2025年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
泣き崩れるような激しさで、雨音が響いていた。
薄暗い室内。閉め切られた障子。
物憂げに落ちる冷えた空気と、軒下に置き並べた石を打つ、不規則な雨だれの音。
それらを切り裂くようなけたたましさで悲鳴を上げたのは、畳の上に投げ出されていた携帯電話だった。
「――出ねえのか」
低く、染み入るようなバリトンに問いかけられ、花京院は抱え込んでいた膝に伏せていた顔を、ゆるりとあげた。
雨の音も、着信を告げる電子音も、どこか遠い世界の出来事のように、まるで現実味がない。いつもはピンと張りつめたように伸ばしている背を丸めて、花京院は再び膝頭に顔を埋めた。
「……先生」
急かしているのか、それとも、憐れんでいるのだろうか。
ただ今はその声だけが、自分の意識をここに繋ぎ止めているような気がして、それを自分自身、どう受け止めたらいいのか分からなくて、花京院は微かに肩を震わせる。
やがて騒々しい着信音が止み、雨音だけが室内を満たすまで。
花京院は冷えた四肢を動かすことが、できなかった。
+++
白みがかった淡い水色が、秋の空一面に広がる朝。
セーラー服を着た二人の女子生徒は、全速力で正門をくぐり抜けると、そこで力尽きたように足を止めた。
「セーフッ!」
「あたしもセーフ! 間に合ったーッ!」
乱れた息を整えながら、二人はホッと胸を撫で下ろす。
あとはホームルームが始まる前に、教室に滑り込めばいいだけだ。目を見合わせて笑いあい、再び一歩踏み出そうとした、そのとき。
「――残念ながら、一分遅刻だ」
二人は同時に息を飲み、声がした方に視線を走らせる。
そこには背の高い、ダークグレーのスーツを纏う赤い髪の男が一人、佇んでいた。
「げ、今日の立ち番って花京院……?」
花京院、と呼ばれた男は、この高校に赴任する英語教師だった。いかにも神経質そうなスクエア型の黒縁眼鏡と、ほとんど動きのない表情が、寸分のズレもないネイビーのタイと相まって、ひどく無機質な印象を与える。
「君は確か、遅刻をするのは今月で三度目だったな。放課後、指導室まで来なさい。反省文を書いてもらう」
淡々と告げる濁りのない声に、指導室行きを宣告された女子が不満を露わに食ってかかった。
「ちょっと待ってよ! ほとんどセーフじゃん! 大体、まだチャイム鳴ってないんですけど!?」
「予鈴が鳴る五分前には、登校していなくてはならない。それがこの高校の規則だよ」
「ねぇお願い! もう絶対に遅刻なんてしないから! ね!」
腰を低くした女子生徒が、両手を合わせて拝むポーズをして見せても、花京院の顔色は冷淡なまま、変化がなかった。
「早く行きなさい。ホームルームまで遅刻する気か?」
なおも食い下がろうと前のめりになった肩を、もうひとりの女子生徒が掴んで「もう行こうよ」と耳打ちする。
「相手が花京院じゃムリだって……こいつマジで融通きかないんだから」
「……ムカつく」
ふたりは悔しげに表情を歪め、時おり花京院をチラリと振り返っては睨みつけながら、正面玄関へ歩き出した。
「あたし、アイツほんっと嫌い! 偉そうに気取っちゃって、アンタ一体何様ってカンジ!!」
「授業もつまんないんだよねー。冗談のひとつも言わないし、そういえば笑った顔なんて一回も見たことなくない?」
「ないない、鉄仮面? あれで結婚してるとか、奥さんの気が知れないよね」
わざとらしく、聞こえよがしに不満の声を垂れ流す二人の背中が、どんどん小さくなって遠のいていくのを、当の花京院は人形のように感情のない瞳で、ただじっと見つめるだけだった。
+++
(――まったく、余計なお世話だ)
デスクチェアに深く腰かけ天井を仰ぎ見ながら、花京院典明はささやかな溜息を漏らした。まるで連動するように、開いた窓から吹きこむ緩い秋風が、カーテンを揺らす。
視線を僅かにさげると、南校舎の二階にあるこの英語準備室からは、澄みきった高い空がよく見えた。
(鉄仮面、ね)
別に気にしているわけでも、腹を立てているわけでもないけれど。それがこの学校の生徒たちの、自分に抱くイメージであることは、わざわざ言われるまでもなく自覚していた。
花京院は生徒たちと冗談を言って笑ったり、立場を意識せず友達感覚でコミュニケーションをとる、といった接し方をする教師ではなかった。
神経質そうでとっつきにくい。融通が利かず、真面目で、お高くとまっている。そして冷淡。生徒たちからの評判がすこぶる悪いのは知っているが、かといって困るようなこともない。
教師と生徒。大人と子供。立場を弁えることは、彼らにとっても必要な社会勉強のひとつではないか。花京院はそう考えている。
――だけどひとつだけ。
ひとつだけ、朝の女子生徒たちの会話で、なんとなく耳から離れないでいるものがある。
『あれで結婚してるとか、奥さんの気が知れないよね』
ああ、本当に。なんて余計なお世話だろう。
花京院は見るともなしに眺めていた窓の外から、視線を外す。
晴れた空を見つめすぎたせいか、目の奥からずしりと重たいものが込み上げて、頭が鋭く痛んだ。眼鏡を外し、指でこめかみを強く摘まみながら、目を閉じる。
まただ。最近、ほんのちょっとのキッカケで、すぐにこうして酷い頭痛に苛まれる。
しばらくそうやって痛みをやり過ごし、どうにか落ち着いてきた頃に目を開けた。ふと、ノートパソコンを開いたままの机に置かれた、写真立てが目に入る。
そこに写り込む人物の笑顔を見て、花京院はすみれ色の瞳をどんよりと曇らせた。また、溜息が漏れる。
写真立てへと伸ばした左手の、薬指にはまる指輪が、どこか虚ろな光を放っていた。
花京院は目を閉じると、力なく首を振る。そのまま写真立てをパタリと伏せて、眼鏡をかけ直すと席を立った。
+++
放課後。
今朝の女子生徒への指導を終えて準備室に戻ると、そこには一人の男子生徒の姿があった。
「ああ、待たせてすまない」
声をかけると、室内の中央に一組だけ置かれた、生徒用デスクセットの椅子に掛けた男子生徒が、どこか気だるげにチラリと視線だけを寄越した。
――空条承太郎。
ボロボロの学帽に、鎖のついた黒い長ラン。学校一の不良と呼ばれる、手のつけられない問題児。
彼はポケットに両手を捻じ込み、浅く腰かけながらも背凭れに背を預けている。悠々と長い足を組む姿勢は不遜で、二メートルに手が届きそうなほどの長身とガタイのよさが、これでもかというほどの威圧感を放っていた。
その傲然とした態度に密かに眉根を寄せながら、花京院は窓際にある自分の机から椅子を引き寄せ、机を挟んで向かい合う形で腰かける。
「空条」
その名を呼びながら、机に両方の前腕を乗せ、指を組んだ。
「どうして君がここに呼び出されたのか、心当たりは?」
「――あるぜ」
思いのほかあっさりと答えが返ってきたことを、少し意外に感じる。
「なら話は早い」
承太郎は今週だけでもすでに二度、花京院の授業中に居眠りをしている。しかも堂々と、彼の身体にはいささか小さすぎる机に、思い切り突っ伏して。
「わたしの授業はさぞかし退屈だろう。だが、居眠りは感心できないな」
彼はアメリカ人の母親をもつハーフだそうだし、父親は世界をまたにかけるミュージシャンだ。高校レベルの英語の授業が、彼にとって実りあるものとは到底思えない。
しかし、だからといって見逃せる問題ではないのだ。
承太郎は鼻から小さく息をつき、ひょいと小さく肩を竦めた。
「起こしてくれりゃあいいのによ」
「起こしたとも。何度もね。君はいちど寝てしまうと、よほど眠りが深いと見える」
冷たく見据える花京院の視線を正面から受け止めて、承太郎は幾度かゆっくりと瞬きをした。そして微かに背を丸め、何が可笑しいのか、くつくつと肩を揺らしながら笑いはじめる。この態度には、流石の花京院も少しばかり腹が立つ。
「君は教師をバカにしているのか?」
低く押し殺した声で問えば、承太郎はふっと息をつきながら「とんでもない」と言った。
「むしろ尊敬しているぜ。あんたのことは」
やはりバカにしているのではないか。この不良は、教師ですら恐れてまともに指導できないのをいいことに、傲岸不遜な態度をとり続けているのだ。だが自分は違う。他の教師たちと一緒にされるのは、プライドが許さない。
「空条、君は」
「あんたの授業は好きだぜ、花京院先生」
「……は?」
花京院の言葉を遮り、承太郎が言う。
「丁寧で無駄がない。くだらねえ雑談で脇道にそれる教師とは大違いだし、なにより、声がいい」
これはもしかして、もしかしなくても、褒められているのだろうか。承太郎の顔からはさっきまでの笑みが消え、決して冗談を言っているようには見えなかった。だからこそ、どう受け止めればいいか、咄嗟に判断ができない。生徒から否定されることはあっても、肯定されるのは初めてのことだった。しかも校内屈指の不良に、だ。
「だからつい、心地が良くって眠っちまう」
「そんなものは」
――理由になんてならない。
そう返す、つもりだったのに。
窓から差し込む夕焼けが、承太郎のエメラルドの瞳に吸い込まれて、淡く透明な輝きを放っている。
どこまでも吸い込まれてしまいそうな気がして、花京院は一度、小さく唇を震わせただけで言葉を失くした。
――なんて美しい瞳だろう。
そして、顔立ちだろうか。高く通った鼻梁と、誘い込もうとでもしているかのような、肉感的な唇と。エメラルドを縁取る長い睫毛が、もはや少年らしさを感じさせない削げた頬に、ゆらゆらと影を落としている。
――まるで計算しつくされているかのようだ。
彼の圧倒的な存在感は、なにも身体の大きさだけではないのだ。この鬼のような美貌にとらわれてしまえば、こうして喉を絞られたように声も出せなくなってしまうのは、仕方がないことなのかもしれない。
このとき花京院は、自分は他とは違うと思う反面、その美しさに見惚れていた。
承太郎はただじっとそんな花京院を見つめ、やがて背凭れから背を放すと、おもむろに片手を伸ばしてくる。ゆっくりと、緩慢な動作で近づいてきた手は、やがて花京院の眼鏡のブリッジに触れ、指先を引っ掻けた。
「――あッ」
するりと眼鏡を奪われて、花京院は声をあげた。手の中で眼鏡を折りたたみ、承太郎は片眉をひょいと持ち上げながら、楽しげに言う。
「へえ、眼鏡がないと、ずいぶん雰囲気が変わるもんだな」
「こ、こらッ! 返さないかッ!」
弾かれたように正気に戻り、花京院は頬が赤らむのを感じながら、勢いよく立ち上がった。手を伸ばし、承太郎から眼鏡を取り返そうとするが、寸でのところで遠ざけられてしまう。
「おい空条ッ! 一体なんのつもりだ!」
「これ、ない方がよかねえか」
「余計なお世話だ。大人をからかうんじゃあない!」
眉を吊り上げ、ピシャリと言い捨てると、承太郎は肩を竦めて、うんともふんともつかない息を漏らす。それから、肉厚な唇の端を持ち上げ、ふっと笑いながら言った。
「承太郎」
「は?」
「承太郎って呼びな。そうすりゃ返してやる」
なんなのだ、この上からの態度は。けれどここで目くじらを立ててばかりでは大人げないし、何より花京院にとって、眼鏡を奪われることは大問題だった。腹は立つが、ぐっと堪えながら手を差し出した。
「――承太郎。眼鏡を、返せ」
「あいよ」
たったそれだけで、承太郎は素直に眼鏡を放り投げた。
慌てて両手でキャッチして、ホッと息をつきながら元通りかけなおす。
それを黙ってただ眺めていた承太郎は、眩しそうに目を細めると、言った。
「あんた、笑ったら可愛いだろうな」
+++
コンプレックスと、はっきり断言してもいい。
花京院が人前で眼鏡を外さないのは、何も生徒たちが言うように冷たい印象を持たせたいからとか、気取っているなんてくだらない理由からではなかった。
単純に、自分の素顔が好きではないのだ。少し困り気味に下がった眉も、横に大きめの薄い唇も。花京院としてはこの愛嬌のある顔立ちが、どうも気に入らなくて仕方ない。見るものに幼い印象を与えてしまうように感じられるからだ。とりわけ、笑顔が。
十代のうちは、まだよかったのかもしれない。けれど二十代を後半に差し掛かった今もなお、顔付きは高校時代とほとんど変わっていないように思える。男性らしい精悍さも、年齢を重ねることによる渋みも、全くと言っていいほど皆無だった。
だから人前では常に表情を引き締めているし、絶対に笑わない。眼鏡をかけるのは、もちろん視力のせいもあるけれど、この愛嬌を隠すのにはもってこいのアイテムだからだ。
――それなのに。
「あの悪ガキ……」
夜。帰宅後、すぐにスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイと眼鏡を外した姿で洗面所の鏡に向かいながら、花京院はひとりごちる。
思いだすだけで、顔から火を噴きそうだ。絶対に素顔を見られないように、準備室に一人きりでいる以外で、眼鏡を外したことなどなかったのに。
花京院は鏡に映る自分の素顔を、憎々しげに睨み付ける。
けれどそうやって肩を怒らせているのもだんだん疲れてきて、深い溜息をつきながら力を抜いた。
下がり気味の眉の下で目をじっとりとさせ、大きめの唇を不満げに引き結んでいる表情は、やっぱりどこか子供臭い。思わず片手を顎に添え、あらゆる角度で自分の顔を見てみても、やはり気に入らないものはどうしようもなかった。
――それでもただ一人。
そういう顔だからいいのだと、好きなのだと、そう言ってくれた人がいた。多分まだ、過去ではないと思いたい。
顔に添えていた手は左手だった。薬指にはまる指輪が、鏡越しに洗面所の白いライトを弾いている。その輝きから目を逸らし、花京院は切なげに睫毛を伏せると、その場を後にした。
一日の疲れがどっと押し寄せてきたかのように、怠さを抱えた身体でリビングへ移動した。そこは隣接するダイニングキッチンの照明だけが頼りの、ぼんやりと薄暗い空間だった。
しん、と冷たく静まり返るなか、キッチンへ向かって冷蔵庫を開ける。中は空っぽに等しかった。
最近は外で済ませるなり、出来合いのものを買ってくることが多かったが、今日はどのみち、あまり食欲がない。
結局ただ開けただけですぐに扉を閉め、花京院はのろのろとリビングのソファに足を向けた。脱力したようにどっかりと深く腰を下ろし、背凭れに身を預ける。薄ぼんやりとした天井を虚ろに眺め、深い深い、溜息を漏らした。
「ッ……!」
気を抜いたせいだろうか。またキリキリと頭痛がしはじめて、目頭を押さえる。幾らか楽になるまで目を閉じて、重い瞼を抉じ開けた。
ふと、ポケットの中に手を忍ばせると携帯を取り出す。メールの受信を知らせるライトの点滅に、ハッとして背筋を正した。
――メールは、妻からのものだった。
『あなた、ごめんなさい。
お母さんの具合がちっともよくならないの。
今夜は戻ろうと思ったのだけれど、できそうもないわ。
また連絡するわね。おやすみなさい。』
内容に目を通し終わると、花京院は再び背凭れに背を埋めた。
がくんと腕を投げ出せば、持っていたはずの携帯が床に落ちて音を立てる。何度目かになる溜息を漏らして、ふと、放課後の準備室であの不良に言われた言葉を思い出した。
(笑えば可愛い、だとさ)
ふざけるのも大概にしてほしい。
「笑えるわけがないだろう?」
本当は意図してのことではない。笑わないのではなくて、笑い方を、忘れてしまっただけだ。
←戻る ・ 次へ→
薄暗い室内。閉め切られた障子。
物憂げに落ちる冷えた空気と、軒下に置き並べた石を打つ、不規則な雨だれの音。
それらを切り裂くようなけたたましさで悲鳴を上げたのは、畳の上に投げ出されていた携帯電話だった。
「――出ねえのか」
低く、染み入るようなバリトンに問いかけられ、花京院は抱え込んでいた膝に伏せていた顔を、ゆるりとあげた。
雨の音も、着信を告げる電子音も、どこか遠い世界の出来事のように、まるで現実味がない。いつもはピンと張りつめたように伸ばしている背を丸めて、花京院は再び膝頭に顔を埋めた。
「……先生」
急かしているのか、それとも、憐れんでいるのだろうか。
ただ今はその声だけが、自分の意識をここに繋ぎ止めているような気がして、それを自分自身、どう受け止めたらいいのか分からなくて、花京院は微かに肩を震わせる。
やがて騒々しい着信音が止み、雨音だけが室内を満たすまで。
花京院は冷えた四肢を動かすことが、できなかった。
+++
白みがかった淡い水色が、秋の空一面に広がる朝。
セーラー服を着た二人の女子生徒は、全速力で正門をくぐり抜けると、そこで力尽きたように足を止めた。
「セーフッ!」
「あたしもセーフ! 間に合ったーッ!」
乱れた息を整えながら、二人はホッと胸を撫で下ろす。
あとはホームルームが始まる前に、教室に滑り込めばいいだけだ。目を見合わせて笑いあい、再び一歩踏み出そうとした、そのとき。
「――残念ながら、一分遅刻だ」
二人は同時に息を飲み、声がした方に視線を走らせる。
そこには背の高い、ダークグレーのスーツを纏う赤い髪の男が一人、佇んでいた。
「げ、今日の立ち番って花京院……?」
花京院、と呼ばれた男は、この高校に赴任する英語教師だった。いかにも神経質そうなスクエア型の黒縁眼鏡と、ほとんど動きのない表情が、寸分のズレもないネイビーのタイと相まって、ひどく無機質な印象を与える。
「君は確か、遅刻をするのは今月で三度目だったな。放課後、指導室まで来なさい。反省文を書いてもらう」
淡々と告げる濁りのない声に、指導室行きを宣告された女子が不満を露わに食ってかかった。
「ちょっと待ってよ! ほとんどセーフじゃん! 大体、まだチャイム鳴ってないんですけど!?」
「予鈴が鳴る五分前には、登校していなくてはならない。それがこの高校の規則だよ」
「ねぇお願い! もう絶対に遅刻なんてしないから! ね!」
腰を低くした女子生徒が、両手を合わせて拝むポーズをして見せても、花京院の顔色は冷淡なまま、変化がなかった。
「早く行きなさい。ホームルームまで遅刻する気か?」
なおも食い下がろうと前のめりになった肩を、もうひとりの女子生徒が掴んで「もう行こうよ」と耳打ちする。
「相手が花京院じゃムリだって……こいつマジで融通きかないんだから」
「……ムカつく」
ふたりは悔しげに表情を歪め、時おり花京院をチラリと振り返っては睨みつけながら、正面玄関へ歩き出した。
「あたし、アイツほんっと嫌い! 偉そうに気取っちゃって、アンタ一体何様ってカンジ!!」
「授業もつまんないんだよねー。冗談のひとつも言わないし、そういえば笑った顔なんて一回も見たことなくない?」
「ないない、鉄仮面? あれで結婚してるとか、奥さんの気が知れないよね」
わざとらしく、聞こえよがしに不満の声を垂れ流す二人の背中が、どんどん小さくなって遠のいていくのを、当の花京院は人形のように感情のない瞳で、ただじっと見つめるだけだった。
+++
(――まったく、余計なお世話だ)
デスクチェアに深く腰かけ天井を仰ぎ見ながら、花京院典明はささやかな溜息を漏らした。まるで連動するように、開いた窓から吹きこむ緩い秋風が、カーテンを揺らす。
視線を僅かにさげると、南校舎の二階にあるこの英語準備室からは、澄みきった高い空がよく見えた。
(鉄仮面、ね)
別に気にしているわけでも、腹を立てているわけでもないけれど。それがこの学校の生徒たちの、自分に抱くイメージであることは、わざわざ言われるまでもなく自覚していた。
花京院は生徒たちと冗談を言って笑ったり、立場を意識せず友達感覚でコミュニケーションをとる、といった接し方をする教師ではなかった。
神経質そうでとっつきにくい。融通が利かず、真面目で、お高くとまっている。そして冷淡。生徒たちからの評判がすこぶる悪いのは知っているが、かといって困るようなこともない。
教師と生徒。大人と子供。立場を弁えることは、彼らにとっても必要な社会勉強のひとつではないか。花京院はそう考えている。
――だけどひとつだけ。
ひとつだけ、朝の女子生徒たちの会話で、なんとなく耳から離れないでいるものがある。
『あれで結婚してるとか、奥さんの気が知れないよね』
ああ、本当に。なんて余計なお世話だろう。
花京院は見るともなしに眺めていた窓の外から、視線を外す。
晴れた空を見つめすぎたせいか、目の奥からずしりと重たいものが込み上げて、頭が鋭く痛んだ。眼鏡を外し、指でこめかみを強く摘まみながら、目を閉じる。
まただ。最近、ほんのちょっとのキッカケで、すぐにこうして酷い頭痛に苛まれる。
しばらくそうやって痛みをやり過ごし、どうにか落ち着いてきた頃に目を開けた。ふと、ノートパソコンを開いたままの机に置かれた、写真立てが目に入る。
そこに写り込む人物の笑顔を見て、花京院はすみれ色の瞳をどんよりと曇らせた。また、溜息が漏れる。
写真立てへと伸ばした左手の、薬指にはまる指輪が、どこか虚ろな光を放っていた。
花京院は目を閉じると、力なく首を振る。そのまま写真立てをパタリと伏せて、眼鏡をかけ直すと席を立った。
+++
放課後。
今朝の女子生徒への指導を終えて準備室に戻ると、そこには一人の男子生徒の姿があった。
「ああ、待たせてすまない」
声をかけると、室内の中央に一組だけ置かれた、生徒用デスクセットの椅子に掛けた男子生徒が、どこか気だるげにチラリと視線だけを寄越した。
――空条承太郎。
ボロボロの学帽に、鎖のついた黒い長ラン。学校一の不良と呼ばれる、手のつけられない問題児。
彼はポケットに両手を捻じ込み、浅く腰かけながらも背凭れに背を預けている。悠々と長い足を組む姿勢は不遜で、二メートルに手が届きそうなほどの長身とガタイのよさが、これでもかというほどの威圧感を放っていた。
その傲然とした態度に密かに眉根を寄せながら、花京院は窓際にある自分の机から椅子を引き寄せ、机を挟んで向かい合う形で腰かける。
「空条」
その名を呼びながら、机に両方の前腕を乗せ、指を組んだ。
「どうして君がここに呼び出されたのか、心当たりは?」
「――あるぜ」
思いのほかあっさりと答えが返ってきたことを、少し意外に感じる。
「なら話は早い」
承太郎は今週だけでもすでに二度、花京院の授業中に居眠りをしている。しかも堂々と、彼の身体にはいささか小さすぎる机に、思い切り突っ伏して。
「わたしの授業はさぞかし退屈だろう。だが、居眠りは感心できないな」
彼はアメリカ人の母親をもつハーフだそうだし、父親は世界をまたにかけるミュージシャンだ。高校レベルの英語の授業が、彼にとって実りあるものとは到底思えない。
しかし、だからといって見逃せる問題ではないのだ。
承太郎は鼻から小さく息をつき、ひょいと小さく肩を竦めた。
「起こしてくれりゃあいいのによ」
「起こしたとも。何度もね。君はいちど寝てしまうと、よほど眠りが深いと見える」
冷たく見据える花京院の視線を正面から受け止めて、承太郎は幾度かゆっくりと瞬きをした。そして微かに背を丸め、何が可笑しいのか、くつくつと肩を揺らしながら笑いはじめる。この態度には、流石の花京院も少しばかり腹が立つ。
「君は教師をバカにしているのか?」
低く押し殺した声で問えば、承太郎はふっと息をつきながら「とんでもない」と言った。
「むしろ尊敬しているぜ。あんたのことは」
やはりバカにしているのではないか。この不良は、教師ですら恐れてまともに指導できないのをいいことに、傲岸不遜な態度をとり続けているのだ。だが自分は違う。他の教師たちと一緒にされるのは、プライドが許さない。
「空条、君は」
「あんたの授業は好きだぜ、花京院先生」
「……は?」
花京院の言葉を遮り、承太郎が言う。
「丁寧で無駄がない。くだらねえ雑談で脇道にそれる教師とは大違いだし、なにより、声がいい」
これはもしかして、もしかしなくても、褒められているのだろうか。承太郎の顔からはさっきまでの笑みが消え、決して冗談を言っているようには見えなかった。だからこそ、どう受け止めればいいか、咄嗟に判断ができない。生徒から否定されることはあっても、肯定されるのは初めてのことだった。しかも校内屈指の不良に、だ。
「だからつい、心地が良くって眠っちまう」
「そんなものは」
――理由になんてならない。
そう返す、つもりだったのに。
窓から差し込む夕焼けが、承太郎のエメラルドの瞳に吸い込まれて、淡く透明な輝きを放っている。
どこまでも吸い込まれてしまいそうな気がして、花京院は一度、小さく唇を震わせただけで言葉を失くした。
――なんて美しい瞳だろう。
そして、顔立ちだろうか。高く通った鼻梁と、誘い込もうとでもしているかのような、肉感的な唇と。エメラルドを縁取る長い睫毛が、もはや少年らしさを感じさせない削げた頬に、ゆらゆらと影を落としている。
――まるで計算しつくされているかのようだ。
彼の圧倒的な存在感は、なにも身体の大きさだけではないのだ。この鬼のような美貌にとらわれてしまえば、こうして喉を絞られたように声も出せなくなってしまうのは、仕方がないことなのかもしれない。
このとき花京院は、自分は他とは違うと思う反面、その美しさに見惚れていた。
承太郎はただじっとそんな花京院を見つめ、やがて背凭れから背を放すと、おもむろに片手を伸ばしてくる。ゆっくりと、緩慢な動作で近づいてきた手は、やがて花京院の眼鏡のブリッジに触れ、指先を引っ掻けた。
「――あッ」
するりと眼鏡を奪われて、花京院は声をあげた。手の中で眼鏡を折りたたみ、承太郎は片眉をひょいと持ち上げながら、楽しげに言う。
「へえ、眼鏡がないと、ずいぶん雰囲気が変わるもんだな」
「こ、こらッ! 返さないかッ!」
弾かれたように正気に戻り、花京院は頬が赤らむのを感じながら、勢いよく立ち上がった。手を伸ばし、承太郎から眼鏡を取り返そうとするが、寸でのところで遠ざけられてしまう。
「おい空条ッ! 一体なんのつもりだ!」
「これ、ない方がよかねえか」
「余計なお世話だ。大人をからかうんじゃあない!」
眉を吊り上げ、ピシャリと言い捨てると、承太郎は肩を竦めて、うんともふんともつかない息を漏らす。それから、肉厚な唇の端を持ち上げ、ふっと笑いながら言った。
「承太郎」
「は?」
「承太郎って呼びな。そうすりゃ返してやる」
なんなのだ、この上からの態度は。けれどここで目くじらを立ててばかりでは大人げないし、何より花京院にとって、眼鏡を奪われることは大問題だった。腹は立つが、ぐっと堪えながら手を差し出した。
「――承太郎。眼鏡を、返せ」
「あいよ」
たったそれだけで、承太郎は素直に眼鏡を放り投げた。
慌てて両手でキャッチして、ホッと息をつきながら元通りかけなおす。
それを黙ってただ眺めていた承太郎は、眩しそうに目を細めると、言った。
「あんた、笑ったら可愛いだろうな」
+++
コンプレックスと、はっきり断言してもいい。
花京院が人前で眼鏡を外さないのは、何も生徒たちが言うように冷たい印象を持たせたいからとか、気取っているなんてくだらない理由からではなかった。
単純に、自分の素顔が好きではないのだ。少し困り気味に下がった眉も、横に大きめの薄い唇も。花京院としてはこの愛嬌のある顔立ちが、どうも気に入らなくて仕方ない。見るものに幼い印象を与えてしまうように感じられるからだ。とりわけ、笑顔が。
十代のうちは、まだよかったのかもしれない。けれど二十代を後半に差し掛かった今もなお、顔付きは高校時代とほとんど変わっていないように思える。男性らしい精悍さも、年齢を重ねることによる渋みも、全くと言っていいほど皆無だった。
だから人前では常に表情を引き締めているし、絶対に笑わない。眼鏡をかけるのは、もちろん視力のせいもあるけれど、この愛嬌を隠すのにはもってこいのアイテムだからだ。
――それなのに。
「あの悪ガキ……」
夜。帰宅後、すぐにスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイと眼鏡を外した姿で洗面所の鏡に向かいながら、花京院はひとりごちる。
思いだすだけで、顔から火を噴きそうだ。絶対に素顔を見られないように、準備室に一人きりでいる以外で、眼鏡を外したことなどなかったのに。
花京院は鏡に映る自分の素顔を、憎々しげに睨み付ける。
けれどそうやって肩を怒らせているのもだんだん疲れてきて、深い溜息をつきながら力を抜いた。
下がり気味の眉の下で目をじっとりとさせ、大きめの唇を不満げに引き結んでいる表情は、やっぱりどこか子供臭い。思わず片手を顎に添え、あらゆる角度で自分の顔を見てみても、やはり気に入らないものはどうしようもなかった。
――それでもただ一人。
そういう顔だからいいのだと、好きなのだと、そう言ってくれた人がいた。多分まだ、過去ではないと思いたい。
顔に添えていた手は左手だった。薬指にはまる指輪が、鏡越しに洗面所の白いライトを弾いている。その輝きから目を逸らし、花京院は切なげに睫毛を伏せると、その場を後にした。
一日の疲れがどっと押し寄せてきたかのように、怠さを抱えた身体でリビングへ移動した。そこは隣接するダイニングキッチンの照明だけが頼りの、ぼんやりと薄暗い空間だった。
しん、と冷たく静まり返るなか、キッチンへ向かって冷蔵庫を開ける。中は空っぽに等しかった。
最近は外で済ませるなり、出来合いのものを買ってくることが多かったが、今日はどのみち、あまり食欲がない。
結局ただ開けただけですぐに扉を閉め、花京院はのろのろとリビングのソファに足を向けた。脱力したようにどっかりと深く腰を下ろし、背凭れに身を預ける。薄ぼんやりとした天井を虚ろに眺め、深い深い、溜息を漏らした。
「ッ……!」
気を抜いたせいだろうか。またキリキリと頭痛がしはじめて、目頭を押さえる。幾らか楽になるまで目を閉じて、重い瞼を抉じ開けた。
ふと、ポケットの中に手を忍ばせると携帯を取り出す。メールの受信を知らせるライトの点滅に、ハッとして背筋を正した。
――メールは、妻からのものだった。
『あなた、ごめんなさい。
お母さんの具合がちっともよくならないの。
今夜は戻ろうと思ったのだけれど、できそうもないわ。
また連絡するわね。おやすみなさい。』
内容に目を通し終わると、花京院は再び背凭れに背を埋めた。
がくんと腕を投げ出せば、持っていたはずの携帯が床に落ちて音を立てる。何度目かになる溜息を漏らして、ふと、放課後の準備室であの不良に言われた言葉を思い出した。
(笑えば可愛い、だとさ)
ふざけるのも大概にしてほしい。
「笑えるわけがないだろう?」
本当は意図してのことではない。笑わないのではなくて、笑い方を、忘れてしまっただけだ。
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赤ん坊を泣かせてしまったことがある。
あれはまだ小学校に上がる前だったから、花京院が五つかそこらの頃だ。親戚夫婦が生まれたばかりの乳児を抱いて、家に遊びにやってきた。
その子は母親の腕の中で、静かな寝息をたてていた。桜色の肌がお餅のように柔らかそうで、ふんわりとした甘いミルクの匂いがしたのを覚えている。
触ってもいいと言われ、花京院はドキドキと胸を跳ねさせながら、その小さな生き物に幼い指先を伸ばしてみた。恐る恐る、起こさないように、優しく、優しく。丸い頬に、そっと。けれど触れる寸前、目を覚ました赤ん坊が、急にぐずりはじめてしまった。
その顔はみるみるうちに真っ赤になった。鼻の頭に皺を寄せ、いよいよ甲高い声をあげて泣きだしてしまう。花京院はその光景にショックを受けて、石のように固まって動けなくなった。
赤ちゃんが泣いてしまったのは、ぼくがほっぺたに触ろうとしたからだ。せっかく気持ちよく眠っていたのに、邪魔をしようとしたから。きっと嫌われてしまったのだと、そう思うと怖くて悲しくて、とても悪いことをしてしまったのだと感じた。
以来、花京院は自分よりも小さな子供と触れ合うことに、どうしても不安を覚えるようになってしまった。決して忘れられない、心の傷が残ってしまったのだ。
*
(ああ、またホリィさんがいらしてるのか)
十二月の初め頃。学校から帰宅すると、廊下の向こうから賑やかな笑い声が聞こえてきた。玄関には母のものとは異なる女性用の靴があり、その横には、小学生くらいの男児用スニーカーも置かれている。綺麗に揃えられた二足の靴を見て、花京院はひとつ、重たい溜息を漏らした。
ホリィとは半年ほど前、母が通い始めた料理教室で知り合ったという女性の名だ。今では頻繁に互いの家を行き来してお茶を飲むほど、親しい間柄になっている。アメリカ人だが流暢な日本語を話し、朗らかによく笑う可愛らしい人だった。
ホリィには承太郎という名の、小学二年生の息子がいた。目鼻立ちが息を飲むほど整った、エメラルドの大きな瞳を持つ美少年だ。物静かで行儀のいい承太郎のことを、母がえらく気に入っていて、よくホリィに連れられて家へ遊びにやってくるのだが。
(ホリィさんだけなら、大歓迎なんだけどな)
子供はどうしても苦手だ。幼い頃のトラウマは、高校生になった今でも薄れることなく、花京院の中に爪痕を残していた。
失礼だとは思うが、今は顔を出さずに部屋へあがることにして、帰宅するタイミングを見計らって軽く挨拶をしよう。そうと決めてしまうと、花京院は足音を立てないよう、静かに自室がある二階への階段をのぼった。
*
自室に入ると、机に置いた鞄の中から教科書やノートを取り出す。ホリィたちが帰るまではまだ時間もあるだろうし、軽く明日の予習でもしようと考えたからだ。すると一緒くたになって一冊の雑誌が飛び出し、絨毯張りの床に落下した。
「あ」
花京院は小さく声をあげ、それから辟易とした息を漏らした。表紙がよれよれになっているそれは、いわゆるエロ雑誌というものだ。もちろん、花京院の所有物ではない。クラスの男子たちが回し読みしたものを、たまたま近くの席にいたというだけで、強引に押し付けられてしまったのだ。
正直、花京院はこの手のものに、あまり興味がなかった。手に取ろうと思ったことすらない。ましてや複数の男子生徒が回し読みをしたものなんて、不潔に思えて触れることすら躊躇われる。
しかし放置しておくこともできず、花京院は溜息をつきながら雑誌を拾った。見たくもない表紙が、嫌でも目につく。そこには水着姿の女性が、尻を突きだすようにしながら座り込んでいる姿が写っていた。
「うわ」
思わず顔を赤らめ、慌てて目を逸らす。こんなものは目の毒だ。破廉恥すぎる。だいたい、まだ十七歳の高校生が見ていいものではない。男子って最低。よく女子が口にする言葉の中に、自分が含まれているかもしれないと思うだけで、嫌な気分だ。
(早く捨てよう。こんなもの)
けれどその内心の声とは裏腹に、花京院は横目でチラリと、再びいかがわしい表紙を視界に入れる。なぜかさっきからずっと顔が熱かった。心臓もドキドキと高鳴っているし、落ち着かない気分だ。ダメだダメだと思いつつ、そのままパラパラと雑誌をめくってみる。が、すぐにいたたまれなくなって目を逸らし、机に放り投げた。やっぱり無理だ。こんなもの、自分にはまだ早すぎる。
けれど十七歳の身体は、肌色成分に対してあまりにも純粋で、あまりにも素直な構造になっていた。
「ッ……!?」
気がつくと、身体の中心に違和感を覚えていた。やけに熱くて、窮屈だ。花京院は自分の身体に起こった変化に青褪め、それから、茹蛸のように真っ赤になった。
(ど、どうしよう……なんてことだ……)
呆然とした顔で、ベッドの縁に腰を沈める。身体を丸めるようにしながら頭を抱えた。
自慰の経験は、ほとんどない。普段、あまりしたいとも思わなかった。なのに今はこの有様で、花京院は焦りを覚えながらも、怖々と自分の股間に指先を這わせた。
どうせこの部屋には、自分一人だ。こんな状態でいるよりは、事務的にでもさっさと鎮めてしまった方がいいに決まっている。自分に言い訳をしながら、ベルトを緩めて前を寛げた。必要最低限、触れる機会のない熱の塊を取り出して、そっと握り込んでみる。
「ッ、ぁ」
慣れない感覚が、そこからじわりと這い上がる。おかしな声が漏れてしまう唇を片手の甲で塞ぎ、顔を背けながら目を閉じた。ぎこちない手つきで、自身を慰める。
「んっく、ふ……ぁッ」
頭がぼうっとして、息があがる。これが快感であるかどうかの判断はまるでつかなかった。けれど、やけに熱くて甘い痺れがじんわりと這い上がって、溢れでてくる。
(ああ、ぼくはなんてはしたない真似を……)
意識の片隅で自分を責める。これはとても悪いことだと。性器からは先走りの密が滲みはじめ、鈍い水音まで響きだすと、いよいよ罪悪感から涙が滲んだ。
(下にはお客さんがいるっていうのに!)
こんなのは自分じゃない。早く。早く、終わらせないと。
声がしたのは、そのときだった――。
「なにやってんの?」
「ッ?」
瞬間、花京院は竿を握りしめたまま、ピタリと凍り付いた。
(……へ?)
声。気のせいだろうか。いま、確かに誰かの声が……。
「なあってば、聞いてんの?」
ギ、ギ、ギ、と、錆びたネジを回すように首を動かし、声のした方へ視線を巡らせる。そこにはベッドの下から俯せた上半身を覗かせ、頬杖をついた子供が、こちらを見上げる姿があった――。
「う、うわあああああッ!?」
花京院は咄嗟に悲鳴をあげていた。頭から水を浴びたような感覚に、当然、熱は冷めて萎んでしまう。一瞬でベッドの端まで移動して、壁に身を寄せる花京院を、下から這い出した少年のつぶらな瞳が、不思議そうに見つめていた。
「な、なんっ、なんでッ、き、きみ、ここ、ここにッ!?」
あまりの出来事に、上手く言葉が出ない。なぜここに彼が――承太郎がいるのだろう。一体いつから、見ていたのだろうか。頭の中はすっかりパニックを起こしていた。彼は青いパーカーにジーンズ姿で、ベッドの縁を両手で掴み、シーツにちょこんと顎を乗せながら口を開いた。
「おばさんが、ヒマなら上の部屋で遊んでていいって」
「おばっ、お、おばさ、か、母さん、が?」
「うん。だから、かくれんぼして遊んでたんだぜ」
まだ少女のような高い声が、平然と言う。なら承太郎は、最初からこの部屋の、ベッドの下に潜んでいたということか。
花京院はショックのあまり青褪めて、ただ身体を震わせるしかできなかった。よりにもよって、なんて姿を見られてしまったのだろう。穴があったら入りたい。いっそのこと消えてしまえたら、どんなにいいか。
承太郎がベッドの上によじ登ってきた。思わず横向きに身体を丸め、これでもかというほど壁に身を寄せる花京院の目の前に、ぺたりと座る。小学二年生というだけあって、小さな身体だと思った。驚くほど長い睫毛がくるんとカールして、宝石のような丸い瞳が、星のように瞬いている。
「今の、もしかしてすごくワルイこと?」
「ッ……!」
「ちんちんさわって、ヘンなこえ出してた」
「いいい、言わないでッ! 頼むから、いま見たことは誰にも言わないでくれッ!!」
思わず頭を抱え、叫んでいた。どっと汗を噴きだし、すっかり小さく丸まってしまった花京院を見て、承太郎は「ふぅん」と微かに唸る。そしてすぐに「いいよ」と言った。
「ほ、本当に!?」
承太郎は頷き、それからにんまりと意地の悪そうな笑顔を浮かべた。とてつもなく嫌な感じがする。花京院は目を見張り、緊張から喉を鳴らして承太郎を見た。彼は胡坐をかき、腕を組むと、まるで見下すように顎を突きだして踏ん反り返った。そして、こう言ったのだ。
「おれのいうことをなんでもきく、召使いになるって約束するならな」
*
悪夢の一件から、一ヶ月ほどが経過した。
その間、花京院は承太郎の召使いとしての生活を、余儀なくされていた。
馬になれと言われれば四つん這いになり、背中に乗られながらひたすら部屋中を這いつくばる。手綱代わりに髪を引っ張られることもあったし、お菓子やジュースを買いに行けと言われれば、大急ぎで近所のコンビニやスーパーに駆けこまなくてはならなかった。それはもちろん花京院のポケットマネーから出す決まりになっていて、回を重ねるごとに財布事情が圧迫される。おかげで、子供の頃からコツコツと貯めてきたお年玉などの貯金を、切り崩す羽目になっていた。
承太郎はホリィ抜きでも家に遊びに来るようになったし、花京院を自宅に呼びつけるようにもなった。平日も休日もお構いなしに駆り出され、時には宿題までやらされる。少しでも嫌な顔すると、すぐに「あのことバラすぜ」なんて冷やかな目で言われ、その度に花京院はゾッと青褪めた。
腹が立つのは、承太郎の二重人格ともいえる態度だ。花京院の母や、ホリィの前では絵に描いたように素直で従順なふるまいを見せるし、笑顔は天使そのものだった。それに比べて、花京院にはぶっきらぼうで偉そうな態度しか見せない。正直、憎たらしくて仕方がなかった。
一体いつまでこんな日々が続くのだろう。小学生に脅され、いいように顎で使われているなんて。ただでさえ子供は苦手で、関わり合いを持つのは嫌だというのに。
*
その日も学校から帰宅すると、母から承太郎が遊びに来ていることを告げられた。げんなりする息子を他所に、母はウキウキとした様子で「裏庭で遊んでると思うわ」と言い、お茶とお菓子の準備をしていた。
花京院は嫌々ながらも、その足で裏庭へ向かった。すると寒空のしたで、承太郎が柿の木にしがみつきながら、頭上を見上げる姿があった。
「承太郎くん、こんにちは」
黒いダッフルコートに青いマフラーをして、すっかり着ぶくれしている承太郎は、花京院の声にハッとして振り向いた。
「おそいぞ、花京院」
ムッとした顔で睨み上げてくる少年に、花京院は「はいはい申し訳ありませんでした」と言いながら、溜息を漏らす。母親たちの前では「典明お兄ちゃん」なのに、ふたりきりになるとこれである。
「それよりどうしたんだい、熱心に柿の木なんて見上げて」
庭の片隅にある柿の木は、花京院の祖父が子供の頃に植えたというもので、それは大きくて立派なものだった。毎年、秋になるとたわわに果実を実らせるが、真冬の今となっては裸ん坊で、葉っぱひとつない寂しいものだった。承太郎が難しい顔をして、幹にしがみついたまま天辺を見上げるので、花京院もその視線を追いかける。するとそこには――。
「あれは……子猫?」
黒くて小さな塊が、そこから動けず枝にしがみついているのが見える。ミィミィという不安そうな鳴き声が聞こえた。
「あいつ、おりられなくてさっきから泣いてる。すぐに助けてやらないと……」
真冬の冷たい風が吹く度に、子猫は不安定に揺れる枝に小さな爪を立てて震えていた。
「ちょっと待ってて。いま物置から脚立を」
「あッ! おちるッ!!」
承太郎が真っ青な顔をして、大きな声を上げる。子猫が枝から後ろ足を滑らせ、宙づりの状態になっていた。これでは落下するのも時間の問題だ。
花京院の家の裏側は、ちょうど細長く続くコンクリート水路の堀に面している。子猫がぶら下がっている枝は、運悪く掘り側に張り出している部分に近かった。
「承太郎くん、危ないから下がってて」
「で、でも」
「いいから!」
危険だが、一刻を争う事態にのんびりとはしていられない。花京院は承太郎がおずおずと後退していくのを横目に、柿の木に手をかけ、大きく枝分かれしている部分に足をかけた。何度か強度を確かめて、素早く一気によじ登っていく。承太郎が両手を胸元で握りしめながら、不安そうに見守っていた。
「大丈夫だよ、ほら、いい子だね」
花京院はある程度の位置まで登ると、ぶら下がって甲高い声を上げる子猫に片手を伸ばした。暴れられたら終わりだと思ったが、子猫は大人しくその丸々とした腹を、花京院の掌に掴ませる。枝から剥がすようにして、胸に引き寄せた。しかしホッとしたのも束の間、次の瞬間。
「ッ……!」
「花京院ッ!!」
足を引っかけていた枝が、体重に耐えきれなくなって派手に折れてしまった。承太郎が悲鳴じみた声を張り上げて、花京院を呼ぶ。それを遠くに聞きながら、子猫を抱いたまま一気に飛び降りて、着地した。
「ふぅ、危なかった」
一瞬ヒヤリとしたが、子猫も自分も無事だった。青い顔をしたまま立ち尽くしている承太郎にふと笑いかけ、傍に歩み寄ると子猫を差し出す。
「ほら、もう平気だよ」
承太郎の腕に抱かれると、子猫は大きな金色の瞳で小首を傾げ「ミィ」と可愛らしい声でひと鳴きした。
「柿の木は、枝が脆くてとても折れやすいんだ。だからこういうときは、自分でなんとかしようとしないで、必ず誰か大人の人を呼ばなくちゃあいけないよ」
承太郎はおそらく、あのまま花京院が来なかったら、自分で木に登るつもりだった。運よく間に合ったからいいものの、あと少し遅ければ、子猫と一緒に堀に落ちていたかもしれない。そんな承太郎は柿の木の脆さを初めて知ったようで、青褪めていた顔を真っ白にしながら、小さく震えだした。
「ケガ、は」
「ん?」
「ケガは……?」
「ああ、大丈夫。ほら、子猫なら」
「ちがう。こねこじゃなくて」
「……え? ぼく?」
承太郎は両手で子猫を抱きしめながら、こくりと頷いた。その表情を見て、花京院は驚きに目を見開く。大きなエメラルドの瞳が、みるみるうちに透明な膜に覆われ、雫が目尻に溜まっていった。薄紅の下唇が噛み締められるのを見て、心臓がドキリと跳ねる。子猫が鳴いた。幼い頃に聞いた赤ん坊の泣き声が、その声と重なって焦りと不安が込み上げる。
「じょ、承太郎くん」
花京院は思わず承太郎の頬に手を伸ばした。指先があと少しで触れるというところで、戸惑う。あの赤ん坊は、自分が触れようとしたら泣いてしまった。だけどこの子は、いま自分が触れなければ、泣いてしまう。
(本当はこんなに、優しい子だったんだ)
てっきり嫌われているものとばかり思っていた。猫かぶりで、生意気な子供だと。けれどこの少年は今、一歩間違えれば怪我をしていたかもしれない花京院のために、こんなにもか細く身を震わせている。
雫が零れ落ちる寸前、花京院は人差し指の甲でその目尻を拭った。さらに膝をつき、向かい合うと真っ赤になった頬を両手で包み、親指で何度も何度も目尻を拭う。
(触れた)
承太郎は花京院の手を拒まなかった。すんと鼻を鳴らして、濡れた瞳で真っ直ぐに見つめてくる。あのときも、こんなふうに触れたかったのだ。自分よりも小さな存在に、ただ愛しさを覚えただけだった。泣かせたくなんか、なかった。
(……可愛い)
純粋に、そう思った。掌に感じる高い体温に、胸が締め付けられる。赤くなった頬がリンゴのようで、餅のようにすべすべとして、柔らかかった。
「ぼくも平気さ。どこもケガなんかしてない」
「……ほんとに?」
承太郎の涙が引いていくのと一緒に、花京院の中にあり続けた氷柱のようなトラウマが、少しずつ溶けていく。自然と綻ぶような笑顔が浮かんで、瞬きと一緒に頷いて見せた。
「ほんとに。嘘なんかつかないよ。だから泣かないで」
そう言うと、承太郎は赤かった頬をさらに赤くして、ムッとした表情を浮かべ「泣いてない」と強がった。それがまたどうしようもなく可愛らしく思えて、花京院はついクスリと笑ってしまう。承太郎が、いよいよ耳まで赤くなった。
「め、召使いのくせに、なまいきだぞ!」
「ノォホホ、ごめんよご主人様」
そのとき、ずっと承太郎の腕に抱かれていた子猫が、勢いよく飛び出して地面に着地した。あ、と揃って声をあげるふたりを振り向きもせずに、どこかへ走り去ってしまう。
「ねこ、迷子にならない?」
承太郎が、不安そうにその方向を見つめる。
「大丈夫。きっとお母さん猫のところへ帰ったんだよ」
花京院の言葉に、承太郎は「そっか」と呟きながら、ホッとしたように白い息を漏らした。
「さあ、ぼくらも家に戻ろう。風邪をひかないうちに」
そう言って立ちあがり、ごく自然に差し出した手に、承太郎の小さくて温かな手が触れた。そっと握りしめてやりながら、花京院は自分でも驚くほど優しい気持ちになっていることに気がついた。なんとなく、これからこの少年とはもっと仲良くなれるような、そんな予感に胸を弾ませながら。
*
二月ももうじき中旬というころ、花京院と承太郎の関係は大きく変化を遂げていた。
きっかけは、やはりあの柿の木と子猫の一件だった。あれ以来、承太郎は花京院に対して無邪気で明るい笑顔を見せるようになった。馬にされることはあっても髪は引っ張られないし、威張り散らしたような態度もなりを潜め、脅迫されることもなくなった。
一緒にゲームをして遊んだり、相撲中継を見たり、肩を並べて宿題をしたり。以前はパシリのような扱いを受けていたが、最近ではスーパーやコンビニに、手を繋いで一緒に買い物に行くようにもなった。
そんなふたりの姿を見て、あるときホリィは嬉しそうに、こんなことを言った。
『花京院くんが一緒に遊んでくれるようになって、承太郎ったら毎日とっても楽しそうなの。きっとお兄ちゃんができたみたいで、嬉しいのね』
それを聞いて、確かに兄弟がいたらこんな感じ、なのかもしれないと思った。少し歳の離れた、小さな弟。するとなんだかいっそう承太郎が可愛く思えてきて、前は嫌々だった時間が、日々の楽しみになっていった。全ての始まりである、あの悪夢のような出来事が、まるで夢だったかのように感じられるほど。
*
そんなある日。事件はバレンタインデーに起こった。
「好きです! 付き合ってください!」
学校帰りの道の途中、花京院は顔も知らない女子生徒に呼び止められ、告白を受けていた。
「え?」
あまりにも突然のことに、思わず目を丸くする。差し出されている、赤い包装紙にピンク色のリボンがかけられた箱と、女子生徒の顔を交互に見た。
「ずっと好きだったんです、先輩のこと」
彼女は耳まで赤くして、俯きながら言った。先輩、というワードから、一年生であることが知れる。
困ったな、と、花京院は思った。女子から告白されるのは、本日これが三度目だ。もちろん嬉しいとは思うし、光栄だとも思う。けれどその気もないのに付き合うなんて、そんな無責任で軽率な真似ができるはずもなく、前の二人も当然、丁重にお断りした。元から色恋への関心が薄い、ということもあるのだが……。
(承太郎くん、今日も学校帰りに遊びに来るんだったな)
真っ先に浮かぶのは、承太郎の顔だった。きっと今ごろとっくに来て、花京院の帰りを待っているに違いない。今の花京院にとって、あの少年と過ごす時間は何よりも楽しくて、大切なものになっていた。仮に自分に恋人と呼べるような相手ができてしまったら、今みたいに承太郎と遊ぶ時間がなくなってしまうかもしれない。それは考えられないことだった。
「すまないが……気持ちだけ、受け取らせていただくよ」
そう言うと、彼女は少し泣きそうな顔をしながらも「じゃあ、せめてチョコだけでも」と言って、笑顔を見せた。
*
帰宅すると、やはり承太郎はすでに遊びに来ていた。母から二階にいることを聞くと、すぐに部屋へあがる。
「いらっしゃい、承太郎くん」
承太郎は花京院の部屋で、ベッドの縁に腰かけて本を読んでいた。床に投げ出された黒いランドセルと、黄色い通学帽にふっと笑って、花京院はその隣に歩み寄ると腰かけた。
「なにを読んでいるんだい?」
鞄と、さっき受け取ったチョコレートの箱を足元に置きながら、問いかける。おそらく学校の図書室から借りてきたと思しき児童書。よくこうして一緒に本を読むこともあるから、ごく自然な動作で覗き込む。けれど承太郎はなにも答えず、花京院から隠すように本を閉じて、脇に放り投げてしまった。
(あれ?)
背けられた顔に、きょとんとする。最近は顔を合わせれば笑顔を見せてくれるようになっていたはずが、なぜか承太郎は不機嫌そうに顔を顰めて、なにも言おうとしない。
「承太郎くん、どうかした?」
問いかけても、返答は得られなかった。花京院は首を傾げ、何か彼の気に障るようなことをしてしまっただろうかと、思案する。しかし、これといって思い当たるものはなかった。なんと声をかけるべきか迷っていると、沈黙を経てようやく承太郎が口を開いた。
「花京院、そこに座れ」
「え? あ、はい」
小さな手が床を指さすので、花京院は戸惑いながらもベッドから下り、正座をして正面から承太郎を見上げる。彼は眉間に皺を寄せ、ぽってりとした唇をへの字に曲げていた。
「だれだ、あのアマ」
「あま?」
不思議そうに瞬きをして見せる花京院に、承太郎は眉間の皺をいっそう深くしながら睨み付けてくる。もしや、と、花京院は思った。
「君が言うアマっていうのは、ひょっとしてさっきの子のことを言っているのか?」
つい先ほど、道端で花京院に告白をしてきた一年の女子生徒。もしかして、承太郎はどこかであの光景を見ていたのだろうか。すると案の定、彼は「そうだ」と言った。
「てめーがなかなか帰ってこねえから、わざわざむかえに行ってやったのに」
承太郎は忌々しげに、足元に置かれた赤い箱を横目で睨み付ける。花京院は指先で頬を掻きながら苦笑した。
「そうだったのか。あれは、ほら……バレンタインだからね、今日は」
それよりも、迎えに来てくれていたのなら、どうして声もかけずに先に戻ってしまったのだろう。しかも承太郎がこうして不機嫌でいる理由も、さっぱり分からなかった。彼はさらにムッとした表情で、ベッドの縁から立ちあがった。
「あのアマと、こいびとになるのか」
「はあ?」
思わず素っ頓狂な声をあげた。承太郎は幼いながらに迫力のある凄んだ表情で、威圧感たっぷりに見下ろしてくる。
恋人もなにも、花京院はあの女子生徒からの告白を、きっぱりと断ったのだ。いま目の前にいる少年との時間を、何よりも優先させるために。しかしそれを言おうと口を開きかけるよりも先に、承太郎が言った。
「召使いのくせに、なまいきだぜ」
冷やかな視線と共に降ってきた台詞に、流石の花京院も少しばかり腹が立った。
「そ、そんな言い方ってないだろ? それに、いつまでも人を召使い呼ばわりするなんて」
「くちごたえすんな!」
承太郎は顔を赤らめ、肩を怒らせながら声を張り上げた。
「おれの言うことなんでもきくって、はじめに約束したはずだぜ。じゃなきゃ、おまえがここでしてたこと、ぜんぶバラす。母さんにも、おばさんにも!」
「ッ!」
思わずぐっと喉を詰まらせる。承太郎はおそらく、あのとき花京院がしていた行為の意味なんか知らないはずだ。けれどあれは、決して人の目に触れていい行いではなかった。今でも思いだすだけで死んでしまいたくなるから、なるべく考えないようにしていたのに。
みるみるうちに顔を青くする花京院に、気持ちが治まらない様子の承太郎は、なおも言った。
「おしおきだぜ、花京院」
「お、お仕置き、って……?」
無意識に声を震わせ、おずおずと視線をあげる。小さな身体で仁王立ちする少年は、大きなエメラルドの瞳を猫のように細めた。
「あのときしてたこと、今ここでやって見せな」
「……は?」
言っている意味が、わからなかった。
「ちんちんだして、やって見せろって言ってんだぜ」
「なッ……!?」
本気で言っているのだろうか。今ここで、承太郎がいる目の前で、自慰をして見せろなんて。花京院は大きく目を見開いたまま、身動きひとつすることができなかった。承太郎は蒼白な顔で肩を震わせる花京院に向かって「はやくしろ」と苛立った声で命じてくる。
(嘘だろ……そんなこと、できるわけ……)
自分よりもずっと小さな存在が、やけに恐ろしく感じられた。それは自分たちの関係が、どこまで行っても主と召使いでしかないことを知らしめているようで、ショックを受ける。
けれどここで言うことを聞かなければ、この少年は本当に誰かにあのことを言ってしまうかもしれない。母にも、ホリィにも。そんなことになったら、きっともう生きていけない。
有無を言わさぬ圧力をかけてくる承太郎に、花京院は下唇を噛み締めながら、震える指先をベルトにかける。
(ちゃんと、しないと……)
全部、バラされてしまう。だけど。
(……できない。できるわけ、ない)
花京院はそのまま、指先ひとつ動かすことができなかった。悲しいという気持ちが、胸いっぱいに溢れだす。
考えてもみてほしい。承太郎より十も長く生きているとはいえ、花京院だって、まだたったの一七歳の、未完成な少年でしかないのだ。
「ッ、ぅ」
気がついたときには、目尻から涙が溢れて頬を伝い落ちていた。何もかもが限界だ。あんな恥ずかしい場面を見られてしまったことも、それをネタに脅されることも。花京院にはもう、受け止められなくなってしまった。承太郎が、ハッと息を飲む音が聞こえる。
「お、おい……花京院?」
「どうして、こんな酷いことを……せっかく、せっかく」
仲良くなれたと思ったのに。少し我儘なところはあるけれど、優しくて可愛い、本当の弟のようだと思っていたのに。承太郎にとって花京院は、ただ自分のためだけに動く駒でしかなかったのだ。もしかしたら、それが何よりもショックで、辛いことだったかもしれない。
手の甲でしきりに涙を拭いながら、何度も肩を跳ねさせてしくしくと泣く花京院に、承太郎は驚きを隠せない様子だった。彼にしてみれば、花京院は自分よりもずっと大人で、そんな相手が子供のように泣いている姿は、あまりにも衝撃的なものだったに違いない。彼はわなわなと小刻みに震えだし、やがて見開いていた瞳を潤ませた。大粒の涙が溢れだし、花京院よりもずっと大きく、しゃくりを上げはじめる。
「うっ、うぅ……ふえ……」
「なん、で、なんで、承太郎くんが、泣くんだよぉ」
「だ、て、だって……泣くから、花京院が、泣くからぁ」
「承太郎くん、が、酷いことばっかり、言う、からッ」
ついに承太郎が声をあげて泣きだした。
「うわぁぁん! 花京院のバカ! バカやろおッ! なんで泣くんだよぉ、なんで、泣いちゃうんだよぉ!」
承太郎は口を大きく開けて、天井を見上げるようにして泣いている。よく見ると片方の八重歯が抜けて、小さな永久歯が顔を覗かせていた。花京院はそれを見て、なんて可愛いんだろうと思った。可愛くて、だけど悲しくて、なぜかもっともっと、涙がでてくる。花京院は混乱していた。承太郎も、混乱していた。
「う、うぅッ、ひ、ひっく、泣くなよ、泣くなってば、かきょ、花京院、泣いたら、ひっ、く、うえぇ」
「ぼくだって、うぅ、ヒック、承太郎くん、ぼくだって……泣かせたく、なんか、う、うう、ぅッ」
わっ、と、ふたりして声をあげて泣いた。なにがなんだか、もうさっぱり訳が分からないまま。
*
枕元を照らす暖色系のライトが、緩やかな波型の線を描く煙を、室内に浮き上がらせていた。
「君って、好きな子はイジメたいタイプだったんだなあ」
花京院は裸体を俯せに横たえ、シーツの海に溺れながら気だるげに前髪を掻き上げた。散々啼かされた後だけに、声が少しばかり掠れている。
「なんだよ急に」
ベッドの背もたれに背を預け、片足を立てている男もまた、一糸纏わぬ姿をしていた。なだらかに隆起する逞しい筋肉が、頼りない照明にくっきりと影を刻んで、嫌味なほど美しく浮きあがって見える。
「思いだしていたんだよ。君が小学生だった頃のことをさ」
ふっと笑った肉厚な唇から、煙草の煙が吐きだされた。その大人びた仕草に、思わずドキリとさせられる。
(あれから十年、か)
その歳月は花京院を二十七歳という、いい歳をした大人の男に変えていた。大学を出て、それなりに名の知れた企業に勤め、仕事に追われながらも充実した日々を送っている。
花京院は怠い身を起こし、承太郎の肩にもたれながら、長い指に挟まれた吸いかけの煙草を取り上げた。
「あんなに小さかった君が、今では立派な高校生だ。来年の春には大学生になる。とはいえ、まだこんなものを吸っていい歳じゃあないがね」
腕を伸ばし、サイドテーブルの上に置かれた灰皿に、煙草を押し付ける。承太郎は少年らしい丸みを失った頬で小さく笑うと、低い声で「やれやれ」と言った。
「おれもいっぱいいっぱいだったんだぜ。大好きな典明お兄ちゃんを独り占めしたくてよ」
「ノォホホ! その大きななりと低い声で言われてもなあ」
つい可笑しくて肩を震わせながら笑うと、身体の奥のあらぬ場所に違和感を覚えた。さっきまで承太郎の熱を咥え込んでいたそこは、その味を忘れられずに熱を持ったままだった。
「ぼくらはすっかり爛れてしまったみたいだ」
「これでも純愛を貫き通してるつもりなんだぜ」
「素っ裸でよく言うよ」
最初は信じられなかった。承太郎が、高校生だった花京院にそんな感情を抱いていたなんて。
「初恋なんてよ、あの頃はそんな自覚なんかなかったぜ。ただてめーの気を引きたくて、必死だった」
今でもよく覚えている。バレンタインにヤキモチを妬いた承太郎と、ふたりでバカみたいに泣き喚いた、あの時のこと。
「ぼくは小学生の男の子に、まんまと振り回されていたというわけだ。まさか君が、ぼくに恋をしていたなんてなあ」
「第一印象から決めてたぜ」
「ぼくは弟のように思っていたよ」
「それが今では?」
承太郎の長い腕が、花京院の肩を抱いて引き寄せる。花京院は答えの代わりに、その頬に音を立ててキスをした。
高校二年生までは順調に伸びていたはずの身長がパタリと止まり、承太郎にすっかり越されてしまったのは、いつだったろう。その頃に気持ちを打ち明けられて、ずっと頑なに拒んでいたはずが、気づいたら絆されたように恋に落ちていた。
今はなんの疑問も抱くことなく、この腕に全てを委ねてしまっている。主と召使いの関係から、恋人同士に。
「花京院」
低い声に名前を呼ばれると、あの少女のように甲高かった幼い声が、記憶の中で輪郭を失くす。大きくてまん丸だった瞳も、リンゴのようだった赤い頬も。可愛くてどうしようもなかったはずなのに、今はその面影だけを残して、花京院の胸を熱く焦がすものへと、変わってしまった。
花京院が微笑みながらその首に腕を回すと、逞しい両腕が腰に回って抱き返される。あんなに小さな身体だったはずなのに、今ではこうしてしがみつくのがやっとだった。
(とても不思議な気分だ。だけど)
あの頃となにひとつ変わらないものもまた、花京院の中には確かに存在している。それは。
「ずっと君が一番だよ、承太郎。今も、昔も」
深く唇を重ね合わせながら。冬空のした、柿の木の根元で生えかけの歯を覗かせた小さな王様が、笑顔で手を振る姿が見えたような気がした。
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あれはまだ小学校に上がる前だったから、花京院が五つかそこらの頃だ。親戚夫婦が生まれたばかりの乳児を抱いて、家に遊びにやってきた。
その子は母親の腕の中で、静かな寝息をたてていた。桜色の肌がお餅のように柔らかそうで、ふんわりとした甘いミルクの匂いがしたのを覚えている。
触ってもいいと言われ、花京院はドキドキと胸を跳ねさせながら、その小さな生き物に幼い指先を伸ばしてみた。恐る恐る、起こさないように、優しく、優しく。丸い頬に、そっと。けれど触れる寸前、目を覚ました赤ん坊が、急にぐずりはじめてしまった。
その顔はみるみるうちに真っ赤になった。鼻の頭に皺を寄せ、いよいよ甲高い声をあげて泣きだしてしまう。花京院はその光景にショックを受けて、石のように固まって動けなくなった。
赤ちゃんが泣いてしまったのは、ぼくがほっぺたに触ろうとしたからだ。せっかく気持ちよく眠っていたのに、邪魔をしようとしたから。きっと嫌われてしまったのだと、そう思うと怖くて悲しくて、とても悪いことをしてしまったのだと感じた。
以来、花京院は自分よりも小さな子供と触れ合うことに、どうしても不安を覚えるようになってしまった。決して忘れられない、心の傷が残ってしまったのだ。
*
(ああ、またホリィさんがいらしてるのか)
十二月の初め頃。学校から帰宅すると、廊下の向こうから賑やかな笑い声が聞こえてきた。玄関には母のものとは異なる女性用の靴があり、その横には、小学生くらいの男児用スニーカーも置かれている。綺麗に揃えられた二足の靴を見て、花京院はひとつ、重たい溜息を漏らした。
ホリィとは半年ほど前、母が通い始めた料理教室で知り合ったという女性の名だ。今では頻繁に互いの家を行き来してお茶を飲むほど、親しい間柄になっている。アメリカ人だが流暢な日本語を話し、朗らかによく笑う可愛らしい人だった。
ホリィには承太郎という名の、小学二年生の息子がいた。目鼻立ちが息を飲むほど整った、エメラルドの大きな瞳を持つ美少年だ。物静かで行儀のいい承太郎のことを、母がえらく気に入っていて、よくホリィに連れられて家へ遊びにやってくるのだが。
(ホリィさんだけなら、大歓迎なんだけどな)
子供はどうしても苦手だ。幼い頃のトラウマは、高校生になった今でも薄れることなく、花京院の中に爪痕を残していた。
失礼だとは思うが、今は顔を出さずに部屋へあがることにして、帰宅するタイミングを見計らって軽く挨拶をしよう。そうと決めてしまうと、花京院は足音を立てないよう、静かに自室がある二階への階段をのぼった。
*
自室に入ると、机に置いた鞄の中から教科書やノートを取り出す。ホリィたちが帰るまではまだ時間もあるだろうし、軽く明日の予習でもしようと考えたからだ。すると一緒くたになって一冊の雑誌が飛び出し、絨毯張りの床に落下した。
「あ」
花京院は小さく声をあげ、それから辟易とした息を漏らした。表紙がよれよれになっているそれは、いわゆるエロ雑誌というものだ。もちろん、花京院の所有物ではない。クラスの男子たちが回し読みしたものを、たまたま近くの席にいたというだけで、強引に押し付けられてしまったのだ。
正直、花京院はこの手のものに、あまり興味がなかった。手に取ろうと思ったことすらない。ましてや複数の男子生徒が回し読みをしたものなんて、不潔に思えて触れることすら躊躇われる。
しかし放置しておくこともできず、花京院は溜息をつきながら雑誌を拾った。見たくもない表紙が、嫌でも目につく。そこには水着姿の女性が、尻を突きだすようにしながら座り込んでいる姿が写っていた。
「うわ」
思わず顔を赤らめ、慌てて目を逸らす。こんなものは目の毒だ。破廉恥すぎる。だいたい、まだ十七歳の高校生が見ていいものではない。男子って最低。よく女子が口にする言葉の中に、自分が含まれているかもしれないと思うだけで、嫌な気分だ。
(早く捨てよう。こんなもの)
けれどその内心の声とは裏腹に、花京院は横目でチラリと、再びいかがわしい表紙を視界に入れる。なぜかさっきからずっと顔が熱かった。心臓もドキドキと高鳴っているし、落ち着かない気分だ。ダメだダメだと思いつつ、そのままパラパラと雑誌をめくってみる。が、すぐにいたたまれなくなって目を逸らし、机に放り投げた。やっぱり無理だ。こんなもの、自分にはまだ早すぎる。
けれど十七歳の身体は、肌色成分に対してあまりにも純粋で、あまりにも素直な構造になっていた。
「ッ……!?」
気がつくと、身体の中心に違和感を覚えていた。やけに熱くて、窮屈だ。花京院は自分の身体に起こった変化に青褪め、それから、茹蛸のように真っ赤になった。
(ど、どうしよう……なんてことだ……)
呆然とした顔で、ベッドの縁に腰を沈める。身体を丸めるようにしながら頭を抱えた。
自慰の経験は、ほとんどない。普段、あまりしたいとも思わなかった。なのに今はこの有様で、花京院は焦りを覚えながらも、怖々と自分の股間に指先を這わせた。
どうせこの部屋には、自分一人だ。こんな状態でいるよりは、事務的にでもさっさと鎮めてしまった方がいいに決まっている。自分に言い訳をしながら、ベルトを緩めて前を寛げた。必要最低限、触れる機会のない熱の塊を取り出して、そっと握り込んでみる。
「ッ、ぁ」
慣れない感覚が、そこからじわりと這い上がる。おかしな声が漏れてしまう唇を片手の甲で塞ぎ、顔を背けながら目を閉じた。ぎこちない手つきで、自身を慰める。
「んっく、ふ……ぁッ」
頭がぼうっとして、息があがる。これが快感であるかどうかの判断はまるでつかなかった。けれど、やけに熱くて甘い痺れがじんわりと這い上がって、溢れでてくる。
(ああ、ぼくはなんてはしたない真似を……)
意識の片隅で自分を責める。これはとても悪いことだと。性器からは先走りの密が滲みはじめ、鈍い水音まで響きだすと、いよいよ罪悪感から涙が滲んだ。
(下にはお客さんがいるっていうのに!)
こんなのは自分じゃない。早く。早く、終わらせないと。
声がしたのは、そのときだった――。
「なにやってんの?」
「ッ?」
瞬間、花京院は竿を握りしめたまま、ピタリと凍り付いた。
(……へ?)
声。気のせいだろうか。いま、確かに誰かの声が……。
「なあってば、聞いてんの?」
ギ、ギ、ギ、と、錆びたネジを回すように首を動かし、声のした方へ視線を巡らせる。そこにはベッドの下から俯せた上半身を覗かせ、頬杖をついた子供が、こちらを見上げる姿があった――。
「う、うわあああああッ!?」
花京院は咄嗟に悲鳴をあげていた。頭から水を浴びたような感覚に、当然、熱は冷めて萎んでしまう。一瞬でベッドの端まで移動して、壁に身を寄せる花京院を、下から這い出した少年のつぶらな瞳が、不思議そうに見つめていた。
「な、なんっ、なんでッ、き、きみ、ここ、ここにッ!?」
あまりの出来事に、上手く言葉が出ない。なぜここに彼が――承太郎がいるのだろう。一体いつから、見ていたのだろうか。頭の中はすっかりパニックを起こしていた。彼は青いパーカーにジーンズ姿で、ベッドの縁を両手で掴み、シーツにちょこんと顎を乗せながら口を開いた。
「おばさんが、ヒマなら上の部屋で遊んでていいって」
「おばっ、お、おばさ、か、母さん、が?」
「うん。だから、かくれんぼして遊んでたんだぜ」
まだ少女のような高い声が、平然と言う。なら承太郎は、最初からこの部屋の、ベッドの下に潜んでいたということか。
花京院はショックのあまり青褪めて、ただ身体を震わせるしかできなかった。よりにもよって、なんて姿を見られてしまったのだろう。穴があったら入りたい。いっそのこと消えてしまえたら、どんなにいいか。
承太郎がベッドの上によじ登ってきた。思わず横向きに身体を丸め、これでもかというほど壁に身を寄せる花京院の目の前に、ぺたりと座る。小学二年生というだけあって、小さな身体だと思った。驚くほど長い睫毛がくるんとカールして、宝石のような丸い瞳が、星のように瞬いている。
「今の、もしかしてすごくワルイこと?」
「ッ……!」
「ちんちんさわって、ヘンなこえ出してた」
「いいい、言わないでッ! 頼むから、いま見たことは誰にも言わないでくれッ!!」
思わず頭を抱え、叫んでいた。どっと汗を噴きだし、すっかり小さく丸まってしまった花京院を見て、承太郎は「ふぅん」と微かに唸る。そしてすぐに「いいよ」と言った。
「ほ、本当に!?」
承太郎は頷き、それからにんまりと意地の悪そうな笑顔を浮かべた。とてつもなく嫌な感じがする。花京院は目を見張り、緊張から喉を鳴らして承太郎を見た。彼は胡坐をかき、腕を組むと、まるで見下すように顎を突きだして踏ん反り返った。そして、こう言ったのだ。
「おれのいうことをなんでもきく、召使いになるって約束するならな」
*
悪夢の一件から、一ヶ月ほどが経過した。
その間、花京院は承太郎の召使いとしての生活を、余儀なくされていた。
馬になれと言われれば四つん這いになり、背中に乗られながらひたすら部屋中を這いつくばる。手綱代わりに髪を引っ張られることもあったし、お菓子やジュースを買いに行けと言われれば、大急ぎで近所のコンビニやスーパーに駆けこまなくてはならなかった。それはもちろん花京院のポケットマネーから出す決まりになっていて、回を重ねるごとに財布事情が圧迫される。おかげで、子供の頃からコツコツと貯めてきたお年玉などの貯金を、切り崩す羽目になっていた。
承太郎はホリィ抜きでも家に遊びに来るようになったし、花京院を自宅に呼びつけるようにもなった。平日も休日もお構いなしに駆り出され、時には宿題までやらされる。少しでも嫌な顔すると、すぐに「あのことバラすぜ」なんて冷やかな目で言われ、その度に花京院はゾッと青褪めた。
腹が立つのは、承太郎の二重人格ともいえる態度だ。花京院の母や、ホリィの前では絵に描いたように素直で従順なふるまいを見せるし、笑顔は天使そのものだった。それに比べて、花京院にはぶっきらぼうで偉そうな態度しか見せない。正直、憎たらしくて仕方がなかった。
一体いつまでこんな日々が続くのだろう。小学生に脅され、いいように顎で使われているなんて。ただでさえ子供は苦手で、関わり合いを持つのは嫌だというのに。
*
その日も学校から帰宅すると、母から承太郎が遊びに来ていることを告げられた。げんなりする息子を他所に、母はウキウキとした様子で「裏庭で遊んでると思うわ」と言い、お茶とお菓子の準備をしていた。
花京院は嫌々ながらも、その足で裏庭へ向かった。すると寒空のしたで、承太郎が柿の木にしがみつきながら、頭上を見上げる姿があった。
「承太郎くん、こんにちは」
黒いダッフルコートに青いマフラーをして、すっかり着ぶくれしている承太郎は、花京院の声にハッとして振り向いた。
「おそいぞ、花京院」
ムッとした顔で睨み上げてくる少年に、花京院は「はいはい申し訳ありませんでした」と言いながら、溜息を漏らす。母親たちの前では「典明お兄ちゃん」なのに、ふたりきりになるとこれである。
「それよりどうしたんだい、熱心に柿の木なんて見上げて」
庭の片隅にある柿の木は、花京院の祖父が子供の頃に植えたというもので、それは大きくて立派なものだった。毎年、秋になるとたわわに果実を実らせるが、真冬の今となっては裸ん坊で、葉っぱひとつない寂しいものだった。承太郎が難しい顔をして、幹にしがみついたまま天辺を見上げるので、花京院もその視線を追いかける。するとそこには――。
「あれは……子猫?」
黒くて小さな塊が、そこから動けず枝にしがみついているのが見える。ミィミィという不安そうな鳴き声が聞こえた。
「あいつ、おりられなくてさっきから泣いてる。すぐに助けてやらないと……」
真冬の冷たい風が吹く度に、子猫は不安定に揺れる枝に小さな爪を立てて震えていた。
「ちょっと待ってて。いま物置から脚立を」
「あッ! おちるッ!!」
承太郎が真っ青な顔をして、大きな声を上げる。子猫が枝から後ろ足を滑らせ、宙づりの状態になっていた。これでは落下するのも時間の問題だ。
花京院の家の裏側は、ちょうど細長く続くコンクリート水路の堀に面している。子猫がぶら下がっている枝は、運悪く掘り側に張り出している部分に近かった。
「承太郎くん、危ないから下がってて」
「で、でも」
「いいから!」
危険だが、一刻を争う事態にのんびりとはしていられない。花京院は承太郎がおずおずと後退していくのを横目に、柿の木に手をかけ、大きく枝分かれしている部分に足をかけた。何度か強度を確かめて、素早く一気によじ登っていく。承太郎が両手を胸元で握りしめながら、不安そうに見守っていた。
「大丈夫だよ、ほら、いい子だね」
花京院はある程度の位置まで登ると、ぶら下がって甲高い声を上げる子猫に片手を伸ばした。暴れられたら終わりだと思ったが、子猫は大人しくその丸々とした腹を、花京院の掌に掴ませる。枝から剥がすようにして、胸に引き寄せた。しかしホッとしたのも束の間、次の瞬間。
「ッ……!」
「花京院ッ!!」
足を引っかけていた枝が、体重に耐えきれなくなって派手に折れてしまった。承太郎が悲鳴じみた声を張り上げて、花京院を呼ぶ。それを遠くに聞きながら、子猫を抱いたまま一気に飛び降りて、着地した。
「ふぅ、危なかった」
一瞬ヒヤリとしたが、子猫も自分も無事だった。青い顔をしたまま立ち尽くしている承太郎にふと笑いかけ、傍に歩み寄ると子猫を差し出す。
「ほら、もう平気だよ」
承太郎の腕に抱かれると、子猫は大きな金色の瞳で小首を傾げ「ミィ」と可愛らしい声でひと鳴きした。
「柿の木は、枝が脆くてとても折れやすいんだ。だからこういうときは、自分でなんとかしようとしないで、必ず誰か大人の人を呼ばなくちゃあいけないよ」
承太郎はおそらく、あのまま花京院が来なかったら、自分で木に登るつもりだった。運よく間に合ったからいいものの、あと少し遅ければ、子猫と一緒に堀に落ちていたかもしれない。そんな承太郎は柿の木の脆さを初めて知ったようで、青褪めていた顔を真っ白にしながら、小さく震えだした。
「ケガ、は」
「ん?」
「ケガは……?」
「ああ、大丈夫。ほら、子猫なら」
「ちがう。こねこじゃなくて」
「……え? ぼく?」
承太郎は両手で子猫を抱きしめながら、こくりと頷いた。その表情を見て、花京院は驚きに目を見開く。大きなエメラルドの瞳が、みるみるうちに透明な膜に覆われ、雫が目尻に溜まっていった。薄紅の下唇が噛み締められるのを見て、心臓がドキリと跳ねる。子猫が鳴いた。幼い頃に聞いた赤ん坊の泣き声が、その声と重なって焦りと不安が込み上げる。
「じょ、承太郎くん」
花京院は思わず承太郎の頬に手を伸ばした。指先があと少しで触れるというところで、戸惑う。あの赤ん坊は、自分が触れようとしたら泣いてしまった。だけどこの子は、いま自分が触れなければ、泣いてしまう。
(本当はこんなに、優しい子だったんだ)
てっきり嫌われているものとばかり思っていた。猫かぶりで、生意気な子供だと。けれどこの少年は今、一歩間違えれば怪我をしていたかもしれない花京院のために、こんなにもか細く身を震わせている。
雫が零れ落ちる寸前、花京院は人差し指の甲でその目尻を拭った。さらに膝をつき、向かい合うと真っ赤になった頬を両手で包み、親指で何度も何度も目尻を拭う。
(触れた)
承太郎は花京院の手を拒まなかった。すんと鼻を鳴らして、濡れた瞳で真っ直ぐに見つめてくる。あのときも、こんなふうに触れたかったのだ。自分よりも小さな存在に、ただ愛しさを覚えただけだった。泣かせたくなんか、なかった。
(……可愛い)
純粋に、そう思った。掌に感じる高い体温に、胸が締め付けられる。赤くなった頬がリンゴのようで、餅のようにすべすべとして、柔らかかった。
「ぼくも平気さ。どこもケガなんかしてない」
「……ほんとに?」
承太郎の涙が引いていくのと一緒に、花京院の中にあり続けた氷柱のようなトラウマが、少しずつ溶けていく。自然と綻ぶような笑顔が浮かんで、瞬きと一緒に頷いて見せた。
「ほんとに。嘘なんかつかないよ。だから泣かないで」
そう言うと、承太郎は赤かった頬をさらに赤くして、ムッとした表情を浮かべ「泣いてない」と強がった。それがまたどうしようもなく可愛らしく思えて、花京院はついクスリと笑ってしまう。承太郎が、いよいよ耳まで赤くなった。
「め、召使いのくせに、なまいきだぞ!」
「ノォホホ、ごめんよご主人様」
そのとき、ずっと承太郎の腕に抱かれていた子猫が、勢いよく飛び出して地面に着地した。あ、と揃って声をあげるふたりを振り向きもせずに、どこかへ走り去ってしまう。
「ねこ、迷子にならない?」
承太郎が、不安そうにその方向を見つめる。
「大丈夫。きっとお母さん猫のところへ帰ったんだよ」
花京院の言葉に、承太郎は「そっか」と呟きながら、ホッとしたように白い息を漏らした。
「さあ、ぼくらも家に戻ろう。風邪をひかないうちに」
そう言って立ちあがり、ごく自然に差し出した手に、承太郎の小さくて温かな手が触れた。そっと握りしめてやりながら、花京院は自分でも驚くほど優しい気持ちになっていることに気がついた。なんとなく、これからこの少年とはもっと仲良くなれるような、そんな予感に胸を弾ませながら。
*
二月ももうじき中旬というころ、花京院と承太郎の関係は大きく変化を遂げていた。
きっかけは、やはりあの柿の木と子猫の一件だった。あれ以来、承太郎は花京院に対して無邪気で明るい笑顔を見せるようになった。馬にされることはあっても髪は引っ張られないし、威張り散らしたような態度もなりを潜め、脅迫されることもなくなった。
一緒にゲームをして遊んだり、相撲中継を見たり、肩を並べて宿題をしたり。以前はパシリのような扱いを受けていたが、最近ではスーパーやコンビニに、手を繋いで一緒に買い物に行くようにもなった。
そんなふたりの姿を見て、あるときホリィは嬉しそうに、こんなことを言った。
『花京院くんが一緒に遊んでくれるようになって、承太郎ったら毎日とっても楽しそうなの。きっとお兄ちゃんができたみたいで、嬉しいのね』
それを聞いて、確かに兄弟がいたらこんな感じ、なのかもしれないと思った。少し歳の離れた、小さな弟。するとなんだかいっそう承太郎が可愛く思えてきて、前は嫌々だった時間が、日々の楽しみになっていった。全ての始まりである、あの悪夢のような出来事が、まるで夢だったかのように感じられるほど。
*
そんなある日。事件はバレンタインデーに起こった。
「好きです! 付き合ってください!」
学校帰りの道の途中、花京院は顔も知らない女子生徒に呼び止められ、告白を受けていた。
「え?」
あまりにも突然のことに、思わず目を丸くする。差し出されている、赤い包装紙にピンク色のリボンがかけられた箱と、女子生徒の顔を交互に見た。
「ずっと好きだったんです、先輩のこと」
彼女は耳まで赤くして、俯きながら言った。先輩、というワードから、一年生であることが知れる。
困ったな、と、花京院は思った。女子から告白されるのは、本日これが三度目だ。もちろん嬉しいとは思うし、光栄だとも思う。けれどその気もないのに付き合うなんて、そんな無責任で軽率な真似ができるはずもなく、前の二人も当然、丁重にお断りした。元から色恋への関心が薄い、ということもあるのだが……。
(承太郎くん、今日も学校帰りに遊びに来るんだったな)
真っ先に浮かぶのは、承太郎の顔だった。きっと今ごろとっくに来て、花京院の帰りを待っているに違いない。今の花京院にとって、あの少年と過ごす時間は何よりも楽しくて、大切なものになっていた。仮に自分に恋人と呼べるような相手ができてしまったら、今みたいに承太郎と遊ぶ時間がなくなってしまうかもしれない。それは考えられないことだった。
「すまないが……気持ちだけ、受け取らせていただくよ」
そう言うと、彼女は少し泣きそうな顔をしながらも「じゃあ、せめてチョコだけでも」と言って、笑顔を見せた。
*
帰宅すると、やはり承太郎はすでに遊びに来ていた。母から二階にいることを聞くと、すぐに部屋へあがる。
「いらっしゃい、承太郎くん」
承太郎は花京院の部屋で、ベッドの縁に腰かけて本を読んでいた。床に投げ出された黒いランドセルと、黄色い通学帽にふっと笑って、花京院はその隣に歩み寄ると腰かけた。
「なにを読んでいるんだい?」
鞄と、さっき受け取ったチョコレートの箱を足元に置きながら、問いかける。おそらく学校の図書室から借りてきたと思しき児童書。よくこうして一緒に本を読むこともあるから、ごく自然な動作で覗き込む。けれど承太郎はなにも答えず、花京院から隠すように本を閉じて、脇に放り投げてしまった。
(あれ?)
背けられた顔に、きょとんとする。最近は顔を合わせれば笑顔を見せてくれるようになっていたはずが、なぜか承太郎は不機嫌そうに顔を顰めて、なにも言おうとしない。
「承太郎くん、どうかした?」
問いかけても、返答は得られなかった。花京院は首を傾げ、何か彼の気に障るようなことをしてしまっただろうかと、思案する。しかし、これといって思い当たるものはなかった。なんと声をかけるべきか迷っていると、沈黙を経てようやく承太郎が口を開いた。
「花京院、そこに座れ」
「え? あ、はい」
小さな手が床を指さすので、花京院は戸惑いながらもベッドから下り、正座をして正面から承太郎を見上げる。彼は眉間に皺を寄せ、ぽってりとした唇をへの字に曲げていた。
「だれだ、あのアマ」
「あま?」
不思議そうに瞬きをして見せる花京院に、承太郎は眉間の皺をいっそう深くしながら睨み付けてくる。もしや、と、花京院は思った。
「君が言うアマっていうのは、ひょっとしてさっきの子のことを言っているのか?」
つい先ほど、道端で花京院に告白をしてきた一年の女子生徒。もしかして、承太郎はどこかであの光景を見ていたのだろうか。すると案の定、彼は「そうだ」と言った。
「てめーがなかなか帰ってこねえから、わざわざむかえに行ってやったのに」
承太郎は忌々しげに、足元に置かれた赤い箱を横目で睨み付ける。花京院は指先で頬を掻きながら苦笑した。
「そうだったのか。あれは、ほら……バレンタインだからね、今日は」
それよりも、迎えに来てくれていたのなら、どうして声もかけずに先に戻ってしまったのだろう。しかも承太郎がこうして不機嫌でいる理由も、さっぱり分からなかった。彼はさらにムッとした表情で、ベッドの縁から立ちあがった。
「あのアマと、こいびとになるのか」
「はあ?」
思わず素っ頓狂な声をあげた。承太郎は幼いながらに迫力のある凄んだ表情で、威圧感たっぷりに見下ろしてくる。
恋人もなにも、花京院はあの女子生徒からの告白を、きっぱりと断ったのだ。いま目の前にいる少年との時間を、何よりも優先させるために。しかしそれを言おうと口を開きかけるよりも先に、承太郎が言った。
「召使いのくせに、なまいきだぜ」
冷やかな視線と共に降ってきた台詞に、流石の花京院も少しばかり腹が立った。
「そ、そんな言い方ってないだろ? それに、いつまでも人を召使い呼ばわりするなんて」
「くちごたえすんな!」
承太郎は顔を赤らめ、肩を怒らせながら声を張り上げた。
「おれの言うことなんでもきくって、はじめに約束したはずだぜ。じゃなきゃ、おまえがここでしてたこと、ぜんぶバラす。母さんにも、おばさんにも!」
「ッ!」
思わずぐっと喉を詰まらせる。承太郎はおそらく、あのとき花京院がしていた行為の意味なんか知らないはずだ。けれどあれは、決して人の目に触れていい行いではなかった。今でも思いだすだけで死んでしまいたくなるから、なるべく考えないようにしていたのに。
みるみるうちに顔を青くする花京院に、気持ちが治まらない様子の承太郎は、なおも言った。
「おしおきだぜ、花京院」
「お、お仕置き、って……?」
無意識に声を震わせ、おずおずと視線をあげる。小さな身体で仁王立ちする少年は、大きなエメラルドの瞳を猫のように細めた。
「あのときしてたこと、今ここでやって見せな」
「……は?」
言っている意味が、わからなかった。
「ちんちんだして、やって見せろって言ってんだぜ」
「なッ……!?」
本気で言っているのだろうか。今ここで、承太郎がいる目の前で、自慰をして見せろなんて。花京院は大きく目を見開いたまま、身動きひとつすることができなかった。承太郎は蒼白な顔で肩を震わせる花京院に向かって「はやくしろ」と苛立った声で命じてくる。
(嘘だろ……そんなこと、できるわけ……)
自分よりもずっと小さな存在が、やけに恐ろしく感じられた。それは自分たちの関係が、どこまで行っても主と召使いでしかないことを知らしめているようで、ショックを受ける。
けれどここで言うことを聞かなければ、この少年は本当に誰かにあのことを言ってしまうかもしれない。母にも、ホリィにも。そんなことになったら、きっともう生きていけない。
有無を言わさぬ圧力をかけてくる承太郎に、花京院は下唇を噛み締めながら、震える指先をベルトにかける。
(ちゃんと、しないと……)
全部、バラされてしまう。だけど。
(……できない。できるわけ、ない)
花京院はそのまま、指先ひとつ動かすことができなかった。悲しいという気持ちが、胸いっぱいに溢れだす。
考えてもみてほしい。承太郎より十も長く生きているとはいえ、花京院だって、まだたったの一七歳の、未完成な少年でしかないのだ。
「ッ、ぅ」
気がついたときには、目尻から涙が溢れて頬を伝い落ちていた。何もかもが限界だ。あんな恥ずかしい場面を見られてしまったことも、それをネタに脅されることも。花京院にはもう、受け止められなくなってしまった。承太郎が、ハッと息を飲む音が聞こえる。
「お、おい……花京院?」
「どうして、こんな酷いことを……せっかく、せっかく」
仲良くなれたと思ったのに。少し我儘なところはあるけれど、優しくて可愛い、本当の弟のようだと思っていたのに。承太郎にとって花京院は、ただ自分のためだけに動く駒でしかなかったのだ。もしかしたら、それが何よりもショックで、辛いことだったかもしれない。
手の甲でしきりに涙を拭いながら、何度も肩を跳ねさせてしくしくと泣く花京院に、承太郎は驚きを隠せない様子だった。彼にしてみれば、花京院は自分よりもずっと大人で、そんな相手が子供のように泣いている姿は、あまりにも衝撃的なものだったに違いない。彼はわなわなと小刻みに震えだし、やがて見開いていた瞳を潤ませた。大粒の涙が溢れだし、花京院よりもずっと大きく、しゃくりを上げはじめる。
「うっ、うぅ……ふえ……」
「なん、で、なんで、承太郎くんが、泣くんだよぉ」
「だ、て、だって……泣くから、花京院が、泣くからぁ」
「承太郎くん、が、酷いことばっかり、言う、からッ」
ついに承太郎が声をあげて泣きだした。
「うわぁぁん! 花京院のバカ! バカやろおッ! なんで泣くんだよぉ、なんで、泣いちゃうんだよぉ!」
承太郎は口を大きく開けて、天井を見上げるようにして泣いている。よく見ると片方の八重歯が抜けて、小さな永久歯が顔を覗かせていた。花京院はそれを見て、なんて可愛いんだろうと思った。可愛くて、だけど悲しくて、なぜかもっともっと、涙がでてくる。花京院は混乱していた。承太郎も、混乱していた。
「う、うぅッ、ひ、ひっく、泣くなよ、泣くなってば、かきょ、花京院、泣いたら、ひっ、く、うえぇ」
「ぼくだって、うぅ、ヒック、承太郎くん、ぼくだって……泣かせたく、なんか、う、うう、ぅッ」
わっ、と、ふたりして声をあげて泣いた。なにがなんだか、もうさっぱり訳が分からないまま。
*
枕元を照らす暖色系のライトが、緩やかな波型の線を描く煙を、室内に浮き上がらせていた。
「君って、好きな子はイジメたいタイプだったんだなあ」
花京院は裸体を俯せに横たえ、シーツの海に溺れながら気だるげに前髪を掻き上げた。散々啼かされた後だけに、声が少しばかり掠れている。
「なんだよ急に」
ベッドの背もたれに背を預け、片足を立てている男もまた、一糸纏わぬ姿をしていた。なだらかに隆起する逞しい筋肉が、頼りない照明にくっきりと影を刻んで、嫌味なほど美しく浮きあがって見える。
「思いだしていたんだよ。君が小学生だった頃のことをさ」
ふっと笑った肉厚な唇から、煙草の煙が吐きだされた。その大人びた仕草に、思わずドキリとさせられる。
(あれから十年、か)
その歳月は花京院を二十七歳という、いい歳をした大人の男に変えていた。大学を出て、それなりに名の知れた企業に勤め、仕事に追われながらも充実した日々を送っている。
花京院は怠い身を起こし、承太郎の肩にもたれながら、長い指に挟まれた吸いかけの煙草を取り上げた。
「あんなに小さかった君が、今では立派な高校生だ。来年の春には大学生になる。とはいえ、まだこんなものを吸っていい歳じゃあないがね」
腕を伸ばし、サイドテーブルの上に置かれた灰皿に、煙草を押し付ける。承太郎は少年らしい丸みを失った頬で小さく笑うと、低い声で「やれやれ」と言った。
「おれもいっぱいいっぱいだったんだぜ。大好きな典明お兄ちゃんを独り占めしたくてよ」
「ノォホホ! その大きななりと低い声で言われてもなあ」
つい可笑しくて肩を震わせながら笑うと、身体の奥のあらぬ場所に違和感を覚えた。さっきまで承太郎の熱を咥え込んでいたそこは、その味を忘れられずに熱を持ったままだった。
「ぼくらはすっかり爛れてしまったみたいだ」
「これでも純愛を貫き通してるつもりなんだぜ」
「素っ裸でよく言うよ」
最初は信じられなかった。承太郎が、高校生だった花京院にそんな感情を抱いていたなんて。
「初恋なんてよ、あの頃はそんな自覚なんかなかったぜ。ただてめーの気を引きたくて、必死だった」
今でもよく覚えている。バレンタインにヤキモチを妬いた承太郎と、ふたりでバカみたいに泣き喚いた、あの時のこと。
「ぼくは小学生の男の子に、まんまと振り回されていたというわけだ。まさか君が、ぼくに恋をしていたなんてなあ」
「第一印象から決めてたぜ」
「ぼくは弟のように思っていたよ」
「それが今では?」
承太郎の長い腕が、花京院の肩を抱いて引き寄せる。花京院は答えの代わりに、その頬に音を立ててキスをした。
高校二年生までは順調に伸びていたはずの身長がパタリと止まり、承太郎にすっかり越されてしまったのは、いつだったろう。その頃に気持ちを打ち明けられて、ずっと頑なに拒んでいたはずが、気づいたら絆されたように恋に落ちていた。
今はなんの疑問も抱くことなく、この腕に全てを委ねてしまっている。主と召使いの関係から、恋人同士に。
「花京院」
低い声に名前を呼ばれると、あの少女のように甲高かった幼い声が、記憶の中で輪郭を失くす。大きくてまん丸だった瞳も、リンゴのようだった赤い頬も。可愛くてどうしようもなかったはずなのに、今はその面影だけを残して、花京院の胸を熱く焦がすものへと、変わってしまった。
花京院が微笑みながらその首に腕を回すと、逞しい両腕が腰に回って抱き返される。あんなに小さな身体だったはずなのに、今ではこうしてしがみつくのがやっとだった。
(とても不思議な気分だ。だけど)
あの頃となにひとつ変わらないものもまた、花京院の中には確かに存在している。それは。
「ずっと君が一番だよ、承太郎。今も、昔も」
深く唇を重ね合わせながら。冬空のした、柿の木の根元で生えかけの歯を覗かせた小さな王様が、笑顔で手を振る姿が見えたような気がした。
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ゼロの地点
そこは入り口であり、出口であり、ゼロの地点。
二人はここから、もう一度、恋をやり直すためのロープを潜る。
今度こそ、大切なものを見失わないために。
「わ、やっぱり凄いねぇ」
先週の、一晩中降り続いた雨にも負けず、神木の桜は見事に咲き誇っていた。この木の花びらは随分と色が濃い。
「やっぱり神様の木だから、強いんだね」
両手を広げて桜を仰ぐファイの背で、一つに纏められた金色の髪が揺れていた。風が吹くたびに、それは散りゆく花びらと共にやわらかく踊る。
「遅咲きだったんだろ」
「じゃあやっぱり凄いよ。雨が降るのが分かってたってことでしょう?」
振り向いたファイは真新しい眼帯を左目につけていた。子供達やお客さんを驚かせてしまうからと言って、人前ではやはり隠したままでいるらしい。
ファイは神木の根元まで足を運ぶとしゃがみ込む。黒鋼もすぐ横に並んだ。
今、そこには二つの墓がある。あの雨の翌日、黒鋼が作ったもう一つの墓だった。
「チィのお墓を作ってくれて……本当にありがとう」
あの日。朝露の煌く庭で、あれほど探しても見つからなかった白い猫は見つかった。
花をつけるには当分先の、紫陽花の木の根元で彼女は眠るような表情で息を引き取っていた。
「チィはおばあちゃん猫だったから。静かな場所で眠りたかったんだね」
それは本当に、まるで勤めを終えたとでも言うかのような、安らかな顔だった。一人きりで巨大な屋敷に暮らす青年の傍らに、ずっと寄り添ってくれた優しい猫だった。
黒鋼は生きていた頃の彼女を一度も抱くことが出来なかった。けれど、心から感謝している。子猫の眠る墓の隣に、もう一つ墓を作ろうと言ったのは黒鋼だった。
「こっちの子も、もう寂しくないね」
「そうだな」
よいしょ、と言ってファイは立ち上がった。なんだか年寄りくさいと思ったが、余計なことは言わない。ファイがとんでもない癇癪持ちだということが分かったからだ。思わず笑ってしまう。
「なぁに? 思い出し笑い? いやらしいなぁ」
「うるせぇよ」
おまえのことを考えているんだと、黒鋼は口に出しては言わなかった。なぜなら、ここには今……。
「本当に変わらないよね、ここは」
しみじみと呟いたファイは、神木に手をついて額を寄せた。けれど、すぐに何かに気がついたようにハッとして、それから肩を揺らしながらクスクスと笑い出す。黒鋼も少しだけ微笑んだ。
「今言ったこと、なし。やっぱり変わっていくんだよ。色々なことがね」
ファイは気がついたのだ。静かに息を殺す、二つの幼い気配に。黒鋼は先に気がついていた。
「行こう。お昼休みが終わっちゃうから。ね?」
「ああ」
二人は並んで神木に背を向け、歩き出した。
黒鋼がすっかり背の高くなった彼に歩幅を合わせて歩く必要はもうなかった。苔の生えた、古びた石の鳥居をくぐる。ふと足を止めたファイが、一度だけ神木を振り返った。
「オレたちは、これからはただの侵入者なんだね」
懐かしそうに、愛おしそうに瞳を細める彼の横顔を、今更ながらに美しいと思った。手を伸ばし、頭の天辺にくっついている桜の花びらを指で摘みとってやる。ファイが肩を竦めて笑った。そして、再び歩き出した。
「それにしても、よく子供だけで来られたなぁ」
「てめぇがそれを言うのか?」
「それもそうか」
あのロープを潜るのには、えらく勇気が必要なのだ。今にして思えば、子供ながらによくそれを果たしたと思う。現在、自分がそう指導しているように、裏山には決して入るなと子供の頃には厳しく躾けられていた。
今やその躾を行う立場となった黒鋼であるが、どことなく気が引けてあまり偉そうに言えないのがやり辛いところだった。
「ったくあいつら……姿が見えねぇと思ったら、こんなとこにいやがったのか」
「あはは! 世代交代だねぇ、黒たん先生」
ファイがおちゃらけて笑いながら、黒鋼の背中をパンパンと叩く。黒鋼の胸は、ほんの少しだけ、チクリと痛んだ。
幼い頃を過ごした秘密の場所は、もう二人だけのものではなくなった。ファイが言ったように、大人になってしまった自分達は、もう彼らの秘密を脅かす外敵であり、聖なる領域を侵す侵入者に過ぎない。
哀愁を胸に、黙り込んだまま下り坂を進んでいた黒鋼の手に、そっと温かな手が触れた。指を絡めるようにして、ぎゅうと強く握られる。
「ガキか、てめぇは」
「いいじゃない。誰もいないんだから。キスだって出来るよ? しちゃおっか?」
「馬鹿野郎」
思い切り嫌そうな顔を作って見せながらも、黒鋼はその細い手を同じだけの強さで握った。それはもう幼く高めの体温でもなければ、柔らかくもない。骨ばった大人の男の手だった。
この手を握って、幾度この道を行き来しただろう。初めて手を引かれた日のことを思い出す。小さなファイは、転びそうになりながら息を弾ませ、黒鋼の手を強く引っ張っていた。
今はどちらが引くでもなく手と手を取り、並んで歩いている。あれほど足を縺れさせた山道も、今は全くたいしたことがなかった。
色々なものが変わってしまった。そしてこれからも変わっていくのだと思う。巡る季節の中を、こうして手を繋ぎ、共に歩いていく。変わらないものは、この胸の中にだけあればいい。
やがて前方に中途半端に張り巡らされたロープが見えると、二人の手は自然と離れた。
例えばここが切り取られた空間だったとすれば、あの仕切りはゴールでもあり、またスタート地点でもある。
「黒様」
「なんだ」
足を止めたファイが、振り向いた黒鋼ににんまりと笑って見せた。何かイタズラを仕掛けようとしている顔だった。
「目を閉じて」
「あ?」
「いいから、早く」
舌打ちをしながら、仕方なく目を閉じた。ファイが「ふふふ」と笑う。その瞬間、温かく柔らかなものが唇に触れた。
「っ!」
咄嗟に目を見開けば、今度はすかさず口の中に固いものが押し込まれた。一瞬にして鼻から抜ける、独特の香り。懐かしくて、切なくて、少しだけ泣きたくなるような、優しい味。
「てめぇ」
「あはは! あげるよ、オレの宝物」
口の中で、コロリとそれを転がした。ここにも一つ、変わらないものがあった。黒鋼は口の端を上げて笑った。
「知ってるか?」
ファイも笑っている。大人びた、穏やかな微笑みだった。
「こいつはな、俺の大好物だ」
そうして二人、薄荷の味の、キスをした。
End
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そこは入り口であり、出口であり、ゼロの地点。
二人はここから、もう一度、恋をやり直すためのロープを潜る。
今度こそ、大切なものを見失わないために。
「わ、やっぱり凄いねぇ」
先週の、一晩中降り続いた雨にも負けず、神木の桜は見事に咲き誇っていた。この木の花びらは随分と色が濃い。
「やっぱり神様の木だから、強いんだね」
両手を広げて桜を仰ぐファイの背で、一つに纏められた金色の髪が揺れていた。風が吹くたびに、それは散りゆく花びらと共にやわらかく踊る。
「遅咲きだったんだろ」
「じゃあやっぱり凄いよ。雨が降るのが分かってたってことでしょう?」
振り向いたファイは真新しい眼帯を左目につけていた。子供達やお客さんを驚かせてしまうからと言って、人前ではやはり隠したままでいるらしい。
ファイは神木の根元まで足を運ぶとしゃがみ込む。黒鋼もすぐ横に並んだ。
今、そこには二つの墓がある。あの雨の翌日、黒鋼が作ったもう一つの墓だった。
「チィのお墓を作ってくれて……本当にありがとう」
あの日。朝露の煌く庭で、あれほど探しても見つからなかった白い猫は見つかった。
花をつけるには当分先の、紫陽花の木の根元で彼女は眠るような表情で息を引き取っていた。
「チィはおばあちゃん猫だったから。静かな場所で眠りたかったんだね」
それは本当に、まるで勤めを終えたとでも言うかのような、安らかな顔だった。一人きりで巨大な屋敷に暮らす青年の傍らに、ずっと寄り添ってくれた優しい猫だった。
黒鋼は生きていた頃の彼女を一度も抱くことが出来なかった。けれど、心から感謝している。子猫の眠る墓の隣に、もう一つ墓を作ろうと言ったのは黒鋼だった。
「こっちの子も、もう寂しくないね」
「そうだな」
よいしょ、と言ってファイは立ち上がった。なんだか年寄りくさいと思ったが、余計なことは言わない。ファイがとんでもない癇癪持ちだということが分かったからだ。思わず笑ってしまう。
「なぁに? 思い出し笑い? いやらしいなぁ」
「うるせぇよ」
おまえのことを考えているんだと、黒鋼は口に出しては言わなかった。なぜなら、ここには今……。
「本当に変わらないよね、ここは」
しみじみと呟いたファイは、神木に手をついて額を寄せた。けれど、すぐに何かに気がついたようにハッとして、それから肩を揺らしながらクスクスと笑い出す。黒鋼も少しだけ微笑んだ。
「今言ったこと、なし。やっぱり変わっていくんだよ。色々なことがね」
ファイは気がついたのだ。静かに息を殺す、二つの幼い気配に。黒鋼は先に気がついていた。
「行こう。お昼休みが終わっちゃうから。ね?」
「ああ」
二人は並んで神木に背を向け、歩き出した。
黒鋼がすっかり背の高くなった彼に歩幅を合わせて歩く必要はもうなかった。苔の生えた、古びた石の鳥居をくぐる。ふと足を止めたファイが、一度だけ神木を振り返った。
「オレたちは、これからはただの侵入者なんだね」
懐かしそうに、愛おしそうに瞳を細める彼の横顔を、今更ながらに美しいと思った。手を伸ばし、頭の天辺にくっついている桜の花びらを指で摘みとってやる。ファイが肩を竦めて笑った。そして、再び歩き出した。
「それにしても、よく子供だけで来られたなぁ」
「てめぇがそれを言うのか?」
「それもそうか」
あのロープを潜るのには、えらく勇気が必要なのだ。今にして思えば、子供ながらによくそれを果たしたと思う。現在、自分がそう指導しているように、裏山には決して入るなと子供の頃には厳しく躾けられていた。
今やその躾を行う立場となった黒鋼であるが、どことなく気が引けてあまり偉そうに言えないのがやり辛いところだった。
「ったくあいつら……姿が見えねぇと思ったら、こんなとこにいやがったのか」
「あはは! 世代交代だねぇ、黒たん先生」
ファイがおちゃらけて笑いながら、黒鋼の背中をパンパンと叩く。黒鋼の胸は、ほんの少しだけ、チクリと痛んだ。
幼い頃を過ごした秘密の場所は、もう二人だけのものではなくなった。ファイが言ったように、大人になってしまった自分達は、もう彼らの秘密を脅かす外敵であり、聖なる領域を侵す侵入者に過ぎない。
哀愁を胸に、黙り込んだまま下り坂を進んでいた黒鋼の手に、そっと温かな手が触れた。指を絡めるようにして、ぎゅうと強く握られる。
「ガキか、てめぇは」
「いいじゃない。誰もいないんだから。キスだって出来るよ? しちゃおっか?」
「馬鹿野郎」
思い切り嫌そうな顔を作って見せながらも、黒鋼はその細い手を同じだけの強さで握った。それはもう幼く高めの体温でもなければ、柔らかくもない。骨ばった大人の男の手だった。
この手を握って、幾度この道を行き来しただろう。初めて手を引かれた日のことを思い出す。小さなファイは、転びそうになりながら息を弾ませ、黒鋼の手を強く引っ張っていた。
今はどちらが引くでもなく手と手を取り、並んで歩いている。あれほど足を縺れさせた山道も、今は全くたいしたことがなかった。
色々なものが変わってしまった。そしてこれからも変わっていくのだと思う。巡る季節の中を、こうして手を繋ぎ、共に歩いていく。変わらないものは、この胸の中にだけあればいい。
やがて前方に中途半端に張り巡らされたロープが見えると、二人の手は自然と離れた。
例えばここが切り取られた空間だったとすれば、あの仕切りはゴールでもあり、またスタート地点でもある。
「黒様」
「なんだ」
足を止めたファイが、振り向いた黒鋼ににんまりと笑って見せた。何かイタズラを仕掛けようとしている顔だった。
「目を閉じて」
「あ?」
「いいから、早く」
舌打ちをしながら、仕方なく目を閉じた。ファイが「ふふふ」と笑う。その瞬間、温かく柔らかなものが唇に触れた。
「っ!」
咄嗟に目を見開けば、今度はすかさず口の中に固いものが押し込まれた。一瞬にして鼻から抜ける、独特の香り。懐かしくて、切なくて、少しだけ泣きたくなるような、優しい味。
「てめぇ」
「あはは! あげるよ、オレの宝物」
口の中で、コロリとそれを転がした。ここにも一つ、変わらないものがあった。黒鋼は口の端を上げて笑った。
「知ってるか?」
ファイも笑っている。大人びた、穏やかな微笑みだった。
「こいつはな、俺の大好物だ」
そうして二人、薄荷の味の、キスをした。
End
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ふたりの場所
※小狼×サクラ
「ね、ねぇ小狼君、ここって入ったらダメって言われてるとこだよね?」
子供の足には少々厳しい山道だった。
少年は、息を切らす少女の手を引いて、その道を足早に進んでいた。
「大丈夫。ちょっとだけ、見せたいものがあるだけなんだ」
「誰かに見つかっちゃったら……」
「そしたら、おれがさくらをかかえて逃げる!」
「私、走るの速いよ!」
「そ、そうだけど!」
そこはちょっとした男心を汲んで欲しかった。さくらはほわんとしているけれど、運動神経は小狼に負けず劣らずなかなかのものだ。
「もうすぐだ! ほら、鳥居が見えた!」
小狼が偶然あの場所を見つけたのは、つい昨日のことだった。
普段から、先生や他の大人たちには決して入ってはいけないと言われている、小学校の裏山。張り巡らされたロープを潜るのには勇気が必要だった。
けれど大人が隠そうとする場所には、きっと何か凄いものがあるに違いないと思った。誰よりも先にそれを見つけて、さくらに見せてやりたかった。
そして見つけた。大きな大きな、きっと小狼やさくらが何人いて手を繋いだって取り囲めないような、それは桜の神木だった。
満開に咲き乱れる花びらが、ヒラヒラと舞い踊る。
「わぁ! すごい!」
鳥居を潜った瞬間、さくらが歓声を上げた。小狼は誇らしげに胸を張る。
「どうしてもさくらに見せたかったんだ」
「こんな大きな桜の木があるなんて……すごいね小狼君!」
本当は放課後まで待つつもりだった。けど、昨夜はここにさくらを連れてくることがあまりにも楽しみで、眠ることが出来なかったくらいだ。だから我慢できずに、給食が終わった瞬間さくらの手を引いてここへ来てしまった。
さくらは神木の周りをグルグルと回って「すごいすごい」と連呼していた。やっぱり、連れてきてよかった。
「あれ?」
そのとき、さくらが足を止めて朽ちた柵をひょいと飛び越えた。
「小狼君、これ、なにかな?」
「え?」
同じく小狼も柵を越える。神木のすぐ脇には、小石で丸く囲まれたスペースが二つ、並んでいた。
「お供え物がしてある……もしかして、お墓、かな?」
さくらはしゃがみ込んで供えてあるものを見て「猫缶だよ、小狼君」と言った。
「本当だ……」
「ここに眠ってるのね」
目を閉じたさくらが小さく呟いた。それから彼女が静かに両手を合わせるので、小狼もそれにならった。
「小狼君、この子たち、ここで遊んでもいいって言ってくれてるよ」
「え?」
「大きな白い猫と、小さな白い猫なの」
「猫、か」
このさくらという少女には、どこか不思議な力があるのを知っていた。そして幼いながらに、小狼はこのさくらの不思議な力による言動を、快く思わない人間たちがこの町にいることにも、気がついている。
そして小狼もまた、もともとこの町の人間ではない。
さくらは神木に両手をつくと身を寄せ、目を閉じた。先日の雨にも、この木だけは負けずに桜の花を見事に咲かせている。遅咲きだったのかもしれない。花びらが、少女を守るように優しく包んでいた。
「きっとこの子たちは神様なのね。この場所を、ずっと守ってくれているんだよ」
小狼は知っている。この少女の力は、彼女の優しさの証なのだ。声なきものたちの声を聞き、それを受け止め、時に癒すこともできる。
さくらを見ていると、小狼もとても優しく、そして穏やかな気持ちになれた。
「あ、そうだ! さくら、こっちこっち」
「なぁに?」
思わず見惚れていた小狼だったが、今が限られた昼休みの間だったことを思い出した。さくらに手招きをすると、膝をついて木の根元を指差した。そこにはちょうど子供が入り込めるくらいの黒い穴が、口を開けていた。
「見てて」
小狼は自慢げに微笑むと、その穴に頭から突っ込んだ。
「小狼君!?」
「さくら! さくらも早く! 中が凄いんだ!」
おずおずと戸惑いながら、さくらが中に入り込んできた。蜂蜜のようにやわらかな色をした髪にくっついてしまった木屑をそっと払ってやってから、その肩をしっかりと抱き寄せる。
「さくら、ほら見て」
頭上には、はるかな闇。所々に小さく開いた穴が、ぽっかりと丸く切り取られた空間に差し込んでいる。さくらは大きな丸い瞳を、さらに大きく見開いた。
「すごい……こんなふうになってるなんて……!」
「ここをおれたちの二人だけの場所にしよう」
「わたしたちだけの秘密?」
「そう、秘密基地!」
「すてき……!」
両手をパチンと合わせて、さくらが笑う。その笑顔はやっぱりどうしようもなく可愛い。小狼は、ここで二人だけで過ごす時間を思って胸が浮き立つのを感じていた。
さくらは小狼の大切な人だから。彼女がこうしていつまでも笑っていられるように、ずっとこうして傍にいようと心に決めた。
この場所は、今日からからこの少女と少年のための、秘密の場所になったのだ。
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※小狼×サクラ
「ね、ねぇ小狼君、ここって入ったらダメって言われてるとこだよね?」
子供の足には少々厳しい山道だった。
少年は、息を切らす少女の手を引いて、その道を足早に進んでいた。
「大丈夫。ちょっとだけ、見せたいものがあるだけなんだ」
「誰かに見つかっちゃったら……」
「そしたら、おれがさくらをかかえて逃げる!」
「私、走るの速いよ!」
「そ、そうだけど!」
そこはちょっとした男心を汲んで欲しかった。さくらはほわんとしているけれど、運動神経は小狼に負けず劣らずなかなかのものだ。
「もうすぐだ! ほら、鳥居が見えた!」
小狼が偶然あの場所を見つけたのは、つい昨日のことだった。
普段から、先生や他の大人たちには決して入ってはいけないと言われている、小学校の裏山。張り巡らされたロープを潜るのには勇気が必要だった。
けれど大人が隠そうとする場所には、きっと何か凄いものがあるに違いないと思った。誰よりも先にそれを見つけて、さくらに見せてやりたかった。
そして見つけた。大きな大きな、きっと小狼やさくらが何人いて手を繋いだって取り囲めないような、それは桜の神木だった。
満開に咲き乱れる花びらが、ヒラヒラと舞い踊る。
「わぁ! すごい!」
鳥居を潜った瞬間、さくらが歓声を上げた。小狼は誇らしげに胸を張る。
「どうしてもさくらに見せたかったんだ」
「こんな大きな桜の木があるなんて……すごいね小狼君!」
本当は放課後まで待つつもりだった。けど、昨夜はここにさくらを連れてくることがあまりにも楽しみで、眠ることが出来なかったくらいだ。だから我慢できずに、給食が終わった瞬間さくらの手を引いてここへ来てしまった。
さくらは神木の周りをグルグルと回って「すごいすごい」と連呼していた。やっぱり、連れてきてよかった。
「あれ?」
そのとき、さくらが足を止めて朽ちた柵をひょいと飛び越えた。
「小狼君、これ、なにかな?」
「え?」
同じく小狼も柵を越える。神木のすぐ脇には、小石で丸く囲まれたスペースが二つ、並んでいた。
「お供え物がしてある……もしかして、お墓、かな?」
さくらはしゃがみ込んで供えてあるものを見て「猫缶だよ、小狼君」と言った。
「本当だ……」
「ここに眠ってるのね」
目を閉じたさくらが小さく呟いた。それから彼女が静かに両手を合わせるので、小狼もそれにならった。
「小狼君、この子たち、ここで遊んでもいいって言ってくれてるよ」
「え?」
「大きな白い猫と、小さな白い猫なの」
「猫、か」
このさくらという少女には、どこか不思議な力があるのを知っていた。そして幼いながらに、小狼はこのさくらの不思議な力による言動を、快く思わない人間たちがこの町にいることにも、気がついている。
そして小狼もまた、もともとこの町の人間ではない。
さくらは神木に両手をつくと身を寄せ、目を閉じた。先日の雨にも、この木だけは負けずに桜の花を見事に咲かせている。遅咲きだったのかもしれない。花びらが、少女を守るように優しく包んでいた。
「きっとこの子たちは神様なのね。この場所を、ずっと守ってくれているんだよ」
小狼は知っている。この少女の力は、彼女の優しさの証なのだ。声なきものたちの声を聞き、それを受け止め、時に癒すこともできる。
さくらを見ていると、小狼もとても優しく、そして穏やかな気持ちになれた。
「あ、そうだ! さくら、こっちこっち」
「なぁに?」
思わず見惚れていた小狼だったが、今が限られた昼休みの間だったことを思い出した。さくらに手招きをすると、膝をついて木の根元を指差した。そこにはちょうど子供が入り込めるくらいの黒い穴が、口を開けていた。
「見てて」
小狼は自慢げに微笑むと、その穴に頭から突っ込んだ。
「小狼君!?」
「さくら! さくらも早く! 中が凄いんだ!」
おずおずと戸惑いながら、さくらが中に入り込んできた。蜂蜜のようにやわらかな色をした髪にくっついてしまった木屑をそっと払ってやってから、その肩をしっかりと抱き寄せる。
「さくら、ほら見て」
頭上には、はるかな闇。所々に小さく開いた穴が、ぽっかりと丸く切り取られた空間に差し込んでいる。さくらは大きな丸い瞳を、さらに大きく見開いた。
「すごい……こんなふうになってるなんて……!」
「ここをおれたちの二人だけの場所にしよう」
「わたしたちだけの秘密?」
「そう、秘密基地!」
「すてき……!」
両手をパチンと合わせて、さくらが笑う。その笑顔はやっぱりどうしようもなく可愛い。小狼は、ここで二人だけで過ごす時間を思って胸が浮き立つのを感じていた。
さくらは小狼の大切な人だから。彼女がこうしていつまでも笑っていられるように、ずっとこうして傍にいようと心に決めた。
この場所は、今日からからこの少女と少年のための、秘密の場所になったのだ。
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はるかなうた
その日は仕事が忙しくて、滅多なことでは家にいない母が、珍しく傍にいた。
母は青い子供用のリュックサックにファイの服や下着や、細々としたものを詰めている最中だった。
「おでかけするのー?」
いつもは夜も昼も、学校へ行っている以外は留守番が多かったファイは、母がいてくれるだけでとても嬉しかった。傍にぴったりとくっついて、その腕にじゃれていた。
「そうよ。おじいちゃんとおばあちゃんのところへ行くのよ」
「おじいちゃんとおばあちゃん?」
「お母さんを産んでくれた人よ」
ファイはそれを聞いて、目をぱっと輝かせた。祖父と祖母が遠い田舎町にいることは、ずっと以前に母から聞いたことがあった。会ってみたいと言ったファイに、母は寂しそうに「いつかね」と言っていた。
「おじいちゃんとおばあちゃんのとこに、あそびにいくのー?」
母は作業する手を止めるとファイを見た。笑っているのに、どうして悲しそうなのかファイにはわからなかった。母は、両親に会えるのが楽しみではないのだろうか。
青いリュックはすぐにいっぱいになった。それは今より少し前、アパートの大家さんがまだ優しかった頃に、息子のお古だと言って寄越したものだった。
大家さんは、今では怖い顔をして時々玄関のドアを叩きにやって来る。ファイは母から、誰が訪ねて来ても絶対に出てはいけないと言われていた。だからかくれんぼみたいに静かにして、見つからないようにしてなきゃならなかった。
一人ぼっちの暗い部屋の中で、じっと静かにしてなきゃならないのは、少し怖かった。それに、ファイを探す鬼は大家さんだけではなく、時々、男の人が何人かでやって来ては扉を叩き、大きな声で喚いて行くこともあった。
「おじいちゃんとおばあちゃんとは、かくれんぼしなくていいのー?」
母はやっぱり悲しそうに笑って、ファイの頭を撫でてくれた。
「もうおうちの中で隠れるのはおしまい。今度はね、新しいお友達を作って、お外でかくれんぼして遊ぶの」
「ともだち?」
「そうよ。きっと出来るわ。新しいお友達が」
ファイは少し不安になった。今の学校でも、あまり友達を作ることが出来なかった。前の学校は友達を作る前にはまた新しい学校へ転校してしまったし、今度も上手く作れるかわからないと思った。
「さあ、そろそろ時間だから行こうね」
「あ、おかあさん」
リュックを持って立ち上がった母に、ファイはお菓子も入れて欲しいと頼んだ。時々母がお土産にと買ってきてくれるチョコレートや飴玉を、ファイはクッキーの空になった缶に大切に入れていた。
けれど母は首を振って、「もうカバンには入らないから、我慢してね」と言った。
*
それから母は、ファイをタクシーに乗せてくれた。タクシーなんてものはお金持ちの乗り物だと思っていたファイは、その初めての経験に胸が躍った。けれど、母はファイをそれに押し込むだけで一緒には乗らなかった。
「おかあさん、ドアしめられちゃうよ」
「リュックの中にね、お手紙が入ってるから。それを、おじいちゃんとおばあちゃんに渡してね」
「おかあさん、はやくのって」
「お財布にはお金も入ってるからね。降りるときには、運転手さんにちゃんとお礼を言って……」
「おかあさんってば」
母はファイの手をぎゅうと握ると、「ごめんね」と言った。
「ファイはもう大きくなったから、お母さんがいなくてもいい子で頑張れる?」
ファイは一度だけ小さく俯いたあと、顔をあげて「うん」と返事をした。今までも、母は仕事が忙しくて家にいる時間が少なかった。それでもいい子で待っていれば必ず帰ってきてくれたから、だからファイは笑った。
「オレ、がんばる。がんばれる」
「いい子ね。お母さんは、あなたが世界で一番大好きよ」
母は、最後にファイの頬にキスをしてくれた。嬉しかったけれど、それでもファイは寂しくて仕方がなかった。傍にいて欲しいと言いたかった。本当は、留守番だってしたくない。一人ぼっちは、もうたくさんだった。
「オレも、だいすき。おかあさんが、いちばんだいすきだよ」
なぜかもう母には二度と会えない気がしていた。どうしてそう思ったのかは分からないけれど、ファイは涙と一緒に全ての言葉を飲みこんだ。唇を噛み締めて、必死で我慢した。
ドアが閉まる直前、母はもう一度「ごめんね」と言った。
タクシーが走り出しても、ファイはガラスにペッタリと手をついて母を見ていた。見えなくなっても、ずっと見ていた。
*
鼻歌は子供の頃からの癖だった。
どこの国の言葉なのかも知らないし、サビの部分を繰り返すだけで全ては覚えていない。ただ、幼い頃に母が枕元で幾度か歌ってくれたという記憶だけは、確かにあった。
その声さえも、今はとても遠い。やがていつかは完全に忘れてしまうのかもしれないと思う。
ファイは懐かしいその歌を口ずさむのを止めると、時計に目をやった。時間にはまだ早いが、今日は教室が始まる前にちょっとした約束がある。
学校の昼休みが始まる頃には、向こうに行っているつもりだった。自然と頬が緩む。
「よいしょっと」
子供達と作るお菓子の材料が入った大きな籠を、年寄り臭い掛け声とともに持ち上げる。結局二週に渡りお流れになってしまったお菓子教室を、きっと彼らは楽しみにしながら待っていてくれる。
今頃もう、落ち着きなく窓の外を覗いては黒鋼に怒られているのだろう。
「あの顔で先生だってさ。笑っちゃうよね」
ファイは自分が放った独り言に思わず声を上げて笑ってしまった。けれど、彼があの顔に似合わず子供に好かれることは、ファイが一番よく知っていた。
「行ってきます。おじいちゃん、おばあちゃん」
出掛けに仏壇に声をかけた。玄関先に出ても、もう見送ってくれる猫はいなかった。
*
車を運転しながら、小学校への短い距離を移動する。その道は、幼い頃に黒鋼と手を繋いで歩いていた道だった。
景色はあの頃より、少しずつ変わりはじめている。ここ数年で、新しく移住してくる人間が増えつつあった。ところどころに新築の家が見える。
懐かしさの中にあるそういった変化を探して、ファイは鼻歌を歌った。母は、今も誰かにこの歌を聞かせているのだろうか。幸せだろうか。願わくば、大切な人と共に笑っていてほしい。
そして、もう一度会うことが出来たなら。ファイは今、自分がどれほど幸せかを彼女に伝えたかった。大切な、かけがえのない人と結ばれることができたことを。
手紙は祖父が破り捨ててしまったけれど。今はもう、母は記憶の中にしかその痕跡を残してはいないけれど。
覚えていられる限りずっと、自分はこの歌を口ずさむのだと思う。
ファイの好きな人が、それを聞いて「音痴だな」と言いながら、懐かしそうに微笑んでくれるから。
この手は、もう決して大切なものを離しはしない。
そうしてファイは行く。彼の待つ、あの場所へ。
←戻る ・ 次へ→
その日は仕事が忙しくて、滅多なことでは家にいない母が、珍しく傍にいた。
母は青い子供用のリュックサックにファイの服や下着や、細々としたものを詰めている最中だった。
「おでかけするのー?」
いつもは夜も昼も、学校へ行っている以外は留守番が多かったファイは、母がいてくれるだけでとても嬉しかった。傍にぴったりとくっついて、その腕にじゃれていた。
「そうよ。おじいちゃんとおばあちゃんのところへ行くのよ」
「おじいちゃんとおばあちゃん?」
「お母さんを産んでくれた人よ」
ファイはそれを聞いて、目をぱっと輝かせた。祖父と祖母が遠い田舎町にいることは、ずっと以前に母から聞いたことがあった。会ってみたいと言ったファイに、母は寂しそうに「いつかね」と言っていた。
「おじいちゃんとおばあちゃんのとこに、あそびにいくのー?」
母は作業する手を止めるとファイを見た。笑っているのに、どうして悲しそうなのかファイにはわからなかった。母は、両親に会えるのが楽しみではないのだろうか。
青いリュックはすぐにいっぱいになった。それは今より少し前、アパートの大家さんがまだ優しかった頃に、息子のお古だと言って寄越したものだった。
大家さんは、今では怖い顔をして時々玄関のドアを叩きにやって来る。ファイは母から、誰が訪ねて来ても絶対に出てはいけないと言われていた。だからかくれんぼみたいに静かにして、見つからないようにしてなきゃならなかった。
一人ぼっちの暗い部屋の中で、じっと静かにしてなきゃならないのは、少し怖かった。それに、ファイを探す鬼は大家さんだけではなく、時々、男の人が何人かでやって来ては扉を叩き、大きな声で喚いて行くこともあった。
「おじいちゃんとおばあちゃんとは、かくれんぼしなくていいのー?」
母はやっぱり悲しそうに笑って、ファイの頭を撫でてくれた。
「もうおうちの中で隠れるのはおしまい。今度はね、新しいお友達を作って、お外でかくれんぼして遊ぶの」
「ともだち?」
「そうよ。きっと出来るわ。新しいお友達が」
ファイは少し不安になった。今の学校でも、あまり友達を作ることが出来なかった。前の学校は友達を作る前にはまた新しい学校へ転校してしまったし、今度も上手く作れるかわからないと思った。
「さあ、そろそろ時間だから行こうね」
「あ、おかあさん」
リュックを持って立ち上がった母に、ファイはお菓子も入れて欲しいと頼んだ。時々母がお土産にと買ってきてくれるチョコレートや飴玉を、ファイはクッキーの空になった缶に大切に入れていた。
けれど母は首を振って、「もうカバンには入らないから、我慢してね」と言った。
*
それから母は、ファイをタクシーに乗せてくれた。タクシーなんてものはお金持ちの乗り物だと思っていたファイは、その初めての経験に胸が躍った。けれど、母はファイをそれに押し込むだけで一緒には乗らなかった。
「おかあさん、ドアしめられちゃうよ」
「リュックの中にね、お手紙が入ってるから。それを、おじいちゃんとおばあちゃんに渡してね」
「おかあさん、はやくのって」
「お財布にはお金も入ってるからね。降りるときには、運転手さんにちゃんとお礼を言って……」
「おかあさんってば」
母はファイの手をぎゅうと握ると、「ごめんね」と言った。
「ファイはもう大きくなったから、お母さんがいなくてもいい子で頑張れる?」
ファイは一度だけ小さく俯いたあと、顔をあげて「うん」と返事をした。今までも、母は仕事が忙しくて家にいる時間が少なかった。それでもいい子で待っていれば必ず帰ってきてくれたから、だからファイは笑った。
「オレ、がんばる。がんばれる」
「いい子ね。お母さんは、あなたが世界で一番大好きよ」
母は、最後にファイの頬にキスをしてくれた。嬉しかったけれど、それでもファイは寂しくて仕方がなかった。傍にいて欲しいと言いたかった。本当は、留守番だってしたくない。一人ぼっちは、もうたくさんだった。
「オレも、だいすき。おかあさんが、いちばんだいすきだよ」
なぜかもう母には二度と会えない気がしていた。どうしてそう思ったのかは分からないけれど、ファイは涙と一緒に全ての言葉を飲みこんだ。唇を噛み締めて、必死で我慢した。
ドアが閉まる直前、母はもう一度「ごめんね」と言った。
タクシーが走り出しても、ファイはガラスにペッタリと手をついて母を見ていた。見えなくなっても、ずっと見ていた。
*
鼻歌は子供の頃からの癖だった。
どこの国の言葉なのかも知らないし、サビの部分を繰り返すだけで全ては覚えていない。ただ、幼い頃に母が枕元で幾度か歌ってくれたという記憶だけは、確かにあった。
その声さえも、今はとても遠い。やがていつかは完全に忘れてしまうのかもしれないと思う。
ファイは懐かしいその歌を口ずさむのを止めると、時計に目をやった。時間にはまだ早いが、今日は教室が始まる前にちょっとした約束がある。
学校の昼休みが始まる頃には、向こうに行っているつもりだった。自然と頬が緩む。
「よいしょっと」
子供達と作るお菓子の材料が入った大きな籠を、年寄り臭い掛け声とともに持ち上げる。結局二週に渡りお流れになってしまったお菓子教室を、きっと彼らは楽しみにしながら待っていてくれる。
今頃もう、落ち着きなく窓の外を覗いては黒鋼に怒られているのだろう。
「あの顔で先生だってさ。笑っちゃうよね」
ファイは自分が放った独り言に思わず声を上げて笑ってしまった。けれど、彼があの顔に似合わず子供に好かれることは、ファイが一番よく知っていた。
「行ってきます。おじいちゃん、おばあちゃん」
出掛けに仏壇に声をかけた。玄関先に出ても、もう見送ってくれる猫はいなかった。
*
車を運転しながら、小学校への短い距離を移動する。その道は、幼い頃に黒鋼と手を繋いで歩いていた道だった。
景色はあの頃より、少しずつ変わりはじめている。ここ数年で、新しく移住してくる人間が増えつつあった。ところどころに新築の家が見える。
懐かしさの中にあるそういった変化を探して、ファイは鼻歌を歌った。母は、今も誰かにこの歌を聞かせているのだろうか。幸せだろうか。願わくば、大切な人と共に笑っていてほしい。
そして、もう一度会うことが出来たなら。ファイは今、自分がどれほど幸せかを彼女に伝えたかった。大切な、かけがえのない人と結ばれることができたことを。
手紙は祖父が破り捨ててしまったけれど。今はもう、母は記憶の中にしかその痕跡を残してはいないけれど。
覚えていられる限りずっと、自分はこの歌を口ずさむのだと思う。
ファイの好きな人が、それを聞いて「音痴だな」と言いながら、懐かしそうに微笑んでくれるから。
この手は、もう決して大切なものを離しはしない。
そうしてファイは行く。彼の待つ、あの場所へ。
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花散らしの雨
滅茶苦茶になってしまった水曜日の教室は、翌週に繰り越して再度仕切りなおすことになっていた。
子供達はどんよりとした曇り空の下の景色を、一日中落ち着きなく眺めていた。
けれど、彼らの待ち人は来なかった。
*
大きな屋敷は、ついに降り出した雨の中どこか暗く、そして重い雰囲気を醸し出していた。
燻るだけだった蕾がこの数日の間に一気に花開き、ようやく美しい花を咲かせたと思った途端にこれである。花散らしの雨だった。
黒鋼は、昔はただの廃墟でしかなかったはずの、改築された建物の脇に車を停めた。白いコンクリートの殻に覆われたそれは、茶屋というよりは小奇麗なケーキ屋か、あるいは喫茶店のようにも見える外観だった。
ガラス張りの入り口には『本日休業』という札がかかっており、中は薄暗くて人気がない。
店の前には、店の名前とロゴが入った白いワゴンが停められている。家人はいるということだろうか。
車を降り、黒い傘を差す。店の様子を窺いながら足早に坂道を登った。以前は砂利道だったが、そこも綺麗にコンクリートで舗装されていた。
門は半分だけ中途半端に開放されていた。温い風に吹かれてキイキイと甲高い音を立てながら揺れている。
雨が強くなったり弱くなったりを繰り返す中で、黒鋼は玄関先まで足を運ぶと、重々しく閉ざされた曇りガラスの引き戸を開けた。田舎の町では、ほとんどの家が昼も夜も玄関の鍵を解放している。無用心にも思われるが、しっかりと戸締りをすることで逆に町人同士のコミュニケーションが成り立たない場合もある。どこまでもつまらない習慣だと思う。
「おい、いるか」
薄暗い廊下へ向けて、挨拶代わりの一声を放った。大きな屋敷である。たったそれだけで返答が得られるとは思わない。
傘を閉じて適当に立てかけると中に入り込んだ。もう一度、今度は大きな声で全く同じ言葉を無人の廊下へ向けて放った。やはり、返答はない。
さすがに、家人がいるかどうかも分からない家の内部にまで上がり込むだけの図々しさは、持ち合わせていなかった。硬質で冷ややかな屋敷の空気が、どこか訪れた者を拒んでいるような気さえする。
仕方なく、黒鋼は再び傘を持つと表へ出た。庭から回り込むことにする。雨が強くなればなるほど、なぜか胸騒ぎが増していくようだった。
彼はいるのか、いないのか。そもそもこの屋敷には本当に人が住んでいるのだろうか。あまりにも静かで、重々しく、そして暗い。子供の頃には感じたことのない違和感が、微かな不安を煽る。
ファイの祖父が死んでからはここへ遊びに来ることがよくあったが、当時は玄関に入ればいつも笑顔のばあさんが出迎えてくれた。あの頃まだ子供だった黒鋼から見ても、とても小さな人だった。彼女がもういないのだと思うと、今更のように込み上げてくるものがある。
たった二人で暮らすにも大きすぎる屋敷。ここでファイは一人きりで生活をしているのだ。
ぼんやりと物思いに耽りつつ、ぐるりと回りこむようにして草木の茂る庭に足を踏み入れた。そこで黒鋼は息を飲む。
ファイを探しにわざわざ足を運んだくせに、いざ当人を目の当たりにして少し驚いた。いるはずだと分かってはいても、ここにはあまりにも人の気配がなさすぎるから。
「なにしてる」
彼は、雨の降りしきる庭の中央に茫然と立ち尽くしていた。傘も差さずに、裸足で濡れそぼっている。
黒鋼が声をかけても、ファイは振り向かない。ただ、ほんの少し肩を震わせた。
「おい」
近寄って、今更だとは思いつつ傘を彼の頭上へと翳した。そこで、ようやく青い瞳が黒鋼を見上げた。青白く透き通るような肌が、まるで死人のようだった。
背筋を嫌な寒気が駆け抜ける。彼は、一体なにをしていたのだろう。
「来れねぇなら連絡ぐれぇしたらどうだ。ガキ共が心配して」
「いないんだ」
「……あ?」
黒鋼の言葉を遮ったファイが、庭をキョロキョロと見渡している。差してやった傘の下からゆらりと抜け出して、ふらふらとどこかへ行こうとする。
「おい」
咄嗟に腕を掴んだ。氷のように冷え切った肌が、彼の纏う白いシャツ越しに手の平に伝わる。どれだけ長い間、彼は雨に打たれていたのだろうか。
「いないんだよ、どこにも」
「なにが」
「チィがいない」
「ちぃ?」
「朝からずっと探しているのに、見つからない……どうしよう……見つからないよ……」
ファイは独り言のように呟くと、スルリと黒鋼の腕を擦り抜けた。強く掴んでいたつもりだったその腕が、いとも簡単に遠のいてしまう。
「チィ、どこ? チィ、出ておいで」
彼の目には黒鋼など最初から映っていないようだった。その心はどこか別の場所にある。黒のタイトなパンツが泥で汚れるのも構わずに膝をついて軒下を覗き、草木の影を這いずっては「チィ」の名を呼んでいる。
ふと、知世から『猫の目』には白い猫がいるという話を聞いたことを思い出した。看板猫として人気があるのだと。
「チィってのは、おまえの猫か」
「いない……。家の中も外も、ずっと探してるんだ。今日はまだご飯だって食べてないんだよ。お腹を空かせて、どこかで動けなくなってるのかな……」
そう言って、ファイは黒鋼に背を向けたまま蹲ってしまった。泣いているのだろうか。けれど彼をこのままにしておくことはできない。黒鋼は苛立っていた。
「いい加減にしねぇか。ひとまず家ん中入るぞ」
再びその腕を掴んで強引に立ち上がらせる。軽い、空っぽの人形のような身体だった。
「やだよ」
腕の中で、人形が首を左右に振る。黒鋼は眉間に深い皺を刻んだ。今度は離れないようにと、強くその腕を掴む手に力を込める。
「帰って。君には関係ない」
「……なんだと?」
「離してよ」
間近で見た彼は、泣いてはいなかった。その表情には一切の感情の色がない。声にさえ、抑揚がない。身を捩って離れようとする腕に爪を立てた。
「痛い」
離して、と彼は再び言った。黒鋼の中の、言いようのない苛立ちがピークに達していた。半ば引き摺るようにして彼を縁側へと連れて行こうとすれば、そのはずみで傘が地に落ちた。でも今は、そんなものはどうでもいい。
それよりも、腕の中で暴れ出したファイを抑えつけることの方が厄介で、そして重要なことだった。
「離してってば! 関係ないって言ってるでしょう!?」
「うるせぇんだよ! バカみたいに濡れやがって、ちっとは冷静になれ!!」
そう言う黒鋼も、傘を手放したことによりみるみるうちに雨に晒され濡れてゆく。ファイがもがいて、その泥だらけの手がジャージを汚した。
簡単に捻じ伏せられると思っていたその身体は、驚くほど強くしつこかった。それこそ猫のように柔軟に逃げを打ち、抱え込もうにも苦労を要する。
雨の中、大の大人が取っ組み合っている様子など、他の誰かが見れば気が触れているとしか思えない光景だろう。
「離せっ! 離せって言ってんだよ……っ!!」
ファイの目付きも、口調も変わった。振り上げられた手が、黒鋼の頬に泥と共に引っ掻き傷を作る。それは思った以上に鋭く、強靭な刃となって焼けるような痛みをもたらした。
「っ……!」
滲む血液に、息を飲んだのはファイだった。その一瞬の隙をついて、黒鋼は冷え切った身体を強く抱きしめる。
茫然としていたファイだったが、すぐに火がついたように再び暴れ出す。けれどもう離さない。彼が力尽きるまで堪え続けるだけだ。冷たかった身体が、腕の中でみるみるうちに熱くなる。
固い拳が強く肩や背を叩いても、首や頬に傷を作っても、黒鋼は彼を決して離さなかった。ファイは興奮した獣のようにヒステリックに唸り、時折口汚い言葉を黒鋼に向けて放ちながら、ひたすら暴れた。
だが、それだけ激しく抵抗すれば力が弱まっていくのに時間はかからなかった。僅かに腕の力を抜いた瞬間、ファイは黒鋼の左肩にガックリと顔を埋めた。ひたすら打ち付けられていた拳が、ダラリと下がる。
激しく呼吸を繰り返す背をあやすように撫でると、最後の力とばかりに、再び握られた拳が黒鋼の左肩に打ち付けられた。それから、くぐもった声が悔しそうに「ちくしょう」と紡がれるのを聞いた。ファイの動きは、完全に止まった。
黒鋼は、少しだけ笑った。
「おまえ、実はとんでもねぇ癇癪持ちだったんだな」
知らなかった。彼のこれほどまでに激しく感情を曝け出す様や、荒々しく甲走った声を初めて聞いた。毛を逆立て、まるで別人のような口調で怒鳴りながら暴れる姿は、おっとりとした物腰と、目を離せば風船のようにふわふわと飛んで行きそうだった彼からは大きくかけ離れていた。
うるさい、という小さな声がして、まるで子供がむずがるような仕草でファイが黒鋼の肩に額を擦り付けた。
「なんで……なんでだよ……」
「…………」
「なんで、来たの……?」
あれほど激しかった雨が少しずつ弱まり、霧のような優しさで二人を包む。ファイが身体を震わせた。今度こそ、泣き出すのかもしれない。さらに強く抱きしめると、下げられていた彼の両腕が黒鋼の背に回り、爪を立てた。
「もう関係ないだろ……どうしてオレに関わるんだ……どうせ、どうせまた……」
置いて行くくせに。
ファイの言葉は、黒鋼の胸を的確に貫いた。振り上げられる爪や拳などより、よほど痛い。けれど、この痛みと向き合うために、黒鋼はここにいる。彼を抱いている。
「おまえなんかいらないんだ。オレはもう子供じゃないし、弱くも小さくもないんだ。一人で歩ける。だからもういらない……いらないのに……」
「俺には必要だ」
どんなに安っぽい言葉だって構わない。何も言わずに伝わらないままなら、どれほど無様でも声に出して言ってしまった方がましだ。もう感情を殺すことも、目を背けるつもりもなかった。
ファイが顔を上げる。信じられないものを見るかのように、大きく目を見開いている。
「おまえが俺を必要としなくても、俺には、必要だ」
青褪めていた表情が、くしゃりと歪んだ。泣き出しそうな顔にも、悔しそうな顔にも見える。あるいは、その両方だったのかもしれない。
「ふざけるなよ……今更、もう遅いんだ……」
「わかってる」
「嘘つき……大切な人がいるって言ってたじゃないか……だから解放してあげたのに……なんで今更、どうしてオレなの」
何もかもファイを忘れるためだった。蘇摩と破局して、それからも幾人かと肌を重ねたし、恋人まがいの付き合いもしてきた。けれど、その度に虚しくなるだけだった。分かっていたのに、止められなかった。
「いいか。よく聞けよ」
「嫌だ、何も聞きたくない! どうせ嘘ばっかりだ! 信じられるわけ……」
「いいから聞け」
雨と泥と、そして涙に濡れた頬を両の手の平で包み込んだ。真っ直ぐに目を合わせながら、黒鋼は告げる。長い時を超えて、ずっと伝えたかった大切な言葉を。
「お前が好きだ」
その瞬間、ファイがぐっと息を詰める。それから、ふい、と顔を背けようとする。けれど頬に添えた手でそれを許さなかった。
「知らない」
「俺を見ろ。知らねぇってんなら教えてやるよ」
「くろ……」
「好きなだけ抵抗すりゃあいい」
――だから。
「俺におまえを口説かせろ」
*
「や、ぁ……ッ」
冷たい縁側の床の上で、黒鋼はファイに覆いかぶさると逃げようとする唇を幾度も捕らえては深く重ねて貪った。
嫌々と身を捩るファイの両腕を一纏めにして掴み上げ、床に縫い付けるようにして押さえつけ、その自由を奪う。
口内で逃げ惑う舌を容赦なく追い詰めては絡ませ、吸い上げた。
初めて味わう彼の味は、まるで砂糖のような甘さで黒鋼の脳内を犯していくようだった。その甘さが錯覚でも構わない。彼がその気になれば、すぐにでもこれは鉄の味に豹変してしまう。
本当に嫌ならば、歯を立ててこの舌を噛み千切ればいい。先刻のように激しく暴れて、この頬を殴りつければいい。彼はもうひ弱な子供ではない。体格に差があれども、その気になれば相手を張り倒してでも逃れるだけの力があるはずだった。
けれどファイは、それをしない。
強引に犯すようなやり方で押さえつけているその実、いつでも逃れられるようにと隙を与えている黒鋼に、彼は気づいているはずだった。
まだ十代だったあの夏の日に、二人は思いを打ち明けあっている。別れの言葉と共に、過ぎてしまった過去を振り切るようにして背を向けあった。
黒鋼は己がそうであるように、ファイもまた自分を思い続けてくれていたということに確信を持っていた。けれど、察するだけでは意味がない。自分はここへ、彼へ再び思いを告げると同時に、言葉を交わすためにやって来たのだから。
合間に、黒鋼は幾度も「好きだ」と告げた。その度に、ファイの口からは「嫌だ」という否定の言葉が漏れる。黒鋼は、どんなに時間をかけてでも彼の心を溶かすつもりだった。ファイの口から、気持ちを形にして聞かなければ意味がなかった。
「ずっとこうしたかった。これが、俺がおまえから逃げた理由だ。気づいてたんだろ?」
雨の香りがする首筋に顔を埋めて、下から囁くようにして告げた。濡れたシャツの裾から冷えた肌へ手を滑らせると、ファイは嫌々と首を振った。
「っ、……しら、ない……知らない、よ」
「こうやって、おまえを犯す夢ばかり見ていた。俺は俺が許せなかった」
「あっ! や、だ……ッ、し、らな……」
器用に泥に濡れたシャツのボタンを内側から外していきながら、露になった滑らかな白い肌に吸い付く。戒めていた両手を解放しても、ファイはビクビクと身体を震わせるだけで、黒鋼を遠ざけようとはしなかった。カリカリと、冷たい床を爪で掻いている。
細い身体はしっとりと濡れて、まるで若い女のような肌理の細かさで黒鋼を誘っていた。夢にまで見た身体。これまで抱いてきたどんな女よりも貧弱で青白く、当たり前のように平らな胸が黒鋼を恐ろしいまでに興奮させた。
いつの間にか解けていた金色の髪が、緩やかな弧を描いて冷たい板張りの床に散らばっていた。
「誰を抱いても、おまえのことを考えていた」
「く、ろ……ッ」
この身体は他の人間の熱を知っているのだろうか。黒鋼がそうしてきたように、誰かをこの腕に抱いたのだろうか。あるいは、抱かれたのだろうか。
それを思うと不思議と情欲が煽られる。愛しさと同時に憎しみさえも頭を擡げ、その紙一重の感情に気が狂ってしまいそうだった。
黒鋼は自らも濡れて皮膚に張り付いている、泥だらけのジャージを中のシャツごと乱雑に脱ぎ捨てた。辺りがゆっくりと闇に溶ける中、ファイがビクリと身を震わせる。無垢な生娘のような反応だった。
「ぁ、や……もう、触らないで……」
再び身体を合わせると、ようやく彼からの虚しい抵抗が始まった。床を掻いていた手が黒鋼の痣の出来た肩をぐいと押す。弱々しかった。
「嫌なら殺してでも逃げりゃあいい。好きなだけ抵抗しろって言ったろうが」
細い腰を片腕で抱きこんで、浮いた鎖骨に口付ける。そうしながら、もう片方の手はファイの下半身を包む邪魔なものを解きにかかっていた。ファイは腰を躍らせながら膝を立てた。閉じたくとも、黒鋼はすでに身体を割り込ませている。
それでも、容赦なく蹴り飛ばすことは可能なはずだった。
「ずるいよ……そんなこと出来ないって、知ってるくせに……」
「言えよ。てめぇはどうだったんだ。俺を殴ってでも遠ざけないのはなぜだ」
「そんなの、そんなの分かんないよ……なんで、こんな」
ファイはその美しい瞳に涙を浮き上がらせていた。黒鋼が身を乗り上げながらその目元に舌を這わせる。堪え続けていたのであろう雫が、いとも簡単に零れ落ちた。
ふと、濡れている眼帯に触れかけて、止めた。身体の中心部に手を潜り込ませると、細い身体が一段と激しく震えた。
「やっ、いやだ……!」
指先に当たるのは濡れた感触と、張り詰めた性器の熱さだった。彼は感じていた。さんざん嫌だと口走りながら、快感を得ている。
鬱陶しいものを下着ごと下ろしてしまうと、白い太腿が露になった。黒鋼はその内側にも吸い付いた。手の中で、ファイ自身が大きく震える。堪らなかった。ゆるく握り込んで扱いてやれば、甲高い悲鳴が静かな雨音を掻き消した。
「ヒッ、だ、め、だめ、やだ……、はなし……っ」
黒鋼は、否定の言葉を吐き出しながらも感じ入っているファイの表情をひたすら眺めた。それは泣き顔に似ていて、実際彼は泣いているのだけれど、決して手を止めない。
やがて、あっけないほどすぐに彼はその精を放った。打ち上げられた魚のように、白い腹がビクビクと蠢く。強張っていた全身から力が抜けて、黒鋼の肩を掴んでいた両手ががっくりと床に投げ出された。
黒鋼はどこか恍惚とした表情で震える息を吐き出す。絶頂を迎える瞬間の、ファイの痛々しい表情は酷く可愛らしいものだった。細い呼吸を忙しなく繰り返しては、ヒクヒクと痙攣する身体が愛しい。抱きたい。中に入りたい。一つになりたい。濡れた指を、奥まった二つの丘の中心に潜り込ませた。
「――っ!?」
ファイは全身を引き攣らせて片目を大きく見開いた。硬く窄まったそこは黒鋼の指を強く拒む。けれど、彼自身が放った体液がそれを助ける。関節ごとに引っかかりながらもゆっくりと潜り込ませていけば、ファイが悲鳴を上げた。
「い、や、ぁ……! ダメ、だっ! 入れないで…ッ、オレの中、入ってこないで……!」
腰をくねらせ、ずるずると上へ上へと逃げようとするファイの足首を掴んで、ズルリと引き戻す。その瞬間、内部に潜り込んでいた指がある一点に触れた。細い身体が哀れなほどに大きく跳ね上がる。
「ッ!?」
「ここか……?」
「ひっ、ぃ……ッ! そこ、何、それ、やだ……!」
クリクリとその部分を刺激すれば、抵抗がぴったりと止んだ。見つけた。ここが、ファイの感じる場所だ。
彼は未知なる快感に激しく身悶えている。少なくとも、この身体は男を知らない。そのことに異常なまでに安堵している自分がいる。
甘い声の上がるその場所を執拗に刺激し、彼の中で荒れ狂う快感に乗じて指を増やした。中を広げるように、幾度も出し入れを繰り返す。
「くろ、おねが……っ、も、やめ、て……っ」
黒鋼はゆっくりと刺激していた内部から指を引き抜いた。そして、ぐったりと床に沈んでいるファイの、力の抜けた両足を割り開く。すでに限界まで張り詰めて先走りを零す自身を取り出し、そっと宛がう。
「ダメだ……入ってこないで……そんなことしたら、戻れなくなる……」
「俺はおまえが欲しい……ずっと、ガキの頃から思ってた」
「怖いんだ黒鋼……もう何も、失くしたくないのに……」
「てめぇはもう何も失くしやしねぇよ」
彼が欲しがれば、幼い頃よりもっと多くのものを与えてやれる。だからこそ、黒鋼が求めるものは彼にしかもたらすことが出来ない。こんなにも互いを欲してるではないか。どこに逃げ道があるというのか。逃げる必要など、最初からなかったというのに。
黒鋼が身を進める中、ファイはひたすら「こわい」という言葉を繰り返しながら泣いていた。強く抱きしめて、幾度も呼吸を整える。遠のきつつあった雨が、再び激しく降り出していた。いつしか、ファイの腕が黒鋼の背を掻き抱いていた。
「はっ、ぅ……ぁ……!」
全てを納めるのにどれだけの時間がかかったのか知れない。あっという間だったのかもしれないし、気の遠くなるほどの時間を要したのかもしれない。
二人は抱き合って繋がりながら、ひたすら忙しない呼吸を繰り返していた。性器が食いちぎられそうなほどの締め付けに晒されている。痛いのか、感じているのかさえ分からない。ただ、熱い。
黒鋼は苦しげに呼吸を繰り返すファイの額に手の平を這わせた。濡れた目元にキスをする。閉じられたままだった瞳がゆっくりと開いた。暗闇の中でも、それが分かった。
「辛いか……?」
「嫌だって、言ったのに……」
「憎むか? 俺を」
「……憎んでも、愛しても……君はオレのものにはならないじゃないか……」
「まだ分からねぇのか。おまえの中には今……誰がいる?」
「そんなの……ッ」
答えを待たずして、黒鋼は腰を動かした。ファイが泣く。啼きながら、黒鋼の背に爪を立てる。白い両足が腰に絡みつく。唇を合わせれば、その舌はもう逃げない。負けじと絡み付いてくる。まるで競っているかのように、互いが舌を絡め、腰を振った。
夢にまで見た愛しい身体。その内側。叫び出したいほどに、黒鋼の心は歓喜に慄いていた。幼くあどけない、天使のようだった幼馴染の身体を、無骨なこの手が割り開き、そしてその薄い肉を犯している。恐ろしいまでの倒錯的な快楽に、気を抜けば意識が遠のきそうなほどに酔い痴れる。
重なり合う二つの荒々しい呼吸は、まるで獣にでもなり下がったかのようだった。痛みは快楽へと変わり、快楽がもたらす痛みは二人の身体を完全に支配していた。
「たす、けて……もう、ねぇ、黒鋼……ッ!」
切れ切れに声を紡ぐファイを、力任せに抱きしめた。どんなに力を込めても、簡単には折れないことを知っている。きっと昔からそうだった。まるで壊れ物を扱うように大切にしていたつもりでいたけれど、彼はちょっとやそっとで壊れたりなどしなかったのだ。
「離せなく、なる……ッ! も、あっ、嫌、なのにッ、……やァ、ぅ、うぅっ、くろ……っ!」
「離さねぇよ……っ、てめぇが信じようが信じまいが、俺は」
ここにいるのだから。この場所へ帰ってきたのだから。回り道をして、ようやく。
「おまえを、愛してる」
そのたった一言を、告げることが出来たのだから。
*
しとしとと降り続ける雨の音。その音に紛れて、猫が、鳴いた。
雨は、全ての花を散らしてしまっただろうか。
遠のいてはまた近づくのを繰り返しながら、それは降り続いていた。
障子の向こうで草木の揺れるどす黒いシルエットが見える。それを眺めながら、今年は帰郷して初めての花見を楽しむつもりだったのにと、少し残念に思った。
ビルばかりが建ち並ぶ場所に暮らしていたときには、ゆっくりと花を眺めようなどとは露ほども思わなかったくせに、なんだかおかしかった。
暗い部屋の中では和紙で覆われた間接照明が時折ゆらりと揺らめいていた。電球が切れかかっているのか、ひどく頼りない明りだった。
傍らで、ファイがゆっくりと起き上がる。
「平気か」
「……うん」
激しく身体を繋げながら、限界に達したときにはファイの意識は深く眠りについていた。
汗と泥と涙と、そして互いの精液で汚れていた二人分の身体を適当に沸かした湯で清めて、これまた適当に引っ張り出した、おそらくは客用の布団に彼を移し、自分もその隣で少しだけ眠った。
すでに身を起こしていた黒鋼は、不安定な明りに幾分やつれて見えるファイの横顔を見つめた。会わない間にすっかり伸びた髪が頬に張り付いて、尚のことそう見せるのかもしれない。
互いに何を話すでもなく、あるいは何を言えばいいのか分からずに、ただ長い沈黙が流れるだけだった。
けれど。
「オレには……」
雨音と草木がざわめく音が酷く遠くに聞こえる中、沈黙を破ったのはファイだった。
「君の優しさは、とても残酷だったよ」
それはまるで一人ごとのような、小さな呟きだった。
黒鋼は頼りない照明に翳りを帯びたその横顔を、ただ静かに見つめながらファイの声に耳を傾ける。
「オレは頭がおかしいわけでも、可哀想なわけでもないし、弱くもなかった」
「……ああ。わかってる」
出会った頃、黒鋼はファイのことを頭の足りない子だとばかり思いこんでいた。しかし、ファイがそんな黒鋼の思い込みを見抜いていたことにまでは、気がつかなかった。
「そのはずなのにね」
むき出しの尖った肩を震わせて、彼は吐息のような声で小さく笑う。
「君といたら、オレはどんどん我侭になって、どんどん……欲張りになってしまった」
ファイは畳の上に落ちている、汚れた眼帯に指を伸ばした。彼の身体を清めているときに偶然落ちてしまったものを、黒鋼はあえてそのままにしていた。彼が一番に隠したがっている傷だったことは、知っていたけれど。
「気持ち悪いでしょ。この傷」
その傷はファイの目蓋の上に、縦に薄い割れ目を作っていた。彼の左目に、眼球は存在しない。
「昔はもっと濃かったんだ。濃くて、ぐちゃぐちゃしてて、醜かった……」
幼い頃、このような傷を負う以前から大人たちはみなファイを指差しては『醜い子』だと罵った。大好きだった小学校の向かいの商店のばあさんは、足を悪くして杖をついているが、それ以外は今もしぶとく健在だった。
「あのとき」
ファイは眼帯を拾い上げようとする手を止めた。痛々しい傷の残る目蓋に、指先を這わせる。
「最後に花火をした夏の夜のこと、覚えてる?」
「ああ」
忘れられるはずがない。自分で自分を心底恐ろしいと感じた、決定的な瞬間だった。
「あのときのこと、本当はずっと謝りたかった」
「必要ねぇだろ。あれはむしろ俺が」
「違うよ」
ファイは黒鋼を見ない。ずっと畳の上で泥に塗れた眼帯へ視線を落としたままだった。
「あのときね、これを見られるんじゃないかって、それが怖かったんだ。君に怯えたわけじゃ、なかったんだよ」
滾る衝動のままに奪おうとした、あの瞬間のことを思い出す。夢の中の獰猛な自分と、理性で己を押さえつけようとしていた現実の自分との間に、見境を失ってしまったあのとき。
間近で見たファイは酷く怯えて、震えていた。結果的に彼の身体を無理矢理こじ開けてしまった今の黒鋼にとって、あのときの自分を責めることは出来ない。ただ、おそらく結果は違っていたのだろうと思う。
なぜなら、今の自分は一切の後悔をしていないからだった。
あの頃はこの感情を汚らわしいものだと思い込んでいた。ファイが傷を負ったのは左目だけではなく、心にもまだ大きな亀裂が残ったままだったことなど、本当の意味で知りもしないで。自分ばかりが追い詰められたような気になっていた。
だがこれだけははっきりしている。たとえその傷がどんなに惨いものだったとしても、彼への気持ちは変わらなかっただろう。今も、そして昔も。
黒鋼はそっと手を伸ばし、ファイの左頬に手を添えた。その肩が、また少し震える。上向かせて、真正面から傷と向き合った。閉じられた目蓋。眼球のない、虚ろな皮膚。それさえも愛しいのだと、そっと傷口に口付ける。
「君がこんなことで変わってしまうような人間じゃないってことくらい、今ならちゃんとわかるのに。傷ついた君をあの公園に置き去りにして、最初に逃げ出したのはオレの方だった」
信じ合えていたのは二人がまだ幼すぎたからだった。
あの頃は感情だけが全てで、手を繋いでさえいれば心は通じ合うものだとばかり思い込んでいた。強く、そして多くを望めばそれだけでは足りないのに。
そして逆に、言葉だけでは分かり合えないものも、確かに存在している。距離が近ければ近いほど、埋め尽くせないものはどんどん増えていくばかりだった。
「ごめんね、黒鋼」
黒鋼は、もともとある眉間の皺をさらに深いものにした。
「そうじゃねぇだろ」
「?」
顰めっ面の黒鋼を、暫しきょとんとした表情で見つめていたファイは、次の瞬間にはゆっくりと笑みを浮かべた。
「……黒たん」
「おう」
ファイの笑顔が少しずつ歪んでゆく。
「黒わんこ」
「ああ」
残された右目に、みるみる涙が溜まっていく。黒鋼は笑った。
「黒様」
「なんだよ」
彼の瞳から大粒の涙が零れるのと、二人がしっかりと抱き合うのは同時だった。黒鋼の胸に顔を埋めて、ファイは小さな子供のように泣きじゃくった。
「どこにも行かないで……傍にいてよ……オレを、一人にしないで……」
「俺はここにいる。おまえの傍にいる。だからおまえも傍にいてくれ……俺の傍に」
ファイはファイが言えなかったことを。黒鋼は、黒鋼が言えなかったことを。
ずっと言いたくても言えなかったことを、抱き合いながら口にした。
それはもう、幼く儚い約束ではなかった。ファイを守らねばならないという、無責任で自分勝手な義務感からでもない。自分自身が心からそうしたいから。彼でなければ駄目なのだということが、痛いくらい分かっているから。
欲しいものを欲しいと、心から言えるようになったから。
「ばか」
「ああ」
「黒たんのばか」
「悪かった」
「離れたいなんて思っても、もう離してやらないから」
鼻を啜りながら、ファイは幾度も黒鋼に向かって「ばか」と繰り返した。言われる度、黒鋼はただ苦笑しながら、そのいじらしい責めを受け止め続ける。
一回一回律儀に返事を返しつつ、震える背中を擦ってやった。やがて。
「大好きだよ」
黒鋼の胸から顔を上げたファイは、鼻を真っ赤にしながらも、ようやくその言葉を口にして、鮮やかに微笑んだのだった。
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滅茶苦茶になってしまった水曜日の教室は、翌週に繰り越して再度仕切りなおすことになっていた。
子供達はどんよりとした曇り空の下の景色を、一日中落ち着きなく眺めていた。
けれど、彼らの待ち人は来なかった。
*
大きな屋敷は、ついに降り出した雨の中どこか暗く、そして重い雰囲気を醸し出していた。
燻るだけだった蕾がこの数日の間に一気に花開き、ようやく美しい花を咲かせたと思った途端にこれである。花散らしの雨だった。
黒鋼は、昔はただの廃墟でしかなかったはずの、改築された建物の脇に車を停めた。白いコンクリートの殻に覆われたそれは、茶屋というよりは小奇麗なケーキ屋か、あるいは喫茶店のようにも見える外観だった。
ガラス張りの入り口には『本日休業』という札がかかっており、中は薄暗くて人気がない。
店の前には、店の名前とロゴが入った白いワゴンが停められている。家人はいるということだろうか。
車を降り、黒い傘を差す。店の様子を窺いながら足早に坂道を登った。以前は砂利道だったが、そこも綺麗にコンクリートで舗装されていた。
門は半分だけ中途半端に開放されていた。温い風に吹かれてキイキイと甲高い音を立てながら揺れている。
雨が強くなったり弱くなったりを繰り返す中で、黒鋼は玄関先まで足を運ぶと、重々しく閉ざされた曇りガラスの引き戸を開けた。田舎の町では、ほとんどの家が昼も夜も玄関の鍵を解放している。無用心にも思われるが、しっかりと戸締りをすることで逆に町人同士のコミュニケーションが成り立たない場合もある。どこまでもつまらない習慣だと思う。
「おい、いるか」
薄暗い廊下へ向けて、挨拶代わりの一声を放った。大きな屋敷である。たったそれだけで返答が得られるとは思わない。
傘を閉じて適当に立てかけると中に入り込んだ。もう一度、今度は大きな声で全く同じ言葉を無人の廊下へ向けて放った。やはり、返答はない。
さすがに、家人がいるかどうかも分からない家の内部にまで上がり込むだけの図々しさは、持ち合わせていなかった。硬質で冷ややかな屋敷の空気が、どこか訪れた者を拒んでいるような気さえする。
仕方なく、黒鋼は再び傘を持つと表へ出た。庭から回り込むことにする。雨が強くなればなるほど、なぜか胸騒ぎが増していくようだった。
彼はいるのか、いないのか。そもそもこの屋敷には本当に人が住んでいるのだろうか。あまりにも静かで、重々しく、そして暗い。子供の頃には感じたことのない違和感が、微かな不安を煽る。
ファイの祖父が死んでからはここへ遊びに来ることがよくあったが、当時は玄関に入ればいつも笑顔のばあさんが出迎えてくれた。あの頃まだ子供だった黒鋼から見ても、とても小さな人だった。彼女がもういないのだと思うと、今更のように込み上げてくるものがある。
たった二人で暮らすにも大きすぎる屋敷。ここでファイは一人きりで生活をしているのだ。
ぼんやりと物思いに耽りつつ、ぐるりと回りこむようにして草木の茂る庭に足を踏み入れた。そこで黒鋼は息を飲む。
ファイを探しにわざわざ足を運んだくせに、いざ当人を目の当たりにして少し驚いた。いるはずだと分かってはいても、ここにはあまりにも人の気配がなさすぎるから。
「なにしてる」
彼は、雨の降りしきる庭の中央に茫然と立ち尽くしていた。傘も差さずに、裸足で濡れそぼっている。
黒鋼が声をかけても、ファイは振り向かない。ただ、ほんの少し肩を震わせた。
「おい」
近寄って、今更だとは思いつつ傘を彼の頭上へと翳した。そこで、ようやく青い瞳が黒鋼を見上げた。青白く透き通るような肌が、まるで死人のようだった。
背筋を嫌な寒気が駆け抜ける。彼は、一体なにをしていたのだろう。
「来れねぇなら連絡ぐれぇしたらどうだ。ガキ共が心配して」
「いないんだ」
「……あ?」
黒鋼の言葉を遮ったファイが、庭をキョロキョロと見渡している。差してやった傘の下からゆらりと抜け出して、ふらふらとどこかへ行こうとする。
「おい」
咄嗟に腕を掴んだ。氷のように冷え切った肌が、彼の纏う白いシャツ越しに手の平に伝わる。どれだけ長い間、彼は雨に打たれていたのだろうか。
「いないんだよ、どこにも」
「なにが」
「チィがいない」
「ちぃ?」
「朝からずっと探しているのに、見つからない……どうしよう……見つからないよ……」
ファイは独り言のように呟くと、スルリと黒鋼の腕を擦り抜けた。強く掴んでいたつもりだったその腕が、いとも簡単に遠のいてしまう。
「チィ、どこ? チィ、出ておいで」
彼の目には黒鋼など最初から映っていないようだった。その心はどこか別の場所にある。黒のタイトなパンツが泥で汚れるのも構わずに膝をついて軒下を覗き、草木の影を這いずっては「チィ」の名を呼んでいる。
ふと、知世から『猫の目』には白い猫がいるという話を聞いたことを思い出した。看板猫として人気があるのだと。
「チィってのは、おまえの猫か」
「いない……。家の中も外も、ずっと探してるんだ。今日はまだご飯だって食べてないんだよ。お腹を空かせて、どこかで動けなくなってるのかな……」
そう言って、ファイは黒鋼に背を向けたまま蹲ってしまった。泣いているのだろうか。けれど彼をこのままにしておくことはできない。黒鋼は苛立っていた。
「いい加減にしねぇか。ひとまず家ん中入るぞ」
再びその腕を掴んで強引に立ち上がらせる。軽い、空っぽの人形のような身体だった。
「やだよ」
腕の中で、人形が首を左右に振る。黒鋼は眉間に深い皺を刻んだ。今度は離れないようにと、強くその腕を掴む手に力を込める。
「帰って。君には関係ない」
「……なんだと?」
「離してよ」
間近で見た彼は、泣いてはいなかった。その表情には一切の感情の色がない。声にさえ、抑揚がない。身を捩って離れようとする腕に爪を立てた。
「痛い」
離して、と彼は再び言った。黒鋼の中の、言いようのない苛立ちがピークに達していた。半ば引き摺るようにして彼を縁側へと連れて行こうとすれば、そのはずみで傘が地に落ちた。でも今は、そんなものはどうでもいい。
それよりも、腕の中で暴れ出したファイを抑えつけることの方が厄介で、そして重要なことだった。
「離してってば! 関係ないって言ってるでしょう!?」
「うるせぇんだよ! バカみたいに濡れやがって、ちっとは冷静になれ!!」
そう言う黒鋼も、傘を手放したことによりみるみるうちに雨に晒され濡れてゆく。ファイがもがいて、その泥だらけの手がジャージを汚した。
簡単に捻じ伏せられると思っていたその身体は、驚くほど強くしつこかった。それこそ猫のように柔軟に逃げを打ち、抱え込もうにも苦労を要する。
雨の中、大の大人が取っ組み合っている様子など、他の誰かが見れば気が触れているとしか思えない光景だろう。
「離せっ! 離せって言ってんだよ……っ!!」
ファイの目付きも、口調も変わった。振り上げられた手が、黒鋼の頬に泥と共に引っ掻き傷を作る。それは思った以上に鋭く、強靭な刃となって焼けるような痛みをもたらした。
「っ……!」
滲む血液に、息を飲んだのはファイだった。その一瞬の隙をついて、黒鋼は冷え切った身体を強く抱きしめる。
茫然としていたファイだったが、すぐに火がついたように再び暴れ出す。けれどもう離さない。彼が力尽きるまで堪え続けるだけだ。冷たかった身体が、腕の中でみるみるうちに熱くなる。
固い拳が強く肩や背を叩いても、首や頬に傷を作っても、黒鋼は彼を決して離さなかった。ファイは興奮した獣のようにヒステリックに唸り、時折口汚い言葉を黒鋼に向けて放ちながら、ひたすら暴れた。
だが、それだけ激しく抵抗すれば力が弱まっていくのに時間はかからなかった。僅かに腕の力を抜いた瞬間、ファイは黒鋼の左肩にガックリと顔を埋めた。ひたすら打ち付けられていた拳が、ダラリと下がる。
激しく呼吸を繰り返す背をあやすように撫でると、最後の力とばかりに、再び握られた拳が黒鋼の左肩に打ち付けられた。それから、くぐもった声が悔しそうに「ちくしょう」と紡がれるのを聞いた。ファイの動きは、完全に止まった。
黒鋼は、少しだけ笑った。
「おまえ、実はとんでもねぇ癇癪持ちだったんだな」
知らなかった。彼のこれほどまでに激しく感情を曝け出す様や、荒々しく甲走った声を初めて聞いた。毛を逆立て、まるで別人のような口調で怒鳴りながら暴れる姿は、おっとりとした物腰と、目を離せば風船のようにふわふわと飛んで行きそうだった彼からは大きくかけ離れていた。
うるさい、という小さな声がして、まるで子供がむずがるような仕草でファイが黒鋼の肩に額を擦り付けた。
「なんで……なんでだよ……」
「…………」
「なんで、来たの……?」
あれほど激しかった雨が少しずつ弱まり、霧のような優しさで二人を包む。ファイが身体を震わせた。今度こそ、泣き出すのかもしれない。さらに強く抱きしめると、下げられていた彼の両腕が黒鋼の背に回り、爪を立てた。
「もう関係ないだろ……どうしてオレに関わるんだ……どうせ、どうせまた……」
置いて行くくせに。
ファイの言葉は、黒鋼の胸を的確に貫いた。振り上げられる爪や拳などより、よほど痛い。けれど、この痛みと向き合うために、黒鋼はここにいる。彼を抱いている。
「おまえなんかいらないんだ。オレはもう子供じゃないし、弱くも小さくもないんだ。一人で歩ける。だからもういらない……いらないのに……」
「俺には必要だ」
どんなに安っぽい言葉だって構わない。何も言わずに伝わらないままなら、どれほど無様でも声に出して言ってしまった方がましだ。もう感情を殺すことも、目を背けるつもりもなかった。
ファイが顔を上げる。信じられないものを見るかのように、大きく目を見開いている。
「おまえが俺を必要としなくても、俺には、必要だ」
青褪めていた表情が、くしゃりと歪んだ。泣き出しそうな顔にも、悔しそうな顔にも見える。あるいは、その両方だったのかもしれない。
「ふざけるなよ……今更、もう遅いんだ……」
「わかってる」
「嘘つき……大切な人がいるって言ってたじゃないか……だから解放してあげたのに……なんで今更、どうしてオレなの」
何もかもファイを忘れるためだった。蘇摩と破局して、それからも幾人かと肌を重ねたし、恋人まがいの付き合いもしてきた。けれど、その度に虚しくなるだけだった。分かっていたのに、止められなかった。
「いいか。よく聞けよ」
「嫌だ、何も聞きたくない! どうせ嘘ばっかりだ! 信じられるわけ……」
「いいから聞け」
雨と泥と、そして涙に濡れた頬を両の手の平で包み込んだ。真っ直ぐに目を合わせながら、黒鋼は告げる。長い時を超えて、ずっと伝えたかった大切な言葉を。
「お前が好きだ」
その瞬間、ファイがぐっと息を詰める。それから、ふい、と顔を背けようとする。けれど頬に添えた手でそれを許さなかった。
「知らない」
「俺を見ろ。知らねぇってんなら教えてやるよ」
「くろ……」
「好きなだけ抵抗すりゃあいい」
――だから。
「俺におまえを口説かせろ」
*
「や、ぁ……ッ」
冷たい縁側の床の上で、黒鋼はファイに覆いかぶさると逃げようとする唇を幾度も捕らえては深く重ねて貪った。
嫌々と身を捩るファイの両腕を一纏めにして掴み上げ、床に縫い付けるようにして押さえつけ、その自由を奪う。
口内で逃げ惑う舌を容赦なく追い詰めては絡ませ、吸い上げた。
初めて味わう彼の味は、まるで砂糖のような甘さで黒鋼の脳内を犯していくようだった。その甘さが錯覚でも構わない。彼がその気になれば、すぐにでもこれは鉄の味に豹変してしまう。
本当に嫌ならば、歯を立ててこの舌を噛み千切ればいい。先刻のように激しく暴れて、この頬を殴りつければいい。彼はもうひ弱な子供ではない。体格に差があれども、その気になれば相手を張り倒してでも逃れるだけの力があるはずだった。
けれどファイは、それをしない。
強引に犯すようなやり方で押さえつけているその実、いつでも逃れられるようにと隙を与えている黒鋼に、彼は気づいているはずだった。
まだ十代だったあの夏の日に、二人は思いを打ち明けあっている。別れの言葉と共に、過ぎてしまった過去を振り切るようにして背を向けあった。
黒鋼は己がそうであるように、ファイもまた自分を思い続けてくれていたということに確信を持っていた。けれど、察するだけでは意味がない。自分はここへ、彼へ再び思いを告げると同時に、言葉を交わすためにやって来たのだから。
合間に、黒鋼は幾度も「好きだ」と告げた。その度に、ファイの口からは「嫌だ」という否定の言葉が漏れる。黒鋼は、どんなに時間をかけてでも彼の心を溶かすつもりだった。ファイの口から、気持ちを形にして聞かなければ意味がなかった。
「ずっとこうしたかった。これが、俺がおまえから逃げた理由だ。気づいてたんだろ?」
雨の香りがする首筋に顔を埋めて、下から囁くようにして告げた。濡れたシャツの裾から冷えた肌へ手を滑らせると、ファイは嫌々と首を振った。
「っ、……しら、ない……知らない、よ」
「こうやって、おまえを犯す夢ばかり見ていた。俺は俺が許せなかった」
「あっ! や、だ……ッ、し、らな……」
器用に泥に濡れたシャツのボタンを内側から外していきながら、露になった滑らかな白い肌に吸い付く。戒めていた両手を解放しても、ファイはビクビクと身体を震わせるだけで、黒鋼を遠ざけようとはしなかった。カリカリと、冷たい床を爪で掻いている。
細い身体はしっとりと濡れて、まるで若い女のような肌理の細かさで黒鋼を誘っていた。夢にまで見た身体。これまで抱いてきたどんな女よりも貧弱で青白く、当たり前のように平らな胸が黒鋼を恐ろしいまでに興奮させた。
いつの間にか解けていた金色の髪が、緩やかな弧を描いて冷たい板張りの床に散らばっていた。
「誰を抱いても、おまえのことを考えていた」
「く、ろ……ッ」
この身体は他の人間の熱を知っているのだろうか。黒鋼がそうしてきたように、誰かをこの腕に抱いたのだろうか。あるいは、抱かれたのだろうか。
それを思うと不思議と情欲が煽られる。愛しさと同時に憎しみさえも頭を擡げ、その紙一重の感情に気が狂ってしまいそうだった。
黒鋼は自らも濡れて皮膚に張り付いている、泥だらけのジャージを中のシャツごと乱雑に脱ぎ捨てた。辺りがゆっくりと闇に溶ける中、ファイがビクリと身を震わせる。無垢な生娘のような反応だった。
「ぁ、や……もう、触らないで……」
再び身体を合わせると、ようやく彼からの虚しい抵抗が始まった。床を掻いていた手が黒鋼の痣の出来た肩をぐいと押す。弱々しかった。
「嫌なら殺してでも逃げりゃあいい。好きなだけ抵抗しろって言ったろうが」
細い腰を片腕で抱きこんで、浮いた鎖骨に口付ける。そうしながら、もう片方の手はファイの下半身を包む邪魔なものを解きにかかっていた。ファイは腰を躍らせながら膝を立てた。閉じたくとも、黒鋼はすでに身体を割り込ませている。
それでも、容赦なく蹴り飛ばすことは可能なはずだった。
「ずるいよ……そんなこと出来ないって、知ってるくせに……」
「言えよ。てめぇはどうだったんだ。俺を殴ってでも遠ざけないのはなぜだ」
「そんなの、そんなの分かんないよ……なんで、こんな」
ファイはその美しい瞳に涙を浮き上がらせていた。黒鋼が身を乗り上げながらその目元に舌を這わせる。堪え続けていたのであろう雫が、いとも簡単に零れ落ちた。
ふと、濡れている眼帯に触れかけて、止めた。身体の中心部に手を潜り込ませると、細い身体が一段と激しく震えた。
「やっ、いやだ……!」
指先に当たるのは濡れた感触と、張り詰めた性器の熱さだった。彼は感じていた。さんざん嫌だと口走りながら、快感を得ている。
鬱陶しいものを下着ごと下ろしてしまうと、白い太腿が露になった。黒鋼はその内側にも吸い付いた。手の中で、ファイ自身が大きく震える。堪らなかった。ゆるく握り込んで扱いてやれば、甲高い悲鳴が静かな雨音を掻き消した。
「ヒッ、だ、め、だめ、やだ……、はなし……っ」
黒鋼は、否定の言葉を吐き出しながらも感じ入っているファイの表情をひたすら眺めた。それは泣き顔に似ていて、実際彼は泣いているのだけれど、決して手を止めない。
やがて、あっけないほどすぐに彼はその精を放った。打ち上げられた魚のように、白い腹がビクビクと蠢く。強張っていた全身から力が抜けて、黒鋼の肩を掴んでいた両手ががっくりと床に投げ出された。
黒鋼はどこか恍惚とした表情で震える息を吐き出す。絶頂を迎える瞬間の、ファイの痛々しい表情は酷く可愛らしいものだった。細い呼吸を忙しなく繰り返しては、ヒクヒクと痙攣する身体が愛しい。抱きたい。中に入りたい。一つになりたい。濡れた指を、奥まった二つの丘の中心に潜り込ませた。
「――っ!?」
ファイは全身を引き攣らせて片目を大きく見開いた。硬く窄まったそこは黒鋼の指を強く拒む。けれど、彼自身が放った体液がそれを助ける。関節ごとに引っかかりながらもゆっくりと潜り込ませていけば、ファイが悲鳴を上げた。
「い、や、ぁ……! ダメ、だっ! 入れないで…ッ、オレの中、入ってこないで……!」
腰をくねらせ、ずるずると上へ上へと逃げようとするファイの足首を掴んで、ズルリと引き戻す。その瞬間、内部に潜り込んでいた指がある一点に触れた。細い身体が哀れなほどに大きく跳ね上がる。
「ッ!?」
「ここか……?」
「ひっ、ぃ……ッ! そこ、何、それ、やだ……!」
クリクリとその部分を刺激すれば、抵抗がぴったりと止んだ。見つけた。ここが、ファイの感じる場所だ。
彼は未知なる快感に激しく身悶えている。少なくとも、この身体は男を知らない。そのことに異常なまでに安堵している自分がいる。
甘い声の上がるその場所を執拗に刺激し、彼の中で荒れ狂う快感に乗じて指を増やした。中を広げるように、幾度も出し入れを繰り返す。
「くろ、おねが……っ、も、やめ、て……っ」
黒鋼はゆっくりと刺激していた内部から指を引き抜いた。そして、ぐったりと床に沈んでいるファイの、力の抜けた両足を割り開く。すでに限界まで張り詰めて先走りを零す自身を取り出し、そっと宛がう。
「ダメだ……入ってこないで……そんなことしたら、戻れなくなる……」
「俺はおまえが欲しい……ずっと、ガキの頃から思ってた」
「怖いんだ黒鋼……もう何も、失くしたくないのに……」
「てめぇはもう何も失くしやしねぇよ」
彼が欲しがれば、幼い頃よりもっと多くのものを与えてやれる。だからこそ、黒鋼が求めるものは彼にしかもたらすことが出来ない。こんなにも互いを欲してるではないか。どこに逃げ道があるというのか。逃げる必要など、最初からなかったというのに。
黒鋼が身を進める中、ファイはひたすら「こわい」という言葉を繰り返しながら泣いていた。強く抱きしめて、幾度も呼吸を整える。遠のきつつあった雨が、再び激しく降り出していた。いつしか、ファイの腕が黒鋼の背を掻き抱いていた。
「はっ、ぅ……ぁ……!」
全てを納めるのにどれだけの時間がかかったのか知れない。あっという間だったのかもしれないし、気の遠くなるほどの時間を要したのかもしれない。
二人は抱き合って繋がりながら、ひたすら忙しない呼吸を繰り返していた。性器が食いちぎられそうなほどの締め付けに晒されている。痛いのか、感じているのかさえ分からない。ただ、熱い。
黒鋼は苦しげに呼吸を繰り返すファイの額に手の平を這わせた。濡れた目元にキスをする。閉じられたままだった瞳がゆっくりと開いた。暗闇の中でも、それが分かった。
「辛いか……?」
「嫌だって、言ったのに……」
「憎むか? 俺を」
「……憎んでも、愛しても……君はオレのものにはならないじゃないか……」
「まだ分からねぇのか。おまえの中には今……誰がいる?」
「そんなの……ッ」
答えを待たずして、黒鋼は腰を動かした。ファイが泣く。啼きながら、黒鋼の背に爪を立てる。白い両足が腰に絡みつく。唇を合わせれば、その舌はもう逃げない。負けじと絡み付いてくる。まるで競っているかのように、互いが舌を絡め、腰を振った。
夢にまで見た愛しい身体。その内側。叫び出したいほどに、黒鋼の心は歓喜に慄いていた。幼くあどけない、天使のようだった幼馴染の身体を、無骨なこの手が割り開き、そしてその薄い肉を犯している。恐ろしいまでの倒錯的な快楽に、気を抜けば意識が遠のきそうなほどに酔い痴れる。
重なり合う二つの荒々しい呼吸は、まるで獣にでもなり下がったかのようだった。痛みは快楽へと変わり、快楽がもたらす痛みは二人の身体を完全に支配していた。
「たす、けて……もう、ねぇ、黒鋼……ッ!」
切れ切れに声を紡ぐファイを、力任せに抱きしめた。どんなに力を込めても、簡単には折れないことを知っている。きっと昔からそうだった。まるで壊れ物を扱うように大切にしていたつもりでいたけれど、彼はちょっとやそっとで壊れたりなどしなかったのだ。
「離せなく、なる……ッ! も、あっ、嫌、なのにッ、……やァ、ぅ、うぅっ、くろ……っ!」
「離さねぇよ……っ、てめぇが信じようが信じまいが、俺は」
ここにいるのだから。この場所へ帰ってきたのだから。回り道をして、ようやく。
「おまえを、愛してる」
そのたった一言を、告げることが出来たのだから。
*
しとしとと降り続ける雨の音。その音に紛れて、猫が、鳴いた。
雨は、全ての花を散らしてしまっただろうか。
遠のいてはまた近づくのを繰り返しながら、それは降り続いていた。
障子の向こうで草木の揺れるどす黒いシルエットが見える。それを眺めながら、今年は帰郷して初めての花見を楽しむつもりだったのにと、少し残念に思った。
ビルばかりが建ち並ぶ場所に暮らしていたときには、ゆっくりと花を眺めようなどとは露ほども思わなかったくせに、なんだかおかしかった。
暗い部屋の中では和紙で覆われた間接照明が時折ゆらりと揺らめいていた。電球が切れかかっているのか、ひどく頼りない明りだった。
傍らで、ファイがゆっくりと起き上がる。
「平気か」
「……うん」
激しく身体を繋げながら、限界に達したときにはファイの意識は深く眠りについていた。
汗と泥と涙と、そして互いの精液で汚れていた二人分の身体を適当に沸かした湯で清めて、これまた適当に引っ張り出した、おそらくは客用の布団に彼を移し、自分もその隣で少しだけ眠った。
すでに身を起こしていた黒鋼は、不安定な明りに幾分やつれて見えるファイの横顔を見つめた。会わない間にすっかり伸びた髪が頬に張り付いて、尚のことそう見せるのかもしれない。
互いに何を話すでもなく、あるいは何を言えばいいのか分からずに、ただ長い沈黙が流れるだけだった。
けれど。
「オレには……」
雨音と草木がざわめく音が酷く遠くに聞こえる中、沈黙を破ったのはファイだった。
「君の優しさは、とても残酷だったよ」
それはまるで一人ごとのような、小さな呟きだった。
黒鋼は頼りない照明に翳りを帯びたその横顔を、ただ静かに見つめながらファイの声に耳を傾ける。
「オレは頭がおかしいわけでも、可哀想なわけでもないし、弱くもなかった」
「……ああ。わかってる」
出会った頃、黒鋼はファイのことを頭の足りない子だとばかり思いこんでいた。しかし、ファイがそんな黒鋼の思い込みを見抜いていたことにまでは、気がつかなかった。
「そのはずなのにね」
むき出しの尖った肩を震わせて、彼は吐息のような声で小さく笑う。
「君といたら、オレはどんどん我侭になって、どんどん……欲張りになってしまった」
ファイは畳の上に落ちている、汚れた眼帯に指を伸ばした。彼の身体を清めているときに偶然落ちてしまったものを、黒鋼はあえてそのままにしていた。彼が一番に隠したがっている傷だったことは、知っていたけれど。
「気持ち悪いでしょ。この傷」
その傷はファイの目蓋の上に、縦に薄い割れ目を作っていた。彼の左目に、眼球は存在しない。
「昔はもっと濃かったんだ。濃くて、ぐちゃぐちゃしてて、醜かった……」
幼い頃、このような傷を負う以前から大人たちはみなファイを指差しては『醜い子』だと罵った。大好きだった小学校の向かいの商店のばあさんは、足を悪くして杖をついているが、それ以外は今もしぶとく健在だった。
「あのとき」
ファイは眼帯を拾い上げようとする手を止めた。痛々しい傷の残る目蓋に、指先を這わせる。
「最後に花火をした夏の夜のこと、覚えてる?」
「ああ」
忘れられるはずがない。自分で自分を心底恐ろしいと感じた、決定的な瞬間だった。
「あのときのこと、本当はずっと謝りたかった」
「必要ねぇだろ。あれはむしろ俺が」
「違うよ」
ファイは黒鋼を見ない。ずっと畳の上で泥に塗れた眼帯へ視線を落としたままだった。
「あのときね、これを見られるんじゃないかって、それが怖かったんだ。君に怯えたわけじゃ、なかったんだよ」
滾る衝動のままに奪おうとした、あの瞬間のことを思い出す。夢の中の獰猛な自分と、理性で己を押さえつけようとしていた現実の自分との間に、見境を失ってしまったあのとき。
間近で見たファイは酷く怯えて、震えていた。結果的に彼の身体を無理矢理こじ開けてしまった今の黒鋼にとって、あのときの自分を責めることは出来ない。ただ、おそらく結果は違っていたのだろうと思う。
なぜなら、今の自分は一切の後悔をしていないからだった。
あの頃はこの感情を汚らわしいものだと思い込んでいた。ファイが傷を負ったのは左目だけではなく、心にもまだ大きな亀裂が残ったままだったことなど、本当の意味で知りもしないで。自分ばかりが追い詰められたような気になっていた。
だがこれだけははっきりしている。たとえその傷がどんなに惨いものだったとしても、彼への気持ちは変わらなかっただろう。今も、そして昔も。
黒鋼はそっと手を伸ばし、ファイの左頬に手を添えた。その肩が、また少し震える。上向かせて、真正面から傷と向き合った。閉じられた目蓋。眼球のない、虚ろな皮膚。それさえも愛しいのだと、そっと傷口に口付ける。
「君がこんなことで変わってしまうような人間じゃないってことくらい、今ならちゃんとわかるのに。傷ついた君をあの公園に置き去りにして、最初に逃げ出したのはオレの方だった」
信じ合えていたのは二人がまだ幼すぎたからだった。
あの頃は感情だけが全てで、手を繋いでさえいれば心は通じ合うものだとばかり思い込んでいた。強く、そして多くを望めばそれだけでは足りないのに。
そして逆に、言葉だけでは分かり合えないものも、確かに存在している。距離が近ければ近いほど、埋め尽くせないものはどんどん増えていくばかりだった。
「ごめんね、黒鋼」
黒鋼は、もともとある眉間の皺をさらに深いものにした。
「そうじゃねぇだろ」
「?」
顰めっ面の黒鋼を、暫しきょとんとした表情で見つめていたファイは、次の瞬間にはゆっくりと笑みを浮かべた。
「……黒たん」
「おう」
ファイの笑顔が少しずつ歪んでゆく。
「黒わんこ」
「ああ」
残された右目に、みるみる涙が溜まっていく。黒鋼は笑った。
「黒様」
「なんだよ」
彼の瞳から大粒の涙が零れるのと、二人がしっかりと抱き合うのは同時だった。黒鋼の胸に顔を埋めて、ファイは小さな子供のように泣きじゃくった。
「どこにも行かないで……傍にいてよ……オレを、一人にしないで……」
「俺はここにいる。おまえの傍にいる。だからおまえも傍にいてくれ……俺の傍に」
ファイはファイが言えなかったことを。黒鋼は、黒鋼が言えなかったことを。
ずっと言いたくても言えなかったことを、抱き合いながら口にした。
それはもう、幼く儚い約束ではなかった。ファイを守らねばならないという、無責任で自分勝手な義務感からでもない。自分自身が心からそうしたいから。彼でなければ駄目なのだということが、痛いくらい分かっているから。
欲しいものを欲しいと、心から言えるようになったから。
「ばか」
「ああ」
「黒たんのばか」
「悪かった」
「離れたいなんて思っても、もう離してやらないから」
鼻を啜りながら、ファイは幾度も黒鋼に向かって「ばか」と繰り返した。言われる度、黒鋼はただ苦笑しながら、そのいじらしい責めを受け止め続ける。
一回一回律儀に返事を返しつつ、震える背中を擦ってやった。やがて。
「大好きだよ」
黒鋼の胸から顔を上げたファイは、鼻を真っ赤にしながらも、ようやくその言葉を口にして、鮮やかに微笑んだのだった。
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幼馴染
風呂上りの深夜のこと。
茶の間に明りが点いているのに気がついた黒鋼は、冷蔵庫から冷えたビールを取り出しがてらそこへ顔を出した。
「あら、お父さんかと思った」
そこにいたのは以前より幾分か痩せた母だった。
「珍しいな。夜更かしか」
「もう、お風呂上りにビールなんて……なんだかすっかりお父さん臭いわよ」
「これぐらい普通だろ」
「お腹がポッコリしたって知らないんだから。そうなったら格好悪いわよ」
せっかくお父さんそっくりに産んであげたのに、となおも言い募る母に、黒鋼は腰を下ろしつつ苦笑する。ビールの缶はとりあえず足元に避けた。そして、母がテーブルの上に出して眺めていたものに目を留める。
それは古い、アルバムのようだった。
「懐かしいな」
そこには黒鋼や知世の幼い頃の写真がズラリと綺麗に並べられている。写り込んでいる両親も、今より驚くほど若かった。元気そうな鋼丸の姿もある。
「そうでしょう? 整理してたら、なんだか止まらなくなっちゃったの」
「それで夜更かしか」
もう若くねぇんだから、という冗談めいた余計な一言は腹の中に仕舞い込んで口にはしない。母は怒ると果てしなく厄介だ。思えば知世も、ますますこの母に似てきたような気がする。
「ほら見て。知世が産まれたときの写真。貴方、なんて顔してるのかしら」
そこには、産まれたばかりの赤ん坊を目の前に、どうすればいいか分からず顔を顰める幼い自分がいた。
あのときのことは、今でもよく覚えている。早朝に母が病院で産気づいたという知らせを受け、慌てて父と共に車で産婦人科へと向かったのだ。出産予定日よりも、数日早かった。父の動揺ぶりといったら、今ではちょっとした笑い話だ。
眠気が取れずにうつらうつらしていた黒鋼の周りを、父が忙しなく歩き回っていたのをよく覚えている。
「あっという間だったわね。貴方も知世もすっかり大人になって……お父さんもお母さんも歳を取って当たり前ね」
「何言ってんだ。まだ若いだろ」
先刻思ったこととは逆のことを口にする。いざ両親に儚げな姿を見せられれば、幾つになろうと若く元気であって欲しいとしみじみ思うものだ。
そのとき、アルバムの中に納まりきらない写真の束が数枚、母の手からポロリと零れ落ちた。
スルリと滑るようにして畳の上に落ちてしまったそれを、咄嗟に拾い上げる。黒鋼は、僅かに目を見開いてそれを凝視した。
「ああ、それも残っていたのね」
「お袋、この人は……?」
母は懐かしそうに瞳を細めた。その微笑は、なぜか切ない。
「よく似てるでしょう?」
「…………」
黒鋼は、写真の中に写り込む一人の女性から目が離せなかった。黒鋼の記憶の中にはない、いっそ幼ささえ残る若い両親の間で、その女性は優しく微笑んでいた。
セピア色の写真の中、色素の薄い柔らかな長い髪に、少し垂れている可愛らしい目元。薄い唇。母の言うとおり。彼女はよく似ているのだ。ファイに。
驚いて声も出ない黒鋼に、母は楽しそうに笑った。まるでイタズラが成功した子供のようだと思った。
「お母さんよ。彼のね。そして、私とお父さんの大切な幼馴染」
母は黒鋼の手から写真を取ると、そっと彼女を指先で撫でた。
「どこにいるか、わからないのよ」
「生きてんのかも……?」
「わからないの……彼も知らないみたいね」
ファイも知らない。彼はたった一人でこの町へやって来たのだ。彼の祖父が死んだときも、姿を見ていない。
「この子はね、女の子で初めて出来た友達だったの。知ってるでしょう? お母さんも、他所の町からここへ来たの」
「父さんに聞いた」
「お父さんと私と、この子と。いつも一緒だったわ。だから母さん、笑っていられたの」
当時のことを思い出して、懐かしそうに語る母の言葉を聞きながら、黒鋼は同時に思い出していた。父が言っていた『味方』とは、彼女のことだったのだ。
「彼女が励ましてくれたから、お母さんとお父さんは一緒になれたの。彼女がいなかったら、今頃は貴方も知世も産まれていなかったかもしれないわね」
父と母が結ばれていなかったら。彼らは、どんな人生を歩んでいたのだろう。想像するのは難しかった。黒鋼にとって生まれたときから彼らこそが両親であり、それ以外は考えられないことだった。
黒鋼は、僅かに躊躇いながらも切り出した。
「この人は……いつからここにいないんだ……?」
いつ、どこでファイを産んだのか。ずっと彼は他所から来た子供だと思っていたが、もしかすれば生まれはこの町なのではないかと思った。
けれど、母は弱々しく首を振って目を閉じた。
「ちょうど、貴方がお腹に出来たのが分かった頃に。彼女はね、いなくなってしまった」
母はゆっくりと、静かに語り出した。
*
それは母がこの家に嫁ぐことが出来た頃と、ほぼ同じ時期だったという。
当時はファイの家が営む茶屋が今のように盛況しており、諏倭荘で客に出すお茶請けも、今と同じくそこから仕入れていたらしい。
ファイの母はいつも自転車に乗って、それを運んで来てくれていたそうだ。
その頃はまだ父の両親も健在で、母はそれなりに緊張と肩身の狭い思いをしながら家事に家業にと勤しんでいた。
彼女が菓子を届けに来る時間は、母にとっての癒しだったという。ほんの短い間の立ち話は、大切なひとときだった。
「その頃ね、日本の文化や田舎の景色が大好きだって言って、この宿に背の高い、綺麗な外国の方がやって来られたの」
金髪に碧眼を持ったその男性を見たときの衝撃を、母は今でも忘れられないと言った。外国人など、テレビでしか見たことがなかったからだ。
「肌が白くて、澄んだ空みたいに綺麗な青い瞳をしていたわ」
彼は海外からの留学生だった。夏の長期休暇を利用して、その間ずっとこの宿にいたのだという。
「私もしばらくは気がつかなかったの。あの子が、彼と恋に落ちていたなんて」
二人のことを知ったのは、偶然耳にした噂話だったという。何処の国から来たとも知れない異国の青年と、団子屋敷の娘が親しげに手を繋いで歩いているという下世話な噂は、母が耳にしたときすでに町中に広がっていた。
母はもちろん祝福したいと心から思った。それは父も同じであったが、けれどその青年はいつか国へ帰る身だった。学生のうち、日本にいる間はいいかもしれない。だが本気で一緒になるのなら、駆け落ちは覚悟しなければならないだろうと。
祝福したい気持ちはあれども、先の見えない不安定な未来で彼女が本当に幸せになれるのか、両親や生まれ育った町を捨ててまで、本当にその覚悟があるのか。
なにより心配だったのは、その青年からはあまり誠実な空気を感じ取ることが出来なかったことだった。彼は事もあろうに、この母にさえ拙い日本語で口説き文句をお見舞いするのが挨拶代わりだったのだという。
「余計なお世話かとは思ったの。でも、言わずにはいられなかった。彼とは、あまり深くお付き合いしない方がいいんじゃないかって……でも、駄目なのよね。そう言われれば言われるほど、自棄になって引き下がれなくなるんですもの……」
黒鋼にも、なんとなく分かる。恋は盲目とは、よく言ったものだ。
「彼は夏休みが終わる直前には、帰っていったわ。彼女も……きっと居場所がなかったのね」
ファイの母は、忽然と姿を消した。それは異国の青年が帰っていった時期と、全く同じ頃だったという。
その頃母の腹の中に黒鋼が宿っていたように、彼女の中にも、そうと気づかぬほどに小さな命が、すでに宿っていたのだろう。
母は改めて黒鋼を見ると、寂しげな微笑を浮かべた。
「だから彼がこの町へ一人ぼっちでやって来たとき、本当に驚いたわ。まるで生き写しだったんだもの」
写真に写る女性を見る。母が驚いたのは無理もない。相手の男のことは知らないが、黒鋼とてこれを見て驚いたのだから。
「貴方が彼と仲良くなってくれたこと、お母さんもお父さんも本当に嬉しかったの。私達はあの子に何も出来ないけれど、貴方になら出来るから」
ファイといるだけで、町の人間達はいい顔をしなかった。そんな中で両親だけは温かく見守ってくれていた。きっと自分の知らないところで、強い風当たりに晒されることだってあっただろう。
本当は聞くべきではなかったのかもしれない。過去は関係ないとも思っていた。ファイがファイなりにどう過去と向き合い、それを腹に据えたのかは知らない。彼の口からそれを聞くことはないだろう。黒鋼も、無理に聞き出そうとは思わない。
ファイは自分のことを話したがらなかったのではない。自分のことを、どう話せばいいのか分からなかったのだと、黒鋼はそう思う。くだらないことばかりはペラペラとよく喋るくせに、自分の中の闇を曝け出すことには酷く不器用だったのだ。
「ごめんなさいね。お母さんちょっと喋りすぎちゃったみたい」
「いや、いい。聞けてよかった」
これは両親と、そしてその親友だった女性の話だ。結局その女性がその後どうなったのか、そしてファイがなぜ一人きりでここへやって来たのか、それは分からないままなのだから。
ただ、黒鋼にはどうしても言いたいことがあった。
「母さん」
「なぁに?」
「二人と知世には、感謝してる」
自分がいない間、父と母、そして知世が彼を少しずつ助け、支えてくれていたことは知っている。
今でこそ繁盛している猫の目だが、聞けば開店当初は悪質な嫌がらせもあったのだという。知世からそれを聞いたときは、暫くの間は腸が煮えたぎって仕方がなかったものだが。
畏まったように礼を述べる息子に、母は目を丸くした。黒鋼は遅れてやってきた照れ臭さから、すっかり温くなったビールの缶を掴むと勢いよく開ける。口の中に流し込んだそれは、ひたすら不味かった。ぐっと顔を顰めた黒鋼に、母は声を上げて笑っていた。
←戻る ・ 次へ→
風呂上りの深夜のこと。
茶の間に明りが点いているのに気がついた黒鋼は、冷蔵庫から冷えたビールを取り出しがてらそこへ顔を出した。
「あら、お父さんかと思った」
そこにいたのは以前より幾分か痩せた母だった。
「珍しいな。夜更かしか」
「もう、お風呂上りにビールなんて……なんだかすっかりお父さん臭いわよ」
「これぐらい普通だろ」
「お腹がポッコリしたって知らないんだから。そうなったら格好悪いわよ」
せっかくお父さんそっくりに産んであげたのに、となおも言い募る母に、黒鋼は腰を下ろしつつ苦笑する。ビールの缶はとりあえず足元に避けた。そして、母がテーブルの上に出して眺めていたものに目を留める。
それは古い、アルバムのようだった。
「懐かしいな」
そこには黒鋼や知世の幼い頃の写真がズラリと綺麗に並べられている。写り込んでいる両親も、今より驚くほど若かった。元気そうな鋼丸の姿もある。
「そうでしょう? 整理してたら、なんだか止まらなくなっちゃったの」
「それで夜更かしか」
もう若くねぇんだから、という冗談めいた余計な一言は腹の中に仕舞い込んで口にはしない。母は怒ると果てしなく厄介だ。思えば知世も、ますますこの母に似てきたような気がする。
「ほら見て。知世が産まれたときの写真。貴方、なんて顔してるのかしら」
そこには、産まれたばかりの赤ん坊を目の前に、どうすればいいか分からず顔を顰める幼い自分がいた。
あのときのことは、今でもよく覚えている。早朝に母が病院で産気づいたという知らせを受け、慌てて父と共に車で産婦人科へと向かったのだ。出産予定日よりも、数日早かった。父の動揺ぶりといったら、今ではちょっとした笑い話だ。
眠気が取れずにうつらうつらしていた黒鋼の周りを、父が忙しなく歩き回っていたのをよく覚えている。
「あっという間だったわね。貴方も知世もすっかり大人になって……お父さんもお母さんも歳を取って当たり前ね」
「何言ってんだ。まだ若いだろ」
先刻思ったこととは逆のことを口にする。いざ両親に儚げな姿を見せられれば、幾つになろうと若く元気であって欲しいとしみじみ思うものだ。
そのとき、アルバムの中に納まりきらない写真の束が数枚、母の手からポロリと零れ落ちた。
スルリと滑るようにして畳の上に落ちてしまったそれを、咄嗟に拾い上げる。黒鋼は、僅かに目を見開いてそれを凝視した。
「ああ、それも残っていたのね」
「お袋、この人は……?」
母は懐かしそうに瞳を細めた。その微笑は、なぜか切ない。
「よく似てるでしょう?」
「…………」
黒鋼は、写真の中に写り込む一人の女性から目が離せなかった。黒鋼の記憶の中にはない、いっそ幼ささえ残る若い両親の間で、その女性は優しく微笑んでいた。
セピア色の写真の中、色素の薄い柔らかな長い髪に、少し垂れている可愛らしい目元。薄い唇。母の言うとおり。彼女はよく似ているのだ。ファイに。
驚いて声も出ない黒鋼に、母は楽しそうに笑った。まるでイタズラが成功した子供のようだと思った。
「お母さんよ。彼のね。そして、私とお父さんの大切な幼馴染」
母は黒鋼の手から写真を取ると、そっと彼女を指先で撫でた。
「どこにいるか、わからないのよ」
「生きてんのかも……?」
「わからないの……彼も知らないみたいね」
ファイも知らない。彼はたった一人でこの町へやって来たのだ。彼の祖父が死んだときも、姿を見ていない。
「この子はね、女の子で初めて出来た友達だったの。知ってるでしょう? お母さんも、他所の町からここへ来たの」
「父さんに聞いた」
「お父さんと私と、この子と。いつも一緒だったわ。だから母さん、笑っていられたの」
当時のことを思い出して、懐かしそうに語る母の言葉を聞きながら、黒鋼は同時に思い出していた。父が言っていた『味方』とは、彼女のことだったのだ。
「彼女が励ましてくれたから、お母さんとお父さんは一緒になれたの。彼女がいなかったら、今頃は貴方も知世も産まれていなかったかもしれないわね」
父と母が結ばれていなかったら。彼らは、どんな人生を歩んでいたのだろう。想像するのは難しかった。黒鋼にとって生まれたときから彼らこそが両親であり、それ以外は考えられないことだった。
黒鋼は、僅かに躊躇いながらも切り出した。
「この人は……いつからここにいないんだ……?」
いつ、どこでファイを産んだのか。ずっと彼は他所から来た子供だと思っていたが、もしかすれば生まれはこの町なのではないかと思った。
けれど、母は弱々しく首を振って目を閉じた。
「ちょうど、貴方がお腹に出来たのが分かった頃に。彼女はね、いなくなってしまった」
母はゆっくりと、静かに語り出した。
*
それは母がこの家に嫁ぐことが出来た頃と、ほぼ同じ時期だったという。
当時はファイの家が営む茶屋が今のように盛況しており、諏倭荘で客に出すお茶請けも、今と同じくそこから仕入れていたらしい。
ファイの母はいつも自転車に乗って、それを運んで来てくれていたそうだ。
その頃はまだ父の両親も健在で、母はそれなりに緊張と肩身の狭い思いをしながら家事に家業にと勤しんでいた。
彼女が菓子を届けに来る時間は、母にとっての癒しだったという。ほんの短い間の立ち話は、大切なひとときだった。
「その頃ね、日本の文化や田舎の景色が大好きだって言って、この宿に背の高い、綺麗な外国の方がやって来られたの」
金髪に碧眼を持ったその男性を見たときの衝撃を、母は今でも忘れられないと言った。外国人など、テレビでしか見たことがなかったからだ。
「肌が白くて、澄んだ空みたいに綺麗な青い瞳をしていたわ」
彼は海外からの留学生だった。夏の長期休暇を利用して、その間ずっとこの宿にいたのだという。
「私もしばらくは気がつかなかったの。あの子が、彼と恋に落ちていたなんて」
二人のことを知ったのは、偶然耳にした噂話だったという。何処の国から来たとも知れない異国の青年と、団子屋敷の娘が親しげに手を繋いで歩いているという下世話な噂は、母が耳にしたときすでに町中に広がっていた。
母はもちろん祝福したいと心から思った。それは父も同じであったが、けれどその青年はいつか国へ帰る身だった。学生のうち、日本にいる間はいいかもしれない。だが本気で一緒になるのなら、駆け落ちは覚悟しなければならないだろうと。
祝福したい気持ちはあれども、先の見えない不安定な未来で彼女が本当に幸せになれるのか、両親や生まれ育った町を捨ててまで、本当にその覚悟があるのか。
なにより心配だったのは、その青年からはあまり誠実な空気を感じ取ることが出来なかったことだった。彼は事もあろうに、この母にさえ拙い日本語で口説き文句をお見舞いするのが挨拶代わりだったのだという。
「余計なお世話かとは思ったの。でも、言わずにはいられなかった。彼とは、あまり深くお付き合いしない方がいいんじゃないかって……でも、駄目なのよね。そう言われれば言われるほど、自棄になって引き下がれなくなるんですもの……」
黒鋼にも、なんとなく分かる。恋は盲目とは、よく言ったものだ。
「彼は夏休みが終わる直前には、帰っていったわ。彼女も……きっと居場所がなかったのね」
ファイの母は、忽然と姿を消した。それは異国の青年が帰っていった時期と、全く同じ頃だったという。
その頃母の腹の中に黒鋼が宿っていたように、彼女の中にも、そうと気づかぬほどに小さな命が、すでに宿っていたのだろう。
母は改めて黒鋼を見ると、寂しげな微笑を浮かべた。
「だから彼がこの町へ一人ぼっちでやって来たとき、本当に驚いたわ。まるで生き写しだったんだもの」
写真に写る女性を見る。母が驚いたのは無理もない。相手の男のことは知らないが、黒鋼とてこれを見て驚いたのだから。
「貴方が彼と仲良くなってくれたこと、お母さんもお父さんも本当に嬉しかったの。私達はあの子に何も出来ないけれど、貴方になら出来るから」
ファイといるだけで、町の人間達はいい顔をしなかった。そんな中で両親だけは温かく見守ってくれていた。きっと自分の知らないところで、強い風当たりに晒されることだってあっただろう。
本当は聞くべきではなかったのかもしれない。過去は関係ないとも思っていた。ファイがファイなりにどう過去と向き合い、それを腹に据えたのかは知らない。彼の口からそれを聞くことはないだろう。黒鋼も、無理に聞き出そうとは思わない。
ファイは自分のことを話したがらなかったのではない。自分のことを、どう話せばいいのか分からなかったのだと、黒鋼はそう思う。くだらないことばかりはペラペラとよく喋るくせに、自分の中の闇を曝け出すことには酷く不器用だったのだ。
「ごめんなさいね。お母さんちょっと喋りすぎちゃったみたい」
「いや、いい。聞けてよかった」
これは両親と、そしてその親友だった女性の話だ。結局その女性がその後どうなったのか、そしてファイがなぜ一人きりでここへやって来たのか、それは分からないままなのだから。
ただ、黒鋼にはどうしても言いたいことがあった。
「母さん」
「なぁに?」
「二人と知世には、感謝してる」
自分がいない間、父と母、そして知世が彼を少しずつ助け、支えてくれていたことは知っている。
今でこそ繁盛している猫の目だが、聞けば開店当初は悪質な嫌がらせもあったのだという。知世からそれを聞いたときは、暫くの間は腸が煮えたぎって仕方がなかったものだが。
畏まったように礼を述べる息子に、母は目を丸くした。黒鋼は遅れてやってきた照れ臭さから、すっかり温くなったビールの缶を掴むと勢いよく開ける。口の中に流し込んだそれは、ひたすら不味かった。ぐっと顔を顰めた黒鋼に、母は声を上げて笑っていた。
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芽吹き
今年は桜の開花が異様に遅れていた。
本来ならとっくに満開に花を咲かせているはずのそれが、今年は厳しい寒さがあまりにも長く尾を引いていたせいで、未だ蕾は開花の兆しがない。ただ赤く熟れたように色づいているだけだ。
黒鋼は午後の授業をひとしきり終え、給食を済ませたあと職員室で校長が淹れた茶を啜っていた。
「どうかな? そろそろ一ヶ月だけど、もう慣れたかな?」
この小さな校舎には校長室などと言った畏まった場所がない。職員室の一角に曇ったガラス張りの衝立を二つ並べて仕切っているだけだ。
ソファに向かい合うようにして腰を落ち着け、黒鋼は子供のようにクルクルと瞳を動かして微笑んでいる校長に向かって短く返事をした。
「そうかそうか。大道寺くんは昔からよく出来た生徒だったからなぁ」
「いえ……」
何が一番厄介かと問われれば、黒鋼は迷わず子供達の有り余る元気の良さと答えるだろう。彼らは皆、驚くほど元気がよく、悪く言えば落ち着きがない。いくら生徒数が極端に少ないとは言っても、まとめるだけでも一苦労である。
だが、正直やり甲斐があることも確かだった。一人一人とじっくりと向き合える点も気に入っている。自分には合っているのかもしれないと感じていた。
ちなみに初見でスーツを着込んでいた黒鋼を、生徒達は『ヤクザ先生』などと言ってからかった。現在は常に黒のジャージ姿であるが、どうも彼らの中でヤクザ先生ブームが最高に盛り上がっているらしかった。
「そうそう今日はね、豆腐を使ってドーナツを作るんだそうだよ。きっとそのうちいい香りがしてくるんだろうねぇ」
三時のおやつが楽しみだなぁと、校長はニコニコ顔だった。
黒鋼や他数名の職員が、校長が淹れた茶を啜りつつのんびりしていられるのは、今が水曜の午後だからである。
月に二度ほどの頻度で、全学年合わせてたった20人の生徒達が、家庭科室で『猫の目』の店主によるお菓子教室に参加しているのだ。
ファイとは顔を合わせれば一言二言会話をする程度だった。先刻も、大きな籠いっぱいに詰まった材料を重そうに持ちながら、彼は「今度お店に来てね」と言って笑っていた。思えば、まだ一度も猫の目とやらに足を運んでいなかった。
そうしてお喋りな校長の長話に付き合っていると、廊下をバタバタと忙しなく走ってくる音がした。何事かと顔を上げた職員たちの下へ、六年生の女子が泣きそうな顔で職員室に駆け込んできた。
「どうしたの?」
ドアのすぐ側にいた中年の女性職員が問うと、彼女は言った。
「男子がケンカしてるの! ファイ先生でも止められないんです!!」
黒鋼と校長は、咄嗟に顔を見合わせた。
*
黒鋼を含め、職員数名が駆けつけると、確かに男子二人が取っ組み合いのケンカをしている最中だった。
家庭科室はめちゃくちゃな状態で、小麦粉が床一面に飛び散り、一年生や二年生の女子の中には泣き出すものまでいる始末だった。
緑色の猫がプリントされたクリーム色のエプロンをしたファイは、泣いている生徒を抱きしめながら、すっかり困り果てていた。エプロンは店のものなのだろう。『猫の目』とも書かれていた。よくよく見れば、子供達も同じデザインのものを着用している。
「こらー! やめなさーい!!」
校長の次に年配の女性職員がよく通る声を張り上げたが、彼らはあーだこーだと激しく罵り合いながら取っ組み合いを止めない。校長にいたってはやっぱりニコニコ顔で「元気がいいなぁ」と暢気に呟いて見物していた。
黒鋼は大仰に溜息を零すと、激しくやり合う二人の元へと近づいた。そして一気に双方の首根っこを、まるで猫の子でも持ち上げるかのように掴み上げて引き離す。
あまりの力技に、ファイの腕の中で泣いていた子供が「わぁ」と歓声を上げた。
「てめぇら、いい加減にしねぇか!」
黒鋼に吊るし上げられても、片方はまだジタバタともがいていた。校庭で最初に話しかけてきた、例のガキ大将である。
四年生である彼がやり合っていた生徒は、一つ下の三年生だった。
「下のやつとまともにやり合ってんじゃねぇ。おら、落ち着け」
二人の子供達は頬や額、首や腕にまで引っ掻き傷を負っていた。ゼェハァと荒々しい呼吸を繰り返しながら、まだ睨み合っている。
他の職員が片付けをするようにと他の生徒達を煽る中、泣いていた少女から離れたファイが駆け寄ってきた。黒鋼に首根っこを掴まれたままだったガキ大将は、咄嗟に悔しそうに唇を噛み締めると俯いた。
「ごめんなさい黒鋼先生。全部オレの責任なんです」
「いや、こいつらまとめんのはなかなか難しいだろ」
普段から関わっている黒鋼や、ベテランの教師でさえ手を焼いているのだから、ファイには一切の非はないはずだ。けれど彼は苦しげに眉を寄せた。
「違うんだ。この子はオレの……」
「ほらほら、君はこっち来て、校長先生が手当てしようなー」
ファイが何かを言いかけて黙り込んでしまったとき、和やかに見物していた校長が三年生の生徒の肩を抱いた。悔しいのか、泣き出してしまったその生徒を職員室へと連れて行こうとしている。黒鋼も腕の中の少年の手を引いた。
「とりあえず話はこっちから聞く。おまえは、ここなんとかしろ」
「……はい」
心配そうに双方の少年を見て、ファイは素直に返事を返した。唇が、小さく「ごめんね」という形に動く。それから、俯いたままさらに言った。
「オレは、また君に迷惑をかけてしまうんだね」
それについて問いかけようとした声は、聞き分けのない子供達へ向けてヒステリーを起こした女性教諭の声によって掻き消されてしまった。
*
ここには保健室はあるものの、現在では常駐の養護教諭というものはいない。
小学校から歩いてほんの数分程度の場所に小さな個人病院があり、何かの折にはそこから年老いた医師がやってくる。とは言ってもそれを待つより、いっそ子供を抱えて駆け込んだ方が早いだろうと思うのだが。
今回はそれをするほど大袈裟なものではないので、黒鋼はとりあえず引っ掻き傷だけの生徒を皮製の椅子に座らせると、棚から救急箱を取り出して向かい合うように膝をついた。
「ちっと染みるぞ」
ピンセットで白い綿を摘み、消毒液に濡らしたそれを赤くなって血の滲んだ頬に押し当てた。少年は「いてぇ!」と言って身体を震わせる。
「いてぇよ先生! こんなんツバつけときゃなおるってー」
「まぁそれはそうだろうがな」
黒鋼とて、彼らくらいの年齢のときはしょっちゅうこの程度の掠り傷を作っていた。だが、こういったときの消毒液の痛みというのは、灸をすえるという意味でいい効果がある。経験者は知っているのだ。
しばらくそういった作業を繰り返している間、最初はぶつくさと文句を垂れていた彼は何も言わなくなった。皮製の椅子の、穴が開いてスポンジが飛び出している部分を爪で引っ掻いている。
「なんだって下のやつ相手にあんなことしてた」
黙々と消毒を続けていた黒鋼だったが、頃合を見て問いかけた。彼は、唇を微かに尖らせて穴をいじくる指を止めた。
返答を待つ間も、手は休むことなく作業を続けた。大きめの絆創膏を取り出して、一番大きな頬の傷に貼り付ける。鼻の頭には小さなものを貼り付けた。腕にも膝にも傷はあって、どれだけ激しい取っ組み合いだったのかがよく分かる。
彼は暫く押し黙っていたが、やがて口を開いた。
「なぁ先生……」
「なんだよ」
「先生さ、ファイ先生と友達なんだろ?」
「……ああ」
「この小学校にいたんだろ?」
「そうだ」
手の甲の傷にも絆創膏を貼った。彼の問いかけは、あまり質問の内容に関係ないようにも思えるが、根気よく付き合ってやることにした。
「それがどうした」
「……アイツさ」
アイツ、というのはもちろんケンカ相手の子供のことだろう。
「アイツ、ファイ先生に言ったんだ。先生は、他所から来たから嫌われてるのかって」
黒鋼は、思わず手を止めた。少年を見上げる。彼は俯いて、悔しそうに表情を歪めていた。
「俺、知ってんだ。俺の母ちゃんも言ってたし、ばあちゃんもじいちゃんも、ファイ先生が嫌いなんだ。せっかく教えてもらって、上手に作れたお菓子を持って帰っても、誰も食ってくれないんだよ。他のヤツらの家の人も、そうなんだって。俺たちはみんなファイ先生が好きなのに、なんで大人はそんなつまんないことばっか言って、意地悪するんだよ」
「……それが原因か」
「……分かってたよ。アイツに悪気はないって。この学校に、ファイ先生が嫌いなヤツなんかいないもん。でも、なんか腹が立ったんだ。だってファイ先生、笑ってたけど、すごく悲しそうだったんだ……」
ファイが店を始めて、それで成功を収めたことを町興しの一環として捉え、以降それなりに受け入れてくれた人間もいると聞いていた。まるで手の平を返すようにと言えば聞こえは悪いが、それでもこの町に根付く、余所者へ対するあまりにも根深い意識を思えば、黒鋼はこの町も、人も、まだ完全に捨てたものではないのだと考えるようにしていた。
結局のところ、必要なのは時間なのだ。幼い頃はそういった連中からどうにかしてでもファイを守りたかった。けれど、ただ傍にいて、その間だけ目を光らせていただけに過ぎない。黒鋼のいないところで、彼はきっと辛い思いをしていたに違いなかった。
ふと、高三の夏の、父と語らった月の庭を思い出した。父も、同じことを言っていた。母は大道寺家の嫁としての責務を果たしながら家業も手伝い、父を愛し、家族を愛し、時間をかけてゆっくりと、自分の力でこの町に溶け込んでいったのだ。それは父の支えがあったからこそではあるが、母自身の努力の賜物だった。
守る、などと大層なことを胸に誓いながら、黒鋼が出来ることなど本当は何一つなかったのだと思う。逃げ出したなら、なおのこと。支えることだって出来やしなかった。
「なぁ黒鋼先生。先生は違ったんだろ? ちゃんと友達だったんだよな?」
黒鋼の胸中は複雑なものだった。けれど手を伸ばし、しっとりと汗に濡れた少年の頭に触れると、グシャグシャと撫でて乱した。
「な、なんだよ、子供扱いすんなよな」
「ガキだろうが。黙って撫でられてりゃいいんだ」
彼は照れ臭そうに「ちぇー」と言った。それから、再び手当てを始めた黒鋼に言った。
「先生、俺もがんばるからさ、先生もファイ先生を守ってやってくれよ。友達なんだろ?」
思わず手を止めかけて、結局はそのまま続ける。彼は、自分の幼い頃によく似ている。
「好きか? あいつのことが」
そう問うと、彼はぽっと頬を赤く染めた。黒鋼は思わず「おや」と目を僅かに見開いた。
「う、うん。あ、でも、みんなファイ先生が大好きなんだ。ケンカしちゃったアイツだってそうだよ。ファイ先生、優しいもん……キレイだし」
どこか誤魔化すように慌てて言い募る姿が微笑ましい。ファイのことを、なんとも罪な男だと思った。
「そうか」
「先生だって好きだろ?」
聞かれて、黒鋼は静かに目を閉じた。それからゆっくりと目を開けて、言った。
「ああ……好きだ」
黒鋼は、むき出しの膝小僧の上で握られていた、小さな拳にそっと己の手を被せた。これが大きくなるのはもっとずっと先のことだ。けれど、この町はきっと、変われると思う。
「こいつはな、誰かを傷つけるためにあるんじゃねぇよ」
「先生……?」
「自分より小さくて、弱いもんは守ってやれ。だが、ただいきがることとそれは違う」
守るということは、傍で支え、そして見ていてやることだ。自分の力で乗り越えなければならない壁があるのなら、せめてその背を支えて少しでも傷が軽くなるように。それでも深く傷ついたなら、唾をつけてやればいい。傷つくことを、そして傷つけることを恐れていては駄目だ。
手を引いて歩くのは相手が転ばないようにするためではなくて、転んでもすぐに立ち上がれるようにしてやるため。自分が転んだときだってそうだ。一方的に引っ張ってやるためではない。共に歩いていくためだ。
それはただがむしゃらに、立ちはだかる壁から遠ざけてやることではなかった。乗り越えるために、地に足をつけて前へ進むために。人は一人では生きられないけれど、だから支えあうし、手を繋ぐ。心が繋がる。強くもなれる。それは互いに依存し合うこととはまるで違う。黒鋼は、それをずっと履き違えていた。
「むずかしいよ先生。俺、バカだからさ」
「それでいい。すぐに分かりゃ、誰も苦労はしねぇのさ」
黒鋼は今でも、ファイが片目を失った日のことを後悔している。暴力にさらされて、頬を腫らしていたあのときのことも。
だがそれはファイがただ小さくて、弱い人間だったからではなかった。ファイがファイだったからこそ、彼が自分にとっての特別だったからこそ、だからこその無念だった。
いつからか黒鋼は、彼に対して歪んだ欲望を抱くようになっていた。若すぎた自分は、それによって彼を傷つけることを恐れてしまった。だから離れた。
本当の意味で後悔したのはそれからずっと先のことで、ファイもまた自分を思ってくれていたことを知ったときだった。
ずっと一緒にいたのに。自分達には足りなかったものがあった。
踏み込む勇気。曝け出す勇気。そしてファイも黒鋼も、もっともっとたくさんの言葉を互いに交わさねばならなかったのかもしれない。
自分のことを話すのがあまり得意ではないファイは、けれどお喋りが大好きだった。くだらないことばかりを喋っては笑っていた。黒鋼は、ただそれを聞いてやることが彼の一番喜ぶことだと思っていた。
黒鋼は、ファイが望むとおりの自分でいることに、いつからか囚われてしまったのだと思う。
だからこそ、彼への本当の思いに気づき、欲望を抱いたとき、己を許すことが出来なかった。本当に恐ろしかったのは彼を傷つけることよりも、彼の中にある自分自身の姿を歪ませてしまうことだったのかもしれない。
彼の存在を脅かし、傷つけんとする者に自分自身が含まれるなど思いもしなかった。けれどあのとき、素直に思いを打ち明けていたら、何かが変わっていたのだろうか。まだ、間に合うのだろうか。
ファイのことを好きだと言う少年と会話をしながら。気がついてしまった。
彼は今も、黒鋼の中でたった一人のかけがえのない存在なのだということ。他の誰でもない。他の誰にも埋められない。満たされない。
黒鋼はファイを、今もなお愛しているのだ。
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今年は桜の開花が異様に遅れていた。
本来ならとっくに満開に花を咲かせているはずのそれが、今年は厳しい寒さがあまりにも長く尾を引いていたせいで、未だ蕾は開花の兆しがない。ただ赤く熟れたように色づいているだけだ。
黒鋼は午後の授業をひとしきり終え、給食を済ませたあと職員室で校長が淹れた茶を啜っていた。
「どうかな? そろそろ一ヶ月だけど、もう慣れたかな?」
この小さな校舎には校長室などと言った畏まった場所がない。職員室の一角に曇ったガラス張りの衝立を二つ並べて仕切っているだけだ。
ソファに向かい合うようにして腰を落ち着け、黒鋼は子供のようにクルクルと瞳を動かして微笑んでいる校長に向かって短く返事をした。
「そうかそうか。大道寺くんは昔からよく出来た生徒だったからなぁ」
「いえ……」
何が一番厄介かと問われれば、黒鋼は迷わず子供達の有り余る元気の良さと答えるだろう。彼らは皆、驚くほど元気がよく、悪く言えば落ち着きがない。いくら生徒数が極端に少ないとは言っても、まとめるだけでも一苦労である。
だが、正直やり甲斐があることも確かだった。一人一人とじっくりと向き合える点も気に入っている。自分には合っているのかもしれないと感じていた。
ちなみに初見でスーツを着込んでいた黒鋼を、生徒達は『ヤクザ先生』などと言ってからかった。現在は常に黒のジャージ姿であるが、どうも彼らの中でヤクザ先生ブームが最高に盛り上がっているらしかった。
「そうそう今日はね、豆腐を使ってドーナツを作るんだそうだよ。きっとそのうちいい香りがしてくるんだろうねぇ」
三時のおやつが楽しみだなぁと、校長はニコニコ顔だった。
黒鋼や他数名の職員が、校長が淹れた茶を啜りつつのんびりしていられるのは、今が水曜の午後だからである。
月に二度ほどの頻度で、全学年合わせてたった20人の生徒達が、家庭科室で『猫の目』の店主によるお菓子教室に参加しているのだ。
ファイとは顔を合わせれば一言二言会話をする程度だった。先刻も、大きな籠いっぱいに詰まった材料を重そうに持ちながら、彼は「今度お店に来てね」と言って笑っていた。思えば、まだ一度も猫の目とやらに足を運んでいなかった。
そうしてお喋りな校長の長話に付き合っていると、廊下をバタバタと忙しなく走ってくる音がした。何事かと顔を上げた職員たちの下へ、六年生の女子が泣きそうな顔で職員室に駆け込んできた。
「どうしたの?」
ドアのすぐ側にいた中年の女性職員が問うと、彼女は言った。
「男子がケンカしてるの! ファイ先生でも止められないんです!!」
黒鋼と校長は、咄嗟に顔を見合わせた。
*
黒鋼を含め、職員数名が駆けつけると、確かに男子二人が取っ組み合いのケンカをしている最中だった。
家庭科室はめちゃくちゃな状態で、小麦粉が床一面に飛び散り、一年生や二年生の女子の中には泣き出すものまでいる始末だった。
緑色の猫がプリントされたクリーム色のエプロンをしたファイは、泣いている生徒を抱きしめながら、すっかり困り果てていた。エプロンは店のものなのだろう。『猫の目』とも書かれていた。よくよく見れば、子供達も同じデザインのものを着用している。
「こらー! やめなさーい!!」
校長の次に年配の女性職員がよく通る声を張り上げたが、彼らはあーだこーだと激しく罵り合いながら取っ組み合いを止めない。校長にいたってはやっぱりニコニコ顔で「元気がいいなぁ」と暢気に呟いて見物していた。
黒鋼は大仰に溜息を零すと、激しくやり合う二人の元へと近づいた。そして一気に双方の首根っこを、まるで猫の子でも持ち上げるかのように掴み上げて引き離す。
あまりの力技に、ファイの腕の中で泣いていた子供が「わぁ」と歓声を上げた。
「てめぇら、いい加減にしねぇか!」
黒鋼に吊るし上げられても、片方はまだジタバタともがいていた。校庭で最初に話しかけてきた、例のガキ大将である。
四年生である彼がやり合っていた生徒は、一つ下の三年生だった。
「下のやつとまともにやり合ってんじゃねぇ。おら、落ち着け」
二人の子供達は頬や額、首や腕にまで引っ掻き傷を負っていた。ゼェハァと荒々しい呼吸を繰り返しながら、まだ睨み合っている。
他の職員が片付けをするようにと他の生徒達を煽る中、泣いていた少女から離れたファイが駆け寄ってきた。黒鋼に首根っこを掴まれたままだったガキ大将は、咄嗟に悔しそうに唇を噛み締めると俯いた。
「ごめんなさい黒鋼先生。全部オレの責任なんです」
「いや、こいつらまとめんのはなかなか難しいだろ」
普段から関わっている黒鋼や、ベテランの教師でさえ手を焼いているのだから、ファイには一切の非はないはずだ。けれど彼は苦しげに眉を寄せた。
「違うんだ。この子はオレの……」
「ほらほら、君はこっち来て、校長先生が手当てしようなー」
ファイが何かを言いかけて黙り込んでしまったとき、和やかに見物していた校長が三年生の生徒の肩を抱いた。悔しいのか、泣き出してしまったその生徒を職員室へと連れて行こうとしている。黒鋼も腕の中の少年の手を引いた。
「とりあえず話はこっちから聞く。おまえは、ここなんとかしろ」
「……はい」
心配そうに双方の少年を見て、ファイは素直に返事を返した。唇が、小さく「ごめんね」という形に動く。それから、俯いたままさらに言った。
「オレは、また君に迷惑をかけてしまうんだね」
それについて問いかけようとした声は、聞き分けのない子供達へ向けてヒステリーを起こした女性教諭の声によって掻き消されてしまった。
*
ここには保健室はあるものの、現在では常駐の養護教諭というものはいない。
小学校から歩いてほんの数分程度の場所に小さな個人病院があり、何かの折にはそこから年老いた医師がやってくる。とは言ってもそれを待つより、いっそ子供を抱えて駆け込んだ方が早いだろうと思うのだが。
今回はそれをするほど大袈裟なものではないので、黒鋼はとりあえず引っ掻き傷だけの生徒を皮製の椅子に座らせると、棚から救急箱を取り出して向かい合うように膝をついた。
「ちっと染みるぞ」
ピンセットで白い綿を摘み、消毒液に濡らしたそれを赤くなって血の滲んだ頬に押し当てた。少年は「いてぇ!」と言って身体を震わせる。
「いてぇよ先生! こんなんツバつけときゃなおるってー」
「まぁそれはそうだろうがな」
黒鋼とて、彼らくらいの年齢のときはしょっちゅうこの程度の掠り傷を作っていた。だが、こういったときの消毒液の痛みというのは、灸をすえるという意味でいい効果がある。経験者は知っているのだ。
しばらくそういった作業を繰り返している間、最初はぶつくさと文句を垂れていた彼は何も言わなくなった。皮製の椅子の、穴が開いてスポンジが飛び出している部分を爪で引っ掻いている。
「なんだって下のやつ相手にあんなことしてた」
黙々と消毒を続けていた黒鋼だったが、頃合を見て問いかけた。彼は、唇を微かに尖らせて穴をいじくる指を止めた。
返答を待つ間も、手は休むことなく作業を続けた。大きめの絆創膏を取り出して、一番大きな頬の傷に貼り付ける。鼻の頭には小さなものを貼り付けた。腕にも膝にも傷はあって、どれだけ激しい取っ組み合いだったのかがよく分かる。
彼は暫く押し黙っていたが、やがて口を開いた。
「なぁ先生……」
「なんだよ」
「先生さ、ファイ先生と友達なんだろ?」
「……ああ」
「この小学校にいたんだろ?」
「そうだ」
手の甲の傷にも絆創膏を貼った。彼の問いかけは、あまり質問の内容に関係ないようにも思えるが、根気よく付き合ってやることにした。
「それがどうした」
「……アイツさ」
アイツ、というのはもちろんケンカ相手の子供のことだろう。
「アイツ、ファイ先生に言ったんだ。先生は、他所から来たから嫌われてるのかって」
黒鋼は、思わず手を止めた。少年を見上げる。彼は俯いて、悔しそうに表情を歪めていた。
「俺、知ってんだ。俺の母ちゃんも言ってたし、ばあちゃんもじいちゃんも、ファイ先生が嫌いなんだ。せっかく教えてもらって、上手に作れたお菓子を持って帰っても、誰も食ってくれないんだよ。他のヤツらの家の人も、そうなんだって。俺たちはみんなファイ先生が好きなのに、なんで大人はそんなつまんないことばっか言って、意地悪するんだよ」
「……それが原因か」
「……分かってたよ。アイツに悪気はないって。この学校に、ファイ先生が嫌いなヤツなんかいないもん。でも、なんか腹が立ったんだ。だってファイ先生、笑ってたけど、すごく悲しそうだったんだ……」
ファイが店を始めて、それで成功を収めたことを町興しの一環として捉え、以降それなりに受け入れてくれた人間もいると聞いていた。まるで手の平を返すようにと言えば聞こえは悪いが、それでもこの町に根付く、余所者へ対するあまりにも根深い意識を思えば、黒鋼はこの町も、人も、まだ完全に捨てたものではないのだと考えるようにしていた。
結局のところ、必要なのは時間なのだ。幼い頃はそういった連中からどうにかしてでもファイを守りたかった。けれど、ただ傍にいて、その間だけ目を光らせていただけに過ぎない。黒鋼のいないところで、彼はきっと辛い思いをしていたに違いなかった。
ふと、高三の夏の、父と語らった月の庭を思い出した。父も、同じことを言っていた。母は大道寺家の嫁としての責務を果たしながら家業も手伝い、父を愛し、家族を愛し、時間をかけてゆっくりと、自分の力でこの町に溶け込んでいったのだ。それは父の支えがあったからこそではあるが、母自身の努力の賜物だった。
守る、などと大層なことを胸に誓いながら、黒鋼が出来ることなど本当は何一つなかったのだと思う。逃げ出したなら、なおのこと。支えることだって出来やしなかった。
「なぁ黒鋼先生。先生は違ったんだろ? ちゃんと友達だったんだよな?」
黒鋼の胸中は複雑なものだった。けれど手を伸ばし、しっとりと汗に濡れた少年の頭に触れると、グシャグシャと撫でて乱した。
「な、なんだよ、子供扱いすんなよな」
「ガキだろうが。黙って撫でられてりゃいいんだ」
彼は照れ臭そうに「ちぇー」と言った。それから、再び手当てを始めた黒鋼に言った。
「先生、俺もがんばるからさ、先生もファイ先生を守ってやってくれよ。友達なんだろ?」
思わず手を止めかけて、結局はそのまま続ける。彼は、自分の幼い頃によく似ている。
「好きか? あいつのことが」
そう問うと、彼はぽっと頬を赤く染めた。黒鋼は思わず「おや」と目を僅かに見開いた。
「う、うん。あ、でも、みんなファイ先生が大好きなんだ。ケンカしちゃったアイツだってそうだよ。ファイ先生、優しいもん……キレイだし」
どこか誤魔化すように慌てて言い募る姿が微笑ましい。ファイのことを、なんとも罪な男だと思った。
「そうか」
「先生だって好きだろ?」
聞かれて、黒鋼は静かに目を閉じた。それからゆっくりと目を開けて、言った。
「ああ……好きだ」
黒鋼は、むき出しの膝小僧の上で握られていた、小さな拳にそっと己の手を被せた。これが大きくなるのはもっとずっと先のことだ。けれど、この町はきっと、変われると思う。
「こいつはな、誰かを傷つけるためにあるんじゃねぇよ」
「先生……?」
「自分より小さくて、弱いもんは守ってやれ。だが、ただいきがることとそれは違う」
守るということは、傍で支え、そして見ていてやることだ。自分の力で乗り越えなければならない壁があるのなら、せめてその背を支えて少しでも傷が軽くなるように。それでも深く傷ついたなら、唾をつけてやればいい。傷つくことを、そして傷つけることを恐れていては駄目だ。
手を引いて歩くのは相手が転ばないようにするためではなくて、転んでもすぐに立ち上がれるようにしてやるため。自分が転んだときだってそうだ。一方的に引っ張ってやるためではない。共に歩いていくためだ。
それはただがむしゃらに、立ちはだかる壁から遠ざけてやることではなかった。乗り越えるために、地に足をつけて前へ進むために。人は一人では生きられないけれど、だから支えあうし、手を繋ぐ。心が繋がる。強くもなれる。それは互いに依存し合うこととはまるで違う。黒鋼は、それをずっと履き違えていた。
「むずかしいよ先生。俺、バカだからさ」
「それでいい。すぐに分かりゃ、誰も苦労はしねぇのさ」
黒鋼は今でも、ファイが片目を失った日のことを後悔している。暴力にさらされて、頬を腫らしていたあのときのことも。
だがそれはファイがただ小さくて、弱い人間だったからではなかった。ファイがファイだったからこそ、彼が自分にとっての特別だったからこそ、だからこその無念だった。
いつからか黒鋼は、彼に対して歪んだ欲望を抱くようになっていた。若すぎた自分は、それによって彼を傷つけることを恐れてしまった。だから離れた。
本当の意味で後悔したのはそれからずっと先のことで、ファイもまた自分を思ってくれていたことを知ったときだった。
ずっと一緒にいたのに。自分達には足りなかったものがあった。
踏み込む勇気。曝け出す勇気。そしてファイも黒鋼も、もっともっとたくさんの言葉を互いに交わさねばならなかったのかもしれない。
自分のことを話すのがあまり得意ではないファイは、けれどお喋りが大好きだった。くだらないことばかりを喋っては笑っていた。黒鋼は、ただそれを聞いてやることが彼の一番喜ぶことだと思っていた。
黒鋼は、ファイが望むとおりの自分でいることに、いつからか囚われてしまったのだと思う。
だからこそ、彼への本当の思いに気づき、欲望を抱いたとき、己を許すことが出来なかった。本当に恐ろしかったのは彼を傷つけることよりも、彼の中にある自分自身の姿を歪ませてしまうことだったのかもしれない。
彼の存在を脅かし、傷つけんとする者に自分自身が含まれるなど思いもしなかった。けれどあのとき、素直に思いを打ち明けていたら、何かが変わっていたのだろうか。まだ、間に合うのだろうか。
ファイのことを好きだと言う少年と会話をしながら。気がついてしまった。
彼は今も、黒鋼の中でたった一人のかけがえのない存在なのだということ。他の誰でもない。他の誰にも埋められない。満たされない。
黒鋼はファイを、今もなお愛しているのだ。
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再会
「変わってねぇな、ここも」
薄汚れた注連縄の施された大きな神木を見上げて、黒鋼はしみじみと呟いた。
午後の授業へと向かった子供達と別れたその足で、校舎の裏に張り巡らされたロープを潜り、細くそれなりに傾斜のある獣道を進むと、石の鳥居が見えてくる。
そこには記憶の中と寸分変わらぬ光景が広がっていた。
けれど、違和感もまた確かに存在していた。それは単に黒鋼自身が成長したからだということを知っている。
圧倒的な大きさと存在感を示していた大木は、相変わらず立派ではあるけれど、やはり昔の方がもっとずっと巨大に見えたものだ。
今は、その神聖さばかりが肌を刺すようにして伝わってくる。
この聖なる木の中に、幼かった自分達は平気で入り込み、まるで我が物のように好き放題して遊んでいたのだ。乱暴に鉄のスコップを叩きつけたことだってある。
今にして思えば本当に罰当たりなことだ。幼い頃の無謀さに、不謹慎だと思いつつも思わず口元に笑みが浮かんでしまう。
黒鋼は大木を囲むようにしてある、苔にまみれた柵のすぐ傍らに視線を向けた。
そこは死んだ子猫の亡骸が埋まっている、小さな墓だった。そうと分かるように小石で丸く仕切られていて、いつかの不届きものがそうしたように、踏み荒らされた形跡もなく整えられている。子猫用の猫缶が幾つかと、同じく子猫用の粉ミルクの缶が置かれているのを見て、思わずドキリとした。
「来てるんだな……今もここに」
鋼丸の墓前に、今も知世が欠かさず花を供えるように。彼もまた、ここへ。
黒鋼はしゃがみ込むと手を合わせ、長いこと来れなかったことを静かに詫びた。
そしてその直後のこと。
ポキリと小枝の折れる小気味良い音がして、黒鋼は振り向いた。
そこには、もしかすれば会えるのではないかと思っていた人物が、佇んでいた。
背の高い、華奢な隻眼の青年。白い眼帯が未だ痛々しく、彼の顔のパーツとしておさまっている。
ゆっくりと立ち上がり、そして向き合う。ファイは、特に驚いた風もなく小さく笑った。
肩を過ぎるほど伸びた金色の髪をゆるく一つに纏めた姿からは、もはや幼さの欠片さえも見て取ることが出来なかった。
当たり前だ。自分が歳を重ねたように、彼もまた。
「久しぶり」
落ち着いた声は、少し高めの優しいトーン。けれど最後に聞いた時のものよりは、幾分か低い。
「おう」
黒鋼も、ほんの少しだけ口角を上げた。心が微かにざわついて、それからゆったりと静まり返る。穏やかな再会だった。
「やっと来てくれたね」
ふわりと片方の目を細めて、ファイは黒鋼の傍らに寄りしゃがみ込む。そして暫しの間、手を合わせた。それからしゃがんだまま黒鋼を仰ぎ見ると言った。
「校長先生にね、アップルパイを差し入れに来たんだ。あの人、好きだから」
「そうか」
そう言って彼は立ち上がり、僅かに小首を傾げて笑った。静かな、まるで月の光のような微笑だと思った。
「君が来たってことを聞いたから、もしかしたらと思ったよ」
ああ、もうあの間の抜けたような話し方はしないのか。語尾を伸ばした、甘えたような口調がとても好きだったのに。
「この子も、きっと君に会いたがってた」
だから来てくれてありがとう。彼はそう言った。
*
「大人が入り込んでるなんて知れたら、何も言い訳できないよね」
緩やかな傾斜を縦に並んで降りながら、ファイが言った。まったくもってその通りだと思う。
あの生意気でヤンチャな子供達が今の自分達の姿を見たら、きっと大変な騒ぎになるだろう。
「だな」
先を行くファイの背を見ながら、黒鋼は短く答えた。すぐにファイが肩を揺らして笑う。
「なんだ」
「そうだな、とかそうか、とか。変わらないね、黒鋼は」
――黒たん。
明るい声がそう呼ぶのが聞こえた気がする。けれど、彼はもうそんな風に自分を呼んだりはしない。あの夏の、別れの日には何もかもが変わってしまったから。
胸が痛みかけて、けれどそれを押し込めた。これが、この距離が丁度いいのだと思う。切なさは、懐かしさの延長に過ぎない。やがてこの痛みは時の経過と共に消える。ゆっくりと時間を取り戻しながら、けれど確実に戻らないものを、新しく塗り替えて。
同じ町にいながら、関わり合いを持ちながら、新しく築き上げてゆく。互いの在り方と、関係性。それはもう、始まっている。
スラリと伸びた華奢な身体は、もう黒鋼が見ていてやらなくても転んだりしない。転んだとしても、彼はもう一人でそれを回避できるだけの力があるし、立ち上がることも出来る。だから対等なのだと思った。
確かに、そう思ったはずなのに。
「わっ」
ファイが、ほんの少し体勢を崩した時だった。まるで条件反射のように、黒鋼の身体は動いていた。その腕を力強く掴んで支え、引き寄せる。それをしてしまってから、ようやく「しまった」と感じた。
それは本当に、僅かに足元がぐらついただけに過ぎなかった。たった今そう思っていたように、彼は一人でも体勢を立て直すことが出来たはずだ。それなのに、自分は。
密着するほどの近い距離で、ファイがその青い瞳を大きく見開いた。黒鋼もまた同じだった。ぶつかる視線。
「ぁ、りがとう……」
ファイの声がぎこちなく上ずった。慌てて、けれどそうとは悟られぬようにその腕を放した。互いがさりげなく身を離し、一定の距離を取り戻す。
目前には張り巡らされたロープが見える。ファイは笑った。その笑顔に違和感を覚える。おかしな話、とても上手な笑い方だと思ったのだ。
「実は配達の途中なんだよね。温泉街まで。車なんだけど、君も途中まで乗ってく?」
「いや……俺はいい」
「そう」
ファイは身を屈め、ロープを潜った。佇む黒鋼を振り向いて、またあの作り物めいた笑顔を見せた。
「じゃあ、オレ行くね」
「ああ」
「またね、先生」
黒鋼はぎこちなく笑って、頷いた。
ファイの背中を見送りながら、いまだ手の中に残る細い腕の感触がいつまでも消えることはなかった。
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「変わってねぇな、ここも」
薄汚れた注連縄の施された大きな神木を見上げて、黒鋼はしみじみと呟いた。
午後の授業へと向かった子供達と別れたその足で、校舎の裏に張り巡らされたロープを潜り、細くそれなりに傾斜のある獣道を進むと、石の鳥居が見えてくる。
そこには記憶の中と寸分変わらぬ光景が広がっていた。
けれど、違和感もまた確かに存在していた。それは単に黒鋼自身が成長したからだということを知っている。
圧倒的な大きさと存在感を示していた大木は、相変わらず立派ではあるけれど、やはり昔の方がもっとずっと巨大に見えたものだ。
今は、その神聖さばかりが肌を刺すようにして伝わってくる。
この聖なる木の中に、幼かった自分達は平気で入り込み、まるで我が物のように好き放題して遊んでいたのだ。乱暴に鉄のスコップを叩きつけたことだってある。
今にして思えば本当に罰当たりなことだ。幼い頃の無謀さに、不謹慎だと思いつつも思わず口元に笑みが浮かんでしまう。
黒鋼は大木を囲むようにしてある、苔にまみれた柵のすぐ傍らに視線を向けた。
そこは死んだ子猫の亡骸が埋まっている、小さな墓だった。そうと分かるように小石で丸く仕切られていて、いつかの不届きものがそうしたように、踏み荒らされた形跡もなく整えられている。子猫用の猫缶が幾つかと、同じく子猫用の粉ミルクの缶が置かれているのを見て、思わずドキリとした。
「来てるんだな……今もここに」
鋼丸の墓前に、今も知世が欠かさず花を供えるように。彼もまた、ここへ。
黒鋼はしゃがみ込むと手を合わせ、長いこと来れなかったことを静かに詫びた。
そしてその直後のこと。
ポキリと小枝の折れる小気味良い音がして、黒鋼は振り向いた。
そこには、もしかすれば会えるのではないかと思っていた人物が、佇んでいた。
背の高い、華奢な隻眼の青年。白い眼帯が未だ痛々しく、彼の顔のパーツとしておさまっている。
ゆっくりと立ち上がり、そして向き合う。ファイは、特に驚いた風もなく小さく笑った。
肩を過ぎるほど伸びた金色の髪をゆるく一つに纏めた姿からは、もはや幼さの欠片さえも見て取ることが出来なかった。
当たり前だ。自分が歳を重ねたように、彼もまた。
「久しぶり」
落ち着いた声は、少し高めの優しいトーン。けれど最後に聞いた時のものよりは、幾分か低い。
「おう」
黒鋼も、ほんの少しだけ口角を上げた。心が微かにざわついて、それからゆったりと静まり返る。穏やかな再会だった。
「やっと来てくれたね」
ふわりと片方の目を細めて、ファイは黒鋼の傍らに寄りしゃがみ込む。そして暫しの間、手を合わせた。それからしゃがんだまま黒鋼を仰ぎ見ると言った。
「校長先生にね、アップルパイを差し入れに来たんだ。あの人、好きだから」
「そうか」
そう言って彼は立ち上がり、僅かに小首を傾げて笑った。静かな、まるで月の光のような微笑だと思った。
「君が来たってことを聞いたから、もしかしたらと思ったよ」
ああ、もうあの間の抜けたような話し方はしないのか。語尾を伸ばした、甘えたような口調がとても好きだったのに。
「この子も、きっと君に会いたがってた」
だから来てくれてありがとう。彼はそう言った。
*
「大人が入り込んでるなんて知れたら、何も言い訳できないよね」
緩やかな傾斜を縦に並んで降りながら、ファイが言った。まったくもってその通りだと思う。
あの生意気でヤンチャな子供達が今の自分達の姿を見たら、きっと大変な騒ぎになるだろう。
「だな」
先を行くファイの背を見ながら、黒鋼は短く答えた。すぐにファイが肩を揺らして笑う。
「なんだ」
「そうだな、とかそうか、とか。変わらないね、黒鋼は」
――黒たん。
明るい声がそう呼ぶのが聞こえた気がする。けれど、彼はもうそんな風に自分を呼んだりはしない。あの夏の、別れの日には何もかもが変わってしまったから。
胸が痛みかけて、けれどそれを押し込めた。これが、この距離が丁度いいのだと思う。切なさは、懐かしさの延長に過ぎない。やがてこの痛みは時の経過と共に消える。ゆっくりと時間を取り戻しながら、けれど確実に戻らないものを、新しく塗り替えて。
同じ町にいながら、関わり合いを持ちながら、新しく築き上げてゆく。互いの在り方と、関係性。それはもう、始まっている。
スラリと伸びた華奢な身体は、もう黒鋼が見ていてやらなくても転んだりしない。転んだとしても、彼はもう一人でそれを回避できるだけの力があるし、立ち上がることも出来る。だから対等なのだと思った。
確かに、そう思ったはずなのに。
「わっ」
ファイが、ほんの少し体勢を崩した時だった。まるで条件反射のように、黒鋼の身体は動いていた。その腕を力強く掴んで支え、引き寄せる。それをしてしまってから、ようやく「しまった」と感じた。
それは本当に、僅かに足元がぐらついただけに過ぎなかった。たった今そう思っていたように、彼は一人でも体勢を立て直すことが出来たはずだ。それなのに、自分は。
密着するほどの近い距離で、ファイがその青い瞳を大きく見開いた。黒鋼もまた同じだった。ぶつかる視線。
「ぁ、りがとう……」
ファイの声がぎこちなく上ずった。慌てて、けれどそうとは悟られぬようにその腕を放した。互いがさりげなく身を離し、一定の距離を取り戻す。
目前には張り巡らされたロープが見える。ファイは笑った。その笑顔に違和感を覚える。おかしな話、とても上手な笑い方だと思ったのだ。
「実は配達の途中なんだよね。温泉街まで。車なんだけど、君も途中まで乗ってく?」
「いや……俺はいい」
「そう」
ファイは身を屈め、ロープを潜った。佇む黒鋼を振り向いて、またあの作り物めいた笑顔を見せた。
「じゃあ、オレ行くね」
「ああ」
「またね、先生」
黒鋼はぎこちなく笑って、頷いた。
ファイの背中を見送りながら、いまだ手の中に残る細い腕の感触がいつまでも消えることはなかった。
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長く艶やかな黒髪をひとつにまとめ、最低限の化粧だけをした彼女は、目元にふたつ並ぶ泣きぼくろが印象的な、清楚で可愛らしい女性だった。
元々あまり人付き合いが得意な方ではない花京院だったが、物静かな彼女とは波長が合ったのか、ぽつぽつと当たり障りのない会話をしているうちに、少しずつ趣味の話をするようになって、お互いを知り、やがて恋に落ちた。
結婚したのは二十五のとき。今から二年前のことだ。
それぞれ仕事をもち、忙しい日々を送っていたが、結婚生活はそれなりに順調だったと思う。
だけどいつからか、仕事にかまけて擦れ違うことが多くなっていった。よくある話。
黒く美しかったはずの髪が緩やかなウェーブを描き、蜂蜜のような色に変わったことに気がついたのは、いつだったろう。
薄くリップを引くだけだった唇が、艶やかに色づきはじめたのは。香水の香りが、寝具に沁みつきはじめたのは――。
やがて妻は、家に帰らない日が多くなっていった。実家の母親が体調を崩したからと、父も高齢で、まるで家事ができない人だからと、そう言っては徐々に、離れていった。
時おり着替えは取りに戻って来ていたが、今では形跡があるだけで、顔を合わせる機会は皆無に等しい。
花京院にとって、彼女の両親は自分にとっても大事な人たちだ。だから時間を作って見舞いに行くと言っても、どうしてか妻はそれを頑なに拒否するのだ。迷惑をかけたくないという、一点張りだった。
そうしてほぼ別居状態の暮らしが、かれこれ半年近くになっているだろうか。
花京院だってバカじゃあない。本心では彼女が自分に隠し事をしていることには、気がついている。だけど同時に、疑うこともしたくはなかった。
なぜなら、妻を愛しているから。これからもずっと、愛し続けていけるはずだから。
――本当は真実を知るのが怖いだけ。傷つくことを、恐れているだけ。
それさえも、気がついているのだけれど。
+++
それから数日後。
花京院の運命を狂わせる発端となった出来事は、この日の午前中に起こってしまった。
「承太郎、ここは君の隠れみのじゃあないんだぞ?」
爽やかな日差しで溢れる準備室。この時間、ちょうど授業がなかった花京院が戻ってみると、そこにはあの空条承太郎の姿があった。
先日と同じように、二人は机を挟んで向かい合う形で椅子に座っている。
「君、今は体育の時間だろう。今日は確か――マラソンの授業だったはずだ。それがどうして体操着にすら着替えず、用もないのにこんなところにいるんだい」
花京院は眉間に皺を寄せ、険しい表情で腕組みをしていた。
いくら不良という札をぶら下げていようが、生徒は決められた時間割の中で、授業に取り組む義務がある。
「おれだって真面目に参加する気でいたんだぜ」
「よくもまあぬけぬけと。いいから、今からでも着替えて校庭に行きなさい」
承太郎は渋面を作って、組んでいた足を組みかえると、うんざりしたような息を漏らした。
「おれがいると、逆に授業の邪魔なんだがな」
「は?」
それは一体どういうことだと問いかけるより先に、開け放った窓の向こうから、秋風と共になにやら騒がしい声が流れ込んでくる。
『JOJO! JOJOはどこ!?』
『男子はマラソンなんでしょ!? JOJOがいないんじゃ、見る価値ないじゃないッ!』
『やぁ~ん、走ってるとこ写メりたいのにィ~』
「……はぁ」
花京院はそれらの甲高い声に頭痛を覚え、溜息を漏らしながら額を押さえると、立ち上がった。カラカラと音を立てて窓を閉め切れば、小うるさい声は幾らか遠のく。
JOJO、というのは、彼の渾名だ。空条承太郎――だから、JOJO。ほとんどの人間から、そう呼ばれている。
「やれやれだぜ」
「君の言い分は、まぁ百歩譲って一理あると言えなくもないが」
この日本人離れした長身の美丈夫を、世の女性が放っておくはずはない。常に女子の群れに纏わりつかれ、「やかましい」と怒鳴り上げる光景は、誰もが見慣れた光景になっている。そんな状況が授業中ですら展開されるというのは、確かに迷惑この上ないことではあるのだが。それとこれとは、話が違う。
花京院は再び椅子に掛け、承太郎を見据えると言った。
「君は学生だ。学生の本分は勉学に励むこと。怪我や病気でもない限り、授業には出席するのが道理じゃあないか?」
いくら女子生徒が暴走しようとも、それを律する役目は教師の仕事だ。なにも彼が気を使う必要など、どこにもない。
それに、ここで油を売られるのも困るのだ。花京院だって暇ではない。次の授業の準備だってしなければならないし、少しくらいは、肩の力を抜く時間だって欲しい。
最近では、定期的に薬を飲んでおかなければ不安になるほど、頭痛の頻度も増している。
しかし、承太郎は聞いているのかいないのか、ただじっと花京院の顔を見つめているだけだった。午前中の白い光の中で見るエメラルドは、夕暮れ時に見るのとはまた、印象がガラリと変わる。南国に凪ぐ海を思わせる煌めきに、意識が波にさらわれそうになるのを感じた。
(……このあいだから、ぼくはどうかしている)
いくら誰もが振り返るほどの美貌を持つ相手とはいえ、男に――しかも生徒に見惚れるなんて、あってはならないことだ。
なにか話をすり替えなくては。妙な焦燥に駆られた花京院は、承太郎から視線だけを僅かに逸らして、息をついた。
「だいたい君は、しょっちゅう学校自体をサボっているだろう。このままでは進路に響くぞ。そもそも、ちゃんと将来のことを考えているのか?」
花京院の説教じみた――実際、説教でしかないのだが――問いかけに、承太郎は一瞬、視線をゆらりと彷徨わせた。
花京院はその瞳の動きを、注意深く観察する。なにか言いたげに、けれどむっと引き結ばれた唇が、幾分か彼を年相応に見せているような気がするのは、気のせいだろうか。
「……言ってもいいけどよ」
「ああ」
「あんた、笑うぜ」
「それは聞いてみなければ分からないな。よほど非現実的な内容でない限り、生徒の希望を笑い飛ばす教師なんかいやしないさ」
その言葉を聞いて、承太郎は逸らしていた視線を花京院へ戻すと、ふぅんと微かに唸る。その後しばしの沈黙を経て、ぼそりと何かが吐き出された。
「……がくしゃ」
「なんだって?」
「学者だよ。学者。海洋生物学者」
彼の口から飛び出した、実に意外な希望を聞いて、花京院は思わず目を丸くした。しょっちゅう学校や授業をサボり、他校の生徒とケンカをし、問題ばかりを起こすような不良が、学者志望だなんて。一体だれが想像できるだろう。
承太郎は普段のクールな二枚目が嘘のように、少しだけ頬を赤らめて、唇を尖らせている。ふいっと背けられた顔を見て、彼がひどく照れているのだと気がついた花京院は、思わず肩を揺らして笑ってしまった。
「ふっ、ふふ……ノォホッ」
「……やっぱり笑いやがった」
「違う違う。ふふ、君の将来の夢を笑ったんじゃあない」
花京院は口元に添えていた手を、承太郎に向けてヒラヒラと振ってみせた。
「確かに意外には思ったけれど、君がそんな顔をするなんて……まるで不貞腐れた子供のような顔だったぞ」
あの空条承太郎が、だ。なかなか可愛いところもあるじゃあないかと、つい堪えきれずに笑ってしまったのだ。
「恥じることなどなにもないさ。立派な進路じゃあないか。わたしは君を応援しよう」
実際、彼は生活態度を除いて成績にはなんら問題はないのだ。
少々解せないが、むしろ優秀といえる生徒だった。
承太郎は思い切り舌打ちをして、赤らんだ顔を隠すように帽子の鍔を引き下げた。けれど視線だけは持ち上げて、笑みを浮かべる花京院をじっと見つめる。そして言った。
「――あんた、やっぱり笑うと可愛いな」
「ッ……!?」
「眼鏡がなけりゃあ、もっといいと思うぜ」
しまった、と、花京院は思う。そして今更のように、愕然とした。
(……嘘、だろ?)
――笑った。笑ってしまった。
驚くほどごく自然に。いつ以来なのか分からないくらい、久しぶりに。
咄嗟に片手で口元を覆った。ずっと人前では笑わないよう、仮面をつけていたはずだし、それ以前に、笑い方なんて忘れてしまっていたはずなのに。
しかも、可愛いとはなんだ。二十七の男を捕まえて、たかが十七かそこらの男子高校生が。そんな風に言われるのが嫌だから、ずっと隠していたというのに。
さっきの承太郎の非ではない。今度は花京院が顔を赤らめる番だった。いっそ耳まで熱くなるのを感じながら、動揺を抑えきれないでいると、承太郎が瞳の奥を光らせる。
「――決めたぜ」
なにを、という疑問は、声にならなかった。
「あんたをおれのものにする」
「ッ、はあ?」
素っ頓狂な声をあげた花京院に、承太郎がぬっと腕を伸ばしてきた。既視感を覚えて、思わず腰が引ける。けれど承太郎の手は眼鏡には触れず、花京院の胸倉をネクタイの結び目ごと掴むと、一気にぐいと引き上げた。
「!?」
気づけば椅子から尻が離れて、すっかり立ち上がっていた。
透明なレンズ越しに、豊かに生い茂る長い睫毛が見える。信じられないくらい、近い距離に。そして唇には、生温かく柔らかな感触。これは――。
――男に、生徒に、キスを、されている……?
認識した瞬間、停止していた頭の中が、白く弾けたような気がした。力の限り、承太郎の胸を突き飛ばす。
「な、にをッ、しているんだおまえはッ!!」
声は情けなく引っくり返っていた。力いっぱい突き飛ばされたはずの承太郎よりも、花京院の方が背後によろけて、背中を窓に打ち付ける。かつてない動揺に震える手で、唇を思い切り拭った。
「なにって、キスだぜ」
これだけあからさまに拒絶されてなお、承太郎はケロリとした表情で言ってのける。花京院の脳内は、ただ悪戯に混乱するばかりだった。落ち着け、落ち着けと心のなかで念じながら、ばくばくと跳ね上がる心臓を、胸の上から押さえつける。
「どういうつもりでこんなふざけた真似をしたのか、説明してもらおう」
冷静を装い、押し殺した声で問う。承太郎が、不敵に笑った。
「あんたに惚れたということだぜ。だから、おれのものにすると決めた」
ぽかんと口を開けて、また思考が停止した。ついでに時間も止まったような気がする。こいつは何を言っているのだろうか。
――惚れた? おれのものにする?
つまり。それって。
「ぼっ、わ、わたしは、既婚者だッ!!」
瞬間的に、声を荒げていた。冗談じゃあない。寝言は寝てから言うものだ。しかも花京院にそっちの趣味はない。
どこまで本気で言っているのか、あるいは完全におちょくっているのか知らないが、そもそも相手が生徒であるという時点で、まずありえないことだ。
「これが見えないのか」
花京院は承太郎に向かって左手の甲を向けると、薬指にはまる指輪を見せつける。それでもなお、承太郎が顔色を変えることはなかった。それどころかよりいっそう不敵に、ふんと鼻で笑って見せる。そして次の瞬間、彼が放った一言に、花京院は一瞬で凍り付くことになる。
「あんた、奥さんとうまくいってねえんだろ」
「――ッ!?」
ガン、と頭部を打ち付けられたような衝撃を受ける。彼は今なんと言った? 妻と別居状態であることは、周りの人間はおろか、両親にすら話していない。それをなぜ、この男が知っているのだろうか。背中を冷たい汗が伝う。
沈黙は肯定だ。咄嗟に否定できなかったことに現実を突きつけられたような気に苛まれて、けれどこのまま認めるなんてことも、したくはなかった。
「バカなことを言うな。何を根拠に、そんなくだらないことを……そもそも、君には関係のない話だ」
花京院の憤然とした面持ちを受け、承太郎は眉だけを微かに動かした。
「ふぅん。まあいいぜ。どっちにしろ奪っちまえば同じことだ。どんな手を使ってでもよ」
「だからッ、さっきからなにをふざけてるんだ君は!」
「言われた通り、今からでも授業に顔をだすとするぜ」
承太郎はポケットに両手を突っ込むと、くるりとこちらに背を向けた。
「お、おい、承太郎ッ!」
呼びかけに一切答えず、大きな黒い背中が準備室の引き戸の向こうへ消えて行く。花京院はただ茫然としたまま、しばらくその場から動くことができなかった。
+++
それからというもの。
承太郎は日に一度は、花京院がいるタイミングを見計らい、「顔を見に来た」と言って準備室を訪れるようになった。
用もないのに来るんじゃないと、何度言っても聞きやしない。
極力ふたりきりになるのを避けたい花京院は、やむなく職員室で仕事をすることが多くなっていった。
すると今度は、授業にわざと遅れて来たり、開始早々居眠りをしたりという問題行動にではじめた。そうなると他の生徒たちの手前、見過ごすわけにもいかず、結局は放課後に呼び出して、補習や指導を行わなければならない。
かといって真面目に授業を聞いているかと思えば、その視線は教科書や黒板ではなく、花京院を捉えていた。熱視線、とでもいえばいいのか。あの宝石のような瞳にじっと見つめられると、何もかも見透かされているようで、心が落ち着かない。目が合って、肉感的な唇が笑みを形作ろうものなら、不意打ちで食らった唇の感触を思い出して、胸がドキマギとするのを感じてしまう。そしてそんな自分に、何よりも嫌悪感が沸いた。
ふたりきりで準備室にいなくてはならない時間なんて、花京院にとっては地獄に等しかった。またキスでもされては堪らないと、身を固くして警戒を怠らない花京院を、承太郎はむしろ、楽しんでいる様子だった。それがまた憎らしくて、腹が立った。
けれどあれ以来、承太郎が花京院に手を出してくることは、一度もなかった。あのキスも告白も、まるで嘘のようにごく普通に補習や説教を受けて、または例の進路に関する相談をして、ある程度のところで退散していく。そのうち花京院も、あの一件はやっぱり性質の悪い冗談だったのかと、そう思うようになっていった。
授業中の視線だって、もしかしたら自分の自意識過剰がそう勘違いさせているだけ、なのかもしれないと。
承太郎は花京院の話に熱心に耳を傾けるし、海洋学を学びたいのだと話す姿は、彼がまだ少年の域をでない、未来ある若者であることを思い出させた。
正直、これまで生徒に慕われたことがなかった花京院は、承太郎と接する一時を、満更でもないと思いはじめるようになっていた。居眠りや遅刻は感心できないが、そうまでして教師としての自分を必要としてくれているのだとしたら、冥利に尽きるというものだ。だからまた徐々に、空き時間や放課後は準備室で仕事をするようになっていった。
たったそれだけで、毎日が以前よりも少し、充実したものに変化したような気さえする。最近は、以前のように妻からの連絡を待ちわびることも、少なくなったように思う。
けれど、だからといってこのままでいいというわけではない。
一度はちゃんと、彼女の顔を見て話をしなくてはならないことは、分かっていた。
+++
「そろそろちょっとくらいはその気になったか」
ある日の放課後。
ひょっこり顔を出した承太郎に、暇なら勉強でもしろと、適当にコピーした英文の読解問題を解かせながら事務作業にあたっていた花京院の背中に、その質問はおもむろに投じられた。
「なんの話だ?」
書類の改正箇所へ、新たに打ち直したものを切っては貼り付けるというアナログな作業をしていた花京院は、作業する手を止めることなくそれに応じる。
「そろそろおれのものになる気になったか、と聞いているんだぜ」
「――はあ?」
花京院は大きめの口をぱっくりと開け、眉を顰めながら上半身だけ軽く捻ると、室内の中央に一組だけ置かれたデスクセットについている承太郎を見やった。
彼はいつもの両手をポケットに捻じ込んだまま足を組むというスタイルで、花京院をじっと見つめている。
「またつまらない冗談か。あの一回きりで飽きたんじゃあなかったのか?」
「冗談でも遊びでもねえし、おれはしつこいぜ。花京院」
「はいはい、いいからそんなことより、問題は解き終わったのか? やるからには中途半端では帰らせないぞ。あと、教師を呼び捨てにするな」
全く取り合う気のない花京院は、再び自分の机に向かって手先を動かし始める。大方、問題集を解くのに飽きてしまって、手持ち無沙汰にでもなっているのだろう。勉強や進路についての相談ならいくらでも乗るが、退屈しのぎに付き合ってやるほど、こちとら暇ではない。
「これ以上しつこいと、今後は遅刻や居眠りをする度に反省文も書いてもらうからな」
「つまり、それだけあんたといられる時間が伸びるってことか」
「あのなあ……」
大きな溜息をつきながら、がくりと項垂れる。最近の高校生の間では、教師を口説くという遊びでも流行っているのだろうか。だとしたら、なんて性質が悪いのだろう。
花京院はこれ以上まともに取り合うのもバカバカしいと、肩を竦めて椅子から立ち上がった。重ねられている書類の束を両手で持ち、トントンと叩きつけて端を揃える。ホチキスはどこだったろうかと机の上をざっと見渡して、ふと、伏せられたままの写真立てで視線を止めた。
(――メールは、ちゃんと見てくれただろうか)
妻に連絡を入れたのは、昨夜のことだ。久しぶりに、一緒に夕食でもどうかと。返事は、まだない。
もし会って、話ができたら。以前と変わりない彼女の声を聞いて、その笑顔を見ることができたなら。きっとこの左手の薬指にはまる指輪を見る度に、重い溜息をつくことも、なくなるような気がした。
(きっと、戻れるさ)
写真立てに、そっと手を伸ばす。もうずっと伏せたままの小さな枠に指先で触れ、元の通りに立て直そうとした。
ゆっくりと、僅かに持ち上げたところで。
「ッ――!!」
背後から、抱きすくめられた。
心臓が止まるかと思うほどの驚きに、声も出ない。
写真立ては結局、パタリと音を立てながら、伏せられたままになってしまった。
「な……ッ」
自分よりも一回り大きな身体が、花京院の背中をすっぽりと包み込んでいた。長く、太い両腕が前にまわって、強く強く、抱きしめられる。
一体いつの間に。物思いに耽るあまり、承太郎が席から離れて背後に忍び寄っていたことに、気づくことができなかった。
「じょ、承太郎ッ、これは一体、なんのつもりだ!」
咄嗟に身を捩り、抵抗しようと試みた。けれど彼の逞しい両腕はそれを許さず、唇が耳元にぐっと押し付けられる。
「花京院」
低く、そして切ないほどに、甘い声。吐息のように吹き込まれたそれに、花京院はギクリとして息を飲む。
瞬間、胸の内側からカァッと熱くなって、金縛りにあったように身動きが取れなくなった。
「奥さんとは、うまくいってんのか」
承太郎の声が、じわりと鼓膜を震わせる。不覚にも身体が跳ねてしまったことを恥じながら、花京院は「当たり前だ」と、精いっぱい声を絞り出した。
「もういいだろう? わたしは、こういう冗談は、嫌いだ」
背中から、承太郎の熱と鼓動がダイレクトに伝わって来る。
胸を押し上げられているかのように、息をすることもままならなかった。
「あんたの腰、細すぎだ。折っちまいそうだぜ」
「は、話を聞け……ッ」
「ちゃんと食ってるか? ゆうべは? 今朝は? なにを食った?」
「承太郎ッ! もう本当に、いい加減にしないと――」
「作ってくれるはずの誰かさん、あんたんとこに帰ってねえだろ」
一瞬で、凍り付く。身体中の血液が、サァッと足元まで引いていき、そのまま床に流れ出してしまったみたいに、花京院は全身が冷たくなっていくのを感じた。
――図星。
この男はなぜこうも見透かしたように、核心を突いてくるのだろう。それは花京院にとって屈辱でしかなかった。
「おまえには関係ないッ!!」
力の限り声を張り上げ、承太郎の両腕を引き剥がすようにしながら、思い切り身を捩った。とにかく、ここから早く脱出しなくては。今はそれしか考えられなかった。
花京院には、築き上げてきた秩序というものがある。それがどんなに危ういものであったとしても、こんなところで壊されたのでは、堪らない。
承太郎は、一度は花京院の抵抗を許したかに見えた。けれどその両手は決して逃がさないとでもいうかのように、今度は花京院の肩を正面から抱き込み、そして長い襟足を掴む。
「ッ、ぅ、んッ!?」
全てが一瞬のことだった。ガツン、と歯と歯がぶつかって、頭の中がクラッとする。肉厚な唇の感触に、またキスをされているのだと気がついて、承太郎の肩に爪を立てながら、滅茶苦茶に暴れようとした。けれどその前に、ぬるりと口内に舌が潜り込んできて、戦慄する。
(こ、こいつ……ッ!)
本気かと、花京院は承太郎の正気を疑った。悪ふざけでここまでするのかと。同時に、これは本当に悪ふざけなのだろうかと。混乱の隙間をぬって、疑問が首をもたげる。
潜り込んできた舌は、花京院の口内を暴れまわっていた。
歯列をなぞり、口蓋を舐め上げ、奥で萎縮する舌を強引に捕えては、乱暴に絡みついた。
「はッ、んぐ、ぅ――や、め」
そして、聞き分けのなさを咎めるように、歯を立てる。
奪いつくすようなキスは、ただただ傲慢で、労りがない。どうにかして引き剥がそうともがいてみても、呼吸すら奪われた状態では、悪戯に体力を消耗するだけだった。そのうち、酸欠に脳内がぼうっとしてくる。
(なん、て)
我儘で、ガキ臭いキスをするのだろう。
だけど、必死さだけは伝わった。欲しいものが手に入らずに、泣き喚く子供のようなキス。だから花京院には、嫌でも分かってしまった。
――彼は、本気なのだと。
冗談でも、からかっているのでもなく、この男は真剣なのだ。
惚れたと言ったあの言葉は、嘘でもなんでもなく。
(どうして、ぼくは)
それが分かった瞬間、承太郎の肩に爪を立てるだけだった手が、縋るようなものに変わってしまった。
ただただ必死な拙い口付けに、胸をうたれている自分を自覚する。身体が、自分の戸惑いを置き去りにして、承太郎を受け入れる態勢に入っていた。
こんな風に、誰かに激しく求められるのは。思いだせないくらい、久しぶりのことだった。あるいは、初めてだったのかもしれない。これほどまでの情熱を、花京院は知らなかった。
奥深い場所から、不思議な熱が込み上げてくる。
「あんたが欲しい」
くったりと力を失くした花京院の身体を、強く抱きしめて承太郎が言った。熱っぽく掠れた、吐息のような声に、皮膚を内側から焼かれているような気にさせられる。
「あんたが、先生が……好きだ」
――ああ。
こんなにも真っ直ぐに。まるで体当たりでもするみたいに。
愛情をぶつけられたことが、あっただろうか。
いっそ自分の立場も、彼が未成年であり、教え子であることも忘れて、このまま身を委ねてしまえたら。どんなに楽だろう。
どんなに、幸福なことだろう。誰だってただ求めるばかりでいるよりも、求められた方が、ずっと――。
ゆらりと顔を上げれば、レンズ越しに承太郎と視線がぶつかった。いま自分は一体、どんな惚けた顔をしているのだろうか。
けれどそれ以上に、承太郎のエメラルドが、まるで泣きだしそうに潤んでいるから。
――承太郎、と。
甘ったるい声で、名前を呼びそうになって。
しかし次の瞬間、どこからか発される無機質なバイブ音に、冷水をかぶったように肩を跳ねさせ、目を見開いた。
「ッ……!?」
息を飲んだのは、多分、同時だ。一瞬で正気に戻った花京院は、承太郎の身体を突き飛ばしていた。
どこか呆然とした表情でいる承太郎から距離を取る。バイブ音は、花京院のポケットから響き渡り、やがて消えた。
「……わたしは、既婚者だ」
いつかも言った台詞。あのときよりも、声が震えている。
「君のような子供と、どうこうなるつもりはない」
承太郎のほんのり濡れた唇が、ぐっと引き結ばれた。
「わたしは妻を――愛している」
まるで自分に言い聞かせるように、花京院は一言一言、噛み締めるように言葉を紡いだ。
「二度と、こんな真似をしたら許さない」
冷たく言い捨てて、花京院は承太郎から顔を背けると、準備室を後にした。
+++
心臓が暴れる音を聞きながら、廊下を速足で歩く。
承太郎の唇の感触や、力強い腕の温もりが、まだ身体中にこびりついているようだった。
(忘れろ、忘れろ、忘れてしまえ)
どうかしていただけだ。柄にもなく、絆されかけただけ。
こんなことは、絶対にあってはならないことなのだ。
「痛ッ……!」
ドクドクという血液の流れが、そのまま脳内で頭痛を引き起こす。もうじき校舎の突き当りという階段手前で、花京院は足を止めると壁に手をついた。そのままずるずると、膝をつく。
――離れない。承太郎の熱が、唇が、声が。
どうやっても、離れていってくれない。
藁にも縋る思いで、花京院はスーツのポケットに手を捻じ込んだ。携帯を取り出し、妻からメールが来ていることを確認する。少しだけ、ホッとした。
震える指先で、ぎこちなく画面を操作する。
『返事が遅れてごめんなさい。
仕事も忙しいし、まだしばらく帰れそうにないわ。
余裕ができたら、私の方から連絡するから。
せっかくだけど、ごめんなさい』
――普通なら。
普通の夫なら、とっくに問い詰めていたのだろうか。
妻の化粧や、髪の色や、香水の匂いに気づいた時点で、何か声をかけていたのだろうか。少しずつ家から足が遠のく妻を、ここまで放っておくものだろうか。
(本当は、ちゃんと分かっていた)
妻は嘘をついている。彼女の気持ちは、おそらくもうこちらに向いてはいないのだろう。
だけど、それを確かめるのが怖かった。真実を知るのが怖かった。妻を信じ続ける夫でありたかった。
それなのに、妻を愛しているのだと承太郎に言い放った瞬間、奇妙な後ろめたさを覚えたのは、なぜだろう。
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