2025年6月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
*甲洋がガチの猫の姿で登場したり、猫耳青年になったりします。
*一部に悪いモブおじが登場するシーンもあります。
01
夕暮れが迫る住宅街に、色づきはじめた銀杏並木が伸びている。
乾いた秋風が吹くなかを、来主操は萎れたようにうなだれながら歩いていた。
帰路につくための足取りは重く、泥水を流し込まれたように気分が悪い。起こってしまった出来事に消化不良を起こし、そればかり考えては溜息が漏れる。
(もう嫌だ。なんでぼくばっかり……)
操は春から親元を離れ、学生寮で一人暮らしをはじめた大学一年生だ。コンビニでアルバイトもして、充実した日々を送っている──はずだったのだが。
つい最近、バイト先でおかしな客に目をつけられたせいで一変してしまった。
始まりは一ヶ月ほど前のこと。とある中年女性が買った弁当に、箸をつけ忘れたことがキッカケで、地味な嫌がらせをされるようになってしまった。
会計の際に何度も舌打ちをされたり、なにかとクレームをつけられたり。通路でわざとぶつかってくることもある。彼女は必ず操がいる曜日と時間帯を狙って来て、それらの行為を繰り返すのだ。
見かねた店長がやんわり注意したこともあるが、一向に改善される気配はない。
そして今日も今日とて、問題の女性客はやって来た。
思わず顔を強張らせてしまった操に、「なによその態度!」などと怒鳴るだけ怒鳴って、彼女は何も買わずに帰っていった。
周囲は優しく慰めてくれるが、こうも続くと精神的に限界である。
(ぼくもう疲れた。バイト、辞めたほうがいいのかな……)
そうすれば話は簡単だ。もう嫌な思いをしなくてすむ。
だけど同時に、負けたくないという気持ちもあるのだ。確かに最初にミスをしたのはこちらの方だが、だからってしつこく嫌がらせをしていい理由にはならない。
するとだんだん腹が立ってきた。もしこれでバイトを辞めたら、向こうの思うつぼになってしまう。泣き寝入りなんて、考えただけでも嫌だった。
「……そうだよ。あんなのに負けるもんか! お母さんに心配かけたくないし!」
操はぶんぶんと首を振り、うつむけていた顔をあげた。
母は離れて暮らす一人息子を、いつも案じてくれている。しょっちゅう連絡を寄越しては、近況をたずねてくるのだ。どんなに誤魔化そうとしても、空元気などすぐに見破られてしまう。
そんな母を心配させないためにも、これ以上ウジウジしてなんかいられない。
「よーし、また明日からがんばるぞ!」
持ち前の負けん気の強さで気持ちを切り替え、夕日に向かって決意した。そのとき──。
「ミギャァーーッ!!」
という大きな叫び声に驚いて、操はビクンと肩を跳ねさせた。
「うわ!? な、なに!?」
見れば並木道を抜けた先で、数匹の猫が暴れている姿があった。
猫たちは激しく鳴き叫び、目の前の公園へと雪崩れるように駆け込んでいく。唸りも混ざる甲高いその声は、明らかにケンカと分かるものだった。
「今のってもしかして、コーヒー?」
操はその中の一匹に見覚えがあった。
黒をベースに、ところどころ焦げ茶が混ざった長毛のサビ猫。立派な体格をしたその野良猫に、操は『コーヒー』と勝手に名前をつけて呼んでいる。
声をかけても無視されるばかりだが、それがいかにも猫らしくてお気に入りだ。
そのコーヒーが、今しがた見たド派手な抗争の中にいた気がする。あれだけ大柄な猫は珍しいから、おそらく見間違いではないだろう。
「た、大変だ! やめさせなきゃ!」
操は慌てて公園に駆け込んだ。そこではコーヒーを中心に、数匹の猫たちがギャンギャンと叫んで暴れ狂っている。
猫たちは徒党を組んで、コーヒーを一方的に攻撃しているようだった。噛みついたり引っ掻いたりと、まるで容赦がない。コーヒーは多勢に無勢で、為す術もなく必死で逃げ惑っていた。
「こらぁー! コーヒーをいじめるなぁー!」
操は眉をつり上げて、猫たちが巻き上げる砂埃の中へ突進した。するとそれに怯んだ猫たちが、いっせいに蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
残されたコーヒーは、全身を傷だらけにしてぐったりと横たわっていた。
「コーヒー!? ねぇ大丈夫!? うわ、ひどい怪我だ……!」
地面に両膝をつき、動かなくなったコーヒーを抱き上げる。かろうじて息はあるが、意識がない。傷から血が滴っており、操はサァっと青褪めた。
このままでは死んでしまう。なんとかしなければと考えて、確かこの近くに動物病院があったはずだと思いだす。夕方のこの時間なら、まだ開いているだろう。
「しっかりして! 死んじゃダメだよ! ぼくがついてるからね!」
操は大きな身体を抱いて立ち上がり、矢のようにその場から駆けだした。
*
病院でコーヒーを治療してもらい、自室に戻る頃には夜になっていた。
コーヒーは手足や胴体に包帯を巻かれ、ベッドに横たわっている。よほど疲れているのか、意識はずっと戻らないままだ。
操は床に腰をおろし、コーヒーの様子を見ながら息をついた。
「よかったねコーヒー。命に別状はないってさ」
出血は多かったが、どれも致命傷に至るほどではなかった。患部の洗浄と消毒をしてもらい、抗生剤をもらうだけで帰ってくることができた。
病院で売られていた猫用のミルクやご飯も買ってきたし、あとはコーヒーの意識が戻ってくれるのを願うばかりだ。
「大丈夫。ぼくがちゃんと見てるから、安心してゆっくり休んでね」
思えばこんなに傍でコーヒーを見るのは初めてだ。いつもは遠くから、一方的に声をかけるだけだった。
実家にも猫がいるけれど、離れて暮らすようになってから寂しさは募る一方だ。
そんな猫好きの操にとって、コーヒーの存在は日々の癒やしだった。
「早く元気になるといいな」
ベッドの縁に組んだ腕を乗せ、その寝顔をいつまでも飽きずに見つめ続けた。
猫の寝顔を見ていると、不思議と眠たくなってくる。だけどいつ目を覚ますか分からないし、もし万が一状態が悪くなったりしたら大変だ。
だから今夜は夜通し看病するつもりで──
いたのだが……。
*
「……ハッ!」
驚いたことに、気づいたら朝だった。カーテンから白い光が漏れている。
一体いつの間に寝落ちてしまったのだろう。朝方までは気合いで起きていたと記憶しているが、いつしかベッドに顔を伏せて眠っていたらしい。
「嘘、ぼく寝ちゃってた!?」
操は慌ててコーヒーに目をやった。彼は昨夜と変わらない体勢で、ベッドに横たわっている。
それを見てホッとしていると、コーヒーの目がスゥッと開いた。
「あ! 起きた……!?」
「──ッ!?」
操が前のめりになって顔を覗き込んだ瞬間、飛び起きたコーヒーが光の速さで壁側に身を寄せた。
「だっ、ダメだよまだ動いちゃ!」
「シャァーッ!」
「ま、待って! 怖がらなくていいから、落ち着いて!」
コーヒーは耳がなくなったのかと思うくらいペタリと寝かせ、毛を逆立てている。威嚇する彼をなんとか落ち着かせようと、操はとっさに手を伸ばした。しかしそれが不味かった。
「ウゥ~ッ、シャーッ!」
「あっ、痛っ……!」
コーヒーの強烈な猫パンチが、操の右手の甲にヒットした。
病院で爪は切ってもらったので、血が出るほどの傷はついていない。しかし大きな猫による命がけのパンチは威力が凄まじく、手の甲には引っかき傷ならぬ、引っかき痣がくっきりと残ってしまった。
「ッ!?」
一瞬、それを見たコーヒーが怯んだように見えた。まるで自分がしたことに、自分で驚いているかのようだった。
「ご、ごめんね。ビックリしちゃったよね」
ミミズ腫れのようになっている甲を左手で抑え、コーヒーに笑いかけた。
目覚めたら知らない場所にいて、しかもすぐ傍に人間の姿があれば、野良猫が怯えて攻撃するのは仕方がないことだ。
「本当にごめんね。君に危害を加えるつもりはないんだ。ただ、動くと傷が開くから……だから、大人しくしててほしいだけなんだ」
「……ッ」
コーヒーは壁に身を寄せたまま、見開いた瞳で硬直している。しっぽは身体の内側に巻き込んでいるし、毛も逆立てたままだった。操の声に耳を傾けようとしているのか、ぺたりと寝ている耳の片方だけがピクピクと動いている。
「ぼくの名前は来主操。たまに道で会うよね。覚えてないかな……。あ、そうだ! ちょっと待ってて!」
これ以上は刺激しないよう、操は慎重にベッドから距離を置くと立ち上がり、廊下沿いのキッチンスペースへ向かった。猫用のミルクをぬるま湯くらいの温度に温めて器に注ぐと、そこに病院でもらってきた粉薬を溶かし入れる。
部屋に戻ると、コーヒーはベッドの隅でさっきと同じ姿勢のままだった。ガチガチに身を固くして、操を上目遣いで凝視している。
操はベッドの上にミルクの器を置くと、その場から離れて距離を取った。反対側の壁に背中を預け、あぐらをかく。
「お腹空いてるでしょ? ミルクをどうぞ」
「……ウウゥ~」
コーヒーは低く唸るだけで、その場から動こうとしなかった。ほのかに茶色がかった灰色に近い瞳を見開き、注意深く操の動向を伺っている。
「あのね、そのミルクにはお薬が入ってるんだ。病院でもらってきたやつ。でもぜんぜん苦くないよ。ぼくもちょっと舐めてみたけど、甘くて結構おいしかったし」
「ッ、フゥーッ! シャーッ!」
「お、怒らないでよぉ……だってお薬飲まなきゃ、怪我が治らないんだよ! 病院の先生も言ってたし! ちゃんと食べなきゃ、元気になれないって……」
もしこのままなにも口にせず、薬も飲まずにいれば、コーヒーはただ弱っていくだけだ。せっかく治療してもらっても、それじゃなんの意味もない。
操は目にいっぱいの涙を浮かべて、懸命にコーヒーに訴えかけた。
「いい子だから、少しでも飲んで。ぼく、君のことが心配なんだ。もし君が死んじゃったら……そんなの嫌だよ。だからお願い……!」
「……」
目尻に溜まっていた涙が一筋、ポロリと落ちる。
するとその思いが通じたのか、コーヒーは中腰で警戒しながらも、そろりそろりと動きだした。器に顔を近づけ、匂いをかぐとミルクを舐める。
「っ、の、飲んだ!」
「ッ!」
「あっ、ご、ごめん……静かにしてるね……」
驚いてビクンと震えたコーヒーに、肩をすくめて口を噤んだ。
コーヒーはよほど空腹だったのか、ペチャペチャと音を立ててミルクを飲み干した。そこでようやく、操は大きな息を吐きだした。
「よかったぁ……コーヒーは賢いね。ぼくの言葉が通じたみたい」
器から顔をあげたコーヒーが、丸い瞳でこちらを見ている。
「あ、コーヒーっていうのはね、ぼくが勝手に君をそう呼んでるだけなんだ。黒と焦げ茶なところが、ちょっとそれっぽいでしょ?」
そんなことを言われても、コーヒーはコーヒーなんて知らないだろうけど。
彼はなにを思ったのか、たっぷり間を開けてから「なぉ~」と鳴いた。
「わっ、君ってそんな可愛い声してるの? もっと厳ついのかと思ってた!」
彼は長毛で、ただでさえ大柄な身体がよりいっそう大きく見える。だからもっとオスらしく、太くて低い声をしているのかと思っていたら、その鳴き声は意外にも高くて甘ったるいものだった。
「やっぱりコーヒーは可愛いね」
顔がニヤけるのを抑えられない。コーヒーはそんな操を、ただ不思議そうに見つめるだけだった。
*
ミルクの器を片付けて戻ると、コーヒーはベッドをおりて机の下に移動していた。行儀よく座り、手でくしくしと顔を洗っている。
納得がいくまで洗い終わると、やがて彼は床に腹ばいになって目を閉じた。
無理に毛繕いして包帯を取ってしまうことを心配していたが、今のところその様子はない。
「コーヒーは本当に賢くていい子だね。これなら安心かな?」
ベッドに座って彼を観察していた操は、「ふぁ」と大きなあくびをした。昨夜は朝方まで起きていたのだから、眠くなるのも無理はない。
「ちょっとだけ……ちょっとだけ……」
コーヒーも寝ていることだし、ほんの少しだけのつもりで横になる。しかし寝不足の人間がそんなことをすれば、眠ってしまうのは当然だ。
操はものの数分でコトリと意識を手放していた。
──それからどれくらい経っただろう。
眠っている操の頬に、ザラリとした感触のなにかが触れた。それはほんのりと湿っていて、どこか遠慮がちに幾度か頬を行き来する。
(んん……なんかくすぐったい……これは、猫の舌……?)
「助けてくれて、ありがとう」
そのときふと、知らない人の声がした。初めて聞く声だ。春風が吹くみたいに優しくて、心をそっと羽根でくすぐるような。そんなあたたかい声だった。
(誰……? ぼく、なんで……)
その瞬間、ハッと息を飲みながら飛び起きる。
「なんで寝てるのぉ!?」
起き抜けに叫び、操はさっきまでコーヒーが寝ていた場所に目をやった。
いない。コーヒーが。部屋中を見回し、ベッドの下まで覗いたけれど、大柄なサビ猫の姿はどこにもなかった。
するとうっすら冷たい秋風が吹き込んでいることに気がついて、とっさに窓に目をやった。ベランダに続くガラス戸が、ほんのわずかに開いている。
「嘘!? まさかコーヒー、逃げちゃった!?」
操は一気に青褪めながら窓を開けると、裸足でベランダに飛びだした。階下も見下ろしてみたが、猫の子一匹見あたらない。
日はすっかり傾き、夕方になっている。ベランダまで張り出している桜の枝が、風に吹かれて色づく葉っぱを揺らしていた。
「どうして? 鍵はかけてあったはずなのに……!」
いくらコーヒーが賢くたって、まさか鍵まで開けて出ていくなんて。
操の部屋は学生寮の二階にある。おそらく彼はここから桜の木を伝い、脱走したのだろう。まだ傷が塞がりきっていないのに、なんて無茶なことを。
「探さなきゃ!」
操はベランダから出ると、上着も着ずに寮を飛びだした。
いつもコーヒーと遭遇するポイントをすべて周り、もちろんあの公園にも行ってみたが、彼の姿はどこにもない。
(コーヒー! どこに行っちゃったの!?)
あんな状態で外に出たら、傷が悪化するだけだ。薬は三日分もらっており、朝晩の二回必ず飲ませることになっている。経過を見てもらうために、通院もしなくてはいけないのに。
「ぼくのせいだ……ぼくがちゃんと見てなかったから……」
日が沈んで暗くなっていくなか、操は道端にしゃがみ込んでしまった。
外じゃ満足に食事にありつける保証はないし、また他の猫たちにイジメられてしまうかもしれない。どこかで動けなくなっている可能性だってある。
後悔ばかりが押し寄せて、情けなさに涙が滲んだ。
「ごめんね、コーヒー……」
探せるところはすべて探し尽くした。操にできることは他にない。今はどうかコーヒーが無事に生き延びてくれることを、ただ願うしかなかった。
←戻る ・ 次へ→
*一部に悪いモブおじが登場するシーンもあります。
01
夕暮れが迫る住宅街に、色づきはじめた銀杏並木が伸びている。
乾いた秋風が吹くなかを、来主操は萎れたようにうなだれながら歩いていた。
帰路につくための足取りは重く、泥水を流し込まれたように気分が悪い。起こってしまった出来事に消化不良を起こし、そればかり考えては溜息が漏れる。
(もう嫌だ。なんでぼくばっかり……)
操は春から親元を離れ、学生寮で一人暮らしをはじめた大学一年生だ。コンビニでアルバイトもして、充実した日々を送っている──はずだったのだが。
つい最近、バイト先でおかしな客に目をつけられたせいで一変してしまった。
始まりは一ヶ月ほど前のこと。とある中年女性が買った弁当に、箸をつけ忘れたことがキッカケで、地味な嫌がらせをされるようになってしまった。
会計の際に何度も舌打ちをされたり、なにかとクレームをつけられたり。通路でわざとぶつかってくることもある。彼女は必ず操がいる曜日と時間帯を狙って来て、それらの行為を繰り返すのだ。
見かねた店長がやんわり注意したこともあるが、一向に改善される気配はない。
そして今日も今日とて、問題の女性客はやって来た。
思わず顔を強張らせてしまった操に、「なによその態度!」などと怒鳴るだけ怒鳴って、彼女は何も買わずに帰っていった。
周囲は優しく慰めてくれるが、こうも続くと精神的に限界である。
(ぼくもう疲れた。バイト、辞めたほうがいいのかな……)
そうすれば話は簡単だ。もう嫌な思いをしなくてすむ。
だけど同時に、負けたくないという気持ちもあるのだ。確かに最初にミスをしたのはこちらの方だが、だからってしつこく嫌がらせをしていい理由にはならない。
するとだんだん腹が立ってきた。もしこれでバイトを辞めたら、向こうの思うつぼになってしまう。泣き寝入りなんて、考えただけでも嫌だった。
「……そうだよ。あんなのに負けるもんか! お母さんに心配かけたくないし!」
操はぶんぶんと首を振り、うつむけていた顔をあげた。
母は離れて暮らす一人息子を、いつも案じてくれている。しょっちゅう連絡を寄越しては、近況をたずねてくるのだ。どんなに誤魔化そうとしても、空元気などすぐに見破られてしまう。
そんな母を心配させないためにも、これ以上ウジウジしてなんかいられない。
「よーし、また明日からがんばるぞ!」
持ち前の負けん気の強さで気持ちを切り替え、夕日に向かって決意した。そのとき──。
「ミギャァーーッ!!」
という大きな叫び声に驚いて、操はビクンと肩を跳ねさせた。
「うわ!? な、なに!?」
見れば並木道を抜けた先で、数匹の猫が暴れている姿があった。
猫たちは激しく鳴き叫び、目の前の公園へと雪崩れるように駆け込んでいく。唸りも混ざる甲高いその声は、明らかにケンカと分かるものだった。
「今のってもしかして、コーヒー?」
操はその中の一匹に見覚えがあった。
黒をベースに、ところどころ焦げ茶が混ざった長毛のサビ猫。立派な体格をしたその野良猫に、操は『コーヒー』と勝手に名前をつけて呼んでいる。
声をかけても無視されるばかりだが、それがいかにも猫らしくてお気に入りだ。
そのコーヒーが、今しがた見たド派手な抗争の中にいた気がする。あれだけ大柄な猫は珍しいから、おそらく見間違いではないだろう。
「た、大変だ! やめさせなきゃ!」
操は慌てて公園に駆け込んだ。そこではコーヒーを中心に、数匹の猫たちがギャンギャンと叫んで暴れ狂っている。
猫たちは徒党を組んで、コーヒーを一方的に攻撃しているようだった。噛みついたり引っ掻いたりと、まるで容赦がない。コーヒーは多勢に無勢で、為す術もなく必死で逃げ惑っていた。
「こらぁー! コーヒーをいじめるなぁー!」
操は眉をつり上げて、猫たちが巻き上げる砂埃の中へ突進した。するとそれに怯んだ猫たちが、いっせいに蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
残されたコーヒーは、全身を傷だらけにしてぐったりと横たわっていた。
「コーヒー!? ねぇ大丈夫!? うわ、ひどい怪我だ……!」
地面に両膝をつき、動かなくなったコーヒーを抱き上げる。かろうじて息はあるが、意識がない。傷から血が滴っており、操はサァっと青褪めた。
このままでは死んでしまう。なんとかしなければと考えて、確かこの近くに動物病院があったはずだと思いだす。夕方のこの時間なら、まだ開いているだろう。
「しっかりして! 死んじゃダメだよ! ぼくがついてるからね!」
操は大きな身体を抱いて立ち上がり、矢のようにその場から駆けだした。
*
病院でコーヒーを治療してもらい、自室に戻る頃には夜になっていた。
コーヒーは手足や胴体に包帯を巻かれ、ベッドに横たわっている。よほど疲れているのか、意識はずっと戻らないままだ。
操は床に腰をおろし、コーヒーの様子を見ながら息をついた。
「よかったねコーヒー。命に別状はないってさ」
出血は多かったが、どれも致命傷に至るほどではなかった。患部の洗浄と消毒をしてもらい、抗生剤をもらうだけで帰ってくることができた。
病院で売られていた猫用のミルクやご飯も買ってきたし、あとはコーヒーの意識が戻ってくれるのを願うばかりだ。
「大丈夫。ぼくがちゃんと見てるから、安心してゆっくり休んでね」
思えばこんなに傍でコーヒーを見るのは初めてだ。いつもは遠くから、一方的に声をかけるだけだった。
実家にも猫がいるけれど、離れて暮らすようになってから寂しさは募る一方だ。
そんな猫好きの操にとって、コーヒーの存在は日々の癒やしだった。
「早く元気になるといいな」
ベッドの縁に組んだ腕を乗せ、その寝顔をいつまでも飽きずに見つめ続けた。
猫の寝顔を見ていると、不思議と眠たくなってくる。だけどいつ目を覚ますか分からないし、もし万が一状態が悪くなったりしたら大変だ。
だから今夜は夜通し看病するつもりで──
いたのだが……。
*
「……ハッ!」
驚いたことに、気づいたら朝だった。カーテンから白い光が漏れている。
一体いつの間に寝落ちてしまったのだろう。朝方までは気合いで起きていたと記憶しているが、いつしかベッドに顔を伏せて眠っていたらしい。
「嘘、ぼく寝ちゃってた!?」
操は慌ててコーヒーに目をやった。彼は昨夜と変わらない体勢で、ベッドに横たわっている。
それを見てホッとしていると、コーヒーの目がスゥッと開いた。
「あ! 起きた……!?」
「──ッ!?」
操が前のめりになって顔を覗き込んだ瞬間、飛び起きたコーヒーが光の速さで壁側に身を寄せた。
「だっ、ダメだよまだ動いちゃ!」
「シャァーッ!」
「ま、待って! 怖がらなくていいから、落ち着いて!」
コーヒーは耳がなくなったのかと思うくらいペタリと寝かせ、毛を逆立てている。威嚇する彼をなんとか落ち着かせようと、操はとっさに手を伸ばした。しかしそれが不味かった。
「ウゥ~ッ、シャーッ!」
「あっ、痛っ……!」
コーヒーの強烈な猫パンチが、操の右手の甲にヒットした。
病院で爪は切ってもらったので、血が出るほどの傷はついていない。しかし大きな猫による命がけのパンチは威力が凄まじく、手の甲には引っかき傷ならぬ、引っかき痣がくっきりと残ってしまった。
「ッ!?」
一瞬、それを見たコーヒーが怯んだように見えた。まるで自分がしたことに、自分で驚いているかのようだった。
「ご、ごめんね。ビックリしちゃったよね」
ミミズ腫れのようになっている甲を左手で抑え、コーヒーに笑いかけた。
目覚めたら知らない場所にいて、しかもすぐ傍に人間の姿があれば、野良猫が怯えて攻撃するのは仕方がないことだ。
「本当にごめんね。君に危害を加えるつもりはないんだ。ただ、動くと傷が開くから……だから、大人しくしててほしいだけなんだ」
「……ッ」
コーヒーは壁に身を寄せたまま、見開いた瞳で硬直している。しっぽは身体の内側に巻き込んでいるし、毛も逆立てたままだった。操の声に耳を傾けようとしているのか、ぺたりと寝ている耳の片方だけがピクピクと動いている。
「ぼくの名前は来主操。たまに道で会うよね。覚えてないかな……。あ、そうだ! ちょっと待ってて!」
これ以上は刺激しないよう、操は慎重にベッドから距離を置くと立ち上がり、廊下沿いのキッチンスペースへ向かった。猫用のミルクをぬるま湯くらいの温度に温めて器に注ぐと、そこに病院でもらってきた粉薬を溶かし入れる。
部屋に戻ると、コーヒーはベッドの隅でさっきと同じ姿勢のままだった。ガチガチに身を固くして、操を上目遣いで凝視している。
操はベッドの上にミルクの器を置くと、その場から離れて距離を取った。反対側の壁に背中を預け、あぐらをかく。
「お腹空いてるでしょ? ミルクをどうぞ」
「……ウウゥ~」
コーヒーは低く唸るだけで、その場から動こうとしなかった。ほのかに茶色がかった灰色に近い瞳を見開き、注意深く操の動向を伺っている。
「あのね、そのミルクにはお薬が入ってるんだ。病院でもらってきたやつ。でもぜんぜん苦くないよ。ぼくもちょっと舐めてみたけど、甘くて結構おいしかったし」
「ッ、フゥーッ! シャーッ!」
「お、怒らないでよぉ……だってお薬飲まなきゃ、怪我が治らないんだよ! 病院の先生も言ってたし! ちゃんと食べなきゃ、元気になれないって……」
もしこのままなにも口にせず、薬も飲まずにいれば、コーヒーはただ弱っていくだけだ。せっかく治療してもらっても、それじゃなんの意味もない。
操は目にいっぱいの涙を浮かべて、懸命にコーヒーに訴えかけた。
「いい子だから、少しでも飲んで。ぼく、君のことが心配なんだ。もし君が死んじゃったら……そんなの嫌だよ。だからお願い……!」
「……」
目尻に溜まっていた涙が一筋、ポロリと落ちる。
するとその思いが通じたのか、コーヒーは中腰で警戒しながらも、そろりそろりと動きだした。器に顔を近づけ、匂いをかぐとミルクを舐める。
「っ、の、飲んだ!」
「ッ!」
「あっ、ご、ごめん……静かにしてるね……」
驚いてビクンと震えたコーヒーに、肩をすくめて口を噤んだ。
コーヒーはよほど空腹だったのか、ペチャペチャと音を立ててミルクを飲み干した。そこでようやく、操は大きな息を吐きだした。
「よかったぁ……コーヒーは賢いね。ぼくの言葉が通じたみたい」
器から顔をあげたコーヒーが、丸い瞳でこちらを見ている。
「あ、コーヒーっていうのはね、ぼくが勝手に君をそう呼んでるだけなんだ。黒と焦げ茶なところが、ちょっとそれっぽいでしょ?」
そんなことを言われても、コーヒーはコーヒーなんて知らないだろうけど。
彼はなにを思ったのか、たっぷり間を開けてから「なぉ~」と鳴いた。
「わっ、君ってそんな可愛い声してるの? もっと厳ついのかと思ってた!」
彼は長毛で、ただでさえ大柄な身体がよりいっそう大きく見える。だからもっとオスらしく、太くて低い声をしているのかと思っていたら、その鳴き声は意外にも高くて甘ったるいものだった。
「やっぱりコーヒーは可愛いね」
顔がニヤけるのを抑えられない。コーヒーはそんな操を、ただ不思議そうに見つめるだけだった。
*
ミルクの器を片付けて戻ると、コーヒーはベッドをおりて机の下に移動していた。行儀よく座り、手でくしくしと顔を洗っている。
納得がいくまで洗い終わると、やがて彼は床に腹ばいになって目を閉じた。
無理に毛繕いして包帯を取ってしまうことを心配していたが、今のところその様子はない。
「コーヒーは本当に賢くていい子だね。これなら安心かな?」
ベッドに座って彼を観察していた操は、「ふぁ」と大きなあくびをした。昨夜は朝方まで起きていたのだから、眠くなるのも無理はない。
「ちょっとだけ……ちょっとだけ……」
コーヒーも寝ていることだし、ほんの少しだけのつもりで横になる。しかし寝不足の人間がそんなことをすれば、眠ってしまうのは当然だ。
操はものの数分でコトリと意識を手放していた。
──それからどれくらい経っただろう。
眠っている操の頬に、ザラリとした感触のなにかが触れた。それはほんのりと湿っていて、どこか遠慮がちに幾度か頬を行き来する。
(んん……なんかくすぐったい……これは、猫の舌……?)
「助けてくれて、ありがとう」
そのときふと、知らない人の声がした。初めて聞く声だ。春風が吹くみたいに優しくて、心をそっと羽根でくすぐるような。そんなあたたかい声だった。
(誰……? ぼく、なんで……)
その瞬間、ハッと息を飲みながら飛び起きる。
「なんで寝てるのぉ!?」
起き抜けに叫び、操はさっきまでコーヒーが寝ていた場所に目をやった。
いない。コーヒーが。部屋中を見回し、ベッドの下まで覗いたけれど、大柄なサビ猫の姿はどこにもなかった。
するとうっすら冷たい秋風が吹き込んでいることに気がついて、とっさに窓に目をやった。ベランダに続くガラス戸が、ほんのわずかに開いている。
「嘘!? まさかコーヒー、逃げちゃった!?」
操は一気に青褪めながら窓を開けると、裸足でベランダに飛びだした。階下も見下ろしてみたが、猫の子一匹見あたらない。
日はすっかり傾き、夕方になっている。ベランダまで張り出している桜の枝が、風に吹かれて色づく葉っぱを揺らしていた。
「どうして? 鍵はかけてあったはずなのに……!」
いくらコーヒーが賢くたって、まさか鍵まで開けて出ていくなんて。
操の部屋は学生寮の二階にある。おそらく彼はここから桜の木を伝い、脱走したのだろう。まだ傷が塞がりきっていないのに、なんて無茶なことを。
「探さなきゃ!」
操はベランダから出ると、上着も着ずに寮を飛びだした。
いつもコーヒーと遭遇するポイントをすべて周り、もちろんあの公園にも行ってみたが、彼の姿はどこにもない。
(コーヒー! どこに行っちゃったの!?)
あんな状態で外に出たら、傷が悪化するだけだ。薬は三日分もらっており、朝晩の二回必ず飲ませることになっている。経過を見てもらうために、通院もしなくてはいけないのに。
「ぼくのせいだ……ぼくがちゃんと見てなかったから……」
日が沈んで暗くなっていくなか、操は道端にしゃがみ込んでしまった。
外じゃ満足に食事にありつける保証はないし、また他の猫たちにイジメられてしまうかもしれない。どこかで動けなくなっている可能性だってある。
後悔ばかりが押し寄せて、情けなさに涙が滲んだ。
「ごめんね、コーヒー……」
探せるところはすべて探し尽くした。操にできることは他にない。今はどうかコーヒーが無事に生き延びてくれることを、ただ願うしかなかった。
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確か十日前は『クラゲ』だった。
先週は『全裸』と『幼女』だったし、一昨日は『カレー味』だったと思う。
「行ってきまーす!」
ランチタイムのピークも過ぎた、穏やかな昼下がり。
喫茶楽園の扉が開き、小気味よいドアベルの音色を響かせながら、はつらつとした声の主が飛び出していく。
「行ってらっしゃい。気をつけてな」
「はーい!」
カウンターに立つ真壁一騎はまっさらな布巾で皿を丁寧に磨きながら、その背に声をかけて見送った。
彼が行ってしまうと、これといったBGMもない店内にはゆったりとした午後の静寂が流れる。
一騎はふと小さく息を漏らし、店の片隅へと視線をやった。ボックス席では長椅子に腰かけた春日井甲洋が、愛犬ショコラにおやつ(ほねっこ)を与えながら、少年が出て行った扉をじっと見つめている。
緩く癖のある前髪に大半が隠されている表情は、穏やかな海のように凪いでいた。その口元に仄かな笑みが添えられているのを見て、一騎は困ったように眉をハの字にするとまたひとつ息を漏らす。
「なぁ甲洋……あれ、来主はちゃんと意味を理解して着てるのか?」
来主とは今しがた元気に店を飛び出していった少年、来主操のことである。
人の姿を模したコアである彼は、現在は正式にこの喫茶店のオーナーとなった甲洋のもと、日々なかなかに不憫な扱いを受けていた。
一騎と遠見真矢、そして後輩の西尾暉は第二種任務としてこの店で働いているが、操にはそういった正式なポジションが与えられているわけではない。アルバイトともいいきれず、いわば『ママのお手伝いをがんばる子供』のような立場にある。
誰も頼んでいないのだが、本人が「俺も手伝う」と言ってきかなかったため、仕方なく簡単な仕事を手伝わせているというわけだ。
つまり無給。タダ働きである。流石にちょっと可哀想なのではないかと、甲洋に打診してみたことがあるのだが「大丈夫。俺だって鬼じゃないよ」と穏やかに言いながら、彼は操にドングリをあげていた。
全く意味がわからない。なぜドングリなのだろう。働いた報酬がそれだなんて、鬼の所業以外のなにものでもない。いくら操とて納得するはずが……と思っていたら、当の本人は
「やった! 今日でドングリがぴったり100個になったよ!」
と言って大喜びしていた。お前はその結構な数のドングリで、いずれ森でも作る気か……と、世界観について行けなくなった一騎は考えるのをやめた。
とにもかくにも来主操は一日一ドングリのために喫茶楽園で日々軽作業に勤しんでいる。彼がまともにできることといえば店先や床等の掃除と、ちょっとしたお使いくらいのものだが。
しかし操の不遇はそれだけにとどまらない。すっかり皿を拭く手を止めてしまっている一騎を戸惑わせているのは、普段から彼が身に着けているシャツに関するものだった。
(確か少し前はクラゲ……つい先週は全裸と幼女で、一昨日はカレー味だったよな。そして今日は……)
「理解していたなら、俺だったらとてもじゃないけど人前に出るなんてできないな」
「……甲洋、お前って」
ふわりと包み込むような優しい声で単調に紡がれたのは、ただの暴言でしかなかった。
静かに目を伏せる同級生に、呆れが勝った一騎はその先に続くはずだった「そういう奴だったっけ?」という言葉を引っ込める。
「バレたらきっと怒るぞ、あいつ」
諭すように言っても聞いているのかいないのか、彼はほねっこに夢中のショコラに愛おしげな視線を落とすだけだった。
操が常日頃から着用しているシャツ。それはいわゆる『変T』というものだった。
日によって異なる意味不明な単語や文言が、真っ白のシャツに黒い太文字で書かれている。おそらく甲洋が手書きしているのだろう。
記憶を探れば他にも『ひじき』とか『カモメの玉子』とか、時には犬とも猫ともつかない謎の生物が雑に描かれていることもあった。(もしかしたらショコラかもしれない)
なにか深い意味でもあるのだろうか。多分ないのだろうが、悪ふざけにもほどがある。
甲洋は店に出る操にユニフォームだと言ってそれを着せていた。操はその都度「新しい服だ! 嬉しいー!」と言って無邪気に袖を通している。
この店には決まった制服というものはなく、店員には黒いエプロンが支給されているだけだ。甲洋も含めて皆がそれをつけているが、操にだけは腰巻きタイプのショートエプロンを与えているあたり隙がない。
ほとんどの客はそれを見て堪らず噴きだし「今日もいいの着てるねぇ」なんて言いながら、微笑ましそうにしている。毎日どんな変Tを着ているのか、最近ではそれを見るのが楽しみで通う客まで現れだした。
ちなみに皆城織姫には「そういうの、一歩間違えるとただのキャラ迷走にしか繋がらないわよ」と冷やかに言われていたが、操はあの満面のスマイルで「ありがとう!」と嬉しそうに礼を述べていた。褒めてない。
とはいえ、別に悪口が書いてあるわけではないのだ。嬉しそうな操の蕩けんばかりの笑顔だとか、それを眺めては密かにご満悦そうな甲洋を見ていると、不思議とこれはこれでいいのかもしれない、という気がしてくる。(『全裸』と『幼女』のコンボにはそこはかとない悪意を感じるが)
ふと、クラゲってまさかボレアリオスのことか……? と、至極どうでもいい可能性に気づいてしまったが、黙っておくことにした。
「酷いよ! 甲洋のバカ!」
そのとき、大きな音をたてながら乱暴に扉が開かれ、変Tを来た操がお使いから帰宅した。亜麻色の髪を少年らしい丸みが残る頬に貼り付けて、眉を吊り上げながら息を弾ませている。
瞬間移動は島の人々を驚かせてしまうため、基本的には使用禁止ということになっているのだが、それにしたって随分と早い帰宅だ。彼は全速力で走ってきたのか、首筋にうっすらと汗を滲ませていた。
その手にはなにも持たれていない。お使いに出したはずなのに、なぜ手ぶらで帰ってきたのだろう。しかも酷く怒った様子で。
ショコラが驚いて僅かに身を震わせたが、おやつに夢中になるあまり見向きもしない。彼女の中で操はほねっこ以下ということか。
操は真っ先に甲洋とショコラがいるボックス席に目を向けた。彼は何を言うでもなくじっと見つめてくる甲洋に向かって、細い肩を怒らせながら声を張り上げる。
「おれが着てるTシャツが変だってこと、君は知ってたんだろ! あぁもう! 心を読まずに言葉で話そうっていっつも言ってるのに! ちゃんと声に出しておかえりって言ってよ!」
いきなり飛び込んできたと思いきやまくしたてる操に、一騎は思わず面食らってしまう。
知っていたもなにも、甲洋はTシャツの生みの親である。むしろ今まで気づかなかったことの方が奇跡に近いのだが……。
それにしてもなぜ急に彼は事実を知るに至ったのだろう。店を出て行ったところまでは普段通りだったのだから、出先で何かしらあったであろうことは予想できるのだが。
目を白黒させる一騎とは対照的に、甲洋はいたって冷静だ。顔色ひとつ変えずにどっしりと構えている。
「おかえり」
「もういいよバカ! 君ってほんとにヤな奴だ!」
「ま、まぁまぁ。そんなに大声を出すと喉を傷めるぞ。来主、いったい何があったんだ?」
放っておくとまた甲洋がショコラをけしかけ、操が半狂乱になる未来が見えて、一騎はカウンターから出ると操の傍に歩み寄る。その肩に触れると、彼は涙を溜めた大きな瞳を向けてきた。
「聞いてよ一騎……さっきおれ、豆腐屋のおじさんに言われたんだ」
「言われたって、なにを?」
操に頼んだお使いの品は豆腐三丁だった。今夜の日替わりディナーは焼き魚定食ということになっていたのだが、味噌汁に入れる豆腐の仕入れ数が足りないことに気づき、不足分を買いに行ってもらった。
豆腐屋の店主は元人類軍の兵士だったはずだ。よくこの店にもやって来る常連客である。
「今日はカレー味じゃないのかい? って」
「あー……」
そういえば一昨日の変Tは『カレー味』だった。そしてちょうどその日、豆腐屋の店主がコーヒーを飲みに来ていたことを思いだす。
なんのことかと首を傾げる操に、店主は「こないだシャツに書いてあったじゃないか」と言って笑ったのだという。
なるほど。それでようやく事実を知り、甲洋を問い詰めるために本来の目的をすっ飛ばして帰ってきたというわけか。
一騎は思わず元凶の方へ視線をやった。相変わらず読みにくい表情で、淡々と操を見つめ続けている。おい甲洋、ついにバレたぞ。なぜそんなに冷静なんだ……。
「おれ、カレーの味なんかしないよ! キレイな空って意味だって教えてくれたの、あれ嘘だったんだ! 嘘つき!」
「お前そんな嘘ついてまで着せてたのか……」
全くなにを考えているのだろう。
誰に対しても優しく気さくで実直な少年だった頃を知っているだけに、なぜ操に対してだけこうもひん曲がっているのか、一騎にはまるで理解ができなかった。
すると甲洋はずっと動きのなかった顔に、ふんわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「なんだか面白くて、つい」
「つい、じゃないだろ……」
そんな聖母もかくやとばかりの笑顔で言われましても。
「おれはカレー大好きだけど、カレーになりたいわけじゃないのに! おれがカレー味になったら、今度はおれがみんなにバクバク食べられちゃうってことでしょ!? そんなの嫌だ! 助けて一騎っ!!」
操は瞳にいっぱい涙を溜めて一騎の胸に縋りついてくる。
お前が怒ってるのって結局そこなのか……と、一騎はだんだん頭痛がしてきた。
今日に限って真矢はいないし、暉は夕方から来ることになっている。一騎にはこの状況を上手く捌ききる自信がなかった。というより、そろそろ夜の仕込みも始めたいところだ。
「来主はカレーにならないし、食べられたりなんかしないから」
「食べるよ」
「守るよのトーンで言うな。ややこしくなるからちょっと黙っててくれ」
「やっぱり食べる気なんだ!」
わああぁ……と泣きだしてしまった操に、一騎はいよいよ途方に暮れた。
*
一騎はこめかみを押さえながら「ちょっと外すから、ちゃんと謝るんだぞ」と言って店を出て行った。おそらく操が買い損ねた豆腐を改めて買いに行ったのだろう。
操はいつもの中央席に座り、未だにしかめ面をしている。
『来主』
心の中に語りかけるが、ぷいっと顔を背けられてしまった。
人として振舞うことを好むこのコアは、甲洋の姿勢をよしとせず心に壁を作っているのだ。今日はそれがとりわけ分厚い。
甲洋はおやつに満足して足元で寝そべるショコラの頭をひと撫ですると、立ちあがってカウンターの向こう側にあるキッチンへと足を運んだ。
取りだしたグラスに氷を入れてオレンジジュースを注ぎ、ストローを刺すと中央席へ向かって操の目の前に置く。
「……知ってるよ。こういうの、ご機嫌取りっていうんだ」
唇を尖らせた操が、上目使いで睨んでくる。
特にそういうつもりはなかったのだが、まぁ別にいい。彼は喉が渇いていたのか、素直に両手でグラスを引き寄せると、持ちあげることはせずストローに口をつけた。カラリと、氷が涼しげな音を奏でる。
(さて、どうしよう)
一騎に言われるまでもなく、バレてしまったからには折れる以外に仕方ない。
はっきり言って悪気はなかったし、最初は本当にただの思いつきだった。
店を手伝うのにアルヴィスの制服のままというのも味気ないかと、彼が着られそうなものでまだ一度も袖を通していない服を探したら、無地の白Tシャツくらいしかなかったのだ。
それもそれで味気ないと思いマーカーペンで絵を描こうとしたのだが、上手くいきそうになかったため適当に思いついた単語をデカデカと書いてやった。多少の悪戯心があったことは、もちろん否めない。
あのときは確か『イヌ』と書いたはずだ。流石に嫌がるかと思ったが、操はえらく喜んだ。単純に新しい服が嬉しかったのだろう。書かれている文字について触れられることはなく、その時はただの模様として受け取ったようだった。
天敵であるはずの『イヌ』という字が書かれたシャツを着て、チョロチョロと動き回る操は見ていて面白かった。一騎たちや訪れる客にいちいち「これ見て! いいでしょ! おれだけの服だよ!」と見せびらかすところがまた面白くて、正直可愛いと思ってしまった。
だからつい頻繁に新しいシャツに思いつきで文字を書いては与えていたら、気づけば看板娘ならぬ看板Tにまでなっていた。
しかし、それも今日でおしまいだろうか。
少し残念に思っていると、オレンジジュースを飲みほした操がおもむろに口を開いた。
「別にいいよ」
ああ、読んだのか。二人の間の決め事として、甲洋が壁を取り払っているときは心を読んでも構わないということになっている。
もちろん他の者に対しては、むやみやたらと読んではいけないと言い聞かせているが。
「君が新しい服をくれるのは嬉しい。おれがこれを着てるのを見ると、みんなニコニコ笑うんだ。ここにある優しい記憶の中に、それがゆっくり溶け込んでいくのを感じる」
「……そう」
「これからはちゃんと意味を教えてくれれば、それでいい」
「わかった」
「じゃあ教えてよ。今日のこれは、どんな意味があるの?」
操は僅かに椅子を引き、シャツの裾を両方の指先で摘まんで軽く引っ張った。
見上げてくるその瞳からは、もはや不満の色が消えている。そこには無邪気すぎるほどの好奇心が浮かんでいるだけだった。
甲洋はふっと微笑むと、片手をテーブルについて身を屈めた。もう片方の手は椅子の背凭れに。覗き込むようにして、操の唇に口付けを落とす。
唇が離れると、操は目をまん丸にしてポカンと口を開けた。彼がこの行為について学習したのは、ついほんの最近だ。多分きっと、まだ誰にも知られてはいないだろうが、自分たちはこういう関係に落ち着いていた。
「なんで、ちゅうしたの」
「書いてあるから」
「書いて……?」
「キスしてって、書いてあるから」
「ふわぁ」
上擦ったおかしな声を漏らして、操は頬を赤らめた。彼が恥じらうという感情を理解しはじめている、確かな証拠だ。あるいは照れ臭さだろうか。
ちゃんと恋をしているんだなと、そう感じる。こういった関係に落ち着いたとはいえ、操がどこまで本当に理解できているのか、正直あまり自信はなかったから。思った以上の何倍も安堵している自分がいることが、なんだかおかしい。
操のTシャツには、甲洋が言った通りのことが書かれている。実際は平仮名で「きすみー」と書かれているのだが、これはつい最近読んだ洋書から受けた影響だった。なんとなく読み始めたそれは恋愛小説で、主人公にキスを強請るヒロインが可愛かったから。
無邪気で子供っぽい彼女のキャラクターは、少し操に似ていた気がする。
「教えてくれて、ありがとう」
折り重ねた両手を膝に置いて、赤い顔をうつむけた操が言った。甲洋はなんとなく無意識に読心で『どういたしまして』と返してしまったが、もじもじしている彼が不満を漏らすことはなかった。
「ただいま」
丁度いいタイミングでカランとドアベルを鳴らして、一騎が店に戻ってきた。手には豆腐が入ったビニール袋をぶら下げている。
「おかえり一騎」
「ああ。ちゃんとごめんなさいは済んだのか?」
そういえば謝ってないなと思いだしたが、さっきまで流れていた険悪な空気が消え去っていることに気づいた一騎がホッとした様子で笑みを浮かべて見せたので、まぁいいかと曖昧に笑い返す。
「来主、なんだか顔が赤いけど、どうかしたか?」
キッチンスペースへ向かうためにふたりの脇を横切りながら、一騎はチラリと操の顔を見て小首を傾げた。
「なんでもないよ。ね、来主」
言っちゃダメ。暗にそれを匂わせると、珍しく察した操が「うん、なんでもない」と言ってはにかんだ。
「そっか。ならいいけど。さて、そろそろ晩の仕込みを始めるぞ」
カウンターに置かれていたエプロンをつけなおし、一騎はキッチンへ向かう。それを手伝うためにテーブルを離れようとした甲洋の手に、温かなものが触れた。
「ねぇ待って」
「なに?」
甲洋を引き止めた操はどこか神妙な面持ちで口を開きかけたが、すぐに噤んで心の中に問いかけてきた。
『おれの唇、カレー味じゃなかった?』
まだそんなことを不安がっていたのか。
甲洋は微笑むと指先を緩く握り込んでいる操の指を、同じようにそっと握り返した。
『来主の味がしたよ』
甘酸っぱくて優しくて、だけど少し子供っぽくて。くすぐったさと切なさが、どこか懐かしい。そんな味。多分きっと、恋の味だ。
『そっか』
操はまだほんの少し赤い頬をしながら、ふにゃんと幼い笑顔を見せた。
←戻る ・ Wavebox👏
先週は『全裸』と『幼女』だったし、一昨日は『カレー味』だったと思う。
「行ってきまーす!」
ランチタイムのピークも過ぎた、穏やかな昼下がり。
喫茶楽園の扉が開き、小気味よいドアベルの音色を響かせながら、はつらつとした声の主が飛び出していく。
「行ってらっしゃい。気をつけてな」
「はーい!」
カウンターに立つ真壁一騎はまっさらな布巾で皿を丁寧に磨きながら、その背に声をかけて見送った。
彼が行ってしまうと、これといったBGMもない店内にはゆったりとした午後の静寂が流れる。
一騎はふと小さく息を漏らし、店の片隅へと視線をやった。ボックス席では長椅子に腰かけた春日井甲洋が、愛犬ショコラにおやつ(ほねっこ)を与えながら、少年が出て行った扉をじっと見つめている。
緩く癖のある前髪に大半が隠されている表情は、穏やかな海のように凪いでいた。その口元に仄かな笑みが添えられているのを見て、一騎は困ったように眉をハの字にするとまたひとつ息を漏らす。
「なぁ甲洋……あれ、来主はちゃんと意味を理解して着てるのか?」
来主とは今しがた元気に店を飛び出していった少年、来主操のことである。
人の姿を模したコアである彼は、現在は正式にこの喫茶店のオーナーとなった甲洋のもと、日々なかなかに不憫な扱いを受けていた。
一騎と遠見真矢、そして後輩の西尾暉は第二種任務としてこの店で働いているが、操にはそういった正式なポジションが与えられているわけではない。アルバイトともいいきれず、いわば『ママのお手伝いをがんばる子供』のような立場にある。
誰も頼んでいないのだが、本人が「俺も手伝う」と言ってきかなかったため、仕方なく簡単な仕事を手伝わせているというわけだ。
つまり無給。タダ働きである。流石にちょっと可哀想なのではないかと、甲洋に打診してみたことがあるのだが「大丈夫。俺だって鬼じゃないよ」と穏やかに言いながら、彼は操にドングリをあげていた。
全く意味がわからない。なぜドングリなのだろう。働いた報酬がそれだなんて、鬼の所業以外のなにものでもない。いくら操とて納得するはずが……と思っていたら、当の本人は
「やった! 今日でドングリがぴったり100個になったよ!」
と言って大喜びしていた。お前はその結構な数のドングリで、いずれ森でも作る気か……と、世界観について行けなくなった一騎は考えるのをやめた。
とにもかくにも来主操は一日一ドングリのために喫茶楽園で日々軽作業に勤しんでいる。彼がまともにできることといえば店先や床等の掃除と、ちょっとしたお使いくらいのものだが。
しかし操の不遇はそれだけにとどまらない。すっかり皿を拭く手を止めてしまっている一騎を戸惑わせているのは、普段から彼が身に着けているシャツに関するものだった。
(確か少し前はクラゲ……つい先週は全裸と幼女で、一昨日はカレー味だったよな。そして今日は……)
「理解していたなら、俺だったらとてもじゃないけど人前に出るなんてできないな」
「……甲洋、お前って」
ふわりと包み込むような優しい声で単調に紡がれたのは、ただの暴言でしかなかった。
静かに目を伏せる同級生に、呆れが勝った一騎はその先に続くはずだった「そういう奴だったっけ?」という言葉を引っ込める。
「バレたらきっと怒るぞ、あいつ」
諭すように言っても聞いているのかいないのか、彼はほねっこに夢中のショコラに愛おしげな視線を落とすだけだった。
操が常日頃から着用しているシャツ。それはいわゆる『変T』というものだった。
日によって異なる意味不明な単語や文言が、真っ白のシャツに黒い太文字で書かれている。おそらく甲洋が手書きしているのだろう。
記憶を探れば他にも『ひじき』とか『カモメの玉子』とか、時には犬とも猫ともつかない謎の生物が雑に描かれていることもあった。(もしかしたらショコラかもしれない)
なにか深い意味でもあるのだろうか。多分ないのだろうが、悪ふざけにもほどがある。
甲洋は店に出る操にユニフォームだと言ってそれを着せていた。操はその都度「新しい服だ! 嬉しいー!」と言って無邪気に袖を通している。
この店には決まった制服というものはなく、店員には黒いエプロンが支給されているだけだ。甲洋も含めて皆がそれをつけているが、操にだけは腰巻きタイプのショートエプロンを与えているあたり隙がない。
ほとんどの客はそれを見て堪らず噴きだし「今日もいいの着てるねぇ」なんて言いながら、微笑ましそうにしている。毎日どんな変Tを着ているのか、最近ではそれを見るのが楽しみで通う客まで現れだした。
ちなみに皆城織姫には「そういうの、一歩間違えるとただのキャラ迷走にしか繋がらないわよ」と冷やかに言われていたが、操はあの満面のスマイルで「ありがとう!」と嬉しそうに礼を述べていた。褒めてない。
とはいえ、別に悪口が書いてあるわけではないのだ。嬉しそうな操の蕩けんばかりの笑顔だとか、それを眺めては密かにご満悦そうな甲洋を見ていると、不思議とこれはこれでいいのかもしれない、という気がしてくる。(『全裸』と『幼女』のコンボにはそこはかとない悪意を感じるが)
ふと、クラゲってまさかボレアリオスのことか……? と、至極どうでもいい可能性に気づいてしまったが、黙っておくことにした。
「酷いよ! 甲洋のバカ!」
そのとき、大きな音をたてながら乱暴に扉が開かれ、変Tを来た操がお使いから帰宅した。亜麻色の髪を少年らしい丸みが残る頬に貼り付けて、眉を吊り上げながら息を弾ませている。
瞬間移動は島の人々を驚かせてしまうため、基本的には使用禁止ということになっているのだが、それにしたって随分と早い帰宅だ。彼は全速力で走ってきたのか、首筋にうっすらと汗を滲ませていた。
その手にはなにも持たれていない。お使いに出したはずなのに、なぜ手ぶらで帰ってきたのだろう。しかも酷く怒った様子で。
ショコラが驚いて僅かに身を震わせたが、おやつに夢中になるあまり見向きもしない。彼女の中で操はほねっこ以下ということか。
操は真っ先に甲洋とショコラがいるボックス席に目を向けた。彼は何を言うでもなくじっと見つめてくる甲洋に向かって、細い肩を怒らせながら声を張り上げる。
「おれが着てるTシャツが変だってこと、君は知ってたんだろ! あぁもう! 心を読まずに言葉で話そうっていっつも言ってるのに! ちゃんと声に出しておかえりって言ってよ!」
いきなり飛び込んできたと思いきやまくしたてる操に、一騎は思わず面食らってしまう。
知っていたもなにも、甲洋はTシャツの生みの親である。むしろ今まで気づかなかったことの方が奇跡に近いのだが……。
それにしてもなぜ急に彼は事実を知るに至ったのだろう。店を出て行ったところまでは普段通りだったのだから、出先で何かしらあったであろうことは予想できるのだが。
目を白黒させる一騎とは対照的に、甲洋はいたって冷静だ。顔色ひとつ変えずにどっしりと構えている。
「おかえり」
「もういいよバカ! 君ってほんとにヤな奴だ!」
「ま、まぁまぁ。そんなに大声を出すと喉を傷めるぞ。来主、いったい何があったんだ?」
放っておくとまた甲洋がショコラをけしかけ、操が半狂乱になる未来が見えて、一騎はカウンターから出ると操の傍に歩み寄る。その肩に触れると、彼は涙を溜めた大きな瞳を向けてきた。
「聞いてよ一騎……さっきおれ、豆腐屋のおじさんに言われたんだ」
「言われたって、なにを?」
操に頼んだお使いの品は豆腐三丁だった。今夜の日替わりディナーは焼き魚定食ということになっていたのだが、味噌汁に入れる豆腐の仕入れ数が足りないことに気づき、不足分を買いに行ってもらった。
豆腐屋の店主は元人類軍の兵士だったはずだ。よくこの店にもやって来る常連客である。
「今日はカレー味じゃないのかい? って」
「あー……」
そういえば一昨日の変Tは『カレー味』だった。そしてちょうどその日、豆腐屋の店主がコーヒーを飲みに来ていたことを思いだす。
なんのことかと首を傾げる操に、店主は「こないだシャツに書いてあったじゃないか」と言って笑ったのだという。
なるほど。それでようやく事実を知り、甲洋を問い詰めるために本来の目的をすっ飛ばして帰ってきたというわけか。
一騎は思わず元凶の方へ視線をやった。相変わらず読みにくい表情で、淡々と操を見つめ続けている。おい甲洋、ついにバレたぞ。なぜそんなに冷静なんだ……。
「おれ、カレーの味なんかしないよ! キレイな空って意味だって教えてくれたの、あれ嘘だったんだ! 嘘つき!」
「お前そんな嘘ついてまで着せてたのか……」
全くなにを考えているのだろう。
誰に対しても優しく気さくで実直な少年だった頃を知っているだけに、なぜ操に対してだけこうもひん曲がっているのか、一騎にはまるで理解ができなかった。
すると甲洋はずっと動きのなかった顔に、ふんわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「なんだか面白くて、つい」
「つい、じゃないだろ……」
そんな聖母もかくやとばかりの笑顔で言われましても。
「おれはカレー大好きだけど、カレーになりたいわけじゃないのに! おれがカレー味になったら、今度はおれがみんなにバクバク食べられちゃうってことでしょ!? そんなの嫌だ! 助けて一騎っ!!」
操は瞳にいっぱい涙を溜めて一騎の胸に縋りついてくる。
お前が怒ってるのって結局そこなのか……と、一騎はだんだん頭痛がしてきた。
今日に限って真矢はいないし、暉は夕方から来ることになっている。一騎にはこの状況を上手く捌ききる自信がなかった。というより、そろそろ夜の仕込みも始めたいところだ。
「来主はカレーにならないし、食べられたりなんかしないから」
「食べるよ」
「守るよのトーンで言うな。ややこしくなるからちょっと黙っててくれ」
「やっぱり食べる気なんだ!」
わああぁ……と泣きだしてしまった操に、一騎はいよいよ途方に暮れた。
*
一騎はこめかみを押さえながら「ちょっと外すから、ちゃんと謝るんだぞ」と言って店を出て行った。おそらく操が買い損ねた豆腐を改めて買いに行ったのだろう。
操はいつもの中央席に座り、未だにしかめ面をしている。
『来主』
心の中に語りかけるが、ぷいっと顔を背けられてしまった。
人として振舞うことを好むこのコアは、甲洋の姿勢をよしとせず心に壁を作っているのだ。今日はそれがとりわけ分厚い。
甲洋はおやつに満足して足元で寝そべるショコラの頭をひと撫ですると、立ちあがってカウンターの向こう側にあるキッチンへと足を運んだ。
取りだしたグラスに氷を入れてオレンジジュースを注ぎ、ストローを刺すと中央席へ向かって操の目の前に置く。
「……知ってるよ。こういうの、ご機嫌取りっていうんだ」
唇を尖らせた操が、上目使いで睨んでくる。
特にそういうつもりはなかったのだが、まぁ別にいい。彼は喉が渇いていたのか、素直に両手でグラスを引き寄せると、持ちあげることはせずストローに口をつけた。カラリと、氷が涼しげな音を奏でる。
(さて、どうしよう)
一騎に言われるまでもなく、バレてしまったからには折れる以外に仕方ない。
はっきり言って悪気はなかったし、最初は本当にただの思いつきだった。
店を手伝うのにアルヴィスの制服のままというのも味気ないかと、彼が着られそうなものでまだ一度も袖を通していない服を探したら、無地の白Tシャツくらいしかなかったのだ。
それもそれで味気ないと思いマーカーペンで絵を描こうとしたのだが、上手くいきそうになかったため適当に思いついた単語をデカデカと書いてやった。多少の悪戯心があったことは、もちろん否めない。
あのときは確か『イヌ』と書いたはずだ。流石に嫌がるかと思ったが、操はえらく喜んだ。単純に新しい服が嬉しかったのだろう。書かれている文字について触れられることはなく、その時はただの模様として受け取ったようだった。
天敵であるはずの『イヌ』という字が書かれたシャツを着て、チョロチョロと動き回る操は見ていて面白かった。一騎たちや訪れる客にいちいち「これ見て! いいでしょ! おれだけの服だよ!」と見せびらかすところがまた面白くて、正直可愛いと思ってしまった。
だからつい頻繁に新しいシャツに思いつきで文字を書いては与えていたら、気づけば看板娘ならぬ看板Tにまでなっていた。
しかし、それも今日でおしまいだろうか。
少し残念に思っていると、オレンジジュースを飲みほした操がおもむろに口を開いた。
「別にいいよ」
ああ、読んだのか。二人の間の決め事として、甲洋が壁を取り払っているときは心を読んでも構わないということになっている。
もちろん他の者に対しては、むやみやたらと読んではいけないと言い聞かせているが。
「君が新しい服をくれるのは嬉しい。おれがこれを着てるのを見ると、みんなニコニコ笑うんだ。ここにある優しい記憶の中に、それがゆっくり溶け込んでいくのを感じる」
「……そう」
「これからはちゃんと意味を教えてくれれば、それでいい」
「わかった」
「じゃあ教えてよ。今日のこれは、どんな意味があるの?」
操は僅かに椅子を引き、シャツの裾を両方の指先で摘まんで軽く引っ張った。
見上げてくるその瞳からは、もはや不満の色が消えている。そこには無邪気すぎるほどの好奇心が浮かんでいるだけだった。
甲洋はふっと微笑むと、片手をテーブルについて身を屈めた。もう片方の手は椅子の背凭れに。覗き込むようにして、操の唇に口付けを落とす。
唇が離れると、操は目をまん丸にしてポカンと口を開けた。彼がこの行為について学習したのは、ついほんの最近だ。多分きっと、まだ誰にも知られてはいないだろうが、自分たちはこういう関係に落ち着いていた。
「なんで、ちゅうしたの」
「書いてあるから」
「書いて……?」
「キスしてって、書いてあるから」
「ふわぁ」
上擦ったおかしな声を漏らして、操は頬を赤らめた。彼が恥じらうという感情を理解しはじめている、確かな証拠だ。あるいは照れ臭さだろうか。
ちゃんと恋をしているんだなと、そう感じる。こういった関係に落ち着いたとはいえ、操がどこまで本当に理解できているのか、正直あまり自信はなかったから。思った以上の何倍も安堵している自分がいることが、なんだかおかしい。
操のTシャツには、甲洋が言った通りのことが書かれている。実際は平仮名で「きすみー」と書かれているのだが、これはつい最近読んだ洋書から受けた影響だった。なんとなく読み始めたそれは恋愛小説で、主人公にキスを強請るヒロインが可愛かったから。
無邪気で子供っぽい彼女のキャラクターは、少し操に似ていた気がする。
「教えてくれて、ありがとう」
折り重ねた両手を膝に置いて、赤い顔をうつむけた操が言った。甲洋はなんとなく無意識に読心で『どういたしまして』と返してしまったが、もじもじしている彼が不満を漏らすことはなかった。
「ただいま」
丁度いいタイミングでカランとドアベルを鳴らして、一騎が店に戻ってきた。手には豆腐が入ったビニール袋をぶら下げている。
「おかえり一騎」
「ああ。ちゃんとごめんなさいは済んだのか?」
そういえば謝ってないなと思いだしたが、さっきまで流れていた険悪な空気が消え去っていることに気づいた一騎がホッとした様子で笑みを浮かべて見せたので、まぁいいかと曖昧に笑い返す。
「来主、なんだか顔が赤いけど、どうかしたか?」
キッチンスペースへ向かうためにふたりの脇を横切りながら、一騎はチラリと操の顔を見て小首を傾げた。
「なんでもないよ。ね、来主」
言っちゃダメ。暗にそれを匂わせると、珍しく察した操が「うん、なんでもない」と言ってはにかんだ。
「そっか。ならいいけど。さて、そろそろ晩の仕込みを始めるぞ」
カウンターに置かれていたエプロンをつけなおし、一騎はキッチンへ向かう。それを手伝うためにテーブルを離れようとした甲洋の手に、温かなものが触れた。
「ねぇ待って」
「なに?」
甲洋を引き止めた操はどこか神妙な面持ちで口を開きかけたが、すぐに噤んで心の中に問いかけてきた。
『おれの唇、カレー味じゃなかった?』
まだそんなことを不安がっていたのか。
甲洋は微笑むと指先を緩く握り込んでいる操の指を、同じようにそっと握り返した。
『来主の味がしたよ』
甘酸っぱくて優しくて、だけど少し子供っぽくて。くすぐったさと切なさが、どこか懐かしい。そんな味。多分きっと、恋の味だ。
『そっか』
操はまだほんの少し赤い頬をしながら、ふにゃんと幼い笑顔を見せた。
←戻る ・ Wavebox👏
「甲洋、髪切るの?」
長いキスのあと、とろりと潤んだ瞳が甲洋を見上げながら問いかけてくる。
「なに? 急に」
ベッドの上、操の身体に折り重なるようにかぶさっていた甲洋は、この先に続く行為へと逸る気持ちに蓋をしつつ小首を傾げた。
寝間着にしているシャツの半袖から伸びた両腕を、甲洋の首に巻き付けていた操は「んー」と考え込む素振りを見せながら、長い髪に触れてくる。黒みが強い栗皮色の癖毛が白い指先に巻き取られ、しゅるんと軽やかに解けた。
「お昼に真矢と話してた」
「ああ、そういえばそんな話をしてたっけ」
それは今日の昼近く、喫茶『楽園』での一コマだ。
ランチタイムになる前にと、甲洋と操は揃って少し早い昼食をとっていた。
カレーのルーがついてしまった操の口元をおしぼりで拭うなど、自分が食べるのもそっちのけで面倒を見てやっていると、そこに真矢がサラダを運んできてくれた。(ちなみに今日のまかないは暉カレーだった)
そのまま一言二言会話をした流れで、真矢がお盆を胸に抱えながら「春日井くん、伸びたよねぇ、髪」と、しみじみ言ったのだ。
店に出るとき、甲洋はいつも長い髪をハーフアップにして緩くまとめている。元々は一つに纏めていたのだが、それを見た操が「一騎とおそろいだー!」などとのたまったので、この形にした。
未だにどこかで一騎を意識してしまうのは、恋人ポジションにいる操があまりにも彼に懐いているせいかもしれない。万が一にも間違いが起こるはずはないと分かっていても、そこは複雑な男心というやつである。
髪の長さについては、真矢に言われるまで全く気にも留めていなかった。ただ、言われてみればずいぶん伸びていたし、見た目もさることながら少し重たいような気もする。風呂上りに髪を乾かすにも、昔よりずっと時間がかかるようになっていた。
その場は曖昧に微笑むだけで済ませたが、操はその間ずっときょとんとしながら甲洋を見ていた気がする。
「一騎の髪は総士が切ったんだって。君の髪はおれが切ろうか?」
「切りたいの?」
「うん」
「遠慮しとくよ」
とてもじゃないが、不安で任せられない。どんな悲惨な髪型にされるか、想像するだけで恐ろしい。
「えー! じゃあ総士に切ってもらうの?」
「なんでそうなる」
「……なんか嫌だな」
「それって」
ぷぅ、と唇を膨らませて目を逸らす操に、つい仄かな期待を寄せてしまう。それは甲洋が一騎に時おり抱いてしまう感情と、同じ形をしているのではないかと。つまりは、ヤキモチだ。
けれど臆病な甲洋はそれを確かめる気にはなれなかった。読心能力を使えば容易いが、もし見当違いだった場合、きっと落ち込む。というか、ムカつく。
「切るときはちゃんと床屋に行くよ」
ため息交じりにそう言えば、操は「つまんないのー」と言ってまた唇を尖らせた。童顔がさらに幼く見えて、思わず笑うと尖ったそこに啄むようなキスを落とす。
「んっ」
たったそれだけでヒクンと跳ねる身体に愛しさを募らせながら、餅のように柔らかな頬に手の平を這わせた。なんとなくサラサラと撫でてやると、琥珀にも似た黄朽葉色の瞳が気持ちよさそうに細められる。
「……来主はさ、どっちがいい?」
「ん~? なにが~?」
「いや……」
ほとんど無意識に問いかけてしまったことが途端に恥ずかしくなり、言いよどむ。
髪を切るか切らないかなんて、そんなのは自分の勝手だ。好きにすればいいことなのに、彼に選択を委ねてどうするつもりだったのだろう。
(例えば……少しでもこいつの好みに合わせたい、とか?)
乙女じゃあるまいし。つくづく自分に呆れかえっていると、操は幾度か瞬きをしてから小首を傾げる。
「長いのと短いの、どっちがいいかってこと?」
「……まぁ一応。参考までに」
「そうだなぁ」
よかった。肝心なところは気づかれていない。彼が鈍くて助かった。
操は少しのあいだ小さく唸って考え込んでいたが、思いだしたように甲洋の癖毛を指先で弄ぶ動きを再開させた。
「前に、総士の部屋で写真を見たよ。昔の君が写ってた。実際に見たのは前のおれだけどね。ちゃんと覚えてる」
「ああ、あの写真か……」
懐かしい記憶が、チクリと胸を締め付ける。届かないと知りながら、ただひたむきに恋をする少年だったあの日。つい昨日のことのように思いだせるのに、自分が生きてきた年数よりもずっと遠い昔のことに感じられる。
痛くて怖くて悲しくて、淡く優しいセピア色をした、大切な記憶だ。
「君のほっぺたは、今よりほんの少しだけ丸かった。優しそうで、寂しそうで……可愛かったよ」
「……子供だったからね」
「髪を切ったら、またあんなふうに可愛くなっちゃうね。甲洋」
「それはどうだろう」
クスリと小さく笑いながら、可愛いなんて初めて言われたなと、甲洋は思う。両親にすら一度も言われたことがなかったし、ラブレターをもらうくらいには気にかけてくれる女の子たちもいたけれど、そんな言葉をかけられたのは初めてだ。
成人を迎えた男としては少し複雑だが、操がそう感じたのなら悪い気はしない。
「なら、切ろうかな」
「んん……待って。ちょっとやだ、かも」
「なにそれ。どっちさ?」
「わかんない。どっちの君も好きだけど……なんでヤなんだろ?」
操はなにやら迷っている様子だった。けれどなぜ迷っているのか、自分でも分かっていないのだ。
埒が明かない。そして、こうしている間にも夜はどんどん朝へ向かって時を進めている。
──どっちの君も好き。
そんなことを言われてしまったら、このまま抱きしめてただ眠るなんて、できそうもない。
「とりあえず、保留にしとこうか」
ホッとしたように表情を明るくした操が頷いたのを合図に、再び深く唇が重ねられた。
*
「んっ、うぅ……ッ、あ、はぁッ、ぁ」
胡坐をかいて座る甲洋の上に跨るようにして、操がゆっくりと腰を落とした。ローションで濡れた結合部が、ぐじゅりといやらしい音を響かせる。
痛いほどの締め付けで自身を飲み込んでいく肉襞に、甲洋は奥歯を噛み締めて喘ぎそうになるのを堪えた。
「ッ、だいじょうぶ?」
腹に力を込め、上擦ってしまいそうな声を押し殺して問いかけた。操は甲洋の首にしがみつき、はかはかと忙しなく肩を上下させている。
「ん、平気……お腹、ちょっと苦しいだけ……甲洋の、おっきくて硬くて、熱いんだもん……」
「……そういうことは、言わなくていい」
「ふふ、恥ずかしいんだね。可愛い」
白い両腕が甲洋の頭を抱え込み、優しい手つきで髪を撫でられる。なんだかひどく甘やかされているような気がして、胸が甘く締め付けられた。
(ああ、もう……)
抱いているはずなのに、抱かれているみたいな気がしてくるから不思議だ。腕の中のコアは、きっとそこまで考えちゃいないはずなのに。
「動くよ」
甲洋は気恥ずかしさから短く告げると、返事も待たずに腰を揺らした。
「アッ、ぁんっ! あッ!」
薄桃に染まった身体が、打ち込まれた快楽に美しくしなる。子犬のような甲高い悲鳴が上がるのを聞いて、可愛いのはどっちだと、堪らない愛しさにいっそ腹が立ってきた。
それをぶつけるように、甲洋は細い腰を両腕でしっかり抱きこんで固定しながら、ベッドのスプリングを利用してナカを存分に攻め立てる。
「やぁっ、ァッ! だめ、それダメ深い……甲洋……ッ!」
ふたりの身体の間では、幼さを残す薄紅の性器が天を仰いで震えている。甲洋が奥を突くたび、ぴゅ、ぴゅ、と健気に蜜を撒き散らしては気持ちよさそうに揺れていた。
(可愛いな……俺ので、こんなに感じてくれてるんだ)
甲洋の首にしがみつきながら、操は髪を振り乱して甘い嬌声をあげている。誰に教わったわけもないはずなのに、いつしか動きに合わせて自らも腰を振る姿は、彼の見てくれや内面の幼さに反してひどく扇情的だった。
最初の頃はなかなか上手くいかず、失敗の連続だったことを思うと感慨深い。痛い痛いと泣きじゃくる姿を見たときは、罪悪感で押しつぶされそうになったものだが。
けれどゆっくりと時間をかけて、今はこうして繋がることができるようになった。負担をかけていることは承知の上で、操が自分を受け入れ、求めてくれることにこの上ない喜びを感じる。
「あっ、ぁんッ、あ、アッ!」
絶えず下から突き上げて快楽を貪っているうちに、揺さぶられる操の首が赤子のように座らなくなってくる。このままでは舌を噛んでしまうかもしれないと、ガクンガクンと揺れるに任せて上下していた頭部に手を添えると片腕で腰を抱き直し、繋がったまま正常位の体勢へと持ち込んだ。
「ひゃっ、ぁ……!」
急に体勢が変わったことに驚いたのか、はたまた違う角度からイイ場所を刺激されたからか、操は生理的な涙が浮かぶ瞳を見開き、身を震わせておかしな悲鳴をあげる。
ごめんねと心の中で呟いて、薄い唇にキスをした。気を取り直した操はすぐにそれに応え始める。
「ん、ふ……ぁ……」
角度を変えながら互いに舌を絡め合い、唾液を交換する。飲み込みきれなかった雫が操の薄い唇の端から伝い落ち、ほんのりと首筋に滲む汗に溶けていった。
名残惜しく糸を引きながら唇が離れると、操は赤い頬でうっとりとしながら「はふ」と深い息をつく。
甲洋はその少し間抜けにも見える気の抜けた表情にクスリと笑って、濡れた口端を人差し指の甲で拭ってやった。そして覆いかぶさっていた半身を一度起こすと、汗を吸って額に張り付く焦茶の癖毛を何気なく掻き上げる。
「ッ、ぁ」
「!」
操が小さく声をあげ、甲洋は目を見開いた。
なぜか今、自身を食いしめる秘穴がきゅうっと締まったのだ。
「……今の、なに?」
甘い痺れに声を上ずらせながら素朴な疑問を投じれば、操はまん丸に見開いた目を潤ませて戸惑いの表情を浮かべる。
「なん、か……甲洋の、仕草が」
「なにかしたっけ」
「か、髪……髪、を」
「ああ、ちょっと鬱陶しかったから」
右手を伸びた前髪へと這わせ、質量の多いそれをざっくりと掻き上げる。すぐにハラハラと指の隙間から零れ落ちる髪の束が、ふわりと頬に張り付いた。
すると、またナカがキュンと締まる感じがする。
「そ、それ」
「ッ、ん」
「なんか、変になる……お腹の奥がきゅんきゅんして、すごく、エッチな気持ちになる……」
「なん、だ……それ?」
「わかんない! わかんないんだけど!」
嫌々と駄々っ子のように首を振り、操は切実さをはらむ瞳で両腕を伸ばしてくる。
「ねぇ、早く……気持ちいいやつ、続きしよ……?」
甲洋は喉を鳴らすと一も二もなくその手を取って、再び操の身体に覆いかぶさった。ナカがまた締まったような気がするのは、甲洋自身がさらに膨らみを増したせいだったのかもしれない。
「あっ、甲洋……ッ、甲洋、好き……アッ、ぁ、好き、ぃ……っ!」
「来主……ッ、俺、も」
『好きだ。大好きだ。──俺の操』
激しい抽挿の最中でも確実に想いを伝えたくて、操の額に自分の額を押し付けると心の中に訴えかける。操はそれを拒むことなく受け止めて、同じように確かな喜びを伝えてきた。
荒々しいふたつの呼吸と、ひたむきで優しい想いと、淫らな水音。それらを重ねて愛を分かち合いながら、やがてふたりは同時に果てた。
*
「やっぱこう、若いお姉ちゃんってのはいいもんだねぇ」
「おやっさんって本当に好きですよね」
昼間から楽園のボックス席でビールを煽りながら話しているのは溝口恭介とその部下、陣内貢である。
溝口は店内に若い女性客が多いことにご満悦な様子だった。
「そりゃあお前、こんな時代だ。綺麗で可愛いお姉ちゃんに癒しでも求めんことには、やってられねぇよ」
「まぁ……でもこう、もう少し年齢がいった大人の女性ってのもいいですよ。適度に緩んだ肉の感じとか」
「お前さんマニアックだなぁ。え、それってもしかして」
「ち、違いますよ! 舞はまだ……ちょっと、なに言わそうとしてるんですかおやっさん!」
「や~、いいね~、熱いね~」
ガハハと笑う溝口と、赤面して焦った様子の陣内。二人のむくつけきタンクトップ男たちと一緒に、ボックス席でオレンジジュースを飲んでいた操は首を傾げた。
「ねぇ、若いお姉さんと緩んだお肉って、なにがそんなにいいの?」
「お? なんだ坊主、興味あるのか?」
「うん。君たちのことなら、なんだって知りたい」
期待に満ちた表情をチラリと横目で見た溝口が、腕を組みながら「そうさなぁ」と呟いた。
「ま、男のロマンだよ。お前さんにゃあまだ早いかなぁ」
「ろまん?」
「そう、ロマン」
「ねぇ、なんか適当にあしらおうとしてない?」
ぶぅっと頬を膨らませた操に、陣内が苦笑する。
「男は綺麗で可愛い女の人を見ると、ドキドキしちゃうってことさ」
「ドキドキ」
「そ。それ。セクシーで色っぽい女を見ると、ムラムラするだろ?」
「ムラムラ」
「おやっさん……言い方に気をつけないと、真矢ちゃんに叱られますよ……」
ドキドキ。ムラムラ。操は「ふむぅ」と唸りながら考え込む。
なんとなく、覚えがあるような気がしたのだ。
「ねぇ、それって例えば……髪を掻き上げる動作を見たりしても感じる?」
操が問うと、溝口は意外そうな顔をしたあとニカッと笑って頭をグリグリ撫でてきた。
「なぁんだよ、お前さんちゃんと分かってるんじゃないか!」
溝口が、再び豪快にガハハと笑った。
褒められるのは嬉しい。またひとつ、人間を理解できたことも。
(そっか、そうだったんだ!)
あのとき。操は甲洋が髪を掻き上げる仕草を見て、おかしな気持ちになった。胸がきゅうきゅうと締め付けられるみたいに苦しくて、内側から蕩けてしまいそうだった。
けれど操は、その感情を言葉で上手く表現することができなかったのだ。
だけど次は言える。ちゃんと甲洋に伝えることができる。
いてもたってもいられず、操は勢いよく席を立つと窓際の席で接客している甲洋に向かって大声を張り上げた。
「ねぇ甲洋! おれわかったよ!」
溝口と陣内がポカンと口を開けている。注文をとっていた甲洋も、僅かに驚いた様子で首を傾げた。
「なに?」
「甲洋は、セクシーで色っぽいんだ! だから俺、あのときエッチな気持ちになったんだよ!」
「!?」
その場にいた全員が、ぎょっとして操を凝視する。少しばかり沈黙が流れたあと、どちらかといえば女性客が多い店内がざわつきはじめた。
「ちょ、ちょっと来主くん!? なんの話して……あ!」
カウンターから乗り出して慌てていた真矢は、操がついている席に溝口がいるのを確認すると何かを察したのか、眉を吊り上げた。その横で、一騎が困り果てた顔をしている。
「ありゃ~……こりゃみっちり叱られちまうなぁ……」
「だから言ったのに……」
俺も叱られるんだろうなと、陣内はげっそりとしながら肩を落とす。
「おれなにか言っちゃダメなこと言った?」
「ダメじゃあねぇが、時と場所を間違っちまったなぁ坊主」
騒然とする店内の様子にきょとんとしていると、心の中で『来主』と呼ばれる。目をやれば、甲洋がにっこりと笑ってこちらを見ていた。
「こっちにおいで。ちょっと話そうか」
なぜかその笑顔に鬼気迫ったものを感じて、操はぐっと喉を詰まらせる。
「や、やっぱりあのふたりってそういう……?」
「一騎先輩と総士先輩みたいな!?」
「きゃ~! うっそぉ~!」
店内は相変わらずざわついていて、主に女性客が頬を染めながらなにやらヒソヒソと話をしているようだった。
『こ、甲洋ぉ』
『いいから。二階に行くよ』
甲洋は笑顔のまま、さっさと背を向けて行ってしまった。
「甲洋、ぜったい怒ってる……」
しおしおと項垂れる操の尻を「ははは」と力なく笑った溝口が叩いた。
その後、操は甲洋に、溝口と陣内は真矢にこってりと絞られ、この一件は『喫茶楽園セクシー事件』として、後々まで語り継がれるのだった。
その後、操は甲洋に、溝口と陣内は真矢にこってりと絞られ、この一件は『喫茶楽園セクシー事件』として、後々まで語り継がれるのだった。
←戻る ・ Wavebox👏
長いキスのあと、とろりと潤んだ瞳が甲洋を見上げながら問いかけてくる。
「なに? 急に」
ベッドの上、操の身体に折り重なるようにかぶさっていた甲洋は、この先に続く行為へと逸る気持ちに蓋をしつつ小首を傾げた。
寝間着にしているシャツの半袖から伸びた両腕を、甲洋の首に巻き付けていた操は「んー」と考え込む素振りを見せながら、長い髪に触れてくる。黒みが強い栗皮色の癖毛が白い指先に巻き取られ、しゅるんと軽やかに解けた。
「お昼に真矢と話してた」
「ああ、そういえばそんな話をしてたっけ」
それは今日の昼近く、喫茶『楽園』での一コマだ。
ランチタイムになる前にと、甲洋と操は揃って少し早い昼食をとっていた。
カレーのルーがついてしまった操の口元をおしぼりで拭うなど、自分が食べるのもそっちのけで面倒を見てやっていると、そこに真矢がサラダを運んできてくれた。(ちなみに今日のまかないは暉カレーだった)
そのまま一言二言会話をした流れで、真矢がお盆を胸に抱えながら「春日井くん、伸びたよねぇ、髪」と、しみじみ言ったのだ。
店に出るとき、甲洋はいつも長い髪をハーフアップにして緩くまとめている。元々は一つに纏めていたのだが、それを見た操が「一騎とおそろいだー!」などとのたまったので、この形にした。
未だにどこかで一騎を意識してしまうのは、恋人ポジションにいる操があまりにも彼に懐いているせいかもしれない。万が一にも間違いが起こるはずはないと分かっていても、そこは複雑な男心というやつである。
髪の長さについては、真矢に言われるまで全く気にも留めていなかった。ただ、言われてみればずいぶん伸びていたし、見た目もさることながら少し重たいような気もする。風呂上りに髪を乾かすにも、昔よりずっと時間がかかるようになっていた。
その場は曖昧に微笑むだけで済ませたが、操はその間ずっときょとんとしながら甲洋を見ていた気がする。
「一騎の髪は総士が切ったんだって。君の髪はおれが切ろうか?」
「切りたいの?」
「うん」
「遠慮しとくよ」
とてもじゃないが、不安で任せられない。どんな悲惨な髪型にされるか、想像するだけで恐ろしい。
「えー! じゃあ総士に切ってもらうの?」
「なんでそうなる」
「……なんか嫌だな」
「それって」
ぷぅ、と唇を膨らませて目を逸らす操に、つい仄かな期待を寄せてしまう。それは甲洋が一騎に時おり抱いてしまう感情と、同じ形をしているのではないかと。つまりは、ヤキモチだ。
けれど臆病な甲洋はそれを確かめる気にはなれなかった。読心能力を使えば容易いが、もし見当違いだった場合、きっと落ち込む。というか、ムカつく。
「切るときはちゃんと床屋に行くよ」
ため息交じりにそう言えば、操は「つまんないのー」と言ってまた唇を尖らせた。童顔がさらに幼く見えて、思わず笑うと尖ったそこに啄むようなキスを落とす。
「んっ」
たったそれだけでヒクンと跳ねる身体に愛しさを募らせながら、餅のように柔らかな頬に手の平を這わせた。なんとなくサラサラと撫でてやると、琥珀にも似た黄朽葉色の瞳が気持ちよさそうに細められる。
「……来主はさ、どっちがいい?」
「ん~? なにが~?」
「いや……」
ほとんど無意識に問いかけてしまったことが途端に恥ずかしくなり、言いよどむ。
髪を切るか切らないかなんて、そんなのは自分の勝手だ。好きにすればいいことなのに、彼に選択を委ねてどうするつもりだったのだろう。
(例えば……少しでもこいつの好みに合わせたい、とか?)
乙女じゃあるまいし。つくづく自分に呆れかえっていると、操は幾度か瞬きをしてから小首を傾げる。
「長いのと短いの、どっちがいいかってこと?」
「……まぁ一応。参考までに」
「そうだなぁ」
よかった。肝心なところは気づかれていない。彼が鈍くて助かった。
操は少しのあいだ小さく唸って考え込んでいたが、思いだしたように甲洋の癖毛を指先で弄ぶ動きを再開させた。
「前に、総士の部屋で写真を見たよ。昔の君が写ってた。実際に見たのは前のおれだけどね。ちゃんと覚えてる」
「ああ、あの写真か……」
懐かしい記憶が、チクリと胸を締め付ける。届かないと知りながら、ただひたむきに恋をする少年だったあの日。つい昨日のことのように思いだせるのに、自分が生きてきた年数よりもずっと遠い昔のことに感じられる。
痛くて怖くて悲しくて、淡く優しいセピア色をした、大切な記憶だ。
「君のほっぺたは、今よりほんの少しだけ丸かった。優しそうで、寂しそうで……可愛かったよ」
「……子供だったからね」
「髪を切ったら、またあんなふうに可愛くなっちゃうね。甲洋」
「それはどうだろう」
クスリと小さく笑いながら、可愛いなんて初めて言われたなと、甲洋は思う。両親にすら一度も言われたことがなかったし、ラブレターをもらうくらいには気にかけてくれる女の子たちもいたけれど、そんな言葉をかけられたのは初めてだ。
成人を迎えた男としては少し複雑だが、操がそう感じたのなら悪い気はしない。
「なら、切ろうかな」
「んん……待って。ちょっとやだ、かも」
「なにそれ。どっちさ?」
「わかんない。どっちの君も好きだけど……なんでヤなんだろ?」
操はなにやら迷っている様子だった。けれどなぜ迷っているのか、自分でも分かっていないのだ。
埒が明かない。そして、こうしている間にも夜はどんどん朝へ向かって時を進めている。
──どっちの君も好き。
そんなことを言われてしまったら、このまま抱きしめてただ眠るなんて、できそうもない。
「とりあえず、保留にしとこうか」
ホッとしたように表情を明るくした操が頷いたのを合図に、再び深く唇が重ねられた。
*
「んっ、うぅ……ッ、あ、はぁッ、ぁ」
胡坐をかいて座る甲洋の上に跨るようにして、操がゆっくりと腰を落とした。ローションで濡れた結合部が、ぐじゅりといやらしい音を響かせる。
痛いほどの締め付けで自身を飲み込んでいく肉襞に、甲洋は奥歯を噛み締めて喘ぎそうになるのを堪えた。
「ッ、だいじょうぶ?」
腹に力を込め、上擦ってしまいそうな声を押し殺して問いかけた。操は甲洋の首にしがみつき、はかはかと忙しなく肩を上下させている。
「ん、平気……お腹、ちょっと苦しいだけ……甲洋の、おっきくて硬くて、熱いんだもん……」
「……そういうことは、言わなくていい」
「ふふ、恥ずかしいんだね。可愛い」
白い両腕が甲洋の頭を抱え込み、優しい手つきで髪を撫でられる。なんだかひどく甘やかされているような気がして、胸が甘く締め付けられた。
(ああ、もう……)
抱いているはずなのに、抱かれているみたいな気がしてくるから不思議だ。腕の中のコアは、きっとそこまで考えちゃいないはずなのに。
「動くよ」
甲洋は気恥ずかしさから短く告げると、返事も待たずに腰を揺らした。
「アッ、ぁんっ! あッ!」
薄桃に染まった身体が、打ち込まれた快楽に美しくしなる。子犬のような甲高い悲鳴が上がるのを聞いて、可愛いのはどっちだと、堪らない愛しさにいっそ腹が立ってきた。
それをぶつけるように、甲洋は細い腰を両腕でしっかり抱きこんで固定しながら、ベッドのスプリングを利用してナカを存分に攻め立てる。
「やぁっ、ァッ! だめ、それダメ深い……甲洋……ッ!」
ふたりの身体の間では、幼さを残す薄紅の性器が天を仰いで震えている。甲洋が奥を突くたび、ぴゅ、ぴゅ、と健気に蜜を撒き散らしては気持ちよさそうに揺れていた。
(可愛いな……俺ので、こんなに感じてくれてるんだ)
甲洋の首にしがみつきながら、操は髪を振り乱して甘い嬌声をあげている。誰に教わったわけもないはずなのに、いつしか動きに合わせて自らも腰を振る姿は、彼の見てくれや内面の幼さに反してひどく扇情的だった。
最初の頃はなかなか上手くいかず、失敗の連続だったことを思うと感慨深い。痛い痛いと泣きじゃくる姿を見たときは、罪悪感で押しつぶされそうになったものだが。
けれどゆっくりと時間をかけて、今はこうして繋がることができるようになった。負担をかけていることは承知の上で、操が自分を受け入れ、求めてくれることにこの上ない喜びを感じる。
「あっ、ぁんッ、あ、アッ!」
絶えず下から突き上げて快楽を貪っているうちに、揺さぶられる操の首が赤子のように座らなくなってくる。このままでは舌を噛んでしまうかもしれないと、ガクンガクンと揺れるに任せて上下していた頭部に手を添えると片腕で腰を抱き直し、繋がったまま正常位の体勢へと持ち込んだ。
「ひゃっ、ぁ……!」
急に体勢が変わったことに驚いたのか、はたまた違う角度からイイ場所を刺激されたからか、操は生理的な涙が浮かぶ瞳を見開き、身を震わせておかしな悲鳴をあげる。
ごめんねと心の中で呟いて、薄い唇にキスをした。気を取り直した操はすぐにそれに応え始める。
「ん、ふ……ぁ……」
角度を変えながら互いに舌を絡め合い、唾液を交換する。飲み込みきれなかった雫が操の薄い唇の端から伝い落ち、ほんのりと首筋に滲む汗に溶けていった。
名残惜しく糸を引きながら唇が離れると、操は赤い頬でうっとりとしながら「はふ」と深い息をつく。
甲洋はその少し間抜けにも見える気の抜けた表情にクスリと笑って、濡れた口端を人差し指の甲で拭ってやった。そして覆いかぶさっていた半身を一度起こすと、汗を吸って額に張り付く焦茶の癖毛を何気なく掻き上げる。
「ッ、ぁ」
「!」
操が小さく声をあげ、甲洋は目を見開いた。
なぜか今、自身を食いしめる秘穴がきゅうっと締まったのだ。
「……今の、なに?」
甘い痺れに声を上ずらせながら素朴な疑問を投じれば、操はまん丸に見開いた目を潤ませて戸惑いの表情を浮かべる。
「なん、か……甲洋の、仕草が」
「なにかしたっけ」
「か、髪……髪、を」
「ああ、ちょっと鬱陶しかったから」
右手を伸びた前髪へと這わせ、質量の多いそれをざっくりと掻き上げる。すぐにハラハラと指の隙間から零れ落ちる髪の束が、ふわりと頬に張り付いた。
すると、またナカがキュンと締まる感じがする。
「そ、それ」
「ッ、ん」
「なんか、変になる……お腹の奥がきゅんきゅんして、すごく、エッチな気持ちになる……」
「なん、だ……それ?」
「わかんない! わかんないんだけど!」
嫌々と駄々っ子のように首を振り、操は切実さをはらむ瞳で両腕を伸ばしてくる。
「ねぇ、早く……気持ちいいやつ、続きしよ……?」
甲洋は喉を鳴らすと一も二もなくその手を取って、再び操の身体に覆いかぶさった。ナカがまた締まったような気がするのは、甲洋自身がさらに膨らみを増したせいだったのかもしれない。
「あっ、甲洋……ッ、甲洋、好き……アッ、ぁ、好き、ぃ……っ!」
「来主……ッ、俺、も」
『好きだ。大好きだ。──俺の操』
激しい抽挿の最中でも確実に想いを伝えたくて、操の額に自分の額を押し付けると心の中に訴えかける。操はそれを拒むことなく受け止めて、同じように確かな喜びを伝えてきた。
荒々しいふたつの呼吸と、ひたむきで優しい想いと、淫らな水音。それらを重ねて愛を分かち合いながら、やがてふたりは同時に果てた。
*
「やっぱこう、若いお姉ちゃんってのはいいもんだねぇ」
「おやっさんって本当に好きですよね」
昼間から楽園のボックス席でビールを煽りながら話しているのは溝口恭介とその部下、陣内貢である。
溝口は店内に若い女性客が多いことにご満悦な様子だった。
「そりゃあお前、こんな時代だ。綺麗で可愛いお姉ちゃんに癒しでも求めんことには、やってられねぇよ」
「まぁ……でもこう、もう少し年齢がいった大人の女性ってのもいいですよ。適度に緩んだ肉の感じとか」
「お前さんマニアックだなぁ。え、それってもしかして」
「ち、違いますよ! 舞はまだ……ちょっと、なに言わそうとしてるんですかおやっさん!」
「や~、いいね~、熱いね~」
ガハハと笑う溝口と、赤面して焦った様子の陣内。二人のむくつけきタンクトップ男たちと一緒に、ボックス席でオレンジジュースを飲んでいた操は首を傾げた。
「ねぇ、若いお姉さんと緩んだお肉って、なにがそんなにいいの?」
「お? なんだ坊主、興味あるのか?」
「うん。君たちのことなら、なんだって知りたい」
期待に満ちた表情をチラリと横目で見た溝口が、腕を組みながら「そうさなぁ」と呟いた。
「ま、男のロマンだよ。お前さんにゃあまだ早いかなぁ」
「ろまん?」
「そう、ロマン」
「ねぇ、なんか適当にあしらおうとしてない?」
ぶぅっと頬を膨らませた操に、陣内が苦笑する。
「男は綺麗で可愛い女の人を見ると、ドキドキしちゃうってことさ」
「ドキドキ」
「そ。それ。セクシーで色っぽい女を見ると、ムラムラするだろ?」
「ムラムラ」
「おやっさん……言い方に気をつけないと、真矢ちゃんに叱られますよ……」
ドキドキ。ムラムラ。操は「ふむぅ」と唸りながら考え込む。
なんとなく、覚えがあるような気がしたのだ。
「ねぇ、それって例えば……髪を掻き上げる動作を見たりしても感じる?」
操が問うと、溝口は意外そうな顔をしたあとニカッと笑って頭をグリグリ撫でてきた。
「なぁんだよ、お前さんちゃんと分かってるんじゃないか!」
溝口が、再び豪快にガハハと笑った。
褒められるのは嬉しい。またひとつ、人間を理解できたことも。
(そっか、そうだったんだ!)
あのとき。操は甲洋が髪を掻き上げる仕草を見て、おかしな気持ちになった。胸がきゅうきゅうと締め付けられるみたいに苦しくて、内側から蕩けてしまいそうだった。
けれど操は、その感情を言葉で上手く表現することができなかったのだ。
だけど次は言える。ちゃんと甲洋に伝えることができる。
いてもたってもいられず、操は勢いよく席を立つと窓際の席で接客している甲洋に向かって大声を張り上げた。
「ねぇ甲洋! おれわかったよ!」
溝口と陣内がポカンと口を開けている。注文をとっていた甲洋も、僅かに驚いた様子で首を傾げた。
「なに?」
「甲洋は、セクシーで色っぽいんだ! だから俺、あのときエッチな気持ちになったんだよ!」
「!?」
その場にいた全員が、ぎょっとして操を凝視する。少しばかり沈黙が流れたあと、どちらかといえば女性客が多い店内がざわつきはじめた。
「ちょ、ちょっと来主くん!? なんの話して……あ!」
カウンターから乗り出して慌てていた真矢は、操がついている席に溝口がいるのを確認すると何かを察したのか、眉を吊り上げた。その横で、一騎が困り果てた顔をしている。
「ありゃ~……こりゃみっちり叱られちまうなぁ……」
「だから言ったのに……」
俺も叱られるんだろうなと、陣内はげっそりとしながら肩を落とす。
「おれなにか言っちゃダメなこと言った?」
「ダメじゃあねぇが、時と場所を間違っちまったなぁ坊主」
騒然とする店内の様子にきょとんとしていると、心の中で『来主』と呼ばれる。目をやれば、甲洋がにっこりと笑ってこちらを見ていた。
「こっちにおいで。ちょっと話そうか」
なぜかその笑顔に鬼気迫ったものを感じて、操はぐっと喉を詰まらせる。
「や、やっぱりあのふたりってそういう……?」
「一騎先輩と総士先輩みたいな!?」
「きゃ~! うっそぉ~!」
店内は相変わらずざわついていて、主に女性客が頬を染めながらなにやらヒソヒソと話をしているようだった。
『こ、甲洋ぉ』
『いいから。二階に行くよ』
甲洋は笑顔のまま、さっさと背を向けて行ってしまった。
「甲洋、ぜったい怒ってる……」
しおしおと項垂れる操の尻を「ははは」と力なく笑った溝口が叩いた。
その後、操は甲洋に、溝口と陣内は真矢にこってりと絞られ、この一件は『喫茶楽園セクシー事件』として、後々まで語り継がれるのだった。
その後、操は甲洋に、溝口と陣内は真矢にこってりと絞られ、この一件は『喫茶楽園セクシー事件』として、後々まで語り継がれるのだった。
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事の発端は日野美羽の家に遊びに行ったことだった。
とつぜん訪ねてきた操を玄関先で出迎えたのは美羽の祖母である千鶴で、彼女は申し訳なさそうに「美羽ちゃん、風邪をひいて寝てるのよ」と言った。
風邪。ウイルスによる上気道感染症。咳、咽頭痛、くしゃみ、鼻水、鼻閉、頭痛、発熱、嗄声などが症状として現れる。借り物の知識だが、操も一応は知っていた。
「ひどいの?」
「うぅん。もうほとんどよくはなっているのよ。だけどごめんなさいね。ちゃんと元気になったら、また遊べるようになるから」
「わかった! じゃあおれ、今日は帰るね」
すると廊下の奥から「美羽、だいじょうぶだよ」という、少し掠れた声が聞こえてきた。
「ダメよ。治りかけがいちばん肝心なんだから」
「ずぅっとねてばっかり! 美羽もうあきちゃった! ねぇ、ちょっとだけ。おはなししてもいいでしょ?」
「……言いだすと聞かない子なのよね」
心配そうに眉をひそめる千鶴は、きょとんとした顔で突っ立っている操を少し複雑そうな表情で見つめた。
*
「で、影響を受けて帰ってきたわけ」
ディナータイムの混雑を前に帰ってきた操に、いつものボックス席でショコラに餌をやっていた甲洋が溜息をついた。
ショコラが傍にいる間は彼に近づくことはできないので、操はお気に入りの中央席について両手で頬杖をつくとにっこり笑う。
「うん! だからおれ、風邪ひいてみたいなって!」
「意味がわからない。そもそも、フェストゥムって風邪ひくの?」
「そんなのおれだって分かんないよ。千鶴もまだ分からないって。だけど念のためマスクをくれたよ」
マスク初体験の操はそれが嬉しくて、いまだにそれを装着している。ただ、話すときに声がこもってしまうため、今は顎の下までズラしていた。
「ねーねー、いいでしょ? 風邪ひいてみてもいいでしょ?」
「ひこうと思ってひけるもんじゃないよ」
冷やかにぴしゃりと言いきられてしまい、思わずムッとする。リスのように頬を膨らませた操を見て、甲洋は呆れた様子で二度目の溜息を漏らした。
「なんだってそんな変な気を起こすかな……」
「だってぇ……風邪をひくと、いっぱい甘やかしてもらえるんでしょ? 美羽が教えてくれたよ。千鶴と真矢に、アーンしてリンゴやお粥を食べさせてもらって、たくさん優しくしてもらったってさ!」
美羽は操にそのときの記憶を見せてくれた。リンゴは食べやすいように摩り下ろされていたし、お粥はふうふうと冷まして食べさせてもらっていた。
その光景がとても温かくて幸せそうだったから、つい羨ましくなってしまったのだ。
甲洋は何も言わない。相手にするのも馬鹿らしいとばかりに、ただ足元で食事しているショコラを見つめているだけだった。
業を煮やした操は伸ばした両手の平でテーブルの上をバンバンと叩いた。
「ねぇってばー! おれもあんなふうにされてみたいー!」
「ガウッ!」
いよいよ足までバタつかせはじめた操に、ショコラがドスのきいた声で吠えたてる。
「うひゃあっ!? な、なに!?」
「うるさいって」
「だ、だからって急に吠えないでよ! 甲洋の意地悪!」
「今のは俺がけしかけたんじゃないだろ」
甲洋は三度目の溜息を漏らしたあと席を立つと、中央席までやって来て縮こまっている操を見下ろした。何を考えているか読みにくい表情はいつものことだが、今日は普段と様子が違う気がする。
なにが、というわけではないのだが、そこはかとない違和感を覚えた。
(あれ……甲洋、もしかして怒ってる?)
操にはまだ人間の複雑な心の機微を完全に理解することは難しい。甲洋はもはや存在だけなら人ではないが、人であった頃の記憶や感覚を十分すぎるほど有している。だからその思考を読み取ったとしても、完全に理解することは困難な場合が多かった。
しかも彼はいま、心に厚い壁を張り巡らせている。触れたくても触れられなくて、まるで取りつく島がない状態だ。
「ね、ねぇ甲洋……?」
「わかった」
「へ?」
「風邪をひきたいんだろ? 実際は無理でも、気分くらいなら味わわせてあげる」
「え、ちょっ、ちょっと! な、なになに~!?」
甲洋の腕が伸びてきて、まるで猫の子を扱うように首根っこを掴まれる。そのまま強く引き上げられ、ズルズルと二階の居住スペースまで連れて行かれた。
*
甲洋の部屋に連れてこられた操は、いつも寝間着にしているシャツとハーフパンツに着替えさせられると、ベッドに半ば強制的に押し込まれた。
「熱はないだろうけど、とりあえず測るよ」
どこからか取りだしてきた体温計を、口の中に突っ込まれる。その間に甲洋はいったん部屋を出て、水を張った洗面器とタオルを持って戻ってきた。
それを机の上に置き、水に浸したタオルを絞ると操の額に置く。するとちょうどそのタイミングで体温計が電子音を響かせた。
「36度5分。普通、かな。でも今は風邪っぴきの設定だから、38度ってことにしておこうか」
「甲洋ぉ。ねえ、怒ってる?」
「別に。お前の望み通りにしたいだけだよ」
「だってなんか……ピリピリしてる」
心を読めなくたって、甲洋がまとう空気がどこか刺々しいことくらい理解できる。
なんの考えもなしに我儘を言ってしまったけれど、流石に不味かったかとここにきて後悔しはじめた。
「やっぱいい。おれ、風邪ひくのやめた」
額からタオルを毟り取るようにしながら半身を起こす。するとすかさず甲洋が「こら」と言って額を小突いてきた。
「あう」
不意打ちに傾いた身体を押され、またベッドに寝かされてしまう。
「寝てなきゃダメだろ。しっかり横になってないと、治るものも治らない」
「だからー、もういいんだってばー」
「ダメだ」
はだけた毛布を綺麗にかけなおし、タオルを再び額に乗せながら言う甲洋は、表面上はいつも通りに見えるものの、その言葉からは有無を言わさぬ圧を感じる。
なんだか取り返しのつかないことになってしまった。そんな気がして不安になる。
「じゃあ俺は仕事に戻るから。いい子で寝てなよ」
甲洋は操の顎の下に引っかかっていたマスクに指先を伸ばし、鼻の上までちゃっかり引き上げるとその場を離れようとする。
「ま、待って! おれ、いつまでこうしてればいいの?」
「治るまで」
「それっていつ? 晩ご飯の時間になったら終わりにしていい?」
今夜の一騎カレーはシーフードカレーなのだ。操の皿に、エビを沢山入れてくれると約束している。今こうしてる間にも、魚介のいい香りがここまで漂ってきては腹の虫を刺激してやまない。
「来主、まさかカレー食べる気?」
「そうだよ? ダメ?」
「ダメに決まってるだろ。風邪ひいてるときは、刺激物は避けないと」
「えー!?」
青褪めて飛び起きた操に背を向け、甲洋はそれ以上なにも言わず部屋を出て行ってしまった。
「そ、そんなぁ~……」
あまりの絶望に、へなへなと力が抜ける。ぼふんと音を立ててベッドに仰向けになると、お腹がぐぅと悲しげな鳴き声をあげた。
「甲洋の……意地悪……」
心なしか、天井がぼやけて見えた。
*
そこからの時間はひたすら地獄だった。
漂ってくるシーフードカレーの香りだとか、下の階からワイワイガヤガヤという楽しそうな声が聞こえてきて、操は毛布をかぶると身体を丸めてメソメソと泣いた。
するといつの間にか眠っていたらしく、気づけば辺りは静まり返っていた。
(寝ちゃってた……)
目元を擦りながら起き上がる。眠っている間にタオルは床に落ち、マスクは外れて行方不明になっていた。暗がりで辺りに手を這わせて探してみるが、見つからない。
灯りが必要だと気づき、ヘッドボードに備え付けられている間接照明に手を伸ばす。スイッチを押すと暖色の光が室内を照らして、ボードにスポーツドリンクと水が置かれていることに気がついた。
そういえば美羽の枕元にも、いつでも水分補給ができるようにとこれらが置かれていたのを思いだす。
(甲洋、忙しいのに様子を見に来てくれたんだ)
時計に目をやると、時刻は二十二時を過ぎていた。一騎たちは明日の仕込みを終えて、すでに帰宅している頃だ。
途端に寂しさが込み上げてくる。甲洋はまだ戻って来ない。このまま顔を合わせることなく今日が終わってしまうのだとしたら、とても悲しい。
本当は、この部屋に一人でいるのはあまり好きじゃない。下の階とは異なり、ここにはどこか寂しい記憶が身を潜めている。持ち主の心と同じく、幾重にも蓋を重ねてその輪郭を曖昧なものにしているけれど、隠しきれずにじんわりと滲み出たそれが足元から這い上がってくるのを、操の心は敏感に感じ取ってしまうのだ。
「来主、調子はどう?」
そのときそっと扉が開いて、会いたかった人物がひょっこりと顔を出した。
「甲洋!」
その姿を見て操は涙ぐみ、縋るような瞳で彼を見上げる。
よかった。ちゃんと戻って来てくれた。
「なんて顔してるのさ」
「うぅ……だってぇ……」
情けない声をだす操にふっと笑った甲洋は、手にレンゲが刺さった木の器を持っている。そこからほのかに湯気が立っているのを見て、操は目を瞬かせた。
「遅くなってごめん。お腹空いただろ?」
「もしかしてそれお粥?」
甲洋は机から椅子を引き寄せ、すぐ傍に腰を下ろすと「そうだよ」と言った。
器の中身は玉子粥だった。美羽に見せてもらったイメージと同じ。ふわふわしていて、柔らかそうで、優しい匂いがしている。
「わぁ……! これ、君が作ってくれたの!?」
「余り物のご飯でね」
「嬉しい!」
万歳をして喜ぶ操の横で、甲洋は膝に置いた器の中身をレンゲですくい、息を吹きかけて冷ましはじめた。
そわそわしながら見守っていると、ある程度まで冷まされたそれが口元まで運ばれる。
「はい」
夢にまで見たアーンの瞬間だ。操は目を輝かせ、大きな口を開けてレンゲにかぶりつく。
「どう?」
「んぐっ、ん~! うん、美味しい!」
水分を多く含んだ米が口のなかで蕩けて広がる。ほのかな塩気と玉子の風味が優しくて、ほっとするような味だった。
「あったかくてほわほわしてて、甲洋の味がする」
「なんだそれ」
にっこり笑って頬を両手で包み込みながら感想を述べると、甲洋は少し照れたように微笑んだ。
あのヒリついた最初の空気はどこかに消えて、今はこのほかほかと湯気をたてるお粥のように、温かさが部屋の中を満たしているような気がする。
空き腹に温もりが広がるのと一緒に、操の心も安堵に包まれた。
甲洋は次から次へとお粥を冷まし、せっせと操の口に運んだ。
今がずっと続けばいいのにと、噛まずとも飲み込めるくらい柔らかいそれをじっくりと時間をかけて咀嚼する。けれど器の中身は順調に減り、操の胃袋も満たされてしまった。
甲洋は最後の一口まで律儀に息を吹きかけて食べさせると、レンゲごと空になった器をヘッドボードに置く。それから、お腹をさすって息をつきながら「ご馳走様」と言った操の表情を、小首を傾げながら覗き込んできた。
「これで合ってた?」
「ん? なにが?」
「来主が望んでいたこと」
甲洋はいつも通り口数が少なく、相変わらず心を閉じている。表情にもこれといって変化は見られないのだが、どこか不安そうに感じられるのはなぜだろう。
「うん。してほしかったことしてもらえて、嬉しかった。ありがと」
「そう」
素直な気持ちを伝えると、甲洋はホッとしたようにやんわりと笑みを浮かべる。どうしてかそれがとても弱々しいものに思えて、操は無意識に彼の腕へ手を伸ばすとそっと触れた。
「甲洋」
「少し休んだら身体を拭いてあげる。風邪をひいているときは、お風呂に入れないから」
「え?」
甲洋は操の手からさりげなく逃れるようにして立ちあがると、空になった器を持って部屋を出て行こうとする。
「もしかしてこれ、まだ続くの?」
「当然。そんなにすぐに治るもんじゃないからね」
「えぇ~! もういいよぉ~!」
不満も露わに顔を顰めても、甲洋は何食わぬ顔でさっさと出て行ってしまった。
*
風邪。多くは完治までに一週間から十日を要し、場合によってはそれ以上長引くこともある。
それを踏まえると、この状態は最低でもあと一週間は続くことになるのだろうか。
カレーも食べられない。外も出歩けない。ずっと寝てなくてはいけない。美羽が「飽きた」と言って千鶴を困らせていたのが、今なら嫌というほど理解できる。
「ねぇ甲洋……おれもう飽きちゃったよ。だから風邪は終わりにしていいでしょ?」
今、操はベッドの縁に腰かけ、シャツを脱ぎ捨てて背中を蒸しタオルで丁寧に拭かれている。
背後で膝をついている甲洋は聞いているのかいないのか、何も言わずに黙々と手を動かしていた。
「ねぇ~、甲洋~」
「ほら、万歳して。脇が拭けない」
ベッドから下りて、甲洋が正面に回り込んできた。床に膝をついて操の両足を割り、開いたスペースに身体を割り込ませてくる。そして唇を尖らせながらも素直に従った操の右脇腹に、タオルを滑らせた。
「んっ!」
思わず肩が跳ねる。甲洋は「動かないで」と短く命じ、もう片方の手を反対側の脇腹に這わせると、ぐっと掴むようにして固定した。
「うひゃ、ぁ! ま、待って、それ、くすぐった……っ」
無防備な素肌の上を、温かなタオル越しに甲洋の手が丹念に行き来する。脇腹のくぼみをなぞられると、身体が大きく跳ねあがった。
「うぅ、ぁ……なん、か、やだぁ……」
顔を背け、頬を真っ赤にしていると、甲洋の溜息が鎖骨の辺りにふわりとかかった。
「身体、拭いてるだけなんだけど?」
「わ、わかってるよぉ」
甲洋にそんな意図はない。分かっている。そして、相手にその気がないのに身体が反応してしまうのは、多分きっと、とても恥ずかしいことなのだ。
(でも、なんか変な感じになってきちゃった……)
ふと、仮にこれが一週間も──あるいはそれ以上──続くのだとしたら、夜のアレもお預けになるのだろうかと考える。
操は一騎や総士たちと共に過ごす時間も好きだが、甲洋とふたりきりで裸になって身体を重ねる時間も大好きだ。こんなふうに一緒にいられるだけでも幸せだと感じるけれど、アレはもっと深くて、心の奥まで繋がれるような気がするから。
彼に触れられるとどこもかしこも熱くなって、身も心もゼリーのようにドロドロになってしまいそうになる。あの瞬間が、たまらなく気持ちいい。
「甲洋……風邪ひいてるときは、しない、の?」
「なにを」
「んッ……エッチなこと、したらダメなの?」
甲洋の手が一瞬だけピタリと止まる。彼は微かに声を上ずらせ「当たり前だ」と言ってまた手を動かし始めた。
操は思わず下唇を噛みながら涙ぐむ。もしかしたら、一騎カレーを食べ損ねたときよりずっと辛いかもしれない。
「余計なことは考えなくていい。来主は風邪をひいてるんだから」
「だから、それはもう……ぁ、ひゃうッ」
左側の脇腹もタオルで拭かれる。思わず腰が捩れたところで、甲洋の指先が薄っぺらい胸から腹筋にかけてをつうっとなぞった。臍の窪みを爪の先で引っ掻くようにされると、下半身にピリピリとした痺れが走る。
「くぅッ、ん!」
堪え切れず身体をくの字に屈めると、ちょうど甲洋の肩に額を押し付ける形になる。彼はほんの少しだけ語尾を掠れさせながら「ほら、しゃんとして」と言って、丸まった操の背中を触れるか触れないかの絶妙な力加減でゆるゆると摩った。
(絶対、わざとだ!)
操はヒクヒクと震えながら甲洋の首にしがみつくと泣きべそをかいた。
「も、やだッ……!」
「こんなに優しくしてるのに。何が嫌だって?」
「なんでそんな意地悪するの!?」
操は甲洋の首にしがみついたまま、その唇に噛みつくようなキスをした。彼はそれを黙って受け止め、捻じ込まれた舌を好きなようにさせる。
『応えて。ねぇお願い』
受け身の姿勢を崩さない甲洋の舌に自分のものを擦りつけながら、心の中に訴えかける。すると頑なだった壁の繋ぎ目に、微かな解れが生じた気がした。
ぬるりと動きだした舌に口腔を舐められる。ゾクリとした感覚が背筋を駆け抜け、上気する肌が粟立った。
「ふぁ、ん……ッ、ぁ……うれし……」
悪戯に弄ぶくせに頑なだった甲洋が、やっと応えてくれた。それが嬉しくて、操は高ぶった気持ちのままに彼の頭部に手を這わせ、頭皮に緩く爪を立てながら掻き乱す。
重なり合う唇の合間から、甲洋が漏らした息が甘い。はしたない水音が室内の空気を湿らせていく。
肩と腰を抱き寄せられると、いよいよ感極まって涙が滲んだ。
どれくらい貪り合っていたのか、いっそ舌や唇に痺れを感じるほどになると、糸を引きながら長いキスが終わった。
思考が蕩けたようになって、身体に力が入らない。くったりとその胸にもたれかかると、甲洋は操の身体を抱えたままベッドに乗り上げ、四つん這いで覆いかぶさってくる。
ちゃんと続きをしてくれる気があるのだと分かって、また嬉しさが増す。
「下、脱いでて」
甲洋は短く命じると手を伸ばし、ベッド脇の棚の一番下からベビーローションを取りだした。
安堵と期待で胸を膨らませた操は頷いて、言われた通りイモムシのようにモゾモゾとした動きで下着ごとハーフパンツを脱ぎ捨てる。微かに形を変えている未成熟な性器が、そのはずみでぷるんと揺れた。
そうしている間に、甲洋はボトルのキャップを開けて中身を手の平に出していた。操は両手を胸に押し付け、ドキドキと胸を高鳴らせながらその光景を見つめていたが、立てていた両膝を割られて内腿にぬるりとした感触を覚えた瞬間、身体を大きく震わせた。
「つめたっ! ぁ、え?」
両の内腿にたっぷりとローションを塗りたくられ、思わず目を白黒させる。
「な、なにしてるの?」
戸惑いながら見上げれば、甲洋はふっと笑って「足を閉じて」と言う。
訳が分からなかったが、操は素直に頷くと濡れた両腿をぴったりと合わせた。
「ぅえ、気持ち悪いよこれ……」
「お前に無理をさせないための、妥協案だよ」
「なにそれ、どういう?」
「今日はこれで我慢して」
頭上にハテナマークを浮かべたまま首を傾げていると、甲洋は少し荒っぽくシャツを脱ぎ捨て、前を寛げると自身を取りだした。ついているものは同じはずなのに、大きさだとか生えている毛の量だとか、形も微妙に違っているから不思議だ。これを見るといつも心臓が大きく跳ねあがって、どうしてか恥ずかしいような気持ちになってしまう。
けれど今日は普段と様子が違っていた。いつもローションを使うはずの場所はほうっておかれているし、まさかこんな状態で挿れるつもりなのだろうか。
不安と戸惑いの目を向ける操に笑いかけ、甲洋はぴったりと閉じている両腿に自身の先端を潜り込ませた。
「えっ、え!?」
思わず肘をついて半身を起こすと、咄嗟に緩んだ両の膝頭をそれぞれ掴まれてぴったりと固定された。内腿にずぶずぶと硬くて長いものが挿入されて、何が行われようとしているのか理解できずに混乱する。
「ねぇ、なにするの!? そこはお尻じゃないよ!」
「知ってるよ」
甲洋は掴んでいた膝頭から、今度は膝裏に手を滑り込ませた。ぐいと強く押して操の身体を折り曲げると、まるで挿入しているかのように抽挿を開始する。
「な、なに? なにこれ!?」
耳を塞ぎたくなるようないやらしい音に合わせて、密着した内腿の間を甲洋のものが行き来する。揺さぶられる動きに合わせて、足の先が空中で揺れた。
「や、やだこれ! なんか変だよ……ッ! ねぇ甲洋!」
どうしてだろう。とてもいけないことをしている気がする。腿の肉が擦られていくうちに、そこから不可思議な熱が広がっていくのを感じた。
「あッ、あつ、い……ッ、や、これやだっ、おれこれ好きじゃない! お尻がいいよぉ……!」
こんなに激しく揺さぶられているのに。甲洋の熱を感じるのに。欲しい場所とはまるで別の場所を犯されている。これじゃ気持ちよくなんてなれないはずなのに。
口では嫌だ嫌だと繰り返しながら、操の気分は激しく高揚していった。
「やぁ、あッ、だめ! そこ、擦れちゃ……あ、ぁ──ッ」
甲洋が体重をかけて狙いを定めると、操の勃起した性器にそれが当たる。ぷるぷるとした柔らかな袋を押しつぶすようにしながら、零れたローションと先走りに濡れる竿が擦れた。何度も何度も行き来して、競りあがる快感に頭がどうにかなりそうだ。
『来主の太腿、やわくてすごく気持ちいい』
「やだ、言わないで! 今はダメ、心の中、あっ、くぅ、ん! ぁ、ダメ、だか、らっ」
『可愛い』
そうやって、普段は滅多に口で言わないようなことを平然と囁くから性質が悪い。恥ずかしくて嬉しくて、泣きたくなる。こんなふうに心をぐずぐずに溶かされてしまうと、快感が何倍にも膨らんでしまうから、少し怖くも感じてしまうのだ。
『挿れたい。来主のナカに』
「おれも、おれも欲しい! 甲洋の、いれてほしい!」
『……でも、ダメ』
なんて酷い。我儘なんか言わなきゃよかった。風邪なんて、ちっとも楽しくない。
「ひうぅ、あッ……! い、っく、こうよ、気持ちいの、くる……っ!」
「ぁ、は……ッ、俺、も」
声なき悲鳴をあげて、操は背を反らしながら打ちあげられた。甲洋もそれに続いて腰を震わせ、二人分の白濁が腹の上に吐きだされる。
押し上げていた両足を解放しながら、息を荒げる甲洋が操の上に身体を沈めた。重なる素肌が放ったものでぬるりと音を立てるが、尾を引く余韻のせいで気にしている余裕がない。
互いにはくはくと忙しない息を漏らしながら、キスの代わりに額を押し付け合う。すると、混濁する意識の中に静止画のようなイメージが幾つも流れ込んできた。
「ッ!」
(これ、なに……?)
これは甲洋の記憶と感情だ。この部屋に潜む、凍りつくような寂しさと痛みの根源。操は今、その一端に触れようとしている。
今より幼い彼は苦しそうに息を乱し、激しく咳をして震えながらベッドで丸くなっている。身体中がピリピリと痛んで、寒くて辛くて堪らない。
喉が渇いてお腹が空っぽのような気がするけれど、声を出すどころか起き上がることすらできなかった。
誰か傍にいてほしい。背中を摩ってほしい。手を握っていてほしい。声が聞きたい。一人は嫌だ。下の階から笑い声が聞こえる。父が冗談を言い、母が笑う。彼らの中に『俺』はいない。
諦念に胸を染めながら、それでも薄暗い部屋の扉が開かれるのを待っている。だけど誰もいない。誰も来ない。ここには、誰も──。
「……ごめん」
重ねていた額を離し、甲洋が短く謝罪する。操は両腕で彼の頭を抱きしめた。
「なんで謝るの?」
「見せるつもりはなかった」
「うん。でも、おれは知れてよかった。甲洋は自分のこと、何も話してくれないから」
玉子粥を食べさせくれたあと、彼がどうして不安そうにしていたのか。それが少し、わかった気がする。あれは彼なりの答え合わせだったのだ。
「君、知らなかったんだ。自分がしてもらったことないから」
どんなに辛くても、苦しくても、彼はたった一人で耐え忍ぶより術がなかった。甘やかされたことがないから、甘やかし方が分からなかった。誰よりも優しいくせに、本当は不器用で。
操はあの暗く寂しい記憶に思いを馳せながら、胸が締め付けられるように痛むのを感じた。借り物の知識の引き出しから、この感情につける名前を探ってみる。同情、という言葉が浮かび上がったけれど、なぜかしっくりこなかった。
「わっ、ちょっと、なに?」
操は両腕で力の限り甲洋を抱きしめた。流石に苦しかったのか、両手をついて身体を浮かそうとするのを許さず、離れようとすればするほど強く抱きしめて頬ずりをする。
「苦しいって」
「今お返ししてるんだから、じっとしててよ」
「お返しってなんの」
「がんばってくれたお返し。今度はおれがいっぱい甘やかしてあげる!」
ついには焦茶の癖毛を両手でわしゃわしゃと撫でまわした。よく甲洋がショコラにやっているのを思いだしたからだ。そのイメージが伝わってしまったのか、彼が複雑そうに眉を寄せるのが分かる。
だけど別に構わなかった。甲洋はショコラに無償の愛を注いでいる。形は違うけど、これも同じだ。ただひたむきな愛おしさが、ここにもあるということを知ってほしかった。
甲洋はもう壁を取り払っていて、操はそのいちばん柔らかな場所に触れている。きっとそこは誰も触れたことのない場所で、触れてはいけない場所で、だけどそれを許してくれているのが分かるから。
だから全部あげたいと思った。自分が持っているもの、できること、全部をあげたい。
そうしたらきっと、甲洋はもう寂しくない。寂しくなんか、させてやらない。
「君がしてほしかったこと、これからは全部、おれにさせてね」
最後にもう一度ぎゅうっと抱きしめて、柔らかな癖毛に思いきり唇を押しつけた。甲洋は観念したように身体から力を抜き、ふっと笑う。大人しく身を預け、操の首筋に甘えるように額を軽く擦りつけてよこした。
「……来主はさ」
「なぁに」
「バカみたいに元気でいる方が、似合ってるよ」
「えへへ。うん、おれもそう思う」
本当に、心の底から。風邪なんてひくもんじゃない。実際にひいていたわけではないけれど、多分きっと操が思っている以上に辛いし、その間はこんなふうに彼を抱きしめることだってできないのだ。
「ね、ところでさ、甲洋」
「なに」
焦茶の頭をもうひと撫でしてから、操は僅かに身じろいだ。汗と精液とローションと。流石に少し、気になってきた。
「お風呂はいって、もっかいしよ。今度はちゃんとさ」
それは甲洋も同じだったようで、彼は肩をすくめると「同感だ」と言って苦笑した。
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とつぜん訪ねてきた操を玄関先で出迎えたのは美羽の祖母である千鶴で、彼女は申し訳なさそうに「美羽ちゃん、風邪をひいて寝てるのよ」と言った。
風邪。ウイルスによる上気道感染症。咳、咽頭痛、くしゃみ、鼻水、鼻閉、頭痛、発熱、嗄声などが症状として現れる。借り物の知識だが、操も一応は知っていた。
「ひどいの?」
「うぅん。もうほとんどよくはなっているのよ。だけどごめんなさいね。ちゃんと元気になったら、また遊べるようになるから」
「わかった! じゃあおれ、今日は帰るね」
すると廊下の奥から「美羽、だいじょうぶだよ」という、少し掠れた声が聞こえてきた。
「ダメよ。治りかけがいちばん肝心なんだから」
「ずぅっとねてばっかり! 美羽もうあきちゃった! ねぇ、ちょっとだけ。おはなししてもいいでしょ?」
「……言いだすと聞かない子なのよね」
心配そうに眉をひそめる千鶴は、きょとんとした顔で突っ立っている操を少し複雑そうな表情で見つめた。
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「で、影響を受けて帰ってきたわけ」
ディナータイムの混雑を前に帰ってきた操に、いつものボックス席でショコラに餌をやっていた甲洋が溜息をついた。
ショコラが傍にいる間は彼に近づくことはできないので、操はお気に入りの中央席について両手で頬杖をつくとにっこり笑う。
「うん! だからおれ、風邪ひいてみたいなって!」
「意味がわからない。そもそも、フェストゥムって風邪ひくの?」
「そんなのおれだって分かんないよ。千鶴もまだ分からないって。だけど念のためマスクをくれたよ」
マスク初体験の操はそれが嬉しくて、いまだにそれを装着している。ただ、話すときに声がこもってしまうため、今は顎の下までズラしていた。
「ねーねー、いいでしょ? 風邪ひいてみてもいいでしょ?」
「ひこうと思ってひけるもんじゃないよ」
冷やかにぴしゃりと言いきられてしまい、思わずムッとする。リスのように頬を膨らませた操を見て、甲洋は呆れた様子で二度目の溜息を漏らした。
「なんだってそんな変な気を起こすかな……」
「だってぇ……風邪をひくと、いっぱい甘やかしてもらえるんでしょ? 美羽が教えてくれたよ。千鶴と真矢に、アーンしてリンゴやお粥を食べさせてもらって、たくさん優しくしてもらったってさ!」
美羽は操にそのときの記憶を見せてくれた。リンゴは食べやすいように摩り下ろされていたし、お粥はふうふうと冷まして食べさせてもらっていた。
その光景がとても温かくて幸せそうだったから、つい羨ましくなってしまったのだ。
甲洋は何も言わない。相手にするのも馬鹿らしいとばかりに、ただ足元で食事しているショコラを見つめているだけだった。
業を煮やした操は伸ばした両手の平でテーブルの上をバンバンと叩いた。
「ねぇってばー! おれもあんなふうにされてみたいー!」
「ガウッ!」
いよいよ足までバタつかせはじめた操に、ショコラがドスのきいた声で吠えたてる。
「うひゃあっ!? な、なに!?」
「うるさいって」
「だ、だからって急に吠えないでよ! 甲洋の意地悪!」
「今のは俺がけしかけたんじゃないだろ」
甲洋は三度目の溜息を漏らしたあと席を立つと、中央席までやって来て縮こまっている操を見下ろした。何を考えているか読みにくい表情はいつものことだが、今日は普段と様子が違う気がする。
なにが、というわけではないのだが、そこはかとない違和感を覚えた。
(あれ……甲洋、もしかして怒ってる?)
操にはまだ人間の複雑な心の機微を完全に理解することは難しい。甲洋はもはや存在だけなら人ではないが、人であった頃の記憶や感覚を十分すぎるほど有している。だからその思考を読み取ったとしても、完全に理解することは困難な場合が多かった。
しかも彼はいま、心に厚い壁を張り巡らせている。触れたくても触れられなくて、まるで取りつく島がない状態だ。
「ね、ねぇ甲洋……?」
「わかった」
「へ?」
「風邪をひきたいんだろ? 実際は無理でも、気分くらいなら味わわせてあげる」
「え、ちょっ、ちょっと! な、なになに~!?」
甲洋の腕が伸びてきて、まるで猫の子を扱うように首根っこを掴まれる。そのまま強く引き上げられ、ズルズルと二階の居住スペースまで連れて行かれた。
*
甲洋の部屋に連れてこられた操は、いつも寝間着にしているシャツとハーフパンツに着替えさせられると、ベッドに半ば強制的に押し込まれた。
「熱はないだろうけど、とりあえず測るよ」
どこからか取りだしてきた体温計を、口の中に突っ込まれる。その間に甲洋はいったん部屋を出て、水を張った洗面器とタオルを持って戻ってきた。
それを机の上に置き、水に浸したタオルを絞ると操の額に置く。するとちょうどそのタイミングで体温計が電子音を響かせた。
「36度5分。普通、かな。でも今は風邪っぴきの設定だから、38度ってことにしておこうか」
「甲洋ぉ。ねえ、怒ってる?」
「別に。お前の望み通りにしたいだけだよ」
「だってなんか……ピリピリしてる」
心を読めなくたって、甲洋がまとう空気がどこか刺々しいことくらい理解できる。
なんの考えもなしに我儘を言ってしまったけれど、流石に不味かったかとここにきて後悔しはじめた。
「やっぱいい。おれ、風邪ひくのやめた」
額からタオルを毟り取るようにしながら半身を起こす。するとすかさず甲洋が「こら」と言って額を小突いてきた。
「あう」
不意打ちに傾いた身体を押され、またベッドに寝かされてしまう。
「寝てなきゃダメだろ。しっかり横になってないと、治るものも治らない」
「だからー、もういいんだってばー」
「ダメだ」
はだけた毛布を綺麗にかけなおし、タオルを再び額に乗せながら言う甲洋は、表面上はいつも通りに見えるものの、その言葉からは有無を言わさぬ圧を感じる。
なんだか取り返しのつかないことになってしまった。そんな気がして不安になる。
「じゃあ俺は仕事に戻るから。いい子で寝てなよ」
甲洋は操の顎の下に引っかかっていたマスクに指先を伸ばし、鼻の上までちゃっかり引き上げるとその場を離れようとする。
「ま、待って! おれ、いつまでこうしてればいいの?」
「治るまで」
「それっていつ? 晩ご飯の時間になったら終わりにしていい?」
今夜の一騎カレーはシーフードカレーなのだ。操の皿に、エビを沢山入れてくれると約束している。今こうしてる間にも、魚介のいい香りがここまで漂ってきては腹の虫を刺激してやまない。
「来主、まさかカレー食べる気?」
「そうだよ? ダメ?」
「ダメに決まってるだろ。風邪ひいてるときは、刺激物は避けないと」
「えー!?」
青褪めて飛び起きた操に背を向け、甲洋はそれ以上なにも言わず部屋を出て行ってしまった。
「そ、そんなぁ~……」
あまりの絶望に、へなへなと力が抜ける。ぼふんと音を立ててベッドに仰向けになると、お腹がぐぅと悲しげな鳴き声をあげた。
「甲洋の……意地悪……」
心なしか、天井がぼやけて見えた。
*
そこからの時間はひたすら地獄だった。
漂ってくるシーフードカレーの香りだとか、下の階からワイワイガヤガヤという楽しそうな声が聞こえてきて、操は毛布をかぶると身体を丸めてメソメソと泣いた。
するといつの間にか眠っていたらしく、気づけば辺りは静まり返っていた。
(寝ちゃってた……)
目元を擦りながら起き上がる。眠っている間にタオルは床に落ち、マスクは外れて行方不明になっていた。暗がりで辺りに手を這わせて探してみるが、見つからない。
灯りが必要だと気づき、ヘッドボードに備え付けられている間接照明に手を伸ばす。スイッチを押すと暖色の光が室内を照らして、ボードにスポーツドリンクと水が置かれていることに気がついた。
そういえば美羽の枕元にも、いつでも水分補給ができるようにとこれらが置かれていたのを思いだす。
(甲洋、忙しいのに様子を見に来てくれたんだ)
時計に目をやると、時刻は二十二時を過ぎていた。一騎たちは明日の仕込みを終えて、すでに帰宅している頃だ。
途端に寂しさが込み上げてくる。甲洋はまだ戻って来ない。このまま顔を合わせることなく今日が終わってしまうのだとしたら、とても悲しい。
本当は、この部屋に一人でいるのはあまり好きじゃない。下の階とは異なり、ここにはどこか寂しい記憶が身を潜めている。持ち主の心と同じく、幾重にも蓋を重ねてその輪郭を曖昧なものにしているけれど、隠しきれずにじんわりと滲み出たそれが足元から這い上がってくるのを、操の心は敏感に感じ取ってしまうのだ。
「来主、調子はどう?」
そのときそっと扉が開いて、会いたかった人物がひょっこりと顔を出した。
「甲洋!」
その姿を見て操は涙ぐみ、縋るような瞳で彼を見上げる。
よかった。ちゃんと戻って来てくれた。
「なんて顔してるのさ」
「うぅ……だってぇ……」
情けない声をだす操にふっと笑った甲洋は、手にレンゲが刺さった木の器を持っている。そこからほのかに湯気が立っているのを見て、操は目を瞬かせた。
「遅くなってごめん。お腹空いただろ?」
「もしかしてそれお粥?」
甲洋は机から椅子を引き寄せ、すぐ傍に腰を下ろすと「そうだよ」と言った。
器の中身は玉子粥だった。美羽に見せてもらったイメージと同じ。ふわふわしていて、柔らかそうで、優しい匂いがしている。
「わぁ……! これ、君が作ってくれたの!?」
「余り物のご飯でね」
「嬉しい!」
万歳をして喜ぶ操の横で、甲洋は膝に置いた器の中身をレンゲですくい、息を吹きかけて冷ましはじめた。
そわそわしながら見守っていると、ある程度まで冷まされたそれが口元まで運ばれる。
「はい」
夢にまで見たアーンの瞬間だ。操は目を輝かせ、大きな口を開けてレンゲにかぶりつく。
「どう?」
「んぐっ、ん~! うん、美味しい!」
水分を多く含んだ米が口のなかで蕩けて広がる。ほのかな塩気と玉子の風味が優しくて、ほっとするような味だった。
「あったかくてほわほわしてて、甲洋の味がする」
「なんだそれ」
にっこり笑って頬を両手で包み込みながら感想を述べると、甲洋は少し照れたように微笑んだ。
あのヒリついた最初の空気はどこかに消えて、今はこのほかほかと湯気をたてるお粥のように、温かさが部屋の中を満たしているような気がする。
空き腹に温もりが広がるのと一緒に、操の心も安堵に包まれた。
甲洋は次から次へとお粥を冷まし、せっせと操の口に運んだ。
今がずっと続けばいいのにと、噛まずとも飲み込めるくらい柔らかいそれをじっくりと時間をかけて咀嚼する。けれど器の中身は順調に減り、操の胃袋も満たされてしまった。
甲洋は最後の一口まで律儀に息を吹きかけて食べさせると、レンゲごと空になった器をヘッドボードに置く。それから、お腹をさすって息をつきながら「ご馳走様」と言った操の表情を、小首を傾げながら覗き込んできた。
「これで合ってた?」
「ん? なにが?」
「来主が望んでいたこと」
甲洋はいつも通り口数が少なく、相変わらず心を閉じている。表情にもこれといって変化は見られないのだが、どこか不安そうに感じられるのはなぜだろう。
「うん。してほしかったことしてもらえて、嬉しかった。ありがと」
「そう」
素直な気持ちを伝えると、甲洋はホッとしたようにやんわりと笑みを浮かべる。どうしてかそれがとても弱々しいものに思えて、操は無意識に彼の腕へ手を伸ばすとそっと触れた。
「甲洋」
「少し休んだら身体を拭いてあげる。風邪をひいているときは、お風呂に入れないから」
「え?」
甲洋は操の手からさりげなく逃れるようにして立ちあがると、空になった器を持って部屋を出て行こうとする。
「もしかしてこれ、まだ続くの?」
「当然。そんなにすぐに治るもんじゃないからね」
「えぇ~! もういいよぉ~!」
不満も露わに顔を顰めても、甲洋は何食わぬ顔でさっさと出て行ってしまった。
*
風邪。多くは完治までに一週間から十日を要し、場合によってはそれ以上長引くこともある。
それを踏まえると、この状態は最低でもあと一週間は続くことになるのだろうか。
カレーも食べられない。外も出歩けない。ずっと寝てなくてはいけない。美羽が「飽きた」と言って千鶴を困らせていたのが、今なら嫌というほど理解できる。
「ねぇ甲洋……おれもう飽きちゃったよ。だから風邪は終わりにしていいでしょ?」
今、操はベッドの縁に腰かけ、シャツを脱ぎ捨てて背中を蒸しタオルで丁寧に拭かれている。
背後で膝をついている甲洋は聞いているのかいないのか、何も言わずに黙々と手を動かしていた。
「ねぇ~、甲洋~」
「ほら、万歳して。脇が拭けない」
ベッドから下りて、甲洋が正面に回り込んできた。床に膝をついて操の両足を割り、開いたスペースに身体を割り込ませてくる。そして唇を尖らせながらも素直に従った操の右脇腹に、タオルを滑らせた。
「んっ!」
思わず肩が跳ねる。甲洋は「動かないで」と短く命じ、もう片方の手を反対側の脇腹に這わせると、ぐっと掴むようにして固定した。
「うひゃ、ぁ! ま、待って、それ、くすぐった……っ」
無防備な素肌の上を、温かなタオル越しに甲洋の手が丹念に行き来する。脇腹のくぼみをなぞられると、身体が大きく跳ねあがった。
「うぅ、ぁ……なん、か、やだぁ……」
顔を背け、頬を真っ赤にしていると、甲洋の溜息が鎖骨の辺りにふわりとかかった。
「身体、拭いてるだけなんだけど?」
「わ、わかってるよぉ」
甲洋にそんな意図はない。分かっている。そして、相手にその気がないのに身体が反応してしまうのは、多分きっと、とても恥ずかしいことなのだ。
(でも、なんか変な感じになってきちゃった……)
ふと、仮にこれが一週間も──あるいはそれ以上──続くのだとしたら、夜のアレもお預けになるのだろうかと考える。
操は一騎や総士たちと共に過ごす時間も好きだが、甲洋とふたりきりで裸になって身体を重ねる時間も大好きだ。こんなふうに一緒にいられるだけでも幸せだと感じるけれど、アレはもっと深くて、心の奥まで繋がれるような気がするから。
彼に触れられるとどこもかしこも熱くなって、身も心もゼリーのようにドロドロになってしまいそうになる。あの瞬間が、たまらなく気持ちいい。
「甲洋……風邪ひいてるときは、しない、の?」
「なにを」
「んッ……エッチなこと、したらダメなの?」
甲洋の手が一瞬だけピタリと止まる。彼は微かに声を上ずらせ「当たり前だ」と言ってまた手を動かし始めた。
操は思わず下唇を噛みながら涙ぐむ。もしかしたら、一騎カレーを食べ損ねたときよりずっと辛いかもしれない。
「余計なことは考えなくていい。来主は風邪をひいてるんだから」
「だから、それはもう……ぁ、ひゃうッ」
左側の脇腹もタオルで拭かれる。思わず腰が捩れたところで、甲洋の指先が薄っぺらい胸から腹筋にかけてをつうっとなぞった。臍の窪みを爪の先で引っ掻くようにされると、下半身にピリピリとした痺れが走る。
「くぅッ、ん!」
堪え切れず身体をくの字に屈めると、ちょうど甲洋の肩に額を押し付ける形になる。彼はほんの少しだけ語尾を掠れさせながら「ほら、しゃんとして」と言って、丸まった操の背中を触れるか触れないかの絶妙な力加減でゆるゆると摩った。
(絶対、わざとだ!)
操はヒクヒクと震えながら甲洋の首にしがみつくと泣きべそをかいた。
「も、やだッ……!」
「こんなに優しくしてるのに。何が嫌だって?」
「なんでそんな意地悪するの!?」
操は甲洋の首にしがみついたまま、その唇に噛みつくようなキスをした。彼はそれを黙って受け止め、捻じ込まれた舌を好きなようにさせる。
『応えて。ねぇお願い』
受け身の姿勢を崩さない甲洋の舌に自分のものを擦りつけながら、心の中に訴えかける。すると頑なだった壁の繋ぎ目に、微かな解れが生じた気がした。
ぬるりと動きだした舌に口腔を舐められる。ゾクリとした感覚が背筋を駆け抜け、上気する肌が粟立った。
「ふぁ、ん……ッ、ぁ……うれし……」
悪戯に弄ぶくせに頑なだった甲洋が、やっと応えてくれた。それが嬉しくて、操は高ぶった気持ちのままに彼の頭部に手を這わせ、頭皮に緩く爪を立てながら掻き乱す。
重なり合う唇の合間から、甲洋が漏らした息が甘い。はしたない水音が室内の空気を湿らせていく。
肩と腰を抱き寄せられると、いよいよ感極まって涙が滲んだ。
どれくらい貪り合っていたのか、いっそ舌や唇に痺れを感じるほどになると、糸を引きながら長いキスが終わった。
思考が蕩けたようになって、身体に力が入らない。くったりとその胸にもたれかかると、甲洋は操の身体を抱えたままベッドに乗り上げ、四つん這いで覆いかぶさってくる。
ちゃんと続きをしてくれる気があるのだと分かって、また嬉しさが増す。
「下、脱いでて」
甲洋は短く命じると手を伸ばし、ベッド脇の棚の一番下からベビーローションを取りだした。
安堵と期待で胸を膨らませた操は頷いて、言われた通りイモムシのようにモゾモゾとした動きで下着ごとハーフパンツを脱ぎ捨てる。微かに形を変えている未成熟な性器が、そのはずみでぷるんと揺れた。
そうしている間に、甲洋はボトルのキャップを開けて中身を手の平に出していた。操は両手を胸に押し付け、ドキドキと胸を高鳴らせながらその光景を見つめていたが、立てていた両膝を割られて内腿にぬるりとした感触を覚えた瞬間、身体を大きく震わせた。
「つめたっ! ぁ、え?」
両の内腿にたっぷりとローションを塗りたくられ、思わず目を白黒させる。
「な、なにしてるの?」
戸惑いながら見上げれば、甲洋はふっと笑って「足を閉じて」と言う。
訳が分からなかったが、操は素直に頷くと濡れた両腿をぴったりと合わせた。
「ぅえ、気持ち悪いよこれ……」
「お前に無理をさせないための、妥協案だよ」
「なにそれ、どういう?」
「今日はこれで我慢して」
頭上にハテナマークを浮かべたまま首を傾げていると、甲洋は少し荒っぽくシャツを脱ぎ捨て、前を寛げると自身を取りだした。ついているものは同じはずなのに、大きさだとか生えている毛の量だとか、形も微妙に違っているから不思議だ。これを見るといつも心臓が大きく跳ねあがって、どうしてか恥ずかしいような気持ちになってしまう。
けれど今日は普段と様子が違っていた。いつもローションを使うはずの場所はほうっておかれているし、まさかこんな状態で挿れるつもりなのだろうか。
不安と戸惑いの目を向ける操に笑いかけ、甲洋はぴったりと閉じている両腿に自身の先端を潜り込ませた。
「えっ、え!?」
思わず肘をついて半身を起こすと、咄嗟に緩んだ両の膝頭をそれぞれ掴まれてぴったりと固定された。内腿にずぶずぶと硬くて長いものが挿入されて、何が行われようとしているのか理解できずに混乱する。
「ねぇ、なにするの!? そこはお尻じゃないよ!」
「知ってるよ」
甲洋は掴んでいた膝頭から、今度は膝裏に手を滑り込ませた。ぐいと強く押して操の身体を折り曲げると、まるで挿入しているかのように抽挿を開始する。
「な、なに? なにこれ!?」
耳を塞ぎたくなるようないやらしい音に合わせて、密着した内腿の間を甲洋のものが行き来する。揺さぶられる動きに合わせて、足の先が空中で揺れた。
「や、やだこれ! なんか変だよ……ッ! ねぇ甲洋!」
どうしてだろう。とてもいけないことをしている気がする。腿の肉が擦られていくうちに、そこから不可思議な熱が広がっていくのを感じた。
「あッ、あつ、い……ッ、や、これやだっ、おれこれ好きじゃない! お尻がいいよぉ……!」
こんなに激しく揺さぶられているのに。甲洋の熱を感じるのに。欲しい場所とはまるで別の場所を犯されている。これじゃ気持ちよくなんてなれないはずなのに。
口では嫌だ嫌だと繰り返しながら、操の気分は激しく高揚していった。
「やぁ、あッ、だめ! そこ、擦れちゃ……あ、ぁ──ッ」
甲洋が体重をかけて狙いを定めると、操の勃起した性器にそれが当たる。ぷるぷるとした柔らかな袋を押しつぶすようにしながら、零れたローションと先走りに濡れる竿が擦れた。何度も何度も行き来して、競りあがる快感に頭がどうにかなりそうだ。
『来主の太腿、やわくてすごく気持ちいい』
「やだ、言わないで! 今はダメ、心の中、あっ、くぅ、ん! ぁ、ダメ、だか、らっ」
『可愛い』
そうやって、普段は滅多に口で言わないようなことを平然と囁くから性質が悪い。恥ずかしくて嬉しくて、泣きたくなる。こんなふうに心をぐずぐずに溶かされてしまうと、快感が何倍にも膨らんでしまうから、少し怖くも感じてしまうのだ。
『挿れたい。来主のナカに』
「おれも、おれも欲しい! 甲洋の、いれてほしい!」
『……でも、ダメ』
なんて酷い。我儘なんか言わなきゃよかった。風邪なんて、ちっとも楽しくない。
「ひうぅ、あッ……! い、っく、こうよ、気持ちいの、くる……っ!」
「ぁ、は……ッ、俺、も」
声なき悲鳴をあげて、操は背を反らしながら打ちあげられた。甲洋もそれに続いて腰を震わせ、二人分の白濁が腹の上に吐きだされる。
押し上げていた両足を解放しながら、息を荒げる甲洋が操の上に身体を沈めた。重なる素肌が放ったものでぬるりと音を立てるが、尾を引く余韻のせいで気にしている余裕がない。
互いにはくはくと忙しない息を漏らしながら、キスの代わりに額を押し付け合う。すると、混濁する意識の中に静止画のようなイメージが幾つも流れ込んできた。
「ッ!」
(これ、なに……?)
これは甲洋の記憶と感情だ。この部屋に潜む、凍りつくような寂しさと痛みの根源。操は今、その一端に触れようとしている。
今より幼い彼は苦しそうに息を乱し、激しく咳をして震えながらベッドで丸くなっている。身体中がピリピリと痛んで、寒くて辛くて堪らない。
喉が渇いてお腹が空っぽのような気がするけれど、声を出すどころか起き上がることすらできなかった。
誰か傍にいてほしい。背中を摩ってほしい。手を握っていてほしい。声が聞きたい。一人は嫌だ。下の階から笑い声が聞こえる。父が冗談を言い、母が笑う。彼らの中に『俺』はいない。
諦念に胸を染めながら、それでも薄暗い部屋の扉が開かれるのを待っている。だけど誰もいない。誰も来ない。ここには、誰も──。
「……ごめん」
重ねていた額を離し、甲洋が短く謝罪する。操は両腕で彼の頭を抱きしめた。
「なんで謝るの?」
「見せるつもりはなかった」
「うん。でも、おれは知れてよかった。甲洋は自分のこと、何も話してくれないから」
玉子粥を食べさせくれたあと、彼がどうして不安そうにしていたのか。それが少し、わかった気がする。あれは彼なりの答え合わせだったのだ。
「君、知らなかったんだ。自分がしてもらったことないから」
どんなに辛くても、苦しくても、彼はたった一人で耐え忍ぶより術がなかった。甘やかされたことがないから、甘やかし方が分からなかった。誰よりも優しいくせに、本当は不器用で。
操はあの暗く寂しい記憶に思いを馳せながら、胸が締め付けられるように痛むのを感じた。借り物の知識の引き出しから、この感情につける名前を探ってみる。同情、という言葉が浮かび上がったけれど、なぜかしっくりこなかった。
「わっ、ちょっと、なに?」
操は両腕で力の限り甲洋を抱きしめた。流石に苦しかったのか、両手をついて身体を浮かそうとするのを許さず、離れようとすればするほど強く抱きしめて頬ずりをする。
「苦しいって」
「今お返ししてるんだから、じっとしててよ」
「お返しってなんの」
「がんばってくれたお返し。今度はおれがいっぱい甘やかしてあげる!」
ついには焦茶の癖毛を両手でわしゃわしゃと撫でまわした。よく甲洋がショコラにやっているのを思いだしたからだ。そのイメージが伝わってしまったのか、彼が複雑そうに眉を寄せるのが分かる。
だけど別に構わなかった。甲洋はショコラに無償の愛を注いでいる。形は違うけど、これも同じだ。ただひたむきな愛おしさが、ここにもあるということを知ってほしかった。
甲洋はもう壁を取り払っていて、操はそのいちばん柔らかな場所に触れている。きっとそこは誰も触れたことのない場所で、触れてはいけない場所で、だけどそれを許してくれているのが分かるから。
だから全部あげたいと思った。自分が持っているもの、できること、全部をあげたい。
そうしたらきっと、甲洋はもう寂しくない。寂しくなんか、させてやらない。
「君がしてほしかったこと、これからは全部、おれにさせてね」
最後にもう一度ぎゅうっと抱きしめて、柔らかな癖毛に思いきり唇を押しつけた。甲洋は観念したように身体から力を抜き、ふっと笑う。大人しく身を預け、操の首筋に甘えるように額を軽く擦りつけてよこした。
「……来主はさ」
「なぁに」
「バカみたいに元気でいる方が、似合ってるよ」
「えへへ。うん、おれもそう思う」
本当に、心の底から。風邪なんてひくもんじゃない。実際にひいていたわけではないけれど、多分きっと操が思っている以上に辛いし、その間はこんなふうに彼を抱きしめることだってできないのだ。
「ね、ところでさ、甲洋」
「なに」
焦茶の頭をもうひと撫でしてから、操は僅かに身じろいだ。汗と精液とローションと。流石に少し、気になってきた。
「お風呂はいって、もっかいしよ。今度はちゃんとさ」
それは甲洋も同じだったようで、彼は肩をすくめると「同感だ」と言って苦笑した。
←戻る ・ Wavebox👏
「今日はしないからね」
風呂から上がって部屋に戻るなり、仁王立ちした操はキリリと眉を吊り上げ宣言した。
甲洋はベッドの上に胡座をかいて、なにやら小難しそうな分厚い本に落としていた視線を上げ、そんな操に顔を向ける。
「なに、急に」
「今夜はエッチなことしないよって言ったんだ」
「……それは別にいいとして、わざわざ宣言する理由はなに?」
「そっ、それは……」
操はギクリと身を強張らせる。せっかく心を読まれないよう厳重に壁を張り巡らせていたというのに、こんな反応をしてしまったら、やましいことがあると言っているようなものだ。
とはいえ、実際やましいことなどなにもない。ただ理由を言うのがどうしても嫌というだけの話で。
操は目を泳がせながら白いシャツの上から両手で胸の上をそれぞれ押さえた。
(ここがヒリヒリするなんて言ったら、絶対に悪いことが起こる。おれには分かるんだ)
甲洋とは昨日もした。いつも一つのベッドでくっついて寝るから、そういうスイッチも入りやすい。寝る前のキスをしていたらだんだん足りなくなってきて、つい行為に及んでしまった。
だが、それはいい。別にいつものことである。けれど一つだけ違ったのは、昨夜の甲洋がやけにしつこかったということだ。主に乳首を嫌というほど舐めたり吸ったり噛んだりされた。
彼は操が本気で泣き出すまで、その行為をやめようとはしなかった。
そのせいか、今日はずっと乳首に違和感があった。着ている服に擦れるだけでもピリピリするし、さっき風呂場で見てみたら、未だに赤く腫れぼったくなっていた。
こんなことを言えば、甲洋はきっと何かしら仕掛けてくるに違いない。これは予想ではなく確信だ。付き合いが長くなればなるほど、操にだってそのくらいのことは分かるようになってきた。彼はどうしてか、操にだけは意地悪なのだ。同じくらい、優しくもしてくれるけど。
「と、とにかく今夜はしないのー! 分かったらベッドの横に布団敷いて! 今日は別々に寝るからね!」
「それはいいけど」
甲洋は足の間で開いていた本を閉じ、脇に避ける。
「それより来主、ちゃんと頭洗った? ゴミがついてるよ」
「え? うそ? 洗ったよ? どこどこ?」
胸にやっていた両手を頭にやって異物を探すが、上手く見つけられない。すると甲洋がしょうがないなと言わんばかりに溜息をつき「こっちにおいで」と手招きをする。
操はなんの疑いもなく素直にベッドへ足を向けた。ノコノコと、それが罠とも知らないで。
「ねぇどこぉ? 早くとってよぉ」
ベッドに手をつき、身を屈める。その瞬間、左手首を掴まれ思い切り強く引っ張り上げられた。
「うわぁ!?」
勢いで反転した操の身体は、一瞬で甲洋の腕に横抱きの状態で収まる。
「な……?」
何が起こったのか咄嗟に理解が追いつかず、混乱しながら見上げると、淡い色の瞳と視線がかち合う。彼は無表情だった顔に、やんわりと笑みを浮かべた。
騙された。そこでようやく気がついた。
「う、嘘つき! ほんとはゴミなんかついてなかったんだ!」
「すぐにバレる隠し事をしようとする方が悪い」
「バレ……!? バレたの!? ちゃんと読まれないようにしてたのに! なんでぇ!?」
「ご丁寧に両手で胸なんか押さえてれば、そこに何かあるって言ってるようなものじゃない?」
「し、しまったぁ! おれのバカ!」
必死で両足をバタつかせ、どうにか逃れようとしてその胸に手をついて突っぱねる。けれど彼はビクともしない。操の身体を強く抱き込み、さらには両手を一纏めにして容易く拘束してしまう。まるで甲洋の中に、すっぽりと閉じ込められてしまったような状態だ。
成人男性と未発達な十代の身体では、腕っぷしの差は歴然だった。
「やだー! やだよぉ! 離してぇ!」
「おとなしく白状しな。まぁ、だいたい察しはつくけど」
「うぅ~……」
こうなってしまったらもうおしまいだ。バレてしまっては仕方ない。操は目尻にじわりと涙を浮かべ、一度だけ鼻をすんと鳴らした。
「甲洋のせいだよ……君が昨日いっぱいイジメたから……おれのおっぱい、ジンジンして痛いんだ」
「……へぇ」
「だからもう触らないでね」
恐る恐る上目遣いで見上げる。甲洋はとらえどころのない表情で操を見下ろしていたが、やがてふっと微笑むと頷いた。
「触るよ」『わかった。もう触らないよ』
「本音と建前が逆だよぉ!!」
操にしては冴えたツッコミである。
実はこのとき甲洋は凄まじい勢いでムラムラしており、建前もクソもない状態だったのだが、そこだけはキッチリと密閉していたため操が気づくことはなかった。
そうこうしているうちに、操の両手首の拘束は解かれていた。代わりに甲洋が手の平を胸に這わせてくる。
「わっ!? ちょっと、ダメだって!」
「触らないよ。直接は」
「なにそれどういう、あッ、や、やだってばぁ……!」
そのままゆるゆると胸を撫でられる。薄いシャツ越しに手の平の感触が伝わり、小さな一点に微かな摩擦が起こっていた。
「コリコリしてる。今日ずっとこんなだったんだ?」
「そう、だよ……! だから言ってるじゃん!」
むず痒いような感触が嫌で、操は甲洋の手首を両手で掴んで引き剥がそうとした。が、遅かった。ぴんっと指先で問題の箇所を軽く弾かれてしまう。その瞬間ジンとした痺れが走り、操は甲高い悲鳴を上げながら身体を跳ねさせた。
「ひゃうぅ……ッ!?」
操の小さな乳首は、ぷっくりと膨らんで白い生地を押し上げていた。もっと厚い生地のものを選んで着るべきだったと後悔しても、後の祭りである。小さいながらに勃起したそれは、白く真っ平らな胸の上で異様な存在感を放っていた。そこに痛いくらいの視線を感じる。
どうしてか、直に見られるよりも嫌な感じがしてしまう。自分で見るのもいけないことのような気がして、操は真っ赤な顔を背けるときつく目を閉じた。
甲洋の指先が容赦なくそこに伸ばされる。乳輪のあたりをクルクルとなぞられ、それから何度か繰り返し粒を引っかかれた。
「やだぁ、ぁッ、んん……ッ、それ、だめっ、ジンジンするからぁ……!」
痛い、というよりは、痺れる。昨夜さんざん弄ばれた記憶がそこにはまだ残っていて、操の身体は本人の意思とは裏腹に、痛みより快感の方を優先して拾い上げようとしていた。
人差し指と親指できゅっと摘まれると、操は瞳に溜め込んでいた涙を散らす。
「んゃ、ぁ! お願いだから、触らないで……っ!」
クリクリと押しつぶすように刺激され、身体がビクビクと恥ずかしいくらい反応してしまう。弓なりに背を反らすと、甲洋はその動きに乗じて流れるように体勢を変えた。操の身体をベッドに転がし、上から覆いかぶさってくる。
「ッ、ぁ!」
甲洋が胸に顔を埋めた。そしてシャツの生地ごとそこを口に含んだかと思うと、強く吸い上げる。じゅう、という品のない音が部屋の中に響き渡った。
「ひうぅッっ!? んっやぁぁっ、ァッ……だめ、だめぇ、吸わないでぇ!」
操は泣きながら甲洋の肩に爪を立て、嫌々と激しく首を振った。けれど聞き入れてもらえない。
甲洋は強弱をつけながら何度もそこを吸い上げ、尖らせた舌でグリグリとこねくりまわすことに夢中になっていた。唾液を吸い込んだ生地がその部分だけ湿り気を帯び、ぴったりと張り付いて赤い乳頭を透けさせる。
『直に見るより……来るな、これ』
胸への責めはそのままに心の中で漏らされた感想に、操の全身が紅潮した。
「そん、なの……ッ、ぁっんん、言っちゃ、いやだ……!」
なぜかは分からないけれど、嫌だと感じる。どうしたらいいか分からなくなって、今すぐ消えてなくなりたいと思った。もしかして、これが羞恥心というものなのだろうか。
幼子のように泣きだした操は、甲洋の身体の下で無意識に腰を揺らし始めていた。放っておかれていたもう片方も、爪の先でカリカリと引っかかれる。そこに甲洋が吸い付いた。さっきと同じく、シャツがまたそこだけ湿り気を帯びていく。飽きもせず時間をかけて、左右の乳首をまんべんなく愛撫された。
「もう、や……ぁ……あぁ……う、ぅ……んんっ」
執拗に嬲られるほどに感覚が鋭くなっていくような気がする。そのくせたった一枚の布が邪魔をして、ただ悪戯に甘ったるい痺れが増大するだけだ。
(なんで? 嫌なのに、おれ……気持ちいいって思ってる……?)
その焼け付くようなもどかしさに、気が狂いそうだった。頭の中が、身体中が、どろどろに蕩けたようになっていく。薄いハーフパンツの中で、あれが膨らんでいるのが分かった。
(こんなんじゃ、ぜんぜん足りない……!)
例えばこのシャツを脱ぎ捨てて、彼の舌や指先で直にそこを刺激されたら。どんなに気持ちがいいだろう。どんなふうになってしまうだろう。赤く腫れぼったくなっているそこを、もっと激しくイジメられてしまったら。
きっとおかしくなってしまう。今より酷く泣いても、やめてもらえないかもしれない。だって甲洋は意地悪だから。
「こうよ……これ、もうやだ……ぁ、ん……ちゃんと、触って、ほし……」
甲洋が顔を上げる。
「どうして? あんなに嫌がってたのに?」
意地悪な問いかけに、操はいちど唇を強く噛み締めた。紅潮した頬に涙が伝う。
「やだけど……やじゃ、なくなったの!」
「なんだそれ。お前が触るなっていうから、気を使ってるのに」
「どこが!?」
どうしてこんな奴を誰よりも特別に思うんだろう。自分の心も身体も分からない。ただ切なくて、一秒でも早くこのもどかしい感覚から開放されたかった。もっと強い快感が欲しい。なんの隔たりもなく、甲洋の指や唇を感じたかった。
「いいから、もう、いいから……」
「……しょうがないな」
甲洋はまるで待っていたかのように満足げに笑って、シャツの裾に手をやった。スルスルとゆっくりたくし上げていく。自身の肌が顕になっていくのを、操は心臓が突き破ってきそうなほどドキドキと高鳴るのを感じながら見守った。
やがて姿を現したそれは赤くぷっくりと膨らんで、しっとりと艶めきながら物欲しげに震えている。甲洋が喉を鳴らし、熱い息を吐き出した。
「真っ赤だよ、来主」
「や、ぁ……あんまり見たら、イヤだ……」
「なんで?」
「……はず、かしい……」
蚊の鳴くような声で言うと、甲洋が意外そうな顔をした。それから、どこか嬉しそうに目を細めてふっと微笑む。
操は鎖骨のあたりまでたくし上げられたシャツの裾を、両手で掴んだ。荒い呼吸に薄い胸を上下させながら、泣き濡れた瞳で甲洋を見上げる。
「ねぇはやく……昨日みたいに、いっぱい、いじめて……」
「……いやらしいな、来主は」
吐息混じりに言って、甲洋は赤い舌で下唇をぺろりと舐めた。皮膚が粟立つのを感じる。その舌で、唇で、たくさんイジメてほしかった。
甲洋の指先が、片方の乳首に触れた。ちょん、とつつかれるだけでそこから電気が流れたようになる。
「ああぁ、んッ!」
待ちわびていた直接の刺激に、操は自分でも信じられないくらい高い声で鳴いた。
指先がそれぞれ乳輪をくるくるとなぞる。焦らすようにそれを繰り返したあと、硬くしこる乳頭を指の腹で押しつぶすようにしながら擦られた。ビリビリとした鋭い熱が駆け抜ける。布一枚を隔てた愛撫だけでは決して得られなかった強い刺激を享受して、操は悦びに身を悶えさせる。
果実のように赤く小さな実に誘われて、甲洋がその片方に唇を寄せた。ねっとりと舌を這わされると、その滑らかに濡れた感触が火照った乳首に一瞬だけヒヤリとした感触をもたらした。けれどすぐに、目眩がするほど刺激的な熱に変わる。
操は堪らず身を捩りながら、甲洋の頭を抱きかかえた。
「はあぁ、ん! ぁ、それ……それ好き……! ビリビリして、きもちいよぉ……っ」
『痛くない?』
心の中に直接問われ、操は両手で癖の強い焦茶の髪をかき乱しながら首を縦に振る。
「くぅ、んっ……ぁ、痛いのも、すき……きもちい……あ、ぁ、はぁっ」
『ならよかった』
甲洋の唇が乳首を含む。音を立てて吸い上げられ、舌の先を擦りつけるように刺激された。何度も何度も熱心に吸われながら、ほったらかしのもう片方には親指と人差し指が触れる。きゅうっと摘まれたかと思うと、指の腹で押しつぶすように圧迫される。そのまま軽く引っ張られた。
「やあぁ! だめ、とれちゃう……ッ、ちくび、引っ張ったらダメ……ッ」
それは交互に嫌というほど繰り返される。舐められ、吸われ、扱かれ、潰され、引っ張られる。痛みと痺れと熱がないまぜになって、操は腹の奥底から鈍痛にも似た感覚が押し寄せるのを感じた。
「ま、待って、こうよ、アッ、ぁひっ、ん……な、んか、ぁ、変……っ」
快感が大きすぎる。性器に触れられているわけでもないのに、胸を嬲られているだけなのに、押し寄せる波があまりにも高い。なにかがおかしいと思った。身体が、頭が、変になる。
待って待ってと繰り返し叫んでも、甲洋は一切耳を傾けない。なにかに取り憑かれたように操の乳首を刺激し続ける。唇で食み、グリグリと頭を振られると、視界で幾つもの星が瞬くのが見えた。
「あッ、あうぅっ! やぁ、あっ、なにかくる! きちゃ、ぁッ、こわい……ッ!」
甲洋が指で押し潰していた乳頭を絞るようにしながら乳輪ごと強く引っ張る。そして舐めしゃぶっていたもう片方に、カリッと白い歯を立てた。
「ァ、ひッ……──!?」
その瞬間、目の前で星が弾けた。操は声もなく、叩きつけられたように全身を大きくしならせる。そのままガクガクと震えながら身を強張らせ、足の先をピンと突っ張らせた。視界がパチパチと弾けている。
「ッ──ぁ、っ──……ッ!!」
「……来主? まさか、イッてる?」
「ッ……ぁ……ぁ……?」
自分でも何が起こったか分からない。性器を擦ったときや、甲洋のものを受け入れたときに襲ってくるものと、それは全く同じ波だった。下着の中にドロリとした感触がある。
甲洋が目を瞬かせていた。彼もまた、乳首だけの刺激で操が達するなんて思ってもみなかったのだ。
操は頭を真っ白にさせながら、その信じられない絶頂の余韻になす術もなく痙攣する。やがて何かがこみ上げて、視界がぐにゃりと歪んだ。
「ぅ……ふぇ……」
「く、来主?」
「うぅ……う……なに、今の……なんでぇ……?」
握りしめた両手の甲で目を擦りながら、操はメソメソと泣いた。ショックだった。いよいよ身体がバカになってしまったのかもしれない。死ぬほど気持ちがよかったけれど、それが逆に怖かった。初めて達するということを覚えたときも怖いと感じたが、これが異常なイキ方だということくらい、操にだって理解できる。
「こわれちゃったんだ……おれ、どうしよぉ……」
「大丈夫だから。泣かないで、来主」
甲洋は珍しく焦った様子で操を抱き起こす。胡座をかいて、さっきみたいに横抱きにすると優しく抱きしめ、柔らかな髪をしきりに撫でる。
「だって変だよ……パンツの中、ぐちゃぐちゃになってるし……」
「新しいの出せばいいから……」
「だって、だってぇ……うぅ」
「……ごめん。流石にやりすぎた」
甲洋が操に謝罪するのは珍しい。彼もえらく戸惑った様子で、それでも操を抱きしめたままよしよしと宥めすかしている。おかげで少しずつ、落ち着きを取り戻すことができた。
操は手の甲で涙を拭うと、グスンっと鼻をすすった。
「甲洋の……当たってる……」
『……正直、お前があと1ミリでも動いたら俺もヤバイかもしれない』
口では言いにくいのか、読心能力でのっぴきならない事態を告げられた。密着している肌に、甲洋のブツが当っている。それは硬く張り詰めたようになっていて、操は意趣返しにわざと身じろいでやった。
「ぅッ、ちょ……っと、ホントにマズイから」
「今度はおれが甲洋の大事なところを噛んであげる」
「やめて……洒落にならない……」
甲洋は操の膝裏に腕に回し、肩を強く抱き寄せるとそのまま身体の向きを変える。両足を床につけ、操を抱いたまま勢いよくベッドから立ち上がった。
「わッ!」
落ちないように、その首に両腕を回してしがみつく。
「風呂場に行こう。洗ってやるから」
「お風呂ですれば、掃除が楽ちんだもんね」
「……その通り」
甲洋はむっつりとした顔で頷いた。洗うだけでは済まないことくらい知っている。彼は扉へ近づくと操の両足を引っ掛けたままの腕で器用にドアノブを回した。
操は彼にすっかり身を委ねながら、甘えるように焦茶の髪に頬を寄せる。
(怖かったけど、気持ちよかったな……)
じんじんとした痺れが胸の二箇所にまだ残っている。このあと続きをするのなら、また沢山イジメられてしまうかもしれない。どうしようかな、と困ったふりをしながら、操はほうっと熱い息を漏らした。
←戻る ・ Wavebox👏
風呂から上がって部屋に戻るなり、仁王立ちした操はキリリと眉を吊り上げ宣言した。
甲洋はベッドの上に胡座をかいて、なにやら小難しそうな分厚い本に落としていた視線を上げ、そんな操に顔を向ける。
「なに、急に」
「今夜はエッチなことしないよって言ったんだ」
「……それは別にいいとして、わざわざ宣言する理由はなに?」
「そっ、それは……」
操はギクリと身を強張らせる。せっかく心を読まれないよう厳重に壁を張り巡らせていたというのに、こんな反応をしてしまったら、やましいことがあると言っているようなものだ。
とはいえ、実際やましいことなどなにもない。ただ理由を言うのがどうしても嫌というだけの話で。
操は目を泳がせながら白いシャツの上から両手で胸の上をそれぞれ押さえた。
(ここがヒリヒリするなんて言ったら、絶対に悪いことが起こる。おれには分かるんだ)
甲洋とは昨日もした。いつも一つのベッドでくっついて寝るから、そういうスイッチも入りやすい。寝る前のキスをしていたらだんだん足りなくなってきて、つい行為に及んでしまった。
だが、それはいい。別にいつものことである。けれど一つだけ違ったのは、昨夜の甲洋がやけにしつこかったということだ。主に乳首を嫌というほど舐めたり吸ったり噛んだりされた。
彼は操が本気で泣き出すまで、その行為をやめようとはしなかった。
そのせいか、今日はずっと乳首に違和感があった。着ている服に擦れるだけでもピリピリするし、さっき風呂場で見てみたら、未だに赤く腫れぼったくなっていた。
こんなことを言えば、甲洋はきっと何かしら仕掛けてくるに違いない。これは予想ではなく確信だ。付き合いが長くなればなるほど、操にだってそのくらいのことは分かるようになってきた。彼はどうしてか、操にだけは意地悪なのだ。同じくらい、優しくもしてくれるけど。
「と、とにかく今夜はしないのー! 分かったらベッドの横に布団敷いて! 今日は別々に寝るからね!」
「それはいいけど」
甲洋は足の間で開いていた本を閉じ、脇に避ける。
「それより来主、ちゃんと頭洗った? ゴミがついてるよ」
「え? うそ? 洗ったよ? どこどこ?」
胸にやっていた両手を頭にやって異物を探すが、上手く見つけられない。すると甲洋がしょうがないなと言わんばかりに溜息をつき「こっちにおいで」と手招きをする。
操はなんの疑いもなく素直にベッドへ足を向けた。ノコノコと、それが罠とも知らないで。
「ねぇどこぉ? 早くとってよぉ」
ベッドに手をつき、身を屈める。その瞬間、左手首を掴まれ思い切り強く引っ張り上げられた。
「うわぁ!?」
勢いで反転した操の身体は、一瞬で甲洋の腕に横抱きの状態で収まる。
「な……?」
何が起こったのか咄嗟に理解が追いつかず、混乱しながら見上げると、淡い色の瞳と視線がかち合う。彼は無表情だった顔に、やんわりと笑みを浮かべた。
騙された。そこでようやく気がついた。
「う、嘘つき! ほんとはゴミなんかついてなかったんだ!」
「すぐにバレる隠し事をしようとする方が悪い」
「バレ……!? バレたの!? ちゃんと読まれないようにしてたのに! なんでぇ!?」
「ご丁寧に両手で胸なんか押さえてれば、そこに何かあるって言ってるようなものじゃない?」
「し、しまったぁ! おれのバカ!」
必死で両足をバタつかせ、どうにか逃れようとしてその胸に手をついて突っぱねる。けれど彼はビクともしない。操の身体を強く抱き込み、さらには両手を一纏めにして容易く拘束してしまう。まるで甲洋の中に、すっぽりと閉じ込められてしまったような状態だ。
成人男性と未発達な十代の身体では、腕っぷしの差は歴然だった。
「やだー! やだよぉ! 離してぇ!」
「おとなしく白状しな。まぁ、だいたい察しはつくけど」
「うぅ~……」
こうなってしまったらもうおしまいだ。バレてしまっては仕方ない。操は目尻にじわりと涙を浮かべ、一度だけ鼻をすんと鳴らした。
「甲洋のせいだよ……君が昨日いっぱいイジメたから……おれのおっぱい、ジンジンして痛いんだ」
「……へぇ」
「だからもう触らないでね」
恐る恐る上目遣いで見上げる。甲洋はとらえどころのない表情で操を見下ろしていたが、やがてふっと微笑むと頷いた。
「触るよ」『わかった。もう触らないよ』
「本音と建前が逆だよぉ!!」
操にしては冴えたツッコミである。
実はこのとき甲洋は凄まじい勢いでムラムラしており、建前もクソもない状態だったのだが、そこだけはキッチリと密閉していたため操が気づくことはなかった。
そうこうしているうちに、操の両手首の拘束は解かれていた。代わりに甲洋が手の平を胸に這わせてくる。
「わっ!? ちょっと、ダメだって!」
「触らないよ。直接は」
「なにそれどういう、あッ、や、やだってばぁ……!」
そのままゆるゆると胸を撫でられる。薄いシャツ越しに手の平の感触が伝わり、小さな一点に微かな摩擦が起こっていた。
「コリコリしてる。今日ずっとこんなだったんだ?」
「そう、だよ……! だから言ってるじゃん!」
むず痒いような感触が嫌で、操は甲洋の手首を両手で掴んで引き剥がそうとした。が、遅かった。ぴんっと指先で問題の箇所を軽く弾かれてしまう。その瞬間ジンとした痺れが走り、操は甲高い悲鳴を上げながら身体を跳ねさせた。
「ひゃうぅ……ッ!?」
操の小さな乳首は、ぷっくりと膨らんで白い生地を押し上げていた。もっと厚い生地のものを選んで着るべきだったと後悔しても、後の祭りである。小さいながらに勃起したそれは、白く真っ平らな胸の上で異様な存在感を放っていた。そこに痛いくらいの視線を感じる。
どうしてか、直に見られるよりも嫌な感じがしてしまう。自分で見るのもいけないことのような気がして、操は真っ赤な顔を背けるときつく目を閉じた。
甲洋の指先が容赦なくそこに伸ばされる。乳輪のあたりをクルクルとなぞられ、それから何度か繰り返し粒を引っかかれた。
「やだぁ、ぁッ、んん……ッ、それ、だめっ、ジンジンするからぁ……!」
痛い、というよりは、痺れる。昨夜さんざん弄ばれた記憶がそこにはまだ残っていて、操の身体は本人の意思とは裏腹に、痛みより快感の方を優先して拾い上げようとしていた。
人差し指と親指できゅっと摘まれると、操は瞳に溜め込んでいた涙を散らす。
「んゃ、ぁ! お願いだから、触らないで……っ!」
クリクリと押しつぶすように刺激され、身体がビクビクと恥ずかしいくらい反応してしまう。弓なりに背を反らすと、甲洋はその動きに乗じて流れるように体勢を変えた。操の身体をベッドに転がし、上から覆いかぶさってくる。
「ッ、ぁ!」
甲洋が胸に顔を埋めた。そしてシャツの生地ごとそこを口に含んだかと思うと、強く吸い上げる。じゅう、という品のない音が部屋の中に響き渡った。
「ひうぅッっ!? んっやぁぁっ、ァッ……だめ、だめぇ、吸わないでぇ!」
操は泣きながら甲洋の肩に爪を立て、嫌々と激しく首を振った。けれど聞き入れてもらえない。
甲洋は強弱をつけながら何度もそこを吸い上げ、尖らせた舌でグリグリとこねくりまわすことに夢中になっていた。唾液を吸い込んだ生地がその部分だけ湿り気を帯び、ぴったりと張り付いて赤い乳頭を透けさせる。
『直に見るより……来るな、これ』
胸への責めはそのままに心の中で漏らされた感想に、操の全身が紅潮した。
「そん、なの……ッ、ぁっんん、言っちゃ、いやだ……!」
なぜかは分からないけれど、嫌だと感じる。どうしたらいいか分からなくなって、今すぐ消えてなくなりたいと思った。もしかして、これが羞恥心というものなのだろうか。
幼子のように泣きだした操は、甲洋の身体の下で無意識に腰を揺らし始めていた。放っておかれていたもう片方も、爪の先でカリカリと引っかかれる。そこに甲洋が吸い付いた。さっきと同じく、シャツがまたそこだけ湿り気を帯びていく。飽きもせず時間をかけて、左右の乳首をまんべんなく愛撫された。
「もう、や……ぁ……あぁ……う、ぅ……んんっ」
執拗に嬲られるほどに感覚が鋭くなっていくような気がする。そのくせたった一枚の布が邪魔をして、ただ悪戯に甘ったるい痺れが増大するだけだ。
(なんで? 嫌なのに、おれ……気持ちいいって思ってる……?)
その焼け付くようなもどかしさに、気が狂いそうだった。頭の中が、身体中が、どろどろに蕩けたようになっていく。薄いハーフパンツの中で、あれが膨らんでいるのが分かった。
(こんなんじゃ、ぜんぜん足りない……!)
例えばこのシャツを脱ぎ捨てて、彼の舌や指先で直にそこを刺激されたら。どんなに気持ちがいいだろう。どんなふうになってしまうだろう。赤く腫れぼったくなっているそこを、もっと激しくイジメられてしまったら。
きっとおかしくなってしまう。今より酷く泣いても、やめてもらえないかもしれない。だって甲洋は意地悪だから。
「こうよ……これ、もうやだ……ぁ、ん……ちゃんと、触って、ほし……」
甲洋が顔を上げる。
「どうして? あんなに嫌がってたのに?」
意地悪な問いかけに、操はいちど唇を強く噛み締めた。紅潮した頬に涙が伝う。
「やだけど……やじゃ、なくなったの!」
「なんだそれ。お前が触るなっていうから、気を使ってるのに」
「どこが!?」
どうしてこんな奴を誰よりも特別に思うんだろう。自分の心も身体も分からない。ただ切なくて、一秒でも早くこのもどかしい感覚から開放されたかった。もっと強い快感が欲しい。なんの隔たりもなく、甲洋の指や唇を感じたかった。
「いいから、もう、いいから……」
「……しょうがないな」
甲洋はまるで待っていたかのように満足げに笑って、シャツの裾に手をやった。スルスルとゆっくりたくし上げていく。自身の肌が顕になっていくのを、操は心臓が突き破ってきそうなほどドキドキと高鳴るのを感じながら見守った。
やがて姿を現したそれは赤くぷっくりと膨らんで、しっとりと艶めきながら物欲しげに震えている。甲洋が喉を鳴らし、熱い息を吐き出した。
「真っ赤だよ、来主」
「や、ぁ……あんまり見たら、イヤだ……」
「なんで?」
「……はず、かしい……」
蚊の鳴くような声で言うと、甲洋が意外そうな顔をした。それから、どこか嬉しそうに目を細めてふっと微笑む。
操は鎖骨のあたりまでたくし上げられたシャツの裾を、両手で掴んだ。荒い呼吸に薄い胸を上下させながら、泣き濡れた瞳で甲洋を見上げる。
「ねぇはやく……昨日みたいに、いっぱい、いじめて……」
「……いやらしいな、来主は」
吐息混じりに言って、甲洋は赤い舌で下唇をぺろりと舐めた。皮膚が粟立つのを感じる。その舌で、唇で、たくさんイジメてほしかった。
甲洋の指先が、片方の乳首に触れた。ちょん、とつつかれるだけでそこから電気が流れたようになる。
「ああぁ、んッ!」
待ちわびていた直接の刺激に、操は自分でも信じられないくらい高い声で鳴いた。
指先がそれぞれ乳輪をくるくるとなぞる。焦らすようにそれを繰り返したあと、硬くしこる乳頭を指の腹で押しつぶすようにしながら擦られた。ビリビリとした鋭い熱が駆け抜ける。布一枚を隔てた愛撫だけでは決して得られなかった強い刺激を享受して、操は悦びに身を悶えさせる。
果実のように赤く小さな実に誘われて、甲洋がその片方に唇を寄せた。ねっとりと舌を這わされると、その滑らかに濡れた感触が火照った乳首に一瞬だけヒヤリとした感触をもたらした。けれどすぐに、目眩がするほど刺激的な熱に変わる。
操は堪らず身を捩りながら、甲洋の頭を抱きかかえた。
「はあぁ、ん! ぁ、それ……それ好き……! ビリビリして、きもちいよぉ……っ」
『痛くない?』
心の中に直接問われ、操は両手で癖の強い焦茶の髪をかき乱しながら首を縦に振る。
「くぅ、んっ……ぁ、痛いのも、すき……きもちい……あ、ぁ、はぁっ」
『ならよかった』
甲洋の唇が乳首を含む。音を立てて吸い上げられ、舌の先を擦りつけるように刺激された。何度も何度も熱心に吸われながら、ほったらかしのもう片方には親指と人差し指が触れる。きゅうっと摘まれたかと思うと、指の腹で押しつぶすように圧迫される。そのまま軽く引っ張られた。
「やあぁ! だめ、とれちゃう……ッ、ちくび、引っ張ったらダメ……ッ」
それは交互に嫌というほど繰り返される。舐められ、吸われ、扱かれ、潰され、引っ張られる。痛みと痺れと熱がないまぜになって、操は腹の奥底から鈍痛にも似た感覚が押し寄せるのを感じた。
「ま、待って、こうよ、アッ、ぁひっ、ん……な、んか、ぁ、変……っ」
快感が大きすぎる。性器に触れられているわけでもないのに、胸を嬲られているだけなのに、押し寄せる波があまりにも高い。なにかがおかしいと思った。身体が、頭が、変になる。
待って待ってと繰り返し叫んでも、甲洋は一切耳を傾けない。なにかに取り憑かれたように操の乳首を刺激し続ける。唇で食み、グリグリと頭を振られると、視界で幾つもの星が瞬くのが見えた。
「あッ、あうぅっ! やぁ、あっ、なにかくる! きちゃ、ぁッ、こわい……ッ!」
甲洋が指で押し潰していた乳頭を絞るようにしながら乳輪ごと強く引っ張る。そして舐めしゃぶっていたもう片方に、カリッと白い歯を立てた。
「ァ、ひッ……──!?」
その瞬間、目の前で星が弾けた。操は声もなく、叩きつけられたように全身を大きくしならせる。そのままガクガクと震えながら身を強張らせ、足の先をピンと突っ張らせた。視界がパチパチと弾けている。
「ッ──ぁ、っ──……ッ!!」
「……来主? まさか、イッてる?」
「ッ……ぁ……ぁ……?」
自分でも何が起こったか分からない。性器を擦ったときや、甲洋のものを受け入れたときに襲ってくるものと、それは全く同じ波だった。下着の中にドロリとした感触がある。
甲洋が目を瞬かせていた。彼もまた、乳首だけの刺激で操が達するなんて思ってもみなかったのだ。
操は頭を真っ白にさせながら、その信じられない絶頂の余韻になす術もなく痙攣する。やがて何かがこみ上げて、視界がぐにゃりと歪んだ。
「ぅ……ふぇ……」
「く、来主?」
「うぅ……う……なに、今の……なんでぇ……?」
握りしめた両手の甲で目を擦りながら、操はメソメソと泣いた。ショックだった。いよいよ身体がバカになってしまったのかもしれない。死ぬほど気持ちがよかったけれど、それが逆に怖かった。初めて達するということを覚えたときも怖いと感じたが、これが異常なイキ方だということくらい、操にだって理解できる。
「こわれちゃったんだ……おれ、どうしよぉ……」
「大丈夫だから。泣かないで、来主」
甲洋は珍しく焦った様子で操を抱き起こす。胡座をかいて、さっきみたいに横抱きにすると優しく抱きしめ、柔らかな髪をしきりに撫でる。
「だって変だよ……パンツの中、ぐちゃぐちゃになってるし……」
「新しいの出せばいいから……」
「だって、だってぇ……うぅ」
「……ごめん。流石にやりすぎた」
甲洋が操に謝罪するのは珍しい。彼もえらく戸惑った様子で、それでも操を抱きしめたままよしよしと宥めすかしている。おかげで少しずつ、落ち着きを取り戻すことができた。
操は手の甲で涙を拭うと、グスンっと鼻をすすった。
「甲洋の……当たってる……」
『……正直、お前があと1ミリでも動いたら俺もヤバイかもしれない』
口では言いにくいのか、読心能力でのっぴきならない事態を告げられた。密着している肌に、甲洋のブツが当っている。それは硬く張り詰めたようになっていて、操は意趣返しにわざと身じろいでやった。
「ぅッ、ちょ……っと、ホントにマズイから」
「今度はおれが甲洋の大事なところを噛んであげる」
「やめて……洒落にならない……」
甲洋は操の膝裏に腕に回し、肩を強く抱き寄せるとそのまま身体の向きを変える。両足を床につけ、操を抱いたまま勢いよくベッドから立ち上がった。
「わッ!」
落ちないように、その首に両腕を回してしがみつく。
「風呂場に行こう。洗ってやるから」
「お風呂ですれば、掃除が楽ちんだもんね」
「……その通り」
甲洋はむっつりとした顔で頷いた。洗うだけでは済まないことくらい知っている。彼は扉へ近づくと操の両足を引っ掛けたままの腕で器用にドアノブを回した。
操は彼にすっかり身を委ねながら、甘えるように焦茶の髪に頬を寄せる。
(怖かったけど、気持ちよかったな……)
じんじんとした痺れが胸の二箇所にまだ残っている。このあと続きをするのなら、また沢山イジメられてしまうかもしれない。どうしようかな、と困ったふりをしながら、操はほうっと熱い息を漏らした。
←戻る ・ Wavebox👏
五年付き合った彼女と別れたのも、今と同じ時期だった。
満開に桜が咲いていた。公園で友人たちと朝から晩までしこたま酒を飲み、ベロベロになって家に帰ったら、テーブルの上に一枚の紙切れが置かれていた。
『さようなら、お世話になりました』
丸みを帯びた可愛らしい字。彼女の字だ。なんの冗談だろうと思った。酷く酔っていたし、まともに考えられる状態じゃなかった。
彼女の名を呼んだ。風呂場、トイレ、寝室、クローゼットの中。フラつく足で順々に見てまわり、彼女の私物が一つも見当たらないことに気がついた。
冷えていく頭でふと、ついさっきまで夜桜の下で飲んでいた友人たちに「今年中には結婚するつもりだ」と、大きな口を叩いたばかりだったことを思いだした。
マジか、と思った。頭を抱えてその場にしゃがみ込む。吐き気がした。飲みすぎだ。トイレに駆け込もうとして、間に合わなかった。廊下で吐いた。後片付けが面倒くさい。友人たちには、なんて言おう?
女に逃げられた男の頭の中は、ただそれだけでいっぱいだった。
*
それからややしばらくして、男は住んでいたマンションを引っ越した。
家賃もそこそこのいい部屋だったし、仕事も順調なはずだった。けれどあのあと恋愛だけでなく仕事まで上手くいかなくなって、上司にこっぴどく叱られた翌日、辞めてしまった。
今は壁の薄い安アパートで、深夜のコンビニ店員をしながら細々と暮らしている。
隣人は若い男だった。多分まだ二十歳そこそこの学生だ。
彼とは引っ越した翌日に初めて会った。部屋の両隣と、すぐ下の階の住人に菓子折りを持って挨拶に行ったときのことだ。夏の始めだったのを覚えている。
春日井甲洋は男の左隣に住んでいた。扉をノックして出てきた彼を見たときの衝撃は、今も忘れられない。
汗ばんでいる白い肌。首筋と目元をほのかに赤らめて、焦茶の長い髪を頬に貼り付けていた。たったいま慌てて身につけたといわんばかりに襟がたわんだ、白いシャツ。ジーンズのウエストはファスナーだけが閉められ、ボタンは留められていなかった。なにより、涼しげな顔をしているくせに息が微かに上がっていた。
明らかにいいところを邪魔してしまったのが見て取れる。この真昼間に。そんな情事の気配を、ありありと滲ませていた。
「あ、ああ、どうも。昨日、隣に越してきたものですが」
男は声を上ずらせながら言った。青年は無表情だったが、不機嫌そうというわけではない。多分、普段からそれほど表情筋を動かすタイプではないのだろう。ただ物憂げに、いささか潤んだ瞳で男を見た。
男は「つまらないものですが」と言って、クッキーの詰め合わせを差し出した。手がいやに汗ばんでいて、動悸がする。包装紙が湿ってはいないかと不安になった。
「わざわざどうも。ありがとうございます」
青年が口を開く。涼やかな風に若葉がそっとささめくような、そんな静かな声だった。色のなかった表情が、ふわりと緩む。彼はわずかに瞳を細め、信じられないくらい綺麗に微笑んだ。
男は胸を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。この優しげで綺麗な、痩せた男が、今の今までその腕に女を抱いていたのだ。紅潮した頬に汗と髪を貼り付けて、けれどその微笑はどこか禁欲的でもある。
そのアンバランスな危うさに、男は不覚にも欲をそそられてしまったのだ。
*
それからはずっと、春日井甲洋のことばかりを考えていた。
レジ打ちをしているときも、品出しをしているときも。なにをしていても上の空で、何度も計算をミスった。その度に自分の財布から補填しなければならない。初めのうちは口惜しさに腹がたったが、男はそれをあの青年への『お布施』だと思いこむことにした。病気である。
彼とはあのあと一言二言、当たり障りない会話をして、それきりだ。
稀に顔を合わせても、お互い軽い会釈を交わすだけで終わってしまう。同じアパートの、隣に住んでいるというだけの薄い縁に、それでも男は一人のめり込んでいく。
彼とどうにかなりたいとか、そういう生々しい考えには至らなかった。不思議でもなんでもない。男は異性しか愛したことがないし、男を抱いたことも、ましてや抱かれたこともないのだ。想像がつかない。そうやって、まだどこかで戸惑っていることをブレーキにしている。
だけど気づけばぼんやりと、思いを馳せていた。あの瑞々しい青年の色香に。
右隣の隣人へは、引っ越しの挨拶をしそこねていた。
あの足ですぐに訪ねたが、間の悪いことに不在だったのだ。扉の表札には子供のような拙い字で【くるす】と書かれていた。
だけど一度だけ、アパートの通路ですれ違ったことがある。男は夜勤明けで、隣人はちょうど部屋から出てきたところだった。
学生だとは思うが、ギリギリ高校生程度といった幼い顔つきをした少年だった。嗅げばミルクの香りがしそうな、そんなあどけなさがあった。
渡さないままのクッキーは、食器棚の上でほこりをかぶっている。春日井甲洋という青年に出会ってから、そのときすでに二ヶ月が経過していた。夏が終わりかけている。
*
『……あ』
未だ残暑がまとわりつく、ムシムシとした夜だった。
男は少しばかり体調を崩し、その夜は休みをとっていた。汗臭い布団で横になり、とろとろと眠ったり起きたりを繰り返していると、微かな声が聞こえた気がして瞼を開ける。
予感めいたものにギクリと身を強張らせ、息を殺した。
『ん、ぁ……はぁッ、ぁ……!』
薄い壁越しに、上ずった声が聞こえる。男は身体の不調も忘れ、起き上がると壁に身を寄せて耳を押し付けた。左隣。春日井甲洋の部屋だ。そこから、なまめかしい声が聞こえてくる。
こんなことは初めてだ。今まで一度も、こんないやらしい声が聞こえてきたことはなかった。
男は週に二日あるかないかの休みの夜、ほとんどこの部屋を開けている。大体は安い居酒屋の片隅でちびちびと飲み、帰宅するのは午前様だった。
けれど男は今日、幸か不幸かここにいる。本来の休みは明日だ。若いフリーターの男と交換してもらった。
『あッ、あ、ぁ! だめ、それ……ダメ、やぁ、ァ!』
ひときわ大きな声が上がった。男の皮膚がゾクリと粟立つ。薄い壁一枚を隔てた向こう側で、春日井甲洋が情事に耽っている。その事実に興奮して、頭に血がのぼっていく。
そして何より、この声は男性のものだ。女のようにすすり泣いてはいるが、確かに。
(彼、が……抱かれているのか?)
心臓が口から飛び出してきそうなほどに、激しく高鳴る。彼とはたった一度、会話をしただけだ。口数が少なく、印象深い内容など一つもない。だからこれが仮に彼の声だったとしても、男には判別がつかないのだ。
だけど、どちらにせよ。
男と寝るのだ。春日井甲洋という青年は。
なら、自分とだって──。
『ひゃっ……ぁ……あっ! ァ……こう、よう……甲洋……ッ!』
「ッ……!」
瞬間、男は息を飲む。そのひゅうという音がいやに大きく感じられ、思わず片手で口を押さえた。
甲洋、と。この甘えたように啼く声の主は、確かに呼んだ。追い打ちをかけるように、低く掠れた声が【くるす】と呼ぶ。
全身の毛が逆立つ。ゾワゾワとした感覚に、男は戦慄いた。甲洋とくるす。男の隣人と、隣人。
あの赤ん坊のような香りがしそうな少年を、あの美しい男が犯している。何度も何度も、甘ったるい声でその名を呼びながら、抱いている。
『やあ、ぁ! はっ、おっき、ぃ、んッ……こう、よ、あッ、あ、ァ……ッ!』
『ッ……、来主……平気?』
『ぅ、ん……へい、き……甲洋の、もっとちょうだい』
『──いいよ』
壁がこんなにも邪魔臭いと感じたのは初めてだった。彼は、彼らは、どんなふうに抱き合っているのだろう。春日井甲洋は、どうやってあの少年を愛しているのだろうか。
あえかな悲鳴と、ベッドが軋む音。男は張り詰めた神経で、卑猥な妄想を膨らませる。
『おく、奥まで……ッ、あぅ、ぁっ、ァ、あーッ!』
しなやかな若木を思わせる少年の肉体。上下する薄い胸と、頂にある赤い粒。紅潮する身体を長い両腕に閉じ込めて、春日井甲洋がその高ぶりで小さな丘の谷間を犯す。硬かったはずの蕾は桃の花のように綻んで、若い雄の猛りを食い締めている。
汗ばむ頬。しっとりと張り付く、焦茶の髪。少年がその頬に手を這わせ、濡れた息を弾ませながらキスを強請る。水音。二人分の重みと抽送に軋むベッド。重なる吐息。極致を目指して、ふたつの身体がしなり、もつれる。
男はいつしか自身も高ぶりを覚えていた。淫らな情事が奏でる音と、艶めいた嬌声を餌に。無意味な、けれどあまりにも生々しい想像に辛抱堪らず、取り出した男根を扱き上げる。息を殺し、決して悟られないように。こんなにも刺激的で気持ちのいい自慰は初めてだった。
『ひッ、ぁ…ッ、はぁ、……ッ、ぁ、ぁ、あ……ン……ッ!』
『来主……くるす……』
『も、イッ、く……ッ! いく、こうよ……ッ、あぁ、ひッ、ん!』
『ッ、俺も、イク』
『んっ、ぅん、きて、一緒に……甲洋、ッ、ァ、あ、好き、いっぱい、好き……ッ!』
『俺も、俺もだ──操』
──みさお。
男はふと、手を止めた。
それは懐かしい名前だった。春に、桜が散るよりも早く男の元から去った女。たった一枚の紙切れだけを残して男を捨てた彼女と、同じ名前。
みさお、みさお、みさお──愛していたと思う。多分、きっと。だって、結婚する気でいたくらいの女だったのだから。
だけど、どうしてだろう。一度も考えたことがなかった。彼女がいなくなった理由を。
薄い壁の向こう側で、恋人たちは絶頂を迎えていた。【みさお】が子犬のような甲高い声で鳴く。春日井甲洋が、低く呻いた。忙しなく重なる呼吸がまるで獣じみていて、男はゆっくりと熱が引いていくのを感じた。至ることができなかったのは、自分ひとりだけ。
『大好き……甲洋……あいしてる』
『俺も、愛してる……操』
熱を吐き出せば、あとは冷めきっていくだけだ。けれど彼らは達してなお愛を囁きあっていた。
若い肉体の火は消えない。再び情を交わしはじめた二人の吐息を聞きながら、男はただ呆然と壁にもたれかかり、腕を投げだした。薄い隔たり。違う世界。同じ名前。虚しさに息がつまる。
幻想だ。全て。男は春日井甲洋に不思議な劣情を抱いていた。今は、凪いだ海で仄かな嫉妬と羨望が溺れている。
彼が愛する【みさお】は、少年の形をしていた。
甘い声が、優しい声が、何度も何度も愛の言葉を紡ぎ出す。
(いつからだったかな)
確かにこの腕の中にいたはずの【みさお】に、愛していると言わなくなったのは。
*
壁にもたれかかったまま朝を迎えた。
いつの間にか眠りに落ちていて、気がつけば安物のカーテンから白い光が射していた。
蒸し暑さを残す室内は空気が淀んでいた。男は窓を開けるよりも先に、玄関に向かうと靴を引っ掛け、扉を開けた。
一気に射し込んだ朝日が眩しい。目がくらんで、少し痛い。一步踏み出すより先に、声がした。
「じゃあね甲洋、また後で」
「迎えに行くから。二度寝なんかしてたら、ほっといて先に学校行くよ」
「し、しないよぅ。いじわるー」
春日井甲洋と【くるすみさお】だ。男はドキリとして扉を閉じかけたが、身体が上手く動かなかった。
「来主」
「なに?」
「今日は鎖骨が見えない服を着て」
「え? うん、わかったー!」
眼の前を、少年が横切ろうとする。ドアを開けたまま玄関に立ち尽くす男に気づいて、彼は一瞬歩調を緩めると、丸い目をしながらペコリと軽く会釈をした。ああ、やっぱり、乳臭そうなガキだと思う。
ボーダー柄のシャツから覗く鎖骨には、赤く鬱血した跡がある。それだけが、まるで異質なものに感じられた。
朝日に目を眇める男の視界から少年が消えた。すぐ右隣の部屋のドアが開閉すると、しんと辺りが静まり返る。
男はようやく外へと一步を踏み出した。左隣へ視線をやれば、恋人の背を見送った春日井甲洋が自室のドアノブに手をかけたところだった。
長い髪を緩く一つに結っている。項が白い。性懲りもなく、胸が一瞬ざわついた。
彼は男の視線に気づき、ゆるりとこちらに顔を向けた。その瞳に映る自分は、どんな顔をしていただろう。平静を装っていられただろうか。
薄い唇が緩く笑みを象る。春日井甲洋が、ふわりと笑った。
細められた瞳の透明感。見透かされているような気がして不安になる。男が抱いた劣情も、盗み聞いた秘事も、女に逃げられ、仕事を辞め、寂れたアパートの一室で腐りながらただ生きていることも。
後ろめたさに指先が冷える。薄い氷の上を歩かされているようだ。怖い。ただただ、怖いと思う。
小さな会釈をして、春日井甲洋は開いた扉の先へ姿を消した。
彼が見えなくなって、男は初めて呼吸を止めていたことに気がついた。吸い込んだ息は少しほこりっぽい。軽く咽てから、音を立てて喉を鳴らした。
毒のような男だ。したたかで、甘い毒のような。それは男の中に新しく根付いた幻想に過ぎないのかもしれない。あとに残ったのは、ただの劣等感だった。
*
季節が巡り、春になると、男の両隣の住人は揃ってアパートを出て行った。彼らがどこへ行ったのかは分からない。
ただ、あれから毎年春になると思いだす。
彼は今もどこかで、その腕に【みさお】を抱いているのだろう。
愛していると、何度も何度も囁きながら。
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満開に桜が咲いていた。公園で友人たちと朝から晩までしこたま酒を飲み、ベロベロになって家に帰ったら、テーブルの上に一枚の紙切れが置かれていた。
『さようなら、お世話になりました』
丸みを帯びた可愛らしい字。彼女の字だ。なんの冗談だろうと思った。酷く酔っていたし、まともに考えられる状態じゃなかった。
彼女の名を呼んだ。風呂場、トイレ、寝室、クローゼットの中。フラつく足で順々に見てまわり、彼女の私物が一つも見当たらないことに気がついた。
冷えていく頭でふと、ついさっきまで夜桜の下で飲んでいた友人たちに「今年中には結婚するつもりだ」と、大きな口を叩いたばかりだったことを思いだした。
マジか、と思った。頭を抱えてその場にしゃがみ込む。吐き気がした。飲みすぎだ。トイレに駆け込もうとして、間に合わなかった。廊下で吐いた。後片付けが面倒くさい。友人たちには、なんて言おう?
女に逃げられた男の頭の中は、ただそれだけでいっぱいだった。
*
それからややしばらくして、男は住んでいたマンションを引っ越した。
家賃もそこそこのいい部屋だったし、仕事も順調なはずだった。けれどあのあと恋愛だけでなく仕事まで上手くいかなくなって、上司にこっぴどく叱られた翌日、辞めてしまった。
今は壁の薄い安アパートで、深夜のコンビニ店員をしながら細々と暮らしている。
隣人は若い男だった。多分まだ二十歳そこそこの学生だ。
彼とは引っ越した翌日に初めて会った。部屋の両隣と、すぐ下の階の住人に菓子折りを持って挨拶に行ったときのことだ。夏の始めだったのを覚えている。
春日井甲洋は男の左隣に住んでいた。扉をノックして出てきた彼を見たときの衝撃は、今も忘れられない。
汗ばんでいる白い肌。首筋と目元をほのかに赤らめて、焦茶の長い髪を頬に貼り付けていた。たったいま慌てて身につけたといわんばかりに襟がたわんだ、白いシャツ。ジーンズのウエストはファスナーだけが閉められ、ボタンは留められていなかった。なにより、涼しげな顔をしているくせに息が微かに上がっていた。
明らかにいいところを邪魔してしまったのが見て取れる。この真昼間に。そんな情事の気配を、ありありと滲ませていた。
「あ、ああ、どうも。昨日、隣に越してきたものですが」
男は声を上ずらせながら言った。青年は無表情だったが、不機嫌そうというわけではない。多分、普段からそれほど表情筋を動かすタイプではないのだろう。ただ物憂げに、いささか潤んだ瞳で男を見た。
男は「つまらないものですが」と言って、クッキーの詰め合わせを差し出した。手がいやに汗ばんでいて、動悸がする。包装紙が湿ってはいないかと不安になった。
「わざわざどうも。ありがとうございます」
青年が口を開く。涼やかな風に若葉がそっとささめくような、そんな静かな声だった。色のなかった表情が、ふわりと緩む。彼はわずかに瞳を細め、信じられないくらい綺麗に微笑んだ。
男は胸を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。この優しげで綺麗な、痩せた男が、今の今までその腕に女を抱いていたのだ。紅潮した頬に汗と髪を貼り付けて、けれどその微笑はどこか禁欲的でもある。
そのアンバランスな危うさに、男は不覚にも欲をそそられてしまったのだ。
*
それからはずっと、春日井甲洋のことばかりを考えていた。
レジ打ちをしているときも、品出しをしているときも。なにをしていても上の空で、何度も計算をミスった。その度に自分の財布から補填しなければならない。初めのうちは口惜しさに腹がたったが、男はそれをあの青年への『お布施』だと思いこむことにした。病気である。
彼とはあのあと一言二言、当たり障りない会話をして、それきりだ。
稀に顔を合わせても、お互い軽い会釈を交わすだけで終わってしまう。同じアパートの、隣に住んでいるというだけの薄い縁に、それでも男は一人のめり込んでいく。
彼とどうにかなりたいとか、そういう生々しい考えには至らなかった。不思議でもなんでもない。男は異性しか愛したことがないし、男を抱いたことも、ましてや抱かれたこともないのだ。想像がつかない。そうやって、まだどこかで戸惑っていることをブレーキにしている。
だけど気づけばぼんやりと、思いを馳せていた。あの瑞々しい青年の色香に。
右隣の隣人へは、引っ越しの挨拶をしそこねていた。
あの足ですぐに訪ねたが、間の悪いことに不在だったのだ。扉の表札には子供のような拙い字で【くるす】と書かれていた。
だけど一度だけ、アパートの通路ですれ違ったことがある。男は夜勤明けで、隣人はちょうど部屋から出てきたところだった。
学生だとは思うが、ギリギリ高校生程度といった幼い顔つきをした少年だった。嗅げばミルクの香りがしそうな、そんなあどけなさがあった。
渡さないままのクッキーは、食器棚の上でほこりをかぶっている。春日井甲洋という青年に出会ってから、そのときすでに二ヶ月が経過していた。夏が終わりかけている。
*
『……あ』
未だ残暑がまとわりつく、ムシムシとした夜だった。
男は少しばかり体調を崩し、その夜は休みをとっていた。汗臭い布団で横になり、とろとろと眠ったり起きたりを繰り返していると、微かな声が聞こえた気がして瞼を開ける。
予感めいたものにギクリと身を強張らせ、息を殺した。
『ん、ぁ……はぁッ、ぁ……!』
薄い壁越しに、上ずった声が聞こえる。男は身体の不調も忘れ、起き上がると壁に身を寄せて耳を押し付けた。左隣。春日井甲洋の部屋だ。そこから、なまめかしい声が聞こえてくる。
こんなことは初めてだ。今まで一度も、こんないやらしい声が聞こえてきたことはなかった。
男は週に二日あるかないかの休みの夜、ほとんどこの部屋を開けている。大体は安い居酒屋の片隅でちびちびと飲み、帰宅するのは午前様だった。
けれど男は今日、幸か不幸かここにいる。本来の休みは明日だ。若いフリーターの男と交換してもらった。
『あッ、あ、ぁ! だめ、それ……ダメ、やぁ、ァ!』
ひときわ大きな声が上がった。男の皮膚がゾクリと粟立つ。薄い壁一枚を隔てた向こう側で、春日井甲洋が情事に耽っている。その事実に興奮して、頭に血がのぼっていく。
そして何より、この声は男性のものだ。女のようにすすり泣いてはいるが、確かに。
(彼、が……抱かれているのか?)
心臓が口から飛び出してきそうなほどに、激しく高鳴る。彼とはたった一度、会話をしただけだ。口数が少なく、印象深い内容など一つもない。だからこれが仮に彼の声だったとしても、男には判別がつかないのだ。
だけど、どちらにせよ。
男と寝るのだ。春日井甲洋という青年は。
なら、自分とだって──。
『ひゃっ……ぁ……あっ! ァ……こう、よう……甲洋……ッ!』
「ッ……!」
瞬間、男は息を飲む。そのひゅうという音がいやに大きく感じられ、思わず片手で口を押さえた。
甲洋、と。この甘えたように啼く声の主は、確かに呼んだ。追い打ちをかけるように、低く掠れた声が【くるす】と呼ぶ。
全身の毛が逆立つ。ゾワゾワとした感覚に、男は戦慄いた。甲洋とくるす。男の隣人と、隣人。
あの赤ん坊のような香りがしそうな少年を、あの美しい男が犯している。何度も何度も、甘ったるい声でその名を呼びながら、抱いている。
『やあ、ぁ! はっ、おっき、ぃ、んッ……こう、よ、あッ、あ、ァ……ッ!』
『ッ……、来主……平気?』
『ぅ、ん……へい、き……甲洋の、もっとちょうだい』
『──いいよ』
壁がこんなにも邪魔臭いと感じたのは初めてだった。彼は、彼らは、どんなふうに抱き合っているのだろう。春日井甲洋は、どうやってあの少年を愛しているのだろうか。
あえかな悲鳴と、ベッドが軋む音。男は張り詰めた神経で、卑猥な妄想を膨らませる。
『おく、奥まで……ッ、あぅ、ぁっ、ァ、あーッ!』
しなやかな若木を思わせる少年の肉体。上下する薄い胸と、頂にある赤い粒。紅潮する身体を長い両腕に閉じ込めて、春日井甲洋がその高ぶりで小さな丘の谷間を犯す。硬かったはずの蕾は桃の花のように綻んで、若い雄の猛りを食い締めている。
汗ばむ頬。しっとりと張り付く、焦茶の髪。少年がその頬に手を這わせ、濡れた息を弾ませながらキスを強請る。水音。二人分の重みと抽送に軋むベッド。重なる吐息。極致を目指して、ふたつの身体がしなり、もつれる。
男はいつしか自身も高ぶりを覚えていた。淫らな情事が奏でる音と、艶めいた嬌声を餌に。無意味な、けれどあまりにも生々しい想像に辛抱堪らず、取り出した男根を扱き上げる。息を殺し、決して悟られないように。こんなにも刺激的で気持ちのいい自慰は初めてだった。
『ひッ、ぁ…ッ、はぁ、……ッ、ぁ、ぁ、あ……ン……ッ!』
『来主……くるす……』
『も、イッ、く……ッ! いく、こうよ……ッ、あぁ、ひッ、ん!』
『ッ、俺も、イク』
『んっ、ぅん、きて、一緒に……甲洋、ッ、ァ、あ、好き、いっぱい、好き……ッ!』
『俺も、俺もだ──操』
──みさお。
男はふと、手を止めた。
それは懐かしい名前だった。春に、桜が散るよりも早く男の元から去った女。たった一枚の紙切れだけを残して男を捨てた彼女と、同じ名前。
みさお、みさお、みさお──愛していたと思う。多分、きっと。だって、結婚する気でいたくらいの女だったのだから。
だけど、どうしてだろう。一度も考えたことがなかった。彼女がいなくなった理由を。
薄い壁の向こう側で、恋人たちは絶頂を迎えていた。【みさお】が子犬のような甲高い声で鳴く。春日井甲洋が、低く呻いた。忙しなく重なる呼吸がまるで獣じみていて、男はゆっくりと熱が引いていくのを感じた。至ることができなかったのは、自分ひとりだけ。
『大好き……甲洋……あいしてる』
『俺も、愛してる……操』
熱を吐き出せば、あとは冷めきっていくだけだ。けれど彼らは達してなお愛を囁きあっていた。
若い肉体の火は消えない。再び情を交わしはじめた二人の吐息を聞きながら、男はただ呆然と壁にもたれかかり、腕を投げだした。薄い隔たり。違う世界。同じ名前。虚しさに息がつまる。
幻想だ。全て。男は春日井甲洋に不思議な劣情を抱いていた。今は、凪いだ海で仄かな嫉妬と羨望が溺れている。
彼が愛する【みさお】は、少年の形をしていた。
甘い声が、優しい声が、何度も何度も愛の言葉を紡ぎ出す。
(いつからだったかな)
確かにこの腕の中にいたはずの【みさお】に、愛していると言わなくなったのは。
*
壁にもたれかかったまま朝を迎えた。
いつの間にか眠りに落ちていて、気がつけば安物のカーテンから白い光が射していた。
蒸し暑さを残す室内は空気が淀んでいた。男は窓を開けるよりも先に、玄関に向かうと靴を引っ掛け、扉を開けた。
一気に射し込んだ朝日が眩しい。目がくらんで、少し痛い。一步踏み出すより先に、声がした。
「じゃあね甲洋、また後で」
「迎えに行くから。二度寝なんかしてたら、ほっといて先に学校行くよ」
「し、しないよぅ。いじわるー」
春日井甲洋と【くるすみさお】だ。男はドキリとして扉を閉じかけたが、身体が上手く動かなかった。
「来主」
「なに?」
「今日は鎖骨が見えない服を着て」
「え? うん、わかったー!」
眼の前を、少年が横切ろうとする。ドアを開けたまま玄関に立ち尽くす男に気づいて、彼は一瞬歩調を緩めると、丸い目をしながらペコリと軽く会釈をした。ああ、やっぱり、乳臭そうなガキだと思う。
ボーダー柄のシャツから覗く鎖骨には、赤く鬱血した跡がある。それだけが、まるで異質なものに感じられた。
朝日に目を眇める男の視界から少年が消えた。すぐ右隣の部屋のドアが開閉すると、しんと辺りが静まり返る。
男はようやく外へと一步を踏み出した。左隣へ視線をやれば、恋人の背を見送った春日井甲洋が自室のドアノブに手をかけたところだった。
長い髪を緩く一つに結っている。項が白い。性懲りもなく、胸が一瞬ざわついた。
彼は男の視線に気づき、ゆるりとこちらに顔を向けた。その瞳に映る自分は、どんな顔をしていただろう。平静を装っていられただろうか。
薄い唇が緩く笑みを象る。春日井甲洋が、ふわりと笑った。
細められた瞳の透明感。見透かされているような気がして不安になる。男が抱いた劣情も、盗み聞いた秘事も、女に逃げられ、仕事を辞め、寂れたアパートの一室で腐りながらただ生きていることも。
後ろめたさに指先が冷える。薄い氷の上を歩かされているようだ。怖い。ただただ、怖いと思う。
小さな会釈をして、春日井甲洋は開いた扉の先へ姿を消した。
彼が見えなくなって、男は初めて呼吸を止めていたことに気がついた。吸い込んだ息は少しほこりっぽい。軽く咽てから、音を立てて喉を鳴らした。
毒のような男だ。したたかで、甘い毒のような。それは男の中に新しく根付いた幻想に過ぎないのかもしれない。あとに残ったのは、ただの劣等感だった。
*
季節が巡り、春になると、男の両隣の住人は揃ってアパートを出て行った。彼らがどこへ行ったのかは分からない。
ただ、あれから毎年春になると思いだす。
彼は今もどこかで、その腕に【みさお】を抱いているのだろう。
愛していると、何度も何度も囁きながら。
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操は手が小さい。
前の彼がどうだったかは知らないが、今の彼は未発達な少年の身体を差し引いても、同じ年代の男子と比べて一回り小さな手をしているような気がする。
節が目立たない指、血管がうっすらと透けて見える程度の狭い甲。そこだけ見れば少女のように可憐でもある。
その純真無垢を象ったような手が、いささかグロテスクな形をした肉の筒に触れていた。右手でやんわりと握り込み、桜貝みたいな爪の人差し指で、窪んだ先端をぬるぬるとなぞる。
まるで人倫に反しているかのような光景の淫靡さに、甲洋はごくりと喉を鳴らした。
「おれ、甲洋のこれちゃんと触ったの、初めてかもしれない」
アルヴィスの制服を着た操は、床にペタリと座って無邪気な声をあげる。同じく制服に身を包んでベッドの縁に腰掛けている甲洋は、股間部分だけを寛げて性器を露出させていた。それはすでに半分ほど勃起している。
「ねぇ、気持ちいい?」
ワクワクとした表情で、操が甲洋を見上げた。甲洋は密かに奥歯を噛み締めながら平静を装う。
『まだなんとも』
「えー? ちゃんと勃ってるのになぁ……」
『やるなら早くして』
甲洋はあえて眉間に皺を寄せ、あたかも気乗りしないとばかりに吐き捨てる。そういう体でいなければ、矜持を保っていられないような気がしてならない。
なにせ行為が始まってからまだほんの数分しか経過していないのに、息子はこんな有様なのだ。
操は今日に限って妙なやる気をだしていた。いつもならヒクヒクと泣きながら抱かれるばかりなのに、自分もしてみたいなどと言いだしたのだ。抱く側を譲る気がない甲洋は、奉仕までならと許容した。
「……ねぇ、心じゃなくて声に出して喋ってよぉ」
握り込んだ竿をゆるゆると優しく扱きながら、操が唇を尖らせた。けれど甲洋は頑なに口を閉ざす。今はあまり声を聞かれたくなかったのだ。少しでも口を開けば、変に上ずったものになってしまいそうだったから。
あまり追求されたくないなと思っていると、その願いが届いたかのように操の意識は手の中の肉茎に戻っていった。
「熱くて、ピクピクしてるね」
好奇心を隠しもしない子供っぽい表情が、あまりにも今の状況と不釣り合いだった。
操の左手が、甲洋の開いた内腿にかかる。彼がぐっと顔を近づけると、竿に熱い息がかかるのを感じた。操はやんわりと握り込んでいた右手に少しだけ力を込める。
「ぅッ……!」
腰から這い上がる刺激に、思わず低い呻きが漏れた。操は嬉しそうに甲洋を見上げて「あは」と笑うと、また視線を戻して手淫に熱中しはじめる。
奉仕を受けるなんて生まれて初めての経験だ。セックス自体、操としかしたことがない。けれど多分、操のやり方があまりにも拙いということだけは分かる。彼もまた初めてなのだから、仕方がない。
甲洋をここまで興奮させるのは、視覚的なものに他ならなかった。
「いつもおれがしてもらってるみたいにすればいいんだよね」
操は内腿にかけていた左手も竿へとやり、両手でそれを握り込む。そして先端に唇を寄せると、音を立ててキスをした。
「は……ッ」
腰が跳ねる。熱と血液が集まり、膨張しているそこがより硬度を増した。操が薄く唇を開く。赤く痩せた舌がちろりと差し出され、雁首にぬるりと這わされた。子猫がミルクを飲むみたいに、その敏感な場所をチロチロと熱心に舐められた。
甲洋は咄嗟に彼の頭部に手を這わせる。柔らかな髪に触れて頭皮に軽く爪を立てると、操がピクンと肩を震わせ小さく喘いだ。
「ふぁ……ん……っ」
そのささやかな声すらも、腰にズンと響いてくる。力んでいなければ、今にも爆発してしまいそうだった。
童顔が、小さな白い手で必死に甲洋のものを握りしめ、肉茎に舌を這わせている。その動きは徐々に大きくなって、裏筋を下から上へと丹念に舐めあげる動きを見せた。しとけない愛撫が甲洋の中の背徳感を酷く揺さぶる。
「ぁ……なんか、濡れてきた……!」
先端の鈴口から先走りの液がぷつぷつと雫を作り、竿と操の綺麗な手を濡らしはじめる。彼は嬉しそうに笑い、もっと出ろとばかりに両手で肉根を扱き上げた。
「ぅあ……ッ、ちょ、くるす……!」
「ねぇほら、見て! こんなにぐちゃぐちゃだ!」
「言わなくていいって!」
「甲洋、もっといっぱい気持ちよくなってよ!」
無邪気に煽られると、だんだん情けなくなってくる。思わず片肘を腿につき、頭を抱えて大きく息をついた。こいつはいつになったらムードや緊張感というものを覚えるのだろう。
視線を下に向けると、彼の言う通り先走りの汁で操の両手が濡れそぼっていた。呆れていたのも忘れ、思わず奥歯を噛み締めながら喉を鳴らす。
小さな白い手が、可愛い操の手が、不埒なもので濡れている。柔らかな手の平が気持ちいい。先走りの力を借りて、ぬるぬると上下に動いている。
操はその光景に夢中で、口での奉仕をすっかり忘れている様子だ。わぁ、と声をあげて濡れた唇を半開きにしている。
『口の中に、挿れたい』
操の髪に触れながら、心の中で本音を漏らす。もはやプライドなんてどうでもよかった。それでも口に出して言えなかったのは、単純に照れ臭いと思ったからだ。
「うん、いいよ」
操はそれを咎めない。とろりと蕩けたような目を細めて、あどけなく笑いながらコクリと頷いた。そっと唇を寄せて、なんの躊躇いもなく口の中にパクリと収めた。
「く、ッ、ぁ……!」
柔らかな口内に先端を包まれ、堪えきれず声が漏れる。熱くて、蕩けてしまいそうなくらい気持ちがいい。ざわざわと肌が粟立ち、達してしまいそうになる。
「んぅ、ぅ……ふ……っ」
操がくぐもった声をあげ、苦しそうに眉を寄せた。彼は口の中のものを無理に奥まで飲み込もうとして、何度もえずきそうになっている。じわりと瞳に涙が浮かんでいた。歯が当って痛みが走る。少し辛いが、おかげでいい感じに気をそらすことができた。
「無理、しなくていい」
「んぅ……だって、いつもしてもらってるもん。おれもしたいよ」
いちど口を離した操が不満そうに唇を尖らせる。彼は思っていた以上に上手くできないことに焦れていた。甲洋はふわふわの猫っ毛を乱すように優しく撫でる。
「いいから……先の方だけでも、十分」
すぎるほど、気持ちがいい。何より操が自身を咥えこんでいるということが。視覚的な効果もさることながら、好きな相手に口で受け入れられるということが、こんなにも幸福で興奮を促すものとは思わなかった。
「うん……わかったぁ」
操はまだどこか不満そうだったが、またすぐに甲洋の肉棒に唇を寄せる。可愛い舌でチロチロと舐め上げ、半分ほど口の中に押し込んだ。そしていつも自分がされて感じる場所を思いだしながら、ぎこちなく頭を上下に動かしはじめる。
「歯が当たらないように、気をつけて」
「んっ、ぅ、んん」
彼が口淫に励むあいだ、甲洋は幾度もその頭を撫でた。先走りの体液と操の唾液が混ざり合い、彼が口で扱くたびにじゅぶじゅぶといやらしい音が響き渡る。
手は両方とも根本に添えられているだけだ。彼はひたすら口の中で甲洋を愛撫することに熱中している。
操が顔の角度を変えると、その頬が性器の先端に押し上げられて形を変えた。ときどき思いだしたように舌を絡めようとして、うまくいかずに歯が当たる。それでも甲洋のものが萎えることはなかった。血管を浮き立たせ、よりいっそう膨らみが増していく。
甲洋は忙しなく息を荒げ、熱に浮かされたような表情で奉仕する操を見下ろした。
閉じられた瞼で、長い睫毛が涙に濡れている。苦しそうに寄せられた眉。くぐもった声。赤い頬をして懸命にしゃぶる姿を見て、甲洋の中でどうしようもなく加速する興奮に、なにか別のものが混ざりはじめる。
(奥を、突きたい)
半分飲み込むだけで精一杯の、操の小さく浅い口の中に。喉の最奥に押し込めて、もっとも敏感な場所を擦りつけたい。それは加虐心だった。愛おしいと思うほどに、獰猛な欲求が膨らむ。
ダメだ。そんなことをしたら、可哀想じゃないか。遠くの方で、まだ幾らかまともな思考を維持したままの自分が非難している。だけど、我慢できない。
「来主……ごめん……」
欲求に従うことを選んだ甲洋は、操の頭を両手で抱えると思い切り強く身体の中心に引きよせた。
「んぐぅッ……!?」
驚いた操が身体をビクンと震わせて、目を大きく見開いた。滲んでいた生理的な涙が、じわりと盛り上がって弾けるように飛び散った。
甲洋はその狭い喉奥をこじ開けるように、先端まで性器を捩じ込んだ。亀頭がぐっと圧迫されて、えもいわれぬ快感が込み上げる。そのまま頭部を押さえつけて固定すると、深く息をつく。
「ァッ、ぐ……ッ!」
完全に気道を塞がれている操の身体が強張り、小さな両手が甲洋の内腿にそれぞれ触れると、引き剥がそうとしてガリガリと引っかく。薄桃色の指先が震えている。怒っているみたいにぎゅっと寄せられた肩が痛々しくて、堪らなかった。
「ぷぁッ、は、はぁッ!」
そのまま数秒置いてから、甲洋は操の頭を引き剥がした。喉を反らし、口から唾液を大量に吐き出しながら、操がひゅうっと息を吸い込む。制服の襟やスカーフに、パタパタと唾液が零れてシミを作った。その瞬間、また口の中に性器を押し込む。
「ぁぶうぅッ!?」
頭部を両手で挟み込むように強く掴んで、何度も強制的に上下させた。まるで下の口に挿入しているかのように扱い、思う存分最奥を突き上げる。強張る舌と、少し硬い口蓋。狭い喉奥をこじ開け、グポグポと音を立てながら大きなストロークで奥から手前までまんべんなく犯し尽くす。
「ぁがッ、ぅ、あ゛、んぶっぅッ、うっ、ぅー!」
操は見開いた目からボロボロと涙を零す。白くて可愛い両手が、甲洋の内腿を掴んで酷く震える。
『甲洋、これなに!? なにしてるの!? ねぇ苦しいよ!』
「ごめ、ん……ッ、くるす、ごめん……っ」
心の中で、来主が悲痛に叫ぶ。それでも甲洋は止められなかった。満たされる獰猛な加虐心と、脳を焼き尽くすような激しい快感に抗えない。唾液を飲み込むことすら許されない操が、口の端から透明な雫を幾つも散らしていた。制服のスカーフが、みるみるうちに湿って色味を濃くする。
気がつけば彼の心の声が止んでいた。
「ぁぅッ、んっ、んっ、んっ」
抗うことをやめた操は、甲洋の動きに合わせて自らも頭を上下させる動きを見せた。コツとリズムを掴んだのか、動きがスムーズになるように上半身ごと前後に揺らしている。
きつく閉じられていたはずの瞳が薄く開いて、とろりと蕩けたようになっていた。彼は感じていた。こんな酷い扱いを受けているのに、その気持ちの高ぶりがハッキリとこちらに伝わってくる。
『こうよう、きもちい?』
操の口内を犯しながら、甲洋は頷いた。
「気持ちいい……来主の喉、はッ、ぁ……狭くて、熱くて……凄く、いい」
『……うれしい』
うっすらと、操が笑った気がした。
『もっと、ひどくしていいよ』
「ッ!」
許された瞬間、甲洋は限界を迎えた。操の口内に勢いよく白濁を散らす。
「んぷぅっ、は、ぁ!」
射精が終わらぬうちに口から屹立が外れ、操の頬や唇にそれが白く降り注ぐ。前髪すら汚して、甲洋が全てを吐き出し終えると、操は背中を丸めて激しく咳き込み、口の中のものを全て吐き出した。
「ぅ、えッ、ゲホッ! はっ、はぁ……はぁ……ッ」
甲洋は余韻に浸る間もなく背筋をヒヤリとさせて、慌てて両手を伸ばすとその頬を包み、上向ける。
「く、来主!?」
酸欠を起こしている彼は朦朧とした瞳を濁らせ、はかはかと呼吸を繰り返していた。
やってしまった。一時の欲に突っ走り、操の意思もお構いなしに。胸の内を後悔に染め上げて、甲洋はしおしおと項垂れる。
「ごめん……悪かった……」
操の唇の端についている粘ついた液を、親指で拭う。頬も鼻も前髪も、全て汚してしまった。早く何かで拭かなければ思っていると、操の赤い舌が甲洋の親指ごと白濁をぺろりと舐めた。
「ッ!」
唇をむぐむぐとさせ、操はそれをごくりと飲み込む。
「ぁむ、ぅ……これ、まず……」
操が顔をしかめる。
呆然とした表情でいる甲洋の手の甲に、操の小さな白い手が触れた。きゅっと掴まれ、遠ざけられる。邪魔くさかったらしい。彼は細い人差し指で口の端や顎に付着している残滓を撫でるようにしながら、さらに口の中に押し込んだ。
その光景があまりにも卑猥で、甲洋は再び反応してしまいそうになるのをぐっと堪える。
「ネバネバだし、カルピスみたいな色なのに、ぜんぜん甘くないね」
甘くないそれは、操の指に、頬に、なおもとろとろと流れ落ちている。制服の襟もスカーフもぐちゃぐちゃだ。予備の分はあっただろうか。甲洋の制服は大人用だが、最悪それを着せようか。
「ねぇ、おれのもこんな味?」
どろどろに汚れた顔をして、操が無邪気に首を傾げた。泣きすぎて赤くなった目元で、大きな瞳を無邪気に瞬かせて。
もっと怒るか、泣きじゃくって怯えるかのどちらかだと思っていた甲洋は、そのどれでもない反応に戸惑った。けれどとりあえず投げかけられた質問に、コクリと頷く。
「ふぅん。よく飲めるなぁ」
「……お前のだから」
「うん……おれも、甲洋のじゃなかったら嫌いだな、これ」
なぜだか少し泣きたくなって、甲洋は自分の制服が汚れるのもお構いなしに操を抱きしめる。そしてその耳元で「ごめん」と何度目かの謝罪をした。
操はそんな甲洋の背に腕を回して、よしよしと背中を擦る。その仕草も普段の甲洋の真似だ。彼が達したあと、甲洋はいつもその背や頭をあやすように撫でさすってやる。それを彼なりに真似ているのだ。
「うぅん。ビックリしたけど、嫌じゃなかったよ」
「……酷いことした。怖かったろ?」
「怖くない。だって甲洋だもん」
彼は甲洋のものならネバネバしていて美味しくないものだって平気で飲むし、酷い扱いを受けてもケロリとしている。甲洋が誰よりも特別に思う存在が、同じくらい甲洋を特別に扱う。それは衝動的に駆られた凶暴な熱で欲を満たす以上に、甲洋の内側をいっぱいに満たした。
「君がおれで気持ちよくなってくれるのは嬉しい。おれも、いつもいっぱい気持ちよくしてもらってるもの」
ねぇ、だからさ、と言って操は甲洋の耳たぶを甘ったるい息で湿らせる。
「続きしようよ。おれが知らない酷いこと、もっといっぱいしていいよ」
目眩がした。彼はこれを、なんの打算も計算もなく素で言っているのだ。誘惑しているという自覚すらない。ただ欲するままに、子供らしい素直さで甲洋の中に眠る加虐的な欲望に火をつけようとする。
いっそ身を委ねてしまったら、自分はどうなるのだろう。恐れと好奇心の狭間で気持ちが揺らぐが、甲洋はゆるゆると首を振ってそれを否定した。
「……嫌だ」
「えー? なんでぇ?」
不満を顔いっぱいに浮かべた操の顔を、制服の袖でグリグリと拭いた。もう汚れるのは今更だ。クリーニングに出すのは気が引けるので、あとで手洗いでもなんでもしてやろうと思った。
操は目をぎゅっと閉じて、されるがままに「うー」とか「むー」と呻いている。
甲洋は肩に添えられていた操の右手をとった。白くて小さい、可愛い手だ。
「今度はうんと優しくする」
そう言って、手の甲側の指の付け根にキスをする。操は大きな目を瞬かせ、やがて嬉しそうにふにゃりと笑って頷いた。
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前の彼がどうだったかは知らないが、今の彼は未発達な少年の身体を差し引いても、同じ年代の男子と比べて一回り小さな手をしているような気がする。
節が目立たない指、血管がうっすらと透けて見える程度の狭い甲。そこだけ見れば少女のように可憐でもある。
その純真無垢を象ったような手が、いささかグロテスクな形をした肉の筒に触れていた。右手でやんわりと握り込み、桜貝みたいな爪の人差し指で、窪んだ先端をぬるぬるとなぞる。
まるで人倫に反しているかのような光景の淫靡さに、甲洋はごくりと喉を鳴らした。
「おれ、甲洋のこれちゃんと触ったの、初めてかもしれない」
アルヴィスの制服を着た操は、床にペタリと座って無邪気な声をあげる。同じく制服に身を包んでベッドの縁に腰掛けている甲洋は、股間部分だけを寛げて性器を露出させていた。それはすでに半分ほど勃起している。
「ねぇ、気持ちいい?」
ワクワクとした表情で、操が甲洋を見上げた。甲洋は密かに奥歯を噛み締めながら平静を装う。
『まだなんとも』
「えー? ちゃんと勃ってるのになぁ……」
『やるなら早くして』
甲洋はあえて眉間に皺を寄せ、あたかも気乗りしないとばかりに吐き捨てる。そういう体でいなければ、矜持を保っていられないような気がしてならない。
なにせ行為が始まってからまだほんの数分しか経過していないのに、息子はこんな有様なのだ。
操は今日に限って妙なやる気をだしていた。いつもならヒクヒクと泣きながら抱かれるばかりなのに、自分もしてみたいなどと言いだしたのだ。抱く側を譲る気がない甲洋は、奉仕までならと許容した。
「……ねぇ、心じゃなくて声に出して喋ってよぉ」
握り込んだ竿をゆるゆると優しく扱きながら、操が唇を尖らせた。けれど甲洋は頑なに口を閉ざす。今はあまり声を聞かれたくなかったのだ。少しでも口を開けば、変に上ずったものになってしまいそうだったから。
あまり追求されたくないなと思っていると、その願いが届いたかのように操の意識は手の中の肉茎に戻っていった。
「熱くて、ピクピクしてるね」
好奇心を隠しもしない子供っぽい表情が、あまりにも今の状況と不釣り合いだった。
操の左手が、甲洋の開いた内腿にかかる。彼がぐっと顔を近づけると、竿に熱い息がかかるのを感じた。操はやんわりと握り込んでいた右手に少しだけ力を込める。
「ぅッ……!」
腰から這い上がる刺激に、思わず低い呻きが漏れた。操は嬉しそうに甲洋を見上げて「あは」と笑うと、また視線を戻して手淫に熱中しはじめる。
奉仕を受けるなんて生まれて初めての経験だ。セックス自体、操としかしたことがない。けれど多分、操のやり方があまりにも拙いということだけは分かる。彼もまた初めてなのだから、仕方がない。
甲洋をここまで興奮させるのは、視覚的なものに他ならなかった。
「いつもおれがしてもらってるみたいにすればいいんだよね」
操は内腿にかけていた左手も竿へとやり、両手でそれを握り込む。そして先端に唇を寄せると、音を立ててキスをした。
「は……ッ」
腰が跳ねる。熱と血液が集まり、膨張しているそこがより硬度を増した。操が薄く唇を開く。赤く痩せた舌がちろりと差し出され、雁首にぬるりと這わされた。子猫がミルクを飲むみたいに、その敏感な場所をチロチロと熱心に舐められた。
甲洋は咄嗟に彼の頭部に手を這わせる。柔らかな髪に触れて頭皮に軽く爪を立てると、操がピクンと肩を震わせ小さく喘いだ。
「ふぁ……ん……っ」
そのささやかな声すらも、腰にズンと響いてくる。力んでいなければ、今にも爆発してしまいそうだった。
童顔が、小さな白い手で必死に甲洋のものを握りしめ、肉茎に舌を這わせている。その動きは徐々に大きくなって、裏筋を下から上へと丹念に舐めあげる動きを見せた。しとけない愛撫が甲洋の中の背徳感を酷く揺さぶる。
「ぁ……なんか、濡れてきた……!」
先端の鈴口から先走りの液がぷつぷつと雫を作り、竿と操の綺麗な手を濡らしはじめる。彼は嬉しそうに笑い、もっと出ろとばかりに両手で肉根を扱き上げた。
「ぅあ……ッ、ちょ、くるす……!」
「ねぇほら、見て! こんなにぐちゃぐちゃだ!」
「言わなくていいって!」
「甲洋、もっといっぱい気持ちよくなってよ!」
無邪気に煽られると、だんだん情けなくなってくる。思わず片肘を腿につき、頭を抱えて大きく息をついた。こいつはいつになったらムードや緊張感というものを覚えるのだろう。
視線を下に向けると、彼の言う通り先走りの汁で操の両手が濡れそぼっていた。呆れていたのも忘れ、思わず奥歯を噛み締めながら喉を鳴らす。
小さな白い手が、可愛い操の手が、不埒なもので濡れている。柔らかな手の平が気持ちいい。先走りの力を借りて、ぬるぬると上下に動いている。
操はその光景に夢中で、口での奉仕をすっかり忘れている様子だ。わぁ、と声をあげて濡れた唇を半開きにしている。
『口の中に、挿れたい』
操の髪に触れながら、心の中で本音を漏らす。もはやプライドなんてどうでもよかった。それでも口に出して言えなかったのは、単純に照れ臭いと思ったからだ。
「うん、いいよ」
操はそれを咎めない。とろりと蕩けたような目を細めて、あどけなく笑いながらコクリと頷いた。そっと唇を寄せて、なんの躊躇いもなく口の中にパクリと収めた。
「く、ッ、ぁ……!」
柔らかな口内に先端を包まれ、堪えきれず声が漏れる。熱くて、蕩けてしまいそうなくらい気持ちがいい。ざわざわと肌が粟立ち、達してしまいそうになる。
「んぅ、ぅ……ふ……っ」
操がくぐもった声をあげ、苦しそうに眉を寄せた。彼は口の中のものを無理に奥まで飲み込もうとして、何度もえずきそうになっている。じわりと瞳に涙が浮かんでいた。歯が当って痛みが走る。少し辛いが、おかげでいい感じに気をそらすことができた。
「無理、しなくていい」
「んぅ……だって、いつもしてもらってるもん。おれもしたいよ」
いちど口を離した操が不満そうに唇を尖らせる。彼は思っていた以上に上手くできないことに焦れていた。甲洋はふわふわの猫っ毛を乱すように優しく撫でる。
「いいから……先の方だけでも、十分」
すぎるほど、気持ちがいい。何より操が自身を咥えこんでいるということが。視覚的な効果もさることながら、好きな相手に口で受け入れられるということが、こんなにも幸福で興奮を促すものとは思わなかった。
「うん……わかったぁ」
操はまだどこか不満そうだったが、またすぐに甲洋の肉棒に唇を寄せる。可愛い舌でチロチロと舐め上げ、半分ほど口の中に押し込んだ。そしていつも自分がされて感じる場所を思いだしながら、ぎこちなく頭を上下に動かしはじめる。
「歯が当たらないように、気をつけて」
「んっ、ぅ、んん」
彼が口淫に励むあいだ、甲洋は幾度もその頭を撫でた。先走りの体液と操の唾液が混ざり合い、彼が口で扱くたびにじゅぶじゅぶといやらしい音が響き渡る。
手は両方とも根本に添えられているだけだ。彼はひたすら口の中で甲洋を愛撫することに熱中している。
操が顔の角度を変えると、その頬が性器の先端に押し上げられて形を変えた。ときどき思いだしたように舌を絡めようとして、うまくいかずに歯が当たる。それでも甲洋のものが萎えることはなかった。血管を浮き立たせ、よりいっそう膨らみが増していく。
甲洋は忙しなく息を荒げ、熱に浮かされたような表情で奉仕する操を見下ろした。
閉じられた瞼で、長い睫毛が涙に濡れている。苦しそうに寄せられた眉。くぐもった声。赤い頬をして懸命にしゃぶる姿を見て、甲洋の中でどうしようもなく加速する興奮に、なにか別のものが混ざりはじめる。
(奥を、突きたい)
半分飲み込むだけで精一杯の、操の小さく浅い口の中に。喉の最奥に押し込めて、もっとも敏感な場所を擦りつけたい。それは加虐心だった。愛おしいと思うほどに、獰猛な欲求が膨らむ。
ダメだ。そんなことをしたら、可哀想じゃないか。遠くの方で、まだ幾らかまともな思考を維持したままの自分が非難している。だけど、我慢できない。
「来主……ごめん……」
欲求に従うことを選んだ甲洋は、操の頭を両手で抱えると思い切り強く身体の中心に引きよせた。
「んぐぅッ……!?」
驚いた操が身体をビクンと震わせて、目を大きく見開いた。滲んでいた生理的な涙が、じわりと盛り上がって弾けるように飛び散った。
甲洋はその狭い喉奥をこじ開けるように、先端まで性器を捩じ込んだ。亀頭がぐっと圧迫されて、えもいわれぬ快感が込み上げる。そのまま頭部を押さえつけて固定すると、深く息をつく。
「ァッ、ぐ……ッ!」
完全に気道を塞がれている操の身体が強張り、小さな両手が甲洋の内腿にそれぞれ触れると、引き剥がそうとしてガリガリと引っかく。薄桃色の指先が震えている。怒っているみたいにぎゅっと寄せられた肩が痛々しくて、堪らなかった。
「ぷぁッ、は、はぁッ!」
そのまま数秒置いてから、甲洋は操の頭を引き剥がした。喉を反らし、口から唾液を大量に吐き出しながら、操がひゅうっと息を吸い込む。制服の襟やスカーフに、パタパタと唾液が零れてシミを作った。その瞬間、また口の中に性器を押し込む。
「ぁぶうぅッ!?」
頭部を両手で挟み込むように強く掴んで、何度も強制的に上下させた。まるで下の口に挿入しているかのように扱い、思う存分最奥を突き上げる。強張る舌と、少し硬い口蓋。狭い喉奥をこじ開け、グポグポと音を立てながら大きなストロークで奥から手前までまんべんなく犯し尽くす。
「ぁがッ、ぅ、あ゛、んぶっぅッ、うっ、ぅー!」
操は見開いた目からボロボロと涙を零す。白くて可愛い両手が、甲洋の内腿を掴んで酷く震える。
『甲洋、これなに!? なにしてるの!? ねぇ苦しいよ!』
「ごめ、ん……ッ、くるす、ごめん……っ」
心の中で、来主が悲痛に叫ぶ。それでも甲洋は止められなかった。満たされる獰猛な加虐心と、脳を焼き尽くすような激しい快感に抗えない。唾液を飲み込むことすら許されない操が、口の端から透明な雫を幾つも散らしていた。制服のスカーフが、みるみるうちに湿って色味を濃くする。
気がつけば彼の心の声が止んでいた。
「ぁぅッ、んっ、んっ、んっ」
抗うことをやめた操は、甲洋の動きに合わせて自らも頭を上下させる動きを見せた。コツとリズムを掴んだのか、動きがスムーズになるように上半身ごと前後に揺らしている。
きつく閉じられていたはずの瞳が薄く開いて、とろりと蕩けたようになっていた。彼は感じていた。こんな酷い扱いを受けているのに、その気持ちの高ぶりがハッキリとこちらに伝わってくる。
『こうよう、きもちい?』
操の口内を犯しながら、甲洋は頷いた。
「気持ちいい……来主の喉、はッ、ぁ……狭くて、熱くて……凄く、いい」
『……うれしい』
うっすらと、操が笑った気がした。
『もっと、ひどくしていいよ』
「ッ!」
許された瞬間、甲洋は限界を迎えた。操の口内に勢いよく白濁を散らす。
「んぷぅっ、は、ぁ!」
射精が終わらぬうちに口から屹立が外れ、操の頬や唇にそれが白く降り注ぐ。前髪すら汚して、甲洋が全てを吐き出し終えると、操は背中を丸めて激しく咳き込み、口の中のものを全て吐き出した。
「ぅ、えッ、ゲホッ! はっ、はぁ……はぁ……ッ」
甲洋は余韻に浸る間もなく背筋をヒヤリとさせて、慌てて両手を伸ばすとその頬を包み、上向ける。
「く、来主!?」
酸欠を起こしている彼は朦朧とした瞳を濁らせ、はかはかと呼吸を繰り返していた。
やってしまった。一時の欲に突っ走り、操の意思もお構いなしに。胸の内を後悔に染め上げて、甲洋はしおしおと項垂れる。
「ごめん……悪かった……」
操の唇の端についている粘ついた液を、親指で拭う。頬も鼻も前髪も、全て汚してしまった。早く何かで拭かなければ思っていると、操の赤い舌が甲洋の親指ごと白濁をぺろりと舐めた。
「ッ!」
唇をむぐむぐとさせ、操はそれをごくりと飲み込む。
「ぁむ、ぅ……これ、まず……」
操が顔をしかめる。
呆然とした表情でいる甲洋の手の甲に、操の小さな白い手が触れた。きゅっと掴まれ、遠ざけられる。邪魔くさかったらしい。彼は細い人差し指で口の端や顎に付着している残滓を撫でるようにしながら、さらに口の中に押し込んだ。
その光景があまりにも卑猥で、甲洋は再び反応してしまいそうになるのをぐっと堪える。
「ネバネバだし、カルピスみたいな色なのに、ぜんぜん甘くないね」
甘くないそれは、操の指に、頬に、なおもとろとろと流れ落ちている。制服の襟もスカーフもぐちゃぐちゃだ。予備の分はあっただろうか。甲洋の制服は大人用だが、最悪それを着せようか。
「ねぇ、おれのもこんな味?」
どろどろに汚れた顔をして、操が無邪気に首を傾げた。泣きすぎて赤くなった目元で、大きな瞳を無邪気に瞬かせて。
もっと怒るか、泣きじゃくって怯えるかのどちらかだと思っていた甲洋は、そのどれでもない反応に戸惑った。けれどとりあえず投げかけられた質問に、コクリと頷く。
「ふぅん。よく飲めるなぁ」
「……お前のだから」
「うん……おれも、甲洋のじゃなかったら嫌いだな、これ」
なぜだか少し泣きたくなって、甲洋は自分の制服が汚れるのもお構いなしに操を抱きしめる。そしてその耳元で「ごめん」と何度目かの謝罪をした。
操はそんな甲洋の背に腕を回して、よしよしと背中を擦る。その仕草も普段の甲洋の真似だ。彼が達したあと、甲洋はいつもその背や頭をあやすように撫でさすってやる。それを彼なりに真似ているのだ。
「うぅん。ビックリしたけど、嫌じゃなかったよ」
「……酷いことした。怖かったろ?」
「怖くない。だって甲洋だもん」
彼は甲洋のものならネバネバしていて美味しくないものだって平気で飲むし、酷い扱いを受けてもケロリとしている。甲洋が誰よりも特別に思う存在が、同じくらい甲洋を特別に扱う。それは衝動的に駆られた凶暴な熱で欲を満たす以上に、甲洋の内側をいっぱいに満たした。
「君がおれで気持ちよくなってくれるのは嬉しい。おれも、いつもいっぱい気持ちよくしてもらってるもの」
ねぇ、だからさ、と言って操は甲洋の耳たぶを甘ったるい息で湿らせる。
「続きしようよ。おれが知らない酷いこと、もっといっぱいしていいよ」
目眩がした。彼はこれを、なんの打算も計算もなく素で言っているのだ。誘惑しているという自覚すらない。ただ欲するままに、子供らしい素直さで甲洋の中に眠る加虐的な欲望に火をつけようとする。
いっそ身を委ねてしまったら、自分はどうなるのだろう。恐れと好奇心の狭間で気持ちが揺らぐが、甲洋はゆるゆると首を振ってそれを否定した。
「……嫌だ」
「えー? なんでぇ?」
不満を顔いっぱいに浮かべた操の顔を、制服の袖でグリグリと拭いた。もう汚れるのは今更だ。クリーニングに出すのは気が引けるので、あとで手洗いでもなんでもしてやろうと思った。
操は目をぎゅっと閉じて、されるがままに「うー」とか「むー」と呻いている。
甲洋は肩に添えられていた操の右手をとった。白くて小さい、可愛い手だ。
「今度はうんと優しくする」
そう言って、手の甲側の指の付け根にキスをする。操は大きな目を瞬かせ、やがて嬉しそうにふにゃりと笑って頷いた。
←戻る ・ Wavebox👏
些細なことでケンカをした。
自分でも嫌になるくらいに取るに足らない、些細なことで。
大体の場合は操がしょうもない我儘を言ったり、無遠慮に煽るようなことを言ってくるのが原因で、こんなことは日常茶飯事だ。
けれど今日はなんとなく、自分も大人気なかったかもしれない。
けしかけたショコラに操が泣いても、知らん顔をして放置してしまったから。
操はどこかに逃げてしまった。どうせ美羽のところにでも行ったのだ。腹が空けば戻るだろうと、甲洋は自室のベッドで本を読んでいた。
すると、いつの間にかとろとろと居眠りをしていた。
覚醒と共に右手に何かが触れていることに気づき、ふと視線を走らせる。
「……来主? いつの間に?」
そこには床に座り込んだ操が、胸から上だけをベッドに伏せる姿があった。
彼は投げ出されていた甲洋の右手を両手で控えめにちょこんと掴んで、手の平に目元を擦り付けるようにして眠っていた。
まるで猫のごめん寝だ。ずるいよなぁと、甲洋は思う。
だって可愛いものは、つい甘やかしたくなってしまう。どんな悪さをしようとも、全て許してこちらが折れるしかなくなってしまうのだから。
「今日も俺の負けだよ、来主」
だからどうしたって、甲洋は操に勝てやしないのだ。
←戻る ・ Wavebox👏
自分でも嫌になるくらいに取るに足らない、些細なことで。
大体の場合は操がしょうもない我儘を言ったり、無遠慮に煽るようなことを言ってくるのが原因で、こんなことは日常茶飯事だ。
けれど今日はなんとなく、自分も大人気なかったかもしれない。
けしかけたショコラに操が泣いても、知らん顔をして放置してしまったから。
操はどこかに逃げてしまった。どうせ美羽のところにでも行ったのだ。腹が空けば戻るだろうと、甲洋は自室のベッドで本を読んでいた。
すると、いつの間にかとろとろと居眠りをしていた。
覚醒と共に右手に何かが触れていることに気づき、ふと視線を走らせる。
「……来主? いつの間に?」
そこには床に座り込んだ操が、胸から上だけをベッドに伏せる姿があった。
彼は投げ出されていた甲洋の右手を両手で控えめにちょこんと掴んで、手の平に目元を擦り付けるようにして眠っていた。
まるで猫のごめん寝だ。ずるいよなぁと、甲洋は思う。
だって可愛いものは、つい甘やかしたくなってしまう。どんな悪さをしようとも、全て許してこちらが折れるしかなくなってしまうのだから。
「今日も俺の負けだよ、来主」
だからどうしたって、甲洋は操に勝てやしないのだ。
←戻る ・ Wavebox👏
等間隔に植え込まれた街路樹が、裸の枝を揺らしていた。
風に吹かれて乾いた音を立てながら、枯れ葉の群れが足元を横切っていく。
新しいコート──といっても中学まで甲洋が着ていたお古だが──に袖を通した操は、さっきからずっとご機嫌だ。甲洋の隣を歩きながら、澄んだ冬空を楽しそうに見上げている。柔らかなベージュのダッフルは、彼のミルクティーのような髪色によく似合っていた。
ちょっとした買い物に、わざわざふたりで出かけたその帰り道。
甲洋は操側にある自分の右手を、軽く握ったり緩めたりしながらソワソワしていた。楽しげな横顔を横目でチラチラと見やっては、内心ずっと落ち着かないでいる。
理由はいっそ涙ぐましいほどに単純だった。甲洋はさっきからずっと見計らっているのだ。操と手を繋ぐタイミングを。
手が冷たそうだったから。空ばかり見て歩いて、転んだりすれば大変だから。無難な言い訳はちゃんと用意してある。だけどいまいち勇気が出ない。
なにも繋ぎたければ繋げばいいのだけれど、なぜだか妙な気恥ずかしさを覚えていた。
手を繋いで歩くなんて、恋人っぽくてなんかいいな。
──なんて。甘酸っぱい憧れを抱く自分に。
家を出たときからずっとそんなことを考えてはソワソワしていることや、じきに家についてしまうことに焦っている自分が、とにかく無性に恥ずかしい。
いつもならポケットに突っ込んでいるはずの両手は、左手には買い物袋がぶら下がっている。目的を果たしたいがために、右手はネイビーのチェスターコートからずっと出しっぱなしのままだった。実際、風が冷たくて言い訳抜きに指先がかじかんできている。
(時間がない……はやくしないと……)
内心で焦りながら、いつまで経っても中身は中学生のような自分に呆れる。
スマートに、クールに、さりげなくその白い手をさらって握りしめればいいだけなのに。転んで泣かれても面倒だから、なんてちょっと意地の悪いことを言ってやれば、それなりに様になるのは分かっているのに。
そうこうしているうちに、家はもうすぐそこだ。
今日はもう無理かもしれない。諦めた甲洋は右手をポケットに突っ込もうとした。けれどすんでのところで、あたたかなものが右手に触れる。
「!」
目を丸くさせ、思わず足を止めた。操が甲洋の手を握っている。
「な、なに?」
「ん? んー、なんか、手が寒そうだったから」
思わず上ずった声で問いかけた甲洋に、操はケロリとした表情でそう言った。しかもただ普通に繋ぐのではなくて、指と指を絡め合う、いわゆる恋人繋ぎというやつだ。
甲洋は顔がカァっと熱くなっていくのを感じた。頭のなかには『敗北』の二文字が浮かぶ。違う違う。そうじゃない。逆だ。結果的に望んだ通りになったとしても、甲洋のなかには自分がリードするシナリオしか用意されていなかった。そもそも競っていたわけでもないのだが。
「……なんで俺より先にやっちゃうのさ」
不甲斐なさに溜息がでる。ヘタレすぎて、自分で自分が情けない。
操に甲洋の複雑な男心が理解できるはずもなく、彼は繋いだ手をブンブンと揺らしながら「ねぇ、早く帰ろうよ」と言って唇を尖らせている。
あ、今のこれはものすごく恋人っぽいぞ、と喜んでしまっている自分があまりにも単純で、やっぱり情けなくて、かなり悔しい。
操の手はあたたかくて、だけど冷え切っている甲洋の手は彼の温もりをどんどん奪っていこうとしている。
甲洋は操の手を強く握ると、そのまま自分のコートのポケットにズボッと突っ込んだ。耳の際まで赤くして、全く格好がつかないのは分かっているけれど、なんでもないような顔をしながら前を向いて歩きだす。
「あったかいねぇ」
操が嬉しそうに笑った。家はもう目の前だ。ポケットの中で自分のものより一回り小さな手をしっかりと握りしめながら、もっと早くこうすればよかったと後悔する。
嬉しい気持ちと悔しい気持ち。次は勝ちたい。ついつい恥ずかしがってしまったに自分に。本当は、いちいち理由なんか必要ないことは知っているけど。
ポケットの中で重なる体温が、どんどんひとつに溶けていく。さっきまではあんなに冷たく感じていた風が、熱いくらいの心と肌にちょうどよかった。いっそこのまま、どこまでも二人で歩いていきたいくらいに。
「ねぇ、家についたらココアいれてよ。クリームたっぷりがいいな」
操は相変わらず甲洋の気持ちなどお構いなしだ。少しくらい意識しろよと思わないこともないけれど、その笑顔はやっぱり可愛い。
はいはいと返事をして苦笑しながら、多分きっと、いつまでも中学生みたいな拙さで、俺はずっとこいつのことを好きでいるんだろうなと、甲洋は思った。
←戻る ・ Wavebox👏
風に吹かれて乾いた音を立てながら、枯れ葉の群れが足元を横切っていく。
新しいコート──といっても中学まで甲洋が着ていたお古だが──に袖を通した操は、さっきからずっとご機嫌だ。甲洋の隣を歩きながら、澄んだ冬空を楽しそうに見上げている。柔らかなベージュのダッフルは、彼のミルクティーのような髪色によく似合っていた。
ちょっとした買い物に、わざわざふたりで出かけたその帰り道。
甲洋は操側にある自分の右手を、軽く握ったり緩めたりしながらソワソワしていた。楽しげな横顔を横目でチラチラと見やっては、内心ずっと落ち着かないでいる。
理由はいっそ涙ぐましいほどに単純だった。甲洋はさっきからずっと見計らっているのだ。操と手を繋ぐタイミングを。
手が冷たそうだったから。空ばかり見て歩いて、転んだりすれば大変だから。無難な言い訳はちゃんと用意してある。だけどいまいち勇気が出ない。
なにも繋ぎたければ繋げばいいのだけれど、なぜだか妙な気恥ずかしさを覚えていた。
手を繋いで歩くなんて、恋人っぽくてなんかいいな。
──なんて。甘酸っぱい憧れを抱く自分に。
家を出たときからずっとそんなことを考えてはソワソワしていることや、じきに家についてしまうことに焦っている自分が、とにかく無性に恥ずかしい。
いつもならポケットに突っ込んでいるはずの両手は、左手には買い物袋がぶら下がっている。目的を果たしたいがために、右手はネイビーのチェスターコートからずっと出しっぱなしのままだった。実際、風が冷たくて言い訳抜きに指先がかじかんできている。
(時間がない……はやくしないと……)
内心で焦りながら、いつまで経っても中身は中学生のような自分に呆れる。
スマートに、クールに、さりげなくその白い手をさらって握りしめればいいだけなのに。転んで泣かれても面倒だから、なんてちょっと意地の悪いことを言ってやれば、それなりに様になるのは分かっているのに。
そうこうしているうちに、家はもうすぐそこだ。
今日はもう無理かもしれない。諦めた甲洋は右手をポケットに突っ込もうとした。けれどすんでのところで、あたたかなものが右手に触れる。
「!」
目を丸くさせ、思わず足を止めた。操が甲洋の手を握っている。
「な、なに?」
「ん? んー、なんか、手が寒そうだったから」
思わず上ずった声で問いかけた甲洋に、操はケロリとした表情でそう言った。しかもただ普通に繋ぐのではなくて、指と指を絡め合う、いわゆる恋人繋ぎというやつだ。
甲洋は顔がカァっと熱くなっていくのを感じた。頭のなかには『敗北』の二文字が浮かぶ。違う違う。そうじゃない。逆だ。結果的に望んだ通りになったとしても、甲洋のなかには自分がリードするシナリオしか用意されていなかった。そもそも競っていたわけでもないのだが。
「……なんで俺より先にやっちゃうのさ」
不甲斐なさに溜息がでる。ヘタレすぎて、自分で自分が情けない。
操に甲洋の複雑な男心が理解できるはずもなく、彼は繋いだ手をブンブンと揺らしながら「ねぇ、早く帰ろうよ」と言って唇を尖らせている。
あ、今のこれはものすごく恋人っぽいぞ、と喜んでしまっている自分があまりにも単純で、やっぱり情けなくて、かなり悔しい。
操の手はあたたかくて、だけど冷え切っている甲洋の手は彼の温もりをどんどん奪っていこうとしている。
甲洋は操の手を強く握ると、そのまま自分のコートのポケットにズボッと突っ込んだ。耳の際まで赤くして、全く格好がつかないのは分かっているけれど、なんでもないような顔をしながら前を向いて歩きだす。
「あったかいねぇ」
操が嬉しそうに笑った。家はもう目の前だ。ポケットの中で自分のものより一回り小さな手をしっかりと握りしめながら、もっと早くこうすればよかったと後悔する。
嬉しい気持ちと悔しい気持ち。次は勝ちたい。ついつい恥ずかしがってしまったに自分に。本当は、いちいち理由なんか必要ないことは知っているけど。
ポケットの中で重なる体温が、どんどんひとつに溶けていく。さっきまではあんなに冷たく感じていた風が、熱いくらいの心と肌にちょうどよかった。いっそこのまま、どこまでも二人で歩いていきたいくらいに。
「ねぇ、家についたらココアいれてよ。クリームたっぷりがいいな」
操は相変わらず甲洋の気持ちなどお構いなしだ。少しくらい意識しろよと思わないこともないけれど、その笑顔はやっぱり可愛い。
はいはいと返事をして苦笑しながら、多分きっと、いつまでも中学生みたいな拙さで、俺はずっとこいつのことを好きでいるんだろうなと、甲洋は思った。
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それから三日が過ぎた。
コーヒーはいまだに見つからない。
暇さえあればあちこち探し、親しい友人にも情報提供を呼びかけているが、有力な情報は得られていなかった。大柄で目立つ猫だから、見かければすぐに分かるはずだが。
これだけ探してもダメなら、もう諦めるより他にないのだろうか。
そう悲観していた夜のこと──。
『カリカリ、カリカリ』
21時を過ぎたころ、どこからか音がした。力なく机に伏せていた操は、ハッとしながら顔をあげるとベランダに目を向ける。
この音には聞き覚えがあった。実家にいた頃、愛猫のクーが外から帰ってくると、よくこうして窓枠をカリカリと引っ掻いていた。開けろ、のサインだ。
もしやと思い、一も二もなく駆け寄って鍵を外すと窓を開いた。すると長毛で大柄なサビ猫が、スルリと室内に入り込んでくる。
「コーヒー!?」
目を見張る操をよそに、コーヒーはフサフサのしっぽを優雅に揺らして、平然と足元を通り過ぎていく。
あれだけ探しても見つからなかったコーヒーが、わざわざ自分から戻ってくるなんて。不思議なことに彼は包帯をしておらず、その身体には傷一つ見あたらない。
「どこに行ってたの!? 急にいなくなっちゃって、ずっと探してたんだから! それに怪我は……もう治ったの?」
身体の大半を包帯でグルグル巻にされるほどの怪我が、わずか三日で完治するなんてことがありえるのだろうか。薬も飲んでいないのに。
だけど、とにかく彼は無事だった。それが分かっただけで充分だ。深く安堵した操は、一気に力が抜けていくのを感じた。
「無事でよかったぁ……」
ヘナヘナとその場にへたり込み、尻もちをついてしまう。すると珍しく近寄ってきたコーヒーが、すぐそばでコロリとなにかを吐きだした。
「なにこれ?」
それは傷ひとつない立派などんぐりだった。丸々としたフォルムが、ニスを塗ったように光沢を帯びている。
「これ、もしかしてぼくに?」
目を丸くしながら拾い上げると、コーヒーが「にゃ~ぉ」と鳴いた。長いしっぽをピンと立て、彼はどこか得意気だった。
クーも虫や小動物を捕まえてくることがあったが、木の実を咥えて持ってくる猫なんて初めてだ。操はその可愛らしい贈り物を両手で握りしめ、思わず涙ぐんでしまった。
「嬉しい……ありがとう! 大事にするね!」
「んなぁ~お!」
応えるようにひと鳴きしたコーヒーが、丸い瞳でじっと見つめてくる。その視線は操の右手の甲に注がれていた。
「もしかして、パンチしたこと気にしてる?」
「ぅん~」
「コーヒーは優しいね。でもほら、もうぜんぜん平気。痣はとっくに消えてるよ」
怖がらせないように、そっと右手を差しだした。コーヒーはくんくんと甲の匂いをかいで、遠慮がちにペロペロと舐めはじめた。
彼がとった行動に、操は「わ」と声をあげると目を輝かせた。
「コーヒー、もうぼくのこと怖くないの?」
「にゃぅ」
「本当? じゃあ……じゃあさ、ちょっとだけ触ってもいい?」
「んん~」
操は差しだしていた右手で、おそるおそるコーヒーの頭を撫でた。
彼は怯えもせず、ただ瞳を細めている。首の下に指をすべらせ、喉を掻くようにしてやると、そこからゴロゴロという大きな音が聞こえてきた。
「あはっ、ここ気持ちいい?」
「んんぅ~」
首周りのモフモフとした毛をさらに撫でると、彼は気持ちよさそうに目を閉じた。もっとして、とでも言わんばかりに、操の手に頭を擦りつけてくる。
「コーヒーを撫でてるなんて、夢みたいだ……!」
感動で胸がいっぱいになり、頬が紅潮するのを感じた。道でちょくちょく見かけていた頃から、ずっとこんなふうに触れてみたいと思っていたのだ。
あれほど威嚇していたのが嘘のように、彼はすっかり警戒を解いている。嬉しかった。猫に触れること自体、夏に実家に帰ったときにクーと遊んで以来のことだ。
「あ、そうだ! ねぇコーヒー、お腹すいてない? なにか食べる?」
ミルクは期限切れで処分してしまったが、ご飯は棚の中にしまってある。
操の問いかけに、コーヒーが「にゃお~ん!」と景気よく返事をした。
「わかった! じゃあちょっと待ってて!」
まるで本当に言葉が通じているかのようだ。彼は行儀よくその場に座り、待ちの構えを見せている。
そんなコーヒーの頭をもうひと撫でして、操はご飯の準備に取りかかった。
*
それ以来、コーヒーは毎日のように遊びに来るようになった。
道で偶然ばったり会うと、そのまま一緒に帰ってくることもある。
寮では動物の飼育は禁止されているため、もちろん周りには内緒だ。コーヒーはそれを承知しているかのように、木を伝ってこっそりベランダから入ってくる。
操はそんな彼のために、はりきって様々な猫グッズを購入した。
おやつやご飯はもちろん、専用の器や爪とぎ、ブラシに猫じゃらしまで。そのため、棚の一角はすっかりコーヒー専用のアイテム置き場になっている。
猫じゃらしは釣り竿タイプのもので、紐の先に小さなネズミがついたものだ。
コーヒーは最初こそクールに見て見ぬ振りをしていたが、やがて我慢ができなくなったのか、夢中で遊んでくれるようになった。
ひとしきり遊んだあとは、急に我に返ったように毛繕いをしはじめる。本能に抗えなかった自分を誤魔化すような行動に、操は声をあげて笑ってしまうのだった。
そんなある日。雨降りの夜に訪れたコーヒーは、手足を泥で汚していた。
操はすぐに彼を風呂場へ連れていき、お湯で泥をふやかして綺麗にしてやった。
彼は猫にしては珍しく、身体が濡れることに抵抗を示さなかった。ドライヤーすら嫌がらない。ブラシをかけながら乾かすと、サビ柄の長毛は見違えるほどツヤツヤになった。
気をよくした操はすぐに猫シャンプーを購入し、それ以来たまにコーヒーをお風呂に入れてやるようになった。
あるとき、操は何気なく「次からぼくも一緒に入ろうかな?」と言った。するとそれまでおとなしく洗われていたコーヒーが、急にひどく暴れだした。
一緒に入るのは嫌らしい。理由は不明だが、無理強いするわけにもいかないので諦めた。ちょっと悲しかったけど。
そうやって過ごしていくうちに、互いの距離はさらに縮まった。
今では一緒にベッドで寝る仲だ。
操はコーヒーを抱いて布団に入る時間が、一番のお気に入りだった。
彼は眠りに落ちる寸前、喉を鳴らして無意識に操の胸を揉みはじめる。もに、もに、と前脚を交互に動かす仕草は、まるで子猫に返ったようでとても可愛い。
操は母猫になった気分で彼を抱きしめ、いつしか自分も眠りに落ちる。それはなによりも幸せな時間だった。
けれど決まって、朝起きるとコーヒーの姿は消えている。
操が目を覚ます前に、彼は自分の縄張りへと戻って行くのだ。開けた窓はしっかり閉じていくのだから、コーヒーはやっぱり賢い。
そして夜になると、また窓枠を引っ掻いて遊びに来る。その繰り返し。
彼が遊びに来るようになってから、気づけば一ヶ月が経っていた。
*
その夜、操は落ち込んでいて元気がなかった。
いつものようにコーヒーと過ごしていても、ふとした瞬間ため息が出てしまう。
なるべく明るく振る舞おうとするのだが、今日ばかりはどうしてもダメな理由があった。
「なぉん?」
おやつをあげて、オモチャで遊んで、入浴を終えたあと。
ベッドに腰掛けてぼぅっとする操の膝の上で、コーヒーが首をかしげた。
「ん……どしたの、コーヒー」
彼は操の胸に両手をついて伸び上がると、まるでキスをするように鼻と鼻をくっつけてきた。幾度か鼻同士をくっつけたあと、ザラついた舌でぺろんと舐められる。そのくすぐったさに、つい肩を揺らして笑ってしまった。
「あはは、もう~、なに? くすぐったいよぉ」
そんなコーヒーの背中を両手でわしゃわしゃと撫でながら、ふと思う。もしかしたら彼は、元気がない自分を心配してくれているのではないか、と。
「コーヒー、ぼくのこと慰めようとしてくれてるの?」
問いかけに、コーヒーが目を細めながら「ん」と短く鳴いた。
「やっぱり分かっちゃうのかな。ごめんね、今日は落ち込んでて……」
コーヒーが、今度は操の頬にキスをした。ペロンと控えめに舐められて、そこから彼の優しさが伝わってくる。目頭が熱くなり、じわりと涙が浮かんでしまった。
「コーヒー、ぼくね……」
「にゃおん?」
「バイト、辞めることになったんだ」
例の悪質な女性客は、相変わらず操に嫌がらせを繰返していた。
やむなく店長が出禁を言い渡すまでに発展したが、今度は店の周りをウロつくという奇行に走りだした。他の店員もすっかり怯える始末で、もうお手上げだった。
結果的に「君さえいなくなれば満足するようだから」と、これ以上は大事にしたくない店長に頭を下げられた。要するに厄介払いだ。
「しょうがないよね。他の人にも迷惑かけちゃうし、ぼくもちょっと意地になってたし。こんなことなら、もっと早くに辞めちゃえばよかっ……あ」
膝の上に座って見上げてくるコーヒーに、操は苦笑しながら肩をすくめた。
「ごめんね。こんなこと言ってもわかんないよね。だってコーヒーは猫だもん」
その頭をくしゃくしゃと撫でながら、「あーぁ」と大きく息をつく。
「コーヒーが喋れる猫だったらよかったのにな。そしたらさ、いろんな話ができるでしょ? 楽しいよ、きっと」
猫に愚痴ってしまったことが情けなくて、誤魔化すようにおどけて言った。
そんなこと、本気で思ってるわけじゃない。話ができなくたって、コーヒーは今のままで充分だ。こうして傍にいてくれるだけで。
「なんてね。変なこと言ってごめん。さ、もう寝よっか。今日も抱っこして──」
「話せるよ」
「……え?」
操はことりと首をかしげた。
気のせいだろうか。たった今、膝の上にいる猫から人の声がしたような。
けれどすぐに気のせいだと思い直した。おとぎ話でもあるまいし、そんなことは絶対にありえない。きっと空耳かなにかだったのだろう。
「あはは、やだな。疲れてるのかなぁ、ぼく」
指先で頬を掻いて笑った操の膝から、コーヒーがストンと飛び降りた。その場で幾度かくるくると回り、落ち着きがない様子を見せている。
「コーヒー?」
ふいに動きを止めたコーヒーは、まるで意を決したかのように操を見上げる。
そして突然、すっくと二本足で立ち上がった。ポカンとする操に、彼は極めて流暢な日本語で
「俺はただの猫じゃないよ、来主」
と、言った。
「……は?」
まるで人間のように堂々とした立ち姿で、猫が喋った。ありえない光景に、開いた口が塞がらない。狐にでもつままれたような気分だ。
「えっと、これって夢?」
「夢じゃないよ」
「えっ、ほ、ほんとに!? ほんとに喋って……!?」
自分の頬をつねって「痛い!」と叫ぶ操に、彼は「さぁ、行こう」と言った。
「い、行くって? どこに?」
「来主に見せたいものがあるんだ」
状況がまったく理解できない。やっぱり夢を見ているんじゃないかと混乱する操を置いて、コーヒーはスタスタと窓の方に歩いていった。
「俺は先に下で待ってるから、来主もすぐにおりて来て」
「ちょ、ちょっと待っ……!」
猫の手でカチッと器用に鍵を外し、コーヒーはカーテンの隙間をぬって窓を開くとベランダに出た。もちろん、しっかり窓を閉めて行くのも忘れない。
つい感心してしまったが、すぐにハッとする。なにがなんだか分からないが、とにかくコーヒーを追いかけなくては。
「ま、待ってよコーヒー!」
部屋着にしているパーカーの上からダウンを羽織ると、操は急いで部屋を飛びだした。
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