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Wavebox👏
短編
ぼくらはみんな
片付けが出来ないファイ先生のために頑張る黒鋼先生。G注意。
強引だっていいじゃない
夜のプロレス。
アイテム作戦
↑の続き。悲劇の週末から一週間後。
繋がる条件🔞
↑の続き。
はちみつ
人生初のダイエットに挑むファイ先生。
最後の苺
クリスマスに運悪く出張が入ってしまった黒鋼先生。
強姦志願🔞
鬼畜な黒鋼先生にファイ先生を強姦してもらいました。
ラヴァー・ラビュー
黒鋼先生の観察日記をつけるファイ先生。
素顔のままで
ファイ先生を庇って後頭部を強打した黒鋼先生。
デレをとりもどせ!🔞
↑の続き。黒鋼先生は元のファイ先生を取り戻すことができるのか?
にゃんこのお宿
子猫を拾う黒鋼先生。
甘い幻想🔞
ファイ先生の妄想日記。
恥 辱🔞
↑の続き。ドSなファイ先生と可哀想な黒鋼先生。
Taboo...🔞
↑の続き。双子妄想編。ユゥイ×ファイ寄りのリバ、死ネタを含みます。
君を上手に甘やかせない
初詣に行く二人。
ハツジョウチュウ🔞
珍しくツンなファイ先生と、珍しくやる気満々な黒鋼先生。
絶叫絶頂🔞
夜の繁華街で露出狂に遭遇するファイ先生。
もしもの世界の子供たち 前編 後編
夢の中に出て来たのはどこか見覚えのある家と、可愛い二人の子供たち。
ミラクル愛情クッキング
ファイ先生の愛情たっぷりの料理に、黒鋼先生の反応は?
ジェラシーこじらせて
黒鋼先生のアルバムを見るファイ先生。そこに女性の影が。
F.N.D.S
馴れ初め。タイトルの意味は「ふんどし」です。
S.I.K.I
↑の続き。タイトルの意味は「再会」です。
森のクマさん恐怖症
妙な恐怖症を発症するユゥイ先生。治療と称して悪質なドッキリを仕掛けるファイ先生と、道連れにされる黒鋼先生。※一部ホラー、グロ表現があり。
僕のお嫁さんを紹介します🔞
黒鋼先生の里帰りについて行くファイ先生。
そして彼らは潰される。
どうして黒鋼先生は甘いものが嫌いなんだろう?※僕のお嫁さん~とリンクしています。
思い出ぽろり+おまけ
黒鋼先生の実家から送られてきた宝の山。※僕のお嫁さん~とリンクしています。
ドMのために鐘は鳴る(R15)
真夏の夜の殴り愛。
君が泣いても嬲るのをやめない🔞
最近アソコの様子がなにやらおかしい…。
調教玩具🔞
欲求不満をこじらせたファイ先生。
きよしこの夜★神頼み
クリスマスイヴに風邪をひくファイ先生。
さよならごめんねチョコレート(R15)
ファイ先生から別れを切りだされる黒鋼先生。
いっぱい強がる君が好き
風邪をひいた黒鋼先生を看病するため、ファイ先生が頑張る話。
淫香の誘惑🔞
貧乏学生の黒鋼と、そのアパートに転がり込んでくるファイ。
SとMの境界線🔞
上↑の続き。
長編
幼馴染if🔞
閉鎖的な田舎町を舞台にした現パロ。村八分にあうファイと、ちょっとヘタレなガキ大将黒鋼が出会ってから結ばれるまでの話。
幼年期、少年期、青年期の三部構成です。モブもたくさん出ます。
注※一部に暴力、流血、動物および人の死を扱う描写、黒鋼×女性キャラ要素あり。
第一章: 01 02 03 04 05 06 07 08 09
第二章: 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10
第三章: 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15
番外編
1.今も昔も
2.夜の花、道祖神
赤い糸にお願い!
女運最悪の泣き虫大学生ファイと、お坊ちゃん高校生黒鋼の話。
番外編はほんのり小龍×ユゥイです。
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13
番外編・寒椿(龍ユゥイ)
Lost in Water🔞
ある観光地へ旅行へ行く二人。初めて訪れたはずのその場所を、なぜか懐かしいと感じる黒鋼。
※死ネタ(メリバ)
※読む人を選びます。なんでも許せる方のみご覧ください。
01 02 03 04 05 06
蜻蛉の記憶🔞
交通事故で記憶障害を患ったファイと、それを支え続ける黒鋼。二人だけの静かで淡々とした日常の話。※ユゥイが亡くなってます。
01 02 03 04 05 06
青空しか見えない🔞
体育教師の黒鋼と謎の養護教諭ファイ。
※ややグロテスクな表現、死を扱う表現が含まれます。
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13
物憂いの月🔞
とある洋館の一室で目覚めたファイは、全ての記憶を失っていた。記憶喪失のファイと、庭師黒鋼の話。
※黒鋼×ユゥイ有り。死を扱う表現も含まれます。
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16
905号室の怪🔞
引っ越したばかりのマンションの一室で、夜な夜な起こる怪異。燃えるような恋をして、『彼』は消えてしまうらしい。not死ネタ。
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
下剋上7years・初恋編
歳の差7歳。ショタ黒鋼と隣に住むファイお兄さんの出会い。
01 02 03 04 05
下剋上7years・下剋上編🔞
大人になった黒鋼とファイお兄さんが結ばれるまで。ストーカーに狙われるファイ。
※モブファイ要素あり(未遂)
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13
箱庭遊び
喫茶『猫の目』は双子のオーナーが経営する雑貨カフェ。駆け出し記者の黒鋼は、取材のため訪れたその店で一人の『子供』と出会う。
※ファイさんの過去に一部暴力的なシーン有り。
※龍ユゥイ要素も含まれます。
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10

Wavebox👏
ぼくらはみんな
片付けが出来ないファイ先生のために頑張る黒鋼先生。G注意。
強引だっていいじゃない
夜のプロレス。
アイテム作戦
↑の続き。悲劇の週末から一週間後。
繋がる条件🔞
↑の続き。
はちみつ
人生初のダイエットに挑むファイ先生。
最後の苺
クリスマスに運悪く出張が入ってしまった黒鋼先生。
強姦志願🔞
鬼畜な黒鋼先生にファイ先生を強姦してもらいました。
ラヴァー・ラビュー
黒鋼先生の観察日記をつけるファイ先生。
素顔のままで
ファイ先生を庇って後頭部を強打した黒鋼先生。
デレをとりもどせ!🔞
↑の続き。黒鋼先生は元のファイ先生を取り戻すことができるのか?
にゃんこのお宿
子猫を拾う黒鋼先生。
甘い幻想🔞
ファイ先生の妄想日記。
恥 辱🔞
↑の続き。ドSなファイ先生と可哀想な黒鋼先生。
Taboo...🔞
↑の続き。双子妄想編。ユゥイ×ファイ寄りのリバ、死ネタを含みます。
君を上手に甘やかせない
初詣に行く二人。
ハツジョウチュウ🔞
珍しくツンなファイ先生と、珍しくやる気満々な黒鋼先生。
絶叫絶頂🔞
夜の繁華街で露出狂に遭遇するファイ先生。
もしもの世界の子供たち 前編 後編
夢の中に出て来たのはどこか見覚えのある家と、可愛い二人の子供たち。
ミラクル愛情クッキング
ファイ先生の愛情たっぷりの料理に、黒鋼先生の反応は?
ジェラシーこじらせて
黒鋼先生のアルバムを見るファイ先生。そこに女性の影が。
F.N.D.S
馴れ初め。タイトルの意味は「ふんどし」です。
S.I.K.I
↑の続き。タイトルの意味は「再会」です。
森のクマさん恐怖症
妙な恐怖症を発症するユゥイ先生。治療と称して悪質なドッキリを仕掛けるファイ先生と、道連れにされる黒鋼先生。※一部ホラー、グロ表現があり。
僕のお嫁さんを紹介します🔞
黒鋼先生の里帰りについて行くファイ先生。
そして彼らは潰される。
どうして黒鋼先生は甘いものが嫌いなんだろう?※僕のお嫁さん~とリンクしています。
思い出ぽろり+おまけ
黒鋼先生の実家から送られてきた宝の山。※僕のお嫁さん~とリンクしています。
ドMのために鐘は鳴る(R15)
真夏の夜の殴り愛。
君が泣いても嬲るのをやめない🔞
最近アソコの様子がなにやらおかしい…。
調教玩具🔞
欲求不満をこじらせたファイ先生。
きよしこの夜★神頼み
クリスマスイヴに風邪をひくファイ先生。
さよならごめんねチョコレート(R15)
ファイ先生から別れを切りだされる黒鋼先生。
いっぱい強がる君が好き
風邪をひいた黒鋼先生を看病するため、ファイ先生が頑張る話。
淫香の誘惑🔞
貧乏学生の黒鋼と、そのアパートに転がり込んでくるファイ。
SとMの境界線🔞
上↑の続き。
幼馴染if🔞
閉鎖的な田舎町を舞台にした現パロ。村八分にあうファイと、ちょっとヘタレなガキ大将黒鋼が出会ってから結ばれるまでの話。
幼年期、少年期、青年期の三部構成です。モブもたくさん出ます。
注※一部に暴力、流血、動物および人の死を扱う描写、黒鋼×女性キャラ要素あり。
第一章: 01 02 03 04 05 06 07 08 09
第二章: 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10
第三章: 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15
番外編
1.今も昔も
2.夜の花、道祖神
赤い糸にお願い!
女運最悪の泣き虫大学生ファイと、お坊ちゃん高校生黒鋼の話。
番外編はほんのり小龍×ユゥイです。
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13
番外編・寒椿(龍ユゥイ)
Lost in Water🔞
ある観光地へ旅行へ行く二人。初めて訪れたはずのその場所を、なぜか懐かしいと感じる黒鋼。
※死ネタ(メリバ)
※読む人を選びます。なんでも許せる方のみご覧ください。
01 02 03 04 05 06
蜻蛉の記憶🔞
交通事故で記憶障害を患ったファイと、それを支え続ける黒鋼。二人だけの静かで淡々とした日常の話。※ユゥイが亡くなってます。
01 02 03 04 05 06
青空しか見えない🔞
体育教師の黒鋼と謎の養護教諭ファイ。
※ややグロテスクな表現、死を扱う表現が含まれます。
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13
物憂いの月🔞
とある洋館の一室で目覚めたファイは、全ての記憶を失っていた。記憶喪失のファイと、庭師黒鋼の話。
※黒鋼×ユゥイ有り。死を扱う表現も含まれます。
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16
905号室の怪🔞
引っ越したばかりのマンションの一室で、夜な夜な起こる怪異。燃えるような恋をして、『彼』は消えてしまうらしい。not死ネタ。
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
下剋上7years・初恋編
歳の差7歳。ショタ黒鋼と隣に住むファイお兄さんの出会い。
01 02 03 04 05
下剋上7years・下剋上編🔞
大人になった黒鋼とファイお兄さんが結ばれるまで。ストーカーに狙われるファイ。
※モブファイ要素あり(未遂)
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13
箱庭遊び
喫茶『猫の目』は双子のオーナーが経営する雑貨カフェ。駆け出し記者の黒鋼は、取材のため訪れたその店で一人の『子供』と出会う。
※ファイさんの過去に一部暴力的なシーン有り。
※龍ユゥイ要素も含まれます。
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10
14
「ありがとう。話してくれて」
彼の声が途切れたころ、雨は小雨になっていた。バタバタと叩きつけるようだった音が、サラサラと包み込むようなものに変わっている。
喋りすぎてしまったとばかりに、甲洋は軽くうなだれた。重く息をつく仕草は、自身に嫌気がさしているようにも見える。
だけど操は嬉しかった。彼の口から、ようやく翔子の話を聞けたことが。
その記憶は悲しくて、切ないばかりであるはずなのに、どこかみずみずしくもあった。彼が翔子に向けた想いは、操が甲洋に向けるものと似ているような、そんな気がする。
『クゥン……』
気づけば甲洋の足元に、ショコラが姿を現していた。行儀よくお座りをして、今の主人を気遣わしげに見上げている。
ふと、操はもたげた疑問に首をかしげた。
「ねぇ、ショコラはどうしてショコラなの? お姉ちゃんはプクって名前をつけたんでしょ?」
操の問いかけに、甲洋はそっけなく「さぁ」と言って目を背けるだけだった。
「勝手に名前変えちゃったの? なんで?」
その複雑な心境などつゆ知らず、操はさらに問いを重ねた。すると甲洋が小さく咳払いをして、ショコラがすっくと立ち上がる。
「うわっ、待って! 分かった! 多分ぼく聞いちゃダメなこと聞いた! もう聞かないから!」
慌てる操に、ショコラはフンッと鼻息を漏らした。その一連のやり取りがよほど可笑しかったのか、甲洋が思わずといった様子でふっと笑みを漏らし、ショコラの頭を両手でくしゃくしゃと撫でている。
それを見て、操は思いきり頬を膨らませた。甲洋の頬を両手で挟み、無理やり顔をこちらに向かせる。
「な、なに?」
「ねぇっ、ぼくにも笑ってよ! ショコラばっかりズルいよ!」
「ズルいって……」
「だっていっつもショコラばっかりなんだもん!」
急に癇癪を起こしたようになっている操に、甲洋がきょとんとした顔をした。何度もパチパチとまばたきをしたあと、糸が切れたようにふっと噴きだす。
「ほんと、変なタヌキだな」
肩を揺らして笑う姿に、操は目を丸くした。その笑顔はどこかあどけなさがあり、まるで少年に返ったかのようだった。一騎と野山を駆け回っていたころ、彼はきっとこんなふうに笑っていたのだ。
「嬉しい。やっとぼくに笑ってくれた!」
「わかったから、もういいだろ」
困ったように眉をハの字にした甲洋が、頬にかかっている手を外そうとする。けれど操はイタズラっ子のように「へへ」と笑って、ぐっと顔を近づけた。
「ッ、……!」
一瞬だけ唇同士が触れ合ったあと、彼は石のように固まった。唖然とした顔がちょっと間抜けにも見えて、こういう表情もいいなと思う。
「忘れないからね」
瞳を細めてささやくと、みるみる赤くなっていく頬を開放した。そして心の中にとめどなく溢れるものを、そのままの形で言葉に乗せる。
「ぼく、甲洋のことが好き!」
いちばん伝えたかったのはこれだったのだと、このときやっと気がついた。甲洋が翔子を想ったように、操は彼のことが大好きだ。里から逃げだすことなく、世界を知らないままだったなら、きっとこの感情には出会えなかった。
(やっぱりここに来てよかった!)
軽やかにベンチから腰を上げ、泣き止んだばかりの空の下へ飛びだした。雨に濡れた夏草が、むせ返るほど濃く青々とした香りを立ち上らせている。空を覆う雲は白く輝き、陽の光の気配を感じさせていた。
澄んだ空気に深呼吸をすると、操は両手を後ろへやりながら振り返る。
「甲洋。ぼく、山に帰るよ」
「ぇ……?」
「友達が心配して迎えに来てくれたんだ。だから、一緒に帰ることにした」
呆然としていた甲洋が、なにかを言いかけたように少しだけ唇を震わせた。
「帰ったら、たぶんもうここには二度と来られない。だけどその前に、みんなの記憶を封印することになってるんだ。だからぼくはここにいなかったことになる。君もお母さんも、誰も痛くならないようにして行くから……安心して」
もう思い残すことはないはずなのに、込み上げる寂しさに目頭が熱くなるのを感じた。きっとこれから、何度でも思いだしてはこんな気持ちになるんだろう。
それでもぜんぶ持っていくと決めたから、泣くのをこらえて笑顔を浮かべた。
「君に会えてよかった。今までありがとう……元気でね!」
言うだけ言うと、くるりと背を向けて歩きだす。けれどすぐに「来主!」という声に呼び止められて、右の手首が掴まれる。驚いて振り返ると、そこにはひどく追いつめられたような表情があった。
「……俺は、」
「甲洋?」
「俺はたぶん、忘れないよ」
「え?」
「来主のことを、ずっと覚えてる」
あまりにも切実な眼差しに、操は目をパチクリさせたあと小さく笑った。
「君なら、本当に覚えててくれそうな気がするよ」
いくら操が未熟な化け狸でも、普通の人間くらいは簡単に化かせていたはずだ。けれど甲洋が相手だとそうはいかなかった。だからもしかしたら、彼なら真矢の術だって跳ね返してしまうかもしれない。
「でも、忘れないと痛いままだよ。君はよく知ってるはずでしょ?」
甲洋はうつむくと、空いているほうの手で自分の胸を強く押さえた。握った拳を震わせて、まつ毛を伏せながら下唇を噛み締めている。
「そこ、痛いの?」
操が思わず問いかけると、彼は「うん」とうなずいて弱々しい笑みを浮かべた。
「とっくに痛いよ。心を動かすのは、やっぱり怖いな」
言うやいなや、甲洋は操の手を引いて抱き寄せた。その勢いで脱げてしまった麦わら帽子が、ふわりと漂いながら濡れた地面に落ちていく。
「あっ……!」
帽子に気を取られる操の身体を、甲洋がさらに強く抱きしめた。身動きひとつ取れないまま、密着する体温に頬がカァッと熱を持つ。
目を白黒させる操のふかふかな耳元で、彼は「だから嫌だったんだ」と絞り出すような声で言った。
「誰かを好きになるのも、期待するのも」
「甲洋……」
「俺が欲しいと思った人たちは、みんな俺を置いていなくなる。俺の気持ちなんか、知りもしないで」
声はひどく掠れて、その身体は怯えたように震えている。
出会った頃、彼はただ息をするだけの人形のようだった。心を殺して、誰にも動かされないように。そうやって生きてきたはずの甲洋が、今は不器用に感情を発露させている。もどかしさにも似た胸の苦しさに、操は息ができなくなった。
「……行くな」
低く紡がれた言葉に、皮膚が痺れたようになる。
「行くなよ来主。俺を置いて、どこにも行くな」
それはあの日、少年だった甲洋が言えなかったこと。臆病なまま大人になった彼は、巡り巡ってようやくその言葉を口にした。
操は呆然としながらも、胸が激しく震えるような感覚を味わった。彼と仲直りをしたら、本当はそれ以上なにも言わずに去るつもりだった。だけど操は彼との時間を共有し、最後にわざわざ別れを告げた。それはきっと引き止めてほしかったからなのだと、今さらになって気がついた。
「でもっ、でもぼく……こんなだし。こんな、中途半端な姿で……」
人にもなれず、ましてやタヌキにも戻れない。こんな宙ぶらりんな状態で、理由もなくいつまでも人里にとどまるべきではない。総士と真矢の言い分を頭の中で反芻し、操のなかに迷いが生じる。
甲洋の言葉が嬉しくてしかたないのに、どうしたらいいか分からなくなってしまった。
「来主はどうしたい?」
「ぼ、ぼくは……」
すると甲洋がわずかに身体を離し、操の瞳を覗き込みながら言い放った。
「俺は来主と一緒にいたい。だから、帰したくないと思ってる」
心をあらわにした甲洋には、もはや一切の躊躇がなかった。彼は実に単純で、なおかつ明確な理由を口にしたのだ。一緒にいたいから──たったそれだけのことでいいのなら、操のなかにだってとっくの昔に答えは出ている。
走りだした気持ちを止めることなく、操は「ぼくも!」と声をあげていた。
「君と一緒にいたいから、だから、帰りたくない!」
甲洋は一瞬だけ目を見開き、それからじわりと滲むように顔をほころばせた。操の身体を再び抱きしめ、「俺も来主が好きだよ」と、語尾を震わせながら言う。
操は舞い上がるような思いで「うん」とうなずき、その背中を強く抱き返した。
そのときふと、遠くの方でなにかがふわりと揺れた気がした。甲洋の肩越し。雲間からさす光の柱に照らされて、写真でしか見たことがない少女がたたずんでいる。風に揺れるワンピース。白い手で麦わら帽子を押さえながら、彼女は花が咲いたように微笑んで、やがてゆっくりと姿を消した。
「──甲洋」
溢れてきた涙に頬を濡らして、その名を呼ぶと腕の力がわずかに緩む。甲洋の指先が、そっと涙をぬぐってくれた。操はくすぐったさに肩をすくめて、笑いながら「なんでもない」と首を振った。
「君がここにいてくれてよかったって、そう思っただけ」
限りなく夏に近い秋の日差しが、二人の上に降り注ぐ。雨上がりの風に髪をなびかせ、甲洋がどこか懐かしそうに瞳を細めて微笑んだ。
ここに来てよかった。そして、彼と出会えてよかった。家に帰ったら翔子に会えたことを、大好きな母に報告しよう。それから、真矢とちゃんと話をしないと。
これからのことを思いながら、操はぐんと伸びをして甲洋に口づけた。
*
その夜、操は美羽たちに里に帰らない意思を伝えた。
場所は甲洋の店で、あらかじめ総士にも事の成り行きを話した上で、立ち会ってもらうことにした。彼の理解を得られたのはとても心強かった。総士が人里にとどまる理由も、操と似たり寄ったりだったからだろう。
話し合いは思いのほかすんなり終わった。
勘がいい真矢は、薄々こうなることを予見していたのかもしれない。「皆城くんがいるなら」と、渋々ではあるが最大の譲歩をしてくれた。当の総士は勝手に操のお目付け役に任命されて、「どうして僕が」とこめかみを押さえていた。
帰り際、「もう会えないの?」と涙ぐむ美羽に、操も少し泣きそうになった。
少なくとも元の姿に戻れるようになるまでは、里帰りすらままならない。だけどいつか必ずまた会おうと約束すると、美羽は笑顔で操の頬にキスをしてくれた。
そして二匹は里に帰っていった。
──それから数日後のこと。
「あれ? お母さん、なにしてるの?」
庭でクーと日向ぼっこをして戻ってくると、自室で容子が翔子のタンスを開け、取りだした中身を床に積み重ねているところだった。
「翔子の服を整理してるのよ。着ないものはよそに寄付しようかと思って」
「寄付? あげちゃうってこと?」
「そうよ。ずっと入れっぱなしじゃ、お洋服だって可哀想でしょう?」
「でもそれ、ぜんぶ翔子お姉ちゃんの形見でしょ?」
操は腰を下ろしている容子の隣に自分も座り、並んでいる衣服を見やる。すると容子はいちど目を閉じ、「いいのよ」と言って晴れやかな笑顔を浮かべた。
「そろそろ前を向いて歩かないとね」
「お母さん……」
「あなたも、着たいものがあったら選んで分けておいてちょうだい」
「……うん。わかった!」
先日、操は翔子と会ったことを容子に話した。笑ってたよと伝えたら、彼女は嬉しそうに涙を滲ませていた。忘れずにいることと、縛られ続けることはまるで違っていて、容子のなかでそれが一つの区切りになったのかもしれない。
その笑顔は出会った頃よりもずっと明るくて、とても綺麗だと操は思った。
「ところで、今夜も甲洋くんのところへ行くの?」
床に積まれた服の中から、しっぽが隠せそうなものを物色しながら「うん」とうなずく。ここ数日は毎晩のように甲洋のところへ遊びに行っているのだが、こっそり家を抜け出そうとしていたところを、容子に見つかってしまった。だからそれ以来、出かけるときはあらかじめ言っておくようになった。
「あまり遅くなってはダメよ」
容子が心配そうに眉根を寄せている。
「大丈夫だよ。いつも日付が変わる前には──あ、」
そこでふと気がついた。日付が変わるまでには帰るように心がけているが、今夜は物の怪喫茶の営業日だ。操は今日からバイトとして手伝うことになっている。丑三つ時を過ぎるまで営業するため、余裕で0時は超えてしまう。
どうしようかなと思ったが、すぐにまぁいいやと思い直した。
「これから遅くなる日は、甲洋んとこに泊めてもらうよ!」
「勝手に決めたらご迷惑になるわよ」
「へーきへーき! たぶんダメって言わないし!」
「この子ったら……」
翔子の衣類を膝の上でたたみ直しながら、容子が「あとで甲洋くんに電話しておかないと」と独り言を漏らしている。もしかしてこういうのを過保護というのかもしれないと、操はつい思ってしまった。
*
「コーヒーとジュース、それからケーキお待ちどうさま!」
夜、操は初めてのバイトに勤しんでいた。
物の怪喫茶ではしっぽも耳も隠さなくていい。いつも通りの服装に、支給された黒いエプロンをするだけだ。接客はいつも甲洋がしているのを観察していたこともあり、特に苦労するということはなかった。
二人がけの席には女性の幽霊が向かい合って座っていた。会話をしているわけではなさそうだが、どことなく楽しそうに身体を揺らしている。
片方は顔が隠れるほど長い黒髪をしており、白いワンピースを着ていた。もう片方は血に染まったワンピースを着ていて、その足元に小学生くらいの男の子が、パンツ一丁で体育座りしている。三人ともこの店の常連だ。
なにかの映画でVSしてそうだなぁ、なんて思いつつカウンター席の方に戻ると、別の席に品物を運び終えた甲洋が戻ってきて、「お疲れ」と言ってくれた。
「甲洋もお疲れ様!」
操はニッコリ笑うと、背伸びをしてそのほっぺたにキスをした。すると甲洋に「こら」と言われて、顔を手で押さえられてしまう。
「なんでぇ?」
「営業中はダメだ」
「ちぇー」
美羽にしてもらったのが嬉しかったから、同じことをしただけなのに。ぶぅと唇を尖らせたが、気を取り直して「じゃあ終わったらいいの?」と聞いてみた。
「……いいよ」
甲洋は短く答えると目を泳がせた。厨房に立つウサ耳男はこちらに背を向け、今夜も訪れるであろう化け狐のために、お稲荷さんを作っている。席をいっぱいに埋めている物の怪たちは、ドリンクとフードに夢中でこちらをいっさい気にしていない。足元にいる犬神は明後日の方を見て、くぁ、と大きな欠伸をしている。
それらを確認した甲洋に、肩をグイッと抱き寄せられた。あっ、と目を丸くする操のタヌキ耳に、甘ったるいささやき声が吹き込まれる。
「そのときは、俺からするから」
彼はそれだけ言うと、すぐに身体を離して厨房へ手伝いに行ってしまった。髪の隙間からのぞく耳たぶが、ほんのり赤くなっているのが見える。
吐息の感触が残る耳を手で押さえ、操はポカンとしながら顔を赤らめた。心臓がものすごい速さでドキドキしている。最近ではすっかり慣れたと思っていたお香の匂いで、頭が少しクラクラしてきた。
「……うん、待ってるね」
操はしっぽをゆらゆらと左右に揺らし、へにゃんと笑ってうなずいた。
物ノ怪喫茶子狸譚 / 了
←戻る ・ Wavebox👏
「ありがとう。話してくれて」
彼の声が途切れたころ、雨は小雨になっていた。バタバタと叩きつけるようだった音が、サラサラと包み込むようなものに変わっている。
喋りすぎてしまったとばかりに、甲洋は軽くうなだれた。重く息をつく仕草は、自身に嫌気がさしているようにも見える。
だけど操は嬉しかった。彼の口から、ようやく翔子の話を聞けたことが。
その記憶は悲しくて、切ないばかりであるはずなのに、どこかみずみずしくもあった。彼が翔子に向けた想いは、操が甲洋に向けるものと似ているような、そんな気がする。
『クゥン……』
気づけば甲洋の足元に、ショコラが姿を現していた。行儀よくお座りをして、今の主人を気遣わしげに見上げている。
ふと、操はもたげた疑問に首をかしげた。
「ねぇ、ショコラはどうしてショコラなの? お姉ちゃんはプクって名前をつけたんでしょ?」
操の問いかけに、甲洋はそっけなく「さぁ」と言って目を背けるだけだった。
「勝手に名前変えちゃったの? なんで?」
その複雑な心境などつゆ知らず、操はさらに問いを重ねた。すると甲洋が小さく咳払いをして、ショコラがすっくと立ち上がる。
「うわっ、待って! 分かった! 多分ぼく聞いちゃダメなこと聞いた! もう聞かないから!」
慌てる操に、ショコラはフンッと鼻息を漏らした。その一連のやり取りがよほど可笑しかったのか、甲洋が思わずといった様子でふっと笑みを漏らし、ショコラの頭を両手でくしゃくしゃと撫でている。
それを見て、操は思いきり頬を膨らませた。甲洋の頬を両手で挟み、無理やり顔をこちらに向かせる。
「な、なに?」
「ねぇっ、ぼくにも笑ってよ! ショコラばっかりズルいよ!」
「ズルいって……」
「だっていっつもショコラばっかりなんだもん!」
急に癇癪を起こしたようになっている操に、甲洋がきょとんとした顔をした。何度もパチパチとまばたきをしたあと、糸が切れたようにふっと噴きだす。
「ほんと、変なタヌキだな」
肩を揺らして笑う姿に、操は目を丸くした。その笑顔はどこかあどけなさがあり、まるで少年に返ったかのようだった。一騎と野山を駆け回っていたころ、彼はきっとこんなふうに笑っていたのだ。
「嬉しい。やっとぼくに笑ってくれた!」
「わかったから、もういいだろ」
困ったように眉をハの字にした甲洋が、頬にかかっている手を外そうとする。けれど操はイタズラっ子のように「へへ」と笑って、ぐっと顔を近づけた。
「ッ、……!」
一瞬だけ唇同士が触れ合ったあと、彼は石のように固まった。唖然とした顔がちょっと間抜けにも見えて、こういう表情もいいなと思う。
「忘れないからね」
瞳を細めてささやくと、みるみる赤くなっていく頬を開放した。そして心の中にとめどなく溢れるものを、そのままの形で言葉に乗せる。
「ぼく、甲洋のことが好き!」
いちばん伝えたかったのはこれだったのだと、このときやっと気がついた。甲洋が翔子を想ったように、操は彼のことが大好きだ。里から逃げだすことなく、世界を知らないままだったなら、きっとこの感情には出会えなかった。
(やっぱりここに来てよかった!)
軽やかにベンチから腰を上げ、泣き止んだばかりの空の下へ飛びだした。雨に濡れた夏草が、むせ返るほど濃く青々とした香りを立ち上らせている。空を覆う雲は白く輝き、陽の光の気配を感じさせていた。
澄んだ空気に深呼吸をすると、操は両手を後ろへやりながら振り返る。
「甲洋。ぼく、山に帰るよ」
「ぇ……?」
「友達が心配して迎えに来てくれたんだ。だから、一緒に帰ることにした」
呆然としていた甲洋が、なにかを言いかけたように少しだけ唇を震わせた。
「帰ったら、たぶんもうここには二度と来られない。だけどその前に、みんなの記憶を封印することになってるんだ。だからぼくはここにいなかったことになる。君もお母さんも、誰も痛くならないようにして行くから……安心して」
もう思い残すことはないはずなのに、込み上げる寂しさに目頭が熱くなるのを感じた。きっとこれから、何度でも思いだしてはこんな気持ちになるんだろう。
それでもぜんぶ持っていくと決めたから、泣くのをこらえて笑顔を浮かべた。
「君に会えてよかった。今までありがとう……元気でね!」
言うだけ言うと、くるりと背を向けて歩きだす。けれどすぐに「来主!」という声に呼び止められて、右の手首が掴まれる。驚いて振り返ると、そこにはひどく追いつめられたような表情があった。
「……俺は、」
「甲洋?」
「俺はたぶん、忘れないよ」
「え?」
「来主のことを、ずっと覚えてる」
あまりにも切実な眼差しに、操は目をパチクリさせたあと小さく笑った。
「君なら、本当に覚えててくれそうな気がするよ」
いくら操が未熟な化け狸でも、普通の人間くらいは簡単に化かせていたはずだ。けれど甲洋が相手だとそうはいかなかった。だからもしかしたら、彼なら真矢の術だって跳ね返してしまうかもしれない。
「でも、忘れないと痛いままだよ。君はよく知ってるはずでしょ?」
甲洋はうつむくと、空いているほうの手で自分の胸を強く押さえた。握った拳を震わせて、まつ毛を伏せながら下唇を噛み締めている。
「そこ、痛いの?」
操が思わず問いかけると、彼は「うん」とうなずいて弱々しい笑みを浮かべた。
「とっくに痛いよ。心を動かすのは、やっぱり怖いな」
言うやいなや、甲洋は操の手を引いて抱き寄せた。その勢いで脱げてしまった麦わら帽子が、ふわりと漂いながら濡れた地面に落ちていく。
「あっ……!」
帽子に気を取られる操の身体を、甲洋がさらに強く抱きしめた。身動きひとつ取れないまま、密着する体温に頬がカァッと熱を持つ。
目を白黒させる操のふかふかな耳元で、彼は「だから嫌だったんだ」と絞り出すような声で言った。
「誰かを好きになるのも、期待するのも」
「甲洋……」
「俺が欲しいと思った人たちは、みんな俺を置いていなくなる。俺の気持ちなんか、知りもしないで」
声はひどく掠れて、その身体は怯えたように震えている。
出会った頃、彼はただ息をするだけの人形のようだった。心を殺して、誰にも動かされないように。そうやって生きてきたはずの甲洋が、今は不器用に感情を発露させている。もどかしさにも似た胸の苦しさに、操は息ができなくなった。
「……行くな」
低く紡がれた言葉に、皮膚が痺れたようになる。
「行くなよ来主。俺を置いて、どこにも行くな」
それはあの日、少年だった甲洋が言えなかったこと。臆病なまま大人になった彼は、巡り巡ってようやくその言葉を口にした。
操は呆然としながらも、胸が激しく震えるような感覚を味わった。彼と仲直りをしたら、本当はそれ以上なにも言わずに去るつもりだった。だけど操は彼との時間を共有し、最後にわざわざ別れを告げた。それはきっと引き止めてほしかったからなのだと、今さらになって気がついた。
「でもっ、でもぼく……こんなだし。こんな、中途半端な姿で……」
人にもなれず、ましてやタヌキにも戻れない。こんな宙ぶらりんな状態で、理由もなくいつまでも人里にとどまるべきではない。総士と真矢の言い分を頭の中で反芻し、操のなかに迷いが生じる。
甲洋の言葉が嬉しくてしかたないのに、どうしたらいいか分からなくなってしまった。
「来主はどうしたい?」
「ぼ、ぼくは……」
すると甲洋がわずかに身体を離し、操の瞳を覗き込みながら言い放った。
「俺は来主と一緒にいたい。だから、帰したくないと思ってる」
心をあらわにした甲洋には、もはや一切の躊躇がなかった。彼は実に単純で、なおかつ明確な理由を口にしたのだ。一緒にいたいから──たったそれだけのことでいいのなら、操のなかにだってとっくの昔に答えは出ている。
走りだした気持ちを止めることなく、操は「ぼくも!」と声をあげていた。
「君と一緒にいたいから、だから、帰りたくない!」
甲洋は一瞬だけ目を見開き、それからじわりと滲むように顔をほころばせた。操の身体を再び抱きしめ、「俺も来主が好きだよ」と、語尾を震わせながら言う。
操は舞い上がるような思いで「うん」とうなずき、その背中を強く抱き返した。
そのときふと、遠くの方でなにかがふわりと揺れた気がした。甲洋の肩越し。雲間からさす光の柱に照らされて、写真でしか見たことがない少女がたたずんでいる。風に揺れるワンピース。白い手で麦わら帽子を押さえながら、彼女は花が咲いたように微笑んで、やがてゆっくりと姿を消した。
「──甲洋」
溢れてきた涙に頬を濡らして、その名を呼ぶと腕の力がわずかに緩む。甲洋の指先が、そっと涙をぬぐってくれた。操はくすぐったさに肩をすくめて、笑いながら「なんでもない」と首を振った。
「君がここにいてくれてよかったって、そう思っただけ」
限りなく夏に近い秋の日差しが、二人の上に降り注ぐ。雨上がりの風に髪をなびかせ、甲洋がどこか懐かしそうに瞳を細めて微笑んだ。
ここに来てよかった。そして、彼と出会えてよかった。家に帰ったら翔子に会えたことを、大好きな母に報告しよう。それから、真矢とちゃんと話をしないと。
これからのことを思いながら、操はぐんと伸びをして甲洋に口づけた。
*
その夜、操は美羽たちに里に帰らない意思を伝えた。
場所は甲洋の店で、あらかじめ総士にも事の成り行きを話した上で、立ち会ってもらうことにした。彼の理解を得られたのはとても心強かった。総士が人里にとどまる理由も、操と似たり寄ったりだったからだろう。
話し合いは思いのほかすんなり終わった。
勘がいい真矢は、薄々こうなることを予見していたのかもしれない。「皆城くんがいるなら」と、渋々ではあるが最大の譲歩をしてくれた。当の総士は勝手に操のお目付け役に任命されて、「どうして僕が」とこめかみを押さえていた。
帰り際、「もう会えないの?」と涙ぐむ美羽に、操も少し泣きそうになった。
少なくとも元の姿に戻れるようになるまでは、里帰りすらままならない。だけどいつか必ずまた会おうと約束すると、美羽は笑顔で操の頬にキスをしてくれた。
そして二匹は里に帰っていった。
──それから数日後のこと。
「あれ? お母さん、なにしてるの?」
庭でクーと日向ぼっこをして戻ってくると、自室で容子が翔子のタンスを開け、取りだした中身を床に積み重ねているところだった。
「翔子の服を整理してるのよ。着ないものはよそに寄付しようかと思って」
「寄付? あげちゃうってこと?」
「そうよ。ずっと入れっぱなしじゃ、お洋服だって可哀想でしょう?」
「でもそれ、ぜんぶ翔子お姉ちゃんの形見でしょ?」
操は腰を下ろしている容子の隣に自分も座り、並んでいる衣服を見やる。すると容子はいちど目を閉じ、「いいのよ」と言って晴れやかな笑顔を浮かべた。
「そろそろ前を向いて歩かないとね」
「お母さん……」
「あなたも、着たいものがあったら選んで分けておいてちょうだい」
「……うん。わかった!」
先日、操は翔子と会ったことを容子に話した。笑ってたよと伝えたら、彼女は嬉しそうに涙を滲ませていた。忘れずにいることと、縛られ続けることはまるで違っていて、容子のなかでそれが一つの区切りになったのかもしれない。
その笑顔は出会った頃よりもずっと明るくて、とても綺麗だと操は思った。
「ところで、今夜も甲洋くんのところへ行くの?」
床に積まれた服の中から、しっぽが隠せそうなものを物色しながら「うん」とうなずく。ここ数日は毎晩のように甲洋のところへ遊びに行っているのだが、こっそり家を抜け出そうとしていたところを、容子に見つかってしまった。だからそれ以来、出かけるときはあらかじめ言っておくようになった。
「あまり遅くなってはダメよ」
容子が心配そうに眉根を寄せている。
「大丈夫だよ。いつも日付が変わる前には──あ、」
そこでふと気がついた。日付が変わるまでには帰るように心がけているが、今夜は物の怪喫茶の営業日だ。操は今日からバイトとして手伝うことになっている。丑三つ時を過ぎるまで営業するため、余裕で0時は超えてしまう。
どうしようかなと思ったが、すぐにまぁいいやと思い直した。
「これから遅くなる日は、甲洋んとこに泊めてもらうよ!」
「勝手に決めたらご迷惑になるわよ」
「へーきへーき! たぶんダメって言わないし!」
「この子ったら……」
翔子の衣類を膝の上でたたみ直しながら、容子が「あとで甲洋くんに電話しておかないと」と独り言を漏らしている。もしかしてこういうのを過保護というのかもしれないと、操はつい思ってしまった。
*
「コーヒーとジュース、それからケーキお待ちどうさま!」
夜、操は初めてのバイトに勤しんでいた。
物の怪喫茶ではしっぽも耳も隠さなくていい。いつも通りの服装に、支給された黒いエプロンをするだけだ。接客はいつも甲洋がしているのを観察していたこともあり、特に苦労するということはなかった。
二人がけの席には女性の幽霊が向かい合って座っていた。会話をしているわけではなさそうだが、どことなく楽しそうに身体を揺らしている。
片方は顔が隠れるほど長い黒髪をしており、白いワンピースを着ていた。もう片方は血に染まったワンピースを着ていて、その足元に小学生くらいの男の子が、パンツ一丁で体育座りしている。三人ともこの店の常連だ。
なにかの映画でVSしてそうだなぁ、なんて思いつつカウンター席の方に戻ると、別の席に品物を運び終えた甲洋が戻ってきて、「お疲れ」と言ってくれた。
「甲洋もお疲れ様!」
操はニッコリ笑うと、背伸びをしてそのほっぺたにキスをした。すると甲洋に「こら」と言われて、顔を手で押さえられてしまう。
「なんでぇ?」
「営業中はダメだ」
「ちぇー」
美羽にしてもらったのが嬉しかったから、同じことをしただけなのに。ぶぅと唇を尖らせたが、気を取り直して「じゃあ終わったらいいの?」と聞いてみた。
「……いいよ」
甲洋は短く答えると目を泳がせた。厨房に立つウサ耳男はこちらに背を向け、今夜も訪れるであろう化け狐のために、お稲荷さんを作っている。席をいっぱいに埋めている物の怪たちは、ドリンクとフードに夢中でこちらをいっさい気にしていない。足元にいる犬神は明後日の方を見て、くぁ、と大きな欠伸をしている。
それらを確認した甲洋に、肩をグイッと抱き寄せられた。あっ、と目を丸くする操のタヌキ耳に、甘ったるいささやき声が吹き込まれる。
「そのときは、俺からするから」
彼はそれだけ言うと、すぐに身体を離して厨房へ手伝いに行ってしまった。髪の隙間からのぞく耳たぶが、ほんのり赤くなっているのが見える。
吐息の感触が残る耳を手で押さえ、操はポカンとしながら顔を赤らめた。心臓がものすごい速さでドキドキしている。最近ではすっかり慣れたと思っていたお香の匂いで、頭が少しクラクラしてきた。
「……うん、待ってるね」
操はしっぽをゆらゆらと左右に揺らし、へにゃんと笑ってうなずいた。
物ノ怪喫茶子狸譚 / 了
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13
色づきはじめた稲穂の海を、トンボの群れが飛び交っている。
盛夏に比べて勢いを失くしたセミの声に、少し高くなった淡い空。二つの季節が交わる中を、操は甲洋と手を繋いでのんびりと歩いてまわった。
初めのうちは居心地が悪そうにしていた彼も、操がまったく手を離す気配がないことを知ると、すっかり諦めてしまったらしい。いつしか緩く握り返してくれるようになっていた。
「ねぇ、君はここでどんな遊びをしていたの?」
行く先々で操が問えば、彼はポツリポツリと思い出話を聞かせてくれた。
神社で一騎たちとかくれんぼをしたことや、紙飛行機を飛ばしながら走ったススキの原っぱ。川辺の崖下には洞穴があり、そこを秘密基地にしてキャンプをしたこと。どれもが胸をくすぐる話ばかりで、操の興味は尽きることを知らなかった。
「虫採りは? カブトムシとか、クワガタとか。人間の子供は好きでしょ?」
「よく採ったよ。神社が一番いいスポットだった」
「じゃあさ、田んぼは? 網でガサガサしたりした?」
まっすぐに伸びた車道には、両脇に田んぼの用水路が流れている。操は初めて人里におりたときに見た、子供たちが楽しそうに遊ぶ姿を思いだしていた。
すると甲洋が「ああ」と短く頷いて立ち止まり、水路の方へ目を向ける。
「俺は釣る方が好きだったけど」
「釣る?」
「ザリガニとか、テナガエビとか」
「エビ? 凄いや、田んぼにエビがいるんだ!」
うん、と頷きながら、甲洋が手を繋いだまましゃがみ込む。操も引っ張られるようにしてちょこんとしゃがんだ。
二人して水路を覗き込み、なにか生き物がいないか探しはじめる。じっと目を凝らしてみたが、水が濁っているせいか見つけることはできなかった。だけど仕掛けを垂らせば、きっとなにかしらは掛かるのだろう。
(いいなぁ、楽しそう。ぼくもやってみたかったな)
もし人間としてここに生まれていたら、自分も甲洋と一緒に子供時代を過ごすことができたのだろうか。きっとまだまだ、操の知らない遊びがたくさんあるに違いない。想像するだけでウキウキと胸が踊った。
「今度やってみようか?」
「……えっ?」
「今の時期なら、まだ狙えるよ」
甲洋が水路を見つめたまま言った。あまりにも自然な誘い方に、操は瞳をキラキラさせながら「やる!」と即答してしまう。だけどすぐに自分の立場を思いだし、しょんぼりとうなだれた。
「……ごめん。やっぱいいや」
「来主?」
操は甲洋の手を離すと立ち上がった。不思議そうに見上げてくる視線には、気づかないふりをして。するとポツポツと小さな雨が降ってきて、コンクリートに黒いシミを作りはじめた。
「雨? さっきまで晴れてたのに」
「通り雨だ。あそこに行こう」
甲洋は立ち上がると、遠くのほうを指差した。見通しのいい道の先に、バスの待合所が見える。二人は雨足が強まる前に、走ってそこまで移動した。
こじんまりとした木造の待合所は、木のベンチが設置されているだけの簡素な作りだった。トタンの屋根は錆びており、時の流れを感じさせる。
「危なかったぁ。ワンピースがびしょ濡れになるところだったよ」
足を踏み入れたところで、本格的に降りだした雨が激しくトタンを叩きはじめた。雨雲が去っていくまでは、ここでおとなしく待つしかないらしい。二人は並んでベンチに腰掛けると、けぶる景色をぼんやりと眺め続けた。
「……翔子と」
しばらくそうしていると、ふいに甲洋が呟いた。その横顔に目をやると、彼は口を滑らせただけだと言わんばかりにかぶりを振った。
「なに? 気になるよ」
「なんでもない」
「言いかけたことは最後まで言ってよ」
ぶぅと唇を尖らせた操に、甲洋は前を向いたまま視線だけわずかにうつむけた。
「別に、楽しい話じゃないよ」
「いいよ。君とお姉ちゃんのことが知りたいんだ」
彼が月命日に訪れたとき、翔子のことを問いかけた操はショコラに叱られてしまった。あのときの甲洋には、いっさい答える気がなかったのだろう。
だけど今、彼は自ら語りだそうとした。その心の結び目に、やっと触れることを許されたような、そんな気がして嬉しくなる。
操は彼の気が変わらないように、じっと息をひそめてその横顔を見つめ続けた。
「……まだ、中学生だった頃の話だよ」
やがて雨音だけが降り積もるなか、甲洋はようやく重い口を開きはじめた。ひとつひとつ言葉を探すようにしながら、羽佐間翔子との思い出を語りはじめる。
「今日みたいに暑い日だった。放課後、急に雨が降りだした。俺は傘を持っていなくて──」
*
「春日井くん」
どしゃ降りの雨のなか、昇降口から飛びだした甲洋の背中に、ふいに声がかけられた。足を止めて振り返れば、そこには羽佐間翔子の姿がある。水色のワンピース姿で、手には花柄の傘を持っていた。
「羽佐間? まだ帰ってなかったのか?」
図書室に立ち寄っていた甲洋は、彼女がまだ居残っていたことに驚いた。
翔子はこくんと頷きながら、傘をさしてやってくる。雨のなか目を丸くする甲洋を傘に入れ、「一緒に帰ろ」と言って笑顔を見せた。
「い、いいよ。俺はもうずぶ濡れだし」
「でも、風邪ひいたら大変だから」
生まれつき持病を抱えており、学校を休みがちな翔子の言葉には重みがあった。彼女の場合、少しの風邪でも命取りになりかねない。だからそれ以上はなにも言えず、甲洋はありがたく親切を受けることにした。
「ありがとう、羽佐間」
「うぅん。いつも助けてもらってるのは私の方だもの」
「いいって、そんなこと気にしなくても……あ、傘、よかったら俺が持つよ」
「ありがとう」
引き受けた傘の手元をできるだけ彼女の方に寄せ、しっかり雨が遮られるようにした。自分の肩はハミ出ていたが、どうせとっくに濡れている。そんなことより、翔子が濡れないことの方が重要だった。
「……羽佐間。もしかして、またなんか言われた?」
身体が触れ合わないように注意して歩きながら、甲洋はおずおずと問いかけた。
さっきからずっと、彼女の瞳が充血していることには気がついていた。強くこすってしまったのか、まぶたまで赤くなっている。
翔子は肩を落としてうつむきながら、困ったように少し笑った。
「嘘つきって、言われちゃった」
「……」
「でも、私は大丈夫」
彼女はよくクラスの男子にからかわれている。幽霊だとか、妖怪だとか、そういう不思議なものが視えてしまう体質のことを。
甲洋はいつも虫よけのごとく彼女を庇っていたが、見ていないすきにまたちょっかいをかけられたのだろう。図書室になんか行かなければよかったと後悔しながら、チラリと横目で翔子を見やった。
小さな歩幅の隣には、黒い毛並みの犬が寄り添っている。傘の外にいるはずなのに、まったく濡れている様子がない。まるでそこだけ別次元であるかのように。
翔子はこの不思議な犬のことをとても可愛がっていた。けれど誰にもその姿が視えていないため、彼女の行動は不可解なものにしか映らないだろう。
だけど甲洋には視えている。自分も同じ体質を持っているからだ。けれどそのことは、まだ誰にも言ったことがない。翔子にすら打ち明けていないことだった。
小さな頃に一度だけ、両親の気を引きたくて話したことがあったが、「気味が悪い」と吐き捨てられるだけだった。そのときのことが頭に残り、以来どうしても自分の話をするのが苦手になった。
「……なぁ羽佐間」
「なに?」
ふいに足を止めた甲洋に、翔子が不思議そうに小首をかしげる。
今までずっと黙っていたことを、甲洋はこのとき初めて彼女に打ち明けてみることにした。二人きりで話す機会なんてそうそうない。両親の反応を思いだすと怖かったが、勇気を振り絞って口を開いた。
「その子、いつも一緒にいるだろ。黒くて、立派な犬」
「!」
甲洋は彼女に寄り添う黒い犬の姿を見つめた。犬は甲洋と目が合うと、「ワウッ」と小さくひと鳴きする。
「春日井くん、プクのことが視えてるの?」
「プク?」
興奮しているのか、翔子が頬を染めながら嬉しそうにうなずいた。
「将陵先輩の犬から名前をもらったの。小さい頃、うちで少しのあいだ預かっていたこともあったから」
将陵僚は甲洋たちの先輩だ。彼も翔子と同じ病を抱えており、通っている病院でよく顔を合わせる機会があったらしい。
プクというのは彼の愛犬の名だった。ブリタニー・スパニエルの老犬で、甲洋も何度か遊んだことがある。けれど数年前、プクは老衰で虹の橋を渡ってしまった。
翔子と僚の繋がりに、甲洋はモヤモヤとした気持ちになった。けれど翔子がズイッと正面から距離をつめてくるので、それどころではなくなってしまう。
「春日井くん、本当に? 本当に、プクのことが視えてるの?」
「う、うん。ずっと視えてた。俺も羽佐間と同じだよ」
「嬉しい……私の他にも、プクが視える人がいたなんて!」
翔子は感極まったように肩をすくめ、瞳をうるませながら喜んでいた。こんなことなら、もっと早くに打ち明けておけばよかったと思う。
「ごめんな。ずっと黙ってて」
「うぅん。だから春日井くんは、いつも私のことを助けてくれてたんだね」
「別に、だからってわけじゃ……」
たとえ視えていなくても、甲洋は同じように彼女を庇っただろう。視えるとか視えないとか、信じるとか信じないとか、そんなものは抜きにして。
「と、とにかくさ。羽佐間が嘘つきじゃないってこと、俺はちゃんと分かってる。だからその……これからも、俺が羽佐間のこと守るから!」
顔を赤くして言った甲洋に、翔子は「ありがとう」と言いながら少しだけうつむいた。
「でもね」
「うん」
「私、本当に平気なの。ほんの少しだけ泣いちゃったけど……平気だったの」
意味がわからずに首をかしげていると、翔子がか細い声で「一騎くんが」と言って頬を染めた。
「やめろよって、言ってくれたの。男の子たちに」
モジモジと身体を揺らす仕草に、肩透かしを食らったような気分になった。
あっさりとした態度で、男子たちをいなす一騎の姿が目に浮かぶ。いつも率先して止めに入る甲洋がいないから、代わりを務めてくれたのだろうか。
(なんだよ、一騎のやつ……)
本当は感謝すべきところなのかもしれないけれど。自分の精一杯の言葉より、一騎の何気ない行動のほうに頬を染める翔子を見て、またモヤモヤとした面白くない気持ちになった。
「あ、見て。春日井くん」
密かに唇を尖らせていた甲洋は、翔子の声にふと顔をあげた。小枝のような指先が、空の向こうを指している。
「虹が出てる。雨、もうすぐ止むみたい」
気づけば雨足が弱まっていた。雲間から青空が顔を覗かせ、はるか遠くに虹をかけている。どこかで羽を休めていた鳥たちが、いっせいに羽ばたいていくのが見えた。
「綺麗だな……私も、いつかあんなふうに自由に空を飛んでみたいな……」
鮮やかに移り変わっていく景色のなかで、翔子の瞳はキラキラとした輝きを帯びていた。水たまりに映る夏の空。草木をなぞりながら光を放つ雨のつゆ。無邪気な横顔がまぶたに焼きつき、その眩しさに目がくらみそうになる。
「あのね、私の名前、空を羽ばたいていけるくらい元気な子になりますようにって、お母さんがつけてくれたの。だから私も──」
憧憬に濡れた瞳の先に、翔子はクラスメイトの少年の姿を思い描いている。この空を飛び越えて、会いに行きたいと願うのも。
甲洋は、ただそれを眺めていることしかできない。置き去りにされた子供のように、わーっと叫びだしたい気持ちを押し込めた。
「素敵な名前だと思うよ。羽佐間なら、空を飛ぶくらいできそうな気がする」
「ほんと?」
「うん。そうなったら、俺なんかじゃ追いつけないな。きっと」
すると翔子は口に手を当て、楽しげにふふっと笑って肩を揺らした。
「いいの。追いついちゃダメだから」
「え、どうして?」
「春日井くんは、ここにいて」
雨はすっかり止んでいる。翔子は傘を閉じるとニッコリ笑って、「またね」と言った。分かれ道。彼女は自分の家に向かって歩きだす。プクがどこか名残惜しそうにこちらを見ていたが、すぐに走って翔子に追いついた。
甲洋は右手で胸のあたりをぎゅっと掴んだ。どうしてかまた、置き去りにされたような気持ちになった。
「羽佐間!」
行くな、と口走りそうになるのをこらえて、とっさに呼び止めた。振り向いた彼女は、少しきょとんとしながら首をかしげる。
「あ、その……あのさ」
「?」
「……俺も呼んでいいかな。翔子、って」
すると翔子はくすぐったそうに肩をすくめて、「うん」とうなずいた。
「またな、翔子!」
甲洋の胸に、ようやく晴れ間がさしこんだ。笑顔で手を振りながら、彼女の背中が小さくなっていくのをいつまでも見つめ続ける。
その瞳が誰を映していても、守りたいと思った気持ちは本当だ。追い続けていたら、いつかは届く日だって来るかもしれない。そんな淡い期待が、甲洋にとっての希望になった。
──その翌年、彼女が本当に手の届かない場所へ逝ってしまうまでは。
翔子は息を引き取るほんの少し前、甲洋にプクを託した。誰にも姿が視えないのは、きっと寂しいから。もし私がいなくなったら、プクをお願い──と。
縁起でもないことを言う翔子を、甲洋は賢明に励まし続けた。けれどその頃にはもう、彼女はベッドからほとんど起き上がれなくなっていた。
数日後、それは彼女の遺言になってしまった。
甲洋は翔子の魂を必死で探しまわった。自分の目なら、死後の彼女に一目でも会うことができるはずだと。だけどその姿はどこにも見当たらなかった。
羽根の一枚も残さずに、甲洋を置き去りにして。翔子はなんの迷いもなく空を飛び越えていったのだ。
彼女がいない世界に、甲洋は生きる価値を失った。けれど追いかけていきたいと思うたび、彼女の言葉が脳裏をかすめる。
──春日井くんは、ここにいて。
雨上がりの空の下。あれもまた、翔子が残した遺言の一つだったのだ。
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色づきはじめた稲穂の海を、トンボの群れが飛び交っている。
盛夏に比べて勢いを失くしたセミの声に、少し高くなった淡い空。二つの季節が交わる中を、操は甲洋と手を繋いでのんびりと歩いてまわった。
初めのうちは居心地が悪そうにしていた彼も、操がまったく手を離す気配がないことを知ると、すっかり諦めてしまったらしい。いつしか緩く握り返してくれるようになっていた。
「ねぇ、君はここでどんな遊びをしていたの?」
行く先々で操が問えば、彼はポツリポツリと思い出話を聞かせてくれた。
神社で一騎たちとかくれんぼをしたことや、紙飛行機を飛ばしながら走ったススキの原っぱ。川辺の崖下には洞穴があり、そこを秘密基地にしてキャンプをしたこと。どれもが胸をくすぐる話ばかりで、操の興味は尽きることを知らなかった。
「虫採りは? カブトムシとか、クワガタとか。人間の子供は好きでしょ?」
「よく採ったよ。神社が一番いいスポットだった」
「じゃあさ、田んぼは? 網でガサガサしたりした?」
まっすぐに伸びた車道には、両脇に田んぼの用水路が流れている。操は初めて人里におりたときに見た、子供たちが楽しそうに遊ぶ姿を思いだしていた。
すると甲洋が「ああ」と短く頷いて立ち止まり、水路の方へ目を向ける。
「俺は釣る方が好きだったけど」
「釣る?」
「ザリガニとか、テナガエビとか」
「エビ? 凄いや、田んぼにエビがいるんだ!」
うん、と頷きながら、甲洋が手を繋いだまましゃがみ込む。操も引っ張られるようにしてちょこんとしゃがんだ。
二人して水路を覗き込み、なにか生き物がいないか探しはじめる。じっと目を凝らしてみたが、水が濁っているせいか見つけることはできなかった。だけど仕掛けを垂らせば、きっとなにかしらは掛かるのだろう。
(いいなぁ、楽しそう。ぼくもやってみたかったな)
もし人間としてここに生まれていたら、自分も甲洋と一緒に子供時代を過ごすことができたのだろうか。きっとまだまだ、操の知らない遊びがたくさんあるに違いない。想像するだけでウキウキと胸が踊った。
「今度やってみようか?」
「……えっ?」
「今の時期なら、まだ狙えるよ」
甲洋が水路を見つめたまま言った。あまりにも自然な誘い方に、操は瞳をキラキラさせながら「やる!」と即答してしまう。だけどすぐに自分の立場を思いだし、しょんぼりとうなだれた。
「……ごめん。やっぱいいや」
「来主?」
操は甲洋の手を離すと立ち上がった。不思議そうに見上げてくる視線には、気づかないふりをして。するとポツポツと小さな雨が降ってきて、コンクリートに黒いシミを作りはじめた。
「雨? さっきまで晴れてたのに」
「通り雨だ。あそこに行こう」
甲洋は立ち上がると、遠くのほうを指差した。見通しのいい道の先に、バスの待合所が見える。二人は雨足が強まる前に、走ってそこまで移動した。
こじんまりとした木造の待合所は、木のベンチが設置されているだけの簡素な作りだった。トタンの屋根は錆びており、時の流れを感じさせる。
「危なかったぁ。ワンピースがびしょ濡れになるところだったよ」
足を踏み入れたところで、本格的に降りだした雨が激しくトタンを叩きはじめた。雨雲が去っていくまでは、ここでおとなしく待つしかないらしい。二人は並んでベンチに腰掛けると、けぶる景色をぼんやりと眺め続けた。
「……翔子と」
しばらくそうしていると、ふいに甲洋が呟いた。その横顔に目をやると、彼は口を滑らせただけだと言わんばかりにかぶりを振った。
「なに? 気になるよ」
「なんでもない」
「言いかけたことは最後まで言ってよ」
ぶぅと唇を尖らせた操に、甲洋は前を向いたまま視線だけわずかにうつむけた。
「別に、楽しい話じゃないよ」
「いいよ。君とお姉ちゃんのことが知りたいんだ」
彼が月命日に訪れたとき、翔子のことを問いかけた操はショコラに叱られてしまった。あのときの甲洋には、いっさい答える気がなかったのだろう。
だけど今、彼は自ら語りだそうとした。その心の結び目に、やっと触れることを許されたような、そんな気がして嬉しくなる。
操は彼の気が変わらないように、じっと息をひそめてその横顔を見つめ続けた。
「……まだ、中学生だった頃の話だよ」
やがて雨音だけが降り積もるなか、甲洋はようやく重い口を開きはじめた。ひとつひとつ言葉を探すようにしながら、羽佐間翔子との思い出を語りはじめる。
「今日みたいに暑い日だった。放課後、急に雨が降りだした。俺は傘を持っていなくて──」
*
「春日井くん」
どしゃ降りの雨のなか、昇降口から飛びだした甲洋の背中に、ふいに声がかけられた。足を止めて振り返れば、そこには羽佐間翔子の姿がある。水色のワンピース姿で、手には花柄の傘を持っていた。
「羽佐間? まだ帰ってなかったのか?」
図書室に立ち寄っていた甲洋は、彼女がまだ居残っていたことに驚いた。
翔子はこくんと頷きながら、傘をさしてやってくる。雨のなか目を丸くする甲洋を傘に入れ、「一緒に帰ろ」と言って笑顔を見せた。
「い、いいよ。俺はもうずぶ濡れだし」
「でも、風邪ひいたら大変だから」
生まれつき持病を抱えており、学校を休みがちな翔子の言葉には重みがあった。彼女の場合、少しの風邪でも命取りになりかねない。だからそれ以上はなにも言えず、甲洋はありがたく親切を受けることにした。
「ありがとう、羽佐間」
「うぅん。いつも助けてもらってるのは私の方だもの」
「いいって、そんなこと気にしなくても……あ、傘、よかったら俺が持つよ」
「ありがとう」
引き受けた傘の手元をできるだけ彼女の方に寄せ、しっかり雨が遮られるようにした。自分の肩はハミ出ていたが、どうせとっくに濡れている。そんなことより、翔子が濡れないことの方が重要だった。
「……羽佐間。もしかして、またなんか言われた?」
身体が触れ合わないように注意して歩きながら、甲洋はおずおずと問いかけた。
さっきからずっと、彼女の瞳が充血していることには気がついていた。強くこすってしまったのか、まぶたまで赤くなっている。
翔子は肩を落としてうつむきながら、困ったように少し笑った。
「嘘つきって、言われちゃった」
「……」
「でも、私は大丈夫」
彼女はよくクラスの男子にからかわれている。幽霊だとか、妖怪だとか、そういう不思議なものが視えてしまう体質のことを。
甲洋はいつも虫よけのごとく彼女を庇っていたが、見ていないすきにまたちょっかいをかけられたのだろう。図書室になんか行かなければよかったと後悔しながら、チラリと横目で翔子を見やった。
小さな歩幅の隣には、黒い毛並みの犬が寄り添っている。傘の外にいるはずなのに、まったく濡れている様子がない。まるでそこだけ別次元であるかのように。
翔子はこの不思議な犬のことをとても可愛がっていた。けれど誰にもその姿が視えていないため、彼女の行動は不可解なものにしか映らないだろう。
だけど甲洋には視えている。自分も同じ体質を持っているからだ。けれどそのことは、まだ誰にも言ったことがない。翔子にすら打ち明けていないことだった。
小さな頃に一度だけ、両親の気を引きたくて話したことがあったが、「気味が悪い」と吐き捨てられるだけだった。そのときのことが頭に残り、以来どうしても自分の話をするのが苦手になった。
「……なぁ羽佐間」
「なに?」
ふいに足を止めた甲洋に、翔子が不思議そうに小首をかしげる。
今までずっと黙っていたことを、甲洋はこのとき初めて彼女に打ち明けてみることにした。二人きりで話す機会なんてそうそうない。両親の反応を思いだすと怖かったが、勇気を振り絞って口を開いた。
「その子、いつも一緒にいるだろ。黒くて、立派な犬」
「!」
甲洋は彼女に寄り添う黒い犬の姿を見つめた。犬は甲洋と目が合うと、「ワウッ」と小さくひと鳴きする。
「春日井くん、プクのことが視えてるの?」
「プク?」
興奮しているのか、翔子が頬を染めながら嬉しそうにうなずいた。
「将陵先輩の犬から名前をもらったの。小さい頃、うちで少しのあいだ預かっていたこともあったから」
将陵僚は甲洋たちの先輩だ。彼も翔子と同じ病を抱えており、通っている病院でよく顔を合わせる機会があったらしい。
プクというのは彼の愛犬の名だった。ブリタニー・スパニエルの老犬で、甲洋も何度か遊んだことがある。けれど数年前、プクは老衰で虹の橋を渡ってしまった。
翔子と僚の繋がりに、甲洋はモヤモヤとした気持ちになった。けれど翔子がズイッと正面から距離をつめてくるので、それどころではなくなってしまう。
「春日井くん、本当に? 本当に、プクのことが視えてるの?」
「う、うん。ずっと視えてた。俺も羽佐間と同じだよ」
「嬉しい……私の他にも、プクが視える人がいたなんて!」
翔子は感極まったように肩をすくめ、瞳をうるませながら喜んでいた。こんなことなら、もっと早くに打ち明けておけばよかったと思う。
「ごめんな。ずっと黙ってて」
「うぅん。だから春日井くんは、いつも私のことを助けてくれてたんだね」
「別に、だからってわけじゃ……」
たとえ視えていなくても、甲洋は同じように彼女を庇っただろう。視えるとか視えないとか、信じるとか信じないとか、そんなものは抜きにして。
「と、とにかくさ。羽佐間が嘘つきじゃないってこと、俺はちゃんと分かってる。だからその……これからも、俺が羽佐間のこと守るから!」
顔を赤くして言った甲洋に、翔子は「ありがとう」と言いながら少しだけうつむいた。
「でもね」
「うん」
「私、本当に平気なの。ほんの少しだけ泣いちゃったけど……平気だったの」
意味がわからずに首をかしげていると、翔子がか細い声で「一騎くんが」と言って頬を染めた。
「やめろよって、言ってくれたの。男の子たちに」
モジモジと身体を揺らす仕草に、肩透かしを食らったような気分になった。
あっさりとした態度で、男子たちをいなす一騎の姿が目に浮かぶ。いつも率先して止めに入る甲洋がいないから、代わりを務めてくれたのだろうか。
(なんだよ、一騎のやつ……)
本当は感謝すべきところなのかもしれないけれど。自分の精一杯の言葉より、一騎の何気ない行動のほうに頬を染める翔子を見て、またモヤモヤとした面白くない気持ちになった。
「あ、見て。春日井くん」
密かに唇を尖らせていた甲洋は、翔子の声にふと顔をあげた。小枝のような指先が、空の向こうを指している。
「虹が出てる。雨、もうすぐ止むみたい」
気づけば雨足が弱まっていた。雲間から青空が顔を覗かせ、はるか遠くに虹をかけている。どこかで羽を休めていた鳥たちが、いっせいに羽ばたいていくのが見えた。
「綺麗だな……私も、いつかあんなふうに自由に空を飛んでみたいな……」
鮮やかに移り変わっていく景色のなかで、翔子の瞳はキラキラとした輝きを帯びていた。水たまりに映る夏の空。草木をなぞりながら光を放つ雨のつゆ。無邪気な横顔がまぶたに焼きつき、その眩しさに目がくらみそうになる。
「あのね、私の名前、空を羽ばたいていけるくらい元気な子になりますようにって、お母さんがつけてくれたの。だから私も──」
憧憬に濡れた瞳の先に、翔子はクラスメイトの少年の姿を思い描いている。この空を飛び越えて、会いに行きたいと願うのも。
甲洋は、ただそれを眺めていることしかできない。置き去りにされた子供のように、わーっと叫びだしたい気持ちを押し込めた。
「素敵な名前だと思うよ。羽佐間なら、空を飛ぶくらいできそうな気がする」
「ほんと?」
「うん。そうなったら、俺なんかじゃ追いつけないな。きっと」
すると翔子は口に手を当て、楽しげにふふっと笑って肩を揺らした。
「いいの。追いついちゃダメだから」
「え、どうして?」
「春日井くんは、ここにいて」
雨はすっかり止んでいる。翔子は傘を閉じるとニッコリ笑って、「またね」と言った。分かれ道。彼女は自分の家に向かって歩きだす。プクがどこか名残惜しそうにこちらを見ていたが、すぐに走って翔子に追いついた。
甲洋は右手で胸のあたりをぎゅっと掴んだ。どうしてかまた、置き去りにされたような気持ちになった。
「羽佐間!」
行くな、と口走りそうになるのをこらえて、とっさに呼び止めた。振り向いた彼女は、少しきょとんとしながら首をかしげる。
「あ、その……あのさ」
「?」
「……俺も呼んでいいかな。翔子、って」
すると翔子はくすぐったそうに肩をすくめて、「うん」とうなずいた。
「またな、翔子!」
甲洋の胸に、ようやく晴れ間がさしこんだ。笑顔で手を振りながら、彼女の背中が小さくなっていくのをいつまでも見つめ続ける。
その瞳が誰を映していても、守りたいと思った気持ちは本当だ。追い続けていたら、いつかは届く日だって来るかもしれない。そんな淡い期待が、甲洋にとっての希望になった。
──その翌年、彼女が本当に手の届かない場所へ逝ってしまうまでは。
翔子は息を引き取るほんの少し前、甲洋にプクを託した。誰にも姿が視えないのは、きっと寂しいから。もし私がいなくなったら、プクをお願い──と。
縁起でもないことを言う翔子を、甲洋は賢明に励まし続けた。けれどその頃にはもう、彼女はベッドからほとんど起き上がれなくなっていた。
数日後、それは彼女の遺言になってしまった。
甲洋は翔子の魂を必死で探しまわった。自分の目なら、死後の彼女に一目でも会うことができるはずだと。だけどその姿はどこにも見当たらなかった。
羽根の一枚も残さずに、甲洋を置き去りにして。翔子はなんの迷いもなく空を飛び越えていったのだ。
彼女がいない世界に、甲洋は生きる価値を失った。けれど追いかけていきたいと思うたび、彼女の言葉が脳裏をかすめる。
──春日井くんは、ここにいて。
雨上がりの空の下。あれもまた、翔子が残した遺言の一つだったのだ。
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12
翌日。
次の金曜まで待てない操は甲洋に会いに行くため、耳としっぽを隠すのによさそうな服を探していた。
「あっ、これいい! 帽子がついてるし!」
部屋の中央にペタリと座って、収納ボックスから薄手の長袖パーカーを取りだす。衣料品が詰まった大きなケースは容子が用意してくれたもので、中に入っている衣類や下着も彼女が買い与えてくれたものだ。
「でも下はどうしよう?」
操が持っているのはズボンばかりで、容子がわざわざしっぽを通すために穴を作ってくれている。ふかふかの大きなしっぽを隠すには、どれもゆとりがないものばかりだ。
「……あっ、そうだ!」
ふと閃いて、勢いよく立ち上がると洋服タンスに近づいた。ここには翔子の衣類が入っているため、今まで一度も触れたことはない。しかしお目当てのものを探すため、少し迷ったが開けてみることにした。
「あった!」
すると真っ先に探しものが見つかった。それはリビングにある写真立ての中で、翔子が着用していたのと同じ水色のワンピースだった。これだけ丈が長くてヒラヒラしてれば、難なくしっぽを隠せるだろう。
操はワンピースを取りだすと、部屋を飛びだして一階に向かった。
「お母さんお母さん! ぼくこれ着てもいい!?」
リビングでは窓際の床に腰をおろした容子が、陽の光を浴びながら洗濯物を畳んでいた。彼女は忙しなくやってきた操に目を丸くして、さらにその手にワンピースがあるのを見ると、いっそう驚いた様子で瞬きをした。
「あなたそれ、ワンピースよ? 女の子のお洋服なのだけど……」
「ダメ? ぼくがこれ着たら変かな?」
隣にちょこんと座った操が上目遣いを向けると、容子は「ふふっ」と肩を揺らして小さく笑った。
「あなたが着たいなら、いいと思うわ」
「ほんと? やったー!」
万歳をした操だったが、すぐにハッと気がついた。これはあくまでも翔子のワンピースなのだ。容子が許しても、はたして彼女はどうだろう。さんざん部屋を好き勝手に使っておいて、今さらのような気もするけれど。
「どうかしたの?」
急に黙り込んでうつむいた操の顔を、容子が首を傾げて覗き込んでくる。
「あのねお母さん。ぼくがこれ着て、翔子お姉ちゃんはどう思うかな?」
「お姉ちゃん……?」
操はこくりと頷いた。
「あなたはぼくのお母さんになってくれた人だから。お母さんは翔子のお母さんでもあるでしょ? だから翔子はぼくのお姉ちゃんだよ」
見開かれた容子の瞳が、じわりと濡れて揺れた気がした。彼女はどこか切なそうに微笑むと、操の膝にあるワンピースへと視線を落とす。懐かしそうに目を細め、やがて静かに息をつくと口を開いた。
「翔子はね、私と血の繋がりがあるわけではないの」
「そうなの?」
ええ、と容子が頷いた。
「実の娘のように思っていたわ。その気持ちは今でも変わらない。だけど──」
容子はいったん言葉を切ると、悲しげにその瞳を伏せてしまう。
「私はそんな大切な娘の心に、寄り添うことができなかった」
──お母さんあのね、私のそばには、いつも黒くて可愛いわんちゃんがいるの。私の大切なお友達なのよ!
──どうしてお母さんには視えないの? どうして私だけ、みんなと違うの?
──私があなたの、本当の子供じゃないから?
まつ毛を震わせる彼女は、どこか遠くに想いを馳せている様子だった。大切に胸の奥にしまい込んでいた痛みの欠片に、ひとつひとつ触れては確かめるように。
「私の中にはずっと負い目があったのよ。同じものを視て、感じて、喜びや悲しみを共有できたならどんなにいいか。いつからか、あの子がどんどん遠くなっていくような気さえして……母親として、私はそんな自分が許せなかった」
容子は顔をあげると操を見つめた。ふわふわの耳がある頭を優しく撫でて、瞳を細めながら微笑んだ。
「でもね、操」
「うん。なぁに? お母さん」
「あなたを見つけたとき、とても嬉しかった。翔子が視ていた世界に、ようやく触れることができた気がして。私が離してしまったあの子の手を、あなたがもういちど繋いでくれたように思えるの。本当に感謝しているわ」
容子の指先はポカポカしていてくすぐったい。操は肩をすくめて笑いながら、耳をピクンと跳ねさせた。
(ぼく、ここに来てよかった)
動機はとても不純なものだった。人を化かすことで自分に自信をつけたくて。バカにしてくる奴らを、どうにかして見返してやりたくて。化け狸のくせにまともに術が使えない操は、里でもどこか身の置き所がないような気がしていた。だから本当は、ただ逃げだしただけだったのかもしれない。
だけど容子はそんな操に居場所をくれた。たくさんのことを教えてくれた。助けられてばかりいた自分が、彼女の救いになれていたことを誇らしく思う。
「お母さん」
「なぁに?」
「ぼくのお母さんになってくれてありがとう。ぼく、すごく幸せだった」
「私こそ」
容子が両腕を伸ばし、そっと操を抱き寄せる。
「あなたに会えてよかった」
容子の髪からは柔らかな花の香りがする。そのぬくもりに泣きたくなって、ぎゅっと下唇を噛み締めた。操はもうすぐ里に帰らなくてはならない。だけどどうしても、彼女にそれを打ち明けることができないでいる。
記憶を封じられてしまったら、操の存在によって救われたはずの容子の心は、再び翔子との絆を求めてさ迷うことになるのだろうか。それを思うと操の気持ちは大きく揺れたが、二度も子供と別れる悲しみを背負わせるよりはずっといい。つらくても、そう自分に言い聞かせるしかなかった。
(お母さんの中から、ぼくの思い出は消えるから。だから痛くないよ。今度こそ本当に大丈夫だからね、お母さん)
操にできるのは、せめて容子の中に自分という存在を残さないことだった。忘れられてしまったら、操はここに存在しなかったことになってしまう。それはとても悲しいことだけど。
(ぼくがぜんぶ持ってくよ。お母さんとの思い出、どんなに痛くてもずっと忘れないからね)
こんなにも愛情深い人だからこそ、自分のことで痛みを増やしてほしくない。
「やぁね、しんみりしちゃって。なんだかお別れみたいじゃない」
おどけたようにクスクスと笑う容子に、操も精一杯の笑顔を返した。
「きっと翔子も許してくれるわ。可愛い弟がおめかしするんだもの」
「ほんと? 嬉しいな」
「さ、いらっしゃい。お着替えしましょう」
床に手をついて立ち上がる容子に、操は「うん!」と元気よく返事をした。
*
容子にワンピースを着せてもらった操は、さらに翔子の形見の麦わら帽子もかぶせてもらい、サンダルを引っかけて昼間の外に飛びだした。
「んー! 久しぶりのお外だ! あっつーい!」
ぐーんと背伸びをして、思いきり昼間の空気を吸い込んだ。
秋の訪れを阻むかのように、残暑の陽光がカンカンに照りつけている。長袖のパーカーなんか着てきたら、あっという間に汗だくでバテていただろう。
ワンピースでも暑いことに代わりはないが、せいぜい夜中にしか外を歩けなかったことに比べれば、このくらいへっちゃらだ。
──と、思っていたのだが。
「やっぱ無理……ぼくって体力なさすぎ……?」
快適なエアコン生活ですっかり身体がなまっているのか、操は例の坂道を目前にヘバってしまった。電柱の影に身を寄せて、そのまましゃがみ込んでしまう。
こんなことで、山深い里までの道を越えることができるのだろうか。猛烈に自信がなくなってくる。
操は重たい息をつきながら坂を見上げた。喫茶・楽園は、ここを登ったずっと先にある。この長い傾斜を、甲洋は操を背負って登ったのだ。あの頃は今よりもっと暑かったのに。悪いことをしたなと、今さら思う。彼はケロリとしていたけれど。
(……甲洋、許してくれるかな)
先日の夜を思いだし、操は膝を抱えてうつむいた。
無感情に徹する彼を、あれほど怒らせてしまったのだ。普段から感情を抑え込んでいる人だからこそ、より恐ろしく感じられたのかもしれない。いっそ激しく怒鳴られたほうがマシと思えるくらい、沸々と静かに怒りを滲ませる甲洋には迫力があった。
「はぁ……」
「君、大丈夫?」
「ッ、? ぇっ、うわ!?」
突然ヌッと腰を屈めて覗き込んできた人物に、驚いた操は悲鳴をあげながら尻もちをついてしまった。
「来主……?」
そこには珍しく目を丸くした甲洋の姿があった。暑いなかうずくまっている人物が、まさか操だとは思いもしなかったのだろう。麦わら帽子のツバで顔は隠れていたし、なにせワンピースという格好だ。
「び、ビックリしたぁ! 心臓が飛び出すかと思ったよ!」
動悸する胸を押さえ、操は大きく息をついた。今まさに彼のことを考えていたのだ。おかげで坂道を登る手間は省けたが、二重の意味で驚いてしまった。
ワンピース姿でいることも忘れ、両足を開いて太ももを剥きだしにする操に、甲洋が軽く咳払いをした。目をそらしつつも、さりげなく右手を差しだしてくる。
「ありがとう」
手を取って立ち上がり、ワンピースの裾を叩いて汚れを払う。そんな操の仕草を、甲洋はただ物言いたげに見つめるだけだった。
「この格好? えへへー、似合う? お母さんが着せてくれたの!」
自慢げにワンピースの裾を翻し、クルンと回った。すると彼はどこか怪訝そうに目をそらし、わずかな沈黙のあと「似合わないよ」と吐き捨てた。
否定されるなんてつゆほども思わず、面食らった操はムッと眉を吊り上げる。
「なんでそんな意地悪言うの!? お母さんは似合うって言ってくれたもん!」
「……翔子のだろ、それ」
「そうだよ! お姉ちゃんのお下がり、いいでしょー?」
今度は誇らしい気持ちになって、白い歯を見せながらはつらつと笑った。太陽が燦々と照りつけるなか、甲洋はどこか眩しそうに目を眇めている。なにを思っているのか、その表情からは読み取れない。
操はついはしゃいでしまったことに軽く肩をすくめると、かしこまってうつむいた。そしてワンピースの裾を押さえるように両手を前で重ねて、ペコリと深く頭をさげる。
「甲洋、こないだはごめんなさい!」
脱げそうになった麦わら帽子を手で押さえ、顔をあげると彼を見上げた。
「ぼく、君に酷いこと言った。お母さんにも、お姉ちゃんにも……ショコラにも」
姿は現さないが、ショコラも傍にいるはずだ。彼女は基本的に、甲洋の危機を察知したときにだけ姿を見せる。それがないということは、今は警戒されていないということだ。そのことに少しホッとする。
「ぼくね、翔子お姉ちゃんが羨ましかったんだ。君やお母さんのこと、お姉ちゃんに独り占めされてるみたいで……ぼくだって、もっと君と仲良くなりたいのに」
「……どうして俺なんかと」
理解しえないといった様子の甲洋に、操はちょっぴり頬を染めながら「わかんない」と言って、情けない笑顔を向けた。
「いっぱい考えたけど、見つからなかった。明確な理由ってやつ。でもきっと……」
「きっと?」
操はモジモジと肩を揺らしながら、サンダルの爪先で地面を引っ掻いた。
「君が笑ったから、だと思う」
あのとき。この場所で、彼が笑ったから。
よく知りもしないくせに、操はショコラに嫉妬した。謎めいた青年の笑顔を、独り占めする犬神に。多分、あのときからこの気持ちは始まっていたのだと思う。人を化かすだけならば、厄介な犬神憑きなんかさっさと諦めればよかったはずなのに。
だけど操は甲洋に執着した。彼に振り向いてほしかったから。
「最初はね、ただ困らせてやるつもりで近づいたんだ。でも、気づいたらそんなことどうでもよくなってた。ただ君のことが知りたくて……ぼくを見て笑ってほしいって、そう思うようになったんだ」
「……」
「きっと君は、最初からぼくの特別だった」
甲洋は答えに窮したように押し黙っているだけだった。視線をわずかにうつむけて、身体の中からなにかを逃がすようにふぅっと長めの息をつく。それから静かに「俺も」と言った。
「言い過ぎた。ごめん」
軽く頭をさげた甲洋に、操は一瞬ポカンとしてしまった。彼はなにも悪くないのに。変なの、と思ったけれど、すぐに晴れやかな気持ちがこみ上げてきて笑顔を浮かべた。
「仲直りだね」
甲洋は少しだけ目元を和らげ、「そうだね」と言った。そして続けざまに、
「次の金曜は……?」
と、問いかけてきた。操はまた少しポカンとしてしまう。
あんなことがあって、先週は物の怪喫茶に行くことができなかった。どんな顔をして会いに行けばいいか分からなかったからだ。それでも彼は、操が来るのを待っていてくれたのだろうか。
嬉しいと思う反面、なにも答えることができなかった。やるべきことを終えた今、これ以上美羽たちを待たせておく理由がない。
今の操は夜目がきかないため、出発するなら明日の早朝になるだろう。次の金曜が訪れるころ、彼らの中から自分の存在はとっくに消えているのだ。
「来主?」
「……あ、うぅん。なんでもないよ!」
しおれかけていた顔をあげ、操は無理やり笑顔を作った。
「あのさ、ぼく、君にお願いがあるんだけど」
「……なに?」
「せっかく明るい時間に外に出たんだし、このあたりを少し歩いてみたいんだ。よかったら案内してよ」
だいぶ下手な誤魔化し方をしてしまったが、彼が深く追及してくることはなかった。少し引っかかっている様子は見せつつも、「いいけど」と了承してくれる。
「ありがとう! じゃあよろしくね!」
操は大喜びで甲洋の手をぎゅうっと握った。すると彼は一瞬ピクリと唇を動かし、目だけで何事かと問いかけてくる。
「はぐれたら困るもん。こうしてたら迷子にならないでしょ?」
「都会じゃあるまいし。迷子になるほど複雑じゃないよ」
「いいからいいから!」
満面の笑顔を見せる操に、甲洋はただむっつりと黙り込むだけだった。
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翌日。
次の金曜まで待てない操は甲洋に会いに行くため、耳としっぽを隠すのによさそうな服を探していた。
「あっ、これいい! 帽子がついてるし!」
部屋の中央にペタリと座って、収納ボックスから薄手の長袖パーカーを取りだす。衣料品が詰まった大きなケースは容子が用意してくれたもので、中に入っている衣類や下着も彼女が買い与えてくれたものだ。
「でも下はどうしよう?」
操が持っているのはズボンばかりで、容子がわざわざしっぽを通すために穴を作ってくれている。ふかふかの大きなしっぽを隠すには、どれもゆとりがないものばかりだ。
「……あっ、そうだ!」
ふと閃いて、勢いよく立ち上がると洋服タンスに近づいた。ここには翔子の衣類が入っているため、今まで一度も触れたことはない。しかしお目当てのものを探すため、少し迷ったが開けてみることにした。
「あった!」
すると真っ先に探しものが見つかった。それはリビングにある写真立ての中で、翔子が着用していたのと同じ水色のワンピースだった。これだけ丈が長くてヒラヒラしてれば、難なくしっぽを隠せるだろう。
操はワンピースを取りだすと、部屋を飛びだして一階に向かった。
「お母さんお母さん! ぼくこれ着てもいい!?」
リビングでは窓際の床に腰をおろした容子が、陽の光を浴びながら洗濯物を畳んでいた。彼女は忙しなくやってきた操に目を丸くして、さらにその手にワンピースがあるのを見ると、いっそう驚いた様子で瞬きをした。
「あなたそれ、ワンピースよ? 女の子のお洋服なのだけど……」
「ダメ? ぼくがこれ着たら変かな?」
隣にちょこんと座った操が上目遣いを向けると、容子は「ふふっ」と肩を揺らして小さく笑った。
「あなたが着たいなら、いいと思うわ」
「ほんと? やったー!」
万歳をした操だったが、すぐにハッと気がついた。これはあくまでも翔子のワンピースなのだ。容子が許しても、はたして彼女はどうだろう。さんざん部屋を好き勝手に使っておいて、今さらのような気もするけれど。
「どうかしたの?」
急に黙り込んでうつむいた操の顔を、容子が首を傾げて覗き込んでくる。
「あのねお母さん。ぼくがこれ着て、翔子お姉ちゃんはどう思うかな?」
「お姉ちゃん……?」
操はこくりと頷いた。
「あなたはぼくのお母さんになってくれた人だから。お母さんは翔子のお母さんでもあるでしょ? だから翔子はぼくのお姉ちゃんだよ」
見開かれた容子の瞳が、じわりと濡れて揺れた気がした。彼女はどこか切なそうに微笑むと、操の膝にあるワンピースへと視線を落とす。懐かしそうに目を細め、やがて静かに息をつくと口を開いた。
「翔子はね、私と血の繋がりがあるわけではないの」
「そうなの?」
ええ、と容子が頷いた。
「実の娘のように思っていたわ。その気持ちは今でも変わらない。だけど──」
容子はいったん言葉を切ると、悲しげにその瞳を伏せてしまう。
「私はそんな大切な娘の心に、寄り添うことができなかった」
──お母さんあのね、私のそばには、いつも黒くて可愛いわんちゃんがいるの。私の大切なお友達なのよ!
──どうしてお母さんには視えないの? どうして私だけ、みんなと違うの?
──私があなたの、本当の子供じゃないから?
まつ毛を震わせる彼女は、どこか遠くに想いを馳せている様子だった。大切に胸の奥にしまい込んでいた痛みの欠片に、ひとつひとつ触れては確かめるように。
「私の中にはずっと負い目があったのよ。同じものを視て、感じて、喜びや悲しみを共有できたならどんなにいいか。いつからか、あの子がどんどん遠くなっていくような気さえして……母親として、私はそんな自分が許せなかった」
容子は顔をあげると操を見つめた。ふわふわの耳がある頭を優しく撫でて、瞳を細めながら微笑んだ。
「でもね、操」
「うん。なぁに? お母さん」
「あなたを見つけたとき、とても嬉しかった。翔子が視ていた世界に、ようやく触れることができた気がして。私が離してしまったあの子の手を、あなたがもういちど繋いでくれたように思えるの。本当に感謝しているわ」
容子の指先はポカポカしていてくすぐったい。操は肩をすくめて笑いながら、耳をピクンと跳ねさせた。
(ぼく、ここに来てよかった)
動機はとても不純なものだった。人を化かすことで自分に自信をつけたくて。バカにしてくる奴らを、どうにかして見返してやりたくて。化け狸のくせにまともに術が使えない操は、里でもどこか身の置き所がないような気がしていた。だから本当は、ただ逃げだしただけだったのかもしれない。
だけど容子はそんな操に居場所をくれた。たくさんのことを教えてくれた。助けられてばかりいた自分が、彼女の救いになれていたことを誇らしく思う。
「お母さん」
「なぁに?」
「ぼくのお母さんになってくれてありがとう。ぼく、すごく幸せだった」
「私こそ」
容子が両腕を伸ばし、そっと操を抱き寄せる。
「あなたに会えてよかった」
容子の髪からは柔らかな花の香りがする。そのぬくもりに泣きたくなって、ぎゅっと下唇を噛み締めた。操はもうすぐ里に帰らなくてはならない。だけどどうしても、彼女にそれを打ち明けることができないでいる。
記憶を封じられてしまったら、操の存在によって救われたはずの容子の心は、再び翔子との絆を求めてさ迷うことになるのだろうか。それを思うと操の気持ちは大きく揺れたが、二度も子供と別れる悲しみを背負わせるよりはずっといい。つらくても、そう自分に言い聞かせるしかなかった。
(お母さんの中から、ぼくの思い出は消えるから。だから痛くないよ。今度こそ本当に大丈夫だからね、お母さん)
操にできるのは、せめて容子の中に自分という存在を残さないことだった。忘れられてしまったら、操はここに存在しなかったことになってしまう。それはとても悲しいことだけど。
(ぼくがぜんぶ持ってくよ。お母さんとの思い出、どんなに痛くてもずっと忘れないからね)
こんなにも愛情深い人だからこそ、自分のことで痛みを増やしてほしくない。
「やぁね、しんみりしちゃって。なんだかお別れみたいじゃない」
おどけたようにクスクスと笑う容子に、操も精一杯の笑顔を返した。
「きっと翔子も許してくれるわ。可愛い弟がおめかしするんだもの」
「ほんと? 嬉しいな」
「さ、いらっしゃい。お着替えしましょう」
床に手をついて立ち上がる容子に、操は「うん!」と元気よく返事をした。
*
容子にワンピースを着せてもらった操は、さらに翔子の形見の麦わら帽子もかぶせてもらい、サンダルを引っかけて昼間の外に飛びだした。
「んー! 久しぶりのお外だ! あっつーい!」
ぐーんと背伸びをして、思いきり昼間の空気を吸い込んだ。
秋の訪れを阻むかのように、残暑の陽光がカンカンに照りつけている。長袖のパーカーなんか着てきたら、あっという間に汗だくでバテていただろう。
ワンピースでも暑いことに代わりはないが、せいぜい夜中にしか外を歩けなかったことに比べれば、このくらいへっちゃらだ。
──と、思っていたのだが。
「やっぱ無理……ぼくって体力なさすぎ……?」
快適なエアコン生活ですっかり身体がなまっているのか、操は例の坂道を目前にヘバってしまった。電柱の影に身を寄せて、そのまましゃがみ込んでしまう。
こんなことで、山深い里までの道を越えることができるのだろうか。猛烈に自信がなくなってくる。
操は重たい息をつきながら坂を見上げた。喫茶・楽園は、ここを登ったずっと先にある。この長い傾斜を、甲洋は操を背負って登ったのだ。あの頃は今よりもっと暑かったのに。悪いことをしたなと、今さら思う。彼はケロリとしていたけれど。
(……甲洋、許してくれるかな)
先日の夜を思いだし、操は膝を抱えてうつむいた。
無感情に徹する彼を、あれほど怒らせてしまったのだ。普段から感情を抑え込んでいる人だからこそ、より恐ろしく感じられたのかもしれない。いっそ激しく怒鳴られたほうがマシと思えるくらい、沸々と静かに怒りを滲ませる甲洋には迫力があった。
「はぁ……」
「君、大丈夫?」
「ッ、? ぇっ、うわ!?」
突然ヌッと腰を屈めて覗き込んできた人物に、驚いた操は悲鳴をあげながら尻もちをついてしまった。
「来主……?」
そこには珍しく目を丸くした甲洋の姿があった。暑いなかうずくまっている人物が、まさか操だとは思いもしなかったのだろう。麦わら帽子のツバで顔は隠れていたし、なにせワンピースという格好だ。
「び、ビックリしたぁ! 心臓が飛び出すかと思ったよ!」
動悸する胸を押さえ、操は大きく息をついた。今まさに彼のことを考えていたのだ。おかげで坂道を登る手間は省けたが、二重の意味で驚いてしまった。
ワンピース姿でいることも忘れ、両足を開いて太ももを剥きだしにする操に、甲洋が軽く咳払いをした。目をそらしつつも、さりげなく右手を差しだしてくる。
「ありがとう」
手を取って立ち上がり、ワンピースの裾を叩いて汚れを払う。そんな操の仕草を、甲洋はただ物言いたげに見つめるだけだった。
「この格好? えへへー、似合う? お母さんが着せてくれたの!」
自慢げにワンピースの裾を翻し、クルンと回った。すると彼はどこか怪訝そうに目をそらし、わずかな沈黙のあと「似合わないよ」と吐き捨てた。
否定されるなんてつゆほども思わず、面食らった操はムッと眉を吊り上げる。
「なんでそんな意地悪言うの!? お母さんは似合うって言ってくれたもん!」
「……翔子のだろ、それ」
「そうだよ! お姉ちゃんのお下がり、いいでしょー?」
今度は誇らしい気持ちになって、白い歯を見せながらはつらつと笑った。太陽が燦々と照りつけるなか、甲洋はどこか眩しそうに目を眇めている。なにを思っているのか、その表情からは読み取れない。
操はついはしゃいでしまったことに軽く肩をすくめると、かしこまってうつむいた。そしてワンピースの裾を押さえるように両手を前で重ねて、ペコリと深く頭をさげる。
「甲洋、こないだはごめんなさい!」
脱げそうになった麦わら帽子を手で押さえ、顔をあげると彼を見上げた。
「ぼく、君に酷いこと言った。お母さんにも、お姉ちゃんにも……ショコラにも」
姿は現さないが、ショコラも傍にいるはずだ。彼女は基本的に、甲洋の危機を察知したときにだけ姿を見せる。それがないということは、今は警戒されていないということだ。そのことに少しホッとする。
「ぼくね、翔子お姉ちゃんが羨ましかったんだ。君やお母さんのこと、お姉ちゃんに独り占めされてるみたいで……ぼくだって、もっと君と仲良くなりたいのに」
「……どうして俺なんかと」
理解しえないといった様子の甲洋に、操はちょっぴり頬を染めながら「わかんない」と言って、情けない笑顔を向けた。
「いっぱい考えたけど、見つからなかった。明確な理由ってやつ。でもきっと……」
「きっと?」
操はモジモジと肩を揺らしながら、サンダルの爪先で地面を引っ掻いた。
「君が笑ったから、だと思う」
あのとき。この場所で、彼が笑ったから。
よく知りもしないくせに、操はショコラに嫉妬した。謎めいた青年の笑顔を、独り占めする犬神に。多分、あのときからこの気持ちは始まっていたのだと思う。人を化かすだけならば、厄介な犬神憑きなんかさっさと諦めればよかったはずなのに。
だけど操は甲洋に執着した。彼に振り向いてほしかったから。
「最初はね、ただ困らせてやるつもりで近づいたんだ。でも、気づいたらそんなことどうでもよくなってた。ただ君のことが知りたくて……ぼくを見て笑ってほしいって、そう思うようになったんだ」
「……」
「きっと君は、最初からぼくの特別だった」
甲洋は答えに窮したように押し黙っているだけだった。視線をわずかにうつむけて、身体の中からなにかを逃がすようにふぅっと長めの息をつく。それから静かに「俺も」と言った。
「言い過ぎた。ごめん」
軽く頭をさげた甲洋に、操は一瞬ポカンとしてしまった。彼はなにも悪くないのに。変なの、と思ったけれど、すぐに晴れやかな気持ちがこみ上げてきて笑顔を浮かべた。
「仲直りだね」
甲洋は少しだけ目元を和らげ、「そうだね」と言った。そして続けざまに、
「次の金曜は……?」
と、問いかけてきた。操はまた少しポカンとしてしまう。
あんなことがあって、先週は物の怪喫茶に行くことができなかった。どんな顔をして会いに行けばいいか分からなかったからだ。それでも彼は、操が来るのを待っていてくれたのだろうか。
嬉しいと思う反面、なにも答えることができなかった。やるべきことを終えた今、これ以上美羽たちを待たせておく理由がない。
今の操は夜目がきかないため、出発するなら明日の早朝になるだろう。次の金曜が訪れるころ、彼らの中から自分の存在はとっくに消えているのだ。
「来主?」
「……あ、うぅん。なんでもないよ!」
しおれかけていた顔をあげ、操は無理やり笑顔を作った。
「あのさ、ぼく、君にお願いがあるんだけど」
「……なに?」
「せっかく明るい時間に外に出たんだし、このあたりを少し歩いてみたいんだ。よかったら案内してよ」
だいぶ下手な誤魔化し方をしてしまったが、彼が深く追及してくることはなかった。少し引っかかっている様子は見せつつも、「いいけど」と了承してくれる。
「ありがとう! じゃあよろしくね!」
操は大喜びで甲洋の手をぎゅうっと握った。すると彼は一瞬ピクリと唇を動かし、目だけで何事かと問いかけてくる。
「はぐれたら困るもん。こうしてたら迷子にならないでしょ?」
「都会じゃあるまいし。迷子になるほど複雑じゃないよ」
「いいからいいから!」
満面の笑顔を見せる操に、甲洋はただむっつりと黙り込むだけだった。
←戻る ・ 次へ→
11
薄暗いリビングには、時計の秒針が鳴る音だけが響いている。
日は沈みかけているが、容子はまだ帰ってこない。クーの姿も見当たらず、操は一人きりでソファに膝を抱えて座っていた。
思いだすのはあの夜の出来事ばかりだ。甲洋の凍てつく視線が、今も胸に突き刺さっている。
(甲洋って、あんなふうに怒るんだ……)
あれから数日。
操はずっと塞ぎ込んでいた。昨夜は物の怪喫茶の営業日だったが、店に行く勇気もなかった。あの甲洋を怒らせてしまったことがあまりにショックで、磔にされたように身動きがとれなかったのだ。
──冷やかし目的のイタズラ狸には、どうせ言っても分からない。人の痛みなんか。
(……どうせぼくはタヌキだもん)
操は唇を噛みしめると両膝に顔を埋めた。投げ捨てるような甲洋の言葉が、頭の中をぐるぐると回り続ける。
操は知りたかった。人間のこと、甲洋のこと。だけど何も分からなかった。むしろ分かる必要などないのだ。だって操は人じゃないから。いつかは里に戻るのだから。そこが本当の生きる場所なのだから。分かってる。分かってるけど。
(あんな顔させたかったわけじゃないのに)
ただ羨ましかっただけなのに。
甲洋の心を持っていってしまったまま、もう二度と戻らない翔子のことが。
──コンコン
そのとき、窓を叩く音がした。顔をあげて目を向けると、レースのカーテン越しにうっすらと人影がある。操は警戒し、とっさに身を固くすると息を殺した。玄関から訪ねてくるなら分かるが、わざわざ庭から窓を叩くなんて怪しすぎる。どのみち来客があったところで、この姿では対応できない。
すると窓の向こうの人影が、焦れたように口を開いた。
「ねぇ操、そこにいるんでしょ?」
「!」
その声には聞き覚えがあった。まさかと思いながら駆け寄って、恐る恐るカーテンと窓を開ける。庭は通りから射す街灯に薄ぼんやりと照らされており、そこにいる女性と少女の二人連れを浮かび上がらせていた。
「あは、操! やっと会えたね!」
「もしかして、美羽……!?」
サンダルを引っかけて庭に出た操に、少女はニッコリ微笑んだ。長くウェーブする髪を揺らしながら、「どう? うまく化けてるでしょ?」と無邪気に言って、クルリとターンして見せる。
「な、なんで? なんで美羽と……えっと……」
ニコニコ顔の少女とは対照的に、腕組みをして冷ややかな視線を向けてくる女性。操にはその人が誰であるか、一瞬で理解できてしまった。総士いわく、怒らせると怖い遠見真矢だ。彼女が今まさに怒っていることくらい、発しているオーラから容易に察することができた。
二人はラフなシャツとパンツスタイルという格好で、完璧に人に化けている。
「もう! 操ってばぜんぜん戻ってこないんだもん。だから迎えに来たんだよ!」
美羽はきゅっと眉をつり上げ、戸惑っている操の手を両手で握りしめる。
「本当は美羽だけで来るつもりだったけど、お姉ちゃんに見つかっちゃって」
「当たり前でしょ。美羽ちゃんだけで行くなんて、そんな危ない真似させられない」
チラリと冷たく一瞥されて、操はしおしおとうなだれた。
「でもよかった、操が無事で。美羽すっごく心配したんだから」
「ごめん、美羽……」
「いいの。こうしてちゃんと会えたもん。さ、早く帰ろ。タヌキの里に」
美羽の言葉に、ギクリと肩をこわばらせる。
「そ、それは……その、急に言われても……」
握られていた手をそっとほどいて、さりげなく二人から一歩引いた。口ごもる操に、美羽は不思議そうにパチパチと瞬きをしている。
「どうして? なにかあるの?」
「……う、うん。だってぼく、まだ目的を果たしてないし。言ったでしょ? ぼくが立派な化け狸だってこと証明するまで、絶対に帰らないって」
「まだそんなこと言ってるの!?」
呆れる美羽に、操は目を泳がせた。本当はそんなこと、とっくにどうでもよくなっている。美羽の言うとおり、早く里に帰るべきだということも理解していた。
だけど本当にそれでいいのだろうか。甲洋とあんなふうに別れたまま、全部なかったことにしてしまっても。なにより、もう会えなくなることが嫌だった。嫌われてしまったかもしれないし、どうすればいいかも分からないけど、それでも。
「つまらない意地を張るのはやめなさい」
すると、黙って話を聞いていた真矢が低い声でぴしゃりと言った。
「言いたいやつらには好きに言わせておけばいい。わざわざ危険を犯してまで、いつまでもここにいる必要はない」
「あ、あのね、操のことバカにした子たち、あのあと真矢お姉ちゃんがたっぷり叱ってくれたの。だからもう誰も操のこと悪く言わないよ。みんな反省してるから──」
美羽の言葉を遮るように、操はブンブンと首を大きく横に振った。
「危険なことなんかないよ! だってみんなぼくに優しくしてくれるもん!」
「……ならどうするつもり?」
真矢の声がいっそう冷たい。
「ここで人間の真似事をして、ずっと暮らしていくつもり? その半端な姿で?」
ぐうの音もでなかった。二人のように完璧に変化できていたのなら、まだ説得力もあっただろう。しかし今の操は人でもタヌキでもない状態だ。真矢の言う通り、中途半端な存在でしかない。
「お姉ちゃんはね、操のことが心配なんだよ。美羽だってそうだよ。里のみんなだって……だから帰ろ? ね?」
「操、帰ったわよ。いないの?」
「ッ!?」
そのとき、リビングの向こうにある廊下から容子の声がした。息を呑む操を尻目に、真矢が土足のまま窓から室内に入り込もうとする。
「ま、待って! なにする気!?」
「あなたと関わったすべての人間に、まやかしの術をかける」
「な……!?」
まやかしの術──ようは催眠術のようなもので、真矢は容子の中にある操の記憶を、すべて封じようとしているのだ。
そうこうしているあいだにも、パタパタと廊下をスリッパで歩く音が近づいてくる。操は強引に二人の手を引き、庭の隅にある背の高い茂みの影に引っ張った。
「操? おかしいわね……どうしたのかしら……?」
リビングの明かりを灯し、容子が開けっ放しの窓に首を傾げる。心配そうに庭を見渡し、その後も幾度か操の名を呼んだあと、息を漏らして窓を閉じた。それを茂み越しに見届けて、操はホッと胸を撫で下ろす。
「どういうつもり?」
真矢が鋭い視線を向けてくる。操も思わず眉をつり上げた。
「それはこっちのセリフだよ! 記憶を封じるだなんて、そんな勝手なこと!」
「人間は悪さをする。私たちのような存在がいることを知れば、どうなるかなんて考えなくても分かるはず」
「絶対そんなことにはならないよ! お母さんはそんなことしない!」
「確証は?」
「……ッ!」
確証はないが、確信はある。それは容子と一緒に暮らしてきた操が、なによりも理解していることだった。もちろん容子だけじゃない。一騎も、そして甲洋も。けれどそれで彼女を納得させられるとは思えなかった。守るべきもののためならば、真矢は決して譲歩しない。
(ぼくだってそうだったもん。最初は人間が怖くて、信じられなかった)
今ここでなにをどう言ったところで、警戒心の強い野生動物──とりわけ真矢は慎重な性格だ──を信用させることは不可能だろう。
歯がゆさに涙が込み上げ、下唇を噛み締めた。それを見た美羽が、痛ましげな表情で操に寄り添うと肩を抱く。
「優しそうな女の人だったね。あの人が操を助けてくれたの?」
「……うん」
「ねぇ、そこまで厳しくしなくてもいいんじゃない?」
美羽がすがるような眼差しを向けると、真矢は困ったように眉を下げる。
「しかたないの。そういう決まりなんだから」
「でもっ……これじゃ操が可哀想だよ……」
「美羽ちゃん……」
美羽までうなだれてしまったのを見て、真矢は深々とため息を漏らした。
「だったらなおさら、記憶は封じたほうがいい」
「お姉ちゃん!」
「来主操」
名前を呼ばれて、操はおずおずと顔をあげた。
「あなたも辛いように、あなたを大切に思う人たちも、あなたを失うのは辛いはず。だったら忘れてもらったほうがいい。必要なら、あなたの記憶にも蓋をする」
「ぼ、ぼくの記憶も……?」
操は美羽の腕から離れ、首を左右に振りながら後ずさった。そのまま逃げだしたかったが、まるで阻むように背中が塀にぶつかった。
「ぼくに、お母さんたちを忘れろっていうの……?」
「強制するわけじゃない。あなたが望むなら、そういう選択肢もあるってこと」
「そんな……」
まだほんの短い時間ではあるけれど、操はここで出会った人たちのことが大好きだ。この気持ちを忘れるなんて、考えたくもないことだった。
だけど忘れなければ、ずっと心が痛いままだ。今ですらこんなにも苦しい。容子や甲洋と過ごした日々を思うだけで、胸が張り裂けそうになる。たとえどれだけ時間が経ったとしても、きっとこの痛みは消えないだろう。だったらいっそ忘れたほうが──。
──お母さんなら大丈夫だよ。
「……ッ、ぁ」
そのときやっと気がついた。自分の言葉が、どれほど心無いものだったかを。
忘れずに生きていくということが、こんなにも苦しいことだったなんて初めて知った。容子も甲洋も、あえてこの痛みを抱えて生きている。だけど心はずっと泣いているのだ。
(なにが大丈夫だよ……こんなのちっとも大丈夫じゃないじゃん……!!)
彼らの思いをなにひとつ深く考えようとせず、操はただ軽率に自分の願いだけを押しつけてしまった。
(だから甲洋は怒ってたんだ……お母さんの気持ち、ちっとも考えてなかったから……ぼくが、自分のことしか考えてなかったから……)
忘れてしまえば楽なのに。忘れることもまた、とても悲しいことだから。
「……わかった」
ポツリと吐きだした操を、美羽が心配そうに見守っている。
「でも、少しだけ待って。ぼく、どうしてもやらなきゃいけないことがあるんだ」
操はずっとうなだれたままだった顔をあげた。このまま帰れば、きっと一生後悔するから。
(甲洋に謝らないと!)
←戻る ・ 次へ→
薄暗いリビングには、時計の秒針が鳴る音だけが響いている。
日は沈みかけているが、容子はまだ帰ってこない。クーの姿も見当たらず、操は一人きりでソファに膝を抱えて座っていた。
思いだすのはあの夜の出来事ばかりだ。甲洋の凍てつく視線が、今も胸に突き刺さっている。
(甲洋って、あんなふうに怒るんだ……)
あれから数日。
操はずっと塞ぎ込んでいた。昨夜は物の怪喫茶の営業日だったが、店に行く勇気もなかった。あの甲洋を怒らせてしまったことがあまりにショックで、磔にされたように身動きがとれなかったのだ。
──冷やかし目的のイタズラ狸には、どうせ言っても分からない。人の痛みなんか。
(……どうせぼくはタヌキだもん)
操は唇を噛みしめると両膝に顔を埋めた。投げ捨てるような甲洋の言葉が、頭の中をぐるぐると回り続ける。
操は知りたかった。人間のこと、甲洋のこと。だけど何も分からなかった。むしろ分かる必要などないのだ。だって操は人じゃないから。いつかは里に戻るのだから。そこが本当の生きる場所なのだから。分かってる。分かってるけど。
(あんな顔させたかったわけじゃないのに)
ただ羨ましかっただけなのに。
甲洋の心を持っていってしまったまま、もう二度と戻らない翔子のことが。
──コンコン
そのとき、窓を叩く音がした。顔をあげて目を向けると、レースのカーテン越しにうっすらと人影がある。操は警戒し、とっさに身を固くすると息を殺した。玄関から訪ねてくるなら分かるが、わざわざ庭から窓を叩くなんて怪しすぎる。どのみち来客があったところで、この姿では対応できない。
すると窓の向こうの人影が、焦れたように口を開いた。
「ねぇ操、そこにいるんでしょ?」
「!」
その声には聞き覚えがあった。まさかと思いながら駆け寄って、恐る恐るカーテンと窓を開ける。庭は通りから射す街灯に薄ぼんやりと照らされており、そこにいる女性と少女の二人連れを浮かび上がらせていた。
「あは、操! やっと会えたね!」
「もしかして、美羽……!?」
サンダルを引っかけて庭に出た操に、少女はニッコリ微笑んだ。長くウェーブする髪を揺らしながら、「どう? うまく化けてるでしょ?」と無邪気に言って、クルリとターンして見せる。
「な、なんで? なんで美羽と……えっと……」
ニコニコ顔の少女とは対照的に、腕組みをして冷ややかな視線を向けてくる女性。操にはその人が誰であるか、一瞬で理解できてしまった。総士いわく、怒らせると怖い遠見真矢だ。彼女が今まさに怒っていることくらい、発しているオーラから容易に察することができた。
二人はラフなシャツとパンツスタイルという格好で、完璧に人に化けている。
「もう! 操ってばぜんぜん戻ってこないんだもん。だから迎えに来たんだよ!」
美羽はきゅっと眉をつり上げ、戸惑っている操の手を両手で握りしめる。
「本当は美羽だけで来るつもりだったけど、お姉ちゃんに見つかっちゃって」
「当たり前でしょ。美羽ちゃんだけで行くなんて、そんな危ない真似させられない」
チラリと冷たく一瞥されて、操はしおしおとうなだれた。
「でもよかった、操が無事で。美羽すっごく心配したんだから」
「ごめん、美羽……」
「いいの。こうしてちゃんと会えたもん。さ、早く帰ろ。タヌキの里に」
美羽の言葉に、ギクリと肩をこわばらせる。
「そ、それは……その、急に言われても……」
握られていた手をそっとほどいて、さりげなく二人から一歩引いた。口ごもる操に、美羽は不思議そうにパチパチと瞬きをしている。
「どうして? なにかあるの?」
「……う、うん。だってぼく、まだ目的を果たしてないし。言ったでしょ? ぼくが立派な化け狸だってこと証明するまで、絶対に帰らないって」
「まだそんなこと言ってるの!?」
呆れる美羽に、操は目を泳がせた。本当はそんなこと、とっくにどうでもよくなっている。美羽の言うとおり、早く里に帰るべきだということも理解していた。
だけど本当にそれでいいのだろうか。甲洋とあんなふうに別れたまま、全部なかったことにしてしまっても。なにより、もう会えなくなることが嫌だった。嫌われてしまったかもしれないし、どうすればいいかも分からないけど、それでも。
「つまらない意地を張るのはやめなさい」
すると、黙って話を聞いていた真矢が低い声でぴしゃりと言った。
「言いたいやつらには好きに言わせておけばいい。わざわざ危険を犯してまで、いつまでもここにいる必要はない」
「あ、あのね、操のことバカにした子たち、あのあと真矢お姉ちゃんがたっぷり叱ってくれたの。だからもう誰も操のこと悪く言わないよ。みんな反省してるから──」
美羽の言葉を遮るように、操はブンブンと首を大きく横に振った。
「危険なことなんかないよ! だってみんなぼくに優しくしてくれるもん!」
「……ならどうするつもり?」
真矢の声がいっそう冷たい。
「ここで人間の真似事をして、ずっと暮らしていくつもり? その半端な姿で?」
ぐうの音もでなかった。二人のように完璧に変化できていたのなら、まだ説得力もあっただろう。しかし今の操は人でもタヌキでもない状態だ。真矢の言う通り、中途半端な存在でしかない。
「お姉ちゃんはね、操のことが心配なんだよ。美羽だってそうだよ。里のみんなだって……だから帰ろ? ね?」
「操、帰ったわよ。いないの?」
「ッ!?」
そのとき、リビングの向こうにある廊下から容子の声がした。息を呑む操を尻目に、真矢が土足のまま窓から室内に入り込もうとする。
「ま、待って! なにする気!?」
「あなたと関わったすべての人間に、まやかしの術をかける」
「な……!?」
まやかしの術──ようは催眠術のようなもので、真矢は容子の中にある操の記憶を、すべて封じようとしているのだ。
そうこうしているあいだにも、パタパタと廊下をスリッパで歩く音が近づいてくる。操は強引に二人の手を引き、庭の隅にある背の高い茂みの影に引っ張った。
「操? おかしいわね……どうしたのかしら……?」
リビングの明かりを灯し、容子が開けっ放しの窓に首を傾げる。心配そうに庭を見渡し、その後も幾度か操の名を呼んだあと、息を漏らして窓を閉じた。それを茂み越しに見届けて、操はホッと胸を撫で下ろす。
「どういうつもり?」
真矢が鋭い視線を向けてくる。操も思わず眉をつり上げた。
「それはこっちのセリフだよ! 記憶を封じるだなんて、そんな勝手なこと!」
「人間は悪さをする。私たちのような存在がいることを知れば、どうなるかなんて考えなくても分かるはず」
「絶対そんなことにはならないよ! お母さんはそんなことしない!」
「確証は?」
「……ッ!」
確証はないが、確信はある。それは容子と一緒に暮らしてきた操が、なによりも理解していることだった。もちろん容子だけじゃない。一騎も、そして甲洋も。けれどそれで彼女を納得させられるとは思えなかった。守るべきもののためならば、真矢は決して譲歩しない。
(ぼくだってそうだったもん。最初は人間が怖くて、信じられなかった)
今ここでなにをどう言ったところで、警戒心の強い野生動物──とりわけ真矢は慎重な性格だ──を信用させることは不可能だろう。
歯がゆさに涙が込み上げ、下唇を噛み締めた。それを見た美羽が、痛ましげな表情で操に寄り添うと肩を抱く。
「優しそうな女の人だったね。あの人が操を助けてくれたの?」
「……うん」
「ねぇ、そこまで厳しくしなくてもいいんじゃない?」
美羽がすがるような眼差しを向けると、真矢は困ったように眉を下げる。
「しかたないの。そういう決まりなんだから」
「でもっ……これじゃ操が可哀想だよ……」
「美羽ちゃん……」
美羽までうなだれてしまったのを見て、真矢は深々とため息を漏らした。
「だったらなおさら、記憶は封じたほうがいい」
「お姉ちゃん!」
「来主操」
名前を呼ばれて、操はおずおずと顔をあげた。
「あなたも辛いように、あなたを大切に思う人たちも、あなたを失うのは辛いはず。だったら忘れてもらったほうがいい。必要なら、あなたの記憶にも蓋をする」
「ぼ、ぼくの記憶も……?」
操は美羽の腕から離れ、首を左右に振りながら後ずさった。そのまま逃げだしたかったが、まるで阻むように背中が塀にぶつかった。
「ぼくに、お母さんたちを忘れろっていうの……?」
「強制するわけじゃない。あなたが望むなら、そういう選択肢もあるってこと」
「そんな……」
まだほんの短い時間ではあるけれど、操はここで出会った人たちのことが大好きだ。この気持ちを忘れるなんて、考えたくもないことだった。
だけど忘れなければ、ずっと心が痛いままだ。今ですらこんなにも苦しい。容子や甲洋と過ごした日々を思うだけで、胸が張り裂けそうになる。たとえどれだけ時間が経ったとしても、きっとこの痛みは消えないだろう。だったらいっそ忘れたほうが──。
──お母さんなら大丈夫だよ。
「……ッ、ぁ」
そのときやっと気がついた。自分の言葉が、どれほど心無いものだったかを。
忘れずに生きていくということが、こんなにも苦しいことだったなんて初めて知った。容子も甲洋も、あえてこの痛みを抱えて生きている。だけど心はずっと泣いているのだ。
(なにが大丈夫だよ……こんなのちっとも大丈夫じゃないじゃん……!!)
彼らの思いをなにひとつ深く考えようとせず、操はただ軽率に自分の願いだけを押しつけてしまった。
(だから甲洋は怒ってたんだ……お母さんの気持ち、ちっとも考えてなかったから……ぼくが、自分のことしか考えてなかったから……)
忘れてしまえば楽なのに。忘れることもまた、とても悲しいことだから。
「……わかった」
ポツリと吐きだした操を、美羽が心配そうに見守っている。
「でも、少しだけ待って。ぼく、どうしてもやらなきゃいけないことがあるんだ」
操はずっとうなだれたままだった顔をあげた。このまま帰れば、きっと一生後悔するから。
(甲洋に謝らないと!)
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黒鋼はファイの部屋で思いっきり肩を怒らせながら、なぜか部屋掃除をしていた。
「なんで俺がこんなことせにゃならんのだ!」
ウガァッと怒りの雄たけびを放つ黒鋼であったが、これは別に誰に頼まれたからというわけでなく、黒鋼自身が率先して行っていることである。
ちなみに部屋の主は不在。化学準備室に忘れ物をしたとかで、先に部屋で待っていてほしいと頼まれたのだった。
なぜ今夜に限って黒鋼の部屋でないのかというと、それはファイが「料理を作る」と息巻いたせいだった。
双子の片割れに比べて、ファイはあまり料理が上手くはない。手先は決して不器用ではないはずなのに、その散らかしようといったら目を覆うほどなのだ。
見かけは雑そうな黒鋼であるが、これでいて実は結構な几帳面気質なので、自室のキッチンが地獄絵図になるのは我慢ならなかった。
そんな経緯のもと、訪れたファイの部屋といったら……。
あまりの散らかりように、同じ間取りとは思えないほど部屋が狭く見える。黒鋼にしてみれば、この惨状は魔法や呪術の類でも扱っているとしか思えない。
まず足の踏み場をなくしているのは脱ぎっぱなしなのか、それとも洗ってそのままなのか判別不可能の衣類の山。中には下着まであったりする。
何気に黒鋼とファイは『そういう関係』であるので、落ちている下着に見覚えがあることになぜか居たたまれなさを感じてしまう。
黒鋼は大仰に溜息を零しつつ上着はハンガーに、下着や靴下その他衣類は洗ってようがなかろうがとりあえず洗面所の横の籠に全て突っ込んだ。
だがそれだけで終わらないのが化学教師クオリティである。
次に顔を出したのは雑誌に漫画に、飴玉やらUFOキャッチャーあたりでゲットしたのであろうぬいぐるみ……。
「あの野郎ぅ……」
部屋に人を招くのなら、せめて表面上だけでも取り繕うということを覚えたらどうだろうか。
一瞬、全てまとめてベッドの下にでも押し込んでやろうかとも思ったが、そこはやっぱり几帳面。雑誌(主にゲーム雑誌)や漫画本はきちんと積み上げ、菓子類はまとめて袋詰めして、ひとまずはテーブルに置いた。
本当に信じられない。
これでは嫁に行く当てなどないだろう。ならやっぱり俺が貰ってやるしかないのかと考えて、首を傾げた。
「嫁ってなんだ嫁って……馬鹿が……」
自分自身に冷めた突っ込みを入れつつ、夜だろうがもういっそお構いなしに引っ張り出してきた掃除機のスイッチを入れようとした、そのとき。
「!」
シュッ、と黒い影が視界の隅を過ぎった。
黒鋼は持ち前の俊敏さで振り向き、その影の正体を即座に見破った。
「やっぱり姿を現しやがったな……」
いるんじゃないか、いるんじゃないかとは予想していたが、本当にいた。
それはおそらくベッドの下に潜んでいたところを、バタバタと掃除し始めた黒鋼を警戒しつつキッチンにでも逃げ込もうとしていたのだろう。鋭い視線に射竦められたからかどうかは知らないが、部屋の隅でピタリと静止して動かない。
もしかしたら、今夜この部屋に来て正解だったかもしれないと黒鋼は思った。こんな生物をファイが見れば、きっと夜中だろうが朝方だろうが大騒ぎになること間違いなしである。
そして泣きながらパニックを起こしたファイが、夜中だろうが朝方だろうが黒鋼の部屋のドアをガンガンと叩きまくるのも、容易に想像できることだった。
黒鋼はチッと舌を打つと、部屋の隅に積み上げた本の群れの中から手ごろな雑誌を引き出し、2つに折り曲げた。
*
どうにか片付き黒鋼が一息ついていると、ようやく部屋の主が帰還した。
「ふー、ごめんね黒ぴー先生! バッタリ侑子先生に会ったからお茶してたら遅くなっちゃ……あるぇ~?」
夜の冷たい風と共にバタバタと忙しなく帰ってきたファイは、自室を見渡し目を見開いた。
黒鋼はそれを思いっきり睨みつける。
「てめぇの部屋はゴミ屋敷か、このド阿呆が」
「わわわ! オレの部屋がすっごいピカピカになってるよー!」
ファイは見違えるほど美しくなっている自室を見渡して目をパチクリさせている。
「オレの部屋じゃないみたい。黒ぴっぴ先生の部屋みたい」
感心したように、上着を脱ぐでもなく部屋の中をクルクルと見て回っていたファイが、突然「あれ!?」と声を上げた。
「なんも捨てちゃいねぇぞ。一応はな」
「あれあれあれ!?」
黒鋼がそう言っても、ファイはどこか慌てたようにベッドの下やらその他家具の隙間やらを覗き込んでいる。
「おい」
「い、いないよ!? もしかして逃げちゃったー!?」
「は? なにが?」
キッチンからバタバタと戻ってきたファイがそれでも忙しなく辺りを見渡す。
「黒様知らない!?」
「だからナニが?」
さらに「いないよいないよー」と慌てているファイに、黒鋼はもうなんだかどうでもよくなって、冷蔵庫から勝手に取り出したミネラルウォーターのキャップを指先で弄びつつ、溜まりに溜まった小言を吐き出す。
「そんなことよりてめぇな、いい歳こいて部屋の片付けもできねぇとは何事だオイ。脱いだもんは脱ぎっぱなし、食ったもんはそのまんま、くっだらねぇ雑誌やら何やら……本当ならゲンコツの一つもくれてやろうと思ったがな、そんなことより今は情けなさが勝って何も言う気がしねぇぞ」
「メチャメチャ言ってるじゃないー。普段はオレがいっぱいお話しててもまともに会話してくれないくせにさー、こんな時ばっかなんだからー」
ぶぅ、と頬を膨らませて唇を尖らせたファイを「うるせぇ」と一蹴して、黒鋼の小言は止まらない。
「そんなんだからゴキブリなんてのが出てくんだ。てめぇ、あんなの出てきたらどうせピーピー泣くんだろうが」
始末しといてやったがな、と恩着せがましく言うと、ファイが「え?」と声を上げて固まった。
黒鋼はその青褪める顔を見て胸の中の鬱憤が少しだけ晴れたような気がして、気分がよくなった。
「ほれ見ろ、一人じゃどうにも出来なかったろうが」
これで少しは懲りてくれれば言うことなしである。
だが…。
「……おい、そんな顔すんじゃねぇよ。もういねぇから」
ファイはみるみる涙ぐんで、そして叫んだ。
「黒助をよくもーーー!!!!」
うわぁぁぁ……と床に伏して泣き出したファイに、黒鋼は空のペットボトルをボトリと落とした。
「くろすけ……だと……?」
「ヒドイよ黒様先生! オレの大事なクロ助をっ! 黒助はねぇ! とっても大人しくていい子だったんだよぉ!」
「ちょっと待て俺にはおまえの話の筋が見えねぇんだが」
「確かに見た目はあんまりよくないかもしれないけどっ、呼んでも返事もなければ寄っても来てくれなかったけどっ……うぅっ……」
ヒタリと。
黒鋼は物凄く嫌な予感が悪寒と共に背筋に張り付くのを感じた。微かに震える指で、今や黒助の棺と化しているゴミ箱を指差す。
「おまえ……まさか……しかも黒助ておま……」
呼んだって当然来るはずもなければ、返事などしたら、あまつさえ寄ってなど来られたら不気味で仕方がない。
一般的には嫌悪されて当然のあの害虫に……。
「最初はオレもビックリして、黒たん先生を呼ぼうと思ったけど……でも別に蜂とか百足みたいに刺すわけじゃないし……それに、あの黒い身体を見てたらまるで黒た」
「ちょっと待て!!」
「ううぅ……何さー」
黒鋼は青褪めて、それから怒りに顔を赤くして、さらにそれからちょっとだけ泣きたい気持ちにもなって拳を震わせた。よりにもよってあの害虫を、いくら黒いからといってこの男は、仮にも恋人ポジションにある相手の名前を……。
「一発……一発でいいから全力で殴らせろ……そしたら聞かなかったことにしてやらなくもない……」
声まで震えだしそうになるのをどうにか堪え、低く唸るように言って立ち上がると、ファイは身構えてザザッと素早い動作で壁際に避難した。
けれどその表情は涙ぐみながらも気丈な眼差しで黒鋼を見据えている。
「なんで黒様が怒るの!? 怒ってるのはオレなのに!!」
「いいからそのなまっちろいツラいっぺんブン殴らせろ!!!!」
「だいたい黒りーに思いっきり殴られたらオレ死んじゃうじゃん! オレまで殺す気!? この人殺し!! いや、ゴキ殺し!!」
「うるせぇんだよてめぇ!! よくも人をコケにしたような真似をしゃあしゃあと!!」
「黒たんは一寸の虫も歩けば棒に当たるってコトワザ知らないの!?」
「知るかボケ!!!!」
週末の夜の職員宿舎に、ガシャーンとかバリーンとかいう、とんでもない騒音が響き渡った。
そして気がつけば黒鋼が成し遂げた大掃除は、全て無と帰しているのだった。
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