2025年6月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
とある日の朝、サマディー大国の王子・ファーリスから手紙が届いた。
テーブルに向かってさっそく封を切っていたイレブンだが、その内容を把握するやいなや、なぜかコトンと首をかしげた。
「あの王子さん、またなんかしたのか?」
食後のお茶が入ったカップを両手に近づくと、カミュは片方をイレブンのそばに置いた。そして自身のカップに口をつけながら、背後から手紙をのぞき込む。
親愛なるイレブンさんへ──という一文から始まる手紙には、『どうしても頼みたいことがあるので、必ずカミュさんを連れて来てほしい』と書かれていた。
「オレ? 必ずって、なんでまた?」
「さぁ……?」
なにかしらの連携技を見せてほしいだとか、そういった類の相談だろうか。その手の依頼なら、旅の間にも幾つかあったと記憶している。
「なんだかわからねえが、とりあえず話だけでも聞きに行っとくか?」
するとイレブンが、難しい顔をしながら「うぅん」と低くうなった。
「なぜだろう。すごく嫌な予感がする。行ったが最後、なにかろくでもないことに巻き込まれそうな……」
「へえ? 珍しいこともあるもんだ。お前がそこまで言うとはな」
基本的に困っている人を放っておけない質であるイレブンが、こうも難色を示すとは。
国を上げた大々的なウマレースに、主役である王子に成り代わって出場してほしい、なんて無茶な頼み事ですら、ホイホイと引き受けてしまうほどのお人好しなのに。
しかしだからこそ、なにかよほどのことがあるのかもしれない。勇者の勘がそれを知らせているというのなら、従うに越したことはないだろう。
「オレは信じるぜ。勇者の勘を。まあ、気が乗らねえならいったん置いとくのも有りだと思うぜ。そもそもお前は便利屋じゃねえんだからさ」
肩をポンと叩いてやると、イレブンは一瞬ホッとしたように表情を和らげた。が、すぐに大きく息をつき、椅子から立ち上がった。
「なんてね。サマディーの王様にはユグノア復興の件でも助けてもらってるし、友達の頼みを無視するなんてできないよな」
あの国に関しては、他国の復興支援より自国の財政再建が先なのでは? と思わずにはいられないのだが。まぁそこは置いておくとして、カミュはイレブンの背をバシンと叩くと白い歯を見せて笑った。
「ハハ! やっぱそうなるんだよな、お人好しの勇者さま!」
イレブンはちょっと前のめりになってよろけながらも、照れ笑いを浮かべてポリポリと指先で頬をかいた。
*
ルーラでサマディーへ飛び、城にあるファーリスの部屋を訪れたふたりを待ち受けていたのは、伝説の三連ジャンピング土下座だった。
懐かしい光景に目を見張るイレブンとカミュに、ファーリスは額を床に押しつけながら
「頼む! 一生のお願いだ! ミーコさんとデートさせてくれ!」
と、言った。
「はぁ?」
イレブンとカミュはお互いまん丸にした目で顔を見合わせる。
「ミーコってのは……あのミーコのことか?」
それはカミュが以前、メダル女学園の文化祭にて催された演劇、『愛羅武勇が止まらない』で演じた清楚系ヒロインの名だ。
まさかここでその名が飛びだすとは思ってもみなかった。しかも聞き間違いでなければ、デートがどうとか言っていたような気がするが。
「おいおい。藪から棒に、そりゃ一体なんの冗談だ?」
一歩踏み出したカミュが、腰に両手をやりながらファーリスの後頭部をのぞき込む。
「あの演劇で見た彼女の姿が忘れられず、あれからずっと何も手につかないんだ……想いは日に日に募るばかりで、このままではどうにかなってしまいそうで……だからっ!」
勢いよく顔をあげたファーリスに、カミュは「ぉわ!?」と背後に飛び退いた。
「どうか、どうか一日だけ思い出を……ミーコさんを、ボクにくださいっ!!」
今にも泣きそうな声色で、ファーリスが再び床に額を擦りつけた。
「いやいやいや……セーニャやマルティナならいざ知らず、なんだってミーコなんだよ。だいたい、王子さんはあのときミーコにノーコメだったろ」
「あまりの可憐さに、言葉を失っていたに決まってるじゃないですかぁ!!」
「ヒェッ」
凄まじい剣幕で顔をあげたファーリスの目が、尋常じゃないくらい血走っている。カミュは顔を引きつらせながら上半身を仰け反らせた。
「囚われの身でありながら、気丈に振る舞おうとする健気ないじらしさ……ヒサコを慈しむ優しさに満ちた包容力……ミーコさんはまさにボクの理想の女性だ! あぁっ、あの小さな胸に包まれたい! 白い手でよしよしされた~いっ!!」
「ま、マジかよ……」
彼は本気だ。本気でミーコへのトチ狂った恋心に身を焦がしている。自身を抱きしめながら頬を赤らめ、うっとりと瞳を潤ませるその様子に、カミュは言葉を失った。
イレブンが漠然と感じ取っていた嫌な予感とは、まさにこのことだったのだ。
「ダメだ」
そのとき、ずっと黙りこくっていたイレブンが、カミュを庇うようにズイッと前に出た。
「イレブン……!」
「ファーリス。いくらキミの頼みでも、それだけは聞けないよ」
「そんなこと言わずに頼むよ! イレブンさん、この通りだ!」
「ダメったらダメだ。なんだよデートって。ミーコさんをボクにくださいだって? そんなの、たとえ一日だって許せるはずがないだろ?」
ファーリスを見下ろすイレブンの瞳は、見てるこちらが凍りつくぐらい冷ややかだ。
悪魔の子が出ちゃってるぜとヒヤヒヤしつつ、断固として譲らないその彼氏力に、カミュの中にある乙女心がキュンと疼いてしまう。
しかしファーリスも負けじと譲らない。彼は得意の土下座を再びド派手に披露した。
「たっ、のっ、む!!」
はい
▶いいえ(ピッ)
「頼む! この! 通り!!」
はい
▶いいえ(ピッ)
「フンッ! ングッ! フゥッ!」
はい
▶いいえ(ピッ)
ひたすら『いいえ』を選択し続けるイレブンと、そのたびに土下座をかますファーリスという、謎のプレイが続いた。両者ともに引く様子がない。
やがてそのループが10を超える頃になると、さすがにちょっと飽きてきた。
イレブンは相変わらず悪魔の子モードだし、このままではファーリスの膝の皿がバキバキに割れかねない。
「あー、もう……ったく、わかったよ!」
ウンザリした息を漏らしながら、カミュは両手を上げて降参のポーズをとった。
イレブンが信じられないものを見る目で「カミュ!?」と非難の声を上げている。
「このまんまじゃ埒が明かねえだろ。王子さん、あんたの熱意には負けたぜ」
「ほっ、本当ですかカミュさん!?」
「ああ。ただし、一日だけって約束はしっかり守ってもらうぜ」
「カミュさん……っ、ありがとうございます! さすがはミーコさんの中の人だ!!」
両手でガッツポーズをするファーリスに、カミュはボリボリと頭を掻いた。
「カミュぅ……」
猫背になったイレブンが、目にいっぱいの涙を浮かべてカミュを見ている。ぎゅっと下唇を噛み締めている様子に、胸がチクチクと締めつけられた。
カミュは眉をハの字に下げながら、イレブンの頭に手をやってわしゃわしゃと撫でた。
「そんな顔すんなって。たった一日のしんぼうだ。な?」
「うぅ~……でも……」
カミュだってイレブンにこんな顔はさせたくなかった。しかしファーリスの熱意──というか、しつこさに根負けしてしまったのが正直なところだ。
不毛な土下座ループが永遠に続くくらいなら、さっさと終わらせたほうがいい。
「よーし! そうと決まればさっそく準備をしなくては!」
ファーリスはすっかりその気になってウキウキしている。彼はすっくと立ち上がり、パンパンッと大きく手を叩いた。
*
「やれやれ。まさかまたこいつを着る日が来るとはな」
姿見にその身を映しながら、カミュは大きなため息をついた。
胸元を飾る真紅のスカーフ。スカートはきっちり膝丈で、ふくらはぎの中腹まであるハイソックスは、セーラー服と同じ紺色だ。そこにダークブラウンのローファーを履けば、清楚系ヒロインとやらのできあがりだった。
あのあとファーリスの合図でやってきた侍女によって、カミュはミーコに変身させられた。ピアスも外され、顔にはうっすら化粧までほどこされた。
これの何がいいのかと呆れながら、カミュはスカートの裾をつまんで広げてみた。
「どうもこのスカートってのは、ヒラヒラしてて落ち着かねえんだよな。まあ、涼しくていいっちゃいいが」
「はわわっ、よくお似合いですよミーコさん!」
「そうかぁ? ……じゃねえ、そうでしょうか? 恥ずかしい、ですわ」
キャラ厳守でお願いします、という要望に応じて、仕方なく言葉を正す。
演劇は台本があったからいいものの、本来おしとやかキャラとは異なるカミュとしては、これでいいのかと戸惑うばかりだ。
(こりゃ先が思いやられるぜ。セーニャでもイメージしとけばなんとかなる、のか?)
おずおずとファーリスの様子をうかがうと、彼は緩みきった表情でニヤついていた。どうやらこれでいいらしい。
さらにイレブンをチラッと見やると、彼もまた蕩けそうな瞳で頬を赤らめている。
「よく似合ってるよカミュ。キミはやっぱり何を着てもサマになるね」
「そ、そうか? へへっ、ありがとな」
イレブンに褒められると悪い気はしないが、つい照れ臭くなってしまう。
はにかみながら向かい合う両名に、ファーリスが「ゴホンッ」と咳払いをした。そしてカミュの肩を抱いて引き寄せる。
「困るよイレブンさん。ボクのミーコさんに鼻の下を伸ばしてもらっちゃあ」
「……あ?」
イレブンの額に目に見えて青筋が浮かんだ。全身にピリピリと雷をまとわせ、自慢のサラサラヘアーが静電気でふわふわ逆立っている。
カミュは背筋をヒヤリとさせながら、そんな彼を「どうどう」となだめすかした。
「ちょっとの我慢だ。抑えろ相棒」
「チッ」
え、いま舌打ちした? と思ったが、触れないでおいた。(怖かったので)
「そんなことより時間がもったいない! はやく出かけましょう、ミーコさん!」
「あ、え、ええ。そう、ですわね。えっと、サマディーといえばウマレース、とか?」
するとファーリスは立てた人差し指を「チッチッチ」と左右に揺らした。
「わかってないな、ミーコさんは。ボクはこの国の王子ですよ。あまりにも面が割れすぎている。そんなボクが白昼堂々デートなんかしていたら、ファンの女性たちが嘆き悲しむじゃありませんか」
「はあ、そうですか」
適当にそのへんを街ブラすれば済むだろうと軽く考えていたのだが、どうやらそうもいかないらしい。確かに王子と熱愛報道なんてされた日には、こちらとしても迷惑だ。
面倒だなと思っていると、ファーリスがイレブンを指さした。
「と、いうわけでイレブンさん! ボクらをどこかイイ感じのデートスポットへ案内してくれたまえ!」
こいつはマジで空気が読めねえんだな、とカミュが額を押さえていると、案の定イレブンはスッ、と中指を立てて見せた。
「……ろすぞ」
「待て相棒! その感じはさすがにダメなんじゃねえかな!?」
こんな物騒な彼の姿を見たら、それこそ世界中にいる勇者ファンの女性たちが、解釈違いで泡を吹いて倒れてしまう。
まあ一番のファンはオレなわけだが……と、心のなかで相棒兼正妻マウントを取りつつ、カミュは大慌てで彼の立っている中指をぎゅっと握った。(隠したつもり)
*
なんやかんやとありつつも、最終的にカミュの提案で一行はソルティコへやってきた。
「うわぁ……! ここが噂に聞く騎士の町、ソルティコかあ~!」
美しい白亜の町並みと香る潮風、宝石のような青い海の絶景を前に、ファーリスがキラキラと目を輝かせている。
はしゃぐ姿を尻目に、カミュはこっそりと小さな嘆息を漏らした。
(イレブンのやつ、相当落ち込んでたな……)
今この場にイレブンの姿はない。彼はデートに同行するつもりでいたようだが、到着してすぐになんとか説得し、気晴らしにカジノへ行ってもらった。
この状況でイレブンがいたのでは、とても気が気じゃなかったからだ。
何度も振り返りながら去っていく背中があまりにも寂しそうで、お兄ちゃん心と胃が同時にキリキリと痛んだ。
今夜はいつも以上にめちゃくちゃに甘やかして、メンタルケアをしてやらなければ。
「さあ、行きましょうミーコさん。危ないのでボクの手をどうぞ!」
カミュの気も知らず、ファーリスがキザったらしく手を差しだしてくる。
目の前が階段ということもあり、しっかりエスコートする気満々のご様子だ。マジか、と思っていると、
「おっと、邪魔だぜ兄ちゃん」
「えっ、うわ!?」
通りすがりの荒くれさんに肩をぶつけられ、ファーリスが態勢を崩してしまう。そのまま「うわ~~~っ!!」と悲鳴をあげて、階段から転がり落ちてしまった。
「ちょっ、おい! 大丈夫、ですか!?」
慌てて階段を駆け下りていくと、尻もちをついたファーリスが「うぅ~」と呻きながら頭をさすっている。羽根のついた帽子もすっかり脱げて、地面で砂まみれになっていた。
「グスっ……うぅ、ミーコしゃあん……っ」
ファーリスはカミュを見上げ、ウルウルと涙ぐんでいた。鼻水まで垂らしているし、まるで母親に助け起こされるのを待っている子供のようだった。
カミュは苦い薬を噛み潰したような、なんともいえない気分でうなじを掻いた。
(まいったな……どうもオレは、こういうのに弱いんだ)
その情けない姿は、二人旅をしていた初めの頃のイレブンを思い起こさせる。
右も左もわからないまま汚名を着せられ、お尋ね者になってしまった彼は、どこか不安そうにカミュの後ろをついてくるばかりだった。
無論、あの当時のイレブンよりファーリスの方がずっと頼りない。
けれど根っからのお兄ちゃん気質を持つカミュは、この手の庇護欲をそそるタイプに弱いのだ。元相棒のデクしかり、なんだかんだでつい世話を焼きたくなってしまう。
はあ、とため息をつき、カミュは地に落ちた帽子を拾い上げると、ファーリスの傍らに膝をついた。元通り帽子をかぶせてやり、ポケットから取りだしたハンカチで涙と鼻水を拭ってやる。
「お怪我はありませんか? さぁ、泣くのはやめて、あたくしの手に掴まって」
「うぅっ、ありがとうミーコさん。やっぱりあなたは優しくてステキな人だ」
「もう……ファーリスさまったら」
カミュの手に掴まってファーリスが立ち上がる。マントについた砂埃を払い落としてやると、彼はデレデレと目尻をさげて「えへへ」と笑った。
(やれやれ……これじゃデートというより子守じゃねえか……)
あまりにも幸先が悪すぎるスタートに不安が募る。しかしデートはまだ始まったばかりだ。今日は長い一日になりそうだと、カミュは諦めの境地で腹をくくるのだった。
*
その後は手を繋いでソルティコの町をブラリと散策した。
南国の花が咲き乱れる見事なアーチを見上げ、感嘆の息を漏らしていたファーリスだったが、ふとカジノの電飾に目をとめて「あっ!」と声をあげた。
「あれがソルティコ名物のカジノか! 実際に目にしたのは初めてだ!」
「そういえばサマディーにはありませんものね」
「そうなんだよ。いいなぁ……大人の遊び場って感じだなぁ……」
ファーリスは興味津々のご様子だ。おそらく中にはイレブンがいるだろうから、できれば避けたいところなのだが。
「……興味がおありなら、入ってみますか?」
しかし意外にも、ファーリスは「いいえ」と首を左右に振った。
「制服を着たあなたをお連れしていい場所ではありませんから。そもそもミーコさんのような可憐な女性に、ギャンブルなんて似合いませんよ」
そのパーフェクトな返答に、カミュは思わず目を丸くした。
さすがは騎士の国の王子といったところか。ちょっと見直してしまった。正直この点においてだけは、イレブンよりポイントが高いかもしれない。
旅の間、イレブンは何もかもそっちのけでカジノにハマっていた時期がある。
戦いに必要なアイテムのため、息抜きのためと目をつぶっていたが、彼にスロカスの素質がなかったとは言い切れない。
最終的に堪忍袋の緒が切れたベロニカにこっぴどく叱られ、ついでにカミュも監督不行き届きで叱られた。理不尽な気もしたが、イレブンに対してはつい甘くなってしまう自覚があったので、甘んじてお叱りを受け入れたのだった。それも今ではいい思い出だ。
(イレブンのヤツ、ヤケになって散財してなきゃいいが……)
あの寂しげな背中を思いだし、針が刺さったように胸が痛んだ。そんなカミュの手を引いて、ファーリスが「行きましょう」と歩きだす。
癖のある金髪を見上げ、カミュはふと不思議な感覚に囚われた。どうしてこんな場所を、こんな格好で、イレブン以外の男と手を繋いで歩いているんだろう。
よく知っているはずの町並みが、まったく見知らぬものに見えてくる。
なんだか無性にイレブンに会いたくなった。時間が過ぎるのは、こんなにも遅いものだったろうか。今さら安請け合いしたことを後悔しても遅かった。
*
カジノの件で評価をよくしたかに思えたファーリスだったが、その後は散々だった。
立ち寄った店で偽物の宝石を掴まされそうになったり、アイスクリームをすれ違いざまのマダムにぶつけてしまったり、とにかくダメダメぶりを発揮した。
「はぁ……ボクってホント、ダメだなぁ……」
ファーリスはすっかり落ち込み、ベンチに腰掛けながらうなだれている。
「どうか元気をだしてください。そうだ、今なにか飲み物を買ってきますわ」
「いえ、それはボクが……っ」
カミュがその場から離れようとすると、彼はすかさず引き止めて立ち上がった。そしてポケットに手を突っ込むと、なぜか表情を青くした。
「あ、あれ? あれれ?」
「ファーリスさま?」
「ない……サイフが、ない……!?」
どうやらどこかで落としてしまったらしい。
アイスクリームを買った時点ではあったはずだから、おそらくその後のマダムとの一件で、すったもんだしている最中に落としたと思われる。
(あのときか……)
ゲキオコボルト状態のマダムに三連土下座をしていたので、その際どこかに吹っ飛んだのだろう。カミュも一緒になって頭を下げていたため、そこまで気が回らなかった。
「はああぁ……やっぱりボクはダメダメだ! ミーコさんに、ひとつもいいところを見せられない……っ」
ファーリスはいっそう落ち込み、ベンチにガクンと座り込んで頭を抱えた。
ポジティブが服を着て歩いているような男が、ここまで落ち込むのだからよっぽどだ。
カミュはファーリスの隣に腰掛け、その背に触れた。
「あまり気に病まないでください。あたくしも、もっと注意して見ているべきでしたわ」
「ミーコさん……ありがとう。だけど今は、その優しさがつらいのです……」
「んじゃどうすりゃいいってんだよ」
「え?」
「あ、いえ。あ、あたくし、やっぱりなにか飲み物を買ってきますわね!」
なにかスッキリするものでも飲ませてやれば、少しは落ち着くかもしれない。
カミュはいったんその場を離れた。
まずは先ほどマダムと揉めた場所へ行き、辺りを一通り確かめてみた。すでに誰かに拾われたか、あるいはもっと別の場所で落としたのか、サイフは見つからなかった。
いくら財政難とはいえ、一国の王子さまのサイフとなれば、一体どれだけのゴールドが入っていたのか。運よく見つかったところで、よほどの善人にでも拾われていない限り、中身は戻ってこないだろう。
そりゃそうだよなと思いながら、カミュは道沿いに見つけたキッチンカーに立ち寄り、ココナッツジュースを2つ購入した。
両手にそれぞれ持って歩いていると、とつぜん目の前にガタイのいい男二人が立ちふさがった。
「オイオイ、ずいぶん可愛いおねーちゃんがいるじゃねえか」
「ねーちゃん幾つだい? オレらと酒場でも行かねえか?」
いかにも海の男然とした粗野で筋骨隆々な男たちが、ニヤけた表情でカミュを見下ろしている。あー、いるよなこういうの……と、バイキングの下働き時代を思いだしながら、カミュは男たちを避けて通り過ぎようとした。
「おおっと、無視かい? ちょっとくらいイイじゃねーか!」
しかしすぐに回り込まれてしまった。カミュは辟易とした息を漏らした。
「あんたらと遊んでる暇はねーんだよ。他をあたりな」
だいたい自分のどこを見て『可愛いおねーちゃん』だなどと抜かすのか。ファーリスにしてもそうだが、どっからどう見ても女装した野郎でしかないだろうに。
しかし彼らはよほど視力がイカれているのか、楽しげに「ヒューッ」と口笛を吹いた。
「可愛い顔してたまんねえな! 気の強い女は好きだぜぇ!」
「オレらが大人の遊びを教えてやるよ!」
「ちょっ、あ!?」
強引に肩を抱かれた拍子に、ジュースを2つとも落としてしまった。薄い乳白色の液体が飛沫をあげて、地面いっぱいにシミを広げる。
軽くあしらうつもりが、この格好だとどうも舐められてしまうらしい。これにはさすがのカミュも頭にカッと血がのぼった。
「この野郎ども……っ」
キツく睨みつけ、拳をお見舞いしようとしたそのとき──
「その手を離せ!」
声がした方をとっさに見ると、そこにはファーリスの姿があった。
「ファーリス!? さま!?」
「ミーコさん! このボクが来たからにはもう安心です! 野蛮な男たちの好きにはさせません!」
「なんだぁ? やんのかあんちゃん?」
男のうちの一人が、どこからかナイフを取りだした。もう片方はポキポキと両手の指を鳴らしている。
ファーリスはすかさず腰からさげている剣を抜いた。
「やめっ、おやめくださいファーリスさま! あたくしなら平気ですから!」
この甘ったれな王子さまに、まともなケンカの経験があるとは思えない。せいぜいこの筋肉ダルマたちのサンドバッグにされて終わりだ。
しかしファーリスにとって、これは名誉挽回のチャンスだった。彼は生き生きとした表情で、カミュに向かって親指を立てるとウィンクをして見せた。
「任せてくださいミーコさん! ボクだってダテに剣の稽古に励んでいるわけではありません! こんな連中、秒でコテンパンにしてやりますよ!」
「言ってくれるじゃねえかこのクソガキが! お望み通りボコボコにしてやんよ!!」
「あーもうバカ! 煽るんじゃねえですわよ! マジで殺されますわよ!?」
確かにあのサソリ事件以来、兵士たちに混じって稽古はしていたようだが。
カミュの脳裏には、ボコされたあげく丸裸にされ、泣きべそをかくファーリスの姿しか浮かばない。失礼な話だが、絶対にそうなるという確信があった。
「てやー!!」
そんな心配をよそに、ファーリスが掛け声と共に挑みかかった。ムキムキたちが、「ヒャッハー!」と叫んで迎え撃つ。
(ダメだ! 見てられねえ!)
カミュがとっさに顔を背けたその瞬間、どこからともなく雷鳴が轟いた。
ぎゃあああっ! という二つの悲鳴が響き渡り、その後シンと静まり返る。
「……へ?」
恐る恐る見やると、ファーリスの足元で男たちが目を回していた。ところどころが焼け焦げて、プスプスと煙をあげている。
(今の雷……まさか……!?)
とっさに辺りを見回すと、建物の影にサッと隠れるサラサラヘアーが見えた。
間違いない。今のはイレブンの仕業だ。対人間用に限りなく威力を弱めたデインによって、男たちを倒してくれたのだ。
(あいつ、まさかずっとつけていやがったのか?)
ファーリスに気を取られていたせいで、まったく気がつかなかった。
てっきりカジノで遊んでいるものとばかり思っていたが、イレブンは離れた位置からずっとカミュを見守っていたらしい。
(……バカだな)
ジン、と込み上げてくる愛おしさに、つい涙腺が緩んでしまう。カミュは下唇をきゅっと噛みしめ、握りしめた手を胸元に押しつけた。
「や……やった、のか……?」
すると剣を構えたままのファーリスが、足元に倒れている男たちを見て呆然とした声をあげた。
「やりました……やりましたよミーコさん! 見ててくれましたか!?」
「へっ? あ、ああ、ええ」
「やった! やったぞ! 勝ったんだ! ボクはミーコさんを守ったんだ!!」
ファーリスは大喜びでバンザイをしながら飛び跳ねている。失っていた自信を、すっかり取り戻したようだ。
カラクリを知るだけについ口元が引きつるが、カミュは大げさに手を叩いて「すごいですわ!」とおだててやった。
*
寄せては返す波のしぶきが、オレンジ色の夕日に染まって輝いている。
カミュとファーリスはのんびりと海辺を散歩していた。
デートらしいことは何もしていないような気もするが、長かった一日もようやく終わりの兆しが見えている。
カミュはファーリスから一歩引いた位置を歩きながら、潮風を吸い込んでほっと息を漏らした。
「ミーコさん」
するとファーリスが足を止め、いつになく真剣な面持ちで振り返った。
「はい?」
「今日はとても楽しい一日でした。あなたと一緒に過ごせて、本当によかった」
「ファーリスさま……」
カミュはふっと微笑み、軽くうなずくと「あたくしもですわ」と言った。
(終わりよければなんとやら、ってな)
一時はどうなることかと思ったが、終わってみればなんということもない。
これでファーリスがミーコへの気持ちを断ち切り、次の一歩を踏みだすことができるなら、協力した甲斐もあるというものだ。
「ミーコさん……あなたはやっぱりボクが思った通り、誰よりも優しくてステキな人だ。今日だってボクがどんなに情けない姿をさらしても、ずっと寄り添っていてくれた」
「そんな、あたくしは何も……」
「いいえ。あなたほど美しく可憐で、心根の優しい女性には、きっともう二度と出会えない。ボクはそう確信したんです」
「お、おやめくださいファーリスさま」
「だからっ!」
ファーリスは右手をズイッと差しだし、深々と頭を下げた。
「ボクと! 結婚を前提に! お付き合いしてください!!」
「はい!?」
「ボクの人生はあなたナシじゃ考えられない! だからどうかこれから先も、ずっとボクのそばにいてほしい……!」
(おいおい、話が違うじゃねーか! 何ガチ告白してきてんだこの王子さまは!?)
しかもこんな最高のシチュエーションで。
最初は一日デートをするだけ、という約束だったはずだ。未来を見据えた一世一代の大告白を受けるなんて、そんな話は聞いてない。
けれどファーリスの本気度は痛いほど伝わってくる。差し出された右手が、恐れおののくように震えているのを見て、カミュは不覚にも胸を打たれてしまった。
(こいつ……そこまでミーコのことを……)
しかしどこまでいってもミーコは架空の人物だ。どれほど深く愛しても、彼の想いが報われることは決してない。
ならばせめて最後まで彼が愛したミーコとして、その恋に幕を下ろしてやることが、カミュにできるせめてもの計らいだった。
「ファーリスさま、あたくしは──」
が、そのとき。
「ちょっと待ったー!!」
どこからともなく聞き覚えのある声がした。
「!?」
振り返ると、そこには学ラン姿にぐるぐるメガネを着用し、額には「合格」の文字が書かれたハチマキをした若者が、肩で息をして立ち尽くしていた。
「そっ、その告白、ちょっと待った!」
「ブフォッ!!」
その姿を見て、カミュはつい派手に吹きだしてしまった。
「おまっ、なんだよそれ!? まさかそれで変装してるつもりか!?」
もっとも特徴的なサラサラロイヤルおかっぱヘアーが隠れていない。どこからどう見ても立派なイレブンだった。そもそも変装して出てくる意味も分からない。しかし──
「な、なんだキミは!? 大事な告白タイムを邪魔するなんて! 名を名乗れ!!」
アホがいた。案の定というかなんというか、ファーリスはイレブンの正体に全く気がついていなかった。やっぱり視力がイカれているのかもしれない。
イレブンは変装がバレていないことに、パァッと表情を明るくしている。ちくしょうこんなときでも可愛いなぁ、とカミュは胸をキュンキュンさせた。
しかしどうやら名前までは考えていなかったらしく、彼は「えっと、えっと」としばしマゴマゴしたあと、
「ぼ、ボクは! セントメダリア高校の副番長、ギガデイン・ブン太郎だ!!」
と、高らかに名乗りをあげた。
「ブフォッ!!」
カミュがまた吹いた。
しかしその直後、とっさに捻りだしたにしては、勇者らしくてなかなかイカしたネーミングセンスだと思うぜ、と内心で全肯定しておいた。
「セントメダリア高校だって!? あの有名な不良高校と噂の!? まさかキミもミーコさんのことを……!?」
「そのまさかだ!!」
イレブンは小走りでファーリスの横に並ぶと、
「ミーコさん! ずっとあなたが好きでした! ボクと結婚を前提に、お付き合いしてください!」
そう言ってズイッと手を差しだしてきた。
おいおい、お前とはすでに結婚してるようなもんじゃねーか……と思っていると、それを見たファーリスが負けじと手を差しだしてくる。
二人の男から同時に求愛される状況に、これは一体なんの茶番かとカミュは困惑するばかりだった。
しかしそのときふと気がついた。イレブンが差しだしている手が、利き手とは逆の左手であることに。
フッ、とカミュの表情に笑みがのぼった。
(やっぱオレのことよく知ってんのは、こいつだけなんだよな)
イレブンはこれを当たり前のように、ごく自然にやっているのだ。すぐにグルグルと考えすぎては立ち止まってしまうカミュが、迷わずその手を掴みやすいように。
その何気なさがどれほどカミュを嬉しくさせるか、彼はきっと分かっていない。
(でも、だから好きなんだ)
カミュは利き手を伸ばし、イレブンの手を取った。
「あたくしも、ずっとあなたをお慕いしていますわ。ブン太郎さま」
「ミーコさん……!」
「そん、な……ミーコさん、なぜ……!?」
夕焼けの海を背景に手を取り合う二人を見て、ファーリスがよろよろと後ずさる。
彼はひどくショックを受けていたが、次の瞬間その瞳には闘志の炎が宿った。
「認めない! ボクは認めないぞ! こんなどこの馬の骨ともしれない男に、ミーコさんを渡してなるもんか! ブン太郎くん、キミに決闘を申し込む!!」
「はあ!? おいおい、お前が敵うわけねえだろ! こいつを誰だと思ってんだ!?」
「止めないでくださいミーコさん! これは男と男の、絶対に負けられない戦いなのです!」
するとイレブンが、そっとカミュの手を離した。そして静かに目を閉じ──たかどうかはぐるぐるメガネのせいでよくわからないが、「わかった」と低く呟いた。
「その決闘、受けて立つ」
「ちょ、イレ……っ、じゃなくて、ブン太郎さま……!?」
「ミーコさんは下がっててくれ」
イレブンの瞳にも熱い炎が宿って──いるかは謎だが、その気迫に圧され、カミュは思わず数歩、後ろに下がった。
(マジでやる気なのかよ……!)
一体この寸劇はいつまで続くのか。ここまで来ると、カミュにも何がなんだかよくわからなくなってきた。
その間にも、両者無言での睨み合いが続いている。
相手が丸腰であることから、ファーリスは自身の剣を鞘ごと掴んで脇に放った。まさに拳と拳の真剣勝負だ。一人の女を巡り、その火蓋がいま切って落とされようとしている。
「やめて! おふたりとも、あたくしのために争わないで!」
左手を胸に押しつけ、右手を二人の男に向かって伸ばす。例のポーズだ。なんだかんだで場の空気に飲まれ、役に入り込んでしまったカミュが叫んだ。
それを合図に、イレブンとファーリスが砂を蹴る。ふたつの拳が交差しようとした、まさにそのとき……!
「待ちなさぁ~いっ!!」
頭上から何者かの声が降ってきた。
「人の恋路を邪魔する悪い子は、馬に蹴られてお仕置きよっ!」
どこからともなく、ズンチャ♪ズンチャ♪とご機嫌なBGMが流れだす。(※オーレ!シルビア!)
見上げれば、そこにはヤシの木のてっぺんに佇む、学ランを着た男の姿があった。
ファーリスが目を白黒させ、驚きの声をあげる。
「そっ、その姿……まさかあなたは……!?」
「そう、アタシはテルヨ……ポンパドール・テルヨ! 不良高校、セントメダリア高校の番長よ!!」
「……なんでおっさんまでコスプレしてんだ?」
正気に戻ったカミュが呆れ顔を向けるなか、シルビアが「とうっ!」と地面に着地した。相変わらず高い場所からの登場がよく似合う。
「ファーリスちゃん、すでに決着はついているはずよ。ミーコちゃんはブン太郎ちゃんを選んだの。それは紛れもない事実……現実を受け止めなさい!」
ビシッと指をさされたファーリスが、地団駄を踏みながら「でもぉ!」と食い下がる。
シルビアが彼のもとにズイッと近づき、その両肩にそれぞれ手を置いた。
「わかるわ、アナタの気持ち……でもね、愛するふたりの仲を引き裂くなんて、そんな野暮は騎士として……いいえ、男として恥ずべきことよ。ミーコちゃんを心から愛しているのなら、彼女の幸せを願うべきじゃないかしら?」
シルビアを見上げる瞳が、ハッと大きく見開かれた。彼は悔しそうに下唇を噛み締めたあと、その瞳から大粒の涙を溢れさせた。
「うぅ……っ、テルヨさん……ポンパドール・テルヨさん……!」
「いいのよ。今は存分にお泣きなさい。アタシのこの大胸筋で……ね」
「うわぁ~~~ん!!」
寄せては返す波打ち際で、シルビアとファーリスの影がひとつになった。
愛という名の筋肉に抱かれ、その悲痛な泣き声はいつまでも絶えることなく、夕焼け空に響き渡るのだった。
「だから一体なんだってんだよ、この茶番は……」
*
その後、ファーリスはシルビアによってジエーゴの屋敷へ連れて行かれた。
別れ際、彼はどこか晴れやかな表情で、「ミーコさんを泣かせたら許さないぞ!」とイレブンに向けて親指を立て、歯を光らせながらウィンクした。
イレブンはそんな彼にサイフを渡した。(イレブンが回収していて中身も無事だった)
「今日は人生で一番長い一日だったかもしれない」
海が見える高台のベンチに並んで腰掛け、イレブンがしみじみと呟いた。
日が沈み、辺りはすっかり薄暗くなっている。夜の海に映しだされた満月が、ユラユラとクラゲのように揺れていた。
「んな大袈裟な……まあ、悪かったよ。付き合わせちまって」
「それはカミュだって同じだろ」
「違いねえ」
それにしても──と、カミュは指先でぐるぐるメガネを弄びながら言った。
「その格好はなんなんだよ。シルビアのおっさんまで出てくるし」
「ああ、シルビアはたまたま里帰り中でね。偶然バッタリ会ったんだ」
カミュたちを尾行している最中に声をかけられたのだと、イレブンは言った。
事情を聞いたシルビアは、「なにそれ面白そうじゃなぁい!」とノリノリで参加してきたらしい。もちろん、衣装を準備してくれたのもシルビアだ。
「そんなこったろうと思ったぜ」
やれやれと苦笑したカミュに、イレブンもふっと微笑んだ。
彼はさりげなく身を寄せてくると、スカートの上にあるカミュの手に大きな手を被せてきた。
「ずっと気が気じゃなかったんだ。だって、カミュってああいうのに弱いだろ?」
「ウッ」
ズバリ言い当てられ、思わずギクリとしてしまう。
確かに、ファーリスのダメダメぶりに庇護欲が刺激されまくってしまったのは事実だ。
「もし万が一、ほんの少しでもキミが彼になびくようなことがあったら……そう考えただけで、いてもたってもいられなかった」
カミュは指先で頬をかき、わざと唇を尖らせながらイレブンを横目で睨む。
「オレのことよくわかってるわりに、信じてねえのかよ」
するとイレブンは「そんなことないけど!」と、珍しくあせった様子を見せた。カミュはつい声をあげて笑ってしまう。
「ハハハ! わかってるって。ありがとな、心配してくれて……でもさ」
カミュはコテンと小首をかしげ、イレブンに軽く上目遣いを向ける。
「オレには相棒、お前だけだぜ。それだけは絶対、なにがあっても変わらねえ。覚えておいてくれよな」
「カミュ……うん」
恥ずかしそうに頬を染め、イレブンは目を細めて笑った。
そよぐ潮風が、ふたりの髪をそっと揺らす。心地いい波音に、しばし耳を傾けた。
カミュはイレブンにもたれかかり、その肩に頭を乗せた。やっぱりここがいちばん落ち着く。本来あるべき場所に、ようやく戻ってこられたという安心感で胸が満たされた。
するとイレブンがカミュの手をきゅっと握りながら、おもむろに口を開いた。
「今のボクらってさ、デート中の、普通の学生に見えるかな?」
夜とはいえ、まだ早い時間だ。カップルなんかそこかしこにいるし、海辺では家族連れが花火をしていたりもする。
カミュはわざとらしく肩をすくめながらクスッと笑い、
「人前ではしたないですわよ、ブン太郎さま」
と、自由な方の手でイレブンの手の甲を軽くつねった。
イテッ、と言って、大きな手が引っ込んでいく。
「その名前で呼ばないでくれよ……」
いじけた瞳が、軽く睨みつけてくる。
「ボクだって、その格好のキミとデートがしたいよ」
あまりにも子供っぽい顔で不貞腐れているものだから、カミュは「ブハッ」と笑ってしまった。するとイレブンはますますいじけて、唇をへの字に曲げてしまう。
カミュは学ランの胸ぐらを両手で掴み、少し乱暴に引き寄せるとキスをした。
「ッ、ちょ……か、ミュ……っ」
たった一瞬の口づけで、イレブンは月明かりでも分かるほど顔を赤らめた。
「そんな可愛い反応すんなって」
「だ、だって……」
「どうせデート中の浮かれた学生カップルにしか見えねえさ」
胸ぐらを掴んだままの至近距離で、カミュはニヤリと笑って見せた。
「キミってやつは……」
少しイラついたようなため息をこぼす唇に、再びキスをする。イレブンの両手がカミュの肩にそれぞれ触れた。そのまま幾度か、軽い口づけを交わし合う。
実際、みんな美しい海と綺麗な月夜に夢中で、自分たちのことなど見ていない。
それでも他人の気配を感じながら、薄明かりに乗じて繰り返すキスは、ゾクゾクするほど刺激的だった。
このままでは歯止めが効かなくなる。
名残惜しく離れた互いの唇から、はあ、と熱い息がこぼれた。
「……今夜はさ」
「ん」
「このままここに一泊して、明日はカジノにでも行くか?」
コツン、と、互いの額がくっついた。
「お前、ずっと我慢してついててくれたんだろ?」
「そりゃ、遊ぶどころじゃなかったし」
「あのカジノ大好きなイレブンがなぁ……」
過保護は自分の専売特許と思っていたが、イレブンも大概だ。
そんな必要ないのにと呆れながらも、それを嬉しいとも感じている。だけどちょっぴり、照れくさくもあった。年下の男に守られて、喜んでしまっていることが。
「その提案もいいんだけどさ」
そう言いながら、イレブンがカミュの背に両腕を回して抱きしめた。
「ボクは早くキミを連れて帰りたいよ」
「連れ帰ってナニする気だよ」
「そうやってすぐ茶化す」
クツクツと肩を揺らすカミュからは、イレブンの表情は覗えない。けれどきっと、またあの可愛い顔で不貞腐れているのだろう。
「しょうがねえな」
大切にされることには、まだ少し慣れていない自分がいる。甘やかされるよりは甘やかしてやりたいし、どうすれば喜んでくれるかと、思いを巡らせる瞬間が大好きだ。
カミュはイレブンの背を抱き返すと、その耳元でささやいた。
「今夜は朝までミーコでいてやるから。あの王子さまじゃできないこと、させてやるよ」
するとイレブンの身体がピクンと跳ねた。この反応はビンゴだ。
カミュは大満足で「へへっ」と笑い、いっそうイレブンを抱く腕に力を込めた。
朝までミーコ。そんなことを言っといて、きっと途中からワケが分からなくなってしまうだろうけど。
「カミュ……!」
感極まったイレブンもまた、カミュを抱く腕の力を強める。そしてもう片方の腕を空に掲げて、ルーラを唱えた。
朝までミーコを独り占め・了
←戻る ・ Wavebox👏
テーブルに向かってさっそく封を切っていたイレブンだが、その内容を把握するやいなや、なぜかコトンと首をかしげた。
「あの王子さん、またなんかしたのか?」
食後のお茶が入ったカップを両手に近づくと、カミュは片方をイレブンのそばに置いた。そして自身のカップに口をつけながら、背後から手紙をのぞき込む。
親愛なるイレブンさんへ──という一文から始まる手紙には、『どうしても頼みたいことがあるので、必ずカミュさんを連れて来てほしい』と書かれていた。
「オレ? 必ずって、なんでまた?」
「さぁ……?」
なにかしらの連携技を見せてほしいだとか、そういった類の相談だろうか。その手の依頼なら、旅の間にも幾つかあったと記憶している。
「なんだかわからねえが、とりあえず話だけでも聞きに行っとくか?」
するとイレブンが、難しい顔をしながら「うぅん」と低くうなった。
「なぜだろう。すごく嫌な予感がする。行ったが最後、なにかろくでもないことに巻き込まれそうな……」
「へえ? 珍しいこともあるもんだ。お前がそこまで言うとはな」
基本的に困っている人を放っておけない質であるイレブンが、こうも難色を示すとは。
国を上げた大々的なウマレースに、主役である王子に成り代わって出場してほしい、なんて無茶な頼み事ですら、ホイホイと引き受けてしまうほどのお人好しなのに。
しかしだからこそ、なにかよほどのことがあるのかもしれない。勇者の勘がそれを知らせているというのなら、従うに越したことはないだろう。
「オレは信じるぜ。勇者の勘を。まあ、気が乗らねえならいったん置いとくのも有りだと思うぜ。そもそもお前は便利屋じゃねえんだからさ」
肩をポンと叩いてやると、イレブンは一瞬ホッとしたように表情を和らげた。が、すぐに大きく息をつき、椅子から立ち上がった。
「なんてね。サマディーの王様にはユグノア復興の件でも助けてもらってるし、友達の頼みを無視するなんてできないよな」
あの国に関しては、他国の復興支援より自国の財政再建が先なのでは? と思わずにはいられないのだが。まぁそこは置いておくとして、カミュはイレブンの背をバシンと叩くと白い歯を見せて笑った。
「ハハ! やっぱそうなるんだよな、お人好しの勇者さま!」
イレブンはちょっと前のめりになってよろけながらも、照れ笑いを浮かべてポリポリと指先で頬をかいた。
*
ルーラでサマディーへ飛び、城にあるファーリスの部屋を訪れたふたりを待ち受けていたのは、伝説の三連ジャンピング土下座だった。
懐かしい光景に目を見張るイレブンとカミュに、ファーリスは額を床に押しつけながら
「頼む! 一生のお願いだ! ミーコさんとデートさせてくれ!」
と、言った。
「はぁ?」
イレブンとカミュはお互いまん丸にした目で顔を見合わせる。
「ミーコってのは……あのミーコのことか?」
それはカミュが以前、メダル女学園の文化祭にて催された演劇、『愛羅武勇が止まらない』で演じた清楚系ヒロインの名だ。
まさかここでその名が飛びだすとは思ってもみなかった。しかも聞き間違いでなければ、デートがどうとか言っていたような気がするが。
「おいおい。藪から棒に、そりゃ一体なんの冗談だ?」
一歩踏み出したカミュが、腰に両手をやりながらファーリスの後頭部をのぞき込む。
「あの演劇で見た彼女の姿が忘れられず、あれからずっと何も手につかないんだ……想いは日に日に募るばかりで、このままではどうにかなってしまいそうで……だからっ!」
勢いよく顔をあげたファーリスに、カミュは「ぉわ!?」と背後に飛び退いた。
「どうか、どうか一日だけ思い出を……ミーコさんを、ボクにくださいっ!!」
今にも泣きそうな声色で、ファーリスが再び床に額を擦りつけた。
「いやいやいや……セーニャやマルティナならいざ知らず、なんだってミーコなんだよ。だいたい、王子さんはあのときミーコにノーコメだったろ」
「あまりの可憐さに、言葉を失っていたに決まってるじゃないですかぁ!!」
「ヒェッ」
凄まじい剣幕で顔をあげたファーリスの目が、尋常じゃないくらい血走っている。カミュは顔を引きつらせながら上半身を仰け反らせた。
「囚われの身でありながら、気丈に振る舞おうとする健気ないじらしさ……ヒサコを慈しむ優しさに満ちた包容力……ミーコさんはまさにボクの理想の女性だ! あぁっ、あの小さな胸に包まれたい! 白い手でよしよしされた~いっ!!」
「ま、マジかよ……」
彼は本気だ。本気でミーコへのトチ狂った恋心に身を焦がしている。自身を抱きしめながら頬を赤らめ、うっとりと瞳を潤ませるその様子に、カミュは言葉を失った。
イレブンが漠然と感じ取っていた嫌な予感とは、まさにこのことだったのだ。
「ダメだ」
そのとき、ずっと黙りこくっていたイレブンが、カミュを庇うようにズイッと前に出た。
「イレブン……!」
「ファーリス。いくらキミの頼みでも、それだけは聞けないよ」
「そんなこと言わずに頼むよ! イレブンさん、この通りだ!」
「ダメったらダメだ。なんだよデートって。ミーコさんをボクにくださいだって? そんなの、たとえ一日だって許せるはずがないだろ?」
ファーリスを見下ろすイレブンの瞳は、見てるこちらが凍りつくぐらい冷ややかだ。
悪魔の子が出ちゃってるぜとヒヤヒヤしつつ、断固として譲らないその彼氏力に、カミュの中にある乙女心がキュンと疼いてしまう。
しかしファーリスも負けじと譲らない。彼は得意の土下座を再びド派手に披露した。
「たっ、のっ、む!!」
はい
▶いいえ(ピッ)
「頼む! この! 通り!!」
はい
▶いいえ(ピッ)
「フンッ! ングッ! フゥッ!」
はい
▶いいえ(ピッ)
ひたすら『いいえ』を選択し続けるイレブンと、そのたびに土下座をかますファーリスという、謎のプレイが続いた。両者ともに引く様子がない。
やがてそのループが10を超える頃になると、さすがにちょっと飽きてきた。
イレブンは相変わらず悪魔の子モードだし、このままではファーリスの膝の皿がバキバキに割れかねない。
「あー、もう……ったく、わかったよ!」
ウンザリした息を漏らしながら、カミュは両手を上げて降参のポーズをとった。
イレブンが信じられないものを見る目で「カミュ!?」と非難の声を上げている。
「このまんまじゃ埒が明かねえだろ。王子さん、あんたの熱意には負けたぜ」
「ほっ、本当ですかカミュさん!?」
「ああ。ただし、一日だけって約束はしっかり守ってもらうぜ」
「カミュさん……っ、ありがとうございます! さすがはミーコさんの中の人だ!!」
両手でガッツポーズをするファーリスに、カミュはボリボリと頭を掻いた。
「カミュぅ……」
猫背になったイレブンが、目にいっぱいの涙を浮かべてカミュを見ている。ぎゅっと下唇を噛み締めている様子に、胸がチクチクと締めつけられた。
カミュは眉をハの字に下げながら、イレブンの頭に手をやってわしゃわしゃと撫でた。
「そんな顔すんなって。たった一日のしんぼうだ。な?」
「うぅ~……でも……」
カミュだってイレブンにこんな顔はさせたくなかった。しかしファーリスの熱意──というか、しつこさに根負けしてしまったのが正直なところだ。
不毛な土下座ループが永遠に続くくらいなら、さっさと終わらせたほうがいい。
「よーし! そうと決まればさっそく準備をしなくては!」
ファーリスはすっかりその気になってウキウキしている。彼はすっくと立ち上がり、パンパンッと大きく手を叩いた。
*
「やれやれ。まさかまたこいつを着る日が来るとはな」
姿見にその身を映しながら、カミュは大きなため息をついた。
胸元を飾る真紅のスカーフ。スカートはきっちり膝丈で、ふくらはぎの中腹まであるハイソックスは、セーラー服と同じ紺色だ。そこにダークブラウンのローファーを履けば、清楚系ヒロインとやらのできあがりだった。
あのあとファーリスの合図でやってきた侍女によって、カミュはミーコに変身させられた。ピアスも外され、顔にはうっすら化粧までほどこされた。
これの何がいいのかと呆れながら、カミュはスカートの裾をつまんで広げてみた。
「どうもこのスカートってのは、ヒラヒラしてて落ち着かねえんだよな。まあ、涼しくていいっちゃいいが」
「はわわっ、よくお似合いですよミーコさん!」
「そうかぁ? ……じゃねえ、そうでしょうか? 恥ずかしい、ですわ」
キャラ厳守でお願いします、という要望に応じて、仕方なく言葉を正す。
演劇は台本があったからいいものの、本来おしとやかキャラとは異なるカミュとしては、これでいいのかと戸惑うばかりだ。
(こりゃ先が思いやられるぜ。セーニャでもイメージしとけばなんとかなる、のか?)
おずおずとファーリスの様子をうかがうと、彼は緩みきった表情でニヤついていた。どうやらこれでいいらしい。
さらにイレブンをチラッと見やると、彼もまた蕩けそうな瞳で頬を赤らめている。
「よく似合ってるよカミュ。キミはやっぱり何を着てもサマになるね」
「そ、そうか? へへっ、ありがとな」
イレブンに褒められると悪い気はしないが、つい照れ臭くなってしまう。
はにかみながら向かい合う両名に、ファーリスが「ゴホンッ」と咳払いをした。そしてカミュの肩を抱いて引き寄せる。
「困るよイレブンさん。ボクのミーコさんに鼻の下を伸ばしてもらっちゃあ」
「……あ?」
イレブンの額に目に見えて青筋が浮かんだ。全身にピリピリと雷をまとわせ、自慢のサラサラヘアーが静電気でふわふわ逆立っている。
カミュは背筋をヒヤリとさせながら、そんな彼を「どうどう」となだめすかした。
「ちょっとの我慢だ。抑えろ相棒」
「チッ」
え、いま舌打ちした? と思ったが、触れないでおいた。(怖かったので)
「そんなことより時間がもったいない! はやく出かけましょう、ミーコさん!」
「あ、え、ええ。そう、ですわね。えっと、サマディーといえばウマレース、とか?」
するとファーリスは立てた人差し指を「チッチッチ」と左右に揺らした。
「わかってないな、ミーコさんは。ボクはこの国の王子ですよ。あまりにも面が割れすぎている。そんなボクが白昼堂々デートなんかしていたら、ファンの女性たちが嘆き悲しむじゃありませんか」
「はあ、そうですか」
適当にそのへんを街ブラすれば済むだろうと軽く考えていたのだが、どうやらそうもいかないらしい。確かに王子と熱愛報道なんてされた日には、こちらとしても迷惑だ。
面倒だなと思っていると、ファーリスがイレブンを指さした。
「と、いうわけでイレブンさん! ボクらをどこかイイ感じのデートスポットへ案内してくれたまえ!」
こいつはマジで空気が読めねえんだな、とカミュが額を押さえていると、案の定イレブンはスッ、と中指を立てて見せた。
「……ろすぞ」
「待て相棒! その感じはさすがにダメなんじゃねえかな!?」
こんな物騒な彼の姿を見たら、それこそ世界中にいる勇者ファンの女性たちが、解釈違いで泡を吹いて倒れてしまう。
まあ一番のファンはオレなわけだが……と、心のなかで相棒兼正妻マウントを取りつつ、カミュは大慌てで彼の立っている中指をぎゅっと握った。(隠したつもり)
*
なんやかんやとありつつも、最終的にカミュの提案で一行はソルティコへやってきた。
「うわぁ……! ここが噂に聞く騎士の町、ソルティコかあ~!」
美しい白亜の町並みと香る潮風、宝石のような青い海の絶景を前に、ファーリスがキラキラと目を輝かせている。
はしゃぐ姿を尻目に、カミュはこっそりと小さな嘆息を漏らした。
(イレブンのやつ、相当落ち込んでたな……)
今この場にイレブンの姿はない。彼はデートに同行するつもりでいたようだが、到着してすぐになんとか説得し、気晴らしにカジノへ行ってもらった。
この状況でイレブンがいたのでは、とても気が気じゃなかったからだ。
何度も振り返りながら去っていく背中があまりにも寂しそうで、お兄ちゃん心と胃が同時にキリキリと痛んだ。
今夜はいつも以上にめちゃくちゃに甘やかして、メンタルケアをしてやらなければ。
「さあ、行きましょうミーコさん。危ないのでボクの手をどうぞ!」
カミュの気も知らず、ファーリスがキザったらしく手を差しだしてくる。
目の前が階段ということもあり、しっかりエスコートする気満々のご様子だ。マジか、と思っていると、
「おっと、邪魔だぜ兄ちゃん」
「えっ、うわ!?」
通りすがりの荒くれさんに肩をぶつけられ、ファーリスが態勢を崩してしまう。そのまま「うわ~~~っ!!」と悲鳴をあげて、階段から転がり落ちてしまった。
「ちょっ、おい! 大丈夫、ですか!?」
慌てて階段を駆け下りていくと、尻もちをついたファーリスが「うぅ~」と呻きながら頭をさすっている。羽根のついた帽子もすっかり脱げて、地面で砂まみれになっていた。
「グスっ……うぅ、ミーコしゃあん……っ」
ファーリスはカミュを見上げ、ウルウルと涙ぐんでいた。鼻水まで垂らしているし、まるで母親に助け起こされるのを待っている子供のようだった。
カミュは苦い薬を噛み潰したような、なんともいえない気分でうなじを掻いた。
(まいったな……どうもオレは、こういうのに弱いんだ)
その情けない姿は、二人旅をしていた初めの頃のイレブンを思い起こさせる。
右も左もわからないまま汚名を着せられ、お尋ね者になってしまった彼は、どこか不安そうにカミュの後ろをついてくるばかりだった。
無論、あの当時のイレブンよりファーリスの方がずっと頼りない。
けれど根っからのお兄ちゃん気質を持つカミュは、この手の庇護欲をそそるタイプに弱いのだ。元相棒のデクしかり、なんだかんだでつい世話を焼きたくなってしまう。
はあ、とため息をつき、カミュは地に落ちた帽子を拾い上げると、ファーリスの傍らに膝をついた。元通り帽子をかぶせてやり、ポケットから取りだしたハンカチで涙と鼻水を拭ってやる。
「お怪我はありませんか? さぁ、泣くのはやめて、あたくしの手に掴まって」
「うぅっ、ありがとうミーコさん。やっぱりあなたは優しくてステキな人だ」
「もう……ファーリスさまったら」
カミュの手に掴まってファーリスが立ち上がる。マントについた砂埃を払い落としてやると、彼はデレデレと目尻をさげて「えへへ」と笑った。
(やれやれ……これじゃデートというより子守じゃねえか……)
あまりにも幸先が悪すぎるスタートに不安が募る。しかしデートはまだ始まったばかりだ。今日は長い一日になりそうだと、カミュは諦めの境地で腹をくくるのだった。
*
その後は手を繋いでソルティコの町をブラリと散策した。
南国の花が咲き乱れる見事なアーチを見上げ、感嘆の息を漏らしていたファーリスだったが、ふとカジノの電飾に目をとめて「あっ!」と声をあげた。
「あれがソルティコ名物のカジノか! 実際に目にしたのは初めてだ!」
「そういえばサマディーにはありませんものね」
「そうなんだよ。いいなぁ……大人の遊び場って感じだなぁ……」
ファーリスは興味津々のご様子だ。おそらく中にはイレブンがいるだろうから、できれば避けたいところなのだが。
「……興味がおありなら、入ってみますか?」
しかし意外にも、ファーリスは「いいえ」と首を左右に振った。
「制服を着たあなたをお連れしていい場所ではありませんから。そもそもミーコさんのような可憐な女性に、ギャンブルなんて似合いませんよ」
そのパーフェクトな返答に、カミュは思わず目を丸くした。
さすがは騎士の国の王子といったところか。ちょっと見直してしまった。正直この点においてだけは、イレブンよりポイントが高いかもしれない。
旅の間、イレブンは何もかもそっちのけでカジノにハマっていた時期がある。
戦いに必要なアイテムのため、息抜きのためと目をつぶっていたが、彼にスロカスの素質がなかったとは言い切れない。
最終的に堪忍袋の緒が切れたベロニカにこっぴどく叱られ、ついでにカミュも監督不行き届きで叱られた。理不尽な気もしたが、イレブンに対してはつい甘くなってしまう自覚があったので、甘んじてお叱りを受け入れたのだった。それも今ではいい思い出だ。
(イレブンのヤツ、ヤケになって散財してなきゃいいが……)
あの寂しげな背中を思いだし、針が刺さったように胸が痛んだ。そんなカミュの手を引いて、ファーリスが「行きましょう」と歩きだす。
癖のある金髪を見上げ、カミュはふと不思議な感覚に囚われた。どうしてこんな場所を、こんな格好で、イレブン以外の男と手を繋いで歩いているんだろう。
よく知っているはずの町並みが、まったく見知らぬものに見えてくる。
なんだか無性にイレブンに会いたくなった。時間が過ぎるのは、こんなにも遅いものだったろうか。今さら安請け合いしたことを後悔しても遅かった。
*
カジノの件で評価をよくしたかに思えたファーリスだったが、その後は散々だった。
立ち寄った店で偽物の宝石を掴まされそうになったり、アイスクリームをすれ違いざまのマダムにぶつけてしまったり、とにかくダメダメぶりを発揮した。
「はぁ……ボクってホント、ダメだなぁ……」
ファーリスはすっかり落ち込み、ベンチに腰掛けながらうなだれている。
「どうか元気をだしてください。そうだ、今なにか飲み物を買ってきますわ」
「いえ、それはボクが……っ」
カミュがその場から離れようとすると、彼はすかさず引き止めて立ち上がった。そしてポケットに手を突っ込むと、なぜか表情を青くした。
「あ、あれ? あれれ?」
「ファーリスさま?」
「ない……サイフが、ない……!?」
どうやらどこかで落としてしまったらしい。
アイスクリームを買った時点ではあったはずだから、おそらくその後のマダムとの一件で、すったもんだしている最中に落としたと思われる。
(あのときか……)
ゲキオコボルト状態のマダムに三連土下座をしていたので、その際どこかに吹っ飛んだのだろう。カミュも一緒になって頭を下げていたため、そこまで気が回らなかった。
「はああぁ……やっぱりボクはダメダメだ! ミーコさんに、ひとつもいいところを見せられない……っ」
ファーリスはいっそう落ち込み、ベンチにガクンと座り込んで頭を抱えた。
ポジティブが服を着て歩いているような男が、ここまで落ち込むのだからよっぽどだ。
カミュはファーリスの隣に腰掛け、その背に触れた。
「あまり気に病まないでください。あたくしも、もっと注意して見ているべきでしたわ」
「ミーコさん……ありがとう。だけど今は、その優しさがつらいのです……」
「んじゃどうすりゃいいってんだよ」
「え?」
「あ、いえ。あ、あたくし、やっぱりなにか飲み物を買ってきますわね!」
なにかスッキリするものでも飲ませてやれば、少しは落ち着くかもしれない。
カミュはいったんその場を離れた。
まずは先ほどマダムと揉めた場所へ行き、辺りを一通り確かめてみた。すでに誰かに拾われたか、あるいはもっと別の場所で落としたのか、サイフは見つからなかった。
いくら財政難とはいえ、一国の王子さまのサイフとなれば、一体どれだけのゴールドが入っていたのか。運よく見つかったところで、よほどの善人にでも拾われていない限り、中身は戻ってこないだろう。
そりゃそうだよなと思いながら、カミュは道沿いに見つけたキッチンカーに立ち寄り、ココナッツジュースを2つ購入した。
両手にそれぞれ持って歩いていると、とつぜん目の前にガタイのいい男二人が立ちふさがった。
「オイオイ、ずいぶん可愛いおねーちゃんがいるじゃねえか」
「ねーちゃん幾つだい? オレらと酒場でも行かねえか?」
いかにも海の男然とした粗野で筋骨隆々な男たちが、ニヤけた表情でカミュを見下ろしている。あー、いるよなこういうの……と、バイキングの下働き時代を思いだしながら、カミュは男たちを避けて通り過ぎようとした。
「おおっと、無視かい? ちょっとくらいイイじゃねーか!」
しかしすぐに回り込まれてしまった。カミュは辟易とした息を漏らした。
「あんたらと遊んでる暇はねーんだよ。他をあたりな」
だいたい自分のどこを見て『可愛いおねーちゃん』だなどと抜かすのか。ファーリスにしてもそうだが、どっからどう見ても女装した野郎でしかないだろうに。
しかし彼らはよほど視力がイカれているのか、楽しげに「ヒューッ」と口笛を吹いた。
「可愛い顔してたまんねえな! 気の強い女は好きだぜぇ!」
「オレらが大人の遊びを教えてやるよ!」
「ちょっ、あ!?」
強引に肩を抱かれた拍子に、ジュースを2つとも落としてしまった。薄い乳白色の液体が飛沫をあげて、地面いっぱいにシミを広げる。
軽くあしらうつもりが、この格好だとどうも舐められてしまうらしい。これにはさすがのカミュも頭にカッと血がのぼった。
「この野郎ども……っ」
キツく睨みつけ、拳をお見舞いしようとしたそのとき──
「その手を離せ!」
声がした方をとっさに見ると、そこにはファーリスの姿があった。
「ファーリス!? さま!?」
「ミーコさん! このボクが来たからにはもう安心です! 野蛮な男たちの好きにはさせません!」
「なんだぁ? やんのかあんちゃん?」
男のうちの一人が、どこからかナイフを取りだした。もう片方はポキポキと両手の指を鳴らしている。
ファーリスはすかさず腰からさげている剣を抜いた。
「やめっ、おやめくださいファーリスさま! あたくしなら平気ですから!」
この甘ったれな王子さまに、まともなケンカの経験があるとは思えない。せいぜいこの筋肉ダルマたちのサンドバッグにされて終わりだ。
しかしファーリスにとって、これは名誉挽回のチャンスだった。彼は生き生きとした表情で、カミュに向かって親指を立てるとウィンクをして見せた。
「任せてくださいミーコさん! ボクだってダテに剣の稽古に励んでいるわけではありません! こんな連中、秒でコテンパンにしてやりますよ!」
「言ってくれるじゃねえかこのクソガキが! お望み通りボコボコにしてやんよ!!」
「あーもうバカ! 煽るんじゃねえですわよ! マジで殺されますわよ!?」
確かにあのサソリ事件以来、兵士たちに混じって稽古はしていたようだが。
カミュの脳裏には、ボコされたあげく丸裸にされ、泣きべそをかくファーリスの姿しか浮かばない。失礼な話だが、絶対にそうなるという確信があった。
「てやー!!」
そんな心配をよそに、ファーリスが掛け声と共に挑みかかった。ムキムキたちが、「ヒャッハー!」と叫んで迎え撃つ。
(ダメだ! 見てられねえ!)
カミュがとっさに顔を背けたその瞬間、どこからともなく雷鳴が轟いた。
ぎゃあああっ! という二つの悲鳴が響き渡り、その後シンと静まり返る。
「……へ?」
恐る恐る見やると、ファーリスの足元で男たちが目を回していた。ところどころが焼け焦げて、プスプスと煙をあげている。
(今の雷……まさか……!?)
とっさに辺りを見回すと、建物の影にサッと隠れるサラサラヘアーが見えた。
間違いない。今のはイレブンの仕業だ。対人間用に限りなく威力を弱めたデインによって、男たちを倒してくれたのだ。
(あいつ、まさかずっとつけていやがったのか?)
ファーリスに気を取られていたせいで、まったく気がつかなかった。
てっきりカジノで遊んでいるものとばかり思っていたが、イレブンは離れた位置からずっとカミュを見守っていたらしい。
(……バカだな)
ジン、と込み上げてくる愛おしさに、つい涙腺が緩んでしまう。カミュは下唇をきゅっと噛みしめ、握りしめた手を胸元に押しつけた。
「や……やった、のか……?」
すると剣を構えたままのファーリスが、足元に倒れている男たちを見て呆然とした声をあげた。
「やりました……やりましたよミーコさん! 見ててくれましたか!?」
「へっ? あ、ああ、ええ」
「やった! やったぞ! 勝ったんだ! ボクはミーコさんを守ったんだ!!」
ファーリスは大喜びでバンザイをしながら飛び跳ねている。失っていた自信を、すっかり取り戻したようだ。
カラクリを知るだけについ口元が引きつるが、カミュは大げさに手を叩いて「すごいですわ!」とおだててやった。
*
寄せては返す波のしぶきが、オレンジ色の夕日に染まって輝いている。
カミュとファーリスはのんびりと海辺を散歩していた。
デートらしいことは何もしていないような気もするが、長かった一日もようやく終わりの兆しが見えている。
カミュはファーリスから一歩引いた位置を歩きながら、潮風を吸い込んでほっと息を漏らした。
「ミーコさん」
するとファーリスが足を止め、いつになく真剣な面持ちで振り返った。
「はい?」
「今日はとても楽しい一日でした。あなたと一緒に過ごせて、本当によかった」
「ファーリスさま……」
カミュはふっと微笑み、軽くうなずくと「あたくしもですわ」と言った。
(終わりよければなんとやら、ってな)
一時はどうなることかと思ったが、終わってみればなんということもない。
これでファーリスがミーコへの気持ちを断ち切り、次の一歩を踏みだすことができるなら、協力した甲斐もあるというものだ。
「ミーコさん……あなたはやっぱりボクが思った通り、誰よりも優しくてステキな人だ。今日だってボクがどんなに情けない姿をさらしても、ずっと寄り添っていてくれた」
「そんな、あたくしは何も……」
「いいえ。あなたほど美しく可憐で、心根の優しい女性には、きっともう二度と出会えない。ボクはそう確信したんです」
「お、おやめくださいファーリスさま」
「だからっ!」
ファーリスは右手をズイッと差しだし、深々と頭を下げた。
「ボクと! 結婚を前提に! お付き合いしてください!!」
「はい!?」
「ボクの人生はあなたナシじゃ考えられない! だからどうかこれから先も、ずっとボクのそばにいてほしい……!」
(おいおい、話が違うじゃねーか! 何ガチ告白してきてんだこの王子さまは!?)
しかもこんな最高のシチュエーションで。
最初は一日デートをするだけ、という約束だったはずだ。未来を見据えた一世一代の大告白を受けるなんて、そんな話は聞いてない。
けれどファーリスの本気度は痛いほど伝わってくる。差し出された右手が、恐れおののくように震えているのを見て、カミュは不覚にも胸を打たれてしまった。
(こいつ……そこまでミーコのことを……)
しかしどこまでいってもミーコは架空の人物だ。どれほど深く愛しても、彼の想いが報われることは決してない。
ならばせめて最後まで彼が愛したミーコとして、その恋に幕を下ろしてやることが、カミュにできるせめてもの計らいだった。
「ファーリスさま、あたくしは──」
が、そのとき。
「ちょっと待ったー!!」
どこからともなく聞き覚えのある声がした。
「!?」
振り返ると、そこには学ラン姿にぐるぐるメガネを着用し、額には「合格」の文字が書かれたハチマキをした若者が、肩で息をして立ち尽くしていた。
「そっ、その告白、ちょっと待った!」
「ブフォッ!!」
その姿を見て、カミュはつい派手に吹きだしてしまった。
「おまっ、なんだよそれ!? まさかそれで変装してるつもりか!?」
もっとも特徴的なサラサラロイヤルおかっぱヘアーが隠れていない。どこからどう見ても立派なイレブンだった。そもそも変装して出てくる意味も分からない。しかし──
「な、なんだキミは!? 大事な告白タイムを邪魔するなんて! 名を名乗れ!!」
アホがいた。案の定というかなんというか、ファーリスはイレブンの正体に全く気がついていなかった。やっぱり視力がイカれているのかもしれない。
イレブンは変装がバレていないことに、パァッと表情を明るくしている。ちくしょうこんなときでも可愛いなぁ、とカミュは胸をキュンキュンさせた。
しかしどうやら名前までは考えていなかったらしく、彼は「えっと、えっと」としばしマゴマゴしたあと、
「ぼ、ボクは! セントメダリア高校の副番長、ギガデイン・ブン太郎だ!!」
と、高らかに名乗りをあげた。
「ブフォッ!!」
カミュがまた吹いた。
しかしその直後、とっさに捻りだしたにしては、勇者らしくてなかなかイカしたネーミングセンスだと思うぜ、と内心で全肯定しておいた。
「セントメダリア高校だって!? あの有名な不良高校と噂の!? まさかキミもミーコさんのことを……!?」
「そのまさかだ!!」
イレブンは小走りでファーリスの横に並ぶと、
「ミーコさん! ずっとあなたが好きでした! ボクと結婚を前提に、お付き合いしてください!」
そう言ってズイッと手を差しだしてきた。
おいおい、お前とはすでに結婚してるようなもんじゃねーか……と思っていると、それを見たファーリスが負けじと手を差しだしてくる。
二人の男から同時に求愛される状況に、これは一体なんの茶番かとカミュは困惑するばかりだった。
しかしそのときふと気がついた。イレブンが差しだしている手が、利き手とは逆の左手であることに。
フッ、とカミュの表情に笑みがのぼった。
(やっぱオレのことよく知ってんのは、こいつだけなんだよな)
イレブンはこれを当たり前のように、ごく自然にやっているのだ。すぐにグルグルと考えすぎては立ち止まってしまうカミュが、迷わずその手を掴みやすいように。
その何気なさがどれほどカミュを嬉しくさせるか、彼はきっと分かっていない。
(でも、だから好きなんだ)
カミュは利き手を伸ばし、イレブンの手を取った。
「あたくしも、ずっとあなたをお慕いしていますわ。ブン太郎さま」
「ミーコさん……!」
「そん、な……ミーコさん、なぜ……!?」
夕焼けの海を背景に手を取り合う二人を見て、ファーリスがよろよろと後ずさる。
彼はひどくショックを受けていたが、次の瞬間その瞳には闘志の炎が宿った。
「認めない! ボクは認めないぞ! こんなどこの馬の骨ともしれない男に、ミーコさんを渡してなるもんか! ブン太郎くん、キミに決闘を申し込む!!」
「はあ!? おいおい、お前が敵うわけねえだろ! こいつを誰だと思ってんだ!?」
「止めないでくださいミーコさん! これは男と男の、絶対に負けられない戦いなのです!」
するとイレブンが、そっとカミュの手を離した。そして静かに目を閉じ──たかどうかはぐるぐるメガネのせいでよくわからないが、「わかった」と低く呟いた。
「その決闘、受けて立つ」
「ちょ、イレ……っ、じゃなくて、ブン太郎さま……!?」
「ミーコさんは下がっててくれ」
イレブンの瞳にも熱い炎が宿って──いるかは謎だが、その気迫に圧され、カミュは思わず数歩、後ろに下がった。
(マジでやる気なのかよ……!)
一体この寸劇はいつまで続くのか。ここまで来ると、カミュにも何がなんだかよくわからなくなってきた。
その間にも、両者無言での睨み合いが続いている。
相手が丸腰であることから、ファーリスは自身の剣を鞘ごと掴んで脇に放った。まさに拳と拳の真剣勝負だ。一人の女を巡り、その火蓋がいま切って落とされようとしている。
「やめて! おふたりとも、あたくしのために争わないで!」
左手を胸に押しつけ、右手を二人の男に向かって伸ばす。例のポーズだ。なんだかんだで場の空気に飲まれ、役に入り込んでしまったカミュが叫んだ。
それを合図に、イレブンとファーリスが砂を蹴る。ふたつの拳が交差しようとした、まさにそのとき……!
「待ちなさぁ~いっ!!」
頭上から何者かの声が降ってきた。
「人の恋路を邪魔する悪い子は、馬に蹴られてお仕置きよっ!」
どこからともなく、ズンチャ♪ズンチャ♪とご機嫌なBGMが流れだす。(※オーレ!シルビア!)
見上げれば、そこにはヤシの木のてっぺんに佇む、学ランを着た男の姿があった。
ファーリスが目を白黒させ、驚きの声をあげる。
「そっ、その姿……まさかあなたは……!?」
「そう、アタシはテルヨ……ポンパドール・テルヨ! 不良高校、セントメダリア高校の番長よ!!」
「……なんでおっさんまでコスプレしてんだ?」
正気に戻ったカミュが呆れ顔を向けるなか、シルビアが「とうっ!」と地面に着地した。相変わらず高い場所からの登場がよく似合う。
「ファーリスちゃん、すでに決着はついているはずよ。ミーコちゃんはブン太郎ちゃんを選んだの。それは紛れもない事実……現実を受け止めなさい!」
ビシッと指をさされたファーリスが、地団駄を踏みながら「でもぉ!」と食い下がる。
シルビアが彼のもとにズイッと近づき、その両肩にそれぞれ手を置いた。
「わかるわ、アナタの気持ち……でもね、愛するふたりの仲を引き裂くなんて、そんな野暮は騎士として……いいえ、男として恥ずべきことよ。ミーコちゃんを心から愛しているのなら、彼女の幸せを願うべきじゃないかしら?」
シルビアを見上げる瞳が、ハッと大きく見開かれた。彼は悔しそうに下唇を噛み締めたあと、その瞳から大粒の涙を溢れさせた。
「うぅ……っ、テルヨさん……ポンパドール・テルヨさん……!」
「いいのよ。今は存分にお泣きなさい。アタシのこの大胸筋で……ね」
「うわぁ~~~ん!!」
寄せては返す波打ち際で、シルビアとファーリスの影がひとつになった。
愛という名の筋肉に抱かれ、その悲痛な泣き声はいつまでも絶えることなく、夕焼け空に響き渡るのだった。
「だから一体なんだってんだよ、この茶番は……」
*
その後、ファーリスはシルビアによってジエーゴの屋敷へ連れて行かれた。
別れ際、彼はどこか晴れやかな表情で、「ミーコさんを泣かせたら許さないぞ!」とイレブンに向けて親指を立て、歯を光らせながらウィンクした。
イレブンはそんな彼にサイフを渡した。(イレブンが回収していて中身も無事だった)
「今日は人生で一番長い一日だったかもしれない」
海が見える高台のベンチに並んで腰掛け、イレブンがしみじみと呟いた。
日が沈み、辺りはすっかり薄暗くなっている。夜の海に映しだされた満月が、ユラユラとクラゲのように揺れていた。
「んな大袈裟な……まあ、悪かったよ。付き合わせちまって」
「それはカミュだって同じだろ」
「違いねえ」
それにしても──と、カミュは指先でぐるぐるメガネを弄びながら言った。
「その格好はなんなんだよ。シルビアのおっさんまで出てくるし」
「ああ、シルビアはたまたま里帰り中でね。偶然バッタリ会ったんだ」
カミュたちを尾行している最中に声をかけられたのだと、イレブンは言った。
事情を聞いたシルビアは、「なにそれ面白そうじゃなぁい!」とノリノリで参加してきたらしい。もちろん、衣装を準備してくれたのもシルビアだ。
「そんなこったろうと思ったぜ」
やれやれと苦笑したカミュに、イレブンもふっと微笑んだ。
彼はさりげなく身を寄せてくると、スカートの上にあるカミュの手に大きな手を被せてきた。
「ずっと気が気じゃなかったんだ。だって、カミュってああいうのに弱いだろ?」
「ウッ」
ズバリ言い当てられ、思わずギクリとしてしまう。
確かに、ファーリスのダメダメぶりに庇護欲が刺激されまくってしまったのは事実だ。
「もし万が一、ほんの少しでもキミが彼になびくようなことがあったら……そう考えただけで、いてもたってもいられなかった」
カミュは指先で頬をかき、わざと唇を尖らせながらイレブンを横目で睨む。
「オレのことよくわかってるわりに、信じてねえのかよ」
するとイレブンは「そんなことないけど!」と、珍しくあせった様子を見せた。カミュはつい声をあげて笑ってしまう。
「ハハハ! わかってるって。ありがとな、心配してくれて……でもさ」
カミュはコテンと小首をかしげ、イレブンに軽く上目遣いを向ける。
「オレには相棒、お前だけだぜ。それだけは絶対、なにがあっても変わらねえ。覚えておいてくれよな」
「カミュ……うん」
恥ずかしそうに頬を染め、イレブンは目を細めて笑った。
そよぐ潮風が、ふたりの髪をそっと揺らす。心地いい波音に、しばし耳を傾けた。
カミュはイレブンにもたれかかり、その肩に頭を乗せた。やっぱりここがいちばん落ち着く。本来あるべき場所に、ようやく戻ってこられたという安心感で胸が満たされた。
するとイレブンがカミュの手をきゅっと握りながら、おもむろに口を開いた。
「今のボクらってさ、デート中の、普通の学生に見えるかな?」
夜とはいえ、まだ早い時間だ。カップルなんかそこかしこにいるし、海辺では家族連れが花火をしていたりもする。
カミュはわざとらしく肩をすくめながらクスッと笑い、
「人前ではしたないですわよ、ブン太郎さま」
と、自由な方の手でイレブンの手の甲を軽くつねった。
イテッ、と言って、大きな手が引っ込んでいく。
「その名前で呼ばないでくれよ……」
いじけた瞳が、軽く睨みつけてくる。
「ボクだって、その格好のキミとデートがしたいよ」
あまりにも子供っぽい顔で不貞腐れているものだから、カミュは「ブハッ」と笑ってしまった。するとイレブンはますますいじけて、唇をへの字に曲げてしまう。
カミュは学ランの胸ぐらを両手で掴み、少し乱暴に引き寄せるとキスをした。
「ッ、ちょ……か、ミュ……っ」
たった一瞬の口づけで、イレブンは月明かりでも分かるほど顔を赤らめた。
「そんな可愛い反応すんなって」
「だ、だって……」
「どうせデート中の浮かれた学生カップルにしか見えねえさ」
胸ぐらを掴んだままの至近距離で、カミュはニヤリと笑って見せた。
「キミってやつは……」
少しイラついたようなため息をこぼす唇に、再びキスをする。イレブンの両手がカミュの肩にそれぞれ触れた。そのまま幾度か、軽い口づけを交わし合う。
実際、みんな美しい海と綺麗な月夜に夢中で、自分たちのことなど見ていない。
それでも他人の気配を感じながら、薄明かりに乗じて繰り返すキスは、ゾクゾクするほど刺激的だった。
このままでは歯止めが効かなくなる。
名残惜しく離れた互いの唇から、はあ、と熱い息がこぼれた。
「……今夜はさ」
「ん」
「このままここに一泊して、明日はカジノにでも行くか?」
コツン、と、互いの額がくっついた。
「お前、ずっと我慢してついててくれたんだろ?」
「そりゃ、遊ぶどころじゃなかったし」
「あのカジノ大好きなイレブンがなぁ……」
過保護は自分の専売特許と思っていたが、イレブンも大概だ。
そんな必要ないのにと呆れながらも、それを嬉しいとも感じている。だけどちょっぴり、照れくさくもあった。年下の男に守られて、喜んでしまっていることが。
「その提案もいいんだけどさ」
そう言いながら、イレブンがカミュの背に両腕を回して抱きしめた。
「ボクは早くキミを連れて帰りたいよ」
「連れ帰ってナニする気だよ」
「そうやってすぐ茶化す」
クツクツと肩を揺らすカミュからは、イレブンの表情は覗えない。けれどきっと、またあの可愛い顔で不貞腐れているのだろう。
「しょうがねえな」
大切にされることには、まだ少し慣れていない自分がいる。甘やかされるよりは甘やかしてやりたいし、どうすれば喜んでくれるかと、思いを巡らせる瞬間が大好きだ。
カミュはイレブンの背を抱き返すと、その耳元でささやいた。
「今夜は朝までミーコでいてやるから。あの王子さまじゃできないこと、させてやるよ」
するとイレブンの身体がピクンと跳ねた。この反応はビンゴだ。
カミュは大満足で「へへっ」と笑い、いっそうイレブンを抱く腕に力を込めた。
朝までミーコ。そんなことを言っといて、きっと途中からワケが分からなくなってしまうだろうけど。
「カミュ……!」
感極まったイレブンもまた、カミュを抱く腕の力を強める。そしてもう片方の腕を空に掲げて、ルーラを唱えた。
朝までミーコを独り占め・了
←戻る ・ Wavebox👏
極彩色の窓ガラスには、幸せな影が踊っている。
ユラユラと揺れ、ケラケラと笑い、やがて浮かれた声がクリスマスキャロルを歌いだす。
『星のみつかいが 夜空にうたう
救いの恵みが 牧場にみちる』
だからその窓を見るな。その歌を聞くな。
『天のいと高き祝福に 神の栄光あれ』
何も手にせず、生まれてきたことを悔やまぬように。
誰かの幸福を妬まぬように。
『天のいと高き祝福に 神の栄光あれ』
──だから見てはいけなかったのに。
*
クリスマスを一週間後に控えた、ある日のこと。
クレイモランの町はクリスマスムード一色だった。
オーナメントで飾りつけられた木々に、巻かれた電飾が昼間でもピカピカと光を放つ。露店には色とりどりの雑貨や菓子類が並べられ、店主はサンタ帽をかぶっていた。
まだ幼いカミュは、マヤの小さな手を引いて町の東にある酒場を目指していた。バイキングのお使いで、ツケていた分の代金を届けに行くためだ。
マヤは指をくわえ、賑やかな町の景色に気を取られている。妹が転ばないように、カミュはその足元に注意を払いながら先を急いだ。
「マヤ、すぐに済むから、にいちゃんが戻るまでここで待ってろよ」
酒場につくと、カミュは妹を外に待たせて店に入った。
預かっていた代金の袋を店主に渡すと、ご褒美にちいさなメダルを一枚もらった。カミュは「へへっ」と笑って礼を言うと、メダルをズボンのポケットにねじ込んだ。
「帰るぞマヤ……あれ? マヤ?」
酒場から出ると、妹の姿がなかった。
慌てて辺りを見回すと、少し離れた位置にある露店のそばに、マヤを見つけた。
「マヤ! 勝手に動くなってば!」
カミュが駆け寄っても、マヤの視線は露店の商品に釘づけだった。
そこには赤や緑のリボンでラッピングされた、クッキーの袋詰が並べられている。大小さまざまあり、一番小さなものだとクッキーが3枚入りで30Gだった。
カミュはとっさにポケットを漁ったが、出てくるのは一枚のちいさなメダルだけだった。
たった30Gでも、子供にとっては大金だ。ましてやメダルじゃ物は買えない。
カミュはため息をつきながらマヤを見た。赤ん坊のように指をちゅうちゅうと咥え、クッキーを見つめる横顔に胸が痛んだ。
「ねえパパー、新しいブーツ買ってよ!」
するとそこを、二人の親子連れが通りがかった。
ちょうどカミュと同じ年頃の少年が、父親と手を繋いで歩いている。
「ついこのあいだ買ってやったばかりだろう?」
「だってクリスマスだよ? ママには高い宝石買うんでしょ?」
「お前にはサンタさんが来てくれるから、いい子で待ってなさい」
「ホント? サンタさん、カッコいいブーツくれるかな?」
「さぁて、どうだろうなぁ?」
仲睦まじい親子が去ると、カミュはとっさに自分の足元に目を向けた。ブーツの靴底が剥がれかけ、かかとの辺りがパカパカになっている。接着剤でなんとか誤魔化しながら履いていたが、もうそろそろ限界のようだった。
「……なあマヤ」
カミュはマヤの手を少し強く引いて歩きだした。
マヤの視線はいまだクッキーに釘づけだったが、カミュが
「お宝探し、していくか?」
と問うと、ようやくこちらを見上げて、嬉しそうに「うん!」とうなずいた。
*
その夜、風穴に灯るささやかなロウソクのもとで、マヤはご機嫌だった。
彼女は両手に桃色のミトンをはめていた。ところどころ毛糸がほつれて薄汚れてはいるが、まだ十分に使える代物だった。
「よかったな、マヤ」
「うんっ! これ、すっごいあったかいよアニキ!」
マヤの丸い頬は、興奮しているのか少し赤くなっていた。
カミュは嬉しそうな様子にホッとしながら、接着剤を絞りだしてブーツを修理していた。
あのあと兄妹が向かったのは、クレイモランの壁外にあるゴミ捨て場だった。
そこは二人にとって宝の山だ。まだ十分に着られる衣類や、使えそうな生活雑貨が捨てられていることがある。
今回、残念ながらブーツはなかったものの、女児用の手袋という戦利品を得ることができた。これでマヤが少しでも凍えずに済むのなら、それだけでも行った甲斐がある。
マヤはよほど気に入ったようで、寝床に入ってからもずっとミトンをはめていた。仰向けに寝て、両手を天井に伸ばしていつまでも眺めている。
「カゼひくぞ。ちゃんと毛布んなか入れよ」
「わかってるって」
ひとつの毛布に包まって身を寄せていると、マヤがカミュの腕のなかで口を開いた。
「なぁアニキ」
「ん?」
「サンタクロースって、ホントにいるのかな?」
いるわけねえだろ──とは言えなかった。
実際、本当のところは分からない。ただ、仮にいたとしても自分たちの所へは来そうにない。少なくともゴミ捨て場でゴミを漁るような子供のもとへは、絶対に。
けれど、それをマヤに告げることはできなかった。
「……いるかもな。だってマヤはいい子だし」
「だよな? おれ、ちゃんといい子してるよな?」
「うん、してる」
「いししっ」
マヤは満足そうに笑ったあと、ふあぁとあくびをした。それから「なら、アニキんとこにも来るかもよ」と言い残し、スヤスヤと寝息を立てはじめた。
*
一週間後の夕暮れ時。
クリスマス当日に、カミュは一人でこっそりクレイモランを訪れていた。
ポケットにねじ込んだ小袋には、30Gが入っている。この一週間、いつも以上に仕事を手伝い、お頭にも頭を下げて頼み込み、どうにかかき集めることができた。
これでマヤのためにクッキーを買うことができる。
カミュはウキウキとした気持ちで、酒場近くの露店に向かった。
けれど残念なことに、商品はほとんどが売り切れてしまっていた。残っていたのは、10枚入りで100Gのクッキーだけだった。
(マジか……どうしよう……)
焦りが込み上げ、腹の辺りを両手でギュッと握りしめながら途方に暮れる。
カミュはマヤに、サンタクロースはいると言ってしまった。だからこの30Gでクッキーを買って、マヤが寝たあと枕元にそっと置いてやるつもりだった。
サンタなんか来なくても、自分がマヤのサンタになればいい。そう思ってここまでやってきたのに、これでは計画が台無しだ。
(なんでだよ……マヤは、ちゃんといい子にしてるじゃないか!)
ちょっと生意気で、言うことを聞かないこともあるけれど、マヤはいつだってたくさんのことを我慢している。寒いのも、ひもじいのも、本当はつらくて仕方がないのに。まだあんなに小さな子供なのに。
明日の朝、サンタが来なかったことを知った妹は、どれほど傷つくだろう。
羨ましそうにクッキーを見つめていた横顔を思いだし、カミュは下唇を噛み締めた。
(オレはマヤの、にいちゃんなのに……!)
悔し涙が込み上げてくる。たった一人の妹に、何もしてやれない無力さが嫌だった。
本当は新品の手袋を買ってやりたいし、たった3枚ぽっちじゃなくて、飽きるほどクッキーを食わせてやりたい。だけど自分にはその力がない。たった30Gを集めるのがやっとだった自分には。
「ママ、あのクッキー欲しい! ほら見て、リボンがとってもカワイイの!」
そこに、母親に抱かれた小さな女の子が通りがかって、クッキーを指さしながら言った。
マヤと同じ年頃の女の子を、母親が困った顔でたしなめる。
「おうちに帰ればケーキとご馳走が待ってるのよ。クッキーなんか食べられないでしょ?」
「やだやだほしい! あたし、あのおリボンがほしいの!」
「もう……言いだしたら聞かないんだから」
母親は女の子をいったん地面におろすと、露店で100Gのクッキーを購入した。サンタ帽をかぶった店主の男が、「まいどあり!」と笑顔で言った。
クッキーを与えられた女の子は、嬉しそうな顔で母親と手を繋いで帰っていった。
きっとどこにでもある幸せそうな光景に、カミュは「どうしてだろう?」と首をかしげた。あの女の子には平然と与えられるものを、マヤは与えてもらえない。
なんで? どうして? 同じ子供なのに。オレとマヤばかりが、どうしてこんな──
そのとき、カミュの内側で何かが弾ける音がした。
それはどこにもぶつけようがない怒りや悲しみ、悔しさや寂しさがないまぜになったものが、一気に爆ぜた音だった。
カミュはとっさに店主の方へ目を向けた。店主の男は他の客と談笑している。どうやらカミュの存在に、気づいてすらいないようだった。
「……ッ」
──その瞬間、魔が差した。
ダメだと頭では分かっていても、考えるより先に身体が動いてしまっていた。
10枚入りのクッキーの袋に手を伸ばし、引ったくるようにして抱え込むと走りだす。さすがに気づいた店主の男が、背後で「あっ!」と声をあげた。
「このクソガキ! 待てコラ!!」
素早さには自信があった。だから絶対に逃げ切れると思っていた。
けれどカミュの動きに、ブーツが追いついてくれなかった。剥がれかけの靴底がグニャリと折れ曲がり、一瞬でバランスを崩してしまう。
「捕まえたぞ! この悪ガキが!!」
転倒する寸前で、首根っこを掴まれた。そのまま猫の子を吊るすように持ち上げられる。
「はっ、はなせ! はなせよ!」
ジタバタと両足を使って暴れたが、男の手は緩まない。むしろいっそう首が締まって息苦しくなるだけだった。
「人んちの商品を盗んだらどうなるか、きっちり叩き込んでやる!」
店主の男は、恐ろしい形相でカミュを睨むと拳を振り上げた。クッキーの袋をぎゅっと抱きしめ、とっさにきつく目を閉じる。ああ、おしまいだ。そう思った。けれどそのとき。
「待ってください! 相手はまだ小さな子供ですよ!」
焦った様子の声が響いた。
恐る恐る目を開けて見やると、そこには紫のカソックに身を包む神父の姿があった。
「止めないでくれよ神父さん。ガキとはいえ、こいつはただの泥棒だ」
クッキーの袋を抱いたまま動かないカミュを見て、神父は状況を察したようだった。痛ましそうに目を伏せながら、彼は静かにかぶりを振った。
「その子のことは知っています。だからどうか怒りをおさめて、彼のことは私に預けてくれませんか?」
「まあ、神父さんがそこまで言うなら……」
男はしぶしぶといった様子で、カミュの身体をぞんざいに放り投げた。カミュは冷たい雪の地面に、ペシャリと尻もちをついた。
「大丈夫かい? カミュ」
腰をかがめて覗き込んでこようとする神父の顔を、まともに見ることができなかった。
涙が溢れそうになるのを、必死でこらえる。いっそ消えてしまいたくなるくらい、自分が惨めで仕方なかった。どうせなら殴られて、死んだ方がマシだった。
*
その後、カミュは神父によって教会に連れて行かれた。
礼拝堂の椅子にカミュを座らせ、神父はすぐ傍らに膝をつくと、10枚入りのクッキーの袋をカミュに差しだした。乱暴に扱ったせいで、中身は何枚かが割れていた。
「……いらない」
カミュはクッキーの袋から目をそらした。
あのあと神父はカミュの代わりに100Gを支払い、クッキーを買い取った。店主はそれだけですっかり気をよくし、「よいクリスマスを!」と言って笑っていた。
「これは私からではなく、天からの贈り物だよ」
頑なに受け取ろうとしないカミュに、神父は言った。
「キミたちがいい子でがんばっていることを、神はちゃんと見てくださっている。だからこれは、キミたちへのご褒美だ」
バカみたいだとカミュは思った。これはカミュが盗もうとして失敗したクッキーだ。袋もグシャグシャで、中身も割れて、とうに売り物にならなくなったものを神父が買い取った。
それ以上でも、それ以下でもない。そんなものが褒美であってたまるか。
カミュはどうしようもなく意地悪な気持ちになって、「なんでサンタじゃねえの?」とわざと問いかけた。
「えっ?」
「神さまのことはよく知らねえけどさ。今日はクリスマスなんだろ。いい子へのプレゼントって、サンタのおっさんがくれるもんじゃねーの? なんで神父さんがくれるの?」
すると神父は焦った様子で言葉を連ねた。
サンタクロースは立派な神の使いであること。けれど一人で周りきるには、あまりにも子供の数が多いので、こうして誰かが代わりを務めることもあるのだと。
くっだらない──という言葉を、カミュはどうにか飲み込んだ。それらしい言葉を並べれば、子供はいとも容易く信じるだろうと、大人は平気な顔をして嘘をつく。
たとえそれが優しい嘘であったとしても。今のカミュには虚しいだけだった。
「……カミュ」
けれど次に神父が放った言葉は、あまりにも核心をついていた。
「今日という日は、誰もがみんなサンタクロースになれるんだ。だからキミも、マヤのサンタになろうとしたんじゃないかい?」
「……っ」
「カミュ、キミは過ちを犯そうとした。けれどマヤを思う気持ちが本物であることを、私は知っている。神もきっとお許しになるだろう」
神父はなにも言えなくなったカミュの手をとり、クッキーの袋に添えさせた。
「今日はクリスマスだからね」
膝の上にちょこんと収まった袋を見下ろし、カミュは力なくうなだれた。
*
帰りはすっかり夜になっていた。
しんしんと雪が降りしきる静かな町を、点滅する電飾の明かりが淡く照らしだしていた。
教会を出たところで、カミュはポケットの中身を取りだした。必死で貯めた30Gが入った袋を、扉の前にそっと置く。そうしなければ気がすまなかった。
きっとあの神父ならすぐに気づくだろう。カミュが置いていったものであることも。
クッキーを抱え、ペラペラの靴底で雪を踏みしめながら歩いていると、どこからともなく声がした。
『わぁ! 新しいブーツだ! パパ、ありがとう!』
カミュはとっさに足を止めた。ふと見やれば、一軒の家から明るい光が差している。
よせばいいのに、カミュはついついステンドグラスの窓辺に寄って、その楽しげな声に耳を傾けた。
『あ、でもこれじゃあ、サンタさんはもうボクのところへは来ないかも』
『なあに、サンタさんは別のプレゼントを用意しているらしい』
『ホント? なんでそんなことが分かるの?』
『父さんはな、サンタさんの古い友人なんだ』
『へー! すごいやパパ!』
色とりどりのガラスの向こうから、父と子と、母親の朗らかな笑い声がする。テーブルの上には豪華な食事と、ブーツや宝石などのプレゼントが並んでいることだろう。
カミュは一歩、二歩と後ずさる。楽しそうな親子の影が、切り絵のように映し出される窓に背を向けた。
そして、クッキーを地面に投げつけようとした。
「ッ、……!」
その瞬間、思い出されたのは指をくわえるマヤの横顔だった。
こんなグシャグシャのクッキーでも、きっとあの子は喜ぶだろう。カミュはサンタクロースがいないことを知ってしまった。けれどマヤの夢まで壊す必要はない。
このクッキーさえあれば、カミュはマヤのサンタになれる。だけど、だけど本当は。
(サンタクロース……オレも信じたかったな)
カミュだって、本当は新しいブーツが欲しい。今もかかとはパカパカしているし、サイズが合わなくなってきているせいで、足の先がズキズキ痛む。
けれどカミュには、子供騙しの優しい嘘を信じさせてくれる親もいなければ、単純に騙されてやれるほどの子供らしさもなかった。
(……でも、これでいいんだ。オレはマヤのにいちゃんだから)
はやく大人になれるなら、それに越したことはない。
大人になって、力をつけて、こんな場所からはさっさとオサラバだ。そうしたら今度こそ、マヤに100Gのクッキーを買ってやれる。
ズビィと鼻をすすりながら、カミュはクッキーの袋を抱え直した。
どこからともなく聞こえてくる、耳障りな讃美歌を聞きながら。幸せそうな光が漏れる町に背を向け、マヤが待つ風穴へと帰っていった。
*
「カミュのアニキー! よかった、目が覚めたんだねー!」
デクが声をかけると、額にタオルを乗せたカミュが小首をかしげた。
直前まで何か夢でも見ていたのか、彼はぼうっとした様子でまばたきを繰り返す。
「デク……? なんでお前がここに?」
「アニキが倒れたって聞いて、ワタシすっ飛んできたのよー。さっきまでペルラさんもいたけど、暗くなったから帰ってもらったよー」
カミュは吐息だけで「そっか」と言うと、だるそうにベッドから身を起こした。デクが慌ててその背を支えると、彼はふわふわと視線を泳がせながら「イレブンは?」と言った。
「イレブンさんなら、デルカダールに薬を買いにいったよ。きっとすぐに帰って来るよー」
デクは先刻、イレブンが店に駆け込んできたときのことを思いだした。
彼は珍しく焦った様子で解熱剤を買い求めに来たのだが、残念ながら在庫を切らしていた。理由を聞けば、カミュが熱を出して寝込んでいるのだと言う。
本人は大袈裟だと言って呆れているらしいが、こういうときのカミュの言葉は信用ならない。デクもイレブンも、それをよく知っている。
デクはすぐにデルカダールに向かおうとした。けれど自分が行ったほうが早いからと、その役目をイレブンが買って出た。
彼がその場でルーラを唱えた瞬間、デクは「アニキのことはワタシに任せて!」と言った。イレブンは力強くうなずいて、一瞬で飛び去った。
そしてデクは早々に店じまいをして、ふたりが暮らす家に押しかけたのだった。
「悪いな……せっかくのクリスマスだってのに。オレはもう平気だから、はやくヨメさんとこ帰ってやれよ」
確かにずいぶん顔色もよくなってはいるし、微熱程度で治まっている様子ではある。それでもこんなときまで気を使おうとする元相棒に、デクはキュッと眉を吊り上げた。
「そんなわけにいかないよー! イレブンさんとも約束したんだから!」
それに妻のミランダなら心配はいらない。今ごろイシの村人たちと、クリスマスパーティーを楽しんでいる最中だろう。
ミランダはもともと掃き溜めに属する側の人間だった。デク同様、後ろ暗い過去が幾つもある。けれどこのイシの村で過ごすようになってから、だんだんと雰囲気が変わった。肩の力が抜けたというか、デルカダールの貴族街にいるよりも、素の笑顔が増えた気がする。
「とにかく! アニキはなにも心配しないで、ちゃんと寝てなきゃダメよー!」
そう言って、デクはカミュの肩を押すと無理やり寝かせた。落ちていたタオルを拾い、そばにある桶に浸して絞ったものを、再びその額に乗せる。
毛布をかけ直してやっていると、カミュは目を閉じながらフッと笑った。
「ずっと前にも、こんなことあったよな」
すぐに寝息を立てはじめたカミュに、デクは小さな声で「そうだね」と答えた。
*
あれは確か、クリスマス間近のことだった。
行く先々で悪さをしながら流れ着いた、デルカダールの下層にある掃き溜めの町。
ほこりと生ゴミの嫌な匂いが立ち込める道端で、カミュがふいに立ち止まった。彼がなにかを熱心に見つめていることに気がついて、デクもまた足を止めた。
「アニキー? どうかしたのー?」
「……ああ、いや」
彼が見つめる先はゴミ捨て場だった。
そこでは幼い少年と少女がしゃがみ込み、ゴミを掘り返していた。
「手袋みっけ!」
少女が片方だけの手袋を発見し、嬉しそうな声をあげた。
けれどそれは大人用で、しかも片方しかない。あげく指先には穴まで空いていた。
「ダメじゃん!」
少年が言う。けれど少女は「いいんだもん!」と言って手袋を片方はめた。
「えへへ、ちょっとはあったかい! ねぇ、そっちは?」
少女が問うと、少年は「ぜーんぜん」と言ってブーツを片方、持ち上げた。
「大人用だし、足の裏がパッカパカ」
「ないよりいいじゃん。持って帰ろうよ、お兄ちゃん」
「ま、しょーがねぇか」
裸足だった少年は、壊れた大人用のブーツを履いて歩きだした。片方だけのそれは今にも足から抜けそうで、転びやしないかと見ているこっちがヒヤヒヤする。
二人が粗末な小屋に入っていくのを見届けると、カミュは途端に興味を失ったように「行こうぜ」と言って、下宿先の宿屋に向かって歩きだす。デクは慌ててその背を追った。
「あっ、待ってよアニキー!」
このときのカミュが何を考えていたのかを知ったのは、それから数日後の、クリスマスの夜のことだった。
*
「カミュのアニキ……大丈夫……?」
下宿先の宿屋のベッドで、高熱をだしたカミュが息を荒げて眠っている。苦しそうに時おり咳をする様子を見て、デクはオロオロと立ち尽くすばかりだった。
彼はどうも気管支が弱いらしい。いろいろと渡り歩いてきたなかでも、デルカダールの下層はとりわけ衛生面で最悪な場所だった。
けれど彼は頑なにここを離れようとしないのだ。デルカダールに眠る秘宝、レッドオーブについての情報を、日々熱心に収集することに明け暮れている。
そんなカミュはここ数日、デクを置いて一人でフラリと出かけていくことが多かった。
今日はどこで何をしてきたものやら、戻ってきた途端にバッタリと寝込んでしまった。女将の手も借りてどうにか看病してはいるものの、ここではまともな薬も手に入らない。
「アニキ……」
ぽつりと名前を呼びながら、ふと視界の隅にあるゴミ箱が気になった。なんとなく引き寄せられるようにして覗き込むと、そこには大きな紙袋が押し込まれていた。
一瞬カミュの方を見やり、眠っていることを確認する。そして中身を取りだした。
袋から出てきたのは、子供用の手袋とブーツだった。しかもどちらも新品だ。
元は綺麗にラッピングされていた形跡を見るに、これが盗んだものではなく、購入したものであることが分かる。
カミュがあの兄妹のために入手したものであることは、明白だった。
けれど彼は、土壇場でこれらを捨ててしまった。それはなぜなのか。デクは考える。
これを渡せば、あの子たちはサンタクロースからの贈り物だと喜ぶだろう。
だけどそのあとは? 来年は? 再来年は? 明日すら保証されていない自分たちは、来年の今頃も首と胴体が繋がっているか分からない。
だけどあの子たちは、きっと来年もサンタクロースを待つだろう。
誰かのサンタになるということは、つまりそういうことだ。中途半端な施しは、逆にあの子たちを傷つけることになりかねない。
「……アニキはすごい男だけど、時々ちょっとおバカさんだと思うよー」
一人でずっと先のことまで考えて、勝手に怯えて、傷ついてしまうんだから。
この年若い、少年の域を出ない相棒の、そういうところが心配なのだ。いつか自分の幸せさえも、平気なふりして手放してしまいそうで。
デクはプレゼントを紙袋の中に戻すと、それを抱えて部屋を出た。下の階におりて、女将にカミュのことを頼むと宿を出ていく。
そして向かったのは、あの兄妹が根城にしている掘っ立て小屋だった。
ガラスのハマっていない窓を覗くと、幼い兄妹はゴザのようなものをかぶって、寄り添いながら寝息を立てていた。
デクは息を殺し、小屋の中に入ると二人の枕元にプレゼントを置いた。その際、紙袋がガサリと大きな音を立て、一瞬ピタリと寝息が止まる。しまった──と思ったが、すぐにまた二つの寝息が聞こえはじめてホッとした。
(あ、危ない危ない……セーフだよー)
いつもヘマばかりしてカミュにドヤされているが、今日ばかりは失敗できない。デクはそそくさと小屋を後にした。
安堵から「はあ~」と息をつき、ふと夜空を見上げた。チラチラと小雪が舞う中で、吐く息が空気を白く染めている。
鼻の奥をツンと刺激する冷たさに、デクはどこか懐かしい気持ちになった。こんな夜は、父のことを思いだす。
「……ごめんね、アニキ」
アニキのところには、きっと一度もサンタさんが来なかったんだね。
でも、ワタシのところには来たよ。父さんがワタシのサンタさんだったよ。
貧しくて、ささやかなものばかりだったけど。いつだって、生きてる限り、父さんはワタシのサンタさんだったよ。
ワタシね、気づいてたのよ。父さんがサンタさんだってこと。だけどね、気付かないフリをしていたよ。子供ってね、意外と賢いのよ。けっこう気を使ってるのよ。
だけどね、サンタさんが来なくなってからも、ずっとずっと嬉しい気持ちは残ったよ。
アニキは、あの子たちのサンタクロースになりたかったんだよね。でもアニキは優しすぎるから、ずっと先のことまで考えて、思い悩んでしまったんだね。
でもワタシ、アニキが思うよりずっと薄情なのよ。
だから代わりにサンタになるよ。アニキのためならワタシ、平気で悪いサンタになれるのよ。
たとえこれが、どんなに残酷なことだとしてもね。
アニキがやりたかったこと、その気持ちを、無駄になんかできっこないのよ。
*
カミュが眠るベッドの傍らで、椅子に腰掛けるデクの耳に、扉が開く音が聞こえた。
ハッとしながらその方向を見ると、イレブンが大きな白い袋を担いで帰ってきたところだった。
「イレブンさん……っ」
「デクさん、カミュは?」
デクがとっさに立ち上がると、イレブンは即座に問いかけてきた。
「ぐっすり寝てるよー。ずいぶん顔色もよくなったみたい」
この分なら、明日の朝にはすっかり回復していることだろう。
するとイレブンは「よかった」と言いながら、大きく安堵の息をついた。
「ありがとうデクさん。デクさんがついててくれて助かった」
「そんなの言いっこなしだよー。それよりイレブンさん、その大荷物は?」
「ああ、これは……」
イレブンが、ヒョイと肩をすくめて苦笑する。
「デルカダールにたくさんお店が出ていて……そこかしこにお菓子が売っていたものだから、村の人たちに配ろうかと思って」
それどころではないと分かってはいたのだが、大急ぎで買い込んできたのだと、イレブンは言った。
「もしカミュが一緒にいたら、きっと同じことをしたがったと思うから」
目を丸くしていたデクは、そんな彼の笑顔につられてつい笑ってしまった。
「うん。ワタシも、アニキならそうしたと思うよー」
イレブンは担いでいた布袋をテーブルの上に置いた。中から薬の箱を取りだして脇に置くと、さらに袋を漁って大きな包みを取りだした。
ビニールの中身は色とりどりに着色されたクッキーで、軽く10枚以上は余裕で入っていそうなものだった。カミュの瞳と同じブルーのリボンが、綺麗に飾り付けられている。
「可愛いでしょ、これ。一つしかなかったから、みんなには内緒」
そう言って、イレブンはクッキーの袋詰めを抱えてカミュのもとへ向かった。
そっと袋を枕元に置くと、さらにどこから取りだしたのか、その脇に紫色のリングケースも添えた。中身は言うまでもないだろう。鍛冶が得意な彼が、この日のために用意していたものに違いなかった。
「ただいまカミュ。遅くなってごめんよ」
その甘い囁き声に、デクは不覚にも胸をドキンと跳ねさせた。
なんだかとっても、いけない場面に遭遇してしまった気がする。しかもこの勇者さまときたら、すっかり温くなったタオルを取り払うと、カミュの額にキスまでしたのだ。
(わっ、わっ、うひゃ~っ)
デクはとっさに顔を両手で覆ったが、しっかりと指の隙間から見てしまった。カミュの寝顔が、まるで安心しきった子供のように、ふにゃりと緩んでいく様を。
いつだって尖ったナイフのようだった兄貴分が見せたそのあどけなさに、デクはいよいよ見てはいけないものを見てしまったような気になった。
彼らのことは知っていたつもりだが、いざ目の当たりにすると、なんとも言えない照れくささに、どうしたらいいか分からなくなる。
だけど同時に、「もう大丈夫だ」という深い安心感が込み上げた。
「それじゃ、ワタシはそろそろ帰るとするよー」
するとイレブンが顔をあげ、「待って」と言った。
彼は荷物の置かれたテーブルまで戻ると、袋からクッキーの包みを二つ取りだした。
「よければデクさんと、ミランダさんにも」
金と銀のリボンで飾られた袋には、それぞれ5枚ずつ、星形のクッキーが入っていた。
目をまん丸にしながら受け取ったデクに、イレブンは「メリークリスマス」と言って、優しい瞳で微笑んだ。
「メリークリスマス。ありがとう、イレブンさん」
家から出ると、外は粉雪が静かに降りしきっていた。
デクはしばらく進んだところで足を止め、ふたりが暮らす家を振り返った。
(よかったね、アニキ)
デクはずっとカミュのことが心配だった。アニキと呼んで慕ってはいても、年齢だけなら彼はデクよりも年下だ。強くあろうとするその姿は、反面、彼の脆さでもある気がして、どこか危うさを感じてもいた。
だけどその危うさごと、今のカミュには寄りかかれる存在がいる。
相手は世界を救った勇者さまで、カミュはその隣で戦い抜いた相棒だ。自分と一緒に盗賊をしていたなんて、ずっとずっと遠い昔のことに感じられる。
(アニキの隣には、いつだってアニキを大切にしてくれる、強くて優しいサンタクロースがいるんだね)
カミュにはもう、悪いサンタは必要ない。それが寂しくもあり、また誇らしくもある。
デクは窓からこぼれさす暖色の光に、胸をジンと熱くした。
あの窓の向こうで、イレブンはまたカミュにキスをしているだろうか。あの甘い声で囁きながら。そして目を覚ましたカミュは、イレブンにどんな笑顔を見せるのだろう。
涙もろいところがある彼は、リングケースを開けたとき、泣かずにいられるだろうか。
見てみたい気もしたが、デクはそれをしなかった。窓に背を向け、歩きだす。
手の中にある二つのクッキーの袋には、まだ勇者の優しい温もりが残っている気がした。
『星のみつかいが 夜空にうたう
救いの恵みが 牧場にみちる』
すると雪の中、どこからともなく、村の子供たちが歌う讃美歌が聞こえてきた。
『天のいと高き祝福に 神の栄光あれ』
だからその窓を見るな。
今はただ、このあたたかな歌を聞けばいい。
『天のいと高き祝福に 神の栄光あれ』
だってそこには、あのふたりだけの幸せな秘密があるから。
その窓を見るな・了
←戻る ・ Wavebox👏
ユラユラと揺れ、ケラケラと笑い、やがて浮かれた声がクリスマスキャロルを歌いだす。
『星のみつかいが 夜空にうたう
救いの恵みが 牧場にみちる』
だからその窓を見るな。その歌を聞くな。
『天のいと高き祝福に 神の栄光あれ』
何も手にせず、生まれてきたことを悔やまぬように。
誰かの幸福を妬まぬように。
『天のいと高き祝福に 神の栄光あれ』
──だから見てはいけなかったのに。
*
クリスマスを一週間後に控えた、ある日のこと。
クレイモランの町はクリスマスムード一色だった。
オーナメントで飾りつけられた木々に、巻かれた電飾が昼間でもピカピカと光を放つ。露店には色とりどりの雑貨や菓子類が並べられ、店主はサンタ帽をかぶっていた。
まだ幼いカミュは、マヤの小さな手を引いて町の東にある酒場を目指していた。バイキングのお使いで、ツケていた分の代金を届けに行くためだ。
マヤは指をくわえ、賑やかな町の景色に気を取られている。妹が転ばないように、カミュはその足元に注意を払いながら先を急いだ。
「マヤ、すぐに済むから、にいちゃんが戻るまでここで待ってろよ」
酒場につくと、カミュは妹を外に待たせて店に入った。
預かっていた代金の袋を店主に渡すと、ご褒美にちいさなメダルを一枚もらった。カミュは「へへっ」と笑って礼を言うと、メダルをズボンのポケットにねじ込んだ。
「帰るぞマヤ……あれ? マヤ?」
酒場から出ると、妹の姿がなかった。
慌てて辺りを見回すと、少し離れた位置にある露店のそばに、マヤを見つけた。
「マヤ! 勝手に動くなってば!」
カミュが駆け寄っても、マヤの視線は露店の商品に釘づけだった。
そこには赤や緑のリボンでラッピングされた、クッキーの袋詰が並べられている。大小さまざまあり、一番小さなものだとクッキーが3枚入りで30Gだった。
カミュはとっさにポケットを漁ったが、出てくるのは一枚のちいさなメダルだけだった。
たった30Gでも、子供にとっては大金だ。ましてやメダルじゃ物は買えない。
カミュはため息をつきながらマヤを見た。赤ん坊のように指をちゅうちゅうと咥え、クッキーを見つめる横顔に胸が痛んだ。
「ねえパパー、新しいブーツ買ってよ!」
するとそこを、二人の親子連れが通りがかった。
ちょうどカミュと同じ年頃の少年が、父親と手を繋いで歩いている。
「ついこのあいだ買ってやったばかりだろう?」
「だってクリスマスだよ? ママには高い宝石買うんでしょ?」
「お前にはサンタさんが来てくれるから、いい子で待ってなさい」
「ホント? サンタさん、カッコいいブーツくれるかな?」
「さぁて、どうだろうなぁ?」
仲睦まじい親子が去ると、カミュはとっさに自分の足元に目を向けた。ブーツの靴底が剥がれかけ、かかとの辺りがパカパカになっている。接着剤でなんとか誤魔化しながら履いていたが、もうそろそろ限界のようだった。
「……なあマヤ」
カミュはマヤの手を少し強く引いて歩きだした。
マヤの視線はいまだクッキーに釘づけだったが、カミュが
「お宝探し、していくか?」
と問うと、ようやくこちらを見上げて、嬉しそうに「うん!」とうなずいた。
*
その夜、風穴に灯るささやかなロウソクのもとで、マヤはご機嫌だった。
彼女は両手に桃色のミトンをはめていた。ところどころ毛糸がほつれて薄汚れてはいるが、まだ十分に使える代物だった。
「よかったな、マヤ」
「うんっ! これ、すっごいあったかいよアニキ!」
マヤの丸い頬は、興奮しているのか少し赤くなっていた。
カミュは嬉しそうな様子にホッとしながら、接着剤を絞りだしてブーツを修理していた。
あのあと兄妹が向かったのは、クレイモランの壁外にあるゴミ捨て場だった。
そこは二人にとって宝の山だ。まだ十分に着られる衣類や、使えそうな生活雑貨が捨てられていることがある。
今回、残念ながらブーツはなかったものの、女児用の手袋という戦利品を得ることができた。これでマヤが少しでも凍えずに済むのなら、それだけでも行った甲斐がある。
マヤはよほど気に入ったようで、寝床に入ってからもずっとミトンをはめていた。仰向けに寝て、両手を天井に伸ばしていつまでも眺めている。
「カゼひくぞ。ちゃんと毛布んなか入れよ」
「わかってるって」
ひとつの毛布に包まって身を寄せていると、マヤがカミュの腕のなかで口を開いた。
「なぁアニキ」
「ん?」
「サンタクロースって、ホントにいるのかな?」
いるわけねえだろ──とは言えなかった。
実際、本当のところは分からない。ただ、仮にいたとしても自分たちの所へは来そうにない。少なくともゴミ捨て場でゴミを漁るような子供のもとへは、絶対に。
けれど、それをマヤに告げることはできなかった。
「……いるかもな。だってマヤはいい子だし」
「だよな? おれ、ちゃんといい子してるよな?」
「うん、してる」
「いししっ」
マヤは満足そうに笑ったあと、ふあぁとあくびをした。それから「なら、アニキんとこにも来るかもよ」と言い残し、スヤスヤと寝息を立てはじめた。
*
一週間後の夕暮れ時。
クリスマス当日に、カミュは一人でこっそりクレイモランを訪れていた。
ポケットにねじ込んだ小袋には、30Gが入っている。この一週間、いつも以上に仕事を手伝い、お頭にも頭を下げて頼み込み、どうにかかき集めることができた。
これでマヤのためにクッキーを買うことができる。
カミュはウキウキとした気持ちで、酒場近くの露店に向かった。
けれど残念なことに、商品はほとんどが売り切れてしまっていた。残っていたのは、10枚入りで100Gのクッキーだけだった。
(マジか……どうしよう……)
焦りが込み上げ、腹の辺りを両手でギュッと握りしめながら途方に暮れる。
カミュはマヤに、サンタクロースはいると言ってしまった。だからこの30Gでクッキーを買って、マヤが寝たあと枕元にそっと置いてやるつもりだった。
サンタなんか来なくても、自分がマヤのサンタになればいい。そう思ってここまでやってきたのに、これでは計画が台無しだ。
(なんでだよ……マヤは、ちゃんといい子にしてるじゃないか!)
ちょっと生意気で、言うことを聞かないこともあるけれど、マヤはいつだってたくさんのことを我慢している。寒いのも、ひもじいのも、本当はつらくて仕方がないのに。まだあんなに小さな子供なのに。
明日の朝、サンタが来なかったことを知った妹は、どれほど傷つくだろう。
羨ましそうにクッキーを見つめていた横顔を思いだし、カミュは下唇を噛み締めた。
(オレはマヤの、にいちゃんなのに……!)
悔し涙が込み上げてくる。たった一人の妹に、何もしてやれない無力さが嫌だった。
本当は新品の手袋を買ってやりたいし、たった3枚ぽっちじゃなくて、飽きるほどクッキーを食わせてやりたい。だけど自分にはその力がない。たった30Gを集めるのがやっとだった自分には。
「ママ、あのクッキー欲しい! ほら見て、リボンがとってもカワイイの!」
そこに、母親に抱かれた小さな女の子が通りがかって、クッキーを指さしながら言った。
マヤと同じ年頃の女の子を、母親が困った顔でたしなめる。
「おうちに帰ればケーキとご馳走が待ってるのよ。クッキーなんか食べられないでしょ?」
「やだやだほしい! あたし、あのおリボンがほしいの!」
「もう……言いだしたら聞かないんだから」
母親は女の子をいったん地面におろすと、露店で100Gのクッキーを購入した。サンタ帽をかぶった店主の男が、「まいどあり!」と笑顔で言った。
クッキーを与えられた女の子は、嬉しそうな顔で母親と手を繋いで帰っていった。
きっとどこにでもある幸せそうな光景に、カミュは「どうしてだろう?」と首をかしげた。あの女の子には平然と与えられるものを、マヤは与えてもらえない。
なんで? どうして? 同じ子供なのに。オレとマヤばかりが、どうしてこんな──
そのとき、カミュの内側で何かが弾ける音がした。
それはどこにもぶつけようがない怒りや悲しみ、悔しさや寂しさがないまぜになったものが、一気に爆ぜた音だった。
カミュはとっさに店主の方へ目を向けた。店主の男は他の客と談笑している。どうやらカミュの存在に、気づいてすらいないようだった。
「……ッ」
──その瞬間、魔が差した。
ダメだと頭では分かっていても、考えるより先に身体が動いてしまっていた。
10枚入りのクッキーの袋に手を伸ばし、引ったくるようにして抱え込むと走りだす。さすがに気づいた店主の男が、背後で「あっ!」と声をあげた。
「このクソガキ! 待てコラ!!」
素早さには自信があった。だから絶対に逃げ切れると思っていた。
けれどカミュの動きに、ブーツが追いついてくれなかった。剥がれかけの靴底がグニャリと折れ曲がり、一瞬でバランスを崩してしまう。
「捕まえたぞ! この悪ガキが!!」
転倒する寸前で、首根っこを掴まれた。そのまま猫の子を吊るすように持ち上げられる。
「はっ、はなせ! はなせよ!」
ジタバタと両足を使って暴れたが、男の手は緩まない。むしろいっそう首が締まって息苦しくなるだけだった。
「人んちの商品を盗んだらどうなるか、きっちり叩き込んでやる!」
店主の男は、恐ろしい形相でカミュを睨むと拳を振り上げた。クッキーの袋をぎゅっと抱きしめ、とっさにきつく目を閉じる。ああ、おしまいだ。そう思った。けれどそのとき。
「待ってください! 相手はまだ小さな子供ですよ!」
焦った様子の声が響いた。
恐る恐る目を開けて見やると、そこには紫のカソックに身を包む神父の姿があった。
「止めないでくれよ神父さん。ガキとはいえ、こいつはただの泥棒だ」
クッキーの袋を抱いたまま動かないカミュを見て、神父は状況を察したようだった。痛ましそうに目を伏せながら、彼は静かにかぶりを振った。
「その子のことは知っています。だからどうか怒りをおさめて、彼のことは私に預けてくれませんか?」
「まあ、神父さんがそこまで言うなら……」
男はしぶしぶといった様子で、カミュの身体をぞんざいに放り投げた。カミュは冷たい雪の地面に、ペシャリと尻もちをついた。
「大丈夫かい? カミュ」
腰をかがめて覗き込んでこようとする神父の顔を、まともに見ることができなかった。
涙が溢れそうになるのを、必死でこらえる。いっそ消えてしまいたくなるくらい、自分が惨めで仕方なかった。どうせなら殴られて、死んだ方がマシだった。
*
その後、カミュは神父によって教会に連れて行かれた。
礼拝堂の椅子にカミュを座らせ、神父はすぐ傍らに膝をつくと、10枚入りのクッキーの袋をカミュに差しだした。乱暴に扱ったせいで、中身は何枚かが割れていた。
「……いらない」
カミュはクッキーの袋から目をそらした。
あのあと神父はカミュの代わりに100Gを支払い、クッキーを買い取った。店主はそれだけですっかり気をよくし、「よいクリスマスを!」と言って笑っていた。
「これは私からではなく、天からの贈り物だよ」
頑なに受け取ろうとしないカミュに、神父は言った。
「キミたちがいい子でがんばっていることを、神はちゃんと見てくださっている。だからこれは、キミたちへのご褒美だ」
バカみたいだとカミュは思った。これはカミュが盗もうとして失敗したクッキーだ。袋もグシャグシャで、中身も割れて、とうに売り物にならなくなったものを神父が買い取った。
それ以上でも、それ以下でもない。そんなものが褒美であってたまるか。
カミュはどうしようもなく意地悪な気持ちになって、「なんでサンタじゃねえの?」とわざと問いかけた。
「えっ?」
「神さまのことはよく知らねえけどさ。今日はクリスマスなんだろ。いい子へのプレゼントって、サンタのおっさんがくれるもんじゃねーの? なんで神父さんがくれるの?」
すると神父は焦った様子で言葉を連ねた。
サンタクロースは立派な神の使いであること。けれど一人で周りきるには、あまりにも子供の数が多いので、こうして誰かが代わりを務めることもあるのだと。
くっだらない──という言葉を、カミュはどうにか飲み込んだ。それらしい言葉を並べれば、子供はいとも容易く信じるだろうと、大人は平気な顔をして嘘をつく。
たとえそれが優しい嘘であったとしても。今のカミュには虚しいだけだった。
「……カミュ」
けれど次に神父が放った言葉は、あまりにも核心をついていた。
「今日という日は、誰もがみんなサンタクロースになれるんだ。だからキミも、マヤのサンタになろうとしたんじゃないかい?」
「……っ」
「カミュ、キミは過ちを犯そうとした。けれどマヤを思う気持ちが本物であることを、私は知っている。神もきっとお許しになるだろう」
神父はなにも言えなくなったカミュの手をとり、クッキーの袋に添えさせた。
「今日はクリスマスだからね」
膝の上にちょこんと収まった袋を見下ろし、カミュは力なくうなだれた。
*
帰りはすっかり夜になっていた。
しんしんと雪が降りしきる静かな町を、点滅する電飾の明かりが淡く照らしだしていた。
教会を出たところで、カミュはポケットの中身を取りだした。必死で貯めた30Gが入った袋を、扉の前にそっと置く。そうしなければ気がすまなかった。
きっとあの神父ならすぐに気づくだろう。カミュが置いていったものであることも。
クッキーを抱え、ペラペラの靴底で雪を踏みしめながら歩いていると、どこからともなく声がした。
『わぁ! 新しいブーツだ! パパ、ありがとう!』
カミュはとっさに足を止めた。ふと見やれば、一軒の家から明るい光が差している。
よせばいいのに、カミュはついついステンドグラスの窓辺に寄って、その楽しげな声に耳を傾けた。
『あ、でもこれじゃあ、サンタさんはもうボクのところへは来ないかも』
『なあに、サンタさんは別のプレゼントを用意しているらしい』
『ホント? なんでそんなことが分かるの?』
『父さんはな、サンタさんの古い友人なんだ』
『へー! すごいやパパ!』
色とりどりのガラスの向こうから、父と子と、母親の朗らかな笑い声がする。テーブルの上には豪華な食事と、ブーツや宝石などのプレゼントが並んでいることだろう。
カミュは一歩、二歩と後ずさる。楽しそうな親子の影が、切り絵のように映し出される窓に背を向けた。
そして、クッキーを地面に投げつけようとした。
「ッ、……!」
その瞬間、思い出されたのは指をくわえるマヤの横顔だった。
こんなグシャグシャのクッキーでも、きっとあの子は喜ぶだろう。カミュはサンタクロースがいないことを知ってしまった。けれどマヤの夢まで壊す必要はない。
このクッキーさえあれば、カミュはマヤのサンタになれる。だけど、だけど本当は。
(サンタクロース……オレも信じたかったな)
カミュだって、本当は新しいブーツが欲しい。今もかかとはパカパカしているし、サイズが合わなくなってきているせいで、足の先がズキズキ痛む。
けれどカミュには、子供騙しの優しい嘘を信じさせてくれる親もいなければ、単純に騙されてやれるほどの子供らしさもなかった。
(……でも、これでいいんだ。オレはマヤのにいちゃんだから)
はやく大人になれるなら、それに越したことはない。
大人になって、力をつけて、こんな場所からはさっさとオサラバだ。そうしたら今度こそ、マヤに100Gのクッキーを買ってやれる。
ズビィと鼻をすすりながら、カミュはクッキーの袋を抱え直した。
どこからともなく聞こえてくる、耳障りな讃美歌を聞きながら。幸せそうな光が漏れる町に背を向け、マヤが待つ風穴へと帰っていった。
*
「カミュのアニキー! よかった、目が覚めたんだねー!」
デクが声をかけると、額にタオルを乗せたカミュが小首をかしげた。
直前まで何か夢でも見ていたのか、彼はぼうっとした様子でまばたきを繰り返す。
「デク……? なんでお前がここに?」
「アニキが倒れたって聞いて、ワタシすっ飛んできたのよー。さっきまでペルラさんもいたけど、暗くなったから帰ってもらったよー」
カミュは吐息だけで「そっか」と言うと、だるそうにベッドから身を起こした。デクが慌ててその背を支えると、彼はふわふわと視線を泳がせながら「イレブンは?」と言った。
「イレブンさんなら、デルカダールに薬を買いにいったよ。きっとすぐに帰って来るよー」
デクは先刻、イレブンが店に駆け込んできたときのことを思いだした。
彼は珍しく焦った様子で解熱剤を買い求めに来たのだが、残念ながら在庫を切らしていた。理由を聞けば、カミュが熱を出して寝込んでいるのだと言う。
本人は大袈裟だと言って呆れているらしいが、こういうときのカミュの言葉は信用ならない。デクもイレブンも、それをよく知っている。
デクはすぐにデルカダールに向かおうとした。けれど自分が行ったほうが早いからと、その役目をイレブンが買って出た。
彼がその場でルーラを唱えた瞬間、デクは「アニキのことはワタシに任せて!」と言った。イレブンは力強くうなずいて、一瞬で飛び去った。
そしてデクは早々に店じまいをして、ふたりが暮らす家に押しかけたのだった。
「悪いな……せっかくのクリスマスだってのに。オレはもう平気だから、はやくヨメさんとこ帰ってやれよ」
確かにずいぶん顔色もよくなってはいるし、微熱程度で治まっている様子ではある。それでもこんなときまで気を使おうとする元相棒に、デクはキュッと眉を吊り上げた。
「そんなわけにいかないよー! イレブンさんとも約束したんだから!」
それに妻のミランダなら心配はいらない。今ごろイシの村人たちと、クリスマスパーティーを楽しんでいる最中だろう。
ミランダはもともと掃き溜めに属する側の人間だった。デク同様、後ろ暗い過去が幾つもある。けれどこのイシの村で過ごすようになってから、だんだんと雰囲気が変わった。肩の力が抜けたというか、デルカダールの貴族街にいるよりも、素の笑顔が増えた気がする。
「とにかく! アニキはなにも心配しないで、ちゃんと寝てなきゃダメよー!」
そう言って、デクはカミュの肩を押すと無理やり寝かせた。落ちていたタオルを拾い、そばにある桶に浸して絞ったものを、再びその額に乗せる。
毛布をかけ直してやっていると、カミュは目を閉じながらフッと笑った。
「ずっと前にも、こんなことあったよな」
すぐに寝息を立てはじめたカミュに、デクは小さな声で「そうだね」と答えた。
*
あれは確か、クリスマス間近のことだった。
行く先々で悪さをしながら流れ着いた、デルカダールの下層にある掃き溜めの町。
ほこりと生ゴミの嫌な匂いが立ち込める道端で、カミュがふいに立ち止まった。彼がなにかを熱心に見つめていることに気がついて、デクもまた足を止めた。
「アニキー? どうかしたのー?」
「……ああ、いや」
彼が見つめる先はゴミ捨て場だった。
そこでは幼い少年と少女がしゃがみ込み、ゴミを掘り返していた。
「手袋みっけ!」
少女が片方だけの手袋を発見し、嬉しそうな声をあげた。
けれどそれは大人用で、しかも片方しかない。あげく指先には穴まで空いていた。
「ダメじゃん!」
少年が言う。けれど少女は「いいんだもん!」と言って手袋を片方はめた。
「えへへ、ちょっとはあったかい! ねぇ、そっちは?」
少女が問うと、少年は「ぜーんぜん」と言ってブーツを片方、持ち上げた。
「大人用だし、足の裏がパッカパカ」
「ないよりいいじゃん。持って帰ろうよ、お兄ちゃん」
「ま、しょーがねぇか」
裸足だった少年は、壊れた大人用のブーツを履いて歩きだした。片方だけのそれは今にも足から抜けそうで、転びやしないかと見ているこっちがヒヤヒヤする。
二人が粗末な小屋に入っていくのを見届けると、カミュは途端に興味を失ったように「行こうぜ」と言って、下宿先の宿屋に向かって歩きだす。デクは慌ててその背を追った。
「あっ、待ってよアニキー!」
このときのカミュが何を考えていたのかを知ったのは、それから数日後の、クリスマスの夜のことだった。
*
「カミュのアニキ……大丈夫……?」
下宿先の宿屋のベッドで、高熱をだしたカミュが息を荒げて眠っている。苦しそうに時おり咳をする様子を見て、デクはオロオロと立ち尽くすばかりだった。
彼はどうも気管支が弱いらしい。いろいろと渡り歩いてきたなかでも、デルカダールの下層はとりわけ衛生面で最悪な場所だった。
けれど彼は頑なにここを離れようとしないのだ。デルカダールに眠る秘宝、レッドオーブについての情報を、日々熱心に収集することに明け暮れている。
そんなカミュはここ数日、デクを置いて一人でフラリと出かけていくことが多かった。
今日はどこで何をしてきたものやら、戻ってきた途端にバッタリと寝込んでしまった。女将の手も借りてどうにか看病してはいるものの、ここではまともな薬も手に入らない。
「アニキ……」
ぽつりと名前を呼びながら、ふと視界の隅にあるゴミ箱が気になった。なんとなく引き寄せられるようにして覗き込むと、そこには大きな紙袋が押し込まれていた。
一瞬カミュの方を見やり、眠っていることを確認する。そして中身を取りだした。
袋から出てきたのは、子供用の手袋とブーツだった。しかもどちらも新品だ。
元は綺麗にラッピングされていた形跡を見るに、これが盗んだものではなく、購入したものであることが分かる。
カミュがあの兄妹のために入手したものであることは、明白だった。
けれど彼は、土壇場でこれらを捨ててしまった。それはなぜなのか。デクは考える。
これを渡せば、あの子たちはサンタクロースからの贈り物だと喜ぶだろう。
だけどそのあとは? 来年は? 再来年は? 明日すら保証されていない自分たちは、来年の今頃も首と胴体が繋がっているか分からない。
だけどあの子たちは、きっと来年もサンタクロースを待つだろう。
誰かのサンタになるということは、つまりそういうことだ。中途半端な施しは、逆にあの子たちを傷つけることになりかねない。
「……アニキはすごい男だけど、時々ちょっとおバカさんだと思うよー」
一人でずっと先のことまで考えて、勝手に怯えて、傷ついてしまうんだから。
この年若い、少年の域を出ない相棒の、そういうところが心配なのだ。いつか自分の幸せさえも、平気なふりして手放してしまいそうで。
デクはプレゼントを紙袋の中に戻すと、それを抱えて部屋を出た。下の階におりて、女将にカミュのことを頼むと宿を出ていく。
そして向かったのは、あの兄妹が根城にしている掘っ立て小屋だった。
ガラスのハマっていない窓を覗くと、幼い兄妹はゴザのようなものをかぶって、寄り添いながら寝息を立てていた。
デクは息を殺し、小屋の中に入ると二人の枕元にプレゼントを置いた。その際、紙袋がガサリと大きな音を立て、一瞬ピタリと寝息が止まる。しまった──と思ったが、すぐにまた二つの寝息が聞こえはじめてホッとした。
(あ、危ない危ない……セーフだよー)
いつもヘマばかりしてカミュにドヤされているが、今日ばかりは失敗できない。デクはそそくさと小屋を後にした。
安堵から「はあ~」と息をつき、ふと夜空を見上げた。チラチラと小雪が舞う中で、吐く息が空気を白く染めている。
鼻の奥をツンと刺激する冷たさに、デクはどこか懐かしい気持ちになった。こんな夜は、父のことを思いだす。
「……ごめんね、アニキ」
アニキのところには、きっと一度もサンタさんが来なかったんだね。
でも、ワタシのところには来たよ。父さんがワタシのサンタさんだったよ。
貧しくて、ささやかなものばかりだったけど。いつだって、生きてる限り、父さんはワタシのサンタさんだったよ。
ワタシね、気づいてたのよ。父さんがサンタさんだってこと。だけどね、気付かないフリをしていたよ。子供ってね、意外と賢いのよ。けっこう気を使ってるのよ。
だけどね、サンタさんが来なくなってからも、ずっとずっと嬉しい気持ちは残ったよ。
アニキは、あの子たちのサンタクロースになりたかったんだよね。でもアニキは優しすぎるから、ずっと先のことまで考えて、思い悩んでしまったんだね。
でもワタシ、アニキが思うよりずっと薄情なのよ。
だから代わりにサンタになるよ。アニキのためならワタシ、平気で悪いサンタになれるのよ。
たとえこれが、どんなに残酷なことだとしてもね。
アニキがやりたかったこと、その気持ちを、無駄になんかできっこないのよ。
*
カミュが眠るベッドの傍らで、椅子に腰掛けるデクの耳に、扉が開く音が聞こえた。
ハッとしながらその方向を見ると、イレブンが大きな白い袋を担いで帰ってきたところだった。
「イレブンさん……っ」
「デクさん、カミュは?」
デクがとっさに立ち上がると、イレブンは即座に問いかけてきた。
「ぐっすり寝てるよー。ずいぶん顔色もよくなったみたい」
この分なら、明日の朝にはすっかり回復していることだろう。
するとイレブンは「よかった」と言いながら、大きく安堵の息をついた。
「ありがとうデクさん。デクさんがついててくれて助かった」
「そんなの言いっこなしだよー。それよりイレブンさん、その大荷物は?」
「ああ、これは……」
イレブンが、ヒョイと肩をすくめて苦笑する。
「デルカダールにたくさんお店が出ていて……そこかしこにお菓子が売っていたものだから、村の人たちに配ろうかと思って」
それどころではないと分かってはいたのだが、大急ぎで買い込んできたのだと、イレブンは言った。
「もしカミュが一緒にいたら、きっと同じことをしたがったと思うから」
目を丸くしていたデクは、そんな彼の笑顔につられてつい笑ってしまった。
「うん。ワタシも、アニキならそうしたと思うよー」
イレブンは担いでいた布袋をテーブルの上に置いた。中から薬の箱を取りだして脇に置くと、さらに袋を漁って大きな包みを取りだした。
ビニールの中身は色とりどりに着色されたクッキーで、軽く10枚以上は余裕で入っていそうなものだった。カミュの瞳と同じブルーのリボンが、綺麗に飾り付けられている。
「可愛いでしょ、これ。一つしかなかったから、みんなには内緒」
そう言って、イレブンはクッキーの袋詰めを抱えてカミュのもとへ向かった。
そっと袋を枕元に置くと、さらにどこから取りだしたのか、その脇に紫色のリングケースも添えた。中身は言うまでもないだろう。鍛冶が得意な彼が、この日のために用意していたものに違いなかった。
「ただいまカミュ。遅くなってごめんよ」
その甘い囁き声に、デクは不覚にも胸をドキンと跳ねさせた。
なんだかとっても、いけない場面に遭遇してしまった気がする。しかもこの勇者さまときたら、すっかり温くなったタオルを取り払うと、カミュの額にキスまでしたのだ。
(わっ、わっ、うひゃ~っ)
デクはとっさに顔を両手で覆ったが、しっかりと指の隙間から見てしまった。カミュの寝顔が、まるで安心しきった子供のように、ふにゃりと緩んでいく様を。
いつだって尖ったナイフのようだった兄貴分が見せたそのあどけなさに、デクはいよいよ見てはいけないものを見てしまったような気になった。
彼らのことは知っていたつもりだが、いざ目の当たりにすると、なんとも言えない照れくささに、どうしたらいいか分からなくなる。
だけど同時に、「もう大丈夫だ」という深い安心感が込み上げた。
「それじゃ、ワタシはそろそろ帰るとするよー」
するとイレブンが顔をあげ、「待って」と言った。
彼は荷物の置かれたテーブルまで戻ると、袋からクッキーの包みを二つ取りだした。
「よければデクさんと、ミランダさんにも」
金と銀のリボンで飾られた袋には、それぞれ5枚ずつ、星形のクッキーが入っていた。
目をまん丸にしながら受け取ったデクに、イレブンは「メリークリスマス」と言って、優しい瞳で微笑んだ。
「メリークリスマス。ありがとう、イレブンさん」
家から出ると、外は粉雪が静かに降りしきっていた。
デクはしばらく進んだところで足を止め、ふたりが暮らす家を振り返った。
(よかったね、アニキ)
デクはずっとカミュのことが心配だった。アニキと呼んで慕ってはいても、年齢だけなら彼はデクよりも年下だ。強くあろうとするその姿は、反面、彼の脆さでもある気がして、どこか危うさを感じてもいた。
だけどその危うさごと、今のカミュには寄りかかれる存在がいる。
相手は世界を救った勇者さまで、カミュはその隣で戦い抜いた相棒だ。自分と一緒に盗賊をしていたなんて、ずっとずっと遠い昔のことに感じられる。
(アニキの隣には、いつだってアニキを大切にしてくれる、強くて優しいサンタクロースがいるんだね)
カミュにはもう、悪いサンタは必要ない。それが寂しくもあり、また誇らしくもある。
デクは窓からこぼれさす暖色の光に、胸をジンと熱くした。
あの窓の向こうで、イレブンはまたカミュにキスをしているだろうか。あの甘い声で囁きながら。そして目を覚ましたカミュは、イレブンにどんな笑顔を見せるのだろう。
涙もろいところがある彼は、リングケースを開けたとき、泣かずにいられるだろうか。
見てみたい気もしたが、デクはそれをしなかった。窓に背を向け、歩きだす。
手の中にある二つのクッキーの袋には、まだ勇者の優しい温もりが残っている気がした。
『星のみつかいが 夜空にうたう
救いの恵みが 牧場にみちる』
すると雪の中、どこからともなく、村の子供たちが歌う讃美歌が聞こえてきた。
『天のいと高き祝福に 神の栄光あれ』
だからその窓を見るな。
今はただ、このあたたかな歌を聞けばいい。
『天のいと高き祝福に 神の栄光あれ』
だってそこには、あのふたりだけの幸せな秘密があるから。
その窓を見るな・了
←戻る ・ Wavebox👏
「それじゃあ、行ってくるよ」
よく晴れた日の朝だった。
朝食を終え、ユグノア城跡へ行くための身支度を整えたイレブンが、扉の前で足を止めて振り返る。
「おう、ロウのじいさんによろしくな。あー、それと──」
カミュは食器を片付ける手を止め、イレブンのもとへ歩み寄った。コホン、と小さく咳払いをしたあと、さりげなく隠し持っていた小さな包みを差しだした。
「ほらよ」
ブラウンのリボンで飾られた赤い箱を見て、イレブンの目が丸くなる。
「カミュ、これって……?」
「チョコだよ。見りゃわかるだろ?」
照れくささを誤魔化すように、カミュはそっぽを向いて赤い頬を掻いた。
本日、2月14日はバレンタインデーだ。
地域や時代によって違いや変化はあるものの、恋人や夫婦、または意中の相手にチョコレートを贈り、想いを伝える日として広く知られている。
カミュはこれまで、そういったイベントとは無縁の人生を送ってきた。特に興味もなかったし、そんなことにかまけていられる余裕もなかった。
けれど今年は違う。勇者の相棒としてだけでなく、人生を共に歩む伴侶として、この村で暮らし始めてから迎える初のバレンタインなのだ。
きっとイレブンは、この手のイベントをソワソワしながら待つタイプに違いない。
だから柄にもないとは思いつつ、密かに手作りチョコを用意していた。
──が、目の前のイレブンはなぜか硬直したまま動かない。
まるで思考が停止したかのように、じっとチョコを見つめるばかりだ。
「……チョコ、嫌いじゃなかったよな?」
小首をかしげて問いかけると、イレブンはようやくハッとした様子で顔を上げた。
「え? ぁ……うん」
しかしその返事はどこか歯切れが悪い。
それでも彼はゆっくりとチョコを受け取り、ぎこちない笑みを浮かべて見せた。
「そっか……うん、そういうことか……」
「どうした? お前、どっか調子でも悪いのか?」
「そ、そんなことないよ。ぜんぜん、まったく……うん。あはは……」
その肩がどんどん撫でさすったように落ちていく。あからさまに顔色が優れない──というか、ガッカリしている様子が見て取れた。
(あれ……? オレ、なんか間違ったか?)
照れくさいからといって、出掛けのドサクサに紛れて渡してしまったのがよくなかったのだろうか。確かに、少しあっさりしすぎていたかもしれないが。
とにかく、思っていた反応とは180度違うことだけは確かだ。
「あーっと……その、あのなイレブン」
どうにかフォローしようとして口を開いたカミュだったが、イレブンはまるで逃げるように「じゃあ行くね」と言って、フラフラと出て行ってしまった。
「ちょっ、おい!」
目の前で扉がバタンと閉まる。追いかけたところで、おそらく彼はとっくにルーラで飛び去っているだろう。
「なんなんだよ……いったい……」
残されたカミュは、ただ呆然としながら立ち尽くすことしかできなかった。
*
その後、カミュはひたすら悶々と考えを巡らせていた。
掃除や洗濯をしていても、ニワトリの世話をしていても、気づけばイレブンの不自然な反応にばかり思考が追いやられてしまう。
思えば今日は、出掛けのキスもなかった。いつもの彼なら、カミュからの「いってらっしゃい」のキスがない限り、決して扉の前から動かないはずなのに。
そんな余裕もないほどに、彼の心を曇らせる何かをしてしまったということだ。
「あー、くそ! なんだってんだ! ちっとも分からねえ!」
一体なにがダメだったのか。理由が分からないことには謝罪のしようもない。
テーブルに突っ伏したカミュは、ガシガシと頭を掻いて髪を乱した。そして大きなため息をつく。
「……やめときゃよかったのかな」
それなりに気合いを入れて準備をしたつもりだった。
匂いでバレないよう、わざわざ恥を忍んでデルカダールのデク邸に足を運び、キッチンを借りてまで。嬉しそうなイレブンの笑顔に思いを馳せ、バカみたいに胸を踊らせていた。
当たり前のように喜ばれると思い込んでいた自分が、いっそ滑稽に思えてくる。
(やっぱオレには向いてねえってことなんだろうな)
バレンタインなんて浮かれたイベントに、自分自身が浮かれる日が来るなんて思いもしなかった。その結果がこれだ。やはり柄にもないことはするもんじゃない。
カミュはもう一度ため息をつくと立ち上がった。
このままモヤモヤと腐っていたって仕方ない。少しでも気分転換になればと、身体を動かすため家を出た。
外の空気は澄み切っていた。肌を撫でる感触は少しばかり冷たいが、真上にある太陽の日差しが十分に暖かい。どこを目指すでもなく、ブラリと歩いた。
すると、教会の前にエマの姿があることに気がついた。彼女もまたカミュに気づいて、笑顔で軽く手を振っている。
彼女は腕に大きなカゴを下げ、村の子供たちに囲まれていた。
「よう、エマちゃん」
「こんにちは、カミュさん。今日はイレブンと一緒じゃないのね」
「ああ、あいつはちょっと用があって」
「エマねーちゃん、はやくはやく! ボクにもちょーだいよ!」
カミュの声を遮り、待ち切れない様子のマノロが忙しなく飛び跳ねる。
エマは「はいはい」と言ってカゴの中身を取りだすと、彼に渡した。
「やったー! ありがとう!」
「うふふ。どういたしまして」
「エマちゃん、それは?」
小首をかしげるカミュに、エマはカゴの中身をもう一つ取りだして見せた。それは手のひらに収まるくらいの小袋で、赤いリボンがキュッと結ばれている。
「子供たちにチョコを配ってるの。今日はバレンタインだから」
そう言ってニッコリ笑ったあと、彼女は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「だからごめんなさい。カミュさんにはあげられないの。だって、カミュさんはもう立派な大人だもの」
「それは別に構わねえが……立派な大人が、なんだって?」
バレンタインは、何も恋人や夫婦のためだけにあるイベントではない。親しい友人や、家族にチョコを贈ることだってあるだろう。
けれどそのことと、カミュがすでに大人であることに、何の関係があるのだろうか。
ピンときていない様子のカミュに、エマは両手をポンと合わせて、「あ、そっか」と言った。
「カミュさんは来たばかりだから、知らなくて当然よね」
「なにを?」
「あのね、イシの村のバレンタインは、他とはちょっと違うの」
エマが言うにはこうだった。
この村でのバレンタインは、成人女性が小さな男の子にチョコを配るイベントなのだと。
「強くて立派な大人になるように、願いを込めて贈るのよ。ホワイトデーはその逆で、男の人が小さな女の子にクッキーを配るの。素敵な女性になってね、って」
呆けた顔で聞き入るカミュに、エマは「でも」と言って眉をひそめた。
「この風習、ちょっと考え方が古いわよね」
エマはすぐそばでモジモジと身体を揺らすルコに、チョコの包みを「はい、どうぞ」と言って渡した。彼女はパッと表情を明るくし、嬉しそうに「ありがとう、おねえちゃん!」と言って笑った。
「素敵な大人になってほしいって願いに、男の子も女の子も関係ないじゃない? だから私、子供たちみんなにチョコを配ることにしたの」
「へえ。立派だな、エマちゃんは」
カミュは腕を組むと、すっかり感心してしまった。
イシの村において、バレンタインは子供の健やかな成長を願うイベントなのだ。実にこの村らしい風習だと思う。
──けれどそこで、カミュはふと気がついた。
つまりこの村の人たちにとって、バレンタインは色恋が絡むような、甘酸っぱい行事ではないわけだ。それはここで育ったイレブンにとっても同じはず。
と、いうことは──
「マジか! オレはイレブンをガキ扱いしちまったってことか!?」
急に頭を抱えて大声を出したカミュに、エマと周囲にいた子供たちが目をまん丸にする。けれど今は構っていられる余裕がなかった。
なにしろ謎が解けたのだ。
彼はカミュに大人の男としてではなく、まだ未熟な子供として扱われている、と捉えてしまったに違いない。
共に世界を救った仲間であり、相棒であり、とっくにやることをやっている間柄であるにも関わらず、だ。
だからあんなにも気を落としてしまったのだろう。ガッシリとした肩幅が、それは見事な撫で肩になってしまうくらいに。
「もしかしてカミュさん、彼にチョコを渡したの?」
エマはそれだけで、大体のことを察してしまったらしい。
腰に手を当て、顔を押さえて天を仰ぐカミュの姿に、彼女は「ぷふっ」と吹きだした。
「ふっ、うふふっ、ご、ごめんなさい、だって……ふふふっ」
彼女にとっては、微笑ましい擦れ違いエピソードに過ぎないのだろう。
けれどカミュにとっては一大事である。枯れたススキのようになっていたイレブンを思うと、いてもたってもいられない気分だった。
「知らなかったならしょうがないじゃない。カミュさんは悪くないわよ」
エマはうっすらと滲んだ涙を指先で拭いながら言った。
彼女自身も、外での風習を知ったのはつい最近だったらしい。デルカダールの城にいた頃、兵士たちとの雑談でたまたま知る機会があったのだと。
「大丈夫よカミュさん。私、仲直りのためのいい方法を知ってるわ。ヘソを曲げたイレブンなんか、これでイチコロなんだから」
ケンカ、というほど大袈裟なものではないけれど、「マジか!」と食いついたカミュに、エマは得意げな笑みを浮かべた。
「この時期ならではの、とっておきの風習なの。それはね──」
口元に手を添えながら耳打ちしようとするエマに、カミュは軽く身を屈めた。
*
「ただいま」
夜、イレブンが帰宅した。
特に落ち込んだ様子はなく、むしろいつも通りの穏やかな表情だった。
彼は左手を背中側に回しており、いかにも何か隠している様子が見て取れた。
「あ、ああ。おかえり、イレブン」
それを不思議に思いながらも、いったん見過ごす。なにせあまり余裕がない。今の自分がいかに恥ずかしい状態であるか、そちらにばかり気がいっているからだ。
椅子から立ち上がって出迎えたカミュを見て、イレブンが目をまん丸にした。
「カミュ? それ、どうしたんだ?」
カミュの左耳のすぐ上には、パステルブルーの可憐な花が飾られていた。フリージアによく似た形で、ほんのりと甘い香りが漂っている。
カミュはついつい、耳まで赤くしながら目を泳がせた。
「あー、まあ……その、なんだ。エマちゃんから聞いたんだ。この村の、特別な風習ってやつをさ」
イレブンが、うつむくカミュの正面までやって来た。
注がれる視線に顔を上げることができず、彼の足先だけをじっと見つめる。
まるで女の子がするみたいに、髪に花なんか挿して待っていた自分の姿を、イレブンは一体どんな表情で見つめているのだろうか。
そう思うほどに、カミュはまくし立てるように言葉を発した。
「その、今朝は誤解させて悪かったよ。バレンタインなんて、どこも似たりよったりだとばかり思っていたが、まさかあんな意味があったとは──」
そのとき、イレブンの右手がそっとカミュの左頬に触れた。言葉が遮られたと同時に、自然と顔を上向かされる。
おずおずと向けた視線の先には、イレブンの蕩けそうなほど甘く優しい笑顔があった。キュン、なんて恥ずかしい音を立て、思わず胸が高鳴った。
「ルーミナリオの花だね。すごく綺麗だ。可愛いよ」
「ッ、ば、バカ言え……可愛いわけあるかよ。男のオレが、こんな……」
羞恥が限界を迎え、下唇を噛みながら視線だけそっぽを向けた。
それでもイレブンがあまりにも嬉しそうに笑うものだから、カミュの胸に安堵と喜びが満ちていく。
(そうだ、オレは、イレブンのこの顔が見たかったんだ)
あのあと、エマはカミュの耳元でこう言った。
──ルーミナリオの花はね、この村では恋の花って呼ばれているの。
朝焼けの澄んだ光が宿ったみたいに、淡く輝く美しい花。
この時期、神の岩のふもと一帯に、ルーミナリオは咲いている。
イシの村では、女性から好きな男性にこの花を贈ることで、想いが通じ合うという言い伝えがあるらしい。
様々な色のルーミナリオがある中で、エマは必ずパステルブルーを選べと言った。
──ただ渡すだけじゃダメ。髪に飾って、相手の前に立つの。
パステルブルーのルーミナリオには、【純愛・あなたにすべてを捧げます】という花言葉があるという。
──大丈夫。必ずイレブンにも伝わるはずよ。
そう言って、エマはカミュにウインクをした。
正直、あまり気乗りはしなかった。
花を髪に飾るだなんて、それこそエマのように可愛らしい女性がするならともかく、自分がやったところで滑稽でしかないだろうと。
だからほとんどヤケクソみたいなものだった。いっそ笑い飛ばしてもらうくらいで、ちょうどいいのだと思っていた。
けれどこのイレブンの反応を見るに、どうやら捨てたもんでもないらしい。
カミュはすでに、この男にすべてを預けたつもりでいる。今さらすべてを捧げるだとか、純愛だとか、小っ恥ずかしいにもほどがあるけど。
その花言葉は紛れもなく、カミュの本心でもあった。
「ありがとう、カミュ。キミの気持ち、確かに受け取ったよ」
最近また少し、ぐっと深みを増した声でイレブンが言う。彼は右腕だけでカミュの身体を抱きしめた。
カミュは「ん」とささやかな返事をして、その肩に頬を預けた。
「……そういやあ」
ホッと息をついたところで、カミュは気になっていたことを聞いてみた。
「お前はさっきから、一体なにを隠してるんだ?」
すると彼は「バレてた?」と言って無邪気に笑った。
「そりゃバレるだろ」
これで隠せていたつもりでいたことに、カミュもついつい笑ってしまう。
イレブンは抱きしめていた腕を解くと、そこでようやく左手を前に持ってきた。
「お前、それ……!」
目を見開くカミュに、イレブンがうなずいた。
それは淡いラベンダー色をした、ルーミナリオの花だった。
カミュはポカンとしながら、差し出された花とイレブンを交互に見やる。
「なんでお前がこれを? この風習って、女から男に告白するってもんじゃねえのかよ……って、なんか言ってて変な感じだが……」
イレブンが首を左右に振った。
「そうと決まってるわけじゃない。ただ渡す色が違うってだけ。男からは紫だよ」
「ま、マジか……」
しかしエマからは女性主体の風習としか聞いていない。これは天然なのか、あるいは確信犯なのか。おそらく後者だろうとは思うけど。
額にまで広がりを見せる熱を抑えるように、カミュは片手で額を覆った。
イレブンもエマが情報源であることを察していたらしい。軽く苦笑している。
「ボクも子供の頃にエマから教わったんだ。この風習のこと。あの頃はちっとも興味がなかったけど……彼女に感謝しなきゃな。こんなに可愛いカミュも見れたし」
「やめろって……」
カミュはいよいよ耐えきれなくなり、頭に手をやると花を取り去ろうとした。けれどそれを、イレブンが「もう少しだけ」とやんわり止める。
そう言われてしまったら仕方ない。カミュはしぶしぶ手を引っ込めた。
「今朝のこと、ボクもキミに謝りたかったんだ」
カミュはコトリと首をかしげる。
「お前が? なんでだ?」
「ロウさ……じゃなくて、ロウじいちゃんから聞いたんだ。バレンタインが、村の外ではどんなイベントかってこと」
なんとなく、そのときの様子が目に浮かぶ。
可愛い孫が落ち込んでいることに、あの老人はきっとすぐに気がついただろう。そしてよくよく話を聞いたあと、エマと同じような反応をしたに違いない。
ほっほっほっ、と朗らかに笑う声すらも、容易に想像することができた。
「それを知ってビックリしたよ。キミがせっかくチョコをくれたのに、ボクはすっかり誤解してしまって……変な態度をとってしまったこと、本当にごめん」
「気にすんなって。オレだって知らなかったんだ。お互い様だろ?」
カミュが笑うと、イレブンはふっと息を漏らしながら微笑んだ。
「ありがとう、カミュ。チョコも、すごく美味しかった」
「食ったのか?」
「もちろん。ぜんぶ食べたよ。あれってカミュの手作りだろ?」
「ま、まあな」
今さらになって、今朝の照れくささがよみがえってきた。手作りだということも、しっかりバレている。けれど、イレブンが喜んでくれたなら何よりだった。
「それで、ボクもキミに何か贈りたいと思ったんだ。チョコは用意できなかったけど……」
ロウに話を聞いたイレブンは、そこでふとルーミナリオの風習を思いだしたのだという。だから帰宅する前に神の岩のふもとまで行き、紫のルーミナリオを摘んできたのだ。
「カミュ。ボクの気持ちも、どうか受け取ってほしい」
「イレブン……」
「紫のルーミナリオの花言葉は、【不変の愛・あなたのすべてが欲しい】、だよ」
すべてを捧げたいと願うカミュの花と、対を成すイレブンの花。それは甘い香りを振りまきながら、淡く優しく輝いている。
染み渡るような熱い想いが込み上げて、カミュはとっさにどうしたらいいか分からなかった。ただ真っ赤な顔をうつむかせ、「おう」と短く返すのがやっとだった。
「キミの人生ごともらっておいて、まだ欲張るのかって自分でも思うけど」
そう言って、イレブンは照れくさそうに肩をすくめた。眉をハの字にした笑顔がどうしようもなく可愛くて、カミュはようやく「違いねえ」と言って笑った。
「ったく、それにしても……結局じいさんのおかげで、とっくに誤解は解けてたってわけか。わざわざこんな恥ずかしい真似までしたってのに」
「それはそれ、これはこれだろ。カミュ、ボクの花と交換しよう」
「そういや相手に贈るまでがセットだったな」
カミュはうなずいて、左耳にかかる花を手に取った。
するとイレブンが「じっとしてて」と言いながら、薄紫のルーミナリオをカミュの左耳の上に挿す。結局こうなるのかと思いつつ、黙って好きにさせることにした。
よし、と満足そうにイレブンが言ったのを合図に、カミュは彼の胸の位置にあるベルト部分に、パステルブルーの花を挿してやった。
「なんかボクだけ間抜けじゃない?」
「いいだろ。これもお互い様だぜ」
「カミュはとびきり可愛いよ。その色もよく似合ってる」
「へいへい、ありがとな」
ふと見つめあい、ぷは、と二人揃って吹きだした。そしてひとしきり笑いあう。
何がそんなに可笑しいのか、自分たちにもよく分かっていなかった。ただ甘ったるくて、くすぐったい。そんな感情が、収まりきらずに溢れでていた。
やがて互いに目が合うと、笑顔がふっと引いていく。気づけば吸い寄せられていた。抱き合って、ささやかなキスをしたあと、鼻先が触れる距離でカミュが囁く。
「ぜんぶ、預けたからな」
するとイレブンは吐息のような声で、「うん」と短く返事をした。それから、
「だけどごめん。どうもまだ足りないみたいだ」
と言った。
カミュはイタズラっぽく、ニッと笑った。
「これ以上なにを差しだせって? 欲張りな勇者さま」
「キミのことだから、まだなにか隠してるかも」
コツンと額が触れ合った。
「なら、暴いてみるか?」
「そうこなくっちゃ」
イレブンの願いは、カミュの願いでもある。彼がすべてを暴くなら、カミュだってイレブンのすべてが欲しい。
再び唇が合わさると、花の香りがいっそう増した。
みずみずしい花びらは、朝には萎れているだろう。あるいはその前に、すべてがシーツの波に散るかもしれない。
ほんの一手間、水を入れたコップにでも挿してやればいいだけなのに。
今の二人には、そんな時間すら惜しいのだ。
チョコ・オン・ザ・ルーミナリオ・了
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よく晴れた日の朝だった。
朝食を終え、ユグノア城跡へ行くための身支度を整えたイレブンが、扉の前で足を止めて振り返る。
「おう、ロウのじいさんによろしくな。あー、それと──」
カミュは食器を片付ける手を止め、イレブンのもとへ歩み寄った。コホン、と小さく咳払いをしたあと、さりげなく隠し持っていた小さな包みを差しだした。
「ほらよ」
ブラウンのリボンで飾られた赤い箱を見て、イレブンの目が丸くなる。
「カミュ、これって……?」
「チョコだよ。見りゃわかるだろ?」
照れくささを誤魔化すように、カミュはそっぽを向いて赤い頬を掻いた。
本日、2月14日はバレンタインデーだ。
地域や時代によって違いや変化はあるものの、恋人や夫婦、または意中の相手にチョコレートを贈り、想いを伝える日として広く知られている。
カミュはこれまで、そういったイベントとは無縁の人生を送ってきた。特に興味もなかったし、そんなことにかまけていられる余裕もなかった。
けれど今年は違う。勇者の相棒としてだけでなく、人生を共に歩む伴侶として、この村で暮らし始めてから迎える初のバレンタインなのだ。
きっとイレブンは、この手のイベントをソワソワしながら待つタイプに違いない。
だから柄にもないとは思いつつ、密かに手作りチョコを用意していた。
──が、目の前のイレブンはなぜか硬直したまま動かない。
まるで思考が停止したかのように、じっとチョコを見つめるばかりだ。
「……チョコ、嫌いじゃなかったよな?」
小首をかしげて問いかけると、イレブンはようやくハッとした様子で顔を上げた。
「え? ぁ……うん」
しかしその返事はどこか歯切れが悪い。
それでも彼はゆっくりとチョコを受け取り、ぎこちない笑みを浮かべて見せた。
「そっか……うん、そういうことか……」
「どうした? お前、どっか調子でも悪いのか?」
「そ、そんなことないよ。ぜんぜん、まったく……うん。あはは……」
その肩がどんどん撫でさすったように落ちていく。あからさまに顔色が優れない──というか、ガッカリしている様子が見て取れた。
(あれ……? オレ、なんか間違ったか?)
照れくさいからといって、出掛けのドサクサに紛れて渡してしまったのがよくなかったのだろうか。確かに、少しあっさりしすぎていたかもしれないが。
とにかく、思っていた反応とは180度違うことだけは確かだ。
「あーっと……その、あのなイレブン」
どうにかフォローしようとして口を開いたカミュだったが、イレブンはまるで逃げるように「じゃあ行くね」と言って、フラフラと出て行ってしまった。
「ちょっ、おい!」
目の前で扉がバタンと閉まる。追いかけたところで、おそらく彼はとっくにルーラで飛び去っているだろう。
「なんなんだよ……いったい……」
残されたカミュは、ただ呆然としながら立ち尽くすことしかできなかった。
*
その後、カミュはひたすら悶々と考えを巡らせていた。
掃除や洗濯をしていても、ニワトリの世話をしていても、気づけばイレブンの不自然な反応にばかり思考が追いやられてしまう。
思えば今日は、出掛けのキスもなかった。いつもの彼なら、カミュからの「いってらっしゃい」のキスがない限り、決して扉の前から動かないはずなのに。
そんな余裕もないほどに、彼の心を曇らせる何かをしてしまったということだ。
「あー、くそ! なんだってんだ! ちっとも分からねえ!」
一体なにがダメだったのか。理由が分からないことには謝罪のしようもない。
テーブルに突っ伏したカミュは、ガシガシと頭を掻いて髪を乱した。そして大きなため息をつく。
「……やめときゃよかったのかな」
それなりに気合いを入れて準備をしたつもりだった。
匂いでバレないよう、わざわざ恥を忍んでデルカダールのデク邸に足を運び、キッチンを借りてまで。嬉しそうなイレブンの笑顔に思いを馳せ、バカみたいに胸を踊らせていた。
当たり前のように喜ばれると思い込んでいた自分が、いっそ滑稽に思えてくる。
(やっぱオレには向いてねえってことなんだろうな)
バレンタインなんて浮かれたイベントに、自分自身が浮かれる日が来るなんて思いもしなかった。その結果がこれだ。やはり柄にもないことはするもんじゃない。
カミュはもう一度ため息をつくと立ち上がった。
このままモヤモヤと腐っていたって仕方ない。少しでも気分転換になればと、身体を動かすため家を出た。
外の空気は澄み切っていた。肌を撫でる感触は少しばかり冷たいが、真上にある太陽の日差しが十分に暖かい。どこを目指すでもなく、ブラリと歩いた。
すると、教会の前にエマの姿があることに気がついた。彼女もまたカミュに気づいて、笑顔で軽く手を振っている。
彼女は腕に大きなカゴを下げ、村の子供たちに囲まれていた。
「よう、エマちゃん」
「こんにちは、カミュさん。今日はイレブンと一緒じゃないのね」
「ああ、あいつはちょっと用があって」
「エマねーちゃん、はやくはやく! ボクにもちょーだいよ!」
カミュの声を遮り、待ち切れない様子のマノロが忙しなく飛び跳ねる。
エマは「はいはい」と言ってカゴの中身を取りだすと、彼に渡した。
「やったー! ありがとう!」
「うふふ。どういたしまして」
「エマちゃん、それは?」
小首をかしげるカミュに、エマはカゴの中身をもう一つ取りだして見せた。それは手のひらに収まるくらいの小袋で、赤いリボンがキュッと結ばれている。
「子供たちにチョコを配ってるの。今日はバレンタインだから」
そう言ってニッコリ笑ったあと、彼女は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「だからごめんなさい。カミュさんにはあげられないの。だって、カミュさんはもう立派な大人だもの」
「それは別に構わねえが……立派な大人が、なんだって?」
バレンタインは、何も恋人や夫婦のためだけにあるイベントではない。親しい友人や、家族にチョコを贈ることだってあるだろう。
けれどそのことと、カミュがすでに大人であることに、何の関係があるのだろうか。
ピンときていない様子のカミュに、エマは両手をポンと合わせて、「あ、そっか」と言った。
「カミュさんは来たばかりだから、知らなくて当然よね」
「なにを?」
「あのね、イシの村のバレンタインは、他とはちょっと違うの」
エマが言うにはこうだった。
この村でのバレンタインは、成人女性が小さな男の子にチョコを配るイベントなのだと。
「強くて立派な大人になるように、願いを込めて贈るのよ。ホワイトデーはその逆で、男の人が小さな女の子にクッキーを配るの。素敵な女性になってね、って」
呆けた顔で聞き入るカミュに、エマは「でも」と言って眉をひそめた。
「この風習、ちょっと考え方が古いわよね」
エマはすぐそばでモジモジと身体を揺らすルコに、チョコの包みを「はい、どうぞ」と言って渡した。彼女はパッと表情を明るくし、嬉しそうに「ありがとう、おねえちゃん!」と言って笑った。
「素敵な大人になってほしいって願いに、男の子も女の子も関係ないじゃない? だから私、子供たちみんなにチョコを配ることにしたの」
「へえ。立派だな、エマちゃんは」
カミュは腕を組むと、すっかり感心してしまった。
イシの村において、バレンタインは子供の健やかな成長を願うイベントなのだ。実にこの村らしい風習だと思う。
──けれどそこで、カミュはふと気がついた。
つまりこの村の人たちにとって、バレンタインは色恋が絡むような、甘酸っぱい行事ではないわけだ。それはここで育ったイレブンにとっても同じはず。
と、いうことは──
「マジか! オレはイレブンをガキ扱いしちまったってことか!?」
急に頭を抱えて大声を出したカミュに、エマと周囲にいた子供たちが目をまん丸にする。けれど今は構っていられる余裕がなかった。
なにしろ謎が解けたのだ。
彼はカミュに大人の男としてではなく、まだ未熟な子供として扱われている、と捉えてしまったに違いない。
共に世界を救った仲間であり、相棒であり、とっくにやることをやっている間柄であるにも関わらず、だ。
だからあんなにも気を落としてしまったのだろう。ガッシリとした肩幅が、それは見事な撫で肩になってしまうくらいに。
「もしかしてカミュさん、彼にチョコを渡したの?」
エマはそれだけで、大体のことを察してしまったらしい。
腰に手を当て、顔を押さえて天を仰ぐカミュの姿に、彼女は「ぷふっ」と吹きだした。
「ふっ、うふふっ、ご、ごめんなさい、だって……ふふふっ」
彼女にとっては、微笑ましい擦れ違いエピソードに過ぎないのだろう。
けれどカミュにとっては一大事である。枯れたススキのようになっていたイレブンを思うと、いてもたってもいられない気分だった。
「知らなかったならしょうがないじゃない。カミュさんは悪くないわよ」
エマはうっすらと滲んだ涙を指先で拭いながら言った。
彼女自身も、外での風習を知ったのはつい最近だったらしい。デルカダールの城にいた頃、兵士たちとの雑談でたまたま知る機会があったのだと。
「大丈夫よカミュさん。私、仲直りのためのいい方法を知ってるわ。ヘソを曲げたイレブンなんか、これでイチコロなんだから」
ケンカ、というほど大袈裟なものではないけれど、「マジか!」と食いついたカミュに、エマは得意げな笑みを浮かべた。
「この時期ならではの、とっておきの風習なの。それはね──」
口元に手を添えながら耳打ちしようとするエマに、カミュは軽く身を屈めた。
*
「ただいま」
夜、イレブンが帰宅した。
特に落ち込んだ様子はなく、むしろいつも通りの穏やかな表情だった。
彼は左手を背中側に回しており、いかにも何か隠している様子が見て取れた。
「あ、ああ。おかえり、イレブン」
それを不思議に思いながらも、いったん見過ごす。なにせあまり余裕がない。今の自分がいかに恥ずかしい状態であるか、そちらにばかり気がいっているからだ。
椅子から立ち上がって出迎えたカミュを見て、イレブンが目をまん丸にした。
「カミュ? それ、どうしたんだ?」
カミュの左耳のすぐ上には、パステルブルーの可憐な花が飾られていた。フリージアによく似た形で、ほんのりと甘い香りが漂っている。
カミュはついつい、耳まで赤くしながら目を泳がせた。
「あー、まあ……その、なんだ。エマちゃんから聞いたんだ。この村の、特別な風習ってやつをさ」
イレブンが、うつむくカミュの正面までやって来た。
注がれる視線に顔を上げることができず、彼の足先だけをじっと見つめる。
まるで女の子がするみたいに、髪に花なんか挿して待っていた自分の姿を、イレブンは一体どんな表情で見つめているのだろうか。
そう思うほどに、カミュはまくし立てるように言葉を発した。
「その、今朝は誤解させて悪かったよ。バレンタインなんて、どこも似たりよったりだとばかり思っていたが、まさかあんな意味があったとは──」
そのとき、イレブンの右手がそっとカミュの左頬に触れた。言葉が遮られたと同時に、自然と顔を上向かされる。
おずおずと向けた視線の先には、イレブンの蕩けそうなほど甘く優しい笑顔があった。キュン、なんて恥ずかしい音を立て、思わず胸が高鳴った。
「ルーミナリオの花だね。すごく綺麗だ。可愛いよ」
「ッ、ば、バカ言え……可愛いわけあるかよ。男のオレが、こんな……」
羞恥が限界を迎え、下唇を噛みながら視線だけそっぽを向けた。
それでもイレブンがあまりにも嬉しそうに笑うものだから、カミュの胸に安堵と喜びが満ちていく。
(そうだ、オレは、イレブンのこの顔が見たかったんだ)
あのあと、エマはカミュの耳元でこう言った。
──ルーミナリオの花はね、この村では恋の花って呼ばれているの。
朝焼けの澄んだ光が宿ったみたいに、淡く輝く美しい花。
この時期、神の岩のふもと一帯に、ルーミナリオは咲いている。
イシの村では、女性から好きな男性にこの花を贈ることで、想いが通じ合うという言い伝えがあるらしい。
様々な色のルーミナリオがある中で、エマは必ずパステルブルーを選べと言った。
──ただ渡すだけじゃダメ。髪に飾って、相手の前に立つの。
パステルブルーのルーミナリオには、【純愛・あなたにすべてを捧げます】という花言葉があるという。
──大丈夫。必ずイレブンにも伝わるはずよ。
そう言って、エマはカミュにウインクをした。
正直、あまり気乗りはしなかった。
花を髪に飾るだなんて、それこそエマのように可愛らしい女性がするならともかく、自分がやったところで滑稽でしかないだろうと。
だからほとんどヤケクソみたいなものだった。いっそ笑い飛ばしてもらうくらいで、ちょうどいいのだと思っていた。
けれどこのイレブンの反応を見るに、どうやら捨てたもんでもないらしい。
カミュはすでに、この男にすべてを預けたつもりでいる。今さらすべてを捧げるだとか、純愛だとか、小っ恥ずかしいにもほどがあるけど。
その花言葉は紛れもなく、カミュの本心でもあった。
「ありがとう、カミュ。キミの気持ち、確かに受け取ったよ」
最近また少し、ぐっと深みを増した声でイレブンが言う。彼は右腕だけでカミュの身体を抱きしめた。
カミュは「ん」とささやかな返事をして、その肩に頬を預けた。
「……そういやあ」
ホッと息をついたところで、カミュは気になっていたことを聞いてみた。
「お前はさっきから、一体なにを隠してるんだ?」
すると彼は「バレてた?」と言って無邪気に笑った。
「そりゃバレるだろ」
これで隠せていたつもりでいたことに、カミュもついつい笑ってしまう。
イレブンは抱きしめていた腕を解くと、そこでようやく左手を前に持ってきた。
「お前、それ……!」
目を見開くカミュに、イレブンがうなずいた。
それは淡いラベンダー色をした、ルーミナリオの花だった。
カミュはポカンとしながら、差し出された花とイレブンを交互に見やる。
「なんでお前がこれを? この風習って、女から男に告白するってもんじゃねえのかよ……って、なんか言ってて変な感じだが……」
イレブンが首を左右に振った。
「そうと決まってるわけじゃない。ただ渡す色が違うってだけ。男からは紫だよ」
「ま、マジか……」
しかしエマからは女性主体の風習としか聞いていない。これは天然なのか、あるいは確信犯なのか。おそらく後者だろうとは思うけど。
額にまで広がりを見せる熱を抑えるように、カミュは片手で額を覆った。
イレブンもエマが情報源であることを察していたらしい。軽く苦笑している。
「ボクも子供の頃にエマから教わったんだ。この風習のこと。あの頃はちっとも興味がなかったけど……彼女に感謝しなきゃな。こんなに可愛いカミュも見れたし」
「やめろって……」
カミュはいよいよ耐えきれなくなり、頭に手をやると花を取り去ろうとした。けれどそれを、イレブンが「もう少しだけ」とやんわり止める。
そう言われてしまったら仕方ない。カミュはしぶしぶ手を引っ込めた。
「今朝のこと、ボクもキミに謝りたかったんだ」
カミュはコトリと首をかしげる。
「お前が? なんでだ?」
「ロウさ……じゃなくて、ロウじいちゃんから聞いたんだ。バレンタインが、村の外ではどんなイベントかってこと」
なんとなく、そのときの様子が目に浮かぶ。
可愛い孫が落ち込んでいることに、あの老人はきっとすぐに気がついただろう。そしてよくよく話を聞いたあと、エマと同じような反応をしたに違いない。
ほっほっほっ、と朗らかに笑う声すらも、容易に想像することができた。
「それを知ってビックリしたよ。キミがせっかくチョコをくれたのに、ボクはすっかり誤解してしまって……変な態度をとってしまったこと、本当にごめん」
「気にすんなって。オレだって知らなかったんだ。お互い様だろ?」
カミュが笑うと、イレブンはふっと息を漏らしながら微笑んだ。
「ありがとう、カミュ。チョコも、すごく美味しかった」
「食ったのか?」
「もちろん。ぜんぶ食べたよ。あれってカミュの手作りだろ?」
「ま、まあな」
今さらになって、今朝の照れくささがよみがえってきた。手作りだということも、しっかりバレている。けれど、イレブンが喜んでくれたなら何よりだった。
「それで、ボクもキミに何か贈りたいと思ったんだ。チョコは用意できなかったけど……」
ロウに話を聞いたイレブンは、そこでふとルーミナリオの風習を思いだしたのだという。だから帰宅する前に神の岩のふもとまで行き、紫のルーミナリオを摘んできたのだ。
「カミュ。ボクの気持ちも、どうか受け取ってほしい」
「イレブン……」
「紫のルーミナリオの花言葉は、【不変の愛・あなたのすべてが欲しい】、だよ」
すべてを捧げたいと願うカミュの花と、対を成すイレブンの花。それは甘い香りを振りまきながら、淡く優しく輝いている。
染み渡るような熱い想いが込み上げて、カミュはとっさにどうしたらいいか分からなかった。ただ真っ赤な顔をうつむかせ、「おう」と短く返すのがやっとだった。
「キミの人生ごともらっておいて、まだ欲張るのかって自分でも思うけど」
そう言って、イレブンは照れくさそうに肩をすくめた。眉をハの字にした笑顔がどうしようもなく可愛くて、カミュはようやく「違いねえ」と言って笑った。
「ったく、それにしても……結局じいさんのおかげで、とっくに誤解は解けてたってわけか。わざわざこんな恥ずかしい真似までしたってのに」
「それはそれ、これはこれだろ。カミュ、ボクの花と交換しよう」
「そういや相手に贈るまでがセットだったな」
カミュはうなずいて、左耳にかかる花を手に取った。
するとイレブンが「じっとしてて」と言いながら、薄紫のルーミナリオをカミュの左耳の上に挿す。結局こうなるのかと思いつつ、黙って好きにさせることにした。
よし、と満足そうにイレブンが言ったのを合図に、カミュは彼の胸の位置にあるベルト部分に、パステルブルーの花を挿してやった。
「なんかボクだけ間抜けじゃない?」
「いいだろ。これもお互い様だぜ」
「カミュはとびきり可愛いよ。その色もよく似合ってる」
「へいへい、ありがとな」
ふと見つめあい、ぷは、と二人揃って吹きだした。そしてひとしきり笑いあう。
何がそんなに可笑しいのか、自分たちにもよく分かっていなかった。ただ甘ったるくて、くすぐったい。そんな感情が、収まりきらずに溢れでていた。
やがて互いに目が合うと、笑顔がふっと引いていく。気づけば吸い寄せられていた。抱き合って、ささやかなキスをしたあと、鼻先が触れる距離でカミュが囁く。
「ぜんぶ、預けたからな」
するとイレブンは吐息のような声で、「うん」と短く返事をした。それから、
「だけどごめん。どうもまだ足りないみたいだ」
と言った。
カミュはイタズラっぽく、ニッと笑った。
「これ以上なにを差しだせって? 欲張りな勇者さま」
「キミのことだから、まだなにか隠してるかも」
コツンと額が触れ合った。
「なら、暴いてみるか?」
「そうこなくっちゃ」
イレブンの願いは、カミュの願いでもある。彼がすべてを暴くなら、カミュだってイレブンのすべてが欲しい。
再び唇が合わさると、花の香りがいっそう増した。
みずみずしい花びらは、朝には萎れているだろう。あるいはその前に、すべてがシーツの波に散るかもしれない。
ほんの一手間、水を入れたコップにでも挿してやればいいだけなのに。
今の二人には、そんな時間すら惜しいのだ。
チョコ・オン・ザ・ルーミナリオ・了
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イシの村のホワイトデーには、成人男性が女児にお菓子を配るという風習がある。
字面だけ見ると事案の香りが漂うが、これはしごく健全なイベントだ。
バレンタインに引き続き、あくまで子供の健やかな成長を願ってのものだった。
というわけでその日、イレブンは幼馴染のエマに習って、男女関係なく子供たちにお菓子を配ってまわった。
それは可愛らしい棒付きキャンディーで、この日のためにダーハルーネで購入してきたものだった。
「ありがとう! イレブンにーちゃん!」
子供たちはみな大喜びで口に入れ、ニッコリと可愛い笑顔を見せてくれた。
イレブンがその反応に大満足しながら家路についたのは、正午を少し過ぎた頃だった。家が近づくにつれ、甘く香ばしいパンの匂いが漂ってくる。
「よう、おかえりイレブン。今ちょうどパンが焼けたところだぜ」
扉を開けると、カミュが出迎えてくれた。彼は青地に白い水玉模様のエプロンをして、焼き立てのパンをカゴに並べながら笑顔を見せた。
「ただいまカミュ、いい香りだね」
「だろ? スープもできてるから、昼飯にしようぜ」
うなずいたイレブンは、うがいと手洗いを済ませて席についた。
カミュは台所でスープをよそっている。その背を見ながら、つくづく思う。
ボクはなんて幸せ者なんだろう、と。
部屋中を満たすのは白いパンとミルク、そしてコーンスープの甘い香り。
家には美人な奥さんがいて、可愛いエプロンをして、焼き立てのパンと一緒に待っていてくれる。
(あのエプロン、やっぱり作って正解だったなぁ)
カミュが着用しているのは、イレブン作・命名の『ビューティーエプロン』だ。
双賢の姉妹が着用していたものと似ているが、ワンピース型ではなく、背中で紐がクロスしているタイプの胸当てエプロンだった。
肩紐にあしらわれた控えめなフリルと、腰の位置でキュッと結ばれたリボンが、カミュの動きに合わせて揺れるのがまた可愛い。
初めは渋っていたカミュだが、なんだかんだでイレブンに甘い彼は、こうしてちゃっかり着てくれるのだ。
「お待たせ。よし、食おうぜ」
全てテーブルに並べ終えたカミュが、エプロンを外して椅子の背もたれにかけた。
デレっとした顔でいたイレブンだったが、そこでふと肝心なことを思いだす。
「あ、そうだカミュ。これ、キミの分」
向かいの席に腰掛けたカミュが、きょとんとして小首をかしげた。
イレブンが彼に向かって差し出したのは、瓶詰めの棒付きキャンディーだった。透明な小瓶の中に、桃色のロリポップが何本も詰め込まれており、蓋の部分には真っ赤なリボンが飾られている。
「バレンタインのこと、覚えてるかい?」
イレブンが問うと、彼は瓶を受け取りながら「もちろんだぜ」と言った。
「あのとき、ルーミナリオを交換しただろ。でも、チョコのお返しはまだだったから……あ、もちろん子供扱いって意味じゃないからね」
念を押すように言うと、カミュは「ブハッ」と笑った。
「あんときゃ悪かったって。ありがとな、イレブン」
「分かればよろしい」
わざとらしくフフンと鼻を鳴らしたイレブンに、カミュは一層おかしそうに肩を揺らした。それから可愛らしい瓶詰めのロリポップを眺め、「しかしなあ」と少し困った顔をした。
「あれ? キャンディーは苦手だったかな?」
「いや、そうじゃねえんだ。ただ、オレにはもったいねえ代物だと思ってさ」
コトンと音を立て、瓶がテーブルの隅に置かれる。
「こういうの、最後までじっと舐めてらんねえんだよな。気づくとガリガリ噛み砕いちまってるんだ」
「ああ。それ、ちょっと分かるかも」
イレブンはつい笑ってしまった。まるで落ち着きのない子供と一緒だ。ついもどかしくなってきて、気づけば歯で粉々にしてしまう。
「いいよ。食べ方は問題じゃないんだ」
「そういうもんか?」
「そういうもんさ。キャンディーを噛み砕いちゃいけない、なんて法律はないだろ?」
カミュは「確かに」と言って納得している。
そう、なにも問題はない。彼の口に入りさえすれば、それでいいのだ。
実はこのロリポップ、ただのロリポップではなかった。
ダーハルーネまで買い出しに行った際、イレブンはハンフリーからの依頼で、グロッタにもルーラで足を運んでいた。
依頼は些細なものだった。孤児院にいる子供たちの成長に合わせて、靴や衣服を打ち直してほしい、というものだった。
せっかくだからと、そこにいる子供たちにもキャンディーを配ったところ、みな大喜びしてくれた。服も靴も新品のようになり、ハンフリーも嬉しそうだった。
それらが思いのほか早くに片付いてしまったので、イレブンは少し覗くだけのつもりで、カジノにも立ち寄った。
景品をチェックしていたところ、目に留まったのがこのロリポップだったのだ。
『ラブリーエキス配合! ムフフ♡なスペシャルロリポップ!』
という、なんともいかがわしい謳い文句がついていた。
怪しいなぁと思いつつ、気にならないと言えば大嘘である。それとなく景品所のバニーさんに聞いてみたところ、
「恋人に一粒舐めさせるだけで、とっても素敵な一夜になるわよ♡」
と、太鼓判を押された。
これといった副作用もなく、効果はほんの数時間程度で切れるとのことだった。
ちなみにこのバニーさんが彼氏にこっそり舐めさせてみたところ、それはそれは素敵な思い出作りができたらしい。
「んもう! それ以上言わせないでよ!」
なんて言いながら、肩パンを食らわされてちょっと痛かった。
何はともあれ、このロリポップの効能は本物らしい。そうなってくると、試してみたくなるのがスケベ心というものだ。
これをひと舐めしたカミュの身に、一体どんなムフフなことが起こってしまうのか……。
想像しただけで、イレブンはゴクンと喉を鳴らしてしまった。
ロリポップの交換コイン数は150000枚。きわどい水着と同じ枚数だった。
イレブンは血眼になってスロットを回した。途中で何度も舌打ちと台パンをかましつつ、なんとか必要枚数を貯めることができた。
その姿は世界を救った勇者にあるまじきカスっぷりであったと、たまたまその姿を目撃していたマスク・ザ・ハンサムは後に語った──。
というわけで、今に至る。
「まあせっかくだし、気が向いたら後で一つくらい食べてみてほしいな」
ひとしきり回想を終えたあと、イレブンは何気なさを装ってそう言った。夕飯の後にでもさりげなく誘導して、食べさせることができれば御の字だ。
するとカミュは素直にうなずき、
「だな。ありがたく頂戴するぜ」
と、白い歯を見せながら「へへっ」と笑った。
今のところ怪しんでいる様子はまったくなく、イレブンは内心ホッとした。
ホワイトデーを利用しているようで気は引けるが、どうしようもなく溢れ出る好奇心とスケベ心を抑え込むことなど、到底できるはずもないのだった。
*
その夜、鍛冶仕事を終えて戻ったイレブンは、台所にカミュの姿がないことに気がついた。
「あれ、カミュ?」
いつもならこの時間、彼は夕飯の支度に取り掛かっているはずだった。手伝いをするため早めに切り上げてきたのだが、可愛いエプロン姿が見えない。
かまどで鍋が吹きこぼれそうになっており、慌てて駆け寄ると火を止めた。
するとそこでふと、足元に白くて小さな棒きれが落ちているのを見つけた。それが例の棒付きキャンディーの、棒部分であることにはすぐ気がついた。
イレブンはドキリとしながら棒を拾い上げ、そしてテーブルを見やった。やっぱりだ。リボンが解かれ、瓶が開封されている。
(カミュ、これを食べたのか……!)
とっさにベッドの方を見やった。するとそこに、エプロン姿のカミュが横たわる姿が目に入った。
「カミュ!?」
彼は膝から下をベッドのヘリに投げ出し、まるで胸を掻きむしるようにしながら、はあはあと息を荒げている。
すぐさま駆け寄ってベッドに乗り上げ、その身体を抱き起こした。
くったりとイレブンにもたれかかるカミュは、頬やうなじをバラ色に染めていた。衣服越しにも、その熱の高さが伝わってくる。
「カミュ、しっかり……!」
「んぅ、ぁ…? イレ、ブン…?」
「キミ、もしかしてあのロリポップを……」
「ああ、うん…」
ぼうっとした様子で、カミュがたどたどしく口を開いた。
鍋を火にかけているあいだ、何気なく小瓶を開けた。一本取り出してパクっと咥え込んだはいいが、案の定すぐに噛み砕いてしまったのだと。
「中から、トロっとしたのが出てきて……それが、すっげぇ甘くて…、そしたら、だんだんクラクラして……立って、らんなくなって……」
ベッドまでどうにか辿り着き、倒れ込んでしまったというわけだ。
カミュは呼吸を荒げ、イレブンに縋りつくと首筋に額を擦りつけてきた。
「はぁ…っ、ぁ…身体、あついんだ……頼む、イレブン…オレ、このままじゃ…」
「ッ……」
泣きそうに潤んだ瞳に見上げられ、イレブンは思わず喉を鳴らした。
吐く息は甘く、しっとりと艶を帯びている。目尻から頬、首筋から鎖骨のラインまで、薄紅に染まる肌がイレブンを誘っているようだった。
(これは……思っていた以上に……)
──効果は抜群だ!!
ちょっとエッチな気分になって、キャッキャウフフとイチャつけたらいいな、くらいに思っていた。しかしこのガチな様子を見るに、ラブリーエキス配合という謳い文句は伊達じゃないらしい。
「カミュ、とりあえず……脱いじゃおうか」
カミュはしきりに「あつい、あつい」と繰り返し、薄い胸を上下させている。
イレブンはさりげなさを装い、赤い腰布をシュルリと解いた。
「バンザイして、バンザイ」
上手い具合に誘導し、エプロンは残したまま上だけスポンと脱がせてしまう。
その間、カミュはぼうっと意識をけぶらせ、なすがままだった。はふ、はふ、と熱っぽく息を湿らせながら、イレブンの指示に従うばかりだ。
「下も、ほら。足あげて」
「はぁ…っ、は…はや、く…も、我慢、できね…」
「もうちょっとだから」
ブーツを脱がせて床に放り、ズボンも下着もすっかり脱がせる。
すると、なんとビックリ! 裸エプロンの完成だ!
こうなることを想定していたわけではなかったが、我ながら天才ではないかとイレブンは思った。
しかしカミュはイヤイヤと首を振り、「これも」と言ってエプロンに手をかける。
「ま、待ってカミュ。それは、もうちょっと待ってほしい」
「ん、ぅ……、なん、れ…?」
彼はまるで泥酔したように舌が回っていなかった。
焦点の合わない瞳を彷徨わせると、ようやく自分がどんな格好をさせられているかに気がついたようだった。
「ぁふっ…、ふふ……っ、なんらよ、これぇ?」
さすがに怒るかと思いきや、彼は腕の中でクスクスと笑いだした。
「お前って…、ふふっ……ほんっとスケベらよなぁ…」
腕の中から逃れたカミュが、コロンと横に転がった。
フリル付きの青い紐が、色づいた美しい背中で交差している。腰骨の位置で大きくリボン結びされたそれは、最近ちょっぴり丸みを帯びてきた臀部の割れ目を、ギリギリのところで隠していた。
無防備であるにも関わらず、肝心なところが見えそうで見えないその絶妙なラインに、イレブンは脳が焼けるような興奮を覚えた。今にも鼻血が噴き出しそうだ。
ワンピース型にしなくてよかったと、心底そう思わずにはいられなかった。
「オレにこんなカッコさせて、一体ナニする気なんらよ」
ひとしきり笑ったカミュは、ゆるりと半身を起こすと首を捻り、自身の肩越しにイレブンを見た。その妖しく細められた瞳に、イレブンはゴクリと喉仏を上下させる。
「……そんなの、決まってるだろ」
もとよりそのつもりだったのだ。裸エプロンは副産物にすぎないが、こんな格好をしたカミュを前にして、我慢できるはずがない。
押し殺したイレブンの声色に、カミュは満足そうに笑みを深くした。彼は「いいぜ」と言ってこちらを向き、イレブンの身体を押し倒す。
(わ、わ、わ……!)
獣のように四つん這いになり、カミュがイレブンを見下ろして舌なめずりをした。
浅い胸の谷間をチラチラと覗かせながら、ツンと尖った乳首がかすかに布を押し上げている。格好も相まってか、その姿はひどく倒錯的な官能をもたらした。
ありがとう、SPロリポップ──興奮がピークに達しすぎたせいか、逆にスン……と悟ったように目を閉じて、イレブンは胸の上で両手を組むと神に感謝した。
「ぁ…ん、む……っ」
カミュがイレブンの唇にかぶりついてきた。水音を立てながら吸ったり舐めたりされたかと思えば、小さくて柔らかな舌が口腔内へ侵入してくる。
流れ込んできた唾液は甘く、おそらくこれが例のロリポップの味だろうと思った。ほのかに桃が香った気がする。
カミュの唾液を通して、それはイレブンにも効果をもたらした。軽く喉を鳴らしながら飲み込めば、どんどん身体が熱くなり、クラクラと脳が揺らいだ。
疼きと乾きに支配され、もっともっとと求めるようにカミュの舌を追いかけた。
「んっ、ん、ぅッ…ふ…」
舌が擦れ合うたびに、カミュの身体から力が抜けていった。胸と胸がピッタリと合わさり、尻だけを高く掲げるような体勢になる。
その背に両手を這わせ、背骨や肩甲骨の際を指先でくすぐると、彼は甘えた子猫のような声をあげて腰をくねらせた。
「ふぅ、んッ…、ぅうんっ…!」
すると尻だけがフリフリと左右に揺れ、腰のリボンが動きに合わせて可憐に踊る。
イレブンは内心ほくそ笑むと、そのまま臀部へ指先を走らせた。
「はぁっ、ん…! や…、ダメ、っ、だってぇ……ッ!」
両の尻肉をむにゅっと鷲掴むと、唇が唾液の糸を引きながら離れていった。
強弱をつけながら揉みしだき、大きく割り開いたり、それぞれ上下左右に形を歪めたりして、その感触を楽しんだ。
小ぶりながらも柔らかく、けれど弾力のある肉は、イレブンの大きな手の平にしっとりと吸いついてくるようだった。
「やめ、ッ、ん、ぁ…! ッ…そん、なっ、ぁ、揉んだら、ゃ…ッ!」
カミュはどうにか逃れようと身をくねらせているが、むしろ淫らに誘い込もうとしているようにしか見えない。彼はイレブンの胸に縋りつき、掲げた尻をピクンピクンと跳ねさせている。
「カミュのお尻、また少し大きくなったんじゃないか? このままどんどん、女の子みたいな身体になっていくのかもしれないな」
「バカ…ぁ! んなわけ…ッ、ぁあっ、ん…ホント、もう、やめろってぇ…」
「キミのお尻は喜んでるみたいだけど?」
片方の尻たぶを、軽くペチンと叩いた。カミュは一瞬大きく背を反らせ、「ひゃうん!」と甲高い悲鳴をあげた。
ラブリーエキスがよほど効きすぎているのか、あるいは潜在的なものなのか、彼はたったこれだけで、ずいぶんと激しく感じてしまっているようだった。
すっかり勃ち上がっているらしい陰茎が、身体の中心部分でエプロンを軽く押し上げているのが分かる。
「ぁ、ぁ…っ、ん…もう、いじめんなってばぁ……」
「ごめん。だって可愛いからさ」
カミュはイレブンの喉元に額を擦り付けたあと、ズビっと鼻をすすりながら顔をあげた。キッと睨みつけているが、蕩けたように潤んだ瞳では説得力がなかった。角度や照明の加減でそう見えるのか、ゆらゆらと揺れる両眼にハートマークが浮かんで見えた。
「スケベな勇者さま、今度はオレがイジメてやるよ」
そう言って、カミュはにじにじと四つん這いのまま後退した。彼はイレブンのウエストのベルトを外しながら、「邪魔だから脱いじまえ」と言った。
ドキドキと胸を高鳴らせ、イレブンはおとなしく従った。上はインナーだけを残して、残りは全て脱ぎ捨ててしまう。
「へへ、もうこんなになってんの」
半身を起こし、両足を投げ出すイレブンの股間に顔を寄せ、カミュはギンギンに勃起した性器に触れると頬ずりをした。
「ッ、ぅ…カミュ……」
眼下には無防備にさらされた美しい背中がある。クロスした紐はリボン結びが解けかけ、カミュの背をいっそう頼りないものに見せていた。
血管の浮きでた卑猥な肉の竿に頬を寄せ、上目遣いで見られるだけで、もう何度目になるか分からないくらいに喉が鳴る。
「これ、どうして欲しい?」
人差し指の腹で鈴口をクリクリとなぞられるだけで、イレブンは背筋を震わせた。みっともなく喘いでしまいそうになるのを堪えながら、どうにか「キスして、舐めて」と言うのがやっとだった。
カミュは目を細めながら笑みを深くすると、脈打つ竿の中腹に一度だけ、ちゅむっと吸いつくようなキスをした。
「あっ、ぅ…カミュ……ッ」
いやらしい格好で、いやらしく身をくねらせて、甘ったるい息を漏らす可愛い唇が、いきり立つ肉棒に触れている。それだけでも達してしまいそうなほど、興奮が最高潮に達していた。イレブンは下腹に力を込めて、どうにか耐えている状態だった。
カミュは息を荒げるイレブンに満足した様子で、かすかに吐息だけで笑った。それから尖らせた舌の先で裏スジを辿るようにしながら、下へとおりていく。
やがて辿り着いた陰嚢の片方に、かぶりつくようなキスをした。
「ぅあっ、ぁ、…ッ、か、かミュ……っ!」
舌で内部の玉を転がすようにしながら舐められ、吸われ、竿はシコシコと扱かれる。先走りの液がカミュの白い指先を濡らし、卑猥な水音を立てていた。
マズい。これはマズい。思わずカミュの頭部を掴んでしまう。
「も、もうダメだっ…! でる……!」
とっさに声を上ずらせて叫ぶと、カミュは陰嚢に舌を這わせたまま「らぁめ」と言って、太い根元をぎゅうっと握った。
「うぅ…っ、ぐ……ッ」
「あせんなって。もっといっぱいよくしてやるから……な?」
カミュはぬるりと下唇を舐めて、ビクビクと震える竿に両手を添えた。ちゅ、ちゅ、と何度もカリ部分にキスをして、そのたびに鈴口から溢れでる先走りを舐め取った。
「んっ、ふ…いぇぶんの……ビクビクしてて、すっげぇ可愛い…こえ、ぜんぶオレのらから……」
敏感な場所を愛撫しながら、カミュがうっとりと表情を蕩けさせて言った。そして、いよいよ先端をぱっくりと口の中に収めてしまう。
「ァッ、うぁ…!」
カミュは舌を巧みに絡めながら、イレブンのブツに熱烈な奉仕を開始した。両手で扱き、頭を上下に振り、頬をすぼめて吸いついてくる。
ブポ、ブポ、という、聞くに耐えない水音が大きく響き渡っていた。
「ぁむ…ッ、ん、んっ、んぶぅっ、ぉ……ッ」
必死で喉奥まで飲み込もうとするが、彼の狭い口腔にそれはあまりにも大きすぎた。どうにか中腹まで飲み込むのがやっとのようだった。体液とも唾液ともつかないもので、カミュのアゴや首筋が濡れそぼっていく。
「ぷ、はぁ…っ、ぁ、こえ、好き…、いぇぶ…のッ、ちんちん、おいひ…ッ」
(う、う、うわぁ~~~っ!!)
心の中で思い切り叫びながら、イレブンは真っ赤になった顔を両手で覆った。
ラブリーエキス配合のSPロリポップ。なんて恐ろしいアイテムだろう。普段のカミュなら、ここまであけすけなことはなかなか言ってくれない。
「いぇぶん、いぇ…んっ、ぶっ、ぉ…ッ、こえ、ひゅき…っ、んッ、はむ、ん…ッ」
カミュは恍惚とした表情で必死にしゃぶりながらも、懸命に思いを伝えてくる。
四つん這いで品のない音を立て、頭を振りたくり、まるでキャンディーを舐めしゃぶるかのように。
その獣じみた痴態があまりにも愛おしく、イレブンはいよいよ限界を感じた。
「カミュッ、イク! ホントに、もう無理だ……!」
だからすっかり忘れ去っていた。
可愛らしいロリポップの小瓶を見て、彼がなんと言っていたかを。
──こういうの、最後までじっと舐めてらんねえんだよな
カミュは肉の棒付きキャンディーに夢中になっている。
いけないエキスが作用して、普段なら決して言わないようなことを口走ってしまうくらい、獣のように理性をなくしている。
──気づくとガリガリ噛み砕いちまってるんだ
だからそうなることは、必然だったのかもしれない。あるいは天罰。
ガリッ、と、デリケートで敏感な部分に、何か硬いものが食い込んだ。
そのときのことを、イレブンはほとんど覚えていない。ショックだとか痛みだとか、そんな生半可なもんじゃなかった。
ただ目の前が真っ白になり、それから脳内が赤く爆ぜたような気がする。
イシの村の静かな夜に、大絶叫が響き渡った。
*
翌朝。
イレブンはベッドで丸くなってふせっていた。
「大丈夫か……?」
ベッド脇に置かれた椅子の、背もたれを抱くようにしてまたがりながら、カミュが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ハイ ダイジョウブ デス」
イレブンはなぜか敬語──しかもカタコト──で答えた。
「……悪かったとは思うが、今回ばかりはお前も悪かったと思うぜ」
カミュは呆れと困惑を同時に浮かべつつも、言葉を選んでいる様子だった。
イレブンはつい先刻、彼にすべてを打ち明けた。
実はあのロリポップは媚薬成分入りな上に、今月の生活費の大半をスロットに費やしてまでゲットしたものであることを(カス)
イレブンは素直に「カエス コトバモ アリマセン」と言うより他になかった。
「まあでも……うん、大事に至らなくてよかったぜ」
「ホントソレ」
あの後、イレブンは想像を絶する激痛と衝撃に気絶してしまった。
カミュはイレブンの悲鳴──いや、絶叫で正気を取り戻したという。
なぜ自分が裸エプロンでイレブンのブツを咥えこんでいたのか、混乱しつつも必死で大量のやくそうを使い、けんじゃの石まで駆使して股間を癒やしてくれたらしい。
おかげで現在は、歯型も消えて腫れも引いている。今後も問題なく使うことができそうだ(重要事項)
しかしあの体験は壮絶なトラウマとして、イレブンの中に刻まれてしまった。
あと一瞬でもカミュが正気に戻るのが遅ければ、今ごろ食い千切られていたかもしれない。想像するだけで縮み上がるような思いだった。
「とりあえず、起きられそうならそろそろ朝飯にしようぜ」
カミュはやれやれと息をつきながら、椅子から立ち上がった。
台所へと向かうその背を、イレブンは涙目で見つめた。
悔しいやら情けないやらで、すっかり落ち込んでいる。さすがのカミュとて、本当は心底あきれているに違いない。
けれどそれもこれも、すべては自業自得だった。
ホワイトデーのお返しだなどと言って、彼に内緒であの小瓶を渡してしまった。
正々堂々が座右の銘なんて言っておきながら、どうしてもこっそり反応をうかがってみたくて。本当に愚かだったと思う。
分かっちゃいるのだ。けれどあんな手痛いしっぺ返しを食らってもなお、裸エプロンを諦めきれない自分がいる。あの姿で身も世もなくトロトロになったカミュと、もっともっと楽しみたかった。
(あのロリポップ……カミュはもう食べてくれないよな……)
ズビ、と鼻をすすっていると、カミュが「そういや」と歩みを止めて振り向いた。
「あのロリポップだが」
「?」
「せっかくお前がくれたもんだし、捨てるのはもったいねえだろ。だからその……たまになら、食ってやってもいいぜ」
「え……!?」
「た、たまにだぞ、たまに。はっきり覚えてるわけじゃねえけど……まあ、別にそんな、悪くもなかったと思うし」
カミュは頬を耳まで赤くしながら「その代わり、お前にも食わせるからな!」と言い残し、そそくさと去っていった。
(カミュ……キミってやつは、どうしてそんなにチョロいんだ……!)
愛想を尽かすでもなく、怒るでもなく、カミュはどこまでいってもカミュだった。
じぃんと込み上げる熱い感動に、イレブンはやっぱり少し泣きそうになった。
そうだ、彼は自分にとことん甘いのだから、エッチなキャンディーだって裸エプロンだって、正面からお願いすれば大概のことは聞いてくれるに違いない。そんなところがちょっと──いや、かなり心配ではあるのだが。
やっぱり何事も、正々堂々が一番だ。
そして勇者とは、最後まで決して諦めない者のこと。
次こそは裸エプロンのリベンジを果たそうと誓いつつ、あの状態になったカミュに主導権を渡すことだけは、絶対に避けようと心に刻むイレブンだった。
ビースト・オン・ザ・ロリポップ・了
←戻る ・ Wavebox👏
字面だけ見ると事案の香りが漂うが、これはしごく健全なイベントだ。
バレンタインに引き続き、あくまで子供の健やかな成長を願ってのものだった。
というわけでその日、イレブンは幼馴染のエマに習って、男女関係なく子供たちにお菓子を配ってまわった。
それは可愛らしい棒付きキャンディーで、この日のためにダーハルーネで購入してきたものだった。
「ありがとう! イレブンにーちゃん!」
子供たちはみな大喜びで口に入れ、ニッコリと可愛い笑顔を見せてくれた。
イレブンがその反応に大満足しながら家路についたのは、正午を少し過ぎた頃だった。家が近づくにつれ、甘く香ばしいパンの匂いが漂ってくる。
「よう、おかえりイレブン。今ちょうどパンが焼けたところだぜ」
扉を開けると、カミュが出迎えてくれた。彼は青地に白い水玉模様のエプロンをして、焼き立てのパンをカゴに並べながら笑顔を見せた。
「ただいまカミュ、いい香りだね」
「だろ? スープもできてるから、昼飯にしようぜ」
うなずいたイレブンは、うがいと手洗いを済ませて席についた。
カミュは台所でスープをよそっている。その背を見ながら、つくづく思う。
ボクはなんて幸せ者なんだろう、と。
部屋中を満たすのは白いパンとミルク、そしてコーンスープの甘い香り。
家には美人な奥さんがいて、可愛いエプロンをして、焼き立てのパンと一緒に待っていてくれる。
(あのエプロン、やっぱり作って正解だったなぁ)
カミュが着用しているのは、イレブン作・命名の『ビューティーエプロン』だ。
双賢の姉妹が着用していたものと似ているが、ワンピース型ではなく、背中で紐がクロスしているタイプの胸当てエプロンだった。
肩紐にあしらわれた控えめなフリルと、腰の位置でキュッと結ばれたリボンが、カミュの動きに合わせて揺れるのがまた可愛い。
初めは渋っていたカミュだが、なんだかんだでイレブンに甘い彼は、こうしてちゃっかり着てくれるのだ。
「お待たせ。よし、食おうぜ」
全てテーブルに並べ終えたカミュが、エプロンを外して椅子の背もたれにかけた。
デレっとした顔でいたイレブンだったが、そこでふと肝心なことを思いだす。
「あ、そうだカミュ。これ、キミの分」
向かいの席に腰掛けたカミュが、きょとんとして小首をかしげた。
イレブンが彼に向かって差し出したのは、瓶詰めの棒付きキャンディーだった。透明な小瓶の中に、桃色のロリポップが何本も詰め込まれており、蓋の部分には真っ赤なリボンが飾られている。
「バレンタインのこと、覚えてるかい?」
イレブンが問うと、彼は瓶を受け取りながら「もちろんだぜ」と言った。
「あのとき、ルーミナリオを交換しただろ。でも、チョコのお返しはまだだったから……あ、もちろん子供扱いって意味じゃないからね」
念を押すように言うと、カミュは「ブハッ」と笑った。
「あんときゃ悪かったって。ありがとな、イレブン」
「分かればよろしい」
わざとらしくフフンと鼻を鳴らしたイレブンに、カミュは一層おかしそうに肩を揺らした。それから可愛らしい瓶詰めのロリポップを眺め、「しかしなあ」と少し困った顔をした。
「あれ? キャンディーは苦手だったかな?」
「いや、そうじゃねえんだ。ただ、オレにはもったいねえ代物だと思ってさ」
コトンと音を立て、瓶がテーブルの隅に置かれる。
「こういうの、最後までじっと舐めてらんねえんだよな。気づくとガリガリ噛み砕いちまってるんだ」
「ああ。それ、ちょっと分かるかも」
イレブンはつい笑ってしまった。まるで落ち着きのない子供と一緒だ。ついもどかしくなってきて、気づけば歯で粉々にしてしまう。
「いいよ。食べ方は問題じゃないんだ」
「そういうもんか?」
「そういうもんさ。キャンディーを噛み砕いちゃいけない、なんて法律はないだろ?」
カミュは「確かに」と言って納得している。
そう、なにも問題はない。彼の口に入りさえすれば、それでいいのだ。
実はこのロリポップ、ただのロリポップではなかった。
ダーハルーネまで買い出しに行った際、イレブンはハンフリーからの依頼で、グロッタにもルーラで足を運んでいた。
依頼は些細なものだった。孤児院にいる子供たちの成長に合わせて、靴や衣服を打ち直してほしい、というものだった。
せっかくだからと、そこにいる子供たちにもキャンディーを配ったところ、みな大喜びしてくれた。服も靴も新品のようになり、ハンフリーも嬉しそうだった。
それらが思いのほか早くに片付いてしまったので、イレブンは少し覗くだけのつもりで、カジノにも立ち寄った。
景品をチェックしていたところ、目に留まったのがこのロリポップだったのだ。
『ラブリーエキス配合! ムフフ♡なスペシャルロリポップ!』
という、なんともいかがわしい謳い文句がついていた。
怪しいなぁと思いつつ、気にならないと言えば大嘘である。それとなく景品所のバニーさんに聞いてみたところ、
「恋人に一粒舐めさせるだけで、とっても素敵な一夜になるわよ♡」
と、太鼓判を押された。
これといった副作用もなく、効果はほんの数時間程度で切れるとのことだった。
ちなみにこのバニーさんが彼氏にこっそり舐めさせてみたところ、それはそれは素敵な思い出作りができたらしい。
「んもう! それ以上言わせないでよ!」
なんて言いながら、肩パンを食らわされてちょっと痛かった。
何はともあれ、このロリポップの効能は本物らしい。そうなってくると、試してみたくなるのがスケベ心というものだ。
これをひと舐めしたカミュの身に、一体どんなムフフなことが起こってしまうのか……。
想像しただけで、イレブンはゴクンと喉を鳴らしてしまった。
ロリポップの交換コイン数は150000枚。きわどい水着と同じ枚数だった。
イレブンは血眼になってスロットを回した。途中で何度も舌打ちと台パンをかましつつ、なんとか必要枚数を貯めることができた。
その姿は世界を救った勇者にあるまじきカスっぷりであったと、たまたまその姿を目撃していたマスク・ザ・ハンサムは後に語った──。
というわけで、今に至る。
「まあせっかくだし、気が向いたら後で一つくらい食べてみてほしいな」
ひとしきり回想を終えたあと、イレブンは何気なさを装ってそう言った。夕飯の後にでもさりげなく誘導して、食べさせることができれば御の字だ。
するとカミュは素直にうなずき、
「だな。ありがたく頂戴するぜ」
と、白い歯を見せながら「へへっ」と笑った。
今のところ怪しんでいる様子はまったくなく、イレブンは内心ホッとした。
ホワイトデーを利用しているようで気は引けるが、どうしようもなく溢れ出る好奇心とスケベ心を抑え込むことなど、到底できるはずもないのだった。
*
その夜、鍛冶仕事を終えて戻ったイレブンは、台所にカミュの姿がないことに気がついた。
「あれ、カミュ?」
いつもならこの時間、彼は夕飯の支度に取り掛かっているはずだった。手伝いをするため早めに切り上げてきたのだが、可愛いエプロン姿が見えない。
かまどで鍋が吹きこぼれそうになっており、慌てて駆け寄ると火を止めた。
するとそこでふと、足元に白くて小さな棒きれが落ちているのを見つけた。それが例の棒付きキャンディーの、棒部分であることにはすぐ気がついた。
イレブンはドキリとしながら棒を拾い上げ、そしてテーブルを見やった。やっぱりだ。リボンが解かれ、瓶が開封されている。
(カミュ、これを食べたのか……!)
とっさにベッドの方を見やった。するとそこに、エプロン姿のカミュが横たわる姿が目に入った。
「カミュ!?」
彼は膝から下をベッドのヘリに投げ出し、まるで胸を掻きむしるようにしながら、はあはあと息を荒げている。
すぐさま駆け寄ってベッドに乗り上げ、その身体を抱き起こした。
くったりとイレブンにもたれかかるカミュは、頬やうなじをバラ色に染めていた。衣服越しにも、その熱の高さが伝わってくる。
「カミュ、しっかり……!」
「んぅ、ぁ…? イレ、ブン…?」
「キミ、もしかしてあのロリポップを……」
「ああ、うん…」
ぼうっとした様子で、カミュがたどたどしく口を開いた。
鍋を火にかけているあいだ、何気なく小瓶を開けた。一本取り出してパクっと咥え込んだはいいが、案の定すぐに噛み砕いてしまったのだと。
「中から、トロっとしたのが出てきて……それが、すっげぇ甘くて…、そしたら、だんだんクラクラして……立って、らんなくなって……」
ベッドまでどうにか辿り着き、倒れ込んでしまったというわけだ。
カミュは呼吸を荒げ、イレブンに縋りつくと首筋に額を擦りつけてきた。
「はぁ…っ、ぁ…身体、あついんだ……頼む、イレブン…オレ、このままじゃ…」
「ッ……」
泣きそうに潤んだ瞳に見上げられ、イレブンは思わず喉を鳴らした。
吐く息は甘く、しっとりと艶を帯びている。目尻から頬、首筋から鎖骨のラインまで、薄紅に染まる肌がイレブンを誘っているようだった。
(これは……思っていた以上に……)
──効果は抜群だ!!
ちょっとエッチな気分になって、キャッキャウフフとイチャつけたらいいな、くらいに思っていた。しかしこのガチな様子を見るに、ラブリーエキス配合という謳い文句は伊達じゃないらしい。
「カミュ、とりあえず……脱いじゃおうか」
カミュはしきりに「あつい、あつい」と繰り返し、薄い胸を上下させている。
イレブンはさりげなさを装い、赤い腰布をシュルリと解いた。
「バンザイして、バンザイ」
上手い具合に誘導し、エプロンは残したまま上だけスポンと脱がせてしまう。
その間、カミュはぼうっと意識をけぶらせ、なすがままだった。はふ、はふ、と熱っぽく息を湿らせながら、イレブンの指示に従うばかりだ。
「下も、ほら。足あげて」
「はぁ…っ、は…はや、く…も、我慢、できね…」
「もうちょっとだから」
ブーツを脱がせて床に放り、ズボンも下着もすっかり脱がせる。
すると、なんとビックリ! 裸エプロンの完成だ!
こうなることを想定していたわけではなかったが、我ながら天才ではないかとイレブンは思った。
しかしカミュはイヤイヤと首を振り、「これも」と言ってエプロンに手をかける。
「ま、待ってカミュ。それは、もうちょっと待ってほしい」
「ん、ぅ……、なん、れ…?」
彼はまるで泥酔したように舌が回っていなかった。
焦点の合わない瞳を彷徨わせると、ようやく自分がどんな格好をさせられているかに気がついたようだった。
「ぁふっ…、ふふ……っ、なんらよ、これぇ?」
さすがに怒るかと思いきや、彼は腕の中でクスクスと笑いだした。
「お前って…、ふふっ……ほんっとスケベらよなぁ…」
腕の中から逃れたカミュが、コロンと横に転がった。
フリル付きの青い紐が、色づいた美しい背中で交差している。腰骨の位置で大きくリボン結びされたそれは、最近ちょっぴり丸みを帯びてきた臀部の割れ目を、ギリギリのところで隠していた。
無防備であるにも関わらず、肝心なところが見えそうで見えないその絶妙なラインに、イレブンは脳が焼けるような興奮を覚えた。今にも鼻血が噴き出しそうだ。
ワンピース型にしなくてよかったと、心底そう思わずにはいられなかった。
「オレにこんなカッコさせて、一体ナニする気なんらよ」
ひとしきり笑ったカミュは、ゆるりと半身を起こすと首を捻り、自身の肩越しにイレブンを見た。その妖しく細められた瞳に、イレブンはゴクリと喉仏を上下させる。
「……そんなの、決まってるだろ」
もとよりそのつもりだったのだ。裸エプロンは副産物にすぎないが、こんな格好をしたカミュを前にして、我慢できるはずがない。
押し殺したイレブンの声色に、カミュは満足そうに笑みを深くした。彼は「いいぜ」と言ってこちらを向き、イレブンの身体を押し倒す。
(わ、わ、わ……!)
獣のように四つん這いになり、カミュがイレブンを見下ろして舌なめずりをした。
浅い胸の谷間をチラチラと覗かせながら、ツンと尖った乳首がかすかに布を押し上げている。格好も相まってか、その姿はひどく倒錯的な官能をもたらした。
ありがとう、SPロリポップ──興奮がピークに達しすぎたせいか、逆にスン……と悟ったように目を閉じて、イレブンは胸の上で両手を組むと神に感謝した。
「ぁ…ん、む……っ」
カミュがイレブンの唇にかぶりついてきた。水音を立てながら吸ったり舐めたりされたかと思えば、小さくて柔らかな舌が口腔内へ侵入してくる。
流れ込んできた唾液は甘く、おそらくこれが例のロリポップの味だろうと思った。ほのかに桃が香った気がする。
カミュの唾液を通して、それはイレブンにも効果をもたらした。軽く喉を鳴らしながら飲み込めば、どんどん身体が熱くなり、クラクラと脳が揺らいだ。
疼きと乾きに支配され、もっともっとと求めるようにカミュの舌を追いかけた。
「んっ、ん、ぅッ…ふ…」
舌が擦れ合うたびに、カミュの身体から力が抜けていった。胸と胸がピッタリと合わさり、尻だけを高く掲げるような体勢になる。
その背に両手を這わせ、背骨や肩甲骨の際を指先でくすぐると、彼は甘えた子猫のような声をあげて腰をくねらせた。
「ふぅ、んッ…、ぅうんっ…!」
すると尻だけがフリフリと左右に揺れ、腰のリボンが動きに合わせて可憐に踊る。
イレブンは内心ほくそ笑むと、そのまま臀部へ指先を走らせた。
「はぁっ、ん…! や…、ダメ、っ、だってぇ……ッ!」
両の尻肉をむにゅっと鷲掴むと、唇が唾液の糸を引きながら離れていった。
強弱をつけながら揉みしだき、大きく割り開いたり、それぞれ上下左右に形を歪めたりして、その感触を楽しんだ。
小ぶりながらも柔らかく、けれど弾力のある肉は、イレブンの大きな手の平にしっとりと吸いついてくるようだった。
「やめ、ッ、ん、ぁ…! ッ…そん、なっ、ぁ、揉んだら、ゃ…ッ!」
カミュはどうにか逃れようと身をくねらせているが、むしろ淫らに誘い込もうとしているようにしか見えない。彼はイレブンの胸に縋りつき、掲げた尻をピクンピクンと跳ねさせている。
「カミュのお尻、また少し大きくなったんじゃないか? このままどんどん、女の子みたいな身体になっていくのかもしれないな」
「バカ…ぁ! んなわけ…ッ、ぁあっ、ん…ホント、もう、やめろってぇ…」
「キミのお尻は喜んでるみたいだけど?」
片方の尻たぶを、軽くペチンと叩いた。カミュは一瞬大きく背を反らせ、「ひゃうん!」と甲高い悲鳴をあげた。
ラブリーエキスがよほど効きすぎているのか、あるいは潜在的なものなのか、彼はたったこれだけで、ずいぶんと激しく感じてしまっているようだった。
すっかり勃ち上がっているらしい陰茎が、身体の中心部分でエプロンを軽く押し上げているのが分かる。
「ぁ、ぁ…っ、ん…もう、いじめんなってばぁ……」
「ごめん。だって可愛いからさ」
カミュはイレブンの喉元に額を擦り付けたあと、ズビっと鼻をすすりながら顔をあげた。キッと睨みつけているが、蕩けたように潤んだ瞳では説得力がなかった。角度や照明の加減でそう見えるのか、ゆらゆらと揺れる両眼にハートマークが浮かんで見えた。
「スケベな勇者さま、今度はオレがイジメてやるよ」
そう言って、カミュはにじにじと四つん這いのまま後退した。彼はイレブンのウエストのベルトを外しながら、「邪魔だから脱いじまえ」と言った。
ドキドキと胸を高鳴らせ、イレブンはおとなしく従った。上はインナーだけを残して、残りは全て脱ぎ捨ててしまう。
「へへ、もうこんなになってんの」
半身を起こし、両足を投げ出すイレブンの股間に顔を寄せ、カミュはギンギンに勃起した性器に触れると頬ずりをした。
「ッ、ぅ…カミュ……」
眼下には無防備にさらされた美しい背中がある。クロスした紐はリボン結びが解けかけ、カミュの背をいっそう頼りないものに見せていた。
血管の浮きでた卑猥な肉の竿に頬を寄せ、上目遣いで見られるだけで、もう何度目になるか分からないくらいに喉が鳴る。
「これ、どうして欲しい?」
人差し指の腹で鈴口をクリクリとなぞられるだけで、イレブンは背筋を震わせた。みっともなく喘いでしまいそうになるのを堪えながら、どうにか「キスして、舐めて」と言うのがやっとだった。
カミュは目を細めながら笑みを深くすると、脈打つ竿の中腹に一度だけ、ちゅむっと吸いつくようなキスをした。
「あっ、ぅ…カミュ……ッ」
いやらしい格好で、いやらしく身をくねらせて、甘ったるい息を漏らす可愛い唇が、いきり立つ肉棒に触れている。それだけでも達してしまいそうなほど、興奮が最高潮に達していた。イレブンは下腹に力を込めて、どうにか耐えている状態だった。
カミュは息を荒げるイレブンに満足した様子で、かすかに吐息だけで笑った。それから尖らせた舌の先で裏スジを辿るようにしながら、下へとおりていく。
やがて辿り着いた陰嚢の片方に、かぶりつくようなキスをした。
「ぅあっ、ぁ、…ッ、か、かミュ……っ!」
舌で内部の玉を転がすようにしながら舐められ、吸われ、竿はシコシコと扱かれる。先走りの液がカミュの白い指先を濡らし、卑猥な水音を立てていた。
マズい。これはマズい。思わずカミュの頭部を掴んでしまう。
「も、もうダメだっ…! でる……!」
とっさに声を上ずらせて叫ぶと、カミュは陰嚢に舌を這わせたまま「らぁめ」と言って、太い根元をぎゅうっと握った。
「うぅ…っ、ぐ……ッ」
「あせんなって。もっといっぱいよくしてやるから……な?」
カミュはぬるりと下唇を舐めて、ビクビクと震える竿に両手を添えた。ちゅ、ちゅ、と何度もカリ部分にキスをして、そのたびに鈴口から溢れでる先走りを舐め取った。
「んっ、ふ…いぇぶんの……ビクビクしてて、すっげぇ可愛い…こえ、ぜんぶオレのらから……」
敏感な場所を愛撫しながら、カミュがうっとりと表情を蕩けさせて言った。そして、いよいよ先端をぱっくりと口の中に収めてしまう。
「ァッ、うぁ…!」
カミュは舌を巧みに絡めながら、イレブンのブツに熱烈な奉仕を開始した。両手で扱き、頭を上下に振り、頬をすぼめて吸いついてくる。
ブポ、ブポ、という、聞くに耐えない水音が大きく響き渡っていた。
「ぁむ…ッ、ん、んっ、んぶぅっ、ぉ……ッ」
必死で喉奥まで飲み込もうとするが、彼の狭い口腔にそれはあまりにも大きすぎた。どうにか中腹まで飲み込むのがやっとのようだった。体液とも唾液ともつかないもので、カミュのアゴや首筋が濡れそぼっていく。
「ぷ、はぁ…っ、ぁ、こえ、好き…、いぇぶ…のッ、ちんちん、おいひ…ッ」
(う、う、うわぁ~~~っ!!)
心の中で思い切り叫びながら、イレブンは真っ赤になった顔を両手で覆った。
ラブリーエキス配合のSPロリポップ。なんて恐ろしいアイテムだろう。普段のカミュなら、ここまであけすけなことはなかなか言ってくれない。
「いぇぶん、いぇ…んっ、ぶっ、ぉ…ッ、こえ、ひゅき…っ、んッ、はむ、ん…ッ」
カミュは恍惚とした表情で必死にしゃぶりながらも、懸命に思いを伝えてくる。
四つん這いで品のない音を立て、頭を振りたくり、まるでキャンディーを舐めしゃぶるかのように。
その獣じみた痴態があまりにも愛おしく、イレブンはいよいよ限界を感じた。
「カミュッ、イク! ホントに、もう無理だ……!」
だからすっかり忘れ去っていた。
可愛らしいロリポップの小瓶を見て、彼がなんと言っていたかを。
──こういうの、最後までじっと舐めてらんねえんだよな
カミュは肉の棒付きキャンディーに夢中になっている。
いけないエキスが作用して、普段なら決して言わないようなことを口走ってしまうくらい、獣のように理性をなくしている。
──気づくとガリガリ噛み砕いちまってるんだ
だからそうなることは、必然だったのかもしれない。あるいは天罰。
ガリッ、と、デリケートで敏感な部分に、何か硬いものが食い込んだ。
そのときのことを、イレブンはほとんど覚えていない。ショックだとか痛みだとか、そんな生半可なもんじゃなかった。
ただ目の前が真っ白になり、それから脳内が赤く爆ぜたような気がする。
イシの村の静かな夜に、大絶叫が響き渡った。
*
翌朝。
イレブンはベッドで丸くなってふせっていた。
「大丈夫か……?」
ベッド脇に置かれた椅子の、背もたれを抱くようにしてまたがりながら、カミュが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ハイ ダイジョウブ デス」
イレブンはなぜか敬語──しかもカタコト──で答えた。
「……悪かったとは思うが、今回ばかりはお前も悪かったと思うぜ」
カミュは呆れと困惑を同時に浮かべつつも、言葉を選んでいる様子だった。
イレブンはつい先刻、彼にすべてを打ち明けた。
実はあのロリポップは媚薬成分入りな上に、今月の生活費の大半をスロットに費やしてまでゲットしたものであることを(カス)
イレブンは素直に「カエス コトバモ アリマセン」と言うより他になかった。
「まあでも……うん、大事に至らなくてよかったぜ」
「ホントソレ」
あの後、イレブンは想像を絶する激痛と衝撃に気絶してしまった。
カミュはイレブンの悲鳴──いや、絶叫で正気を取り戻したという。
なぜ自分が裸エプロンでイレブンのブツを咥えこんでいたのか、混乱しつつも必死で大量のやくそうを使い、けんじゃの石まで駆使して股間を癒やしてくれたらしい。
おかげで現在は、歯型も消えて腫れも引いている。今後も問題なく使うことができそうだ(重要事項)
しかしあの体験は壮絶なトラウマとして、イレブンの中に刻まれてしまった。
あと一瞬でもカミュが正気に戻るのが遅ければ、今ごろ食い千切られていたかもしれない。想像するだけで縮み上がるような思いだった。
「とりあえず、起きられそうならそろそろ朝飯にしようぜ」
カミュはやれやれと息をつきながら、椅子から立ち上がった。
台所へと向かうその背を、イレブンは涙目で見つめた。
悔しいやら情けないやらで、すっかり落ち込んでいる。さすがのカミュとて、本当は心底あきれているに違いない。
けれどそれもこれも、すべては自業自得だった。
ホワイトデーのお返しだなどと言って、彼に内緒であの小瓶を渡してしまった。
正々堂々が座右の銘なんて言っておきながら、どうしてもこっそり反応をうかがってみたくて。本当に愚かだったと思う。
分かっちゃいるのだ。けれどあんな手痛いしっぺ返しを食らってもなお、裸エプロンを諦めきれない自分がいる。あの姿で身も世もなくトロトロになったカミュと、もっともっと楽しみたかった。
(あのロリポップ……カミュはもう食べてくれないよな……)
ズビ、と鼻をすすっていると、カミュが「そういや」と歩みを止めて振り向いた。
「あのロリポップだが」
「?」
「せっかくお前がくれたもんだし、捨てるのはもったいねえだろ。だからその……たまになら、食ってやってもいいぜ」
「え……!?」
「た、たまにだぞ、たまに。はっきり覚えてるわけじゃねえけど……まあ、別にそんな、悪くもなかったと思うし」
カミュは頬を耳まで赤くしながら「その代わり、お前にも食わせるからな!」と言い残し、そそくさと去っていった。
(カミュ……キミってやつは、どうしてそんなにチョロいんだ……!)
愛想を尽かすでもなく、怒るでもなく、カミュはどこまでいってもカミュだった。
じぃんと込み上げる熱い感動に、イレブンはやっぱり少し泣きそうになった。
そうだ、彼は自分にとことん甘いのだから、エッチなキャンディーだって裸エプロンだって、正面からお願いすれば大概のことは聞いてくれるに違いない。そんなところがちょっと──いや、かなり心配ではあるのだが。
やっぱり何事も、正々堂々が一番だ。
そして勇者とは、最後まで決して諦めない者のこと。
次こそは裸エプロンのリベンジを果たそうと誓いつつ、あの状態になったカミュに主導権を渡すことだけは、絶対に避けようと心に刻むイレブンだった。
ビースト・オン・ザ・ロリポップ・了
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しじまヶ浜から崖沿いを回り込んでいくと、断崖の麓に洞窟が見えてきた。
三本の立派なメリケンマツが、入口を隠すようにして並び立っている。それはまるで来る者を拒んでいるかのようだった。
「……ここよ」
チュラの言葉にうなずき、イレブンは松の木の隙間をぬって中へと入っていった。
内部はひんやりとした空気が立ち込め、遠くで水の滴る音が響いていた。
苔むした匂いと潮の香りが混ざり合い、なんともいえない生臭さが鼻をつく。
湿った岩肌に沿って、地面にはいくつかのランタンが置かれていた。今にも消えそうなほど弱々しい暖色が、かろうじて足元を照らしていた。
しばらく進んでいくと、ぽっかりと開けた空間に出た。天井に穴が空いているらしく、月の明かりが緩やかに差し込んでいる。
その光に照らされるようにして、ひとりの老人が横たわっている姿があった。
白髪まみれの伸びた髪。枯れ枝のように細くなった手足。干からびたようなその姿には、若く精悍だったかつての面影はどこにもない。
「ウークマーよ」
「……ああ」
とうに察しはついていた。マヤとカミュを見て、必死でチュラの名を呼びながら泣いていた物乞い。海を見つめ、己の過ちを悔いていたあの老人こそが、ウークマーであることに。
「ウークマー」
チュラは愛おしそうにその名を呼びながら、老人のそばに膝をついた。
彼はピクリと身じろぎ、欠けた歯を覗かせながら、「チュラ」としゃがれた声で彼女を呼んだ。
「すまない…チュラ、すまない……」
ウークマーは必死で目をこじ開けて、涙を流しながらシワシワの手を彼女に伸ばす。チュラはその手をしっかりと握りしめ、「いいの」と言って首を左右に振った。
「アナタが私のためにしてくれたこと、私はとても嬉しかった。最後に願いを叶えてくれたことも……だけど、こんなに長いあいだ独りぼっちにしちゃうなんて、思いもしなかった」
チュラは老いさらばえたウークマーの手に、頬ずりをした。大粒の涙がこぼれ、彼の手を伝い落ちていく。
「ごめんね、ウークマー」
チュラは泣き笑いの顔をあげると、イレブンを見て「ありがとう」と言った。
「最後は一緒に大樹に還りたかったの。こんなふうに、手を握っていてあげたかった。アナタと、このカミュって子のおかげで、願いが叶った」
イレブンはじわりと込み上げてくるものを堪えながら、うん、とうなずいた。
「さあ行こう、ウークマー。ふたりで大樹に還ろうね」
ウークマーはしわくちゃの顔に安堵を広げ、かすかな笑みを浮かべた。
「そうか……これでボクも、ようやく、キミと……」
ウークマーの胸が、ふっと静かに上下を止める。
彼が息を引き取った次の瞬間──チュラとウークマーの身体が、白くまばゆい光に包まれた。
「ッ……!」
眩しさに目を細めながら、イレブンは息を呑んだ。
するとその光の中から、ふたつの魂がゆっくりと姿を現した。それは若かりし日のウークマーと、チュラの姿だった。
『会いたかったよ……チュラ……!』
『ウークマー……!』
神々しい光の柱のなかで、ふたりはしっかりと抱き合った。
そしてチュラを腕におさめたウークマーが、イレブンを見て微笑んだ。
『ありがとう。キミと、キミの愛しい人に。心から礼を言わせて欲しい』
イレブンは二人に優しく笑みを返すと、こくんと大きくうなずいた。
やがて光の柱はひときわ強く輝いて、ふたつの魂が空へと昇っていく。
『ありがとう、イレブン』
微かに、けれどはっきりと、チュラの声が耳に届いた。
光は徐々に天井の穴から夜空へ溶けていき、そして完全に消え去った。
──ドサリ。
再び静寂を取り戻した洞窟内に、鈍い音が響き渡った。
見ればウークマーの遺体の上に、カミュの身体が被さるように倒れ込んでいた。
「カミュ……!」
イレブンはすぐさま駆け寄り、彼の身体を抱き起こす。頬に触れ、その熱を確かめながら、幾度か軽く叩くようにすると、「んん」とむずがるような声が上がった。
「カミュ…ッ、よかった…本当によかった……!」
声を震わせながら、イレブンはその身体を強く抱きしめた。安堵が溢れるのと同時に、自然と涙が浮かんでくる。
「ん、ぁ…? なんだ……? オレ、どうしたんだっけ?」
イレブンの腕の中で、カミュが目を覚ました。彼は少しぼうっとした様子だったが、イレブンが泣いていることに気づくと、背中をポンポンと叩いてきた。
「おいおい、どうかしたのか? なに泣いてんだよ勇者さま」
「キミがずっと目を覚まさないからだろ?」
本当はずっと怖かった。彼がしじまヶ浜で倒れたときから。
イレブンはまるで迷子のように、不安を抱えたままでいた。カミュがどこか手の届かない場所に連れ去られてしまったようで、それがたまらなく恐ろしかった。
だから心底、ホッとしたのだ。こうして彼のぬくもりを感じられることに、信じられないほどの安堵と喜びを覚えている。
「そりゃ悪かったな──ってか、このじいさんは……?」
彼はすぐ傍らにある老人の遺体や、自分がまるで見知らぬ洞窟内で目を覚ましたということに、ようやく気がついたようだった。
「おいおいマジかよ。オレが寝てる間に、なにがどうなっちまったっていうんだ?」
カミュがキョロキョロと辺りを見回し、それからイレブンを見上げて首を傾げる。この様子だと、なにも覚えていないのだろう。
「あとで話すよ。だけど、まずは帰ろう。マヤちゃんが待ってる」
安心させるように言い聞かせ、イレブンはいまだ困惑の表情を浮かべるカミュを、改めて強く抱きしめた。
*
ウークマーの遺体が手厚く埋葬されたのは、それから3日後のことだった。
「オレの意識がない間に、まさかそんなことになっていたとはな……」
よく晴れた昼のしじまヶ浜を、イレブンとカミュは並んで歩いていた。
カミュの記憶は、夜にマヤと三人でここを訪れたところで止まっていた。何も覚えていない彼に、イレブンは起こったことのすべてを話して聞かせたのだった。
「心配かけて悪かったな。お前にも、マヤにも」
そう言って、カミュはふと足を止めた。波打ち際で海の向こうを見つめるその横顔を見て、イレブンはチュラの言葉を思いだす。
──この子、ちょっと危ういね
カミュはいつの頃からか、食事をするイレブンの口元を熱心に見つめてくるようになった。あの視線の意味が、今なら分かる。
──心の形が、よく似ていたから
オレを食ってくれ──というあの夜の懇願は、チュラの言葉であると共に、カミュの願望でもあったのだろう。
「カミュ」
名を呼ぶと、カミュは「ん?」と小さく返事をしてイレブンを見た。
「どうかしたか?」
「……ボクはキミのこと、食べちゃいたいくらい好きだけど、」
「ちょっ、お前、突然なにを言いだすんだよ」
カミュがギクリとした様子で肩を揺らした。ずいぶんと狼狽えている。
それから頬を赤らめ、どこか焦ったような、バツの悪そうな表情で目を泳がせた。
「まあ、その、なんだ……オレも、お前になら食われたって構わねえけど」
「カミュ」
「例えばだぞ? 例えばの話……食うもんが何もなくなって、ふたり揃って飢え死にしそうになったとしてだ……もし、もしオレが先に死んじまったとしたら……お前には、オレを食ってでも生き延びて欲しいっていうか……あー、なに言ってんだろうな、オレ」
「カミュ」
「わっ!」
お喋りな口を塞ぐように、イレブンはカミュを抱きしめた。
「だからなんなんだよ、さっきから」
「ボクの話を聞いてくれ」
わかったよ、と言わんばかりに、カミュが息を漏らした。
「ボクはキミのこと、食べちゃいたいくらい好きだけど……どんな理由があったとしても、食べないよ。絶対に」
「……そうかよ」
「キミを食べてもボクらは一つになんかなれないし、キミに触れられなくなるくらいなら、一緒に飢え死にしたほうがいい」
これは自戒でもあった。
あの晩、この場所で見た過去の光景──チュラをむさぼり食うウークマーは、とても幸せそうに笑っていた。
イレブンは、それを見てひどく『羨ましい』と思ってしまったのだ。
カミュの肉を裂き、血をすすり、骨をしゃぶり尽くして、この腹にすべて収めてしまえたら、どんなに幸せだろうかと。なにもかも、独り占めしてしまえたらと。
けれどその後800年にもおよぶ孤独と後悔は、どれほどのものだったか。想像すらしたくない。ウークマーの刹那的な幸福の代償は、あまりにも大きなものだった。
仮にカミュを食って生き延びたとして、自分の人生にその後なにが残るだろう。
食ったものは消化され、ただ出ていくばかりだ。一つになんかなれっこないし、カミュに触れられないことのほうが、ずっと嫌だと思う。
一緒に生きて、一緒に死ねないことのほうが、ずっとずっと恐ろしい。
だから絶対に、イレブンはカミュを食べない。カミュがそれを望んでも。
そんな単純ともいえる結論が、イレブンを人の道に押し留めていてくれる。
「きっぱり言われちまうのも、なんか癪だな。ちっとくらいは栄養があるかもしれないぜ?」
あくまで冗談めかして、けれどえらく残念そうに、カミュが笑いながら言った。
そんな彼の唇を、いよいよ本格的に塞いでしまう。ほんの何秒かの口づけのあと、イレブンはふっと笑った。
「心の栄養が尽きてしまうよ」
「ぶふっ、ははは! そうか、ならしょうがねえな!」
さすがに少しキザすぎたのか、カミュが思いきり吹き出して笑っている。
ちょっと照れくさく思いながら、イレブンもついつい肩を揺らして笑った。
「おーい! もういい加減、満足したなら帰ろうぜー! おれもう魚料理は食い飽きたよー!」
すると、遠くのほうからマヤの声がした。ふと見やれば、キナイのアトリエの辺りを散策していたマヤが、ブンブンと大きく手を振っている。
「確かに、オレもそろそろペルラさんのシチューが恋しいぜ」
「うん、同感だ」
イレブンはカミュと顔を見合わせて笑うと、マヤに向かって手を振った。
しじまのユーリー・了
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三本の立派なメリケンマツが、入口を隠すようにして並び立っている。それはまるで来る者を拒んでいるかのようだった。
「……ここよ」
チュラの言葉にうなずき、イレブンは松の木の隙間をぬって中へと入っていった。
内部はひんやりとした空気が立ち込め、遠くで水の滴る音が響いていた。
苔むした匂いと潮の香りが混ざり合い、なんともいえない生臭さが鼻をつく。
湿った岩肌に沿って、地面にはいくつかのランタンが置かれていた。今にも消えそうなほど弱々しい暖色が、かろうじて足元を照らしていた。
しばらく進んでいくと、ぽっかりと開けた空間に出た。天井に穴が空いているらしく、月の明かりが緩やかに差し込んでいる。
その光に照らされるようにして、ひとりの老人が横たわっている姿があった。
白髪まみれの伸びた髪。枯れ枝のように細くなった手足。干からびたようなその姿には、若く精悍だったかつての面影はどこにもない。
「ウークマーよ」
「……ああ」
とうに察しはついていた。マヤとカミュを見て、必死でチュラの名を呼びながら泣いていた物乞い。海を見つめ、己の過ちを悔いていたあの老人こそが、ウークマーであることに。
「ウークマー」
チュラは愛おしそうにその名を呼びながら、老人のそばに膝をついた。
彼はピクリと身じろぎ、欠けた歯を覗かせながら、「チュラ」としゃがれた声で彼女を呼んだ。
「すまない…チュラ、すまない……」
ウークマーは必死で目をこじ開けて、涙を流しながらシワシワの手を彼女に伸ばす。チュラはその手をしっかりと握りしめ、「いいの」と言って首を左右に振った。
「アナタが私のためにしてくれたこと、私はとても嬉しかった。最後に願いを叶えてくれたことも……だけど、こんなに長いあいだ独りぼっちにしちゃうなんて、思いもしなかった」
チュラは老いさらばえたウークマーの手に、頬ずりをした。大粒の涙がこぼれ、彼の手を伝い落ちていく。
「ごめんね、ウークマー」
チュラは泣き笑いの顔をあげると、イレブンを見て「ありがとう」と言った。
「最後は一緒に大樹に還りたかったの。こんなふうに、手を握っていてあげたかった。アナタと、このカミュって子のおかげで、願いが叶った」
イレブンはじわりと込み上げてくるものを堪えながら、うん、とうなずいた。
「さあ行こう、ウークマー。ふたりで大樹に還ろうね」
ウークマーはしわくちゃの顔に安堵を広げ、かすかな笑みを浮かべた。
「そうか……これでボクも、ようやく、キミと……」
ウークマーの胸が、ふっと静かに上下を止める。
彼が息を引き取った次の瞬間──チュラとウークマーの身体が、白くまばゆい光に包まれた。
「ッ……!」
眩しさに目を細めながら、イレブンは息を呑んだ。
するとその光の中から、ふたつの魂がゆっくりと姿を現した。それは若かりし日のウークマーと、チュラの姿だった。
『会いたかったよ……チュラ……!』
『ウークマー……!』
神々しい光の柱のなかで、ふたりはしっかりと抱き合った。
そしてチュラを腕におさめたウークマーが、イレブンを見て微笑んだ。
『ありがとう。キミと、キミの愛しい人に。心から礼を言わせて欲しい』
イレブンは二人に優しく笑みを返すと、こくんと大きくうなずいた。
やがて光の柱はひときわ強く輝いて、ふたつの魂が空へと昇っていく。
『ありがとう、イレブン』
微かに、けれどはっきりと、チュラの声が耳に届いた。
光は徐々に天井の穴から夜空へ溶けていき、そして完全に消え去った。
──ドサリ。
再び静寂を取り戻した洞窟内に、鈍い音が響き渡った。
見ればウークマーの遺体の上に、カミュの身体が被さるように倒れ込んでいた。
「カミュ……!」
イレブンはすぐさま駆け寄り、彼の身体を抱き起こす。頬に触れ、その熱を確かめながら、幾度か軽く叩くようにすると、「んん」とむずがるような声が上がった。
「カミュ…ッ、よかった…本当によかった……!」
声を震わせながら、イレブンはその身体を強く抱きしめた。安堵が溢れるのと同時に、自然と涙が浮かんでくる。
「ん、ぁ…? なんだ……? オレ、どうしたんだっけ?」
イレブンの腕の中で、カミュが目を覚ました。彼は少しぼうっとした様子だったが、イレブンが泣いていることに気づくと、背中をポンポンと叩いてきた。
「おいおい、どうかしたのか? なに泣いてんだよ勇者さま」
「キミがずっと目を覚まさないからだろ?」
本当はずっと怖かった。彼がしじまヶ浜で倒れたときから。
イレブンはまるで迷子のように、不安を抱えたままでいた。カミュがどこか手の届かない場所に連れ去られてしまったようで、それがたまらなく恐ろしかった。
だから心底、ホッとしたのだ。こうして彼のぬくもりを感じられることに、信じられないほどの安堵と喜びを覚えている。
「そりゃ悪かったな──ってか、このじいさんは……?」
彼はすぐ傍らにある老人の遺体や、自分がまるで見知らぬ洞窟内で目を覚ましたということに、ようやく気がついたようだった。
「おいおいマジかよ。オレが寝てる間に、なにがどうなっちまったっていうんだ?」
カミュがキョロキョロと辺りを見回し、それからイレブンを見上げて首を傾げる。この様子だと、なにも覚えていないのだろう。
「あとで話すよ。だけど、まずは帰ろう。マヤちゃんが待ってる」
安心させるように言い聞かせ、イレブンはいまだ困惑の表情を浮かべるカミュを、改めて強く抱きしめた。
*
ウークマーの遺体が手厚く埋葬されたのは、それから3日後のことだった。
「オレの意識がない間に、まさかそんなことになっていたとはな……」
よく晴れた昼のしじまヶ浜を、イレブンとカミュは並んで歩いていた。
カミュの記憶は、夜にマヤと三人でここを訪れたところで止まっていた。何も覚えていない彼に、イレブンは起こったことのすべてを話して聞かせたのだった。
「心配かけて悪かったな。お前にも、マヤにも」
そう言って、カミュはふと足を止めた。波打ち際で海の向こうを見つめるその横顔を見て、イレブンはチュラの言葉を思いだす。
──この子、ちょっと危ういね
カミュはいつの頃からか、食事をするイレブンの口元を熱心に見つめてくるようになった。あの視線の意味が、今なら分かる。
──心の形が、よく似ていたから
オレを食ってくれ──というあの夜の懇願は、チュラの言葉であると共に、カミュの願望でもあったのだろう。
「カミュ」
名を呼ぶと、カミュは「ん?」と小さく返事をしてイレブンを見た。
「どうかしたか?」
「……ボクはキミのこと、食べちゃいたいくらい好きだけど、」
「ちょっ、お前、突然なにを言いだすんだよ」
カミュがギクリとした様子で肩を揺らした。ずいぶんと狼狽えている。
それから頬を赤らめ、どこか焦ったような、バツの悪そうな表情で目を泳がせた。
「まあ、その、なんだ……オレも、お前になら食われたって構わねえけど」
「カミュ」
「例えばだぞ? 例えばの話……食うもんが何もなくなって、ふたり揃って飢え死にしそうになったとしてだ……もし、もしオレが先に死んじまったとしたら……お前には、オレを食ってでも生き延びて欲しいっていうか……あー、なに言ってんだろうな、オレ」
「カミュ」
「わっ!」
お喋りな口を塞ぐように、イレブンはカミュを抱きしめた。
「だからなんなんだよ、さっきから」
「ボクの話を聞いてくれ」
わかったよ、と言わんばかりに、カミュが息を漏らした。
「ボクはキミのこと、食べちゃいたいくらい好きだけど……どんな理由があったとしても、食べないよ。絶対に」
「……そうかよ」
「キミを食べてもボクらは一つになんかなれないし、キミに触れられなくなるくらいなら、一緒に飢え死にしたほうがいい」
これは自戒でもあった。
あの晩、この場所で見た過去の光景──チュラをむさぼり食うウークマーは、とても幸せそうに笑っていた。
イレブンは、それを見てひどく『羨ましい』と思ってしまったのだ。
カミュの肉を裂き、血をすすり、骨をしゃぶり尽くして、この腹にすべて収めてしまえたら、どんなに幸せだろうかと。なにもかも、独り占めしてしまえたらと。
けれどその後800年にもおよぶ孤独と後悔は、どれほどのものだったか。想像すらしたくない。ウークマーの刹那的な幸福の代償は、あまりにも大きなものだった。
仮にカミュを食って生き延びたとして、自分の人生にその後なにが残るだろう。
食ったものは消化され、ただ出ていくばかりだ。一つになんかなれっこないし、カミュに触れられないことのほうが、ずっと嫌だと思う。
一緒に生きて、一緒に死ねないことのほうが、ずっとずっと恐ろしい。
だから絶対に、イレブンはカミュを食べない。カミュがそれを望んでも。
そんな単純ともいえる結論が、イレブンを人の道に押し留めていてくれる。
「きっぱり言われちまうのも、なんか癪だな。ちっとくらいは栄養があるかもしれないぜ?」
あくまで冗談めかして、けれどえらく残念そうに、カミュが笑いながら言った。
そんな彼の唇を、いよいよ本格的に塞いでしまう。ほんの何秒かの口づけのあと、イレブンはふっと笑った。
「心の栄養が尽きてしまうよ」
「ぶふっ、ははは! そうか、ならしょうがねえな!」
さすがに少しキザすぎたのか、カミュが思いきり吹き出して笑っている。
ちょっと照れくさく思いながら、イレブンもついつい肩を揺らして笑った。
「おーい! もういい加減、満足したなら帰ろうぜー! おれもう魚料理は食い飽きたよー!」
すると、遠くのほうからマヤの声がした。ふと見やれば、キナイのアトリエの辺りを散策していたマヤが、ブンブンと大きく手を振っている。
「確かに、オレもそろそろペルラさんのシチューが恋しいぜ」
「うん、同感だ」
イレブンはカミュと顔を見合わせて笑うと、マヤに向かって手を振った。
しじまのユーリー・了
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村は息をひそめたように静まり返っていた。
空は鈍色の雲に覆われ、昼間とは思えないほど周囲を薄暗くしている。生ぬるく吹く風鳴りが、まるで不吉なものの訪れを知らせているかのようだった。
取り乱すマヤをどうにか落ち着かせ、宿を飛びだしたイレブンが向かったのは、しじまヶ浜だった。カミュはきっとそこにいる──もぬけの殻になっている部屋を見た瞬間、直感的にそれが分かった。
そしてその直感が指し示した通り、カミュはしじまヶ浜にいた。
彼は波打ち際にたたずんで、ぼんやりと海の彼方を見つめていた。
「カミュ!!」
イレブンの呼びかけに、カミュは振り返ることなく口を開いた。
『ウークマーはここにいた』
その声が、ユーリーと名乗った少女のものとダブって聞こえた。
イレブンは必死でその背に駆け寄った。カミュが、今にも波の彼方に消えていきそうで怖かった。愛するものを喪って、泡と消えたあの美しい人魚のように。
「カミュ、行くな!!」
イレブンの左手が彼の肩を掴んだ、そのときだった。
「──ッ!?」
勇者のアザが光ると共に、目の前が白く染まった。
*
しじまヶ浜の小さな小屋に、一人の名もなき青髪の少女が暮らしていた。
孤児である彼女は、時おり村で物乞いをしながら、貧しい暮らしを送っていた。
ナギムナー村の人々はその少女を「ムヌクーヤー」と呼んで憐れみ、そして親しんでいた。
そんなある日のことだった。
しじまヶ浜に一人の男が流れ着いた。セピア色の髪をした、凛々しい面立ちの青年だった。
少女は気を失っている男を、なんとか小屋まで運んで介抱した。その甲斐あって、彼はほどなくして目を覚ました。
けれど男はすべての記憶を失っていた。言葉すら満足に話すことができなかった。
世話好きの少女は彼の面倒を見ながら、村の言葉を教えていった。
男は無邪気な性格で、よく少女にささいなイタズラをした。
死んだフリをしてみたり、ワッと背後から驚かせたかと思えば、少女の髪に赤いハイビスカスを飾り、嬉しそうに笑ったりした。
少女は親しみを込めて、男を「ウークマー」と呼ぶようになった。島の言葉で、「イタズラ好き」という意味だった。
男は覚えたての言葉で、彼女を「チュラ」と呼んだ。美しい、という意味だった。
チュラとウークマーが恋に落ちるのに、時間はかからなかった。
それからの日々はとても幸福だった。一人ぼっちだった青髪の少女は、生まれて初めて『名前』と『最愛』を得た。こんな幸せが、ずっと続くと思っていた。
けれどあるとき、チュラは身体を壊してしまった。
高熱にうなされ、みるみるうちに痩せ細っていった。原因はまったく分からなかった。流行り病かなにかだったのかもしれない。
ウークマーは村へ薬と食料を分けてもらいに行った。それでもチュラが回復する見込みはなかった。むしろ日に日に弱っていくばかりだった。
そんなある日のこと。ウークマーは村人から、とある話を聞いた。
「人魚の肉を食えば、どんな病もたちまち治ってしまう」
と──。
しかし人魚を捕まえることなど、とても無理な話だった。どんな姿をしているかさえ分からない。ウークマーはただ歯痒いばかりだった。
やがて分けてもらった薬や食料が尽きるころ、ウークマーが岩場で釣りをしていると、世にも珍しい魚が釣れた。
長い黒髪に、顔は年老いた女性のようで、身体は魚という奇妙な生物だった。
その魚は釣り上げてすぐに死んでしまったが、ウークマーはこれぞ人魚に違いないと思った。すぐさま家に持ち帰り、料理をしてチュラに食わせた。
するとチュラの皮膚に、みるみるうちに魚のウロコが現れはじめた。それは徐々に全身に広がっていき、手足が萎み、背が縮み、やがて身体だけが魚に変わった。
それはウークマーが釣り上げ、チュラが食らった、あの異形の姿そのものだった。
チュラはしきりに「殺して」と言って涙を流した。こんな醜い姿では、もう生きてはいけないと。
それでもウークマーは彼女を愛し続けた。どんな姿でも、チュラに生きていてほしかった。
しかしチュラはいっそう衰弱していくばかりだった。
彼女はか細い声で、「手を握ってほしい」と訴えた。だが彼女にはもう両手がない。ウークマーは震える指先で、その胸ビレを撫でてやることしかできなかった。
そして最期のときがきた。チュラはもうほとんど意識がない状態だった。ただひたすら、うわ言のように自身の願いを呟いていた。
「私を食べて、ウークマー」
私はアナタになら食べられてもいいと思っていた。
ずっとそう思っていた。
同じくらい、食べてしまいたいとも思っていた。
愛してる。ずっとずっと愛してるわ。
だから食べて、ウークマー。私を食べて、ウークマー。
そして彼女は息を引き取った。
「すまない……すまない……」
ウークマーはその亡骸を抱きしめて、三日三晩泣き崩れた。
やがて涙が枯れるころ、チュラの肉を食らった。
それが彼女の願いなら、この身が異形と化しても構わなかった。むしろ同じ運命を辿るべく、骨まで残さず喰らい尽くした。
けれど身体にウロコは現れなかった。待てど暮せど、まったく変化が訪れない。
ウークマーは失意と絶望のドン底で、泣き暮らすことしかできなかった。
そうしているうちに、10年、20年と月日が流れた。
ウークマーはいっさい歳を取らなくなっていた。100年、200年が過ぎた頃、ようやく身体がわずかに衰えてきた。
異形の肉を食らったことで、ウークマーは不老長寿の肉体を得ていた。
そこにあったのは、深い悲しみと後悔に沈みながら、まるで隠れるようにモクマオウの洞窟に身を寄せて、長い時を生き続ける哀れな男の姿だった。
*
勇者のアザはその輝きを失っていた。
知らぬ間に、辺りは夜の闇にとっぷりと沈んでいた。
降り注ぐ月明かりが、白い砂浜を薄ぼんやりと照らしだしている。
波の音だけが支配する世界で、イレブンは白いワンピースに身を包む、青髪の少女と向かい合っていた。
「キミは、チュラだな?」
問いかけに、彼女はこくんとうなずいた。
「観光客の女性たちが体調を崩したのも、カミュの様子がおかしくなったのも……ぜんぶキミが原因なのか?」
チュラは再びうなずいた。
「私はウークマーに食べられたかった。彼の血となり肉となり、ひとつになりたかった。彼のものになりたかった。そうすれば、いつまでも一緒にいられると思ってた」
でも違った──と、チュラは呟き、うつむいた。
「ひとつになんかなれなかった。私は死んで、ただのユーリーになった。彼に触れることも、話すこともできない。ここでこうして待つことしかできなくなった。800年ものあいだ、ずっと」
強い風が吹き抜けた。けれどチュラの青い髪が風に揺れることはなく、そこだけ時間が止まってしまったかのようだった。
波音だけが響くなか、海の匂いが濃くなった気がした。生と死のあいだをたゆたうような、重く湿った匂いだった。
「でも、それももう終わり。私はウークマーに触れたい。話がしたい。そのためには、生身の肉体が必要だったの。だからずっと探していたの」
そんな折、ナギムナー村に突如として観光客が増えた。恋する若者たちが多くしじまヶ浜を訪れるようになり、チュラは強く引き寄せられた。
けれどなかなか上手く憑依できる人間がいなかった。無理やり入り込もうとしたせいで、女性たちが体調を崩してしまったのだという。
「そんなとき、アナタたちが来た」
チュラは自分の胸に手を当てると、小首をかしげて情けない笑みを浮かべた。
「この子、ちょっと危ういね。だから私なんかにつけこまれるのよ。心の形が、よく似ていたから。そしてアナタも──」
イレブンを見つめるチュラの瞳が、悲しげに揺らめいた。
「ウークマーに、少し似ている」
イレブンは言葉を失った。
チュラの語る願いは、あまりにも切実で、あまりにも哀しいものだった。分かたれた彼らを思うと、胸の奥が軋むように痛んだ。
けれど同時に、イレブンはどうしようもない焦燥感に駆られてもいた。
いつだって隣にあるはずのぬくもりが、今はひどく遠い場所にある。こうしてる間にも消えてなくなってしまうのではないかと、それがたまらなく怖かった。
「お願いだ。彼はボクの大切な人なんだ。どうか連れて行かないでくれ」
するとチュラは目を細めて微笑みながら、「大丈夫」と言った。
「少し借りるだけ。ちゃんとアナタに返すから」
そう言って、チュラは岩場の方へと歩いていく。
イレブンはただ黙ってその背を追いかけることしかできなかった。
←戻る ・ 次へ→
空は鈍色の雲に覆われ、昼間とは思えないほど周囲を薄暗くしている。生ぬるく吹く風鳴りが、まるで不吉なものの訪れを知らせているかのようだった。
取り乱すマヤをどうにか落ち着かせ、宿を飛びだしたイレブンが向かったのは、しじまヶ浜だった。カミュはきっとそこにいる──もぬけの殻になっている部屋を見た瞬間、直感的にそれが分かった。
そしてその直感が指し示した通り、カミュはしじまヶ浜にいた。
彼は波打ち際にたたずんで、ぼんやりと海の彼方を見つめていた。
「カミュ!!」
イレブンの呼びかけに、カミュは振り返ることなく口を開いた。
『ウークマーはここにいた』
その声が、ユーリーと名乗った少女のものとダブって聞こえた。
イレブンは必死でその背に駆け寄った。カミュが、今にも波の彼方に消えていきそうで怖かった。愛するものを喪って、泡と消えたあの美しい人魚のように。
「カミュ、行くな!!」
イレブンの左手が彼の肩を掴んだ、そのときだった。
「──ッ!?」
勇者のアザが光ると共に、目の前が白く染まった。
*
しじまヶ浜の小さな小屋に、一人の名もなき青髪の少女が暮らしていた。
孤児である彼女は、時おり村で物乞いをしながら、貧しい暮らしを送っていた。
ナギムナー村の人々はその少女を「ムヌクーヤー」と呼んで憐れみ、そして親しんでいた。
そんなある日のことだった。
しじまヶ浜に一人の男が流れ着いた。セピア色の髪をした、凛々しい面立ちの青年だった。
少女は気を失っている男を、なんとか小屋まで運んで介抱した。その甲斐あって、彼はほどなくして目を覚ました。
けれど男はすべての記憶を失っていた。言葉すら満足に話すことができなかった。
世話好きの少女は彼の面倒を見ながら、村の言葉を教えていった。
男は無邪気な性格で、よく少女にささいなイタズラをした。
死んだフリをしてみたり、ワッと背後から驚かせたかと思えば、少女の髪に赤いハイビスカスを飾り、嬉しそうに笑ったりした。
少女は親しみを込めて、男を「ウークマー」と呼ぶようになった。島の言葉で、「イタズラ好き」という意味だった。
男は覚えたての言葉で、彼女を「チュラ」と呼んだ。美しい、という意味だった。
チュラとウークマーが恋に落ちるのに、時間はかからなかった。
それからの日々はとても幸福だった。一人ぼっちだった青髪の少女は、生まれて初めて『名前』と『最愛』を得た。こんな幸せが、ずっと続くと思っていた。
けれどあるとき、チュラは身体を壊してしまった。
高熱にうなされ、みるみるうちに痩せ細っていった。原因はまったく分からなかった。流行り病かなにかだったのかもしれない。
ウークマーは村へ薬と食料を分けてもらいに行った。それでもチュラが回復する見込みはなかった。むしろ日に日に弱っていくばかりだった。
そんなある日のこと。ウークマーは村人から、とある話を聞いた。
「人魚の肉を食えば、どんな病もたちまち治ってしまう」
と──。
しかし人魚を捕まえることなど、とても無理な話だった。どんな姿をしているかさえ分からない。ウークマーはただ歯痒いばかりだった。
やがて分けてもらった薬や食料が尽きるころ、ウークマーが岩場で釣りをしていると、世にも珍しい魚が釣れた。
長い黒髪に、顔は年老いた女性のようで、身体は魚という奇妙な生物だった。
その魚は釣り上げてすぐに死んでしまったが、ウークマーはこれぞ人魚に違いないと思った。すぐさま家に持ち帰り、料理をしてチュラに食わせた。
するとチュラの皮膚に、みるみるうちに魚のウロコが現れはじめた。それは徐々に全身に広がっていき、手足が萎み、背が縮み、やがて身体だけが魚に変わった。
それはウークマーが釣り上げ、チュラが食らった、あの異形の姿そのものだった。
チュラはしきりに「殺して」と言って涙を流した。こんな醜い姿では、もう生きてはいけないと。
それでもウークマーは彼女を愛し続けた。どんな姿でも、チュラに生きていてほしかった。
しかしチュラはいっそう衰弱していくばかりだった。
彼女はか細い声で、「手を握ってほしい」と訴えた。だが彼女にはもう両手がない。ウークマーは震える指先で、その胸ビレを撫でてやることしかできなかった。
そして最期のときがきた。チュラはもうほとんど意識がない状態だった。ただひたすら、うわ言のように自身の願いを呟いていた。
「私を食べて、ウークマー」
私はアナタになら食べられてもいいと思っていた。
ずっとそう思っていた。
同じくらい、食べてしまいたいとも思っていた。
愛してる。ずっとずっと愛してるわ。
だから食べて、ウークマー。私を食べて、ウークマー。
そして彼女は息を引き取った。
「すまない……すまない……」
ウークマーはその亡骸を抱きしめて、三日三晩泣き崩れた。
やがて涙が枯れるころ、チュラの肉を食らった。
それが彼女の願いなら、この身が異形と化しても構わなかった。むしろ同じ運命を辿るべく、骨まで残さず喰らい尽くした。
けれど身体にウロコは現れなかった。待てど暮せど、まったく変化が訪れない。
ウークマーは失意と絶望のドン底で、泣き暮らすことしかできなかった。
そうしているうちに、10年、20年と月日が流れた。
ウークマーはいっさい歳を取らなくなっていた。100年、200年が過ぎた頃、ようやく身体がわずかに衰えてきた。
異形の肉を食らったことで、ウークマーは不老長寿の肉体を得ていた。
そこにあったのは、深い悲しみと後悔に沈みながら、まるで隠れるようにモクマオウの洞窟に身を寄せて、長い時を生き続ける哀れな男の姿だった。
*
勇者のアザはその輝きを失っていた。
知らぬ間に、辺りは夜の闇にとっぷりと沈んでいた。
降り注ぐ月明かりが、白い砂浜を薄ぼんやりと照らしだしている。
波の音だけが支配する世界で、イレブンは白いワンピースに身を包む、青髪の少女と向かい合っていた。
「キミは、チュラだな?」
問いかけに、彼女はこくんとうなずいた。
「観光客の女性たちが体調を崩したのも、カミュの様子がおかしくなったのも……ぜんぶキミが原因なのか?」
チュラは再びうなずいた。
「私はウークマーに食べられたかった。彼の血となり肉となり、ひとつになりたかった。彼のものになりたかった。そうすれば、いつまでも一緒にいられると思ってた」
でも違った──と、チュラは呟き、うつむいた。
「ひとつになんかなれなかった。私は死んで、ただのユーリーになった。彼に触れることも、話すこともできない。ここでこうして待つことしかできなくなった。800年ものあいだ、ずっと」
強い風が吹き抜けた。けれどチュラの青い髪が風に揺れることはなく、そこだけ時間が止まってしまったかのようだった。
波音だけが響くなか、海の匂いが濃くなった気がした。生と死のあいだをたゆたうような、重く湿った匂いだった。
「でも、それももう終わり。私はウークマーに触れたい。話がしたい。そのためには、生身の肉体が必要だったの。だからずっと探していたの」
そんな折、ナギムナー村に突如として観光客が増えた。恋する若者たちが多くしじまヶ浜を訪れるようになり、チュラは強く引き寄せられた。
けれどなかなか上手く憑依できる人間がいなかった。無理やり入り込もうとしたせいで、女性たちが体調を崩してしまったのだという。
「そんなとき、アナタたちが来た」
チュラは自分の胸に手を当てると、小首をかしげて情けない笑みを浮かべた。
「この子、ちょっと危ういね。だから私なんかにつけこまれるのよ。心の形が、よく似ていたから。そしてアナタも──」
イレブンを見つめるチュラの瞳が、悲しげに揺らめいた。
「ウークマーに、少し似ている」
イレブンは言葉を失った。
チュラの語る願いは、あまりにも切実で、あまりにも哀しいものだった。分かたれた彼らを思うと、胸の奥が軋むように痛んだ。
けれど同時に、イレブンはどうしようもない焦燥感に駆られてもいた。
いつだって隣にあるはずのぬくもりが、今はひどく遠い場所にある。こうしてる間にも消えてなくなってしまうのではないかと、それがたまらなく怖かった。
「お願いだ。彼はボクの大切な人なんだ。どうか連れて行かないでくれ」
するとチュラは目を細めて微笑みながら、「大丈夫」と言った。
「少し借りるだけ。ちゃんとアナタに返すから」
そう言って、チュラは岩場の方へと歩いていく。
イレブンはただ黙ってその背を追いかけることしかできなかった。
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翌日。
夜明けの空は薄紅の光を放っていた。
少し冷たい潮風が、一人しじまヶ浜を目指すイレブンの頬を鋭く撫でる。
「はぁ……」
ついついため息が漏れてしまった。
昨夜のことを思いだしては、なんとも言えない気持ちになる。
あの後すぐ、カミュはコトリと落ちるように眠ってしまった。何度か声をかけてみたが、返ってくるのは寝息ばかり。起こすのも気が引けて、結局イレブンはカミュを抱いたまま、まんじりともせず夜を明かした。
(カミュ、やっぱり様子が変だったよな。それに……)
──食べて、ウークマー
カミュが呟いた『ウークマー』という名が、どうにも気になって仕方ない。
イレブンはその名にまったく聞き覚えがなかった。ウークマーとは、一体誰のことなんだろう。そもそもあのカミュは、本当にカミュだったのか──?
どんなに考えたところで、今ここで答えが出るはずもない。
モヤモヤとした気持ちを抱えながらも、やがて目の前にしじまヶ浜が広がった。
朝の光に照らされて、波打ち際が白く輝いている。人気のない浜辺は、まるで世界から切り離されたように静まり返っていた。
改めてなにか分かることはないかと、辺りを見渡す。
ユーリーと名乗った少女のことも気がかりだった。観光客の女性が不調を訴えることと、何か関係しているのだろうか。そして、カミュの様子がおかしいことにも。
そのとき、ふと気がついた。
(あの人は、確か昨日の……)
墓場の傍で座り込み、例の物乞いの老人が海を眺めている姿があった。そういえばあの老人は、この奥にある洞窟に暮らしているのだったか。
昨日の様子を見るに、まともに会話ができる状態かは分からない。それでも何か得られる情報があるかもしれないと、イレブンは老人のもとへ歩み寄った。
すると老人は、海から目を逸らすことなく、
「あんた、人魚に会ったことはあるかね?」
と、しゃがれた声で問いかけてきた。
意外にもしっかりとした様子であることに少し驚きながらも、イレブンはロミアのことを思いだした。月の光に照らされて、夜の海へと儚く消えた人魚の姿を。
その記憶に思いを馳せながら、イレブンは「はい」と答えた。
「……どんな姿だったかね?」
「とても美しい、女性の姿をしていました」
老人は「そうか」と言って、シワとシミだらけの両手で顔を覆った。
「ワシは、やっぱり間違っていたんだなぁ……」
丸い背中をいっそう丸め、老人は全身を震わせながら泣き崩れた。
寄せては返す波音が、まるですすり泣く老人を慰めるように響き渡っていた。
イレブンはとっさに膝をつき、その背をさすった。そうする以外、どうするべきか分からなかった。
やがて老人はいくらか落ち着きを取り戻し、ノロノロと立ち上がった。
「ありがとう、若い人」
そう言うと、彼はおぼつかない足取りで奥の岩場へと消えていった。
*
結局なんの情報も得られないまま、イレブンは村に戻った。
村の人たちにも話を聞くため、とりあえずその足で酒場へ向かう。
昼前ということもあってか、酒場に客の姿はなかった。
円形カウンターの内部で、昨日の男性店員がせっせとグラスを磨いている。イレブンが近づくと、彼は「よう、いらっしゃい」と気さくな笑顔を見せた。
「今日は一人かい?」
「ええ、まあ」
イレブンはカウンターに手を置くと、単刀直入に聞いてみた。ユーリーという名の女性に、心当たりはないかと。
すると男性店員は目を丸くしたあと、困り顔で乾いた笑い声をあげた。
「おかしなことを聞くもんだなぁ」
イレブンはキョトンとしながら首をかしげた。
「ユーリーってのは、ここの方言で幽霊って意味さ。そんな名前を自分の子供につける親はいないよ」
あの少女がこの世のものでないことは、すでに察しがついていた。だから特に驚くことはない。むしろ彼女は最初から、自分の正体を明かしていたということになる。
腑に落ちるものを感じながら、イレブンはダメ元で少女の外見的な特徴を伝えてみた。けれど得られる情報は何もなかった。
どうしたものかと考えを巡らせていた、そのときだ。
「マジムンだ! 海からマジムンが上がったぞ!!」
という男性の叫び声が、遠くの方から響き渡った。同時に、カンカンと鐘を鳴らすような音も聞こえる。
「なんだって!?」
店員の男が、途端に血相を変える。
「お客さん、悪いが今日は店じまいだ! あんたもとっとと帰ったほうがいい!」
「マジムンって、確か……」
妖怪や悪霊の類であると、つい昨日教わったばかりだ。
店員の男が「ああ」と神妙な顔でうなずいた。
「この村では数十年に一度、気色の悪い人面魚が打ち上がるのさ」
それは頭部だけが人間で、首から下は丸々とした魚の姿をした異形であるという。年老いた女性の顔をしながら、赤子のように鳴くのだと男が言った。
「俺がほんのガキの頃にも上がったことがあってね。じいちゃんに見せてもらったが……思いだしたくもない。そりゃおぞましい姿をしていたよ」
その異形は打ち上げられた瞬間、一度だけ大きな悲鳴をあげ、すぐに息絶えてしまうという。赤子のような叫び声は災いを呼ぶとされ、この村では三日三晩、家から出てはいけないという風習があるらしい。
「あんたも今すぐ宿に戻って、決して外に出ちゃいけないよ」
男はイレブンに説明するだけして、店じまいもそこそこに飛びだしていった。
*
酒場を出ると、村中が大騒ぎだった。
カンカンという甲高い警鐘と、慌ただしく駆けていく村人たちの足音が響き、戸を閉める音がそこかしこから聞こえてくる。
晴れていたはずの空には鉛色の雲がかかり、辺りに暗い影を落としていた。
イレブンが宿に戻ると、扉は締め切られていた。
そしてその扉を背にするようにして、マヤが膝を抱えて座り込んでいた。
「マヤちゃん? そんなところでどうしたんだ?」
イレブンの姿を見るや、立ち上がったマヤは泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「どこ行ってたんだよ! 探しに行くとこだったんだからな!」
「どうかしたのか? もしかして、カミュに何か……?」
顔色を変えるイレブンに彼女はうなずき、そのまますっかりうつむいた。
「様子が変なんだ……さっき、宿のおっさんが飯を運んできてくれたんだけど──」
詳しい話はこうだった。
マヤとカミュのもとに、店主が運んできた朝食は魚料理が主だった。
けれどカミュはそれを見た途端、トイレに駆け込んでひどく吐いたのだという。その後どうにか戻ってきたものの、彼は青い顔のまま「魚はイヤだ」と言った。
「おかしいよな? 兄貴が魚嫌いだなんて聞いたことないし、昨日だってあんなにウマそうに食ってたのにさ」
けれど嫌がるものを無理に食べさせるわけにもいかず、とりあえず魚料理だけは下げてもらい、その他のものだけ手をつけはじめたのだが──。
「なあイレブン。兄貴って左利きだったよな? 器用だからさ、どっちも使えるってのは知ってるけど……字を書いたり、飯を食うときはゼッタイ左手だったよな?」
「そのはずだけど」
「今朝の兄貴、右手を使って食ってたんだよ。だからおれ聞いたんだ。兄貴は左だろって。そしたら……」
カミュは「そうだっけ」と、ぼんやり答えるだけだったらしい。
「なんか変だよ。声かけてもずっと上の空だし、顔色だって生きてる感じしないしさ。兄貴が兄貴じゃないっていうか、まるで別の何かに乗っ取られたみたいな……」
「……」
それはイレブンも感じていたことだった。
昨夜のカミュは、カミュであってカミュではなかった。マヤの話を聞き、さらに確証を得る。そして、しじまヶ浜で出会った幽霊の存在──けれど点と点を繋ぎきるには、まだ足りないピースも多かった。
「マヤちゃん、ひとまず宿に戻ろう。今は外にいない方がいいらしい」
「なあ、なにがあったんだ? みんな血相変えてバタバタしてさ」
「海からなにかよくないものが上がったそうだよ」
「はあ? なんだよそれ?」
イレブンは不審そうなマヤの背に軽く触れると、宿屋の扉を開けて中に入った。
しかし部屋に戻ってみても、そこにカミュの姿はなかった。
開け放たれた窓だけが、キイキイと音を立てて風に揺られているだけだった。
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夜明けの空は薄紅の光を放っていた。
少し冷たい潮風が、一人しじまヶ浜を目指すイレブンの頬を鋭く撫でる。
「はぁ……」
ついついため息が漏れてしまった。
昨夜のことを思いだしては、なんとも言えない気持ちになる。
あの後すぐ、カミュはコトリと落ちるように眠ってしまった。何度か声をかけてみたが、返ってくるのは寝息ばかり。起こすのも気が引けて、結局イレブンはカミュを抱いたまま、まんじりともせず夜を明かした。
(カミュ、やっぱり様子が変だったよな。それに……)
──食べて、ウークマー
カミュが呟いた『ウークマー』という名が、どうにも気になって仕方ない。
イレブンはその名にまったく聞き覚えがなかった。ウークマーとは、一体誰のことなんだろう。そもそもあのカミュは、本当にカミュだったのか──?
どんなに考えたところで、今ここで答えが出るはずもない。
モヤモヤとした気持ちを抱えながらも、やがて目の前にしじまヶ浜が広がった。
朝の光に照らされて、波打ち際が白く輝いている。人気のない浜辺は、まるで世界から切り離されたように静まり返っていた。
改めてなにか分かることはないかと、辺りを見渡す。
ユーリーと名乗った少女のことも気がかりだった。観光客の女性が不調を訴えることと、何か関係しているのだろうか。そして、カミュの様子がおかしいことにも。
そのとき、ふと気がついた。
(あの人は、確か昨日の……)
墓場の傍で座り込み、例の物乞いの老人が海を眺めている姿があった。そういえばあの老人は、この奥にある洞窟に暮らしているのだったか。
昨日の様子を見るに、まともに会話ができる状態かは分からない。それでも何か得られる情報があるかもしれないと、イレブンは老人のもとへ歩み寄った。
すると老人は、海から目を逸らすことなく、
「あんた、人魚に会ったことはあるかね?」
と、しゃがれた声で問いかけてきた。
意外にもしっかりとした様子であることに少し驚きながらも、イレブンはロミアのことを思いだした。月の光に照らされて、夜の海へと儚く消えた人魚の姿を。
その記憶に思いを馳せながら、イレブンは「はい」と答えた。
「……どんな姿だったかね?」
「とても美しい、女性の姿をしていました」
老人は「そうか」と言って、シワとシミだらけの両手で顔を覆った。
「ワシは、やっぱり間違っていたんだなぁ……」
丸い背中をいっそう丸め、老人は全身を震わせながら泣き崩れた。
寄せては返す波音が、まるですすり泣く老人を慰めるように響き渡っていた。
イレブンはとっさに膝をつき、その背をさすった。そうする以外、どうするべきか分からなかった。
やがて老人はいくらか落ち着きを取り戻し、ノロノロと立ち上がった。
「ありがとう、若い人」
そう言うと、彼はおぼつかない足取りで奥の岩場へと消えていった。
*
結局なんの情報も得られないまま、イレブンは村に戻った。
村の人たちにも話を聞くため、とりあえずその足で酒場へ向かう。
昼前ということもあってか、酒場に客の姿はなかった。
円形カウンターの内部で、昨日の男性店員がせっせとグラスを磨いている。イレブンが近づくと、彼は「よう、いらっしゃい」と気さくな笑顔を見せた。
「今日は一人かい?」
「ええ、まあ」
イレブンはカウンターに手を置くと、単刀直入に聞いてみた。ユーリーという名の女性に、心当たりはないかと。
すると男性店員は目を丸くしたあと、困り顔で乾いた笑い声をあげた。
「おかしなことを聞くもんだなぁ」
イレブンはキョトンとしながら首をかしげた。
「ユーリーってのは、ここの方言で幽霊って意味さ。そんな名前を自分の子供につける親はいないよ」
あの少女がこの世のものでないことは、すでに察しがついていた。だから特に驚くことはない。むしろ彼女は最初から、自分の正体を明かしていたということになる。
腑に落ちるものを感じながら、イレブンはダメ元で少女の外見的な特徴を伝えてみた。けれど得られる情報は何もなかった。
どうしたものかと考えを巡らせていた、そのときだ。
「マジムンだ! 海からマジムンが上がったぞ!!」
という男性の叫び声が、遠くの方から響き渡った。同時に、カンカンと鐘を鳴らすような音も聞こえる。
「なんだって!?」
店員の男が、途端に血相を変える。
「お客さん、悪いが今日は店じまいだ! あんたもとっとと帰ったほうがいい!」
「マジムンって、確か……」
妖怪や悪霊の類であると、つい昨日教わったばかりだ。
店員の男が「ああ」と神妙な顔でうなずいた。
「この村では数十年に一度、気色の悪い人面魚が打ち上がるのさ」
それは頭部だけが人間で、首から下は丸々とした魚の姿をした異形であるという。年老いた女性の顔をしながら、赤子のように鳴くのだと男が言った。
「俺がほんのガキの頃にも上がったことがあってね。じいちゃんに見せてもらったが……思いだしたくもない。そりゃおぞましい姿をしていたよ」
その異形は打ち上げられた瞬間、一度だけ大きな悲鳴をあげ、すぐに息絶えてしまうという。赤子のような叫び声は災いを呼ぶとされ、この村では三日三晩、家から出てはいけないという風習があるらしい。
「あんたも今すぐ宿に戻って、決して外に出ちゃいけないよ」
男はイレブンに説明するだけして、店じまいもそこそこに飛びだしていった。
*
酒場を出ると、村中が大騒ぎだった。
カンカンという甲高い警鐘と、慌ただしく駆けていく村人たちの足音が響き、戸を閉める音がそこかしこから聞こえてくる。
晴れていたはずの空には鉛色の雲がかかり、辺りに暗い影を落としていた。
イレブンが宿に戻ると、扉は締め切られていた。
そしてその扉を背にするようにして、マヤが膝を抱えて座り込んでいた。
「マヤちゃん? そんなところでどうしたんだ?」
イレブンの姿を見るや、立ち上がったマヤは泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「どこ行ってたんだよ! 探しに行くとこだったんだからな!」
「どうかしたのか? もしかして、カミュに何か……?」
顔色を変えるイレブンに彼女はうなずき、そのまますっかりうつむいた。
「様子が変なんだ……さっき、宿のおっさんが飯を運んできてくれたんだけど──」
詳しい話はこうだった。
マヤとカミュのもとに、店主が運んできた朝食は魚料理が主だった。
けれどカミュはそれを見た途端、トイレに駆け込んでひどく吐いたのだという。その後どうにか戻ってきたものの、彼は青い顔のまま「魚はイヤだ」と言った。
「おかしいよな? 兄貴が魚嫌いだなんて聞いたことないし、昨日だってあんなにウマそうに食ってたのにさ」
けれど嫌がるものを無理に食べさせるわけにもいかず、とりあえず魚料理だけは下げてもらい、その他のものだけ手をつけはじめたのだが──。
「なあイレブン。兄貴って左利きだったよな? 器用だからさ、どっちも使えるってのは知ってるけど……字を書いたり、飯を食うときはゼッタイ左手だったよな?」
「そのはずだけど」
「今朝の兄貴、右手を使って食ってたんだよ。だからおれ聞いたんだ。兄貴は左だろって。そしたら……」
カミュは「そうだっけ」と、ぼんやり答えるだけだったらしい。
「なんか変だよ。声かけてもずっと上の空だし、顔色だって生きてる感じしないしさ。兄貴が兄貴じゃないっていうか、まるで別の何かに乗っ取られたみたいな……」
「……」
それはイレブンも感じていたことだった。
昨夜のカミュは、カミュであってカミュではなかった。マヤの話を聞き、さらに確証を得る。そして、しじまヶ浜で出会った幽霊の存在──けれど点と点を繋ぎきるには、まだ足りないピースも多かった。
「マヤちゃん、ひとまず宿に戻ろう。今は外にいない方がいいらしい」
「なあ、なにがあったんだ? みんな血相変えてバタバタしてさ」
「海からなにかよくないものが上がったそうだよ」
「はあ? なんだよそれ?」
イレブンは不審そうなマヤの背に軽く触れると、宿屋の扉を開けて中に入った。
しかし部屋に戻ってみても、そこにカミュの姿はなかった。
開け放たれた窓だけが、キイキイと音を立てて風に揺られているだけだった。
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夜の砂浜を月明かりが青く淡く照らしだしている。
静寂のなか、騒ぎ立つ波音だけが辺りに大きく響き渡っていた。
「ただの偶然かもしれねえってのに、安請け合いしてホントによかったのか?」
呆れ気味のカミュに、イレブンは苦笑しながら耳の裏側をポリポリと掻いた。
「うーん。まあ、あれだけ必死に頼まれたら、無視するわけにもいかないし」
「ほんっとにお人好しな勇者さまだぜ」
「カタイこと言うなって兄貴! それよりここ、いかにも出そうな浜だよな」
マヤはどこかワクワクした様子で、周囲を見回した。するとカミュがそんな妹を横目で睨み、「やめろって」と嫌そうに言う。
マヤは両目を三日月のような形にしながらニンマリ笑った。
「兄貴は昔っからそういうの苦手だもんな。すーぐビビっちゃってさ」
「バカ言うな。ビビってなんかねえよ」
「はいはい。ガキの頃、バイキングのおっさんに聞かされた怖い話のせいで、しばらく一人じゃトイレも行けなかったことは忘れてやるよ」
「ちょっ、おいマヤ!」
「いっししー!」
眠たそうなマヤの手を引いてトイレに行く幼いカミュを想像し、イレブンは「ふふっ」と肩を揺らして笑った。
ホムラの里でルコに会ったときから薄々気づいてはいたが、やはりカミュはこの手の話が苦手なのだ。おかげで夜の不気味さが、幾らか薄まったように感じられた。
(……ん?)
そうやって和んでいたときだった。
ふと墓場の方から気配を感じて、イレブンはそちらへ目を向けた。
するとそこに、白いワンピースを着た一人の少女が佇んでいるのが見えた。
(女の子……こんな時間に、一人で?)
歳は成人するかしないかの頃合いだろうか。日に焼けた肌に、腰まで伸びた長い髪は青色で、勝ち気そうな瞳がイレブンをじっと見つめている。
一瞬マヤかと思うほど、面立ちが似ているような気がした。
「こんな時間にどうしたんだ? 一人でいたら危ないよ」
イレブンは彼女が気になり、墓場へ近づくと声をかけた。すると少女は、
「待ってたの」
と、凛とした涼やかな声で言った。
「誰かと待ち合わせ?」
少女が左右に首を振る。
「もういいの。アナタが連れてきてくれたから」
「ボクが?」
首をかしげるイレブンに、彼女がこくんとうなずいた。
「アナタ、名前は?」
少女に問われ、「ボクはイレブン」と素直に名前を口にする。
「キミは?」
「……私はユーリー」
「ユーリー?」
「そう。ただのユーリー」
ユーリーは微かに笑うと、まるで空気に溶け込むようにスゥっと姿を消した。
「!?」
イレブンは目の前で起こった出来事に、ただ息を呑んで呆然とするばかりだった。
凍りついたように動けないでいると、背後からマヤの焦った声が聞こえた。
「兄貴!? 兄貴、しっかりしろよ!」
弾かれたように振り返れば、カミュがうつ伏せに倒れ込んでいる姿が見えた。
「カミュ!?」
「イレブン! 兄貴が急に倒れて……っ」
「カミュ! しっかりしろ! カミュっ!!」
駆け寄って抱き起こすが、カミュはイレブンの胸に力なくもたれかかるばかりだった。呼びかけながら幾度か軽く頬を叩いてみても、いっさい反応を示さない。まるで糸が切れた人形のようだった。
(さっきまでピンピンしてたのに……どうして……?)
イレブンはカミュを抱き上げるとマヤを見た。
「とにかく宿に戻ろう。すぐに医者を呼ばないと」
真っ青な表情に涙を浮かべたマヤが、唇を噛み締めながらうなずいた。
*
宿屋のベッドでは、カミュがこんこんと眠り続けている。
顔色は決して悪くないのだが、まったく目を覚ます気配がなかった。
「兄貴……急にどうしちゃったんだよ……」
ベッド脇の椅子に腰掛けたマヤが、膝の上で両手をぎゅっと握りしめている。
宿に戻ってすぐ、店主が医者を連れてきてくれた。けれどこれといった異常は見つからず、原因は分からずじまいだった。とりあえず熱もなく、呼吸も安定していることから、一晩様子を見るより他にないとのことだった。
「……兄貴はおれが見てるから、勇者さまはもう寝ろよ」
「いや、ボクは大丈夫だ。それよりマヤちゃんこそ休んだほうがいい」
するとマヤはカミュから視線をそらさないまま、「おれはいい」と首を振った。
「兄貴だけじゃない。勇者さまも、ちょっと変だった」
「変だった? ボクが?」
「なんど声をかけてもボーッとしてさ、ずっと墓場の方を見てただろ。そんで兄貴が勇者さまの肩を掴んで、そしたら急にパッタリ倒れちゃって……」
イレブンは思わず耳を疑った。
カミュとマヤには、あの少女の姿が見えていなかったのだ。あれだけ近くにいたというのに、イレブンと彼女の会話すら二人の耳には届いていなかった。
(どういうことだ? まさかあの子は……)
この世のものではない、ということなのか。場所柄そう考えるのが自然だし、目の前で忽然と姿を消したことへの説明もつく。
けれど不思議と恐ろしさは感じなかった。ただどうにも引っかかる。カミュがこうなったことと、なにか関係があるのだろうか。
「兄貴のことも心配だけど、お前のことも……ちょびっとくらいは心配してやってんだからな。いいから今夜は休めって」
マヤの言葉に、イレブンはいったん思考を止めて微笑んだ。
本当はカミュの傍についていたい。けれどこれ以上マヤを不安にさせることもしたくなかった。
「ありがとう、マヤちゃん」
ポン、とマヤの頭に手を乗せた。振り払われるかと思ったが、彼女は小さく「ズビ」と鼻を鳴らしただけだった。
*
まんじりともせず寝台に横たわっていると、暗闇のなか扉が開く音が聞こえた。
イレブンが枕元の照明を灯すと、ほのかな暖色のなかに佇むカミュの姿があった。
「カミュ……?」
ホッと安堵の息をつきながら、イレブンは肘を立てて半身を起こした。
「よかった。目が覚めたんだね。マヤちゃんは?」
「寝てる」
短く答えながら、カミュはノロノロとした動きで寝台のそばまでやってきた。どこかぼうっとして見えるのは、まだ意識がハッキリしないせいなのだろうか。
「起きたらお前がいなかったから」
「……だから来た?」
素直にこくんとうなずく仕草に、胸がキュッと締めつけられた。
イレブンは堪らない気持ちになりながら、寝台の脇に寄って一人分のスペースを開けると、上掛けを持ち上げた。
「オレ、どうしたんだ?」
潜り込んできたカミュの身体を抱き込んで、上掛けを引き上げる。
「浜で急に倒れたんだよ。覚えてない?」
「……覚えてない」
一つの枕を半分こしあいながら、カミュは相変わらずぼうっとしていた。声もどこかふわふわと上ずっていて、普段の明瞭さが消えている。
彼はゆるりと手を伸ばし、イレブンの頬を幾度か撫でた。
「イレブン……」
吐息だけで名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
とろんと蕩けたようになっている瞳に見つめられ、イレブンの頬に熱がのぼる。
「か、カミュ?」
その手が後ろ首に回ったかと思うと、唇を奪われた。ぎょっとしている間に、カミュが覆いかぶさってくる。
「ッ、か…、ミュ……っ、待っ…!」
「はぁ、っ…、ん、ん……っ」
髪をグシャリと掴むように乱されて、角度を変えながら幾度も唇を食まれた。そうかと思えば濡れた水音を響かせて、切ないほどに吸い上げられる。
割って入ってきた舌に歯列をなぞられ、背筋がゾクゾクと甘く痺れた。
「待て、カミュ……っ」
これ以上はマズい。頭の中にカンカンと響く警告の鐘に従って、イレブンはカミュの両肩を掴むと引き剥がした。
「いれ、ぶん……?」
拒まれるなんて微塵も思っていなかったのだろう。頬や首筋を薄紅に染めたカミュが、飴玉を取り上げられた幼子のような表情で首をかしげた。
「マヤちゃんがいる……隣の部屋に」
濡れて色づいた唇から目をそらし、イレブンはそれだけ言うのがやっとだった。心臓はバクバクと跳ね上がっているし、薄皮程度の理性しか保てていないのが正直なところだった。
けれど、今のカミュは明らかに様子がおかしい。
普段の彼なら、マヤが同行する旅の途中でこんな真似は絶対にしない。キスすら満足に許してはくれないはずだった。どんなに壁が厚い宿の一室だったとしても。
しかしカミュは納得がいかない様子で首を振り、眉根を寄せた。
「マヤならぐっすり寝てる。だからちょっとだけ……なぁ、いいだろ?」
うっすらと染まる目元や、切なげに潤んだ瞳に、イレブンはぐっと喉を詰まらせた。
滅多に欲を出さない恋人に、これほど熱く誘われて嬉しくないはずがない。
イレブンの上に乗り上げているカミュの胸元は、ただでさえ心許ない襟ぐりがよれて、胸があらわになっている。そのあられもない姿に、心臓がいっそう忙しなく跳ね上がった。
目を泳がせるイレブンに、カミュはふっと笑うと再び唇を重ねてきた。
ちゅうっと音を立てながら吸いつかれたり、舌と舌が擦れたりしているうちに、否が応でも火がついてしまう。
(こんなの、我慢できっこないだろ!!)
もうどうにでもなれという気持ちで、イレブンはカミュの身体を抱いて体勢を反転させた。
互いに競うように舌を絡めて貪り合っていると、溢れた唾液がカミュの口端から漏れて、首筋を伝い落ちていく。
「ぁ、…っ、ん…、イレ、ブン……っ」
その跡を唇で辿り、イレブンはカミュの首筋に顔を埋めた。
薄い皮膚に舌を這わせ、時おり緩く吸いついた。イレブンが施す愛撫に、カミュは甘い声を漏らしながら、ピクン、ピクン、と健気に反応を示した。
「カミュ……カミュ……っ」
彼が可愛くて仕方ない。どうしようもないほどに。自分でも怖いほど、支配したいという欲が膨らんでいく。それは抗いようのない、雄としての本能だった。
ほとんど無意識のうちに、イレブンはカミュの鎖骨に歯を立てていた。カミュがいっそう甘い悲鳴を漏らす。決して傷つけないよう、ギリギリのところで加減しながら、もどかしさで気がおかしくなりそうだった。
カミュが好きだ。カミュが欲しい。傷つけたくない。大事にしたい。
けれどそんな思いとは裏腹な、真逆の衝動が心の深部から突きでてくる。
頭のてっぺんから爪の先まで。この白く柔い肌に牙を立て、食いちぎってしまえたら。いっそのこと、残さず食べてしまえたら──。
「ぁ、は…っ、イレ、ぶ……っ、なぁ、頼むから…」
「ん…、なに」
「噛んで、もっと……血が出るくらい」
「ッ、!」
イレブンは冷水を浴びたように面食らった。むしろ今まさに、言われるまでもなく実行に移しかけていた自分を止めたのは、皮肉にもカミュの懇願だった。
(ボクは、なにを……?)
あのまま衝動に身を任せていたら、今頃どうなっていただろう。
理性を取り戻したイレブンが顔をあげそうになるのを、カミュの両腕が許さなかった。ぎゅうっと頭を抱き込んで、猫のようにスリスリと頬ずりをしてきた。
「思いっきり噛んで……オレを、食ってくれ……」
「カミュ……?」
「頼むから!」
それはあまりにも必死で、あまりにも悲痛な懇願だった。
彼は泣き崩れたような声で、なおもこう言い募った。
『食べて、ウークマー』
と──。
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静寂のなか、騒ぎ立つ波音だけが辺りに大きく響き渡っていた。
「ただの偶然かもしれねえってのに、安請け合いしてホントによかったのか?」
呆れ気味のカミュに、イレブンは苦笑しながら耳の裏側をポリポリと掻いた。
「うーん。まあ、あれだけ必死に頼まれたら、無視するわけにもいかないし」
「ほんっとにお人好しな勇者さまだぜ」
「カタイこと言うなって兄貴! それよりここ、いかにも出そうな浜だよな」
マヤはどこかワクワクした様子で、周囲を見回した。するとカミュがそんな妹を横目で睨み、「やめろって」と嫌そうに言う。
マヤは両目を三日月のような形にしながらニンマリ笑った。
「兄貴は昔っからそういうの苦手だもんな。すーぐビビっちゃってさ」
「バカ言うな。ビビってなんかねえよ」
「はいはい。ガキの頃、バイキングのおっさんに聞かされた怖い話のせいで、しばらく一人じゃトイレも行けなかったことは忘れてやるよ」
「ちょっ、おいマヤ!」
「いっししー!」
眠たそうなマヤの手を引いてトイレに行く幼いカミュを想像し、イレブンは「ふふっ」と肩を揺らして笑った。
ホムラの里でルコに会ったときから薄々気づいてはいたが、やはりカミュはこの手の話が苦手なのだ。おかげで夜の不気味さが、幾らか薄まったように感じられた。
(……ん?)
そうやって和んでいたときだった。
ふと墓場の方から気配を感じて、イレブンはそちらへ目を向けた。
するとそこに、白いワンピースを着た一人の少女が佇んでいるのが見えた。
(女の子……こんな時間に、一人で?)
歳は成人するかしないかの頃合いだろうか。日に焼けた肌に、腰まで伸びた長い髪は青色で、勝ち気そうな瞳がイレブンをじっと見つめている。
一瞬マヤかと思うほど、面立ちが似ているような気がした。
「こんな時間にどうしたんだ? 一人でいたら危ないよ」
イレブンは彼女が気になり、墓場へ近づくと声をかけた。すると少女は、
「待ってたの」
と、凛とした涼やかな声で言った。
「誰かと待ち合わせ?」
少女が左右に首を振る。
「もういいの。アナタが連れてきてくれたから」
「ボクが?」
首をかしげるイレブンに、彼女がこくんとうなずいた。
「アナタ、名前は?」
少女に問われ、「ボクはイレブン」と素直に名前を口にする。
「キミは?」
「……私はユーリー」
「ユーリー?」
「そう。ただのユーリー」
ユーリーは微かに笑うと、まるで空気に溶け込むようにスゥっと姿を消した。
「!?」
イレブンは目の前で起こった出来事に、ただ息を呑んで呆然とするばかりだった。
凍りついたように動けないでいると、背後からマヤの焦った声が聞こえた。
「兄貴!? 兄貴、しっかりしろよ!」
弾かれたように振り返れば、カミュがうつ伏せに倒れ込んでいる姿が見えた。
「カミュ!?」
「イレブン! 兄貴が急に倒れて……っ」
「カミュ! しっかりしろ! カミュっ!!」
駆け寄って抱き起こすが、カミュはイレブンの胸に力なくもたれかかるばかりだった。呼びかけながら幾度か軽く頬を叩いてみても、いっさい反応を示さない。まるで糸が切れた人形のようだった。
(さっきまでピンピンしてたのに……どうして……?)
イレブンはカミュを抱き上げるとマヤを見た。
「とにかく宿に戻ろう。すぐに医者を呼ばないと」
真っ青な表情に涙を浮かべたマヤが、唇を噛み締めながらうなずいた。
*
宿屋のベッドでは、カミュがこんこんと眠り続けている。
顔色は決して悪くないのだが、まったく目を覚ます気配がなかった。
「兄貴……急にどうしちゃったんだよ……」
ベッド脇の椅子に腰掛けたマヤが、膝の上で両手をぎゅっと握りしめている。
宿に戻ってすぐ、店主が医者を連れてきてくれた。けれどこれといった異常は見つからず、原因は分からずじまいだった。とりあえず熱もなく、呼吸も安定していることから、一晩様子を見るより他にないとのことだった。
「……兄貴はおれが見てるから、勇者さまはもう寝ろよ」
「いや、ボクは大丈夫だ。それよりマヤちゃんこそ休んだほうがいい」
するとマヤはカミュから視線をそらさないまま、「おれはいい」と首を振った。
「兄貴だけじゃない。勇者さまも、ちょっと変だった」
「変だった? ボクが?」
「なんど声をかけてもボーッとしてさ、ずっと墓場の方を見てただろ。そんで兄貴が勇者さまの肩を掴んで、そしたら急にパッタリ倒れちゃって……」
イレブンは思わず耳を疑った。
カミュとマヤには、あの少女の姿が見えていなかったのだ。あれだけ近くにいたというのに、イレブンと彼女の会話すら二人の耳には届いていなかった。
(どういうことだ? まさかあの子は……)
この世のものではない、ということなのか。場所柄そう考えるのが自然だし、目の前で忽然と姿を消したことへの説明もつく。
けれど不思議と恐ろしさは感じなかった。ただどうにも引っかかる。カミュがこうなったことと、なにか関係があるのだろうか。
「兄貴のことも心配だけど、お前のことも……ちょびっとくらいは心配してやってんだからな。いいから今夜は休めって」
マヤの言葉に、イレブンはいったん思考を止めて微笑んだ。
本当はカミュの傍についていたい。けれどこれ以上マヤを不安にさせることもしたくなかった。
「ありがとう、マヤちゃん」
ポン、とマヤの頭に手を乗せた。振り払われるかと思ったが、彼女は小さく「ズビ」と鼻を鳴らしただけだった。
*
まんじりともせず寝台に横たわっていると、暗闇のなか扉が開く音が聞こえた。
イレブンが枕元の照明を灯すと、ほのかな暖色のなかに佇むカミュの姿があった。
「カミュ……?」
ホッと安堵の息をつきながら、イレブンは肘を立てて半身を起こした。
「よかった。目が覚めたんだね。マヤちゃんは?」
「寝てる」
短く答えながら、カミュはノロノロとした動きで寝台のそばまでやってきた。どこかぼうっとして見えるのは、まだ意識がハッキリしないせいなのだろうか。
「起きたらお前がいなかったから」
「……だから来た?」
素直にこくんとうなずく仕草に、胸がキュッと締めつけられた。
イレブンは堪らない気持ちになりながら、寝台の脇に寄って一人分のスペースを開けると、上掛けを持ち上げた。
「オレ、どうしたんだ?」
潜り込んできたカミュの身体を抱き込んで、上掛けを引き上げる。
「浜で急に倒れたんだよ。覚えてない?」
「……覚えてない」
一つの枕を半分こしあいながら、カミュは相変わらずぼうっとしていた。声もどこかふわふわと上ずっていて、普段の明瞭さが消えている。
彼はゆるりと手を伸ばし、イレブンの頬を幾度か撫でた。
「イレブン……」
吐息だけで名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
とろんと蕩けたようになっている瞳に見つめられ、イレブンの頬に熱がのぼる。
「か、カミュ?」
その手が後ろ首に回ったかと思うと、唇を奪われた。ぎょっとしている間に、カミュが覆いかぶさってくる。
「ッ、か…、ミュ……っ、待っ…!」
「はぁ、っ…、ん、ん……っ」
髪をグシャリと掴むように乱されて、角度を変えながら幾度も唇を食まれた。そうかと思えば濡れた水音を響かせて、切ないほどに吸い上げられる。
割って入ってきた舌に歯列をなぞられ、背筋がゾクゾクと甘く痺れた。
「待て、カミュ……っ」
これ以上はマズい。頭の中にカンカンと響く警告の鐘に従って、イレブンはカミュの両肩を掴むと引き剥がした。
「いれ、ぶん……?」
拒まれるなんて微塵も思っていなかったのだろう。頬や首筋を薄紅に染めたカミュが、飴玉を取り上げられた幼子のような表情で首をかしげた。
「マヤちゃんがいる……隣の部屋に」
濡れて色づいた唇から目をそらし、イレブンはそれだけ言うのがやっとだった。心臓はバクバクと跳ね上がっているし、薄皮程度の理性しか保てていないのが正直なところだった。
けれど、今のカミュは明らかに様子がおかしい。
普段の彼なら、マヤが同行する旅の途中でこんな真似は絶対にしない。キスすら満足に許してはくれないはずだった。どんなに壁が厚い宿の一室だったとしても。
しかしカミュは納得がいかない様子で首を振り、眉根を寄せた。
「マヤならぐっすり寝てる。だからちょっとだけ……なぁ、いいだろ?」
うっすらと染まる目元や、切なげに潤んだ瞳に、イレブンはぐっと喉を詰まらせた。
滅多に欲を出さない恋人に、これほど熱く誘われて嬉しくないはずがない。
イレブンの上に乗り上げているカミュの胸元は、ただでさえ心許ない襟ぐりがよれて、胸があらわになっている。そのあられもない姿に、心臓がいっそう忙しなく跳ね上がった。
目を泳がせるイレブンに、カミュはふっと笑うと再び唇を重ねてきた。
ちゅうっと音を立てながら吸いつかれたり、舌と舌が擦れたりしているうちに、否が応でも火がついてしまう。
(こんなの、我慢できっこないだろ!!)
もうどうにでもなれという気持ちで、イレブンはカミュの身体を抱いて体勢を反転させた。
互いに競うように舌を絡めて貪り合っていると、溢れた唾液がカミュの口端から漏れて、首筋を伝い落ちていく。
「ぁ、…っ、ん…、イレ、ブン……っ」
その跡を唇で辿り、イレブンはカミュの首筋に顔を埋めた。
薄い皮膚に舌を這わせ、時おり緩く吸いついた。イレブンが施す愛撫に、カミュは甘い声を漏らしながら、ピクン、ピクン、と健気に反応を示した。
「カミュ……カミュ……っ」
彼が可愛くて仕方ない。どうしようもないほどに。自分でも怖いほど、支配したいという欲が膨らんでいく。それは抗いようのない、雄としての本能だった。
ほとんど無意識のうちに、イレブンはカミュの鎖骨に歯を立てていた。カミュがいっそう甘い悲鳴を漏らす。決して傷つけないよう、ギリギリのところで加減しながら、もどかしさで気がおかしくなりそうだった。
カミュが好きだ。カミュが欲しい。傷つけたくない。大事にしたい。
けれどそんな思いとは裏腹な、真逆の衝動が心の深部から突きでてくる。
頭のてっぺんから爪の先まで。この白く柔い肌に牙を立て、食いちぎってしまえたら。いっそのこと、残さず食べてしまえたら──。
「ぁ、は…っ、イレ、ぶ……っ、なぁ、頼むから…」
「ん…、なに」
「噛んで、もっと……血が出るくらい」
「ッ、!」
イレブンは冷水を浴びたように面食らった。むしろ今まさに、言われるまでもなく実行に移しかけていた自分を止めたのは、皮肉にもカミュの懇願だった。
(ボクは、なにを……?)
あのまま衝動に身を任せていたら、今頃どうなっていただろう。
理性を取り戻したイレブンが顔をあげそうになるのを、カミュの両腕が許さなかった。ぎゅうっと頭を抱き込んで、猫のようにスリスリと頬ずりをしてきた。
「思いっきり噛んで……オレを、食ってくれ……」
「カミュ……?」
「頼むから!」
それはあまりにも必死で、あまりにも悲痛な懇願だった。
彼は泣き崩れたような声で、なおもこう言い募った。
『食べて、ウークマー』
と──。
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久しぶりに訪れたナギムナー村は、観光客が増えて活気づいていた。
波打ち際で戯れるカップル、手を繋いで桟橋を歩くカップルに、砂浜へ続く階段に座って身を寄せるカップルなど──主に若い男女の二人連ればかりが目立つ。
「しばらく来ないうちに、ずいぶん賑やかになったもんだな」
青い空にきらめく太陽。寄せては返す白波に、吹き抜ける爽やかな潮風。
ルーラで降り立ったナギムナー村の砂浜で、辺りを見回しながらカミュが言う。
その横でこくんとうなずきながら、イレブンは一緒に来たはずのマヤの姿が消えていることに気がついた。
「カミュ、マヤちゃんは?」
「おいおいマジか。さっそく真珠の匂いにでも釣られちまったか?」
今日ここを訪れたのは、お宝探しを名目とした観光だった。
メダル女学園に在籍するマヤが長期休暇に入ったため、イレブンは兄妹を連れてこの村にやってきた。カミュがナギムナー村の魚料理を、どうしてもマヤにも食べさせたいと言うからだ。
寂れた漁村をイメージしていたらしいマヤは渋っていたが、真珠が有名だと知った途端にやる気をだしていた。
「ったくマヤのやつ……ちょっと目を離すとすぐこれだ」
苦労性の兄がやれやれと肩をすくめている。
彼女はさすがカミュの妹というだけあって、非常に素早い。そして鼻がきく。そのため、うかうかしていると一瞬で見失ってしまうのだ。
兄の方にもせっかちなところはあるが、マヤは自由奔放な鉄砲玉のようだった。
その点、本来の気質だけでいえば、カミュはしっかりしているようでいて、意外と天然というか──ある意味ちょっと抜けている部分があるのではないかと、イレブンは思っている。だからこそ、マイペースな自分と上手く噛み合うのかもしれないと。
「大丈夫か? そろそろ立てるかい?」
するとそこへ、気遣わしげな男の声が聞こえてきた。
ふとその方向に目をやると、階段に腰掛けていたカップルのうち、女性の方が真っ青な顔をしているのが見えた。男が肩を抱き、心配そうに声をかけている。
「大丈夫よ。ごめんね、もうすぐ船が来るのに」
「気にしなくていいさ。無理はしないほうがいいよ」
どうやら二人は帰りの船を待つあいだ、ここで休憩していたらしい。ただイチャイチャと寄り添っていただけかと思いきや、女はだいぶ前から気分が悪かったようだ。
女は男に支えられながら立ち上がると、階段を登って桟橋を渡り、村の出入り口へと向かっていった。
「大丈夫かな、あの二人。彼女さん、ずいぶん悪そうだったけど」
「だな。船で吐かなきゃいいが……」
気になって様子を見守っていたイレブンとカミュだったが、そこへ「ぎゃあ!」というマヤの悲鳴が聞こえてハッとした。
「マヤ!?」
「たっ、助けて兄貴! こいつなんとかしてくれよっ!」
マヤは砂浜の遠く離れた場所にいた。
慌てて駆けつけてみれば、そこには伸び放題の白髪頭に、粗末な布切れをまとった老人がおり、マヤに縋りついている。
「チュラ! チュラ!」
老人はしきりにそう叫んでは、マヤの腰に両腕を巻きつけていた。
「やだやだ! 離せって! なんなんだよ、このじいさん!?」
「てめぇ! マヤを離しやがれっ!!」
カミュが飛びかかり、老人を引き剥がそうとした。すると顔を覆うほど伸びた前髪の隙間から、濁った瞳がカミュを捉えた。その瞬間、
「チュラ…? チュラっ、チュラぁ……っ!!」
「うわっ!?」
今度はカミュに向かって両手を伸ばし、ぶつかるように飛びかかってきた。
背中から砂地に倒れ込んだカミュの胸に縋りつき、老人がしゃがれた声で泣き叫ぶ。
「お、おいおいじいさん、ボケてんのか? オレはチュラなんて名前じゃ……」
「このボケジジイ! 兄貴に触んな!」
今度はマヤが飛びかかろうとしたそのとき、イレブンは老人に向かって手をかざすと、ラリホーを唱えた。
「あ、ぁ……チュ…、ラ……」
老人がパタリと動かなくなったところで、イレブンはカミュを助け起こした。
イレブンの手を借りてどうにか立ち上がったカミュが、ホッと安堵の息をつく。
「カミュ、大丈夫か?」
「悪いな。助かったぜ、相棒」
「なんだってんだよ! この変態じいさんは!」
マヤは肩を怒らせ、いまだに老人を睨みつけている。
カミュはうつ伏せで寝息を立てる老人に戸惑いの眼差しを向けたあと、イレブンと顔を見合わせた。
*
「兄貴はほっとくと、すーぐ変なのに絡まれるからな」
海を一望できる酒場兼食堂で、三人はテーブルを囲んでいた。目の前にはナギムナー近海でとれた魚料理が、所狭しと並べられている。
マヤは魚の骨を齧りながら、まだどこか苛立ちを抑えられない様子だった。
「おいおい、先に絡まれてたのはお前の方だろ?」
「だってあのじいさん、兄貴を見た途端もっとヤバい反応してたじゃん」
ピンと来ていない様子のカミュに、マヤが「兄貴はこれだから」と肩をすくめる。
イレブンは内心、彼女の言い分に同意した。こうしてマヤが休暇に入るたび三人で各地を巡っているが、どこへ行っても彼は誰かしらに絡まれている。
思えば仲間たちとの旅の間もそうだった。カミュは行く先々で男女問わずモテていた。当人は慣れた様子で受け流していたが、見ているこちらは気が気じゃなかった。
あしらいきれずに力技で来られた日には、イレブンをはじめ、シルビアやグレイグが盾になって守ることもしばしばあった。
(カミュは自覚があるようでいてないからなぁ)
内心でボヤきながら、魚のフリッターにかぶりつく。衣のサクサク感と、身の柔らかさのバランスが丁度いい。レモンソースの爽やかな酸味の後を、ほどよい甘さが追いかけてくる。
やはりナギムナー村の魚料理は絶品だ。カミュがハマるのもうなずける。
頬をリスのように膨らませながら咀嚼していると、ふいに視線を感じた。カミュがどこかぼんやりとした様子で、こちらを見つめていることに気がついた。
(……ああ、まただ)
いつからだろう。カミュが食事するイレブンを、こうしてじっと見つめてくるようになったのは。厳密には咀嚼する際の口の動きを、と言ったほうが正しい。気もそぞろといった様子で、どこか物欲しげに瞳を揺らしながら。
イレブンがその瞳を覗き込むと、彼はようやく自分がしていたことに気づいたようだった。誤魔化すように「ああ、悪い」と言って、笑みを浮かべた。
「本当にウマそうに食うよな、イレブンは」
「カミュも食べなよ。好きだろ? ここの魚料理」
そう言いながら、イレブンはふとイタズラを思いつく。テーブルに添えてあった赤いハイビスカスを手に取ると、カミュの右耳の上らへんにプスッと刺した。
「あ、可愛い」
「バカ、やめろって」
「いいじゃないか。よく似合ってるよ。青い髪に、赤色がよく映えて」
するとマヤが「イチャつくなら他所でやれよな」と、うんざりした声をあげた。
「マヤちゃんにも飾ってあげよう」
イレブンはニンマリしながらもう一つハイビスカスを手に取ったが、マヤに「やめろバカブン!」と叱られてしまった。それを見て、カミュがケラケラと笑っている。
「お客さんたち、さっきは災難だったな!」
するとそこへ若い店員の男がやってきた。男は追加の料理をテーブルに置きながら、さらに続けて言った。
「ありゃムヌクーヤーだよ」
「ムヌクーヤー? あのじいさんの名前か?」
カミュが問うと、店員の男は「いいや」と首を左右に振った。
「ここいらの方言で、物乞いって意味さ」
「物乞い?」
マヤが首をかしげると、話好きらしい店員がさらに詳しく教えてくれた。
あの老人はしじまヶ浜から崖沿いを回り込んだ先にある、モクマオウ──メリケンマツのこと──の洞窟に住んでいるという。
ときどき洞窟から出てきては物乞いをして暮らしているが、最近は観光客が増えたせいか、頻繁に姿を現すようになったらしい。
「なんでもあのムヌクーヤーは、百年以上も昔からこの村にいるんだってさ」
「へえ。あのじいさん、ずいぶんと長生きなんだな」
関心しながらカミュが言うと、店員は「いやいや」と言って手を振った。
「長生きどころの話じゃないさ。百年以上も前から、あの姿のまんまいるってんだから。オレの死んだじいちゃんがガキの頃には、すでにあの姿でいたって話だよ」
「アホらし」
マヤがつまらなさそうに、魚の骨をプッと吐きだす。
すると斜向かいの席で酒を飲んでいた老人が、おもむろに口を開いた。
「ありゃマジムンじゃ。800年も昔からここに住み着いておる。近づいてはならん」
キョトンとしていると、身を寄せてきた店員の男が「マジムンってのは、妖怪とか悪霊って意味だよ」と教えてくれた。
800年もの時を生き、100年以上も姿を変えずにいる老人──もちろん信じているわけではないけれど、おのずと人魚が連想される。
彼女たちもまた不老長寿の存在だ。人間とは生きている時間軸が異なっている。
だからこそ起きた悲劇を知るイレブンは、夜の海に泡と消えた人魚の姿を思いだす。
ふと相棒の方を見やれば、彼はどこか物憂げに目を伏せていた。カミュもまた同じく、あの美しい人魚の最期に思いを馳せているようだった。
*
腹も満ちたところで、日が暮れてきた。
訪れた宿屋のカウンターで部屋の手配をしていると、客室側の通路で突然、女が倒れた。
「お、おい! しっかりしろ!」
そばにいた連れの男性が、その肩を抱いて必死に声をかけている。女性は吐き気を堪えるように、両手で口を押さえていた。その表情は真っ青だ。
「こりゃいけねぇ! お客さんたち、ちょっとここで待っててもらえるかい!?」
イレブンがうなずくと、筋骨隆々とした仮面の店主がカップルの元へ駆け寄った。そして彼氏と協力して彼女を支え、奥の客室へ消えていく。
ほどなくして戻ってきた店主は、再びカウンターに立つと深い溜息をついた。
「あの子、大丈夫なのか?」
カミュが訊ねると、店主は参った様子で「部屋で休んでもらってるよ」と言った。
「今日だけで二人目だ。まったく、困ったもんさ」
店主はこちらが何かを問う前に、現在ナギムナー村で起きている問題について語り始めた。
「一体どこの誰が言いだしたもんか知らんが、いつからかしじまヶ浜で夜にデートをすると、そのカップルは永遠に結ばれる、なんて噂が立ったのさ」
「やけにカップルが多いとは思っちゃいたが、そういうことか」
「今じゃ立派なデートスポットさ。墓場でデートだなんて、とんでもねぇ話だよ」
カミュはいささかげんなりした様子だった。彼はあまりこの手の話が得意でない。
けれどイレブンは内心ちょっぴり気になってしまった。夜の浜辺でカミュとデート。そして永遠を誓い合う──うん、悪くない、と。
けれどその甘ったるい想像はすぐに振り払われた。
「だけど最近、浜でデートした翌日に体調を崩す女性が増えたんだ」
今日だけで二人目、と店主は言っていた。おそらくさっき浜辺で見たカップルのことだ。
同じく思い当たったらしいカミュと顔を見合わせる。
「これで妙な噂が広がったりしたら、商売上がったりだ!」
店主は頭を抱え、カウンターに伏せてしまった。
「せめて原因が分かれば……というわけでお客さん、どうにかしてもらえないか?」
「えっ?」
ヌッ、と顔をあげた店主に、イレブンは目を白黒させた。
「なんたってアンタらはあのクラーゴンを倒した村の英雄だ! きっとなんとかできるはずだろ? な、頼む! この通り! 」
「おいおい、そんな無茶な……」
難色を示すカミュを遮り、店主が「そこをなんとか!」と両手を合わせる。
「やってくれたら、今夜の宿代はチャラだ!」
「マジ!?」
そこですかさず反応したのがマヤだった。彼女はずっと退屈そうに黙り込んでいたが、途端にキラキラと目を輝かせた。
「いいじゃん、やろうぜ勇者さま! おれらで謎を突き止めよう!」
「ありがてぇ! そうと決まればさっそく部屋を用意するぜ!」
「いししっ! やりぃ~!」
当のイレブンを置き去りにして、店主とマヤは大喜びだ。その様子に、カミュが深々とため息を漏らす。
「マヤ……タダより高くつくもんはないんだぜ……」
かくしてナギムナー村で起きている怪異の正体を探るため、三人は夜のしじまヶ浜へ向かうことになったのだった。
←戻る ・ 次へ→
波打ち際で戯れるカップル、手を繋いで桟橋を歩くカップルに、砂浜へ続く階段に座って身を寄せるカップルなど──主に若い男女の二人連ればかりが目立つ。
「しばらく来ないうちに、ずいぶん賑やかになったもんだな」
青い空にきらめく太陽。寄せては返す白波に、吹き抜ける爽やかな潮風。
ルーラで降り立ったナギムナー村の砂浜で、辺りを見回しながらカミュが言う。
その横でこくんとうなずきながら、イレブンは一緒に来たはずのマヤの姿が消えていることに気がついた。
「カミュ、マヤちゃんは?」
「おいおいマジか。さっそく真珠の匂いにでも釣られちまったか?」
今日ここを訪れたのは、お宝探しを名目とした観光だった。
メダル女学園に在籍するマヤが長期休暇に入ったため、イレブンは兄妹を連れてこの村にやってきた。カミュがナギムナー村の魚料理を、どうしてもマヤにも食べさせたいと言うからだ。
寂れた漁村をイメージしていたらしいマヤは渋っていたが、真珠が有名だと知った途端にやる気をだしていた。
「ったくマヤのやつ……ちょっと目を離すとすぐこれだ」
苦労性の兄がやれやれと肩をすくめている。
彼女はさすがカミュの妹というだけあって、非常に素早い。そして鼻がきく。そのため、うかうかしていると一瞬で見失ってしまうのだ。
兄の方にもせっかちなところはあるが、マヤは自由奔放な鉄砲玉のようだった。
その点、本来の気質だけでいえば、カミュはしっかりしているようでいて、意外と天然というか──ある意味ちょっと抜けている部分があるのではないかと、イレブンは思っている。だからこそ、マイペースな自分と上手く噛み合うのかもしれないと。
「大丈夫か? そろそろ立てるかい?」
するとそこへ、気遣わしげな男の声が聞こえてきた。
ふとその方向に目をやると、階段に腰掛けていたカップルのうち、女性の方が真っ青な顔をしているのが見えた。男が肩を抱き、心配そうに声をかけている。
「大丈夫よ。ごめんね、もうすぐ船が来るのに」
「気にしなくていいさ。無理はしないほうがいいよ」
どうやら二人は帰りの船を待つあいだ、ここで休憩していたらしい。ただイチャイチャと寄り添っていただけかと思いきや、女はだいぶ前から気分が悪かったようだ。
女は男に支えられながら立ち上がると、階段を登って桟橋を渡り、村の出入り口へと向かっていった。
「大丈夫かな、あの二人。彼女さん、ずいぶん悪そうだったけど」
「だな。船で吐かなきゃいいが……」
気になって様子を見守っていたイレブンとカミュだったが、そこへ「ぎゃあ!」というマヤの悲鳴が聞こえてハッとした。
「マヤ!?」
「たっ、助けて兄貴! こいつなんとかしてくれよっ!」
マヤは砂浜の遠く離れた場所にいた。
慌てて駆けつけてみれば、そこには伸び放題の白髪頭に、粗末な布切れをまとった老人がおり、マヤに縋りついている。
「チュラ! チュラ!」
老人はしきりにそう叫んでは、マヤの腰に両腕を巻きつけていた。
「やだやだ! 離せって! なんなんだよ、このじいさん!?」
「てめぇ! マヤを離しやがれっ!!」
カミュが飛びかかり、老人を引き剥がそうとした。すると顔を覆うほど伸びた前髪の隙間から、濁った瞳がカミュを捉えた。その瞬間、
「チュラ…? チュラっ、チュラぁ……っ!!」
「うわっ!?」
今度はカミュに向かって両手を伸ばし、ぶつかるように飛びかかってきた。
背中から砂地に倒れ込んだカミュの胸に縋りつき、老人がしゃがれた声で泣き叫ぶ。
「お、おいおいじいさん、ボケてんのか? オレはチュラなんて名前じゃ……」
「このボケジジイ! 兄貴に触んな!」
今度はマヤが飛びかかろうとしたそのとき、イレブンは老人に向かって手をかざすと、ラリホーを唱えた。
「あ、ぁ……チュ…、ラ……」
老人がパタリと動かなくなったところで、イレブンはカミュを助け起こした。
イレブンの手を借りてどうにか立ち上がったカミュが、ホッと安堵の息をつく。
「カミュ、大丈夫か?」
「悪いな。助かったぜ、相棒」
「なんだってんだよ! この変態じいさんは!」
マヤは肩を怒らせ、いまだに老人を睨みつけている。
カミュはうつ伏せで寝息を立てる老人に戸惑いの眼差しを向けたあと、イレブンと顔を見合わせた。
*
「兄貴はほっとくと、すーぐ変なのに絡まれるからな」
海を一望できる酒場兼食堂で、三人はテーブルを囲んでいた。目の前にはナギムナー近海でとれた魚料理が、所狭しと並べられている。
マヤは魚の骨を齧りながら、まだどこか苛立ちを抑えられない様子だった。
「おいおい、先に絡まれてたのはお前の方だろ?」
「だってあのじいさん、兄貴を見た途端もっとヤバい反応してたじゃん」
ピンと来ていない様子のカミュに、マヤが「兄貴はこれだから」と肩をすくめる。
イレブンは内心、彼女の言い分に同意した。こうしてマヤが休暇に入るたび三人で各地を巡っているが、どこへ行っても彼は誰かしらに絡まれている。
思えば仲間たちとの旅の間もそうだった。カミュは行く先々で男女問わずモテていた。当人は慣れた様子で受け流していたが、見ているこちらは気が気じゃなかった。
あしらいきれずに力技で来られた日には、イレブンをはじめ、シルビアやグレイグが盾になって守ることもしばしばあった。
(カミュは自覚があるようでいてないからなぁ)
内心でボヤきながら、魚のフリッターにかぶりつく。衣のサクサク感と、身の柔らかさのバランスが丁度いい。レモンソースの爽やかな酸味の後を、ほどよい甘さが追いかけてくる。
やはりナギムナー村の魚料理は絶品だ。カミュがハマるのもうなずける。
頬をリスのように膨らませながら咀嚼していると、ふいに視線を感じた。カミュがどこかぼんやりとした様子で、こちらを見つめていることに気がついた。
(……ああ、まただ)
いつからだろう。カミュが食事するイレブンを、こうしてじっと見つめてくるようになったのは。厳密には咀嚼する際の口の動きを、と言ったほうが正しい。気もそぞろといった様子で、どこか物欲しげに瞳を揺らしながら。
イレブンがその瞳を覗き込むと、彼はようやく自分がしていたことに気づいたようだった。誤魔化すように「ああ、悪い」と言って、笑みを浮かべた。
「本当にウマそうに食うよな、イレブンは」
「カミュも食べなよ。好きだろ? ここの魚料理」
そう言いながら、イレブンはふとイタズラを思いつく。テーブルに添えてあった赤いハイビスカスを手に取ると、カミュの右耳の上らへんにプスッと刺した。
「あ、可愛い」
「バカ、やめろって」
「いいじゃないか。よく似合ってるよ。青い髪に、赤色がよく映えて」
するとマヤが「イチャつくなら他所でやれよな」と、うんざりした声をあげた。
「マヤちゃんにも飾ってあげよう」
イレブンはニンマリしながらもう一つハイビスカスを手に取ったが、マヤに「やめろバカブン!」と叱られてしまった。それを見て、カミュがケラケラと笑っている。
「お客さんたち、さっきは災難だったな!」
するとそこへ若い店員の男がやってきた。男は追加の料理をテーブルに置きながら、さらに続けて言った。
「ありゃムヌクーヤーだよ」
「ムヌクーヤー? あのじいさんの名前か?」
カミュが問うと、店員の男は「いいや」と首を左右に振った。
「ここいらの方言で、物乞いって意味さ」
「物乞い?」
マヤが首をかしげると、話好きらしい店員がさらに詳しく教えてくれた。
あの老人はしじまヶ浜から崖沿いを回り込んだ先にある、モクマオウ──メリケンマツのこと──の洞窟に住んでいるという。
ときどき洞窟から出てきては物乞いをして暮らしているが、最近は観光客が増えたせいか、頻繁に姿を現すようになったらしい。
「なんでもあのムヌクーヤーは、百年以上も昔からこの村にいるんだってさ」
「へえ。あのじいさん、ずいぶんと長生きなんだな」
関心しながらカミュが言うと、店員は「いやいや」と言って手を振った。
「長生きどころの話じゃないさ。百年以上も前から、あの姿のまんまいるってんだから。オレの死んだじいちゃんがガキの頃には、すでにあの姿でいたって話だよ」
「アホらし」
マヤがつまらなさそうに、魚の骨をプッと吐きだす。
すると斜向かいの席で酒を飲んでいた老人が、おもむろに口を開いた。
「ありゃマジムンじゃ。800年も昔からここに住み着いておる。近づいてはならん」
キョトンとしていると、身を寄せてきた店員の男が「マジムンってのは、妖怪とか悪霊って意味だよ」と教えてくれた。
800年もの時を生き、100年以上も姿を変えずにいる老人──もちろん信じているわけではないけれど、おのずと人魚が連想される。
彼女たちもまた不老長寿の存在だ。人間とは生きている時間軸が異なっている。
だからこそ起きた悲劇を知るイレブンは、夜の海に泡と消えた人魚の姿を思いだす。
ふと相棒の方を見やれば、彼はどこか物憂げに目を伏せていた。カミュもまた同じく、あの美しい人魚の最期に思いを馳せているようだった。
*
腹も満ちたところで、日が暮れてきた。
訪れた宿屋のカウンターで部屋の手配をしていると、客室側の通路で突然、女が倒れた。
「お、おい! しっかりしろ!」
そばにいた連れの男性が、その肩を抱いて必死に声をかけている。女性は吐き気を堪えるように、両手で口を押さえていた。その表情は真っ青だ。
「こりゃいけねぇ! お客さんたち、ちょっとここで待っててもらえるかい!?」
イレブンがうなずくと、筋骨隆々とした仮面の店主がカップルの元へ駆け寄った。そして彼氏と協力して彼女を支え、奥の客室へ消えていく。
ほどなくして戻ってきた店主は、再びカウンターに立つと深い溜息をついた。
「あの子、大丈夫なのか?」
カミュが訊ねると、店主は参った様子で「部屋で休んでもらってるよ」と言った。
「今日だけで二人目だ。まったく、困ったもんさ」
店主はこちらが何かを問う前に、現在ナギムナー村で起きている問題について語り始めた。
「一体どこの誰が言いだしたもんか知らんが、いつからかしじまヶ浜で夜にデートをすると、そのカップルは永遠に結ばれる、なんて噂が立ったのさ」
「やけにカップルが多いとは思っちゃいたが、そういうことか」
「今じゃ立派なデートスポットさ。墓場でデートだなんて、とんでもねぇ話だよ」
カミュはいささかげんなりした様子だった。彼はあまりこの手の話が得意でない。
けれどイレブンは内心ちょっぴり気になってしまった。夜の浜辺でカミュとデート。そして永遠を誓い合う──うん、悪くない、と。
けれどその甘ったるい想像はすぐに振り払われた。
「だけど最近、浜でデートした翌日に体調を崩す女性が増えたんだ」
今日だけで二人目、と店主は言っていた。おそらくさっき浜辺で見たカップルのことだ。
同じく思い当たったらしいカミュと顔を見合わせる。
「これで妙な噂が広がったりしたら、商売上がったりだ!」
店主は頭を抱え、カウンターに伏せてしまった。
「せめて原因が分かれば……というわけでお客さん、どうにかしてもらえないか?」
「えっ?」
ヌッ、と顔をあげた店主に、イレブンは目を白黒させた。
「なんたってアンタらはあのクラーゴンを倒した村の英雄だ! きっとなんとかできるはずだろ? な、頼む! この通り! 」
「おいおい、そんな無茶な……」
難色を示すカミュを遮り、店主が「そこをなんとか!」と両手を合わせる。
「やってくれたら、今夜の宿代はチャラだ!」
「マジ!?」
そこですかさず反応したのがマヤだった。彼女はずっと退屈そうに黙り込んでいたが、途端にキラキラと目を輝かせた。
「いいじゃん、やろうぜ勇者さま! おれらで謎を突き止めよう!」
「ありがてぇ! そうと決まればさっそく部屋を用意するぜ!」
「いししっ! やりぃ~!」
当のイレブンを置き去りにして、店主とマヤは大喜びだ。その様子に、カミュが深々とため息を漏らす。
「マヤ……タダより高くつくもんはないんだぜ……」
かくしてナギムナー村で起きている怪異の正体を探るため、三人は夜のしじまヶ浜へ向かうことになったのだった。
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静寂のなかにはパチパチという、火の粉が弾ける音だけが響いていた。
「マヤ」
マヤは焚き火を挟んだ向かい側に腰かけている。カミュが声をかけても、彼女は器の中身をスプーンでかき混ぜるばかりで反応を示さない。
「マーヤ」
「……ぁ、なに? 兄貴、なんか言った?」
二度目の声がけで、マヤがようやく顔をあげた。カミュはヒョイと片眉を上げると小さな息をつく。
「飯、冷めちまったろ。あっためなおしてやるから、器よこしな」
するとマヤはどこか気まずそうに目を泳がせ、それから首を横に振った。
「あー、いいや。おれもうハラいっぱいだし」
「言うほど食ってねえだろ。どっか具合でも悪いのか?」
「そんなんじゃねーって。ほんっと心配性だよなあ兄貴は」
表情を曇らせるカミュに、マヤは呆れ顔でヒラヒラと片手を振った。
食べ盛りで食いしん坊な妹が、ろくに食事もとらずにぼうっとしているのだ。心配するなと言うほうがおかしい。
(ここんとこずっと様子が変だ。そろそろ長旅の疲れが出てるのかもな)
邪神討伐後、カミュとマヤは兄妹水入らずでお宝探しの旅に出ていた。のんびりと世界を巡り、そろそろ半年が過ぎようとしている。
しかしここ数日はマヤの不調が続いていた。顔色が優れず、この通り食欲も落ちている。気づくと上の空でいることが多かった。
目的地であるサマディー王国までは、あと少しというところだ。旅の最初の頃にも来ているが、マヤがもう一度ウマレースが見たいと言うので再びこの地を訪れた。
だが無理はせず、今日のところは早めにキャンプで休ませることにした。
そういえば先日ダーハルーネに立ち寄った際、シルビアがサマディーで長期公演を行っているという話を聞いた。マヤにもシルビアのショーを見せてやりたいし、久しぶりに会えると思うと楽しみだ。
「……兄貴さ」
膝を抱えて焚き火を眺めながらぼうっとしていたマヤが、おもむろに口を開いた。
「そろそろ一回くらい、勇者さまんとこ帰らなくていいの?」
「なんだよ。どうしたんだ急に?」
「だって、もう半年近くなるだろ」
最初、この旅にはイレブンも同行する予定だった。
けれどそれを知ったマヤが、「勇者はずっと兄貴と一緒だったじゃん」と直前で駄々をこねた。するとイレブンは「それを言われると弱いな」と苦笑して身を引いた。
妹の独占欲を可愛いと思う反面、相棒に気を使わせてしまったことを申し訳なく思う。
しかしマヤの子供っぽさは奪われた時の代償だ。カミュにはそのツケを払う責任がある。彼女は本来、イレブンとそう歳の変わらぬ成人女性であるはずだった。
そのマヤの口から、このような打診が飛びだすとは驚いた。彼女なりに、本心ではずっと気にしていたのだろう。半年の旅をへて、多少落ち着いた部分もあるのかもしれない。
「手紙は定期的に出してるし、大丈夫だ。気にすんな」
「ふーん。ま、兄貴がいいってんなら別にいいけど」
口調はそっけないが、口元にじんわりと浮かぶ笑みが隠しきれていなかった。なんだかんだで、兄が相棒より自分を優先させたことに気をよくしたらしい。
「おれ水浴びしてくる!」
マヤはランタンを片手に、鼻歌まじりで少し離れた茂みのオアシスに消えていく。
カミュは焚き火を眺め、現金な妹に笑みをこぼした。まだまだあんな感じだが、他者を思いやれるくらいには、気持ちに余裕が生まれてきたということだ。
旅をするなかで様々な人と触れ合う機会もあり、マヤの世界は着実に広くなっている。
これからも多くの経験を積ませてやりたい。そして叶うならメダ女に入れて、同年代の友人を作ったりもしてほしいし、マナーや教養も身につけて欲しいと思う。
パチンッ
ふいに火の粉が大きく弾ける音がした。
カミュの思考がいったん途切れる。次に浮かんだのはイレブンのことだった。
サマディーで落ち着いたら、また手紙を送ろう。デク宛てに送るのは、イレブン相手だとどうも照れ臭く感じるからだ。
デクのことだから、こちらの近況は伝えてくれているはず。まさか手紙をそのまま読ませるとか、ましてや音読して聞かせるなんて真似はしていないだろう──多分。
(ごめんな相棒……待たせちまって……)
皮のグローブの上から、左手の薬指にそっと口づけた。小さく硬い感触がある。そこにはマヤと旅立つ前夜、イレブンから贈られた指輪があった。
レシピはなく、彼のオリジナルだった。何度も何度も打ち直し、デザインに頭を悩ませ、そして出来上がったのはなんの飾り気もないシルバーのリングだった。
地味でごめん、なんて言いながら眉を下げて笑っていたが、そこにどれだけ強い思いが込められているかくらい、言葉にしなくても伝わった。
「あ、ああぁ……ッ! 兄貴ッ、あにきぃ……!!」
そのとき、茂みの向こうから悲鳴と共に自分を呼ぶ声が聞こえた。
カミュは息をのみながら顔をあげる。
「マヤ!?」
腰に差した短剣に手をやりながら、慌てて茂みを分け入って行く。
水辺のランタンに照らされながら、裸のマヤが座り込んで震えていた。下半身だけを水につけ、駆けつけた兄に怯えきった視線を向ける。目にはいっぱいの涙が浮かんでいた。
「あ、あに……、おにい、ちゃ……」
「マヤ! どうした!? なにがあった!?」
「っ、ち……血が……」
透き通るオアシスの水に目をこらす。うっすらと赤黒い色をしたものが、マヤの身体の中心からジワジワと流れでているのが見えた。
「ッ……!?」
ぞわりと血の気が引くような怖気を感じ、とっさに声が出なかった。
マヤはひどく怯えた様子で、自身の身体を抱きしめると背中を丸めた。
「最近、なんかずっと変で、身体が重くて……腹も、すげえ痛くて……っ」
カミュは濡れるのも構わず膝をつき、真っ青になって震えるマヤを抱え込んだ。
死んだような顔色で、マヤはぐったりとカミュの胸にもたれかかった。
「まっ、マヤ!? しっかり、しっかりしろ……ッ!」
痩せっぽちの身体を抱き上げ、テントに走った。毛布でその身体をぐるぐる巻きにすると、道具袋を漁って舌打ちをする。こんなときに限ってキメラのつばさを切らしていた。
取るものもとりあえず、繋ぎ止めていた旅馬にまたがった。
「大丈夫、大丈夫だ、兄ちゃんがついてる! だからしっかりしろ!」
ともすれば震えそうになる声で、マヤと自分自身に言い聞かせた。
毛布越しからも伝わる冷えた身体を腕に抱き、サマディーへと馬を走らせた。
*
今日も今日とてシルビアのショーは大成功だった。
あふれる熱気と最高の笑顔で埋め尽くされた客席。その余韻にひたりながら、トレビアンなステージ衣装から着替えを済ます。
普段着であってもチェックは欠かさず、鏡台の前で腰に手をやりポーズを決めた。
するとそこに突然、マヤを抱えたカミュが
「シルビアはいるか!?」
と、物凄い剣幕で楽屋に駆け込んできた。
「ちょっ、どうしたのカミュちゃん!? それにマヤちゃん!?」
「マヤがっ、マヤが……ッ!」
久しぶりの再会を喜び合うヒマもない。カミュは凍りついたように青ざめて、見たこともないほど取り乱している。
しかしそれ以上に、毛布に包まれたマヤの表情は死人のようだった。
「カミュちゃん落ち着いて! マヤちゃんの具合が悪いなら、アタシのところよりまずはお医者さまが先でしょ!」
多少の怪我や消耗であればハッスルダンスで対応できる。しかしマヤの様子とカミュの動揺ぶりを見るに、これはただ事ではないと感じた。
雷に打たれたように肩を揺らし、カミュがハッと息をのむ。
「あ……、そう、か、そうだよな? あんたがここにいるって聞いたから、つい……」
とっさに知った顔を頼るしか頭に浮かばなかったのだろう。彼の境遇を知るだけに、まっさきに頼れる大人として自分を選んでくれたことは嬉しい。こんな非常事態でなければ、抱きしめて頬ずりの一つでもしてやりたいところだが。
「とにかく、すぐにお医者さまのところへ行きましょ。アタシも行くわ。それで、マヤちゃんは一体どんな具合なの?」
カミュの背に手を添えながら問いかける。すると彼は「股から血が」と震えた声を絞りだした。一歩を踏みだしかけていたシルビアの足がピタリと止まる。
「……あ~、なるほど。そういうことね」
あらかた察したシルビアは、ポンッと軽く両手を合わせる。
「おっさん、なにかわかるのか!?」
「カミュちゃん、マヤちゃんがこうなったのは初めて?」
「そうだけど……」
すがるような瞳が、年相応に頼りない。勇者の相棒としての勇敢な姿しか知らないはずのシルビアだが、この行き場のない子犬めいた瞳には不思議と既視感があった。
「わかる、というか……そうね。話はあとにして、ひとまずマヤちゃんを休ませてあげましょう。アナタまさか、この状態の彼女を馬に乗せてすっ飛ばしてきたんじゃないでしょうね?」
カミュの肩がまた跳ねた。答えはそれだけで十分だった。
シルビアは芝居がかった仕草で額を押さえ、深い溜息をついた。
*
宿屋で女性に対応してもらいたい旨を話すと、すぐに店主が女将を呼んできてくれた。
客室にマヤを運び入れたあと、シルビアとカミュはロビーで待っていた。
落ち着かない様子でいるカミュをなだめたりしているうちに、女将から声がかかった。
「お着替えもして、今はぐっすり眠っていますよ」
女将に礼を言い、ふたりはマヤがいる二階の一室に向かった。
マヤは宿の寝巻きを着せてもらい、ベッドで静かに寝息をたてていた。さっきよりはいくらか顔色がよく見える。その様子に、カミュがホッと息を漏らした。
「カミュちゃん、あのね」
シルビアはマヤが初潮を迎えたことをカミュに話した。すると彼は一瞬ポカンとしたあと、ようやく理解が及んだらしい。額に手をやりながら天井を仰ぎ見て、「ぅあぁ~」となんともいえない唸り声をあげた。
「そういうことか……」
「カミュちゃんったら混乱しすぎよ。アナタがそんなでどうするの?」
「悪い……世話かけちまった……」
いいのよと首を振りながら、存外やわらかいツンツン頭にぽんっと触れた。
無理もない。年頃の女の子を育てるには、彼自身まだ十分に未熟さを残す若者だ。
今日この日、サマディーにいたのが自分でよかったと心底思う。もしこれがグレイグだったら、今頃どうなっていたことか。一緒になって慌てふためく大男の姿が目に浮かぶ。
「そっか……あのマヤが、な……」
でも──と、カミュは妹を案じる優しい兄の顔をして言った。
「無事でよかった」
しみじみ呟いたカミュの身体が、ぐらっと傾いだ。
シルビアは慌てて彼の肩を抱き、そのまま一緒に膝をつく。頬から首筋にかけて手を這わせると、異様な熱が伝わってきた。
「カミュちゃん!? アナタ、すごい熱じゃない……!!」
*
マヤの意識が回復したのは、その翌日のことだった。
ぼうっとした意識で、ゆっくりとまばたきをする。重だるい感覚はあるが、肌に触れるサラサラとしたリネンの感触が心地よかった。
(あれ……おれ、どうしたんだっけ……?)
「お目覚めかしら。お姫さま」
柔らかな声のする方を見やると、見覚えのある姿があった。
彼──彼女と呼ぶべきかもしれない──はベッド脇の椅子に腰かけ、涼やかに微笑んでいる。確か勇者の仲間だ。黄金化の呪いから目覚めたとき、その場にいたのを覚えている。
「シルビアよ。アタシのこと覚えてる?」
「……覚えてる。けど、なんでアンタがここに? てか、ここどこ?」
そこで夜のオアシスでの出来事が脳裏によみがえってきた。
「そうだおれ、変なとこから血が出て……」
「それなんだけどね」
シルビアは昨夜のことを順を追って説明してくれた。
気を失ったマヤをカミュが抱えてやってきたこと、マヤの身に起きた変化について。アナタの身体が大人に大きく近づいた証よと、彼女は噛んで含めるように言い聞かせた。
「あとで女将ちゃんに、もう少し詳しく聞いてちょうだい。経血の処理だとかは、さすがのアタシでも教えてはあげられないから」
それらの話を、マヤはどこか他人事のように聞いていた。急に大人だなんて言われても、どうもいまいちピンと来ない。
「てっきりヤバい病気かと思ってビビったけど……そっか、そんなこと知らなかった。だって誰も教えてくれなかったし」
「まあ、しっかりしてるとはいえ、カミュちゃんは男の子だしね。昨日の取り乱しようといったら、邪神ちゃんと戦うときですら、あんなにあせったカミュちゃんは見たことないわ」
「そういや兄貴は?」
シルビアが目線で示した先を目で追うと、兄はすぐ隣のベッドで眠っていた。額にタオルを乗せ、浅く呼吸しているのが見える。
「あっ、兄貴!?」
とっさに勢いよく起き上がった。
「ちょっとマヤちゃん、急に起き上がって大丈夫!?」
「おれは平気だけど、兄貴が……」
シルビアは目を細め、安心させるようにマヤの頭を撫でた。
「カミュちゃんも大丈夫よ。安心したら気が抜けたみたい。ゆっくり休めばすぐによくなるわ」
兄のものより大きくてゴツゴツとした手に、不思議な安堵を覚えて力が抜けた。
誰にも縋ることなく生きてきたはずの兄が、どうしてこの人に助けを求めたのかが、なんとなく分かるような気がした。
マヤは再びカミュへと目を向けた。熱があるのだろう。頬が赤く、呼吸がはやい。あの風穴で暮らしていた頃でさえ、こんなふうに弱った兄の姿は見たことがなかった。
単に見せないようにしていただけかもしれない。このバカ兄貴はそういうヤツだ。
「……あのさ、シルビア、さん」
うつむき加減でおずおずと呼びかければ、彼女は「なあに?」と小首をかしげた。
「頼みがあるんだけど……いいかな……?」
マヤの頼み事──その内容を聞いたシルビアは幾度か目をしばたたかせたあと、「お安い御用よ」と言って自分の胸をドンと叩いた。
*
「カミュ……!!」
サマディーの宿屋。その二階にある一室に、はやる気持ちで飛び込んだ。
三人分の瞳がいっせいにイレブンへと注がれる。
椅子に掛けていたシルビアが真っ先に立ち上がり、パチンと手を合わせて満面の笑顔を浮かべた。
「きゃ~! 王子さまのお出ましよ! イレブンちゃん、いらっしゃ~い! カミュちゃんも、今ちょうど起きられるようになったところよん」
「い、イレブン……? お前、なんでここに?」
二つあるベッドのうちのひとつで、半身を起こしたカミュが目を丸くしていた。彼は宿屋の寝巻きを着用している。
イレブンの来訪に驚いている様子だが、イレブンとてまだ状況が掴めずにいた。
「マジで一瞬で来るんだな……」
同じく寝巻き姿のマヤが、自分のベッドであぐらをかきながら感心したように呟いた。
「うふふっ、だから言ったでしょ?」
シルビアがマヤにウインクをした。
「シルビア、これは一体……?」
やっとのことでイレブンが口を開いた。
シルビアの使いがキメラのつばさでイシの村にやってきたのは、早朝のことだった。受け取った手紙には『カミュちゃんが大変!』という一文と、現在地だけが書かれていた。
それだけではカミュの身になにが起こったのか分からなかった。マヤも一緒のはずだが、彼女の安否も不明だ。使いの人間も、詳しい事情は聞かされていないようだった。
生きた心地がしないまま、イレブンは即座にルーラを使ってここまで来たのだ。
しかし見たところ、カミュは少し顔が赤いようだが目立った外傷は見られない。シルビアやマヤの様子からも、危機的な問題はなんら見受けられなかった。
一泡吹かされたような気分で、ひとまずイレブンはホッと大きな息を漏らした。
「ごめんなさいねイレブンちゃん。カミュちゃんを元気づけたいって、マヤちゃんが」
「ちょ、シルビアさん! 余計なこと言うなよな! おれはなんもカンケーねえから!」
「あらぁ? そうだったかしら?」
顔を真っ赤にしたマヤが、ゴホンと咳払いをした。シルビアはそんなマヤに、三日月のような形の瞳を向ける。
「あー、なんかおれハラ減ってきた! 飯でも食いに行くかな!」
プイッと顔を背け、マヤがベッドから立ち上がる。
「マヤちゃんのお洋服は、女将ちゃんが洗濯してくれたわよん。お着替えして、サボテンステーキでも食べに行きましょ!」
「おっ、イイね! もちろんシルビアさんのおごりだよな!」
「おかわり自由よ! まかせなさ~い!」
「いししっ! やりぃ~!」
優雅にスキップしながら部屋を出ていくシルビアの後ろを、マヤが雛鳥のようについていく。ふたりが行ってしまうと、まるで嵐が過ぎ去ったかのような静けさが残った。
「……ずいぶん仲良くなったみたいだな、あのふたり」
「そうみてえだな……」
残されたふたりは、自然と顔を見合わせた。
カミュはぎこちなく笑い、「よう、元気か相棒」と言った。
半年ぶりだ。彼の姿を見るのも、声を聞くのも。胸がカッと熱くなる。それでも努めて冷静に、イレブンは笑みを浮かべてうなずいた。
「ああ、ボクは元気だよ」
ベッドに近づき、カミュの方に身体を向けて縁に腰かけた。
額に触れると、記憶にあるよりもわずかに高い熱を感じた。頬もうっすら赤いままだし、なにより、また少し痩せた。
「一体なにがあったんだ?」
イレブンの問いにカミュはバツが悪そうに目を泳がせたが、やがて観念したように経緯を語った。
マヤの不調とその理由。取り乱した自分がとっさにシルビアを頼ったこと。安心して気が抜けたら、張りつめていたものがプツリと切れてしまったことを。
「まったく情けねえったらないぜ。アイツの保護者を気取っておいて、いざってときにこれじゃあな……」
カミュは自嘲気味に笑って肩をすくめた。寝巻きのサイズが少し大きいのか、襟がよれて肩からズリ落ちそうになっている。浮き出た鎖骨となだらかな胸の谷間から、イレブンはさりげなく目をそらした。
「その感じ、ボクにも少し覚えがあるよ」
「そうなのか?」
意外そうに目を丸くしたカミュに、うなずきながら苦笑する。
「子供の頃にね。似た体験をしたことがある。ボクはそういうこと、何も知らなかったから。ただ見てるしかできなくて、悔しかったよ」
ちょうど今のマヤくらいの年頃だった。
泣きそうな顔をしたエマが、今にも倒れそうな足取りで家を訪ねてきた。エマはペルラに小声でなにかを告げ、それだけでペルラはすべてを察したようだった。
ただならぬ雰囲気に、イレブンはエマがなにか恐ろしい病気にでもかかったのかと慌てふためいた。心配であれこれ世話を焼こうとしたら、「イレブンはあっち行ってて!」とエマに怒鳴られた。
その日の夜はエマにベッドを譲り、ヘソを曲げたイレブンは隣の倉庫でふて寝した。
蚊帳の外であることが面白くなかった。自分だけが共有できない何かがある。昨日まではなかったはずの透明な壁。得体の知れない不安と、形を成さない焦燥感があった。
後日、ペルラからエマに起こった身体の変化について教えられた。
男と女。まったく別の生き物として道が分かたれたようで、その生々しさが少し怖かったのを覚えている。ずっと一緒だったのに、置いていかれたようなショックもあった。
だけどきっとエマも同じくらい、あるいはそれ以上に不安だったに違いないと、大人になった今なら思いはかることができる。
そんな子供時代の青い記憶を手繰り寄せ、イレブンは苦笑した。
「だから、キミが取り乱すのもわかる気がする」
カミュはため息交じりに笑った。
「やっぱダメだな、男ってのは。こんなとき、もし女親がいてくれたら……」
珍しく弱音を吐く姿に、彼がどれだけ無力感に苛まれているかがわかる。
カミュはマヤにとって父であり、そして母でもあった。幼い頃からその役割を担い、彼女を守ってきた。それが生きる意味でもあった彼に、子供でいられた時期などない。
マヤを取り戻してからはさらに。二度と失いたくないと、いっそう気を張っていたに違いなかった。その糸が、今回の件でプツリと切れてしまったのだろう。
うなだれるカミュに、イレブンはゆるく首を振ると言った。
「カミュがいなければ、マヤちゃんはもっと大変な思いをしたはずだ。キミがいたから、彼女はああして笑っていられる。今も昔も、これからも。他の誰かじゃダメなんだ」
ぴくんと動いたカミュの肩を、ポンと叩いた。
「だからこそマヤちゃんも、同じくらいカミュのことを思ってる。ボクが今こうしてキミのそばにいることが、なによりの証拠だ」
マヤは必死で誤魔化そうとしていたが、話の流れは丸見えだった。
マヤがシルビアに頼み、シルビアがイレブンに使いを寄越した。会いに来い、と。我儘を言えない兄に代わって、ずっと我儘を通してきた妹が。
「……よしてくれよな。オレ今、結構キちまってんだからさ」
カミュが派手に鼻をすすった。弱っているせいにしたいらしいが、そもそも彼は感動屋で、涙もろいところがあった。目元をぬぐう左手の薬指で、銀の指輪が輝いている。
そのいじらしさに、イレブンはいよいよ堪らない気持ちになった。痩身を抱き寄せ、高めの体温を腕の中に閉じ込めた。
「無事でよかった。キミも、マヤちゃんも」
吐息と共に、しみじみこぼす。
「ぜんぜん顔を見せないし、手紙はいつもデクさん宛てだし。シルビアからの手紙を見て、ボクがどんな気持ちだったか分かるか?」
全身の血液が、一気に足元まで下がって抜け出ていくような心地だった。
知らぬ間に、手の届かない場所で、彼らの身になにかあったら。そんなこと、想像すらしたくない。失いたくないのは、イレブンだって同じだ。
「悪かったよ」
イレブンの肩に目元をうずめて、カミュがまたひとつズビィと鼻をすすった。両腕が背中にまわり、ぎゅうとしがみついてくる。
「これからは、ちょくちょく帰るようにする」
「本当に?」
「うん。手紙も出すよ。お前宛てに」
「そっか。楽しみだな」
本音はすぐにでも連れて帰りたい。どこへも行かず、そばにいてくれと言いたかった。
けれど海鳥のように生きる自由な彼が、どれほど美しいかも知っていた。だから我儘を押し込めて、わずかに身体を離すと立てた小指をさしだした。
「約束」
とびきり優しく微笑んだイレブンに、カミュが照れくさそうに笑った。
そしてしっかりと、小指と小指を絡ませた。
*
イレブンがカミュとマヤを連れてイシの村に帰ったのは、その二日後のことだった。
「へー、いいとこじゃん。なーんにもないド田舎ーって感じでさ」
頭の後ろで両手を組んで、マヤが村の全景を見渡している。
あまり褒められている気はしないが、悪気がないのも分かっているので、イレブンはのほほんと笑ってうなずいた。
「なあイレブン、本当にいいのか?」
カミュとマヤ、ふたりぶんの荷物を担ぐイレブンを、カミュが遠慮がちに見上げてくる。イレブンは「もちろん」と言ってグッと親指を立てた。
今日からしばらくのあいだ、カミュとマヤはこのイシの村に滞在することになった。
あのあと戻ってきたマヤが、
「勇者さまんとこで、しばらくのんびりするのもいいかもな」
なんてことを言いだしたからだ。
熱はすっかり下がったものの、カミュの体調を案じてのことだろう。彼女自身まだフラついていることもあり、のんびりしたいという気持ちも嘘ではなさそうだ。
当然、イレブンは二つ返事で了承した。むしろ願ってもないことだった。少しの期間とはいえ、連れて帰りたいという願いがこうもあっさり叶ってしまったのだから。
「母さんも喜ぶよ。カミュに会いたがっていたから」
「そうか? なら遠慮なく世話になるぜ。ありがとな、イレブン」
「おーい! 勇者さまんちってどこだよー? ちゃんと案内しろよなー!」
遠くでマヤが手を振っている。
イレブンとカミュは顔を見合わせて笑い、ペルラが待つ家に向かった。
「あらあらマヤさん、はじめまして。カミュさんとそっくりだね」
帰宅するとペルラが笑顔で迎えてくれた。
マヤは初対面の相手に緊張した様子で、「ハジメマシテ、です」と言って頭をさげた。
その後、ペルラがシチューを作ってくれた。
エマも焼き立てのケーキを持ってやってきて、みんなでテーブルを囲んだ。
マヤはシチューもケーキも大喜びで目を輝かせていた。その頃にはペルラやエマとも打ち解け、すっかり仲良くなっていた。
食後はエマが村を案内すると言って、マヤを連れだした。
あんたたちものんびりしておいで、と言うペルラの言葉に甘え、イレブンとカミュも散歩に行くことにした。
「カミュ、見てほしいものがあるんだ」
イレブンはカミュを隣の倉庫へ連れて行った。正しくは『倉庫だった場所』にだ。
中に入った途端、カミュは目を丸く見開いた。
「おいおい、どうしたんだこれ? すっかり様変わりしてるじゃねえか」
倉庫は棚や荷物が片付けられており、かまどやテーブル、ベッドまで置かれて立派な居住スペースになっていた。ちなみにベッドはちゃっかりダブルサイズだ。
「少し手狭だけど、倉庫を改造したんだ。キミとボクの家にしたくて」
「オレと、お前の?」
「うん。気に入ってもらえたら嬉しい」
ベッドなどの家具はイレブンが手ずから作ったものだ。いつ帰るとも知れないカミュを待ちながら、いつ帰ってきてもいいようにと準備していた。
こうしておけば、母もいちいち村長の家に泊まりに行かなくて済む。
「ここはボクらで使って、マヤちゃんには母さんと過ごしてもらえたら安心だと思う。もちろん、キミらを縛るつもりはないんだ。ただ時々、ここに帰ってきてもらえたら──」
言い終わらぬうちに、イレブンはぎょっとした。
立ち尽くすカミュの瞳から、ほろほろと涙がこぼれ落ちていたからだ。
「か、カミュ? ごめん、なんの相談もなしに……」
うつむくイレブンに、彼は首を横に振って「ちがう」と言った。
「そうじゃねえんだ。これはその……オレたちのこと、ずっと考えててくれてたんだと思ったら、つい泣けてきちまっただけなんだ。いつ帰ってくるかもわからねえってのに」
「そんなの当たり前だろ!」
イレブンはカミュを引き寄せ、思いきり抱きしめた。
「いつだってキミたちを思ってる。いつだって、ボクの頭はキミのことでいっぱいだ」
「イレブン……」
見つめ合い、涙で揺れる青い瞳に吸い寄せられた。互いに軽く首を傾けてキスをする。
短い口づけのあと、カミュは目線だけをうつむけて赤くなった鼻をすすった。
イレブンは思わず笑いながら額と額をくっつけた。
「キミさ、少し会わないうちに、前より泣き虫になったんじゃないか?」
「うるせえな……」
「ごめん。好きだよ」
「……オレも」
ふたたび唇が合わさろうとしたそのとき、
「ゴホンッ」
咳払いがした。
「「!?」」
ふたり同時にビクンと肩を跳ねさせた。見やった先にはガリガリと頭を掻くマヤが、なんとも複雑そうに顔をしかめてたたずんでいた。
「まま、マヤっ!? み、見てたのか……!?」
「見ちまったよ。見たくもねーもんを。イチャつくならドアくらい閉めとけよな」
カミュは面白いほど表情を青くした。
「ちっ、ちがっ……わないけど、このことは、いつかちゃんと話そうと……」
「バカ兄貴。隠せてるつもりでいたわけ? 勇者の話するたんびにニヤニヤしたり、切なそうな顔しちゃってさ。気色悪いったらなかったぜ」
「まっ、マジか……」
カミュの顔色が、今度は可哀想なほど真っ赤になった。忙しい人だなあと、イレブンはつい笑ってしまった。両手で顔を覆い隠す兄に、妹がやれやれと溜息をついている。
この様子だと、直前まで交わしていた会話もちゃっかり聞かれているだろう。
「マヤちゃん、ごめん。いろいろ勝手に話を進めて」
「別にいーよ。おれも勝手に決めちまったことあるし」
片手をヒラヒラさせながらあしらうマヤに、カミュがようやく顔をあげた。
「決めたって、なにをだ?」
マヤは目を泳がせ、「あー」と小さくうなった。そして言った。
「おれ、メダ女ってとこ行ってもいいぜ」
「なんだって……!? マジかマヤ! お前それマジなのか!?」
カミュが前のめりでマヤに近づき、その両肩をガシッと掴んだ。
「あーもう、うるせえなぁ。マジのマジだよ」
「ついに、ついに制服を着てくれる気になったのか……っ」
感極まったカミュがまた涙ぐんでいる。妹より先に女子用の制服を着る羽目になった兄の感動はひとしおだろう。イレブンは「よかったね」とその背をポンポン叩いてやった。
「だけど、なんだって急に? 少し前まであんなに嫌がってたのに」
マヤはわずかな間のあと、つぶやくような声音で言った。
「おれさ、知らないことが多すぎるんだよな。知らなきゃいけないことっていうか。そりゃ、もっとお宝探しの旅はしてたいけど……たぶん、それだけじゃダメなんだよな」
いつになく真剣な表情に、カミュとイレブンは口を挟むことができなかった。
するとその空気が気恥ずかしくなったのか、マヤは誤魔化すようにニッと笑った。
「なにしろバカ兄貴は頼りになんねーしさ! おれがもっとしっかりしなきゃじゃん?」
「マヤ……っ」
照れ隠しの憎まれ口に、カミュはいよいよ涙を抑えきれなくなっていた。
イレブンは目を細めながら微笑んで、カミュの肩にそっと手を置いた。
「ま、そういうわけだから。おれの気が変わらないうちに頼んだぜ。手続き? とかなんとか、いろいろあるもんなんだろ?」
「よしきた! 兄ちゃんに任しとけ!」
鼻の下をこするカミュの表情に、ようやく強気な笑顔が戻った。
イレブンからも推薦するつもりでいるし、手続きといってもそう難しくはないだろう。
ここぞとばかりに勇者特権を駆使する気満々でいるイレブンを、マヤが探るような瞳でじっと見上げてきた。
「ん、どうかした?」
「あーっと、その……」
なにか言いにくいことでもあるのか、マヤは歯切れの悪い返答で目をそらす。
腰に手をやり、頭を掻く仕草がカミュとダブった。やっぱりこの兄妹はよく似ている。
根気よく待つイレブンに、やがて彼女は言った。
「兄貴だけじゃ心許ないからさ。あんたもおれの保護者2号ってことで」
「!」
次の瞬間、マヤはなにかを吹っ切ったかのように白い歯を見せ、いししっと笑った。
「ひとつよろしく頼むぜ、おにいちゃん!」
そしてイレブンの胸に小さな拳でドスンとパンチした。
「ッ!!」
その強気で無邪気な笑顔に、イレブンは胸を掴まれたような衝撃を覚えた。
マヤはずっとイレブンに対して線を引いていたように思う。けれどそれが今このとき、完全に取り払われたのを感じた。
おにいちゃん。
その響きに、胸がじわりと熱くなる。
言葉にならない感動に、だんだん視界が涙でぼやけてきた。カミュの泣き虫がうつってしまったのだろうか。
イレブンは答える代わりにカミュとマヤ、ふたりを思いっきり両腕に抱きしめた。
「おわっ!? ちょ、なに!?」
「お、おいイレブンお前、まさか泣いてんのか?」
「……うん。嬉しくて……ズビッ」
「マジで!? 恥ずかしすぎだろ! 兄貴こいつなんとかしろよ!」
マヤは顔を耳まで真っ赤にしてジタバタともがいている。
カミュはイレブンの背に腕をまわし、ポンポンとあやすように撫でて笑った。
イレブンはこの愛しい青髪の兄妹を、必ず世界一幸せにすると固く胸に誓うのだった。
よろしく頼むぜ、おにいちゃん・了
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