2025年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
さよならの日
天気予報が告げていた通り、日曜日は朝から全国的に晴天だった。
絶好の花見日和。二人は朝早くに起きて、軽めの朝食をとってから部屋を出た。
普段は使わずに地下駐車場で眠っている車に乗り込む直前、黒鋼はジーンズのポケットに押し込めていた携帯を取り出すと、電源を切った。
それを側で見ていたファイは目を丸くしたあと心配そうに見上げてきたが、黒鋼は「邪魔臭ぇからな」と言って少し笑った。
ファイはうっすら目を潤ませ、眉毛をへにゃりと下げながらも笑顔を見せた。
地下から地上に上がると、マンションのエントランス前にはあの管理人の女性がいつものように掃除をしていた。
車で出て行こうとする黒鋼に、にっこりと笑って手を振っていた。
助手席に座り、しっかりシートベルトまで締めたファイも、楽しそうに手を振り返していた。
高速道路を三時間ほど走ると、黒鋼が生まれてから学生時代までを過ごした町に辿り着いた。
これといって何の見どころもない、どちらかと言えば山ばかりが目立つ田舎町をのんびり進んで、実家にはちょうど昼頃に到着した。
「うわぁ……」
車を降りてすぐに、ファイはそびえ立つ一軒の日本家屋を見て間抜けな声を上げた。
「凄いお屋敷だぁ……黒様ってお坊ちゃんだったんだねぇ」
「んなこたねぇよ」
んなこたあるよー、となぜか焦った様子で言うファイを通り過ぎ、茅葺屋根の門をくぐる。
曲がりくねるように配置された石畳が玄関まで伸びて、辺りに敷き詰められた白い砂利が春の陽光を浴びて輝いていた。マツやモチノキが青々とした葉を揺らし、赤く色づいたモクレンが大きな花弁を人口の小川に散らして、流れながら舞い躍る。
「どうしよう、オレこんな粗末な格好してきちゃって……」
浮遊した状態で追いかけてきたファイは怖々とした様子で黒鋼の背中に両手をついて、隠れるように身を寄せた。
確かに黒鋼の実家はこの辺りの民家の中ではひと回り大きいものの、別にそこまで戦々恐々するほどでもないと思うのだが。
ファイはいつもの白いシャツとダボついたジーンズに素足という姿で、辺りをキョロキョロと見回している。まるでお上りさん状態だ。
「格好なんてどうでもいいだろ。おまえのことなんざ誰も見……」
言いかけたところで、黒鋼は玄関の引き戸を開けて顔を覗かせた母を見て、口を閉ざした。
母には確実にファイの姿が見えているはずだが、黒鋼の背中にすっかり隠れてしまったのを見て「うふふ」と笑うだけだった。
お茶の支度が済むまでのんびりしてなさい、という言葉に従い、黒鋼は自室にファイを案内した。
どこか殺風景な和室に入った瞬間、ファイはようやく黒鋼の背中から離れて大きく息を吐き出した。
「はー、緊張したー」
「なにが緊張だ。隠れてただけじゃねぇか」
「そうだけど……凄いね君のお母さん。オレのことバッチリ見えてたみたい」
「だったらなおさら挨拶くらいしろ……」
呆れた視線を向ける黒鋼を無視して、ファイはふらふらと室内を飛び回った。
「ここが黒たんのお部屋ー! ねぇ、アルバムとかないのー? あ! これ! もしかしてあれ? 毎年つけるやつ!」
住んでいた当時から必要最低限の家具しか置いていない部屋は面白味もなにもないはずなのに、彼は嬉しそうにはしゃいでいる。
そしてファイが見つけたのは押入れ脇の柱の傷だった。黒鋼が幼い頃から中学に上がるぐらいまで、毎年のように父がつけていた成長の証だ。
それ以降は照れ臭くなってしまった黒鋼が拒んで、傷はだいぶ低い位置を最後に途絶えている。
「黒たんの歴史が刻まれた、優しい傷だね」
ファイは膝をついて、一番小さな傷から順々になぞった。
「嬉しいな。なんか」
そう言って微笑む横顔を、黒鋼はなんとなく見ていられずに目を逸らした。
*
裏山の桜を見上げながら、ファイは呆けたような顔をした。
黒鋼が子供の頃のアルバムや、家の中を一通り探検して回っていた時とは打って変わって、どこまでも広がる桜のパノラマにすっかり言葉を無くしているようだった。
「なかなかのもんだろ?」
これこそを見せてやりたいと思っていた黒鋼は、自慢げにニヤリと笑って問いかけた。
こくりと頷くだけのファイは裸足の足をすとんと地面に落とす。
青空の下、桜の山がざわめいて大量の花びらを雪のように躍らせる。嵐のようだと、黒鋼は思った。
二人でそれを見上げていると、左手に生温い感触を覚えた。
裏山から視線を外さないまま、ファイが手を繋いで寄越す。握り返すことはできないが、それでも白い手を握るように指を丸めた。
そのまま黒鋼とファイは手を繋いで、丸太階段を静かに登った。
ファイは金色の髪に幾つもの花びらを絡ませながら、満開の桜の木々を見つめている。浮き上がることはせずに、足でしっかりと前に進んでいた。
痛くないのかを聞くと、彼はどこかぼんやりとした口調で「平気」とだけ言った。
その青と薄灰の瞳にはちらちらと舞い散る花びらが映し出され、儚く揺らめいていた。
美しい桜の木々よりも、黒鋼はその光景をしっかりと目に焼き付ける。
例えばこの階段が、ずっとずっと途切れることなく続いていたならば。今という瞬間を永遠にしてしまうことができるだろうに。そんな馬鹿なことを、少しだけ本気で考えながら。
「黒たん、連れてきてくれてありがとう」
一段一段ゆっくりと階段を上りながら、僅かに俯いたファイが口を開いた。
「好きな人の子供の頃の写真とか、育った町とか、家とか、こんなに綺麗な桜とか……いっぱい見れて嬉しかった」
「……そうか」
「うん。ありがとう」
無情にも途切れた階段の先は、少し開けた場所だった。
芝生が敷き詰められ、木製の椅子やテーブルが置かれた広い空間が桃色の花々によってぽっかりと縁どられていた。
子供の頃は、ここで毎年のように家族や親戚、友人たちと花見をしていた。母や親戚連中が用意した弁当を食べながら、日が暮れるまで遊びまわった。
それでもこの場所に、黒鋼が思い人を連れて来たことはない。
学生時代、強請られたことは幾度もあったけれど、もし両親に見られたらと思うと照れくさくて、冗談じゃないと思っていた。
だから『恋人』を連れて来たのは、これが初めてだ。
あーぁ、と声を上げて、ファイは黒鋼の手を離すと花びらが積もる木製のテーブルに近づいた。
「生きてるときにちゃんと会いたかったなー。黒たんと」
テーブルに浅く腰掛けるように背を預け、ファイはふにゃりと笑った。
「そしたらさー……そしたら……」
目を閉じて、彼は緩く首を振ると「やっぱいいや」と言った。
金色の髪から、絡みついていた花びらがはらはらと零れ落ちる。
「変な話だけど、死んだから黒たんと会えたんだもんね。だから、これでよかったんだよね」
細められた目を見返しながら、黒鋼は何も言うことができなかった。
あまりにも皮肉すぎやしないか。死んだから会えた。死んだから、こうして一緒にいる。
死んだから、触れ合うこともできないまま、好きになってしまった。
結局、ファイへの気持ちは殺せなかった。あれだけ色恋から遠い場所にいたかったはずなのに、女性しか愛せないとばかり思っていたはずなのに。
真っ直ぐに向けられる好意がいつしか心地よくなって、彼の何気ない仕草や表情に、健気な姿や涙に、気づけば心を射抜かれていた。
それでも今までもこれからも黒鋼が彼に触れ、抱きしめることはない。そうしたくても出来ない。
手離したくないと、そう思う以前にファイは最初からこの手の中にはいない存在だった。
知らず知らずのうちに目を逸らし、握った拳を震わせる黒鋼に、ファイは「ねぇ」と小さく声をかける。
「キスしてもいい?」
「……いっつも勝手にするじゃねぇか」
「あはは」
俯く黒鋼の視界に、白い足先が一歩一歩近づいてくるのが見えて、顔を上げる。頼りなく細い両腕が首に伸ばされ、ぐるりと巻き付いた瞬間、唇に柔らかなものが押し付けられる。
抱き返すことはできない。でも、その身体を包み込むように両腕を回した。
なぜだろうか。もう時間がない気がして。何かに背を追われているような、そんな気がして。胸が切なく痛んで仕方がなかった。
「笑って、黒様」
「……いくのか」
「うん。そんな感じがする」
だから笑ってと、鼻先が触れ合うほどの距離でファイが言う。
けれど黒鋼は笑えなかった。いくなという言葉を、奥歯を噛み締めることで飲み込んだ。
彼は逝く。燃えるような恋をして、消えてしまう。
むっつりと眉間に皺を寄せるだけの黒鋼を、ファイは笑った。泣き止まない子供をあやすように、「しょうがないなぁ」なんて歌うように言いながら。
「オレの未練、連れていくにはちょっと大きすぎるから。ここに置いていくね」
両腕がするりと離れ、抱きしめるように回されていた腕を細い身体が通り抜けた。
手を伸ばしたままゆっくりと後退してゆくファイに、黒鋼も咄嗟に手を伸ばす。
「待てよ。俺はおまえが――」
好きだ、と。
ふわりと舞い上がる花びらに、その告白は阻まれてしまった。
桃色の群れに、白い身体が、潤んだ瞳が、ゆっくりと滲んだ。
ファイは無邪気に手を振った。出会ったときと同じ笑顔で、彼は「バイバイ」と言った。
黒鋼の手は、届かなかった。
――ありがとう。
そして、消えてしまった。
←戻る ・ 次へ→
天気予報が告げていた通り、日曜日は朝から全国的に晴天だった。
絶好の花見日和。二人は朝早くに起きて、軽めの朝食をとってから部屋を出た。
普段は使わずに地下駐車場で眠っている車に乗り込む直前、黒鋼はジーンズのポケットに押し込めていた携帯を取り出すと、電源を切った。
それを側で見ていたファイは目を丸くしたあと心配そうに見上げてきたが、黒鋼は「邪魔臭ぇからな」と言って少し笑った。
ファイはうっすら目を潤ませ、眉毛をへにゃりと下げながらも笑顔を見せた。
地下から地上に上がると、マンションのエントランス前にはあの管理人の女性がいつものように掃除をしていた。
車で出て行こうとする黒鋼に、にっこりと笑って手を振っていた。
助手席に座り、しっかりシートベルトまで締めたファイも、楽しそうに手を振り返していた。
高速道路を三時間ほど走ると、黒鋼が生まれてから学生時代までを過ごした町に辿り着いた。
これといって何の見どころもない、どちらかと言えば山ばかりが目立つ田舎町をのんびり進んで、実家にはちょうど昼頃に到着した。
「うわぁ……」
車を降りてすぐに、ファイはそびえ立つ一軒の日本家屋を見て間抜けな声を上げた。
「凄いお屋敷だぁ……黒様ってお坊ちゃんだったんだねぇ」
「んなこたねぇよ」
んなこたあるよー、となぜか焦った様子で言うファイを通り過ぎ、茅葺屋根の門をくぐる。
曲がりくねるように配置された石畳が玄関まで伸びて、辺りに敷き詰められた白い砂利が春の陽光を浴びて輝いていた。マツやモチノキが青々とした葉を揺らし、赤く色づいたモクレンが大きな花弁を人口の小川に散らして、流れながら舞い躍る。
「どうしよう、オレこんな粗末な格好してきちゃって……」
浮遊した状態で追いかけてきたファイは怖々とした様子で黒鋼の背中に両手をついて、隠れるように身を寄せた。
確かに黒鋼の実家はこの辺りの民家の中ではひと回り大きいものの、別にそこまで戦々恐々するほどでもないと思うのだが。
ファイはいつもの白いシャツとダボついたジーンズに素足という姿で、辺りをキョロキョロと見回している。まるでお上りさん状態だ。
「格好なんてどうでもいいだろ。おまえのことなんざ誰も見……」
言いかけたところで、黒鋼は玄関の引き戸を開けて顔を覗かせた母を見て、口を閉ざした。
母には確実にファイの姿が見えているはずだが、黒鋼の背中にすっかり隠れてしまったのを見て「うふふ」と笑うだけだった。
お茶の支度が済むまでのんびりしてなさい、という言葉に従い、黒鋼は自室にファイを案内した。
どこか殺風景な和室に入った瞬間、ファイはようやく黒鋼の背中から離れて大きく息を吐き出した。
「はー、緊張したー」
「なにが緊張だ。隠れてただけじゃねぇか」
「そうだけど……凄いね君のお母さん。オレのことバッチリ見えてたみたい」
「だったらなおさら挨拶くらいしろ……」
呆れた視線を向ける黒鋼を無視して、ファイはふらふらと室内を飛び回った。
「ここが黒たんのお部屋ー! ねぇ、アルバムとかないのー? あ! これ! もしかしてあれ? 毎年つけるやつ!」
住んでいた当時から必要最低限の家具しか置いていない部屋は面白味もなにもないはずなのに、彼は嬉しそうにはしゃいでいる。
そしてファイが見つけたのは押入れ脇の柱の傷だった。黒鋼が幼い頃から中学に上がるぐらいまで、毎年のように父がつけていた成長の証だ。
それ以降は照れ臭くなってしまった黒鋼が拒んで、傷はだいぶ低い位置を最後に途絶えている。
「黒たんの歴史が刻まれた、優しい傷だね」
ファイは膝をついて、一番小さな傷から順々になぞった。
「嬉しいな。なんか」
そう言って微笑む横顔を、黒鋼はなんとなく見ていられずに目を逸らした。
*
裏山の桜を見上げながら、ファイは呆けたような顔をした。
黒鋼が子供の頃のアルバムや、家の中を一通り探検して回っていた時とは打って変わって、どこまでも広がる桜のパノラマにすっかり言葉を無くしているようだった。
「なかなかのもんだろ?」
これこそを見せてやりたいと思っていた黒鋼は、自慢げにニヤリと笑って問いかけた。
こくりと頷くだけのファイは裸足の足をすとんと地面に落とす。
青空の下、桜の山がざわめいて大量の花びらを雪のように躍らせる。嵐のようだと、黒鋼は思った。
二人でそれを見上げていると、左手に生温い感触を覚えた。
裏山から視線を外さないまま、ファイが手を繋いで寄越す。握り返すことはできないが、それでも白い手を握るように指を丸めた。
そのまま黒鋼とファイは手を繋いで、丸太階段を静かに登った。
ファイは金色の髪に幾つもの花びらを絡ませながら、満開の桜の木々を見つめている。浮き上がることはせずに、足でしっかりと前に進んでいた。
痛くないのかを聞くと、彼はどこかぼんやりとした口調で「平気」とだけ言った。
その青と薄灰の瞳にはちらちらと舞い散る花びらが映し出され、儚く揺らめいていた。
美しい桜の木々よりも、黒鋼はその光景をしっかりと目に焼き付ける。
例えばこの階段が、ずっとずっと途切れることなく続いていたならば。今という瞬間を永遠にしてしまうことができるだろうに。そんな馬鹿なことを、少しだけ本気で考えながら。
「黒たん、連れてきてくれてありがとう」
一段一段ゆっくりと階段を上りながら、僅かに俯いたファイが口を開いた。
「好きな人の子供の頃の写真とか、育った町とか、家とか、こんなに綺麗な桜とか……いっぱい見れて嬉しかった」
「……そうか」
「うん。ありがとう」
無情にも途切れた階段の先は、少し開けた場所だった。
芝生が敷き詰められ、木製の椅子やテーブルが置かれた広い空間が桃色の花々によってぽっかりと縁どられていた。
子供の頃は、ここで毎年のように家族や親戚、友人たちと花見をしていた。母や親戚連中が用意した弁当を食べながら、日が暮れるまで遊びまわった。
それでもこの場所に、黒鋼が思い人を連れて来たことはない。
学生時代、強請られたことは幾度もあったけれど、もし両親に見られたらと思うと照れくさくて、冗談じゃないと思っていた。
だから『恋人』を連れて来たのは、これが初めてだ。
あーぁ、と声を上げて、ファイは黒鋼の手を離すと花びらが積もる木製のテーブルに近づいた。
「生きてるときにちゃんと会いたかったなー。黒たんと」
テーブルに浅く腰掛けるように背を預け、ファイはふにゃりと笑った。
「そしたらさー……そしたら……」
目を閉じて、彼は緩く首を振ると「やっぱいいや」と言った。
金色の髪から、絡みついていた花びらがはらはらと零れ落ちる。
「変な話だけど、死んだから黒たんと会えたんだもんね。だから、これでよかったんだよね」
細められた目を見返しながら、黒鋼は何も言うことができなかった。
あまりにも皮肉すぎやしないか。死んだから会えた。死んだから、こうして一緒にいる。
死んだから、触れ合うこともできないまま、好きになってしまった。
結局、ファイへの気持ちは殺せなかった。あれだけ色恋から遠い場所にいたかったはずなのに、女性しか愛せないとばかり思っていたはずなのに。
真っ直ぐに向けられる好意がいつしか心地よくなって、彼の何気ない仕草や表情に、健気な姿や涙に、気づけば心を射抜かれていた。
それでも今までもこれからも黒鋼が彼に触れ、抱きしめることはない。そうしたくても出来ない。
手離したくないと、そう思う以前にファイは最初からこの手の中にはいない存在だった。
知らず知らずのうちに目を逸らし、握った拳を震わせる黒鋼に、ファイは「ねぇ」と小さく声をかける。
「キスしてもいい?」
「……いっつも勝手にするじゃねぇか」
「あはは」
俯く黒鋼の視界に、白い足先が一歩一歩近づいてくるのが見えて、顔を上げる。頼りなく細い両腕が首に伸ばされ、ぐるりと巻き付いた瞬間、唇に柔らかなものが押し付けられる。
抱き返すことはできない。でも、その身体を包み込むように両腕を回した。
なぜだろうか。もう時間がない気がして。何かに背を追われているような、そんな気がして。胸が切なく痛んで仕方がなかった。
「笑って、黒様」
「……いくのか」
「うん。そんな感じがする」
だから笑ってと、鼻先が触れ合うほどの距離でファイが言う。
けれど黒鋼は笑えなかった。いくなという言葉を、奥歯を噛み締めることで飲み込んだ。
彼は逝く。燃えるような恋をして、消えてしまう。
むっつりと眉間に皺を寄せるだけの黒鋼を、ファイは笑った。泣き止まない子供をあやすように、「しょうがないなぁ」なんて歌うように言いながら。
「オレの未練、連れていくにはちょっと大きすぎるから。ここに置いていくね」
両腕がするりと離れ、抱きしめるように回されていた腕を細い身体が通り抜けた。
手を伸ばしたままゆっくりと後退してゆくファイに、黒鋼も咄嗟に手を伸ばす。
「待てよ。俺はおまえが――」
好きだ、と。
ふわりと舞い上がる花びらに、その告白は阻まれてしまった。
桃色の群れに、白い身体が、潤んだ瞳が、ゆっくりと滲んだ。
ファイは無邪気に手を振った。出会ったときと同じ笑顔で、彼は「バイバイ」と言った。
黒鋼の手は、届かなかった。
――ありがとう。
そして、消えてしまった。
←戻る ・ 次へ→
帰るべきところ
取引先への定期訪問を終えたのは、昼時をちょうど過ぎた頃だった。
会社に戻る前に昼食を済ませてしまおうと、目についたファミレスに入った黒鋼は窓際の席についた。なんとなく癖で喫煙席を選んでしまったことに気付いたが、店員が水を運んできたため、結局は動かずその日の日替わりランチを適当に注文した。
煙草はすっかりやめたのだ。そう割り切ってしまうと、禁煙は意外と楽に成功していた。
スーツのジャケットを脱ぎ、ワイシャツの胸ポケットからマナーモードにしていた携帯を取り出すと、着信を知らせるランプが点滅していることに気が付く。
そのうち何件かは派遣スタッフからの報告メールで、ざっと目を通したあとに着信履歴を見る。一件だけのそれは母からのものだった。
黒鋼はすぐに画面から目を離すと、周りを軽く見回して客がいないことを確認した。
ささやかなジャズが流れるだけで、ラッシュを過ぎた店内にはまったりとした雰囲気が漂っている。
そして再び画面に視線を戻すと、発信ボタンを押した。
何度目かのコールで電話に出た母は、挨拶代りの小言の後で「調子がよさそうでよかったわ」と言った。
まぁなと返したところで、店員が食事を運んできた。チキンカツにスープとサラダ、ライスがついたセットをテーブルに並べてゆく男性店員は、携帯電話を耳に押し当てる黒鋼にこれといって顔色を変えることはなかったが、一応は片手を上げて目配せする。
店員は結構ですよと、ごゆっくりという言葉を小声で残し、その場を去って行った。
「なにかあったのか?」
それを見届けてから口を開いた黒鋼に、母が呆れたような溜息を漏らす。
『なにかあったのか、じゃないわ。あれからさっぱり連絡も寄越さないで』
「ああ、悪かった。どっちみち連絡はするつもりだったんだが」
それは本当のことだった。
仕事優先で後回しにしていたことは事実だが、今日にでもこちらから連絡をするつもりだった。
黒鋼には、母にどうしても聞きたいことがあったからだ。
「お袋、聞きてぇことがあるんだ」
『なにかしら』
「……前に言ってた、悪いものってやつなんだが」
母が小さく笑った気配がする。
『もう感じないわ。ちゃんと戻って行ったみたいね。帰るべきところに』
「そうか……」
それを聞いて、黒鋼は胸の痞えが取れたような気持ちになった。
星屑のようにまばらに存在していた全ての点が、一本の線で繋がったような安堵感にホッと息をつく。
それは今朝かかってきた一本の電話が発端だった。
大通りを駅へ向かって歩いていた黒鋼は、携帯の着信音に気付き、足を止めるとその着信に応じた。
相手は例の自殺未遂をはかった女の父親からだった。
ずっと病院のベッドで意識不明の重体だった女が、今朝、目を覚ましたと。
それを聞いた黒鋼は、なぜかファイと初めて会話をした夜のことを思い出した。
――清算してない過去があるなら、ちゃんとしといた方がいいよ。
そう言って彼は黒鋼ではなく、その背後を見てとても嫌そうな顔をしていた。そして拳を突き立て、『追い払った』のだ。
あの行動はずっと気になっていた。守ってあげるという言葉も。
そしてどうして札を貼りつけても部屋の怪異が治まらなかったのか。
父親からの知らせを聞いて、バラバラだと思っていた事柄が流れるように繋がった。
母は『悪いもの』に対して有効な札とお守りを送って寄越した。
だから怪異は治まらなかった。あれらは全てファイが起こしていたことだからだ。
そしてこの肩にずっしりと乗っていたのは。
『お札とお守りは、本当に短い間しか効果がなかったみたいね。でも、大丈夫そうでよかったわ』
母の言葉を聞きながら、首を切り裂く寸前の女の笑い顔を思い出す。
深い執着という名の化け物をその身に宿し、自分という存在を決して忘れられないようにと。
目の前で死のうとした女は結局一命を取り留め、長い眠りから覚めて意識を取り戻した。
父親は受話器越しに何度も何度も詫びを入れてきた。彼女が壊れてさえいなければ、もしかすれば『お義父さん』と呼ぶことになっていたかもしれない人。
彼女はもう少し意識がはっきりとしてきたら、しばらく精神病院に入院させることになっていると、彼は鼻をすすりながら話していた。
なんとなく、これでやっと全て清算しきれたような、そんな気がした。
「心配かけたな。お袋」
『そう思うなら、一度ちゃんと帰ってらっしゃい。裏山の桜がもうすぐ見頃よ』
「……桜か」
黒鋼は少しだけ口元を笑みの形に緩め、遠い目をした。
子供の頃よく遊んだ小さな裏山は、春になるとほぼ全域に渡って桜が満開に咲き誇る。
黒鋼にとっても自慢の場所だった。
三月も半ばを過ぎ、思えばファイと生活をしはじめてまだひと月ほどしか経っていないのかと思うと、不思議な気持ちになった。
もうずいぶん長く一緒にいるような気がして仕方がない。
ここのところ、ファイは少し元気がなかった。ふらりと外に出て行く機会も多くなって、あまり膝の上にも乗ってこなくなってしまったし、キスも滅多にしてこない。
彼を手放しがたくなっている黒鋼としては、逆にありがたいことではあるのだが。
もしかしたら、そろそろ潮時なのかもしれないと、そう考えることがある。
ファイがこの先どうなっていくのかは分からないが、彼は元々自分の気が済むまででいいと言っていたはずだ。あれがもう十分だと感じたとき、黒鋼に引き止める権利はなかった。
でも、一度くらいは。
近所に買い物に行く程度の『デート』すらしてやれなかった。
いつも家にいて好きにさせるばかりで、黒鋼は自ら率先して彼の望む『恋人』を演じてやったことがない。
思い出作りなんて、そんな柄ではないけれど。あの桜の山を、ファイに見せてやりたいと思った。
『お友達も連れてくるといいわ。見せてあげたらきっと喜ぶわよ』
ああ、やっぱりこの母は、全てを見透かしている。
*
「お花見?」
帰宅して、味噌汁とコンビニ弁当を二人で食べながら、黒鋼はさっそくファイを誘ってみた。
ソファに座って弁当の漬物を口に放り込む黒鋼を、床にぺたんと座ったファイが見上げてくる。おう、と短く答えると、彼はそれこそ花が咲いたように表情を明るくした。
「いいねー! こっちでもポツポツ咲いてるけど、裏山がぜんぶ桜の木なんて凄い景色なんだろうなー!」
「行くか。おまえさえ暇なら」
「あはは! オレがいっつも暇してるの知ってるくせにー!」
数日ぶりに聞いたファイの笑い声に、黒鋼もふっと小さく笑った。
けれど、彼はすぐに何かを思い出したように「でも」と表情を曇らせる。
「仕事は? お休みとるの難しいんじゃない?」
「いい。どうにかする」
「待ってよ。黒たん、オレのために無理してるわけじゃないよね……?」
「馬鹿。余計な心配すんじゃねぇ」
そう言って、黒鋼は自分の弁当の中に入っている卵焼きを、ファイの弁当箱に放り込んだ。甘い味つけはどうも好かない。
ファイは頬を赤らめながら黙ってそれを口に入れると、リスのように頬をもごもごさせながら食べる。それから、お返しとばかりに自分の分の魚のフライをこちらへ寄越した。
「メインを寄越すな。メインを。ひょろいんだからしっかり食え」
「どうせガリガリだよー。どんなに食べたって身にならないし」
それに、と言いながらファイは食べかけの弁当と箸をテーブルに置いた。
「なんかもう、嬉しくて胸がいっぱいなんだもん……」
両手を胸に重ねるように押し当て、ファイは相変わらず赤い頬で「はー」と息を吐き出す。
しょうがない奴だと思いつつ、素直に喜んでくれたことは黒鋼にとっても嬉しいことだった。
*
こないだキレちゃったしなー、とファイは夜空を見上げながらぼんやりと考えていた。
仰向けに寝転がるような姿勢で手足を投げ出して、夜の街の灯りをほんのりと反射した薄墨色の空を浮遊する。
黒鋼が眠ってからふらりと外に出たファイは、先刻からずっとこの姿勢のままぼうっとしていた。
「黒たんは優しいな」
なんとなく空に手を伸ばして、何もない空間を指先でなぞる。
先日、彼が酒と女の香りを纏って帰って来た晩。ファイは約束を破ってしまった。
日付が変わってもなかなか帰ってこない黒鋼を、いっそ探しに行こうかとすら思った。でも、思いとどまった。それは黒鋼が出した条件に反することだったし、仕事が不規則であることも知っている。
だからおとなしく待っていて、帰ってきたら何も聞かずにただおかえりを言うつもりでいた。なのに、それができなかった。
(あの人はオレのものじゃない。オレのものにはならない。絶対)
ちゃんと頭では分かっていて、納得もしていたはずだったのに。
あの時は逆上して、自分の感情を抑えられなくなってしまった。
思えばこうなることは最初から分かっていたはずだ。黒鋼はファイの理想のタイプだったし、そんな相手と『恋人』という肩書のもと同じ空間で生活していれば、本気になってしまうのは当たり前だった。
ちょっといい思いができればそれでいいと、そうやって甘い香りを振りまく花に安易にたかって。なんの怪我もなく終われるはずがなかったのに。
頭を冷やすと言って外に逃げ出して、あの時もこうしてずっと空に浮かんでいた。
そのまま黒鋼の元から去ろうかとも考えたし、一瞬、弟の元へ行ってみようかとも思った。
でも、やっぱり勇気が出なかった。開き直ったつもりでいたくせに、本当は寂しくてたまらなくて、そして今の自分の置かれた状況を受け入れられないでいる。
自分はその弱さを黒鋼で埋めようとしただけだ。大きくて優しい、温かな止まり木が欲しかった。
結局、ちゃんと謝ろうと部屋に戻ったファイを黒鋼は待っていた。
約束を破った自分を、彼はただ「泣くな」というだけで責めなかった。甘いチョコレートとクッキーもあって、黒鋼は泣き止んだファイの口の中にチョコを放り込んで少しだけ笑った。
優しい人。優しくて、酷い人。
自分の中に本当に未練があったのかは分からない。でも、彼と出会って、触れているうちに、むしろハッキリと形作られてしまった。だけど。
「そろそろ終わらせないとね。夢ばっかり見てもいられないからさ」
明日は雨が降るかもしれないなと思った。少し冷えた風の中に、微かな雨の匂いを嗅ぎ分ける。朝、黒鋼が仕事に行くときは念のため、折り畳み傘を忘れないように言わなければ。
「桜、散らないといいな」
黒鋼の実家がどこにあるかは知らないけれど、もし雨に台無しにされたら嫌だなと思う。
もしこの間のように急な仕事が入って予定が潰れてしまったとしても、一年に一度しか咲けない花ならば、ちゃんと美しく咲いてほしい。
一緒に桜を見に行けても行けなくても。
そろそろ、潮時だ。
←戻る ・ 次へ→
取引先への定期訪問を終えたのは、昼時をちょうど過ぎた頃だった。
会社に戻る前に昼食を済ませてしまおうと、目についたファミレスに入った黒鋼は窓際の席についた。なんとなく癖で喫煙席を選んでしまったことに気付いたが、店員が水を運んできたため、結局は動かずその日の日替わりランチを適当に注文した。
煙草はすっかりやめたのだ。そう割り切ってしまうと、禁煙は意外と楽に成功していた。
スーツのジャケットを脱ぎ、ワイシャツの胸ポケットからマナーモードにしていた携帯を取り出すと、着信を知らせるランプが点滅していることに気が付く。
そのうち何件かは派遣スタッフからの報告メールで、ざっと目を通したあとに着信履歴を見る。一件だけのそれは母からのものだった。
黒鋼はすぐに画面から目を離すと、周りを軽く見回して客がいないことを確認した。
ささやかなジャズが流れるだけで、ラッシュを過ぎた店内にはまったりとした雰囲気が漂っている。
そして再び画面に視線を戻すと、発信ボタンを押した。
何度目かのコールで電話に出た母は、挨拶代りの小言の後で「調子がよさそうでよかったわ」と言った。
まぁなと返したところで、店員が食事を運んできた。チキンカツにスープとサラダ、ライスがついたセットをテーブルに並べてゆく男性店員は、携帯電話を耳に押し当てる黒鋼にこれといって顔色を変えることはなかったが、一応は片手を上げて目配せする。
店員は結構ですよと、ごゆっくりという言葉を小声で残し、その場を去って行った。
「なにかあったのか?」
それを見届けてから口を開いた黒鋼に、母が呆れたような溜息を漏らす。
『なにかあったのか、じゃないわ。あれからさっぱり連絡も寄越さないで』
「ああ、悪かった。どっちみち連絡はするつもりだったんだが」
それは本当のことだった。
仕事優先で後回しにしていたことは事実だが、今日にでもこちらから連絡をするつもりだった。
黒鋼には、母にどうしても聞きたいことがあったからだ。
「お袋、聞きてぇことがあるんだ」
『なにかしら』
「……前に言ってた、悪いものってやつなんだが」
母が小さく笑った気配がする。
『もう感じないわ。ちゃんと戻って行ったみたいね。帰るべきところに』
「そうか……」
それを聞いて、黒鋼は胸の痞えが取れたような気持ちになった。
星屑のようにまばらに存在していた全ての点が、一本の線で繋がったような安堵感にホッと息をつく。
それは今朝かかってきた一本の電話が発端だった。
大通りを駅へ向かって歩いていた黒鋼は、携帯の着信音に気付き、足を止めるとその着信に応じた。
相手は例の自殺未遂をはかった女の父親からだった。
ずっと病院のベッドで意識不明の重体だった女が、今朝、目を覚ましたと。
それを聞いた黒鋼は、なぜかファイと初めて会話をした夜のことを思い出した。
――清算してない過去があるなら、ちゃんとしといた方がいいよ。
そう言って彼は黒鋼ではなく、その背後を見てとても嫌そうな顔をしていた。そして拳を突き立て、『追い払った』のだ。
あの行動はずっと気になっていた。守ってあげるという言葉も。
そしてどうして札を貼りつけても部屋の怪異が治まらなかったのか。
父親からの知らせを聞いて、バラバラだと思っていた事柄が流れるように繋がった。
母は『悪いもの』に対して有効な札とお守りを送って寄越した。
だから怪異は治まらなかった。あれらは全てファイが起こしていたことだからだ。
そしてこの肩にずっしりと乗っていたのは。
『お札とお守りは、本当に短い間しか効果がなかったみたいね。でも、大丈夫そうでよかったわ』
母の言葉を聞きながら、首を切り裂く寸前の女の笑い顔を思い出す。
深い執着という名の化け物をその身に宿し、自分という存在を決して忘れられないようにと。
目の前で死のうとした女は結局一命を取り留め、長い眠りから覚めて意識を取り戻した。
父親は受話器越しに何度も何度も詫びを入れてきた。彼女が壊れてさえいなければ、もしかすれば『お義父さん』と呼ぶことになっていたかもしれない人。
彼女はもう少し意識がはっきりとしてきたら、しばらく精神病院に入院させることになっていると、彼は鼻をすすりながら話していた。
なんとなく、これでやっと全て清算しきれたような、そんな気がした。
「心配かけたな。お袋」
『そう思うなら、一度ちゃんと帰ってらっしゃい。裏山の桜がもうすぐ見頃よ』
「……桜か」
黒鋼は少しだけ口元を笑みの形に緩め、遠い目をした。
子供の頃よく遊んだ小さな裏山は、春になるとほぼ全域に渡って桜が満開に咲き誇る。
黒鋼にとっても自慢の場所だった。
三月も半ばを過ぎ、思えばファイと生活をしはじめてまだひと月ほどしか経っていないのかと思うと、不思議な気持ちになった。
もうずいぶん長く一緒にいるような気がして仕方がない。
ここのところ、ファイは少し元気がなかった。ふらりと外に出て行く機会も多くなって、あまり膝の上にも乗ってこなくなってしまったし、キスも滅多にしてこない。
彼を手放しがたくなっている黒鋼としては、逆にありがたいことではあるのだが。
もしかしたら、そろそろ潮時なのかもしれないと、そう考えることがある。
ファイがこの先どうなっていくのかは分からないが、彼は元々自分の気が済むまででいいと言っていたはずだ。あれがもう十分だと感じたとき、黒鋼に引き止める権利はなかった。
でも、一度くらいは。
近所に買い物に行く程度の『デート』すらしてやれなかった。
いつも家にいて好きにさせるばかりで、黒鋼は自ら率先して彼の望む『恋人』を演じてやったことがない。
思い出作りなんて、そんな柄ではないけれど。あの桜の山を、ファイに見せてやりたいと思った。
『お友達も連れてくるといいわ。見せてあげたらきっと喜ぶわよ』
ああ、やっぱりこの母は、全てを見透かしている。
*
「お花見?」
帰宅して、味噌汁とコンビニ弁当を二人で食べながら、黒鋼はさっそくファイを誘ってみた。
ソファに座って弁当の漬物を口に放り込む黒鋼を、床にぺたんと座ったファイが見上げてくる。おう、と短く答えると、彼はそれこそ花が咲いたように表情を明るくした。
「いいねー! こっちでもポツポツ咲いてるけど、裏山がぜんぶ桜の木なんて凄い景色なんだろうなー!」
「行くか。おまえさえ暇なら」
「あはは! オレがいっつも暇してるの知ってるくせにー!」
数日ぶりに聞いたファイの笑い声に、黒鋼もふっと小さく笑った。
けれど、彼はすぐに何かを思い出したように「でも」と表情を曇らせる。
「仕事は? お休みとるの難しいんじゃない?」
「いい。どうにかする」
「待ってよ。黒たん、オレのために無理してるわけじゃないよね……?」
「馬鹿。余計な心配すんじゃねぇ」
そう言って、黒鋼は自分の弁当の中に入っている卵焼きを、ファイの弁当箱に放り込んだ。甘い味つけはどうも好かない。
ファイは頬を赤らめながら黙ってそれを口に入れると、リスのように頬をもごもごさせながら食べる。それから、お返しとばかりに自分の分の魚のフライをこちらへ寄越した。
「メインを寄越すな。メインを。ひょろいんだからしっかり食え」
「どうせガリガリだよー。どんなに食べたって身にならないし」
それに、と言いながらファイは食べかけの弁当と箸をテーブルに置いた。
「なんかもう、嬉しくて胸がいっぱいなんだもん……」
両手を胸に重ねるように押し当て、ファイは相変わらず赤い頬で「はー」と息を吐き出す。
しょうがない奴だと思いつつ、素直に喜んでくれたことは黒鋼にとっても嬉しいことだった。
*
こないだキレちゃったしなー、とファイは夜空を見上げながらぼんやりと考えていた。
仰向けに寝転がるような姿勢で手足を投げ出して、夜の街の灯りをほんのりと反射した薄墨色の空を浮遊する。
黒鋼が眠ってからふらりと外に出たファイは、先刻からずっとこの姿勢のままぼうっとしていた。
「黒たんは優しいな」
なんとなく空に手を伸ばして、何もない空間を指先でなぞる。
先日、彼が酒と女の香りを纏って帰って来た晩。ファイは約束を破ってしまった。
日付が変わってもなかなか帰ってこない黒鋼を、いっそ探しに行こうかとすら思った。でも、思いとどまった。それは黒鋼が出した条件に反することだったし、仕事が不規則であることも知っている。
だからおとなしく待っていて、帰ってきたら何も聞かずにただおかえりを言うつもりでいた。なのに、それができなかった。
(あの人はオレのものじゃない。オレのものにはならない。絶対)
ちゃんと頭では分かっていて、納得もしていたはずだったのに。
あの時は逆上して、自分の感情を抑えられなくなってしまった。
思えばこうなることは最初から分かっていたはずだ。黒鋼はファイの理想のタイプだったし、そんな相手と『恋人』という肩書のもと同じ空間で生活していれば、本気になってしまうのは当たり前だった。
ちょっといい思いができればそれでいいと、そうやって甘い香りを振りまく花に安易にたかって。なんの怪我もなく終われるはずがなかったのに。
頭を冷やすと言って外に逃げ出して、あの時もこうしてずっと空に浮かんでいた。
そのまま黒鋼の元から去ろうかとも考えたし、一瞬、弟の元へ行ってみようかとも思った。
でも、やっぱり勇気が出なかった。開き直ったつもりでいたくせに、本当は寂しくてたまらなくて、そして今の自分の置かれた状況を受け入れられないでいる。
自分はその弱さを黒鋼で埋めようとしただけだ。大きくて優しい、温かな止まり木が欲しかった。
結局、ちゃんと謝ろうと部屋に戻ったファイを黒鋼は待っていた。
約束を破った自分を、彼はただ「泣くな」というだけで責めなかった。甘いチョコレートとクッキーもあって、黒鋼は泣き止んだファイの口の中にチョコを放り込んで少しだけ笑った。
優しい人。優しくて、酷い人。
自分の中に本当に未練があったのかは分からない。でも、彼と出会って、触れているうちに、むしろハッキリと形作られてしまった。だけど。
「そろそろ終わらせないとね。夢ばっかり見てもいられないからさ」
明日は雨が降るかもしれないなと思った。少し冷えた風の中に、微かな雨の匂いを嗅ぎ分ける。朝、黒鋼が仕事に行くときは念のため、折り畳み傘を忘れないように言わなければ。
「桜、散らないといいな」
黒鋼の実家がどこにあるかは知らないけれど、もし雨に台無しにされたら嫌だなと思う。
もしこの間のように急な仕事が入って予定が潰れてしまったとしても、一年に一度しか咲けない花ならば、ちゃんと美しく咲いてほしい。
一緒に桜を見に行けても行けなくても。
そろそろ、潮時だ。
←戻る ・ 次へ→
触れたい、触れられない
定時を二時間ほど過ぎた辺りで明日が期限の資料作成を終えた黒鋼は、その後何人かの同僚と行きつけの居酒屋に入った。
疲れからかすぐに酔い潰れてゆく面々の中、後輩が零した弱音に喝とさりげないフォローを入れたところでお開きになった飲み会は、けっきょく黒鋼一人が勘定を払う羽目になってしまった。
なんて手のかかる連中だろうかと辟易としながらも、一人一人をタクシーに乗せてやり、方向が一緒の同僚の一人と共に自分もタクシーで帰宅する頃には、日付はとうの昔に変わっていた。
*
「帰ったぞ」
鞄と一緒にコンビニのビニール袋を手にした黒鋼がリビングに顔を出すと、床に座り込んでテーブルに突っ伏していたファイがハッとして顔を上げた。居眠りをしていたのだろうか。
そもそも幽霊も寝るのかよと少し呆れる黒鋼のもとに、彼は少し焦った様子で床を蹴り、身体を浮かして近寄って来る。
「く、黒様!」
「おう。どうした?」
いつもなら帰ってくれば飛び付いてくるのに、ファイはただ側に寄って来ただけで視線を右下に伏せた。
同時に床から浮いていた素足がすとんと落ちるのを見て、黒鋼はわずかに首を傾げる。彼がこうしてまともに地に足をついている姿と向き合うのは、これが初めてかもしれない。
「あ、えと。いつもより帰りが遅かったから、何かあったのかなーって。おかえり」
「……ああ、悪い。ちょっと付き合いでな」
「そっか。あの、ほら、最近はずっと帰りが早かったから」
そこでファイは一度言葉を切った。少しバツが悪そうに睫毛を伏せ、肩を竦めて見せたあと、誤魔化すようににっこりと笑う。明らかに無理をして作っていると分かる笑顔だった。
「ごめんねー。別にうるさく言おうとかじゃないんだけど、なんていうか」
彼がこんなにも歯切れの悪い物言いをするのは初めてのことだった。
確かにここのところは仕事も落ち着いていて、割と早い時間に帰宅していた。今日のように突発的に帰りが遅くなるときは連絡の一つも出来ればいいのだろうが、彼は通信するための手段を何も持っていない。携帯があれば済んでしまうため、ここには電話機もない。
おそらく心配して待っていたのだろう。けれど彼は黒鋼が出した条件のせいで、そのごく自然な一言すら口にできないでいる。
自分が望んで引いた一線であると分かっていながら、もどかしさを感じた。
何か言ってやろうと口を開きかけたとき、ファイがすんと鼻を鳴らし、何かに気付いたように見上げてきた。
「……おんなのひと?」
「?」
ファイの両手が伸びて、スーツのジャケットの襟をそれぞれ掴まれた。彼は顔を寄せてすんすんとさらに鼻を鳴らすと、一瞬で離れていった。
「お酒と、香水の匂いがする……」
白い眉間にきゅうっと皺が寄るのを見て、黒鋼はしまったと思った。
「黒たん、女の人といたんだ」
「馬鹿、違う。これは同僚の」
「いいよ、別に」
「おい聞け。誤解すんな」
「いいってば!!」
ファイは俯き、前髪に表情を隠しながら声を荒げた。空気が冷たく凍りつくのを感じて、黒鋼は咄嗟に口を噤む。
「気にすることないよ。黒たんが外で何してたって、オレに関係ないのは分かってるし……そういう、約束だし」
ファイはシャツの裾を両手で強く握りしめていた。その拳が小さく震えている。
くそ、と自分に対して内心で毒づく。迂闊だった。方向が同じで、一緒にタクシーに乗り込んだ同僚は女で、彼女は酷く酔っていた。
背もたれに背中を預けることも出来ずに、ぐったりと黒鋼の胸に雪崩れ込んできた。もちろん、この男が誤解しているようなことは何一つない。
「だから話を聞け。これは」
「ごめん。頭冷やしてくる」
黒鋼の声を遮って、彼はふわりと身体を浮かせるとカーテンの向こうへ逃げるように姿を消した。
*
ファイはその晩、戻らなかった。
悶々としたまま夜を明かし、朝方に少しだけ眠った黒鋼はその日一日ずっと不機嫌で、前の晩に世話をした面々が恐縮して頭を下げてきたりもしたが、構ってる余裕もなかった。
そして無理やり仕事を切り上げ定時を僅かに過ぎた時間に帰宅しても、やっぱりファイの姿はどこにもなかった。
風呂に入り、冷蔵庫からビールを取り出すとその場で開けた。
口をつけながら移動して、リビング側からキッチンのカウンターに腰を預けた。自分以外誰もいない部屋の、誰も座っていないソファを眺める。
テーブルの上には昨日買ってきたコンビニの袋が手つかずで置き去りにされていた。中身はチョコレートやクッキーなどの甘い菓子類だ。
昨夜、マンションより少し手前でタクシーを降りた黒鋼が、コンビニに寄って買ってきたものだった。こんなものを好き好んで食べたがる人間など、一人しかいない。
カウンターにビールの缶を置いて、腕を組むと溜息をつく。
「なにやってんだ。俺は」
昨日、明らかに誤解しているファイに向かって、自分は本気で弁解していた。
疑われることが不本意である以前に、もし余計な不安を抱いて彼が傷つくのだとしたら、そんな必要はないのだと教えてやりたかった。
やましいことなど何もないと、おまえが気にするようなことは一切ないのだと。
まるで一途な恋をしているようだ。
今だってこんなにも苛立っている。そして寄り添うように、小さな不安と焦りが息を殺して黒鋼の中に潜んでいた。
もしこのまま戻って来なかったら。あんな別れ方をして、後悔だけを残して。
どうしてだろう。自分はあの、男しか愛せないという幽霊に一時の夢を与えてやっていたに過ぎないはずなのに。
そのときふと、気配を感じた。黒鋼は瞬時に苛立ちが安堵に変わるのを押し隠し、ただ鼻から小さく息を漏らした。
「遅ぇぞ。どこほっつき歩いてた」
腕を組んだまま、視線を横に走らせた。
リビングの入り口に立ち尽くすファイは、俯いたまま昨日と同じようにシャツの裾を握りしめ、立ち尽くしていた。
「…………」
彼は何も言わず、素足でひたひたと音を立てながら近づいてくる。
両手を解き、カウンターから腰を離した黒鋼が身体を向けると、あと少しというところで立ち止まった。
「……おい」
なにか言え、という言葉が続く前に、ファイが胸に飛び込んでくる。細長い両腕が、いつもように浮かんだ状態の高い場所からではなく、下から伸びて首に巻き付いた。
「ッ……」
「ごめん……」
「…………」
「約束、破ってごめんなさい」
地に足をついたファイは、黒鋼よりも頭一つ分は軽く背が低かった。
彼は決して小柄ではない。長身で、手足もすらりと伸びていて。けれど、大柄な黒鋼からすればずっとか細くて、小さなものに思えてしまう。
ふと口元が緩んだのは、首筋に押し付けられる柔らかな髪の感触がくすぐったいからだろうか。それとも。
「顔、見せてみろ」
「…………」
ファイは何も言わず、少しのあいだ沈黙が流れた。
やがてそろりと首に回されていた両手が解かれ、肩に添えられる。澄み渡る冬空のような右の青と、おそらく視力が失われているのであろう、うっすらと白く濁った左目。その二つの瞳は、今にも零れ落ちそうなほど悲しげに潤んでいた。
噛み締められた唇を震わせ、泣くことを必死に堪えようとする表情に、小さく息を漏らすように笑ってしまった。
「そんな顔するぐれぇならとっとと帰ってこい。この阿呆」
「……ごめん。ごめんね……嫌な気持ちにさせちゃったよね……」
「もういい。だから」
泣くなよという言葉は、囁くような音にしかならなかった。
青い右目から、一筋だけ落ちた雫が白い頬を濡らした。黒鋼はそこに指先を這わせようとする。泣くなと、もう一度だけ絞り出すように低く囁いて、親指の腹で涙を拭ってやろうとした。
でも、やっぱり触れられなかった。彼の頬に溶けるようにして自分の指先が埋もれる。
その虚しさにすっと目を細めながら、初めて自分から触れたいと思ってしまったことに気付く。
「……やっぱ、触れねぇんだな」
ファイはどこか寂しそうな、諦めきったような静かな笑みを浮かべた。
胸が締め付けられるような気がした。もし今この瞬間、彼を抱きしめてやることができたなら。この痛いほどの切なさと疼きは治まるだろうか。胸にぽっかりと口を開けるもどかしさは、埋まるだろうか。
黒鋼の中で、形のない何かが音を立てて溢れだしそうになっていた。
「黒様は、生きてるからね」
そんなことは最初から知っているはずだった。
なのにどうしてか今、黒鋼は色濃い絶望を味わっている。
こんなはずではなかった。不自然な出会いを経て、不自然な恋人契約を交わし、いずれ消えていなくなるまで付き合ってやれば、それで終わるはずだった。何もない、誰もいない、ただ仕事に追われながら生きていくだけで十分な生活を取り戻すために。
それなのに。絆されて、惹かれはじめている自分を、そろそろ誤魔化しきれなくなっていた。
生きて生身の身体を持つ黒鋼と、すでに肉体が失われ、彷徨うだけの魂であるファイ。
どれだけ足掻いても、同じ空間で地に足をつけていても、底の見えない溝で二人は隔たれている。
だからこの気持ちには蓋をするしかない。
「やっぱり、やめておけばよかったね」
このまま気づかないふりをして、ブレーキをかけて、殺さなければならない。
「どんどん未練が膨らんでくよ」
泣きながら笑って、ファイはそっと離れていった。
←戻る ・ 次へ→
定時を二時間ほど過ぎた辺りで明日が期限の資料作成を終えた黒鋼は、その後何人かの同僚と行きつけの居酒屋に入った。
疲れからかすぐに酔い潰れてゆく面々の中、後輩が零した弱音に喝とさりげないフォローを入れたところでお開きになった飲み会は、けっきょく黒鋼一人が勘定を払う羽目になってしまった。
なんて手のかかる連中だろうかと辟易としながらも、一人一人をタクシーに乗せてやり、方向が一緒の同僚の一人と共に自分もタクシーで帰宅する頃には、日付はとうの昔に変わっていた。
*
「帰ったぞ」
鞄と一緒にコンビニのビニール袋を手にした黒鋼がリビングに顔を出すと、床に座り込んでテーブルに突っ伏していたファイがハッとして顔を上げた。居眠りをしていたのだろうか。
そもそも幽霊も寝るのかよと少し呆れる黒鋼のもとに、彼は少し焦った様子で床を蹴り、身体を浮かして近寄って来る。
「く、黒様!」
「おう。どうした?」
いつもなら帰ってくれば飛び付いてくるのに、ファイはただ側に寄って来ただけで視線を右下に伏せた。
同時に床から浮いていた素足がすとんと落ちるのを見て、黒鋼はわずかに首を傾げる。彼がこうしてまともに地に足をついている姿と向き合うのは、これが初めてかもしれない。
「あ、えと。いつもより帰りが遅かったから、何かあったのかなーって。おかえり」
「……ああ、悪い。ちょっと付き合いでな」
「そっか。あの、ほら、最近はずっと帰りが早かったから」
そこでファイは一度言葉を切った。少しバツが悪そうに睫毛を伏せ、肩を竦めて見せたあと、誤魔化すようににっこりと笑う。明らかに無理をして作っていると分かる笑顔だった。
「ごめんねー。別にうるさく言おうとかじゃないんだけど、なんていうか」
彼がこんなにも歯切れの悪い物言いをするのは初めてのことだった。
確かにここのところは仕事も落ち着いていて、割と早い時間に帰宅していた。今日のように突発的に帰りが遅くなるときは連絡の一つも出来ればいいのだろうが、彼は通信するための手段を何も持っていない。携帯があれば済んでしまうため、ここには電話機もない。
おそらく心配して待っていたのだろう。けれど彼は黒鋼が出した条件のせいで、そのごく自然な一言すら口にできないでいる。
自分が望んで引いた一線であると分かっていながら、もどかしさを感じた。
何か言ってやろうと口を開きかけたとき、ファイがすんと鼻を鳴らし、何かに気付いたように見上げてきた。
「……おんなのひと?」
「?」
ファイの両手が伸びて、スーツのジャケットの襟をそれぞれ掴まれた。彼は顔を寄せてすんすんとさらに鼻を鳴らすと、一瞬で離れていった。
「お酒と、香水の匂いがする……」
白い眉間にきゅうっと皺が寄るのを見て、黒鋼はしまったと思った。
「黒たん、女の人といたんだ」
「馬鹿、違う。これは同僚の」
「いいよ、別に」
「おい聞け。誤解すんな」
「いいってば!!」
ファイは俯き、前髪に表情を隠しながら声を荒げた。空気が冷たく凍りつくのを感じて、黒鋼は咄嗟に口を噤む。
「気にすることないよ。黒たんが外で何してたって、オレに関係ないのは分かってるし……そういう、約束だし」
ファイはシャツの裾を両手で強く握りしめていた。その拳が小さく震えている。
くそ、と自分に対して内心で毒づく。迂闊だった。方向が同じで、一緒にタクシーに乗り込んだ同僚は女で、彼女は酷く酔っていた。
背もたれに背中を預けることも出来ずに、ぐったりと黒鋼の胸に雪崩れ込んできた。もちろん、この男が誤解しているようなことは何一つない。
「だから話を聞け。これは」
「ごめん。頭冷やしてくる」
黒鋼の声を遮って、彼はふわりと身体を浮かせるとカーテンの向こうへ逃げるように姿を消した。
*
ファイはその晩、戻らなかった。
悶々としたまま夜を明かし、朝方に少しだけ眠った黒鋼はその日一日ずっと不機嫌で、前の晩に世話をした面々が恐縮して頭を下げてきたりもしたが、構ってる余裕もなかった。
そして無理やり仕事を切り上げ定時を僅かに過ぎた時間に帰宅しても、やっぱりファイの姿はどこにもなかった。
風呂に入り、冷蔵庫からビールを取り出すとその場で開けた。
口をつけながら移動して、リビング側からキッチンのカウンターに腰を預けた。自分以外誰もいない部屋の、誰も座っていないソファを眺める。
テーブルの上には昨日買ってきたコンビニの袋が手つかずで置き去りにされていた。中身はチョコレートやクッキーなどの甘い菓子類だ。
昨夜、マンションより少し手前でタクシーを降りた黒鋼が、コンビニに寄って買ってきたものだった。こんなものを好き好んで食べたがる人間など、一人しかいない。
カウンターにビールの缶を置いて、腕を組むと溜息をつく。
「なにやってんだ。俺は」
昨日、明らかに誤解しているファイに向かって、自分は本気で弁解していた。
疑われることが不本意である以前に、もし余計な不安を抱いて彼が傷つくのだとしたら、そんな必要はないのだと教えてやりたかった。
やましいことなど何もないと、おまえが気にするようなことは一切ないのだと。
まるで一途な恋をしているようだ。
今だってこんなにも苛立っている。そして寄り添うように、小さな不安と焦りが息を殺して黒鋼の中に潜んでいた。
もしこのまま戻って来なかったら。あんな別れ方をして、後悔だけを残して。
どうしてだろう。自分はあの、男しか愛せないという幽霊に一時の夢を与えてやっていたに過ぎないはずなのに。
そのときふと、気配を感じた。黒鋼は瞬時に苛立ちが安堵に変わるのを押し隠し、ただ鼻から小さく息を漏らした。
「遅ぇぞ。どこほっつき歩いてた」
腕を組んだまま、視線を横に走らせた。
リビングの入り口に立ち尽くすファイは、俯いたまま昨日と同じようにシャツの裾を握りしめ、立ち尽くしていた。
「…………」
彼は何も言わず、素足でひたひたと音を立てながら近づいてくる。
両手を解き、カウンターから腰を離した黒鋼が身体を向けると、あと少しというところで立ち止まった。
「……おい」
なにか言え、という言葉が続く前に、ファイが胸に飛び込んでくる。細長い両腕が、いつもように浮かんだ状態の高い場所からではなく、下から伸びて首に巻き付いた。
「ッ……」
「ごめん……」
「…………」
「約束、破ってごめんなさい」
地に足をついたファイは、黒鋼よりも頭一つ分は軽く背が低かった。
彼は決して小柄ではない。長身で、手足もすらりと伸びていて。けれど、大柄な黒鋼からすればずっとか細くて、小さなものに思えてしまう。
ふと口元が緩んだのは、首筋に押し付けられる柔らかな髪の感触がくすぐったいからだろうか。それとも。
「顔、見せてみろ」
「…………」
ファイは何も言わず、少しのあいだ沈黙が流れた。
やがてそろりと首に回されていた両手が解かれ、肩に添えられる。澄み渡る冬空のような右の青と、おそらく視力が失われているのであろう、うっすらと白く濁った左目。その二つの瞳は、今にも零れ落ちそうなほど悲しげに潤んでいた。
噛み締められた唇を震わせ、泣くことを必死に堪えようとする表情に、小さく息を漏らすように笑ってしまった。
「そんな顔するぐれぇならとっとと帰ってこい。この阿呆」
「……ごめん。ごめんね……嫌な気持ちにさせちゃったよね……」
「もういい。だから」
泣くなよという言葉は、囁くような音にしかならなかった。
青い右目から、一筋だけ落ちた雫が白い頬を濡らした。黒鋼はそこに指先を這わせようとする。泣くなと、もう一度だけ絞り出すように低く囁いて、親指の腹で涙を拭ってやろうとした。
でも、やっぱり触れられなかった。彼の頬に溶けるようにして自分の指先が埋もれる。
その虚しさにすっと目を細めながら、初めて自分から触れたいと思ってしまったことに気付く。
「……やっぱ、触れねぇんだな」
ファイはどこか寂しそうな、諦めきったような静かな笑みを浮かべた。
胸が締め付けられるような気がした。もし今この瞬間、彼を抱きしめてやることができたなら。この痛いほどの切なさと疼きは治まるだろうか。胸にぽっかりと口を開けるもどかしさは、埋まるだろうか。
黒鋼の中で、形のない何かが音を立てて溢れだしそうになっていた。
「黒様は、生きてるからね」
そんなことは最初から知っているはずだった。
なのにどうしてか今、黒鋼は色濃い絶望を味わっている。
こんなはずではなかった。不自然な出会いを経て、不自然な恋人契約を交わし、いずれ消えていなくなるまで付き合ってやれば、それで終わるはずだった。何もない、誰もいない、ただ仕事に追われながら生きていくだけで十分な生活を取り戻すために。
それなのに。絆されて、惹かれはじめている自分を、そろそろ誤魔化しきれなくなっていた。
生きて生身の身体を持つ黒鋼と、すでに肉体が失われ、彷徨うだけの魂であるファイ。
どれだけ足掻いても、同じ空間で地に足をつけていても、底の見えない溝で二人は隔たれている。
だからこの気持ちには蓋をするしかない。
「やっぱり、やめておけばよかったね」
このまま気づかないふりをして、ブレーキをかけて、殺さなければならない。
「どんどん未練が膨らんでくよ」
泣きながら笑って、ファイはそっと離れていった。
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へたくそ、健気
真昼間。
カーテンを開け放った窓の向こうには、ビルやマンションが群れをなす光景が広がっている。よく晴れた青い空を一直線に走る飛行機雲が、途中でぷつりと切れていた。
絵に描いたように爽やかな、日曜日の光景。
時間がいつもよりゆったりと過ぎてゆくような、のんびりとした穏やかさ。
そんなまったりとした空間に、先刻から不釣合いな水音が響いている。
「ふおはん、ひもふい?」
おそらく『黒たん、気持ちい?』と聞いているのだろう。
黒鋼は窓の外へ向けていた視線と意識を自分の身体の中心に向けた。
どういうわけか、ソファに両足を開いて座っている自分の正面で、床にペタリと腰を下ろしたファイが股間に顔を埋めている。
両手で太い竿をしっかりと握って、亀頭をぱっくりと口の中に押し込めながら見上げてくる瞳と目が合った。
はっきり言って、まったく気持ちよくない。
「んー、ぜんぜん硬くならないー」
ファイは性器からいったん口を離すと、眉を八の字に下げてぷうっと唇を膨らませた。
なんでかなぁ、と小首を傾げる姿に「当たり前ぇだ」と吐き捨てる。
だいたいこんな状況に陥っていること自体が不本意だ。決して納得していない。
なにより、ファイは猛烈に下手くそだった。
残業ありきの職場で休日出勤も当たり前の黒鋼にとって、丸一日休める日は月に1、2度あればいい方だった。土日祝日などほとんど意味がない。
たまにゆっくりできそうかと思えば朝っぱらから携帯が鳴り、平日さながらの労働を強いられることは日常茶飯事だった。
昨日は派遣先スタッフの相次ぐ欠員の補充に追われ、今日は今日とて持ち帰って来た仕事を片付けるため、午前中は寝室の机でずっとパソコンと向き合っていた。
その間ファイはふらっとどこかへ消えたかと思えばひょっこり顔をだし、肩や背中にベタベタと付きまとってきたが、邪魔というほどでもなかったので適当に無視しておいた。
彼は普段よく喋る方だが、こちらに気を使ってか口を開くことはほとんどなかった。ただくっついていたいだけらしい。
そして昼近くなった頃、気づくとファイの姿がまた消えていた。
休憩でもするかと部屋から出ると、彼はお茶を淹れてリビングで待っていた。
気が利くなと褒めてやると、ファイは頬を赤らめて嬉しそうに笑った。
ソファで一息ついている間も、彼は膝の上に横座りして首にぎゅっとしがみついていた。たまにツンツンの黒髪をいじってはクスクスと楽しそうな笑い声をあげていた。
一体なにがそんな楽しいのか、黒鋼にはさっぱり分からない。ただ、不思議なことに悪い気はしなかった。
「黒たんの髪って硬いねー。オレの髪とぜんぜん違うやー」
「おまえのは見るからにふにゃふにゃだな。癖毛か?」
「ちょっとねー。触れなくて残念でしょー?」
「バカ言ってんじゃねぇ」
確かに自分の意思で触れることはできない。
だが、ファイが頬ずりをしてくればその感触は黒鋼の頬にも伝わってくる。
くすぐったくて、柔らかくて、綿毛のようにふわりと躍る髪だった。
ファイは「ふふ」と笑って、黒鋼の目尻にキスをする。それさえもくすぐったい。
「本当にこんなんで満足なのか。おまえは」
なんとなく口から飛び出した問いかけに、ファイは小首を傾げて見せる。
「どうしてー?」
「できてんのか。燃えるような恋ってやつ」
「ふふ」
肩を竦め、膝の上でファイが笑う。見上げれば間近で目が合った。片方だけがほんのりと濁った両目が、いつになく潤んで見える。
白い指先が黒鋼の下唇をそっとなぞり、僅かな間のあと長い睫が伏せられたのと同時に、一瞬だけ唇を塞がれる。
その生暖かい感触はすぐに離れ、ファイの左手が黒鋼の右頬を包むように撫でた。
「……ねぇ、もっと満足できるようなこと、してもいい?」
囁くような声に、なにを、と問う前にファイが床に膝をついた。
黒いジャージを部屋着にしている黒鋼の身体の中心に手がかかる。
「おい、おまえまさか」
「心配しないでー。最後まではしないよー」
「お、おい」
「今ちょっとそういう気分なの」
遠ざけようとして通り抜けた手に、思わず舌打ちが漏れる。
その間にファイは黒鋼のウエストに手をかけ、手早く中のブツを取り出してしまった。
「わぁ、おっきい」
「やめとけ……流石に無理だぞ」
「嫌?」
性器を両手に持ち、下から見上げてくる濡れた瞳になぜか何も言い返せない。
柔らかな手の平の感触が、どうしてか不快なものではなかった。口では無理だと言いつつ、嫌悪感がまるでない。
思えばシモの処理はここのところめっきりだった。だから溜まっている。男に触られて本気で抵抗する気が起きないのは、きっとそのせいだと自分に言い訳をした。
ものは試し、という言葉もある。
「目、閉じてていいよ。よそ見しててもいいし」
そう言って、ファイは手の中の性器にキスをした。
そして今に至るわけだが。
「ッ、て! イテェぞこら。噛むな」
「らっへー、ふぉっひいんあおうー」
「喋べるなら口を離せ……」
「だってー、おっきいんだもんー。顎が疲れちゃうよー」
むーっと眉間に皺を寄せながら、ファイは不満の声を漏らす。まるでこちらが悪いような言い方をされて、少しムッとした。
だいたい、慣れたていを装って触れてきたのはこいつの方だ。男の身体は男が一番分かるというし、さぞかしハイレベルなテクニックを持っているのかと思いきや、この有様とは。
「もういい。やめとけ」
「やだー! ここまで来たら、ぜったい気持ちよくなってもらうのー!」
「もういいっつってんだよ!」
「あむ、ぅー」
ファイは制止を無視して、懲りずにまた口の中に性器を押し込めた。
狭い口内は生温くて、そしてやっぱり歯が当たる。
黒鋼はソファの背もたれの上部に肘をかけ、自身の髪をくしゃりと乱しながらそっと溜息を漏らす。
そしてなんとなく、必死で性器をしゃぶるファイの表情を眺めた。
「ん、ぅ……」
無理やり喉の奥に押し込め、苦しげに寄せられる眉。赤い目元ではほんのりと濡れた睫毛が震えていた。
ただ頭を上下に動かして出し入れをしているだけ。舌だってまともに絡めてこないし、両手は添えられているだけでまったく動かない。明らかに慣れていないことが窺い知れる。
それでも、なんとなく眺めているうちに。
「ッ!」
反応してしまった。
思わず息を呑み、奥歯を噛みしめる。
変化に気付いたファイが、目を見開いて性器から口を離した。
「た、勃ってきた……?」
まるで初めて目にするものを見たような、物珍しげな表情でファイはさらに頬を上気させた。よほど嬉しいのか、じわじわと込み上げるような笑みを浮かべる。
「黒たん、勃った! 勃ったよ!」
「…………連呼すんな」
「オレもっと頑張るからね!」
ファイは元気いっぱいにそう言うと、ただ添えていただけの両手を使ってようやくまともに性器を扱き始めた。
いちど火がついてしまえば、走り出した感覚はもう止まらない。
不本意を消化しきれないままの黒鋼を置き去りにして、彼の柔らかな手の中でそれはどんどん膨れ上がってゆく。
「凄い……こんなにおっきいの、見たことない……」
「ッ、おい」
何度も何度も先端に口付けられて、やがて再び濡れた口内に押し込まれた。
ファイは苦しげに眉を寄せ、必死になってそれを飲み込もうとする。無理をして喉の奥まで押し込めるものだから、時折えずきそうになって肩をビクンと震わせた。
それでもやめない。舌を絡めようとすると上手くいかずに歯が当たる。やっぱりどうしようもなく下手くそだし、見ているこちらが辛くなるほどしんどそうだった。
なのに、どうしてだろうか。
その一生懸命な様子に、胸が疼いている。
涙さえ浮かべて小さく咳き込みながらも奉仕する姿があまりにも健気で、直接的な快感というよりは、視覚的なものに興奮させられてしまう。
いつしか黒鋼は息を乱し、不器用な口淫に勤しむファイの表情から目が離せなくなっていた。
「ぅ、んっ……んぅっ」
まだ心のどこかでは相手は男だという戸惑いの棘が抜けきらない。それでもくぐもった小さな呻きすら耳に心地よく流れ込んでくる。
先走りと唾液に染まる唇が艶めかしく、知らず知らずのうちにゴクリと喉が鳴った。
ファイが、濡れた瞼を震わせながらゆらりと目を開く。苦しげで、不安げで、泣きそうに揺れる瞳と目が合った瞬間、心臓を強く掴まれたような気がして、黒鋼はソファカバーを強く握りしめながら低く唸った。
「ッ、ぅ……!!」
奥歯を食いしばり、黒鋼は達した。
咄嗟に引き離そうとしても相手に触れることは叶わず、宙を切る手に構わずファイはそれを最後の一滴まで口の中で受け止めた。
そして一気に顔を背けると激しく咳き込みだす。
「ぅ、げほっ! げほっ!」
「ばかやろう……とっとと吐き出せ……」
「ん、ぅ、途中、までは……げほっ……がんばって、飲んだ、けど」
おそらく相当な勢いで器官に入り込んだに違いない。
瞳をすっかり赤くして涙を零しながら、ファイは手の甲を濡れた唇に当ててややしばらく咳き込んでいた。
黒鋼はその背中を摩ってやることもできずに、ただ彼が落ち着くのを自身も呼吸を整えながら見守っていることしかできない。
やがて少しずつ呼吸を落ち着かせたファイは、「はー!」とやり遂げたような息を吐いた。
「やったー! 上手にできたー!」
いや、上手ではなかったぞ……と正直に突っ込むのはやめておいた。
ならばなぜこうも見事に達してしまったのか、一切の言い訳ができないからだ。
間違っても『おまえが健気で可愛く見えたからつい感じてしまった』、なんて言えるはずがない。自分でもまだ認めきれていないというのに。
「黒たんなかなか反応しないから、インポなのかと思っちゃったよー」
「…………このやろう」
「えへへ、ちゃんとイってくれて嬉しい」
さっきまで勃起した性器を懸命にしゃぶっていたとは思えない無邪気な笑顔に、毒づく気力を奪われる。
不本意だ。納得がいかない。男でも別に悪くないかなんて変な方向に妥協しかけている自分の存在とか、一瞬でもこいつに対して心を動かされたなんて。
当分は特定の相手を作らないつもりではいたが、結局どこか人恋しい面を捨てきれていないのだろうか。
だからおかしな気を起こしたかけただけなのかもしれない。溜まってもいたことだし。
もう考えるのはやめよう。通り者と遭遇して心が乱されれば、必ず不慮の事故にあう。そんな言い伝えを、どこかで聞いたような気がする。
したいことをたださせてやっただけなのだから、これで多少は成仏への道に一歩近づいたとだけ思っておけば、それでいい。
「もう満足しただろ。いい加減、手に持ってるもん離せ」
「一回だけでいいのー?」
「あのな、俺はおまえと違って暇じゃねぇんだ」
「あ、そっかー」
ちょっと残念そうに眉尻を下げたファイは、ティッシュの箱を適当に手繰り寄せると自分の手や口元を軽く拭き、出し切っておとなしくなった黒鋼の性器もさらりと清めた。そして元の位置に丁寧に仕舞う。普段からこれくらいしっかり後始末をしてくれれば、床に食いカスが散らばることもないのだが。
「お昼ご飯もまだだしねー。なんか適当に作ろっかー」
「適当っつっても、なんかあったか?」
「あ、ないかもー。でもお米とお味噌があるから、味噌焼きおにぎりでもしよっかー」
「おう」
じゃあすぐ作るねー、と言ってキッチンへ飛んで行く後姿を追うように立ち上がった黒鋼は、ふらりとカウンターへ近づき、手を洗う背中をなんとなく見つめる。
「なぁ」
「なぁにー?」
「仕事が片付いたら、買い出しでも行くか」
「一緒に?」
水を止めて、濡れたままの手で振り向くファイは目を大きく見開いた。
床に雫が零れているが、まぁこいつが自分で拭くだろう。
黒鋼が「たまにはな」と返事をすれば、彼は万歳のポーズをしてクルリと回った。
「わーい! なんかデートみたいだねー!」
ただ近所のスーパーに行くだけだし、周りの人間にファイの姿は見えないから、ほとんど会話も出来ないだろうが。それでも彼は黒鋼が思っていた以上に喜びを露わにして、馬鹿みたいにはしゃいだ。
その姿に、つい自然と口元が緩んでしまう。
大したことをしてやれるわけではないが、こうして手離しで喜ぶ姿を見せられると、たまにはいいかもしれないと思えた。
だが。
昼食を終えて、残りの仕事があと僅かで片付くというところに来て、黒鋼の携帯が鳴った。
よくあることとはいえ、会社からの電話によって以降の予定は潰れることになってしまった。
それを聞いたファイは「しょうがないよー」と言って笑ってはいたけれど、やはり少し寂しそうだった。
仕事に口出しをするなという条件を、彼はしっかりと守っている。
寂しいという一言すらも言えないような取り決めをしたのは自分だが、健気に準じようとする姿に、黒鋼の胸はまた疼くのだった。
←戻る ・ 次へ→
真昼間。
カーテンを開け放った窓の向こうには、ビルやマンションが群れをなす光景が広がっている。よく晴れた青い空を一直線に走る飛行機雲が、途中でぷつりと切れていた。
絵に描いたように爽やかな、日曜日の光景。
時間がいつもよりゆったりと過ぎてゆくような、のんびりとした穏やかさ。
そんなまったりとした空間に、先刻から不釣合いな水音が響いている。
「ふおはん、ひもふい?」
おそらく『黒たん、気持ちい?』と聞いているのだろう。
黒鋼は窓の外へ向けていた視線と意識を自分の身体の中心に向けた。
どういうわけか、ソファに両足を開いて座っている自分の正面で、床にペタリと腰を下ろしたファイが股間に顔を埋めている。
両手で太い竿をしっかりと握って、亀頭をぱっくりと口の中に押し込めながら見上げてくる瞳と目が合った。
はっきり言って、まったく気持ちよくない。
「んー、ぜんぜん硬くならないー」
ファイは性器からいったん口を離すと、眉を八の字に下げてぷうっと唇を膨らませた。
なんでかなぁ、と小首を傾げる姿に「当たり前ぇだ」と吐き捨てる。
だいたいこんな状況に陥っていること自体が不本意だ。決して納得していない。
なにより、ファイは猛烈に下手くそだった。
残業ありきの職場で休日出勤も当たり前の黒鋼にとって、丸一日休める日は月に1、2度あればいい方だった。土日祝日などほとんど意味がない。
たまにゆっくりできそうかと思えば朝っぱらから携帯が鳴り、平日さながらの労働を強いられることは日常茶飯事だった。
昨日は派遣先スタッフの相次ぐ欠員の補充に追われ、今日は今日とて持ち帰って来た仕事を片付けるため、午前中は寝室の机でずっとパソコンと向き合っていた。
その間ファイはふらっとどこかへ消えたかと思えばひょっこり顔をだし、肩や背中にベタベタと付きまとってきたが、邪魔というほどでもなかったので適当に無視しておいた。
彼は普段よく喋る方だが、こちらに気を使ってか口を開くことはほとんどなかった。ただくっついていたいだけらしい。
そして昼近くなった頃、気づくとファイの姿がまた消えていた。
休憩でもするかと部屋から出ると、彼はお茶を淹れてリビングで待っていた。
気が利くなと褒めてやると、ファイは頬を赤らめて嬉しそうに笑った。
ソファで一息ついている間も、彼は膝の上に横座りして首にぎゅっとしがみついていた。たまにツンツンの黒髪をいじってはクスクスと楽しそうな笑い声をあげていた。
一体なにがそんな楽しいのか、黒鋼にはさっぱり分からない。ただ、不思議なことに悪い気はしなかった。
「黒たんの髪って硬いねー。オレの髪とぜんぜん違うやー」
「おまえのは見るからにふにゃふにゃだな。癖毛か?」
「ちょっとねー。触れなくて残念でしょー?」
「バカ言ってんじゃねぇ」
確かに自分の意思で触れることはできない。
だが、ファイが頬ずりをしてくればその感触は黒鋼の頬にも伝わってくる。
くすぐったくて、柔らかくて、綿毛のようにふわりと躍る髪だった。
ファイは「ふふ」と笑って、黒鋼の目尻にキスをする。それさえもくすぐったい。
「本当にこんなんで満足なのか。おまえは」
なんとなく口から飛び出した問いかけに、ファイは小首を傾げて見せる。
「どうしてー?」
「できてんのか。燃えるような恋ってやつ」
「ふふ」
肩を竦め、膝の上でファイが笑う。見上げれば間近で目が合った。片方だけがほんのりと濁った両目が、いつになく潤んで見える。
白い指先が黒鋼の下唇をそっとなぞり、僅かな間のあと長い睫が伏せられたのと同時に、一瞬だけ唇を塞がれる。
その生暖かい感触はすぐに離れ、ファイの左手が黒鋼の右頬を包むように撫でた。
「……ねぇ、もっと満足できるようなこと、してもいい?」
囁くような声に、なにを、と問う前にファイが床に膝をついた。
黒いジャージを部屋着にしている黒鋼の身体の中心に手がかかる。
「おい、おまえまさか」
「心配しないでー。最後まではしないよー」
「お、おい」
「今ちょっとそういう気分なの」
遠ざけようとして通り抜けた手に、思わず舌打ちが漏れる。
その間にファイは黒鋼のウエストに手をかけ、手早く中のブツを取り出してしまった。
「わぁ、おっきい」
「やめとけ……流石に無理だぞ」
「嫌?」
性器を両手に持ち、下から見上げてくる濡れた瞳になぜか何も言い返せない。
柔らかな手の平の感触が、どうしてか不快なものではなかった。口では無理だと言いつつ、嫌悪感がまるでない。
思えばシモの処理はここのところめっきりだった。だから溜まっている。男に触られて本気で抵抗する気が起きないのは、きっとそのせいだと自分に言い訳をした。
ものは試し、という言葉もある。
「目、閉じてていいよ。よそ見しててもいいし」
そう言って、ファイは手の中の性器にキスをした。
そして今に至るわけだが。
「ッ、て! イテェぞこら。噛むな」
「らっへー、ふぉっひいんあおうー」
「喋べるなら口を離せ……」
「だってー、おっきいんだもんー。顎が疲れちゃうよー」
むーっと眉間に皺を寄せながら、ファイは不満の声を漏らす。まるでこちらが悪いような言い方をされて、少しムッとした。
だいたい、慣れたていを装って触れてきたのはこいつの方だ。男の身体は男が一番分かるというし、さぞかしハイレベルなテクニックを持っているのかと思いきや、この有様とは。
「もういい。やめとけ」
「やだー! ここまで来たら、ぜったい気持ちよくなってもらうのー!」
「もういいっつってんだよ!」
「あむ、ぅー」
ファイは制止を無視して、懲りずにまた口の中に性器を押し込めた。
狭い口内は生温くて、そしてやっぱり歯が当たる。
黒鋼はソファの背もたれの上部に肘をかけ、自身の髪をくしゃりと乱しながらそっと溜息を漏らす。
そしてなんとなく、必死で性器をしゃぶるファイの表情を眺めた。
「ん、ぅ……」
無理やり喉の奥に押し込め、苦しげに寄せられる眉。赤い目元ではほんのりと濡れた睫毛が震えていた。
ただ頭を上下に動かして出し入れをしているだけ。舌だってまともに絡めてこないし、両手は添えられているだけでまったく動かない。明らかに慣れていないことが窺い知れる。
それでも、なんとなく眺めているうちに。
「ッ!」
反応してしまった。
思わず息を呑み、奥歯を噛みしめる。
変化に気付いたファイが、目を見開いて性器から口を離した。
「た、勃ってきた……?」
まるで初めて目にするものを見たような、物珍しげな表情でファイはさらに頬を上気させた。よほど嬉しいのか、じわじわと込み上げるような笑みを浮かべる。
「黒たん、勃った! 勃ったよ!」
「…………連呼すんな」
「オレもっと頑張るからね!」
ファイは元気いっぱいにそう言うと、ただ添えていただけの両手を使ってようやくまともに性器を扱き始めた。
いちど火がついてしまえば、走り出した感覚はもう止まらない。
不本意を消化しきれないままの黒鋼を置き去りにして、彼の柔らかな手の中でそれはどんどん膨れ上がってゆく。
「凄い……こんなにおっきいの、見たことない……」
「ッ、おい」
何度も何度も先端に口付けられて、やがて再び濡れた口内に押し込まれた。
ファイは苦しげに眉を寄せ、必死になってそれを飲み込もうとする。無理をして喉の奥まで押し込めるものだから、時折えずきそうになって肩をビクンと震わせた。
それでもやめない。舌を絡めようとすると上手くいかずに歯が当たる。やっぱりどうしようもなく下手くそだし、見ているこちらが辛くなるほどしんどそうだった。
なのに、どうしてだろうか。
その一生懸命な様子に、胸が疼いている。
涙さえ浮かべて小さく咳き込みながらも奉仕する姿があまりにも健気で、直接的な快感というよりは、視覚的なものに興奮させられてしまう。
いつしか黒鋼は息を乱し、不器用な口淫に勤しむファイの表情から目が離せなくなっていた。
「ぅ、んっ……んぅっ」
まだ心のどこかでは相手は男だという戸惑いの棘が抜けきらない。それでもくぐもった小さな呻きすら耳に心地よく流れ込んでくる。
先走りと唾液に染まる唇が艶めかしく、知らず知らずのうちにゴクリと喉が鳴った。
ファイが、濡れた瞼を震わせながらゆらりと目を開く。苦しげで、不安げで、泣きそうに揺れる瞳と目が合った瞬間、心臓を強く掴まれたような気がして、黒鋼はソファカバーを強く握りしめながら低く唸った。
「ッ、ぅ……!!」
奥歯を食いしばり、黒鋼は達した。
咄嗟に引き離そうとしても相手に触れることは叶わず、宙を切る手に構わずファイはそれを最後の一滴まで口の中で受け止めた。
そして一気に顔を背けると激しく咳き込みだす。
「ぅ、げほっ! げほっ!」
「ばかやろう……とっとと吐き出せ……」
「ん、ぅ、途中、までは……げほっ……がんばって、飲んだ、けど」
おそらく相当な勢いで器官に入り込んだに違いない。
瞳をすっかり赤くして涙を零しながら、ファイは手の甲を濡れた唇に当ててややしばらく咳き込んでいた。
黒鋼はその背中を摩ってやることもできずに、ただ彼が落ち着くのを自身も呼吸を整えながら見守っていることしかできない。
やがて少しずつ呼吸を落ち着かせたファイは、「はー!」とやり遂げたような息を吐いた。
「やったー! 上手にできたー!」
いや、上手ではなかったぞ……と正直に突っ込むのはやめておいた。
ならばなぜこうも見事に達してしまったのか、一切の言い訳ができないからだ。
間違っても『おまえが健気で可愛く見えたからつい感じてしまった』、なんて言えるはずがない。自分でもまだ認めきれていないというのに。
「黒たんなかなか反応しないから、インポなのかと思っちゃったよー」
「…………このやろう」
「えへへ、ちゃんとイってくれて嬉しい」
さっきまで勃起した性器を懸命にしゃぶっていたとは思えない無邪気な笑顔に、毒づく気力を奪われる。
不本意だ。納得がいかない。男でも別に悪くないかなんて変な方向に妥協しかけている自分の存在とか、一瞬でもこいつに対して心を動かされたなんて。
当分は特定の相手を作らないつもりではいたが、結局どこか人恋しい面を捨てきれていないのだろうか。
だからおかしな気を起こしたかけただけなのかもしれない。溜まってもいたことだし。
もう考えるのはやめよう。通り者と遭遇して心が乱されれば、必ず不慮の事故にあう。そんな言い伝えを、どこかで聞いたような気がする。
したいことをたださせてやっただけなのだから、これで多少は成仏への道に一歩近づいたとだけ思っておけば、それでいい。
「もう満足しただろ。いい加減、手に持ってるもん離せ」
「一回だけでいいのー?」
「あのな、俺はおまえと違って暇じゃねぇんだ」
「あ、そっかー」
ちょっと残念そうに眉尻を下げたファイは、ティッシュの箱を適当に手繰り寄せると自分の手や口元を軽く拭き、出し切っておとなしくなった黒鋼の性器もさらりと清めた。そして元の位置に丁寧に仕舞う。普段からこれくらいしっかり後始末をしてくれれば、床に食いカスが散らばることもないのだが。
「お昼ご飯もまだだしねー。なんか適当に作ろっかー」
「適当っつっても、なんかあったか?」
「あ、ないかもー。でもお米とお味噌があるから、味噌焼きおにぎりでもしよっかー」
「おう」
じゃあすぐ作るねー、と言ってキッチンへ飛んで行く後姿を追うように立ち上がった黒鋼は、ふらりとカウンターへ近づき、手を洗う背中をなんとなく見つめる。
「なぁ」
「なぁにー?」
「仕事が片付いたら、買い出しでも行くか」
「一緒に?」
水を止めて、濡れたままの手で振り向くファイは目を大きく見開いた。
床に雫が零れているが、まぁこいつが自分で拭くだろう。
黒鋼が「たまにはな」と返事をすれば、彼は万歳のポーズをしてクルリと回った。
「わーい! なんかデートみたいだねー!」
ただ近所のスーパーに行くだけだし、周りの人間にファイの姿は見えないから、ほとんど会話も出来ないだろうが。それでも彼は黒鋼が思っていた以上に喜びを露わにして、馬鹿みたいにはしゃいだ。
その姿に、つい自然と口元が緩んでしまう。
大したことをしてやれるわけではないが、こうして手離しで喜ぶ姿を見せられると、たまにはいいかもしれないと思えた。
だが。
昼食を終えて、残りの仕事があと僅かで片付くというところに来て、黒鋼の携帯が鳴った。
よくあることとはいえ、会社からの電話によって以降の予定は潰れることになってしまった。
それを聞いたファイは「しょうがないよー」と言って笑ってはいたけれど、やはり少し寂しそうだった。
仕事に口出しをするなという条件を、彼はしっかりと守っている。
寂しいという一言すらも言えないような取り決めをしたのは自分だが、健気に準じようとする姿に、黒鋼の胸はまた疼くのだった。
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悲しんでいる家族
玄関を入るとすぐに聞こえた大きな笑い声に、黒鋼は疲れの色が滲んだ息を零した。
「あはははは! もうホントおっかしー! あ、黒様おかえりー!」
「……自堕落を絵に書いたような野郎だな、てめぇは」
ファイはソファに横になって、テレビを見て笑っている。
テーブルの上にはスナック菓子が3つも置いてあり、そのどれも食べかけだった。食いカスが散らばり、コーラのペットボトルの底が尽きかけている。
「だってやることないんだもーん。幽霊だから仕事もないしー」
ふわりと身体を浮かして飛んできたファイは、いつものように両腕を黒鋼の首に回してぎゅうっと抱きついてきた。
こちらからは触れられないので、抵抗もできなければもちろん抱き返すこともできない。そもそも抱き返す気はさらさらないのだが。
「んー、夜のお外の匂いがするー」
そう言ったかと思うと、ちゅっと音を立てて額に唇が押し付けられる。この感じにもそろそろ慣れた。
成仏の手助けのため、この男の恋人もどきを務めるようになって十日ほどだろうか。
最初こそ勘弁してくれと思いはしたが、朝晩と繰り返されるうちにどうでもよくなってきた。
別に減るもんでもないし、まとわりついてきたところでこちらの動きの妨げにはならないため、邪魔臭いということもない。
それに彼は黒鋼が部屋にいる間、常にベッタリと側にいるわけではなかった。気づくと姿を消していて、そして気づくとふらっと戻ってくる。意図してのことかは知らないが、それなりの距離感が保たれているおかげでストレスも感じない。
こんな具合でほっとくだけで勝手に満足するなら、楽なものだと感じるようになっていた。
けれど、もしこれがヒゲ面の厳つい親父だったりしたら、こうはいかなかったろうとは思う。
おそらく最初の時点で恋人ごっこすら了承していない。
そう考えるとファイの少し幼くも見える顔つきや、ふにゃりとしてどこか頼りない雰囲気がいい意味で役に立っている。
まぁいいかと妥協できるくらいには、助けられているような気がした。
「ねぇねぇ、お米炊けてるよー。今朝のお惣菜もお味噌汁も残ってるし、ご飯にする?」
「そうだな……おまえは食ったのか」
「うーぅん。黒たんと一緒がいいから待ってたー」
「……そうか」
ファイは相変わらず首に抱き付いたまま、すりすりと頬ずりをしてくる。
なんというか、犬や猫に擦り寄られて悪い気がしないのと一緒で、このくらいベタベタと懐かれると文句を言うどころか毒気を抜かれてしまう。いっそ可愛く思えてくるから困りものだ。
黒鋼はゴホン、と咳払いをすると「その前に風呂」とぶっきらぼうに言った。
「りょうかーい! すぐ準備してくるねー!」
黒鋼から離れたファイは敬礼のポーズをして、脱衣所のある廊下の向こうへ飛んで行った。
完璧とまではいかないが、それなりに家事もこなすし、なかなか役に立つ幽霊だ。
母が送ってくれた食料も、野菜など日持ちしないものは黒鋼一人ではただ腐らせて終わっていたかもしれない。
ファイはそれを使って毎日味噌汁や簡単な料理くらいは作る。一時期は食事も億劫だったのが、最近は嘘のように調子がいい。何を食っても飯が美味い。
やはり人間、身体が資本だ。健康で、体力さえあれば多少の仕事のキツさも乗り越えられる。
仕事のトラブルも決してなくなりはしないが、少し前に比べれば格段に減った。
もちろん定時には上がれないし、丸一日休みを確保することは難しいが、日付が変わる前にこうして帰宅できる日が続いている。
「黒たーん! お風呂いいよー!」
「おう」
廊下の向こうから声がする。
さっそく風呂に入ってしまうかとすぐに脱衣所に向かった黒鋼は、そこで凍り付いた。
「なにしてる」
「なにってー? お風呂でしょー?」
なぜかファイが服を脱いでいた。
上をスポーンと脱いで洗濯籠に放り込み、下にも手をかけようとしているのを見て黒鋼は声を荒げる。
「なんで野郎と二人で風呂に入らなきゃならねぇんだ! だいたいおまえ幽霊なんだから別に風呂なんか必要ねぇだろ!」
「だからー、前も言ったでしょー? 幽霊だってお風呂くらい入りたいときあるのー」
「だったら後にしろ!」
「そんなこと言わないでー。彼氏とお風呂で洗いっこって憧れるー」
彼氏じゃねぇ、と言いかけて、今は一応そういう立ち位置だったことを思い出す。
ファイはふんふんと鼻歌を歌いながらすっかり下も脱ぎ捨て、浴室に入っていく。やけに白い身体から、黒鋼は無意識に目を逸らした。
「背中流してあげるからー、早くおいでよー」
ああ、という唸るような溜息を零しながら、諦めるしかないかと腹を括った。
*
「わー、お客さん、背中広いねー」
バスチェアに腰を下ろした黒鋼の背後で、床に膝をついたファイの感心したような声が浴室に反響する。
泡まみれのスポンジが背中を滑る感触は心地いいが、なぜ幽霊に背中を流されているのだろうと思うと、なんともおかしな気分だった。
ちなみに大事な部分はタオルを巻いて隠している。
「しかも背中にもしっかり筋肉ついてるー。どうやったらこんな綺麗に鍛えられるんだろー」
「ッ、こらてめぇ、余計なことすんな」
「あ、くすぐったかったー?」
生温い指に肩甲骨の辺りをぬるっと撫でられて、黒鋼は首だけ振り向くとファイを睨み付けた。締まりのない頬をほんのり赤く染めて、「はぁん」とおかしな息を漏らすさまにゲンナリする。
「黙ってやれ。あと、洗いっこっつったって俺は洗えねぇからな」
「わかってるよー。オレは自分で洗うもーん。それ! ぐりぐりー!」
「!?」
再び視線を前に戻した黒鋼の背に、ファイがぴったり抱き付いて胸や腹をこすりつけてくる。
生温い。冷たいよりはマシかもしれないが、それでも決して心地いい感触ではない。なんといっても相手は男だ。ぺったんこだ。
「ざけんじゃねぇぞ!! 気色悪ぃことすんな!!」
「ローションプレイー! なんかソープ嬢になった気分ー!」
「やめろっつうに!!」
「あはは楽しいー!」
こちらはちっとも楽しくない。
何が悲しくて野郎とソープごっこなどしなくてはいけないのか。
相手が生身の人間でさえあれば、二度とふざけたマネが出来ないようにボコボコにしてやれるのだが、残念なことに敵は幽霊だ。
このまま本格的に襲われでもしたらと考えると冗談でも笑えない。
「もー、ほんと冗談通じないなぁ黒たんはー。無理やり掘ったりなんかしないよー」
「……本当だろうな」
「ほんとほんとー。それにオレ、ネコだからされる方が好きだしー」
「一応、経験はあるんだな」
まぁねー、とファイは真面目に背中を洗いながら答える。
「ほんの何回かだけど。やっぱこう、どうしても溜まっちゃうときってあるでしょ」
「……まぁ、そうだな」
身体だけの付き合いは経験があっても。
愛したことも愛されたこともないまま命を落としたのかと思うと、少し切ない。
これだけ愛嬌のある男だし、生きてさえいればいつかは望む相手と巡り合えたかもしれないのに。世界のどこかには必ず、この男を必要として、心から愛したいと望んでくれる誰かがきっといたはずだ。
なんとなくしんみりしてしまった黒鋼の気持ちを知ってか知らずか、ファイは「だからオレ処女じゃないよ」なんて聞いてもいないことを言って、ヘラりと笑った。
黒鋼が湯船につかると、今度はファイが椅子に座って泡まみれになった。
自分で身体を洗う姿をなんとなく眺めていると、視線に気づいたファイがポッと顔を赤らめる。
「やだー、じろじろ見られると恥ずかしい」
「気にすんな」
「やっぱり襲っちゃおうかなぁ……」
「粗塩ぶっかけられたくなけりゃあやめろ」
んふふ、となぜか嬉しそうなファイは、結局なにを言ってもただこの状況を楽しんでいるだけのようだった。
こんなことで本当に成仏の助けになどなっているのだろうか。
この男はいまいち何を考えているのかわからない。存在自体が謎だという問題は置いておくとして、生前どんな仕事をしていたとか、何を趣味としていたとか、家族はいるのかとか。
空気のように自然に生活に入り込んでいるせいで気にしていなかったが、黒鋼は彼のことを何も知らない。
男が好きだということ、どうやら黒鋼が好みのタイプらしいということ、あとはたまにふらりと姿を消すこと以外、何も。
「なぁ」
「んー? なぁにー?」
「おまえ、家族はいねぇのか」
「いるよ? どうしてー?」
ファイはふと身体を洗う手を止めて、黒鋼を見ると首を傾げた。
どうして、と言われると少し困る。ただ、黒鋼が越してくる以前はこの部屋は無人だったわけだし、地縛霊というわけでもなさそうなのに、どうしてここにいつまでもとどまっているのだろうか。
もし自分だったらおそらく家族の元へ行くだろう。成仏の仕方が分からずとも母ならなんとでもしてしまうだろうし、仮に母にそういった力がなくとも、大切な家族の側にいると思う。
「いや、たまにどっか行くだろ。家族にでも会いに行ってんのかと思ってな」
「行ってないよー。タダで映画見たり、そのへんブラブラ空中散歩してるだけー」
「タダっておまえな……」
「生きてた時はちゃんとお金払ってたよー。散歩は癖かなぁ。オレ、小説家目指しながらライターの仕事してたから、取材や打ち合わせ以外は在宅だったんだよね。煮詰まることがよくあって、しょっちゅう散歩してたから。まぁ、その途中で事故にあったんだけど」
「……なら、ぜんぜん会いに行ってねぇってことか」
ファイはうーんと唸って、少しだけ俯いた。
白い皮膚の上を石鹸が滑り落ち、足元にどんどん流れてゆく。
「オレ、弟がいるんだ」
「弟か」
「うん。凄く仲良し。他に家族はいないの。だから、ひとりぼっちにしちゃったんだよね……悲しんでるだろうなって思うと……なんとなく、ね」
「…………」
「ほら、自分のお葬式とかお墓とか、そういうの見るのもヤだったしー」
それに、と彼は続けた。
「誰にでもオレの姿が見えるわけじゃないみたい。黒様とはきっと波長が合ったんだねー」
黒鋼は、それ以上問いかけることをやめた。
彼は自分が死んでいるということを受け入れている。出会った時からのほほんとしていて、悲観している様子も見られなかった。
ただ本当の意味で、現実を受け入れられないでいるのかもしれない。
悲しんでいる家族、生前の自分の姿が収まった遺影、肉体が眠る墓。
もうこの世に自分という存在がいないのだということを、目の当りにすることを恐れている。心は確かにここにあるのに。
やっぱり生きている人間だけの主観では、同じ目線でものを見ることは難しいようだ。
それこそきっと、自分も死んでみて初めて分かるのかもしれない。
ファイはまた鼻歌を口ずさみながらシャワーで身体を流している。
白い肌が熱い湯にさらされて、どんどん赤く色づいてゆくのを見ていると、彼が幽霊だということをつい、忘れてしまいそうになる。
ぼんやりとそれを眺めながら、この男のくせにやけに柔らかそうな肌は、直接触れたらどんな感触なのだろうかと考えた。
細いなりに張りがあって、傷ひとつない肌は肌理が細かい。水気を含んだ金髪が少しだけ色味を濃くして、首筋や頬に張り付いている。
こうして見ていると、そこには不思議な色香が漂っているような気がして、不覚にも一瞬だけドキリとした。
「ねぇ黒たん」
慌てて目を逸らそうとしたところに、ファイがちょっと困ったような顔をして目を合わせてくるものだから、タイミングを逃す。
「……なんだよ」
「あんまりじっと見られると……オレ変な気分になってほんとに襲っちゃうよ……?」
「…………勘弁してくれ」
やはり常に塩くらいは身に着けておいた方がよさそうだろうか。
少しのぼせ気味の黒鋼は、とりあえず次からは絶対に一緒に風呂に入ることは阻止しようと、心に決めた。
←戻る ・ 次へ→
玄関を入るとすぐに聞こえた大きな笑い声に、黒鋼は疲れの色が滲んだ息を零した。
「あはははは! もうホントおっかしー! あ、黒様おかえりー!」
「……自堕落を絵に書いたような野郎だな、てめぇは」
ファイはソファに横になって、テレビを見て笑っている。
テーブルの上にはスナック菓子が3つも置いてあり、そのどれも食べかけだった。食いカスが散らばり、コーラのペットボトルの底が尽きかけている。
「だってやることないんだもーん。幽霊だから仕事もないしー」
ふわりと身体を浮かして飛んできたファイは、いつものように両腕を黒鋼の首に回してぎゅうっと抱きついてきた。
こちらからは触れられないので、抵抗もできなければもちろん抱き返すこともできない。そもそも抱き返す気はさらさらないのだが。
「んー、夜のお外の匂いがするー」
そう言ったかと思うと、ちゅっと音を立てて額に唇が押し付けられる。この感じにもそろそろ慣れた。
成仏の手助けのため、この男の恋人もどきを務めるようになって十日ほどだろうか。
最初こそ勘弁してくれと思いはしたが、朝晩と繰り返されるうちにどうでもよくなってきた。
別に減るもんでもないし、まとわりついてきたところでこちらの動きの妨げにはならないため、邪魔臭いということもない。
それに彼は黒鋼が部屋にいる間、常にベッタリと側にいるわけではなかった。気づくと姿を消していて、そして気づくとふらっと戻ってくる。意図してのことかは知らないが、それなりの距離感が保たれているおかげでストレスも感じない。
こんな具合でほっとくだけで勝手に満足するなら、楽なものだと感じるようになっていた。
けれど、もしこれがヒゲ面の厳つい親父だったりしたら、こうはいかなかったろうとは思う。
おそらく最初の時点で恋人ごっこすら了承していない。
そう考えるとファイの少し幼くも見える顔つきや、ふにゃりとしてどこか頼りない雰囲気がいい意味で役に立っている。
まぁいいかと妥協できるくらいには、助けられているような気がした。
「ねぇねぇ、お米炊けてるよー。今朝のお惣菜もお味噌汁も残ってるし、ご飯にする?」
「そうだな……おまえは食ったのか」
「うーぅん。黒たんと一緒がいいから待ってたー」
「……そうか」
ファイは相変わらず首に抱き付いたまま、すりすりと頬ずりをしてくる。
なんというか、犬や猫に擦り寄られて悪い気がしないのと一緒で、このくらいベタベタと懐かれると文句を言うどころか毒気を抜かれてしまう。いっそ可愛く思えてくるから困りものだ。
黒鋼はゴホン、と咳払いをすると「その前に風呂」とぶっきらぼうに言った。
「りょうかーい! すぐ準備してくるねー!」
黒鋼から離れたファイは敬礼のポーズをして、脱衣所のある廊下の向こうへ飛んで行った。
完璧とまではいかないが、それなりに家事もこなすし、なかなか役に立つ幽霊だ。
母が送ってくれた食料も、野菜など日持ちしないものは黒鋼一人ではただ腐らせて終わっていたかもしれない。
ファイはそれを使って毎日味噌汁や簡単な料理くらいは作る。一時期は食事も億劫だったのが、最近は嘘のように調子がいい。何を食っても飯が美味い。
やはり人間、身体が資本だ。健康で、体力さえあれば多少の仕事のキツさも乗り越えられる。
仕事のトラブルも決してなくなりはしないが、少し前に比べれば格段に減った。
もちろん定時には上がれないし、丸一日休みを確保することは難しいが、日付が変わる前にこうして帰宅できる日が続いている。
「黒たーん! お風呂いいよー!」
「おう」
廊下の向こうから声がする。
さっそく風呂に入ってしまうかとすぐに脱衣所に向かった黒鋼は、そこで凍り付いた。
「なにしてる」
「なにってー? お風呂でしょー?」
なぜかファイが服を脱いでいた。
上をスポーンと脱いで洗濯籠に放り込み、下にも手をかけようとしているのを見て黒鋼は声を荒げる。
「なんで野郎と二人で風呂に入らなきゃならねぇんだ! だいたいおまえ幽霊なんだから別に風呂なんか必要ねぇだろ!」
「だからー、前も言ったでしょー? 幽霊だってお風呂くらい入りたいときあるのー」
「だったら後にしろ!」
「そんなこと言わないでー。彼氏とお風呂で洗いっこって憧れるー」
彼氏じゃねぇ、と言いかけて、今は一応そういう立ち位置だったことを思い出す。
ファイはふんふんと鼻歌を歌いながらすっかり下も脱ぎ捨て、浴室に入っていく。やけに白い身体から、黒鋼は無意識に目を逸らした。
「背中流してあげるからー、早くおいでよー」
ああ、という唸るような溜息を零しながら、諦めるしかないかと腹を括った。
*
「わー、お客さん、背中広いねー」
バスチェアに腰を下ろした黒鋼の背後で、床に膝をついたファイの感心したような声が浴室に反響する。
泡まみれのスポンジが背中を滑る感触は心地いいが、なぜ幽霊に背中を流されているのだろうと思うと、なんともおかしな気分だった。
ちなみに大事な部分はタオルを巻いて隠している。
「しかも背中にもしっかり筋肉ついてるー。どうやったらこんな綺麗に鍛えられるんだろー」
「ッ、こらてめぇ、余計なことすんな」
「あ、くすぐったかったー?」
生温い指に肩甲骨の辺りをぬるっと撫でられて、黒鋼は首だけ振り向くとファイを睨み付けた。締まりのない頬をほんのり赤く染めて、「はぁん」とおかしな息を漏らすさまにゲンナリする。
「黙ってやれ。あと、洗いっこっつったって俺は洗えねぇからな」
「わかってるよー。オレは自分で洗うもーん。それ! ぐりぐりー!」
「!?」
再び視線を前に戻した黒鋼の背に、ファイがぴったり抱き付いて胸や腹をこすりつけてくる。
生温い。冷たいよりはマシかもしれないが、それでも決して心地いい感触ではない。なんといっても相手は男だ。ぺったんこだ。
「ざけんじゃねぇぞ!! 気色悪ぃことすんな!!」
「ローションプレイー! なんかソープ嬢になった気分ー!」
「やめろっつうに!!」
「あはは楽しいー!」
こちらはちっとも楽しくない。
何が悲しくて野郎とソープごっこなどしなくてはいけないのか。
相手が生身の人間でさえあれば、二度とふざけたマネが出来ないようにボコボコにしてやれるのだが、残念なことに敵は幽霊だ。
このまま本格的に襲われでもしたらと考えると冗談でも笑えない。
「もー、ほんと冗談通じないなぁ黒たんはー。無理やり掘ったりなんかしないよー」
「……本当だろうな」
「ほんとほんとー。それにオレ、ネコだからされる方が好きだしー」
「一応、経験はあるんだな」
まぁねー、とファイは真面目に背中を洗いながら答える。
「ほんの何回かだけど。やっぱこう、どうしても溜まっちゃうときってあるでしょ」
「……まぁ、そうだな」
身体だけの付き合いは経験があっても。
愛したことも愛されたこともないまま命を落としたのかと思うと、少し切ない。
これだけ愛嬌のある男だし、生きてさえいればいつかは望む相手と巡り合えたかもしれないのに。世界のどこかには必ず、この男を必要として、心から愛したいと望んでくれる誰かがきっといたはずだ。
なんとなくしんみりしてしまった黒鋼の気持ちを知ってか知らずか、ファイは「だからオレ処女じゃないよ」なんて聞いてもいないことを言って、ヘラりと笑った。
黒鋼が湯船につかると、今度はファイが椅子に座って泡まみれになった。
自分で身体を洗う姿をなんとなく眺めていると、視線に気づいたファイがポッと顔を赤らめる。
「やだー、じろじろ見られると恥ずかしい」
「気にすんな」
「やっぱり襲っちゃおうかなぁ……」
「粗塩ぶっかけられたくなけりゃあやめろ」
んふふ、となぜか嬉しそうなファイは、結局なにを言ってもただこの状況を楽しんでいるだけのようだった。
こんなことで本当に成仏の助けになどなっているのだろうか。
この男はいまいち何を考えているのかわからない。存在自体が謎だという問題は置いておくとして、生前どんな仕事をしていたとか、何を趣味としていたとか、家族はいるのかとか。
空気のように自然に生活に入り込んでいるせいで気にしていなかったが、黒鋼は彼のことを何も知らない。
男が好きだということ、どうやら黒鋼が好みのタイプらしいということ、あとはたまにふらりと姿を消すこと以外、何も。
「なぁ」
「んー? なぁにー?」
「おまえ、家族はいねぇのか」
「いるよ? どうしてー?」
ファイはふと身体を洗う手を止めて、黒鋼を見ると首を傾げた。
どうして、と言われると少し困る。ただ、黒鋼が越してくる以前はこの部屋は無人だったわけだし、地縛霊というわけでもなさそうなのに、どうしてここにいつまでもとどまっているのだろうか。
もし自分だったらおそらく家族の元へ行くだろう。成仏の仕方が分からずとも母ならなんとでもしてしまうだろうし、仮に母にそういった力がなくとも、大切な家族の側にいると思う。
「いや、たまにどっか行くだろ。家族にでも会いに行ってんのかと思ってな」
「行ってないよー。タダで映画見たり、そのへんブラブラ空中散歩してるだけー」
「タダっておまえな……」
「生きてた時はちゃんとお金払ってたよー。散歩は癖かなぁ。オレ、小説家目指しながらライターの仕事してたから、取材や打ち合わせ以外は在宅だったんだよね。煮詰まることがよくあって、しょっちゅう散歩してたから。まぁ、その途中で事故にあったんだけど」
「……なら、ぜんぜん会いに行ってねぇってことか」
ファイはうーんと唸って、少しだけ俯いた。
白い皮膚の上を石鹸が滑り落ち、足元にどんどん流れてゆく。
「オレ、弟がいるんだ」
「弟か」
「うん。凄く仲良し。他に家族はいないの。だから、ひとりぼっちにしちゃったんだよね……悲しんでるだろうなって思うと……なんとなく、ね」
「…………」
「ほら、自分のお葬式とかお墓とか、そういうの見るのもヤだったしー」
それに、と彼は続けた。
「誰にでもオレの姿が見えるわけじゃないみたい。黒様とはきっと波長が合ったんだねー」
黒鋼は、それ以上問いかけることをやめた。
彼は自分が死んでいるということを受け入れている。出会った時からのほほんとしていて、悲観している様子も見られなかった。
ただ本当の意味で、現実を受け入れられないでいるのかもしれない。
悲しんでいる家族、生前の自分の姿が収まった遺影、肉体が眠る墓。
もうこの世に自分という存在がいないのだということを、目の当りにすることを恐れている。心は確かにここにあるのに。
やっぱり生きている人間だけの主観では、同じ目線でものを見ることは難しいようだ。
それこそきっと、自分も死んでみて初めて分かるのかもしれない。
ファイはまた鼻歌を口ずさみながらシャワーで身体を流している。
白い肌が熱い湯にさらされて、どんどん赤く色づいてゆくのを見ていると、彼が幽霊だということをつい、忘れてしまいそうになる。
ぼんやりとそれを眺めながら、この男のくせにやけに柔らかそうな肌は、直接触れたらどんな感触なのだろうかと考えた。
細いなりに張りがあって、傷ひとつない肌は肌理が細かい。水気を含んだ金髪が少しだけ色味を濃くして、首筋や頬に張り付いている。
こうして見ていると、そこには不思議な色香が漂っているような気がして、不覚にも一瞬だけドキリとした。
「ねぇ黒たん」
慌てて目を逸らそうとしたところに、ファイがちょっと困ったような顔をして目を合わせてくるものだから、タイミングを逃す。
「……なんだよ」
「あんまりじっと見られると……オレ変な気分になってほんとに襲っちゃうよ……?」
「…………勘弁してくれ」
やはり常に塩くらいは身に着けておいた方がよさそうだろうか。
少しのぼせ気味の黒鋼は、とりあえず次からは絶対に一緒に風呂に入ることは阻止しようと、心に決めた。
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死して初の恋人
サイレンの音が遠くに鳴り響く中、ファイはぽっかりと目を覚ました。
一体いつの間に眠っていたんだろう。
なんだか身体がふわふわして、未だに夢の中を彷徨っているような気分だった。
確か自分は、自宅で仕事が煮詰まったことを理由に気分転換のため外に出たはずだ。
近所のコンビニまで足を運び、少し雑誌を立ち読みしたあと、腹が減ったら適当に食べようと幾つかおにぎりを買ったような気がする。
のんびりと夜の大通りをマンションへ向かって歩きながら見上げた空に、丸い月が浮かんでいた。
それから、どうしたのだったか。
なぜか記憶がぷっつりと途切れて思い出せなかった。
けれどすぐに、そのとき見上げた月が記憶の中よりも少し近い場所にあるような気がしてハッとした。
ファイは、夜空の中にいた。
ふわふわとしていたのは意識ではなくて、実際、本当に身体がふわふわと浮かんでいたのだ。
何が起こったのかさっぱり分からず辺りを見渡せば、ずっとずっと遠くまで街の光が見渡せた。9階からでは、流石にここまでは一望できない。
でも、なんだかおかしい。違和感とでもいえばいいのか。そして気づく。
なぜか左目がさっぱり見えない。触れてみても特に変わったところはないけれど、視界が半分だけになっているのはなんだか変な感じだ。
なんでかなぁなんて呑気に首を傾げていると、下の方から響くサイレンの音に混ざって、怒号が飛び交っていることに気が付いた。
視線をふっと下の世界に向け、身体を少し下降させる。
そこでファイは、担架に乗せられる『自分』の姿を見た。
前面がぺしゃんこになっている乗用車が歩道に突っ込んでいて、引っくり返っているバイクの残骸と、投げ出されたヘルメットも見える。
警察や救急隊、多くの野次馬が囲む中、サイレンの赤いランプが躍っていた。
『ファイ』は、頭からびっくりするほど血を流してグッタリとしていた。すぐに救急車に乗せられて見えなくなってしまったけれど、顔の左側から特に大量の血が滴っていたように見えた。
そして気づいた。
ああ、自分は死んでしまったのだと。
あの事故のあと、どれくらい時間が経ったのかは分からない。
時間という概念がこの身体からすっぽりと抜け落ちているような気がした。
事故の夜から、ファイはずっとこの部屋でぼんやりと彷徨いながら暮らしている。
たまに空を散歩したり、タダで映画を見たり、遊園地や動物園に行ってみたり、やりたいことをして過ごしてみた。
ある日、適当に遊んで帰ってきたら部屋から自分の荷物が消えて空っぽになっていた。
まぁ、死んでしまったのだからもう家賃だって払えないし、当然のことだと思った。
ちょっと寂しい気もしたけれど、壁を通り抜けたり好きな場所に行けたりするのは楽しかったから、まぁいいか、なんて思っていた。
するとしばらくして、部屋に新たな住人がやってきた。
黒鋼、という名前の男はとてつもなく目つきが悪くて、いつも不機嫌そうな顔をしていた。
すぐにそれが素の表情だということはわかったが、この顔で損することもあるだろうなぁ、なんて少し思った。まず間違いなくその筋の人間に見える。
でもそれがファイの目にはとても野性的で、魅力的に映った。
日本人離れした高身長と、骨太な体躯は無駄なものが一切なく、美しく引き締まっていた。それをキッチリとスーツの下に隠してしまうところが、むしろたまらなく美味しそうだと感じた。
だが、彼には妙な『瘤』がついていた。
それは髪の長い、青白い肌をした女だった。
常に彼の肩に覆いかぶさり、瞬きもせずに虚ろな目をギラギラとさせていた。
蛇のような執念深さがどす黒いオーラとなって女の周りを這いまわり、その影響が確実に黒鋼にも害を及ぼしていた。
はっきり言って近づきたくなかった。黒鋼は好みのタイプではあったけれど、それとこれとは話が別だった。
怖かったのだ。単純に。蛇は嫌いだ。子供の頃、可愛がっていた猫が命をかけて産んだ子猫を、丸飲みにされたことがある。だから嫌だった。
それに、自分が関わったところで何も意味はないと思った。
ファイには、彼女が『生者』であることが一目でわかった。
女は生きている。どんな状況かは知らないが、霊体というよりは思念体に近いものだった。
いわゆる『生霊』というやつだ。
もし彼が過去に女と何かしらあって、それが招いた結果なのだとしたら、自分にはそれこそ関係のない話だった。
だが、結局ファイは黒鋼と関わりを持つことになった。
なにやら貼りついていた札が剥がれ、一度はなりを潜めていたはずの女を再び背負って帰ってきた黒鋼は、ビリング、寝室、トイレを見回ったあと脱衣所に消えていった。
そのままなかなか戻らないので、てっきり風呂に入ってから戻ってくるのだろうとばかり思っていたら。
ついつい食い意地を発揮した結果、ファイは黒鋼に凄まれて正体を現す羽目になってしまった。
けれどそれは結果的にファイに大きな幸運をもたらすことになった。
*
死んでみるもんだなぁ、とファイは思った。
成仏もせずにフラフラしていたら、まさか自分好みの最高の恋人をゲットできるなんて。
あれほど恐ろしかった肩の上の女も『燃えるような恋』の前には敵ではなかった。関わってしまった以上もはや無関係ではないし、むしろ邪魔臭いだけだったので、渾身の一撃を顔面にお見舞いしてからというもの、姿を現さない。
このまま諦めて、とっとと次の相手を見つけてくれればいいのだが。
とにかく今は黒鋼と自分が恋人という『設定』なのだから。
もちろんこちらは死んでいるわけだから、本気で好きになってほしいなんて贅沢なことは望んでいない。
これで本当に成仏できるかもわからないけれど、ある程度つきあってもらって満足したら、自分からこの部屋を出て行くつもりだ。
「帰ったぞ。おい、いるか」
日付が変わる少し前。
寝室のベッドに寝そべって雑誌をパラパラと眺めていたファイは、リビングから聞こえる黒鋼の声に勢いよく飛び起きた。
「黒たんだ!」
気持ちが浮き立つのと一緒にふわりと身体を浮遊させ、壁を突っ切ってリビングに顔を出すと、黒鋼はコートとジャケットを脱ぎながら渋い顔をした。
「壁から出てくんな」
「おかえりー! 今日も一日お疲れ様!」
そう言って抱き付いて、思いっきり頬にキスをすると、彼はさらに渋い顔をして見せるだけで、大袈裟な反応は寄越さない。
こうして『恋人契約』を結んで数日。こちらからは触れられるが、黒鋼から触れようとすると通り抜けてしまうため、抵抗しても無駄だとすっかり諦めているようだ。
ファイはそれをいいことに『行ってらっしゃい』と『おかえり』のキスを朝晩堪能させてもらっている。
「離れろ。それより」
「ん?」
黒鋼は白いビニール袋を手に提げていた。それをずいっと差し出してくるので、ファイは身体を離すと咄嗟に受け取った。
「弁当」
「わー! ありがとー!」
さっそくテーブルに置いて中を取り出してみる。
ハンバーグ弁当とあんかけ焼きそば、シーチキンサラダと海藻サラダが各種一つずつ姿を現した。
「好きな方食え。好みがわからねぇから、適当に買ってきた」
「やったー! どれも美味しそうー! えっとー、どれにしようかなー?」
「好き嫌いはねぇんだな」
「生魚以外はなんでも食べるよー。あ、そうだ」
ファイは思い出したように両手を胸の前でポンっと叩くと、キッチンへふわりと向かう。
「あのねー、お母さんからの荷物に入ってた野菜とか使って、お味噌汁作っておいたんだー」
鍋に火をかけながら言うと、黒鋼は意外そうな顔をして側までやってきた。何気なくネクタイを緩める仕草に、ついついときめく。
やっぱり彼は顔も身体も仕草も、全て自分の好みのど真ん中だ。大きな手の甲に浮き立つ血管や骨張った長く太い指なんて、ファイの目には特にご馳走のように見えてしまう。
流石に抵抗できない人間に襲い掛かるのは気の毒なので、キスまででどうにか我慢しているけれど。
「飯は食う、料理はする……どこまでも変わってんな」
「ふふふー、お料理だけじゃないよー。今日は掃除も洗濯もしといたしー、オレっていい奥さんでしょー?」
「誰が奥さんだ、誰が」
黒鋼は飽きれたような顔をして、キッチンから出て行ってしまった。
そのまま着替えるために寝室へ消える後姿を見守りながら、ファイは頬が緩むのを止められない。
彼にしてみれば迷惑でしかない状況だということは知りつつも、ファイにとっては生まれて初めてできた『恋人』だ。
死んでからようやく出来たというのも皮肉な話だが、それでも『気分』を味わえるだけで十分幸せだった。
しかも相手は念願のノンケで、女の生霊が執念深くつきまとうほどの男前。
(それに、凄く優しいし)
今のファイは基本的に腹が空かない。
それでも飲み食いしたいと思うのは、おそらく生きている頃の習慣が抜けないからだ。
食ったところで栄養になっている様子はなく、トイレに行く必要もない。
なら腹の中のものは一体どこに消えているのか、その辺りは分からないが、細かいことは気にしない性質である。
だから腹を空かせているわけではないのだが、黒鋼はファイの存在を知ってからはこうして食べ物を買って帰ってくるようになった。
今日のように弁当のときもあれば、カップ麺やパンのときもある。
母親が送ってきた煎餅類を食べても怒らないし、基本的にお人好しなのかもしれない。
しかも最初に話をした夜以降、黒鋼は部屋で煙草を吸わなくなった。嫌いだと言った言葉を覚えてくれているのだ。
(なんか嬉しいなー。ますます惚れちゃうー!)
たかが幽霊ごときのために少しでも手間をかけたり、気を使ってくれる彼の優しさが嬉しかった。
だから実際は掃除も洗濯もあまり好きではないけれど、ついつい尽くしたくなってしまう。
なんだか本当に恋人と一緒に暮らしているような、そんな気分になれるから。
ただしこの生活を続けるためには、黒鋼が提示した『条件』というものを守る必要があった。
それは、決して束縛しないこと。
いちいち帰ってくる時間に口出ししたり、どこへ行こうが誰と会おうが余計な詮索はするなというもの。
なんだか恋愛の醍醐味を根こそぎ奪われたような気がしないでもない。
ただイチャイチャするのもいいが、たまにはヤキモチを焼いたり、帰りが遅いといって頬を膨らませてみたり、そういうコミュニケーションも憧れの一つだったのだが。
でも仕方がない。ただでさえ我慢を強いているという自覚はある。
産まれて、生きて、そして死んでしまった中、最初で最後の恋愛ごっこを楽しませてもらっているのだから、我儘は言いっこなしだ。
(でも、やっぱり関係あるんだろうなぁ……例の女の人と……)
あの絡みつくような執念を思えば、なんとなく予想はつくけれど。
タフそうには見えるが、なかなか深い傷をその心に負わされているらしい。
味噌汁が沸騰する前に火を止めたファイは、蓋を開けた中身をお玉でかき混ぜながら考える。
「癒せないよなぁ……オレなんかじゃ……」
せめてあの女が再び彼に近づかないように。遠ざけてやる以外に守る術がないことを歯痒いと感じる。いつまでこうしていられるかも分からない。
でもきっと黒鋼の傷を癒すことができる人間は他にいるのだ。
こんな俄か恋愛ごっこじゃなくて、心からまた愛したいと思える人こそが、彼を救う。
そのときファイは成仏しているかもしれないし、まだどこかを彷徨っているかもしれない。
いずれにしろ自分には関係ないのだと思うと、ほんの少し、寂しい気がした。
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サイレンの音が遠くに鳴り響く中、ファイはぽっかりと目を覚ました。
一体いつの間に眠っていたんだろう。
なんだか身体がふわふわして、未だに夢の中を彷徨っているような気分だった。
確か自分は、自宅で仕事が煮詰まったことを理由に気分転換のため外に出たはずだ。
近所のコンビニまで足を運び、少し雑誌を立ち読みしたあと、腹が減ったら適当に食べようと幾つかおにぎりを買ったような気がする。
のんびりと夜の大通りをマンションへ向かって歩きながら見上げた空に、丸い月が浮かんでいた。
それから、どうしたのだったか。
なぜか記憶がぷっつりと途切れて思い出せなかった。
けれどすぐに、そのとき見上げた月が記憶の中よりも少し近い場所にあるような気がしてハッとした。
ファイは、夜空の中にいた。
ふわふわとしていたのは意識ではなくて、実際、本当に身体がふわふわと浮かんでいたのだ。
何が起こったのかさっぱり分からず辺りを見渡せば、ずっとずっと遠くまで街の光が見渡せた。9階からでは、流石にここまでは一望できない。
でも、なんだかおかしい。違和感とでもいえばいいのか。そして気づく。
なぜか左目がさっぱり見えない。触れてみても特に変わったところはないけれど、視界が半分だけになっているのはなんだか変な感じだ。
なんでかなぁなんて呑気に首を傾げていると、下の方から響くサイレンの音に混ざって、怒号が飛び交っていることに気が付いた。
視線をふっと下の世界に向け、身体を少し下降させる。
そこでファイは、担架に乗せられる『自分』の姿を見た。
前面がぺしゃんこになっている乗用車が歩道に突っ込んでいて、引っくり返っているバイクの残骸と、投げ出されたヘルメットも見える。
警察や救急隊、多くの野次馬が囲む中、サイレンの赤いランプが躍っていた。
『ファイ』は、頭からびっくりするほど血を流してグッタリとしていた。すぐに救急車に乗せられて見えなくなってしまったけれど、顔の左側から特に大量の血が滴っていたように見えた。
そして気づいた。
ああ、自分は死んでしまったのだと。
あの事故のあと、どれくらい時間が経ったのかは分からない。
時間という概念がこの身体からすっぽりと抜け落ちているような気がした。
事故の夜から、ファイはずっとこの部屋でぼんやりと彷徨いながら暮らしている。
たまに空を散歩したり、タダで映画を見たり、遊園地や動物園に行ってみたり、やりたいことをして過ごしてみた。
ある日、適当に遊んで帰ってきたら部屋から自分の荷物が消えて空っぽになっていた。
まぁ、死んでしまったのだからもう家賃だって払えないし、当然のことだと思った。
ちょっと寂しい気もしたけれど、壁を通り抜けたり好きな場所に行けたりするのは楽しかったから、まぁいいか、なんて思っていた。
するとしばらくして、部屋に新たな住人がやってきた。
黒鋼、という名前の男はとてつもなく目つきが悪くて、いつも不機嫌そうな顔をしていた。
すぐにそれが素の表情だということはわかったが、この顔で損することもあるだろうなぁ、なんて少し思った。まず間違いなくその筋の人間に見える。
でもそれがファイの目にはとても野性的で、魅力的に映った。
日本人離れした高身長と、骨太な体躯は無駄なものが一切なく、美しく引き締まっていた。それをキッチリとスーツの下に隠してしまうところが、むしろたまらなく美味しそうだと感じた。
だが、彼には妙な『瘤』がついていた。
それは髪の長い、青白い肌をした女だった。
常に彼の肩に覆いかぶさり、瞬きもせずに虚ろな目をギラギラとさせていた。
蛇のような執念深さがどす黒いオーラとなって女の周りを這いまわり、その影響が確実に黒鋼にも害を及ぼしていた。
はっきり言って近づきたくなかった。黒鋼は好みのタイプではあったけれど、それとこれとは話が別だった。
怖かったのだ。単純に。蛇は嫌いだ。子供の頃、可愛がっていた猫が命をかけて産んだ子猫を、丸飲みにされたことがある。だから嫌だった。
それに、自分が関わったところで何も意味はないと思った。
ファイには、彼女が『生者』であることが一目でわかった。
女は生きている。どんな状況かは知らないが、霊体というよりは思念体に近いものだった。
いわゆる『生霊』というやつだ。
もし彼が過去に女と何かしらあって、それが招いた結果なのだとしたら、自分にはそれこそ関係のない話だった。
だが、結局ファイは黒鋼と関わりを持つことになった。
なにやら貼りついていた札が剥がれ、一度はなりを潜めていたはずの女を再び背負って帰ってきた黒鋼は、ビリング、寝室、トイレを見回ったあと脱衣所に消えていった。
そのままなかなか戻らないので、てっきり風呂に入ってから戻ってくるのだろうとばかり思っていたら。
ついつい食い意地を発揮した結果、ファイは黒鋼に凄まれて正体を現す羽目になってしまった。
けれどそれは結果的にファイに大きな幸運をもたらすことになった。
*
死んでみるもんだなぁ、とファイは思った。
成仏もせずにフラフラしていたら、まさか自分好みの最高の恋人をゲットできるなんて。
あれほど恐ろしかった肩の上の女も『燃えるような恋』の前には敵ではなかった。関わってしまった以上もはや無関係ではないし、むしろ邪魔臭いだけだったので、渾身の一撃を顔面にお見舞いしてからというもの、姿を現さない。
このまま諦めて、とっとと次の相手を見つけてくれればいいのだが。
とにかく今は黒鋼と自分が恋人という『設定』なのだから。
もちろんこちらは死んでいるわけだから、本気で好きになってほしいなんて贅沢なことは望んでいない。
これで本当に成仏できるかもわからないけれど、ある程度つきあってもらって満足したら、自分からこの部屋を出て行くつもりだ。
「帰ったぞ。おい、いるか」
日付が変わる少し前。
寝室のベッドに寝そべって雑誌をパラパラと眺めていたファイは、リビングから聞こえる黒鋼の声に勢いよく飛び起きた。
「黒たんだ!」
気持ちが浮き立つのと一緒にふわりと身体を浮遊させ、壁を突っ切ってリビングに顔を出すと、黒鋼はコートとジャケットを脱ぎながら渋い顔をした。
「壁から出てくんな」
「おかえりー! 今日も一日お疲れ様!」
そう言って抱き付いて、思いっきり頬にキスをすると、彼はさらに渋い顔をして見せるだけで、大袈裟な反応は寄越さない。
こうして『恋人契約』を結んで数日。こちらからは触れられるが、黒鋼から触れようとすると通り抜けてしまうため、抵抗しても無駄だとすっかり諦めているようだ。
ファイはそれをいいことに『行ってらっしゃい』と『おかえり』のキスを朝晩堪能させてもらっている。
「離れろ。それより」
「ん?」
黒鋼は白いビニール袋を手に提げていた。それをずいっと差し出してくるので、ファイは身体を離すと咄嗟に受け取った。
「弁当」
「わー! ありがとー!」
さっそくテーブルに置いて中を取り出してみる。
ハンバーグ弁当とあんかけ焼きそば、シーチキンサラダと海藻サラダが各種一つずつ姿を現した。
「好きな方食え。好みがわからねぇから、適当に買ってきた」
「やったー! どれも美味しそうー! えっとー、どれにしようかなー?」
「好き嫌いはねぇんだな」
「生魚以外はなんでも食べるよー。あ、そうだ」
ファイは思い出したように両手を胸の前でポンっと叩くと、キッチンへふわりと向かう。
「あのねー、お母さんからの荷物に入ってた野菜とか使って、お味噌汁作っておいたんだー」
鍋に火をかけながら言うと、黒鋼は意外そうな顔をして側までやってきた。何気なくネクタイを緩める仕草に、ついついときめく。
やっぱり彼は顔も身体も仕草も、全て自分の好みのど真ん中だ。大きな手の甲に浮き立つ血管や骨張った長く太い指なんて、ファイの目には特にご馳走のように見えてしまう。
流石に抵抗できない人間に襲い掛かるのは気の毒なので、キスまででどうにか我慢しているけれど。
「飯は食う、料理はする……どこまでも変わってんな」
「ふふふー、お料理だけじゃないよー。今日は掃除も洗濯もしといたしー、オレっていい奥さんでしょー?」
「誰が奥さんだ、誰が」
黒鋼は飽きれたような顔をして、キッチンから出て行ってしまった。
そのまま着替えるために寝室へ消える後姿を見守りながら、ファイは頬が緩むのを止められない。
彼にしてみれば迷惑でしかない状況だということは知りつつも、ファイにとっては生まれて初めてできた『恋人』だ。
死んでからようやく出来たというのも皮肉な話だが、それでも『気分』を味わえるだけで十分幸せだった。
しかも相手は念願のノンケで、女の生霊が執念深くつきまとうほどの男前。
(それに、凄く優しいし)
今のファイは基本的に腹が空かない。
それでも飲み食いしたいと思うのは、おそらく生きている頃の習慣が抜けないからだ。
食ったところで栄養になっている様子はなく、トイレに行く必要もない。
なら腹の中のものは一体どこに消えているのか、その辺りは分からないが、細かいことは気にしない性質である。
だから腹を空かせているわけではないのだが、黒鋼はファイの存在を知ってからはこうして食べ物を買って帰ってくるようになった。
今日のように弁当のときもあれば、カップ麺やパンのときもある。
母親が送ってきた煎餅類を食べても怒らないし、基本的にお人好しなのかもしれない。
しかも最初に話をした夜以降、黒鋼は部屋で煙草を吸わなくなった。嫌いだと言った言葉を覚えてくれているのだ。
(なんか嬉しいなー。ますます惚れちゃうー!)
たかが幽霊ごときのために少しでも手間をかけたり、気を使ってくれる彼の優しさが嬉しかった。
だから実際は掃除も洗濯もあまり好きではないけれど、ついつい尽くしたくなってしまう。
なんだか本当に恋人と一緒に暮らしているような、そんな気分になれるから。
ただしこの生活を続けるためには、黒鋼が提示した『条件』というものを守る必要があった。
それは、決して束縛しないこと。
いちいち帰ってくる時間に口出ししたり、どこへ行こうが誰と会おうが余計な詮索はするなというもの。
なんだか恋愛の醍醐味を根こそぎ奪われたような気がしないでもない。
ただイチャイチャするのもいいが、たまにはヤキモチを焼いたり、帰りが遅いといって頬を膨らませてみたり、そういうコミュニケーションも憧れの一つだったのだが。
でも仕方がない。ただでさえ我慢を強いているという自覚はある。
産まれて、生きて、そして死んでしまった中、最初で最後の恋愛ごっこを楽しませてもらっているのだから、我儘は言いっこなしだ。
(でも、やっぱり関係あるんだろうなぁ……例の女の人と……)
あの絡みつくような執念を思えば、なんとなく予想はつくけれど。
タフそうには見えるが、なかなか深い傷をその心に負わされているらしい。
味噌汁が沸騰する前に火を止めたファイは、蓋を開けた中身をお玉でかき混ぜながら考える。
「癒せないよなぁ……オレなんかじゃ……」
せめてあの女が再び彼に近づかないように。遠ざけてやる以外に守る術がないことを歯痒いと感じる。いつまでこうしていられるかも分からない。
でもきっと黒鋼の傷を癒すことができる人間は他にいるのだ。
こんな俄か恋愛ごっこじゃなくて、心からまた愛したいと思える人こそが、彼を救う。
そのときファイは成仏しているかもしれないし、まだどこかを彷徨っているかもしれない。
いずれにしろ自分には関係ないのだと思うと、ほんの少し、寂しい気がした。
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幽霊と対話
逆さまの男が、天井から上半身だけを生やしている。
パリン、と煎餅をかじっている姿を見て、黒鋼はふ、と息をつくとそれに背を向けた。
ネクタイを緩めながらソファにどっかりと腰を下ろして、テレビを見る。
やっぱりくだらないお笑い番組が放送されていた。
「ねぇ」
「…………」
「ねぇってば。あれだけ凄んどいて無視はないんじゃない?」
「…………誰だこの芸人。知らねぇな」
「ギンタローだよー。元AQBのさっちゃんの物真似の人」
「…………風呂でも入るか」
テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、テレビのスイッチを切った黒鋼に金髪男が「もー!」と癇癪めいた声を上げた。
「現実逃避しないでよー! オレだって出てきたくなかったの我慢して姿見せてるんだからー!」
金髪はにゅるんと天井から全身を現し、黒鋼の背後から上半身を乗り出すようにして顔を覗き込んできた。
思わず、少し仰け反る。彼はソファの背もたれに片手を乗せているだけで、ふわふわと浮かんでいた。
天井から上半身だけ生やすような芸を持っているのだから、浮かぶくらい朝飯前か。
目の前の出来事を受け入れられず混乱する自分と、冷静に有りのままを受け入れつつある自分が、黒鋼の中に同時に存在していた。
「待て、ちょっと待て。黙ってろ」
黒鋼が前屈みの姿勢になり、両手で頭を抱えると、男はふわっと移動してテーブルの上に着地し、ヤンキー座りをした。
下からねめつけるように、ほぼ真正面にいる男の姿を見やる。
柔らかそうな金髪は天然モノらしい。両目は青いが、なぜか左目だけうっすら濁っている。肌が異様に白いのは血が通っていないためだろうか。
白い長袖のシャツに少しダボついたジーンズは裾が僅かに解れている。そういう仕様なのか、それともたんに古くなって傷んでいるだけなのか。いや、そんなことはどうでもいい。
問題はもっと別のところにある。
「おまえは……幽霊か?」
今更のような気がしつつも、確認せずにはいられない。
男は最後の煎餅の欠片を噛み砕き、飲み込んでから大きく頷いた。
「そうだよー。オレお化け」
「……毎晩イタズラしてやがったのも、てめぇだな?」
「イタズラっていうかー。生活してただけだよー」
「生活だと?」
うん、と男は再び頷く。
「だってここ、オレの家だもん」
ケロリと言い放つその間抜けな面に、黒鋼は忘れかけていた怒りが沸々と再発してゆくのを感じて額に青筋を立てた。
男が行儀悪く腰を落ち着けているテーブルに、握った拳を打ち付ける。ドンという音に驚いた薄い肩がビクンと跳ねた。
「わっ、ビックリー」
「ふざけんな! 何がオレの家だもん、だ! てめぇはとっくに死んでんだろうが! 生きてる人間に迷惑かけてねぇで、とっとと成仏しやがれ!!」
「そんなこと言ったってー、できてればとっくにしてるよー。成仏の仕方がわかんないんだから、しょうがないじゃん!」
「はぁ!?」
そんなことがあるのだろうか。
でも考えてもみれば、こちとら死んだ経験がないのだからなんとも言えないのは確かだった。成仏をするためのマニュアルでもあれば話は別かもしれないが……。
黒鋼はまだ完全に飲み込みきれない状況に苛立ち、頭をガリガリと掻いた。
それからワイシャツの胸ポケットから煙草とライターを取り出し、箱から取り出した一本を咥える。火をつけようとしたところで、白い手がにゅっと伸びてきて咥えていたものを奪われる。
「ッ!」
「ダメー。オレ煙草は嫌い。部屋が臭くなるもん」
「……返せ」
「ダメだって。身体にも悪いよー」
なぜ幽霊に身体の心配をされなくてはいけないのか。
取り上げられた一本は諦め、もう一本取り出そうとしたところで、今度は箱ごと奪われる。
「いい加減にしろ! 俺がどうしようと勝手だろ!」
「あのね、死んでみて思ったけど、ほんと身体は大事にした方いいよー!」
「余計なお世話だ! だいたい誰のせいでストレス溜まりまくってると思ってる!?」
「オレのせいって言いたいのー?」
「当たり前だ!!」
幽霊の手から即座に煙草の箱を奪う。
今度は中身を口に咥えても文句は言われなかった。火をつけて思い切り吸い込むと、彼はむぅっと口を尖らせながらも、テーブル脇にあったガラス製の灰皿をずいっと近づけて寄越した。
「そりゃ悪かったよ。でも幽霊だってシャワーくらい浴びたいし、たまには何か食べたり飲んだりもしたくなるし、暇だからテレビとか雑誌とか、見たくなるんだよ」
「聞いたことねぇぞそんな幽霊。だいたいテレビはつけっぱ、雑誌も放りっぱ、冷蔵庫のドアも閉められねぇのか。ついでに聞くが、洗濯洗剤ぶちまけやがったのはどういう嫌がらせだ?」
ふ、っと金髪幽霊に向かって煙を吐き出すと、彼は嫌そうな顔をしてふわりと飛んで、黒鋼の隣に移動した。こちらに身体を向け、ソファに膝を抱えて座り込む。長身のようだが、ずいぶんと小さくまとまる奴だと思った。
「洗濯物が溜まってたから、洗ってあげようかなーって思って。そしたら手が滑って、どうしよーってなってるとこに君が帰ってくるもんだから」
「コソコソすんな。どうせこうやって出てくんなら、最初っから顔出しゃよかったじゃねぇか」
「おっかない顔して出て来いって脅すから、仕方なくじゃん……それに」
幽霊はさらに唇を尖らせると、ふいっと目を逸らした。
「……なんかヤだったんだもん」
怖い人乗っけてるし……という言葉はあまりに小さくて、黒鋼の耳にはハッキリと入ってこなかった。
ただ、逸らしていた視線をこちらに戻した彼の目は、黒鋼を捉えているというよりは、微妙に首の後ろ辺りを見ているような気がして、なんとなく嫌な気分になる。
黒鋼は半分ほどしか吸っていない煙草を、灰皿に押し付けると火を消した。取り返してまで吸ったはいいが、美味くはなかった。
「札と数珠は」
「んー?」
「破いたのもてめぇか。さっき数珠も壊しやがったろ」
「…………ねぇ、清算してない過去があるなら、ちゃんとしといた方がいいよ」
「あ……?」
「遊んでるタイプには見えないけどねー。殺めてるタイプには見えるけどー」
「おいこら、なにさりげなく失敬なこと言ってやがる」
幽霊は「あははー」と笑ってその場を離れた。窓辺にするりと飛んで行って、カーテンと窓を少しだけ開けている。換気しているらしい。
その様子を見ながら黒鋼は思う。
最終的な判断としては、この男は決して悪いやつではないらしいということ。
ズボラでお節介でそそっかしいところはあるようだが、確かにあの管理人のばあさんが言っていた通り、よく笑う好青年、なのかもしれない。
「……すぐそこの道路だってな」
そう言うと、彼はこちらに背中を向けたまま少しだけ俯いた。
不味い質問だったのかもしれないが、彼は死んでいるという事実をしっかり受け止めているようだし、そもそも死因を直接聞かれる気持ちというのは分かりかねる。
「そうみたいだねぇ……。ハッキリとは覚えてないんだ。最初は何が起こったのかさっぱり分かんなくて。気づいたらなんとなくふわふわ浮かんでて、あー、オレ死んだんだなーって」
「そんなもんかよ。死ぬときってのは」
「さぁねぇ。初めての経験だし、苦しんだ記憶がないってことは、事故で一瞬だったんじゃないかなー」
「……そうか」
やはり、聞くべきではなかったのかもしれない。
彼はあっけらかんとして言ってのけるが、だからって平気なはずがないことくらい、考えずとも分かるだろうに。軽率だった自分に溜息が漏れる。
そしてこれは、決して黒鋼にとって関係のない話ではなかった。
明日は我が身という言葉がある。いつ己が身に降りかかってもおかしくはない話だし、あるいは加害者側に回る可能性だってある。
もし自分が彼の立場だったなら、どう思うだろうか。
あのとき、自殺未遂をはかったあの女の切っ先が、こちらに向けられていたなら。もしかしたら今頃、同じように訳も分からず空に浮かんで彷徨っていたのは、自分だったかもしれない。
冗談じゃないと思う。今はまだ死んでなんていられない。
仕事だって放り投げることはしたくないし、親孝行もまだまともにしていない。しばらくは考えられないとしても、いつかは家庭だって持ちたいと思う。
でも、その道が一瞬にして理不尽に断たれてしまったら。
未練、という言葉が頭の中に浮かびあがる。
そして黒鋼はハッとした。
「なぁ、未練じゃねぇか?」
「え?」
「よくいうだろ。死んでも死にきれねぇってな。てめぇが成仏もできずにフラフラしてんのは、この世に未練があるからなんじゃねぇのか」
「なるほど未練かー……」
男はこちらを向くと、空中に浮かんだまま座っているような態勢で足を組んだ。
白い指先を顎に添えて、「うーむ」と考え込んでいる。
「なんかねぇのか」
「未練……未練……」
「行きてぇ場所があったとか、誰かに何か伝えてぇとか、食いてぇもんとか」
「…………恋」
「なんだ?」
黒鋼が僅かに身を乗り出すと、彼はどこか納得したように頷いた。
「オレ、ちゃんと恋愛したことない」
「……恋、か」
「うん。誰かを好きになったことはあるけど、ちゃんとした恋人っていた経験ないんだよね。片思いばっかりで……」
黒鋼は腕を組み、改めて男の姿を眺めた。
彼はどちらかといえば恵まれた容姿を持っていると思う。
少し痩せすぎのような気はするものの、やつれて不健康そうに見えるというほどではない。いわゆるモデル体型というやつだろう。
顔にしたって女性受けしそうな甘いマスクだし、それこそモデルやアイドルのような印象を受ける。
決して相手に不自由するタイプには見えないのだが。
黒鋼がじっと観察していると、男は流石に居心地が悪くなったのか、なぜか赤らんだ頬を両手で包み込み、目を逸らした。
「やだぁ……あんまり見られると恥ずかしい……」
「……なよっちいな」
「ふぇ?」
「それだ。てめぇが女にモテねぇ原因は」
男は片方が少し濁った両目を見開いて、パチパチと瞬きを繰り返した。
そして、ぷぅっと唇を尖らせる。こうして見ると童顔だなと、ぼんやり思う。
「別に女の子にモテなくったって困らないもーん」
「あ? じゃあ恋だのなんだのって話はどうなる」
「だからー、オレは男の人が好きなのー」
「…………ああ、そういうことか」
ならばまぁ、納得はいく。
いくら男の目から見ても容姿が優れていても、同性同士となると相手を見つけることはそう簡単ではない、のかもしれない。
けれどふと思う。普通に日常生活を送る中で自然と相手を見つけることは難しくとも、その手の場所へ足を運べば、どうにでもなりそうなものだ。これだけネットが普及している世の中でもある。
「オレさ、どうしてもノンケの人しか好きになれないんだよね。そういうホモの人って結構多いんだけど……」
「……なるほど」
「だから、未練があるとすればそれかなって。ごく自然に出会ったノンケの人と、燃えるような大恋愛がしてみたいなー!」
「……なかなか難しいだろうな」
生きているならいざ知らず。
何かしら自分にできることがあるなら手伝ってやらないこともないが、『恋』なんて時点でホモだろうがノンケだろうが関係なしに、難易度の高い未練である。
近所の寺にでも連れていけば、まだ成仏できていないノンケ幽霊と出会うチャンスに恵まれるだろうか。しかし、幽霊とはいえ相手にも性別を選ぶ権利はあるだろうし……。
一瞬、母の顔が浮かんだものの、相談できる内容ではない。強制的に成仏させることは可能かもしれないが。
「ねぇ、オレ思ったんだけどー」
「なんだよ」
「ごく自然な出会いなら、もうしてるんだよね」
「あ? どこで?」
「ここで」
「……いつ?」
「今」
ファイはにっこり笑って、黒鋼を指さした。
「君、ノンケ」
「……冗談だろ? しかもこれのどこが自然な出会いだ?」
「オレさー、実は初めて見たときから君のこと好みだなーって思ってたんだよねー! よく言われない? 君みたいなタイプってすっごくモテるよ」
それは、確かによく言われる。
何度かその手の人間に言い寄られた経験はあるし、以前住んでいたアパートの風呂が壊れたとき、足を運んだ銭湯のサウナがハッテン場だったこともある。そうと知らずウッカリ入って、えらい目にあいかけた。(背負い投げで撃退してなんとか身を守った)
しかし黒鋼にはその気が一切ない。恋愛対象も性的な対象も、完全に女性だけだった。
そもそも相手の性別以前に、当分は愛だの恋という言葉からは遠い場所にいたかった。ストーカー女によって植えつけられたトラウマは、そこそこ根が深い。
「ね、人助けだと思ってさー、ちょっとだけ相手してよ。好きになってくれなくていいから、オレの気が済むまで。ね?」
「…………ちょっと待て、考えさせろよ」
思わず片手を額に押し当てる。
非現実的なことが実際に現実として起こっている今、黒鋼の感覚は麻痺しかけていた。
このまま出会ったばかりでよく知りもしない相手(しかも幽霊)の話に乗ってしまっていいものか。いや、でもそれがこの迷える魂にとって最良ならば、乗りかかった船と思って協力するべきなのか。
そもそも未練だなんだと話を振ったのは自分の方だし、キッカケを作ってしまった責任が全くないわけではない、気がする。
いっそここから出ていくという選択肢もあるにはあるが、出来ればしばらく引っ越しはしたくない。ここへ越すときだって無理やり仕事をストップさせて、どうにか一日だけ休みをもぎ取ったのだ。しかも休み明けは地獄を見た。
自分の今後の生活を守るための行動が、ついでに人助けになるというのなら、致し方ないのか。
黒鋼は深い深い溜息をついた。
何をすればいいのかよく分からないが、とりあえず一言「わかった」と吐き捨てると、男は目をキラキラと輝かせた。
「やったー! ありがとー!!」
「その代り、条件があるぞ。それだけはキッチリ守ってもらう」
「うんうん! なんでも言って! あ、その前に」
男は空中からソファの上までやってくると、「よいしょー」と言って黒鋼の膝の上に向かい合うように乗り上げてきた。
生きている人間さながらにしっかりと感触もあって、膝で受け止める体重も伝わってくる。体温は冷たいとばかり思っていたが、意外に生温かった。
「こらてめぇ! 乗るな!」
「そうと決まれば、邪魔なものはやっつけちゃうねー」
「?」
ひゅん、と。
男の拳が、黒鋼の頬すれすれを掠めた。
一体なにをしたのかはわからないが、どうやら後方に向かって攻撃したらしい。
完了、と言って男が笑った瞬間、不思議なことに肩や身体が、嘘のように軽くなった。
「……? 何をした?」
呆然として問いかけると、男は「ふふ」っと楽しげな声を漏らす。
そして黒鋼の首に両腕をゆるりと回し、一瞬だけ唇同士が触れ合った。
「なッ!? て、てめぇ!」
咄嗟にひょろい身体を薙ぎ払おうとして、両手がスカっと宙を切る。
「!?」
なにが起こったのか分からなかった。男にキスをされたという衝撃的な事実が霞むほどの現象に、黒鋼は目を見開いた。
自分の思い違いでなければの話だが。今、遠ざけようとしたはずの両腕が目の前の身体を通り抜けなかったか?
その重みも感じるし回された腕の感触もある。唇の感触も、柔らかいものだった、と思う。それなのに。
(どうなってんだ……?)
黒鋼はもう一度確かめるため、華奢な肩に触れようとした。だが結局、彼の中に一度すっぽりと埋もれるようにして、何の感触も得られないまま手の平が戻ってきた。
つまり、相手はこちらに好きに触れることができても、こちらからは触れられない。
どういう原理か知らないが、そういうことらしかった。
釈然としない表情で男の顔を見れば、彼は目を細めてふんわりと微笑んだ。やっぱり、左目だけ少し白く濁っている。
「よろしくね黒たん。しばらくの間は、オレが君を守ってあげる」
ずっとここにいたのなら、名前くらいは知っていても当然か。
ふざけた呼び方は気に食わないが、それより彼の放った言葉の方が気になって、黒鋼は口から飛び出しかけた不満を飲み込んだ。
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逆さまの男が、天井から上半身だけを生やしている。
パリン、と煎餅をかじっている姿を見て、黒鋼はふ、と息をつくとそれに背を向けた。
ネクタイを緩めながらソファにどっかりと腰を下ろして、テレビを見る。
やっぱりくだらないお笑い番組が放送されていた。
「ねぇ」
「…………」
「ねぇってば。あれだけ凄んどいて無視はないんじゃない?」
「…………誰だこの芸人。知らねぇな」
「ギンタローだよー。元AQBのさっちゃんの物真似の人」
「…………風呂でも入るか」
テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、テレビのスイッチを切った黒鋼に金髪男が「もー!」と癇癪めいた声を上げた。
「現実逃避しないでよー! オレだって出てきたくなかったの我慢して姿見せてるんだからー!」
金髪はにゅるんと天井から全身を現し、黒鋼の背後から上半身を乗り出すようにして顔を覗き込んできた。
思わず、少し仰け反る。彼はソファの背もたれに片手を乗せているだけで、ふわふわと浮かんでいた。
天井から上半身だけ生やすような芸を持っているのだから、浮かぶくらい朝飯前か。
目の前の出来事を受け入れられず混乱する自分と、冷静に有りのままを受け入れつつある自分が、黒鋼の中に同時に存在していた。
「待て、ちょっと待て。黙ってろ」
黒鋼が前屈みの姿勢になり、両手で頭を抱えると、男はふわっと移動してテーブルの上に着地し、ヤンキー座りをした。
下からねめつけるように、ほぼ真正面にいる男の姿を見やる。
柔らかそうな金髪は天然モノらしい。両目は青いが、なぜか左目だけうっすら濁っている。肌が異様に白いのは血が通っていないためだろうか。
白い長袖のシャツに少しダボついたジーンズは裾が僅かに解れている。そういう仕様なのか、それともたんに古くなって傷んでいるだけなのか。いや、そんなことはどうでもいい。
問題はもっと別のところにある。
「おまえは……幽霊か?」
今更のような気がしつつも、確認せずにはいられない。
男は最後の煎餅の欠片を噛み砕き、飲み込んでから大きく頷いた。
「そうだよー。オレお化け」
「……毎晩イタズラしてやがったのも、てめぇだな?」
「イタズラっていうかー。生活してただけだよー」
「生活だと?」
うん、と男は再び頷く。
「だってここ、オレの家だもん」
ケロリと言い放つその間抜けな面に、黒鋼は忘れかけていた怒りが沸々と再発してゆくのを感じて額に青筋を立てた。
男が行儀悪く腰を落ち着けているテーブルに、握った拳を打ち付ける。ドンという音に驚いた薄い肩がビクンと跳ねた。
「わっ、ビックリー」
「ふざけんな! 何がオレの家だもん、だ! てめぇはとっくに死んでんだろうが! 生きてる人間に迷惑かけてねぇで、とっとと成仏しやがれ!!」
「そんなこと言ったってー、できてればとっくにしてるよー。成仏の仕方がわかんないんだから、しょうがないじゃん!」
「はぁ!?」
そんなことがあるのだろうか。
でも考えてもみれば、こちとら死んだ経験がないのだからなんとも言えないのは確かだった。成仏をするためのマニュアルでもあれば話は別かもしれないが……。
黒鋼はまだ完全に飲み込みきれない状況に苛立ち、頭をガリガリと掻いた。
それからワイシャツの胸ポケットから煙草とライターを取り出し、箱から取り出した一本を咥える。火をつけようとしたところで、白い手がにゅっと伸びてきて咥えていたものを奪われる。
「ッ!」
「ダメー。オレ煙草は嫌い。部屋が臭くなるもん」
「……返せ」
「ダメだって。身体にも悪いよー」
なぜ幽霊に身体の心配をされなくてはいけないのか。
取り上げられた一本は諦め、もう一本取り出そうとしたところで、今度は箱ごと奪われる。
「いい加減にしろ! 俺がどうしようと勝手だろ!」
「あのね、死んでみて思ったけど、ほんと身体は大事にした方いいよー!」
「余計なお世話だ! だいたい誰のせいでストレス溜まりまくってると思ってる!?」
「オレのせいって言いたいのー?」
「当たり前だ!!」
幽霊の手から即座に煙草の箱を奪う。
今度は中身を口に咥えても文句は言われなかった。火をつけて思い切り吸い込むと、彼はむぅっと口を尖らせながらも、テーブル脇にあったガラス製の灰皿をずいっと近づけて寄越した。
「そりゃ悪かったよ。でも幽霊だってシャワーくらい浴びたいし、たまには何か食べたり飲んだりもしたくなるし、暇だからテレビとか雑誌とか、見たくなるんだよ」
「聞いたことねぇぞそんな幽霊。だいたいテレビはつけっぱ、雑誌も放りっぱ、冷蔵庫のドアも閉められねぇのか。ついでに聞くが、洗濯洗剤ぶちまけやがったのはどういう嫌がらせだ?」
ふ、っと金髪幽霊に向かって煙を吐き出すと、彼は嫌そうな顔をしてふわりと飛んで、黒鋼の隣に移動した。こちらに身体を向け、ソファに膝を抱えて座り込む。長身のようだが、ずいぶんと小さくまとまる奴だと思った。
「洗濯物が溜まってたから、洗ってあげようかなーって思って。そしたら手が滑って、どうしよーってなってるとこに君が帰ってくるもんだから」
「コソコソすんな。どうせこうやって出てくんなら、最初っから顔出しゃよかったじゃねぇか」
「おっかない顔して出て来いって脅すから、仕方なくじゃん……それに」
幽霊はさらに唇を尖らせると、ふいっと目を逸らした。
「……なんかヤだったんだもん」
怖い人乗っけてるし……という言葉はあまりに小さくて、黒鋼の耳にはハッキリと入ってこなかった。
ただ、逸らしていた視線をこちらに戻した彼の目は、黒鋼を捉えているというよりは、微妙に首の後ろ辺りを見ているような気がして、なんとなく嫌な気分になる。
黒鋼は半分ほどしか吸っていない煙草を、灰皿に押し付けると火を消した。取り返してまで吸ったはいいが、美味くはなかった。
「札と数珠は」
「んー?」
「破いたのもてめぇか。さっき数珠も壊しやがったろ」
「…………ねぇ、清算してない過去があるなら、ちゃんとしといた方がいいよ」
「あ……?」
「遊んでるタイプには見えないけどねー。殺めてるタイプには見えるけどー」
「おいこら、なにさりげなく失敬なこと言ってやがる」
幽霊は「あははー」と笑ってその場を離れた。窓辺にするりと飛んで行って、カーテンと窓を少しだけ開けている。換気しているらしい。
その様子を見ながら黒鋼は思う。
最終的な判断としては、この男は決して悪いやつではないらしいということ。
ズボラでお節介でそそっかしいところはあるようだが、確かにあの管理人のばあさんが言っていた通り、よく笑う好青年、なのかもしれない。
「……すぐそこの道路だってな」
そう言うと、彼はこちらに背中を向けたまま少しだけ俯いた。
不味い質問だったのかもしれないが、彼は死んでいるという事実をしっかり受け止めているようだし、そもそも死因を直接聞かれる気持ちというのは分かりかねる。
「そうみたいだねぇ……。ハッキリとは覚えてないんだ。最初は何が起こったのかさっぱり分かんなくて。気づいたらなんとなくふわふわ浮かんでて、あー、オレ死んだんだなーって」
「そんなもんかよ。死ぬときってのは」
「さぁねぇ。初めての経験だし、苦しんだ記憶がないってことは、事故で一瞬だったんじゃないかなー」
「……そうか」
やはり、聞くべきではなかったのかもしれない。
彼はあっけらかんとして言ってのけるが、だからって平気なはずがないことくらい、考えずとも分かるだろうに。軽率だった自分に溜息が漏れる。
そしてこれは、決して黒鋼にとって関係のない話ではなかった。
明日は我が身という言葉がある。いつ己が身に降りかかってもおかしくはない話だし、あるいは加害者側に回る可能性だってある。
もし自分が彼の立場だったなら、どう思うだろうか。
あのとき、自殺未遂をはかったあの女の切っ先が、こちらに向けられていたなら。もしかしたら今頃、同じように訳も分からず空に浮かんで彷徨っていたのは、自分だったかもしれない。
冗談じゃないと思う。今はまだ死んでなんていられない。
仕事だって放り投げることはしたくないし、親孝行もまだまともにしていない。しばらくは考えられないとしても、いつかは家庭だって持ちたいと思う。
でも、その道が一瞬にして理不尽に断たれてしまったら。
未練、という言葉が頭の中に浮かびあがる。
そして黒鋼はハッとした。
「なぁ、未練じゃねぇか?」
「え?」
「よくいうだろ。死んでも死にきれねぇってな。てめぇが成仏もできずにフラフラしてんのは、この世に未練があるからなんじゃねぇのか」
「なるほど未練かー……」
男はこちらを向くと、空中に浮かんだまま座っているような態勢で足を組んだ。
白い指先を顎に添えて、「うーむ」と考え込んでいる。
「なんかねぇのか」
「未練……未練……」
「行きてぇ場所があったとか、誰かに何か伝えてぇとか、食いてぇもんとか」
「…………恋」
「なんだ?」
黒鋼が僅かに身を乗り出すと、彼はどこか納得したように頷いた。
「オレ、ちゃんと恋愛したことない」
「……恋、か」
「うん。誰かを好きになったことはあるけど、ちゃんとした恋人っていた経験ないんだよね。片思いばっかりで……」
黒鋼は腕を組み、改めて男の姿を眺めた。
彼はどちらかといえば恵まれた容姿を持っていると思う。
少し痩せすぎのような気はするものの、やつれて不健康そうに見えるというほどではない。いわゆるモデル体型というやつだろう。
顔にしたって女性受けしそうな甘いマスクだし、それこそモデルやアイドルのような印象を受ける。
決して相手に不自由するタイプには見えないのだが。
黒鋼がじっと観察していると、男は流石に居心地が悪くなったのか、なぜか赤らんだ頬を両手で包み込み、目を逸らした。
「やだぁ……あんまり見られると恥ずかしい……」
「……なよっちいな」
「ふぇ?」
「それだ。てめぇが女にモテねぇ原因は」
男は片方が少し濁った両目を見開いて、パチパチと瞬きを繰り返した。
そして、ぷぅっと唇を尖らせる。こうして見ると童顔だなと、ぼんやり思う。
「別に女の子にモテなくったって困らないもーん」
「あ? じゃあ恋だのなんだのって話はどうなる」
「だからー、オレは男の人が好きなのー」
「…………ああ、そういうことか」
ならばまぁ、納得はいく。
いくら男の目から見ても容姿が優れていても、同性同士となると相手を見つけることはそう簡単ではない、のかもしれない。
けれどふと思う。普通に日常生活を送る中で自然と相手を見つけることは難しくとも、その手の場所へ足を運べば、どうにでもなりそうなものだ。これだけネットが普及している世の中でもある。
「オレさ、どうしてもノンケの人しか好きになれないんだよね。そういうホモの人って結構多いんだけど……」
「……なるほど」
「だから、未練があるとすればそれかなって。ごく自然に出会ったノンケの人と、燃えるような大恋愛がしてみたいなー!」
「……なかなか難しいだろうな」
生きているならいざ知らず。
何かしら自分にできることがあるなら手伝ってやらないこともないが、『恋』なんて時点でホモだろうがノンケだろうが関係なしに、難易度の高い未練である。
近所の寺にでも連れていけば、まだ成仏できていないノンケ幽霊と出会うチャンスに恵まれるだろうか。しかし、幽霊とはいえ相手にも性別を選ぶ権利はあるだろうし……。
一瞬、母の顔が浮かんだものの、相談できる内容ではない。強制的に成仏させることは可能かもしれないが。
「ねぇ、オレ思ったんだけどー」
「なんだよ」
「ごく自然な出会いなら、もうしてるんだよね」
「あ? どこで?」
「ここで」
「……いつ?」
「今」
ファイはにっこり笑って、黒鋼を指さした。
「君、ノンケ」
「……冗談だろ? しかもこれのどこが自然な出会いだ?」
「オレさー、実は初めて見たときから君のこと好みだなーって思ってたんだよねー! よく言われない? 君みたいなタイプってすっごくモテるよ」
それは、確かによく言われる。
何度かその手の人間に言い寄られた経験はあるし、以前住んでいたアパートの風呂が壊れたとき、足を運んだ銭湯のサウナがハッテン場だったこともある。そうと知らずウッカリ入って、えらい目にあいかけた。(背負い投げで撃退してなんとか身を守った)
しかし黒鋼にはその気が一切ない。恋愛対象も性的な対象も、完全に女性だけだった。
そもそも相手の性別以前に、当分は愛だの恋という言葉からは遠い場所にいたかった。ストーカー女によって植えつけられたトラウマは、そこそこ根が深い。
「ね、人助けだと思ってさー、ちょっとだけ相手してよ。好きになってくれなくていいから、オレの気が済むまで。ね?」
「…………ちょっと待て、考えさせろよ」
思わず片手を額に押し当てる。
非現実的なことが実際に現実として起こっている今、黒鋼の感覚は麻痺しかけていた。
このまま出会ったばかりでよく知りもしない相手(しかも幽霊)の話に乗ってしまっていいものか。いや、でもそれがこの迷える魂にとって最良ならば、乗りかかった船と思って協力するべきなのか。
そもそも未練だなんだと話を振ったのは自分の方だし、キッカケを作ってしまった責任が全くないわけではない、気がする。
いっそここから出ていくという選択肢もあるにはあるが、出来ればしばらく引っ越しはしたくない。ここへ越すときだって無理やり仕事をストップさせて、どうにか一日だけ休みをもぎ取ったのだ。しかも休み明けは地獄を見た。
自分の今後の生活を守るための行動が、ついでに人助けになるというのなら、致し方ないのか。
黒鋼は深い深い溜息をついた。
何をすればいいのかよく分からないが、とりあえず一言「わかった」と吐き捨てると、男は目をキラキラと輝かせた。
「やったー! ありがとー!!」
「その代り、条件があるぞ。それだけはキッチリ守ってもらう」
「うんうん! なんでも言って! あ、その前に」
男は空中からソファの上までやってくると、「よいしょー」と言って黒鋼の膝の上に向かい合うように乗り上げてきた。
生きている人間さながらにしっかりと感触もあって、膝で受け止める体重も伝わってくる。体温は冷たいとばかり思っていたが、意外に生温かった。
「こらてめぇ! 乗るな!」
「そうと決まれば、邪魔なものはやっつけちゃうねー」
「?」
ひゅん、と。
男の拳が、黒鋼の頬すれすれを掠めた。
一体なにをしたのかはわからないが、どうやら後方に向かって攻撃したらしい。
完了、と言って男が笑った瞬間、不思議なことに肩や身体が、嘘のように軽くなった。
「……? 何をした?」
呆然として問いかけると、男は「ふふ」っと楽しげな声を漏らす。
そして黒鋼の首に両腕をゆるりと回し、一瞬だけ唇同士が触れ合った。
「なッ!? て、てめぇ!」
咄嗟にひょろい身体を薙ぎ払おうとして、両手がスカっと宙を切る。
「!?」
なにが起こったのか分からなかった。男にキスをされたという衝撃的な事実が霞むほどの現象に、黒鋼は目を見開いた。
自分の思い違いでなければの話だが。今、遠ざけようとしたはずの両腕が目の前の身体を通り抜けなかったか?
その重みも感じるし回された腕の感触もある。唇の感触も、柔らかいものだった、と思う。それなのに。
(どうなってんだ……?)
黒鋼はもう一度確かめるため、華奢な肩に触れようとした。だが結局、彼の中に一度すっぽりと埋もれるようにして、何の感触も得られないまま手の平が戻ってきた。
つまり、相手はこちらに好きに触れることができても、こちらからは触れられない。
どういう原理か知らないが、そういうことらしかった。
釈然としない表情で男の顔を見れば、彼は目を細めてふんわりと微笑んだ。やっぱり、左目だけ少し白く濁っている。
「よろしくね黒たん。しばらくの間は、オレが君を守ってあげる」
ずっとここにいたのなら、名前くらいは知っていても当然か。
ふざけた呼び方は気に食わないが、それより彼の放った言葉の方が気になって、黒鋼は口から飛び出しかけた不満を飲み込んだ。
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とても悪いもの
彼女と付き合っていて、上手くいっていたのはせいぜい最初の一年くらいなものだろうか。
少しずつどこかで歯車が狂いだして、気が付けば全て壊れていた。
当時から仕事に追われる日々を送っていた黒鋼は、それでもどうにかして彼女と過ごすための時間を作るように努力はしていた。
だがそれにも限界はあって、あらかじめしていた約束を守れないことは多々あったし、メールの返信すらできない日も当然あった。
寂しい思いをさせているという自覚はあった。どこかで埋め合わせが出来ればと。
そんな状態が続く中、何の連絡もなしに彼女が大荷物を持って、当時黒鋼が暮らしていたアパートへやってきた。仕事も辞めてきたと言って、そのまま部屋に住み着くようになった。
突然のことに面食らう黒鋼に、彼女は『あかちゃんができた』と言った。
嬉しくないはずがなかった。その時の黒鋼には彼女に対して愛情があったし、二十代も中盤にきて、そろそろ身を固めてもいい時期なのかもしれないと、そう感じていた。
だが、待てども暮らせども彼女の身体に妊娠による変化は見られなかった。
それどころか、一緒に暮らすようになってからすぐに彼女はその異常性を発揮し始めた。
定時を過ぎた段階で携帯電話に数十件ものメールと着信が入り、酷い時は百件を超えた。
残業が当たり前の職場だと説明しても、二言目には『もう私を愛してないのね』と言って泣き出し、膨らみのない腹をこれ見よがしに愛しげに摩った。
そんな状態が半年も続けば、流石に妊娠が偽りであることには気が付いていた。
彼女の執拗なまでの干渉と独占欲は日に日に増してゆき、職場や取引先にまで押しかけてくるようになった。
とてもではないが、そんな相手を両親に会わせる気にはなれなかった。黒鋼の中には、もはや結婚への意欲も彼女への愛情も薄れきっていた。
プライベートの崩壊に伴い、仕事も上手くいかないことが多くなった。知らず知らずのうちに、追い詰められた心が悲鳴を上げ始めていた。
何より互いの将来を考えても、このままでいいはずがなかった。
だから言った。『別れてくれ』と。
その話をするためだけに無理やり仕事を切り上げ、早々帰宅した黒鋼のために、上機嫌でカレーの具材を切る背中に向かって。
そこからはまさに修羅場というに相応しい展開だった。
彼女は泣きわめき、ついには手にしていた包丁を自らの首筋に当て、自殺未遂をはかった。
それが今年の一月、年が明けて間もない頃のこと。
今のマンションへ引っ越しを決めたのは、事件のあともアパートに住み続ける気になれなかったことが理由だった。
正直、当分は色恋沙汰は勘弁だった。
*
昼時をとうに過ぎた休憩室は、ほんの2~3人が遅い昼食をとっているだけで閑散としていた。
その光景を尻目に、自分以外は誰もいないガラス張りの喫煙所で黒鋼は咥えた煙草に火をつけると、携帯電話を取り出した。
電話帳の中から目当ての番号を呼び出すと、通話ボタンを押す。コール音を耳に押し当てながら白い煙を吐き出し、腕時計を見やった。
このあとすぐに訪問先の企業へ出向き、重要なプレゼンが控えている。あまり時間はないのだが、これを逃せばまたいつ時間が空くかわからない。
『はいはい、もしもし?』
ほどなくして受話器越しに聞こえてきた声に、黒鋼はふっと小さく口元を緩めた。
久しぶりに聞くその声は実家に暮らす母親のものだった。
「俺だ。今いいか?」
『もちろんよ。久しぶりね。あなたって子は何かあってからじゃないと連絡のひとつも寄越さないんだもの。せっかくメールを送っても返事してくれないし。だいたいこの間も』
母はこのご時世、最近になってようやく携帯電話を持つようになった。
メールは練習中らしく、たまに支離滅裂な文面が送られてくる。黒鋼がそれに返信したことは一度もなかった。
たまにしか連絡を寄越さない息子に言いたいことが山積みなのか、放っておくといつまでも小言を連ねそうな母の勢いに、黒鋼は再び腕時計を見やった。
「お袋、悪いがあんまり時間がねぇんだ」
『ええ、分かっているわ。あなた、このままじゃ身体を壊してしまうわよ』
「……分かるか?」
『当たり前でしょう? 可愛い息子のことだもの』
黒鋼の母は代々続く神社の家系で、父のもとに嫁ぐまでは巫女として神職の補助を務めていた。
幼い頃から人並み外れた霊感を持つ彼女は、普通の人間には見えないものを感じ、そして当たり前のように見ることができる。
幸か不幸かその能力は息子に受け継がれることはなかったが、黒鋼が基本的にこの手のものに恐怖心を抱かないのは、この母の存在があってこそだった。
子供の頃から『ほらあそこに赤い着物の女の子が』、なんて話を夕飯の献立を告げるようなトーンで聞かされ続ければ、嫌でも慣れてしまう。
『とても悪いものよ。すぐに帰っていらっしゃい』
「……そうしてぇのは山々なんだが」
なかなかすぐに、というのは難しい。電話だけで済むような対処法はないかと連絡をしたのだが、やはり難しいか。
気づけば、ほとんど吸わないうちに煙草が灰になって床に落ちていた。
しまったと思いながらそれを革靴の先でぐりぐりと払いのけ、灰皿に煙草を押し付ける。結局まともに吸うことができなかった。
言葉を濁す息子に、母は『しょうがないわね』と諦めたように息を漏らす。
『すぐにお守りを送ってあげるわ。ただ、あまり長くはもたないと思うけど……』
「いや、十分だ。なるべく時間作って帰るようにする」
『そうなさい。お父さんも喜ぶわよ』
あと、それから。
母はクスっと可愛らしく笑った。
『煙草、ほどほどになさい。嫌われちゃうわよ』
*
それから数日後、母から手紙つきで荷物が届いた。
野菜や米、味噌や醤油などの調味料に、甘味を除いた煎餅などの菓子類。それらがいっぱいに詰まった箱の中に、数枚の札と黒を基調とした天眼石で紡がれたブレスレットが入っていた。
さっそく手紙の指示通りにリビングと寝室、トイレと風呂場にそれぞれ札を貼り付けた。
玄関の分がないのは、全ての通り道を塞がないためだ。遠ざけるために貼った札によって、逆に閉じ込めてしまっては意味がない。
ブレスレットは、なるべく肌身離さずつけているようにと書かれていた。
たったそれだけで、効果はすぐに表れた。
あれだけだるかった身体や肩の重みが、嘘のように消えてしまったのだ。
けれど、どういうわけか部屋の中の地味な怪異はおさまらなかった。母はあまり長くはもたないと話していたし、全てを防ぎきるほどの効果までは、期待できないということだろうか。
それでも身体の調子がよくなっただけで黒鋼にしてみれば十分だった。
実家に戻り、直接祓ってもらうための時間が確保できるまでもてば、それでいい。
心なしか仕事の方も順調で、定時とまではいかないものの、職場ビルから近い居酒屋で一杯引っかけて帰れるくらいには、余裕が生まれた。
あと少し仕事が片付けば、一日くらいはまとまった休みも取れそうだ。
だがそれを待たずしてある夜、驚くべき出来事が起こった。
「どういうことだ、こいつは……」
およそ一週間ぶりくらいに、仕事でトラブルが続いたその日。
なんとなく身体のだるさと肩の重さがぶり返したような気はしていた。久しぶりに嫌な疲労感を引きずりながら帰宅した黒鋼は、相変わらずテレビがつけっぱなしのリビングに真っ二つに裂かれた札が落ちているのを見て、愕然とした
まさかと思い、寝室へ行き、トイレへ行き、最後に脱衣所へ向かう。
札はどれも同じように、切れ味のいい刃物で切り裂いたかのような有様で、すっかり剥がれ落ちていた。
「くそ……」
脱衣所に立ち尽くし、僅かに額に落ちる前髪ごと頭部をくしゃりと掻き乱す。
その拍子に、ふと腕に通していたブレスレットを見ると、白く丸い眼のように走っていたはずの模様が消え、ただの真っ黒な石に変わり果てていることに気が付いた。
そしてそれは、まるで黒鋼が気づくのを待っていたかのように弾け飛んだ。
「ッ!?」
バラバラと音を立てて、黒い石が幾つも床に叩きつけられる。
『とても悪いものよ』
母の言葉を思い出しながら、流石の黒鋼もゾッとした。
床の上を転がる石から目が離せずにいると、ずん、とまるで背後から人に圧し掛かられたように肩の重さが増した。
足元から異様な冷気が立ち込め、上へ上へと移動しながら身体を芯から凍らせてゆく。
脱衣所の灯りが幾度か点滅し、やがて完全に消える。湿った闇が皮膚を撫でる感触に、黒鋼はいよいよ身の危険を感じた。
ここにいるべきではない。本能が警告を発する。
けれど、どうしてか身体が動かない。セメントで固められたように、呼吸さえ奪われてゆくような圧迫感を覚えた。
だが、次の瞬間。
「なんか食べたいなー」
遠くでガサガサという音がして、同時にどこか能天気な男の声が聞こえた。
ハッとした瞬間、黒鋼の身体から縛り付けられているような感覚が消え、咄嗟に脱衣所を出る。廊下の向こうにあるリビングは停電していなかった。灯りがしっかり灯されていて、やはりガサガサという音がしていた。
「これ食べちゃおっかなー。ホントは甘いのがいいけどー……」
黒鋼は、ごくりと喉を鳴らした。
「ここの人って普段なに食べてるんだろー? ってくらい冷蔵庫も空だし、つまんないんだよねー」
少し高めの男の声は緊張感に欠けるものだったが、一歩一歩、確かめるように廊下を進む。
「うん、食べちゃおー。お煎餅もだーい好きー!」
「誰だ!!」
リビングに顔を出した瞬間、黒鋼は叫んだ。バサッという、何かが落ちたような音がする。
注意深く辺りを見回しながら、音がした方へじりじりと進めば、キッチンの床に煎餅の袋がぽつりと落ちているのを発見した。
開けた覚えのない煎餅の封が切られ、中身が割れて零れだしているのを見た途端にむかっ腹が立って、黒鋼はそれを拾い上げると無意識にぐしゃりと潰していた。
「こそこそ隠れてねぇで出てこい! いい加減、決着をつけてやる!!」
…………。
「毎晩毎晩、アホみてぇに嫌がらせしやがって! もう勘弁ならねぇ!!」
…………反応はない。
その時の黒鋼の形相は、鬼だろうが悪魔だろうが尻尾を巻いて逃げ出すほど凶悪なものだった。
元々目つきは悪いし、恵まれすぎた体格から発される威圧感から、街を歩けばチンピラ風の男たちに「ご苦労様です!」と頭を下げられることもしばしばあった。
これでも一応は企業に勤める営業マンなのだが……。
とにかく、そんな強烈なオーラを放つ男が凄んで『出てこい』などと言って、おとなしく出てくるバカはいないだろう。
わかってはいても、いい加減堪忍袋の緒が切れた状態の黒鋼には、穏便に事を済ませる気などさらさらなかった。
一発でもぶん殴ってやらなければ気が済まない。相手が幽霊だろうが宇宙人だろうが新種のUMAだろうが、この際もうなんだっていい。
「出て来いっつってんだろうが!!」
「……やだよぉ。出てったら絶対殴るでしょー」
「!?」
応じた。黒鋼の呼びかけに、ついに一連の怪異の犯人が。
「まぁムリだとは思うけどー、でもやっぱ怖いしー」
「どこだ!? どこにいやがる!?」
「もー、うるさいなー。ここだよ、ここー」
辺りを機敏に見渡しても、声のする方向が定まらない。
黒鋼はキッチンのカウンターを迂回して、リビングに出るとさらに周囲を見渡した。
「とっとと出て来い! 殺されてぇのか!!」
「もう死んでるよーぅ」
後方から聞こえた声に振り向けば、そこには天井からにゅるんと上半身だけを出した金髪男が、煎餅を齧っている姿があった。
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彼女と付き合っていて、上手くいっていたのはせいぜい最初の一年くらいなものだろうか。
少しずつどこかで歯車が狂いだして、気が付けば全て壊れていた。
当時から仕事に追われる日々を送っていた黒鋼は、それでもどうにかして彼女と過ごすための時間を作るように努力はしていた。
だがそれにも限界はあって、あらかじめしていた約束を守れないことは多々あったし、メールの返信すらできない日も当然あった。
寂しい思いをさせているという自覚はあった。どこかで埋め合わせが出来ればと。
そんな状態が続く中、何の連絡もなしに彼女が大荷物を持って、当時黒鋼が暮らしていたアパートへやってきた。仕事も辞めてきたと言って、そのまま部屋に住み着くようになった。
突然のことに面食らう黒鋼に、彼女は『あかちゃんができた』と言った。
嬉しくないはずがなかった。その時の黒鋼には彼女に対して愛情があったし、二十代も中盤にきて、そろそろ身を固めてもいい時期なのかもしれないと、そう感じていた。
だが、待てども暮らせども彼女の身体に妊娠による変化は見られなかった。
それどころか、一緒に暮らすようになってからすぐに彼女はその異常性を発揮し始めた。
定時を過ぎた段階で携帯電話に数十件ものメールと着信が入り、酷い時は百件を超えた。
残業が当たり前の職場だと説明しても、二言目には『もう私を愛してないのね』と言って泣き出し、膨らみのない腹をこれ見よがしに愛しげに摩った。
そんな状態が半年も続けば、流石に妊娠が偽りであることには気が付いていた。
彼女の執拗なまでの干渉と独占欲は日に日に増してゆき、職場や取引先にまで押しかけてくるようになった。
とてもではないが、そんな相手を両親に会わせる気にはなれなかった。黒鋼の中には、もはや結婚への意欲も彼女への愛情も薄れきっていた。
プライベートの崩壊に伴い、仕事も上手くいかないことが多くなった。知らず知らずのうちに、追い詰められた心が悲鳴を上げ始めていた。
何より互いの将来を考えても、このままでいいはずがなかった。
だから言った。『別れてくれ』と。
その話をするためだけに無理やり仕事を切り上げ、早々帰宅した黒鋼のために、上機嫌でカレーの具材を切る背中に向かって。
そこからはまさに修羅場というに相応しい展開だった。
彼女は泣きわめき、ついには手にしていた包丁を自らの首筋に当て、自殺未遂をはかった。
それが今年の一月、年が明けて間もない頃のこと。
今のマンションへ引っ越しを決めたのは、事件のあともアパートに住み続ける気になれなかったことが理由だった。
正直、当分は色恋沙汰は勘弁だった。
*
昼時をとうに過ぎた休憩室は、ほんの2~3人が遅い昼食をとっているだけで閑散としていた。
その光景を尻目に、自分以外は誰もいないガラス張りの喫煙所で黒鋼は咥えた煙草に火をつけると、携帯電話を取り出した。
電話帳の中から目当ての番号を呼び出すと、通話ボタンを押す。コール音を耳に押し当てながら白い煙を吐き出し、腕時計を見やった。
このあとすぐに訪問先の企業へ出向き、重要なプレゼンが控えている。あまり時間はないのだが、これを逃せばまたいつ時間が空くかわからない。
『はいはい、もしもし?』
ほどなくして受話器越しに聞こえてきた声に、黒鋼はふっと小さく口元を緩めた。
久しぶりに聞くその声は実家に暮らす母親のものだった。
「俺だ。今いいか?」
『もちろんよ。久しぶりね。あなたって子は何かあってからじゃないと連絡のひとつも寄越さないんだもの。せっかくメールを送っても返事してくれないし。だいたいこの間も』
母はこのご時世、最近になってようやく携帯電話を持つようになった。
メールは練習中らしく、たまに支離滅裂な文面が送られてくる。黒鋼がそれに返信したことは一度もなかった。
たまにしか連絡を寄越さない息子に言いたいことが山積みなのか、放っておくといつまでも小言を連ねそうな母の勢いに、黒鋼は再び腕時計を見やった。
「お袋、悪いがあんまり時間がねぇんだ」
『ええ、分かっているわ。あなた、このままじゃ身体を壊してしまうわよ』
「……分かるか?」
『当たり前でしょう? 可愛い息子のことだもの』
黒鋼の母は代々続く神社の家系で、父のもとに嫁ぐまでは巫女として神職の補助を務めていた。
幼い頃から人並み外れた霊感を持つ彼女は、普通の人間には見えないものを感じ、そして当たり前のように見ることができる。
幸か不幸かその能力は息子に受け継がれることはなかったが、黒鋼が基本的にこの手のものに恐怖心を抱かないのは、この母の存在があってこそだった。
子供の頃から『ほらあそこに赤い着物の女の子が』、なんて話を夕飯の献立を告げるようなトーンで聞かされ続ければ、嫌でも慣れてしまう。
『とても悪いものよ。すぐに帰っていらっしゃい』
「……そうしてぇのは山々なんだが」
なかなかすぐに、というのは難しい。電話だけで済むような対処法はないかと連絡をしたのだが、やはり難しいか。
気づけば、ほとんど吸わないうちに煙草が灰になって床に落ちていた。
しまったと思いながらそれを革靴の先でぐりぐりと払いのけ、灰皿に煙草を押し付ける。結局まともに吸うことができなかった。
言葉を濁す息子に、母は『しょうがないわね』と諦めたように息を漏らす。
『すぐにお守りを送ってあげるわ。ただ、あまり長くはもたないと思うけど……』
「いや、十分だ。なるべく時間作って帰るようにする」
『そうなさい。お父さんも喜ぶわよ』
あと、それから。
母はクスっと可愛らしく笑った。
『煙草、ほどほどになさい。嫌われちゃうわよ』
*
それから数日後、母から手紙つきで荷物が届いた。
野菜や米、味噌や醤油などの調味料に、甘味を除いた煎餅などの菓子類。それらがいっぱいに詰まった箱の中に、数枚の札と黒を基調とした天眼石で紡がれたブレスレットが入っていた。
さっそく手紙の指示通りにリビングと寝室、トイレと風呂場にそれぞれ札を貼り付けた。
玄関の分がないのは、全ての通り道を塞がないためだ。遠ざけるために貼った札によって、逆に閉じ込めてしまっては意味がない。
ブレスレットは、なるべく肌身離さずつけているようにと書かれていた。
たったそれだけで、効果はすぐに表れた。
あれだけだるかった身体や肩の重みが、嘘のように消えてしまったのだ。
けれど、どういうわけか部屋の中の地味な怪異はおさまらなかった。母はあまり長くはもたないと話していたし、全てを防ぎきるほどの効果までは、期待できないということだろうか。
それでも身体の調子がよくなっただけで黒鋼にしてみれば十分だった。
実家に戻り、直接祓ってもらうための時間が確保できるまでもてば、それでいい。
心なしか仕事の方も順調で、定時とまではいかないものの、職場ビルから近い居酒屋で一杯引っかけて帰れるくらいには、余裕が生まれた。
あと少し仕事が片付けば、一日くらいはまとまった休みも取れそうだ。
だがそれを待たずしてある夜、驚くべき出来事が起こった。
「どういうことだ、こいつは……」
およそ一週間ぶりくらいに、仕事でトラブルが続いたその日。
なんとなく身体のだるさと肩の重さがぶり返したような気はしていた。久しぶりに嫌な疲労感を引きずりながら帰宅した黒鋼は、相変わらずテレビがつけっぱなしのリビングに真っ二つに裂かれた札が落ちているのを見て、愕然とした
まさかと思い、寝室へ行き、トイレへ行き、最後に脱衣所へ向かう。
札はどれも同じように、切れ味のいい刃物で切り裂いたかのような有様で、すっかり剥がれ落ちていた。
「くそ……」
脱衣所に立ち尽くし、僅かに額に落ちる前髪ごと頭部をくしゃりと掻き乱す。
その拍子に、ふと腕に通していたブレスレットを見ると、白く丸い眼のように走っていたはずの模様が消え、ただの真っ黒な石に変わり果てていることに気が付いた。
そしてそれは、まるで黒鋼が気づくのを待っていたかのように弾け飛んだ。
「ッ!?」
バラバラと音を立てて、黒い石が幾つも床に叩きつけられる。
『とても悪いものよ』
母の言葉を思い出しながら、流石の黒鋼もゾッとした。
床の上を転がる石から目が離せずにいると、ずん、とまるで背後から人に圧し掛かられたように肩の重さが増した。
足元から異様な冷気が立ち込め、上へ上へと移動しながら身体を芯から凍らせてゆく。
脱衣所の灯りが幾度か点滅し、やがて完全に消える。湿った闇が皮膚を撫でる感触に、黒鋼はいよいよ身の危険を感じた。
ここにいるべきではない。本能が警告を発する。
けれど、どうしてか身体が動かない。セメントで固められたように、呼吸さえ奪われてゆくような圧迫感を覚えた。
だが、次の瞬間。
「なんか食べたいなー」
遠くでガサガサという音がして、同時にどこか能天気な男の声が聞こえた。
ハッとした瞬間、黒鋼の身体から縛り付けられているような感覚が消え、咄嗟に脱衣所を出る。廊下の向こうにあるリビングは停電していなかった。灯りがしっかり灯されていて、やはりガサガサという音がしていた。
「これ食べちゃおっかなー。ホントは甘いのがいいけどー……」
黒鋼は、ごくりと喉を鳴らした。
「ここの人って普段なに食べてるんだろー? ってくらい冷蔵庫も空だし、つまんないんだよねー」
少し高めの男の声は緊張感に欠けるものだったが、一歩一歩、確かめるように廊下を進む。
「うん、食べちゃおー。お煎餅もだーい好きー!」
「誰だ!!」
リビングに顔を出した瞬間、黒鋼は叫んだ。バサッという、何かが落ちたような音がする。
注意深く辺りを見回しながら、音がした方へじりじりと進めば、キッチンの床に煎餅の袋がぽつりと落ちているのを発見した。
開けた覚えのない煎餅の封が切られ、中身が割れて零れだしているのを見た途端にむかっ腹が立って、黒鋼はそれを拾い上げると無意識にぐしゃりと潰していた。
「こそこそ隠れてねぇで出てこい! いい加減、決着をつけてやる!!」
…………。
「毎晩毎晩、アホみてぇに嫌がらせしやがって! もう勘弁ならねぇ!!」
…………反応はない。
その時の黒鋼の形相は、鬼だろうが悪魔だろうが尻尾を巻いて逃げ出すほど凶悪なものだった。
元々目つきは悪いし、恵まれすぎた体格から発される威圧感から、街を歩けばチンピラ風の男たちに「ご苦労様です!」と頭を下げられることもしばしばあった。
これでも一応は企業に勤める営業マンなのだが……。
とにかく、そんな強烈なオーラを放つ男が凄んで『出てこい』などと言って、おとなしく出てくるバカはいないだろう。
わかってはいても、いい加減堪忍袋の緒が切れた状態の黒鋼には、穏便に事を済ませる気などさらさらなかった。
一発でもぶん殴ってやらなければ気が済まない。相手が幽霊だろうが宇宙人だろうが新種のUMAだろうが、この際もうなんだっていい。
「出て来いっつってんだろうが!!」
「……やだよぉ。出てったら絶対殴るでしょー」
「!?」
応じた。黒鋼の呼びかけに、ついに一連の怪異の犯人が。
「まぁムリだとは思うけどー、でもやっぱ怖いしー」
「どこだ!? どこにいやがる!?」
「もー、うるさいなー。ここだよ、ここー」
辺りを機敏に見渡しても、声のする方向が定まらない。
黒鋼はキッチンのカウンターを迂回して、リビングに出るとさらに周囲を見渡した。
「とっとと出て来い! 殺されてぇのか!!」
「もう死んでるよーぅ」
後方から聞こえた声に振り向けば、そこには天井からにゅるんと上半身だけを出した金髪男が、煎餅を齧っている姿があった。
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905号室の怪異
死んでやるから。
長い髪を振り乱し、そう言って叫ぶ女の手には、ついさっきまでカレーの具材を切り刻んでいたはずの包丁が握られていた。
白い蛍光灯に照らされたその刃物と、血走った彼女の目がギラギラと光り輝くのを、黒鋼はどこか遠い国のお伽噺でも聞いているような、ふわふわとした気持ちで眺めている。
透明な、だけど分厚い壁によって現実が隔たれているような。
そんな不思議な感覚で。
死にたいというのなら、勝手に死ねばいいのではないか。
生きる意志のない人間の腕を、いちいち引っ張り上げてやれるほど黒鋼はお人よしではないし、そんな余裕も正直なところなかった。
とにかく疲れ切っていた。何もかもに。
心身ともにタフさが売りだと自負していただけに、少しばかり気づくのが遅れてしまっただけで。
死んでやる、死んでやる。
女は身動き一つ取れないままでいる黒鋼に向かって、なおも叫んだ。か細い手に握られた包丁の切っ先が、彼女の首筋に当てられる。
ああ、本気なのか。そしてこれがよく言う修羅場というものか。
勝手にしろという思いの影に隠れるようにして、僅かな情が顔を覗かせる。
思えばあれは一度でも本気で愛した女だった。
もはや『すべてよし』として括れるラストではないにしろ、出会ったときから今この瞬間までの思い出にひとつひとつ触れたとき、決して全てが悪いものであるはずがなかった。
こんな風になってしまう以前は、確かに。
満ち足りていた頃の記憶がやけに寒々と、そしてうら悲しく胸に甦る。
人間は本当に面倒な生き物だ。
結局、黒鋼は目の前で起ころうとしている現実に手を伸ばした。
分厚いと思っていた透明な壁は、実際は卵の薄皮よりもずっと脆い膜でしかなかった。
馬鹿なことはやめろと、咄嗟の瞬間に出てくる言葉は間に合わせのようにありふれたもので、けれど彼女は口元に薄っすらと笑みを浮かべた。
そして、鮮血の飛沫が上がった。
黒鋼の届かなかった手を、白いワイシャツを、頬を、止め処なく噴き出すそれが紅く染めていく。
這うようにじわりと広がる血だまりに彼女が沈んでいくのを、ただ瞬きもできずに見ているしかなかった。
*
まだどこか年明けの余韻を引きずったまま訪れた二月が、気づけば折り返し地点まで到達していた。
時刻は午前零時過ぎ。
駅からほど近い大通りには人もまばらで、車通りはほとんどない。
等間隔に植え込まれた街路樹が冷え切った風に裸の枝を揺らし、乾いた音を響かせている。
黒鋼はスーツの上から羽織った黒のステンカラーの、立てた襟に顔半分を埋めるようにして肩をすくめ、白い息を吐き出した。
残業を終え、終電を乗り継いで帰る頃には、大体いつもこの時間だ。
人材サービス業に従事して、もうじき四年目が終わろうとしている。
営業職の厳しさは想像を遥かに超えるもので、定時という概念などとうに失われて久しかった。終電のすし詰め状態を見れば、どこも似たようなものかもしれないが。
冷えた夜気に鼻先を痛めながら、そういえば今日は煙草一本吸う間がなかったことを思い出す。
忙しさから忘れていたはずのヤニ切れのサインが、今更になってうるさく警告を発しはじめる。
いかんなと、黒鋼は思う。
ストレス知らずであった学生時代、黒鋼は幅広くスポーツに明け暮れる毎日を送っていた。当時作り上げた基盤が今もこの大柄な身体を形作ってはいても、ここのところ職場と取引先、そして自宅を行き来するだけでまともに運動をしていない。
今や煙草の煙を吐き出す瞬間にしか、肩の荷を緩和することができない有様だった。
しかもここのところ、特に身体の調子がよくない。
常にだるく、疲労感が日に日に蓄積されては石のように凝り固まっているような気がする。とりわけ、肩の重さが深刻だった。
次の休みには久しぶりにジムにでも行くか。バッティングセンターで打ちっぱなしというのもいいかもしれない。
とにかく思い切り身体を動かして発散させれば、身体も心もリセットできるように思う。あくまでも、休みが取れたらの話だが。
そうして思考を巡らせるうちに、自宅は目の前に迫っていた。
駅を出てすぐ、大通りを一直線に進むだけですぐに到着してしまうそこは、先月越してきたばかりの高層マンションだった。
煌々と明かりを放つガラス張りのエントランスに人気はなく、黒鋼はそれを横目にふと足を止める。
大通りに一台の車が走り抜け、一瞬びゅうと強く吹いた風にコートの裾が揺れた。
黒鋼の目は街路樹の下、歩道脇に手向けられた花束で止まっていた。事故現場の象徴ともいえるその献花は、定期的に新しいものに替えられている。
「気の毒だとは思うがな……」
眉根を寄せ、自宅マンションの上階へ視線を走らせると、黒鋼は深い溜息を漏らした。
9階、905号室。
住み始めてまだ一ヶ月も経っていない、ほとんど寝に帰ってくるだけの部屋。
それでもベランダからの見晴らしのよさが気に入っている。
前のアパートは職場へ徒歩でも通えるという利点があったものの、部屋の広さはもちろん、何よりセキュリティ面で、やはりこちらの方が格段に住みやすいのだった。
ただ一つ、ある問題を除いては。
*
「……またか」
暗いはずの玄関と、リビングへ続く廊下がほんのりと青く照らされているのを見て、黒鋼はうんざりとした気分で呟いた。
遠くにワイワイとした人の声を聞きながら靴を脱ぎ、光に向かって廊下を進むと案の定、誰もいないはずの部屋にテレビがつけっぱなしになっている。
深夜のお笑い番組で、いまいち芽の出ない若手芸人が一発芸を披露していた。
今朝家を出る段階では、確かに消えていたはずだ。朝のニュースを流し見ていた自分がこの手でスイッチを切ったのだから、間違いない。
リビングに灯りを灯すと、黒鋼は部屋の中央のソファにビジネスバッグを置き、さらにコートとスーツのジャケットを一緒くたに脱ぎ捨てる。
テーブルの上でなぜか引っくり返っているリモコンを手に取り、スイッチを切った。
苛立ちながらもワイシャツの首元とネクタイを緩め、カウンター越しにあるキッチンへ向かう。
だがそこでも、すっかり見慣れた光景が目に飛び込んできて舌打ちが漏れた。
冷蔵庫の扉が、開きっぱなしの状態で光を放っている。
ほぼ空の中身は侘しい男の一人暮らしを馬鹿にしているようで、ますます腹立たしさに拍車がかかった。
ズカズカと近づき、その足で乱暴に蹴るようにして閉じると、冷蔵庫の上に無造作に並べられていた調味料の類が嫌な音を立てて一瞬揺れる。
「全く毎晩毎晩、もう勘弁してくれ!」
自分以外は誰もいないはずのこの部屋に夜ごと起きる怪異は、ここへ越してきた当日から起こり始めた。
テレビや冷蔵庫に限らず、綺麗にしまっておいたはずの雑誌類が寝室に散乱していたり、洗濯機の周りに洗剤がぶちまけられていたり、浴室のシャンプーやボディソープの位置が変わっていたり。
真夜中に突然シャワーの音がして叩き起こされることもあった。すぐに浴室に向かっても、もちろん誰もいない。ただシャワーだけが出しっぱなしのまま放置されている状態だった。
明らかに物理的なセキュリティではしのぎきれない存在を、否が応にも感じざるを得ない。
それこそ寝に帰ってきているだけの部屋だし、黒鋼は元々霊的なものに対して恐怖心が全くなかった。だがこうも毎日となると、流石に参ってしまう。
思えばこの異常な身体のだるさや肩の重さも、ここに越してきてから意識するようになった気がする。
もしかしたらここはいわくつき物件というやつだったのかと。気になって、一度だけこのマンションの管理人に話を聞いたこともあった。
*
管理人は80歳近い高齢の女性で、マンションの一階に娘夫婦と暮らしている。
元々笑っているように見える顔のしわをさらに深めて、よく笑う人だった。
毎朝のようにマンション前を掃き掃除していて、仕事に行く住人に「行ってらっしゃい」を言うことを日課にしているらしい。
ここに来て十日ほどが過ぎた頃だったろうか。
毎晩のように起こる怪異について、朝の出がけに彼女にさりげなく聞いてみた。
自分が暮らす前、あの部屋で何かあったのではないかと。
彼女は悲しそうな目をして、街路樹下の献花に目を向けながら言った。
「去年の秋ごろだったかねぇ……あそこで酔っ払いの車と、バイクが衝突する事故があってねぇ……そりゃあ酷いものだったのよ」
すっかり節の太くなった指が示す方向へ、黒鋼も目を向けた。
朝の渋滞がスムーズな行き来を妨げ、列をなす車の群れがほとんど動かない状態の道路。
あそこで真夜中に、衝突事故に巻き込まれた青年がいるという。
「よぉく笑う可愛い男の子でねぇ。私のことも、おばあちゃん、おばあちゃんって呼んで……娘もその旦那も、私のことなんかちぃっとも相手にしてくれないけどね、あの子はいっつも掃除を手伝ってくれたりしてねぇ……それがまさか、あんなことになっちゃうなんて……」
そう言って、彼女は涙を流した。
悪いことを思い出させてしまったかと、申し訳ない気持ちになりながらも、黒鋼はひたすら複雑な気持ちだった。
前の住人が心優しい好青年だったということは理解できたが、毎晩の怪異と結びつける動機としては十分すぎた。
念のためカメラのチェックを頼んではみたものの、やはり不審な人物の姿は映っていないという報告を受けるに終わった。
*
管理人とのやり取りを思い出しながら、黒鋼はリビングに戻りソファの上に投げ出していたスーツのジャケットを手に取る。
ポケットから携帯電話を取り出して、ディスプレイに映し出された時刻がとっくに一時を回っていることに気付く。
「……明日だな」
こういう系統に強い人間を黒鋼は一人知っているのだが、流石に今夜はもう遅い。
明日、といっても日付が変わっているため今日ということになるが、時間を見つけて連絡してみよう。
携帯をテーブルに置き、とりあえずとっとと風呂にでも入って寝てしまおうと、黒鋼は重たい肩を幾度か回しながら、浴室へ向かった。
←戻る ・ 次へ→
死んでやるから。
長い髪を振り乱し、そう言って叫ぶ女の手には、ついさっきまでカレーの具材を切り刻んでいたはずの包丁が握られていた。
白い蛍光灯に照らされたその刃物と、血走った彼女の目がギラギラと光り輝くのを、黒鋼はどこか遠い国のお伽噺でも聞いているような、ふわふわとした気持ちで眺めている。
透明な、だけど分厚い壁によって現実が隔たれているような。
そんな不思議な感覚で。
死にたいというのなら、勝手に死ねばいいのではないか。
生きる意志のない人間の腕を、いちいち引っ張り上げてやれるほど黒鋼はお人よしではないし、そんな余裕も正直なところなかった。
とにかく疲れ切っていた。何もかもに。
心身ともにタフさが売りだと自負していただけに、少しばかり気づくのが遅れてしまっただけで。
死んでやる、死んでやる。
女は身動き一つ取れないままでいる黒鋼に向かって、なおも叫んだ。か細い手に握られた包丁の切っ先が、彼女の首筋に当てられる。
ああ、本気なのか。そしてこれがよく言う修羅場というものか。
勝手にしろという思いの影に隠れるようにして、僅かな情が顔を覗かせる。
思えばあれは一度でも本気で愛した女だった。
もはや『すべてよし』として括れるラストではないにしろ、出会ったときから今この瞬間までの思い出にひとつひとつ触れたとき、決して全てが悪いものであるはずがなかった。
こんな風になってしまう以前は、確かに。
満ち足りていた頃の記憶がやけに寒々と、そしてうら悲しく胸に甦る。
人間は本当に面倒な生き物だ。
結局、黒鋼は目の前で起ころうとしている現実に手を伸ばした。
分厚いと思っていた透明な壁は、実際は卵の薄皮よりもずっと脆い膜でしかなかった。
馬鹿なことはやめろと、咄嗟の瞬間に出てくる言葉は間に合わせのようにありふれたもので、けれど彼女は口元に薄っすらと笑みを浮かべた。
そして、鮮血の飛沫が上がった。
黒鋼の届かなかった手を、白いワイシャツを、頬を、止め処なく噴き出すそれが紅く染めていく。
這うようにじわりと広がる血だまりに彼女が沈んでいくのを、ただ瞬きもできずに見ているしかなかった。
*
まだどこか年明けの余韻を引きずったまま訪れた二月が、気づけば折り返し地点まで到達していた。
時刻は午前零時過ぎ。
駅からほど近い大通りには人もまばらで、車通りはほとんどない。
等間隔に植え込まれた街路樹が冷え切った風に裸の枝を揺らし、乾いた音を響かせている。
黒鋼はスーツの上から羽織った黒のステンカラーの、立てた襟に顔半分を埋めるようにして肩をすくめ、白い息を吐き出した。
残業を終え、終電を乗り継いで帰る頃には、大体いつもこの時間だ。
人材サービス業に従事して、もうじき四年目が終わろうとしている。
営業職の厳しさは想像を遥かに超えるもので、定時という概念などとうに失われて久しかった。終電のすし詰め状態を見れば、どこも似たようなものかもしれないが。
冷えた夜気に鼻先を痛めながら、そういえば今日は煙草一本吸う間がなかったことを思い出す。
忙しさから忘れていたはずのヤニ切れのサインが、今更になってうるさく警告を発しはじめる。
いかんなと、黒鋼は思う。
ストレス知らずであった学生時代、黒鋼は幅広くスポーツに明け暮れる毎日を送っていた。当時作り上げた基盤が今もこの大柄な身体を形作ってはいても、ここのところ職場と取引先、そして自宅を行き来するだけでまともに運動をしていない。
今や煙草の煙を吐き出す瞬間にしか、肩の荷を緩和することができない有様だった。
しかもここのところ、特に身体の調子がよくない。
常にだるく、疲労感が日に日に蓄積されては石のように凝り固まっているような気がする。とりわけ、肩の重さが深刻だった。
次の休みには久しぶりにジムにでも行くか。バッティングセンターで打ちっぱなしというのもいいかもしれない。
とにかく思い切り身体を動かして発散させれば、身体も心もリセットできるように思う。あくまでも、休みが取れたらの話だが。
そうして思考を巡らせるうちに、自宅は目の前に迫っていた。
駅を出てすぐ、大通りを一直線に進むだけですぐに到着してしまうそこは、先月越してきたばかりの高層マンションだった。
煌々と明かりを放つガラス張りのエントランスに人気はなく、黒鋼はそれを横目にふと足を止める。
大通りに一台の車が走り抜け、一瞬びゅうと強く吹いた風にコートの裾が揺れた。
黒鋼の目は街路樹の下、歩道脇に手向けられた花束で止まっていた。事故現場の象徴ともいえるその献花は、定期的に新しいものに替えられている。
「気の毒だとは思うがな……」
眉根を寄せ、自宅マンションの上階へ視線を走らせると、黒鋼は深い溜息を漏らした。
9階、905号室。
住み始めてまだ一ヶ月も経っていない、ほとんど寝に帰ってくるだけの部屋。
それでもベランダからの見晴らしのよさが気に入っている。
前のアパートは職場へ徒歩でも通えるという利点があったものの、部屋の広さはもちろん、何よりセキュリティ面で、やはりこちらの方が格段に住みやすいのだった。
ただ一つ、ある問題を除いては。
*
「……またか」
暗いはずの玄関と、リビングへ続く廊下がほんのりと青く照らされているのを見て、黒鋼はうんざりとした気分で呟いた。
遠くにワイワイとした人の声を聞きながら靴を脱ぎ、光に向かって廊下を進むと案の定、誰もいないはずの部屋にテレビがつけっぱなしになっている。
深夜のお笑い番組で、いまいち芽の出ない若手芸人が一発芸を披露していた。
今朝家を出る段階では、確かに消えていたはずだ。朝のニュースを流し見ていた自分がこの手でスイッチを切ったのだから、間違いない。
リビングに灯りを灯すと、黒鋼は部屋の中央のソファにビジネスバッグを置き、さらにコートとスーツのジャケットを一緒くたに脱ぎ捨てる。
テーブルの上でなぜか引っくり返っているリモコンを手に取り、スイッチを切った。
苛立ちながらもワイシャツの首元とネクタイを緩め、カウンター越しにあるキッチンへ向かう。
だがそこでも、すっかり見慣れた光景が目に飛び込んできて舌打ちが漏れた。
冷蔵庫の扉が、開きっぱなしの状態で光を放っている。
ほぼ空の中身は侘しい男の一人暮らしを馬鹿にしているようで、ますます腹立たしさに拍車がかかった。
ズカズカと近づき、その足で乱暴に蹴るようにして閉じると、冷蔵庫の上に無造作に並べられていた調味料の類が嫌な音を立てて一瞬揺れる。
「全く毎晩毎晩、もう勘弁してくれ!」
自分以外は誰もいないはずのこの部屋に夜ごと起きる怪異は、ここへ越してきた当日から起こり始めた。
テレビや冷蔵庫に限らず、綺麗にしまっておいたはずの雑誌類が寝室に散乱していたり、洗濯機の周りに洗剤がぶちまけられていたり、浴室のシャンプーやボディソープの位置が変わっていたり。
真夜中に突然シャワーの音がして叩き起こされることもあった。すぐに浴室に向かっても、もちろん誰もいない。ただシャワーだけが出しっぱなしのまま放置されている状態だった。
明らかに物理的なセキュリティではしのぎきれない存在を、否が応にも感じざるを得ない。
それこそ寝に帰ってきているだけの部屋だし、黒鋼は元々霊的なものに対して恐怖心が全くなかった。だがこうも毎日となると、流石に参ってしまう。
思えばこの異常な身体のだるさや肩の重さも、ここに越してきてから意識するようになった気がする。
もしかしたらここはいわくつき物件というやつだったのかと。気になって、一度だけこのマンションの管理人に話を聞いたこともあった。
*
管理人は80歳近い高齢の女性で、マンションの一階に娘夫婦と暮らしている。
元々笑っているように見える顔のしわをさらに深めて、よく笑う人だった。
毎朝のようにマンション前を掃き掃除していて、仕事に行く住人に「行ってらっしゃい」を言うことを日課にしているらしい。
ここに来て十日ほどが過ぎた頃だったろうか。
毎晩のように起こる怪異について、朝の出がけに彼女にさりげなく聞いてみた。
自分が暮らす前、あの部屋で何かあったのではないかと。
彼女は悲しそうな目をして、街路樹下の献花に目を向けながら言った。
「去年の秋ごろだったかねぇ……あそこで酔っ払いの車と、バイクが衝突する事故があってねぇ……そりゃあ酷いものだったのよ」
すっかり節の太くなった指が示す方向へ、黒鋼も目を向けた。
朝の渋滞がスムーズな行き来を妨げ、列をなす車の群れがほとんど動かない状態の道路。
あそこで真夜中に、衝突事故に巻き込まれた青年がいるという。
「よぉく笑う可愛い男の子でねぇ。私のことも、おばあちゃん、おばあちゃんって呼んで……娘もその旦那も、私のことなんかちぃっとも相手にしてくれないけどね、あの子はいっつも掃除を手伝ってくれたりしてねぇ……それがまさか、あんなことになっちゃうなんて……」
そう言って、彼女は涙を流した。
悪いことを思い出させてしまったかと、申し訳ない気持ちになりながらも、黒鋼はひたすら複雑な気持ちだった。
前の住人が心優しい好青年だったということは理解できたが、毎晩の怪異と結びつける動機としては十分すぎた。
念のためカメラのチェックを頼んではみたものの、やはり不審な人物の姿は映っていないという報告を受けるに終わった。
*
管理人とのやり取りを思い出しながら、黒鋼はリビングに戻りソファの上に投げ出していたスーツのジャケットを手に取る。
ポケットから携帯電話を取り出して、ディスプレイに映し出された時刻がとっくに一時を回っていることに気付く。
「……明日だな」
こういう系統に強い人間を黒鋼は一人知っているのだが、流石に今夜はもう遅い。
明日、といっても日付が変わっているため今日ということになるが、時間を見つけて連絡してみよう。
携帯をテーブルに置き、とりあえずとっとと風呂にでも入って寝てしまおうと、黒鋼は重たい肩を幾度か回しながら、浴室へ向かった。
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ファイが消えてから、一ヶ月近くが経過していた。
四月下旬。瑞々しい若葉が街のいたる所で生い茂っている。
季節の移り変わり感じながら、カレンダーを見る度にまだひと月しか経っていないのかと不思議な気持ちになった。
誰もいない905号室はあまりにも広く、暗く、そして静かだった。もう何年もずっと一人きりでいるような孤独が、黒鋼をただ我武者羅に仕事へと駆り立てていた。
その日は休日で、黒鋼は珍しくゆっくりと眠って起きた。
普段の土日は放っておいても携帯が鳴り、仕事に費やされることがほとんどだが、今朝はそれがない。今の黒鋼にとっては少し残念なことだった。
胸にぽっかりと空いた穴を埋めるための仕事がないとなると、他で気を紛らわすしかない。
だとしてもいつ連絡がくるかは分からないため遠出はできないが、黒鋼はふらりと外へ出かけることにした。
とはいえ、日頃仕事にばかり明け暮れていると、オフの日の有効な時間活用が難しくなる。
何を趣味としていたのだったか、どこへ行けばいいのか、何も考えずに外に飛び出した黒鋼は結局迷った。
だが、すぐに元々ずっと好きだったのは身体を動かすことだと思い出し、長らく通っていなかった行きつけのジムへ行き、思い切り汗を流した。
そうして帰りにスーパーへ寄って日持ちしそうな食糧を買い、ブラブラと歩いて帰る頃には夕方になっていた。
マンションのエントランスがすぐ目の前というところで足を止めた黒鋼は、あの街路樹下の献花に目を向けた。
これを視界にとらえる度に、ファイと出会い、そして過ごした一ヶ月間を思い出す。
ここは彼がその生涯を閉じることになった場所。同時に自分たちが不思議な出会いを果たすことになったキッカケでもある。
無意識に辛気臭い息を漏らした黒鋼は、何度か頭を振って重苦しいものを追い払った。
ファイは未練を手放して成仏したのだ。自分がそれに憑りつかれ、立ち止まったままでいてどうするのかと。
黒鋼は献花から目を逸らすと、顔を上げて歩き出した。
どこかへ外食でもしに行くのか、若い夫婦が赤ん坊を連れてエントランスから出てくる。
なんとはなしにそれをチラリと見ながらすれ違い、ガラス張りの扉に手をかけ、中に入った。
そのときだった。
黒鋼は目に飛び込んできた人物を見て、ぐっと息をつめた。
観葉植物の置かれた白御影石のホールの向こう。
管理人室から出て来たと思しきその男は、真っ直ぐにこちらに向かって歩いてきた。
ドクンと、心臓が大きく高鳴った。そんな馬鹿なという思いが、黒鋼の身体を縛り付けて動けなくする。
そして足を止めたまま硬直する黒鋼の横を、問題の人物が通り過ぎようとした。
「ッ、おい!」
黒鋼は、その白く華奢な手首に手を伸ばし、咄嗟に声をかけていた。
「?」
男は、金色の艶やかな髪に清んだ青い瞳を持っていた。
記憶の中よりは少し髪が長く、大人びた印象を受ける。けれど、目の前にいる人間は間違いなくファイと同じ顔の作りをしていた。
「なにか?」
手首を掴んだまま一言も発せないでいる黒鋼に、彼は戸惑ったように小首を傾げた。
その声も、記憶の中にあるものと全く同じ。違うのは髪の長さと、左目の色だけだ。
似すぎているというだけで、別人なのだろうか。確かに目の前の男から受ける印象は、ファイのものと比べてずいぶんと落ち着いている。
そもそも、この人物はこちらの存在をまるで知らないようだった。
ハッとして、腕を解放する。
「悪い……よく知ってるやつに、似てたもんだからよ」
まだどこかで『もしや』という思いを捨てきれないながらも、黒鋼は男から目を逸らした。
ファイであるはずがない。彼はすぐそこの道路で事故に遭い、死んでしまったのだから。その魂が消えゆくさまを、この目でしっかりと見届けた。
「……あの」
さっさと部屋へ戻ろうと一歩踏み出した黒鋼を、男が止める。
彼は幾度か瞬きをして、やんわりと微笑んだ。
「もしかして、兄をご存知ですか?」
*
心臓がずっと、早鐘のようにドクドクと鳴り続けていた。
人が多く行き交う大通りを、黒鋼は目的地へ向かって脇目もふらず全力で駆け抜ける。
溢れる感情に、胸が破裂しそうだった。早く早くと、急いては通行人と肩がぶつかりそうになった。
神に縋ったことなんて一度もなかった。ファイを失ったときですら、ただあるがままを受け入れるしかなかった。
今だって決して彼は『逃げない』。それでも間に合えと、一秒でも早くと、誰も俺の行く手を阻んでくれるなよと。
ファイによく似た男は、自らを『ユゥイ』と名乗った。
エントランスホールの片隅に設置された長椅子に腰かけながら、黒鋼はすぐ隣の男をまじまじと眺め、やがて納得した。
彼らは双子だったのだ。弟がいると、ファイは言っていた。双子とまでは聞かされていなかったが、これだけ似ていれば驚くのも当然だった。
そして黒鋼は真実を聞かされることになった。
――ファイは生きているということ。
事故の夜からずっと、彼は意識不明のまま半年もの間、眠り続けていた。
目を覚ましたのはちょうど一ヶ月ほど前のことだった。
『少し落ち着いてきたので、こちらの管理人さんにご報告に。とても心配してくださっていたので』
そういうことだったのかと、黒鋼はさらに納得した。
あんなことになるなんてと涙を流していた彼女は、意識が戻らないファイの身を案じていたのだ。そして、あの献花は衝突事故で命を落としたバイクの持ち主に手向けられたものだった。ファイへのものでは、なかった。
なんという運命の悪戯だろうか。死んだから会えたなんて、そんなものは嘘だった。
生きていたからこそ、黒鋼はファイに出会った。
『よかったら行ってあげてください。まだ少しぼんやりしてますけど……元気ですから』
そう言って、ユゥイはファイのいる病院と部屋番号を告げた。
レストランのオーナーを務めているという彼は、これから店へ戻らなければならないと言った。
『今度、食べにきてくださいね』
ユゥイが見せた笑顔はやっぱりファイのものとは少し違っていたけれど、兄が無事に目を覚ましたことへの安堵が優しく滲み出ていた。
ユゥイから聞いた病院は街外れにある総合病院だった。
日を改めてなんて、そんな悠長な思考など持てるはずがなかった。今ならまだ面会時間に間に合うはずだ。
渋滞を懸念して、車ではなく普段とは逆方向の電車に飛び乗ると、終着駅で降りた。目的地へは直接足を運んだことはなかったが、場所は把握していたため迷わず辿り着くことができた。
もうじき面会時間が過ぎようという時刻でも、受付があるエントランスホールは大勢の人でひしめき合っている。
コンビニやコーヒーショップなども入っている広いホールを抜けて、エレベーターがある通路に出た。流石に病院の中で走ることはできず、大きな歩幅でひたすら急ぐ。
だが、黒鋼はエレベーターに乗らずに済んだ。
中庭をぐるりと囲むように続く通路で、視界の端に光り輝く金色が飛び込んできた。
咄嗟に足を止め、その方向を見やる。
ツツジの植え込みによって囲まれた中庭の中心。青く茂るケヤキの木の下に、彼はいた。
左目を包帯で覆い、車椅子に腰かけるファイは、夕暮れの空をぼんやりと見上げていた。
これ以上ないくらい、黒鋼の胸は高鳴った。
まだ信じられない。でも、これは夢じゃない。目の前に、あの桜の木々の中で花びらに紛れて消えてしまったファイの姿がある。
足元から込み上げるような寒気にも似た感覚に、身体が震える。
通路から中庭へ続く扉に手をかけた。
他に人気はなく、キィ、という音がやけに大きく響き渡る。ぼんやりと空を眺めていたファイがピクリと反応して、こちらに顔を向けた。
そして彼は、まるで幽霊でも見たように右目を大きく見開いた。かち合った視線に、瞬きができない。
込み上げる感情の嵐をぐっと堪えて、黒鋼は一歩一歩ケヤキの木に向かって歩いた。
面会時間の終了を知らせるアナウンスが音楽と共に流れるのが、ずっとずっと遠くに聞こえていた。
ケヤキの枝が優しく揺れる。零れ落ちそうなほど揺れた右目の青が泣きそうに細められ、薄緑の患者衣からのぞく白い両腕が、黒鋼に向かって伸ばされた。
「ッ……!」
車椅子の車輪がガタンと揺らぐ。
身を屈めるようにして、黒鋼は強くその背を掻き抱いた。温かかった。細くて、手折ってしまいそうなくらい頼りなくて、それでも泣きたくなるくらい温かい。彼は生きている。
生きている。
「嘘だこんなの……まだ、夢を見ているの……?」
「夢じゃねぇ……夢でたまるか……」
黒鋼の首にしがみつくようにして首筋に頬を押し付けるファイは、ひくひくと肩を震わせて泣いた。少しだけ身を離し、その頬に手の平を這わせる。親指で目尻をそっと撫でた。
ああ、やっとこの涙を拭ってやることができた。ずっとずっと、こうしたかった。
黒鋼は笑った。
「なぁ、迎えに来たぜ。てめぇが帰る場所はひとつだろ?」
ファイは泣きながら、何度も何度も頷いた。
「笑えよ。笑って見せろ」
出会ったときと、そして手を振ってさよならをしたときと。
同じ笑顔で、ファイは涙を拭ってふにゃりとした笑顔を見せた。
黒鋼もファイも、揃ってもうどうしようもなくなって、互いを強く引き寄せるとぶつかるようなキスをした。
「俺は、おまえが――」
長いキスのあと黒鋼は言った。
あの日言えなかった、告白の続きを。
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