
「むずかしいよ……オレには」
見ていられるはずがない。
ただ傍にいるだけで幸せなんて、慎ましやかな願いなど、本当は嘘の塊だ。抱けるはずがない。
そんなものを見るくらいなら。
「おい」
声がして、ふと見れば黒鋼がすぐ傍にいた。
「おまえなぁ、迷子になっても知らねぇって……」
むっつりと顔を顰めていた黒鋼が、ファイの潤んだ目元を見て眉間の皺を色濃くした。
「なんだ? 腹でも空き過ぎたか?」
「もう……違うよー」
ファイは笑って首を振った。それから、身体ごと黒鋼に向かい合った。
「あのね、オレ……時々は遊びに来てもいいかなぁ?」
「あ?」
「ユゥイにお願いして、たまには遊びに来てもいい?」
二度と会わないなんて、そこまでの決意はまだ持てない。時々でいいから、黒鋼が独り身でいる間だけでもいいから、顔だけでも見に来られたらいいなと思った。
黙り込んだ黒鋼は、じっとファイの揺れる瞳を見つめた。
「春が終わったらね……」
――ファイがそこにいる意味なんてもうないでしょ。
「帰ることにしたから」
←戻る ・ 次へ→
白猫、もう大人の巻
「なんかオレー、カンペキ大人になったって気がするー」
口元にパン屑を散りばめながら、ファイはウキウキと言った。
テレビで朝のワイドショーが流れる中、二人はテーブルを挟んで朝食を摂っていた。
「ねー、お風呂も嫌じゃなくなったよー? 黒たんと一緒だからかなぁ?」
黒鋼は黙々と食事を続けていた。
なんのリアクションもないことに、流石のファイも首を傾げる。
「黒たん? 聞いてる? 疲れてる?」
「……口拭け、口。あと食ってるときにベラベラ喋んな」
「ふぁーい」
言われた通り、ファイは口元を綺麗に拭うと食べかけのパンを全部口の中に収めた。
少し苦しかったが、牛乳でそれを全て流し込む。
「ごちそうさまー!」
その頃には黒鋼も全て食べ終えていて、見れば何やら腕を組んで難しそうな顔をしている。
「ねぇ、やっぱり疲れちゃった? あのあとも……もう一回しちゃったもんね……」
ファイは両手で熱くなっている頬を包むと身体をくねらせる。その瞬間、再び腰が鈍痛に襲われたがあえて気にしない。
そんなことよりも、顔がにやけるのをどうしても抑えられなかった。
そう、あのあともどうにも盛り上がった気持ちを抑えられず、行為に及んだ。
そのせいで未だに下半身が痺れて変な感じだ。なんとなく、まだ黒鋼のものを咥えこんでいるような違和感もある。
けれどファイはこれでもかというほど満たされていた。
疲れ果てた状態で放心しながら風呂場に連れて行かれたが、もうその頃にはファイはほとんど意識が飛んでいた。
そしてまたしても気がつけば黒鋼の腕の中で朝を迎えていた。
もしかしたら自分は、世界一幸せな猫人間かもしれない……なんてファイは本気で思った。
すると悦に浸るファイを暫くじっと眺めたていた黒鋼が、言った。
「いいか、よく聞け」
なにやら神妙な面持ちである。
「なぁに?」
ぺろんと唇を舐めながらファイが首を傾げると、彼は眉間の皺を濃くした。
「これまでのことは、他言無用だ」
「たごんむよう」
「誰彼構わず喋っていいことじゃねぇ。プライベートな問題だからな」
「ぷらいべーとね、なるほどー」
「おまえ、わかってんのか……?」
不信感を露わにしている黒鋼に思わずむっとする。
「わかってるよー。二人だけの秘密ってことでしょ?」
「わかってんならいい。そういうことだ」
腕を組み、ようやく納得した様子で黒鋼は幾度かうんうんと頷いた。
だがすぐにくわっと目を見開いて、怖い顔をさらに険しくさせた。
「特にあの野郎には言うなよ」
「あのやろう……? あ、ユゥイのことだー」
「そうだ。言うときは……俺から言う」
「黒たんが?」
こくり。大きく頷いて見せるのでファイもおとなしく頷いた。
+++
それからさらに数日が過ぎた。
最早ハッキリと自覚できるほどに、ファイの発情の起爆剤は黒鋼に限定されている。
なぜ分かるかといえば、窓を開けてもメス猫の雄たけびを聞いても、全く反応することがなくなったからだった。
せいぜい「今日もお盛んだなぁ」くらいにしか思えなくなって、そこから黒鋼との行為を連想させられたとしても、ある程度は制御が可能になった。……ような気がする。
おそらくは黒鋼という存在が大きな安心感をもたらしているからではないか、とファイは思う。
何も怖いことはないのだと、そう教えてくれたのは彼だった。
そしてそんなある日……。
『こっちでもメス猫がサカってるからね。ファイは一応半分猫だし、そっちで大丈夫なのかなって』
受話器の向こうでユゥイの声がしている。
黒鋼はすぐに戻ると行って出かけてしまった。このあと二人で買い物へ行く予定になっていて、ソワソワしながら待っていたところに、携帯電話が鳴ったのだ。
『聞いてる?』
「う、うん! 聞いてた!」
『怪しいなぁ』
そんなことないよと、見えもしないのにファイは首をぶんぶんと振る。
本音を言えばユゥイに隠し事をするのは胸が痛い。
けれどファイにだって恥じらいというものがあって、黒鋼に念を押されたときにはピンと来なかったが、いざ当人の声を聞いてるうちに、とてもではないが言えそうもない、と思った。
そういえば以前から、なぜか黒鋼への気持ちをユゥイに伝えるときは照れ臭いような、むずむずするような不思議な気持ちだった。
「やっぱ人間って鼻が効かないみたい。そっちにいるよりむしろ快適かなー?」
息をするかのごとく口から嘘っぱちが飛び出たが、受話器の向こうのユゥイは気付かなかったようだ。
『そっか。確かにそうかもねぇ。しょうがないな……じゃあ春の間は、まだそっちにいていいよ』
「春の間は……?」
ドキリとする。
それは、この時期が過ぎたら、いよいよ迎えに来るということか……?
『そうだよ。あのね、言っておくけどファイはそこの家の子じゃないんだからね。ボクは君を里子に出したわけでも、ましてや嫁にやったわけでもないんだから』
「お、お嫁さん……!」
『ちょっと……例え話だよ……過剰反応されても困るんだけど』
一瞬ときめきを覚えたものの、流石のファイも「あはは」と笑って否定する。
「やだなー。オレだってバカじゃないよー。お嫁さんになるには女の人じゃないと……」
(……あり?)
『ファイ?』
オスメス関係なく交尾が出来るのなら、結婚はどうなのだろう?
「……出来ないの?」
受話器を耳に当てたまま首を傾げた。
向こう側でユゥイが呆れた顔をしているのが、手に取るようにわかる。
『出来るわけないでしょ……』
「そうなんだ……」
『とにかく。今だけいいとして、それ以降ファイがそこにいる意味なんてもうないでしょ。そっちの時間で春が終わる頃には迎えに行くから。あの黒い人にも言っておいて』
いいね、と念を押されて、ファイは渋々「はい」と返事をすると、耳ごと項垂れた。
――ファイがそこにいる意味なんてもうないでしょ。
電話を切ってからずっと、その言葉が頭の中から離れない。
意味なんて、考えたこともなかった。
ただ黒鋼が好きで、離れたくなくて、それだけの思いでユゥイに我儘を言い続けていた。
女の子になったら、黒鋼の中の好きを全部自分のものに出来ると思っていた。
だが実際はそんなものにならずとも身体を重ねることが出来て、だからと言ってファイの中で何か変わったのかと問われれば、そうじゃない。
好きには色々な形がある。
けれど、どんなに深く口付けても、交尾をしても、ファイの中の『好き』は変わらなかった。
ずっと欠けたままだと思っていたはずのピースが、本当は最初から全て揃っていたのだということに気がついた。答えはずっとファイの中にあったのだ。
人は人を好きになる。人は人に、恋をする。だから性別の壁は人間には関係ない。
ずっと黒鋼は何か特別だとは感じていたけれど、それは紛れもない恋という感情だったのだと、今ならわかる気がしていた。
なぜなら同じオスでも、ファイはユゥイと交尾したいなどとこれまで一度たりとも思ったことがないからだ。
自分がメスか、あるいは彼が女性であったとしても、きっと今の関係は変わらない。
ユゥイへの『好き』は親兄弟への好きで、黒鋼への『好き』はそれとは違っている。
それでもファイには本来、帰るべき場所がある。
どんなに好きでも、住む世界は全く異なっていた。生きている時間軸さえも違うのだ。
忘れていたわけではないけれど。
今この瞬間がどんな未来に繋がっているのかを考えて、ファイはその場から動けなくなった。
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「なんかオレー、カンペキ大人になったって気がするー」
口元にパン屑を散りばめながら、ファイはウキウキと言った。
テレビで朝のワイドショーが流れる中、二人はテーブルを挟んで朝食を摂っていた。
「ねー、お風呂も嫌じゃなくなったよー? 黒たんと一緒だからかなぁ?」
黒鋼は黙々と食事を続けていた。
なんのリアクションもないことに、流石のファイも首を傾げる。
「黒たん? 聞いてる? 疲れてる?」
「……口拭け、口。あと食ってるときにベラベラ喋んな」
「ふぁーい」
言われた通り、ファイは口元を綺麗に拭うと食べかけのパンを全部口の中に収めた。
少し苦しかったが、牛乳でそれを全て流し込む。
「ごちそうさまー!」
その頃には黒鋼も全て食べ終えていて、見れば何やら腕を組んで難しそうな顔をしている。
「ねぇ、やっぱり疲れちゃった? あのあとも……もう一回しちゃったもんね……」
ファイは両手で熱くなっている頬を包むと身体をくねらせる。その瞬間、再び腰が鈍痛に襲われたがあえて気にしない。
そんなことよりも、顔がにやけるのをどうしても抑えられなかった。
そう、あのあともどうにも盛り上がった気持ちを抑えられず、行為に及んだ。
そのせいで未だに下半身が痺れて変な感じだ。なんとなく、まだ黒鋼のものを咥えこんでいるような違和感もある。
けれどファイはこれでもかというほど満たされていた。
疲れ果てた状態で放心しながら風呂場に連れて行かれたが、もうその頃にはファイはほとんど意識が飛んでいた。
そしてまたしても気がつけば黒鋼の腕の中で朝を迎えていた。
もしかしたら自分は、世界一幸せな猫人間かもしれない……なんてファイは本気で思った。
すると悦に浸るファイを暫くじっと眺めたていた黒鋼が、言った。
「いいか、よく聞け」
なにやら神妙な面持ちである。
「なぁに?」
ぺろんと唇を舐めながらファイが首を傾げると、彼は眉間の皺を濃くした。
「これまでのことは、他言無用だ」
「たごんむよう」
「誰彼構わず喋っていいことじゃねぇ。プライベートな問題だからな」
「ぷらいべーとね、なるほどー」
「おまえ、わかってんのか……?」
不信感を露わにしている黒鋼に思わずむっとする。
「わかってるよー。二人だけの秘密ってことでしょ?」
「わかってんならいい。そういうことだ」
腕を組み、ようやく納得した様子で黒鋼は幾度かうんうんと頷いた。
だがすぐにくわっと目を見開いて、怖い顔をさらに険しくさせた。
「特にあの野郎には言うなよ」
「あのやろう……? あ、ユゥイのことだー」
「そうだ。言うときは……俺から言う」
「黒たんが?」
こくり。大きく頷いて見せるのでファイもおとなしく頷いた。
+++
それからさらに数日が過ぎた。
最早ハッキリと自覚できるほどに、ファイの発情の起爆剤は黒鋼に限定されている。
なぜ分かるかといえば、窓を開けてもメス猫の雄たけびを聞いても、全く反応することがなくなったからだった。
せいぜい「今日もお盛んだなぁ」くらいにしか思えなくなって、そこから黒鋼との行為を連想させられたとしても、ある程度は制御が可能になった。……ような気がする。
おそらくは黒鋼という存在が大きな安心感をもたらしているからではないか、とファイは思う。
何も怖いことはないのだと、そう教えてくれたのは彼だった。
そしてそんなある日……。
『こっちでもメス猫がサカってるからね。ファイは一応半分猫だし、そっちで大丈夫なのかなって』
受話器の向こうでユゥイの声がしている。
黒鋼はすぐに戻ると行って出かけてしまった。このあと二人で買い物へ行く予定になっていて、ソワソワしながら待っていたところに、携帯電話が鳴ったのだ。
『聞いてる?』
「う、うん! 聞いてた!」
『怪しいなぁ』
そんなことないよと、見えもしないのにファイは首をぶんぶんと振る。
本音を言えばユゥイに隠し事をするのは胸が痛い。
けれどファイにだって恥じらいというものがあって、黒鋼に念を押されたときにはピンと来なかったが、いざ当人の声を聞いてるうちに、とてもではないが言えそうもない、と思った。
そういえば以前から、なぜか黒鋼への気持ちをユゥイに伝えるときは照れ臭いような、むずむずするような不思議な気持ちだった。
「やっぱ人間って鼻が効かないみたい。そっちにいるよりむしろ快適かなー?」
息をするかのごとく口から嘘っぱちが飛び出たが、受話器の向こうのユゥイは気付かなかったようだ。
『そっか。確かにそうかもねぇ。しょうがないな……じゃあ春の間は、まだそっちにいていいよ』
「春の間は……?」
ドキリとする。
それは、この時期が過ぎたら、いよいよ迎えに来るということか……?
『そうだよ。あのね、言っておくけどファイはそこの家の子じゃないんだからね。ボクは君を里子に出したわけでも、ましてや嫁にやったわけでもないんだから』
「お、お嫁さん……!」
『ちょっと……例え話だよ……過剰反応されても困るんだけど』
一瞬ときめきを覚えたものの、流石のファイも「あはは」と笑って否定する。
「やだなー。オレだってバカじゃないよー。お嫁さんになるには女の人じゃないと……」
(……あり?)
『ファイ?』
オスメス関係なく交尾が出来るのなら、結婚はどうなのだろう?
「……出来ないの?」
受話器を耳に当てたまま首を傾げた。
向こう側でユゥイが呆れた顔をしているのが、手に取るようにわかる。
『出来るわけないでしょ……』
「そうなんだ……」
『とにかく。今だけいいとして、それ以降ファイがそこにいる意味なんてもうないでしょ。そっちの時間で春が終わる頃には迎えに行くから。あの黒い人にも言っておいて』
いいね、と念を押されて、ファイは渋々「はい」と返事をすると、耳ごと項垂れた。
――ファイがそこにいる意味なんてもうないでしょ。
電話を切ってからずっと、その言葉が頭の中から離れない。
意味なんて、考えたこともなかった。
ただ黒鋼が好きで、離れたくなくて、それだけの思いでユゥイに我儘を言い続けていた。
女の子になったら、黒鋼の中の好きを全部自分のものに出来ると思っていた。
だが実際はそんなものにならずとも身体を重ねることが出来て、だからと言ってファイの中で何か変わったのかと問われれば、そうじゃない。
好きには色々な形がある。
けれど、どんなに深く口付けても、交尾をしても、ファイの中の『好き』は変わらなかった。
ずっと欠けたままだと思っていたはずのピースが、本当は最初から全て揃っていたのだということに気がついた。答えはずっとファイの中にあったのだ。
人は人を好きになる。人は人に、恋をする。だから性別の壁は人間には関係ない。
ずっと黒鋼は何か特別だとは感じていたけれど、それは紛れもない恋という感情だったのだと、今ならわかる気がしていた。
なぜなら同じオスでも、ファイはユゥイと交尾したいなどとこれまで一度たりとも思ったことがないからだ。
自分がメスか、あるいは彼が女性であったとしても、きっと今の関係は変わらない。
ユゥイへの『好き』は親兄弟への好きで、黒鋼への『好き』はそれとは違っている。
それでもファイには本来、帰るべき場所がある。
どんなに好きでも、住む世界は全く異なっていた。生きている時間軸さえも違うのだ。
忘れていたわけではないけれど。
今この瞬間がどんな未来に繋がっているのかを考えて、ファイはその場から動けなくなった。
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白猫、開通の巻
多分、さっきまでのように後ろから受け入れた方が楽だったのかもしれない、とは思う。
しかしそれだと黒鋼の顔が見られないし、本当に獣同士の交尾のようで嫌だった。
黒鋼は、ファイが発情した最初の夜に確かに言ったのだ。
おまえを人間として扱う、と。
ファイにはまだ猫の耳も尻尾も残っていて、人間と呼ぶにはあまりにも未完成ではあったけれど。
何も知らず、ただ年齢だけを重ねただけの、子猫のような自分でいるのは嫌で、出来ることならちゃんと、彼の隣にいて恥ずかしくない自分になりたくて。
猫である自分の存在意義を否定する真似は絶対にしないけれど、黒鋼とこうしているときだけは、同じ存在でありたいと願った。
ただ可愛がられて、与えられるだけの猫ではなく、人として愛されたいから。
シーツに仰向けになって、両足を大きく開く。
両肘をついて少しだけ上半身を浮かせて、ファイは自身を掴んで穴に宛がう黒鋼の手元を見つめた。
ドキドキという心臓の音が、頭の中にまで響いて突き抜けて行きそうだった。
身体の中心にぐっと押しつけられた彼の性器にも、潤滑剤がこれでもかというくらい塗りたくられていた。肝心の受け入れ場所へも、あの後さらに塗り込められたし、多分、もう大丈夫だ。
「いいか」
「……うん」
「ゆっくり息してろ」
「……う、ん」
それでも少し緊張に上ずったファイの声を聞いて、黒鋼は手の平をファイの下腹部にそっと押し当てた。
「黒たん……?」
「何も怖くねぇから。おまえを全部、俺に寄こせ」
「!」
息を飲んでから、知らず知らずのうちに入っていた肩の力が抜けていくのを感じた。
ああそうか、オレはこの人のものになれるんだ。
そう思った。
助けてもらうばかりで、頼るばかりで、甘えるばかりで、情けないこんな自分だけど。
あげられるものが、ちゃんとあった。
全身で愛して、そして愛されることが出来るのだ。
「ッ……、ぁ……!」
ゆっくりと、黒鋼の手がファイの両膝にかかり、腰が前進してくる。
ぐっと圧がかかり、こじ開けるようにして先端が潜り込んできたとき、少しだけ苦しくてファイは喉を反らした。
けれど、それだけだった。
ファイにしてみれば一瞬のことだったけれど、ふと下腹部に黒鋼の汗がポタリと落ちたのを感じて、彼がどれほど慎重に時間をかけて行為に及ぼうとしているかを改めて知った。
「平気か?」
まだ全て納め切らないうちから、黒鋼はファイを見て問いかけてくる。
なぜか目頭が熱くなって、鼻をすすってしまったのを彼は勘違いしたらしい。
「おい、ここで止めとくか?」
「もう! 違うよぉ……」
両方の膝頭を掴んでいた黒鋼の手首に手を伸ばす。それぞれ両方をぎゅっと掴んで、そっと引き寄せた。
黒鋼の身体が覆いかぶさって来る。体勢的にさらに苦しくはなったけれど、それでも構わず首に両腕を絡めた。
「平気だから……きて……もっと奥まで……」
「……煽るなよ」
つう、と黒鋼の首筋に汗が伝う。堪らず舌を這わせて舐め取ると、黒鋼が小さく「くそ」と呟いた。
ギリギリの状態が伝わるほどに、ファイの胸が歓喜に粟立つ。
「はっ、ぁ、んッ、く、ぅ……!」
ゆっくりと、指とはまるで違うものが中に押し入って来る。たっぷりと濡らしたそこは、黒鋼の努力もあってか痛みはない。
だが、異物感は半端なかった。下腹部を内部から圧迫されるような感覚に、溺れるような息苦しさを感じて薄い胸を上下させた。
やがて黒鋼が深い息を吐き出した。
受け入れている場所の肉が、ギリギリまで押し広げられているのが分かって、酷く痺れていた。
「はいっ、た……?」
「おう」
「ぜんぶ……?」
「苦しいか……?」
「んっ、少し……でも、嬉しい……」
身体の中に大好きな人がいる。今、自分と彼の間には一切の隔たりがないように思えた。
ファイは痛いほど割り開いた両足を、黒鋼の腰に絡めた。さらに引き寄せるようにして、それでも足りない気がして尻尾を彼の太ももにまで巻きつける。
すると堪らなくなったのか、黒鋼が一度緩く腰を揺らす。
「ヒッ、ぁ……!」
「あんまり、ッ、もちそうもねぇな……」
最初はただ揺さぶるだけの動き。二人でゆらゆらと小さく揺れながら、お互いを馴染ませるような優しい行為が続く。
すでに復活しているファイの性器も、そのたびに微かに震えた。
そうして少しずつ、ゆっくりとリズムが早まり、同時にファイの腰も揺れる。
互いに呼吸のリズムを合わせながらの抽挿は、内壁を強く擦られる感覚と一緒に、内蔵まで引きずり出されるような恐怖さえ生みだした。
痛むとすれば、それは中で黒鋼が例の場所を掠める度にはち切れそうになる、性器の方だった。
息を吸って吐くだけでも、甘い声が抑えられない。
「もっ、はあッ、ダメ、そこ、ダメ、こすっちゃ、ぁ……!」
恥ずかしいくらいビクビクと跳ねる身体で、ファイは必死で逞しい身体に縋りつく。
広い背中を掻き抱く度に無意識に爪を立てて、その甘い痛みに黒鋼も熱い息を零し続けた。
視界が赤く点滅する。本当におかしくなってしまうのではないかと、涙を零しながらしゃくり上げた。
そして遂に限界が訪れ、ファイは声もなく達した。
ほぼ同時に低く呻いた黒鋼は、一気に引き抜いた性器から吐き出したものを、ファイの腹にぶちまけた。
二人分のそれが混ざり合って、どちらのものか分からなくなる。
ファイは絶頂感に意識を飲みこまれ、暗転してゆく視界の中で黒鋼に手を伸ばす。
その手を彼がしっかりと取り、指を絡め合うようにして合わされたところで、意識がぶっつりと途切れた。
+++
口元を指先で拭われる感触に、ファイは意識を回復させた。ハッとしてすぐ視線を動かせば、すぐ傍に黒鋼の顔がある。
「おまえの口は本当に締りがねぇな」
「ふぇ……?」
どうやら黒鋼の腕の中で、よだれを垂らして眠りこけていたらしい。
「また寝ちゃった……?」
「一時間ちょいな」
「黒たんも寝たの?」
「起きてた」
「……もしかしてずっと」
「見てた。寝顔」
サラリと言われた言葉がとんでもなく恥ずかしくて、ファイは真っ赤になった顔を両手で隠す。
「なんだよ」
「……なんでもにゃいよぅ」
「そうか」
真顔でそんなことを言われても、どうしたらいいか分からない。
今更になってよだれを垂らしていたことまで恥ずかしくなってきて、これからはいつ寝ても大丈夫なように、常にマスクをしようかな、と本気で考える。
「身体、平気か」
「うへぇ?」
「なに妙な声出してんだよ」
誰のせいだよ、と思いながらもファイは小さく首を傾げる。
「わかんない……けど、ちょっと痺れて重たい感じ……?」
ファイは微かに身じろいで、自分の身体の感覚を確かめる。重い痺れを感じるのは、主に腰から下のようだった。
そんなファイを、黒鋼は眉間に皺を寄せつつ気遣わしげに見つめる。
「あ、でも平気だよ。痛くなかったし……気持ちよかった、と……思う……」
「そうか……」
黒鋼は頬をガリガリと掻きながら視線だけそっぽを向いた。だがその表情には安堵の色が浮かんでいるような気がした。
笑顔でもう一度「うん」と返事をする。そのままなんとなく無言の状態が続く中、ファイはふと何気なく自分の指先に視線をやった。
「え!?」
「なんだ?」
「なにこれ?!」
咄嗟に飛び起きようとして、腰に鈍痛が走る。本番中は平気だったのに、今更になって微妙に痛みだすとは、なんて根性のない身体だ……と思いつつ、黒鋼に支えられてどうにか身を起こす。
「なんだよ?」
「ちょ、なんでオレの爪赤くなってるの……?」
見れば、爪に赤い血のようなものが付着している。
一瞬混乱して、それからすぐに「あ!」と声を上げた。黒鋼の肩を押しながらその背中を覗きこんで、青ざめる。
そこには、無数の引っかき傷が痛々しく刻まれていた。
「これ……オレが……」
無意識だったとはいえ、血が出るほど引っ掻いてしまうなんて。
見ているこちらが辛くて、少し泣きそうになった。
「いいだろ、別に」
当の黒鋼は平然とした顔で自分の首筋をボリボリと掻いたあと、ファイの首筋の一点を指先で突いた。
「!」
ファイの首筋や、体中に散らばるそれは、黒鋼が刻んだもの。
所有の証。
動物のように匂いをつけることは出来ないから、だから。
「これと一緒だ」
そう言って、彼は口元だけで笑った。
再びふいをつかれたような気になって、ファイは首筋まで真っ赤になりながら「バカ」と小さく呟いた。
←戻る ・ 次へ→
多分、さっきまでのように後ろから受け入れた方が楽だったのかもしれない、とは思う。
しかしそれだと黒鋼の顔が見られないし、本当に獣同士の交尾のようで嫌だった。
黒鋼は、ファイが発情した最初の夜に確かに言ったのだ。
おまえを人間として扱う、と。
ファイにはまだ猫の耳も尻尾も残っていて、人間と呼ぶにはあまりにも未完成ではあったけれど。
何も知らず、ただ年齢だけを重ねただけの、子猫のような自分でいるのは嫌で、出来ることならちゃんと、彼の隣にいて恥ずかしくない自分になりたくて。
猫である自分の存在意義を否定する真似は絶対にしないけれど、黒鋼とこうしているときだけは、同じ存在でありたいと願った。
ただ可愛がられて、与えられるだけの猫ではなく、人として愛されたいから。
シーツに仰向けになって、両足を大きく開く。
両肘をついて少しだけ上半身を浮かせて、ファイは自身を掴んで穴に宛がう黒鋼の手元を見つめた。
ドキドキという心臓の音が、頭の中にまで響いて突き抜けて行きそうだった。
身体の中心にぐっと押しつけられた彼の性器にも、潤滑剤がこれでもかというくらい塗りたくられていた。肝心の受け入れ場所へも、あの後さらに塗り込められたし、多分、もう大丈夫だ。
「いいか」
「……うん」
「ゆっくり息してろ」
「……う、ん」
それでも少し緊張に上ずったファイの声を聞いて、黒鋼は手の平をファイの下腹部にそっと押し当てた。
「黒たん……?」
「何も怖くねぇから。おまえを全部、俺に寄こせ」
「!」
息を飲んでから、知らず知らずのうちに入っていた肩の力が抜けていくのを感じた。
ああそうか、オレはこの人のものになれるんだ。
そう思った。
助けてもらうばかりで、頼るばかりで、甘えるばかりで、情けないこんな自分だけど。
あげられるものが、ちゃんとあった。
全身で愛して、そして愛されることが出来るのだ。
「ッ……、ぁ……!」
ゆっくりと、黒鋼の手がファイの両膝にかかり、腰が前進してくる。
ぐっと圧がかかり、こじ開けるようにして先端が潜り込んできたとき、少しだけ苦しくてファイは喉を反らした。
けれど、それだけだった。
ファイにしてみれば一瞬のことだったけれど、ふと下腹部に黒鋼の汗がポタリと落ちたのを感じて、彼がどれほど慎重に時間をかけて行為に及ぼうとしているかを改めて知った。
「平気か?」
まだ全て納め切らないうちから、黒鋼はファイを見て問いかけてくる。
なぜか目頭が熱くなって、鼻をすすってしまったのを彼は勘違いしたらしい。
「おい、ここで止めとくか?」
「もう! 違うよぉ……」
両方の膝頭を掴んでいた黒鋼の手首に手を伸ばす。それぞれ両方をぎゅっと掴んで、そっと引き寄せた。
黒鋼の身体が覆いかぶさって来る。体勢的にさらに苦しくはなったけれど、それでも構わず首に両腕を絡めた。
「平気だから……きて……もっと奥まで……」
「……煽るなよ」
つう、と黒鋼の首筋に汗が伝う。堪らず舌を這わせて舐め取ると、黒鋼が小さく「くそ」と呟いた。
ギリギリの状態が伝わるほどに、ファイの胸が歓喜に粟立つ。
「はっ、ぁ、んッ、く、ぅ……!」
ゆっくりと、指とはまるで違うものが中に押し入って来る。たっぷりと濡らしたそこは、黒鋼の努力もあってか痛みはない。
だが、異物感は半端なかった。下腹部を内部から圧迫されるような感覚に、溺れるような息苦しさを感じて薄い胸を上下させた。
やがて黒鋼が深い息を吐き出した。
受け入れている場所の肉が、ギリギリまで押し広げられているのが分かって、酷く痺れていた。
「はいっ、た……?」
「おう」
「ぜんぶ……?」
「苦しいか……?」
「んっ、少し……でも、嬉しい……」
身体の中に大好きな人がいる。今、自分と彼の間には一切の隔たりがないように思えた。
ファイは痛いほど割り開いた両足を、黒鋼の腰に絡めた。さらに引き寄せるようにして、それでも足りない気がして尻尾を彼の太ももにまで巻きつける。
すると堪らなくなったのか、黒鋼が一度緩く腰を揺らす。
「ヒッ、ぁ……!」
「あんまり、ッ、もちそうもねぇな……」
最初はただ揺さぶるだけの動き。二人でゆらゆらと小さく揺れながら、お互いを馴染ませるような優しい行為が続く。
すでに復活しているファイの性器も、そのたびに微かに震えた。
そうして少しずつ、ゆっくりとリズムが早まり、同時にファイの腰も揺れる。
互いに呼吸のリズムを合わせながらの抽挿は、内壁を強く擦られる感覚と一緒に、内蔵まで引きずり出されるような恐怖さえ生みだした。
痛むとすれば、それは中で黒鋼が例の場所を掠める度にはち切れそうになる、性器の方だった。
息を吸って吐くだけでも、甘い声が抑えられない。
「もっ、はあッ、ダメ、そこ、ダメ、こすっちゃ、ぁ……!」
恥ずかしいくらいビクビクと跳ねる身体で、ファイは必死で逞しい身体に縋りつく。
広い背中を掻き抱く度に無意識に爪を立てて、その甘い痛みに黒鋼も熱い息を零し続けた。
視界が赤く点滅する。本当におかしくなってしまうのではないかと、涙を零しながらしゃくり上げた。
そして遂に限界が訪れ、ファイは声もなく達した。
ほぼ同時に低く呻いた黒鋼は、一気に引き抜いた性器から吐き出したものを、ファイの腹にぶちまけた。
二人分のそれが混ざり合って、どちらのものか分からなくなる。
ファイは絶頂感に意識を飲みこまれ、暗転してゆく視界の中で黒鋼に手を伸ばす。
その手を彼がしっかりと取り、指を絡め合うようにして合わされたところで、意識がぶっつりと途切れた。
+++
口元を指先で拭われる感触に、ファイは意識を回復させた。ハッとしてすぐ視線を動かせば、すぐ傍に黒鋼の顔がある。
「おまえの口は本当に締りがねぇな」
「ふぇ……?」
どうやら黒鋼の腕の中で、よだれを垂らして眠りこけていたらしい。
「また寝ちゃった……?」
「一時間ちょいな」
「黒たんも寝たの?」
「起きてた」
「……もしかしてずっと」
「見てた。寝顔」
サラリと言われた言葉がとんでもなく恥ずかしくて、ファイは真っ赤になった顔を両手で隠す。
「なんだよ」
「……なんでもにゃいよぅ」
「そうか」
真顔でそんなことを言われても、どうしたらいいか分からない。
今更になってよだれを垂らしていたことまで恥ずかしくなってきて、これからはいつ寝ても大丈夫なように、常にマスクをしようかな、と本気で考える。
「身体、平気か」
「うへぇ?」
「なに妙な声出してんだよ」
誰のせいだよ、と思いながらもファイは小さく首を傾げる。
「わかんない……けど、ちょっと痺れて重たい感じ……?」
ファイは微かに身じろいで、自分の身体の感覚を確かめる。重い痺れを感じるのは、主に腰から下のようだった。
そんなファイを、黒鋼は眉間に皺を寄せつつ気遣わしげに見つめる。
「あ、でも平気だよ。痛くなかったし……気持ちよかった、と……思う……」
「そうか……」
黒鋼は頬をガリガリと掻きながら視線だけそっぽを向いた。だがその表情には安堵の色が浮かんでいるような気がした。
笑顔でもう一度「うん」と返事をする。そのままなんとなく無言の状態が続く中、ファイはふと何気なく自分の指先に視線をやった。
「え!?」
「なんだ?」
「なにこれ?!」
咄嗟に飛び起きようとして、腰に鈍痛が走る。本番中は平気だったのに、今更になって微妙に痛みだすとは、なんて根性のない身体だ……と思いつつ、黒鋼に支えられてどうにか身を起こす。
「なんだよ?」
「ちょ、なんでオレの爪赤くなってるの……?」
見れば、爪に赤い血のようなものが付着している。
一瞬混乱して、それからすぐに「あ!」と声を上げた。黒鋼の肩を押しながらその背中を覗きこんで、青ざめる。
そこには、無数の引っかき傷が痛々しく刻まれていた。
「これ……オレが……」
無意識だったとはいえ、血が出るほど引っ掻いてしまうなんて。
見ているこちらが辛くて、少し泣きそうになった。
「いいだろ、別に」
当の黒鋼は平然とした顔で自分の首筋をボリボリと掻いたあと、ファイの首筋の一点を指先で突いた。
「!」
ファイの首筋や、体中に散らばるそれは、黒鋼が刻んだもの。
所有の証。
動物のように匂いをつけることは出来ないから、だから。
「これと一緒だ」
そう言って、彼は口元だけで笑った。
再びふいをつかれたような気になって、ファイは首筋まで真っ赤になりながら「バカ」と小さく呟いた。
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白猫、大ショックの巻
黒鋼のバイトが休みの日。
ファイと黒鋼は、膝を突き合わせて布団の上にいた。
正座する黒鋼と、正座の出来ないファイはぺったりと女子のように座って、なんとなく無言で俯き合っていた。
この一週間、ドロドロに溶けそうなくらい爛れた生活を送っていたにも関わらず、こうして改めて、となるとえらく気恥ずかしい。
相手がいるのといないのとで、これほど違うなんて。自慰は終わった後とんでもなく後悔するが、始める瞬間に羞恥心がない点だけはいいような気がする。
ゴホン、という咳払いが聞こえた。
ファイがハッとして顔を上げると、黒鋼の少し緊張した面持ちがあった。
「……するか」
「……はい」
そうして、どこか初々しい二人の夜が幕を開けた。
+++
「ん、ん……んぅ……」
四つん這いで布団にしがみつき、尻だけを高く黒鋼に突き出すように掲げて、ファイは小さく呻いていた。
いつものように裸になって愛撫に始まり、お互い一度ずつ達するところまでは同じだった。
だが、今夜はその先を行くのだ。
この態勢が楽だろうと言われて取ってはみたものの、明かりのついた部屋で相手に思いっきり見られているというのは、信じがたいほどの羞恥心があった。
大きな両手に尻を掴まれ、それぞれ二本の親指によって中心付近の肉を揉み解される。
その感覚にも背筋を駆け抜ける感覚があって、ファイは尻尾をピンと天井へ真っすぐ向けて震わせながら、熱い息を吐き出した。
「は、ぅ」
「力抜いて、楽にしてろよ」
「ぅん……」
付近の筋肉を解すのは、下準備の一つらしい。
どうやら黒鋼も男性との経験は初めてのようだが、やけに詳しいことを訊ねると、彼はとんでもなく言いにくそうに、そして照れ臭そうに「調べた」とだけ短く答えた。
そうまでして気遣ってくれること、そして求めてくれることが嬉しくて、ファイはちょっとやそっとの恥ずかしさくらい、我慢してみせると心に決めた。
入念に時間をかけたマッサージが終わると、ファイは下半身が全体的に熱くなっていることに気がついた。
黒鋼の手が離れたことで少し身体の力が抜けて「ふぅ」と息を吐き出していると、今度はいつもとは違う、ぬるりとした感触が中心の穴をなぞった。
「!?」
ちょっと首を捻って背後を見ても、胡坐をかいた黒鋼が視線を落としている様子しか見えない。
いつもは主に体液で湿らせて潜り込んでくるはずの指が、その謎の滑りによって一気に入り込んできて、ファイは背を反らせて腰を跳ねさせる。
「やっぱ違うな、使うと」
「な、なに、を~……?」
「これだ」
ポン、とすぐ横に青い蓋に白いボディの小さな容器が置かれた。
「わ、せ、りん?」
漢字はまだ不慣れだが、カタカナで書かれたその文字は読めた。
この時点ですでに黒鋼の指が身体の中にすっぽり入りこんでいるのだが、気になりつつも好奇心には勝てなかった。
蓋を開けて、中身の匂いを嗅いでみたが無臭だった。
なるほど、これが正しい用法かは知らないが、潤滑剤になるということか。
「ふっしぎー、そして便利ー……」
「遊んでんな」
「ッ!」
中に指を入れて感触を確かめたりしていると、ファイの中に入り込んだ黒鋼の人差指が、グルリと内壁をなぞった。
背後から伸びてきた手によって、白い容器も回収されてしまう。
ファイは敷布団のシーツをぎゅっと握って頬を擦りつけながら、逃げ出したくなる感覚にひたすら耐えた。
黒鋼はじっくりと時間をかけて、時折ワセリンを足しながらファイの中を解す。
二本の指をすっぽりと飲みこむ頃には、ファイは全身にうっすら汗をかいて、中を広げるようにしながら出入りする感覚に切なく喘いでいた。
そこはいつもより大きくいやらしい水音を立て、驚くほどスムーズに指を飲みこんでいる。
潤滑剤の効果はここまで絶大なのかと驚く反面、おかげでそこに多少の余裕が生まれている気がした。
余裕とは、つまりこの場合は物足りなさのことで、ファイは無意識に腰をむずむずと揺らしていた。
「ね、ぇ、黒、たっ……」
「ん」
「もう、いい、よ……」
ファイの気持ちとしては、もう存分に準備は整っているように感じられた。
一週間近くも時間をかけてゆっくりと慣らされてきたそこは、潤滑剤の力を借りて今、十分に柔らかく溶かされている。
黒鋼は、ファイの耳に届くか届かないかの小さな声で「そうだな」と呟いた。
けれど潜り込んだ人差指と中指は出ていかない。急かすようにきゅう、と締め付けると、彼は少しだけ笑った。
「余裕ありそうだな」
「ぅ、ん……ある……余裕あるから……それ、足りない……」
ファイの性器は、すでに腹につくほどそそり立っている。堪え切れずに糸を引く先走りがシーツにシミを作っていた。
それ以上のものなんて受け入れたこともないのに、ファイはそこをもっと太いもので穿たれる未知の感覚に身も心も焦がれている。
「早く……」
「ちょっと待てよ」
黒鋼は短くそう言うと、ファイの腰を掴んで中に押し込んでいる指をぐにぐにと動かした。
「あぁ……ッ、ぁ、や、だ……」
何かを探っているようにも思えるその動きに腰が跳ねる。けれどしっかりと掴まれていて、逃げることも出来ない。
やがて、黒鋼の指がとある一点を掠めた。
「ッ――!?」
たった一瞬撫でられただけで、目の前で火花が散った。
ぐんと背筋を反らして跳ねあがったその反応を見て、黒鋼は「なるほど」と呟く。
あやうく達する寸前だったファイは、息も絶え絶えに全身を小刻みに痙攣させる。
「なっ、な、なに……ッ、今のぉ……?」
「これか?」
「ひぁぁ……ッ! そっ、こっ、ダメ、ぐりぐりしちゃ……!!」
「案外簡単に見つけられるもんだな、ほれ、ここだ」
「ヒ、ィッ、あ、ぁ――ッ!!」
「……あ」
ファイが勢いよく射精するのと同時に、黒鋼が間抜けな声を上げる。
全身を引き攣らせたファイは、ほぼ強制的に絶頂まで押し上げられてしまった。
「ひ、ぅ……ぁ、ぁ……」
喉を引き攣らせ、くったりと横倒しに崩れ落ちてしまったファイは、一瞬の出来事があまりにショックで涙を零す。
カタカタという震えが止まらない。尻尾がぶわっと大きく膨れ上がっていた。
今のは一体なんなのか。黒鋼がどこかは知らないが、とある一点に触れただけで、前を触ってもいないのにイッてしまうなんて。
こんなことは今まで一度もなかったはずなのに。
「おい、大丈夫か……?」
横倒しになった状態で身を震わせるファイの顔を、四つん這いになって身を乗り出すようにした黒鋼が覗きこんでくる。
流石の彼も、多少は困惑気味だった。自分でやったくせに。
「ビックリさせちまったか……悪い……」
ショック状態で身動きが取れないでいたファイは、大きな手が耳や髪を撫でる感触にハッと我に返った。
そして、思いっきり黒鋼の首に両腕を回してしがみついた。
「うわあぁぁん黒たんのバカぁー!!」
「ぉわ!?」
「泣くとこだったじゃんかーっ!!」
「もう泣いてんじゃねぇか……落ち着けって……」
これが落ち着いていられるか。理解不能な人体の不思議によって、ファイは思いっきり混乱している。
「前立腺だ。まさかここまでとは……それともおまえが敏感すぎるのか?」
「あんなの……頭おかしくなっちゃうよ……」
「いいんじゃねぇか? なっても」
「バカぁ……」
そう言いながらも、ファイは黒鋼の身体の中心が気になって仕方がない。
いまだにショックは引きずりつつも、そしてどんな形にしても、自分一人だけ気持ちよくなってしまったのが少し悔しかった。
「ねぇ」
「!」
スルリと尻尾を動かして、先端で黒鋼の勃起した性器を撫でた。
「便利なアイテムだな、つくづく」
くるんと竿部分に巻きつけると、彼は苦笑しながらファイの唇にキスを落とした。
胸が苦しいほどドキドキと高鳴る。尻尾に感じる黒鋼のものが熱くて硬くて、達したばかりにも関わらず興奮が治まらない。
「交尾、しようよ」
精一杯の誘い文句のつもりだったが、黒鋼は「その言い方はやめろ」と言いながら、やっぱり苦笑した。
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黒鋼のバイトが休みの日。
ファイと黒鋼は、膝を突き合わせて布団の上にいた。
正座する黒鋼と、正座の出来ないファイはぺったりと女子のように座って、なんとなく無言で俯き合っていた。
この一週間、ドロドロに溶けそうなくらい爛れた生活を送っていたにも関わらず、こうして改めて、となるとえらく気恥ずかしい。
相手がいるのといないのとで、これほど違うなんて。自慰は終わった後とんでもなく後悔するが、始める瞬間に羞恥心がない点だけはいいような気がする。
ゴホン、という咳払いが聞こえた。
ファイがハッとして顔を上げると、黒鋼の少し緊張した面持ちがあった。
「……するか」
「……はい」
そうして、どこか初々しい二人の夜が幕を開けた。
+++
「ん、ん……んぅ……」
四つん這いで布団にしがみつき、尻だけを高く黒鋼に突き出すように掲げて、ファイは小さく呻いていた。
いつものように裸になって愛撫に始まり、お互い一度ずつ達するところまでは同じだった。
だが、今夜はその先を行くのだ。
この態勢が楽だろうと言われて取ってはみたものの、明かりのついた部屋で相手に思いっきり見られているというのは、信じがたいほどの羞恥心があった。
大きな両手に尻を掴まれ、それぞれ二本の親指によって中心付近の肉を揉み解される。
その感覚にも背筋を駆け抜ける感覚があって、ファイは尻尾をピンと天井へ真っすぐ向けて震わせながら、熱い息を吐き出した。
「は、ぅ」
「力抜いて、楽にしてろよ」
「ぅん……」
付近の筋肉を解すのは、下準備の一つらしい。
どうやら黒鋼も男性との経験は初めてのようだが、やけに詳しいことを訊ねると、彼はとんでもなく言いにくそうに、そして照れ臭そうに「調べた」とだけ短く答えた。
そうまでして気遣ってくれること、そして求めてくれることが嬉しくて、ファイはちょっとやそっとの恥ずかしさくらい、我慢してみせると心に決めた。
入念に時間をかけたマッサージが終わると、ファイは下半身が全体的に熱くなっていることに気がついた。
黒鋼の手が離れたことで少し身体の力が抜けて「ふぅ」と息を吐き出していると、今度はいつもとは違う、ぬるりとした感触が中心の穴をなぞった。
「!?」
ちょっと首を捻って背後を見ても、胡坐をかいた黒鋼が視線を落としている様子しか見えない。
いつもは主に体液で湿らせて潜り込んでくるはずの指が、その謎の滑りによって一気に入り込んできて、ファイは背を反らせて腰を跳ねさせる。
「やっぱ違うな、使うと」
「な、なに、を~……?」
「これだ」
ポン、とすぐ横に青い蓋に白いボディの小さな容器が置かれた。
「わ、せ、りん?」
漢字はまだ不慣れだが、カタカナで書かれたその文字は読めた。
この時点ですでに黒鋼の指が身体の中にすっぽり入りこんでいるのだが、気になりつつも好奇心には勝てなかった。
蓋を開けて、中身の匂いを嗅いでみたが無臭だった。
なるほど、これが正しい用法かは知らないが、潤滑剤になるということか。
「ふっしぎー、そして便利ー……」
「遊んでんな」
「ッ!」
中に指を入れて感触を確かめたりしていると、ファイの中に入り込んだ黒鋼の人差指が、グルリと内壁をなぞった。
背後から伸びてきた手によって、白い容器も回収されてしまう。
ファイは敷布団のシーツをぎゅっと握って頬を擦りつけながら、逃げ出したくなる感覚にひたすら耐えた。
黒鋼はじっくりと時間をかけて、時折ワセリンを足しながらファイの中を解す。
二本の指をすっぽりと飲みこむ頃には、ファイは全身にうっすら汗をかいて、中を広げるようにしながら出入りする感覚に切なく喘いでいた。
そこはいつもより大きくいやらしい水音を立て、驚くほどスムーズに指を飲みこんでいる。
潤滑剤の効果はここまで絶大なのかと驚く反面、おかげでそこに多少の余裕が生まれている気がした。
余裕とは、つまりこの場合は物足りなさのことで、ファイは無意識に腰をむずむずと揺らしていた。
「ね、ぇ、黒、たっ……」
「ん」
「もう、いい、よ……」
ファイの気持ちとしては、もう存分に準備は整っているように感じられた。
一週間近くも時間をかけてゆっくりと慣らされてきたそこは、潤滑剤の力を借りて今、十分に柔らかく溶かされている。
黒鋼は、ファイの耳に届くか届かないかの小さな声で「そうだな」と呟いた。
けれど潜り込んだ人差指と中指は出ていかない。急かすようにきゅう、と締め付けると、彼は少しだけ笑った。
「余裕ありそうだな」
「ぅ、ん……ある……余裕あるから……それ、足りない……」
ファイの性器は、すでに腹につくほどそそり立っている。堪え切れずに糸を引く先走りがシーツにシミを作っていた。
それ以上のものなんて受け入れたこともないのに、ファイはそこをもっと太いもので穿たれる未知の感覚に身も心も焦がれている。
「早く……」
「ちょっと待てよ」
黒鋼は短くそう言うと、ファイの腰を掴んで中に押し込んでいる指をぐにぐにと動かした。
「あぁ……ッ、ぁ、や、だ……」
何かを探っているようにも思えるその動きに腰が跳ねる。けれどしっかりと掴まれていて、逃げることも出来ない。
やがて、黒鋼の指がとある一点を掠めた。
「ッ――!?」
たった一瞬撫でられただけで、目の前で火花が散った。
ぐんと背筋を反らして跳ねあがったその反応を見て、黒鋼は「なるほど」と呟く。
あやうく達する寸前だったファイは、息も絶え絶えに全身を小刻みに痙攣させる。
「なっ、な、なに……ッ、今のぉ……?」
「これか?」
「ひぁぁ……ッ! そっ、こっ、ダメ、ぐりぐりしちゃ……!!」
「案外簡単に見つけられるもんだな、ほれ、ここだ」
「ヒ、ィッ、あ、ぁ――ッ!!」
「……あ」
ファイが勢いよく射精するのと同時に、黒鋼が間抜けな声を上げる。
全身を引き攣らせたファイは、ほぼ強制的に絶頂まで押し上げられてしまった。
「ひ、ぅ……ぁ、ぁ……」
喉を引き攣らせ、くったりと横倒しに崩れ落ちてしまったファイは、一瞬の出来事があまりにショックで涙を零す。
カタカタという震えが止まらない。尻尾がぶわっと大きく膨れ上がっていた。
今のは一体なんなのか。黒鋼がどこかは知らないが、とある一点に触れただけで、前を触ってもいないのにイッてしまうなんて。
こんなことは今まで一度もなかったはずなのに。
「おい、大丈夫か……?」
横倒しになった状態で身を震わせるファイの顔を、四つん這いになって身を乗り出すようにした黒鋼が覗きこんでくる。
流石の彼も、多少は困惑気味だった。自分でやったくせに。
「ビックリさせちまったか……悪い……」
ショック状態で身動きが取れないでいたファイは、大きな手が耳や髪を撫でる感触にハッと我に返った。
そして、思いっきり黒鋼の首に両腕を回してしがみついた。
「うわあぁぁん黒たんのバカぁー!!」
「ぉわ!?」
「泣くとこだったじゃんかーっ!!」
「もう泣いてんじゃねぇか……落ち着けって……」
これが落ち着いていられるか。理解不能な人体の不思議によって、ファイは思いっきり混乱している。
「前立腺だ。まさかここまでとは……それともおまえが敏感すぎるのか?」
「あんなの……頭おかしくなっちゃうよ……」
「いいんじゃねぇか? なっても」
「バカぁ……」
そう言いながらも、ファイは黒鋼の身体の中心が気になって仕方がない。
いまだにショックは引きずりつつも、そしてどんな形にしても、自分一人だけ気持ちよくなってしまったのが少し悔しかった。
「ねぇ」
「!」
スルリと尻尾を動かして、先端で黒鋼の勃起した性器を撫でた。
「便利なアイテムだな、つくづく」
くるんと竿部分に巻きつけると、彼は苦笑しながらファイの唇にキスを落とした。
胸が苦しいほどドキドキと高鳴る。尻尾に感じる黒鋼のものが熱くて硬くて、達したばかりにも関わらず興奮が治まらない。
「交尾、しようよ」
精一杯の誘い文句のつもりだったが、黒鋼は「その言い方はやめろ」と言いながら、やっぱり苦笑した。
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『バレンタインは愛情たっぷりの手作りチョコで決まり!
これで愛しの彼のハートを、ぎゅうっと掴んじゃいましょう!!』
黒鋼を送り出し、朝食の後片付けを終えてひと段落ついたファイの目に、朝のワイドショーで組まれた特集が目に飛び込んできた。
全体的にピンク色の濃い画面と、愛しの彼のハート、という言葉に思わず釘付けになってしまう。特集の内容は、誰でも簡単にオシャレな手作りチョコを作れてしまう便利グッズの紹介、というものだった。
「バレンタインかー」
そのイベントはもちろん知っている。
女の子が、好きな男性にチョコレートを贈って愛を伝える日だと、確かそう聞いた。
とはいえ、最近は女子同士で友チョコというものを交換したり、男性から女性に贈るというのも流行っているらしい。
つまり家族や友達や恋人など、自分が大切に思う人への感謝の気持ちを、チョコに乗せてプレゼントする日なのだと、ファイはそう解釈した。
そして、ファイがチョコレートを受け取ってほしい相手は、やはり黒鋼だった。友人でも家族でもなく、恋人として、である。
「んー、でもなぁー」
若干前のめりになってテレビを眺めていたが、すぐに首を傾げてしまう。
いくら愛しの黒鋼が相手といえども、一応は男性である自分がチョコを渡すのは、やっぱりおかしいだろうか?
テレビでは女の子が友達や男性にチョコを渡している風景は流れても、男同士でという話は一切ない。
世間では、そこにどんな理由があろうとも、男が男にチョコを渡すという行為は、一般的ではないのかもしれない。
しかし。
ファイは思わず、セーターの襟元をひょいっと指先に引っかけて、その下の自分の素肌に視線を落とした。
鬱血した小さな痕が、白い肌の上に幾つも散らばっているのが見える。
薄くなって消えかけてもすぐに上書きされる、それは所有の証だった。
つい数日前の夜のことを思い出し、ファイは耳まで熱くなるのを感じてパタパタと掌で顔を煽いだ。
つまり、女の子ではないけれど、女の子にするみたいなことをされて、女の子みたいな声を上げているわけで。
だから好きな人にチョコを渡しても、別にそれは変なことではないような気がする。
それに、テレビで放送されていることだけが事実ではないことを、ファイはちゃんと理解しているのだ。
自分たち以外にも、世の中には同性同士で愛を育んでいるカップルが、沢山いるに違いないのだから。
ファイがこの世界に来てそろそろ一年。せっかく初めてのバレンタインを迎えるのだし、愛情だけでなく、何かしら形にして日ごろの感謝の気持ちも伝えたい、という思いもあった。
「うん、だから変じゃない!」
何か大切なことを忘れているような気がしたが、今は他に何も考えられないくらい心が浮きたっていた。
+++
そういうわけで、ファイは長きにわたる人生で初めて、手作りチョコに挑戦してみることにした。
だが、テレビで見たようなものを使って、手軽にちょちょいっと作ってしまう……というのでは、いまいち納得がいかなかった。
コンビニやスーパーに並んでいるような、すでに完成された義理チョコなら失敗はないとは思うが、せっかくやる気満々になっているのだし、愛情をたっぷり練り込みたい。
やるなら手間暇をかけてガッツリやってこそだと思ったファイは、ちゃんとした手作りチョコの作り方を調べることにした。
そして途方に暮れた。
+++
「ファイ、ケーキ焼いたからお茶しよう」
いつものようにユゥイがファイの顔を見にドロンと姿を現すと、そこには畳に突っ伏して打ち震えるファイの姿があった。
「え、なに? なんでそんな世界の終末みたいな雰囲気になってるの?」
何事かと目を丸くしたユゥイだったが、すぐにハッとして拳を震わせた。
「まさか……あの真っ黒黒助が浮気を……」
そうか、そういうことか。信じろとかなんとか調子のいいことを言っておきながら、あの野郎は可愛いファイをこうして泣かせているのか。
ならば殺るしかあるまい。
す……っと懐から錆びた斧を取り出そうとするユゥイだったが、のっそりと身体を起こしたファイがブンブンと首を振ったのを見て手を止めた。
「違うよー……黒たんは浮気なんてしない……今朝も行ってきますのチュウしてくれたもん……」
「へぇ、そうなんだ…………チッ」
「え……なんか今舌打ちが聞こえたような」
「気のせいだよ」
「そ、そっかー」
「じゃあどうしてそんなに落ち込んでるの? 何かあったんでしょう?」
ひとまず憎いアンチクショウの容疑は晴れたが、ファイが酷く落ち込んでいるらしいことに変わりはない。
すぐ隣に腰を下ろして顔を覗きこむと、ファイはちょっと涙ぐみながら事の詳細を話し始めた。
「バレンタインだから、黒たんにチョコをあげようと思って。だからチョコの作り方を調べたんだ」
あれで、とファイは窓際の文机の上にあるノートパソコンを指差した。
黒鋼のお古を貰いうけたらしく、ファイは最近になってその基本的な使い方や、インターネットというものを覚えた。ちなみに、毎日タイピングの練習も行っている。まだキーボードをチラチラと見ながらではあるが。
「へぇ、そうなんだ」
相槌を打ちながら、ユゥイは勝手に台所を借りて、作って来たケーキや温かい紅茶の入ったカップをテーブルに並べる。
「そしたら、オレが思ったたよりもずっとチョコ作りって奥が深くて……あんなに手間暇も時間もかかるなんて知らなかったから、今から作り始めたんじゃ、もう明日に間に合わないよ……」
「時間って……別に今から準備しはじめたって普通に間に合うんじゃないの?」
よっぽど不器用で破壊的なまでに料理センスがないなら話は別かもしれないが、ユゥイの知る限り手作りチョコというものがそう何日も時間を要するほど手間のかかるものとは思えなかった。
思わず首を捻っていると、突如としてファイが握った拳をテーブルに打ちつけた。
「間に合わないよ!! カカオが育つまでに、どれだけかかると思ってるの!?」
…………。
ユゥイは思った。いや、再認識した。
あ、この子アホの子だ……と。
「しかも日本の気候じゃカカオを育てること自体が難しいんだ……バレンタインは明日なのに、オレは結局テレビで見たような簡単キットを使った手軽な愛しか、あの人に伝えることができないんだ……! オレなんて……オレなんて……!」
わっ、とテーブルに伏せてしまったファイを見て、ユゥイは重苦しい溜息を零した。
こめかみに鈍い痛みを感じて、思わず指先で強く押さえつける。
てっきり『チョコ 手作り』と検索バーに打ち込んだのだとばかり思いきや、まさか『チョコ 原材料』でググっていたとは予想外だった。
どこの世界にカカオを育てる段階から下準備しようとする乙女がいるだろう。ここか。ここにいるのか。
いや、そもそもアホの子以前に、行き過ぎた愛情は相手にとってただの重圧にしかならないのでは……?
ふとそう思っても口にしなかったユゥイは、この先果たして大丈夫なのだろうかと、主に黒鋼の心配をしはじめるのだった……。
そしてその後ユゥイに諭されたファイは、ごく一般的な手作りチョコというものをしっかりと理解した。
+++
失敗した。
ファイはテーブルの上のブツをじっとりと眺めながら、弱々しく溜息を零した。
赤い包みで可愛らしくラッピングされたそれは、黒鋼に渡すために張り切って作り上げた手作りチョコだ。
2月14日。
多くの恋人たちが甘く酔い痴れるこの日。
ファイが人間としてこの世界に暮らすようになってから、初めてのバレンタイン。
そして初めてここに来てからも、そろそろ一年が経過しようとしている。
だから日頃の感謝も込めて黒鋼に改めて気持ちを伝えるつもりで、張り切ってチョコの作り方を調べて(ちょっと遠回りはしたが)、材料を買いこんでどうにか作り上げた。
我ながらいい出来で、もちろんユゥイにも渡した。
自分も貰えるとは思っていなかったらしい彼は、涙ぐんで喜んでいた。
だから黒鋼も、きっとこんな風に喜んでくれると思っていた。
ウキウキしながら、暗くなる頃には戻ると言っていた彼を待っていた。
しかしふと、思い出してしまった。
それはとても重大なことだ。
普段からしっかり覚えていたはずなのに、浮かれ切って忘れていた。
綺麗さっぱり、見事にスポーンと頭から抜け落ちていたのだ。
そう、黒鋼は、甘いものが大の苦手だということを……。
+++
「帰ったぞ。おい? いねぇのか?」
玄関のドアを開けても灯りの一つも灯されていない室内を見て、黒鋼が顔を顰める。
テーブルの上のチョコを見て無の境地だったファイはハッとして、咄嗟にそれを掴むと灯りをつけられる前に背後にサッと隠した。
そして部屋が明るくなったと同時に笑顔と明るい声を作った。
「お、おかえりー! 寒かったでしょー?」
「おう、おまえいたのか。電気くらいつけろ。てか暖房つけろ。風邪ひくぞ」
「あ、う、うん。ごめん」
(どうしよう……)
背後のものをどうにかして隠滅しなくては、と思った。
甘いものは嫌いだと日頃からしつこいくらい言われ続けていたのに、それをサラッと忘れていたなんて、絶対に言えない。と、いうより言いたくない。
大好きな人の好みだから、いつだって気をつけるようにしていたのに。
それに……。
黒鋼は脱いだ上着をハンガーにかけると、電気ストーブのスイッチを押した。それから、座り込んで俯いているファイの様子を見て、また顔を顰めた。
「顔色が悪い」
その言葉と一緒に大きくて温かな手が耳の裏側に伸びてきて、ファイは思わず肩をビクンと震わせた。
「?」
「なんでもないよ! 元気元気! それより、おなか空いたよね? すぐに何か作るから、黒たんはお風呂でもどうー? それとも筋トレする? あ、壁に向かって延々屈伸運動とかどうかな?」
チョコを掴んだ手は背後に回したまま、不自然な動きで立ちあがると蟹にように横歩きをする。
このままどうにかして台所にフェードアウトしたい。そしてチョコをボッシュート……いや、やっぱり勿体ないから自分で食べて、急いで証拠を隠滅しよう。
そのためには、なんとしても彼の視線を他所へ向けさせなくては。
しかし、そんなあからさまに不審な動きをするファイを、黒鋼が見過ごすはずがなかった。
「おまえ」
「な、なぁにー?」
「黙って隠してるもんを出して見せろ」
「ギクー!」
「一体なにやらかした?」
ただでさえ鋭い目つきをさらに眇めて、腕組みをした黒鋼が睨みつけてくる。
ファイはまだ暖まりきらない室内にあって、嫌な汗が額に滲むのを感じた。
「な、なにも隠してないよ? オレは隠し事なんてしないよ?」
「じゃあ背中に引っ込めてる手を出してみろ」
「引っ込めてないし!」
「思いっきり引っ込んでるだろ!」
「ちょ、あっ、い、いやー!!」
目にも止まらぬ速さで黒鋼の手が伸びて来た。
思わず反り返ったファイの腕が掴まれて、ぐっと引き寄せられた瞬間、ガサリという音と共に赤い包みが畳の床に落ちた。
「あ……」
足元に転がったそれは、あまりにも強く掴んでいたせいで、醜い皺ができている。
売っているものに負けないくらい見た目も綺麗にしたつもりだったのに。酷く無様に見えて、ファイの中で自己嫌悪が肥大した。
「それは?」
しばしの間それをじっと見つめていた黒鋼がついに問いかけてくる。
ファイはもう駄目だと思った。
「チョコ……」
俯いて、ふいっと顔を背けると短く答える。
それから、黒鋼が何かを言う前に包みを拾い上げて、また背中に隠した。
これはいらないものだから、黒鋼には見られてしまったけど、これを食べてもらうわけにはいかない。
バレンタインは大好きな人にチョコを渡す日。それが出来ないなら、何も伝えられないような気がした。
単に好きな相手にチョコを渡す自分を想像して、一人で勝手に盛り上がって楽しんでいただけのような気がしてくる。
わざわざ苦手なものを渡そうとしていたことが恥ずかしくて、情けなくて、じんわりと視界が滲んだ。
黒鋼はそんなファイの様子をじっと眺めた後、ぼそりと言った。
「それ、貰ったのか?」
「……へ?」
咄嗟におかしな声を出すと顔を上げた。
怒っているような顔をした黒鋼の、真剣な眼差しが正面からぶつかってくる。
「どこのどいつに貰った……?」
何を言われているのかが一瞬理解できず、ファイは目を丸くして瞬きを繰り返す。
そうしてるうちに、空気がピリピリしてきたのを感じる。どうやら黒鋼が苛立ちはじめているようだった。
そこでふと、もしかしたら彼は大変な勘違いをしているのでは……という考えに至って、慌てて否定する。
「ちが、違うよ! これは貰ったんじゃないよー!」
「だったら隠す必要ねぇだろ」
「そっ、それは……その……」
「言えねぇようなことなのか」
「だから違うってば!!」
なんだかもう、ここまで来てしまったら隠している意味はないように思えた。
変に誤解を生むくらいなら、正直に言ってしまった方がずっといい。
ひょっとしてヤキモチ? と思うと窓ガラスを突き破ってダイブしたいほど嬉しかったが、今はそんなことをして命を落としている場合でもない。
だからファイは思いっきり息を吸い込むと、力の限り叫んだ。
「これはオレが、黒たんにあげたくて作っちゃったのー!!」
ああ、言ってしまった。
目を見開いてぽかんと口を開けている表情を見て、ファイは恥ずかしさのあまり頬を赤らめた。
「バレンタインは、好きな人にチョコ渡す日なんでしょ……? オレ、黒たんにチョコあげたくて、でも、黒たん甘いの駄目って後から思い出して、だから渡せなくて、そしたら、あげられるの何もないって思って……っ、だから……」
自分でも何を言いたいのかが分からなくなった。
「ごめん……。おかしいよね。貰っても嬉しくないもの、ウキウキして作っちゃうなんて」
これは捨てるからと、黒鋼の横をすり抜けようとした。
だが、それは叶わなかった。
「!」
手の中から、ぐしゃぐしゃになったチョコが消えた。
奪われたのだと気付いたとき、黒鋼がそれを手にどっかりと床に胡坐をかいた。
「ちょっと、黒たん?」
「食いもん粗末にすんな」
「でも」
「それにこれは俺んだ。勝手に捨てんじゃねぇ」
「え」
ガサガサと音を立てて、赤い包みの中から小さな白い箱が姿を現す。
黒鋼が箱の中身さえも暴いてしまうと、そこにあったのはココアパウダーがまぶされた生チョコレートだった。
咽るほどの甘い香りが一気に立ちこめ、部屋いっぱいに広がった。
無骨な指先がそれを一つ摘まんで、なんの躊躇いもなく口に放り込む。
「ちょ、まっ……!?」
するとみるみるうちに黒鋼の眉間の皺が深くなって、思いっきり苦い表情になった。
ファイは泣きたくなって、すぐ横に膝をついて箱を取り返そうとした。けれど、手首を掴まれて箱も遠ざけられてしまう。
「無理しなくていいってば……っ」
「うるせぇな。静かに食わせろ」
「だって美味しくないでしょ!? ちょっと鼻の穴膨らんでるよ!? しかも涙ぐんでる!?」
惚れた贔屓目を抜きにしても精悍で男前な黒鋼の顔が、地味に痛々しいことになっている。
どうしてそこまでして無理やりにでも口に運んでいるのか、さっぱり分からず混乱した。
「なんで……黒たん……」
「こんくらいどうってことねぇ。おまえ、覚えてるか?」
「ふぇ……?」
「おまえが最初の頃に作った玉子焼きだ。アホみてぇに甘くして、しかも容赦なくこがしやがって」
「!」
少し苦々しくはあったけれど、黒鋼は小さく笑って見せた。
その顔を、ファイは知っていた。
彼の言うとおりだ。人間になって間もない頃、覚えたての玉子料理ばかりを毎日のように作っていたあの頃。
見るも無残な形の玉子焼きは塩と砂糖を間違えて、しかも手が滑って大量に投下してしまった。
ファイはそれを捨てようとしたけれど、今みたいに黒鋼が「粗末にするな」と言って全て平らげた。
そういえばあの時の黒鋼は酷く脂汗をかいて、今よりもずっと苦しそうだった。
そして「次はがんばれ」と言って、今みたいに笑った。
「あれに比べりゃ見栄えもいいしな。一年に一回くらいなら、悪くねぇよ」
それはまた来年もチョコを作ってもいいということだろうか。受け取ってくれるということだろうか。
そうこうしているうちに、ついに箱の中身は空っぽになった。
ファイは腰が抜けるような感覚を覚えて、ペタリと床に崩れ落ちる。
あのときと同じ、そしてこれからも変わらない優しさを感じて、胸がじんと痺れた。だが、かといって黒鋼に我慢を強いるのは納得がいかない。
「でも、やっぱり無理はしてほしくないよ……」
「俺が好きでやってんだ。ほっとけ」
「……マゾなのかな?」
「ぶん殴るぞ。ああ、それとな」
「?」
黒鋼は、おもむろに自分のジーンズの尻ポケットを探ると、少し潰れた青い包みを取り出した。
金色の綺麗なリボンが巻かれたそれを、目の前に突き出してくる。
「これは……?」
「まぁ、なんだ……。気持ちだ」
この人がガリガリと頬を掻きながら目を逸らすのは、照れ臭くて仕方がないときだ。
ファイは受け取ったその包みが、中身を空けずともなんであるかを察した。
「これ、チョコ……? 黒たんが、オレに?」
信じられない思いで目を瞬かせながら、ファイは手の中の箱を見つめる。
驚いた。黒鋼は、あまりこういうイベントを気にするタイプには思えなかったのだ。
「そろそろ一年だしな……それも兼ねて、ついでだ。ついで。言っとくがな、俺は手作りなんてできねぇからな。そいつは買ったもんだ」
口ではひねたことを言っているけれど、手作りだろうがそうじゃなかろうが、そんなものは関係なかった。この小さな箱の中に、彼の気持ちが溢れるほど込められているのが伝わって、胸がいっぱいになる。
何よりも、黒鋼も同じことを考えていてくれたことが、涙が出るほど嬉しかった。
去年の今頃は、ここでこうして暮らしているなんて想像もしなかった。
ましてや人間の黒鋼と恋仲になるなんて、ただの猫だった頃の自分が知ったらビックリして、腰を抜かすどころの騒ぎではないかもしれない。
この人と出会えたというだけで、きっと自分は世界で一番幸せな猫だった。この世界に限らず、たくさんの世界に存在するたくさんの猫の中でも、一番に。
込み上げる満面の笑みを抑えきれず、チョコの包みを両腕で抱きしめた。温かくて、甘くて、いっそ胸が苦しくなるほどに。
「凄く嬉しい……」
それに続くはずだった「ありがとう」は、熱い唇によって奪われてしまった。甘ったるいチョコレートの味と香りが、口の中いっぱいに広がった。
この熱と甘さで、多分このまま溶かされてしまうのだと思う。
ファイはそっと膝の上に青い包みを置くと、両腕を黒鋼の首に回して強く抱き寄せた。
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